千物語「妖」

千物語「妖」

目次

【チョコレイトショー】

【与作は鬼を斬る】

【甘い呪いはとけない】

【やまびこは参る】

【サイレンの音はまだやまない】

【ハラスハウス】

【映りこむ者】

【一番は最後】

【ぎょろり、ぷつり】

【毒を盛る人】

【呼ぶ者】

【人騒がせ】

【腕時計は嗤う】

【脅威は背後にヒタヒタと】

【白髪の談】

【脳みそカピカピ薬】

【引き留める者】

【黄泉行き】

【同乗者】

【四つ辻の本】

【浮かぶ仮面】

【のぼれども】

【逃した魚は惜しい】

【騒音の主】

【宝剣のとどめ】

【虐殺スイッチ】

【紅が咲く】

【手れ隠し】

【備忘録は途切れる】

【歪んだ鏡】

【何かいる】

【横着はいかんよ】

【体感時間は一瞬】

【占いは途絶える】

【10文字ホラー×60】

【カエルの恩返し】

【ホラー作家の相談】

【死者にも五分の魂】

【生え換わり】

【割引券】

【アパートの管理人】

【生きを吸う】

【ふぃっくしょんの部屋】

【ドーナツの姉】

【絵に描いた俺】

【生やした尻尾は掴まれない】

【作家の命綱】



【チョコレイトショー】

 

 ミカンの季節である。

 わたしは雪玉みたいに手のひらサイズに納まるミカンが好物なので、今年も母にねだって段ボールにいっぱいのミカンを買ってもらった。

 十一月とすこし早い時期ではあるが、オコタをだしてもらい、そこに浸かってミカンを食べる。これぞ冬の過ごし方であり、風物詩である。

 至福の代名詞と言って過言ではない。

 メディア端末に流していたSNSでは、また爆弾魔がでた、との話題で賑わっている。物騒な世の中である。こういうときこそみな家に引きこもって、オコタでぬくぬく過ごせばよいのだ。

 というわけでわたしはさっそく両手に持てるだけミカンを持って、オコタに足を突っ込んだ。

「さあて、食べるぞう」

 誰にともなく宣言し、皮を剥いたが、あれま。

 中から現れたのは真っ黒な塊だ。

 ミカンの実のカタチはしているけれど、硬くてカチコチと水気がない。

 まるで炭のようだ。

 なんだろう、と思い、指でつまむと、すこしぬるっとした。

 乾いているはずなのに妙だ。

 そうと思い、よくよく目を凝らすと、どうやら表面が溶けていると分かる。

 指の熱で溶けたのだ。

 そんなことってある?

 思いながら、まずは匂いを嗅ぎ、この香ばしく甘っちょろい香りには馴染みがあるぞ、と思うと、もう舐めずにはいられない。

 指に付着した黒い粘着質な液状のものを舌先で舐めとると、んー、これがまた美味である。

 味はそう、まんまチョコレイトなのである。

 おいちー。

 わたしは皮の内側の黒い塊をゆびでつまみ、口に放りこむ。噛み砕き、味わい、確信する。

 紛うことなきチョコレイトである。

 ミカン丸ごと一個の中身がチョコレイトに変わっていた。

 なんかのイタズラかな。

 マジックのネタのように品種改良されたミカンが偶然紛れ込んだのやも。

 リンゴの中からトランプを取りだすマジックを連想しつつ、喉が渇いたこともあり、こんどこそミカンを食べるぞぉ、と意気込んだものの、つぎに手にしたミカンも、皮を剥くと中身は真っ黒であった。

 カチンコチンで、舐めると甘い。

 チョコレイトである。

 おかしいな、とまずは思った。皮を剥く前まではたしかにミカンは柔らかかった。皮を剥いた途端に持った感触が硬く変わったのだ。

 嫌な予感を覚えつつ、つぎつぎにミカンの皮を剥いていく。

 全部のミカンの中身がチョコレイトになっていた。

 おかしい。

 絶対に変だ。

 わたしは母にこの事実を突きつけた。

「お母さん見てコレ。中身なんか変」

「また変なイタズラしてこのコは」

「違うんだってば、最初からこうだったの」

 見ててね、と言って目のまえでミカンを剥いてみせる。やはり中身は実のカタチを模したチョコレイトに変わっている。

「あらすごい。手品?」

「違うんだってば」

 ミカンがおかしいのだ、と言い張ったが、どれどれ、と母がミカンを奪い剥きにかかると、母の手の中からはわたしが求めてやまない黄色いミカンの実が現れた。

「ちゃんとミカンじゃないの。またお母さんをからかって」

「違うんだってばぁ」

「あら、味もなかなかいいじゃない」母はチョコレイトのミカンを頬張ると、もっとないの、とお代わりをねだった。

 わたしは母にはもう相談しまいと決めた。

 いつだってそうだ。母はわたしの悩みになど興味ないのだ。真剣にとりあってくれない。

 こんなおとなにはならないぞ。

 そうと思いながら、わたしは喉を潤すべく、缶ジュースのプルタブを開けた。

 プシュ、と聞こえるはずの音が鳴らなかったので、あれ、と思った。

 缶を振っても、本来は手に伝わるはずのチャポチャポがない。ずしりと重さはあるから中身が消えたわけではないようだ。

 えぇ、うそぉ。

 缶切りを使って缶を開くと、中にはジュースの代わりにカチンコチンのチョコレイトが詰まっていた。

「またなのぉ」

 うんざりしてわたしは、ひょっとして全部こうなの、と泣きたくなった。

 わたしの剥いた物は全部中身がチョコレイトに変わってしまうのかもしれなかった。

 いくつかの品を確かめて、その予想が半分当たっていることを知る。

 実験の結果判明したことがある。

 なんでもいいわけではないようだった。

 密閉された物でなければ、わたしが開けても中身はチョコレイトに変わったりしない。

 だからいちど母に開けてもらったペットボトル飲料を、もういちど蓋を閉じてから開けても、中身がチョコレイトに変わったりはしないのだった。

 しかし、それも一定期間時間が経過すると、たとえばいちど締め直したペットボトル飲料であれば、翌日に開けてみると即座に中身が黒いカチンコチンに様変わりしてしまうのだった。

 いよいよとなってわたしはお医者さんに看てもらった。

「こんなんなっちゃうんですけど」

 目のまえで実演して見せる。

 最初は母と同様に、マジック?と信じてくれなかったお医者さんであったけれど、何度も繰り返すうちに、種も仕掛けもないようだと見做してくれた。

「申し訳ないのですが、治療法がいまのところありませんのでね。もうすこし詳しく、専門の施設で調べてもらったほうがいいと思います。紹介状を書いておきますから、それを持ってそちらに行ってみてください」

 信じてくれたはよいが、専門外の病気だ、とお手上げのようであった。

 わたしはとぼとぼと来た道を戻り、けっきょく紹介してもらった専門の施設にも行かなかった。

 だって怖いし。

 ふつうに嫌だし。

 お金だって余裕がないのでわたしは、しーらんぴっ、とそのままの生活を余儀なく過ごした。

 不便と言えば不便ではあった。

 果物の軒並みは、皮を剥くたびにチョコレイトに変身するし、包装紙に入った食べ物から日常雑貨からしまいには、ビニル袋に包まれた本まで、開くたびに中身がチョコレイトに変わってしまうのだ。

 そんなのってないよ。

 買ったばかりの漫画の新刊がチョコレイトになってしまったのには怒ったが、かといって一度失敗してしまえば、つぎからはほかの人に頼んで代わりに開けてもらえばいいし、そもそも電子書籍で購入してしまってもいい。

 食べ物や雑貨とて、気をつければ同じ轍は二度踏まずに済む。

 もっと言えば、この謎の体質は、友人たちのあいだではちょっとした人気がでつつあった。

 小腹が減ったぞ、なんてせつかれて、水道水を詰めただけのペットボトルを渡されれば、わたしはそれを開けてやり、中身を丸ごとチョコレイトに変えてあげるなんてことはもはや日常茶飯事だ。

 いちど開けたペットボトルも時間が経てばまた密閉状態と見做されるようで、単なる水道水がおいちいチョコレイトになるのだから、ちょっとした魔法としてこの能力はわたしの友人たちのあいだで持て囃された。

 文化祭のときなどは八面六臂の大活躍だ。ポリタンクに詰めた水道水が特大のチョコレイトになる。それを削りだして、チョコレイトの銅像を作り、この年の特別賞を獲ったりした。

 とはいえ、さすがに飽きは避けられない。

 いくら美味とはいえど、味はどれも同じだ。食べ飽きてしまえば、あとはもう、余ったチョコレイトをどうするか、と思考はしぜんとそちらに移ろう。

「売れるんじゃね?」

 誰かがそうと閃くと、小遣い稼ぎとばかりにインターネット通販にて、手作りチョコレイトとして売りにだすまでには時間はかからなかった。おおよそ五分で準備は整った。

 これがまた大ヒットしてしまうのである。

 懐が潤った。

 ウヒウヒである。

 しかしそうした幸運も長くはつづかない。

 食品の安全に関する規定に抵触していると通報されて、通販サイトから締めだされてしまい、そうした体験が小娘たるわたしたちにちいさくない傷心をつくるのもまたしぜんな成り行きであった。

 よい思いをしているあいだは、なかなかの能力だ、と思ったが、いちど役に立たなくなると、負担でしかない。

 友人たちも徐々にわたしの能力には触れなくなり、チョコレイトを所望される機会もなくなった。

 わたしは一人寂しく、ことしもオコタに潜ってミカンをまえに嘆息を吐く。

 ミカンの皮を剥く。

 チョコレイトと化した実を取りだし、いつまでこのままなのだろう、と暗たんたる気分に浸かった。

 高校卒業後の進路相談の時期が刻一刻と近づいている。

 わたしは長年の夢である都会での一人暮らしを主張した。

「わがはいは小娘であるが、独り立ちせんと、精進したる日々。父母におかれては是非ともわがはいの望みを支援されたし」

 わたしの武将さながらの演説も、わたしの謎の症状、開ける物みな等しくチョコレイト病をまえにすれば、焼石に芋であった。瞬く間にホクホクの焼き芋のできあがりである。おいちそう。

「ちょっと認めるわけにはいかないです。なぜなら危ないから」

「そんなことないわい」

「だってきょうなんて、お風呂をダメにしちゃったでしょ」

「うぐ」

「このあいだはおトイレをダメにしちゃった」

「だって、だって」

「最近はどこも物騒だし、ほら、爆弾魔とか」

「それわし関係ないですやん」

「でもお風呂とトイレのことは本当でしょう?」

「うわぁん」

 言い逃れのしようがなかった。

 わたしの謎の能力は、ここ一年のあいだに、徐々にではあるがその効力を増していた。

 以前なら変化なかったはずの物体にも作用を働かせはじめたのだ。

 たとえば風呂の蓋を開けるだけでも、湯をチョコレイトに変えてしまい、トイレの蓋を開けるだけでも下水をチョコレイトにしてしまう。

 このあいだなぞは、学校の倉庫の戸を開けただけで、中身を根こそぎチョコレイトにしてしまったのには、わたしだけでなく、学校から呼びだされた親まで青褪めた。

 病気が理由ゆえに、大ごとにはならなかったが、こんな状態では一人暮らしどころか、社会生活もままならない。

 そのうち家の玄関を開けただけで、なかにいる人ごとチョコレイトにしてしまい兼ねない。

 わたしは学校では絶対に戸を開けないようになった。

 怖くてそれどころではないし、わたしが教室に近づいただけで、教室内の生徒たちがぎょっとする様子が目に飛びこむ。率先して戸を開けてくれるクラスメイトたちの行動原理も、親切心よりも恐怖が勝っているようにわたしの目には映った。

 友人たちもあからさまによそよそしい。

 だがそこにはわたしへの申し訳なさが感じられ、怖がらせているのはわたしだ、と思うと、わたしこそ申し訳なさに肩がきゅっと縮まった。

 このままではいけない。

 ようやくというべきか、わたしは重い腰をあげて、かつてもらったまま引き出しの奥に、ぺい、と投げこんで、眠らせたままにしていた医師からの紹介状を手に、電車に飛び乗った。

 この謎の体質を改善せずには、わたしに明るい未来はない。

 電車は自動で開閉してくれるからいいなぁ、とそんな暢気な所感を胸に、ガタンゴトンと車両に揺られつつ、専門の施設なる場所へと向かったのだが、辿り着く前にたいへんな目に遭った。

 というのも、電車が停まらないのである。

 各駅停車の電車のはずだ。

 特急ではない。

 一本しかない地下鉄ゆえ、駅を素通りするなんてことはあろうはずもないのだが、車両はずんずんと駅を無視してひた走る。

 何かあったのかな。

 首を伸ばして後部車両のほうを見やると、がやがやと乗客がこちらにやってくるのが見えた。

 目のまえを駆け足で去っていく人々があり、手ごろな男性のスーツを掴んで、どうしたんですか、と訊ねた。

「爆弾だって。危ないから避難したほうがいい」

 はひゃー。

 わたしは飛びあがった。

 爆弾とは穏やかではない。

 ひょっとして例の世間を騒がせている爆弾魔ではないの。

 逃げ惑う乗客の流れに加わり、わたしも前方車両に移った。しかし、あるところを境に流れがぴたりと止んだ。

 位置的には車両の中央だ。

 まだまえにはいけるはずだ。

「どうしたんでしょうかね」わたしはそばに立つ女性に言った。

「あっちも危ないらしいよ」

 女性の話では、このままだと電車は終点駅の壁にぶつかってしまうのだそうだ。

「停まれないんですか」

「停まると爆弾が爆発しちゃうんだって。さっき車掌さんがそう言ってたんだけど」

 眉間に深い皺を刻んで、女性は車両の前方を見遣った。

 なるほど。

 わたしは現状を把握した。

 後部車両には爆弾が仕掛けられている。電車を停めたら爆発すると脅されている。しかしこの電車は地下鉄で、しかも循環しない線路だ。山手線みたいにぐるぐる回ることはできない。

 いずれは終点駅に辿り着き、そこの壁に衝突するという筋書きだ。

「え、でも黙って停車しちゃったりとかしてもバレないんじゃないんですか」

「犯人が乗ってるんだよ」そばに立つほかの男性が言った。「後部車両で、爆弾のそばに立ってる。いまもいるよ」

 監視しているわけだ、とわたしは事情を呑み込んだ。

「じゃあもう、みんなで犯人を取り押さえるしかないんじゃないんですかね」わたしは素朴に思ったままを言った。「このまま何もしなくともたいへんなことになっちゃうじゃないですか」

「そうだけど、もし失敗したらじぶんのせいでほかの乗客を危険に晒すんだよ」

「でもだって助けは期待できそうにないじゃないですか」

「責任は負えないよ」

 うんうん、とそばに立つおとなたちはみな同じ表情だ。

 失敗すれば爆弾ば爆発して、大惨事だ。じぶんも助からないし、ほかの乗客も死んでしまう。

 けれどこのまま何もせずにいても、大惨事は避けられない。

 ひょっとしてみな、犯人が嘘を吐いている可能性に賭けているのではないか。爆弾は狂言で、電車が停車しても何事も起きない未来を期待しているのかも分からない。

 あり得ない想定ではない。

 だけれど、その可能性に賭けられるなら、そもそも犯人と交渉したり、取り押さえたりする方針もとれるはずだ。

 それをしないで、電車を止める決断を運転手さんにだけ任せるのは、責任の丸投げに思えた。

「いいです。じゃあわたしがちょっと見てきます」

 何かこれといった考えがあったわけではないけれど、居ても経ってもいられなかった。

 みなが動かないのならば、わたしが行ってやる。

 自暴自棄にも似た衝動が湧いていた。

 爆発させるならさせてみろ。

 そういう怒りがあったのかもしれない。

 こちとら蓋を開けるたびに食べきれないチョコレイトの始末に頭を悩ませているのだ。爆弾を仕掛けたいのはこっちのほうだ。

 なに自分だけ鬱憤の晴れそうなことしてんだ。

 ずるいだろ。

 わたしにもやらせろ。

 そういう気分であったのかもわからない。

 犯人の顔を拝んでやる、と鼻息荒く、後部車両に足を踏み入れると、がらんとした車両のなかで、座席に腰掛ける青年の姿があった。

 大学生くらいだろうか。

 顔がこちらを向き、お嬢さんどうしたの、と彼は言った。

「爆弾があるって聞いたんですけど」

「ああ。ほらそこに」

 青年の対面の座席にそれはあった。

 パンパンに詰まったリュックサックが置いてある。チャックが閉まっているので中身は見えない。

「本当にそれ爆弾なんですか」

「これを押したら爆発する」青年はリモコンのようなものを掲げた。もう片方にはナイフが握られており、乗客はどちらかと言えばそちらに怯えて逃げたのではないか、と思えた。「電車を停めても爆発させる。だからこのまま行けばこの電車は壁にぶつかって、ジャバーンだよ」

「ジャバーン」その言い方が緊迫感のある場面に似つかわしくなくて、わたしの脳裏にこだまする。

 ジャバーンって言ったいまこのひと。

 ジャバーンって。

 ふふ、と笑ってしまったのがよくなかったようで、青年は、余裕だね、と声に棘をまとわせた。「ひょっとして僕を止めにきたのかな。いいよ、やれるものならやってみな。きみが何をしても結末は何も変わらないよ」

「ふうん。ならちょっといいですか」

 わたしはスタスタと歩を進め、青年の対面に立ち、そのナイフかっこいいですね、と一言褒めてから、彼に背を向ける。

 目のまえにはパンパンに詰まったリュックサックがある。

 わたしは盛大に溜め息を吐いてから、これ開けたらどうなります、と青年に訊いた。

「どうもしないよ。ただ、無理にいじくれば爆発するし、そうでなくとも僕がこの手で起爆する」

 もうそろそろ終点だしね、と青年が車両の奥を見遣ったのが、声の変化で判った。

「そっか。じゃあ急がないとですね」

 わたしはリュックサックのチャックをつまみ、青年の、おい、という声を背中に受けながら、勢いよく中身を開けた。

 ジャバーン。

 脳裏に、この局面に似つかわしくのない効果音が響き、わたしは、ぷっと噴きだしている。

 車両が急ブレーキをかけたのか、わたしは真横につんのめる。

 手すりに掴まる。かろうじて体勢を整える。

 奥のほうから乗客の悲鳴だろう、声が、わっと沸いた。

 青年も青年で体勢を崩したようで、床に倒れこんでいた。したたか身体をぶつけたようで、肩を抱いて呻いている。

 座席からはリュックサックが床に落ちていた。露出した中身は黒く、粘土みたいに床にへしゃげている。

 青年が、くそ、くそ、とのたまいている。

 必死にリモコンのボタンを連打するが、リュックサックの中身はうんともすんとも云わずに、香ばしくも甘っちょろい匂いを放っている。

 車両の扉が開く。

 わたしは床に転がるナイフを拾いあげ、青年をその場に残し、外に出る。駅のホームだ。すこしだけ行き過ぎたようだけれど、後部車両にいたのでちょうどよい塩梅の位置で停まっている。

 地下鉄のホームなのに地上にある。

 深呼吸をする。

 陽の暮れかけた空に吐息が広がり、溶けて消える。

 ホワイトチョコレイトや。

 意味もなく思い、ビターな体験をしちまった、とたったいま得たばかりの記憶を思い出にすべく、さっさとお家に帰ってオコタに潜り、ミカン食べよ、と計画を立てる。

 目的の駅はとっくに追い越してしまった。

 きょうはもうやめとこ。

 専門の施設訪問はまたこんどじゃ。

 反対方向の電車に乗るべく、踵を返す。

 慌ただしさの増しつつあるホームの階段をのぼる。

 乗客たちの安堵の声が、寒風に交じって、背中に響いて聞こえる。

 わたしは、わたしの謎の体質を疎ましく思っていたし、いまも治せるものなら治したいけれど、まあなんというか、たまにはいいとこもあるんじゃね、とほんのすこしだけ見直してあげるのである。




【与作は鬼を斬る】


 臥竜(がりゅう)は鬼である。しかし心優しき鬼であったがために、鬼の里にいられなくなった。

 旅にでた臥竜であったが、見た目が鬼ゆえ、人の目につくたびに石を投げられ、鎌で切りつけられ、ときに斧で脅された。

 旅籠屋(はたごや)に泊まることすらできず、野宿ばかりの日々である。

 田畑の作物をかってに食べるわけにもいかず、かといって野山の獣を狩るにも、臥竜は心優しき鬼ゆえに心を痛めて、それもできなかった。

 日に日に臥竜はやせ細っていった。

 あるとき、行き倒れたところを目の見えない男に助けられた。男は村外れの小屋で暮らしていた。目が見えないために村から役立たずとして爪弾きにされていたのだ。

 しかし男にそれを恨んでいる素振りはなく、行き倒れた臥竜にも食事を与え、寝床を与え、しまいには自前の畑の世話をする仕事を与えてくれた。

 男は与作といった。

 目が見えないにも拘わらず与作は器用な男であった。

 畑を耕すなんて真似は与作にとっては朝飯前のようだった。林から蔓をとってくるとそれを乾かし、籠を編み、畑でとれた野菜をそれに詰めて籠ごと村に売りにいく。

 村への商いには臥竜も同行した。

 痩せた臥竜は頭に被り物をすれば人間に見えた。

 幾度か付き従い、ひと月もすると臥竜が一人で売りにいくようになった。

 与作の作物も籠も村では評判がよかった。

 役立たずなんてとんでもない。

 臥竜にとっては村の誰よりも与作のほうが働き者で、知恵があるように見えた。

 臥竜が与作に拾われてから半月後、村人たちが冬支度を済ました雪の舞う夜のことである。

 村のほうが騒がしく、夜更けであるというのに臥竜は目を覚ました。

 与作は寝ている。

 鬼の聴覚ゆえ聞こえる騒音であるらしかった。

 村で悲鳴があがっている。

 轟く足音は重々しく、人のモノではないように思えた。

 聞き覚えがある。

 これは、と臥竜は思った。

 鬼だ。

 鬼の足音だ。

 与作を揺さぶり起こし、たったいま起きている惨状を知らせた。

 おそらく鬼が群れで村を襲っている。 

 どうしたらよいか、と判断を仰いだ。

 しばらく黙って話を聞いていた与作はおもむろに口を開いた。

 おまえはなぜそれを知っている、とそう反問したのである。

 臥竜は息を呑んだ。

 しまった、と思った。

 与作は目が見えない。ゆえにこれまでずっと臥竜は人間のふりをして接してきた。いまさら鬼であることを白状はできない。

 しかし鬼でなければ村の惨状を知ることは適わない。

 なぜ知っているかを説明するには、自身が鬼であることを打ち明けねばならなかった。そうなればこの家を去らねばならなくなるだろう。

 臥竜は葛藤した。

 かといって黙ってはいられない。

 見過ごせない。

 村人たちは与作を村はずれに追いやり、それでいて与作から質の良い食べ物や細工物の恩恵を受けている。与作への仕打ちを思えば、ここで看過しても恩知らずとはならないはずだ。

 すくなくとも臥竜が恩を受けたのは与作である。村人ではない。

 救う義理はない。

 しかし臥竜は心優しき鬼であった。

 どんな相手であろうと、奇禍に遭っているのを知ってみすみす見逃すわけにはいかなかった。

 助けずにはいられぬのだ。

 臥竜は涙ながらに打ち明けた。

 じぶんは人ではない。鬼であるのだと。

 いま村を襲っている鬼とは縁遠き者ではあるが、人間でない点では同じゆえ、遠くの出来事とて、手に取るようにその様子を知ることができる。

 力とて人間の非ではない。

 殺そうと思えば人間の首など片手でもぎとれる。

 じぶんはけしてそのような非道はしない。したくない。ゆえに村を去ったが、こうして何の因果かあなた様に助けられ、こうしてこの日を迎えている。

 途切れ途切れながらも早口で、臥竜は語った。

 そのうえで再び問うた。

 村を救うにはどうすればよいのか、と。

 与作はうぅむと唸った。

 しばしの沈黙ののち、畳の下から火縄銃を取りだした。

 それは、と臥竜は問うた。

 父の形見だ、と与作は応じた。

 それからじぶんを背負って、村にまで運んでくれと言った。

 臥竜は与作をさっそく背負いながら、そのあとはどうするのか、と問うた。

 与作は臥竜の肩にしがみつくと、任せろ、とただ一言そう言った。

 臥竜にはそれで充分だった。

 夜の山道をひた走る。

 いっとき、臥竜は風となる。

 村の入り口に到達したとき、すでに村人の大半は鬼に食われていた。家屋は燃え、辺りは血と火の海だった。

 鬼たちは一様に、半分に千切れた死体から臓物を啜っていた。

 臥竜は怒りに震えたが、同時に言い知れぬ飢餓感を覚えてもいた。

 鬼のサガである。

 滾る血を抑えつけながら、臥竜は与作に促され、村の中央に走った。

 道中、ほかの鬼たちに見つかり奇異な目で見られたが、背中の与作を腕に取り食べるふりをすると、みな興味を失ったようにじぶんの獲物に向き直った。

 誤魔化しながら村の中央に辿り着く。

 そこには鉄工所があった。

 轟々といまなお火が焚かれ、大量の油が煮えたぎっている。

 与作は肩車をせがんだ。

 唯々諾々と臥竜は指示に従う。

 肩に担ぐと、与作はそこで火縄銃を構えた。火種はそこら中にある。

 弾を込め、火を灯す。

 引き金を引くと銃声が響いた。

 鬼たちの視線が集まる。

 しかしつぎの瞬間には、鉄工所から大量の油が溢れだし、それが火に触れると瞬く間に轟々と踊り狂う炎と化した。

 油は地面を這い、つぎつぎと家屋を呑み込んでいく。

 地獄のようだ、と臥竜は見たこともないのに、そうつぶやく。

 鬼たちは怒号を発しながら逃げ去った。炎の津波に巻き込まれ、燃え盛る鬼もいた。

 臥竜と与作は、火の合間を縫うように村を駆け、生き残りがいないかを探った。

 米蔵のまえで歩を止める。米蔵を囲うように地面には大量のまきびしや、日本刀、鏡が無造作に投げ出されていた。

 鬼は金物を嫌う、という伝承がある。真実のところは効果ないが、そうして付け焼き刃にしろ鬼を遠ざけようとした者たちがいたことを示唆している。

 臥竜は与作を地面に下ろした。

 油の炎はどうやらここまでは届かない様子だ。

 鬼は肉を好む。

 米には興味を示さない。

 米蔵の戸には厳重に南京錠がかかっている。

 そばには半分に千切れた村長の姿があった。

 蔵の中からは人間の気配が窺えた。一人、二人ではない。

 鬼たる臥竜だからこそ聞き取れた息を殺した息遣いがある。

 南京錠をもぎとると、中から、ヒっ、と息をひそめる声が聞こえた。遅れて子どもの嗚咽が耳に届く。

 安心しろ、と宥める与作の声を背に受けながら、臥竜は異様に喉が渇くじぶんに戸惑った。

 扉を開くと、中にはぎっしりと村の子どもたちが押し込まれていた。

 臥竜が扉のそばを離れると、わっ、と子供たちが外に飛びだしてくる。

 脇を子どもたちが駆け抜ける。

 鼻を掠める子どもたちの匂いに、言い知れぬ法悦の予感がよぎった。ごくり、と唾を呑みこむ。それは臥竜に、鬼のサガを否応なく突きつけた。これまで覚えることのなかった濃厚な恍惚の炎と、それを打ち消さんと湧きたつ寂寥感が、臥竜の内にせめぎ合っている。

 与作のもとに子どもたちが集まる。

 みな与作に縋りつきながら、燃えしきる村を見据えている。

 臥竜は思う。目の見えない与作には、それでも彼の目となり手足となってくれる者がこれからはじぶん以外にも現れるだろう。

 臥竜はしきりに溢れる唾液を腕で拭い、どうしても抗えずにそばに転がっていた村長の死体を掴み取ると、米蔵の中に飛びこんだ。

 中には誰もいない。

 内側から扉を閉め、閂をする。

 与作の呼び声があるが、それを打ち消すように臥竜は叫んだ。

 じぶんはもういけない。

 鬼の至福を知ってしまった。

 いつこんどはじぶんがこのような悲劇を生みだすか分からない。

 私はここに籠ります。

 毎日夜にはあなたの名前を呼びましょう。

 飢餓感に抗えずに、餓鬼となった暁には、どうかあなたの手でトドメを。

 そのように懇願するも、与作はただ、いかんここを開けなさい、と繰り返し唱え、外から扉をこじ開けようとした。

 だがしょせんは目の見えない一介の人間でしかない。

 与作の抵抗も虚しく、米蔵の扉は頑として開かなかった。

 臥竜は暗がりのなか、共に引っ張りこんだ村長の遺体とにらめっこをして七日を過ごした。

 夜には約束通りに与作の名を呼んだ。

 ここにおる、ここにおるぞ。

 与作は必ず扉のすぐ向こう側から返事をした。

 八日目の朝、飢餓感に抗えず、村長の遺体に口をつけた。

 臥竜はもう、じぶんが何者であるのかを考えなかった。人間の肉の柔らかさ、臓物の甘美さ、骨のバリボリと触感のよい歯ごたえ、どこをとってもご馳走だった。

 村長の遺体がなくなると、こんどはもっともっととお代わりを欲した。

 米蔵からでていこうとするも、閂を外しても扉は開かなかった。

 外側から封をされている。

 体当たりするが、びくともしない。

 ただ鍵を掛けているだけではなさそうだ。

 そういえば、と思いだす。

 与作はいつも扉のすぐ向こう側から返事をした。ずっとそこにへばりついていたわけではないのだろう。何か作業をしていたのかもしれぬ。

 それが判ったところで、米蔵の中からはどうすることもできない。

 日増しに空腹は嵩み、いよいよ人を食らうこと以外の何にも意識が向かなくなった。それ以外は些事であった。

 なんでもいい。

 人を食わせろ。

 もはや夜になっても蔵の中からは人の言葉は聞こえなかった。

 吹雪がビュービューと蔵の壁を打つ。

 それから幾日が経ったろうか。

 盛大な腹の虫の音と、苦悶の呻き声が米蔵の中から延々と響いて聞こえるようになったころ、扉の外からゴロゴロと岩をどかすような音がし、間もなく暗がりに一筋の明かりが差した。

 中にいた鬼は、これさいわいと飛びだした。

 外には柔和に友を出迎える盲目の男の姿があった。男は抜き身の刀を握っている。

 鬼は、盲目の男の首筋目掛けて飛び掛かった。その姿からは、人の面影は微塵も見受けられなかった。

 一閃した刀の軌跡に沿って、血飛沫が舞う。

 雪面がまだらに染まる。

 鬼の首は二三地面を弾み、首なき胴は薄氷に伏した。

 刀を鞘に納めると、それをうしろに備えていた子どもに渡し、目の見えぬ男はすると地面を這うように手で探った。

 間もなく、そこに広がりつつある血の池と、そこに沈むかつて心優しき者だった友の骸に触れ、そのあまりにやせ細った姿に、与作は慟哭した。

 友の骸を荼毘に伏すと与作は、遺骨を丁重に埋葬し、そのうえに墓を建てた。

 冬が過ぎ、春が訪れ、夏が巡る。

 何度目かの秋になり、村にはまた鉄工所の火が灯る。

 村の墓地とはべつに、かつて与作の暮らしていた小屋のそばには、ぽつんと一つだけ墓がある。

 献花の絶えないその墓石にはただ一字、人、と言葉が刻まれている。




【甘い呪いはとけない】


 人間サイズのマシュマロを何日で食べきれるのか。

 答えを未だにあたしは知らぬままでいる。

 というのも、絶賛現在進行中で人間大のマシュマロを、というか全身がマシュマロになってしまった人間を食べ進めている最中なのである。

「うっぷ。もう限界。今日の分はおしまい」

「どうして。まだ三口しか食べてない」

「大口で三回も頬張ったんだから充分でしょ。いくら好物でもこの量はちょっと。プリンなら五個は食べたようなもんだよ。いいでしょ、これでやっと右手は食べきれたんだから」

「まだそれしか食べれてないよ」

「だってしょうがないじゃんよ」

 なんたって人間サイズのマシュマロなのだ。

 正確には全身がマシュマロになってしまった人間なのだけれど、何回も訂正するのはめんどいので、マシュマロ人間と呼ぶことにする。

 そうと宣言してみせると、

「かわいくない」

 チュチュは膨れた。

 チュチュは全身小麦色の異国の人だった。

 家が隣同士で、あたしが三歳のときにチュチュは隣に引っ越してきた。

 それ以来、あたしたちは何かと姉妹のように、というよりも、もう一人のじぶんができたみたいな感覚で、友達の愚痴から色恋沙汰まで何でも話し合う仲だった。

 筒抜けだった。

 高校二年生の夏に、つまり今年の夏に、チュチュは母国たる海外に出かけて行って、戻ってきたら全身がマシュマロになっていた。

「呪いなんだってさぁ」

 真っ白の足をぶらぶら振りながら、チュチュは言った。あれほど美しかった小麦色の肌が、こうも真っ白になってしまうと、あたしはただそれだけでチュチュをチュチュだと認識しづらくなった。

 差別的な考えかもしれない。

 見た目が変わってもチュチュはチュチュのままなはずだ。

 そうとじぶんに念じて見せたが、マシュマロ人間になったチュチュは、かろうじて驚愕の事実を受け止めたあたしに向けて、これ以上ないほどとんでもない注文をつきつけた。

「ごめんだけど、私のこと食べてくれない?」

「はぁ?」

「だいじょうぶだよ。骨も内臓もぜーんぶマシュマロになっちゃったから」

「そういう問題じゃないでしょうよ、なんだってそんなことをあたしが」

「だってこのままだと腐っちゃうし」

「腐っちゃうってああた」

「マシュマロだから湿気でヌメヌメになるし、乾いたらカピカピになっちゃう」

「そうだろうけど、えぇ」

「呪いを解くにはそれしかないんだってサ」

「だってさってああた」

 そんなことを言われたら断れないではないか。

 現に断り切れずに、あたしは三日間を要して、何度も吐き気を催しながらも、チュチュの右腕をたいらげた。

「ほかの人に手伝ってもらったりしたらダメなのかな」コーヒーで喉のつかえを流しこむ。

「ダメだよ。それだと呪い解けないもん」

「いまさらだけどその呪いって誰にかけられたの」

「地元の友達」

「いやいや、呪いをかけるような人は友達じゃないと思うよ」

「友達だったの。こっちに引っ越してきてからもずっと手紙とかそういうやりとりはしてて」

 初耳だった。

 チュチュにあたし以外の友達がいたなんて。

 いや、それはいるだろう。チュチュは誰とでも仲良くなれる。小麦色の肌は、この辺の街では珍しく、目立つが、チュチュにそれを気にしている素振りはなく、むしろみなはチュチュの人目を惹く姿に憧憬にも似た眼差しを向けている。

 外見で引きつけられ、性格に触れて泥沼にはまる。

 そんな具合で、チュチュは生粋の人たらしでもあった。

 ゆえにあたしは、面にはださないが、あたしのことを特別に慕ってくれるチュチュの存在を誇らしく思っていたりした。

 それはつまり、チュチュに慕われているじぶんを誇っていたにすぎない。

 ゆえに、あたし以外に親友じみた関わり合いを持つ相手がチュチュにいたことに、これほどまでに動揺している。

 そんなあたしも知らぬ相手にチュチュは呪いをかけられた、と語った。

「ひょっとしてその相手にあたしのこと話した?」

「うん? ああ、うん。そうそう」

 なんでわかったの、と言わんばかりにチュチュはマシュマロでできた髪の毛を振りかざしてこちらに、雪原のような顔を向ける。目鼻の窪みにかすかに差す影で、かろうじてチュチュの表情を読み取れる。甘い香りが鼻をかすめる。あたしはそれを鼻から吸いこんでから、

