千物語「謎」
千物語「謎」
目次
【春夏秋冬の恋】
【宿師】
【かわいい、かわいい、めっちゃかわいい】
【焼肉みたいに言わないで】
【首輪に祈らにゃ眠れない】
【偽りの祈り】
【枕に埋めて】
【海の卵】
【エゴブロック】
【文字鳥の島】
【ファルロツキーズの秘密】
【悪魔禍】
【細胞素材丸見現象】
【虫取り網じゃ無理やろ】
【よくないねボタン】
【空に浮く鍵】
【魔女は乞う】
【ドッペルランナー】
【祖先の祖先】
【言いなりプリン】
【妙味真似】
【勘違い事件簿】
【秘伝の湯】
【優柔不断の乱】
【グッ・ド・ラック】
【春夏秋冬の恋】
冬子さん、と僕は彼女のことをかってにそう呼んでいるけれど、彼女は僕にそんなふうに呼ばれているなんて知る由もないし、僕はそのことを彼女に知らせる術も、ましてや僕の名前すら伝える術を持たなかった。
それでも僕は彼女の存在に気づくことができたし、彼女もまた僕に気づいているようだった。
図書館の建て替えによって、旧図書館と呼ばれるようになったそこが僕の居場所だ。
高校生から足繁く通っていて、大学生に長じてからも夕方になれば僕はそこにいた。
司書さんと言葉を交わすことはないがすっかり顔馴染みになってはいて、もはや図書館の亡霊みたいに見做されている節がある。
彼女の存在に気づいたのはまだ新館が竣工していない真冬の時期のことだった。旧館にあった暖房設備は、建て替えがはじまったのを機にすべて撤去され、かじかむ手に息を吐きながら僕は本を読んでいた。
ふと、生暖かい空気の流れを感じた。
密閉された空間だ。どこから流れているのかと気になった。暖房がついたのか、と思うほどに、その暖気は絶え間なく漂っており、僕は本棚を一枚一枚数えるように目を配った。
本棚の合間を、何か半透明のようなものが横切って見えた。
僕は息を止めた。
目を凝らし、注意深く観察すると、陽炎のようなものが、極寒の室内を、ゆったりと歩いていた。
そう、それは歩いていた。
人型に区切られた空気の揺らぎが、棚の本を物色するように移動していた。
温かい空気は人型から流れでているようだった。
僕は席を立ち、ソレに近づいた。危険に思わなかったのは、ソレの動きが人間離れしておらず、真実そこに誰かがいるように見えたからだ。
人型の空気の揺らぎは僕の接近に気づいたのか、顔らしき部位をこちらに向けると、ぴたりと動きを止めた。
僕らは見詰め合った。
身体の大きさから、人型のそれが女性らしいというのはなんとなくだが察せられた。空気の余波だと思っていた部位が、肩まで伸びた髪の毛だと判ったのは、互いに手を伸ばしあって、僕は彼女に、彼女は僕に触れようとしてからのことだった。
彼女は温かった。
まるでそこだけぽっかりと冬が抜け落ちたみたいに蒸し蒸しと暑かった。暖房の温かさではない。もっと自然に熱せられた、むわりとした熱気だった。
夏だ、と僕は思った。
人型に夏が開いていた。
彼女は何度もふしぎそうに僕の身体に腕を伸ばした。彼女の腕は僕の身体を突き抜けて、内部をかき混ぜるように動かしたり、ときには顔を首まで突っ込んだりした。
輪くぐりのように何度も僕の身体を通り抜けだしたのには驚いたが、そのたびに僕は夏のような温かな空気に触れ、身も心もほくほくとした。
彼女の姿は毎日ではないにしろ、冬のあいだ、ときおり旧館の地下室で、すなわち僕の居場所で見掛けるようになった。
彼女は僕のとなりの席に座った。そうすると僕は彼女から漏れでる夏の熱気に当たって、極寒の部屋のなかであっても凍えずに済んだ。
僕たちは身を寄せ合うように図書館で、静かな読書の時間を過ごした。
なんとか意思疎通ができないかと思案したが、上手くはいかなかった。彼女は机に何かしらの文字をしたためたようだが、僕にはそれを読解することは適わず、僕がそれを真似てノートに文字を書いても、彼女のほうではその筆跡を目で追うことはできないようだった。
きっと彼女には僕が、同じように空気の揺らぎとして見えているのではないか。ゆえに、指の動きのような細かなところまではなかなか目で追えないのかもしれなかった。
陽炎はしょせん陽炎だ。
人間の動きを反映するにはおぼろげにすぎた。
冬が終わると、彼女の姿はとんと見えなくなった。じっさいには彼女の姿を目視したことはなく、空気の揺らぎとしてしか認識できなかったが、そこにはたしかに、人型の何かが存在しているのだと、そうと考えるよりない現象として知覚できていた。
本棚の合間を一筆書きに歩くのが日課になったけれど、彼女の姿をふたたび見かけることは適わなかった。
白熱灯の明かりに埃が舞って見える。
彼女が移動すると埃が動くので、宙を漂う埃に目をやる癖がついた。埃が勢いよく動くときがあり、注視するが、じぶんの息のせいだと判り、肩を落とす。そんな作業にも慣れっこだ。
もう会えないのだろうか。
言葉を交わしたわけではない。何の意思疎通もできなかったが、それでも彼女のそばで本を読んだ日々は、僕にとってかけがえのない魂のよりどころとなっていた。
かけがえのない、の意味とは、彼女と過ごした静謐な時間のことだ、と断言できた。
春が終わり、夏がやってくる。
地下室は熱気がこもっていけない。地下なのだから涼しくてもよさそうなものを、窓を開けられないし、冷房もかからない。具合がわるくなるほどではないにしろ、風がある分、そとのほうがマシなのではないか、と思うことしきりだ。
もしかしたら、という一縷の望みが僕にはあった。
その日も僕は例に漏れず、旧館の地下室におりて、指定席で本を読んでいた。
ふと、冷気が頬を差し、僕は飛び跳ねる。
人型に空気が揺らいでいた。
冷蔵庫を開けたみたいに、人型の揺らぎから白いモヤが立ちのぼっていた。
彼女だ。
いたずらっこのように彼女は僕の顔のある部位に、えいえい、とゆびを突きつけているようだった。
僕のほうからはちょっかいをださない。触れられないとは言えど、彼女の身体に手を伸ばすのは恥ずかしかった。
冬のときは温かった彼女は、夏のいまは冷たかった。
やっぱりそうか、と僕はじぶんの想像が当たっていたことを知る。
僕たちは異なる季節を生きているのだ。それを、世界を、と言い換えてもよい。
彼女が夏の旧館地下室にいるとき、僕は冬の旧館地下室にいる。季節が移ろえばそのまま僕たちはズレたままつぎの季節に突入する。
僕が彼女を知覚できるのは、そのズレがあるからだ。
ゆえに、温度差の比較的すくない春や秋には、彼女の姿を知覚することができにくくなっているのではないか。
僕の考えはおおよそ当たっているとみて、支障はなかった。
彼女は僕を暖房機代わりに重宝してくれているようで、あべこべに僕は彼女から溢れだす冷気が心地よい。
どうして冬のあいだ、彼女が僕にことさら顔を突っ込んでいたのかが分かった気がした。真夏の地下室は、サウナと言って遜色ない蒸し風呂と化している。
建て替えさえなければ冷房がかかっていたのに、いまはそれが止まっている。ということは、彼女のいる世界は、ほとんど僕と同じ時間軸上の世界だと考えられた。
僕はがっかりした。
その仮説が正しければ、彼女は僕とは異なる物理的にべつの世界の住人ということになる。僕の世界をどれほど探しても、本物の彼女と会うことはできないのだ。
肩を落とすとともに、すこしだけほっとした。それはとりもなおさず、彼女もまた探そうとしても僕に会えない事実を示唆するからだ。
こっそりと僕を探し当てた彼女が、僕の姿を見てがっかりする未来は正直見たくない。見なくて済む可能性に思い至って、僕は姑息にもほっとしたのだ。
本来ならば彼女と顔を合わせても失望されないようにいまからでも身だしなみを整えるくらいのことをすればよいのに、僕にはそうしようとする意欲が欠けていた。
陽炎くらいでちょうどよいのかもしれない。
僕のような人間は、身体の輪郭だけを空気の揺らぎとして知覚してもらうくらいの交流で充分なのだ。それ以上の触れ合いは、どちらかと言わずして負担でしかない。
本当にそうなのか。
僕はじぶんに投げかける。ただ傷つきたくなくてそう思い込みたいだけではないのか。
それはそうだ。誰だって傷つきたくはない。
僕は傷つきたくはないのだ。
だからこんな古い図書館の地下室に居場所をつくって、孤独な時間に身を浸している。慰めている。これ以上、傷つかずにいいように、これまでに負った傷を癒すように。
秋になると、彼女はふたたび存在の余韻を晦ませた。彼女ほうではきっと春になっていて、そして夏になるまで、つまり僕のほうで冬になるまで、互いに存在を窺知することができなくなる。
彼女のほうでも大方の推量はついたはずだ。
それとも、季節限定の幽霊とでも考えているのだろうか。彼女のほうで僕を怖がっている素振りはなく、指定席の場所を変えそうな気配はいまのところ窺えない。
外にでると、木々が紅葉しはじめていた。
来週にはきっと彼女は見えなくなるだろう。
新館の竣工は来年の春だ。旧館はそのまま残ると聞いてはいるけれど、新館ができたら彼女はそちらを利用するのではないか。わざわざ不便で陰気な旧館にはこなくなるのではないか。
ざわざわと騒ぎだす胸を手で押さえつけて僕は、透明な揺らぎのひとの名を、冬子さん、とかってに僕がつけたその名を、つぶやき、高くなった空の下を、足元を見つめながら歩いた。
いつかは冬子さんは地下室から永久に消えてしまうだろうことは、僕たちの関係性を抜きに、人間の営みを思えば必然のできごとだと覚悟してはいた。それを、予想していたと言い換えてもよい。
誰だって同じ場所に通いつづけたりはしない。同じ店にいっとき通い詰めたとしても、それを十年つづけるひとは稀だ。いつかはどこかで行かなくなるし、そうでなくとも人には寿命というものがある。
冬子さんが何歳なのかを僕は知らないけれど、彼女にだって生活はあるはずだ。
引っ越すかもしれないし、ほかにもっといい場所を見つけて、そこで過ごすかもしれない。
僕にしたところでそれは同じだ。旧館の地下室が封鎖されてしまえばもう、空気の揺らぎ越しとはいえど、彼女と会うことはできなくなる。
それでも僕はつぎの冬が待ち遠しかった。秋を早回しで過ごしたかったし、飛ばしていいなら飛ばしたかった。達磨落としみたいに季節をスパンと叩き落して、切って貼りつけて、春夏秋冬を、夏冬夏冬にしてしまってもよかった。なんだったらずっと僕が夏を担当してもいい。
極寒と灼熱ならば、まだ着込めるだけ極寒のほうが好ましい。そばには夏の空気をまとった僕がいるから、彼女が凍えることもない。
そんなありもしない世界を妄想して過ごしているうちに、いつの間にか街には雪が舞っていた。例年よりもずっと早い初雪だった。
僕は地下室に急いだ。
大学はまだ長期休みに入っていない。いつもならばその時間帯に僕はそこにいなかったが、一刻も早く、冬の空気に沈んだ地下室に身を置き、ひょっとしたらこの期間も足を運んでいたかもしれない彼女の姿を、空気の揺らぎ越しに見られないかと、クリスマスやお正月にそわそわする子どもみたいに肩を、息を、弾ませた。
地下室の階段を途中まで下りたところで、僕は歩を止めた。
人のカタチに空気が揺らいでいる。
彼女がいる。
ぱっとほころんだ頬が、つぎの瞬間、きゅっと引き攣ったのがじぶんでも判った。
彼女のとなりには、もう一つの人型が寄り添うように、揺らいでいた。
彼女は一人ではなかった。
肩がくっつくくらいに並んで、本か何かだろう、テーブルのうえを見つめている。他人同士には見えなかった。
僕はじぶんが何か大きな勘違いをしていたのだと思った。それがどんな思い違いで、僕はどんな世界を夢見ていたのかを思いだそうとしたけれど、それはもう陽炎のように掠れて、解けて、あとには空虚なじぶんの足音だけが残った。
僕はなぜか地下室には下りずに来た道を戻り、つぎの日も、そのつぎの日も、僕の居場所だった場所には出向かなかった。
指定席ではなくなった。
僕のいるべき場所ではなくなった。
それは僕が気づかないだけで、もっとずっと前からそうであって、そもそもあそこに僕の居場所など端からなかったのかもしれなかった。
それはそうだ。
あそこは古いとは言っても図書館で、公共の場だ。僕以外のひと気がなかったからといって、あの空間を独り占めできる権限も、資格も、僕にはないのだ。
いつだって彼女はあそこで僕以外の誰かと過ごしていたのかもしれなかった。僕は一方的に、彼女は一人きりなのだと思い込んでいた。
僕と同じように孤独なのだと思い込んでいた。
そんなわけがないのだ。
僕みたいな人間がほかにも、おいそれといるわけがなかった。
なんだ、そっか。
よかったじゃないか。
僕はじぶんに言い聞かせる。よかったじゃないか、彼女が孤独な人間ではなくて。
触れあえもしない空気の揺らぎに、執着せずに済んで、彼女が現実に触れあえる誰かと交流を持てていて、よかった、よかった。
歯を食いしばって、零れ落ちそうなほどの何かを僕は耐えた。こぶしを握る。手のひらに食いこむ爪の痛みは、どれだけ本気で力を込めても血に変わることはなく、僕は僕を満足に傷つけることもできないのかと、そんなことに傷ついた。
冬のあいだ僕はじぶんの部屋に引きこもった。冬が終わり、年を越して、春がくる。
黙っていても春は過ぎるし、大学の授業には出席しなければならない。
本を読むのが好きなのに、学校の勉強は向いていなくて、いつだってあの地下室に逃げ込んでいた。いまではもう逃げ込む場所すらないのだと知って、これまでの日々の総じてがくだらなくて、色褪せたものに思えた。
もっと有意義に過ごせばよかったと後悔しても、だからといってきょうから実になることを積み重ねるわけでもなく、ない袖を振って図書館から借りなくなった分の本を書店で購入し、すこしでも出版社や作者の糧になろうとして、じぶんの首を絞めて満足する日々を送った。
夏のあいだ僕はバイトに精をだした。慣れない社会との接点を持とうと自暴自棄さながらに飛びこんでみたのだが、僕が思っていたよりもずっと他人は僕のことなんか興味がないようで、どこにいようと僕は孤独の殻に閉じこもっていられた。
本が一冊あればよい。
休憩中、バスの中、電車の中、家のなかでだって、居場所なんかどこにもないがゆえに、いつでも旅立ち、つくることができた。
わざわざ物理的に引きこもらなくたって、人は引きこもりになれるのだ。というよりも、僕が気づかなかっただけで、誰もがみなじぶんの世界に夢中になって、他者の世界に無関心な引きこもりだった。
僕はみなと変わらなかったし、みなも僕と変わらない。そのことを意識したら、すっと世界が拓けた気がした。
僕は殻に閉じこもっていたけれど、社会が窮屈で仕方がなかったけれど、殻なんてどこにもなく、ゆえに僕はかってにつくったじぶんの殻に、じぶん自身に、押しつぶされそうになっていた。
秋が更け、冬が訪れ、春がくる。
冬子さんを忘れようとして一年が経った。
僕は大学を卒業し、春から地元の郵便局に勤めはじめる。
不安しかないけれど、向いてなければ辞めればいいと逃げ腰の僕は考えて、いちどバイトをしてみただけの縁だったが、なにはともあれ就職することにした。
こんな僕を雇う側はたいへんだ。こんな僕でも働ける場所があるなんて、とんでもなく素晴らしい社会だと冗談でなくそう思うと同時に、こんな僕ですら働かなきゃいけないなんて、なんて余裕のない社会なんだ、と思いもする。
卒業式、入社式、研修とあっという間に時間が溶けていく。
図書館の地下室で本を読んでいたじぶんが別人に思える。現に別人だったのだろう。もはやいまの僕は、あれほどの至福のときを甘受していながらにして陰々滅々と過ごしていた過去のじぶんに、苛立ちすら覚える。
いまなら給料を全額投じてもあの時間を買いたいとすら望む。それくらい貴重な時間だったし、しあわせな日々だった。
いまがそうでないというだけのことなのかもしれないけれど、真実とはいつだって過ぎてから振り返り、ああそうだったのか、と気づくことしかできない。現実とは常に、切実だ。
体力をつけようと、散歩が習慣になっていた。
あてもなく、その日の気分で街を歩く。
見ないあいだに景色が変わっていることが珍しくない。知事か、市長か、どちらかの意向で、街の再建が進められているせいだろう。病院も一つなくなり、統合して大きな病院に建て替えられるそうだ。
施設は大きくなっても、そこで働く人はきっとすくなくなる。統合と言いつつ、縮小していくのは、生き物も社会も同じなのかもしれなかった。
僕は書店で本を購入し、その足で買ったお好み焼きを頬張って、吸収されずに排出される食物繊維について思いを馳せた。
図書館のまえを通りかかる。ふと足を止める。そう言えば新館が竣工したのだな、と何の気なしに敷地内に足を踏み入れていた。
あのころのことがしぜんと脳内に展開される。
地下室は僕にとって特別な場所だったが、どうやらいまではさほどでもないようだ。けっきょくのところ僕にとって特別だったのは、場所ではなく、居場所であり、もっと言えば、ここではないどこかと繋がった、空気の揺らぎだったのだ。
新館は冷房が効いていた。内装はきれいで、売店の品ぞろえもよく、埃臭くも黴臭くもなかった。
天窓からは自然光がふんだんに降りそそぎ、間違っても白熱灯なんか使っていない。本棚もすべて新しく、最新の本から、古きよき書籍、専門書から古文書、絵本に漫画と、一生かかっても読み終えることの適わない本の海がそこにはあった。
思えばあのころの僕は、旧館の地下室にあった本をすべて読破しようとしていた。できると思った。だからはじめた。
それが途中で目的を忘れて、逃げだして、いまではそんなこともあったっけな、と過去を回顧するまでに落ちぶれてしまった。
あのころの僕はたしかに、無為な時間を無謀にも過ごしていた。
無為というなればいまもさほどに変わりがないが、あのころはじぶんが無為な時間を過ごしているという意識すらなかった。
特別だったのだ。
あの空間が。
旧館はまだ開いているようだ。
来年には解体が決まっているようで、以降は蔵書を電子化するとの旨が告知されている。
足はそうあるようにとかつて通い慣れた道を辿っている。
旧館に入り、地下室への階段へと歩を向ける。
静かなものだ。
利用客は相変わらずいないようで、僕は安心した。
階段を下りていくと徐々に蒸し暑くなっていく。冷房は切れたままのようだった。
階段にじぶん以外の足音が反響していると気づいたのは、地下室に下りてしばらく散策してからのことだ。床の埃に目新しい足音がいくつも残っているのを目にする。誰かここに頻繁に出入りしているようだ。
足音は頭上からまっすぐとこちらへ下りてくる。
隠れる必要もないのに僕は本棚の影に身を寄せた。本を選んでいるふりをしながら、やってくる人物を目にしようと企んだ。
間もなく、女性が一人現れた。
司書さんだろうか。知らない顔だ。新人かもしれない、と同じくことし新入社員となったじぶんと重ねて、かってに親しみを覚える。もちろん彼女が司書ではなく、単なる利用客である可能性もある。
夏の地下室は相も変わらずに灼熱で、すでに背筋は汗で湿っていた。Tシャツの布が張りついている。
女性はハンカチで首筋を拭いながら、まっすぐと机に向かった。椅子に座る。
僕は目を離せなかった。
彼女は本棚に寄ることなく、じぶんの鞄から本を一冊取りだして、机のうえで開いた。しばらく目を通したかと思うと、おもむろに顔をあげ、何気ない所作で、じぶんの席のとなりに手を伸ばす。
僕は声がでそうになった。手で口を押さえる。
彼女はまるでそこに透明人間でもいるかのように視線を宙に漂わせ、控えめにゆびで虚空を突くと、なぁんだ、と言いたげに脱力して、またしぶしぶといった調子で本を開いた。文章のつづきにだろう、目を走らせる。
彼女が座っている位置をよくよく目で確かめてから僕は本棚から本を抜きだし、脇に抱えて、彼女のそばに寄った。
「ここ、座ってもいいですか」
僕はわざわざ彼女のとなりの椅子を引く。
怯えともつかない不快そうな顔を隠そうともせずに彼女は僕を見上げ、なんと言って追い払おうかと丸分かりの逡巡の間を開けた。
「知っていますか」僕は言った。「ここ、おばけがでるんですよ」
彼女の表情が曇る。
「透明人間かもしれないんですけど」
言い足すと、彼女は言葉を吟味するような間を開けたのちに、眉間に寄った皺を伸ばして口を開ける。あんぐりと、と形容するのがぴったりの顔だ。
「冷たくなくて申し訳ないんですけど」僕はこんどは確信を以って口にする。「暑苦しくてすみません。やっぱり場所を移動しましょうか」
彼女は椅子から立ち上がり、僕に触れないようにしながら手で引き留めた。
「何の本を読んでいたんですか」
彼女はまだ言葉を発しない。驚かせてしまったようだ。無理もない。
「ずっと気になっていて」
彼女、冬子さんと僕がかってに呼んでいた女性は、机のうえの本を開き、これです、と紙面にゆびを押し当てる。僕はそれを覗きこむ。
肩がぶつかり、すみません、と距離を開けるが、しばらくするとまた並んで本を覗きこんでいる。
僕は背後を振り返る。
階段のうえから白いモヤのようなものが垂れて見えたが、気のせいかもしれず、目を凝らす間もなく、虚空に紛れて、途絶えて消えた。
「どうしたんですか」
彼女が視線を辿って階段を見上げる。
「いえ」僕はすこし迷ってから、やっぱり暑くないですか、と彼女をそとに誘う。じつはまだ新館を利用したことがないんです、と話すと、案内しましょうか、と彼女は言った。
まだ二言しか交わしていないにも拘わらず、彼女の声はすんなりと耳に馴染み、ときおりぶつかる肩越しに、夏の日差しよりも熱い体温の揺らぎが伝わる。
僕は彼女に打ち明ける。
かってに冬子さんと名付けて呼んでいたことを。
彼女は笑って、ならそれで、と唇を閉じ、私はなんとお呼びすれば、と僕の名を訊いた。
僕は名乗る。
じぶんの名を。
彼女の呼び声に、はい、と応じる。
【宿師】
妹が遺体となって発見されてから半年が経った。病死だと判断された。道端で急に倒れて、帰らぬ人となったが、僕は納得していない。
妹に疾患はなく、突発的に亡くなったとしても死因くらいは特定されて然るべきだ。にも拘わらず妹の死因は不明のまま、ただ運わるく何かしらの心臓が停止してしまう病気にかかってしまったのだと解釈され、あとはもう誰もが妹の死を不審に思わず、ましてや調査をしようともしなかった。両親ですら例外ではない。
僕だって死んだのが妹でなければ毎日のごとく妹の死因を考えたりはしなかっただろう。現に、一年前に祖母が亡くなっても、妹ほどには悲しまなかった。
ある日ふと、インターネットのニュースを眺めていて、妹と似たような死が訪れた人たちはどれくらいいるのだろうかと気になった。妹の死が誰にでも訪れ得る死であったならば僕だってもうすこし妹に降りかかった不幸を、そういうものだと認めて踏ん切りをつけられる。
なるほど世の中にはこれくらい多くの人たちが突然にこれといった意味もなく、因もなく、亡くなっているのか、と知れれば、妹の死だって、単なる確率の問題として、つらくはあるものの、呑みこめた。
実際、僕が思っていたよりもずっと多くの人たちが突然死していることを知った。
ただ、大部分の人たちは死因を特定されている。妹のように死因が不明のまま何の調査もされずに死亡診断をくだされているのは、僕の調べた限りではそれほど多くはなかった。
その多くはない人たちは、なぜか僕の住まうこの地域に偏って計上されていた。
規則性が見られた。
偶然ではないのではないか。
僕はますます妹の死を不審に思い、自由にできる時間はその調査に費やした。
かといって何の技能も持たない僕が調べたところで、せいぜいが妹の死と似たカタチで突然死しているひとがいると知れるだけで、特段、大きな成果はあがらない。
僕は段々と、オカルト的な、都市伝説のようなものにまで目を配るようになっていった。
妹の死はなんだか呪いに似ていた。僕の印象でしかないが、偶然というよりも、超常現象だと言われたほうがまだ納得を示せた。
宿師なる職業を知ったのは、妹のメディア端末を調べていたときのことだ。
この地域にある心霊スポットにまつわる体験談の載ったサイトを妹は頻繁に覗いていたようだ。
生前、その手の怖い話を好んでいた。怖がりの癖に、と僕はよくよく小馬鹿にしていたが、もっといっしょにいろいろなものを楽しめばよかったと何を思いだしても悔いが残る。
体験談とはいえ、たいがいは創作だ。怖い話の域を出ない。しかし中には凝った文章も交っており、地域名や店の名前など、この土地を実際に歩いた者でなければ書けないだろうと思われる談が散見された。
そのなかに共通して登場してくるのが、宿師なる怪しげな職を生業とした人物だった。
名前はハッキリとは出ておらず、アルファベットで、Aさんや、Qさんなど、ぼやかされていた。反面、その人物の言動は、どの体験談であっても、キャラクターとして確立されているとしか思えない一致を見せていた。
現実に存在する人物なのではないか。
おそらく僕はこの時点で相当にまいっていたのだろう。客観的にはただ、妹の死を受け入れられずに妄想に取りつかれた哀れな男だ。
しかし僕には確信のようなものがあった。いいや、断言できないからこそ確かめておきたいとする直感があった。
僕はいくつかの体験談を徹底的に読み込んで、機械学習のごとく情報を重ねた。抜き出し、比較し、抽象した。それはあたかも連続殺人事件の現場に点を打って統計をだすような作業だ。おおまかな傾向を抽出し、割りだした。
とある区画が浮きあがる。
現場に足を運ぶと、そこは商店街に並ぶ商店の一つだった。なんら変哲のない靴屋だ。最近流行りの新素材クッションの敷かれたスニーカーが所狭しと並んでいる。
体験談のいくつかには、この店で宿師と会ったという書き込みがあった。それは体験談に直接書かれた文章ではなく、コメント欄に並んだ情報だった。
偶然にも、この靴屋は、僕が割りだした現場の中心からそう遠く離れておらず、ここら一帯を中心に宿師が暗躍していると考えたわけだが、むろん思考材料になったのは都市伝説だ。信憑性なんてないに等しい。
僕だって本気で宿師なる人物がいるとは思っていなかった。
だから、
「何かお探しですか」
店長だろうか、客と見分けのつかないデニムにジャケットといったいでたちの女性に声をかけられ、僕はたじろぐ。
「あの、それ」
彼女はTシャツの上からジャケットを羽織っていた。そしてそのTシャツには、宿師の文字が印刷されていたのだ。
「ああ、そっちのお客さんですか」
急に砕けた調子になった彼女に僕は、
「え、本当にそうなんですか」
主語もあいまいな問いを重ねるしかなかった。
「宿師に御用ならこちらに。それとも靴をご所望ですか」
僕は言った。「宿師に」
通されたのは、質素な和室だ。おそらく四畳半だ。一人なら充分な広さだが、二人向き合って座ると圧迫感を覚える。
ちゃぶ台があり、入ってきた戸以外の壁は本棚で埋まっている。本棚に並ぶのはどれも古そうな本ばかりだ。埃が被っておらず、ここの家主であるだろう彼女の几帳面さを思う。
彼女はお茶を淹れた。湯のみだったので緑茶かと思ったが、口にすると紅茶だった。
「宿師についてはどこで」
「ネットで読みました。ここに来れば会えると」説明が面倒だったので大まかに述べた。
「ああ、もうそんなに広まっちゃってるんですね。どうしよ。怖いな」
「すみません。あ、でも、けっこう調べたので、興味本位での人はここに来ることもない気がします」
「でもあなたが来たから安心はできないですよね。それにたぶん、過去のお客さんが漏らしたってことだろうし」
「そう、ですね」この店に行けば宿師に会えると書き込んだ人物はそう、彼女の言うように彼女が過去に会った人物たちなのだろう。書き込みからは彼女への憎悪は見受けられず、神の居場所を明かすような、そこはかとない高揚感が見て取れた。それを、優越感と言い換えてもよい。
僕は単刀直入に訊いた。
「本当に死者の魂に会えるのですか」口にしながら、ばかばかしいな、と冷めたじぶんがじぶんを眺めている。
「死者の魂に会える、というと正確ではないですね」彼女は否定も肯定もしなかった。「私のことはミコトと呼んでください。失礼ですが、なんとお呼びしたらよいですか」
偽名でも構いません、との言葉に、オオツキと僕は名乗った。
「ではオオツキさん。オオツキさんは魂とはどういうものだと考えていますでしょうか。というよりも、魂を信じていらっしゃる?」
「失礼を承知で言えば、あまり」
「それを聞いてすこし安心しました。死者の霊のようなものを期待されて会いにこられる方がたいがいなのですが、そこのところの齟齬を埋めるのにいつも困ってしまって」
「ネットには、宿師は死者の魂を物に宿せると書かれていましたが」
「魂を物に、ですか――それもまた正しくはありません。何せ私の扱うものは飽くまで、死者の発散したエネルギィでしかありませんので」
「死者のエネルギィ、ですか。それはその、オーラとかそういう?」
「いえ、言葉の通りです。エネルギィです。人間に限りませんが、動物は動くために食べ物を食べてエネルギィを補給して、そうして活動をしますよね。そのときに体内で発生したエネルギィは、死んだからといってすぐになくなるわけではありません。エネルギィ保存の法則は破れないわけです。つまり、死んでしまっても、生きていたあいだに蓄積し、発生したエネルギィは、そこに残留していることになります」
「それがつまり、残留思念のようなものとして、この世に残ると?」
「話が早くて助かります。ただ、残留思念というのともニュアンスが異なります。単なるエネルギィなんです。ただ、それを発散した死者の性質のようなものはそうですね、個々によってすこしずつ異なっているようで。そうした死者のエネルギィを捕まえて、何かほかの物体に入れることで、エネルギィを熱や運動に変えて、消費することができます。私はそれを便宜上、昇華と呼んでいますが」
「では死者と言葉を交わしたりは」
「残念ながら」
彼女の言葉を一から十まで信じたわけではないが、仮に真実だとしてみたところで、僕の望みは潰えたと言っていい。妹の魂に会って、どうして死んでしまったのかを聞きだせればそれが最も妹の死の真相に迫れる術だと藁にも縋る気持ちで掴んでみたが、妄想はしょせん妄想にすぎなかった。
彼女の言葉が正しかろうと、それを確かめる術を僕は持たない。真実、妹の魂に似たナニカシラを彼女が操り、目のまえでほかの何か、そうたとえばぬいぐるみに宿してくれたところで、僕にはそれが真実かどうか、マジックか否かの区別すらつけられない。
「どなたか亡くなられたのですか」ややあってから彼女は言った。紅茶はとっくに冷めていた。僕は残りを飲み干してから、ええ、とうなづく。
「妹が、さいきん」
「そうですか」
「その、死者のエネルギィとやらはどの程度宙を漂っているものなんですか。あ、量ではなく、期間という意味ですが」
「そうですねぇ。エネルギィはそれ単体で、何かに変換されない限りは漂いつづけますね。移動すればそれだけでも昇華されますが、エネルギィ体に干渉するにもそれなりの段取りがいります。エネルギィ体同士が干渉しあったり、私のような者が何もしなければ、それはそのままそこにあると思いますけど」
すこし彼女を試してやりたい気持ちになっていた。
「なら、妹の死んだ場所につれていけば、ミコトさんは妹の魂のようなものを捕まえてくれるのでしょうか」
「可能か可能でないかで言えば、可能です。昇華してさしあげることが、私にとっては成仏と同義です」
「頼めますでしょうか」
「お引き受けいたします」
「お値段はその、いかほどで」
「いえ、お金は戴いておりません。代わりに、よろしければ妹さんとの思い出話など、故人のことを聞かせてくださいませんか」
「構いませんが、その、長くなるかもしれませんよ」
「そのほうが報酬としてはうれしいです」
わるいひとではなさそうだ、と僕はこのとき彼女をよく思った。彼女の宿師としての能力が本物か否かは問題ではない。彼女は、親しい者を亡くした人の悼む気持ちに寄り添おうとしている。
僕は彼女を妹の遺体が発見された場所に連れて行った。本音を言えば、別の場所に連れて行って、彼女の言動の真偽を見定めようと思っていたが、彼女は僕が詳しく説明しないうちから妹が倒れていたまさにその場所のまえに立ち、合掌した。
「本当にわかるんですね」
「はい。まだここに残っていらっしゃいますよ」
ミコトさんは鞄のなかから人形を取りだした。アンティークドールと言ったらよいのだろうか。球体関節の精巧な人形だ。猫の目のようなくりくりの眼が愛らしい。
「一時的にここにエネルギィ体を入れて、昇華作業は別の場所でしましょう。お見送りというと語弊があるかもしれませんが、こういうのはちゃんとしたほうがよいと思いますので」
「ありがとうございます」道路の真ん中で妹と最期のお別れをするのはたしかに忍びない。お言葉に甘えることにした。
彼女は店には戻らずに、河川敷に出た。
海が近く、川幅は広い。
左右にマンションが建ち並ぶ。その明かりを受けて、川の流れがキラキラと揺らいでいる。
川沿いに下りると彼女は枯れ葉を集めて、火を焚いた。
「どうするんですか」
「お見送りです」
彼女は人形を焚き火のまえに置く。しゃがみこむと、両手を合わせて拝むようにした。
合掌のように見えたが、そうではなかった。
彼女の手元をうしろから覗き込むと、なにやら細かく指を動かしている。陰陽師や忍者が行う手印のようにも、あやとりのようにも見えた。
最後に彼女は両の手のひらを人形に向けた。
僕は目を瞠る。
人形がカタコトと動きだすではないか。地面にぺたんとお尻をつけていたと思ったら、幼子がおいしょと立ち上がるように、お尻を高くつきあげ、立ちあがる。
それから器用に、逆立ちをし、身体を逸らせたり、片手で倒立を維持したりした。
コントーションと呼ばれる体術だ。
妹は幼いころから体操をしていて、大学に入ってからは腕だけで身体を支え、芸術的な演舞を見せるコントーションに精を出していた。
仕事としての依頼が入りはじめた矢先の死だった。
体力おばけの妹だった。
僕が妹の死を信じられなかった理由の一つだ。
ミコトさんは、ほぉ、と息を吐く。「美しいですね」
僕は妹の最期の演舞を目に焼き付けようと、しきりに歪む視界を、指で拭って、拭って、拭いつづけた。
ひとしきり動くと、人形はバランスを崩したように、或いはみずから飛びこむように、背後で燃え盛る炎のなかに転げ落ちていった。
苦しむ様子はない。
人形はこちらに手を振るように、パチパチと立ったまま燃え、炭となった。
人形が燃え尽きるのと同時に炎は消えた。
「ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそなんだか感動してしまって。命はうつくしいな、と改めて思いました」
