果てしなきは血の流れ

斗掻ケイ

蜻蛉達の挽歌

 蒸気射出機がけたたましい金切り声をあげ、ユーリの軽飛を発射する。

 心地良いGと共に牽引フックに引かれ、レール上を紡錘形の機体が急激かつ精密に加速していく。レールの終わりの緩いカーブに差し掛かってもなお速度を上げつつ、遂に空高く放たれた。

 後方では端に当たったフックの甲高い衝撃音が鳴り響き、火花を散らしながら跳ね返える。レールは蒸気に包まれ風に吹かれたように揺れ、さよならでもしているかのよう。

 丘の上に設けられた飛行場では、今なお幾多もの発射台で同様の作業が繰り返され、轟音の大合唱と共に幾百もの戦闘機が打ち出されていた。

 砲弾のように放たれたばかりのものは遠目には風に舞う蒲公英の種子のようで、翅を伸ばした姿は楓の種のよう。

 それらを尻目に、放物線を描く機体のコックピットの中、機体の主はいつもの作戦と同様に、強制された冷静さの中で次の手順に取り掛かり、回路を開いていた。

 瞬時に解析機関がカチカチ音をたて始め、次に待機状態のニーヴン回路が素早く目覚める。最後に両翼の展開が控えている。シーケンスが開始してすぐ左右に折り畳まれていたフレームが変形し、伸び広がる。

 外観は金属で出来た骨格標本といった具合で、それが展開される様は、羽化を急ぐ昆虫が羽だけを蛹から突き出そうとしているかのよう。

 それらのフレーム、翅の骨格はフラクタルの複雑かつ繊細な模様を描く金属とワイヤーの集合体で、さながら特殊合金製のレース細工。その華奢な骨と腱を、すぐさま”水銀"が覆い、肉と皮を形成していく。

 軽飛の翅は空力学と魔導学の融合した、現代工学の結晶だった。粘性の高い魔法溶液”水銀”が、薄い皮膜の張られた表面と、頑丈な擬似筋繊維の張り巡ぐる内部からなる擬似生体組織を形成する。驚くほどに軽量で、瞬く間に組み上がるそれは、サテンの柔軟さと、クロームの頑丈さを兼ね備えていて、尚且つ動物以上の滑らかさで可動する。

 完全に展開し切ったそれら両翼を、この機体の主、若き空軍将校のユーリが軽く曲げたり、伸ばしたりして手早く確認を済ませていく。

 機体は滑空状態で、体勢は安定。いつも同様、今回も異常は何もない。

 頭部を覆うマスクの下で深呼吸する。しばしの間、吐息が浄化膜を通ったばかりの新鮮な空気と混じり合う。次に目を開き、眉間に皺をよせ、額に貼られた端末のゼリーパッドを通して自らの乗る機体の姿を思い描く。

 集中して一秒と立たぬうちに、彼の知覚は額の異物から彼が乗る愛機の翼へと切り替わった。眉間の感覚と、ニーヴン回路を経由して仮想感覚が混じり合い、頭の中に機体の両翼の状態をくっきりと思い描くことができた。

 連結した感覚は非常に鮮明で、ノイズ一つない。額の端末が、次に一つの思念を脳波の嵐から拾い上げ、回路に送り込めば、若き空軍将校の指令は機体の末端にまで瞬時に伝達し、伸びをするように痙攣し、銀色に輝く金属の翅がその真価を発揮しようとする。

 胴体が僅かにみじろぎした後、白鳥のような優雅さで両翼が持ち上がり、ゆっくりと空気を打ち始めた。翻っては打ち、翻っては打つ。鼓動のように一度、二度、三度と反復を繰り返す毎に速度を早め、動きを高める。力強い飛翔の旋律。

 回数を増す毎に羽ばたきはより穏やかさを増し、正確性を高め、繰り返す毎に振幅を狭め、振動数と規則性は指数関数的に向上する。羽撃つ音は今や高周波で、風切る音は既に連続したひと連なりの振動であり、全ての軽飛乗りにとってお馴染みの聴覚的背景だった。

 ニーヴン回路に中継された彼の思念は次々に解析機関で処理されていき、反復動作による運動は解析機関のよって代行、自動化されていく。

 ニーヴン回路は今や完全開放状態、機体の全てはユーリの意識下にあった。

 今の彼には翼の先が切った風の、塗装の上を這う水滴の、機首の連射式リングガンが突き破るもやの感触を自分の身体と同様に感じ取れ、自分の身体の様に操ることができた。

 各種情報の処理と統合、絶え間ない無意識下の反復作業を解析機関がこなし、それをニーヴン回路が思念に変換しパイロットに伝える。

 ニーヴン回路という延髄によって、軽飛という名の肉体に直結されたユーリは言わば大脳であり、解析機関は小脳だ。


 各神経の連携は滞りなく、”肉体”は快活そのもの。軽飛は順調に加速を続けていた。巡航速度まであと僅か。

 「いい子だ」

 そうニヤリと笑い、分厚い耐ガス用の加圧服に包まれた指先で自分の愛機をそっと撫でる。

 口元に浮かべた不敵な笑みとは裏腹に、彼は内心ホッとしていた。なにせ戦闘の始まりすらしない内に、一人回れ右して無様に帰還したり、不時着した挙句に他の仲間を仰ぎ見るなどという、最悪の事態を今回も避けることができたのだから。

