千物語「化」 

千物語「化」 


目次

【遺薫】

【花咲く色は青白い】

【繭の娘】

【刀と三つ編みとわたし】

【キキ一発】


【遺薫】


 十年間放置した水槽のような、濁った色をしている。腐った水草がゼリーの層をなし、表面に気泡を浮かべる。匂いはふしぎなほどなく、それは乾いた表層の膜が臭いを閉じ込めているからだが、それゆえにひとたび混ぜ返せば、肺を侵すような刺激臭が充満する。市販のマスクを三重にしたところで臭いの粒子を濾すことはできない。

 特殊清掃員という名称は有名になりすぎたため、却って顧客離れを引き起こす。職場では単にホームクリーニング、または清掃代行として看板を出している。

「そんなに仕事入るんですか」

 入ったばかりのバイトの質問に答えるのは、中堅たるこちらの役割だった。「そうだな。受注の範囲がまず広いから、本当にただの家事代行の仕事もこなすし、そうでなくとも周辺五県は管轄だから、それこそ請け負いきれないときにはほかの業者を紹介したりするくらいだ」

「繁盛してますね」

「そうでもない。この業界、人件費がばかんなんないんだ。今年に入って雇ったのはキミを入れて三十人を超すよ」

「でもバイトって僕だけですよね」

 言ってから気づいたようだ。「えー、辞めちゃったってことですか。離職率ハンパなさそう」

「なさそうではなく、半端ないんだよ」

「なんて言っちゃいるがソイツもいちど辞めてっからな」

 がはは、と豪快に笑うのは古参社員の御手洗さんだ。パイプ煙草を咥えていたら様になっていそうな、いかにも船長といった風体の人物だ。これまで御手洗さんが動揺したり取り乱したりしたところを見たことがない。御手洗さんは運転席でハンドルを握っている。

「辞めたと言っても、あれは元からの契約期間がそうだったからで」

「更新もできただろう」

「社員になれ、と脅されたんで辞めただけですよ」

「なら何で戻ってきたんですか」バイトのササミくんが言う。

 黙っていると、御手洗さんが代わりに答えた。「金だよ。聞かなくても分からぁ。うちにいる社員はみんなそう」

「時給いいっすもんねぇ」

 ササミくんはしみじみと頷く。ササミの癖に、と私は内心でぼやく。

 ササミとはもちろんあだ名だ。社長は誰にでもあだ名をつける。いちいち名前を憶えていられないのだろう。分からないではないが、ササミと名付けられたバイトはこれで三人目だ。

 どんな法則であだ名をつけているのかは分からない。共通項があるとすれば歴代のササミくんたちもまた色白で細身だが筋肉質なことだ。

「きょうの現場って僕が行っても大丈夫なやつですか」

「大丈夫の意味が分からんが、まあ吐いても大丈夫なようにバケツだけは手放すなよ」

「大丈夫じゃないやつっぽいっすね」

 遅めの朝食なのか、ササミはコンビニで購入してきたらしい菓子パンを食べはじめた。彼が大物なのか、それとも単に想像力のない自信家なのかは実際に仕事をさせてみるまでは分からない。食欲がどこまで持つのか見物だった。

 結果から言うとササミは近年稀に見る逸材だった。

 蠢く絨毯のごとく湧いたウジの群れを見ても声一つ上げず、家の間取りを確認すると、湯船に溶けたままの遺体を発見した。

「バケツこれじゃ足りなくありません?」

 ササミの言葉に、御手洗さんと顔を見合わせる。肩を竦めてみせたのは、肩透かしをした気分だったからだ。もっと感情を乱して、顔面蒼白くらいになってもらわないと先輩の威厳を発揮する機会がない。

 歴代のバイトのみならず、たいがいの社員ですらみなこの惨状を見ればいちどは吐いた。吐かなかったのは、私と御手洗さんと、そして社長くらいなものだ。

 湯船の遺体から片付ける。

 掃除の鉄則は、汚れのひどいところから順に、だ。

 網でまずは大きな異物を掬い取る。バケツに敷いたゴミ袋に入れ、満杯になったら、つぎのゴミ袋にそそいでいく。だいたい五袋くらいを消費する。

「毎回こんなひどい部屋を掃除してるんですか」ササミは淡々と作業をする。

「いや、基本は遺体が発見されて運ばれたあとに依頼が入るから、こういう現場は稀だよ」

「ですよね」

「だが疫病の蔓延があったころは、巣ごもりとかなんとか言ってみんな家に引きこもったろ。身内間の家の行き来も断絶され、その影響で一時期はけっこう増えたよ、こういう案件」

 背後で掃除機の音が響きだす。御手洗さんがウジの絨毯を片づけはじめたようだ。

「先輩、こっちはどうするんすか」ササミが湯船のなかの残り湯をゆび差す。

「水用掃除機があるからそれで吸い取って、あとはふつうに水洗いだ」

 トラックから大型のゴミ箱を運び入れ、それにゴミ袋を詰める。

「最初からこれに入れればよくないですか」運びながらササミが言う。

「揺れるたびに汁を浴びたいのか」

「ああ」

「廃棄物扱いだし、専用の業者が引き取りに来るから、それまで安置しておくにも袋に入れて口を縛っておくのがベストなんだ」

「それはそうかもですね」

 ササミの手際はよかった。元から手先が器用なのだろう。頭の回転も速い。適応力がある。

 しゃべりながら作業をしたのは記憶にあるかぎり、じぶんがまだ下っ端のころ以来だ。マスク越しであっても、口を開くことに抵抗を覚える現場だ。

 ふしぎとササミの飄々とした口調で水を向けられると、つい受け答えをしてしまう。人たらしというのはこういうやつを言うのかもな、とすこしの警戒と、愉快さを覚えた。

 この日は昼過ぎまで作業をし、昼休憩がてらいちどササミを事務所に連れ帰った。

 職場体験としては充分だ。

 六時間分の給料は発生しただろうし、このあとの細かい作業はバイトにやらせるには専門的にすぎる。

 社長にはこっそり電波越しにササミの評価を送った。ほかのバイトの三人分は働いてくれるだろう。社員に推薦してもいい、とこれは御手洗さんの言葉だが、付け加えておく。

 ササミとは事務所で別れた。現場にとんぼ帰りする。

 事務所のホワイトボードにはあす以降の仕事の予定が新しく書き加えられており、車内で御手洗さんと、さいきん多いな、とぼやき合う。

 新規の仕事もまたC案件だった。葬式業者の手に負えない案件で、つまりがまっとうな手段では回収しきれない死体こみの掃除だ。

 ここ半年、急激に増加傾向にある。

 この日は夜の八時まで作業をし、畳を張りかえればすぐにでも住めるくらいに部屋をきれいにした。

 死体が湯船にあったため、今回は床や壁を張り替えずに済んだのが大きい。

 部屋をでるときに、御手洗さんは必ず、なんまんだ、と手で拝んだ。

 だが車内に戻るなり、

「みな湯船で死んでくれねぇかな」

 などと快活に愚痴を零すので、倫理観があるのかないのかよく分からない。

 この仕事をしているからなのかは定かではないが、何がまっとうなのかの判断は日に日につかなくなっていく。

 この週はゴミ屋敷の片付けに三日をかけ、残りの一日は事務所で道具の手入れをして終わった。

 ササミには二日間だけ出勤してもらい、力仕事と道具の手入れを手伝わせた。

「なんか思ったより楽で、こんな作業だけであんなにお給料を貰っちゃっていいのかなって思っちゃいますね」

「そんなこと言えるのいまだけだ。しょっぱなから重労働じゃおまえもすぐに辞めちまうかもしれないからすこしだけ楽をさせてやってんだ」

「詐欺の手口じゃないっすか。最初に敢えて美味しい思いさせて、沼に落としちゃうやつ」

「この職場の社員はみなその手口にはまった連中だよ」

「社員になるつもりはないんすけどねぇ」

「誰も社員にしてやるなんて言ってないけれど」ササミの背後からぬっと現れた影は、ササミの肩越しにこちらに資料を手渡した。

「社長、こういうのはデータで寄越してくださいって言ってるじゃないですか」

「だって面倒なんだもん」

「コピーするほうがよっぽど手間でしょう。いちいちファイルしたり、シュレッダーにかけたり、紙代だってバカになんないし、どの道データ化しなきゃならないしで」

「はいはい。ごめんなさい」

 社長は引っ詰めを揺らして部屋をでていく。用事のあるときだけ事務所に顔をだし、あとはどこで何をしているのかよく分からない人だ。

「え、いまのひとが社長なんですか」ササミはぽかんとしている。

「会ってないのか?」

「あ、はい。面接のひとは男のひとでした。社長ってあんなに若いひとなんですね。僕の姉ちゃんといい勝負」

「姉がいるのか」

「はい。過干渉なんすよ。よく脅されてます」

「妙な仲だな」

「誰にも紹介したくない姉です」

「じゃあ社長が女であることには驚かないのはそれが理由か」

「えーなんで社長が女性だと驚くんですか。女性の社員さんがいないのはなんでだろうとは思いましたけど」

 世代の差だろうか。こういう仕事は男がやるものだとの価値観があるが、いまはそういう時代でもないのかもしれない。ギャップを感じる。

 分解された掃除機を組み立て直しササミは、若いのに社長なんてすごいっすね、としみじみと言った。

 翌週からは、御手洗さんの代わりにササミを現場に同行させるようになった。時間のかかる現場をほかの社員に任せ、ササミにも扱える現場を二人で引き受け、回すようにとの指示だ。

 社員であるこちらの負担が増すのでそれとなく不平を鳴らしたのだが、社長の命令だわな、と言われてしまえば引き下がるよりない。

 社長の指令は絶対だ。

 抗うには辞めるしか道がない。

 ササミは大学生だった。学費をじぶんで稼ぐために金がいるそうだ。見た感じの軽薄そうな印象からは打って変わった動機に内心見直した。

「俺なんか親に払ってもらった口だからな。それでこんな仕事にしかありつけんのだから親不孝もいいとこだ」

「こんな仕事? ヨシキさんはこの仕事嫌いなんすか」

「仕事好きなやつとかいんのか」

「いると思いますけどね。それに労働が嫌いでも誇りは持てるじゃないっすか。そういうのないんすか。僕、けっこうこの仕事誇らしいですけどね」

 歯の浮きそうなセリフだのになぜか胸がほっこりする。ササミの言葉に嘘が混じっていないと判るからだろう。本心からの言葉なのだ。「親不孝ってのも、子どもの側で決めることじゃないですし」

 これはなぜか車窓の奥につぶやかれた。

 この週に入った案件三つのうち二つが風呂場の遺体を片づける仕事だった。

 つぎの周は、四件の仕事すべてが風呂場の遺体処理だった。

 いちど体験しているためかササミは手慣れた調子で湯船からどろどろに溶けた遺体を、大量のウジ虫と共に袋に分け入れる。

「思うんすけど、毎回こんなになるまで見つからないもんなんすかね」

「いや、ふつうはここまで放置されるほうが珍しい。同居人がいるだろうし、臭いも尋常じゃないから近隣からふつうは通報がくる。たいがいは遺体が原形を留めてるよ」

「でも多すぎじゃありません? これ事故とか自殺なんですか」

「俺らが来る前に警察が検分を済ませているはずだから、事件性はないって判断なんだろうが、たしかに多すぎるな」

「そういう情報って共有されてるもんなんですか」

「ふつうならな」

 ただし、先週から扱っている案件は総じて県をまたいでいる。縄張り意識のつよい県警のなかで情報が共有されているのかは怪しいところだ。

「これで七件目なんでさすがに慣れてきましたけど、人間ってこんな簡単に溶けてなくなっちゃうもんなんすかね」

「どれくらい放置されていたかによるな。あと季節」

 とはいえいまは秋だ。夏ではない。

 そういう意味ではまだマシな時期に請け負った仕事と言える。

 ササミは手際よく袋の口を縛ると、そこで置きっぱなしになっているシャンプーを手に取った。「ほかの七件も全部女性でしたよね」

「そうだったか?」

「たぶんそうっす。なんか偶然じゃないんじゃないかなって思っちゃうんすけど」

 言われて気づく。

 通常、この手の現場では依頼主がアパートやマンションの管理人だ。ゆえに部屋の主の姿を目にすることがない。とくに遺体の運びだされたあとの部屋だったり、今回のように湯船でどろどろに溶けている場合は、部屋主の生前の姿を目にする機会がない。

 部屋には私物がそのままになっているが、毎回のように片づけるわけではない。湯船の死体を処理して完了の現場もある。

 親族がそのあとに整理し、ときには同じ現場の私物処理の仕事を改めて依頼されることも珍しくはない。

 今回は七件中二件までしか生活空間の片付けを依頼されていない。それだけ親族から見放されていない者の死だったと言える。

「七件全部同性だったからって、そもそも性別なんざ二種類しかないんだ。五分五分の確率が七回つづいただけだろ」

「そうなんすかねぇ」

「あんま部屋主のこと穿鑿すんなよ。プライバシー保護だなんだっていま色々とうるさいからな」

 さっさと箱(ゴミ箱)持ってこい、と檄を飛ばすが、ササミはその場を動かなかった。

 首を傾げ、ぱんぱんに詰まった黒いゴミ袋を見下ろす。「ヨシキさん、あのっすね」

「なんだ」

「減ってるんすよね」

「何がだ」

 じぶんでも声が尖るのが分かる。この業界に長く身を置いているからと言って、死体をゴミ袋に詰めた現場で和気藹々と雑談ができるほど人間を捨てたわけではない。新人だから目をつむってきたが、いささかササミの他人の死を顧みない態度には腹が煮えた。

 湯船を覗きこむとササミは言った。「袋一杯分くらい。減ってるんすよ」

 この日のゴミ袋は四つだった。玉となり床に転がるそれを目にし、初めの現場でもゴミ袋の玉が五つしかなかったことを思いだす。

 通常の現場ならば、六つはできる。

 一つないし二つ分、足りない。

「湯船の湯が少なかっただけだろ」

「そうなんすかねぇ」ササミは納得し兼ねるといった様子だ。「人間を液体にしたところで袋は五つくらい要りそうなもんですけど」

 その指摘は的を射ていた。

 蓋を閉めずに放置された湯船からは水が蒸発していく。遺体が発見されるまで長期間放置された現場ならばなおのことだ。つまり、どろどろの液体のおおむねは遺体そのものと言える。

 それがゴミ袋一つから二つ分足りないとくれば、たしかに不自然だ。

「栓が抜けたのかもな」

 湯が排水されるように、液状化した遺体が偶然に排水口に流れ落ちたのかもしれない。

「あり得ますかね、そんなこと。それこそ、そういう事実があったってことは、僕らがくる前に誰かがここにいたってことじゃないんすか。湯船をじゃぶじゃぶいじくったから排水口の栓が緩んだってことっすよね」

「誰かってたとえば第一発見者とかか? あり得ん話ではないだろ。これだけの惨状だ。一見しただけでここで何かが腐ったのは分かる。なら沈んでいるんじゃないかって探してもおかしくはない」

 探したところで湯船のなかには髪の毛や骨など、水に溶けない部位以外を攫う真似はできない。

「そういう形跡ありました? だって膜張ってましたし、ウジ虫だって踏み潰されていませんでしたよ」

 どの現場も、人間の立ち入った形跡はなかった。足跡がなく、数日は湯船を掻き混ぜた形跡がなかったのだ。

「なら考えられるとすれば小柄な人間だったんだろ。ここの家主も、ほかんところも」

「かもしれませんね」

 ササミはいちどは首肯するものの、でも、と続ける。「袋二つ分が減った理由には足りない気がします。この手の依頼って現場で遺体が発見された翌日には受注入るんすよね」

「まあな」

「だったらやっぱり、家主が湯船のなかで死んでから、誰かが僕らみたいに持ち去ったってことじゃないんすか」

「おまえなぁ。妄想もたいがいにしとけよ。さっきじぶんで言ったろ。俺らが立ち入る前に、ここに足を踏み入れたやつはいない。持ち去れるわけねぇだろ」

「まあ、そうっすね」

「だいたいな、そんなことをしても誰も得をしない。違うか」

「ああ。かもです」

 一件くらいならば頭のおかしい輩が凶行を犯すこともあるかもしれないが、何件もつづけてする意味がない。

「遺体処理を隠したとか、処理をしようとしたとか、そういうことがないとは言い切れないが、そういう可能性はちゃんと警察のほうで判断してくれる。事件性はない。俺たちに回ってくるのはそう判断された案件だけだ」

 じつを言えば事件性のある現場も鑑識の検分を終えたあとで請け負うが、その手の話をしてもササミを黙らせることはできない。

「人が死ぬってのは同じじゃないんだ。どの現場も等しく一緒なほうがおかしいだろ。違うってことはしぜんだってことだ。無秩序のほうが作為がない。現場ごとに差異がある、条件がバラバラだってほうが、しぜんだ。違うか」

「そう言われるとそういう気もしてきますね」

「どの家主も女だったんだろ。体格が違かったってだけだ。大人と子どもくらいには体格の差があるだろ。女の場合。袋の一つや二つ、増減するって」

 ササミはそこで深呼吸をした。この手の現場で屈託なく息を吸いこむ人間をはじめて見た。ササミは浴室をぐるっと眺める。壁や天井には染みが斑についている。

 たしかに、とササミはつぶやく。「ここに足を踏み入れた者はいなさそうっすね」

「箱持ってこい」

「へい」

 浴室を綺麗にしたら、殺虫剤を撒いて本日の現場仕事は終了だ。

 殺虫剤を撒いたあとで床に転がる無数の虫をササミに掃除させる。

 そのあいだにトラックの荷台で一服吐く。煙草は吸わないので、近場にあった自販機で缶コーヒーを購入した。ササミの分も忘れない。

 ゴミ箱に寄りかかり、空を眺め、ササミが戻ってくるのを待っていると、

「あの、すみません」

 振り返ると女性が立っていた。ワンピースにカーディガンという格好で、ゆるくウェーブのかかった栗色の長髪が印象的だ。品のよい佇まいで、しぜんと背筋が伸びる。

「えっと、なんでしょう」

 女性はアパートを見遣った。「あの部屋で何かあったんですか」

 そこではササミが作業をしている。換気のために玄関扉は開いたままだ。

「掃除です。まあ、家事代行のようなもので」

 嘘は吐いていない。世間体もあるだろうし、この手の事業には守秘義務がつきものだ。おいそれと部屋主の情報を吹聴するわけにはいかないため、近隣の住人に訊かれたときはいつもこのように対応する。

「それはゴミですか」女性はこちらの背後を見た。

「ええ」

「処分されるんですか」

「それは、ええ」

 言っても構わないか、と悩みながら、

「ゴミなので」と口にしている。

 女性はそこで一瞬だけわずかに表情をこわばらせたように見えた。気のせいかもしれない。

「それはどちらに持ち込まれるものなんでしょうか。あ、そうだ。もし仕事をお願いしたいときはどちらにご連絡すれば」

 相手の意図が掴めなかった。何かしらクレームをつけたいのだろうか。トラックが邪魔だ、ということではなさそうだ。

 逡巡したが、まあいいかと思い、いちど荷台から下りて運転席のボックスから名刺を取りだし、女性に差しだした。「ご用の際はこちらにどうぞ」

「まあご親切にどうも」

 見た目は若いが、どうにもしゃべり方が古風に感じた。浮世離れしている。

「ちなみにほかの場所もあなた方が掃除を?」

「ほかの場所?」

 理不尽ななぞなぞを出されている気分だった。何かしらを探られているとは判るが、それが何かが分からない。「すみません、意図がちょっと。ほかにも大掃除をしている場所があるんでしょうかね。我々が担当しているのはきょうはここだけなんですが」

「いいんです。そうですか。わかりました。ちなみにこれはどちらに持ち込まれるのですか」

 女性は荷台のゴミ箱を見遣った。

 青いポリタンクは、蓋がされているので中身は見えないはずだが、女性の口ぶりはどうにも、中身の推量のついているようなこちらの出方を測るような響きがあった。

「先輩、鍵ってどうすればいいんすかね」ササミが階段を下りてくる。道具一式を抱え、反対側から荷台にそれを載せた。

「すまん」懐を漁り、鍵を宙に掲げる。「鍵は俺が持ってた」

「掛けてきます」ササミが鍵を掴み、階段をのぼっていく。

 女性に挨拶をしていかなかったので、これだからさいきんの若いのは、と内心でぼやきつつ、すみません、と向き直るが、そこに女性の姿はなかった。

 目を丸くしていると、ササミが鍵をかけ終え、戻ってくる。「これで終わりっすね」

 助手席に乗り込むとササミは、缶コーヒーを見つけたらしく、もらっていいすかこれ、と言って返事を俟たずに飲みはじめた。

 周囲を見渡す。

 人影はない。

 おかしいな、と首を傾げながら運転席に乗り込むと、ササミはきょとんとした顔つきで、どしたんすか、と言った。

「いや、いま女のひとに声をかけられてな」

「ナンパすか、ヨシキさん。節操ないなぁ、僕という男がいながら」

 無言でササミの肩をどつく。

 ササミは狙い通りの玉がきたバッターのような顔で、缶コーヒーを飲み干した。

 その晩、事務所が火災に遭い、全焼した。

 夜勤組が仮眠をとっており、逃げ遅れた数名が亡くなった。そのなかには御手洗さんが含まれていた。

「火の回りが早くてどうしようもなかったそうだ」

 消防隊が現場検証をしているよこで、従業員一同、社長からの説明を聞いた。

 いわく、煙に気づいた時点で、炎は事務所を覆い尽くしていたそうだ。火元は事務所と隣接している倉庫と見られ、消毒用のアルコールに引火したものと推測される。社長は火災発生当時現場におらず、逃げだせた従業員によれば、火種になるようなものは倉庫になかったはずだという。

 放火の線が濃厚と社長は見ているようだが、現場検証の結果はまだでていない。

「ボヤじゃないか、と消防の人らが話してるのを聞いたんですが」

 憔悴しきった様子で駆け付けた従業員が言った。

 火災当時に現場にいて、避難できた従業員には自宅待機の指示がでている。まずは休ませようとの社長の考えだ。

 社長は唇を噛みしめる。

「喫煙所が外にあるだろ。そこが火元でもあるようで、何らかの要因で消毒液がそこまで漏れ、消え切っていなかった煙草に引火したのではないか、との可能性もあるそうだ」

「あり得ねぇ。消毒液なんざ漏れても大した量じゃねぇでしょうに」

「仕事はどうするんで」私は訊いた。

「貸し倉庫のほうに旧式の道具が仕舞ってある。まずはいま動けるメンバーで回していくしかないが、頼めるか」

「構いませんけど、事務所はどうするんで」

「プレハブの手配はしておいたから来週中には詰所として使えるだろう。受注管理もとうぶんは各自自前の端末を使ってほしい」仕事で使うメディア端末は社の備品だった。「火災保険が認められれば、半年後には以前と同じだけの設備は整うが、果たして認められるものかどうか」

 社長は言葉を選ぶような間を空けてから、「退職金の積み立てはしてある」と言った。「今回の件で、いろいろと立て込むことになる。火元の原因がどうであれ、亡くなった従業員のご家族にもお詫びをしなきゃならんし、できるだけの生活の保証はしていきたい。その結果、いまいるきみらに迷惑がかかることは前以って伝えておく。そのうえで退職したい者があるなら、いつでもいい、遠慮せずに言いだしてくれ。言いたくはないが、このさきどれだけ持ちこたえられるのかわからない。ハッキリ言えば泥船だ。今回に限ったことではなく、ずっとそうだった。人手が足りなくなっても、回せなくなればツテを借りれば、いま受けている仕事はほかの同業他社に回せる。人手が減っても顧客に迷惑はかけずに済む。急な出来事で正直わたしも混乱しているから、うまくみなのフォローもできないかもしれない。申し訳ないが、じぶんのことはじぶんで決めて欲しい」

 ひねりだすような言葉だった。

 慌ただしい日々がはじまり、あっという間に半年が経った。

 退職した従業員もいれば、新入社員も増えた。ことのほか使える新人で、抜けた人員の穴を埋める以上の働きをした。ササミである。

 放火の疑いが高いとして刑事事件としての捜査が開始された。火災保険も下りた。事務所は多少豪勢に立て直され、御手洗さんはじめ亡くなった従業員の遺族にも見舞金が払われた。多くは、亡くなった従業員が生きていれば受け取れただろう退職金よりも多い金額だ。

 一時的に社に舞いこむ仕事は減ったが、従業員が減ったことを思えばちょうどよい塩梅だった。

 大金の動くゴミ屋敷などの案件を他社に斡旋することで、信用と小金を得る仕組みも板についた。社長の敏腕のなせる業だ。以前よりも景気はよくなった。

 だが、暗い空気はいつまでも社内に漂った。以前のようにはいかない。

 日々の生活と、社の復興に追われた。

 厳しくもあっという間の半年だった。

 ササミはすっかり社に馴染み、一人前に仕事をこなしている。人手不足を補うために、ふつうなら任せない仕事を新人のササミにやらせたことが功を奏したといえる。元から素養があったのか、スポンジが水を吸うように技術を吸収し、いまではササミさえいれば、四人で回さなければこなせない現場も二人でこなせるようになった。

 要領がいいのだ。

 ササミの指摘により改善された作業工程があるくらいで、社長はササミの入社をこの半年で唯一の僥倖だ、と高く評価した。

「よくないことは重なるというが、御手洗さんの目だけは確かだったようだね」故人を懐かしむような社長の表情は、半年ぶりに朗らかさを湛えていた。「あすは二人でF案件頼む」

 社員用データベースにアクセスし、依頼内容を確認する。「バスルームの清掃に、異臭ありの遺体回収ですか」

「ここんところさっぱり見なかったよね。うちに回ってこなかっただけかもしれないけど」

 ふと以前にササミが言っていたことを思いだした。

 湯船の内容量が依頼ごとに大きく違うのはなぜか。誰かしらが細工をしている節がある。そういった指摘だった。

 何気なく、雑談のつもりで社長に話した。

 すると社長は最初こそ、作業をしながらコーヒーをすするついでのように相槌を打っていたのが、ぴたりと動きを止めた。ちょうど話の内容が、湯船で死んでいた家主の性別のほとんどすべてが女性だった事実に及んだときだった。

「えっと、それっていつごろの話だっけ」

「ちょうど火災があった直前の二週間ですね。ササミがバイトに入ったばかりのころです」

「それって何件?」

「案件の数ですか。たしか七件だったような」

「あの時期に集中して依頼が入ったってこと?」

「じゃないんですか。たしかにあの時期、それ以前から増加傾向にあって、仲間内でもちらほら話題になってましたよ」

 ほかの業者にも同様の案件が多数入るようになった時期だった。やはりこの半年でぴたりとやんでいる。それが本来なのだ。めったに発生するような事案ではない。この地区だけに集中して発生するのは、改めて考えてみると妙だった。

「うちに依頼がきたってことはちゃんと警察の現場検証が済んでたってことだよね」

「それは、ええ。事故で間違いないらしいと」

「発作とか自殺とか、そういうことか」

「ただササミが、現場で何か引っかかっていた様子でしたが、違和感程度の感想だったのでろくに話を聞かずにいました。社長、何か心当たりが?」

 火災のあった時期と重なっていたころもいまにして思えば不吉な符号に思える。もしササミの言うことに一理あるならば、大きな間違いを犯していたことになる。

「わたしもあまり詳しくは知らないんだけど」社長はわざわざ窓のそばに立ち、そとを見回してからシャッターを下ろした。敷地内に生えた桜の樹は花ざかりだった。「うちは代々この家業で、わたしで三代目ってのは知ってるよね」

「そりゃもう」

「むかしは裏稼業だったらしいんだよね。戦後の高度経済成長期に、暗殺まがいの事案がまかり通って、その遺体の後始末をうちのじぃちゃんは請け負っていたらしくて」

「その話、俺が聞いてもだいじょうぶな話なんですか」

「とっくに時効だからね。飽くまで死体遺棄とその証拠隠滅を手伝ったってことで、殺人自体には関与してなかったみたいだし。まあ、ヤクザな商売ではあったみたい」

「それで、それが俺の話とどう繋がるんで」

「うん。じぃちゃんがなんでカタギに戻ったのか、まっとうな職に鞍替えしたのかって話なんだけど、当時、妙な顧客がついたらしくって」

「妙な顧客、ですか」

 半笑いになったのは、社長の物言いがどうにも胡散臭かったからだ。作り話をされてからかわれているのではないか、と冗談めかしてみたが、社長の顔つきは浮かないままだった。

「毎回、死体の一部が欠けてたらしくって。きれいに解体されていることもあれば、ごく一部だけを切り取られたような遺体まで幅広く持ち込まれたって。でも損壊の度外がひどいほど、遺体の腐敗も進んでいて、要は、時間を置いて段階的に切り刻んだってことなんだよね」

「じぶんで処理しようとしたってことですかね」

「じぃちゃんも最初はそう思ったらしい。でも、だったらそのまま処理してしまえばいい。どうしてじぶんのところに持ち込むのかって。だって身体の半分が処理できたなら、同じ方法でもう半分を処理すればいい。わざわざじぃちゃんのちからを借りるまでもない」

「それはそうですね」

「そもそも、遺体のほとんどはじぃちゃんの元に持ち込まれたものなんだ。ほかの客たちはみな、殺人現場にじぃちゃんを案内した。その顧客だけだったらしい。わざわざ毎回、じぃちゃんのところまで遺体を運んできたのは。それから段々と遺体のほうも、失われた部位のほうが多いんじゃないかって遺体ばかり持ち込まれるようになって、あるときを境に、一転してドラム缶ばかりになったらしくてね」

「ドラム缶、ですか」

「中にはどろどろに溶けた遺体が入ってたって」話はそこに繋がるのか、と合点する。「腐ってたってことですよね」

「それが、そうでもなかったって」

「え?」

「だからじぃちゃんは距離を置くことにしたって言ってたんだ。逃げたんだって」

「逃げたって、その客からですか」

「そう。わたし、いまのいままでじぃちゃんがわたしをからかってるだけかと思ってた。でもひょっとしたら、あるのかもしれない」

「あるって何がですか」

「そういう、文化が」

 意味が掴めず、そういう文化、と反芻する。

「さっき、そうでもなかったって言いましたよね。腐ってなかったってことですか」引っかかったので訊いた。「じゃあドラム缶の中身、どうして遺体は溶けてたんですかね」

 暗に祖父の作り話なのではないか、と指摘したつもりだったが、案に相違して社長は難なく答えた。

「煮込んであったって」

「煮込んでってドラム缶で遺体をってことですか。焼いたとかではなく?」

「そ。だから意味わかんなくてじぃちゃんは縁を切るために夜逃げして、足洗ったって言ってたよ。なんたって大量の野菜といっしょに煮込まれてたって言うんだからさ。本当の話だとしたら気味わるいよね」

 ちなみにヨシキくんの担当した案件はどうだったの、と訊かれ、湯船に野菜は浮いていなかったことを告げた。そりゃそうだ、と社長は肩を竦め、端末に何かしらを入力する作業を再開した。

 あくる日、現場に向かう車内で社長から聞いた話をササミにもした。社長には許可を得てある。社長の祖父の体験談としてではなく、ある種の巷説として扱うなら話してもいいと言っていた。

「という話を聞いたんだが、おまえどう思う」

「どうって、え、それって本当の話なんすか。実話系の怪談とかでなく?」

「実話系の怪談ってなんだよ。実話なのか、作り話なのかどっちなんだそれ」

「それっぽくつくられた嘘っこの話っすね」

「怪談話なんか全部そうだろ」

「そうとも言いきれないっすよ。実際にあった話もけっこうあるっす」

「たとえばなんだ」

「窓からいっつもこっちを見ている人物がいると思ったら、首を吊った住人だったとか」

「こわ」

「あるマンションで水道水から異臭がするし、髪の毛まで流れでて、いざ業者を呼んで調べてみたら、屋上の貯水槽のなかで人が死んでいたとか」

「こわこわ」

「あとはそうそう、湖を見に出かけにいったら」

「もういいよ。わかったって。あるんだろ、そういう現実にあったこわい話が」

「あるっす。でも遺体を煮込んでスープをつくるなんて話は聞いたことなかったすね」

「スープをつくったわけじゃないだろ」

「そうなんすか? でも野菜が入ってて、煮込まれてたんすよね。それスープっすよ」

「人間を具材にしてか。なんのために」

 運転しながらなので浅くしか考えられなかった。口にしきってから、そんなの理由は一つしかないではないか、と身の毛がよだつ。

 ササミは言った。「食うためっす」

 現場に到着してからササミに管理人から鍵を借りてくるよう指示する。そのあいだトラックから必要な道具を下ろしていると、ササミが戻ってきた。

 予想より早い。

 何かあったのかと思い、身構えると、ササミは肩を竦め、むつけた子どものように唇を尖らせた。「もうさきに同僚が来てるって変なこと言われたんすけど。そういう予定ってありました?」

「いや、きょうは俺たちだけだ」

「じゃあ何かの手違いっすかね」

「鍵は?」

「もう渡したからないって。本物の業者かって疑われたんで、ひとまず戻ってきました」

「警察とか呼ばれないだろうな」

「どうなんすかね。感じわるいひとでした」

 ササミが言うのだから相当なのだろう。初めてササミが人の悪口を言ったのを聞いた。

「鍵がないんじゃ入れないな」

「誰か先に入ったんじゃないんすか」

「誰かって誰だよ」

「警察のひととか、あ、わかった探偵っすよ」

「探偵だあ?」

「じゃあ社長がこっそり先回りしてたり」

「しそうな人ではあるが、それはない」現場には絶対に顔をださない人なのだ。「まあとりあえず部屋を見に行こう。開いてなかったらもっかい管理室に」

「そっすね」

 道具を持ち、マンションに入った。誰でも部屋のまえまでは入れるようだ。セキュリティの低いマンションである。

 エレベータを使って三階にあがった。

 入れ違いに妊婦だろうか、腹の膨れた女性とすれ違う。女性は頭からつばの広い帽子を被っており、顔は見えなかった。カツカツと足音が廊下に響く。

 女性からは香水だろう、甘ったるい匂いがした。生ぬるい風のようで不快ではないが、しかししぜんと息を止めている。

 女性はエレベータに乗り込んだようだ。扉の閉まる音がする。

 振り返らずに歩を進める。

 部屋のまえに立つ。

 ササミが抱えていた道具を床に置き、ドアノブを捻った。「開いてますね」

「誰か中にいるか」

「入りますよー」

 ササミが扉の隙間から部屋のなかへと叫ぶので、警戒心のなさに、戸惑った。こういうところがササミにはあった。怖いもの知らずというか、想像力が欠けているというか、行動の読めないところがある。

 ふしぎと仕事のうえでは先回りしてミスを潰しておくような慎重さを窺わせ、付き合う時間が長くなるにつれて、底知れなさを覚えるようになった。一見すれば軽薄なのは変わらずなのだが。

 部屋からは当然のように返事はない。誰もいないみたいっすね、とササミは破顔した。少年じみた屈託のない笑みだ。

 部屋に足を踏み入れる。靴は脱がずに土足だ。どの道、綺麗に掃除するのだ。

 空気は思ったより淀んでおらず、廊下にはハエが湧いていない。通常、時間の経過した腐乱死体からは大量のハエが孵るので、浴室で死んでいようがほかの部屋の掃除が必要なのだが、この様子だと今回は半日コースで終わりそうだ。

