憎恨
あなたは笑わない。
それは何故なのかとても気になっていた。あなたはとても冷めた目をしているように見えた。勿論感情はあるのだと思うし、垣間見える時はある。でも瞳の奥底はいつも氷柱のように冷たかった。そんなあなたの目を輝かせた人は誰なのかとても気になっていた。
最近のあなたは前と大きく変わらない。日常が数週間前に戻った感覚だった。勿論日常的に行われるものは変わらなかった。しかしながら私の目線には別物に見えた。
あなたが何をしたのか。誰と出会ったのか。そんなのはどうでもいい。でも私が悲しいのはあなたの目の輝きが消えてしまった事だった。
そして時折あなたは悲しい顔をする。私の目に映るあなたは常に何かに絶望した顔だった。何か冷めた顔だった。無関心に近いもの。でもまた別のもの、何にしろとにかく悲しい顔はしたことは無いように見えた。でも最近のあなたはずっと悲しい顔をしている。いや、ずっとではない。高頻度で、高頻度であなたは悲しそうな顔をしている。
冷めきった顔を見るのが好きという訳では決してないが、それがあなたならそれはひとつの形であると言えた。なぜならあなたは少なくとも私が初めて見た時からそんな顔をしていたから。それがあなたの形ならそれで別に構わなかった。でも悲しい顔をしているあなたはとても苦しそうに見えた。私は何も出来ない。所詮はただの使用人に過ぎない。それを逸脱してはならない。そこに純愛があるとしても、それは話してはならない。
「ぬるめのカフェラテをひとつ頼んでもいいかな。」
「畏まりました。」
あなたは猫舌だ。しかしながら私はそれを知っている。知った上であなたの下で数年使用人として働いていた。もう私があなたは猫舌で熱い飲み物は飲めないくらい知っているそれなのにあなたは毎回私に【ぬるめの】という形容詞を付けて注文をする。
それは私に何かを伝えたいのか。否、私の考えすぎか。
いつもぬるめと言っているのに熱めのものが渡されることに対する憤り。
私の能力を【毎回言わないと分からない程低い】と評価し、手間をかけて言っている。
そして本当はこのぬるめという言葉には私の想像する温度という概念ではなく別の何らかのメッセージが込められている。
いや、それは無いだろう。考えすぎだ。
きっとあなたはただ親切なだけなのだろう。私が弄れた解釈をしているだけなのだろう。きっと。きっとそうだ。
「カフェラテでございます。」
「ありがとう。
そうだ、君はカフェオレとカフェラテの違いを知っているかい?」
あなたが何らかの疑問を投げかける時、それは大体二パターンに分けられる。
私に対して得た知識を披露したい時、またはふと気になったことを聞きたい時。
私はこの疑問の答えを知らなかった。あなたがカフェオレを頼むことは基本的にない。故にカフェラテしか作ったことの無い私はカフェオレとカフェラテを比較する上での情報を保持していない。
即ち仮に後者を想定してあなたが私にこの質問を投げかけているとしても私は答えることは出来ない。私は正真正銘の賭けをするしか選択肢は無いわけで。
即ち前者であるという仮定の下で今動くしかないのだ。あなたは基本的に通信機器を部屋に持ち込まない。理由はよく「様々なことに対する集中が阻害されるから。」と言っていた。即ち調べるということは出来ない。そして勤務中である私も通信機器やインターネット接続をできる何かを持っていない。即ち私も調べるということは出来ない。
「申し訳ありません。分かりません」
「うん。きっと知っている人は少ないと思う。だから知らないことを負い目に感じないでいい。」
「私がこれを負い目に?」
「悔しそうな表情をしている。君はポーカーフェイスが上手では無いんだね。」
悔しそうな顔。私はポケットから咄嗟に手鏡を取り出した。そうなのだろうか。いつも通りの顔に見えた。
でもきっとこれはあなたが同じように自分の顔を見ても同じなんでしょう。
