森の少女

 少女の影を追い森の中を駆ける。どこに行ったのかと考えている途中、思ったより早く少女の姿を捉えることができた。

 集落の真逆の方向に戻るのと同じくらいの距離を進んでいた。そこで少女は立ち止まっている。

 なぜ、と思うより先に理由がわかった。


「グウゥゥ……」

「――」


 狼、のような生き物が一匹少女の目の前にいる。概ね狼と似たシルエットだが、黒曜石のような質感の鱗状の毛が生えている。牙も歯茎からはみ出るほどに発達しており見るからに危険そうだ。

 狼であれば群れを警戒しなくてはならないが、はぐれたのかあるいはそういう習性がないのか、他にいる様子はない。

 彼女に対しては友好的な様子はないのでペットではないだろう。当人も怯えているのが表情からよく分かる。

 彼女に対してはマイナスな感情はないが、だからといって親しくもないので自らを危険に晒す必要も感じない。強いて言うなら知ってしまったがゆえに何かあればすこし次の日の寝起きが悪くなるぐらいだ。

 などと思いながらも足が止まらない。理性とは別のところで体を動かすなにかがある。これが失われた記憶と関係があるのかはわからない、ただもう引き返せない、ならばこのまま――。


「こっちだ犬っころ!」

「わっ」


 少女が驚愕の表情でこちらを見ているが気にせず狼との間に割り込む。


「ウゥゥ……」


 狼は逃げ出す様子もない。それもそうだ、少女より更に背の低い子供が来たところで怯えることもないだろう。


「これから食事の予定だったんだろうが、悪いが他をあたってくれや」


 聞く耳を持ってくれない。じっとこちらを睨みつけている。空腹なのだろうか、黙って食われろとばかりに鋭い眼光。

 そうすると狼が迷いなく飛びかかってきた。少女が叫ぶ。


「危ない――」


 狼は前腕の鋭利な爪を向けて襲いかかってくる。それを躱す、おっさんがくれたボロ布という名の服の両腕の袖が裂けた。

 爪は躱したがその後に迫るのは凶悪な牙、大口を開けて突っ込んでくるそれを腕で防御するが、左腕の前腕に強く喰い付かれた。


「きゃあ……」


 顔を覆う少女、腕は骨ごと食いちぎられ、次は喉、そして最後は動かぬ肉と化す……。

 ――とはならないのだ。


「どうだ噛み心地は」

「――、……!」


 腕を咥えたまま唸る狼の鼻先に右拳を叩き込む。

 ギャンと鳴きながら離れる狼。そして立ち上がるクロム。


「これが俺の相棒よ。最近暇してたからな、たまには仕事してもらわんと」


 そういうクロムの噛まれていた左前腕だけが真珠のような光沢と雪のような白色に変わっている。それはザッとまた腕に溶けてもとの肌色になる。


「これで勘弁してくれよ、この森には他にも食い物がたくさんあるだろ」


 狼は二人を睨みつけていたが、やがて踵を返して森の奥へと消えていった。

 草にまみれた体をはたいて汚れを落としながら少女に体を向ける。


「大丈夫かい?」

「え、えっと……」


 困ったように立ちすくむ少女。心情は概ね理解できるので向こうが話すまで待ってみる。


「えっとあの……、腕、大丈夫なの?」

「ん、ああ……これ」


 腕をぷらぷらさせて見せる。腕は無傷、だが服がもはや服と言っていいのかというほどにボロボロであり、そちらの方が悲しい。

 それはそうと彼女の第一声がこちらの心配だったのは殊の外嬉しかった。集落の者共の冷たさを思えばこの心遣いが天女のようである。その落差により己の中での少女への好感度がグッと上がるのを感じた。我ながらチョロい。


「まったく、痛くもなんともないさ」

「そ、そう……」


 半信半疑といった様子の少女。


「それよりも、早く帰ろう」

「あっ、そうだね」


 集落の方へと向かって歩き出す。


「けど俺は集落の中までは行かないから、見えるとこまで送るね」

「……ごめんね」


 少女は俺より少し上、十二、三歳といったところか。まだあどけない容姿ではあるが複雑な表情で奥歯に物が挟まったような言い方をした。

 おそらく彼女も親から俺に関わらぬように言って聞かされているんだろう。


「気にしないでいいよ、俺もそんなに気にしてないから」

「そうなの?」


 若干嘘だが概ねほんと。最初は悲しかったがそうとわかればもう切り替えてある。ここだけが世界の全てというわけじゃないのだ。


「けどなんでこんな森の奥に? 大人の姿もなかったし」

「……? 私は家に帰ろうとしただけだよ?」


 何を言っているんだお前。

 という言葉を飲み込んだ。方向音痴かこの少女、森に囲まれたこの環境でこの調子で生きていけるのか心配になってしまう。


「まあお母さんは森にあまり行っちゃだめって言うんだけどね」

「だろうね」


 じゃあ今日はなぜ? そう聞くと恥ずかしそうにこう返した。


「君が気になって……」

「はあ」

「みんな君に関わっちゃいけないって言うんだけど、どうしてかわからなくて」

「そうだねぇ」


 たぶん論理的なことじゃないのだろう、なんとなく異物がいてほしくない、それだけのことだろう。田舎あるあるだ、記憶はないけれどそんな気がする。

 そうしていくつか話していると家が見えてきた。そこで俺は歩く方向を変え、おっさんの家へと向かい。


「じゃ、今後は気をつけるんだよ」

「――あの」


 手を降って離れようとすると呼び止められた。


「また、会えるかな」


 愛いやつ、人心をつかむ”ツボ”を心得ているじゃあないか。


「もちろん」


 こう返すと少女の顔がぱあっと明るくなった。彼女は元気に村に走りかけ、こっちに向き直る。


「今日はありがとうございました! おかげで死なずにすみました!」

「うん、ちゃんとお母さんの言うこと聞くんだよ」

「わかった!」


 笑顔で返事をする少女、またねと言いながら帰っていった。いい子だ、久しぶりに会話らしい会話をしたうえにそれが彼女のような人間でさらに嬉しさが増す。おっさんはあんまり返事してくれないしな。でもおっさんのおかげで彼女と会話できたのだからおっさんにはやはり感謝の限りだ。

 突然ではあったが相棒の試運転もできた。今考えるともし相棒が反応してくれなかったらえらいことになってただろう。まあ感覚では活動しているのがわかっていたのでそれほど無謀ではなかったが。

 と思っていると急にめまいがした。


「まじ……、あれだけで?」


 思い当たるのはそれしかない。腕を防御するのに相棒を展開した、それによるエネルギーの消耗が激しかったことによる衰弱だ。動くのはわかったが、想像以上に自分も相棒も弱っているようだ。今後はもっと気をつけねばならないし、早く補給手段を見つけねばならないだろう。

 そしてもう一つ気付いたことがある。


「籠……」


 今日森に入った理由、その成果物が狼と戦ったときにぜんぶ飛んでいったことに今気づく。


「あーあ……」


 肩を落としながら歩く。残念ながら今日もいつもの、わびしい夕食になりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る