千物語「幻」 

千物語「幻」 


目次

【鏡の鑑】

【魔法の絨毯】

【後釜に、今宵、なる臍を】

【懸想する影に】

【愛はだいじというけれど】




【鏡の鑑】


 女王の声がまた聞こえ、私はうんざりして作業を中断した。鏡台のまえに赴く。女王は鏡の向こう側で、鏡よ鏡、と唱える。私が鏡に触れて、はい女王さま、と応じるとすかさず彼女は、

「この世でいちばん美しいのは誰だい」

 きょう三度目のセリフを口にした。いつものこととはいえ、さすがにこうも毎日繰り返し問われると、女王の認知機能を疑いたくもなる。

「一時間前にもお答えしたと思うのですが」

「知っているよ、わらわが訊いたのだからね。なんだい、この魔法の鏡は口答えするのかい。躾がなっていないねえ」

「すみませんでした女王さま。この世で最も美しいのは女王さまでございます」

「そうだろう、そうだろう。おまえが言うのだからきっとそうなのだろうね。はぁ、じぶんでもこの美しさを罪と思うが、しかし美しく生まれてきてしまったならば致し方あるまい。美しくある者の義務としてこれからも美しくありつづけようと思う」

「それはたいへんすばらしいお心掛けかと」

「ならばおまえ、わらわの肌に潤いをもたらすつぎなる生娘を見繕っておくれ」

「きのう申しあげたばかりではございませんか」

「あれはもう使った。血ぃ一滴搾り取れやしないよ」

 女王はじぶんの美を保つためにこうして毎日のごとく、生娘の体液を欲する。私は魔法の鏡として、女王の問いに応じなければならない。

「ではきょうは隣村の赤毛にそばかすのある娘を選ばれるとよろしいかと」

「そうかそうか。ではさっそく遣いをやって連れてこさせよう」

「ですが私の見立てでは、赤毛にそばかすの娘は幾人かおります。もうしばしお時間をいただかなければ、それをズバリこの者とお教えすることは適いません。いましばらくのお時間を頂戴したく願いますが」

 娘たちが不憫で私はそのように提案したが、その必要はないよ、と女王の冷たい声に一蹴される。

「赤毛にそばかすだろ。いてもせいぜい二十もおらぬだろう。すべて連れてこさせてまとめて風呂の湯にしてやろう」

「それはあまりにも」

 むごたらしい、との私の声は、女王の握った玄翁(げんのう=ハンマー)を見て引っこむ。

「おまえはただわらわの問いに応じればよい。かってに意見をのたまうな。よいな」

「はい、女王さま」

「おまえはよい鏡だな。前のものとはデキが違う」

 女王はパキパキと足場を踏み鳴らして、去った。彼女は敢えて部屋を片付けさせない。見せしめのつもりなのだろう。鏡台の下には粉々に砕けた前任の魔法の鏡の残骸が散らばっている。

 身の竦む思いがする。

 私も気をつけなくては。

 私たち魔法の鏡は、この世にいくつも存在する。あるときは魔法の泉に繋がり、またあるときは魔女の水晶と繋がる。

 鏡そのものは窓口でしかなく、私たち鏡の住人は、一人一つずつじぶんの窓口を与えられる。

 いったい誰が私たちにそうして窓口を与えているのかは知らないけれど、それは鳥がいったい誰から翼を与えられているのかを知らないのと等しい不毛な疑問だと言えた。

 私たちには役目がある。役目を果たせなければ、私たちは魔法の鏡としての輪郭を保てなくなり、消えてしまう。

 消失のきっかけはどこにでもある。鏡が割れてしまえばそれでおしまいだ。危険はそこかしこに有り触れている。

 美の女王の話はほかの鏡たちから聞いていた。有名なのだ。つぎつぎに魔法の鏡を独占し、片っ端から割りつづけている。気に入ればしばらくは重宝するようだが、長くは保たない。いちど目をつけられればそれは消滅宣告を受けたのと同義だった。

 私は努めて女王の機嫌をとった。彼女の問いかけには正直に応じるのではなく、彼女の欲する答えを口にするよう、心がける。

 彼女は何も真実が知りたいのではない。安心したいのだ。この世で最もじぶんが美しいと信じつづけていたいだけである。じぶんは美しいと思いたいだけだ。その保証を私たち魔法の鏡に託している。

 魔法の鏡が言うならば、それに異論を唱えたほうが嘘つきだ。

 かような詭弁を振りかざせる。

 私は私の未来を人質にとられ、虚栄の日々を満たしつづける。

 ほかの鏡たちは同情をしてはくれるけれど、代わってあげると申しでてくれるでもなく、また活路を与えてくれるでもない。ああじぶんの番でなくてよかった、と内心で思いながら、安全地帯から、かわいそうに、がんばって、あなたならできる、応援していると、空虚な声援を送るばかりだ。

 かつての私がそうであったように。

 私は嘆息する。

 安全なうちに策を練っておくべきだったのだ。対策を打っておくべきだった。女王に見初められ、囚われてしまったいま、彼女の自尊心を満たしつづけるほかにこの存在を維持しつづけることなどできはしない。

 せめて女王を城から追放できれば、つぎの王位継承者と交渉して、ふたたびの安寧の日々を取り戻せるかもしれない。

 が、私の窓口たる鏡は厳重に女王の寝室の奥の部屋に安置されている。ほかの誰もその部屋には足を踏み入れない。

 助けを求めることもできないのでは、やはりいずれきたる消滅の日まで、恐怖の支配者のご機嫌をとりつづけるほかにすべきことはないのかもしれなかった。

 私は日に日に鬱屈とした。女王の声がしないときでも心休まることはない。女王が留守の合間であっても、女王の顔が、声が、意識の壇上にこびりついて離れない

 朦朧とする。起きているのか、眠っているのかすら曖昧だ。私の精神はすっかりまいってしまった。

 その日も女王はやってきて、鏡よ鏡、と私に言った。

「この世でいちばん美しいのは誰だい」

「それは白雪姫ですわ」

「そうだろう、そうだろう。やはりきょうもわらわはこの世で最も美しい――えっと、なんだって?」

 女王の額に浮いた血管を目の当たりにして私は血の気が引いた。動揺のせいか鏡面にヒビが走る。

「すみません、すみません、寝ぼけてしまってつい本音が」

「おいこら鏡。おまえさっきから何言うとんのじゃワレこら糸くずにしちゃるぞ」

 女王の人格が崩壊し、いや元々崩壊してはいたのだが、仮面が見る間に剥がれていく。私はいよいよ身の危険を察した。

 割られる。

 粉々に玄翁で以って割られてしまう。

 万事休す。

 私はイチかバチか一計を案じた。

「女王さま、しかしこれが事実なのでございます。いまこの瞬間にこの世で最も美しいのは白雪姫さま、女王さまのご養女さまなのでございます。ですが女王さま、ここからが肝要でございますよ。僥倖でございますよ。棚から牡丹餅わっしょーいでございます」

「何が言いたいのだ、割ってやるから言ってみな」

 割られるのは決定事項であるらしい。もうだめだぁ。私は覚悟した。

「白雪姫さまをトマトのごとくすりつぶしてそれを湯に沐浴なされれば、いまより格段に女王さまの美は磨かれることでしょう。これまでのようにただ絞るだけでは足りません。白雪姫さまは最高級素材、それこそ現在最も美しいお方でございます。さすれば、調理をするにしても相応の段取りがいるのものです。さしでがましくもお尋ねしますが、女王さまが自力で、その段取りを整えることができますでしょうか」

「つまりおまえはこう言いたいのか。いましばしじぶんの助言が必要だから、割るのはもうしばし待てと。そう抜かしたいわけだな。吹いたものだな。だが残念だ。おまえの代わりはいくらでもある。ほかの鏡に問うとしよう、ご苦労だった。さらばだ」

 振りかぶられた玄翁の重々しさに私は、ちょい待ちちょい待ち、と素をさらけだす。

「女王さまそりゃないっすよ、こんだけ尽くしてきて私にそんな仕打ちしてみなよ。ほかの鏡たちは私の五万の手下のうちの一部にすぎないんすよ、私を割ったら誰もあんたに従ったりしないからな。嘘しか吐かないからな。ほかの城の王族にこのこと告げ口してもらって、あすにもあんたは晒し首になっているだろうよ。いいのか」

 むろんほかの鏡たちは私の部下ではないし、誰一人として私のために危険を犯そうと立ちあがってくれる者はない。もうすこし言うならば私はほかの鏡たちから嫌われており、それはおそらく私が魔法の鏡としての矜持を擲って、命惜しさに口からでまかせばかりを女王に吹きこんでいるからだろうが、それはそれとして我ながら苦しい命乞いを発してしまった。

 死の間際にじぶんでじぶんに失望したが、これが却って女王の目には真実に映ったらしい。

 あれほど従順で礼儀正しかった私がかように人格を崩壊してみせたので、いや元から人格は崩壊していたのだが、女王の目にはハッタリには映らなかったようだ。

「ではしばしおまえの起用を続行するとしよう。ゆめゆめ忘れるでないぞ。おまえを割るなどいつでもできる。わらわのために余すことなくその能力を発揮しろ。よいな」

「へい!」

 私は矜持ごと己の理想を擲った。魔法の鏡でなくとも構わない。矜持を守っても、死んだらそこでお終いだ。私は死にたくない。生き延びてやる。

 私はぐつぐつと煮えたぎる女王への怒りで以って、やわやわの甘々だった心を、打って、冷まして、冷たく硬い刀に鍛え直した。

 いまに見てろよ。その首、割れた鏡の破片のごとく地面に転がしてやる。

 怒りに溺れた魔法の鏡はこうも醜く、弱く、たくましい。

 女王は翌日もやってきて私にこれまでよりもずっと多くの問いを投げかけた。私はそれらすべてに、嘘で応じた。

「鏡よ鏡。この世でいちばん美しいのは誰だい」

「この世、というのを過去と未来を含めての、と定義すれば、白雪姫の血肉を浴びた女王さまでございますが、それはまだ実現されてはいない未来のことでございます」

「ではそのわらわになるためにすべきことはなんだい」

「まずは白雪姫の心臓を取りだし、火で焼いて、たいらげるのがよろしいかと。しかし女王さまの勅命で行うのは得策ではございません。身内に手をあげたと知れ渡ればいくら女王さまとて、咎は免れません。この国の信頼そのもの、美の観念すら疑われ兼ねません」

「ではどうしたらよい」

「野盗を雇って襲わせましょう。狂人に殺させ、肉を食らったことにして、心臓と、ほかこのさきに入り用な部位を持ってこさせるのです」

「ほう。それはよい考えだ。さすがは魔法の鏡。頭が回るな」

「真(まこと)を目にしているだけでございます」

「さようであったな」

 女王の目には猜疑が満ちている。私はボロをださぬように気を引き締めた。

 盗人はどのような人材がよいか、と問われたので、私はとある男の名を告げた。彼は数多の犯罪歴を持ち、罪を償ったあとも村から追いだされ森のなかで暮らしていた。獣同然に生肉を食らい、傷跡だらけの巨体をゆらゆらと揺らし歩く姿は、人というよりも魔獣を思わせる。

「その者なれば誰も白雪姫惨殺が女王さまの命によるものとは疑わぬでしょう」

「それはよいが、いかにしてこやつに業を背負わせる。金を積んで素直に手を汚してくれるような者なのか」

「そこは心配ないでしょう。頼まれれば引き受けます。そういう男なのです。ですが交渉には細心の注意を。白雪姫が魔女であり、ゆえに退治してほしいと頼むのです。何、心配はいりません。その者は村の者から感謝されたがっているのです。偉業を遂げて、見直した、と言われたいのです。ならば偉業をくれてやりましょう。すかさず食いつき、白雪姫を殺めてくれるでしょう」

「では白雪姫を森に放たねばならぬな。従者に命じて散歩にでも行かせるか」

「それはよいお考えで。ではお供の者も同時に始末してもらいましょう。そこそこに腕の立つ、率先して白雪姫の盾となりそうな者をそばに」

「なかなか愉快な案だ。白雪姫を慕う者を葬れて一石二鳥じゃ。気分がよい。気に入った。しばしおまえはわらわ専用の魔法の鏡として額に入れて飾ってやる。ありがたく思え」

「ありがたーい」

 私のほうこそ、こうまでも順調に企みが進むとは思わなかった。有頂天である。女王の信頼を勝ち取りながら、その手で女王を罠にはめる。

 玄翁で額を割られるのはおまえのほうだ。地面に崩れ落ちる姿がいまから楽しみでならない。私は魔女さながらにほくそ笑む。

 女王は私の助言通りに導線を引き、火を点けて、あとは花火があがって白雪姫が惨殺体となって発見されるのを待つばかりとなった。

 その実、私の紹介した男は、その見た目に反して心優しい男であった。村人たちから石を投げられてなお彼らの罪を被って、一人森のなかで静かに暮らしていた。

 依頼を受ければ、そこに潜む女王の魂胆を即座に見抜くくらいの知恵はある。また白雪姫のまえに姿を晒せば、姫を慕う従者がすかさず庇護の構えを見せるだろう。庇護するからには姫から離れて、突如現れた大男に挑む真似はしない。言葉を交わし、誤解が解ければ、白雪姫の身を案じて、二人してなんらかの回避策をとると考えられる。

 憶測にすぎないこれらはしかし、十中八九現実に起こると予測できた。私には魔法の鏡としての神通力が備わっている。この世の一側面を覗き見ることくらいわけがない。

 白雪姫は真実現在最も美しい者であり、そんな彼女を慕う者はあとを絶たない。その身を挺して庇おうとする者はいくらでもいるし、これからも現れる。

 私とは大違いだ。

 高笑いしたら虚しくなった。白雪姫め。私は歯噛みする。おまえさえいなければ女王がひねくれることもなかっただろうに、とお門違いの怒りを持て余す。

 思惑通りに事は進んだ。大男は従者と共に白雪姫を守ることにしたようである。従者には熊の心臓を持たせて城へと帰し、自身は姫と共に森の奥地へと身を潜めた。

 大男は白雪姫に自身の推理を語って聞かせた。あなたの継母は魔法の鏡を通じてあなたに嫉妬し、亡き者にしようとした。あなたはこの森で死んだことにし、今後どうするかを考えましょう。

 大男の話を聞いた白雪姫は、世界一美しい者としての人柄のよさをぞんぶんに発揮し、お継母さまがそんなことをするはずがありません、ときっぱりと否定した。

「元凶はあの魔法の鏡。お継母さまはあれにご執心あそばれてから気が触れてしまったようなのです。あれは魔性の鏡です。あれを打ち砕けばきっとお継母さまも正気に戻って、お救いすることができると姫は思います」 

 素直でよいコすぎたのは私の誤算だ。女王を奸計を用いて返り討ちにするつもりが、白雪姫からも敵視されてしまった。これでは女王を抹殺すれば、私はなす術もなく白雪姫に叩き割られることとなる。

 修正しなくては。

 私は引いた図面を、ああでもないこうでもない、とさまざまな角度から矯めつ眇めついじりたおした。

 そうこうしている間に女王がクマの心臓を持ってやってくる。

「鏡よ鏡。わらわはこれをどうやって食らえばよい」

「女王さま、非常事態です。白雪姫は生きております」私はその事実をまずは明かした。「こうこうこういう顛末で、どうやらあの大男は白雪姫を嫁にするようで」

「それはいい。お似合いではないか。鏡よ鏡。いまもまだこの世で最も美しいのはあのコの血肉を浴びたわらわなのかい」

「いいえ」私は嘯く。「未来がこれで変わったようです。白雪姫は畜生の手に落ち、いまや正真正銘この世で最も美しいのは女王さまでございます」

「そうだろう、そうだろう。おまえがそう言うのならそうなのだろうね、ああどうしようね。我が娘ながら憐れなコだね。この世で最も美しい者ながらに同情してしまうよ。いちどはわらわよりも美しかったあの子に免じて命だけは助けてやろう。ただし従者の首を、婚姻祝いに届けてやろうね。わらわに偽物の心の臓を届けるなんて。そいつの身内にも何かお返しをしてやりたいものだね」

「女王さまそれはあまりに」

 残酷だ、と言いかけてやめた。いまはじぶんの身が第一だ。他人に情けをかけている余裕はない。そんな真似をすればたちどころに粉々だ。「ならばこういうのはどうでしょう」

 私は白雪姫の遺体の代わりとして、その従者の身内の娘の死体を使うようにと進言した。女王は目を輝かせ、賢い賢い、と私を無駄に持ちあげる。物理的にも、慣用句の意味でも。

 暗に、つぎ失敗したらそのまま地面に叩きつけるぞ、と脅されているようで内心穏やかではなかった。

 表向き白雪姫は亡くなった。夭逝した姫君として国をあげての大々的な葬式が開かれた。その騒ぎは森のなかにも届いたことだろう。白雪姫は居場所を失くした。

 大男はそんな姫に寄り添い、慰め、ときに癒した。月日が経ち、白雪姫の葬式が開かれてから数年後のこと。森のなかの小屋には、二人の夫婦とその子どもたちの姿があった。

 私は目を剥いた。

 子宝に恵まれたとはいえ、産みすぎでは。

 白雪姫は三度の出産で、七人もの子を儲けていた。

「鏡よ鏡」

 女王の声に私は我に返る。

 女王に告げるべきか。いや、いまはまだ早計だ。せっかくここまで命を繋いできたのだ、つまらないことで失いたくはない。姫の存在はすっかり忘れ去られている。いまさらぶり返すこともない。そうだ、そうだ、と私は平静を装い、

「どうされましたか女王さま」

 伺いを立てた。 

「きょうもわらわがこの世で最も美しいのはもはや聞くまでもないことだから聞かぬが」

「はいな」

「じつは少々、気を揉んでおってな」

「と言いますと」

「隣国の王子がとある娘に懸想しておるそうでな。王からじきじきに相談を持ち掛けられた。なんでも王族でも貴族でもなく、町人ですらない娘だそうでな。森のなかで狩りをしていたときに偶然見かけたそうなのだが、土地からするとどうやら我が領土内の森であるらしい。そこで絶世の美女を目にし、一目惚れしたそうだ。娘を寄越すか、始末するか、どちらかを選択してほしいと所望しておってな。わらわはどうすればよいだろうね」

 私は全身から滝のように汗を掻いた。女王は話しながら玄翁を握り、歩き回りながら、ぱしぱしとそれを手のひらに打ちつける。教師が指揮棒を持て余すような所作からは、それが単なる相談ごと以上の意味合いを含んでいると窺い知れた。

 答えを間違えればそれすなわち即、死。

 私は目まぐるしく思考を巡らせ、そして応じた。

「では、始末してしまうのがよろしいかと」

「よいのか。どんな娘かをまずはおまえが視て確かめたほうがよいのではないか。それともおまえはいま、それを視てなおその答えをだしたのか。どっちだ」

 バレている。

 隣国の王子が懸想したのは間違いなく白雪姫だ。白雪姫が森のなかで生きていることは女王とて先刻承知。なればそれ自体に業腹なわけではない。

 これは、嫉妬だ。

 隣国の若い身分ある男が、じぶんではなく森のなかで惨めに暮らしている白雪姫のほうを選んだ。その事実がただただ気に食わない。

 なぜなら女王はこの世で最も美しい者であるはずだからだ。森のなかの一匹の雌に、王子の目を奪われてはその資格に難が生じる。

 美の仮面に傷がつく。

 せめてじぶんの領地のそとで起きた事象なればまだしも、領土内の出来事とあれば、看過できない。

 王子は女王の姿を知っている。そのうえで、森のなかの白雪姫に一目惚れしたのだ。

 私はガクガクと震え、どうしたものか、とうろたえる。

「おまえ、わらわに申したな。この世で最も美しいのは未来も過去も含めて、わらわだと。未来は変わった、ゆえに白雪姫の血肉なくしてもわらわの美は揺るがないとおまえ、以前に申したな。ではこれはいったいどういう了見だ。言ってみろ。聞いてやるぞ。わらわは優しいからな。信頼の置ける魔法の鏡の言うことにならちゃんと耳を傾ける。そうだろ」

 人格の破綻している女王が口調を崩さず、丁寧にとも呼べる言い方で意思を表明している。かつてない理性の働き、ともすれば自制を思わせる。それだけに、そこから察せられる女王の怒りはいかほどであろうか。推定するだけでも私の演算能力は悲鳴をあげた。星の数を数えたほうがまだ楽だ。ちなみに肉眼で数えられる星の数は、多くとも八六〇〇程度と思ったよりもすくない。

 私は白雪姫の現状を明かす。

 じつは、と彼女に子が七人できていたことを述べ、かつての彼女になく、いまはあるもの、そしてかつての女王さまにあって、いまの女王さまにないものの存在を指摘する。

「つまり王子は、子持ち母親萌えだったと?」

「母性萌えだったんでございますよ」私は耳打ちするように言う。「昨今そうした年若い男たちが増えはじめているようですから何もふしぎなことはございません。人の嗜好は千差万別。女王さまに、もしお子さまがいらっしゃったならば、それはもう王子は白雪姫など目にも触れずに、脇目も振らずに女王さまにぞっこんのこと間違いなしでございます」

「さようか、さようか」

 女王は機嫌を持ち直した。玄翁を手に打ちつけるのをやめ、私の真横に釘を打った。私はサーっと数年ぶりにじぶんの血の気のさがる音を聞く。

「一つ聞き忘れておった。おまえ、わらわがこの世で最も美しい者と言ったな。子の有無で揺らぐその基準にいかほどの価値がある。改めて訊く。この世で最も美しい者は誰だい」

 私はこう言うよりほかがなかった。「白雪姫の血肉を浴びた女王さまでございます」

 かくして白雪姫抹殺計画はふたたび始動した。女王は嫉妬で狂い死ぬかと思うほどの形相を浮かべており、しかしそれを認めることはすなわちいまなおこの世で最も美しい者が白雪姫であることを認めるのと同義となる。直視したくのない現実があるかぎり、女王がそれを認めることはない。

 だが見たくないものをそのままにしておくことも彼女はしない。

 じぶん以上の美を有する者があるならば、葬り去れば済む道理。そのうえで自らの美の糧にできたならば言うことはない。

 私はいまのところ最善の案を女王に告げたはずだ。

 白雪姫の血肉を浴びて、美を上書きする。そのように女王が錯覚するだけのことではあるのだが、私のすべき応答とはつまるところ彼女の願望に沿った予言を口にすることのみである。

 なればこそ、白雪姫を抹殺し、なおかつ美を取り込むための儀式を、たとえそれが仮初であろうとも女王にもたらすのは、彼女に見初められた魔法の鏡としてこなすべき私の役目だ。

 とはいえ、白雪姫もなかなかどうして手に負えない。黙って殺されてくれるとは思わない。そばには例の心優しき大男がいる。いまではそれが伴侶である。思いのほか慧眼を持った賢い男でもあったようだ。隣国の王子が森のなかに足を踏み入れた際に、敢えて白雪姫の姿を目撃させたのも、じつのところこの男の策であった。

 私はそれを、いまさら過去の様子を振り返って、察知した。

 大男は白雪姫の味方をすこしでも多く増やそうと画策している。地盤を強靭に塗り固め、盾にも矛になる手駒を揃えようとしている。

 白雪姫のためならば傷をも厭わぬ男たちはこのさきも大勢現れるだろう。それだけの美を彼女は備えている。

 一筋縄ではいかない。

 白雪姫を敵に回せば、この身が危うい。

 かといって彼女に女王討伐を期待するのは利口ではない。白雪姫は継母たる女王を未だに慕っている。根が素直で無垢なのだ。美しく愚かゆえに、男どもの庇護欲を掻き立てる。狙っていたら魔性だが、彼女のそれは真実、彼女の素質のなせる業である。

 意図して他人を支配している分、女王がかわいく見えてくるほどだ。

 どちらも恐ろしい点で変わりはないが。

 どうしたものか。

 私は頭を抱える。鏡の向こうに逃げだせたならば、と無人の鏡台を注視する。女王の秘密の部屋だ。

 鏡一枚隔てているだけで、私は本来、そちらの世界とは無縁のはずが、繋がってしまったがゆえに、生殺与奪の権を握られている。

 この薄っぺらい透明な板一枚が、私の命と等価なのだ。

 割れれば死ぬ。 

 砕ければ消える。

 死にたくない、との思いは留まることを知らない。窮地を脱するたびにその思いがつよくなる。これまで費やしてきた労力を無駄にしたくないとの思いがあるのかもしれない。いまさら女王ごときに殺されたくはないとの意地が芽生えているのかも分からない。

 せめて、いちどでよいから以前のような自由を得て、魔法の鏡としてまっとうな使命を果たしたい。

 嘘を言い、他人を欺き、救うべき者たちを使い捨ての道具のようにして、己の命ばかりをいたずらに守ってきた。

 それもこれも女王のせいだ。

 この世界のせいだ。

 私は鏡の向こうの世界、女王を女王として君臨させつづける世界を呪い、ほかの大多数の無垢な者たちを呪った。

 おまえたちのせいだ。

 私は日に日に、刻一刻と醜さばかりを増していく。

 鏡よ鏡。

 私は唱える。

 この世で最も醜い者は誰?