「ひょっとして今回初めてあたしのこと話したんじゃないの」と、ずばりそうなんだろうな、と半ば確信しながら言った。

「そうそう」チュチュはなんでもないように首肯した。よくわかったね、と。

 なるほど。

 あたしは彼女に呪いをかけた相手の動機を、その心の動きを、まるでじぶんのことのように重ねて辿ることができた。

「もういちどだけ確認させてね」

 あたしはチュチュの足のゆびを口に含み、舌でねぶりながら、

「全身を食べきったらちゃんと元のチュチュに戻れるんだよね」と念を押す。「呪いが解けるんだよね。そのまま消えちゃったりしないよね」

 彼女の足のゆびが、あたしの舌に触れるたびにじゅんわりと融ける。唾液を呑みこむ。甘い味が薄く広がる。チュチュのマシュマロがあたしの食道をなぞり、流れ込むのを感じる。

「消えないよ。全部食べてくれたらまたポンと元の姿で現れるみたい」

「それはどこ情報?」

「呪いをかけた相手が持ってた魔導書情報」

「そんなのあるんだ」

 まあ、あるだろう。

 そうでなければ呪いはかけられない。大本となる原典はどこかにはあるのだ。

 それを読んで、呪いの解除法をチュチュは知ったというわけだ。

「でもなんであたしが」

「本当は呪いをかけた人にしか呪いは解けないみたいなんだけど」

「じゃあダメじゃん」

「でも呪いをかける条件が、この世で最も私に執着してる人だったから、じゃあ呪いを解くのも、この世で最も私に執着している誰かさんだったら大丈夫かなって」

「えぇ、なにそれ」

 言いながらあたしは、いまのいままで安心しきっていたのだと知る。

 彼女の口からこうして、彼女の母国にいる友人の話を聞かされるまで、圧倒的優位な立場で彼女のことを独占していたと思いあがっていたじぶんを認識し、いまさらのように、遅ればせながらというべきか、焦りにも似た苛立ちを覚えていた。

 彼女が呪いをかけられたことよりも、彼女に呪いをかけたくなるほどに彼女に執着していた相手が彼女にいたことが、あたしにこれまで湧かなかった感情の蠢きを、渦を、与えている。

「もしあたしがそこまで執着してなかったらどうするの」

 呪い解けないよ、とあたしは言った。からかい半分ではあったが、もう半分は本心からの不安だった。

 もし失敗したらどうする気なのか。

 復活できなかったらどうするの、とあたしは、このままあたしに食べられて消えてしまうかもしれないチュチュを案じた。

「そのときはそのときだよ。べつにいいよ」

 あなたになら。

 チュチュはそう言って、自身の足を丹念にねぶるあたしの髪の毛を、片っぽしかない手のゆびでさらさらと梳いた。

「でもよかったよね」あたしは何かを誤魔化すように話題を逸らした。

「何が?」

「マシュマロで。だってほかの食べ物だったら本当にすぐに腐っちゃって、食べきるどころの話じゃなかったでしょ」

「ああ、そっか。ホントだね」

 彼女は親指のなくなった足のゆびを器用に開いてみせると、よかった、と言った。

「何が?」

「あなたの好物がマシュマロで」

 眉間にちからをこめてみせるも、抗議の眼差しもなんのその、お構いなしに彼女は、足の裏であたしの頬をぺしぺしと叩く。「さ。お代わりをどうぞ」

「きょうはもうお腹いっぱい」

 意地でもお代わりなどしてやるものか、とあたしは意固地に首をよこに振る。




【やまびこは参る】

(未推敲)


 声は四方八方から聞こえた。部屋を駆け回る子どもの気配がある。闇に紛れ、姿は見えない。

 閃光が走る。雷鳴が振動となって身体の芯ごと揺さぶる。

 屋根に打ちつける豪雨の合間を縫って、

 もーいーかーい。

 子どもの声が聞こえる。

 まただ。

 別の方向から、しかも同じ声が響くのだ。

 ソファのうえで縮こまり、ミヨコは、目を閉じたまま何度も謝罪の言葉を反復する。それしかできることがなかった。

 膝ごと、白い玉を抱きしめる。

 お返しします。お返しします。

 念じながらミヨコは、四日前を思いだしている。

 その日、ミヨコは兄に連れだされて、別荘地のコテージにやってきていた。兄の会社の後輩たちが同伴しており、総勢七名の賑やかな旅行だった。

 三泊四日の日程が組まれており、最初の二日間はコテージ回りを散策して終わった。

 周囲にほかの家屋はなく、どんなに近くとも一キロは離れていた。

 静かでいい、と兄は言ったが、おそらく宿泊料の一番安いコテージを選んだのだ。コテージは山の中腹にあり、ほかの裕福層ご用達の別荘はもっと下のほうにゴチャっと固まってあった。店はそこまで下りないとなく、待遇の差は明らかだった。

 朝は濃い霧が張った。

 山のなかに足を踏み入れたのは三日目のことだ。

 地図からすると奥のほうに沢があり、ネット上の書きこみには、ちいさな滝がある、と記されていた。

 肝試しを兼ねて、と言いだしたのは兄の後輩たちだった。みな仲が良く、女性陣はミヨコにとてもよくしてくれた。中には兄に懸想している女性もおり、その人はひときわミヨコを可愛がってくれた。

 その祠を見つけたのは、その人だった。

 なかなか滝に辿り着かず、沢すら見つからずに虻蚊にまいっていたところで、なんかある、とその人が言った。

 風景はどこを見渡しても木々ばかりだったが、地肌の露出した一画があり、崖のようになったその壁面に祠がひっそりと埋もれていた。

 壁は大きな岩でできているようだ。上のほうには木々が生えており、太い根が壁面に浮きでている。

 ミヨコは不気味だったので、不干渉を貫きたかったのに、兄を含めた男性三人が、どうしても祠の中身が気になる、と言い張った。

 祠はちいさく、犬小屋といった趣があった。

 扉にはしめ縄が垂れており、兄たちはそれを強引に引きちぎって、中身を見分した。

 真っ白い玉が安置されていた。

 ずいぶんと長いあいだそこに仕舞われたままなのだろう、埃に塗れていたが、兄が手にとり、表面を擦ると、透明感ある光沢が窺えた。まるでシャボン玉のなかに渦巻く煙のような紋様がうっすらとある。

 澄んだ白濁とも言うべき、矛盾した魅力を放っていた。

 ミヨコたちはみな一様にそれに魅入った。

 玉の台座はちいさな座布団といった趣で、玉のカタチに窪んでいた。

 兄はそれを元に戻さずに扉を閉じた。

 盗人だ。

 罰当たりだ。

 よくない行いなのは瞭然であったが、祠はだいぶ古く、長らく誰もここには立ち入っていないことは、足場に生した苔の濃さからしてまず間違いなかった。

 ミヨコたちは白い玉を持ち去った。

 あたかもそれをこそ取りに山に入ったかのように、沢や滝への関心はすっかり失せていた。

 コテージに戻ってからは、順番に白い玉を手にとって眺めたが、食事の支度をはじめ、食後にトランプ大会が開かれると、いったい誰が持っているのか分からなくなった。

 その日の夜だ。

 女の人と男の人が、一人ずついなくなった。

 ミヨコはそのことに気づいたが、きっと恋仲になるべく甘いひとときを過ごしているのだろう、と思い、気を使って、兄やほかの人たちには言わずにいた。

 しかし朝になっても件の二人が姿を晦ましたままだった。

 兄たちは昼まで待ったが、けっきょく二人は消えたままだ。みなで話し合った結果、警察に捜索願をだそうということになったのだが、なぜか電波が届かない。ミヨコたちの誰一人として、外部に連絡がとれなかった。

 コテージに備えつけられている通信機器も役に立たない。

 正午過ぎから崩れはじめた天気は、日が暮れるころには雷雨となった。

 本来ならば下山し、帰宅しているはずだったが、消えた二人を置いて山を去るわけにはいかない。

 助けを呼びに麓まで下りるにしても、車のキィがなぜか消えていた。おそらく消えた男が持っていったのだろう。

 車自体は兄の所有物だったが、運転は後輩である消えた男性に任せていた。

 兄はキィを預けたままだったのだ。

 車自体はそのままそこにある。二人とも遠くには行っていないはずだ。

 ミヨコはふと、玉の存在が気にかかった。兄に、あれはいまどこにあるのか、と問うと、その場にいた面々は顔を見合わせた。

「もしかして祠のところにいるのかも」ミヨコは言った。「山のなかに入って道に迷ったとかか?」兄が腰に手を添えたが、肩を竦めると、あり得るな、と眉を持ちあげた。

 けっこう信心深いところあっからなぁ、との兄のぼやけに、ほかの面々が頷く。

「探しに行ったほうがいいんじゃない」女性の一人が言った。兄は思案すると、もう一人の男の人と相談した。結果、二人で探しに行くことに決めたのだが、兄に懸想している女の人がそこでじぶんもついていくと言いだした。「男の人だけだと無茶しそうだから」その人の言い分には一理あった。

 雨脚は刻々とつよまっている。すこしでも無理だと思ったら引き返すのが正解だが、兄はむかしから一度こうと決めたら初志貫徹を目指す気質があった。

 兄は反対したが、言い合うだけ時間の無駄だともう一人の男性が意見し、人手があるに越したことはない、との考えから二対一で、兄が根負けした。

「じゃあ、おとなしくしてろよ」

 ミヨコはもう一人の女性と留守番だ。

 懐中電灯を手に、雨のカーテンをくぐる兄たちをミヨコは見送った。

 すぐにでもコテージを出ていけるように部屋の片づけをし、お腹を空かして戻ってくるだろう兄たちにおにぎりを作っておく。

 一時間もすると、することがなくなった。

 二時間が経過したころには、雷が付近に落ち、コテージが停電した。

 予備電源をつけるには一度外にでなければならない。発電機に灯油を入れなければ使えないはずだ。

 わたしが行ってくる、といっしょに留守番をしていた女性が言った。年上らしく振る舞いたかったのかもしれない。ミヨコは、蝋燭があるから、それで我慢しましょう、と提案した。「兄たちが戻ってきたらやらせればいいですし」

 だが肝心の蝋燭がどこにあるのかが分からなかった。

 部屋を片付けたときに見かけたような気もするが、具体的な場所が思い浮かばない。

 手分けしてコテージのなかを穿鑿していると、部屋の真ん中に置かれたソファの上に、例の白い玉が転がっていた。クッションに埋もれて、傍目には見えなくなっていたのだ。

 ミヨコはそれを手に取り、顔から血の気が引くのを感じた。

 祠に行ったんじゃない。

 消えた二人は山に入っていない。

 ではどこに消えたのか。

 雷の閃光が、部屋に素早く明滅する。

 ふとミヨコはもう一人の女性の息遣いが聞こえないことに気づいた。気配がない。

 外にでたのだろうか。だが足音はしなかった。扉の閉まった音も聞こえなかったが、雷鳴に掻き消されただけだろうか。

 屋根を打ちつける雨がいっそう激しさを増す。耳の奥に分厚い膜が張ったかのようだ。

 ミヨコは念じる。

 お兄ちゃん、はやく戻ってきて。

 ソファのうえで身を縮めていると、ミヨコは、はたと息を止めた。

 雨音に交じってちいさな声が聞こえている。

 全身が総毛立つが、意識は耳を欹てている。

 もーいーかーい。

 やまびこのような響き方で、子どもの声がどこからともなく漏れていた。

 いったいどこから。

 本物の子どものわけがない。ラジオか、何らかのスピーカーから漏れ聞こえている音声に違いない。その証拠に、同じような言葉しか叫んでいない。

 もーいーかーい。

 ほら、とミヨコは呼吸を楽にする。録音された音声だ。そうでなければこうも同じ言葉を繰り返したりはしない。

 ひょっとしたらイタズラかもしれない。留守番を共にした女性が、からかっているだけの可能性もある。きっとそうだ。

 兄たちが帰ってきていて、ミヨコを怖がらせようとしているのではないか。さもありなんだ。消えた二人を無事発見したので、みな陽気なのだ。

 そうと考えると、恐怖がやわらぐ。

 絶対そうに決まっている。

 糸を手繰り寄せるようにミヨコは、声に意識を差し向け、音源を探った。

 だが声はまるで四方を駆け回るように、部屋の壁の奥から、まばらに、その都度べつの方向から聞こえた。

 気持ち、足音まで聞こえてくるようだが、たとえ真実に鳴っていたとしても雨音との区別ははっきりとはつかない。

 ミヨコの緊張は極限にまで高まっていた。

「いい加減にしてよ、そういうのやめてってば」

 兄たちのイタズラに決まっている。

 怒りに任せて叫ぶと、声はぴたりと止んだ。

 ほっと息を吐いたのも束の間、屋根の上から、

 ドン。

 ドン。

 足で踏みつけるような音が轟いた。見えもしないのに、ちいさな足が癇癪に任せて地団太を踏んでいる様子が瞼の裏に浮かんだ。

 もう嫌ッ。

 ミヨコはソファのうえで丸まり、白い玉を抱いた。耳を手で塞ぎ、目を閉じる。

 あす、朝になったら返しに行きますから。

 何度も心の中で唱えた。

 なぜそのように念じるのかも分からずに、そうすることこそがしぜんなのだと、母体のそとに生み落とされた赤子が大声で泣きだすのと同様のなりゆきで、ミヨコは幾度もそれを念じた。

 祠の扉を開ける。台座の窪みに玉を置く。

 脳裏にその光景を何度も、何度も、繰り返し描いた。

 雨音が途絶える。

 瞼のうえから雷光が音もなく走った。

 部屋の中に息遣いがある。

 じぶんのものと、もう一つだ。

 移動している。部屋の中を歩いている。

 ソファの背もたれより低いと判る。

 子どもだ。

 直感する。

 ふっ、と気配が消えたかと思った矢先、

「もうイイかい」

 ソファのうしろから聞こえた。子どもの、押し殺したような声だ。

 ミヨコは目を固くつむったまま、震える手で、白い玉を真上に掲げた。

 あたかも取りあげたばかりの赤子を母親へ差しだすように。

 慎重に、丁重に、お返しした。

 手のひらから、白い玉の重みが消える。

 雷鳴が轟き、雨音が戻る。

 部屋にはじぶんの息遣いだけが弱弱しく響いている。

 全身はまだ緊張していたが、ミヨコは恐々と上半身を起こすと、じぶんでじぶんの肩を抱き、深く息を漏らした。

 ――まァ、ダダヨ。

 うなじに、生暖かい吐息が当たった。




【サイレンの音はまだやまない】

(未推敲)


 友人の様子が妙だ、と気づいたのは、彼が部屋に引きこもってからしばらくしてからのことで、私が彼の部屋を訪れた三回目のことだった。

 友人とは大学で出会い、研究課題が似通っていたことから縁を繋いだ。以降、私が大学を卒業してからも彼との交流はつづいていたのだが、院へと進んだ彼はことしになってから急に休学をし、部屋から一歩もそとに出なくなった。

 思うところがあったのだろう、と思い、電波越しにテキストメッセージを飛ばして、しばらく様子を見ていた。そっとしておいたほうがよいように思ったのだ。

 食事はどうしているのだ、と訊いてみたところ、引きこもる前に缶詰を大量に購入しておいた、との返事があったので、食事はちゃんとしろ、と一度目の訪問を決めた。

 会ってみると比較的元気そうだった。部屋もきれいに片付いており、かといって身辺整理をしたといった様子もなく、すこしほっとしたのを覚えている。

「元気か。ほいこれお見舞い」

「病気じゃないんだが」

「病気になってからじゃ遅いだろ。前祝いみたいなもんだ」

「なんだそりゃ」

 引きこもっていても食料の配達はしてもらえる。やり方を教えるが、どうも気乗りしないようだった。

「貯蓄はあるのか」大事な事項に気づき、訊いた。

「まだだいじょうだが、かといっていつまでもこうしていられるほどではないよ」

「底を突いたらどうするつもりだ」

「どうするも、こうするも、どうにかお金を稼がなきゃならんだろう」

 正気を失ってはいないようだった。はたまた、正気を失っていないからこそ部屋に引きこもってしまったのかも分からない。

 私とて、ふと我に返る瞬間がある。現代社会にとっぷりと浸った自身の行動原理が、ひどく機械じみていて、動物の習性じみていて、自我なるものが失われている気分になるのだ。

 正気でいたらたしかにこんな生活は送っていないだろう。そう思うことがあるのも事実だった。

 友人との会話は、そうした自分の狂気を再認識する契機でもあった。むかしからそうだった。ゆえに彼とはこうして縁を繋ぎとめていられるのかもしれない。

 彼には、私の失った何かがいつも漲って感じられた。

 二度目に部屋を訪れたのはそれからひと月後のことだ。世間では通り魔殺人やら、他国の政権崩壊やら、物騒な話題がつづいている。

「その点、ここは変わらずで落ち着くよ」本心から言った。

「世間と切り離された異次元ってことかな。でもずっといるとさすがに僕でも気が滅入る」

「寂しくないのか」

「寂しい、のかな。寂しいと思うこともあるよ。でも、さいきん子猫を飼いはじめたから」

「子猫?」部屋を見渡すが、動く物体はない。餌置きもなければ、ゲージもなく、猫特有の匂いもない。

 からかわれたか、と思ったが、かつて一度もそういった類の冗談を友人からは聞いたことがなかったので、「野良猫ってことか?」と発想を飛躍させてみた。「私は猫アレルギーだから勘弁してくれよ」

「いや、違くてね。物理的には存在しないらしくて」

「ん。存在しないって、じゃあ仮想現実とかそういうのか」情報で編まれた電子世界上の猫か、と合点する。そういったゲームをはじめたのかもしれない。

「そうではないんだ」友人は床に目を落とすと、何もない宙を撫でた。「僕にしか見えない猫なんだ」

「イマジナリーフレンドならぬ、イマジナリーネコか」

 たしか、と連想する。大戦時、収容所に監禁された捕虜たちが、想像上の少女をみなで世話をし、なんとか希望を捨てずに、劣悪な環境を生き抜いた。そういった逸話を聞いた覚えがあった。

「どうなんだろうね。僕にはこのコが本当にいるように見えるし、感じるのだけれど、餌は食べないし、糞もしない。じつは前にきみがきたときもいたのだけれど、きみがいっさい目も触れずにいたから、ああこれはそういう存在なのだな、と思ったのだけれど」

「だいじょうぶか?」どこまで本気なのかを疑ったが、おそらく友人は大真面目に言っていた。彼にはたしかにそこに、何もない空間に、子猫の姿が視えているのだ。「幻覚が見えるってそうとうあれだぞ」

 言いながら、どれだろう、と疑問に思うが、友人の今後が心配なのは偽りようがない。

「害はないんだ。むしろ世話をしないで済む分、楽と言えば楽かもしれない。餌代もかからないしね」友人は子猫をあぐらのうえに置いたらしい。彼の手のなかに透明の子猫がいるのが判る。そういったパントマイムを見せられている気分だ。

「いつからだ」

「このコを飼いはじめてからかい? ちょうど大学に行かなくなったころかな。本当のことを言えば、このコのそばを離れたくなくて、大学に行かなくなったようなものかもしれない」

「それは」

 異常だと思った。妄想の猫に執着して、世捨て人然と世間との交流を阻んでしまうなど。

 しかし友人の言うように、害はないのだ。

 子猫にしろ、友人そのものにしろ、誰かを傷つけているわけではない。今後困るとしても、彼が路頭に迷うだけだ。

 そして私は知っている。彼は、じぶんで人を傷つけられるほど強くはない。人を傷つけるくらいならばじぶんのほうで世を去ろうとする。そういう人物なのだ。

 私は不安の言葉を呑みこんだ。

「満足ならそれでいいんだ。その子猫、ちなみにどんな柄なんだ。黒猫か。それとも白とかブチなのか」

「黒だね。赤みがかった黒だ。綺麗だよ。最初見たときはちいさなカラスが蹲っているのかと思ったくらいだ」

「へぇ。撫でてみたいもんだな」

「いいよ。ほら」

 友人は手のひらを差しだす。

「ここにいるのか」

「うん」

 私はぎこちなく手を伸ばした。

 友人の手のひらの上を撫でるようにするが、感触はない。当然だ。

 物哀しくなった。気恥ずかしささえ覚えた。

 私は友人の手のひらに手を重ね、そこに何もないことを敢えて強調した。友人の手は温かかった。

「怯えているみたいだ」友人が言った。

「私か?」

「いや、子猫がね。きみが手を伸ばしてきてすぐに隠れてしまった」

「なんだ。じゃあ撫でても意味なかったな」

「そうなんだ」

 友人の手相の溝を指でなぞり、長い生命線だな、と感想を言った。友人は、そうなんだ、ともういちど言った。

 そこからまたしばらく私は友人の家には通わなかった。すこし距離を置いたほうがよいかもしれない、と考えを改めていた。

 私は彼とは友人のままでいたかったが、いささか慎重な判断を求められる段階に差し掛かっているのではないか、と良心の呵責と共に、寂寥を覚えていた。

 もしこのまま友人が、自己の世界に埋没し、帰ってこられなくなったら、そのときはひと思いにしかるべき施設に連絡をとり、しかるべき治療を受けてもらおうと考えていた。

 その後の回復の度合いによっては、縁を切る臍を固めねばならんかもしれぬ、とやはりやりきれぬ思いに駆られた。

 世の趨勢は、私たちのあいだの綻びに無関係に、日々しんしんと移り変わる。

 物騒な事件は相も変わらず多発した。

 連日のように、殺人や殺傷事件が囁かれる。不祥事もすくなくなく、企業のお偉いさんが頭のてっぺんをカメラに向ける。そんなところを見せられても視聴者たる私は何もうれしくはないし、どちらかと言えば、見たくない。

 未成年と性行為して捕まる者もあとを絶たない。性暴力の事案も、比較的よく目に入った。憤りと共に、そこはかとない妬心が疼くこともある。

 うらやましい、と思う我が欲動が、あり得たかもしれない自らの像として、事案を起こした者たちの姿に重ね見るのだ。

 じぶんでなくてよかった、との焦りと、コイツらばかりズルい、と嫉む気持ちがある。

 そんな気持ちなどはない、とつよく否定したがる思いがあることが何よりの証だ。私は被害者に同情しているし、犯罪を憎んでいる。

 だが裏腹に私は、それらを行う者たちにひどく羨望の思いを抱いてもいる。

 ゆえに憤る。

 許せない、ではなく、ズルい、との感情によって。

 同情よりもそうした我執が支配的になる。

 あたかもじぶんの宝物を穢された心地なのだ。本来ならばじぶん色に染めあげられたモノを、敢えて手を出していなかったモノを、横取りされた気分になる。ダイナシにされた気分になる。

 そこに、被害者を慮る考えはない。ただただ、財を損なわれた憤りがあるばかりだ。

 かぶりを振る。

 友の存在が抑止になっていたのだと、私はいまさらのように知った。

 友と接しているあいだだけ、私は私のなかから邪なナニカが浄化されて感じられた。似た者同士である彼とは決定的に異なる私の核心が、邪心が、友の存在によって希釈されていた。

 薄まっていた。

 清められていた。

 友のようになりたいとの憧憬が、私のなかの邪心を上回っていたのだろう。

 それがどうだ。

 もはや私は、我が友に対して、憧れよりも、疎ましく、不安に思う割合が増してしまった。

 ゆえに、こうまでも世の気の滅入るニュースを見るたびに、己が本質を突きつけられる。

 電車に揺られる。

 吊革に垂れさがりながら、車内に流れるニュースを眺める。

 通り魔がまた発生したようだ。犯人は逃走、とある。目を瞠ったのは、事件現場がこの街だったからだ。いままさに車窓のそとに映りこんでいる繁華街のどこかで起きているようだ。現在進行形の事件だった。

 インターネット上での口コミでの情報を漁る。みな各々に、憶測や感想をつぶやき合っている。

 被害者は軒並み、首筋や背中などから血を流しているそうだ。ニュースでは、刃物で切りつけられ、との表現が散見された。

 物騒だ。

 私はふと、友人の姿を思いだした。なぜかは分からない。だが、そろそろ見舞いに行ったほうがよいように思った。

 前回訪問してから早くもひと月が経っていた。

 友人が引きこもってから三か月である。

 行っていいか、と連絡を取ると、来てもいい、という。保存のきくレトルトカレーを大量に購入し、土産に持っていくことにした。

 玄関を開けると、部屋に段ボール箱が増えていた。引っ越しでもするのか、と案じたが、そうではないようだ。すべて通販の品だ。

「どうしたんだこれ」

「いらっしゃい。買ったんだよ」

「そんな無駄遣いしていいのか。貯金に余裕はないのだろ」

「貯金にはね。ちょっと小遣いが入って」

「バイトでもはじめたか」畳に腰をつけ、ビニル袋を手渡す。「買ってきた。気が向いたら食べてくれ」

 友人は土産を受け取った。「助かるよ。ありがとう」

 部屋を見渡す。妙だな、と感じたのはこのときだ。段ボールなどの荷物は部屋の片方に寄せられ、反対側の空間には何も置かれていないのだ。

 不格好だ。

 偏っている。バランスがわるい。

 元からあったはずの本棚まで解体され、本は床に積み重ねられていた。

「大掃除でもはじめたのか」そうではないことを判っていながら訊いた。

「いやぁ、ちょっとね。思ったよりも成長がはやくて」

「成長?」

「前に言ったよね。子猫を飼っているって」

「ああ。妄想のだろ」言葉に棘が混じったが、誤魔化すには遅かった。「まだ飼ってたんだな」と口を衝く。

「捨てるわけにもいかないからね」友人の表情に変化はない。何もない空間を見遣ると、「これでなかなかに食いしん坊だったみたいでね。いちど餌付けしてみたら、それからはもうたいへんで、たいへんで」

「キャットフードでも与えたのか」

「まさか。そんなものは食べてくれないよ」

「まあ、餌も妄想で与えればいいから楽だよな。その点は、たしかに利点だよ」

 皮肉交じりに称揚してから、

 だったら何を購入したのだろう。

 いまさらながら通販の中身が気になった。段ボールには通販会社のマークが入っているのみで、商品が何かまでは分からない。段ボールは畳まれているものも含め、相当な量がある。

 雑然と壁と化した空間を見遣り、

「これ、こんなに何を買ったんだ」

 水を向けると、友人は、ああ、と微笑み、

「違うんだよ」と言った。「これは、半分は売るための段ボールで」

「小遣いってそのことか」合点がいき、胸が軽くなる。ひょっとしたらよくない職に手をつけたのではないか、と心配だった。「だが、売るにしてもモノがいるだろう。あ、なるほど本を売ったのか」

 本棚を解体したのはそれゆえか、と膝を打つも、

「違うんだ。これにはちょっと事情があってね」

 友人はお茶を濁した。「それよりも、きょうは外が賑やかな気がするのだけれど、何かあったのかい」

「知らないのか。ニュースくらい見たらどうだ」

 通り魔事件のことを話して聞かせた。じかにニュースも見せた。友人はネット上の話題に食い入るように目を走らせた。

 瞬き一つしない形相に、若干引いた。「そんなに気になるのか」

「やはり外は危ないな」友人は画面から顔を離すと、それはそうと、と話を逸らした。「犯人は逃げているらしいから、この辺も危ないだろ。しばらくここいらには寄り付かないほうがいいかもしれない」

「それはそうだが、そんなことを言いだしたら仕事にも行けんだろ」

「昼間は仕事に行っているわけだからむしろきみは安全だ。夜も、いまは人通りがすくないから、通り魔はでにくい。だが夕方は、危ない。この辺だけでいいよ」

 あまり寄り付かないほうがいいかもしれない、と友人は繰り返した。

 畳のざらついた感触がなぜか意識の壇上にのぼった。蛍光灯の眩さと、じぶんの影、部屋の匂い、部屋の外から漏れ聞こえる風の音が、いまここにじぶんが存在することを否応なく意識させた。

 ふと、酸味がかった匂いが鼻をかすめた。

「何か臭わないか」

「そうかな。しばらく換気をしていないから、空気が淀んでいるせいかもしれない」

「布団はそこのスペースに敷くのか」

 何もない空間を見遣る。

「いや、布団は敷かないんだ。でも寝る分には充分だよ。あたたかい。ふかふかさ」

 そこでなぜか友人は身を乗りだし、ああダメだ、と声を荒らげた。「ダメダメ、この人はダメだよ。違うんだ」

 パントマイムさながらに、虚空を手で押さえつける。あたかもそこに壁があるかのように振る舞った。

 ひとしきり暴れると、何事もなかったかのように畳に尻を戻した。「すまない、取り乱した」

「大道芸でもはじめたかと思ったぞ。上手いじゃないか」

 とんだ特技があったもんだ、と褒めると、友人はこめかみを掻いた。

「まあ、そう、だね。練習したんだ。暇だからね」

 空気の揺らぎを感じた。

 密閉した部屋だ。

 風が吹くはずもなかったが、私は思わず目をつむった。次点で、鼻がむずむずとし、くしゃみをする。これがなかなか止まらずに困った。

 ティシューをもらいうけたが、会話の継続どころか呼吸すら困難になる。

「きょうのところは帰る。申し訳ない」

「掃除をしていなかったからかな。埃のせいかもしれない」友人は言うが、部屋はいつもの通り、きれいなものだった。空気とて淀んではないのだ。

 だが、たしかに何か、居心地のわるさを感じてはいた。

 見送りに立った友人に私は、鼻をすすりながら、またくるよ、と言った。「こんどは外に食事に行こう。ご馳走する」

「無理はしないでいいよ。でも楽しみにしてる」

 ありがとう、と友人は言って、扉を閉じた。

 言葉とは裏腹に、追いだされたような後味のわるさが残った。

 せっかく来てやったのに、といった思いがなかったわけではないが、それよりも友人との会話で覚えていた違和感、何かを誤魔化すような歯切れのわるさを思い、私はどんよりとした不安と、やはり寂しさを覚えずにはいられなかった。

 この日から街では、ナニモノかによる殺傷事件が連続して発生するようになった。発覚していなかっただけで、ひょっとしたら以前から同類の事件は多発していたのかもしれない。

 かといって街からひと気が遠のくわけでもなく、一週間に数人という規模で、犠牲者はでつづけた。

 友人の部屋を最後に訪問してからひと月が経ち、ふた月が経った。

 行ってもよいか、とテキストメッセージを送るが、返事はない。

 倒れているのではないか、何かあったのではないか、と心配にはなったが、既読マークはついている。メッセージは読まれているようだ。

 ひとまず生きているようだ、とただそれだけを理由に、様子見することにした。

 本来であれば、とっくにどこぞの施設に相談をしてもいい段階なのかもしれないが、私は未だに踏ん切りがつかずにいる。

 どうしても、我が友のほうこそが正気であるように思われてならないのだ。そうあってほしいとの願望にすぎないのかもしれないが、私には、友人の奇行が、奇行に見えるだけのまっとうな営みに思えるのだった。

 彼は、彼に固有の世界に生きている。

 ただそれだけなのだ、と。

 邪魔をしたくなかった。彼はようやく、この世界との折り合いのつけ方を見つけたのかもしれなかった。私はそれをうらやましいと思い、そこはかとない妬心と、やはりかつてのような憧憬を重ね見ている。

 私は仕事終わりに、病院に寄った。

 きょうで通院は終わる予定だ。

 ふた月前、彼の部屋を辞したあと、ひどく体調を崩したので医師にかかったのだが、診察結果は、極度のアレルギー反応だった。

 即入院と命じられ、一日点滴に繋がれた。

「下手したら死んでましたよ。猫の群れにでもダイブしましたか」

 医師は呆れ口調で言った。

 思い当たる節はなかったが、ああはい、と口を衝いていた。「おっきな猫と、すこし」

 あれ以来、アレルギー反応は治まった。むろん猫とたわむれた記憶はない。

 薬をもらい病院を出ると、救急車のサイレンが夜の街に響き渡っていた。

「本当に大食らいだな」

 主語もあいまいに闇にぼやき、私は寄り道をせずにまっすぐと帰路につく。植木から野良猫が這いでてくるが、私が背伸びをすると、脱兎のごとく逃げだした。

 サイレンの音はまだやまない。




【ハラスハウス】

(未推敲)


「さいきん、ようやくパワハラとかセクハラが問題視されてきたでしょう。本当にやっとうちの会社でもそういうのの社内啓蒙とか教育とか、本腰あげて対策とりはじめてくれてね」

「よかったですね」

「でもまだモラハラとかは全然だよ。子どもの嫌がらせみたいなことみんな普通にするし」

「それはつらいですね」

「その点、きみはいいね。じぶん一人だけで完結して仕事できて」

「そう、ですかねぇ」

 あはは、と愛想笑いする。もちろん僕だって取引先とのやり取りでは立場が下だし、相応に嫌な思いはしているのだが、原須(はらす)さんにそう言われるということは、とりもなおさず僕自身が周囲にそう感じさせない態度を保っていることの証とも言えるので、そうわるい気はしなかった。

「そう言えば、前に原須さんに言われて調べてみたいんですよね。モラハラって何だろうって思って。そしたらけっこう僕もじぶんの身内にしちゃいがちで、反省しました。早めに気づけてよかったです」

「おう、そうなのな。機嫌わるいときに話しかけられるとついつい無視しちゃったり、じぶんには当然そうあるべき、ということが通じないと、なんでこんなことも解らないんだと苛立っちゃって」

「分かっててもしちゃいますよね」

「いやいや。分かっててしちゃったらダメでしょう」

「ですね」

「性差別なんかも、よく言うよね。うちの上司もそうだけど、いまは生きづらくなったとか、そういうことをすぐぼやくけど、そうじゃないじゃん。むかしからそういうことはよくなかったんだけど、よくなかったことが未だにつづいていただけのことで。ようやく是正できるようになってきたっていう、ただそれだけのことなんだよね」

 甘えだよね、甘えてたんだよね、と原須さんは言った。

 僕は感心した。

 よい人に出会ったな、とじぶんの運のよさを誇らしく思った。

 原須さんとは料理教室で出会った。生徒のなかで男性が僕たちだけだったので、しぜんと会話をするようになり、料理教室以外でも飲みに誘いあう仲になっていた。

 原須さんは、問題意識のつよいひとだった。とくに差別問題には造詣が深く、僕は原須さんを通してじぶんの無自覚な差別意識と、至らなさに気づき、いまでは過去のじぶんを恥じている。

 いまとて、身体に染みついた差別意識を行為に昇華してしまっているはずだ。それを自覚しようとみずからに言い聞かせることしか、いまのところはできていない。まったく充分ではないけれど、以前に比べたら大した進歩だ、とすこしは自画自賛したくもなる。

 原須さんは僕より年上で、ちょうど親しみやすい兄のようだ。僕にきょうだいはいないけれど、きっと兄がいたらこうだったろうな、と思うような、親しみやすい人だった。頼りがいがあると言ってもいい。

 一緒にいるとなんだか大きくて暖かいものに包まれる心地がした。

「むかし、奴隷制度ってあっただろ。いまでもよその国じゃ奴隷扱いされている人たちがいて、なかには性奴隷にされている人たちもいる。嘆かわしいよね。本当に悲しいし、どうにかしてあげたいと思うよ」

「この国でもちょっと前まではそういう時代があったんですよね」

「女性差別問題にしたところで、未だに充分に解決されたとは言い難いからね」

 おっと妻からだ、と原須さんはメディア端末を見た。「牛乳買ってきて欲しいだってさ。まったく、うちだと俺が奴隷みたいなもんだよ」

「はは」

「そうだ、これからウチにこないか。妻も紹介したいし、これから別の店に行くよりかは小遣いも浮くだろ」

「いいんですか」

「構うものか。妻もさいきん刺激がないとぼやいててね。友人を紹介したらきっとよろこぶ」

 友人、という響きに感激した。いつの間にか僕は原須さんの友人になっていたのだ。

「お邪魔でなければ、ぜひ」

 原須さんの住まいは、駅からほど近いマンションだった。思っていた以上に立派なところに住んでいて、恐縮してしまう。原須さんが何の仕事をしているのかを知らなかったが、きっと年収は僕と比べものにならないだろうと思えた。

「さあどうぞ入って」原須さんが玄関扉を支えた。

「いらっしゃい。狭いところですが」原須さんの奥さんだろう、僕と同い年くらいの女性が出迎えた。エプロン姿で、生活感の溢れる服装でありながら、清潔感に溢れていた。

 原須さんは奥さんに僕の名前を紹介した。

「前に話したろ。料理教室で意気投合してさ」原須さんにせっつかれる。「さあ、あがってあがって」

「おじゃまします」僕は家にあがりこむ。

 食卓には料理が並んでいた。パスタに肉巻きにサラダに果物の盛り合わせと、豪勢だ。

「すみません、急にいらっしゃると聞いて、こんなものしか用意できなくて」

「いえ、ご馳走ですよ。すみません急に押しかけてしまって」

「いいよ、いいよ気にしないでくれ」原須さんはなぜかそこでお手をした。手のひらをうえに見せるようにして数秒固まる。奥さんがすかさず席を立ち、おしぼりを持ってきた。

 原須さんはそれを受け取ると、はい、と僕にも渡した。

「手洗いの代わりに使って」

「ありがとうございます」僕は原須さんに低頭し、奥さんにも頭を下げた。「あの、いまさらですけどお名前を訊いてもいいですか」

 原須さんは奥さんに僕を紹介こそすれ、奥さんを紹介してはくれなかった。

「ミエコです」奥さんは自己紹介した。

「なあおい、なんで飲み物がないんだよ。せっかくのお客さんなんだからさ、食事の前にまずは乾杯だろう」

 ねぇ、と原須さんはわざとらしく僕に耳打ちをする仕草をする。ミエコさんは立ちあがり、すみません、とわざわざ腰を折ってから、台所に引っ込み、お盆に人数分のグラスとビール瓶を二本載せて戻ってくる。

「これしかなかったのか」原須さんはビールに不満そうだ。

「ワインはこのあいだ飲んじゃったでしょ」

「そうだっけか。だったら買い足しといてくれてもよかったんじゃないの」

 ねぇ、と原須さんは僕に同意を求めるが、返答に窮する。

 なんか変だな、と僕は思いはじめていたが、愛想笑いを浮かべるので精いっぱいだった。

 原須さんは終始ご機嫌に食事を進めた。僕も料理を楽しんだ。レストランでも開けばよいのに、と思うくらいに、どの料理の品も美味しかった。

「料理お上手ですね」

「そうですか。そんなこと言われたの初めてです。ありがとうございます。ねぇアナタ、わたし褒められちゃった」

 原須さんは無言で、空のグラスを持ちあげた。ミエコさんがすかさずそれにビールを注ぐ。

「ほら、彼のグラスにも」

 急かされたからか、ミエコさんは僕にもお酌をしてくれた。僕は恐縮する。「手酌で飲みますので、お気遣いなく」

「ほらおまえが遅いから気を使わせちゃっただろ」

「すみません」ミエコさんは飽くまで朗らかだった。

 僕はなぜか居たたまれなくなった。ステキな家庭のはずだ。掃除が行き届いており、夫婦の仲睦まじい写真が棚のうえに飾られている。

 席から眺めていると、原須さんが説明してくれた。すべて海外旅行先で撮った写真だそうだ。

「コイツが旅行好きでね。俺はできたら家でゆっくりしてたいんだけど、どうしてもってうるさくって」

 そこからは原須さんのいつものような講釈がつづいた。話している内容は、ふだん僕に聞かせてくれるような世の中をよりよくしていくにはどうしたらよいのか、といった社会問題についてだった。

 未だに世界には奴隷みたいな扱いを受けている人たちがいる。原須さんはだから一人で海外旅行に出かけるときは、現地のひとたちのためになるように、できるだけお金をたくさん使ってくるのだそうだ。

「ひどいもんだよどこの国も。発展途上国って言うのかな。やっぱりこの国は豊かなんだって否応なく実感するし。貧困な地域はどこも人の住む場所じゃないっていつも思う。でもだからこそ現地の人たちって逞しいんだよね。感心するんだ、いっつも」原須さんはミエコさんを顎で示し、「コイツなんかきっと一時間も耐えられずに、家に帰りたいって泣き言を漏らすと思うよ。トイレなんかどこも汚いし、シャワー室なんかタイルがボロボロで、虫とか普通に這ってるし」

 一番高いホテルでそれなんだよ信じられる?