私があなたに悲しそうな顔をしていると言っても、あなたはきっと無自覚なんでしょう。でも、きっと悲しいことがあったんでしょう。そしてあなたはその悲しいことを墓場まで持っていくつもりなんでしょう。
私は知識が不足している自分に少し悔しさを感じています。
ぬるめのカフェラテはとても美味しいものだった。どんな時でも僕の癒しになってくれた。
あの人が死んでから数日経った。時間というのはある程度全ての問題を解決する素晴らしいものであり、ある程度全てに含まれない問題を深刻化させる困ったものだ。
僕はあの人が去ったことを悲しむ気持ちが薄れつつある事に気づいていた。それはいい事だと思った。あの人の立場からしても名前も知らないただの小金持ちに悲しまれ続けるのも苦しいものがあると思うから。
しかしながら喪失感というものが生み出した新しい感情は日に日に増大して行った。それは所謂寂しさというものだ。
僕は毎日あの人の所に通いみかんを食し談笑した。その数週間だけ存在した日常がないことを寂しく感じていた。夜中に美味しいものを片手に談笑する相手は僕にはいなかった。よって寂しさが埋まることは決してなかった。そのような気持ちは日に日に深刻化していくものだった。
僕の使用人はきっととても優秀な使用人なんだろう。感情を絶対に声に出さない。それはとても役柄に忠実でいる。顔にはよく出てくる。でもその方が人間らしくて僕は好きだ。それに僕は決して何も話さないことを望んでいる訳では無い。彼女はただ自分の使用人というものに対するイメージ 役柄に対して忠実にいるだけであって僕が何も希望を発信しないからそのままにしているだけなんだろう。
僕はきっと仲のいい友達が欲しいのだろう。仲良く談笑したり仲良く軽食を食べたり娯楽を楽しんだり。そんな友達がきっと欲しいんだろう。そして僕の中であの人はそういう存在になり得たのだろうと思った。だからきっと寂しいのだろう。
私はある人をある程度恨んでいる。
しかしアクションのしようがない。そしてそのアクションは誰も必要としていない。私は自己満足のためにアクションしていい立場では少なくともない。
これ即ち私はこれ以上の情報を得ない方が精神衛生上健康と言える。情報は行動を引き出す。
しかしながら人間というのはそれなりに欲があるもので、私はその人を知りたいと思った。知ることが出来るか否かに興味はない。私はただ知りたいと思うだけだ。その欲に従う従わないという決定に対してできる限り私情は絡めるべきでは無い。
その人はよくみかんを運んでいた。自転車で運ばれるその箱はそれなりに危なっかしく見えた。しかしながらその人は慎重だった。その箱を丁寧に扱った。私には理解できない領域であったが、あなたはよくそんな人を見ていた。
その人と関わるようになって、あなたはよく目に光が宿るようになった。その人が死んで、彼は悲しそうな表情をよくするようになった。
故に私はその人を恨んでいる。
恨んでいるのを顔に出さないようにしないといけない。あなたにはまだ見通されたくない。
あなたは久しぶりに小難しい表情をしていた。きっとそんな顔をしている自覚はあなたにはないんだろう。
死生観というのはとても人間が映るものだと僕は評価している。
死生観というものをそもそも持っていない人物もきっといるだろう。そんな人はある種健康なんだろう。そしてある種不健康なんだろう。これは矛盾ではなく見方の違いに過ぎない。
あの人と一度死生観について話し合ったことがある。特に理由はない。死へのカウントダウンを続ける人間とする会話としては自然なものな気もする。
しかしながらあの人は特にそのようなものを持っていなかった。人間とは案外そんなものなのかもしれないと思った。
僕はあの人に死と生は非対義語だと言った。非対義語というのはあくまで対義していないというだけで同義と言ってるわけでは決してない。即ち非対義語とは非同義語であるという意味でもある。ある言葉に対して他の言葉という全体集合の中に対義語と同義語とその言葉に関係の無いものという部分集合があり、対義語でなく、同義語でない即ちその言葉に関係の無いものとして評価しているということだ。
