第7話 キラメッセぬまづ 2

「椿くん、落ち着いてるね」


 稔にそう言われた。はたからはそう見えるらしい。

 落ち着いてはいない。頭の中ではぐるぐると考えているし心の中はぐちゃぐちゃだ。このような状態を世間ではフリーズしているというらしい。


 自分はそれでも表向きは笑っていられる。

 二十二年間実家で鍛え上げた成果だ。

 とりあえずおとなしくしていればいい。適当に濁して合わせておけばいい。声を荒げてはならない。上品に振る舞っていなければならない。


 どれだけ怒っても。どれだけ悲しくても。どれほど怖くても。どれだけ傷ついても。どれだけ落ち込んでも。どれだけつらくても。


 椿は、とりあえず笑う。


「もっと怒るかと思ったよ。前に和服ならすぐ男物だとわかるからというようなことを言ってなかった?」


 稔がおそるおそる顔を覗き込んでくる。心配してくれているのだろう。それはそれで不愉快だった。自分はどうにでもなる。子供ではない。放っておいてほしい。


 善意も嫌いだ。


「しゃあないやろ。一応謝罪もしてもろたし、今どうこう言うてもいまさらや」

「身内しかいないところで愚痴を言うのは許されると思う」

「褒められたことやあらしまへん。誰が相手でも同じです」

「強いねえ」


 そこで溜息をついたのは大樹だ。


「ひまがいりゃな。あいつがいればお前の代わりに怒り狂ってくれるのにな」


 彼の言うとおりだ。向日葵はとても素直で、まっすぐ感情表現をする。それでいて彼女は必ず道理を通す、ただ感情的になって爆発するだけではない。


 彼女が恋しい。彼女に癒されたい。抱き締められたい。どうしてこの場にいないのだろう。


「ハロー!」


 また別の方向から声をかけられた。


 そちらに顔を向けると、背の高い女性がのんびり歩み寄ってくるところだった。

 向日葵の上司であり大樹の高校時代の先輩、勝又かつまた里香子である。

 椿は少し安心した。里香子は言葉を選びつつもそれなりにはっきりものを言うところが好感を持てる。少し向日葵と似たところがあるように思う。


「里香子さん」


 彼女も左腕にスタッフと書かれた腕章をつけていたが、休憩中なのだろうか。


 稔と椿の間に立つ。里香子の高身長が際立つ。確か百八十センチに靴のヒールでプラスアルファだ。

 彼女はけして臆さない。履きたいものを履く。着たいものを着る。


「あらリカちゃん、久しぶり。お仕事?」


 桂子が問いかけると、里香子が笑った。


「サボり」


 社長がこれでは従業員の向日葵は推して知るべしだ。


「香爽園でイケメンが二人働いてるって聞いてさー、見にいっちゃお、と思って」


 大樹が「あざまーす」と調子のいい声を出した。


「いやー、リカちゃんパイセンにイケメンとして認めてもらえる日が来ようとは」

「お前じゃねぇ」


 後輩を一刀両断にした後、里香子は椿と稔に順番に「ねえ、ねえ」と微笑みかけた。


「この子はどこの子? さらってきたの?」

「なに人聞きの悪いこと言ってんすか、従弟っすよ。親父の弟の息子」


 稔がぺこりと頭を下げる。


「池谷稔です。大樹兄の紹介のとおり、従弟で。普段は千葉に住んでるんですけど、盆暮れ正月とゴールデンウィークの新茶の時だけ沼津に来るんです」

「あらそう。ありがとう、たとえ一時的にでも沼津に若者が来てくれるのは嬉しいわ」


 里香子も稔も愛想がいいので初対面の相手ともうまく会話をする。


「私は勝又里香子。大樹の高校の先輩で一応企業経営者です。二十八歳の若造にできることなんて大してないんですが、まあそれなりに沼津の街を飾っています」


 肩書きとして言えることがある身分をうらやましく思う。


「稔くんは年はいくつ?」

「二十歳で大学三年生です」

「いいねえ、夢と希望にあふれてる時だわ。同時に――」


 ふと、遠くを見遣る。


「大きな壁にぶつかる年よねえ。もう完全に子供じゃなくなったのはわかってる。就活しなきゃいけない。でも自己分析をすればするほど一人でできることなんて大してないのを感じてしまう。新卒ブランドだけでこの先四十年をなんとかしなきゃいけないことと向き合うはめになる」


