第4話 帰郷
美生は祐之の家庭環境を、付き合い始めた時から聞いていた。厳格な家庭でなくても高校生の娘が妊娠したとなれば、激怒し相手の男を殺しかねない状況になる。
だが、祐之の母親は頑として口を割らなかったという。
その態度は、言わなかったのではなく、言えなかったのだという。
連想されることは、性的暴行だ。
子供の成育時期から、夏の海に出かけた頃だと推察されている。
妊娠が発覚したのが、中絶手術が可能な妊娠22週目を過ぎていたこともあって、産むしか選択肢がなかったのだ。
そして、生まれたのが祐之だった。
以来、祐之は父親というものを知らずに育った。
無論、顔など見たこともなければ会っても理解すらできない。
「そして、僕は父親だったモノを、殺した」
祐之の告白は、美生にとって衝撃的なものとなった。
「人を、殺したの」
美生の顔から血の気が引いていき、唇が震えている。
祐之は否定した。
「違う。あれは人間なんかじゃない」
そう言いながら、祐之は両手で頭を抱えた。
祐之は思い出す。
あの時のことを。
あの時、自分が感じたものは何であったのかということを。
それは恐怖や嫌悪といった感情ではなかった。
もっと別の何かだったはずだ。
それが何であるのかは分からない。
ただ一つだけ分かることは、あの時に自分の中に湧き上がったものは紛れもなく殺意だったということだ。
二年前、祐之は母親の住む実家へと帰郷した。
実家がある場所は、寂れた漁村で、家と呼べるような建物はなく、数件の廃屋が点在するだけの寒村だ。
過疎化の影響で、人も徐々に減っているらしい。
木が乾燥して痩せてしまった木造建築。
それが祐之の実家だった。
引き戸を開け、一歩踏み入れた瞬間、祐之は異様な臭いを嗅いだ。
腐った魚のような悪臭が充満している。
玄関の土間には、食いちぎられた魚の死骸があった。
それだけではない。
床は雑巾を絞ったように赤黒く染まっていた。
その色は、まるで鮮血のようでもあった。
廊下や部屋の壁には無数の引っ掻き傷があり、その全てが赤く染まっていた。
壁や床に散らばる髪の毛や抜け落ちた歯を見て、祐之は自分の背筋に冷たいものが走るのを感じた。
台所の方からは、食器が割れる音が聞こえてくる。
祐之は母親を呼びながら急いで廊下を進み、台所へと向かう。
そこで見たものに、祐之は言葉を失った。
母親が半裸でテーブルに座っていたのだ。
その姿は異様であり、とても正気とは思えなかった。
母親は焦点の合わない目つきをしており、口元からヨダレを流しテーブルに置いた手には包丁が握られていた。祐之の存在に気づくことなく、前方を見ている。
祐之は自分の背筋に冷たいものが走るのを感じた。
誰かに見られている気配を感じて振り向くと、そこには巨大な人型の生物がいた。
身長は2mを超えるだろうか。
魚と蛙を足したかのような姿をしており、体形は肥満体型だった。
皮膚の色は青白く、筋肉質な肉体で覆われており、頭髪は一本もなかった。
その顔は、人間のものとは明らかに違っていた。皮膚の色は緑色で目は白く濁っており、鼻や耳は無く、大きな口から鋭い牙が見え隠れしている。
長く伸びた腕の先には5本の指があったが、爪は黒く鎌のように長く尖り、先端から血液のようなものが滴れ落ちていた。
その醜悪さに、祐之は全身が腐っていくような感覚に襲われ吐きそうになった。怪物はゆっくりと醜悪な顔を祐之に近づける。
まるで値踏みをするように。
次の瞬間、祐之は自分が何をしたのか分からなかった。
壁に背中をぶつけ、テーブルの角に額を打ち付け、腕と脚が独自の意識を持ったように暴れまわる。
激しい痛みを感じると同時に、目の前の怪物が悲鳴を上げながら倒れていく。
祐之は床に倒れた怪物の喉に包丁を突き立てていた。
自分の手が傷だらけになるにも構わず、祐之は怪物の下顎を牙ごと掴む。
包丁を振り上げ、刺す。
突き立てる。
何度も繰り返した。
怪物が動かなくなっても繰り返した。
日が暮れても繰り返した。
周囲が闇に包まれ始めても繰り返した。
もはや回数ではない。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、精神も限界を迎えようとしていた。
怪物の返り血に塗れた祐之は、それでも止めようとしなかった。
それが止まったのは、包丁の刃が欠け風化した骨のような状態になり、折れた時。
やっと我に帰った。
床一面に広がる鮮血の海。
その中に横たわる怪物の死体。
傍らに立つ自分自身の手の甲に残る生々しい切り傷。
祐之は手にしていた包丁の柄を取り落とした。
母親は茫然自失のまま、椅子に腰掛けていた。
祐之は母親に駆け寄ると、その身を心配した。
「母さん、大丈夫なの……。な、何なんだよ。あの化け物は」
しかし、母親の反応はなかった。
祐之の声など届いていない様子だった。もう一度呼びかけたが、やはり同じだった。
その時になって、祐之は初めて気づいた。
母親が自分のことを見ていないことを。ただ一点だけを見つめているだけだった。
それは、怪物の死体だった。
か細い、ロウソクの火が消えるような声で母親は言った。
信じられなくて祐之は聞き返す。
「う、嘘だ……」
母親は虚ろな目のまま祐之を見る。
「ほんとう、よ。あれが、あなたの。お父さん……」
そう言って、母親は静かに目を閉じた。
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