そうして俺は何度でも立ち上がるからな。

 邪智暴虐のスタッフ及び、傍若無人の葵女史のお陰で、ライフを著しく削られながらも、館内の閲覧をなんとか続けていた。


 この科学館の目玉展示は、プラネタリウムには違いないのだろうが、メトロポリスが運営する施設だけに、他の展示も充実している。

 理工学全般について幅広い展示テーマを設け、地下一階から六階まで、多種多様な展示がされている。真面目に回ろうと思ったら、一日では足りないくらいだろう。

 浮き名を流しにここを訪れている軟派な男女二人組ならば、さっと撫でたように館内を周回してしまうかもしれないが、神宮高校が誇る才媛、葵日向執行委員長にかかれば

「あれのパラメーター表示、知ってる?」

「……」

 と十数メートル先の展示物を指差し、呪詛を唱え、彼女と俺の時間を止めてしまうのも造作のないことである。ああ確かにその時、その場所で、俺たちの時間は停止していた。これが相対性理論というやつか。多分違う。


「好感度パラメータなら知ってますよ?」 

「何それ?」


「会話の選択肢を間違えると減るやつです」

 俺がそう言ったら、葵先輩は心底軽蔑したような視線を投げてきた。

「ねえ、もしかしてエッチなゲームの話してる?」


 どうやら先輩は捨て置けぬ勘違いをしておられるようだ。

「違いますよ。ギャルゲの話です」

 真摯にその勘違いを訂正した。が、彼女には理解できなかったらしい。

「何が違うの?」

 全然違う。


 やれやれ、どこから説明すればいいものかと、考えあぐねていたら

「まあいいや。じゃあ、なんていう曲線が分かる?」

 先輩は話を元に戻してしまった。俺が滾々とエロゲとギャルゲの相互不可侵性、つまりはCERO倫理規定の厳格なる取り決めについて、教えを説こうと思ったのに。誠に遺憾である。


 不承不承ながら俺は答えた。

「……たしか、セクサロイド、みたいなやつですよね」


 ところが今度はドン引きしたような顔をして俺を見てきた。

「君は好感度パラメータとやらを削らないとすまないたちらしいな」


「え、俺なんか変なこと言いました? あれってセクサロイドじゃなかったですっけ?」

「ちょっと黙ろうか。小さい子もいるし」

 先輩は怒気すら孕んだ口調で、俺を睨め付けてきた。何がいけなかったのだろうか。


 心なしか棘のある言い方で先輩は続けた。

「あれはサイクロイド曲線。円上にある点pについて、円をx軸上で回転させた時の軌跡だ。式で表すとx(θ)=a(θ−sinθ)、y(θ)=a(1−cosθ)だよ。覚えときな」

 あ、ふーん。

「なるほど。でもね先輩、普通の人間は一度聞いただけじゃ、エキセントリックな動きをする点pの軌跡を表す式は覚えられないんですよ。覚えられたとしたら奇跡だよ」

 軌跡だけに。なんつって。


「……もしかして今ダジャレ言った?」

「一番ダメージの高い拾い方するのやめてもらっていいすか?」

「君がつまんないこと言うから」

「え、先輩もしかしてGReeeeNに喧嘩売ってます?」

「瞬目のうちに責任転嫁できる君の面の皮の厚さには感嘆すら覚えるよ」

「えへへ、照れますね」

「別に褒めてないし」

 呆れたように息を吐いて、奥の方の展示に目をやってから「あっちは化学ばけがく系だね。ほら行こ」

 と俺の腕を引いた。


 そちらの方には、周期表と一緒に、それぞれの元素を代表する物質が展示されてあった。無論のこと、放射性物質は置かれてはないが。


「わあ、見て」

 先輩は目を輝かせて展示に近づいていった。


 先輩が近づいた原子番号6のところには、キラキラと光り輝く石が置いてあった。気の遠くなるような時間、地球の深層で高温高圧にさらされることで誕生する、純に炭素のみからなる宝石。ダイアモンドだ。光を幾重にも反射させ、虹色に輝くその様は、まさに宝石の王様と言うにふさわしいか。

