本文
【プロローグ】
俺とキミ以外、屋上には誰もいない。
薄汚れた塔屋の
俺とキミの間を隔てる物理的距離は、どんどん画面がデカくなってカメラの性能が上がる最新型スマホの長さ三つ分。いや、四つ分かもしれない。
放課後の学校というのは日中とだいぶ雰囲気が異なるもので、あえて何かに喩えるとするなら、……えー、何に喩えよう。
別に喩えを出したところで何か変わる訳じゃないが、それっぽい何かを探して頭を回してみる。
あ、そうだ。
そう、夏と冬くらい違う。
日中の学校は随分と賑やかで騒々しい。それはまるで、真夏に合唱する蝉みたいに。
放課後の学校は賑やかなのにどこか静かだ。それはまるで、クリスマスに降る雪みたいに。
何気なく、ちょっと得意げに、調子に乗ってみて、てきとーなことを考えた脳みそがくるりくるりと空回り、学校がある日の一日は四季に似てるかもしれないなぁ、という思考を呼び寄せた。
朝起きて学校に行くまでが春、学校で授業受けたり休み時間に友だちと駄弁ったりしてる時間が夏、放課後に部活やったり友だちとどこかに寄ったりする時間が秋、家に帰ってからが冬だ。そうしてまた朝起きて学校に向かって、四季は巡る。
どの時間もそれぞれ違った雰囲気を持っている。四季と同じだ。
上手いこと喩えたなぁと自賛しかけたが、よく考えると全然違うかもしれないと思った。というか放課後は冬じゃなかったのかよ。
自分の思考に自分で突っ込む。意図せずふっと笑いが零れた。
隣のキミが軽く身をよじった。
遠くから響いてくる運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏に交じって、間近で響く衣擦れの音が鼓膜をくすぐる。あの音たちは学校の何処にいても聞こえるけど、この音は今この場所でしか聞き取れない。
キミは今までも、ずっと、誰にも聞かれない音をこの場所で鳴らし続けてきたのだろうか。
「なぁ、キミ」
「…………なに」
話しかけてから一拍、二拍と間を置いて、心底気だるそうな掠れた声が返ってきた。無視されなかったことに安堵した。キミと一緒に放課後を過ごすのはまだこれで三度目だけど、俺が話しかけても三回に二回は無視される。
「お前ってさ、一年の時も放課後はここにいたの?」
「そうだけど」
「雨の時とかも?」
「…………」
返事が無くなった。答えたくないというよりは、答えるのがめんどくさい、という雰囲気をひしひし感じる。
隣へ目をやると、パサパサでボサボサの長い前髪の隙間から、化粧っ気のない青白い肌と深く伏せた目元が見えた。キミの視線は、屋上の床の方へ落とされている。
小さな身体だ、と思った。俺とは色んなものが違う、小さくて、薄くて、脆そうな身体。
そのまま何となくキミのことを見ていると、はぁ、という重々しいため息が落ちた。
あのさ、と俺は口を開く。
数拍の間を空けても、キミがこちらに注目する気配はない。
「俺がここに来るのって、迷惑か?」
もう一度、キミがため息を吐く。不快そうな深いため息と共に、言葉が零れ、落ちる。
「今更、でしょ」
今更。
その漢字二文字に込められた意味を測ろうとして、測りかねる。案外簡単に分かりそうであって、実際には何一つ分からなかったりする。
それはまるで、俺にとっての
キミがポケットから『Peace』の箱を取り出して、タバコを一本、人差し指と中指の間に挟んだ。それを咥えて、銀色のオイルライターで火をつける。ひび割れた薄い唇から白い煙が吐き出される。タバコのにおいが強く香った。
タバコは身体に悪いモノであるらしい。彼女が膝の上に乗せた紙箱にも『たばこの煙は、あなただけでなく、周りの人が肺がん、心筋梗塞など虚血性心疾患、脳卒中になる危険性も高めます』と書いてある。
でも、俺はこの香りを悪いモノだと感じない。キミから香るこのにおいを初めて嗅いだ時、案外それを不快に感じなくて、むしろその香ばしさをどこか良いモノだと感じた。自分で驚いたほどだ。
社会や周りのみんなが言うほど、タバコは悪いモノではないんじゃないだろうか、と思った。
ただ少なくとも、学校の屋上で二十歳未満のキミがタバコを吸うことが、現代日本で許されていないのは事実である。それはきっと、悪いことだ。
「ねぇ」と、煙と一緒にキミが吐き出した。彼女がタバコを指先で叩いて揺すると、その先から灰が真下に落ちていった。
一瞬、聞き間違いかと思った。たぶん、キミの方から俺に話しかけてくるのは初めてのことだ。
「君は、吸ったことある?」とキミが問う。
「タバコ?」
「うん」
「ないな」と俺は答える。
「そっか」
興味なさげにキミが呟いて、会話が終わる。キミの目が俺に向けられることもない。
やがてキミはタバコを吸い終え、脇に置いてある薄汚れたバケツに吸い殻を投げ入れた。バケツの中には、大量の吸い殻が山を成している。またキミがタバコに火をつける。