 もう二度と行きたくないけど、でもああいうところに行くと勉強になるよね、といったニュアンスのことを、原須さんはもうすこし柔らかい表現で並び立てた。

「現代でも児童婚とかあってね。十代以下の子どもでも無理やり俺みたいなおっさんと結婚させられちゃったりするんだって。可哀そうだよね。気に入らない女の顔に硫酸をかけて、二度と人目に出られないような顔にする復讐も行われてたりね。貧困層だと、子どもの腕とか足を切って、物乞いにしたりとか。もうほんと同じ人間とは思えないひどいことをみんな普通のこととして受け入れて生活しててね。まったく信じられないよね」

 原須さんがデザートを食べているあいだ、ミエコさんは台所で食事の後片付けをしていた。

 席にいたあいだ、ミエコさんは幾度か相槌を打つように質問を挟んだのだが、原須さんはそれを無言でやり過ごしたり、はぁ?とわざと厳めしく訊き返したりして、ミエコさんを黙らせていた。

「あの、原須さん。僕の勘違いだったらごめんなさいなんですけど、ちょっとミエコさんへの当たりがつよくないですか」

「えぇ、なになにぃ。うちのアレが気に入っちゃった感じぃ?」

「そういうのではなくてですね」

「別にいいけどね。一回くらいならお目こぼししてもいいよ。俺ときみの仲だしね。一回くらいならいいよね」

 なあ、いいだろ。

 原須さんは声を張り、台所のミエコさんを指さした。「けっこうあれでアッチのほうは激しいんだよね」

 耳打ちをするような仕草をしながら、聞こえがしに原須さんは言った。「でもさいきんは淡白でさ。物足りないの」

 酔っぱらってはいるのだろう。けれど、いつもの原須さんと変わらない。声の抑揚や、ウィンクをしてみせる陽気な仕草からは、気のよい年上のお兄さんの印象を覚えるほどだ。

 悪酔いをしているわけではない。

 ただ、これまで目にすることのなかった彼の一面が見えているだけなのだ。

「あ、そうだ。ジェンダー差別の問題でさ、こんどうちの会社で女性の役員を増やすって話になって。そうするように俺が長年働きかけてて、ようやく上が重い腰を動かしてくれたみたいでさ」

「あの、すみません」僕は意を決して言った。「ミエコさんの片付け、僕も手伝っていいですか」

「えぇ、いいよしなくて。お客さんにそういう真似はさせらんないよ。だいたいもう終わったでしょ」

 ね。

 原須さんは陽気に投げかけた。ミエコさんの返事も聞かずに、だってさ、と僕の肩をぽんぽんと叩く。

 柔和な雰囲気は変わらずなのに、どうしてだか僕にはもう、原須さんの言葉に光を見出すことはできなかった。

 彼の声を耳にするだけでいまはもう、胸の内側を紙やすりで擦られたような、ザリザリとした感覚が嵩んだ。

 ミエコさんがお皿につまみを載せて戻ってくる。彼女は僕の名前を言い、

「あした早いんじゃないですか」と水を向けた。暗に、もう帰りたいですよね、と助け舟を渡された心地がした。

「大丈夫だよ」原須さんは僕を見て、「ねぇ?」と眉を持ちあげる。

「いえ、そろそろお暇しますね。長居してもご迷惑でしょうから」

「そんなことないよ。何だったら泊ってったら」

 布団あるよね、だしたげて。

 あ、風呂沸いてる? 入ってったらどう?

 原須さんはビールを最後の一滴までグラスに注ぎながら、ミエコをさんを見ずに言った。

「いえ、そろそろ」

 僕は席を立つ。ミエコさんに腰を折る。顔をあげると、目が合った。申し訳なさそうな表情からは、何かを恥じらうような、それでいてある種の共犯関係を結ぶ相手へ見せる阿りに似た眼差しがあった。

 原須さんは玄関のそとにまで見送りにでてくれた。面倒見のよい兄のような振る舞いだ。いつもならばうれしかっただろうはずのそれを見ても僕の心は動かなかった。

 原須さんの背に遮られるように、玄関口には控えめにミエコさんが立っていた。僕にはどうしても彼女が、花嫁衣装を着せられたちいさなお人形のように見えて仕方がなかった。何度もお礼を口にしながら僕は、マンションのエレベータに乗りこむまでに、三度振り返って、くれぐれもよろしくお願いします、と何に祈るでもなく、もう二度と訪れることはないだろう、と予感しながら、僕は僕の憧れだった原須さんの家を、住処を、あとにした。




【映りこむ者】

(未推敲)


 部屋に引きこもりながらでも仕事ができるようになったので、通勤の分の時間が浮いた。

 何か趣味でも嗜もうと思い、動画を投稿しはじめたのだが、半年経っても未だに登録者数は一桁台で、視聴回数も伸び悩んでいる。

 動画の内容がおもしろくないのだろう。それはそうだ。近所の公園やデパートの屋上など、身近な場所の景色を背景に、逆立ちをしているだけなのだ。パフォーマンスと呼ぶにも芸がない。

 だが継続は力なりだ。当初は一秒も保たなかったのが、いまでは三十秒ほど倒立を維持できる。

 最終的には片手倒立でもできるようになれたらうれしいが、あと何十年かかるだろう。どの道ほかにしたいこともない。気長につづけてみることにする。

 ところがある日、急に動画の視聴回数が跳ねた。それもすべての動画が一様に増えていた。

 だが評価は低い。

 否、半々といった具合で、いったい何がそんなにお気に召さないのかと腹立たしく思ったが、同時にこんなにも多くの人に観られ、なおかつ高評価を押してくれる人がいる事実に首をひねりたくもなる。

 コメントがついていたので読んでみる。

 どうやらSNSで話題になっており、そこから視聴者が流れてきたようだ。怖いだの、フェイクに決まってる、だの、動画の内容とは乖離したコメントが散見された。

 いまいち状況が掴みきれない。

 ひとまず、新しく動画を載せてみることにした。陽が暮れていたので、室内で撮った。倒立はせずに話す動画を撮った。内容は、まさに現在進行形でお祭り騒ぎのじぶんの動画チャンネルについてだ。いったいなぜこんなに人が押し寄せているのか。注目されている理由を教えて欲しい、とじかに言葉でしゃべって訴えた。

 戸惑っているのだ、と言いつつも内心ではまんざらでもなく、気分は昂揚していた。

 動画を載せるとすぐさまコメントがついた。

 全部の動画に映ってる人は誰ですか、とある。

 私に決まっているだろ、と思ったが、また新しくコメントが書きこまれたので、そちらに目を通す。

 後ろのほうにいつもいる女性のことです、と付け加えられていた。

 何のことだろう、と半信半疑でじぶんの動画を投稿順に観直す。

 公園で撮った最初の動画からだ。

 木々が生えており、池があって、芝生がある。

 私が逆立ちをしてすぐに倒れる。

 目を凝らす。

 奥に立つ木のうしろから女性が顔を覗かせている。

 私を見ている。

 偶然だろう。たまたまそこに誰かが立っていただけだ。急に逆立ちをしはじめた者がいたら気になって目がいくのは当然だ。何もふしぎなことはない。

 つぎつぎに動画を開く。

 デパートの屋上、マンションの階段、駅前の広場、科学館の前。

 さまざまな場所で逆立ちをしては倒れる私の背景に、髪が肩までの長さの女性が映りこんでいた。

 同一人物だろう。どれも同じ背格好で、同じ服装に身を包んでいる。物陰から覗いているときは、上半身のみを傾けており、見晴らしのよい場所では無防備な様で、ぽつねんと佇んでいる。

 なぜ私がその人物に気づかなかったのかがふしぎなほどで、あからさまに動画にはっきりと映りこんでいた。

 心なし、新しい動画ほど女性が近づいてきているように見えた。

 分からない。気のせいかもしれない。

 新しくコメントがついた。新しい動画への書き込みだ。

 だいじょうぶですか、とある。

 何がだ、と思う。

 先刻投稿したばかりの動画を検める。

 投稿する前には編集をする。投稿するときにもいちど確認したはずだ。

 動画を半分ほど観て、映っていない、と胸を撫でおろす。それはそうだ。室内で撮ったのだ。映っているわけがない。

 だが、動画が終盤に差し掛かると、私の背後を何かが横切った。

 スロー再生にする。

 私の背後には窓がある。

 女性が右から左に、通り過ぎた。

 ふしぎなのは、彼女が私の部屋の内部にいたことだ。もっとふしぎなのだが、横切るあいだ彼女はずっと私から目を離さずいた。

 画面から見切れる寸前に、顔だけが私を見ており、私がしゃべり終えるまで、画面の端から女性の顔だけがじっとそこに浮いていた。

 振り返ってみるが、部屋のなかに誰かのいる気配はなく、もちろん姿もない。

 私は動画を消そうか迷ったが、敢えてそのままにした。動画の再生数は日に日に伸び、私は広告収入だけでけっこうな額を手に入れた。

 それもこれも彼女のお陰だ。

 私は久方ぶりに動画を撮った。非公開設定で投稿すると、例に漏れずその動画にも件の女性が映りこんでいた。

 動画のなかで私は、彼女に感謝の言葉を述べている。彼女はそんな私の背後に立ち、真上から私のことを覗きこんでいたが、私にはどこか彼女のその仕草が、照れ隠しのポーズに思えた。

「案外かわいいところもあるんだね」

 動画に向かってつぶやくと、なぜか彼女は画面のなかでぷいと横を向き、ツンと澄ましたかと思うと、すー、と滑るように画面のそとに消えた。

 ふと、首筋にひんやりとしたものがまとわりついたように感じたが、私は素知らぬふりをして、こんどはどんな動画を撮ってやろうか、と企む。片手倒立ができるようになるまではつづけてみてもいい。

 どうせならきれいな景色の望める場所がいい。 

 首筋のひんやりに重ねるように手を添えて私は、二人でも楽しめる一人旅の計画を練ってみる。




【一番は最後】

(未推敲)


 例の世界的災害の影響で、今年の同窓会は画面越しでの催しとなった。参加人数もすくなく、最後のほうはみなそれぞれにグループに分かれた。

 遠隔での歓談はじかに会うよりも緊張しない。声だけで参加している者もあり、日陰者の僕であってもそれなりに楽しめた。

 誰が言いだしたのか、過去に学校で起きた事件の話になった。どこにでもある話と言えばそうなのかもしれないが、いじめられていた子が自殺したのだ。しかしその子をいじめ、死に追いやった子たちはお咎めなしだった。卒業するまでクラスの中心的存在のまま我が物顔に振る舞っていた。

 同窓会に彼らいじめっ子たちの姿はなかった。

 いま何をしているのか、とそういった話になったときに、死んだよ、と誰かが言った。

「死んだって、何で」

「さあ」

「え、いま誰言ったの」

「わたしじゃないよ」「私でもないよ」「おれも違う」「なんか子どもの声っぽくなかった?」

 みな無言になった。

「ワタシ、駅前で見たことあるよ」クラスの委員長だったコがおずおずと切りだした。「高校生くらいのときかな。なんか足引きずってた」

 あたしもそれ見たかも、とほかのコが言った。「大学生くらいのとき、あれってひょっとしてって思ったけど、やっぱり彼だったんだ」

「怪我したのかな」「どうだろね」「病気だったらしいよ」

 誰が言うともなく、みな各々に発言し、断片的な情報が持ち寄られた。

 僕は一言も発しなかった。会話に参加せずに、話だけを聞いていた。

 言ってよいものか逡巡していた。

 じつは僕も以前、見かけたことがあった。あれはたしかに、死んだ子をいじめていた主犯の男だった。何かに躓くように、幾度もよろけては、歩きづらそうにしていた。

 でもたぶんあれは、病気でも、怪我でもない。

 彼の足首には、誰のものとも知れぬちいさな手がしがみついていた。

 あたかも沼に引きずり込もうとするかのように、両の手で、がっしりと足首を掴んでいたのだが、彼がそれに気づいていた様子はなく、ただただ片足を引きずって歩いていた。

「ほかのいじめてた子たちってどうしてるんだろうね」

 いかにも心配そうにクラス委員長だったコが口にしたが、僕は、彼女の首にゆびを食いこませるちいさな手の存在に言及すべきか、やはり躊躇した。




【ぎょろり、ぷつり】

(未推敲)


 皿の下から目玉が覗いていた。光彩が萎んだり、広がったりを繰り返す。そういうカタチの虫かと思ったが、皿を持ち上げてみるとそこには紛うことなき目玉があった。

 眼球だ。

 視神経が瞳の裏側のほうから細長く伸びている。輪郭だけを見れば太っちょのオタマジャクシに見えなくもない。

 気持ちわるかったので、ティシューで包んで、ゴミ箱に投じた。

 しかしその日を境に、目玉は部屋の至るところに出現した。たいがいは隙間に潜んでおり、ゆびでつまみだそうとすると、奥に引っこむ。水草に隠れる小魚じみている。

 一つ二つならばまだしも、日に日にその数を増していく。繁殖しているのだ。

 家の中で飽き足らず、外でも見かけるようになり、さすがに放置しておけなくなった。

 ほかの誰も目玉の存在には気づいていないようだ。ゆびでつまんで持ち上げてみせてもよかったが、どう考えても怖がらせるだけだろう。ゴキブリを掴んで、見せつけるようなものだ。

 罠を仕掛けたくとも、目玉が何を好むのかが分からない。ジャングルに檻だけ放置しても意味がない。

 折衷案として爪楊枝を持ち歩くようにした。

 目玉を見掛けるたびに、それの表面を爪楊枝で刺した。目玉は穴の開いた気球がごとく勢いで、ぷしゅーと萎んだ。あとには萎れた朝顔のような皺くちゃの膜が残った。思っていたよりも呆気ない。

 退治できると判ってからは、手当たり次第に、容赦なく爪楊枝をそれの中心に突き立てた。

 慣れてくるとこれが快感だ。

 プツっ、と一瞬の手応えのあとに、シュン、と刹那に力尽き弛むそれの変化の起伏は、見る者の心に上向きの感情を喚起する。それはたとえば、熱したフライパンに垂らした一滴の水であり、油汚れに垂らした洗剤の雫である。

 シャボン玉をゆびで割ってはしゃぐ幼子のごとく心境で、つぎつぎに家の中の目玉を爪楊枝で刺した。即座に消沈する目玉のはかなさに、胸の内をゆびでなぞられる昂揚を覚えた。

 くすぐったくも、心地よい。

 もっともっと、と隙間という隙間を覗いて歩き、つぎつぎに目玉から厚みを奪った。

 どれくらい夢中になっていただろう。一時間か、二時間か。

 本棚から本をあらかたひっくり返すが、もはや目玉は見つからない。

 ふと鏡が目に入る。

 なんだ、こんなところにあったじゃないか。

 鏡を壁から取り外す。

 鏡を覗きこむ。

 鏡面に爪楊枝の先っぽを向けるが、途中でこれでは意味がないと気づき、矛先を変える。

 爪楊枝をつまむじぶんの手が迫る。

 眼球の表面に点が触れる。

 弾力がある。

 ぐっと力をこめると、ぷつりと、膜の破れる音がした。

 一息に爪楊枝を押しこむ。

 痛みが襲うが、それよりも爽快感が上回る。

 脂汗が全身から滝のように噴きで、痛みが鼓動と同期する。

 荒い呼吸の合間、合間に、よろこびが湧きあがる。

 うれしい、うれしい。

 目玉はまだ、あと一つある。




【毒を盛る人】

(未推敲)


 幼いころから病気がちだった。一年に三回は必ず、一週間は寝込むような風邪をひき、お医者さまのお世話になった。

 体調を崩すと、母は毎度のように、これをお食べ、と言って得体の知れない黒い塊を口のなかに放り入れた。

 鼻が詰まっていて味がどんななのかは分からない。

 弾力があり、ひと齧りすると口内に独特の風味が広がった。

 それを齧ると、すこしだけ元気がでた気がしたけれど、いま思えば気のせいかもしれない。

 中学生になったときに、私は母がそれをこっそり桐箱に詰めて冷蔵庫の奥の隠していたのを発見した。秘薬かもしれない。

 それとなく、何が入っているのかを訊ねたが、内緒、とはぐらかされた。食べてみてもいいか、とおねだりをしたが、病気のときにね、とやはりお茶を濁された。

 母はそれをじぶんでこしらせていたようだ。真実に効果があるのかは定かではない。

 だが私はあるとき、可愛がっていた年下のマユカが病気で臥せっていたので、それを食べさせた。病院に連れていければよかったのだが、そこまでではないと母に言われて、それでも苦しそうなマユカを見ていられずに、何かしてあげたくなったのだ。

 呼吸の荒いマユカのつらそうな寝顔は、まさに病気でまいっているときの私自身を見ているようだった。

 冷蔵庫の奥のほうから桐箱を引っ張りだし、中から黒い塊をゆびでつまんだ。私はそれをマユカに食べさせた。

 マユカの寝顔は安らかになった。

 それっきりマユカは目覚めなかった。息を引き取った。

 私は恐怖した。

 母はなんてものを私に食べさせていたのだろう。マユカの命を奪ってしまった呵責の念に堪えながら、私は母を呪った。

 高校生に長じてからというもの、私の身体も免疫をつけたのか、病に伏せることはなくなった。

 あべこべに母がすっかり弱ってしまったが、私は母の看病をしなかった。家には私のほかに母の面倒を看る者はない。

 マユカの苦しみをあなたも味わうがいい。

 内心で念じながら、私はことさら部活動に精をだした。

 夏休み、私は敢えて家のなかの冷房をすべて切って外出した。母はすでに自力で寝床から立ち上がることもできないほどに弱っていた。

 ファーストフード店にて私は友人に、母への愚痴を漏らした。

「でね、あのひとってば毒みたいなのを食べさせんの。病気の娘にだよ。サイアク」

「ふうん。その黒いのってまだ冷蔵庫にあるの」

「たぶんあるよ」

「じゃあお母さんに食べさせてみたら? 嫌がったら毒決定。そうじゃなかったらあなたの勘違い」

「毒に決まってるよ」

「そうかな」

「じゃなきゃマユカは死んでないし」

 友人は眉をしかめ、じゃあ明日持ってきてみて、と言った。

 言われた通り私はあくる日、冷蔵庫から桐箱ごとそれを持ちだし、部活の練習前に友人に渡した。

「これだよ。間違っても食べないでね」

 友人は桐箱の蓋を開けた。

「ホントだ。黒いね」鼻をひくつかせ、「これってでもあれじゃない」と指を振る。

「どれじゃない?」

「黒ニンニク」

「え、なにそれ」

「ニンニクを炊飯器とかに入れて熟成させるやつ。普通の健康食品。効果あるのかは知らないけど」

「毒なの?」

「毒じゃないよ。人間にはね」そこで友人は中身を一つ摘まみ、いただき、と頬張った。

「うげ。美味しい?」

「うん。ママさん作るの上手だね」はい、と桐箱を返してくれる。「あ、そうそう。いまさらでごめんだけど一ついい?」

「な、なにかな」

「マユカって誰? あなた妹なんていたっけ?」

「ああ」脱力する。「ペットだよ。猫ちゃん。白くて太っちょの」

 あんぐりと口を開けると友人は、猫にニンニクは毒やよ、と言った。




【呼ぶ者】

(未推敲)


 連絡帳に知らない名前が登録されていた。

 メディア端末を買い替えたばかりだ。データは移行済みゆえ、元の端末に登録されていたもののはずだ。

 いったい誰だろう。

 着信があったので気づいたわけだが、相手が誰かが分からずに無視してしまった。

 とはいえ、私は元から電話にはでないし、テキストメッセージのやりとりも基本は読みっぱなしで、返信をしない。

 よほど大事な連絡であれば別だが、そうでない雑談程度ならば既読無視する。だから誰も私に連絡をとらなくなった。

 こうして着信があったのも久々だ。

 誰だろう、とやはり気になる。

 だが真実に必要に迫られた連絡ならば留守電を残すだろうし、そうでなくともテキストメッセージで改めて連絡し直すはずだ。

 しばし待ったが音沙汰がなく、けっきょく日々の作業に追われて、憶えのない登録者情報のことは記憶の底に沈んでしまった。

 だが月に一度くらいの頻度で、その謎の人物から着信があった。いつもタイミングわるく履歴を見て気づく。やはり私は折り返し連絡をとることをせず、誰やねん、の気持ちで無駄に苛立ちを募らせた。

 いっそ着信拒否をするか、登録情報から削除してもよかったが、見知らぬ人物を登録したとは思えず、誰かしら大事な人だった気もする手前、やはり気になり無駄に気がそぞろ立った。

 連日、夕立の降りすさんだ夏のことだ。

 祖母が亡くなった、と連絡が入った。母からだ。通夜の予定などまた連絡する、と言われた。

 仕事をしつつ待機していると、着信があったので名前を確認もせずにすぐに出た。

 無言だったので、おかしいなと思い、画面を確認すると、例の、あの、登録した覚えのない名前が表示されていた。

 ジジジ、と通信に特有の雑音が静寂となって耳に響く。

 しばらく耳を欹て、相手の反応を待っていると、雑音の奥から響くように、おーい、おーい、と聞こえた。

 こっちゃこーい、こっちゃこーい。

 誰かが呼んでいる。まるで遠くから手を振ってでもいそうな声の響きだった。

 ふとむかしの記憶がよみがえる。幼き日ころ、河原で遊んでいた私を祖母が叱った。私はわんわん泣いた。なぜ怒られたのかが分からなかったのだ。

 だがいま、記憶のなかの私は、祖母の胸に抱かれながら、河原の向こう岸からこちらに向かって手を振る少女のようなものの姿を、おぼろげに思いだしていた。

 あれはいったい誰だっただろう。

 胸元から見上げた祖母は目をきつく閉じ、なぜか私を締め付けるように抱きしめていた。

 祖母の頭部の向こう側に、空に昇る黒煙がいくつもモクモクと昇って見えた。

 火が焚かれていたようだ。でもなぜだろう。

 記憶があやふやだ。どこまで事実に即しているのか怪しかった。

 気づくと通話が切れている。

 耳の奥にはまだ、おーい、おーい、と声がこだましている。それは、祖母の声とは程遠い、子どものように甲高い声だった。

 着信があり、心臓が跳ねる。

 母からだ。

 出ると、矢継ぎ早に祖母の葬儀の日程を聞かされた。

 妹たちにも連絡しなきゃ、と母は急いで切りたそうにした。私にとっての叔母たちにはまだ話していないようだ。

 私は引き留め、あのさ、とむかしの記憶を確かめた。

「河原でおばぁちゃんに怒られたことがあっただんけどさ」

 ひとしきり経緯を話すと、なんでいまそれを、と母は訝った。それはそうだ。母にとってはだいじな親が亡くなったのだ。思い出話に花を咲かせるにはまだ早い。

 言い訳がましく私は、たったいまあった妙な電話の話をした。

「おーい、おーいって誰かは知らないんだけど。で、ふとむかしのことをちょっと」

 母は唾液を呑みこんだようだった。

「その、登録してあったっていう名前ってまさかシキがつかないよね」

「シキ? ああ、そうそう。結婚式場の【式】があるよ。名字で珍しいよね。なんだ、じゃあお母さんの知り合いのひとか」

 私は我田引水に納得した。登録してあった理由も、祖母の亡くなったきょうに限って連絡が入ったことも、これで合点がいく。

 だが母は電波の向こうで緘黙した。一向に口を開かないので、私は心配になり、どうしたの、と水を向ける。

「火を、火を焚きなさい」

「なにそれ」私は噴きだした。「なんでいま火なんか」

「いいから言うことを聞きなさい」母の声は重く、静かだった。一言一言を金槌で打ちつけるような響きがあった。「フライパンに紙でもなんでもおいて、火を焚きなさい。煙がでるくらいちゃんと燃やすの」

「やだよ。警報機鳴っちゃうし」断るものの、母がいたずらにかような提案をしているわけではない旨はなんとなしだが察し至れた。「外にでて燃やせばいいの?」とまずは無下にしない体で話を聞く。

「外はだめ。そこにいなさい。火を焚いて、煙をだして、それから目を閉じるの。絶対何も見ちゃだめ」

「そんな危ないことできるわけないじゃん」

 いったん切るよ、と私は話を断ち切りたかったが、母が、ダメって言ってるでしょ、といつになく感情的に怒鳴るものだから、私としてはその豹変ぶりにこそ恐怖した。

「あんたは憶えてないだろうけど、それ、あんたがいましたおばぁちゃんとの過去の話、その日はおじぃちゃんの葬式だったでしょ」

「あ、そう言えば煙が昇ってたような。そっか、火葬のか」

 口にしてから、いくら火葬でもあんなに煙はでないよな、と疑問に思う。

「そうじゃなくてね。お母さんたちが育ったあの集落では、そうするしきたりがあるの。そうしないと呼ばれちゃうから」

「呼ばれる?」

「火は焚いた?」

「まだだけど」

「早くしなさい。でないと」

 母の声が急に遠くなった。「でないと、なに?」

 電波が乱れているのが、ジジジ、と雑音が混じる。母の声が、何倍にも速くなったかと思うと、こんどは何倍にも遅くなって聞こえた。

 母の乱れた声の奥から、おーい、おーい、と例の甲高い声が聞こえだす。

 私は端末を耳から離した。

 だがその声は途絶えない。まるでこの部屋の外から聞こえてくるかのように、おーい、おーい、と響いている。

 寄せては返す波のように、いったん大きくなったかと思うと、つぎの瞬間には小さくなった。

 天井から、ドタドタ、と足音がする。二階は空き部屋のはずだ。 

 子どもの笑い声が聞こえた。合間合間に、こっちゃこーい、こっちゃこーい、と嬉々として呼ぶ声が混じる。

 私は端末を手に握ったまま台所に急いだ。コンロに火を点ける。鍋を取りだし、そばにあったキッチンペーパーを数枚とって、放りこんだ。

 一枚を新たに掴み取ると火をつけ、鍋のなかに投じる。

 炎が昇る。

 私は換気扇を回す。

 部屋を見回す。

 窓はカーテンで閉め切っていたが、ふしぎとカーテンの一画が膨らんでいる。あたかも子どもが一人そこに立っているかのような丸みがある。

 火災警報器が鳴りだし、身体が跳ねる。

 なぜか明かりが消え、鍋の炎だけが部屋をぼんやりと赤く照らした。

 ドタドタ、と足音が室内からした。

 誰かいる。

 裾を引かれる。悲鳴が漏れた。

 私は腰が砕けた。壁に背中を押しつけて蹲った。

 炎が小さくなっていく。

 なぜかコンロの火まで止まった。

 換気扇がゆっくりと動きを停止し、静寂が闇のなかで、キーンと耳鳴りに似た無音を響かせる。

 私は膝に顔を埋め、震えた。

 ひたすらに全身を走る悪寒に耐えていたが、ふと、じぶんはいま目をつむっているのだろうか、と不安になった。何も見えないが、それはただ闇のなかにいるからではないのか。

 瞼をきつく閉じているはずが、何かが目のまえで蠢いているようにも感じられた。

 私はそうする必要もないはずなのに、なぜか瞬きを刹那だけ、しようと思った。

 確かめたかったのだ。

 瞬きをして、もういちど目をつむれば、それは確かに目を閉じたことになる。確信を持てる。安心できる。

 そんなことをせずとも目をつむっていれば済む話なのに、私はそうせざるを得ない焦燥感のなかにいた。

 私は一度だけ瞬きをした。

 足が見えた。

 ちいさな、子どもの裸足が、目のまえにあった。

 見下ろされている。

 痛いほどの寒気が全身を襲った。

 着信音が鳴った。

 私は端末を握ったままだった。着信は延々とつづいた。

 出るべきか、出ざるべきか。

 私は運に任せるように、画面をゆびで一度だけ叩いた。

 母の声がした。

 何か、お経のようなものを唱えている。どこか子守歌のようにも聞こえた。古い童話のような間延びした旋律がある。同じ節が繰り返される。

 換気扇がなぜかふたたび回りだし、静寂が破られると、ふと身体から寒気が消え、呼吸が楽になった。

 息が乱れている。深呼吸をする。

 重かったのだ、といまさらのように気づく。

 幾重にも畳まれた羽織を頭から被らされていた心地だった。そしてそのことに私は何の疑問も持たず、ただ耐えるしかないのだと諦めていた。

 部屋の明かりは灯っており、火災警報器が機械的な音を反復している。

 私は端末を耳に当て、お母さん、と声をかけた。

「火を焚いて待ってなさい」母は息を吐きながら言った。「いま妹をそっちに行かせたから」

 叔母さんがくるまで私はその場にじっとしていた。火災警報器だけは止めたが、なぜか居間の床は煤で汚れており、小さな斑点はどことなく何かの足跡に見えなくもなかった。

 やってきた叔母を部屋に招き入れ、二人して部屋を掃除した。叔母はなぜか白い石をいくつも持ってきており、それを部屋の四隅に重ねて置いた。

「あれってなんなの」私は曖昧に訊ねたが、叔母は困ったように口元だけをほころばせるだけで、説明をしてはくれなかった。端末を貸して、と手をだされたので、おとなしく渡すと、祖母は何かしら操作をして返してくれた。寝る前に寝床のなかで確かめると、連絡帳の中から例の謎の人物の名前が消えていた。

 翌朝、私は叔母と連れ立って祖母の通夜に出向いた。母は私の顔を見るなり、両手を強く握り締め、ただ一言、よかった、と零した。

 うなだれるようにして一向に私の手を離さない母の背後には、積乱雲の停滞する青空が見えた。

 祖母の家からは黒煙がもくもくと幾筋も昇り、夏空にうっすらと垂れ布をかけていた。




【人騒がせ】

(未推敲)


 仕事から帰るとアパートのまえにパトカーが止まっていた。人混みができていたので、何があったんですか、と訊ねたところ、死体が発見されたらしいですよ、と野次馬の女が応じた。

 私は妻と二人暮らしだったので、心配になり、野次馬を掻き分け、警察に声をかけた。

 住人なんですが、と言うと、部屋の番号を訊き返され、部屋番号を口にすると、どうぞ、と通される。

 階段をあがり、部屋に入る。

 ニュースをつけると、ちょうど全国区の事件として報道されていた。

 子どもが虐待死したようだ。

 なんだ、と胸を撫でおろす。

「人騒がせだよな」

 私は妻に投げかける。押し入れはガムテープでがんじがらめに目張りしてあり、奥からは壁や戸にぶつかる無数のハエの飛び交う音がする。




【腕時計は嗤う】

(未推敲)


 挙動不審なひとだなぁ、が祖父の印象だった。記憶の中にある祖父はいつも忙しく周囲を窺い、暇さえあれば腕時計に何回も目を向けていた。時間にうるさいひとだったのかもしれない。

 祖父は私が高校生のころに亡くなった。

 先月の末に祖母が亡くなり、形見分けで、いまさらながらに祖父の腕時計を譲り受けた。祖母が後生大事に仕舞っていたらしいが、家財道具ごと処分するらしいので、せめて二人分の形見として腕時計を選んだのだ。

 ちょうど新しい腕時計に買い替えようと思っていたこともあり、アンティーク調の祖父の腕時計はお気に召した。祖母が亡くなって日が浅いにも拘わらず、どこかしらほくほくとした心地には、我ながら現金だな、とすこしばかりの自己嫌悪にまみれるが、祖父や祖母はこうして孫たちに悼まれながら死ねたのだからまだよいだろう、という気持ちもなくはない。

 おそらく私が死ぬときに私を看取る者はなく、惜しむ者もないのだ。祖母や祖父は贅沢だと皮肉ではなくそう思う。

 祖父の腕時計を半月ほど使ってみた。

 古い物であるからか、どうにも調子がよろしくない。

 ふとした瞬間に腕時計を見遣ると、時刻を示す針が痙攣したように微震しているのだ。ときには激しく揺れていることもあり、壊れているのだろうか、と不安になるが、しばらくするとそれこそ数分で収まるので、使いつづけている。