「綺麗ですね」

 そんなことを思いながら、先輩に同調するように、俺がそう呟いたら、先輩はぎょっとしてから

「え、照れる」

 と返してきた。

 ……。


「いや、先輩じゃなくて、石の方を言ったんですけど」


 俺が訂正したら先輩は呆れ顔をする。

「はい、だめぇ。銭丸くん、減点です」

「えぇ」


「そこは嘘でも、女の子褒めとかなきゃ『ダイアモンドよりも君が綺麗』って」

「……いや、先輩が綺麗なのは、周知のことですし、今に殊更それをあげつらう必要もないのでは」

 俺の言葉を聞いて先輩は絶句した。


「ちょっと先輩、無視しないでくださいよ」

「……そう来たかと思って」


 先輩は大したコメントもせずに、前に向き直り、羨むような視線で、ダイアモンドを眺めている。俺と話すよりもダイアモンドを見るのが楽しいらしい。然もありなん。俺も先輩だったらそうする。


 俺はそんな先輩をよそに、書かれている説明を読んで驚いた。

「これ合成らしいですよ」

「へぇ。ラボグロウ研究所育ちってやつ? 初めて見るけど、とりあえず私には見分けつかないな」

「まあ、合成でも物質的には同じものですからね」

「確かに。天然物は戦争の資金源になったりするし、地球と人類の平和のためにはこっちの方が優しいのかもね」


 そういう先輩の視線は石に釘付けだ。

「先輩も宝石とか好きなんですね」

 少々意外に思った俺がそういえば、先輩は少し照れたように笑いながら、話した。

「いやあ、そのものが好きというより、その象徴に憧れてるんだよね」

「象徴?」

「ダイアモンドを贈るという行為の方に、特別感を感じるってこと。世界で一番好きな人から婚約の証をもらうのって奇跡みたいなものでしょ」

「奇跡……貴石だけに?!」


「私の発言を勝手にダジャレ化しないでくれる?」

 

 どうやら先輩は俺の境地に達していないらしいな、と一般人に話を合わせてやることにして

「婚約の贈り物としてもらうダイアが欲しいってことですか」

 と聞いた。


「うーんそだね。ぶっちゃけダイアである必要はないんだけどね。もらえたらそりゃ嬉しいだろうけど」


「じゃあもし未来の彼氏が、安かったからって紛争ダイア持ってきたらどうします?」

「百年の恋も一瞬で覚めるね。そしてひたすら自分を恥じると思う。そんな浅はかな人間に少しでも惹かれてしまったことに対し」

「そこは厳しく行くんですね」

「そりゃそうでしょ。自分の幸せのために誰かが死んでるかもしれないとか考えたくないし、そもそもそんなものの上に立つ幸せは、私は幸せだとは思えないから」

「でもまあ、そういうやばいダイアって流通しないようになってるとは思いますけどね。鑑定書がないとか」


「そうは言っても、自分の目で見れないものってどこかで信じきれないでしょ。鑑定書一枚だけでそのダイアが清潔だって信じ切れるような人は、本気で紛争ダイアのことなんて考えたことないんだろうと思っちゃうな」

