第2話 ぽっちゃり人魚に恋をしていた王子の失恋
side:リオ王子
僕の名前はリオ・カルウーノ。カルウーノ国の王子だ。
僕には以前から、想いを寄せている相手がいる。マーシャと言う、ゾンネ国の第三王女だ。
彼女と知り合ったのは、五年ほど前。未だ彼女が彫刻のような、美しい人魚の姿だった頃。僕は彼女に一目惚れした。
二人の姉と同じように体格が良かったものの垂れ気味の目元には色気もあり、一瞬にして魅入られた。話してみればとても人懐っこく、それもまた愛すべき一面であった。
それから徐々に彼女はふくよかになって、今に至る。ふくよかになっても彼女の愛らしさは変わらず、僕の想いが変わることもなかった。
僕は彼女に結婚を申し込んだ。一度だけではなく、何度も、繰り返し。
だけれどマーシャは一度として首を縦には振らなかった。
どれだけ愛を伝えても、必ず幸せにすると言っても、「リオにはもっと素敵な相手がいるよ」と断られてしまう。どうしてなのか、理由がわからなかった。
自分で言うのもなんだけど、僕は美形だ。くっきり二重で、鼻もすっと高い。癖のあるダークブラウンの髪も柔らかで、女性たちからの人気も高い。それに第一王位継承者だし、知識や武力だってしっかり身についている。好きな子には優しいし、一途だし。そんな僕の、何が不満なのか。
今は無理でも、いつか彼女も僕の気持ちをわかってくれる。いつか振り向いてくれる。そう思っていたのに。
彼女は僕の知らないうちに、別の男と婚約してしまった。
その報が僕の耳に届いたとき、なんの冗談かと思った。僕の求婚を断り続けていた彼女が、突然他の誰かと結婚するだなんて。信じたくなかったし、到底受け入れられるものではない。しかもその相手は、西の国レーゲンのヨハン王子。仕事は出来るが遊び人という噂のある男だ。
そんな男と、なぜ。僕は一途で誠実だ。マーシャに恋をしてからと言うもの、他の誰かに気を向けたりしていない。
もしかして騙されているんじゃないか?
美味しい食べ物につられたんじゃないか?
そうでなければ、この結婚の理由が心底わからない。
悩んでいるうちに、レーゲンからパーティの招待状が届いた。ヨハン王子とマーシャの、婚約祝いパーティだと言う。
腹の奥から吐き気と共に、黒い感情が込み上げてきた。それが嫉妬であるのは言うまでもない。
どうしてだ、マーシャ。どうして僕じゃダメなんだ。急に現れた遊び人の男よりも、僕の方がずっとマーシャのことを想っているに違いないのに。
そうこうしている間に、パーティの日はやってきた。未だ婚約者のいない僕は、一人で参加することになる。マーシャ以外のひとと結婚する気なんてなかった。だから僕に婚約者がいないのは、当然なんだ。
パーティ会場には様々な国のひとたちが集まっていた。ずっと結婚を見送っていたヨハン王子の結婚相手の顔を見にきたんだろう。
シャンデリアや絨毯、飾られた装飾はどれも美しく華やかだ。でもそれ以上にすごかったのは、並べられた料理の豊富さである。マーシャのためなのだろうことは、すぐにわかった。
「聞きました? ヨハン王子の結婚相手のこと」
「ゾンネ国の第三王女と聞きましたが、あの国の情報は乏しくて……どのような方か存じ上げませんのよ」
「わたくしもですわ。けれどあのヨハン王子の心を射止めた方ですもの、よほど素敵な方なのでしょうね」
海のなかにあるゾンネ国を詳しく知るものは決して多くはない。ゾンネ国自体を知らない貴族も多いが、それでも一国として成り立っているのは他ならぬ、レーゲン国王の力の賜物だ。マーシャ曰く、ゾンネとレーゲンの国王たちはそれぞれとても親しい間柄であると言う。
――だから今回の結婚も、ほとんどの抵抗がないまま決まったんだろう。二人の結婚は両国の絆をより強固にして、ゾンネ国の名はより一層世に出回ることになる。何よりレーゲンの国王は恋愛結婚を良しとするひとで、息子が中々結婚しないことをよく愚痴っていたと聞く。僕にはずっと、関係のない話だと思っていた。
なのに。それなのに。