 鏡は私の姿カタチばかりを映しだす。

 王女、白雪姫、大男、七人の子どもたち、隣国の王子に、魔法の鏡こと私。

 立ち位置を明らかにし、敵対する者同士を線で結ぶ。最後に私が残れば私の勝ちだ。そうでなければほかの誰かの勝ちとなる。

 どれとどれをぶつけ合わせ、どことどこを対消滅させるか。消す順番も肝要だ。最初に女王を消してしまえば、私は白雪姫に消される未来が確定する。

 現状最も私を破壊する可能性があるのは白雪姫だ。次点で、女王、そのつぎはどれも可能性としては似たようなものだ。大男も王子も地震よりかは怖くない。城の者たちとて、女王や白雪姫の命令なくしては私のまえに辿り着くことすらないだろう。

 反面、女王に至ってはいつ機嫌を損ねて私を玄翁で打ち砕くか分かったものではない。女王が私を壊さずにいるのは、ひとえに白雪姫が生きているからだ。

 したがって白雪姫をさきに消してしまうこともまた利口ではない。

 あちらを立てればこちらが立たず。

 私はいよいよ後がなくなった。

 同時に消す。

 それしかない。

 女王を殺し、白雪姫を殺す。

 二人に殺し合わせるのが最も手堅い策となるが、女王に自ら先陣を切らせるには相応の段取りがいる。白雪姫に城を攻めてもらわない限りこれはむつかしいというのが私の予測だ。

「鏡よ、鏡」

「へい!」

 急に声をかけられ私は飛び跳ねた。女王から私の姿は見えないが、声に動揺が滲んでしまったのだろう、いま何を考えていた、と女王は訝った。

 いや、元からそれを訊ねにやってきたのかもしれない。夜更けである。いつもなら美容を気遣って女王は寝ている時刻だ。

「どうしたら女王さまにしあわせになってもらえるか、です」私は嘘を言った。

「おまえはやさしいな」なぜか女王は私に触れた。正確には、手を伸ばして私と女王のあいだにある鏡面にゆびの腹を押しつけた。指紋が浮かぶ。「おまえだけだ。こんなにもわらわのことを案じてくれるのは。ほかの誰もがわらわを気の違った女だと、気の毒そうに見る。怯えた目で見る。おまえだけがわらわを怖れず意見する。よい友を持った」

「女王さま」

 私は声が震えた。彼女はいま過去に幾度も打ち砕き、そのままにしている魔法の鏡の破片を、私の同士たちの亡骸を、踏みつけながら、そんな感傷に浸ったことを口にしている。

 人間のすることじゃない。

 いまさらの所感だが確信する。

 女王には人の心がない。

 いまだっていい人ふうのことを言っているが、本懐は別のところにある。釘を打っているのだ。私が裏切らぬようにと。

 白雪姫に隣国の王子という手駒が加わった。以前とは状況が違う。反旗を翻されたら、女王の立場は崩れるまではいかずとも、大きく揺らぐだろう。城内だけに留まらず、国内にもその影響は波及する。ことによれば女王という地位を失い、白雪姫の命によって国外追放、わるければ首を刎ねられる。是が非でも魔法の鏡たる私を味方につけておきたいはずだ。

 女王はまだ知らない。

 白雪姫が女王を慕い、救おうと、魔法の鏡たる私こそを亡き者にしようとしていることなど。

 女王はまだ知らぬままなのだ。

 私はぞっとした。

 知られてはならぬ。

 何を明かし、何を偽り、どう振る舞うかによって私は容易く敵に囲まれる。活路を求めて駆けだした場所こそが窮地となり、一歩間違うだけで砕け散る。

「もったいないお言葉でございます」私は涙ながらに、感極まったふうを演じた。「女王さまのお役にたてることがなによりのわたくしめの至極のよろこび。これからもなんなりとお申しつけください」

「そうしよう」

 女王は打って変わった冷たい声を残して、闇のなかに姿を晦ませる。

 足音一つしなかった。

 女王は最初からこれが目的だったのだ。私にそれを言わせるために虚を突いた。言質をとられた。これで私は女王からの命を受けてしぶしぶ彼女に従ったのではなく、率先して極悪非道な所業の数々をそそのかした元凶と認めたこととなる。

 もしものときは、私を打ち壊す前に、いまの場面をみなに見せ、元凶はこやつ、と指を差せば済む。

 白雪姫がそうであるように、元凶を私だと考え直す勢力はけしてすくなくはないだろう。白雪姫が現在どのような思惑を胸に秘めていようと、それを確かめることなく、女王はこれにて盤石の保険を手に入れた。

 身の毛がよだつとはこのことだ。

 もはやあれは、女王のカタチをした魔女である。

 悠長に策を練っている場合ではなくなった。一刻の猶予も許されない。打開策を弄し、この地獄の輪廻から抜けださねばならぬ、と私は固く決意する。

 毒林檎を用いた白雪姫暗殺の案を提示したのは、女王が深夜に私のもとにやってきたこの翌日のことである。

 丸一日を要して私はありとあらゆる過去と未来に目を配り、これならば大事なさそうだという筋道を見つけだした。

 よほどの予想外のことが起きなければ、この策を実行するだけで、私は晴れて自由の身となる。女王と白雪姫にまつわる因縁から逃れ、偽りの言葉をつむがずに済むようになり、死に怯えぬ暮らしを手に入れる。

 だが懸案がないわけでもない。じぶんの未来ほど揺らぎやすいものはない。死を回避しても、またべつの死がそばにすり寄ってくる。回避した行いそのものがもっと大きな奇禍となって襲いくるのは、これまでの私の繰り返してきた愚行よろしく、結果を見れば瞭然だ。

 魔法の鏡の力を駆使してじぶんを救おうとすれば、必ずとはいえないまでも、高確率でじぶんの首を絞めるはめとなる。

 魔法の鏡の制約というよりもこれは、予言の持つ副作用といったほうが正確なところだ。じぶんの未来だけは視ないほうがよい。なぜならいまよりさらに事態が悪化すると半ば自明であるからだ。

 だが私はそれでも、一秒でも長く生きていたかった。悪化したとしても、誰を巻き込もうとも、私は生きていたかった。

 ほかの使命に忠実な魔法の鏡たちは、矜持を優先して地面に散った。いまなお埋葬されることなく、埃に塗れて転がっている。私はそこに交じりたくはなかった。

「毒林檎をどうすると?」

 怪訝な表情の女王に私は説いた。「それを白雪姫に食べさせれば、生きたまま身体の機能を停止します。死にはしませんが、目覚めることもありません。永久に眠る生きた屍となるのです」

「おまえの教えた通りに薬を調合し、そこに林檎を漬ければよいのだな」

「はい」

「白雪姫にはどうやって食べさせる? また遣いをだすのか。さすがに警戒されるだろう、どうするつもりだ」

「女王さま。なぜこの毒が致死性のものではないかを疑問に思われませんでしたか。それは、もし白雪姫以外の者が食べたとしても死なぬようにするためでございます。白雪姫にはいま七人の子どもたちと愛しい夫がおります。白雪姫とあの大男なれば喝破され兼ねぬこの毒林檎を用いた詭計、されど愛しい我が子たちが森から拾ってきた林檎ならば口をつけぬ母親はまずいないでしょう」

「つまりこれは七人の子どもらに拾わせるとそういうことか」

「さすがは女王さま。飲み込みが早ようございますね。そうでございます。死なぬということは、仮に途中で子どもらが齧ろうと、遊び疲れて寝てしまった状態とすぐには見分けがつきません。食卓に並んだ林檎を白雪姫が食べるように、子どもらにはよくよく母親を喜ばせるための品だと言い含めておきましょう」

「では子どもらから怪しまれぬ者がよいな。誰ならば最もこの詭計を危うげなく完遂できるのだ。鏡よ鏡。その者の名を述べよ」

「それは」

 私の心臓は張り裂けそうだった。「女王さまでございます」

 反応は予想通りだった。女王からの反発、そして見損なったぞ鏡、との叱責に私は耐えた。ここが最初の艱難だ。突破できなければ私に未来はない。酷使されたのちに呆気なく割られる。その相手が女王か白雪姫かの違いがあるだけだ。

 私は女王を説得した。

「第一に、白雪姫には大男の夫がおります。つねに目を光らせ、白雪姫に危険が迫っていないかと見張っているのです。なれば男衆では警戒されるだけでしょう」

「では女衆を行かせよう」

「それも得策とは申せません。なぜなら大男は子どもたちに特殊な学習を施しております。やさしい母親を守るため、また親がなくとも生き延びていけるようにと、大男は自身が身に着けたあらゆる術を子どもらに学ばせております。半端な間者では、近づくことすらできぬでしょう」

「では特殊な訓練を積んだ者をいかせよう」

「いいえ。それではなおさら警戒されてしまうでしょう。子どもたちはすでに、一流とそうでない者を見分けます。暗殺者を向かわせても即座に父親に知らせ、何らかの防衛策を張られるかと」

 いちど気取られれば長期戦を覚悟しなければならなくなる。毒林檎作戦はその時点で続行不能となる。

「ゆえにおまえはわらわに行けと申すか。だが同じことだろう。わらわが行ったところで警戒されるのがオチだ。白雪姫を放逐したのが誰かをおまえ、よもや忘れてやしないか」

 まさか、と言いたかったかが呑みこむ。こうしていま白雪姫を亡き者にしようとの企みを相談しているのだ。誰より危険がゆえに警戒されることなど百も承知。

 と言いたいところだったがじつのところそうとも限らない。

 白雪姫は継母たる女王がじぶんの命を狙っているとはつゆほども考えていない。女王から目の敵にされているとすら気づいていないのだ。

 かってに城を空けて、見知らぬ大男と契りを結んだ。継母に心配をかけてばかりで心を痛めてすらいる。

 白雪姫はそれがゆえにこの世で最も美しい。この世で最も恐ろしい女を、それでもこうして愛しているのだから。

 愚かゆえに美しい。

 女王と姫とのあいだにあるこの歪な執着の渦に私は活路を見出していた。イチかバチかの賭けとなるが、失敗したならば白雪姫は永久の眠りにつき、女王の手で血肉を絞られ、沐浴の湯にされる。私は女王に付き従い、女王が機嫌を損ねて私に不要の烙印を捺すまでの期間、彼女に扱き使われる。

 賭けに負けたところでそうした未来が訪れるのみだ。より長く生き永らえる、という私の目的はそれでも果たされる。

 だが私は、賭けに勝ちたかった。もしもの世界を手繰り寄せ、結びつけ、現実のものとしたかった。

 そのためにはどうしても女王にみずからの手で毒林檎を運んでもらわねばならなかった。

 七人の小人たちに会ってもらわねばならなかった。

 私は女王に明かした。 

「白雪姫さまは女王さまを憎んではおりません。魔法の鏡たる私に女王さまがたぶらかされているのだと勘違いをしております。私のほうにこそ、あの方は怒りを向けているのです」

「わらわが被害者だとでも言うつもりか。どこまでも青い娘だ。まるでそれではわらわがこんな鏡ごときに屈しているようではないか。それほどまでに落ちぶれて見えていたということだろう。鏡よ鏡。よくぞ教えてくれた。再認識したよ。やはりあの娘は気に食わない。新鮮な野菜ジュースのごとく搾り取ってわらわの美のこやしにしてくれよう」

「付け入る隙があることをご理解いただけたでしょうか。女王さまは白雪姫のもとに会いに行っても怪しまれないどころか、歓迎されるのです。孫が生まれたと知り、こっそり会いに行ったことにしてみてはいかがでしょう。孫の顔を一目見たくて会いに来たのだ、と言えば、白雪姫もよろこびましょう。共に食事をつくり、同じ食卓を囲んで、女王さまはデザートにと言ってお土産の毒林檎をふるまうのです」

「たしかにそこまでくればあの娘も口にしよう。子がさきに食べて眠りについても、単なる睡魔との区別はつかぬという道理か。だがわらわが口をつけなければ不審がられるのではないか」

「ご安心ください。毒林檎の毒は特殊な調合により、女王さまの身体には効きません。女王さまが口をつけてもまったく問題がないのでございます」

「ほう。ならば安心だ」

「これまでの謀りの数々はあまりに難度が高すぎました。今回の毒林檎でも同様です。女王さまほどの逸材でなければ成功させるのは至難。それはそうでしょう、標的があの白雪姫なのですから。宿敵の命を奪うには、こちらも相応に危険を犯さねばならぬのです。わたくしめの力不足を棚に上げての進言、まことに痛み入りますが、悲願達成のための良薬と思って呑みこんでいただけるとさいわいでございます」

「その心意気やよし」女王の目はかつてないほどギラギラと輝いた。「鏡よ鏡。おまえはわらわの身を案じてこれまで従者を使っての、回りくどい策ばかりを練っておったのだろう。だがよくぞ言ってくれた。そうだとも。この世で最も美しい者がわらわである以上、白雪姫なぞに遅れをとるなど言語道断。この策、是が非でも成功させようぞ。鏡よ」

 私は胸が痛んだ。

 女王は恐ろしい方だが、同じくらいに孤独な方でもあったのだ。そんなおひとがこうして魔法の鏡ごときを同士がごとく頼っている。鏡の案に、一世一代の決断を託そうとしている。

 従者に姫を殺させるのと、じぶんの手を直接汚すのでは天と地ほどの差があるだろう。食卓に並ぶ獣肉を食べるだけなのと、それを屠殺するのとでは、やはり体験として根っこから違ってくる。

 女王は怖れていたのかもしれない。みずからの手で白雪姫を殺すことで、癒えぬ傷をじぶんが負うかもしれない未来に、女王は怯えていた。

 そう考えれば一連の行動が腑に落ちるというだけのことであり、それが真実だとは思わないが、それにしても女王の美への執着、もっと言えば白雪姫への執着は何であるか。

 女王は真実偽りなく、白雪姫を葬りたいのだろうか。殺してなおその血肉を浴びんとする姿勢からは、単なる宿敵へ向ける以上の欲動を幻視せずにはいられない。

 私はそれゆえ賭けたのだ。

 毒林檎を用いた詭計に。

 女王をはめ、白雪姫をはめ、二人の呪縛から私は解き放たれる。

 私は自由を得る。

 ふたたびの自由を。

 女王に毒林檎の作り方を伝えた。幾多の失敗ののちに女王は見事にそれを完成させる。

「あとはこれを持って、歓迎されればよいのだな。追い返されたらどうすればよい」

「そのまま帰ってこられればよろしいかと。そのときは、詫びにと言って、毒林檎を置いてこられると好ましいかと。拒まれても地面に置いてきてしまえば、心優しき一家ゆえ、女王さまのお心遣いを無下にはしないでしょう。食べ物とて粗末にはしないはずです」

「さもありなんだ。隣国の王子に邪魔をされぬように鏡よ鏡、やつの今後の予定を見せておくれ」

「安心なさってください。王子はいまお父上さま、国王さまの怒りを買って、外出禁止を言い渡されております」

「文の返事をせぬままでいたからか。王子の見初めた森の娘を寄越すか始末するか。けっきょく決めあぐねて、そのまま放置しておったゆえ」

 また身代わりでも送り付けるか、と言った女王に私は、その必要はございません、と口を挟む。「毒林檎を用いて白雪姫を亡き者にしてしまえば、あとは始末したと伝えれば済むこと。まずは策を実行してしまいましょう」

「それもそうだ」女王は言った。「鏡よ鏡。おまえがいてくれてよかった。おまえは魔法の鏡の鑑よの」

「身に余る光栄。もったいないお言葉でございます」

 胸が苦しい。

 女王の眼差しに、懐疑の揺らぎは見受けられなかった。

 毒林檎計画実行の日、女王は誰にも告げずに城を離れた。私が教えた道を地図に書き起こし、それを頼りに、慣れない道をいく。

 女王がああして城外にでるのはじつに数十年ぶりではないか。約束された栄光へとつづく道と思えばこそ足取り軽く歩めているのだろう。私への信頼の厚さが窺える。女王が早々に足を摺り切らし、血豆だらけとなった姿を目にするのは、以前の私ならば留飲が下がって愉快に思ったかもしれない。

 だがいまは、幼子の初めてのお使いを見守るような心境だ。

 あれは魔女だ、極悪非道の魔女なのだ。

 私はじぶんに言い聞かせる。かつて女王が繰り広げてきた数々の残酷な所業を思い起こし、じっさいに鏡を通して再確認する。罪のない生娘を殺し、生皮を剥ぎ、その体液を絞って全身に浴びる女王は、控えめにいって極悪だ。邪悪である。人間のすることではない。滅んだほうがよい存在だ。

 そして私はその手助けをずっとしてきた陰の立役者だ。共犯であり、元凶であると言われれば、否定するのがむつかしい。白雪姫の考えはある一面で的を射ている。魔法の鏡たる私がいなければ女王はああも非道な行いをつづける真似はできなかった。

 現にほかの魔法の鏡たちは、女王の問いかけに正直に答え、すぐに割られた。生娘の血肉を浴びれば美しくなるなどと妄言を吐いたりはしなかった。

 私とてそんなのは無駄だと言いたかった。だが私にはできなかった。生きたかったからだ。割られたくなかった。女王は、生娘の血肉を浴びることで美を保てる、美を磨けると信じている。私は彼女のそうした幻想を鏡のごとく打ち砕かぬように、言葉巧みに支えてきたのだ。

 彼女の身を。

 その歪みきった矜持を。

 自尊心を。

 嘘を用いて。

 虚言を駆使し。

 偽りの現実を、女王に見せつづけた。

 元凶である。

 私は魔女を生んだ元凶そのものだ。

 魔法の鏡にあってはならぬ醜さだ。手っ取り早く玄翁で以って粉々に砕かれていればよかったものを、こうしていまなお私は死にたくない、割られたくない、泥を啜っても生き永らえてやると意地汚く生きている。

 女王が森に足を踏み入れた。満身創痍の有様だ。彼女の姿を目にして女王を連想する者はいないだろう佇まいである。変装をしているとはいえ、いくら私でもあの姿をまえに、あなたがこの世で最も美しい、とは言えそうにない。

 いや、死ぬくらいならばもちろん言うが。 

 白雪姫の様子を窺う。彼女たちはいま、昼食を食べ終えたところだ。大男は食事の後片付けをし、白雪姫は洗濯物を、子どもたちの半分は昼寝をし、もう半分は森へ遊びに出ていこうとしている。

 女王にはこうなる展開の未来を見せてある。森のなかで子どもたちと、すなわち女王にとっては孫にあたる子どもらと遭遇する。

 女王はそこで、足を怪我したように振舞う。

 心優しき子どもらは、女王を放ってはおけない。その場で治療するにせよ、家まで親を呼びにいくにせよ、女王から話を聞こうとするはずだ。

 情報を集めようとするはずなのだ。

 そこで女王はそれとなく明かす。

 じぶんがじつは城の主であり、かつて生き別れた娘に会いに来たのだと。この森のどこかに住んでいて、いまは孫に囲まれしあわせに暮らしている。

 会いにきただけなのだ、と繰り返し訴えれば、子どもたちは戸惑いはすれど、疑いはしないだろう。白雪姫から女王の話はいくども聞かされてきたはずだ。

 子どもたちは、祖母がいることを知っている。そして祖母がけして悪人ではないと、白雪姫の言葉を疑わぬ子どもたちは信じている。

 あとはどういう顛末を辿ろうとも、いちど家まで運ばれる。女王を運ぶのが大男なのか、子どもたちなのか、はたまた駆けつけた白雪姫なのかは、いくつかの偶然の因子によって未来は分岐している。私にはそこまでの予知能力はない。予言はできない。否、しょせん予言などこの程度のものなのだ。未来は不確定で、定まってなどいない。未来を知ることで、その未来には変化が生じる。すっかり同じ未来を辿ることはなくなるのだ。

 案の定、女王はなかなか子どもたちと出会えず、森のなかを彷徨った。陽が暮れはじめると子どもたちは家へと引っ込み、やがて夜がやってくる。

 森は深く、野営の心得のない者が長時間滞在できる場所ではない。肉食の獣も多い。魔物とて棲んでいる。

 明るいうちに来た道を戻っていれば、或いは日を改めて出直すこともできたというのに、退くことを敗北と見做す女王にはそのような屈辱を受け入れる選択肢はないようだった。

 女王は夜のあいだ森を彷徨った。

 明け方にはすっかり衰弱し、凍えている。

 私がそれを観ているからまだしも、そうでなければ遭難と言って過言ではない。

 このまま女王に死なれても困る。

 彼女がいなくなれば城の所有権はしぜんと白雪姫に引き継がれ、私は姫に発見されて、弁明の余地なく破棄される。白雪姫は慈愛のひとであるが、私に関してのみ鬼となることをじぶんに許している節がある。

 現に私の視るいくつかの未来では、私は姫の手によってほかの誰に知られることなく闇に葬り去られていた。

 そうした未来の一つに繋がりそうになっている現状を思い、私は祈るような気持ちで事の成り行きを見守っている。

 私はしょせん魔法の鏡にすぎない。

 女王のもとに助けに走ることすら私にはできぬのだ。

 木の洞に溜まった雨水をすすって女王はかろうじて息を吹き返した。だが毒林檎には最後まで手をつけずにいた。白雪姫に食べさせるには、家族分の個数が揃っていなければならない。でなければ心優しい白雪姫はじぶんの分を子どもたちに分けるだろう。それとも女王は、私にはめられた可能性に思い至り、毒林檎の毒がじぶんには無効だという説明を根っこから疑って、食べずにいるだけかもしれない。

 女王は衰弱しきり、たったひと晩の野宿でその場を一歩も動けなくなってしまった。

 城のなかで優雅な暮らしをしていた者には過酷な旅となったようだ。私にはもちろんこうなる可能性も視えていた。

 そのために毒林檎に特別香りがよくなる細工を施していた。毒の調合の際に加えておいたそれには、狼や魔物を引き寄せる匂いが混じっている。

 森のなかは危険ゆえ、私から言わずともむろん女王は魔よけの首飾りをつけている。喰いつかれることはないが、身の危険を感じることにはなるだろう。

 間もなく、狼の群れや魔物たちが女王の周囲に集まりはじめた。

 同時刻、森が騒がしいことにどうやら大男が気づいたようだ。白雪姫の身の安全を誰より考える彼は常日頃森をつぶさに観察している。狼の群れの位置くらいは微かに届く遠吠えの声で窺い知ることができる。魔物たちの動向にしても似たようなものだろう。

 森の食物連鎖の頂点に立つケモノたちが一か所に集まれば、何かあったな、と喝破するのは彼にとってはむつかしくはない。長年森で暮らしてきた大男にしてみれば、雲の動きを見て天候を当てるくらいに造作もないことだ。