視線を正面に戻す。金網の向こうの、西の地平の向こう側に、紅い太陽が落ちていく。
あーいかないでくれーっ、なんて。ふざけて心の中で叫んでみても、太陽は待ってくれない。ゆっくり、ゆっくり、確かに落ちていく。
太陽の姿は見えなくなって、名残惜しむように、紅い夕焼けが微かに残る。マジックアワー、だっけ? 綺麗な景色だと思う。だがそれもすぐに夜色に変わってしまう。だから魔法の時間なんだろう。知らんけど。
前触れもなくキミが動いて、塔屋に掛けられた梯子を下りていく。キミの姿が視界から消える。タバコの残り香は隣に居座ったままだ。風が吹いて、その香りもすぐに薄れる。これもある種のマジックアワーかな。
ガンッ! と大きな音が下で響いた。
視線を真下に投げると、鬱陶しそうに、気だるそうに、キミが俺を見上げていた。ガンガンと苛立たしげに鉄扉を爪先で突いている。
「こらこらお行儀が悪いですわよ」
チッと舌打ちが返ってくる。怖い怖い。
ポケットに手を突っ込んだキミが、そのカギを取り出す。
俺も梯子を下りて、キミと一緒に塔屋の扉をくぐった。そこはもう屋上ではなく、ただの校舎の中だった。ひっそりとした放課後の校舎内。多くの生徒は家に帰っていて、まだ部活で残ってる奴らもそろそろ帰宅するだろう。
ポケットで震えたスマホを取り出すと、『校門でまってる♡』というメッセージが届いていた。『すぐいく♡』と返信して、スマホをしまう。
カチャンと屋上の扉にカギをかける音が、背後で鳴った。
キミが隣を横切って、埃っぽい階段を下りていく。トン、トン、トンとテンポよく足音が響いて、踊り場を曲がったキミの姿が見えなくなる。足音も聞こえなくなる。
タバコの香りも、どこにも見当たらなくなる。
【一章】
部活を終えてから更衣室に辿り着き、最初にやることはシャワーじゃんけんである。
シャワーじゃんけんをご存知ない方のために、一応解説しておこう。
シャワーじゃんけんとは、シャワーの優先権を賭けたじゃんけんである。
もう少し詳しく説明する。
我が校では、シャワーが設置されているのが全校生徒共用の更衣室だけであり、そのシャワーの数が二つしかない。
運動部にとって身体中にまとわりつく汗というのは切っても切り離せるものではなく、汗拭きシート等のデオドラントアイテムだけで処置を施す者もいるが、部活後のシャワーを欲する者もいる訳で。部活が違えば終わる時間にもズレが生じるので鉢合わせる機会も少ないのだが、同じ部活で汗を流す仲間だと当然のように連れ立って更衣室に向かう。
この時二つしか存在しないシャワーに対して部活後シャワーマンが三人以上存在してしまえば、小学一年生でも容易な計算から導き出されるように、順番待ちが発生する。その場に先輩がいれば先輩に譲るのだが、同学年の間にそんなものはなく、バスケの上手さなんかも無関係に平等である。ならばじゃんけんしかない、という結論が導かれる。このようにしてシャワーじゃんけんは誕生した。
本日は部活後に先輩たちが所用で部室の方に向かったので、新二年生七人が参加したじゃんけんバトルロイヤルで一人勝ちした俺がファーストシャワーの権利を得た。拳を高々と掲げる。
あいあむ、ざ、うぃなー。
敗者たちにはっはーと勝者の笑みを見せつけながら服を脱ぎ、残りの一枠を争うじゃんけんコールをBGMに、悠々とシャワー室へ入る。シャワーで汗を流し始めてすぐ、長谷川の勝ち鬨の咆哮が扉を突き破って聞こえてきた。
校門前でつむぎが誰かと話していた。その相手を見てすぐ、あぁ一年生だ、と分かった。
これがもっとあとの時期なら迷った気がするけど、四月のこの時期の新入生は、それ特有のにおいを纏っている。
制服が真新しいとか、制服の着こなしがぎこちないとか、靴がやけに綺麗だとか、先輩に向ける態度にまだ硬さがあるとか、校内での振る舞いにどこか落ち着きがない、とか。きっと去年の俺たちもそんな感じで、先輩たちからそんな風に思われていたんだろう。
制服をきっちり校則通りに着て、染めてない髪を短く切りそろえた後輩くんが、つむぎと談笑しながらちょっと緊張気味の笑顔を浮かべていた。からからと笑ったつむぎが、彼の背中を叩いた。彼の顔にさらなる緊張と赤みが差した。大変分かりやすいその顔に、思わず微笑がこぼれる。微笑ましさと申し訳なさが混ざって滲む感情。
「あ、セナっ!」
俺に気付いたつむぎが手を挙げ、パッと笑顔を弾けさせる。
手を振り返しながらつむぎの側に寄って視線を下げ、後輩くんと目を合わせる。彼の驚いたような視線が肌に刺さる。
「新入部員?」と、つむぎに尋ねる。
「うんそうっ。ハードルの子なの! 中学の時速かったんだってーっ」
期待の新人くんです、と誇らしげなつむぎが彼の肩をポンポン叩く。そのまま彼の名前を紹介された。よろしく、と彼に微笑みかける。
次に、つむぎが俺を指差す。
「あ、コレは
「バスケの方を一応にすんなよ」苦笑気味に突っ込んだ。
