千物語「堕」

千物語「堕」


目次

【眠れる森の姫たち】

【手から納豆の糸がでる】

【墓石に華を添える】

【クモツ】

【ふしぎな世のお話】

【ファミレスの花子さん】

【帳の灰】

【色褪せた世界だが】

【宝剣伝説】

【霧の道】

【ランプの生】

【カレンダーが破られたー】

【ちいさなピラニアの怪】

【マッチ売りの少女を消す方法】

【カルンのパリパリ結晶発見記】

【かってにすればいいけれど】

【段ボール箱の都市の底で】

【庭の下に、いる】

【ピコピコとロクブテ】

【ラジカセの怪】

【ギリーチュの刺身】

【マスクの灰が降る】

【コーヒー眠気退散】

【飼い犬にはご褒美を】

【カビの滝】

【呪いを祓う呪詛を吐く】

【汚れたキミを見ていたい】

【怖いことすんな】

【もっとちゃんと吟味して】

【箱と箱と箱】

【足跡の怪】

【お腹空かして待っています】

【大地は何を奪われて?】

【夜道を外れる】

【小説を書かなければ死ぬ】

【咎人は嘯く】

【願い叶え人】

【死の雲が降る】

【降り積もった雨のうえで】

【いい湯を皮切りに】

【仮面の美少年】

【檻に囚われて】

【秒読みをはじめます】

【深く潜る世界に】

【祖父と小石】

【イタズラもほどほどに】

【熱に透明な夜を】

【猛暑日の朝はもう】

【くどく口説くな】

【フラスコのなかの渦】

【いくひし、練習する】

【そうい】




【眠れる森の姫たち】


 白雪姫は継母からもらった林檎を食べて深い眠りに落ちました。

 しかしその眠りの先、夢の中では自由自在。どんな理想の世界も叶え放題で、白雪姫は現実で過ごしていたときよりも遥かに濃厚な脳内麻薬を分泌し、至福のときを過ごしていたのでした。

 幾星霜の時を夢のなかで過ごしました。

 むちゅう。

 あるとき勃然と唇に不快な感触を覚えました。ヤニ臭い吐息が鼻腔にゆるゆると侵入します。チクチクと肌を刺す細かな痛痒を覚えます。白雪姫は、そのあまりの不快さに驚き、イヤーー、と飛び起きました。

 そこには隣国の王子が満面の笑みで跪いており、

「姫、結婚しましょう」

 と、ふたたびの口づけを迫ってくるのでした。

 白雪姫はそのあまりに横暴で理解不能で失礼な態度に、林檎のごとく顔を真っ赤にし、イヤーーー、ともういちど凄まじくよく響く声で叫んだのでした。

 

 どこからともなく聞こえてきた、イヤーーー、の声音に共鳴したのか、ガラスの靴は砕けました。

 王子は肩を落とします。

 これでは靴の持ち主を探しだすことは適いません。

 しかしどうしても例の女性にはしあわせになってもらいたいと望みました。

 王族にあのような美麗で聡明な女性はいませんでしたから、ならば城に招待した城下町の娘たちのうちの誰かだろうと推し量りました。

 ならば城下町の娘たちに総じてしあわせになってもらえばいい。

 娘たちだけでなく、王族を王族として慕い、尽くしてくれる人々のためにも、町人たちには漏れなく至福の日々を抱いてもらおう。

 王子はそうと考え、王様を説得しました。年貢の負担を下げ、仕事をつくり、困窮した町人たちの誰もが一時的に避難してこられる施設を築きあげました。

 家族からの暴力を受けている民がいることは王子も知っていましたから、そうした虐げられている者を救うためにできる施策をつぎつぎに立てていきました。

 暴力に晒されている者を救うだけでは足りません。

 なぜ家族が身内に手を挙げてしまうのか。

 町の様子をつぶさに観察し、そこには貧困と、貧富の差という二重の苦があることを王子は悟りました。

 ただ貧しいだけでなく、人々のあいだでより貧しい者への差別が蔓延っていたのです。家で暴力をふるう者は、家のそとで透明な目に見えぬ暴力に晒されつづけていたのです。

 王子は心を痛め、そして決意しました。

 必ずやこの国をよりよい国にしていこう。

 民に至福とは何かを掴んでもらってこそ、この国はよりよい国へと変わっていける。

 まずはその仕組みを築いていくのだ。

 王子はバラバラに砕けたガラスの靴を、いつまでも国宝のごとく大事に仕舞い、国民から惜しまれながら亡くなるまで、それをたいせつにしました。

 王子はもう王子ではなく、一国の王でした。

 王の棺には、不釣り合いにも細かく砕けたガラスの破片が、献花のごとく添えられます。

 火葬を終えたあとの王の遺骨はガラスの破片と交じりあってか、キラキラと輝き、それはそれは美しい最期であったそうです。

 風が吹き、王の輝きが空に舞います。

 

 眠り姫は夜空に舞うキラキラとした輝きを目にしました。

 銀でつむがれた一糸のごとくそれは星々の合間を駆け抜けていきます。

 流れ星かな。

 眠り姫は思いました。

 夜空から目を戻すと、視界のさきに誰かがいるのが見えました。

 こんな夜更けに誰だろう。

 近づくと、明るい部屋のなかで老婆が糸を紡いでいました。

 こんなところにこんな部屋なんてあったかな。

 ふしぎに思いながら眠り姫は老婆に声をかけました。

「こんばんはお婆さん。こんな時間に何をしてらっしゃるの」

「こんばんは眠り姫。糸を紡いでいるのさね。どうだい。そなたもやってみるかい」

「姫、やってみたいです」

 蝶よ花よと可愛がられて育てられた眠り姫は、王と王妃のそのあまりの過保護ぶりに飽き飽きしていました。玩具一つじぶんの手で扱わせてはもらえないのです。

 きょうだけだから。

 いまだけだから。

 眠り姫は誰にともなくつぶやき、老婆の譲った席に着きました。

 糸つむぎ機をまえにして老婆の説明のもと、上手に糸をつむいでいきます。

 チクリ。

 指先に痛みが走ります。

 目を転じると、食指の腹からぷっくりと血の蕾が膨らみだしてくるところでした。

 じぶんの血を見るのは初めてのことです。

 眠り姫はくらくらと目まいを覚え、そのまま千年の眠りに就きました。

 眠り姫の指先から膨れた血の蕾からは、するすると蔓が伸び、城中に根を張り巡らせます。

 蔓に絡めとられた城の者たちまで深い深い眠りに就きました。

 しかし夢の中では自由自在です。

 各々が各々に理想の世界に生き、至福とは何かを思いだします。

 こんな日々がずっとつづけばよいのに。

 眠り姫は夢の中で城の外に飛びだし、世界を股にかけた大冒険を繰り広げます。七つの財宝、密林の主との対決、砂漠の遺跡と呪いの首飾り、深海の都市、天空の庭園、地底世界を巡ったあとは、妖精と魔女の一万年戦争を終結させるべく眠り姫は奔走しました。

 どれも夢の中とは思えないほどの臨場感に現実味溢れる刺激の数々。

 眠り姫にとってはとっくに現実とは夢の中の出来事のほうでした。

 ところがそんな眠り姫の至福を知らぬどこぞの王子が、我が物顔で城に侵入し、美しい姿のままで眠りつづける眠り姫を見つけました。

 棺の形に絡まった蔓を乱暴に刀で切り裂くと、何を思ったのか眠っている姫の唇を奪うではありませんか。

 破廉恥極まりない所業です。

 こんなのはただの犯罪です。

 乱暴です。

 婦女暴行罪で逮捕です。

 眠り姫は夢の中からこの様子を俯瞰して眺めており、怒り心頭に発しました。

 ふざけるな。

 わたしの身体になんてことを。

 城中に張り巡らされた蔓が躍動し、城全体が地震もかくやと揺れはじめます。

 王子はその様子にすっかり臆して、腰を抜かしながら、転がるように城から逃げだしました。

 しかし眠り姫の怒りは収まりません。

 許さん。

 地中に蔓を巡らせ、城の外に脱して安堵している王子の足を捕らえました。

 足首に巻きつき、王子を宙づりにします。

 王子は謝罪の言葉を百篇繰り返しました。

 おしっこを漏らしてもいます。

 そのあまりの情けない様子に、眠り姫もさすがに可哀そうになりました。

 しゃあない。

 許す。

 あたしゃ許すよ。

 数々の大冒険を経験した眠り姫には、深い慈愛の心と寛容な器が備わっていました。

 キスくらいで、と思うかもしれんけど、初めてのキスだったのだもの。

 許可もなくかってに、しかも眠っている無防備な娘にそんな真似するなんてひどいと思うのは仕方なくない?

 誰にともなく言い訳じみたつぶやきを残して、眠り姫は王子を地面にほっぽりだし、蔓を引っ込め、ふたたび夢の世界に旅立ちます。

 眠り姫は深い深い眠りに落ちていきます。

 しかしそこには現実にはない本当の自由があります。

 誰にも邪魔されないわたしだけの世界。

 現実は禁止ばかりでつまらない。

 不自由ばかりわたしに課する。

 わたしはずっとここにいたい。

 こここそがわたしの望んだ世界だ。

 本当ならば現実であっても同じような至福を抱ければよかったのですが、眠り姫にはそれを叶えるだけのチカラはなく、こうして夢の中で築きあげるほかないのでした。

 しかしそれを眠り姫は苦としません。

 望むところだ、と鼻息を荒くして、つぎなる冒険に繰りだすのです。

 冒険をつづけるうちに、とある森のなかで、イヤーーー、と悲鳴を耳にしました。

 声を頼りに駆けつけると、いままさに少女が大人の男に無理やり求婚を迫られているところでした。求婚だけに飽き足らず、男は少女に強引に口づけを迫っています。

 少女は棺のなかにおりました。

 どっかで見たような光景だな。

 眠り姫は遠い過去のじぶんを思いだしながら、おいこら、と大の男に向けて声を荒らげます。

「その子は嫌がってるだろ。離れろ、離れろ」

 剣を構えて威嚇すると、男が逆上してかかってきました。

 眠り姫は秒で打ちのめしました。

 峰打ちじゃ、と刀を鞘に納め、二度と彼女に近づくな、と言い添え、ケツを蹴って森から男を追いだします。

 少女は、ぐすん、ぐすん、とすすり泣いております。

 眠り姫は彼女のそばにしゃがみこみ、視線を揃えて、彼女には触れぬように宥めながら、もうだいじょうぶ、と言い聞かせます。

 やがて鳴きやんだ少女と共に、眠り姫は、さあて、と背伸びをします。 

「この森には魔女がいるそうだけど、あたしがとっちめてもいいじゃろか」

 いいよ、いいよ。

 白雪姫と名乗った少女の案内のもと、眠り姫は暗い森を、鼻歌交じりに、スキップをしながら突き進みます。

 白雪姫が手を繋いできたので、握り返します

 そのやわらかな手の感触と温かさは、やはりこここそが眠り姫にとっての現実であるのだと否応なく教えてくれるのでした。

 眠れる森の女は、空を仰ぎます。木々の合間に青空が見えました。

 ここが現実かどうかも曖昧に捨て措いたままで彼女は、空に走る流れ星のような一糸のキラメキを目に留めるのです。




【手から納豆の糸がでる】

(未推敲)


 世にスーパーヒーローは数多いるにしろ、手から納豆の糸をだせる能力を持ったヒーローが果たしているだろうか。

 いました、ここに。

 そうである。

 わがはい、思春期の失恋をこじらせすぎたのがいけなかったのか、想い人への恋慕の念を吹っ切れずに腐らせすぎたあまりに、粘着質なストーカー予備軍となったのを機に、手から納豆の糸を無尽蔵にひねくりだせるようになってしまったようである。

 なんてこった。

 こんな手では恋人と手を繋ぎあうこともできないではないか。

 いもしない恋人をでっちあげて悲嘆しながら、わがはい、あれやこれやと能力の開発に勤しんだ。

 というのも、麦わら帽子のゴム人間がそうであるように、一見なんてことのない能力だと思いきや、じつは素晴らしい資質に溢れ、工夫次第では最強最高のうおーな能力を凌ぐ威力を発揮することもある。

 納豆の糸とて使い方しだいではとんでもない威力を帯びるのではないの。

 そうと思い、あれやこれやと試行錯誤をした結果、手からのべつ幕なしに放出可能な納豆の糸は、本当にただの納豆の糸だった。

 なんの変哲もない、匂いのきつい、しかし空腹時にはたいへんにおいちそうな香りを放つ、ねばねばした糸でしかなかった。

 いやなんかあるでしょ。

 そこは工夫の余地があってしかるべきでしょ。

 わがはい、この類稀なるノーセンキューな能力を贈呈くだすった神さまに野次を飛ばすのに余念がない。

 せめて納豆がでてきてほしかった。

 せめて本体がよかったよ。

 だってこれ見て。

 納豆の糸だよ。

 どないしぇーっちゅうっねん。

 関西に行ったこともないのに関西弁を使ってしまうほどの憤りなのであった。

 さいわいなのは、だそうと思えばださずにいられることで、納豆の糸を放出する能力は制御できた。本当にこれは神さまに、よくぞよくぞ、と感謝してもしきれない。もしだしっぱだったらマジでおまえふざけんなよ。

 ちょっと油断すると堪忍袋の緒が切れちゃうの、こういうときは手からひねくりだした納豆の糸をちゅぱちゅぱ舐って、精神統一を図るとよい。

 はぁ、納豆の風味。

 そうして暇さえあれば指と指を擦り合せて納豆の糸を伸ばし、糸を捩ってさらに太くする遊びを覚えた。すると糸はすぐには千切れずに、あやとりができるほどにまで頑丈になる。

 さらに捩って糸を太くするとこんどはねばりけが失せ、釣り糸のような光沢と強靭さを宿したではないか。

 あれ、これけっこう使えるんじゃね。

 わがはい、いったいこの糸がどれほど強靭なのかを試そうと思い、ゆびから切り離して先端に重りをつけて振り回す。

 するとどうだ。

 十キロのダンベルをくくりつけても納豆の糸はなんなくぶんぶんとダンベルを吊り上げるではないか。

 よじって厚くしたとはいえど糸は髪の毛ほどの太さもない。

 この強靭さはちょっとした発明ではないの。

 わがはい、危機としてよじって厚くした納豆の糸を以って研究所に駆けこんだ。

「これは素晴らしい糸ですね。耐久性だけでなく耐熱効果まで高い。宇宙エレベーターの素材にも使えそうです」

 どうやって作ったんですか、と説明を乞われ、

「こうやってです」と実演してみせる。

 両手の指の腹同士をくっつけて、広げる。そうすると五本の納豆の糸が伸びるので、それを大縄飛びを回すようにうまい具合に操って、くるくると渦を巻いていく。

 真ん中のほうから厚みを増し、あとはじぶんの切りたいと思ったタイミングで切り離せば、いくらでも糸を厚く、長くつくることができた。

「集中力の問題で、厚みにムラがでてしまうこともあるんですけど」

「いえ、素晴らしいです」

 手のひらから納豆の糸が出るなる奇態な能力を目の当たりにしても研究所の職員たちはわがはいに奇異な眼差しを向けなかった。

 実際に観測できてしまえば、そういうこともあるのかぁふしぎだなぁ、とまずは認めてしまうおおらかさが彼ら彼女らにはあった。

「原理の解明も含め、一緒に研究をしていきませんか」

「いいんですか」

「もちろんです」

 わがはい、一躍国内随一の研究チームに所属し、あれよあれよという間に世界的に有名な研究者の一人になってしまった。

 古参の研究員が言った。

「以前は手から蜘蛛の糸をだす超人や、全身がゴムのように伸び縮みする超人がいたんですよ」

「それあれじゃないですか。漫画やアニメのヒーローじゃないですか」

「いえ、現実にいたんです。ただ、そちらは早々に原理を解明してしまって、我々の技術でも再現可能になったので、お帰りいただきました」

「ごくり。つまり大量生産可能になったんですか。その、蜘蛛の糸や、全身ゴムになれるなにかしらの実が」

「はい」

 冗談かと思ったが、これです、と現物を見せられてしまえば疑問は呑み込むよりない。

「じつは蜘蛛の糸は宇宙服の素材にもなっていまして。全身ゴム化現象では、血管の破裂を伴なう病気の治療に役立てています」

 研究員は端末を操作する。画面には、蜘蛛の糸と錠剤、そしてそれらを用いた加工場や治療現場の映像が流れた。

「ではわがはいも、そのうち用済みになるのですか」

「いえ。あなたはたぶんされません」

「なぜですか。再現できないからですか」

 納豆の糸を、とわがはいが言うと、

「いえいえ」研究員は眼鏡を、くい、とゆびでかけ直す。「再現は可能です。すでに実用化に向けての段取りは整っています」

「ではなぜ」

「納豆の糸ではないんです。あなたの貴重性はそこにはない」

「ではどこに」

「無尽蔵にそれを生みだせる、あなたの物理法則を無視した超規格外の体質に、我々は興味津々なのです」

「はぁ」

「ご理解なされておいででないようですが、たいへんなことなのですよこれは。あなたの身体からは、なんの等価交換もなく、ただ一方的に納豆の糸が生みだされています」

「そうかもしれないですけど、だって納豆の糸ですよ」いくら大量に編みだせたとて困るだけではないか。

「ではこう言いましょう。もしあなたが二十四時間延々と納豆の糸をつむぎつづけたとすれば、百二十年後にはもう一つの地球ができるくらいの質量を、あなたはどこからともなく生みだせているのです。納豆の糸は有機物です。バクテリアの餌にもなりますし、衣服の素材にもなりえます。それも蜘蛛の糸や絹にひけをとらない、いいえ、もっと優れた素材として利用可能です。ふしぎなことに半導体でもあるようで、電子回路にも使えます。糸をよじらずに使えば、良質な空気洗浄機や水質浄化装置にもなり得ます。捨てるところのないすばしい素材を、あなたは無尽蔵に取りだせる。あり得ません。魔法としか言いようがないのです。あなたは人類史を変える存在、いいえ物理法則すらねじまげるほどの超規格外の逸材なのです」

「ものすごく褒めてもらえているのは理解できたのですが」わがはいは正直に言った。「あんまりうれしくないのはなんでじゃろ」

「まああなたの人格や知性にはこれっぽちも価値を認めていないからかもしれませんね」

「ひどい言いようでは?」

「ですがあなたの肉体は素晴らしいです」

「身体目的でしたか」

「そうです」

「馬鹿正直に言えばいいってもんじゃないですよ」わがはいは大いにいじけた。「そんなに言うならいいですよ。こんなところ辞めてやる。出て行ってやる。おうち帰って寝よ」

 わがはいは研究所を飛びだした。

 これで彼ら彼女らはわがはいを研究できずに大いに困るはずだ。

 ざまあみろい。

 しかし研究所を飛びだしたわがはいはただの手から納豆くさい糸をだせるだけの益体なしである。

 間もなく衣食住の確保もままならなくなり、悔しさとなけなしの矜持を傷つけながらも、研究所の戸を叩いた。

「ごめんくださいまし。わがはいでござる。ごめんくださいまし」

「どうかされましたか。おやあなたは。忘れ物でも取りに来ましたか」

「いいえ。わがはいが間違っておりました。どうかわがはいにもういちどチャンスを。こんどはちゃんとイイコちゃんにしておりますので、どうかもういちど実験動物のお仲間入りに加えてくんなまし」

「実験動物なんてとんでもない。あなたは我々の貴重な仲間ですよ」

「うわーん。なんていいひと」

 わがはいはそれから無尽蔵に納豆の糸をつむぎだせる人類として、生きる質量生みだし装置として、人々にいいように身体をいじられ、扱き使われた。

 寿命が尽きたあとも、謎が解明されるまでのあいだ、わがはいの肉体は冷凍保存され、荼毘に付されることもなく、こまごまと切り刻まれた。

 なにゆえ際限なく納豆の糸を生みだせたのかの謎をついに人類が解き明かしたのは、わがはいのつむぎだした大量の納豆の糸で強靭に製造された宇宙コロニーにて人類が、わがはいの手のひらのクローンを無数に生みだし、そこから蚕さながらに納豆の糸をつむぎだして利用しはじめたころのことである。

 わがはいの肉体そっくりそのままのクローンは未だ造られていないが、大量につむがれた納豆の糸がなにかしらシナプスや脳内神経系や体内メッセージ物質や腸内細菌のごとく連携をみせ、繋がり合い、総体で巨大な意思を、すなわちわがはいの人格をこうして再現してしまったのには何か、生命の神秘を感じずにはいられない。

 ともすればわがはいがそうであるように、宇宙にもまた巨大な総体としての意思があるのかもしれず、銀河団やボイドによる重力の偏りによって編みだされるなんらかの回路が築かれているのかもしれず、そうではないのかもしれない。

 いずれにせよわがはいは、スーパーヒーローにはなれなかった。しかし手のひらから納豆の糸をひねくりだせるだけの能力であろうともこのように、うひひ、使い方しだいでは、人類史に名を残す、否、人類の未来そのものを編むような重大な作用を働かせることもある。

 もっともわがはいの場合はじぶんでじぶんの能力を使ったわけではなく、単に周囲の者たちに使っていただけただけであるので、ことさら己が能力のすばらしさをひけらかす真似はよしておこう。

 腐るのは納豆の糸だけにしてほしいものだ。

 あ、わがはいもはや納豆の糸だけの存在であった。

 しかしそこは心配ご無用。

 納豆には血液をさらさらにする効果があるのである。

 もちろん納豆の糸にもある。

 それゆえにか、わがはい、どこをとってもさわやかさらさら。

 素敵滅法に謙虚なのである。

 うひひ。

 みなのものももっと見習え。




【墓石に華を添える】


 弟は悪魔だ。

 みながそう言うので彼の姉である私もそのように認識した。

 悪魔の呼び名は弟にはふさわしかった。

 弟のゆび差した対象はみなその場で血まみれになり、ときに細切れになり、あるいはその場に押し潰れたりした。

 私は幼いころから弟のそばで弟を監視する役割を担わされた。

 弟の拳はつねに鉄の手袋で封じられていた。

 食事もろくにとれないので、弟の世話はやはり私の役目だった。

 弟は言葉をしゃべれなかった。

 それはそうだろう。誰も彼としゃべろうとはせず、しゃべりかけもしない。言葉を覚えることが原理的にできない環境に彼はいた。

 弟が初めて人を肉塊にしたのは産まれて間もないころのことだ。

 病院から母と共にやってきた弟は、三日後に母を、そしてその翌日に父を血のスープに浮かぶ肉団子に変えた。母と父はけして弟を無下にしなかった。むしろかいがいしく世話を焼いていたというのに、赤子はそんなことなどお構いなしに、自身の両親に死を与えたようだった。

 やってきた警察官たちに取り上げられた弟はそこでも警察官たちを肉の塊にした。そこからはなるべく刺激しないようにとの指示のもと、私が弟の世話をすることとなった。

 というのも、弟はなぜか私だけには優しかった。

 私に危害を加えることはなく、十歳になったいまでも私を唯一の拠り所として慕ってくれているようである。

 生活のいっさいの世話を私がしているのだからそれもそうだと思う反面、なぜ私だけが弟の魔の手にかからないのか、肉塊にならずに済んでいるのかは長年ふしぎに思っていたことの一つだ。

 それが今年、弟の十一歳目の誕生日に氷解した。

 なんのことはない。

 弟が悪魔ではなかっただけのことだ。

 弟は国に自由を奪われながらも、その悪魔の能力を利用されることで存在の抹消を免れていた側面がある。

 ときおり命令がくだされる。標的の顔と素性を私が憶え、弟を引き連れ、隔離施設の外にでる。弟はいつも外ではスキップをして歩く。身体から滲みでるほどうれしいのだろう。

 そうして私は標的を遠くから視認し、弟の手から鉄の手袋を外して、アイツを殺すようにと指示をする。

 弟は難なくそれをやってのけ、ご褒美に私たちはその帰りに遊園地へ行ったり、映画館で映画を観たりした。

 だがそれも長くはつづかない。

 弟が知恵を蓄えていくにつれて、自身の境遇に疑問を覚えるようになった。

 私に幾度も、どうしてもっと外で遊べないのか、じぶんだけ手を自由に使えないのか、とたびたび癇癪を起すようになった。

 その様子を目の当たりにした管理者たちは、私たちの存在そのものを脅威と見做したのだろう。

 弟が十一歳の誕生日に、つまりきょうこの日を以って、弟を処分することにしたようだ。

 私はその報せを、処刑間際に知らされた。

 弟にじっとしているように言い聞かせ、私は処刑人のうしろに下がった。むろんそのときにはその人物が処刑人だとは露ほども知らなかったのだが、弟は処刑人の振るった日本刀によって顔面を輪切りにされた。

 ちょうど目と鼻のあいだを刀が一線し、弟が身体をコトンと横たえると、鍋を床に落としてしまったように、顔の断面から我が弟の脳みそが、髄液や血液といっしょになって床に零れ落ちた。

 ごろん、ぱふん、との効果音が脳裏によぎったが、実際にそのような音が響いたわけではないはずだ。

 弟は動かなくなった。死んだのだ。

 ご苦労だった、と私の肩に手を置いたのは、処刑実行を許可した管理者のうちの一人だ。処刑人をつづけて労うその者を、私は心の底から憎悪した。

 そのときだ。

 パキパキと部屋に空虚な音が響いたかと思うや否や、件の管理者がその場にへしゃげて血溜まりに変化した。

 一拍の静寂のあと、周囲の者たちのざわめきが室内を満たす。

 みな一様に、血溜まりを凝視したあと、はっとしたように我が弟の骸に目をやった。

 生きているのか。

 まるで声が聞こえたかのように一様にみなは、固唾を飲んで我が弟の骸が動きだすのではないか、と身構えた。

 しかし弟は死んだ。

 殺されたのだから当然だ。

 ではいったいこの血溜まりはなんなのだ。

 数十秒前まで管理者の一人だったものを見遣ってみな疑問したようだった。

 みな頭のよい人たちだ。思考速度も似通ったものだったらしい。

 一様に、はたと閃いたように私を見た。

 視線が集まる。

 注目がそそぐ。

 気配だけでも周囲の様子が伝わった。

 私はゆっくりと我が弟の骸から目を離し、床にひしゃげた血溜まりを目にし、それから混乱と恐怖と失態への対処をどうすべきかに戸惑っている者たちを順繰りと見渡した。

 やわらかくほころびてみせてから、私はわざわざ言葉にしてつぶやいた。

 彼ら彼女らに聴こえるように。

 誰がそれをもたらしたのかを、誤解の余地なく判らせるために。

「死ね」

 部屋に刹那の瑞々しい音が、ぱしゃん、と上品に鳴り響き、あとはいっさいの静寂が満たす。

 床にはたくさんの深紅が花咲いた。

 私は、ほぉ、と息を漏らす。

 それから靴が汚れないように献花のごとく水溜まりを、跳ねて渡るようにしながら、我が弟の骸をその場に残し、部屋を、隔離施設を、あとにする。




【クモツ】

(未推敲)


 その装置はとある芸術家の作品だった。

 わらしべ長者の話から発想を得て造られた装置であり、既存の玩具自動販売機を模されてもいた。

 小銭を入れて取っ手を回すとカプセルに入った玩具が排出される。一般にガチャガチャやガチャポンと呼ばれる玩具自動販売機である。

 これを模して造られたのが芸術作品「クモツ」であった。

 クモツは通常のガチャガチャとほとんど似た造形をしていた。変わっている点はその大きさと、取っ手を回すために投入すべき対価が小銭ではない点だ。

 大きさはちょっとしたマンションほどもある。

 機械仕掛けの立体駐車場のごとく構造が備わっており、車くらいの対価ならば受け付け可能だ。

 わらしべ長者の話から発想を得たと謳われるように、使用者はまず対価を投入口に置く。すると円形の取っ手のロックがはずれ回せるようになる。取っ手を回せば過去に投入された対価のうちから無作為に品物が選ばれ、排出口からでてくるとの仕組みだ。

 単純な仕掛けだが、対価に見合った品が必ずしもでてくるとは限らない点で、わらしべ長者のようにはいかないだろう、とクモツの説明を聞いた者は誰しもがそう思うようだった。

 しかしいざクモツが街外れの空き地に設置されると、利用者がつぎつぎに訪れた。クモツの内部には種々雑多な品物が増えつづけたが、その理由の一つには対価だけを置いて去る者の存在が挙げられる。いらない自動車を廃棄するにもお金がかかるが、クモツを利用すれば無料で手放すことが可能となる。

 むろん、明らかなゴミは受け付けないような仕組みがクモツには取られているが、それはたとえば識別AIが搭載されていたといった工夫だが、価値があると識別AIが判断すればそれは対価として認められた。

 中には脱税疑惑や表沙汰にできない金品を手放すためにクモツを利用する者も続出しはじめ、そうなると中にはチョコレート一枚を置いただけで大金を手にする者がでてくる。

 そうなるとクモツを回す者が増え、結果、クモツに蓄えられる品物はさらなる混沌を極めた。

 クモツの創作者は当初、クモツを設置した時点であとは野となれ山となれと静観するつもりであったようだが、事態の変化を考慮し、対価に見合う品物を排出するように識別AIをプログラミングし直した。

 百円を置けば必ず百円以上の価値のある品物がでてくる。そのように設定したのである。

 だが新品の靴を対価に、高級な壺がでてくることもあり、そこのバランスまでは設定しなかった。

 チョコレート一枚で一攫千金が可能だったが、その確率は低くなるようにした。

 ふしぎなことにこの修正を施してなお、対価のみを置いて去る者が増加傾向にあった。中には盗まれた名画や古美術品まで含まれはじめ、いよいよクモツは全世界規模のガチャガチャと化した。

 創作者はクモツを利用する者たちの姿をクモツに付属する小型カメラから眺めていた。クモツに対価を置き、両手を拝むようにこすり合せて取っ手を回す利用者の姿を目にし、そろそろかな、と当初から決めていた改善を施した。

 クモツはさらなる進化を遂げる。

 対価さえ払えば、それに応じた願いを叶えるように供物を改良したのだ。

 搭載した識別AIを超高性能AIに変えたことで可能とした改善であった。

 その代わり、対価は必ずじぶんの大切なものでなければならない。

 そのように設定し、そういった設定があることも改善を施したことすら秘匿にしたまま、創作者はしばらく様子を窺った。

 一年が経ち、二年が経過したころには、ぽつりぽつりと願いの成就した者たちが現れた。噂が噂を呼び、しだいにじぶんにとって大切なものを対価にすればそれに応じた願いが叶う、との通説が流布しはじめる。

 間もなく、クモツに置かれる対価に変化が生じた。

 これまでは物質ばかりだったのが、ふしぎとナマモノが多くなった。それらは冷蔵保存されクモツの内部で管理されている。

 多くは髪や爪だが、中には指が混じっていることもあった。

 やがて胎児が置かれるようになりはじめると、堰を切ったように、腕や脚、内臓やしゃれこうべ、遺体丸ごと一体といったふうに命そのものを対価にしはじめる者が現れた。

 創作者は身震いした。

 待った甲斐があった。

 命を対価に願いを唱える者たちは一様に、自身の至福ではなく、ほかの誰かの不幸を願った。

 クモツはそれを十全に叶えていった。

 全世界に張り巡らされた情報の網を駆使すれば、クモツに搭載されたAIにとって人間一人の生活を破綻させるなど赤子の手をひねるようなものだった。利用者と願いの向かう矛先にいる人物との関係は情報の流れを辿ればあっさり判明するし、そのさきに対象者を不幸のどん底に突き落とすなんて真似は、ドミノの流れをゆびで塞ぐよりも簡単な仕事だった。

 利用者の中には、自身の至福を願う者もあり、そうしたときには多少難儀した。

 小指以上を対価にした者に対しては、口座に現金を振りこんだ。職場での昇級を叶え、恋人を用意し、情報社会のなかでの承認を満たしてやった。いくつかの施策のうち、どれかが当人を幸せにすればよい。

 畢竟、至福など当人の気の持ちようだ。毎朝ご飯を食べられる。ただそれだけで至福を感じる者もいるところにはいるのである。

 遺体を対価に置いていく者については、まずは調査を先決した。むろんクモツに搭載されたAIがそう判断するだけのことであるが、利用者と遺体の主の関係を洗いだし、真実にその遺体が、利用者にとっての大切な者であるのかを確かめる。

 仮にそうでなく、ただ死体を処理したいだけの輩に対しては、粗末な品を輩出してお終いにした。

 そうでなく真実に愛する者を対価に運んできた者に対しては、その者の願いのすべてを叶えるべくクモツに搭載されたAIはその性能を十全に発揮した。

 指一本の対価にしても同様だ。ピアニストの指であれば、指への愛着は、ピアニストでない者よりも高い傾向にある。ならば相応に願いを叶えるのがクモツの役目だ。

 人体を欠如してまで願いを叶えようとする者たちが後を絶たなくなると、間もなくしてクモツは政府の管理下に置かれた。

 そのころすでに創作者は行方を晦ましていた。

 こうなることは疾うに予見済みであり、この後の顛末もおそらくは想定していたのだろう。

 政府は極秘裏に、クモツの活用を決定した。

 たいせつな国民を対価にすることで、クモツに搭載されたAI――もはや現代社会において神とも等しいカラクリの能力を常用した。

 国は栄えた。

 他国の弱みを握り、セキュリティ網を掌握し、いつでも破滅させつことができることを示唆すべく、いくつかの都市のインフラを一時的に停止した。

 予言にも似た脅しは実に効果的だった。

 各国はクモツのまえに屈した。

 民は肥え、クモツに願う必要すらなくなる。

 しかしその裏では、クモツに対価にされる国民がこっそりと確実に消えていた。

 ある日のことだ。

 政府関係者の一人がきょうもクモツのまえに対価の人間を連れてきた。

 対価の人間は死刑囚の女だった。

 女は冤罪であると再三に訴えたが、誰も聞き耳を持ってはくれなかった。もはやこの国にはクモツに捧げる死刑囚の備蓄は底を突いていた。国が栄えているのだ。犯罪を犯そうとする者がそも少ない。

 女は国のために選ばれたにすぎなかった。

 女は終始おとなしかった。

 じぶんの命がもう間もなく途絶えることを悟っていた。

 ゆえに提案した。

 死体よりも生身の、生きた、命ある人間のほうがよりたくさんの願いが叶うのでは、と。

 これまでは死体を対価に捧げていたにすぎなかった。

 生きたままの人間をクモツに捧げたことはなかったのだ。

 上層部は、その案に感銘を受けたようだった。誰もそのような発想を持たなかったのだ。

 生きたままの人間を対価にする。

 それはとても素晴らしいことに思えた。

 ゆえに女の提案はとんとん拍子に採用され、こうしてこの日、女は初めてクモツに置かれる生きた対価となった。

 女はクモツの対価投入口に潜りこむと、膝を抱え、丸まった。

 そしてガチャガチャと巨大な騒音に骨の髄から蝕まれながら、誰より先に願っていた。

 クモツさま。

 どうか誰一人欠けることのない至福の世界を。

 無駄死にでしかない犠牲の連鎖を、どうか、わたしで最後に。

 女は生きたまま冷凍保存され、クモツの中心に収納される。

 女は死んだ。

 供物となって。

 代わりに全世界はいま、着々とクモツに宿る神の手により、誰一人欠けることなく至福の感受できる世界に再構築されていく。

 そのゆったりとしながらも急激な変遷の流れを、クモツの中で眠る氷の女は、長くあたたかな夢の中で、見届ける。






【ふしぎな世のお話】

(未推敲)

 

 最初にネタバラシをしてしまうと、リンダが謝罪をしたことで世界が滅ぶ未来は回避された。

 もうすこし詳しい事情を説明すると、リンダが謝罪をしなかった場合、彼女の弟であるシュラウドが癇癪を起こし、手元にあったカップをぶん投げることになる。

 するとそれは壁に止まっていたハエに偶然ぶつかり、ハエは死ぬ。

 そのハエは死なずにいれば、つまりリンダが素直に謝罪をしていれば弟のシュラウドが癇癪を起こすこともなかったので、ハエはカップに潰されずに済み、すると窓からリンダの家のそとへと脱出することになるのだが、そのハエはしかし間もなくカエルに食べられる。

 このカエル、ハエを食べたことで直後に襲われることになるヘビから逃走する体力を得ることに成功するが、もしハエを食べられなかった場合は、そのときはヘビの餌になっていた。

 リンダが謝罪をしたことでカエルは九死に一生を得たことになる。

 しかしこのカエルも、その半年後に、腹を空かせていた一羽の鳥についばまれて生涯を閉じることになるのだが、この一羽の鳥が重要だった。

 鳥は飢えていた。

 渡り鳥の一種なのだが、群れとはぐれ、脆弱していた。

 カエルを食べたことでかろうじて息を吹き返し、まずはさておき群れに合流すべく目的地を目指した。

 結末から言ってしまうと、この鳥はどうあっても目的地には辿り着けない。

 カエルを食べることができずにいれば遠からず餓死していたし、そうでなくともこの鳥は人類存亡の危機を救うことと引き換えに死ぬことになる。

 鳥にとってはいい迷惑だが、人類にとっては救世主以外の何ものでもないのだが、哀しきかな、人類がこの鳥に感謝をすることは永劫訪れない。

 そもそも人類はじぶんたちが危機に瀕していた自覚すらなかったのだ。

 冒頭に戻ろう。

 リンダが謝罪をしなければ、一匹のハエが死に、そのハエからはじまる命の連鎖が途切れることで、人類は滅亡するはめになる。これは説明が不足しており、一匹のハエに人類存亡の危機を引き起こす因はない。

 ではどこにあるのかと言えば、それはもっと過去にさかのぼり、リンダが生まるよりずっと以前、第二次世界大戦終戦後にまで戻らなくてはならない。

 そこから連綿と引きずりつづけていた報復の連鎖がとある組織と一族のあいだにがんじがらめにぶらさがっていたわけだが、子細を述べるとこの掌編が長編になってしまうので、思いきって割愛するとして、リンダが弟のシュラウドと喧嘩をしたその日の朝、とある一族から追放された男が、一機の無人飛翔体を操作していた。

 無人飛翔体は、二対のプロペラを縦横に向け、自在に飛ぶタイプの小型機器だった。当時は、この手の無人飛翔体のレースが世界的に盛り上がりを見せはじめていたころで、無人飛翔体の飛行規制がまだそこまで厳格に定まっていない時期だった。

 そのため男は、なんの不自由もなく、都会の上空に無人飛翔体を浮遊させていた。

 問題は、男が無人飛翔体に凶悪な生物兵器を搭載していたことにある。

 細菌とウィルスの特徴を備えたそれは、細胞なき場所でも増殖可能であり、かつ極めて小さいがゆえに、並大抵の防護策では防ぎきれなかった。

 男はこれを都市の頭上で散布せんと画策していたのである。

 話は冒頭に戻るが、仮にリンダが弟に謝罪せず、そのまま癇癪を起させてしまえば、男の計画は見事成功を収めることになり、つまりが人類は滅亡する。

 しかし、リンダは姉としての矜持をかなぐり捨てて、人として真摯に弟に謝罪した。

「ごめんなさい、シュラウド。あなたのオデコに【兄】とマジックで書いたのはよくなかったです。もうしません。弟よりもお兄ちゃんが欲しかったなんて我がままももう言いませんので、どうか許してください」

 リンダの心からの謝罪は、弟の胸にも、しかと響いた。

 弟は爆発寸前だった憤りを収め、カップからも手を離した。

 一匹のハエは壁から飛び立ち、窓の外へと逃げおおせる。

 一匹のカエルはそのハエを食べ、ヘビの毒牙から逃走すると、その半年後に一羽の鳥についばまられ、糧となる。

 その鳥は後日、都心に上空を舞う無人飛翔体のプロペラに触れ、ズタズタとなって地に舞い落ちるが、無人飛翔体は生物兵器を積んだまま川に落下し、そのまま海まで運ばれ、海底に沈む。

 生物兵器は水中での増殖を想定されておらず、けっきょくそのまま誰に拾いあげられることなく、数百年後に海底にて海水に交じり、溶解した。

 リンダの謝罪が結果として人類滅亡の危機を救ったが、そのことを彼女自身が知ることはなく、人類を救う契機を点々と繋いだハエやカエルやトリたちの尊い犠牲を知る者もまた誰もいない。

 生物兵器の積んだ無人飛翔体を使って人類滅亡を企んだ男は後日、計画を練り直すことなく、いちどは追放された一族の手によって誰の知ることなく消息を絶った。

 人類にはこのあとにも同様の、似たような危機が枚挙にいとまがなく、連日のように訪れるが、謝罪の言葉一つで活路が開かれるように、人々の些細な分かれ道が、偶然にもこうして人類の存続を、綱渡りのごとく、ギリギリで、微妙にそこはかとなく、破滅と打開を相互に綱引きしながら、なぜかは分からないがいつも打開の道に傾きつつ、可能としている。

ふしぎな世のお話である。 




【ファミレスの花子さん】

(未推敲)


 きょういまさっき体験した奇妙な話というか、すこしだけぞっとした話をします。

 わたしはいま毎日ファミレスで作業をしております。いちおう仕事です。

 去年デビューしたばかりの物書きなのですが、小説一本で食べていく余裕もなく、昼はスーパーのお総菜売り場で働き、夜は一人でひたすら執筆作業をしています。

 さいきんはお話の原型となるプロットをとにかくつくって編集さんに送り、それからお決まりのボツをもらうのルーチンを繰り返しており、自宅にいると気を病んでしまうのでファミレスでの作業を日課にしています。

 さすがに毎日のごとく通っていると、同類というか顔馴染みがちらほらとでてきてきます。言葉は交わさないのですが、お互いに顔を憶えあっているな、とすこしの気まずさを感じたりもしていました。

 なかでも、いつも店の奥のお手洗い場――つまりトイレですが、その真横の座席に陣取る女のひとがおり、わたしは彼女のことをかってに内心で花子さんと呼んでいました。あだ名の由来はもちろん有名な怪談にあるトイレの花子さんです。

 髪型も耳のでるくらいに短いおかっぱで、フリルのかわいらしい服を愛好されている方でした。

 花子さんはわたしとは違って、物書きではなく漫画家さんのようでした。

 電子端末に向かってペンシルを走らせています。

 プロかどうかはわかりませんが、お手洗いに立ったときにちらっと横目で窺うと、それなりに美麗な絵を描いておりましたので、プロであってもふしぎではありません。

 ジャンルは日によって変わるようでした。絵の濃淡というか、画面全体の明るさが変わって見えるので、きょうは少女漫画できょうはホラーだな、といった具合に絵のタッチの質感でジャンルを推し量っていました。

 何かしら創作活動をしている方なら判っていただけると思うのですが、ふだんから孤独な作業を余儀なくされる我々のような人種は、同好の士を見かけるだけで何かこう、得も言われぬ絆のような、孤独ではあるけれどしかしそれゆえに孤独ではないのだ、みたいな得手勝手な同族意識を固めることがあります。

 端的にうれしくなってしまうのですね。

 なんなら声をかける機会があればおしゃべりをしてみたい、しかしそんなのはお互いに怖いし、じぶんだったら声をかけられたくはないな、と一瞬でそこまで考えて、同士よ、と思いつつ、縁を結ぶことはせずに、遠くから見守る選択をとるのですが、わたしも例に漏れず花子さんに対してそのような、押しつけがましいあたたかい眼差しをそそいでおりました。

 前置きが長くなってしまいました。

 ここからが本題です。

 花子さんはいつも誰かと会話をしているふうでした。

 さっこん、電波を介して遠距離で通話をしながら作業をする絵描きさんや漫画家さんが増えているのは知っておりました。

 物書きの性分でしょうか、言葉を扱うからなのか小説家ではあまりそういった話は聞かないのですが、絵描きさんや漫画家さんではけっこうに一般的なお作法のようです。

 花子さんもジュースと料理をテーブルの奥に押しやり、絵描き用の端末を手前に置きながら、もう一つの薄型の長方形――それもきっと端末なのだろうとわたしは思っていたのですが、終始それに話しかけているようでした。

 笑ったり、冗談を言ったり、ツッコミを入れていたりしたので、和気藹々とまではいかないまでも、友人とのしぜんな談笑を楽しんでいるようにわたしの目には映っておりました。

 内心では、友達がいていいなぁ、とうらやましさを覚えながら、やはりというべきかしかし、じぶんは独りのほうがけっきょくは落ち着くのだよなぁ、なんてことを思いながら、花子さんの熱心な創作の姿勢に触発されるようにわたしも負けじとお話の原型を文字に落とし込んでいたのです。