 戦闘に参加しない。それは意図的であろうとそうでなかろうと、全てのパイロットにとって死にも劣る不名誉だった。

 軍において、戦うことなく逃げ帰ってきた者への報酬は、痛罵と罵りと相場が決まっていた。

 次の戦闘までの間中、上官からも同輩からも常に軽蔑の視線を投げかけられ、唾を吐かれ、軽んじられる。

 整備不良等の事情などお構い無し。次の戦いは事実上の最後の出撃となる。決死隊の役を押し付けられ、大抵は生きて帰らない。

 それは事実上の死刑宣告。戦場という断頭台を舞台に、敵兵が刃を、執行人は軍が務める見せしめ。

 まだ若く、幼い頃から軍事教育を施されたプライドの高いユーリにとってそれは耐え難い屈辱に思えたし、彼に限らず若い軽飛乗りの多くにとってもそうだった。そんな恥辱を味わうくらいならいっそガスに肺を焼かれた方がマシというのが彼らにとっての共通認識となっていた。


 「長き生を夢見るな。臆病者としてではなく、名もなき英雄として死んでいけ」

 それが軍の、そして国全体の長年の標語であった。


 ふとユーリは幼少期の教官を思い出した。無精髭を生やした痩せぎすな男。

 擦り切れた軍服に身を包み、見窄らしいなりに精一杯に威厳を出そうとするかのように胸を張った男が、同じ内容を毎朝の号令の度に叫ぶ姿は、戦前に生まれた者からすれば、見るに耐えないものだっただろう。

 しかしユーリや彼と同年代の青年達にとってはそうした諸々やスローガンは、ごく普通の日常の一コマに過ぎないものだった。

 とは言え、その教官の顔はユーリにとって少年時代の象徴の一つであった。

 教師としては取り立てて褒めるところもない、平凡な人物であり、威勢の良い言動とは裏腹に、その所作の隅々からは心根の小ささが見てとれた。

 配給の不足によって錆のういた剃刀を使い続けなければならないせいで傷だらけになった頬、長年の地下暮らしのせいで病的に白い肌。それらが、充血した目や大きなクマと顔の上で踊り、陰鬱なコントラストを投げかけている。

 そうした哀れさにも関わらず、彼が話す姿は少年にある種の異様な気迫を感じさせた。何故に自分がそう感じたのか、当時の彼には分からなかったし今の彼にも分かりはしない。それは、年長者が言うところの、狂気だった。

 身をこがす情熱に溢れる気迫と、膚の奥底に埋没した骨の髄に至るまでを凍らせる狂気。それらは過去に起きたことなら後者、今現在起きていることなら前者で呼ぶのだろう。


 「緑の鉤爪Ⅱ、早く隊列に加われ」

 唐突に声が響く。聞き慣れたイワンの声、緑の鉤爪の分隊長の、冷たい黒曜石の声。

 

 思考が一瞬で現実に切り替わる。気がつけば、周囲は翅を広げた軽飛で溢れかえっていた。

 そこらかしこに散らばった幾多の銀色の機体が朝日をうつし、羽ばたきに合わせて明滅を繰り返す。ユーリは、自分が水晶の雲に包まれているように感じた。


 その光景に目を細めながら、「了解」そう手短に返答しイワンを探しにかかる。

 彼の飛び立った時刻と発射台、事前の概要を考慮すればその現在位置を割り出すことなど造作もないことで、すぐ斜め前方、尻に大きくマークをつけた機体を認めた。緑の鉤爪が3本。彼の隊の紋章だった。


 「愚図つくのは地上にいる時だけにしなさいな、ユーリ」

 そう女の声が無線に入る。エミーリャだ。


 「今日も早いなエミーリャ」

 イワンの左後方に一機、並んで飛んでいる。エミーリャ、灰色の瞳のスカした女。緑の鉤爪のナンバーⅢ。


 「あなたが遅いだけよ、ねぼすけさん。号令が無いと集まれないなんて、ほんと子供ね」

 頭の側面に貼られた無線用のゼリーパッドを介してあざけり声が響く。


 「そのねぼすけにいつも助けられてるじゃじゃ馬娘は何処のどいつだ?」

 そう返しつつも、ユーリの口元は無意識のうちに笑みを浮かべ、目線は無意識のうちに彼女の機体を追っていた。


 「頼んでも無いのに人の後ろをくっついてまわる無礼者は何処のどなた?」

 口先では挑発しつつも二人の口調は詩を口ずさむようで、その会話は氷燐の燃焼機関なみの予定調和だった。

 ユーリもエミーリャも、お互いが紡ぐ内容を相手が口にする前から予想し切っている。


 「せいぜいケツに付かれないよう気をつけるんだなメス猫さん」


 「宜しくね、色男さん」

 歯を剥いて、青年は笑う。


 「ユーリ少尉、エミーリャ少尉、私語は慎め」

 イワンの冷たく固い声が二人の会話に割り込む。予想通りのタイミングだ。


 「了解」

 そう返しつつ、最後に彼女に向けてウィンクする。マスク越しなので見えることはないだろうが、彼にとってたいした違いではない。ユーリにとって、これはあくまで思考を切り替えるための儀式なのだ。

