第3話 池谷ファミリーは嘲笑《わら》わない
近年沼津にはクラフトビールの醸造所や提供店舗が増えているらしい。狩野川周辺に分布しており、池谷家一同は口を揃えていつか飲み歩きをしたいと言っている。外でビールと言えば夏のビアガーデンだが、残暑がおさまる初秋がいいだろう、とも言っている。真夏は夕方でも暑いし、今年の太平洋側は雨の日が多い。いずれにせよ椿はあまり楽しみではなかった。アルコールの回った連中に送迎担当として駆り出されるからだ。
大樹がいつの間にかクラフトビールを大量に仕入れてきていた。今夜はビール祭りだ。
ちょうどいい感じにアルコールを摂取した稔が、いつも以上に饒舌に語り始める。
「結局のところ父さんは自分の面子が傷つくのが怖いんだよ。かっこつけたいだけなんだ。今まではひまちゃんのことを子供だからとか女の子だからといってマウントを取って気持ちよくなってたけど、椿くんの登場で今までどおりにひまちゃんで遊べなくなったから、自己顕示欲が満たされないから本家に来れないんだよ」
椿も稔の言うとおりだと思う。
正樹は一応先のゴールデンウィークには帰省してきた。しかしそれは茶摘みという逃れられない宿命のためであり、茶畑で忙しく振る舞っていて、家の中では何もしようとしなかった。向日葵と椿にはよそよそしかった。向日葵は、急に態度を変えやがって、と憤っていたが、椿からしたら満足だった。マウントを取るためにわざと彼のグラスに酒を注いでやったくらいだ。
「小さい男だね。自分の父親ながら――いや、だからこそ、かなあ。恥ずかしいよ」
向日葵が稔のグラスにビールを注ぐ。
「昔はなんとも思ってなかったんだけどね。でもそれってわたしが本物の子供だったからだよね。本当に保護者が必要だったから。だからせいぜい中学生くらいまでだったんだよ」
「どうかなあ。今振り返ればだけど、伯父さんはもっと甥っ子姪っ子の僕らの自主性を尊重してくれてたよ」
広樹が「当たり前だろ」と勝ち誇った顔をする。悔しいが椿もそう思う。広樹とはいい意味でも悪い意味でも対等だ。彼は周りに何も求めていない。椿としては、本音を言えば、彼には一家の長としてもっといろんなことを采配してほしい。
「良くも悪くも今が世代交代のタイミングなんだろうね」
祖母がつまみの茹でた落花生を剥く。
「どのみち正樹は次男坊で家を出てったんだから、いつかは完全に独立してもらわなきゃ困るさ。
この伸二郎とは、祖父であり彼女の夫であった
「伸二郎さんは伸二郎さんでお墓買ってもらったさね。正樹にも最終的にはそうしてもらわないと」
本格的に分家として分かれるということだ。妥当なことである。
「
「もう住職に金積んで永代供養してもらわなきゃだめっしょ」
稔が「あーあ」と天井を仰いだ。
「僕も本家の子になりたいなあ。本家の墓に入りたいよ」
しかし正樹が墓を買えば、順当に行けば長男の稔が継ぐことになる。婿養子に入った椿がいるのに稔が入ってこられたら困る。
「正樹にそれとなく言って大泉寺に墓買うよう仕向けろ。裏の区画整理したとこ売ってんぞ」
「やだな、やだな」
彼はそのままカーペットの上に仰向けに転がった。
「もうそんなこと考えなきゃいけないのか。僕、大学生なのにな」
それが分家のさだめだ。そういう意味では不動産を相続する本家は何も考えなくていい。農家の長男には学が要らないというのはこういうところに
「そうよ、正樹さんも和枝さんもまだ今年五十一でしょ? 特に病気してるわけじゃないんでしょ」
「せいぜい腰痛と老眼くらいだよ。毎日晩酌するわけでもないからか内臓の数値も悪くない」
毎日晩酌をする広樹が「ぎゃふん」と言った。
「健康づくりのために仕事の後皇居の周りをジョギングするって言ってたから、健康寿命長そう」
「いいじゃ、介護はするのもされるのもつらいら」
祖母が溜息をつく。
「私がボケたらすぐ施設に入れてちょうだい。桂子ちゃんに迷惑をかけたくにゃあだよ」
桂子が感動した顔で「お義母さん……」と呟く。
「そうだ、正樹より先にばあさんだ」
「私も七十七だかんねえ」
椿はその時を想像して少し寂しくなった。椿はこの祖母が好きだった。誰よりも理性の人で知性の人だ。昔の人は学歴ではない。頭の回転は早いし、中公新書を好む彼女は博識であった。
「やだなあ……」