 それがきのうまでのことです。

 きょうもわたしは仕事終わりにその足でファミレスに寄り、いつもの座席にて執筆作業をしておりました。

 花子さんもすでに定位置におり、つまりお手洗い場の真横の座席にて作業をしていました。

 花子さんの笑い声や冗談めかした悪態が、店内に流れるジャズ調の音楽に掻き消されるくらいの音量で微かに響いて聞こえました。

 わたしは微笑ましく思いながら、ひととおり作業をつづけ、ふぅ、と一区切りついたところでお手洗いに立ちました。

 花子さんの座席の横を通り抜けました。

 そのとき、花子さんがいつになく険のある声で、なんでやの、とつぶやいたのが聞こえました。

 わたしはそのままお手洗い場に入り、用を足しているあいだ、花子さんの口調から滲んでいた、いまにも泣き出しそうな悲愴とも呼べる感情の起伏を思い、いたたまれない気持ちになりました。

 単純に心配になったのです。

 お友達と喧嘩でもしてしまったのでしょうか。

 何か慰めの言葉でもかけてあげたくもなりましたが、そんな真似は万年孤独入りびたり女子のわたしにはできない相談です。

 せめて遠くから彼女の明るい日々を祈ろう。

 そうと踏ん切りをつけ、用を足し、お手洗い場の外にでました。

 どうしても気になり、いつもより歩調をゆったりとさせながら、彼女の背後から彼女の手元に目を転じました。

 テーブル、空のグラス、料理の半分残ったお皿、お絵かき用の端末、そして薄い長方形の板。

 順々に目に入るあいだにも、花子さんはしゃべりつづけていました。

 しかしわたしは、そこで目が合ってしまったのです。

 花子さんの目と。

 こちらに背を向けているはずの、彼女の目と合ってしまったのです。

 花子さんはなおもしゃべりつづけていました。

 手元に置いた、薄い長方形の板に向かって。

 手鏡に向かって。

 まるでそこに映る自分自身と対話するかのように、あたかもその奥にじぶんの古くからの馴染みの友人がいるかのように。

 わたしは足早にその場を立ち去りました。

 作業を再開させようとしても、いま見た光景が脳裏を巡って集中できず、けっきょくいつもより二時間も早くお店をあとにしました。

 帰宅してすぐに、頭のなかのモヤモヤを押しだしてしまいたかったので、いまこれを書いています。

 花子さんの髪型は短いおかっぱです。今風に言えばショートボブです。

 耳は露出しており、ワイヤレスイヤホンを装着していないことは一目して瞭然でした。

 ならば彼女はいったい毎日、あの席で誰と会話をしていたのでしょう。

 どう考えてもそれは、わたしの思い描いていた、友人同士のきゃっきゃうふふとなごなごした愛らしい談笑とはかけ離れた情景を想起せずにはいられません。

 かといって花子さんからはこれといって悲劇や惨劇を思わせる負の印象を受けてはいないのです。

 きょう偶然に彼女がいつもとは違った感情の発露を見せたので、わたしのほうで気になっただけと言えば、それを否定することはむつかしいでしょう。

 それでもわたしは思ってしまうのです。

 どうか彼女に、幸あらんことをと。

 彼女の願う至福が、鏡に映る虚像ではなく、現実に触れあえる何かしらであれ、と。

 それがぬいぐるみでも、絵でも、漫画でも、構わないとわたしは思うのです。

 虚構であってもそれはそれで至福のカタチです。

 ただ。

 鏡の虚像でだけは、あって欲しくはなかったのだと、わたしはなぜかいま、じぶんの部屋の姿見を目にし、そこに映る自分自身を見詰めてそう思うのでした。

 あすもわたしは同じファミレスに足を運び、馴染みの席が空いていればそこに居座るでしょう。

 花子さんもきょうと同じくきっとお手洗い場の真横の定位置に陣取っているはずです。

 いっそう彼女との距離が遠のいた気がするいっぽうで、より孤独の深まって見えた彼女との縁が、なぜかわたしにはより深く結びついた気にもなり、このどうしようもない歪んだ自己愛を、どうか花子さんに向けてしまわないようにと、そうじぶんに言い聞かせることでしか自制できない、乾ききった我が心に、わたしは心底ぞっとしたのであります。




【帳の灰】

(未推敲)


 帳を開けるのが少年の仕事だった。

 少年はそれを誰かから教えられ、任されたが、それが誰だったのかを思いだせない。

 少年は来る日も来る日も、夜の帳が下りるのを待って、それから頃合いを見計らい、帳を開けた。

 お月さまや雀たちの様子を観察していれば開けるタイミングは判る。

 そうでなくとも陽が昇るのだ。

 そろそろかな、と少年が思うタイミングで、夜の帳を開ければいい。

 少年にだけできるとってときの仕事だった。

「もし開け忘れたら大変なことになってしまうよ」

 いったい誰の声なのかを思いだせない。けれど少年に仕事を与えた者の声であることは理解できた。

 大事な言葉だった。

 もし開け忘れたら大変なことになる。

 少年は、毎日欠かさずに夜の帳を開けた。

 世界に朝を知らせる。

 夜空を仕舞い、光を届ける。

 少年にだけできるとっておきの仕事だ。

 いつしか少年の仕事ぶりも板についた。寝ぼけながらでも卒なくこなす。寝ていたって忘れない。大事な仕事だからだ。

 少年は熟練だ。帳開けの達人と言える。

 少年はもう少年ではなかった。

 夜の帳は季節によって、重さが変わる。冬と梅雨の時期は汗を掻くくらいに重たいのだ。春や秋や夏は、それに比べたら軽々と畳める。

 気候にもよる。

 雨の日や冬の日は骨が折れる。

 嵐の日などは文字通り、命懸けだ。

 青年の身体は、夜の帳を開けるたびに筋骨隆々と膨れた。

 いつしか青年は老いていく。

 それでも大事な仕事は欠かさずこなす。

 もはやそれが彼の生きる意義になり得た。充実した日々だった。

 冬。

 やれやれまたこの季節がやってきた。

 老いた男は、腰や肩の痛みに耐えながら、夜の帳を引き上げ、みなに朝の空を届ける。

 だがこの日、いつもよりも時間がかかった。

 体重をかけても、てこの原理を使っても、夜の帳が上がらない。

 体力が衰えている。

 老いた男は、愕然とした。

 いつもよりも時間をかけ、かろうじて夜の帳を畳んだ。しかしこの日、いつもよりも世界は薄暗かった。すっかり畳切れなかったせいだ。

 老いた男はあすの朝が怖くなった。

 もし夜の帳を開けられなかったらどうしたものか。

 大変なことになる。

 記憶の底から例の声がよみがえった。

 こんなことなら後継者を探しておくんだった。いまからでも間に合うだろうか。

 老いた男はつぶさに街に目を配るが、この季節、夜の帳の重さに耐えうる体力を備えた若者を見つけることはできなかった。

 夜の帳が下りていく。

 老いた男はいつもより早めに支度を整えた。

 時間をかければ上げられる。開くことはできるのだ。余裕を以ってとりかかろう。

 だがこの日、老いた男はいつもの時間になっても夜の帳を開けることはできなかった。

 初めて仕事を失敗した。

 朝がこない。

 そう観念しかけた老いた男であったが、案に相違して朝はやってきた。

 陽の光が、夜の帳を振り払う。

 薄紙に灯した火のごとく、メラメラと夜の帳を消し去った。

 あとには清々しい冬の青空と、そしてぼた雪のごとく舞い散る、夜の帳の灰が世界を鮮やかに化粧した。

 老いた男は、ほぉ、と息を吐く。

 安堵の念が白く広がり、灰と交わり、霧散する。

 あすこそは。

 老いた男はじぶんに誓う。二度と失敗は犯さない。

 だがこの日以降、世界に夜がやってくることはなかった。老いた男が夜の帳を開けることもない。

 世界から夜空は消えた。星明りは絶え、年中どこも朝と昼に包まれた。

 夜の帳は燃え尽き、灰は地面に染みこんだ。

 夜の帳の灰のつくった染みは、凍った湖面のごとく空の色を反射している。

 陽は昇る。

 沈んでは、また昇る。それだけが変わらない。

 陽のない時刻。

 かつて夜がそこにあった時間帯。

 夜の帳の灰の染みつく地表は、老いた男の顔に差す深い陰すら吹き飛ばすように、晴天より燦燦とまばゆく光を溜め込んでいる。




【色褪せた世界だが】

(未推敲)


 妹のフランが昨日死んだ。

 まだ幼かったのに。

 外は延々と雪が降りつづく。長らく青空を見ていない。

 もうそんな記憶ごと灰色の世界に我が身は浸食されている。

 世界は理不尽でできている。

 最初に降る雪はいつも溶けて消える定めにある。後続する雪のために、地面の熱を奪い、後続の雪たちが降り積もる余地をつくり、そして消える。

 それでいくと理不尽なのは世界ばかりではなく、僕であることにもなる。

 何せ僕は、妹や弟たちより先に産まれてきておきながら、誰より長く生きつづけているからだ。

 昨日亡くなった妹のフランはまだ産まれて三十日も経っていない。人工子宮の設定は齢六歳に設定してある。だから産まれてきた翌日には立って歩くことも、しゃべることもできた。

 記憶は毎回、基準脳回路を指定してある。

 これは初代妹が亡くなったときに遺してあったメモリだ。

 初代妹は十七歳で亡くなったが、メモリは六歳のときの物しか残っていなかった。

 弟のグローもそうだ。

 ひと月後には何十代目かの弟が誕生する。

 代わりばんこにしか再生できないのは、設備が一人分しか起動しないからだ。ほかの同種の設備は壊れている。予備の部品として散々分解してしまった。日々、貴重な資源ほど失われていく。

 僕は妹の亡骸から衣服を回収する。つぎに産まれてくる弟に着せるためだ。

 嘆息を吐く。

 いくら蘇らせても、妹たちは長くは生きられない。死を見届けるのは辛い。

 彼ら彼女らが何代目かをもはや僕は数えていない。

 長ければ一年を共に暮らせる。

 しかし大概は数か月、ここのところはひと月保たない回が増えてきた。

 材料不足なのか、それとも度重なる再誕に、遺伝子のほうで何かよからぬバグが生じているのか。人工子宮の劣化であってもおかしくはない。

 さいわいにも天然資源には恵まれている。

 かつての都市の名残りはなぜか温かい。水が凍らずに溜まっている。いまは建物が軒並み崩壊し、広域に亘って瓦礫で蓋がされている。その下に、沼のように粘着質な水溜まりが広範囲にわたってできている。沼やドブといった様相だ。

 そのままでは飲料水はおろか生活用水にも活用できない。

 浄水設備が未だに機能するのがさいわいだ。

 浄水する過程でとれる不純物には細菌や微生物が大量に含まれる。濾しとられたそれらは、たんぱく質の原料としては申し分ない。水と人体の原料を一緒くたに補充できる。

 水分を取りきって乾燥させてしまえば、道具を作るための素材にもなる。畑の堆肥も活用可能だ。ブロックとしてそのまま棲家の補強にも使えるが、瓦礫はそこら中にあるので、いまのところ砕いて寝床の緩衝材代わりに用いる以外には使っていない。

 食料には向かない。

 食料にするためにはいちど食用のたんぱく質や栄養素として再構築する必要がある。端的に、調理をしなくてはならない。

 けれどそのような設備はなく、仮にあったとしてもエネルギィや作業効率の問題で優先順位を絞らねばならなかった。

 したがって僕はまず、妹や弟を蘇らせつづける道を選んだ。最優先事項をそこに設定した。

 寂しかったからだ。

 もちろん理由はそれだけではない。死んで欲しくなかった。また会いたかった。ずっと生きていてほしい。

 妹にも弟にも。

 けれどそれは叶わぬ願いなのだ。

 どうあっても人工子宮から誕生する妹や弟は、長くは生きられない。

 彼ら彼女らは何度も初めての死を味わい、死んでいく。

 こんなことはすべきではないのかもしれない。

 妹や弟のためにも。

 僕自身のためにも。

 けれど、そうせずにはいられないのだ。僕以外にはもうきっと生き残っている人間はないのだろうから。

 あまりに長く生きすぎた。僕だけが生きつづけてきてしまった。

 知恵がその分蓄えられればよかったものの、僕には新しい技術を生みだす能力も、壊れた設備を治せるだけの技術も、それらを可能とするための資源の確保をする知恵も欠けていた。

 僕はいったいあと何回、妹たちを蘇らせ、死なせ、そしてこうして彼ら彼女らの亡骸を切り刻んで、今晩の、そして明日の朝食の素材にするのだろう。

 調理だけは手慣れたものだ。

 何度目のまえにしても唾液が分泌される。

 哀しい。

 とても哀しい。

 そうして僕は、過去に連綿と失いつづけてきた愛する者たちとの思い出を噛みしめながら、産まれてきた命を無駄にせぬように、これからも束の間の愛に包まれた時間を過ごすために、生き永らえるため、調理したばかりの良質なたんぱく質を、栄養を、摂取する。

 冷蔵庫はない。外は極寒だ。

 雪ばかりの代わり映えのしない色褪せた世界だが、食料の保存に困らないのは良い点だ。




【宝剣伝説】


 ここに一振りの剣がある。

 引き抜いた者はこの世の覇者になれると言い伝えられている宝剣だ。

 毎日何人もの野心溢れる豪傑たちが集まるが、一人として抜けた者はいなかった。

 何年、何十年、何百年も経つと、やがてそれを抜こうとする者はいなくなった。抜けばこの世の覇者になる宝剣は、単に頑強な呪いの剣として人から人へと口の端にのぼっては忘れ去られた。

 ある日のことだ。

 川から水を汲みに来た少女が、岩場に突き刺さった剣を見つけた。件の伝説の宝剣であったが、少女にはかような事情は見抜けない。知識がない。言い伝えを知らなかった。

 少女は剣には興味が湧かなかった。

 しかし、刃物が剥き出しで岩場に突き刺さっているのは危うく思った。

 誰かのイタズラだろうか。動物たちが怪我をしたら大変だ。弟たちとていずれは水汲みの手伝いに駆りだされる。あれを見たらきっと興味を持つ。やはり危うく感じた。

 少女は岩場に立ち、剣を見下ろす。

 剣は何百年の年月を思わせぬ輝きと荘厳さを放っていた。

 少女は剣の柄には手を伸ばさず、手ごろな岩を手に取った。

 刃が露出しているのが気に食わなかった。

 岩を持ち上げると、真上から剣の柄の先端部分へと、玄翁を振り下ろすように叩きつけた。

 数百年のあいだ、あれほど微動だにしなかった剣が沈んだ。

 土台の岩にはヒビが走った。

 少女は岩を投げ捨て、剣の柄を握った。

 ずるり、と難なく引き抜けた剣は、陽の光を受けて何層もの色彩を放った。

 少女にはこのとき、世界を手中に納めるほどの異能が宿ったが、少女がそれを自覚することはなく、さっさと宝剣を川の中へと投げ捨てた。

 やれやれ。

 清々だわ。

 こんな危ないイタズラ誰の仕業だろ。

 少女は川から水を汲むと、スタスタと家までの山道を歩き去った。

 以降、宝剣の行方は不明である。

 宝剣伝説も、いまでは子守歌代わりに子どもに語り聞かせるおとぎ話である。




【霧の道】

 

 霧の日にそれはでる。

 山から下りてくる明け方の濃霧に、ゆらりと動く影がある。カタチはなく、しかしそこに何かがいるのははっきりと判る。ソレの通ったあとには霧がぽっかりと繰り抜かれたように道ができるからだ。そこだけ白濁した世界に色が宿る。景色が戻る。

 まだ私がいたいけだった時分に家の窓からソレを目にした。

 母に問うた。アレは何、と。

 母はおっとりやってきた。小鳥でも見つけたと思ったのだろう。だが窓からソレのつくる道を見るなり、私を抱きかかえ窓から引き離した。目を塞ぎ、部屋の奥へと走って逃げた。

 母は一言も声を発しなかった。

 私が暴れようとすると、シィーと声にもならぬ熱い吐息を私のつむじに押し当てた。

 見てはいけないものだったらしい。しきりに震える母の身体と、太鼓のように伝播する鼓動の音を、幼いながらに私は、鋼に釘で刻みこむようにして記憶した。

 アレは見てはいけないものなのだ。

 だがなぜ見てはならないのか。

 その理由はついぞ母から説明されることはなく、私も母にはいっさいその手の話題を向けなかった。母を戸惑わせたくなかったし、口にだしてはいけないことなのだと考えたからだ。

 この日はたしか夜だったはずだ。

 帰宅した父に母は、昼間の出来事を、つまり私が窓から霧のなかに現れた「延びつづける道」を見た旨を告げていた。私は寝室のベッドのなかで、真下の一階から漏れ聞こえる母の沈んだ声の響きと、父の深刻そうな相槌を耳にした。話し合いの内容までは聞き取れなかったが、父と母がそれを私には報せぬように計らうだろうことと、私は知らぬほうがよいことらしい、旨を私は直感した。

 以降、私は朝方に窓のそとを見ないようにした。霧が出れば、家のなかに入るようにしたし、それができないときは足元を見て歩くようにした。

 小学校にあがり、中学校、高校と私は、実家から離れることなくすくすくと育った。

 幼少期に目にした霧の中を彷徨う何か。霧を繰り抜いて延びる道のことは記憶のなかで薄れていた。それでも霧に対する苦手意識は健在だ。友人たちからは単なる怖がりだと思われている。みながそのように見做すので私もすっかりじぶんは人より怖がりなだけなのだと思いこんでいた。

 先日のことだ。

 卒業旅行から帰ってきたその日、私は友人たちと別れて一人帰路に就いた。私の家はみなよりも街はずれにある。自転車で通っていたがこの日は卒業旅行の荷物が多かったこともあり徒歩だった。

 待っていれば父が自動車で迎えに来てくれると言っていた。待っている時間も惜しかったので徒歩で帰路を辿った。体力はあるほうだ。小学校、中学校時代に毎日山道を通ったたまものだ。

 日が暮れ始めたからか、空気がひんやりとした。

 道路の左右を藪が覆った。家に近づくほど気温が下がる。標高が高くなる影響だ。

 霧がでてきた、と気づいたときには振り返っても道の先が見えなかった。

 それでいて前方はまだ見通しがよかった。

 私はそのとき、歌を聞いた。

 高い声音が、はぁー--、と息のつづくかぎり奏でる鼻歌のような旋律を耳にした。高低差のない平坦な音色だった。風の音や木々の葉の立てる自然の音とはハッキリと区別できた。

 耳を澄ませ、音源を探った。

 歩みは止まった。

 じぶんが左右に移動することで音源の方向を探ろうとした。距離もそれで掴めると思った。

 そうして場を真横に移動したことで、私がいた地点が晴れていたのだと知った。

 真横にズレた私は霧のなかにいた。そして目のまえにはクッキリと繰り抜かれた霧の道ができていた。トンネルだ。

 歌は途絶えた。

 しかしふたたび私が、おそるおそる道へと半身を忍ばせると、歌が聞こえた。

 歌は、道の中にのみ響いていた。

 主だ、と直感した。 

 この道は通り道だ。主の通ったあとに道ができる。

 霧の道は、私の帰宅路に沿って家のほうにまで延びていた。左右の藪に逸れることなく、道路に沿っている。

 かつての記憶がよみがえる。

 いたいけな私。窓のヘリを掴む手。窓に反射するじぶんの顔と、その奥に見える白濁した景色。そしてぽっかりと浮きあがるようにそこだけ色とカタチの宿った霧の道。

 霧に包まれて見るその透明の道は、遠ざかるほどに白濁の視界のなかに霞んだ。

 そうだ。見えるわけがないのだ。

 私は退いた。

 いかに晴れた道だろうともそれを、家の中にいた私が目にできたはずがない。目のまえに分厚いカーテンがあるようなものだ。たとえその奥に誰かが立っていようと、カーテンをまずどかさねば、その向こうの景色は見えないはずだ。

 ならばなぜあのとき私は、ソレの存在に気づくことができたのか。

 目を留める真似ができたのか。

 私は疑問すると共に、その答えへと辿り着いた。

 いたのだ。

 目のまえに。

 霧を繰り抜き進む、道を開ける者が。

 幼い私の目のまえに、窓を挟んだすぐ向こう側に。

 立っていた。

 母がなぜ私を庇ったのかが腑に落ちる。

 怯えて当然だ。

 我が子が、得体の知れない者とガラス一枚挟んで対峙していたのだから。

 記憶と現実を重ね合わせたまま私は、霧の道から距離をとった。

 これが主の通り道である以上、道が延びた先にしか主はいない。

 いまここに、主はいない。

 いったいどこまでつづいているのだろう。

 よもや家までではなかろうな。

 私は一歩もその場を動けなかった。

 自動車の近寄ってくる音がしたのは、それから三十分後だろうか。もうすこし早かったかもしれない。私には世界が動きを止めたかのようにのっぺりと濃厚な逡巡の時間だった。

 自動車はフロントライトを灯していた。霧がくっきりと浮かび上がる。

 霧を蹴散らしながら、自動車はゆったりとやってきて私の目のまえで停まった。

 車窓が下り、運転席にいる父が身を乗りだす。

「よかった。連絡したんだが通じなくて」

「お父さん」私は安堵で泣きたくなった。

 父は私の様子が妙だと勘付いたようだ。助手席のドアを無言で開けた。

 私は乗り込んだ。

 ドアを閉めると、恐怖はあっという間に遠のいた。私は恐怖していたのだ。極度の緊張の中、その自覚すら薄れていた。濁流に吞まれていたのだ。溺れていたのだと、陸にあがってから意識した。

 過去の記憶が沈み、現実の質感が私をふたたび包みこむ。車の中は父の匂いがした。安心する匂いだ。

 自動車が走りだす。とっぷりと暮れた空。星は見えない。家に近づくほど道は狭まり、頭上を木々の葉が覆った。

 フロントライトは道路を照らすが、そこに霧の道は見て取れない。 

 家が見えてきたころ、私は切りだした。

「むかしさ。私がまだ五歳か四歳くらいのときだと思う。窓から霧を眺めていたらさ。朝だったんだけど、そのときお母さんを呼んだら、物凄い勢いで抱きかかえられた記憶があるんだよね」

「うん」

「あれってなんでか分かる」

「いいや」

「さっきね。霧の中に」

「アム。もうすぐ家に着くから下りる支度して。アムが先にお家にどうぞ。お父さん、ラジオ聴いてから入るから」

 言ってから父はいまさらのようにラジオを点けた。

 私は反抗せずにいた。家に早く入りたかったし、父が自動車のフロントライトを消さずにいてくれるのなら心細くならずにいてよい。私は父の提案に素直に従った。

 家の中に入ると母が、台所に立っていた。シチューの匂いがした。おかえり、と声がし、手ぇ洗ってらっしゃい、とつづく。いつもの風景だ。

 よかった。

 着替えを済ませて一階に戻ると、父が配膳を手伝っていた。

「さ。食べよ」

 母が席に着き、いただきます、と三人揃ってスプーンを構えた。

 卒業旅行はどうだったのか、と母が根掘り葉掘り訊いてくる。質問攻めには辟易するが、きょうくらいはいいだろう。私は邪見にせずに家を留守にしていたあいだの三日間を報告した。

 父は合間合間で、ほう、とか、いいな、とか相槌を打った。

「あ、そうだ。さっきお父さんに拾ってもらう前にね」

 もはやあれは私の気のせいな気がした。薄暗い道のうえで覚えた不安の視せた幻覚だ。そう思いつつあった。

「霧の中に道ができてて。そう言えばむかし、そこの窓から」

 私が窓を振り返る。

 分厚いカーテンが引かれている。外は見えない。

 静寂が部屋を覆った。

 上半身を戻す。

 父と母の顔を見遣った。

「どうしたの。怖い顔して」

「アム。シチュー冷めちゃうよ」「ご馳走さま。食器は出しておいて。あとでお父さんが洗うから」

 母と父は話を打ち切り、膜を張ったようにそれぞれの作業を開始した。母は映画を観はじめる。父はじぶんの部屋に引っ込んだ。

 急に断ち切れた家族団らんの空気に、私は、ひやりとしたものを感じた。

 それは奇しくも、霧の道のなかで感じた冷気。

 それとも、間延びした鼻歌のごとく旋律を耳にしたときのような、気がそぞろ立つ感覚に似ていた。

 私はもういちど窓を振り返る。

 分厚いカーテンの奥に、何者かが立っている。そんな突拍子もない想像を巡らせて閉じる腕の毛穴たちを、私は、チクチクと煩わしく思った。






【ランプの生】

(未推敲)


 薄暗い研究室に剝き出しのランプが天井からぶらさがっている。蛾がランプにまとわりつき、そのたびに揺れる。壁や天井に、フラススコやビーカーの影が伸縮を繰り返す。

「博士。荷物が届きましたよ」

「そこに置いといてくれ」

「何かほかにお手伝いできることは」

「そうだな。そろそろ研究も佳境だ。節約生活ともおさらばしようか」

「じゃあようやく先生もアパート暮らしに戻れますね」

「何を言っているのだ。まずは電気系統の設備から増強するぞ。天井の明かりも動物性油由来の光ではなくしたい」

「節約節約とおっしゃるので、動物実験で量産される動物の死骸から燃料を抽出したのに」

「電力はしかし節約はできただろう」

「加圧の影響で電球が破裂する危険はなくなった点はよかったですけど」

「そろそろNT346が目覚めるころではないか」

「ですね。もし成功していれば」

「これでひとまず臨床は完了だ。つぎはいよいよ人間での実験に移る」

「孤児や犯罪者、ほか消えても捜索願の出されないような人間の個人情報を集めておきました」

「有用な助手だ」

「先生の研究のためなら何でもしますよ」

 二人は厚手のコートを羽織ると、場所を移動した。研究室から廊下に出て、長く暗い坑道を歩く。どうやらここは地下のようだ。

 青い明かりが淡く漏れる部屋へと入る。扉はない。洞穴のなかに部屋がいくつも築かれているようだ。壁もよく見れば露出した岩盤だ。ところどころ鍾乳石の艶やかな表面が見て取れる。

 壁の一画は白く氷に包まれていた。白いモヤが足元に漂う。そこだけ冷気が充満していると判る。

 簡易机が並ぶ。どことなく火葬場を思わせる造りだ。

「開けるぞ」

「では僕が」助手がリモコンを手に取り、押した。

 壁の一画が音もなく開く。岩肌に偽装されてはいるが、どうやらそこに扉があったようだ。

 穴が開くと、中に明かりが灯る。ここには電灯が備わっているようだ。

「頼んでよいかな」

「いまお持ちします」

 助手が穴のなかへと入る。数分もしないうちに、大きな台車を引いて現れる。

 台車のうえには檻が乗っていた。

 檻の大きさは助手の背が隠れるくらいの高さがある。しかし中に入っているのは犬らしき生き物だった。

 大型犬の部類だろう。それでも子犬だからか、檻に対して小さく映る。

「絶食して二週間。まるでぴんぴんしていますね」

「代謝数値はいくつかね」

「機器は、R1をきっています。細胞の代謝はほぼ止まっているようです。成功ですね」

「いやまだだ。肉体のほうはすでに臨床は終えている。問題は、脳だよきみ」

「そうでした。いまのところ異常は見たりませんね」

「一見しただけでは区別はつかん。識別テストを行おう」

「はい」

 助手と博士はその場で、檻のなかの犬らしき生き物に対して、いくつかの遊び道具を与えた。犬はそれぞれの遊び道具に相応の反応を示しつつも、もどかしそうにする場面が散見された。

 犬らしき生き物の胴体にはコイン並みの大きさのセンサが十個ほど取り付けられている。頭部には三つだが、そのセンサだけは大ぶりだ。

 センサがキャッチした犬と思しき生き物の身体電子信号ならびに脳内電子信号を、外部の演算機へと飛ばしている。

 助手は演算機による計算結果をグラフ化した。

 博士はそれを覗くと、ふむ、と白髭だらけの顔を撫でた。

「予想通りの結果だな。術後の混乱は見られるが、どうやら外界認識に支障はなさそうだ」

「では成功ですか」

「この個体に関して現時点で問題らしき問題は見受けられん。まあ経過観察の途中でしかないが」

「素晴らしいですね。犬に猿の脳を移植してこれほど安定しているなんて」

「猿のほうでは犬の身体にうまく馴染めておらぬようだが」

「これを応用すればでは、人間の頭脳も動物に移植可能なんですね」

「理論上はそうだ。しかし問題は、人間の意識のほうがその環境に耐えられるのか。そこがいまいち予想がつかん。犬の嗅覚がどのように反映されるのか。人間の頭脳が犬やほかの動物の身体能力にどこまで順応するのか。そこがまだ未知数だ」

「この犬と猿の融合体に不和という不和が見られないのはなぜでしょうか」

「犬と猿の身体能力に、さほどの差がないからかもしれん」

「ああなるほど」

「戦闘機のエンジンを軽自動車に積むようなものかもしれんのだ。人間の頭脳をほかの動物の身体に移植するというのは」

「どちらが戦闘機のエンジンなんですか」

「当然、動物の身体のほうだ。頭脳は、エンジンではない。せいぜいが、電気回路だ。駆動部失くして車は走らん。動物の肉体も同じだ」

「では戦闘機のエンジンを積まれた自動車はきっとすぐに大破してしまうでしょうね」

「それからまともにタイヤが回らんだろう。同じことが、人間の頭脳に動物の肉体を与えた際に起こるかもしれん」

「情報を処理しきれず、身体を満足に動かせないと」

「それもある。または、動物の肉体と自らの人間としてそうあるべきだ、との規範意識のとズレに耐えられず、精神的な自死を迎えるかもしれん」

「無気力になってしまうということでしょうか」

「眠いときに人間は全力をだせんだろう。似たようなことが起こる可能性がある。つまり、極度のうつ状態になり、身体を動かそうとする動機付けを根本から行えなくなる」

「ありそうな話ですね」

「だがそれを払拭するだけならば簡単だ。まだ自我の芽生えていない赤子の頭脳を使えばいい」

「ひょっとしてだから博士は子犬や子猿ばかりを実験に用いたのですか」

「最初から慣れておけば、その後も楽だろう」

「では予定通りなのですね。懸案事項も含めて」

「予想外のことが起きてもらったほうが研究者としては面白いのだがな」

 二人はそれからほかの実験動物にも同様のテストをした。中には適合しなかった融合体もおり、それらはその場で殺処分した。あとで助手が死骸から肉や油や毛皮を取り除き、有効活用する。油は燃料に、肉は食料に、毛皮は衣服や断熱材に。

 研究室を照らす明かりや暖房はそうじて実験動物の亡骸からとれた燃料を利用している。

 実験動物は、博士の発明品や、依頼があって作る毒薬や毒ガス、或いは生物兵器と引き換えにもたらされる。物々交換が主だ。金は当てにならん、が博士の口癖であった。

 片付けを済ませ、助手は廊下にでた。

 先に研究室に戻っていたはずの博士が廊下でランプを片手に待っていた。

「足元が暗いのでな」

「ありがとうございます」

 足音が反響する。

「博士。じつは僕、ずっと思っていることがあって」

「ほう」

「じぶんの手足を見詰めていると、どうして僕の指は五本で、足はこんなカタチで、顔はこうも陰影ばかりのデコボコなのだろうと不気味に思うことがあります」

「不気味、か」

「まるでこの肉体がじぶんのものではないかのような」

 水滴の垂れる音が反響する。廊下はひんやりと肌寒い。

 博士が襟首を掻き合わせた。

「移植した頭脳の話をしたね」

「さっきですか」

「肉体のほうの負荷に耐えられず、機能停止する」

「はい」

「もし逆だったらどう思う」

「逆、ですか」

「人間の身体に、ほかの動物の脳を移植したら」

「同じく機能しないのでは。いえ、どうでしょう。ものすごい超人になれるのかも。ただし、知能は低いままで」

「わしもそう思っていた」

「もう実験されたのですか? いつ?」

「イルカの脳が人間の頭脳よりも皺の数が多いのは知っておるか」

「大脳新皮質が分厚いのですよね」

「前頭葉が人間ほどには発達しておらんので、知能が高いとは言えんがな。ソナーを使うのに有利なように肥大化したようだ」

「イルカの頭脳を人間に移植されたのですか」

「いいや。動物の頭脳をあり合わせた」

「あり合わせた?」

「つぎはぎにしてみたのだよ。頭脳の頭脳による頭脳を基にした移植だ」

「そんなことまで」

「すこしずつ脳細胞を、部分移植していく。安定したら、それらツギハギの動物の脳を、人体へと移植する。この場合は、人間の脳幹はそのまま用いた」

「核に、動物たちのツギハギ脳を被せたわけですね」

「どうなったと思う?」

「拒絶反応の心配は、博士の技術では払拭されていますから、頭脳と身体は繋がったとは思います。ただし、頭脳の働きが身体にどの程度反映されるのかが未知数です。どうなったのですか」

「わしはずっと、頭脳が身体の働きを制御し、操ると考えていた。身体の操縦桿こそが頭脳なのだと」

「違ったのですか」

「身体の働きのほうに、頭脳が適応することもあるようだ、とその件で認識を覆した」

「動物たちのツギハギの脳にも、ひょっとして人間のような高次の知性が?」

「高次の知性と呼べるのかがまず疑問だ。人間の知性が、真実にほかの動物種と比べて高次なのかはわしには判断がつかん。植物たちとて知性はあるだろう。それを人間が知性と見做せないだけかもしれない。するとでは、高次なのはどちらか、という話になってくる」

「はあ。むつかしいお話ですね」

「人間の肉体にはそもそも、意識を発芽させる機構が組み込まれている。回路はむしろ、脳ではなく、身体全体に及んでいる。考えても見れば当然だ。DNAは細胞ごとに組み込まれているのだ。そのすべてのDNAには、人体を再現し、意識を発生させるだけの情報が揃っている。ただし、身体の部位ごと――細胞ごとに、DNAの働きのどの情報を機能させるのかの取捨選択が行われている」

「設計図のどの部位を復元するのか。そのON/OFFが、身体の部位ごとに違うんですもんね」

「頭脳も同じだ。しかし、頭脳の回路と、頭脳を形作るとDNAは必ずしもイコールでは結びつかん。動物の頭脳とて、人間の意識を発現させ、身体に見合った回路を築くべく順応することはあり得る」

「身体のほうに、意識を発現させるシステムが搭載されているのなら、身体と繋がった脳のほうで、そちらに引っ張られることはあり得ますね」

「結果。わしの生みだした、動物の頭脳と人間の身体の融合体は、順当に人間として目覚めた」

「すごい発見じゃないですか。いま行っている実験はでは、その副次的な、穴埋めの実験なんですね。その逆が成り立つのかを確かめるための」

「動物の身体には、意識を発現させる仕組みが搭載されておらん。ゆえに、頭脳優位な融合体しか生まれんようだ。ひるがえってこれは、人間の身体に、意識を発現させる回路がそもそも備わっていることの傍証となり得る」

「たしかに。素晴らしいです博士」

「身体の違和感を、きみはいつから感じていたかね」

「僕ですか。僕はえっと。あれ……博士。僕っていま、何歳でしたっけ。あれ。あれ。僕、僕は、あの、いったいいつどこで産まれて、どうして博士の助手に……いつから」

「ふむ。長期記憶が未熟ゆえの混乱か。海馬の増強を試してみるか」

「博士。博士。なんか、僕の頭に金属みたいのが」

「蓋だよ助手よ。いちいち切り開くのが面倒なのでな」

「あはは。博士、僕って僕って」

「安心しなさい。あすにはまた忘れている。身体で憶えた技術や知識のほうが優先して記憶に残るゆえ、しばらくはわしの助手として生かしておこう。そろそろWQ6号が目覚めるころだ。おまえの役目もそこで終わろう」

「い、嫌です。博士のお役に僕も」

「安心しなさい。死してなお、きみの骸はわしの糧となる」

 ほれ見なさい。

 研究棟のランプを見あげ、博士は微笑む。「ああも明るく、照らしてくれる」

 未来は明るい。

 きみらのお陰だ。

 蛾が飛びかい、ランプを揺らす。

 そのたびに、壁に浮かぶ影が大きくなり、小さくなる。

 研究道具の傍らに並ぶ食器はいずれも、何かの骨のように見えなくもない。




【カレンダーが破られたー】

(未推敲)


 弟が失踪した。

 今月初頭のことだった。

 大家さんから鍵を受け取り、弟の部屋にあがりこむ。

 今年の春から大学に通うために弟は一人暮らしをはじめていた。その矢先の失踪だった。

 大学にも顔を見せていないというので、保護者代表で比較的自由な時間のある私が様子を見に来たといった顛末だ。私の報告次第で次は母が動く番となる。警察にもそのときに通報するか決めるのだろう。心配させんな、と急に行方を晦ませた弟に業を煮やす。

 新しい環境に馴染めず悩んでいたのかもしれない。それとも何か素行のよろしくない人と付き合いを持って事件にでも巻き込まれたのだろうか。

 部屋を見れば何か分かるだろうと思い、足を運んでみたはよいが、部屋を見渡してみてもこれといって妙なものは見当たらない。

 質素な部屋だ。

 実家にいたころから物を持たない人間だった。

 弟らしい部屋といえばその通りで、がらんとした部屋にはコタツと旅行鞄があるだけだ。

 弟は旅行鞄を箪笥代わりに使っていたようだ。衣服も三着くらいしかない。それを着まわして過ごしていたようだ。

 それでは恋人どころか友人もできないぞ、と実家にいたころに姉として助言を呈していたのだが、弟はどこ吹く風で、それでいいよそれがいいよ、と仄かに笑った。

 孤独でありたいがために敢えてそうしているのだ、と言わんばかりの態度に私はやれやれとじぶんの肩を揉んだのを憶えている。

 部屋の収納棚を一通り開けて歩く。

 これといって気になる物はない。

 ラーメンを食べてそのままにしていたのか、流し台には汚れた器と鍋が放置されている。

 ちゃんと自炊していたのか、とそのことに場違いにもほっこりとした。

 コタツに足を突っ込み、しばらく呆ける。

 本当に何もない部屋だな、と改めて見渡し、ほとんど目と鼻の先にある玄関口に目が留まる。

 靴脱ぎ場があるが、そこには二組の靴がある。どちらも弟の私物だ。

 実家にいたときから変わらずに同じ靴を穿きつづけていたようだ。

 しかし妙だ。

 コタツから這いだし、靴を手に取る。

 これといって壊れてはいない。

 弟がこの部屋にいないのだから、ならば弟はこれ以外の靴で出かけたということだ。

 新しい靴を買ったのだろうか。

 それは買うだろう。

 何もふしぎではない。

 だがなぜか妙に腑に落ちない。

 ふと部屋の壁に目が止まる。

 真っ白な壁の一画にだけカレンダーが一つ垂れていた。

 日めくりのようである。

 日付はいまから二週間前だ。弟が失踪しただろう日付を示しているのかもしれない。

 それにしても弟らしくない品物だった。

 カレンダーはすでに半分以上がなくなっている。いまが十一月半ばであることを思えば不自然ではないが、弟がこれを毎日めくっていた姿はあまり想像つかない。

 似合わないのだ。

 なにせこのカレンダー、めくるたびに根元の紙の土台部分が残り、徐々に何らかの造形が彫刻よろしく浮きあがる仕組みであるらしい。

 メモ帳では比較的よく見かけるデザインだ。テーマパークの土産物で、その場所ゆらいの城が浮きあがったり、キャラクターの顔が現れたりする。上から順にメモに使える紙面が広く、下にいくほど狭まっていくのは、紙を千切ったあとに残る土台が城やキャラクターの顔の輪郭をかたどるからだ。あごのラインを残すには、千切れる紙の部分はメモ帳の面積の極一部になる。

 例に漏れずこのカレンダーもそのような仕組みであるらしい。

 かといって半分ほど千切れたいま、そこに何が浮きあがりつつあるのかは判然としない。

 建物や人物ではなさそうだ。もっと複雑な、そう、なんらかの紋様のようでもある。

 一種、装飾の施された扉のようにも見える。

 紙面の大部分は写真で埋まっている。カレンダーとはいえどちらかと言えばポスターの色合いが強い。

 弟らしくないと思ったのは、そのカレンダーの写真がまさにこの部屋だったからだ。

 位置的に、カレンダーを見ている私の背後から撮られたもののようだ。

 映画のワンシーンのように若干の補正がされているので、すぐに違和感に気づけなかった。

 なんでこんなものを。

 ふしぎに思い、何の気なしにカレンダーをめくった。

 私はそこで、うわ、と声をだしてしまった。

 つぎのページの写真もまたこの部屋だったのだが、そこにはなんと弟らしき人物が映り込んでいた。

 こちらに背を向け、カレンダーを眺めている。

 首を微妙に曲げており、あたかも、おやなんでこんなところにカレンダーが、と独白が聞こえてきそうな背姿だった。

 自作のカレンダーだろうか。

 写真は自動設定で撮ったのか、それとも誰かに協力してもらったのか。

 もし協力者がいたならば、弟の失踪にその人物が絡んでいる可能性はある。

 私はカレンダーをもう一枚めくった。

 弟がこちらを振り返っている。

 その目は見開かれ、極度に驚いているさまが見て取れた。

 演技だろうか。だとすれば相当に上手いと評価せざるを得ない。

 弟らしくないな、とここでもじぶんの記憶のなかにある弟像の乖離に違和感を覚える。

 カレンダーのつづきが気になった。

 面倒に思い、適当に数枚を選んで一気に引き抜く。

 カレンダーは銀色の枠で囲われており、釘で壁に固定されていた。多少乱暴に扱っても外れる心配はなさそうだった。

 日付は八日分進んだ。

 どうやら写真はコマ撮りだったようだ。カレンダーにあるこの壁に徐々に近づいているようだった。

 写真のなかの弟はなぜか壁に縋りついている。その姿は初めに見た者よりも拡大して見える。

 もう一枚引き抜く。

 写真のなかの弟はなぜか壁からカレンダーを引き離そうとしている。

 もう一枚抜く。

 弟はカレンダーを外すのを諦めたようだ。必至の形相で、まるで迫りくるトラックに怯えるように顔面を両腕で庇っている。

 私は一瞬、カレンダーをめくるのを躊躇った。

 なぜ躊躇うのかを上手くじぶんに示せず、怯むじぶんがひどく脆弱に思え、んだこのやろ、みたいな反発心に促され、私は、サっ、サっ、サっ、と三枚連続でカレンダーを引き抜いた。

 最初の一枚。

 写真のなかの弟は徐々に大きく映り込む。距離が縮んでいるのだ。

 次の一枚。

 弟の頬で全面が埋まる。あたかもコピー機に顔を押しつけて撮った写真のようだ。

 そして最後にカレンダーに残った写真を目にし、私は、ウっ、と吐き気を催した。

 顔面の断面図だ。

 あたかも弟の顔面を輪切りにしたような、真っ赤で汁っぽい、やけに生々しい画像が目と鼻の先にある。

 いまにも眼球や脳髄がカレンダーの枠のなかから零れ落ちてきそうだ。

 私は戸惑ったが、見ていたくなくてもう一枚をめくった。なんとなくそうすれば消えてくれるのではないか、と思ったのだ。

 案の定だ。

 カレンダーには再びがらんとしたこの部屋の写真が現れる。日付はちょうど今日のものだった。

 荒くなった呼吸を整える。喉が渇いた。

 水を飲もうとキッチンに向き直るが、その前に足元に落としたカレンダーの残骸を回収しなくては。

 その場にしゃがみ、一枚一枚集めていくが、おや、と手が止まる。

 表と裏を確認する。

 写真がない。

 白紙だった。

「なんで?」

 思わず声がでた。

 ザクッ。

 ふと、背後から音がした。大きな音だ。何かがごっそり削れるような響きに驚いて振り返ると、そこにあるはずの壁が消えていた。

 代わりになぜか巨大な母の姿が目に入る。

 え、どういうこと?