拳をぎゅっと握り込んだ刹那、突如ファンファーレが鳴り響く。
大広間の大きく開いた扉の方へ、会場にいる王族貴族の視線が一斉に向けられる。
ヨハン王子とマーシャが、二人同時に姿を見せた。ドレスを身に纏ったマーシャは緊張の面持ちで、ヨハン王子にエスコートされている。ヨハン王子は胸を張り誇らしげだった。僕は知らず、奥歯を強く噛み締めていた。
「皆様、本日は私とマーシャのためにお集まりくださりありがとうございます。マーシャ、挨拶を」
ヨハン王子に優しく促されたマーシャは、小さく頷いて一歩前に出た。
「ゾンネ国第三王女、マーシャでございます。今日という日に皆様にお会いできましたこと、大変光栄に思います。どうぞゆっくり、お楽しみください」
優雅なカーテシーは、見たことのない姿だった。僕の知るマーシャは、人魚の姿のマーシャで。あんなふうにドレスを着て、王女らしく振る舞っている姿は見たことがない。
強力な姉二人がいるために、ほとんど社交の場に出たことがないと言っていた。陸の国に行ったことがない、とも。
それが今、ヨハン王子の隣に並ぶに相応しい仕草で挨拶をしている。
「あら、まぁ……」
「思っていたより大分ふくよかですけれど、可愛らしいお顔をしてらっしゃるわ」
「それに振る舞いもとても優雅。こう言っては何だけど、ある意味ヨハン王子とお似合いではなくて?」
貴族たちの声に、僕の心は益々強く締め付けられた。どこがお似合いだと言うんだ。あんなにやけた顔をした王子とマーシャの、どこが!
きっとマーシャはわかっていないんだ。あの男が「遊び人」であったこと。たくさんの女性と浮き名を流していたこと。
彼女は世間を知らない。汚い貴族社会を知らない。だから騙されているに決まってる。
*****
side:ヨハン王子
「ヨハンさん、私の振るまい大丈夫でした? 姉さまたちにものすごい厳しく指導していただいたんですけど!」
貴族たちから少し離れた場所で、マーシャが聞いてくる。緊張していたらしいマーシャは、今も頬を薄く紅潮させていた。
「あぁ、良かったよ。客人たちも納得していたようだし。よく頑張ったな」
そう言ってやるとマーシャは、嬉しそうに目尻を下げて笑う。この顔がもう、どうにもかわいい。撫でくり回してやりたくなる。
婚約パーティを開いたのは、俺の妻となる女性があまり知られていないゾンネ国の第三王女であるということを知らしめるためと、もう一点。
過去マーシャに求婚したという男に、見せつけるためだった。
マーシャの姉であるブリアナの話によると、そいつはカルウーノ国のリオ王子だと言う。レーゲン国に比べたら小さい国ではあるが、それなりに栄えており国王も穏和な性格で、何度か外交に足を運んだこともある。王子に興味はなかったため顔を覚えていなかったが、今日この場ですぐにわかった。
酷く分かりやすく、こちらを睨んでくる男がいる。伴侶を伴わず、一人でいるその男。そいつこそがリオ王子だ。
マーシャを見る目は熱っぽく、俺を見る目には敵対心を込めて。非常にわかりやすい感情を見せてくる。
リオ王子のことを、マーシャに直接聞いたことはない。他の男の話なんて、聞きたくないからな。
そいつは何度も繰り返し結婚を申し込んでいると聞いた。それくらいしつこい男なら、例え俺とマーシャが結婚してもマーシャのことを諦めることはないと考えた。
だから前もって牽制することにした。
俺たちがしっかり両想いであることをリオ王子に知らしめてやろうと思った。
性格が悪いと言われそうだが、それが何だ。マーシャにちょっかいかけられるくらいなら、汚くもなってやる。
「マーシャ、俺はこれから招待客のお偉いさんたちに挨拶に行ってくる。キミはフロアで食事をしながら、他の貴族の相手をしてくれ。まぁ、若い令嬢たちと違って極端に見目を気にするような心の狭い客は呼んでいないはずだから、前のパーティよりは風当たりもマシだろう。それでもなにかあったらルイがそばにいるから、すぐに助けを呼ぶんだ」
「はい、わかりました」
