2022年11月
どうしてそれをもっと早く言ってくれなかったんだ!
十一月最初の週末、向日葵は仕事として週末の沼津駅周辺のにぎわいを取材したくて、沼津駅から徒歩五分のところにある商店街、仲見世通りを歩き回っていた。
現在沼津市ではOPEN NUMADUという社会実験をしている。駅周辺に歩行者天国を作りカフェスペースや飲食店の屋台などを用意することで居心地の良い空間を創出する、という趣旨の企画だ。仲見世商店街はもともとアーケード街であることもあって、全天候型で過ごしやすい空間を作れるだろう、という目論見である。
この催しはなかなかに好評らしい。ららぽーとができたことにより死の淵に喘いでいた駅前の空間が人でにぎわいを見せている。特に親子連れが多いのが嬉しい。沼津が子育てをしやすい町になってくれることを切に願う。
「さて、次はどこに行こうかな」
向日葵がそう呟くと、隣の椿がこう言った。
「マルサン書店の前にピアノ置いてあるやん。あれ見に行こ」
仕事は仕事でも沼津市のための仕事だ。沼津の公的なイベントのために他の自治体から引っ越してきた移住者の椿を参加させて何が悪い。移住したい、定住したい、住み続けたいと思ってもらってこその自治体主催イベントなのだから、今まさに沼津での生活に移行中の椿の意見を聞くのも立派な仕事だ。けしてデートではないのだ。
公私混同上等だ。
今回の日曜日はストリートピアノが登場した。半年前に息を引き取った沼津市最大の書店の前、通りのほぼ真ん中である。
先ほど見たプログラムの立て看板には、もう少ししたらプロのピアニストの演奏が始まる、とあった。椿はそれを聞きたいのだろう。文化の街京都で育った彼は日常にそういう上質なものがあるのを好む。向日葵の生活まで上質になった気分だ。やはり結婚はいい。
めったにお目にかかれない巨大なグランドピアノだ。子供たちが興味津々で群がっている。
群衆のささやきに聞き耳を立てる。近くにいた中学生くらいの少女が母親に弾いてごらんなさいと勧められて恥ずかしいと嫌がっている。どうやらピアノを習っていて母親は娘のピアノの腕を自慢に思っているらしく、もっと人前で弾いてみたらどうかと言いたいらしい。
「かわいいなあ」
向日葵は思わずそう漏らした。
「素人でも子供でも、弾ける人が弾いたらいいのにね。今だってちびっこがじゃかじゃかしてても誰も笑わないのに、ちょっとおっきくなるとミスったらどうしようとか思っちゃうのかな」
椿が「そうやなあ」と相槌を打つ。
「わたしも弾いてみようかな。もう十二年くらいぶりだけど。小学校の時習ってたんだけど、中学入って部活始めてから習い事がめんどくさくなっちゃってやめちゃったんだよねえ」
「ふうん、もったいない。聞いてみたいなあ」
「何の曲もおぼえてないからどうしよう。咲いた咲いたチューリップの花が、とか? ていうかそもそも指動くのかな、ちょっとでもブランクあるときつくない?」
「ええやん、それでも、弾いたら。弾ける曲を弾けるように弾いたらええわ」
そして、小さく笑う。
「僕もちょっと弾かせてもらおうかな」
「えっ?」
向日葵は動揺した。
「ミスをしても笑わへんて言うてくれるんやったら。ほんまはちょっと恥ずかしいんやけど、照れてる子供らの見本になったらええな」
「ちょっと待って」
「なに?」
「椿くん、ピアノ弾けるの……!?」
椿が小首を傾げた。
「言うてへんかったかな」
「聞いてない!」
「結構長くやってたで。大学卒業してからは心にゆとりがなくなって弾いてなかったんやけど、三歳からやから、二十年弱?」
「も、もっと早く言えー!」
向日葵の声が大きいからか、ちらほら視線を感じる。しかし今はそれを気にしている場合ではないのだ。
「じゃあ大学時代の付き合ってた時は家で弾いてたってこと!?」
「そうやな」
「なんで言わなかったの!?」
「弾いてて言われたら恥ずかしいからやろ。そない大きい声で言うもんやないとおもてたし」
「弾いて! 今すぐ! 何か弾いて!」
向日葵と椿に気づいた人々が道を開けてくれた。大勢の視線を浴びて椿が少したじろいだ様子を見せた。
「笑わないから! 聞かせて! 弾いてくれなかったらかえって怒る!」
「そこまで言うか?」
「弾け! 弾け!」
椿の背中を押してピアノのほうに突き出した。椿がしぶしぶと言った顔で手のアルコール消毒をしてから椅子に座った。
鍵盤の上に軽く手を置く。
息を吸う。
睫毛を少し伏せる。
次の時、細く長い指が魔法のように音を紡ぎ始めた。
重厚な和音。滑らかな旋律。繊細なリズム。止まらない拍。
白い頬はリラックスして見える。少し伸びた前髪が揺れる。
何もかもすべてが美しい。
道を通りすがるすべての人々が足を止めて椿の演奏に聞き入っている。当たり前だ、こんなに綺麗な音色なのだから。しかもどこからともなく現れた素人の和服の美青年だ。目立つに決まっている。
あの人はわたしの夫なんです、と触れて回りたいほど――
椿が手を止めた。
一斉に拍手が上がった。
「アンコール! アンコール!」
「やめときます、順番待ってる子供さんいはるし」
そして、先ほど恥ずかしがっていた少女に「なあ?」と微笑みかけた。少女の頬がさあっと赤く染まった。
椅子からおりて、こちらに戻ってきた。
「どうやった?」
「すごい綺麗な曲だった……! めちゃめちゃ感動した! 自宅にピアノ買っておこうか検討するレベル!」
「ほんま? あったらあったで僕弾くで。なんやかんや言うて好きやったから二十年続いたんやしな」
「うわーっ、うわーっ!」
熱くなった頬を押さえて、問いかけた。
「ちなみに、今の誰の何ていう曲?」
椿が微笑みかけた。
「僕が大学生の時にひいさんを想いながら適当に作った曲」
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