遊び人と言われた王子がぽっちゃり人魚にガチ恋した話

@arikawa_ysm

第1話 遊び人と言われた王子がぽっちゃり人魚にガチ恋する話

 西国、レーゲン。

 その国の王は歳を六十にして現役であり、すこぶる元気だ。王妃との仲も睦まじく、臣下や民からの人望も厚い。その王の一人息子であるヨハンは文武両道、政務もしっかりこなし、諸外国との外交も積極的に行うなど、王位継承者にふさわしいことこの上ない男である。

 涼しげな切れ長の目元は麗しく、外交の際に王女や令嬢たちから結婚の申し入れがいくつもあった。

 しかしこの男、もう三十になると言うのに未だに身を固める気配はない。女性が苦手などということはなく、むしろしっかり遊んでいる。

 だけれどそれは毎回一度きり。そしてなんやかや言い訳をつけて後腐れなく別れており、それこそまさに恵まれた王の唯一の悩みであった。

「ヨハンよ。いい加減もうそろそろ腹を決めたらどうだ」

「腹を決めるとは」

「お前の伴侶のことだ! これまで何件婚約の申し入れを断っている? かと思えば気に入った女性を部屋に引っ張り込んだりなどしおって……」

「まぁまぁ、父上。まだいいではないですか、父上が現役なのですし。私もやるべきことはやっています。やった上で遊んでおります」

「開き直るな、バカたれ! わしとてまだまだ全然、引退するつもりなどないが。だがやはり一国の王子としての体裁がある。我がレーゲンは自他ともに認める長寿国であるとしても、三十にもなって婚約のひとつもしていないとは」

「父上。私は運命の相手を探しているのですよ。そう、父上にとっての母上のような」

 大袈裟な身ぶり手振りをして、ヨハンが言う。息子がごまかそうとしていることなどお見通しである王は、深く深く息を吐き出してこめかみを押さえた。

「あぁ、もう良い。お前がそのつもりならこっちにも考えがある。一国の王子であること、ゆめゆめ忘れるな」

 ヨハンは口角を上げて笑うと、胸元に手を当てて腰から深く頭を下げる。そしてその笑顔を携えたまま、王の間から出ていった。

 歩いていくことしばらく、誰もいないことを確認したヨハンは伸ばしていた背筋を丸めて重い声を漏らした。

「あ~~~~~……面倒くせぇ~~~~……」

 その場にしゃがみこみ、悪態をつく。

「いやわかってる。わかってるよ俺だって、結婚しなきゃなんないことくらい。王子だしさ、その辺の責任感はちゃんとあるっつーの」

 はぁああ、と盛大なため息を漏らす。

 ヨハンはなにも、ただ一人で気軽に遊びたいがために結婚を渋っているわけではない。半分、いや七割くらいはそうかもしれないが。

 綺麗に着飾ったお姫様、お嬢様。髪を巻いたり結い上げたり、しっかり化粧などして、生地をたっぷり使ったドレスを着て。きらきらと輝くアクセサリーを身に付けて作った笑顔を向けてくる。

 美しい人、かわいい人、その誰もが笑顔を作ってすり寄ってくる。目当てはもちろん、王族との繋がり、王太子妃の座だ。

 それが悪いわけではない。貴族たちがさらに上を目指すのは当たり前のことで、珍しくもなんともない。

 妥協して一人と結婚したら、そのひとだけを想うようになるかもしれないが。

 そうならなかったら? 相手も自分を想ってくれなかったら?

 互いの上部だけしか見ないような、そんな夫婦になってしまったら?

「寂しいだろ、そんなの……」

 彼はロマンティストだった。父親に告げたように、自分の両親のような恋愛結婚を望んでいた。

 だから色んな子と「遊んで」みた。食事をしたりダンスをしたり、観劇をしたり。一線を越えたこともあるが、避妊は怠らない。この国で婚前交渉が咎められることはなく、互いに合意の上であるなら許されている。もちろん子どもが出来たらしっかり責任を取ることが当たり前で、それを望まないのなら避妊具は必須だ。処女を有り難がる男もいるが、(逆も然り)過去の王族貴族間にあったような絶対的な拘束はない。

 ゆえにヨハン王子も、遊んではいるがやるべきことはしっかりこなしているとして、民から白い目で見られることはなく。中には「愛多き人だ」などと持て囃したりするものもいる。

 そんなふうに様々な女性と「お付き合い」してはみたものの、どれもピンとこなかった。

 ただしくは、思い描いた未来がどれも同じだった。

 だから今まで出会ってきた女性の中に「運命の相手」はいないのだと思った。

 バカ正直に父親に伝えたところで、どこまで信じてもらえるか。あの様子だと恐らく近日中には「お見合い」がセッティングされる。

「何回目だっての」

 あんなふうに父親ともめて、お見合いの場所が用意されたのは一度や二度ではない。その度にヨハンは婚約の申し入れを断っていた。当然、彼の方から申し入れることもない。

「あ~……面倒だ……もうマジで、面倒だ……」

 ヨハンはふと、遠くに視線を向けた。城下のさらに向こうに、海が広がっている。

 そういえば、と、ゆっくり立ち上がって水平線を見た。

 東や北、南の地続きの「国」に赴くことはあっても、海を目的地にしたことはない。海のどこかに大きな国があって、そこでは半身半魚の存在があるという話は良く聞く。

「……人魚姫、か……」

 遠い昔より伝わる、おとぎ話。王子様に恋をした人魚姫の悲しい物語。

 もしかして自分の運命は、そこにあるのでは……?

「――ないか。さすがに」

 は、と鼻で笑ってから、数日。

 ヨハンは城下町からさらに離れたその先の海へやってきていた。

 自国であるというのになぜか訪れたことのなかったその場所は、整備も行き届いており街へ向かう道の途中にはいくつも店が並んでいる。砂浜には海に向けられた矢印と、「ようこそ海の国『ゾンネ』へ!」と書かれた看板。

 もしかして自分の父親が作ったのかと思い、ひきつった笑いを浮かべてしまった。

 矢印の先を見ても広がるのは一面の海のみで、街や城のようなものの形は見えない。もしかして海の中にあるとでも言うのかと、水面を覗き見る。――そのときだった。

 誰かの歌声が聞こえて、ヨハンは顔を上げる。少しばかりハスキーかかった声は耳に心地よく、聞いたことのない歌は心に染み渡るような音だった。誰が歌っているのかと辺りを見渡してみるが、人の気配はない。肌寒い季節であるため、好き好んで海に近づいてくるものは少ないらしい。

 だったら誰が、と、ヨハンはさらに耳を澄ませた。

 ザパン、と大きな波の音。そのさらに上の方から聞こえてくる。あちこち歩き回って、少しずつその声が近づいてきた。どうやら目の前にある大きな岩場の向こうにその声の主がいるらしい。

(人魚だろうか。本物を見るのは初めてだ)

 脳裏に浮かぶのは、『おとぎ話』の表紙にいるような美しい姿の人魚。美しい顔立ちはけれどまだ幼さが残り、貝殻で乳房を隠した体は下半身が魚のそれであってもスタイルが良くて……――。

 ごくりと息を飲み、ヨハンは気配を殺した。ゆっくりと岩場に歩みより、意を決して覗き込む。

 そこに、いたのは。

 ワインレッドの美しい髪を背中へ流し、楽しげに歌を歌っている。光り輝く鱗に尾ひれと、その姿はまさしく人魚……人魚、で、あったのだが。

「いやデカいな!?」

「うわっ! びっくりした!」

 びくりと身体を震わせたその「人魚」。琥珀色の瞳は垂れ気味で、愛らしい顔立ちをしている。それでいて二の腕はむっちり、お腹はたっぷり。ウェストはどこへいったのかわからない。