 回路を開から閉にスイッチするように、彼の思考がカチリと切り替わる。”エミーリャ”の存在は彼の意識から消失し、今や左手に飛んでいるのは気になる女の乗った軽飛ではなく、ただの友軍。緑の鉤爪Ⅲという名の個体にすぎなかった。

 彼の右後方にナンバーⅣのニール、エミーリャの左後方には以前の戦闘で戦死したスタヴィノフ

に代わって新入りのマニノフが配置についている。この5人が、今回の”緑の鉤爪”分隊の全てだ。


 「今回も、我が分隊は欠員を出さず前線に向かえそうですな、中尉」

 そうニールがイワンにいつもの軽口を飛ばした。

 「当然だ。自機の整備一つまともにこなせない半端者など、我が分隊には必要ない」

 それにイワンはいつも通り、予想通りの言葉で返答する。二人の声色、タイミングに至るまでの全てがいつも通りだった。

 新入りのマニノフ以外の三人は、イワンの性格や思考を長い付き合いの中では熟知していたし、ユーリは問いかけにイワンがどう応えるかも大抵の場合は予想できた。ニールも同じだろう。

 にも関わらず、ニールはどうも出撃の度、同じ問答を済ませずには居れないようだった。

 それは言語化し難い不合理かつ呪術的な感覚、要はジンクスで、その儀式をすることで彼は自分が此度の戦闘を生き残り、次の戦闘でも問題なく分隊に参加できると信じているようだった。

 その儀式を実行し決まった手順を踏むことで、自分は戦闘を生き延び、次の作戦時にも不名誉を負うことはないと。

 ユーリはそんな彼を心中で馬鹿にしていた。決して口には出さないまでも、くだらない迷信に一喜一憂する彼をみっともないと思っていた。しかし反面、彼の気持ちを理解はしているつもりだった。結局のところ、彼は安心を得たいだけなのだと。

 それをイワンとエミーリャもおそらく理解しているだろうし、それがイワンが毎回の問答に付き合う理由なのだろう。


 「作戦領域まで残り500」

 管制官の声が響く。

 緑の鉤爪分隊を含む、今回の作戦に従事する面々は未だ大森林地帯を飛行中。

 敵に悟られないよう、可能な限り低く駆ける。機体の腹が木立の先を掠めるほど、地平線と同化するかのように。

 周囲には深緑の絨毯が地の果てまで広がり、彼らはその上を這い回る虫の群れ。巣の利益の為に、我欲を捨てるよう強要される蟻の群れだった。

 前線はまだまだ先で、当分は退屈な空の旅が続く。そう考えると、緊張とは別に戦場に一刻も早く向かいたいと急く気持ちがユーリの中に膨れ上がってくる。

 もちろん死の恐怖が無いわけではない。だが彼には自分の命運の分かれ目、分水領を目前にして、こうも焦らされることが耐え難いものに思えてならなかった。

 あり得ないと分かってはいても、ユーリには地平線上に戦場を示す黄色いガスのモヤが見えるような気がした。

 黄色いモヤは戦場の証、人のいる証。人の叡智を駆使して作り出された触媒兵器、ただ”種子”とだけ呼ばれる装置によって作られた、全ての動物に死をもたらす人工の霧。

 ”種子”は、内蔵された錬金陣が土壌の物質を基に一連の合成反応を繰り返し、その陣の擦り切れるまで致死的な神経ガスを生産し続ける。本体の大きさは睡蓮の種ほど、上空から大量に散布されれば防ぐ手立ては有りはせず、人はただ獣のように環境への適応を強いられた。

 この触媒兵器は、今や軽飛や移動要塞と同じ程度にこの戦争の花形だった。

 全ての国は独自に”種子”を生産し、前線や敵の基地、工場、そして都市にばら撒いている。報復に次ぐ報復。錬金陣の改良、新型ガスの開発。敵に対して一歩抜きん出る為、全国の研究所では、今この時も多くの学達が寝る間を惜しんで研究に励んでいる。

 各国の努力の成果は、黄色い燻んだ色に染まった大地。それがユーリ達、戦中世代の若い兵士にとっての馴染み深い地上の風景だった。


 今では多くの人々が地下を根城としていた。

 前線に近い地域の防空壕兼用の地下住居に住む農民達、気密された洞穴を寝床とする陸軍大隊、鉄とコンクリートからなるドームに覆われた何層も連なる要塞都市に住む市民達。

 戦争によって、歴史ある世界の都市の多くが戦火に呑まれ、破壊された。重厚な歴史と風土を讃える華麗な意匠に彩られた建物を砲弾が薙ぎ払い、繊細な装飾の施された石壁は煤のベールに覆われる。