「あ、じゃあちゃんとバスケ部」
何が可笑しいのかよく分からんが、つむぎがくすくす笑う。
彼は俺を見て、おずおずと頭を下げた。「よろしく、お願いします」
彼が俺に向ける硬い緊張を読み取ったらしいつむぎが、「じゃあ三人で一緒に帰る? 高田くんも方向一緒だよね」と言った。
一緒に帰って打ち解けましょう、という意図だろう。
「い、いや、すみません。早く帰らないといけない用事思い出したんで先帰ります」
俺を一瞥しながら、彼が口早に告げた。
「うーん、そっか。じゃあしょうがないね」
方便だと気付いて、それを汲み取る台詞だった。
足先を急かして帰路へ向けた彼に、つむぎが手を振った。「じゃあまたあした! ばいばーい」
「はい」と頷いた彼が中途半端に手を挙げて、俺たちに背を向けた。
走り去っていく彼の背中を眺めながら、「うーん」と困ったようにつむぎが頭を掻いた。
「セナの顔が怖かったのかな」
「そんな怖い顔してるつもりはないんだけど」
「じょーだん冗談」
男として彼の気持ちは分かるような気がしたけど、それをつむぎに伝えるかは迷う。俺の勘違いだったら恥ずかしいことこの上ないし。
「まぁとりあえず帰ろうぜ」
「うんっ」
歩みを進めた俺の隣に、つむぎが跳ねるように並んだ。ふわっと甘く清涼な香りがした。
「なんかシーブリーズ変えた?」
「そう変えたー。どう、かわいい?」
「いい匂いとかじゃなくて?」
「うん。かわいい?」
「たぶんかわいい」
「たぶんってなんだよー」
唇を尖らせて、腕を伸ばしたつむぎが俺の髪を軽く叩いた。
「しめってる」
「そりゃ、シャワー浴びたからな」
「ちゃんと乾かさないとダメだぞ」
自分の髪を梳いてみると、確かに湿ってる。いかにもシャワー浴びたあとって感じ。
ふと気になって、ポニーテールにまとめられたつむぎの髪に触れてみる。湿ってはいない。
「……におわないよね?」うなじのあたりに手をやりながらつむぎが言った。
「何が」
「汗」
「いや別に?」
大変さわやかな香料の匂いがする。
「ならいいけどー」
拗ねたような口調だった。
「つむぎって部活のあとシャワーとか浴びないのか?」
「髪長いと乾かすのが大変なんです~」
さらに拗ね度が増した。
「あー」
なるほど。そういうことか。
「ショートのつむぎもまた見たいけどな」
「でもセナは長い方が好きっていうじゃーん!」
確かに、そんなことをいつだったか言ったような気もする。実際その通りだった。
路地の角を曲がる。周囲に知り合いがいないことを確かめてから、つむぎが手を握ってきた。その握り具合に、いつもより力が入っている。機嫌を損ねたかもしれない。
「今週の土曜、昼からどっか遊び行くか」
今週土曜日のバスケ部の練習は午前だけで、陸上部の土曜練習は基本的にいつも午前で終わる。
「土曜じゃなきゃダメ? 日曜日は?」
「日曜は……すまん。家族で日帰り旅行することになりました……」
昨夜の夕食時に決まった。そして一度決まった以上、基本的に拒否権は無い。
約束は守るものです、というのが、母が俺に教えることの一つだった。
「どこ?」
「静岡とか言ってた気が、します」
申し訳なさから、口が勝手に敬語を発していた。つむぎから静かな圧を感じる。
「土曜は合同練習入っちゃったんだよねー、一日練習。あーあー」
「あー……。じゃあつむぎも来るか? 母さんに言ったらたぶん」
つむぎがクスっと笑みをこぼした。
「ううん、いいよそれは。家族団らんを邪魔しちゃ悪いし、
湖冬は今年から小学校に通う俺の妹だ。
我が家は突発的に家族全員で出かけることが多いのだが、昨年一度だけ、ウチの家族旅行につむぎが同行したことがある。
その時、俺のカノジョとして紹介されたつむぎと初対面した湖冬(人見知り)が、つむぎを警戒しまくって微妙な雰囲気が生まれた。つむぎは必死に仲良くなろうとしていたが、湖冬はその歩み寄りを何と勘違いしたのかついには『お兄ちゃんを取らないで』と泣き出して、想像以上に相性が悪かった。
兄冥利には尽きるが、カレシ冥利には尽きなかった。
「ほんと仲良いよね、セナの家族はさ」
〝は〟に込められた意味、とは。
両親共働きで家にいないことが多いらしい一人っ子のつむぎ。職業柄常に家にいるウチの母親および専業主夫の父親および姉一人妹二人の俺。
ウチの家族は、たぶん、他と比べてもかなり仲が良い方なんだろう。それに、子どもが四人いてもお金に困っている様子はない。めっちゃ旅行いくし。
随分と昔から、それらの事実を恵まれたことだと自覚していた。だからだと思う。俺の思春期的反抗期はとても短かったと、父さん母さんにはよく言われる。姉は長かったらしい。上の妹(中二)は現在進行形で反抗期である。出かける時はいつも文句言ってる。その割には行ったら行ったではしゃいでる。曰く、バカでしょお兄ちゃん、どうせ来たからには楽しまないと損じゃん、らしい。なるほどこれが反抗期か。
「撫でて」
