第3話 事故翌日の学校で



 放送事故があった、翌日の朝。


「絶対やばいわ……」


 なんとかベッドからは起きたものの、僕はもはやスマホもパソコンも触る気にもなれなかった。


 ここまで最低なことをやってのけたコラボ配信者なんて、かつて見たことがない。


 僕の声、配信の終わりまで華々しく煽っていたよ。


 最後、ありがとうございましたくらい言おうよ。

 致し方ないですね、ってなんだよもう。


夏向かなたくーん、ご飯よ~」


 階下から母さんの明るい声がする。

 母さんも、まさか自分のパンツが世を席巻しているとは夢にも思ってないだろうな。


「どうする……」


 いや、あれこれ悩むのはやめだ。

 とりあえず学校に行こう。


 行ってしまえば気は楽になるはずだ。


 僕は階段を降りて、おはよう、と言いながら居間に入り、蛇口を捻って水をがぶり、と飲んだ。

 洗面所で思いっきり顔を洗い、歯磨きと着替えを済ます。


夏向かなたくん、夜はぐっすり眠れた?」


「……別に。普通だよ」


 今日の母さんは髪を左耳の下で一本に縛っていて、また一段と綺麗で、顔が合わせづらい。


 しかも変わらず黒のタイトスカートだし。

 意識するなと言う方が無理。


「ごちそうさま」


「え、もういいの?」


「いい」


「……大丈夫?」


 母さんが寄り添って、僕のおでこに手を当ててくる。

 シャンプーのいい香りとともに、母さんの大きなものがふたつ、いちいちぶつかって挨拶してくる。


「な、なんでもないよ」


「待って。どこか具合が悪いのかもしれないわ」


 そこで気づく。

 いろいろ意識してしまっているせいで、母さんを心配させていることに。


「本当になんでもないよ。残りは夜またもらうから。作ってくれてありがとう」


 僕は母さんに向き直り、いつもより丁寧に礼を言う。


「そう?」


「うん。じゃあ時間だから」


「あ、コーヒーは?」


 母さんはいつも、僕にコーヒーを忘れない。


「ありがとう」


 ブラックコーヒーをカップ半分ほど飲んで、手早く身支度を済ませ、家を出た。


「はぁ……」


 しかしため息は止まらない。

 覚えていないけれど、ちゃんと学校行きのバスに乗っていたのは幸いだった。


「おはようございます」


「あ、おはようございます」


 バスの中でつり革に掴まっていて、いつも挨拶だけする人が隣に乗ってきたところで、我に返る。

 彼女は黒髪を左右にお下げにして、僕の学校のブレザーを着ている。


 背は160cmちょっとかな。

 9割以上の女生徒が制服のスカートを短くしているのに、彼女は長いまま。


 相当視力が悪いらしく、顔の半分を占めるようなぐるぐるの分厚い眼鏡をかけているのが、他にない特徴だ。


 入学したての頃、この朝のバスの中で大人の人が財布をスられた事件があって、その時近くにいた彼女が真っ先に疑われた。


 この人は何もしてませんよ、と僕がかばってから、彼女の方から毎日挨拶してくれるようになった。


 それが毎日続いて、もう2年ちかくだ。


 お互い奥手なのもあるのだろう。

 挨拶以上の会話はない。


 卒業しないから同学年なんだろうけれど、名前も、どこのクラスかとかも知らない。

 顔も見えないくらいの大きなメガネのせいか、今まで異性として認識したことはなかった。


「港南高校前です~」


「ありがとうございました」


 定期券を見せて、ぞろぞろと皆がバスを降りる。

 ちなみに近くに製薬会社もあって、この停留所でバスはガラガラになる。


「ふぅ……」


 小さく伸びをする。

 雲間から差す太陽が眩しく感じた。


 夏が過ぎて、からりとした空気になってくれたから、蒸すバスの間も楽になったな。

 もう晩秋っていう季節みたいだけど、日差しはとても強く感じる。


 歩いていくと、やがて制服の僕たちにぽつぽつ混ざっていたスーツ姿の人達が、右に曲がって去っていく。


 製薬会社の方が手前にあるからね。


 ちなみにその製薬会社は学校の三倍くらいの敷地がある。

 付属の庭園もあって、そこは噴水の周りにたくさんの桜の木が植えられているよ。


 庭園は港南高校の生徒だけ特別に出入りして良いことになっていて、校舎裏に専用の通路がある。


 昼休みとか、お弁当を持って過ごさせてもらったりしている生徒も多い。


「……あー」


 ひととき忘れることが出来ていたけど、校門を抜け、靴を履き替え、教室が近づいてくると、また昨日のことが頭をもたげていた。


 僕がこんなに引きずっているのは訳がある。


「あ、佳奈おはよ」


「ゆっこんおはよう~」


 教室に入ると、予想通りベージュの髪をした少女が取り囲まれていた。


「昨日の配信やばかったね~」


「まじ大爆笑だったぁ」


「もう。見なくていいって言ってるじゃん」


 そう、我が教室にいるのだ。