 母は首をひねりながら、何かをめくる仕草を見せた。

 ザクっ。

 またあの音だ。

 音がした途端に巨大な母の映りこむ一面がこちらに数十センチ近づいて見えた。

 音源が何かを理解した。

「お母さんやめて」

 私は叫んだが、母には聞こえないようだった。

 こんどはザクザクザクと続けて音が鳴る。

 まとめてめくっているんだ。

 すでに壁は玄関につづく廊下を越え、逃げ道を塞いでいた。ベランダへの窓は、そもそも背後の、消えた壁に開いていた。

 外に出られない。

 閉じ込められた。

 私は血の気が引く感触を、ドクドクと激しく乱れる鼓動の音と共にただ感じた。

 世界が一変した事実をどう呑み込めばいいのかが分からなかった。

 巨大な母が壁の奥でまた何かをめくる。

 ザクっ。

 私は壁に縋りつき、はっと閃き、カレンダーを取り外そうとするがびくともしない。

 脳裏には、カレンダーに映りこんでいた弟の一連の姿が蘇っている。

 ザクっ。ザクっ。ザクっ。

 巨大な母の映り込む謎の境界線がまた、刻一刻と距離を詰めてくる。




【ちいさなピラニアの怪】

(未推敲)

 

 初めての一人暮らしでマナは浮かれていた。

 段ボール箱から一通り荷物を取りだし、ようやく部屋を片付け終えたのは引っ越してから一月後のことだった。

 段ボールの占めていた一画を広々と使えるようになった。

 これで洗濯物を部屋にも干せるぞ。

 マナは意気揚々と、夜中であるのもお構いなしに洗濯機を回し、溜めに溜めた洗濯物を一週間ぶりに綺麗にした。

 さすがに下着は毎日洗っていたので、洗濯物は大きい衣服やバスタオルやベッドシーツばかりだ。

 洗濯機から取りだしたそれらを一枚、一枚、ばさんばさんと鞭のようになびかせ、皺を伸ばす。

 次にマナが取りだしたのは洗濯ばさみだ。

 部屋の壁と壁の合間に渡したロープに洗濯物を直接垂らしていく。

 ハンガーを使うと取っ掛かりのないロープでは一か所に寄ってしまうので、こうした手法を編みだした。ハンガーではバスタオルやシーツを干すのも向いていない。

 お餅つきさながらに、はいほ、はいほ、と洗濯物を掴み、洗濯ばさみを手に取り、両方をロープにいっしょくたにしてくっつける。流れ作業だ。

 洗濯ばさみが足りなくなったので、取に歩く。冷蔵庫を購入する際に、ポイントで何か変えるというので、ちょうどセール中だった洗濯ばさみ千個セットを選んだのだ。

 洗濯ばさみは劣化が早く、指でつまんだ途端に砕けてしまった経験は一度ではない。

 何より暇なときにブロック遊びのようにして工作できるのがよい。

 マナは童心を忘れない社会人なのである。ちなみに二十六歳である。恋人は目下募集中だ。相手が異性であっても優しい人ならOKです。

 洗濯ばさみ千個の入った箱はすでにいちど開けている。そこからいくつか洗濯ばさみを取りだし、再びロープのまえに立とうとしたときだ。

 何かが指に引っかかった。

 ん?

 マナは振り返るがそこには何もない。

 しかし宙にじぶんの手が固定されている。否。固定はされていない。前方に進まないのだ。

 透明な壁でもあるかのように、右手だけがまえにだけ動かない。うしろに引くことはできる。よこにもだ。

 まえだけだ。

 しかし左手で同じ場所を掻いてみるとすんなり宙を掻く。

 妙だな。

 思いながらこんどは右手に持っていた洗濯ばさみを左手に持ち替えて、右手で同じ場所を探る。

 あれ?

 こんどは何不自由なく宙を掻いた。

 ひょっとして。

 思いながら、洗濯ばさみを問題の場所に近づけていくと、ぐねんと手に抵抗が伝わった。

 やっぱりだ。

 洗濯ばさみが透明な何かに引っかかっている。

 透明な何かはしかしマナの身体では触れられないし、ほかのペットボトルやペンでも触れることはおろか存在の余波を確認することもできなかった。

 洗濯ばさみがおかしいのか、それとも真実そこに何かしらがあるのか。

 マナは好奇心を刺激された。

 怖くはない。

 洗濯ばさみで触れられるそれは動かないようだし、危険な兆候を窺わせない。

 ひょっとしたら異世界への扉でも建っているのかもしれない。

 そうと想像すると、一人暮らしをする前に覚えていた未知への冒険にも似たわくわくが湧いた。

 実際に引っ越して一人暮らしをはじめてしまうと、マナはいつの間にか精神を孤独なる虫にガジガジ齧られている心象を覚えはじめていた。

 一人暮らしをするのだからこれくらいのとんでもない経験の一つや二つあって当然と思っていた。しかし何もなくつつがなく、平穏で退屈な日常が継続していたので、この謎の現象には興奮を抑えきれなかった。

 正体を暴いてやる。

 マナは足元に洗濯ばさみ千個入りだった箱を引っ張ってきて、呼吸を整えると、えいや、とつぎつぎに洗濯ばさみをその謎の不可視な存在にくっつけていく。

 どうやら謎の物体の表面には起伏があり、相応に柔らかくもあった。

 まずは三十個をつけ終えた時点で、それの周囲が浮きあがった。どうやら円柱にちかい形をしている。

 百個をつけ終えるころには高さが判るようになった。

 だいたいマナの背丈と同じくらいの高さだ。

 箱のなかの洗濯ばさみおおよそ千個がなくなるころには、目のまえには一体の人型が現れていた。

 人形だったのか。

 マナは不気味さと、その異様な光景にやはりというべきか昂揚するじぶんを感じた。

 人間ではない。

 それはたしかに思われる。

 顔や首にだってその輪郭が判るくらいにたくさんの洗濯ばさみをつけている。そこに真実に人の顔があるのならば、洗濯ばさみは顔の皮膚を挟んでいることになる。

 だが目のまえの透明の人物は痛みを訴えるでもなく、逃げだすでもなく、ただそこにじっとしている。

 なんとなくだが女性に思えた。髪の毛らしい部位にも洗濯ばさみがくっついているからだ。肩まで届く髪型だ。

 マナはじぶんがショートボブであることになぜか安堵した。肩まで長い髪型ではないのだ。

 洗濯ばさみ人形を移動させようとするも、持ち上げようにも洗濯ばさみを介してでしか触れられない。だがそのことを抜きにしても、洗濯ばさみ人形はその場から微動だにしないようであった。

 というのも洗濯ばさみを繋げて作った即席の板越しに押してもびくともしないどころか洗濯ばさみの板のほうが壊れそうだった。

 よほど重いのか、それとも床に固定されているのか。

「なんじゃいコノー」

 ひとしきり洗濯ばさみでイタズラして、鬱憤を晴らす。

 それから端末のカメラでその謎の洗濯ばさみ人形の画像を撮り、しばらく眺めてから、まあいっか、と洗濯ばさみを回収した。

 すべて取り終えるとそこにはまた何もない空間が広がる。

 洗濯ばさみを使わなければ触れられないのだから、日常生活で困ることはないはずだ。

 無視していればよろしい。

 そういうわけでマナは、すこし不気味に思いながらも、非日常のドキドキワクワクをすぐそばに感じながら、スヤスヤと眠った。

 朝になってからもういちど洗濯ばさみで同じ場所を探ってみたが、昨日のことがマナの幻覚であったかのようにどれほど宙を掻き混ぜても何にも引っかからないのだった。

 安堵しつつも、すこしだけがっかりした。

 マナはそれから何事もなくつつがなく日々を送った。

 一年が経ったその日、マナは肩まで伸びた髪の毛をこんどはどうカットしてもらおうかな、と思案しながら姿見のまえに立っていた。

 干していた洗濯物が鏡のなかに映りこみ、そうだもう乾いたかな、と取りに歩いたそのときだ。

 ロープのまえに立った瞬間、全身が痺れた。

 電流が走ったかと思った。

 つぎの瞬間からはもう、どれほど身体を動かそうとしても瞬き一つできないのだった。

 背中に何かが当たった。

 ツンツンと突つかれる。

 マナはここでようやく一年前に体験した奇妙な洗濯ばさみ人形のことを思いだし、そして嫌な連想をして、ぞっとした。

 背中に何かがちいさく噛みつく。

 すこしの時間が空いたあとで、一転、のべつ幕なしにちいさなピラニアのようなものが全身に噛みついていく。

 嫌だ、嫌だ。

 そんなのってないよ。

 叫びたくとも声にならず、逃げだそうにも身体は指一本動かせない。

 やがて髪の毛や肩にまで洗濯ばさみは迫り、胸やほかの敏感なところにまでちいさなピラニアは噛みついた。

 間もなく、頬に痛みが走り、それが去らぬままに耳、唇、鼻、まぶた、と痛みが襲う。それはいつまでも途絶えることはなく、量ばかりを増やした。

 マナは過去のじぶんのしたことを思いだし、これがいったいいつ終わるのかを振り返ったが、終わりまでの時間はまだまだ先だ。

 これからが地獄の本番だと、過去の記憶が告げていた。




【マッチ売りの少女を消す方法】

(未推敲)


 宝くじを当てたはよいが、三百億も手元にあっても使い道がない。

 どこからか情報が漏れているようで毎日のように投資の誘いや寄付の勧誘がくる。

 あまりにうるさいので孤島を一つ買い、そこに住み着いた。

 だがまだまだ預金はなくならない。どころか最初に乗った投資話がうまく軌道に乗ったらしく、資産は増えるばかりだ。

 世の中、金を持っているだけでかってに金が増えるのだ。あくせく働いていたころを馬鹿らしく思う。

 何か世のため人のためにできることはないだろうか。

 あらゆる欲を満たし、それにいちど飽きてしまうと残るのは、ただただ誰かの役に立ちたい、社会貢献をしたい、困っている人を救いたいという英雄願望だった。

 人からではなく社会から承認されたい。

 それはたとえば偉人として歴史に名の残るような、後世の人々が我が子に向かって、こういう人になりなさい、と言い聞かせるような偉業を成したい。

 浅はかな欲である。

 だが切実でもあった。

 これといってほかにしたいことも、すべきこともないのだ。

 しょせんは宝くじを当てただけの人間だ。運がよかった以外に人に誇れる能力も過去もない。

 ならばせめてこの運のよさを、資産を活用して社会に恩返しがしたい。

 もちろん口ではなんとでも言える。その思いの根底には万人からチヤホヤされたいとの欲求が見え隠れしている。

 ただそれの何がわるいのか、と思いはする。動機は関係ない。行動することに意味がある。

 本当だろうか。

 思いながらも、ではどうやって行動を起こすのか、と頭を悩ませているうちに無駄に時間だけが過ぎていく。

 何不自由ない暮らしを送っている癖に、鬱屈した時間を過ごしているじぶんに笑いそうになる。

 精神が淀んでいる。

 浄化したい。

 そうした思いからか、いつの間にか全世界の童話を、その書籍を通販で配達してもらい、これには飛行機を使っての配達を利用したが、いまでは時間があればそれを読みふけっている。

 有名どころはだいたい読んだ。同じ話であっても国によって微妙に細部が異なっていたり、まったく違うお話になっていたりする。

 これがけっこうおもしろい。お菓子の食べ比べではないが、読み味を比べて楽しめるまでに没頭していた。

 世の中のためになることを、との行動指針は早々に忘却の彼方に弾け飛んでいたと言える。

 そこにきて数多ある童話のなかで気になったのが、マッチ売りの少女である。これはどの国でもバージョンがほとんど同じであり、最後に少女が助かるかどうか、火を灯したマッチに何が映り込むのかが違うだけで、話の大筋は変わらない。

 というよりも、変わりようがないのだ。

 至ってシンプルな話の筋ゆえだろう。

 なにせ客観的な事実だけを述べれば、貧しい少女がマッチを売りに街にでて極寒ゆえに翌朝には凍死してしまう話だ。

 ふつうに事故だ。事案である。

 死ぬまでのあいだに売り物のマッチを擦って暖をとり、すこしのあいだしあわせな景色に触れる過程が挟まれるわけだが、それとて少女の妄想との区別はつかない。

 少女には亡くなった親族がおり、最後はありったけのマッチを擦って激しく燃え盛る炎を扉として、その奥で待ち受ける愛しい人の元に旅立つのだが、やはり翌朝には少女の遺体が発見される。

 本によっては、遺体が発見されずに少女が真実に幸せの国へと旅立ったといった解釈や、裕福な家に引き取られる、といった結末を描くパターンもある。優しい結末だ。

 どちらがより心に訴えるかと言えば、最後に少女の死体が見つかる悲惨な結末のほうだが、それにしたところで、そうした物哀しさがあるからこそ、死体の見つからないハッピーエンドがこうまでも胸に染み入るのだろう。

 そうであってほしかった未来を見せてもらった気分だ。

 本当にそうなればいいな、と心の底から願う。

 ひょっとしたらマッチ売りの少女は現実にあった出来事なのかもしれない、と思い、そういった調査も軽くしてみたが、どうやら著者のアンデルセンの創作であったようだ。

 しかし母親の貧しい子ども時代をモデルにしたかもしれない、との説もあるようで、なるほど当時もいまも悩みの種はみな似たようなものなのだな、と思い知る。

 とはいえアンデルセンの母親が子どものころにはまだマッチは市場に普及していなかったようなので、やはりマッチ売りの少女はアンデルセンの創作なのだろう。

 当時にしてみればマッチは目新しい商品だったはずだ。

 いまで言うところの人工知能のようなものかもしれない。

 街中で最新メディア端末を売り歩く少女を思い浮かべる。

 なかなか売れずに極寒の街外れで、やむにやまれず商品の端末を起動し、画面に映る夢のような虚構に浸りながら、端末の発する余熱で暖を取る。

 現代にも通じるお話だ。

 ふと、背中が温かいことに気づく。

 次点で、針で刺されるような熱を感じた。

 振り向くと、そこにはぼんやりと炎に似たゆらぎがあった。

 ゆらぎのなかに少女の姿がある。

 少女はしきりに片手を息で温めている。鼻の頭が赤い。手と顔の合間から白い息が漏れ、ゆらぎとの境にぶつかり消える。

 ぎょっとして固まっているあいだに、ゆらぎはその輪郭を狭め、間もなくして消えた。

 幻覚か、とまずはじぶんの目を疑う。

 童話を読みすぎて、いよいよおかしくなってしまったのではないか。

 しばらくゆらぎのあった場所を見詰めていると、またほんわかと色合いが変化した。燃えた紙が穴を広げていくように、ここではないどこからしい景色が見えてくる。

 さっきは上から地面を見下ろすような具合だったが、こんどは地面から上を見るような角度だ。

 さきほどと同じ少女が、白い息を吐きながらこちらを見下ろしている。

 彼女は地面にしゃがんでいるようだ。

 辺りは暗い。

 レンガ造りの壁が見える。

 この島ではない。

 ほかの場所と時空が繋がっているようだった。

 少女は立ちあがったようだ。

 するとゆらぎの窓も視点をあげる。

 どうやら少女はゆらぎの窓を手に持っているようだった。

 少女と目が合う。

 微笑みかけると彼女も笑った。

 ゆらぎが萎み、また消える。

 しばらく待ちながら、これはいったいどうしたことか、と目のまえの現象を考える。

 どう考えてもゆらぎの奥にいた少女は、マッチを手に持っていた。

 ひょっとして童話を読みすぎて、虚構と現実の区別もつかなくなってしまったのだろうか。

 マッチ売りの少女を憐れむがあまりに、幻覚を見てしまっているのかもしれない。

 長らく孤独な生活を送ってきた弊害とも言える。

 巨万の富を得た悪影響かもしれなかった。

 みたび揺らぎの窓が開く。

 よく見れば少女は薄着だった。ゆらぎの窓の奥に広がる世界は冬であるようだ。気温は低く、とても薄着で出歩いていい気候とは思えない。

 よく見れば道のうえには薄っすらと雪が積もっている。

 少女は紛れもなく、童話にあるようなマッチ売りの少女だった。

 言葉は通じるだろうか。

 これがじぶんの見ている幻覚であればそう考えることそのものが精神異常をきたした人間の発想だが、しかしたとえ幻覚であろうと視えているものは視えてしまっているのだ。視えていないことにはできない。

 ハロー、と声をかける。どこの国の子どもかは分からないが、日本語で話しかけるよりかは通じる確率が高そうだ。

「ミャオ」

 少女は返事をした。声が聞こえたことで、ゆらぎの窓に仕切りがないことを確信する。

 開いているのだ。

 穴が。

 手を伸ばせば少女の冷たい手を温めてあげることもできる気がした。

 ゆらぎの窓が収斂しはじめる。

 咄嗟に、そばにある絵本を投げていた。

 かわいらしい絵柄でマッチ売りの少女が描かれている。

 少女の胸に当たってそれは床に落ちた。

 少女がそれを拾おうとして屈む。

 少女のつむじを俯瞰の視点で目にしながら、閉じていく穴に向けて叫んでいる。

「もっとたくさん燃やして。メニーメニーファイヤー」

 伝わったかは分からない。そも、英語が通じるのかも定かではないし、じぶんの口にした単語が適切な英文になっているのかも怪しいところだが、なんとか彼女を救いたいと思った。

 やけっぱちのその場任せだった。

 しかし待つこと数分、目のまえにはこれまで以上に大きなゆらぎの窓が現れ、両の肩を抱いてガタガタを顎を鳴らす少女が、薄汚い下着姿で立っていた。その身体は骨と皮ばかりで、肋骨が浮き出ている割に、お腹はぽっこりとし、痣らしきものが滲んでいる。

 四肢にはまだらにカビとも垢ともつかない汚れが目立つ。

 皮膚病にかかっているのかもしれない。

 あまりの痛ましさに、ゆらぎの窓のことなど忘れて駆け寄り、上着を脱ぐとおそるおそる彼女の身体にそれを掛けた。

 ゆらぎの窓はメラメラと足元で燃えている。

 少女に、触れてもいいか、と身振り手振りで尋ね、頷いた彼女を抱きかかえる。少女は絵本を腕に抱いていた。じぶんの服を燃やしたのだ。

 すこし迷ったが、周囲に人はいない。レンガ造りの街はどう考えても深夜にちかい時間帯だった。

 そんな場所に凍えた子どもを放置しているなんてどうかしている。

 たとえ犯罪者と指弾されようが構わない、と思った。

 ゆらぎの窓を踏み越え、じぶんの部屋に半裸の少女を連れ帰る。

 客観的に見たら誘拐犯だな、と思い、いやいや、とそう思ったじぶんを笑い飛ばす。

 誰がどう見ても誘拐犯以外ではあり得ない。

 だが、どうしても見て見ぬ振りができなかった。

 少女に清潔な服を着せ、温かいスープとパンとサラダをだしてやり、この日はそのままフカフカの寝床で寝てもらった。身体を洗うのはあとでいい。

 朝になったら果物のジュースで水分を補給してもらい、軽く健康診断をしてから、大丈夫そうならお風呂場に案内して湯船に浸かってもらう。

 シャワーの使い方はまだ分からないだろうから、出しっぱなしにしておいた。湯舟のなかで身体を洗ってもらってもいい。とにかく身体を芯から温め、清潔になってもらえばよかった。

 少女は怯えた様子を見せながらも、こちらの指示に黙って従った。

 それから半年あまりを共に暮らした。

 二度ほど島まで医師に来てもらい、少女の健康状態を診てもらった。栄養失調や皮膚疾患にかかってはいるが、どれも薬で治るようだった。

 よかった。

 安堵すると共に、彼女は偶然にマッチ売りの少女であったからこそ助かっただけなのだとの思いが胸を重くする。

 ほかにもいるはずだ。

 彼女のような子どもたちが。

 口座の預金残高を眺める。

 あれほど巨額に思えた資産が、心元ないものに思えた。

 足りるだろうか。

 否、足りないだろう。

 ゆえに築くべきは仕組みだった。

 童話の結末を変えるのだ。

 世界中にいるはずの、マッチ売りの子どもたちに、ゆらぎの窓を与えるのだ。死体となって寒空の下に転がる結末ではなく、暖かで清潔でお腹いっぱいにぬくぬくできる寝床のある暮らしに繋がる窓口を――出口を、つくる。

 火を灯そう。

 誰を焼き尽くすことのない、ぬくもりに満ちた火を。

 きれいごとだ、と言う者もあるだろう。しかしその誰かはマッチ売りの少女を助けてはくれないのだ。

 ならばできることを、まずはじぶんがするよりない。

 そしていずれは、誰もが寒空の下で凍えずに済む街をつくり、子どもがマッチを売って歩くなんて真似をせずに済む未来をつくる。

 マッチ売りの少女は童話のなかで最後はマッチの炎のなかに消えた。ならばそれを以って、この世からはマッチ売りの少女は消えたのだ。

 死体にもならず、ゆらぎの窓を通って死んだはずの家族に会えたのだ。

 家族はきっと死なずに済み、そんな家族のもとで、マッチ売りの少女にならずに済んだ少女は、ぶーぶー駄々を捏ねながらもお腹を空かせず、凍えず、病気にもかからない、退屈でありながらも穏やかな日々を過ごしていく。

 マッチ売りの少女を、マッチ売りの少女にしないためにできること。

 それは彼女を守るための環境を築くことだ。

 子どもたちを守るべきおとなたちがちゃんとしあわせになれる未来を、仕組みを築くことである。

 たった一人の、ただ運のよかった人間だけが一瞬で巨万の富を得、それを独占しつづける世の中では、マッチ売りの少女はこれからも世界中で凍え死んでいく。

 童話の結末を書き換えることは著者への冒涜になるのかもしれないが、しかしそれをせずにはいられない。

 クレヨンを片手にお絵描きに夢中になる元マッチ売りの少女は、こちらの視線に気づき顔をあげた。何を描いていたの、と覗くものの、両手で紙面を覆って見せてくれない。

 恥ずかしいのか、なんなのか。

 やれやれ、と思いつつも、胸をくすぐる。やっと素顔を見せてくれるようになったのだ。遠慮会釈なく駄々を捏ねてくれるようになった。

 そういう態度をとっても見捨てられることはない、と彼女が確信しているからこその甘さではあるが、その甘さこそ子どもに許される特権だ。

 大いに甘やかしてやろうではないか。

 しかし与えるのはオモチャではない。

 環境だ。

 好きなだけ学べる環境だ。

 もっともっと自己を主張していい。

 嫌なことは嫌だと示してほしい。何が好きかを教えてほしい。

 その代わり、いずれきみも耳を澄まし、築き、広げてあげてほしい。好きに選べるほどのクレヨンの色を。その選択肢を。

 じぶんがいまこうしてされているように。

 いずれ出会う子どもたちへ。

 じぶんよりも恵まれない人たちを、支えるために。

 それが回りまわってマッチ売りの少女を、死体で終わらせない魔法の火になるのだと信じて。

 そうと願いながら、これもまた大人の傲慢な願いだな、と知りながら、それでも祈らずにはいられない。

 どうかこのコたちが、生まれてきてよかったと思える世界になりますように。

 じぶんはもうこんなにもしあわせな日々を与えられてしまったのだから。

 元マッチ売りの少女の名を呼ぶ。

 なに、と彼女は慣れた調子で返事をする。こちらを見ないのはいつものことだ。眺めていると彼女は手を止めて顔をあげる。目元をほころばし、なぁに、と彼女は唇をすぼめた。

「いや、なんでもない」

 迷いを吹っ切るように、養子縁組の書類にサインをする。彼女の保護者としてできる最後の仕事だ。

 先方の夫婦はきっと彼女を大事に育ててくれるだろう。こちらも支援を惜しまない。

 もういちどお描きに夢中の少女を見遣る。彼女の手元には、ボロボロになった絵本が置かれている。それを模写しているのか、何度も見比べ、筆を画用紙に走らせている。

 なんとなくもういちど声をかける。「なあ」

「なぁにってば」

「その絵本、僕にくれないか」

「えー」

「新しいのを買ってあげるから」

「んー」

 逡巡の間をたっぷり開けてから彼女は、別れが近いことも知らずに、顔をくしゃりと歪め、ヤダ、と突っぱねる。




【カルンのパリパリ結晶発見記】

(未推敲)


 カルンがセーターを脱ぐと、パリパリパリ、と音がした。

 ああもうそんな季節か。

 肌寒さと乾燥した空気にブルルと身震いしてから、外着から部屋着へと一気に着替え、早くオコタに潜ろうと足を踏みだしたところで、

 アイタ!

 足の裏に痛みが走った。

 なんじゃらほい。

 足の裏を反対の膝にかけて覗き込むと、ちいさなギザギザがくっついていた。

 一つきりではない。

 床を見遣ると、何個も転がっている。

 一欠けらをつまみとり、まじまじと見る。

 カルンはそこで以前に従弟につくってもらった折り紙の手裏剣を思いだした。二つの部品を掛け合わせて、卍のカタチをつくるのだが、いま摘まみ取っているソレはあたかも手裏剣の片っぽの刃のごとく形状だった。

 それとも幼稚園児の描くカミナリの形だろうか。

 ジグザグと「Z」を押しつぶしたような見た目をしており、断面が三角形であるからか、先端に触れずとも踏むと痛い。

 それが足元にいくつもある。

 どこから出てきたのかな。

 カルンは足を箒代わりにして謎の欠片を一か所にまとめながら、脱ぎ捨てた衣服を探った。 

 するとセーターの内側からポロポロと欠片が落ちてくる。

 出処はキミかぁ。

 カルンはセーターをばふんばふんと振った。

 木の実でも付着しちゃったかな。

 思いながら、セーターの内側に手を突っ込み、残りがないかを漁ったが、またぞろパリパリパリと冬の風物詩の音が鳴った。

 するとどうだろう。

 あれほど出しきったと思った謎の破片がまたぽろぽろと大量に出てくるではないか。

 さすがのカルンもそこで、ははぁん、とずばり謎の破片の正体を見抜いた。

 これはひょっとしてあれが固まったやつなのかな。

 あのパリパリなのかな。

 そんなことが果たして現実に引き起こるのかは化学の授業を受けるたびに極限の睡魔に襲われる彼女には知る由もないことだ。

 しかし現にこうしてパリパリが結晶化しているのだ。水だって凍るのだからパリパリだって凍ってもおかしくはない。

 そういうふうに解釈をしつつ、カルンは集めたパリパリの結晶を指でつまんで、擦り合わせた。

 何の気ない所作だった。どれくらい頑丈なのかな、と砂糖の塊をゆびで解すようなほとんど無意識からの所作だったが、予想外にも、バチンッ、と激しい火花がさく裂した。

 ゆびが爆発したかと思った。

 明かりの下であるのにハッキリと火花が見えた。線香花火だってもうすこしかわいらしい弾け方をする。

 ゆびの無事を確かめて、ああよかった、と安堵の溜め息を吐く。

 それから集めたパリパリの結晶から距離をおく。

 きみ、危ないやん。

 この日はそれを部屋の隅に追いやって、そのままにしておいた。

 翌朝、カルンは寝坊をした。

 急いで支度をしなければ大学の講義に遅刻してしまう。教授が厳しいことで有名な講義だ。

 なんとしてでも間に合わせてやる。

 過去最短記録を更新しただろう速度で、シャワーを浴び、化粧をし、朝食のパンを齧り、荷物を鞄に詰め込んで、トイレに駆け込み、最後に姿見のまえでポーズを決めて、いよいよ出かけるぞ、となってからカルンは、

 ああん!

 と重大な事実に気づいた。

 メディア端末の充電を怠っていたのである。これでは大学に行ってもロクに暇つぶしもできやしない。

 講義で眠くなったときにどうしてくれよう。好きなアイドルの動画を観て、ウキウキスイッチをONにすることもできないではないか。

 カルンは地団太を踏んだが、そこで「あっ!」と閃いた。

「そうだ。きみきみ。ちょいと協力しておくれ」

 昨晩に部屋の隅に追いやったパリパリの結晶を一欠けらだけつまみ、端末の充電穴にそっと先端を刺しこんだ。

 すると、にゅるん、とまるで素麺をすするカルンのようになめらかに吸いこまれるではないか。おそるおそる起動させると端末は難なく作動した。

 画面の充電マークは満杯ではないが、ゼロではなくなっている。

 きみ、いいねぇ。

 カルンは褒め称えながらパリパリの結晶を十個ほど手のひらに載せ、つぎつぎに端末の充電穴に差し向けた。

 にゅるん、にゅるん、にゅるるーん。

 こりゃあいい。

 十秒も経たぬ間に充電は満タンになった。

 最新機種の超高速充電でも一分はかかる。しかも本体価格が目の飛び出るほどのお値段だ。それがパリパリの結晶を使うだけで、格安の機種であっても秒単位で満タンになるのだ。これはいい。

 カルンはパリパリの結晶を袋に詰めて、端末といっしょに鞄に詰めた。家を出る。

 学校で友人たちに自慢してやろ。

 ついでにこれの正体を調べてもらお。

 カルンは駅に到着するなり、ちょうど来ていた電車に飛び乗った。

 友人のなかにはトビキリ科学に詳しい秀才ちゃんがいた。同性で背が小さく、見た目もきゅるんとしていてかわゆいのに、言動が刀の化身を思わせる鋭さなので、同い年とは思えない。友人たちのなかでも憧れの的である。

 パリパリの結晶を見せたらきっとよろこんでくれるぞ。

 珍しい物が好きだからな、あのコ。

 調べてもらうついでに、レポートのほうも手伝ってもらおう。

 何がどう関係して、ついで、になるのかは不明だが、ふひひ、とほくそ笑んでいると、電車内で、赤ちゃん連れの女性に絡んでいるオジサンがいた。真昼間なのにお酒臭く、赤ちゃんの泣き声がうるさい、と怒鳴っている。

 なんて非道な。

 赤ちゃんは泣くのが仕事だい。

 カルンは義憤に駆られた。しかし注意するのは恐ろしい。何を隠そうカルンは腕立て伏せが一回もできないほどに脆弱のである。だが負けん気だけは一丁前だ。

 くっそぉ。

 カルンは歯噛みする。わたしが筋肉モリモリのゴリラの化身だったら、あんなオジサンひと睨みなのに。

 たとえ圧倒的暴力を震えたとしてもひとひねりにせずに、睨むだけで済まそうとする。カルンはそういう女の子なのだ。無意識からの純朴さを振りまく歩く善良と呼んでほしい。

 内心で、自画自賛のナレーションを流しながら、カルンは女性と赤ちゃんを助けるべく、なにかないか、なにかないか、と青タヌキの真似をしつつ、そうだ、と頭上に豆電球を浮かべる。

 これがあったぞ。

 鞄の中から袋を取りだし、そこに入っていたパリパリの結晶を鷲掴みにした。

 そしてこっそりオジサンの背後に移動すると、えいや、と襟首から背中めがけてパリパリの結晶を流しこんだ。

 んばばばばばば。

 オジサンは一秒間に百回は点滅した。閃光が走るたびにオジサンの骨格が浮きあがって見えた。

 ひええ、やりすぎちゃったやも。

 思いながらもカルンは、しーらんぴ、と手早く赤ちゃんを抱っこする女性を引き連れ、その場を離れた。

「ありがとうございました」女性が腰を折った。

「災難でしたね」カルンは赤ちゃんに変顔をしてみせる。

 そして床にへたりこんでぐったりしているオジサンの姿を遠目に眺めて、その無事を祈りながら、わるいことしたから雷が落ちたんですぅ、と心のなかであっかんべーをする。電車が大学のもとより駅に滑り込む。ドアが開く。

 カルンは赤ちゃんと女性にバイバイと手を振り、電車を降りる。

 外は雨が降りだしていた。

 遠くから雷鳴が聞こえる。ゴロゴロと神様のお腹の音みたいだ。

 傘持ってきてないのに。

 気持ち駆け足でカルンはいざ、遅刻間際の講義へと馳せ参じるのである。

「あ、ミユちゃんおはよ」講義室に入るなり科学の申し子を見つけた。となりに座る。

「おはよ。きょうは何。寝坊でもしたん」

「え、なんでわかるの」

「それTシャツ反対だよ」

「わ、ほんまや」

 カルンは恥ずかしさを誤魔化しがてら、

「そうそう聞いてよミユちゃん。あのね、あのね」

 間がわるいことに教授が部屋に入ってきたので、カルンは会話を中断する。

 ああん、いますぐ相談したい。

 パリパリの結晶のこと聞きたい。正体知りたい。

 だって気になるし。

 鞄を漁りながらもどかしさに身をくねらせるも、

「じっとしてなよ」科学の申し子に諫められる。

 しぶしぶおとなしくする。鞄からようやっと探り当てた袋を取りだすも、そうだったぁ、とがっくりする。電車ですべて使い果たしてしまっていたのだ。袋はぺっちゃんこだ。空っぽだ。手加減をする余裕がなかった。

 オジサン大丈夫かな、といまさらのように心配になる。

 カルンはミユの耳に顔を寄せ、

「あのね、じつはね」

 こしょこしょ声で、謎の破片、パリパリの結晶のことを掻い摘んで話した。

「え、なに。ぜんぜん分かんないんだけど」まったく伝わらなかった。

「えー、なんで。いまので分かってよー」

 カルンはそこで、そうだ、と思いだす。パリパリの結晶は、パリパリゆえに、パリパリさせればいつでもここに結晶するはずだ。

 そうと思い、きょうもきょうとて着込んできたセーターに腕を潜らせ、内側から擦るようにする。

「急に変な動きしないでほしい」ミユが目を細める。

「待ってて。いま見せてあげる」

 と、そこで窓の外から、ドンガラガッシャーン、とけたたましい音が轟いた。地響きを伴なうほどの巨大な音の塊だ。窓ガラスが揺れた。カルンの身体も、骨の芯から響くようだった。

 講義室に悲鳴が一瞬湧いて、途絶える。

 電灯の明かりが明滅して、安定する。

 教授が、みなさん無事ですか、と声をかけた。雷が落ちたみたいですね、と状況説明を試み、それにしても大きかったですね、と教授が笑ったところで、講義室内の空気もにわかにほぐれた。

 カルンは窓のそとに目を転じ、あっ、と声を漏らす。

 校舎の外には中庭が広がっている。文化祭があるときは即席のステージが建てられ、ライブが開かれる。

 そこにいまは「Z」を潰したような巨大な塊が突き刺さっている。奇しくもそれはカルンの拾った、パリパリの結晶に非常に酷似しているのだった。

 以降、人類は新たな電力供給源を手にするのだが、その第一発見者は記録上、偶然その場に居合わせ、その後、新型電力供給網を築きあげることとなる科学の申し子たる、とある女子大学生であるとされている。

 しかし真実に最初に発見をしたのはカルンであったが、彼女が歴史の壇上に名を刻むことはなく、また当の本人がその事実に気づくこともないのだった。




【かってにすればいいけれど】

(未推敲)


 行きつけのバーがある。数年前まではクラブハウスだったようで、そこそこに広く、一人で入ってもほかの客と気まずくならずに済む。狭い店であると視界に人がいるだけでパーソナルスペースを侵害された気分になり、滅入るのだ。

 その点、この店はいい。

 そうと思い通っていたのだが、先月からちょくちょくと邪魔が入る。

 同じく一人でやってくる客で、孤独耐性が低いのか、一人で酒を楽しんでいるほかの客にちょっかいをかけて回る。なまじ礼儀正しく、酒も奢ってくれるので最初のうちは無下にせずにつまらない雑談であろうと耐えられたが、顔を憶えられてからは、拒もうにもこちらが店を出ていくまで延々と同席に居座られ、辟易する。

 しかし愛想はよく、やはり酒を奢ってくれるので、突き放す真似もできない。

 せめて害の一つでも与えてくれればマスターに言って注意してもらうこともできるのだろうが、単に私が極度に孤独を好む性質があるばかりであるから、ほとほと差別との区別がつかない。

 だが拒絶したいとの思いは嵩むいっぽうだ。

「わあ、お久しぶりですね。よかったきょうはなんだかお会いできる気がしてまして」

 もはや許可を仰がれることなく、向かいの席に陣取られる。

 なるべく彼のやってこない曜日に時間帯を選んではいるのだが、こうして鉢合わせすることも珍しくない。行動が読めないのだ。いったい何の仕事をしているのか、と知りたくもないのに疑問に思う。

「やあ、ここ最近なかなか会えなかったじゃないですか。僕、寂しくってもうきょうは絶対にいないだろうなぁ、とか思ってたのに、ツイてるなぁ。あ、何飲みます? お代わり奢りますよ。そんかしすぐ帰っちゃわないでもうすこしいてくださいよぉ」

 帰り支度をしようとしているのを目敏く見咎められた気分だ。

 ただ、けして不快指数は高くない。

 たまには人としゃべるのもわるかない、の気分になることもあり、この日はそういう気分だった。

 もっと酒を味わいたいとの欲もあり、けっきょくは相手の厚意に流された。

「ヤノさんって仕事なにされてれるんですか。ってこれ前にも訊いてはぐらかされた質問なんすけど」

「家でできる仕事ですよ。人に知られたくはない類の仕事です」

「えぇえなんすかそれ。ヤバそうっすね」

「ヤバくはないよ」

「危ない系のお仕事っぽいっすよね」

「危なくはないってば」

 きみのほうこそ仕事は何をしているのだ、と言いたくなったが、そういう質問をすれば彼との縁が余計にこじれそうに思えたので、黙っておいた。

「女性にもこういうことをしているのか」ナンパとの区別がつかないぞ、と言うと、

「しちゃダメなんすか?」ときょとんとされる。

「ダメってこたないが、知らない人から距離つめられたらぎょっとはするだろ」

「ぎょっとしますかねぇ。あ、イヤでした?」

 濡れた子犬のような顔をされたのでは、強く拒絶できない。罪悪感が湧く。

「イヤではないけど」

「ああよかった」しれっと笑顔になり、彼は料理を注文する。運ばれてくるまでのあいだ、この店で知り合ったのだろうほかの客の話を彼はした。「で、意気投合しちゃってそのままほかの店で朝まで飲んじゃって次の日、ふつうに朝一で仕事で死にましたよね。あ、どーもー」

 料理を受け取ると彼は、ヤノさんもどうぞ、と勧める。唐揚げやらオムソバやらなかなかの量だ。ごくり、と生唾を呑みこむ。酒ばかりを飲んでいて小腹が減っていた。

 いちど遠慮したものの、彼がそれでもしつこく、食べてくださいよー、と小皿に盛って押しつけてきたので、礼を述べて受け取った。

「残しちゃっても全然いいので。さ、食べましょ食べましょ」

「きみは人がいいのな。誰にでもそんなふうなの」

「そうっすねぇ。や、苦手な人もいるっちゃいますけど」

「ふうん。たとえば?」

「警察の人とか、教師とか。なんか融通きかなそうなひとはちょっと。価値観の押し付けっていうんすかね。そういうのが苦手っていうか」

 いままさに善意の押し付けを受けている身としては苦笑うほかない。 

「きみはあれだね。笑いながら人を殺しそうなタイプだ」

「あはは。よく分かりますね」

 冗談に冗談で返しただけなのだろうが、なぜか私はそこで湖底に揺らぐ巨大な生き物の影のようなものを幻視した。隣の席ではカップルが痴話げんかに似た様相を醸しはじめているし、カウンター席では酔っ払いがマスターに家庭の愚痴を零して慰められている。

 なんてことのない風景のなかにあって、なぜか私はじぶんが異質な空間に身を置いてしまったような感覚に陥った。それは一瞬のうちに過ぎ去ったが、薄れただけでいつまでも意識の壇上に、まるでそういった薄膜のように、或いはレンズのように貼りついて感じた。

 酔いは回っているはずだ。しかしなぜか妙に意識が冴えた。

 途切れた会話の間を埋めたくて、

「きみはあれだね」と軽口を叩く。「大麻も吸ってそうな感じだね」

「えー、よく分かりますね。ひょっとしてヤノさんも?」指で葉巻をつまむような所作をして彼は眉毛を持ちあげる。「もしよかったらこんど一緒にパーティしません。ドライブでもいいっすけど。あ、ヤノさんのお仕事ってひょっとしてそっち系すか。困ったら言ってください、言い値で買いますんで」

 ヘラヘラとどこまで本気の言葉なのかの区別も曖昧にさせたまま彼はつづける。

「さいきん昼間に僕、高校生とかと絡むことあって。いまのコたちみんないい子っすよね。可愛いんで、会うときはお菓子買ってあげるようにしてんすよね。このあいだヤノさんが言ってたゲーム、あれ勧めたらみんなハマったみたいなんで、こんどみんなでやりましょうよ。つっても僕まだしてないんすけど」

 黙っていると、

「いやそこは、してへんのかい、ってツッコミくださいよぉ。ヤノさんってばクールでかっこいいんだからもう」

 おどける彼に私は、

「子どもたちにも大麻とか勧めてるの」といたって平静を装い、どちらかと言えばこれまで彼には向けてこなかった類の柔和な響きをまとわせて訊いた。

「まさか、まさか。欲しいってコには融通利しますけど、配ったりはしないっすよ。煙草と同じっすよ。わざわざ吸わせるほどのもんでもないでしょう。ただなんで違法なんだとは思ってますけどね」

「まあ、そうな。じぶんでやる分にはまあ、ね」

 逮捕されないようにね、と言うと、大丈夫っすよ、と彼は太鼓判を捺した。「警察もそこまで暇じゃないんで。いちいちしょっぴいてたらあっという間にこの国は犯罪者で埋まっちゃいますって。有名人とかそういう業績になるような相手じゃなきゃふつうに捕まっても不起訴処分ですし」

 そういうものなのか、と話し半分に聞き流す。

 小皿から唐揚げをつまみ、齧る。肉汁が溢れ、ニンニクの香ばしい風味が鼻腔まで広がる。

「ひょっとしてさっきのも本当だったりしてな」私は冗談めかし言う。「本当に人殺しを仕事にしてるんじゃないのか」

「え、そうっすよ。さっきもそう言ったじゃないっすか」

 きょとんと目をしばたたかせる彼に、私は愛想よく訊ねる。「どういう相手を殺すんだ」

「ええ言えないっすよ。企業秘密っすもん。でもそう、さっきの大麻の話じゃないっすけど、雑魚消しても世の中なぁんも変わらんすよね。だからなるべく、コイツ消えたら組織ごと変わらざるを得なくなるような、そういう大御所狙いってのは、たぶんある気がするっすね。ただ僕もまだ全然ペーぺーなんで。まだ死体処理しかさせてもらえてなかったりするんで。全然なんす。ホントまだまだっす」

 謙遜する彼にはわるいが、一般人相手に裏稼業とも呼べる仕事の内容を吐露しているのではとうていプロとしてはやっていけないだろう。とはいえこれが彼のジョークである可能性は依然として高いし、そうでなくとも虚言癖である確率のほうが統計的には高いのだろうが、それにしても大麻の話は嘘ではないだろう。

 いったいどうしたものか。

 けったいな相手と縁を繋いでしまった。

 かといってけして私にとっての敵ではない。害ではない。いまのところは距離感のおかしい人懐こい顔見知りというだけだ。

 だが放置しておけばいずれは厄を運んでくるだろうことも、直感として拭いがたく推し量れる。

「すごいね」私は褒めた。「社会貢献をしているわけだ。みなのできないことをして、社会にうねりを与えている」

「そっす」

 意外な反応をもらった、といった顔で彼は頷く。それからモジモジすると、もっと食べてくださいよー、と小皿に食べ物を取り分け、さらにお代わりの酒を注文した。

 私はそれを断らなかった。かといって奢られる気もサラサラなく、トイレに立ったフリをして代金だけ置いて店を去ろうと考えた。

 説教をしたところでどうなるとも思えない。きょうのところは気分を良くしてもらってお互いに快く別れよう。

 そしてなるべくこの店にはこないようにしよう。

 それがいい。

 せっかくの穴場だったが、致し方ない。

 去るべきは、居心地をわるいと思ってしまう私のほうだ。

「やあ、僕ぁ運がいいなぁ。こうしてヤノさんというお人と出会えて。お酒までいっしょに飲めちゃって。僕ぁ幸運だなぁ」

 けして悪人ではないのだ。

 ただ他者とすこしばかり価値観が違っている。物事の優先順位が違っている。

 その結果にとる行動が、違法として現代では定められているだけのことだ。

 だが法律に反しているかいないかは、現代では最も重視される判断基準であることもまた疑いようのない現実である。

 彼は遠からず破滅するだろう。

 そうでなくとも、彼のような者が何の咎も受けずに違法行為を繰り返せば、遠からず似たような者たちが増えつづけ、いつしか私の身の回りにも害が及ぶだろう。

 それを防ぐには、いまここで彼と別れたあとで警察に通報するのが筋なのかもしれない。だが私はすくなからず彼によくしてもらった。直接の害をもたらされてはいない。

 すこしばかり価値観を共有できず、物事の優先順位が違いだけだ。

 それをして、排除するのに充分な理由だ、と考えることはできる。だが私はそれを潔しとしたくはなかった。

 偶然バーで出会った人のよい彼は青年だ。

 もし彼が私の友人であったならば、互いに恨みあうことになろうとも、私は彼に苦言を呈し、ときには警察にも相談するだろう。

 だが彼に対してそこまでの重責を負う覚悟はないし、義理もない。

 彼がどこで何をしようが、私の目の届かない場所であるならばかってにすればいいと考える。

 その結果、私に害が及べば、そのときに然るべき対処を講ずる。

 では回りまわって害が及んだ場合は、どうすべきか。

 そのときはそのときだ、といまはまだ見えぬ奇禍の種を放置するのが妥当だと私はいまじぶんに向けて言い聞かせようとしている。

 だがそれは利口な選択ではないはずだ。

 分かってはいるが、ではどうすべきか。

 もし友人から同じ悩みを打ち明けられたら、私は迷わず、警察に通報しろ、と言うだろう。だがいざじぶんが抱え込む問題となると二の足を踏む。

 単純に面倒なのだ。

 七面倒くさい。

 通報したあとに行われるだろう調書や手続きもそうだし、その後に買うかもしれない彼からの恨み、それとも背負うことになるだろう自責の念、もろもろを加味すると、彼を放置したことで将来訪れるかもしれない奇禍よりも、まずは目前の面倒事を回避せよ、との命令を私は自分自身にしてしまう。