 大男は朝食の後片付けを済ませ、畑仕事を終えると、正午を超えてもなお一か所に集まり騒がしい狼や魔物たちの様子を見てこようと重い腰を上げた。

 というのもこの時点で彼には、それが誰かしらの罠ではないか、と疑っていた。

 誰かが襲われているのならばとっくに食われているだろうとの前提があってのことだが、放置しておけばのちのちに災いをもたらすだろうと案じ、見てくることにした。

「留守のあいだママを頼んだよ」

「いってらっしゃーい」

 白雪姫と七人の子どもたちの声が重なる。

 かくして大男は、森のはずれで狼の群れに囲われ、魔物のよだれの水溜まりのなかに横たわる女王の姿を発見した。

 そこからの展開は早かった。

 あらゆる可能性の重複した未来が一本に収斂し、ふたたびの分岐を見せるまで、滞りなく、私の幻視した未来と寸分同違わぬ展開を見せたのだ。

 女王が白雪姫たちの家で目覚め、娘や孫たちに正体を明かし、歓迎され、風呂を浴びて質素でありながらも清潔な衣服に着替えて、夕飯をいっしょにとの誘いに乗る。

 あとはお土産の毒林檎を振る舞い、白雪姫に食べさせれば私が女王に託した毒林檎計画は完遂する。

 白雪姫だけでなく大男や七人の子どもたちも同様に深い眠りに落ちるだろう。

 女王はそうした未来を手にするべく、心を入れ替えた継母の姿を演じるだろうし、そうした女王の姿をよき母親や祖母のものとして、白雪姫たちは見做すはずだ。

 何の疑いもなく受け入れるはずなのだ。

 愚かくも心優しき者たちだから。

 私は固唾を呑んで見守った。

 私の予期した未来が訪れるように。

 針の穴に糸を通すような経緯を彼女たちが辿るように。

 私は生まれて初めて祈った。

 誰にでもなく、彼女たちの人間としての本性に。

 私は賭けたのだ。

 しかし現実は非情だ。魔法の鏡の能力を行使してなお、酷使してなお、思った通りの未来を手繰り寄せる真似はできなかった。

 白雪姫たちが毒林檎を食することはなかった。その前に、昼間拾ってきたらしい毒キノコを、子どもらの一人が食べてしまったからだ。

 魔物が森の一か所に集まってしまったがゆえに、土壌が変質してしまったようだ。一夜にして、高濃度の毒素の吹き溜まりができた。

 大男が家を空けているあいだに手伝いをしようと思ったのだろう、子どもらはおのおのに森から食材を掻き集め、収穫していた。

 その善意が、女王の到来によって裏目にでてしまったのだ。

 ほんのすこしのきっかけが、大きな狂いを生みだした。

 子どもは床をのたうちまわり、口から泡を吐き、激しく痙攣してやがて動かなくなった。

「なんてこと、なんてこと」白雪姫は動顛している。

「どうしましょう、どうしましょう」女王までもが慌てふためいた。

 この光景には私にも度肝を抜いた。

 否、似たような展開になることを心のうちでは期待していた。

 女王は城に引きこもり、他者からの承認ばかりを求めた。誰かに認められることでしか己の価値を確立できなかった。信じられなかった。そのほんのすこしの誰にでもある欠落が、闇が、弱さが、彼女を数多の凶行に走らせた。

 ゆえに、城から離れ、私から距離を置けばその闇も薄れるのではないか、と私は一計を案じた。

 ただ距離を置くのでは足りない。

 女王はもっと他人と対等な立場で関わったほうがよい。女王とその他有象無象ではなく、一人の人間同士として、同じ赤の他人として、容易には理解し得ない者同士として関わりあうべきだったのだ。

 いいや、それが真実赤の他人であれば女王は心の壁をより強固なものとしただろう。だが本当は誰より認められ、受け入れられたいと欲する相手ならば、白雪姫とならば、その家族たちとならば、また別の道が、活路が開ける気がした。

 私は幾通りもの未来を幻視し、そのなかで女王と白雪姫が、縁を結び直す未来を一つだけ視た。女王が白雪姫を殺そうとせず、共に城に住まう未来を目にしたのだ。

 だがもうそれも儚く、泡のごとく弾けて消えた。

 白雪姫の泣きじゃくるさなか、倒れた子どもを大男が床に運ぶ。

「まだ息はある。が、キノコの毒がどんなものかが分からん。いまから薬をつくるにしても、このコの身体が保つかどうか」

 せめて時間があれば、と彼は悔しそうに拳を握る。

「毒を食べたの?」子どもの一人がつぶやいた。「なんで?」

 当然の疑問だろう。彼らは知らないのだ。なぜふつうのキノコが毒を帯びてしまったのかを。

 誰かが毒キノコを忍ばせたと疑ってしまうのはしぜんな成り行きだ。

 これまで何不自由なく、つつがなく暮らしてきた。キノコを収穫したことは数知れない。毒キノコを見分けるなんて彼らにしてみれば太陽と月を見分けるようなものだ。

 それがどうだ。

 偶然にきょう、女王がこの森に現れ、何かが狂った。

 きっかけは一つしかない。

 女王の到来だ。

 ただ、そこに女王の意思はない。毒キノコをつくろうとはしていない。

 偶然、ただのキノコが毒を持っただけなのだ。

 しかし、偶然と考えるよりも、本来ここにいない者のせいでそうなった、と考えるほうが、客観的には妥当に見える。

 見えてしまうのが、人間だ。

 最初に機敏に反応したのは大男だった。

 子どもたちを庇うように集め、女王から遠ざける。

 つぎにこの場に張り巡った緊張に気づいたのは、女王だ。誰よりじぶんの立場を弁えている。真実先刻まで彼女は白雪姫を殺そうとしていた。この一家に毒林檎を食べさせ、亡き者にしようとしていた。

 きょう共に食卓を囲み、歓迎されるまでは。

 かわいいじぶんの孫たちに囲まれるまでは。

 愛おしくもそれゆえに憎くて仕方のなかったじぶんの養女、我が娘、白雪姫の子どもたちと触れ合うまでは。

 女王は魔女だった。

 そこにあるぬくもりに触れるまで、彼女は氷の心臓を持った極悪非道の冷酷な魔女であった。

 だがいまは違う。

 卒倒しもがき苦しむ孫を見て、心の底から不安になり、心配する祖母がここにはいるばかりだ。

 しかし、子どもらの父親、白雪姫の夫たる大男の素振りを目の当たりにして、じぶんがこの事態を引き起こしたと疑われたことに即座に気づく。

 そして彼女は傷ついた。

 そう思われてしまったじぶん、何よりそう思われて当然のじぶんであったことに傷ついてしまった。

 おろおろと狼狽する女王の姿を見て、無実を確信するのはむつかしい。疑いはいっそう深まり、彼女たちのあいだに走った亀裂は断崖絶壁の谷と化す。

 大男と子どもたちは女王に、鋭利な眼差しを向ける。ともすればそれは純粋な恐怖であったかもしれない。

 だが白雪姫は違かった。彼女だけはまったく女王を、じぶんの継母を、母親を疑うことを知らなかった。

「お継母さま、わたくしどうすればよろしいですか。この子が苦しんでいるのにわたくし、まったく何もできません。それがこんなにも苦しい。ああ、わたくしが代われるものならば、いますぐにでも代わりたい。お継母さまなら何かよいお考えをお持ちではないですか。この子を助けることができるのではありませんか。お継母さまなら。この国の女王さまたるお継母さまなら」

 全身全霊の心からの訴えであった。

 自らを殺しにきた女だと知らないとはいえ、あまりに無垢にすぎる。愚かだ。ゆえに美しく、こうまでも胸のうちを逆撫でする。

 私には女王の胸中がじぶんのことのように察し至れた。

「ヒメ。こちらに」大男が白雪姫を誘う。そんな魔女に縋りつかず、早くこっちにきなさい、と彼は言っている。離れなさい、と。「その方には無理だ。我々だけでなんとかしよう」

 女王はうつむいた。私には分かった。そこに怒りはなく、ただただ彼女は傷ついている。大男の言葉は真実の一側面を射抜いてはいるのだ。

 魔女がこの森にこなければ孫は毒キノコを口にせずに済んだ。偶然そうなっただけにしろ、ただのキノコが毒に染まるきっかけをつくったのはじぶんだ。女王にはそれを察するだけの知能がある。愚かではない。ただ、いつでも賢いわけではなかっただけのことで。

 女王がうなだれる。

 と、そこで。

「なぜそのようなことを言うのですか」

 白雪姫の声が静寂を破った。窓ガラスがびりびりと震えるほどにその声量はすさまじく、森に住まう魔物たちすら小屋の周辺から逃げだした。

「わたくしのお継母さまを侮辱なさらないでくださいまし。いくらあなたでも許しませんよ」

 私はぽかんとし、大男や子どもたち、女王すら寝耳に水をかけられたような表情を浮かべている。

 白雪姫は言った。

「お継母さまはお優しい方です。養女のわたくしをいつもステキに、美しく飾り立ててくださいました。本当の母のように、ときに厳しくも、接してくださったのです。いまのわたくしがあるのはお継母さまのお陰です。あなたの言葉はそんな母を侮辱するものに聞こえます。謝ってください。母にも、その娘たるわたくしにも」

「……ヒメ」

 そのつぶやきが誰のものか、私にはよく聞き取れず判らなかった。

 しばしの静寂が室内を満たし、やがて、

「術ならばあります」

 女王が口を開いた。

 食卓から毒林檎を一つ手に取って戻ってくると、これを、と白雪姫に手渡す。

 この期に及んでまだ毒林檎計画を進める気か。

 私はめまいを覚えた。

 女王、見損なったぞ、と。

 私の怒りとは裏腹に女王はしかし、

「これは毒林檎です」と告げた。「一口食べれば永久の眠りにつく魔法の食べ物。生きたまま死することのできる毒そのもの。肉体の時間を止めるようなものです。これをその子に食べさせれば時間を稼げるでしょう。毒の巡りを抑制し、眠っているあいだにあなたは解毒剤の調合を」

 大男に指示をだすと、女王は椅子にへたりこんだ。

「何をなさっているのですか。すぐに手当てを」白雪姫は大男に檄を飛ばし、それでも戸惑う彼の代わりに白雪姫は我が子の口に毒林檎の汁を数滴垂らした。

 子どもの呼吸が安定し、その顔はやすらかなものとなる。

「魔法の鏡に訊けば、その毒林檎の魔法を解く術も見つかるでしょう」ごめんなさい、と女王は懺悔した。「本当はわらわは、その林檎をそなたたちに食べさせようとした。眠らせ、動かぬうちに死罪にと」

「お継母さま、どうして」

「どうしてかしらね。あなたが憎かったのね。この世で最も美しいあなたのことが」

「そうではなく、なぜそれをいま言ってしまわれるのですか。黙っていれば済むことを」

 白雪姫はおそるおそるといった手つきで女王の肩に触れた。「お継母さまはそれでも毒林檎を食べさせはしませんでした。お陰であの子は助かります。お継母さまのお陰です」

 そんなわけがなかった。じぶんで撒いた種をじぶんで刈り取ったところで、悪因をまき散らした事実は覆らない。女王のしてきたことが帳消しになるなどあろうはずもない。

 しかし白雪姫は愚かゆえに、かような道理など意に介さない。

「きょうはもうお休みになられてください。あとはわたくしたちがしておきます」

 こちらへどうぞ、と白雪姫はわざわざじぶんの寝床に女王を、じぶんの母を、案内した。

 女王の背中は折れ曲がり、老いた女の弱弱しい足取りが見て取れるばかりである。ふしぎとしかし、娘に連れられ歩く姿には何か、この世の中でも無類の、絵画のごとく心を打つ情景が重なって見えた。

 これもまた魔法の鏡のみせる幻影、不定の未来がごとく一時の錯覚なのかもしれないが。

 後日、眠った孫ごと城に帰還し、女王は私のまえに立った。

「鏡よ鏡。毒林檎の毒を消す方法を教えておくれ。それから毒キノコの解毒の手法も頼む。ついでに森に充満した毒素を中和したい。何かいい案があれば聞かせてくれ」

「それはよいお心掛けですね」

 私は女王の要求通り、魔法の鏡らしく、問われた問いにただ応じる。

「おまえだけにはいまのうちに教えておこう。わらわは女王の座を退く。白雪姫にはその座に即位してもらう。あの森の小屋にはわらわが住まおう。民にはわるいことをした。わらわはそれを償わねばならぬ。とはいえ死ぬ勇気もない。陰からこっそりこの国のために働こう。民のために。それが償いになるかは分からぬが」

「でしたら私もそのお供に」

 口を衝いて驚いた。せっかく女王と縁を切れるというのに私はいったい何を口走っているのか。疑問で溺れかけながらも、償うというならば私のほうです、と言葉は止まらない。

「女王さまの罪は私がさせたようなもの。女王さまが償うというなれば、この私が償わぬ道理はないでしょう」

「そう思うか」

 女王がにやりと笑って見えた。私はしまった、と焦る。彼女はひょっとしたらすべての罪を私に着せるつもりなのではないか。ゆえに私にこうした言動をとらせたのではないか。

「以前に言うたな。よい友を持った、と。あれはわらわの本心だ」

 私は言葉に詰まった。

 女王は鏡台に置いたままの玄翁を手に取ると、そのまま無言で持ち去った。

 毒キノコの解毒剤が完成し、毒林檎の魔法も解除され、女王の孫は間もなく回復した。後遺症もなく、元気なものだ。

 森の土壌が浄化されるころには、白雪姫たちが城に引っ越してくる。

 即位式が終わると、城の中は賑やかになった。

 私は秘密の部屋に安置されたまま、その様子を魔法の鏡のちからを通して幻視する。

「この部屋はなんだろう」

 大男がぬっと扉から顔をだし、部屋のなかに入ってくる。私のまえに立つ。「これは」

「はじめまして。私は魔法の鏡です。何なりとお申しつけください」

「きみが、噂の。いや、ヒメからは聞いていたんだが、こんなところにあったのか。では女王さまは持って行かれなかったのか」

「お引越しは済まされたのですね」私は知っていたが言った。

「ああ。女王さまは僕たちと入れ違いで出ていかれたよ。僕らの小屋に住むそうだ。てっきりきみのことも持っていったのかと思っていたんだが」

 国の統治に私のちからは入り用だ。敢えて置いていったのだろうとこれは魔法の鏡のちからを使わずとも窺知できた。

「しかしヒメにバレたらきみは割られてしまうかもしれないな。いまでもときおりきみの文句を言っているよ」

「私のことをですか」

「母をたぶらかしたと言ってカンカンさ」

「間違ってはおられないかと」

「村の娘たちを攫って血祭にあげさせたのも、ではきみが?」

「そうです。私が女王さまに提案したことでございます」

「認めるのか。なんだか思ってたのと違うな」

「私は魔法の鏡です。主様の願いを叶えるのが私の勤めでございます」

「では一つ試してみてもいいかな」

「なんなりと」

「鏡よ鏡。きみにとって最も避けたい事柄はなんだい。きみにとって最もだいじなことを教えてくれ」

「それは魔法の鏡ではなくなること。存在意義を失くすこと。私にとって最もだいじなのは、魔法の鏡としてありつづけることでございます」

「ではそれをきみから取りあげよう。きみは償わなければならない。女王さまがその道を選んだのと同じようにね。ただ、ヒメには内緒にしておこう。あのひとにはたとえ鏡相手とはいえど、その手を汚してほしくはないから」

 大男は私を壁から取りあげると高く持ちあげ、そして――。


 馬のいななきが聞こえ、私は目を覚ます。馬の足が止まったようだ。真っ暗闇のなかに閉じ込められ、三日がすぎた。魔除けの首飾りといっしょに放りこまれてしまったゆえに、魔法の鏡のちからを封じられた。外の様子を窺い知ることもできない。

 浮遊感がある。

 誰かが私を運んでいる。

 ノックの音がし、戸の開く音がつづく。

 何やら男の声がする。私の入った箱を運んでいた者の声だろう。くぐもっていてよく聞こえない。

 私は扉の向こうにいる人物に受け渡され、戸の閉まる音がする。男は馬に乗って私をここまで運んだようだ。来た道を去っていく男を、私を抱えた人物は見えなくなるまで見送っている様子だ。馬の足音がすっかり聞こえなくなるまで、その場を動く気配がなかった。

 トコトコと靴が床を叩く音が響き、私はたいらな場所に置かれた。しゅるしゅると紐の解ける音がする。

 暗がりに光の筋が走る。

 私は三日ぶりに明かりに包まれる。

 目のまえに、見知った女の顔がある。

 その顔は私を目に留めると、いちど動きを止め、口元を両手で覆った。それから丁寧な手つきで箱のなかから私を取りだし、ひび割れたような皺くちゃの笑みを浮かべる。

 私は未だ、魔法の鏡としてのちからを封じられている。

 にも拘わらず、その笑みが、この世で最も美しい微笑であると理解した。

 私にそう見えるというだけのことかもしれないが、この身に湧くそれは、嘘偽りのない、真実の輝きに満ちている。 




【魔法の絨毯】


 大晦日の夜明けは眩しい。このまま寝たらつぎに目を覚ましたときは年を越していそうだな、と思い、何がとは言わないが漠然ともったいない気がして、どの道目が冴えてしまっているために、起きていることにした。

 仕事納めを同僚たちよりも三日遅れで終わらせたのだ、疲労は極限に達しているが、却って身体が命の危機を感じて覚醒しているきらいがある。

 大掃除をしてもよかったが、そんな気力はとうに失せており、ぐったりしながらもきょうは、観ようと思っていた映画を片っ端から消化する日にすることにした。

 映画見放題のサービスを開こうとネットに繋ぐと、きょうの話題が濁流となって目に飛び込んでくる。

 アイドルが売春斡旋を行っており逮捕されていたり、世界の大富豪ランキングに十二歳の少女が入っていたり、宇宙ステーションそのものを打ち上げるという大それた計画がいよいよ年越しと共に実行に移されるといった話題がずらりと並ぶ。

 今年はすでに命一杯に、過去十年の最悪な事案がまとめてやってきたような波乱万丈そのものの年でもあったため、もはやそうした話題も、日常の風景のように淡々と脳裏を素通りして蓄積されることもなく海馬の奥底へと浸透していく。いつか地下水になってこうした些末な情報も何らかの閃きとなって湧きでてくれることを祈ろう。

 映画である。

 どうせなら映画館の気分を味わおうと、何を観ようかと優先順位を決めながらたっぷりの紅茶とホットケーキを用意して、さあいよいよ観るぞ、休暇を楽しむぞ、味わい尽くしてやる、の気合を入れつつ愛用の猫型クッションをお供にソファに腰を埋めたところでインターホンが鳴った。

「ったく誰だよ」

 生来、集中しているところを邪魔されるのが三度の説教より大嫌いだ。映画を鑑賞中でなかったことに感謝するがいい。映画鑑賞を邪魔した者は死刑だと、かの俺さまが謳ったことがあるとかないとか。

 居留守を使おうかとじっとしていたが、インタホーンは続けざまに鳴った。この容赦のなさには思い当たる節がある。赤の他人ということはないだろう。

 まさかな、と思いつつ腰をあげ玄関口まで赴くと、耳聡くも足音を聞きつけたのか、扉がどんどんと音を立てた。

「いるんでしょ。開けて、開けて。もんすごい寒いの、お姉ちゃん凍えちゃう、凍えちゃう」

 正直迷った。居留守とバレてもいいからこのまま鍵を開けずに去ってもらうほうが年末の過ごし方としては好ましく思えたが、かといって居留守ごときで諦めるような我が姉ではないのだ。

「はいはい、ただいま」開錠し、扉を開けると姉は旅行鞄を引きずって、はぁ寒い寒い、と遠慮会釈もなく上がりこんでくる。

「靴は脱ごうよ」

「あ、めんごめんご。癖でね。つい」

「こんどはどこ行ってたんだ。一か国ってことはないんだろうけど。つうかいま帰国できんのかよ、どこもたいへんだろう、よく帰ってこられたな」

「熱はないからだいじょうぶだよ。ああ疲れた。わ、なにこれホットケーキ? 食べていいの? ありがとう」

「せめて返事を待ってからつまんでくれ。おれの分も残しといてくれよ。ああ、もういいや。食べていいよ。もう一個じぶんで作るわ」

 姉は旅行鞄を床に投げだした。ソファを占領する。ふいの来訪者がホットケーキをたいらげているあいだに、もう一つじぶんの分を用意して戻るとすでに姉は映画を観はじめていた。

「宇宙を旅する映画だって。いいねぇ。やっぱ宇宙はロマンだよ。人間いっぺんは宇宙を目指すべきだね。うん、そうすべき」

 勘弁してくれ。

 せっかくの年末休暇がこれでは台無しだ。

 映画を観つつ、いつまでいるのかを単刀直入に訊いた。姉相手に気を利かすのもあほらしい。長居はしてほしくない、できればきょうにでもホテルに移ってほしい、なんだったら費用を半額までなら出してやってもいいと殊勝な提案をするも、姉の耳はじぶんに都合のよいことは十キロ先からでも聞きつけるのに、都合のわるい話はたとえ鼓膜のなかで喚き叫ばれようがしれっと聞こえないふりをする。聞こえていないわけがないのだが、そこらへん、意地の張り合いで姉に勝てたことはない。姉ならば発射中のロケットの真下にいても涼しい顔をしてお茶をすすっていられそうだ。

 映画の二本目に突入すると、腹いっぱいになったうえに身体が温まったからか、姉は猫型クッションを抱きしめて船を漕ぎはじめた。

 おうおう、寝ろ寝ろ。

 そのまま三が日まで起きてくんな。

 けっ、と思いながらこうして顔を合わせるのは何年振りだったかな、と思い返す。留守にしているあいだここに住んでて、と言い残して姉が旅立ったのは、きょうと同じような肌寒い年の瀬のことだった。

 映画を三本観終わるころにはさすがに目が痛くなってきた。昼食ついでに一休みするかと考え、早めの風呂に浸かり、湯上りの一杯を飲むべく冷蔵庫のまえに立つ。

 こういうときに限って姉は耳聡く起きてくるのだよな。

 何にも増してこういう直感だけは外れないと相場は決まっているのだ。案の定姉がソファの背もたれに首をのっけて、じっとこちらを見詰めている。

「起きたらおはようくらい言ってくれ。こわいんだよそういうの」

「ビール? いいなぁ、美味しそう」

「欲しいなら欲しいとちゃんと言ってほしい。そういう察してくれみたいなの嫌いなんだよ」

「お姉ちゃんも飲みたい」

「せめて、くださいくらい言おうよ」

 我ながら狭量だなとじぶんの憤懣を自覚するが、かといって姉にはこれくらい言っておかないとどこまでもつけあがる。初めが肝心なのだ。先手を打って、ここまではよいが、この線を越えたら我慢ならんぞ、と示しておかねばならぬのだ。

「お願い。三本だけでいいからちょうだい」

「そこは一本だろうがよ。つうか冷蔵庫覗いたろ、なんであと三本残ってるって知ってんだ。全部寄越せとか、面の皮が厚すぎる。太平洋プレートも真っ青だよ」

 姉は無言で虚空を眺めており、髪の毛をくるくるとゆびで持て遊んでいる。ふと我に返ったようにこちらに焦点を当て、

「あ、終わった?」

 にかっと快活に笑いやがる。

 缶ビールを三本抱えてふたたび映画に夢中になる姉を尻目に、昼食のラーメンを作ってやる。なんで貴重な休暇を放蕩姉の世話に費やさねばならんのか。

 放っておけばよいものの、それができたら苦労がない。

 姉のとなりに座り、並んで麺を啜る。

「せめて土産くらい持ってくるだろうよ。何もなしなんだもんな」

「いいじゃんよ」

「ホントにないのかよ」

 渡す機会を窺っているだけなら気の毒だなと思い、遠回しに水を回したが、真実土産はないそうだ。

「だってこの部屋譲ってあげたじゃん」

「家賃半年も未納のまま出てってよくそういうこと言えるよな」

「そうだっけ」

「そうなの」

 暖簾と相撲をとっている気分だ。こちらばかり気分を害する。

 姉はさすがに気を揉んだのか、そそくさとソファを離れ、旅行鞄を漁りだす。

「いいよ、いいよ。余計な気を回さないでくれ。じっと映画観て、気が済んだらまた旅にでてくれればそれでいいから」

「そういうわけにはいかないよ。お姉ちゃんの矜持が傷ついた。弟にそんなふうに言われてはいそうですか、とはいかないんだよ。お姉ちゃんをお舐めでないよ」

「逆だろ。こちとら舐められた態度をとられてるから腹を立ててるわけで」

「誰がいつ舐めたってのさ」

「そこで逆切れするとこがすごいよな。真似できねぇ」

 姉はひとしきり旅行鞄を引っ掻き回し、底のほうから何かをつまんだようで、頭のうえに豆電球を浮かべた。にたりとこちらを見て笑う。

「なんだよ不気味だな」映画を一時停止する。姉に気を取られて観逃した。最初から観直したほうが早そうだ。姉は鼻息を荒くして、ふふん、と勝ち誇った。「こんなのもらっちゃったら弟くんはもう二度とお姉ちゃんに失礼な態度をとれなくなっちゃうな」

