【1】遊ぶ約束

 「また!一緒に遊ぼうね!」

 その言葉に、俺は静かに首を縦に振った。それが見えたのか、見えていないのか、俺にはわからなかった。でも、それは俺の心の中で、確かな形をした約束になって、またここで、この場所で遊ぶのだと、固く心に誓った。


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 真っ白で綺麗だった一人暮らしのアパートは、数週間としないうちに物で溢れた。物が増えたわけではない。散らかしたと表現する方が正しいだろう。元々片付けが苦手な性分であり、実家の自室も足の踏み場がない。親が介入しない一人暮らしで部屋を綺麗に保つことなどできるはずもなく、気づけばフローリングは見えなくなっていた。取り込んだだけで積み上がった洗濯物、シンクに浸されただけの食器、出しっぱなしの小説と漫画。洗濯と自炊をしているだけマシだと考えるべきだろうか。床に物を置くなと、そう言ってくれる母もここにはいない。

「まぁどうせ俺しか見ないしいいや。」

 大学生活が始まって数週間。顔を合わせれば話すような、いわゆる『よっ友』は何人かできたが、家に遊びに来るような友達はいない。メッセージアプリの履歴は、課題や提出物の話で埋まった。桜散る公園で、新入生歓迎会と称して酒を飲み、お花見に興じるサークル員達を横目に、家と教場の1人シャトルラン。

「よいしょ。」

 よいしょと言ってベッドに寝っ転がるくらいだから、もう歳かもしれない。きらきらした大学生とは無縁の生活。別にきらきらした生活に特別な憧れはなかったが、人並みにすらなれていない気がして、寂しさが募る。寂しさを紛らわすために、携帯から流れ出る音楽だけが唯一無二の友達。

 持論だが、音楽には思い出を補完する力があると思う。元カノの好きだった歌を未だに覚えている自分に気持ち悪さを覚えたり、友達大勢とカラオケで熱唱した曲に懐かしさを覚えたり、思い出の隣にある感情を蘇らせる力が音楽にはある。

 ミュージックアプリを開いて、とあるバンドのプレイリストを再生する。受験期に支えてもらったバンド。深夜に机に向かう自分を励ましてくれた、合否の不安に震える自分の隣にいてくれた、つらくても歩く力をくれた、まだまだ駆け出しのインディーズバンド『A』。今度渋谷で初めてのワンマンライブを開催するらしい。

「せっかくだし行くか。」

 ライブハウスなんて行ったことのなかった田舎者だけど、あの声を、あの音楽を、生で聴きたい。その一心でチケットを取った。購入完了の画面を見て携帯を投げ捨て、勢いよく起き上がって夕飯の仕度を始める。台所へと向かう両足が生み出す出鱈目なステップは、『A』の人気曲のリズムを刻んでいた。


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 希望と不安は仲の良い友達だと思う。あるいは、挑戦と不安が仲の良い友達なのだ。いつだって彼らは一緒にやってくる。彼らのたちの悪さは一級品で、一緒にやってくるくせに別々の主張をして、我々を大いに困らせてくれる。そんな彼らが本日もまた、大きなイベントと共に俺の所にやってきた。おはよう。今日もよろしく。

「次は~渋谷。渋谷。お出口は右側です。」

 渋谷のスクランブル交差点と言えば、東京を象徴する都会の顔であり、地方出身の田舎者にとっては憧れの場所である。スーツに身を包んだサラリーマン、お洒落に着飾った若い女性、強面なキャッチのお兄さん、カメラ片手に写真を撮る外国人旅行者など、100人抽出しても特徴が被らないような、人の色が数多交差する東京の中心。さすがは交差点と言ったところだ。そんな人の海をかき分けて、俺はセンター街を進む。目的地はライブハウス。コンビニで発行したチケットを片手に、もう片方の手にスマホを抱えながら、我が物顔で闊歩する。もちろん虚勢だ、希望と不安を両肩に背負っている。ライブハウスへの参戦は人生初めてだから、楽しさや嬉しさとは裏腹に、1人であることの不安や心配も多い。「わからない」ということが一番恐ろしいのではないかと、最近よく思う。