 戦場付近の都市の多くは放棄され、いくらか離れたところに”新市街”が建設された。鉄とコンクリートのドームに覆われた上層部と、何層にも渡って掘られた地下構造からなる時代の最先端の街が。

 ”新市街”に余分な装飾は何もなく、機能美という名の様式で統一されていた。最もその機能は、主に戦争という目的に最適化されることを指していたが。

 荒涼とした密閉空間が、とてもではないが人の居住に向いていないのは考えるまでもないことで、薄暗い内部は湿気と体臭に満ち、病と熱気に満ちていた。

 政府が無許可の転居を禁じるまでに、大勢が慣れ親しんだ街を去っていった。ありし日の姿を胸に抱いて。

 残された者達の多くは、自分達の棲家をかつての街の名で呼ぶことを拒否し、”新市街”もしくは単に”避難所”と呼んだ。


 新市街育ちの若者は多くがからかいの的だった。なんせ新市街特有の容貌は、誰でも一目で分かる程に特徴的なのだ。

 多くがロクに日光を浴びずに育つせいで骨が弱く、栄養失調もあって背が低く、そして何よりも肌が病的なまでに白かった、血管が見える程に。

 ユーリもそんな新市街出身であったが、幸運なことに彼の代には日光不足の弊害が広く認知されるようになっていたこともあって、子供時代には毎日、人工灯の下での日光浴が義務付けられていた。

 地下深くに設けられた学校に隣接する”照明室”で1日に一度、朝の体操と訓練の後、授業が始まる前の半刻あまり、同級生達と服を脱いで床に横たわるのを、ユーリは今でも思い出すことができた。

 教官の合図と共にタオルで顔を覆い目を閉じる。床には敷物もなく、冷たくざらざらとしたモルタルが剥き出しで、床の所々に細かいヒビが走っている。

 狭苦しい照明室は生徒達が所狭しと敷き詰められているせいで暑苦しく、そこにライトの熱波もあれば、まるでオーブンの中にいるかのよう。

 ここに悪臭が加わった日にはもう最悪だった。誰かが屁をこいた日には流血沙汰は避けられなかったものだ。

 ユーリの同級生、アンソニーはその典型例だった。

 いつもの時間、気の抜けた音と共に臭いが部屋中に充満する。部屋中の男の子が呻き声をあげた。

 「殺してやるぞ!アンソニー!」誰かがそう怒声をあげる。


 「僕じゃない!」という叫び声。


 「黙れ!」そう怒鳴る声に続いて鈍い音が鳴り、続けて悲鳴と投打する音が幾重にも反響し、少年達はもみくちゃになりながら喧嘩を囃し立て、野次を飛ばす。

 結局、その時は教官が部屋に飛び込んでくるまで騒ぎは続き、アンソニーは鼻の骨を折る羽目になった。

 当人にとってはたまったものじゃなかっただろうが、こうした流血沙汰は戦中世代の子供達にとっての数少ない思い出の一つでもあった。なにしろ、こうした気晴らしが無ければ、それはただただ苦痛な時間以外の何物でもなかったからだ。

 日光浴が終わる頃には床は生徒達の汗で濡れきり、1日に一人は足を滑らせた。ユーリを含め、生徒の大半はこの時間を嫌い「拷問訓練」、そう子供達は揶揄した。

 多くの悪童がそれをサボとうとし、真面目な生徒はその後の楽しみを理由にジッと耐えた。シャワーは格別だった。運動と日光浴で汗ダクになった彼らにとって、頭からかぶる冷たい飛沫はまさに恵の雨と言えた。

 密閉された閉鎖都市の茹だる熱気、肌に張り付くような湿気、そうした新市街の鬱屈とした全てが、垢と一緒に洗い落とされていくように思え実に爽快で、”拷問”を耐え忍んだ後となれば尚更だった。

 身も心もさっぱりしてシャワー室から出てきた少年少女達の笑い声。甲高い声が通路を響き渡り、こっちの奥からあっちの奥へ、何度も何度もこだまとなって反響する。

 壁に並んだ薄暗い照明灯が湯気に巻かれ、教室に向かう子供達を照らした。

 

 「総員、戦闘準備。神経反応加速剤を打て」

 共通帯域を通して、管制官の声が全飛行士の脳裏に響き渡る。

 手動で首筋に当てられた投与モジュールを起動。幼子の髪のように細く、適度にしなやかな無数の針の束が緩やかに伸長し、薬剤を血管へと流し込む。

 静脈から動脈へ、動脈から全身へ、神経反応加速剤が心臓の旋律に合わせて循環し浸透し、目標たる細胞に、その能力を発揮し始める。

 前頭葉から視覚野まで、神経細胞の一本一本に脆く複雑な高分子が行き渡り、化学的カクテルの手が脳のヒダが解きほぐし、再構築していく。シナプスとシナプスの間を過剰応答の火花が飛び散った。

