追憶の道程 1

 天頂から地平まで、重苦しい雲が全天鉛色のドームとなって包み込み、降り積もった猛毒の灰が大地を黄土色に染めあげる。

 燻んだ霧の立ち込めた周囲は幾重もの爆撃によって焼き焦がされ、掘り返され、黒ずんだクレーターが群なし大地に穿たれている。

 そんな穴ボコの一つに、男が蹲っていた。

 全身をくまなく覆う厚手の防護服と裾長の外套、分厚いブーツ、そしてヘルメット一体型のガスマスク。外套には泥がベッタリとまとわり付き、防護服にはほつれが目立つ。手袋は目に見えて擦り減っていた。

 塵が層をなす防毒マスクの下で、マスクの内側を荒い吐息が何度もくぐもった音と共に吐かれ、幾度も男自身の鼓膜に響く。

 その服装は男が軍属であること、そして姿は彼が敗残兵であることを物語っていた。

 浅い呼吸の中、男は目覚めることを拒否するように、死の淵に立つ現実から逃れるように、浮上する意識を必死に掴み無意識の深みへと潜ろうとしていた。

 もういいじゃないか、そう彼は朧げな意識の中で思った。ここまで生きて来られただけでも奇跡なのだ。全てを投げ出して、このまま眠りについて何が悪いのだろう。どうせブルーノは上手くやるさ、そうブルーノは。そうした思考が、甘露となって頭蓋に満ちる。

 ブルーノ。その名は戦友の逞しい姿を想起させたが、やがて幼少期の朧げな夢へと変化していく。

 朦朧とした意識の奥底から、幾つかのイメージが浮かび上がり、絡まり合ってはほぐれ、形を成した次の瞬間には崩れ落ちる。時たまに形を成した散文が現れても、すぐに忘却の霧中へと消えていく。

 脳裏に映るのは懐かしき谷間の小さな町、切り立った崖にある故郷の姿。白いモルタルの壁と石灰岩の石畳、ジメリス材の扉と錬鉄製の手摺が合わせ鏡の入れ子構造のように並び、緩やかにカーブを描く。その路地をガキ大将、乱暴者のブルーノがその取り巻き達と路地を駆けていく。ブノア、ルノアール、ブルーノ。歳の近い少年達。

 次に浮かぶのは台所で料理の支度を進める母の姿。帰らぬ夫と乏しい配給。果てしない心労の中でも子供達の前で気丈に振る舞う彼女の後ろで、学校に入学したばかりの妹が四則演算の宿題を、玉ねぎの皮より薄い紙に熱心に解いている。ぐつぐつと煮立った鍋から漂う匂いは、戦中の家庭にとって定番の、豆と芋と葉野菜のスープのもの。そのうんざりする香りが、郷愁の現れ、感傷の波となって彼の心に打ち付ける。

 最後に想起するのは若い娘だった。イタズラっぽい緑の瞳を輝かせ、はにかんだように笑う栗毛の娘、ニーナ。彼女のイメージが脳に浮かんだ時、愚図る幼児のように覚醒を拒む彼の意識の奥底で、か細い生存本能が獣のように叫びをあげた。


 一際に力強い鼓動と共に男は目を開いた。おぼつかない思考の下、幾度も咳き込み頭を振る。

 「ここは…?」男は呻き、身を捩って銃剣のついたライフルを手繰り寄せ、強く握った。

 腹ばいに穴から頭を覗かせて周囲を見遣れば、眼前に地平の果てまで続くのっぺりとした鉛色の空と無惨な荒地が広がり、まるで時が止まったかのような、自分を残して世界が終わったかのような印象を与えてくる。

 事実、この一帯における生命の兆候は自分達くらいのものだろう、そう男は思った。自分とブルーノ。そうだ、ブルーノはどこだろう?


