【3】残り香

「よお、久々に飯行かん?」

 無機質な文面とは対照的に、激しく波打つ鼓動を胸に感じながら、送信ボタンをタップする。現代技術の象徴とも言えるメッセージアプリ。人と人とのコミュニケーションをより円滑にしたとされるそれは、現代人にとって無くてはならない生活必需品となった。便利だ手軽だと持て囃されるそれに、人々は無思考に手を出し、信頼関係を構築する一助とするが、その裏で距離感を履き違えたすれ違いが生まれている事も揺るぎない事実である。文字に感情や色を乗せるのは容易なことではない。口から吐く言葉ですら難しい感情表現を、受け手の理解に丸投げするその手法は、手放しで肯定できるほど出来た代物ではないだろう。故に、今俺の心臓は脈打っているのだ。

「なんだかんだで卒業以来だよな。」

 すっかり汚部屋の様相を呈してきたアパートで1人、そんな独り言を溢す。大学に入学して1年、それはつまり高校を卒業して1年と同義だ。かつて築いた信頼関係が、そう簡単に揺らぐ物ではないと信じているが、それでも久方ぶりの連絡というのはどこか気恥ずかしく、緊張感が漂う物である。それをメッセージアプリの限られた文章に託さなければならないのだから気が気でない。


ピコン。


 メッセージアプリの着信音、ではなくゲームの起動音。宛先は元より返信が遅いタイプであり、即レスは無いだろう。ここに在らざる心をどうにか現世に繋ぎ止めるために、ゲームに没頭することとする。集中していれば気が紛れるという物。

「今日こそ目指せランク入り!」

 意気込んで始めたランクマッチ。その成績が散々であったことは言うまでも無いだろう。


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「いいよ~」

 そんな呑気な返信が帰ってきたのは、ランクマッチでぼろぼろにされ、不貞寝と称して昼寝をし、空腹を感じて目覚めた後の事だった。ひとまず、無視されるような気まずい展開に発展しなかったことが喜ばしい。

「いつ空いてる?俺来週末に実家帰る予定なんだけど」

「土曜は空いてる」

「じゃあ土曜、18時駅前で」

「はーい」

 1年振りとは思えないほど淡泊で、あっけらかんとしたやり取りが交わされる。以前と変わらぬそれが逆に、変わらぬ関係性の証明と言えるだろう。ホッと1つ、吐息を溢す。

「1年で人って変わるものなんかな。」

 ふと疑問が湧いた。久方振りの再会と呼ぶには少し大仰な、しかしながら近況を知っているとは到底言えない時間の経過。大変身する者もいれば、全く変わらない者もいる。そんな小さくて大きいこの期間を、彼女はどう過ごしてきたのだろう。その答えがたまらなく欲しい。この目で確かめずにはいられない。そんな想いを噛み締めての誘いは、実を結ぶことの無かった恋路の果て、その更に先なのだ。甘くて青い、春の残り香。

「服どうしよっかな。」

 時間が解決してくれる、とは出来の良い言葉だ。今の俺には、彼女に対して特別な感情は無いと思っているが、それでも少し見栄を張りたくなってしまう。これもきっと残り香のせい。バイト代を握りしめて、お洒落を求めて外に出た。


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 彼女との出会いは高校1年。初めて交わした言葉がどんなものだったかなんて、最早覚えていないけれど、入学から程なくして他愛もない会話を交わすようになり、親しくなるのに時間はかからなかった。いや、少しかっこつけすぎたかもしれない。ただシンプルに、笑いのツボやらなんやらが噛み合って、俺たちは仲良くなった。休み時間にはくだらないことで笑って、たまの休みの日に飯を食いに行った。日々休みなく、部活に追われる俺にとって、そんな一時が青春の1ページとして、この薄泥まみれの脳内に色濃く刻み込まれるくらいには、彼女との時間が楽しかったと自信を持って言える。ただ、決定打は打てなかった。部活の忙しさを言い訳にして、自分の気持ちに蓋をして、彼女との関係を決定づける一撃だけは放つことが出来なかった。彼女もそんな素振りは見せなかったし、俺のことなんか何とも思ってなかったのかもしれない。でもそれは理由にならないのだ。俺が、俺自身が、俺自身の心に蓋をした。彼女との間に結ばれた大切な何かが、自分の青春の大事な保険が、音を立てて崩れ落ちてしまう気がしたからだ。ひどく保身的で、ひどく傲慢で、ひどく情けない事だと今では思う。だから今日、この瞬間も、どんな顔をして彼女の前に立てば良いのかわからないのだ。その答えが見つからないまま1週間、今日を迎えてしまった。

