柳沢音羽の叫び

「兄さん…」


 私は病室で小さくそう呟いた。兄さんが脳死判定を受けてから一日。私はこの場所から離れられないでいた。


 前に目をやる。そこには機械で心臓を動かされている兄さんの姿があった。心拍数は一定を刻んでいるが、脳は動いていないのだろう。ゆえに、死んだのとほぼ一緒だった。


「何で死んじゃうの?」


 私は問う。が、返答はない。当たり前だ。兄さんはもう考えることすらできないのだから。自分で息を吸うことも、自分で考えることも、何かを感じる事もできない。そして、あの能天気な無邪気な笑顔を見ることも、もう叶わない。


 兄さんが事故にあった日の夜ご飯。それは兄さんが大好きなオムライスだった。兄さんは、朝から楽しみにしていた。私だって楽しみにしてくれて嬉しかった。だから張り切って作った。だが、机の上に並べる時間になっても兄さんは帰ってこなかった。しまいには冷えてしまい、ラップをかけた。すると、家に電話がかかってきた。海外出張に行っている父さんからだった。たまたま父さんは日本に帰ってきていて、すぐに病院に来れそうだと言っていた。


 私はそこで兄さんが事故にあって生死の境目を彷徨っていることを知った。


 夜ご飯のことなど忘れて、私は急いで病院に向かった。だが、そこで見たのは、すでに手術は終わって、脳死判定を受けていた兄さんだった。


 言葉が出ないとはこのことかと身に染みて実感した。


 病室に入り、ベットに横たわる兄さんの方を向き、一歩。また一歩とフラフラしながら足を前に出す。そして、目の前まで歩く。横たわるに兄さんの手に触れる。その手は、まるで死んでしまってるかのように冷たかった。そばにはなぜか有栖さんがいた。


 しばらく呆然としていると、父さんが到着する。


「秀っ!!」


 父さんは叫び、秀に駆け寄るが、すでに兄さんは脳死の状態。私と同然、父さんは呆然とし出した。


 父さんの頰を涙が伝っているのを見て、私の目からついに涙が溢れ始めた。それは雨のように地面を濡らした。


「何で……兄さん…夜ご飯…楽しみにしてたんじゃないの?」


 私は兄さんの手を握りながら語りかける。


「私だって頑張って作ったんだよ?なのに何で…食べてくれないの?」


 無論、兄さんは無反応。それを見て、現実を嫌と言うほどに思い知らされる。だが、私は期待していたのだ。能天気な兄さんのことだから、今すぐにでも起きてドッキリ大成功!とか言ってくれるのかと。だが、医師が入ってきて、説明を受けた。もちろん、その希望は儚く打ち砕かれた。


 私よりも先に落ち着きを取り戻した父さんは、いろんな人に電話をし始めた。誰に電話をしているのかわからなかったが、それはすぐにわかった。


 最初に汐恩さんが来た。そこで理解した。特に仲の良かった人を呼んだのだと。汐恩さんは私と同じく呆然としていた。何も信じれないと言った様子だった。


 次に到着した真夏さんは、有栖さんに向かって怒号を発した。お前が死ねば良かったと。当然、その言葉を許すことができなくて、私は真夏さんの左頬にビンタをした。


「その言葉を、兄さんが許すと思ってるんですか?」


 自分でもここまで腹の底から出たような低い声が出せるとは思わなかった。そして、真夏さんは自分がしてしまったことに気がついたのか、謝罪した。だが、有栖さんは余計に自分を責めるようになった。私が死んだ方が良かったと。


 しばらくして全員が帰り、私と父さんだけが残った。父さんは大人だったからすぐに現実を受け入れた。そして、私を抱き止めてくれた。


 それから数時間が経ち、私たちは家に帰った。そして、父さんから驚くべき提案を受けた。それは


『夢を見させる機会を作ったんだ。』


「……え?」


 口からは変な声が漏れた。その一言だけじゃ、私の頭では理解できなかった。


「夢を……見させる?」


 すると父さんはゆっくりと首肯する。


「そうだ。そして、その機会は脳死だろうが何だろうが関係ない。心臓さえ動いていれば、本人の望む理想の世界を見せることができるんだ。」

 

 私は驚きのあまり目を見開き、声が出なかった。


「つまり……兄さんに夢を見させるの?」


「そういうことだ。だが、秀だけじゃない。音羽。お前もだ。そして、有栖さんと真夏くんと汐恩さんもだ。」


 そこで私はその中に父さんが入っていないのに気がついた。


「父さんは?」


 すると父さんは悲しそうに首を横に振った。


「人数分作れなかったんだ。私の分までは作れなかった。だから、友達として仲の良かったあの子たちと、実の妹である音羽に使ってもらいたいんだ。」


「それで良いの?」


 私は父さんがなぜそんな簡単に割り切れるのかわからなかった。だって、おそらくその夢の世界は、理想の世界は兄さんと逢える唯一の方法。なのに、父さんはどうしてそんな簡単に諦められるの?


「私は大人だから。我慢しなきゃいけないんだ。」


 そう言う父さんの瞳は、悲しそうだが決意に満ちていた。その瞳を見て私は


「……わかった。兄さんを幸せにするから。」


 と、兄さんを幸せにする決意をするのだった。

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