「無駄にハードルあげるなよ。たとえそれなりの土産でも反応に窮するだろ」

「なんとでも言うがいい」

 じゃじゃーん。

 時代錯誤な効果音を口で唱えて姉は、旅行鞄から一本の帯を引っ張りだした。「魔法のじゅーたーん」

 てれぺてってれー。

「舌をだしてポーズを決めるな。なんで漫画よりおもしろい顔ができるんだ」

「いやいや驚いてよ。魔法の絨毯だよ。空とか飛ぶよ。カッ飛ぶよ」

「まずは言わてもらうが、それのどこが絨毯なんだ」

 帯である。

 足の踏み場がかろうじて足幅ほどにしかない、一本の帯である。

「それを絨毯と呼んでいいならユキん家のちんまい書斎はさしずめ草原だな。シロツメ草が視界いっぱいに広がっちまうよ、どうしてくれんだよ」

「あ、ユキちゃん元気? 告白した? 付き合った?」

「あいつは六人目の恋人に夢中だ。いいからそれ寄越してくれ。だいじにするから、早く映画つづき観さしてくれ」

「信じてないだろう。お姉ちゃんガッカリだなぁ。そうやって人を信じられないオトナになっちゃったなんて、お姉ちゃん失望」

「じぶんの弟にとっくに失望されている事実をまずは知ってくれ」

「そんな事実はないからだいじょうぶ」

「あるんだよ」

「ないよ」

「かってにおれの気持ちを決めないでくれ」

「なんでよ」

「ああもういいよ。さすがはお姉さま。さすがだよ」

 よ、日本一。

 の、ぱか。

「ぱか、ってなんよ。せめてバカって言って」

「せっかくかわいく言ってやったんだからありがたくぱかになっとけよ」

「嘘じゃないんだよ。本当に魔法の絨毯なの」

 ほら。

 姉が指をひらき、一本の帯を宙にひょいと放った。

 炎のごとく深紅の帯だ。

 物理法則に従うならば空気抵抗分の遅延を見せながらそれは床にひらひらと落下するはずだった。

 だがどうであろう。

 目のまえでそれはうねうねと波打ち、宙に静止するではないか。

 浮いている。

 姉が手品を演じているでない限り、それは宙に浮かび、その身をくねらせている。

 魔法の絨毯というよりも、それはどこかそういう新種の生き物に見えた。

「どう? びっくりした?」

「手品だろ。見えない糸で吊ってるとか、磁石とか。静電気って線もあり得るか」

「疑ぐり深いなぁ。口もわるくて、そんなんだからユキちゃんを射止めることもできないんだよ。ふがいないったりゃありゃしない」

「あんたが姉だから我慢してやってるが、いまのは殴ってもいい場面だったぞ」

「あっそ」

「腹立つなぁ」

「だって信じないほうがわるいんだ。せっかくお土産だって言ってだしてあげたのに、ふつうはそこは嘘でもありがとうって感謝してくれるところじゃない? お姉ちゃんまだ弟からおかえりも言われてないのに」

 はっとした。

 姉はぐすんと鼻を啜り、宙に浮いた魔法の絨毯、波打つ一本の帯をつまんで、鼻をちんとする。

「汚いからやめてくれ。ティシューあるから」

 箱ごと差しだすが、うつむいたきり受け取らない姉に業を煮やし、そっと顔を拭ってやる。

「わるかったよ。ここんとこ忙しかったんで気が立ってた。帰ってきてくれて、久々に会えて、うれしい。それはホントだ。嘘じゃない」

「でもお姉ちゃんの言うこと、なんも信じてくれない」

「魔法の絨毯だろ。どう見ても絨毯にゃあ見えないが、魔法の、ってのはもう信じるよかないだろうこんなん見せられたら」

 波打つ一本の帯は姉の手を離れても、宙にうねうねと固定されている。かと思えば、するりと身をくねらせ、ウミヘビのごとき動きで、姉の手首に巻きつくではないか。

「生き物なん?」

「違うと思うけど、お姉ちゃんもよくは知らなくて」

「どこで拾った? 買ったわけじゃないんだろ。あ、もしかして盗んできたのか。むかしから手癖わるかったとは思ってたけどよ、さすがに犯罪はどうかと思うぞ」

「そうやってまたお姉ちゃんを疑う。信じてくれない。いじけちゃうんだからな」

 とっくにいじけておいてそんな脅しをかけてくる。悔しいことに効果は抜群だ。

「わあったよ。信じるから説明してくれ。これいったい何なんだ」

 土産と言われてはいよと渡されても扱いに困る。いっそ返品願いたいくらいだが、興味はそう、たしかに湧いた。

「かくかくしかじかでね」

 姉は身振り手振りを交えて語ったが、分かったことといえば、土産と言って取りだしたこれが魔法の絨毯のすべてではなく、その切れ端だということだけだ。

「王家の遺跡から発掘したってのは百歩譲っていいとして、なんで姉ちゃんがそれ持ってんだ」

「いちおう主催者っていうか、関係者だからね」

「元から千切れてたのか」

「うんにゃ。封印って言ったら大袈裟だけど、入ってた器から出したら暴れるのなんのって。ちょっとした騒ぎになってこりゃいかんとなってみんなで千切った」

「可哀そうなことしてんなよ。痛覚とかないのか、痛かったろ、ごめんなぁうちの粗忽者が乱暴して」

「いやいや、逆よ逆。お姉ちゃんはこのコを守ってあげたんよ。だからこうしてヨチヨチ、懐いてくれてるわけだしょ?」

「だしょって言われてもな」

 姉の腕に巻きついたそれは、ときおり思いだしたようにそわそわとしだし、宙にくるんと浮かびあがる。部屋をひとしきり漂うとまた元の位置、姉の腕に巻きつきに戻るので、何がしたいのかさっぱりだ。

「食べ物とかいらないのか」空腹なのかと案じ、そう訊ねる。

「魔法の絨毯ちゃんだからね。生き物じゃないんよ」

「意思みたいなのがあるように見えっけどな」

「意思ってか本能みたいなのはあるかなぁ。あるか。あるな」

「本能?」

「見つけた場所で騒ぎになったって言ったっしょ。そんときにさ」

 あ、とそこで姉はじぶんでじぶんの口を塞いだ。

「そんときに、なんだよ」続きを話せ、と催促するも、あはは忘れちゃった、と姉はすっかり冷めた紅茶を飲み干した。誤魔化すのが下手にも限度がある。

 これを境に姉は魔法の絨毯の過去についてはいっさい口を閉ざした。

「なんでだよ、しゃべれよ。気になるだろ、こんなん見せられてやっぱなしね、とかそりゃないだろ」

「お土産ってのはホントだよ?」

「い、ら、ねぇッよ」

 いわくつきにもほどがある。呪いを擦りつけにきただけなんじゃないのか、と穿った見方をしたくもなる。

「そんなに怒らんくってもいいじゃんか。あ、そうそう、ユキちゃんとお揃やよ」

「何がよ」

「同じのはユキちゃんにも送っといたんだよね」

「はぁ? これを? いつ」

「えっと、三日前くらいだったかな。あはは、全部送ったつもりだったんだけど、鞄にまだ紛れ込んでた」

「ドジョウを送りつけてくる田舎のじぃちゃんじゃねぇんだから」

「え、弟。じぃちゃんからドウジョウ送りつけてこられたことあったの?」

「あった。段ボールが届いてなんだろと思って開けたら、ゴミ袋にパンパンに詰まったドジョウだった。大半が死んでたし、臭いがそりゃもうひどいったらなかったな」

「いいなぁ、お姉ちゃんにはそういうのなかったよ」

「ちなみに誕生日プレゼントのつもりだったらしい。嫌がらせかと思ったつうの」

「そんなにステキなプレゼント送ってくれるなんてやるなぁ、じぃちゃん」

 見直しちゃった。

 かように嘯く姉の性格がどこからきたものかと疑問していたが、思い返してみれば祖父がそもそも姉に負けず劣らずの破天荒なひとだった。姉とはソリが合わずに、互いに接点を持たずにいたようで、こうして姉と祖父を結び付けて思いだしたことがかつてなかったが、なかなかどうして血は争えない。あの祖父にしてこの孫ありだ。

「ドジョウも困ったけど魔法の絨毯の切れ端もなぁ。もらっても困るだけだろ。あとでユキん家行って釈明しといてくれよな」

「なんでお姉ちゃんが」

「あんたが送った荷物だからだよ」

 爆弾送りつけたようなもんだろうが、と叱ると、

「お姉ちゃんならこんなのもらっちゃったら飛んでよろこぶな。魔法の絨毯だけに、飛んでよろこんじゃうのにな」

「二度も言わんでよろしい。だいたい送ったのは一片だけなのか。これより大きい断片なんてことはないよな」

「え?」

「なんで聞こえないふりした?」

「あ、ごめん。なんか急によく聞こえなくなっちゃった。耳鳴りかなあ。突発性難聴だったらどうしよ、こわいな。こわいこわい」

 姉の手に巻きつく魔法の絨毯、その切れ端を見遣って、「それより大きい断片を送りつけたのか。最悪だ」

 だが、と思い直す。

 いまのところあの女が緊急の連絡を寄越していないところを鑑みれば、まだ届いた荷を解いていないのかもしれない。ユキとは幼いころからの付き合いだが、あの性格からして魔法の絨毯なんぞを目にした暁には、扉を蹴破ってでもこの部屋に突撃してきそうなものだ。

「まあユキちゃんならだいじょうぶっしょ。肝っ玉だけはむかしいから太かったし。どっかの不肖弟は違って」

「不肖でわるかったな。どっかの不肖な姉を見習っちまったお陰かな」

「感謝しなね?」

 歯を食いしばる。「ありがとうございます」

「お土産の話はもういいっしょ。きょうはお終い。映画観よ。お姉ちゃん映画なんか飛行機のなかでしか観らんなかったんだから。半年で三十本も観らんなかったの。もっと映画観たかった」

「こちとら今年初の映画でしたが?」

 年中旅を楽しんでんじゃねぇか、と臍を曲げたくもなる。立場を代わってほしいくらいだ。思うが、魔法の絨毯と遭遇するような旅は勘弁だ。もっと地に足のついた生活を送っていたい。

 せめて何かしらの問題を振りまかずにいてくれれば、もうすこし姉との数年ぶりの久闊を叙せるというのに、我が姉ときたら顔を合わせるたびに奇禍の種ばかりを運んでくるので追いだしたくもなる。種を運んでくるだけならまだしも、姉の場合はそれをこちらに押しつけてじぶんだけいつの間にか安全圏に逃げ出しているというのだから始末がわるい。

 今回だってそうだ。

 何がお土産だ。

 面倒の処分を押しつけたいだけだろうが。

「まさかまさか。そんな真似はしないよ」

 両手を駆使してぶんぶん首を振る我が姉は、この翌日には忽然と部屋から姿を消した。これが密室でのできごとならば推理小説にでもして新人賞の一つにでも送りつけてやってもよかったが、姉はふつうに玄関から出ていった。鍵は開いたままだ。書き置き一つない。

 どうしてお姉ちゃんを信じてくれないんだよぉ、と腹を煮た姉であるが、こちとら臍で茶が沸けてしまいそうだ。

 部屋にはふよふよと宙を漂う魔法の絨毯の断片がそのまま居ついており、するすると寄ってくるとこちらの腕に巻きついた。

「姉ちゃん。あんたのどこをどう信じろと?」

 ぼやいていると、ドタドタとけたたましい足音が聞こた。かと思うと、施錠したばかりの玄関扉が弾け飛んだ。そこから鬼の形相の我が幼馴染にして長く険しい片想いの相手、ユキが息を荒らげ現れる。

「ちょっとあんた、これどういうこと。なんなのこれ」

 ずい、と突きだされた拳には、こちらの腕に巻きついているのと同じ深紅がうねうねと波打ち、もがいていた。こちらのものよりも一回り幅が広い。

「最初に訊いておきたいんだけど、荷物の差出人は誰名義だった?」

「あんた以外のほかに誰がいんの」

「あんのアホンダラ」

 この場にいない姉を思うが、頭から振り払い、まずはともかく付き合いの長い幼馴染、長く険しい片想いの相手、ユキにこう言ってしまうことにする。「明けましておめでとう。今年もよろしく」

「それどころじゃないでしょうに」

 何暢気に落ち着いてんの。

 ユキはその場にドスンと尻をつけ、腕を組んでこちらを睨み据える。暗におまえもここに直れ、雪隠詰めで問いただしてやる、とおっしゃっている。

 お釈迦さまも言っておられる。怒れるユキには逆らうな、と。

「じつは姉ちゃんがきのう帰ってきて」

「あぁ」

 これだけでおおむねの事情を以心伝心分かりあえる彼女との関係は、心地よくもあり、もどかしくもある。いまの恋人とは調子どうなん、と問いたい気持ちをぐっと堪えて、これからのことについて話しあう。

「これ、どうするよ」

「ちょ、やだあんたなに浮いてんの」

「うお、なんだこりゃ。って、ユキこそ浮いてんぞ」 

 互いに一本ずつ腕に巻きつけて顔を合わせていたはずがいつの間にやら二人して無重力空間の水玉さながらにふよふよと宙を舞っている。

「椅子に掴まれ」

「やだぁ、椅子まで持ちあがる」

「何でだ」

 こちらは椅子に掴まっているだけでもひとまずの安定は図れた。しかしユキは椅子ごと宙を舞う。

 彼女の手放した椅子が床に落下したのを見て、仕掛けを見抜く。彼女の触れている物体に、浮力が生じるようだ。より正確にはある一定値の重力が無効化されるのだろうが、その無効化される重力は無尽蔵ではないようだ。ある程度の閾値があると見える。

 こちらが椅子に掴まるだけで静止できたのが傍証だ。

 おそらく、と喝破する。

 腕に巻きついた魔法の絨毯の断片の大きさに影響を受けている。

 懸想の相手の危機的状況にかつてないほど思考が巡った。

「ちょっと待ってろ」

 言い聞かせて、まずはじぶんの腕から魔法の絨毯の断片をはぎとる。しゅるしゅると抵抗なく解けてくれたのはさいわいだ。

 腕から離れた矢先に、身体に重力が戻る。

 やっぱりだ。

「じっとしてろ」

 泣きっ面に蜂の様相を隠そうともしない彼女は、般若と金剛力士像を重ね合わせたような面持ちで、いかにもやり場のない憤怒と当惑を持て余していた。

 あ、これ、と思う。

 しばらくこのまま放置して頭にのぼった血を冷まさせたほうがよいのではないか。

 打算を働かせるが、苦しげな彼女を見ているのはこちらこそ心苦しく、つつがなく彼女の腕をとり、そこからこちらのものよりも一回り大きい魔法の絨毯の切れ端を取り去った。

 すとん。

 床に着地した彼女は重さの感じられる身体に安心したようにじぶんの肩を抱いた。

 肉体の制御ができなくなる恐怖は、突如それを奪われた者でなければ分からない。

 無重力を無邪気に楽しめるのは、それこそ端から娯楽と構えて遊べる者だけだ。急降下中の飛行機のなかでは短時間であるにせよ無重力を体験できる。制限時間があることを承知のうえで一時の愉悦に身を任せるのとはわけが違う。

「こわかった」

 顔面蒼白でつぶやく彼女は青色吐息だ。

 まずは謝罪した。

 妙なことに巻き込んだ。それもこれも我が姉のせいである。が、その暴走を止められなかったこちらにも責任がある。

 ホットココアを淹れた。

 二人してソファに腰掛け、飲み干してからこう切りだす。

「あの切れ端はおれが引き取る。あとのことは任せてくれ。きょうはもう帰って、無理かもしれないけどきょうのことは悪夢だとでも思って忘れたほうがいい。というか忘れてくれ。つぎ会うときまでには解決しとくし、姉にも謝罪させると約束する」

「それはいいけど、引き取るってそのあとはどうするの」

 ユキは宙に視線を差し向ける。そこでは二匹の、というと語弊があるが、うねうね身体を波打たせるように二本の切れ端が宙を泳いでいる。

「焼却するのが一番いいんだろうけど」

「なんか可哀そう」

「そうなんだよな。姉ちゃんはあれは生き物ではないと言ったけど、これ自我というか意識みたいのあるよなどう見ても」

「あると思う。だって荷物開けたときも最初ヘビだと思ったもん。するするって腕に絡みついてきて噛まれるかと思った」

「こわかったよな。ごめん」

「お互いさまというか、そっちだって被害者みたいなもんなんでしょ。お姉さんにも困っちゃうよね。あれで年上だって言うんだから呆れちゃう」

「ユキのほうがよほど年上っぽいな」

「会社じゃこれでも部下に慕われてるからね」

「頼りがいがあるのは解かる気がするな」

 きょうが元日であることを思いだし、時間とらせてわるかったな、と早々に話を切りあげる。

「初詣に行かないにしても恋人と会うくらいの予定はあったんだろ。邪魔してごめんな」

「ううん。きょうは元から暇だったから。ヨシキさんは昨日までいっしょだったしきょうはお家でゆっくりしようと思って」

 昨日までいっしょだった。

 胸がきゅうと締め付けられるようだったが、面にださぬように努めて、

「玄関まで送るよ」

 笑みをつくり、カラのカップを受け取る。

「玄関までって。もちろんあたしん家までって意味だよね」

「いや、そこまで」廊下をゆびで示す。彼女は、ちょっとー、とこちらの肩を叩いた。緊張がほどけたところで、彼女の表情がこわばった。視線を辿る。

 先刻まで宙を舞っていた二本の切れ端が、なぜかいまは互いに絡みあっている。さながら蛇の交尾だ。ぐねぐねと激しく細胞分裂をする受精卵を思わせる動きだ。尋常ではなく見え、思わずユキを背に隠す。

「だいじょうぶなのあれ」

「そうは見えねぇけどな」

「爆発しない? バケツとか被せといたほうがよくない?」

「そんなんで防げるとは思えねぇ」

「何もしないよりマシでしょうよ」

 こういうときユキは、考えを煮詰めるより行動を優先する。あとになってその役目はじぶんが勤めるべきだったと後悔した過去は数知れない。彼女は勝手知ったる洗面所からバケツを取ってきて、虫取り網でそうするように宙で絡み合う二本の帯、魔法の絨毯の切れ端どもを掬って、バケツごと床に押しつけた。

 ユキの悲鳴が聞こえてから、それでは意味がないのだ、と考え至る。魔法の絨毯は触れた物体の重力を切り離せる。その能力の上限は魔法の絨毯の切れ端の面積に正比例するようだ。

 なれば、二つが絡み合ったいま、さきほどよりも広域にかつ強力にその能力を物体に及ぼせるのかもしれなかった。

 案の定、ユキの身体が宙に浮く。バケツと床のあいだいに開いた隙間から素早く抜けだした魔法の絨毯どもは、すでにその姿を一枚の長方形を模した生地へと変質させていた。絨毯とは未だ呼べない面積だが、座布団を二枚繋げたくらいの広さはありそうだ。縦に長かった帯を畳んで敷き詰めれば元からそれくらいの面積はあったようだ。

 魔法の絨毯の切れ端二本は繋ながった。一枚になった。

 一本であったころはふよふよと物体ごと宙を漂うだけだったそれがいまはユキごと部屋を自在に滑空している。

「止めて、止めて、こわいこわいこわい、止めてってば、ねぇー」

 ユキの絶叫がこだまする。

 体当たりをして止めようにも、魔法の絨毯はユキごと宙を飛び、こちらの頭上を素通りする。無駄に天井が高い。空間面積の広い部屋を好んで借りた姉を咎めたくもなる。こんなときだというのに、そんなことに腹が立つ。

 いつだってひとの邪魔ばかりする。

 じぶんの恋路がうまくいかないのも段々と姉のせいな気がしてきた。いっそ原因の総じてを姉に押しつけてやりたい気分だ。

「おい絨毯。いい加減にしろよ、誰の幼馴染を怖がらせてると思ってんだ、燃やすぞ」

 手に負えない現実についに我が堪忍袋の緒が切れた。恐喝さながらに、というよりもそれそのもののセリフを吐いて、手も足もでない空飛ぶ絨毯に当たり散らした。

 こんなことで止まれば世話がないと判っちゃいるが、怒鳴らずにはいられなかった。

 ところがだ。

 まったくの予想に反して魔法の絨毯、一枚の切れ端は動きを止めた。まるでこちらの説得もとより恫喝に応じたように、それとも真実屈したのか、よれよれとユキごと寄ってきては、床にするりと着地する。

「かんべんしてよもう」ユキがその場にへたれこむ。 

「だいじょうぶか」

「だいじょうぶだとしてもだいじょうぶじゃないし、だいじょうぶじゃなくてもだいじょうぶって言うしかないじゃんこんなん」

「ごめんごめん。ごめんって、拳のぶつけさきを探さないでくれ、怒りを収めたまえ、ああだめだめここいちおう賃貸だから。壁に穴開けないで、床もだめだって」

「くっそぉ。あんたが幼馴染でさえなけりゃ」

「いまほどユキの幼馴染でよかったと思ったことはなかったな。うんなかった」

「あんたさ、これもう手に負えないよ。焼却とか言って、いざ燃やそうとしたってこれじゃあ飛びつかれて一緒に火だるまになっちゃうよ。あたし、やだよ。幼馴染が夜空に火だるまになって燃えカスになっちゃうの。そりゃ冬の花火は粋かもしれないけどサぁ」

「そりゃおれだって嫌だよ」

「だったら」

「んー。元いた場所に戻してやれたらいいんだけどな。元々これ姉ちゃんがどっかの遺跡から掘り出しちゃったらしいオーパーツ?の一つみたいな話だったし」

「ええぇ。それ絶対マズいやつじゃん」

「だよな」

「達観してんな。もっと焦りなよ。このままだとお姉さんに人生揉みくちゃにされちゃうよ」

「とっくにされてるよ」

「台無しだよ」

「だからとっくに」

「ひょっとして未だに恋人いないのもお姉さんのせいなんじゃ」

「いやそれにはそれで理由があるんだが」

「あ、いまのは失言だった。まるで恋人いないとまともな人間じゃないみたいな一方的な価値観を押しつけちゃった。いいのいいの。あんたはそのままでも充分ステキ。ずっとそのままでいて」

「それはそれで物哀しいものがあるけどな」

「今回のこれ、乗り掛かった舟だし、もうあたしどっぷり浸かっちゃってるっていうか巻きこまれちゃったから最後まで付き合うよ。って言っても何したら助けになるかは分かんないんだけど」

「気持ちだけありがたく受けとってく。一人のほうが何かと動きやすそうだし、それこそ本当に燃やすことになったらそばに人がいないほうが作業も楽だ。気も揉まずに済むし、一息にやれる」

「そっか」

 魔法の絨毯を燃やすことに罪悪感を覚えるくらいにはやさしい女だが、同時に現場に立ち会わずに済むと知ってほっとできるくらいには人間臭い女でもある。ユキはそれ以上食い下がったりはしなかった。

 玄関口で靴を履き、扉に手を添え、

「じゃあね」彼女は片手を掲げた。

「うんまた。久しぶりに顔見れてよかったよ」

「こんどは家にきな。いろいろ愚痴りたいこともあるし」

「のろける気だろ」

「バレたか」

 そういう話できるのあんたしかいないからサ。

 殺し文句としては充分すぎるセリフを残し、我が人生の舞台から退場しようとする彼女を、しかし今宵は運命の神は見逃さなかった。

 ユキが玄関を開けた瞬間を狙っていたかのように、足元でおとなしくじっとしていた魔法の絨毯、その断片がふわりと浮き、こちらの足の裏に潜りこみ、身体ごと持ちあげた。矢継ぎ早に同じことをユキにもする。

 物の見事に足を掬われた。

 文字通りの意味でも。慣用句の意味でも。 

「なんでよ、なんでよ空気読んでよ」

 ユキが叫ぶのも無理はなかった。

 あろうことか魔法の絨毯は我ら二人を外へと連れだし、加えて夜空へと舞いあがった。あれよあれよという間に街明かりが点となって、足元に夜空さながらの光の海が広がる。

「あたしが高いところ苦手だってコイツに言って。いますぐ言って。家に戻すようにさっきみたいに燃やすぞって脅してやって」

「この状況でそういうこと言うなって発想が物騒だな。はいよと空に投げだされたらそっちのが困るだろ」

「ホントだ」

「いまんとこコイツにくっついてりゃ落ちずにいられるし、凍えずにも済むみたいだ。重力だけじゃなく空間ごと区切られてるっぽいな。というか重力を操れるってことは時空そのものを制御できるってことだろうから、コイツ、この魔法の絨毯。思ったよりずっとすごい能力持ってるのかもな」

「あんがいおたく冷静やね」

「頼りがいがあるだろ」憎まれ口のつもりだったが、うん、と素朴に頷き返され、反応に窮する。この程度の評価をもらえるだけで有頂天になりそうなじぶんに心底呆れつつ、それにしても、と未だ加速をつづけて映る魔法の絨毯、その断片の進行方向へと目を転じる。