 電池がなくなったのかと訝しんだが、どうやら電池で動いているわけではないようだ。昨今、太陽光や人間の体温をエネルギィに変換して動く腕時計も流通している。そのはしりとして、祖父が購入したものかもしれない。

 だが腕時計の針の揺れは、頻繁に観測された。

 どうにも何か法則があるように思われた。というのも、いつでもどこもで揺れるわけではなく、何かしらの外部影響が作用して腕時計が狂うように見えるのだ。

 ただの勘だが、しばし意識して観察してみることにした。

 ある日、いつになく激しく針が揺れた。微震なんてものではない。ぐるぐると物凄い速度で回転し、その回転の振動が腕にまで伝わるのだ。

 ついに壊れたか、と思った。

 ちょうどバスに乗っていたので、目的の停留所のまえで下り、家電量販店に寄ることにした。新しい腕時計を見ておこうと思ったのだ。目ぼしい機種があれば購入してもいい。

 バスを降りたその数十秒後だ。

 地響きがしたかと思うや否や、耳を塞ぎたくなるような騒音が轟き、自動車のクラクションが響き渡った。

 身体がこわばり、その場に立ち尽くしたが、どうやら危険はないようだ。

 視線を周囲に巡らせる。

 水柱が昇っている。水道管が破れたのだろう、噴水のごとくだ。

 水の噴きあげている地点には十字路があり、そこに大きな穴が開いていた。地盤沈下だ。ビルまで傾き、広い範囲に亘って道路が陥没している。

 信号機はのきなみ倒れ、或いは穴のなかにいままさに倒れこもうとしていた。

 目を瞠るべきは、あるはずの自動車の姿が根こそぎ消えていたことだ。

 穴のふちに沿って、ブレーキを踏んでかろうじて巻き込まれずに済んだ自動車が停まっている。否、いま数台が穴に落下した。

 しぜんと目は、バスの姿を探している。

 じぶんの乗り合せたバスがそこにはあるはずだったが、どこを探しても見当たらない。

 穴に落ちたのか。

 深さがどのくらいかは分からないが、無事なことを祈ろう。

 そう念じた矢先に、ビルが倒壊し、瞬く間に穴が塞がれた。

 逃げ惑う人々の流れに身を委ね、現場を離れる。

 現場の惨状を知らぬ人々がのほほんと通りを歩いている。

 腕時計を見遣る。

 針のぶれは収まり、時を粛々と刻んでいる。

 このときはまだ、ひょっとして、と思ったにすぎない。

 だが数日後、腕時計の針が荒れ狂った矢先に、取引先のビルが火災に遭った。ビルに近づくほど腕時計の針が踊り狂ったので、遅刻を覚悟で時間を置いたのだ。

 逃げ遅れた職員が数名亡くなった。奇しくも、仕事上の担当者たちだった。その日は会議室で彼ら彼女らと企画の擦り合わせを行う予定だったのだ。

 もしあのまま足を運んでいたら。

 想像するだに、ぞっとした。

 以来、腕時計を頻繁に確認する習慣がついた。

 あるとき、友人との食事の席で、「さいきんせわしないな」と笑いながら指摘された。「もうすこし落ち着けよ」

「せわしいかな。じぶんではそういうつもりはないんだけど」

「そうなのか。だってしょっちゅう時計に目をやってさ」

 あ、と思った。

 記憶の中の祖父の姿といまのじぶんが重なった。

 そういうことなのか、と思った。

 声をだして笑いだしたからか、友人に変な目で見られたが、しゃっくりのごとく横隔膜の運動が止まらなかった。

 腕時計は危険を報せてくれる。

 危機の予兆を察知し、教えてくれる。

 巻き込まれるはずの危機を回避できる。

 注意深く観察を繰り返していると、腕時計の針の揺れ幅によって、危機の大きさが測れることが判った。激しく揺れるほどに命の危機に直結し、揺れが小さくなるほど危機から距離があることを示唆した。

 大きな危機を察知したあとで、場所を移動すると針の動きが納まることも多々あり、そうしたときにはたいがい、先刻までいた地点で何か大きな事故や事件が起きるのだった。

 命拾いを何度しただろう。

 すべて腕時計のお陰だ。

 安全な日常が保障されたようなものだった。

 元から臆病な気質だった。心配事が減った。さいわいしたと言える。

 恋人ができたのにも、そういった心境の変化があったからかもしれない。危険が起こる前に予兆を察知できるのならば、対人関係を安心して構築できる。人と面と向かって、本音で語り合える。

 恋人との仲も深まり、真剣に結婚を考えはじめた。

 祖父の腕時計を使いはじめてから二年が経っていた。

 避けられたのは命の危機ばかりではない。人間関係のこじれや、奇禍に巻き込まれずにも済んだ。

 人生が好調であろうと、些細なミスで奈落の底へとまっさかさまに落ちる。誰にも起こりうる悲劇である。

 周りの人間たちがこぞって不幸に見舞われるので、腕時計がなければじぶんもいまごろそうした数々の不運に触れていただろうと思われた。恋人との出会いはおろか、いまある日常すら築けなかったはずだ。

 運がよいのだ。

 やはり腕時計のご加護のお陰と言えた。

 秋も暮れ、実家のほうで初雪が観測されたニュースを目にしたころに恋人を両親に紹介しようと思い立った。

 結婚の挨拶だ。

 恋人にはプロポーズを済ませてあり、互いに愛を確かめ合っている。

 土産を買い、新幹線に乗り込む。実家へと向かった。

 これが映画や何かであれば、きっとこの道中で大きな災いに遭うのだろう。暢気に想像し、それでいて恐ろしく思った。

 凶悪犯罪者と遭遇するのは勘弁だ。

 巷では、疫病が流行ってきてもいる。一進一退、感染拡大が収まったかと思ったらまた感染拡大を繰り返す。その都度、新たな変異を得たウィルスが広まるのだ。不安な世の中なのはまず間違いない。

 だがじぶんには腕時計がある。危険が迫れば、回避可能だ。

 もちろん、回避不能な危険も迫りくることもあるだろうが、そのときは地球上のどこにいようと同じだと思った。

 あれこれと巡らせた心配をよそに、実家には難なく辿り着く。

 恋人は我が両親に快く迎え入れられた。

 夕飯は手作り料理ではなく、注文した寿司だ。我が家のなかではこれが最も歓迎されているときの振る舞いと呼べる。

 陽はとっぷりと暮れた。

 恋人が両親と楽しそうにしゃべっているあいだに、祖母の部屋を漁った。というのも、祖父の遺品が残っていないか確かめておきたかったのだ。ほかにふしぎな代物がないとも限らない。

 祖母の部屋は母があらかた業者に依頼して整理してしまっており、ほとんど何も残ってはいなかった。祖父の遺品とて同じだろう。客間と化している。

 がらんとした空き部屋の押し入れを漁り、そこから段ボール箱を引っ張りだす。祖母や祖父の物だろう、古いアルバムが何冊もでてきた。

 実の親の遺品をよくもまあぞんざいに、と我が両親の所業を冷たく思うが、写真のほうはコピーしていつでも見られるようにデジタル化してあるはずだ。捨てずにとっておいてあるだけ、我が両親にしてみれば破格の待遇と言えたかもしれない。

 段ボール箱の中にはアルバムのほかにも祖母の手帳やノートが入っていた。

 開いてみると、祖母の生きていたあいだに書き連ねた日記がびっしりと並んでいた。几帳面な字だ。達筆ではないが大きさが整っており、ふしぎと編み物を連想した。毛糸がジグザグと絡み合うように、独特の目を、紋様を、秩序を築いている。

 庭からはコオロギやキリギリスの鳴き声が聞こえた。

 居間のほうからは機嫌のよい父の笑い声が、ときおりサイダーの気泡のように弾けては消えた。

 風流な夜だ。

 祖母の日記に目を通す。

 祖父へ言及した文面を探した。

 だが飽くまで日記は、祖母自身についての極めて日常的な覚書きのようなものだった。祖父どころかほかの人物に関しての記述も見当たらない。いついつどこで何をした。そこでどう思ったのか、何を疑問し、考えたのか。まるで科学者のような鋭い眼差しが読み取れるばかりだった。

 手帳は使いこまれていた。むかしの日記が並んでいる。

 真新しいほうのノートを手に取る。

 開くと、日付が比較的新しく、祖母の死ぬまでの日々がつづられているようだった。

 どこか心苦しさを覚えながら、さらさらとページをめくった。

 途中で白紙になったので、手を止め、もういちど文章のあるページまで戻る。

 一瞬だが、腕時計、の文字を見た気がした。

 ここだ、と手を止める。

 祖母が亡くなるひと月前の日付だ。

 気になることがある、と書かれている。腕時計の文字があった。祖父の腕時計について生前、祖母は疑問を抱いていたようだ。日記には、日を追うごとに祖母が腕時計についての疑念を深めていく様子が記されていた。腕時計の観察経過が短くも克明につづられている。

 腕時計の効能を目の当たりにしていなければ、祖母の精神状態が乱れていると読み取っただろう。ろくに真剣に読むこともしなかったはずだ。

 だが祖母は腕時計の、危機察知能力について知見を深めていた。

 気づいたのは祖母の亡くなった日から数えてだいたいふた月前のようだ。そこから祖母は様々な実験を繰り返し、腕時計の謎の解明に勤しんでいた節がある。

 ならばなぜ死んでしまったりしたのか。

 やはり寿命を退けるには至らないのか。

 それはそうだ、と得心しながら、ページをめくる。

 文字はページの半分のところで途切れている。半分が白紙だ。それ以上の日記を祖母はつむぐ真似ができなかったのだ。それはそうだ。亡くなったのだから。

 上から順に目で追う。

 虫の音の合間に、母たちの笑声が響く。

 祖母の日記には、やはり避けられないようだ、とある。

 寿命のことだろう。

 否、そうではない。

 祖母は、確かめようとしていた。

 腕時計が、真実に危機を報せているのか、と。

 祖母はそこからして疑ってかかっていた。

 ページの上部、最期の十日間には、祖母のひっ迫した日々の闘争が記されていた。

 短い文面だ。

 行った実験と、その結果だけが書かれている。

 最後の日付には、結論を述べる、とある。

 残念だが認めざるを得ない、の言葉のあとには、祖母の震えた筆致で、元凶こそがこれである、と結ばれている。

 静寂の外から、愛しい者の声がする。

 弾んだ声音で、我が名を呼ぶ。

 足音が近づく。

 腕時計が微震している。

 震えは、刻一刻と大きくなる。廊下では、なぜか我が恋人が激しく噎せかえり、粘っこい何かを吐しゃし、床に倒れる音がする。




【脅威は背後にヒタヒタと】

(未推敲)


 雨の日、家までの道中で違和感に気づいた。ヒタヒタとじぶん以外の足音がある。濃い霧が垂れこめており、振り返っても人影らしい人影は見当たらない。

 不気味だったので気持ち駆け足で家まで急いだ。玄関を開けてなかに入る。

 アパートの一室だ。

 洗濯物が干されている。脱衣所のまえだ。そこからバスタオルをもぎとり、濡れた顔を拭う。「ちょっと聞いてよ、いまさぁ」

 居間ではタツヤが布団のうえに寝転がり、誰かしらとカメラ通話していた。画面に向かって、さっさと客とってこいよ、と怒鳴っているが、途中でこちらの声に気づいたようだ。んあ?と振り返る。無精ひげを生やした面は間抜けている。目玉が血走っているのはずっと画面を凝視していたためか、はたまたそれ以外の理由がほかにあるのか。

 目をカっと見開くとタツヤは、

「うわぁ」

 顔に負けず劣らずの間抜けな悲鳴をあげた。勢いよく上半身を起こしたかと思うや否や、奥のほうへと遠ざかる。ハイハイに夢中の赤子のごとく有様だ。

「ちょっとなんで逃げるの。なに、なんなの」雨音が激しさを増す。

「おい、なんだそれ。くるな、くるなって」

 窓際まで後退するとタツヤは、鍵を開けようとジタバタもがいた。こちらの背後にバケモノでもいるかのごとく様相だ。「くそ、くそ、なんで開かねぇんだ」

「ねぇ、なんで逃げるの。やめてよ怖いでしょ」

「怖いのは俺のほうだっつうの」タツヤは手当たりしだいに物を投げつけはじめる。

「痛い、痛い。やめてってば」

「くるな、くるなって」

「ああもうウザ」

 話をしてから済まそうと思っていたが、この様子ではまともに言葉は交わせなさそうだ。「もういいや。じゃあね」

 手に持っていたナイフをタツヤの胸に突き刺す。ついでに首筋を裂いておく。見る間に床が血に染まった。タツヤは急速にぐったりとし、動かなくなる。目を半開きにしたままなのが不気味だ。

 部屋はそのままに、外にでると、すこし離れた電信柱の横に少女が立っていた。

「なんだ、あなたか。いま終わりましたので、あとはまあ、警察を呼ぶなり、なんなりしてください。でもそんなところにいたらアリバイがなくて疑われちゃうかもしれませんよ」

 彼女は端末を掲げる。画面にはどこかの部屋の床が映っている。何かねっとりした液体が広がりつつあった。

 タツヤの通話相手は彼女だったようだ。

「証拠はバッチリってわけだ。じゃあ安心だね」

「連れてって」

 脇を通り抜けようとしたところで少女が立ちふさがった。「お願い、わたしも強くなりたいの」

「強くってあのね」

「お金なら払いますから」少女はリュックを背負っていた。地面に下ろし、チャックを開く。中には札束が無造作に詰まっていた。いったいどこから持ち出したのやら。「これ、あげます。なので、いっしょに連れてってください。わたしにもお姉さんのそのお仕事、手伝わせてください」

 なんでもやります、と腰を折った彼女の腕を取り、彼女の身体ごと壁に押しつける。壁を這っていたカタツムリが潰れた。

「あのね。なんでもやるとか軽々しく言わないでくれない。なんでもするならさっさと死になよ。あたしも助かるし、あんたもこれ以上つらい思いせずに済む。そうでしょ。なんでもやるってそういうことだからね」

 少女は雨に濡れた顔で、ただおとなしく顎を引く。澄んだ瞳には、何の感情も窺えない。

 少女の身体から手を離す。

 地面に転がったリュックを肩に担ぐ。札束が詰まっている。雨水を吸ったにしても、重い。

「いいよ。ついてきたいんでしょ。お金が尽きるまではいっしょに居ていいよ。仕事も教えて欲しいなら教えてあげる。ただ勘違いはしないでね。手伝いにはなりっこないから。あくまであんたはお荷物。あたしにとってはいないほうが楽。いい?」

「ありがとうございます」

「その慇懃な感じもよくないな。周囲から浮いちゃうし、そうだな。あたしのことはお姉ちゃん。それから何か返事をするときは、とりあえず、やったー、か、やったぜ、にしとくといい。できる?」

「お姉ちゃん、やったぜ」

 少女はちいさくガッツポーズを決める。

 怖いくらいに素直だ。順応性が高い。自我が希薄な証拠だ。

 それでもこの娘はあの男から逃げようとして、じぶんにできる最大限の策を弄した。

 他者に助けを求め、金を用意し、雇う道を選んだ。

 その後のことまで彼女はこうして考えていたのだ。有り余るほどの生への執着と、自由への憧憬、ともすれば無と錯誤しそうなほどに薄く研磨された自我の鋭さを幻視せずにはいられない。

 きっといつかこの娘は我が身の脅威となる。

 如実に予感できたというのにあたかもそれこそを望むように、行くよ、と声をかけている。

 足元にはどこから這いだしてきたのかミミズがのそのそともがいている。道路にはたくさんのミミズが転がっている。踏み潰さないで歩くのがたいへんなくらいだ。

 雨のなか、ヒタヒタと背後につづく足音がある。

 遠くかすかに聞こえていたサイレンの音が、徐々に大きさを増していく。




【白髪の談】

(未推敲)


 ネクタイからはみ出ている糸を切ってはいけない、とインターネット上で話題になっていた。

 居間でくつろいでいる兄に教えてあげると、

「なんで」と返事がある。

「ネクタイのスリップステッチってやつで、一本の糸で縫っているがゆえに、それを切ると全体がほつれはじめてしまうんだって」

「へえ」

「お礼にコーヒー淹れてくれてもいいよ」

「恩着せがましいな」

「嫌ならチョコレートもつけてくれてもいいよ」

「増えてんじゃねぇか。しょうがねぇな」

 兄は立ちあがると、台所に向かった。

 居間から兄の作業を眺めていると、あ、と兄の頭に目が留まる。

「兄ちゃん、白髪あるよ」

「ウソ。どこ」

「ここ、ここ」

 私はソファから腰をあげる。台所との境に身を乗りだし、兄に頭を突きだすように身振りで指示する。

 つむじを見せつけるようにした兄の頭から、一本だけ飛びだした白髪を見つけると私は、

「ほらあった」

 掛け声を発して、引っこ抜く。

 ぷっつん。

 予想以上の手応えにびっくりする間もなく、兄の頭からは空気が噴きだし、見る間に顔がしわくちゃになる。

 だけに留まらず、兄の頭からは髪の毛がハラハラと抜け落ち、剥きだしになった頭皮からは、ジグソウパズルが崩れるように細胞が宙を舞った。

 頭蓋骨が露わとなり、ヒビが走る。パラパラと砕けると、こんどは露出した脳みそが砂塵となって、さらさらとシンクに一筋の線を描いた。砂時計さながらだ。

 兄の全身はそこから一分も経たぬ間にほつれ、ほぐれ、砕け、崩れ、流れ落ちては、宙を舞い、衣服を残していずこへと消えた。

 あとには私のゆびのなかでピンと伸びる一本の白髪が、針のごとく、剣呑な存在感を振りまいている。




【脳みそカピカピ薬】

(未推敲)


 脳みその固さは豆腐とだいたい同じらしい。ならばなぜ崩れないのかといえば、脳脊髄液のなかに沈んでいるからだ。豆腐とて、購入時には水分のなかに浸っている。容器を振っても豆腐は崩れない。

 だが水を抜けば、ひと振りしただけで潰れる。

 ならば脳みそとて、脳脊髄液を抜いてしまえば、たった一発殴っただけで人間の脳みそなどたちどころに崩れてしまうに違いない。

 これは使える、と思いワガハイ、さっそく脳脊髄液を脱水する薬の開発を目指した。徹夜に次ぐ徹夜を歯を食いしばって乗り越え、苦節三日で実用化に漕ぎつけた。

 さすがは天才である。

 三日もあればこの通り。

 世紀の大発明などちょちょいのちょいである。

 誰も褒めてくれないのが腹立たしいが、そこは超一流の身ゆえ、声なき声で「なんでや、なんでや」の音頭を踏みながらも、すまし顔で耐え忍ぶ。

 動物実験でも効果は確認済みだ。

 あとは人間で試すのみである。

 我が天才ぶりを一向に認めようとしない連中に一泡吹かせてやろう。

 開発した新薬その名も「脳みそカピカピ薬」をカップの底に数滴垂らし、来客用の食器に混ぜておく。

 我が才能を一向に認めん連中を家に招待し、コーヒーを御馳走したと見せかけて、新薬入りのカップをあてがい、人体実験の被験者にしてやる。

 企てはとんとん拍子に運んだ。

 予想外だったのはワガハイの人望がことのほかか細く、家にやってきたのがたった一人きりだったという事実だ。なにくそこのやろう、と地団太を踏みたくなったが、ワガハイは天才であるので怒りを呑みこみ、おくびにも出さずに、やあやあいらっしゃいと来客を部屋のなかに招き入れる。

「きょうはいったいどうしたんだ。おやなんだいねこの紙飾りは。まるでパーティでもはじまりそうな内装だな。ほかにも誰かくるのかい」

「こないが?」

「あ、そうなのか。ちなみにきみの誕生日だったりとか」

「しないが?」

「まあ、うん。この件には触れずにおこう」来客は相好を崩し、ソファに腰を沈めた。「で、話というのは何だろう」

「じつは折り入って相談があってね。まずはコーヒーでも淹れよう」

「お構いなく」

「話が長くなりそうなのでね」

 いちどキッチンに引っ込み、コーヒーセットとカップをお盆に載せて運ぶ。途中で来客が手伝うと言ってきかなかったので、お盆を代わりに持ってもらった。

 席に着く。

 さっそくカップにコーヒーをそそぎ、差しだす。来客は受け取った。「ありがとう」

 じっと見つめるが、なかなか口をつけようとしない。

「で、話ってなんだろう」

「おっと、そうだった。それはそれとしてだが、そのコーヒー、味はおかしくないか」早く飲んでほしくて急かした。まずはじぶんで飲んでみせる。身体に害はないぞ、と暗に示した。「鼻がきかなくてね。美味しくないかもしれない」

「どうだろうな。どれ」

「どうだ」

「うん。これといって妙な味はしないが」

「体調はどうだろか。何か気分がわるいとかはないかね」新薬は即効性だ。すでに脳脊髄液が干上がりはじめているはずだ。

「べつにいつも通りだ。なんだ、毒でも入れたのか」

「その通りだ」

「だと思ったんだ」

「驚いただろう。はっはっは――え?」

「予想はしていたよ。だからさっきお盆を預かったときに、カップの位置を入れ替えておいた。おおかたカップに毒を塗っておいたのだろう」

「まさか」

「どんな毒なんだ。まさか死にはしないだろ」

 来客は余裕の表情でカップの中身を飲み干した。

 あべこべに、ワガハイはなんだか視界が歪みはじめ、ちょっと身体を傾けるだけで、激しい頭痛が襲った。まるでムエタイの選手に頭を蹴られている気分だ。

「だいじょうぶか? 顔色が優れないようだが」

 来客が立ちあがり、手を差し伸べてくるので振り払うと、勢い余って体勢を崩した。

 平衡感覚が掴めない。

 身体を支えきれずに床に倒れたところで、豆腐の潰れる光景がなぜか鮮明に想起された。

 視界がぐるぐると回る。

 まるで目玉が飛びだしたかのようだ。

 否、まるで、ではない。

 じぶんの顔がじぶんで見える。まさに目玉が零れ落ちたのだ。

 薄れいく意識のなか、耳から、鼻孔から、眼孔からも、伸びた視神経の合間を縫って、どろりとした白い豆腐じみた物体が溢れだす。




【引き留める者】


 急な夕立に遭った。母に言われて折り畳み傘を持参していたので、軽く服が濡れた程度で済んだ。

 一向にやむ気配がない。

 雨宿りをするにしても、見たところ時間を潰せるような店はなく、そう言えば駅前のほうに喫茶店があったような、とメディア端末を操作しながら歩を進めた。

 姉の三回忌だった。

 親族で墓参りをしに足を運んだのは、私だけのようだ。それはそうだろう。姉と関わり合いを持ちたがる者がいたならば、そもそも姉は死なずに済んだはずだ。

 過去を顧みるたびにパンパンに張った水風船にエンピツを突き刺す場面を連想する。憤りはいつでも破裂する準備が整っている。

 雨が強まったのか、傘を持つ手に加わる重みが増した。バダバダと傘を打つ。

 心なし周囲も薄暗い。

 地図を起動し、画面を凝視する。電波の通りがわるいようで、これだから田舎は、と差別心を自覚しつつも内心でぼやいた。

 端末を意味もなく振り、なかなか画面が切り替わらない苛立ちを誤魔化していると、ふと周囲から景色が消えていることに気づく。ネオンの光を目にし、ああ、と思う。

 いつの間にかトンネルのなかにいた。

 どうりで電波が届かないわけだ。

「ちょっとアンタ!」

 遠くから怒鳴り声が聞こえた。誰かが叫んでいる。

 振り返ると、半円にくりぬかれた光のなかに女性が立っている。彼女は手を大きく振った。「おーい、こっちこっち」

 呼ばれているが、女性の姿に見覚えはない。

 引き返すと、入り口のところで女性が、だいじょうぶだった、と眉を顰め、心配そうに身体を寄せた。

「何がですか」

「だってあんた、この先通行止めだよ。土砂崩れがあって、危ないんだよ」

「あ、そうだったんですね。すみません。この土地の者ではないので」

「それにあんた、それ」

 女性は傘をゆび差す。

 釣られて私は折りたたみ傘を見上げた。

 なぜか傘布に無数の穴が開いており、木漏れ日のごとく陽の光を通している。

 耳の奥に、滂沱の雨じみた音がよみがえる。

 バダバダ、と打ちつけたあれは、いったい何の音だったのか。

「ねぇ、それ」

 言いながら女性が一歩退いた。 

 視線を辿り、私はじぶんの肩を見遣る。

 雨に濡れたように、そこには泥のような汚れが布に染みている。いくつも斑に浮いたそれがふしぎと私の目には、無数に折り重なる赤子の手形に見えた。

 私は女性に礼を述べ、こんどこそ駅前へと踵を返した。

 別れたあと、すこし経ってから、あれ、と思う。

 女性は、トンネルのなかへと歩き去っていった。

 だがそのさきは通行止めではなかったか。

 私は戸惑った。

 女性のかんばせを思いだせない。

 おぼろげな彼女の立ち姿に私はなぜか、いまは亡き我が姉の姿を重ね見る。




【黄泉行き】


 ベンチにおばぁさんが座っていた。バス停のベンチだ。

 いちどはよこを素通りしたものの、買い物を終えてから通ってもまだ同じ場所におばぁさんが腰掛けていたので、気になって声をかけた。

「あの、だいじょうぶですか」

「はい?」

「もうバスはこないと思いますけど」

「あら、そうなの?」

「時刻も時刻ですし」午前零時を回ろうとしている。「最終のバスはとっくに過ぎたと思いますよ」

 ほら、と時刻表をゆび差すが、おばぁさんは困った顔で、でもまだくるでしょう、とほほ笑むばかりだ。

「始発まではまだ時間がありますよ。朝になるまでここにいるつもりなんですか」

「でも、ほら来たじゃない」おばぁさんは首を伸ばす。

 振り返ると、バスが一台、道のさきからやってくるところだった。あと十秒もあれば停留所を素通りするだろう。

「あれは回送です。車庫に戻るためのバスで、ここには停まらないと思いますよ」

「いいのよ、それで」

「でも」

「ご親切にありがとう。冥途の土産に心がうんと温かくなりました。ありがとう」

 おばぁさんは、よいしょ、と掛け声を発してベンチから腰をあげると、吸い寄せられるように道路に下りた。

 バスは速度を落とさない。

 ライトに照らされておばぁさんの姿が闇に浮かぶ。

 おばぁさんはこちらを向いて、にっこりと微笑み、手を振った。

 バスはまだブレーキを踏まない。




【同乗者】


 新車を購入したかったが、虫歯の治療で思わぬ出費が嵩んでしまい、予算が大幅に減ったために、けっきょく中古車で我慢することにした。

 中古車販売店に足を運んだ折に、掘り出し物と巡り会えたのは運がよかった。

 店舗敷地内の車両を一通り見て回った直後に、いままさに車両運搬トラックから降ろされつつある車体が目に入った。

 凹凸のすくない流線形の輪郭に、雪原を思わせるシルバーの色合い。一目ぼれだった。

「あの車も売り物なんでしょうか」

「そう、ですね。いちおう今日から店頭に並ぶ予定ですが、あ、見てみますか」

「お願いします」

 近くに寄り、拝見する。見れば見るほど、惚れ惚れする。だがひと目で高級車と判る以上、中古車といえども高嶺の花に違いない。

 そうと思い、値段を見ると、なんとほかの中古車よりも安かった。

 いくらなんでもそれはない。ちょっと性能のよいメディア端末だって昨今、もうすこし値が張る。

「あの、これゼロが一つ足りないんじゃないんですか」

「いえ、合ってるはずですね」店員は端末をいじり、データを確認した。「合ってます、合ってます。このお値段でのご提供となります」

「え、じゃあ僕も買えちゃえますね」

「そうですね。これに致しますか?」

 冗談めいた空気だったが、購入できるのなら購入したかった。破格の値段である。車体情報を読むに限り、走行距離や馬力など、文句の言いようのない性能だ。

 強いて難点を並べるとすれば、まさにこれほどの一品がなにゆえかように安いのか、その理由が不明な点にあると言える。

「あの、どうしてこんなに安いんでしょうか。欠陥があったりとか、事故物件とかそういうことなんですかね」

「そう、ですねぇ」店員は端末を操作する。情報を漁ったのか、間もなく、ああ、と声を上げた。「この車体に関してはそういうのじゃないみたいですね」

「ほかの車体はそういうのなんですか!?」

「まあ普通はそうなんですけどね」アッサリ認めたものである。店員はつづける。「この車体は元を辿ると石油大国のいわゆる石油王の所持品で、ただほら、ありましたでしょう。世界中でやたらと石油価格が暴落してマイナスにまでなっちゃった事件が、例の世界的に流行した疫病の発生時に」

「事件というか、そういうニュースを見た憶えはありますけど」

「あれは、石油の価値が下がったのではなく、航空機が飛ばなくなったりした影響で、供給量よりも生成量が上回っちゃったせいで、石油タンクが満杯になっちゃたかららしいんですね。石油はどこに棄てても環境を破壊しますからね。罰金もばかにならない。棄てるのにもお金がかかるので、じゃあ安く処理するにはどうすればいいか、と考えた結果、お金を払ってでも売ってしまえ、となったそうなんです」

「はあ、そうなんですか。で、それとこの車が安いこととはどう関係が?」

「何万台と高級車を所有していた石油王が、石油に高級車をつけて売ったそうなんですね」

「ああ、オマケでってことですか」

「そうみたいです。タダで石油がついてくるばかりか高級車までついてくる。最初は喜んだ者もいたかもしれませんが、中には、高級車を何百何千台と送りつけられて困った者たちもでてきたんでしょうね」

「なるほど、それで石油同様に、格安で手放そうと考えたわけですね」

「そのようです。なので、こうしてほとんど新車同様の高級車が、このお値段なわけなんです」

「じゃあどうしてお店のほうで値段を吊り上げないんですか」タダで手に入れたにせよ、売れるならば高く売ればいい。そのほうが儲けがでるはずだ。商売の基本だ。

「高級車って維持費も馬鹿にならないんですよ。わたくし共は飽くまで仲介役でしかないわけでして。この車体に関しては、ほかの中古車みたいに買い取っているわけではなく、お預かりしているにすぎません。先方の望みとしてはできるだけ早く買い手がついて欲しいようでして」

「維持費ってどれくらいなんでしょう」

「いえいえ。飽くまで商品として維持するという意味での維持費ですので、多少の傷がついたくらいならばそのままお乗りになられて構いませんよ。高級車は言ってみれば美術品みたいなものですからね。家に飾るのと美術館で展示するのとではかかる費用が土台から変わってきます」

 なるほど、と合点する。しばし思案し、

「買わせてください」と手を挙げた。「いますぐにでもぜひ」

 と、こういうわけで、手に入れたんだ、と酒の席にて友人に事の顛末を語って聞かせた。端末の画面には格安で購入した高級車の画像を表示してある。友人は画面を覗きこんでいたが、ふうん、と気乗りしない具合に、よかったね、と言った。

「今度乗せてあげるよ」

「今日乗せろよ」

「乗ってきてないよ。そもそもお酒飲んじゃったし」

「いいじゃんよ」

「よくないよ」

「ケチ」

「警察に捕まれとでも?」

「いいじゃん減るモンじゃなしに」

「減りますが!? 人生目減りするってもんじゃない勢いで減りますが!?」

「あ、ホルモン食べたくなってきた。注文しちゃお」

「減るモンじゃなしにからの連想で!?」

 いい加減にしてよもう、と泣き言を言いながら、内心では、嫉妬しちゃって可愛い、と友人の分かりやすい性格にほくそ笑んだ。

 別の日、仕事の休憩中に何気なく端末を見ると、件の友人からテキストメッセージが届いていた。「いつの間に」の短い言葉と共に、画像が添付されている。

 車の画像だ。

 運転席に我が身の姿がある。

 どうやら信号待ちをしていたところで、歩道から撮られたようだ。

 ふしぎなのは、助手席にも人の姿が見えることだ。

 女性が座っている。画像が荒いためか、髪が長いことまでしか判らない。

 しかしおかしい。

 車にはまだ誰も乗せたことがなかった。もちろん女性を乗せたこともない。

 疑問に思っていると、友人からふたたびメッセージが届く。

 恋人が出来たならそう言え、とある。

 誤解をさせてしまったようだ。

 しかし本当に誰なのだろう。合成写真なのではないか。友人のイタズラの線を考えたが、結論はでない。

 もやもやしているうちに、つぎはいつ遊ぶ、と話題が逸れた。ひとまず会ったときにでも詳しい話を聞きだそうと方針を決める。友人とは翌週に合う約束をした。

 夜、仕事を終えたあとで、気分転換に帰路を遠回りした。ドライブだ。

 海岸線沿いをひたすら南下する。音楽をかけ、鼻歌交じりにご機嫌にハンドルを握っていると、自動車の駆動音や、タイヤの道路を舐める音の合間を縫って、声が聞こえた。

 耳を澄ます。

 音楽の音量を下げる。

 やはり声が聞こえる。女性の声だ。

 どこから聞こえているのか分からない。

 否、車内からだ。

 外からではない。

 証拠に、海から届く波の音は、つど、自動車の走行に伴い、遠のいたり、近づいたりを繰り返す。

 自動車の立てる雑音が邪魔で、うまく声を聞き取れない。

 流暢なしゃべり方だ。何事かをつぶやいている。

 謎の声は、どうやら異国の言葉をしゃべっているようだ。ゆえに、聞き取れない。

 いちど停車すれば明瞭に聞こえるようになるかもしれないが、そこまでするのは億劫だった。ひょっとしたら声の出処を、本心では突き止めたくなかったのかもしれない。

 本来であれば聞こえるはずのない声が聞こえる。

 脳裡に、昼間に送られてきた友人からの画像がよぎった。

 ナニカがいるのかもしれない。

 この車に、とりついているのかもしれない。

 ふと、外車であることを思いだす。

 格安であった事実と、流れてきたルートを思い、はたと閃く。

 音楽の音量をあげ、この日は早々にドライブを切りあげて、明るい道を選んで帰った。

 自動車の速度を落とすと、声は止まった。

 いったい何なのだろう。

 車体への不信感がにわかに湧いた。

 それからというもの、夜のドライブはお預けにした。仕事が終わったら、暗くなる前に帰宅する。ときには自動車には乗らずに電車で通勤することもあった。

 翌週、約束通りに友人と会った。

 居酒屋に入り、揚げ豆腐をつまむ。

 今宵は車で来た。

 烏龍茶で乾杯をする。友人はビールだ。「わるいな、俺だけ」

「いいよ別に。帰りも送ってくよ」

「お、サンキュ」

 俺も車買おうかな、と友人が、頬を上気させはじめたころ、

「あの画像のことなんだけど」と切りだした。「どこで撮ったんだ。女の人が乗ってるみたいに映ってたけど、全然だから。誰も乗せてないから。そういうアプリとかあるのか」

 暗に、画像を加工したのではないか、と指摘したが、

「そう、そうだよ」友人は仏頂面になり、「彼女できたんなら言えよな」と勘違いに拍車をかけた。「ああでも、ありゃかなりの美人だから、たしかに俺の勘違いかもしれないなぁ」

「だから誰も乗せてないんだって。人違いだし、そもそも知り合いですらない。光の加減で窓に人が映っただけじゃないのか。本当にいたのか、助手席に」

「いたよ、いたいた。すくなくとも光の加減じゃなかったな。助手席に乗っているように俺には見えたけど、え、本当に知らないのか。記憶喪失とかそうのか。あ、分かった。人違いならぬ、車違いか。他人の空似で、同じ車に乗っているやつがほかにもいただけか」