稔が眼鏡をはずしてカーペットの上に置いた。そして、両手で自分の裸の顔を押さえた。本気で泣いているわけではないだろうが、痛々しい。
「稔」
広樹が優しい声で言う。
「悩みとかあったら何でも言えよ。墓に入ってこられんのは困るけど、伯父さん手伝えることあったらするし、今のところばあちゃんも健康なんだからよ」
稔は少しの間返答しなかった。椿は、おや、と思った。こういう時は嘘でも大丈夫だと言うものだと思っていたのだ。
悩みを本気で伯父や祖母に相談して何になるのか。
椿が長男の長男で伯父というものがいなかったからわからないのだろうか。なんなら叔父もいなかった。祖母は椿を厳しく叱るタイプで、甘えたい相手ではなかった。
実家にいる時の椿は本当にひとりで、椿の将来を真剣に心配してくれたのは向日葵だけだった。
「僕さ」
かなり経ってから、稔が口を開いた。
「就職にあんまりポジティブになれなくて」
先ほどの車の中での話を思い出した。
「就活したくないなあ」
誰一人として責めたり笑ったりしなかった。
椿は最初それを若者のモラトリアムを受け入れる裕福な家庭特有のものだと感じていたが、どうもそうではないらしい。
「院進か」
言ったのは大樹だった。彼も大学院を出たのでぴんとくるものがあったのかもしれない。椿は自分を恥じた。自分の将来のことを何にも考えたことのない奴の発想だ。
「そうなんだけど、ちょっと違う」
そこでひとつ溜息をつく。
「笑わないで聞いてくれる?」
「誰に言ってんだ」
池谷ファミリーはいつでも迷える若者の味方なのだ。
「留学したいんだよねえ」
正月に、広樹が、稔はイギリス行くんだよ、と言っていたのを思い出した。
「イギリス?」
椿が問いかけると、稔は「そう」と首を縦に振った。
「将来、翻訳をやりたいと思っていて」
「英語を日本語にする仕事?」
「その逆もできるならやりたいけどね」
稔が上半身を起こした。裸眼のまま手酌で自分のグラスにビールを注ぐ。一気に飲み干す。
「やるならもっと英国文化に詳しくならないとだめだ。シェイクスピアが読めるくらいじゃだめなんだよ」
それに真っ先に同調したのは広樹だ。
「何の翻訳をやるんか知らねぇけど、まあ、俺も、ハリウッド映画を本当に理解するためにはスターウォーズを全部見なきゃいけねぇことぐれぇは知ってる」
この義父は映画が好きだ。朝六時から夕方四時まで茶畑で草むしりをする労働に従事した後、余暇は全部映画を見ることに使っている。書庫になっている納戸には彼が買い集めた洋画のDVDが大量に所蔵されていて、少年の日の稔は不登校になっていた時代にこの洋画を漁っていて英語に目覚めたらしい。そう考えると稔がやりたいのは字幕の仕事なのかもしれない。
「正樹と和枝ちゃんは何て言ってんだ?」
「父さんは夢みたいなことを言ってないでそこそこの企業に就職しろってさ。母さんは一から十まで父さんの言いなりだから以下同文」
声を荒げたのは桂子だ。彼女は眉を釣り上げて「なんてこと!」と言った。
「自分が上場企業の役員だからって未来ある若者を社畜にする気!?」
祖母が溜息をつく。
「それが唯一の成功体験なんだら。あの子もそこまで冷たい子じゃない。息子に安定した人生を歩んでほしいんだら」
企業に勤めても先の見えない世の中で何を言っているのだかと思うが、祖母の言うとおり、池谷正樹氏は自分の稼ぎだけで千葉県市川市という都内に通勤する者に人気のベッドタウンでタワーマンションを買った男である。
「翻訳はフリーランスしかないのか」
「たぶん。そういう情報を集めるためにも近々予備校みたいなところに通いたいと思ってる。都内にそういう教室があってね。それは貯めたバイト代でなんとかするから父さんが何を言っても貫き通すつもりでいるけど」
ちゃぶ台の上に頬杖をついた。
「それとも、やっぱり一回は企業に就職して社会経験を積まなきゃいけないのかな」
桂子が息子を見る。
「どう思う? 企業に就職した人」
「俺は第一志望が機械系の企業の開発部門だったからわからん」
大樹こそ夢を叶えた人物なのだった。
稔はこの家、否、もしかしたら一族で唯一の道を行こうとしているのかもしれない。彼にアドバイスできる人間は、ここには誰一人としていないのだった。
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