 脳波の嵐、意識は引き伸ばされ、眼窩は燃えるように熱く、舌の上に金属の味が広がる。

 視覚と聴覚の知覚過敏、ユーリの視界は輝度過剰で、視界は原色に塗られ、加速した意識の中で抽象的記号の集合体へと変わり果てる。

 幾万もの脳細胞が、己を焼き焦がすのを脳裏で感じ取りながら、戦闘に備える。


 寒帯の広大な針葉樹の森が唐突に途切れる。深緑の絨毯の縁にたどり着いた時、薬物投与からすぐの過剰興奮は落ち着き、精神は自身の肉体的、知覚的要素を制御できるようになっていた。

 下界の境界は極めて二元的だった、片方は命に溢れ、もう片方は草一本生えない剥き出しの地肌を覗かせている。

 己と戦場の距離が目と鼻の先であることを知り、ユーリは無意識のうちに歯を食いしばる。

 瞬きする間もないごく短時間、死と生が隣り合う限りなく無に等しい境界において、彼らは覚悟を決めなければならない。暑苦しいマスクの下で見開いた目の間を汗が流れ、唇を濡らす。

 地平線に見慣れた黄色いもやを認めた。戦場の、人の、文明の証。地上では幾重にもわたる長い塹壕が大地を区切り、鉄条網がその間をのたくりまわっている。

 塹壕のあちらこちらでは土煙と共に白い閃光が煌めいては消え、灯っては消えた。凍土を掘り進める、掘削機の光だ。

 戦闘の差し迫る今なお兵士達は猛毒の霧の中、運命との衝突に備えて防衛戦の拡張と改修に従事しているのだった。

 ユーリは硬い永久凍土を削り、岩を割るガリガリという掘削機の音がここまで聞こえてくる気がした。


 前方に一機の機影を認める。青く塗装された、旧式の垂直離陸型機。その色とフォルムから、一眼で敵の偵察機であることが読み取れた。

 「南西に敵機発見。迎撃許可を求める」

 イワンの声が無線に響き、管制官がそれに応える。

 「迎撃を許可する」


 「了解」

 ユーリと仲間、緑の鉤爪分隊の声が重なった。


 勝負は一瞬だった。時代遅れの偵察機一機の撃墜など、この後に控える主幕の余興にすらならなかった。

 相手の非戦闘用機は旧式で、小回りはそれなりに効くものの戦闘用に調整された軽飛と比べて哀れなほどに鈍く、武装は話にならない。

 装甲が多少分厚い点と垂直離陸ができることを除けば、相手が最新鋭の戦闘機に敵う点は何もなかった。

 散開し、四方から十字砲火を浴びせる軽飛の群れは、獲物を掴む猛獣の鉤爪。回避しようと必死にもがく羽虫を、無情に掴んで離さない。

 放たれるのは極小のリング。魔法的に発生させた電磁場を用いて加速された極小のチャクラム。高速で回転しながら打ち出された円環が、薄い装甲を易々と貫き、機体をズタズタに引き裂く。まるで銀色に輝く血のように、二対の翅から”水銀”が張力を失い雫となって流れ落ちていく。魔導細工の心臓、解析機関が破壊された証拠だった。

 重力に引かれ、今なお風に引き裂かれつつある機械の骸を飛び越えて、英雄達は配置に戻り悠々と去っていった。後方で信号弾が上がった。


 ふとユーリはエミーリャの機体に違和感を認めた。両翼の、左右の振幅がわずかに一致していない。

 「Ⅲ、羽ばたきに異常が見られるぞ」

 高速言語、作戦行動中に用いる簡易言語を使って思わずそう問いかける。


 「さっきの戦闘で被弾。損害軽微。作戦行動に支障は無いと思われる」

 簡略された、無機質な言葉の返事。


 「了解」

 そう応え、意識を作戦に切り替えようとしつつも、ユーリはどうしても左が気になって仕方なく、目は何度もその被弾した翅を追った。彼が戦闘前にここまで気がかりな思いに駆られたことは今までに一度としてなかった。

 青年は、自身が娘へと抱く感情を理解しつつも、それをガンとして認めたがらなかった。もし彼女への想いを認めたら、自分は弱くなる。彼はそう漠然とした確信を抱いていた。


 それは前回の戦闘から帰還し、恒例の形式的な戦勝会の後、仲間内でスタヴィノフの追悼式を行った時のことだった。

 有り難みのない将軍の訓示と、いつもと同じ味気ない食事に少量の酒がついただけの晩餐会が終わり、軽飛乗り達は分隊毎に別れ、死んだ仲間を弔うべく食堂から去っていく。

 緑の鉤爪分隊の面々はスタヴィノフとニールの二人部屋へと集まっていた。

 ニールが持ってきた分隊専用のウォトカを各々のグラスへとついでいく。ボトルは仲間が死んだ時にのみ開ける決まりだったが、すでに残りは僅かとなっていた。

 最後に故人のグラスに注ぎ終わると、イワンが杯を掲げて音頭をとった。

 「勇敢に散った同志、アンドレイ・スタヴィノフ少尉に敬礼!」

 普段は冷たい岩のような声も、こうした時ばかりは気持ちばかりに熱を帯びていた。

 堅苦しいのは杯をあおるまで、イワンを除いた三人はさっさと故人の思い出話に花を咲かせにかかった。

 主な語り手はユーリだったが、時たまにニールが冗談を吐けば腹を抱えて笑った。ニールは神経質ではあるが独特なセンスの持ち主で、酒の入った彼は普段とはうって変わって饒舌だった。