 思考が回路を流れる術式のように脳裏をよぎり、現実がそれに応えるように、後ろから声をかけられる。

 「もう起きたのか?相棒」


 男は反射的に銃を構え振り向いた。穴ぼこの縁に一人の兵士が立ち、こちらを見下ろしている。その装備は彼が友軍であること、がっしりとした体付きはそれが彼の良く知る人物であることを悟らせた。

 「ブルーノ、お前か?」


 掠れた声が、ガスマスクを通してくぐもった声となって出力される。

 男の相棒と思わしき男は肯定するでもなく肩をすくめ、雑嚢を下ろした。

 「どこに…」行っていたのか、そう続けようとした言葉は乾いた咳によって打ち切られる。喉が酷く痛んだ。暑く焼けた無数の砂が、気管支に張り付いているかのようだった。

 そんな彼を尻目に、ブルーノはかがみ込むと水のたっぷり入った真鍮製の水筒を彼に向かって差し出してくる。ぶっきらぼうに「水を汲んできた」と言う。

 差し出された水筒を、男は疑わしげな目で見つめた。この辺りにそんな水の汲めるところがあるとはとても思えない。例え汲めたとしても、それは間違いなく可飲に耐えないほどに汚染されている。その事を彼の戦友が理解していないはずがなかった。


 「ちゃんと浄水器を通してる」

 相棒を安心させるように、ブルーノがそう口にする。


 「向こうの方の穴ぐらに井戸があってな、おそらくこの辺を陣地にしていた守備隊が作ったのだろう。心配するな、浄水器の錬金陣もまだ作動する」


 しばしの逡巡の後、男は筒先の管を軽く拭って給水孔に差し込む。

 マスク内のノズルを通して甘美な水の味が口内に満ち、雨季を迎える南部大砂漠のように、焼けついた喉を潤していく。男は自身の細胞が活力を取り戻していくのを感じた。

 「ありがとう」

 軽く咳き込んだ後、男は礼を言い水筒をブルーノへと返す。彼はそれを肩に下げ、外套の下に手早くしまった後、男に問いかける。


 「パルマドールまであとどのくらいだ?」


 「昨日、20か30は南に稼いだはずだ。もう一日足らずで着くはずだが」


 「なら早く出発しよう。もう泥の上で寝るのはゴメンだ」

 そう言うとブルーノは背嚢をサッと拾い上げ、片手を彼の相棒へと差し出した。男は頷き、その手を掴んで穴から這い上がる。「ああ行こう」という返事と共に。


 暗鬱たる曇天の下、二人の敗残兵が行進を続ける。曇り空を通してなお大気は暑く、熱気に満ちていた。

 鋼の雨によって形作られた足元の人工地形は極めて起伏に富んでいて、ぬかるんでいることもあって頻繁に足を取られる。自走式地雷や敵兵への警戒と共に、一歩一歩に入念な注意と集中を必要とした。


 「まったく、水が手に入るとは奇跡だ」

 自身の水筒を手に男がぼやき、相棒が同意する。


 「浄水器の錬金陣がまだ動くこともな」


 「確率の女神が俺たちに微笑んでいる証だな。俺達が悪運ではなく良運を観測できるように」

 そう冗談めかした言葉に、相方は鼻を鳴らして返した。


 「井戸を見つけたのは俺だぜ。この目と足で、誰かさんが寝てる間にあちらこちらと散策して回ったからだ」


 「見つかったのは、当時の僕らがそれを必要としたからさ。見つからなければ、今頃は二人仲良く日干になっているところだ。僕たちが今現在、生きているから、過去に君は井戸を見つけたんだ。」


 「くだらん屁理屈だ」

 男は口元にニヤリと笑みを浮かべ、肉体の疲労を忘れようとする。脚は痺れ、一歩一歩が苦痛を伴う。無駄口を叩くのは体力の浪費とも思われたが、軽口を叩いている間は気を紛らわすことができた。


