伽羅

朝本箍

第1話

 祖父の代までこのあたりで「中川」と言えば、私の家を置いて他にはなかったと言う。地位、名誉、そして財産とおよそ人の羨むもの全てを相続した祖父はまた、それらを自分ひとりで消費するというありふれた偉業も達成した。

 原因は、その当時流行し始めた金魚である。お伽話や伝説に語られる人魚は海原を生きるモノらしいが、同じ様な見た目をしていながら金魚は淡水魚であり、なおかつ人の手によって生み出され、品種改良を重ねたモノだ。

 江戸の昔に大陸からやって来たとも、在来種から見つかったとも言われるそれの品評会が、中川の家には不幸としか言いようのないタイミングで金持ちの道楽として流行し始めた。祖父は金魚の品種改良に転がり込んできた全てを捧げたのである。

 金魚は人魚とは違い、話すことも、ましてや歌うこともない。発声器官は持っているらしいがそもそもこちらの言う事を理解しているのかも怪しい、というのが当時の定説だった。今では品種改良の結果、まるで鸚鵡のようにこちらの言葉を繰り返したり、歌を真似るモノもいるという。

 しかしそんなものは令和になってからようやく一部の品評会で出て来た、言わば突然変異に過ぎない。そんな金魚の価値はどこで決まるのか、と言えば他の魚類同様に「美しさ」に他ならない。天女のような上半身に、宝石を散りばめたかのような鱗。最上級の金魚はそう讃えられる。

 天女。そう、品評会に出るのはそもそもが雌のみだ。雄の金魚も次なる雌の為に繁殖用として様々に改良を重ねられているものの、その姿を見ることはほぼない。飼育用としても人気が高いのは雌なので、市場に出ることも稀だった。

 そんな、産まれながらに品評会への出品すら叶わない、価値のない雄の金魚が祖父から私への唯一の遺産だった。


「伽羅」


 私の声に、水槽から上半身を出していた伽羅は黒曜石よりも輝く黒い瞳をぼやり、こちらへ向けた。血管の青が映える首筋に張りついた緑の黒髪をかき上げ、ゆっくりとこちらへ手を伸ばしてくる。

 身体を反転させるのにも苦労する大きさの水槽で、それでも伽羅は生きていた。しかも皮肉なことに日に日にその美しさには磨きがかかっていく。特別な餌も設備もないまま、生きているだけでこの金魚は輝くのだった。

 女性的という訳でもない。細い身体には筋肉もあり、骨を感じさせる手のひらは大きいというのに、匂い立つような艶やかさをまとっている。美しいのは上半身だけではない。下半身の鱗も、まるで緋牡丹が咲き誇るが如き朱と白の文様で、欠けもない尾びれは琉金らしい薄衣のようだった。

 雌であれば。祖父は死の床でもそうこぼしていた。名前の伽羅は祖父が名付けたのだ。伽羅香よりも匂い立つ肌の、金魚。私の鼻までおかしくなったのかもしれない。塩素の香りに混じり、甘く辛く苦く酸っぱく塩辛い、例えようのないありもしない香りがまた鼻をくすぐる。


「今日は満月だってよ。見える?」


 水槽に近い窓を開ければ、何を見ているのかわからない目をそれでも向けて月を見る。月光を浴びる横顔は彫刻のようだ。

 部屋の半分を占める水槽、何を産み出す訳でもないこの世で最も美しい金魚。伽羅は子供も成せないらしい。祖父から引き継いだ時にそう聞いた。

 人の手で作り出された、不要な生き物。毎日信じられない勢いで回る電気と水道のメーター。私はお前と一緒に居る。お前に天寿を全うさせる。それが駄目なら一緒に終わろう。

 伽羅は三日月のような笑みを浮かべ、私の髪を撫でた。

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伽羅 朝本箍 @asamototaga

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