 脱衣所に入る。

 浴室の戸を開けると、むわっとした熱気を浴びた。

「えぇー、なんでお湯?」ササミがさきに足を踏み入れ、給湯器の操作画面をいじる。給湯器が作動していたようだ。

 お湯が焚きつづけられていたということだ。

 湯船のなかでは、溶けた遺体が細かい泡を浮かべ、煮立っていた。油が溶けだすので、表面に油の層ができ、湯の対流によって掻き混ぜられて泡立つのだ。

「誰が点けたんでしょう」

「さあな」

 警察がいちど立ち入ったあとのはずだ。そのときに誤って給湯器の起動ボタンを押してしまったのだろうか。

 蓋が開いたままなのも気になる。蓋を閉めておいたほうが虫も湧きにくく、通例ならば閉められて現場の引継ぎがされる。

 湯船の中身が、減少していることから、大部分の水分が湯気となって蒸発したと判る。それだけ長いあいだ追い炊き状態になっていたということか。

「先輩、これ」ササミが何かを摘まみあげた。鍵だ。シャンプー置き場に置いてあったようだ。

「この部屋のか」

「じゃないっすか。家の鍵っぽいですし」

「管理人はきょう来たやつに鍵を貸したと言っていたんだよな」

「ですね。そいつがわざわざ湯を焚いて、出ていったってことっすよね」

「それか、それ以前に誰かがいたのかもしれないが、分からん」

「これ、また減ってないっすか」ササミが湯を覗きこむ。

「蒸発したんだろ」

「そういう感じじゃないっすよ。だってほら、けっこうまだ水っぽいっす」

 水分が蒸発していなければ、遺体が溶けてもそれなりの流動性を保つ。異物と水分が完全には馴染まない。しかし時間が経過しすぎると、ウジが大量に混じったり、腐敗が進行したりするため、粘着性を増すのだ。その点、この湯船の中身は、比較的きれいな状態で残っている。単に中身が減っているだけなのだ。

「誰かが持っていったってことじゃないんすか」

「中身をか?」ササミの言葉を受け、閃く。「それをカモフラージュしたくて追い炊きしたってか」

「どうなんすかね。だったら栓を抜いておくほうが手っ取り早くないっすか」

「そこまで頭が回らなかったとか」

「僕が思うに、単に欲しかったんすよ」

「欲しいって、この中身がか」

 遺体の溶けたお湯なのにか、と怪しんだのだが、ササミは飄々と受け流し、「そっす」と言った。「たぶんですけど、半分だけ取ったら、あとはもういらなくなっちゃったんすよ」

「そんな飽き性がいてたまるか」

「警察に通報します?」

「いや、言っても取り合ってはくれないだろ。変に疑われるだけだ」

 ただでさえ事務所の火災で、社の評判はよくない。

 順調に復興し、火災保険も下りた。以前よりも景気がよいように外からは映る。自作自演の放火だったのではないか、と疑う者がいてもおかしくはない。現に、警察から目をつけられているように感じることはしばしばだ。

 これ以上社長に心労はかけられない。

「社長には報告する。警察に相談するかはそのときに判断してもらおう」

「それもそっすね」

 会話を中断し、仕事に取り掛かる。

 湯船の内容量が減っていたこともあり、この日はいつもよりもずっと早く終えた。

 食事処に寄り、ゆっくりと昼ご飯を食べた。昼寝をしても時間が余りそうだ。現場のマンションに戻り、ササミに片付けを指示し、私は一人で管理人に鍵を返しに行く。

 管理室にて、管理人から話を聞いた。さきに来ていたという同僚とやらの話だ。それが一人の女だったらしいこと以外は分からずじまいだった。

「おたくの会社の名前を言っていたし、部屋番号まで知ってたんだ。おたくらじゃないとすりゃ、プライバシー侵害じゃないのか。情報の扱いがなってないんじゃないか」

 苦情を受け流し、丁重に礼を述べてその場を辞する。

 トラックに戻ると、ササミは廃棄物と道具を詰め終わっていた。助手席にて居眠りをしている。

 運転席に乗り込む。

 振動で起きたのかササミは、そのままの体勢で言った。「どうすんすかこのあと」

 私はハンドルを握った。「いったん事務所に戻って、社長に指示を仰ぐ」

 アクセルを踏む。

「事情は分かった」事務室にて社長は言った。「つぎからは同様のことがあったらその時点で連絡をください。わたしからの指示があるまで待機」

「何か心当たりがおありなんですか」

「ないけど、鍵を不正に使用されたわけだよね。しかもうちの社の名前を使って。何か起きてからじゃ遅いからまずは連絡してほしい」

「ですね。配慮が足りませんでした」

「状況がハッキリしなかったんだし、そこはしょうがない」

 社長はお茶を淹れてくれた。受け取る。

 ほかに社員はいない。みな各現場にて仕事中だ。

 湯呑みに口をつける。

 社長は窓のそとを見た。「ササミはどうだ」

「道具の片付けをさせています。もちろん終わったあとにチェックしますが」

「そうではなく。何か言っていなかったか」

「現場でってことですか」

「アイツには何か、人には視えていない景色が視えている気がしてな。たとえば消しゴムを手から落としたとして、みな足元ばかりを探すが、アイツだけは誰も探そうとしない場所にまっさきに目を向けるような、そういう嗅覚の鋭さを感じる」

「分からなくはないですがね」

「今回も少なかったんじゃないのか」社長の一言に唾を呑みこむ。「そうなんだな」

 敢えて伝えていなかったことだ。湯船の中身が減っていた事実は伏せていた。死体が溶けた湯が明らかに減っていたのだ。そこに侵入した者がいたとなれば死体遺棄としての事件性を帯びる。

「おまえのことだ。社のためを思って黙っていたんだろうが、わたしからすれば裏切りでしかない。つぎからは隠さないでほしい」

「すみません」

「それとなくササミに聞いておいてくれ。現場で気になることはなかったか」

「はい」

「似た案件が入ったらつぎも任せる」社長は椅子に座ると、くるりと回った。馬の尾じみた髪がなびく。「くれぐれも注意してあたってください」

 事務所のそとにでると、ササミが倉庫の床に寝そべっていた。大の字だ。

「何してんだおまえ」

「あ、すんません。片付け終わったんで、休んでました」

「外から丸見えだ。就業時間中でもある。給料泥棒と呼んでやろうか」

「そんなこと言っちゃって。じぶんはお茶でも飲んできたんじゃないんすか」

 図星だった。

 社長の言うようにこいつの感性は鋭い。

 片付けた道具のチェックをする。火事以来、ダブルチェックが必須になった。ササミにもその様子を見ていてもらう。彼は積まれたスペアタイヤのうえにあぐらを掻いている。

 チェックしながら雑談の流れで、現場で何か引っかかったことはないか、と訊いた。社長から指示された旨は伝えずにおく。

 ササミは、なんすかそれ、と笑った。そっすねぇ、と考えこむ。ややあってから、そう言えば、と言った。

「エレベータですれ違った女のひといたじゃないっすか」

 記憶を探る。妊婦らしき女性とすれ違った。つばの広い帽子を被っていたのを思いだす。「そういやいたな」

「靴見ました?」

「いや」

「ハイヒール履いてたんすよね」

「よく見てるな」

「足音が妙に響いてたんで気になったんすよ」

「で、それが何だ。裸足だったら変だが、そうじゃないわけだろ」

 女性なんだからハイヒールぐらい履くだろ、と小馬鹿にすると、ふつう履きますかねぇ、とササミは唇を尖らせた。

「だって妊婦さんすよ。しかもだいぶお腹の大きくなってた。危なっかしくて履かなくないすかふつう」

「言われてみればたしかに」

「でもたとえば、妊婦さんじゃなければ履いていても変じゃないっすけど」

「妊婦さんじゃなければって、でもあのお腹はそうだろう。そういう体型の女性って感じでもなかったしな」

 腕や首が細かった。

 背中も薄く、お腹だけが膨らんでいたのだ。

「何かで突っ張ってただけかもしれないっすね」

「何かって、なんだ。麻薬でも隠してたってか」麻薬や金塊を密輸するのにそうした偽装工作をする組織を知っていた。

「いやあ、ほら。あるじゃないっすか。狼と七匹のヤギにでてくる狼みたいな」

「岩でも詰まってたってか」

 言ってから、閃く。

 だが思い浮かんだ像があまりにバカバカしくて苦笑う。あり得ない。

 ササミはどういうつもりなのか、

「そう言えば鍵、開いたままでしたね」とタイヤのうえで身体を大きく揺さぶる。一種、そういった玩具のように見えなくもない。音を察知すると踊りだす玩具を連想する。「ふつう鍵を奪って開けたなら、出てくときも掛けませんかね。掛ける暇がなかったと考えたら腑に落ちますけど」

「たとえば誰かが部屋を訪れるのを察知したから、とかか」

「まあ、憶測っすけど」

 バカバカしい。

 私はササミの推測を真に受けなかった。

 だが定時であがり、家に戻ると、シャワーを浴びても、食事をとっても、脳裏にはベッタリとあり得ない可能性が明瞭に像となって結ばれた。いちど結びついたそれは、なかなか脳裏から消え失せない。

 そう言えば、と思いだす。

 いまのいままで忘れていたが、火事の起きる直前の仕事現場で、妙な女に声をかけられはしなかったか。年恰好を思い浮かべようとするも、印象しか思いだせない。

 しかしその印象は奇しくも、マンションですれ違った腹の大きな女と瓜二つに思えた。

 いちど妄想が根を伸ばし、芽を萌やすと、あっという間に枝葉を伸ばして、大樹と化す。女とすれ違う瞬間に、甘ったるい匂いを嗅いだ覚えがある。

 馴染みがあるような、どこかで嗅いだような匂いだったが、あれはまさしく、遺体から漂う死臭ではなかったか。

 マスクをしていたので判然としない。

 妄想によって記憶が歪んでいるだけかもしれない。

 妄想を育んでもよいことはない。

 どの道、確かめようはないのだ。

 それからひと月のあいだは企業ビルの仕事が連続で入った。社員全員でかかる大仕事だ。夜のうちに済まさなければならないとあって、連日あくせくした。

 多忙な日々がしばらくつづき、一段落してから社長から呼び出しがあった。

「ビル清掃で残っているのはあとはちいさなテナントばかりだ。そっちはほかの社員に任せる。おまえとササミでこっちの案件を頼みたい」

 指示されたのは例の遺体処理だ。

「また湯船ですか」

「らしい。事件性はないそうだ。いちおう、現場の写真を撮って送ってもらった。見るか」

「ええ」

 湯船を上から撮った画像だ。

「また女性なんですか」

「家主はそうらしい。遺体もおそらくそうだろうという話だ。髪の毛からの判断だろうな。DNA鑑定するまでではないとの判断だ」

「雑な仕事ですね。別人の遺体だったら大問題じゃないっすか」

「事件化させたくない勢力でもあるのかもな」

 ぽつりと述べた社長の言葉に、何か裏があるんですかね、と応じる。

「さあな。とにかく、ひょっとしたらまた侵入者があるかもしれん。湯船の湯が不自然に減っているのか否かも、画像と見比べればわかるだろ」

「ありがとうございます」

「頼んでいるのはこちらだ。厄介な案件ばかり押しつけてわるいと思っているが、いまはまだ事情を知る者はすくないほうがいいだろ」

「そう、ですね」

「もしまた鍵を第三者に奪われたら、仕事は後回しにしていい。怪しいやつがいないかを探って、尾行できたら尾行しろ」

「いいんですか、そんな探偵みたいな真似して」

「構わん。尻尾を掴め。舐めた真似しくさってる野郎に遠慮はいらん」

「怒ってますね」

「怒っているよ。当然だ。火事だってまだ真相不明だ。未だに放火なのかどうかも判っていないし、それゆえにうちに非があるのではないか、といった風評も出回っている。もし放火なら犯人には相応に償ってもらわねばならないし、万が一にもうちに非があったならば、その責任を負わねばならんだろ」

「……社長」

 ずっとじぶんを責めつづけていたのだ。

 残った社の従業員のことだけでも手いっぱいだったろうに、このひとはこの若さで社の命運を、その家族たちの人生を背負っている。

「こんなことを言うのは却って負担にしかならないのかもしれませんが」

「なら言うな」

「すこし休まれてはどうですか。しばらくなら古株の連中で仕事は回せます」

「ダメだ。言ったろ。舐められてるんだよいま、うちは。いや、ずっとだ。わたしがこの会社を継いでからずっとだ。飽くまでわたしが頭を張っていなけりゃ、すぐに評判が触れ回る。やっぱりあそこは終わりだとな」

「そんなことは」

 なくはないがゆえに、黙るしかなかった。

 新規参入のすくない業界ゆえに、社会一般よりもずっと古い慣習がまかり通っている。価値観すら旧世代だ。

 社長はただでさえ若く、女だ。

 ただそれだけのことで、爪弾きにされたり、舐められたりする。私の知っているだけでも、入社当時には嫌がらせが多かった。

 それを社長はその手腕と実績だけで黙らせてきたのだ。

 こんなひとだからこそ、従業員はみなこの職場を離れようとしない。社を去った者とて、仕事に困れば戻ってきたいと泣き言を漏らし、社長は何も言わずに受け入れる。

 みなそんな社長の人柄を知っているがゆえに、たとえ社を辞しても、社に何かあれば助力を惜しまない。

 火事で亡くなった社員の家族が一人も社を訴えない背景にはそうした社長と社員の縁の深さが無関係ではない。

 誰も社長を恨まないのだ。

 彼女がそういうお人だからだ。尊敬できるからだ。掛け値なしに信頼させてくれる。裏から言えばそれは社長が我々社員の一人一人を信用してくれるからでもある。

 理不尽に社員を責める真似はしない。

 過ちに対しては真っ向から叱り、社の腹を痛めてでも対策をとる。同じ失敗を、社員に絶対にさせない。

 みな社長のそうした厳しさと器のでかさを知っている。

「働かせてくれ。一瞬でも休むと、それこそ病む」

 ちからなく社長は笑った。

 かろうじて聞かせてくれた社長なりの弱音だった。

 翌日、ササミと共に指定のマンションに向かった。車内でササミには社長との会話を掻い摘んで話しておく。

「けっこう大ごとになってきましたね」

「そりゃ死体が関わっているわけだしな。何もなくとも、そもそもが大事だよ。この仕事に慣れちまうと、倫理観みたいなのが緩くなるから、その辺、手綱握っとかないとすぐに世間に馴染めなくなるぞ」

「体験者は語るってやつですね」

「大切なことだぞ」

 真剣に聞き入れていないようなので、声で威圧した。「医者なんかもそうだが、なまじ人の生き死にが日常化するだろ。するとちょっとやそっとの人間の悲哀なんてものが些事に思えてくる。他人の痛みに鈍感になるってこったな。死ぬわけじゃないんだから、とどこか冷めちまうんだ。だがそれは命を軽んじることと繋がっててな。死ななきゃいいって考えは、命を大切にすることとは違うわけよ」

「人生の機微こそを大切にって話ですか」

「人の感情そのものが命だってことさ。じぶんを殺すな。そのために倫理観っつうか、世間一般の常識ってもんを忘れないようにしとかねぇとな」

 ササミは菓子パンを齧ると、またマンションなんすね、と脈絡なく言った。

「ん?」

「現場っすよ。またマンションなんすね。前はもっとアパートとかが多かった気がしますけど。前回もマンションでしたし、連続っすね」

 社長から言われたからではないが、ササミが気にする事項は確かめておきたい。「何か引っかかるか」

「いえ、ただ常識を忘れないようにしとこうと思いまして。言われた通りにっす。で、いま常識をこう、見比べてみたところ、どうもマンションで孤独死って、そんな頻発するようなものかなぁ、と思いまして」

「言われてみりゃ、違和感あるな」

 孤独死には大別して三つある。

 寿命で死ぬ場合と、病気で死ぬ場合、そして自殺だ。

 寿命の場合は、高齢者が多数を占める。

 反して病気や自殺は、若年層でも近年は増加傾向にある。というのも、いずれも貧困と相関関係があるからだ。不景気には自殺者が増える。病人が増える。

 その点、家賃の高いマンションよりも安く住めるアパート暮らしの住人のほうが、死後誰にも発見されずに腐敗する傾向にある。配偶者がいない場合が多く、そのうえ生活習慣が荒れている。病気になりやすく、精神も病みやすい。

 マンションに住まう余裕があるならば、それなりに収入が安定していると言える。湯船で突発死する富裕層がいないとも言いきれないが、経験上、すくないのは確かだ。そうでなくとも、たいがいは同居人が早期発見し、こうして特殊清掃を依頼するような顛末にはならない。

 目的地に到着する。

 トラックをマンションの駐車場に停めた。

 車内でしばらくササミと無言の静寂を持て余す。

 膝を打つとササミはドアを開けた。降りる前に、ひょっとして、と彼はつぶやく。「事故じゃないのかもしれないっすね」

 管理人に挨拶がてら鍵を受け取りに行くと、またしてもすでに来訪者があったと知らされた。管理人は会社名を口にし、

「同じところの人よね。午前中に下準備があるからって、部屋まで案内したのよ。鍵だってそのコに渡しちゃったし」

「女性でしたか」

「そうそう」

 なんだやっぱり社員なんじゃない、と管理人はそこでほっとした顔つきになる。「若くて、かわいい顔してるコ」

「そんな社員うちに居ましたかね」管理人室を出て、いちどトラックまで戻った。「ギリギリ社長が当てはまりそうっすけど」

「もう若くはないし、かわいいって貫禄でもないだろ」

 般若が作業着を着て歩いているようなもんだ、と言うとササミは、うへぇ、とスキップをした。「社長にそんなこと言えるの先輩くらいなもんですよ」

「べつに社長には言っとらん」

「僕が告げ口しちゃうかもしれないじゃないっすか」

「安心しろ。社長はおまえからの言葉なんか信用しない」

「妬いちゃうなぁ。先輩と社長は鉄の絆で結ばれているわけですね」

 青臭い顔で、しっしっし、と肩を弾まされると、年甲斐もなく否定したくもなる。

 前々からササミが、こちらと社長の仲を邪推しているのは知っていた。

 社長と二人きりで話す機会が多かったからだろう。ササミには席を外してもらうのが常だった。

 これはこれでササミなりの寂しさの表れだとすれば可愛げもあるが、真実こいつは社内の色恋沙汰に首を突っ込んで、からかいたいだけなのだ。まだまだ精神が幼い。その幼さに引っ張られつつあるじぶんを認識し、知らなかったのか、と売り言葉に買い言葉が口を衝く。

「俺はこう見えて社長の百番目の愛人なんだ」

 ササミはぱつくりと目をしばたかせると、

「いやぁ、先輩はどっちかっつったらペットじゃないっすかね」二人してトラックに乗り込む。「秋田犬っぽいですし」

「俺が犬ならおまえはトカゲだな」ドアを閉める。

「爬虫類顔ってよく言われます」まんざらでもなくササミは手櫛で髪を整え、で、と言った。「どうするんすか、このあと」

「しばらく見張る。鍵を持ち去った者がいる。管理人はまだ受け取ってない。つまりまだ鍵を返されていないわけだから、奪った本人はまだ部屋にいる」

「このあいだはうちらがやってきたから逃げたってことっすかね」

「だろうな。あのときすれ違った女、憶えているか」

「ええ。お腹の大きかった」

「俺の考えじゃ、たぶん、あの女が怪しいと思っているんだが」

「その推理を聞かせたのはたしか僕じゃありませんでしたっけ」

「じつは前にも見かけたことがあってな」

「え、どこでですか」

「現場だ。おまえが作業中に、外でちょっとな」

「初耳っすよ。情報共有はしときましょうよ先輩」

「わるかったって」

「どうせこれも社長の指示なんじゃないんすか」

「まあ、そうだ」

「前から思ってたんすけど、僕の扱いちょち雑じゃないっすかね」このあいだだって、とうだうだ吠えだしたササミを黙らせる。「なんすか」

 ササミは暴れたが、フロントガラスの向こう側、マンション玄関口からでてくる女の姿を、顎を振って示す。

 距離はあるが、お腹が膨らんでおり、かかとの高い靴を履いていると判る。

 咄嗟に二人して、上半身を低くした。身を隠す。

「本当にいましたね。え、でも本人っすか。別人って可能性も」

「尾行(つ)けてみりゃ判る」

「おもしろそうではありますけど、いいんすかね」

「いいんだ、俺が許可する」

 本当は社長から直接指示を受けたが、もしものときに責任を丸ごと被るにはこのほうがいい。ササミと口裏を合わせるよりかはこう言っておいたほうが手っ取り早い。

 車の外に出ようとすると、ササミに引き留められた。

 なんだ、と抗議の眼差しを送ると、

「先輩は顔を見られてるわけじゃないっすか」

 ササミは作業着の上着を脱いで、自前の帽子を被った。「僕なら顔見られても警戒されないと思うんすよね。先輩はもしものときに警察にすぐに通報できるように距離置いてついてきてください」

「頭が回るな」

「こういうの慣れてるんす」

 冗談なのか本気なのかの区別がつかなかった。

 尾行開始から三十分が経過した。私は距離を置きつつササミのあとを追った。

 女は通りを淡々と歩きつづけ、うしろを振り返ることなく、とある脇道へと逸れていく。

 民家の垣根や塀ばかりが通路に面しており、街灯も徐々に数を減らしていく。人通りはなく、一本道だ。

 ササミはしばらく時間を置いてからあとを追うことにしたらしい。

 夕暮れまでは時間がある。視界は良好だ。遠目からでも女の背中が確認できた。

 やがて女は山道に入った。

 ササミはそこからさきには足を踏み入れず、立ち止まった。

 どうしたのだろう、と訝しんでいると、電波越しに連絡が入る。

 いちど合流しましょう、とのことだ。

 駆け足で合流地点まで向かうと、ササミは、どうします、と道のさきを見遣った。「たぶんこのさきに家があると思うんすよ。でもさすがにこのさきに入って、姿を見られたら、偶然では済まされないと思うんすよね」

「それはそうだな」

「とりあえず日を改めて、この先の散策とかしますか」

 時間を置いてから登山の格好で道のさきがどこに繋がっているのかを探る。いい案に思えたが、ここまできて引くのは惜しかった。

 社長の疲れ切った顔が脳裏に浮かぶ。

 このままでいいわけがない。

 長引かせるわけにもいかない。

「行こう。もし無関係な相手ならそのまま何事もなく引き返せばいいし、警戒されたなら何か関係があるってことだ。まずは情報を仕入れておくのが先決だ」

「攻めますねぇ」

「舐めた真似してるのは向こうだ。ひとさまの仕事場荒らすだけで飽き足らず、遺体にイタズラしてるかもしれねぇんだぞ」

「遺体そのものをこさえた張本人って可能性も無きにしも非ずなんでは」

「かもしれん。まずは住処だけでも押さえとこう。もしつぎあの女が現場に現れたら交渉の材料にもできる」

「うっわー、凶悪っすね。住んでる場所知ってるぞって揺さぶるわけですね。それって脅迫っすよ」

「うっせー。行くぞ」

 木々のトンネルに足を踏み入れる。

 道は細く、長く、ゆったりとした坂道だ。

 入り口付近は階段になっていたが、間もなくして砂利道になる。奥に歩を進めると岩と木の根ばかりの溝があるばかりとなった。土砂崩れのあった跡じみている。溶岩の流れてできた跡を歩いている気分にもなる。

「家なんかあるんすかね。いま地図開いてみて見たんすけど、このさき、ずっと森林公園っすよ」

「私有地でないなら、どこかの小屋にかってに住んでるってことじゃないのか」

「そんな人には見えませんでしたけどね。小奇麗なかっこうしてたし」

 そもそも妊婦が歩くには劣悪な足場だ。真実に妊娠していたらまっさきに避ける道に思える。

 頭上を見あげる。日没まではまだ時間があるが、薄暗い。

「森ってのはしかしずいぶん暗いな」

「足元照らしながらじゃなくてだいじょうぶすか」

「年寄扱いすんな」

「年寄じゃないっすか。年寄がわるいみたいな言い方も関心しないっすね」

「分かったよ。充電切れたら困るだろ。ササミ、おまえのは消しとけ」

「いいっすけど。僕の足元がお留守じゃないっすか。ちゃんとこっちも照らしてくださいよ」

「寄んな。引っ付くなって歩きにくい」

「いいじゃないっすか。これでハグレる心配もないわけで。くっついてたほうが怖くないっすよ」

「ビビってんのか」

「え、先輩ビビってないんすか。僕めっちゃ怖いんすけど」

 素直になられると見栄を張っているじぶんのほうが幼稚に思えてくる。恐怖を感じないと言えば嘘になる。だがどの道、相手は妊婦である。実態の伴なった人間である以上、恐怖を感じると言うなれば相手のほうだろう。いかに怖がらせずに、相手の側面像だけを集めることができるのかが目下の懸案事項と言えそうだ。

「警察呼ばれたら厄介だから、もし見つけても素知らぬふりをしてろよ。俺たちゃただの登山客だ」

「カップルに間違われたりして」

 男同士なのにか、と口を衝きそうになり、失望されそうだな、と思ったので、吞みこんだ。代わりに、

「どちらかといや兄弟だろ」と指摘しておく。

「こんなに大きな弟じゃ説得力がないっすね」

「べつにおまえくらいの弟ならいてもおかしくないだろ」

 何言ってんだ、と鼻で笑うと、

「なんで僕が弟なんすか」

 逆じゃないですか、とぶつくさ不平を鳴らすので、ふざけんなの一言で黙らせた。

「こんな粗暴な兄貴は嫌だ」ササミはまだ言った。「僕ぁ、姉ちゃんで間に合ってるんすよ」

「過干渉の姉だったけか」

「そっす。あ、この件あとで相談してみようかな」

「してどうする」

 鼻で笑うと、うちの姉ちゃん勘だけは鋭いんすよ、とササミはお勧めの占い師を薦めるようなセリフを言った。

「解決したら教えてくれ」私は心にもないことを言った。

 登山道とはいえど、山を抜けるための道だ。途中で幾つも分かれ道があり、ひとまず山頂につづく道を辿った。

「どこまで行くんすか」

「上から見れば、明かりの一つでも見えるだろ」

「住居があればの話っすけどね」

「足跡でも残ってりゃよかったんだけどな」

「そっすね」

 何気なくササミが地面を照らすと、あ、と声が重なる。「この穴、ヒールのあれじゃないっすか」

 地面に点々と穴が開いている。蝉の這いだした穴じみているが、兎の足跡然としてどこまでも道なりに延びていた。

「かもな」ほとんど確信にちかい。「ヒールのかかとの跡かもだ」

 粘土質の道は乾いてはいるが、前日に雨でも降ったのかもしれない。湿っており、一点に体重が集中すれば土がえぐれる。

「でも女の人の体重でこんなに深くえぐれますかね」

「何か途中で背負ったのかもしれない」

「何かってなんですか」

「分からんが」

 それか、そもそも体重が見た目よりも重いのかもしれない。妊婦の体重がどれほど増えるのか。メディア端末で調べてもよかったが、通信障害が発生していた。

 通信を妨げる電波がでる機器が近くにあるのか、それとも単純に山のなかなので圏外なのか。地質の影響で電波が乱れている可能性もなくはないが、どうにもメディア端末が使えない。

 社の備品で配られた端末である。最新型ではないことが関係しているのかもしれない。

「どうしたんすか」

「いや、使えないんだ」

「あ、ホントっすね」こちらを真似てササミは端末を操作する。通信が切れていることを示すマークが画面上に浮かぶ。「地図でここがどこか知りたかったんすけど」と唇を尖らせる。

 足跡を辿りはじめて二十分ほどだろうか。ずいぶん歩いた気がする。

 いつの間にか地面は腐葉土に変わった。

 陽は暮れ、あたりは夜の帳に覆われる。

 足跡は道を外れ、林のなかで途切れていた。

 だがすこし踏み入れると、木々の合間に遠く、明かりが見えた。

 小屋がある。

 ササミとは小声でささやきあい、まずは近くまで様子を見に寄ることにした。

「罠とかないっすかね」

「トラバサミくらいはあってもふしぎじゃないかもな」

「鶴の恩返しのやつっすか?」

「鶴の恩返しの罠がどんななのか、俺は知らん」

「ワニの口みたいに、ガブってするやつっすよ」

「ガブっとするやつか。危ないな」

「です。気をつけて損はないっす」

 すでにこの会話が緊張感に欠けている。肩の力が抜けたと思えば、却って好ましいのかもしれない。

 小屋はちいさい。

 部屋数はすくないと見える。あっても居間とキッチン、トイレ、あとは寝室くらいなものだろう。一階建てで、二階はない。屋根裏くらいはあるかもしれない。三角形に尖った屋根が印象的だ。

 住人が例の女性とは限らない。だが、足跡の主は十中八九、例の女性であり、足跡からすると彼女は小屋に向かって道を反れた。

 相手はこちらの顔カタチを憶えているはずだ。

 だがこの暗さでは小屋からこちらは見えないだろう。

 窓にはカーテンが引かれている。

 明かりが漏れている。

 中で人の動く影が見える。

 ササミに小声で指示をだす。じぶんはあの窓から中の様子を窺う。おまえはここで待機し、何かあったら応援をよろしく頼む。

「なんすかそれ。何かあったとしてもヨシキさんが覗き魔で捕まる未来しか見えないんすけど」

「かもな」

「だったら僕も」

「ひとまず小屋のなかに誰がいて、どんな人物かだけ確かめておきたい。家主があの女だったら、ここがアジトだってことだ。つぎ俺たちの仕事場で何か妙なことを仕出かしたら、それなりに対策が打てる」

「解ってますけど」

「さっさと終えて帰ろう。ちなみにこれ残業代でないから」

 ササミはあからさまに不平の声を上げた。

 声が大きい、と非難するも、ぶーぶー、とササミは膨れた。

 真面目に付き合うのが馬鹿らしくなったのか、ササミはその場にしゃがみこんで、早くしてくださいね、と犬でも追い払うように、手を、シッシ、と振った。

 どちらが部下か分からんな、と苦笑しつつも、ササミの幼稚さに陽気が込みあげる。こういうところは本当に扱いやすい。

 闇のなかに歩を進める。

 足場は湿っている。落ち葉が地面を覆い、歩くたびに靴のなかにまで水が染みこむ。靴下が濡れる。なぜこんなことをしているのか。早く帰ってシャワーを浴びたい。冷めたじぶんが上からじぶんを見下ろす。

 窓のそばに立つ。

 小屋の壁は薄く、中の物音が聞こえる。住人らしき人物が部屋の中を細かく行ったり来たりしている。料理でもしているのかもしれない。

 カーテンが分厚く、中を覗けない。漏れている明かりもそれほど強くはない。ひょっとしたらランプの光かもしれない。 

 頭上を見あげるが、電線らしきものは見当たらない。電気は通っているのだろうか。暗くてよく見えない。

 屋根の奥に月が見えた。月光の明るさに、ほぉ、と息を吐く。

 壁伝いに移動する。

 小屋の裏手に回ればほかに窓が見つかるかもしれない、と思い、ぐるっと回る。

 裏口には扉が一つあるだけだ。窓はない。

 面長な造りはプレハブ小屋じみてはいるが、屋根は三角だし、壁は木製だ。足音の響き方で、手前と奥に部屋が区切られているようだと判る。

 裏口の扉に手をかける。

 ドアノブをひねる。

 引くと、隙間が開いた。

 鍵がかかっていない。不用心だと思うが、そもそもこんなところまで足を運ぶ者がないのだろう。いまさらながらに無断で住み着いたのではないか、と宿主の生態を思う。

 小屋の中を覗く。

 手前に台所がある。奥に居間があるようだ。ほかにも扉が見える。位置的にトイレだろう。鼻にツンとくる匂いがし、ボットン便所だと推察する。水道は通っているのだろうか、とそんなことが気になる。

 とてもではないが生活していけるような場所とは思えない。

 床はきれいなもので、物が置かれていない。

 ゴミ屋敷ではないようだ。

 ランプの明かりだろう、居間のほうに人影が動いている。

 影の主の姿は見えない。

 しばらくすると、家主らしき影は椅子に腰かけたようだ。ギィギィ、と椅子の脚が軋む音がする。

 揺りかごじみた椅子のようだ。前後に揺れるたびに、影がゆらゆらと伸び縮みを繰り返す。

 せめてひと目家主の姿を確認しておきたい。

 例の女性だと判ればそれでいい。なまじ部屋のなかが片付いているので、服装や雑貨から家主の性別を見抜けない。化粧品一つ見当たらない。

 やむを得ず、扉の隙間を広げる。

 見える範囲が広がる。

 半ば小屋のなかに顔をつっこむようにし、死角になっていた台所の奥のほうを見遣る。

 包丁や皿ばかりだ。冷蔵庫や電子レンジはない。やはり電気が使えないのだろう。

 蛇口がある。

 水は使えるようだ。

 しかし台所にコンロが見当たらない。鍋の類も見える範囲に置かれていない。小屋の裏手にガスボンベがあるわけでもなく、火は使えないのかもしれない。

 床にはカラの一升瓶がすし詰め状態で並んでおり、ずいぶんな酒豪だと家主の生態を思う。

 絨毯が敷かれている。

 奥に窓が見える。

 カーテンかと思っていたものは、コートだった。厚手のコートはふしぎと小奇麗で、古びた小屋のなかでそれだけが浮いていた。

 椅子はまだ揺れている。

 直接見えているわけではないが、影の揺れでそうと判る。

 影の揺れ幅が小さくなっていることに気づく。

 眠っているのかもしれない。

 思った矢先に、椅子の軋む音がしないことに思い至る。次点で、はっとした。

 裏口は薄暗い。

 明かりがないためだ。

 月光がある分、足元にはじぶんの影が浮かんでいるはずだったが、いまはその影が見えなくなっていた。

 月が雲に隠れたのか。

 否、そうではない。

 塞いでいるのだ。

 月光を。

 何かの影が。

 意を決し、振り返る。

 背後に誰かが立っているとの確信を抱いていたが、案に相違して、そこには誰もいなかった。

 勘違いか。

 安堵の溜め息を吐く。

 きょうのところは撤退しよう、日を改めて、こんどは昼間にくればいい。

 仕事も放置してきている。マンションの風呂場掃除の仕事だ。管理人に言い訳の弁は立つだろうか。

 今夜は徹夜での作業となりそうだ。

 判断を逞しくし、小屋の裏口の戸を閉じようとしたところで、

「先輩」

 ササミの声がした。赤子が火に触れようとしているところを咄嗟に咎めるような響きがあった。

 反射的に身体を強張らせる。

 頭上で何かが蠢く気配があった。否、気配とは違う。ギシギシと骨組みの軋む音だ。空気のうねりもあった。

 風呂場にバケツを沈めたときのような、質量の高い物体が移動することでもたらされる空気の揺らぎが如実に感じられた。

 真上を仰ぐ。

 それはそこにいた。

 垂れぬようにと髪の毛を口に咥えた女の顔がまず目に入る。

 次点で、天井に張りつく細長い手足が見えた。

 何本も生えているかのように錯覚するが、おそらく手足で四本だ。人間と同じだ。六本や八本ではない。だが異様に長く見えたので、蜘蛛のように錯覚した。

 否、長く見えるだけでそれもほとんど平均的な人間の手足の長さなのかもしれない。天井に張りつくなんて異様な真似をしているからその姿カタチまで異様に映る。

 白地のワンピースが垂れ、余計に女の体躯をちいさく見せている。

 一瞬でここまでの思考が重複して巡った。

 優先すべきは回避だったが、身体が思うように動かなかった。

 恐怖はなく、ただただ何を考えればよいのかの優先順位を立てられなかった。自動車のまえに飛び出た猫がその場で硬直して轢かれてしまう現象を身を以って体験している気分だ。

 女は音もなく足を天井から離した。足だけが垂れる。腕だけで全体重を支えているが、苦しそうな素振りはまったくなく、ぶらさがるというよりもそれは硬貨の穴に通した糸を両側から引っ張って硬貨を浮きあがらせるような筋力を思わせない動きだった。