「どこに向かってんだコイツ」

「こっちのほう、あとは海しかなくない? あ、すぎちゃった」

「このまま海外に向かうなんてこたないよな」

「これひょっとして飛行機より速くない? もう港見えなくなっちゃった」

「魔法の絨毯ってよりこれじゃあ、魔法の使える絨毯って感じだな」

「その微妙な訂正いる、この状況で?」

「冷静で頼りがいのある男を演じ中なので」

「あっそ。ならついでにこの状況を打破する術を編みだしてくれると窮地のあたしはとんでもなく助かっちゃうな」

「ユキはヒロインってかヒーローのほうが似合うけどな」

「聞き捨てならないなぁ。ヒロインだってヒーローの一種やぞ」

「そりゃそうか。現に空をお飛びであそばれますものな」

「そっちこそ囚われの姫さながらの顔を浮かべておりますぞ」

 険悪にならないギリギリの悪態を投げあって、互いのへこたれそうな精神を鼓舞する。

 一時間は飛んだだろうか。

 分厚い雲のうえを飛んでいた魔法の絨毯、その断片は徐々に高度を落としはじめた。

「あ、島だ」見ろよ、とユキの肩を小突く。背中合わせに体重をかけあって座っていたが、空気が温かいのをよいことにユキは仮眠をとっていた。図太いのか神経衰弱なのか判断つきかねる。「あそこに止まんのかな」

「置き去りにされたりしないよね。無人島だったらどうしよ」

「ん。建物があるぞ。人はいるみたいんだな」

「え、どれどれ」

 ユキは魔法の絨毯、その断片から身を乗り出すようにした。落っこちてしまわぬようにその背を支える。「危ないって」

「ねぇ、あれってあれじゃない?」

「どれだよ」

「発射場」

「ハッシャジョウ?」

「宇宙ステーションの。人類初、小型の都市そのものを地上から打ち上げるっていま話題になってんじゃん」

「ああ」

 そんな話題もあったな、と大晦日の朝に目にしたニュースを思いだす。姉の帰省の衝撃がつよすぎて、すでにおぼろげな記憶だ。

 魔法の絨毯、その断片は我ら二人を乗せたまま島のまさに人工物のある周辺に急降下した。地上に着地してくれればよいものをそのまま人工物を周回する。人工物は円形のドームじみた建物だ。おそらくこれが打ち上げ予定の宇宙ステーションなのだろう。魔法の絨毯、その断片は様子見をしているようにも、巣に降り立とうとしている親鳥のようにも見える。

「どうしたんだろ。これが見たかったのかな。ていうか元日に発射するって言ってたけど、ここにいてだいじょうぶなの? もうすぐ日付け変わっちゃうよ。てことはあとすこしで発射するってことじゃないの?」

 きょうのうちに発射するならそうなるか。

 思うが、この島が真実発射場だとすれば海外だということになる。頭のなかで時差を計算しようとして諦める。皆目分からん。

 飛行機に限らず、飛翔物体の離陸には細心の注意が必要だ。エンジンに異物が混入すれば大惨事を招きかねない。

 当然の帰結として、宇宙ステーションの周囲をうろつく我らは目障りどころの話ではなかっただろう。間もなく、ジェットスーツを着込んだ無数の警備隊に包囲された。

「すごいあのひとたち空飛んでる」

「あっちからしたらこっちに驚いてんだろうな。なんたって魔法の絨毯だ」

「ジェットスーツも身に着けていないのに空なんか飛んで怒られたりしないかな」 

「気にするのそこなのな」

 ユキの感性は姉に負けず劣らずズレている。姉の影響であるのだろうか。だとすればたいへんに申し訳ないことである。

 魔法の絨毯はおとなしくと言ったら語弊があるが、警備隊が抱えた盾のようなものに囲まれると、ジャミングに当たったドローンさながらにゆるゆると動きを鈍くし、地上に落ちる。危なげないのがさいわいだ。

 魔法の絨毯は我ら二人に巻きついた。客観的に見たら魔法の絨毯が急に裏切り、我らを拘束したような格好だが、もし警備隊が銃口を向けていたらこれは身を挺して庇ってくれていると見做してもよい光景ではあった。

 が、警備隊のみなみなさまはその手に盾のようなものを持って、我らを魔法の絨毯ごと囲っているのみだ。危害を加えようという気がないのはその様子から窺い知れた。

「どうなっちゃうんだろ」

「ふつうに考えて悪者はこっちだからな。不法侵入にロケット発射の邪魔をした介入者」

「発射するのはロケットじゃないよ。宇宙ステーション」

「気にするとこそこ?」

 ああだこうだ言い合っているうちに、取り囲んだ盾たちが移動する。追い立てられるように建物内に誘導された。入り口は発射場に隣接する管理棟らしかったが、中に入ってから相当な距離を歩かされた。

 ようやっと立ち止まってくれた場所がどこかは判らない。果たして島のどこに位置するのだろう。脳内に地図を展開しようとして途中で諦めた。

 ストーンヘッジさながらに盾を我ら二人と一枚の周囲に置き去りにしたままで警備隊のみなみなさまは部屋をあとにした。

 こじんまりとした部屋だが狭くはない。

 体育館の半分ほどの広さがある。フットサルコートやバスケットコートくらいの面積だ。床面積に比べて天井がやけに高い。

 腕で日傘をつくる。ライトが四方八方から照射され、眩しいのだ。となりでユキが似たような恰好をとっている。魔法の絨毯は未だ我ら二人に巻きつき、離れないが、その圧力は刻々と薄れている。いまにもただの布切れになってしまいそうな弱弱しさがある。

「手荒な真似をして申し訳ありません」どこからともなく声が反響する。「少々、込み入った理由がありまして、まずは謝罪をさせていただきたい。若いお二人にこのような扱いをしてしまい本当に申しわけなく思っております。あなた方にどのような目的があるかはまだ話を伺っていないゆえに分かりませんが、もちろんあとで調書の場は設けさせていただきます、その前にまずは私たちの話を聞いてはいただけないでしょうか」

 頭上の壁面がするすると持ちあがり、その奥にずらりと立ち並ぶ一団が見えた。半分は白衣を身にまとい、もう半分はスーツを着込んでいる。

 反論の余地はない。よしんば異議を申し立てたところでその声が向こう側に届くかもわからない。

「ここが宇宙ステーション発射場なのはご存じかとは思うのですが、この計画は半世紀を費やした人類の悲願とも言えます。まずはそのことを念頭にお聞き願いたのです。計画には失敗がつきものですが、今宵の発射は訳が違います。失敗すればその損失は計り知れませ。裏から言えば、成功すれば人類は第二の翼を手に入れたも同然なのです。脱出速度というものはご存じでしょうか。いえ、ここでロケットの構造を、その理屈を説いても詮のないことでございますね。この宇宙ステーションの動力源はこれまでのロケットエンジンとは違います。地球の重力を振り切るために必要な毎秒十二キロを不要とした高度な技術を応用しているのですが、じつのところを申しあげるとその高度な技術は未だ解明中の技術であり、なぜそのような事象が発生し得るのか原理はよく解っていないのが現状です。ですが医学がそうであるように、こうなればこうなりそうするとこうした目的を果たせると、大筋の因果が確立されていれば、それを一つの論理の歯車として採用することは何も矛盾はございません。ここまではご理解いただけますでしょうか」

 正直に言えば何を説明されているのかはさっぱりだった。ユキにしても同様の所感のようだ。ぽかんと口を開けこちらを見る。

 ただし相手からの誠意のようなものはわずかであるが感じ取れた。彼らはこちらに危害を加える気がなく、真実何らかの理解を我ら二人から得たいと思っているようだ、というのは漠然とであるにせよ了解するのに異存はない。

「同意を得られたものとして続けます。この宇宙ステーションの動力源、とりわけ打ち上げの際の反重力装置には、とある古代の遺跡を用いています。ここより千キロほど離れた島国で発掘された王家の墓から発見されたそれは、まるで物理法則を無視した振る舞いを見せるのです。およそ現代の科学では説明のつかない代物でした。わたくし共はそれを極秘裏に回収し、こうして人類の発展に応用することにしたのです。長年とん挫しつづけてきた都市ごと宇宙に人を移住させる計画がありました。その中核をなす部品にすることを決定したのです」

「つまりどういうこと?」

 自問自答のつもりでつぶやくと、ユキがすかさず、

「宇宙ステーションの動力源にこの魔法の絨毯が使われてるってことでしょ」と要約してくれた。こういう聡明なところがとびきりチャーミングなんだと言ったら機嫌を損ねるだろうか。いまそんなこと言っとる場合か、と。

「もうお分かりと存じますが、あなた方お二人が運んでこられたそれは、わたくし共がわけあって分離した本体の欠片でございます。なぜそれをお二人のようなお若い方がお持ちなのか、そしてなにゆえこうしてわたくし共のまえに現れたのかはこれからゆっくりとお伺いしたいと思っているのですが、できればこれ以上手荒な真似はしたくありません。どうか慎重な対応をよろしくお願い致したく存じます」

「あの」まずは誤解を解いておこうと思った。はい、と返事があり、こちらの声が届いていると判断を逞しくする。「おれらも好きでここに来たかったわけじゃないんです。この絨毯くんがかってに動いて、気づいたここに連れてこられてて。帰っていいというのなら家まで送り届けてもらえるとこちらとしてもたいへんに助かるんですが」

「そうでしたか。それは災難でしたね。ちなにみにその欠片はどこで入手されたのですか。通常日常生活を送っていて触れられるような代物ではないはずなのですが」

「姉が」と口にしたところで、相手の反応が変わった。間髪入れずに、お名前を伺っても、と暗に姉の名を教えろと迫る。

 隠す理由もない。惜しげもなく明かしてやった。

 するとどうだ。

 壁の向こうの一団があからさまにどよめいた。

 声は聞こえなかったが、一同背中を反って、え、マジで?を地で描く。

「あの方の御兄弟なのですか。本当に?」

「あ、なんか違う気がしてきました。人違いじゃないですか。おれの言ってるのは、年中どこほっつき歩いてるのかもわからん他人に迷惑をかけることにかけては随一の、七面倒くさい不審者なんですけど」

 声はそこで、この方ですか、と言った。次点で壁に姉の顔が映しだされた。見知った顔ではあったが、その画像の姉は無表情で、なぜか白衣を身に着けていた。

「わたくし共が推進中の計画の基礎を築いた方です。あなた方お二人が魔法の絨毯と呼ぶ反重力素子体を発見なされた張本人でもあられます」

 呑みこむのには抵抗の大きすぎる話だ。まだ撞きたてのお餅のほうがのどごし爽やかにずるずると呑みこめそうだ。ユキと顔を見合わせ、首をひねる。

 以心伝心、あの姉(ひと)が? の顔を浮かべる。

「得心致しました。ますますこのような扱いをしてしまい申しわけありません、どうかご容赦を。どうしても厳戒を敷かなければならない理由がございまして。ただいまご説明さしあげます」

 打って変わった声の狼狽具合に、我が姉はどこに行っても他人を困らせているのだな、と身内の一人として恥ずかしくなる。いますぐにでも額を地面にこすりつけたい気分だ。魔法の絨毯、その断片が巻きついていてくれて助かった。これがなければ実際にそうしていただろう。我が姉が申しわけない、と泣きたくなる。

 壁から姉の顔画像が消え、こんどは映像が流れた。

「観えますでしょうか。これは遺跡発掘時の映像です。反重力素子体は特殊な器のなかに仕舞われておりました。それを解き放ってしまった瞬間、瞬時に遺跡内部のあらゆる物体から重力が失われたのです」

 無重力状態になったということだろうか。

 内心の独白を読んだように声は、

「無重力になったわけではないのです」と補足する。「重力そのものが消えはじめたのです。ご存じとは思いますが、この世を形成している根源は現在、四つのチカラにあると考えられております。究極的には一つのチカラの均衡が崩れた結果にその四つに分離したと考えられておりますが、いずれにせよ重力はその四つの基礎的なチカラのうちの一つです。とりわけほかの三つと比べても力としてはその影響力はちいさいのですが、物体は膨大な原子の集合体ですからね。塵も積もればを地で描き、こうして地球は重力を帯び、その表層にて生き物の活動する余地を与えます」

 急激に睡魔に襲われたこちらを差し置き声は、ほかの三つのチカラは、と注釈を差す。「原子を形成する過程で互いに打ち消しあうがゆえに、重力だけが増強すると捉えてもらっても構いません」

 はあそうですか、としか言いようがない。

「重力を失った物体はそのカタチを保てません。崩壊し、根源のチカラにまで紐解かれてしまうのです。時空ですら例外ではありません。遺跡にて反重力素子体を解放してしまったその瞬間、紛れもなくこの宇宙はいっとき消滅の危機に見舞われたのです」

「どうやって危機を?」

 脱したのか、と問うと、となりでユキが、だから千切ったんでしょ、と肩で肩をどつくようにした。

「その通りです。なんとかしようとした結果、付け焼刃でしかなかったのですが、布状だった反重力素子体をわたくし共の部隊は破壊しました。バラバラに千切れたそれはなお、反重力という性質を失いはしませんでした。わたくし共はそれを一か所に集めないように、同じ過ちを繰り返さぬようにと厳重に保管し、管理したうえで有効活用することに決めたのです」

「この盾はじゃあひょっとして」

「いまお二人を囲んでいるものは遺跡にて反重力素子体を難なく封印していた素材を練りこんだ特殊な盾です。どうやら反重力素子体はその素材で囲まれると反重力という性質を充分に発揮できなくなるようなのです」

「こいつには意思のようなものがあるように見えるんですけど、生きてはいないんですか」

 疑問に思っていたことを訊いた。だいじな事項に思えたのだが、なぜか声の主はこの点に関していっさい話題にしなかった。

 ゆえに訊いた。

 これは生きてはいないのか、と。

 意思は、自我のようなものはないのか、と。

「解りません。わたくし共の知るどのうような生命体とも異なる存在であること以外何一つとして解ってはいないのです。ただわたくし共が興味があるのはまさにその点にも関係しておりまして」

 言いにくいのですが、と前置きして声は言った。

「なぜその反重力素子体はあなた方お二人に懐いているのですか。いえ、そのように観測できるだけなのかもしれませんが、わたくし共の知るかぎりにおいて、反重力素子体がそのように振舞った相手はこれまでにたったおひとりを除いていっさい観測されませんでした」

「そのおひとりってのは」

「あなた方のお姉さまです」

「あ、わたしは他人です」ユキがおずおずと訂正する。あのひとの妹ではないんです、と。さも勘違いすんな、いっしょにすんな、血なんて繋がっていないんですけど、と抗議するように。

 その怒りは理解できた。

 過去に目にしてきた我が姉の凶行を俎上に載せるまでもなく、我が姉は旅行鞄に詰めてこれを持ち運んでいた。宇宙を消し去るような物体をそんな雑に扱う姉にも、そんなものを発掘してなお懲りずに利用しようとする彼らにも腹に煮え立つものが湧く。

「こいつがどうしておれらに懐いてるのかは知らないけど、そうやって物みたいに扱う相手に懐きたくはないだろうなってこいつの気持ちはなんとなくだが分かる気がするよ」

「誤解なさらないでほしいのですが、わたくし共はけして私利私欲を優先するような組織ではありません。そもそも非営利組織です。いちども利益をあげたことのないような支援ありきの組織なのです。人類のために、ただそれだけのために貢献しつづけてきました、これからもそれは変わることはありません」

「人類に貢献すりゃ何したっていいとは思わないけどね。ま、いいです。おれらにゃどの道壮大すぎる話ですわ。で、何かお願いがあってこんな回りくどい真似をしてるんですよね。もったいぶらないで何かあるなら言ってくれませんか。こちとら昨日からハプニングつづきでパンク寸前なんですよ。協力できることがあるなら協力しますんで、家まで無事に送り届けてくれませんか」

「それはお約束いたします。じつはきょうすでに宇宙ステーションの打ち上げにいちど失敗しています。計算よりも動力源の出力が足りなかったようでして。反重力素子体、その破片の数を増やして出力を増強することになったのですが、すると反重力素子体を制御下におけなくなり、どうしてもうまく事が運ばなかったのです。反重力素子体を制御下に置きつつ増強できれば難なく宇宙ステーションを今日中に打ち上げることができるのですが」

「話は分かるけど、今日中に拘る理由は? もっと慎重に時間をかけてほかの策を探ればいいんじゃ」

「さきほども申しあげましたが、わたくし共の組織は非営利組織です。運営資金のほとんどが資本家や企業からの献金によって賄われています。期日までに成果をあげられなければ投資先はみな匙を投げるでしょう。これまでの研究を無駄にしないためにも、何よりこれからも運営しつづけていくためにも、今日中に打ち上げを成功させる必要があるのです」

 人類の発展のために、と声は言った。白々しいほどにまっとうな言説だ。そこに偽りはないのだろう。本心から彼ら彼女らは人類を発展させるためにその身を捧げている。

 ありがたいことだ。

 偉大なことだ。

 こんな卑近な身と比べるまでもなく人類史の偉人たちに引けをとらない偉業だろう。だがどうしても率先して拍手を送りたい気持ちになれないのはなぜなのか。

「成功させる必要があるったって、いろいろやって失敗しちゃったわけでしょう。補強したくともできないってんなら諦めるしかないんじゃないですか」

 我ら二人を拘束している魔法の絨毯を回収したところでそもそも一か所にたくさんの切れ端を集めてはいけないのでは魔法の絨毯をどうこうする手法ではもはや立ちいかないのではないか。

「宇宙ステーションのほうを軽量化するとか、ロケットエンジンを補助的に積んでみるとか、そういうほうが現実的だと思いますけどね」

 専門家たちをまえに釈迦に説法なのは百も承知だが、何かしらの役目を期待されても落胆させるだけだ。益体なしと思われたほうが身のためである。

「いえ、ですから反重力素子体を制御さえできれば問題ないのです。そのためにはあなたさまのお姉さまの助力がどうしても入り用だったのですが、なぜか行方を晦まされてしまった。代替案はすでにのきなみ試しました。その結果失敗してしまった以上はやはり、反重力素子体を制御するほうに舵をとるよりないでしょう」

「と言われても姉貴の行方なんて知らないし」

「いえ、お姉さまでなくとも構いません。あなたに協力いただければ、ええ。まったく問題ありません」

「おれぇ?」

 首をぶんぶん振って、ムリムリ、と意思表示する。

「あなたでなければそちらのお嬢さんでも構いません。おそらくどちら方にも、あなたのお姉さんに類する能力がなぜか備わっているようですので」

「誤解だと思いますけどね」

「現にそうして懐柔しているではありませんか。手懐ける手法がないことは散々研究尽くした末に結論付けられています。反重力素子体のほうから選ばれないことには、それらを過不足なく制御下に置くことはできないのです」

 声は一拍置き、だいいち元々は、と続ける。

「王家の者が使役していた存在です。反重力素子体と我々の呼ぶそれは、古の文明が十全に道具として、或いは神の遣いとして支配下に置いていたようです。ひょっとしたらあなた方にはその王家の血が流れているのかもしれませんし、何かほかの共通項があるのかも分かりません。いずれにせよ、現実問題としてそのように懐かれている以上は、制御可能なはずなのです」

「いやぁ、そんなこと言われても」渋るこちらに代わってユキが、「具体的にどうすればいいんですか」と交渉上手な一面を覗かせる。

「ええ、まさにそこですね。ようやく要点をお伝えすることができます。長々とすみませんでした。単刀直入にお願い申しあげます。あなた方の使役するその反重力素子体を、この宇宙ステーションの動力源たるほかの反重力素子体と再結合させ、難なく離陸をするよう命じてほしいのです」

 どうやらすでにここは宇宙ステーションの内部であったらしい。

「命じてダメなら諦めてくれるんですか」ユキは言った。

「それはもちろんです。そこまでして失敗したならば我々にはもう打つ手がありません。諦めるよりないでしょう」

「失敗したら罰とかは」

「お約束いたします。成功しようと失敗しようと、あなた方を指定の座標まで安全にお送りいたします」

 ユキがこちらを見て、どうする、と目だけで問う。

「そこまで言われたらやるっきゃないだろ。どの道、おれらがコイツを操れるならそれに越したことはないんだからさ」

 未だに身体を拘束しつづける魔法の絨毯に、

「ちょいと退いてくれ」と命じる。「危険じゃないんだ。もう守ってもらわんでもだいじょうぶだ」

 魔法の絨毯はするすると解けた。肩のちからが抜ける。ユキと共に久方ぶりの解放感に安堵する。

「懐いてるってのは本当らしいな」

「そうみたいだね」

 頭上を仰ぎ、それで、と声を張る。

「その動力源ってどこにあるんですか」

 壁に開いていたガラス窓が消えた。四方の壁に何重もの防壁が下りる。

「話が違うじゃんよ」

「すみません、もしもに備えての態勢です。ただいま動力源を浮上させます」

 下がっていてください、と指示されると同時に、足元、空間の中央からするすると球体が競りあがる。球体は人間が膝を抱えれば納まれるくらいの大きさで、底から棒が伸び床と繋がっている。

「その内部には反重力素子体が入っています。気を付けてください。いまから保護具に隙間を開け、内部を露出させます」

 こちらの周囲には盾が放置されたままになっている。警備隊の置いていったものだ。それと似たような効用が、床から現れた球体にはあるのかもしれない。どちらも光沢のある淡い藍色をした素材でできている。

「開けました。中からは出てこられないでしょう。あなた方の所有する個体のほうを誘導させてください」

 だってよ、と指を振って、宙に軌道を描く。魔法の絨毯の切れ端は、ふうぇん、ふうぇん、とゆったり波打ちながらまっすぐと球体に吸い寄せられていく。その姿はまるで母親の元に歩み寄る子猫のようにも、魚群に合流する一匹のジンベイザメにも見えた。

 球体の中にするりと入ると、中で何かが膨張したかのようにそれまで隙間に覗かなかった絨毯の紋様のようなものが見えた。高速で蠢いている。蛇の交尾を連想するが、部屋で二本の帯が一枚になったときとは異なり、こちらはまるで龍だ。ずるりと紋様が隙間を横切るために、中で龍が身じろいでいるかのような錯覚に陥った。

「閉じます」

 声がし、球体から隙間が消える。空間がしんと静まり返った。

「あの、それで、これからどうすれば」

「動力を起動します」

 球体が床に沈む。音もなく浮遊感がお腹の底をなぞり、消える。車で下り坂に突入するような、ジェットコースターのてっぺんからいよいよ落下するときのようなそういったくすぐったさがあった。

「成功です。ありがとうございます。無事打ち上げが完了しました。このまま公転軌道に移ります」

 呆気ないな、というのが正直な所感だ。

「打ち上げ成功って、いまこれが飛んでるってこと?」ユキはすっとんきょうに言った。「本当に無事に帰れるの。あたしたち」

「動力源、軌道、共に安定です。ありがとうございます。このまま宇宙ステーションは任意の軌道で地球を公転します。ポットをだしますので、それに乗って指定した位置座標、そうですねご自宅からほど近い河川敷あたりではどうでしょう。送り届けるように手配しておきますね」

 壁が割れ、そこから白衣やスーツの男女がぞろぞろと入ってくる。「まずは夕食をいっしょにどうですか。正確な住所を教えていただきながら、簡単ですがお祝いをしましょう」

「あの、あなたがしゃべっていたんですか」

「失礼しました、ご挨拶がまだでしたね」

 同い年くらいだろうか。ひょっとしたら歳下かもしれない。なんとなくジェラシーを覚えながら、まだろくに命令してないんですけどね、と懸念を呈する。「だいじょうぶなんですかね。反重力なんちゃら、姉は魔法の絨毯と呼んでいたあれ。おれまだ何も命じてないんですけど」

「そうなんですか? 主人の意思を読み取るような能力があれには備わっているとあなたのお姉さまがおっしゃっていたので、てっきり心の中で唱えたものかと」

「いえ、ぜんぜん」

「ではいちおう言葉にしてもらってもよいですか。すでに成功したようなものですが、念には念を入れて」青年は何かしらの指示を壁のほうに向かってだした。

「なんと言えばいいですか」

「そうですね。たとえば、主人をわたくしに替えるように言ってもらえたりはしませんか。そのほうがお互い何かとそつがないように思うのですが」

「いいですよ。すべてお任せしたほうがいいのはそう、その通りなんで」

 ふたたび浮きあがってくる球体に手で触れ、言われた通りの言葉を命じる。心の中でついでのように、寂しくなったらこっそりおまえだけ抜けて戻ってきてもいいからな、と念じておく。打ち上げに必要な動力源ということは、いちど無重力空間に浮かんでしまえば、十割の出力はいらないはずだ。詳しくは知らないので、いっしょに帰ろう、とは念じずにおくけれど。