「はあ……」

 日向ちゃんは高潔なのだなぁ、などと勝手に偉そうに感心した。


 俺の顔を見て、あまり俺に響いてないと思ったらしく

「綺麗は綺麗だけど、炭素の塊じゃん。それもそっくり合成できるんだよ。それに数十万払わせるのは気が引けるよ。それよりもそのお金で二人で楽しめることがしたくない?」

 と続ける。


 またまたどこぞの界隈が聞きつけたら炎上しそうなことを言っているなあ、と思いつつも

「そう考えると合成がベストな気がしてきますね」

 と合いの手を入れる。ネットで呟かなければ、何言っても大丈夫だもん。燃料は燃やさなければ燃えないぞ。この国には思想の自由があるからな。わはは。


「合成も安くないだろうし、なんなら花とかでもいいかな」

 一気にプライスダウンしたなぁと、笑いながら

「枯れちゃいますよ?」

 と言ったら

「じゃあ地植えにして毎年咲かせるようにしたい」

「遠回しに庭付き戸建を要求している⁉︎」

 急激な価格高騰が起きた。


「鉄骨造がいいな。丈夫そうだし。広さは百坪くらいで」

「確実に億いっちゃうなそれ。ダイアどころの話じゃねえ」

「ほら、ダイアじゃ私を守れないけど、頑丈な家なら守ってくれそうじゃん」

 私を守るためなら、それくらいの出費安くないでしょ? みたいな言い草。……いや確かに、あなた様であれば、それくらいポンと出してくれそうな人に、見初められるかもしれませんが。


「なるほどよくわかりました。姫を嫁にもらうには、まず城が必要ということですね」

 到底庶民が太刀打ち出来そうにないので、俺はくさりながら言った。


「無理なら小さい賃貸でもいいよ〜。花も鉢植えで可。安いスーパーが近くにあると嬉しいかも」

「あ、急に優しくなった」


 先輩はにっと笑って続けた。

「やっぱりつけあがる女より、庶民的な女の方がウケがいいかなって思って」

 なるほど。

 でも、そういうこすっからい所は隠せると良かったね!!


  *


 昼食もそこそこ、プラネタリウムの投影時間になり、俺と先輩はドームの中の指定された席へと向かった。

 ドームの中央には、世界最大のプラネタリウムスクリーンに相応しい、他に類を見ないサイズの大きな投影機が鎮座している。

 天文学の魅力に迫るぞと、俺が学問的な興味で胸を高鳴らせていた所

「残念だね。カップルシートとかじゃなくて」

 などと言いよる御仁がおった。


「ば、馬鹿こくでねぇ。そんないかがわしいもの、公立の施設にあってたまるか」

 と破廉恥なことを言う先輩を諌めるように言えば、先輩は等間隔で隙間をおいて設置されている一人用のシートを、ポンポン叩きながら

「でも、こういうシートだと放映中にスキンシップできないよ」

 

「え、スキンシップしてもよろしいんですか」

「もちろん──」え、何この人、イヤに積極的じゃないの。とうとう俺に惚れちまったか。などと一瞬ドキッとしたが「そんなことしたら引っ叩くけど」

 現実は無情だった。


 いや、ね。触っていいって言われても、触りませんけどね。

 あなたにそんな事言うの美人局ぐらいだよって婆ちゃん言ってたし。

 大変腹立たしいことこの上ないが、全くその通りなのである。だから余計腹立たしいのかもしれない。


 古風な子に「駄目よ、キッスまでよ」って言われたい人生だったな。

 俺はそのようなものから最も遠いところを歩きながら生きてきた。現状、俺が女性に指一本でも触れようものなら、人生が終了してしまう。

 

 逆に考えれば、だ。俺ほどプラトニック・ラブを体現している人間が他にいるだろうか? 騎士道の正中を胸を張って歩ける人間は俺くらいではないか? 

 今日から令和時代に降臨した神宮のナイトを名乗っていこう。うむ。俺の操はダイヤモンド、つまりは銭丸玄徳こそダイアモンドということだ。

 そうじゃないか? 違うか? 違うか。


 などなど、シートに腰掛けて考えていたら、ナレーターのお姉さんの綺麗な声と共に、プラネタリウムの上映がスタートした。


   *

 