つむぎにどんな言葉をかけようか悩んでいると、そんなことを言われた。
コンコンと肩に頭突きされる。要求に応えるべく、繋がれた手を放そうとすると「んーっ!」と威嚇された。不満顔で、もう一度肩に頭をぶつけてくる。ふわんっと清涼で清潔な匂いが香る。彼女の視線は、逆側の俺の手に注がれていた。
「はいはいはい」
撫でにくい体勢で、優しく丁寧につむぎを撫でる。ちなみに歩きながらだった。バカか。バカップルか。今は周りに誰もいないからいいんだけども。
撫でるのをやめかけると、また「んぅっ」と威嚇される。
今日はいつもより甘え方が露骨だな。
「なんかあった?」
「うーん、別に」
「別に?」
「何でもないでーす」
何でもある時の言い方だった。こういう時、無理にでも聞き出した方がいいのかそっとしておく方がいいのか、いつまで経っても分からない。きっと毎回正解が違うんだ。学校のテストとは違う。
「ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫だって。まったくもー、セナってば心配性だよね」
からからとつむぎが笑った。
無意識に漏れかけた嘆息を呑み下すと、ほんの少し喉が痛んだ。
「太ったか」と、笑って言ってやる。
「太ってないし!?」
そのあとは来週の日曜に二人で出かける約束をして、じゃあどこに行くかという話をしながら帰路を辿った。
つむぎを家の前まで送って、もっと一緒にいたいと駄々をこねて握った手を放そうとしない彼女を撫で回して抱きしめてキスしてからようやく解放してもらう。また夜電話するねーっ、と手を振ってくる健気可愛い恋人に手を振り返し、我が家を目指す。つむぎの家からウチまでは、徒歩で十分弱。
春の夜の気配を感じた。素っ気なくパラつく星たち、オムレツみたいに膨らんだ月を見つける。
部活で酷使した筋肉がピキピキ悲鳴を上げている。おおう可哀そうに。よしよし。でも傷付いた分だけ成長できるんだぞ。って、人生の先輩たる先生がこの前言ってた。筋肉のことなのか人のことなのかは忘れた。
疲労感を引き連れて家に帰ると、リビングから走ってきた湖冬が跳びついてくる。学校で新しい友だちができたらしい。内気な湖冬にとっては大快挙である。春休み、友だちつくれるかなぁと泣いてたっけ。
学校での出来事を一生懸命喋りまくる湖冬の話を聞く。よかったなと頭をワシャって、背中に妹虫を引っ付けたまま洗面所に向かう。
勉強も部活もカレシもお兄ちゃんも忙しい、忙しい。
それはつまり俺が恵まれていて、幸せに充実した時間を過ごしてるってことだ。
そんな風に思えばこそ、この忙しさも愛おしい。
そういうもんだろう、きっと。
↑までがプロローグ全文と一章の入り。↓が二章内の部活をサボることにした蝉夏が屋上の扉に手をかけてみるシーンから
ヒンヤリと硬いドアノブを握り、捻ってみる。軽く回る。
「あ」
開いてる。
屋上は立ち入り禁止でそもそも入れないって聞いたことがあるけど、先生が施錠し忘れたのだろうか。
ドアノブを引く。錆びついた鉄扉がギィっと呻く。西に傾いた太陽と、澄んだ夕空が顔を覗かせた。
屋上に足を踏み入れる。薄汚れたタイルが敷き詰められた床と、外周を囲む赤錆だらけのフェンス。あぁウチの屋上ってこんな感じなんだ、と思う。案外ちっぽけで汚い場所だ。青春映画なんかで見る屋上の、青々しい雰囲気は微塵も無い。
運動場から響く運動部の掛け声が一際強く耳に響いた。せっかちな夏の足音を含んだ風が吹いて、煙っぽい、香ばしいにおいがした。
街中で時折嗅ぐにおいに似ていた。歩きタバコをしている人や、駅前の人が溢れた喫煙所の側を通った時に鼻を突くにおい。だけど、それらと似ているようでいて、決定的な何かが異なるにおい。きっと悪いはずなのに、悪くない香りだった。
一歩進んで振り返り、ほとんど真上を見上げるようにして、においの出所を確かめた。
塔屋の縁に腰かけている誰かがいた。ボサボサの長髪と丈の長いスカートが風になびいて、細すぎる脚が覗く。不健康そうに青白いふとももがチラつく。
気だるげな何かが染みついた瞳が二つ、驚いたように俺を見下ろしていた。
椿紅希実だった。
小学校の時から知っているはずなのに、以前に交わした会話を思い出そうとして、何も思い出せないことに気付く。この約十年、ただただ視界の端にいただけの彼女と、俺は話らしい話をしたことがない。
椿紅希実の右手には、どう見てもタバコにしか見えないタバコが一本、挟まれている。
「あー……、その」
完全に目が合ってしまった以上、無視するわけにもいかなかった。一体どんな言葉をかけようかと思考を巡らせ、とりあえず何か言ってみる。何か、とりあえず、てきとうに。
「なに、してんの?」
もちろん、屋上でタバコを吸っていた。
答えの分かり切っている問いをかけることに、果たして意味はあるのか。たぶんあるだろう。何かしらの意味が、たぶん。
