どうやら俺の境地に達するにはまだまだ時間がかかるらしい
先輩は人たらしだ。
今思い返してみれば、先輩は単に執行委員のなり手を探していただけで、俺を理解するだの何のと言っていたのは、方便だったに違いない。
じゃなきゃ「お互いを理解し合う」だなんて、愛の告白めいたセリフを言うだろうか。あれはこちらの純情を利用したデート商法紛いの悪どい勧誘だったのだ。美人が甘言を吐くとすれば、デート商法と昔から相場は決まっている。母ちゃんもばあちゃんも俺にそう教えてくれたではないか。危うく籠絡されるところだった。
そう気付いた俺は、先輩からいただいたLINEの連絡先の登録名を、魔性の女という名に変えておいた。これで熱に浮かれて判断を誤ることもあるまい。
「そういえばあなた、この間日向さんと一緒に帰ったでしょう? 何か話した?」
かの魔性の女の一族の一人である内海澪が、うららかな春の午後を俺が愛でているとき、そう唐突に尋ねてきた。
「……別に」
そう。別に話すようなことはないのだ。執行委員に誘われたことに触れても、なぜそんな話になるのか突っ込まれるに違いない。言わぬが吉。
「そう」
内海はなにか言いたげそうな表情を見せたが、口を噤んで読書へと戻っていく。
……。
まさかこやつ、俺と先輩が話した内容を知っているのでは? 彼女と先輩はいとこ同士だという。日常の細やかなことまで話のネタにしていてもおかしくはない。まして共通の知人についての話なんて格好のネタではないか。
そして俺が理解者を探しているのだと先輩に吹き込まれているのではないか? 自分が俺の一番の理解者になれないことに憤りを覚えているのではないか?
「お、お前も俺を理解したいのか……?」
確かに一緒にいる人間に信頼されていないというのも辛いに違いない。
恐る恐る言った俺を、内海は怪訝そうな目で見てきた。
「は? あなた何言ってるの?」
「あ、はい。すみません」
「あなたのことは理解できないけど、理解する気もないわよ」
「あ、ですよね」
どうやら彼女は俺に興味がないらしい。なんとなく知ってたけど。若干寂しいような気もしたが、同時に俺はホッとする気持ちもあった。魔性の一族である内海澪はどうやら魔性を持ち合わせていないようだから。
人をして、煮足りない野菜よりも硬い芯を持っている男と言わしめる俺ではあるが、流石に長い時間魔性の女と一緒にいれば、雨だれが石を穿つように、少しずつ少しずつ心を奪われていってしまうのは避けられまい。同じ部活とは言っても、ほとんど顔を合わせない先輩には、騙される危険は少ないだろうが、ほぼ毎日顔を突き合わせているこいつまで、魔性の効力を発揮してくれば、俺でも白旗を上げることになろう。
本当に安心した。安心感を与えてくれる女性には自然と心を開きたくなる。
……ん?