「いやあ、面白かったね」

 プラネタリウムを出て、先輩は伸びをしながら言った。

「そうですね」

「あんまり星のこと詳しくないんだけど、ちょっと勉強して見たくなっちゃったな」

「俺は本物の満天の星空を見たくなりました」

「お、いいねえ。夏休みとか、家族でどこか行ったりする?」

「多分ないと思います。みんな出不精なので」


 それを聞いた先輩は、数秒の間を置いて、

「じゃあ、夏休み。どこか星の見えるところ行こっか」

 と提案をしてきた。


「え、まじですか」

「うん」

「……あんまり遠いところはちょっと」

 まさか、泊まりじゃないよな、とは思いつつも、牽制をしておく。


「大丈夫大丈夫。電車ですぐ近くにいいところあるから」

「あ、そうですか。まあ、それなら」

「じゃ、約束ね。ちゃんと空けといてよ」


 この人付き合いに対する、ハードルの低さ。これが陽キャと陰キャとの差なのだろうか。

 俺は内心ビビり散らかしていたが、平然を装った。じゃなきゃ俺が陰キャなのバレちゃうからね!!


 それからまた二人で、館内の見学を続けた。今朝からぶっ続けで、展示の小ネタを俺に解説し、才色兼備ぶりを遺憾なく発揮していた先輩も、流石に疲れてきたのか、雑談のほうが多くなってきていた。


 そんな折

「今朝も聞かれたけどさ、科学館見に行くの、私が即答でok出した訳、知りたい?」

 と突然に、終わった話を自ら蒸し返してきた。


「え、だから、デートをすることはコミュニケーションスキルを磨くのにうってつけだからって」

 先輩が言った通りのことを答えたら

「いやいやわかるでしょ。それは建前だから」


「え、じゃあ、なぜです」

「好きこそ物の上手なれって言うでしょ」


 恐る恐る俺が

「……つまり先輩を好きになれと」

 と尋ねると、

「そうね。自分のことを好きな男子ほど扱いやすいものはないからね」

「本音と建前で、本音がこんなえぐいことある?」


「こらこら。間に受けるな。科学館行って私を好きになってどうするの。科学を好きになって欲しいわけ」

「ほほう、なるほ──。いや待て。さっぱり分からん」


 先輩はもどかしそうな顔をする。

「分からないかなあ。君が科学を好きになれば、理系に進もうと思うじゃない。そしたら同じ学校の学部に行けるかもしれないじゃない。私はせっかく手に入れたこぶn……後輩を手放したくないのよ」


