【2】森林

 俺は木になったのだろうか。はたまた公園に設置された遊具だろうか。あるいは奴隷か何かだろうか。悪意無く迫り来る強襲の数々が、我が身を蝕まんとするのを感じるほどに、無自覚がもたらす罪の重さを実感する。『話の通じない奴が最強』などという皮肉の効いた言葉が、世の中に存在することにも納得がいく。

「せぇんせえーーーーーー!だっこーーーー!」

 しかしながら、この罪人達が犯す罪の数々が、かわいいねの一言で無罪放免となってしまう事もまた事実であり、そんなちっぽけな存在に対して抱く尊びや情愛なんてものを、自分の過去の大罪と結びつけて考えた時には、そこはかとないむず痒さを覚えたりもする。この悪意無き罪を、罪と認識できるくらいには、俺も大人になったらしい。

「せぇんせいいいいいい!もう1回いいいいいい!」

「あーはいはい、ちょい待って。」

 『A』の渋谷初ワンマン。彼らが生み出す世界観に魅せられて以降、俺は完全にライブハウスの魔物に取り憑かれてしまった。新たなバンドを見つけてはライブハウスへと足を運ぶ。気に入ればリピーターとなり、ツアー日程に合わせて旅行を組む。親の仕送りで暮らす一人暮らしの大学生にとっては、破滅への一途を辿る金銭の浪費であり、高校時代からちまちまと積み重ねた貯金もあっという間に底をついた。

「バイトしよう。」

 遊ぶ友達もおらず、ライブだけが生きがいとなった大学生にとって、有り余る時間をつぎ込む先は、遠征のための資金稼ぎとなった。ちょうど教員免許を取るための教職課程も始まり、自身の将来に少しでも役立つ仕事を探した結果、学童施設でのアルバイトに辿り着いた。軽い面接の後、合格を言い渡され、悪意無きちびっこ達がよじ登る、木としての就職を果たしたのだった。お見事。

「先生わかんなーい。」

「はいはい、今行くよー。」

「『はい』は1回!」

「はい、ごめんなさい。」

 時として子供は手厳しい。宿題を教えているつもりが、人として大切なことを教わることもある。大人になってから忘れていた感覚を、子供達から感じることもある。どこで覚えたのかわからない言葉で、笑ってしまうほど驚かされることもある。

「先生、彼女いる?」

「先生、何歳?32とか?」

「先生、頭悪そうー!」

 子供は正直だ。遠慮や躊躇いという言葉を知らないから、常にど真ん中ストレートを投げてくる。それが妙に刺さる時もあるが、逆に遠慮や建前に溢れた大人の世界に身を置くと、この正直さが嬉しいと感じる事もある。不要な老害の邪推だが、この子達もいつか、挫折や理不尽というくだらない物を経験して、本音と建前を使い分ける日が来るのだろうかなんて想像する。綺麗な白い歯が覗く口元から、溜め息がこぼれる日がいつか来るのかもしれない。

「彼女は100人いるし、歳は800歳だし、テストは全部100点だったよ。」

「絶対うそだーーーーーー!」

 この子達が大人になっていくその過程を、成長などとは呼びたくない。過程を踏み潰して、邪念を取っ払って、挫折を鼻で笑えるようになったその結果を、成長と呼びたい。まだ遙か遠いその未来に対して、他人の子ではあるけれど、心からそう思う。だから今は、この子達が笑ってよじ登る木であろう。

「せんせえおんぶーーーー!」

「はいはい、おんぶねぇ~。」

「『はい』は1回!」

「すいません…。」

 無邪気に笑うその瞳と、無限の体力で動く元気な姿を見つめながら、この若葉を摘み取りたくはないと思う。若葉の成長を願う木として心の底から思うことを一つだけ、

(さすがに…、疲れた…。)

 バイト終わりの夜は、決まってすぐに寝落ちする。小さな体の大きな光を浴びながら、大人になりきれない木は光合成をし、木自身も少しずつその幹を太くする毎日を送っている。


**************************************


「今日のワークタイムは、みんなで将来の夢について考えます!」

 左手にプリント用紙を手にした施設長(通称ボス)が、並んで座る子供達にそう切り出した。俺が働く学童では、1時間毎に時間割が組まれている。学校から帰ってきた子供達は、まず用意されたおやつを食べて、その後宿題タイムとなる。ワークタイムとはその時間割の1つであり、いわゆるレクリエーションだ。毎日違うワークが用意され、参加する子供達はそれに取り組む。今日は将来の夢について考えるらしい。

「俺、宇宙飛行士になる!」

「私お嫁さ~ん。」

「YouTuber!!」

 配られたプリントを見つめながら、子供達が思い描くキラキラした将来を口にする。昔ながらの憧れから、今っぽい夢まで。若干のジェネレーションギャップを感じつつも、夢を語る瞳の輝きは、いつの時代もその人自身を輝かせる最高級の装飾品だなと思う。夢は持ち続ければ叶うのだと、そう言われた過去の自分もきっと、あんな瞳をしていたのだと思う。プロ野球選手になりたいと、そう言っていた事を確かに覚えている。

「先生の将来の夢は?」

 ぼんやりと過去に浸っていたら、脇腹をつつきながら質問された。2年生のゆきちゃんだ。丸顔に丸い瞳が可愛らしい、いつもはポニーテールの黒髪を、今日は三つ編みにしている。早起きしたらママがやってくれたそうだ。