笑顔で頷きながら、その意識はもうフロアにびっしりと並べられた料理に向けられている。マーシャはどうやら、リオ王子のことはそこまで気にしていないようだ。
「ルイ、頼んだぞ」
「かしこまりました」
長いこと俺の従者をしているルイは、俺のことをよく知っている。だから「何かあったら」の基準も、ルイに任せることにした。
恐らくリオ王子はマーシャに接触を図ってくるだろう。万が一マーシャを拐かそうとしたら……。
「殿下。顔がめちゃくちゃ凶悪です」
「おっと。じゃあ行ってくる。楽しんで」
ぽん、とマーシャの背中を叩き、俺は談笑している貴族たちのもとへ向かった。
すぐにリオ王子がマーシャのもとへ動く気配があった。
もや、と、腹の奥から嫌な感情が沸き上がったが、今は自分の仕事に専念することにした。
*****
side:リオ王子
ヨハン王子と離れたマーシャは、すぐに料理の並ぶテーブルへとやってきた。瞳をきらきら輝かせて、従者らしき男から取り皿を受けとる。肉料理のひとつを口に運ぶと、とても嬉しそうに表情を綻ばせていた。
貴族たちがぽかんとその様子を眺めて、その中の一人がマーシャに近づく。
「初めまして、マーシャ王女殿下。私はレーゲン国とゾンネ国を挟んで反対側の国のものです」
マーシャは皿を手にしたまま、慌てて礼をした。
「失礼ですが、あまりに美味しそうに食べているものなので少し気になってしまって……そんなにも美味しいものでしょうか」
食べ物の話と知るやマーシャはやっぱり目を輝かせて、はい! と元気に頷いた。
「ヨハンさん、じゃなかったヨハン殿下が私と、皆様のためにコックたちと相談して準備してくれたものなんです。だから余計美味しさを感じます!」
「ほぉ、あのヨハン殿下が」
「マーシャ様のこと、大事にされてますのね」
「わざわざ婚約パーティを開くほどだ、私は最初からわかっていたぞ」
マーシャの様子に、どの貴族たちもお祝いムードだ。
誰もマーシャが騙されているなんて思いもしない。マーシャ自身もだ。
僕は静かにマーシャに近づいて、声をかけた。
「マーシャ」
「――あ、リオ! リオも呼ばれてたの?」
笑う顔は、以前までと変わっていない。ぎりぎりと胸が締め付けられる。
「うん、そう。招待状が届いて……」
そこまで言って、僕は改めてマーシャを見つめた。そのドレスはヨハン王子に貰ったのだろうか。僕がドレスを贈りたいといったときは断られたのに。
どうして僕じゃダメなんだ。どうして、どうして。
「……マーシャ、その……少し、話がしたいんだけど……いいかな」
マーシャの視線が、ちらりと従者へ向けられる。すると従者はヨハン王子に視線を向けて、それからこくりと頷いた。
「大丈夫だって」
「あ、あぁ。それじゃあ、バルコニーの方に」
マーシャはその場にいた貴族たちにも一礼して、従者と共に僕についてきた。ひとのいない静かなバルコニーには、時おり潮の匂いのする風が吹いている。従者は僕らから少し離れた場所で、けれどすぐにマーシャのもとへ飛び出していける位置で待機した。
「マーシャ。この婚約は、きみが望んだもの?」
僕の質問の意図がわからなかったのか、マーシャはきょとりとしている。僕は言葉を続けた。
「ヨハン王子に脅されたり、騙されたりしてるんじゃないかって」
「そんなことない。殿下はとても優しいし、よくしてもらってるもの。そうじゃなきゃ婚約なんてしない」
指の先から血の気が引いていく。ずきずきと胸が酷く痛んだ。
「ねぇ、僕の気持ちは知ってるよね? 何度もきみに好きだと伝えた。きみと結婚したいって。何度も、何度も」
「うん」
「でもきみはその度に断って、……なのに急にヨハン王子と婚約だなんて、……どうしてなんだ? どうして僕じゃダメだったんだ?」
声が震えてしまった。
だって僕はずっとマーシャが好きなのに。誰よりもマーシャを好きな自信があるのに。
「……リオ、覚えてる? あなたが最初に、私に結婚を申し込んだときのこと」
「忘れるはずもない。すごい勇気を出したんだ」
マーシャは瞳を細めて優しく笑っていた。だけどその瞳がなぜか、とても寂しげにも見えた。