 今の稔にはダイレクトに響く言葉だろう。里香子には青少年の悩みをキャッチするアンテナがついているのだろうか。椿も結構里香子に救われているところがある。里香子にはぜひカウンセラーの資格でも取ってほしいものだ。


「里香子さんはどうして起業したんですか?」


 顔色こそ変わらないが、稔も何かをキャッチしたに違いない。里香子は頼れる、理解のある姉御だ。


「社会から爪弾きにされたからかな。自分の居場所は自分で作るという覚悟。私は見てのとおりこんなだから普通の企業で仕事を続けるのが難しかったわけ」

「強いんですね」

「女は強くなきゃやっていけないの、と思ったけど私の経験則からいうと男も男で別の強さを求められるから今の日本は全体的に生きづらいわ。早くおっさんおばさんになったほうがよさそう」


 脇で聞いていた四十八歳の桂子が「おばさんは楽しいわよ」と言ってきた。里香子が「私も早く桂子ママみたいな大人の女になりたいわ」と微笑んだ。


「稔くんはどんなおっさんになりたい?」

「どんなおっさん、かあ」


 稔が黙って考え込んだ。


「ごめんね、初対面なのに説教くさいことを言って。私もまだまだ迷える若者だから本当は偉そうなことを語れる立場じゃないんだけどね」

「いえ、すごく響きます」

「ほんと? そう言ってくれるとありがたいわ」


 そこで里香子は自分の腕時計を見た。小声で「まだ遊べるかな」と呟く。それを聞いた椿は思い切って自分も話しかけようと思った。


「里香子さん、ちょっと聞いてもええですか?」

「なに?」


 里香子が振り向く。


「怒るてどないすればええんですかね。僕また適当に笑うて流してしもた」


 椿のその台詞を聞いた稔が驚いた顔をした。間接的にではあるが、本当は怒っているということをようやく伝えることができた。


 里香子は「うーん」と唸った。


「怒りを表明することって喜怒哀楽の中では一番難易度の高い行為なの。ちょっと考え方を変えただけでできるようになるわけじゃない。そんなに簡単なら世の中にアンガーマネジメントなんてものは存在し得ない」

「そうなんや」

「池谷兄妹と自分を比べないようにね。池谷兄妹が特別よくできてるの。みんながみんなあの二人みたいにうまく感情表現できるわけじゃない。偉いなあと思って拝んで参考にしたらいいわ」


 椿は頷いた。


 大樹と桂子は通りすがる客に冷茶の入った紙コップを配っている。


「私も二十歳くらいまではよく家に帰ってから部屋の壁殴ってたわよ。おかげで実家の壁ぼこぼこ」

「ほんまに? 里香子さんえろうしっかりしたはるから子供の頃からそうなんやとおもてましたわ」

「私は友達に恵まれたからね。愚痴を聞いてくれる仲間がいっぱいいる。そういう人たちに少しずつ吐き出す練習をさせてもらっているわ。現在進行形でね。だから椿くんもひまに付き合ってもらって少しずつ練習するといいわよ、殴ったり怒鳴ったりしない程度に」


 ぎょっとした。


「そんなことしません!」


 里香子が笑った。


「今の反応、いいわよ。でっかい声を出しなさい」


 そして「そろそろ行くかな」と言って一歩を踏み出した。


「友達はいいわよ、友達をいっぱい作りなさい! 私とも遊びましょう!」


 里香子が去っていった。人一倍大きいので消えたとまでは言えないが、背中を向けられると寂しいような、広い背中が頼もしいような、だ。


「なんかすごい人だね」


 稔が息を吐いた。


「いつも思うんだけど、セクシャルマイノリティの人ってみんな達観してるよね」

「ほんま? 僕里香子さんしか知らへんから比較のしようがないわ」


 いつの間にか近くに寄ってきた大樹が、稔と椿の頭を小突いた。


「あの人だって悩んで悩んで今があるんだわ。今言ってたら、社会から爪弾きにされたから起業した、って」

「そうだね……、そうだよね。やだな、僕も偏見の目で見てるかな」

「まあ今のあの人が強いのはマジだけどな。それこそ聞いてみたらいいら、世間知らずのシスヘテロ男性である僕らではわからないことってありますか、ってな」


 稔と椿は顔を見合わせて頷いた。

 世界にはまだまだ知らないことがある。今はそれでもいいかもしれない。里香子ならそれを肯定してくれそうな気もする。そしてその上で厳しくも優しく導いてくれそうな気もするのだ。

 それはそれで甘えかもしれないけれど、知ったかぶりをするよりはいい。

 我々の勉強はまだまだこれからだ。


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