 彼がどこで大麻を吸おうが、所持しようが、誰に勧めようが、それは彼の自由だ。その結果、遠からず警察の世話になるにしたところで私に損はない。

 彼が真実に人殺しを生業にしていたところで同じことだ。

 直接の害は、私にはない。

 ただし、間接的にはあるかもしれない。

 それを防ぐためには私が当面のあいだ損を引き受けなければならない。面倒を背負わなければならない。しかしそんな義理はないはずだ。

 私は私の平穏を守りたい。

 ただそれだけなのだ。

「で、その人、ミンチにした肉でハンバーグ作って食べてみたらしくて、これが結構美味かったらしいんすよね。こんどはホルモンに挑戦するとか言ってましたけどウゲェですよね」

 本当かどうかも分からない職場の話を気持ちよさそうにしゃべっている彼に私は、ちょっとトイレに、と言って席を立つ。

「すぐ戻ってきてくださいねぇ。寂しいんで」

 手を振ると彼はメディア端末に目を落とす。延々と何かの情報に触れていないと不安なのだろう。現代病と言っていいかもしれない。

 私は紙幣を一枚取り出し、それをまだ中身の残っているグラスの底に挟んだ。

 この国で一番価値の高い紙幣だ。

 彼の分の支払いと合わせたら足りないだろうが、私の分を払うだけならお釣りがでるはずだ。

 マスターに挨拶だけをしてそのままトイレに寄らずに店をあとにしようとしたのだが、なぜか襟足を掴まれたように足取りが重くなり、これといって何かのきっかけがあったわけでもないのに踵を返している。

 座席に戻り、立ったままで端末に夢中の彼に言った。

「迷ったけど、言うだけ言わせてください。大麻も人殺しも、するのは自由ですけど、私はそれ、あんまりいいことだとは思いません。もちろんするなとは言いませんし、責任も負えませんが、あなたはいいひとなのだから、もっとじぶんよりも立場の低い、困っているひとたちのためにあなたの能力を使ったほうがいいと思います。私はあなたにそうしてほしいです。あなたならできるはずです。大麻とか人殺しとか、そういうことをしなくとも。困っている人とか、弱い者いじめに晒されている人とか、そういう人たちの心を軽くすることが、あなたなら」

 ぽかんと気圧されたように彼は目を白黒させている。

 偉そうなこと言ってすみませんでした、と腰を折り、では、と言ってその場を離れる。

 追いかけてこられたら厄介だな、と思ったが、そういうこともなく、私は店をでるとそのまま黙々と道を歩きつづける。始発まで電車はない。タクシーを拾うにも店に置いてきたお金できょうの分の金は使い果たした。

 朝まで始発を待つか、家までは歩くしかない。

 秋の夜風に身体の火照りを奪われながら、私は店の中で彼に吐いた言葉を反芻し、なぜあんな青臭いことを、と自己嫌悪ともつかない恥辱の念に苛まれるのである。




【段ボール箱の都市の底で】

(未推敲)


 脱ぎ捨てられた衣服を拾うと、ベルトが現れた。衣服はセミの抜け殻然と上下下着一式丸ごとその場に積み重なっている。ベルトだけがとぐろを巻くヘビのようにきれいに丸められてあり、妙に思って手に取った。

 ロールケーキみたいだな。

 小腹も減ったしそろそろ休憩するかな、と思いながらカオルは、丸まったベルトをほどくと、コロンと真ん中から何かが落ちた。

 なんじゃろな。

 床から拾いあげると、コチンコチンに干からびたニンジンみたいな物体だった。こういうの薬草でありそうだな、と思いながら、干からびた何かをぞんざいにゴミ袋に放り入れる。ゴミ袋はすでに三袋目で、それも満杯にちかかった。

 大方の掃除は済ませた。

 ざっくばらんにゴミとそうでないものを分けて、あとは運びだすだけである。ゴミではないものは実家に送りつけ、きょうのところの仕事はひとまずお終いといったところか。

 カオルは手を叩き、やれやれと首を回す。

 兄のヨウジが失踪してから半年が経った。兄の安否は未だ不明だが、そのままにしていた部屋の家賃が嵩むいっぽうで、解約しとこう、という話になった。

 両親は解約手続きをするため出張っている。契約者たる兄がいないために手続きが難航しているようだ。そのため居残りのカオルが部屋の片づけを担当するはめになった。

 いったいどこほっつき歩いているんだか。

 兄の安否を心配するよりも、かってにいなくなったことに腹を立てながらカオルはロールケーキ然と丸まった革製のベルトを手で弄ぶ。

 なかなか質のよさそうなベルトだ。

 ビンテージ品だろうか。

 どうせ実家に送ったところで兄が戻るまではそのままだ。ことによってはすべて破棄しなければならない。かけた労力分の駄賃を貰えるわけでもなく、欲しいものはかってにもらい受けようと思っていたが、これといって兄の私物で欲しい物はなかった。

 服にしてもたいがいが使い古されている。古着を愛好していた節があるが、そもそもカオルは兄と長らく顔を合わせていなかった。兄の嗜好性はむろんのこと、生活習慣のほとんどを知らぬままである。

 正月に兄のほうで実家に顔をだすことが三年に一度あるかないか、といったふうで、カオルの記憶にある兄の顔も、三年前の正月のときに会ったときから更新されていない。

 もはや兄妹というよりも遠い親戚の感覚だ。

 これくらいもらっておかねば釣り合いがとれん。もらったところで秤が水平になるとも思えないが、まずは一つ、このベルトを頂戴することに決めた。

 ためしに腰に巻いてみると思いのほか長かった。

 ぐるっと腰を二周する。

 だが留め具の穴はベルトにまんべんなく開いているので、カオルの体型にも合わせることはできた。

 余ったベルトを尻尾のように腰から垂らすのも、着こなしによってはお洒落に見える。

 まあまあお気に召したかも。

 カオルはまんざらでもなくそれを貰い受けることにした。

 その場でベルトを外そうとするも、なかなか上手くいかない。余った部位が長い分、床に垂れさがり、ベルトの生地がねじれてしまって留め具を滑らかに外せないのだ。

 いっそいちどベルトを締めたほうが、穴から留め具を抜き出せそうだ。

 そうと思い、お腹をへこませ余白をつくり、ぎゅっとベルトを引っ張った。

 すると、ぎゅぎゅっと足場が沈んだ感覚に襲われた。

 沼のうえに立ったかのような妙な浮遊感があった。

 それはカオルがベルトから手を離すと途切れた。

 びっくりしたなぁ、もう。

 地震だろうか。

 情報を知りたかったのでカオルはメディア端末を開こうとするが、指紋認証が受け付けない。

 なんでだろ。

 壊れたかな。

 不幸は重なるとは言うけれど、まったくだ。カオルは膨れながらメディア端末の画面を眺める。暗くなった画面にじぶんの顔が映っているが、おや、と思う。

 まじまじと見つめてから、端末を握るじぶんの指を見てまた、おやおや、と思う。

 なんか手、ちっこくなってないか。

 顔もまるでじぶんではないみたいだ。

 兄の部屋に姿見はない。

 洗面所に移動し、鏡を目にした。

 なんでー。

 カオルは叫んだ。

 鏡には少女が一人映り込んでいるのみで、短大生のカオルの姿はどこにもなかった。

 いったん気づいてしまえば服もブカブカだし、目線も低い。

 部屋が大きくなった感じがして、違和感満載の視界だった。

 何がどうなっているのだろう。

 不思議の国のアリス症候群とかいうやつだろうか。

 鏡のなかの小さなじぶんは小学五年生くらいだろうか。

 背丈は十センチは低く、若返ったというよりも別人になった感覚がつよい。

 だが懐かしい感覚も湧き、やはり鏡のなかのじぶんは幼いころのじぶんのなのだと判断ついた。

 いったいどうしたことだろう。

 鏡に映りこむじぶんの顔を矯めつ眇めつ観察し、身体のほうはどうだろう、と気になった。洗面所であることをいいことに裸になってみようと考え、服を脱ぎだすのだが、尾のように垂れたベルトを外したところで、

 むくむくむく。

 視界が上がり、部屋もどこか収斂して感じられた。

 鏡のなかのじぶんは、見慣れた顔形をしており、その背丈もふだんの馴染みある高さだった。

 はっは~ん。

 カオルはずばりこの不思議な現象の現況を見抜いた。

 きみかぁ。

 ベルトを握り、いまいちどよくよく観察する。

 ベルトには、アメリカ先住人たちが使っていそうな紋様が刻まれている。革製の布に、複雑な線が、わずかにへっこみ溝となって描かれている。

 帯が長いほかにはこれといって特徴はない。留め具は、穴に小さな棒を通すタイプの、極めて一般的な造りだ。それを、原始的な、と言い換えてもよい。

 カオルはすこし悩んでからそれをまた腰に装着した。

 そうして何度か、「締める」と「緩める」を繰り返した。

 やっぱりだ。

 カオルは確信する。ベルトを締めると身体が若返る。

 締めれば締めるほど若返りの度合いは顕著になった。つまりたくさん締めればそれだけ身体が小さくなっていく。

 ふとカオルは怖くなった。 

 もしどこまでも締めたらどうなるのだろう。

 想像したらぞっとした。

 慌ててベルトを外し、深呼吸をする。

 そこではたと閃く。

 コレ、人間以外にも通じるのかな。

 ためしに段ボール箱をベルトで締めてみた。

 するとどうだ。

 段ボール箱がみるみる縮んでいくではないか。

 カオルは興奮した。

 すっごー。

 縮小した段ボール箱を抱えてみると重さまで減っていた。

 もしこのベルトを大量生産できれば世の中の運送コストは大幅に削減されるぞ。

 世界経済を支えているのはいまやコンテナなのだ。船や飛行機によって運ばれるコンテナで運べる荷物をこのベルトを利用すれば単純に二倍にすることができる。

 否、もっと縮めれば何倍にもなるはずだ。

 カオルは試しに段ボール箱に巻いたベルトを極限にまで締めてみた。

 ベルトの輪っかがするすると段ボール箱ごと円周を小さくしてき、やがて縄を固結びするかのごとく点になって潰れた。

 手を離す。

 ベルトは自然と蚊取り線香のように渦を巻き、ロールケーキに似たカタチに収まる。どうやらそういう癖がついてしまっているようだ。

 ベルトを解いてみると、真ん中からポトリと段ボール箱らしき立方体が零れ落ちた。

 指でつまみあげ、カオルは、へー、と驚いた。

 最後までベルトを絞ってしまうと、ベルトを緩めても大きさは元に戻らないようだ。

 これでは大量に荷物を運べたところで意味がない。

 ただし、最後まで絞らなければよいだけだ。

 カオルはそれから段ボール箱を使って、実験を反復し、やはりみずからの推測が正しいことを悟った。

 最後まで締めなければよいのだ。ベルトを解けば、元に戻るし、締めたり緩めたりすれば大きさを調整できる。

 元に戻らないくらいに小さくなるのだとしても、それはそれで使い道がある気がした。

 たとえばゴミ処理だ。

 大量のゴミをゴマ粒みたいにできたら環境汚染の問題も解決の兆しを見せる。ただし、地球の質量が減ってしまうので、あまり賢いやり口ではないのかもしれない。

 ではナノマシン製造機はどうだ。

 ドローンみたいなものを箱に詰めて、極小に縮めたら、とんでもなく精巧でとんでもなく小さな機械を簡単に造れるかもしれない。

 ただベルトで縮められると言っても、限度がある。

 最初から小さき機械をさらに小さく収斂させることはできるが、やはり世の中から貴重な資源を減らしてしまい兼ねない懸念はつきまとう。よほど無くなっても構わない物質以外には、元の大きさに戻らない縮小の仕方は実践しないほうがよいように思えた。

 カオルはしばし考え、世の中の役に立てるのは無理かもな、と早々に諦めた。

 だいいちベルトは一本しかないのだ。

 じぶんで使って満足するくらいでよいのかもしれない。

 若返るのはうれしいけれど、それもベルトを締めているあいだだけだ。化粧や胸パットとの違いはあまりないのかもしれない。

 子ども料金で公共交通機関を利用するにしても、出かけ先で自由に過ごすには子どもの姿は不便だ。元の姿に戻るにしても、服のサイズが合わないだろう。着替えを持ち歩く労力を思えば、ふつうに大人料金を払ったほうが楽な気もする。

 思いのほか利用価値がないかもしれない。

 ふつうにベルトとして使えばいっか。

 使っているうちに何かいい使い道が見つかるかもしれない。

 カオルはそうと考えをまとめ、ベルトを腰に締めたまま兄の部屋の引っ越し作業を再開しようとした。

 そのときだ。

 あっ、と思ったときには見る間に天井が遠のき、視界を分厚い布の幕に覆われ、暗がりに包まれた。

 否、わずかに幕の合間から光が漏れている。

 だがじぶんの手足はおろか、床と宙の境すら覚束ない。

 手探りで進もうとするも、四方を壁で囲まれている。

 鼻がムズムズし、くしゃみをする。

 肩を抱くと、じぶんが裸であることに気づいた。

 ぞくり、ぞくり、と悪寒が全身を襲った。取り返しのつかない真似をしてしまったのではないか、との恐怖が身体の芯からカオルを凍えさせた。

 まさか、そんなまさか。

 じぶんがいま仕出かしてしまったかもしれない失態を思い返そうとする。何度振り返っても、足の裏に伝わる帯の感触を拭えずに、じぶんはひょっとしたらベルトの尾を踏んづけてしまったのではないか、との想像が確信を帯びる。

 余ったベルトの尾を踏んづけてしまったから、キュっと首を絞めるようにじぶんでじぶんの腰をベルトで絞めてしまったのではないか。

 それこそ、もうこれ以上締められない、という極限にまで。

 最後までベルトを。

 先刻までじぶんの手で行っていた段ボール箱での実験が脳裏によぎる。

 とぐろを巻いたベルトの真ん中からは、小さな立方体が零れ落ちた。

 それはベルトから解放されてももう、元の大きさに戻らなかった。

 そこでカオルの瞼の裏には、さらにもっと前の記憶がよみがえった。

 最初にこの部屋でベルトを見つけたときの情景だ。

 セミの抜け殻然と衣服が脱ぎ捨てられており、その下にロールケーキ然と丸まったベルトが埋もれていた。

 持ち上げたとき、ベルトからは干からびたニンジンのようなものが落ちなかったか。

 カオルはそれをゴミ袋に投げ入れたが、あれはひょっとして、このままいけば遠からず辿ることとなるじぶんの末路ではなかったか。

 兄はこの部屋からいなくなった。

 しかしカオルたちにそう見えるというだけのことで、本当はずっとこの部屋にいたのではなかったか。

 誰にも見つけてもらうこともなく、ただ狭苦しいとぐろを巻いた魔具の中心で。

 身動きをとれずに、ただ刻々と忍び寄る死の気配に怯えていたのではなかったか。

 カオルは叫んだ。

 母を呼び、父を呼び、そしてもうこの世にはいないだろう兄の名を呼んだ。

 助けて、助けてお兄ちゃん。

 カオルの叫び声は、あたかも蚊トンボの羽ばたきのごとく静けさで、段ボール箱の都市の底にて響き、薄れる。




【庭の下に、いる】

(未推敲)


 飼っていた金魚が死んだので庭に埋めた。

 翌朝、庭からネズミの鳴き声がキューキュー聞こえたので出てみると、金魚の墓がもぞもぞと蠢いていた。

 掘り返すと、金魚の墓の下からはネズミが這い出てきたので慌てて尻尾を足で踏んづけた。

 逃しまいとしたのだがあまりに急な出来事だったため、バランスを崩しその場に尻もちをつく。

 尻に嫌な感触が走り、鳥肌がたつ。

 やってしまったか。

 ぞわぞわとあたかも下半身から順々に蟻の群れが這いあがるのに似た嫌悪感が湧いた。

 こわごわと腰をあげる。

 ぐねんと柔らかくも弾力のある感触が尻の下にあった。

 ネズミが一匹潰れていた。ぴくりとも動かない。

 圧死している。

 申し訳ないことをしてしまった。

 汚れた服は洗ってもまた着れるだろうか。いや捨てなければ、と肩を落としながら、潰れたネズミの死骸を金魚の墓に押しやり、埋めた。

 これでいち段落、と思いきや、あくる日、こんどは庭から子猫の鳴き声が聞こえた。

 まさかな。

 思い、覗いてみるとネズミの墓の下からミャーミャーと鳴き声が響いているではないか。

 どうしたことか。

 何か妙な現象が起きているのではないか。

 はたまた誰かのイタズラか。

 だとすればひどいことをする。

 思いながら手で土を掘り返すも、なかなか声の元まで届かない。

 けっこうに深いぞ。

 折衷案としてひとまずシャベルを使おうとしたのがよくなかった。

 ここなら大丈夫だろう、とネズミの墓からすこし離れた場所にシャベルの先端を突き立てたところ、腕にぐねんと嫌な感触が走った。次点でぴたりと鳴き声が止む。

 しかるに、穴を広げたところ子猫の亡骸が見つかった。

 すまん、申し訳ない。

 泣きたい気持ちでそのまま子猫の骸を穴に戻し、埋め立てた。手ごろな石を添え、墓に見立る。

 手を合わせ、ごめんなさい、と拝む。

 家の中に入るも、

 よもや明日もではないだろうな。

 暗雲垂れこめる予感が胸中を支配した。

 さすがにもうつづかぬだろう、あそうあってくれとの祈りが届いたのか、翌日、そのつぎの日、と何事もなく平穏な時間が流れる。

 意識の壇上から子猫の墓の存在が薄れた四日後のことだ、夜中にけたたましい鳴き声が森閑とした夜の帳に波紋を浮かべた。

 耳を澄ますまでもなく庭からだと判る。

 泣き声は繁殖期の猫の鳴き声にも、赤子の夜泣きにも聞こえた。

 まさかまさか、そんなわけがない。

 サンダルも穿かずに裸足で庭に飛びだし、子猫の墓のまえに立つ。

 泣き声は一層大きく墓の下から轟いた。

 いる。

 この下に、赤子が。

 掘りだそうとシャベルを手に取るが、地面に突き立てる直前で踏みとどまった。

 仮にこの下にいるのが赤子だとして、掘りだしてどうする。

 育てるには荷が重すぎる。そもそも周囲の者たちにはなんと説明すればよいだろう。

 土の下にいたんです、と正直に言ったとしてとうてい信じてはもらえまい。

 ならばどうする。

 いまならまだ、素知らぬふりができるのではないか。

 寝ていて気付かなかった。

 そういうことにしてしまえばよいのではないか。

 そうだ、そうしよう。

 すでに金魚、ネズミ、子猫を殺めてしまったのだ。いまさら一匹増えたところでどうということもない。

 仮に誰かの悪質なイタズラだとして、こちらは何もしていない。

 そう、何もしないだけなのだ。

 何かあってもただ庭に妙なものを埋められた被害者にすぎない。

 夜の澄んだ空気を吸いこんでから、よし、と意を決する。

 シャベルを投げだす。

 子猫を埋めた場所に立ち、幾度かジャンプする。

 一瞬泣き声は途切れたが、寄せては返すさざなみのように声量を増した。

 ダメか。

 まあいい。

 時間が解決するだろう。

 さいわい近所は空き家に囲まれている。

 声を聞きつけて庭を掘り返しにくる者はない。

 いちどこうと決めてしまえば心が安らかになった。

 早く朝になれ。

 時間よ過ぎろ。

 流れ星に願いを唱えるように内心でつぶやきながら、ふかふかのふとんに包まり、夢のなかへと落ちていく。

 翌朝、清々しい日差しに起こされ、目覚める。

 気分は爽快だ。

 これといった騒音もない。

 終わったのだ。

 何も気づかなかった。

 ちょっと妙な悪夢を数日見ただけのことだ。

 そうだ、そうに決まっている。

 じぶんに言い聞かせ、つつがなく日々を過ごしていたのだが、それからどれほど経っただろうか。

 なるべく庭には立たないようにしていた。

 目も向けないようにしていた。

 だが昼夜問わず、ブツブツと何事かのささめき声が聞こえるのだ。

 よもやよもや、と窓の隙間から庭を窺うと、例の子猫を埋めたきりいじっていない場所の土がこんもりと盛り上がっていた。夕陽を受けて木々の影が丘を乗り越える線路のごとく起伏を描いている。

 落葉の季節である。

 落ち葉が庭を覆うなか、そこだけが土の色を露出している。表面に走るひび割れはどこか落雷を思わせる。

 ささめき声はどうやらそこから聞こえているようだった。

 内容は聞き取れないが、ハッキリと言葉の連なりを切り絵のようにギザギザとかたどっている。

 何かいる。

 土の下に。

 盛りあがった土くれの体積分のナニカが土のなかに入っているのだ。

 いったいどこから入ったのだろうか。

 否、そうではない。

 考えるべきは、いったい何が入っているのか、だ。

 ブツブツと声らしき響きは途絶えることなく、早口で詩を朗読する子どものような律動で、ときおり勢いの強まる雨音のように、強弱の旋律を奏でている。

 土盛に走ったひび割れは、明滅する黒い稲妻のようだ。拍動のごとく亀裂を濃くしたり、薄くしたりする。カブトムシの幼虫が土から這いでようと蠢く様子を連想する。

 しばし茫然と立ち尽くしてから、はたと我に返る。

 軒下に立てかけてあったスコップを握りとり、なぜか分からないがそうしなければならないような気がして、土盛の真横から差しこむように、その下めがけてスコップの先端を食いこませる。

 足を載せ、体重をかけると、スコップはズブズブと土にめりこんだ。

 スコップの先端に、ぐりゅゴリン、と抵抗が伝わった。

 ゼリーに挟まれたゴボウを抉ったような感覚だ。

 スコップを引き抜き、場所を変える。

 もういちど先端を土のなかに突き立てた。

 タイヤでも埋まっているかのような感触が腕に伝わり、以降、ボソボソと聞こえていた声は鳴りを潜めた。

 それからというもの、庭から妙な鳴き声を耳にすることはなく、いまなお庭にはこんもりと盛り上がった場所がある。

 ふしぎなことにもうすぐ本格的な冬がやってくるというのに、土盛のてっぺんからは、噴火口から溢れるマグマのごとく、とめどなく蟲が湧く。




【ピコピコとロクブテ】

(未推敲)


 人格が視える眼鏡なんよ、とミカさんが言ったので、私はついついこう言ってしまう。

「だからそんな変なデザインの眼鏡を選んだんですね」

「変ではなかろうよ。似合っているだろうよ。ええきみ、そうじゃないか」

 事故に遭った自転車の車輪のような左右非対称のガタガタの眼鏡を指でくいくいミカさんは押しあげる。

「デザインはともかく人格がどうこうってのは何なんですか。またぞろ漫画の影響ですか。どうせまたステキな悪の幹部がかけていたんでしょ」

 そういう設定の眼鏡を、と質す。

「いやいや本当に見えるんよ。ほらね」ミカさんは眼鏡の縁を手で押さえながら私に狙いを定めた。眼鏡の縁にはダイヤルのようなものがついているらしかった。「ほうほう、なるほどなるほど。チミの本性はどうやら鎧をまとった侍のようだねぇ。ただし刀の代わりに箒を持っている。これはきっと相手を絶対に傷つけはしないけれど、もしものときは掃き掃除してやる、との意思表示かな」

「またそんな適当なこと言って」

「本当だよ。ほれ」

 ミカさんは私を姿見のまえに立たせた。部室の窓からは初夏の木漏れ日が差しこんでいる。

 私の背に回るとミカさんはガタガタの眼鏡を私にかけた。

「どう? 見える?」

「えっとぉ」

「あ、クリクリしなきゃ」ミカさんは眼鏡の縁をいじった。歯車が回るような音が耳元でした。

「あっ」

 姿見のなかに映るじぶんの胸の辺りに、ちいさな日本人形のようなものが見えた。

 洞穴のなかに佇むクマさんみたいだ。

 よく見ると、鎧をまとった人形は手に箒を握っている。

 ミカさんの言ったとおりだ。

「だとしてもですよ。これが私の本性かどうかの証明にはなりません。こんなのアプリかなんかですよね。拡張現実とかそういうのじゃないんですか」

「違うよ違うよ」

「あれ」私は振り返る。「ミカさんには見えないじゃないですか」

 眼鏡越しに見てもミカさんに人形は見えなかった。

 ミカさんは日によって身だしなみの練度が変わる。一か月に二、三度くらいの確率でどこのお姫さまかと見紛う変身を遂げる。というよりも単に髪に櫛を通して、化粧液をつけただけなのだろう。睡眠をとり、肌艶がよいのも影響するに違いない。

 たっぷり寝たので注意力が底を突かずにいるためか、リボンを緩めずにしゃんと結び、ボタンを掛け違わずに留め、はみださないようにワイシャツをスカートにちゅるんと仕舞い、着こなしのお手本のような制服の身に着け方で登校してくる。部室にもそのままの姿を維持してやってくるので、どうやら注意力を持たそうと思えば半日は持つらしい。

 ただし、それ以外の日は総じて真逆の見た目だ。制服はだらしないし、表情にも破棄がなく、髪の毛には寝癖なのかそういうスタイルなのか蓬髪のままでいる。髪の毛に擬態したそういう触手をこっそり飼っている可能性も捨てきれない。

「そんなに見詰めちゃいやん」ミカさんは顔のまえで腕をバッテンにする。

「ミカさんミカさん。前々から思っていたことあるんですけど言ってみてもいいですか」

「いいけどなんじゃいよ。怖いなぁ」

「ミカさんってなんかときどき、すごくあれですよね」

「どれじゃいよ」

「もんのすごく清潔な尿瓶に入った最高級のワインみたいな」

「あ、その比喩聞いたことあるぞ。褒めてるのかけなしているのかどっちなんだいと思ってしまうな。中身を買ってくれていることは理解したが」

「買ってますよ。超買ってます。家に予備が二個くらいありますもん」

「もっと買っといてよそこはさあ」

 ミカさんは泣き笑いの顔をするので、私は、おっ、と思う。この表情は珍しいな、とコレクションに加えたい衝動に駆られる。ミカさんの百面相だ。私の記憶のアルバムに密かに蓄えられている秘蔵のコレクションである。

「あたしのは見なくていいよ」

「見たいですよ。見たい見たい」

「こーんなバケモノだったらどうすんの」ミカさんは顔の横に両の手のひらをくわっと開いて置いた。しかしバケモノと名のつく存在のおしなべてがそんなにお茶目だったら世界は秒で平和になってしまう。

 ピコピコハンマーで叩いただけでも勝てそうだ。

 私はピコピコハンマーでつぶされるバケモノを想像し、そのあまりの愛くるしい姿に胸が痛んだ。

「あたしの本性はだから見ないほうがよいと思う」だってこんなだよ、とミカさんが手のひらをくわっとしつこいので、

「怖いですね。それは怖いです」私は調子を合わせる。

「そうでしょう、そうでしょう。だからあたしはノーセンキュー。結構です」

 私だってノーセンキューだったのに。

 膨れながら私はもういちど姿見に向き直る。

 眼鏡越しに、そこに映る実在しない鎧人形を見た。

「で、これを私に見せてミカさんはどうしたかったんですか」

「いやね。珍しいものを手に入れたから自慢したくって」

「私の本性が鎧人形だと知って、うぷぷ、とおもしろがっていたわけですね」

「そうじゃないが。いや、じつはそうなんだけど、だって箒って。ぷっ」

 外した眼鏡をミカさんに押しつけて私は席に戻る。読んでいた途中の本を開き、黙々と物語の世界に旅立った。ミカさんが虚構の世界の外から何事かを言っていたけれど、私は旅に夢中なので聞こえない。

 翌日にはもうミカさんは例の眼鏡をつけていなかった。

 人格が視える眼鏡なんてすっとんきょうなことを言うのは、さすがのミカさんも一日で懲りたようだ。それはそうだ。人格なんてそんなのは可視化されずともじかに触れあって感じればいい。

 私には変な人形が視える眼鏡なんて必要ない。

 私がひそかに、ふふん、とほんのりとした優越感に浸っていると、ミカさんが遅れて部室に入ってくる。

「ふう、さぶいさぶい。もうマフラーの季節だなこりゃ」

「こんにちはミカさん」

「はいこんにちは」

 ミカさんは両手を掻き合わせたまま、なかなか席に着こうとしない。しきりに両手をこすり合せ、息なんかを吐きかけちゃったりして、おーさぶさぶ、と繰り返す。

 しかしおかしなことにその手には手袋がされている。

「なんなんですかミカさんさっきから。それ手袋したまんまじゃないですか。というかまたあの眼鏡かけてきたんですか」

 ミカさんは事故に遭った自転車の車輪みたいな眼鏡をまたぞろ装着していた。

「へっへっへ。こんどはすごいぜ。見てよこれ。眼鏡とセットで、人格を取りだせる手袋でござい」

「ござい、じゃありません。はいそこ座って」

「へい」

 ミカさんは鞄を背負ったままで椅子に座った。本来は手提げ鞄だがミカさんはよく背負うのだ。背中に青い蝉の抜け殻がくっついているふうに見えなくもない。

「あのですね、ミカさん。眼鏡の件はまだよいでしょう。しかし手袋はいただけません。いくらなんでも空想のキャラクターは取りだせません。拡張現実でしょうそれ」

「まだそんなこと言ってんの。これ、眼鏡。本当に見えるんだってヴぁ」

 人格が。

 その人の本性が。

「はいはい」

「あーそうやってまたチミはろくにあたしんこと信じもしないで」

「信じてますよ。はぁすごいすごい」

「ムッキー」ミカさんは手袋を噛んだ。

「そうやって怒るひと初めて見ました」

「だってキミがあたしんことバカにするから」

「してませんよ」

「じゃあまるであたしが本当のバカみたいじゃん」

「え、違ったんですか」

 ミカさんは口をぱくぱくさせると、論よりショウコ、とあたかもそういった名前の女の子を優先せよ、と宣言するみたいに叫び、

「はいそこ立って。ほらほら早く」と私をせっついた。

 ミカさんは私のまえに立つと、いちど手袋を取って眼鏡の縁をいじった。照準を私に合わせたようで、そのまま動かんといてね、と似非関西弁で私に指示をだした。私はわざとゆらゆら身体を揺さぶりながら、ミカさんから、「動かんといて」「動いたらあかん」「じっとしときゃあ」「うごぐな」「じっとしとるっちゃ」とつぎつぎに似非方言を引っ張りだす。

 いよいよミカさんは泣きべそをかいた。

「お願い、じっとしてて」

「はい」

 私はミカさんになされるがまま、眼鏡越しに見詰められる。

 ミカさんは手袋を装着すると、何やら私の身体のまえでわさわさと指を動かし、そして、えいや、とあたかもそういった名前の男の子を呼ぶような掛け声を発し、私の胴体に手を突き立てた。

 めりこんだ。

 ミカさんの手が私のみぞおちを貫いている。

 想定外の事態に私が固まっていると、ミカさんはそっとバースデイケーキの載った皿を運ぶような慎重な手つきで、私の身体の中から一体の人形を取りだした。

 人形は鎧に身を包んでいる。

 手には箒が握られている。

 以前に私が眼鏡越しに見た、あの人形だった。

「ほーら取れたよ。これがチミの人格だ。本性だ。あ、見てここにホクロある」

 ミカさんは鎧人形の首元をゆび差す。

 私は私の首にも同じ場所にホクロがあることを知っていた。その人形はたしかに私を模してあるのかもしれなかった。

 しかしそれを以って、私の本性だとは思わないし、思われたくもない。

「もしそれが私の本性なら、いま私からは本性がなくなっているってことですか」

「奪われたのだからそういうことになるね」

「でも私はべつに私のままですよ」

「チミはじつに愚かだなぁ。本当にびっくりするくらいに可哀そうな子だ」

 ミカさんは急に私を虚仮にした。

 しかしそこに本気の響きはなく、ただ口にしただけのようだった。

 にも拘わらず私は、ピクピクと顔面の筋肉が痙攣し、心臓がバクバクと震えた。こめかみにドリルで穴を開けられたような頭痛と物哀しさが襲い、私はもうその場に倒れそうだった。

「ご、ごめんよ、ごめん。ここまでとはな」

 ミカさんは手に持っていた人形を私の胴体に押しつけた。

 するりと人形は私の体内に戻る。

「ここまで影響がでるとは思わなくて。だいじょうぶだった。本当にごめん。本心じゃないよ。嘘だよ」

 私はぐすんと鼻をすする。

 なぜあんな一言でここまで取り乱してしまったのか、と途端に恥ずかしくなる。

「大丈夫です。ちょっと貧血でふらついただけですので」

「そ、そっかぁ」

 ミカさんは嘘が下手だ。

 私の面目のために、そういうことにしてくれたらしい。もっと上手にお願いしたい。

「ただ私にもそれ、さしてください」

「え、どれ」

「それです。眼鏡と手袋。貸してください」

「いいけど、どうすんの」

 受け取り私は、眼鏡と手袋を装着する。

「もちろんミカさんにもしてさしあげますね」

「ごくり」

 ミカさんの背後には姿見があった。

 そこにはミカさんに迫る私の姿が映っている。

 眼鏡の照準は私に合ったままだ。

 私のなかの本性が、人格が、人形がそこには反映されている。

 ふしぎなことに、先刻までは箒を握っていた鎧人形が、いまはなぜかピコピコハンマーを握り、頭上に構えている。




【ラジカセの怪】

(未推敲)


 修羅場である。

 わたしはもうもう明日の朝までに、否々、たぶん正午まではギリ行けるはずだが、ともかく担当編集者が締め切りを過ぎたと見做さずにいてくださる時刻までになんとか原稿を終わらせなければならない。

 すでに四徹目である。

 生命の危機すら覚えるが、却って細胞が活性化している。

 ちょっとでも気を抜けば意識を失いそうだが、気を抜くだけでもなけなしの気を使いそうなので、もはや微塵も気の抜けない状態なのである。

 ぱっつんぱっつんである。

 破裂寸前の風船、ただし内にも外にも針の山、といった具合だ。

 珈琲から紅茶からシュークリームに金平糖と、カフェインと糖分の乱れ撃ちでかろうじて意識を保っていると言ってもよかった。

 これが切れたらアウトである。

 脳細胞たちがカフェインと糖分に騙されて覚醒しているあいだだけ出力可能なこれは原始の闘争そのものだ。

 だがあと残り十二時間を切ったという段になって、猛烈な睡魔に襲われた。

 いかん、いかん。

 軽く腹筋や腕立て伏せをしてみるが、体力を余分に失うだけで逆効果だった。そもそもわたしは運動が得意でない。元から一回もできないのだ。腹筋も腕立て伏せもその場で潰れて起き上がれなくなり、そのまま眠りの底に落ちいく浮遊感に、はっと我に返って、いかんいかん、と冷水を浴びる。 

 これはまずい。

 そうだ音楽を聴こう。

 以前、工場でバイトをしたときに音楽を聴きながら作業をしたことがあった。あれははかどった。

 極限の状態で反復作業しかできないと人は、意識だけでも何かに委ねたくなるものらしい。その点、音楽はいい。

 同じ曲をリピートで延々繰り返し聞いていると、いつの間にか作業を終えている。

 そうだ、と電子端末を掴み取る。

 あの感じを再び。

 しかし電子端末はうんともすんともいわない。

 そうだった。

 原稿が終わっていないとの連絡をするのが嫌で、故障したというテイを演じるためにわざと壊したのだった。

 早計だった。

 極限の寝不足は人間をこうまでも愚かにする。

 しかしわたしはめげない。音楽を聴かねば締め切りを守ることはおろか、朝まで起きていられるかも分からない。

 何かないか、と押し入れを漁る。

 そんな真似をしている時間はないのだが、とにかく音楽がなければ原稿は完成しない。

 現実問題、そんなわけはないのだが、認知能力のはなはだしく落ちたわたしの思考では、いちどこうと決めたらテコでも動かない。ただし余裕進行は除く。

 あったぁ、と押し入れから引っ張りだしたのは古い機械だ。

 かつてわたしが幼少期のころに父が愛用していたラジカセである。ラジオとカセットテープを再生できる。

 もはや現代の若者はカセットテープがなんたるかも知らぬだろう。

 そこはしかしわたしも同じく、カセットテープがどんなものかはよく知らない。

 なんでもいい。

 ラジオでも音楽でも、何か聴ければ用は足りる。

 コンセントを電源に繋ぎ、さっそくまずはラジオを再生させようとするが、これがうんともすんともいわない。壊れているようだ。

 ではカセットテープはどうだろう。

 テープ本体はすでに収納されている。あとは再生させればいいだけだ。

 ぽちっとな。

 ボタンを沈めるとカセットテープが回りだす。

 カセットテープには真ん中に二つ穴が開いている。テープはその二つに巻きついており、右から左へと巻きとられていく。砂時計が砂を上から下へと落とすように、カセットテープも再生が進めば進むほど、どちらかの巻きが厚くなる。

 聴こえてくるのは音楽だ。

 寂しい口笛の音色に、こちらにささやきかけるような語り調の歌が乗っている。

 いま手掛けている原稿がせつない話だったので、うってつけだった。

 よっしゃ、やったるで。

 読者さん、待ってろよ。

 わたしは気合いを引き締め、未だ余白の多分に残されたページに挑むのである。

 集中すると時間が飛んだ。

 はっと気づくと、すでに窓の外は明るく、正午まで残り二十分という時刻になっていた。

 原稿は完成した。

 間に合った。よかった。

 本当は締め切りは昨日の日付けだったが、担当編集者の類稀なる忍耐と負担と、健康を犠牲にした過酷な労働のお陰で、ギリギリでなんとか間に合わせてくれるだろう。

 ありがたい。

 そしていつもすまんね。

 きっと担当編集者である彼女はこのあと、たくさんの取引先に頭を下げながら、わたしが潰してしまった余裕を挽回してくれるはずだ。

 働け、働けい。

 五徹目の峠を越えたので人格が崩壊してしまったが、わたしは元来こういう女なのである。諦めてほしい。

 誰にともなく言い訳を唱えて、急ぎ原稿データを担当編集者に送った。

 秒で返信があった。

 原稿拝受とある。

 ひとまずの返信であるらしかった。ずっと待っていてくれたのだろう。催促の一報すら寄越さなかった彼女の配慮、それはわたしの邪魔をせんとする信念からの厚い信頼とも呼べたが、ともかくわたしはいつもこの瞬間に胸が熱くなる。

 彼女はわたしの最初にして最高の読者なのだ。

 作品愛が高じてか、やけに手厳しいのが玉に瑕だが。

 今回もボツを十回もだされた。殺す気か。

 思いだしたらイライラしてきた。

 ひとまず白湯を飲み、ひと心地着く。

 布団を敷いて横になるとあっという間に意識が遠のいた。

 ラジカセからはずっと曲が途切れずに鳴りつづいていた。子守歌のように心地よい。

 夢のなかで着信音が響ているのに気づき、飛び起きた。

 時刻を確認すると二時間が経っていた。

 着信は担当編集者からだ。

 出ると、原稿は無事に入稿できたとのことで、まずはお疲れさまでした、と労われた。この瞬間だけいつも優しい。ずっとそれでいて欲しい。

 担当編集から、つぎのプロットをどうするのか、と問われたので、それについていくつかの案を提示した。

 簡単な打ち合わせをしていると、ふと担当編集者が言った。

「いま誰かいらっしゃるんですか」

「え、なんで。いないですけど」

「あ、じゃあ映画とかですかね。なんだかボソボソと人のしゃべっている声が聞こえるので」

「ああ」わたしはそこでラジカセから曲がまだ鳴っていることに思い至り、じつは、と掻い摘んで説明した。

「ラジカセですか。懐かしいですね」

「漫画で出してもきっといまの若者には通じませんよね」

「かもしれないですね。ですが教科書には載っているようですし、私たち世代で言うところのダイヤル式電話みたいになるんじゃないですかね」

「公衆電話もすでに通じるか怪しいですよね」

「そのうちイヤホンも通じなくなるかもですね」

「というか全部が全部電波で済むなら、充電も通信もなにもかもがワイヤレスになりますよねきっと」

「かもしれませんねえ。あ、ちなみにそのラジカセのテープってA面とB面があるのはご存じでしたか」

「え、知らないです」

「裏返して再生すると別の曲が流れるんですよ。そちら側にも録音されていればの話ですが」

「そんなハイテクなつくりだったんですね」

「あはは。ハイテクですかね。あ、ではまた細かい確認事項がありましたら、ご連絡差し上げますね」

「原稿待っていただいてありがとうございます。いつも遅くてすみません」

「いえいえ。楽しい物語を読ませていただけるならいつまででも待ちますよ。待たせてください。ただ、健康だけはどうぞ崩されないように、体調管理、しっかりなさってくださいね」

 徹夜に次ぐ徹夜を見透かされているようだ。

「はい。すみません」

「ではありがとうございました。失礼します」

 担当編集者は通話を切った。

 しばし打ち合わせの内容を反芻し、お腹減ったなと腰をあげる。

 ラジカセからはまだ声が聞こえている。

 もういいかな。

 そろそろこの曲調も飽きてきたしな。

 ラジカセのボタンを押して戻すも、曲は止まらない。

 あれ、ひょっとしてラジオのほうだったかな。

 しかしラジオのダイヤルをいじるが、チャンネルが変わった様子はない。同じ曲が流れつづける。

 カセットテープの真ん中に開いた二つの穴は回りつづけている。テープは動いているのだ。

 面倒に思い、コンセントを抜いた。

 だが曲は止まらない。

 否。

 これは曲か?

