第5話 台風一過の茶畑にて
翌朝、屋外には青空が広がっていた。
日本中が警戒した巨大台風はなんと一晩で弱体化し消えてしまったのだ。
あんなに怖い思いをしたというのに、沼津には何の被害もなかった。いいことだが、椿の不安と焦燥による心労を返してほしい。何もかもが取り越し苦労だった。
朝、まず洗面所に行く。隅に据え付けられた洗濯機を回す。12キロの大型の洗濯機で一気に七人分の服を洗うのだ。
この洗濯機、聞くところによると向日葵が大学進学で一度出ていった時に買い替えたらしい。
当時は広樹、桂子、花代の三人での生活だったのでひと回り小さい洗濯機にしようか悩んだのだそうだ。
結局、普段は二、三日分まとめ洗いをして子供たちが帰省した時に備えようという話に落ち着いた。
その時の三人の判断に感謝したい。夏の今は椿が毎日浴衣を二着放り込むのでずっとフル稼働している。
椿が洗濯機を一番いじめているということで、洗濯は椿の担当になった。
自分の寝間着を洗濯ネットに入れる。洗剤を投入し、柔軟剤を専用ケースに注入する。
この流れも、実家では一切やったことがなかった。向日葵に手取り足取り教えてもらってなんとかできるようになった。
洗濯である。
実家のばあやが聞いたら泣いてしまうかもしれない。
水が流れ始めたのを確認してから、ふたを閉めた。
「あ、もう回しちゃった?」
振り向くと稔が立っていた。ぺたんとした少し長い黒髪に黒縁で度の強い眼鏡をかけている。
ワックスもおしゃれ眼鏡も使わない素の彼はいわゆる陰キャというたぐいの青年に見えなくもなかった。少なくともあまり陽気なタイプではない。髪型と眼鏡だけで人間はこんなにも印象が変わる。
「まだ七時前やで。寝ててもええで」
「朝ご飯食べられないのが嫌で……本家は朝早いね」
眼鏡を手の甲で軽く押し上げて下の目をこする。
「本家でみんなでわいわいご飯を食べるのが好き。桂子ママの料理はおいしいしね」
椿も同感だ。
「顔洗う」
そう言って稔が椿の前を横切った。細身なので圧迫感はないが、こうして近づくと彼も背が高い。百八十センチぐらいだろうか。池谷の男だ。
洗面台で眼鏡をはずす。向日葵の髪留めで前髪を上げて、大樹の洗顔フォームでじゃぶじゃぶと顔を洗う。水滴があたりに飛び跳ねる。
稔が顔を上げたタイミングで、椿はフェイスタオルを差し出した。稔が「ありがとう」と微笑んで受け取った。顔を拭いた後、使ったタオルで洗面台を掃除する。
パジャマとして着ているTシャツを一気に脱いだ。そこで椿も、先ほどの、もう回しちゃった、はこのTシャツを洗濯してほしかったのか、ということに気づいた。これは起きるのが遅かった稔が悪い。
Tシャツの下の稔の裸身を見て、椿は目を細めた。
思っていたのと違う。
細身なのに引き締まり、腹筋が割れている。
敗北感だ。
同じ細いのでも骨と皮ばかりの椿とはぜんぜん違う。
「……何?」
視線を感じたらしい稔がこちらを見た。椿は目を逸らしつつ答えた。
「ひょっとして鍛えたはる?」
「中学の時から空手をやってて、今でも武道系のサークルに入ってるよ。さすがにインカレを狙ってるとかではないから運動部には入ってないけど」
「あっそう……」
「なんで?」
「いや……何というか……ええ体したはりますね」
「あはは」
洗濯機の脇の収納ケースの上に濡れたタオルとTシャツを置いた。
「強くなりたかったからね。もういじめられないように」
見習いたかった。
「暑い」
それから二時間後、椿と稔は茶畑にいた。
稔が、海水浴が中止になったので他のことで沼津らしいことをしたい、などと言ってくれたせいだ。
朝から茶畑で作業していて朝食のために一時帰宅した義父が邪悪な顔をしながら、沼津にしかないもの、と謳って二人を自分の畑に拉致連行したのである。
椿はとんだとばっちりだ。友達だから、同世代の若者だから、という屁理屈で連れてこられた。椿は今日も祖母の店で売り子をするつもりだったのに、長袖の作業着に着替えさせられ、軍手をはめさせられた。
麦わら帽子の中が蒸す。うなじを汗が伝っていく。稔がかぶっているキャップにもすでに汗がしみを作っていた。
「あーおじちゃん嬉しいなあ、若者がおじちゃんの畑で働きたいなんて、農家やっててよかったなあ」
すっかり暑さに慣れた義父が熊手で雑草の根っこをひっくり返した。椿は「言うてません」と呟いたが無視された。
