【6】Rubel Laex:ターニング

 ――息ができない。引き摺り込まれる。

 暗闇の海は何も見ることができず、だが自分の息が泡として昇る上の方を見上げると、月光に影が作られた船の裏側との距離を見る。


 どんどん下へと連れられていく。


 これがただの生物であるわけがない。右足に巻きついた触手のような蛸足に、ルベルは焦る思考の中で必死に解こうと攻撃する。


 手元に拳銃はなかった。引き摺り込まれた際に手放してしまったらしい。自由な左足で何度も何度も水圧の負荷を受けながら蹴りつける。


 だめだ。頭がくらくらとする。打開策をいくつも探すが、徐々に薄くなる酸素のなかではその選択肢すら蝕まれるように消えていく。


 歪んだ視界のなか、気を失いそうになりながら。

 それでもルベルが足元の影を睨み続けるのはハンターとしての矜持でしかない。


 ――赤い目が見えた。


 それはルベルの大嫌いな色だ。むしろ、周りから忌み嫌われてきた色だ。だからこそ、ルベルは愛することの出来なかった色だ。


〝……くっ〟


 奥歯を噛んだ。声にならない。言葉にならない。魔術は構築させられない。吐き出される酸素すら惜しい。口をつぐむ。視界も悪い。目も開けられない。とてつもない速度で、海底へと導かれていく。

 が。


「――ッ」


 狙いを済ます。その赤色へ。暗い暗い夜海の中で、ただ一つ美しいまでに浮かぶ赤色に、ルベルは左手をかざす。

 声は出せないから、レークスの魔術を一から組み立てることは不可能だ。


 だが、だが――。


 ここより遥か三十メートル。

 地上のそこには、すでに構築され、〝滞空した槍〟がある。


 ――負けない。負けない。負けるものか!


 ルベルの赤い目が輝く。その輝きは闘志として。人として、どれだけ蔑まされようと、お前がヴァンパイアだろと指を刺され、陰口を言われても。諦めない。ここで、この教会のなかで、亡き祖父やレークスという名を残すために、そこに立ち続けた、ルベルだからこそ成せること。


 ヴァンパイアハンターとしての、意地を見せるのだ。


「……!」


 ――水を切り裂いてシルバーランス。月光さえも反射して、光り輝く水銀の、遥か地上から海底へ向けて射抜かれる一本の柱。


 それはしかりと足元に巻きつき、ルベルを引き摺り込んでいた怪異――蛸型ヴァンパイアの心の臓を差し貫き、赤い目のある頭部を抉り抜き、灰塵に化すに足る威力。


 弾けた水銀に、右足にあった拘束感もなくなり、途端自由を取り戻したルベルは急いで海上へ向かって泳ぐ。上着を脱ぎ、遥か遠くの空を目指して、見上げる水面の先を目指して。


「――……」


 彼女の意識は、届かなかった。


 ◆ ◆ ◆


 ――とても大きな、魚が跳ねたような音。沈み込み、飛沫を立ち上げたこの静かな夜では異質な音に、地上。二体の人狼を討伐し、肩を大きく動かして深呼吸していた透夜はすぐにそれがルベルの攻撃によるものであると気付く。


 だから駆けつけようとしたのだが――目の前に、蝙蝠型が立ち塞がっていた。

 その様子は、とてもヴァンパイアなどではなく、まるで人としての理性を窺う。


「……お前が親玉なのか」

「……クク、親玉とは。とても陳腐で下らない呼び方をするじゃないか」


 余力はない。それ以上に、直感的にこの蝙蝠型は〝やばい〟と警鐘を鳴らす己がいる。

 そこに感じるのは、それこそ――八つの命を頂いているに足る器だ。


 眼前の悪魔を見やる。


 その姿は霊鬼のようなあやふやで、痩せぎすで、死人のような男の様――とはまるで違う。健康的な肉付きに、髪質は艶やかなものとなり、黒ずんでいた爪は尖ってこそいるがなめらかな色を取り戻し、身に纏うタキシードはまるでおろしたてのように映える。


 変身、と形容するしかないものだ。


 身構える。普通の人間に見えてしまうからこそ、一層と増した警戒心に斧を据える。

 とはいえそのような姿になっても、人じゃないのは明らかだった。白目は黒色に染まり、その中央に浮かぶ赤い満月のような瞳。尖った耳は残り、艶かしい犬歯が口元に覗ている。