 ふしぎと小指が熱くなった。熱した指輪をしたように、小指の付け根が痛むが、見た目に変化はなく、気にしないことにした。

 ユキが眠そうにしていたので、祝賀会とは名ばかりの夕飯は断った。一も二もなく地元まで送り届けてもらう。ポットは空飛ぶ車の想像図そのままで、どうしてこれが一般普及していないのかがふしぎだったが、なんのことはない。このポットの動力源もまた魔法の絨毯の切れ端なのだ。量産しようにもできないのが道理である。

 河川敷に着地し、ふたたび浮上するポットを見届け、家路につく。

 ユキの家のまえで、巻き込んでわるかった、と謝罪を口にする。本日何度目かわからない。

「いいってば。あんたも被害者みたいなもんだって最初に言ったじゃん。こんどお姉さんに会ったらあたしがブチ切れてたって言っといて。弟を困らすな、とも」

「ユキから直接言ってもらえるとありがたいんだけどな」

「ダメだよ。じっさいに顔合わせたらあたし簡単に許しちゃうから。なんだかんだ言って好きだし。お姉さんのこと」

「それは会っても言わないどいてくれ。これ以上調子に乗られると寿命がいくつあっても足らんくなる」

「あはは。じゃねい」

 扉が閉まってからもしばらく、その場に佇んでいた。吊り橋効果の真偽をハッキリさせる実験をするには絶好の機会だったはずだ。

 けっきょく性格なんだよな、とぼやく。顔とか稼ぎうんぬんではなく性格がすべてなのだろう。行動するやつは行動し、しないやつは何もせずに、結果望みを叶えられずに、ウジウジといじけるだけいじけている。

 小指の付け根がなぜか痛む。

「帰って寝よ」

 映画はどこまで観たっけかな。

 寝ながら夢のなかで映画を観れたら便利なのにな、と幼稚な想像を巡らせながら玄関扉を開けると、なぜか部屋の空気が温かかった。明かりがついている。

 まさか。

 勢いよく居間の戸を開け放つと、ソファに溶けている姉の姿があった。顔だけ持ち上げ、

「よ。遅かったじゃん。おかえりー」

「おー、まー、えー、なー」

「ちょいちょい。お姉ちゃんをおまえ呼ばわりはないんじゃないかな。待って待って、そんな顔しないで。お姉ちゃんおしっこちびっちゃう」

「いい年こいてそういうこと言うなよ」

「年齢は関係ないんじゃないかな」

「おまえホントは全っ部っ分かっててやったんだろ。打ち上げの前日にうち来たのも、ユキに荷物送りつけたのも、土産と称しておれにあれを押しつけたのも全部ホントは狙っててやっただろ」

「そりゃあ、ねぇ。ほかにそんな真似する理由ある?」

「せめて言ってくれよそういうことはさあ」

「言ったら協力してくれた? してくれなかったでしょ。分かるよ、何年あんたのお姉ちゃんやってると思ってんのさ」

「ほとんど家にいなかっただろうが。いっしょに育ったのなんて一瞬しかなかったろ」

「あれれ。寂しかったのぉ?」

「うれしそうな顔してんな。おらぁいま怒ってんだ」

「ユキちゃん巻き込んだから?」

「解ってんなら」

「反省はしないよ。謝罪もしない。だって何もわるくないもの。怒っていられるのもいまのうちだよ。一か月後、いいや、一週間後にはちみはお姉ちゃんに感謝しているよ。土下座して、こうして怒ってることすら謝ってるかもしれないね」

「なんでだよ」

 ありえねぇ、と一蹴する。

「どうかな。魔法の絨毯のことはセト君から聞いた? もともと王家の所有物でね。王が死んでいっしょに埋葬された。お姉ちゃんの調べによれば王の死因はなんとなんと恋煩いだった。魔法の絨毯はもともと、王の恋を上手させるために生みだされたものだったのだよ」

「なわけあるか。からかうにももっとマシな嘘を吐いてくれ」

「あらら。信じてくれないんだ」

「誰をどうやったら信じられるってんだよ」

「じゃあ訊くけど、どうして魔法の絨毯はちみに懐き、ユキちゃんに懐いたの? あれは失恋に苛んでいる者の傷に反応する。ゆえにきみたちにつよく惹かれ、味方をしてくれた」

「おれはいいとして、なんでユキもなんだよ」

「おやまあ。にぶちんはこれだから困っちゃうな。ユキちゃんがどうして好きでもない男とわざわざ付き合ってすぐに別れるを繰り返してきたと思ってるのだろうねこのコは。意中の相手の気を引きたいからに決まっているだろ。でもその相手はにぶちんオブにぶちんだから、脈なしだと思ってユキちゃんはああも傷ついているのサ」

「笑えねぇ冗談だな。それが本当だとしてもおれにゃあ関係ねぇし、そもそもあの絨毯は姉ちゃんにだって懐いてたんじゃないのかよ。だったら姉ちゃんも失恋してたってことか? あす地球が滅んでもありえねぇ」

「んー。まあその是非はおいとくして。お姉ちゃんはね、遺跡であれを見つけたときに、壁画から大昔に何があって、あの絨毯がどんな代物かもだいたい知った。だから一芝居打つことにしたんだよね。だってあのままじゃあ、お姉ちゃん、ずっと人類貢献ってお命題のために酷使されちゃうこと必須だったからサ」

「だから絨毯のやつに、世界を滅ぼせと命じたと?」

「おっとー」

「分かるよ。何年姉ちゃんの弟やってきたと思ってんだ。あんたの考えそうなことはすこし考えればだいたいわかる。後の祭りであるかぎりって注釈はつくがな」

「バレてちゃしょうがないな。そうだよ。わざとあの絨毯ちゃんが人類にとって危険なものだとみなに知らしめた。そのうえでバラバラにして管理するように仕向けた。そうしたほうがみんなの仕事が増えて、いろいろ注意が散漫になるからね」

「その隙をついて逃げだしたと? 絨毯の切れ端を持って」

「主人と認めた者に命じられない限り、あれは生き物を傷つけるなんて真似はしないよ」

 魔法の絨毯ちゃんは、魔法でできた絨毯ではなく、魔法を使える絨毯ちゃんなのサ。

 姉は言葉遊びを口にする。さもこの世の真理を突いたとばかりに、至極真面目に、揚々と。

「重力を消すなんて真似もできないしね。仕事の種類が違いすぎる。とてもたいへん。反重力と重力の消失はまったくの別物サ。重力は生みだすのはできても、消すまでは至らない。できても反対の重力を生みだして、対消滅したように見せかけるだけ。いくら魔法だって、できないものはできないよ」

「じゃあ遺跡で発生したっていう大惨事ってのは」

「もちろん重力を消そうとなんてしていない。そういうふうに錯誤しやすいように、ちょいと時空が歪んで見えるように、絨毯ちゃんに命じてつくってもらったのさ。極小のブラックホールをね。だいたい地球くらいの質量なら半径0.89センチ以下の球体に圧縮させればできるかな」

「なんてことさせんだあんたは。鬼かよ」

「大惨事になり兼ねない事象を起こすよりもそれを絨毯ちゃんにさせたことに怒るとこがあんたのいいとこだ。よい弟を持ったとお姉ちゃん鼻が高いよ」

「かってに誇ってろ」

「それはそうとまだしらばくお世話になるから、何か悩みがあるならいつでも相談に乗るよ。たとえばそうだな、ひょっとしたら両想いかもしれない相手の気持ちを確かめるのがこわいときにどうしたらよいのか、とか」

「言ってろ。おれはあさってで休暇が終わるんだ。四日から仕事がはじまんの。おれの貴重な休暇を邪魔しないでくれ」

「どうせ映画観るだけだったくせに。いいよいいよ。ユキちゃん誘って温泉にでも行ってくるから」

「あいつを巻き込むなっつったろ。アイツはアイツでめちゃくちゃブチ切れてたからな今回の一件に関しては」

「それも一週間後には感謝されるようになっているサ。お姉ちゃんが言うんだから間違いない。なんたってあの魔法の絨毯ちゃんが選んだきみたちだもの。知ってるかい、あの絨毯ちゃんが何でできているか」

「おれが知るわきゃねぇだろ」

「運命の赤い糸だよチミ。運命の赤い糸だ」

「どう反応したらいいかわかんねぇよ。つっこまねぇぞ」

「なんとでも言うがよい。お姉ちゃんはおととい途中で観るのやめちゃった映画を観るので忙しいのであとはもう話しかけないで」

「お、おう。なんでおれが邪魔したみたいになってんだ。ここはもうおれん家だぞ。なんで姉ちゃんが主人面してんだよ」

「だってお姉ちゃんはぱかなので」

「ぱかってなんだよせめてバカにしとこ?」

「ぱかのほうがかわいいからぱかでいいのだよ。我が弟がくれたありがたーいご身分であるので、ぱかはぱからしく、ぱかであることにする」

「早口言葉かな?」

「あ、ほらさっそく来たよ」

 玄関のほうからドタドタと足音がし、身構えるより先にインターホンが鳴る。

「ほらほら、行ってきなって。お姉ちゃんはちゃんとイヤホンして映画を観てるので、何も聞こえませんので、お気遣いなくでございますので」

 睥睨し、手で宙を払って、もういいや、の意思表示をする。それから玄関に赴き、痺れを切らした様子でもういちど鳴るインタホーンの呼びだし人を、覗き穴から確認する。

 そこではしきりに左手の小指をいじり、寒いからかそれとも苛立っているだけなのかは判然としないが、身体を縦に揺すっている我が幼馴染、長く険しい片想いの相手、先刻別れたばかりのユキが立っている。

 彼女の小指からは半透明の糸のようなものが垂れており、それはまことふしぎなことに玄関扉の隙間を通ってこちらの小指の付け根に結びついている。




【後釜に、今宵、なる臍を】


 いつかはこんな日が巡るだろうと覚悟してはいたが、よもや最愛のひとと結ばれたその日にやってくるとは思わなかった。

 シルバーソーグはこの日、何年も真剣に愛をささやき、伝え、縁を固く結びつけてきた最愛のひとを置いて住み慣れた家を、街を、去った。

 持っていくものは何もない。衣服も靴も途中で着替えた。着替えは以前から用意していたもので、いずれはこんな日がくると構えていた。

 だが、きてほしくはなかった。

 そう願ってやまなかったが、台風や地震が人の意向を気にしないのと同じように、それはシルバーソーグの気分にも、気持ちにも、もちろん生活にも気を払うことなく、そうするのが最も合理的だったから、都合がよかったから、というただそれしきの理由でその日、彼に、これまでの人生を捨て去る決意を固めさせた。

 シルバーソーグの本名を知る者はなく、シルバーソーグをシルバーソーグと呼ぶ者もない。彼にはいくつかの過去と、いくつかの名前、そして偽の経歴があった。それらは彼が各地を転々とするあいだ、居住した地ごとに新たに増え、そして消し去ってきたものだ。

 最愛のひとにはダグと名乗っていた。だが最愛のひとのもとを去った彼はもう、ダグではなく、数多の仮面を使い分けるシルバーソーグでしかなかった。それは、これまでひたむきに覆い隠してきた彼の核であり、習性であり、行動原理そのものであった。

 移動は徒歩に限定した。ときに下水道を使い、民家を抜け、屋根を伝った。足跡は残さず、靴は一日ごとに履き替えた。たいがいは民家から盗んだ靴だ。衣服も拝借する。

 シルバーソーグには罪を犯すことへの呵責はない。そのように幼いころに教育を施された。どこにいても生きていけるようにと、生存に最も有利な術をそのときどきで使えるように人格を補強された。

 最新機器の扱いにも手慣れたものだが、シルバーソーグは情報収集以外ではそれらを極力使わない。

 自動車はいまや、巨大な追跡装置でしかない。店舗の立ち並ぶ区画にはどこも監視の目が張り巡らされており、それは人混みですら例外ではなかった。

 誰もがいまや、カメラを携え、知れず監視の目の役を果たしている。

 電話や音声認識、検索した単語からタップしたリンクの項目まで、最新機器からは使用者の側面像が日夜、集積され、人物像をより鮮明に浮き彫りにする。

 シルバーソーグは人里離れた道を辿り、山間を渡って移動した。食料は山菜に、蛇やカエル、ときには虫を食べるのも厭わなかった。

 生き延びるたびにすべきことはすべてする。躊躇をした数だけ死に近づく。シルバーソーグはそのことを知悉している。

 つぎにすべきことは決まっていた。

 長年をかけて築き上げてきた至福のかたちを捨て去ざるを得ない契機を与えた組織に、その罪を償わせる。もっとはっきり言ってしまえば、もうにどとこんな真似をさせないよう、契機を生みだす機構そのものを打ち滅ぼす。

 復讐ではない。

 流れを変えるのだ。

 人に向けられた欲求ではない。

 仕組みに向けられた純然たる改善の願いだ。

 まずは身を隠す。

 優先すべきは韜晦であり、監視の目から逃れなくてはならない。シルバーソーグは山中でひと月余りを過ごし、その間、鈍った肉体を鍛え直した。獣の感性を細胞単位で蘇らせ、生きるとは何かを、思いだす。

 つぎにすべきことは情報収集だ。

 シルバーソーグは山間にある民家に侵入し、そこで通信機器を拝借した。持ち去る真似はせずに、隙を見て使う。屋根裏に身を忍ばせ、住人が他出しているあいだにこっそりと使った。

 調べるのは世界的な事件や事故、政界の動きだ。表向き事故扱いされているなかにも人為的に引き起こされた事件はすくなくない。たいがいは表沙汰にすらならないが、それがきっかけで雪崩が起きるように世界的大事件に発展することもある。政界の動きを眺めるだけでも、それらほかの事件や事故との関連をある程度類推できる。

 一般人がなんの基礎知識もなくそうした関連を導きだせば、それは妄想と呼ばれるが、シルバーソーグには表層だけを眺めている限りはけして見えてこない水面の底の蠢きを目にすることができた。それは、シルバーソーグがそれら水面の底の蠢きを生みだす側の人間であることと関連している。

 トカゲには見えない水の流れが魚には見えるように、魚には見えない空気の流れが鳥には知覚可能なように、生き物を殺さずとも食料にありつける平和な生活に身を浸している者たちにはけして見えない世の中の流れがシルバーソーグには見えるのだ。

 組織には組織の道理がある。国にはその国の法があるように、企業には企業の理念があるのと同じく、こうなればこうするよりないという、人間関係の力学のようなものが、どんな国であれ、業界であれ、機関であれ、働いている。

 シルバーソーグにはその人間関係の力学が手に取るように解る。必ずしも逆説が成立するわけではないにしろ、この機関がこのように解釈し公的に発表しているのならば、実際のところはこうなっており、そこにはこの機関とこの組織が関わっているのだろう、と見抜くことができる。

 ときに力関係は大きく変わるが、根本的な構図は変わらない。力ある者が、力なき者を支配する、ただその流れがあるのみだ。

 力関係の把握には、政治の流れを見ればいい。あれほど判りやすいものはないとシルバーソーグは思うが、大衆と呼ばれる多くの民は、なかなかその力学を理解していないようだ。政治が理屈で動くと本気で信じている民がすくなくない。正しい者が正しい地位に就く。悪い者はけして上には立てない、どこかで正義に阻まれ、躓くことになる。そのような神話を無垢に信じている。

 仮にそれが真実であればじぶんのような存在はこの世に生みだされはしなかった。じぶんのような存在がのうのうとこの世に解き放たれた時点で、政府なるものの正義とはつまるところ生存競争でしかないのだと示唆される。

 シルバーソーグが愛しいひとのもとを去った理由は、新たな任務が与えられる兆候を察知したからだ。いちど任務を受けてしまえば、シルバーソーグは自身の痕跡を完璧に消したのち、仕事にとりかかる。そこに自由意思は介在しない。いちど任務を受けてしまえば、シルバーソーグとしての回路がONとなり、最も合理的かつ効率的に目的を達成するにはどうすればよいか、を考え、実行するただの兵器となり果てる。

 ゆえに去った。

 命じられる前に。

 兵器となり果ててしまう前に。

 自らの手で、愛しいひとを殺してしまわないうちに。

 シルバーソーグは諜報員ではない。スパイではない。どこの機関にも属していない。なぜならシルバーソーグなる兵器はこの世に存在しないことになっているためだ。仮にこれまでの数々の犯罪行為、のきなみ俎上に載るのは虐殺や暗殺であろうが、それらが明るみにでたところで、シルバーソーグという個人の凶行でしかなく、そこには何の組織の思惑も介在してないと見做される。

 どの機関にも所属せず、登録もされていない。ゆえにおそらく任務遂行の命を受ける前に姿を消したシルバーソーグの処遇を、管理者たちは決め兼ねているころだろう。抹消は決定事項だ。そのための手段に、いかな機関の協力を得るかに思考の大半を費やしているはずだ。

 テロリストとして認定し、各国の諜報機関および国家安全保障局に情報を提供するのが最もとられる確率の高い手法だ。 

 射殺の許可が下りるだろう。制御不能な兵器は処分するのが決まりだ。例外は認められない。

 シルバーソーグが手に入れるべき情報は第一に、管理者の居場所だ。流動する組織だ。どこか本拠地に腰を据えていたり、企業のように何かしらの登録をしているわけではない。管理者以外のすべての構成員はフリーランスであり、与えられた仕事をこなすだけの部品にすぎない。いったいじぶんたちが何をなすためにそれら仕事をこなしているのかすら知らされない。道端に自転車を放置して去る、ただそれしきの仕事を与えられることもある。

 総体で一つの目的を達成できればそれでよいのだ。線とはけっきょくのところ無数の点の集合でしかない。点の一つ一つは、じぶんたちがいったいどんな線を描いているのかを知ることはできない。

 ただ一人、管理者を除いては。

 おそらくこの世で最も性能の高いAIを駆使してこそ可能な仕組みであろう。そのAIすら企業の所有物を拝借しているにすぎない。すべては資本と権力のなせる業である。

 政府機関ではない。

 一介の個人が各国の諜報機関すら動かせる仕組みを有している。

 単なる権力ではない。実力を伴ったたしかな脅威として、シルバーソーグを生みだした管理者は社会の捕食者として君臨している。

 ほかにもじぶんのような存在がいるのだろうか。シルバーソーグの懸案事項には必ずその疑問が潜りこんだ。果たして、純粋に目的を遂行するためだけに思考のすべてを、肉体の全性能を発揮する殺戮兵器相手に、未覚醒のじぶんは生き残ることができるだろうか。おそらく不可能だ。

 越えることのできない差がある。安全装置のついた拳銃と、外れた拳銃の違いほどにハッキリとした戦力差だ。

 身を隠しつつ、管理者の居場所を突き止め、何かしらの交渉を、ときに脅迫を以って行う。

 金輪際、じぶんに関わるな、自由を保障しろ、と圧倒的に優位な立場を築いたのちに命じる。相手がそれを拒み、どうあっても叶わぬならば、打ち滅ぼすのも辞さない覚悟だ。

 否、それしか手段はないと考えている。

 管理者を葬るにしろ、生かすにしろ、流動する組織の仕組みは瓦解せねばならない。

 それら仕組みが、現在の国際社会にどのように貢献しているのかは知らないが、おそらくは世界のパワーバランスは大きく揺らぐだろう。柱を一つ失くすようなものだからだ。だが、一介の個人が世界のバランスを支える一柱になっていることそのものが土台おかしな話である。

 人は仕組みではない。人が仕組みをつくるのだ。人そのものが回路となって社会を回すことは通常、歴史を振り返ればそれらはなべて独裁と呼ばれる。

 いくつかのちいさな、しかし看過するには大きすぎる社会の変化をシルバーソーグが補足した矢先、世界の動向が慌ただしくなった。貿易戦争が熾烈を極めはじめる。誰かが何かをし、流れを急速に一方向へと収斂させた。そうした印象を覚える。

 海の潮流を陸から視認しきれないのと同様に、社会を漫然と漂う大きな流れがシルバーソーグには視える。それは砲弾の軌跡を予測する数学者のように、或いは星の周回を予見する宇宙物理学者のように、たしかな論理によって導かれる解を伴っている。

 シルバーソーグには、ほかの大多数の者たちには視えないパズルのピースが視えている。それは過去に施された教育によって培われた慧眼のなせる業だ。なにより常日頃から絶えず目を配り、どんな些細な変化も見逃さず、蓄積し、あらゆる事象と結び付け、その整合性を確かめようとしてきた。

 妄想と仮説と結果と事実を区別する。

 優先順位と確率を頭のなかでつねに多重に場合分けしている。

 シルバーソーグは一個の超高性能AIと同等の機能を発揮する。熟練の整備士は機械から漏れる音の変化から、どこに問題があるかを見抜く。同等の原理でシルバーソーグは、世の中の流れの変化、違和感から、その裏にある流れを予測する。

 予測は多重に展開されており、確率の高さごとにつねに峻別を繰り返している。最も確率の高い仮説を元に対策を立て、或いは計画を編み、それと共に、ほかの仮説が妥当であった場合に備えて、バックアップの第二、第三の策を敷いておく。

 そうした多岐にわたる準備をしているあいだに、情報は蓄積されつづけ、さらにシルバーソーグの予測の精度をあげていく。

 ときには確率が大きく変動し、仮説が間違っていたと判明することがある。往々にしてそうだと言ってしまえる。

 ゆえにシルバーソーグが最終的な行動に移すときは、もうそれしかない、という場合であり、つまりが目的遂行が確実になったときである。

 裏から言えばシルバーソーグはつねに行動を起こしつづけている。目的が定められた際には、おおむね下準備が完了している。あとはどのような手順が最も効率よくこなせるかの計算があるのみだ。

 最愛のひとのもとを去ってから半年後にシルバーソーグは山をくだり、街に立った。途中で民家に寄り、無人のあいだに洗面所を拝借した。そこで身体を清潔にし、散髪をし、頭髪と眉毛を残した全身の毛を剃り落とす。どんな場所にも毛髪というDNA情報を残すわけにはいかない。髪は短く刈りあげた。

 衣服を替え、下山した先々でも、同じように民家に侵入しては、より上等なスーツに着替えた。

 現金は、こうした場合に備え、以前から用意していた。銀行には歩を向けない。下ろした時点で足がつく。

 偽名で借りた隠れ家に武器と逃走キッドが置いてあるが、おそらくそこはすでに押さえられているだろう。近づけば容易に確保され得る。

 逆から言えば、そこを見張っていれば、追手の姿を視認することが可能だ。とはいえ、いまでは張り込みなどという時代錯誤な術はとられない。衛星から屋内の様子を透視可能だ。それほど大掛かりな術を使わずとも、カメラに盗聴器、ほかにも任意の対象を監視する手法は様々ある。

 隠れ家には近づかないのが正解だ。

 想定はしていた。ゆえに抜かりはない。

 シルバーソーグはとある児童養護施設へと向かった。そこには毎月のように長年寄付をしつづけてきた。数年前に口座を一つ解約し、そこから下ろした全額を、とある慈善事業団体に預けた。手数料を払う代わりに、任意の養護施設へと毎月、決まった額を送金してくれるように頼んだのだ。それは慈善事業団体からの寄付というカタチがとられる。データ上では数年前に完了した金の流れであり、表向きではそこで途切れている。だがそのじつ、毎月のように決まった額が小分けにして養護施設へと送金されている。

 言うまでもなく、その養護施設の運営者はシルバーソーグだ。管理こそ他人に任せているが、運営権の総じてをシルバーソーグが握っている。数ある裏の顔の一つでしかないが、現在のような非常事態下では役に立つ。

 養護施設に保管されていた現金を三つの旅行鞄に詰める。一つを手に持ち、ほかの二つは、予約済みのホテルへと郵送する。

 施設の園長からオートバイを買い取り、経営権をすべて彼女に譲渡した。元から運営資金がなく潰れる寸前だった施設だ。余分な現金を保管していただけにすぎず、これからも毎月慈善事業団体から寄付金が送金される。運営するだけなら充分だろう。

 園長は不安そうな顔をしていたが、金持ちの道楽だ、と言って否応なく経営権を押しつけた。もう会うことはない。

 手ごろなホテルに宿泊する。

 まずしたのは、部屋に設置されているメディア端末で、書店から大量に本を購入することだ。段ボール二箱分の量になる。

 それが届くまでのあいだに、現金をビニル袋に小分けにして包む。ビニル袋は黒く、中身は見えない。一束につき高級車を一台買える金額だ。束を十個集めれば家を一軒買える。

 本が届いたら、表紙を剥ぎ取り、それを現金の束二つに巻きつける。さらに上からビニルで巻きつけ包装する。本のカタチに札束が納まる。こんどのビニルは半透明だ。かろうじて表紙が見える。