「3番線、ドアが閉まります。ご注意下さい。」

 数ヶ月ぶりに降り立った地元の駅。慣れ親しんだ光景に、田舎の香りが鼻を突いて、ここで過ごした十数年という日々を想起させる。きっとこんな感慨に浸ってしまうのも、これから会う彼女のことを考えているからだ。彼女のせいだ。やけに重くなった足を引きずって改札へ向かう。

 改札の先に見慣れた影が見えた。否、見慣れた光が見えたと言った方が正しいか。白いロングコートに身を包み、魅入ってしまうほど艶やかで真っ直ぐな髪を肩で切り揃え、フランス人形のように白い肌を、整った小顔に納めたその存在は、誰が何と言おうが、この場で最も光り輝く存在だった。美しい、その言葉がよく似合う。そんな彼女だった。

「よ!」

 そう言った彼女と共にあるのは、1年前と変わらない華やかな笑顔だった。かつての俺をワンパンで惚れさせた笑顔だ。いや、少し盛った。ツーパン、あるいはスリーパンだったかも。俺もそんなに簡単じゃない。

「よお。」

 短くそう応じる。久しぶりの仰々しい挨拶など、互いに似合わないことを知っているからこそ、この適当な言葉の交換が違和感なく行われる。嗚呼、彼女は今も、紛れもなく彼女なのだ。

 1つ、強く風が吹いた。春を告げる風が、俺と彼女の間を吹いた。甘酸っぱさなど無く、どこか遠く懐かしい、かつてそこにあった春を思い起こさせる。残り香を運ぶ風だった。


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 高校時代の彼女はいわゆる『現場オタク』だった。推しのバンドやアイドルを見つけては、ライブハウスやらドーム公演やらに足を運んでいた。部活に所属していなかった彼女の休日は、バイトと現場に奔走する連続で、それなりに忙しい毎日を送っているようだった。

「次から次へとよく追いかけるよな。めちゃくちゃ忙しそうだし大変そう。」

 今では『A』の追っかけとして、立派なオタク街道を歩んでいる俺だが、高校時代はオタク文化と無縁の生活だった。そんな時、忙しなく動く彼女に対して、不躾に言ったことがある。それに怒るでもなく、笑うでもなく、自分に言い聞かせるように彼女は呟いた。

「私にとっては依代だから。」

 当時はピンと来なかったが、今なら理解できる。心の安寧、精神の依代。普段こぼせないような心の奥の奥の感情達は、発散される先を求めている。凡庸な人間の矮小な体では、それらの多くを抱え込んで生きることはできない。そんな凡人達は、心の支えを求めている。

「人間みんな依代を求めてるんだよ。」

 そう言った彼女の笑顔は、少し窮屈だった。


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 カランカラン


 「いらっしゃいませ〜2名様ですか?こちらのテーブル席へどうぞ〜。」

 駅から徒歩2分。ソフトクリームの看板が目印の喫茶店に俺と彼女は入った。高校時代、何度も通ったこの古い喫茶店は、地元の老舗という表現がよく似合う。白塗りのドアは少し錆ついて、ジャズ音楽流れる店内は、昭和と見紛う色合いの壁紙で包まれている。昭和生まれじゃないけど。

「アイスコーヒー2つで。」

「かしこまりました。」

 目の前のフランス人形が2人分のコーヒーを注文する。店員との会話のやり取りさえ、彼女にかかれば絵になる。

「調子どう?」

 俺に向き直った彼女が、笑いながらそう問いかける。その笑顔は苦笑いのそれに近く、言葉の端々から気まずさが感じられた。久し振りの対面、久し振りの会話。そこに僅かながらもむず痒さを覚えていたのは、彼女も同じだったらしい。

