太平洋は今日も晴れ Season2 ~君と過ごす僕の2年目~

日崎アユム/丹羽夏子

2022年8月

第1話 大樹義兄さんが帰ってくると僕はふわふわする

 八月十一日山の日、向日葵ひまわりの兄である池谷いけがや家長男の大樹だいきがお盆休みで実家に帰省した。


「お兄ちゃんおかえり!」

「おう、帰ったぞ」


 居間に入ってきてまず向日葵の頭を撫でる。幼稚園児ではあるまいし、この馴れ馴れしさは何なのか。向日葵もまんざらではないらしく抵抗せずにへらへらしている。二十六歳の兄と二十四歳の妹の態度ではない。腹立たしい。実の兄妹だからといってあまりにも距離が近すぎる。


 椿つばきは大樹と向日葵の様子をすぐそばで眺めていらいらしていた。


 大樹は向日葵の頭を撫でたのとは反対の手、右手に缶ビールを持っていた。義父の広樹ひろきがいい年して「あーっ」と大声を出す。


「俺のビールじゃん! なんでお前が持ってきてんだよ!」


 父に責められてもどこ吹く風、大樹は微塵も悪いとは思っていない顔で「わりぃわりぃ」と言いながらテーブルのそばに腰を下ろした。


「やだーっ、俺のストックお前が買ってくるたんび減るーっ! 自分のぶんくらい自分で買ってこいよーっ」

「いいじゃん一本ぐらい、あんまケチだと女房子供に嫌われんぞ」

「俺は徳の高い旦那だからこれくらいじゃ嫌われないもん」

「もん、って何だ、五十三歳」

「父親のもん勝手に持ち出して飲んじゃう息子なんて勘当だな」

「おーおー冷たい父親。だいき、パパだいちゅきー。ほら、これで許せよ」


 おおよそ親子の会話とは思えない。本当にそれでいいのか。義父は池谷家の当主である――という言い回しは多くの家庭で使われないらしいが、戸籍の筆頭者で住民票の一番上だ。池谷広樹に不敬をはたらいて池谷の姓を名乗る不届き者、と思うが家庭内では彼の扱いはかなりぞんざいである。


 大樹がテーブルの上に缶ビールを置く。手の平で上からふちを押さえつける。親指をプルタブに引っ掛ける。


 次の時、椿はぎょっとした。


 大樹は親指でプルタブを持ち上げ、ぷしゅ、という音を立てて開口部を作り、また親指でプルタブを押して戻した。


 なんと、右手だけで缶を開けたのだ。


 大きな手、長い指、強靭な握力、それらをすべて兼ね備えているからできる技だ。


 椿は敗北を感じた。椿にはできない。左手でしっかり缶を押さえた上で親指と人差し指が必要だ。


 大樹は男らしい。椿が直接会って会話をしたことのあるすべての男性の中でもっとも雄々しい。強くて大きく、まったくもって敵う相手ではない。大樹が隣にいると自分が貧弱で小柄な男であるように思えてくる。


 椿にとって大樹は恐るべき存在だ。池谷家長男としてよくできていて、惣領娘の婿である自分の立場を脅かしているような気がする。周りに言ったら気のせいだと笑われそうだし、自分でも馬鹿馬鹿しいと思う時はあるのだが、こうして隣に並ぶとどうしても反抗したら負けるという意識が湧いてきて不安になる。


 思えば初めて会った時から大樹はすさまじい存在感だった。

 椿の実家を向日葵とともに訪ねてきて、地下で縮こまっていた椿をいろんな意味で強引に引きずり出した。

 あの頃のことは記憶が曖昧ではっきりと思い出せないが――思い出そうとすると吐き気がするので向日葵に禁じられているのだが――椿の肩を抱く大きな手、椿を立ち上がらせた腕力、椿を連れ出した行動力と決断力、断片的に浮かんでくるそれらのどこをとっても強いとしか形容できない。


 それに、大樹と接しているうちに徐々にわかってきたのだが、池谷一族は彼をとても信頼している。深い理由はなさそうだけれど、おそらく落ち着いているからだ。

 何があっても慌てることがない、というのは得がたい素質だ。口ではふざけたことを言っているが、なんならひょうきんなところのある父親の広樹より精神年齢が高いようにも感じる。


 体格も大きく、腕力と思考力が強く、絶大な信頼を勝ち得ている池谷家長男。


 一緒にいて、嫌だな、と思う最強の男だった。


 義母の桂子けいこと祖母の花代はなよが台所から料理を運んできた。夕飯だ。酒のつまみになるような塩辛いおかずばかりだ。

 それも椿からしたらおもしろくない。

 椿しかいない時は椿に食事の支度を手伝うように言うのに、大樹にはこうして食事の支度をしてあげる。

 上げ膳据え膳、大樹はそんなに偉いのか。


 最終的に椿以外の全員の前に酒類が行き渡って、ひとりアルコールに弱い椿だけお茶を飲まされて疎外感が強い。


「お兄ちゃん、おかえりー!」


 乾杯の音頭がむなしい。


 義母がお茶割りを飲みながら言う。


「お兄ちゃん、せっかくの連休なのにうちにいていいの? お友達と遊びに行ったり旅行に行ったりしないの? 働いてたら出掛けられないでしょ。学生時代はあんなにふらふらしてたのに」