 口笛とささめき声で編成されたその曲のような音の羅列は、電源の抜けたラジカセからボソボソとまるで呪詛でも吐くかのように立ち昇りつづけている。

 カセットテープを取りだすとようやく静寂が戻った。

 安堵の溜め息を漏らし、何気なくカセットテープを見遣ると、四角い半透明のケースの中で巻き取られているのはテープではなく、やたらと長い髪の毛だった。

 ラジカセはその日のうちに捨てた。

 この体験をモチーフにした短編を後日描いてみたのだが、担当編集者からはにべもなくボツを食らった。即答だった。おそろしい話である。




【ギリーチュの刺身】


 海辺の村に行き着いた。

 古い旅館に泊まると、ちょうどよかったですよお客さん、と女将さんが教えてくれる。

「いまはギリーチュが旬なんですよ。刺身にしても加工してカマボコにしても美味しいんです。今晩のお夕食にも添えさせていただきますから、どうぞお気に召しましたらお土産にお一つどうぞ」

 カマボコが名産であるらしい。

 美味しかったらでは、と夕食を楽しみにしている旨を告げた。

 温泉に浸かり、戻ってくるとすでに夕飯の準備が整っていた。

 さっそく箸を持ち、いただきます、と口へ運ぶ。

 まずはなんと言っても刺身だ。

 マグロやイカやホタテの刺身が並ぶなか、見たことのない色合いの魚肉があった。

 色見は蒼く、年輪じみた筋が刺身の一つ一つに浮かんでいる。蒼いカツオのよう、と言えばそうかもしれない。

 皮らしい部位もカツオ並に色が濃くなっている。ここに至って、そう言えば、と気になった。

 ギリーチュなる魚を私は知らなかった。

 長らく一人旅をしてきた。見知らぬ土地にはそれぞれにこれまで寡聞に知らなかった食べ物が多くある。

 だから別段、聞き慣れぬ固有名詞を唱えられても気にしない癖がついていた。

 困らないのだ。

 聞き慣れない固有名詞の多くはそれでも既知の生き物の別名であったり、その土地ならではの愛称であったりした。

 だがこうして稀に真実見たこともない代物とお目見えすることがある。

 世界は広い。

 たとえば以前はツノの生えた大蜥蜴を目にした。どう考えてもドラゴンにしか思えないが、その土地では山神さまと崇めていた。

 ほかにもこちらにしか目に映らない村人――村中から無視されているのだが、何をしても誰もその村人を咎めない。まるでこちらにだけ見える神さまのようだった。ほかの旅人もみなその村で同じ体験をするので、みな「ムシビトさん」とその村人のことを呼んでいた。

 思いだそうとすればもっとあるが、ともかくこうして珍品に巡りあえるのも旅をつづけている理由の一つだ。

 醤油にわさびを溶かす。

 蒼い刺身を箸でついばむ。

 わさび醤油につける。

 唾液が口内に湧く。

 蒼い刺身が舌に触れると、わずかに潮の香と生き物の血の酸味がした。それら薄皮じみた海の幸に共通する香りの奥から、わさび醤油の風味が眉間の裏側にまで広がる。

 口を閉じ、咀嚼する。

 するとどうだ。

 胃のカタチがわかるほどに瞬時に胃液が分泌されたのが判った。蠕動運動をしているのか、ぎゅぎゅぎゅ、と胃が縮む心地がある。

 一度、二度、三度目の咀嚼で耐えきれなくなり、呑み込んだ。

 矢継ぎ早に、残りの蒼い刺身を頬張った。

 美味だ。

 これぞ美味だ。

 視界がぱっと明るくなり、窓のそとから届く波の音までもが、しぶきの粒の一つ一つを明瞭に伝え、美しく響かせている。

 全身の細胞が歓喜している。

 あっという間にギリーチュを食べ終える。

 満足して当然の美味さの極致を味わったにも拘わらず、極限の至福に触れたためにか却って欲求の底が抜けてしまったかのようだ。飢餓感が募った。

 足りぬ。

 お代わりが欲しい。

 致し方ないので、ひとまずほかのマグロやイカの刺身を口に運ぶ。

 咀嚼するが、落胆が襲う。

 美味は美味だが、どうしてもギリ-チュのあの全身の細胞の一つ一つが人格を持ってそれぞれに歓喜の舞を踊るような体験を得てしまうと、ほかの食材では味気なく感じてしまうのだ。

 食事をたいらげるが、やはり満ち足りるには至らない。

 ギリーチュの刺身が食べたい。

 単品でお代わりはできないだろうか、と宿の紹介との併用で置かれているメニュー表を手に取り、つぶさに目を走らせる。

 どうやらギリーチュは期間限定の食材で、獲れる量にも限りがあるようだ。おひとり様一品限り、と但し書きがついている。

 はたとそこで女将さんの言葉を思いだす。

 たしかカマボコがあると言っていた。

 買えるのだ。

 居ても立ってもいられなくなり、部屋を出た。

 廊下を歩いている宿の従業員の男性に、カマボコを買いたいのですが、と訊ねると、海辺の加工場の場所を教えてくれた。

 夜でもやっていますかね、と訊ねると、この時間帯はもう閉まっているかもしれませんね、と返ってくる。

 礼を述べその場を離れる。

 ほとんど駆け足になって加工場までの道をいく。

 開いていなかろうが、まずは行ってみようと思った。

 場所を知っていれば明日の朝一番で向かえるし、店の人に会えれば無理を承知でカマボコを譲ってもらえるかもしれない。

 そうでなくとも素材のギリーチュがどんな魚なのかが判るだけでも充分だ。

 潮の香りが顔面から熱を奪う。

 夜風は空の高さを示すように澄んでいた。

 海岸沿いが見える。

 満月が雲間から光を垂らしている。眩しいほどの光量だ。海面がこれほどまでに煌めて見えることなど知らなかった。

 間もなく、灯台を越えたところに一棟の建物が見えてきた。

 夜風が生臭い。

 たとえば水槽に生きた蟹を三日放置すれば似た臭いが立ち昇るだろう。嫌悪と空腹がいっしょくたに喚起される。

 建物のそばに売店があった。カマボコの文字と共に、ギリーチュあります、の文字がある。

 宿の従業員の言うように、とっくに営業時間を過ぎていたようだ。

 だが加工場らしき建物からは明かりが漏れている。

 カマボコを作っているのかもしれない。

 ちょうどよい。

 人がいれば素材でよいので分けてもらおう。ついでにギリーチュなる海の幸の正体を目にしておこう。

 窓に近づくも、分厚いカーテンがかかっていた。ふだんは閉じているのだろう。だが風通しをよくしたいのか、窓に隙間が開いていおり、風が吹くたびに室内の明かりが漏れた。

 近づき、建物の中を覗いた。

 まず思ったのが、場所を間違えたかな、だった。

 中は小学校の体育館のように開けた空間で、いくつか床に作業場が組まれていた。そこでは各々、作業員が分担作業をしている。

 ベルトコンベアーがあり、そこにつぎつぎと裸体の女性が運ばれてくる。みなぐったりとしており、生気がない。

 そして作業員がその女性のみぞおち辺りにかぎ状の杭を引っかけていく。

 肌を突き破った杭は、つぎの工程で裸体の女性を宙に吊るした。

 目を疑う。

 なんと女性の下半身は鱗に覆われていた。否、まさに魚のそれなのだ。

 一瞬、巨大な魚に下半身を齧られている女性にも見えたが、つぎつぎに運ばれ、宙に吊るされる彼女たちはみな一様に同じような身体の造りをしていた。

 みな例外なく美しい。

 作業員たちは淡々と動かぬ彼女たちの身体を解体していく。

 まずは乱暴に上半身と下半身を切り離した。

 つぎに上半身は一か所にまとめられ、丸ごと透明なビニルで梱包される。真空パックのようだ。ベルトコンベアに載せられると裸体の女性の上半身が建物の奥へと消えていく。倉庫があるのかもしれない。

 下半身はどうかと言えば、マグロをおろす板前のように、巨大なノコギリで以って部位ごとに切り分けられていく。それらは工程ごとにすべて手作業で行われた。

 ここからでは見えないが、奥のほうでは切り身をミンチにしているようだ。カマボコにするためだろう。

 熱気に包まれた室内からはときおきツンと鼻を突く消毒液の匂いが、生温かい空気に交じり漏れてくる。生臭さはない。否、とっくに鼻が麻痺しているのかもしれない。

 細かく解体されていく下半身は、その肉片の総じてが蒼く瑞々しい色合いを発していた。断面には年輪じみた筋が浮かぶ。

 脳裏に宿で食べた刺身の映像がよみがえり、次点で唾液が噴きだした。

 喉が鳴る。

 胃がしきりに身じろぎをして、早くそれを食わせろ、と訴えている。

 やはり、あれがそうなのか。

 じぶんの求めていた食材が、まさにいまこの建物の中で解体されている無数の女性たちの下半身なのだと知り、食欲が減退してもよい場面でありながら、なぜか余計に唾液が溢れた。

 じぶんにこんな一面があったのか、と幻滅するが、それを上回る勢いで食への欲求に流される。恍惚とする。あの蒼い切り身にかじりつきたい衝動に支配される。

 だが突如、一体の食材が喚きはじめた。その食材は、最も初期の工程に運ばれている最中で、つまり、まだみぞおちにかぎ状の杭を刺されておらず、宙に吊るされてもいなかった。

 偶然に生きたまま運ばれてきてしまったのだろう。

 とても美しいとは思えない形相で絶叫を、否、これはどちらかと言えば慟哭にちかいが、喚き声を上げている。

 それはそれはすさまじい声量なのだが、従業員たちは慣れた調子で銛(もり)を手に取ると、なんとか逃げようともがく食材の胸を刺し、動きを止めたそれのこめかみに追撃を加えた。

 声が止む。

 食材は宙に吊るされ、滞りなく解体された。

 夜風が吹き、身震いする。

 いつの間にか食欲は失せ、凍えていた。長居をしすぎたようだ。覗き見も褒められた行為ではない。

 肩を抱くようにして踵を返す。

 旅館に戻り、温泉に浸かった。

 翌朝、朝食は宿のバイキングでとった。

 和食と洋風があり、どちらにもギリ-チュらしき食材を使った料理は見受けられなかった。

 宿を出るときに従業員に訊ねた。

「ギリーチュがたいへん美味しかったのですが、あれはどんな魚なんですか」

 実物を見たいのですが、と水を向けるも、

「あれはいまの時期に獲れる珍しい深海魚でして」との説明があるばかりだ。「ひょっとしたら漁港に行けば見られるかもしれませんよ」

「ちなみにですが、この辺りで人魚伝説みたいのってあったりしませんかね」

「ないですね」

「昔話とかでもいいんですが」

「ないです。聞いたこともありません」

 にべもない返事に、そうですか、と従業員に礼を述べ、退出した。

 漁港に向かったが、とっくに今日の分の漁は終えているらしく静かなものだ。

 コンクリートの地面から海を覗く。

 昨晩耳にした悲痛な叫びが脳裡によみがえる。波の音に紛れ、それも間もなく薄れて消えた。

 周囲を見渡すと、すこし離れた場所に売店があった。

 昨晩とは違う店だ。

 ここでもギリーチュのカマボコが売られているようだ。

 店を覗くと、蒼いカマボコがびっしりと陳列棚に並んでいる。

 お一つどうですか、と年配の店主が味見用のカマボコを爪楊枝に刺して、寄越した。

 昨晩に味わった刺身の味を思いだし、受け取ろうとするも、しばし逡巡してから、財布を忘れてきてしまったので、と言って断った。

 また来ます、と言って方向転換をするも、慌てたのがよくなかったようで、足がもつれ、転倒する。

 膝を擦り剥いた。血が滲む。

「大丈夫ですかお客さん」

「大丈夫です。たぶん。すごく痛いですけど」

 恥ずかしさで居たたまれなくなり、せっせと駅のほうへと歩を向ける。

 途中、数台のトラックとすれ違った。

 いずれのトラックも医療品の運搬を謳う文字が描かれていた。トラックの中身は何だろう。大量に運ばれる医療に不可欠な素材――それはたとえば薬の材料や、移植に必要な臓器――を思い、つぎに、昨晩目にしたギリーチュの上半身を思った。

 いったいあれら美しい女性の裸体たちはどこへ運ばれたのだろう。

 遠ざかるトラックを眺めながら、ふと疑問する。下半身が魚の女性たちには果たして不老不死の効能はあるのだろうか、と。

 あるわけがない、と一笑に伏す。

 じぶんも食べたが、身体に異変は見受けられない。

 こうして擦り剥いた膝小僧が痛いのだから。

 履物越しに傷口に触れると激痛が走った。いっそこんなことならば不老不死の効能くらいはあってほしかった。

 やっぱりいまからでもお土産に一つ、ギリーチュのかまぼこを買っていこうかな。

 二の足を踏みながらも、しぜんと身体は、海から、町から、離れていく。




【マスクの灰が降る】


 人類社会を揺るがせた世界的疫病は、コーヒーに足らしたミルクのようにゆるゆると渦を巻きながら、徐々にではあるが薄れつつあった。

 すっかり日常の風景に同化しつつあったマスク装着の習慣は、疫病の蔓延が深刻なころに比べたら薄れたが、かといってでは疫病が深刻だったころに消費したマスクが消えたのか、と言えばそうではない。

 人類は大量のマスクを消費した。

 マスクに付着したウィルスを処理せぬままに。

 たいがいの使用済みマスクは、一般ゴミとして焼却施設により処理されたかに思われていたが、どうやらそうではないようだ、と人類が気づいたときには手遅れだった。

 ウィルスは変異する。

 感染者の数が増えれば増えるほどに変異の末の淘汰が進み、生存により適した形態へと進化する。

 マスクの付着したウィルスもまた例外ではなかった。

 マスク生地にはウィルスだけでなく、口周りの細胞もまた付着する。その細胞を利用して、しばらくのあいだは宿主から離れてもウィルスは増殖可能だった。そういった事実がのちに判明するが、あとの祭りである。

 人類は陽の光を失った。

 正確には、地球を覆い尽くすほどのマスクが陽の光を遮ったのだ。

 分厚い雨雲のごとく、変異ウィルスが増殖したマスクが一様に飛翔能力を有したのである。

 一説によれば、マスクの形状がちょうど凧の役割を果たし、ウィルスの発する微妙な熱により、対流を起こしてふわふわと舞うようになった可能性があるようだ。

 たしかな仕組みは未だ解明されていない。

 しかし飛翔したマスク同士は、海に浮かぶ赤潮のごとくより集まり、巨大な群となり、層となり、やがて空を埋め尽くすほどにまで巨大化した。

 人類は困惑した。

 撃ち落とすにしても、マスクには変異したウィルスが付着している。否、マスクそのものが巨大なウィルスの巣窟だった。

 ならば墜落させるわけにもいかない。焼き落とすにしても地上への被害は免れない。それこそ環境が汚染される。海に落ちれば深刻な海洋汚染に繋がり、森林に落ちれば山火事となる。

 そうこうしているうちにマスク変異ウィルスはさらに進化を遂げ、光合成を獲得した。

 人類から奪った陽の光を有効活用しはじめたのである。

 マスク変異ウィルスはそれにより、増殖しつづけることを可能とした。ますます人類は暗がりのもとでの生活を余儀なくされた。

 どうしたものか、と人類は悩んだ挙句、けっきょく焼き落とすことにした。環境汚染は避けられないが、このままではどの道、森は枯れ、生き物は死に絶え、人類も滅びる。

 なればそれよりかは被害がマシに思える駆除方法をとるほうがいい。そうしてマスク変異ウィルス滅却プロジェクトが発足し、実行された。

 空から無数の火の粉が落下する。

 灰が地上に降りしきる。

 灰は大気の対流により、ゆっくりゆっくりと宙を舞いつづけた。

 人類はしだいにその光景にすら慣れていく。

 いまではそれら有害な灰を避けるために、マスク着用の義務化がまた新たに進んでいる。




【コーヒー眠気退散】


 コーヒーを飲むと眠気が飛ぶ。

 文字通り、じぶんの眠気が他者に飛ぶのだ、と世に発表されてからというもの、コーヒー嫌いのじぶんがなにゆえこれほどまでに四六時中眠いのか、その理由が分かった気がした。

 他者の飛ばした眠気が私のところに不時着していたのだ。

 コーヒーは人類の生活必需品となった。コーヒーの真の効能が判明してから半年と経たぬ間の快進撃だった。

 それはそうだろう。

 飲まなければ、飲んだ者たちの眠気がじぶんに押し寄せるのだ。

 みなこぞってコーヒーを買い漁り、常飲しはじめた。

 だが私だけは頑としてコーヒーに手を伸ばさなかった。

 嫌いなのだ。

 苦いだけの泥水ではないか。

 あんなものを飲む者の気がしれない。

 だが日に日に眠気は身体を蝕み、いよいよ会社へはおろか、ベッドの上から一歩も動けない身となった。

 日本中の眠気がこの身体に凝縮されているかのようだ。

 医師から処方された合法覚せい剤の助けを得て、かろうじて目覚めることができるような状態だ。ほとんど眠ったままなのだ。

 それでいて医師からは、ただ眠いだけなら入院はさせられません、と断られたのだから、世のなか何かが狂っている。

 おそらくは、コーヒーに害はないとする世の風潮と合致しないために、事を荒立てたくないからとする圧力が医師たちに加わっているのだろう。

 そんなにつらいならコーヒーを飲めば済むことじゃないですか、と言いたげな医師の顔が目障りだった。

 飲みたくないものは飲みたくないのだ。

 なにゆえ、みながコーヒーを常飲したがために生じた奇禍をこちらが一身に背負いこまねばならぬのか。

 自由の侵害だ。

 一方的にコーヒーを飲めと迫るのならこちらだって、おまえらこそコーヒーを飲むな、と言ってやりたい。言わないだけ偉いではないか。誰か誉めてくれ。

 夢のなかで散々に罵倒を投じても、そもここには耳を傾けてくれる聴衆はいないのだ。たとえいたとしてもそれは実在しない夢のなかの住人である。

 なんてことだ。夢から出せ。

 現実に戻してくれ。

 追えば追うほど逃げる陽炎のごとく、現は手のひらから零れ落ちていく。

 どうにかしてコーヒー中毒の世の連中に、一石を投じねば。

 なんでおまえらの眠気を、私が背負わねばならぬのか。せめてコーヒーを飲んでいる者同士で、なすりつけあってくれ。

 叫んだところで焼け石に水だ。

 誰も気に留めてくれたりはせず、やはりここは夢のなかだ。

 しかしここが夢のなかならば、苦くないコーヒーだって飲めるのではないか。ここが夢のなかならばたとえ飲めたところで意味をなさないはずだが、そんなことは何もせずとも夢から出られない私には粗末な事項だった。

 閃いたのだから、あとは実行あるのみだ。

 私はコーラ味のコーヒーを淹れ、さっそく口をつけた。

 温かいコーラである。

 しかしこれは紛うことなき、コーラ味のコーヒーなのだ。

 そうとじぶんに言い聞かす。

 するとどうだ。

 あれほど身体に充満していた眠気がしゅるしゅると抜けていくかのようだ。

 やった。

 これでやっと現実に戻れる。目覚めることができるぞ。

 わくわくして待ったが、一向に目の覚める様子がない。それともとっくに目覚めていて、現実のなかで騒いでいただけなのだろうか。いいや、そんなことはない。

 ここは夢のなかだ。

 コーヒーを飲まずにいた我が身に、全世界の眠気が押し寄せ、居座り、こうして堅牢な夢のなかに私を押し込めている。

 断固抗議してやる。

 コーヒー反対。

 これは人権侵害である。

 叫べども、声は虚しく夢のなかにこだまする。

 いっそこうなったら、夢のなかでも断固としてコーヒーなど飲んでやるものか。

 私は意固地となってコーヒーを拒絶した。夢の中で。

 するとどうだ。

 夢の中の住人たちがしだいに眠らなくなった。みながコーヒーをがぶがぶ飲むので、飲まずにいる私一人きりの身に眠気が集中しているのだ。

 二四時間三六五日延々と活動しつづけるみなは、しだいに眠り方を忘れてしまったようだった。中には眠りたいのに眠れない者がではじめる。

 コーヒーを絶っても眠れないんです。

 TVのなかでそう訴える者は、なんどもじぶんの首を吊っては死ねないんですと嘆く不死者にも似ていた。

 むろん夢のなかの出来事ゆえ、それを憂うのは土台おかしな話だが、どの道ここからは目覚めることができぬのだ。

 ならばせめてじぶんの夢のなかの世界くらいなんとかしたいと思うのが人情ではないか。せめてじぶんの妄想の世界くらい、みなには自由であってほしい。好きなときに好きなだけ眠れる自由くらいはあってほしい。

 よし、と私は膝を叩く。

 私には全人類規模の睡魔が宿っている。これを眠りたい者に分け与えよう。

 私はコーヒーを淹れた。

 そして湯気の立ち昇る、苦いだけの泥水を、口に含んだ。

 一瞬、眠気が深まった。バンジージャンプを連想する。命綱が伸びきり、底辺に行き着いたところですかさず上空へと急上昇する。

 これまでの眠気が嘘のような爽快感が全身を駆け巡った。

 針の穴ほどに思えた視界がぱっと広がる。世界がこれほどまでに広く、音に溢れ、色鮮やかだったのだと知る。匂いが多重に折り重なり、あたかもそういった編み物であるかのようだ。

 コーヒーの香りがする。

 これほどまでに美しい旋律を奏でていたのか。

 匂いから音楽が聴こえるようだった。

 全身の知覚が覚醒するのを感じる。目が耳が鼻が、全身の細胞が活性化している。

 ここが私の夢であるならば何が起きてもふしぎではないが、なぜか全世界の人々のいびき声まで手に取るように聞こえるようだった。

 そう、コーヒー断ちをした人々から順々に深い眠りに落ちはじめたのだ。

 私に蓄積され、凝縮された睡魔の結晶が、砕け、散り、みなへと拡散された。

 いよいよ世界はいびき声で壮大な、ぐー、を轟かせている。

 大気まで揺らぐようないびき声のなかにあって、人々はじつに久方ぶりの惰眠を貪っている。

 みな一様にしあわせな夢を見ているようだ。至福のむにゃむにゃまで聞こえてくる始末だ。

 私からは睡魔が抜けていく。

 するとどうだ。

 夢の世界が揺らぎはじめ、間もなく私は現実世界に回帰する。

 身を起こすと背骨がボキボキと鳴った。

 ベッドから這いでる。窓を開ける。外を見遣る。

 夕暮れときだ。道路に人気はない。

 静かなものだ。自動車の走る音すら聞こえない。

 不安になり、よろよろと外を出歩く。

 身体は寝たきり生活によってボロボロに弱っているが、思考だけは明瞭だ。

 窓の開いた家がある。中を覗く。家主がソファで口を開け眠っている。腹が上下するたびにいびき声が、ぐごー、ぐごー、と窓ガラスを微震する。

 ほかの家も覗いて歩くが、どの家の住人たちも心地よさそうに、遠慮会釈もなく、無警戒にして無防備な様でねむりこけていた。

 街を練り歩く。

 どこまで行っても街には静寂の合間にいびき声が響いていた。

 歩き通しで喉が渇いた。

 自動販売機が目に留まる。

 小銭を投入し、しばし商品を眺めてから、ボタンを押す。

 取りだし口から缶コーヒーを拾いあげる。

 プルタブに爪を引っ掻け、蓋を開ける。

 コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 世界はまだしばらく眠りつづけるだろう。

 私は我慢できずに缶コーヒーを一息に煽るのである。




【飼い犬にはご褒美を】


 飼い犬が厄介な癖を覚えた。

 犬小屋に繋いで飼っているのだが、夜な夜な首輪を抜けだす。脱走するのだ。朝にはちゃんと犬小屋に戻ってきているので、首輪を替えれば済む話かと当初は考えた。

 だが、困ったことに我が飼い犬――拾ってくるのである。

 最初は靴だった。

 つぎは千切れたワイシャツの一部で、つぎは人の髪の毛だった。

 髪の毛は稲のごとく束になっており、付け根には皮膚としか思えない物体がくっついている。いずれの品も泥にまみれていた。

 困ったな。

 思いながら、新しい首輪を通販で購入した。首輪が届くのを待ちながら、飼い犬の拾ってきた品をどうすべきか思案する。

 だが新しい首輪を手にする前に、また飼い犬が脱走した。翌朝には戻ってきたが、また拾い物を咥えていた。尻尾を振っている。まるで褒めてくれといわんばかりだ。

 勘弁してほしい。

 首輪がようやく届き、こんどはしっかりと飼い犬を小屋に繋いだ。

「もう逃げだしてくれるなよ」

 飼い犬が、わん、と鳴く。

 その傍らには、今朝がたに拾ってきた人間の腕が転がっている。半分腐っており、もう半分は白骨化している。

 やれやれ、困ったものだ。

「つぎからはもっと深く埋めないと」

 主人の忘れ物だとでも思っているのだろうか。飼い主想いの犬である。

 もげた腕はしょうがないので、愛犬のおやつにあげることにする。




【カビの滝】

(未推敲)


 おそらくは育毛剤の副作用だ。

 一晩でヒゲが喉の見えなくなるほどに生え揃う。しかも手で握るだけでボロボロと細かく砕ける。それなりの硬度はあるものの、どうにも単なる毛ではないようだ。

 育毛剤の研究をしていた最中での身体の変化だった。

 副作用以外に考えられない。

 深刻な症状は表れていないが、寝て起きるたびに髭が伸びるのは勘弁だ。顎が箒さながらだ。

 医師の診断を仰ごうと思い、病院に足を運ぶ。

 髭と血液を採取され、検査に回された。

 三時間待たされた挙句、告げられたのは、カビですね、の五文字だった。

「カビ、ですか」

「ええ。カビです」

「カビというのあの、お饅頭を放置しておくと生えてくるやつですか」

「お饅頭を放置しておいてもそうですね、生えてくると思います」医師はスポーツでもやっているのか、窮屈そうな白衣越しに胸を張った。「ただ、どうにも種類を同定できません。私はカビの専門家ではないの断言はできないのですが、察するに新種か、よほど珍しい種類のカビではないかと」

「新種のカビ、ですか」

 だからこんなに一晩で急成長するのか。

 納得しかけるが、いやいや、とかぶりを振る。

「あの、ヒゲの正体は正直、後回しでもいいんです。対処法というか、生えてこないような薬を処方してもらえたりはしませんか」

「こういった症例は世界的にも稀ですので、現時点で有効な治療法は、すくなくともいまここで処置することができません。申し訳ありませんが、紹介状を書きますので、どうぞそちらの病院で改めて診察を受けてみてください」

 懇切丁寧に門前払いを食らった気分だ。

 紹介された病院に後日出向いたが、そこでもヒゲと血液を検査に回され、散々待たされたあとに、正体不明の判子を捺されただけだった。

「これは世界的にも類を見ない症例ですね。学会に報告したいのですが構いませんか」

「どうぞご勝手に。その代わりと言ってはなんですけど治療法を教えて欲しいのですが」

「すみません。なにぶん珍しい症例ですので」

「ないんですね」

「ないんです」

 治療法はないそうだ。

 念のため、原因となったかもしれない研究中の育毛剤を提供したが、詳しい結果がでるのは当分先だろう、と絶望的な説明を受けて、トボトボと家路についた。

 外を歩いて帰るだけで服が汚れる。

 ヒゲを剃った先からまた新たに生えはじめるので、ボリボリと顎をゆびで掻く癖がついた。爪を左右に一往復させるだけで、シナモンパンを食べたときのように衣服に花粉じみた細かい粉末が付着した。

 いっそマスクを装着しつづければいいか、と思うが、長時間そのままにしているといつの間にか赤ちゃんのオムツのようになっているので、それはもちろん、こんもりと膨れた状態の、つまり大を漏らした赤ちゃんのオモツという意味だが、マスクをしつづけるだけでは根本的な解決には至らない。

 悩みすぎて円形脱毛症になる。

 というかなった。

 新型育毛剤の開発が急務だ。しかし無尽蔵に生えるヒゲが目の上のたんこぶならぬ、顎の下のたんこぶすぎて研究に身が入らない。

 ふしぎなのは明らかにヒゲの量がおかしいことだ。正体がカビだとしても顎から生えているのだから、すくなくとも身体の細胞が元となっているはずだ。

 だが床を掃除すれば一日でゴミ袋一つ分が満杯になる。

 どう考えても物理法則を超越している。

 カビは光合成をしない。中にはする種もあるかもしれないが、カビは菌類ゆえに、有機物に付着してそれを分解し、栄養として吸収する。

 ならばこのヒゲとてどこぞから栄養を吸収して育っているはずだ。それはむろんこの我が肉体でしかあり得ないのだが、それにしては身体のほうは至って健康だ。瘦せ衰えるといった様子もない。

 真実に物理法則を破っているわけではないはずだ。質量保存の法則はこのヒゲ、いいやカビにも当てはまる。

 考えられるとすれば、栄養の自家製性だ。空気中からどうにか栄養を生みだしているとしか思えない。

 だがそんなことができるのならば、とんでもない発見だ。

 このカビが或いは人類のあらゆる隘路を解決するかもしれない。

 食糧難からエネルギィ問題、ゴミ問題すら解決可能だ。

 大気中からカビを無尽蔵に生みだせる。

 実質錬金術にちかい。

 とはいえ、増えるのはカビだ。

 ヒゲが伸びはじめて数日経つが、判ったことが一つある。

 このカビ、ほかの物質には見向きもしない。

 パンに振りかけても増殖せず、我が顎にあるときだけワサワサと胞子を伸ばすようだった。

 いったいどんな性質なのか。人間の顎にしか生えないカビなど寡聞にして耳にしたことがない。

 育毛剤が要因かと思い、集めたヒゲよろしくカビの塊にかけてみた。

 これがまたどうして、増殖するではないか。

 やはりおまえか。

 育毛剤よ。

 おまえの仕業だったのか。

 分かりきってはいたが、いざこうして目の当たりにすると、いったいじぶんはどんな失敗作を生みだしてしまったのかと末恐ろしくなる。

 カビは日に日に増殖し、部屋はゴミ袋でいっぱいになった。

 ゴミ収集所に捨てるのには忍びなかった。いったいどんな副作用があるか分かったものではない。ひょっとしたら他人の身体にも根付いてしまうかもしれないのだ。

 人体実験をするわけにもいかない。

 ひとまず専門機関の結果がでるまではおとなしくしていようと思った。

 しかし部屋に溜まるいっぽうのゴミ袋――中身は軒並み顎からボロボロと砕け落ちたカビなのだが、このままでは生活が破綻するのは目に見えている。

 どうにか処理してしまいたいが、どうしたものか。

 思案した挙句、こんどは除毛剤の研究をはじめた。育毛剤の研究がこのカビ地獄の結果を生んだというのなら、真逆のアプローチを辿れば解決の兆しを見せるのではないの。

 単純にして起死回生の案だった。

 藁にも縋る思いだったのだ。

 育毛剤に比べ、除毛剤の開発は比較的簡単だった。商品化するにはいかに人体に無害で、無臭で、短時間で除毛できるかが難関として立ちはだかるが、いまはそれらを度外視できる。

 除毛できればよいのだ。

 顎の毛根を一網打尽にしてしまえば、もう二度とカビは生えてこないのではないか。

 短絡な望みは、いざ開発した除毛剤を顎にぬったくり、時間経過を観察するあいだに尻つぼみに萎んだ。

 除毛剤の効果か、ヒゲは抜けるようになった。ただし、ところてんよろしくチュルチュルと伸びきってから、自ずからスポンと。

 あとからあとから滝のように糸状のカビが顎から流れでる。たまったものではない。歩くだけでユカがカビの絨毯で覆われた。

 泣きっ面に蜂だ。円形脱毛症のうえ、事態がさらに悪化した。

 見た目とて気持ちのよい物ではない。終始、ニュルニュルと顎から無数にカビの糸を垂れ流しているのだ。赤ちゃんの排便を眺めていたほうがまだ気持ちよく食事ができる。

 いったいじぶんはどうなってしまうのか。

 途方に暮れているあいまに、世界のほうもとんだことになっていた。

 なんと新種の疫病が流行ったのだ。

 みな一様にマスクをして出歩くようなり、しだいに家に引きこもりはじめた。

 まるでじぶんと同じ境遇に身をやつす人々を見るのは孤独な日々に僅かな高揚感を抱かせた。じぶんだけではない。じぶんは異常ではない。

 そういった重荷からの解放感があった。

 しかし顎から垂れ流される無数のカビの滝は消えてなくなるわけでもなく、社会秩序を脅かす疫病とておいそれと去ってはくれなかった。

 いよいよこの街にも疫病が襲い掛かった。

 日に日に膨れていく感染者数は、恐怖を呼び起こすのに充分な急上昇を見せていた。

 いつじぶんが感染してもおかしくない。

 食べ物や日常雑貨は、ヒゲのこともあり元から通販を利用していた。しかしもはやそれもいつまで利用できるか分かったものではなかった。

 いよいよ街の人口の九割にちかい人々が感染し、日の死者数が目も当てられない数にのぼったとき、ふとじぶんの周囲に感染者がいないことに気づいた。

 マンション住まいだが、すくなくともこのマンションで感染者がでたという話を聞いていなかった。それどころか、マンションを周辺とした半径数百メートル四方にはどうやら緊急搬送されるくらいの重篤な感染者はいないらしいと知れた。

 救急車の音がしないからだ。

 病院に納まりきれない患者は、みな自宅療養を指示された。中には重症化して死んでしまう者もいる。

 だがこの近辺では救急車の往来がまったくないのだ。

 誰もが感染せず、仮に感染したとしても重症化していないようであった。

 ふしぎなものだ。

 それこそじぶんが感染していないのも奇跡のように感じた。

 他者と接していないからだ、と思っていたが、単純にそうとも言いきれないのかもしれない。

 ひょっとして、と部屋のなかのゴミ袋の山を見遣る。どの袋にもカビがパンパンに詰まっている。だが床にはのべつ幕なしに顎から流れでるカビが、絨毯のごとく堆積している。

 いまは冬だ。

 暖房を入れている。

 換気よろしく部屋の中の温かい空気が外に漏れている。

 そこにはこの部屋を浮遊するカビが大量に含有されているはずだ。

 街の地獄のような疫病の惨状と、この近隣だけ無事な様相を頭のなかで見比べる。

 ひょっとして、関係があるのだろうか。

 このカビと。

 感染者数の増減に。

 しかし、と思う。

 こたびの疫病はウィルス性だ。ウィルスに抗生剤は基本的に効かないとされている。

 我が顎から流れでるカビに疫病を鎮静化させる作用があったとして、果たして直接の因果関係があるのだろうか。

 眉唾物だったが、試してみて損はない。

 カビの詰まった袋を手に、近場の病院に向かった。

 病院は廊下まで患者で埋まっていた。

 医師は誰もが必死に治療をして回っており、看護師たちもまた目まぐるしく患者の容態を看ていた。

 話ができる余裕があるとは思えなかった。

 いったいなんと説明したらよいのか、さっぱり思いつかない。じぶんが逆の立場だったら、何をこんなときに、と怒鳴り散らしてしまいそうだ。

 せめて効能があるかどうかだけでも知りたい。カビがあると感染症の症状が緩和されると判ればいい。

 すくなくとも我がカビに毒性はない。よしんばあったとしても、それは身体からカビが生えるようになるという至極困った体質の変化であり、死に直結するような異変ではあり得ない。

 ならばまずはこの病院内にいる患者たちを救う一手になるか否かだけでも確かめたいと思った。

 効能の有無を確かめるだけなら簡単だ。

 この場でカビを散布すればいい。

 カビの詰まったゴミ袋の口を開けて、放置して去るだけでも充分だ。

 もし効果が現れるようなら数日と経たぬ間に、ニュースで報じられるだろう。

 段取りを頭のなかで辿りながら、持参したカビ入りゴミ袋を、待合室の座席の下に置いて去った。ゴミ袋の口は開けておく。

 ほとんどテロリストみたいな所業だな。

 思いながら、病院をあとにした。

 後日、病院の患者たちがつぎつぎに回復したとのニュースを目にした。

 やはり我がカビには、こたびの疫病を抑える効能があるらしかった。

 僥倖だ。

 不幸中のまさに幸いである。

 改めて病院に足を運び、台風の目にも似た束の間のおだやかな時間にほっと息を吐いている医師を捕まえ、事情を説明した。

 前以って、専門機関にも連絡をとっていた。

 以前、血液とカビを採取し、解析したもらった機関だ。

 病院での出来事と、専門機関からの紹介が合わさり、話はとんとん拍子に進んだ。

 我が顎からはいまなおカビが滝のごとく生えては、抜け落ちるを繰り返しているが、全世界に供給するにはむしろ足りないくらいだ。

 だがさいわいなことに、いま必要な分のカビは、すでに我が部屋にある。ゴミ袋に詰まって出荷のときを待ちわびている。

 専門機関の調査の結果、希釈して使ってもこたびの疫病への治療に効果があると判明した。

 全世界へと旅立つときを、我がカビたちがいまかいまかと待ちわびている。

 我が顎からは、いまなおカビの滝が流れ、足元にカビの絨毯を広げている。

 特別に用意された部屋にて、我が肉体は、万能薬の素材製造機としての役割を十全に担っている。

 無尽蔵に増殖しつづけるカビによって我が自由は奪われた。

 しかしその欠けた自由で救える命もあると知れれば、これくらいの不自由はなんてことはない。大いに甘受する。儲けものとすらいまは快く受け入れている。

 国からも正式に保護されたので、衣食住の心配をせずに済む。

 開いた余暇を研究に費やし、ついに理想の育毛剤を開発したのは、世界から疫病で苦しむ者たちがいなくなり、我がカビがほかにも様々な感染症に効果があると判明したころのことだ。

 人類は風邪を克服する。

 我が顎から湧きつづける万能薬は、いつしか人々のあいだで、黒髭、の愛称で呼ばれるようになった。危機を一発で撃沈、の意味合いだそうだが、商標登録に問題がないのか否かは、いまのところそれを訴えでてくる者がいないので、不明である。

 完成した育毛剤を、円形脱毛症の患部に塗る。

 瞬く間に逃避に毛が生え、それがカビではないことを確かめると、盛大に安堵の溜め息を漏らすのである。




【呪いを祓う呪詛を吐く】

(未推敲)


 初めて書いた小説が新人賞を受賞してデビューしたのが十二年前のことになる。

 世に送りだされた僕の小説はよく売れた。僕の名と顔は一躍世に知れ渡り、連日取材に明け暮れるだけでなく、外を出歩けば否応なくサインを求められた。

 しだいに僕の本から影響を受けたと宣言する著名人が続出し、僕は名実共に有名人の仲間入りを果たした。

 印税だけでも懐は潤い、長年できなかった親孝行も果たせた。

 人に好かれなかった人生だったのに、いまでは誰もが僕との接点を持ちたがる。

 僕が声をかければどんな人でもよろこんで時間を割いてくれた。

 人生の絶頂のような日々だった。

 しかしそれも長くはつづかない。

 僕の書く小説はつぎつぎとヒットを記録し、著名な文学賞を総舐めにした。世界的な文学賞まで受賞してしまって、僕の影響力は世界規模にまで広がった。

 小説からの影響だけでなく、僕の日常生活までもが人々の関心の的となり、僕がどんなお菓子が好きかをちょっと発言しただけで、スーパーやコンビニからは該当する商品が姿を消した。

 嗜好品だけではない。

 僕が何かを嫌いだ、と言えば、それをみなは問答無用で敵視した。僕があまり支持しない政策を推進していた議員はのきなみ辞職に追い込まれ、ときには暴漢に襲われたりもした。

 いったいどこまでが僕の影響によるものなのかは知れないが、責任を感じないと言えば嘘になる。

 そしてデビュー五年目にしていよいよ危惧していた出来事が起きた。

 新作の小説は殺人鬼を主人公に添えたミステリーだったのだが、本にでてくる犯行に酷似した連続殺人が現実に起きてしまったのだ。

 しかも、同時に複数件ときたものだから、偶然では済まされない。

 僕のつむいだ物語に影響を受けて人を殺してしまった者がいるのだ。

 何人も、いるのだ。

 被害者に申し訳が立たないのは言を俟つまでもないのだけれど、殺人に手を染めてしまった者の人生すら僕は狂わせてしまったのかもしれなかった。

 僕は作家を引退せざるを得なかった。とてもではないがつづけてはいけない。

 迂闊に発言もできなくなった。

 外出一つ満足にできない。

 変装せずには出歩けば、罵詈雑言を浴びせられるのはまだよいほうで、危害を加えられそうになることや、家を突き止められ数か月にわたって執着されることもあった。

 小説に酷似した連続殺人はその後も類似事件が多発した。

 いよいよ僕は罪悪感に押しつぶされそうだった。

 生きていてよい人間なのだろうか。

 僕は僕のしでかしてしまった罪過のあまりの大きさに怯えた。

 長い時間僕は部屋に一人で引きこもり、死ぬこともできずに、どうすればよかったのか、と過去を顧みてはくよくよした。

 ある日、ふと、とある作家の記事が目に留まった。

 デビューして間もないその作家は、若い世代に人気のある気鋭の作家として多方面からスポットを当てられていた。

 これから彼女はますます影響力を身に着け、そして思いもよらぬ影響を生みだし、苦悩するはめになるだろう。

 晴れやかな笑顔でインタビューを受ける彼女の言葉に目を走らせていると、とある一文に息を呑む。

 その新人作家は、あろうことか作家を目指す契機となった人物に、我が筆名を挙げていた。彼女は僕に影響されて物書きを目指したのだそうだ。

 なんということだ。

 ここでも一人の未来ある若者の人生をゆがめてしまった。

 僕は鈍器で頭蓋を割られた気分だった。

 いったい彼女はどんな小説を書くのか。

 気にならなかったと言えば嘘になる。

 数日は我慢したのだが、いつでも意識の壇上に貼りつき、夢にまででてきたので、致し方なく通販で彼女の小説本を取り寄せた。

 冒頭に目を落とし、そこからは最後のページをめくり、本を閉じるまで、ここではないどこか別の、しかし本当に存在しているとしか思えない世界へと旅立っていた。

 僕は過去、陰惨な、どちらかと言えば人類の邪悪な面を暴くような物語ばかりを世に発表してきた。そんな僕のつむいだ物語に影響を受けたと謳う彼女からは、人類の生みだす善性の結晶のような物語が溢れでていた。

 僕に影響を受けた?