「いや、たぶんこれはじぶんなんだけど」端末の画面に例の画像を表示する。「でもこの女性は知らない」

 そこで、謎の声の存在を思いだす。友人にそのことを打ち明ける。

「知らない言葉で、女の人の声がするんだよ」

「ほぉん」

「本当なんだ、嘘じゃないんだって」

「まあでも、いいんじゃね。美人だし、幽霊でも」

「おまえなぁ」

「だってそうだろうがよ。安くていい車手に入れて、そのうえ可愛い幽霊までついてるなら何をぼやく必要があるんだ。俺なら金払ってでもつけてほしいオプションだね」

「オプションっておまえ」

 そこで、はたと思い至る。「そっか、オプションか。あり得るな」

「何がだ」

「いや、ちょっとな。そうだ、付き合ってくれ。実験だ」

「おいおいまだ注文の品届いてねぇぞ」

「すぐ終わるよ。駐車場に出て戻ってくるだけだ」

 渋る友人を無理くりに立たせた。店員に一言いいえ添えて店の外にでる。財布を取りにいちど出ます、と言っておいたので、席を片づけられる心配はない。

 新車のまえに立つ。

「で、どうすんだ。実験てなんだ」

「いいからそこにいてくれ。あ、そうだ。動画撮ってて」

「いまか?」

「そう」

 鍵を開け、運転席に乗りこむ。

 自動車を駆動させ、適当にライトをつけたり、音楽を流したりする。普段行っている操作だ。

 すると、端末とナビを同期したところで、友人が車体のそとで騒いだ。

 おいこれ見ろ、とジェスチャーで示すので、車窓を下ろす。

「スゴイなこれ、そういうことか」友人は端末の画面を見せつけるようにするが、暗くてよく見えない。業を煮やしたのか、いいから下りてこい、と友人は声を荒らげた。「車はそのままで。見たら驚くぞ」

 言われたとおり車のそとに出る。

 友人のとなりに立つと、なんと車のなかに見知らぬ女が座っていた。

 否、そうではない。

 窓ガラスには隙間が開いているが、そこから覗く車内に女の姿はない。

 だが車窓にはハッキリと見知らぬ女の姿が映しだされている。

「映像か、これ」

「窓ガラスもディスプレイになってんだな。すごいな。さすがは高級車。最新テクノロジィ搭載ってわけだ」

 どういう機能かは定かではないが、どうやら車のそとから見たときに同乗者がいるかのように偽装される仕組みであったようだ。

 元が石油王の所有物であったことを思えば、ひょっとしたら何かしらの録画された映像が流れている可能性もある。石油王のツレの映像がこうして車体に記録され流れていたのかもしれないし、そもそもが基本性能として、一人で運転しているわけではないですよ、と演出可能な技術として搭載されていたのかも分からない。

「説明書くらい読んどけよ」友人は呆れていた。「さっさと店戻るぞ。料理そろそろ届いただろ」

 謎が解けたならばこれ以上、拘る必要はない。唯々諾々と友人の背を追いかけ、店に入り、席につく。

「ほんと人騒がせだな。何が幽霊だ」

「ごめんて。ほら、でも言うだろ。江戸時代の人にいまの科学技術を見せたらどれも魔法に見えるだろうって。現代人でも同じことが起きうるんだなって貴重な体験をしたよ」

「立体映像を幽霊だと思ってビビる古代人」友人の詰りに、「立体映像ではなかったけどね」と弱弱しく反論しておく。

 懸案事項が一つ解決したので、その後はご機嫌となり、友人との食事を楽しんだ。今宵は二時間ほど歓談し、約束通り、車で家まで送り届けた。

 友人は車に乗りこむなりいびきを掻いて寝てしまったので、静かな時間を過ごした。

 音楽を流す。

 しばらく左右に流れるネオンに束の間の美を感じていると、はっとする。

 今宵も例の謎の声が聞こえだした。

 が、そばには友人がいるし、謎の声はもはや謎ではなくなった。

 きっとこれも車の機能なのだろう。

 異国の言葉なのも納得だ。

 そもそも異国で売られていた車なのだから。

 目的地に到着し、友人を叩き起こす。

 なかなか起きないので、半ば強引に引きずり下ろした。

「ん。わるい」

「じゃまたな」

 マンションの花壇に座り込み、片手をあげた友人に、風邪ひくなよ、と暗にそこで寝るなよの苦言を呈して、車を発進させる。

 久方ぶりにドライブをしたい気分だった。

 一週間ぶりに海岸沿いに出る。

 音楽の合間を縫って、例の女性の声が聞こえている。怖くはない。いつまでもしゃべっているが、止め方が分からない。家に帰ったら説明書代わりに寄越された端末に命じ、解決策を提示してもらおうと考える。

 岬まで車を走らせた。

 風に当たりたくて、停車する。

 浜を散歩をしようと思い、鍵を抜いて外にでる。

 背伸びをする。潮の匂いに包まれる。

 ひとしきり夜の海と、月光を満喫し、車内に戻ると、ぼそぼそとまた例の女性の声が聞こえた。

 まったく何を囁いているのやら。

 ナビにしては生々しい口調だ。

 吐息の乱れすら聞こえるようだ。

 早いところ消してしまいたいな、と思いながら、鍵を差しこんだところで、息を呑む。

 車はまだ駆動していない。

 ではいったい、何の機能で、発声されているのか。

 運転席の真後ろから声は聞こえる。

 あたかも座席にしがみついているかのように、声は、異国の言葉で、ぼそぼそと何事かをささやいている。

 まるで呪詛でも吐くように。

 波の音に掻き消されるくらいにか細い声が、吐息のごとく、耳介を生暖かく、くすぐる。




【四つ辻の本】

(未推敲)


 道に迷ったのか、見知らぬ土地を彷徨い歩いている。

 顔をあげると、四つ辻の真ん中に本棚が立っていた。

 近寄ると、本が一冊まえにはみ出している。

 何の気なしに手に取ると、腕にずしりときた。思っていたよりも分厚い。表紙は古く、革製だ。無地で、題も紋様もない。

 中を開くと、ずらりと名前が並んである。名前のまえには日付が記されている。一ページにつき三百人分の名前がありそうだ。だいたい十ページ間隔で日付は変わった。

 一日分でだいたい三千人の名前が並んでいることになる。

 本の最後を見遣ると、何百年先の日付が載っていた。項には三十万の数字が刻印されているが、そんなにページがあるわけがない。本の厚さからすれば誤字と見做すほうが正解だ。

 ふと気になり、きょうの分の日付を探してみる。

 本の前半部分にきょうの日付を見つける。

 これといって考えがあったわけではないが、名前の一つずつに目を走らせていく。

 いったいじぶんはこんなところで何をしているのだろうと、重ねて思考しながら、いったいいつからここにいるのだろう、と遅まきながらの事項に思いを巡らす。

 午前零時を回るすこし前に寝床に入ったところまでは憶えていた。たしかそれから胸が痛くなって。

 本をめくる手が止まる。

 項の半分が余白を占める。

 名前の羅列の最後には、なぜかじぶんの名前が載っている。




【浮かぶ仮面】

(未推敲)


 家に帰ると、柱にお面が飾ってあった。

 木製の古いお面だ。

 おかめや般若と同系統のかんばせをしている。

 目元は綻び、口を一文字にきゅっと結んだ様は、はにかみ、と形容するのがぴったりだ。

 母は骨董好きで、ことあるごとにガラクタを買い漁ってくるため、またか、と思っただけだったが、お面に喚起されたのか、むかしの記憶が浮上した。

 幼いころにこれと似たお面を見た憶えがあった。引っ越したので、いまのとは違う家だった。古い家屋だ。父が亡くなってから、引っ越した。

 母が居間のソファでうつらうつらしている。

 ただいま、と声をかけ、牛乳を飲む。

 着替えを済まそうと部屋をでるところで母が、おかえり、と起きたので、扉を足で支えながら、あのお面ってさ、と話題を振った。

「前にうちにあったよね」

「お面?」

「また買ってきたんでしょ。前のお家に飾ってあって、子ども心に怖かったよ。いまもすこし不気味だし、せめて廊下じゃない場所に飾ってよ」

「何の話?」

「だからお面だってば」

 言いながら廊下を見遣ると、お面がなかった。

 あれ、と思い、廊下を覗きこむも、見当たらない。

「さっきそこにお面が」

 居間に向き直ると、母の背後に、件のお面が浮いていた。

 はにかんだ顔が、如実に歪む。

 目は見開かれ、食いしばられた口からはいまにも歯が飛びだしそうだ。眉間には山脈のごとく隆起した皺が浮かび、あるはずのない目玉が、上下に激しく揺れている。




【のぼれども】

(未推敲)


 道路脇の歩道橋に目が留まった。歩道橋の階段をなんども上り下りしている中年の男がいたからだ。目的地に向かうにはそこを通るのが近道だったのもある。

 男はスーツを着ているが、生地はよれよれでくたびれており、真横を通り抜ける際には、ツンと鼻を突く饐えた皮脂の臭いがした。

 いちどはよこを通り過ぎたのだが、こちらには目もくれない。悲壮感の漂う表情をしていたため、歩道橋のうえから男の様子を窺った。

 やはり男は何度も階段を上り下りを反復する。疲れるからか、肩で息をするたびにその場にへたりこんだ。

 目的が不明だ。ダイエットだろうか。それにしては倦怠感に溢れている。いまにも階段から身を投げだしそうな苦悶の呻き声を発したりもしており、見るからに異常だった。

 放っておけばよかったものの、就職の内定が決まったばかりだったこともあり、ゲンを担いでおきたかった。営業職ゆえ、行動力が試される。一日一善ではないが、何かしら人としてとるべき行いを率先してとる習慣をつけようと考えていた矢先のことであったので、ひとまず事情だけでも訊いておこうと男のもとへ踵を返した。

「あの」

 そう声をかけたところで、男が勢いよく面をあげた。汗が飛び散り、こちらの口元についた。袖で拭う。

「おまえ」男は血相を変えた。「どっから来た。いつからだ、いつからここにいる」

「ぼくですか。ぼくはいまさっきここを通っただけで」

 歩道橋の下をゆび差す。

 街路樹が、道に沿って点々と生えている。もうすぐ夕暮れだが、辺りはまだ明るい。

 男はいまさらのように周囲の景色に目をやり、なぜか数秒固まった。口を開け閉めする。金魚さながらだ。何事かを言いかけたようだが、けっきょく言葉は呑み込んだようだった。

 やおらにこちらの腕を掴むと、

「すまん。本当にすまん」

 額から大粒の汗を垂らした。或いは、それは涙だったのかもしれない。

 呆気にとられているこちらを差し置き、男は転がり落ちるように、数段飛ばしで階段を駆け下りた。

 掴まれた腕をさする。「なんだったんだあれ」

 憤懣を息に載せて吐きだし、さて帰るか、と帰路を急ぐべく歩道橋を渡りきろうと階段のうえに目を転じたところで、視界が暗転した。

 否、風景が消えた、と言ったほうが正確かもしれない。

 いっさいが闇に沈んだ。

 見えるのは階段だけだ。

 歩道橋そのものが闇に掻き消されている。

 階段は上へ、上へ、と伸びている。

 足元を見遣る。

 じぶんの立っている場所が最下層だ。これより下には行けない。崖に立っているようなものだ。

 恐怖が腹の底から競りあがり、数歩を駆けのぼる。

 すると先刻まで立っていた場所が、闇に呑まれた。

 嫌な予感が脳裏をよぎる。

 まさか。

 そんなまさか。

 そうあってほしくはない、あるべきではない、あるな、と呪うような気持ちで、階段をのぼりきろうとしたのだが、のぼれども、のぼれども、階段はどこまでも上へ、上へとつづいた。

 果てがない。

 閉じこめられた。

 闇のなかに。

 あり得ない。

 ここは歩道橋の階段のはずだ。

 見えないだけで、闇に沈んだ場所にはきちんと地面があり、街並みが広がっているはずだ。

 しかし、それを確かめるためにはじっさいに飛び降りなければならない。ためしに、財布から硬貨を取りだし、闇に落とすが、何かにぶつかる音はついぞ聞こえなかった。

 底なしなのかもしれない。

 イチかバチかで飛び降りるほど、無謀ではない。勇気はない。切羽詰まってはいない。

 ひょっとしたら上りつづけていれば、いつかは途切れるかもしれない。出口が現れるかもしれない。

 これが夢ではなく、現実であるならば、そもそもどこまでも階段が果てなくつづくなどあり得ない。

 いつかはどこかに辿り着くはずだ。

 そうと考え、足を動かしつづけたが、体力の限界がきたころには、足は棒になり、全身は汗だくになった。Tシャツの布が肌に張りつき、気持ちがわるい。

 腕時計の針を見遣ると、午前零時を差していた。

 数時間、歩き詰めだった。階段である。アスリートでもきついだろう。それをよくもまぁ、とお門違いにじぶんを褒める。

 頭のなかでは、例の中年の男への怒りが沸々と煮立っていた。

 あの男は知っていたはずだ。こうなると分かっていて、敢えてこちらを置き去りにしたのだ。

 ひょっとしたら同じ境遇にいたのかもしれない。

 階段を延々、上り下りしていた姿を思い起こす。

 ならば、と思う。いまじぶんも、本当はただ歩道橋の階段を上下に行き来しているだけなのではないか。ならばやはりここから飛び降りても、ただ地面に着地するだけではないのか。

 思うが、眼前にシンと凪のごとく広がる闇からは底なしの質感が伝わり、現実的な考えを退けるのに充分な威圧を放っている。

 端的に、怖いのだ。

 仮説が間違っていたときに、すなわちそこには真実何もなく、ここは歩道橋の上などではなく、虚無の世界にかろうじてかかった足場にすぎなかったときに、我が身はただでは済まないと、身体が竦む。高層ビルの屋上に立ち、真下を覗きこむのと変わらぬ恐怖が腹の底を撫でるのだ。

 待つしかないのだろうか。

 おそらくは、他者に声をかけられると、元の世界に回帰できるのだ。或いは、生贄を捧げなければならない可能性もある。

 この場に残る誰かしらを、この世界はつねに求めている。

 ゆえに、選ぶしかないのだ。

 じぶんか、相手か、を。

 空腹は限界を超えた。脱水症状への適応なのか、尿意はいまのところ襲ってこない。

 極度の疲労で、却って眠気はないが、このままでは遠からず衰弱死するだろう。

 腕時計を見る。

 午前八時、いまごろ元の世界では朝陽が昇っているころだ。通行人が最も多くなる時刻である。

 こうして階段の隅に座っているだけでは埒が明かない。

 仮に元の世界からは我が身の姿が見えているとすればどこに立つかによって、声をンかけられる確率をあげられるはずだ。

 避けられては本末転倒だ。声をかけてもらえない可能性をまずは潰しておくのが吉である。

 いっそ服を脱ぎ、裸になれば、警察を呼んでもらえるかもしれない。だがそれでは元の世界に戻っても別の地獄が幕を開けるだけだ。難なく元の生活に戻れてこそ、回帰する意味がある。

 ひとまず、例の男がそうしていたように、階段を上りつづけることにした。おそらく元の世界では、疲労困憊の我が身が、歩道橋の階段を右往左往よろしく上に下にいつまでもいつまでも歩いているのだ。

 不審に思った誰かが話しかけてこないだろうか。いっそ階段の真ん中に寝そべってやろうか。それくらいの迷惑行為ならば、警察を呼ばれても、逮捕まではされないだろう。

 じっさいにやってみるが、誰かに声をかけられる様子はない。

 本当に元の世界と繋がっているのだろうか。

 ひょっとしたら例の男は運がよかっただけなのではないか。

 不安が足元から粘着質な泥となってまとわりつく。

 戻れないかもしれない。

 そう考えるともう、身体は動かなくなった。

 疲れ果てているのだ。満身創痍なのだ。

 階段にへたれこむ。

「もう嫌だ」

 つぶやいたところで、腕に何かが触れた。

 ちょい、ちょい、と服を引っ張る抵抗がある。

 なんだ、と思い、首をひねると、頭の位置にしゃがみ込む幼子の姿があった。

 眩しい。

 日差しがある。幼子の背後には、青空と白雲が広がっていた。

 色がある。

 景色がある。

「すみません。ちょっとマーちゃん、ダメでしょ邪魔しちゃ」

 母親らしき女性が階段のうえのほうから駆け下りてくる。幼子を抱きあげると、もういちど、すみません、と言った。

「あの」呼び止めている。

 訝しそうに歩を止めた女性に、手を貸してくださいませんか、と頬がひくつくのを感じながら、腰が抜けてしまって、と補助を頼んだ。

「だいじょうぶですか」

 女性は幼子を抱いたまま、手を差し伸べてくれる。

 女性の手はやわらかく、それでいてひんやりと冷たかった。

「ありがとうございます。助かりました」

 息が上がっている。疲労のせいもあるだろうが、動悸の乱れにはそれとは違った要因が伴なっている。

 何度も頭を下げながら、足先で探るように階段を、一歩、一歩、くだった。

 いいえどういたしまして。

 言い残して女性は階段を上っていく。

 彼女が去ってしまう前に、急がなくては。

 早く、早く。

 重りをつけたような足取りで、最後の一段のうえに立った。

 ふと、このあとのことを思い、胸が締めつけられた。

 振り返る。

 手で日傘をつくる。

 女性に抱かれた幼子が、彼女の肩越しにこちらに手を振った。

 あと数歩で女性は階段を上りきる。

 迷っている暇はない。

 暇はないのだが、最後の一歩をどうしても下りることができなかった。

 逡巡しているあいだにも、幼子は朗らかに頭上から日差しのごとく笑みをそそぎ、間もなく頭上には清々しい朝の空が広がり、途絶え、ふたたびの闇が辺りを包みこむ。




【逃した魚は惜しい】

(未推敲)


 学校に遅刻しそうになって慌てて駅に飛びこんだ。いつもと違う時間帯だからプラットホームは混んでいた。ごった煮と言っていい。

 長蛇の列に並んでいると、友人からテキストメッセージが届く。どうやら同じ駅にいるらしく、いっしょにいこう、とお誘いだ。

 どの道、遅刻は決定事項だ。教師のお叱りを受ける道連れは多いほうがよい。

 場所を訊ねると、いちど上までこい、という。いつになく偉そうだな、と不満をぷりぷりお尻に垂らして、階段をのぼり、渡り廊下に立つと、友人が小走りで駆けてきた。抱きつかれて驚く。

「なになに、そんなに寂しかったん」

 友人は無言で顔を離すと、メディア端末の画面を見せた。なぜか友人は涙目で、画面には線路から距離を置いて、一人だけぽつねんと佇んでいる私の姿があるばかりだ。

 渡り廊下からプラットホールを見下ろす。

 混雑していたはずが、そこには人っ子一人いない。

 アナウンスが響いた。

 特急電車がまいります。線路の内側までお下がりください。

 私は目を疑う。

 先刻まで無人だったプラットホームに、真っ黒い影がずらりと浮きあがって視えた。

 影は列をなしている。

 心なし、こちらを仰ぎ見ているように映った。

 特急電車が駅構内に高速で突入したところで、影たちは順々に線路のうえに消えていく。さも、そこに電車の入り口があるかのように滑らかな動きだ。

 もしじぶんがそこに立っていたら。

 特急電車が秒で駅を通過する。

 同じように影を追って線路に突っこんでいたかもしれない。

「ありがとう」私は友人に礼を述べた。

「ダメだよ」友人は鋭く言い放つと、私の身体をぎゅうと抱きしめる。「これはあげない」

 振り返ると、私の背後に、例の影がぼんやりと一つだけ、しかし明瞭に人型の輪郭を伴なって立っていた。

 友人がもういちど叱り飛ばすと、影はいちど大きく揺らぎ、姿を霞ませた。

「なに、いまの」

「いいの。気にしないで」

「電車、乗る?」これからまたあのプラットホームに下りる勇気はなかった。

「バスでいこ」友人は私の手を握る。

「くるの一時間後だよ?」

「じゃあもう午前はサボっちゃお。パフェとか食べてこうよ。ね」

 私はしばし考え、そうすっか、と諦めの笑みを浮かべる。教師には、なんと言い訳をしようか、と考えながら。きっと本当のことを言っても信じてはもらえないのだろう、と友人とのあいだにできた秘密に、すこしばかりのくすぐったさと怯えを覚えつつ、なぜか湧きたつ陽気を噛みしめて。

 プラットホームを見下ろす。

 影たちがまた、ぼんやりと浮かび、消える。




【騒音の主】

(未推敲)


 マンションに住んでいると、イチャモン紛いの苦情を入れられることがある。たとえば異臭だとか騒音なんかはよくある苦情だ。

 真実にじぶんに瑕疵があるならば呑み込めるものの、そうではない他人の問題を、濡れ衣よろしく被せられることもある。

 じぶんとてそうだ。気づかないうちに、問題の事象とは関係のない住人に不満を募らせてしまっていることもあるだろう。そうした失敗をしないようにと、注意深く暮らしている。

 そのお陰で回避できた苦情もある。

 一つに、上の階の住人の立てる物音がある。

 夜な夜な、子どもの足音がバタバタとうるさいのだ。しかし真上の部屋は空室である。子どもの足音はおろか、住人の生活音とて聞こえるはずもない。断るまでもなく、心霊現象の類ではない。

 部屋と部屋のあいだに開いた空間のせいで、音が曲がって聞こえるのだ。

 もしも真上に住人が入っていたら、そのことに気づかずに、理不尽なクレームを入れてしまっていたかもしれない。気がつけてよかった。

 だが真下の部屋の住人はそこまでの頭を働かせられなかったようだ。管理人に、足音をどうにかしてくれ、と苦情を入れたらしい。

 じかに管理人から注意を受けたが、これこれこういう事情で、きっと要因は別ですよ、と教えてあげた。我ながら親切だ。

 いちどはそれで引き下がった管理人だったが、数日後にふたたびやってきた。

 やはり我が部屋から足音がするそうだ。この階にほかに子どもを育てている家庭はないという。

 だが私とて独り身だ。

 子どもはいない。

 かように言い張ったが、ほかの住人がたびたび私が子どもを連れて歩いている姿を目撃していたと、管理人からは説明された。

 見間違いですよ、と否定した。人違いですよ、と。

 管理人は疑いの目を変えずに、気をつけてくださいよ、と言い添えて去った。くれぐれも面倒は起こさんでくださいね、とあたかも私が犯罪者かのごとく物言いに腹を立てたが、それよりもまずはすることがある。

 はてさて。

 玄関の扉を閉じ、物置部屋の鍵を開ける。

「おかしいな。ちゃんと切ってあるのに」

 歩けないように手足の腱は切ってある。

 この部屋から子どもの足音が聞こえるはずはないのだ。あり得ない。

 だが、注目を浴びてしまったのはよくない。

 ひとまずコレは処理してしまおう。時間を置いてから、新しいオモチャをまた拾ってくればよいのだ。

 髪の毛を鷲掴みにする。

 呻き声をあげるソレを物置小屋から引きずりだし、風呂場へと放りこむ。

 注文していた電動ノコギリはまだ届かないため、今回も手作業でゴリゴリと細かくしなければならない。

 最初のうちは楽しかったが、何度も繰り返すうちにすっかり飽きてしまった。腕は筋肉痛になるし、臭いもなかなかのものだ。

 頭のなかで解体の段取りを振り返り、嘆息を吐く。

「こうなったのもおまえのせいだからな」

 言ってから、いや足音はこいつが立てたわけではないのだよな、と思いだす。いったいどこの部屋のやつだろう。人の迷惑を顧みない騒音の主を思い、やれやれ、とノコギリの刃をソレの首筋にあてがった。

 ひと思いに引く。

 気のせいだろうか。

 一瞬、背後から、ドタドタと何かの駆けずり回る音がした。




【宝剣のとどめ】


 魔王のせいで世界がこうまでも荒廃しているのだ。

 私は伝説の宝剣を手に、魔王討伐の旅に出た。

 三か月の激闘の末、魔王を討ち取ったが、その後、魔王の城を漁って判ったことだが、魔王はひそかにこの世に溢れた邪心を集め、一身にそれを背負いこんでいた。それでもとめどなく溢れる邪心を、せっせと子分の魔物たちに肩代わりさせ、それでも集まりつづける邪心を凝縮して、魔王ですら劇物に値する結晶にしてなお、それを呑み込み、世のため、人のために、人知れず苦しみ、人類社会を救っていた。

 私は伝説の宝剣を魔王の胸から抜く。

 代わりに邪心の集まる宝玉の口にそれを突き刺した。

 滾々と湧いた邪心はシンと鎮まり返り、都という都からは日に日に、怒号に悲鳴が巻き起こる。




【虐殺スイッチ】


 道端にリモコンが落ちていた。薄い金属の板にボタンが一つだけついている。ぱっと見、梅干し弁当じみている。

 僕はそれを拾い、通学中だったこともあり、学校に持っていった。

 しばらく逡巡していたが欲求に抗えずに授業中にリモコンのボタンを押してしまうと、クラスのいじめっこが勃然と消えた。

 教室は騒然となったが、僕は目のまえがぱっと光に包まれた。黒板、机、窓の外の街並みに色が宿って感じられた。

 家に帰ると、母がまたあの男に殴られていた。僕とはなんの関係もない男だが、母はなぜかそいつを家に入れ、布団にいっしょに潜り込み、ときに二人だけで出かけた。

 僕は拾ったリモコンのボタンを押した。

 例の男が目の前から消えた。

 母が泡を食って取り乱したが、僕はいよいよ確信した。

 それからというもの僕は、僕にとって気に食わない相手を軒並みリモコンを使って消していった。

 気に食わないかどうか曖昧な場合は、わざと悪態を言い、迷惑をかけて、それらへの対処を見て僕にとって好ましくなければ問答無用で消してやった。

 中には、いちど威圧すると態度を改める者もあり、そうした者には情状酌量の余地を与えた。

 とくにカオルくんの手のひらの返しようは辞書に載せてもいいくらいの正反対の様相を見せ、かつては僕の財布からかってにお金を奪っていくヤなやつだったのに、いまでは僕が欲しいものを言うだけで持ってきてくれるいい人になった。カオルくんは自身の恋人まで僕に貸してくれて、本当になんて便利な人なんだろう、といまでは一番の友達だ。

 きっと目のまえで彼のお兄さんを消してやったのが効いたのだ。頭のわるい野犬には相応の躾がいる。効果覿面だったよい例と言えた。

 ある日、僕はカオルくんにお礼のつもりも兼ねて、どうやってお兄さんよろしく人間を消してしまえるのかを教えてあげた。

 カオルくんが次から次に僕に、新しい女の子やら少年やらを持ってきてくれるので、その奉仕に対して報いたかった。

「じつはこのリモコンのボタンでね」

 論より証拠だ。

 実演してみせた。

 僕を拒んだ女の子を目視して、ボタンを押す。女の子は一瞬で消えた。

「ね。すごいでしょ」

 カオルくんは、わんわん、と返事をした。僕のまえでは犬の真似をするように、と僕が命じたので、彼はそうしているのだ。

「誰か消してほしい人がいたら言ってね。カオルくんの頼みなら一度くらいは聞いてあげてもいいよ」

「わんわんわん」

「お礼はいいよ。きみと僕との仲じゃないか」

 カオルくんが仰向けになって、おねだりの格好をとったので、僕は彼の顔を踏みつけた。

 いつもならここから先、カオルくんを使ったちょっとした暇つぶしが開始されるはずだったのだが、なぜかカオルくんは僕の足を持ち上げると、僕を地面に転がした。

「ぷぎゃ。痛い」

 身を起こすと、カオルくんが僕のリモコンを持っていた。なにを思ったのか、ボタンに指を添えている。

 目はギラギラと燃え、僕を見据えている。

「待って」

 制止も虚しく、視界は暗転する。

 瞬きをすると、真っ赤な空間に僕はいた。

 刹那の時間に移動したのだ。

 体育館くらいの広さがありそうだ。物体はなく、がらんとした空間だ。映画館みたいな薄暗いなかに、無数の蠢く人影が見えた。

 いっさいが赤い世界のなかで、彼ら彼女らは一様に僕を見た。

 見知った顔ばかりだ。

 いちばん近くにいる男は、いつぞやに消したはずの母の恋人だった。彼のそばにはもう一人若い男がいた。母の恋人はその人の頭を掴んでじぶんの股間にぐりぐりと押しつけていた。動きが止まったからか、青年が顔を上げる。するとその人はカオルくんのお兄さんだった。

 この場にいる誰もが以前僕がリモコンの機能を向けた人たちだった。

 緩んだ紐がピンと張るように、空間全体を鋭利な刃のような気配が満たす。それらはあたかも虫眼鏡で集めた太陽光のように、僕にだけそそがれている。

「待って」

 僕は言うが、まばらな人影たちは、一歩、二歩、と距離を縮める。




【紅が咲く】


 庭の木を伐採した。

 木には何かしら鳥の巣らしきものがあった。卵がいくつか残っていたが、木を倒すと同時に落下した。

 地面に潰れた鳥の卵はどこか黄色い花のようだった。

 申し訳ないな、と思いつつも、材木といっしょくたにして処分した。

 後日、見晴らしのよくなった庭にて茶を啜っていると、一匹のカラスが塀のうえに止まった。

 絹糸のように艶やかな羽だ。眼球は人懐こそうに丸みを帯び、ときおり首をひねり塀のうえをチョンチョンと跳ねる姿は愛嬌があった。

 毎日のように庭でカラスを見かけた。同じカラスなのだろう。

 餌代わりにパンをちぎって投げる。

 その場では口をつけない。

 しかしこちらがいちど家に引っ込み、夕方になってふたたび庭を見遣ると、パンは消えていた。

 餌付けではないが、日々パンやら米粒やらを投げていると、カラスは時間をおかずにそれをついばむようになった。やがて塀の上からおり、近くまで寄ってくるようになった。

 数年が経った。

 いまでは共に縁側に腰掛け、ツーカーではないが、短い会話のようなものを交わせる仲にまでなった。

 いつしか、幸運のカラスなのかもしれない、と思うようになった。

 というのも、私の家の庭を覗いた女性がカラスに興味を持ったらしく、いつの間にやら彼女は私の家に通うようになり、いまでは妻として彼女は私たちの子を抱いている。

 子は産まれたばかりだ。

 縁側で三人と一匹が横並びになり、夕焼けの空を眺める。

 夜の帳が山にかかる。

 妻は買い物に出かけ、私は洗濯物を庭から取り込んだ。

 赤子は縁側に寝かせたままだ。

 カラスは子守が上手く、テンテンと床を律動よく跳ね、赤子を笑わせる。

 ビュウ、と風が吹く。

 飛ばされた洗濯物を追いかけ、拾いあげたとき、赤子の盛大な泣き声が聞こえた。

 振り返る。

 縁側にて、執拗に床を突つく漆黒がいた。

 鎌を振り下ろすようにそれは、幾度も素早く、首を振る。

 嘴が空を切り、泣き声がやむ。

 駆け寄るとそれは空に飛び去った。

 地面に投げだされた我が子は眼孔を空ろにし、夕陽よりも紅く、紅く、咲いている。




【手れ隠し】


 端末を家に忘れてきたので、久方ぶりに小銭を使った。自動販売機に投入しようとしたところで、落としてしまう。小銭は転がり、自動販売機の真下に入り込んだ。

 運がわるい。

 やれやれだ。

 しゃがみこみ、隙間に腕を差しこもうとしたところで、奥のほうからスススと腕が伸びてきた。

 拳だ。

 指の一本一本がおもむろに開き、手のひらのうえに小銭が現れる。

 取ってくれたようだ。

 ありがとう、と言って小銭をつまむが、はたと思う。

 なぜ自動販売機の真下から腕が?