彼女の声はそよ風のようだ。
僕はもう、宿師を名乗るミコトさんを疑いはしなかった。
「どうしますか。報酬はいつお支払いすれば。その、つまり妹の話をいつすればよいでしょう」
「お疲れではないですか」
「もう目が覚めてしまって今夜は眠れそうにありません」
口にしてから妙な言い方になってしまったな、と焦った。変に訂正するのも自意識過剰に思え、もじもじしてしまう。
「ではこれからどうでしょう。これほどうつくしい昇華を見たのって私も初めてで。あの踊りのようなものは、妹さんのご趣味であられたりとか」
「コントーションと言うそうです」
「映像とか残ってたりしませんか」
生前の妹の動画、という意味だろう。あります、と答えてから、さきほどの人形の動画も残しておきたかったと、ちいさく臍を噛む。目に、胸に、しかと焼きつけたので、湧きかけた後悔の念は、口の中に放りいれたチョコレートのようにほどけて消えた。
焚き火の跡を彼女は漁った。
何かを拾い上げたように見えたが、きっと人形の残滓だろう。自然を汚さないでおこうとの考えからの行動だと考え、さして気に留めなかった。
「つづきはお店で」
歩きだした彼女のあとを追う。
戻る途中で飲み物と、値段の高いお肉を購入した。すき焼きをご馳走することにした。せめてもの感謝を示したい。彼女はいちどだけ遠慮したが、それではこちらの気が済まない、と説くと、ではご厚意に甘えて、と受け取ってくれた。
あすは店は休みにするという。宿師の仕事をしたときはいつもそうするのだ、と彼女は語った。元から休みにするつもりだったんです、と付け加えるあたり、気配りが心地よい。
妹が死んでから初めて妹のことをしゃべった気がした。しんみりとはならず、まるで自慢の友人を語り合うように、僕はやさしいときを過ごした。
ミコトさんは聞き上手で、彼女の投げかける問いによって、僕が意識しない妹の側面が新たに発掘されていく。
なるほど、妹は思っていた以上に兄想いでもあったのだ。気づいたときにはまた、ぼろぼろと涙が鼻のふちを伝った。
ミコトさんは僕が話しているあいだ、祈るように手を組み、ゆびをしきりに動かした。彼女の癖なのだろう、ゆびが組み代わるたびに相槌を打たれている気になり、僕はますます舌が回った。
ミコトさんがお花を摘みに立ったあいだに、僕は眠気に抗えず気を失った。夢の中では、幼いころの妹と僕が、もみくちゃの喧嘩をしていて、それをおとなになった僕と妹が、笑いながら眺めている。
起きると例の四畳半の部屋で、本棚の上手に飾られた時計が、正午を告げていた。
身体はだるく、妹が死んでからの疲労がいっきに噴きだしたかのようだ。きっと気が緩んだのだ。
ミコトさんの姿はなく、サンドウィッチと共に、朝食です、とメモがあった。
こんなことをされて心を動かされない人間がいるだろうか。妹の死とは別の機会に出会いたかったな、と口惜しく思うほどに、ミコトさんはすてきな人だった。出会っていたからといって何がどうなるわけでもなく、どうにかできるわけでもないのだが、このさきもういちど彼女に会おうとすることは、妹の死を出汁に使うようで、だからもう、彼女との縁は、宿師とその客以外ではあり得ない。それをひどく残念に思っているじぶんに僕は呆れたし、失望したが、妹はきっと笑って許してくれるだろう。
お兄らしいね、と。
書置きを残しておこうかとも思ったが、やめた。
店は彼女の住居でもあるようで、きっと二階に彼女の寝室があるのだろう。声をかけていくか迷ったが、さすがに足を踏み入れるには気が咎める。
お金はいらないと言っていた。僕の気がそれでは済まないが、ここでお金を置いていくことのほうが、彼女のだいじな何かを損なうように思え、このまま黙って立ち去ることにした。
部屋を出ようとしたところで、本棚の一画に、本ではない物が並んでいるのが見えた。
瓶だ。
瓶のなかに、真珠のようなものが詰まっている。
昨日はこんなものあったろうか。
気づかなかっただけかもしれない。しばらく瓶のなかのそれに見入った。真珠のような丸さに、うっすらと青く流れる紋様が、まるで地球を俯瞰して眺めるような高揚感を覚えさせる。
うつくしい。
なぜか脳裏には、昨日見たばかりの昇華の光景、炎を背に踊る人形の舞が喚起した。
口の中に唾液が滲む。
一つくらいなくなっても気づかないのではないか。
一瞬とはいえよこしまな考えを巡らせたじぶんを叱咤するように、僕は部屋を出て、店を、宿師の巣を、あとにした。
家までの道中、僕の思考はてんでバラバラに目まぐるしく巡った。
宿師は死者の残したエネルギィをほかの物体に移せる。
エネルギィは、熱や運動に変換され、消える。それを彼女は昇華と呼んだ。
昇華したあとには何も残らないと僕はかってに結論づけていたが、何かに変換されたならば、その何かは残るはずだ。物体が燃えてもすべてが消えるわけではない。二酸化炭素や、炭となってそこには残る。
ミコトさんはあのとき、焚き火の跡から何かを拾い上げてはなかったか。
そもそもとして彼女は、宿師は、エネルギィを昇華するのであれば、前提として、エネルギィの大本が死者である必然性はないのではないか。
生きている者のなかに生じたエネルギィが昇華されずに残るから、宿師は、死者のそれを扱える。だからといって、生きている者のエネルギィを扱えないとは限らない。
昇華する際に、ミコトさんは何かしらの呪術のような真似をした。指を複雑に操り、手印を施した。生きている者のまえであれを披露するのはそれなりの段取りを要するだろう。おいそれとは実行に移せるものではない。警戒される。それはそうだ。
長時間対面で話し合うような場面でなければまずできないだろう。たとえば昨日のような。
発想した瞬間、肌が粟立った。
昨晩、彼女は僕が話しているあいだ、ずっとゆびを組み替えてはいなかったか。あれはひょっとして、昇華と同じ手印ではなかったか。
息切れがする。
帰路を辿っているだけだのに、これほど疲れるとは異常だ。風邪でも引いたか。まるで体力そのものが削られたかのようだ。
エネルギィをどこかに落としてきてしまったかのような。
背筋に嫌な汗を掻く。
まさか。
そんなはずはない。
じぶんに言い聞かせれば言い聞かせるほど、あってはならない妄想に歯止めがかからなくなる。
妹が亡くなる前にうちでは祖母が死んでいる。妹は悲しんでいたが、ある時期から立ち直った。
あの時期、妹に何か契機があったのではないか。祖母の死を乗り越える大きな、何かが。
そもそも僕はいったいどうしてミコトさんに行き着いたのか。宿師のことを知ったのか。
妹の使っていたメディア端末に、宿師のことの書かれたサイトを見つけたからではなかったか。
なぜ妹は、帰宅途中の道で、突然に死んだりなんかしたのだろうと僕はずっと疑問に思っていた。
だが、いまなら判る。
もしいまじぶんが死んでしまったとしても、さほどにふしぎには思わない。これは、そう、命の灯が、風前に晒されているのと変わらないか細さがある。脆弱さがある。衰えがある。
いま僕は、死へ向かって歩いている。
そう錯覚しても、それが間違いだとは思えないほどの体調の変化がある。
周囲に助けを求めるべきなのだろう。
だが、どうしてもそうする意思が湧かない。生きようと思えない。生き永らえたいと思えないのだ。
足がもつれ、地面に倒れる。
ひざを強打し、時点で額をしたたか地面にぶつけた。
顔をよこに倒して呼吸を確保する。
目のまえに足が見えた。誰かがそばに立っている。
その誰かは僕の背中に手のひらを載せ、だいじょうぶですか、と大きな声で言ったが、ふしぎとその手はひどく冷たく、僕の身体はますます重く、沈んでいく。
「だいじょうぶですよ」耳元でそよ風のような声がする。「オオツキさん、あなたはとってもいいひとなので、きっとすぐに誰かが辿ってくれます」
あなたの歩んだ足跡を。
宿師は慈愛のこもった手つきで背中をさする。「あなたの話も、じっくり聞いてあげますね」
【かわいい、かわいい、めっちゃかわいい】
ミカさんは惚れやすくて、なんでもすぐにかわいいと言う。散歩中の犬を見れば、見てかわいい、と叫び、塀のうえの猫を見れば、ぎゃあかわいい、と目ん玉をハートのカタチにして、かわいいかわいい音頭をはじめる。終始うるさい。
動物ならまだよいほうで、小学生のランドセルからぶらさがったクマさんのキィホルダーなんかを目にした暁には、
「あぁん、かわいい、かわいい、あたしもあれほしいよぉ」
全身をくねくねさせるでもなく、拳を握って、見えない己のなかの欲求を打破すべく、決意の正拳づきをする。空手の段位は師範並だというから大統領に逆らってもミカさんにだけは逆らってはいけない。
「ダメですよミカさん」私は言う。「ミカさんが触ったらまた大騒ぎになるに決まっているんですから。後始末チョーたいへんなの知ってますよね。目がハートになっているときに物に触ったらダメです」
「知ってるよぉ、わかってるよぉ。でもでもかわゆいものはかわゆいのだもの。ミカさんだって好きで目がハートになるわけじゃないやい」
「本当にその性質さえなきゃただうるさいだけなんですけどねぇ」
私はこれみよがしに溜め息をついてみせる。というのもミカさんが目がハートになっているとき、言い換えるならば彼女が生き物以外をかわいいと思っているときにそれに触れると、その物体は命を持ってしまうのだ。
「きっと魔女の呪いを受けたんだ。生まれてくる前に。一生かわいいものに触れられない呪いをかけられてしまった。うえーん、こんなのいやじゃよ、誰かなんとかしておくれ」
「ふつうにミカさんのママさんが魔女って可能性のほうがありそうですけどね」
私は彼女の母親には会ったことがないのでそう言うと、
「あのひとは魔女じゃないよ」ミカさんはけろりとして一蹴する。「魔女っぽくはあるけどねぇ。あ、見て見て。あのひとの髪型めっちゃかわいい。鞄もステキ。ぎゃああ、あの車見て、ちっちゃい! かわいい! 抱きしめちゃいたい乗らしてくれぇええ」
年中欲求不満なのか、ミカさんは日に日にうるさくなるいっぽうだ。かわいいと思うものに触れられない制限は、たしかに呪いと思いたくもなるだろう。
けれど動物には触れられるのだ。子猫でも飼ったらよい。
私がそのように進言してもミカさんは、
「あたしのかわいいの気持ちを一つの対象にそそぐには、ちょいと悩みすぎてしまうよね。頭が沸騰してはちきれて、全然まったくかわいくなくなっちまいそうでさ」
「ミカさんが?」
「あたしのなかのかわいいの気持ちたちがさ」
ミカさんのなかには大量のかわいいが生息していて、それがそとに出たがっているらしい。
なんのこっちゃ、とは思うものの、仮にそういうものだと考えてみたらミカさんがかわいいと目をハートのカタチにしながら触れた物体に命が宿るのも、そこはかとなく納得できそうになる。気のせいには違いないが。
「あ、ほらすぐ左側歩く。きみはこっちを歩きなさいな」
「ミカさんって急にお姉さんぶりますよね。それはなんで?」
「そりゃ先輩ですからね。ちみは歩道側を歩く。あたしが車道側。これは絶対。法律でそう規定されているのだよ」
「初耳ですね」
「ああほら、見て」ミカさんの顔つきが暗くなる。視線を辿ると、子猫が一匹死んでいた。車に轢かれたのだろう。白い身体のしたに血がとろりと広がっている。「ああなってからじゃ遅いんだからな」
「可哀そうですね」
ちょっと待ってて、と言ってミカさんはスーパーに入って、買い物をして戻ってくる。チョコレートを買っただけのようだが、ミカさんはそれを私に寄越し、余ったビニル袋を手にはめて、子猫の死体を掴み取った。くるりとビニル袋を裏返して、回収する。
「どうするんですかそれ」
「埋めてあげよう。空き地があるから、そこに」
「保健所に連絡したほうがよくないですか。かってに埋めてもいいんですかね」
「よくなかったとしても、そのままにはしておけないよ」ミカさんは土に穴を掘ると、そこにビニル袋から子猫の死体を転がした。
「かわいいね」ミカさんは言った。「寝てるみたい」
「どこがですか。不気味ですよ。気色わるいですよ。よく素手で掴めましたね。ぐにってなってましたよ、ぐにって」
「素手ではないよ」
「私には無理です。ちゃんとおてて洗ってくださいね」
私は時計を見る。このままでは遅刻ぎりぎりだ。急ぎましょうと言ってミカさんの背を押し、通学路に舞い戻る。
「あ、あのポスト見て、真っ赤。トマトみたい。かわいい」
「もうなんでもいいんでしょ。かわいいって言えればそれで」
「そんなことはないけれど」
「はいはい。かわいい、かわいい」私はミカさんのあしらい方だけを日に日に上達させていく。哀しい。
この日、学校ではミカさんが誤ってクラスメイトの筆記用具入れからぶらさがった子豚の飾りに触れてしまって、授業がいったん中断したらしい。
小指の先端ほどの大きさの子豚がぶひぶひ筆記用具入れを引きずって駆けずり回る様子は、その日の夜には、インターネット上の動画共有サイトのみならず、さまざまなニュースメディアで話題になった。
誰が工作するでもなく、よくできたつくりものの動画として解釈されるのはいつものことだ。ミカさんのクラスメイトたちはみなミカさんの性質を知らないので、ミカさんがやり玉に挙げられることもなく、あれはいったいなんだったんだ、とみな一様に首を傾げている。
「魔女だよ、魔女。魔女が魔法をかけたんだ」
ミカさんはひとごとのようにはやしたてて、魔女の呪い説を吹聴する。「魔女はかわいいものが嫌いだから、ああして迷惑をかけて、この世からかわいいものを淘汰しようとしているのだよ。たぶん、きっと、絶対そんな気がするけど、自信はないね。だってあたしは魔女じゃないから」
「無責任すぎるだろ」とは彼女の力説を呆れながら耳にするクラスメイトたちの総意であろう。私も帰り道にその様子をミカさんから聞いて、呆れた。
対向車線から幼稚園の送迎バスが向かってくる。またぞろかわいいかわいいうるさくなるぞ、と私は身構えたが、ミカさんははしゃぐよりさきに無言で私を引っ張り寄せて、場所を入れ替わる。
「痛いですよ。服も伸びちゃう」強引な所作に私は不平を鳴らす。
「きみは歩道側。あたしがこっち。何度言ったらわかるんだい」
冗談で言っているのではない、と声の響きから判った。或いは彼女は先輩ぶりたいからそう言っているだけなのだと思ってきたけれど、どうやら本気で私の身を案じていたらしい。
でも、と思わずにはいられない。
いくらなんでも過剰にすぎる。過保護にすぎる。私はミカさんの子どもでも、ましてや赤ちゃんでもないのだ。
「歩く場所くらいじぶんで決めますよ。いちいち心配しないでください」
「そうやって駄々をこねて轢き逃げされたら困るんだよ」
怒鳴り声に私は怯んだ。夕焼けが民家の屋根の向こうに沈んでいく。ミカさんの影が足元まで伸び、やがて夜の帳に溶けこんだ。
頭上の街灯がともる。ミカさんの表情はそれでもうつむいてからか影に塗れて見えなかった。
「ごめん言い過ぎた。でももしもってこともあるから。あたしはできたら車道側を歩きたいな」
拒むほど私は意地っ張りではなかった。わかりました、と承知して、ありがとうございます、とついでに礼を述べておく。嫌味っぽく聞こえなかったかな、と不安に思い、私はミカさんの手に腕を伸ばして、ゆびとゆびを触れ合わせる。
いちどは磁石みたいに反発したけれど、ややあってからゆびにするりと絡みつく彼女のぬくもりを私は逃さぬように、ほかのゆびを駆使してがんじがらめに握りしめた。
足元を眺める。歩を進めるたびに私たちの影が現れては追い越し、薄れて消える、を繰り返している。
「ミカさんは」私は独りごちる。「私のことはかわいいって言ってくれませんよね。いちども」
「そうだっけ?」
「そうですよ。私は生きているので何度言ってもらっても構わないんですよ。こうして触れ合ったって問題なんか起きるわけないんですから」
「そう、だね」
「魔女の呪いなんか私には効かないんです」
「呪いだなんて失敬な」
「ご自分がそう力説していたのもうお忘れですか。鶏だってもっと長く憶えていられますよ、ミカさんの脳みそがスポンジみたいで私、心配」
「吸収力が半端ないってこったろ。知ってる」
「皮肉が通じなくて私、哀しい」
「昼間のさ」ミカさんの声が足音の合間を縫って聞こえる。「昼間の子豚、あのあとどうなったか知ってる?」
「学年違うんですから私が知るわけないじゃないですか。まだ動いているんじゃないんですか。だってミカさんがかわいいって思いながら触れちゃったら、それって命を得るわけじゃないですか」
「そうなんだけど、これはだって魔法じゃないから。いや、魔法なのかな。だからずっとつづくわけじゃないんよ」
「初耳ですね」これまでそんなことミカさんは教えてくれなかった。
「動かなくなるんだよ。物に戻っちゃう。だからときどき、触れてやらなきゃ、動き回りつづけるなんてこと、できやしないんだ」
「なぁんだ。じゃあ安心じゃないですか。ミカさんがあんまりに警戒するもんで、ミカさんが生き物製造機になっちゃったんだって勘違いしてました。ミカさん、神さまじゃなかったんですね。ああよかった」
「言ったろ、しょせんこれは呪いなのさ」
「さっきは否定したのに」
彼女が微笑したのが判った。手にちからがこもって、どちらからと言わずして手のひらに汗が滲む。
ミカさんはつぶやく。
「かわいい、かわいい、めっちゃかわいい」
「どれですか? 暗くてよく見えないんですけど」
「言ってみただけ」
「なんじゃそりゃ」
私はふしぎと疲れが吹き飛び、活力がみなぎる。いまからだって運動会を開けそうだ。きょうがもう終わろうとしているのに、私たちの夜はこれからだ、と叫びだしたくもなる。
「ミカさんのお家にお泊りに行っちゃおっかな」
「あたし、家では全裸なんだ」
「げっ」
「うちのドレスコードそれだけどどうする?」
「やめときます。あ、わかった。じゃあミカさんがうちにくればいいんだ。そうですよ、おいしいインスタントカレーでもご馳走しますぜ」
「インスタントかよ」
「お湯で温めて簡単料理。でも味は保障しますぜ」
「ならお邪魔しちゃおっかな」
安心してください、と私は言う。「私の部屋は殺風景ですので、ミカさんのお眼鏡にかなう、かわいいものは皆目さっぱりございませんので。ぞんぶんに心置きなく、かわいいの呪縛から解き放たれてください」
「癒しがないってことじゃん。がっかり」
道のさきに空き地が見えた。そこから白い子猫が道路に飛びだす。身体は泥だらけで、チョコレートで身体を汚したみたいな紋様が見えた気がしたけれど、目の錯覚かもしれなかった。子猫は街灯のしたを通り抜けて、夜に紛れた。
「かわいいって言わなくっていいんですか」
「あれはいいよ」
朝にもう言った。
聞こえた気がしたその声は、子猫のあとを追うように、闇に染みこみ、打ち解ける。
【焼肉みたいに言わないで】
ミカさんに呼ばれておっとり刀で純喫茶に駆け付けると、注文した珈琲が運ばれてきてから早々に、
「別れ話がしたいんだけど」
切りだされた。
「はあ」私はその言葉の真意を推し量れなくて曖昧に相槌を打つ。いかにも深刻といった神妙な面持ちでミカさんは、「急にこんなことを言うのもどうかと思うんだけど」と続けて、「別れてほしい」と言った。
「あのう、えっとぉ、ちょっと待ってくださいね」私はひたいに手をあて、ここ半年のじぶんの行動とミカさんと交わした言葉たちを振り返り、よくよく確信を得てからこう反問する。「私たちって付き合ってたんですか?」
「うんみゃ。付き合ってはないね」
「おい」
「だから最初にも言ったけど、別れ話がしてみたくって」
「焼肉したかったみたいに気軽に言わないでくれません」しれっと嘯きすぎである。「本気でびっくりしたんですけど。いつの間にかパラレルワードに迷い込んだ可能性とか、記憶喪失になってしまった可能性とか、ミカさんがストーカーになっちゃった可能性とか、割と本気で焦りました」
「はっはー」
「いやいや笑って済まそうとしないで?」
「そういうわけで別れてほしい」
「まだつづけるんですかこの茶番」私はやれやれと頬杖をつく。ミカさんとは短くない付き合いだがここまで突拍子もない破天荒な真似は未だかつてない、と言いたかったのだけれど過去を振り返ると思いのほか思い当たる節よろしく候補が立ち並んで、初売りもかくやの行列ができた。ちなみにきょうは三が日であり、こんなけったいな理由で呼びだされたとは神社の神さまにも親にだって言いたくない。
「どうして急にそんなこと思いついたんですか。予行練習でもしておこうとでも?」
「まさにそうなんだよね。気づいたんだよ、あたしに足りないのは人生経験そのものだってね。だってほら、未だに恋人いたことないわけで」
「じゃあせめて告白の練習をしてくださいよ」
「だってそれは恥ずかしいじゃん」
「これもだいぶ恥ずかしいですよ? それに振られる経験のほうが何かと人をつよくする気がしますけどね」
「経験者は語るってやつだね」
「いえ経験はないですけど」
「耳年増かよ」
「その言い方もどうかと思いますけどね」
だいたい、と私はメニュー表を開いて、小腹が減ったな、と注文の品を見繕いつつ、「ミカさんに足りないのはどちらかと言えば経験というよりも分別というか、常識だと私なぞは思いますけどね」
「そっちは間に合ってるからいいんだ。たんまりある。お年玉で子どもたちに配って歩きたいくらい」
「ミカさん、常識のデフレ起こしてませんか。ミカさんの配った常識、たぶん私の価値で測ったらほぼないに等しいですよ」
「んなあほな」
「常識がないひとに限ってあると思いこんでしまうのってなんなんでしょうね」
「そういうきみはどうなんさ。まるでじぶんはあるみたいに言っちゃって。常識のなんたるかをきみはちゃんと知っているのかね」
「そう正面きって問い質されると自信なくしちゃいますけど」
「ほれみたことか」
「こんなことでよくそんなうれしそうな顔できますね。ひとを言いくるめて楽しいですか?」
「めっちゃ楽しい。すっきりする。こんなにいいことはほかにないと思うくらい」
「常識うんぬん以前の問題だったかも」私はマスターを呼び、パフェを注文した。ミカさんも同じやつをちゃっかり頼んだ。「あたしも北海道ください」
マスターが去ってから、北海道ってなんですか、と問う。
「あのパフェね、北海道のカタチのクッキーがついてくるんだ」
「食べたことあるんですか」
「よくくるからね、ここ」
初耳だった。ミカさんが独りで行動するのに意外性はないのだが、私がいちども誘われなかったことに少々面食らう。
「ミカさん、そんなんだから恋人できないんですよ。独りで平気というか、独りが好きというか。ミカさん本当はいらないんじゃないですか恋人。邪魔って言ってすぐに別れを切りだしそうなものですけどね」
「だから練習さしてって言ってんじゃんよ。恋人欲しいとも言ってないし」
「えぇえ。それってどうなんですか。振るためだけに付き合いたいってことですか。さっきの話じゃないですけど性格ゆがんでません?」
「まっすぐでない自信はあるね。うん、ある。でもそんなん誰だってそうなんじゃないんですかぁ」
ミカさんの、ですかぁ、があんまりに当てつけ感にあふれていて、間延びしていて、私は頭のなかに無数のカラスを飛ばして、同じ音程の、かぁ、かぁ、を合唱させる。
注文の品が運ばれてくる。ミカさんの言ったとおりクッキーがついていたが、どちらかと言わずしてこれは北海道というよりもデフォルメされた牛の顔だ。ミルクパフェなので妥当なチョイスではあるけれど、ミカさんはこれを北海道だと言って譲らない。
「いやいやちゃんと見てくださいよ。目ついてるじゃないですか。あと紋様も」
「北海道をキャラクターにしたんだよきっと」
「もうそれ牛でよくないですか」
「モウ」
「それはどっちの意味ですか。牛の鳴き声ですか、それとも抗議の意思表示ですか、どっちもかけたとかナシですよ」
「カウカウ」
「ちゃうちゃう、みたいなノリで渾身の分かりづらいギャグをぶっこむのやめてくださいよ。英語で牛がカウだからってちょっとそれは判りづらいですし、私じゃなきゃ見逃しちゃうね」
「こんなのはあたしにとっちゃ午後のお昼寝タイムの優雅なうたたねと同じなのだ」
「名言なら名言らしくちゃんと引用してくださいよ。かすりもしてなくてびっくりしました」
とある有名な漫画の名場面のセリフを引用したかったのだろうけれど、きっと全然憶えてなくて、雰囲気だけでも匂わせたかったのだろう。ミカさんにはそういうところがあった。むかしからあった。まったく変わっていないし、変わる予定もないらしい。
成長とは、と私は人間の神秘に思いを馳せる。
ミカさんはスプーンを五回口とパフェのあいだに往復させただけでカップをカラにした。
「うーん、おいしい。やっぱりひとと食べるパフェは卓越だね」
「格別にしといてくださいよそこは。何ちょっと超越しちゃってんですか」
「そう言えばことしって何年だっけ」
「モウ、ミカさんってばまた一通もださなかったんですか年賀状。牛ですよ牛」
「あ、そっか」
にやにやされたので、なんじゃこいつぅ、と思いながらじぶんの前言を振り返って、図らずもギャグみたいになっており、顔が熱くなる。
「わざとではありませんので」
「知ってる知ってる。きみにそんな勇気はないものね」
「ありませんよ駄々滑りする勇気なんて。欲しくもないですね」
というか、と私は引っかかる。「私、年賀状ミカさんにだしたんですけど」
「あらそうなん?」
「ポストくらい覗いてくださいよ」
「督促状とかこわくって。はやく電気代払えとか、家賃払えとか、借金返せとか」
「前半はともかくミカさん借金あるんですか?」
「あるともさ」
「胸を張るとこじゃないですよ。ちゃんと返すあてはあるんですよね」
「あったらとっくに返しとるよきみ」
「返す気あります?」
「いざとなれば自己破産してやる」
「簡単に言わないでください」
「じゃあ臓器売るからいいよ」
「どこがじゃあなのかがまったくわからなかったですね。バイトしましょうよ、働きましょうよ、お金はそうやってつくるものですよ」
「コピー機でつくれねぇかな。へっへ」
「重罪ですからやめてくださいねそれ。いえ冗談ではなく」
「あーあ。こういうときに恋人いたら便利なんだろうな」
「聞きたくないんですけどいちおう訊いておきますね。なんでですか」
「お金借りれるじゃん。タダで」
「最っ悪。百歩譲って借金の返済にあてたあとはちゃんと恋人さんにお金は返すんですよね」
「返す必要あるん? だったら返す前に別れちゃお。そうそう、そういうときにこうね、因縁を残さずにきっぱり別れる方法を学んでおこうと思って」
「借金返せば因縁も何も残らないと思いますけどね私は」
「安心してよ。あたし、きみからは絶対にお金借りたりはしないから。あ、財布忘れちゃった」
「言った矢先にそれですか」声が上擦った。「いいですよきょうは奢ります。私からのお年玉ってことにしといてください」
「わるいね」
「わるびれた感がいっさいない……ひょっとして最初からそれ目当てで呼びだしました?」
暗に財布代わりにしたかったのか、と問う。
「うんみゃ。ふつうに会いたかったんだよ。新年最初にさ」
「じゃあ元日に呼んでくださいよ。私、もういろんな人に会っちゃったじゃないですか」
「いいじゃんよべつに。あたしんとってきみが最初であればそれでいいんだから。さすがにあたしもきみの正月を初日から邪魔しようとは思わないんだぜ」
「だぜ、と言われましても」口元がほころびかけて、きゅっと結ぶ。「そう言えばミカさん、電気止められててちゃんとご飯食べられてるんですか。冷蔵庫はいいとして、電気止まってたらガスだって使えないんじゃ」
「食べてるよ。コンビニ弁当」
私はこれみよがしに息を漏らしてみせ、いまから何か食べに行きますか、と時計を見遣る。夕食には早いが、時間帯をズラせばお店の負担も減ってちょうどよいはずだ。いま世間は営業時間短縮要請への対処で忙しいのだ。
私はミカさんとは違って常識を鑑みられるのである。
なにともなしに内心で張り合って私は、
「何か食べたいものありますか」と鞄を手に取り、上着を羽織る。
「へっへ。モウモウのジュージューがいいな」
「焼肉ですか。まあいいですけど、正月太りしても知りませんよ。ちゃんと身体動かしてますか。というかミカさんこの間、お風呂とかどうしてたんですか」
「入ってたよ。水風呂に」
「そのうち死にますよ」
「そんときゃ大いに悲しんでくれたまえ」
「いっそせいせいしそうですけどね」
「そんな哀しいこと言いっこなしさね」
「恋人できたらちゃんと教えてくださいよ。せめてもの情けに、ミカさんがどういう人か、最初に説明してあげたいので。お互いに人生を無駄にすることはないでしょうし」
会計をしてそとにでると、ミカさんがなかなかでてこなかった。おトイレだろうか。待っていると、うぅサむサむ、とミカさんが店の扉を肩で押しやって、手を揉みながらでてきた。
「じゃあ行きますか。どのお店にします? あんまりお高いお店は私もきついので、チェーン店でもいいですか」
「なんでもいいよ」
「食べられればってことですか。じゃあ近場で済ましちゃいましょう」
「そうじゃなくって。いっしょならどこでもいいよってこと」
「ああそうですか」私はつっけんどんに聞き流す。
はいこれ、とうしろから何かを握らされる。バトンを渡すように手渡されたので、そのまま受け取った。「なんですかこれ」
「さっきの喫茶店名物。マスターの木彫りの北海道」
クッキーの牛と同じカタチをしたキィホルダーだった。
「やっぱりこれは牛ですよ。誰が見ても、百人中九十九人は牛って言うと思いますけどね」
「マスターは絵心のあるひとだから」
「だから?」
「牛にも見える北海道にしたんじゃないかな」
「そういうことにしときましょう。寒いので急ぎますね」私はキィホルダーをさっそく鞄につけた。
「意外に気に入った? うれしい?」
「そういうこと訊いちゃうところがミカさんの欠点だと私は思いますけどね。そんなんじゃいつまで経っても恋人できないと思いますよ。当分できそうもありませんね、別れ話の練習なんていらないんですよ、ミカさんには一生縁がないですね、よかったじゃないですか手間が省けて」
「安心した?」
「なんで私が」
「だってほら、あたしと遊べなくなっちゃうから」
「恋人さんに妬くとでも? 焼肉じゃないんですからミカさん。そういう冗談は顔だけにしてください」
つぎ調子乗ったら、と私は言う。「ご飯奢ってあげませんよ」
ミカさんは唇をとがらせるとそこで何を思ったのかポケットからもう一つ牛のキィホルダーを取りだして、顔のまえに掲げた。「モウ」
【首輪に祈らにゃ眠れない】
大発明をした。私がではない。ミカさんがだ。
「見てよこれ。魔法の首輪。これつけると誰でも魔法のランプの魔人みたいになれる優れものだよ。何でも願いを叶えられるよ。じぶん以外の」
「じぶん以外のなんだ。なんか不便ですね」
「そんなこと言いっこなしだよ。エネルギィ保存の法則はいくらなんでもあたしにだって破れないからね。閉じた系にしろ、開いた系にしろ、エネルギィは外部供給するっきゃないんよ。でなきゃ減りつづけちゃうわけで。何かを生むためには、自己完結ではいられなくてね」
「よく分からなかったですけど、要は、それをつければミカさんは魔法使いみたいになれるってことですか」
「何でも願いを叶えるよ」
「ちょっとやってみてくださいよ」
「へい」
ミカさんは頭から首輪をかぶって装着し、なんでもないような顔で、なんか言ってみて、と注文した。
「そうですね。じゃあちょっと世界を平和にしてください」
無茶振りのつもりだった。発明、発明、とふだんから何かとうるさいミカさんを困らせてやろう、とのいたずら心から発した私の一言がきっかけで、世界中から戦争がなくなり、食糧難が解決し、エネルギィ問題が一万年は先延ばしにされた。
すべてはミカさんの活躍によるものである。
ときにスーパーマン顔負けの能力を発揮し、ときに小型の太陽を安全に生みだし、またあるときは喧嘩の絶えない国同士をなだめ、向こう百年に亘って食い尽くせないほどの食料と、それを生みだす技術を提供した。
私が願いを口にしてから三日で起きた快進撃だった。ミカさんは戻ってきてから言った。
「一発目からヘビーな願い唱えやがって。ゼイゼイ」
「蛇ではないですけど」
「重たいって意味だベロベロバー」
「なんでいま私をあやしたんですか?」
「あっかんべーと間違ったの。じゃあつぎ。何か願い言って」
「まだつづけるんですか。もういいですよ。充分ミカさんの発明の偉大さは判りました。本物でした。お腹空いちゃったので何か食べません?」
「扱いが軽すぎる。んー、何食べたいの」
「そうですねぇ。世界中の高級料理をひととおりすべて食べてみたいですね」
「へい」
首輪をつけたミカさんは超高速で動き回って素材から何からを調達し、それはむろんお店から盗んできたのではなく、自力で栽培し、或いは免許をとって獲ってきて、ずらりと私のまえに世界中の超高級料理を並び立ててみせた。
「ゼイゼイ。どんなもんよ」
「こんなに一気には食べられないですけど。これ、美味しいままで保存できません?」
「へい」
ミカさんは時空遅延装置を開発して、指定した座標の時間の流れを一般相対性理論と矛盾しない形で遅らせることに成功した。
「これでどう?」
「もはやそれってミカさんの自力ではないんですか。首輪とか意味あるんですかね?」
素朴な疑問を呈すると、
「あるよ、あるに決まってるでしょうが」ミカさんは憤慨した。「もっとちゃんと本心から願って。なんかあるでしょ、思いつきとかじゃなくてさ」
「世界平和っていう一番の願いがあっさり叶ってしまったのでとくには」
「そんなぁ」
「じゃあミカさんの願いを代わりに唱えてあげますよ。何かあります?」
「や。そういうのはじぶんで叶えてこそ意味があるから」
「じゃあ私もそれということで」
「えぇ。なんかあるでしょ、せっかく造ったのに」
私はむっとした。
発明品の自慢ばかりで、それの有効性を証明するためだけに躍起になるミカさんは、さいきん私をおざなりにしている。いまにはじまったことではないのだ。いつだってミカさんは私のことなど二の次で、研究ばかりにかまけている。
すこしくらい私をだいじにしてくれてもいいのでは。
私はあてつけに、
「じゃあ」と口にした。「私のこと好きになってくださいよ。いまの一兆倍でいいですから」
ミカさんはそこできょとんとした。思っていた反応と違くて、私は遅れて顔が熱くなる。手でぱたぱた扇ぎながら、「冗談ですけど」と言い足すと、ミカさんは、
「それはちょっと無理かなぁ」
などと大真面目に返してくるので私の立つ瀬は物の見事になくなった。こんな惨めなことってある?