 その人魚は、ふくよかだった。大層、もちもちだった。

「人魚って、なんかもっとこう、さぁ! 違うだろ、なんか!」

「え、何急に!? ちょっと、ねーさま! おねーさまぁ!」

 お姉さま、を呼ぶ声に、ヨハンははっと顔を上げる。もちろん、期待を込めてのことだ。だけれど大きな水しぶきを上げて姿を現した「人魚」は、ヨハンが先程まで浮かべていた人魚像と大きく異なるものだった。

 一方はアクアブルー、もう一方はオレンジゴールドの髪。どちらもふくよかな人魚よりは少しばかり濃い色合いの瞳の色で、そして結構、良い年齢であるとわかる風体であった。四十、または五十くらいはいっているかもしれない。

「どうしたのマーシャ。……あら、人間じゃない」

「もう、人間くらいで大騒ぎしないの。一昨日だって見たでしょ」

「ブリアナ姉さま、アマンダ姉さま。だってこのひと、なんか様子がおかしくて」

 三人……三体という言葉の方がいいのだろうか――の人魚を一気に見たヨハンは、ものすごくがっかりした様子でものすごく深いため息をついた。

「人魚て……どっちかってーと半魚人だろ……」

 その呟きにアクアブルーの髪を持ったアマンダが、「まっ」と口許に手を当てる。

「あんた、今時人魚に幻想抱いてるタイプ?! やだもう、いつの時代の人間よ」

「国ひとつ作るくらい存在してるんだから、多種多様な人魚がいて当然でしょうよ」

「人間と同じ、老いも若いも男も女もたくさんいるわよ」

 ねー、と声を揃えて言う様で、非常に仲が良いことが伺える。先ほどふくよかな人魚は「姉様」と言っていたが、そのふくよかな人魚は他の二人に比べて随分若く見える。二十代といったところか。

「その……三人は、姉妹?」

 ヨハンが問うと、ブリアナが得意気に頷く。

「えぇそうよ。聞いて驚きなさい、私たちは海の国ゾンネの国王、ネーレウスを父に持つ三姉妹!」

 アマンダが続けた。

「長女のブリアナお姉様、わたくしが次女のアマンダ、末娘のマーシャよ」

「へぇ……」

 特に驚いた様子も見せないヨハンに、ブリアナが訝しげに眉を寄せる。ふくよかな人魚――マーシャはきょとりとして、不思議そうに首をかしげた。

「反応薄い」

「いや、まぁ……そういう国があったんだな~くらいで……こっちも王族なんで……」

 三人姉妹が一斉に「えっ!」と声を上げた。

 海の中にいたアマンダとブリアナは勢い良くヨハンに近づいて、陸に乗り上げる。ヨハンはその勢いに思わず逃げ腰になっていた。

「もしかしてあんた、ヨハン王子?」

「あの仕事はできるけど遊び人って人!? ま~! 確かに遊んでる顔してるわ!」

「あ?! 失敬なことを」

「ねぇ!」

 ざぱんっ! と勢い良く水しぶきを上げ近づいてきたのはマーシャだった。きらきらと目を輝かせて詰め寄る姿に、ヨハンは覚えがあった。

 あるときはパーティ会場で、あるときは外交中に。数多の令嬢が自分に向けてきた眼差し。「王族」との繋がりを求める、欲に満ちた……――。

「王族ってことはやっぱり『あれ』、食べるんですか!? 鳥の丸焼き!」

「……は?」

「あとあと、牛さんの肉を生っぽく焼いた……そう、ローストビーフ! あれとか! 人の背の高さくらいある大きなケーキがあるとも聞きました! それからそれから、東の方の国には『もなか』という、不思議な食感の食べ物があるんだとか!」

「は、え?」

 きらきらと輝くその瞳に浮かぶのは、欲。ただし、とんでもなく純粋な食欲、で。

 ヨハンはぱちぱちと瞬きをしてマーシャの琥珀色の瞳を見つめ、それからはっとして視線を泳がせた。

「まぁ……食べたことは、……ある、けど」

「うわ~! いいな~! 姉様たちは私がまだちっちゃ~い頃に陸にお呼ばれしてごちそうになったのに、私だけまだ食べたことないんです! シュークリーム? とか、パンケーキ? とか、海の国にはない甘いお菓子がたくさんあると聞きました!」

「あ、あぁ、レーゲンは貿易も盛んだしな……」

 きらきら、ちかちか。「見たことがある」と感じたその瞳は、よく見れば大きく異なるものだとヨハンは気がついた。

 よこしまな王位への物欲ではなく、美味しいと言われている食べ物への好奇心。まるで大きな犬がごほうびを待っているような眼差しに、知らず表情が緩む。

「わかった、わかった。ここで会ったのも何かの縁だ。今度来るとき、適当に持ってきてやるよ」

 マーシャの表情がさらにぱぁっと明るくなる。両手を勢いよく上に上げると、やはり水しぶきが舞った。

「やったー!! えーと、なに王子?」

「興味なしか」

「ヨハンよ、マーシャ」

「ヨハン王子! 美味しいもの、よろしくお願いします!」

 きらきらした笑顔を浮かべて、めいっぱいに頭を下げる。その後ろから二人の姉が次々に口を出した。

「もちろん私たちの分も持ってきなさいよ」

「マーシャはたっくさん食べるから、たっくさん持って来るのよ!」

 はいはい、と適当な返事をして、ヨハンは笑う。王子である自分ではなく、食べ物の方に強烈に興味があるらしい人魚。そんな対応をされたのは初めてだった。

 それから帰ってすぐに、父親にゾンネの国の話を聞いた。

「何だお前、あんなに近い国のことなのに知らんかったのか? まぁほとんど我が国の一部であるし、海の中にあるせいで存在感も薄いが……国の資料もほとんどないしの」

「人魚の国とか正直半信半疑だったもので」

「というかまず会食の席でネーレウス王には会っておるだろ」

「ネーレウス王の存在は知っていたのですが、普通に人間っぽかったので……海の国とも言われなかったし」

「どうせどこかの小国の王だとでも思い込んでおったのだろ。お前は優秀だが、そういう視野の狭さが……」

 大きな国ばかり見ているんじゃない、と三十にもなって怒られてしまったヨハンであったが、父親の小言は今に始まったことではない。右から左に聞き流し、適当に相づちを打った。

 とは言え、自国に隣接した国を失念していたとあっては王位継承者として面目が立たないと、根が真面目なヨハンはゾンネ国についての資料を探した。けれど父親の言葉の通りこれといったものはなく、漠然と「海の中にあって」「人と同じように海のなかで暮らしている」としか書かれていない。そんな言ってしまえば得体の知れない国とこれまで戦争もなく親しくしているのだから、やはり父はものすごい王なのかもしれないと改めて感じるヨハンである。

「まぁ……資料はこれから作成すればいいか。縁も出来たのだし」

 頭に浮かぶのは、あのふくよかな人魚マーシャ。姉二人も強烈な印象を与えたが、何よりマーシャのきらきらと輝く瞳が心に焼き付いている。

 むちむちのもちもちで、体格も下手したら自分より大きい。今までにない女性の姿に、ヨハンはどこか落ち着かない気分だった。

 珍しいだけだ。見たことのない存在だったからだ。だから気分が高揚しているのだ。

 そんなふうに考えながらヨハンは、彼女にどの食べ物を贈るべきかとペンを走らせる。カリカリとペンを走らせる音は、夜遅くまで続いていた。



*****



「うわ~!! ほんとに持ってきてくれた!! もういい匂いがする!」

 ヨハンが大量のスイーツを背負って件の岩場にやってくると、マーシャはすぐに姿を現した。あれからずっとヨハンが来るのを待ちわびていたらしい。

「他の二人は?」

「アマンダ姉さまは旦那様とデート、ブリアナ姉さまは子どものお迎えです」

「あ、そういう……二人の旦那もやっぱり人魚?」

「ブリアナ姉さまの旦那様は下半身がタコで、アマンダ姉さまの旦那様はサメの人魚です。どっちも素敵な方ですよ」

 そう言いながらマーシャの瞳は、ヨハンが持ってきたスイーツに釘付けだった。ヨハンは眉を下げて笑いつつ息をつくと、アップルパイの入った箱を手に取りマーシャに差し出す。わぁあ、とマーシャが瞳を輝かせながら手を伸ばしたところで、その箱をさっと引っ込めた。

