『生きる』を探す

織園ケント

【プロローグ】プロローグであれ

 いつからだろう。『夢』を言葉にできなくなったのは。ただひたすらに、憧れのままに、目を輝かせながら呟いた『夢』を、持ち続ければ叶うと大人達は言った。ただ遠く遠く、そこにあると信じて疑わなかった蜃気楼のように、脳内に描き続けた幻想は、人生という名の大地を踏み続けるうちに、少しずつ、でも確かに消えていった。憧れの形は徐々におぼろげに。『夢』を見ろと言った大人は現実を見ろと言った。『夢』を見るしか知らなかった世間知らずの若輩者には、現実を見る方法なんてわからなかった。


**************************************


「将来何がしたい?」

 西日が差す教室に、そんな一言が落ちた。放課後の校舎には力など無く、昼間の喧騒が嘘のように、ただひたすらに空気を抱く。か弱い様相を呈し、その表情を橙色に染め上げる。ちょうど中庭の大木が色付く季節、散りゆく枯れ葉と夕日のコントラストに、「エモい」などと安っぽい感想をこぼす奴もいる。この薄汚れた校舎の、ひびの入った教室に、そんな感慨を抱く奴の気が知れないと思いながら、俺は対面にどっかりと座る男、件の発言を放った担任教師へと目を向ける。使い古された椅子がギコギコと奇怪な音を立ててぐらつく。座りづらい。

「将来・・・あんまり考えたことないです。でも教員免許は取ろうと思ってます。」

 空っぽな脳内から言葉を拾って溢す。正確に言えば、空っぽなのは脳内ではなく本心で、拾ったのは言葉ではなく言い訳だ。思いや願いなんてものは一切籠もらない、この場を凌ぐための使い捨てのカード。ホームルームで担任が話す身の上話のような、明日には忘れてしまうつまらない代物である。

「教員になるつもりなら教育学部の方が良いんじゃないか?他学部だと余分な授業を取らなければいけなくて大変だぞ。」

 担任としては当然の帰着であり、至極合理的な提案であると思う。理屈的には何も間違っていない。でも違うのだ。18歳の若造は、自身で合理的な判断が出来るほど磨かれた感性や経験を持ち合わせているわけではないし、人として成熟しているわけでもない。でも違う、そうじゃないと、一丁前に否定する感情だけは持ち合わせていた。だから担任のその提案が、違うのだということだけははっきりと言えた。

「将来自分がどうなりたいのか、高校生の自分では視野が狭すぎると思っています。大学で色々な経験をして考えたいと思っています。なので、自分の選択肢を狭める道は選びたくありません。でも、教員は1つの道になると思うので、その道だけは確保しようと思っています。」

 夢を語るのは簡単だった。理想を描けば希望が持てた。ただ、現実が夢物語ではないのだと、そんな寂しく虚しい感覚だけは、自分の道の歩き方さえ知らない18歳でも抱いてしまったのだ。現実の歩き方を知らないまま、現実を生きる術を探すには、時間が必要だった。そんな時間が欲しくて、今日より明日、ちょっとだけ大人になる時間が欲しくて、大学に進学する。18歳の大学進学理由はそんなものだった。周りの大人がどう思っているかなんて知らないけど、俺にはそれで十分だった。高校までの部活の疲れもあったのだと思う。遊びたかった。世界をこの目で見てみたかった。

「まぁわかった、とりあえずあと数ヶ月勉強頑張れ。」

 そう担任が締めくくって、進路面談は終了した。たかが数十分、それでも脳内はショートするほど疲弊し、今日はもう勉強の気力は起きない気がした。重い肩を背負って駐輪場へ向かう。コンビニで炭酸でも買って帰ろう。昇降口を出ると外はもう暗かった。冬の足音が聞こえる季節、コートを着ても少しだけ肌寒い。街灯が少しずつ照らす通学路、先が見えない暗闇に、少しだけ浮かぶ輝きが、俺のリアルな人生を暗示しているように見えて、足がすくんでしまった。


**************************************


 中学校では生徒会長、高校は地元の進学校、大学では教員を目指して勉強する。字面だけ見れば大変立派で、志の高い優秀な子供であっただろう。少なくとも同年代にはそう見えたらしい。

「お前ならできるでしょ」

「さすがじゃん」

 一見、賞賛に聞こえるようなそんなセリフをたくさん受けた。でも嬉しくなどなかった。その賞賛は自分に向けられているようで向けられていない。ありきたりなセリフであるのだと、わかっていたからだ。彼らが褒めたのは俺の肩書きであり、俺が生み出した結果である。崇高な目的など無ければ、並外れた努力を続ける胆力も無い。人よりも少しだけ勤勉さが評価されて、人よりも少しだけ学力に恵まれて、少しだけ目に見える結果が生まれただけの、普通の人間だ。特別な物など持っていない。特別な物など持っていないと、より高いレベルを歩もうとする度に思い知らされた。努力に追われ、後悔を積み重ね、苦悶に頭を悩ませた日々が、数え切れないほどある。そんな日々の中で、自分がどうしようもない人間だと、ある種の無能であるのだと気づいてしまう時があるのだ。それでも、この人生という大地を踏み続けなければならない日々を生きる。泥だらけの体で、来て欲しくない明日のために眠る。それができる自分が好きだった。そんな過程が好きだった。だから、安っぽい結果なんてどうでもいい。肩書きや結果に対する賞賛に対して、無色で無数の「ありがとう」だけが積み重なった。

「俺は将来何がしたいのだろう。」

 ふと、そんな思考が脳内を過る。夢を見たあの日とは明らかに違う。何者でもないと知ってしまった今、自分は将来何がしたいのだろう。夢らしい夢などなく、この先俺はなんとなく生きるのだろうか。そんな思考の果てで、もうすぐ迎える大学生活が、自分の将来を明るく照らしてくれるものであってくれと願う。多くの人に触れて、多くの感性を知って、多くの世界を見る。その先で自分の将来を探したい。

 最終的に受験は及第点といった所で落ち着き、都内私立大学の文学部に決まった。憧れの1つだった東京一人暮らし。綺麗な真っ白い壁の、物1つ無いアパートで、明るい未来を望む希望と先行きを案ずる不安と同居しながら願う。大学生活よ、人生という名の大地を歩く、俺にとってのプロローグであれ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る