何故なら死の対義語は誕生だと思うからだ。死なないというのは生きることだ。という意見には勿論ぐうの音も出ない。しかし論点はそこにないと思った。僕は死という単語の意味を命を失うとして解釈し、誕生を命を得るとして解釈した。失うと得るは対義語であると考えた。故に死と生は対義的ではなく同義的な関係でも無いと考えるのだ。
この結果はきっとこういうことなのだ。
あの人は生きることではなく。生まれた事を拒絶するために死んだのではないか。と考えた。何故なら死と生を対義的に考えた時、人は基本的に生を望んでしまうからだ。お腹が空いたらご飯を食べる。喉が渇いたら飲み物を飲む。それは結果的に人が生命活動を維持するためだ。本能的に動物は生を維持するように動いてしまう。
あの人の遺書は不思議だった。あの人は死ぬために生きていた。この世に死ぬ方法というのはとても沢山あるだろう。数えられない程。少なくとも僕が思いつく中であの人は一番回りくどい死に方をした。そしてその死を遂げるためにその時まで生きた。あの人は死を逃げではなくゴールにした。ゴールを新しく作ったのではない。あの人のゴールはゴールが見えた時からずっと死だった。そんなもの。誕生に対する冒涜でしかない。
いや、きっとこれは僕の勝手な理想論なのだろう。人のゴールは常に死である。何故なら死は避けられないようにできているからだ。即ちあの人は決して異質なものだったりする訳では無いのだ。摂理に伴ってあの人はただ死と言う名前のゴールに歩みを進めただけだ。その足が比較的早歩きだった。それだけの事だ。
それでも納得がいかなかった。あの人はまるで生まれてきたことを後悔しているような死に方を選んだ。これは僕の勝手な解釈だ。きっとあの人も自分が生まれてなければ大好きなみかんに会うことはなかったなどということは理解しているだろう。でもあの人の死に方は誕生を恨んでいるようだった。あの人は誕生を愛しつつも、恨んでいた。憎んでいた。そしてそれは僕からしたら人間の禁忌のひとつなのだろうと思った。
生物は幾度となく誕生してきた。第三者や第二者はその誕生に対して基本的に情愛を抱くのだろう。何故なら第二者は生物の誕生を選択する権利を持っている即ちそれを放棄できる訳で、それでも尚権利を行使した訳なのだから、それは自然と喜びになるのだ。そして第三者はそもそも生誕ということに対して【尊いものである】という価値観を持っている中で(誕生がなければその生物に未来が存在しないのだから当然のことだ。)自分に関係の無い即ちプラスもマイナスもないそんなイベントである。即ちそれはまた自然と喜びとなる。しかしながらどうだろう。第一者は何も選べないのだ。第二者が権利を行使したら第一者は権利を持たない。それは義務となる。誕生を強制される。
あの人はそれを拒絶したから早歩きで死へ向かった。しかしそれを拒絶するのはきっと禁忌なのだ。拒否権がなかったとしても。
あの人の死に方はよくドラマ等で見る投身自殺などとは訳が違う。
死ぬために生きている。この過程があるからだ。故に残酷だ。
そして誕生への冒涜なのだ。
誕生した人間は生を強制されるのだから。そして生物とは摂理的に生を求めてしまうのだから。生を求めた上で死に向かうのだ。
その本質的なゴールを基本的に人はゴールにしない。仮に人が死を求めてもそれをゴールにはしない。自殺という判断を下す人間はきっとその先に何かがあると。誰も知らないなにかがあるという期待を込める。生まれ変わりという言葉を聞いたことがある。きっとそれはこういうことなんだろう。
そんな人間とあの人の大きな違いは、誕生から生まれた希望がなかったことだ。見いだせなかった、いや、見出さなかったのか。何にしろ、これは人間の禁忌であり誕生への冒涜なんだろうと思う。
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