「あれっ」

「ただで食わせてやると思ったか? 条件がある」

「条件? なんですか?」

「お前の住む国のことを教えてくれ。こんなに近くにあるのに、情報がほとんどない」

「え? そんなことなら全然構わないですよ。何でも聞いてください」

 何とでもないことのように、マーシャは頷いた。一応王族であるはずだが、危機感のようなものは見られない。ただのんきなのか、はたまた現国王である父を信頼しているのか。

(いや、多分……)

 早くアップルパイが食べたいだけだろう。

 先程から尾ひれを何度も水面に打ち付けて催促している。ヨハンはふ、と笑って、今度こそしっかり箱を差し出した。それを受け取ったマーシャはすぐに箱を開けて中を覗き見る。その瞳の輝きが、さらに増した。

「これ何です? 美味しそう!」

「アップルパイだ。リンゴで出来たケーキみたいなもんだな」

「リンゴ! リンゴ好きです! いただきます!」

 いくつかに分けられたうちのひとつを手にとって、ばくりと食べる。一口がでかい。マーシャはぱちりと目を見開いたかと思うと、次の瞬間には心底嬉しそうに笑顔を浮かべて頬に手を当てた。

「おいしい~! 甘酸っぱい!」

「そ、そんなにか?」

「はい! すごく美味しいです!」

 大袈裟にも見える反応であったが、それが真実であると彼女のきらきら輝く瞳が物語っていた。ヨハンはまたそわそわと落ち着かない感覚を覚え、別の箱をマーシャに差し出す。

「これはマーシャが言ってたシュークリーム。それとこっちはレモンケーキ」

「わぁあ! 全部食べて良いんですか?」

「あぁ、もちろん。……あ、お姉さんたちには残しておいた方がいいんじゃないか」

「は! そうですね、じゃあちょっとずつ残して……」

 そう言いながら、アップルパイは残り一切れである。ヨハンは思わず、ふはっ、と笑ってしまった。

「キミ、よく食べるなぁ」

 シュークリームを頬張りながら、もごもご何か言っている。

「あぁ、ゆっくり食え。そんで食ってから話してくれ」

 ん、と頷いて、マーシャはもぐもぐ咀嚼してごくんと飲み込んだ。

「だって、美味しいもの食べてると幸せなんです」

「……確かに、幸せそうだ」

「海の国の料理も美味しいけど、陸にはもっと色んな食べものがあるんだろうなって。だからこうして食べることが出来て、すっごい幸せです」

 そう言いながらマーシャは、二つ目のシュークリームを口にした。にっこりと嬉しそうな笑顔を浮かべて咀嚼する表情に、ヨハンは知らずに見惚れていた。

 ヨハンの知る限り、こんなに何でもかんでも美味しそうに食べるひとは見たことがない。そもそも令嬢たちは小鳥の餌のような量を口に運ぶのがほとんどで、こんなふうに豪快にかぶりついたりしないのだ。貴族の礼儀作法から言わせてみればマナー違反なのだろうが、ヨハンは余り気にならなかった。むしろもっと食べさせたい、とまで思っていた。

「それで、ええと……何王子でしたっけ」

「ヨハンだっての。本当に興味ないな、キミ」

「そ、そんなことないです。ヨハン王子は海の国の何を知りたいんですか?」

「え。えーと、そうだな……例えば、海の国にも政略結婚みたいなものはあるのか?」

「最近流行らないけど、まだあることはあります。ブリアナ姉様の旦那様は公爵家の方で、次期国王ですし。やっぱりこう、身分による考え方の不一致とかはあるんで……でも恋愛結婚も多いですよ。アマンダ姉様なんてまさにそれで、結婚してからもずっと仲良しなんです」

 説明しながら食べ続けていたマーシャははっとして手を止めた。

「も、もしかしてどっちかの姉さまに一目惚れとか……」

「いやそれはない絶対ない」

「姉さまたち海の国ではすごくモテるんですよ!」

「俺の好みはこう……その、……スレンダーな……美女、だから」

 ちらちらとマーシャの様子を伺い見つつ、ヨハンは答える。なぜこんなにも気を遣ってしまっているのか、自分でも理解していない。マーシャはぱち、と一度まばたきをして、それからまたはっとした表情を浮かべる。

「そ、そんな……」

 ショックを受けたような声にぎくりとして、ヨハンはどっと冷や汗をかいた。

「あ、いや、俺は」

「今口の中に入れたケーキ、一瞬でなくなっちゃった!!」

「……は?」

 マーシャが持っている箱の中に入っていたのは、ふわふわのシフォンケーキだった。

「味わおうとしたらすぐに溶けてなくなっちゃいました……」

「あー、うん、それな。まぁ、そういうケーキな。軽くてふわっふわで、しゅわっと無くなる感じが売りのやつな」

「なるほど……?! あ、ぅんまっ! 一瞬! 一瞬だ!」

 色気より食い気を実践されたヨハンは、思わず遠い目をした。

 こんなにも自分に無関心な令嬢が今までいただろうか。否、恐らくはいない。王位継承者でありながら文武両道、見目麗しいヨハンは周りの影響もあってそれなりにしっかりナルシストだった。女性が自分に惹かれるのは仕方がない、と思っていた。

 だけれど、どうだ。

 マーシャは自分よりも自分が持ってきた食べ物に夢中である。

(人魚は美的感覚が違うのか……あの二人がモテるっていうし、きっとそうだ)

 ナルシズム全開で失礼極まりないことを思いながらヨハンは、マーシャがお菓子を食べるさまを眺めていた。気づけばたくさん持ってきていたはずのお菓子の箱はほとんどからっぽになっていた。

 どのお菓子もマーシャは美味しい美味しいと笑顔を浮かべて食べ進め、ヨハンもそれを飽きずに眺める。

 それは数日に一回の頻度で行われ、時折言葉を交わしては、一緒に出てきた姉たちとも交流を重ねた。

「そういえば初めて会ったとき歌を歌ってたけど、歌うのは好きなのか?」

「大好きです! よく姉様たちと一緒に合唱するんですよ。ヨハンさんは?」

 王子をつける必要はない、と告げてから、マーシャはヨハンをさん付けで呼ぶ。年上の人を呼び捨てに出来ない性分なのだそうだ。

「俺も好きだな。正直、上手い」

「ヨハンさんてすっごい自信家ですよね。姉さまがそういうのは『ナルシスト』だって言ってました」

「ぐっ……否定はしないけどな、別に。本気で上手いし……それからダンスも」

「ダンスですか?」

「そう。ダンスパーティなんか行くと女が放っておかない」

 得意げにダンスをするジェスチャーをしてみるも、マーシャは「へぇ~!」と答えるだけである。

 何度会っても、何度言葉を交わしても、どうにも意識されない。ヨハンは気にしないふりをしていたが、それでも徐々に気が滅入ってきた。

 人間は好みの対象ではないのか。

 そんなふうに考えて、ぎくりとする。

 そんなはずはない、そんなわけはない。気付かないようにしていた「もしかして」が、じわじわと文字になって脳裏に浮かんでいた。



*****



「恋でしょう、それは。間違いなく」

 はっきりきっぱり告げたのは、ヨハンの従者の一人であるルイだ。黒髪で穏やかな面持ちの彼は、ヨハンの従者になってから長い。ゆえに物言いにも、遠慮や容赦はなかった。

 とうとう認めざるを得なくなってしまった現実に、ヨハンは頭を抱えて項垂れた。

「いやでも全然タイプじゃない……丸くてでかいモッチモチだし……人魚よりジュゴンだし……顔はかわいいけど……俺スレンダーな子が好みだし……」

「ですから、恋なんでしょう。タイプでもない人間……人魚に惹かれてるのですから」

「やっぱりそうかぁ~~~~??」

 薄々察してはいた。むしろ好みではないのだからと、気のせいだと思い込もうとしていた。

 だけれど恋であるとはっきり指摘されてしまうともう、認めざるを得ない。

 気づけばヨハンはいつも、もっちり人魚マーシャのことを考えていた。今日は何を持って行こうか、この食べ物は好きだろうか。これを持っていったら彼女はまた、あの嬉しそうな幸せそうな笑顔を見せるだろうか。

