第2話 就職するということの難しさ

 天気予報が不穏な雰囲気になった。どうも台風が近づいてきているらしい。すでに九州では荒れ模様だと気象予報士が言っている。沼津はまだまだ嵐の前の静けさといったところだったが、我らが池谷家のある地域はすぐ水没するので不安を掻き立てられる。


 静岡県は風雨に晒される苛酷な土地だ。冬場は遮るもののない空に明るい太陽がまばゆく輝く過ごしやすい土地だと感じていたが、嵐のシーズンはダイレクトに荒れて居ても立っても居られない時がある。それでも空気は比較的乾燥していて風もあるので、京都よりはよほど過ごしやすい。沼津人がみんなUターンする理由も何となくわかる。けれど災害の少ない京都から見ると時々恐ろしい。


 大樹のコンパクトカーに揺られて沼津駅に着いた。


 沼津駅は大勢の人でにぎわっていた。大きな荷物を抱えている人が多い。観光客だろう。沼津は東京から一番近い南国伊豆の西側の玄関口で、関東から気軽に訪れる人が多いと聞いた。有名なアニメの聖地にもなっていて若い男性客が多いのだとか。


 観光客は嫌いだ。椿の実家はよく知らない人に見られていたし、椿自身も一緒に写真を撮ってくれないかと言われることがあった。京都には観光公害という言葉がある。

 それを思うと、同じ沼津市内でも山の麓にある池谷本家は身内と近隣住民しか来ないので安心だ。自宅に逃げれば椿にとっても安全な生活がある。


 車がぎっちりと連なるロータリーに一時停車していると、そんなに待つことなく駅構内からボストンバッグを抱えた若い男性が出てきた。

 あえてくしゅりとエアリーに乱した黒髪にラウンド眼鏡、裾が長くて白いTシャツに長い革紐で小さなドリームキャッチャーをぶら下げているしゃれた男だ。元気に大きく手を振っている。


 稔だ。


 運転席の大樹が軽く短くクラクションを鳴らすと、稔が駆け寄ってきた。


 大樹が窓際のボタンを操作して助手席のパワーウィンドウを下げた。稔が穏やかだが明るい笑顔を見せる。


「こんにちは!」

「助手席に乗れ」


 後部座席には向日葵と椿が乗っている。


「荷物はひまか椿の膝の上にでも載せとけ」


 椿は、えっ、と思ったが、向日葵はすんなり受け入れた。助手席の後ろに座っている椿に対して、「開けてあげて」と言ってきた。


「椿くんが荷物受け取って」


 面倒臭かったが逆らえない。稔を待たせるのも感じが悪い。椿はすぐにドアを開け、稔のほうに手を伸ばした。


「ありがと」


 稔は何の疑いもない顔で椿の膝の上にボストンバッグを置いた。図々しい男だ。いかにも池谷家の男といった感じだ。沼津育ちでない稔も沼津人みたいなところがある。血とは恐ろしい。


「わたしの膝の上置こうか」


 向日葵がそう言ってくれた。彼女は本当に優しくてよく気がつく。けれど椿は彼女に重いものを持たせたくなくて首を横に振った。そうは言ってもおそらく衣類しか入っていないバッグは軽い。


 稔が助手席に座った。シートベルトを着用するかどうかのところで大樹が車を走らせる。後ろにも車の列ができていた。


「やっと沼津ついた! 新幹線も激混みで自由席空いてなくて永遠に三島につかないかと思った」


 大袈裟だ。東京駅から三島駅までは一時間もかからない。三島駅で東海道線の普通電車に乗り換えても一時間半にはならない。京都はもっと遠い。京都と沼津の間にはパスポートが必要なのではないかと思うほどの距離がある。


「くだりだからな。世間はお盆で夏休みなんだよな」


 沼津駅から向かって左、あまねガードをくぐる。このガード下も土地が低くてよく水没する。


「お前も大学生なんだから九月とかに来いよ。叔父貴や和枝かずえさんだってもうお盆にこだわってないんだろ?」


 大樹が言う叔父貴とは稔の父親の正樹まさきのことで、和枝はその妻であり稔の母親である女性だ。


 今回、正樹と和枝は本家に帰ってこないことになった。建前では同僚とゴルフに行きたいとかママ友と温泉に行きたいとかいろいろ言っているようだが、本音はどうも別のところにありそうである。落ち着いたら稔から聞き出すことにする。