「帰ってもらっていいですか。いま独りになりたいので」
「いやいや、そんな顔されて、はいよ、とはいかんよ」
「命令です。帰ってください」
「命令は無視する」
「じゃあお願いします、帰って」
首輪をつけているミカさんには願いを無下にすることはできないはずだ。じぶんの発明品のチカラに逆らえずこの場から立ち去ってしまえ。私は臍をこれでもかと曲げていた。
「その願いも却下する」ミカさんは平然と言ってのけ、私のとなりに腰掛ける。「あんね。これは魔法のランプの魔人みたいにはなれても、あの魔人みたいになるわけじゃないんだよ。何の枷もない。気に食わない願いはきかなくたっていい」
「じゃあなんですか。ミカさんはそんなに私を好きになりたくなかったって、そういうことですか」
願いをきかなかったのだから、そういうことになる。
「そうじゃないんよ。だってあたし、これ以上きみを好きになんてなれそうにないもの。というかこれ以上、滾々と湧かれちゃ、処理の仕方を考えるだけでも首が回らんくなる。それこそ首輪が一本じゃ足りないくらいだ。チミは知らないだろうけど、無限に何をかけたって無限なんだぜ」
「なんだぜって、はぁあ。私ミカさんのそういう気障ったいところが嫌いです」
「またこれだ」ミカさんは膝のうえに頬杖をついて膨れた。
私は気になったので、きょう最後の会話にするつもりで言った。「首輪のエネルギィ源ってなんですか? 質量保存の法則が有効なら、外部供給されているエネルギィがあるんですよね」
「あるよ」
「それって?」
「言わない」
「滾々と湧いて湧いて困っちゃう何かがあるのかなぁ」
横目で彼女の顔を窺うも、ミカさんはぷいと頬杖をついたまま顔を逸らし、知らない、と言った。
【偽りの祈り】
鬼牙(キキバ)は人殺しだ。人から命を奪うことで日々、糊口を凌いでいる。
金品や食料を得るために見ず知らずの通行人を襲うこともあれば、依頼を受け、名の知れた大物を殺すこともある。
暗殺者ではない。
誰の手による殺害かは遺体を見れば一目して瞭然だ。依頼の場合は十割、見せしめのために殺す。報復されぬためにも、遺体は獣に食い荒らされたかのような無残な様で転がしておく。鬼牙なる死を司る脅威を手中に納めていると周囲の者に誇示するためだ。
遺体を一晩で骨の数ほどに千切れる者は鬼牙以外では滅多にいない。
人を殺すことに慣れているからこそできる芸当である。おいそれと真似はできない。
この日、鬼牙の元に一つの依頼が舞いこんだ。
なんでも屋敷に住まう主を殺して欲しいという。珍しく鳥が文を運んできた。
指定の場所に前金を隠しておいたと書いてあったので、その場へと赴くと確かに、尋常ではない金額が置かれていた。詐欺ではないようだ。
仕事を十全にこなせば残りの金を払うという。
申し分ない内容だ。
一人殺すだけでふだん請け負っている仕事の十倍の金が手に入る。
ただし、それだけ困難な仕事でもあるようだ。
屋敷の主人は厳重に警備された建物の奥深くに閉じこもっているようだ。敵が多く、そうでもしないといつ暗殺されるか分からない。そういう身分の者だという。鬼牙に依頼が舞いこむのは時間の問題だったに相違ない。
依頼主が誰かは定かではなく、手紙にもその手の情報は何も書かれていなかった。
金をもらえれば不満はない。どの道、依頼主の情報を知ったところで、困ったときに強請りに行くくらいしか用途がない。だが当分困る予定はないのだ。依頼はあとからあとから湧いてくる。
今晩にでも済ませてしまおう。
鬼牙は日が暮れるのを待って、屋敷に忍びこんだ。
「何やつ」
「もう見つかっちまったか」
屋敷の警備が厳重なのは文にあった通りだ。予想外だったのは、猛者どもが行く手を阻んだことだ。
これでは端から、刺客が放たれたと屋敷の主人が知っていたみたいではないか。
単なる使用人ではない。武芸者たちがこぞって鬼牙に襲いかかった。
一人倒しては、また一人。
敵は倍々の勢いで増えていく。
間もなく、中庭にて囲まれた。
「誰に頼まれた。並みの腕前ではないと心得る。仕えている者の名を明かせば、御屋形様に恩赦を訴えてもよいぞ」
鬼牙はその言葉を聞き流した。何が恩赦だ。真実かように訴えでるだけで、あとの結末は変わらぬだろう。
殺すか、殺されるか。
あるのはただそれしきの理である。
鬼牙は周りを見渡し、ひぃふぅみぃ、と猛者どもの数を数える。全部で五十四ほどの武芸者がおのおの武器を携え、鬼牙を取り囲んでいた。
「揃いもそろって臆病なことだ。賊一人相手に大した騒ぎよ」
祭りでもあんのかよ。
嘯き、鬼牙は拳を頭上に掲げる。
するとどうだ、中庭に、キラリと光る筋が、幾重も浮かんだ。月明かりに照らされ、それら筋は、無数の糸となって、猛者どもの合間、合間に張り巡る。
糸は総じて鬼牙の拳へと吸いこまれていた。
鬼牙は、籤を掴むように握った無数の糸を、もう一方の手で以って、真下へと引き下ろす。拳はそのままだ。拳を支点に、井戸から水を汲みあげるようにして、糸を引く。
無数の糸がピンと張る。
中庭に巨大な蜘蛛の巣が姿を現す。
この時点で、糸を跨いでいた者たちは脚を切断され、地面に転げた。
悲鳴はまだ上がらない。誰もが何が起きているのか、痛みすら、知覚できていないのだ。
鬼牙はその場で、拳を掲げたまま、ぐるぐると回転してみせる。
みちみち、と暗がりのなかに音が響く。
糸はねじれ、錯綜し、暗がりを縦横無尽に寸断する。
逃げ回るあいだに結び付けておいた柱や灯篭や木々からやがて、糸の先端がすっぽ抜ける。あたかも豆腐に糸を巻き付けたがごとく様相である。その感触が、鬼牙の手には伝わった。
無数の糸は地面に垂れ、あとはただスルスルと手繰り寄せ、回収するのみである。
「け。他愛もねぇ」
中庭には鬼牙以外の人影はなかった。立っている者はおろか、文字通り、人の形を成したものはただの一人もいなかった。
配備された猛者はほかにもいるだろう。
残っているはずだが、しょせんは雇われの身である。もはや誰も鬼牙のまえに立ちふさがる者はなかった。
或いは、中庭での残虐を目にし、ようやく今宵この場にはせ参じた賊が鬼牙であると知れ渡ったのかもしれぬ。
とすれば、屋敷の主人は援軍要請の使者をよそへと放っているだろう。長居をするのは得策ではない。いかな鬼牙と言えど、万全の態勢を敷いた一軍相手には、容易には立ち回れない。
手早く仕事を済ませ、お暇しよう。
屋敷の奥へと歩を進める。
やがて大広間と言えばよいのだろうか、だだっぴろい畳の部屋へと抜けた。天井が高く、色鮮やかな絵が描かれている。襖も豪勢であり、部屋の中だというのに、梅の木や、竹が生えていた。
「ようこそおいでくださいました」
大黒柱だろうか、ひと際太い柱のまえ、部屋の真ん中に、子どもが一人鎮座していた。座布団にちょこんとおわしている。声をかけられるまで鬼牙はそれを人形か何かだと見做していた。
存在感がなかった。
生きている者から感じられる息遣いが、感じられなかったのだ。
「私を殺しに参られたのでしょう。どうぞ。人払いは済ませてあります。半刻もすれば追手がかかるでしょう。いまのうちに、早く」
鬼牙は耳の裏を掻く。
「ひょっとしてあれか。おめぇが依頼人か」部屋には見覚えのある鳥が飛んでいた。羽ばたき、梅の木の枝に止まる。文を届けに飛んできた例の鳥である。
「はい。故あって、私は長らくここに閉じ込められています。そのお陰で助かる方がいらっしゃるのですから、それに不満があるわけではありません。ただ、私が生きている限り、その方は私同様に、自由に生きる道を手放さねばなりません。こんな思いをするのは私一人で結構」
「互いが互いに人質ってことか」
「そう捉えてもらっても構いません。私が自死すれば、似たような者をほかに用意し、その方の境遇は何も変わらないでしょう。しかし、私が暗殺されたとなれば、いったい誰が私を殺したのか、という話になる。いまのところ私が死んで得をするのは、私たちにこうした不自由を課している者です。じっさいにはその者が得をすることはないのですが、なにせすでに私の財はその者のものなのです。しかし表向きは、私はその者の財を自由に使える身分にあります。私が不当に死ねば、この座はその者の手に渡ります。飽くまで表向きはそういうことになっている、ということでしかありませんが。本当はただ、その者に自由を奪われ、傀儡にされているにすぎないのですが、その真相を知る者はおりません。また、そうした事実を当の本人が弁明で明かすこともないでしょう」
「つまり、あんたをハメた相手に一矢報いたいと、これはそういう仕掛けかい」
「正直、私たちにこうした不自由を課している相手のことはどうでもよいのです。ただ、もう一人の私には、同じ道を歩ませたくはない。そのためにも」
「あんたが無残に殺されなきゃいけねぇってこったな。はいはい、分かりましたよっと」
鬼牙は袖で刃物を拭う。先刻、中庭から拾っておいた道具だ。武芸者たちのうちの誰かの持ち物だろう。質のよい道具ばかりが揃っていた。武器よりもまずは腕を磨きなと、助言の一つでもかけて回りたい気分だったが、こうしてじぶんのためにわざわざ高価な武器を一か所に集めてくれたと思えば、そうした真心も消沈する。
「仕事は仕事だ。依頼人を殺すことになろうと、それが依頼ならこなすだけだが、その前に一つ確認しておきてぇ。あんた、自由になりたくはねぇのか」
「私ですか? そうですね。それはなれるものならばなりたいというのが本音ですが、もうそうした夢は諦めました」
「なんでだい」
「無理なんですよ。私がいくら抗ったところで、あのひとを止めることはできない。それこそ、あのひとの振りかざす権威そのものが、あのひとに牙を剥かないかぎりは。もっと言えば、そうした権威をどうにかしない限りは、根本的な解決にはなり得ません」
一族とはそういうものなのです。
子どもは達観したような言葉をつむぐ。
「そうかい。じゃあたとえば俺がそいつらまとめて始末してやるっつっても、あんた、断るってことだ」
「そんなことができるとは思いませんので」
「できるできねぇじゃねぇ、あんたが本当はどうしたいのかを訊いてんだ。どうなんだ」
「私は、本当なら誰の悲しむ顔も見たくない。しかし私はすでに手を汚してしまいました。私を守ってくれる方々を、私の一存でかってに招いた死神の餌食に差しだしてしまったのです。いまさら本懐を述べても意味がないでしょう」
「じぶんだけ幸せにはなれないと? は。だったらあんたがいま抱いてる一番の望みだって叶えちゃあかんだろうが。俺がおまえを殺して一件落着? は。くだらねぇなぁ」
「ではどうしろと。依頼はこなしてくださらないのですか。それでも構いません。あなたがここに辿り着いたという事実さえあれば、あとは私がじぶんで死ねば済むことです」
「ああ、そうかい。かってにしな」
踵を返すが、鬼牙はふと思い留まり、一つだけ誤解を解いとこうか、と背中越しに声を張る。「俺ぁ、頼まれりゃあ、人を殺すが、暗殺者を名乗ったことはいちどもねぇ。べつにほかのことでも構わねぇんだ。たとえばこっから生きてそとにでたいでも、ほかの場所にいる籠の鳥を取り戻してぇでも、なんでもよ。ただ、なんでか誰もそうした依頼をしてこねぇ。ま、ちょいと依頼が反故になっちまったもんで、いまこうして愚痴を吐いちまったが、まあ、これくらいはいいだろ。前金だけはもらっとくぞ。あとは好きにしな」
じゃあな。
部屋の敷居を跨いだところで、
「約束できますか」
震えるような声が届いた。「私たちの身の安全を守りながら、自由を取り戻す手伝いをしてくれると、約束できるのですか、あなたに」
あなたのような人殺しに。
挑発するのでもなく、皮肉を言うのでもなく、その声からは純粋な疑問の響きが聞き取れた。
「依頼はこなす。それ以外にすることがねぇんだよ、俺の人生にゃあよ」
「報酬は」
「そうだな。いまおまえになく、これから手にするだろう財の半分ってのはどうだ。要するに、おまえが葬り去りてぇ相手の財をそっくりそのまま俺がもらい受ける。むろんそこにゃあ人の命も含まれる。構わねぇな」
「構いません。ただし、私が名指しした相手は、殺さぬこと。自由の身にすること」
「それ以外は俺の好きにする。いいな」
子どもは神妙に頷いた。
「重畳。依頼を引き受ける」鬼牙は一瞬で子どもとの間合いを詰めた。相手が目を見開く前に、肩に担ぐ。「ひとまずこっから出るとしやすかね」
屋敷の入り口のほうから、足音が近づいてくる。一つではない。大群が雪崩れこんできていると判る。
子どもの尻を叩く。
ひゃん、と色っぽい声を漏らす依頼主に、名は、と訊ねる。
だんまりを決めこむのは、名乗りたくないからなのか、それとも尻を叩いたことを怒っているのか。
「俺のこたぁ、キキバと呼べ。呼び捨てでいい。きょうから俺はあんたの道具だ。しゃべる刀とでも思って、使ってくれ」
「では命ずるぞキキバ」子どもは肩に担がれたままの態勢で、二度と私の身体を叩くな、と言った。「それからついでに、いま屋敷に入ってきた者たちを無傷で撃退し、ここから無事に逃げ仰せてみせろ。できるか」
「朝飯前でさ」
がうがう。
骨をまえにした犬の真似をし、鬼牙は、来た道を疾走する。本当は、迎え撃つことなく、屋敷から逃げだすことなど造作もなかったが、依頼主の命令は絶対だ。
無駄に遊んでいくのも一興だ。
明朝。
屋敷から主が攫われたと、町人の誰もが知ることとなった。
賊と目されるは、天下に名高い人殺し、鬼牙である。かの者には多額の懸賞金がかけられたが、討伐にでようという気骨のある者はすくなく、懸賞金の出処である由緒ある家柄の一族は早晩、没落したそうである。
鬼牙がその後どうなったのかを知る者はない。
屋敷の主人もついぞ発見されなかったが、近ごろでは、鬼を使役した僧侶の噂が巷で人々の口の端にのぼっているそうだ。
あたかも自在に、枝から枝へと飛び回る渡り鳥のように。
噂は風に乗り、ささやかに広まる。
件(くだん)の僧侶は、鬼のほかにも、妖狐を連れているという話だったが、妖狐と鬼の仲はとびきりわるいというもっぱらの評判だ。僧侶は妖狐に頭があがらないようであり、もはや妖狐が、僧侶と鬼を使役しているのでは、と噂は多様に様変わりする。
新たに噂ののぼる地では、凋落する貴族や大店が噴出するという。
そうしてついて回る噂の尾ひれからか、いつしか人は彼女らを、妖狐の連れ、と呼び、畏怖と混沌の象徴として、井戸端会議よろしく語り継いだという話である。
【枕に埋めて】
高校生にもなって恋愛の一つも成就させたことのない身の上でございますから、わたしのような小娘には、たとえ恋焦がれた相手ができようと、遠目から眺めて、ほぉと溜め息を吐くくらいのことしかできないのでございます。
それでもまったく何もしないでいられるほどには思春期という時間は短くはありません。淡い恋心をころころとたなごころのうえで転がし、その表面に映る僅かな光の移ろいなどを楽しむくらいの余地はございますから、そうした他愛もない児戯に興じる夜もございます。
たとえば枕の裏に、懸想の向かう相手のお写真などを忍ばせ、眠ることで、その方の夢を見ようとはしたなくも、切実な、願掛けを試みてみたりすることも、ございます。
漫然と過ぎ去っていく色褪せた時間を着色し、すこしでも起伏あるものにしたいとの欲深きおまじないにすぎなかったそれも、いつしか、真実にその方の夢を見られるようになったので、素朴に科学を信仰しておりますわたしと致しましては、たいへんに驚きました。
願掛け、まじないとはいえども、本気でいそしめば、それなりの効能を帯びるようなのです。暗示のようなものなのかもしれません。
想い人との夢では、逢瀬を重ねました。それはそれは楽しい時間でございました。
行ったことのある神社の境内を共に回ったり、或いはかつて旅行で赴いた土地をお団子などを食べさせあいながら歩いたり、ときには一面お花畑の、この世のものとは思えぬ野原で寝そべり、共に将来の夢を語り合ったりしたものです。
ただ、すべてが順調に進んだわけではございません。
しだいに、途中でそれが夢であることを自覚できるようになってきてしまったのには、弱りました。というのも、見る夢からして、まるで映画のような、荒唐無稽な内容が増えていったのです。人生経験の乏しいわたしの性質が、夢を視る回数を重ねていくにつれて結晶化していったような残念さがあります。
そのうち、想い人の性格まで本人と乖離しはじめました。わたしはどうしてもそれを許せず、それでいて夢でその方と会えなくなるのも耐えられずに、折衷案として、ふたたび夢の明晰度を高め、より現実に即したものにしようと画策いたしました。
創意工夫をするうちに、枕のしたに入れる品を、より想い人にちかしい代物に替えることで、夢に現実味を取り戻すことができると、発見したのでございます。
とは申しましても、想い人にちかしい代物とは、要するに、その方がふだんから肌身離さず身に着けているもの、或いは、愛用している物品でございます。それを手に入れるのは容易ではありませんでした。
わたしはわたしの想い人の行動を逐一観察し、その方がゴミ箱に捨てた雑貨や、残飯、ときには忘れ物を職員室に届けたりせずに、そのまま預かったり致しました。もちろん泥棒はよくないことです。しかしわたしは、あくまで想い人の手を離れた、その方にとっては無用の長物を有効活用しているにすぎません。忘れ物にしたところで、いつかは返すつもりでおります。すこしのあいだ預かっているだけなのです。
わたしの創意工夫のお陰か、夢の明晰度はふたたび上がりました。まるで現実で想い人と親しくなれたような、まさしく夢のような時間を、夜になるたびにすごしておりました。
あまりに毎夜のごとくそうした臨場感のある愉悦に溢れた夢を見るので、学校内で、ちょっと気が抜けると、想い人についつい親し気に接してしまったりし、焦ることもしばしばです。
わたしの想い人は、お人がたいへんによろしい人格者でもあられますから、わたしのそうした無礼な態度にも、おやさしい笑みを向けてくださいます。
そうした慈悲の反応が、余計にわたしに、思いあがり甚だしい、赤の他人として一線を越えた態度をとらせるのです。その頻度は、日に日に増えていくようでした。
こうして何度も接点を重ねている時点で、すでに赤の他人とは言えない仲になっているのかもしれません。ひょっとしたら夢のように、まるで運命の赤い糸で結ばれた関係にすらなれるかもしれないと、淡い希望を胸に抱いたりも致しますが、もちろん世の中そんなに甘くはありません。わたしのほうでも、愛の告白など、恐ろしくて、たとえ夢のなかであろうと試せたことはありませんでした。
わたしのそうした、いっぽうでは馴れ馴れしく、またいっぽうではよそよそしい態度が、わたしの想い人の目には興味深く映ったらしく、ある時期からは、その方のほうから声をかけてくださる機会がぽつりぽつりとではありますが、生まれはじめました。
わたしにとっては夢のなかにしかなかった虚栄にすぎなかった縁が、現実のものとなりはじめたのです。現実で接点が増えるにつれて、わたしの手のなかに転がりこむ想い人の私物は、徐々にその量と質を増しました。
具体的には、わたしはその方の髪の毛や、使用済みの絆創膏、或いは脱ぎ捨てられた靴下や、体操着、なかには水着などといった代物まで、幅広く集めることができるようになったのでございます。
必然、夢の質感は、現実とほとんど遜色ないほどで、もはやわたしは休日の大半を夢のなかですごすようになっておりました。
順風満帆ではありましたが、悩みがなくなったわけではございません。
夢と現実の垣根が失われれば失われるほどに、現実におけるわたしと想い人との関係性の希薄さが浮き彫りになるのです。わたしとその方の繋がりの差異だけが、夢と現実をはっきりと区分けする一線と化しておりました。
なぜ現実と夢とでは、こんなにもわたしとあの方との関係は違ってしまっているのでしょう。どうしてわたしとあの方は、夢のなかでそうあるように、愛し合う関係になっていないのでしょう。
わたしは考えました。
しかし分からないのです。
おそらく、何かが足りないのでしょう。
夢のなかではわたしは、想い人に何の遠慮もなく本心をさらけだせます。それはもちろん、夢ならば失敗してもやり直せるからだと知っているからですし、そもそもそこにいるのは本人ではあり得ないと理解しているからです。
夢はしょせん、夢にすぎません。そんなことはいくらわたしとて解かりきっていることなのでございます。
ですが、わたしの夢の質感は、本当に、真実、現実と同じなのです。違っているのは、わたしの言動だけだと言ってしまっても、わたしの感覚としては間違っておりません。
ゆえにわたしは考えました。
想い人から嫌われぬようにと振舞うその遠慮そのものが、夢と現実を分かつ大いなる楔と化しているのだと、きっとそうに違いないと、奮起致しました。
わたしは勇気を振り絞って、想い人との距離を縮めるべく、率先してそばに寄り、話しかけ、笑みをそそぎ、看護師や秘書のごとく、或いはマネージャーや保育士のように、考えられ得るかぎりの献身を振りまいたのでございます。
人間、じぶんによくしてくれる相手を、邪見にすることは稀です。もちろん内心でどう思っているかは別として、真実、利を運んできてくれる相手ならば、たとえ便利な道具のように見做していたとしても、表向きは、友好な関係を築こうとするものです。
あからさまに貢ぐような行為を致しません。恩を売ることは、無償の奉仕とはまったくの別物です。
奉仕していることにすら気づかれないように、恩を感じずに済むように、影に日向に回って、その方にとってよりよい環境を築くことこそ、わたしのすべきことであり、そして実践したことでございます。
その甲斐あってか、わたしは想い人との距離を縮め、放課後や休日に二人きりで会うようにもなりました。もちろんまだまだ距離はあります。夢のなかのようにはまいりません。
恋仲のような関係にはなれておりませんが、それで構わないのです。
どの道、夢のなかでも、未だに結婚はできていないのです。身体の関係も、いまいち進展が見られません。わたしはもっと夢のなかで、想い人からの欲望を浴びたいのです。骨の髄までその方のために捧げたいのです。
真実、身も心も結ばれるためには、より強力なおまじないがいります。
段取りがいるのです。
願掛けのための素材が入り用なのでございます。
その方の下着や、体液、排せつ物程度ではもはやそれ以上の進展は望めないのです。
しかし諦めるわけにはまいりません。
わたしのとるべき道は限られています。
さいわいにも、いまのわたしは、現実において、想い人と二人きりで会うことができます。誰の目にも触れない場所で、その方を襲い、その身体を自由にすることができるのでございます。
もちろん、わたしは変質者ではございません。乱暴を働き、一方的に欲を満たそうだなんて、はしたない考えを抱いたりはしないのです。
飽くまでわたしは、愛し合いたいのです。
ただしその舞台が、現実でなくとも構いません。
夢のなかでも構わないのです。
どちらかと言えば、現実よりも、夢のなかでのほうが、あらゆる邪魔を考慮せずにいられて、好ましく思います。
あす、わたしはようやく手に入れることができるのでございます。
細切れにすれば、毎夜でも楽しめることでしょう。
血一滴たりとも無駄には致しません。
枕のしたに忍ばせたそれらによって、これ以上ないほど想い人とのえにしを、肌に、臓腑に、感じながら、思う存分に、心の底から、念願の愛の営みを満喫すべく、わたしは、わたしの本願を絶対に成就させてみせるのでございます。
【海の卵】
朝、海辺を散歩する。さざ波とウミネコの鳴き声がある。砂浜を歩くたびに足音がサクサクと鳴るにぎやかな静寂の合間を縫ってときおり遠くでトラックのエンジン音が走り去る。
スカートを穿くと裾の長さに関係なくいつも知れず汚れているので、浜辺を歩くときはデニムを履く習慣がついた。きっとしゃがんだときに汚れるのだろう。靴のかかとの汚れを目にしてから思い至ったが、けっきょくデニムにしろ汚れることには変わりはなく、その点はしょうがないと呑みこんでいる。
犬でも連れていたらもっと楽しいのかな、と思うけれど、マイペースにじぶんの速度で歩くのが好きだ。片手が塞がれないほうが身軽でよい。
波打ち際には様々な海の落し物が散らばっている。埋もれているそれを掘り起こし、拾うのがひそかな私の楽しみだった。
最も多い落し物はゴミ類だ。異国のプラスチック製包装紙や、ペットボトル、母国のゴミも目立つ。そうしたゴミも拾うが、それは目ぼしい海の落し物があったときに持ち帰ってしまうことへの呵責の念を払拭したいがための、等価交換のようなものだった。
一日に一個はステキな落し物を拾う。人の落としたものではない。天然の、自然からの贈り物だ。
きれいな貝殻や小石が多い。サンゴを拾うこともある。そうした宝物を見つけると何か、子猫を初めて飼うときのような高揚感に満たされる。
そのガラスの容器に気づいたのは、家に帰ってから浜辺で拾ったゴミを仕分けしていたときのことだ。
ゴミ袋の中から引っ張りだしたときに、おや、と目が留まった。大きさは栄養ドリンクのガラス瓶くらいで、片手で包み込める。色が黒く中身が見えなかったので、まさしく栄養ドリンクの空き瓶かと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
水で洗ってみると、器は琥珀色に煌めいた。半透明で、細かな装飾が施されている。材質はガラスに似ているが、金属に似た光沢がある。手にずりしりとくる重たさゆえにガラス瓶と勘違いした。その実、容器そのものは薄いようで、指で弾くと硬質な鐘のごとく音色を響かせた。
蓋がしてある。
中に何か入っているようだ。液体のようにも、砂のようにも映る。僅かな隙間が空いているのみでほとんど満杯だ。ひっくり返すと気泡のごとく隙間が上下に移動して見える。
埋もれるように何か塊が浸っている。
器の表面の細かな装飾が光を乱反射させ、よく見えない。
蓋は石だ。
偶然詰まったのではなく元からの細工なのだろう。きれいに縁の高さに揃えられており、摘まむ突起がない。開けられないようにとの趣向なのだと判る。
光に翳す。乱反射する。細々な輝きに、昼間であってもそこに満天の星を幻視する。たいへんお気に召しました、の気分になる。
部屋に飾り、ふとした瞬間に目にして、胸のうちのやわらかいところをムネムネ揉み解した。
ゴミと間違って捨てなくてよかった。
日課の海辺の散歩はつづけている。連日メノウの石を拾えてほくほくだ。メノウは光を当てると淡く発光して見えるので、部屋では照明の真下に置いて、寝る前によく眺めて過ごす。
宝石を拾うのは楽しい。毎日が輝きに満ちている。
そのうち、拾い集めた数々の宝物のなかに例の琥珀色の器は埋もれていった。意識の壇上からも薄れていき、やがてどこに置いたのかすら日常生活のなかで意識しなくなった。
あるとき、掃除をしていると、よろけた拍子に棚にぶつかり、飾っていた種々な宝物を落としてしまった。そのなかには、例の琥珀色の器も含まれていた。
割れなかったことにほっとし、いまさらのようにマジマジと見た。
中身が揺れている。液体とも砂粒ともつかぬその中に塊が垣間見えた。ずっとそこに埋もれていたもので、前からあるのは知っていた。
それがモゾモゾと蠢いて見え、ぎょっとする。
短い手足らしきものが見えた。
昆虫ではない。もっと動物のような、肉質な手足だ。
ちいさな人形でも入っているのかと連想する。しかしどうしても脳裏に浮かぶのは胎児だった。子宮内で胎動する赤ちゃん未満のちいさなちいさな生命が器のなかで身じろいでいるのかと想像し、心臓が跳ねたわけだが、そんなわけがなかった。
トカゲのはく製でも入っているのかもしれない。以前、祖父の家で見た日本酒漬けの蛇を思いだす。祖父はそれを晩酌に飲んでいたが、ああいった類の土産物は異国の地であっても案外に多いのではないか。飲食物でなくとも、たとえばサソリをプラスチック製の素材で固めて、琥珀さながらに装飾した土産物も目にしたことがある。似たようなものではないのか。
動いて見えただけだ。
落とした衝撃で、中身が揺らいだだけだろう。
かように思いこもうとしたが、琥珀色の器のなかでは、なおもちいさな塊が液体とも砂粒ともつかぬ中身をもぞもぞと波打たせ、その蠢きの振動を手にゆびに伝えている。ミルクのなかを泳ぐ金魚じみている。
卵が孵った可能性を考えた。元から中には何かしらの卵が入っており、それが孵ったのではないか。だが琥珀色の器は見るからに古そうで、蓋たる石の部位もまた新しいようには見えなかった。古い小瓶に詰めたのだろうか。浜辺で拾ったときにひどく汚れていたことを思いだす。封がされてから長い期間、海を漂っていたのだと考えたほうがしぜんだ。
中から出してあげたほうがよいだろうか。
生きているように見える。
作り物には見えない。
全貌は詳らかではない。何かしらつややかな肌を持った生き物が、ちいさな琥珀色の器のなかで身じろいでいる。動いている。生きている。
息はできるのだろうか。密閉空間だ。長くは生きられないのではないか。
床に落としてびっくりしたからもがいているのかと思ったが、これはひょっとすると息が苦しくて悶えているのではないか。
そうだとも。
器の中のソレは明確に悶えていた。苦しんでいた。ひっくりかえった芋虫さながらだ。器の表面に手足の肌がムニと押しつけられ、そこだけ断面のごとくハッキリと見える。車窓に頬を押しつけた具合に、弾力のあるやわらかそうな肉質な四肢の様子が見て取れた。
液体とも砂粒ともつかぬ内容物のせいでどのように器を傾けてみせても中のソレの全体像は見えない。ただ、胎児のように四つの手足、或いは脚があることまでは判然とした。
割ってあげたほうがよい気がした。
器はきれいでもったいないが、それよりも中の生き物をだしてあげたほうがよいと思った。外にだしたからといって助かるわけではないだろう。外にだしてしまったからこそ死んでしまうことだってあるはずだ。よしんば生き永らえたとしても、世話をしてやることはできない。どんな生き物かすら知らないのだ。外にだしてやるまではしてやれるが、そのあとの面倒までは看きれない。
ではなぜきれいな器を割ってでも助けたいと思ったかと言えば、見殺しにした、という事実をつくりたくないからだ。きっとそうだ。純粋に善意からの選択ではない。
できることはした、助けようとはした、そうした事実をつくっておけば呵責の念に苛まずに済む。 真実に器のなかの生き物の生き死にには関心がない。死んでほしくはないけれど、生きていてほしいけれど、かといってでは私財を投じてまで助けたいかというとそうというほどでもない。
自己保身にしぎないのだろう。
解ってはいるが、では黙って見殺しにしてしまえ、とも思わない。
できるだけのことをしてあげたい。その閾値がすこし低いだけなのだ。
全力を費やしてまで助けたくはない。ただ、できることはしてあげたい。
世の中の偽善と呼ばれるものの構造とはそういうものであり、善意とはすなわち、全力を尽くすことなのだろう。だとすれば善意とはなんともはや、自滅的な響きを伴って聞こえる。
ああだこうだ、と考えながら海辺へと移動している。琥珀色の器を割るにしても、残骸の処理に困る。割れた器もそうだが、中の生き物が死んでしまったら亡骸を埋めなくてはならない。それは面倒だ。
波にさらってもらえればそれで済む。
いままでゴミを散々拾ってきたのだ、これくらいの姑息な所業には目をつむってもらいたい。誰にというでもなく祈る。海の神さまにでも念じておこう。元はと言えば海のものだ。海に還して何がわるいだろう。わるいわけがないのだ。
そうだ、そうだ。
喉元に競りあがる罪悪感をなんとか薄めようと、あれやこれや、と自己弁護を見繕う。
テトラポットの立ち並ぶ区画に立ち、そのうえに琥珀色の器を置く。
割ると言っても、上から岩を落とすわけにはいかない。中の生き物まで潰してしまいかねない。
絶妙なちから加減で叩く。器の口部分だけを割る。
花瓶のように、或いは栄養ドリンクの小瓶のように器の首はすぼまっている。上手くそこだけ砕ければ御の字だ。中の生き物を傷つけずにだせるだろう。
辺りを見渡し、手ごろな石を見つける。テトラポットの一部が欠けたもののようだ。ブロック然としたそれを、狙いを定めて琥珀色の器に叩きつける。
器の首の部分は宙に浮いている。てこの原理で、ちょうどそこだけがきれいに砕けた。
中からは、ドロリとした液体が溢れたが、空気に触れた矢先から水分が抜けていき、表面に膜が張り、ひび割れ、砂塵と化した。
生き物らしき物体は器のなかに入ったままだ。器を傾けると、ころんと半透明な球体が転がり落ちた。器のそとにでるとそれは膨張したように見えた。弾力があるようで、コンクリートの足場のうえをポンポンと跳ねる。思わず手がでた。スーパーボールを掴むように捕まえるとそれは手のひらのなかでぎゅうと収斂し、硬くなった。そのように感じただけだ。実際のところは分からない。
手のひらを開いてみると、それは青く、色を濃くしていた。