「私もね、あのときのことははっきり覚えてる。『誰が知らなくても、きみの美しさを僕は知っている』って。リオ、そう言ったよね」
「あぁ、そうだ。ヨハン王子だって知らないだろう、きみがふくよかになる前の姿は、」
「ヨハンさんは、この私が愛しいと言ってくれたの」
え、と小さく声が漏れる。
「ヨハンさんは、本当はスレンダーなひとが好みなんだって。でも、今の私の全部が愛しいって、そう言ってくれた。いっぱい食べるところも、お肉のつきすぎた身体も、全部が好きなんだって、そうプロポーズされたの」
「そ、そんな、僕だってきみのことを、」
「ごめんなさい、リオ。私はリオのあの言葉を聞いたとき、リオが見ているのはあのときの私なんだって思ってしまった。もちろん、痩せているときの私だって私に違いないけど……いつかあなたは、太ってしまった私じゃなく、痩せて綺麗なひとに恋をするんだろうなって」
ひく、と喉が鳴った。彼女が僕との結婚を拒んでいた理由が、まさか僕自身が彼女に告げた言葉のせいだなんて。
「で、でも、ヨハン王子だって、彼だって今までいろんな女性と……」
「うん、それは知ってる。姉さまたちもヨハンさんのことは遊び人だって言ってたから。もしかしたらいつか私は、捨てられちゃうのかもしれないけど……でも、……それでも、私はヨハンさんと一緒にいたいって思った。この気持ちは恋なんだって。リオが私を好いてくれているのは知ってた、何度も言ってくれたし、何度もプロポーズしてくれたから。でも、私はリオに恋をしなかった」
あまりにも残酷すぎる告白だった。
なぜ僕のプロポーズが受け入れられなかったのか。その理由は明確だったのだ。僕は彼女に恋をした。だから結婚したかった。彼女とずっと共に、いたかったから。だけれどマーシャは僕に恋をしなかった。好意は持ってくれてはいたのだろう、だけど一生そばにいたいかと言えば違ったのだ。
「……僕、……僕が、もし……ヨハン王子のような告白をしていたら……きみは僕を、選んでくれた……?」
「――わからない。私がヨハンさんに恋したのは、告白されるよりも前のことだったから」
どうしたって、手に入らなかったのか。僕がどれだけ求めても、どれだけ想っても、マーシャは僕の手を取ってはくれなかったのか。
「マーシャ、僕は」
ゴホン、と咳払いが聞こえて、顔を向ける。むす、とした顔のヨハン王子が立っていた。マーシャはヨハン王子を見つけるとすぐに笑顔になって、そばに寄っていく。
あぁ、クソ。ちくしょう。
僕のものにしたかった。僕のそばに居てほしかった。
僕に恋をして欲しかった。
騙されていれば良かったのに、脅されていれば良かったのに。
――きっとこんなふうに思う心が、マーシャに伝わってしまっていたのだ。
*****
side:ヨハン王子
「ヨハンさん。お話終わりました?」
「あぁ。……その方は?」
わかっていて、聞いてみる。マーシャはいつもの笑顔で答えた。
「カルウーノ国のリオ王子です。以前から知り合いで、少しお話してました」
「ふぅん……」
気がついたらマーシャとリオ王子の姿が見えなくて、慌てて話を切り上げた。バルコニーにいるのを確認して、すぐに近づく。ルイの後ろから、こっそり話は聞いていた。マーシャの言葉は俺には嬉しいものだったが、当然リオ王子にはそうではなかった。だから彼の表情からどんどん余裕がなくなっていくのを見て、思わず咳払いをしていた。マーシャの肉付きの良すぎる腰を抱き寄せて、笑顔を浮かべる。
「どうも、リオ王子。私のマーシャが世話になったようで」
わかりやすく顔が強張った。はっきり振られても今なおマーシャを想っている。俺なんか振られたと思った瞬間、腑抜けになったってのに。
その根性は認めるが……はっきり言って、マーシャへの想いはここで断ち切っていただきたい。そのために招待したのだから。
「マーシャの友人なら、結婚式にも招待した方が良いだろうか。彼女のウェディングドレス姿はきっと最高だ」
俺の隣に並んで、幸せそうに笑うマーシャを見ればいい。そうすればもう、諦めるしかないだろ?