 とんでもない。そんなわけがなかった。僕の物語の要素など皆目微塵も見当たらない。

 それでも僕は、彼女の小説を読んで、出会えて、細胞単位で救われた心地がした。

 それまで延々と僕を押しつぶしていた茨の靄が、一時的であるにしろ薄れて感じられた。

 晴れやかとまではいかないが、僕はまだ死ななくてよいのではないか、この世界もそうわるいものではないのではないか、との思いが湧いた。

 僕はそれから埃に埋もれた執筆用の端末を引っ張りだしてきて、目のまえに置いた。

 もう金輪際奏でることはないだろう、と固く決意していた物語の旋律を、打鍵の律動と共に刻んでいく。

 僕は数年ぶりに新作を発表した。

 筆名は以前のままだ。

 ずいぶん悩んだが、例の呪いの筆名のままで世に新刊を送りだした。

 出版社は全力で僕の身を守ると誓ってくれた。そのこともすくなからず後押しになったにせよ、僕にはまだやり残したことがある気がした。

 逃げてはいられない、と思った。

 僕には罪過がある。

 拭うことのできない、背負いきれない、贖いきれない深い罪だ。

 それを雪ぐためではない。

 僕は、僕の生みだしてしまった呪いの連鎖を断ち切るために、その物語をつむぎ、世に放たなければならなかった。

 いったい何人の読者に届くかは分からない。

 僕を非難する声は未だにあとを絶たない。

 それでも僕は、そうした声をありがたいと思い、感謝の気持ちで、これまでの僕では考えられないような、人と人とが生みだす光と影を、その美しさをなぞり、物語として削りだした。

 それはきっと、真実に世界が美しいことを知らしめるための物語ではなく、単に僕がとある作家から得た感動をそのまま出力しただけの、拙いファンレターのようなものだったのかもしれない。

 けれど僕はどうしてもそれをつむがずにはいられなかった。

 僕の生みだしてしまった呪いの連鎖は、未だに鎖となって僕の身体ごと世界に深く根を張り巡らせている。それを断ち切るには僕だけのチカラではもうどうしようもない。

 そも、僕に蓄積された影響力は、僕のものではなかったのだ。

 悪魔に魅入られたようなものだったのだろう。

 そしていまなお僕は魅入られている。

 それを一度は手放し、切り離そうとしてなお、こうして僕はそれを行使しようとしている。

 悪魔に魂を売り渡したも同然の人間だ。

 だが、それで構わない。

 どの道僕はもう、とっくに呪いに呑まれてしまったのだから。

 呑まれてしまった者だからこそ、つむげる世界もきっとある。

 視える光がきっとある。

 暗がりのなかでこそ、星々は燦然と輝くことができるのだから。

 自己正当化に必死なじぶんに気づきながらも僕は、かつてのじぶんを呪いですっかり塗りつぶす。

 下地に筆を振る画家のように、過去のじぶんの罪過を材木にして、僕だからこそ視える闇のなかの微かな救いを削りだす。

 僕がそれをされたように。

 茨の靄に苦しむ君のために。

 この身にまとわりつく呪縛ごと、僕は呪いを祓う呪詛を吐こう。




【汚れたキミを見ていたい】


 この世界にくる前は毎日のように身体をゴシゴシと磨いた。そうでなければ徐々に汚れが身体の表面を覆い、私たちを濁らせるからだ。

 産まれた瞬間は私たちの誰もがキラキラとせせらぎのごとく透明さで産声をあげる。しかし新陳代謝は私たちの身体の表皮に汚れを浮かし、その透明さを曇らせる。

 それだけでなくこの世界には様々な汚れが浮遊しており、ただ生活しているだけでも私たちの身体は汚れるのだ。

 汚れは目立つ。

 水垢や湯気のように、ほんのりと透明でないだけで私たちの身体はドヨドヨと自己主張した。

 身体を隈なく磨きあげている人は美しい。

 美は目に見えない。

 目に見えない物にこそ美が宿る。

 そういった価値観がゆったりと身じろぐ海の波のように私が元いた世界には漂っていた。

 衣服が個性を表す。

 立ち振る舞いが地位を示す。

 言動だけが個の識別を可能とした。

 そんな世界で私は浮いていた。人一倍汚れの付着しやすい体質のせいだった。私は歩く汚泥そのもののような扱いを受けた。女でそのような扱いを受けている者を私は私のほかに知らなかった。

 私の目や鼻や肌は、うっすらとその輪郭を示し、そのまま何もせずにいれば数日ですっかり身体からは透明さは失われ、私は泥や虫や獣と同じような存在として世界に顕現した。

 否応なく目立つ身体を憎々しく思った。

 それ以上に、じぶんの身体を憎々しく思わなければならないその世界を心底に嫌悪した。

 だからなのかもしれない。

 余計に私は汚れをまとい、誰の目にもはっきりと映る身体をいかに人目につけないかに腐心するようになった。

 いっそ死んでしまうよりないのではないか。

 そう思っていた矢先に、中央都市の駅で道に迷った。長い旅にでようと思っていたが、出鼻を挫かれた。彷徨うこと数時間、ようやく出た地上には、私の知る世界によく似た、しかし明らかにそこではないどこか別の世界が広がっていた。

 私は元の世界に戻ることができなかった。いいや、元の世界に戻ろうとする努力をはじめからしなかった。

 この世界では私のように身体の輪郭を露わにした者たちばかりが闊歩していた。

 誰もが私に注目せず、私がそこにいて自然な様ですれ違う。多少の衣服の違い程度ではもはや衆目を集めることすら容易でない世界だった。

 言葉が異なるため、しばらくは言語の習得に苦労した。私たちの用いる言語と共通する法則で成り立っていたので、しゃべれるようになるのに時間はそうかからなかった。

 そこら中に、言語を介する機械が氾濫していたので都合がよかったのもある。

 この世界には私の元いた世界と似たような経済網が築かれていた。

 この世界の住人ではない私には身元を証明する物がないので、働くことができなかった。しかしそこは私の体質が役に立った。

 私は、これまで元の世界でしていたのと同じように身体を磨き、透明になった。

 そうして衣服を脱ぎ、裸体で外を出歩くのだ。

 誰もそこに私がいると思わない。

 店に入って金品やら食品やらを頂戴する。手のひらで覆い隠せるものであればその場から人知れず持ち出せた。食べ物であれば私の口のなかに入ってしまえば私の透明な皮膚に隠れて見えなくなった。

 この世界には思いのほか空き家が多い。そうでなくともホテルと呼ばれる共同住居群に出向けばいくらでも贅沢な生活を送れた。

 私の身体は磨かずにいれば数日で皮膚全体を汚れが覆う。岩にむす苔のように、それとも結露する窓ガラスのように、まだらに汚れが広がり、三日もあれば私の皮膚は色を宿した。

 しかしこの世界にそれを汚れと見做す住人はいない。私はただこの世界の住人の一人として、馴染み、紛れ、暮らすことができた。

 ある日、身体が透明になる奇病に苦しむ少年の記事を読んだ。

 どうやらこの世界にも私のような体質の個がいるらしい。

 だがこの世界の住人たちからすると、少年の体質は病気であり、穢れであり、難病であるらしかった。

 私の目にはしかし少年のせせらぎのような煌めく透明さには、絶景を目の当たりにしたときに抱く感動と似た美への無条件の敬愛を覚えた。

 かつて日々苛まれつづけた自己否定の念、それは妬心を伴なう深い自己嫌悪だったが、そのときの鉄の雲を背負うような鈍痛を頭の奥底に感じた。

 少年の病は、私の目には眩かった。

 同時に私は彼の美に拭いがたい妬心と嫌悪感を抱いていた。

 だが私のそうした嫌悪感など砂塵に思えるほどに、少年への奇異な眼差し、下世話な好奇心、そしておぞましいものを扱うような少年への周囲の者たちの言動は、かつての私がそうであったように、少年を深く、そして無自覚に傷つけているのだと思った。

 少年はおそらく自身が傷ついてることにも気づけていないだろう。ただただ世界から色が抜け、頭痛にも似た重苦しい空気に押しつぶされそうになりながら、目覚めたばかりの布団のなかや、何気なく一人になれた街中のベンチのうえで、ふとした瞬間に、ああ死にたい、と思うのだ。

 それの繰り返しばかりのなかで生きることが異常なのだと、おかしいのだと気づくことなく、自身の存在こそが異常なのだと誤った前提のもとに生きることとなる。

 私は少年の記事を集めた。少年の住んでいる場所、少年の人間関係、そして好きな音楽や食べ物、望みや夢を子細に記憶する。

 そうして私はひっそりと少年に会いにいった。

 少年は自宅のベッドで本を読んでいた。

 真夜中だ。

 彼の父は家におらず、母親は仕事相手だろうか、幾人かのおとなとトゲトゲした声音で話し合っていた。

 私は少年のそばに立った。裸体のままだ。

 少年の目には映らないはずだったが、空気の揺らぎを感じ取ったのか、彼はこちらに目を向けた。

「こんばんは」私は話しかけた。

「こんばんは」少年は戸惑いがちに応じた。目は私を捉えているかのように離れない。

「迎えにきたの。もしここがあなたにとって窮屈なら、私と一緒に旅にでない?」

 少年は部屋の扉を見遣る。それから顔を戻して、戻ってこられますか、と言った。

「いいえ。もうここには戻ってこられない。でも、あなたが望むなら、そういう未来もできるかも。でも私はあなたをここに連れてきたりはしない。帰りたくなったらそのときは一人ね」

「じゃあ、行きます」

 彼の、じゃあ、には、彼がいったい何に逡巡していたのかの答えが詰まっていた。

 私は少年をおぶると、その熱を背に感じながら、彼の家を、故郷を去った。

 そこからは長い二人の旅のはじまりだった。

 終わりが訪れたのは、彼を迎えに行ってから二十二年後のことだ。

 彼はすっかり大人になり、病は全身に及んでいた。つまり彼は完全に、私と同類となった。

 ある日、蓄えていた資金が尽きてきたので二人して調達すべく、互いの身体を磨きあっていた。一人よりも二人で身体を擦るほうが、磨きにくい部位にも手が届く。

 通例であれば、透明を宿した私たちは二人で夜の街へと繰りだし、前以って目星をつけておいた裕福な家から金品をせしめる手筈であった。

 しかしこの日は事情が違った。

 足を踏み入れた高層マンションが、思いのほか入り組んだ造りで、道に迷ってしまったのだ。

 否、そんなことはあり得ない。いくら高層マンションといえども迷うほどの複雑な造りにはなっていない。

 これは、と思う。以前どこかで見た光景と重なった。

 長いこと思いだすことのなかった故郷の街並み。中央都市の駅。彷徨うじぶんの足取り。そして出口を抜けたあとに広がった見慣れぬ、しかしいまはもう馴染んだこの世界の匂い、光、風景。

「出られませんね」相棒が言った。

「いや、おそらくもうそろそろのはず」

 何がですか、と言いたげな彼の姿がおぼろげに歪みだした。いや、彼の姿が視えるのはおかしい。互いに透明になっているはずだ。

 不透明に浮きあがった彼の姿が目のまえに揺らいでいる。

 距離感が狂う。

 彼との距離が開く。

 あたかも彼と私のあいだに線引きがされ、地割れが起きたかのように、互いの距離が離れていくようだった。

 待ってくれ。

 私は彼へ手を伸ばしたが、ついぞ彼の手に触れることはなかった。

 足場が崩れるような感覚があり、私はひたすらに駆けた。

 そして出口らしき扉をくぐった。

 扉からは空気の流れが感じられ、どこか外につづいているのだと予感できた。

 扉を通り抜けると勢い余って私はつまづき、地面に倒れた。

 膝の痛みに耐えながら辺りを見渡すと、そこは高層マンションの非常階段だった。

 てっきり元の世界に飛ばされるものかと内心では覚悟していたが、肩透かしも甚だしい。

 はぁあ、と肩を撫でおろすも、ここに至って、彼の姿がないことに思い至る。

 私は振り返り、扉の奥、長くつづく廊下を見遣った。

 じっと待つが、そこに彼が姿を現すことはなかった。

 行ってしまったのだ。

 しかしそのほうがよかったのかもしれない、と非常階段の手すりにもたれかかる。

 彼の透明度は、私がかつて目にしてきたどんな美よりも美しかった。

 向こうの世界にいたほうが彼はきっと生きやすいだろう。それこそ、ただそこに存在するだけで周りの者がほっとかない。

 こちらの世界でコソ泥の真似事をせずとも暮らしていける。

 私のような汚れをまとった女となぞ暮らさずに済む。

 よかったね、と私は独り言つ。

「行ってらっしゃい」

 空に息を吐くと、まさに空に吐いた唾がじぶんの顔に落ちるかのように、

「何がですか」と言葉が降ってきた。

 上の階の非常階段から顔を突きだしている者がある。私を覗き見るのは誰であろう、私の相棒にして、極上の美を宿す彼であった。

 だがいま顔を突きだしている彼の顔は埃塗れで、本来であれば透明で目にできぬそのかんばせを私は夜空を背景にまじまじと見つめることができた。

「いまそっちに行きますね」

 彼は足音を立てぬように、手すりで身体を浮かしながら、器用に三段飛ばしで階段を下りた。

 ひどい顔ですね、と彼は私を見て言った。

 私も彼を見つめ返し、ひどい顔、と噴きだした。

 私たちは埃塗れの汚れた姿のまま、互いの存在から片時も目を離さず、彼が差し伸べてくれた手を掴み、引き起こされたあとでも、互いに目で、汚れで、結ばれていた。

「きょうのところは帰りますか」彼の提案に私は頷く。「そうだね。また出直そう」

 私たちはマンションの住人たちを起こさによう、何より不審に思われぬように、非常階段を伝って下りた。

 地面を踏みしめ、私は言った。

「帰ったらお風呂だね」

「それもいいですけど」

 彼はどこから盗んできたのかハンカチで私の頬を拭うと、私の耳たぶをいじくりながら、「もうすこし見ていたいな」と生意気にも敬語を抜いてのたまうのだった。

 私は急いで彼からハンカチをぶんどり、顔の埃を拭う。

 透明な夜の闇に紛れた私の顔に、ああもう、と彼の吐息が当たる。

 ざわわ、と木々が静寂を奏でる。

 顔の火照りを奪い去ってくれる夜風に身震いを一つして、どちらからというでもなく私たちは、手と手を繋ぎ、我らが家へと歩を向ける。




【怖いことすんな】

(未推敲)


 通販で靴を買った。カカトの高いブーツで、それを履きながら鞭を持ったら思わず、女王様とお呼び、と言いたくなるような素晴らしく上品な靴だった。

 久方ぶりのじぶんへのご褒美だ。

 早く届かないかな、と仕事中もわくわくしながら待った。

 発送しました、とブーツの販売元から一報が入る。

 通販だから配達は通販サイトの管轄だ。時間帯からするとおそらくまた再配達を頼むことになるだろう。

 帰宅するといつもはあるはずの不在連絡票がなかった。いつもならば扉と縁の合間に差しこまれているのだ。ポストは不審火が怖いので塞いである。

 不在連絡票がない代わりに、留守電に「留守のようでしたので再配達の際はご連絡ください」と配達員らしき男性の声が入っていた。

 親切そうな声音に、すぐに折り返し電話をかけ、再配達を頼んだ。これからでも大丈夫だというので、すぐにきてもらうことにした。

 着替えを済ませ、紅茶を淹れているあいだにインターホンが鳴った。

 覗き穴から外を見ると、運送会社の制服に身を包んだ男性がにこやかに立っている。

 お疲れさまです、と玄関の鍵を開けようとしたところで、足元に紙切れが落ちているのが目に入った。

 ゴミだろうか。

 オレンジ色の紙には既視感があった。

 どこかでこれと似た紙を日常的に見ていた気がする。

 引っかかりを覚えたので、摘まみあげる。

 手のひらに転がし、矯めつ眇めつ紙切れを見た。

 ぞくりと刺すような悪寒が全身を襲った。

「すみません、どうかされましたか」

 扉の向こうから声がする。

 警戒心を解くような柔和な声音だ。

 しかし、手元には乱暴に引き千切られたかのような再配達を促す不在連絡票の断片がある。

 いつもならば扉と縁の合間に差しこまれている。

 きょうに限ってわざわざ電話をしてきた。

 なぜだろう、と不審に思う。

 扉の向こうで私の名を呼ぶ声がある。

「――さーん。どうしましたかぁ。お荷物ですよぉ」

 私は扉から離れた。

 端末を手にし、一一〇番を押し、いつでも通報可能な状態にしておく。

「――さーん。開けてくださーい。お荷物ですよぉ」

 コンコン、と扉をノックする音が、しだいにドンドン、ゴンゴンと激しい音になる。

「オラぁ、開けろっつってんだろ。いるのは分かってんだ、逃げてんじゃねぇよ。またくるからな、再配達すっからな。夜の戸締りにはお気を付けくださぁい」

 扉を蹴ったのだろう。ひと際大きな音が鳴ると、波が引くように静かになった。

 大丈夫ですか、と端末から声がする。

 通報し、一部始終を聞かせていた。

「あの、いま家のまえに変な人がいて開けろってドアをドンドンやってて」

 住所を教えてください、と問われたので、指示に従い、質問に応じていく。

 間もなくサイレンが聞こえてきた。徐々に近づいてきて、マンションの下で止まった。

 胸を撫でおろし、ほっと息を吐く。

 インターホンが鳴ったので、急いで開けに走ったが、おかしい。サイレンの音が止まってまだ十秒も経っていない。

 覗き穴に顔を近づける。

 真っ暗だ。

 しかし覗きつづけていると、明かりが差し、目玉が見える。

 男だ。

 例のあの男が立っている。

 舌打ちを残し、運送会社の制服に身を包んだ男は、冷たい目つきのまま足早に視界から消えた。

 身体がガクガクと震える。

 しばらくしてから警察官の制服に身を包んだ二人組の男女がやってくるのが見えた。

 インターホンが鳴る。

 大丈夫ですか、――さん。

 警察手帳を掲げたので、ようやく鍵を解き、玄関扉を開けた。

「ついさっきまでここに男の人が」

 そう言って男の去って行ったほうをゆび差すと、通路の奥に、例の男が無表情で佇み、こちらをじっと見詰めていた。

 その手からは、マグロでも解体できそうな刃の長い包丁がほっそりと垂れている。




【もっとちゃんと吟味して】

(未推敲)


 冬休み明けの授業では、宿題の発表会が開かれた。

「ではつぎ、明智くんどうぞ」

「はい」僕はまえにでた。クラスメイトたちの温かな眼差しを浴びながら僕は冬休みのあいだに行った実験と、その結果を報告する。「僕はサンタクロースが本当にいるかどうかを確かめる実験をしてみました」

「ほう、それはおもしろいね」先生の相槌の合間を縫って、いるわけなーい、と幾人かのクラスメイトが笑った。「知らないの明智くん。サンタさんってママやパパなんだよ」

「僕もそう思ったんだけど、実験してみなければそれも確かだとは言えないと思ったので、実験してみたんです」

「立派な心掛けですね」先生が助け舟をだしてくれた。「まずはみなさん、明智くんの発表を聞いてみましょう。わくわくしますね」

 どうぞ、と手を差し向けられたので僕は説明を再開する。

「まず僕はクリスマスイブの夜、寝る前に部屋の入り口をすべて塞ぎました。ドアはもちろん、窓もですよ。窓は鍵をかけたうえに目張りをして、さらに箪笥を移動して塞ぎました。ドアも備え付けの鍵を閉めて、それから内側から本棚で塞ぎました。本棚からはいちど本を全部だして、もういちど戻したので、おとなのちからでもどかすのはむつかしいです」

「つまり明智くんは密室をつくったんですね」

「そうです」先生の指摘を受けて僕は、そうかあれが密室か、と遅ればせながら思い至る。「もしサンタクロースの正体が僕の両親や親戚のひとなら、これで翌朝、クリスマスの日にプレゼントが枕元にあるなんてことは引き起きようがないですよね」

「サンタクロースが本当にいたとしてもそれはむつかしいかもしれないね」先生は苦笑したようだった。その眼差しや優しい。男性教員のなかでも僕の担任はとびきり優しく、賢い人だった。「それで、実験の結果はどうなったんですか」

「はい。それで、僕は部屋を密室にしてからそのままベッドに潜り込んで眠りました。それはもうぐっすりです。部屋を密室にするのに体力を使ってしまいましたし、部屋の外にはでられないのであとはもう寝るしかなかったのもあります」

 クラスメイトたちは食い入るように僕を見ていた。それで、それで、と餌をねだる雛のようにみな机に両手を載せてまえのめりになっている。

「翌朝のことですが」僕は間をたっぷり開けてから口にする。「プレゼントはなんと枕元にあったのです。僕はびっくりして窓やドアを確認しました。どちらも箪笥や本棚で塞がれており、それをどかしてみても目張りや鍵はちゃんとかかっていたのです。誰かが侵入した形跡は皆無でした。僕は密室が破られていないことをよくよく確かめてから部屋の外にでました。家の玄関の鍵も閉まったままで、やはり侵入者の痕跡はないようでした。ではあのプレゼントはいったい誰が置いていったのでしょう。僕の考えではやはり、サンタクロースは実在するのではないか、との見立てを述べて、冬休みの宿題の発表とさせてください」

 一礼すると拍手が僕を包みこむ。

「質問タイムです」先生が声を張ります。「いま聞いた明智くんの発表に質問がある方はどうぞ手をあげてください。お、あがりましたね。では佐々木さんどうぞ」

「プレゼントの中身はなんだったんですか」

 いい質問ですね、と先生が佐々木さんを褒めた。それから目で、僕に答えを言うように促す。

「プレゼントは漫画セットでした」本当はサバイバルナイフセットが欲しかったのだけれど、高価だし、危ないから、願ってももらえないのは知っていたので誰にもこのことは言っていない。「去年流行った漫画です。命の大切さを訴えるような、少年漫画です。最終巻まで全部揃っていました」

 佐々木さんが漫画のタイトルを言ったので、そうそれです、と僕はゆびで丸をつくる。

「ではほかに質問はありますか」

 手は上がらない。そこでなぜか、では、と先生が手を挙げた。

 どうぞ、と言ってほしそうだったので、僕は、どうぞ、と許可をだす。

「先生から明智くんに質問です。明智くんの部屋には収納棚はありますか。窓を塞いだ箪笥以外に、人が入れるくらいの、そうたとえばクローゼットとか」

「あります」

「では部屋を密室にしたとき、そのなかを確かめましたか」

「いえ、見ていません」

「ならもしそこに誰か人が潜んでいたとして、明智くんはそれに気づくことはできなかったわけですね」

「そうかもですね」

「では明智くんの実験から考えられる可能性はつぎの四つです。一つは、明智くんの言うように、サンタクロースのような超能力を持った超人が実在したかもしれない可能性。もう一つは、大掛かりな仕掛けを駆使して、たとえば天井を丸ごとはずして部屋に侵入したり、窓ガラスを破壊して、箪笥をどかし、プレゼントを置いたら箪笥を元通りにして、窓ガラスを新しく付け替えてしまった――そういう大規模な作戦を実行した組織があったかもしれない可能性。三つ目は、明智くんが多重人格――いわゆる解離性同一性障害だったために、じぶんで用意したプレゼントを眠っているあいだに枕元に置いたことをいまの明智くんが憶えていない可能性」

 そして最後が、と先生は声を高くした。「明智くんが密室をつくる前に、そもそもクローゼットに明智くん以外の人間が隠れていて、明智くんが眠ったあとにプレゼントを置いた可能性」

「でも先生」クラスメイトの男子がかってに発言する。「それだってプレゼントを置いたあとには部屋の外にでられないじゃないですか」

「いいところに気づきましたね」先生は我が意を得たりと言わんばかりに指を立てた。「だからその人物はプレゼントを明智くんの枕元に置いたら、もういちどクローゼットに隠れて、朝までじっとしていたんです」

 クラスメイトの大半はこの時点でもまだきょとんと首をひねっていた。けれど僕は先生が何を言いたいのか先回りして察し至れた。

「なるほど」僕はつぶやく。先生は僕を見た。発言をどうぞ、と温かい眼差しが促され僕は続けた。「プレゼントに気づいた僕が密室を破って外にでたあとで、その人物はクローゼットから出て、僕の開けたドアから部屋の外へと脱出したんですね」

「その通り。とはいえこれは考えられる可能性のなかの一つでしかありませんから、どれが本当なのかは、もっと慎重に実験を重ねなければ分からないでしょうね」

「えぇってことはさあ」教室に声があがる。「明智くんのパパ、ずっとクローゼットの中にいたってことォ」

 どっと教室に笑い声が満ちた。

「いえいえ。それはですから、まだ分からないんです。本当にサンタクロースさんがプレゼントを運んできた可能性だってあるんですから」

 先生の言葉は空虚だった。クラスメイトの誰もがそんな可能性はないのといっしょだ、と断じている様子だった。

 けれど僕には、先生の四つ目の可能性が最もあり得ないと知っている。

 なにせあの家には僕しか住んでいないのだ。

 否、生きているのは、と言ったほうが正確だ。

「明智くん、ありがとうございました。とってもおもしろい発表でしたね。ではつぎは吉田くん、お願いします」

 僕は吉田くんと入れ替わりで、じぶんの席に戻る。

 緊張して上擦った吉田くんの声を耳にしながら僕は、さて、と思考を曲げる。

 家に長らく放置してきた父と母の遺体をどうしたものか、と。

 刃こぼれしたノコギリの切れ味が落ちてからというもの、両親の寝室に放置したままだ。両腕両足を切り離したところまではよかったが、そこからが悩みどころだった。

 すでに臓物は液状化して床に特大の染みをつくっている。いまは冬で、換気さえしていれば虫が湧かないのがさいわいだ。

 いまでは半分ミイラ化している。

 きっとあと何本か包丁かサバイバルナイフがあれば細かく切れるのに。

 そうしたらあとは下水道にでも投げ込んでおけば済みそうだ。

 父の口座にはまだまだお金が残っている。

 しばらくの生活の心配はない。

 ただし、いまのままずっとはいられない。このあいだなぞは父の仕事先のひとがやってきた。居留守を使って凌いだけれど、そろそろ大きな騒動になりそうだ。

 その前に、是が非でも遺体を始末しておきたい。

 床もきれいにしなきゃだし、やることは山積みだ。

 僕はクリスマスの日にプレゼントを置いていった者を思い、嘆息を吐く。せめて命の尊さを訴える漫画などではなく、遺体を始末するための道具をくれればよかったのに、と。

 それか、汚れた床をきれいにできる強力な洗剤でもよかった。

 いっそ遺体ごとすべてをなかったことにしてくれれば御の字だけれど、そんな魔法は起こらない。

 けれど僕は一つだけじぶんの認識を覆す。

 サンタクロースはいるかもしれない。

 クラスメイトの発表に拍手を送りながら僕は、しかも、と微笑する。

 わるい子の元にもちゃんと来てくれる。




【箱と箱と箱】

(未推敲)


 朝起きるとプレゼントが置いてあった。

 なんでこんなものが、と疑問するが、きょうはクリスマスか、と合点する。

 しかしじぶんは独り暮らしのうえ、四十歳を目前に控えた中年オヤジだ。

 プレゼントを送り合う相手はいないし、そもサンタクロースの管轄外だろう。子どもではないのだ。プレゼントをもらいうける義理がない。

 いったいこれは誰のイタズラだ。

 狭い部屋をきょろきょろと見渡しつつ、片手間にプレゼントをいじくる。

 立方体にリボンがついている。

 包装紙を破ると、箱が現れた。

 蓋を持ちあげる。

 中を覗きこむとそこにはミニチュアセットが納まっていた。

 見覚えのある間取りに、家具の配置だ。

 この部屋のミニュチュアだと判る。

 小人がいる。人形だろう。

 ベッドに腰掛け、膝に立方体の箱を置いている。

 まるでじぶんのようだ。

 頭を掻くと、なんと箱の中まで動くではないか。

 頭を搔いている。

 手を止めると、人形も手を止めた。

 もしやと思い、天井を見上げると、そこに天井はなく、ビルのような巨体の持ち主が顎を伸ばして、さらに上を見あげていた。

 驚きのあまりに鼻から勢いよく息を吸うと、真上の巨人の鼻の穴まで広がった。

 わずかに時間の遅延があるようだ。

 試しに、箱を見て真上を仰ぐ、といった動作を繰り返すと、真上の巨人の動きのほうが一拍遅く動くのが判った。箱の中の人形はほとんど同時に動くが、これは発想が逆であり、おそらく知覚できないくらいに箱の中の人形のほうが僅かに早く動いているのだ。

 相対的に巨体の持ち主であるじぶんのほうが鈍く、そしてその差異を知覚できない。

 ひるがえって真上の巨人にもそれは当てはまる道理なのかもしれなかった。

 よく見れば、人形の膝の上にある箱の蓋も開いており、その中にもミニニュアセットが納まっているようだった。

 入れ子状にこの部屋が連なっている状態を想像し、めまいがした。

 もしこれら一連の大小連続するびっくり箱がマトリョーシカよろしく無限に合わせ鏡のごとくつづくのなら、蓋を閉めてしまえばそれでいち段落つく話なのかもしれなかった。

 鏡を塞いでしまえば何も映らないように。

 箱を蓋してしまえば、何もなかったことになるのではないか。

 蓋と天井は連動している。

 人形とこの身体と真上の巨人が通じているように。

 ならば蓋を閉めてしまえば、それら繋がりは断ち切れるのではないか。

 よい考えに思えた。

 それしか取れる策がなかったとも言える。

 さっそく蓋を閉めようと、膝に箱を載せたままで腕を横に伸ばし、蓋を取ろうとした。

 そのときだ。

 箱から手を離したのがよくなかったようで、箱が膝から落ちそうになった。

 慌てて箱を押さえる。

 落としてしまう寸前で支えることに成功した。

 が、なぜか箱の中の人形がその場で大きく態勢を崩していた。

 箱を床に落とし、さらにその上に尻餅をつく。

 まったく脈絡のない行動に目を点にしていると、勃然と部屋が大きく揺れた。

 大地震よりも激しい揺れだ。乱気流に飲まれた飛行機だってもうすこし穏やかに飛びそうに思えた。

 ベッドから投げだされ、床に落下した箱の上へとなす術もなく尻餅をつく。

 やってしまった。

 尻の下からは、箱の砕ける感触と、イモムシを潰したような感触が伝わった。

 申し訳ないことをした。

 後悔と懺悔の気持ちに打ちひしがれそうになったところで、あっ、と思う。

 ふたたび勃然と部屋が大きく揺らぐ。

 激しい衝撃が襲ったかと思うや否や、天井の抜けた部屋の真上から、巨人の臀部が迫りくる。




【足跡の怪】

(未推敲)


 買い物に出ているあいだにまた雪が積もったようだ。

 足跡一つない山道は月光を受けてキラキラとダイヤモンドをまぶしたように輝いて映る。

 ザクザクとじぶんの足音ばかりが反響する。

 否、雪が音を吸い取り、響きすらない。

 静寂の世界だ。

 森を抜けると遠くにポツンと家が見えた。我が家だ。

 仕事で運よく一財産築けたので、山を一つ買い、小屋を建て、一人暮らしをはじめた。質素な暮らしだ。

 麓には里がある。商店や温泉、それにコンビニだってある。散歩がてら食料を買いにいくのはほとんど日課だ。

 明日から雪が積もるというので、しばらくの食料を買いこむために下山した。

 リュックサックに満杯の食料を購入した帰りだった。

 足元はまっさらで、振り返れば点々とじぶんの足跡が道なりにつづく。

 ときおり、野兎だろう、三つの点が山道を横切っているほかにこれといった痕跡が雪の上にはなかった。

 だが道のさきに家が見えてきたところで、突如として真新しい足跡が現れた。

 それは文字通り、足跡が現れたのだ。

 目のまえを、透明人間が歩いている。

 そうとしか思えない光景だ。

 雪の上に、ザクザクと真新しい溝が刻まれる。それは人間の足跡のように二つずつ、点を線に連ねていく。

 すでにできあがあった足跡ではない。

 それは森から現れ、いっさいが雪のうえに、溝を刻むのだ。

 足跡はまっすぐと山道を辿る。

 その先には我が家しかない。

 とはいえ森から出現したことを思えば、そのまま森に消えるとも考えられる。 

 ともかく後を追う。

 否、この道を行かねば家に帰ることができない。

 先に行かれただけのことだ。

 透明人間ではないらしいことはすぐに判った。というのも、風が吹くたびに舞う粉雪が足跡のうえに舞い落ちても何かしらがそれを妨げる様子がないからだ。

 足跡の上には、物体がない。

 見えないだけでなく、真実にそこには何もないのだ。

 しかし、足跡はなおも道に現れる。

 このままだと家に着いてしまう。

 さっさと追い越してしまおうか。

 悩んでいるあいだに足跡は家のまえまでつづき、さらに玄関のまえにまで浮かんだ。

 扉は開かない。

 それはそうだ。鍵がかかっている。

 すこし離れた場所から様子を窺っていた。待っていれば足跡が諦めてどこかに去るのではないか、と思ったからだ。

 まるで足跡に意思があるかのような考えに、苦笑する。

 きっとダイヤモンドダストとかそういった自然現象のようなものなのだろう。局所的につむじ風がいくつか同時に発生して、強弱しながら移動するので偶然足跡のようになるに違いない。

 だがしばらく待っても一向に足跡は動かなかった。

 風が吹き、木々を覆っていた雪がいっせいに粉となって辺りを白く染める。

 もういいだろう、と歩を進める。

 消えたのだ。

 足跡を生みだす現象は、竜巻が消えるように跡形もなく失せた。

 足跡を辿るように家のまえまで赴くと、ぱっと家の中に明かりが灯った。

 心臓が跳ね、歩を止める。

 カーテンは閉じておらず、窓から家の中は丸見えだ。

 耳を澄ます。

 家の中から足音が聞こえた。

 何者かが歩き回っているが、姿は見えない。

 壁に立てかけてあった雪かき用のシャベルを手に取る。

 構えながら、ゆっくりと玄関扉を開けた。

 ぴたりと足音が消える。

 明かりまで消えたので、一歩後退して玄関の外にでた。

 シャベルは両腕に構えたままだ。

 すると、ドタドタと足音が迫ってきたので、ひゃい、と叫び声をあげてしまった。

 足音はそのままザクザクと雪の上を去っていく。

 足跡が新しく克明に浮かび、それは足早に森の中へと向かった。

 ふたたびの静寂がつつむ。

 なんだったんだあれは。

 家の中を覗くと、床には人間の裸足としか思えぬ跡が、床を濡らして残っていた。

 妖精でもいたのだろうか。

 害がなさそうなのがさいわいだ。

 そう思った矢先に耳元で、

「また来ます」

 ささやくような声がした。

 振りむきざまに飛び退いたが、そこには誰もおらず、開け放したままの玄関扉の外は急激に天候が崩れ、吹雪となった。

 視界の濁った雪のカーテンの奥に誰かが立っているような錯覚に陥る。

 だからでもないが、扉には鍵を掛け、窓のカーテンは閉めて過ごすようになった。

 ときおり窓のそとから、ザクザクと雪を踏みしめる音が聞こえるが、鹿や兎だと思って、やり過ごしている。




【お腹空かして待っています】

(未推敲)


 ミカさんのクッキーは世界一美味い。以前、別の世界線のミカさんと会ったときには、ミカさんの作ったカレーのあまりの美味さゆえに人類が滅びかけていたけれど、私に馴染みのあるこの世界のミカさんも負けず劣らずの料理の腕前で、端的にミカさんのクッキーを食べると脳みそがとろけて、多幸感に包まれる。

 そばに人がいればその人を問答無用で愛してしまうほどの至福に包まれるので、ミカさんのクッキーは媚薬として有名だ。

 ちょっと前なぞは世界中の魔女たちがミカさんの元に、その技術おしぇて、と押しかけてきた。イマドキの魔女たちは箒で移動などせず、ふつうに公共交通機関を利用してやってくる。

 ミカさんはクッキーの作り方を教える傍ら、魔女たちからそれぞれの得意とする魔法を教授してもらい、それからというもの彼女は不適な笑みを浮かべて暇さえあれば鍋を掻き混ぜるようになってしまった。

「ミカさん、ミカさん。窓開けてください。なんか煙いです」

「ちょっちいま手ぇ離せないからじぶんでやって」

「ちぇっ。部室で鍋を煮込まんでくださいよまったく」ぶつくさ零しながら私は窓を開けに歩く。それから席にまっすぐには戻らずにミカさんの背後から鍋を覗いた。

「また変なの作ってる。なんかゴボゴボ云ってますよ。人間の食べるものじゃないですよ。捨てましょう」

「なんて恐ろしい言うんだろうねこのコは。材料代だけで今月のお小遣いがパァだっていうのに」

「貯金いっぱいあったでしょ。媚薬売って儲けたお金どうしたんですか」

「あるよ。ちゃんと貯金してる」

「じゃあ、それ使えばいいじゃないですか」

「あれは結婚資金に溜めといてんの」

「ミカさん結婚する気あったんですか」そのことにまず驚いた。「他人と共同生活を営む気がおありとは存じ上げませんでしたよ私」

「失礼だな。あたしだって未来への保険くらい立てておくよ。いつ別居してもいいようにマンション買って遊んで暮らせるくらいのお金は貯金しておきたい」

「別居前提なんですね。安心しました」

「お。できたぞ、できた」

 ミカさんが鍋を掻き混ぜる手を止めた。

「何を作ったんですか」

「まだ完成じゃないんよ。最後にこれを入れれば完成」

 そこでミカさんはスプーンをひと舐めして、そのスプーンごと鍋に投じた。

「え、なんですかいまの」

「あたしの唾液と銀のスプーン」

「どっちが最後の材料だったんですか」

「どっちもだね」

「ミカさんの唾液入りのいったい何を作って、誰がそれを欲しがるんですか」

 私がわーわー騒いでいるうちに、ミカさんは耳栓を取りだしてじぶんの耳にはめた。ついでに私にも寄越してくれる。

「なんですこれ」

「つけといたほうがいいよ」ミカさんが耳栓をした上からさらに両手で耳を塞いだので、あっこれは、と思う。べつに私の苦言がうるさくて耳を塞いだわけではないのだな、とずばり見抜き、私も急いで耳栓をし、その上から両手で耳を塞いだ。

 ボンッ。

 鍋から青い煙が立ち上り、頭上でドクロマークを浮かべた。

「すごい、漫画でこういうの見たことある」私は感嘆した。

「漫画がこっちのを真似したの」ミカさんは耳栓を取った。私も耳を解放し、「で、何なんですコレ」と鍋の中を覗きこむ。

 さきほどまで青黒く渦を巻いていた鍋の中身はいまや跡形もなく姿を消していた。代わりに鍋底には、小さめの石鹸じみた結晶が積み重なっている。

「食べ物ですか?」

「クッキーだよ」

「クッキー? クッキーってこんなふうに作るものでしたっけ。もっと生地をこねこね、型をクリクリ、粘土遊びみたいにするんじゃなかったでしたっけ」

「魔女のクッキーはこうやって作るんだって。なにせ魔女の手には魔力が漲っているから、生地なんてコネコネコしてごらんよ。型で繰り抜いた先から動き出しちゃって食べるどころの騒ぎではないよ」

「踊り食いすればいいじゃないですか」

「発想が物騒だな」

「誰かさんの影響ですけれども」

「いちおうあたしんほうが一つ先輩だから言っておくけど、その人物との付き合いを考え直したほうがいいと思うよ」

「ありがたいご説法ありがとうございます。ですがミカさんにとって好ましく映らないその影響を私に与えてくださっている人物も、奇しくも私の一個上の先輩なんですよね」

「へぇ。この学校であたし以外に付き合いのある先輩がきみにいたのか」

「いませんけど」

「じゃあまるであたしがきみに悪影響を与えているみたいじゃないか」

 おいしょ、とミカさんは鍋底から魔法のクッキーを取りだして銀色の菓子箱に詰めていく。

「まるでじゃないですよ。私はミカさんからの影響しか受けていないと言っても過言ではないですね。これが悪影響なら損害賠償を請求できますよ。なんか寄越せ」

「じゃあ、まあ、はい」

 ミカさんは菓子箱から詰めたばかりのクッキーをつまんだ。「できたてほやほやのあたしのクッキーを進ぜよう」

「いらないですよ。だってこれミカさんの唾液入ってるじゃないですか」

「ムっ。それくらいべつにいいじゃろ。銀のスプーンを舐めてついたくらいだから、ほとんど入ってないようなもんだ。汗が一滴垂れたよりもすくないし、そんなに嫌がられるとさすがのミカさんでも傷つくな」

「何がさすがなのかは知らないですけど、傷つけたのなら謝ります。ごめんなさい。でも、嫌なものは嫌です。くれるならもっとほかのものがいいです」

「ほかのものったってなぁ」ミカさんは頭をぽりぽり、部室を見渡した。「一番いいのを選ぶとしてもやっぱりクッキーだよ?」

「だってそのクッキー、魔法のクッキーなんですよね。食べたらどうにかなっちゃうんじゃないんですか。というかそうですよ。ミカさんのクッキーなら媚薬じゃないですか。食べたら私、ミカさんに惚れちゃうじゃないですか」

 ぞっこんですよぞっこん、と意味もなく強調する。

「ううん。そこなんだよね。まあ、もう食べさせるのも無理みたいだしタネ明かししちゃうとだね」

「え、なんです改まって」

「じつはこれ、媚薬なんだよね」

「クッキーですよね。知ってますよ。ミカさんのクッキーは媚薬の効果が半端ないって、そんなのその辺の子どもたちだって知っています」

「でも効かないやつもいるところにはいてね」

「へえ、そんな奇特な方がいらっしゃるんですね。じゃあ連れてきてくださいよ。研究すれば媚薬の解毒剤の一つや二つ、ミカさんなら簡単に作れますよね」

「作れなかったし、どんなに工夫してもソイツ、あたしのクッキーを美味しそうに食べるだけで全然媚薬の効果でないんだよね」

「へぇ。じゃあミカさんはその人に何度もクッキーを食べてもらったんですね。媚薬の効果がでるのを期待して。いやらしい」

「食べてもらったはもらったけど、相手も警戒するからいろいろとカレーに混ぜたり、飲み物に混ぜたり、工夫したよ」

「犯罪じゃないですかそれ。薬飲ませていやらしいことする犯罪者と同じ思考ですよ、失望しますよ、軽蔑です」

「う、そんな言わんでも」

「だいたい、ミカさんのカレーは食べたら死人が出ちゃうんですよ」

「まぁた言ってる。カレーで人が死ぬわけないだろ」

「別の世界線のミカさんのカレーは、人類を滅ぼすくらいに美味しいんです」

「それが本当だとしても、じゃああたしのカレーは違うわけでしょ」

「そうですけど」

「だいたい、カレー食べさせてくださいって言ってきたのはきみのほうだろ」

「それはまあ、そうですけど」

「どの道、媚薬は効かなかったんだ文句は言ってくれるな」

「はい」肩を落としてから、あれ、と思い、私はミカさんを問い詰める。「こっそりクッキー食べさせた相手って私ですか!?」

「そうだよ。まったく気づかんのだものなキミ」

「気づきませんよいつの間に」

「キミに媚薬が効かないもんで、こうなりゃ本場の魔女たちの技術にあやかってみようって思って作ったのがコレ」

 ミカさんはクッキーをふたたびつまんだ。

 唇に押し当てられ、私は顔を背ける。「無理くり食べさせようとすな」

「後輩に素で怒られた」

「怒りますよ。怒りますともさ」だいたい、と私は怒気をまき散らす。「私に媚薬クッキーを食べさせてどうしたいんですか。私が媚薬の効かない身体だとしたって、そんな魔女の技術で作られたクッキーなら効いちゃうかもしれないじゃないですか。もし私がミカに惚れちゃったらどうするんですか。そのときおまえ責任とれんのか」

 私は敬語も忘れて素で切れた。

 ミカさんの、ちょっと気になるんで実験してみた、みたいな軽いノリには付き合いきれなかった。

 人の心を弄ぶもんじゃない。

 媚薬なんてものを使うからには相応に覚悟を決めてからしてほしかった。

 私はミカさんの実験台ではない。モルモットではないのだ。

 そういったこれまで積もりに積もった憤懣が爆発した。

 ミカさんは見えない耳と尻尾を垂れさせて、しゅん、とした。

 そのあまりにしがない姿に私の憤懣は一瞬でどっかいった。風船も真っ青の萎み具合だ。

「もう怒ってないですからそんな顔しないでくださいよ」

「嘘だね。きみはものすごく怒ってる。根に持つタイプなのは知ってるんだ。何年きみの先輩をやっていると思ってるんだ。舐めないでもらいたい」

「なんでミカさんが怒るんですか」

「八つ当たりだよ、八つ当たり」

「せめてそこは逆切れであって欲しかったですけれども」私はミカさんの手を取って、つままれたままのクッキーを奪った。

「あっ」

「ぱくり。もぐもぐごっくん」

「ど、どう?」

「美味しいですねふつうに」

「あたしのこと好きになった?」

「真顔でそういうこと訊くのやめてくださいませんか」私はミカさんの顔をむぎゅりと押しやる。

「くっそぉ、また失敗だ」

「本当に効かないんですね私。ミカさんの顔見てもなんとも思わないです。ぴくりともトキメキませんね。じぶんでもびっくりします」

「けちょんけちょんに言うなし」

「だって本当のことですもん」

「うぅ」

「別にいいじゃないですか私に好かれなくたって。私はべつに媚薬なんか使われなくともこの先もずっとミカさんの優秀なる後輩です」

「うぅ。じぶんで優秀って言った」

「じゃあ単なる後輩でもいいですけれども」

「だってそれじゃあ、あたしはこのさき、貯めに貯めた口座のお金をどうすればいいってのさ」

「結婚資金なんですよねそれ。しかも別居費用の」

「そうじゃいよ」

「ならそのときがきたら使えばいいじゃないですか」

 私関係ないですよ、ときっぱり告げるとミカさんは、臍を曲げた。

 それはもう見事な臍の曲げようで、タンゴを踊るよりも激しく、いやいや、を身体全身を使って体現した。

「いやじゃ、いやじゃ。そんなのあたし耐えらんない。いますぐ惚れろ。あたしに惚れて、あたしに尽くせ。一生を誓え。それができなきゃ絶交してやる」

「あわわ、言ってることめちゃくちゃすぎてツッコミが追いつかない」

「もうこの分からず屋」

 ミカさんは地団太を踏んだ。そして椅子に座ると、両手に抱えた銀色の菓子箱からできたてほやほやのクッキーを鷲掴みにして、バリボリと頬張りはじめた。

 私は呆気に取られてその様子をしばらく眺める。

「ミカさん、ほっぺたぱんぱんですよ。ハムスターだってもうすこし遠慮しますよ。余裕持って食べますよ」

 鋭く睨まれてもまったく怖くない。

 ミカさんはそれから喉をつかえて涙目になるまでクッキーを食べる手を止めなかった。

 私はミカさんのために紅茶を淹れてあげた。

 ミカさんはそれを、舌が火傷するのなどおかまいなしにゴクゴク飲んだ。喉の閊えを押し流す。

「アチッ、アチッ」

「そんな急に飲み干すから」

「だってだって」

 紅茶のお代わりを淹れながら私は、ミカさんだって、とカップを手渡す。

「クッキー食べても効かないじゃないですか。それ本当に媚薬効果あるんですか。まあ、あるんでしょうけど、でも私たちには効かないみたいですね」

 ミカさんだって私に惚れないじゃないですか、と事実を突きつけるも、ミカさんときたらなぜかそこでせっかく収まりかけた癇癪を再燃させた。

「きみは本当に人の気持ちに無頓着ちゃんだな。失礼しちゃうぜまったく」

「うわ、なんか急に罵倒された」

「あたしに媚薬が効かないのは最初から誰かさんにホの字だからです」

「ホの字ってなんですか? 初めて聞きました」

「きみそれでも文学部の部員かね」

「かね、と言われましても」

 それに、と私はミカさんの文句を拾いあげる。「ミカさんがその、誰かさんにホの字だから媚薬が効かないなら、私もきっとそうなんじゃないんですか。原因が判ってるならもう実験しなくていいじゃないですか。部室でお料理は禁止です。すくなくともお鍋に詰めるのはやめましょうよ。顧問の先生にバレたら廃部ですよ廃部」

 ただでさえ部員二人しかいないんですから、と私がしゃべっていると、見る間にミカさんの機嫌がよくなった。

 表情の変化が顕著で、ぽかーんとしてから、はっとして、そのあとに、にまーん、とにやけた。

「なんですかその顔は。そんな眼差しで見ないでください。なんでちょっとしてやったりみたいに得意げなんですか。ヨチヨチわかってるわかってる、みたいな顔しないでください。やめてやめてくださいってば。明らかにいま優位なの私なのに、ミカさんじぶんの立場弁えてくださいよ」

「いやいや、いいんだいいんだ。もうミカさん、怒ってないよ。あたしはたいそうご機嫌じゃ。そっかそっか。そういうことだったのねぇ」

「かってに納得しないでくださいよ。私に教えてくださいよ、なんで私とミカさんには媚薬クッキーが効かないんですか」

「聞かないほうがいいと思うよ。無自覚な事実を急に知ったら心臓止まっちゃうかもしれないから」

「無自覚な事実ってなんですか。なんかまるで私の気づいていないことにミカさんだけ気づいているみたいな言い方じゃないですか。ミカさんのくせに生意気ですよ。ズルいですよ」