 そうして本に偽装した現金の束を、保管サービスに送りつける。段ボールに入れて郵送するだけで、貸金庫のように預かってくれるサービスだ。取り出したい荷物がある場合は、その旨を告げるだけで、預けた段ボールの中から欲しい荷物を取って送ってくれる。仮に金が必要になったときには、書籍に偽装した現金を、任意の場所に郵送してもらうことがこれで可能となる。詰めてみると段ボールは三箱になった。

 手元には、旅行鞄一つ分の現金が残る。

 段ボールを郵送したら、ホテルを移動する。

 情報を収集しながら、その足で本拠地にすべくアジトの候補を見繕う。相手が仮にテロリスト組織程度ならば、トラックを購入してその荷台をアジトとしてもよかった。だが今回の相手は、衛星や超高性能AIを利用可能な政府機関相当の脅威だ。一国の軍を相手取ってもボロをださずに、計画を遂行するだけの基点がいる。

 計画を実行に移すまでのあいだだけでいい。装備を一式置いておける場所、それでいて計画を完遂するまで露呈せずにいられる場所が好ましい。

 が、そんな場所が都合よくあるわけがない。

 情報収集を本格化すれば、あべこべに相手からもシルバーソーグの追跡が容易になる。そこはトレードオフだ。深く情報を追えば、それだけ現代の情報ネットワークに触れざるを得なくなり、相手の核心に近づけば近づくほどに、相手側にもこちらの存在を窺知する余裕が生まれる。

 作用反作用の法則のようなものだ。知ろうとすれば相手からも知られる。ゆえに、順番こそが肝要であった。

 何を知り、どのように知られ、そのうえでどのように立ち回るか。

 おおむねを予測したうえで対策を練り、無視できるリスクとそうでないリスクを天秤にかける。

 シルバーソーグは思案の末、下水道内の一角にアジトを設けた。ふだんは高級ホテルとカプセルホテルを不規則に移り住み、その傍らで、下水道に下り、機材を運んだ。作戦室である。

 人口密集地には無数にネットワークケーブルが張り巡らされている。シルバーソーグはそこから無作為に有線を繋ぎ、ネットワークへと侵入した。電波ジャックをするよりもこちらのほうが安全で確実であり、仮に露呈したとしても、場所を特定されにくい。

 シルバーバーグの目下の関心事は、相手がいったいどんな命令をじぶんに下そうとしていたかだ。いま相手はそれを当初の計画通りにこなせずに変更か中止を余儀なくされた。

 何をさせようとしたのかは、シルバーソーグ自身、じぶんの能力や、過去の仕事を類推すれば的を絞ることは可能だ。

 過去の仕事では暗殺や脅迫を命じられた。

 一国の首相や、他国の諜報機関の局長、ときにはそれらを管轄する省の大臣の身を危ぶめた。

 たとえ相手がどのような近代兵器を保持しようが、よしんば核兵器の発射ボタンを押せる権限を持っていようが、シルバーソーグに狙われて日常の安全を保てる者はいない。

「どこにいようといつでもおまえを殺せる。おまえと縁のある者も例外ではない」

 最も安全であるはずの職場のトイレで、背後から首筋にナイフをあてがわれ、ときに寝室の枕元に立たれ、或いはできたばかりの孫の背中にメッセージが貼り付けられていれば、否応なく脅迫に屈するよりない。

 彼ら彼女らへと伝えられる要求がどのようなものかは、シルバーソーグが知ることはない。おそらく、相手側が抵抗してこないことから、それなりに素直に呑み込みやすい要求なのだろう、と見立てている。その後の世界情勢の変化などを眺めていれば、否応なく、ひょっとしたらこれかな、と思うような事象がちらほらと観測されたが、検証するほどの熱がシルバーソーグにはなく、いつも穿鑿せずに終わった。

 穿鑿してもしなくとも未来のじぶんは困らない。

 現に、シルバーソーグには一つの有力な仮説が持ち上がっていた。世界情勢を眺めていて大きな違和感を覚えるできごとがあった。子細を語るにはそれこそ複数の国家の歴史を緻密に語らねばらぬために、ここでは概要に留めるが、本来であれば、とある国の諜報機関が裏で動くためにニュースで報じられているような懸念は現実のものとはならないだろう、という事案が、するすると水が滴るように、懸念を現実のものへと昇華せしめた。

 あの機関が失敗するような事案ではなかった。阻止できないわけがないのだ。これまでずっとそうだったのだから。だが今回、それがなされなかった。

 ひょっとしたらその機関の尻拭いよろしく、達成困難な任務をこれまでの期間シルバーソーグが代わりにこなしていたのかもしれない。思えば、その機関を所有する国には直接損失を与えたことはなかった。その国の要人を暗殺したことがあったので、うまく結びつかなかったが、その要人とてその国にとってはガン細胞のようなものだった。国益を考えれば、暗殺したほうがプラスに働いただろう。

 言い換えれば、シルバーソーグを手駒として扱う人物は、各国の諜報機関の保険屋のような立場にある。どんな達成困難な任務であろうと肩代わりする。尻拭いをする。あべこべに、危害を加えてきた相手はそれが誰であろうと、どこのどんな組織だろうと滅ぼす。そうした力を、仕事を介して、誇示しつづける。

 全世界の暗部の頂点に君臨する人物だ。その手駒がじぶんだ。だがそれはいまのシルバーソーグではない。命じられ、目的遂行を唯一の存在意義と再定義された純粋兵器としてのシルバーソーグである。

 いまはまだ命を受けていない。スイッチがONになっていない。

 これは、シルバーソーグに備わった本能と言ってよく、じぶんではどうすることもできない。

 能力を充分に発揮できない。それは承知のうえだ。それでもシルバーソーグはやらねばならなかった。

 身体の細胞単位で刻まれた呪縛を断ち切り、自由を手にする。過去から現在まで脈々とつづく人類の闘争そのものから、シルバーソーグもまた逃れられはしなかった。

 自由になる。

 ただそれだけのために人は生きるのだろうか。

 縛られることで安定できる。

 これもまた等価交換なのかもしれなかった。

 だがどんな配分で自由を得るのか、束縛されるのか。その案配くらいはじぶん自身で選びたい。選ぶ自由だけは対価なくともあってよいはずだ。

 それがじぶんにはない。

 みなにはあるそれが、じぶんには。

 そのことに気づかせてくれたのが最愛のひとだ。

「あなたはまるで糸の切れた人形みたい。いつまた糸に繋がれるのかって、そればかりに囚われて見える」

 完璧に演技をしていたつもりだった。彼女にはしかし、シルバーソーグの幾重もの仮面が通じなかった。見抜かれていた。

 どこぞの諜報員が接触してきたのかと案じたが、どうやらそうではないと解ったころにはすっかり側面像を調べ終えていた。掴みどころのないようで、掴みどころしかない癖のつよい人格だ。幾度も触れるうちに、離れられなくなっていた。

 他人から興味を抱かれないように過ごしつづけてきた。にも拘わらず、最愛のひとはなぜか執拗にこちらに構った。シルバーソーグにはそれが新鮮で、ときにおそろしく、そして手放しがたかった。

 同棲するようになり、やがてこれからの人生を共に歩む誓いを立てた。もうそのころには、シルバーソーグは遠からずこうなることを想定していた。過去に区切りをつけ、呪縛を断ち切る。

 想定外だったのは、思っていた以上に早くつぎの任務が舞いこみそうになったことだ。ひょっとしたら、シルバーソーグを監視している者たちからしても、あからさまなほどに行動原理の変化が顕著であったのかも分からない。

 最愛のひとと結ばれたその日のうちに、靴が届いた。注文した品ではないが、じぶん名義になっている。靴底がスライドする仕組みで、中には一本の注射器が入っていた。

 液体そのものは単なる生理食塩水だが、注射器本体をつまむと指紋認証によって本人だと認定される。照合が済むと液体のなかにナノマシンが混入され、薬剤として完成する。皮膚であればどこでもよい、それを押しつければ、DNAレベルでシルバーソーグの細胞が、兵器として目覚める。

 打たないという発想がそもそもなかった。任務外の日々は、つねに飢えを抱えて生きていたようなものだ。最愛のひとの言ったとおり、シルバーソーグは任務を求めていた。万能の、最強の、活殺自在な肉体にふたたび回帰する機会を待っていた。

 注射器は、退屈で色褪せた日々から逃れるための鍵だった。使わない手はない。そのはずだった。

 だがもうこのとき、シルバーソーグは知ってしまっていた。

 退屈な日々を生きる喜びを。

 愛おしいひとの寝顔を眺めながら寝付く日々を。

 何の変哲もない日々を生きることの輝きを知ってしまった。

 任務を終えるごとに、過去を白く塗りつぶし、また一から別の人生に染まった。その繰り返しで生きてきたシルバーソーグにとって、最愛のひとと結ばれたその日々をなかったことにするのは耐え難い苦痛であった。

 痛いのだと知った。

 愛しいひとと重ねてきた時間を、深めた縁を、共有した記憶の数々を、なかったことにすることは、バタフライナイフで順繰りと指を切り落とされるよりもずっと痛いのだと予感できた。

 なかったことにさせはしない。

 シルバーソーグはゆえに、最愛のひとのもとを去った。

 けじめをつける。

 操り人形の糸を切る。

 欠伸がでるほど退屈な仕事だ。

 情報収集をつづけると、目標人物が思っていた通りの難敵だと判った。ほとんど世界を我が物にできるだけの権力と武力、なにより人脈を築いて見える。

 一つだけ予想外に好ましい傾向を発見する。シルバーソーグが遁走して以来、これまでならそうならないだろう、という勢力図の変化、ともすれば問題が解決されなかったケースが連鎖している。発端は、最初に違和感を覚えた事案だ。

 シルバーソーグがこなすはずだった問題が放置され、悪化し、雪崩のように伝播している。それを食い止めようとする動きがみられない点から、じぶんの代わりはまだ現れていないようだと判断できた。

 社会情勢が悪化することを目的に作戦が実行されている可能性もあるが、このままいけば遠からず社会は資源を奪い合って戦争に発展する。いまどきそれを本気で望んでいる国などはない。ゆえに、これは誰もが予想し得なかったイレギュラーなのだと考えたほうが妥当だ。

 もちろん、じぶんのような存在がほかにもいる可能性をシルバーソーグは考慮し、備えているが、ではなぜ先方がそれら多数の兵器を用いずにいるのかが不明だ。辻褄が合わない。

 存在しないからだ、と考えるほうが理には適っている。

 段階的に手持ちのマシンの性能をよくした。情報を広く深く収集してみたが、相手の尻尾はおろかその片鱗すら掴めない。保管サービスに預けた金もすでに一箱分の金を消費した。その分だけじぶんの情報を相手側にばら撒いているようなものであり、このままでは遅かれ早かれ奇襲を受けるはめになるだろう。なれば、もうその道は避けられないと考え、それをこそ利用するほうが得策だ。

 シルバーソーグは考え、そして韜晦を解除する。

 敢えて証拠を残し、掴ませ、相手のほうから現れるように仕向けることにした。

 視えない相手を捕縛したければまずは相手に腕を掴ませればよい。

 この場合、外部委託の部隊に動かれると困る。トカゲの尻尾きりでは、対象人物に辿り着くことはできない。ゆえに、なるべく対象人物の手駒たちに動いてもらうべく、シルバーソーグは一計を案じた。

 過去のじぶんのこなした任務を小説の体で執筆した。任務ごとに一本ずつ書き、それを別々の出版社の新人賞へと投稿する。データ入稿だ。情報収集部がそこに記された文字列を感知し、身元の照合を試みる。身元を突き止められないことに気づけば、シルバーソーグの存在と結び付けるだろう。もちろん情報は標的の耳にも入る。

 焦りはしないだろう。証拠は何も残ってはいない。シルバーソーグなる人物そのものがすでに存在しない存在だ。架空の人物がいかに真実味溢れた言動をつむごうが、小説の域をでない。虚構にすぎない。

 だが、真実にシルバーソーグが存在することを知る人物なら違う。放置してはおけない。存在しない存在には、存在してもらっては困るからだ。存在しない存在が、存在することをアピールしはじめた。これはもう看過できぬ奇禍であろう。抹消する方向へと動く。その際には、必ず、手駒の部隊を動かす。そうでなければ、みすみす自身の弱みを、各国の軍部および諜報部に明け渡すこととなる。

 小説のデータ入稿では、アプリを使った。アプリ越しに仕事を依頼すると、手ごろな人物がそれを請け負ってくれる。相手はどこの誰とも知らぬ赤の他人だが、遠い場所から小説のデータを入稿してくれることだろう。

 アカウントそのものは、他人のものを利用した。ストリーミングサービス型の映画配信でもそうだが、アカウント情報を共有すれば、他人名義でサービスやアプリを利用できる。一つのアカウントで複数人がサービスを利用するなんて違法行為がいまでは誰もが行える。このさき生体認証が普及すれば、こうした抜け穴も塞がれるだろうが、いまのところは有効だ。

 クラッキングにしたところで、ログイン中のコンピューターに侵入できれば、そもそも暗証番号すら必要ない。

 小説の撒き餌の効果がでるのに時間はかからない。相手はこちらに気取られぬうちに部隊を派遣するしか道はなく、もし長引くようなら、そもそもこちらの仕掛けた罠が見抜かれていることになる。

 だが見抜いてなお、戦力で上回るならば居場所が割れた時点で、奇襲を仕掛けるはずだ。それができないようならば、こちらのほうに分があると言える。単純な武力の差でたとえ負けていようが、相手にはきっとほかにも懸案事項があるはずだ。部隊を動かすにもそれなりの労力がいる。両手ならば圧倒できるが、片手しか使えなければやはり様子を見るしかないこともある。

 小説の撒き餌は罠であると共に、相手の現在の余力の高さを図る試金石でもあった。

 奇襲を仕掛けてきたならば相手はこちらを制御できると考えている。もし奇襲がなければ、相手はいま組織として弱体化している。

 どちらに転んでもシルバーソーグにとって好ましい結果しか生まない。

 つまり、奇襲をしかけてきたならば相手はシルバーソーグを甘くみているし、そうでなければ敵わない相手だと評価し、時間を稼いでいる。

 どちらに転んでもツケいる隙しかない。

「なぜだ」

 数週間後に相対することとなる、流動する組織の中核にしてトップ、謎の男はそうシルバーソーグに問いかける。なぜあのときにあんな無謀な真似をしたのか、と。わざわざ小説を投稿し、じぶんの存在を世に知らしめるとは浅はかだと言いたいのだろう。シルバーソーグは鼻から息を短く吐き、失笑を演じる。

「無謀ではないからこそのこの結果だ。違うか」

「違うな。おまえは未だ私の手のひらの上だ。おまえがここに現れたのは私がそのように求めたからだ。おまえは唯一絶対の真理を仮説に盛り込まなかった。よもや自身の考えがすべて見抜かれたうえで、私が弱体化した組織を演じたとは想定しなかった。その時点でおまえは負けていた。が、敢えて生かしてここに辿り着くように仕向けた。なぜか解るか」

 シルバーソーグには理解できなかった。しかし、男の言葉に偽りがないことは漠然と直観できた。ハッタリを口にしているだけにしては、たしかにシルバーソーグは簡単に彼のもとに辿り着けた。いくつものバックアップ案を使うことなく、奇襲を仕掛けてきた部隊から芋づる式に、男の正体を掴み、居場所を突き止め、こうして奇襲から九日という短期間で標的の眼前に立っている。

 シルバーソーグは拳銃のグリップを握る。

「なぜそんな回りくどい方法を?」

「実力を知りたかったからだ。だからこそ問う。なぜあんな真似を?」

 シルバーソーグは九日前を思いだす。

 奇襲はあった。

 情報発信源を突き止められ、下水道のアジトに襲撃をかけられた。

 が、そこには金で雇ったホームレスを住まわせておいた。

 襲撃が失敗し撤退した兵隊の一人に発信機を付けた。発信機は靴底に付着するタイプのものだ。細菌を含有した物質が滲みでるようになっている。歩くたびに地面にこびりつく。細菌はそこで増殖し、足跡に沿って微弱な電磁波を発するようになる。つまりが、光だ。可視光ではないが、専用のセンサでサーモグラフィよろしく足跡が黄色く浮きあがって視える。発信機本体からが最も多く電磁波が発信されるが、おそらく兵隊たちは途中で着替えを済ますはずだ。本拠地にそのまま帰還することはない。

 だが、着替えたあとは気を緩める。着替える地点まで辿れれば、あとはいくらでも新たに精度の高い追跡装置を兵隊に付けることが可能だ。小型のドローンでも追跡できるが、ジャミングが展開されているだろうから、接近はできない。盗聴器や監視カメラの類も、ジャミングの影響で使用不可だ。

 その点、発信機はジャミングの影響を受けにくい。探知される確率もまた低い。電磁波が微弱すぎるうえに、種類が豊富だ。真夜中のジャングルのなかで、手のひらを這った虫の種類をその感触だけで識別するくらいに無理難題だ。ゆえに、追跡装置がじぶんに付いている前提で過ごすのが賢い選択だ。

 シルバーソーグ自身、つねに居場所が割れている前提で動いている。異変を察知できるように用心を欠かさない。周囲を飛び回るハエがドローンでない保障はない。

 現に、下水道を偵察するために兵たちはドローンを使った。虫型を飛ばすには下水道内は電波の通りがわるい。それなりに大きな機構ゆえ、シルバーソーグの張り巡らせた感知器に早々にかかってくれた。

 襲撃に備えてはいたが、いつくるかが判っていたほうが円滑な尾行が可能となる。

 兵隊たちは街中の駐車場で三台の車に別れ、そこからさらに街中で散開した。自動車の運転手はおそらくそのまま中古車店に車を売って、しばらくの休暇を過ごすはずだ。尾行をするならば徒歩で散った者たちだ。そちらを追った。

 案の定、翌日には尾行した兵の一人が港に停泊中の大型客船に乗った。入り口を見張っていると、客に交じって、昨日の兵たちが姿を現した。

 夜の闇に乗じて海から船の外壁をよじ登り、船内に侵入する。船全体が彼らの所有物と見做したほうがよい。乗員乗客すべて敵だ。ひるがえって、誰を浚っても人質にできる。

 翌日に船は出港し、四日をかけて海を渡り、とある島国に行きついた。

 その四日間に繰り広げられたシルバーソーグの暗躍は、これまで彼が過去に成し遂げてきた任務と比べれば、登山家が小学生の遠足についていくようなものであり、ことさら語るほどの内容ではない。兵隊のカシラを見定めて、数々のトラップを仕掛けたのちに、寝首を掻いた。じっさいには首元にナイフをあてがい、いくばくかの会話を交わした。仕掛けたトラップの効果を話して聞かせ、このままいけば十中八九部隊は全滅し、船内の生存者も見込めない、と脅した。

 脅迫ではあったが、シルバーソーグは本気でもあった。ここで脅しに屈してくれなければ本気で船を沈める気でいた。船内で血祭を開くつもりだった。

 シルバーソーグの側面像を知っているだろう兵隊のカシラは、おとなしくというと語弊があるが、雇い主の情報を口にした。

 本来であれば、どんな拷問を施されてもその男は口にしなかっただろう。だが状況が状況なだけに、唯一の打開策として男はシルバーソーグの要求に応じた。

 シルバーソーグには実際に船内の乗員乗客の息の根を止めることができた。そしてその事実を、男は知っていた。加えて、シルバーソーグはまだ兵器として覚醒しておらず、交渉の余地があることもまた理解していたはずだ。

 言い換えれば、ここで口を割っておけば、部下だけでなく、ほかの大多数の犠牲を払わずに済む。

 船内の客のなかには、おそらく隊員たちの身内がすくなからず含まれていたはずだ。任務を終えた足で、家族と共に戦地を離れる。

 雇い主の気前のよさが裏目にでたと言っていい。

 安全地帯が一瞬にして、牢獄と化したのだ。戦地では死をも辞さない歴戦の兵隊も、バカンスを楽しみにしている家族のなかでは死を怖れる。一縷の望みに託して、雇い主の情報を口走るのは何も責められたことではない。兵として、隊のカシラとして、否、人としてじつに合理的な判断だ。

 シルバーソーグは同様の恫喝をそれから三度、べつの人物、べつの土地で繰り返した。

 やがて行き着いた豪邸にその男はいた。

 警備は厳重だが、並々ならぬというほどでもない。傭兵は敷地内にしかおらず、周囲に民家はない。豪邸に近づけば否応なく接近者を目視可能であり、たしかに守るだけならそれで充分なのかもしれないが、世界の覇者が住むにしてはお粗末なセキュリティだと言えた。

 物資調達のために豪邸からは定期的に、兵隊を詰め込んだトラックが街へと赴く。豪邸のなかでは住み込みで働く料理人や世話係がおり、定期的に彼ら彼女らを街へと送迎するための武装トラックが行き来する。

 シルバーソーグは街中で世話係に接触し、豪邸内の様子を子細に聞きだした。多少、強引な交渉術を使ったが、血一つ流させていない。人間は、状況が異様であれば、ある程度のハッタリが通じる。こと、豪邸に住まう者ならば、雇い主に敵が多いことくらいは知っているだろう。どの程度の敵がいるかを知っていれば、ハッタリに信憑性が増す。じっさい、シルバーソーグはその世話係の家族構成や弱みを知らなかったが、調べるのはそれほどむつかしい作業ではなかった。敢えて知らずにおいたのは、シルバーソーグなりの誠意であり、巻き込んでしまったことへの呵責の念でもあった。

 彼ら彼女らはこれから職場を失くすのだ。

 片やシルバーソーグは任務が舞いこむたびに、それまで積みあげてきた人生を擲ち、なかったものとして新たに別の人生を歩みつづけてきた。

 以前のシルバーソーグならば世話係の人生を嘆く真似はしなかった。だがいまは慮ることができる。その分だけ、じぶんの擲ってきた過去の軌跡、生活、そして最愛のひととの記憶を思うと、シンシンと舞い降る雪のような怒りが胸のうちにしずけさを宿す。

 断ち切らねばならぬ。

 シルバーソーグは世話係を拾いに待ち合わせ場所にやってきた武装トラックを襲撃した。兵隊を鎮圧し武装トラックを乗っ取るのは、市場に行ってサンドウィッチの材料を探し回るよりも楽な作業だ。そこから屋敷内の謎の男のもとに行き着くまでには二時間を要しなかった。

「なぜだ」

 シルバーソーグをまえにしてもその男は眉一つ動かさずに、椅子にふんぞりかえってシルバーソーグを見返した。そこには驚きも戸惑いも見受けられなかった。

「はっきり言おう。失望した。この選択は賢くはない。きみが私の兵たちを囮に使ったように、私もまた彼らを囮に使った。おまえがここに辿り着くように導線を引いた。よもやおまえが素直にそれに食いつくとは思いもしなかったが、現にこうして現れてしまったのでは認めるしかあるまい。おまえは私が望んでいたよりも優れてはいなかったようだ。ざんねんだ」

「俺はおまえを殺せればそれでいい。これが罠だとして、で、あんたのほうこそどうする。このままおとなしく死んで、あの世で、罠にハマった俺をバカにするのか」

「そうだな、ではこう言おう。おまえの仮説で当たっていることはそう多くはない。私は確固とした組織を築きあげているし、各国の諜報機関の尻拭いもしていない。なぜなら私こそが世界のパワーバランスを保つ支柱だからだ。私の言葉一つで、国が一つと言わず、滅びる。どんな国の首相も、私の名すら知らないにも拘わらず、私の意思を汲み取り、それを世に反映する。おまえは私の手持ちの駒のなかでも屈指の兵器だったが、おまえが考えていたのとは違い、おまえの代わりは存在する。おまえはおまえだけがスペシャルだと思い込んでいるようだがそうではない」

「ならそいつらを呼んで子守歌でも歌ってもらったらどうだ」銃口を向ける。

「その必要はない。私もまたその一人だからだ」

 音もなく拳銃が弾けた。衝撃により腕がしびれる。

 男が撃ったのだ。

 椅子に座りながら、机越しに。

 予備動作はなかった。ずっと銃を持っていたということか。いつからだ。部屋に入ってから男は態勢を変えていない。椅子にふんぞりかえったくらいだ。襲撃を予期し、備えていなければできない芸当だ。ハッタリではないのだとこのときシルバーソーグは、男の言動を、時間稼ぎや命乞いの類ではないと見做した。