リオ王子は唇を噛んで、拳を握った。俺から視線をはずして、マーシャを見る。その目はすでに泣きそうだった。
「マーシャは……マーシャは、どうだ? 僕に、結婚式に出て欲しいと思うか?」
マーシャの手が、リオ王子から見えない位置で俺の服を掴む。
「もしリオが、私を心から祝福してくれるなら来て欲しい。でも……そうでないなら……私はリオの、友達の悲しむ顔は見たくないの」
それはきっと、とどめだったのだろう。
好意は抱いている。だけれど恋じゃない。マーシャにとって、彼は友達以外のなにものでもない。
リオ王子は一度ぐっと息を飲み、それから深く息を吸ってマーシャを見ると、眉を下げて笑い「そうか」と答えた。
「なら結婚は……なるべく時間を置いてから挙げてくれると助かる。……僕も『友達』の結婚は、心から祝福したいから」
そう告げて、それから最後に俺をひと睨みして。リオ王子は深く頭を下げると、俺たちの横を早足で通り過ぎていった。
ふー、とため息を漏らすと、先ほどマーシャに握られていた服が更に強くぎゅうぎゅうと引っ張られていることに気づいた。何事かと顔をあげれば、マーシャが目にいっぱい涙を溜めて唇を噛んでいる。
「お、おい、マーシャ」
「ぅ、ふぐっ……り、リオに、酷いこと言っちゃった」
「いやそうでもないだろ、キミに関して言えば……俺はわかってて煽ったけど」
「姉さまたちに、ヨハンさんと一緒にいることを決めたならもう曖昧な態度は止めなさい、って言われたの。だからね、はっきり言わなきゃって、私がリオに恋をしていないこと、はっきり伝えなきゃって思って」
ぼろぼろ、大きな涙がこぼれてくる。せっかくした化粧が滲みつつあった。
「リオは大切な友達だけど、でもリオが私に向けている気持ちを、私はリオに向けることはできない。リオと同じ意味でリオを愛することは出来ないから、だから」
「あー、もう。わかってる、わかってるよちゃんと。お前が楽しい気持ちであいつにああいう言葉を向けたんだなんて、誰も思ってない」
しゃくりあげるマーシャを抱き締めて、よしよしと背中や頭を撫でてやる。
マーシャなりに、リオ王子がなるべく傷つかない言葉を選んだのだろう。だけどあれくらいはっきり伝えなきゃ、リオ王子はずっとマーシャを諦めないままでいたかもしれない。リオ王子には悪いが、一国の王子である以上いつかは誰かと結婚して血を残さなきゃいけない。いつまでも「人のもの」に、恋慕したままでは困る。
「マーシャがあぁ言ってくれなかったら、俺はもっと酷い言葉であいつにマーシャを諦めてもらわなきゃなんなかった。良くやったよ、本当。偉いよ、マーシャは」
頬に手を添え、化粧が落ちて中々面白いことになっているマーシャを見つめる。ひぐっ、と大きくしゃくり上げて、うん、うん、と何度も相づちを打った。
一国の王子の、結婚相手。いつかは王妃となる存在にしては、マーシャの心は清らかだ。より深く貴族社会に触れることにより、これから何度その心が傷つけられるかわからない。だったら何度だって俺が盾になる。そしてマーシャを癒す薬になる。何があってもマーシャを守ると、死ぬまで共に生きていくと決めたんだ。
「ヨハンさん、わたし、私、」
「うん?」
「もっと強くなりますね。こんなことで泣いちゃわないくらい、ヨハンさんの隣でちゃんと、胸を張っていられるように」
「マーシャ」
