第4話 嵐の夜、手を握り、安堵する
雨戸を閉め切ると屋内は静かになった。椿は不安を感じながらもおそるおそる布団に転がった。
「じゃ、消すよ」
向日葵がそう言ってライト用のリモコンを手に取る。椿が「うん」と答えたらすぐに電気が消された。
椿と向日葵は夜だけ離れで寝ることにしている。
離れ、といっても家の敷地内にたつ独立した一戸建てだ。トイレと風呂もある二階建ての4LDKで、普段は母屋で食事とお湯をいただいているが、その気になれば離れだけで生活することも可能だ。
もとは広樹桂子夫妻のプライバシーのために祖父幹太郎が建てた家らしい。築二十七年である。古くて申し訳ないと言われたが、戦後から七十年以上使われている母屋に比べたら現代的だ。
なんなら椿の実家は琵琶湖疏水が整備された明治時代からあった。しかも御所南で使われていた建材を移築したそうなので、何もかもがチェンソーでぶった切りたいほどの古さだった。洋風の暖かそうな建築物に憧れていた。だからフローリングの部屋と畳の部屋が混在するこの離れが好きだ。
キッチンカウンターの見える八畳相当のリビング、フローリングの上に毛足が長いカーペットを敷いてあり、夜はその上にさらにふかふかの布団を敷く。二組、向日葵のぶんと自分のぶんだ。実家のだだっ広い十二畳の和室でも、大学時代の向日葵が暮らしていた学生専用マンションの六畳1Kのシングルベッドでもない。
不意に家が揺れた。ひゅー、ひゅーと風の音がする。
「今夜は荒れそうだねえ」
隣の布団に寝転がっている向日葵が言った。
「窓割れへんかな」
「雨戸閉めたから大丈夫っしょ」
巨大な台風が近づいているというのに、池谷家の面々は落ち着いている。玄関に植木鉢をしまい、家じゅうの雨戸を閉めたが、それだけだ。
普段はカーテンの向こう側に月明かりを感じるが、今日は真っ暗だった。雨戸が閉まっているから当然だ。それに普段から電気を真っ暗にしないと眠れない。なのに今日はなんとなく嫌な感じがした。
不意にタオルケットの上から肘をつかまれた。手首を探して降りてくる。やがて椿の手をつかむ。厚い筋肉の温かさと薄い脂肪の柔らかさを感じる。向日葵の手だ。
「だいじょうぶだよ、わたしがついてるからね」
椿は苦笑した。
「大丈夫やないように見える?」
「そこまでは言ってないけど、椿くんちょっとでも環境が変わると寝れないからさ」
「環境変わってへんやん」
「でも風の音がする」
それも、雨戸の向こう側からだ。時折雨戸が揺れる音もする。
目を細めたが、何も見えない。
「京都は台風来いひんからな」
ぽつりぽつりと、呟くように語る。
「風とか雨とか、みんな和歌山で落っこちるから。最近なんや瀬戸内や大阪で猛威を振るうてるけど、京都までは来いひんねん」
「そう言われてみればそうかも」
「前に鴨川が大氾濫したらしいんやけど、僕らが生まれる前やんか」
「前ってどれくらい前?」
「三百年くらい前?」
「お、おう」
ぎゅ、と手を握り合う。
「静岡はいろんな災害あるな。地震、台風、富士山の噴火」
「だら。学校の避難訓練は年四回だで」
「こんなとこよう住んでられんとか思うことあらへん?」
「ないね」
彼女は即答した。
「建設関係の基準がしっかりしてるし3.11からもいろんな備えしてるから大丈夫っしょ」
「そんなもんなんや」
「津波は根方街道まで来ないし、高橋川が氾濫するのはいつものことだから準備してるし――」
そして、力強い声で。
「富士山が噴火したらその時はその時さ。一緒に死のう」
椿も覚悟して頷いた。それが静岡県で骨をうずめるということだ。
死ぬのは怖くない。椿が怖いのは向日葵を失うことだけだ。向日葵が死んだ後の暮らしに希望が持てないのでそれでいい。
向日葵がいる世界こそ自分がいるべき世界だ。
「でもみのくんは可哀想やなあ。はるばる沼津まで遊びに来てくれたのにこんな天気で」
「夏はどうしてもしょうがないね」
向日葵のさっぱりとした声に笑ってしまいそうになる。静岡県民のこういう気性が社会をあっけらかんとした空気にしているのだろう。京都人もなるようになれという心持ちで暮らしているが、よそから来た人間に都を荒らされるという諦念から来るものであり、たまにやり切れないところがありそうである。
「台風一過は気持ちがいいよ。暑いけどからっとしてるから京都よりはマシさね」
「そうやろな」
向日葵の手が離れた。タオルケットを掛け直し、指の先まで覆ってくれる。
「おやすみ」
握ったまま寝てくれるわけではないらしい。しかしもとはといえば椿がひとの体温を感じたり寝返りに支障が出たりすると眠りが浅くなるタイプなので仕方がない。
いつか腕枕というものをしてみたいと思ったこともある。だが、互いにした経験もしてもらった経験もないせいで実行に踏み切れない。こういう時初めてのカレシカノジョであるもどかしさを感じる。それをはるかに凌駕する幸福を得ているので割り切りたいものだ。
ややして、向日葵から寝息が聞こえてきた。静かで穏やかだが確かに呼吸をしていると感じられる程度の音で、だだっ広い十二畳の部屋でほぼ無音の夜を過ごしていた椿はこれに慣れるのに少し時間がかかった。いいではないか、生きてちゃんと眠っている。
また先に寝られてしまった。また独りぼっちだ。さみしい。すぐ眠れることは健康な証で、本当は寝つきの悪い自分のほうがまずいのだが、それにしてもさみしい。さみしい。たまには夜通ししゃべっていてもいいのではないか。まして今夜はこんな天気だ。さみしい。
風の音がする。
夜通し祈祷をした人々の祈りを想像する。
何かしていれば気が紛れるのかもしれない。
ごろりと寝返りを打った。横向きになり、向日葵に背を向ける。
「ひいさん」
返事がない。
「こわい」
起きている時にはけして聞かせることのできない感情を吐露した。
こわい、こわい、こわい――椿の人生は不安や恐怖を感じることだらけだ。そしてそれを誰にも明かすことができなかった。向日葵に対してであっても、今はまだそこまで甘えることはできない。
強くたくましい自分でいたいという気持ちが邪魔をしてかえって情緒不安定になる。苦悩と葛藤、しっかりしていたいがしっかりとはどういう状態か。
彼女が隣で寝ている。だから大丈夫だ。台風は凌げる。雨戸は閉めたし、クローゼットには避難袋と二リットルペットボトルが六本入っている。
もう一度寝返りを打って向日葵のほうを見た。
真っ暗で何も見えないので、手探りで向日葵の体を探した。
先ほど向日葵が椿にしたように彼女の腕をつかんだ。起きない。大したものだ。
向日葵の手首を軽く握る。人差し指と中指でそっと手首の内側をなぞる。脈がある。ゆっくりした、規則正しい心臓の拍動を感じる。
少しずつ眠くなっていく。
人間は誰しも母親の胎内で暮らしていた時期がある。その間母親の心音を聞き続けていたはずだ。だから人間は他人の心音に安らぎを覚える、とどこかで見聞きしたことがある気がする。椿は自分自身の本物の母親が少し苦手だったが、だからこそ、向日葵にそういうものを求めてしまうのかもしれない。
目を閉じた。
向日葵の生だけを感じる。
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