 彼のアンドレのものぐさぶりについてのユーモアたっぷりの皮肉は特に傑作で、イワンですら薄く苦笑いを浮かべた。

 心の奥底で燃える一抹の感傷の火を消すように、青年達は陽気と蛮勇のベールで心を覆い隠す。たとえ実際には消えずとも、とりあえず消したフリをする。空元気は感情的無反応のアナログ、自己生成可能な精神安定剤だった。

 部屋は四人の人間には狭苦しく、頻繁にお互いの吐息が鼻にかかり、酒気が鼻腔をくすぐる。垂れ込めたタバコの紫煙を透かして、ユーリはエミーリャの瞳を覗いた。伏せられた灰色の瞳は物憂げで、咥えたタバコをもつ手を見つめている。

 ユーリは彼女に話を振ろうとしたが、止めた。感傷に耽りたがる者を無理に付き合わすほど、彼も無粋ではなかった。


 話もたけなわに酔いも覚める頃、4人はアンドレの遺品を漁り、それぞれお目当てのものを探した。

 軽飛乗りの間では、お互いに自分が死んだ際の私物の後始末について、仲間と事前に約束を交わしておく不文律が存在した。大抵のパイロット達の背嚢には、譲って良いものと残しておくもの、遺族に送って欲しいものの一覧と譲渡する相手が書かれた半分、遺書代わりのリストを収めた封筒が底に貼り付けてあった。

 残された者達は、それを基に精一杯の手向と引き換えに、遺物を譲り受けるのだった。

 宝探しが終わり最後に4人で再敬礼した後、ユーリはタバコを対価に真新しいブーツを、エミーリャは石鹸、イワンは時計、ニールは辞書を入手し、各々自室へと帰っていった。


 夜も深まった頃、ユーリは寝息をたてる同居人を起こさないよう注意を払い、手に入れたばかりの戦利品に足を滑り込ませ、部屋を後にした。

 どうにも眠れず、また胸の奥底にいこったものが取れないような、嫌な気分が拭えなかったのだ。

 外はすっかり深夜だった。周囲はすっかり寝静まり、灯り一つ灯らない兵舎を星々が照らす。監視塔から伸びるサーチライトを除けば、人の活動を示す兆候は何もなく、空には自分達の住む衛星ヒギムを従えた天の主、巨大惑星のアギルが王座にて不動の輝きを放っていた。

 バラックの薄い壁に北国特有の荒々しい夜風が打ち付け、蝶番の壊れた戸が揺れてキイキイともの悲しげに鳴いている。

 ユーリはタバコを吸おうとポケットに手をやるも、すぐに最後の一箱をアンドレに供えたことを思い出し、舌をうつ。結局、迷った末に踵を返して軽飛の格納庫へと向かった。

 格納庫はその前に立つ守衛に会釈し、入場の許可を得る。軽飛のメンテナンスのため、格納庫は一日中、明かりが途絶えることはなかった。その日も多くの技官や整備士達が、夜を押して機体の修理と点検の作業にあたっていた。

 数百の機体が所狭しと並ぶ格納庫は、基地内のどの建造物よりも広く、明るく、清潔だった。

 彼に限った話ではないが、ユーリは格納庫が好きだった。彼はどんなことがあっても、ここに来れば不思議と落ち着くことができた。それは、ここが自分の半身であり、相棒でもある機械の家であるからなのだろう。

 軽飛乗りにとって、格納庫というのは片割れの寝床であると同時に、治癒院でもある。自身の運命を左右する場。古代における神殿のような、静謐と神秘を宿した場なのだ。


 「よう、ハンク」

 愛機の様子を見に行くと、ちょうど顔見知りの整備士が作業に当たっている真っ最中だった。

 外部操作用の端末を使って、フレームとワイヤーを幾度と伸ばしては縮め、伸ばしては縮め、翅の展開と格納を繰り返し、ついで実際に”水銀”を張らせて細部に至るまで念蜜に確認していく。

 「坊主か」

 返事しつつもこちらには目もくれず、手を止めることもない。


 「どこまで済んだ?」


 「機関と回路の点検、溶液の交換と補充」


 「具合は?」


 「自分で確かめな」

 翅の点検を済ませ、ハンクはそうぶっきらぼうに応える。”水銀”からなる擬似生体構造が崩壊し、ただの銀色の液体基質に戻ったそれが胴体の貯蔵槽に吸い込まれていく。

 干上がり、剥き出しになったフレームとワイヤーからなる繊細な金属細工を、熟練の職人が丁寧に折りたたんでいった。

 ユーリは支柱にもたれかかり、彼の仕事ぶりを形式的な尊敬の念の籠った目で眺めた。長年、この戦闘用飛行機械の整備を続けてきたこの古参技術者の働きは彼が面倒を見ている機械並みに洗練され、熟練の感覚は機体に積まれた高感度センサー並みに鋭敏だった。