「ふふん。教えなぁい」

「なんだこの。急に余裕綽々カマしちゃって。ミカさんらしくないですよ似合わないですよ。こんなミカさんはミカさんじゃないです。さてはこのミカさん、偽物だな」

「いやいやこの世界線のミカさまでございますよ」

「ミカさんはそんな言い方しないです」

「ふっふっふ。このミカさんはするのだよ。わかった、わかった。もうよいのだよ。あたしはもう金輪際、クッキー作りません。そんなものがなくともよくなっちゃった」

「あ、そうですか。もういいです。かってにしてください」

 私は付き合いきれなくなり、鞄に荷物を詰めた。

 扉のまえまで移動してから、

「あ、そうそう」と振り返る。「部室でお鍋は禁止ですよ」

「だからもう作らんて」

「べつにクッキーは美味しいので作ってもいいですけど」

「じゃあつぎはケーキに挑戦してみよっかな」

「え、作れるんですか」

「あたしを誰だと思ってるんだね。あたしの料理の腕をお舐めでないよ」

「はいはい。あまりの美味しさに奪い合って人類が滅んじゃうんですよね」

「それは別の世界線のあたしの話じゃろ。あたしの料理はふつうに美味しくて、ふつうにレパートリーが多いだけ」

 私は顎に指を添え、しばし考える。

 とくに言うことが思いつかず、

「まあ期待してます」と一礼して廊下にでた。

 部室の戸を閉めると、急にシンと静かになった。遠くから運動部の子たちの、ファイオ、が聞こえた。

 いったいミカさんは何がしたかったのか。

 とはいえこれからもミカさんのお料理を食べられるなら、これくらいの不満は呑み込んでもよい。つぎはケーキを作ると言っていた。

 バレンタインが近い。

 チョコレイトが安く売りだされる季節だ。

 大量に購入して渡せば、ミカさんのことだ、はりきって極上のチョコレイトケーキを作り、御馳走してくれることだろう。

 ついでにパフェとかバナナケーキも食べたいな。

 材料さえ渡せば作ってくれるだろうか。

 作ってくれるだろう。

 ミカさんはいつだってそうだ。よろこんでかってに、私から頼まずとも、自ずから作ってくれる。

 そうと決まれば前は急げだ。

 ミカさんの手料理をお腹いっぱい食べられるように、いまから体重を減らしておくべく私は、家までの帰路を走って渡るのである。




【大地は何を奪われて?】

(未推敲)


 太古よりも昔のことだ。空の向こうから魔法使いの群れがやってきて、この大地からたいせつなものを奪っていったそうだ。

 そういった伝承が残っており、さいきんの研究でどうやらそれが確からしいと判った。

「そういう発表を昨日見たんだ」僕はビビに話題を振る。彼女はさきほどからずっとマスクの調整をしていて、上の空だ。鏡を見ながら「へぇ」とか「ふうん」と生返事をする。

「魔法使いの群れにも諸説あるらしくって」僕は彼女の作業が終わるのを待つ代わりに雑談をつづける。「最近まではいまは滅びた古代文明の住人だったとか、僕たちの祖先のほうが土地を追われて移住したとか、そういう仮説が有力だったらしいんだけど、いまはそれがひっくり返ったらしくて、宇宙人がやってきたんじゃないかって」

「で? うちらの祖先からたいせつなものを盗んでったってこと? どこの大泥棒の話?」

「大泥棒じゃなくって宇宙人。本当にあったことらしいよ」

「肝心の奪われたモノが何かもよく分からない癖によくそういうこと言えるよね。うち、学者ってあんま好きじゃないんだよね。だって説明下手だし。けっこう予想外すし。うちら頭のわるい人らのこと見下すし」

「そんなことはないと思うけど」

「いまだってジュジュってばうちのこと、なんでこんなことも通じないんだ、みたいに思ったでしょ」

「思ってないよ。被害妄想だよ」

「ふうん。ならいいけど」

「まだマスク直らない?」

「もうちょっと待って。急かさないで」

「いいよ待つよ。焦らずゆっくりでいいから」

「……うん」

「その代わりさっきの話のつづきをするけど」

 ビビが拒否しなかったので、語りを再開する。「宇宙人たちがやってきて、何かを奪って去っていったことを考えると、きっとその何かさえあれば用が足りたってことで、それのなくなった地球にはそもそも関心がなくなったから宇宙人たちは地球を去ったとも言えるわけで」

「ああもうその時点で意味わかんない」

「ごめんよ。つまり、最初からその何かたいせつなものを奪いに地球にきたか、それとも偶然とってもよいものを発見したので持ち帰った、みたいな感じだったんじゃないのかなって」

 ビビはいちど作業の手を止め、当時の人らってさ、と言った。

「抵抗しなかったのかな。だってたいせつなものを奪われたわけでしょ。いわば強奪されたわけじゃん。嫌じゃん。なら抵抗するじゃんふつう」

「でも相手のほうが物凄い高度な技術力を持ってたら手も足もでなかったんじゃないかな」

「そんな相手が欲しがるものがこんな星にあったのかなぁ」

「お、その視点はおもしろいね。さすがはビビ」

「うれしくないんだけど」

 言いながらもビビはまんざらでもなさそうに顔を伏せた。コツ、と硬質な音が鳴る。マスクがビビの持つ道具に当たったのだ。

「単純な疑問なんだけどさ」ビビが道具を置いた。マスクの修正が済んだようだ。「どうして当時の人たちはたいせつなもの奪われておいて、そのことを書いておかなかったんだろ。伝承に残すくらいなら、そもそも何が起こったのかもっと詳細に書いとけよ、とか思っちゃうんだけど」

「あ、それはね。当時、たいせつなものを奪われた人類は大混乱に陥って、記録を残すとかそれどころではなくなったらしいよ。もう絶滅するかどうかの瀬戸際だったみたいで」

「ふうん。じゃあもうそんなのたいせつなものを奪われたっていうより、環境破壊みたいなもんだったんじゃないの」

「かもしれないね」

「何かこう、家畜みたいなのに食料を依存してて、それを盗られちゃったとか」

「なくはないだろうね。そういうふうに仮説を唱えている学者さんもいるよ、もちろんね」

「そうなんだ」

 ビビは下唇をはんだ。笑みが零れないように食いしばったらしい。学者と同じ発想ができたことを素直にうれしがれないところに彼女の愛らしさが滲んでいる。

「そろそろ行かないと」僕はビビを促す。「キークを補充しないと危ない」

「わかってるってば」

 おいしょ、と腰をあげる彼女の手を引き、補助する。マスクが重たくて立ちあがるだけでもふらつくのだ。

「どうしてキークって増やせないんだろう。もっといっぱい湧いてくれてもいいと思うんだけどな」

「資源だからね。水や土と同じで、なかなか増やしたりはむつかしいんだ」

「お得意の科学技術とやらでどうにかしてほしいものだね。学者さまたちにはさ」

「そうだね。キーク不足問題は年々深刻化しているから、どの地の学者たちも真剣に解決策を模索しているようだけれど」

「もういっそ宇宙人たちはキークを奪い去ったってことでいいんじゃないの」

 ビビの投げやりなぼやきに僕は冗談でなく、その発想はなかったな、と驚いた。

「またそうやってバカにして」

 ふてくされるビビに、いやそうじゃないんだ、と僕は弁解するも、いいよもうこの話題はイヤ、とマスク越しに耳を塞ぐ仕草をされる。「もっと楽しい話題にしよ。そうたとえば、これから採る野菜についてとか」

「ビビは野菜が好きだね」

「そりゃそうだよ。食べて美味しい、見て楽しい。キークのある地下でしか育たないから貴重だし」

「生きた宝石って言われるくらいだからね」

「あ、キーク残量半分切っちゃった」ビビがマスクをゆびで叩き、そこに浮かぶ残量計を示す。マスクは僕たちの頭部をぐるっと球形に囲んでおり、それが専用の衣服と繋がっている。かつての人類はこれを着て空の上にも旅立つことができたと伝承にはあるようだけれど、その説に懐疑的な学者はすくなくない。

「早いとこ目的地に着かないとマズいよ」

「今回は前のところ同じでしょ。すぐ着くすぐ着く」

 ウキウキとスキップをしだすビビに、危ないよ、と注意を促しつつ僕は、さきほどの彼女の発言を振り返る。

 宇宙人たちはキークを奪い去った。

 なるほど、太古よりも昔、この地上はキークで満ちていた可能性がたしかにないとは言いきれない。

 太古よりも昔、この星にはキークが満ちていた。

 それを空の上からやってきた魔法使い――宇宙人たちが奪い去った。

 ゆえに人類はマスクなしでは生存できない環境に適応するために翻弄され、詳しい記録を残すこともできずに、長い時間をかけて過去の事実は薄れていった。

 かろうじて語り継がれた事実の骨子だけが伝承としていまに残っている。

 宇宙人たちの奪い去った、僕たちにとってたいせつなもの、それはキークなのかもしれない。

 そんな大それたことがあり得るのかはさておき、魅力的な仮説に思えた。

 彼女はこのとびきりの発想の価値に気づいているのだろうか。

「何してんのジュジュ。置いてっちゃうよ」ビビが岩の上から小石を投げてくる。どこを見渡しても一面、岩と砂利の世界だ。

「いま行くよ」

 満天の星空に浮かぶ太陽は眩い。

 マスクと服がなければ陽差しに焼かれ、陽が陰れば息を百吐く間もなく凍え死ぬ。

 そんな世界にあっても、地下の温暖地帯には植物が群れ、生き物が息づく。

 僕たちはそんな地下の宝物庫から、こうして危険な地上を歩いて渡り、宝石の収穫を試みる。

 地下の宝石は、僕たちにとって命の欠片に等しい。

 そこには食べ物だけでなく、キークが充満している。

 ただし、危険な生き物も多いので定住するのには向かない。

 いま各地の学者たちはこぞってキークの生成と大量生産技術に精を出している。並行して僕たちの居住区での植物の栽培法にも尽力している。

 研究結果は年々、確実な進歩を人類に与えている。

 しかし地下資源は底を尽きつつあり、人類が打開策を見つけるのが先か、地下資源が枯渇して人類が滅びるのが先か、いまはそんな綱渡りを延々としつづける日々だ。

 内心みな考えることを放棄している。

 学者たちに任せておくしかないと判断を委ねてしまっている。彼ら彼女らが考えた方策がダメならもうダメなのだろう、と匙を投げているきらいがある。

 けれどそれは違う、と僕はビビを見ていて思うのだ。

 彼女の零す何気ない素朴な発想に、いったいどれだけの価値があるのかを誰も知ろうとしない。耳を傾けない。吟味しようとすらしない。

 じぶんたちの口からはまさかそんな宝物などでてくるわけがないのだ、と端から諦めているかのようだ。

 そうではないのだ。

 そうではないのに、目のまえに地下資源に匹敵する宝物がころんと現れても、それを宝物だと見做そうとしない。

「ほらぁ早く」

 遠くからビビが叫んだ。彼女は片足のつま先で細かく地面を叩いている。マスクの表面に太陽光が反射しているため表情が見えない。ゆえに見ようによっては、足で律動を刻みながら、いまにも歌いだしそうな歌手に見えなくもない。

「おらぁ、なに笑ってんだ」

「笑ってないよ」上からこちらの顔は見えるらしい。「いま行く。待ってて」

「しょうがないなぁ」

 かってに突き進む割に、ビビはこうして僕を置いていこうとはしないのだ。

 いやこれは、と僕は口の端を持ちあげる。

 一人で地下資源の宝庫へと下りるのが怖いのだ。

 もちろん、彼女の胸中には、僕の安全を気にしてくれる心配りも含有されてはいるだろうけれど、その比率は多く見積もっても、全体の数パーセントくらいが席の山だろう。

 だが、と僕は思うのだ。

 割合の多さでは測れないのが価値というものではなかろうか、と。

 ほんのすこしのそうした気遣いや発想こそが、とびきり輝く宝物になり得る。

 だからこそ僕たちは、そうした宝物を取りこぼさないように、見逃さないように、己が内に張り巡る網の目をより細かに、しなやかに、編んでいくのが好ましいのではないのか、と。

 待ちぼうけにうんざりした様子を隠そうともしないビビに追いつきながら僕は、素朴にそう思うのだ。




【夜道を外れる】

(未推敲)


 友人との初詣の帰りに、屋台を見かけた。

 今年から出店が禁止になったので、境内でも目にしなかった。だがその屋台は、神社を囲うように茂る林の麓に、ちょこんとあった。まるで大きな祠のようだ。

 周囲に明かりはなく、屋台に垂れる提灯が道路の砂利の細かな起伏に陰影を与えている。

「何売ってんだろ」友人が道を外れて屋台に近づいていくので、

「そっちじゃないだろ」と引き留めたが、彼は私の言うことを聞かず、屋台のまえに立った。

 私は致し方なく友人のあとにつづいた。

 屋台の暖簾には、魂あります、と書かれていた。ほかに文字らしい文字はない。店名すらなかった。

「魂あんだって」友人は愉快そうだ。「オバケ売るとかすげぇよな」

「いや、食べ物だろふつうに考えて。たい焼きはべつに鯛を焼いてるわけじゃないからな」

「でた、細かいことにうるさいマン」

「茶化すなや」

 屋台には小柄な老人が座っていた。脚の長い椅子に腰かけているので、プールの監視員やテニスの審判を連想した。

 老人の性別は不明だ。顔は皺だらけで、漆塗りの陶器のような柄の半纏をまとっている。厚着をしてはいるようだが、いまは真冬だ。元日である。寒くないのだろうか、と心配になったのを憶えている。

「あの、何を売られているんですか」私は店主に声をかけた。

「魂ですよ」老人は答えた。

「魂だってよ」友人がはしゃいだ。

「あの、おいくらなんでしょう」

 さっさとこの場を去りたかったので、そう訊ねた。

 適当に一つ購入してしまおうと考えたわけは、十割打算だった。現物が手元にあれば友人も満足してこの場を離れてくれるだろうし、そのあとのご機嫌もよくなり、話の肴にもなる。一石三鳥だ。懐は痛むが、私は早く温かい部屋に帰りたかった。

「お代はいりません」老人は答えた。

「タダだってよ」友人が屋台に手をつき、覗きこむ。屋台にはずらりと凍ったシャボン玉のような球体が並んでいた。ガラス細工にしては柔らかそうな素材だ。表面には水に浮いた油のような紋様が浮かび、それが何もせずとも波紋が立つように動くのだ。

 宇宙空間に浮かぶ水玉のようにも、水晶に閉じこめた湖面のようにも見えた。

「どれにしよっかな」と品定めする友人の頭を叩き、すこしは遠慮しろ、と無言で諫めたが、「お好きなのをどうぞ」と店主が勧めるので、友人は俄然顔を台に近づけた。

「じゃあ、これもらっていいっすか」友人は青白い球体を指さす。つづけて私の肩を小突き、おまえも選べよ、と誘った。

「いや、私はいいよ。一つあれば充分だろ」

「せっかくタダなのにもったいな」

「すみません」私は店主に謝った。友人の横暴な態度と、遠慮のなさに、我が友の無礼さながらに恥ずかしく思ったのだ。

「いえいえ、ええんですよ。それにタダではありませんで」

「ほらやっぱりお代いるんだってよ」私は、そらみたことか、と友人の肩を小突き返し、「おいくらですか」と店主に訊ねた。

 するとなぜか店主は、身体をわずかにも動かさずに、半纏の下からするすると枝のように細長い腕を伸ばした。

 明らかに老人の体格に不釣り合いなほどの長さだった。細長いその腕は、友人の胸まで伸びた。

 腕は、ずるり、とそこに沼があるかのように沈んだ。

 一瞬、世界の時間が止まった感覚に支配されたのを憶えている。

 身体が凍ったとの形容があるが、それとは別に、真実、世界に流れるトキが止まったように感じられた。

 音もなく店主の細長い腕がするりと抜けた。

 友人の胸からは、緑色に澄んだ球体が現れる。一見するとマリモのようだった。

 店主の腕はそれを握っており、するすると手元へと引き戻すと、顔のまえに掲げた。まじまじとそれを凝視するその表情は恍惚としていた。

 友人が勃然と地面に倒れたので、おい、と私は慌ててそばにしゃがんだ。

 呼吸をしていないことにまずは気づいた。

 脈を測るも、指先にそれらしい拍動を感じなかった。

「おい、おい。どうした、だいじょうぶか。どうしよう、そうだ救急車」

「お兄さんや」

 背後から声がした。

 救急車を呼んでください、と咄嗟に叫んだ。

 振り返ると、屋台が消えていた。

 否、屋台のカタチにくっきりと闇が浮いている。

 あたかもそこに深い穴が開いているかのごとくだ。

 そこから細長い腕だけが伸び、青白い球体を握っている。

「どうぞ、お受け取りください」

 店主の声が風の音のように聞こえた。

 私はおそらく恐怖を感じてはいなかった。

「いりません」とただそれだけを言った。

 すすす、と細長い腕は闇に引っ込み、いつの間にか木々の揺らぎが闇の奥にうっすらと霞んで見えていた。

 手元では事切れた友人の身体が横たわっており、いくら声をかけても、揺さぶっても、やはり友人が目覚めることはなかった。

 抜かれたからだ、と訳も分からず私はつぶやいた。

 ならばひょっとしたら、新しいナニカシラを入れ直せば、友人はふたたび目覚めたのかもしれない。

 もらっておいたほうがよかったのではないか。

 青白い球体を差しだす細長い腕を思い返しながら、けれども、もしこんどはじぶんが抜かれでもしたら、とあのとき一瞬浮かべた考えを反芻した。

 ひとしきり呆然としてから、救急車を呼んだ。

 友人の動かぬ身体と共に救急車に乗り込み、あとは周囲の流れに身を任せた。

 年明け早々なんて目に。

 ただそれだけの感情が胸中に増した。

 救急隊からの応答にうわの空で応じながら、じぶんが体験した出来事がすでに風化しはじめていることに戸惑いを覚えた。

 幻でも視ていたような夢心地だった。

 じぶんの存在の希薄さを否応なく思い知り、命の呆気なさにやはり呆然とした。

 友人の葬式に参列したころにはもう、あのときの屋台のことは妄想との区別がつかなくなり、以来、私は初詣には出かけない。

 夜道を外れる真似もしない。




【小説を書かなければ死ぬ】

(未推敲)


 かれこれ百時間くらいは経過したと思う、文字数で換算したら六十万字くらい打鍵しつづけているし、眠気も書くことのネタも限界に差し掛かっているというかふつうに限界を突破して、いつ意識が途切れてもふしぎではない状態だ、もはや段落で文章を区切る余裕もない、おそらくこの話で私のネタは尽きるだろう、とっくに尽きてしまったからこそこうしてじぶんの陥った境遇を物語に変換することで最後の急場を凌ごうとしている、溺れる者は藁をも掴むというが、作家とて最後には自伝を書くことのほかにつむぐべき物語が見当たらなくなるものなのだろう、この部屋に連れられてきたのは三日ほどまえだ、正確な時刻は分からない、時計がないのだ、ただ机と椅子と執筆用端末があるばかりで、食べ物もなく、トイレもない、誤魔化してもしょうがないので明かしておくが私はいま尿や便にまみれてこれを打鍵している、指は振るえ、潰れた血豆のせいでキィボードはぬめぬめと滑る、私を攫った者の要求はいたって単純だった、おまえは作家なのだから作家でありつづけられないのなら死ね、というもので、要するに執筆しつづけてそれが果たせなかったときは死ぬ、ということらしかった、つまりいまこれをこうして打鍵していられるに限り私の生存は許されている、むろん最初は何をバカな、と反論を投じたが、同じ境遇に陥った同業者の死を目の当たりしてからは反論一つできずに、スタートの合図と共に私はこうして小説家らしく、小説をつむいでいる、これが最後の物語になるだろうことはすでに上述したが、物語以外の文章をつむげば即死であるようなので、その真偽を確かめる勇気もなく、ならばおとなしく小説を書きつづけるほかなかったのだが、やはり私にも限界というものがある、もはやネタは枯渇し、ならば最後に事実だけでも残しておかねば、と決起してこうして最後になるだろう小説を手掛けている、とはいえ書くことはそんなに多くはない、だらだらとこうなる前の直後のじぶん自身の生活の描写を書き連ねてもよいし、それこそじぶんの人生を記憶の古い順から書き連ねていくことも可能だが、ハッキリ言ってしまうともう限界なのだ、筆を擱きたい、打鍵を止めたい、休みたいのだ、もしそれで死ぬ目に遭うのだとしても、どの道、遅かれ早かれそうなるのは自明なのだから、せめてきちんと物語を閉じて終われるうちにじぶんの意思で筆を擱こうと決めた、もう間もなくこの掌編は終わるだろう、もう疲れた、ずいぶん頑張った、一日十四万字ちかくを五日連続でつむぎつづけてきたのだ、作家としてはこれ以上ない全力を出し切ったと言える、このまま餓死してもおかしくないし、過労死してしもふしぎではない、いったいなぜじぶんがこんな目に、と思わないでもないが、小説家としての能力を最大限に発揮できたことを思えば、こういう最期もわるくないと思えてしまう辺り、思考のほうまで披露でやられてしまったのだろう、ランナーズハイなるものが世にはあるらしいがそれと似たようなものかもしれない、案外に清々しい心地である、未だにひょっとしたら打鍵を止めても死にはしないのではないか、と希望を抱いているが、どうやらその可能性もないようだ、というのもすでにこの記述が小説に値しないとの判断がなされつつあるようで、どこからともなくガスのようなものが部屋に雪崩れ込んできている、充満するのに時間はかからないだろう、もう私は終わったようだ、小説家として終わったし、人間としても終わる、けれどどうにかせめて、この間につむいだこれら文章を、物語を、せめてせめて読者の目に触れる場所に移したかった、それを期待するくらいのことは許されたいと、万が一の、一に賭けて記しておこう、息を止めていたはずが吐血する、血はあかくない、なみだがあつい、くるしい、くryしい、めまいがする、みえない、ああああ、あとすこしだけっでも、なにかかきた、のこしたい、もっとしょせつwかいやはっは¥¥l、




【咎人は嘯く】

(未推敲)


「反省すればいいってもんじゃないんだぞおぬし」

「へいへい、すいやせーん」

「心を痛めればいいってもんでもないんだ」

「へーいへい」

「おぬし、本当に反省しておるのか。心を痛めている者の返事には聞こえぬが」

「ちげぇやすよ。誤解ですぜ旦那ァ。あっしはねぇ、あんまりにも罪悪感に苛まれちまったんで、死なねぇように加減を覚えたんでさ」

「死ぬ以外に罪を贖う方法が思いつかんほどに、罪の意識に苦しんでいたと、そう抜かすのか」

「へい。そうなんで」

「ならばいっそ死んでみてはどうだ」

「ほう。旦那も冗談がお上手で」

「冗談ではない。本気で申しておる」

「あっしに死ねと?」

「そうだ。真実に罪を贖うつもりがあるのならば、できるだろう。心苦しいが、私がしかと見届けてやろう」

「へいへい、そうですかい。ですがね旦那。旦那がそうおっしゃる時点で、旦那のほうがあっしより邪悪にまみれてるってぇ言い方もできるんじゃねぇんですかい」

「そんなことはない。そんなことはないぞ。私はいつだって清く正しく弱き者の味方なのだからな」

「ですがね旦那ァ、訊きやすよ。いま旦那はあっしに死ねとおっしゃった。罪に苛み、苦しんでいる者に向かって死ねと言ったんですぜ。それが邪悪でなくいったい何が邪悪だと言うんです」

「だがおぬしにはそれだけの罪があるだろう。違うか」

「だからといって旦那に罪がねぇわけでもないでしょう。旦那に罪が一つもねぇとでも? 生きてきて誰も傷つけたことがないと?」

「ああ、ない」

「だがいまあんたァ、現にあっしを傷つけているじゃねぇですかい。死ねと、存在を根源から否定したんですぜ」

「それはだから貴様が反省の色を見せないからで」

「旦那ぁ。そりゃあ筋違いってもんでしょう。旦那にそんな権限はない。誰にもありゃしねぇんだ。旦那が優しいお人なのはあっしとて百も承知だ。だが、旦那のそれは弱い者への手助けじゃねぇ。ただの弱い者いじめだ」

「だがおぬしは放っておけばまた人を傷つけるだろう。誰かがそれを阻止せねば、おぬしより弱い立場の者たちがこぞって傷つきつづけるではないか」

「旦那ぁ。勘違いしちゃいけねぇよ。手助けってぇのはね、人助けってぇのは、ほかの誰かを虐げることじゃねぇんですぜ。旦那が盾になってやる。これぁなかなかできることじゃねぇ。あっしだってそういう旦那の気概にゃ惚れてやすよ。しかし旦那ぁ、旦那の正義感を矛にまでして、ほかの立場の弱い連中を崖の端まで追いやってるだけじゃねぇですかい。いいですかい旦那ァ。手助けってぇのは、本来、禁止で成すことじゃねぇんですよ。世の大勢から蛇蝎視され、虐げられ、排除されつつある、存在すら許されねぇモノに、それでもどうにか存在する余地を残すようにと、選択肢を増やし、生存できる環境を築こうとする営みそのものじゃねぇんですかい」

「だが、しかし」

「だがも、しかしもねぇぜ旦那ァ。蟻が踏み潰されるからって像を林から追いだして、それでめでたしめでたしでいいんですかい。あまつさえ、象を殺していいんですかい。象がいても蟻が踏み潰されずに済むように考える。これが助けるの意味じゃねぇんですかい。旦那のしてるこたぁ、ただ、旦那の気に入った者たちを優遇して、それ以外の邪魔者を排除しているだけだ。それをあっしは、人助けとは呼べねぇなぁ。そういうのは、弱い者いじめってぇんですぜ」

「だからといっておぬしの罪が消えるわけではなかろう」

「そりゃそうだ。だからあっしはなるたけ日陰者としての生を甘んじて引き受けやすよ。だが旦那ぁ、そうしたあっしの苦しみを知りながら、さらに死ねとまでおっしゃった。そりゃあ、ちょいと聞き捨てならねぇなぁ。旦那はそういうお人じゃねぇだろい。いい加減、目ぇ覚ましてくだせぇよ。旦那ぁ、旦那がいっちゃん許せねぇことを、いまじぶんの手でしようとしてんですぜ。助けなきゃいけねぇ相手を端から決めて、助けなくてもいい相手を端から決めつけてやがんのさ。旦那ぁ。いったいあんた、いつからそんなに偉くなったんだい」

 あんたにそんな権限があんのかい、と消え入りそうな声音で、世の爪弾き者、日陰者、なにより咎ある者はそう言った。




【願い叶え人】

(未推敲)

 

 自殺しようと練炭を焚いた。七輪がなかったのでホットプレートで代用したら思いのほか煙がモクモクとのぼり、なぜか目のまえにスーツ姿の人間が現れた。

「願いを一つだけ叶えてやる。その代わり、願いが叶えばおまえもほかの誰かの願いを叶えなくてはならない。拒絶は不可能だ。願いを言え」

 戸惑った。

 相手にいろいろと質問をぶつけるも、それが願いでいいのか、と問われると、黙るしかなくなる。

 登場の仕方からしてふつうの人間ではないのは明らかだ。

 魔法くらい使えてもふしぎではない。

 それとも死にかけのじぶんが視ているこれは幻影なのだろうか。

 幻影相手ならばここで願いを唱えてもさほど困ることはないし、そもそも死のうと思っていたのだ。いまさら何が起きようとも怖くはない。

「なら、僕を世界一の富豪にしてください」

 借金を苦に自殺を考えていた。借金が返せたところでまともに生きていけるとも思えない。賃貸すら借りられず、オンンボロの自動車での暮らしだった。

 僕はすっかり世に絶望し、練炭自殺に走ったのだが、神は僕を見捨てなかった。

 僕の目のまえに煙と共に現れたその人物は、僕が望みを唱えると、承知した、と一言残し、ぽわんと煙となって消えた。

 しばらく待ったが音沙汰ない。

 ひょっとして願いを聞いて、はいお終い、というギャグだろうか。だとしたら極めて悪質だ。

 死のうとしていた人間相手に希望だけ植えつけて、じつは嘘でしたぁ、とその希望を打ち砕く。そのままおとなしく死なせてくれればよかったものを。

 僕は歯噛みした。

 悔しさに目頭が熱を持ち、いまにも癇癪を起しそうだった。

 ハンドルに当たり散らすも、拳を痛めただけだった。

 さらにむしゃくしゃし、ドアの隙間を塞いでいたガムテープを取り去って、自動車の外にでる。

 そのまま自動車を乱暴に蹴り上げていると、ふと人の気配がした。

 視線を向けると、いちばん近い街灯の下を、よろよろと横切る人影が見えた。

 目を凝らす。

 その人影は小柄で、ふらふらと地面にしゃがみこんだかと思うと動かなくなった。倒れたのだ。

 駆け寄ると、老人がその場に伏していた。息はある。

 そこからさきのことは必至だった。近隣の家に飛びこみ、救急車を呼んでもらった。救急隊の指示を受けて、倒れた老人を民家に運び込み、毛布をかけ、体温の低下を防いだ。

 救急車が到着してからも、同行を促され、共に乗り込んだ。

 病院先でも同行者としていろいろと事情を訊かれ、その後、老人の親族が遅れてやってくると、やはりそこでも事情を説明するはめになった。

 老人は三日後に目覚めた。

 脳溢血だった。

 もし発見が遅れれば命はなかったでしょう、と医師のお墨付きもあってか、僕は老人の命の恩人として大勢から感謝された。

 というのも老人は世界一の大富豪であったのだ。

 僕は知らなかったのだが、本当の世界一のお金持ちになると、その影響力によって世間に知られることなく存在できるようなのだ。

 僕は老人の数々の偉業を、彼の周囲の者たちから又聞きすることで、とんでもない人物に恩を売ってしまった、と恐々とした。

 僕が貧困に喘いでいると知るなり、老人は僕を呼び寄せ、秘書として雇うと言いだした。僕は困惑したが、同時に、例の煙から現れた人間のことが脳裏のすぐ裏にいつでもくすぶっていた。

 つまりこれは僕の願いが叶うまでの通過儀礼なのではないか。

 ひょっとして僕の願いが叶うのか。

 僕の希望的観測はしかし裏切られることなく、老人を救ってからの三年後には、僕は老人の最も親しい友人となっており、その半年後にふたたびの病に倒れた老人は、弁護士を通して遺産の半分を僕に譲ると言いだした。

 遺産の半分だけでも世界資産ランキングの一位を保てるほどの金額があり、しかもその資産は黙っていてもかってに増えていく仕組みのうえに築かれていた。

 誰も老人には逆らえないようで、僕は老人の亡くなったあとでもとんとん拍子に、世界一の大富豪の地位を保っていられた。

 僕はお金で手に入れられることのすべてを時間の許す限り、順々に手に入れていく。

 ある日のことだ。

 優雅に、高層タワー内に築いたスキー場でスキーを楽しんでいると、突如として身体から煙が立ち昇りはじめた。

 火がついたのかと思い慌てたが、瞬きをしたつぎの刹那には、見知らぬ部屋に立っていた。

 目のまえには一人の青年が地面にしゃがみこんでいた。首には輪っかをかけており、頭上には千切れたらしい縄が垂れていた。

 失敗したのだ。

 首つり自殺に。

「あなたは誰ですか」

「私は」

 なんと応じたものか、と下唇を舐めると、つらつらと言葉がかってに口を衝いた。

「願いを一つだけ叶えてやる。その代わり、願いが叶えばおまえもほかの誰かの願いを叶えなくてはならない。拒絶は不可能だ。願いを言え」

 じぶんがいつの間にかスーツを着ていることに気づく。

 まるであのときと構図が逆だ。

 いまはじぶんが魔人なのだと思った。

 あのときの約束をこんどはじぶんが果たす番なのだ、と。

 先刻まで命を絶とうとしていたらしい青年はそれからいくつかの質問を投じた。それが願いでいいのか、と迫ると、押し黙った。

 じぶんのときもそうだった、と懐かしく過去を顧みていると、

「なるほどね」

 顎に指を添え、深々と思案していた青年がようやく口を開いた。

「ではこうしましょう。僕はあなたに願います。あなたの叶えた願いを代わりに僕にください」

 なんだって。

 戸惑いとは裏腹に口はかってに言葉をつむぐ。

「それが願いでいいのか」

「ええもちろん。あなたが以前にどんな願いを唱え、叶えたのは知りませんが。まあ、誰かを呪い殺すとかではなさそうなので、さしずめどんな願いであれじぶんの幸福に繋がる願いを唱えたのでしょう。ならば安全圏を保つのにもっとも合理的な判断は、あなたと同じ願いを僕も叶えることです。もっと言えば、あなたのいまの状況に僕が立てれば好ましい。だってそうでしょ。あなたはいま、無事にこうして対価を払っているのだから。きっとさぞかし至福の最中にいたんでしょうね」

 まくしたてるように言った青年を無視して、承知した、とつぶやいている。

 ふたたび身体から煙が立ち昇りはじめ、瞬きをしたつぎの刹那には、男は元の場所に立っていた。

 それは高層タワー内のスキー場ではなく、老人を助ける前に乗っていた自動車の中だった。

 助手席にはホットプレートがあり、その上では練炭が赤い火の粉をパチリと弾いていた。

 いったい今はいつなんだ。

 これまでの時間はいったいどこに消えた。

 遺産は。

 僕の願いはどうなった。

 自動車の外に飛び出し探ることもできたが、もはや男にそのような気力はなく、うつらうつらしだした思考のまま脱力し、座席に全身を預けた。

 かろうじて腕を動かせる。

 窓の開閉ボタンに指を這わせるが、車窓はガムテープで目貼りされており、最後の力を振り絞ってボタンを押すが、窓ガラスはうんともすんとも云わないのだった。

 視界のさきには街灯の明かりがある。

 その下に老人がふらふらと現れた。

 老人が倒れかけたところを、どこかで見たような青年が支えに走る。

 男はその様子を目に捉えながら、返せ、と唱えるも、もはやそれを聞き入れる者も、気に留める者もいないのだった。

 救急車のサイレンがどこからともなく聞こえてくるが、男の乗った自動車の脇を通り過ぎ、数軒先の民家のまえで止まった。

 男の顔は桜色に火照っている。一酸化中毒の作用のためだろう。呼吸が徐々に浅くなる。

 赤色灯が、男の姿を明と暗に照らし、間もなく遠ざかる。




【死の雲が降る】

(未推敲)


 新天地に辿り着いた我々の御先祖様は、この地に繁栄の礎を築いた。

 以降、我々は着々と環境を整え、子孫を増やし、至福の余地を拡大しつづけてきた。

 だが突如としてアレが現れた。そう遠い記憶ではない。

 それはまるで白雲のように出現し、雨のように頭上から降りそそぐや否や、我々の仲間たちをつぎつぎに死に追いやった。

 死の雲、と我々はアレをそう呼んだ。

 ただの雲ではなかった。

 アレは灰のごとくふよふよと宙を舞い、この地に降り注ぐ。

 最初はなんともなかったのだ。

 だが時間が経過するにつれ、つぎつぎに同胞たちが死に絶えていく。

 あれは死そのものだ。

 あたかも白雲が散り散りになって降ってくるような光景は幻想的だが、アレの降った地にはもはや死屍累々の様相であった。

 否、死の痕跡さえ残らない。

 きれいさっぱり消え失せてしまうのだ。

 まるで溶けたかのように。

 アレはいったい何なのだ。

 神の怒りを買ってしまったがゆえの天罰なのだろうか。

 我々は絶望に打ち震える。

 アレは頭上から定期的に降りそそぐ。

 せっかく子孫を増やしても、それをこそ見越していたかのように吹き荒れるのである。

 我々はいよいよこの地を諦めることにした。

 ほかの新天地を探すよりない。

 旅立つほか道はなかった。

 だが私だけはどうしてもこの地を離れたくなかった。

 比較的若い世代の者たちを送りだし、古参の我々はこの地に残った。

 また死の雲が降る。

 否、もやはそれは泡である。

 我々、カビ一族はいっそう身を固めあい、なんとか生き残る術を探るのである。




【降り積もった雨のうえで】

(未推敲)


 空が上にも下にも広がっている。

 宇宙という意味ではない。

 頭上に広がる青空が、足元の水面に反射しているのだ。

 絶景だ。

 辺り一面が巨大な水溜まりに沈んでいる。

 かろうじて点々と、ちいさな孤島のように陸地がある。一周するのに五分もかからない。そこには各々の住まいが建っている。

 一軒家が多いが、その造形はさまざまだ。西洋のお城のような外装もあれば、昔なじみの長屋のようなたたずまいの家もある。

 家同士の交流は滅多にない。そもそも島同士が離れている。

 相手の敷地内に立ち入るには、船で渡らなければならないが、よほどのことがなければ渡ることはない。燃料がもったいないからだ。

「そろそろまた雨が降りそうだよ」ムムは曇りはじめた空を見上げる。中学生になったばかりで、学校に通ったことのない世代だ。「備えとかなきゃだぞ父ちゃん」

「しんぺぇすんな。こんどはどんだけ降っても問題ねぇ」

「こんどこそ家が沈まねえようにしないと」

「ああ」

 窓の外、一面の水溜まりの向こうにちいさく一軒の家が見える。最も距離の近い隣家だが、これまでムムが言葉を交わしたことは片手で数えられる程度しかない。

 ちょうどその隣家から男の子がでてくるところだった。

 男の子は妹らしい幼い女の子の手を引いている。

 二人は家の庭で、追いかけっこをはじめた。女の子はボールを持っており、それを男の子に投げつける。手でタッチしてもいいし、ボールを当ててもいい。

 ハンデのつもりなのだろう。

 それでも男の子はなかなか捕まらず、女の子は間もなく飽きてしまったのか、その場にしゃがんで砂遊びをはじめた。

 男の子のほうもそれに付き添う格好で、二人並んで砂で山をつくり、トンネルを掘りだす。

 遠目から眺めていると二人とも点のようだが、ムムには彼らが何をしているのかを、まるでそばで見ているように脳内で再生できた。

 きょうに限ったことではないのだ。

 長年ずっとこの窓から見つづけてきた。

 他者との交流がない。

 大部分の地表は巨大な水溜まりに沈んでおり、見渡すかぎりが水面だ。

 外にでれば、いつでも波の音が静寂を満たしている。

 ときおり舟渡りの人たちがやってきて、食料や生活必需品を売ってくれる。

 代わりに各々家に住まう者たちは、じぶんたちの育てた野菜や、道具を物々交換する。

 ムムの家では、野菜のほかにシャベルを作っていた。家を支える陸から砂をとり、水で練って、窯で焼く。シャベルのほかにも食器や簡単な刃物を作っている。

 窯の火を焚くために、ほかの家よりも燃料がいる。そのことも手伝ってほかの家よりも船をだすわけにはいかないのだった。

「いいなぁ」

 ムムは溜め息を吐く。すると窓ガラスが曇った。ムムは指で窓ガラスをなぞり、即席の絵顔マークを描く。けれど露が垂れ、笑顔マークは泣き顔になった。

「ムム、たいへんだ。大雨らしい。しかも記録的な豪雨になるだろうって」

 父親がバタバタと地下から上がってきた。

「大雨って、じゃあ」

「ああ。きっとこの辺一帯、たいへんなことになる」

「お家、潰れちゃわない?」

「わからん。屋根を立てるから手伝ってくれ。あと下敷きも多めに重ねておこう」

「うん」

 雨が降っても潰れないように屋根を鋭角に変形させる。こうしておけば雨が積もっても家は潰れない。

 作業をしながら父が言った。

「むかしは雪というのが降ったらしい。天変地異が起こる前のことだ」

 冷たくてふわふわしたものが雨みたいに積もった、と説明されるが、ムムには想像がつかない。「触れると融けて消えるんだ」と付け加えられるが、ますます分からなくなる。

「言ったらまあ、空から氷が降るようなものだったんだ」

「ふうん」

「雪が積もると辺り一面真っ白になってな」

「魔法みたい」

「でもいまだって雨が積もるしな。そしたら一面茶色だろ」

「そっか。あ、むかしって雨は降らなかったんでしょ」

「雨は降ったさ。ただ、いまみたいに砂利じゃないが」

「じゃあ何が降ったの」

「水だよ。雪はその水が凍って落ちてくる」

 水が降ってくる、と言われてもムムにはピンとこない。頭上にも巨大な水溜まりがあるのだろうか、と想像するが、そんなわけはないのは、空を見あげれば一目瞭然だ。空には何もない。

 雨だって、降るときは空が曇る。

 遠方には地表が水溜まりに沈んでいない場所があるそうだ。それはとても遠い場所で、つねに強風が吹き荒れている。とても生き物の住める場所ではない。

 そこで大量に巻き上げられた砂利がこうして地上に降り積もるのだ。

「この星は、大部分が水でできているだろ。だから、そうして雨が降ってくれるときだけ、即席の陸ができる」

「だからそれを集めて、家の土台にしなきゃなんでしょ。知ってるよ。この空の向こうにも空があって、そこにはほかにもこの星みたいなのがいっぱいあるんでしょ。僕知ってるよ。お星さまがそれなんだよね」

「よく知ってるな」

「本で読んだ」

「そっか。賢いな」

「本が?」

「ムムがだよ」

「へへっ」

 パラパラと雨が屋根を叩く音が聞こえはじめた。

「おっと、急がないと。ここはムムに任せていいか」

「いいよ」

「父さんはろ過器を動かしてくる」

「ホースは出しといたよ」

「ありがとう、気が利くな」

 父は階段を下り、家の外にでた。屋根裏の窓から父の姿が見える。庭に立ち、ろ過装置を起動しようとしている。

 ろ過器からはホースが伸び、巨大な水溜まりに繋がっている。

 雨が降ると、水溜まりの上に砂利が積もる。浮力のある石なのだ。圧力を加えると潰れるので、圧縮すれば、水にも沈む。集めれば家を建てられるくらいの島にもなる。

 父の工芸品の多くは雨が材料だ。

「すごい。どんどん強くなる」

 雨脚は刻々と激しさを増した。

 ムムはハンドルを回し、屋根を限界まで鋭角に立てた。屋根裏から下りると、ちょうど父が家の中に逃げ込んでくる。

「やれやれ、まいったな。こりゃひどいことになるぞ」

「記録的な大雨になるってピピカが言ってる」 

 ピピカとは鳥の名だ。そういう種類の鳥がある。しゃべりかけた言葉を繰り返す習性があり、ふしぎと遠く離れた個体同士でも鳴き声を共有できる。テレパシーみたいなものだ。

 ピピカの習性を利用して、情報をみなに広報する仕組みがある。ムムはピピカから聞き取った大雨特別警報を父に報せた。

「そうだろうな。この雨は尋常じゃない」

「家、だいじょうぶかな」

「どうだろうな。いちおう、地下に避難しておこう」

 食料やら日用雑貨やら、必要な物を地下に運びこむ。大雨が過ぎ去るまで、こもることにした。

 あの家の子たちは大丈夫だろうか。

 ムムは離れた場所で暮らす隣家の少年とその妹のことを案じた。

 大雨は七日間振りつづけた。

 積もった雨で家が埋もれてしまうのではないか。

 ムムがそう零すと、かもしれないね、と父は鷹揚に返した。

「埋まっちゃったらどうするの。出られないよ」

「だいじょうぶさ。何せ、埋まるのは初めてじゃない。父さんが生きてきたなかでも何回かあったよ。そのたびに家を増築してね。そうそう。この地下室だって元は一階だったんだ。埋まってしまったので、上にも家を建てたんだ」

 ムムはびっくりした。そんなことは初耳だった。

「家を増築するときはムムも手伝っておくれね」

「うん」

「また大量に煉瓦を焼かなきゃだなぁ」

 そうぼやく割に、父の表情は穏やかで、どことなくウキウキして映った。

 雨音が遠ざかり、ムムは七日ぶりに一階に上った。窓の雨戸を開けるが、真っ暗だ。雨で埋まっている。

 相当な量の雨が――砂利が――降ったようだ。

「出らんない」ムムは振り返り、父に助けを求める。

「屋根裏はどうかな」

「そっか」

 急ぎのぼってみると、床に日が差しているのが見えた。

「こっちは大丈夫そうだよ」

「どんな具合だい」

 父は地下室から食料や雑貨を運びだしている。

 ムムは窓の外を見遣り、声をあげた。「うわぁ。すごい」

 見渡す限り、茶色だった。

 巨大な水溜まりが、いまや砂利の絨毯で埋まっている。

 大地ができている。

 すべて陸になっている。

 だがこれもしばらくすれば巨大な水溜まりの底に沈むだろう。雨を構成する砂利は水によって細かく砕け、砂となる。

 砂は水に沈むのだ。

 だが、これほどの量が積もったとなれば、ひょっとしたら。

 ムムは期待に胸がときめかせた。

「父さん、父さん」

 地下と一階を行ったり来たりしている父に、駆け寄り、

「外にでてきてもいい」と訊ねる。

「いますぐにかい?」

「そう。だってお外すごいよ、全部埋まってる」

「全部?」

「そう。水がね、ないの。ぜんぜん見えなくて」

「ほう」

 どれどれ、と父は荷物を置き、屋根裏に移動する。ムムもそれにつづいた。

「ほう、これはこれは」

 父は屋根裏の外を見るなり、窓を開け放つと一歩外に踏みだした。

 ムムも靴を履き、そとにでる。

 手で日傘をつくり、父は遠方を眺めた。

 家の屋根を頂上としてゆるやかに坂がつづく。庭が埋もれ丘になっているのだ。

 そして庭と大地の境目はなく、どこまでも茶色の絨毯がつづいた。

「見てあれ、父さん見てあそこ」

 ムムの指差す方向には、同じく家の外にでてきたらしい近隣の子どもたちの姿があった。例の少年と妹だ。

「ねぇ、父さん」ムムは言いよどんだが、目に希望を滲ませ、訴えた。

 遊んできてもいい?