 するすると女はそのまま床まで下りると、こちらのまえに立った。

 ちいさい。

 だがこうして目のまえにして確信する。

 以前、道端で声をかけてきた妊婦だ。

 だがいまはなぜか腹は膨れていない。

 うつむいた顔がしずかに上を向く。

 目が合った。

 眼球がすべて黒い。表面に浮かぶ光沢がどこか爬虫類の目の虹彩を思わせた。

 身体が動かない。

 どうすればいいのか判断つかなかった。

 相手からは何の感情も窺えない。

 明確にこれが危機なのかの判断がつかなかった。

 だが傍から見たらそうではなかったようだ。

 土を踏み鳴らす音が聞こえ、なんだ、と意識がそちらに向くか向かないかといった短い合間に目のまえから女の姿が消えた。

 否、横に吹き飛んだのだ。

 外から何かが飛びこんできた。

 女ごと部屋の奥へと転がったのだ。

 ドタドタと暴れる音が聞こえる。

 雑貨の影が大きく揺れる。照明が蹴飛ばされたのかもしれない。

 明かりが薄れ、しばらくすると音が止んだ。

「ササミ」

 助けてくれたのだ。

 身を挺して女から我が身を救ってくれた。

 だが部屋の奥からは物音一つせず、生き物の息遣いも感じられなかった。

 ひょっとして、と思う。

 やられたのか。

 ひゅっと下がった体温が、一瞬にしてカッカと燃えた。

 そばにあったカラの一升瓶を掴みとり、怒号を上げて小屋の奥へと駆けこむ。

 だがそこでは両手両足を縛られて床に転がるササミがいるばかりで、肝心の女の姿がなかった。

 どこ行った。

 言いながらササミの元に駆け寄ると、ササミは口を黒い帯のようなもので塞がれていた。

 取り払おうと触れると、どうやらそれが髪の毛に似た縄だと判った。

 手足を縛っているものもどうやら髪の毛に似た縄であるようだ。

 なかなか固く絡みついており、ほどくのに四苦八苦していると、ササミが激しく呻いた。

 見開いた目がこちらの後方、否、真上を示した。何度も小刻みに、こちらを見て上を見る、の動きを繰り返す。

 いるのか。

 真上に。

 天井に張り付いた女の姿を想像し、臓腑が縮みあがるのを感じた。

 ぞっとしたのだが、その暇も惜しい。

 真横に転がる。意表を突く格好で構えをとったが、天井、見遣った先に女の姿はなく、垂直方向、すなわち台所のあるほうの壁から何かが迫りくるのが判った。

 ぶつかる。

 身体をしたたか床にぶつける。起き上がることができない。

 両腕の動きを封じられた。

 馬乗りにされている。

 物凄い力だ。

 暴れようとするがびくともしない。

 束縛を脱したのか、ササミの声が聞こえた。

 先輩、とこちらを呼ぶが助けに走ってくれる様子はない。どうやら猿轡よろしく塞がれた口だけがほどけたようだ。

 しばらくもがいたがどうしようもなかった。

 詰んだ。

 なす術がない。

 せめてササミだけでも助けてやりたかった。

 交渉すべく脱力すると、相手の力もそれに応じて弱くなった。まるで抵抗したから押さえていただけだと言わんばかりの連動具合に、話が通じるのではないか、との期待が湧いた。

 息が上がっていたが、

「俺のことはいい」と途切れ途切れに訴える。「せめてそっちの若いのだけは許してやってくれないか」

「どうしてここへ」

 女の声は震えてはいなかったが、いまにも泣き出しそうな細々しさがあった。

「尾行(つ)けたんだ。マンションから」迷ったが、きみだろ、と事実を突きつける。弱みを掴んでいる旨を伝えればいくらか交渉の余地が生まれるかと考えた。「遺体のあった風呂場に侵入を繰り返していたのは。湯船の湯が減っていておかしいと思って調べていたらここに」

「調べて? それを言うならあたしのほうでしょ。あなたたちはじゃあ何も知らされずにアイツの手伝いを?」

「アイツ? 誰のことだ」

 彼女は口ごもった。

 見た感じ、変異している様子はない。異常な動きをする以外には、外見はどこにでもいる小柄な女性といった具合だ。

 彼女の背後でササミが寝返りを打ったのか、イテ、と場違いな声をあげる。

「動かないで」すかさず彼女が声を尖らせた。目はこちらから離れない。ササミは台所に近い方向に倒れている。その奥で何かが動いた。息を呑み、敢えてその何かから意識を逸らす。女がそれに気づいた様子はない。「じっとしていて」とこちらを見たままササミに命じる。「何もしなければこちらも何もしない」

「調べているって言ったが、きみはじゃあ風呂場にイタズラはしていないのか」

「かってにしゃべらないでくれませんか。不法侵入者の分際で」

 婦女暴行未遂の現行犯で逮捕だってできるんですからね、と彼女は強気な発言をする。

「俺たちの勘違いだったら謝る。だがあんたはマンションから出てきた。一度や二度じゃないはずだ。あそこに住んでいるわけじゃないんだろ。決まって風呂場に変死体があるときに限って現れる。なんでだ」

「だから調べてるって言ってるでしょ」

 言葉ならばなんとでも言える。

 が、言質をとっておいて損はない。矛盾があれば彼女は嘘を吐いていることになるし、嘘を吐いたならばやましいことがあったと判断して、ひとまずは差し障りないはずだ。

 言葉で応酬を図れたのがさいわいだ。

 ササミがまたもがいたらしく物音がした。女は舌を打ち、動かないでって言いましたよね、とササミの背中の衣服を掴むと、片手でむんずと釣りあげた。膂力がもはや女のものではない。成人男性だって真似できる者は限られる。

 放りだされたササミがこちらのそばに転がる。

 イッツー、と短く息を吸い、ちいさく悶絶した。

 手足の拘束は解けていないようだ。

 二人して女を見あげる。

 女が仁王立ちする。目が爛々と輝いて見える。先刻まで黒かった眼球がいまは赤く見えるのはなぜなのか。

 室内には倒れた光源が、おそらくはランプだろうが、あり、天井に女の影を大きく浮かび上がらせている。

「殺しはしない。ただ、しばらく自由はないものと思ってください。協力してもらいます。断ってもいいですが、そのときはすこしばかり悲しいことをあたしは選択しなくてはならなくなります」

「あなたはいったい」

「あたしは」

 そこまで口にした女の背後で、何かが動いた。

 戸は開いたままだ。

 先刻、そこから何者かが忍び込んだ様子を目にしていた。ササミも目撃していただろう。ゆえにああもわざわざ女の気を逸らすような真似をしたのだ。相手を怒らせ、意識をじぶんに集中させようとした。

 背後の気配に気づいたようだ、女が振り返るがもう遅い。

 忍び寄る影は、大きく振りかぶった腕を横殴りに振り抜いた。

 鈍い音が鳴り、女が頭から床に倒れる。

 スコーンと振り子の鉄球のごとく、あちらがぶつかったのでこちらは倒れますね、といった具合に女が床に仰臥した。そのまま動かない。

 呆気にとられながら見上げると、そこには作業着姿でバンダナを口元に巻いた別の女が立っている。彼女は手に握った焼酎の瓶を見遣って、心底意外そうに、すごい頑丈、とつぶやいた。

 その声にはむろん聞き覚えがあり、ササミと顔を見合わせ、安堵の溜め息を漏らす。

 救世主たる彼女はバンダナを下げ、見慣れたかんばせを覗かせると、

 仕事サボって何してんの。

 抑揚なく言った。


 ***


 三日ぶりに会社に顔をだすと、先に出社していたらしいササミとすれ違った。ササミは社長室兼事務所たるプレハブ小屋からでてくるところだった。作業着姿ではなかったため、どこ行くんだ、と声をかけると、ササミは歩を止め、なぜかそこで深々と腰を折った。

「お世話になりました。きょうで僕、ここ辞めますので」

 はぁ?と大きな声がでた。

「辞めるってどういうことだ。きょうって、え、きょうか?」

「はい。もう社員じゃないので先輩にタメ口だってきけちゃいます」

「べつにタメ口聞かれて怒ったことはないだろ」

「だってタメ口でしゃべったことはなかったですもん」

「そうか? まあ、いい。辞表はもうだしたのか。その様子だと冗談じゃないんだよな」

「はい。ちょっと思うところがあって」

「山でのことか」

 三日前のことを思いだす。

 社長が我々二人の窮地に参上し、救いだしてくれた。

 あのあと社長は、現場のことは任せろ、と言って先にこちら二人を帰したのだ。詳しい話はまだ聞けていない。どう対処したのだろう。おそらくは警察に通報したものと考えていたが、そういう事件があったというニュースを見聞きしてはいない。この三日のあいだでそういった話題すら皆無だった。

 三日は休めと休暇の指示をだされていたので、出社してからその後の経過状況を聞けばいいか、とひとまずの休息を優先した。

 その間、どうやらササミは職場を辞する決意を固めていたようだ。

「一言相談してくれてもよかったんじゃないか」

 そう口にしてから、こちらに相談する義務がササミにはないと考え直し、じぶんで決めたことならいいが、と訂正したが、案に相違して、

「じぶんで決めたわけじゃないんすよね」

 ササミは頭のうしろに手を組んだ。足を交差させ、いまにも口笛でも吹きだしそうな格好で、

「姉ちゃんがどうしてもってうるさくて」と唇を尖らせる。

「お姉さんに言われたから辞めるのか」あんぐりと口が開く。

「シスコンとか言わんでくださいよ。そういうんじゃないんすよ。ウチにも事情ってのがあるんで」

「お姉さん主導で独裁国家でも築かれてるってか」

 冗句のつもりだったが、

「似たようなもんです」と飄々と首肯される。ササミは足先で砂利を抉りながら、「辞めなきゃ大変なことになるって言ってうるさくって」と顔をしかめた。

 以前、過干渉の姉がいると言っていた。この様子では冗談ではなく、事実をそのまま述べていただけらしい。

「無視すればいいだろ」

「それができれば苦労ないっすよ」

「代わりに説得してやろうか」

「いいっすよ。無駄なので。それに」そこでササミは言葉を切った。しばらく待つがつづきがないので、それになんだ、と先を促す。ササミは言った。「それに、姉ちゃんの言うこと聞いて損したことないんで。というか、ふだんは滅多に口出ししてきたりはしないんすけど、ここぞというときには絶対に止めてくるんすよ」

「ここぞ? 止めてって何をだ」

「さあ、なんなんすかね。崖に向かって突き進んでいるってことなんじゃないんすかね。分からないんすけど、とにかく姉ちゃんが言うならこの職場は辞めたほうがいいんす」

「言うこと聞かなかったこととかあるのか」ありそうな口ぶりだったのでそう訊いた。

「ありますね。そのときには冗談でなく死に目に遭いました。わざわざ姉ちゃんが助けに来てくれなきゃ死んでましたよ。だからまあ、命の恩人の言うことには逆らえないってことっすね」

「おまえがいいなら構わんが」

「本当は辞めたくはないんすよ。これは本当っす」

 何かを言うべきなような気がしたが、何を言うべきかが思いつかなかった。

 お世話になりました、と腰を折って遠ざかっていくササミの背中に、

「戻りたくなったらいつでも戻ってこいよ」と投げかける。ササミは振り返り、ぺこりと会釈のような低頭をし、去っていく。まるで忘れ物を取りに帰るような足取りだった。

 現に実感が湧かない。

 あすになればまた何食わぬ顔で、ぬぼーっと出社してきそうなものだ。

 社長に事情を訊くべく、まずは事務所に向かった。

 すでにほかの面々は出社したあとのようだ。それはそうだろう。二人が抜けた分の仕事を肩代わりしてくれているのだ。いつもより多忙なはずだ。件数をこなすべく早朝から出張っている。

 事務所では社長が一人で作業をしていた。窓際の席にて頭を抱えるように頬杖をつき、メディア端末と睨めっこをしている。

 おはようございます、と挨拶をし、矢継ぎ早に、いまササミと会ったんですが、と切りだす。

「なら話は聞いたな。そういうことだ。ササミの代わりの社員を早急に補充すべくいま求人をだすところでね。とはいえ、いまのところ繁忙期というわけではないから、申し訳ないけどしばらくはいまの人員で回して」

「それはいいんですが」

「なんだ。退職金についてか。あまり多くは払えないけど、つぎの職が見つかるまでの繋ぎとしては充分な金額はだすつもりだよ。積み立てもしてあるし。そうでなくとも失業手当は申請するようにそれとなく言い添えておいた。問題ないと思うが」

「そういうことではなくてですね」言いながら、何が違うのだろうか、と胸中にわだかまるモヤモヤの正体を掴み切れない。

「ひょっとして寂しいのか」

「そりゃまあ、寂しくないと言えば嘘になりますが」

「懐いていたからな」

「ええまあ」

「扱き使いすぎたかな」

 社長らしくない言葉に、思わず噴きだした。「いまさらでしょう社長。そういう気遣いができるなら古株の俺らに回してくださいよ」

 扱き使う、という言葉で思いだした。

「そういえばあれはどうなったんですか」と山小屋での出来事を持ちだす。

 ササミからはそうと直接聞いたわけではないが、おそらく辞めるきっかけは姉からの助言だけでなく、山小屋で体験した事件と呼ぶべき事象にもあったはずだ。

「警察はなんと」とつづけたのは、むろん通報したものと推測していたからだが、案に相違して社長は、瞬きをすると、「なんも」と言った。

「あの、なんも、とは」

「言ってないよなんも」

「警察が事件として取り扱ってくれなかったということですか。それはまあ、いくらなんでもそうそう信じてもらえるような話ではないかもですが」

 遺体の溶けた湯をかっさらっていく身体能力がずば抜けた女の話など、妖怪がいました、と嘯くのと同じだけ信憑性のない話だ。

「そうじゃなく」社長は椅子の背もたれにもたれかかった。「言ってない。誰にも。小屋はそのまま。あそこで倒れていた女性とは話し合いで、示談にしてもらった。互いに揉め事にしないって約束を交わしたから、もう仕事場にちょっかいをだしてくることもないはず」

「話したんですか、あの女性と」

「まあ、そう」

 話し合える相手だったのか、とまずはそこに意識がいった。話の通じる相手ではあったのかもしれないが、口約束だけでどうこうなる相手とも思えなかった。

 そもそも彼女は人間だったのか。

 並外れた身体能力はいったい何だったのか。

「警察に言ったら困るのはウチも同じだからね。従業員が女性をつけ回して、小屋に押し入り、乱暴を働いた。そう言われたら、言い逃れはむつかしい。そうじゃないか」

「それはそうかもしれませんが」

「仕事場の遺体がイタズラをされていたかもしれない件については、例の女性との因果関係は不明だ。どれもヨシキくんたちの憶測でしかない。違うかな」

「そうですが」

「うん。だからこの件はおしまい。ヨシキくんに、例の女性のあとを尾行けるように指示をだしたことも、あれはわたしの間違いだった。わるかった。この件にはもう関わってくれるな。何かあっても、それは全部わたしの責任だ」

「火事についてはいいんですか。あの女性が放火したのかもしれないんですよ」

「それも込みで、手を引いてほしい。もう探ってくれるな」

「そんな」

 社長は無言で頭を下げた。結った髪の毛がばさりと垂れ、社長のうなじを露わにする。

 こちらが声をかけるまで社長はそのままの姿勢を維持した。

「分かりました」折れるしかなかった。「あの件については社長に一任します。ですが、何かあったときにはちゃんと俺にも責任を負わせてくださいよ。一人で背負いこむなんてかっこつけた真似はしないでください」

「請け負った」

「ササミについても、もしまたウチで働きたいと言ってきたらぜひ雇ってやってください」

「端からそのつもりだよ」

「どうやらササミ本人はここで働きたい気持ちのほうがつよかったようで」

 そこで社長は腕を組んだ。「どういうこと?」

「どうやらお姉さんに言われたようで。ここで働くのはよしなさいとかなんとか」

「へえ。それは聞かなかったな」

「そうなんですか。まあ、どこまでが本当かは分かりませんが。ひょっとしたら俺に気を使っただけの可能性もありますし」

 一息吐き、そうそう、と思いだす。

「訊きたかったんですが、社長はどうしてあの場にいたんですか。我々が山小屋にいるとどうして分かったんです。どうやって辿り着いたのかと、家に帰ってから気になって」

「それはあれだよ。きみの位置座標を追っただけ。ヨシキくんの端末は社の備品でもあるでしょう」

「ああ、そういうことでしたか」

 メディア端末の追跡機能を使ったようだ。

 いちどは合点したが、ん、と引っかかる。たしか小屋の周辺は通信不可だったはずだ。電波の通りがすこぶるわるかった。

 とはいえ、それは小屋の周辺だけの話だ。山に入ったところまでは端末の位置座標を見れば分かったはずだ。

 いや、だとしてもあの暗い山道を迷わず辿れるだろうか。小屋までにはいくつも分岐点があった。

 のみならず、小屋は道から外れた場所にあったのだ。

 何の目印もなかった。

 どうやって駆け付けたのか。

 あの場所に小屋があると知っていなければむつかしいのではないか。

 沸々と湧いた疑問を、なぜか社長へ問う真似ができなかった。逡巡した。

 何かが引っかかる。

 ササミの言葉が脳裏によぎる。

 辞めなきゃ大変なことになる。

 ササミは姉からそう言い聞かされたそうだが、いったい何がどう大変なのか、具体的な話をもうすこし詳しく聞いておくんだったと後悔する。

 あとで電波越しに連絡をとってみようか、と内心でそろばんを弾いていると、

「ヨシキくんにはできるだけC案件は回さないようにしたから。植木さんのチームに入って、企業向けの清掃をお願い。夜間が多くなるけどごめんね」

「構いませんが、C案件は誰がするんです」

「そっちは外部委託することにした。仲介だけして、ウチでは引き受けないことにする」

「そう、ですか」

「代わりにエバーミングサービスをはじめてみようと思っていてね」

「エバーミング、ですか。それってたしか遺体をきれいに化粧するっていうあれですよね」

「化粧もだし、防腐加工もだし、まあ言ったら損傷の激しい遺体を見れたカタチに整えて遺族の方に最期のお別れをしてもらうための仕事だね」

「誰がそれをするんですか」

 エバーミングをするにしても専用の資格がいるはずだ。従業員の顔を思い浮かべるが、そんな器用な真似ができそうな者はいない。

「ひょっとして社長が?」と思いつきを口にするが、

「まさかまさか」と手で払われる。「雇うんだ。まあ、人材にアテがないわけじゃないから一応は募集をかけておいて、ほかに目ぼしい人がいなければアテを頼ることになる。おそらくリモートワークになるからヨシキくんたちが顔を合わせる機会はほとんどないと思うけど」

「そうですか」

「きょうは植木さんとこに合流して、仕事の流れを見てきてください。残業はなしでお願いします」

「はい」

「ほかに何か訊きたいことは?」

「いえ」

 モヤモヤと釈然としない思いはあったが、では何か具体的に質問があるのかと問われるとこれといって思い浮かばない。

「例の女性は本当にあの小屋に住んでいたんでしょうか」

 口を衝いた疑問は、社長の無言の睥睨によって虚空に霧散する。この件に関してはもう首を突っ込まない約束を交わしたばかりだった。

「いえ、なんでもありません」

 一礼して事務所の戸をくぐる。

 外に出ると火照った頬を寒風が洗う。

 時刻を確認すると午前十時をすこし回った時分だ。

 しばし秋空を仰ぎ、思考とも呼べない思念を鳥のごとく飛ばしていると、メディア端末が着信を知らせた。

 見遣るとササミの文字が画面に浮かぶ。

 通信を許可し、

「どうした」と応じる。

「あ、先輩っすか」

「もうおまえの先輩ではない。社長からはいま話を聞いたところだ」

「あ、そこって事務所すか」

「いや外だ」

「じゃあ社長はそこにいないわけっすね」

「いないが、なんだ。聞かれたらまずい話か」

「いまTVって見れますか」ササミはこちらの軽口には応じずに言った。

「外だって言ったばっかだろ。事務所に戻ろうか?」

「いえ、これ切ったあとでネットで検索してみてください。ニュースになってるんで」

「なんの話だ」

「山火事っす。いまも燃えてます。例の、あの小屋のあった山で」

「ホントか」

 咄嗟に空を見上げる。山のある方向を見遣るが、ここからは距離がある。十キロではきかない。もっと離れているのだ。

「サイレンの音は聞こえないが」

「もうだいぶ消火されたらしいっすよ。火元不明で、不審火の線が濃厚だってニュースじゃ言ってます。社長、何か言ってませんでした」

「いや、とくには」

「そっすか。なんでも焼死体が見つかったって話っす。どこから見つかったかまでは判らないんすけど、たぶん小屋からじゃないんすかね。例のあの女の人だったりしませんかね」

「おいおいまさか疑ってるのか」主語を曖昧にして質した。身内を疑うのか、と諫めたつもりだ。

「そうじゃないんすけど、いちおう先輩には知らせておいたほうがいいかなと思ったんで。もうこの番号も変えるんで、先輩と話すことはもうないと思うんで」

「なんでまた。ひょっとして姉貴にまた何か言われたのか」

「そっす」

「おまえなぁ」

「いや、今回は僕も姉ちゃんの意見には賛成というか、否定するだけの反論が思いつかなくて」

「タメ口になってんぞ」

「いやいやもう先輩は先輩じゃないんで」

「おまえの姉貴はなんて言ってんだ。何がそんなに気に食わない」

「気に食わないってわけじゃないんでしょうけど、でも最もだなと」

「だから何が」

「もし例の女の人が腐乱死体にイタズラをする趣味があったとして」

「たとえば食らっていたとして?」わざわざ言い換えて相槌を打ったのは、半分は揶揄のつもりだった。もう半分は、いい加減にしろよ、と目を覚まさせる意味合いを込めた。そんなことが現実にあるわけないだろ、とまるで自分自身に言い聞かせるように。

 ササミは受け流し、自身の姉の発言を復唱した。

「私なら仕事にしちゃうけどな、って。姉ちゃん、そう言ってました」

「は?」

「他人の仕事場を汚すんじゃなく、遺体をいじりたいなら、そういう仕事に就いちゃうのになって」

「そういう仕事にっておまえ」

 頭のなかのモヤが途端に色合いを増した。思考が妨げられ、何をどう考えればよいのかを見失う。混乱した。

「餌が欲しいだけなら生きてる人間を襲うほうが簡単だとも言ってました。それはそうだな、と僕も思って。あの身体能力見ちゃったら、どうして襲わないんだろうってそっちのほうに疑問が湧いちゃって。だってそうじゃないっすか。先輩と二人して手も足もでなかったじゃないっすか。でもあの女の人はわざわざ腐乱死体を探しだしてまで、つまみ食いしてた。そういうことっすよね」

「本当に死体を食べてたらの話だろそれは」

「そうでなくとも、死体にイタズラしたいだけだとしても、人殺して死体にしちゃったほうが楽じゃないっすか。なんでそうしないんすか」

「異常者の心理なんかわからんよ。考えるだけ無駄だろ」

「すこしは考えましょうよ。だってあの人、あの小屋にいた人、けっこうちゃんと話が通じる感じの人じゃなかったすか。理性ある感じじゃなかったすか。なんでそんな人が、そんなメリットのない不合理な真似しますかね」

「だったらメリットがあるからってことになるんじゃないのか」

「そうっす。姉ちゃんいわく、偽装だって言ってたっす」

「偽装」

「はい。安全に、誰にも気づかれずに死体にイタズラするための偽装。そういう仕事に就いちゃう。でもそういう仕事に就けない同種もどこかにはいるはず。というか、そういう同種から姿を隠すためにそういう偽装が必要だったのかもって」

「同種って、ほかにもあんなのがいるってのか」

「いないと考えるほうが不合理っすよ。子どもは最低でも親がいなきゃ生まれないじゃないっすか。その親すら二人います。最低でもだから三人はいることになる。そうじゃないっすか」

 考えてもみなかった。だがその通りだと感じた。

 一匹とは限らない。

 なぜ思いつかなかったのだろう。

 いや、敢えて思考の外に置いていた、というほうが正確かもしれない。

「職場の放火事件だってそうっすよ。あの女性にメリットなんか何もないじゃないっすか。誰が最も得をしたかを考えて見ろって姉ちゃんに言われて、考えてみたんすけど」

 ササミを叱り飛ばそうかと思ったが、なぜか声が出なかった。ササミは言った。

「火事で死んだ人たちってみんな、C案件を担当してた人たちばかりじゃなかったすか」

 生唾を呑み込む。その通りだった。ゆえにササミとこちらが仕事を集中して引き受けることになったのだ。

「姉ちゃん言ってたんすけど、犯人はおそらく」

 そこで急に声が遠ざかった。

 手元からメディア端末が消えたのだ。

 するり、と豆腐が滑り落ちるような抜け具合だったので、地面にでも落としてしまったか、と足元を見たが、そこにはじぶんの影に重なって、もう一つ影が伸びていた。足の影が四つある。

「言い忘れてた、ごめんね」

 耳朶を舐めるような声音に、飛び跳ねる。

 振り返ると社長が立っていた。こちらのメディア端末を持ち、代わりに新品の端末を寄越す。

「新しくしたからきょうからはそっちを使って」

「あの、それ」いましがた奪われた端末を示し、「いまササミのやつと話していまして」

「そうなんだ。ごめん、気づかなかったな」

 ササミくん、と社長は端末に声をかけるが、返事はない。すでに通信は切れていた。

「あらら。もういちど掛けてみる?」

「いえ、だいじょうぶです」掛けても繋がるとは思えなかった。「大した話じゃなかったので」

「そうなんだ。あ、それ新しいのは取引先や職場の人間のメモリは全部共有されてるから。ササミくんは別だからいま登録しちゃって」

「いえ、その」番号を変えると言っていた。しかしその旨を社長に言えば、どうしてそんなまどろっこしい真似を、と怪しまれるだろう。否、そもそも彼女はいつからそこにいたのか。気配がなかった。話を聞かれたのではないか。

 沸々と湧くこの感情はなんだ。臓物を爪で撫でられるような忌避感がある。

「ササミの番号は憶えているので」

「そうなんだ。じゃあ大丈夫だね」

 社長は踵を返し、事務所のほうに戻っていく。

「社長、あの」

「ん、なに」

「例の小屋のあった場所で山火事があったそうなんですが」

「そうなんだ」

「焼死体が見つかったらしくて」

「へえ、物騒だね」

「ササミが、例の女性じゃないのかって心配してて」

「あ、それで電話を」

「そうみたいです」

「そっか。でも大丈夫だよ。心配いらないよ。だってそうでしょ」社長はにこりともせず言った。「焼け死んだのがその人なら、我が社への危険分子はもうこの世にいないってことになる。違う?」

「そう、ですね」新しい端末を握り締める。

 数歩進んだところで社長が、あ、と声をあげた。

「ヨシキくん」

「はい」

「辞めるときは前以って言ってね。急にいなくなられると困るから」

「辞めませんよ」言おうか迷ってから口にした。「この仕事、俺は嫌いじゃないんで」

「そ。ならいいんだ」

 後ろに手を組んで、社長はゆっくりと事務所のなかに消えた。

 わけもわからずに心臓がけたたましく鳴っている。

 息が震えていることに気づき、深呼吸をする。

 空気に交じって煙の匂いがした。

 それが果たして遠くで燃えているという山火事の焦げ臭さなのか、それとも以前ここで起きた火事の遺薫なのかは、識別できなかった。

 いちおう、辞表だけは持っておこう。

 何ともなしに心に決める。

 いつ辞めてもいいように。

 いつでもここから逃げだせるように。

 それでいて、しばらくこのままでいつづけるために。

 ササミの番号ごと脳裡から振り払うようにそうと考えをまとめ、いましばしつづくだろう日常の延長に漂う、拭い難い死の気配に思いを馳せる。

 辺りが薄暗くなる。

 空を仰ぐ。

 急に垂れこめた雨雲は、十年間放置した水槽のような、濁った色をしている。





【花咲く色は青白い】


 ヨシダくんが別人のようになってしまってから半年が経った。以前は学校が終わったら裏山で一緒に虫取りやトカゲ探しをしていたのに、いまでは誘っても用事があるからと先に帰ってしまう。

 休みの日に家に直接出向いても、ヨシダくんのお母さんが、ごめんねウチの子いま留守なの、と言って追い払われてしまうのだ。最初のうちはヨシダくんのお母さんも、あら一緒じゃなかったの、と意外そうに言っていたのに、いまでは、またこのコなの、とうんざりした眼差しをそそいでくる。

 きっとヨシダくんがヨシダくんのお母さんにぼくのわるくちを吹きこんだのだ、とぼくは睨んでいる。

 そこまで邪見にされたらぼくだって、もう二度と遊んであげない、とへそを曲げたくもなる。けれど、ヨシダくんはただぼくを避けているわけではなく、ぼくだけを無視しているわけでもなかった。

 ヨシダくんはクラスの誰ともしゃべらなくなってしまったのだ。

 困った人を見過ごせないような、誰に対しても公平だったヨシダくんは半年前から徐々に、段々とではあるけれどじぶんの世界に閉じこもったように一日中机に突っ伏して寝ているし、起きているときは窓を眺めて、ぼうっとしている。

 魂が抜けたようだ、というのはぼくの評価だけれど、ヨシダくんの人格はまさに半年前と比べれば色褪せて見えた。

 その変化はのっぺりと季節の移ろいくらいにゆっくりと進んでいたので、ぼく以外のひとでそれを見抜いていたひとがいたかどうかぼくには分からない。すくなくともぼくは誰かにこのことを相談できずにいたし、理解してもらえる相手を見繕えずにいた。

 ぼくには関係ないと見て見ぬふりをしてもよかったけれど、ぼくとヨシダくんは半年前までは毎日放課後に遊んでいた仲だったので、たとえばぼくはヨシダくんの好きな女の子の名前を知っていたし、ぼくもそこはかとなく仲良くなりたいと思っている女の子の名前を教えてあげたりもしていて、端的にぼくたちは互いに気の置けない仲だった。

 ある木曜日のことだ。

 木々が紅葉しはじめていて、道路を歩けばポケットにぱんぱんに詰まるくらいの松ぼっくりやどんぐりを拾えた。

 ぼくは例年にならって、学校帰りに、足元を見ながら宝物を拾い集めていた。

 すると、ふとあげた視線の先にヨシダくんの姿が見えた。いつもならとっくに帰っている時刻だったのに、隣のクラスのチュルさんと連れ立って歩いていた。チュルさんはヨシダくんの意中の人で、なんだヨシダくんそういうことか、とぼくは思った。

 がっかくりきたような、きみがしあわせそうでよかったよ、といった肩透かし感に襲われたような、微妙な心持ちのまま遠くから微笑ましくも甘酸っぱい二人を見守ろうと思っていたのに、あろうことか二人はどんどん森のほうに向かって住宅街から離れていくので、おやおや、とぼくは不審に感じて、どうしたものか、と二の足を踏んだ。

 というのも、さいきん児童の行方不明者が続出していた。行方不明になるのはたいがいが幼稚園児なので、ぼくの通う小学校では先生たちから注意をされるだけで済んでいた。

 学校帰りに寄り道しないで帰るように指示され、低学年の子たちは集団下校をしている。

 そんな中でヨシダくんとチュルさんが連れ立って、ひと気のないほう、ないほうへと進んでいくので、ぼくは訝しむこと山のごとしだ。

 半分は心配だったし、もう半分はひと気のないところでいやらしいことをする気じゃないだろうな、キスとか、といったひがみがなかったとは言えない。

 もし小学生あるまじき恋愛事情に足を突っ込んでいたらぼくがまっとうな小学生の道に引き戻してあげるのも、いちどは毎日遊んだ仲として施してあげてもよい善意に思えた。教師のちからを使ってでもヨシダくん、キミに大人の階段をのぼらせやしない。

 ぼくはヨシダくんたちのあとを尾行(つ)けた。森のほうへ、ほうへとずんずん進んでいく。道を先導しているのはヨシダくんだけれど、チュルさんがそのあいだずっとおしゃべちをしていて、それにヨシダくんがお餅つきの合いの手みたいに相槌を打っているらしく、チュルさんは楽しそうだ。

 いったいどこまで行くのだろう。

 住宅街の奥に広がる森は、自然公園まで延々と繋がっている。

 入り口の辺りまでならお年を召したおとなたちが散歩がてら山菜取りをしている姿を目にしたことはあるけれど、子どもではまず近づかない。遊具もなければ明るくもないのだ。

 木々の葉が頭上を覆い尽くし、足元は雑草だらけで、夏場に入れば虫取りどころか数分で全身が虫刺されでガマガエルの皮膚みたいになる。 

 いまは秋だからそこまでではないだろうけれど、それだって森に入ってもすることがない。

 ぼくは子どもらしくのない妄想をしてしまって、じぶんの破廉恥さに落ち込んだ。妄想の肝心なところはモヤモヤと積乱雲じみていて、何がどうなったらいやらしいのかもよく分かっていないのだけれど、とにかくヨシダくんはいやらしい、と得手勝手にムスっとした。

 ヨシダくんたちは森に入っても歩く速度を落とさなかった。チュルさんがさすがにちょっと不安そうにしているけれど、ヨシダくんの足取りが確かなので、おとなしく従っているようだ。

 ヨシダくんには目的地があるようだった。分かれ道で迷う素振りも見せず、通い慣れて感じた。

 日暮れまではまだ時間があるのに、森に入って一分もしないうちに辺りは暗くひんやりとした空気に包まれた。

 木の皮の香りがする。鼻の奥にはなぜかバッタを握ったときの謎の汁の臭いがよみがえった。

 何度目かの分かれ道に差し掛かったとき、突きあたりの土の露出した丘をヨシダくんは乗り越えた。壁の側面におうとつがある。それを梯子のように足場にしてヨシダくんはのぼった。上から手を伸ばし、チュルさんを引き上げる。

 秘密基地にでも案内する気なのかな。

 ぼくは以前、公衆トイレの屋上に築いたヨシダくんとの秘密基地を思いだし、すこしだけせつなくなった。

 どうしてぼくには案内してくれないのだろう。

 ぼくはチュルさんに嫉妬した。

 でもそれも、丘の向こうの景色を目にしたことで、シャボン玉みたいに吹き飛んでしまった。木っ端みじんだ。

 林の奥には青白い物体が生えていた。

 青白い物体は、ポストくらいの大きさがあった。

 全体的に瓢箪めいた形状をしていて、足のない市販のロボットみたいに見えなくもない。

 ぼくが遠目からそれを目視したときにはすでにその場にチュルさんの姿はなく、青白い物体は、足元から伸ばした触手のようなもので子どもの足のようなものを頭のてっぺんに押しやっているところだった。

 呑み込んでいるのだ。

 チュルさんを。

 ぼくは息を止めた。バクバクと鳴る鼓動の音が、向こうにまで届いてしまわないかと不安でいっぱいになった。

 ヨシダくんは漬物石くらいの大きさの岩のうえに腰掛け、地面から生える青白い物体に、とろんとした視線をそそいでいる。

 いや、本当にとろんとした視線だったのかは、ぼくのいた地点からでは確認できなかったけれど、ヨシダくんの背中からは、うっとりと、青白い物体の食事風景を眺めている様子が窺えた。

 青白い物体が蠕動し、チュルさんをすっかりたいらげてしまうと、地面には転げ落ちた彼女の靴だけが片っぽだけ残った。

 ヨシダくんはそれを拾うと、バスケットみたいに宙に放った。

 青白い物体から触手が伸び、靴を掴んで、それも呑み込んだ。

 あとにはもうチュルさんの痕跡は何も残らなかった。

 ぼくはただただどうやってこの場から逃げだそうかと、そればかりを考えていた。チュルさんが食べられてしまったのに、食べられてしまったからこそ、考えるだけ無駄だとすら思っていたかもしれない。否、考えるまでもなく結論していた。

 じぶんのことだけを考えてしまった。

 だからかもしれない。

 忍び足で方向転換をした際に、背の低い木の枝に引っかかって、音が鳴ってしまった。

 勢いよく振り返ったヨシダくんと目が合った。

 奥にいる青白い物体から伸びた触手が薄く延びて、斧みたいな形状になった。

 ぼくは度肝を抜かれた。これが度肝か、と場違いな考えを巡らせもした。

 ぼくは逃げた。

 駆けて、駆けて、駆けつづけて森から脱しても喉がキンキンに乾くのもおかまいなしに、家まで延々地面を蹴りつづけた。

 家の中に入ってようやくぼくは靴脱ぎ場で、靴も脱がずに倒れこんだ。

 汗だくで大の字になり、胸を上下させるぼくを見下ろし、母は歯ブラシを咥えながら、どしたの、と言った。「犬にでも追いかけられた?」

 翌日、ぼくは学校を休もうとした。

 けれど、母が、一日行けば休みじゃない、と金曜日である特異性を引き合いにだしたので、それ以上食い下がれなかった。念のため体温計で熱を測ったものの平熱で、じっさい仮病だったのでぼくはトボトボと足取り重く通学路を歩いた。