「ねえちょっと。今子分って言おうとしてなかったですか? 本音が溢れてなかったですか? ていうかこの妙ちくりんな関係、大学入ってからも続ける気ですか?」


「え? そのつもりだけど。まさか君、人を理解するのに、数回会えば出来るって思ってるの? 私のこと、そんな浅い人間だと思ってるわけ?」

「いや、そうは思いませんけど」


 先輩はもの言いたげな表情をした。

「けど何よ」


 俺としても言いにくいことだったので、声を低くして言う。

「俺みたいのがいつまでも引っ付いてたら、先輩も流石に困るでしょう」

「なんで?」

 先輩は不思議そうな顔をしてみせた。


 気まずさを覚えながら

「彼氏とか」

 と続けた。


 先輩はあまり興味なさそうな顔をした。

「彼氏ねぇ。……いても、別れるとき辛くなるだけだからなぁ」

「なぜ端から別れる前提でいる?」

「別れのない人間関係なんてないわけだよ、少年。高校生カップルなんて大概別れるんだしそれより子分連れ回してる方が気が楽だろ」

「やっぱり俺のこと子分扱いしてるじゃねえか」

 と俺がブゥブゥぶうたれても、

「でも求婚はされてみたいしなぁ。他人との結婚生活はハードル高いけど」

 蛙の面に水を掛ける様で全く聞いていない。そして、Z世代の代表みたいな、老人には理解しがたい価値観を吐いている。


「求婚されるには、彼氏作らないとだめなのでは?」

 と指摘すれば

「ある日突然スパダリに求婚されたりしないだろうか?」

 と返してくる。


「……その実現可能性について論じるのは、ひとまず置いておくとして、そのスパダリとやらにある日突然求婚されるにしても、俺が横にいるの邪魔でしかなくないですか?」

「じゃあ行き遅れたら、君に責任とってもらおうか」

「どうしてそうなる」

「そもそも君が自立すれば私は自由の身なのだよ」

「別に俺は先輩を拘束するつもりは毛頭ないんですけど」

「残念ながら、私は責任感が強い人間なのだよ。うちの高校から社会不適合者を出すわけにはいかないからね」

「先輩、俺のことをなんだと思ってるんです?」

「予備群だろう?」

 何を今更、みたいな顔で言う。


「ひどい言い草だな。仮にそう思っているのなら、先輩の人生の責任が取れるわけないじゃないですか」

「それを取れるように更生させるのが私の役目だからね。だからさ、科学好きになろうよ。そして一緒の学校行こ? 君も子分にならないか」

「はっきり言っちゃったよ、この人」


 なんだか、厄介な相手に目をつけられてしまったなあと、苦々しく思いつつも、見てくれに騙されて、ホイホイついてきた情けない自分の落ち度も自覚しているので、自業自得と言われればぐうの音も出ない。

 口車に乗せられて、特別な何かを期待した、男の子としてのさがを、多少なりとも恨めしく思った。

 ただ文句を言っても、どうにもならない。綺麗な先輩の゙、たとえそれがただの暇つぶしで、ただの都合のいい下働きだったとしても、隣りにいて話し相手をさせてもらえるだけ、運がいいと思ったほうが、自分にとっても幸せか。

 

 などと捕食者に狩られる弱者の卑屈な慰みを自分にしていたら

「ていうのは全部嘘です。本当は年下の男子をいいように引き摺り回して、プラネタリウムを見に行くのが私の長年の夢だっただけです」

 とプレデターは鳴き声を上げた。あまりに脈絡がなくて、訳がわからなくて泣きそうになった。


「スケールの小さい夢ですね」

「私はね、日々の何気ない幸せに気づける人間になりたいんだよ」

「先輩はもっと華やかな生き方ができると思いますけどね。金持ちのおじさんに美味しいご飯奢ってもらうとか」


 先輩は眉をひそめた。

「君は私に売春でも勧めてるのか」

「いやそういうわけじゃないですけど。ただ冴えない年下男子連れ回すより、先輩のこと、もっと楽しませてくれる人なんて、ごろごろいるんじゃないかって話です」

「分かってないな。この世の中に、自分のことを『一方的に』慕っている『牧歌的な』後輩を引き摺り回して、遊び歩くなんて体験をしている女子高生がどれだけいると思う」

 言葉の中に棘があるような気がしないでもなかったが、そこは追求しないことにした。

「……学年に一人くらいですかね」

「1%いるかいないかだろう。そして女子高生というものは、一度過ぎたら得られない称号なのだよ。それをおじさまたちを喜ばすのに使うのは勿体無いと思わないかね」


 その言葉を聞き、考えついた答えに驚愕しながら、震えた声で確認を取る。

「つまり先輩はショタ好きってことですか」


 なんか耳元で「……君は自分のことをショタとでも思っているのか」などと、聞こえた気がしたが、真理にたどり着いた俺に、そんな些末は意味をなさない。

 先輩が望むのなら、俺はそれを体現するべきではないか?