「…………」
椿紅希実は俺から視線を外して、はあぁ、と嘆息した。それはもう世界を狙えるほど見事なため息で、私はこの状況を煩わしく思っています、というのが言わずとも感じ取れた。人間のメインコミュケーションツールは言語だが、時には言語を使わない選択こそが、より雄弁に意志を物語る。例えば今、彼女が俺に『わざわざ声を出すことすら煩わしい』と言っているように。
ただもしかすると、万に一つ、彼女が俺と話したいけど恥ずかしくて声を出せない、と思っている可能性も否定はできないので、俺は塔屋に掛けられた梯子を上ってみた。
言語を介さないコミュケーションは、このように不明瞭だ。
言語を介するコミュケーションだって、不明瞭なんだけど。
塔屋の上に登って、背負っていたカバンを脇に置いてから、一メートルほど間隔を空けて彼女の隣に座る。声をかけてみる。
「タバコ、吸うんだな」
「…………」
無視される。
深く傷付いたが、ここまで来ると意地のようなもので、もう一度話しかけてみる。
「どんな味すんの?」
はぁ、ともう一度深いため息が落ちた。「だから、なに?」
存外ハッキリとした返答があった。ハスキーで、掠れて、刺々しい、小さな声だ。椿紅希実はこんな風に喋るのか、と思った。授業中、先生に当てられた時なんかに喋る彼女の声は絶対どこかで聞いているはずだけど、今まで彼女の声をまともに聞いた記憶がない。
「言いつけたかったら好きにすれば」
「いや、そんなことはせんけど」
「じゃあなに」
「なに、っていうか、
「それやめて」
「え」
「苗字で呼ばれるの、嫌い」
椿紅希実がタバコの灰を落として、それを口に咥えて、吸って、白い煙を吐く。タバコの香りがした。
「……じゃあ、
言った瞬間、ギロッと睨まれた。小動物に不用意に触れようとして噛みつかれるイメージが頭を過ぎった。
「ちゃんもやめて」
「じゃあキミで」
「……」
キミが視線を正面に戻して、苛立たしげに鼻を鳴らした。
そのあと、俺はかける言葉を見失って、彼女と同じように正面を見た。フェンスの向こう、ポツンと浮かぶ太陽がある。西日というヤツだ。昼に見る太陽より、色が
ふっと煙を吐き出したキミが、隣にあった古びたバケツに吸い殻を入れた。覗くように見てみると、吸い殻の山が形成されていた。
めちゃめちゃあるけど、これ全部キミが吸ったヤツだろうか。先生にバレたら大変なことになりそうだ。
どう見ても今日一日に吸った量とは思えないので、まあ、そういうことなんだろう。
「キミって部活とか入ってないのか」
「……」
「放課後はここに来てるのか?」
「……そう」
「屋上ってカギ開いてんの?」
「……」
ポケットに手を突っ込んだキミが、俺の方を見ないまま、ウサギのキャラのキーホルダーが付いたカギの束を取り出した。チャリ、とカギが音を立てる。カギは三つある。一つは家のカギだとして、残り二つのどっちかが屋上のカギ、ということだろうか……? いやなんで持ってんだよ。
カギをポケットに戻したキミが、その手でタバコの箱を取り出した。『Peace』という英字が読み取れる。平和なタバコ、ねぇ。
銀色のオイルライターを使って、慣れた手つきでタバコの火をつけるキミの姿に、倒錯的なものを感じた。
小学生と言ってもギリギリ通じそうなくらい小柄で薄い身体をしてる彼女が、当たり前のようにタバコを吸うその光景は、酷く歪だ。
「別に責めるとか、そういうんじゃないんだけどさ」
「……」
「なんでタバコ、吸うの?」
一応、現代日本で二十歳未満がタバコを吸うのはダメな訳で、バレたら怒られたりする訳で、なら、どうしてそこまでして吸うのか、と。立ち入り禁止の屋上に入ってる俺も、ダメなことをやってると言えば、まあ、そうなんですけど、でも。
例えば、信号無視と二十歳未満の喫煙とでは、同じルール違反でも何かが違う。
じゃあ何が違うんだよ、と言われても困るけど、何かは違う。
中学生時代の同級生に、父親のタバコを盗んで吸ってることを自慢する不良がいたなぁ、と思い出す。
アイツらはきっと、ルールを破る自分をカッコいいと思っていた。大勢が破らないルールを破れば、少数の特別になれるから。
人はきっと、特別になりたがる生き物だから。
いや、ちょっと違うか。
人が求めるのは、きっと、誰かに認めてもらうことで、特別になるというのはそのための手段の一つに過ぎない。
椿紅希実も同じだろうか。
でも、だとするなら、じゃあ、ならば。
誰にも気づかれないようなこんな場所で、たったひとりでタバコを吸う意味とは。
「……」
彼女は何も答えなかった。ぼんやり虚空を眺めたまま気だるそうに煙を吐き出して、随分と短くなるまで吸い切ってから、ケホと咳き込んで、吸い殻を捨て、もう一本タバコを取り出す。
突然だが、飼育下のインコは、自分で自分の羽を毟って傷付ける毛引きという行為をすることがある。これは野生だと滅多に見られない現象らしい。