 彼らの半身を万全に保つ整備士達は、軽飛乗りにとってある種の守護聖人であり、自身の運命の決定者。プライドの高い彼らが敬意を表する数少ない相手だった。

 「了解、明日よく確認しておくよ」

 ハンクはそれも聞こえていないかのようで、自身の作業に集中していた。両方の翅と胴体の接合部を触診する医者のような優しいタッチで撫で、ついでその手は胴体全体へと伸びていく。


 やがて彼は「よし」と頷き、さっさとユーリの機体から離れ、次の機体で作業すべく工具類をカートに積み直していく。彼らにとっての仕事は始まったばかり、眼前には修理や点検を待つ機体がずらりと並んでいた。

 「また今度、奢らせてくれよ」

 ユーリがそんなハンクに声をかける。

 オーバーオール姿の老技師が今日、初めてこちらに顔を向けた。

 「いつもこいつが世話になってるからな」

 そう言って彼は自分の愛機を軽く叩いた。


 男は彼をじっと見つめた。皺と無精髭だらけの顔は油に塗れ、古代の蛮族がいれたとされる紋様のよう。その落ち着きと思慮を湛えた瞳も合わさって、彼はどこか呪術師のような、神秘的な気配を纏っていた。

 「お前さんみたいなひよっ子に奢られたって何も嬉しかないね」

 しばしの沈黙の後、いつもの口調でそう言った。


 「それにそんな機械より先に、気にする相手がいるんじゃないのかい」


 「というと?」


 「若い娘、エミーリャといったか」

 エミーリャと彼が言った瞬間、ユーリは自分の顔が引き攣るのを感じた。彼の口からその名前を聞くのが、実に不愉快だった。


 ハンクが今までに見せたことのない、悪戯っぽい目線をユーリに投げかける。

 「あの娘、随分お前さんを好いてるようじゃないか?」

 ユーリは顔を背けた。

 「よしてくれ、そんな話は」


 「何を照れてる。お前さん二人ともよく手柄を上げてるんだ。一時除隊が受理されるかもしれんぞ。学校に復学でもしたらどうだ、学問を修めればもっとマシなとこに赴任できる」


 「学も女も、興味ないね。こいつを降りるくらいなら撃ち落とされて死んだ方がマシさ」


 「色なし学なし、戦いだけが生き甲斐って訳か?」

 ハンクは深く嘆息する。

 「お前さんらみたいな若造を戦わせて、お偉方の気がしれんよ。子供がいるべきなのは学校だ、戦場ではない。銃剣の使い方よりも詩と知識を習う方が、よっぽど有意義というものだ」

 いつになく饒舌な老人の演説を前に、ユーリは黙りこくった。

 「ただお上の命令に従うなんてのはな坊主、虫ケラの生き方だ、人間じゃない。いや、虫ケラですら種は残そうとすることを考えれば、ここの連中は虫ケラ以下だ」

 そう語る彼の目はどこか笑っているようにも見えた。彼は深呼吸をした後、踵を返して自分の仕事へと戻っていった。その後ろ姿に消えない印象を残して。

 目には哀れみ、口には同情、背中に傍観。これほどまでに憂いに満ちた男の姿を見たことは、この若者にとって初めてのことだった。


 ユーリには、出撃のたびに過去を走馬灯のように回想する癖があった。なぜなのか、はっきりした理由はわからない、ただ漠然とした確信だけがあった。

 過去こそが自分にとっての力の源なのだ。人生の道のりの果て、現時点における自身の集大成として今、自分はここにいるのだ。それこそが、他のどんな個人的儀式よりもジンクスよりも、自分を何より勇気づけ、自信をもたらしてくれる。


 下界を覗けば、今まさに幾万の兵士達がガスの中、防衛線を突破しようと塹壕に決死の突撃を仕掛けようとしていた。あちらこちらで地面が吹き飛ばされ、土煙となって空に渦を巻く。

 戦闘は既に始まっていた。昔なら、自軍の塹壕に見知った顔がいないか気になったことだろう、地を這う同胞達を見て義憤にかられたことだろう。しかし今では、彼らに対して地を這う虫と同程度の情けしか感じられなくなっていた。

 ユーリは初老の言葉を反芻しながら眼下の光景を眺め、思った。そうだ、俺はまだ恵まれているじゃないかと。少なくとも自分は生きているし、夜は床の上で眠ることができる。

 毒ガスの下、一日中ガスマスクをつけて氷と泥の上にうずくまり、砲弾や突撃、自走式地雷に怯えて待つ必要もない。

 少年時代の友人達のうち、何人が今なお無事に生き延びていることか。もっとも優秀な者達を除けば、大半の男女が15にして徴兵され、陸海空に振り分けられる。軍の中で言えば、軽飛乗りは相当に恵まれている部類と言えた。