 数分で目的地へ辿り着いた。センター街から少し外れて、坂を上った先。外には既にバンドTシャツを着たファンと思しき人達がいた。話しかける勇気は無くて、その場でどぎまぎする。やがて係員の誘導が始まって、開場時間ぴったりに入場が始まった。大きな荷物はクロークに預けるだとか、整理番号順に呼ばれて入場するだとか、ドリンクチケットを中で交換してもらうだとか。そんなライブハウスの常識も知らなくて困惑したが、それも込みで初めての体験。海外に来たような楽しさがあった。海外行ったことないけど。

 ライブハウス内は想像よりずっと広かった。最大収容800人のキャパ。スタンディングだから周囲との距離感は多少近いけれど、全員が同じ目的、『A』を目指してやってきていると考えれば悪い気はしない。黒いバンドTシャツに身を包み、最新グッズの赤いタオルを首に掛けて、今か今かと開演を待つその瞳には、『A』に対する羨望、憧れ、期待、好意、人それぞれ様々でありながら、それでも間違いなく肯定的だとわかる感情が渦巻いている。きっと俺の瞳にも似たような光が宿り、彼らに見られているのだろう。入場が進み、フロアが人で埋め尽くされていくのに従って、会場のボルテージも格段に上がっていくのを感じる。

「みぃんなぁ~、きょうはたのしみにしてきてくれたかなぁ~?」

 開演時間直前。そんな間の抜けた声がスピーカーから響く。『A』のドラムがおどけながら上演中の注意点について解説を始めた。『A』のライブではドラムによる注意点説明、この一種の前座が定例となっているらしく、フロアもノリノリで笑っていた。

 笑いで会場が暖まって数瞬、一転して空気が変わるのを感じた。静かに流れていた会場BGMは激しさを増し、爆発音の如く鼓膜にその存在を主張してくる。湧き出るスモークがミステリアスを演出し、照射されるレーザーは瞬く間にフロアを駆け抜けて、生み出される光の交差が見る者を別世界へと誘う。扉を開いたと言うべきか、あるいは足を踏み入れたと言うべきか。この場にいるということ、『A』のライブに来たということ、その事実がフロアの人間が現実世界にあることを許さない。今日、今この瞬間だけは、『A』の世界の住人とならなければならない。本能的にそう感じさせるような圧倒的な演出。そしてそのスモークの中から、光を縫って『A』のメンバーが登場する。フロアは既に現実世界にない。圧倒的な世界から現われた『A』のメンバーに釘付けとなり、その存在を喰らわんとする程の熱量で彼らを出迎えた。ボーカルがマイクを握る。

「覚悟は良いか渋谷?『A』と申します、よろしく。」

 ドラムの序奏で始まる一曲目。テンポの良いナンバーはフロアと現実を完全に断ち切る無二の一刀となり、「俺たちを見ろ」と、そう主張する『A』の叫びのような鋭さがあった。その一刀を前に、1人でこの場に来た不安など拭い去られ、俺も『A』の世界へと引きずり込まれる。休む暇など無く2曲目3曲目、もうこの世界は留まる所を知らない。『A』とフロアが生み出す唯一無二の世界は、過ぎ行く時間や存在する空間という概念すら取り払って、ただ今を、この瞬間を、互いが互いをぶつけるためだけに生まれ続ける。その尊さが、気持ちよさが、美しさが、この世界に身を置く人間を虜にして離さないのだ。なんともズルく、許しがたい世界であり、だからこそ唯一無二の世界となる。今宵、想いに身を任せて、世界に身を投げて、全身全霊で今にぶつかる。そんなライブハウスの洗礼を、俺は確かに浴びたのだった。


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 「みんな今日はさ、どこから来たの?」

 ボーカルが、ニコニコと優しい笑顔を湛えながらMCを始める。先程までの、圧倒的カリスマ性を感じさせる鋭い視線とは打って変わって、女性らしさが全面に溢れる可愛らしい笑顔だ。クールに戦う表情を見て、魂の籠った歌声を聞いたあとだから、その温度差で少し風邪をひきそうになる。ステージでは颯爽と舞い、新世界を生み出し、人を惹き付ける神のような彼女も、ステージを降りれば1人の女の子であり、喜んで、怒って、泣いて、笑う、普通の人間なのだろうと、そんな邪推をしてしまった。でもそれは決して悪いことではない。むしろ、そんな普通の人間が、普通ではない程にステージで輝くからこそ、人は彼女に夢を見るのだと思う。世間に数多存在し『ファン』と呼ばれる厄介な存在が、『推し』の人間的な部分を知りたいと願うのは、こういった夢を見たい心理があるからだと思う。