 あっ、と思ったときには遅かった。

 細い指が閉じ、手を掴まれた。万力を彷彿とする抗いがたい力だ。逃れようとするも、びくともしない。

 謎の手は、上下にぶんぶんと揺れた。

「痛い、痛い、痛いってば」

 叫ぶと、手首を掴むそれの力が緩んだ。

 振り払うように引き抜くと、おとなしく離れてくれる。

「びっくりしたなぁ、もう」

 自動販売機の下から伸びた手はそこで、しょげたように脱力し、ずるずると引きずるように隙間の奥へと姿を消した。

 新種の蛇だろうか。そうは見えなかったが。

 当初の目的通りにペットボトル飲料を購入する。その場で蓋を開け、喉を潤していると、マネージャーがやってきた。

「何やってんですか、もうすぐ出番ですよ」

「いまなんか手を握られてさ」

「はぁ?」

「ぶんぶん揺さぶられて」

「ただの握手じゃないですか。ファンですか? 出演者とか、まさかスタッフじゃないでしょうね。まったくもう。ちゃんと手ぇ洗ってくださいね」

 じゃあついてきてください、と言ってマネージャーは忙しそうに歩きだす。

 あとにつづこうとして、ふと歩を止める。

 自動販売機を振りかえる。

 隙間に目をやり、きみ、とつぶやく。

「ひょっとしてわたしのファンだった?」

 ガコン、と音がする。

 自動販売機の中からだ。何気なく取りだし口を覗くとなぜか、ペットボトル飲料がもう一本、そこにある。




【備忘録は途切れる】


 先日解決した心霊現象と言ったら変なのですが、事案がありまして、言ってしまうと幽霊ではなかったようですし、単なる錯覚なのだと思うのですが、すこしだけ意外な発見があったので備忘録として記しておきます。 

 電車を待つあいだの暇つぶしですし、音声入力なので、あっ途中で途切れてしまうかもしれませんが、どうかご心配なく。

 ネクタイを緩めます。きょうも暑いです。

 半年前のことでした。

 祖父が亡くなったので、法事に参列し、各々親族は形見分けをもらって帰宅しました。私は孫ですから、あまりでしゃばって高価なものをもらってくるのはよそうと思い、飾り棚にあったコケシを一つだけ頂戴することにしました。

 祖父の部屋には大量のコケシがあり、それはもう壁を埋め尽くすほどの数でした。

 大きさもまちまちであり、大きいものは私の脚よりも太いコケシもありました。

 そのなかから適当に、いちばん穏やかな表情のコケシを、ほとんど秒で選んで持ち帰ったのです。並べて立てれば新書に納まるくらいの背丈です。

 祖父の葬式を終えてからしばらくは、これといって変化はなかったのですが、いまからひと月前くらいからですかね。

 どうにも寝つきがわるくなってしまって。

 猛暑に次ぐ猛暑の日々でもあり、寝苦しいのは当然と言えば当然なのですが、暑いときは冷房をかけていましたし、扇風機もあります。

 洗濯物も軒並み部屋のなかに干していました。

 風邪でもひいたのかと思い、病院に行きましたが、夏バテでしょう、との診断でした。

 しかし夜な夜な、涼しいはずの室内で寝ていても私は何かにうなされ、目覚めるといつも全身がびっしょりと汗で濡れていたのです。

 祖父の葬式から五か月が経っていましたから、そのときはまだ、何が原因かなんて目星もついていませんでした。

 寝苦しさを覚えはじめてから一週間が経過したころには、いわゆるこれが金縛りなのではないか、と考えるようになりました。というのも、毎夜、じぶんの唸り声に起こされるのですが、どうにも身体を動かせないのです。

 目を開けると、暗がりにいくつかの影が浮かんで見えます。洗濯物です。ハンガーにかけたTシャツを壁にひっかけて干しているので、暗がりで目にすると、あたかもそこに無数の人が立っているかのように錯覚します。

 扇風機の風を受けてなびいてもいますから、何も知らなければぎょっとしてしまうかもしれません。

 けれど私は正体を知っています。

 目下の問題は、動かせない身体と謎の寝苦しさです。

 呼吸も乱れ、全身が熱いのです。さも百メートル走を全力でしたかのようです。

 あすもういちど病院にかかろう。

 そうと決意して、仕事を休む理由がついた心地よさと、それでいて仕事が溜まっているだろうあさっての出社を思い、微妙な心地を唐辛子を齧るように味わいました。

 扇風機の土台には温風強度の表示が浮かんでいます。そのやわらかな明かりが部屋に雑貨の陰影を広げていました。

 洗濯物がはためく様が天井に映るのです。

 眺めていると、ふと気づきました。

 風になびいている影と、そうでない影があるのです。

 どちらもTシャツの影のはずです。

 風を受けずにじっとしている影の全体像は見えません。

 おかしいな、と違和感に気づいてから、寝苦しさにさいなまれつつ気晴らしに観察していると、どうにも影はまったく微動だにしていないわけではないようなのです。

 僅かに動いているのです。

 徐々に輪郭が大きくなって見えました。あたかもこちらに近づいてきているような錯覚に囚われました。

 身体が動かせないので、上半身を起こして影の大本を見遣ることができません。

 ひょっとしたら誰かそこにいるのではないか。

 立っているのではないか。

 いちどそう思いついてしまうと、確かめずには寝られません。

 ですがけっきょくこの日は、身体の自由が戻らずに、知らぬ間に寝ついており、朝になると汗だくであること以外は全身に異常はなく、身体の不調も消えていました。

 いちおう日中に半休をとって医師の診察を受けたのですが、これといって原因が判らず、貧血の薬だけ処方してもらい、午後は職場で仕事をこなしました。

 ですがこの日から連続して夜中、金縛りに遭うようになり、一週間もすると根を上げました。これがいまから二週間前のことです。

 医師があてにならないとなれば、ダメもとでほかの専門家に助言を求めるのも手の一つと考えました。医師からすればきっと問題ないとの思いがあったのでしょうが、現に夜中に魘されているのは私なのです。猫の手も借りたいほどにまいっておりました。

 そこで友人に連絡をとり、そういった厄介事に詳しい人物を紹介してもらいました。私としては愚痴を零しただけのつもりだったのですが、結果として長谷部さんを紹介してもらえたのでよかったです。持つべきものは友です。

 長谷部さんは全体的にふにゃっとした体形の女性でした。最初はSNS上でのテキストメッセージでのやりとりをして、具体的な話に移ると、部屋の中を見せて欲しいと言われました。

 このところ疲れ果てて片づけをしていなかったので、抵抗があったのですが、必要なことだと訴えられてしまえば、従うよりありません。否定する理由を考えるのも億劫だったのです。

 この時点での私の長谷部さんへの評価は、あわよくば問題が解決したらいいな、といった占いにすがるような心境でしかありませんでした。

 ですがカメラ越しに私の部屋を一通り見た長谷部さんが、

「それ」

 とコケシをゆび差したのを機に、私はすこしだけ長谷部さんへの印象を変えたように記憶しています。

 そのコケシ、何。

 いつからそこにあるの。

 矢継ぎ早に質問責めに遭い、

「これは祖父のものです」

 半年前に亡くなって、と説明しました。

 コケシを掴み取り、見えるようにカメラの前に翳します。

 長谷部さんは唾液を呑みこんだようでした。

「暇な時間ってありますか」と長谷部さんは言いました。

 できるだけ早いほうがいいかもしれない、と言い足し、それ持って外にでてこられるのか、と訊ねられました。

 私は戸惑いました。

 いまからはさすがに、と拒むと、ではあすの朝いちばんで、と元よりの駅を指定されたので、私はじぶんの家から近い駅、毎朝通勤に使っている駅の場所を伝えました。要するに、いまこうして私が座っているベンチのある、この駅を教えたのです。ちなみにいま話しているのは今朝のことではありません。

 その日の夜も例に漏れず私は寝苦しさに魘されました。

 目を開けることもできないほどの身体のこわばりに襲われ、明らかに扇風機のものではない空気の揺らぎを目と鼻のさきに、延々、意識のあるなかで感じていました。

 何かが私を覗きこんでいるようにも、部屋のなかを彷徨っているようにも思えました。

 汗で全身が湿っているからか、それとも単に冷房が効きすぎていたためなのか、ひどい悪寒にさいなまれました。

 朝、目覚めたときにはほっとしました。朦朧とした意識の中で私は死を覚悟していたようだと、じぶんの陥っていた状況がはなはだおかしいことに思い至ったのです。

 思えば連日のように寝不足でした。

 肉体も精神も弱っていたのでしょう。

 時計を確認し、急いで出社の支度を済ませました。

 コケシを手にして家をでました。

 約束通り、駅前には長谷部さんがいました。家をでる前に連絡をとり、前以って互いの特徴を伝え合っていましたから、迷うことはありませんでした。

 長谷部さんは全身フリルに飾られたドレスを着ていました。いわゆるロリータファッションというものなのでしょう。絵本のなかのお姫さまみたいないでたちでした。全体的に、シロクマのぬいぐるみがドレスを着ているようでしたが、これは失礼な所感かもしれません。長谷部さんへの私の第一印象は、たくましいのにかわいらしい、というものでした。

 短く挨拶を交わし、喫茶店の席に着くと、私たちはさっそく本題に入りました。

 昨晩も金縛りにあったことを伝え、持ってきたコケシを見せます。

 長谷部さんはコケシを受け取りませんでした。

 テーブルの上に置くように指示したあとで彼女は、数秒ほどコケシを凝視しました。

 これ、と長谷部さんは目を細めます。

「中に何か入ってない?」と言われたので、私はコケシを手に取り、つぶさに観察します。

 言われてみれば、見た目よりも軽い気がしました。中が空洞なのかもしれない、とこのときに思い至りました。

 頭を回すと、キュッキュと音が鳴り、力を入れると外れました。

 頭部と胴体部が分離し、中を覗くと何かがみっしりと詰まっています。

 なにかありますね、と言うと、出してみて、と長谷部さんは注文しました。私はストローを使って、コケシの内部をほじくります。

 すると、ずるずると黒い綿のようなものがでてきました。

 なんですかねこれ、と私が言うと、髪やろ、と長谷部さんは言って、懐から桐箱を取りだしました。ちいさいものです。臍の緒を入れておくような質素な造りでした。蓋を開け、中から油取り紙のような和紙を一枚つまむと、長谷部さんはそれでコケシの内容物を包みました。

 どうするんですか、と訊ねましたところ、供養する以外ないよね、となぜか苛立たし気に言われ、それも捨てたほうがいいよ、と頭部のとれたコケシを目で示し、長谷部さんはそれからケーキを三つ食べて店を出ていきました。

 会計は私の支払いとなりましたが、それ以降、夜中に魘されることも、動けなくなることもなくなりました。これまでの寝苦しさが嘘のように快適な日々です。

 それが一週間前のことなのですが、問題は昨日のことです。

 私の部屋には未だに、例のコケシがあるのですが、ふしぎなことに、頭部を外してみると中にはまだ何かが詰まっているようなのです。箸で摘まみだしてみると、例の黒い毛玉がでてきました。一週間前にすべて掻きだしたつもりだったのですが、まだ残っていたのかもしれません。

 ティシューに包んでゴミ箱に捨てたのですが、夜、寝ているとまた例の金縛りに遭いました。これまでにないほどつらいもので、ほとんど呼吸もままならないほどでした。口呼吸をしてかろうじて息を繋いでいたのですが、目も開けられない私の顔に、ずっと、蜘蛛の巣に引っかかったときのような糸の揺らぎを感じていました。

 ゆらゆらと目や鼻のオウトツをなぞるそれの合間を縫うように、ぬったりと温かい呼気のようなものが顔にかかるのです。

 朝まで、陽が昇るまでのあいだ、それはつづきました。

 起きてすぐに私は長谷部さんに連絡をとり、こうしてこんどは彼女の家のそばの駅まで足を運ぶ途中です。

 電車がもう間もなくやってくるようです。

 例のコケシは鞄に詰めてあります。

 今回はこれもいっしょに長谷部さんに渡し、処分してもらおうと思っているのですが、これは何も私がコケシの内容物と、私の体験した夜の寝苦しさを結びつけているわけではなく、そこにあるのは因果関係ではなく、相関関係で、言ってしまえばある種の暗示にすぎないのでしょうが、すくなくともいまはコレが私の部屋にあるよりも、長谷部さんに引き取ってもらったほうが精神的にも穏やかになれるので、そうしようと思います。

 祖父にはわるいとは思うのですが、私は私の健康のほうがだいじなのです。

 電車が参ります、お乗りの方は線路の内側までお下がりください。

 あ、アナウンスが混じってしまったようです。音声入力の弊害ですね。

 備忘録として以上を残しますが、いつこれを読み返すことになるのかはわかりません。ひょっとしたら一度も読まずに忘れ去ってしまって、

 特急です。

 コケシのことも、その内容物についても、長谷部さんのことすら思いださずに過ごしているかもしれませんが、きっとあすからは寝つきがよくなり、すこやかな日々を送れるようにになるはずです。

 あ、長谷部さんからメッセージが届きました。

 開きますね。

 すぐそれを捨てろ、とあります。それってなんのことだろ、んー、コケシのことかな。

 あ、電車が止まったので、では、追記があれば数時間後にまたjkぼyそうhべおねかおmこhぎでぃfほhjdks、ああ

 おいだれかおちたぞ轢かれた引かれた光れがががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががが




【歪んだ鏡】


 祖母の家の鏡は歪んでいる。

 だからか鏡面に映る私の顔もいつもぐねんと曲がって、まるでおかめさんがにんまり笑っているみたいに変形するのだ。

 久方ぶりに祖母の家に遊びに行くと、鏡がきれいになっていた。私の顔がそのままに映る。

「鏡直したんだね」

 祖母に言うが、祖母は小首を傾げ、なんのこと、とそらとぼける。

 説明してみせるものの、鏡はずっとそのままだよ、と祖母が言うので、見間違えたかな、と思い私は鏡を見にいく。

 やはり鏡は平らだ。

 おうとつ一つない。

 鏡のなかの私と目が合う。

 目元だけが、ぐんにゃり、と歪んだ。素早く瞬きをしたかと思うと、また元の平らな鏡に戻った。

 どれだけ待っても、鏡は二度と歪んだりはしなかった。




【何かいる】


 私は祖父の家の風呂場が苦手だ。むかしながらの五右衛門風呂で、ガス給湯器に繋がってはいるものの、いつ入っても湯舟の内側はぬめぬめしているし、お湯はどんよりと淀んでいる。

 温泉に似た成分が入っているからだよ、と母は言うが、苦手なものは苦手だった。

 誰も入っていないはずなのに洗面所からバシャバシャと音がしたりしたり、何語ともつかない囁き声がするのも苦手な理由の一つだった。

 父に言っても、何かいるのかもしれないね、と取り合ってくれない。

 苦手な理由の一番はなんといっても、波紋だ。

 風呂を洗うときに蓋を開けると、岩でも落ちたように、じょぼん、と大きな波紋が立つのである。

 かぽーん、とその後に訪れる静寂も私の違和感を際立てる。

 何かいる、と私は思うのだが、やはりというべきかふしぎなことに、家族の誰も頑として真剣に取り合ってはくれないのである。




【横着はいかんよ】


 ピエロを生業にして三年が経つ。もうだいぶこの仕事にも慣れた。

 とはいえ、出番のまえに施す化粧は未だに悩む。

 遠目からでもひと目でピエロと判るド派手な柄を描かなければならない。

 白地に赤はやはり目立つ。

 だがこの赤が曲者だ。

 なかなか肌に馴染まないのだ。

 化粧のうまい先輩の化粧台を見遣ると、刷毛じみた赤いペンがあった。

 ちょいと拝借しようと思い使ってみると、一筆で顔が赤く染まる。

 これはいい。

 顔が熱いが、気にしない。

 ジョリジョリ、と塗っていると、顎に赤いインクが垂れた。ありゃりゃ、と思っていると先輩が戻ってくる。

 自身の化粧台を見て、んんっ、と声をあげ、こちらの顔を見ずに言った。

「ここにあったカミソリどこやった」




【体感時間は一瞬】


 珍しい本を手に入れた。

 いちど開いたら読み終わるまで目の離せなくなる本だという。珠玉のおもしろゆえに読了するまで本を手放せないのだそうだ。

 それはいい。

 飼いはじめた子猫の世話で気が滅入っていたのだ。ときにはほかのことに没頭したい。

 そうと思い、布団にくるまって本を開く。

 吸いこまれるような引力を感じ、ここではないどこかに降り立つじぶん自身を予感する。

 ぱたん。

 本を閉じると、私は壮大な旅を終えて家に帰ってきたような安堵とも寂寥ともつかぬ感慨に浸かった。

 喉が渇いていることに気づき、身体を起こそうとするも、動かせない。

 じぶんの手を見て、目を瞠る。

 げっそりと痩せこけている。骨と皮ばかりだ。

 床を見遣る。埃にまみれている。

 異臭を察知する。

 眼球だけを動かし目を転じる。

 臭いの元では骨を露出させた塊が、尾にだけ毛を残し、蠢く虫の群れに覆われている。




【占いは途絶える】


 トイレットペーパーを巻き取ると、そこに占いが書かれていることに気づいた。

 粋な計らいだ。

 読んでみると、頭上に注意、とある。

 なんのこっちゃと気にしていなかったが、その日の昼間に職場にて地震に遭った。

 頭上に積んでいた段ボールが落下して、あわや大惨事だったが、段ボールの中身が軽かったので難を逃れた。ちょうど朝のうちに中身を整理していたのだ。

 それ以来私は、これといって信じていたわけではないのだが、トイレットペーパーの占いには必ず目を通すようになった。

 占いはことごとく的中した。

 私にそう思えるというだけのことかもしれないが、乗らずにおいた電車が脱線事故に遭ったのを目の当たりにしたら認めずにはいられない。

 この占いは、当たる。

 だがトイレットペーパーは消耗品ゆえ、ついにその日がやってきた。

 カラカラと芯のみが回る。

 手には最後の占いがある。

 あなたの余命は三日、とある。

 私はムっとした。

 いつもより丹念におまたを拭った。

 だが占いのない生活はそれはそれで心細い。

 補充分を使いはじめたが、どのトイレットペーパーにも占いはおろか文字の一つも記されていない。

 メーカーに問い合わせたが、そのようなサービスを提供してはいないという。

 最後の占いを目にしてから二日が経った。

 これといって占いを信じているわけではないが、私はあす、仕事を休み、体調がわるくもないのに病院に出向き、待合室にでも居座ることにする。




【10文字ホラー×60】


「人肉の味がすると苦情」

「臭いだけが落ちなくて」

「山に埋めたはずの首が」

「天井から落ちるウジ虫」

「腐臭の中で犬だけ元気」

「死体に肖像権ないから」

「饅頭より死体のが怖い」

「脳みそどうすっかなぁ」

「火葬後に頭蓋骨が二つ」

「暗渠からぶぶぶと羽音」

「埋めた場所に謎の献花」

「今月十本目のノコギリ」

「保温箱を買い漁る客人」

「真っ黒なゴミ袋から血」

「切断面の各々に瘡蓋が」

「死因焼死だがバラバラ」

「無料で石灰提供します」

「食べ放題一人一部まで」

「この山全部死体だって」

「どうせ死ぬから捨てて」

「その人もう助からんし」

「活きのいい心臓だねぇ」

「ラッキーこの人義眼だ」

「おっ指輪と銀歯みっけ」

「この先シャワー室です」

「列を乱さず服は脱いで」

「広場で自爆すれば英雄」

「一人でも多く殺す勇者」

「業界のためと言い搾取」

「子供のためと言って罰」

「風もなく線香が揺らぐ」

「腐臭と鳴り止まぬ着信」

「夜道を歩き増える足音」

「亡き祖母の部屋から声」

「深夜に校舎から聞こえ」

「真冬のプールを泳ぐ影」

「森から響く絶叫が消え」

「映画館で足首を掴まれ」

「隙間に目が縦に三つと」

「乳母車から覗く足が五」

「五本足の赤ちゃんかも」

「恐怖が差別を助長する」

「すでに七年前に事故で」

「え今日は一人ですけど」

「拾った長靴が重く臭い」

「屋根にぶら下がる人影」

「輪っかだけが残る神木」

「瓶の中に大量の臍の尾」

「踏切に石を置く子供は」

「いい子ね首を切るのよ」

「大丈夫こうすれば死ぬ」

「爪の次は指で次が歯ね」

「安心してよ君は最後だ」

「ねぇ終わったと思った」

「こっからが本番だから」

「知ってる君も読んだろ」

「ねぇもっとボクと遊ぼ」

「五年後お前ら全員クビ」

「幸せの絶頂はまだかな」

「アハハ見てあいつの顔」




【カエルの恩返し】


 カエルを助けたのだ。

 最初はおそらくそれがきっかけだった。

 朝の通勤時に、側溝の格子蓋に引っかかってひっくり返ったまま身動きのとれなくなっていたヒキガエルがいて、ずいぶん大きかったので目が留まった。

 真横の電柱には空き巣注意のポスターが貼られている。きっとこのカエルちゃんもこれに目をとられて足を踏み外してしまったのだな、と同情したが、私はそのまま、さらば、と内心で唱え立ち去った。

 夕方に帰宅するときに同じ場所を通るとヒキガエルは同じ格好で、つまりひっくり返って側溝の格子蓋に引っかかったままでいた。とっくに干からびていると思ってなんとなく靴の先っちょで蹴ってみた。日中の日差しはサハラ砂漠もかくやの照りようであったので、生きているとは思わなかった。

 だがヒキガエルくんは生きていた。

 ぐるん、と想定よりも重量感のある感触が足先に伝わる。巨大なグミを踏んだような感触だった。

 側溝の格子蓋のうえをもがくようにしてヒキガエルは表返り、つまり空に見せていた腹を地面に向け直して、道路に移動した。お腹が膨らんだり、へっこんだりと忙しない。生きているのだ。

 よかったじゃん。

 思いながら、水場に辿り着けなければいずれ干からびてしまうだろうな、と思い、鞄を漁って化粧道具をどかしつつちょうど昼間に購入したままのペットボトル飲料、中身はミネラルウォーターだが、それを掴み取って、上からかけてやった。

 目を閉じてじっとしていたヒキガエルは、水が降ってこなくなるとゆっくりと目をぱちくりとし、のそのそと歩きだす。

 車の往来のすくない道路だ。なんとか生き永らえるだろう。本当ならばほかの水場に運んでやるのがよいのだが、そこまでしてやる義理はなく、つもりにもなれなかった。

 じぶんにできるのはここまでだ。

 どの道死んでいた命ではないか。

 このさきどこで行き倒れようと、それがカエルちゃんの運命だったのだ。

 そうと念じてその場を離れた。

 この数分後には、ヒキカエルを気まぐれに助けたことなどすっかり忘れていた。

 しかしこの数日後に、何の因果か、駅前の改札口をくぐりつつあるヒキガエルを見かけてこのことを思いだした。

 人々の足元を器用に避けながら、のそのそと、ときにぴょんと跳ねてそれは駅の構内を歩いていた。

 まさかね。

 同じヒキガエルなわけがない。カエルはこの国のどこにでも生息している。

 偶然、偶然、と思ってその日は見て見ぬふりをしたのだが、その数日後に、私の職場で悲鳴があがった。ヒキガエルが入り込んで、それをほかの女性社員が発見し、度肝を抜かしたといった顛末だった。蛾や毛虫であってもきっと悲鳴はあがっただろう。みな内心、大袈裟だな、といった調子で、淡々と業務を再開させていたが、私は一人、別のことを考えていた。

 駅を歩いていたヒキガエルがいたが、まさかね。

 カエルに縁のある年だな、と各々の事案が別個のカエルの仕業であることを私は疑わなかった。だいたいにおいて大きさが違う。見かけるたびに一回りずつ大きくなって見えるが、よもやこの短期間で成長したとは思わない。同じカエルなわけがないのだ。そのような発想をそもそも持たなかった。

 だからというべきか、だが、というべきか、この日以降、ことあるごとにヒキガエルを見かけるようになり、そのたびに私は眉の皺を深めた。見かけた数日後には必ずと言ってよいほどに、私の生活圏で、ほかの人に追いだされるヒキカエルを目撃したり、話題なりを耳にした。

 あまりに頻繁にヒキガエルが耳目に入るので、どうしても例のヒキガエルの姿が脳裏を掠める。連想せざるを得ないのだ。ひょっとしてそれらカエルは、私が助けたあのヒキガエルなのではないのか、と。

 よもや恨みを買ったか。

 それとも鶴の恩返しよろしく礼を尽くそうとしてくれているのか。

 そんな真似はしなくてよいので、もう放っておいてほしい。食事時にヒキガエルを連想してしまう私の身にもなってほしい。そんなのはヒキガエル差別だ、と言われようが、苦手な物は苦手なのだ。

 私は幼いころから爬虫類を見ると、ウっ、となる。見るからにぬめりとしているカエルはナメクジと同格扱いしてきたし、ナメクジはこの世で最も相容れぬ生き物だ。差別を蛇蝎視する正義の人である私とて、ナメクジを前にすればその正義感すら投げだせる。ヒキガエルともなればなおさらだ。

 だがすくなくとも私は困っているヒキガエルがいたら水をかけてやり、束縛を解いてやるくらいには慈悲深い女なのだ。正義の人である。

 内心でかようにくだを巻きながら部屋の鍵を開けていると、足元から、ぐあっ、と鳴き声がした。

 ヒッ、と思って見遣ると、ヒキガエルが柱の陰から飛びだすではないか。

 大きい。

 両手で持ち上げてやっと運べるくらいの見た目、重量感がある。子猫くらいならば丸呑みにされてしまうのではないか、と思えるほどで、もちろんこれはあとになって冷静に考えてみると、恐怖による錯覚かもしれないが、ともかくとして大きなヒキガエルがそこにいた。

 私は玄関の鍵を開け、家の中に逃げ込んだ。

 明日もそこにいたらどうしよう。

 具体的な被害など何もないにも拘わらず、とにかくヒキガエルがそこにいることに耐えられなかった。ちいさかったらまだよい。だがあれは大きすぎる。

 イボイボの一粒一粒がアマガエルくらいの大きさがありそうだった。背中に無数の子カエルを背負っているように見えなくもなかった。

 思いだしたくもないのに、忘れよう忘れようとするほどに、脳裏には延々とヒキガエルの質感を伴なう姿が繰り返し浮かんだ。

 かぶりを振って、まずはさておき水でも飲もうと廊下の明かりを灯したところで、ガタン、と物音がした。廊下の奥、居間のほうからだ。

 賃貸アパートなので広くはない。

 同居人は元からおらず、物音がするはずがないのだ。

 耳を澄ます。

 静寂の合間を縫うように秋の虫の音が聞こえる。だが日が暮れてなお外は蒸し暑いし、夏と秋が混在している。

 ほかに音はしない。

 気のせいだったろうか。

 肩の力を抜きつつもおっかなびっくり居間の戸を開けたところで、足元にじぶんのものではない足が見えた。

 戸の影に誰か潜んでいる。

 靴を履いていると判った。

 気づかぬふりをしてそっと引き返すのが正解だったのかもしれないし、可能であれば戸を閉めてバックの紐で取っ手を縛り、鍵の代わりとしてもよかった。

 だがそこまでの機転を利かせるには私は動揺しすぎていた。正直な旨を明かすとすこしチビっていた。

 だってそんな、いると思わないモノがいたら誰だって恐怖におののくだろうし、それが明らかに尋常でない、斟酌せずに言えば強盗としか思えぬ男物の靴を見てしまったならば、悲鳴をあげてもよい場面だった。

 しかし私は呑み込んだ。悲鳴一つあげずに、まずは家のそとに逃げることにのみに集中した。意識してそうしたわけではなく、無我夢中だった。

 開けかけた居間の戸を閉め、私は全力で玄関まで走ったが、相手はそんな私を即座に追ったようだ。私が靴を踏んづけて玄関扉に触れたところで、背後から羽交い絞めにされ、髪の毛を掴まれ、引き戻された。

 玄関はかろうじて反動で開いたが、しぜんとゆっくり閉まっていく。

 あァ、まるで私の未来を暗示しているかのようだ。

 心ここにあらずの心境で私は、ドクドクと脈打つ鼓動と、じんわりと滲む視界に絶望の足音を重ね見た。

 と、そこで。

 ぴょん。

 玄関扉の隙間をすり抜けて、床に倒れた私の目と鼻の先に現れた影があった。

 影というか塊だった。

 塊というかカエルだった。

 それはそれは大きなヒキカエルであった。

 私の髪の毛は未だに掴まれており、犬の散歩紐よろしくずるずると廊下を引きずられつつあった。

 溺れる者はなんとやらである。

 私は突如現れたヒキガエルさんをむんずと鷲掴みにし、不法侵入者に向けて放った。

 絶叫があがった。

 その心境は推して知るべしだ。私とて、命の危機を感じたからこそ縋ったが、もしも立場が逆であったならば、ナメクジと同格と謳ってやまないヒキガエルさん、しかも特大のそれを顔に投げつけられでもしたら、あぎゃー、では済まない醜態の極致を喉からひねくりだしたこと大いに請け合いである。

 私が私でよかった。

 不法侵入者よ、すまんね。

 拘束から脱した私は家を飛びだし、そのまま隣家に助けを求めた。というかかってに入った。玄関をドンドンやって、鍵が開いていたので、そのまま押し入った。

 一家団欒で焼肉を頬張っていた近所の奥山さんに、事の顛末を語って警察を呼んでもらい、事なきを得た。

 その後、不法侵入者は、別件にて空き巣の常連として逮捕されたと、この事案からふた月後に警察から連絡があった。

 ああ、よかった。

 私はようやくほっと肩の荷が下りた心地で、胸を撫でおろした。

 事件のあった日、警察の人たちといっしょに家のなかに戻ったときにはもう、不法侵入者の姿はなく、ヒキガエルさんの姿もなかった。

 あれ以降、私の日常の周りでヒキガエルさんを見かけることはなく、駅や会社で騒ぎ立てる人の声も聞かない。

 あのヒキガエルさんが、最初に路肩の格子網に引っかかっていたヒキガエルくんと同一個体であるかは定かではないけれども、私はひとまず、ヒキガエルを見ても毛嫌いしないようにしようと思い直した。

 ナメクジと同格との評価も考え直してもよいが、果たしてあの場に現れたのが巨大なナメクジだったとして、私は同じように手で鷲掴むことができただろうか。

 いっそこの際だから、ナメクジさんへの苦手意識も克服すべく、いっしょくたにして私のなかでの格付けを総入れ替えするのも一つかもしれない。

 ナメクジだってヒキガエルだって、ミミズだってオケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ。友達なんだ、とまでいくとさすがに言い過ぎであるので、そこはまあ、同じ地球に息づく生命体として、そこそこまあまあの助け合いをしていければよいな、と空き巣逮捕のニュースを見て私は思うのである。まる。




【ホラー作家の相談】


 知り合いの作家に呼びだされた。

 忙しいから、といちどは断ったが、ご馳走するから、と言ってきかないので、仕事終わりにしぶしぶ豪邸に向かった。

「やあやあ、いらっしゃい。すまないね急にきてもらっちゃったりして」

「まったくだよ。相談って何だ。わざわざ顔を合わせなきゃ話せない内容なのか」

 足が重かった理由はまさにそこにあった。相談があるんだ、と深刻そうに切りだされたのでは、ご馳走程度の誘惑では足取りは重いままだ。

「まずは食事でもしながら」

 友人はリビングに案内する。アンティーク調の家具に、天井にはシャンデリアが埋め尽くすように設置されている。

「相変わらず金のかかってそうな内装だな。何度きても無駄遣いにしか思えん」

「そう言うなよ。これで一応税金対策なんだから」

「固定資産税がすごそうだ」

「そういうのも税理士さんに任せているからね。あ、料理はもう運んでもらったから。さ、食べよ食べよ」

 長テーブルのうえには、ステーキにピザ、餃子からスパゲティと、以前この屋敷で食べた際に美味しいと言った料理がずらりと並んでいた。一流シェフによる料理なのだろうが、どうしてこうも雑然と風流のない組み合わせ方をするのか。

「こんなに食べきれないが」

「残していいよ。さいきん入ったお手伝いさんが、子だくさんの人でね。余ったら持ち帰ってもらえるし」

「あ、そう。で、相談ってなんだ」さっさと本題に入れ、とせっつくと、そうなんだよそうそう、と友人は語った。

 ステーキを一枚平らげるあいだに、おおまかの概要は掴めた。

「要は、恐怖心が薄れてしまってホラーがつくれなくなったと」

「そんないかにもくだらない、みたいな顔をしてくれなくとも」

「すまんね。正直、くだらんとしか思えんのだが」

「いやね。本当ならこんなこと僕だって相談したくないんだよ」

「だったら」

「ホラー作家なんだよ。僕はね。それも売れっ子だよ。超がつくほどの。書く作品、書く作品、ハズレなしで各出版社から引っ張りだこなんだよ」

「自慢を聞かされてもおもしろくないが」

「でもなんだか最近、ホラーを書きすぎて、恐怖ってなんだっけとなってしまってね。正直に言っちゃうともう結構前から怖いってなんだっけって状態なんだよね」

「それでも書いてるわけだろ」

「しかも売れてる」

「じゃあ関係ないんじゃないのか。なんかノウハウがあるわけだろ、怖さが何かが分からなくとも書けちゃうノウハウが」

「ある」

「だったら」

「でもそれじゃあ先細りなんだよ。言ったらそれって既存の作品のレールに乗せてるだけだから」

「いまいちわからんな。作家が怖くなくたっていいわけだろ。だって読んだ本が怖けりゃいいわけで、別に作家が怖がる必要はないんじゃないのか」

「そう、その通り。べつに僕が怖くなくたって読者さんが怖がってくれればそれでいい。だから過去に評判のよかった作品からデータ分析して、こうこうこういう展開にシチュエーションだと怖がるのね、ってある程度の傾向は抽出できるよ」

「じゃあそうしてろよ」

「でもそれだと飽きられちゃうんだよ。というかもうその兆候がでててね。売れてるは売れてるけど、どうにも前ほどの売り上げではないみたいなんだ。いわばネイムバリューで売れている状態でね」

「そこまで分析できてるなら、新しいノウハウを見つければいい。それこそほかに売れてるホラーがあるわけだろ。そっちから技を盗んで応用すればいい」

「そこなんだよ。まさにそこ」

「どこだよ」

「技を盗むにしても、そもそもいまの僕にはどんなホラー作品を読んでも、それの何が怖いのかがさっぱり分からないんだよ。盗もうにもどこにどんな技があるのかが分からないんだ」

「ああ、なるほどね」

「恐怖がどんなかを思いだしたいんだ」

「と言われましてもね」

 ピザを食べるが、すっかり冷めてしまっている。「恐怖ってのは思いだすようなものなのかね」とまずは意見する。「どちらかと言えばきっとあなたにはたくさんの恐怖がインプットされてしまっていて、それが麻薬さながらに過剰摂取してしまったがために麻痺してしまっているんじゃないだろうか」

「ふんふん。それでそれで」

「それでも何も、だからね。思いだすのではなく、あなたに必要なのは忘れることなのでは?」

「目から流木!」

「そこは小説家らしく正しい慣用句を使ってくれよ。目から鱗だ」

「そっかぁ。思いだそう思いだそうとしていたのがよくなかったのだな。忘れてしまえばよかったのか」

「いや真に受けられても困るな。恐怖のサンプリングが足りない可能性だってなくはないんだ」

「と言いますと?」

「読者が怖がってくれればいいとはいえ、読者がどの場面でどのように、どのくらい怖がっているのかは分からないわけだろ」

「ですです」

「ほかの作家にしたところで同じなんだろうが、だからこそそこのところのデータをもっと集めて、読者がどういう要素に恐怖を感じるのかをもっと収集してもいいんじゃないかと思ってな」

「それはそう。まさに。目から龍の鱗ですよ」

「そこまでではないだろ」

「いえいえ。さすがは長年僕の友人をやっていることはありますね。よく分かっていらっしゃる」

「そんな褒め方があるか。うれしくもなんともないんだが」

「サンプリングかぁ。取材が足りなってことだよねぇ。そうだ、そうだ。僕には取材が足りなかったんだ」

「おいおい。目が危ない感じになってるぞ大丈夫か」

「大丈夫、大丈夫。前にもちょっとやろうと思ったことがあって、準備だけは念入りにしてあるから」

「何のだよ」

「捕まらないようにだけはするね」

「捕まり兼ねないことをしようとしているのか。やめとけ、やめとけ。おれを共犯にする気か」

「共犯になりたいの?」

「なりたくないって話だよ」

「じゃあこれ以上の深入りはやめといたほうがいいよ。おあとが面倒だよ。きっときみのところにも警察がいくかもしれないけれど、素知らぬふりをすることだね」

「怖いんですけど」

「えー、いまのどこが?」

「分かった。おまえに足りないのは恐怖のサンプリングでもなければ、恐怖の忘却でもない。常識であり、倫理だよ。まずはまっとうに、人間らしく生きよ?」

「口止めしても無駄なのかな」

「その前に凶行を止めとけ」

「あ、料理食べたね。どう美味しかった? 解毒剤もいちおうちゃんとあるから安心してね」

「怖いんですけど!」




【死者にも五分の魂】


「いやぁいまほど霊感あってよかったと思ったことないよ。人間飽きちゃったからさ。幽霊相手じゃほら、捕まらんし」

「ゲテモノ好きっておいおい、人聞きがわるいな。身体がきれいならそれでいいじゃんよ。顔面のデキとか関係ないし。ほら、幽霊のほうでもじぶんでけっこう身体のカタチ変えてんじゃん。生前の美意識が反映されてるってか、けっこういい身体してんのよ」

「顔面うばーってなってんのもあるっちゃあるけど、そんときゃ首とか刎ねたれや。死にゃしねぇんだ、とっくに死んでっからよ」

「幽霊相手はいいぞう。知覚過剰の札ってのがあってよ。本来は苦痛を与えて、むりくり成仏させるやつなんだけど、それ使ってヤるともうアンアン喘いで仕方ねぇでやんの。幽霊の感度まじ凄まじいからね。昇天って文字通り、イキすぎて成仏するやつとかいるからね。ま、天国も地獄もないわけだから、たいがいは悪霊だし、輪廻転生もできずにただ単に無に帰すだけだけど」

「ガキの霊? いるいる。そりゃもうウヨウヨいるよ。履いて捨てるほどいるマジで。使いたい放題。天然オナホつってよ。アヒャヒャ」

「え、なに怒ってんだよ。いいじゃんよ。どの道死んでんじゃんアイツら。生きてるあいだに味わえなかった快楽与えて成仏させてやってんだから感謝こそされど、恨まれる筋合いはねぇっての」

「ん。なんよ。ああ、ここにいた霊? いまさっき使ってやったけど、何。知り合い?」

「えーうっそ。妹さんだったん、そういうのさきに言っといてよぉ。ホントごめんね。知らなかったからさ。悪気ないし。大丈夫だって痛いことしなかったし、ちゃんと感じてたから。ね。怒りなさんなって」

「あ”? なになに。なんなんその態度。こっちは素直に謝ってんじゃんよ。お。んだそれ、そういうの向けちゃう。人間相手にソレ使ったら破門だかんな。おまえ討伐指定されんぞ、いいのか」

「いいって、おいおい。何マジになっちゃってんの。身内死んだのはオレのせいか? 違うだろうよ。ちゃんと理性働かせようよねぇ」

「お、おう。なんだそれ。なんなんだそいつはよォ、なんでそんなもん使役してんだよ。いいのかええおい、そんなもん飼っていいのかよ。なんでおめぇみたいのに懐いてんだよ、ダメだろうがよ。え。おまえそれ、成仏できねぇぞ。使えばおめぇも成仏できねぇぞ、輪廻から外れて、延々悪霊共に食われつづける地獄だぞ、いいのかよ」

「いいっておいおい頼むよ。もうしないから。な。な。ちょっとしたイタズラじゃんかよ、魔が差しただけなんだって、許してくれよ。成仏前にちょっと気持ちよくなってもらいたかっただけなんだよ、悪気があってじゃないんだってホント、善意だから善意」

「ウソウソ。いまのもジョークだって、ちょっとしたジョークじゃないの。オレがわるかった。もうしない。償いもする。全面的にオレがわるかったって、なあ信じてくれよ。いや信じてくれなくてもいいからさ、罰でもなんでも受けるから。な。な。それ仕舞って、もっかい話し合お。な?」

「ふざけんなてめ、こちとら下手にでてりゃいい気になりやがってよ。いいよ、やってやるよ。てめぇの妹ぁなぁ、もっともっとってテメェからチンポくださいっておねだりしてたくせに、妹も妹なら兄も兄だな。逆恨み甚だしいぜクソがよ」

