第7話 決勝のカンナ。

 初めてのレースで最下位になったわたしは、競技場の観客席で母の作ってくれたお弁当を食べていた。オカズは焼きサバだった。この日のお弁当が特別記憶に残っているとかではなく、母の作るお弁当には不思議なことに毎回焼きサバが鎮座していたのだった。今にして思えば、店の仕入れを流用していたってことなんだな。

 女子千五百メートルの決勝は、わたしが最後のカリフラワーを口に入れた直後に始まった。一応ちゃんと観なきゃいけない、と焦って飲み込んだら十五歳にもなって窒息しかけた。

 ウチの部からはカンナだけが決勝に進出していた。スタート直後から先頭に飛び出して──と思っていたら、なんと二十人ほどの選手たちの真ん中付近にいたから拍子抜けした。予選の攻めた走りが影を潜めていたのだった。

「守りに入っちゃったなぁ」

 そうため息混じりにこぼしたのは、隣に座っていた溝口キャプテンだった。溝口さんは四戸高校陸上部の女子ランナー部門のキャプテンを務めていた……といっても、部の女子ランナーは一二年生合わせてたった六名しかおらず(三年生が引退したせいでもあったが)、キャプテンといえども雑用から助っ人までなんでもこなしていたから、わたしにとっては同じ距離感で話すことのできた先輩の一人だった。溝口さんはこの種目には出場していない、というか専門が百メートルの選手なので千五百メートルを走るはずもないのだけれど、この頃のわたしは「なんで溝口さんは千五百走らないんだろう?」と疑問を持つくらい距離の専門性についての認識があやふやだった。もっとも、今だって根本的には変わらない気がしないでもない。専門性を強く意識していたら、オリンピック四大会で三千メートル、五千メートル、一万メートル、そしてマラソンでそれぞれ出場することなど考えもしないはずだった。そう考えると、人間意外と根っこの部分は変わらないものなんだなと、こうして過去を振り返っていると実感する。

 溝口さんの言葉にわたしは頷いた。どうして前に出ないんでしょね? わたしはそう溝口さんに聞いてみた。

「自信がないんだろうねえ。自分がこの中で一番強い──そう確信が持てないから、突っ込んでいくのが怖いんだと思うよ」

 そういうものなのか、と思った。確かに観客席から俯瞰で眺めたカンナの表情は、どこか勢いが失せているというか、迷いながら走っているように見えた。

「“おっちゃん”は、いい位置取って先に仕掛けろってよく指示出すけどさ。それって、なんて言うの? 横綱相撲? 的な? 的な的な?」

 溝口さんは突然会話のテンポが変わる油断ならない人で、それがちょっと面白かった。

「……確実に勝てるくらいの自信がなきゃ、取れない戦法だよね。だって、先に仕掛けて潰されるの怖いじゃん? 明らかに強いのが先に行ってくれれば大崩れはしないし、万一仕掛けた方が疲れてくれたらラッキーで勝てるかもしれないしね」

 そうなの? とわたしは思っていた。自信があるとかないとかいう概念がそもそもないまま、わたしは先に仕掛けて自分でも笑っちゃうくらいの大負けをかましたわけだけど。

「ヨッちゃんはね、アタマがおかしいんだよ。入ってきた時から思ってたけど、今日それを確信した。みんなの反応が物語ってたよね」

 ヨッちゃんと呼ばれ、そしてアタマがおかしいとまで言われた。ちょっとショックだった。

 わたしは今でも、浅井監督の考え方はなんら間違っていないと思っている。これが県大会レベルのレースだからというわけではなく、全日本選手権レベルのレースでも、自分から仕掛けようとしない選手はたくさんいる。いや、むしろ高校年代より社会人の方がそのタイプが多いかもしれない。高校生は部活だし、自分の背後にたくさんの存在を抱えているわけでもないからある程度気楽に走れる。だけど社会人になると違う。生活を保証してくれる所属会社があり、陸上部の監督以下コーチがおり、社内には陸上部のために雇用されたカウンセラーや栄養士もいる。陸上部員が午前中しか勤務せず、残していった仕事を片付けても文句一つ言わないでいてくれる社員の人たちもいる。社会人のランナーは、日本のトップを決めるような大会で、たった一人で走っているわけじゃない。だから、みんな守りに入るのだ。失速せずゴールに辿り着くために。

 だけどそれじゃあ日本新記録は出せないし、勝者にもなれない。だから、浅井監督の言っていることは、人によっては間違っている教えかもしれないけれど、わたしにとっては正しい指導に聞こえる。

 カンナにも浅井監督からの指示は出ていた。しかし、そのとおりにカンナの身体は動いてはいないようだった。

「一位二位、あ、三位もだ……みんな田中高校。やっぱ、学校挙げて強化してる私立は強いわ」

 女子千五百メートルは、青森田中高校の選手が表彰台を独占した。カンナは六位入賞を果たしたものの、どこか浮かない顔つきだった。

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