 「確かに屁理屈かもしれん、だが面白いんじゃないか。お前も今度、唯物論的神学概説でも齧ってみろよ」

 男は乾いた笑いを上げ、ブルーノはそれに毒づく。


 「ああ、そのうちな。いくらでも学んでやるさ。観念論で腹が膨れるならな」


 「腹は満たされずとも心は満ちる」

 男の言葉に友人は再度、鼻を鳴らす「クソ喰らえ」とばかりに。


 「要は、俺たちは女神に祝福された幸運な可能性ってわけさ」


 そうやって得意げに語る男に対し、ブルーノが皮肉っぽい言葉をかける。

 

 「なら、こうして歩く必要もないじゃないか。ええ?ここで寝そべっていても、どうとでもなるってことだろう?お前の理屈では」


 「それもそうかもしれない。しかしながら、そんな個体が生き延びる未来を観測する確率は無に等しいだろうがね」


 彼の反論に対して、男は肩をすくめた。会話に一区切りがつき、次の章まで、しばし沈黙の幕が降りる。二人分の足音が泥と砂利を穿つ拍子が調べとなり、不規則な呼吸のメトロノームと共に時の流れを思い出させる。

 ふと、ブルーノが男に声をかける。短く、茶化すような口ぶりで。


 「きっと栗毛の髪なんだろうな、お前の言う女神とやらは」


 男は相棒の言葉に、先ほど見た夢を思い出す。過ぎ去りし日の情景、母と妹、そして栗毛の娘。

 あぁそうだ、そう男は呟く。あの時も、ことの発端はブルーノだった、と。

 精神が紡ぐ連想に、肉体的疲労と視覚的単調さが拍車をかけ、彼を否応もない回想の旅へと駆り立てる。過ぎ去りし日、過去と現在を結ぶ通過点へと。


 その日、娘と出会ったのは夏の帷の落ち初め、季節と季節の間に広がる名もなき過渡期に入り始めた頃のことだった。

 夏が去りつつある中でさえ、太陽はなおも天高く、空には雲ひとつなく、果てしなき碧の頂から、容赦無い夏の日差しを登校中の子供達へと浴びせかけている。

 学校は一際に小高い丘の一つにあり、窓からは町と谷間を一望できる立地にあった。

 澄んだ風が白いモルタルの塗壁に吹き付け、過ぎ去りし年月が壁に否応のないシミを塗りつける。そうした汚れに隠れて、無数のひび割れが蜘蛛の巣のように四方を進軍し、童達が叩きつけるボールが無数の凹みをつけている。

 真ん中の窪んだ石畳の階段は幾世代もの子供達によって踏しだかれ、磨かれほとんど顔が写りそうになるほどだ。

 教室に入れば、目に入るのは使い古された三人掛けの木製机に長椅子、壁にかけられた色褪せた元素周期表と真新しいパリッとした政治宣伝ポスター、それに傷だらけの黒板。そして子供達。

 影が幾つかの群れに分かれ、話し声、笑い声、金切り声をあげる。見慣れた風景、懐かしき光景。


 丘向こうの教会から刻を告げる鐘が響き渡り、教師の投入によって混沌から秩序に、触媒によって配列化する分子のように、子供らは一斉に席へとガタガタと座り始める。

 普段通りのプロセスなら、次は号令と忠誠の誓いと相場が決まっている。しかし、その日はどうも具合が違ったようで、教師ミズ・セラノが合図と共に見慣れぬ子らを教室へと招き入れた。

 ヒソヒソとした話し声が、子供らの間をホルモン物質のように行き交い、浸透し、憶測が憶測を呼ぶ。男を含め、何人かは彼らが”疎開”とやらと何か関係があるのだろうとあたりをつけてはいたが、実物を見たことが無かったのではっきりとしたことは何も言えなかった。