 凪沙結由なぎさゆゆこと、ゆっこんが。


 都立港南高校、2年B組。

 2年になって同級生になったけど、半年以上が過ぎても、僕はほとんど話したことがない間柄。


 それでも僕が『巨人の穴』から『αPEX Heroes』に乗り換えたのは、彼女のプレイが素晴らしく、見惚れるくらいだったからだ。


 目の前の彼女を好きかと聞かれると、ちょっと違う気もするんだけど、ゲームプレイヤーとして見ている時にははっきり惹かれるものがある。


 プレイの仕方に、どこか自分と似ている感じもしてね。


 ただ、そんなふうに気になりかけている存在でも、リアルで話しかけられてはいなかった。

 ゆっこんは人気者で常に取り巻きがいたし、僕も気軽に話せるほど女子というものに慣れてなかったから。


 加えておうちが豪邸らしく、通学は専用車の送迎だから登下校で会って話すこともないし、授業で同じグループとか、そういった機会もなかったもんね。


「いこう……」


 僕は覚悟を決め、胸を張って教室に入る。


「………」


 が、その瞬間、音が止んだ。


「……え」


 我が目を疑う。

 ゆっこんに、ギロリ、と睨まれていた気がした。


「ごめんごめん、でねー」


 ゆっこんは何事もなかったかのように僕に背を向け、振る舞いを戻した。


「………」


 頬を汗が流れ落ちる。


 今のは何だ?

 なぜ僕は睨まれた?


 ……まさか。


 いや、そんなはずはない。


 コラボの約束をした時だって気づいてなかったし、世の中にKANATAの名前は星の数ほどあるし。


 そう、僕がやったという証拠はひとつもないはずだ。

 僕はいまや、一般人に紛れ込んでいる犯人の気分だった。


(恐れるな)


 こういう時こそ、毅然として振る舞わなければ。


「おはよう」


 僕はいつも話しかけないようなクラスメートに挨拶したくらいにして、席についた。


 しかし。


「あたっ」


 右肩に衝撃が走る。


 はっとして見ると、膝上のスカートを揺らしながら、通り過ぎるゆっこんの後ろ姿。

 ふわりと香る、オレンジのような香り。


 今、肘で肩を押しのけられたような。

 いや、気のせいかな……。


「きりーつ」


 先生が入ってきた。


「よーし、今日はみんないるな」


 うちの担任は、芸術が爆発したような髪型をしている音楽の先生だ。野原先生という。


「今日は5時間目の国語が自習になる。それから体育館の設備点検があるから、昼休みは使わないように。あと……」


 先生、および委員の生徒から連絡事項を伝え合って朝のホームルームが終わり、授業が始まる。


 ゆっこんは僕の位置からちょうど桂馬跳びした、左斜め前の席についている。

 それだけに授業中、その明るい髪はどうしても目についてしまう。


 このゆっこんの髪は仕事のためであり、学校に正式に申請して許可を貰っているらしく、先生方も何も言わない。

 考えると驚きだけど、いまや、先生より稼ぐ生徒がそこらにいる時代なんだよね。


「ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナはとても悲惨なものでした。が、その2年後、日本にも大変な災害がおこります。そうですね。神戸大震災です」


 午前の授業はいつもと変わりなく進んでいく。

 あれからゆっこんは何もしてこないし、やっぱり僕の気のせいだったみたいだ。


 よし、このまま。

 学校さえやりづらくならなければ、僕は生きていける。


 しかし、昼休み。


「つーかそれさ、あたし悪くないし」


「あはは。ゆっこんってホント、ムダに謝らないよね~」


「謝る必要ないじゃん。ほんとに悪いと思ったら謝るし。……あ、用事忘れてた」


 そう言って、クラスメートに囲まれて昼食を取っていたゆっこんが立ち上がる。


「どしたの」


「ちょっとね。すぐ戻る」


 そう言ってゆっこんがクラスメートから離れる。


 ところが数秒後、目を合わせないようにサンドイッチを頬張っていた僕の前に、ゆっこんが立っていた。


「あのさ」


 言うまでもなく、ゆっこんはクラスのアイドルだから、その一挙一動をみんなが見ている。

 ゆっこんと関われる者が、このクラスカーストの上位に属するといっても過言ではないのだ。


「ちょっといい?」


「違います」


「まだ何も言ってないし」


 ホントだ。

 先手を打ちすぎた。


「どうかしましたか」


「あのさ、外で話そ」


 ゆっこんが窓の外を見る。


「……外?」


「早く。ここで言われたいの」


 ギロリ、と睨まれる。


「外の空気もいいですね」


 急にそんな気がして、僕は立ち上がる。

 いや、本当は蛇に睨まれた蛙だった。


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