 遅刻ギリギリで教室に入ると、ヨシダくんと目が合った。彼はずっと待っていたようで、ぼくが机に座っても首を真横に向けてぼくを見ていた。ぼくたちのあいだには二列ほど机が離れていたにも拘わらず、ヨシダくんは先生から注意をされるまでぼくを見ていた。

 先生は教壇に立つと、この学校でも生徒が一人行方不明になりました、と告げた。名前や学年を明かさなかったけれど、チュルさんのことだ、とぼくは思った。

 ぼくは押しつぶされそうではあったけれど、恐ろしくはなかった。ここに青白い物体はないし、教室には先生もいる。ほかの生徒だっているのだ。ヨシダくんとて手出しはできないだろう。

 問題はぼくが一人になる放課後だ。

 案の定、授業がすっかり終わると、あれほどぼくを避けていたヨシダくんのほうから声をかけてきた。

 校門に隠れるようにして待ち伏せしていたのだ。

「ねえ、ちょっといいかな」

「よ、用事があるから」ぼくはぎょっとして答えた。

「大事な用なの?」

「すごく」

 即答してから、すぐに行かなきゃ、と腰だけ道の先に向けた。

 もうほとんど半分、気持ち駆けだしていたけれど、

「家族の命よりも?」

 つづいたヨシダくんの言葉にぼくは、萎んだ風船みたいに全身の力が抜けた。その場にヘナヘナと座りこみたいくらいだったけれど、ヨシダくんが、ついてきて、と歩き出したので、ぼくはおとなしく従う以外にとれる道がなかった。

「きのう、ここにいたよね」

 ヨシダくんは森の奥の、例の場所に到着すると言った。道中彼は一言もしゃべらずにいた。その沈黙がおそろしくもあり、束の間の平穏のようにも感じていたぼくは、青白い物体を目のまえにして、すっかり意気阻喪していた。

 ハッキリ言ってしまうと、絶望していた。

 ぼくもチュルさんみたいに食べられてしまうのだ。

 ほとんど何も、じぶんのこと以外を考えられなくなっていた。

「あれ、違うの」ぼくが黙っていたからか、ヨシダくんは繰り返した。「きのうここで見てたのって、きみでしょ」

 ぼくは細かく首を振る。むろん縦にだ。嘘を吐く場面ではない。正直である以外にぼくが助かる道はないように思えた。

「だよね。僕がきみを見間違うわけないし」

「チュルさんは」

「見てたんでしょ? それ言う必要ある?」

 ぼくは青白い物体を見あげる。

 遠くで見ていたときよりずっと大きく見えた。学校の先生くらいはある。

 昨日はポストくらいの大きさだったはずだ。一晩で成長したのだろうか。それともイソギンチャクみたいに伸縮自在なのかもしれない。

 表面には細かいブツブツがあって、一粒一粒をゆびでつまんだら、とぅるん、と滑ってしまいそうだ。カエルの卵みたいではあるけれど、もっとずっしりと重く、頑丈そうな造りに見えた。

 足元から触手が伸びてきて、ぼくの身体にするすると巻きつく。

 あまりにそっと静かな動きだったので、やさしく温かいモノに抱擁されるような心地がして、恐怖よりもどちらかというと、怖がらせてはいけない気がして、ぼくはその場にじっとしていた。

「ダメだよ食べちゃ」ヨシダくんが言った。「まだ食べちゃダメ」

 触手の動きが止まった。

「話が終わってないし、ひょっとしたらもっと上手に餌を運んでこれるかもしれないんだよ」

「よ、ヨシダくん」ぼくは彼と青白い物体を交互に見た。触手はぼくの顔のまえにある。ふよふよと漂っている。

「あのね」ヨシダくんはぼくを見た。サッカーしようよ、とでも言いだしそうな懐かしい表情で、「いっしょにこのコを育ててあげてほしいんだ」ととても正常とは思えない言葉をつむいだ。「協力してよ。もっと餌が欲しいんだって。でも僕一人だとたいへんだから」

「餌って何」ぼくは訊いた。半ばその答えを知っていながら、ヨシダくんの口からどうしても確認しておきたかった。

「人間」

「む、ムリだよ」

「じゃあここで餌になる? 僕は別にいいんだけど、できればキミには生きててほしいな」

「断ったらぼくも食べるの」青白い物体を見た。その表面に顔のようなものが浮かんだので、ぼくは、ヒっ、と悲鳴を呑みこむ。

 顔は、サランラップに顔を押しつけた具合に、青白い物体の内側から盛りあがって見えた。人間の顔だ。マネキンにも似ているけれど、それは表情がないからかもしれない。整った顔立ちではあるけれど、これといって特徴がないがために、生きた顔には見えなかった。

 食べられた人の顔が内側から透けて見えているのではないか、と疑ったけれど、どうやらそうではないらしく、顔は口を細かく開け閉めし、言葉を発した。

「もし断れたとしたらあなたはどうしますか」

 穏やかな声音だが、唇の動きと合っておらず、不気味だった。

「どうもしません。誰にも言いません。誓って何も言いません」

「どう思いますか」青白い顔はヨシダくんの手首に触手を巻きつけた。

「協力しないなら、いないほうがいいよ。食べていいよ」

「待って、待ってください。きょ、協力します。させてください。人間をここに連れてくればいいの? いいよ、やろうよ。いっしょに人間連れてきましょ。人間以外のモノだって用意しますし、そうですよ、食べてみたら案外美味しくて、そっちのほうがいいかも、なんてことになったり」

「うん。それくらいのことを僕が試さなかったとでも? バカにされた気分だな」

「ごめんなさい、ごめんなさい、もう生意気なこと言いませんので」

「食べてしまってもよろしいですか」触手がぼくの足首に巻きついた。

「チャンスをあげてもいいんじゃないかな。何回か手伝わせて、ダメそうならそのときに」

「私はお腹が空いています。たくさん餌が必要です。頼めますか」

 触手が足首から離れたので、ぼくは正座に直って、首がもげそうなほど激しく頷いた。はい、と応じたかったのに、声にならなかった。

「では、様子見を」

 青白い物体から顔が消えた。

 陽はすっかり沈んでいたのに、青白い物体から放たれる明かりで、ぼくたちは互いの顔を見れた。

 ヨシダくんといっしょに森を脱した。彼はぼくの家のまえまで着いてきた。

 ぼくはじぶんの家の屋根が見えるまで一言もしゃべらなかったし、ヨシダくんも口を閉じていた。どうしても訊いておきたくて、家の明かりのなかにお母さんのものだろう人影が動いているのを目にしてからぼくは口にした。

「さいきん行方不明になってた小さい子たちって、ひょっとしてヨシダくんが」

「だったら何」

「子どもじゃなきゃダメなのかなって。ぼくとヨシダくんなら大人を連れていくこともできると思うんですけど」

「大人を連れてくる、その通り。僕だけなら無理なこともきみの協力があればできる。最初からそのつもりで食べさせずにおいたんだよ」何のために生かしておいたと思っているんだ、と言いたげにヨシダくんは唇の下に迷路を刻んだ。

 本来ならぼくはそこで暗たんたる気持ちになっておくのが正しいのに、ホっとしてしまった。そっか、子どもを犠牲にしなくてもいいだ。この手にかけなくていいのだ。

 そう思ったら安堵した。

 家に入り、お母さんの顔を見て、ぼくは涙ぐんだ。お母さんはぎょっとした様子で、どうしたの、とぼくの肩に手を置こうとしたけれど、ぼくはそれを避けて、欠伸しただけ、と言って自室に逃げ込んだ。

 ぼくはもう、お母さんに触れてはいけない存在になってしまったような気がした。けれどそのうえでお母さんには、無理やりにでも抱きしめてほしいとも思った。

 翌朝までぼくの部屋には誰も入ってこなかった。

 土曜日だからか、正午すぎまで寝ていると、お母さんが、いつまで寝ているの、と起こしにきた。ぼくはそれでもベッドにしがみつき、夕方までずっと、眠ろう、眠ろうとしつづけた。

 背中が痛くて、けっきょく陽が傾きはじめてから起きだしたけれど、お風呂に入って、夕ご飯を食べ終わったころには、せっかくの休みの日を寝て過ごしてしまった、と後悔に見舞われた。

 土曜日が終わる。

 あしたは日曜日だ。

 ヨシダくんはくるのだろうか。それとも休みの日は放っておいてくれるのだろうか。

 月曜日になったらきっとまた森に連れていかれるはずだ。

 役立たずなので食べていいよ、とヨシダくんが青白い物体に許可を出すところを想像して、やはりぼくは寝てすごしてしまった時間に罪悪感を覚えた。

 翌日、ぼくは朝九時に家をでて、ヨシダくんの家を訪ねた。

 役立たずでないことを示そうと思った。すくなくともやる気はある、役に立とうとしている姿を示しておきたかった。

 インターホンを鳴らすと、ヨシダくん本人がでた。

「ちょっと待ってて」

 五分ほどするとリュックサックを背負って彼は現れた。玄関をくぐり、ぼくのまえに立った。

「きょうこなかったらどうしようかと思ってた」冗談を言うようにヨシダくんは言った。ぼくはじぶんの顔が引きつるのを感じた。「駅のほうに行こう。作戦タイムだ」

 駅前のファーストフード店に入った。ヨシダくんはそこでぼくにハンバーガーセットを御馳走してくれた。断りたかったけれど、断ることそのものが失礼に思え、つまり彼のご機嫌を損ねるかと思い、心苦しさを胸にご馳走になった。

 ぼくがあまりに恐縮していたからだろう、心配しなくてもいいよ、とヨシダくんは言った。

「お金ならあるから。親には内緒のお金だからさっさと使っちゃいたいんだけど、けっこうな大金で、困ってたんだ。ほらこれ」

 ヨシダくんは財布を取りだした。革の長財布だ。ブランド物かもしれない。

 中からお金だけ抜くと、それあげる、とヨシダくんは財布をぼくにくれた。拒むわけにもいかず、ぼくはそれを受け取った。

「どうしたのこのお財布」訊いてほしそうだったので質問した。

「いちどだけ大人を連れて行ったことがあるんだ。シュリンのまえに」

「シュリンっていうのは、その」

「きみも見た青白い女神さまのことだよ」

 ヨシダくんは青白い物体のことを女神と形容した。ぼくはそのことに言い知れぬおぞましさを感じた。とうてい相容れることのできない、理解しあうことなどとうていできない、別の世界で生きている相手なのだと、ぼくはこのときヨシダくんのことをそう見做した。

「訊いてもいいですか」ぼくは窺いを立てた。ヨシダくんは、なに、とポテトをつまんだ。「シェリンさんとはどうやって出会ったのですか。どうしてヨシダくんがお世話をしているのかなってふしぎで」

「ああ。それは偶然だよ。シュリンは宇宙人なんだ」

「うちゅう、じん」ぼくは呆気にとられた。「空から降ってきたってこと?」となんとか理解しようと努める。

「そう。夜に隕石を見てね。落下した場所に行ってみたらちょうどそこにシュリンがいて」

 森のなかを思い起こすが、クレーターがあったかをよく思いだせなかった。青白い物体の食事風景の印象がつよすぎて、ほかの風景がおぼろげなのだ。

「言葉はヨシダくんが教えたんですか」だったらすごいですね、と持ち上げたくて質問すると、

「違うよ」彼はあごをしゃくって、食べないの、とトレーのうえのハンバーガーセットを示した。ぼくは、いただきます、と言ってハンバーガーの包み紙を解いた。「最初はしゃべれなかったけど、触手あったでしょ。シュリンから伸びてた。あれにいちどグルグル巻きにされたら、つぎからシュリンがしゃべるようになってて。ああでも、元からしゃべれた可能性もあるけど」

「へ、へえ」ひょっとしてヨシダくんはそのときに脳みそをいじられたのではないか、とぼくは想像した。けれど青白い物体をわるく言うのと同じに思えて、それを彼に見抜かれるのではないか、との恐れからぼくは口いっぱいにハンバーガーを頬張った。こんなときでもハンバーガーは美味しい。

「大人を餌にするのってたいへんなんだよ」日常の愚痴を零すようにヨシダくんは言った。「相手が子どもなら、僕のほうが年上だからすこし優しくして遊んであげるとすぐについてくる。でも大人はだいたい予定があるし、僕を子ども扱いするし、いつでも他人と繋がっているから本当に厄介で」

「電波で位置情報が筒抜けになっちゃいそうですもんね」ぼくは物わかりのよいフリをする。

「そうそう、ホントだよ。一人だけ連れていけたけど、そのときも後始末がたいへんだった。シュリンはでも大人をもっと連れてこいって言うし、けどそんなの僕一人じゃ無理だし」

 知識が欲しいのかも、とぼくは青白い物体の狙いを想像した。でも脳みそだけでなく全身を食べていたからやっぱり通常の食事の意味合いも兼ねているのだろう。土の下にまで本体が埋まっているはずだ。そうでなければ人間を何人も食べておいて身体の大きさがあの程度でいられるはずがない。地上にでているのは全体のほんの一部なのだ、とぼくは推し量った。

 ヨシダくんとはそれから、どうやって二人で大人を森まで連れていくのかの作戦を、ああでもない、こうでもない、と話し合った。これはよいけどこれがネックだ、とむかし二人で秘密基地をつくっていたときみたいに、興奮して語った。

 しかしどれも現実的な策とは思えなかった。

 大掛かりな仕掛けはお金がかかるし、証拠も残りやすい。

 ふと思いつき、ぼくは訊いた。

「ちいさい子はどうやって攫ったんですか。いくらなんでも全員が全員黙ってついてきたりはしなかったんじゃ」

「そういうときは失神させたよ。相手は幼児だからね。親も近くにいることが多かったし、最近はずっと首を絞めてその場で殺したりもしたよ」

 驚愕の告白だった。ぼくはヨシダくんの担っているのはあくまで、餌たる人間を森の奥まで運ぶための導線の役割でしかないと思っていた。線路でしかないと思っていたのだ。

 ヨシダくんにはまるで良心の呵責が見られなかった。

 絶句したぼくの心を読んだように彼は、だって、とつづけた。

「どの道、シュリンが食べちゃうんだよ。いつ死ぬかの違いだろ」

 正午を回ったころに店を出た。ぼくはもらった財布をポケットに突っこんで歩いた。これの持ち主はもうこの世にいないのだ。心苦しい。

 ヨシダくんは森に向かって歩いた。

 ぼくたちの話し合いの結論は原始的だった。大人を捕まえるには罠を使えばいい。

 つまり青白い物体の餌を確保するために、別の餌を使うというものだ。

 言い換えるならば、これまで同様に子どもをまずは捕まえ、倒れている子どもがいるので助けてくれ、と大人に嘘を吹きこみ、森までいっしょについてきてもらう。

「ダブルで餌がとれる。きっとシュリンもよろこぶよ」

 ぼくはそのときハッキリと線引きをした。

 かつてぼくの友達だった目のまえの男の子は、青白い物体と同系統の脅威そのものだと。

 森までの道中、公園を通りかかった。野球グランドに隣接した公園で、遊具がある。そこからは子どもたちの互いに名前を呼び合う声や、楽し気にあがる黄色い声が響いていた。

「ここ穴場」ヨシダくんはスキップをする。「夕方になるとみんなそれぞれ帰りだすから、そのときに二人きりになれるように、日ごろから仲良くなっておくといいよ」

「どうやって仲良くなればいいの」

「いっしょに遊べばいい」

 なんでもないようにヨシダくんは言った。年下の子と遊び、仲良くなって、青白い物体の元まで連れていく。嫌がれば首を絞めて失神させればいいが、これは背負って歩けるくらいに小さな子どもに限る。

「二人で作業できるならもっと大きくてもいけるよ。女の人なら大人でもだいじょうぶかも」

 サッカーのルールを話すような口ぶりに、ぼくはなんだか現実味が薄らいだ。脳裏には森のなかで見た光景、チュルさんが丸呑みにされた光景がくっきりと刻まれていて、ことあるごとにぼくに現実とは何かを思いださせる。

 森に着くと、ヨシダくんは青白い物体のまえまでまっすぐには向かわずに、森のあちこちに仕掛けていたらしい罠を見て回った。

 木に蜜を塗っているだけのものもあれば、リスやウサギを狩るための罠もあった。

 どれもほとんどがカラだったけれど、一匹だけイタチが掛かっていた。

「このあいだは猫が三匹もとれたよ。でもネコって毛ばかりだからシュリンは好きじゃないって言ってさ」彼は得意げに顔をしかめる。「やっぱり人間がいいんだってさ」

 イタチは罠の檻ごと運んだ。

 いつもは殺してから運ぶんだ、と彼は言い、二人だとやっぱり助かるな、とついでのようにぼくを労うような言葉を述べた。

 青白い物体のまえに立つと、ヨシダくんは檻を開けた。

 青白い物体からは触手が伸び、逃げようとしたイタチを素早く捉えると、頭上に開いた口らしき穴に放りこんだ。全身をミミズのごとく蠕動させる。

「踊り食いが好きなんだって。できれば生きてるままがいいって言ってたからきみがいてくれて助かるよ」

 作業を手伝ってくれたことへの誉め言葉のはずが、まるで、困ったらきみを食べさせればいいだけだから楽だな、の告白に聞こえた。

 疑心暗鬼になっている。

 しかしこの状況で誰を信じられるだろう。疑いすぎて困るということはないはずだ。

 ヨシダくんはそれから青白い物体に、ぼくと話し合った結果を報告した。

 青白い物体の表面にはこのあいだと同じ顔が浮かんでいたので、どうやらそれが青白い物体に固有の顔なのだと判った。

「というわけで、こんどからはもっとたくさん、頻繁に人間を食べさせてあげられるよ」

「ありがとうございます。うれしいです」

「そうしたらもっと人間みたいになれるんでしょ」

 そうです、と青白い物体は応じた。ぼくはぎょっとした。なぜかそこで青白い物体がぼくを見たので、ぼくは直立不動で気を付けをした。

「もっと大量にニエがいります。できるだけ同じ種類のものを。人間であると好ましいです」

 ヨシダくんは振り返り、ぼくに言った「子どもよりも大人がいいんだってさ」

 あたかも親戚のお姉さんの意思を代弁するように、やれやれだよね、とぼやくような響きがあった。

 ぼくはこのときすこしだけ妙な感覚を覚えたのだけれど、それがいったい何に引っかかっての違和感なのかは分からなかった。 

 ただ、ヨシダくんは青白い物体に脅されているわけではないようだし、青白い物体にしてもヨシダくんを信頼しているようだった。

 二人は対等であり、すこしだけヨシダくんのほうが立場が上のようにぼくの目には見えた。だのにどうしてもぼくには、ヨシダくんよりも遥かに青白い物体への警戒心がつよく湧いた。

 それはそうだろう。

 なんたって正真正銘のバケモノなのだ。

 口ぶりは丁寧だけれど、それだって食べた人間の知能を吸い取っているだけだ。

 人間を食べているのだ。

 人食いクマやライオンと同じだ。

 いいや、知恵がある時点で、それ以上に厄介かもしれない。

 さいわいなのは、どうやらいまはまだ青白い物体がその場から動けないことだ。

「あと何人くらいいりそう?」ヨシダくんが欠伸をする。「いつになったらそこから出てこられるの」

「大きいのであればあと数百体は欲しいところです」

「そんなに」ヨシダくんの驚嘆にぼくも同調する。

 数百人を殺せ、と命じられているのとおんなじなのだ。単純に考えてもこの町の半分の大人たちが犠牲になる。そんな真似できっこない、と思うのに、青白い物体を目の当たりにしていると、それも可能に思えてきてしまう。そうせざるを得ない諦めのようなものが、身体の内側に根を張るのだ。

「そんな顔をしないで。しょうがないのです。私にとって必要な部位は貴重なのですから。全部を食べているように見えても、糧になっている部位は全体のほんの一部なの」

 脳みそ、という意味だろうか。

 脊髄だとか臓器だとか、人間の身体を再現するのに、たくさんのお手本と素材が必要だということなのかもしれない。

 だから子どもでは不足なのだ。

「そっかぁ。じゃあ次からは大人もがんばって獲ってこないとなぁ」

 がんばろうなぁ、とヨシダくんはいかにも、たいへんな仕事をまえに生徒といっしょになって肩を落とす教師みたいな顔つきで述べた。

 ぼくはなぜかにこやかに微笑みかえしており、内心では、どうしようどうしよう、と現実逃避したい衝動を噛みしめていた。

 青白い物体はヨシダくんの話を一通り聞くと、一つの案を口にした。

「では、こうしましょう。いまから私がいくつかの種子を見繕います。せっかく蓄えた素材を大量に失ってしまいますが、回収できれば問題ありません。あなた方にはそれをニエの身体に埋め込んで欲しいのです」

「種子って?」ヨシダくんの疑問にぼくも頷く。そんなものどこにあるのだろう。

「いますぐに分離はできませんので、明後日にまた来てください。そのときまでには、用意しておきますので」

「それがあるとどう作業が楽になるんだ」

「ニエをここに誘導し、生け捕りにできます。殺さずにニエが手に入るのです。あなた方がすることは、私の用意した種子を持ってニエを探し、どうにかその肉体に種子を埋め込むことです」

「食べさせるのじゃダメ? 種子の大きさってどんくらいだろ」

「行動を支配するくらいには神経を侵食しなければなりませんので、おおよそあなたの拳ほどの大きさになるかと。食べさせても構いませんが、噛み砕かれては元も子もありません。できれば肉を裂いて、そこにねじ込んでもらえると助かります」

「場所はどこでもいいの」ヨシダくんは頭に手を組み、欠伸を噛みしめた。「身体のどこでもさ」

 ぼくは話についていけずに頭がくらくらした。

「できれば脳髄に近い場所であると好ましいです。首筋や、背骨の辺りを狙えるならなお好ましいでしょう」

「だってさ」

 ヨシダくんが肩を竦めたので、ぼくも意味もなく真似した。

 それから陽が暮れるまで、お互いにどうしたら大人を相手取って首筋や背中を切りつけられるか、を相談した。

 互いの身体を使い、まずは動きを封じる流れを実演したが、互いに大人ではないのであまり意味のある訓練ではないように思えた。

「最初にオレが話かけて気を逸らしておくから、おまえが後ろから膝カックンして、低くなったところを、こう」

 ヨシダくんは腕を振った。ナイフでも握っているような素振りだ。

「それだと返り血を浴びちゃうんじゃないかな」

「あ、ほんとだ。そっかダメじゃん」

 ヨシダくんは欠伸を噛みしめた。まただ、と思う。きょう会ってからずっと彼は眠そうだった。それでいて目だけはギラギラしている。口調も以前に比べて乱暴になったし、精神も安定していない気がした。

 寝ていないのではないか。

 それとも、これも青白い物体の影響なのだろうか。

 平然と人間を餌扱いするヨシダくんではあるけれど、じつは呵責の念に苛まれているのかもしれない。あまりに重い罪の意識ゆえに、敢えて何でもないのだ、とじぶんに言い聞かせているのではないか。

 その反動で、充分に睡眠がとれていないとも考えられる。

 大人の身動きを封じる手法はけっきょく決まらなかった。

 ぼくかヨシダくんが具合のわるそうな子どもを演じて、ひと気のない場所まで誘い出す案までは決まった。あとは出たとこ勝負だ、とヨシダくんは言った。

「けっきょくそのときに考えるのが一番なんだ。計画なんか狂うのが常なんだから」

 経験者は語るってやつだね、とぼくが言うと、そうそう、と彼は頬をほころばせた。ぼくはいつの間にかまたヨシダくんに敬語を使わずにしゃべるようになっていた。

 青白い物体に別れを告げ、森を離れる。

 森からの帰り道では、ずっと訊きたかったことのいくつかを質問した。

 青白い物体との出会いからいままでの顛末や、これまで餌にしてきた人間の数と特徴、誘拐に関して誰かに怪しまれていないかといった懸案事項から、体調よくないんじゃないの、といった探りまで含めて、たっぷりしゃべりながら帰路を辿る。

 驚いたことに、ヨシダくんはいちど青白い物体に食べられそうになっていた。

 森に隕石の落ちた日、そこに駆けつけたヨシダくんは、青白い物体から伸びた触手に捕まり、丸呑みにされそうになった。

 しかしそこでもう一人、別の人間が駆けつけた。

 ヨシダくんを助けようとしたその人は、あべこべに触手に捕まり、食べられてしまったのだそうだ。

「じゃあそのときにシュリンさんは言葉を憶えたのかもしれないね」ぼくは言った。ヨシダくんは、あっそっか、と手を打った。「だから人間を食べたがってるのか。人間のことを知りたいから」

 その表情からは、かわいいなぁ、という内心の声が聞こえるようだった。

「その、食べられちゃった人ってどんな人だったの」

「大学生くらいの若い男の人だったよ」

「頭は良さそうだった?」

「そう、だね。なんで?」

「ううん。きっと天体観測とかが好きで、それで偶然隕石を目にしたんじゃないかなって」

「そっか、そうかもね」

 首肯するヨシダくんにぼくは、青白い物体の知能が最初のその人に強く影響されているかもしれない可能性を話さずにおいた。

 言ってもあまり意味のある掛け合いではないし、言ったところでヨシダくんの青白い物体への好感度は下がらないだろう。

 失踪者に関しては、この町で騒がれている児童失踪事件のほとんどがじぶんの仕業ではないか、とヨシダくんは述べた。まだ騒がれていない分を含めたら倍以上の数になる、とも付け加えた。

「どうしてバレてないのかふしぎなんだよね。子どもがいなくなっても通報しない親もいるらしい」

 薄情だよね、と同情めいた言葉をつむぐ彼の心理をぼくには推し量れない。

 怪しまれていないかについては、警察に事情聴取をされた、と答えたので、ぼくは驚いた。

「いいの」

「何が?」

 ヨシダくんに焦っている様子はなかった。

 考えてもみればそれもそうなのかもしれない。遺体は総じて青白い物体が食べてしまっているのだ。証拠がない。

 でもいつかはヨシダくんをつけ回す者がでてこないとも言いきれない。

 そうなったらどうするつもりなのだろう。

 そこまで考えて、ぼくは閃いた。

 もし、青白い物体の場所を通報してしまえば。

 そこに死体が埋まっていると警察に言えば、青白い物体はなす術もなく捕獲され、実験所なり、どことなりに引き取られるのではないか。

 なぜ思いつかなかったのだろう、とぼくは愚かなじぶんに歯噛みした。

 けれど遅くはない。

 いまからでも遅くはないのだ。

 すくなくともぼくはまだ手を汚していない。

 いまならまだ間に合う。

「なぁにうれしそうな顔してんだよ」

「そ、そうかな」

 ヨシダくんに顔を覗かれ、びっくりした。

 じっと見つめられたので、ぼくは話を逸らしがてら、どうなるんだろうね、と口にした。

「シュリンさん。いっぱいご飯を食べたら、そのあとどうなるんだろう」

「言っただろ。人間になれるんだよ」

「人間に?」

「あれは蛹みたいなものだから」ヨシダくんは唇を尖らせる。「たくさん餌を食べれば孵るんだ。森からだって出られるし、僕といっしょにだってなれる」

 照れ臭そうに鼻の頭を掻くヨシダくんからは、恋愛漫画のワンシーンにも似た甘酸っぱさが漂って感じられた。

 そういうことか、と思うと同時に、でもきみはきっと利用されているだけだと思うよ、と物寂しい気持ちにもなった。

 教えてあげたところで反感を買うだけだろう。怒りを向けられるだけだろう。

 ならばいまは黙って、そうなるといいね、と背中を押してあげるフリをするのがぼくのとるべき賢い道だ。

 別れ際にぼくは最後の質問をした。

「もしシュリンさんが、ヨシダくんの家族も食べたいと言ったらどうするの」

「どうするって何が?」

 真実何を問われているのかが分からないといった顔を向けられたので、ぼくはもうヨシダくんに何かを期待するのはやめようと思った。諦めたのだ。

 彼はもう以前の彼ではない。

 けれど友達ではあるのだ。

 すくなくともぼくはまだ、ヨシダくんを見捨てようとは思えなかった。

 家に帰るとぼくはさっそく作戦を立てた。

 やるべきことをリストアップして、あとはそれをいつするか、日程を割り立てる。

 頭のなかにあったときはけっこうにパンパンで、全部できるだろうか、と不安しかなかったのに、いざ箇条書きにしてみると思ったよりすることはすくなかった。

 地図を取りだし、紙に書き写す。

 青白い物体のいる地点に印をつける。

 文章を付け足して、それを元に、メディア端末で清書する。文字からそれを書いた者の個性を消すためだ。小学生が書いたイタズラと思われたらお終いだ。

 この手紙がぼくの計画の要だ。このさきのぼくたちの命運を分ける。

 順調にいけば、あさってにはぼくはふたたびの自由で、何にも恐れず、不安のない生活に戻れる。

 期待が高まる分、失敗したときの恐怖が増す。

 でもぼくの案では、ぼくが危険な目に遭う可能性が低い。ヨシダくんを裏切ってしまうものの、この案ではヨシダくんにも危険が迫らないので、よいと思う。

 ぼくは夕飯を食べたら歯を磨いて、ベッドに潜りこむ。いつもより早い時間帯に寝た。

 クラスメイトのチュルさんが青白い物体に食べられてしまってからまだ一週間も経っていないのに、もうずいぶん長いあいだぼくはバケモノに首根っこを掴まれている心地がした。

 長い冒険が終わるような清々しい予感を胸に、ぼくは熟睡した。

 翌日、ぼくは朝早くに起きて、朝食を食べ、学校にでかける。

 玄関口で靴を履いていると、お母さんがエプロンで手を拭いながら目を見開いた。「もう出かけるの」

「約束してて。みんなでドッジボールして遊ぶって」

「ふうん」母は浮かない顔つきだ。それはそうだ。いつもより一時間も早いのだ。訝し気に、気を付けるのよ、と送りだす。

 ぼくはその足で、近所の交番に向かった。

 すみません、と声をかける。

 あいあい、と奥から警察官が顔を覗かせた。

「これ、落ちていました」財布を机の上に置く。

「お、落し物か。ありがとう。そこ座って」

 警察官に言われて、席につく。そこから指示されるままに、質問に答えた。落し物を届けた人用の調書のようだった。警察官はぼくから得た情報を、メディ端末に書きこみ、最後にレシートみたいに紙をくれた。本人控えだ。

 途中で財布の中身をいっしょに確認した。

 財布の中には小銭とお店のポイントカードと手紙が入っている。

 手紙だけはぼくが入れておいたものだ。

 警察官はその場ではその手紙を開かなかった。

「ポイントカードに名前が書いてあるから、うん。落とし主もすぐに見つかると思いますよ。ありがとうね。ずいぶん時間早いけど、これを届けるために?」

「はい」

「きっといいことあるよ。よい行いにはよい行いが返ってくるからね。気を付けていってらっしゃい」

 何度も頭を下げてぼくは交番をあとにした。

 このあとはもう警察に任せていればうまく事が運ぶはずだ。

 財布はヨシダくんからもらい受けたものだ。その持ち主はもうこの世にいない。青白い物体の餌食になったからだ。

 あの警察官がちゃんと仕事をしてくれれば、財布の持ち主が行方不明になっていることに気づくだろうし、そうしたら手掛かりを求めて財布の中身の手紙にだって目を通すだろう。プライバシーの問題を考慮してその場では読まずにいなかったとしても、そう遠くないうちに読むことになるはずだ。

 手紙には森までの地図と、死体が埋まっている、との旨を記した文章が載っている。

 ぼくが書いたものだけれど、それの真偽にかかわらず、警察官は無下にはしないはずだ。ひとまず地図にある地点にまで行ってくれれば、否応なく青白い物体を目にすることとなる。

 そうすればこの町で進行している失踪事件と関連付けて捜査されるだろうし、青白い物体が放置されることもない。

 ヨシダくんも森には近づけなくなり、事件は収束するはずだ。

 いったい誰が子どもを攫っていたのかは解決されないかもしれないけれど、ヨシダくんだって被害者なのだから、そこは目をつむってもらってもよいのではないか。

 本当ならヨシダくんも何らかの罰を受けるべきなのかもしれないけれど、ぼくにはヨシダくんも救うべき人間の一人のように思えてしまう。

 もちろんヨシダくんのしたことはよくないことだし、非難されて然るべきではあるけれど、青白い物体と出遭わなければヨシダくんだってあんなひどいことをクラスメイトや子どもたちやこの町のひとたちにしなかったはずだ。

 何かがおかしくなっていたのだ。

 ナニカに、おかしくされていた。

 そのナニカから距離を置けば、きっとヨシダくんも元の、やさしい、活発で、ぼくの友達に戻ってくれるように思えた。

 そうあってほしい。

 だからぼくは、ぼくにできることをする。

 学校にはいつもと同じくらいの時間帯に着いた。交番と距離があるからだ。

 教室に入るとヨシダくんが近寄ってきて、どこ行ってたんだ、としかめ面をした。

「家に迎えに行ったのに、もう出たって。逃げたかと思ったじゃん」

「じゃあ入れ違いになったのかも。ぼくもヨシダくんの家に行ったんだよ」嘘を吐いた。バレてもどうせきょうで終わるのだ。強気に出てもわるいことにはならないはずだ。

「なんだ、じゃああすからウチ寄ってよ」

「そうする」

 先生が、席につけぇ、と入ってくる。

 朝の会も、授業中も、給食中も、掃除中も、ずっとそわそわと落ち着かなかった。

 いまごろ警察は財布の持ち主が失踪していることに気づいているころだろうか。手紙の存在に気づいているころだろうか。それとももう森のなかに潜む青白い物体を発見しただろうか。

 早く結果を知りたかった。

 放課後、学校が終わるとヨシダくんに引き留められた。

「どこ行くんだよ。きょうは餌取りだぞ」公園で子どもを攫うのだ、と彼は嘯く。

「きょうはお母さんのお手伝いしなくちゃで、いったん家に帰って、用事を済ませたら行くから」

「ふうん」ヨシダくんは目つきを鋭くした。「なんか怪しいな」

「本当だよ。ついてきてもいいよ」

「なに必死になってんだよ。いいよ行ってきなよ。ただ僕をがっかりさせるようなことしたらどうなるかくらいは判ってるよね」

 暗に、いま生きていられるのはじぶんのお陰なんだぞ、と彼は言っている。  

「大丈夫だよ。がっかりさせない。ぼくだってシュリンさんの役に立ちたいもの」

 ヨシダくんの表情がゆるんでから、何かに引っかかったみたいにきゅっと締まった。

 ぼくは慌てて、

「シュリンさんは幸せ者だよね」と持ち上げる。「ヨシダくんにこんなに想ってもらえて。きっとシュリンさんはヨシダくんのこと大好きだと思うよ。ヨシダくんは迷惑かもしれないけど」