二番茶の収穫が済んでから、茶畑では草むしりの日々が続いている。夏の日差しを浴びた雑草が縦横無尽に生い茂るためだ。機械で刈り取るのも除草剤を撒くのもお茶の木を傷めるからだめらしい。人力の手作業で一本一本抜く。これが毎日続く。賽の河原かプロメテウスだ。義父は本当によくやっている。農家というのは過酷すぎる。
しゃがみ込んで太い根を引っ張る。腰が痛い。手が滑る。
「あーあ、こんなに晴れるんだったら海に行きたかったな」
「まだ言ってんのかよ。高潮で入れねえっつってんじゃん」
「お盆を過ぎたらくらげが出るって言うしなあ。これ以上本家に滞在しても、今年の海は諦めかな」
「都会に帰ってプール行けよ。沼津はだめだ、市民プールが閉鎖されちまった」
エンジン音が聞こえてきた。振り向くと軽トラが農道を上がってくるところだった。運転しているのは大樹だ。彼も畑仕事に駆り出された被害者の一人だ。
大樹は軽トラを停めると取り除かれた草木を荷台に運び始めた。
「おい、椿、お前も行ってこい」
「はい」
立ち上がったら目眩がした。炎天下で変な姿勢で作業していたからだろうか。後ろに倒れそうになったところを大樹がとっさの判断で後ろから抱きかかえてくれた。危ない、大樹がいなかったら地面に後頭部をぶつけているところだった。
「お前大丈夫かよ、涼しいところで休むか?」
「大丈夫です、すみません」
これくらいの立ちくらみならよくあることだ、とは言えなかった。屈強な池谷の男たちの前で恥ずかしすぎる。
「水は? ポカリまだあるか?」
「あるよ。伯父さんの車の中だけど」
「車でクーラーつけて休憩しとけ。稔、お前もついてけ」
「はい」
広樹が稔に向かって車のキーを放り投げた。稔は何のこともなくキャッチした。もう片方の手で椿の腕をつかみ、駐車スペースに向けて歩き出す。畑の真ん中にいる大樹と広樹の姿が遠くなっていく。
広樹の黒いミニバンにたどり着くと、稔はまず椿を後部座席に座らせた。それから運転席を開け、エンジンをかけ、エアコンをつけた。ドアを閉め、また後部座席に戻ってくる。
「横になる?」
「いや、大丈夫」
背もたれに背中を預けて、二人でペットボトルのポカリスエットを飲んだ。
「伯父さんと大樹兄の強靭な体力には敵わないよねえ」
そう言う稔はしっかりついていけている気がする。だめなのは椿ばかりだ。
ペットボトルを両手でつかんで、溜息をついた。
漠然とした不安に襲われる。
この畑を相続するのは椿と向日葵だ。つまり義父に何かあったら椿と向日葵が畑でこういう作業をしなければないのではないか。義父はそういうつもりで椿を婿に取ったのではないか。椿は普段祖母の店で働いているが、自分が店に居着いていたら、畑仕事のほうはどうなるのだろう。この肉体労働を向日葵一人に任せていいわけがない。
車の外には青空が広がっている。灼熱の太陽が輝いている。
けれど夏はもう終わりに向かっている気がする。
先ほどの朝食の席では、義母が、暦の上では秋とは言うが、などと言っていた。しかし椿はなんとなく今朝から空気が変わったような気がしていた。昨日と今日とで何かが違う。おそらく、台風とともに夏のピークが過ぎ、空気が乾燥したのだろう。
不意に窓をノックする音が聞こえてきた。そちらを見ると、噂をすれば影、義母の桂子が微笑んでいた。長い黒髪をポニーテールにして、タンクトップの上に薄手のパーカーを羽織っている。UVカットのサラサラウェアがうりの生地のパーカーである。
稔が後部座席のドアを開けたら、彼女は「おつおつー」と言いながら乗り込んできた。
「お昼ご飯持ってきたわよ。ちょーおにぎり握った。こんなの大樹が中学三年生で向日葵が一年生だった時の運動会以来よ」
「やったー嬉しい!」
桂子が椿を見る。
「顔色悪いわね。疲れた?」
「お恥ずかしながら」
「炎天下だもんね。休み休みね」
「はい」
責めないでくれるのがありがたい――そう思った、次の時だ。
「明日は涼しいところでの仕事だから大丈夫よ」
椿は思わず「えっ」と呟いた。
桂子はにんまりと笑った。
「明日の仕事は椿が中心になって働いてもらうからね。あー、楽しみ!」
稔が楽しそうな声で「明日何かあるの」と問いかけた。桂子が大きく頷いた。
「あんたたちにはちょっとお茶を売りに行ってもらうわよ」
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