第22話 騒ぎに巻き込まれて


「……んっ……」


 優恋さんが、小さくあえいだ。


 ………。


 ………。


 ………えっ?


 頭が真っ白になる。


 待って、これって――。


 だが、その時。


「――泥棒! 泥棒よー! 誰か――!」


 女性の甲高い叫び声。


 はっとして、僕たちはそっちを振り返る。


「……泥棒?」


「向こうだわ」


 そう呟いた優恋さんの横顔が蒼白になるのが、月明かりの下でもわかるくらいだった。

 僕は優恋さんを抱きかかえるように体でかばったまま、声のした方に目を凝らす。


 すると、ふたつ先の街灯の下で、女性用の肩掛けバッグを掴んだ長髪の男が、こちら側に向かって走って来るのが見えた。

 優恋さんも見えたのか、そのほっそりとした肩をびくっと震わせる。


「こ、こわい……」


「大丈夫、とりあえず明るいところに行こう」


 僕は優恋さんの手を握って、近くの街灯へと早足で向かう。

 たくさん人がいると、やっぱりよからぬことを考える人もいたようだ。


 遠目で見た感じだけど、男は凶器らしきものは持っていないように見える。


「――そこの男、止まりなさい! 警察です!」


 ちょうどいいタイミングで、私服で潜んでいたらしい男が声を張り上げ、泥棒を後ろから追いかけ始めた。


 おお、かっこいい登場だ。

 これだけ人が外に出るんだから、警察の方々もまぎれて警戒してたんだな。


「ちっ」


 泥棒の男は舌打ちすると、逃げる速度を上げる。

 こちらに向かってくるのは変わりない。


 僕は優恋さんを街灯の陰に立たせると、泥棒の男を見る。

 彼は背後に意識が向かっているらしく、前方を全く警戒していない。


 男はそのまま、僕らのすぐそばを駆け抜けようとする。


「―――!」


 通り過ぎざま、僕は屈んで足払いを仕掛けた。

 格闘技なんてやったことはないけれど、別にこれくらい、ゲームキャラの動きを真似すればできたよ。


「――うぉあ!?」


 泥棒の男は完全に不意を突かれたらしく、練習を重ねたスタントマンのように見事に宙で体を泳がせ、びたーん、と背中を打って倒れた。


「……うぅ……」


 泥棒の男はうめき、息をするのが精一杯のようで、立ち上がることができない。


 そこへ追いかけてきた警官が追いつき、男を組み伏せて羽交い締めにした。

 私服警官は二人いたようで、もうひとりが何時何分、現行犯で逮捕、とお縄にかけた。


 テレビドラマみたいだな。


(ほっ)