 大樹が答える。


「日本人の七割くらいが夏休みでバカ混むお盆にわざわざ出掛けなくてもいいら。飛行機も宿もバカ高いし、なんかアホみてぇだ。本気で出掛けたいなら平日に有給取って出掛けっからいいんだわ」

「そういえばあんた学生時代も盆暮れ正月は避けて旅行に行ってたね」


 椿も、なるほど、と頷いた。盆暮れ正月にいないことは本来先祖供養やそれに伴う親族の接待に差し障ることだが、家を出ていった大樹にとってはそういうことではないらしい。


 池谷家は本当に自由だ。長男が留守にするなど不用心も過ぎる。それが池谷家だからなのかそれとも世間一般にそうなのか知りたい。少なくとも実家の九条くじょう家は違った。


 思い出さないようにしよう。今自分は池谷家でのびのびと過ごしている。それでいいのではないか。変な圧力、変な不安、変なしきたり、そういうもののない池谷家で水出しの緑茶を飲む、それでいいのではないか。


 思い出さないように、思い出さないように――それはそれで逆に気になってくるからつらい。


「椿とひまは?」


 名前を呼ばれて我に返る。

 大樹の比較的大きな黒目が椿を見ている。


「お前らは出掛けなくていいのか?」


 それには向日葵が答えた。


「わたしは世間がお休みの日に仕事があるもん。それにお兄ちゃんと一緒、平日に出掛けたほうが人が少なくていいさ」


 向日葵の明るい声に癒される。


「椿くんとは基本的に火曜日から木曜日の間に出掛けてるさ。二人でいろいろ行ったよ、鎌倉とか、浜松とか。あと修善寺とか熱海とか寸又峡すまたきょうとか、温泉巡ってさあ」

「えっ、何それ優雅。お前らそんな貴族だったの?」

「ばっか椿くんの湯治よ湯治」

「なに、またどっか悪くしてんの?」


 椿は慌てて首を横に振った。いたって健康そのものだ。むしろ今が人生で一番体力があると思う。


「僕こっち越してきてから十キロくらい体重増えましてん。めっちゃ筋肉量増えましたわ」


 そう主張すると、大樹が手を伸ばしてきた。動きが速いので逃げられなかった。

 大樹の手が、椿の頭をぽんぽんと撫でた。


「よしよし、がんばってんな」


 かっと、頬が熱くなる。


 嫌じゃない。

 でも、認めたくない。


「いいねえいいねえ。お盆と正月は親戚の子供や地元の友達が沼津に集まるからサイコー。俺若い男大好きなんだよな」

「ものの言い方がおっさんだら」

「私からしたら広樹くらいまで若い男だわ」

「私も若い男の子大好き。うちで宴会しなさいよ、おさんどんしてあげるから」

「家でかあ。やだなあ、家に上げるとしたらせいぜいリカちゃんパイセンとごうちゃんぐれぇっしょ」

「ええ、豪は呼ばなくていいよ豪は」


 椿はひやひやした。この居心地のいい空間に他人、ましてや豪のような粗野な男に入ってきてほしくなかった。しかし大樹に対してそんな口を利いてもいいのかわからず何も言えない。大樹の高校時代のバレーボール部のつながりはどんな絆よりも強く、なんなら椿も里香子りかこやその取り巻きに食事に連れ出してもらって愚痴を聞かせているくらいである。


「まあまあ、わざわざ呼ばなくても明日からみのるがうちに押しかけてくるから」


 広樹がそう言った。椿はほっとした。稔は珍しく椿にとって不快ではない男だ。うまく説明できないけれどなんとなく波長が合う。


「ななみの?」

「いや、稔だけ」

「ふうん。まあ、とりあえずみののために白隠正宗はくいんまさむねでも買っとくか。みのが二十歳過ぎてお酒解禁で俺楽しくなっちゃったな」

「俺も俺も。俺も稔と飲むために何か買ってこよ」

「ひまもひまも。仕事の帰りに松浦酒店でワイン買ってこよ」


 椿はまた疎外感をおぼえた。また酒の話だ。アルコール分解酵素が欲しい。自分だけ仲間はずれだ。かなしい。


 そんな椿の表情を見て取ったのか、大樹がかかと笑った。


「お前には西浦のみかんジュース買ってきてやっからよ」

「いらんわ」


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