「んなことあるかよ」

 鼻を掻くとヨシダくんは、さっさと行きなよ、とぼくを送りだした。

 暗に、用事を済ませて早く戻ってこいよ、と言っているのだ。例の公園で待ってる、と彼は付け足す。

 ぼくはその言葉に甘えるようにして、その場をそそくさと立ち去った。

 家に着くまでのあいだ、徐々に不安が胸の奥から競りあがってきた。

 もし警察の動きが遅かったらどうしよう。

 財布の持ち主が失踪していることを知らず、手紙にも気づかなかったら、ぼくの巡らせた計画は水の泡だ。

 そうでなくともきょうで片付くかもしれない、との期待は砕かれる。

 思えば、たとえ警察が森のなかで青白い物体を発見したとしても、それを公表するとは限らないのだ。

 まずは森まで行かないことには、事態がどこまで好転したのかを知ることはできない。

 どうしよう、と鬱屈とした足取りで家の通りまでくると、自動車が停まっているのが見えた。ぼくの家のまえにある。

 なんとなく不自然に映った。

 知り合いの自動車ではない。

 自動車の表面は磨かれておりきれいで、全体的に高級車のような見栄えだ。

 嫌な予感がしたけれど、いまより状況が悪化するとは思えず、受け入れるしかないと覚悟を決めた。青白い物体のしていることをまえにすればほかのどんなよくないこととて、おままごとに思える。

 家に入ると、お母さんが血相を変えて出迎えた。

「警察の人が来てるわよ」

 お母さんの背後から、どうも、とにこやかな男の人が二人して顔を覗かせた。どちらも髪の毛に白髪が交っている。それでも互いに十は歳が離れていそうだった。二人とも警察官の制服を着ておらず、妙な感じがした。

「すこしお話を聞かせてもらってもいいかな。だいじょうぶ、逮捕したりするわけじゃないですから」

 居間の食卓に着き、いくつか質問を受けた。

 朝に届けた財布についてだ。

 どこで拾ったのか。

 なぜそれを朝に届けたのか。

 ほかにそれを知っている人は。

 交番で一度訊かれたことから、そうでないことまで根掘り葉掘り問い質された。どれも財布についてだ。

 交番で住所や名前を教えていたので、それを届けたのがぼくであることは調べるまでもなく分かったはずだ。

 問題は、なぜ警察がぼくの家までわざわざきたのかだ。

「何かあったんですか」ぼくは質問し返した。

「うん実はね」

 警察の人は語った。

 財布の持ち主が家に帰らなくて、捜索願が出されていたそうだ。そこまではぼくの想定していた範囲内の出来事だ。

 財布の中に手紙が入っており、そこには、とある場所に死体が埋められていると文章が書かれていた。

 それもぼくは知っている。ぼくがその手紙を入れたからだ。

 文字だって小学生の文字だとバレないようにメディア端末で打った文章を印刷した。それを書いたのがぼくだとは知られていないはずだ。

「これをきみはここで拾ったんだよね」 

 警察の人はぼくに地図を見せた。交番で調書をとられたときに、どこで拾ったのかを訊かれていたので、それっぽいところを、そうたとえば商店街のベンチのところ、とか口から出まかせを伝えていた。

「はい。そこで拾いました」

「うん。でもおかしいんだよね。監視カメラの映像ではきみの教えてくれた日時には誰もそこで財布を拾っていないんですよ」

「じゃあ別の日だったのかも」

「ほかの日もあらかた調べてみたんだけどね、きみがそのベンチに寄った事実もなければ、財布の持ち主の方が現れた様子もないんだ。変ですよね」

 ぼくは生唾を呑み込んだ。その音が部屋に響く。ぼくは全身が蒸し風呂にいるみたいに汗ばむのを、嫌だな、と漠然と思った。

「もういちど訊きますね」警察の人は手帳を構えた。「あの財布をどこで拾いましたか」

「あの、えっと」ぼくは白状した。「じつは友達から譲ってもらいました」

「ほう。その友達のお名前は?」

「言えません」

「どうして」

「それは」

「質問を変えますね」警察の人はメディア端末を取りだした。画面に動画を再生し、ぼくに観せる。「これはきみですか」

 動画にはぼくが映っていた。ファーストフード店でハンバーグを頬張っている。そのよこにはヨシダくんの姿があった。

 ぼくは言葉を失った。

 もうほとんど詰んでいた。

 警察は端からぼくが交番で嘘を言ったことを知っていたのだ。

 手紙も読んだはずだ。

 森には行ってくれたのだろうか。

 いったいぼくはこのあとどうなってしまうのだろう。

 青白い物体だけではないのだ。

 ぼくにとっての脅威は、ただそれだけではない。日常を崩されたらもう、それはどんな要因だって、頭を鈍器で打たれて粘土みたいにへこまされたも同じ苦痛をぼくに強いる。

 指先が痺れている。きっと血の気が引いて、全身の血液が薄くなってしまったのだ。それでも顔はカッカと発熱して、前髪の先端から汗をしたたらせる。

 ぼくは顔をあげ、

「森には行ったんですか」と警察の人を見た。

「行ってないですね。じゃあこの手紙はやっぱりきみが?」

「どうして行かないんですか」ぼくはもう泣きだしそうだった。いいや、本当はもうとっくに泣いているのかもしれないけれど、顔を流れるこれが汗なのか涙なのか、ぼくには区別がつかなかった。

「森に行ってほしかったのかな」もう一人の警察の人が言った。ぼくのおじぃちゃんくらいの歳に見える。やさしい声音で、ぼくは安心してしまって、はい、とうなづいた。

「どうしてだろう。財布の持ち主の人とは知り合いだったのかな」

 ぼくは首を振る。よこにだ。

「死体がここに埋まってるって書いてあったよね手紙に。あれはどういう意味? どうしてそこに死体があると思ったの」

「見たんです」ぼくは言った。事情は分からないけれど、警察はなぜかぼくに照準を絞っているように感じた。財布の持ち主の失踪と関係しているものと見ているのか、それとも単なるイタズラを咎めようとの魂胆なのか。狙いの内容にかかわらず、ぼくはいま、よくない立場にいると思った。

 手紙の内容を信じてもらえていないことが最低だった。最低の気分だし、展開としてもいちばんあってほしくない肩透かしはなはだしい結果だった。

「死体を見たんです」ぼくは言い張った。

 財布は森で拾った。死体を見たけど怖かったし、信じてもらえそうになかったから、一計を案じた。

 無理を承知でぼくは言い張った。

 ひょっとしたら警察はすでに、町中のカメラを調べて、財布の持ち主の人がヨシダくんといっしょに連れ立って歩いている姿を見つけているかもしれない。

 ファーストフード店でいっしょにいた子は誰か、と一度も訊かれなかったことが、ぼくの妄想に一定の信憑性を与えた。

 警察はぼくの話を端から疑っている。

 けれどもきっと、ぼくが失踪事件に関わっているものと見て、探りを入れている。

 だったらてっとり早く森に足を運んでみてくれればよかったのに、きっと警察はちゃんとした証言や証拠がなければ、人員を動かせないのかもしれなかった。

 いまはまだイタズラの線を出ない。

 イタズラの手紙を根拠に捜査員を動かすには、事件性が足りないのかもしれなかった。

 だからぼくは言い張った。

 死体はある。

 森に行けばそこに財布の持ち主の死体があるのだ、と。

 警察の人は顔を見合わせ、席を外した。

 いったん家のそとに出て、自動車のそばで話し合っている。

 一人はメディ端末で誰かと連絡を取り合っているようだ。カーテン越しにその姿が見えたし、換気のために開いた窓から声がほそぼそと漏れ聞こえた。

「だいじょうぶ?」

 お母さんがお茶を淹れてくれた。「お母さん、よく分からないんだけど、何かこわい目に遭ったの? 森とか死体とか物騒なこと言ってけど」

「森のなかで死体があって」ぼくはそこで言葉を切った。

 お母さんはうしろからぼくの頭をぎゅっと抱えこんで、つらかったね、と一言つぶやきぼくを解放した。

 ぼくは胸が痛んだ。胸の真ん中に渦ができて、きゅうっと縮んでいく感じがした。

 警察の人たちが戻ってくる。居間の戸を潜りきらぬままに、

「案内してもらってもいいですか」

 どこへ、と問うまでもなく、森へ、と警察の人は言った。

 自動車の後部座席に乗り込み、ぼくは森まで警察の人たちを案内した。

 途中で公園のまえを通った。

 入り口のところで遊具のほうを眺めているヨシダくんの姿を目にし、通り過ぎる間際に、窓越しに目が合った。

 ヨシダくんは一瞬だけぽかんとしたけれど、すぐに事情を呑み込んだのか、それともぼくが約束を破ったからか、目つき鋭くどこまでもぼくを目で追った。

 ぼくも窓に齧りついて、ヨシダくんの姿が景色の奥に見えなくなるまで見つづけた。

 警察の人はぼくに気を払っていない。助手席の人はメディア端末をいじり、運転席の人は音楽に合わせて口笛を吹いていた。ハンドルを握っているのは年配の人のほうだ。

 ぼくの緊張を和らげようとしてくれているのか、これ若い人に人気なんでしょ、と曲が変わるごとに話題を振った。ぼくは音楽に興味がなかったので、そうみたいですね、と上の空で応じた。

 自動車は森からすこし離れた空き地に停車した。砂利の上にロープで区切りがしてある。駐車場なのかもしれないけれど自動車はほかに停まっていなかった。

 森の入り口までは徒歩で十分くらいの距離だ。

 案内してくれるかな、と警察の人が言った。若いのほうの人が、ここで待ってますね、と自動車のボンネットにお尻を乗っけて言ったけれど、年配の人のほうが、おめも来い、とつぶやくと、若い人のほうはおとなしく従った。

 年配の人はぼくには穏やかに接してくれるけれど、どうやら若い人は年配の人には頭が上がらないようだ。それでも気さくに話しかけているので、上司と部下という関係には見えなかった。

 森の入り口をまたぐ。

 歩を進めるほど辺りは薄暗く、ひんやりとしていく。

 砂利道が徐々に腐葉土の絨毯になる。

 分かれ道が見える。

 突き当りの丘のまえでぼくは二の足を踏んだ。

 怖いのだ。

 二重に。

 このさきに控えているだろう青白い物体の存在が。

 そして、ひょっとしたらこの先にそんな存在などいないかもしれない現実が。

 チュルさんが食べられてしまった光景を目の当たりにしてからぼくはずっと現実味の薄らいだ無味乾燥な世界を生きていた。

 まだ一週間も経っていないのに、ぼくはもう何年もまともな生活を送っていないような心地がした。

 ぼくがぼくでなくなってしまったかのような。

 もうこの世界は、以前の世界ではないような違和感に包まれていた。

 ひょっとしてぼくは警察の人たちが疑っているように、ただ取り返しのつかないイタズラをしてしまっただけなのではないか。

 青白い物体も、ヨシダくんも、チュルさんも、そのほかのこの数日のあいだにあった出来事はすべてぼくの妄想なのではないか。

「この奥?」

「はい。ここをのぼったさきで」

 警察の人は壁の窪みに足をかけた。「どっこいせ」

 あっけらかんとした緊張感のない背中を眺めているうちにぼくは、このさきには何もなく、ただどこまでも鬱蒼と茂る草木があるばかりで、数分後には警察の人が肩を竦めてぼくに事情を問いただす未来が待ち受けているのではないか、との予感が胸に湧いた。

 それは不安の含有された期待とも呼べるもので、肉を切らせて骨を断つのような、できればどちらも避けたいけれど、仮に骨を断てるのならば警察の人に逮捕されるくらいならそれもまたよしと思えるような、どうしようもない祈りのようなものだった。

 ぼくはもう一人の警察の人に肩を押さえられている。年配の人のほうだ。逃げないようにとの配慮なのだろうけれど、ぼくにはその手の温かさに安らぎを抱けた。

 丘のほうから、声があがった。逼迫した声だ。

 ちょっときてください、と若いほうの警察の人が声を裏返えらせながらもういちど言った。「ちょっと来てはやく」

「んだっちゃ」ため息交じりに年配の人はぼくの背中を押した。先にどうぞ、とさも優先するかのようにぼくを先に行かせた。支えはいらないのに、いつまでも背中にその人の手のひらが添えられていた。

 丘を登りきると、若いほうの警察の人が、棒きれを手に取っているところだった。

「なんだありゃ」

 年配の人は前髪を掻きあげて目を見開いた。

 ぼくは彼の背中越しに、地面にびっしりと青白い玉が無数に、キノコ然と生え揃っているのを目にした。

 その中心にはポスト台の青白い物体が立っている。カタツムリが角を出すときのように、頭からむにゅむにゅと触手を伸ばしつつあった。

 先に到着していた若いほうの警察の人が、足元の青白い玉を踏んづけた。偶然ではなく、はっきりと意図して行った所作だと判断ついた。

 確かめたのだ。

 それが何であるのかを。

 中心に立つ本体たる青白い物体の動きがのろいからか、危機感を抱いている様子はなかった。ただただ目のまえの光景の異様さに、好奇心を刺激され、興奮しているようだった。

 年配のほうの警察の人がぼくを振り返った。

「これを見せたかったのかキミ」

 目は鋭く、なぜ隠していたのだ、と責めているようにも、素の表情をさらけだしているだけのようにも見えた。

 ぼくは頷き、あれが人を食べたんです、と言った。

 背後から足音が聞こえた。

 足音は丘を駆けあがり、ぼくの背後で止まった。

「どういうことだよこれ」

 声の主は怒りに歪んだ表情でぼくをねめつけた。「なんで言っちゃうんだよ、そういうことをさァ」

 聞かれてしまったようだ。

 ぼくは年配の警察の人の背中に隠れた。

 あのコは、と質されたけれど、ぼくが答える前に、ああひょっとして財布の、と監視カメラにぼくと一緒に映っていた子どもなのだと年配の警察の人は見做したようだった。

 そこで背後から、すなわち青白い物体のある方向から悲鳴があがった。

 ぼくは年配の警察の人の腰に縋りつきながら、背中を無防備にしないように反転すると、視線の先ではいままさに触手にぐるぐる巻きにされて、逆さづりにされている若いほうの警察の人の姿があった。

 否、もはやそれが誰なのかが判らないほどに触手でぐるぐる巻きになっている。

 前以ってそこにいたのが誰かを知らなければ、そういった巨大な実を青白い物体がつけたのかと錯覚したかもしれない。

 呻き声がしていたいたけれど、触手の実がぎゅうと縮むと、ぱたりと声は途絶えた。

 音もなく触手の実は、青白い物体の頭上に移動し、するすると丸呑みにされた。刀を鞘に納めるような滑らかさがあった。

 年配の警察の人は呆気にとられていた。状況が把握しきれないのだろう、何かを言いたげに口を開け閉めし、中途半端にあげられた腕で虚空を指さした。

 なんだあれ、と言いたげではあるけれど、どこに問うても答えが返ってくるはずもないと判りきっているような諦めの気持ちが透けて見えた。

 ヨシダくんが笑っている。

 笑い声だけがぼくの耳に届いた。

 ぼくは青白い物体の食事風景から目を逸らすことができなかった。つぎにああなっているのはぼくかもしれないのだ。

 脛に何かが触れた。

 ぼくは飛び跳ねた。

 青白いヘビのようなものが足元でくねくねと身じろいでいた。

 ぼくは退避する。

 距離を置くぼくをそれは追うことなく、その場から動けなくなっていた年配の警察の人の足に絡みついた。

 表面を覆い尽くしながらそれは年配の警察の人を逆さに吊った。本体の頭上へと運ばれると、そのまま年配の警察の人もまたなす術もなく丸呑みにされた。年配の警察の人に抵抗した素振りはなく、ひょっとしたら首か何かをさきにへし折られていたのかもしれない。

 それとも毒のようなものがあるのかも。

 ぼくはいまさらのように場違いな憶測を巡らせ、それが判ったところでどうすることもできないのだ、と絶望に拍車をかけた。

 ヨシダくんがお腹を抱えている。

 楽しくてしょうがないみたいだ。

 それはそうだろう。

 裏切り者のぼくが施した策がこうもものの見事に粉砕され、これからぼくはおそらくと言わずして十中八九、罰を受けるのだから。

 ぼくもまた糧にされてしまうのだろうから。

 青白い物体の周囲には相も変わらず無数の玉がキノコみたいに生えている。

 その合間を縫うように青白い触手が地面を這う。

 ぼくの足元までそれは伸びてくる。

 ぼくは身体の動かし方を忘れてしまったようだった。逃げたいのに、どうすれば逃げられるのかが分からない。

 分からないからその場に留まって、きたる未来に、もしもの期待をかけるしかなかった。

 もしもなんて起きるわけがないのに、ぼくはただそうやって現実逃避をする以外に目のまえに迫りくる脅威への対処法をひねくりだせなかった。

 それはひょっとしたら、じっとしていれば苦しまずにやさしくしてくれるのではないかとの浅い考えがあったのかもしれないし、やさしくしてくれるって何をだろう、と考えを深めることすらできなくなっていただけかもしれない。

 ヨシダくんがそばに寄ってきて、満面の笑みで手を振っている。

 ばいばい、とすがすがしさすら感じられる屈託のなさで。

 足元をヘビのように這う触手はなぜかぼくの足をすり抜けて、ヨシダくんの足に巻きついた。

 あれ、とぼくは思い、んんっ、とヨシダくんの顔からも笑みが失せた。

 するするとヨシダくんの身体に巻きつくと触手は、一瞬だけ動きを止めた。

 触手の表面が硬くなったみたいに光沢が増し、きゅっと締めるような音がしたかと思うと、なぜかヨシダくんの顔が、かっくんと真横に倒れた。

 うつろな眼差しがぼくを見詰めた。

 けれど間もなくヨシダくんの目からは光が失せ、視線もどこを見ているのか分からず、眼球は左右でバラバラに傾いた。

 ヨシダくんは逆さ吊りにされ、警察の人たちがされたように、もしくはチュルさんがそうされていたように、青白い物体に頭から丸呑みにされた。

 ぼくは夢を見ているようだった。

 夢であればいいな、とつよく思った。

 けれど風は冷たく、裂けた腸から漂ってくるのか、丸呑みにされた三人の誰かのものだろう、ウンチに似た臭いが辺りに立ち込めた。

 よく見ると、伸びた触手の一部が地面に突き刺さっている。ミミズのように蠢くたびに、ポンプじみて、触手の管の内部を、黒い塊が流れるのが見えた。

 地面は盛りあがり、そこに何かが埋まったのだと判る。

 よく見ると、青白い物体の後ろのほうには似たような盛りあがりがいくつもできていた。吸収できなかった不要物をそうして排泄しているのかもしれなかった。

 青白い物体の表面に顔が浮かんだ。ぼくはじぶんが震えているのを、寒いからだと思った。

「ありがとうございます」青白い物体はなぜか礼を述べた。「良質なニエでした。次回もこのようなニエであると好ましく思います」

「ど、どうしてですか」ぼくはしきりに溢れる涙を煩わしく思いながら、どうしてヨシダくんを、と問うた。「ヨシダくんを、どうして食べちゃったりしたんですか」

 あんなにあなたを想っていたのに。

 協力してあげていたのに。

「どうして食べてはいけないのですか。彼よりもあなたのほうがよい働きをしてくれます。彼は一度もきょうのようなニエを用意してはくれませんでした。あなたには能力があるようです。私にはもっと多くのニエがいります。きょうのような上質なニエであると好ましく思います」

「警察の人がいいんですか」

「そう、ですね。私に足りないモノを帯びている者たちであるとより好ましいようです」

 ぼくは合点した。

 青白い物体に、庇護など必要ないのだ。

 必要なのはただ一点、餌となる人間だけなのだ。

 よりこの社会の構造を知り得る者であればなおいい、という判断基準が青白い物体には備わっている。

 ヨシダくんは誤解していたのだ。

 判断を、間違った。

 通報は、裏切りではない。

 より広くこの場所を人々に知らしめて、この場に足を運ぶ者を増やすことが、ぼくたち魅入られた者のとるべき選択だったのだ。

 ぼくは泣きながら、どうしても顔の筋肉が弛緩するのを拒めなかった。ぼくは手の甲で目元を拭った。

「つぎはもっと多く、持ってこられると思います」

「あなたにはたいへん期待しています」

 足元にずらりと生え揃う青白い玉が一斉に花開き、細く糸のような触手を、イソギンチャクのごとくわさわさと躍らせた。

 ぼくはそれを見て、きれいだな、と思う。

 全身は痺れたように凍えており、青白い物体からは顔が失せ、辺りは静けさに支配される。

 ぼくは森を一人で引き返す。

 つぎはもっと大勢を引き連れて、舞い戻るために。

 ふだんは奏でることのない口笛を吹きながらぼくは、家に帰ったあとでお母さんになんと説明しようか、と考える。

 警察の人の行方をきっと訊かれる。

 みんながみんな、ぼくに猜疑の目を向ける。

 面倒に思いぼくは、いっそみんな消えてしまえばいいのに、と思った。

 あの人はいちどにどれだけを食べきれるのだろう。

 ふと疑問に思い、あす、質問してみようかな、とぼくは誰にともつかぬ曖昧な予定を立て、夕暮れの道をひた歩く。




【繭の娘】


 きょうこそミカさんに告白しようと思って、学校帰りにあとを尾行(つ)けていたら、ミカさんの背中から、ころん、と何かが転がり落ちた。

 なんだ、と目を凝らす。

 髪の毛が千切れたようにも、あるはずのない尻尾が剥がれ落ちたようにも見えた。ともかくソレはミカさんが落としたもので、私は素早くソレを拾いに走った。

 面をあげると、沈む夕陽に染み入るようにミカさんが遠ざかっていく。

 私は逡巡した挙句、せっかく固めた告白の覚悟をふにゅりとほぐして、きょうのところは家に引き返すことにした。

 手の中には、黄土色の卵のようなものがある。ミカさんの落し物だ。

 私はふわふわと夢心地のように、地面から三十センチは宙に浮きながら帰宅した。どうしよう、と顔がほころびて仕方がない。

 宝物を拾ってしまった。

 着替えもせずにじぶんの部屋のベッドに寝転び、子猫を顔のまえに抱き上げるようにして、拾ってきた宝物を、ミカさんの落し物を、掲げる。

「なんだろう、これ」

 掌に包みこめる大きさだ。光沢がある。一見すれば金の卵のようだが、表面には無数の皺が寄っていて、アボカドに似ていなくもない。

 ひどく硬い。

 握りつぶすことはできないが、たとえできたとしても、せっかくの宝物を潰したくはない。

 私はそれを後生大事に胸に抱きながら、ベッドのなかで刺激的な妄想をして、すこしだけ体力を消耗した。

 そのまま寝てしまったらしく、夢心地に、夕飯だよ、と親が呼びにきたのを、邪魔だなぁ、と思ったのだけを憶えている。

 翌朝目覚めると、あるはずの宝物がベッドの中から消えていた。心臓が張り裂けそうなほどに焦ったが、部屋の扉が開いており、隙間から息を荒らげたランが駆け寄ってきた。ランは脚の短いむくむくの犬だ。

「なるほど、さてはおまえが盗んだな」ランを抱きあげて、私はずばり見抜いた。「どこに隠したのかを白状したら怒らないでおいてあげる」

 半ば脅すと、ランは尻尾を股のあいだに隠し、くぅん、と鳴いた。

「かわいこぶってもダメ。どこに隠したの。教えないとおやつ抜きだよ」

 ランは短い足をせわしく動かして、部屋から出ていく。後を追う。

 ランは庭にでた。

 大きな樹がある。むかしはよく木登りをして、屋根伝いにじぶんの部屋まであがったものだ。

 樹の真下に犬小屋がある。

 いつもは家のなかで暮らしているランであるけれど、元々はここに繋いで飼っていた。犬小屋は長らく放置されていて、いまでは弟の洗った運動靴の干場になっている。

 ランは犬小屋の裏に回った。両足で以って地面を二度、三度と踏む。

「ここに埋めたわけだ?」

「わんわん」

「どうしてくれよう。アレは私にとってひょっとしたらおまえよりもたいせつなものかもしれないんだぞ」

「くぅん」

「さては嫉妬したな」

 うるうるした目で見あげられたら、しょうがない、の溜め息を吐くよりない。

「もうしないって約束してね」

「わん」

 地面を掘り返すと、数々のガラクタが発掘された。それらはおおむね家のなかからなくなって、母や父や弟たちが大騒ぎしていた雑貨だったが、掘れども掘れども私の宝物、ミカさんの落し物が見つからない。

「やっぱり許すのやめよっかな」

「くぅん」

 その日は諦めて、ほかの場所を探すことにした。けっきょく落し物は見つからなかった。

 翌日の朝に早起きをして探したけれど、やはりなかった。行ってきます、と分厚い曇天のような気分で家をでたが、空は嘘みたいに秋晴れだった。

 学校に行ってもミカさんとは学年が違うので、なかなか話せる時間を確保できない。というよりも私が一方的に憧れているだけなので、話せたことがそもそもすくない。

 ふだんは学校が終わったらミカさんを見守るために放課後の校舎から部活動に励むミカさんを眺めたり、家までの道中で買い食いをしてほくほく顔のミカさんを観察したりした。

 でもきょうはそうした日課を振り切って、家に帰って宝物の捜索を再開した。

 まずは昨日探した犬小屋の周辺をもういちど探そうと思い、庭にでると、昨日までなかった草が生えていた。私の膝の高さくらいの背丈がある。

 陽の光を受けてなのか、茎や葉が金色に輝いて見えた。珍しい植物だ。見たことがない。

 いったいこれはなんだろう、と思い、はたと、その色合いが私の宝物、ミカさんの落し物と重なった。

 ひょっとして、アレがコレなのか?

 しかしランが土に埋めたからといって一晩でここまで育つだろうか。

 訝ったが、私は金色の植物を根本からスコップで掬った。捨て置かれたカラの植木鉢に移し、土を被せて、部屋に運ぶ。

 それからというもの、私は金色の植物にかかりきりになった。ずっと見ていられる。葉脈の紋様だけでも美しく、日に日に育つ様は、我が子のように愛おしい。

 もちろんコレがミカさんの落し物から萌えた植物だから、という前提のもとでの耽溺であったが、それを度外視してもマユユの成長具合には目を瞠るものがあった。

 マユユというのは私がソレに与えた名だ。

 マユユはおよそ十日という短期間で、私の背丈を追い越した。自身の茎を芯として、枝葉を蔦のようにくるくると巻きつけると、それからさらに三日をかけて、マユユは人型のカタチをとったのだ。

「まさか、ね」

 名前の由来はもちろんその形状にあった。繭のようになったマユユはふしぎと、ミカさんの輪郭と瓜二つのカタチを帯びた。私はことさら水をやり、養分を与えたけれど、それらの行為がどれほどマユユの成長具合に貢献できたのかは分からない。

 マユユを庭から拾いあげてから十五日後、それは起こった。

 明け方に、パリパリという音が聞こえ目覚めた。私は夢の中で、ミカさんと仲睦まじくデートをしていたのだが、目覚める瞬間には、なぜかミカさんの顔に目や鼻がなく、金色のつるんとしたマネキンのようだった。

 ぎょっとしたが、それが夢だと自覚できた。

 パリパリの音が現実のほうから聞こえている。バリバリの合間を縫って、どすん、と何かが床を踏み鳴らす音がし、私の眠気はそのときに至ってようやくというべきか吹き飛んだ。

 ベッドから飛び起きる。とはいえ上半身を起こしただけだ。ネズミ捕りの罠みたいに、びよんと起きた。チーズが置いてあって、ばちんとネズミを挟むタイプの罠だが、現物を見たことはない。

 音のしたほうを見遣る。

 マユユの置き場所のほうだ。

 私は息を呑む。マユユのあるべき場所に、その影はなく、床には背を丸め這いつくばる裸体の人間がいた。

 カーテンの隙間からは朝陽が差している。

 裸体の人間の肌は金色ではなかった。

 ミカさんのそれのように、小麦色に焼けた美しい肌だった。

 私はベッドから足を投げだし、ソレを助け起こす。

 ソレはまさしくミカさんの相貌と瓜二つであった。窓際の植木鉢からはマユユの姿は消えていた。床には殻のようにパリパリに割れた破片が散乱しており、全部足しても両手で包めるくらいの分量しかないように見えた。

 私は悟った。

 孵ったのだ。

 人型の苗から。

 繭を破り、羽化する蚕のごとく。

 マユユは震えていた。身体を拭いてやり、パジャマを着させ、ベッドに寝かせて、私は台所に下りた。母が先に朝食を食べており、きょうは早起きだね、とさも天変地異が起きるのではないか、といった表情で窓のそとを見た。

「きょうからお弁当つくろうと思って」私はサンドウィッチを作った。ゆで卵を掻き混ぜて、トーストで挟んで、それを一口サイズに切り分ける。ヨーグルトを器によそい、二階の自室に運ぶ。

「慌てちゃって変なの」母の陽気な声が聞こえた。

 マユユはおとなしくベッドで寝ていた。サンドウィッチを与えると、よく食べた。喉が渇いたのか、ヨーグルトを喉を鳴らして飲み干した。

「もっとほしい?」

「ほしい」

 私は驚いたが、ほっとしてもいた。マユユは言葉をしゃべれる。赤ちゃんではない。意思の疎通が図れる。

 どこまで知性があるのかはまだ分からないが、これなら隠れて彼女を育てても当分は誤魔化せそうだ。

 お代わりのヨーグルトと、ペットボトル飲料を部屋に運んだ。

 初日から怪しまれるわけにはいかないので、学校には行く。だがそれまでに、マユユには言いつけておかなければならないことがたくさんあった。

 まずは文字が読めるのか、言葉がどれほど通じるのかを確かめた。

 問答を繰り返すうちに、どうやらマユユにはミカさんと共通する記憶があることが分かった。

 なぜじぶんがここにいるのか、とふしぎがっていた。彼女にとっては帰宅途中に急に意識を失って、目覚めたらここにいた、といった顛末として記憶されているらしかった。ところどころ記憶があやふやで、じぶんの家のことは憶えていても、じぶんの名前は忘れている。

「あなたはマユユ。マユユは私の親友」

 私は彼女に、あなたはストーカーに追われていて、ひどい目に遭わされた、と語った。もちろん嘘だ。身体は無事だったが、私はあなたに頼まれてしばらくのあいだ匿うことにしたのだ、と嘘を重ねた。

 彼女は私の言うことを信じたようだ。私が制服を着ていたことも関係あるのかもしれない。同じ学校に通う、しかも学年の下の子の言うことならば、ひとまずは受け入れられたのかもしれない。それはそうだ。いくらなんでも、私がミカさん本人を相手取って、このような拉致まがいの凶行を働けるわけがない。

 きっとミカさんの記憶を伴なっているマユユはそう判断を逞しくしたに違いない。

 私はじぶんの分のサンドウィッチを彼女に与え、お昼はそれを食べてね、と言い添えて、家を出た。敢えて、外出するな、とは言わなかった。

 命じれば彼女のことだ、それを試そうとするだろう。だが禁止しなければ、まっとうな理性を働かせて、体力の回復を優先するはずだ。つまり、しばらくは私の部屋で匿われることを潔しとする。

 彼女は賢い。だが情報の偏りがあるいまはまだ、私のほうに分があると言えた。

 学校で授業を受けているあいだは何も頭に入らなかった。家に置いてきたマユユのことばかり考える。両親は共働きで日中は家にいない。目下の懸案事項としては、弟よりも早く家に帰ることだ。

 部屋に鍵をつくらなくては。

 いちおう、マユユに頼んで、内側からドアのまえに本の詰まった段ボールを置いてもらったが、それだけでは心もとない。なぜならドアが開かなければ中に誰かがいると考えるのがふつうだからだ。部屋を誰かが開けようとしただけでもマユユの存在は露呈する。

 放課後、まっすぐ帰宅の途についた。ミカさん本人の姿を目の端に捉えたが、いまはこっちが優先だ。

 私だけのマユユ。

 私だけのミカさん。

 初めて家まで走って帰った。不安なのに、同じだけ胸が弾む。

 家の鍵を開錠する。

 まだ誰も帰ってきていない。よかった。

 階段を駆けあがり、ただいま、と戸のまえで声をかける。ドアを押すが、段ボールが邪魔でなかなか開かない。

「マユユ、私。開けて。ただいま」

 トテトテと足音がし、ずるずる、と段ボールを引きずる音がする。

 扉の隙間から愛しのミカさんと同じ顔が覗く。「おかえり」

「ただいま、マユユ」

 私はマユユに抱きついた。腕に伝わる肉のやわらかさと、熱いとすら感じる体温のぬくもりに、しまった、と思うが、私の心配をよそに、マユユは抱きしめ返してくれた。

「おかえり。ちゃんとおとなしくしてたよ。でも二回だけ部屋のそとに出ちゃった」

「なんで」

「だって、漏らしちゃうよりいいでしょ」

 あ、と思う。

 トイレのことをすっかり忘れていた。

「ごめん、そうだよね。そうだった」

「オムツ履こうか?」

「ぶふっ」

「だって、ねぇ?」

「いやいや。え、真面目に?」

「好きなときにおトイレに立っていいなら別になくてもいいけど」

「ああ、そっか。そうだね」

 さっそく懸案事項発生だ。

 なんとかするっきゃない。

 親は基本的に寝る以外のときは一階の居間にいる。弟も二階には滅多にあがってこないが、小学生ゆえに行動の予想がつかない分、厄介だ。一人かくれんぼ、とか言いながら、洗面台の下に隠れていて、歯を磨いていると、わっ、と脅かしてきたりする。座敷童か。

 最初の一週間はよかった。

 土日以外の日中はマユユも家のなかを好きに歩き回れる。そのあいだにお風呂に入ってもいいし、冷蔵庫を漁って好きなものを食べてもいい。ただし、メディア端末の類は与えない。情報を漁られて、本物のミカさんの個人情報に行き当ったら、いろいろと私にとって好ましくない展開に傾きかねない。

 端的に、私の吐いた嘘がばれる。

 ミカさんの記憶を有しているマユユゆえ、ネットに繋がれば当然、じぶんの情報にアクセスするはずだ。それは避けたい。

 マユユにはできるだけ窮屈な思いをしてほしくはないけれど、なんでもは与えられない。私はマユユのためならばなんでもしてあげたいけれど、私たちの縁が切れるくらいならば、マユユから自由を奪うことも辞さない覚悟がある。

 それがマユユにとっての本当の自由に近づくことだと思うからだ。

 どの道、マユユは社会に馴染むことはできない。

 黄金の植物から孵った、人のナリをした、それ以外の存在だ。

 けれど私は、そんなマユユを人として見做し、扱い、愛することができる。

 そう、これは愛だ。

 愛のためならば、愛しいひとを傷つける道も辞さない。大きい愛のためなのだ。小さな愛くらいは捨ててもいい。

 そもそも私自身が、誰よりも傷ついている。愛しい人を傷つけているのだ。傷ついて当然ではないか。

 これは罰だ。

 しかし愛のためである。受け入れるしかない。

 マユユが繭から孵ってから、十日もすると、さすがに母親が、食料の減り具合に疑問を抱きはじめた。

「なんか最近、冷蔵庫のなかの減りが激しいんだけど、なんで?」

 私はいままさに、調理したばかりのチャーハンを自室に運ぼうとしていたので、さあ、と空とぼける。ソファのうえでは弟がゲームに興じている。

「お姉ちゃん、さいきん食べすぎ」弟が言った。

「わたしもそう思う」母が追従する。

「成長期かな。成長期だな。やはは、お腹が空いちゃって、空いちゃって」

「食べるならここで食べなよ。なんでわざわざ上に持ってくの」

「いろいろやりながら食べたいんだよ。忙しいの」

「ふうん」母はこれみよがしに弟と顔を見合わせる。

「いいでしょべつに。お金かかるならお小遣いで買うし」

「いいのよ、遠慮しないで食べて。ただ、ちょっと心配」

「何が」

「そんなに食べて身体壊さない?」

「いっぱい動いてるもん」

「そうなの? やつれてて心配」

 母たちからすれば食欲の増したはずの娘が、日に日にやつれていくのでふしぎに映っているのだ。それはそうだ。私とて毎日二人分の食事は用意できない。足りない分の食事は、私の分をマユユに与えていた。

