冥後


あの人が死のうとしていたということはある程度知っていた

でも僕はそれを止める気はなかったし、ある種仕方の無いことだと思っていた。

僕はあの人をよく知らないし知ろうともしなかった。そんな立場の人間に人生について指図するような権利はないと思ったからだ。

実際に自分の判断は間違っていなかったと思うし、後悔もなかった。

しかしながら悲しい事だった。自分の持つある種の信念というものに亀裂が入る程に悲しい事だった。間違っていないという自覚は勿論あった。それでも彼にまだ生きてて欲しかった。でもきっとそれは先に進んでも同じだろう。どうせいつ死んでももう少し生きてて欲しかったと思うんだろう。人間というのは欲深い生き物なのだから。


気持ちとはあくまで心の中の事だ。それを表現するには様々な方法がある。

僕はプレゼントというものをある程度信じている。プレゼントを渡すということは相手に対して金を払う価値を見出しているという事だ。それはある種とても気持ちの表れのように見えていた。

あの人は僕をきっとある種好いていたし。僕もあの人をそれなりに好いていた。あの人の家で電源の入っていないこたつの中で何かを話しながらみかんを食べる。ささやかな時間であったがそれをお互いに好いていた。

あの人はお金をかけて買ったみかんを僕に提供し、今回に限ってはわざわざそれを調理してくれたのだ。あの人は僕にある種の価値を見出してくれたと言えた。それは嬉しいことであった。

かすてらは比較的甘かった。僕はみかんの甘さを好いていたしあの人もそれを知っていた。故の判断だろうか。とてもいい配慮だった。その配慮が嬉しかった。しかしながらそれはとても悲しいことでもあった。

このかすてらはあの人からの僕への別れの挨拶のようなものだった。それがとても悲しいことのように思えた。やはりどんなものであれ別れは悲しさを生み出すものなのだと思った。

カゴの中には3つだけみかんが残っていた。

僕はあの人の抜け殻を見ながら静かにみかんを剥き始めた。


警察にはある程度叱られた。でもそんなのはどうでもよかった。ただ大事なのはもう夜中にみかんを食べながら談笑する相手は居ないということ。それ以上でも以下でもない。

一つだけ確かなのは、あの家で食べたみかんは毎日美味しかった。それだけだ。

他者の家の経済事情にそこまで興味を示したことは無いが、自分は比較的金持ちの家なのだと自分を評価している。故にあのみかんより高価でいいものを食べることは出来た。

しかしながらそれと美味しいはまた違うベクトルに存在している。高い=ある程度美味いは比較的言えると思うが、安い=不味いという方程式はどうやら成立しないらしい。


彼の味利きは本当に素晴らしいものだ。これに尽きる話だ。でも、味というのはどうやらそれだけでは無いのだ。単純な味覚的なものでは無い。科学的なものではない。だから仮に取り寄せても、きっと美味しい。それだけで終わってしまう。


これはある日本当にたまたま、僕はあの人の家の前を車で走っていた時だった。

自転車に乗り込むあの人が窓越しに見えた。ある程度記憶力があった僕はそれを30分くらいは保持し続けた。

約30分後、あの人はスーパーの前である種疲労困憊、しかしながら本番はここからだと言わんばかりの、疲れているしそれはよく見えるが己がそれを感じまいとするそんな顔付きでみかんを持って現れた。

勿論これも、たまたま車で走っていて窓越しに見つけたに過ぎない。

偶然や運命というのはどんなものであれきっとあるものなのだ。そう感じざるを得ないものだった。あの人は僕の存在になんて全くさらさら気づくこともなかった。しかしながら僕の目にはあの人がきっちり焼き付いたのだ。理由はない。本能的に、言葉という限られたものしか表現出来ない技法での限界をとうに超えた何かを持った上で僕はあの人を見ていた。