「あまり深入りしないことね」
「何の話だ」
何か、真理に近づいたような気がしないでもなかったが、思考が内海の言葉で遮られてしまった。
「彼女のことよ」
「……葵先輩のことか?」
内海はそれを肯定するかわりに
「深入りして辛くなるのはあなたよ」
と言ってきた。いまいち彼女が何言いたいのかわからない。
「まるであの人のことを好きになるなと言っているようだな」
「ええ」
真っ向からそう言われ、面食らった俺は、動揺してこんなふうに返した。
「だったら俺はお前に惚れれば良いのか?」
内海はそれに「馬鹿じゃないの?」とでも言うだろうと思ったが、それとは全く真逆の反応をしてみせた。
「そうね。私を好きになったほうがまだマシね」
「それは……何というツンデレだ?」
内海は明らかに嫌そうな顔をした。
「馬鹿。そんなんじゃないわよ。私に惚れた場合は、振られて終わり。後に引くものはないわ」
……なるほど。
「じゃあ、先輩を好きになったらどうなるっていうんだよ?」
俺がそう問うたら、内海は小さくため息を吐いてから
「あんな良い女、滅多にいないもの。多分あなたは一生苦しむことになるわ」
「どういうことだよ」
俺が聞き返しても、内海は肩をすくめるだけでそれ以上答えなかった。
*
それから四半刻くらいして、部室の戸を叩くものがあった。
内海がそれに「どうぞ」と応じる。
伊吹ならいきなり戸を開けるので、彼女ではなさそうだ。では、いったいどちらさまのご来訪かと思って、俺も戸に視線をやっていたら、入ってきたのは葵先輩だった。
「やあやあ諸君。元気にしてるかい」
先輩は芝居じみた挨拶をかましながら、ツカツカとこちらに近づいてくる。
「どうしたんですか、葵先輩」
執行委員の業務でお忙しい彼女が一体どうしたのだろうと、尋ねれば
「ただ君にちょっかいをかけにきただけだよ」
と言ってニコニコ笑っている。
俺は呆れて、横まできた彼女を見上げた。
「なんという生産性のないことを」
「君はお馬鹿さんだなあ。人間の存在自体に意味がないのだから、そこに意味を求めたところで何も生まれないだろう。要するにこの世には無駄しかないんだ」
「夢を持てとかいう割に何でそこはドライなんですか」
俺が食ってかかれば
「違うよ君。何もない人生だからこそ、夢でも持ってなきゃやってらんないって話なのさ」
と返してくる。ああ言えばこう言うとはこのこと。どうやら俺が彼女に弁論で勝つのは難しそうだ。
「それでどうだい。例の件は前向きに検討していただけたかな?」
「あーあの件ですね。ええ、善処いたします」
善処したく存じているだけで、Yesとは言っていないところが味噌。本邦の政治家が代々受け継いできた、伝家の宝刀である。
要するにその気は全くないのだ。
そういう意味だったのだが
「そっか! 良かった。連絡がないから、断られちゃったのかと思ってたよ」
え、まって。俺、執行委員になるなんて言ってない。
そう言おうとしたら、先輩はガシッと手を握ってきて
「嬉しい! 君みたいな人が執行委員になってくれて」
「え、あの」
やばいぞ思い出せ。LINEの登録名を。彼女は魔性の女だ。騙されてはいけない。
そもそも女子に手を握られたくらいで動揺する俺ではない。むしろ俺に触れたことで、キャーキャー叫ぶ女子の方が多かった。分かる。憧れの人間に触ると気絶するくらい舞い上がっちゃうよな。揃いも揃って「
……ふふ。あの頃のことを思い出すと、懐かしくて目から汁が出てくるぜ。
「……銭丸くん? どうかした?」
先輩が心配するように俺を見てくる。
いかんいかん。思い出に浸るのはこのくらいにしておこう。
一言言ってやれば良いのだ。「俺は如何なる理由があろうと執行委員にはならない」と。
そう言おうとしたが
「期待してるよ。これから一緒に頑張ろう」
「あ、はい」
……あ。
それが己の意志に反して発せられたものだったとしても、一度口から溢れた言葉を、拾い上げるのは容易なことではない。言ってないことでさえ、言ったと決めつけられて叩かれる世の中であるからな。世間の人様にとって重要なことは、真実か否かではなく、面白いかつまらないかである。面白い嘘の方が、つまらない真実より信じがいがあると言うものだ。