「姉さまたちは恋をして強くなったと聞きました。守るべきものが出来たから、って。だから、私も」
ヨハンさんに恋をしてるから、きっと強くなります。
――なんて。……なんて。
幸せそうな笑顔で笑うんだから、堪らない。
ここでもっとマーシャとの時間を過ごしたいけど、パーティのホストとしてこれ以上席を空けるわけにはいかない。マーシャのメイクを直して、また会場に戻らなければ。
「ルイ、マーシャの侍女を……」
振り返って、ぎょっとした。ルイの左右に、マーシャの姉であるアマンダとブリアナがキメにキメたドレス姿で立っていた。
「姉さま!」
「い、いつから」
アマンダとブリアナが顔を見合わせ、ふん、と鼻で笑う。
「結構前から?」
「あんたがリオ王子に喧嘩売りに行った辺りから?」
ずっと居たのかよ、おい。
「いい性格してるわねぇ、本当。独占欲丸出しで」
「……悪いかよ」
「性格は悪いわね。知ってたけど」
クソ、マーシャの姉じゃなかったら拳が出ていたかもしれない。返り討ちに会う気がするけど。
「でもまぁ、そんなクソ王子でもかわいい私たちの妹が選んだ王子様なわけだし? 今日はちゃんとお祝いに来たのよ」
「クソ王子て」
「婚約おめでとう、マーシャ。思ったより大事にされていて良かったわ」
そう言いながらアマンダがマーシャのことを抱き締める。マーシャは嬉しそうに笑っていた。殴らないで良かった。
「いい? マーシャ。姉さまたちはマーシャの幸せが一番なの。だからもしヨハン王子が不貞を働いたり、マーシャを大事にしないようなことがあったらすぐに言いなさい。婚約破棄の上慰謝料ふんだくってやるから」
ぎらりとアマンダの目が光った。俺の今までのあれこれから言って、信頼されきってないとはわかってはいるが。
マーシャにだけは違う。本気の恋だ。これ以上のものはないと言い切れるくらい、心底惚れてるんだ。
「姉さま、ヨハンさんは私のことをとても大事にしてくれてます。私もヨハンさんが大事です。だからあの、喧嘩とかはする可能性あるかもしれないけど、きっと大丈夫です」
笑うマーシャの顔は、やっぱり幸せそうで。
俺は彼女と出会って彼女に恋をしたことが、心底幸福なことだと思った。彼女が俺に、恋をしてくれたことも。
「マーシャがそう言うなら、私たちもヨハン王子を信じるわ。……さ、お化粧を直してフロアに戻りましょう。まだ料理がいっぱい残ってるわよ」
「! そうだった! リオに声かけられて、まだ全然食べてない!」
ぐぅ! と盛大に聞こえたマーシャの腹の虫に、ふっと笑う。てきぱきと姉の手によって化粧を直されたマーシャに向かって、俺は手を差し出す。
「たくさん作ってくれって頼んだから、たくさん食べてくれよ」
「はい、もちろん!」
マーシャをエスコートして、フロアへ戻る。フロアではマーシャが食べていた料理が貴族たちによって空になっており、他の料理にも興味を示している様子だった。彼らはいつもお喋りや商談に夢中で、料理に手をつけないこともほとんどなのだが。
今日はきっと、どのテーブルの料理もきれいになくなることだろう。
ただ婚約のことよりも、料理の方が印象に残ってしまいそうであるが――マーシャが幸せそうなら、それはそれでよしとしようか。
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