そんな豆知識がいきなり頭に浮かんできたのは、一体なぜか。うーむ。未だ解明されてないことが多いという脳みその神秘か、はて、さて、はて。
結局それ以降、俺と彼女の間で言葉らしい言葉が交わされることはなく。
こうしてジッと見てるとしっかり陽が沈んでいくのが分かるんだなぁ、と思いながら夕焼けを眺めている時、つむぎからメッセージが届いた。
『部活おわったー』
『おつかれ』
『がんばった! がんばった!!』
『つむぎはえらいなぁ』
『もっとほめて!』
『つむぎはえらいなぁ!!!』
『どのくらいえらいですか?』
『世界で二番目くらい』
『え 一番は?』
『俺』
『セナもおつかれー よしよしえらいね』
『ありがてえ!! いつものとこ行ってる』
『うん 私も着替えたらすぐいく!』
そんなよく分からないやり取りを終えてスマホをしまう。
キミを見やると、特に俺の方に関心を示すこともなく、ぼんやりとしていた。
そういえば、と。
つむぎと一緒にいる時は、写真撮ったり調べものしたり電話がかかってきたり以外では、あまりスマホをいじらないように気を付けてるなぁ、と。
カノジョができた時と父さんに知られた時、そうした方がいいと実感のこもった口調で言われたからである。
そういうもんなんだろう、と思う。
今のこの状況では関係のない話なんだけど。
「俺、帰るわ」
置いてたカバンに付いた砂埃を払って背負い、梯子に足を掛ける。キミは俺を一瞥して、小さく鼻を鳴らした。さっさと消えろ、って感じだ。
まぁ……、完全に邪魔者でしたしね、わたくし。彼女の時間を邪魔して悪かったと思いつつ、いい感じに時間を潰せたことについての感謝もしておく、心の中で。
塔屋の前に降り立って、ズボンと手の汚れをパンパンと払う。
「じゃ」
キミに向かって手を挙げる。もちろん、彼女が俺を見ることはなかった。
校門前に着いて数分後、手を振りながら駆け寄ってきたつむぎが、「あれ?」という顔をした。
「なんか、セナ」
不可解そうに、むむっと眉根を寄せたつむぎが、俺の顔を見上げる。その瞳に、背筋が震えるような何かを感じた。胃の奥からこみ上げる何かもあった。
この何かは、何なのか。何なんだろう。部活をサボると決めた時に覚えた罪悪感とはまた違う、この何か。何か。
すん、と。つむぎが鼻を鳴らす。
「どうした」と、つむぎに問いかける。
セナ、何かあった?
そんな風に聞かれたら、正直に答えるつもりだった。
部活に行きづらくてついサボってしまったこと、何故行きづらかったのかということ、屋上に行ってみたらタバコを吸ってる不良少女がいたこと、会話とも呼べないような会話をしたこと。
「ううん、何でもない」と、つむぎは首を振った。
聞かれなかった、なら、わざわざ言う必要もないか。
「帰ろっか」
歩みを進め始めたつむぎの隣に、並ぶ。ひと気が薄れてきた辺りでどちらともなく手を絡める。
つむぎの手は滑らかで、小さく、少し汗ばんでいた。腕は細いけど、現役陸上部員なだけあって、しなやかな筋肉がちゃんと備わっている。吸い付くような体温が肌に染みた。
胃の奥からせり上がって喉元で蟠っていた何かを呑み下すと、その何かが胃の底に落ちて、積んで、凝り、固まる。その何か。
今日の授業の数学が全然分かんなかったー、とぼやいているつむぎに、言う。
「なぁ、つむぎ」
「ん、なに?」
「なんか俺にしてほしいこととか、ないか」
「えー、急にどうしたの?」
「今日のつむぎはがんばったみたいだし、ご褒美」
「なんと」
きょとんと目を丸くしたつむぎが、急にソワソワし始める。「え、ほんとに? なんでもいいの?」
「俺にできることなら」
「えー、と、じゃあ、えー、と。えっと」
俺の手を強く握り込みながら、忙しなく視線を動かすつむぎ。頬に朱が差している。頼む内容を考えているというより、思い付いてるけど言うかどうかを迷ってる、みたいな。
「じゃ、じゃ、あー、えっと、ゴールデンウイーク中の、どっか、セナの都合いい日とかでいいんだけど、ウチに泊まりにきて欲しい……とか?」
「つまり、思う存分俺とイチャつきたいと」
「んー!」
赤くなった顔を誤魔化すようにつむぎが頭突きしてくる。
「分かった分かった」笑って、つむぎの髪を掻き混ぜるように撫でる。
「わあっ! 髪はダメ!」
もーっ、と怒りながらいそいそと崩れた髪型を整え始めるつむぎに謝って、ゴールデンウイークの予定について考える。
練習がない日にバスケ部の連中で川に行くとか何とか言ってた気がするけど、一日や二日くらいは空いてるはずだ。また確認しておこう。
「んじゃ、ゴールデンウイークな」
「え? あっ、うん!」
髪を手で押さえながらむくれていたつむぎが、ぱぁっと顔を輝かせた。えへーと緩む口元を隠そうともしないまま、手を握り直してくる。
まあ、こんなもんだろう。
↓三章のどこか
こうしてまた屋上にやってきてしまった訳だが、付属品みたく塔屋の縁にくっついているキミさんの機嫌がよろしくない。