 マーシャは何でもかんでも、美味しそうに食べた。食べたことのあるものでも、美味しい!と瞳をきらきら輝かせて頬張った。

 その顔を見ると嬉しくなった。もっと喜ばせたいと考えるようになっていた。

「何をそう悩んでいるんです? 女性の扱いなんて殿下にとっては造作もないことでしょう」

「普通の女性ならな。でもマーシャは違う。……マーシャは俺のことを『食べ物運び王子』としか認識していない」

 ぶっ、と、ルイが吹き出した。失敬、と取り繕うも、肩が震えている。

「女性なら誰もが見惚れるこの顔よりも先に俺が持っている食べ物に目が言ってる。最初の頃は名前も覚えてなかった」

「……それはそれは」

 思い切りナルシストな発言であるが、それはもういつものことなのでルイはツッコミも入れない。

「人魚の国の美的感覚はこちらとは違うのだろうか……魚的な感覚? とでも言うのか……」

「そういえばネーレウス国王もおもしろ……いえ、特徴的な柄のタイをしてましたね」

「彼女の姉たちもかなりインパクトのある印象だったが、モテていたと聞くし……つまり俺は彼女の好みではないということか……」

「ですから、殿下。そもそもマーシャ様も、殿下の好みではないのでしょう? なのに彼女の好みでないからと言って傷つくのは都合が良すぎるのでは」

「う……それは、……そうだが」

 低く唸りながらヨハンは、頭を抱えた。仕えた王子のこんな悩む姿を見るのは、ルイにとっても初めてのことだった。ほとんどのことをそつなくこなし、自分が何をしなくとも女性たちは寄ってくる。王子であること、そしてその能力の高さゆえに彼を害そうとするような「内側」の敵もなく、ヨハンにはいつも余裕があった。

 それが今、この有様である。

 よほどマーシャという人魚に、心奪われているのだ。

「……最初は犬とか、腹を空かせた子どもに食料を与えてる感覚だった」

「はぁ」

「気づいたときにはなんとか食べ物を利用して、俺に興味を持たないかと考えていた。……俺に落とせない女はいない、とか、さすがにそこまで考えていたわけじゃないが……いや今までいなかったし実際……笑顔をみせて思わせぶりな言葉でも零せば簡単だった」

「言葉だけ聞いてるとすごいあの、クズですね」

「お前王子に向かって」

「私が言わないと誰も言わないから言ってるんです。だらだらお付き合いするような関係ではないのが唯一まだましだと思うくらいで、やってることはどうかと思います」

「運命を探してたんだ」

「マーシャ様がその運命だと?」

「……多分」

 はっきりと答えられないのは、やはりマーシャの心が自分に向いていないと思っているためだ。

 何度もマーシャのもとへ通って言葉を交わし、それなりに親しくなったつもりではある。マーシャもヨハンの顔を見れば嬉しそうに笑って――即座にその手にある食べ物に視線が行くが――いつでも楽しげに歌ったり、国のことを話したりしてくれる。

 だけれど、それだけなのだ。

 ヨハンがどれだけ結婚の話や社交パーティの話をしても、「へぇ~」「大変ですねぇ」と相づちを打つだけで、全く興味がなさそうなのである。

「告白したらよろしいのでは?」

「あっちが全然そういう空気じゃないのに? 振られたどうする」

「そういう経験も大切かと」

「駄目だ無理だ、マーシャに振られたら立ち直れない」

「心弱っ」

「それくらい本気なんだっての! 口いっぱいにものをつめて嬉しそうにニコニコしている彼女を見られなくなったら俺は……」

――どうやら、ルイの仕える王子ヨハンは。

 三十で初めて、本気の、ガチの恋に落ちてしまっているらしく。自身をそういう対象に見ていないであろう女性に対し、いつものようなスマートな振る舞いもわかりやすい愛情表現も叶わず、心底参ってしまっていた。

 ルイはふぅ、と短く息を吐いて、ヨハンに尋ねた。

「マーシャ様にお会いするときは、食べ物しか持っていっていないのですか?」

「あぁ、まぁ……それしか望まれていないしな……」

「ちょっと、ネガティブな思考は一旦止めておきましょう。だったら今度は花でも持っていかれたらいかかです?」

「……花?」

「えぇ。いつも食べ物しか持っていかなかったらそりゃあ『食べ物運び王子』と思われるでしょう。だから食べ物とは別に、心からの贈り物を持っていってはどうでしょう。花束でも飾りでも……そういうの選ぶのは得意でしょう」

 ルイの言葉にヨハンはぱちりと瞬きをした。言われて見れば今まで、彼女に請われるまま陸の食べ物を渡していたが、自分の気持ちでものを贈ったことはない。もちろん食べ物だって、彼女に喜んでもらおうと思って贈るものではあるが。

「そうか、うん。上手くいくかわからないが、やってみよう」

「解決したところで殿下、陛下からの伝言です。近日中に令嬢を集めたパーティーを開くから、今度こそしっかり婚約者を決めるようにと」

「いや話の流れ! 俺今好きな子いるんだって!」

「それはそれとして、王命です。……いっそマーシャ様もお呼びしたら良いのではないですか?」

「え、」

「ネーレウス国王だって陸に来られているのです。何らかの方法で陸に上がる方法があるのではないですか?」

 ヨハンの口元が少しずつ緩み、笑顔になる。それからルイの肩をバシバシと叩いて、嬉しそうな声で言った。

「お前は本当に出来た部下だ!」

「恋に溺れている殿下の判断力が落ちているだけですよ」

 辛辣な言葉であったが、上機嫌なヨハンは気にも留めない。何とでも言え、という様子だ。恋に溺れているのは否定しない。

 ルイはそんなヨハンの様子に何度目かのため息をつきつつ、これまで遊んでばかりであった王子の本気の恋の成就を、密かに願っているのだった。



*****



 ヨハンがいつもの場所へ赴くと、歌声が聞こえてきた。すぐにマーシャの声だとわかり、表情が緩む。ここを訪れるたびに聞いていた歌を、ヨハンは自然と覚えていた。マーシャの声に合わせて、歌を口ずさむ。マーシャの声が一度止まった。ひょこりと顔を覗かせた彼女は嬉しそうに笑って、岩場の影から姿を見せる。