「ダイエットしてて」

「えー、そんなに食べるのに?」

「いっぱい食べてもだいじょうぶなダイエットだから」

「へんなの」

「いいでしょ、ほっといて」

 私は戸を閉め、階段をのぼった。我ながら苦しい言い訳だった。足を踏み鳴らしたかったけれど、上で聞いているだろうマユユに私の恥部を晒すわけにはいかぬのだ。

 部屋に入り、扉の鍵を施錠する。

 鍵はマユユの案を採用した。扉の真上の壁に釘を打ち、鎖を絡めて、取っ手と結びつけることで、外から扉が開かないように細工した。内側から扉を開けたいときは鎖を取っ手から外せばいい。単純な仕掛けだが、強固さは折り紙つきだ。外部からはまず開けられない。

 夕飯をマユユと共にとる。

 会話は最小限だ。一階の声がマユユに聞こえ得るように、この部屋の声もまた下まで漏れてしまう。

 マユユとはメディア端末のテキストでやりとりした。音楽を流しているので、一言二言程度ならば、言葉も交わせる。

「記憶のほうはどう? 思いだしてきた?」

「ううん」

 マユユはテーブルの真ん中に置いた端末を手に取り、文字を打つ。長文だ。千文字はある。すらすらと文字を打つので、日常生活における身体の記憶は失われていないのだな、とふしぎに思う。

 テキストの内容は、

 いまのところはまだ断片的な記憶しかなく、じぶんが何者なのかも曖昧である。

 というふうなことが書かれていた。

 私は不安に思いながら、私のことは憶えているか、と訊ねる。憶えているはずがないのだ。なにせ、接点はほとんどない。一方的に私のほうでつきまとっていただけなのだから。

 ゆえに、

「憶えてる」とマユユが言ったので、私の心臓は跳ねた。「どういうふうに?」

「なんか、たいせつな人だったなって」

 曖昧な言い方に、気を使ってくれているのだろう、と思った。本当は思いだせないが、私の献身的な素振りから、真実にたいせつに思われていると察してくれたがゆえに、こうしてこちらの心情を慮った言葉をつむぐのだ。

 やさしい。

 そのやさしさがうれしくもあり、つらくもあった。

 私は彼女を騙している。

 呵責の念がふつふつと湧きたつが、振り払うように彼女の手に触れる。彼女のほうから手を握ってくれた。そこで湧きあがるうれしさで、私はじぶんの罪過から目を逸らす。

 同じ空気を吸い、熱を感じ、肌に触れるだけでもこんなにも至福に思える。

 だが家にいるかぎり、足元からは、父や母の、TVを観てあげる笑い声が聞こえ、弟の癇癪じみた喚き声が聞こえる。

 さいあくだ。

 至福と地獄がないまぜとなって私たちを取り巻く。

 このままずっとこの生活をつづけていくことはできない。どこかでそう遠くないうちに破綻する。私の精神のほうで耐えられそうにない。

 たとえつづけられたとしても、こんな生活を送らせていたのでは、マユユの身体のほうが持たないだろう。それこそ、私の愛おしい、ミカさんの人格が刻一刻と歪んでいく。

 だが同時に、私の内面にも変化が及んでいた。侵食されはじめていた、とそれを言い換えてもよい。

 学校でマユユのオリジン、ミカさん本人を見かけても、私は前ほどには目がいかなくなった。以前は目の端に映るだけでもミカさんだ、と判ったし、廊下に漂う残り香りだけでも、ミカさんが数分前にここを通ったな、と確信を抱けたほどだ。

 けれどいまはもう、そこまでの張り詰めた執着心は薄れ、ともかく一刻でも早く家に帰りたい思いが、私の胸中を支配していた。

 学校帰りにミカさんを尾行けまわすなんて真似もしない。

 着々と私のなかからはミカさんの存在が薄れていった。

 否、それら執着は、綿飴のごとく角砂糖の糸を巻き取るように、総じてマユユへの愛着に変換されている。

 私にとって本物はもはや、オリジンたるミカさんではなく、私の部屋で私のことを待ちわびているマユユのほうだった。

「ねえ、いつまでこうしてなきゃいけないのかな」食事を終えたあと、マユユは心底不安だといった表情で言った。「わたしを襲った人って、どういう人なの。警察に相談したりしなくていいのかな」

「だいじょうぶだよ。私がいま、信頼できる人に頼んで、対処してもらっているから」

 言いながら内心では、あと二年だけ待ってほしい、と苦しい望みを唱える。

 あと二年あれば高校を卒業して、働ける。そうでなくとも、この家ではない場所に引っ越し、マユユと二人暮らしができる。それまでせめてこのまま何にも疑問を抱かずにおとなしくしててほしい、と思うが、あと二年か、とその途方もない長さに目めまいがする。

「わたしはいいんだけど、だってつらいでしょ。いつまでも他人を匿うの、わたしだったらたいへんで、途中で嫌になっちゃいそうだから」

「ぜんぜん。いっしょにいられてうれしいよ。マユユに不自由な思いをさせてごめんなさいって思ってるくらいだから、私のほうこそ許してだよ」

「やさしいな。泣いちゃう」

 マユユは子どもをあやすように、わかりやすくめそめそした。私は胸のうちが、きゅうん、となって、いまにも押し倒したくなってしまうけれど、信頼関係がまずはだいじだと知っているから、そういう真似はいまはしない。

 たとえ好機が巡ってきたところで、どの道、家族の目を気にしては本気で愛し合う真似はできないのだ。私はできるだけ愛の行為に没頭したい。誰の目も気にせずに、思う存分に欲望に身を委ねたいのだ。

 私のこうした下心も、マユユには伝わっているだろう。それでも私を拒まない彼女に、私はなぜか、もっと早くこうしていればよかった、の気持ちを覚える。彼女はミカさんではないのに、あたかも私がミカさんにまっとうに声をかけていれば、縁がこうしてつつがなく繋がったのだと錯誤してしまいそうになる。

「髪の毛伸びてきたね。あとで切ってあげる」彼女の髪に触れる。

「いいよこのままで」

「じゃ、前髪だけ」

「いいけど変にしないでね」いちどは許可してくれやマユユだったが、前髪をぱっつんと切り揃えてしまってからはもう、私にハサミを握らせてはくれなかった。

「罰としてお洋服、もっと貸して」

「いいけど、着れる? 胸とかきつそう」

「太ってるって言いたいのかな」

「違うってば」

 なんのかんのと言いあいながらも、こんな時間がずっとつづけばいいな、と祈る日々だ。

 夜、顔に保湿液を塗る母に、私はお小遣いの増額をねだった。

「んー。ちゃんとお小遣いはあげてるじゃない。何か欲しいものあるの? だったらちゃんとそう言ってくれれば買ってあげるのに」

「そういうのじゃなくて。いつでも好きなもの買いたいでしょ」

「いまある分は何に使っちゃったの?」

「えー。お菓子とか」

「お菓子ってあなた」

「服も欲しいし。下着とか」

「色気づいちゃってまぁ」

「ふつうでしょ。もう私、高校生だからね」

「そうだね。でも高校生にそんなにたくさんお小遣いはあげられません」

「じゃあバイトするから許可して」

「ダメです」

「なんで」

「まずは学業に専念なさいな。部活動だって入ってないんでしょ。部屋に閉じこもって何してるか分からないけど、このごろすこし変よ」

「山口さんちのツトム君じゃないんだから」そういう歌がむかしあった。NHKのみんなの歌で流れていた。「わかったもういい、頼まない」

 部屋からでていこうとすると、我が弟が進路を塞いだ。「おかね足りないの? ぼくのあげよっか?」

 いらん世話を焼くな。

 無性にイライラした。

 私がどんなにたいへんな思いをしているのか誰も理解してくれない。理由すら話せない悩みを抱えているなどと、誰も想像すらしてくれないのだ。

 部屋に戻ると、マユユが、私に寄ってきて身体を支えてくれる。そのままベッドに腰掛ける。私は彼女の肩にあたまを預けて、しばらくじっとしていた。

 明かりはない。

 カーテン越しに差しこむ月光がふんわりとした陰影を部屋のなかに浮かべる。

「もっと自由になりたいよ」

「なれるよきっと」

「ずっといっしょにいたいだけなのに」

「わたし、あすここを出ていこうと思って」

 急な告白に、私は彼女の腕を掴んだ。「なんでそういうこと言うの」

「だってこれ以上迷惑かけられない。だいじょうぶ。記憶もだいぶ戻ってきたし。わたしにだって家くらいあるよ。親だって心配してるだろうし」

「違うよ。その家族があなたを襲わせたの」

 私は口から出まかせを言った。通じるか分からないが、記憶のあやふやな彼女のことだから、勢いで押し通せると思った。

 だから。

「それって本当なの」

 つづいた言葉に、私は息をするのも忘れて口ごもった。マユユは私の頭ごと私を抱き寄せた。

「助けてもらってるってのは分かってる。でも、本当のことを全部言ってもらってないってことも同じくらい分かってる。いいの。わたしのためにしてくれていることだってそれだけは痛いほど伝わってるから。でも、なんだかつらそうで。見ていられないよ。しあわせになりたいなら、わたしのことを想ってくれているのなら、ちゃんとあなたもしあわせになって。楽になって。それができないなら、痛みも全部わたしといっしょに共有して」

 共有させて。

 ね、お願い。

 そんな甘い、せつない、心底ずっと言われたいと望んできた言葉を吐かれたら、私なぞはイチもニもなくそのやわらかい肢体を布団に押し倒して、首筋に唇を押しつけ、苺みたいに甘酸っぱい汗の匂いを吸いこんでしまいたくなるではないか。

 もはや内に湧く衝動を止められなかった。

 が、マユユの声は思いのほか大きく響き渡っていたようだ。

 下の階からドタドタと足音がしたかと思うと、母の私を呼ぶ声がし、

「誰かいるの」

 無断でガチャガチャとドアノブを捻る音がする。

 鍵をかけておいてよかった。

 危なく押し入れられるところだった。

 が、それは時間の問題だ。

「きて」

「でも」

「いいから。自由になろう」

 私はマユユの腕を引く。

 開け放った窓から屋根伝いに、庭に生える樹の枝に乗り移る。気の根本には犬小屋がある。最初にここでマユユの苗を発見したのだ。

 木の登りを逆さに辿るように、先に、地面に下りた。

 マユユは躊躇した。恐怖に怯えているようにも見えた。黄金の苗から孵ってから長らく運動をしていなかったからだろう。体力に自信がないのだ。それとも、漠然と開けた自由への予感に尻込みしているのかもしれない。

「だいじょうぶ、おいで」

 私は両手を広げ、受け止める覚悟を示す。

 マユユは意を決した様子で、樹の枝に座った。ずりさがるように枝にぶらさがる。

 私は彼女の足に肩を持っていき、踏み台になる。

 樹の幹を支えにマユユは私の背にしがみつき、梯子さながらに利用して、地面に下りた。

「じょうず。よくできました」

「こわかったぁ」マユユは胸に手を当てる。深呼吸をし、屋根を仰いだ。じぶんでもこんな真似ができるなんて、といった調子で目を丸くする。

 庭から道路に抜ける。

 母たちはまだ気づいていないようだ。追手の気配はない。

 ランが家のなかで吠えている。ひょっとしたら母たちの気を逸らすために、鳴き喚いているのかもしれないし、単に受け皿に餌がなくて怒っているだけかもしれない。

 私はマユユと手を繋ぎ、夜の道を突き進む。

「どこに行くの」

「自由を掴みにだよ」

「わたし、もう逃げなくていいの」

 隠れなくていいの、と彼女の手のひらが汗ばむ。

「そうだよ。もう部屋に閉じこまらなくていいし、好きなときに外に出られる。好きにできるんだよ。元凶をやっつけにいこう」

「元凶?」

「マユユはマユユだよ。逃げるなんて変。隠れる必要なんてないんだよ」

 彼女は私の名を呼んだけれど、私は聞こえないふりをした。

 招かれたことはないが、その家のまえまでは何度も足を運んでいる。

 かつて憧れていた人、マユユと同じ顔カタチを持つ女の背中を毎日のように尾行けていたのだ。目をつむっても辿り着ける。

 着いた家を見て、マユユが戸惑いの表情を浮かべる。豪邸と呼ぶに似つかわしい瀟洒な外観だ。

「憶えてるでしょ」

「ここって」

「そう。ここがマユユのお家。帰る場所だよ」

「でも」

 家の中からは、鈴の音を転がすような笑声がコロコロと聞こえた。姉妹が楽し気に談笑しているような声音だが、私の知るかぎり、ミカさんにきょうだいはいないはずだった。

「ちょっとそこに隠れてて」私はマユユを塀の影に押しやる。「いまから人を呼ぶから、その人を二人がかりで、攫うの」

「攫うって?」きょとんとしてからマユユは、「襲うってこと」と口を手で覆う。

「そう。襲うの」

「でも」

「いいから言うとおりにして。自由になりたいんでしょ」

 そのとき、インターホンから声がした。

「いらっしゃい。待ってたよ」

 びっくりして身体が凍った。

 門柱に監視カメラがついているのに、遅まきながら気づく。

 奥の扉が開き、家のなかからマユユと瓜二つの女が現れる。かつて私が夢中だった御人、ミカさんだ。

「どうぞ中へ。そちらの方もいっしょに」彼女は、もう一人のじぶんを見ても驚かなかった。

 私たちを中へ誘う。

 私はその誘いに従った。マユユの手を握る。離れぬように連れて歩く。

 質素ながらも煌びやかな内装だ。床は大理石だし、天井は高い。廊下だけでも私の部屋五つは入りそうだ。

 身分が違う、と思うと、いっそう眩しく感じる。

 私の家が中流階級以下だと否応なく突きつけられる心地だ。

 アンティーク調の扉を開け、ミカさんは私たちを居間に通した。

 なぜミカさんはじぶんと瓜二つの女を見ても表情一つ崩さなかったのかの謎は、居間のソファでくつろぐ私にそっくりの女を目の当たりにして、氷解した。

「ハロー、私」

 足を組み換え、もう一人の私が言った。

 ミカさんは四人分の紅茶を淹れると、もう一人の私の隣に座った。私たちは脚の短いテーブルを挟んで対峙している。

 ミカさんともう一人の私はジャージ姿だ。豪勢な屋敷に似つかわしくのない格好だ。チグハグな印象に現実味が薄らぐが、この状況そのものがチグハグと言えばチグハグだった。なにせ、じぶんの分身がそこにいる。

 ミカさんは手短に語った。

「あなたの拾った種は、要は分身をつくる装置のようなものです。元はわたしの父が開発したもので、どうやら何かの手違いでわたしの身体にくっついてしまっていたようです」

「それを私が拾ってしまったと? でもじゃあ、それは?」

 私はもう一人の私を見遣る。

「分身の種――わたしはそれをグルーと呼んでいますが、グルーは、任意の人物の細胞さえあれば分身の創造には事欠かないんです。なので、べつに身体にくっつく必要はそもそもなくて」

「あの、説明になってないと思うんですけど」

「察しわるいなぁ」もう一人の私が嘴を挟んだ。「元からなんだよ。あんたがそのコを」とマユユを顎で示し、「拾うより先に、ミカさんは私を生んでくれたの」

「でも、なんのために」

「そんなの分かりきったことじゃんよ。あんたがそのコを育てたのと同じように、ミカさんも私を手元に置いときたかったってこと」

「りょ、りょ、両想いだったってこと!?」

 そう言えば、とマユユとの会話を思いだす。マユユはおぼろげながらの記憶のなかで、私のことをたいせつな人だったような気がする、と語った。あれは気を使って言ってくれただけの社交辞令かと思っていたが、そうではなく、真実の一側面を示唆していたのではなかったか。

 ミカさんは、そもそも私を認知しており、憎からず思っていたのだ。

「あの、じゃあいまお二人はつまり、そういう関係ってことですか」

「ご想像にお任せします」ミカさんは言った。

 私は歯を食いしばる。腹の底にどす黒い感情が渦巻くのを感じる。

 ミカさんの横では、もう一人の私がジャージ姿でにやにやと余裕綽々の表情で頭のうしろに手を組み、ソファにふんぞり返っている。

 この間、彼女はミカさんとこの家で、一つ屋根の下のわくわくウキウキなひと時を過ごしていたのだ。

 よもやじぶんと瓜二つの人間に殺意を覚えるとは思わなかった。否、じぶんと瓜二つゆえにこうまでも憎らしい。

 どこかで歯車がうまく噛み合えば、いまそこに座っているのは私だったのだ。

 わなわなと震える手の甲に添えられる掌があった。マユユだ。

 醜い嫉妬を見抜かれたようで、気まずい。

「あの、それでわたしはどうすれば」おずおずとマユユが発言した。

「そ、そうだよ。そっちの私だってこのままずっとこのままってわけにはいかないんじゃないんですか。いいんですかそんなやつそばに置いたままで」

「いいんです。このコはもうわたしのモノなので」ミカさんに撫でられ、もう一人の私がゴロゴロと喉を鳴らす。

「くっそぉ。羨ましくなんてないからな」

 負けじと私はマユユを抱き寄せるが、手で押しのけられ、拒まれた。「なんで!?」

「いまは張り合っている場合ではないと思います」

 正論だった。

 マユユは毅然として、もう一人の自分自身、生みの親とも呼べるミカさんを見詰めた。

「確認したいのは主として二つです。わたしの今後の身の振り方についてと、あなたの言うところのグルーによって誕生した者の性質についてです。まずは前者についてです。もしわたしが何の庇護も受けられずに今後、生活していくとなったとき、おそらくわたしは相応の環境に身を落とすでしょう。そのとき、この肉体から零れ落ちる生体情報は、あなたのものとして社会に認知されます。そのことに関しての損失はどれほど考慮なされているのでしょう。二つ目のグルーについてですが、わたしはこれからもいまと同じように、ふつうの人間として、いわば単なるクローンとして生きていけるのでしょうか」

「まずは後者の質問からお答えします」ミカさんは応じた。「グルーによって誕生した者に、これといって変異は確認されていません。あなたのおっしゃるとおり、クローンのようなものと見做してよいと思います。寿命の短縮や免疫不全といった副作用も、いまのところ報告されていないようです」

「それを聞けて安心しました」

「前者の質問についてですが、あなたの今後の身の振り方については、いくつか提案があります。そもそもあなたの存在をわたしはすでに知っていました。いつか接触があるだろうと相応に対応を考慮していたので、こうして突然の訪問にも動じずに応じることができています」

「その提案というのは」

「一つは、ここで共に暮らすことです。分身がいて困ることは、単純に二人分の生活費がかかることくらいなものです。それを度外視できるなら、分身がいることは利になっても、損にはなりません。同じ生体情報を持ち、同じ姿カタチをしている。ならば二人で一人の人間として生きていけば、それなりに有意義な暮らしを送れるでしょう」

「生活費の問題には対処できると?」

「父の資産は相応に高いので」

 彼女の父親は何者なのだろう、と私は疑問に思うが、ミカさんは飄々とつづける。「記憶にありませんか? 幼少のころから裕福な暮らしだったはずです」

「そう、かもしれません」

 ミカさんが二人いるだけで、こうも高度な会話になるのか。私は、もう一人の私と共に欠伸を噛みしめつつ、二人の会話に耳を欹てる。

「二つ目の選択肢は、きっぱりと互いに袂を分かち、別人として生きていく道です。その際は、申し訳ありませんが、ほとんど何も支援ができない旨を告げておきます。生体情報については、偽証する術を持たないので、そればかりは犯罪など、互いの損失になりそうなことを犯さぬことを信じあうよりほかはありません」

「確認だけさせてほしいのですが、この家の娘をやめ、出ていくとしたらわたしとあなたとではどちらになりますか」

「そこは要相談ということになりますが、できればわたしはこの環境を手放したくはありません」

「わかりました」

 私は内心頭にきていた。相談するとは言いつつも、ほとんどこれは決定事項だ。案に出ていくならおまえだ、とマユユに突きつけているのと同義だった。

「ならもちろん、私とそっちとなら、私をやめるのはそっちのほうになるわけだ」

 私はもう一人の私に言った。

「いいよそれでも」

 余裕綽々に同意され、面食らう。「いいのかよ」

「当然。だって私はミカさんのペットだから。元の生活に戻るなんてこっちから願い下げだね」

「くぅ~。正論吐きやがって」

 話をまとめれば、選択肢は大きく分けて二つだ。

 いまのままか、共存するかだ。

 第三の選択肢として、マユユと共に世捨て人になる道もある。

 いずれにしたところで、私がマユユと離れ離れになる選択肢をとる気はない。私がそれを認めない。

「分かりました。いちどゆっくり考えてみたいです」マユユが言った。「時間をいただいてもよろしいですか」

「それはもちろんです。急ぎではありません。ごゆっくり思案なさってください」

「あの、すみません」私は話の腰を折った。

 いつ切りだそうかと迷っていたが、我慢できなかった。

「はい、なんでしょう」

 優雅にそう述べるジャージ姿のミカさんを睨みつけ私は、

「お手洗いお借りしてもよいですか」股間を押さえて、もじもじする。視界の端にて、もう一人の私が、あちゃー、と頭を抱えて首を振る。

 お屋敷みたいに広い廊下を歩く。突き当たりの右の壁に扉がある、そこがトイレだ、と教わった。案内しましょう、と腰をあげたミカさんを制して、一人でも大丈夫です、と遠慮したのだ。

 私がいてはできない話もあるだろう、と気を利かせたつもりだ。

 積もる話もあるだろう。

 私とて、できればもう一人の私と二人きりで話したい。

 いったいこの屋敷でどんな生活を送っているのか。ミカさんと二人きりなんてズルい。

 思うが、べつに二人きりではないはずだ。

 私が私の家で窮屈な思いをしていたように、ミカさんもこの家で家人の目を気にした生活を送っていたはずだ。

 だが、どうなのだろう。そもそも分身製造機たるグルーは、彼女の父親の発明品だ。ならば家族ぐるみで、私の分身の世話を焼いていてもふしぎではない。

 否、遺産がうんぬんと言っていた。父親は亡くなっているということか。しかしおかしいな。私の知るかぎり彼女の両親は生きているし、この家でも暮らしていたはずだ。

 そうでなくとも保護者はいるはずだ。たとえ両親がこの屋敷に住んでおらずとも、娘一人きりで残すとは思えない。使用人くらいいてよさそうなものだ。

 それに、といまさらのように引っかかる。

 いったいいつ私は、私の分身の元となる細胞を採取されたのだろう。髪の毛一本からでも創れるようなものなのだろうか分身は。

 ミカさんの倫理観もだいぶ狂ってるな、と思いつつ、彼女の親も相当だな、といまさらの所感を抱く。

 廊下に窓があり、庭が見える。背の高い樹がふさふさと葉を茂らせている。なんだか私の家の樹と似ているな、なんてそれ以外に共通点がない環境にひがむよりさきに、共通点が一つでもあったことをうれしく思う。

 突き当たりに近づく。

 扉があったので、おっとここだここだ、と開けてみる。

 さすがは豪邸なだけあり、自動で部屋の明かりが点灯した。

 私は目をぱちくりし、扉を閉じる。

 いまのは何だ。

 もういちど扉を開け、その光景を目の当たりにする。

 人が血だらけで地面に伏している。

 否、血だらけならまだいい。

 首や腕や脚が、胴体から切り離されている。手足は丸太のように一か所にまとめられ、捨て置かれたノコギリは、いままさに作業をしていたのだと言わんばかりに血にまみれている。

 床に転がる首は一つではなかった。

 男のものと、女のものと。

 若くはない。

 どことなくミカさんの面影を見て取り、彼女の両親か、と推し量る。

 しかし、なぜ。

 息を止めているじぶんに気づき、扉を閉じて、一歩後退する。

 そう言えばミカさんと我が分身はジャージ姿だった。私たちがやってくる直前まで何か運動でもしていたのだろうか。

 後頭部に何かがぶつかる。

 壁はもっとうしろにあったはずだ。それにこんなにやわらかくもない。

「あーあ。見られちゃったな」

 つむじに落とされた声に、私はぞくぞくと背筋に這いあがる悪寒と、それでも湧きあがる甘美な感情を拒めなかった。

 ミカさんが私の腕を取り、ダメでしょ、と耳元でささやく。

「わるいコ。トイレはあっちなのに」

 手首に冷たい鉄の感触が走る。

 ジャラリと鎖の擦れる音がする。

   *

 手錠をはめられ、床に転がされた。首だけになった男の顔が目と鼻の先にある。私の頬も髪も血だまりに浸った。生臭い。

 上半身を起こそうとするけれど、両手を封じられた状態では寝返りを打つくらいが関の山だ。

 身体をひねると天井が見えた。

 天窓がある。

 脱出するには高い位置だ。

「どうしてこんな、こんなひどいことを」私は怒鳴った。

「どうしてって、だってそのひとたち、わたしたちの邪魔をするんですもの」ミカさんは椅子を引っ張ってきて座った。「私たちの愛を邪魔するのですもの」とわざわざ言い直す。「誰のグルーをつくったんだってしつっこくて。相手の子からはちゃんと許可をもらったと最初は言い張っておいたのだけれど、つまりあなたからってことになるのだけれど、その嘘もバレちゃって。そりゃそうだよね。論より証拠ではないけれど、グルーから孵ったこのコがいるわけだから、いくらでも顔写真で照合して、探し回せるわけで」

 扉からもう一人の私が現れ、ミカさんのそばに立つ。その手にはナイフが握られており、なぜかその刃は血に濡れていた。

 ここにいないマユユを思い、私はぞっとした。

「マユユに何かしたら許さないから」

「もうしないよ。だってもう済んじゃったから」

「この野郎」私はミカさんを睨んだ。

「ヤダ。そんな目で見ないで。わたしこれでもまだあなたのこと好きなのに。嫌われたくない。許して」

「ミカさん、そりゃないっすよ」もう一人の私が見せつけるようにミカさんに口づけをした。彼女の服の中に手を差し入れ、お腹のあたりを撫でた。「私がいるからいいでしょ。早くソイツ始末しちゃお」

「なんだかでもかわいそう」

「やっぱり本物のほうがいいってよ」私は挑発した。

 もう一人の私は顔を歪め、私の腹を蹴った。

 続けざまに頭を踏まれる。私は呻き声を耐えられなかった。

 痛いのだ。

 それはそうだ。もう一人の私は全体重をかけて、私の頭部を踏み潰さんとしている。

「逆上したってことは内心ビビってたんでしょ。じぶんが偽物だから。アハハ。ミカさん、ねえミカさん。言ってやってよ。やっぱり本物がいいってサ」

「黙れ黙れ黙れ」

 もう一人の私は癇癪を起こした。よほど気にしていたのだろう。何度も私を踏みつけ、罵詈雑言を吐いた。サッカーボールのほうがまだ大事にされていそうなものだ。

「もうその辺にしてあげましょうよ。ね」ミカさんが仲介に入ったのは、私の顔面が鼻血でビショビショになってからのことだった。頭のなかで、鼻血も滴るいい女、と意味のない言葉が躍る。

 もう一人の私は、そこで動きを止めずに、もう一度私を蹴った。

「やめなさい、と言ったはずですが」

 氷のように冷たい声音に、私の背筋まで凍った。もう一人の私は、えぐえぐ、と嗚咽しだし、ついには、えーん、と泣きじゃくった。

 折檻された子どもだってもうすこし控えめに泣く。

 ミカさんはそんな泣き虫をよしよしとあやしながら、

「やっぱりこのコのほうが可愛いのよね」と泣き虫の頭に頬を押しつける。

 見せつけるようなその仕草に、私のほうこそ心が折れそうだった。

 ひょっとしたら助かるのではないか、との希望を抱いていたじぶんを呪う。この女は、そうしたこちらの淡い希望すらトンボの翅を毟るわっぱのごとく無邪気さで弄び、砕いた。

 最初から助ける気などなかったのだ。

 私だけでなく、もう一人の私すら手のひらのうえで転がし、愉悦の出汁にした。

 悪魔め。

 似て非なるものだ、と私はつよく感じた。マユユと過ごした日々を思い、オリジンたるミカさんと彼女の相違を思った。

 どちらが先に生まれたかなど至極些事だ。

 考えるまでもなく私の本能が告げている。

 守るべきはマユユだ。

 私にとっての本物は疑うことなくマユユなのだ。

「さ。このコも片付けちゃって」

 ミカさんは聞こえよがしに、このコも、の「も」を強調した。

 私を跨ぐと、もう一人の私は、ナイフの柄を両手で掴み、構えた。

「安心してよ。埋めるときくらいは一緒にしてやるからさ」

 天窓からそそぐ月光の明かりを受けて、ナイフの切っ先が光った。

 瞬間、天窓が割れた。

 物凄い音がした。

 大小のガラス片が降りそそぐが、もう一人の私が上に股がっていたこともあり、それが盾となって、顔面には当たらなかった。

 天窓の真下には椅子があり、そこにミカさんが座っていた。

 天窓を破って何かが落下してきた。

 その物体は、ミカさんごと椅子を押しつぶしてたようだった。

 見遣ると、ぐったりと床に倒れるジャージ姿の女がおり、その首はあらぬ方向に折れていた。

 砕けた椅子のそばには生まれたての子羊のごとく必死に立とうとするマユユの姿があった。見間違いようもない。服は私の貸してあげたものだし、髪だって私が切り揃えてあげた髪型だ。前髪がぱっつんになってしまってマユユは怒ったけれど、いまでは気に入っている。私が一方的に。

 マユユはお腹を押さえながら、動かなくなったミカさんの服を漁った。

 這うように私のもとに寄ると、いつの間にか握っていた鍵で、手錠を外した。

 私は彼女に抱きついた。

 そばでは、天窓のガラス片を頭から浴びて血だらけになっているもう一人の私が、床のうえでもがいている。

 マユユは私の抱擁から腕をほどくようにして脱すると、床に投げだされたナイフを手に取った。マユユの腹部は真っ黒に染まっていた。大量に出血しているのは明らかだった。

「マユユ、それ」

「いいの。それよりも止めないでね」

 苦悶するもう一人の私の腕を両足で固定し、マユユはナイフを振り下ろした。

 止める暇もなかった。

 ただ、止められたとしても私はそのまま見届けただろう。

 床に血溜まりが広がる。黒い絨毯のようだ。

 がくり、と膝をついたマユユを私は支えに走る。

「だいじょうぶ? いま病院に。救急車を」

「いいの。このままにしてて」

「でも」

「自由にしてくれるんでしょう」マユユは私の頬に触れた。「お願い。ね。いいコだから」

 その物言いは、オリジナルのミカさんにそっくりだった。けれど、伝わる印象は正反対で、まったく冷たくはなく、ただただぬくもりに溢れていた。

「うん。うん」

 できるだけ苦しくないようにと私はマユユを床に寝かせ、膝枕をした。

 会えてよかった。

 楽しかった。

 ずっといっしょにいようね。

 好きだよ。

 愛してる。

 何を言っても嘘に思えた。

 何を言葉にしても、気持ちの一欠片も伝わらないと思った。

 私がそうして迷っているあいだに、マユユはしずかに息を引き取った。

 呼吸が消え、ふっと蝋燭の火が消えるような最期だった。

 私は泣くこともできずに、しばらく彼女の寝顔を、死に顔を、眺めていることしかできなかった。

 破れた天窓から朝陽が差しこみはじめ、スズメの鳴き声が聞こえだしたころ、おもむろに立ちあがり、私はマユユをその場に残して、廊下にでた。

 ほかの遺体といっしょに放置してしまう罪悪感はあったけれど、それ以外にしてあげられる配慮がなかった。すくなくともそうしていれば、マユユもほかの遺体と同じように、焼却処理されて、小さいながらも、お墓に入れるはずだ。

 私さえ証言しなければ、いったいどちらの遺体が本物なのかなんて疑問も、きっと永遠に解き明かされることはない。

 そもそも私にとっては決まりきっていることだ。

 マユユこそが私にとっての真実だ。

 屋敷の玄関に向かうあいだに、かすかに、ドンドン、と物音がした。

 幻聴かと思ったが、屋敷のなかにこだまする音がある。

 いったいなんだろう。

 気になったが、いまは一刻もはやく屋敷を立ち去るべきだ。

 判断を逞しくしたが、いや待てよ、と監視カメラの存在に思い至る。

 映像を消していったほうがよくはないか。

 ほかに目撃者がいても厄介だ。

 これだけ広い屋敷だ。使用人くらいいてもおかしくはない。

 確認だけでもしておくべきではないか。

 マユユを亡くしたばかりだというのに、否、大切な者を亡くしたばかりだからこそ、私の思考は目まぐるしく巡った。

 音源を探る。

 どこから響いているのか、と辿る。

 二階へ上がる階段がある。

 だが音は、階段の上ではなく、下のほうから聞こえた。

 床下だ。

 地下室がある。

 直感は正しかった。

 階段のよこの壁に隠し扉を見つけた。

 開けると、地下へと階段がつづいている。

 ドン、ドン。

 音は階段の下のほうから響いている。

 規則正しいようで、どこか不規則だ。

 ドン、ドン。

 ドン、ドドン。

 太鼓を叩いているようにも、何かが壁に体当たりをしているようにも聞こえた。

 階段は螺旋を描いて、一回転分つづいた。

 扉があった。

 音はそこから響いている。

 奥に何かいる。

 扉には閂がしてある。

 外せば開く。

 私は背中にじんわりと嫌な汗を掻きながら、開けますよ、と一声かけてから、閂に手を伸ばす。

 音が止む。

 閊えのとれた扉が、こちら側に向かって開いていく。

 奥には、げっそりと瘦せこけた女が立っており、なぜか彼女は、私のパジャマを身に着けている。




【刀と三つ編みとわたし】


 その日本刀は蔵の隠し戸から出てきた。

 手伝いを申し出て与えられたのが祖父の家の蔵の片付けだった。荷の中身を順番に確認しながら大量の木箱をどかしていると、蔵の床に戸を見つけた。開けると中に神棚が一式納まっていた。

 神棚には日本刀が供えられていた。龍の鱗を思わせる鞘が印象に残る。

 取りだしてみると、ずしりとくる。だが思っていたよりか重くはなかった。

 鞘からすこしだけ抜いてみる。刃は青みがかっており、刃紋がさざ波のように美しかった。

 柄頭からは飾りが垂れている。それもまた乙女の三つ編みのように綺麗だった。

 ユカは床の蓋を閉めると、なぜか日本刀を蔵の外に運びだした。辺りを見渡し、岩陰に隠す。

 蔵に戻ると、ちょうど叔母が蔵の中を見回しているところだった。叔母は母の妹で、ユカにとってはイトコのお姉さんといった風情だ。刺繍さながらに編み込まれた髪型がむかしから変わらずでステキだ。三つ編みにしてさらに団子に結ってある。

 叔母が腰に手を当てる。

「ずいぶん片付いたね。疲れたでしょ」

「宝探しみたいで楽しかったです」

「一つ聞きたいんだけど、ここに日本刀ってなかった?」

「日本刀ですか?」

「そう。父の、ユカちゃんからしたらおじぃちゃんの持ちもので、こう古い日本刀があったはずなんだけど」

「いえ、見てないですけど」なぜ嘘を吐くのか、とじぶんで言って驚いた。

「そっか。ま、もし見つけたら教えて。ほら、銃刀法違反とかそういうので、一応届けでなきゃかもだし」

「はい」

「父も死ぬならちゃんと死ぬ準備しといてほしいよね。急にぽっくりいくんだもん。ま、文句は熊に言うべきではあるが」

 言葉とは裏腹に、葬式では叔母が一番悲しそうな顔で祖父を見送っていた。だからユカにはその言葉が叔母なりの強がりなのだと判った。

 祖父は山の中で熊に襲われたそうだ。棺の中の祖父の顔は安らかではあったが、半分は布で覆われていた。布の下はおそらく空っぽだったのだ。

 夜になる。

 慣れない枕でもユカはぐっすり眠れた。蚊取り線香の匂いが、いかにも祖父の家という気にさせる。まだ夏なのに田舎はもうコオロギが鳴いていた。

 一階から聞こえてくる親戚たちの宴の声が、やがてユカがうつらうつらしているうちに静かになった。みなもう寝たようだ。

 瞼の裏からでも窓の奥からそそぐ月明かりが眩かった。

 寝床にくるまり、そうして夢と現の狭間を揺蕩っていると、ユカはぱちりと目が覚めた。寝ぼけているときのように浮遊感に包まれているのに、なぜか頭の芯だけが冴えて感じられた。