僕の頭は不要な所でよく回るものだ。その時もそうだった。

あの人はアパートの駐輪場から現れた。

そしてこのスーパーはあそこから約5キロ程度。ここ以外にあのアパートから5キロ圏内にあるスーパーは、、

僕は咄嗟にスマホを取りだした。その時の文字打ちの速度は多分僕が今まで生きていて、きっとこれからも寿命が尽きるまで生きていくんだろうがその中で、多分一番速かった。

検索結果該当するスーパーと言える商店は他に数件存在した。つまりあの人はわざわざここまで来たという訳で。

理解に苦しんだ。こんな時も頭は他を思考していた。あの人が持っていたみかんの箱。そのみかんの品種名。何故か頭に残っていた。これも全て偶然で片付けられる。ただただ本当にたまたまだったのだから。

「スーパーに、寄っていただけますか?」

自然と口は動いた。発言前に発言内容をきちんと精査する。そんな親の教えなどこの時は頭に残っていない。

「あるアパートから5キロ圏内にあるスーパー、全てに寄ってください。時間が無いなら明日でもいい。勿論明後日でも、明明後日でも構いませんよ。でも絶対です。」

あの人に会うまで、ある程度過程があった。

運命というのはふと転がっているのだ。それを拾うかはどうやら僕次第らしい。


親に頼めば簡単に取り寄せられた逸品だ。でもそうしなかった。倫理的に見るなら一番最低の手段で僕はあのみかんを食べようとした。

食べるためにあの人を観察し、隙を探す事から始まった。

見れば見るほど美しいものだった。あの人は心の底からみかんを愛し一切の妥協をしなかった。表面的なQOLを落としてでも尚あの人はみかんに尽くした。愛情を注いでいた。それが結果的なあの人のQOLを良くしたのだ。みかんに触れているあの人はとても美しい顔をしていた。


もっと食べたくなった。


人生をある種棒に振ろうとしている。なんてきっとあの人を見る前の僕なら。冷めきった僕の目にはそう映ったのだと思う。

あの人は僕にそれでもいいと思わせた。いや、そうなってもきっと何とかなるというある種楽観的な何かを持っていたのかもしれない。それ以外に何か大丈夫であるという不確定な確信を持っていたのかもしれない。

でもきっとそんなのはどうでもいい。

ただ興味を惹いた。あの人は、あの人の家のみかんは、純粋に食欲が湧いただけだ。


いつかはきっとバレると思って潜入した。この人は家の鍵を何故かしめないというとても不用心な性格をしているので、潜入は簡単だった。そしてこたつ毛布に足を入れ、みかんの皮を剥き始めた。そしてひと粒。口に運んだ。

美味しかった。でも、それだけだった。

もっと美味しいと思っていた。いや。味としてみるなら素晴らしいものだ。素材の味、保存体制、どれも一級品であるから。本当に素晴らしいものだった。

でもそれだけだった。だから少し覚めた。少し絶望した。そして少し泣いた。

次の日も足を運んだ。そこまでの期待はしていなかった。でも何かにすがる思いでそこに行った。そして食べようとした。そうしたら唐突に部屋の電気がついた。

あぁ。終わったんだなぁ。と思った。そんな僕から出た言葉は割と普通の言葉で、

「ありゃ。」

だった。


あの人は不思議そうな表情で僕を見た。怖がらなかったことが僕からしたら不思議だった。

僕はもう思考しなかった。ただ彼と話をしようと思った。そして彼と彼の愛するみかんを共に食べたいと思った。

だからそうしようとした。そしてその夢はあっさりと叶った。

食べているうちにわざと僕はこのみかんを【高価な一品】とあの人に表現した。しかしその言葉を聞いたあの人は少し悲しそうな表情をしたように見えた。

だから僕はこの次の言葉をなんの精査もせずに発した。

彼を見てただ自分があの人に思ったことを述べた。それを聞いたあの人はとても驚いた顔をした。そして一度笑った。ように見えた。


その日からほぼ毎日僕はあの人の所に通うようになった。

そして毎日話していく上で彼の現状を知った。そしてあの人が近日死ぬことを知った。それを知った上である種の情をあの人に抱いた。あの人が死んだら僕は少しは悲しくなるのかと思って、いや、これはきっと想定外だったんだろう。


「食べ物は、他者と笑いながら食べる方が美味しいな。」

いつかあの人が言った言葉だ。

そんな記憶がある僕は彼に文句があった。

なら死ぬな。そう思うなら死ぬな。

僕に1人で孤独にみかんを食べさせるな。

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