大きさもビー玉くらいで、先刻よりもちいさくなって映ったが、錯覚かもしれなかった。
器の大きさからして、もうすこし大きかった気もするし、これくらいちいさくなければそもそも器の中には入らない気もした。
器を覗くとカラだった。ほかに残りはない。やはりこの球体が、あの生き物らしき物体なのだろう。手足はどこにいったのか。液体じみた砂粒と同じく、空気に触れたがために、このようなカタチに変質してしまったのだろうか。
以前読んだことのある漫画の一場面が脳裏によぎった。容器のなかで育てた人工生命体を、容器の外にだしてしまったがために死なせてしまった場面だ。これも似たようなものかもしれない。
こうなるかもしれない予感はあった。かといって、あのまま器の中に閉じ込めておいたとしても似たような結末になっただろう。最善は尽くした。善意は尽くしていないにしろ、最善だった。こうなる定めだったのだ。致し方ない。
割れた器を拾いあげる。器の首部分だけが砕けたので、そのまま器を飾りにすることはできる。が、いま死んだばかりの生き物が入っていたものを部屋に飾ろうとは思えず、端的に、魅力が半減してしまって感じられ、波に流して、弔おう、と思いきりよく決断する。
まずは器を投げた。宙でいちどキラリと光った。波の音に紛れ、着水時の音も聞こえず、宙を舞っているあいだに見失った。
つぎは手に握った、この硬い、球体だ。死体なのだろう。不気味なはずだが、あまりに生き物としての特徴を備えていないために、いまから小石を海に投げ捨てます、以上の感慨は湧かなかった。
腕を振りかぶり、野球選手の気持ちになったつもりで、もちろん野球選手にはなったことがないのでそれがどんな気持ちかは我田引水な想像でしかないけれど、豪速球、豪速球、のイメージで投げた。なんだか失恋したひとが恋人からもらった指輪を崖の上から投げ捨てる様子にも似ていて、そんなシチュエーションに立ったことはないけれど、こんな感じかな、とまたもや想像力を駆使して、えいや、と投じた。
球体は私の手から放たれた瞬間から、青空と白い雲の迷彩に紛れて見えなくなった。
さようなら、さようなら。
こんどはもっとよい環境に産まれてくるんだよ。
呪わないでおくれね、の念を迂遠に念じて、ああさっぱりだ、やれやれ、の心持ちで踵を返そうとしたとき、目の端に、雪の結晶を見た。
気のせいだ、と思ったが、身体は反射的にそちらを向いている。
波しぶきだ。
波しぶきが白く濁り、ぼた雪さながらに舞っている。
一粒ではない。
無数に、宙に浮いているものから順に、いいや、一瞬で、景色が雪に覆われた。
はらはら、と舞い落ちたそのあとにはまた青空と白い雲が視界を占領し、眼下の波は動きを静止する。
静かだ。
耳鳴りがするほどに静かなのは、波の音が聞こえないからだ。
辺り一面、なめらかな海面が広がる。
ウミネコの鳴き声が寂しく響く。
海面は凍ったように微動だにしない。白く濁ったと思うと、こんどは透明度をあげ、表面に光沢を浮かべた。その範囲は広く、まるで巨大な氷のうえにいるような錯覚に陥った。
もわん、とずっと向こう側、沖に近いところが盛り上がるのが見えた。
やわらかく、膜か何かが引っ張られて隆起したような光景だ。
氷ではない。
固体ではないのだと直感した。
スライム、クラゲ、わらび餅。
頭の中で似たような、やわらかく透明で、もちもちしていそうな物体を思い浮かべる。
隆起した海面は、その輪郭を広げる。高さを増すごとに、足元の波打ち際が遠ざかっていく。
私は目をしぱたたかせる。
目のまえには、夜の化身と見紛う影が聳えている。濃い青が、透明度を称えたまま、巨大な影となって屹立していた。
生き物の気配を放っていることには気づいていた。それを目の当たりにしたときから、それが生きているのだと判った。
私を見ている。見下ろしている。見つめている。
そう言えば、と頭の片隅で考える。隆起しはじめた地点は、どことなく、球体の着水した地点に近い気がした。いや、まったく関係がないかもしれないし、或いはべつの現象が喚起されただけかもしれない。
海の主、と私は思う。
私は海の主を呼び寄せてしまったのではないか。
ごめんなさい、と声なき声で私は唱えた。目はしかと見開き、乾いていくその瞳に、潮風が染みる。
海の主と私が呼ぶそれは、一筋の波を、蛇腹を伸ばすように、まっすぐと線にして私の足元まで運んだ。透明な長い、長い、長方形のなかには、例の、私の投げ捨てた琥珀色の器が納まっていた。
私はそれを見て、海の主を見て、さらにそれを見た。
私の足元にあったそれは、すすす、と顔のまえまで浮きあがる。
取れ、ということだろうか。
私はおっかなびっくり手を伸ばし、海水の箱とも呼ぶべきそれに手首までを挿し入れた。
生暖かく、ぬるぬるしている。
いや、粘り気はない。波のごとく蠢きが肌に伝わり、それをしてぬるぬるして感じられるのだ。
琥珀色の器を掴み、引き抜くと、海水の箱は、足元の蛇腹もろとも、ぱしゃんとただの水に回帰した。
ゴゴゴ、と波の音が押し寄せ、気づくと目のまえからは海の主の、巨体はおろか、影もカタチも、その余韻すら消え失せていた。
足元に大きな波が押し寄せ、足首まで濡れる。
私はテトラポットのうえで茫然とし、しばらく海を眺めてからその場をあとにした。
家に戻ると、手に握っていた琥珀色の器の存在を思いだし、捨てにいったはずなのになぁ、と記憶喪失ごっこをしばし演じた。
だが私の手の内にあるそれは口の部位が壊れている。この手で破壊したのだからそうなっていてふしぎではないが、だとするとやはり波打ち際に立ち、テトラポットのうえで、何か巨大な、海の主としか言い表しようのないモノと対峙した記憶もまた、当然そうあってふしぎではない記憶として認めるよりなくなる。
あれはいったい何だったのだろう。
いまさらのようにほわほわと夢心地に浸かった。
琥珀色の器を棚のうえに置こうとした。
ふと、からんころんと鳴る音に耳が留まった。
中に何かある。
手のひらのうえに落とすようにすると、琥珀色の器からは、ころん、と何かが転がり落ちた。小指の爪ほどの大きさだ。鱗のようにも、二枚貝の欠片にも映る。
それの表面には、琥珀色の器と似たような紋様が刻まれており、指でなぞるとわずかにたゆみ、跳ね返した。弾力がある。
色は器と同じく琥珀色だ。薄いためか、手のひらの皺が透けて見える。
鱗のようなものからは、糸が伸びており、それが琥珀色の器と繋がっていた。
引っ張ってみると、ぐっ、と引っ張り返すのに似た抵抗があった。いや、じっさいにそれは綱引きよろしく引っ張り返している。ミミズの蠕動運動がごとく縮むのだ。 咄嗟に手を放す。
鱗じみたそれは、糸をチムチム伸び縮みさせ、あべこべに琥珀色の器はシオシオと萎れていく。器が萎れる、というのもおかしな形容だが、真実そのようにしか言いようがなく、見たままを言い表せば、器を吸って、鱗じみた物体が膨れている、となる。
私は動けなかった。
いますぐにでもそれを投げ捨ててしまいたかった。おぞましかった。
だがついさきほど目にした光景、海の主の荘厳さを思いだし、思い留まった。
かの者から差しだされたこれは品だ。贈り物なのだ。
おいそれと粗末に扱ってよいはずもないとの予感が、私にそれを手放させない。どうすべきかを逡巡しているあいだに、器はすっかり干からびて臍の緒じみてしまったし、それすら間もなく、糸に吸収され、ちぢれ、しまいにはまん丸く膨らんだ鱗じみた物体に吸い込まれてしまった。
鱗じみた物体はもはや琥珀色をした半透明の球体と化している。
表面の紋様は、波紋のようだ。球形に膨れたせいか指紋を伸ばした具合に円を幾つも重ねている。
指でつまんでみると、ぐにぐにと弾力がある。分厚い膜にくるまれた液体といった具合で、何かそう、たとえばトイレの消臭剤みたいな、それともカエルの卵みたいな、ゼリー状のぐにぐにしたものを連想した。
卵だろうか。
まずはそう身構えた。
あの海の主もまた、器のなかの稚魚のようなものが海に還ったことで一挙に成体になったのではないか。ならばこれも、遠からずあのような巨体に膨らんだりするのではないか。
そんな現象が果たしてあり得るだろうか。
いいや、真偽のほどは大事ではない。仮にそうであっても、そうでなくとも、これをどうすべきかが重大だ。
捨てるべきではない。かといって手持ちにしているのも不安がある。
海の主の卵であろうと、単なる贈り物であろうと、それとも私の妄想であったところで、捨てるか、保管するかの二択しかない。
ならば私はそれを手放さずにいるしかないのだ。
いちど手放そうとして、海の主を目の当たりにしてしまったのだから。
同じ轍は踏まない。
踏みたくないからこそ、私はそれをガラス瓶のなかに放りこんで、厳重に封をして、鍵付きの引き出しの奥に、閉じ込めた。
けっして海には近づけない。
捨てたりはしない。
いつか、そこに仕舞ったことも忘れてしまうことを祈りながら。
海の主なんて巨大なムニムニの白昼夢をかつて見たことがあったっけな、と記憶を歪めてしまうまで。
或いは、思い出すこともなく過ごしていけるように。
鍵を閉める。
机の奥からかすかに波の音が漏れて聴こえた。
【エゴブロック】
起き上がると真っ白な空間で、まるで白紙のページみたいだとありていに思った。
足元に影すら浮かばない。宙に浮いているような錯覚に陥る。
奥行きがあるのかも定かではない。
三十歩ほどおっかなびっくり歩いてみたけれど、どこにもぶつかることなく、声も反響しない。足音は鳴るようだから床はあるのだろう。材質は不明だ。透明なのか白無地なのかすら曖昧だ。
記憶を探る。
たしか昨日は徹夜で家で映画を三本梯子して疲れて寝落ちしたのだ。シチューを食べてすぐに寝たからか、胃もたれしている。ということはそれほど時間は経過していない。十時間後ということはないはずだ。
寝ているボクを何者かが別の場所に運んだのだろう。そう考えるのが最も合理的な解釈だが、果たしてそんな大それた真似をする人物がいるだろうか。心当たりはない。
しばらく歩くと、どこからともなくブザーが鳴った。ボクの耳に直接響くような妙な聞こえ方をしたが、それはこの空間が異質なだけなのか、それとも真実幻聴の類なのかは判断つかなかった。
ブザーは十秒ほど鳴りつづけ、耳鳴りが失せるように途切れた。
すると目のまえに、棒のようなものが現れた。
それは天高く、どこまでも費えることなく伸びている。
比べる物がないために、遠近感が掴めない。
近寄ると、案外に近くにそれはあったようだ。
否、あったというよりも、開いていた。
それは隙間だった。
ひと一人が抜けられるくらいの幅でそれは開いている。柱のようなものはなく、もちろん壁のようなものもない。空間が切り取られた具合に、そこだけ暗がりにつづいていた。
中を覗く。足場はある。よく見えないが奥へとつづいているようだと判り、おそるおそる隙間を潜った。
仄暗い部屋だ。
じぶんの息遣いや、足音が反響する。壁や柱に区切られた空間なのだと判る。
空気の流れがない。さっきまでいた空間が外だったかもしれないとしぜんと解釈してしまうくらいに、仄暗いここは部屋の中だった。
部屋とはいえ、これといって何もない。
いや、とボクは身構える。
奥のほうに何かが動く様子が窺えた。
何かいる。
無機質な物体ではない。もぞもぞと動いて見えた。
目を凝らし、息を殺して距離を縮める。
人型だ。
人がいる。
相手は床に寝そべっていたようだ。動かないのは、寝ていたからかもしれない。
首が傾き、こちらを向いたので、ぎょっとする。
歩を止める。
相手の視線が肌を突くようだ。見られている。反面、敵意のようなものはこれといって見受けられない。
相手を見下ろせる地点までくると、相手が声を発した。
「殺しあわなければならないんだ。ボクたちはここで殺しあって、殺しつづけて、ただその繰り返しがあるばかりで」
「あの、ここがどこだか知っているんですか」
意思疎通ができそうなことにまずは安堵した。それからどこかで聞いたような声にしゃべり方だな、と既視感を覚える。
薄暗いせいで相手の顔はよく見えない。声や体格からして男性だ。同い年くらいではないか、と当て推量をつけたところで、はっとする。
じぶんの服を見下ろし、相手の着ている服を見る。
なぜか彼の服は乱れていたが、身にまとっている服飾はボクの衣服とまったく同じだった。
「ボクたちはたぶん、数珠つなぎの輪っかのようなものなんだ」
「数珠つなぎ? 輪っか?」
「もうだいたいのことは察しただろう。ボクはきみだ。そしてここはそういう場所なんだ」
言葉が見つからない。
そんなことがあるだろうか。
いま目のまえにはボクによく似た人物が床に仰臥している。
他人の空似ではないのか。
鼓動が激しくなっていく。
「殺しあわないと、ボクかきみのどちらかが消える。それはもう、本当に、どっちかが目のまえから消えてなくなってしまうんだ。脱出とはたぶん違うだろうことはさきに告げておく。身体がドロドロと溶けていく様は、見ているだけで地獄だよ。耳にこびりついた絶叫も、あんな死に方をするくらいならいっそ殺してもらったほうがマシだろうと思うくらいにひどいものだった」
「殺しあうって、でもどうやって」
「素手しかないだろうな」
「逃げたりは」ボクは背後を見遣ったが、隙間は忽然と消えていた。「あの、制限時間とかは」
「そりゃあるさ。それもどうやらマチマチみたいでね。ボクが知るかぎり、短ければ一時間。最長でも一日はないような話だった」
いやに親切だ、とまずは訝る。
殺しあううんぬんが真実とは限らないが、仮に真実だとすれば、こうして情報を披歴するのは何らかの罠なのではないか、と穿った見方をしてしまう。
そんなボクの心中などお見通しなようで、それはそうだ彼の話を信じれば彼はボク自身なのだから似た思考を過去に巡らせていて不自然ではない。彼は言った。
「ボクが死ぬにしろ、きみが死ぬにしろ、情報はつぎのボクたちに伝えること。ボクが最初に殺したボクがそう提案してきてね。きっとそのまえのボクたちがそうしてきたのだろうけど、まあたしかに情報はあったほうが打開策になり得るし、いつかはここがどこで、何のためにこんな真似をボクたちにさせるのかも解るようになるかもしれない。外にだっていつかは出られるかもだから、まあなんだ、もしきみが生きていたら、つぎに会うボクにはこれくらいの情報は与えてやってほしい」
それから彼は矢継ぎ早に、情報を口にした。
憶えるのは容易だった。
たいした内容ではない。
ボクらのほかには誰もおらず、殺しあうたびにどちらかが生き残り、どちらかが死ぬ。
食事はとらずとも、殺し合いが済めば、身体はリセットされる。空腹だけでなく、怪我も治癒するというのだから、ここが人知を超えた空間なのは、それだけでも断言できそうだ。分身がいるだけならばクローン技術で説明がつきそうだが、それだけでは到底理解しようのない事象がここでは罷り通っている。
「あなたは何度目なんですか」
「ため口でいいよ。どうせきみはボクなんだから」
「いちおう先輩ではあるので」
「ボクらしいな。ボクはボクをもう百人は殺してきた。経験の差は埋めようがないらしい。でもしょうじきもう疲れた。ただ、死にたいわけじゃない」
「ボクもです」
彼は鼻で大きく息を吐き、
「じゃあそろそろはじめようか」と立ちあがる。
彼と出会ってまだ十分も経っていない。経験の差はそう、彼の言うように圧倒的だ。体力は毎回リセットされるのなら、彼に疲労の蓄積を期待するのは利口ではない。
「そんな顔をしなくとも」彼はまるで殺意から遠い顔をする。「聞かなくとも知ってるからこれは単なるジョークだと思ってほしいんだけど」
「はい」
「きみは童貞だよね」
「それはあなたもでしょう」いったい何の話だ、と肩の力が抜けた。油断を誘うにも間抜けすぎる。「あなたはボクなんですから」
「そうとも言いきれない」彼はそこで真顔になった。ボクは反射的に半歩退く。「命乞いのつもりだったんだ。童貞のまま死にたくないと駄々をこねたら、最初のときに、なんというか、その、相手のボクがね」
「ジョークですよね」
「それがそうでもない。きみもボクなら、ボクがそういうなんだろうな、性的行為に興味があることくらいのことは知っているわけだろう」
「そりゃあボクですからね」
みなまで言わずとも察し至った。殺しあいつづけなければいけない極限の空間だ。せめて死ぬ前に、初体験を済ませておきたいと望むのは、何も不自然ではない。こと、ここにはボクしかおらず、相手もまたボクなのだ。
そしてボクは、性別に関係なく恋愛感情を抱ける、斟酌せずに言い直せば欲情できる指向の持ち主だった。それはもちろん、凹凸のどちらにも興味があると言い換えてもよい。
「同情して身体を差しだしてくれた相手をあなたは殺したわけですね」
「言い訳はしないよ。その通りだ。そういうことになる」
「で、それが何なんですか。まさかあなた、いまここでボクに初体験をさせてくれるとでも?」
「きみがボクと同じくナルシストであればの話だけどね」
「あなたがナルシストならボクだってナルシストですよ」
「じゃあそういうことで」
彼が一歩近づいた。ボクは後退するが、彼はそれを逃さぬように、かといって威圧を加えぬように、ゆったりと大きくボクの肩に、背に、腕を回した。
「だいじょうぶ、好きなようにしてごらん」
彼のくちびるがボクの口を塞いだ。鼻で息をするべきか、止めるべきか、と逡巡している間にくちびるをこじ開けられた。舌がねじいってくる。
熱い。
やわらかい。
ぬめぬめしている。
頭が混乱しながらもボクは、ボクの舌で彼の舌を抑え込む。指相撲をしている気分だ。
同時に、Tシャツのなかに彼の手が潜りこみ、背中をじかにさすられる。
温かい。
ぞくぞくして、心地よい。
ボクは彼の真似をするように、同じように彼の素肌を撫でまわす。
彼の体重が傾いていき、支えるようにしてボクたちは床に転がった。
ボクが上で、彼が下だ。
薄暗いせいか、すでに目のまえの人物がじぶんとは思えなくなっていた。赤の他人というほど他人ではなく、じぶんの分身というほどには親しみのない、蠱惑的な人物だ。
安堵と興奮と、既知と未知が混在している。
彼が知っていることをボクは知らない。それは彼がボクそのものではないからだ。
彼がボクの生殖器を揉み解し、行為に最適な形状に育てていく。ボクたちは服を脱ぎ、下着を脱ぎ捨て、裸になって絡みあう。
「さきに濡らすね」
彼はボクのそれを咥えると、さらにボクのそれに硬度とぬめり気を与えた。
片手間に彼がじぶんの下の口をほぐしているのが判って、ますますボクは興奮した。
レゴブロックを連想する。
どちらかともなく凹凸を合わせ、体重をかけて結合する。すっかり密着すると、ボクたちはしがみつきあって、ゆっくり、ゆっくり、と揺れた。
甘い声がして、それがじぶんの声だと自覚する。
いいや、それとも彼の声かもしれないと思い直し、どちらでもいいことだと思考を放棄する。
ボクはどんどんここではないどこかへと昇り詰めていく。口からよだれが垂れ、視界はぼやけて、いまにもうつつを離れそうだ。
もっと、もっと。
好き、好き、死ぬ、死ぬ、もっと殺して。
甘美な声を聴きたくて、ボクは細くしなやかな首筋に両の手でつくった輪っかを回し、喉仏の突起を親指で押しこむように、絞めつけた。
下の口が収斂する。
細かく痙攣する胸のうえに汗が落ち、あべこべにボクの腹に隆起した彼の生殖器が当たっている。
彼はすでに壊れた蛇口と化していて、半透明な体液でちいさな水溜まりをつくっていた。
ボクはいっそう激しく彼の首を絞めつけたが、それは殺意とは真逆の、快楽を分け合い、高めあうための手段でしかなかった。
ボクたちは共に昇りつめて、果てた。
天上から帰還したのはしかし、ボクだけのようだった。
深く息をし、彼のうえから転げ落ちるように床に横たわる。
ぐったりと動かなくなった彼は、真実、ボクではあり得ない安らかな顔を浮かべていた。
間もなく、ジュージューと音を立てて彼の皮膚は爛れ落ち、筋繊維が剥きだしになり、骨となって、砕け散ったあとですら、ボクは彼をうつくしいと思い、ずっと見届けていたいと思った。
気づくとボクは衣服を身にまとっており、ゆびさき一本動かせないと脱力しきった身体には、ふたたびの快楽への欲求が満ちていた。
ボクはそれから二度、彼との行為を思いだして、じぶんを慰めたが、猛りはふしぎと納まらなかった。
違うのだ。
ボクはまだ、体験していない。
未経験のままなのだ。
床に仰臥したまま身体の奥底の衝動を持て余していると、顔に光が差しこんだ。眩しいと思い、そちらに目を転じると、覚束ない足取りで近づいてくる人影があった。
ああ、とボクは歓喜に震える。
そして、この感情が面にでないように引き締めて、頭の中で段取りを組み立てた。
「殺しあわなければならないんだ」ボクは言った。「ボクたちはここで殺しあって、殺しつづけて、ただその繰り返しがあるばかりで」
まるで何度も唱えつづけてきた台詞のように、ボクはまっさらな世界からやってきた救世主に、甘く、とろけるような祈りを捧げる。
「ボクたちはたぶん、数珠つなぎの輪っかのようなものなんだ」
光がそっと閉じていく。
きみとボクとで一つなんだ。
迷子の子犬のような無垢な彼に、ボクは消えたばかりの彼を重ね見る。
【文字鳥の島】
その土地は二時間もあれば一周できる。こじんまりとした島だ。浜辺はなく、大きな岩石のうえに背の低い草が生えただけの寂しい場所である。
人口は五百、草木に乏しい島にしては栄えていた。
大陸の商人たちが喉から手がでるほど欲しがる財がこの島にはあった。
「まいどありがとうございます。こんどはいつくるんですか」
「一月後かねぇ。嵐がなけりゃだがね」
「産卵期が近いですから、つぎの積み荷の受け渡しはあっちの船着き場で頼みます」
「ああもうそんな時期か」
「みなさんのおかげでこの島にも煉瓦造りの家が建ちました。これからもぜひごひいきに」
積み荷と商人たちを乗せた船は、海と空の彼方へとちいさくなっていく。
島の名産は鳥だった。
文字鳥と呼ばれ、この島にのみ生息する鳥だ。
羽毛はもちろん、食料として島人たちからはかねてより重宝されてきたが、この鳥、筋繊維に特徴があり、なぜか切ると断面に紋様を浮かべる。
その紋様が、どうやら大陸の者たちには文字に見えるようだった。単なる文字の羅列ではない。文章として成立し、偶然にも物語として読めるのだという。
肉を薄く切ればきるほど、その断面には、新しく文字が現れる。切るまでは紋様が安定せず、切ったあとで、文字として顕現する。ゆえに、切った順番ごとに、文字は関連性を持ってその断面に浮かびあがった。
一羽の鳥を百の輪切りにすれば、それは二百の項の本となる。
作家と本の両方を兼ね備えた鳥である。
娯楽に飢えた大陸の者たちは、こぞって文字鳥を欲しがった。
印刷技術のまだ未熟な時代、安価に大量の物語を仕入れるには、文字鳥の存在は貴重だった。
反対に島の者たちは大陸からの物資を得て、より豊かな暮らしを手に入れる。
文字島を乱獲し、それを新たな発展の糧と交換した。
やがて島からは文字島が徐々に姿を消していく。
親鳥が卵を産み、雛が孵るのを俟たずに、つぎからつぎへと商船は島を訪れた。そのたびに島人たちは文字鳥を、金銀や、雑多な家具や道具に変えていく。
文字鳥は島人たちの食料でもあった。
豊かになった島の人口は増え、文字鳥減少に拍車をかけた。
間もなく、文字島は絶滅した。
かといって、大陸の者たちの文字鳥への欲求が枯渇するわけではない。商船は文字鳥を求めて島に押し寄せ、島人は島人たちで、豊かな生活を手放せない。
「鳥がないんじゃ、これは渡せないよ」
「ですが、それがなきゃこの冬を越えられない。飢えて死ねと言うのですか」
「文字鳥を寄越しな。話はそれからだ」
島人は困憊した。
商人たちは、文字鳥の生き残りを探すために島のなかを我が物顔で練り歩く。彼らとて、島の食材をあてにして長い航海に身を置いたのだ。ありません、だせません、では済まされない。
島で最後の文字鳥が目撃されてからひと月ののちに、飢えに苛まれた、島人と商人たちのあいだで争いが勃発した
「お願いします、このコにだけは手をださないで」
「うるせえ」
子を庇う親を、刃が襲う。
鮮血が島の大地を赤く染める。
親に泣き縋る子の声が、文字鳥の鳴き声の代わりに島に響いた。
「なあおい、これ」
商人に遣える男が、遺体を見下ろす。傷口を鉈の先で切り開きながら、見てみろよ、と仲間を呼んだ。「コイツのなかにも文字が」
ぱっくりと割れた肉の断面には、びっしりと大陸の言語に似た紋様が浮かびあがっていた。島人には読むことのできないそれは、豊饒な物語に富み、一太刀で文字鳥の何倍もの文字を得られた。
「こりゃあいい」
遺体を見た商人は言った。「腐っちまうから殺すなよ。本にするのは本土に戻ってからでいい」
積め。
島にはいっそうの声が響き渡る。
島から人はいなくなり、船が海と空の彼方にちいさくなるころには、崖に寄せてはかえし砕け散る波の音を、風の音がただ打ち消している。
【ファルロツキーズの秘密】
そこにあるはずのないものが空から降ってくる。ファルロツキーズと呼ばれる現象だ。世界中で事例が報告されている。
多くは竜巻が要因なのではないか、と目されているが、すっかり解明はされていないようだ。
昨今、気候変動の影響で、全世界的に竜巻が頻発している。
私の住まう土地でも例に漏れず、突風から雷と、竜巻と思しき被害が多数みられる。
中でも昨今、空から大量のお菓子や雑貨品が降ってきて、ちょっとした騒ぎになっている。
家に帰ると弟が鞄一杯の飴玉を炬燵のうえにぶちまけているところで、どさどさと山になる飴玉は、これまで私が産まれてきてから食べてきた飴っこを並べてみましたといった具合に、色とりどりとよみどりみどりだった。
「どしたのそれ」
「姉ちゃんきょうそとでなかったの。また降ってきたんだよ」
「何が?」
「あめが」
「そりゃあ雨は降るだろうけど」
「そうじゃなくて、飴。飴玉。キャンディ」
これが降ってきたの、と炬燵のうえの山から一つ掴み取ると、包装紙を破って、口に咥える。ちっこい地球に爪楊枝をぶっさしたような形状のそれは、どこのどんな店舗にも売りに出されている定番のお菓子だ。
「なんでまた」
「ぼくに聞かれても困るし。あれじゃない。お店に運んでるときに竜巻にまきこまれて、飛ばされちゃったとか」
「だったら拾ってきちゃダメじゃん。泥棒だよそれ」
「でも町のひとが、どうせ捨てちゃうからって、持てってって」弟はTVを点けた。「あ、見て。ちょうどニュースやってる」
私は私で、メディア端末を立ちあげて、記事を漁った。多数の目撃者が、インターネット上に動画やら画像をあげて、すごいとこに鉢合わせしちゃったよわたし、おいらもおいらも、と和気あいあいとしている。楽しそう。
「ひょっとしてあれかな。賠償金とか請求されちゃうから、被害にあったことは黙っていようとか」
「ブランド名バレバレなのに?」
「どうだろね。ね、美味しい?」
「ふつう」
飴を食べても弟は床のうえをのたうち回らないので、だいじょうぶそうだと判断を逞しくして私は、飴の山に手を伸ばす。鷲掴みにする。「もらうね」
弟が文句を唱える前にじぶんの部屋に引っ込んだ。
つぎの日、私はバイトの面接を受けに、とある倉庫のまえに立っていた。何でもよいから小遣いを稼ぎたかったので、バイトを紹介してくれるナンチャラカンチャラに登録して、指示されるがままに足を運んだら、ここにきた。
外から敷地のなかは見えなかったけれど、白い壁の中に入ると、コンテナがたくさん並んでいた。倉庫のような大きな建屋が二つばかりあり、私は指示にあったように、第一倉庫のまえに立つ。
入り口で渡されたカードを事務所らしきところに提出すると、間もなく係のひとがやってきた。
「どうもどうも、バイトの面接だよね。きょうはよろしくね」
青い作業着の三十代くらいの男のひとだ。いまは秋で、べつに暑くはないのに帽子をいちど脱いで、額を拭ってから被り直す。急いできてくれたのかもしれない。
事務所のなかに通される。
「まずは仕事内容を説明するね。えっと、期間はまずは半年でいいんだよね」
「はい」
「その都度更新してもらうけど、嫌になったらいつ辞めてもらってもだいじょうぶ。ただし、かってにいなくなるのだけはやめてね」
「そういうひと多いんですか」
「けっこういるよ」
男の名は、射手馬(いてま)宇三(うぞう)と言った。倉庫の管理者だそうで、敷地内を忙しそうに右往左往している従業員たちはみな、彼とすれ違うときには帽子を脱いで挨拶をしていた。
「きょうからもう働いてもらえるのかな」作業着を渡されて、私はびっくりする。「え、きょうは面接に来ただけだったんですけど」
「あ、そうなの。でも働きたいわけでしょ。合格合格。やる気充分なようだし、まずは仕事をしてみて、どんなもんか知ってもらおう。そうじゃなきゃつづけられるかどうかも分からないわけだしね」
「そうですね」派遣社員と間違えられたのかな、と釈然としない。
「いちおう書類にサインしてもらっていいかな。バイトとはいえ、お金のやりとりのあるちゃんとした仕事だから」
「はい」
書類を渡され、こことここに名前を、と指示されるがままにサインする。
「うんうん。いいね。じゃあさっそくでわるいけれど仕事場に行ってじっさいに仕事をしてもらおう」
「あの、どんなお仕事なんですか」
やってみれば分かると言われて、それもそうだと思ってろくに説明を聞かずにきてしまったが、やはり常識として仕事内容くらいは事前に説明するのが筋ではないか、と遅まきながら考え至る。
「広報活動の一環だね」射手馬宇三は言った。「企業から依頼を受けて、商品を広くみなさまの目に触れるようにするのが我が社の仕事です」
「はあ」でもここは倉庫ですよね、と言いたくなったが、代わりに、「じゃあ品物をたくさん預かっているわけですね」と窓のそとのコンテナの山を見遣る。
「その通り。呑み込みがはやくて助かるなぁ。で、きみにやってほしいのは」射手馬宇三から板状のメディア端末を手渡される。「これを見て、赤い点が浮かんだ場所に荷物を持って行って、それをそこに置いてきてもらいたい。簡単でしょ」
「赤い点ってどうやれば浮かぶんですか」
画面上には地図が載っているが、赤い点が見当たらない。
「いまはまだないみたいだね。でも、このころは大気が不安定だから、きみに担当してもらいたい地域だけでも、一日に数回は発生すると思うよ」
「発生する? 何がですか」
「竜巻さ」何でもないように彼は言った。「商品をそこに放りこんで、街に降らせる。それを目撃したひとは誰からの指示もなく、インターネットで宣伝してくれるし、それを見たひとも話題にしてくれる。企業は廃棄品や不良品を処理できて、宣伝にもなって一石二鳥だ」
「そういうのって違法なんじゃ」
「県からは許可を得ているよ。不法投棄にならないように、怪我人がでないように、自然を汚さないように、そういうのはちゃんと書類で契約をしてあるから安心してほしい」
「そうなんだ」すこしほっとした。
が、弟が飴を食べていたのを思いだし、あれは不良品だったのか、と心配になる。
「降ってきたのを拾って食べてるひともいるみたいですけどだいじょうぶなんですか」
「不良品とは言っても、食べても害はないようなのばかりだから。包装紙の印刷がうまくいってなかったとか、異物混入が発覚したときに大量に回収したやつとか、まあ捨てちゃうのがもったいないのが正直なところだよね」
環境問題の解決にも役立って、一石三鳥だ、と射手馬宇三は自画自賛する。果たしてそうだろうか。ゴミを街に巻き散らしているようなものではないか。
「そう、ですね」私は同意した。
「ただまあ、あまり公にしてほしくない事業でもあるから、さっききみにサインしてもらった書類にもあったように、守秘義務は守ってもらうよ」
「守秘義務、ですか」
「空から降ってくるはずのないものが降ってくる。ふしぎだからこそ、魅力があって、みんなは宣伝してくれる。人工的に起こされたイタズラだと知ったら、非難轟々のそしりは免れない。大炎上だ。我が社に広報を委託した企業も信頼を失って、たいへんな損失だ。いちおう保険はかかっているから、我が社は痛くはないけれど、そんなたいへんな事態にはならないほうがいいだろう」
「ですね、ですね」
だったらそんな重大な仕事をバイトなんかに任せるなよ、と思ったが、考え方によっては、そんな誰もしたくのないようなイタズラの担い手には、バイトくらいの手軽に使い捨てられる人材でなければ使えないのかも、と思いもする。
「これでもけっこうたいへんだったんだよ、ここまで事業を大きくするには。せっかく雇ってやったバイトも、すぐにいなくなってしまうし。せめて辞めますの一言くらいあっていいとは思わないかい」
「あの、私やっぱり適正ないかなぁ、なんて思ってきちゃったりなんかしちゃったりして」
「ねえ見てよこれ」射手馬宇三は書類を掲げ、そこに並んだ私の名前を、ゆびで突つく。「サインしたよね。期間は半年って書いてあるよね。途中でやめたら違約金払うって宣誓に合意しちゃってるよね。きみさ、払えるのこの額」
え、え、そんなの書いてあった?