「みんな遠いとこありがと~。私はね~お家から来た~。」

 千葉だとか大阪だとか、フロアから声が飛ぶ中で、そんな軽口で会場に笑いをもたらす。こんな些細なコミュニケーションが、ファンにとっては何より嬉しかったりする。その喜びを、同じく『A』のメンバーも喜びとして分かち合ってくれることも肌で感じられ、改めてこの世界は幸せに満ちていると思う。

「私ね、歌うのが好きなの。好きで好きで仕方なくて。どんな時だってこうして歌っていたいって思ってる。」

 ボーカルはそう言って今日一番の笑顔を見せた。綺麗に並んだ真っ白い歯。その笑顔が少しだけ歪んで、苦笑いになって、言葉が続く。大切な物を壊してしまったような、取り戻せない物を失ってしまったような、そんな顔で、

「私どうしようもない人間だからさ、歌ぐらいしかできることなくて、1人でいると気持ちが落ち込んじゃうの。しょうもない人間だなって。私なんかいらないかもなって。いっそこのまま消えちゃおうかなって。思っちゃうんだ。でもね、ステージでは、ライブハウスでは、みんなに私の歌を、『A』の音楽を聴いてもらえるこの場所では、私は私を好きでいられる。ひどいこと言われても、悔しい思いをしても、知らない誰かにバカにされても、今こうして、私を好きな私が、私達のことを大好きだと言ってくれるみんなと、バカみたいにはしゃげる瞬間が、私は好き。」

 苦笑いに自信が宿った。悔しさを噛み殺して、孤独を踏み潰して、強くあろうとする、ありたいと願う、そんな姿勢がはっきりと見える。

「だから私は今ここで、はっきりと言います。みんなのことが大好きです。私達のことを大好きだと言ってくれる、そんなあなたが大好きです。」

 告白だ。全てを曝け出すという意味での告白だ。全てを曝け出した上で、自分と、自分を大切にしてくれる人を愛することを誓う。そんな告白だ。

「毎日生きてたら悔しいこと辛いことたくさんあるじゃん?なんだコイツって、腹立つことあるじゃん?どうしようもない失敗して、自分ダメだなって思う時あるじゃん?見返してやろうって、そう思う時もあれば、そんな気持ちにもなれない時だってあるじゃん?でも忘れないで。どんな時でも私は応援します。どんな時でも私達はこの場所にいます。どんな時でも、今日を生きるあなたの味方です。だから精一杯生きて、元気な顔でも、元気じゃない顔でも、またこの場所に来て下さい。今日はありがとうございました。」

 ボーカルが深く一礼する。『A』のメンバーも頭を下げる。そんな誠心誠意に、フロアは拍手を以て答える。それが告白に対する、受け取る者の誠心誠意だった。顔を上げたボーカルは、またニコニコとした優しい笑顔を浮かべていた。今日これまでの時間が、これからの時間も、楽しくて仕方ないという笑顔。フロア全体を見渡しながら、大きく息を吸い込んでボーカルが叫ぶ。

「また!一緒に遊ぼうね!」

 その言葉に、俺は静かに首を縦に振った。それが見えたのか、見えていないのか、俺にはわからなかった。でも、それは俺の心の中で、確かな形をした約束になって、またここで、この場所で遊ぶのだと、固く心に誓った。

「ラスト一曲!ついてくる準備はできてるかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 鳴り出したドラム音がライブハウスを揺らして、ベースの重音が聴く者の心を世界の深みへと再び引きずり込む。軽快なバイオリンと飛び跳ねるキーボードが、苦しみなんて笑い飛ばせと語りかける。俺を見ろと叫ぶギターに導かれて、俺達の歌姫が最後の世界を作り出す。フロアの生み出す手拍子も、楽器の1つと呼ぶべきか。世界の住人全員で生み出した世界観。ラストと叫んで生み出されるこの世界が、この場所に戻ってくることを約束する証となる。持論だが、音楽にはきっと、思い出を補完する力があると思う。

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