 前方に目標、巨大な高速輸送車両”移動要塞”とその取り巻きを認め、パイロット達の若い声が唱和する。

 「目標を確認」

 応えて曰く

 「総員、作戦開始」

 管制官が無機質な声で時を告げる。幕を開く符号の言葉。呪文は獣を枷から解き放ち、獣は爪を千の飛び交う蝶に変え獲物へと叩き込む。

 護衛は殆どが陸戦向け、耐空兵器はほぼ見られない。敵方の航空戦力は先発の部隊によってあらかた掃討され、後発組は未だ姿も見えない。

 こうなれば如何なる大軍団も航空部隊を前にして動く的に過ぎず、堅牢な移動要塞ですらそれは同じだった。

 移動要塞。塹壕や防衛線を容易く突破し、安全に兵団を展開すべく設計された巨大な陸上車両。天蓋のように、砲弾すら弾く高出力偏向スクリーン天網結界を頭上に展開し、反重力装置によって如何なる地形も走破可能。結界の性質上、内から外への攻撃も不可能という欠点はあるものの、通常戦力に対しては正に難攻不落だった。

 かつてこの兵器が歴史の舞台に登場した時、世界の衝撃は凄まじく、移動要塞の保有数が戦況、ひいては勝敗を決するとすら論じられた。

 各国が独自に研究を進め、時には敵国から特別な援助を得て、開発が進められた。

 溶鉱炉が煙を上げ、新市街の建設に使った量の何倍分もの鋼鉄を兵器工場が消費し、技術者と職人達が不眠不休で陸を進む”船”の建設に携わった。

 鋼の巨獣は、毒ガスと並んで戦場の象徴だったが結局、天網結界を中和する”貫通装置”の開発と軽飛の改良、航空戦術の進歩によって、その栄光に陰りを見せた。鈍重で非効率な旧時代の王者は、小さく俊敏な新時代の猛禽達にその座を譲ったのだ。要塞自体は今でも運用はされているものの、最盛期のような威光はもはやなく、ただの一兵器にすぎない。


 ユーリはニーヴン回路から電磁場感知器を作動させる。可視化された電波の原色の赤が視界に重なり、戦場を飛び交う電波で情報過多に陥りかけた。

 可視化された天網結界は麻袋のような目の荒い格子模様で、それが移動要塞を中心にドーム型に広がっている。

 スクリーンは一定以上の質量を持つ物体に作用し、高速で飛ぶ軽飛も、触れればひとたまりもない。

 作戦は単純。胴体の余分な重りを敵にプレゼント。要塞を沈めた後はそのまま飛び去り、後方からの新手とランデブー。この地上部隊との接敵はあくまで前座に過ぎない。


 視線を縦横無尽に巡らせる。脅威は何も見られない、対空砲すら。ユーリの脳裏に、違和感が生じた。


 「投下開始まで残り5」

 イワンの声が響く。

 腹に括り付けられた一発の貫通爆弾。搭載された中和装置によって、短時間ではあるが敵の偏向スクリーンを貫く中和バブルを生成し、それによって爆弾本来の効力を発揮させる。

 前もった天網結界の偏向率の計算と入力もすでに完了し、後は投下を待つだけだった。


 「5、4、3、2」

 声に合わせて、頭の中でカウントする。声は出さずに口ずさむ、破滅をもたらす甘美な歌。自身が他者の運命に幕を下ろす執行人であることを告げる勝利の響き。アドレナリンの生成は最高潮、静かな興奮がシナプスに乗って駆け巡る。

 「1」


 唐突に、意識が空転した。解析機関との接続が絶たれ、急激すぎる信号喪失と遮断に脳が悲鳴を上げた。

 一瞬にして翅の擬似生体構造が崩壊し、”水銀”が飛沫となって流れ落ちる。剥き出しになったフレームとワイヤーからなる骨格は己を支えるにはあまりに貧弱で、抗力によって容赦無く引きちぎられていく。機体は空中分解しつつあった。

 なんとか意識を取り戻したユーリは、頭痛を堪えながら、神経反応加速剤によって引き伸ばされた意識の中で思考を繰り返す。何が起きたのか。

 その時、彼は自分が抱いていた違和感の正体に気がついた。天網結界だ。

 天網結界の見慣れた模様の中に、見慣れぬ構造が微かに覗いていたのだ。

 あれが罠の正体。おそらく、こちらの解析機関を麻痺させる特殊な場を形成していたのだ。見慣れた偏向フィールドの網目に巧みに隠し、無邪気な獲物が近づけば牙を剥いて襲いかかる。


 麻痺は一瞬だが致死的、解析機関が復旧した時にはもはや手遅れ。脳裏にいつになく張り詰めたイワンの声が響いた。ついでユーリとマニノフの混乱した声。エミーリャの悲鳴。

 彼女の声を聞いたユーリは、無意識のうちに娘の名を叫んだ。

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