私は目が書類にくっつくくらいに顔を寄せて、いまさらのように書面に目を通した。
か、か、書いてあるー。
日常生活ではまずお目にかからないくらいの数字が並んでいたので、じぶんには関係ないかと思って、というか無意識のうちから飛ばして読んでしまっていた。
「ね。辞められないよね。辞めてもいいけど、あとがたいへんだよ。それからこれは単なる事実として教えておくだけだけれど、なんだかさいきん、空から人が落ちてくる事例も増えてきているみたいだ。きみの仕事も竜巻に近づくあぶなーいお仕事だから、ちょっと何かにつまづいて竜巻に巻き込まれて、空から落ちて死んじゃったりしないように気をつけてね」
サー、と顔から血の気が引いていく。
青い作業着の男、この倉庫の管理者は、顔を合わせたときと同じように帽子を被り直して、額の汗を拭う。
私は凍えたように震えているのに、彼は頬を上気させて、開ききった瞳孔を爛々と輝かせて、がんばってね、と言った。
「きみの仕事ぶりに期待してるよ」
【悪魔禍】
記録上、初めてそれを目撃したのは登校中の小学生であった、とされている。真冬のある日、凍った道路のうえをぴょこぴょこ跳ねている猿のようなものを見かけ、近隣の家へと飛びこみ、助けを求めた。
というのも、その猿のようなものは、目撃者たる小学生の姿を目にした途端、すさまじい速度で宙を舞って近寄ってきたのだという。
のちにそれが世に語り継がれる悪魔禍のはじまりになるとはそのころの誰にも想像がつかなかった。
その日を皮切りに、全国津々浦々、至る道路で悪魔が出現した。
当初こそ、一日に数匹が、同じ街にかたまって出現した。
そこに魔界への入り口があるのだろうとささやかれたが、予想は裏切られ、時間が経つにつれて悪魔は土地を問わず、世界中のどこの道路にも現れた。
悪魔を捕獲し、解剖した医師は、悪魔が生物学的に猿よりも猪に寄った生物だと指摘した。
だからなのかは知らないが、悪魔は、人間を目にするや猪突猛進、宙を舞って接近した。
かといって人に危害を加えるでもなく、任意の人間につきまとい、人懐こくその背を追いかける。
捕獲はゆえに容易であった。
全世界の魔術師協会なる組織から、悪魔についての提言が発信されたのは、ちょうど初めて悪魔の観測された国で、悪魔の出現数が激減した春先のことであった。
「悪魔は古より、魔術により召喚されしものとして、私ども魔術師には馴染み深い存在です。その対処法にもいくつかの術がございます。悪魔そのものにはさほどに警戒される心配はありません。無害な動物として、交通安全に気を付けていただければ、あとは捕獲した悪魔をどうするかの議論があるばかりでございましょう」
問題は、と魔術師協会の長は述べた。「悪魔召喚の儀のほうにございます。悪魔を呼び寄せるには、人間を一息に押しつぶし、全身の骨を粉々に砕く必要がございます。生贄を無残に押しつぶすことでのみ、悪魔召喚の儀は成立するのでございます」
つまり、と長は声を張る。「世界中で出現しつづける悪魔がいる以上、そこには無残にも生贄にされた被害者がいるということにほかなりません。誰かが何かしらの目的で、人間に危害を加えている可能性が非常に高いと懸念を呈する所存でございます」
迅速な調査を是非に。
魔術師協会の長の言葉に、全世界の市民は恐怖した。
そのころ、世界機構として設立された悪魔対策機構では、古今東西を問わず学者が集められ、侃々諤々の議論を繰り広げていた。
悪魔を使った研究も盛んにおこなわれた。いちど出現した悪魔は、こちら世界の物理法則に十全に従うことまでは判明した。
すなわち、こちら世界に出現してしまえば、単なる害獣として扱えるということである。
「害獣とはいえども、とくにわるさを働くわけでもない。いまでは愛玩動物として家に住まわせている市民もいるくらいです」
「疫病対策は万全なのかね。どんな未知のウィルスを持っているのか分かったものではないだろう」
「それはそうでしょうが、いまのところ悪魔の体内からはそれらしいウィルスどころか、腸内細菌すら検出されない状況だそうじゃないですか。無菌状態と言ってよろしいのではと」
「未知のウィルスを保有していたとして、それを検出可能な術を我々は現段階で有しているのかね」
年長の学者の言葉に、一同静まり返る。
「あのう」と発言したのは、年若い学者だった。「データを見ていて気になったのですが一つよろしいでしょうか」
「なんだね」
「まずは全世界の悪魔の出現地域と出現時期、それらを出現数の推移で比較したものをご覧ください」
「うむ。一見して、どの国も冬に増加しているな」
「というよりも、どの地域であれ、夏の時期に悪魔はまったく出現しておりません」
「だが冬であっても出現していない地域もある以上、季節と悪魔出現を結びつけるのは安易ではないか」
「ではつぎにこちらをご覧ください。これは雪の降る地域に色を塗ったものです。それをいまご覧いただいた各データの地図に重ねます」
おぉ、と感嘆の声があがる。
ぴたりと一致したのだ。
「悪魔は、雪の降る地域のみに出現します。最初の悪魔を目撃した子供も、冬の時期、道路に雪が積もっていたところで悪魔と遭遇したようです」
「では何かね、悪魔は雪から発生すると、きみはそう言いたいのかね」
「それはどうでしょう。雪と悪魔召喚のあいだに因果関係があるのかは定かではありません。しかしデータからみて、相関関係にあるのは明らかでしょう。雪と悪魔、二つのあいだに何かまだ可視化されていない因子が隠されているように思います」
「妥当な意見だ」議長が話をまとめる。「全世界の捜査機関に進言し、監視カメラの映像をもとに、悪魔出現のより正確なデータを集めてもらおう。雪の降っていない場所でも悪魔は出現するのかもしれんし、さきほどの彼女の言うように、悪魔は雪のあるところからしか出現できんのかもしれん。まずはそこをハッキリさせてみよう。魔術師協会にも情報を提供し、意見を伺う方向で調整も進めてみる。以上だ」
かくして調査の結果、やはり悪魔は雪の降った日、それも、道路に積もったところにしか出現しないことが明らかとなった。
これには魔術師協会から懐疑の意見があがった。
「悪魔は召喚の儀以外では現れない。雪がいったいどのように生贄と関わるのだ。その仮説は間違っている」
抗議に対し、その可能性も含めて現在調査中だ、とする声明を、悪魔対策機構は発表する。
「まず以って、悪魔召喚に生贄がいるとする証拠はどこにもない。それを実験するわけにもいかない以上、ほかに召喚するための条件があると考えるほうが合理的だ。ただし、魔術師協会が長年にわたって研究してきた悪魔への知見は重要な情報源でもある。生贄を用いて悪魔を召喚可能だったとする論述には一定の信憑性がある。ゆえに現時点で考えるべきは、悪魔召喚のための必要条件だ。生贄と積雪のあいだに、何らかの共通項があると仮定して調査を進めよう」
このころ、全世界的に悪魔出現件数が増加していることに注目した学者がいた。くだんの悪魔出現に積雪が関与していることを見抜いた若手の学者である。
彼女は疑問した。
「どうして最初は出現件数がすくなくて、あとから増えはじめたのだろう。みなは感染症と関連付けて考えていて、対策ができないから増えつづけていると考えているみたいだけれど、でも、どうして増えることが当然そうあるべきこととして前提してしまっているのか。何かこう、増えるための因子があってしかるべきな気がする」
悪魔は生殖を介して増殖をしているわけではない。ほかの動物類とは異なり、数が増えたからといってそれが個体数の増加と直結するわけではないのだ。
「悪魔出現と積雪を結びつける謎の因子が増加するからこそ、悪魔もまた召喚されやすくなって増えているのでは? 仮にそう考えるとして、だとすれば、この時期に世界的に増えはじめた何かをリストアップしていけば、謎の因子を特定できるかもしれない」
彼女は推論し、そしてデータを集めはじめる。
悪魔の出現数と増加率を、地域ごとにグラフ化する。積雪が観測される地域であっても、悪魔が目撃されていない地域もある。のきなみそれは人口密度の低い場所だ。
目撃するための人間がいないからこそ、目撃譚がないのではないか、と見過ごされていたその事実に、彼女は着目する。
「人間がいるところにしか悪魔は現れない。これは生贄を必要とする悪魔召喚と矛盾しない。でも未だに悪魔召喚のために生贄にされた者は見つかっていないし、犠牲者がいないならば生贄は、悪魔召喚の必要条件ではないと見做せる。そう考えたほうが、よりしぜんだ。生贄は必要ない。でも、生贄を捧げても悪魔を召喚できると仮定すれば、見えてくるのは何だ?」
魔術師協会から提供された資料に目を通し、彼女は閃いた。
悪魔召喚の儀には、生贄が捧げられる。そのときに、当然失敗する例も起こる。その際に挙げられる失敗する条件のなかには、生贄の身体を潰さなかった点が挙げられた。裏から言えば、生贄の全身を潰すと、悪魔召喚の儀が成功する確率が高まるのである。
なぜ全身を潰すと悪魔は出現するのか。
それは、生贄である必要があるのか。
全身を潰すことで得られる現象とはなんだ。
その何かは、積雪とどう関わっている。
まったく関連性のない悪魔召喚の儀と積雪は、謎の因子で結びつくはずだ。
ひょっとしたらまったく見当違いな仮説かもしれない。しかし、見当違いだった、と判ることはそれで一つの成果である。
彼女は独自に調査をつづけた。
彼女のもたらす知見には、それなりの合理性と、予言性が伴っていた。彼女の言葉通り、積雪のある地域、そして人口密度の高い地域に悪魔は頻繁に出現した。とくに、いちど出現した場所では、ふたたび悪魔が出現する確率が高いことが判り、悪魔対策機構はにわかに湧いた。活路が開けた気がした。
「彼女の言うことは正しいのかもしれんな。やはり特定の因子が悪魔召喚の触媒になっていると考えるのが妥当ではないかな。それさえ分かれば打つ手ができます」
「うむ。人員を割いて、彼女の調査に応援を送ってくれ。人手があって困るということはないはずだ。それから、彼女の意見をちくいち定例会議の場にレポートとしてまとめて提出してくれ。議会の最重要意見として政府機関に進言する」
謎の因子さえ分かれば、悪魔禍は防げる。
先の見えない前代未聞の世界的災害に終わりが見えてきた。各国の市民はしかし、世界悪魔対策機構の懸命の働きとは裏腹に、人懐こい悪魔と戯れることで穏やかな日々を送っていた。
世に溢れる悪魔を一時的に保護し、その後の処遇を決めあぐねている保健所や衛生管理部隊におかれては、一刻も早い事態の収拾を願わずにいられない。
数々のデータが照合されつづけた結果、謎の因子の候補が出そろった。
「このなかにあるとよいのだけど」若手の学者が資料を送信する。
送り先は、世界悪魔対策機構の情報解析部だ。ここからさき、彼女の資料を元に、現地に派遣された調査員が、実態調査を広域にかつ大規模に展開する。
「きみはどれが本命だと睨んでいるのかね」世界悪魔対策機構の長が彼女のよこに立つ。
「そうですね。確率から言えば、子どもの体液と言いたいところですが、私はそうではないと考えています。データが示すところによれば、悪魔が出現しはじめたころ、ちょうど全世界一斉に、新型車両が発売されました。その車両から以降、新車の総じては、新しい素材のタイヤを装着しています。私の考えでは、そのタイヤが、悪魔出現と密接に関わっているのでは、と」
「タイヤか」
「悪魔召喚に必要とされる生贄は、全身を潰されることが必須であったと資料にはあります。おそらく、全身の骨を砕くことが必要だったのでしょう。では、そのときに生じる特殊な事象とは何か」
「体液が溢れる以外に何かあるのかね」
「音ですよ。骨の砕ける音が、悪魔召喚のための呪文の役割を果たしたのです。そして偶然にも、新型タイヤの、凍った道路を走る際に鳴らせる地面をこする細かな音が、その悪魔召喚の呪文と重なったのではないかと私は想像しています。まだ何も定かではないのですが」
「なるほどな。音か」
調査結果はすぐに出た。彼女の推測はおおむね当たっていた。車両が方向転換をするときに回したタイヤが、霜柱を踏みつけるように雪を鳴らし、その際に発生する音により、悪魔が出現することが判明した。
各国はただちに車両の出荷を差し止め、国民に広く、タイヤの交換を呼び掛けた。雪さえ降っていなければ車を走らせるのは問題ない。
一部の地域を除き、のきなみ早急に事態は収束に動いた。
「あの悪魔たちはどうなるのですか」
若手の学者は映像を眺める。巨大な倉庫のなかに檻が大量に積まれている。一つ一つの檻のなかに、悪魔が一匹ずつ閉じ込められている。
悪魔禍は抑止できるが、すでに出現した悪魔は消えることはない。
「殺処分が妥当だろうな。だがあれだけ愛玩された悪魔だ。国民の反発は必須だろう。ゆえに政府は、あれらを食料として、家畜として扱うことに決定するそうだ。害獣としてではなく食料として殺せば、国民も文句は言うまいとの判断らしい」
「いったい誰が食べるのでしょうね」
「さてな。食糧難が深刻な国にでも安値で売りつけるのかもしれん」
「案外美味しいのかもしれませんね」
「無菌でもあるようだから、衛生面でも安全だとくれば、ひょっとしたら将来、人類の主食は悪魔になっているかもしれんな」
悪魔禍は治まった。
だが人類はいつでも悪魔を安全に、無数に、おびただしい数を一挙に召喚できるようになった。
タイヤと雪さえあればよいのだ。
悪魔は悲鳴一つあげることなく、檻のなかでじっとしている。もう間もなく処分されるとも知らずに、つぶらな瞳を瞬かせ、背中から生えた羽の毛づくろいをする。
【細胞素材丸見現象】
全世界の通信電波をジャックしたのは正真正銘の魔法使いであった。魔法使いはアジア大陸のとある洞窟のなかに出現し、そこから全世界一斉放送を強行した。
「ひっひっひ。あたしゃ魔法使いだからね、魔法を使うよ。ほいね」
人々に十把一絡げに魔法をかけて魔女は消えた。
その日から人間の見た目は大きく変化した。身体の輪郭はそのままだが、肉体を構成する細胞がいったいどんな食材が素になっているのかが丸分かりになってしまったのである。
毎日納豆ご飯しか食べていない者の肉体は納豆ご飯が寄り集まってできて見え、高級レストランを梯子するような日々を送っている者の身体からはフルコースのよい香りが漂った。
その人物が口にした食べ物が、消化吸収された割合ごとに可視化されるようになったのだ。
人間の肉体の七割は水分だとされている。だからといって見た目が半透明になるなんてことはなく、根元を穿り返してみれば食べ物そのものに水分は含まれ、飲み物とて水ばかりではない。
緑内根(りょくないね)スイリはその日、じぶんの身体が卵とお米ばかりの事実にそこはかとない恥辱の念を覚えていた。卵焼きと卵かけご飯が主食と化して久しい、長く険しい日々を過ごしてきた。
「あんだけグルメ気取っといてそれかよ」同僚の伊新(いしん)ボウクからからかわれ、顔を真っ赤にする。「美味しいもの好きなのは本当なんだけどね。だってうちの会社の給料があたしの胃のレベルに釣り合ってくれないから」
それにしてもいいなぁ、と緑内根スイリは伊新ボウクの身体を視界に入れる。相も変わらず胸板の厚いスポーツマンといった風体で、彼の皮膚から食べ物の姿は見て取れない。
「ときどきいるんだってね。魔法使いの魔法がきかなかったひと」
「らしいな。ま、全人類を網羅しようなんて土台無茶だって話だわな」
「魔法解毒剤の開発協力の名目で国からお金もらってるわけでしょ。いいなぁ」
そこで緑内根スイリは疑問する。「ねぇ、あんたなんでまだ働いてんの。生活保障はしてくれるんでしょ、自由な生活を謳歌すればいいじゃん」
「おれはこう見えて社会貢献に生き甲斐を感じる心優しい男なんだよ。人間働いてなんぼだろ。好きにしていいと言われたから好きに働いてる。自由はいいぞう。いつ辞めても困らないって後ろ盾あるだけで、こんなに働きやすくなるとは思わなかったな」
「そりょそうでしょうよ」
なんたって気に食わないことがあれば即座に辞表を叩きつけてやればいいのだ。「いいなぁ、いいなぁ。身体交換してほしいくらい」緑内根スイリは唇を尖らせる。ふんわり卵焼きでできた唇は、しゃべるたびに甘い風味が鼻腔に広がる。「あたしだったら絶対に働いたりしないのに」
遊んで暮らすじぶんを想像するが、全身卵焼きでは締まらない。いやいやそれだって生活が保障されればもっとマシな身体になれたはずだ。
根元を穿り返してみればそもそも伊新ボウクは魔法のきかない身体ゆえに国から保護を受けている。食べ物に気を遣わずとも見た目に変化はないのだった。
「うー、めっちゃずるい。おまえだけずるすぎる。犬のうんち踏んでこけちまえ」
「じぶんが卵人間だからって人の不幸を呪うなよ。卵いいじゃん。おれ、好きだぞ」
「キュンとなんかしてやんないんだからな。絶対!」
身近に世界稀に見る幸運の持ち主がいるのは正直、それほど嫌ではなかった。斟酌せずに言えばじぶんがすごいわけでもないのに、彼のそばにいるとすこしだけじぶんがマシな存在になれた気になる。
「だって卵人間だぜ。せめてサラダ人間くらいに食生活に彩りある人間だと思われたかった」
そうは言ってもじぶんはまだいいほうだな。通勤中にすれ違う人々を眺めて緑内根スイリは思う。インスタントラーメン人間にお菓子ばっかり人間、ときにはサプリメント人間やドッグフードとしか思えない粒状の塊が歩いていたりする。
「みんなたいへんなんだなぁ」ひとごとのように緑内根スイリはぼやいて、すこしの留飲を下げるのだ。
ある日ニュースで、大規模な陥没事故の様子が流れた。なんでも魔法使いの現れた洞窟が観光スポットとなっており、毎日のごとく大勢が押し寄せていた。
おおかたそこに足を運ぶことでなんらかの物理法則を超越したチカラのおこぼれをもらおうとの魂胆なのだろうが、元から地盤のゆるかった場所なのだろう。大勢が岩盤の下敷きとなり、救出作業は難航しているらしかった。
連日事故の続報が流れた。緑内根スイリはハラハラとその様子を見守っていた。生存者がいるかもしれないと報じられていたからだが、日に日にその希望も薄れていった。
ただでさえみな全身の細胞の素が丸見え化現象に気を揉んでいる。これ以上気の滅入るニュースは見たくなかった。
ひと月が経ち、ふた月が経過する。もはや誰もが絶望的な気分で、生存者がいるとも思わなくなり、続報も途切れた。
事故のことなど忘れかけていた半年後のことだ。
洞窟内から生存者が見つかった。
苦難にめげず救出活動をつづけてきた全身プロテイン人間たちの努力の甲斐あって生存者は半年ぶりに洞窟のそとにでられたのである。
「諦めないってだいじだなぁ」緑内根スイリはティシューで鼻をすする。卵かけご飯にかけた醤油の味がする。このころ涙脆くなっていけない。「もし諦めてたら、生きてたひとたちだってあのまま中で死んじゃってたかもしれないわけでしょ」
伊新ボウクはじぶんの座席で弁当箱を広げていた。手作り弁当だろうか、彼はいつも自前のそれをちまちま箸でついばんでいる。
「あ、見て。生存者のひとたち。なんかふつうの人間っぽくない? え、なんで、なんで」
生存者の姿が映像に映しだされる。プライバシーを配慮してなのか遠方からのぼやけた姿でしかないが、彼ら彼女らは一様に、食べ物をまとわないふつうの人間に見えた。
翌日には、やはり救助された人たちは例外なく食べ物の細胞を持たない人間たちだと判明した。
驚くべきことに、彼ら彼女らは元は緑内根スイリと同様に、いちどは魔法使いの魔法の毒牙にかかった者たちだった点だ。
彼ら彼女らは一定期間洞窟に閉じ込められたたために、魔法使いの魔法を無効化していたのだ。
「吉報きたり!」
緑内根スイリがそうであったように全世界がその報せに沸いた。
「魔法使いめ。魔法の解ける術があるならあるって言い残してくれればよかったのに。あーよかった。これでなんとか元の姿に戻れそうだね」
職場のTV画面をじっと見詰める伊新ボウクの肩を叩き、彼女は、ぷぷぷ、と口元を手で覆ってみせる。「おやおや、このままじゃボウクくんは国からの保護を受けられなくなっちゃいそうですね。魔法の解除方法があったなんて。いやはやお仕事辞めてなくてよかったですねぇ、やっぱり人間真面目に働かなくっちゃダメですよ。いつ辞めてもいいなんてそんな無責任な態度は感心しないなぁ」
どの口が言うのか、と指摘してくれるような友人を彼女は持たないので、ことさら幸運の持ち主である同僚を詰り倒した。
伊新ボウクは画面から目を逸らし、いや違うな、とつぶやいたのを緑内根スイリは聞き逃さなかった。「あれはたぶんそうじゃない」
負け惜しみ言いやがってコノコノー。緑内根スイリはこの日、魔法使いが現れて以来の快眠を果たした。
地盤崩壊現場、魔法使いの現れた洞窟には連日人が押し寄せた。各国の調査団体が派遣され、様々な研究がなされたが、みなの期待とは裏腹に芳しい成果はあがらなかった。
「調査の結果、洞窟への長時間滞在による魔法無効化の効果は確認できませんでした」
そのような研究機関からの論文まで発表されはじめ、なんだか国をあげての詐欺を目にしているような心境に陥る。
「そんなことってあり得る? だって現に魔法解けた人らいたじゃん。これはあれだよ、魔法使い効果で得をした人たちがいまの環境を失いたくないからって真実を隠してるんだよ。そうだよ、そうだよ、きっとそうだよ」
魔法使い効果で得をしただろう筆頭に挙がる同僚の背後から腕を伸ばして緑内根スイリは、彼の弁当箱のなかから香ばしい匂いの立ちのぼる焼き肉をかってにつまみとる。
おい、と睨まれたが、構わず食べると美味かった。「ちょっと何イイ肉食ってんだよぉ。いいご身分だなぁ腹立つぅ」
もっとくれよ、とにじり寄ると、ふざけんな、と弁当箱を遠ざけられる。「仕入れるのに苦労するんだ、おまえが食べていいような肉じゃねぇの」
「ケチかよ。どうせ高級黒毛和牛だろ。国からの補助金で買ったよいお肉だろ。一口くらいくれてもいいじゃんか、この税金泥棒め」
「ろくに仕事しない給料泥棒にだきゃ言われたかないセリフだな」
「ほうそんなに嫌ならもっと言ってやるこの全身筋トレマシンが」
「それは悪口なのか」
「卵焼き人間にだけは言われたくないかと思って」
「じぶんで言ってじぶんで傷ついた顔をするのをやめてくれ」
彼は席を立つと売店から焼肉弁当を買ってきてくれた。「きょうのところはこれで機嫌を直してくれ。同僚が不機嫌だとおれまでなんだか損をしてる気分になる」
「えー、なんかわるいなぁ」
「よだれを隠してから言え」
なんだかんだ言っていいやつなんだよな。
最高に運のよい同僚を持ってあたしのほうこそ運がいい。緑内根スイリは焼肉弁当を腹のなかに掻きこみながら、ことのほか仲間思いの同僚の懐の深さに感謝する。
この日、魔法研究機関から最新の論文が発表され、翌日には全世界が大騒ぎとなった。
洞窟からの帰還者たちは当初、閉じ込められていた半年間のあいだ、洞窟内のコウモリや虫を食べて飢えを凌いでいた、と説明した。
だが研究機関の調査結果では洞窟に魔法解除の効果はないと結論付けられている。
ならば彼ら彼女らの説明が真であるならば、彼ら彼女らの肉体は、コウモリや虫の集合体となって観測されなければならない。
だが現実はそうはなっていない。
ここから導かれる答えはそう多くはない。可能性の問題だ。ほかの因子が偶然に彼ら彼女らの魔法を解いたと考えるよりも、その環境下であればもっと起こり得る事象を仮定して、ではどうなのか、と解をだすほうが合理的だ。
彼ら彼女らの魔法は未だに解けていない。
ただ、肉体を構成する細胞の素のほうに変化があった。
洞窟に閉じ込められていた半年のあいだ、彼ら彼女らは、いったい何を食べていたのか。
死滅を繰り返す細胞の素材として何が肉体を補完しつづけていたのか。
たとえば仮に、人間を食べた人間は果たして、魔女の魔法のもとでいったいどんな見た目として顕現するのか。
全世界の人々は息を呑み、そこではたと思い至る。洞窟の生還者たちに限らず、もっと以前からじぶんたちは、ごくごく少数の者たちであるにせよ魔法のきかないように見える者たちを目にしてはいなかったか。
幸運の持ち主を発見してはいなかったか。
緑内根スイリは心根のやさしい同僚の姿を思い起こし、いつも同じ弁当を持参する彼の律儀な性質に思いを馳せる。
昨日会社で盗み食いした肉の味が舌のうえでよみがえる。
ごくり、と唾を呑み込む。
唇に触れる。
なぜか卵焼きのやわらかい感触の代わりに、懐かしいじぶんの皮膚のかさつきがある。鏡を覗くとふしぎなと一部分だけが赤く皺を浮かべている。
【虫取り網じゃ無理やろ】
午後六時を過ぎて辺りは夜のしじまに沈む。ただでさえ人通りがすくないうえに、今年は外出自粛を国が総出で願いでている。もはやこうして外を出歩いている者を目にするほうが珍しい。
日中、部屋でごろごろしていたら祖母と口論をしてしまって、俺は年甲斐もなく家を飛びだした。時間を潰そうと食事処に入ったまではよいのだがどの店も長居を快く思わないようで、追いだされるように、というよりも居たたまれなくなりこうして気温のぐっと下がった夜の街を歩いている。
道路は氷が張ってツルツルだ。自動車のタイヤに踏み固められた雪が氷と化し、日中に解けた雪融けがさらに凍って、スケートリンクも真っ青の摩擦係数の低さを見せる。
まっさらな雪が積もっているところを歩いたほうが危なくない。俺はおっかなびっくり及び腰になりながら、そろそろ家に戻るかな、と無駄な一日を過ごしてしまったじぶんを腹立たしく思う。
ふと街灯の下に雪だるまが見えた。
子どもの手作りだろうか。
頭にバケツを被せ、鼻に石のはまったなかなかに手の込んだ力作だ。
大きな雪だるまをちいさな雪だるまが囲むように転がっており、これを子どもが一人でつくったならたいしたものだ、と感心する。
この家の子かな、と雪だるまのまえで立ち止まり、隣接する家を見あげた。
すると玄関が開き、一人の男の子が飛び出してくる。時刻は夕刻とはいえ日はすでに沈んでいる。家のそとからおとながつづけて出てくる様子はなかった。
ふしぎなことに男の子は虫取り網を手にしていた。夏に、麦わら帽子と虫籠とセットで描けば、夏の風物詩としては申し分ないあの虫取り網だ。
子どもはこちらの姿に気づいたようで、雪だるまのまえでびっくりしたように足を止めた。
「こんばんは。これきみがつくったの?」不審者と思われぬように挨拶をし、ついでに褒めてやろうと思って話を振ったのだが、男の子はなぜか雪だるまの腹を蹴って、凍った道路のうえを器用に滑って、暗がりの奥へと去る。
こんな時間にどこに行くのか。虫取り網を持って。
気になった。そしてこれは俺の性分なのだが、最悪の事態をいちど想像してしまうと、実際にそうなってしまいそうで、夜も眠れなくなる。気がそぞろだって仕方がないのだ。
せめて男の子がどこに行ったのか、すぐに戻ってくるのか、目的が何なのかを知れれば揉んだ気もふたたびほぐれて落ち着きそうなものだ。
ひとまず様子を見るだけ見てみるか。
これじゃどこからどう見ても不審者だな。
思いつつ、男の子のあとを追った。虫取り網さえ持っていなければもうすこし後腐れなく、不安もなく、さっさと家に戻れたのだが。
今宵は聖夜前日、クリスマスイヴであった。
男の子はすぐに見つかった。きょろきょろと住宅街を練り歩いている。街灯の下を通り抜けるたびに、スー、スー、と冬の妖精がスケートをしているような陰を浮かべるので遠目からでも目についた。
やがて男の子は公園へと入っていく。
警察に通報してあとを任せたほうがよいか迷う。そこまでのことではないと言われればそうだ。さきほどの家に知らせてやって、子どもの居場所を教えてやるのがこの場でとるなかで最も妥当な考えに思えたが、雪だるまの腹を蹴った彼の挙動を見るに、これはおそらく家出に類する衝動的な行動だろうと思い、男の子の気持ちを汲みたくもなった。
ここで声をかければ誤解の余地はない。警察のお世話になってしまうかもしれないが、それでも黙って立ち去るわけにはいかない。昼間に繰り広げた祖母との喧嘩を思いだし、俺だってやるときゃやるんだ、と見返したい気持ちがなかったわけではないのだが、どちらかと言えば純粋に、クリスマス前夜に虫取り網を持って家を飛びだした男の子の胸中に寄り添ってやりたい気分だった。
じぶんと彼はいま同じような気持ちかもしれない。なんとなくだがそう直感したのだ。
あれは幼き日ころのじぶんであり、いまのじぶんだ。
なぜ彼が虫取り網を持っているのかは定かではない。かってに同調して、同士を見つけたつもりになっている。不審者としては申し分ないが、そこは世界的不審者の血を引き継ぐ者のサガに免じて見逃してほしいところだ。
クリスマスイヴの夜に子どもにあんな顔をさせてはいけない。ましてや夜に虫取り網を持ってそとに飛びだすなど。
男の子は公園のグランドにぽつねんと立ち、空を見上げている。微動だにせずじっと熱心に見つめる姿からは、確固としたつよい信念、意固地のようなものが窺えた。
自動販売機でホットココアを二つ購入する。霜柱をしゃくしゃくと踏みつけながら、こんがり焼いたパンでも齧りてぇな、と思いながら、彼に近づく。
「よお、少年。何してんだ」
びくっ、と身構える彼に、寒いだろほれ、とホットココアを手渡す。となりに立ち、まずは夜空を見上げた。
「星でも見てたか」
「ううん」
「じゃあ何をそんなに夢中で探してたんだ。妖精でも捕まえようってか」
「サンタさんがうちにはこないから」
「こない? どうして」
ホットココアのプルタブを開け、口をつける。男の子もそれを真似た。二人して、だだっ広いグランドのうえで温かく甘い汁を味わう。
「妹がいるんだけど、いつも喧嘩ばかりしてるからきょうはサンタさんこないってママが」
「まあたしかによいコのもとにしかこないとは言うよな」
「ぼくはそれでもいいけど、妹までもらえないのは嫌だから」
「ああ。責任を感じちゃったわけだ」
「捕まえようと思って」
想像通りだったので、思わずむせた。彼の口調からは、じぶんにはそれができるとの確信とそれによる呵責の念が聞き取れた。彼は本気でサンタクロースをそのちっこい虫取り網で捕まえ、妹の分のプレゼントをもらい受けようとしていたのだ。
そう言えば、と思いだす。彼は大きな雪だるまの腹を蹴飛ばしていたが、あれはひょっとするとサンタを模していたのではないか。喧嘩をしているくらいで来てくれなくなる心の狭いサンタに男の子は怒っているのだ。
「喧嘩するほど仲がいいって言うだろ。だいじょうぶだよ、サンタさんはちゃんとおまえん家にもくるって」
「ママがこないって言ったらこないんだよ。おとなが家に入っていいですよって許可をするからサンタさんは入れるから。じゃないとフホウシンニュウになって捕まっちゃうんだって」
現実的な解釈を教え込まれているようだ。親の性格がなんとなくだが掴めた気になる。
「じゃあおいちゃんがすこしだけよいことを教えてあげよう」
「おいちゃん?」
「きみから見たら俺は充分おじさんだろう」
「お兄さんかと思った」
歳からすればまだ充分青年で通じるが、おとなから刷り込まれた理不尽な言動を打ち消すには、同じくおとなの言葉のほうがよいと思った。
おいちゃんはおいちゃんさ、と押し通す。
「サンタさんはじつはもういなくてね。むかしのひとだからとっくに亡くなっていて、いまはその子どもたちやそのまた子どもたちがみんなで協力してプレゼントを配り歩いているんだ」
「そらは飛ばないの? トナカイさんは?」
「いまは空飛ぶバイクも、車もあるからね。壁抜けの扉もあるくらいだし、国からも許可を受けている仕事だから、黙って入っても不法侵入にはならないんだ。きみのママは嘘は言っていないけれど、サンタさんはもっと自由な存在だ。家に帰って寝て待っていれば、妹ちゃんは朝には大喜びでプレゼントを抱えているし、きみの枕元にもきっとプレゼントはある」
「なかったらどうしよう」
泣いちゃう、とばかりにしょげる男の子の頬をゆびでつまんで、
「サンタさんには俺からもお願いしておこう。妹想いのやさしいよい子がわくわくして待っていますと伝えておくから、きょうはもうお帰り」
「ううん」
納得いかないのか、男の子はすぐには頷かなかった。家を飛びだした手前、何もないままでは戻れないのだろう。その気持ちは解かる気がした。サンタがたとえ家にこようとも、母親からこないと言われた記憶がなくなるわけじゃない。母親がサンタはこないと言った事実はとりもなおさず、彼が母親にとってよい子ではない、と告げられたことと同じだ。サンタによい子だと認められたところで、母親を見返さなければ彼にとっては意味がないのだろう。
彼は薄々気づいているのではないか。おとながサンタという存在の権威を用いて、子どもを支配し、じぶんたちに都合のよいように扱おうとしている構造を。
おばけがくるぞと脅して、早く寝かせようとするのにも似たその場限りのおためごかし、姑息な手段に彼は腹を立てているのかもしれなかった。
だからサンタごとおとなを懲らしめたかった。じぶんたちはただよいこを演じているだけの子どもではないのだと、知らしめたかった。
じつに子どもらしい発想だ。俺はかってに彼の胸中を慮って、知った気になり、彼のことを気に入った。
「しょうがないな、内緒だぞ」