「取りに行かなきゃ」

 寝床から這いでて、寝間着のまま外にでた。

 田舎は夜でも玄関に鍵をかけない。

 古い扉で、横に滑らせて開ける。結構な音が鳴る。庭の池から響く水の流れる音に掻き消され、ユカの立てた物音を気に留める者はいないように思われた。

 ユカは家の裏手にある蔵まで行き、そばの岩場に屈む。昼間隠しておいて日本刀がそっくりそのままそこにあった。夜露に濡れ、きらきらと輝いている。

 いまさらのようにそれが脇差であると気づく。思っていたよりも軽くて当然だ。そもそも刃丈が短いのだ。背の低いユカが持っても腕の中にしっくりきた。

 風が吹く。

 ユカの髪の毛が宙に舞う。

 ふしぎと三つ編みにしなければ、とユカは思った。

 ただでさえ見た目が幼いから、純朴に見える三つ編みは好まなかったが、なぜか無性に髪の毛を編みたくなった。

 その場で髪の毛をジグザグと編んでいく。

 完成すると鎖骨のあたりに揺れるくらいの長さになった。

 日本刀を持ち上げる。

 すると、柄頭のところから垂れた飾りに目がいった。

 束ねてあるが、結構な長さがありそうだ。解いてみると、腰に巻いても余りそうな尺がある。

 ユカは鞘から刀身を抜き、月光に翳した。

 見惚れるとはこのことを言うのだな、とぼんやりとした心地で思った。

 三つ編みが揺れる。

 飾りを握る。

 刀身を鞘に戻し、ユカはなぜか分からないが、三つ編みに飾りの先端を結びつけている。

 翌朝目覚めると、布団のなかに固い物体があった。

 なんだこれ。

 もぞもぞと手で探ると、細長い棒状のモノだと判り、ああ、と合点がいく。

 と同時に、部屋に叔母が乗り込んできて、いつまで寝てるの、と呆れ口調で言った。「もうお昼だよ。蕎麦食べよ。もうできてるからノビちゃうよ」

「いま行きます」

 布団をひっぺがされなかったのはさいわいだった。

 叔母は顔を引っ込め、どたどたと足音を立てて階段を下りていく。着飾らない人なのだ。

 母とは大違いだ。

 着替え、顔を洗い、居間に顔をだす。見知らぬ女性陣たちと叔母が談笑していた。親族なのか、それとも近所の人たちなのか。ユカには判断つかなかった。

 会釈をし、ユカは台所に行く。台所にも食卓がある。ちいさなちゃぶ台だ。蕎麦が置いてあったので、そこに座り、さっそく食べる。

 父は昨日の片付けで出た大量のゴミを車で運ぶと言っていた。いまは家にいないのだろう。ほかの親戚一同もついていったようだ。叔母が留守番係といったところか。

 談笑が終わったのか、女性陣が帰っていく。みな年を召しており、叔母よりもずっと年上だった。

「お。起きたね」

「おはようございます」

「昨日は大活躍だったから疲れたんでしょ」

「軽く筋肉痛かもです」

「だよね。私も」

 お蕎麦はもう食べ終わっていたようだ、叔母はせんべいを齧りだす。

 その横顔をじっと見ていたからか、「ん、なに」と叔母は小首を傾げた。

「いえ。その髪型ってむかしから変わらないなと思って」しめ縄じみている。「編むのに時間かかりませんか」

「そうでもないよ。慣れたらちょちょいのちょいだし。ユカちゃんもする?」

「髪の毛の長さが足りなそう」

「団子にしなければ大丈夫だよ。ユカちゃんくらいあれば直接編みこんでもいいし」

「じゃあお願いしよっかな」

 おいで、と言われ、ユカは叔母のまえに座った。

 耳元に吐息が当たり、くすぐったい、と首をよじる。二人でしばらく笑い合い、ユカは首をひねって真後ろの叔母を見あげた。

「どしたの。こっち向いてたら髪の毛結えないよ」

「いえ。この角度からだと顔がお母さんに似てるなって思って」

「あはは。そりゃあね。姉妹でございますから」

「お母さんって小さいころどんなだったんですか」

「どんなかぁ」叔母は上を見た。そこに記憶の雲が浮かんでいるかのようにしばらく緘黙すると、そうだね、と言った。「つねに嵐の前の静けさみたいな人だったかな」

「え。ぜんぜんわかんない」

「んー。説明がむつかしいな。むしろユカちゃんからしたら姉ちゃんってどんな母親だった?」

「そうですねぇ。お母さんは、わたしにとってはいつもわたしの心配ばかりして口うるさい人だったかな」

「おー。意外。過保護な親にだけはならない、ってユカちゃんがお腹にいたとき姉ちゃん私に宣誓してたんだけどな」

「そうなんですか?」

「ま。理想と現実は違うってことかね。ん、ごめんよ。ちょい編むのむつかしいな。ユカちゃんの髪の毛サラサラすぎて編んでもすぐに解けちゃう。三つ編みが精々だけど、それはじぶんでできるんでしょ」

「できますね。ありがとうございます」

 肩を揉まれ、はいおしまい、の言葉を合図にユカは叔母のひざ元から脱した。ぬくもりが霧散するようで名残惜しかったが、甘えるのも恥ずかしい。おとなしく向かいのざぶとんに座った。

 叔母はそこでTVを点けた。見たいドラマがあったようで、そこからしばらくは叔母のイチ推し俳優の話に花が咲いた。ユカにも推しがいるので、話は弾んだ。親族でこういった話をできる相手がいなかったので、ユカには新鮮だった。

 そう言えば、と思いだす。叔母とは母の葬儀以来会っていなかったのだ。もう六年になる。時の流れは早いものだ。

「あ、事件だって。物騒だねぇ」

 ドラマが終わるとニュースが流れた。熊に襲われ死亡とある。

「うわ、これ隣村じゃない。えぇクマだって。まさか同じクマじゃないよね。やだねぇヤダヤダ」

 叔母のぼやきを聞き流しながら、ユカは画面に釘付けになった。

 死者三名。夜中に山から下りてきた熊に襲われた模様。

 犠牲者の顔写真はなく、名前と事件現場の地名が淡々と流れる。ヘリからの映像なのか、俯瞰の視点で村の様子が映し出された。

 脳裏には一瞬、見知らぬ男女が背後から襲われている場面が浮かんだ。なぜか襲っている側の視点だ。その手は熊のものではない。刀を握っている。つぎつぎに人間を袈裟斬りにしている。やけに鮮明な映像だったが、映画の場面の寄せ集めだろう、と気にしないことにした

「出かけるときはひと声かけてね」

 叔母が心配そうに言った。

 夕方、日が暮れる前に父たちが帰ってきた。

 明日の昼にここを発つよ、と予定を告げると父はそのまま、温泉に行ってくる、と言った。おまえもくるか、と誘われたが、ユカは断った。

 ほかの親戚と一緒に夕飯も食べてくるつもりなんだが、と付け加えられたが、ユカは、家にいる、と言ってやはり断った。

「じゃあ私もお留守番で」叔母がついでのように言い添えた。昼食の際に、夜のドラマが楽しみだ、と言っていたので、これはユカのためというよりも自分都合だ。

 父は父で、ユカが元から人混みや親戚付き合いが得意ではないのを知っていたので、ついてこないことは予測できていたはずだ。父は着替えの支度を済ませ、玄関に立った。

「お土産は何がいい?」

「アイス食べたいかも」

「じゃあソフトクリーム買ってこよう。餃子は?」

「あれば食べるよ」

「じゃあそれも。あすの朝に食べてもいいし」

「いってらっしゃい」

 親戚はみないちどそれぞれの家に帰っている。温泉にて合流するのだろう。ユカは父親だけを見送った。

 ユカは与えられた仮の自室にて、あすの帰る支度を済ませる。祖父の訃報を聞いてから一週間が経つ。通夜に葬儀に後片付けと、あっという間の七日間だった。

 畳んだ布団の下から日本刀を取りだす。

 どうしようこれ。

 つい持ってきてしまったが、祖父にとってもこれは大切な物だったのではないか。形見分けでもらうにしては高価すぎる。それ以前に、まずはおとなに相談するべきだ。

 否、相談すれば十中八九、それをもらうことはできない。

 何せ刃物だ。

 しかも包丁ではなく日本刀なのである。

 美術品としてもらい受けるにしても、やはり高校生には似つかわしくない形見と見做される。

 だがどうしてこうも惹きつけられるのか。

 鞘から半分だけ刀身を抜き、ユカはぼうっとそれを見詰める。

 脳裏に、妄想としか思えない場面がつぎつぎと浮かぶ。どの場面でもじぶんが刀で人を斬っている。

 相手の姿はよく見えない。

 だが刀で人の肉を斬る感触、骨に当たって痺れる腕の感触が、あたかもいまここでそれを体験しているかのように蘇るのだ。

 蘇る?

 元からないものは蘇りようもないのに。

 気づくとユカはいつの間にやら三つ編みをつくっており、刀の飾りと結びつけていた。

 足音が聞こえ、ユカははっとした。

「ユカちゃん、ごめんよ」

 声のあとにノックがある。襖は閉じたままだ。「お夕飯どうする。昼間にジンギスカンもらったからそれでもいいかな。焼肉」

「焼肉いいですね。食べたいです」

「よし。じゃあ奮発していいタレ買ってくるかな。ちょっと出かけてくるけど、お留守番頼むね。あ、ケーキも買っちゃおっか」

 好きなケーキ言って、と促され、ショートケーキを、と言う。

「渋いね。じゃ私はチーズケーキにしよっと」叔母はユカの父の名を言い、「あの人はじゃあチョコレートケーキでいっか」とつぶやく。足音が遠ざかる。

 足音は階段を下りて、そのまま玄関をでていく。財布を持っていたということは、端から買い物に行くつもりだったのだろう。

 ユカが夕飯の献立に文句を挟まないと判っていたのだ。一言相談してくれたことがうれしかった。

 陽が傾きかけている。

 睡魔が襲い、ユカは日本刀を畳の上に転がし、その上に布団を敷いて、しばしの仮眠を貪った。

 自動車のタイヤが砂利を踏みしめる音が聞こえ、目覚める。

 叔母が帰ってきたのだろう。

 否、玄関から、たいだいま、と父の声が届く。

 ユカは床から這いだし、部屋のそとに出る。

 一階に下りると、焼肉の香ばしい匂いがした。

「あ、おはよう。先食べてたよ」

「すみません。寝ちゃってました」

「いいのいいの。疲れちゃったよね」

「お。美味しそうだな」父がパジャマ姿で現れる。パジャマは祖父のものだ。「お父さん食べてきちゃったけど、戴いてもいいかな」

「どうぞ、どうぞ」

 三人で食卓を囲んだ。

 ホットプレートに肉が並ぶ。

 父がしきりに温泉を褒め、ソフトクリームは溶けちゃうから買ってこられなかった、と謝罪した。あす帰るときに食べていこう、と言い、ユカはそれでいいよと首肯する。

 ジンギスカンは、ジンギスカンだと言われなければふつうにブタか牛の肉だと思って食べてしまいそうなくらいには、美味しいし癖のない味だった。子羊だよ、と父が言った。知らなかった、と答えると、父がうれしそうに笑い、可哀そうだけど美味しいね、と返すと、叔母にも笑われた。

 お腹がいっぱいになるころには祖父の話からの流れで母の話になった。

「あのときも急だったし、色んな手続きに追われて、こんなにまったりできなかったからなぁ」

「お父さんも気をつけてよ車の運転」ユカはホットプレートに残ったタマネギを片っ端から箸でついばむ。「シホさんはお母さんと仲良かったんですか」

「私は姉ちゃんと仲良かったね」

 ね、と叔母は父に目を配る。父はそうだね、と頷く。「シホちゃんはむかしからお姉ちゃん子だったからね。顔は似ているのに、性格は正反対で。たぶんシホちゃんからしたら、いつもボーっとしているお母さんのことが心配だったんじゃないかな。最初のうちはお父さんもシホちゃんによく睨まれてたよ」

「睨んでませんよ」

「その慌てぶりは図星のやつだ」ユカが笑うと、「違うわい」と叔母は膨れた。

「自動車が大破しちゃってね」父はビールを開けていた。酔っぱらう姿を見るのは久しぶりだ。「まるで豆腐を包丁で切ったみたいに車体が半分になってて。どうしたらこうなるのかって、お父さん、事故現場の検証に付き合ったときにびっくりしちゃって。お母さんが亡くなってもしばらくは悲しくもなれなくてね」

 しみじみした物言いが、祖父の葬式での叔母の表情と重なった。

 人は悲しい出来事に直面したとき、なぜか思うように悲しくはなれない。

 ユカもどちらかと言えば、母が亡くなったことそのものより、このさきどうなるのだろう、という漠然とした不安に襲われたのを覚えている。そして母の死よりもじぶんの日常が崩れたことに対する不安を募らせるじぶんに失望もした。

 なぜちゃんと娘らしく悲しめなかったのだろう、と。

 じぶんはひょっとしたら冷たい人間なんじゃないのか、と。

 しんみりした空気の漂うなか、叔母が手を打って、さて、と席を立った。「片付けちゃいますか」

 父が皿を運び、テーブルを拭いているあいだに、ユカと叔母の二人して食器を洗い、拭いた矢先から食器棚に仕舞っていく。

 なんだか記憶にない母との生活を思い起こされるようだった。

 父はお酒が入ったこともあるのか、二十一時を回った時点で寝床に入った。ユカがそうであるようにずいぶんくたびれている様子だ。それはそうだ。この一週間、父だけは働きづめだったのだ。みな父を頼っている。それが誇らしくもあり、じぶんの小ささが相対的に浮きあがるようで、虚しくもあった。

 昼寝をしたからかユカは眠くなかった。

 叔母はきょうもきょうとてドラマに夢中だ。いっしょになって眺めていたが、叔母ほどには楽しめない。

 ドラマの内容は恋愛関係が主軸にあるだが、結婚はべつに女のしあわせとは関係ないだろ、みたいな主張をさいさん主人公が吠えていたので、まあそういう考えもあるか、とユカはぼんやり眺めていた。

「叔母さんは結婚しないの」なんとなく口を衝いた言葉だった。

「しないねぇ。まず相手がいないし」

「したいか、したくないかで言えば?」

「いまはいいかなぁ。ドラマで見てるだけでお腹いっぱいだよ」

「そういうものですか」

「ユカちゃんはしたいの結婚」

「わたしは、どうだろ。相手しだいかな」

「だよね。私も私も」

 叔母の軽い口調からは、どことなく、以前はそういった意中の人がいたのだけれどね、といった存外の意味が含まれて聞こえた。ユカの気のせいかもしれないが、叔母の表情からは、祖父の葬式で見せていたようなせつなげなまなざしが見てとれた。

 ユカちゃんお風呂入っちゃったら、と促されたので、じゃあ入っちゃお、と腰をあげると、一緒に入る?と叔母さんが茶目っ気たっぷりに言うものだからユカは呆れた。

 からかわれたのがおもしろくなくてユカは、

「いいですよ別に」と挑発する。

「うそうそ。私もう夕方に入っちゃったし」

 あたふた取り乱す叔母がおかしかった。髪の毛が編みこまれておらず、ひっつめに結われている。

 風が吹けばさぞかし美しく靡くだろうと連想し、ふと、蔵での会話を思いだす。

「シホさん。きのう言ってた日本刀って」

「ん。なに」

「日本刀です。探してましたよね」

「ああ、うん。でもいいんだ。きっと誰かに預けたんだと思う」

「どういう刀なんですか」

「お。気になる?」叔母は涅槃のかっこうから仰向けになり、足を振って上半身を起こした。あぐらを組む。「これくらいの長さの短いのでね」と両手で肩の幅を示す。「脇差だよね。古い時代のもので、たぶん売れば結構な値段すると思うよ」

「そう、なんですね。でもどうして脇差だけなんですか。本物のって言ったら変ですけど、長いほうの刀とふつうセットな気がしますけど」

「そっちはもうあるから」叔母の表情が曇って見えた。気のせいだろうか。

「そう、なんですね」

「どうして。心当たりある?」

「いえ。日本刀なんてどこで手に入れたんだろうって気になって」

「そういう家系だったみたいよ」

「家系、ですか。武士とか?」

「処刑人」

 その言葉にぎょっとする。

「首切る人。まあ、ご先祖様の話だから」

「その刀もじゃあ?」

「いやどうだろね。実際に使われてたかどうかまでは。ほら。秀吉公なんかも家臣に褒美として刀をあげてたりしたでしょ。似たようなもんじゃないかな。だからまあ、代々引き継つがれてきた家宝とも言えるかも」

「大事なものじゃないですか」

「まあね。でもないのは脇差のほうだけだから」

「もう片方はどこにあるんですか」

「見たい?」

「いえ、それほどじゃないですけど」

「そっか」

 けっきょく叔母は本差がどこにあるのかを言わなかった。

 風呂から上がると、叔母は居間におらず、寝たようだった。

 ユカもじぶんの部屋に行き、布団にくるまる。メディア端末で友人たちの近況を覗き見て、テキストメッセージが一つも送られてこない現実に塞いだ。

 じぶんが逆の立場だったら友人になんと送っただろう。やはりそっとしておく選択をしたのではなかったか。

 寂しかったり慰めてほしいときはきっと、じぶんのほうから何かしらメッセージを送るはずだ。それがないのだからいまはそっとしておくほうがよいと考えるのはさほど薄情とは言えないはずだ。

 現に、いま仮に友人たちからメッセージを送られてきたとしても、既読無視しただろうと思えた。

 それでいて何も届いていないと寂しさを感じるのだから、人間とはいい加減なものである。

 メディア端末を手放し、ユカは眠ることにした。

 寝返りを打つたびに布団の下の日本刀がごりごりと背骨を摩る。寝苦しいので、共に寝床に入れ、抱きしめた。

 鞘越しでも刀身の冷たさが伝わるようだ。

 守られている、と感じる。

 うつらうつらしながら無意識に髪の毛をいじっている自分を認識し、寄せては返す波のようにいちどは夢に沈みかけた意識がふたたび覚醒したときには、日本刀の飾りごと三つ編みに結わいでいた。 

 脳裏に雪崩れこむ情景がある。

 首を斬る。斬る。斬る。

 一刀両断しては、血を拭い、また一刀両断しては血を拭う。

 それを見ていると居ても立ってもいられなくなる。

 目をつむる。歯の痛みを耐えるように時間が経過すればいずれ薄れると期待するように背を丸めて、眠ろう、眠ろう、と念じるのだが、頭の芯が冴えてしまってどうにも寝れる気がしなかった。

 睡魔ごとバッサ、バッサ、と斬り伏せているじぶんの姿を幻視する。

 息苦しく、夜風に当たりたくなった。

 寝床から這いでると、デジャビュを覚えたが、それを言うならば毎日のように寝床からは這いでているので前に似た感覚がなかったと思わないほうが不自然とも言える。

 玄関から外にでる。

 夜空に星はなく、月明かりも今宵は分厚い雲に遮られて見えなかった。

 家のまえの道路を踏む。蔵とは反対側だ。道沿いに、川のあるほうへと下った。民家は川に追従するように横並びにつづく。川は山に囲まれている。川から距離を置くように進めばどこを歩いても山に入る。

 いったいじぶんはどこに向かっているのか。

 もうずいぶん進んだ。

 振り返っても背後に家の明かりはなく、川の水音がすぐそこに聞こえる。川からは距離があるはずだが、遮蔽物がない分、音が響くのだ。

 胸騒ぎがする。

 妙に昂揚しているじぶんがいる。

 ここに至って、手に日本刀を握っているじぶんに気づいた。

 いつから持っていたのか。

 むろん寝床から持ちだした以外に考えられないが、記憶にない。そうしようとしたつもりはなかった。

 血が騒ぐ。

 三つ編みが風に揺らぐが、なびくことはない。日本刀の飾りと繋がっている。三つ編みから日本刀が伸びていると言っても間違いではない。

 徒歩で来たことのない場所まで来てしまったが、自動車では通ったことがあるはずだ。買い物をするにはこの道を通る。スーパーは隣町にあり、そちらはこの村よりも栄えている。

 熊の被害がでた村とは真逆の方向だ。

 あちらのほうが距離にすれば近い。このまま歩いていても隣町までは十時間はかかるだろう。三十キロの距離があるのだから仕方がない。

 ここいらで引き返し、やわらかい布団にくるまり直すのが正解ではないか。

 歩を止める。

 深く息を吸い、踵を返そうとしたところで、低い声を聞いた。

 呻き声だ。

 辺りに明かりはない。離れた場所に街灯がある。夜道を照らしているが、見える範囲にはそれ一本しかない。

 民家はなく、視界は開けている。

 右手には川へとつづく土手があり、左手には田畑が広がる。

 田畑の奥には林があるはずだが、ここからは闇しか見えない。

 呻き声がまたあがる。

 明確に人の声だとユカには判った。

 事切れる間際の人の断末魔だ。

 悲鳴ではない。

 呻き声なのだ。

 人は死ぬ間際には、吐息との区別もつかぬ呻き声しか発さない。

 なぜそんなことをじぶんが知っているのかと疑問する間もなく、闇のなかに自動車があることに気づく。

 街灯の奥だ。

 目を凝らす。

 ドアが開いたままだ。ライトは消えている。

 アスファルトの上に立っているはずがユカは、ふしぎと泥のうえを歩いている錯覚に陥る。

 錯覚したことで、いまじぶんは歩いているのだ、と認識した。

 鼻腔を仄かに鉄の匂いが掠った。

 刀の柄に手をかける。

 ナニかいる。

 闇の奥で、風切り音がした。ブン、と短い音で、棒か何かで宙を払ったような響きがあった。

 遅れて街灯の下に、飛沫のようなものが横切ったのが見えた。

 脳裏に、刀からしたたる鮮血の像が浮かぶ。

 鯉口を切ると、チャキ、と小豆を研ぐような音が鳴った。

 刀を構えたまま、歩を進める。

 街灯を迂回し、道からも下りて、死角から近づいた。

 自動車の裏手から、闇の中に潜むナニかの姿を捉えようとする。

 だが、

「あーあ」

 闇の奥から声がした。

「見つかっちゃったか」とつづく声には聞き憶えがあった。

 家で寝ているはずのその人物は、肩に打刀を担ぎ、街灯の明かりの下に姿を晒した。

「出ておいでユカちゃん。隠れるこたないじゃないか。おいでよ」

 なぜ、と思うよりも、ああ、と天気予報で雨と言っていたのに傘を差さずにきてしまったような落胆の気持ちが大きかった。なんだ、そっか、と。

 言葉の応酬を図るつもりはなかった。

 自動車を挟み対峙する。

 相手が動けばこちらも対角線を維持して移動する。自動車を挟んで追いかけっこをする構図だ。

「なんで逃げるのさ。ダメダメ。これじゃ埒が明かないよ」

 雲間から月光が差しこんだ。

 暗がりにキラリと光る一筋の閃光がある。

 相手が刀を振りかぶったのだ。

 距離がある。

 避ける必要はないはずだった。

 だが身体はそうあるべきだというように大きく横に飛び退いていた。

 希薄な音が一瞬響いて消えた。しゃりんとも、しゃきんともつかぬ林檎を齧るときのような瑞々しい音だ。

 つづいて重々しい音が鳴る。

 鉄の塊が地面に落ちた。

 脳裏に湧いた印象はかようなものであったが、見遣ると視線のさきでは自動車が真ん中から半分に割れていた。

 そう割れていた。

 あたかもスイカを包丁で切ったような。

 モーゼの割った海さながらの切れ味で。

 なぜか瞼の裏に、ここではないどこかの事故現場の映像が、それをじぶんでは見た憶えはないのだが、浮上した。

 事故現場では父が立ち尽くしている。そんな情景だ。

 よもや、と歯を食いしばる。

「あんたがお母さんを」

「事故だよ。あれは事故さユカちゃん」

 寝間着のまま叔母は、真っ二つの自動車の真ん中を悠々と素通りする。

 ぽんぽんと肩を叩く日本刀は長く、鞘はもう一方の手に握られている。

 目を瞠るべきは、柄から伸びる飾りだ。叔母もまたそれを髪の毛と繋げて編みこんでいた。

「そもそもを言うなら姉さんがあんな南極で育てたニンジンみたいな男を選ぶからあんなことになったんだ。姉さんにはもっとふさわしい相手がいたのに、似つかわしくのない男と添い遂げたりするから。ユカちゃんだってそうだよ。ユカちゃんがもっとちゃんとしててイイ子だったら姉さんだって理想の母親でいられたんだ。あんな心配性の過保護バカになんかならなかった」

 見たくなかったよあんな姉さんの姿は。

 歯ぎしり交じりに叔母は呻った。

「姉さんは事故で死んだんじゃない。あんたら親子のせいでとっくのむかしに死んでたんだ。私じゃない。姉さんを殺したのは私じゃない。あんたらが」

 あんたら親子が。

 鼻先を切っ先が掠る。

 前髪がハラリと落ちた。髪の毛が滑り落ちる感覚が鼻梁に走る。

 後ろ手に体重を支えていたが、腕の力が抜けた。

 肘で体重を支える。

 ほとんど仰臥同然の体勢だ。

「あんたは地獄に落ちるから姉さんには会えないよ」

 ヒヒっ。

 卑屈に嬉々とした笑声の奥で振りかぶられる刀の煌めきが見えた。

 絶体絶命の窮地にあって、なぜか全身の血が滾った。

 でんぐり返しの要領で後方に回転する。

 空を切る音が、先刻までいた地点、数十センチ先から聞こえた。

 一回転し終えるとしぜんと膝立ちの状態になる。

 手は柄を握っている。

 足の裏で地面を掴む。

 腰をねじり、分銅を振り回す要領で刀を抜いた。

 力が足先から腰、肩、ひじ、腕、刀身、切っ先と順々に伝播する様子があたかもドミノ倒しのごとくなめらかに、明瞭な感触を引き連れて伝わった。

 驚くほど軽い。

 空を裂く。

 ふしぎと音はない。

 手首を返す。

 振り抜いた刀をふたたび下から上へと振りあげる。

 叔母の刀が一拍遅れで頭上に落下しつつあったが、返す刀で薙ぎ払った。

 勢いのまま斜め前方にでんぐり返す。叔母の後方に抜ける。

 叔母の手からは刀が離れ、地面に突き刺さる。

 叔母は動かない。

 ズルリ、と音がしそうなほどの重々しさで叔母の三つ編みが肩の高さから落下した。

 切断された三つ編みは、刀の飾りと繋がったままだ。地面に佇立した刀に引き寄せられ、三つ編みは巻きつき、刀を覆い尽くす。鞘のようだ。

 風が吹く。

 三つ編みの鞘は、真下に滑り落ちたかと思うや否や、飾りごと小間切れになり、風に流され、闇に紛れた。

 刀身だけが月明かりに照らされ、闇に一筋の光を浮かべていたが、それも間もなく月が雲間に隠れ、見えなくなる。

 叔母は立ち尽くしたまま、あ、あ、と声を漏らし、膝を崩したかと思うと、両手で顔を覆ってさめざめと泣いた。

 しばらくその様子を眺めていたが、ユカはじぶんの短刀を鞘に納め、その場を去った。

 祖父の家までまっすぐ戻った。

 家の中は静まり返っていた。耳を澄ますと、秋の虫の音が夜のしじまに律動を刻んでおり、合間に父のいびき声が聞こえた気がしたが、気を緩めると聞こえなくなった。

 喉が渇いたので麦茶を飲んだ。

 寝床に潜りこむと、しぜんと刀の飾りから髪は解けた。

 じぶんが先刻まで家の外にいたことが遠いむかしの出来事のようで、夢でも見ていた心地がした。

 夢であればよいのに。

 そうと念じて目を閉じる。息を深く吸い、ゆっくり吐き出している合間にユカは深い眠りに落ちた。

 夢の中でじぶんの影が蔵の中で刀を握っていたが、黴の臭いに顔を背けるようにするとふたたび夢の奥底へと落ちていく。

 翌朝、父親に叩き起こされた。

 大事なお話があります、とまずは前置きがあり、ユカが居住まいただすと、父は神妙に述べた。母の死を知らされたときと同じように、父は娘のユカにも敬語で、じっくりと腰を据えて語った。

「まずは驚かないでほしいのだけど叔母さんが警察に自首しました。お父さんもそちらにお呼ばれして、いまから話を聞いてこようと思います。ユカさんはここで寝ていてもいいです。たいへんなことが続いてつらいだろうけど、もうすこしだけ待っててください。あさってにはユカさんだけでも家に戻れるようにしますので。それから叔母さんについてはまだよく分かっていないけれど、刃物で村の人に襲いかかって、それで命を落とした人もいるようです。昨晩のことです。まだ詳しくは分からないので、お父さんも何が何だか戸惑っているのだけど。まずは警察署に行ってきますので、お留守番をお願いしますね。親戚の人にも連絡をしておいたので、午後にはここに誰か来てもらえると思いますので」

 寝てていい、と訊くと、ご飯は台所に置いておいたから、と父は言い残し、自動車で家を発った。

 警察署は隣町にある。三十キロの道のりだ。夜まで戻らないだろうとユカは思った。

 しばらく寝床でぼんやりしていると、ふと日本刀がないことに気づく。

 布団の下を探るがない。

 どこだろう。

 手持無沙汰に髪の毛を三つ編みに結いながら、はたと思い至る。

 着替えも済まさずにサンダルに足を引っかけ、家の裏手の蔵に向かった。

 蔵に入ると黴臭く、明朝に見た夢を思いだした。

 蔵の中はがらんとしていた。

 奥には山積みの木箱がある。

 左右に積みあげられた木箱の真ん中、そこだけ避けたように空間が開いている。

 床には切れこみが入り、四角く線を引いたように薄っすらと縁どられている。

 隠し戸だ。

 縁に指をかける。

 蓋を開ける。

 真上の窓から朝陽が差しこんでいる。

 陽の光は隠し戸に降りそそぎ、その先には神棚が一式、沈んでいる。

 神棚にはいつ戻ったのか、短刀が添えられており、鞘の上から幾重にも飾りが絡みついている。

 大樹の根のようだ。

 ユカは、しばらくそれを眺めたが、こんどは手にとることなく蓋を閉めた。

 積みあがった木箱を床に下ろし、隠し戸を塞ぐ。

 蔵の戸を閉める。

 外れたままだった南京錠をかけると、ユカは鍵を持ったまま道路を渡り、それを川へと投げ捨てた。

 頭の中がぐるぐると渦巻いている。

 胸の奥底に湧くモヤモヤとした名もなき淀みが目頭に押し寄せそうだった。

 ユカは指を髪の毛に突っ込むと、手櫛で三つ編みを解きほぐす。チャックを引き下げるように。泥を掻き分けるように。それとも稲穂から米をこそぎ取るように。

 母が亡くなったときにも覚えなかった寂寥と悲哀と誰にぶつけようもない憤懣を振り払うように、ユカは解いた髪を振り乱す。




【キキ一発】


 殺すべきだ、が私の偽らざる意志だった。上からの指示にもそのようにあった。それ以外に我々の目的はなかったと言っていい。同胞の大多数も似たような考えを持っていた。そうでなくとも明確に反論を呈してくる者は、そのときに至ってキキただ一人だった。

 殺すべきだ、と私は唱える。キキは、いえ、と不服そうな声を漏らした。

 キキは若くして頭角を現した次世代戦士の一人だった。

 地球を侵略せんと宇宙からやってきたジャルバ星人との戦闘によって各国の軍部はほとんど壊滅した。

 その後に新たに編成されたのが人類防衛軍だ。人類の、人類のための、人類の手による軍隊だった。

 たった一匹のジャルバ星人相手に人類は残った戦力のほとんどすべてを費やした。

 中でも戦力の要を担ったのが新世代と呼ばれる若者たちだった。

 ジャルバ星人が地表に降り立ち、侵略を開始しはじめたあとに産まれた子どもたちだ。何がどのように作用したのかは定かではないが、新世代のなかにはこれまでの人類に見られない身体能力の顕著な向上がみられた。

 他者の行動を読むのに長けた者、膂力が秀でた者、記憶力のずば抜けた者、未来予知としか思えぬほど卓越した観察眼を持つ者、ほとんど超能力と言っていいほどの突出した能力を新世代の戦士たちは発揮した。

 なかでもキキの可視光以外の波長を知覚する能力は極めて人類の戦況に左右した。

 というのも、ジャルバ星人の攻撃により衛星通信の軒並みは潰された。遠距離での通信手段を人類は失くしたも同然であった。

 しかしキキの能力により、人類は遠距離での交信をふたたび行えるようになったのだ。

 もっとも、キキが一方的に人類の通信を傍受しているにすぎない。各地の被害状況を知るのがやっとであったことに変わりはない。

 だがジャルバ星人はたった一匹ゆえに、どこに出現しているのかの情報を知れるだけでも人類にとっては優位な一手となり得た。

 ジュルバ星人からの侵略を受けてから五年後には人類の人口は数万人にまで減っていた。一か所に集まると一瞬で滅ぶ確率が高くなることから、数百人規模の集団となって三々五々、全世界を津々浦々に転々とした。

 だがいつだってキキのいる場所が人類防衛軍の司令部だった。本陣だった。拠点だった。

 キキを核として人類はかろうじてひとつにまとまっていたと言っていい。

 だがキキには指揮権どころかあらゆる決定権を与えられなかった。

 それはそうだろう。いくらなんでもたった一人に権力を集中させるわけにはいかない。

 幼いころからその能力を買われ、キキは軍事教育を徹底的に叩き込まれた。キキには可視光以外の電磁波のいっさいを受動できるだけの並外れた情報処理能力が備わっていた。ゆえに、あらゆる教育を軽々と呑み込み、空いた時間で人類の英知の集積――バルクを読み漁った。バルクは人類がまだ電子の網の目を駆使して繋がっていた時代に開発された極小の記録媒体だ。

 発電所の破壊された現在では、それを利用できる設備はない。端末を起動させるにしてもそもそも充電すらできないのだが、なぜかキキにはその記録媒体から情報を読み取る真似ができた。

 バルクに情報を記録するのに用いられた技術が、光に関するものであったことが作用しているのかもしれない、との推量はついたが、誰にもその真相を知ることはできなかった。

 キキは寡黙な少年だった。

 ジャルバ星人討伐作戦が決行された歳、キキは十五歳の青年となっていた。

 十五歳とはいえど、キキをまえにして彼を年下と思うおとはないなかった。人類防衛軍の指揮官の誰もがキキに一目を置いていた。それはキキの能力を起因としない、キキの気質への評価であり、音のない雪の夜を思わせるキキの静かなる知性の深さへの畏怖でもあった。

 キキがその気になれば人類を支配するなど造作もなかったはずだ。だが彼にその気がないことをみな漠然とではあるが、それでいて確固として信じることができた。

 否、疑う必要がない。 

 キキには欲がなかった。

 深い他者への慈愛、命を尊び、敬う木漏れ日のような眼差しがあるばかりであった。

 キキに軍事作戦の意見を仰ごうとしない軍の方針は、何もキキに指揮権を握られたくなかったからだけが理由ではない。なるべく彼には、人の生き死にに関わる決断に関与してほしくなかったのだ。

 手を汚してほしくなかった。

 ゆえに遠ざけた。

 そうした理由を表立って唱える者はいなかったが、裏から言えばそれは言葉にせずとも誰もが似たような思いを抱いていたことの傍証と言えた。以心伝心である。

 人類はキキに支配されてはいなかったが、キキを中心にまとまってはいたのかもしれない。

 ジャルバ星人を追い詰めたとき、その場にキキの姿はなかった。

 総力戦を仕掛けたがゆえに、失敗すれば人類の大半が死滅する。

 なればこそ、キキのような人類の要を万が一にも失うわけにはいかなかった。

 ゆえに、ジェルバ星人の主要外部知覚器官を破壊したとき、ジェルバ星人のそばには私を含め、作戦実行部隊のうち生き残った兵士が数人いるのみであった。

「指令、聞こえますか」

「ああ。いまキキから状況を聞いた」

 通信端末をこのときのみ使えるようにした。世界中に点在する人類の生き残りコロローにおける自家発電の電力を根こそぎ使ってようやく可能とした遠距離通信だ。衛星が使えないうえ、コロニーの生活基盤が停止する。この手法はもろ刃の剣だった。