「先生はー、今特に夢ないかなぁ。」

「ずっと無いの?」

「昔はあったけどね、大人になると段々なくなっていくんだよ。」

「ふーん、そうなんだ。」

 ゆきちゃんはなんとなくつまらなそうな顔をした。会話としても、教育者としても、今の答えは不適切だった気がする。投げやりに答えてしまった自分を恥じた。夢の形がおぼろげになってから、現実が夢物語ではないのだと知ってから、自分の理想を口にすることが明らかに減った。言葉にすることが恥ずかしくなり、理想を求めることをやめた。そうしていつの日からか、自分がどうしたいのか、理想とはなんだったのか、そんな自分の求める物すらわからない日々を過ごすこととなった。

「先生このハンカチ見て~。」

「え、かわいいね。ママに買ってもらったの?」

「ちがーう、サンタさんがくれたー。」

 ハンカチを顔の横に近づけて、可愛く笑ってみせるゆきちゃんを見て、自分にはいつまでサンタさんがいただろうと思い返す。あれはきっと、現実を知って夢を見失ったあの日々と、そう遠くない出来事だった気がする。であれば、子供にとってサンタさんは、夢を運ぶ人だと思う。この子達はいつまで、サンタさんを信じることができるだろう。この子達はいつまで、夢を信じることができるだろう。

「ゆきちゃんの夢はなあに?」

「私はねー、先生になる!みんなに勉強教えるの!」

「そっか!ゆきちゃんいつもみんなに教えてくれてるもんね、絶対なれるよ。」

 プリントに丁寧に書かれた綺麗な字を見せながら、ゆきちゃんが笑う。数十年後、教壇に立ち、同じ笑顔を見せる人になって欲しいと願った。


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「ボスって子供の頃の夢とかありました?」

 午後8時過ぎ、子供達が全員帰った校舎で、ボスと2人掃除をしながらふと疑問に思ったことを口にする。大人の世界は複雑だから、どこまで踏み込んだ質問をしていいのかわからない。俺がボスについて知っているのは40半ばくらいの女性であること、俺と地元が近いこと、20年近く務めた会社を数年前に退職し、この学童に転職してきたこと、その程度だ。

「そんな大昔のこと忘れた。」

 ボスは笑いながら口だけで答えた。視線と手付きは作業から離れない。日々保護者との営業面談をこなすボスにとって、作業しながらの雑談など朝飯前なのだろう。こうして話す時はいつも作業中だが、こちらの話をしっかりと聞いてくれている。

「前の会社、何で辞めたんでしたっけ。」

「ブラックだったからねぇ〜。終電なくなってタクシーで帰ってたよ。」

 何の気無しに聞いた質問への回答が、余りにもヘビーでびびる。何よりボスが口調も表情も崩さず、笑いながら話すことが1番怖い。

「よく続きましたね、そんな環境で。」

「仕事自体は楽しかったからね。それがキツイって人には無理だろうけど。」

 懐かしさを滲ませながらボスが笑う。楽しいという言葉の裏にある感情は、決してお気楽な物ではないだろう。日々の理不尽に耐えながら、日常という名の空虚に時間と身を投じながら、変わらぬ1日に多少の変化を付けるための試行錯誤、あるいは理不尽がもたらす変化に立ち向かう試行錯誤。そんな試行錯誤の積み重ねを意味する楽しさ。仕事に生きる人間というのは、こうした試行錯誤の魔物に取り憑かれた人のことを指す。端から見れば苦しみに生きるような彼らにとって、それが最良の幸せであったりする。大学生がアルコール片手に花を咲かせる色恋話の楽しさとは、そもそもお話が違うのである。

「僕には真似できないですね。」

「私ももうしないけどね。」

 時計の秒針が軽快なリズムを刻む。数時間前まで夢溢れる若葉達で溢れ返っていた校舎に、暗闇と静寂がすれ違うように入ってくる。輝きや希望に満ちていたはずの空間がいつの間にか、寂しさと心細さを助長する空間へと変貌する。俺の夢や希望は、いつ俺の中から出ていったのだろう。気づけば中身の無い空っぽな、人の形をした何かだけが残っていた。手元を探しても、周囲を見渡しても、暗闇が落ちているだけだ。歩く先が見えない。しかし人生はあまりにも非情で、刻むリズムを緩めてはくれないし、留まることを許してはくれない。それはあまりにも、あまりにも苦しい。

「なんで、ここに転職決めたんですか?」

「うーん、なんとなく?」

「そんな雑なんですか…。」

「民間なんてなんとなくだよ。」

 ボスの人生は楽しそうだ。仕事中、口を開けば「帰りてぇ…。」と言う。帰って何をするのか聞けば、「ひたすらゲームをしているだけ」と言う。子供が好きで転職したんですかと問えば、「私子供嫌いだよ。うるさいから。」と言う。人に何も期待せず、日々に何も期待せず、人生に何も期待しないような、そんな無気力で無意志な生き方をしている様に見えるボスの人生。夢やら希望やら、輝きやら生きがいやら、そんな幻想に唾を吐きかけるように生きるボスの人生は、なぜかとても楽しそうだった。であれば逆に問いたい。なぜ人は夢を持てと言うのだろう。今日、この場所で、我々はなぜ子供達に夢を描かせたのだろう。雨の日の窓ガラスに描く落書きのような、いつかは消えてしまう見せかけの芸術を、子供達に定められた真実かのように描かせてしまった気がする。それが大人として、責務の放棄に当たるのではないかと思ってしまう。しかしながら、じゃあ夢なんか見るなと伝えるのかと問われれば、それは絶対に違うのだとも思う。

「もう上がって良いよ~。」

「はい、お先に失礼します。」

 悶々とした思いを抱えながらの作業にはミスが目立った。ボスに一礼して退勤する。冬の夜空に白い息が昇って、1秒後には闇へと消える。今日は月と星が綺麗だ。ぼんやりとそれを眺めながら、サンタさんが飛んではいないだろうかと探してみる。夢と幻想を、真実だと証明してくれるような、そんなサンタさんを探している。

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