ポケットから専用のメディア端末を取りだし、通話ボタンを押す。男の子がきょとんとこちらを見あげるが、口元にシーっと指をあてがい俺は、電波の向こう側にいる相手と会話を交わす。
「なんだこのクソ忙しいときに。おまえも手伝えとばぁさんから言われんかったか」
「だから喧嘩して飛びだしてやった」
「バカモンが」
「だが気が変わった。いまからでも手伝えることあるか」
「いまどこにおる」
「人目のつかない場所にいるよ。降りてこられるか」
「この地区はじゃあおまえに任せるぞ。いいな」
通話を終える。
何事か、と不安げな男の子にすこし隠れているように指示をする。グランドの端っこの植え込みの陰に隠れたのを見届けてから、端末を真上に掲げ、位置座標を祖父に知らせる。
シャンシャンとは程遠い、ブオンブオンと低いエンジン音をうならせ、祖父が空中バイクごと夜空の奥から降りてくる。
「相変わらずうるせぇ乗り物だな。消音器はどうした」
「とっくに壊れとる」
「おいおい。ならモーター駆動に替えてもらえよ、これじゃ耳の遠いうちのばぁちゃんだって起きちまう」
「最新の機種はどれも都会のやつらが独占してな。まあいつものことだ。数年後にはわしらにも回ってくるだろ」祖父はバイクにまたがったまま辺りに目をやる。「おまえ、バイクはどうした」
「こんなとこに置いとけるかよ。ちゃんと目立たないとこに置いてきた」
「ほう。感心、感心」
これがおまえの分だ、と言って祖父は大きな袋を地面に置く。時空拡張装置が内臓されており、見た目よりも遥かに多くのプレゼントがそのなかに入っている。プレゼントを取りだすときには、中に入って、棚をじぶんで漁らなければならないほどだ。倉庫が丸々一つ入っているようなものだが、これも最新機種は自動でプレゼントを見繕って、手を突っ込めば寄越してくれる造りになっている。効率は雲泥の差だ。
「じゃあな、頼んだぞ」
祖父は言い残し、ふたたびブオンヴオンと爆音を轟かせ、宙にタイヤを転がして空へと舞いあがる。あっという間に見えなくなった。
「さてと」
袋を抱え、グランドの端に隠れた男の子のもとに赴く。
「見てたか。あれが現代のサンタさんだ。幻想を崩しちまってわるかったな。あんなのがサンタじゃ悪夢を見ちまう。妹には内緒にしといてやれよ」
しゃがんだままのかっこうで男の子はぶんぶんと何度も首を縦に振る。あごを引くたびに鼻息が白くもやとなってのぼるので、ちいさなエンジンだなぁ、と心が和む。
「おら、虫取り網を貸してみな」
網の部位をたぐりよせ、そのなかに、袋から取り出した彼と妹の分のプレゼントを入れる。
「すこしはやいが、メリークリスマス。ママにはちゃんとサンタさんからもらたって言うんだぞ。でないと取り上げられちゃうかもしれないからな」
「あ、でも」
男の子は顔を曇らせ、「妹は部屋にきてくれるのを楽しみにしてたから。お手紙も書いてて」
「ああなるほど。じゃあやっぱりこれは俺が運ぼう。それでいいか」
プレゼントを回収し、夜にふたたび渡しにいくと伝える。男の子はこんどこそ笑顔になって、ありがとうございます、と言った。
いつも思うが昨今の子どもたちはみな礼儀正しい。おとなにはぜひとも見習ってほしいものだ。じぶんを棚に上げて俺は念じた。
男の子を家まで送り、彼が家に入ったのを見届けて踵を返す。
さてと。
これから俺はひと仕事だ。
こんなことなら素直に昼間のうちから引き受けておくんだった。祖母から無駄に小言をもらい、時間に追われて空を飛び回るはめとなった。
楽をしようとするもんじゃないな。
雪だるまの腹を蹴り、えぐれてしまったそこに慌てて俺は雪を詰めこむ。
メリークリスマス。
誰にともなく俺はつぶやき、やすらかな清きこの夜に感謝する。「サンタクロースなんざクソ食らえ」
【よくないねボタン】
未来の技術です。あなたにこの機能を贈ります。
目のまえに飛蚊症さながらに文字が浮かぶ。三日三晩浮かんだそれは四日目にして消えた。幻覚だったのだろうか。
視界が晴れた。それこそ晴れ晴れした気分だ。
私は顎髭を撫でつけ、研究成果に目を通す。
研究に明け暮れた日々であった。
もうすぐ長年の成果が結実する。
ここからが佳境という段になって現れたのがあの幻覚であった。
幻覚が消えてからすぐにまた似たような幻覚が目のまえに漂う。私は肩を落とす。これでは研究に集中できないではないか。
こんどは文字ではなく数字だった。それも、物凄い勢いで数が増えている。
二つの指標がある。
親指を上に立てたマークと、それをひっくり返して親指を下に向けたマークだ。
両方の数値が増えているが、その増加速度に差がある。雲泥の差だ。
片やちまちまと一日に一つ増えればよいくらいだが、もういっぽうは破竹の勢いで増加傾向にある。私が学徒を集め講義を開くとき、或いは大勢のまえで話したときには、一日で数百もの親指を下に向けたマークが、ケタごとその数を増やした。
教会に招かれ、私見を述べよ、と依頼されたときには、なんと一日で数千ものマークが集まった。どれもやはり親指を下に向けたマークだ。
これはどうやら、私の話を聞いた者たちの反応であるらしかった。
よいのかわるいのかこれだけでは判断し兼ねるが、やがて捕縛され、裁判にかけられ、死刑が確定された私には、それらの数値の意味を推し量ることができた。
他人からの反感が数値化されているらしかった。
私はやれやれ、と首を振る。
絞首台にのぼると、みなの頭上にポンと跳ねる光があった。それらは親指を下に向けたマークと同じ形をし、ポンポン、と連続して浮かんでは消えていく。
みなが心の中で私に親指を下に向けているようだった。
そんななかで、色の異なるマークを濁流のように出没させている若者がいた。彼の頭上には親指を上に向けたマークが浮かんでは消え、さらに浮かんでは消えた。途切れることがない。
見覚えのある若者だ。たしか名はガリメロとか言ったか。よく憶えてはいない。
立会人が口上を述べている。首を吊られるまでまだ時間があるようだ。なかなかどうして死ぬというのも時間がかかる。
私は視界のなかに浮かぶ幻覚の数値を漫然と眺めながら、ふとこれまで意識の壇上にのぼらなかったマークがあるのに気づいた。三角形の底辺をよこに向けた具合に、矢印のごとくちいさなマークがある。
私はそれに視軸を合わせる。
すると新たな幻覚が立ち並ぶ。
どれもひとの名のようであった。
ニュートン、アインシュタイン、ドブロイ、カンメラー、ゴッホ、ラマヌジャン……名前は留まることを知らない。一つ一つの名前に視軸を合わせると、そこに数値が浮かんだ。どうやらその人物たちにつけられた親指マークの数のようだ。親指の向きは、上と下、両方の数値が揃っている。
グラフまで並んでいる。いつどのくらいの数値を記録したかが棒グラフと折れ線グラフの重なりを帯びて記されていた。
どうやらみな親指が下のマークのほうを多く集めてきたようだ。みな一様にある時期を境に数値が逆転し、何倍、何十倍もの親指が上のマークを集めている。
私にはそうした機運は巡ってこなかったのだな。
おや、と視線の流れを止める。
この人物はずいぶん初期から親指を上に向けたマークを集めている。
さぞかし素晴らしい人物であったのだろう。
思ったが、グラフはその人物の死後、急激に数値を逆転させ、一転、親指を下に向けた数値が私の視界を突き破って、上へ上へといまなお伸びつづけている。
ずいぶんと嫌われ者がいたものだ。
いったい何を仕出かせばこうまで反感を集められるだろう。
私はその者の名前にもういちど目をやった。
「では処刑をはじめる」
首に縄がかけられ、私は足元の閉じた扉のうえに立つ。
パタンと空虚な音を残して開いたそれの合間に私はするりと落ちていく。
無重力はこんなところにも顕現するのだな。
浮遊感を頭のなかで数値化して計算する間際、私は視界のなかに浮かぶ、アドルフの文字を読み取るのである。
【空に浮く鍵】
世界的災害が襲い、世界は食糧難に見舞われた。そのうえ勃然とそらに巨大な鍵穴が現れ、騒然とした。
鍵穴は一つきりではない。
世界の八つの土地の真上にまったく同じ造形の鍵が出現し、そのまま静止して浮いている。
各国の首脳はただちに鍵穴真下に住まう者たちへ緊急避難指示を発令し、避難区域にかからない地区に住まう私のような者たちにも地下室があれば万が一に備えてそこで生活するように提言した。
「地下室って言ってもな」
私は首からぶらさがる鍵を握りしめる。「お父さん、どうしよう。開けていいのかな。いいよねこんなときだもん」
亡き父から譲り受けた鍵は、地下室の扉の鍵穴と二つで一つだった。父は口を酸っぱくして、あの扉は開けるな、と言った。
「鍵は使ってはいけない。人に見せてはいけない。あげてもいけないし、もちろん失くしてもいけない。お守りとしてだいじに持っていなさい。おまえが困ったときにきっと役に立つから」
いまがその困ったときだよお父さん。
私は地下室への階段を下り、扉の鍵穴へと鍵を滑らせる。
ガッコン。
鍵の回る感触が腕に伝わったその数秒後に、耳を塞ぎたくなるような音が全身を襲った。否、音ではない。家ごと揺るがすような衝撃波だった。
なんなのねぇー。
私はその場にうずくまり、音が止んだのをよくよく確かめてからさっさと地下室に引っ込もうと扉の取っ手に手をかけた。
扉を向こう側に押しやって、足を踏みだして、止まる。
ぎょっとした。
扉の向こうには何もなかった。
否、否、そらが広がっている。
真下には段差があり、ずっと下のほうに地面が見えた。緑だ。芝生だろうか。
目のまえを蚊のようなものが飛んでおり、うわなんだ、と思って手で払いのけようとして、思い留まる。
ちいさな、ちいさな、ヘリコプターだった。
私はいちど扉を閉め、引っ込む。
しばし思案ののち、地下室の階段をのぼり地上に出て、メディア端末を起動した。ニュースを見る。
どのチャンネルでも突如として現れた巨人について報じていた。鍵穴を囲うようにそらが長方形に区切られ、扉のように開き、そこから巨人が現れたのだという。何度もその光景が映像となって流れているが、どう見てもそこに映るのはじぶんの間抜け面だった。
あちゃー。
もっとおしゃれしときゃよかった。
違う違う。
そんなことに悩む前にすることがあるじゃろ。
お腹がぐぅと鳴り、空腹に悩むのも違うからな、と腹の虫に抗議する。
巨人は鍵穴の浮かぶ八つの土地それぞれに現れていた。同時にだ。八つのそらがぱかりと開いて、巨人を召喚したのである。
世界のそらは鍵穴を通して繋がっている。物体を何千倍にも拡大して。
時空がきっと歪んでいるのだ。
私はじぶんがすべきことを考え、鍵穴はこのまま使わずに、その効果も見なかったことにしようと決意する。
私が鍵を使わなければあの巨大な鍵穴もただそこに浮いているだけの珍しいオブジェだ。そのうち観光地にもなって栄えるだろう。
私は鍵をどう処分してやろうか、このまま持っているべきかを吟味しながら、その前にあと一度だけ使ってもいいかな、という気になっている。
またお腹がぐぅと鳴る。
ろっ骨の浮いた水っ腹を撫でつけ私は、台所を漁る。長期保存に向いた栄養価の高い食べ物を探しながら、いま全世界が頭を悩ませている巨人のことではなく、食糧難について深く深く思考を巡らせるのである。
【魔女は乞う】
バイト先の同僚と仕事終わりにお茶をした。アンティークの置物がかわいいお店だ。雑多な商店街の裏道にひっそりとあり、ひと昔前のイギリスにタイムスリップしたみたいな感覚になる。
城井チマは長いあいだ学校というものとは縁がなかった。しかし見た目がじぶんと似たような学生との交流を持つことには人一倍の関心があった。
どの時代の若者も、その時代の空気が反映されている。その時代時代の社会に馴染むには、若者と交流するに限った。
うまく打ち解けている。さすがは私だな、と城井チマが内心で自画自賛していると、
「チマちゃんって変わってるって言われない?」
心外な言葉に、
「そ、そうかな」らしくもなく動揺した。
「なんだか達観してるっていうか、どっしり構えてるっていうか。ビビることとかなさそう」
今日だってさ、と同僚が若者らしい言葉づかいで、バイト先でのクレーム処理をこなした話をする。むろんクレーマーをいなしたのは城井チマのほうであり、ことさら同僚の女の子は、チマのことを褒めたたえた。
「ホントどう生きてきたらそんなふうになれるの」
「長生きすればいいだけだよ」
「わは。同い歳じゃん」
上目遣いに笑う彼女の目には、アドレナリンやセロトニンなど、脳内物質のきらめきが見て取れた。いささか縁を繋ぎすぎたように思え、つぎからはこのコを時代のサンプルにするのはやめておこう、と考える。ほかのコにしておこう、と。
「ねー、そのペンダントかわいいよね。高そう。何の宝石?」
「ああ、これ?」胸元のペンダントをいじる。深い紅色をした石がはまっている。「祖母からもらったからよく知らない。見た目だけ派手なだけで、そんなに価値はないと思うよ」
「うっそだぁ。見して、見して」
「あ、もうこんな時間。そろそろ帰ろっか」
「えぇ、ねー、まだいようよぅ。紅茶お代わりできるって」
「じゃあ先帰ってるね」
「ねー、冷たーい」
駄々をこねてそれが無条件に受け入れられると思っている。この世代の特権だな、と分類しながら、あなたのためでもあるんだからね、と内心で溜め息を吐く。
そのときだ。
胸元のペンダントが熱く熱を持った。波動を感じる。
これは、と思う。
「ごめん、急用入った。これで何か美味しいものでも食べてって」
この国で最も高価な紙幣を一枚テーブルに置く。
「えぇ、わるいって。急用って?」
「ごめん、またバイトで」
上着を羽織り、二人分の会計を済まして店を出る。
辺りを見渡す。
ビルの合間に曇天が渦を巻いている。
雑踏が道を流れ、半分は駅へと吸い込まれていく。雑踏は流れがぶつかりあうことがない。互いにすり抜けていく。
城井チマは道を急いだ。
駅のほうへとは向かわず、ひと気のない道へ、道へと逸れていく。
やはり、と警戒を最大にする。
闇狩りだ。
追手が接近している。城井チマの胸のペンダントを奪うためだろう。前回は三年前だった。その前は二十年前だ。それ以前は、世界のどこかで戦争が勃発するたびに城井チマは、その身に蓄えた能力ごと命を狙われた。どんどん間隔が短くなっている。
闇狩りをするための組織が創設されたのではないか。
あり得ない話ではない。
前回、前々回と、城井チマは襲撃者を殺さずに見逃した。時代は平和になっている。もうかつてのような戦乱の世ではない。無闇に命を奪い合うなんて馬鹿げている。
だが城井チマの訴えとは裏腹に、相手は本気でこちらの命を狙ってくる。
城井チマはペンダントの石を、闇玉、と呼んでいる。力の源と言えば端的だが、使える者は限られている。
契約をしなければならないのだ。
何と、と問われれば、悪魔と、と城井チマは失笑する。
建設中のビルに足を踏み入れる。建物の周りは空き地と化している。駐車場にするためなのだろう。闘う場所としては申し分ない。
ビルは骨組みだけで、上層部にはまだ足場も敷かれていなかった。
城井チマは足場の敷かれたなかで最も上層部に位置する十階で歩を止めた。
夜風が横殴りに身体を煽る。
マントを身に着けていたらたちどころに飛ばされそうだな、とわけもなくその様子を想像し、胸のうちがくすぐったくなった。
音もなく背後に影が現れる。
視認せずとも、城井チマには判った。
「最初に言っておくが」と念を押す。「私はおまえを殺そうとは思わない。やるな、とは言わない。だがもし無理だと思ったらそのときはおとなしく引き下がってほしい」
相手は一人のようだ。
返事はない。
城井チマはゆっくりと振り返る。
街明かりを背に、黒づくめの人型が佇立している。顔まで布で覆われ、性別すら判然としない。
忍びか、と意味もなくと唱える。
かつてそうした者たちとも死闘を繰り広げた過去がある。
中には、闇石の欠片を持った者たちもいた。忍術とはそうした闇石のチカラによる能力解放のことを言うのだろう、と城井チマは、じぶんのような魔女と、それ以外の異能持ちのことを思った。
「どうした。やるんだろ。石はここだ」
胸元から闇石をつまみあげて見せる。
相手はその一瞬の挙動の合間に、夜の影に紛れた。
城井チマが反射的に目で探ったつぎの瞬間には、首元に刃の冷たさが伝わった。
速い。
城井チマはその場にしゃがむ。
髪の毛に、ざっくりと刃の走る衝撃が伝わる。
せっかくここまで伸ばしたのに。
地面を転がり、距離を置きながら、肩まであった髪の毛が不揃いに短くなっている事実に悲しくなる。
相手はふたたび夜の影に塗れた。
それは死角に入るといった単純な技能ではない。おそらく真実、相手は影のある場所を自在に移動できるのだ。
仮に、ここまでの道中、かの者が異能を頼らず徒歩で接近してきていれば、それを城井チマに察知する真似はできなかった。相手が能力を行使してたからこそ、その波動を、闇石を通して感知できた。
用心深さが仇となることもある。
城井チマは鼻から息を吸いこむ。ゆるゆると吐きだすと、闇石に口づけをした。
気が重たいが、やらねばならぬこともある。
虚空に腕を突っ込み、ずるずると杖を引きずりだす。糠からキュウリを引っ張りだすときの抵抗感を連想する。杖の頭部分には天使の頭蓋骨が飾られている。天使とは名ばかりだ。額からは角が生え、その相貌は鬼じみている。
杖の先端を地面に突きたて、
「手加減できそうにない。無理だと思ったら逃げてくれ」
城井チマはふたたび闇石に口づけをし、能力解放する。
辺り一面にマグマが溢れる。
本物ではない。
幻術の一種だ。
ただし、いちど知覚すれば、いかに幻影であろうと、触れれば相応の痛みに打ち回ることとなる。
案の定、マグマから忍者が姿を現した。鍔のない日本刀を逆さに突き立て、柄の先端を足場に、猿座りをする。
全身はマグマに触れたがごとく爛れた様相だ。真実には、物理的肉体は無事であるが、地獄の業火に焼かれた痛みは脳内神経を通して、かの者の精神をむしばむ。
「頼む、降参してくれ。でなければ撤退でいい。これ以上やさしい技を私は持たなんだ」
忍者は小首を傾げると、言葉の意味が分からんな、と言いたげに跳躍した。
目で追う。
遅れて、波動を探知したほうが早いな、と思い直し、闇石と意識を繋ぐと、視界から忍者が消えた。
否、そうではない。
最初から日本刀の上の忍者は傀儡だったのだ。
しまった。
背後に、するり、と浮上する波動を窺知したつぎの場面では、杖ごと城井チマは胴体を両断されていた。
視界が傾き、重力の変遷を思う。
かろうじて杖を手放さずにいた。
とどめをさされぬうちにと、城井チマは能力解放する。剣の森を発動した。城井チマの身体の輪郭を避けるように、それ以外の地面から無数の剣が、天高く、瞬時に伸び、そして消える。
幻術ではない。
幻影ではないのだ。
瞬きを二つする合間に、重く、湿った物体が、どちゃ、どちゃ、と地面に落ちる。
目をそちらに転じる。
忍者が横たわっている。息はあるようだ。だが手足は胴体から斬り離され、てんでばらばらな方向に散らばっている。
虫の息だ。
だから言ったのに。
城井チマは震える手で闇石をつまみ、口づけをする。切断された下半身が消え、いつの間にか胴体と繋がっている。治癒完了だ。
腕を切られなくてよかった。
忍者のそばに立ち、見下ろす。
「まだ生きてるか。わるいが助けてやることはできない」
忍者の顔の布を取り払う。
若い男の顔が現れ、ほっと息を吐く。知らない顔だ。見知らぬ者でよかった。そう思うじぶんを卑しいと責める。おまえは生きているだけで卑しい。
男は口を動かし、助けてくれ、と訴えた。声がでているわけではない。だが男の目が、殺さないでくれ、と揺れていた。
「殺しはしない。自力で救援を呼べるか? 観察者の一人くらいはいるだろう、いまもどこからかこの光景を見ている。違うか? おまえくらいの能力持ちがいる組織ならば、ほかにも治癒の得意なやつもいるはずだ。もっとほかに有意義な仕事があるはずだ。私にはもう関わらないように、ほかのやつに伝えてくれ」
彼の手足を拾い集め、身体のそばに置いてやる。
「じゃあな」
踵を返したその瞬間、なぜか杖が、城井チマの身体から離れた。地面に倒れていく。
あれ、と思ったのも束の間、こんどはひざの力が抜け、身体を支えていられなくなった。
達磨落としさながらに視界が下がる。衝撃があり、視界が弾む。
首をひねる。
目のまえには白装束の忍者が立っていた。
城井チマは視線をぐるりとじぶんの周りに巡らせる。
両手、両足が、胴体から離れ、地面に転がっている。
「能力使わなきゃ探知できないって本当だったんだ」
白き者の声に、目のまえが暗くなる。
聞き憶えがあった。
数時間前にもこれと同じ声を耳にしていた。
「チマちゃんって変わってるって言われない? だって魔女だもんね、そりゃ変わってるよね」白き者は刀の血を腰帯で拭うと、顔を覆っていた布を取り払った。
「どうして」解かりきっていながらそう問わずにはいられない。どうして。いつから。
バイト先の同僚は、その場に屈むと、胴体と首だけとなった城井チマの胸元からペンダントをもぎ取った。
「賢者の石ってこんななんだねぇ。あ、いまは闇石か。名前なんてどうでもいいけど、はぁあ。兄貴こんなにしちゃってくれちゃってさ。ま、これさえあればいくらでも治せるんだろうけど」
「頼む、殺さないで欲しい」
「はっは。命乞い? あんたが?」
「友達だと思ってた」
「いまさらなにそれ。わたしのことなんてどうせ替えのきく素材かなんかだと思ってたんじゃないの。まあいいけどね、わたしは最初からあんたのことは歩く災厄くらいにしか思ってなかったし」
「冷たいな」
「ねー、チマちゃん。それあんたが言いますー?」
もういちど命を乞おうとしたときには、城井チマの胸元には、日本刀が突き刺さっていた。
縦に刃が反転する。
抉られた胸元から一直線に、首、頭と縦断される。
城井チマは絶命した。
「はぁあ。こんな任務、なんでほかの部隊が熟せなかったのかが謎。どんだけだよ。昔の能力持ちってアホしかいなかったのかな。ねーってば、兄貴もいつまで寝てんの」
白き者が瀕死の仲間の元へと寄る。
そのときだ。
背後に漂う異様な気配に、白き者の身が凍った。
振り返りたい。振り返るべきだ。
だがすでに白き者の身体は、濃厚な死の化身によって鷲掴みにされていた。
がちがちと震える白き者の、並びのよい歯の音が、夜風吹きすさむ寂寥の合間に響いて、消える。
陽が昇りはじめる時分、夜の影のなかに、もぞもぞ、と蠢くモノがある。
肩まで伸びた髪の毛を振りかざして起きあがったそれは、離れた場所に散らばったいくつもの肉塊を目に留めた。
肉塊はどれも引きちぎられたように無造作に転がり、臓物すら、几帳面にも、部位ごとに仕分けされているようだった。
「だから言ったのに」
殺さないで欲しい、と。
二つの意味でそれは裏切られた。
殺した者は殺される。その命を以って、城井チマは復活する。
だがいまさら生き返りたいなどとは思わない。
できれば殺さずにいて欲しかった。
二重の意味で。
いつの間にか杖は消えており、やはりこれまたいつの間にか胸元に垂れさがっている深い紅色をした石をゆびでいじくる。いちどだけちいさく息を漏らして、城井チマは、陽の差しこむ清々しい朝のなかを歩き去っていく。
【ドッペルランナー】
自宅で仕事をするようになってからランニングをはじめた。歩かないからだろう、体重が増加したためだ。昼間は人目があって恥ずかしく、仕事が終わるとたいがいすぐに寝てしまうので、走るとすると夜中になる。
一週間をかけて、すこしずつ道を変えた。どの道が走りやすいか、気持ちよいか、コースを厳選した。
やがてコースが固定されてくる。前半に長い階段をのぼり、疲れが溜まる後半に坂を下り戻ってくるコースだ。
階段には街灯が数えられる程度にしかなく、闇に沈んでいる。月光があるときはかろうじて足元の段差が見えるが、鬱蒼とした藪に挟まれているために影が落ちて余計にどこに段差があるのか判らない。迷彩柄じみている。
とはいえ、毎日のように登っていれば感覚が掴める。目を閉じてものぼれるくらいだ。思ったが、じっさいにやってみたらまったくできずにコケそうになったので、危ない真似はしないでおくに越したことはない。
秋の虫の音が闇夜を埋め尽くすような肌寒い日のことだ。
この日も、例によって例のごとく長い階段をのぼっていた。
ほとんど小走りだが、一回も休まずにのぼりきれるくらいには体力がついた。
夜中であるためにひと気は皆無だが、この日は上から駆け下りてくる人影があった。
気づくのが遅れたので、ほとんど闇から出現したように感じた。
心臓が跳ね、身構えたが、向こうからしてもこちらの姿にびっくりしたのではないか。互いに左右に道を開け、すれ違った。
服装はジーンズにパーカーで、年齢は大学生くらいだ。相手の顔は見えなかったが、ずいぶんと息があがっていた。
下り坂のほうが体力を使うとはよく聞く言説であるので、呼吸が荒いのも無理からぬことかもしれない。なかなかどうして警戒心を呼び起こすには充分な迫力があり、じぶんも気をつけよう、と何ともなく、夜道を歩くひとへの配慮を心に誓う。
そのときだ。
いましがた駆け下りていった人影の軌跡を辿るように、もう一つの影が現れた。こちらは、ずいぶん早くに気づけたので、下りてくる姿、闇のなかで刻一刻と輪郭が浮きあがってくる様を目にできた。
足音がしないことに気づいて息を呑む。
服装がさきほど駆け下りていった人物にそっくりだ。それでいて、上半身を左右に大きく揺らしながら、頭をぶんぶん振っている。顔はあるが、あまりに激しくブレるので性別すら判然としない。それでいてまっすぐに階段を駆け下りてくるので、身体ごと端に飛び退き、道を開けた。
トトトトトッ、とキツツキさながらの律動で階段をくだってくる。首の振りがその律動と連動しており、一種、機械的だ。
先刻すれ違った若者は、これを知っているのだろうか。服装が似通った、異様な走り方をする人物が後続しているのだと。
目のまえを音もなく、首振りの人物が素通りしていく。
さすがに緊張したが、何事もなく距離は開き、件の人物は闇に溶けていった。
しばらく階段下を眺めた。藪の向こうに月光に照らされた街が沈んでいる。
寝静まる、という言葉がよく似合う。いつの間にか虫たちが鳴きやんでおり、しばらくそのまま街を眺めていると、またどこからともなく虫の音が辺り一面に鳴り響く。クレヨンで塗りつぶすがごとくの大合唱だ。
せっかく鳴きはじめた虫たちの邪魔をするのは忍びなく、できるだけ静かに、ゆっくりと階段をのぼろうと思い、前方、階段のうえのほうに目を転じると、そこには何者かが、ぽつねんと街頭の下に立っていた。
見慣れた服装に身を包んでいる。
いま着ているじぶんの服を思いだす。
その人物はふしぎと首をゆっくりと大きく揺らしはじめ、一歩、一歩と階段を下り、街頭の明かりから脱した。
闇のなかで近づいてくる得体のしれないモノに恐怖を覚え、全速力で階段を駆け下りる。じぶんの足音が、背後から迫りくる者の足音に思え、恐怖心は、走れば走るほど増した。
住宅街に一店だけあるコンビニのまえに着き、そこでようやく背後を振り返る。
誰もいない。
よかった。
コンビニに入り、ピザマンを購入する。ついでにホットココアを買った。
ピザマンをたいらげ、ホットココアを飲み干すころには自宅アパートのまえに着いている。
あすからは別のコースにしよう。
ランニングは継続しつつも、あの階段には近づかないでいようと決めたとき、アパートの二階、自室の扉のまえに人影が立っているのが見えた。
服の柄は見えない。
距離があり、部屋のまえは仄暗い。
そこに立つ人物の身体は手を大きく振るように左右にゆったりと揺れていた。
部屋には戻らず、朝までコンビニで時間を潰した。
日が昇りきってから帰宅したが、部屋のまえには誰もおらず、扉には手のひらの跡が二つ残っていた。
手形は、ちょうど覗き穴の高さにあった。扉に張りつくようにすればできる位置だ。
ランニングはしばらくやめにしよう。
鳥肌が治まらぬままに布団に飛びこみ、着替えもそこそこに眠りに落ちた。
以降、夜中には部屋をでないようにした。ときおり台所の摺りガラス越しに人影が見える。多くは隣人だが、じっと動かずに立ち尽くす影を見ることがある。しばらくすると足音もなく消えるので、心臓にわるいが、いまのところこれといった悪影響はない。
だが、夜中に扉を開けたさきでそれと鉢合わせしたときに何が起こるのかは想像もできず、深く考えたくもないため、早寝早起きの習慣ができた。却って体重は減った。
ランニングはつづけているが、夜中ではなく日中だ。思ったより多くのひとが走っている。だがどれほど多様なランナーを見かけても、当然のことながら、激しく身体を左右に振って走る者を見かけることはない。
【祖先の祖先】
大陸の化石発掘場にて最古の祖先とみられる化石が見つかった。驚くべきことに、それら化石は総じてほかの個体と根っこで繋がりあっていた。一個の構造体の群れではなく、群れで一つの巨大な総体を築きあげ、それが現存するすべての個体の祖先であると結論付けられた。
議会は騒然とした。じぶんたちの源泉とも呼べる最古の祖先が、たった一つの個体ではなく、巨大な群れそのものだというのはなんとも奇妙奇天烈摩訶不思議にすぎる。端的に、呑み込むには大きすぎる謎だ。直感に反している。
最も激しく反論を投じたのは、進化論者の権威、バーバラバーであった。
バーバラバーは謳う。祖先はたった一つの小さな構造体が周囲の環境から要素を取り込み、複雑化した構造へと徐々に進化していった、と。進化論の骨子を幾度も説き、発見された化石は捏造である可能性を指摘し、そうでなければ年代測定が間違っていると主張した。
「ですがね、バーバラバーさん。現代であっても最も巨大な生物は、そうした群れ(コロニー)をなす細菌類やウィルス群だとは広く知られた常識でしょう。ウィルスが生物ではないといった早計な解釈が一時期我々よりも上の世代では幅をきかせていたようですが、ウィルスもまた充分に生物に由来すると考えて差し障りはないでしょう。それはバーバラバーさん、あなただって認めるところでしょう」
「認めるが、ウィルスとて最古の生物とは解釈しておらん。それ以前に我々の元となるナニカシラがおり、ウィルスとて、それらナニカシラから派生した第一世代以降の生物だと考えておるよ。これはジグルジグさん、あなたの論文に書かれていたことでもあるのでは?」
「そのとおりです。ウィルスは最も単純な構造を有した生物と解釈できますが、だからといってウィルスがすべての生物の祖先とは考えてはおりません。おそらくそれ以前に、元となる真に生物の祖先となった構造体があったはず。ですがそれらは現在発見されていないか、絶滅してしまったか、ともかく我々の認識のそとに消えてしまったのでしょう。化石に残ればまだしも、残らねばそれらがいたことすら確かめようがありませんからね」
問題は、とジグルジグがまとめる。「今回発見された化石が、一都市を覆い尽くすほど広域に地表に根を張り巡らせ、それらが総体で一つの巨大な機構を築いていたことです。現に発見され、それらはシステムとして機能していた――これは我々の根本的な構造に根差し、いまなお引き継がれている本質と解釈し直すべきでしょう」
「我々はすべて根っこで繋がった存在だと?」
「本来はそうした構造体だった、という以上の意味ではありません。現在はこの通り、私たちは別個に意思を持ち、活動していますが、潜在意識とまでは申しませんが、そのようなある種全体で一つとして機能するようにと本能の根っこのところで行動選択を左右されていてもこれは今回の発見と矛盾しません。むしろ率先して検証していくべき仮説かと」
「ジグルジグさんは根本的なところで問題から目を逸らしていらっしゃるように見受けられる。よいですかな。巨大な組織を形成するにはそれらを構成する単体の個が入用です。我々の構造を維持している各部位がそうであるように、それら部位がまずはこの世に存在せねばならない。巨大な構造がさきに生じ、そこから分散するように剥がれ落ちて個が生まれるなど理屈に合わない」
「ですが果実は樹があってこそできるもの。星とて最初に宇宙があってこそ。さきに巨大な構造体が生じることに矛盾はないのでは?」
「樹とて元となる種がある。宇宙とてきっかけとなった因子があったのではないか。むろんそれは、ビッグバン以前、さらに言えばインフレーション以前の話になるが」
「そこのところをいま議論しても仕方がないではありませんか。まずは発見された事象を元に解釈を修正していくべきだとわたくしは申しあげているのです。バーバラバーさんはどうにも目のまえの現実を受け入れられずに駄々をこねているようにしか見えません。発見は発見として認めるべきです」
「だから言っておるだろう。その発見に不備がある可能性があると。原理的にあり得ない代物が発見されたのだ、もっと慎重に検証を重ねるべきだ。これまでの定説を覆すための論拠にするには早計だと言っているにすぎん。なぜこれほどに単純な理屈が理解できんのだジグルジグさん」
「検証はその通り重ねるべきでしょう。ですが同時に、新たな思考の枝葉を伸ばすことは可能なはずです。検証結果が出揃うには長い時間がかかるでしょう。その間にまずは今回の発見をもとにした従来とは別の思考を展開しておくのは、検証を重ねるという意味でも、有効だと考えるものですが。我々の祖先が一個の巨大な群れだったとして、それを前提とした仮説に矛盾が生じれば、やはりどこかに瑕疵があったことにもなります。まずは思考を展開しておく、これは必須事項ではありませんか」