 そう思った俺は

「すかさず横ピース」

 きゃぴ。

 自分の想像しうる限り最も先輩の希望に近い後輩のポーズを取った。


「わぁ……」


 葵の君は感嘆の声を上げ、まるで此の世ならざる者を目にしたかのような、御尊顔をしなさった。

「どうしたんです。まるで桃源郷でも見てきたかのような顔つきをしているじゃありませんか」

 いくら俺の幼気いたいけな可愛さにやられたと言っても。


「……なんか、なんだろう、鳩尾みぞおちのあたりに強烈な不快感を覚えてね」

「え、もしかして恋の病?」

「多分違うと思う」


 そんな感じで、基本的に俺が先輩に楽しくいじめられながら、ブラブラと残りの展示を見て、帰り際に科学館の土産コーナーを見るだけ見て、館内をあとにした。


   *


 地下鉄の駅に向かい、列車に乗り込んで、並んでシートに座った。

 俺は名古屋駅で降りて乗り換えだが、先輩はそのまま地下鉄で中川区まで行くらしい。


 もうすぐ名古屋駅に着くというところで、先輩は、他愛もない雑談をしていたのをパタリと終えて

「話を元に戻すけどさ。私もさ、周りくどい人間な訳」

「ほう?」

 どこまで話を戻したのか、俺には分からなかったが、それを止めるのも無粋な気がしたので、適当に相槌を打った。


「私のことを理解してくれる人が欲しいっていうのは嘘じゃない。素直になれない自分のこと分かってほしいなんて、我儘でしかないんだけどさ、それを乗り越えて、気のおけない友達が欲しかったっていうのは本当。澪は、……まあ、私のこと、だいぶ分かってるけど、ただあの子、真面目だから、私が年上ってだけで色々遠慮しちゃうんだよね」

「ほー……?」

 あの邪智暴虐の嬢は、俺には何も遠慮しないのだが? あとやっぱり先輩が何の話をしてるのかいまいちわからなかったので、続けて適当に相槌を打った。


「だから別に他意なんてないよって話。子分にしたいとか、君をどうしたいとか」

「ふーん?」 

 そこで到着を知らせるベルが鳴る。結局彼女の言葉の含意を掴めないまま、名古屋駅についてしまった。俺は慌てて、電車から飛び降りて、ホームに立ってから先輩の方を向いた。人の流れに逆らったので、何人かが迷惑そうな顔をしながら俺を避けていく。


 先輩も席から立ち上がり、車内の人混みから不安そうに、オドオドした表情で俺を見つめていた。科学館でのことで、俺が気分でも悪くしたと思ったのだろうか?

 別にこれまでの人生で、もっと散々な目にあってきている。あなたの従妹さんに言われている罵詈雑言のほうがよっぽど酷いし、気にしなさんな、と思っていたら


「要するに普通に銭丸くんと科学館行きたかっただけ」


 そこで電車の扉が閉まった。

 心なしか顔を赤くした先輩が、がたんと揺れ、列車は動き始め、どんどん離れていった。


 俺はしばらく呆然とホームに立っていた。


 ポツリと絞り出した独り言。

「それ、別れ際に言うのずるくないか?」


 全くこれだから魔性の女というやつは。

 うっかり惚れちまうだろ。


 惚れたら負け、だ。

 そして何事にも勝ちにこだわれとも言う。


 俺はどんな勝負にも全力で挑む男だ。


 先輩には申し訳ないが、相手が悪かったな。俺は恋愛頭脳戦においては不敗記録を持っている。生まれてこの方、俺を惑わす悪魔はごまんといた。保育園のなつきちゃん、あやめちゃん、れいなちゃんの御三家に端を発し、小学校のさやか、もえ、ありす、りなの四天王、中学校のりこ、きょうこ、ゆうこ、まいか、ゆうな、さえの六大将軍と、かつて俺を惚れさせようとしてきた強敵たちを、尽く討ち破ってきた俺だ。負ける気がしねえ。


 すべて不戦勝ではあったが。


 別に、中3のとき一番仲が良かった(主観)さえが、高校生らしき男とお城ホテルに出入りしているところを目撃されたなんて噂を聞いて、膝から崩れ落ちたりなんかしてないから。別に。

 ほんとに。

 なんとも思ってないし。多分、お城で鬼ごっこでもしていたのだろう。うん、そうだ。そうに違いない。


 だから、実は葵先輩にちゃらついた彼氏がいるなんて話を聞いても、別に何とも思わないだろう。

 人生において、死ぬこと以外はすべてかすり傷だからな。


 満身創痍で得たこの不敗記録に、また1が刻まれるだけだ。


 でもめまいがしてきたから、今日のところは早めに寝るとしよう。


   

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