「歌がうまいって本当だったんですね」

「何だよ、疑ってたのか?」

「だって聞いたことなかったから」

 聞けて良かった、とニコニコ嬉しそうに話すマーシャにヨハンは、いつになく胸を高鳴らせた。後ろ手に隠した花束を持つ手は随分前から汗が滲んでいる。

「な、なぁ、マーシャ。実は今日は、食べ物以外に渡したいものがあって」

「? 何だろ」

 ゆっくりと深呼吸をして、マーシャを見つめる。好奇心に瞳を輝かせ、何を貰えるのかと期待を膨らませていた。

 ヨハンは意を決した様子でマーシャに歩み寄ると、隠していた花束を取り出し、マーシャに差し出した。

「よ、」

「その、今日持ってきたエクレアの店の隣に、花屋があって。綺麗だったから買ってしまったんだ」

「私に?」

「あ。あぁいや、キミはこんなものには興味がないかもしれないが、……そもそも食べられないし、だけど、あー、……たまには花を愛でるのも悪くない、と……」

 マーシャはしばらく何も言わなかった。じっと花を見つめて、何度も瞬きをしている。

 なにか言い訳をするべきか、それらしいことを言うべきか、とっさの判断が出来ないでいるヨハンである。直後、マーシャが目尻を下げて照れたように笑った。

「あ、ありがとうございます! 花なんて滅多にもらわないから、びっくりしちゃった」

 んへへ、と笑う様すら愛しく思え、ヨハンは小さく「ンッ」と声を漏らす。

「そ、そうか、良かった……あ、今日のお菓子、エクレアだ」

 エクレアの入った箱を差し出しながら、ヨハンは小さく咳払いをする。マーシャはもう一度礼を述べて、差し出されたエクレアを頬張った。

「……マーシャ、聞きたいんだが……人魚が陸に上がることは出来るか? ネーレウス国王は人と変わらない姿でいたから、キミ……たち人魚はどうなのかなと」

 マーシャ以外のことはそこまで重要ではなかったが、不審がられないように付け足す。

「え、全然普通に出来ますよ」

 さらりと答えが返ってくる。

「昔は代償が必要だったみたいですけど、今は父さまの許可があれば誰でも陸に上がれるんです。姉さまたちが陸にお呼ばれしたって、前に話したと思いますけど……そのときは姉さまたちも人間と同じ姿になったそうなんです」

「じゃあマーシャも? 陸の上に来られるのか?」

「上がったことはないですけど、父さまに頼めば、多分」

 ぱくりと、三つ目のエクレアを口に含む。ヨハンは期待の感情が込み上げてくるのを必死で抑え込みながら、マーシャに言った。

「今度、俺の城でちょっとしたパーティーをするんだが……良かったら来ないか。たくさんの美味い料理が出るぞ」

「えっ!」

 ギュンっ、とものすごい速さで顔が向けられる。きらきら、ちかちか。初めて出会ったときと同じような輝く瞳を向けたマーシャは、さらに頬を紅潮させてヨハンを見やった。

「ほ、ほんとに? ほんとに行って良いんですか?」

「あぁ、もちろん。心配ならキミの姉君たちも連れてきたらいい。これは招待状だ」

 本当はマーシャだけがいいのだがーー勝手に一人だけ連れ出そうものならきっと、あの二人は黙っていないだろう。先手を打って好感度を上げておくのが身のためである。

 招待状を受け取ったマーシャはやはり目をきらきら輝かせて、両手を上げてバンザイする。

「やった~! 陸にお呼ばれするの、初めてです!」

 こんなにわかりやすく喜びを表現する人を、ヨハンは知らない。大袈裟に喜んだり笑ったりすることは無作法だと思っている貴族がほとんどである。国王である父はそのようなことは一切気にしていないのだが、頭の固い一部の貴族はやたらと堅苦しい作法に拘っていた。

(あぁ、いいな)

 じわりと、そう感じる。

 この子がずっと隣にいてくれたら、笑っていてくれたら。そう考えるだけで胸がきゅぅと詰まる。

 ふくよかでもちもちで、少しも好みではないのに。愛しくて恋しくて堪らない。

「マーシャ」

「はい?」

「ドレスコードがあるから、しっかりお洒落してこいよ。楽しみにしてる」

「あ、そっか! ……大丈夫です、姉さまたちに教わるんで!」

 アマンダとブリアナ、二人の姿を思い出して思わず青くなってしまうヨハンである。万が一のためにドレスを贈るかとも考えたが、それはまだ早い、あからさまだ、と自分に言い聞かせて首を振る。

 今まで「お付き合い」をしてきた女性たちと同じやり方では駄目だ。何せ彼女は、こちらに気がない。

 だからじっくり、ゆっくり、焦らず。――そんな余裕があるのかと自問自答する。

 それほどにはもう、ヨハンはマーシャに心底焦がれていた。

 

 ヨハンが帰ったあと、マーシャはすぐに花と招待状を抱えて姉たちのところへ向かった。

 花を抱えて戻ってきた妹の姿に、二人の姉は顔を見合わせてにんまりと笑う。

「あらあら、マーシャ。そのお花は?」

「ヨハン様からいただいたの! それからお城でのパーティの招待状も貰ったんです!」

「まぁまぁ、あの王子……吹っ切れたのかしら、いきなりぐいぐい来るじゃない?」

 マーシャとは年の離れた姉たちは、酸いも甘いも知っている。何度もマーシャのもとへ足を運ぶ王子の気持ちなど、とっくに理解していた。

「それで、マーシャ。お花を貰ったということは、プロポーズでもされたのかしら?」

「え? いや、エクレアのお店の隣に売ってたからついでに、みたいなこと言ってたけど」

「……気のせいだったみたいね、まだまだ全然ヘタレたままじゃない」

「プロポーズだなんて、姉さま。ヨハンさんの好みのタイプはスレンダーな方らしいから、私は正反対ですよ」

「あの男はまだわかっていないのよ、マーシャ。このふくふくもっちもちむっちむちの身体の魅力を!」

 力説するブリアナの横で、アマンダは招待状に目を通していた。ご丁寧に三人分の名前が書かれてあり、「やっぱりヘタレだわ」と呟く。

 こうやって遠回しなアピールばかりするから、ただでさえ恋愛ごとに疎いマーシャは気付かない。あれほど「愛しくて堪らない」という目で見ているのにも関わらず、マーシャはまさか自分が想われているなど微塵も思っていないのだ。

「あの、あの、姉さま」

「うん?」

「私、このパーティに行きたい。美味しいものがいっぱいあるんだって、ヨハンさんが言ってて」

 食べ物を口実に誘ったのか――と、姉二人は幾分か遠い目をする。それが悪手であることにはきっと、ヨハンは気づいていないのだろう。

「そうね、あなたもそろそろ陸に上がってみてもいいかもしれないわ」

「父様には私から伝えておくから、任せておきなさい。アマンダはマーシャの支度を手伝ってあげて」

「えぇ、もちろん。マーシャを誰よりもかわいく仕立ててやるわ」

 ぎらりと瞳を輝かせて胸を張る。マーシャはさすが姉さま、と胸の前でぱちぱちと小さく手を叩いた。

 どんな美味しいものが食べられるのか、今から楽しみで仕方がない。たくさんお腹を空かせていかなきゃ、と思いながら、ふとヨハンの顔が頭に浮かぶ。

 きゅっ、と胸が詰まるのを感じて、首を傾げた。

 少しずつ芽生えている感情の正体を、彼女はまだ知らない。



*****



 パーティーの日はすぐにやってきた。国中の未婚の令嬢たちが集まって、きゃあきゃあと話に花を咲かせている。申し訳程度に令息や騎士などもいるが、令嬢たちの目には入っていないようだった。

 何せ彼女たちのお目当ては、自国の王子様。王妃の座を射止めんとする彼女たちは目を光らせ、王子――ヨハンから声をかけられるのを今か今かと待っている。

 当のヨハンはワイングラスを片手にずっとソワソワし続けていた。そばに控えているルイはその様子に、浅くため息をつく。

「ちょっとは落ち着いてください、殿下」

「は? 落ち着いてるだろ」

「素が出てますよ。せめて令嬢たちの前では王子であってください」

 わかってる、と答えて、ヨハンは広間に用意された食事の数々に目を向けた。令嬢と同じ数だけ令息や他国の参加者があればある程度はなくなっているであろう料理は、まだたっぷり残されている。令嬢たちは食べ物になど興味がない様子で、チビチビとシャンパンを嗜む程度である。

