9 Typhoon 1

 九月もまもなく終わろうというその日、ひとりの男が四ツ坂レジデンスの一階にある駐車場で雨宿りをするように手持ち無沙汰な様子で立っていた。

 今晩、台風十一号が四国から紀伊水道を通過して関西に上陸するとのことで、気象庁は四国と関西全域で暴風と豪雨に警戒するよう注意を促している。

 そのわりには現時点でシンキョウトではほとんど風は吹かず、雨も小康状態だ。

 木曜日の夕方だからか、四ツ坂レジデンスの住人たちの行動は普段と変わらないようだ。

 公道を走る自動車や自転車をぼんやりと眺めているような視線でひとりひとりの顔を確認していた男は、畳んだ傘をぶらぶらと揺らしながら立っていたが、レインコートを羽織って自転車を漕ぐ青年が駐車場に入ってくる姿を目に留めると、表情を引き締めた。

 駐輪場に自転車を止めた青年は、レインコートを脱ぐとそのまま足早にエントランスへと続く通用口に向かいかけた。


トリスグルさん、ですか?」


 レインコートを抱えて歩く青年に、その男は落ち着いた声音でそっと話しかけた。


「……どなたですか?」


 短い髪を砂色に染め、両耳には派手なピアスをいくつも着け、Tシャツとダメージパンツという格好の男に胡乱げな視線を向けながら、名前を呼ばれた青年は返事をした。


10008ヨロズヤに依頼をしましたよね? ある男を始末して欲しいって依頼を」


 男は名乗らないまま青年のすぐそばまで歩み寄ると、声を響かせないようにぼそぼそと喋った。


「……なんのことですか」


 眉をひそめ、青年は相手を睨む。

 しかし、青年の問いには答えず、男は勝手に喋り出した。


「先月、このマンションで男性が転落死したのはご存じですよね。都警察が犯人を逮捕しましたが、ここだけの話、実はあれは誤認逮捕なんです。実際に男性を転落死させたのは10008です。SNSでは10008は京都の怨霊だのあやかしだのと言われていますが、ここ最近、謎の転落死事件が増えているんです。都内の転落死の半分は10008の呪いだって噂がSNS上でまことしやかに流れているんです。『人を呪わば穴二つ』って言いますが、10008に依頼をして大願成就したらきちんとお礼をしないと今度は自分が墓穴を掘ることになるそうですよ?」

「…………なにを言ってるのかわかりませんが」


 不愉快だと顔に書いて青年は男を睨み付ける。


「10008が怨霊やあやかしなら、あとでお礼になにかお供えをしておけば良いのでしょうけれど、連中が実在する存在ならちゃんと報酬を支払わないと代償を伴うことになりますよ」

イワさんを殺した犯人は警察が逮捕していますよ」

「だから、冤罪なんです」


 青年の興味が自分に向いたことに満足したのか、男はにやりと唇を歪めた。


「都警察は10008を都市伝説のひとつみたいに考えているようですが、都市伝説だろうが怨霊だろうが姿を見た人はいなくても間違いなく存在しているんです。透明人間だって噂があるのをご存じですか? まぁ、透明人間より怨霊の方が京都には合っていると思いますけどね。『地獄の沙汰も金次第』って言葉はご存じですよね」

「岩田さんは怨霊に呪い殺されたって言うんですか?」

「呪い殺されたってわけじゃないと思いますよ。ちょっと背中を押されてベランダから落ちただけです。わざわざ呪わなくったって、高いところから人を突き落とせば簡単に転落死させられますよ」


 まるで万有引力の法則を説明するように、男は当然の結果だと言わんばかりの顔で告げた。


「都警察は、岩田リクによる恐喝行為を把握しています。岩田の被害者も、あるていどは把握しています」


 男の言葉に、青年は抱えていたレインコートをぎゅっと握りしめた。


「10008が怨霊なら、神社仏閣か霊媒師のところにでも行って祓ってもらうと良いでしょう。でも、10008が実在する透明人間なら別です」


 男は声をひそめて、青年に囁いた。


「あなたがいつまでも依頼料を支払わなければ、このマンションで新たな転落事故が発生するかもしれませんね」

「なっ――――!」


 青年が顔を強張らせると、男は意地の悪い笑みを浮かべた。


「透明人間の見えない手から逃げる先は、ひとつですよ」


 男は意味深な忠告をすると、青年の返事を待たずに背を向けた。


     *


イワリク殺害の依頼人が警察に逮捕された」


 台風十一号が若狭湾へと抜けて台風一過の晴天となったその日、723ナツミは陰鬱な表情で10008メンバーに告げた。


「なにそれ!?」


 ユウは思わず素っ頓狂な声を上げた。


「どうりで、今朝マンションを訪ねたときにいなかったわけだ」


 フウは腕組みをして唸る。


「今朝訪ねたってのは?」


 723が尋ねると、風雅が答えた。


877バナナから、依頼人が依頼料を支払ってくれないからちょっと取り立てに行ってきてって連絡がきたんだ。昨日は台風だったから行かなかったんだけど、今朝は事務所に来る前に四ツ坂レジデンスに寄ってみた。でも、インターホンを鳴らしたけど出なくて、部屋に侵入してみたけどいなかったんだ。駐輪場には依頼人の自転車が残っていて、近くのコンビニを見て回ってみたけど姿はなくて、夕方にでもまたマンションに行ってみるつもりだった」

「入れ違いになってしまったんだね」


 肩をすくめて877が残念そうに呟く。


「でも、逮捕ってどういうことだよ!」


 優雅が叫ぶと、723が手元のパソコンに視線を落としながら説明した。


「京都駅横の百貨店で万引きをして逮捕された。そのままパトカーに乗せられてシン署に連れて行かれた」

「……万引きで?」


 万引きは窃盗罪だが、現行犯逮捕されてもそのまま現場で釈放されることがほとんどだ。後日書類送検はされるが、身柄を拘束されることは少ない。

 依頼人に関してはこれまで万引きを繰り返しているようだが逮捕歴はないため、これまで万引きGメンに目を付けられていた可能性はあっても、初犯として手続きはされるはずだ。


「よほど高額な物を万引きしたとか?」

「高級ブランドの男性用香水をひとつ。金額は三万円ちょい」


 723は都警察のシステムにハチマンを通じてアクセスしていた。


「身柄拘束の理由は、四ツ坂マンション転落死事件に関してなんらかの情報を持っていると思われるため。あと、四ツ坂マンション転落死事件の犯人として逮捕されていたタカハシロウに関しては釈放される見通しらしい」

「マ、ジ、か!」


 大きく目を見開いて優雅が叫ぶ。


「昨日、四ツ坂レジデンスの防犯カメラにアイ探偵事務所の助手の姿が映っていて、依頼人と喋ってる様子があったから嫌な予感はしたんだけどさぁ」


 天井を仰いで723がぼやく。


「アイ探偵事務所の助手? あの新しく入ったゴリマッチョ?」


 優雅は眉間に皺を寄せて723に尋ねる。

 ハウスメイトであるカズの職場に新人が入ったことを、優雅と風雅は一哉から聞いて知っていた。依頼遂行後、四ツ坂レジデンス周辺の捜査をしている警察の動きは10008で逐一確認しており、アイ探偵事務所の新人助手がほんの半月前まで都警察の捜査本部で捜査をしていた刑事であることも調べ上げていた。

 バヤシミツル、という名の新人助手を優雅と風雅はゴリマッチョと呼んでいる。


「いや。東京支所の助手」

「東京支所?」


 優雅と風雅は顔を見合わせた。

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