「そうではあるが」
「そこでバーバラバーさんにお願いがございます。わたくしの仮説をここで一つ聞いてくださいませんか」
「それは構わんが、しかし」
「これは前提条件として、ある種の神のようなものの存在を肯定しています。ですからそもそもバーバラバーさんの同意を得られるとは思っていません」
「だったら聞かせんでほしいものだがな」
「ですがバーバラバーさんの主張を補強する側面もあるのです。というのも、さきほどのあなたの呈した疑問、群れがあるならばそもそもそれ以前にそれを形成する個体があったはず、というのはもっともな理屈です。ですからわたくしは、そもそも我々以前に、我々よりも高度な、或いは我々に類した文明を築いていた種がいたのではないか、と考えております」
「それがつまり神だと?」
「わたくしたちからすればそう見える、という以上の意味合いはありませんが、つまりわたくしたちの祖先は、その古代の種族が生みだした生活必需品のようなものだったのではないか、と」
「たとえば食料とかか?」
「そうですね。現在わたくしたちは活動のエネルギィ源としてヒュマンジを栽培し、食していますよね」
「より正確には、やつらの体内生成するチオシコウンを食べているわけだが」
「いちいち細かいところに突っこまないでほしいのですが、ええそのとおりです。わたくしたちの生活に欠かせない愛玩構造体に、ジロボソウがおりますでしょう? あれはヒュマンジのチオシコウンを糧とせずに、わたくしたちから零れ落ちた廃棄物を食べて活動を維持します」
「ゆえに我々は清潔な空間で生きていける」
「似たようなものだったのではないでしょうか。つまり、わたくしたちの祖先は、それ以前に地上に繁栄していた神のような種族の生活を根底から支えていた――いわばわたくしたちにとってのジロボソウが、わたくしたちの祖先に値したのではないかと思うのですが」
「仮にそれが正しいとして、ならばこのさきジロボソウが我々のような進化を辿るとでも?」
「進化は偶発的な要素が大きく関わります。必ずそうなるといったものではありませんので、そこはなんとも言えません。もっと言えば、ジロボソウはわたくしたちにとっては身近な環境を整えるための不可欠な存在であると共に、家族的な繋がりを得るたいせつな生き物でもあります。わたくしが思うに、わたくしたちの祖先は、神にとってはむしろもっとそんざいな、取るに足らない、それでも生活を維持するのに欠かせない存在であったのではと」
「そう考える根拠はなんだ」
「今回発見された巨大な群れは、総じて地下にその根を張り巡らせていました。大小さまざまな管が、まるで我々の体内に巡る栄養管のごとく土の下に埋められていたのです。あたかも目にせずに済むように。不浄なものを地下に隠すかのように」
「まるで埋めた者がいるかのような物言いだな。自発的に根を伸ばしたのではなく、神がそれらを地下に埋めたとでも?」
「そのとおりです。今回の化石を拝見させていただきましたところ、第一印象として、これを自発的に地下に展開するのは不可能に思えました。ある意味で、都市そのものを支える根のような印象がございました」
「ならばそれらは都市の一部ということではないのか」
「そうかもしれません。だとすると我々の祖先そのものが、かつてこの地表に築かれていた巨大都市の根っこそのものだったと結論付けざるを得なくなります」
「どういう意味だ。齟齬があるな。わしの言っている都市とジグルジグさんの口にする都市には意味合いに乖離があるように感じるが」
「そのとおりです。わたくしたちにとっての都市とは、個と個が相互に円滑な干渉関係を築くことです。ですがかつてこの地に築かれた都市とは、物理的に我々の構造にちかしい物体を築くことを意味したのです」
「巨大な生物をつくっていたと? 神がか? そのなかに住んでいたとでも言うのか、ばからしい」
「おそらく。しかしそれが最も妥当な解釈になるかとわたくしは考えています。というのも、バーバラバーさんの進化論からすれば、この地表に最も繁栄した種こそが、最も合理的に進化を果たした種だということになります」
「その通りだ。何が言いたい」
「だとすれば現在この星で最も繁栄しているのは、わたくしたちではなく、ヒュマンジだということになりませんか?」
「あのぶよぶよの塊がか?」
「ここからさきはバーバラバーさんをさらに怒らせてしまう仮説になるかもしれません。ですがわたくしは、熾烈に反論してくださるあなただからこそ告げておきたいと思います」
「おもしろい。聞こうではないか」
「わたくしが思うに、おそらくかつてこの地上に君臨し、わたくしたちの祖先を生みだした神とは、ヒュマンジそのものなのではないかと」
「いやはやなにを説かれるかと思ったらジグルジグさん。さすがにわしを担ぐにも限度がありますぞ。あのぶよぶよした塊が、ただゴミを食らってチオシコウンを生成するだけの構造体が、我々を生みだした神だと?」
「神の末裔です。おそらく過去、かつてこの地上を席巻していたころにはもうすこしわたくしたちにちかしいか、それを凌駕する知性があったものかと」
「くだらんな。神がなにゆえ退化した? 進化するならいざ知らず、なにゆえ」
「バーバラバーさんらしからぬ反論ですね。退化もまた進化のうちの一つです。ヒュマンジは自ら考え、活動し、発展せずとも種を存続させつづける環境を築きあげたのです。それがすなわち、我々のような構造体を生みだした契機と言えるでしょう。我々は、ヒュマンジを繁栄させつづけるために生みだされた存在なのです」
「議論の俎上に載せる以前の暴論だな」
「そうでしょうか。よく考えてもみてください。ヒュマンジと我々、どちらがより脆弱なのかを。なぜ我々は、ヒュマンジそのものではなく、ヒュマンジの生みだすチオシコウンを糧としているのか。ヒュマンジにとってはむしろチオシコウンは不要な成分です。ヒュマンジが活動するうえで邪魔なものを、我々は糧として、いただいているのです」
「我々にとってのジボロソウがそうであるようにか?」
「そのとおりです」
足元に寄ってきた愛機のジボロソウを撫でる。丸い輪郭は愛嬌に富む。自らの体内から不要となった部位を取りだし、ジグルジグはそれを地面に転がした。ジボロソウはそれを球体から伸ばした触手で拾い、体内に取り込む。
「御覧のとおりです。ジボロソウはわたくしたちにとって不要な廃棄品を無害なかたちで処理してれます。わたくしたちの廃棄物で地表が溢れれば、それだけでわたくしたちにとっての都市は崩壊します」
「ヒュマンジを栽培できなくなるからな」
「そうです。わたくしたちはヒュマンジを中心に都市を築き、環境を整え、栽培の規模を広げています。すべてはわたくしたちというよりも、ヒュマンジありきの設計です。これは果たして偶然でしょうか」
「ジグルジグさんの仮説の趣旨は理解した。だがその仮説には根本的に穴がある。ヒュマンジが我々にとっての神の末裔だとして、ではその神を創ったのはいったいなんだ? なぜ神は誕生した。その起源へとジグルジグさんの仮説は繋がることになるが、果たしてそこに真理が沈んでいるだろうか。わしにはとうてい拾いあげられるとは思えんがね」
「それは宇宙の起源を探ることと原理的に同じことでは? 不可能に思えるから考えない、というのは思考論者あるまじき態度だとお見受けいたしますが」
「認めよう。いまのわしの発言は弱気にすぎた。だがあなたの仮説を支持するつもりは毛頭ないのは変わらんよ。ヒュマンジが我々にとっての神の末裔などとそんな世迷言を支持する思考論者はただのひとりもおらんだろう」
「いまは、ですね。構いません。いずれあの最古の化石が真実、わたくしたちの起源を明らかにする物的証拠だと検証され、認められたならば、遅かれ早かれ、わたくしと同じ結論に辿り着かざるを得ませんからね。わたくしはそのときを、より深く思考を展開しながら、気長に待つことにします」
「そうするより術がないだけであろう。ジグルジグさんの仮説をまとめれば、だ」バーバラバーが巨大な口を大きく開き、哄笑する。「我々はヒュマンジのだすゴミを食べるために生みだされた、ということになる」
「まさに、です」
「こんなに笑ったのは久方ぶりだ。礼を言うよ。ではきょうのところは失礼する」
「バーバラバーさん」ジグルジグは呼び止め、返事を俟たずにこう告げる。「最古の化石、地下に張り巡らされていた根の内部には総じて、ヒュマンジのチオシコウンと見られる物質が大量に詰まっていたようです。もちろんいずれも化石化してはいるようですが、その総量はざっと見積もっても、現代のわたくしたちの活動を数世代維持するのに充分な量だそうです」
バーバラバーは振り向くことなく、大きな頭部を揺すって遠ざかっていく。その頭部の形状を眺め、ジグルジグは、妄想する。あのカタチはちょうど、ヒュマンジたちの臀部を押しつけるのに具合のよさそうな形をしている。じぶんの頭部も似た形状をしているのを思いだし、苦笑する。
夜の分のエネルギィを補給しなくては。
ジグルジグは赤い月を見あげ、ヒュマンジたちの栽培区域へと歩を向ける。
【言いなりプリン】
母が朝から慌ただしく、早くあんたも準備して、と急かしてくる。
ルルは五歳の女の子で、母のそうしたキンキンした声を好きではない。おとなしく母の言うことを聞いて動いても母のキンキンがおさまることは稀で、だからもはや言うことを聞かないでいたほうが得をすると学んでいる。
先日ルルの前歯は抜けたばかりだ。ほかの歯もぐらぐらしている。隙間が開いているのが恥ずかしく、なるべく唇をすぼめている癖がついたが、口を閉じていても柔らかい物なら隙間を通して食べられるので、食事のときはすこし楽しい。
「ちょっとぉ、なんでプリンなんか出してんの。あとにしてよ、いまそれどころじゃないんだからさあ」
母は自身のメディア端末を操作し、早く逃げなきゃ危ないんだよ、と喚いた。端末を押しつけてくる。手当たり次第に鞄に荷物を詰めこむ母の姿を尻目に、ルルは手渡された端末の画面を覗きこむ。
辺り一面、ドロドロの黒い液体が覆っている。どこかの街並みの一画だ。航空機からの映像だろう、俯瞰の視点で、ビルの立ち並ぶ街の様子を映しだしている。
「避難しなきゃなんだからお願いよルル。急いで着替え済ませてよ」
母が怒鳴り散らしているが、ルルはまだプリンを食べていない。これを食べなければ空腹で死んでしまうかもしれない。母はルルがどうなってもいいと思っているのだろうか。ルルは哀しいのと、理不尽なのと、プリンを食べたいのとで、もう何も考えられなくなった。
「パパだって緊急で呼びだされてあんな危険なところに行ってるんだよ。ルルもそうなっちゃうかもしれないんだからね」
もはや母はルルをどのように脅せば動いてくれるのかに注力しはじめている。ルルはしかし、何を言われようともプリンを食べるまでは動く気はなかった。
蓋をぺろりとめくり、スプーンを突きさす。
端末の画面を覗きこみながらスプーンを口に運ぶと、映像のなかの光景に異変が生じた。映像は生放送だったらしい。突如として地面がえぐれ、ドロドロの液体が穴に落ちていく。
緊急事態です、と記者らしき人の声が入った。スタジオは騒然としている。
ルルは画面から目を離せなかった。しぜんと腕は、二口目のプリンを掬うべく、スプーンを動かしている。
プリンの表面にはカラメルが覆っていたが、いまは一口目に開いた溝に落ちて、表面には張っていない。穴に落ち込んだカラメルを食べようとルルは、いつものように無意識から、同じ場所にスプーンを差しこんだ。
端末の映像にさらなる変化が生じる。こんどはゆっくり、ゆっくり、と穴が一段深く抉れた。その様子が、わずかに輪郭を広げる穴の様子から窺えた。中に落ちたドロドロの液体は、巨大な湖と化している。黒くドロドロと粘着質で、一見すると原油のように見えなくもない。
ルルははたとスプーンを止める。
映像のなかの穴も、その拡張を止めた。
ルルにはとくに何の驚きも、考えもなかった。
ただなんとなく、プリンをいまここですっかりすべて食べてしまうのはよくない気がしたが、もう口のなかはよだれでいっぱいだし、お腹はさらに減ってしまって、ぐー、と腹の虫が鳴く。
いまさら止めようがなく、こんどはひといきにスプーンを突き刺し、頬張った。
映像のなかから街が一つ消えた。突如として広域にわたって土地が沈下し、跡形もなくなくなった。避難が完了していたとはいえ、無残な光景だった。
ルルにはしかし、その映像と映画の区別もつかない。詮もない。五歳児なのである。
「ちょっとルル、いい加減にして」
人を殺傷しかねないほどに声を尖らせて母が、足音をどすどすと響かせて近寄ってくる。ルルの腕を掴み、「もう行くよ。ダメ。そんなの食べてらんないの」
プリンとスプーンを取りあげて、ルルに着替えを押しつけた。「それ着て。ああもう、いまじゃなくていいから。車のなかでいいから」
母はルルから奪ったプリンを冷蔵庫に仕舞い、スプーンをリュックサックに詰めると、ルルに背負わせる。「ほら行くよ」
ルルは母の端末を握ったままだ。自動車に押し込まれ、着替えをひざのうえに載せたまま、画面のなかの映像を眺める。
大きな、大きな、穴が開いている。底は見えず、穴の縁からは、かろうじて巻き込まれずに済んだ家々が、しかし安定を崩して落下していく。ぼろぼろと零れる様子はまるで、バームクーヘンを齧るルルの食事風景だ。
「行くよ」
母が自動車を発進させる。「パパ、無事だといいけど」
ルルが唇を尖らせて黙っていると、
「さっきはごめん。ママ、ちょっとイライラしてた。ルルはわるくない。お腹空いちゃったよね、これ食べる?」
運転しながら後部座席に腕を伸ばし、母はおにぎりをルルの手に握らせた。「食べちゃって」
いまはおにぎりよりもプリンが食べたかったが、ここで我がままを言っても通らないし、せっかくトゲトゲの消えた母の声にふたたびのキンキンを宿したくはなかったので、ルルはおとなしく包みをほどいて、おにぎりを頬張る。
目のまえに巨大な歯が現れ、一瞬で前方の土地が消えた。
母が急ブレーキを踏み、ルルはつんのめる。
母が絶句している。
道はさきまでつづいているが、しかし地平線のさきがなかった。空が真下まで伸び、あたかも崖っぷちに立っているような錯覚を覚える。
巨大な穴が開いている。もはや穴ではなく、そここそが地球の端のように見えた。一瞬にしてルルたちのいる場所が高所となった。頂上となった。山となり、目のまえに谷ができた。
底のほうにはマグマが溢れだし、梅干しのごとく赤く広がりを帯びていく。
ルルは母の顔色を窺いながら、おにぎりの残りを口にしようとするが、急ブレーキの衝撃で床に取りこぼしていた。拾って食べようとするものの、母の手に止められた。
「汚いからやめな」
どうして、と抗議の眼差しを向けると母は、
「もう病院にはかかれないかもしれないんだから」と言った。自動車を反転させ、いまきた道を引き返す。自宅に戻り、母は扉を厳重に閉じた。
「どうしよう、どうしよう」
ルルは背伸びをして冷蔵庫からプリンを取りだし、それを頭を抱えた母に差しだす。
まずはこれをお食べ。
とっても美味しいよ。
お腹が空いているからイライラするのだ、とルルは思った。その気持ちはよく分かった。
母はルルの顔を見て、ぼさぼさの髪の毛のままスプーンとプリンを受け取る。
「ありがとう」プリンを一口だけ頬張り母は、しばらく放心したのちに、よろよろと立ちあがる。「よし。お代えしにプリンをつくってやるとするか」
空元気だろうか、母は台所に立ち、卵やら砂糖やらを並べ、ボールに材料を突っこんだ。混ぜはじめる。
ルルはその様子を背伸びをしながら覗きこむ。「ルルも手伝う」
「そう? じゃあこれをお願いしよっかな」
母の作ったタネを茶碗に流しこむ役を任され、ルルはそれを上手にこなした。冷蔵庫に入れて、固まるのを待つ。
「あーあ。世界も終わりかぁ」
なぜか母は鼻歌を歌いながらルルを抱っこした。ルルは母の肩に頬を押し当てながら、母の端末がブルブル揺れるのを目に留める。
「パパだ」
母はルルの声に反応し、俊敏な動きで端末を拾いあげると、だいじょうぶだった?と開口一番に投げかけた。
ルルの耳に、父の声が微かに聞こえた。それから母は父から指示されたのか、据え置き型の端末を操作し、壁掛けの画面に、ニュース番組を映した。
映像では、なぜか消えたはずの都市が復活しており、矢継ぎ早に窓際に移動した母がカーテンを開け放つと、抉れたはずの地表が元通りになっていた。
「なんなのいったい」
母の声に、父の声が、わからん、と答えた。
「ママ、プリン」
もう取りだしてもよいのではないか、とルルが伺いを立てると、
「いまそれどころじゃ」
言いかけた母だったが、ルルの顔を見て吊りあげた眉を元に戻した。
「そっか、そうだね。食べよっか。パパもいま戻ってくるって」
よかったね。
母の言葉にルルはしかし、プリンが減ってしまうではないか、と唇を尖らせる。
ルルの不満の気持ちが伝わったのか、母は言った。「パパにはさっきの、食べかけのをあげちゃおっか」
ルルは、にかっと笑い、唇の合間から欠けた歯の隙間を見せつける。
【妙味真似】
まっさらな足場の上で言いあう二人の影がある。背の低さからすれば童子だと判る。
一人が足元の冷たく白いものを手でこねて、かためて、二つの丸い物体をかたちづくる。
「なにそれ」少年のほうが言った。
「見て分かるでしょ」少女が丸めた物体を二つくっつける。
「瓢箪?」
「雪だるま! これは誰がどう見ても雪だるまでしょ」
「いやあ、どうだろ。瓢箪に見えるけど」
「文句言うならじぶんで作って。私ばっかりがんばってる」
「んなこと言われてもなぁ。適当にこさえろ、なんてオッサンは言うけど、誰もこんなん見てくれねぇじゃん」
「私は見るよ」
「そりゃここにいるからな。ま、暇つぶしにいっか」
頭に手を組み、唇を尖らせる少年は、さきに作りはじめていた少女の真似をして、足元の白い素材をこね回す。
「何作んの」
「当ててみ」少年は見る間に一つを仕上げた。半円から無数の糸が伸びて見える。
「んー。わかった。噴水でしょ」
「クラゲだよ。じゃあつぎな」少年はとなりにもう一つ塊をこさえる。「どうよ、これは?」
「それも噴水に見える。でもクラゲなんでしょ。さっきよりもおっきいけど」
「クジラだよ、ク、ジ、ラ。潮噴いてるだろほらここにさあ」
「わっかんないよ。どれもいっしょに見えるもん」
「お手本がないとなんともなぁ」
「私はちゃんとお手本見たから上手だよ」
「瓢箪にしか見えねぇけどな」
「嘘だよ、よく見て」
ほら、と足元のずっと下、数キロ先に浮かぶ島国の一画をゆびさし、少女は言った。「ね。あれが雪だるま。地面に積もった雪を丸めて重ねて、おめめとおはなを、ちょちょんっぱって」
「本物見てからだとまあ、似てるっちゃ似てる気もするな」
少年は背中から生えた羽をはためかせて宙に浮き、さきほど少女のこさえた大きな白いふわふわの塊を見下ろす。「でもやっぱ、瓢箪なんだよなぁ」
「そっちのはクラゲばっかじゃん」
「どうとでも見えるよな、こんなのはさ」
少年と少女は、ひとしきり足場の白いわたわたをこね回すと、こんなもんでいっか、と頷きあう。それから二人にそれをするように命じた人物に、終わりましたの報告をすべく、かわいらしい羽根でパタパタと飛び去った。
あとには、たくさんの、クラゲにもクジラにも噴水にも瓢箪にも雪だるまにも、いかようにも見える二人の作品が残されている。
【勘違い事件簿】
とりたてて珍しくのない勘違いの生んだちょっとした事件であるので、犯人が誰かを告げただけでたちどころに、ああなるほどこうしたわけで、事件としてこじれてしまったのだな、と察しのよい方は造作もなく喝破されるだろうが、しかし世の中には察しのよろしくない私のような者もすくなからず含まれるために、同じ轍を踏まぬようにと注意喚起の意味合いもこめてこうして事件簿と称して日記よろしく残しておくことにする。
犯人は叔父だ。
つまり私の父の弟が犯人だったわけだが、それは誰もが承知の事実であったはずが、発覚が遅れた。
ことの発端は、私の腕時計がなくなったところまで遡る。数年前に祖母が亡くなり、その法事にて親戚の面々が一堂に会した。
風呂をいただき、あがったところで私のつけていた腕時計が、もちろん風呂に入るにあたって外していたわけだが、脱衣所から消えていた。
誰かが持ち去ったか、小動物が咥え去ったかのいずれかであることは考えなくとも導かれる必然だ。断るまでもなく、私が記憶を違えた可能性も残されるが、それはないと今回ばかりは私は私の記憶力を信頼できた。
というのもその腕時計は祖母から戴いたたいせつな形見だったのだ。腕から外すときは、失くさぬようにと置く場所を目に焼きつける癖がついていた。
祖父母の住居でもあるその屋敷には馴染みがない。脱衣所において、よくよく吟味して、腕時計を置いた。
洗面台のうえには置かなかった。誤って排水溝に落ちてしまうかもしれない。穴の大きさからすれば腕時計は引っかかるはずだが、水に濡れるのは避けたかった。
落下して壊してしまう失態も犯したくなかったがゆえに私は、床にタオルを敷いて、その上に腕時計を置いた。
誰かが入ってきて踏まれてしまわぬように、脱衣所の端に、こそこそと隠すように置いておいたのだ。
そこまでしてなくなっていたのだから、これは誰かが持ち去ったと考えるよりない。
祖母は猫アレルギーで飼い猫はなく、犬は外に繋がれている。家のなかをうろつくようなことはない。
なればこそ私は、誰かが持ち去ったのだ、と早々に結論付けた。
悪意ではないだろう。
床に置いた私がわるいのだ。誰かが落としていったのかも、とそれを善意から拾いあげた者があってもおかしくはない。
したがって私は、風呂上りにじぶんの荷物を念のために漁り、たしかしにじぶんは持っていないと確かめてから、夕飯時、一同が集まった場で、腕時計のことを話した。
「というわけで、あすこにあったのは祖母からもらい受けた形見の腕時計でね。誰か拾っていたりしないだろうか」
顔を見渡すも、誰も手を挙げない。箸を咥えながら互いに顔を見合って、ゆるゆると首を振る。私ではないが、の意思表示だろう。
「おまえの記憶違いではないのか」祖父が言った。押し殺したような声音から、みなを疑うような物言いをするな、と釘を刺された心地がした。
「就活で忙しい時期だから、疲れているんだ。そうだろ」
父がすかさず助け舟をだしたが、それは暗に私が思い違いをしていると責めているようなもので、けして私の味方をしているわけではなかった。
父のとなりでは父の兄が、好々爺然と笑みを浮かべている。
私はじつのところ叔父が犯人なのではないかとすでにこのときに当て推量をつけていたのだが、ここでそれを口にするには祖父の機嫌は立て直しようのないほどに崩れており、致し方なく口をつぐんだ。
祖父のとなりでは叔父が我関せずの様相で、寿司からわさびを抜いていた。
私は食事の後片付けを、母といっしょにこなした。台所で皿を洗い、母がそれを拭って食器棚に仕舞う。私の性別をここで明らかにすることにさして意味はないので、このまま私は私と称するにとどめるが、ほかの面々、とくに男衆には手伝いの一つでも買ってでてもよいのではないか、と内心では腐っていた。
こんなだから祖母も早くから亡くなってしまったのではないか、とこれはあまり褒められた所感ではないにしろ思ってしまう。精神的疲労というやつだ。
もちろんそんなことはない。
祖母は言ってしまえば、この家に住まう叔父のせいで亡くなったようなものだった。叔父以外は誰もが承知のそれを、もちろん叔父に突きつけるような真似はしない。そこまで私は人として腐ってはいなかった。
母がとなりに並び、腕時計残念だったねぇ、と言った。
「どこかにはあるはずだから、きっといつかは出てくるでしょ」
「だとよいのだけど」しばし黙してから私は、どうしても言わずにおられなくなり、たぶんだけど、と口にする。「叔父さんではないだろうか」
「まさか」
「だってほかに考えられないのだもの」
「いくらでも考えられるでしょうに。きっとネズミか何かが持ってっちゃったのね」
「叔父さんに直接訊いてもいいかな」
「失礼なことを言うんじゃありません」
「しかし」
ここで私は母が本気で怒っているようなので、何かおかしいな、と感じはじめていた。祖父ならいざしらず、母が業腹になる様子を私は想定していなかった。
「どうしてみなは叔父さんを疑わないのだろうね」
「そりゃ立派なひとだもの。あなたの時計をとる理由がないじゃない」
「理由なんかいらないだろうに。ただ目についたから興味本位で持ち去っただけかもしれないではないか」
私がそのように語気を荒らげると、母は、乾いた笑いを発し、そんな子どもじゃないんだから、と言った。
ここに至って私はようやくじぶんの錯誤に思い至った。
いいや、より正鵠を射る表現を心掛けるのならば、私以外のおとなたちが、みなこぞって勘違いしていたようだ、と私は気づいたのだ。「ひょっとしてだけど、お母さんたち、私の言っている叔父さんって、お父さんのお兄さんのことだと思ってる?」
「それ以外に誰が」
とそこまで口にしてから母は、ああ、と手を打った。「アムくんのこと?」
「あたりまえじゃないか。私がツトム伯父さんのことを疑うわけがないではないか」
「まどろっこしい言い方をしてもう」
なぜか私が叱られる。
それから母は踵を返して、台所と隣接する居間へと赴き、「アムくん、アムくん」と父の弟を呼んだ。「腕時計知らない? お姉ちゃんが失くしちゃったんだって。もし見つけたら教えてね」
そこで私の叔父たる、四歳児のアムトは、うん、と頷き、知ってるよ、と言い残して、廊下に走り去る。待ってて、と声が反響し、間もなく彼は私の失くした腕時計を持って戻ってきた。
母はそれを受け取り、叔父のあたまを撫で、ありがとう、と言い残し、私のもとに戻ってくる。
「あとでお礼ちゃんとしなさいね」
母から腕時計を受け取り私は、私よりも十八歳も年下の叔父を振り返る。
叔父はミニカーを畳の上に走らせ、遊んでいる。
私にとっての祖母は、私にとっての叔父、私の父にとっては弟にあたるアムトを産んだことで命を落とした。
より正確には、出産で弱った身体で流行り病にかかってしまったことが直接の死因となった。
高齢出産は珍しくない時代である。不幸な死と言えた。
食器をあらかた洗い終えると、母がお茶を淹れてくれた。
「まったくもう。まどろっこしい言い方をして。あなたが叔父さんなんて呼ぶから、勘違いしちゃったじゃないの」
「間違った言い方ではないのに」
「あなたに言われるまで忘れてたわよ。アムくんがあなたの叔父だってこと」
「じゃあなんだと」
「いとこ?」
「あのねぇ」
「みんなだってそうよ。お父さんにしたところで、アムくんを弟とは見做してないんじゃないかしら。おじぃちゃんにしたところで、じぶんの息子というよりも孫みたいな感じでしょうし」
それはそうだ。
祖父からしたら孫である私のほうが、息子であるアムトよりも歳が上なのだから、そう思ってしまうのも詮方ない。
「昔はよくあったのよねぇ。子だくさんの時代は」
母は遠い目をするが、しかし母の時代とて、すでに少子高齢化が叫ばれていたのではないか。
腕時計を手首にはめ私は、母の淹れてくれた茶を口に含む。
とりたてて珍しくのない勘違いの生んだ、ちょっとした事件ではあったが、就活の息抜きにしては出来すぎた休暇であったかも分からない。
私は祖父母の家を両親と共にあとにする際、叔父であるアムトに、お小遣いをあげた。
【秘伝の湯】
作家仲間と温泉に行った。同性での二人旅である。
新作に行き詰まっており、ボツを量産している。売れたいとの思いから流行作品の影響を多分に受けた物語しかつむげなくなりつつあり、そりゃいかんよ息抜きに行こう、と誘われたので、では、と重い腰をあげたわけだが、じつを言えば温泉に浸かりにでかけている場合ではない。締め切りはもうすぐそこ、目と鼻の先に迫っていた。
まるで死神のごとく鎌を構えて見える。
つぎはないのだ。つぎで売れなければこんどこそ出版社から縁を切られる。売れないのだから致し方ないとはいえ、せめてあと一作、渾身の物語を世に送りだしたい。それすら叶わずに筆をしばし擱くはめになるのは避けたかった。
「このままだと例の作家みたいに失踪してしまい兼ねない」数年前に姿を消した大御所作家がいた。未だ見つかっていないが、失踪したくなる気持ちはよく解った。「じぶんでもこのごろよく思うんだ。消えてなくなれたらどれだけ楽だろうかと」
「縁起でもないこと言うなよ。だったらちょうどいいじゃないか。ここの温泉はネタづくりにもってこいでね。きっと浸かればいい案が浮かぶよ」作家仲間たる根田利(ねたり)洋山(ようさん)は旅館の暖簾をくぐる。「僕もよくここにはくるんだ。ネタに詰まったらね」
「きみはいいよ。まだ安泰だ。売れているし、何より筆が速い。無理をして私なぞに合わせてくれなくともよいのだよ」
「合わせてなどないよ。僕だってなかなか案が煮詰まらなくてここにきたのだからね。じつを言うと、これまでの作品はすべてここで思いついたと言ってもよいくらいなんだ」
「そういうことにしておこう」いくらなんでもそこまで都合のよいことは現実には起こらない。虚構を生業とする者だからこそ人一倍、そうした非科学的なことには敏感なのだ。
「嘘じゃないんだよ。きみも温泉に浸かってみれば分かるさ」
太鼓判を捺して、洋山は受付けで鍵を受け取る。お手伝いさんのあとについて部屋まで辿り着き、お茶もそこそこに、さっそく温泉に浸かりに向かった。
結果から言えば、たいへんによい湯であった。濁り湯とでも言えばよいのだろうか、指一本見えなくなるほどに色の濃い湯で、粘着質でもあり、一見すると泥のようでもあった。
沸騰しているわけではないのだろうが、ぽこぽこと気泡が浮かび、表面にて破裂する。見た目はマグマかチョコレートである。
「栄養価が高いからね。口に含んでもいいよ」
「ほかに客はいないようだね」
「そりゃあね。ここは本当に特別なひとしか入れないんだ。僕は運がよかった。前のひとから席を譲ってもらえたからね」
「会員制なのか」初耳だった。「高いのではないか」と宿泊費を心配するが、きみは気にしなくていい、と洋山は言う。
「ここにきてこうして湯に浸かってくれるだけで僕ぁうれしいんだ」
「なんかわるいな」
「いいってことよ」
ひとしきり談笑すると、ややあってから彼はさきにあがっているよ、と言い残し、そそくさと湯からあがった。
この湯は露天風呂で、屋内には透明な湯を張ったべつの温泉がある。彼はそちらに浸かりに行ったようだ。
「こっちのほうが効用があると言っていたくせに」
飽き性だからな、と彼の性格を思い、なにゆえそんな男からああもたくさんの閃きが生まれるのかと瞠目を禁じえない。感心よりもいまは妬心が湧くが、そのギトギトした感情すら湯に溶けて消えていくようだ。
極楽、極楽。
知れず口ずさんでおり、久方ぶりに息の吐けた心地がした。
そろそろのぼせそうだ。
湯からあがろうとしたところで、勃然と閃きの濁流が襲った。まるで知らない風景がのべつまくなしに脳裏に巡り、それらが映画を眺めるように多重に物語を展開する。
同時にいくつもの物語を味わうようにして、気づくと脳内には極上の物語の原石が現れていた。
膨大な情報量だ。
すこしの刺激でも忘却の彼方に沈んでしまいそうで、割れてしまいそうで、崩れてしまいそうだった。
「さきにあがってる」
言い残し、洋山を浴場に置き去りにして部屋に戻った。
そこからは作品が仕上がるまで、ほとんどほかの景色は目につかなかった。
三日三晩、執筆にとりかかり、四日目の朝にして打鍵の手を止める。
「できた」
「そりゃよかったな」
ほいよ。
そばには洋山がおり、缶ビールを差しだしてくる。受け取り一息にあおった。喉がからからだった。記憶の断片に、彼が定期的に飲み物や食べ物をテーブルのうえに置いてくれていたのを憶えている。
「すごい集中力だったね」彼は微笑ましそうに言った。
「それはもう、初期衝動を思いだしたようだよ。執筆が楽しくて仕方なかった」
「それはいい」
彼は彼で筆が進んでいたようだ。ここに来る前にいくぶん原稿を埋めていたようで、彼のほうが先に物語を閉じていた。
「打ち上げだ。きょうは、ぱぁっと羽目を外そう」
彼の言葉に甘えることにする。解放感と達成感にぴりぴりと痺れる脳内に、良質なアルコールとご馳走の刺激をたんまりと与えた。
「ここの湯は本当に効果があるんだな。疑っていたよ」
「ほかのやつらには内緒にしてくれよ。きみだから明かしたんだ」
「私はよい友を持った」
「それは僕のほうこそだ。きみが友人でよかったよ」
あとで互いの作品を読みあって、感想戦をすることにした。
「その前に疲れたんじゃないかい、もういちど湯に浸かってきたらどうだろ。この時間帯は、かなり湯が濃いんだ。もっとよいアイディアが浮かぶかもしれないよ」
「それはいい。せっかくだ、一年分のネタを閃いてこよう」
「いいぞ、その調子だ」
洋山は囃し立ててから、そうそう、と何でもないふうに、「立ち入り禁止の看板がでているかもしれないけれど、入っちゃってもだいじょうぶだから」と言い足した。