「いやあ、海入りたくてさ。海入るんだったら八月じゃないか。大樹兄とかひまちゃんとかと海に行きたいんだよ」

「この年にもなって従兄弟と海入って楽しいんか?」

「楽しいよ。僕は大樹兄とひまちゃんが大好きだから。それに、市川の海は東京湾だからね。東京湾の海には入りたくないな、昔に比べたらきれいになったと言うけど、それこそ激混みだし、青い海を見たいよ」


 向日葵が「ところがどっこい」と身を乗り出す。


「台風が来てるので海水浴場は閉鎖なんですよ」


 稔が「それなんだよ」と大きな声を出した。


「どうしてよりによって明日? 今年の台風土日に来すぎじゃない? 日本人の休日を敏感に嗅ぎ取っているとしか思えない」

「そういうもんなんだわ、神様って残酷よな」

「あーあ、つまんないつまんない。せっかく本家まで来たのに外に遊びに行けないなんて。花火大会も終わってるしなあ。試験期間中にやらないでほしい、僕が本家に帰ってきてから開催してもらいたいものだね」


 これもまた図々しい発言だが、池谷本家の稔より図々しい人たちの物言いに慣れた椿にとっては不快ではなかった。素直で結構だ。


 以前イトーヨーカドーがあったという解体現場を横目に、リコー通りを北上する。


「ななちゃん、残念だったね」


 菜々ななは稔の姉の名だ。彼女も大樹、向日葵兄妹からしたら従妹である。


「ななちゃんに会いたかったな」


 一同はほんの少しだけ沈黙した。


「すっごく忙しそうだよ」


 稔がぽつりぽつりと語り出す。たまに和枝と情報交換をしているらしい義母からちらりちらりと聞いていたが、実弟の稔が言うとより強いリアリティがある。


「朝が早くてね。出勤は六時半ぐらいかな。八時には完全に園児たちを迎え入れられる状態になっていないといけないらしくて、一時間前に職場に着いて支度をするんだって」

「そっか」


 農家の池谷家も朝は比較的早く、農作業の中心的役割を果たす義父はもっと早く畑に行くこともあるが――


「帰りもだいたい八時くらいかな。六時に園児たちを帰して、それから片付けをするらしくて」


 農家の池谷本家は日が暮れる前に作業終了、七時前には夕飯も終えて寝る準備だ。農作業をしない向日葵と椿も十時前には布団に入ってしまう。


「保育士さんって、そんなハードな仕事なんだなあ……」


 菜々はこの春大学を卒業したあと保育士になって保育園に務めている。市川市の公務員保育士だそうだ。高倍率を勝ち抜いて就職した優秀な保育士である。ちょっと抜けたところがあるように見える彼女はそんなそぶりを見せたことがないが、人は見かけによらない。


 しかし保育士という仕事はとにかく休みがないらしい。公務員なので有給休暇はきちんと貰えるはずだが、使うタイミングが難しそうだ。何せ保育園とは保護者が子供を見られない時に預けるものなので、休日が土日祝日ではない親のために土曜や祝日も開いているらしい。菜々が務めている保育園は基本的に日曜は休みらしいが、夏休みらしい夏休みはない。


 菜々が本家に連泊する機会はもうなくなってしまった。新茶のために一族が集結するゴールデンウィークも来なかったくらいだ。正月くらいは顔を見せるだろうか。


 向日葵はたいへんさみしがっている。椿はそこまで人間に思い入れを持つタイプではないが、向日葵がさみしいと言うならそういうものだと自分に言い聞かせている。


 不思議なものだ。自分が他人に愛着を形成することなどないと思っていたのに――ましてやこの世でもっとも面倒臭い人間関係である血縁など唾棄すべきものだと思っていたのに、向日葵にとって大事なものが椿にとっても大事になってきた。


「でも、本人が好きでやってるし。子供は可愛い、子供に罪はないって言うし。公務員だし」

「今時公務員こそブラックオブブラックって感じもするけどな」


 稔が溜息をつく。


「僕はまだ就職してないからわからないけど、就活のことを考えると、苦労して手に入れた職を手放すのが怖いというのはわかるよ。もう本当に、身近に迫っているから」


 大樹と向日葵が縮こまる。


「それは……、なんか悪ぃな、俺は院の研究室のコネで今の会社に入ったようなもんなんで……」

「わたしもあんまちゃんと就活してないし……農家やりながらバイトできればいっかなーくらいの気持ちで今の会社に勤めてるし……」

「……まあ、その、文学部を卒業した椿くんならわかるよね?」


 椿も縮こまった。菜々と稔に申し訳ない。


「…………実家では不動産収入の不労所得で生きてきたので…………」

「池谷本家、僕ら姉弟のことを理解してくれる人間が一人もいないということか」

「すみません……」



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