 今まで少しも、気にしなかった光景。残った料理は城のものに食わせるか、捨ててしまうだけだと思っていた。

 だけれど今は、そうは思えない。どんな料理にも敬意を評し、しっかり平らげる存在に出会ったから。

(あとで料理人たちには報奨をやろう。それから普段の料理も量を調整してもらって……)

 そんなことを考えていると、不意に広間にざわめきが起こった。顔を上げ、広間の入り口を見る。ヨハンの表情が、わかりやすく緩んだ。

 布をたっぷり使った、エメラルドグリーンのロングドレス。マーシャの髪色に合わせて作られたであろうそれは、決して華美にならない程度に宝石が散りばめられている。普段はさらされているむちむちの二の腕やお腹はしっかり隠されて、とても淑やかな雰囲気があった。化粧も施されており、いつもとは異なるマーシャの姿にヨハンの動きは止まっていた。

「まぁ……どこの令嬢かしら」

「見て、あのみっともない体型……」

「殿下の好み、何もわかっていないのね」

 ヒソヒソと聞こえてくる令嬢たちの声に、ヨハンははっと我に返る。すぐに表情を引き締め、笑顔でマーシャに近づいた。

「マーシャ! よく来てくれた」

「ヨハンさん! 良かった、知らないひとしかいないからすっごい心細くて……」

 安堵から泣きそうな表情を浮かべているマーシャの脇腹を、隣にいたアマンダが小突く。彼女もまた布をたっぷりつかった豪華な、けれどとても上品なロングドレスを身につけていた。

「あ、あ、えっと。こ、この度はお招きいただきまして、ありがとうございます」

 ドレスの裾を少しだけ持ち上げて、カーテシーを披露する。ちらりと見えた足元は、人のそれと同じだった。ヨハンは胸元に手を添えて、礼を返す。

「こちらこそ。ようこそいらっしゃいました。ゾンネ国の王女たち」

 ゾンネ国に反応するものしないもの様々であったが、ヨハンは気にしなかった。それよりも目の前の想いを寄せる相手に夢中であった。

「ひとの足に慣れなくて到着が遅れちゃいました」

「あぁ、やっぱりそういうのあるんだ」

「すごくお腹空いてます!」

 ぐぅ! と盛大に腹の音が聞こえて、ヨハンはぷはっ、と吹き出した。

「料理ならまだまだいくらでも残ってるから、ゆっくり食べていってくれ」

「やったー! 姉さま、ちょっと行ってきますね!」

 大きな身体のわりに素早く移動して、マーシャは料理が並んだテーブルの前にたどり着く。どれもこれも美味しそうで、匂いをめいっぱいに吸い込んだ。

 いただきます、と手を合わせて、とりあえず手に取りやすいクロワッサンを口にする。心底美味しそうに表情を綻ばせる様を、ヨハンは穏やかな眼差しで眺めていた。

 突然やってきては料理を食べ始めた存在に、令嬢たちはやはりこそこそと言葉を交わしあった。

「やっぱりあの体型ですものねぇ」

「殿下もどうしてあんな方を呼んだのかしら」

「まぁ、どうしたってあの方がヨハン殿下の伴侶になることはありえませんわよ」

 こそこそ、というが、はっきりとあちこちに聞こえる声で話す令嬢たちにヨハンは小さく舌打ちをする。

 王命だからと受けた、望まないパーティー。あちらにいるどの令嬢とも、婚姻を結ぶつもりはない。小柄でかわいらしい女性、スレンダーで美しい女性、様々な令嬢がそこに立ってはいたが。誰一人、あれほど美味しそうに食事を取ることはしないだろう。

「ヨハン殿下」

 声をかけたのはアマンダである。彼女も令嬢たちの声を聞いてか、視線が幾分か冷めていた。

「私たちが長い間、マーシャを陸に上げなかったのはあぁいう穢れを見せたくなかったからよ」

 年の離れた末の妹。アマンダとブリアナにとって、何よりかわいい娘。

「でもずっと、きれいなものだけ見ているわけにも行かないでしょう。言わば社会勉強の一環ね。あの子もいつか、誰かと結ばれて嫁ぐ日が来る」

 びく、と、ヨハンの身体が強張った。アマンダは目敏くそれを見て、ふふん、と鼻で笑う。

「あの子ね、モテるのよ。あんたと同じように、幸せそうに食事をする姿を見て夢中になるの。それに王族の末の娘でもあるから、結婚の申込みだってあるわ」

「えっ、……え、それ、マーシャは、どう……」

「断ってるわ。まだそういうのわからない、って。ピンと来てないみたいね」

「そ、そうか……」

 思い切りわかりやすい反応を示すヨハンに、アマンダは肩を震わせて笑った。

「あぁ、いい気分ね。遊び人だと言われてた男が、私たちの妹にべた惚れしてるなんて」

「……は、……はぁ!? なに、何を言って、」

「あら、誤魔化すのはやめなさい。そういうの今どき流行らないから。愛の告白は堂々となさい。そうでなければかわいい妹をやることは出来ませんわ」

 さすがの貫禄と言おうか、年の功と言おうか。アマンダの発言には重さがあった。それからアマンダは「国王陛下にご挨拶を」と言ってその場を離れ、ヨハンは気を取り直してマーシャのそばに行こうとした。

「ヨハン殿下!」

 一人の令嬢が、ヨハンに声をかける。それを見た他の令嬢たちも、わらわらと寄ってきた。

「ヨハン様、一度ご挨拶をさせていただきたく」

「わたくし、今日のためにお歌を習って参りましたの!」

「ヨハン殿下のためにダイエットしましたのよ。おかげでドレスが緩くて」

 我先にとアピールを初めた令嬢たちに、ヨハンは愛想笑いを浮かべて相槌をうつ。それからルイに目配せをして、マーシャのそばにいるように合図を送った。マーシャは相変わらずもりもりと食事を続けているが、アマンダもこの場にいない今何かがあってはと心配してのことだった。

 ルイはすぐに頷いて、マーシャのそばへと歩み寄る。ヨハンから聞いてはいたが、この食べっぷりは大したものだと感心した。

「食事はお口にあいますか?」

「んぐ」

 口いっぱいにものを含んだまま、マーシャが振り返る。その様に思わず吹き出しそうになるのを堪えて、ルイはにこりと微笑んだ。

「私はヨハン殿下の従者で、ルイと申します。マーシャ様のお話は伺ってますよ」

 ごくん、と口の中のものを飲み込んだマーシャは、すぐに頭を下げた。

「ヨハンさんにはいつも美味しいもの食べさせてもらってます!」

「はい、いつも残さず食べてくれると嬉しそうに話してましたよ。あんなに楽しそうな殿下は初めてかもしれません」

 きょとりとして、マーシャは令嬢たちに囲まれているヨハンに視線を向ける。ほっそりとした、或いは小柄な女性たちは誰が並んでもヨハンと似合いそうだった。喉が詰まる感覚に、マーシャは胸元をどんどん、と強く叩いた。

「マーシャ様?」

「あ、えっと。今日って何のパーティなんでしょうか。お城でパーティをやる、としか聞いてなくて」

「あぁ、今日は殿下のためのパーティですよ。まだ独り身ですからね、今日はお相手様を見つけるための催しです」

「へぇ……」

 スレンダーな女性が好みだと言っていた。もしかしたらあの中に、ヨハンの伴侶となる相手がいるのかもしれない。

 彼との時間が楽しくて忘れていたが、ヨハンはこの国の王子だ。近い内に王妃を娶って、いずれは国王になるのだろう。

 そうなれば……そうならずとも。伴侶となる相手を見つけたのなら、今までのように食べ物を持って来ることはなくなる。マーシャに構っている余裕などないだろう。

 ヨハンとの時間は、限られたもの。

 つかの間の、幸せな時間。それはいつか、思い出になるのだ。

「あの、ルイさん」

「はい?」

「結婚式にも、ご馳走は出ますか?」

 ルイは一度きょとんとして、それからまたすぐ笑顔になった。

「えぇ、もちろん。たくさんご用意します」

「良かったです。それじゃあ、」

 その日が来るまで、陸の料理はお預けにしよう。

 そんなふうに考えながらマーシャは、目の前の料理にまた手を伸ばした。



*****



 あれからヨハンは、令嬢たちへの対応に追われた。逃げても逃げても、次から次へと令嬢が湧いてくる。マーシャのことがなくても心底面倒だと思っていたことだろう。再びマーシャとまともに言葉を交わすことが出来たのは、海の国へ戻ろうとする彼女を見送るときだった。アマンダは一足先に海の中へと戻っている。二人きりの時間を作ってくれたのは、彼女の配慮だろう。