「掃除の時間なんだろうか」
「単に、湯の効能が上がっちゃうからだよ。効果覿面すぎると、いまきみが言ったように、一年分の閃きを与えてしまうだろ。そしたら旅館のほうは商売あがったりだ」
「それはそうだ」
「僕は特別に入ってもよい許可をもらっているから、きみもだいじょうぶだ。でもいちおう、こっそりひと目を忍んで入るといい」
ふだんならばここで、そこまでするならやめておこうと、言っていただろう。しかし現に湯の効能を知ってしまった以上、あとには引けない。
それこそあとがないのだ。作家生命を延ばすためならば、いくらでも湯に浸かってやる。
「洋山くんはいいのか」
「僕はもう充分にネタのストックがあるからね。湯の成分が薄れても困るだろ、きょうはきみが存分に浴びてくるといい」
「ありがとう」
口にしてからもういちど、ありがとう、と言った。本心から、よい友を持った、と思った。
「やめてくれよ、なんだか気が滅入るだろ」
洋山は言ったが、なんて謙虚なやつなんだ、と彼を見直す以外の所感をこのときは抱けなかった。
特別な湯だからか、閃きの源泉は、一般客の使用する大浴場とは反対側に位置する。
こそこそするまでもなく、誰の目にもつかずに辿り着いた。
扉には、この時間帯危険につき利用禁止、の貼り紙がされていた。何がどう危険なのかは分からないが、こうした貼り紙は往々にして紋切り型だと決まっている。危険と書いておけばこっそり入る輩もいないだろうとの魂胆だ。我田引水にそうと判じて、脱衣所に忍び込み、裸になって、露天風呂たる閃きの源泉へと身体を沈める。
ひりひりと心地よい。
昼間よりも温度が高い。
低温火傷を懸念して、この時間帯の利用を禁じているのかもしれないと思い至る。さもありなんだ。
昼間に脱稿してから起きっぱなしで、さすがに目が疲れている。だいいち、この三日間、ろくに睡眠をとらなかった。いまこうして起きていられるのがふしぎなくらいだが、それほどに恍惚とした体験だった。
創作は楽しい。
純粋に楽しい。
この経験を毎度のように得られるのならば、出版社から縁切りされても構わないと、半ば本気でそう思った。
湯に疲れが溶けこむように、しだいに全身から力が抜けていく。
気持ちよい。
極楽、極楽。
つぶやいたところで、またもや脳裏に、見知らぬ光景が怒涛となって押し寄せる。まるで映画の一幕だ。
あまりに鮮明な光景ばかりなので、誰かの記憶を覗き観ているみたいだな、と小説家らしい妄想を浮かべたが、徐々に眉間にちからがこもり、おやおや、と脳裏によぎって途絶えない様々な閃き、その光景に意識を差し向ける。
光景のなかには、この温泉の景色も含まれていた。
そばには洋山がいる。
もしやこれはじぶんの記憶だろうかと訝しむが、そうではないとすぐに見抜く。泥のような湯には、じぶんのものではない顔が映っていた。まるで湖面を覗きこむように、そこには、失踪したはずの大御所作家の顔が映りこんでいた。
洋山は大御所作家と仲睦まじそうに語りあっているが、間もなく湯船からあがり、姿を消した。
湯に残されたのは大御所作家一人きりだ。
しかし彼は間もなく、湯に溶けるように跡形もなく消えてしまった。
沈んでしまったのだろうか。
いいや、そうではない。
彼の腕や指が、熱したフライパンに落としたバターのごとく融け去ったのだ。温泉の表面には油さながらにその残滓が広がり、それと共に徐々に低くなる視点が、湯のなかに沈みこむまで順繰りと映像となってつづいた。
瞼の裏にくすぶる闇のごとく、それは否応なく脳裏にかってに流れこんでくる。閃きの洪水と同じだ。しかしそれらは閃きではない。元からそれらがじぶんのものではなかっただけにすぎない。ほかの者たちの記憶であっただけのことにすぎなかった。
何が閃きの源泉だ。
人間を融かして、残滓を糧に、他人のものを掠め盗っていただけではないか。
抗議してやる。
いざ湯から立ちあがろうとするが、足に力が入らない。身体を支えようと両手を湯の底につけようとするのだが、その腕すら自由に動かせないようである。
どうなっている。
混乱に溺れながら泥のような湯を覗きこむと、そこにはいままさに鼻梁がどろりと滑り落ちて、露わとなった二つの深い縦穴が映りこんでいた。
つぎつぎに顔から剥がれ落ちていく皮膚と肉は、湯に音もなく溶けこむ。あとには死神がごとく形相の、作家の成れの果てが、ゆっくりと湯に馴染んでいくばかりである。
【優柔不断の乱】
戦になんて来とうなかった。出世に興味もなければ、名誉とてどうだっていい。その日そのときをただ、なあなあとお気楽に暮らせていればよかったものを、優柔不断な性格がわざわいしてか、村の長からの、おまえもいっぱしの男なれば武勲の一つでもあげてみせい、との気迫に押されて、兵の招集に乗ってしまった。
長からしてみれば単に、村のごくつぶしを追いだすテイのよい言い訳にすぎなかったのだろう。殿様や領主に恩を売ることもできる。村から兵をだせばいくばくか年貢が軽くなるとも聞き及ぶ。
こたびの戦は、端から負け戦だと聞いている。避けては通れぬゆえに受けて立つが、そもそも勝てる戦ではないのだ。
兵力が違う。
兵糧の質からして、向こうはおむすびだが、こちらは白湯とみまがう粥である。それも塩すらなく、具材は木の根ときたものだ。
勝つ気があるとは思えない。
相手の十分の一ほどの兵でどうやって戦えと言うのか。焼け石に水どころの話ではない。
いっときであれ士気らしきものが見受けられたのがふしぎなくらいだ。頭はみな言葉のうえでは威勢のよいことばかりをのたまうが、そのくせ自ら先頭をいく気概を見せない。
策の一つでも弄せばよいものを、元からして、勇猛な軍を率いて戦った、という建前が欲しいだけであり、戦略というものを敷こうともしない。
当たって砕けろの精神だ。
なにゆえほかの面々がこうまでも勇んで刀や槍をかつげるのかとふしぎでならぬが、みなここで死ぬとは思っていないのだ。負け戦だと気づいていない。それはそうかもしれない。いくらなんでも相手の兵力がこちらの何倍もあるなどと想像できないのだろう。
だがじぶんは違う。
じかにこの目で見ているからだ。
優柔不断なのが短所だと自他ともに認める小心翼々具合が功を奏したというべきか、招集場所へは誰よりも遅く辿り着いた。最後の最後まで村で粘り、長がころっと忘れてくれないかと狙っていたが、家まで押しかけてきて、さあいけ、となけなしの路銀を渡されたのでは、断ることもできない。そこで断れれば、そも、こうした境遇に陥ってなどいない。いつでも優柔不断なのである。何かを決めることができない。決断できない。
精神薄弱なのである。
招集場所への道中、山の頂から、谷を進行する敵陣陣営を見かけた。大蛇がごとく行列である。
龍を相手に戦をするのか。
諦念の嘆息がでたものだ。そこで逃げられればよかったものの、そこにきてやはりこの優柔不断の性質である。
そしていまは戦場だ。
蓋を開けて見れば、大群どころか、たった一人の猛者に我ら陣営は壊滅の節目に立たされている。最初の鉄砲の雨を食らったのがよくなかった。士気は蜘蛛の子を散らすように霧消した。
あとには呻き声をあげて地面に転がる味方と、腰の引けた生き残り、そして鬼がごとく剣幕で、ばったばったと我ら陣営の兵を斬り倒していく剣豪が、その剛腕をぞんぶんに揮っている。
なす術がない。
鉄砲がああも大量に揃っていたなど誰も知らなかった。聞かされていなかった。よしんば聞かされていようと、鉄砲の威力を見たことがない。弓程度ならば配られた甲冑を着ていればだいじょうぶだろう、盾があるから平気だろうと、お気楽平々と構えていたらこの始末だ。
木製の盾などなんの役にも立たぬ。どころか、砕け散った木片が甲冑を貫き、血肉を裂く。何をなしても裏目にしかでない。
ただの敗北ではない。このままでは全滅である。
こんなことならば、と横を、後ろを駆け抜けていく、味方の兵を尻目に、村に残してきたキヌのことを思った。残してきた、とは言うものの、とくに縁があったわけではない。細君でなければ、幼馴染ですらない。幼少のころより遠目に懸想しつづけていたら、いつの間にかキヌは長の息子の奥方になっていた。子宝に恵まれ、しあわせに暮らしている。
あ、と思う。
本来ならば、長の息子がこの場にいてふしぎではない。
もしや長め、と遅れて察する。
身代わりに立てたに相違ない。跡取りたる息子を負け戦などにやるわけにはいかぬと、影武者よろしく替え玉に我が身を差しだしたのではないか。
さもありなんだ。
思えば、文を渡されていた。中を読むな、と言いつけられていたゆえ、そのまま招集所にて武官に渡したが、あれは身柄の証明書ではなかったか。この者、我が息子ゆえ、とでも書かれていたのではないか。とすると、ほかの者よりも心なし頑丈そうな武具を渡されたのも納得だ。
かといって敵にかかっていく意気はない。どうせきょうこの場で尽きる命だ。無駄に疲れる真似などせずに、こうしてきたる死をただぼぉっと突っ立って待っているほうが性に合っている。
「やつの首を獲れぇえ! 一斉にかかれぇえ!」
号令の向かう先、鬼神がごとき猛者が、怒涛の快進撃を見せている。我が味方陣営の兵が、まるで蚊とんぼのごとくである。
ありゃ無駄だ。
何人でかかろうとも勝てるわけがない。
弓矢衆がかろうじて残っていたようだ、たった一人に向けて集中して矢を射る。最前線にいたがゆえに、弓矢衆はまっさにき鉄砲の餌食になったわけだが、残った射手が、こぞって鬼神に狙いを定めた。
矢の大半は神がかりな刀捌きにて阻まれる。弓矢衆は鬼神を取り囲む。さらに矢を放ったが、鬼神はまるで天狗がごとく身のこなしで天高く跳躍し、的を失った矢は、対角線にいた味方の喉や腹に突き刺さり、バタバタと弓矢衆を倒した。同士討ちである。
そばに控えていた兵たちの半分が果敢に挑んだが、瞬く間に両断され、もう半分は、三々五々とてんでバラバラに、一刻も早く鬼神から距離をとらんと逃げだした。
目のまえに、鬼神が立つ。
我が手はとっくに刀を手放しており、さりとてこのまま黙ってやられるのも癪に思え、えいや、と拳を叩きつけるが、もはや無駄に拳を痛めただけで涙目になり損である。
「なぜ逃げぬ」鬼神の声は澄んだ小川のようだった。
「逃げてもどうせ殺される。こんな戦、最初からわしゃぁ嫌だったんじゃ」
「戦わぬのか」
「もう充分戦ったわ。いま見たろう。我が陣営の誰も届かぬおぬしの腹に見事鉄槌を食らわしてやったわ」
膝がガクガク云う。
「さようか」鬼神はそこで何を思ったのか、こちらに背を向け、しゃがみこむ。「すまぬが、これを引き抜いてはくれんか。どうにもさきの矢が当たってしまったようでな。情けない。じぶんでは届かぬゆえ、頼む」
鬼神の背中に、深々と矢が突き刺さっている。
頼むと言われて、つい、はいよ、と応じそうになったが、しかしこれは千載一遇の好機ではないのか。鬼神が無防備に首筋を曝けだしている。
手放したとはいえ、刀は地面に突き刺さったままだ。柄を握り、目のまえでしゃがみこむ鬼神に突き立てるだけならできないこともない。
しかし、相手は軍勢をたった一人で蹴散らすほどの猛者である。いくらなんでも隙を突く真似などできやしない。
解かってはいるが、どの道、このあとは殺されるだけだろう。ならば最後に、勇敢な姿を晒してもよいのではないか。
いずこより記録係がこの様子を目にしているやもしれぬ。運が良ければこの死にざまが何らかの絵巻物に残り、武勇として語り継がれるかもしれぬ。
さりとて、でも、しかし、いいや、それにしても。
この期に及んでまだ優柔不断な気質が身体の自由を束縛する。刀をとって突き立てる。たったそれしきのことすら満足にこなせない。
「どうした、はよせい」
居丈高な語調に、ついカっとなった。
この野郎、と刀に手をやろうとしたそのとき、ひゅ、と首筋に冷たいものがかすった。
身動きがとれない。
目のすぐ横に刀の刃が見えた。
かすっているだけだ。傷はついていない。
背後で、苦悶に満ちた声が聞こえ、何者かが倒れる振動が足元に伝わった。
「早くしろ。つぎは言わぬぞ」
いつの間にか抜かれていた刀が、視界から引っ込む。見もせずにこの男は、敵を斬り伏せる真似ができるのだ。
もはや鬼神は比喩ではない。それそのものである。
唾を呑みこみ、唯々諾々と、その者の背中から生えた矢を掴み、ひといきに抜いた。
ぬぐり、と感触が伝わる。思っていたよりもずっと深く突き刺さっていたようだ。
「うむ。助かった」
鬼神は腕をぐるぐると回し、肩の調子を確かめると、こちらの頭に手を置き、命拾いしたな、と言い残して、我が陣営へと猛進する。
鬼神が威嚇の声をあげる。
雷鳴にも似たその声から遠ざかるように、我が陣営からは兵の足音が轟いた。
誰も、立ち向かおうとはしない。それはそうだ。無駄に死にたくはないだろう。武勇でも何でもない。
鬼神の名を高めるだけだ。
英雄とはかくも、天災がごとく、それでいて懐の深い者なのだな。
ありゃいつか天下をとるぞ。
それとも暗殺されるだろうか。
どちらもあり得そうに思え、ここでも優柔不断な我が身の狭量さを思う。
器がない。
だがそのお陰で、こうして生きながらえていられる。
さてと。
考えるべき道は二つだ。
捕虜となるべくこの場に留まるか、それとも野武士となるべく逃げだすか。
鬼神には一つ貸しがある。ひょっとしたらあれは、敢えて手を貸す場面をほかの兵に見せつけ、捕虜となっても殺されずに済む道理をつけてくれたのではないか。
ならばおとなしく投降し、捕虜となっておくのが賢明な判断に思えるが、かといって捕虜となってもこれまで以上につらい暮らしとなるだろう。ならばこの狂乱の隙をつき、いちど来歴をまっさらにして、ゼロからはじめるのもよしと思える。
どちらにすべきか。
思案している間にも、敵陣営が、一歩、一歩、と距離を縮める。
【グッ・ド・ラック】
1
くだらない人生だった。何もいいことはなく、痛みと別れと裏切りだけが思い出のすべてだ。
人の命に大した価値なんてないと悟ってからは、いかに楽しく余生を楽しむかに知恵を絞って生きてきた。一生分の苦労を背負ったがゆえに、もはや指一本動かしたくはない。働きたくはない。人としての道など歩みたくはなかった。
かといって死にたいわけではない。
一生分の辛酸を味わったのだから、こんどは一生分の快楽を味わいたい。この欲求は極めてまっとうだ。
畢竟、人間のしあわせなんてものはいかに脳内麻薬を分泌させるかだ。薬を使って手軽にそれを満たせるのなら悩むことはない、手を伸ばせばいい。掴めばいい。味わい尽くせばいいのだ。
だが極上のドラッグを手にするのには、それなりの対価がいる。臓器の一つや二つを手放すくらいならば安いものだが、それでも足りないほどの至極の快楽を味わえると知ったならば、是が非でもそれを知っておかねば、生きている意味がない。
そのために命を差しださねばならないのならば、いくらでも擲とう。差しだそう。汚泥が濃縮還元されたようなこの命でいいなら、好きなだけ持っていってほしいものだ。
「では、本当によろしいのですね。あなたの今後いっさいの未来、可能性、自由、命を我々はもらい受け、好きに扱う。その報酬として、あなたには極上のドラッグを提供しつづける、その命尽きるまで」
「ああ、頼む」
「では契約を」
拇印を捺し、書面にサインをする。これで残りの人生は、極上のドラッグを血液にそそがれつづけて生きることとなる。快楽に塗れ、そして死ぬ。
これ以上の至福はない。
死んだあとの遺体がどう使われようと知ったことではない。ドラッグ漬けの身体を弄ばれようと、実験に使われようと知ったことではない。どのような外部刺激も、極上のドラッグの快楽によって流され、上書きされ、至福として認知される。
世の中には善人がいるものだ。どんな対価を払っても、至福にまみれた余生を送りたいと所望する者はあとを絶たないだろう。たとえそれが安楽死に繋がろうが、安楽に死ねるならばよいではないか。善行以外の何物でもない。
いざ快楽地獄へと旅立つ。
極楽浄土へと。
失神してはまた失神する。意識のあるあいだは絶えず、累乗する快楽の波にもまれ、体液を垂れ流しつづける。
もっと、もっとだ。
快楽は留めどない。全身の痙攣の振動それそのものが次なる極楽への門を開け放ち、快楽の極みへと昇らせる。
だがそれも段々と、門が見当たらなくなっていく。
バタバタと開けては昇り、開けては昇り、を繰り返しているうちに、門と門との間隔が広がっていき、間もなく、天と地ほどもの距離となって、遠くに点となって見える門があるばかりとなる。
快楽の波には浸かっているが、もはやその程度の波では刺激にもなりはしない。くすぐったくすらなく、麻痺した皮膚を指でなぞるくらいの知覚しかない。
おかしい。
何かがおかしい。
意識はなかなか眠りに落ちず、それでいて血管にはなおも極上のドラッグがそそがれつづける。
全身からは体液がほとばしり、なぜかその体液は余さず、機器によって吸い取られている。
そう言えば、と冴えわたった思考で疑問する。
この極上のドラッグの製法とはいかなるものか。
ドラッグは日夜改善を繰り返し、一滴でも舐めればひとを快楽の虜にするほどの劇薬もいまでは珍しくない。砂場に海水を撒き、それを繰り返すことで塩の結晶を濾しとるような、或いは原油を蒸留し、凝縮を繰り返すことで、純度の高い燃料を抽出するような、そうした分留を思わせる。
濃縮しているのだ。
極上のドラッグを大量に摂取させ、その体内で濃縮した体液を回収することで、さらなる良質なドラッグを開発している。
我が身はそのための供物、装置、肥しとなっている。
文句はない。そのはずだった。
快楽が途切れぬ限り、それは本望であったはずが、いまではもう慣れてしまった。
快楽の坩堝に。
温泉に浸かるよりも卑近な刺激、いいやもはや感覚などなくなり、ただ息をして思考するだけの、体液垂れ流し装置になってしまった。
いったいこれはいつまでつづくのか。
指一本動かせぬ身体になっていながら、意識だけは鮮明で、声すらだせずに、ただ、無為な時間に身を浸す。
地獄のように。
マグマのように。
広漠な冷たく暗い虚無の海を、ねっとりと揺蕩い、流される。
2
刺激がない。つまらない。何か楽しいことがないだろうか。できるだけ苦労せず、努力せずに、称賛を浴び、注目を集め、誰からも慕われ、尊敬され、うらやましがられるような存在になりたい。
名声が欲しい。
人類史に名を残し、ほかの偉人たちからも偉人と崇め奉られるような境地に立ちたい。
なるべく苦労せずに。
楽しみながら。
「そんなことあるわけないですよ」
「そうかなぁ。こう、ボタン押したら、ぱっぱらー、って最強になりそうな気がするんだけどなぁ」
「そんなボタンがあったらとっくに誰かほかのひとが押していますよ」
「そうかなぁ」
学校に内緒でバイトをしていたら、常連さんと仲良くなった。たまにこうして夜中に、公園でブランコに乗りながらしゃべっている。人生相談という名の愚痴だ。
バイヤさんは十歳は年上の男の人だが、細身で、長髪を束ねている姿はどことなく女性に見えなくもない。化粧をすればなかなかに美人なのではないか、と睨んでいるが、無駄に外見を磨かれてもこちらが惨めになるだけなので、そうした助言になりそうなことは言わずにおいている。
モテないのである。
異性からも同性からもからっきしなのである。
じぶんの性別がいったいどちらなのかが解からなくなるほどに他者からの好奇の念をそそがれずにきたので、いまさらじぶんの性別を二分して、さあどっち、と考えたくはない。どっちだっていい。とにかくモテたいのだ。
刺激がない。
そう零すと、バイヤさんは、
「じゃあ刺激、あげようか」と言った。
「え、欲しい。でも、どんな刺激かによるかも」バイヤさんから初めてタメ口をきかれて、ちょっとドキっとした。嫌な気分というよりも、距離が縮まったような感じがして、端的に、友達みたいでうれしかった。「刺激って何」
「これ、気分がよくなる薬なんだけど」
ポケットから袋詰めのラムネを取りだした。
「お菓子じゃん」
「中身は違うよ」
ほら、とバイヤさんは手のひらに中身を開けた。熊や蝶を模したカラフルな錠剤が転がる。「飲んでみる?」
「危ない薬じゃないの」
「安全な薬をぼくは知らないからなぁ。ただ、違法ではないよ」
「危険ドラッグとかじゃないの」
「それにもまだ指定されてない」
「それっていずれは違法になりますって言ってるようなものじゃん」
「そうかもしれない。だから試すならいまのうちだと思うんだけどな」
「バイヤさんも飲んでるの?」
「じゃなきゃ持ち歩かないよ」
「飲んだらどうなるの」
「気持ちよくなるよ。それはもう、天国にいるみたいになる」
「でも飲んだところでバイヤさんはバイヤさんだもんなぁ」
暗に、イケてる姿になるわけじゃないよね、とからかう。
「こう見えてぼくはインターネットのなかではそれなりに有名人なんだけどな」
「またまたぁ」
「本当だよ。ほら」
メディア端末の画面を向けられ、そこにあるアカウント情報を見る。人気があるなんてもんじゃなかった。いまや知らぬ者はいないほどの超有名情報発信者だった。たった一言の文章に、何万、何十万もの反響がある。企業がこぞってスポンサーとなりたがり、商品の宣伝に利用しようと躍起になっているのに、一顧だにしない姿勢など、クールの代名詞としていまや若者に留まらずその知名度、影響力はすさまじいものがあった。
「いくらなんでも信じられないんだけど」
「何かつぶやいてほしいことある?」
「じゃあ、好きな食べ物とか」
「お好み焼きって書いとくね」
管理画面を操作している。アカウント名はやはり例の人気者といっしょだ。
「書いたよ。ほら」
見せられた画面には、お好み焼き、と書きこまれていた。例のひとのアカウントだ。
本物だ。
ためしにじぶんの端末でも確認するが、やはり人気者のアカウントには、お好み焼きの文字があった。
「偶然でしょ。好きな飲み物とか」
「コーラでいい?」
バイヤさんは端末を操作する。例のアカウントに新しく、コーラの文字が浮かぶ。
「本当に本人なの」
「さっきからそうだって言っているよね。冴えないぼくがなんでって思うかもしれないけど、だからそれもこれもこの薬のお陰なんだよ」
飲んでみたら分かるよ、と言われてしまえばもう、断る道理はないのだ。
有名になりたい。
名声がほしい。
誰もかれもからチヤホヤされたくて仕方のない我が身が、禁断の果実を目のまえに差しだされて無視できるわけがない。
「ありがとう。でも、タダじゃないですよね」
「タダでいいよ。きみとぼくとの仲じゃないか」
「なんていいひと」
ん、と拳を突きだされたので、その下に両手を差しだす。お駄賃ください、みたいな格好で、色とりどりの錠剤を受け取った。
「全部一気には飲まないほうがいいよ」
言われたときにはすで、両の手のひらを口に押しつけていた。
ごっくん。
「飲んじゃいました」
「ええぇ。どうなっても知らないよ」
「そんなぁ」
「まあ、天国は天国だろうから、楽しむしかないよ。また欲しくなったら言って。いっぱい持ってるから」
バイヤさんとは公園で別れた。
とくに注意事項はなく、効果は段々でてくるから、と言い添えてバイヤさんは去った。
家にまっすぐ帰ったが、ベッドのうえに寝転んでも、とくに変わったところはなく、ひょっとしてからかわれたのでは、とようやくというべきかその可能性に思い至った。
「なんでい」
バイト終わりだったこともあり、疲れてそのままふて寝した。
翌朝、目覚めは最悪だった。
頭が重く、思考はモヤがかっている。
視界は暗く、どことなく風景がモノクロに見える。
ジュースを口に含むが、味がしない。
甘いとしょっぱい以外の味覚がなくなったかのようだ。
もっと刺激のある食べ物を口にしたくなって、熟考の挙句、大根おろしを食べることにした。
ちょうど大根が余っていたので、おろし金に押しつけて、すりつぶしていく。
単調な作業だ。
寝起きだったこともあり、欠伸をしたのがよくなかった。
手を滑らせ、ごりっと嫌な感触がゆびさきに走った。
やっちまった。
血の気が引いたが、引いた分を凌駕する勢いで、背筋に心地の良い痺れがぞわぞわと這った。それは指先からも伸び、首のあたりの脊髄に合流して、脳内にパリパリと伝わる。
視界が細かく弾け、景色に色がつく。
指先は血で真っ赤に染まっていたが、しばらく恍惚と、その余韻に浸った。
ひとしきりうっとりしてから、ふと我に返る。
傷口は浅いが、顔を顰めずにいられないほどにジュクジュクと爛れていた。快楽の余韻に浸っているあいだにも、ゆびをおろし金に押しつけていたようだ。
まるで自慰を途中でとめられなくなるような無我の境地に落ちていた。
指先は怪我の割に痛みはない。消毒し、包帯を巻くだけでこれといった応急処置をせずにおく。というのも、消毒をしたら染みるだろうと覚悟していたのに、あべこべに生殖器を撫でまわすのに似た快感が指先から背筋へと伝い、脳髄を痺れさせた。
快っ感っ。
容器がカラになるまで指先に消毒液をかけていた。
身体が異常だ。
それはすぐに承知したが、かといって特別混乱はしなかった。とんでもない快楽が全身を襲う。ただそれしきの変化があるばかりで、もっと言えば痛みや苦痛を感じることはなく、いつでも絶頂するがごとき至福の時間に身を委ねることができる。
ためしにじぶんでじぶんを慰めてみたが、しかしなぜか物足りない。ほとんど何も感じずに、生殖器が充血することもなかった。
身体を痛めつけなければ味わえない至福なのかもしれない。
そんな真似をじぶんからするのはさすがに嫌だ。
いくらとんでもない快楽を味わえるからといってそんな真似するわけがない。
半日ほどじっと耐えていたが、陽が沈みだすころにはもう、朝のあの煮えたぎった極楽の渦に浸かりたくて、浸かりたくてたまらなくなった。
生きていないのだ。
あの刺激のない人生などもはや生ではあり得ない。
気づくと薄暗い部屋のなかでおろし金を手に取り、そこに指の傷口を押しあてている。
暗いので目には見えない。
だがゆっくり、ゆっくりと指を擦りつけていくとじんわりと熱を帯びた傷口から滾々と、本当に滾々と、至福の甘美な泉が湧いた。ぱつんぱつんに充血しきった生殖器を指先でクニクニと押しつぶすように、何度も、何度も、ときに激しくおろし金に指を上下に、ときに左右に擦りつける。
パチパチと視界に火花が散る。
チクチクとプツプツと脳みそのヒダの一つ一つが浮き彫りになる。ヒダの一つ一つに突き刺さった刺激が、パチン、パチンと連続して弾け、さらに快楽の波が脳全体、全身の細胞にまで染みわたる。
手はぬるぬると温かい。
しだいに腕に伝わる抵抗が増していく。
気づくと、指のさきの点ではなく、手の甲全体、その面を、おろし金に押しつけている。暗がりに湿った音が反響する。ぴちゃん、ぴちゃん、と床にしずくが滴っていたのが、いまではボタボタと滂沱の雨と化している。
もどかしい。
こんなのでは足りない。
まだまだずっと奥底、天高くへと昇っていける。
腕を真上からゴリゴリと擦りおろすが、態勢がよくない。もっと全身を弛緩させ、快楽の渦に身を委ねたい。沈みたい。揺さぶられたいのだ。
リキみたくはない。
できるだけ何もせずに、快楽の刺激をこの身に宿さねば。
脱ぎ捨ててあったTシャツを手首に巻きつけ、そとに飛びだす。
止血のために縄跳びの縄を手にとり、あてもなく彷徨った。
徐々に快感の波が引き、全身がひび割れるような渇きを覚える。
はやく、はやく。
干からびてしまう。
ふと、自動車の行き交う音が聞こえた。
すぐそばを高速道路が通っている。
むかしはよくパーキングエリアに忍び込み、親に叱られたものだ。
その道を辿り、闇のなかに停まる幾つもの大型トラックを目にする。
一台がいままさに発車せんとゆるゆるとタイヤを回しはじめた。
これだ。
これしかない。
何かとんでもない発明をしたかのように、身体は駆けだしている。
トラックに追いつくと、荷台に縄跳びの縄をひっかけ、急いでじぶんの両の足首に結びつける。
解けぬように。
千切れぬように。
足を掬われ、後頭部をしたたかアスファルトにぶつけるが、痛みを感じる間もなく、ゴリゴリ、ゴゴゴゴゴ、とまるでドラム式洗濯機のごとく勢いの増し方で、引きずられていく。
トラックは車道にでると、速度をあげた。
腹筋の要領で後頭部を持ちあげ、できるだけ長く、快感の渦を味わう。背中はすでに背骨が露出しているのだろう、ときおりガガガガンと跳ね、どちゃりと粘着質な吸着の衝撃を全身に走らせる。
肩はすでに削り取られ、手で顔を庇ってはいるものの、頬が地面に付着するのは時間の問題だ。
まだだ、まだもっと上にいける。
高みに、昇っていける。
あとちょっとで、またとない、これ以上ない快楽に届く気がする。
全身の細胞の隅々まで、行きわたらせられる気がする。
だがそう思った矢先に頭部を支えていた腕が道路に置き去りにされ、遠のいた。
腕が千切れてしまうとあとはもう、道路に引きずられて走る大根のごとく、全身はあっという間に擦りおろされ、最後に見た光景は、後続車両のタイヤに踏み潰されるまさにその瞬間の、月光に照らされ輝くアスファルトの細かな煌めきだった。
快楽は途切れ、いっさいの無音が訪れる。
3
ある島国でひそかに流行していたドラッグは、ウィルスの変異のごとく急速に快楽依存度を高め、瞬く間に人口に膾炙した。
全世界で、突発的な死者が増えたこととそのドラッグ使用者の増加のあいだには相関関係があった。
ドラッグ使用者はのきなみ、じぶんでじぶんの身体を痛めつけ、死亡していた。
ドラッグの副作用と言わずして効用の一つであった。
あらゆる刺激が快楽になる。
より激しい刺激ほど、つよい快楽に変換される。
誰もが絶頂のまえの昇りつめる飢餓感に支配され、よりつよい刺激を求めて、全身をみずからの手で拷問する。
ひとたびドラッグを使用すれば、その衝動には抗いがたい。寸止めを繰り返された挙句ようやく絶頂しそうになったそのときに、自らの意思で愛撫を止めることの可能な者にしか、突発的な自傷行為を回避することは至難と言えた。
人類が性行為や娯楽を手放せないのと同じ原理である。ドラッグは一年とかからずに全世界の津々浦々にまで浸透し、人類の人口は激減した。
しかし中には、快楽への並々ならぬ耐性を備えた個がいた。そうした者たちは、そもそもドラッグへ手を伸ばそうとせず、また仮に接種してしまったとしても、快楽への衝動に支配されることはなかった。
そうした個たちは反面、生殖行為にものきなみ興味を示さず、やはり人口は減少の一途を辿った。
折衷案として各国は、人工授精による出産システムを実用化させるに至った。
ある国はそれを商業とし、またある国は社会基盤として組み込んだ。
人間は男女の性行為によって誕生するものではなく、機械の手により、精子と卵子を掛け合わせ、容器のなかで培養され、胎児となって排出されてなお、機械の手により育児された。
ドラッグへの耐性を備えた人類がそうしてふたたび地上に繁栄の礎を築く。
娯楽は淘汰された。
生存本能すら極めて抑制され、仙人じみた生活が人々のあいだで基本となる行動様式として定着した。
最低限の衣食住、質素な営みでありながら、人体の能力をいかに効率よく発揮できるかが人々の関心の向かう一点、唯一の指針と言えた。
間もなく、人間は機械との共存を果たすようになる。
生身の人間であることへの拘りはとうに失くしている。生存本能が希薄ゆえに、快楽への欲求もまた抑圧され、ドラッグへの誘惑を断ち切れた。裏から言えば、それは人間であることへの執着すら減退していく方向へと淘汰圧が加わっていたと言ってもよい。
人間の肉体は加速度的に機械と融合し、代替され、機械と人間との境が失われるのにかかった年月は、ドラッグが人類の進化の方向を劇的に歪めるまでにかけた年月とほとんど同じくらいに短かった。
人類はもはや人類ではなくなった。
しかしそれでも人間にある性質を失うことはなかった。それどころか機械が人間の代わりに担っていた生殖行為を難なくこなす個体まで生まれ、徐々に生殖行為を行う個体が増加していく。
間もなく、生殖行為をする個体のみが全体を占めるようになると、あとはなし崩し的に、すべての個体が必ずしも生殖行為に準じる必要はなくなった。
余った時間をいかに潰すかに思案する個体が増加すると、あとはもう、かつて失われた娯楽が再発見され、枝葉を伸ばし、発展するのにさほどの時間はかからなかった。
人類は機械と融合したことで、いちどは失った感性、快楽への欲求を期せずして取り戻したが、むろんドラッグへの耐性は失われておらず、いつでも好ましい刺激を、自ずから適切な快楽へと濾過して甘受する術を磨いた。
底なしの快楽を貪らんとする欲求、原始の人類に備わっていた快楽を追求せんとする性質は、図らずも機械によって再び搭載された。
手軽に快楽を貪れるドラッグや電子信号は新しく数多開発されていくが、それを摂取したことで自傷行為を働く個体は未だ観測されていない。
人類はかつての弱点を克服し、いつでも適量の快楽で日々煌びやかな、じぶんだけの世界に身を浸し、相互に結び付くことで開かれる現実、言い換えれば社会というものもまた難なく営んでいる。
きっとこれからも安寧と発展の道はつづいていくだろう。
グッドラック、人類。
快楽はほどほどに。
ほどほどの快楽を糧に。
千物語「謎」
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