 でもうまくいってよかった。

 正直、凶器とか隠しもっているかも、とは思ったけど……深く考える前に体が動いていたよ。

 結果オーライってやつか。


「もう大丈夫だね、優恋さん」


 僕は優恋さんの元に戻ってくると、彼女はまばたきを忘れたかのように、僕をじっと見ていた。


「夏向くん、すごい……」


「いや、たまたま。結果オーライだった」


「………」


 へへ、と頭をかく僕の胸に、そっと優恋さんが寄り添ってきた。


「優恋さん?」


「こわかった……」


 優恋さんはそのまま泣いてしまいそうなくらい、怯えていた。

 触れていると、その体が小さく震えているのが感じられた。


 当然だろう。

 女性からものを盗もうとする輩は、概して危害を加えることなど、なんとも思っていないだろうし。


 そんな人間が近くをいたということが、彼女は怖いのだ。


「警察の人が居てくれて良かった。頼もしかったね」


「うん。夏向くんも」


 僕は優恋さんの二の腕を支えるようにして、そっと抱き寄せる。

 優恋さんが狙われなくてよかったよ。


 そんな折。


「――ああ、君だね! さっきはよくやってくれた。ありがとう」


 そうやって優恋さんを抱きしめていた時に、羽交い締めにした方の警官のおじさんがやってきて、僕に感謝の言葉を告げた。


「いえ、こちらこそありがとうございました」


 僕は優恋さんの背中に手を添えたまま、警官に向き直る。


「お手柄だよ。君のおかげで犯人を現行犯逮捕できたと言っても過言じゃない」


 逃げられたら、これからしばらくこいつの捜索で時間を費やすところだったよ、と警官は安堵した様子で付け加えた。


「お役に立ててよかったです」


「勇気のある行動に感謝する」


 そう言って警官が僕に握手を求めた。


 その手を握ると、僕は周りの人たちに一斉にパチパチ……と、拍手を受ける。


 照れくさいなぁ。

 僕なんか、潜んでただ不意打ちしただけなのにさ。




 ◇◆◇◆◇◆◇




 そうやって予想外に注目を浴び、居づらくなった二人は西が丘を出て帰路についた。


「夏向くん、月食、まだかかりそうね」


 見上げた空では、未完成の月が二人を照らしていた。

 完成した月食になるためには、あと2時間くらい必要そうだ。


「夜中になっちゃうね。まいっか今度で」


「ふふ、今度ってしばらく先よ?」


「その時はまた連絡するよ」


「うふふ。また二人で見るの?」


「うん。優恋さんとね。約束だよ」


 僕が優恋さんの手を取って勝手に指切りすると、優恋さんがくすくすと笑う。


「もう、また会っちゃうじゃない」


「仕方ないね、約束しちゃったから。……あ、ここだけど、もう少し近くまで送ろうか」


 双葉通りまで来たけど、あんなことがあった後だから、家まで送ろうかと思っていた。


「ううん。大丈夫」


 でも優恋さんはいつもの笑顔で首を横に振った。


「そう?」


「今日はありがとう」


 もう顔色もいいし、大丈夫かな。

 しかし、相変わらず可愛いなぁ。


「うん。じゃあまたね優恋さん」


「夏向くん、おやすみなさい」




 ◇◆◇◆◇◆◇




 家についた優恋は二度目のシャワーを浴び、寝る準備を済ませ、そのままベッドに入った。


 だが明かりを消しても、優恋は到底、眠れる気がしなかった。


「……はぁ……」


 両手を胸に重ねる。


 熱くなった体をどうにもできない。

 頭では、夏向の発した言葉がぐるぐると巡っていた。


 ――優恋さん、好きだよ……。

 ――会いたかったよ……。


「……夏向くん……」


 ドキドキが止まらない。

 優恋は大きく膨らんだ胸の前の寝着を、左手できゅっと掴んだ。


 右手は無意識に、自分のくちびるを撫でる。


「はぁ……」


 熱い吐息がもれる。


 結由のための、キスの練習。

 それだけのはずだったのに。


 気づいたら……。


 そう、あれが、魔法だった。

 優恋の心の枷を取り去った、魔法。


 別れたばかりなのに、会いたい。

 早く、あの人に触れたい。


 いや、もうそれだけでは足りない。


 一晩中、そばにいたい。

 ずっと触れたまま、あの人の隣で、眠りたい。


 強固に敷いたはずの心の抑制は、朝陽を浴びた霧のごとく、消え去っていた。


「どうしよう……」


 夏向は妹の結由と付き合うのに。

 会ったとしても、古びれた公園を散歩したり、星を眺めたりするだけの時間だった。


 自分は、妹の彼氏として日々現れる彼を近くで眺められるだけで十分。

 そう決めたのに。


 なのに。

 

 なんの彩りもないはずだった時間は、夏向と一緒というだけで、優恋に想像以上の幸せをくれていた。


 あぁ……もう、あの笑顔を思い出すだけで……。


 コンコン。

 そうやって眠れずにいたところで、優恋の部屋をノックする音がした。


「……誰?」


「あたし」


「結由? 待って、開けるね」


 優恋はベッドから起きて部屋の灯をつけ、髪を直して扉の前に立つ。


「……お姉ちゃん夜遅くにごめんね、ちょっといい」


 扉を開けると、ニコニコした結由が立っていた。


「う、うん……どうかした?」


「あのね、これ見て」


 そして結由は、優恋に自分のスマホを見せた。


 そこには、寄り添った一組の男女が、取り囲まれた人たちに拍手される様子が写っていた。

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