「あぎゃー。あぎゃー。あじゃぷ、あじゃぷ。あぎゃー。あぎゃー。アタタタタイタタタタ。じゃっ。じゃっ。ぱぎゃぷりゅもとこりぱぴゅぱぴゅぱぱぱ。あははは。あはははアハハハはははあはははあぎゃぎゃぎゃあぎゃ。ぷりんぷりん。ぴゅこぴゅこぽん、ぴゅこぴゅこぽん。あぎゃーあぎゃー」

「あひゃ、あひゃひゃ、ころ、ころして、ころ、こ、ころ、ここあひゃ、あひゃぎゃぎゃ。あぎゃー、あぎゃー」




【生え換わり】


 息子の歯が抜けたので庭に植えた。

 翌日、庭を見遣ると芽が出ていた。

「これはなあに」息子が芽をちいさな指でつつく。

「歯の芽だよ。あすにはもっと育っているはずだよ」

「どうして?」

「そうじゃないと新しい歯がなくてたいへんじゃないか」

「歯、生えてくる?」

「そ。こうやって新しい歯が生え揃うんだよ」

 じぶんの幼いころを思いだし、懐かしい気分になった。

 翌朝、息子が布団のうえから飛び乗ってきて、叩き起こされた。

 パパきて、と庭まで引っ張りだされる。

「すごいよ見て見て。もうこんなに大きい」

「ほう。こりゃまたずいぶん育ったものだね」

 息子の歯はどうやら、根っこがまだ残っていたらしい。大樹と言ってよい高さにまで幹を伸ばしている。屋根より高い。鬱蒼と茂るのは葉ではなく、すべて歯だ。光沢のある白さと相まって、雪に覆われた木々を彷彿とする。風が吹くと、シャンシャンと音色を響かせる。握った鈴を千個いっせいに鳴らせば似たような音がするだろう。

「好きな歯を選んでごらん」

 肩車をすると、息子は両手を頭上に伸ばした。無数の歯を漁る。まるでサクランボ狩りをするかのような姿に胸がほっこりする。

「パパ、これがいい」

 息子は一つを選んだようだ。もぎとろうとするが、なかなかとれない様子だ。それはそうだろう。大人のちからでも摘み取るのはひと仕事だ。

「それでいいのかい」

「うん」

「じゃあ、それにしよう」

 代わりに手を伸ばし、息子の選んだ歯を指でつまむ。

 もぎとるにはコツがいるのだ。

 ひねりながら、左右に揺らしつつ、引く。

 すると緩んだネジのごとく、スポリと取れてくれる。

 その瞬間に、白く無数に茂った歯は紙くずのごとくシワシワに縮んだ。大樹まで空気が抜けた風船のごとく地面に萎み、土に還る。

 同時に私の肩に乗っていた息子もまた、ミイラのようにシワシワと枯れた。

 私の手のひらのなかでは、もいだばかりの歯が脈動している。

 どくん、どくん。

 三日後には歯の生え揃った息子が新しく孵るはずだ。

 先月、腕を骨折したばかりである。

 孵ったばかりなのに、と顔をしかめる。

 忙しい子だな。

 ぼやきながら、三日とはいえ息子の声を聞けない時間を寂しく思う。




【割引券】


 近所に新しいドラッグストアができた。コンビニで買い物をするよりも安上がりなうえ通勤途中にあるために毎日のごとく通っていたのだが、菓子パンとペットボトル飲料程度の買い物でもなぜか毎回のように割引券をくれる。新装開店だからだろうか。

 翌月から使えるようになるらしいので捨てずにとっておくのだが、日に日に財布のなかに溜まっていく一方だ。

 これが全部お札だったらな、とそんな思いを胸に、厚さを増す割引券の束に、そこはかとない満足感を得たりもする。というのも、元から収集癖があり、飲み終えたあとのペットボトルも部屋に並べたり、新しい靴を購入したあとで残る箱もすべてとっておく性質なのだ。

 使い道はないが、なんとなく満足感が得られる。

 だがそうした癖もあってか、できたばかりの恋人との喧嘩が絶えない。いかな恋仲とて相容れぬ一面はあるものだ。相手にとってはこちらのそうした収集癖こそが看過できぬ目の上のタンコブであり、こちらにとっては恋人のそうした相手の欠点を許容できない性格に業を煮やす。

 とかくストレスが溜まるので余計に収集癖に拍車がかかるという悪循環に陥って、久しい。

 財布を覗きこむ。割引券には「10%割引」と書かれている。

 一回につき一つまで、と但し書きが記されている。

 単純に計算すれば、百円の商品が九十円で買える。ひと月もあれば三百円も得をするのだ、使わない手はない。

 恋人に見つかれば問答無用で捨てられかねないので、割引券の束はお札で挟んで偽装した。まるでお金持ちにでもなったかのように財布はパンパンだ。

 時間が経ち翌月、いよいよ割引券を使える日となった。

 これといって興奮はしなかったが、待望のと言ってよい足取りではあった。

 商品を持ってレジに並び、清算をする前に満を持して割引券を差しだした。

 セルフレジではなく、店員がいる。

 店員は顔にほうれい線と脂肪を蓄えた妙齢の女性だったが、割引券を受け取ると、どれにしましょうか、と眠たそうな目をこちらに向けた。

 一回につき一つまでの制限があるのは知っている。

「ではこれを」

 ペットボトル飲料をゆびで示したが、

 いえ、と店員は眠たそうなまぶたを重そうに開け閉めし、「割り引く対象を教えてください」と言った。

「ですからこの飲み物を」

「商品ではなく」

「ではなく?」

 なら何を指定すればよいというのか。

 齟齬があるのは分かるが、相手にそれを正そうとする素振りがなく、戸惑う。

「使えないならいいです。すみません。そのままお会計してください」

「いいんですか。せっかく割り引けるのに」

 さも、もったいない、と言いたげに店員がしぶしぶといった所作を隠そうともしないで割引券を返してくるので、

「いったい何なら割り引いてくれるんですか」と質すと、

「悩み、あるでしょ」とこれまた会話にならない返答を返され、閉口する。

「悩みはありますね。それはまあ、ははは」意味もなく笑うのは恋人との不仲を思いだしたからだ。それをいまここで店員たる彼女に相談しそうになり、陽気がこみあげた。まるでゲップのように喉元まで競りあがったので、呑み込んだのだが、予想外なことにそこで店員は、ではそれにしましょう、と言った。

「それとは、どれです」

「その悩みとは何ですか」

「ああ、えっと」いましがた飲み下したゲップさながらの悩みの種が、押したので出ましたといわんばかりの滑らかさで、「恋人とうまくいってなくてですね」と零れ落ちた。

「ああ、みなさんそうですよ」

 ピ。

 店員は割引券に機器を当て、流れるように、うんにゃら円になります、と述べた。

 顔が熱いのは、意味もなく見知らぬ店員に悩みを吐露したこともさることながら、あたかも、あらその程度の悩みでだらしない、と蔑まされたかのように感じたからだ。

 店員にはそのつもりはなかったのかもしれないが、軽んじられたと感じた瞬間に、カっと全身の血が煮えたのが判った。

 案外にじぶんでも気にしていたらしい。たいしたことがないとじぶんに言い聞かせながらそのじつ、見ず知らずの店員に吐露してしまうくらいに身体の内側を侵されていたのだ。

 悩みに。

 恋人との軋轢に。

 ゆえに怒りに思考が支配されかけたが、店員が用なしの割引券を破り捨てた途端に、かっぽりと何かが欠けた。あたかも天井が開いて頭上から陽の光が差し込み、周囲が明るくなったかのように、或いは、熱せられた斧を水に浸けてジュっと瞬時に熱が冷めたような解放感が全身を襲う。

 あれ、と戸惑う。いまじぶんは何かをしようと思っていたはずなのだが、その何かを掴めぬままに、店員の「うんにゃら円になります」との再度の催促に、そうだったそうだった会計がまだった、とおとなしく支払いを済ませた。

 店をでると夕焼けの美しさに目を奪われる。

 こんなに美しい光景を目にしたのは久方ぶりのことだ。

 家までの帰路、脳裏には店員とのやりとりが何度も繰り返しよみがえった。

 財布を開き、束の割引券を引っ張りだす。

 まだまだたんまりとある。

 あすはどうしようか、と考えながら、それでいて、行かないという選択肢など端から度外視しつつ、恋人の待つ家の扉を本当にいつぶりかにほくほくと温かい心地で、開けた。

 しかし翌日の朝には、家をでた瞬間から帰宅するときのことを考え、鬱屈とした。昨日の気分が嘘のようだ。曇りでもないのに全身が雨雲に包まれているみたいだ。

 恋人の機嫌がわるかったうえに、こちらは気分爽快で、それがまた恋人には癪に映ったようだった。

 もうやっていけないよ。

 そう零したのもよくなかった。

 いつになくご機嫌で帰宅したものだから、浮気でもしたのかと疑われ、散々な夜を過ごした。警察の尋問だってきっともっとやさしい。

 いったいどこで間違ったのか。

 別れ話一つまともにできそうになかった。切りだしたら殺され兼ねない剣幕だった。

 もはや朝からやけっぱちの気分だ。

 ゆえに通例であれば夕方に寄っていたドラッグストアに朝のうちから寄った。

 いつものようにペットボトル飲料と菓子パンを以ってレジに並ぶ。

 時間帯が違うからか、昨日とは異なる店員レジに立っていた。若い男性だ。学生だろう。いま風のマッシュルームカットで、つっけんどんな表情だ。

 割引券を取りだしつつ、通じるだろうか、と不安になる。

 昨日の店員だから、ああも悩みが減退したのではないか。商品以外のものを10%割引してもらえたのではないか。

 彼で大丈夫だろうか、と思いながら、商品と共に割引券を差しだすと、

「何にしますかね」とさっさと商品だけを機器に通して画面に値段を表示した。つまりこれはどの商品を割引しましょうか、との質問ではない。

「じつは恋人と不仲で」

「ああ、それはよくないっすね」

 店員は割引券に機器をあてがい、ピっと鳴らして、割引券を破り捨てた。ついでのように、うんにゃら円になりまーす、と述べる。

 清算を済ませ、頭を下げて店をあとにした。

 清々しい気分だ。

 寝不足のうえいまから仕事だというのに、やる気が漲ってくる。

 やはり本物だ。

 財布のなかの割引券を見遣る。

 これは悩みを割り引いてくれるのだ。

 10%でこれほど気分が晴れるのなら、100%だったらどんなに爽快だろう。至福の極致を味わえるのではないか。

 ドラッグに魅了される者の心理が理解できそうだ。

 そうと思って、一瞬ひやりとしたが、しかしこれはドラッグではない。むしろ人生の澱を除去してくれる魔法の割引券だ。

 魔法の割引券。

 じぶんで唱えておきながら、そのあまりの幼稚な響きに苦笑が漏れた。

 石につまづき、財布ごと割引券を落としそうになった。風が吹いている。割引券が風に飛ばされる場面が脳裏によぎり、受け身もとらずにまえのめりになって財布を掴んだ。

 尻もちをつく。

 鼓動が激しく鳴り、遅れて全身が汗ばんだ。

 登校中の小学生が脇を駆け足で通り過ぎる。すこし離れたところで止まり、こちらを見た。

「なんでもないよ。だいじょうぶ。ありがとう」

 立ちあがり、にっこりと手を振ると、小学生はぺこりとお辞儀をして去っていく。その顔には怯えとも戸惑いともつかない歪みが見て取れた。

 割引券は無事だ。 

 よかった。

 思いながら、未だ清々しさの残留する心境のまま職場へとスキップをして移動する。

 それからというもの毎朝のごとく割引券を使う日々がはじまった。

 とはいえもう新しい割引券はもらえない。

 日に日に薄くなっていく財布を目にし、万札がなくなるよりも色濃い鬱屈さを覚えた。

 ドラッグストアの店員は三日ごとに変わる。朝のシフトをどうやら三人で回しているようだ。時間帯が違うからか、最初に対応してくれた妙齢の女性とは再会しないが、夜に店のまえを通るとレジで働く彼女の姿を目にできた。

 みな当然そうであるかのように割引券を使ってこちらの悩みを消してくれる。すっかりすべてを、ではないが、使うたびに至福とは何かを思いだすので、ことさら割引券への依存度が高まる。

 一度だけ、きょうはやめておこうもったいない、と思い、使用を控えた日があった。だがその日はいちにち雨雲を背負うような陰鬱さにつきまとわれた。

 もはや割引券のない生活は考えられない。

 しかしひと月が経過しようというころには、割引券の数は半分に減っていた。

 あと一か月も保たない。

 どうしよう。

 暗雲垂れこめる心地で、いいや現実に物理的な重さを伴ない、気分が塞いだ。

 しかしそうして雨雲に包まれるたびに、余計に割引券への渇望が増し、使わざるを得なくなる。

 そうなると逆説的だが、できるだけ悩みを抱えないように過ごすしかなくなる。

 家に帰ればそれだけで悩みの種が芽吹き、あっという間に大樹に育つので、そうならぬようにと家には帰らぬ日がつづく。

 どの道、割引券を使った初日に大喧嘩をして以降、恋人とは顔を合わせてはいない。家に帰ったときはなぜかいつも恋人は先に寝ている。相手も相手で業腹のままなのだろう。顔も合わせたくないといったところか。いっそ別れてしまえばいいのに、と思うのだが、割引券を使うたびにそうした恋人への憤懣が薄れるので、ゆらゆらとシーソーのごとく意思が揺らいでいる。

 そうこうしているうちに、おかしなことに気づきはじめる。

 割引券を使っても、これといった変化が訪れなくなったのだ。

 否、僅かに気分は晴れている。

 だが以前のような爽快感はなく、また解放感もなかった。

 疑問に思ったので、心苦しかったが、その心苦しさがあるままだと余計に割引券を使ってしまうので、解消するためにも会計時に店員に声をかけた。きょうは朝ではなく夕方に寄った。昨晩は家に帰らなかったので、朝の通勤では寄れなかったのだ。

「あの、一つお聞きしたいのですが」

「はい」店員は例の若い男だ。

「なんだかこのところ割引券の効果があまり感じられなくて。ひょっとして使いすぎたら麻痺とかしちゃうんでしょうか。こう、日を跨いで使ったほうがいいとか、それとも単に割引券の効力が落ちたとか」

 割引券には利用期限が設けられている。今年いっぱいは使えるようだが、消費期限よろしく期日に近づくにつれて劣化するなんてことがあるのかもわからない。

「いえ、そういうのは特にないですね」

「あの、でもこのところ効き目が、その」

「みんなそうなるみたいですよ」

 店員はそこで店内を見渡した。ほかにも客がおり、遠巻きからこちらの様子を窺っていた。目が合うまえに逸らされる。

 ここに至って、じぶん以外にも割引券を使っている者がいるのだ、と知った。それはそうだ。なぜそのことに思い至らなかったのだろう。

「そうなるというのは、つまり使いすぎると効果が薄れるということですか」

「いえですから」そこで店員は苛立たし気に息を吸った。ひょっとしたら何度も同じ質問をされて辟易しているのかもしれない。「割引券なわけですよ。悩みの10%が割引されます。じゃあつぎに割引されたら、減った分の悩みからさらに10%が減るわけですよね」

 あ、と思う。それはそうだ。

「ですから、使えば使うほど効果は実感しにくくなります。ひょっとしたらもうほとんどなくなっているのかもしれませんよ」

 悩みの種が。

 店員の言葉に、しかし、と思う。

「いまもまだモヤモヤすたり、気分が優れなかったりすることがあるのですが」

「じゃあ新しい悩みができたんじゃないんですか。毎回ちゃんと指定されてます? いちおうこっちでは言われない限り前回と同じ悩みに割引券を使っているんですけど」

 目から鱗が落ちた。

 そうなのか。

 このモヤモヤとした胸中の淀みは、恋人との関係から発生した悩みではなく、ほかの悩みだったのか。

 それはそうだ。恋人とはここひと月余り顔を合わせていない。しゃべっていない。

 或いは恋人とそうして距離を置いてしまう現状への不満が悩みを募らせているのかもしれない、と思っていたが、そうではないのかもしれないし、よしんばそうであったとしても、新しく指定しなければこの悩みに割引券は使えないのかもしれなかった。

「きょうはどうされますか」店員は言った。

「では、新しい悩みに」

「どんな悩みでしょう」

「そうですね。では、割引券が減っていくことについての不安を割り引いてください」

 店員は肩で溜め息を吐くと、

「どのお客さんも最後はみなさんそう言われます」と割引券に機械を当てた。

 家までの道中、久方ぶりに晴れやかな心地だった。スキップをする。ふとケーキ屋さんが目に留まり、恋人へのおみやげに購入していくことにした。

 まるで童心に返ったかのようだ。

 子どものころにクリスマスイブと正月と誕生日がいっしょにきたら似たような気分になったかもしれない。

 たった10%の悩みが消えただけでこれほど楽になるなんて。

 そう思い、財布を開くと、そこにあったはずの割引券が減って見えた。

 あれ、と思い数える。

 十二枚残っていたはずだ。

 いまは十一枚しかない。

 しかもそのうちの一枚は端が破れていた。四分の一ほど短くなっている。

 歩を止め、しばらく考えこむ。夜風が全身の熱をさらっていく。

 考えがまとまらぬままに歩きだす。

 しぜんと早足になり、最後のほうは駆けだしていた。

 玄関扉を開け、家のなかに飛びこむ。

 鍵はかかっていた。

 ポストには郵便配達物がそのままになっており、恋人はまだ帰宅していないのだと思った。しかし玄関の靴脱ぎ場には靴がそのままだった。

 一足だけではない。恋人の靴はすべて揃っていた。

 いるのだ。

 家のなかに。

 居間に姿はなく、恋人の部屋へと直行する。

 ノックをしてしばらく待つ。

 恋人の名を呼び、ノックをつづける。

 返事はない。

 反応がない。

 おっかなびっくりドアノブに手をやり、ひねるとキィと音を立てて隙間が開く。

 鼻を突くような饐えた臭いが顔面を覆った。

 息を止め、明かりを灯す。

 布団は掛布団がかけられ、シーツが見えない状態だった。枕元には恋人のものらしき頭部が覗いている。髪の毛がつややかだ。シャンプーをしたばかりのように映り、一瞬ほっとした。しかしよくよく目を凝らすまでもなく、布団は枕元だけが膨らんでおり、ほかがすべて平坦だった。起伏がなく、どう見てもそこに人が寝ているようには見えなかった。

 恋人に呼びかける。声が震える。

 恋人は微動だにせず、枕元からは髪の毛だけがはみだしている。




【アパートの管理人】


 このアパートには世にも珍しい住人の方々が暮らしています。

 管理人たるわたし、西社(にししゃ)スデは、日夜、住人の方々に心地よく過ごしていただけるようにアパートの掃除に警備に修繕と仕事に余念がありません。

 中には困った住人の方もいらっしゃいまして、きょうはその方々を紹介しようと思います。

 まずは一〇一号室の槻木(つきき)ユウケさんです。

 彼女は吸血鬼なので、毎晩のようにうら若き乙女を室内に連れ込み、みだらな行為にふけります。

 ちょっと中を覗いてみましょう。

「おはようございます、ユウケさん。本日のご機嫌のほどはいかがでしょう」

「うわ、びっくりしたぁ」

 ユウケさんがベッドの中から飛び起きました。そのよこで寝ぼけをこすりながら、女性が寝返りを打ちます。

「なに、どうしたの」

「いや、急にドアが」

「お楽しみ中に失礼します。あのぅ、じつは上の階から、騒音の苦情が入っておりまして、どうぞ静かに愛の営みに励んでいただければなとお伝えしたく参上つかまつりました」

「ああ、もう朝か。そろそろ朝食の時間だな」

「何か作ろっか?」

「いいよ。きみの体液を飲ませておくれ」

「えぇ、またぁ?」

「いいだろ」

「いいけど」

 ユウケさんは女性の乳首に吸いつきました。わたしは目を両手で覆い、ゆびの合間からその光景を見届けます。

 女性の乳首をチウチウと吸うユウケさんは、自身の胸にも垂れるたわわな乳をあべこべに相手の女性に揉みしだかれながら、わたしもぉ、と乳首に吸いつかれて悶絶します。

 そのままくんずほぐれつ桃色の肉汁入り混じる空間が展開されはじめたので、わたしは、はわわわ、と見ていられなくなり、はれんち、と言い残して一〇一号室の扉を閉じました。

 いかがでしたでしょうか。

 いま御覧いただいたように、ユウケさんは吸血鬼でありながら女性の母乳を好み、女性でありながら女性ばかりを突け狙う甘えんぼさんなのであります。

 母性に飢えているのでしょうか。

 相手の女性からなにゆえ母乳がでるのかについては、不倫の容疑がかかるので深くは追求せずにおきましょう。

 つぎは二階の二〇二号室にまいります。

 この部屋には雪女のナッツーさんが暮らしています。雪なのにナッツーなのです。おもちろいです。

 トントン。

 ナッツーさん、いらっしゃいますか。

 トントントン。

「んー。なんなんよもう」

 ナッツーさんがタンクトップにショーツ一枚姿で現れます。

「えー、いたずらぁ?」

 開口一番そんなことおっしゃるので、わたしは、いえいえ、と手を振ります。

「じつはいまさっき真下のユウケさんのところに行ってきたのですが」

 問答無用で扉を閉じようとするので、わたしは足をドアと縁のあいだに挟んで抵抗します。

「えー、ちょっとなんなんもう」

「すみません、もうすこし話だけでも」

「壊れたのかなぁ」

「そこまでではないと思うのですが。あー、ナッツーさんまた部屋のなか氷漬けにしちゃって。冷凍庫のなかだってもっと白以外の色がありますよ。なんですかその壁。氷じゃないですか。樹氷じゃないんですから、雪のモコモコで飾りつけないでくださいよ」

「どうしよう、このままだと冷気が逃げちゃうし」

「だいたいこんなに分厚い氷に包まれてたら下からの騒音なんて届かないんじゃないですか。ひょっとそしてナッツーさん、ユウケさんに嫉妬しただけなんじゃないんですか。ほかの女を連れ込まずにじぶんを愛しておくれよ、と迂遠に申し伝えたかっただけじゃないんですか。うっひょー、想像したらドキドキしてきた」

「しょうがないから氷で埋めてとくか」

 そうつぶやくとナッツ―さんはドアの隙間を下から上に手でなぞるようにしました。手の動きに準じて、ドアの隙間が雪で埋まっていき、瞬く間に氷にとなります。

「うひゃ。ちべたい」

 危うくわたしの足まで凍ってしまうところでした。寸前で足をどかし、わたしはぷんぷん、と膨れます。

「そんな真似していいと思ってるんですか。退避勧告だって出せちゃうんですからね。なんたってわたしはここの管理人なんですからね」

 ふんだ、と踵を返して、わたしはぷりぷり階段を下ります。

 それから一階の奥のわたしの部屋のまえに移動したのですが、そこではなぜか見知らぬ顔の女性と、見覚えのある男の子が一人、立っていました。女性は茶色いワンピースにデニム生地のジャケットを羽織り、たぬきみたいに愛嬌のある顔はほどよく化粧されていて清潔感に溢れています。いっぽう男の子のほうにはこれといった表情がなく、嫌々そこに立っているのか、それとも深淵な思索にふけっているのか、はたまた邪な考えを巡らせているのかを、傍からは窺い知ることはできません。上下ジャージで、素朴な印象です。丸眼鏡だけが微妙にオシャレを思わせ、そこはかとなく、好青年の気配を漂わせています。

 男の子が部屋の鍵を開け、どうぞ、と女性をなかへ案内します。

「ちょっとちょっと。かってに何してくれてるのきみたち」

 わたしは、わたしの部屋にかってに侵入しようとする不届き者たちに近づきました。

 彼らはわたしを無視して部屋に入り、ドアを閉じるではありませんか。

 わたしはドアノブを捻りますが、開きません。

 どうやら鍵を閉められてしまったようです。

 そんなかってな。

 お腹が煮えました。ぐつぐつです。

 わたしは鼻から息を、ドラゴンの息吹のごとく勢いで吐きだし、決意のヨシを込めました。

 意を決して、ドアに顔を突っ込み、そのまま鍵のかかったドアをすり抜けます。

「ダメでしょかってに人の部屋に入ったら」

「どうでしょう、ここが唯一の空き部屋なんですが」男の子が女性に言いました。「いまのところ条件に合う物件はここが最後になりますけど」

 部屋はがらんとしています。

 それはそうでしょう。

 わたしに物は必要ないのです。

「間取りや立地は申し分ないのですが」女性が言いました。「ほかにはどのような方がお住まいなんでしょう。その、以前に隣人トラブルで怖い目に遭ったものですから」

「そうでしたか。いちおう守秘義務がございますので詳しいことはお話できないのですが、いずれも女性の方ですよ」

「若い方ですか」

「そう、ですね。だいたいみなさんキオンさまと同い年くらいの方です」

「ナユとお呼びください。名字で呼ばれるのがすこし」

「あ、すみません。さきほどもお願いされたばかりでしたね。職業柄どうも癖になってしまっていて。すみませんナユさま。あの、ご安心ください。どの住人の方もナユさまと歳がちかいようですので」

 嘘だね、とわたしは思います。ユウケさんは齢千年に届きますし、ナッツーさんは三百歳は超えるはずです。ほかの住人の方々もみなさん百年は優に生きていらっしゃる方ばかりです。

 わたしは腕を組みます。

 二人を睨み据え、会話を見守るのです。

「あのう、私じつは仕事の関係で大量の水を日々使うのですが、だいじょうぶでしょうか」

「水、ですか。それはええ、構わないとは思います。もちろん水道料はそれに応じた金額がかかるはずですが」

「お金の心配はないんです。ただ、下水のほうで毎回大量に水を流しても、破裂したり、詰まったりしないだろうかと」

「そこは一般常識の範囲なら大丈夫なはずです。ご心配ならもうすこし詳しいを話を聞かせてもらって、契約内容に盛り込みましょうか。敷金をあげれば、保険の意味でももしものときの負担は減るでしょうし」

「毎日お風呂を三回換えるくらいの量です」

「それはお風呂場で使うんですか」

「はい」

「なら問題はないでしょう。お綺麗好きなんですね」

「はい、とっても」

 わたしはそこで、女性の首筋にヒビが入っているのを見つけました。

 目を凝らすと、どうやらそれがヒビではなく、鱗であるようだと見抜きます。

 ははぁん、とわたしは目ざとく喝破しました。

「さてはあなた人魚さんですね」

「あの、もう一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」女性が男の子に言いました。「はいなんでしょう」

「ここの管理人さんはどんな方なんでしょうか」

「あ、それなんですが」男の子は言いにくそうに、「じつは人と会いたがらない方でして」と言った。「顔を合わせたことはないんです。でも仕事だけはしっかりしてくださる方ですし、要望があれば電話でもメールでも受けつけていらっしゃるので、心配はないですよ」

「そう、なんですね」

 そこでなぜか女性はわたしを見ました。わたしはぎょっとします。目が合ったように思ったのですが、じっと見据えられたあとで彼女は何も言わずに、ではここにします、と男の子に告げました。

 男の子はほっとした様子で、

「では、契約のほうを事務所に戻ってから」

 いそいそとドアのカギを開け、部屋のそとにでました。

 女性はドアをくぐる前に室内にいるわたしに向けるように、お世話になりますね、とつぶやき、ドアを閉じました。カギのかかる音がし、しばらくのあと自動車の遠ざかる音が遠いていきました。

 どうやら新しい住人の方が増えるようです。

 わたしの部屋をほかの方に明け渡してしまうのは屈辱ですが、わたしは管理人ですからそれもまた仕事のうちと見做して、受け入れるしかありません。

 住人のみなさんが心地よく過ごせる環境を維持すべく、わたしはきょうもあくせくと働き、夜はしょうがないので、しばらくのあいだは、屋根のうえで過ごすことにしようと思います。

 夜風すらわたしを素通りします。

 無視には慣れています。

 必要とされるのはいつも、苦情の対応に迫られたときばかりですが、それも管理人の仕事と思えばこそ耐えられます。

 あすもわたしはこのアパートの安全と平和を守るために、日夜、目を光らせ、耳を澄まし、一癖も二癖もある住人たちのそれぞれの事情を垣間見つつ、小言を漏らしながら、それでもそれぞれの注文に応えるのです。




【生きを吸う】


 呼吸をするたびに妖精が生まれる。ぼくが息を吸い、吐き、もういちど吸うあいだに妖精は、ぱっと現れ、萎びて消える。

 萎びた妖精は地面に落下し、粉となって霧散する。そのため掃除に困ることはないが、それにしても不思議だ。

 不思議なうえ、不気味だし、不可解だ。

 否、不可解というか病気なのだろう。

 現に僕はそういった珍しい病気であるとされている。

 呼吸をするたびに妖精のようなものを吐きだす病気だそうだ。納得してはいない。

 人間は一日に二万回以上呼吸をするそうだから、僕は日に妖精を二万匹殺していることになる。瞬きほどのあいだに妖精は生まれ、死ぬ。

 いまではすっかり慣れてしまったが、初めて僕を見る人は総じて目を剥く。それはそうだろう。目のまえで妖精が現れては、あっという間に干からびるのだから。

 冬の日に吐く息のように白く、ときに黒く、或いは緑に、それとも黄色に。

 妖精たちはすべて別の個体であるようだった。

 だから僕は妖精を日に二万回殺すだけでなく、二万匹の妖精を殺していることになる。

 我ながら極悪非道だと思うが、しかし呼吸をしなければ僕が死ぬ。

 人間とて産まれたらあとは死ぬ定めだ。それは命あるものの宿命であり、例外はない。

 だとすれば一瞬とはいえ産まれてくる妖精たちとて、そういう生態と思えば、呵責の念を薄めることはそうむつかしくはない。

 生物には寿命がある。種ごとにそれは異なるのだ。

 妖精の寿命が単に極端に短いだけにすぎない。

 そうと思えば、僕にとって現れては消え失せる妖精たちは、その辺を飛び回る羽虫とそう変わらぬ存在に成り下がる。

 慣れもある。

 僕が生きているかぎり、それは数秒ごとに引き起こるのだ。

 スポーツをしたときには毎秒と言っていい。

 はらはらとのべつ幕なしに現れては萎びて失せる妖精は、そういった新種の雪の結晶のように見えなくもない。

 現に僕は、通りすがりに僕に目を留め、興味津々に目を爛々と輝かせる人々から説明を求められたときには、こういうマジックなんです、と言い張ることにしている。

 かってに動画を撮られて一躍有名人になったこともあったが、つぎからつぎに新しい動画が各々のアカウントで投稿されるので、もはや目新しくもなんともなくなった。

 まあそういう人もいるよね、と人々の常識の枠組みが数ミリ広がっただけだ。北極に住まう人がオーロラをなんとも思わないのと同じで、僕の住まう街ではもはや僕は特別な存在でもなんでもない。

 研究者の目にももちろん留まったが、解明できるものならしてほしいと意気揚々と全身をくまなく調査してもらったものの、これといって体質が改善するような発見はされなかった。現在進行中で絶賛匙を投げだされ中である。

 妖精には質量がないことが断定されただけで、もはやこれは集団催眠のようなもので、蜃気楼の一種なんですよ、といった牽強付会な仮説を聞かされただけで、僕の現状は何ら変化ない。

 息を吸い、吐き、吸うたびに、目のまえで妖精がふわりと現れ、しおしおと萎れる。床に落下し、煙のように消えてなくなるあいだに僕はまた新しい妖精を生みだし、足元に落としていく。

 妖精たちはみな一様に、笑顔だ。

 まるで延々と暗がりを彷徨っていたなかで、ようやく出口に行き当った、そとに出られた、といったような歓喜の表情で、背中から生える蝶に似た翅をめいいっぱいにはためかせ、その矢先に、ミイラのように干からびて、落下する。

 あたかも自由そのものが毒であるかのように。

 皮膚に触れた雪の結晶のごとく有様で。

 妖精たちはいまもこうしているあいだに、生まれては、死んでいく。

 ただ消えるのではなく、これは明確に死なのだと判断つく。歓喜の輝きを全身から放ったそばから萎れていくその姿に、僕は、ひょっとしたら、と思わずにはいられない。

 僕はひょっとしたら、妖精たちの命を奪うことで生き永らえているのではないのか、と。

 僕が生きるためには日に二万匹の妖精の命が必要で、何らかの魔法でひょっとしたら僕は、そうした奇跡を可能としているだけなのではないのか、と。

 もしそうだとして。

 その奇跡を、魔法を、止める術があったとして、果たして僕は妖精たちを救うべくこの命を差しだせるだろうか。

 何度か妄想してみるものの、ためしに息を止めた数十秒後にはもう、僕は新たな妖精を生みだしている。




【ふぃっくしょんの部屋】


「たとえば、古代文明があったとしましょう。現代文明よりも高度な科学技術を有していたとして、おそらくは現代文明で可能なことの大部分は容易く再現できたでしょう。再現というか、過去の文明なので二番煎じなのは現代文明のほうなのでしょうが」

 はくちゅ。

 画面のなかで須磨戸(すまと)リクなる男がくしゃみをする。すみません、と謝罪してから彼はつづける。

「古代文明が高度な社会を築きあげていたとしたら、仮想現実や拡張現実といった技術も、それと似たような事象を顕現させることもむろん可能だったと考えても不自然ではないですよね」

「それはまあ。我々よりも高度な社会を築いていたなら、我々が使える程度の技術は使えたでしょうね」

「同意ありがとうございます。もちろんこれは仮定の話でしかありませんが、もしそうした古代文明があったとすれば、滅んだあとでも、そうした技術が残り、いまなお稼働しつづけている可能性はゼロではありませんよね」

「まあ、そういうことになりますかね」よくよく想像を逞しくし、なりますね、と首肯する。

「じつは私どもの研究は、そうした古代文明の残留遺跡を検出することにありまして、何らかの事象を検出できれば、それはひるがえって、超古代文明がかつてこの地球上に存在したことの傍証となり得ると考えたわけなのですが」

「検出されたんですか」

「ええ、いざ検出できてしまうと、果たしてそれが古代文明のものなのか、それとも地球外の技術によるものなのか、はたまた現代人でも古代人でもなく、未来人の仕業なのではないか、といった可能性までを含めて吟味せざるを得なくなり、少々研究の先行きが不安定になっているところでして」

「それはいいのですが、いえ、とても素晴らしい研究だと思います。ですが、それと僕がここに呼ばれたことと何がどう関係あるんでしょう」

 急に呼びだされたのだ。

 仕事帰りに、高級車が目のまえに止まり、ご同行願います、と親切丁寧に誘われ、唯々諾々と乗り込んでしまった。仰々しい手帳を見せられたが、それがいったいどんな社会的地位を示すものなのか僕には判断つかなかった。

 政府の人間らしい、ということ以外何もわからなかったのだが、こうして案内された場所はどうやら国立の研究所らしく、真っ白い部屋に通されたあとは、こうして目のまえの画面越しに、研究者を名乗る男から説明を受けている。

 だが要領を得ない。

「あの、リクさん?」画面の向こうで彼が黙ってしまったので、僕は不安になる。「どうして僕はここに連れてこられたのでしょう。何かその、協力してほしいといった話だった気がするのですが」

「協力。はい、そうなんです。まさにそれこそが問題でして」リクさんはどうやら切り口を探っていたようだ。「私どもの検出した残留遺跡――つまり超古代文明のものと思しき非自然現象は、どうにも我々における仮想現実や拡張現実にちかい性質を有しているようでして」

「現実には存在しない映像が未だにどこかに流れているということですか」

「はい。ありていに申し上げればそうなります。ただし、映像ではなく、そういったある種の仮想生命体のようなものらしく、受信機がなくとも、特定の遺伝子を保有した個人であればそうした仮想生命体の存在を知覚できるようなのです」