 困惑と好奇心、そして幾許かの猜疑心に満ちた視線が、教壇に並ぶ彼らに集中する。セラノは彼らについて転校生だと語った。曰く、前線一帯から疎開してきたのだと。

 初老の教師は、彼らの身の上について簡潔に語った。彼らの村が敵によって焼かれたこと、そして一部を除いた大半の同胞が、無惨に殺されたということを。政府の役人が拵えたであろう訓示を織り交ぜながら、生徒達に滔々と語り始めた。

 彼らの事情については手短だが、国家の大義に関するお話いつものように長々としていた。現在、如何に祖国が存亡の危機にあるか、敵がどれだけ卑劣であるか、そしてその仇敵と戦う祖国の兵士達がどれほど英雄的であるか等々。

 熱のこもった話ぶりではあったが、子供達からすれば耳にタコができるほど聞かされたお決まりの文句でしかなく、周囲は真剣な顔をしつつも欠伸を堪える生徒ばかり。

 最後に、初老の教師はこの困難の前で国民の一致団結と連帯が如何に必要であるかという訓示を述べ、新参者と仲良くするよう強調し各々に席に着くよう促した。


 席について一人の新入りの名を唱え、一人ないし二人の先住者の名を呼ぶ。返事をしつつも、横に座らせるよう命じられた生徒らが、新しい隣人達のことをあまり良く思ってはいないことは誰の目にも明らかで、後に一波乱あるであろうことを子供達は本能的に察していた。

 群れの秩序というものが介在する場合において、子供は統計学者顔負けの予想力を発揮するもの。ミズ・セラノの屹然とした声が判然としない緊張と共に教室に満ちる中、当時の男は右隣の誰もいない空間が気になって仕方なかった。

 そこをいつも占めていたアンドレは数日前に骨を折って以来、未だ自宅で療養中で、通学中に彼の家の前で野次を飛ばせば窓からひょっこり顔を出し言い返してくるあたり、それなりに元気ではあるようだったが、それでも学校に通えるようになるのは当分先のことだった。

 今、自分の横には誰もおらず、もしこの場で横に女の子が座ろうものなら、向こう1日はからかいの的になることは想像に難くなかった。

 教師の視線が、名簿と座席の間を行き来する。ミズ・セラノがこちらをちらりと見、教壇に立つ女の子に目を向けた。「ああ」男は思った。今日は厄日だと。


 隣に立つ女の子に軽く会釈し、横にズレる。隣のカッルーバが小さく悪態をつくが、男はそれを無視して娘に座るよう促した。

 気乗りはしなかったが、それ以上に気後れした様子の相手に礼を失するほど、子供とは言え男は無粋ではなかった。

 気まずい沈黙が講義の始まりまで続いた。男の頭はこの後、仲間達にどう反論するかで一杯だった。すぐ後ろでブルーノと、その取り巻きはニヤニヤ笑いを浮かべているに違いない。どうしたら面子に傷をつけずに済むか、考えるのはそのことばかり。

 そんな回帰的思考を打ち破るのは横に座る女の子、皮肉にもその悩みの源だった。


 「ねえ」

 娘が囁く。

 「教科書、見せて」

 伏せた目と、よそよそしさのベールをまとった硬質な声。


 「持ってないの?」

 怪訝そうに聞き返す男の顔に娘の髪がかかり、娘がこちらを向く拍子に頬を撫でる。

 彼女の俯いた視線が、男の眼に突き刺さる。頷きもせず、こちらを見据えながら小首を傾げる。

 「早く、見せてよ」

 もう一度、そう短く囁いた。


 命令じみた声は硬く、彼女に交渉する気がないことは簡単に読み取れた。

 男は思案するように目を束の間ミズ・セラノにちらりと向けたが、直ぐ思い直したように自分の教科書を彼女との間に押しやった。


 「ありがとう」

 娘がそう微笑んだ。それは男が見た彼女の最初の笑顔であり、その時になって、ようやく男はその瞳が綺麗な翠色であることに気がついたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

果てしなきは血の流れ 斗掻ケイ @Uncan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