「その、今日は悪かった。ろくに相手も出来なくて」

「え? ヨハンさんは王子なんだから、普通じゃないですか? 聞いた通り、本当にモテモテでしたね」

 にこにこ、変わらない笑顔で言う。少しも嫉妬などはしなかったのだろうなと、ヨハンは少しだけ泣きたくなった。

「お城にいたひとたち、みんな素敵でしたね。細くて、ちっちゃくて」

「いや、それはどうでもいいんだが……今日、楽しかったか?」

「はい、とても。ご飯はどれも美味しかったし、ルイさんとか、陸の騎士の方とか、ご飯を運んできてくれるメイドさんともたくさんお話しました」

 そこに自分がいないことが切なくて、胸が詰まる。仕方がないこととは言え、今回のパーティはヨハン的には「失敗」だ。

「また来いよ。招待状出すから、いつでも……」

 マーシャは大きく瞬きして、それからにこりと笑った。そうして、ゆっくりと首を振る。

「……え?」

「今日のパーティは、ヨハンさんのお嫁さんを見つけるためのものだと聞きました」

「そ、れは、」

「あの中のどなたかと結婚するかもしれないんですよね。きっと誰が隣に並んでも素敵だと思います。結婚式には呼んでください。またご馳走食べたいので」

「マーシャ、俺は」

「陸の食べ物いっぱい食べさせてもらって、大満足です。ありがとうございます、ヨハンさん。……あ、結婚式のときは今までのお礼も込めて、素敵なプレゼントを贈りますから! それじゃあ、お元気で」

 ひらひらと手を振ったマーシャは、ドレスのまま海の中へと飛び込み、最後に立派な背びれを見せて消えていった。

 残されたヨハンはその場に膝をつき、呆然としている。

「え……俺……振られた……?」

 ヨハンはしばらく動くことが出来なかった。夜の海に人の気配はなく、また人魚の気配も、見えることはなかった。

 その日からヨハンは何度も同じ場所へ足を運んだが、マーシャの姿を見ることはなかった。



*****



 大きな貝殻のぬいぐるみを抱えたマーシャは、ぼんやりと宙を見上げていた。何度も身体の向きを変えて、うんうん唸っている。その様子を姉たちは眺めて、はぁ、と息を漏らす。

「アマンダ、パーティで一体何があったの?」

「何もなかったのよ、何も。ヨハンはずっと令嬢に囲まれて、あの子はずっと運ばれてくる料理を食べて。それだけだったわ」

「それだけだった、から?」

「えぇ、きっとそうね」

 ヨハン王子の伴侶を決めるためのパーティ。たくさんの令嬢たちがあの手この手を使ってヨハンにアピールをしていた。マーシャは無心で食事を続けていたものの、きっと思うところがあったのだろう。あれから陸どころか海上に赴くこともなく、部屋の中でずっとごろごろしている。

「聞いた? あの子、食事の量が減ったって」

「えぇ、いつもの半分だって。体重も三キロも落ちたんですってよ」

「まぁ、なんてこと! かわいいあの子のお肉が三キロも!」

 姉たちは心配になって、マーシャのもとへと向かう。ごろごろ、だらだら、それは打ち上げられたセイウチのごとくだらけていたマーシャを、アマンダとブリアナは見下ろした。

「マーシャ、体調が悪い?」

「心の病気かしら」

「姉さま。……そうかもしれないです。ずっとお腹の奥が重くて、モニャモニャします」

 アマンダはマーシャの頭をよしよしと撫でてやりながら、優しく微笑む。

「そのモニャモニャはね、きっと恋よ。恋煩い。マーシャが自分で気づくまで黙っていようかと思っていたんだけど、あんたって子は本気で鈍感で……」

「私たちの妹でありながら、どうしてこうも鈍感になってしまったのかしら……それはまぁ、置いておいて。アマンダの言うように、マーシャは恋をしてるのよ。ヨハン王子にね」

「恋……?」

「ヨハンといる時間は楽しかったでしょう? 会えるときを楽しみにしていたでしょう? お花を貰ったとき、とても喜んでいたでしょう?」

 こく、と、マーシャは頷く。

「あんたはヨハンのことが好きなのよ。他の女に囲まれる彼を見て、悲しくなってしまうほどには」

 あのとき感じた喉奥が詰まる感じは、悲しかったからなのか。マーシャは胸元に手を当てて、はっとする。

「でも、ヨハンさんの好みは、スレンダーなひとだって。わた、私、こんなでっかいし、お腹も出てるし、っ……」

 急に悲しさが込み上げて、ぼろぼろ涙がこぼれた。貝殻のぬいぐるみを潰れるほど抱きしめて、何度もしゃくり上げる。

 恋心を自覚した途端、失恋してしまった。マーシャはそんなふうに思っている。姉たちは顔を見合わせて笑うと、マーシャの頭を優しく撫でて涙を拭った。

「いいこと、マーシャ。好みのタイプなんて、恋を前にしたら無意味なものよ」

「そうよ。私だって本当はサメ男よりもクジラ男の方が好みだもの。でも恋をしたのは今の旦那よ」

「少し落ち着いたら、また海上に行ってごらんなさい。いい加減あの男にも、覚悟を決めてもらわないと」

「かく、ご?」

「こっちの話よ。さぁマーシャ、おやつにしましょう」

 アマンダとブリアナと話をしたことにより少しだけ心が軽くなったのか、マーシャのお腹がぐぅう、と鳴った。優しい笑みを浮かべる姉たちに連れられ、マーシャは部屋を出る。

 二人の姉は、末の妹に対しては過保護だった。

 かわいい妹を泣かせた王子に責任を取らせよう。口に出さずともはっきりと心に決めた二人である。



*****



 ヨハンはあれから、すっかり抜け殻だった。何をしても曖昧に生返事で、執務も滞っている。

 そんな様子なものだから、知らないうちにとある公爵家とのお見合いが決まっていた。どのタイミングでどのように返事をしたのか、ヨハンは覚えていない。

「殿下、いつまでそんな調子なんです?」

 ぼんやりとしたままの主の姿にルイは、ため息をつく他なかった。見合いのためにいつもより気合の入った衣装を用意したものの、当の本人がこれでは意味がない。

 ルイは一応、国王陛下にマーシャのことを話してはいた。ヨハンがどうやら恋をしたようだということも。

 だが国王はにやりと笑って、「本人がどうにも出来ないのであれば仕方あるまい」と言った。政略よりは自由結婚を推奨していたはずの王がどうしたことかと思ったが、当然ルイに反論など出来るはずもない。仕方なく命令されるがまま、見合いの準備を進めている。

「このままでいいんですか、本当に。マーシャ様に何も言わないままで」

「……言うも何も……言う前に振られたし……俺が……この俺が……」

 初めての恋、そして初めての失恋。それはヨハンの心にとてつもないダメージを与えていた。もともとナルシストで自尊心の高い男である、無理もない。

 一発殴れば目も覚めるだろうか。このまま結婚が進んだとして、良い結果に進むとは思えない。

 マーシャが「結婚式にも料理は出るか」と聞いたのは、自分とヨハンの、という意味ではなかった。てっきりもう両想いであるのかと期待をしていたのだが――マーシャを送り届けてからヨハンはずっと、この有様である。