キミは大体いつも(俺といる時は)不機嫌そうにしているが、いつも以上に、というお話。
いつもと言えるほど長い時間を彼女と過ごしてる訳じゃあないんですけども。
「なぁキミ」
「…………」
こうして呼びかけるのはこの一時間で六回目だが、悉く黙殺されている。バスケ部だって無視されたら傷付くことを知らないのか。バスケにもキャッチボール的概念はあるんだぞ。そして会話はキャッチボールしないとそもそも始まらないわけで。
ちなみにバスケットボールをキャッチするコツは、肘をクッションにして逆らわず手元で受け入れるようにすることだ。焦って捕まえにいこうとしてはいけない。
キミが、フッと舌打ちみたいにタバコの煙を吐き出した。
今日はいつもよりタバコを吸うペースが速いですね、キミさん。
「キミって好きなヤツとかいる?」
「……………………」
反応はない。いや、タバコの吸い方がさらに荒くなったかも。
おかしいな。大抵の女の子はこの話題を出せば喰いついてくれるんだけど。
校内でもそこそこ女子人気があるらしい俺の呼びかけをガン無視するなんて、
「おもしれー女」
「は?」
死にたいんか? みたいな視線が矢の如く飛んできた。やっと反応があった。
「いや」
だが予想以上にギザギザナイフリアクションだったので、ビビる。怖い。「待って」
これには理由があるんだ。
ゴールデンウイーク中にあった練習試合のあと、バスケ部の連中で『いかに少女漫画のヒーローっぽく「おもしれー女」って言えるか選手権』が開催されて白熱したから、それが俺の脳の言語中枢に影響を及ぼしてしまった訳だ。
ちなみに俺は三位だった。
という話をキミにしてみると、「死ねよ」と吐き捨てられた。
冗談めかしての台詞とかじゃなくて、一切の温もりがなかった。ほんと怖い。
「ごめんなさい」
丁寧に頭を下げて謝罪する。謝るなら早いうちに限る。「死にたくないです」
「……死にたくないんだ」
「え」
顔を上げると、もう既にキミは俺を見ていなかった。
「あのさ」
タバコをふかしながらぼんやりと虚空を見つめて、キミが言う。「君はさ」
「はい」
「夜寝る時、どんなこと考えてる?」
「えー、えー……? そうだな、明日のこと、とか、ですかね」
ハッ、とキミさんに鼻で笑われる。何が面白かったのか全く分からない。
自分でも気づいてない笑いの才能が開花したのかと思ったけど、そんな訳もなく。
そういやキミが笑うとこは初めて見るなぁ、と思った。
これを笑うにカウントしていいのかどうかは定かではないが。
「そういうキミはなに考えてんの?」
質問に質問で返すことを失礼と呼ぶが、質問に答えたあと質問を返すことは会話と呼ぶ。
「私は、最近は、お母さんのこと考えてる、ずっと」
「その心は」
「なんで私を産んだのかな、って」
「……」
重みを感じた。ずっしり来るヤツ。
改めて気づく。俺は椿紅希実についてほとんど何も知らない。
知ってることと言えば、小学校も中学校も高校も俺と同じ所に通っている、ということ。
放課後は立ち入り禁止の屋上でタバコを吸ってる不良少女であるということ。
英語で信じるの意味を表すあの合唱曲が大嫌いだということ。
他には……、他には、……無いな。え、これだけ?
そのまま俺とキミの間には沈黙が落ちて、基本的に俺と彼女の間には沈黙が埋め尽くされてるんだけど、この沈黙はいつもの沈黙とは毛色が少し違っていて。
まあ何が言いたいかと言うと、気まずかった。
「子どもが欲しかったから、じゃないのか?」
沈黙を無理に埋めるように当たり前のことを答えると、またキミがハッと鼻で笑った。
「なんかさ」
「……はい」
「ここまでくると、面白いよね」
……何が。何が、面白いのよ。
おもしれー男ってこと? 照れた方がいい?
「君、カノジョいるよね」
「いますね。一年の時、俺らと同じクラスだった清水っていう」
「それはどうでもいいんだけど」
「えー」
「セックスとかしてんの?」
「えー……」
かつてないほどまともな会話が成立しているが、かつてないほど返答に困る。
できればもう少し慎んで聞いて欲しい。あるいはもう少し興味ありげに聞いて欲しい。そこから弾む話もあるなら受け入れるからさ。
「正直に答えた方がいい?」
「じゃあもう別にいい」
「何なんだよ」
キミがタバコを咥えて、深く吸う。ゲホっと咳き込んで、また口を開いて言った。「私が君の家に産まれてたら、どうなってたかな」
「キミの誕生日っていつ?」
「三月」
解答は誕生月だった。でも、てことは歳下か。十月十日だというあれを考えると、ほとんどあり得ないだろうけど、有り得る可能性として、
「じゃあ、俺の妹になってたかも」
「君の誕生日っていつ?」
「ちょうどこの前17になりました」
「へー」
「興味なさ過ぎだろ……」
そうなんだ!? おめでとーっ! もー知ってたらちゃんとお祝いしたのに~!
