第3話 鬼監督?

 五月の終わり頃だった。わたしはやっと陸上部に入部した。マネージャーじゃなくて、走る人として。

 その前に。陸上部に入ろっかなー、ってカンナに伝えた。そうしたら、カンナは本気で驚いた顔をしたのだった。毎日毎日開口一番「陸上部入りなよ!」って言ってたのどこの誰だよ。

「いやー、マジ? あんたが本当に陸上やろうと思うなんて……ダメ元で言ってみるもんだわね」

 わたしはダメ元の頼みで心を動かされたのだと、ここで分かった。

 運動着に着替えて、カンナに連れられて陸上部の部室に入った。新しい場所に入るのはいつだって落ち着かない。決断してしまったことは揺らがなかったけれど、わたしは雰囲気に飲まれやすいところがあった。閉鎖空間で、監督に挨拶する。怖い人だったら、どうしたものか……。緊張していた。カンナはわたしの様子を見て察したのか、「大丈夫、怖くないよ」って言って肩を揉んでほぐしてくれた。

 部屋の奥に浅井健二監督。嘘じゃん。怖いじゃん。顔! これが第一印象だった。一見ヤクザみたいな強面をしているこの中年男性に二十年以上にわたってお世話になり続けることになるなんて、当時のわたしに想像できるはずもなかった。

 とりあえず、処世術として頭を下げた。一年三組、三上代利子です! とか自己紹介したんじゃなかったかな? わたしは緊張していても、喋ることはとりあえず出来てしまうだ。良くも悪くも。だから勘違いされる。誰にでも物おじせずに話しかけられる──と。違う。物おじはしている。人見知りでもある。ただ喋れてしまうだけなのだ。自分が何を喋っているかも分からなくなってしまっている時もある。喋らない方が得だと思う。だけど、沈黙もそれはそれで苦手なのだ。

 浅井監督がどんな人か、初対面だから全く分からない。それでも話を続けるなら、話の方向性は一つしかなくなる。そう、見た目だ。

 先生、鬼みたいな顔してますね!

 咄嗟に出た一言だが、これは今思い返しても恐ろしい発言だった。内容的にも普通にダメだ。普通の先生ならブチギレてもおかしくないだろう。だけど、鬼のような顔の浅井監督は、わたしの無礼極まりない発言をスルーしてくれたのだった。鬼どころか仏だったのである。


 初日は挨拶だけで終わった。わたしはカンナと一緒に駅前のスポーツ用品店でジャージやランニングシューズを探した。カンナは浅井監督の命を受け、陸上ど素人のわたしには皆目見当もつかない用品選びを手伝って──というか、ほぼ仕切ってくれたのだった。

 多少足のサイズが合わないけど、デザイン的にこれがいい! などと主張する素人の意見を無視して、カンナは次々とわたしにシューズを試着させた。

「実際走ってみると、サイズは合ってても自分の走り方に合ってない……みたいなことも出てくるかもしれないけど、そしたらまた別の試してみたらいいよ」

 カンナの言葉に、そういうものなのかー、とわたしは感心した。靴に走りやすいも走りにくいもあるのか、と。それ中長距離用のだから、とも付け加えていた。

 そういえば、わたしはなんの種目をやるのだろうか。陸上部と言っても色々ある。ヤリを投げたりするのも楽しそうだし、棒を使って高く飛ぶのも気持ち良さそうだ。だけど、道具を使うからきっと自分には合わないだろう。わたしがあの部でできることは、せいぜい走ることくらいだ。それだって満足にできるかは怪しいものだけど。

 この時わたしは、陸上部での目標みたいなものは全く持ち合わせていなかった。自分に特に期待はしていないし、部活を引退したらどうせ調理師免許を取って家業を継ぐための修行が始まるのだから、それまでの間、高校生活をエンジョイするための場所になったらいいなぁ、という程度の気分だった。もしわたしが陸上に対する向上心も持っていれば

「わたしの身体の構造だと長距離向きだから、こういう練習をしていけばいいんだな」

 とか

「一万メートル走で三十六分切るためには一キロ三分三十六秒より早いペースで刻み続ければいいんだな」

 とか、まあ色々考えて日々の練習を重ねていくことだろう。時に自分を追い込みながら。そういうのはなかった。一切なかった。

 わたしにとっての高校三年間は、ただひたすら楽しむことだけが目的だった。そして、最大限に楽しむためにはどうしても走らなくちゃいけない、それだけのことだった。







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