 ルイが拳にぐっと力を入れた、そのときだった。

「ごぉめ~~んあっさっせぇ~~~!!」

 バァン、と大きな音を立てて、部屋の扉が開いた。おそらく「ごめんあそばせ」だと思うが、それを盛大に崩した言葉でやってきたのはマーシャの姉、ブリアナだった。

「ヨハン殿下、ご機嫌麗しゅう。その後いかがお過ごし?」

 ぼぉっとした顔でヨハンは、ブリアナを見やった。人魚は人魚でもマーシャではない、とわかって、すぐにはぁ、とため息をつく。ルイが慌てて、ブリアナの前に立った。

「あ、と、すみません、ヨハン殿下はこれから用事があって……ご用向は」

「あら、すぐ済むわよ。うちのかわいいマーシャだけどねぇ、お見合いをさせようと思ってるの」

 それまでダレていたヨハンが目を見開き、勢いよく立ち上がった。

「実はね、ずっとあの子に片想いしてる男がいてねぇ。カルウーノ国の王子なんだけど……どこかの王子と違って、それはもう素直に愛を告白するのよ」

 じろ、とヨハンを睨み、ブリアナは口角を上げて笑う。ダンッ、と強く地面を踏みしめ、ヨハンに言った。

「愛の告白は堂々と! それも出来ない、しようともしない男に妹はやれないわねぇ!」

 ブリアナの言葉にヨハンは、先日のアマンダの言葉を思い出した。ほとんどブリアナと同じことを言っていたように思う。

 彼女たちは知った上で発破をかけていた。告白をしろと、――奪ってみせろと。そう言っていたのだ。

 ヨハンは慌てて走り出した。ルイの呼ぶ声は聞こえていないのか無視したのか、そのまま部屋を出て行く。ブリアナは満足げに笑みを深めて、うふふと笑った。

「そうだ、えーと、アナタ。ヨハン殿下の従者の方。ごめんなさいねぇ、余計なことをして」

「……まぁ、余計なことと言えばそうですが……あのままでいられるよりはずっとマシです」

 はっきりと答えるルイに、ブリアナは瞳を細めて頷く。

「お見合いの準備をしてたのよね。相手の令嬢の方にはこれ、渡しておいてくださる?」

 そう言ってブリアナがルイに渡したのは、飴玉ほどのサイズの真珠だった。しっかり研磨されているそれは、恐らく相当の額がつくものと思われる。

「え、これは」

「お詫びの品よ。ま、そんなものウチにはゴロゴロ転がってるけど。かわいい妹のための汚れ役は姉のつとめ……これくらいどうってことなくてよ」

 ホホホ、と笑ったブリアナは、登場と同じように颯爽と退場した。ルイはしばらく呆然としたあと我に返り、慌てて国王のもとへ走って行った。



 ヨハンは息を切らせて走っていた。

 あの場所にマーシャはいるだろうか、しばらく姿を見ていない、もしいなかったら海に飛び込めば会えるだろうか、そんなふうに考えながら必死に走った。

 たどり着いた海は静かだった。マーシャの姿は見えない。ヨハンは足を止めてぐっと拳を握り込み、海に向かって叫んだ。

 プライドが邪魔して、ずっと言うことの出来なかった言葉。マーシャに伝えるべき想い。

「マーシャ! 俺はキミが好きだ!」

「美味しそうに食事をするところも、口にいっぱい頬張ってるところも、俺よりも食べ物に興味があるところも!」

「そのもちもちの二の腕も、ウェストがない腹も!」

「全然! 全然好みじゃないのに、愛しくて仕方がないんだ!」

「キミが好きだ、マーシャ! 誰よりも、愛している!」

 思いの丈を叫んで、はっ、と息を吐き出す。静かな海だった。――静かな海にぱしゃんと、水音がした。

「え、」

 いつもの場所、大きな岩場の影。彼女はいつも、そこにいた。

 今日も、そこに。

 両手で口を塞いで、顔を真っ赤にして。潤んだ瞳は、ヨハンの姿を映していた。

「まっ、」

「よ、」

 同時に言葉を発して、黙る。しばらく経って、ひくっ、とひきつる声が聞こえた。マーシャの瞳から涙がこぼれ、ヨハンがぎょっとする。

「え、泣く!? そんな嫌だった!?」

「ちがう、び、びっくりして! 私、全然ヨハンさんのタイプじゃないから、だから、……」

 ごく、と息を飲んで、ヨハンはマーシャに近づいた。ブーツが濡れるのも気にせずに、いつもよりずっと距離を詰める。するとマーシャは慌てて岩場から出てきて、ヨハンに向き直る。すん、すん、と鼻をすすりながらヨハンを見つめていると、ヨハンの表情がだらしなく、でれっと緩んだ。

「だからこれは、本気の恋だ。さっきの告白の通り。俺はキミが好きだよ。伴侶は、キミがいい」

「わ、わたし、もちもちのむちむちですよ。みっともない、って言われます」

 それが堪らなく愛しい。ふくよかなキミが、何よりも。

「言わせたいやつには言わせておけばいい。キミのそのふくよかな体型は、何より平和の象徴になる。……俺と結婚してくれ、マーシャ」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってしまった顔のまま、マーシャはさらに顔をくしゃくしゃにして笑った。こく、と強く頷いた瞬間、ぐぅううう!! と盛大に腹の虫が騒いだ。

「……嬉しくてお腹が減りました」

 目を丸くしたヨハンは、けれどすぐに声を上げて笑った。久しぶりに、腹から声を出して笑った。



*****



 それから、数週間後。

 レーゲン国第一王子ヨハンと、ゾンネ国第三王女マーシャの婚姻式が行われた。結婚式はまた一ヶ月後に、大々的に行われるらしい。

 蛇足だが、見合いを放棄された公爵家は最初怒っていたものの、見たこともないサイズの真珠を受け取り喜び勇んで帰っていったとか。

 ヨハンのタイプとは真逆の、もちもちふくよかなマーシャとの婚姻は最初こそ非難するものがいたものの、彼女の笑顔――主に何かを食べているとき――を見て、考えを改めるものが多かったという。

 レーゲン国では「ふくよかな女性は平和の象徴」と謳われ、たくさん食べる女性がモテはじめた。

「……これでいいのかな、本当に……」

 東の国からの祝いの品「もなか」を食べながらマーシャは、ぽつりと呟く。

「何が?」

「うーん、なんていうか……健康とか、そういうの。人間って、人魚族より脆いって言うし……あ、美味しい」

 もぐもぐ咀嚼しながら瞳を輝かせる。しかしすぐにはっとして、ぎゅっと眉を寄せた。

「大丈夫だろ。流行りはすぐになくなるだろうし、それにマーシャほど食うやつもそういない」

「そっか。それなら大丈夫ですね。あっ、こっちのおまんじゅうも美味しい!」

 きらきら、ちかちか。出会った頃と変わらぬ表情でものを食べるマーシャの姿を、ヨハンは至極愛しげに見つめている。

 遊び人と言われていたヨハンは、すっかり一途な愛妻家になった。

 ゆえにレーゲン国では「ふくよかな女性」と共に、もう一つ流行ったものがある。


 運命の相手探し。


 それまで躍起になって高位の貴族との婚姻を望んでいたものたちは、手のひらを返して運命の相手を探しだした。それが平民であろうと、異国の人であろうと、人魚であろうと。ビビッときたら添い遂げる。そんなことが当たり前になりつつあった。

 当然良いことばかりではないが、この状況に国王はいたくご満悦だった。

 レーゲン国及びゾンネ国は、今日もとんでもなく、平和である。

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