「作戦は成功です。しかし追い詰めるのに想定以上のソードを消費しました。宇宙船の破壊までは手が回りません」

「ソードはまだ残っているのだろう」

「そうですが、宇宙船の破壊に使えば本体を殺すことができません」

「ならば先に本体を殺してしまおう。いま援軍を送っている途中だ。宇宙船のほうはそれからでも遅くはないだろう」

「いえ、それがそうもいかないんです。宇宙船内にジャルバ星人の分身がバックアップの意味合いで備わっているようで。一度は殺せたのですが、そしたら宇宙船から新しい個体がでてきてしまい、ふたたび戦闘に発展。こんどは殺さずになんとか行動不能にまで追い詰めました。ですから当初の予定よりもソードを消費してしまったんです」

「ならば選べる策は限られるな」

「はい。本体を殺すのと宇宙船を破壊するのは同時か、或いは宇宙船が先であるべきかと」

「だがそうこう言っているあいだに本体が回復すれば」

「ええ。それもまたあとがなくなります」

「失敗すればこれまでの犠牲がすべて元の木阿弥だぞ」

「解かっています。ですから指示を仰いでいます。最良の選択をどうか命じてください」

 本部の最高司令官は押し黙った。

 何も思いつかないのだろう、それはそうだ。ジャルバ星人が生き返れるなど想定外だった。

 一手間違うだけで、人類の勝敗が決まる。生きるか死ぬかの分水嶺だ。瀬戸際である。

 ジャルバ星人に王手をかけておきながら、未だ詰むこともままならない。

 もしつぎの一手を誤れば、またイチからジャルバ星人とやり合わねばならなくなる。こちらの損失はそのままで、相手だけが完全復活を遂げてしまう。

 それだけはなんとしてでも避けなければならなかった。

「キキは何と言っていますか」最高司令官に言った。

「キキか?」

「はい。キキの意見を聞いてみたいです」本心からの懇願だった。これまでキキには作戦にいっさい口だしを許さなかった。意見すら仰がなかった。関わらせなかった。

 だがいまこそキキの考えをみなで聞いておいたほうがよいのではないか。

 藁にも縋る思いではあったが、しかしどちらかと言えば、人類の存亡に関わる決断ゆえ、もはやキキへの配慮は不要だとの思いがあったのかもしれない。

 選択を間違えれば人類は滅ぶ。

 なればせめてキキにも意思を反映させる機会を与えてもばちは当たるまい。失敗して元々だ。どの道、なす術がないのだ。

 作戦は成功したが、しかし最善ではなかった。

 次善の策を用意できなかった我々人類の未熟さが招いた窮地と言えた。

 最高司令官はキキを司令部に呼び寄せたようだ。

 電波越しに呼びかける。「キキか」

「はい」

「事情はもう知ってるな」

「はい」

 キキの特質ゆえ、世界のどこで何が起きているのかキキには手に取るように分かる。なにせ地球は磁場を有している。のみならず地熱や宇宙線を乱反射させている。キキにとっては世界そのものが一つの目なのだ。

「ジャルバ星人をどうすべきか意見を聞きたい。君はどうすべきだと思う」

「どうすれば、というのは、その」

「うん。私はいますぐにでもジャルバ星人を殺したい。だがそうすると宇宙船から分身が現れて、またイチから対抗しなければならない。だがその余力はもはや我々にはない。分身が現れたらおしまいだ」

「宇宙船を破壊することもできないのですよね」

「そうだ。それだけのソードはもう残っていない。援軍がいまこちらに向かっているそうだが、到着までにはどんなに早くとも数週間はかかるだろう。船と馬での道のりだからな」

「戦闘機は使えないのですか」

「今回の作戦で全機投入した。すべてジャルバ星人に撃墜されてしまったよ」自嘲ぎみの笑いが漏れる。言葉にすればするほどあとがないと身に染みる。「周囲に宇宙船を破壊できるだけの設備はない。素材はない。宇宙船を破壊するにはソードも足りない」

「では宇宙船の破壊は不可能ですね」

「そうとも限らん」言いながら閃いた。「ジャルバ星人に宇宙船を運転させ、自爆するように仕向ければ可能だ」

「できるのですか、そんなことが」

「無理だろうな」

「ならとるべき道は一つしかないものかと」キキの言葉に被せるように私は先回りして言った。「ジャルバ星人を先に殺せば、分身がまた現れる。それもまたとれない選択肢なんだ」

 堂々巡りだ、と思う。それはそうだ。ゆえにキキに意見を仰いだ。

 答えがでない問題を吹っ掛けても無駄にキキを困らせるだけだ。解かってはいたが、キキですら匙を投げだす問いであると判ればそれでよかった。

 諦めがつく。

 だが、こちらのそうした狡猾で姑息な思惑は、キキのつぎの言葉で打ち砕かれた。

「殺さずに生かすという道もあると思うのですが」

「なんだと」電波越しに最高司令官の声と重なった。

「逃がしましょう。宇宙船に乗せてやり、そのまま地球から去ってもらえばよいのです」

「バカな」

 誰もがそう思うだろう言葉を私は代弁した。「そんな真似をして、はいわかりました、とアレが去ってくれるとでも?」

 殺し合いの最中に、せっかく相手から奪った刀を相手に差しだし、治療まで施してやるような無謀、否、自殺行為としか言いようがない。

「きみは我々のこれまでの努力をダイナシにしたいのか」

「そういうつもりはありません。意見を訊かれたので、お答えしたまでです」

 殺すべきだ、と私は思った。疑う余地がなかったがゆえに、これまで明確に意識してこなかったが、私の思考のなかにジャルバ星人を生かしておく道など一片たりともなかった。人類が滅ぶかジャルバ星人が死ぬか、二つに一つしかないと思っていた。

 殺すべきだ。それ以外に人類のとるべき道はない。

 だがキキはそこに、もう一つの道を提示した。

 ジャルバ星人を生かして、見逃す。

 宇宙船に乗せてやり、宇宙へと送りだす。

 観光客へそうやるように、どうぞお気をつけて、と見送れとでも言いだしそうな穏やかな調子でキキはつづけた。

「その方を殺すことも、宇宙船を破壊することもできないのであれば、あとはもうそれしか有効な策はないと思います。丁重にお帰りいただくしかないのではありませんか」

 そんなことが可能ならばすでにしている。

 できなかったのだ。

 帰ってはもらえなかった。

 意思の疎通など測れない。

 相手はただ一方的に人類を殲滅しているのだ。虐殺してきたのだ。

 破壊の限りを尽くしてきた相手を追い詰めておきながら、最後の最後で、停戦協定を結ぶでもなく、最大の武器にもなり得る宇宙船に乗せてやる。

 できるわけがない。

 宇宙船に乗せてやったあとのことはどうなる、と私は言った。「やつが復活して、また人類に牙を剥いたらどうなる。そうなったらこんどこそ人類はお終いだぞ」

 殺すべきだ、と私は唱えた。

 いえ、とキキは不服そうな声を漏らした。

「ほかの選択肢を選んでも同じことかと」

 キキの冷静な声音に、頭の芯が冷えていく。

 たしかにそれはその通りではあった。

 拘束したジャルバ星人を殺しても、宇宙船を破壊しなければ復活する。宇宙船を破壊しようとして失敗すれば、拘束したジャルバ星人の傷が癒え、やはりこれも復活する。

 ならばせめて追い詰めた事実を残し、慈悲をかけて、互いに距離を置く道を相手がとることに賭けるしかないとのキキの意見はたしかに筋が通っていた。

 だが、そんな賭けは万に一つもない博打にもならない無謀、否々、やはりというべきか自殺行為でしかない。

 私は葛藤した。

 怒りで我を忘れそうだった。

 ジャルバ星人への怒りがそのままキキにも向かいそうだった。

 いったい我々がどれだけの犠牲を払ってきたと思っているのだ。

 私の沈黙のこもった殺意にも似た感情の乱れを感じ取ったのかもしれない、最高司令官が嘴を挟んだ。

「まずは様子を見よう。まだ時間はある。援軍の到着をまずは待ってみて、もしそのあいだにヤツが暴れるようならば、そのときは残ったソードで動けなくしてくれ」

「生かさず、殺さずですか」

「そうだ。キキの意見にも一理ある。もし最後までヤツが暴れなければ、ひとまず宇宙船に乗せてみるのもアリかもしれない。何かしら攻撃の気配を感じたら、そのときは援軍による総攻撃を仕掛け、宇宙船ごとヤツを滅ぼす」

「それだけの装備が援軍にあるのですか」

 もしあるのなら人類はとっくに勝利できていたはずだ。

「ないな。ゆえにこれは針の穴に糸を通すような、ほとんど勝ち目のないような賭けだ。しかしほかに賭ける選択肢がないのも確かだ。違うか」

「そうですが」

「ワシもきみと同意見だ。ヤツはどうあっても殺すべきだ。しかし確率の高さで判断するならば、最も可能性が高いのは、ジャルバ星人に自らこの星を去ってもらうことだ。可能性が高いとはいえ、これもほとんど期待できないほど低い確率には違いないが、ほかの選択肢よりかはマシとも言える」

「賭ける価値があると判断されるわけですか」

「ほかに賭けるモノがない。これはそういう判断だ」

 解りました、以外の言葉を吐けなかった。

 反論するだけの材料がなかった。

 筋は通っている。

 ほかにとれる策はない。

 最も確率の高い打開策を試みる。

 軍の、ひいては兵の役割とはそれでしかない。

 人類のために、私はせっかく追い詰めた憎っくき宿敵にトドメを刺すことができなかった。

 援軍が到着したのはそれから三週間も経ってからのことだった。

 ジャルバ星人の再生能力は凄まじいものがあったが、傷が治癒しても暴れる様子はなかった。その場から動こうともしなかった。

 最高司令官からの命令により、援軍が宇宙船を取り囲む。

 いつでも集中攻撃のできる態勢を整え、ジャルバ星人を宇宙船に乗せた。

 意図を察し、そのまま逃げ去ってくれればさいわいだ。

 そうでなくとも、これさいわいと地球を去ってくれればそれでいい。

 意思の疎通がとれたとは思わない。

 だが人類に歯向かえば痛い目を見ると学んでくれたならばそれでよかった。

 私はほとんど絶望していた。

 怪我が治癒し、宇宙船という最大規模の武器をふたたび手にした宿敵が、そのまま何もせずに去ってくれるわけがない。そのような判断を行える知性があったら、そもそも人類を滅ぼそうとなどしなかったはずだ。

 だが私の予想は、よい意味で覆された。

 ジャルバ星人は地球を去ったのだ。

 人類は歓喜した。

 最強最悪の脅威に打ち勝ったのだ。

 賭けに勝った。

 命の消失に怯える日々は終わった。

 人類はふたたび平和とは何かを思いだす。

 それから年月は流れ、様々な変化が人類に訪れる。

 転換期は二つあった。

 一つは、ジャルバ星人の去ったあとにも宇宙からの訪問者があったことだ。しかしその宇宙からの訪問者たちは軒並み友好的だった。

 ジャルバ星人から受けた被害を打ち明けると、それは災難でしたね、と理解を示し、人類の復興に手を貸してくれた。

 訪問者にはいくつかの種族があった。

 中でもリル星人は、ほかの星人たちと人類の仲介役を買ってでてくれただけでなく、宇宙からの訪問者を受け入れる宇宙空港を築いてもくれた。

 地球は数年のあいだに、人類が数百年を費やしても到達できないだろう発展を遂げた。

 リル星人は銀河を放浪する少人数の銀河間旅団だった。人数がすくない上に、友好的で、知性が高く、また見た目も人類にちかかった。

「地球にはエルフという空想上の人種があるのですが、まるでリル星人のみなさんはそのエルフそのものです」

「それはどういう生き物なんでしょう。生身の人類とはどう違うのですか」

「エルフは長寿で、気高く、知性と好奇心が高いのです」

「それはたしかに似ていますね」

「見た目も似ているんですよ、ほら」

 エルフの登場する映画を観せる。リル星人たちはそれに魅入り、たいへん興味深いです、と肌をきらめかせる。リル星人たちは昂揚するとキラキラとまたたく粒子の輝きを肌に浮かべる。

 人間で言うところの紅潮だ。

 リル星人たちの助力があり、ほかの宇宙からの訪問者たちとも軒並み友好な関係を築けている。

 人類の人口は、ジャルバ星人襲来以前の数にはまだ満たないが、年々その数は増加傾向にある。

 星人たちの技術を応用し、補助器具を用いればテレパシーじみた通信も可能となった。思考するだけで脳内のアイディアを、映像や文章に出力することもできる。

 人類は加速度的に、意思を共有させ、さらなる発展の礎を築きあげていく。

 その矢先の出来事であった。

 緊急事態が発生した。

 宇宙の遠方より超高速接近する飛行物体を観測したのだ。

 私は再び人類防衛軍の最高司令官に呼びだされた。

「隕石ではないんですか」

「違うようだ」

「ならば単なる放浪の民では」

「いや。すでに登録済みの機体だ」

「なら問題ないのでは」

「登録ナンバーはゼロ番だ」

 その事実に息を呑む。

 最も最初に人類が観測した宇宙船が、再び地球に向かってきている。

 その事実は、私だけでなく、全人類にとって最悪の記憶を呼び覚ますのに充分な脅威を秘めていた。

「ジャルバ星人ですか」搾りだすように口にした。

「そのようだ」

「いえ、仮にそうだとしても、いまはむかしとは違います。人類は進歩しました。今度は前のようにはいきません。返り討ちにしてやりましょう」

 人類防衛軍司令部の中央には巨大な立体映像が浮かんでいる。

 地球の像に切り替わる。

 地球の周囲には大小さまざまな人工衛星が飛び回っている。それらすべては通信網の補助であると共に、宇宙空港の滑走路の役割を果たしている。

 同時に、宇宙からの隕石やゴミ、或いは今回のように望まざる訪問者を排除するための装備も兼ね備えられている。

 いかなジャルバ星人といえども、今回ばかりは地上に降り立つことはおろか、地球の大気圏内に入ることすら適わないだろう。

「これもすべてあなたがたの助力のお陰です」

 そばに立つリル星人に、我々一同は礼を述べた。

「いえ。この素晴らしい星を守るためには必要な設備です。お力添えをさせていただけて光栄なのはこちらのほうですから、どうぞお気にならさないでください」

 なんて謙虚なのだろう、と私は感動した。

 リル星人たちの爪の垢をジャルバ星人に煎じて飲ませてやりたいと心の底からそう思う。

 超高速接近飛行物体は、地球からの警告を無視して、迎撃可能範囲に侵入した。

 あと一時間もしないうちに地球の防衛宇宙領域に接近する。

「応答はなし。速度も落としませんね」私は言った。

「何か策があるのかもしれん」最高司令官が顎鬚を撫でた。重々しい口ぶりだ。それはそうだろう。過去の戦禍を忘れてはいない。

 老化を除去する技術が普及したため、軍の幹部の概ねは未だ同じ役職に就いている。昇級という制度が現在廃止されている。人体が総じての器官の正常な働きによって活動を維持するように、階級に関わらず、それぞれの役職のエキスパートがその役職に就くからこそ維持できる組織運営というものがある。命令系統の上下関係や、何を率先して守るべきかの優先度はあれど、どの役職にしろ階級にしろ大事な組織の一部には違いない。そこに優劣はない。

 そうした思想もまたほかの星人たちとの交流のなかで培われた文化と言えた。

「もう一度だけ確認しておきたいのですがよろしいですか」私はリル星人の代表を見た。彼はやわらかな微笑を湛えながら、凛と佇む。「なんなりと」

「ジャルバ星人に仲間は本当にいないのですか。あなた方の説明では、たしかジャルバ星人の生態からして、一匹しかいないという話でしたが」

「はい。それは間違いないでしょう。孤独な種族なのです。いえ、種族を持たないがゆえに、ああも横暴でいられたわけですが。つまり、あれは地球で言うところのアメーバです。知性のある、戦闘力の著しいアメーバなのです」

「分身をストックにしているのは、宇宙船の機能ではなく、そもそもがそういう生態だということですが」

「はい。分身の思考能力を利用することで、単一での活動を大幅に効率化させています。そのように進化したようです。別の言い方をするならば、分身という名の同胞の能力を並列化することで、単体の出力を飛躍的に高めているとも言えるでしょう。そのため、分身が減るごとに単体の能力は下がります。前回、あなた方を襲ったときには分身を一つ使わせたそうですね」

「ええ」

「そこでおそらく、ジャルバ星人は怯んだのでしょう。これ以上ストックを減らすわけにはいかない。そう考え、ひとまず今は引いておこうと判断したものと思われます」

「なるほど。では、こんどはストックを増やしたうえで、もういちど侵略にやってきたと、そういうことですね」

「おそらくは」

「しかし前々からふしぎだったのですが」ここで最高司令官が割って入った。「地球はそれほどまでに魅力的な星なのですかね。いえ、むろん我々人類にとっては何より大事な星です。しかし超次元ワープを可能なみなさんのような方々にとっては、地球に似た惑星はほかにもたくさん見つけられるように思うのですが」

「それはその通りです。地球のような惑星はほかにもたくさんあります。しかし、どの星も、ジャルバ星人のような侵略者にボロボロにされてしまい、同じ時間軸上では辿り着くことができないのです」

「ああ、そうでしたな。超次元ワープであっても、相対性原理は有効なのでしたな」

「はい。短時間での移動は可能です。しかし辿り着いた先では、何万年も時間が経過しています。つまり、真っ先に辿り着いた侵略者ほど、その星を我が物顔にできるのです。二番手の星人が辿り着くころには、その星は移住できるような状態ではありません。環境が変容しているというのもありますが、地球が現在そうであるように、招かれざる訪問者を撃墜するだけの設備を充分に整えられていることが大半です」

「では地球は運がよかったのですね。ジャルバ星人を撃退できただけでなく、あなた方のような素晴らしい星人のみなさまに親切にしていただけたわけですから」

「そう言っていただけると光栄ですが、それはお互い様なのです。こうして歩み寄っても、攻撃されて追いだされてしまうことは珍しくないのですから。ワタクシどもは少人数ゆえ、大規模な設備を築くのもむつかしいですし。いまの状況は、地球人のみなさんの友好的な協力があってのたまものなのです。みなさんのお力添えのお陰です」

「いえいえ。我々はみなさんに甘えてばかりで。提供できたのもせいぜいが労働力くらいなものですし。本当によくしてくださってありがとうございます」

「ちょっと指令」私は不平を鳴らす。なごなごと互いに褒め合っている場合ではない。「ジャルバ星人がたったいま遠距離迎撃レーザー砲を回避しました。このさき防衛宇宙領域に入られるまで何もできませんよ。どうするんですか」

「案ずるな。防衛宇宙領域内に入れば、人工衛星からの総攻撃を放てるのだ。あれを回避する術はない。それに、リル星人のみなさんもいらっしゃるのだ。地上に降りたところで、なす術なく撃退されるだろう」

「心強いのは分かりますが、そう悠長なことも言ってられないでしょう。何せあのジャルバ星人ですからね。向こうにもそれなりの対抗策があるからこそ、ああして無謀にも突っこんできているんじゃないんですか」

「その懸念は拭えんな。ではこうしよう。またあのときのように、キキの意見を仰ごうではないか」

「キキと連絡がとれるのですか」まずはそのことに驚いた。「あの一見以来、姿を消したと聞いていましたが」

 あの一件とは、ジャルバ星人襲来のことではない。

 その後にやってきたリル星人たちを受け入れるとなったときに、キキだけが除隊手続きも済まさずに、軍から去り、姿を消したのだ。

「キキさんというのはどなたですか」リル星人の代表が興味を示した。

「人類の救世主ですよ。若い世代のなかには奇特な能力を有した者がいることはご存じでしょう」最高司令官が説明する。「中でもキキという青年が、ジャルバ星人を撃退する上でなくてはならない戦力だったのです。人類の要でした」

「その方はいま?」

「砂漠地帯の孤児たち相手に、勉強を教えているようです。ボランティア団体の雑用のような真似もしているようでして」

「そうなんですか」思わず口を挟んでしまう。あのキキが、いまは一般人に交じって生活している様子は想像つかなかった。「なんでまたそんあ真似を」

「さてな。軍人に囲まれる生活に嫌気が差したのかもしれん。その気持ちが分からんキミでもあるまい」

「ええ、まあ」

「キキをキキと見做す者がいまは周囲に誰もいないようだ。キキには恩がある。ならばそっとしておいてやろうとみなで話し合って決めたのだ。ボランティア団体に支援というカタチで、それとなく恩に報いてはいるが、キキには直接に利を与えてはいないという点では、恩返しにはなっておらんのかもしれんが」

「ならば今回のことに巻き込まずにいてやりましょうよ」

「そうもいかんだろう。事が事なだけに、もしも我々の予想が外れて、ジャルバ星人に再び暴虐の限りを尽くされてはたまらんよ」

「彼らがいるではありませんか」リル星人たちを見遣る。

「それはそうだ。しかし、ジャルバ星人が一体しかおらん以上、現在のジャルバ星人の危険度を、いまは誰も正確に把握できてはおらんのも事実だろう。そうですよね」

 最高司令官の投げかけに、リル星人たちは穏やかに頷く。「その通りです。念には念を入れておきましょう。人類にとっての救世主なれば、ワタクシどもにとっても救世主足り得るでしょうから。そのキキさんという方にもご挨拶しておきたいですし」

「というわけだ。キキをここに召喚するぞ」

「元より私にそれを拒むだけの権限はありません。お好きにどうぞ」

「では、時空間圧縮枠(フレーム)を使うとしよう」

 準備を、と最高司令官が指示をすると、間もなく職員たちが作戦指令室に銀色のアタッシュケースを運んでくる。

 蓋を開け、中身を組み立てる。

 数分もしない内に、目のまえに鉄棒に似た枠組みができた。

 職員がスイッチを入れる。

 ブン、と短い音を立て、枠組みの内側に膜が張る。鉄棒でシャボン玉を作れば似たような光景が見れただろう。

 職員が青白い膜に触れる。

 青白い膜が透き通り、そこに地球が浮かんだ。

 職員が指を動かすたびに、映像は拡大されていく。

 砂漠地帯が映る。

 地上が映るとこんどは視点が俯瞰ではなく、人間の目線になった。

「あ」

 キキが映り込む。

 職員が装置から手を離すと、また短く、ブン、と音が鳴った。

 すると乾いた風が枠組みの向こう側から吹きこんできた。砂ぼこりの匂いがする。

「おい」最高司令官が声を張り、すみません、と職員がもういちどだけ枠に触れる。「フィルターをONにするのを忘れていました」

 風が止む。

 キキが枠組みの向こうからこちらを見ていた。

 目が合う。

 私は手を挙げ、久しぶりの合図を送る。

 キキはしばらくその場で立ち尽くしながら、枠組みの内側たるこちらを観察した。

 そばには最高司令官と職員、そしてリル星人たちがいる。

 キキは溜息を漏らしたようだった。

 待っててください、と彼は声を張った。こちらへの呼びかけのようだ。

 一度、奥にある小屋に引っ込むと、しばらくして戻ってくる。

 軸のぶれない歩行でやってくると、そのまま時空間圧縮枠(フレーム)を潜った。

 小屋からは子どもたちの顔が覗いている。こちらを不安そうに見遣っている。

 キキはフレームのこちら側から子どもたちに手を振った。

「いったん閉じます」

 職員がつぶやき、ブン、と音を立てて枠組みは消沈した。

 砂漠地帯との窓口が失せる。

「急に訪問してすまなかったなキキ君」最高司令官がまずはキキを労った。掻い摘んで事情を説明し、ジャルバ星人があと二十分程度で防衛宇宙領域内に侵入する、と告げる。

「ジャルバ星人がですか」

 キキは眉をひそめた。キキにしては過剰な感情の表出と言えた。それほど意外だったのか、それとも過去の記憶を思いだし、憤りを覚えたか。

 いずれにせよ、呼びだされた事情の緊急性は吞み込めたようだった。

「僕にどうしろと言うのでしょうか。軍から逃げてもう何年も経ちます。いまさらお役に立てるとは思えないのですが」

「そうは言うが、その数年間とて、軍の動向は追っていただろ。きみの能力を駆使すればそうむつかしい作業でもあるまい」

「それは、ええ。否定しませんが」

 キキは地球上に溢れるあらゆる電磁波を知覚可能だ。素粒子の挙動すら把握できる。いわば地球上で最も死角のない人間だと言える。地球の裏側で誰が何をしているのか、誰と通信しているのか。キキがその気になれば手に取るように分かるのだ。

「ですが、僕も暇ではありません。能力の行使には相応に集中力がいります。読書のようなものです。能力を行使しているあいだは、ほかが疎かになります。いまの僕にそのような暇はありません」

 それはそうだろう。

 能力を常に行使していたとするならば、いま軍で起きている災難――つまりこの事態とて先刻承知だったはずだ。

「時間がありませんよ」私は最高司令官を急かした。世間話をしている場合ではない。「キキ。こちらリル星人のみなさんだ。この方が代表で、我々にとっての大恩人でもある」

 リル星人がキキに手を差し伸べるが、キキはそれに応じなかった。

「ジャルバ星人はこのままだとどうなるんですか」キキは私を見て言った。

「迎撃態勢は万全らしい。ヤツは再三の警告を無視してこちらに向かってきている。領域に侵入次第、撃墜だろうな」

「ならどうして僕が呼ばれたんでしょう。すでに作戦の概要は決まっているわけですよね」

「見落としがあってはいかんとのワシの意見だ。人類が以前よりも進歩したからと言って、ではジャルバ星人が以前と同じままとは限らんだろう。ヤツもヤツで進化したかもしれん。人類存亡の危機には違いあるまい。ならば前回、人類を救う決断の一手を決めたキキ、きみの意見を聞いておきたいと望むのはそう非合理な考えではなかろう。情報が足りないのは百も承知だ。そのうえでお願い申し上げる。どうか頼む。きみの意見を聞かせてくれないか」

 人類防衛軍の最高司令官がキキに頭を下げた。私もそれにならう。ほかの職員たちもあとにつづいた。

 リル星人だけが微笑ましそうにこの光景を見守っている。

「分かりました」キキのその一言が聞けるまでみな頭を上げなかった。「僕の意見でよければ言わせてください」

「おう。ありがとう」

「僕の意見は単純です。来たいというならこさせてあげればいい。どの道、地球にはすでにあらゆる防衛手段が備わっています。いまさらジャルバ星人一体ではどうにもできないでしょう。仮に侵略行為にでられたところで、被害を出さずに鎮圧可能なはずです」

「わざわざそんな真似をせずとも撃墜すればいいだけの話だろ」私は異を挟む。「場所が地上か、宇宙かの違いがあるだけで、それだったら被害がでる可能性のある地上に近づける必要はなくないか」

 それはそうだ、とほかの者たちも追随する。

「いえ。それだとジャルバ星人が無害であった場合が考慮に入っていません。もしジャルバ星人が、単なる観光に来たいだけだったら、撃墜してしまうのはこちらの加害行為であり、罪になります」

「ヤツは我々の警告を無視しているのだよキキ君」最高司令官が剣呑な声をだす。キキの意見が無理筋に聞こえたからだろう。失望の毛色すら滲んで聞こえた。「ヤツは警告を無視し、数多の遠距離レーザー砲を掻い潜り、なお地球に向かってきているのだ。単なる観光なはずがない」

「ですが、侵略行為が目的であるとも決まっていないじゃないですか」

「それを言いはじめたらなんでもありになってしまうだろ」私の声にも怒気が混じった。現に怒っていた。呆れていた。やはり軍から長年離れていたキキには重い議題だったのだ。「ヤツには前科がある。ならその前科を加味して行動を判断されても文句は言えんだろ。違うか」

「そんなことはジャルバ星人とて承知のはずです。それでもなおこちらに向かってきているのですよね。何か、そうでもしなければならない必死の事情があるんじゃないんですか」

「復讐だろ」私はそう思ったから言った。「キキ。ヤツは人類に痛い目に遭わされたのを根に持って、決死の突撃をかましているにすぎないんだ。復讐に走った相手に情けは無用だ。こちらに非があったらならばまだしも、侵略されたのは我々のほうだ。逆恨みも甚だしいとは思わないのか」

「それはあなた方の憶測でしょう」

 キキが声を荒らげた。

 表情も険しく、いまにも泣き出しそうな悲痛さすら放たれて感じられた。

 彼をそこまで駆り立てるものはなんだ、とそんなことに苛立ちを覚える。

 キキ、いったいおまえは誰の味方だ。

「そろそろ迎撃の準備をされたほうがよろしいのではないでしょうか」

 リル星人の指摘に、最高司令官が我に返る。「そうだな。総勢、持ち場につけ」

「キキ」私は彼のよこに立つ。「わざわざ来てもらってわるかった。きみの意見は無駄ではなかった。きみの考えにも一理ある。だがそれを加味した上で、我々はこうしなければならないんだ」

「構いません。どの道、僕にできることはありませんから」

 むつけたような言い方に、彼はとっくに軍を、ともすれば人類を見限っていたのかもしれない、と思った。

「目標、防衛宇宙領域内に侵入しました」

「迎撃用意」最高司令官が命じた。「発射」

 作戦指令室中央の立体映像にて、迎撃の様子が映しだされる。

 実際の映像ではない。

 人工衛星からの映像をもとに、俯瞰の視点が編まれている。

 地球がある。

 高速接近中の宇宙船が映る。

 それ目掛けて放たれる無数の近距離レーザー砲が、ジグザグと焦点を結ぶように交差する。

 静寂の中、オペレータの声が反響する。

「目標、なおも地球に接近中」

「攻撃を潜り抜けただと」

 最高司令官が言葉を失くしている。

「何をしてるんですか、もう一度です」リル星人の声に促され、最高司令官は再度号令を発する。

 しかしそれでも高速接近中の宇宙船は、近距離レーザーの雨を受けてなお、地球に向かって突進をつづけていた。

「なぜだ」

「衛星からの直接映像を流します」

 オペレータが端末を操作する。

 立体映像が消え、現地の映像が流れる。

 宇宙空間の生の映像だ。

「拡大します」

 何度か、画面が切り替わる。

 その都度、闇の中に浮かぶ球体が大きさを増す。

 球体の先端には何かが立っていた。

 一体ではない。

 カエルの卵を彷彿とする様相で、かつて人類を恐怖のどん底に陥れたジャルバ星人が、宇宙船の表面を覆い尽くしていた。

「分身か」

 最高司令官の言葉に、はっとする。

「じぶんのストックを盾にして、レーザーを防いだってのか」

 まさに捨て身の突進だ。

「しかし、なぜそこまでして」

 最高司令官がみたび号令を発する。

 レーザーが宇宙船を襲う。

 そのたびに、宇宙船を覆う分身が宇宙の藻屑となる。 

 宇宙船は無事だが、その都度、ジャルバ星人の分身は減る一方だ。

「ストックをよほど貯めてきたってことでしょうか」

「だろうな。船内にもまだたんまりおるのかもしれん」

 最高司令官の言葉に、違うと思います、とキキが反駁した。

「あれだけの量の分身です。船内に格納しておけたとは思えません。ましてや、それ以上の量など」

「あれで全部ということか」

「おそらくは。すでに遠距離迎撃を受けたあとなんですよね。では、本来はもっと多くいたはずです。それすら減って、いまはあれだけで持ち堪えているのでしょう」

 言っているあいだに、もはや宇宙船の表面には、数えられる程度の個体しか見えなくなった。

「あと一回で終わるな」

「待ってください」

 キキが最高司令官に縋った。「もうすこしだけ待ってあげてください。何か、きっと理由(ワケ)があるはずです。分身が絶えれば、本当にジャルバ星人は滅んでしまいます。それを覚悟してでも地球に来ようとしているのです」

 きっとほかに何か理由(ワケ)が。

 キキは繰り返した。

 しかし、いまさらその何かを探る時間はなく、探ってやる義理もなかった。

「殺すべきです」私は唱えた。

 偽らざる私の意志だった。

 キキは、いえ、と真っ向から異を唱えた。

「理由をちゃんと知るべきです」

 私たちは睨みあった。

 キキの目を初めて見た気がした。

 虹彩が赤みがかっている。怒りの色だ、と意味もなく思った。

「司令!」

 オペレータが叫んだ。「未確認飛行物体をもう一機確認!」

「なにッ」

「すでに防衛宇宙領域内です。領域内に突如として出現しました。超大型質量船です」

「人工衛星のセキュリティ網はどうした」

「反応を示しません。地上からの目視の報告です。セキュリティのいっさいが反応を示さない模様です」

「なぜ急に現れた。領域内でのワープは不可能なはずだ」

「超次元ワープではなく、時空間圧縮枠(フレーム)を使ったものかと」

 ワープではなく、巨大な時空間圧縮枠(フレーム)を利用して、超巨大宇宙船を瞬間移動させた。

 火星の裏にでも超巨大宇宙船を潜めていたのかもしれない。

 明らかに長い年月を費やさなければできない芸当だ。

 しかし、いくら何でも人類がそれに気づかないはずがない。太陽系内には相応に監視の目を巡らせている。セキュリティ網に引っかからないはずはないのだ。

「そんなバカなことがあるか」私は吠えた。「宇宙最高規模のセキュリティだぞ」

 リル星人から提供された技術だ。

 おいそれと陥落されるはずはない。

 いや、とそこで嫌な閃きを得た。

 最高司令官もどうやら同じ発想に至ったらしい、まさか、といった調子で振り返るが、そこにリル星人たちの姿はなかった。

「やられた」

 絶望の気色が指令室を覆い尽くそうとしたそのときだ。

「まだです」キキが映像をゆび差す。「まだ終わってはいません」

 人工衛星からの迎撃をすべて受けてなお、ジャルバ星人の宇宙船は地球に向かって突き進んでいた。

 だが進路は地表を目指していない。

 そのまま地球の大気圏内をかすり、裏側に浮遊する超巨大宇宙船へと突進していく。

「まさか」

 私はじぶんの目を疑った。

 しかし、そのまさかだった。

 ジャルバ星人の宇宙船は、そのまま突如として出現した超巨大宇宙船に突っこみ、しばらくの静寂のあと、ポツリポツリと音もなく、巨大宇宙船の表面に爆発の火花を生みだした。

 火花は、スチールウールに灯した火種のごとく、連鎖し、瞬く間に超巨大宇宙船を覆い尽くす。

 間もなく、閃光を発し、視界のいっさいを光で満たす。

 あとには真っ二つに割れた超巨大宇宙船が、細かく瓦解しながら宇宙空間に散らばる様子が、人工衛星からの映像にて観測できた。

 作戦指令室は静寂に包まれる。

 誰もが一言も言葉を発さなかった。

 否、発せなかったのだ。

 私はキキの横に立つ。彼の肩に触れようとしたが、思い留まった。

「彼は生きてるか」

 ただそれだけを訊いた。キキには視えるはずだ。能力を駆使すれば、宇宙空間に漂う一体の星人を見つけることは不可能ではないはずだ。

 キキはしばらく目をつむった。

 それからふたたび瞳を大気に晒すと、ゆるゆると首を振った。

 きみには最初から判っていたのか。

 そうと質してみたかったが、言葉のほうは呑み込んだ。

 たとえそうであったとしても、彼の言葉に耳を貸さなかった事実は覆らない。

 何にも増して、我々を救わんとした者の意志を汲むには、遅すぎた。

 地表に数多の隕石が降りそそぐ。

 人工衛星が、それを上から撃ち落とす。

 その光景を私は、キキのとなりでただ茫然と眺めていることしかできないのだった。




千物語「化」おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る