「質問を、許してくれないか」


 だが目の前の悪魔は襲いかかることなどせずに、ただそうやって透夜の目を見据えた。

 その意図を読み取れないまま、応じもしなければ悪魔は勝手に続けていく。


「なぜ彼らを殺せたんだい」

「………」

「君は知っているはずだ。見逃しもしなかったろう。その中にある善性を。人としての残滓とやらを。ならば躊躇することも、できたと思うのだが」

「何が言いたい」

「純粋な興味だよ。君の性質はただの人間やハンターのそれじゃない。憎悪だ」

「………」

「ヴァンパイアとは、新たなる人類種である」


 ――悪魔は、そう言って切り出した。


「人という基礎をもとに、多種族の要素を加え、終末の果てを見に行けるもの」

「――終末……?」

「ああ、ああ。忌々しいレークスなどというものは、水銀という、我々に致命的な毒を見つけてしまったが」

「………」

「我々は、不死なのだ。ハンターという輩を滅ぼし、水銀さえを埋めてしまえば」


 苦い顔をして、思い出す。初めて村で、ハンターの取り逃がしたヴァンパイアの首をただの斧で落とした時。


 ――やつは確かに息絶えなかった。


 むごいほどに、その生命活動を続け、無力感に打ち震えながら、ただ生を消耗するだけのヴァンパイアを、実験台だなんて称して……独学ながら、ハンターとして確立した月影透夜の今は、そのヴァンパイアの犠牲によって成り立っているとも言えてしまうが。


「だから。その新たなる人類種。数を経て、徐々に完成していく我々を、尚も躊躇うことなく殺せてしまう貴様という存在が、笑えるほどに愚かで滑稽で――質問した」


 目の前に対峙する存在に、一向にその斧を下ろすことのない透夜の態度が、何よりの証明として成り立ってしまっている。


「……俺の人生は……復讐だ」


 ――絞り出した結論は。


「だから、関係ない。どうでもいい。俺はただ、お前らが憎い。だから躊躇は持ち合わせない」


 それ以上でも、以下でもない。

 組織に属している正規のハンターであれば、目の前の悪魔が求めるような答えはあるかもしれないが、透夜としての解答はその一つしかない。


 だって、村を滅ぼされたのだ。その平穏を。

 だからそんな害虫は、自らの手で絶やすのだと決めた。


「クク、より狂気なのはどちらであろうな」

「慈悲が求める相手を違えたな」


 知らない。まるで興味がない。透夜は、目の前の存在が発する言葉の全てを、そうやって遮断するだけの覚悟がある。

 ――言い換えて、その狂気がある。


「ならば僕を殺せるのだろうか」

「もちろん」


 踏み寄る。コツコツと、踵が鳴る。

 そのなかで、悪魔は動じることもなく、一度瞑目し、もう一度透夜の目を見据えた。

 その首筋にはすでに斧が、トマホークが、その白銀の刃が、向けて構えられている。


「自己紹介をしよう。私の名前はキリウス・アルマデス」


 ――名のある、ヴァンパイアなんて。


「始祖。そしてその末裔。ヴァンパイアの王であると知れ」

「っ!」


 首を刎ねる横一閃は。

 弾けたように、何十体もの小さな蝙蝠へと変化して、バサバサとその羽音を立てながら透夜を取り囲み、彼がそれを一心不乱に振り払う間には――。


「……っ、なんなんだ……ッ!」


 夜闇に溶けて、消えていた。


 ◆ ◆ ◆


「――兄ちゃん! 兄ちゃんは無事だったか!」


 心の整理を付けながらも、未だ続く夜の中。漁港、何かが水に落ちたと思われる音の元まで透夜がいくと、そこにはびしょ濡れになった酔っ払いどもと、同じく薄着で横に寝かされているルベルの姿があった。


「大丈夫か!」

「あ、ああ。息はある。……お、俺たちの海で若え女が死なれちゃ迷惑だからな」

「……ありがとう」


 日が出ているわけでもない。この二十日間を、あの得体も知れないヴァンパイアに恐れ続けた男たちは、きっと外から聞こえたその音に、震えて息を潜めるのではなく、案じて助けに出てきてくれたのだと思うと――その感謝は、心の底からの本音であった。


 ――だからこそ、彼らに透夜がかけられる言葉はたった一つ。


「エヴァンスの悪魔は、討伐された」


 日が昇る。

 長い夜を終え、待ち望んでいた朝を迎える。

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