第21話 キスの練習2


(参ったな)


 さすがにここまでしている人を冷たく突き放すのは、ちょっと僕には無理かな。

 せめて今は、できるところまでやって前向きな態度を示そう。


 そうすれば優恋さんも納得してくれるし。

 当日はできなかったでも、いいみたいだしな。


「……わかった。かなり芝居がかるけど、許してね」


 演技とか全然やったことないけど、やるしかないだろう。


「うん。ありがとう」


 今の僕は役者なんだ、と自分に言い聞かせながら、思い切って口を開く。


「……結由、すっ、すっきだよ」


「ふふふ」


 優恋さんがクスクスと笑っている。

 あ、とってもかわいい……。


「夏向くん。ちゃんと相手の目を見て、伝わるように言ってみて?」


「うん……」


 オホン、と僕はまた咳払いをした。


「結由、好きだよ」


「もう一回、心を込めて」


「結由……好きだよ」


「ふふ、よろしい」


 優恋さんがにっこり笑う。


「じゃあ次ね、両手を恋人つなぎにするの」


 こ、恋人つなぎ……。

 更にハードルが高いんですけど。


「……一応確認だけど、優恋さんでやっていいの?」


「うん。もちろん」


「………」


 いや、そう言われても、さすがに手が動かない。

 だってこの人、僕の好きな人だからね。


「こうやって……ね」


 そんな僕のことなどつゆ知らず、優恋さんが遠慮なく右手を絡ませる。


「う……うん」


 待って。ヤバい。

 なんか、ドキドキが止まらなくなってきた。


 いやいや、これはただの芝居。

 誤解するな、本当のやり取りなんかじゃない。


 演技なんだ。


「じゃあ左手もしてみて?」


「うん」


 演技、演技……と何度も言い聞かせて、少し気持ちが落ち着いた。

 よし。


「………」


 僕から左手をとって絡ませると、優恋さんがわずかに頬を染め、視線を逸らした。


「これでいい?」


「……うん」


 優恋さんはさっきまでと違う、か細い声で承諾の意を示す。


「繋いだよ。次はどうするかな?」


 言いながら、僕は優恋さんに見とれていた。


 近くから見る優恋さんは、本当に美しかった。

 月明かりに照らされた彼女はどこか幻想的で、この素敵な人を僕だけのものにしたいという思いが心に湧き上がってくる。


「次はもう一度『結由、好きなんだ』って」


「結由、好きなんだ」


「いいわ。じゃあもう半歩近づいて……」


「うん」


 僕は言われた通りに、優恋さんに近づく。

 もう十分に近かったから、さらに半歩というと、優恋さんの胸や体が僕に触れるのは当然だった。


 うわー、ちょっと。


「……そのまま、私の目を見て」


「う、うん」


 言われた通りに優恋さんを見る。

 彼女の透き通った瞳には、月食になっている月が映り込んでいた。


「そのまま、ゆっくり顔を近づけるの」


「き……キスをするってこと?」


「うん。でも今は練習だから、鼻同士が触れるくらいにしましょう」


 そこまで……!?

 僕の想像していた距離をはるかに超えてるんですけど。


「心配しないで。大事なものは重ならないようにするから」


 優恋さんが無邪気な様子で笑っている。


 いや、動じるのはやめだ。


 もう覚悟を決めて練習しよう。

 優恋さんも真剣な気持ちでやってくれているんだし。


「……こんな感じ?」


 僕は寸止め、というよりは、もうちょっと離れたところで止めて、訊ねる。

 これでも十分近いんだけど。


「もう少し近づけてみて。大丈夫だから」


「うん」


 残り半分まで、近づける。

 さすがに胸がどきん、どきん、と跳ね始めた。


「もっとしていいよ……」


「うん」


 優恋さんのぷるん、としたくちびるが、目の前にある。

 重ねようと思ったら、できてしまう距離。


「もっと……」


「うん……」


 そして鼻が触れ合う。

 そこでやっと、優恋さんからOKが出た。


「うん。じゃあ今の感じで、最初からやってみましょう?」


「……わかった」


 僕はいったん優恋さんから距離を置き、大きく息を吐いた。


 待って。

 これ、想像以上にやばいわ。


 こんなにドキドキしているの、人生で初かも。

 そしてこの季節に、すでに汗だく。


「夏向くん、いつでもいいよ」


「うん」


 ともかく、一回で終わらせよう。

 これ以上は心臓に悪すぎる。


 ……ふぅ。

 深呼吸。


 あー、もう一回、深呼吸……。


 よし。


「……じゃあ優恋さん。やってみるから」


「うん」


 僕はいつもの微笑に戻った優恋さんに向き合うと、入りやすいように適当な前フリから始めることにする。


「星空が見える夜でよかったね」


「うん」


「今日はこれから月食もあるんだって」


「だからこんなに人が出ているのね」


「うんうん」


「あのね、今日は大事な話があって」


「どうしたの、夏向くん」


 優恋さんが次の言葉を言いやすいように、雰囲気を合わせてくれる。

 僕は優恋さんの目をじっと見ながら、言葉にする。


「優恋さん、好きだよ」


「………!」


 優恋さんが、はっとする。

 その顔が赤く色づいていく。


 その理由がわからない僕は、当日の結由と同じようにリアクションしてくれているんだ、くらいにしか理解できてなかった。


「会いたかった」


 アドリブで言いながら、順番通り、右手の指をそっと絡ませる。

 こんなこと、相手が優恋さんだから言えるんだけどね。


「………」


 優恋さんは顔を真赤にして横を向く。

 少し遅れて、さらりとした黒髪がその頬のほとんどを隠した。


「こっちも繋がせてね」


 僕は右に続いて、左手もゆっくりと絡ませる。

 ほっそりとした指が僕と絡み合うと、またどきん、どきん、と胸が打ち始めたけど、気にせず目の前の人に集中する。


「………」


 なんだろう。

 優恋さん、僕より戸惑ってるように見える。


 いや、演技がうまいだけか。

 さすがだ。


 おかげでなにか、イニシアチブを取ったような感じがして、最後までできそうな気がしてきたよ。


「優恋さん、こっちを見て」


「ま、待って夏向くん……」


「優恋さん、好きなんだ」


「………」


 優恋さんの漆黒の瞳が、わかるほどに潤んだ。

 言ったばかりなのに、優恋さんはまた僕から視線をそらす。


 大丈夫? と訊ねるように、僕は彼女の手を少し握る。

 優恋さんがきゅっと強く握り返してくるのを感じて、続けていいのだと知る。


「優恋さん、こっちをみて」


「………」


「優恋さん」


「……は、はい」


 見てくれた優恋さんは、その目に涙をいっぱい湛えていた。


「優恋さん、好きだよ……」


 約束した通りに、唇を近づける。


「……夏向…くん……」


 優恋さんがそっと目を閉じた。

 その目から、涙がすっと流れ落ちる。


 すごい……。

 そこまでしてくれてるんだから、僕もしっかりしないと。


「………」


 そのまま、互いのくちびるが近づく。

 さっき最初に止めた距離を越えて、半分を越えて、さらに。


「………」


 ためらってはだめだ。

 優恋さんもここまでしてくれてるんだから。


 きちんと一回で終わるように。


 ゆっくりと、近づける。

 そろそろかな、でもまだみたい。


 今は、『もっとしていいよ』って言ってたくらいの距離。


 目を閉じて、くちびるを接近させていく。

 鼻が触れ合うまで……。


 もう少し、もう少し……。


 ………。


「……んっ……」


 優恋さんが、小さくあえいだ。


 ………。


 ………。


 ………えっ?


 頭が真っ白になる。



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