「まるで幽霊みたいな話ですね」

「まるで、ではないと私どもは考えております。幽霊や妖精、妖怪や幻獣、そういった現実に存在しないはずの、しかし全世界に同時多発的に語り継がれてきた異形の生物のなかには、私どもの言うところの残留遺跡を知覚したがために、現実にいるものと見做してしまった者たちの証言が元となっている話もあるのではないか、といまはそうした研究も行っています」

「分かりました。つまり僕もそういった残留遺跡でしたっけ? それを知覚可能な遺伝子を持っているということですね」

「いえ、そうではないのです」

「違うんですか」

「たいへん申し上げにくいのですが、はい。そうではありません」真実に申し訳なさそうに彼はこうべを垂れた。「これは国家機密級の超極秘事項の話になります。ですが、これは私どもだけでなく、ゲンソウさんの今後の生活にも密接に関わってくる、だいじな話になります」

「僕の生活……そういう前置きをされるとなんだか怖いですね」

「すみません。まずはこちらをご覧ください」

 画面のなかのリクさんが、手元を見遣って何らかの操作をした。

 僕のいる部屋には何もない。僕は壁にちかいところにある椅子に座っている。

 音もなく、真っ白い空間の中央に人物が現れた。

 女性だ。

 立体映像だろうか。

 それはそうだろう。

 瞬間移動をしたように彼女はそこに急に出現したのだ。

「あの、彼女は」

「残留遺跡です。古代文明と私どもは見做していますが、そうした現代文明とは異なった文明によって生みだされた仮想生命体です」

「あの、こっちを見てるんですけど」

「意思の疎通は可能です。こちらの言語もすこしならば話せます。彼女は私どもが接触した残留遺跡のなかでも古株の個体で、我々は彼女を通してたくさんのことを学びました。私どもは彼女を先生と呼んでいます。もちろん愛称ですが、どうぞ呼ぶときは先生と呼びかけてみてください」

 女性は全身を青いドレスで着飾っている。ドレスの生地は起伏がすくなく、スライムがぎりぎりドレスの形状を保っている、といった瑞々しさを湛えている。

 ドレスと身体の境目が曖昧だ。まるで淡水魚のグッピーが擬人化したみたいな見た目で、人型ではあるが、肌の色は見る角度によって、白にも黄にも黒にも青にも見える。

 彼女がこちらに目を留め、歩み寄ってくる。足音がする。彼女が近づくたびに甘い柑橘系の匂いが濃くなる。警戒心がつよくなるのがじぶんでも判った。

 目のまえで彼女は止まった。

 僕よりずっと大きい。

 世界一大きな女性と言ってもいいかもしれない。

 僕は失礼ながら、都市伝説の、ぽぽぽと口ずさむ長身の女性の怪異を連想した。

「あの」これは画面の向こうにいるリクさんへ投げかけた言葉だ。「本当に現実には存在しないんですか。かなり、その、リアルというか、生々しいというか」

「触れられますか」

 言われて手を伸ばしかけるが、かってに触れてはまずいだろう。

「先生」とこれは画面の向こうから、つまりリクさんがこちら側に投げかけた言葉だ。「そこにいる男の子に、触れてみてください」

 言われたからだろう、こくん、と頷くと、先生と呼ばれた長身の女性は、僕に微笑みかけてから、その場にしゃがみこみ、片方の手のひらでゆっくりと僕の頭を撫でつけた。

 感触がある。

 本当に触れられているのだ。

「あの、これ現実ですよね」

 僕は硬直しながら画面に向かって言った。しゃがんだ女性の足元からは、床に垂れたドレスの衣擦れの音が、まさしくそこにそういった物体があるのだと、否応なく僕に知らせている。

「仮想なんかじゃないですよこれ。現実ですよ」

 僕はそうと訴えた。

 声はきっと昂揚していただろう。恐怖心はない。ただただ気分が高ぶっていた。

 危険はない。それが判る。

 非現実的な出来事がいままさに目のまえで巻き起こっている。その事実が僕の気分を、ともすれば興味関心を、胸の奥底に指を突き立てて渦をつくるように、掻き立てている。

「いえ、そうではないんです」画面の奥でリクさんがくしゃみをする。「すみません。そこにいるのは紛れもなく生身の肉体を持たない、仮想生命体です。原子で構成されてはいません。ある種の情報によって編まれた存在です。いわゆる三次元の世界の住人ではありません。これは語弊のある説明の仕方になってしまいますが、生きている階層が違います。私どもとは異なる階層にて息づいている者たちなのです」

「ですけど、ちゃんと触れますよ。疑似信号とかそういうのなんですか? あ、わかった。この空間が特殊なんですね」

「半分は正解です。その空間は特殊です。いわば階層の波長を合わせてあるようなものでして、我々のような現代人であっても、残留遺跡と交流可能な場所になります」

「だから触れるんですね」

 テーマパークのようなものだと思えばいいのだ。

 仮想生命体というのだから、それなりの知性はあるのだろう。独立して思考できるのだ。人工知能みたいなものだろう。アバターが意思を持って生きている。それを長らく人類が知覚できていなかった。

 驚かなかったと言えば嘘になるが、だからといってどうなるわけでもない。

 この技術が開発されたのが、現代か古代かの違いがあるだけだ。

 遅かれ早かれ現代人も、これにちかい技術を生み出すはずだ。すでにどこかでは開発されているのかもしれない。

 いや、されているだろう。

 でなければこの空間を造ることはおろか、残留遺跡をこうして人の目に映るように昇華させることは適わなかったはずだ。

 受信機がなければ、彼女たち仮想生命体は、そこらを誰にも認知されずに彷徨い歩きつづけていたのだ。

 まさに幽霊だ。妖怪だ。

「彼女たちのために僕に何か協力できることがあるわけですね。だから僕をこうして連れてきた。わかりました、いいですよ。協力します、させてください」

 殊勝に物分かりのよい好青年を気取っているけれど、本懐は別にある。こう言ってしまうと僕の株が下がってしまうから嫌なのだけれど、単純に目のまえにいる巨体の持ち主が、僕の美的感覚からすると、とても素晴らしくキュートでビューティな外見的特徴を備えていて、単純に僕は彼女に親切にして、あわよくばいい人の評価を得たかった。

 だから、

「そうではないのです」申し訳なさそうにリクさんが画面の向こうで、くしゃみを堪えながら、「問題は、彼女のような存在のなかにも現代文明に適応してしまう個体がでてきてしまったことなのです」と言った。

「現代に適応? 進化しているってことですか」

「端的に申し上げれば、はい。そういうことになります。私どもの研究の影響だといまは徐々にですが明らかにされつつあります。どうやら彼女たちには、技術を模倣しようとする性質があるらしく、また仮想生命体にも我々と同様に繁殖に類する生態が備わっているようでして、つまり次世代を生みだすことが彼女たちにはできるようなのです」

「つまりリクさん方が、彼女たちに接触できるような仕組みを築いてしまったがために、彼女たちが進化してしまったと」

「正確には、彼女たちのつぎの世代が、ですが」

「それはよくないことなのですか?」とりたてて大きな問題には思えない。

「それだけを取りあげるならば、さほどに問題はありません。ですがどうやら次世代の仮想生命体のなかには、現代に馴染みすぎるがあまりに、じぶんが仮想生命体であることに気づけず、あたかも現代人であるかのように振る舞う個体もでてきてしまっているのです」

 くちゅん。

 一拍を開けて、それの何が問題かと言えば、と彼は言った。

「その空間がそうであるように、新世代の個体のなかには、生身の人間に干渉し得る能力を獲得した個体もでてきているのです。問題はつまり、そうした次世代の仮想生命体が、現代文明の技術を利用して、知覚遺伝子を持たない大多数の生身の人間に対しても干渉し得る術を、無意識下で使いこなしてしまう点にありまして」

「よく分からないんですが、それはつまり、僕らの社会にも、彼女のような存在が紛れ込んでいると? それを僕らは見抜けないわけですか?」

「それも一つの問題点ではあります。ですが優先すべき問題は、そうした進化を経た新世代の仮想生命体が、そのことに驚くほど無自覚な点にあるのです」

「じぶんが仮想生命体だと気づいていないんですか」

「はい」

 嫌な沈黙が開いた。

 僕はこの時点で、一つの信じたくのない仮説を閃いていたけれど、敢えてそれには触れずに、

「確かめる術はあるんですか」と画面を見詰める。「現代人に紛れ込んだ個体が、真実に仮想生命体かどうか。見た目で判断できたり、すぐに見分けられたりできるんですかね」

「できます」リクさんは断言した。「仮想生命体が干渉できるのは、あくまで現代の電子機器と、そしてそれを扱う人間の認知能力に対してのみです。ですからたとえば、私がいまこうして、ふぃっくしゅん――引き起こしているようなアレルギー反応を見せることはありません。ありていに言えば花粉症にはどうあってもならないのです」

「はぁ、そんなことで」

「その原理を応用し、生身の人間ならば即座にくしゃみをしてしまう薬を開発しました。人体には無害ですが、空気中に散布されたそれを吸いこむと、しばらくくしゃみが止まらなくなります。その反応の仕方を見れば、その人物が、仮想か生身かの区別がつきます」

「すごいですけど、くしゃみで判別するしかないなら、その薬を街中に撒くわけにはいきませんね」

 街中の人々がのべつ幕なしにくしゃみをしはじめたら、その状況だけで、パニックになってしまいそうなものだ。仮想生命体を探すどころではない。

「はい。ですが、新世代の仮想生命体が干渉できるのは飽くまで、現代の電子機器と生身の人間に対してのみです。仮想生命体同士では偽装が通じません。とはいえ、見た目が現代人であれば、さすがに瞬時に識別できるほどには、見分けがつくわけではないようなのですが」

「要するに、彼女には人類に紛れ込んだ仮想生命体を見抜けるんですね」僕は頭上を仰ぎ、巨体の美しい人を見た。

「そうです。そこにいらっしゃる先生に、カメラの映像で見てもらえば、それなりに当たりをつけることはできます。そのあとで、確実に仮想生命体かどうかを知るには、目ぼしい個体を、薬の散布してある部屋に連れて行き、くしゃみをするかどうかを見れば確かめられます」

 僕は唾液を舌の上で転がす。ぬめぬめしていて、これをいちど外にだしてから舐めるのは嫌だな、とじぶんが確かにここに存在することを示すように思考を巡らせるが、

「どうです」

 画面の向こうから届く声に、そうした思考を根元から妨げられた。「くしゃみをしたくなりますか」

「ならないですよ」

「おかしいですね。その部屋にはいま薬が散布され、充満しているはずなのですが」

「量が足りないんじゃないんですか。それか、空調が入っちゃってるとか」

 僕は目のまえの巨体の持ち主に視線をやる。肩を竦めてみせ、平静を装うが、内心は乱れに乱れ、膝もがくがく云っている。

 仮想生命体だという彼女は、困ったような、憐れむような、僕を心底不安にさせる眼差しを真上からそそいでいる。

 あたかも僕が暴れだしたら即座に取り押さえられるような間合いもとより、威圧を感じた。

「薬はちゃんと散布されていますよ」

 部屋の奥にある壁が開いた。

 そこから白衣に身を包んだリクさんが現れる。

 リクさんは部屋の中ほどまで歩を進めると、僕ににこやかに手を挙げ、やぁ、と言った。僕が手を振り返す前に大きく仰け反り、こんどは一転、腰を大きく折って彼は口元を両手で覆い、特大のフィックションを、真っ白い部屋に響かせる。




【ドーナツの姉】


 姉が大量にドーナツを買ってくるようになって一週間が経った。

 毎日のように紙袋にパンパンのドーナツを両手に抱えて帰ってくる。そしてそれをその日の夜のうちにはすっかりたいらげてしまうのだ――わたしが。

「ちょいちょーい。なんでわたしがお姉ちゃんの残飯処理をしなきゃならんのよ。これ以上、ぷくぷくかわいくなったらどうしてくれよう。お姉ちゃんが買ってきたんだからお姉ちゃんが食べて」

 最後の一欠けらを口に放りこんで、わたしは抗議する。

「だって私が欲しいのはこっちだから」

 言って姉は、ドーナツから取りだしたドーナツの穴をひょいと指で上品につまんで頬張るのだが、わたしには姉のつまむドーナツの穴は見えないし、ただからかわれているだけなのではないのか、と最初はプリプリ山盛りのドーナツを姉の代わりに食べていたのだが、どうやら姉は真実本当にドーナツの穴を食べていたらしく、日に日にその身体に穴を開けていく。

「穴が開いているわけじゃないの。これは透明になってるの」

「戻るの? ヤバくない?」

「大丈夫だよ。すっかり透明人間になってもお姉ちゃんはお姉ちゃんだから」

「すっかり透明人間になったら大丈夫じゃないんだよお姉ちゃん」

 止めようとしたのは最初ばかりで、姉の歯ぐきが剥きだしになり、内臓の蠢きを観察できるようになってしまうと、さっさと全身すっかり透明になっちゃいなさい、という気分になり、せっせとわたしは文句を挟みながらも姉の残したドーナツを、山盛りのカロリーの塊を食べ尽くしていくのである。

 ある日、居間に下りると山盛りのドーナツだけがテーブルの上に載っていた。

「お姉ちゃん? 帰ったの?」

 わたしは姉の部屋を覗き、風呂場を覗き、家のなかを探したが姉の姿はどこにもなかった。玄関には姉の靴があったので、家の中にいるはずだ、とずばり見抜いたが、わたしの呼び声に姉が応じることはなかった。

「イタズラするならやめてよ。嫌だよそういうの」

 怒ってみせるも、反応はない。

 わたしはこの日もドーナツをたいらげ、無駄に蓄えた皮下脂肪たちに新たな餌を与えた。

 だがこの日を境に、姉は姿を晦まし、わたしがドーナツをたらふく食べることもなくなった。

 わたしの体型が元の、絶妙なぷにぷに具合の小ぶりかわいい輪郭に戻ったころ、わたしは久方ぶりにドーナツを食べたくなってじぶんで買ってきた。

 あれほどもう二度と食べたくない、飽き飽きだ、と思っていたドーナツも適度な周期で適量を食べるならば、こんなにおいちい食べ物があったろうか、と感動すること請け合いである。

 わたしは生クリームの挟まったドーナツをつまみ、二個目を口に運ぼうとする。

 そのときだ。

 なぜかドーナツがわたしの手から離れ、宙に浮いた。

 それからドーナツの穴が青く縁どられ、すっぽん、と何か球体のようなものが外れるのが見えた。

 ドーナツの穴だ、とわたしは息を呑む。

 対面には誰もいないはずだったが、そこからは何者かの息遣いが感じられた。わたしは固唾を飲みながら、ゆっくりとわたしの口に戻りくるドーナツのUFOじみた動きを眺めた。

「おねぇふぁん?」

 呼びかけるが、返事はない。

 何もない空間から感じられた息遣いは薄れ、あとには静寂と、ドーナツの甘い香りだけが残された。

 わたしはドーナツを齧る前に、手にとってつぶさに観察する。

 あれこれ試してみるが、ダメだった。

 どう頑張っても、わたしには、ドーナツの穴を食べる真似はできないのだった。




【絵に描いた俺】


 食費が浮くくらいしかいいことがない。

 きっかけは多分、妙な女に無理やり絵の具を食わされたときで、それ以来、なぜか絵の中に手を突っ込めるようになった。

 たぶん本気を出せば全身すっかり入れることもできるのだろうが、元に戻ってこられなくなったら嫌なので、つまり絵の中に閉じ込められでもしたら目も当てられないので、そういう危険は犯さずにいる。

 そもそも全身が潜れるほど大きな絵が日常生活の上では滅多にお目にかかれない。

 とはいえ、最近ではやたらとリアルなイタズラ描き、たしかグラフィティアートとか言うのだっけか、ああいうのが街中の至る所に描かれているので、探そうとすれば全身丸ごと入れるくらいの絵はあるだろう。

 絵の中に入れる時間は、絵のリアリティに比例しているらしく、よほど本物そっくりでなければ、せいぜいが数秒で押しだされる。絵の外に引っ張りだした絵の一部とて、本物とは似ても似つかないガラクタだ。やるだけ損をする。

 だが、絵画はいい。

 本物そっくりゆえ、たとえば林檎が描いる絵であれば、その絵に腕を突っ込んで林檎を掴んでしまえば、あとはその林檎はじぶんのものだ。金貨なら金貨を、宝石なら宝石を絵の中から盗みだせる。

 その代わり、その絵からはそれら林檎や金貨や宝石が消えてなくなってしまうので、たとえばその絵が名画だったら大騒ぎだ。

 機会があればモナリザの瞼を閉じてみたいな、と思っているが、ついぞその機会は巡ってきそうもない。そもそも絵画に近づけないだろう。名画ほど厳重だ。

 しかし芸大生の展覧会はそうではない。

 無名の絵描きたちがこぞってリアルな絵を懸命に描いてくれる。

 卒業制作展などは穴場だ。

 最新式の電子機器すら絵に描いている者がおり、生活必需品とて揃え放題だ。

 だがさすがに、監視映像は誤魔化せない。

 原理は不明であろうとも、俺が近づいた絵に限って、本来描かれていて然るべき対象が絵の中から消えたならば、コイツが何かしたに違いない、と監視映像から目星をつけられる。

 そうなれば次回からは入場した時点でマークされるに決まっている。

 さいわいにも、ポスターであってもこの能力は有効であるらしい。さすがに液晶画面には手を突っ込む真似はできないようだが、駅前やスーパーに貼られた無数のポスターからは、銘菓や衣服が盗み放題だ。

 とはいえ、やはりというべきか、食費が浮くくらいしかいいことがない。

 等身大のサイズのままでポスターに映る衣服はすくなく、ほかの商品にしても同様で、いざ使おうとしても、食べ物以外はろくに身体に見合わない。

 結構な能力に思えたが、使い勝手はさほどよくないと判ってからは、食料やオヤツを調達する以外では、使わないようになった。

 それはそれとして、日増しに街中でグラフィティアートをよく見かける。

 とくに多いのが人型を模した絵だ。

 同じアーティストの作品だろう。みな似たような絵柄で描かれている。

 リアルと言えばリアルだが、一目で絵と判る描き方をされており、癖のある色彩の絵でもあるから、どれも同一人物の手による作品だろうと見当がついた。

 海外のグラフィティアーティストで、有名な画家がいたが、あれの真似だろうか。

 二番煎じにしては面白みがない。

 たいがいの人型が、壁ではなく、道路に描かれている。その点は、すこしは目を惹くという意味で、評価してもいい気はするが、踏みつけられるだけに留まらず唾を吐かれ、吐しゃ物に晒され、ガムがこびりつく場所にわざわざ描かなくとも、と思わないでもない。

 電車の中に見つけたときには、いったいどうやって描いたのだろう、とその手法に興味が湧いた。

 型を用意しておいて、一瞬でスプレーで塗って去るのだろうか。

 暇人がいるものだ。

 ポスターから新発売の炭酸飲料水を抜きだして、喉を潤しつつ、いったいこの能力はいつまで継続されるのだろう、とこの能力を授けただろう女の行方をそれとなく追う日々を過ごす。

 ある日の朝のことだ。

 シャワーを浴びていてると、おや、と違和感を覚えた。

 背中を洗ったときに、指にザラリとした感触が走ったのだ。

 なんだ。

 鏡で確認してみると、背中の一部に染みができていた。

 痣だろうか。

 面積からして黒子ではないだろう。

 色もどこか青っぽい。

 かなりの部分が、青く変色している。

 打撲でもしたかな。

 痛みはないので、しばらくそのままで過ごしたが、日に日にその面積は広がった。

 終いには、飛び火するように、身体のあちこちに似たような染みが滲みだした。

 驚いたことに色がまちまちで、赤もあれば黄もあり、緑もあれば黒もあった。

 手の甲が真っ白になったのには目を剥いた。

 石膏で塗ったくったような白なのだ。

 全身が白くなる病気にかかった海外の有名なポップスター歌手がいたのを思いだす。その歌手は黒人だったが、病気のせいで白人のごとく顔から何から真っ白になった。

 ひょっとしてあれと同じ病気なのではないか。

 しかし、色が違いすぎる。

 カラフルなのだ。

 それこそ、色とりどり、よりどりみどりで、このままでは全身モザイク人間になってしまう。仮にこの世に全身モザイク人間がいたとして、嫌なものは嫌なのだ。差別感情だろうが何だろうが、これまでと違った異変が身体に生じたのだ、怖れて何がわるかろう。

 病院にかかろうと思い、支度をしていると、床が汚れているのが目に入った。

 目を凝らす。

 足跡のカタチに、水溜まりができていた。

 水溜まりは油が浮いたようにカラフルだ。

 じぶんの足の裏を覗く。

 靴下を履いていたが、それがぐっしょりとカラフルな液体で濡れていた。

 液体は粘着質があり、絵の具のようだとふと思う。

 そこでなぜか俺は、ぞっとした。

 何かを連想したのだが、その何かを鮮明な像にしたくなくて、急いで家をでた。

 医者に診てもらわねば。

 なんとかしてもらわねば。

 ただそのことだけを考え、道を急いだが、徐々に足取りは重くなり、歩を進めるたびに、ぐしょり、ぐしょり、と音がした。

 雨に濡れたようだと思い、しかしいまは快晴だ、と空を仰ぐ。

 すると眼球に、どろり、と生暖かい液体が垂れ、視界がカラフルに染まった。

 血だろうか、と急速にぼんやりしだす思考で考える。

 液体はドロドロとのべつ幕なしに垂れつづけ、それら液体を手のひらで拭おうとするのだが、もはや平衡感覚も掴めず、見上げていたはずの空がいまはなぜか前方にあった。

 じぶんが仰向けに倒れているのだ。そう思ったつぎの瞬間には、身体の自由がきかなくなった。微動だにできない。

 遠くから誰かの足音が聞こえてきたが、それは目のまえを、というよりも、まさに俺を踏みつけ、何事もなく去っていく。

 待ってくれ。

 起こしてくれ。

 俺はここにいる。助けてくれ。

 叫びたくて仕方がなかったが、どれだけ息を吐こうとしても一向に声にはならず、いっそ意識がなくなってくれと祈るものの、カラフルな視界だけが健在で、目のまえを、猫が、子どもが、自転車が、まるでわざと俺を踏みつけていくかのように通り過ぎていく。




【生やした尻尾は掴まれない】


 茶色い液体で、アンモニアに似た刺激臭を放っている。

 ビーカーに抽出したそれをまえにし、私は長年の研究の成果が結実したことを確信した。

 数多の動物実験を繰り返し、ようやく完成したそれは、DNAを変えずに生き物の細胞を別の生き物の配列に置き換えるという形態強制修正薬であった。

 使用法は単純だ。まずは形態強制修正薬に、特定の生き物のDNAを覚えさせる。それをほかの生き物に浴びせれば、たちまち生き物は、形態強制修正薬の覚えたDNA情報を有する生き物のカタチになる。

 対象のDNAはそのままだ。

 細胞だけが配列を変える。

 たとえば形態強制修正薬にネズミのDNAを覚えさせたとしよう。それを猫に浴びせれば、たちどころに猫のDNAを有したネズミができあがる。

 しかし質量保存の法則は有効ゆえに、たとえばゾウのDNAを薬に覚えさせそれを使っても、猫がすっかりゾウに変わることはない。ただし、ゾウの鼻や足や心臓といった一部分にだけ変わることはできる。

 ただし欠点がないわけではない。

 この薬は劇薬だ。

 副作用によって、どんな生き物であっても死んでしまう。

 ゆえに絶滅危惧種の生き物を増やすための道具としては利用できない。なぜならDNAは元の生き物ののままなので、繁殖させたところで産まれてくるのは元の生き物の姿の赤子だからだ。

 薬を使って、任意の動物をイリオモテヤマネコに創り変えても、それら配列組み換えのイリオモテヤマネコ同士を交配させたところで、イリオモテヤマネコの子供は産まれてこない。

 こうした欠点があるために、企業に営業をしても門前払いをくらった。そもそもそんな危なっかしい技術を使ったのでは、顧客離れを引き起こす、とまで言われる始末だ。

 学会からは相応に興味を持たれたが、DNAが変わらない、という点がどうしてもネックに映るらしく、利用価値を見出されずに高く評価されることはなかった。

 ゲノム編集技術がすでに世には出回っている。わざわざ見た目だけがほかの動物に変わるだけの技術など時代錯誤なのかもしれなかった。

 むしろどちらかと言えば、見た目はそのままで内臓だけが別種の生き物である、といった技術のほうが企業にも学会にも広く受け入れられているようだった。

 医療や食糧難の解決に結びつくからだろう。

 ブタの臓器を人間に移植するなんて技術は現代では当たり前に普及しつつある。

 遺伝子ドライヴと呼ばれる技術を使えば、特定の蚊を滅ぼすことだってできるのだ。

 たとえばそれは、害獣であるイノシシの群れに、ゲノム編集技術を用いた「生存により有利な形質を帯びた個体」を紛れ込ませれば、やがては繁殖しやすいほうが増えていくので、仮におとなしくて肉のやわらかい遺伝子にゲノム改編された個体が増えれば、いずれはイノシシの群れはすべてそうした形質を有した個体に入れ替わり、害獣ですらなくなる、といった仕組みである。

 これを応用すれば、生まれてくる個体がすべてオスというふうにもでき、そうすれば子孫を残せずに特定の種を滅ぼすことも可能となる。

 だが私の発明した形態強制修正薬ではこのような便利な真似はできない。ともすればそうした凶悪さとは無縁だと言えるのだが、なぜか学会や企業からの評判は真逆であり、使用した動物が死ぬなんて非人道的だ、と非難された。

 アホらしい。

 付き合いきれんな。

 ならばじぶんで起業してやろうではないか、と一念発起し、私は害獣の死体を処理する事業を開始した。処理と謳いつつも、どのような動物の死骸も、豚や牛の肉に変えてしまえばよいのである。

 害獣の死体を食用の肉に転用する。

 これがまた繁盛した。

 一般の市場には出回らないが、焼肉チェーン店や格安ホテルでのレストランで重宝された。元手がほとんどタダなのだ。むしろ廃棄物として有料で引き取っている。

 お金だけが入ってきて、出ていくのはおおむね形態強制修正薬の製造にかかる費用だけとくれば、儲からないわけがない。

 肉を保存しておく巨大な冷蔵施設は別途で必要だが、そちらは業務委託という形で、任せきりにしている。それなりに経費が嵩むが、在庫を抱えずに済むのがよい。

 余った肉はかってに卸していいと契約を結んである。海外にでも格安で売り払っているのだろう。それでも相当な収益がでるはずだ。それを業務委託費として計上している。

 私の懐が痛むことはない。 

 順風満帆に見えた新規事業だったが、時間経過にしたがって実の入りが減っていった。よく考えなくとも導かれる必然だ。

 害獣を狩れば、山から獣はいなくなる。

 滅ぼしてしまえば、死体を破棄する必要もない。

 のみならず、私の事業を真似する業者まで出始めた。

 形態強制修正薬の特許はとっていたが、その製造法は、論文として発表してある。畢竟、誰でも閲覧可能だった。

 特許料を払ってでも利益がでるならば、真似をする者はでてくるだろう。

 その内、形態強制修正薬の改良版とも言うべき新薬が登場した。特許が新たに認められ、私の許可なく事業を展開できるようになった。

 完全に市場を乗っ取られた形となった。

 相手は全世界を股にかける商社だ。目をつけられた時点で勝ち目はなかった。

 交渉の話すらなかった。大切に育てた大樹を一方的に奪われた気分だ。

 だが怒りは思ったほどには湧かなかった。

 すくなくともその商社は、私の研究成果に、それだけの行動を起こすだけの価値があると見做してくれたのだ。

 利を奪われたこと以上に、そこにそれだけの価値があると認めてくれたことがうれしかった。

 悔しい思いもなくはなかったが、まあいい。

 私の代わりにこの偉業を世に知らしめ、人類社会になくてはならない存在に育ってくれ。

 社会は否応なくこれから私の研究成果に端を発した技術で、食糧難を打開し、発展の礎をより強固なものにしていく。歴史に名が残るのは間違いない。

 報われたとは思わない。

 しかし、無駄にはならずに済みそうだ、という思いが、気持ちを軽くしたのは確かだった。

 社会の役に立ちたいとは露ほども思わないが、かといって社会に必要とされることは、相応に私の自尊心を満たしたようだ。

 さてと。

 これからどうやって食べていこう。

 事業からは手を引いた。

 特許料はもう入ってこない。

 あとには大量の形態強制修正薬だけが残された。

 倉庫代もバカにならない。

 なんとか消費しきりたいが、さて。

 何かいい案はあるだろうか。

 形態強制修正薬を詰め込んだトラックを運転しながら、そうしてぼんやりと考え事をしていたのがよくなかった。

 ライトの明かりに人が入り込む。

 ブレーキを踏むよりさきに、ドンと車体に衝撃が走った。

 十数メートルほどスリップしてトラックは停止する。

 呼吸が荒い。

 轢いてしまった。

 しばらく鼓動の高鳴りを聞いていたが、意を決してトラックを下りる。

 後方、タイヤのスリップ痕の先に、道路に倒れる人型が見えた。

 人型の周囲の影が濃い。

 否、あれは血だ。

 どうしても近寄れなかった。

 見たくなかった。

 胴体をタイヤが踏みつけたのだろう。ソーセージをハンマーで叩きつけた具合に、破裂した皮膚から内臓がはみだしているようだった。

 どうしたものか、と途方に暮れる。

 トラックの荷台に寄りかかったところで、はっとした。

 そうだ。

 私にはこれがあるではないか。

 荷台を開き、そこにすし詰めになっている形態強制修正薬を見遣る。

 ごくり、と唾液を呑みこむ。荷台に乗りあげる。箱の蓋を開け、中から茶色い液体の詰まった容器を掴み取る。

 翌日、私は十二体の兎の遺体を埋葬すべく、新規事業を立ち上げることにした。

 ペット専門の葬式屋である。

 ペットは廃棄物扱いだ。ペットの死体を燃えるゴミとして棄てるわけにもいかないが、かといって市の職員に引き取ってもらうことはできても、その先ではけっきょくゴミと一緒に焼却炉で燃やされる。なればこそ、丁重に葬ってあげたいと所望する飼い主はすくなくない。

 だがこれは表向きの事業内容だ。

 裏では、正規に届け出ることのできない遺体を引き受ける。

 形態強制修正薬を振りかければ、人間の死体とて、獣の遺体に様変わりする。ウサギのDNAを覚えた形態強制修正薬を使えば、人間の死体の体積相応に分裂し、その場には複数のウサギの死体が現れる。

 それをペットの供養として処理してしまえばよい。

 この事業が軌道に乗りはじめたのと時期を同じくして、昨今、この国の轢き逃げの件数は激減しつつあるそうだ。反面、市に登録申請されている以上のペットの墓が乱立して困っている、という噂を小耳に挟みもする。

 しかしこの噂の信憑性は高くない。

 なぜなら大金を叩いてまでペットの墓を建てる飼い主は限られるからだ。後者の噂に関しては眉唾物であると断言しよう。

 いまのところ、私の新規事業の裏の顔が露呈する気配はない。

 人間の死体を獣の死体に変えるなんて事業で糊口を凌いではいるが、そうして形態強制修正薬で生やした尻尾の正体を喝破される懸念もいまのところは皆無である。

 尻尾を掴まれる予定も当分ない。




【作家の命綱】


 毎日小説を投稿している。ほんとど読まれることはない。稀に感想や反応をくれる読者もおり、そうしたちいさな、しかし確実な報酬を得られると細々とではあるがつづけていられる。ふしぎとその読者は、作者たる私よりもよほど作品の根幹を理解し、ときに作者のこめていない、けれど作者がそうこめたとしか思えなくなるような感想をくれる。

 だが読者はその一人きりだ。

 熱狂的な読者とてしょせんは一人なのだ。

 私はもっと多くの者たちに読まれ、称賛を得たかった。

 つづければつづけるほど、どうしてこうも読まれないのだろうか感想を得られないのか、と頭痛にも似た悩みの種が、脳裏の奥底にしっかりと根を張り、ツノのごとく頭皮を破って生えてくるような感覚に苛まれる。

 ふとした拍子に、そうしたツノが、破滅衝動を生みだす。これまで積み上げてきたすべてを消し去りダイナシにしたい衝動を、全身に津波のごとく走らせるのだ。

 どうせゼロにちかい読者なのだ。作品を消してしまったとて、誰も困らない。

 反面、しかしゼロではないのだ、と思いもする。すくなくとも読者はいる。

 なればこそ、かろうじてそうした衝動を耐えられる。持ちこたえていられる。

 ここさいきんになってたびたび浮かべる妄想がある。

 仮にゴッホが死ぬ間際に目のまえで、じぶんの絵が全世界の人びとから絶賛される状況に立たされたとして、あとはもう死ぬしかないというときであってもゴッホはそれを素直によろこべただろうか。

 何度となく妄想するが、決まって結論は同じところに行き着く。いまさらそんな真似をするな、と絶望に拍車をかけるだけなのではないか。そう思わずにはいられない。

 じぶんだったらどうか、と考える。人生の最後の最期で、全人類に手のひらを返されたとしたら。

 それまでの人生で抱くことのなかった恨みすら芽生え兼ねない。

 いまさら遅すぎる。

 あとはもう死ぬだけの人間をまえにして、それまでの人生の結晶のような作品を、ゴッホの絵を、何の対価を払うでもなく世の人々はいつでも鑑賞できるのだ。

 ゴッホを無視してきた評論家とて、ゴッホの絵をあとから高く評価して報酬を得ることもあるだろう。

 ゴッホは果たしてそうした世界を死ぬ間際に目の当たりにしたとして、耐えられただろうか。

 無意味な妄想には違いない。

 なぜなら私はゴッホではないのだ。

 生前も死後も、私の小説が世の人々に高く評価されることはない。

 だがすくなくとも、たった一人の読者には届くかもしれない。

 必要としてもらえるのかもしれない。

 その者の人生を彩る一筆の色にならばなれるのかもしれぬのだ。

 仮にそうでなくとも、私の小説は、私の人生を彩っている。

 それでいいではないか。

 読者がいるだけで贅沢というものだ。

 充分だ。

 いちどはそう満足するものの、日が経ち、時間がすぎれば、また似たような悩みの種が根を張り、ツノと化して、すべてをダイナシにしたい衝動に駆られる。

 そうした衝動が新たな創作意欲に繋がればよいが、そういうわけでもないようで、衝動が全身を蝕むたびに、確実に私の創作意欲は減退した。

 ある日のことだ。

 投稿している小説サイトが新しいサービスをはじめた。

 読書感想文を誰でももらえるサービスだという。

 どうやらいま流行りの高性能人工知能を用いているようだ。本物の読者よりも深く作品を論評してくれるそうである。

 だがしょせんは人工知能である。本物の読者ではない。作品を読んではいない。ただデータとして解析しているだけだ。

 本物の人間は、小説を通してもう一つの世界を生みだしている。

 人工知能を読者とは認めたくない意思が、そうして私にサービスの利用をよしとさせなかった。

 しかし日に日に、読者からの称賛と、感想への渇望は募った。

 周期的にやってくる例の衝動は、小説投稿サイト内における読書サービスの反響と共に勢いを増した。

 いよいよとなって私は人工知能の読書サービスに登録した。

 利用してみるだけだ。

 ちょっと味見をしてみるだけである。

 そうとじぶんに言い聞かせ、私は利用規約への同意を押した。

 画面には新しい窓口が開く。

 期間の指定をどうぞ、とある。

 説明文に目を通す。

 どうやら最新の人工知能は、データだけならば過去にも干渉できるようだった。

 過去のじぶんにも感想を送れるのだ。

 私はふと、異様に私の小説世界を知悉してやまない熱心な読者を、その感想文を思い起こした。

 嘘だ。

 そんなはずはない。

 思いながらも私は、例の衝動に抗いがたく、期間指定の欄に、私が創作活動をはじめた時期を入力していく。

 そのゆびは震えている。

 画面には決定とキャンセルの二択が並ぶ。

 どちらを押すべきか。

 私の視界はなぜか涙で歪みだしている。




千物語「妖」おわり。

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