442年ぶりの夜空

 十一月に入ってからのここ数日、昼間は20℃を超える快晴で上着が要らないほど暑い。けれど夕方になると急激に気温が下がっていく。十九時三十分現在の向日葵と椿は寒さに震えて身を寄せ合っていた。


 どうしていつもなら入浴を済ませて寝る支度をしているこの時間に屋外で震えているのかというと、皆既月食を見たかったからだ。


「わあ……!」


 月はすでに蝕の状態で赤銅色をしていた。生まれたての十円玉のような月は神秘的で綺麗だ。天体の不思議、宇宙の不思議を感じる。地球に生まれてよかったとすら思える。


 向日葵は自分のスマホを夜空にかざした。しかしスマホのカメラではうまく撮れない。白くかすんだ夜空にぼんやりイクラのような光の点が映るばかりだ。悔しい。


 こういうものはやはり肉眼でしか楽しめないものなのかもしれない。記録に残せないからこそ美しい記憶になるのかもしれない。といっても家に帰ってSNSを見たら天体観測に関わる施設が綺麗な円形の月をアップしていそうだが、今沼津の片隅で椿と見られる月は思い出の中にしか残らないのだ。そう思うと少しセンチメンタルな気持ちになる。


 そうこうしているうちに月が薄くなって消えた。蝕が最大になったのだ。うっすら赤い影が見えるが、あたりが真っ暗になる。


 椿が口を開いた。


「こんなん何も知らん古代人が見たらビビるやろうな。自分らの住んでいるとこが実は丸い惑星で、月が衛星で太陽が恒星で、という知識がなかったら、月が赤くなって消えたように見えるやろな」

「昔は悪いことの前触れだったんだっけ」

「そう。宮中は大パニックになって、月が消えんよう加持祈祷をしたんやで」


 だが令和の世を生きる平安貴族は落ち着いた様子で月を見つめている。


「四四二年ぶりの天体ショー、前回は安土桃山時代だったらしいよ。日本の長い歴史を感じるねえ」

「ほんまやな。四百年前にも国があったということが誇らしいわ」


 そこで「そやけど」と呟く。


「そんなに久しぶりやったかな、皆既月食。大学の時にみんなで見いひんかった?」


 向日葵は即答した。


「そうだよ。一回生の一月、颯介そうすけの家に集まってピザ食べながら見たじゃん。わたしら一緒にいたじゃん」

「そうやんな。四百年ぶりて大袈裟と違うかと思ったんやけど」

「天王星も月と同時に蝕になるのが四百年ぶりなんだって」

「天王星?」

「ほら」


 月のほうを指さす。


「あそこにちょっと大きな明るい星が見えるら。あれが徐々に動いて月に隠れるらしいよ」

「ほんま。いつ?」

「えーっと、九時くらい」


 椿はちょっと固まった。


「それまでここにいるんか?」


 向日葵は溜息をついて首を横に振った。


「家の中入ろ。椿くんが体調崩したらやだし」

「……えろうすいません」


 月がまた赤く明るくなってきた。また丸い姿を取り戻そうとしているのだ。


「ここで一首」


 ちょっと無茶ぶりかと思ったが、椿はすらすらと詠った。


「望月の もみぢのごとき 赤き影 澄みぬ夜空は 朝へ冷えゆく」

「うーん、秋を感じる!」

「安直すぎかな。布団の中で要再考」

「えー、いいよいいよ、なんか綺麗な感じでわたしゃ好きだよ」


 家の中に入って撮影した写真を改めて見てみたところ、椿のiPhoneで撮った写真には月に近づいていく天王星が写っていた。やはりiPhoneはいいなと思った次第だが、当の持ち主本人である椿が使いこなせていないので宝の持ち腐れである。


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