「会話下手かよ。」

 笑いながら応じる。それで十分だった。

 1年振りの再会、それぞれが知らない世界を歩いて、田舎の進学校から東京という世界を見た。華やかさと汚さが共存する異質な世界で、無色の若人が見た世界は、田舎で過ごした18年という月日を一瞬で掻き消すほどの衝撃と、より一層惹きつけられる輝きを持っている。その衝撃に気押されて、輝きに押しつぶされて、疲れ切った心で見つめるこの田舎は暖かかった。そしてその田舎で過ごした日々、失った青春の残り香を放つ俺と彼女の関係性、そのたった1つの保険が、縋り付くほどの呪いが、今もまだ変わらない事に心から安堵した。この少しぎこちない距離感が、俺と彼女の青春だった。

「コーヒーお待たせしました。」

 運ばれて来た苦い液体に口をつけて、久方振りの心地よい会話に心を落ち着ける。この1年のこと、あの青春の日々のこと、誰と誰が付き合っただとか、誰と誰が別れただとか、親がうるさいとかなんとか。紛れもない彼女との会話が、苦い液体以上に俺の体に染み渡った。

 やはりここが居場所なのかもしれない。日々部活の忙しさと厳しさに打ちのめされる俺の話を、彼女は一から百まで聞いてくれた。興味もないような彼女の推しの話を、俺は一から千まで聴き続けた。互いが互いの保険として、唯一無二であったことは間違いない。生身の彼女との一年振りのやり取りがそう実感させた。

「最近はライブとか行ってんの?」

 会話が一段落して適当に投げた質問。その問いに彼女は、思い出したような顔で答えた。

「うーん、そういえば最近行ってないかも。」

「ほえー」

 想像とは違う答えに、これまた適当に頷いてしまった。

「行かなくなったのはなんか理由あんの?昔は依代だからって言ってめっちゃ行ってたやん。」

 俺の言葉に彼女はどこか懐かしそうな目をした。そして口元に手を当てながら笑う。

「昔はそうだったね〜。でも今は他に依代があるから。」

 その言葉に、背筋を冷たい物が走るのを感じた。脳内に浮かんだ想像が、きっとそれをさせた。その可能性を考慮しながら、見ないフリをしてきた想像だった。聞きたくない。だが、その先を聞かずにはいられなかった。聞かずに生きることはきっと、生き殺しに値するから。

「他の依代ってのは?」

 足と指先の震えをきっと隠せていなかっただろう。でも彼女はそんな俺に気づいてなどいなかったはずだ。その目は対面の俺を、見てなどいなかったから。

「私彼氏できたんだよね、最近。」

 氷だけになったグラスのストローに口をつけて、ズルズルと大きな音を立てて、溶け出した水を飲み込んだ。その後に続いた彼女の言葉、そのほとんどがただの音声として、俺の脳内で処理された。


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 「今日はありがとう。また帰ってきたら言ってよ。」

 小さな手をヒラヒラと振りながら彼女が言った。やはりとても絵になる。

「おう、またおもろい話持ってくるわ。」

 今日一かもしれない笑顔を作って、そう答えた。自信満々と言わんばかりの俺の答えに、彼女は短く「期待してる」とだけ答えた。

「じゃあね」

「うい、おつかれ」

 あぁ、楽だ。楽な事この上ない。これ程までに、俺が俺であれる場所はないのかもしれないと思う。着飾る事なく、取り繕う事なく、俺を俺でいさせてくれるのは彼女だけなのではないか。青春の残り香に縋り付く俺には、今も彼女は変わらず依代だった。しかし、彼女は新たな依代を見つけたらしい。紛れもなく、心を預けられる依代を見つけたらしい。彼女は残り香に、縋ってなどいないようだ。

 1つ、強く風が吹いた。春を告げる風が、俺の横を吹いた。甘酸っぱさなど無く、どこか遠く懐かしい、かつてそこにあった春を思い起こさせる。その残り香を運ぶ風は、きっと俺の横だけを吹いている。

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