それを逆手に取れば、今この場で、俺のつまらない言葉よりも面白いことが起これば、そんな事実は消し飛ぶということだ。
俺は隣にいた内海(おもしれー女)に助けを求めるように、懇願の眼差しを向けた。彼女はゲームの形勢を一気に逆転させるジョーカー。銭丸玄徳のとっておきの秘策である。
俺の気持ちを察したのか、彼女は救いの手を差し──
「私の関知するところのものではないわ」
──延べなかった。
彼女はどこまでも冷徹だった。
俺は星になった。
✳︎
「確かに先輩ちょっと強引な所あるかもね」
「笑い事じゃないよ全く」
先輩とのやりとりについて、廊下ですれ違った伊吹に話したところ、彼女はそんな風に言ってケタケタ笑っていた。全く他人事だと思って。
あのように周りの人間を巻き込んでいく、気質の源は一体どこにあるのだろう。ああいう特性は生まれた時から備わっているものなのだろうか。
気になった俺は、とりあえず、中学時代のことについて、関係者に尋ねることにした。
「先輩って中学の時はどんな感じだったんだ?」
関係者は怪訝そうな顔をした。
「どんな感じって?」
「それはその、中学時代からあんな感じだったのかなって思って」
「うん、あんな感じだったけど」
そういえば。伊吹は先輩と同じ部活だったと話していたな。
「……先輩も水泳部だったんだよな」
「うん。そうそう。先輩、すごく泳ぐの速くて、中一の時、県で優勝とかしてたんだよ」
「へぇ……」
彼女の水着姿はさぞかし……男子諸君の注目の的だったに違いない。
この世の深淵を覗かんとする俺の深刻にして真面目な表情と、重苦しい沈黙を見てか、伊吹は眉を顰め、口を尖らせた。
「あ、今、エッチな妄想したでしょ。ほんとやだ。サイテー」
「おい。なんでそうなる。俺はただ、水着姿の先輩を想像しただけだぞ」
俺が冷静にそう返したら、伊吹は声を荒らげた。
「普通にやらしいこと考えてるじゃん!!」
おかしい。なぜ水着姿を考えることが嫌らしいことに繋がるのだろうか。解せぬ。
伊吹がブツブツと非難を
「そんなにすごかったんなら、高校でも続ければよかったのにな」
そうしたら伊吹はブツブツ文句を言うのをピタリとやめて、俺の疑問に答えてくれた。
「うーん。なんかね、膝を痛めたらしくて、それで手術? とか、してから、泳ぐのやめちゃったみたい」
「ほーん」
子供の時に過度な運動をすると体を壊しやすいというが、そういう話だろうか。
中1の時点で県優勝するなら相当の実力だったはずだ。そんな彼女が怪我で選手を引退すると言うのは、相当悔しかったに違いない。
そのエピソードは快活な彼女の笑顔には似つかわしくないように思えた。
溌剌と笑う先輩にも、彼女なりの悩みや思いがあるということか。考えてみれば当たり前のことではあるが。
彼女の体の中には行き場を失ったエネルギーが渦めいていて、体を突き破ろうとしているのではないか。彼女からすれば、俺と言う人間はうだつの上がらない無気力な男に見えるだろう。時間をドブに捨てている俺を見て、もどかしさや苛立ちすら覚えてもおかしくはない。
夢を持て、か。
あの日、電車で彼女が俺に投げかけた言葉は、そのようなことを言い含んでいたのかもしれない。
そして先輩はこうも言った。「理解してくれる人を探している」と。その言葉を、素直に受け取れば、先輩はその役目を俺に期待しているのではないか。俺の何を見て、それが俺に担えると思ったのは定かではないが。
でも……
「付き合ってみるか」
俺に関わることで、彼女が取り戻そうとしている何かを取り戻せるのなら、俺の時間ぐらい捧げても良い。もともと無為に過ごしていた時間だ。人助けになるなら文句は言わない。
「何が?」
伊吹は妙に思ったようで、胡乱げに俺を見た。
「先輩に」
「え?」
言おうか言うまいか迷ったが、伊吹は先輩のことを知る上で、重要な情報源になってくれるだろう。そのためにも俺がしようとしていることを彼女に知っておいてもらうことは大事なことだ。
「先輩は俺に助けてほしいんだと思う」
遠回りしてようやく俺がたどり着いた結論に、伊吹は目を見開いてこう答えた。
「……違うと思うよ」
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