みたいな反応はさすがに求めてなかったけどさ。もっと、こう、なんかさ。
「キミってきょうだいはいる?」
ひくっ、とキミの肩が揺れた。
「まだ、いない、と思う、よく分かんないけど」
俺だって分かんないよ……。
なに、その、なんか、なんだろう、なに?
この話題はやめとこう。
「キミって右利き?」
タバコを右手で吸ってるから右利きと名推理してみる。
「そうだけど」
吸い殻を右手でバケツに投げ入れるキミ。
「…………」
会話終了。
まぁでもとりあえず、椿井希実について知ってることはいくつか増えた。
誕生月が三月である、ということ。
そして、右利きであるということだ。
↓三章のどこか
「恋人同士ってさ、セックス以外にやることあるわけ?」
「いや、あの、別にセックスばっかやってるわけじゃないっすよ。交際関係を何だと思っていらっしゃる?」
「私、セフレと恋人の違いがよく分かんないんだよね」
「えー……」
「なにが違うの?」
「…………愛があるか、ないか、それが違いなんじゃないでしょうか」
なに言ってんだ俺は。
「バカみたい」
「おい」
恥じらいつつも真面目に答えた俺の気持ちはいずこ?
「じゃあ君はいつもカノジョとなにしてんの」
「あー、そうですねー。一緒に家に帰ったり、夜に通話したり、一緒に学校行く時もありますけど、まあお互い予定が空いてる休日はデートしたり、そんな感じじゃないでしょうか?」
「それだけ?」
「それだけっつうと、あれだけど、なんだろうね」
「なに」
「いや、別に俺もハッキリした答え持ってるわけじゃないけどさ」
「……」
というか、恋人同士における正しい付き合い方なんて、それぞれ違ったものになるんだろうけど。でも。
「お互いがお互いのことをちゃんと好きで、喜んで欲しいと思って喜んでもらえそうなことをやってみたり、それで楽しそうにしてる反応を見て嬉しくなったり、辛そうだったら支えてあげてみたり、その代わり自分が辛い時には支えてもらったり、誕生日とかの特別な日には奮発していつもより派手なことやったりして楽しんで、いつもと同じことばっかで飽きてきたらまた違う触れ合い方とか遊び方を試したり……、怒らせた時は自分の中の譲れる場所を探して、また相手の新しい部分を知ったり、そういうの? あー、何でしょうね、あー、つまり」
つまり、そういうのを全部ひっくるめて、俺はさっき愛なんたらいう大胆な言葉を使ったわけですけども。
「つまり、そういうのだ。うん」
「なんか疲れそう」
バッサリいくなぁ、コイツは。
「まぁ疲れないってことは、ないこともないことも、ないんだけどさ。もちろん、付き合ってて良いことばかり、ってわけじゃないし、正直めんどうだって思う時もあるけど。それでも一緒にいたいと思えるから恋人、っていうんじゃないですかね」
「ふーん」
「反応薄……」
バカにされるより何気に傷つく反応ですよそれ。無視よりマシだけど。
「じゃあいつセックスすんの?」
なんだこいつセックスに興味ありすぎだろ。お年頃か。お年頃なのか? 思春期なのか? 思春期なのかもしれない。俺も思春期だ。つーか俺の今の小っ恥ずかしい語りは何だったんだよ。マジでなに。
全く、よく分からんヤツだよ、ほんと。
「えー、まあ、そうですね、えー、えー、二人きりの空間が約束されてる場所で、イチャイチャしてて、気持ちが盛り上がった時、とか?」
「なんでセックスすんの」
「……愛のため?」
「バカなの」
「かもしれない」
「君って性欲あるの?」
「あなたの目の前にいるのは男子高校生ですよ」
「は?」
「言わせんなよ、カッコつけてんだよ」
「なに言ってんの」
「俺もよくわかんなくなってきたな」
「ゴムは付けるの?」
「そりゃあ付けなきゃ大変なことになりますよ」
「ゴム用意してるってことは元からセックスするつもりってことじゃないの? 気持ちが盛り上がった時にするってなに? バカなの?」
「おい」
「どんな時に気持ちが盛り上がるの?」
「それ、今ここで詳細に語ったほうがよろしい?」
俺の口は恥ずかしいって嫌がってるんですけど。今更な気もするが。
「別にどっちでもいいけど」
「そうですか。じゃあ黙秘権を行使させていただきます」
「…………」
返答はなかった。
会話の間もずっと俺の方を見なかったキミは、やっぱり夕焼け空を眺めながらタバコをふかして、その香りを
どうやらキミも黙秘権を行使したようだ。意味がちょっと違うかもしれない。
まあ、どっちでもいいか。
②きみと屋上 青井かいか @aoshitake
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