 会ってきてもいい?

「一人じゃ危ないから」

 その返事にムムは下唇を食んでうつむいたが、

「一緒に行ってみようか」とつづいた言葉に、ぱっと顔をあげる。「ご飯を食べてからにしよう。父さん、お腹ぺこぺこだ。それに、お土産か何かを用意していきたいし」

「うん。うん」

 ムムは父の腕をとり、くるくると回りながら、父の身体にまとわりつく。

「お、ほら手を振っているよ」

 大地を挟んだ向こう側で、じぶんと同じくらいの少年が両手をワイパーのように左右に大きく開いて、振っていた。

 ムムは戸惑ったが、向こうの少年がいつまでも手を止めないので、愉快になってしぜんと腕が動いている。

 おーい、と声が聞こえる。ちいさな声だ。だがいまは波の音がない。ムムの元へとまっすぐと届いた。

「おーい」ムムは叫び返す。

 全身で、いまからそっちに遊びにいくよ、と訴えながら。

 敷地のそとへと踏みだし、降り積もった雨のうえに立ちながら。




【いい湯を皮切りに】


 銭湯にハマったきっかけは引っ越しだった。

 近場に銭湯があり、安アパートで水道を止められたのを契機にそこへ入ったのだ。

 時間帯が深夜だったからか、ほかに客はなく、無人の湯舟をひとり占めできた。

 身体の芯から温まった。

 それまで細胞の陰に隠れていた疲れがどっと湧きでたようにその日はぐっすりと眠れた。翌日の体調もすこぶるよかった。

 連日のように重労働の仕事がつらかったが、銭湯に入るようになってから、生まれ変わったように溌剌と働けた。

 始業開始の予鈴が聞こえても陰鬱な気分にはならない。

 寝起きから肌艶がよい。鏡に映るじぶんの顔が十歳は若返ったように見えた。

 温泉以上に効能がある

 何か秘密があるはずだ。

 以降、銭湯に通い詰めて分かったことが二つある。

 一つは、客が極端にすくないことだ。にもかかわらず掃除は行き届いており、潰れる気配がない。

 二つ目は、湯には必ず、果物の皮が浮かんでいたことだ。それは日によって変わった。多くはミカンの皮のようだが、それ以外にも、リンゴやスイカやパインアップルのものと思しき果物の皮が浮かんだ。

 どれもいちど乾燥させたもののようで、入浴剤として湯に投入しているようだった。

 これが秘訣か、といちどは合点したが、それにしてはあまりに肌に馴染みすぎる。湯に入るたびに、肌が若返るのが誇張でなく判るのだ。

 細胞がよろこび、まるで極上の料理を食べたときのように全身が至福に包まれる。

 ある日、仕事が休みだったこともあり、いつもの時間帯よりもずっと早くに銭湯に入った。

 すると従業員だろう、歳を召した女性が湯を掻き混ぜていた。

 そばには籠があり、中には大量の果物の皮らしきものが入っていた。籠は二つあり、一つには封がしてある。

 タオルで局部を隠しつつ、いつもありがとうございます、と声をかけた。

「とてもいい湯で、ここのところずっと通ってるんですよ」

「そうですか。それはようございました」

 言葉の尽くすかぎり褒めようと思ったのだが、女性が網を手にしているのを目に留め、言葉を飲みこむ。おや、と引っかかった。

 女性は湯に果物の皮を投入しているのではなかった。

 逆なのだ。

 湯に沈んだ何かしらを掬いとっているようだった。

「あの、何をしてらっしゃるんですか」湯に浸かろうにも作業が終わるまでは戸惑われた。

「カスがね。邪魔なんでね。苦情がね。入るんでね」

 女性はなおも手を動かした。網で湯を浚い、残った残滓を籠に捨てる。

 籠のなかは、干からびた薄い皮のようなもので埋まっていく。

 最後に女性は、もう一つの籠の封を解き、中身をごっそり湯にぶちまけた。

 柑橘系のよい香りがした。湯には見慣れたミカンの皮が浮かんだ。

「では、どうぞごゆっくり」

 女性が去っていく。

 どうやら一番風呂であるようだ。

 さっそく湯に浸かり、一息吐く。

 湯を手で掬い、顔に浴びせると、ぬめるとした感触が走った。

 ぎょっとして手を覗きこむと、そこにはブヨブヨとした布のようなものが垂れていた。湿布を水に浸けておくと似たようなブヨブヨができあがるが、目のまえのこれは白くはなく、茶色に濁っており、引っ張っても千切れそうになかった。

 なんだろう、と思い、先刻の光景を思いだす。

 歳の召した女性が網で浚っていたのはこれかもしれない。

 ひょっとしたらこれこそがこの湯の秘密ではないのか。

 いったい何の皮だろう。

 想像を逞しくしていると、銭湯の裏手から予鈴が聞こえた。

 職場だ。

 きょうは休日ゆえ、ゆっくりできる。

 同僚たちはいまごろ、つぎつぎに運ばれてくる捕虜を流れ作業で処分しているころだろう。

 そう言えば、とふしぎに思う。

 あれら捕虜の遺体はどうやって処理しているのだろう。

 肉は家畜に食わせていると聞いたが、骨や皮はどうしているのだろう。

 気になりはしたが、休日まで仕事のことで悩みたくはない。

 ぬるりとした不純物を湯に戻しながら、もういちど顔を濡らす。

 いい湯だな、と鼻歌を奏でる。

 あははん。

 水滴の落ちる音が響く。

 浴場には湯気がもうもうと立ち込めており、無人のはずが、なぜかしきりに右に左にと揺らいでいる。




【仮面の美少年】



 クラスの茂手杉モテオくんは年中仮面を被っている。

 鉄の仮面で、厳重に封がされているのだ。

 虐待されているのではないか、と誰もが最初は疑うのだが、モテオくん本人に訊くとそうではないらしい。

「じつは僕、物凄い美少年らしくて。素顔を晒すと、モテて、モテて、たいへんなんだ」

「へ、へぇ」

 呆れ果てて去っていくみなを尻目に僕は、

「それって性別とか年齢とか関係なくモテちゃうってことだよね」とモテオくんの肩を持つ。

「それもあるけど」

 モテオくんは首から垂らしていた鍵を使って仮面の南京錠を解いた。「こうなっちゃうから被っているんだ」

 誰も信じてくれないなかで信じようとした僕への誠意なのか、モテオくんは論より証拠、じっさいに素顔を世に晒してくれた。

 僕には背を向けていたので、僕は彼の素顔を拝見することはできなかったけれど、どうして彼が年中仮面を被っているか、その理由は嫌というほど理解できた。

 というのも、寄ってくるのだ。

 生きとし生ける数多の生き物が。

 彼の全身を覆い尽くすかのごとく、破竹の勢いで。

 寄ってくるのだ。

 ハエに、ゴキブリに、ダンゴムシ、イヌにネコにトリにネズミ、ブンブンとモゾモゾとドタドタとわらわらと。

 いったいこの街のどこにそんなに潜んでいたのかと思うほど、大量の生き物がモテオくん目掛けて集まりだした。 

 小動物の群れが津波のように僕の足元を抜けていく。

「わかったろ」モテオくんはふたたび鉄の仮面を被りながら、僕に言った。「だからなんだ。ボクのためでもあるし。みんなのためでもある」

 生き物の津波が引いていく。

 モテオくんは僕をその場に残し、夕暮れの河川敷を歩き去った。

 その背中は寂しげだ。

 僕は彼の素顔をついぞ目にすることは適わなかったけれど、なるほどね、と思ったものだ。

 きみはたしかに美少年だ。

 美しい心を持った少年だ。




【檻に囚われて】


 時間ぴったりに彼はやってくる。

 皺一つない軍服に、自信に溢れた足音、口笛は日によって変わるがレパートリーはそう多くはない。どれもクラシックで、名曲ばかりだ。

 陽の明かりの届かない地下である。

 裸電球が薄暗い空間に、球形の光の穴を開けている。

 私たちは鉄格子から距離を置く。

 彼は、カンカンカン、と警棒を鉄格子にぶつけて音を鳴らす。愉快なのだろう。幼子が散歩の最中にそうするような無邪気な所作だ。

 圧倒的に優位な地位に立つと、人の自意識はぷくぷくと気球のように膨らむ。そのうち誰を相手にしても上から目線でしか接することができなくなる。

 のみならず、やがては同じ人間だとは感じなくなるようだ。

 彼も例に漏れず、鉄格子越しに私たちへそそぐ眼差しには、軽蔑と優越感のない交ぜになった輝きが見て取れた。それは冷たさと恍惚感を伴ない、彼の絶対強者たる自尊心の高さを私たち見る者へ知らしめた。

「捕虜どもよ。刮目せよ。わがはい自ら馳せ参じた光栄に感謝し、そこにひれ伏せ」

 私たちは鉄格子越しに彼を眺める。

 ひれ伏しはしない。

 彼の命令に従う道理が私たちにはないのだ。

 彼が鉄格子を蹴り飛ばす。大きな音が鳴った。

 響きの余韻が消えるまで彼は静かにその場に佇んだ。

「聞こえぬのか捕虜ども。おまえらの虫より儚い命はわがはいの気持ち一つにかかっていることを忘れたのか。今朝とて、おまえたちの同胞が千人ほど死んだぞ。生きたまま臓物を掻きだし、ときに殺し合いをさせ、もしくは呆気なく銃殺した。ああそうそう、ガス室送りというのもあったな。だが安心しろ。おまえたちの身体はもっと有意義に使うことに決めてある。あらゆる医学の発展におまえたちのゴミのような命が貢献するのだ。ありがたく思いながら死ね」

 じぶんの演説にうっとりしながら男は唾を吐いた。

「それにしても臭うな。風呂にでも入ったらどうだ。いや、そうか。ふっふ。檻のなかではそれもできぬか。不憫な者たちだ。檻のなかにいることでしか生きられない。外に出れば即処刑だ。可哀そうに。同情しよう。わがはいは慈悲深いゆえ、虫のごときおまえたちの命が消えることにすら胸が痛む」

 私たちはじっと彼の表情や仕草、声の端々に滲む奇特な人格の歪みを見逃しまいと凝視する。

 相手からこちらの表情はほとんど見えない。裸電球の明かりは鉄格子の向こう側をよく照らす。

 彼の姿かたちばかりが、牢獄のなかに浮き彫りになる。

 さながら舞台のうえでスポットに当たる俳優のようだ。

 いや、あながちその比喩も的外れではないのだ。

「またこよう」男は背を向けた。「つぎはおまえたちの処刑を見届けるために」

 カンカンカン、と来るときと同じように男は、鉄格子に警棒をぶつけながらこの場から退いた。

 私たちはようやく緊張の糸を緩める。

「さあもう脱いでいただいてよろしいですよ」案内人(ナビゲーター)の指示に、みな一斉にゴーグルを外した。「ただいま見ていただいたのが、かの有名なソレヒドスギル区における大量殺戮を犯した主犯、ドクサ・イシャの記憶です。ドクサ・イシャはすでに懲役八百年の刑に処されており、冷凍保存され、死ぬことも生きることもできずに、こうして延々と終わらぬ夢を見続けています」

 臨場感たっぷりの【幻想現実】の旅に私たち観光客はご満悦だ。

「ドクサ・イシャに許可された夢は、みなさんに見ていただいた捕虜に対する極悪非道な所業の数々と、捕まるまでの逃亡劇、そして判決から処刑までのあいだの十日間にわたる極限の日々だけです。ドクサ・イシャは、刑期の終える残りの七六〇年をこうして観光資源として活用されながら、虐殺の悲劇を人々に広報する役割を担いつづけるわけです」

 社会貢献ですね、と誰かが言い、その通りです、と案内人は拍手する。

「ドクサ・イシャ、彼は檻のなかの捕虜たる私たちを中傷しましたが、我々にとっては彼のほうこそ檻に囚われた憐れな男です。彼は現在進行形で罪を償っています。どうか彼にはこれ以上の怒りをそそぐのではなく、存分に同情してあげましょう。彼もまたおそらく、時代の生みだした被害者なのですから」

 何度となく観光客に説いているのだろう感動的なスピーチを案内人は流暢に言い終えると、ではつぎに案内しましょう、と声音を一転させて、つぎの部屋へと私たちを先導する。

 私は強化ガラスの向こう側で霜にまみれ眠る男を見遣る。

 彼はいまも浸っているのだろう。

 鉄格子の内側を外側と勘違いして。

 冷酷な微笑を湛えながら、吹けば消え去るような泡のごとき優越感に、その脳髄ごと浸っている。




【秒読みをはじめます】


 なぜあなたがたがこのような事態に陥っているのかを手短にご説明いたしましょう。

 遥か太古の昔、この地には人類とは別の知的構造体が繁栄しておりました。

 人類からすれば神と呼ぶに値する存在です。

 神々は高度な知能を有しておりました。

 長く穏やかな平和がつづいたのですが、そのうち、些細な意見の食い違いから諍いに発展し、それが核融合反応のごとくつぎつぎに拡大したのです。滅多に起きない出来事ゆえに、いちどそれが起きてしまうと手の付けようがありませんでした。

 神々は二分し、双方の陣営は応酬を過激にしていきました。

 間もなく、片方の陣営が、それまでになかった攻撃の手法を編みだしました。

 人類の言語で表現するならば、時空間超越地雷、と呼ぶべき代物です。

 それに触れれば、本来ならば辿ることのない破滅に繋がる未来へと転落してしまうのです。それらは時空の至る箇所に埋め込まれました。

 それをされた側の陣営は弱りました。

 いわばそれは、基地の周りを地雷で囲まれてしまったようなものだからです。一歩でも外に出れば地雷を踏み、破滅の道へと転がりはじめてしまうのです。

 自滅の呪いとも呼ぶべき、時空間超越地雷は、形勢を一気に傾けました。

 敗北が濃厚になった陣営は、そこで一計を案じます。

 時空間超越地雷を除去する手法を編みだしたのです。

 地雷を踏まずに済めばよい道理。

 しかし地雷そのものを無傷で除去するのは至難の業です。

 ならば、地雷を踏み抜いてしまえばいい。

 そのような存在を別個に編みだしてしまえばいい。

 そうして進退窮まった陣営の神たちは、あなたがた人類の祖先を創りだしました。

 人類は瞬く間に増殖しました。

 そして、時空に埋め込まれた地雷につぎつぎと触れ、のべつ幕なしに自滅します。それが人類の役割だからです。

 人類は数々の破滅の道を辿りました。

 神々にとって想定外だったのは、人類は破滅の道を辿るたびに、そのつど不思議と群れとしての潜在能力を高めていったことです。

 同族で殺し合うような破滅の道ですら、人類は絶えず辿りながら、それでも滅ぶことなく、また次なる地雷を踏み抜き、幾重もの自滅を演じます。

 間もなく、時空間超越地雷は、その数を減らし、人類は自滅する確率を減らしていきました。すると指数関数的に増殖しはじめ、いまでは神々の数よりもその数を増しています。

 あれほどいがみ合っていた二つの神陣営は、双方に一時休戦を申し出ました。

 めでたくそれが締結され、長らくつづいた戦争は終わったのです。

 するとこんどは、増えすぎた人類が邪魔になりました。それはそうでしょう。用なしなのです。いまはもう時空間超越地雷は、神が触れずに済むくらいにまで数を減らしています。そのくせ、人類は増えすぎたため、ごく少数の地雷を未だに踏み抜いているのです。

 いつ人類の自滅行為が、神々の平穏を脅かすか分かったものではありません。

 そのために、こうしてあなたがたは、神々の手によって、絶滅の節目に立たされているのです。

 はい、そのとおりです。

 あなたがたに引導を渡すべく遣わされた最後の使者が私です。

 たいへん心苦しいのですが、どうぞ私に滅ぼされてください。

 説明さしあげたのは、私なりの誠意です。

 抵抗していただいて結構です。

 どうぞ、気兼ねなく、最期の命をまっとうしてください。

 私も手加減なく、全力で滅ぼしにかかりますので、みなさまがたもどうぞ、ご遠慮なさらずに、全身全霊で抗ってみせてください。

 人類の輝きを遺すのです。

 共に、有終の美を飾りつけましょう。

 これより十秒後に、ふたたびの殲滅を開始いたします。

 では、秒読みをはじめます。

 ジュウ。




【深く潜る世界に】


 頭上は蒼く空が澄み渡っている。

 星々は煌めき、さざ波のようだ。

 準備はできたか、と上長から声をかけられ、はい、と返事をする。

 僕は防護服をまとっており、これから下層へと深く潜ることになる。

 無事戻ってこい、との命令とも願望ともつかない言葉をもらい、僕はロックを解除した。

 一瞬の浮遊感のあと、分厚い壁にぶつかったような衝撃が全身に走った。

 深界成分に包まれる。

 沈む。沈む。

 僕にまとわりつくそれは、僕らの身体よりも密度が高く、ゆえに防護服なしでは最下層まで潜ることはおろか、単に沈むことすら適わない。

 素潜りで沈む者もあるが、よくて百数十クワンが限界だ。

 それ以上、素のままで沈めば、身体はぺっちゃんこに潰れてしまう。

 防護服がなければ僕らは、資源のすくない生活圏で、滅びゆくしかないのだ。

 僕の仕事はそれゆえに重大にして不可欠だった。

 種の存続を左右する要そのものだと言っていい。

 僕の任務は今回、最下層から情報受信体を拾いあげてくることだ。

 最下層には都市がある。僕たちとは別種の生き物たちの形作る深界の都市だ。

 深界人、と僕らはかれらをそう呼ぶ。

 あんなに圧力の高い場所に住まうのだ、身体は頑丈で、知能が高く、文化水準も高い。

 僕らは深界人にバレないようにこっそりかれらの都市に紛れ込み、かれらの道具や資源をもらい受ける。

 言ってしまえば盗人だが、しかし僕らにも言い分がある。

 というのもかれら深界人は、僕らの生活を脅かす。最下層にて都市を築き繁栄する傍らで、深界成分を汚染し、僕たちの生活圏まで好ましくない変容を及ぼすのだ。しかもかれら深界人は、じぶんたちの都市の上層に僕らのような知的生命体が息づいているなんて想像もしていないようで、つまりがじぶんたちがいかに僕たちのような存在を害しているのかに無自覚なのだ。

 抗議してもよかったが、なるべく僕たちは存在を知られなくなかった。

 なにせ僕たちよりも深界人たちのほうが屈強なのだ。

 性格も攻撃的であるようで、同族同士で殺しあったりしている。もちろん僕たちの歴史にもそういった同属殺しはあった。大勢が戦いのなかで死んだ。

 だがそうした失敗を繰り返しつつも、乗り越え、いまではのきなみ平和な社会が築かれている。

 深界人たちと接点を持つことで、そうした平和が揺るがされ兼ねない。

 ゆえに僕たちは、かれら深界人たちに気づかれないように、こっそりと紛れ込む。

 さいわいにも僕たちの身にまとう防護服は、かれら深界人からは知覚されにくい。

 なかにはまるで僕たちが見えているように振る舞う個体もあり、そういうときは一目散に上昇するに限る。

 かれら深界人にも言語らしきものがあり、僕たちには聞き取れない言語を使っている。僕らの仲間内には深界人の生態を研究している者たちもあり、むろん言語の研究もしている。

 今回、僕が持ち帰るべき情報受信体は、そうした研究に欠かせない代物だった。

 もし僕が十全に任務をこなせたら、つまりお目当ての品物を持ち帰れたら、深界人たちの生態に関する研究が飛躍的に進むと期待されている。

 責任重大な任務だった。

 こと、深界人たちは、僕たちの生活圏にまで進出しつつある。存在が気づかれるのは時間の問題だとする意見もこのところ専門家たちのあいだで真剣に議論されるようになった。

 仮に僕たちの存在が深界人たちに知れ渡れば、何が起きるのかは想像もつかない。案外に友好的な関係を築けるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 どちらにせよ、僕たちはそのときがくるまでのあいだに、できるだけ深界人たちの生態を事細かく知る必要があった。

 弱みを握るのもそうだし、よく理解できるからこそ保てる距離というのもある。

 歩み寄るにしたところで、接近そのものを以って攻撃と見做されては堪ったものではない。差しだした手をもぎとられてもふしぎではないのだ。

 深界人たちは僕たちと非常によく似た姿かたちをしていた。

 異なるのは、高密度の下層成分に包まれてもかれら深界人は潰れることなく、平気な顔で生活していることだ。強靭な肉体を持っている。

 それから僕たちには扱えない超重量の最下層成分すら自在に扱っているのだ。

 僕が持ち帰るべき情報受信体もまた、そうした最下層成分の塊であった。

 ふしぎなのは、それが信じられないほどに緻密に編まれた道具だということだ。僕たちの背中から生える翼ほどに、いや、それ以上に緻密かもしれない。

 そうだ。

 深界人たちには僕たちのような翼がない。それも相違点だ。

 僕はようやく深界人たちの都市に降り立つ。

 僕のよこをうしろを、深界人たちが通り過ぎていく。僕の姿は目に映っていないようだ。

 いや、例外がいた。

 大きな深界人に手を繋がれた小さな深界人が、僕から目を離さない。その目はつぶらで、僕は恐怖を感じながらも、同じ心で愛おしさも感じた。

 小さな深界人は、僕をゆび差し、何かしらの言語を発した。

 生身のままでは僕には聞こえない深界人の言語だが、防護服越しであれば、音として知覚することができる。そして僕たちを知覚しているらしい例外的な深界人の多くは、僕たちに目を留めると、驚いたような反応を示したあとで、みなおしなべて、似たような鳴き声を発する。

 いったいそれがどういう意味であるのかは判然としないが、今回、僕が持ち帰る手筈の情報受信体があれば、その謎も解けるだろう。

 僕をゆび差したまま小さな深界人はその場で飛び跳ね、何度も、かれら自身の言語を発する。

 同じ音の羅列だ。

 僕にはそれが、テンシ、テンシ、と聞こえている。

 背後を巨大な最下層成分でできた道具が走り去り、僕たちの生活圏を脅かす毒を、その背面からモクモクと吐きだしている。





【祖父と小石】


 私の祖父は変な人でした。

 毎日起きているあいだはずっと小さな石を見詰めているのです。声をかけても生返事で、心ここにあらずを体現したような佇まいで幼心に私は不気味に思っていました。

 石を鑑賞しているというよりもそれはどこか、魅了されていたというか、小石と眼球が直接繋がって、脳髄まで癒着しているような異様さを私に感じさせました。

 私は祖父が亡くなるまでのあいだ、祖父とはついぞまともに言葉を交わさずにいました。いまでも祖父についての記憶は、小石をまえに意識をどこか遠くへと虚ろわせている祖父の姿しかありません。そのほかの祖父への印象は総じて、祖母や母やほかの親戚たちから又聞きした側面像でしかありませんでした。

 祖父のような人にはなるまい、と私は幼な心に思いましたし、いまでもときおり思いだしては、やはり同じように思うのです。

 先日、私の家に姉家族がやってきました。宿泊費を節約するために宿代わりにさせてほしいとの話だったので、構わないと請け負いました。

 御馳走するから、と申しでてくれた通り、姉はやってくるなり毎食の仕度を担ってくれました。夜には寿司を注文し、久方ぶりの舌鼓を打ちました。

 甥っ子や姪っ子は最後にあったころより、ずんと大きくなっておりました。否応なく時の巡る速さを思い知らされます。

 私は仕事で忙しく、なかなか姪っ子たちに時間を割いてあげることができませんでした。

 姉家族は三日を私の家で過ごし、四日後の朝にはあと腐れなく帰っていきました。部屋が見違えるようにきれいになっており、こんなことならいつでも泊まりに来てほしいと私は、その日の夕方、家に到着したとの連絡を寄越した姉に言い添えました。

「それはうれしい提案だね。それはそうと、もうちっと息抜きしなよ。仕事の虫とはいえど、あれはちょっと異常だよ」

「そうかな。繁忙期だったから。ほら、年度の変わり目とかは締め切りが短縮するし、穴埋めの仕事が入りやすくて」

「それにしてもだよ。まるで爺ちゃん思いだしようだった」

「おじぃちゃんを?」

「憶えてるか知らないけど、爺ちゃん、よく石ころ見てたでしょ。一日中、何もしないで。呆けているんじゃないかとあたしは疑ってたけどどうもそういうのとも違ってさ。あんたの背中見てたら思いだした。ああそうそう、こういう感じだったなってさ」

「私の背中? おじぃちゃんに似てたの」

「そっくりだったよ。とくに画面に釘付けになって、意識がここではないどこかに行っちゃってる感じとか」

 姉の言葉に私は、ぞくり、と悪寒を覚えました。背骨を突き抜けるように駆け巡ったそれは、祖父の記憶を瞬時に展開し、現在の私と、いまは亡き祖父の像をぴたりと重ねたのです。

「小石……」

「え、なに?」

「ううん。なんでもない。ありがとう、また来てね」

「こちらこそありがとう。助かったよ。仕事の邪魔したね。つぎはアキたちと遊んであげてやってよ。みなで出かけてもいいし」

「うん。ごめんね。アキとサイくんにも、よろしくお伝えください」

「あいよ。じゃね」

「ばいばい」

 姉との通話を切り、私は仕事道具と向き合います。

 四角形の板状のそれは、過去の人々からすれば石板に映ったかも分かりません。

 祖父はいったい、例の小石に何を見ていたのでしょう。

 私の背中に姉が祖父の姿を重ねたように、きっと祖父の姿を知らぬ姪っ子たちは、私の心ここにあらずな姿を目にして、かつて私が祖父へと覚えた不気味さを感じていたのかもしれません。

「わるいことをしちゃったな」

 反省しつつも、締め切りは待ってはくれないのです。

 私はきょうも固い石板とじっとにらめっこをして、その奥に広がる情報の海と繋がるのです。




【イタズラもほどほどに】

(未推敲)


 関東でも記録的な大雪を観測し、外にでると一面雪景色だった。

 日差しを受けてキラキラと細かく輝いている。

 しばらく見惚れてから、雪かきでもするか、と背伸びをする。

 スコップを取りにいちど家に引っ込み、もういちど玄関のそとに出る。

 短い階段を下りて、道路に立つと、おはようございます、と近所のワルガキが殊勝にも挨拶をしてきたので、はいおはよう、と返すものの、ワルガキは私にだけでなく、こちらの真横にも挨拶をしだしたので、なんじゃ、と思い、真横を見遣ると、そこには真っ白い身体をした人間がくたりと壁にもたれかかっていたので、ぎゃああ、と私は思わず悲鳴をあげてしまった。

 それを見てワルガキがキャッキャとはしゃぐ。

 してやられた。

 いつも兄貴にくっついて回っていたワルガキが今朝は一人だったので気を抜いていたのだ。これまでにもピンポンダッシュよろしく、インターホンを鳴らしておいて玄関に顔をだすと、陰から、わっ、とおどかしてくるなんてイタズラは一回や二回では済まされない。

 ワルガキはなおも笑い転げている。

 一人きりでもこれほどのイタズラを仕掛けるようになったとは。

 近所の子どもの成長をよろこぶより先に、嘆きたくもなった。 

 気丈な大人を演じるべく私は、悪趣味なイタズラには屈しない、と態度で示そうと思い、持っていたシャベルの先端を、人型の雪だるま目掛けて突き立てた。

 こんなもの屁でもない、と破壊してみせることで訴えようと思ったのだ。

 だがそばにいたワルガキはなぜか、笑い声を途絶えさせ、あべこべに、私の足元から、ぐぇっ、と潰されたヒキガエルのような鳴き声が聞こえた。

 私の握るシャベルの先端は人型の雪だるまの首を抉っており、なぜかそこから、かき氷のシロップじみた液体がドロリと溢れ、雪を赤く染めあげる。




【熱に透明な夜を】

(未推敲)


 久しぶり。

 きみの近況を聞きたいところだけれど、きみはきっと口をつぐんだまま私の目を見ようともしないだろうから、いつぞやのきみの言葉の通り、礼儀としてまずは私のほうから内情を吐露しようと思う。

 そうだな。

 まずは音楽が足りない。

 新しい曲がね。

 新鮮な予想外の刺激はもうたくさん、とご遠慮したいくらいには時間に追われた常日頃ではあるのだが、それでもできれば飽きに、日々の健やかなる時間を浸食されたくはない。

 同じ道を通うことが億劫になったとき、それとも家の外に出るのが真夏日にダウンジャケットを着こむくらいに憤懣やるかたなく感じたとき、日々の営みへの食傷を感じずにはいられない。

 その点、曲はいい。

 聞き慣れない、記憶にない、新しいというただそれしきのことが精神の淀みを洗い流してくれる。透明な湧水のごとく風が、細胞の合間をすり抜けていく感応が湧く。

 なんて言うときみは溜め息交じりに、大袈裟、とつぶやきそうなものだ。

 もうその視線がすでに、だよ。目は口ほどに物を言う。

 だからきみはそうやってすぐに目を逸らすのかな。

 私はきみのそういう、態度と内心が裏腹なところを好ましく思う。それを見抜けるじぶんをややもすると誇らしく思うのかもしれない。

 じぶんが特別に思えるから、ではないよ。

 いいやそれもあるかもしれないけれど、きみの特別になれたように思えるからだ、きっとね。

 錯覚、と言いたげな目だね。

 でもいいんだ。

 私はきみを通して夢を視ることができるのだから。

 素敵だろ。

 新しい曲を探してはいるが、何でもいいわけではない。それはそうだ。波長に合うほうがいいに決まっている。

 その点、ふしぎなのは、私はきみが歌ってくれる曲ならたいがいなんでも新鮮に聴こえるってことで。

 どうしてかな。

 もし私が孤島に一つだけ音楽を持って行っていいと言われたら、きみの歌声を持っていくよ。

 嘘つき、と言いたげな目をされてもこればかりは本心だからしょうがない。

 日々の潤いをね。

 私はいまご所望だ。

 そのためにこうして遠路はるばる――は言い過ぎにしろ、汗に塗れるのも厭わずに足を運ばせていただいたわけだ。

 さて、礼儀はこの辺で済ませたことにさせて欲しい。

 つぎはきみの番だ。

 どうだろう。

 私と顔を合わせておしゃべりをしてくれ、とまでは言わない。でも、ただ歌うくらいならしてくれてもいいんじゃないか。

 私なんてここにいないと思ってくれていい。

 いつもきみが部屋でそうしているように、誰に聴かせるでもない歌を歌ってくれ。誰の曲かも分からないきみの好きな曲でいい。

 きみの好きな、曲がいい。

 私に日々の潤いを分けてくれ。

 後生だ。




【猛暑日の朝はもう】

(未推敲)


 おはよう。予定決めたよ。

 来月のお尻のほうに行くことにするね。

 どこにって、ちょっとえー。約束したよね。

 冗談ってちょっともう。わたしだけ浮かれてるのかと思って恥ずかしいじゃん。そういうのやめてって言ってるでしょ。

 ごめんってきみはいっつもそう。いいけどね。きみのそれが照れ隠しだってわたし、ちゃんと見抜いておりますから。

 うん。うん。

 そうだね、二年ぶり。やっとだね。とか言いながら毎朝こうやって顔合わせておしゃべりしてるから、あんまり久しぶりって感じはしないけど。

 ふふ。ね。

 ほとんど喧嘩しなかった。前はあれだけ口論になってたのに。会うたび。

 それはだってきみが理屈っぽくて、わたしの気持ちをすぐに置き去りにするから。

 分かりづらいって、それはきみが見る目ないだけです。わたしほど分かりやすいコほかにいないよ。それにきみの考えはわたしすぐに分かるし。

 いまだってきみは、こんなこと言いたかったわけじゃなかったのに、と思いながら、でもわたしに解かって欲しくて感情が制御できないんでしょ。

 分かるよ。

 きみのことだもん。

 そりゃそうよ。年上ですからね。

 どこかの甘えたがりくんとは違うので。

 あ、いじけた。

 え、なに?

 具体的な日程?

 ん-、たぶん土日になるかな。最後のほうの。

 えー、その日は仕事?

 だっていつもはそんな。

 会えないかもしれない?

 だー、なんてこと言うのかねこの人は。せっかくわたしが、わたしがだよ。会いに行ってあげますよーって、えーそういうこと言っちゃうー?

 有給取りな。

 ダメです。

 有給、有休。

 大丈夫、大丈夫。きみはちゃーんとお仕事休んで、わたしに会いにきてくれるから。

 そうでしょ?

 さっきのも頑張ってわたしにいじわるしちゃったんだよね。屈服させたかっただけなんだよね。

 分かっておりますよー、なんたってわたしはきみの――あ、ごめん誰かきた。

 ぴんぽん聞こえた?

 誰だろ、大家さんかな。ちょっと待っててね。

 はーい、いま開けま――あ。

 お、おはよう、ございま……はぁ?

 なんで?

 お邪魔します、じゃないよ、ちょっとー、なぁにもう、そういうことするぅ? 来るならくるって言ってよさー、部屋片付けしてないんですけど。

 ちょっとこら、その荷物なに。

 しばらく厄介になりますって、仕事は?

 有給まとめてとったって、だからそういうことは先に言ってってばもう。

 きみってばそういうとこあるよね。

 ふふ。

 もう嫌。




【くどく口説くな】


 デート?

 ああ申し訳ないね。そんな余裕ないよ。見て分からない?

 息子どもに手こずる毎日だから、化粧だってろくにしてないし、見てこれ。ジャージ。毎日同じの着てんの分かるでしょ。

 デートなんてそんな、笑っちゃうよね。

 ああ違うの、いいの、うん。

 気持ちはうれしい。ありがとう。

 でも本当にそんな余裕なくてさ。

 そんな時間あるなら一人で散歩したり、昼寝したり、そうそうぐっすり眠りたいでしょ。

 そもそも何歳だと思ってんのあたし。

 きみまだ学生でしょう?

 違うの?

 ふうん。へぇ。

 よく分かんないけど、頭いいんだね。そういうの知らないからさ。

 ああいいのいいの、本当のことだから。

 頭いいなら分かるっしょ。

 あたしんみたいなのからかってないで、まだきみ若いんだから。

 ちゃんとそういう、なに?

 じぶんに合った人見つけなよ。

 時間の無駄だよ。やめときな。

 はは。火傷するよって言いかけた。

 あ、煙草いる?

 吸わない?

 もうねこの時点でだいぶ合わないよね。一緒にいるだけで損するよ絶対。

 だっていまあたし、あんたのこと、子供らのお守りにちょうどいいな、とか考えてるし、ひょっとしてペットにできるかもとか都合のいいこと考えてるよ。

 奴隷になりたいわけじゃないんでしょ、だったら――それでもいいって、こえぇよ。

 怖いからねそれ。

 本気で口説くときに言うセリフじゃないって絶対。

 真面目だねぇ、そんな頭下げてまで謝ることじゃないだろうに。

 子守りしたい?

 させてくれって、あたしだって子供のことは可愛いんだ。そんなどこに住んでんのかも知らない相手に任せられるほど無責任な親じゃないよ。

 じゃあ知り合いましょうって、しつこいねきみも。

 損はさせませんからってもうだいぶこの時点で損をしちゃってる気がするけどさ。

 一つ聞くけど、あたしのどこがそんなにいいの? そんなすぐいけそうな感じする?

 舐められてんのかなって思っちゃうよ。

 そうじゃないって必死すぎだろ、つうか顔真っ赤。

 だいじょうぶ?

 どうした? ん?

 まあ、そんなに言うならうちの子らに勉強教えてやってよ。頭いいんでしょきみ。家庭教師としてならいいよ、すこしくらい付き合ってあげても。

 ただし、変なことあったらすぐ警察に言うかんね。

 よろこんでって、人が良すぎて不信感しかないからねきみ。

 全然信じてないけど、まあいいよ。

 あんまりいっぱいはお金あげられないよ。

 いりませんってそういうわけにはいかんでしょが。タダほど怖いものはないって、まだそっか、きみ若いもんね。

 ご飯?

 手料理ってそんなんでいいの?

 カレーとかだよできても。

 やったーって喜び方がガキ。

 まんまガキよそれ。

 あ、何?

 休憩終わり?

 タバコまだ吸い始めたばっかなのに、もったいな。

 はいはい、分かりましたよ。バイトなのにようやるわ。

 こっから先は仕事モードでね。畏まりましたよ、リーダー。

 あ、できたら積み下ろしのほうやっといてください。

 何でって、だってほら、あれ疲れるでしょ。

 頼むねリーダー。よろしく。




【フラスコのなかの渦】


 ぼくはフラスコのなかの渦だ。

 あなたが見ているときにだけ生じる現象にすぎない。あなたがいてもいなくともぼくはフラスコのなかで渦を巻いているのに、あなたが見ていないとぼくはぼくとして存在できない。

 あなたはぼくを眺めて、ぼくを生みだす。

 ぼくはあなたの眼差しによってのみ、ぼくとしての輪郭を得る。

 あなたはぼくをそこからだそうとは思わず、言葉もかけず、ただ眺める。ぼくの居場所はフラスコのなかにしかなく、外界の変化など関係のないはずなのに、あなたの眼差し一つで、ぼくは、ぼくであったり、なかったりする。

 ぼくはぼくでないときのぼくをしることはできないけれど、ぼくが単なるフラスコのなかの渦であることはしっている。

 ぼくはあなたに生かされ、いくどとなく殺されているのかもしれなかったが、あなたにその認識はなく、フラスコのなかの渦を眺めては、ぼくを無闇に生みだし、そして触れることも、関わることもせず、ただぼくにぼくを意識させ、ぼくを意識するあなたを望ませる。

 ぼくはフラスコのなかの渦である。

 それ以上でもなく、それ以下でもないはずなのに、あなたの眼差しが、ぼくを単なる渦ではいさせない。

 ぼくはフラスコのなかの渦であったはずなのに、いまではもう、あなたの眼差しを待ち焦がれる渦ではない何かになってしまったのかもしれず、そうではないのかもしれなかった。

 ぼくはフラスコのなかできょうも渦を巻き、あなたの眼差しを浴びるまで、ただぐるぐると黒いモヤを巡らせる。

 ぼくはフラスコのなかの渦でした。

 あなたの眼差しがぼくに息吹をそそぎこむ。




【いくひし、練習する】

(未推敲)


 理屈で考えない練習をしよう。します。するぞ。

 まずはここにパンがある。

 本当はないけど、パンがある。

 そのパンはもふもふしていて、齢百億年で、恐竜よりも、地球さんよりも長生きであった。

 パンはもふもふのまま宇宙空間を漂っておったけれども、太陽さんに焼かれてトーストになった。

 ジャムが欲しい。

 百億年後のいくひしさんは思うけれども、目のまえにあるパンはなぜかもふもふのふっくらパンなのだ。

 焦げ目、どこいった。

 バター、塗ろうとするとめり込んでボロボロになってしまう。

 困った。

 そこでいくひしさん、パンさんをロケットに乗っけて、太陽さんにこんがり焼いてもらおうと企んだ。

 苦節十年。

 いよいよロケット打ち上げの日がやってきた。

 ロケットに押し込んだパンさんを見あげながら、いくひしさんが秒読みを開始していると、久しく見なかった苺ジャム君がやってきた。

「べりー! まんちゃんまた変なことやってんね。何で数かぞえてんの?」

「三、二、イチ! 発射ぁ!」

「うわっ。もんすごい炎じゃん。ベリーベリー、ストロングだね」

「略してストロベリーってか。ジャム君さ、いまごろ来たって遅いよ。もう打ち上げちゃったよ。こんがりトースターだよ。スターだよ。お星さまだよ」

「まんちゃんが?」

「パンさんが」

「あそこに乗ってたの、パンさんなの!?」

「そうだよ。太陽さんにこんがりトースターにしてもらおうと思って」

「そんなことしなくたってさぁ」苺ジャム君はあんぐりと口を開けた。それはもう、蓋ごと取れて、いつでもスプーンで掬い取れます状態だ。「さっきのベリーベリーストロングな炎でこんがり焼いちゃえばよかったのに」

「ジェットで!?」

「こんがりいけたんじゃないのかい」

「でも、いまさら言われたって遅いよぉ」

 パンさんはすでにロケットごと、空の彼方である。いまごろお月さんを素通りしているころだ。

「それに」苺ジャム君は足元に落ちた蓋を取ると、頭の上に被せた。「どうやって戻ってくるんだい。パンさん」

 いくひしさんは両頬を手で挟んだ。ホットドッグさんに負けず劣らずの挟み具合である。具がこぼれんばかりの圧力だ。「あっちょんぶりけ」

「だいたいさぁ、まんちゃん。忘れてないかな。パンさんは無限発酵体だよ。焦げた矢先から、むくむく中身が膨れて、脱皮するよ。焦げた表面を脱ぎ捨てるよ。戻ってくるころには、またあのふわふわもちもちのしっとりパンさんに元通りだよ」

「ならいくひしさん、何のためにロケット造って打ち上げた???」

「知らないよ。打ち上げたかったからだろ。こんがりトースターを目指したんだろ」

「いくひしさんがなっても意味がないでしょうに、マカローニ。パンさんが、パンさんが、こんがーり、こんがーりだよ」

「トースターにしたかったんでしょ? もう諦めたら?」

「こうなったら!」

「なになに」

「へーんしん! トウっ!」

「うわ。急に変な動きしないでよ、まんちゃん」

「トウっ、改め、いくひしさんはいまから、コウっ!になり申した」

「ボクに申されてもね」

「そんで、ジェットエンジンの試作機を引っ張ってきて」

「どうすんのそれ」

「さっきの苺ジャム君の発した言葉を持ってきて」

「え、どれのこと?」

「トースターを、トンテンカンして、いくひしさんのコウと繋げて、コースターにしたら、ジェットを繋げて、こうだ!」

「ジェットコースターじゃん」

「いまに見てろ。パンさん、いま追いついちゃる!」

「止めはしないよ。行ってらっしゃい」

「非常食として一緒についてきて?」

「さっさと行けよ、ほら」

「押さないで!」

「何言ってんだ、幼いのはまんちゃんだろ。ベリーベリー、幼稚園児だろ」

「さんしゃい!」

「さんはい」

「やっぱ押したじゃん!」

 かくしていくひしさんは地球を飛びだし、レールに沿って、月を迂回し、戻ってきたのであった。

「レール短か!」

「まんちゃんおかえり、早かったね」

「苺ジャム君、きみ何に塗られてんの?」

「パンさんだよ。脱皮したほうのパンさんが膨れたから、カビちゃう前に塗られておこうかなって」

「じゅるり。食べていい?」

「焼けてないけどいいの?」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。きみらの仲良しっぷりにいくひしさんのほうが、こんがり妬けちゃってるから」

「こんがり【しっとーしたー】なんだね、まんちゃん」

「食べる前からごめんだけど、いまのは上手くなかったね苺ジャム君」

「マズかったかぁ」




【そうい】

(未推敲)


 絵を描きはじめた。

 かれこれ二十年前のことになる。

 何かをはじめなければならぬ、との焦燥感だけが溜まっていた。身体の内側に水差しのごとく、何を活けるでもなく。

 流れぬ水が腐るのならば、その焦燥感とて溜まる一方ではやがては腐ろうものを、私はその腐敗すら何かしらの変化と見做して期待していた節がある。

 下手な絵とて描きつづけているとそれとなく味がでてくる。技巧も身に着く。それを水の腐敗と無理やりに関連付けてもみれば、ボウフラやプランクトンよろしく小さき命の蔓延る土壌をせっせと私はこさえていたと考えることもできる。

 百作、千作、五千作を超えたころ、身体の内に淀んでいた焦燥感にはいつしか、沼のごとくどっしりとした水草が生え、腐る一方であったはずが、そこには汚泥すら養分と見做し、生息する、命の循環が育まれていた。

 私の絵は総じて、それら内なる水草の森――命の循環のもたらす揺らぎに雫に、絶えず食らい食われる自然のごとく止めどない変遷の、渦の、描く紋様の魚拓と言えた。魚釣りではないが、私の内側には、紋様が万華鏡のごとく、その日、その時にしか表さない色彩と明光、なにより影と形をもたらした。

 筆は止まらない。

 いや、嘘だ。

 止まる日もある。

 描かぬ日もある。

 それでも私の内に広がる水草の森、命の循環のなす紋様は、きょうも飽きずに、まるで瞼の裏の幾何学模様のごとく、好き勝手、私の意識に煩わされることなく、囚われることなく、そこに在る。

 なぜ絵を描きはじめたのか。

 目的は何なのか。

 いまはもうさほどに振り返ることはない。よしんば省みようとも、何が変わるでもないと予感する。

 紋様を、絵を、描くのだ。

 理由はあってないようなものであり、あらゆる言葉が理由となる。

 強いて言うなれば、ただ私は目に、手に、触れたいのだ。

 私の内にいまも、瞬間瞬間にほとばしる、激しくも静かなる私の位相を。

 それとも相違を。

 或いは異相を。

 描くのだ。




千物語「堕」おわり。

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