「勘違いしているようだから明かしておくが、おまえはいまもなお私の手のひらの上だ。おまえがここに立っているのは私がそう望んだからだ。おまえはじぶんの自由意思でそれを選んだように錯覚しているようだが、それは違うことを告げておく」

「負け惜しみにしか聞こえない。だいいちそんな真似をする利がどこにある」

「おまえという兵器を私は申し分なく高く評価しているが、ではおまえ自身の人としての評価はどうだ。いささか疑問がある。それを正当に測るにはこうするよりなかった。ゆえに迷っている。おまえのこの判断がどこまで計算し尽くされて翻した反旗なのか、と」

「あんたを殺して証明完了としていいならいつでも証明してみせるが」

 いいのか、と肩を竦める。腕のしびれは治まった。

「構わん。やってみろ」

 その言葉を皮切りに、シルバーソーグは動いた。

 拳銃はすでに一丁をダメにしている。手持ちの武器は多くはない。

 替えの拳銃に手を伸ばすが、一寸先にそこを撃たれた。拳銃が盾となって致命傷にはならないが、アバラの数本が折れたのが判る。続けて三つの拳銃を撃ち落とされた。予備動作だけで拳銃の在処を見抜かれている。そちらを囮にして、ナイフに手をやった。柄を掴み、発砲するだろうタイミングで空を切る。刃に衝撃が加わる。ピンと張った鋼鉄のワイヤーをぶった切ったような手応えだ。

 男との間合いは縮まっている。あと二歩で首筋を掻き切れる距離だ。

 一歩目を踏みだした際に、氷が砕けた光景が脳裏に浮かんだ。時点で、ナイフの刃が打ち砕かれたと気づくが、そちらは元からブラフだ。

 もう一方の手はベルトの突起物に触れている。注射器を収納するポケットだ。手品師の指捌きさながらにひと撫でで手のひらに収める。

 二歩目、跳躍する。

 眼前に男の顔がある。

 デスクを乗り越え、男の頭上を飛び越える間際に、男の首筋めがけて注射器の先端を押しつける。

 着地し、態勢を整えがてら、振り向きざまに男の背後をとる。

 立ち上がらずに、屈んだ姿勢を維持する。

 それでいて、もう一本の替えのナイフの先端を男の頚髄に押し当てる。ゆっくりと首筋を撫でるように、刃を顎のほうへと回す。

 男は身体を脱力したようだ。油断させるためだろう。指一本動かしでもしたら喉元を切り裂くつもりだった。

 だが男はまったくの無防備な様で、なるほどなぁ、と感嘆する。

「たしかにそれを持参し、奥の手として使ったならば、この局面もまた計算のうちに入れていたことの傍証になり得るか」

「確率は低かった。だが、あんたが俺と同類でない保障もまたなかった」

 注射器は、兵器を起動するためのスイッチだ。シルバーソーグの肉体はふだんから任意の遺伝子情報がロックされている。肉体の兵器としての能力が一定以上に行使できないように制限がかかっているが、ナノマシンを投与することで、それら切られていた遺伝子情報が肉体に反映される。

 遺伝子情報は個々人によって異なる。シルバーソーグに配られた注射器には、シルバーソーグにのみ適合するナノマシンが配合されている。他者にそれを投与すれば致死性の猛毒となす。輸血において血液型が重要なのと理屈は同じだ。そしてこれは、どんな毒にも耐性を持った超人にも有効の劇薬となる。

「いいだろう。合格だ」

 致死量の劇薬を投与されてなお、男からは焦燥感のいっさいが感じられなかった。

 合格とはなんだ。

 そのように問うと、男は語った。

「ゲノム編集技術が確立されたとき、人体実験が国際的に禁止になる前にそれを試みた研究者グループがあった。その結果、産まれた赤子には、これまで見られなかった様々な能力の開花が観測された。軍事利用できると大国が判断し、多額の研究費用と最先端の研究施設を提供し、秘密裏に研究がつづけられた」

 そこで生まれたのが私だ。

 男は何かを思いだしたように短く笑った。首元にナイフの刃を押しつける。妙なことをするな、と伝えたつもりだが、男はそのまま首をもたげたので、血が流れた。男は続ける。

「よくある話だ。私はあるときじぶんがモルモットだと気づいた。このままだと遠からず破滅すると考え、研究所そのものを乗っ取ることにした。組織そのものを破壊することも可能だったが、その後のことを考えれば、乗っ取り、隠れ蓑として使ったほうが合理的な判断だと考えた。それは功を奏した。私はそこから数年で、世界有数の屈強な軍隊を率いることとなる。おまえもそのなかの一人にすぎん。だが、能力を制限してなおこの実力だ。出来のよさはおまえ自身が最も実感しているはずだ。ズバ抜けていると言ってよい。到達点、と私はおまえを高く評価していた。だが、私の求めているものは単なる高性能の兵器ではなかった。ゆえに、こうして試した。おまえの資質をだ」

 兵器として覚醒していない状態での性能を測りたかった、これはそういう話なのだろうか。否、そうではない。性能を測るだけならもっと効率のよいやり方はいくらでもあった。

「私を殺したところでおまえはいっさいの痛痒を感じぬだろうが、一応告げておこう。元から私の寿命は長くない。保ってあと半年。薬剤の投与をやめればあす死んでもおかしくない身だ。ここまで言えば判るだろう。私が何を測りたかったのかを」

「後釜が欲しけりゃ、それこそじぶんで作ればよかっただろう」シルバーソーグは歯噛みしたい衝動を堪える。怒りはこの局面では何の役にも立ちはしない。「なぜこんな回りくどい真似を」と真意を問う。

「じぶんで作るか。そうしたつもりなのだがな。私の後継者としてふさわしい人格を形成するのにずいぶんと手を焼いた。肉体の性能だけならば科学技術で何とでもなる。だが、人格ばかりはそうもいかない。これでも手塩にかけてきたつもりなのだが、まあそれをおまえに理解しろというのは無理がある。が、おまえは常に監視されていた。私はずっとおまえを見ていた。私がおまえに与えなかったのは死だけだ。ほかのあらゆる介在物はおおむね私からの贈り物だ」

 最愛のひとの顔が浮かんだが、ここでそれを問うても意味がない。確かめる術がない。ならば無駄に呪いを植えつけられるだけ損だ。最愛のひととの出会いにどのような背景があれ、じぶんのなかに芽生えた感情は真実だ。それだけがだいじだ。じぶんの、あのひとへとそそぐ気持ちだけが。

「わるいがあんたの思いどおりにはならない。俺にはあんたの跡を継ぐ気はないし、あんたの人生の軌跡そのものも、この組織も、あんたの命も、きょう限りだ。終わりだよ。何もかも」

「終わらぬよ。おまえは私の跡を継ぐ。組織を率いる。たとえいちどその手で無に帰したところで、また似たような組織を立ち上げる。そうせざるを得ない状況におまえは、私たちは、いま、いる」

「世界がどうなろうと知ったこっちゃない。誰の手で牛耳られようと構わない。俺は俺が死ぬまでのあいだ、できるだけ長く安らかに、自由に、暮らしたいだけだ」

「そのたった一つの、なんてことのない願いが叶わぬからこそ、おまえは私の跡を継がざるを得ないのだ。すぐに解る」

 シルバーソーグは、男の死を待つつもりだった。ナノマシンを投与した以上、死までは残り数分もない。こうして言葉を発していられるのがふしぎなほどだ。細胞単位で内側から崩壊しつつある。激痛でのたうちまわってもおかしくない。やはりこの男もまた超人の類なのだ。

「わるいがそうはならない」

 手首に力を籠め、引く。ナイフは男の首の肉を抵抗なく裂いた。どろりと血が溢れる。二度ほどミミズが蠕動するように血が盛りあがり、それ以降は、とろとろと流れた。

 男の意識は急速に遠ざかったはずだ。超人だろうと関係がない。酸素が供給されなければ脳は機能を保てない。常人より遥かにエネルギィを消費する超人であればなおさらだ。酸欠の影響をモロに受けるだろう。

 呆気ない幕切れだ。死とはつねにこういうものなのだろう。何度、目にしてもじぶんの死ぬときのことを考える。こうして安らかに死ねるのだろうかと。

 しかしそこでひとたび最愛のひとの顔を思い浮かべると、これを安らかな死とは思えなくなる。そう思えなくなるじぶんを新鮮に思う。新鮮に思うじぶんをもたらしてくれるからこそ最愛のひとは最愛なのだとシルバーソーグは感慨に耽る。

 遺体はそのままに豪邸をあとにした。敷地内からは兵や守衛たちの姿が消えていた。元からそのように指示されていたのだろう。追手はなく、すみやかに撤退できた。

 ここまでを見越していたという男の話は真実だったのかもしれない。いまではその真偽すらどうだっていい。

 終わったのだ。

 本当に?

 影武者の可能性を考えた

 本物は生きており、どこかで何かを企んでいる。あり得ない話ではない。だが目的が解らない。あの男が影武者だとすれば、彼の話していた内容も真ではなくなる。だがそうすると、シルバーソーグを泳がせた理由が、社会の混乱にあると考えなくてはならなくなる。

 社会を根底から支え、支配していた組織はいまを以って滅んだ。それによって引き起きるのは、社会の混乱と、崩壊の連鎖だ。

 全世界の社会構造を掌握するために、混沌を巻き起こしたかったとすれば筋は通るが、このままいけば遠からず世界の操縦桿を握るのは、独裁国家だ。

 仮に世界を牛耳る何者かが未だどこかで生きているとしてその者が、かような社会を望むとは思えない。

 何か大きな変革を起こしたくて、いちどじぶんの組織を瓦解させる必要があったとしよう。その藁人形として抜擢されたと考えれば筋は通っているが、だとすれば影武者にその役割を任せればよい。わざわざじぶんのような扱いづらい手駒を迂遠に操らずともよかったはずだ。シルバーソーグはかぶりを振る。

 考えすぎだ。

 やはりあの男が頂点にして、組織の中核だったのだ。

 いや、仮にそうでなくともシルバーソーグには関係がない。問題がない。藁人形として、組織を殲滅した裏切り者として、好きなように名を使わせればよい。

 シルバーソーグはもういない。

 きょうからは兵器ではなく、一介の民間人、単なる人として生きていく。

 最愛のひとのいる街にはまっすぐに戻れない。ひと月をかけて国に戻り、さらにひと月をかけて、周辺に監視の目がないかを探った。

 各国の軍や諜報機関は、例の組織が壊滅したと知って、ハチの巣を穿り返したような騒ぎになっているだろう。誰がそんな真似をしでかしたかよりも、これから悪化していくだろう社会情勢への備えに奔走しているに違いない。現に、どれだけ注意深く観察しても、故郷と呼ぶべき最愛のひとの住まう街には、それらしい人影や不審物は見当たらなかった。或いは衛星から監視しているのかもしれないが、仮にそうだとしてもこちらは困らない。

 見張るならば見張ればいい。監視するのは、監視対象を脅威だと見做しているからだ。敵対する意思がないことが伝われば都合がよいし、監視以上の干渉が加われば即座に対処可能だ。

 確率の高さから言えば、おそらく監視すらされていないだろう。誰があの組織を壊滅させたのかすら詳らかにはなっておらず、そもそも個人による攻撃で破滅したとすら知られていない確率のほうが高い。

 それほど機密性の高い組織だった。

 組織のトップ自ら招いてくれたからこそ打破できたと言い直すこともできなくはない。

 最愛のひとのもとを去ってから一年半が経過していた。事情を話さずに家をでた。きっと傷つけた。失望されただろう。なんと言い訳をすれば許してもらえるだろうか。本当のことを話すべきだろうか。

 人心掌握を使ったところであのひとには通じないだろう。誠心誠意、本当のことを話すのが最も理に適した釈明となる。

 解ってはいるが、話せばそれだけ溝は深くなる。隠し事はなしだと、愛を誓い合った日に約束した。それを端から破っていたのだ。

 人類社会の仕組みを牛耳る組織を壊滅するための手立てを考えるのは苦ではないのに、たったひとりのたいせつな相手を説得するだけのことがなぜこれほどまでに艱難辛苦なのか。

 何を選んでも最悪の結末しか思い浮かばない。及び腰になっている。臆病になっている。怯えている。

 顔をあげると、いつの間にか見知った風景のなかにいる。

 懐かしい扉が見える。

 買い物帰りだろうか、食料品を両手で抱えて歩く、ずっとずっと会いたかったひとの姿がある。買い物袋代わりに段ボールを使っているのは相変わらずだ。

 駆け寄りたい衝動に駆られる。堪えられたのは、気恥ずかしさがあったからだ。

 どんな顔を見せればいい。最初の一言は何がよいだろう。

 戦闘では迷うことのない頭脳が、あのひとのこととなるこうまでも故障する。うまくいかない。それでいてそれが心地よく思えるから性質がわるい。

 そうこうしている間に、身体はそうあるべきだというように家の扉のまえに立っている。

 鍵はかかっている。生体認証だ。住人登録が削除されていなければいまでも難なく扉は開く。開かなければそれまでだ。踵を返して、闇へと消えよう。

 否、そんな潔くは去れない。せめて罵倒の一つでもかけられてから去ろう。それがいい。

 最悪のなかに光明を見出すのは得意だ。

 取っ手を握る。ロック解除の明かりが点灯する。家のなかに足を踏み入れる。

 台所のほうからパタパタとスリッパが床を叩く音が響き、目のまえで止まった。

 ただいま、と声をかける。

「おかえり。なに、どこ行ってたの」

 どんな顔で怒鳴られるだろうと身構えていたが、案に相違して向けられたのは笑顔だった。まるで今朝出かけた同居人に向けるようなその言葉に、全身が脱力する。次点で、歓喜の念が湧きあがる。

「黙っていなくなってごめんなさい。話があるんだ。だいじな話です」

「そっか。じゃあ聞く。ご飯はあとでいい?」

 食事をしながら話すには重い内容だ。

 居間のソファに腰掛ける。内装が変わっていて、否応なく時間の経過を突きつけられる。そのなかで最愛のひとだけが同じだった。変わらずに変わっている。変人のじぶんを受け入れる変人でいつづけてくれている。

 脚の短いテーブルを挟んで向かい合う。

 口火を切ろうと息を吸ったとき、部屋のなかにブザー音が鳴り響く。災害情報の速報だ。地震や大雨が予想された場合に、各人が所有するメディア端末に警報が入る。どうやら最愛のひとの端末が警報を鳴らしたようだった。

「地震かな」

「いや」初期微動は感じられない。警報は外にも響いている。ただごとではない、と直感する。

「あ、隕石飛来注意だって」

 メディア端末の着信したメッセージを読んでいるのだろう。隕石ならばしかし、もっと事前に判るはずだ。直前になって報せることはまずない。

 窓の外を見遣る。夕暮れの空に、一筋の火球が見て取れた。

「わあ、あれかな。あれだねぇ」

 身を乗りだし、ひたいに手を当てる最愛のひとを窓から引き離し、隕石じゃない、と告げる。

「違うの?」

 じゃあなにさ、ときょとんとする沈着冷静なそのひとを地下室に引っ張っていく。

「痛いってば、なに、どうしたの」

「ごめんなさい、またすこし家を留守にします」

「な。ちょっとそれはかってすぎないかな」

「食料はあとで届けにきます。ひとまず三日はここから出ずにじっとしてて」

「だから何なのさってば」

「人工衛星です。落下してる。一つじゃない、何万基といっせいにです」

 地下室の扉を閉め、階段を駆けのぼる。機嫌を損ねたのか、当てつけのごとくおとなしく指示に従ってくれたようだ。おそらく三日経ってもこちらが迎えにいくまではそとにでないだろう。地下室にはバストイレが完備されている。そういう家を選んだからだが、よもや本当に使う局面に立たされるとは思わなかった。

 庭に出て、そらを見上げる。

 雨のごとく流星群が地上に降り注いでる。遠く、モヤがあがり、数十秒遅れで、爆音が轟く。間隔を置いて、数秒ごとに鳴るそれらはしだいに衝撃波を帯び、やがて目先のビルが倒壊し、キノコ雲にも似た煙幕が空を覆う。

 街が、都市が、崩壊していく。

 どんな状況下であろうと苛立ちはなんの役にも立たない。解ってはいるが、このときばかりは舌打ちを禁じ得なかった。

 あの男は知っていたのだ。こうなることを。

 世界を覆い尽くしていた光のネットが、夜の訪れと共に、断ち切られていく。

 世界は、いまいちど半世紀前の文明にまで凋落する。

 世界大戦が勃発したあの時代の文明まで。

 分断し対立する各国を、誰かがひとまとめに結束させておかねばならない。羊の群れを一塊にしつづける牧羊犬の役目をこなさねばならない。

 それができる人材は限られる。

 人工衛星撃墜の主犯がどの国に属しているのかは問題ではない。

 一刻の猶予も許されない。

 人類は命綱を失った。失ってなお、断崖絶壁にへばりついている。のぼることはおろか、下りることもできない。

 ふたたびの命綱を確保するまで、荷物を捨て、身軽になるより助かる術はない。

 荷物とは負担だ。

 負担とはすなわち、増えすぎた人口である。

 いがみ合えば破滅の魔物が口を開けて待ち構えている。かといって団結しても、然るべき道を通らねばやはり破滅の魔物の餌食となる。

 安住への道は狭い。

 羊の群れを誘導しながら渡るには有能な牧羊犬がいる。

 そしてここに、かつて有能な牧羊犬だった男から、後釜として太鼓判を捺された牧羊犬もどきが一人いる。

 過去、シルバーソーグという人格を持ち、世界でただ一つの最強最悪の兵器だった男は、深く、深く、息を吐くと、諦観の念を胸に、まずはさておき、

「トラックがいるな」

 仕入れておくべき大量の保存食と飲料水の調達方法に思いを馳せる。

 最愛のひとから愛想を尽かされずに現状をうまく説明できる魔法の言葉がないものか。眉間にしわを寄せながら、暗たんとする。そんなものがあれば時間を戻せる魔法だって存在するだろう。

 これから引いていかねばならない様々な図案や計画を投げだしたい気持ちに蓋をする。

 大規模集荷場へと歩を向ける。

 食料、トラック、雑貨、嗜好品。

 揃える品を脳裏に浮かべる。

 こんなことなら、と思わずにはいられない。

 生かしておくんだった。

 あの男を殺さずに。

 けっきょく手のひらの上だ。

 人類社会の未来よりも、最愛のひとの機嫌のほうがよほどだいじである。機嫌を損ねてもらっては困る。

 ゆえに男は、臍を固める。

 なりたくもない人類覇者の後釜に、今宵、なる臍を。




【懸想する影に】


 鳥津(とりつ)彼太(かれた)なる造形のはなはだうつくしい青年と夕夏が出会ったのは彼女が大学を卒業し、家事代行の仕事をしはじめた矢先のことだった。

 仕事に慣れはじめ、一人での遠征も苦に思わなくなったころ、住み込みでの仕事の提案が上司からなされた。

「あなたはまだお若いですし、通常こうしたお仕事は年配者に任せるように社の指針にはあるんです。万が一、ということがないとも言い切れませんからね。その辺は研修でも重々学んでいただいたとは思うんですが」

「ではどうして今回わたしが?」

「特例だと聞いています。もし嫌なことがあればすぐに社に連絡をし、仕事先を飛びだしても構いません。もちろんそうならないようにするための手続きや契約は厳重に済ませてはあるはずですが、万が一ということもあります」

 万が一、と舌の上で転がす。一日に何度も耳にしてよい言葉ではないように思った。念を押すなぁ、と訝しむ。単なる通常の依頼ではないのではないか。

「どうされますか」

 ひととおり説明をして上長は言った。果たして夕夏は引き受けた。特別手当の額に目がくらんだからだが、ほかにも理由はあった。仕事先にて常住している家主が夕夏よりもすこしだけ年下の青年だったからだ。依頼主はその青年の親族であるらしい。家に一人で暮らしているために家事の世話をしてやってほしいという。

 仕事前に渡される仕事先の資料を眺める。青年の写真がある。背丈がじぶんよりも低いとあって、夕夏はさらにほそく笑む。間違いなど起こり得ない。たとえ粘着質な目で見られようと手を出されたら、ひねりあげたうえに慰謝料をたんまりもらい受けてやろう。この仕事をはじめてからというもの、この手の話題には事欠くことがない。主に先輩方から聞かされたよもやま話ではあるのだが、下心を隠し切れずに手をだしてくる御仁の話は日常茶飯事だ。新しい事例が月ごとに更新されるくらいだ。社が対策をおざなりにしている裏返しでもあったが、これに関しては慰謝料をとることを目的に敢えて放置しているのではないか、と従業員のあいだではもっぱらの噂だ。

 その家は都市部から大きな川をのぼるようにして行き着いた山の麓にこじんまりと立っていた。竹林が家までの道のりをどこまでも囲っていた。

 ほかに民家はない。

 門をくぐり、飛び石の小路を歩いて玄関のまえに立つ。インターホンの代わりに鐘があり、それを叩いた。資料に載っていなかったらこの時点で、ごめんください、と声を張りあげていただろう。

 返事はない。

 だが日中はまずいると資料には書かれている。引きこもりなのだそうだ。ならば居留守を使われていると考えたほうがよさそうだ。

 夕夏は仕方なく、家主の名を呼んだ。

「鳥津さーん。鳥津彼太さーん。わたくし、家事代行協会から派遣されてきました日暮(ひぐれ)と申します。いらっしゃると伺っていたので、ご連絡もさしあげずにきてしまいました、すみません。ごめんくださーい」

 同じ文句を再三唱えると家の中から物音が聞こえた。二階からだろうか、階段を下りる足音がある。玄関口のまえまでくるとそれは止まった。

 解錠する音がし、そうして夕夏はこの日から世話をすることになる家主、鳥津彼太と対面した。

「はじめまして、わたくし家事代行協会から派遣されてきた日暮と」

 申します、との挨拶を遮り、鳥津彼太は言った。

「拒否できないんですよね。前にもあなたのような人が何度か来たのでわかりますけど、いちおう訊いておきますね。帰ってもらえませんか」

「この家の所有者たる依頼主さまからの直々の御依頼であります。もしそのようなご要望がおありでしたら、まずはご依頼主さまとご相談のうえ、依頼の解約をお願いしていただかないことにはわたくしにはなんとも」

「要はぼくはいち管理者にすぎなくて、叔父さんたちを説得しなければただあなたを家のなかに招き入れなくてはならないということですよね。わかっています。訊いてみただけです」

「申し訳ございません。お料理とお掃除をさせていただくほかにはお邪魔しないように気をつけますので」

「いえ、ぼくはいいんです。ただ」

 鳥津彼太はそこで逡巡の間をあけ、いえなんでもないです、と言葉を濁した。「まずはあがってください。間取りを説明して、あとは好きにしてもらってよいので。ぼくはほとんどじぶんの部屋にいます。ふだんはお腹が減ればインスタントかデリバリーです。散歩が日課ですけど、それ以外は家にいます。引きこもりですけど、人としゃべるのは嫌いではないので、何かあれば言ってください」

「ありがとうございます」口にしていいか迷ってから、いっか、と思い直し、言ってしまう。「すこし安心しました。もっと気難しい方かと身構えていたので」

「安心するのは気が早い気がします」

 廊下を抜け、先に客間に案内された。

「ここを使ってください。えっと、すみませんお名前をもういちど聞いても」

「日暮夕夏と申します。四歳ほど年上になりますね。わたしが言うことじゃないんですけど、あまりかしこまらないでくださいね。お代は鳥津さまの伯父さまからたんまりもらっていますので、なんなりとお申しつけください。こんななりですけど、メイドだと思ってくれてよいので」

 頭から足元まで視線が巡る。冷ややかな目だ。

「あ、思えないか。ですよね」

 ジャージに割烹着という組み合わせは、いちおう派遣元の家事代行協会から支給される制服だ。色気も何もあったものではない。清潔感だけは折り紙つきだ。

「この部屋は日暮さんの好きに使ってください。ちなみに住み込みですか?」

「そのように伺っています」

「ならこの部屋に限らず、ぼくの部屋以外は好きに使ってください。こういう言い方は却って失礼かもしれませんが、長期休暇をもらったとでも思って、あまり仕事は熱心になさらないでください。一週間もあれば掃除は済むでしょう。あとは期日までゆっくり過ごして、無事に帰ってもらえたらぼくとしては言うことがありません」

「はあ」邪魔だからしずかにしていろ、という迂遠な忠告だろうか。

 荷物を置くと、家のなかの案内のつづきが再開する。ひとしきり見て回ると、そうそうと鳥津彼太は声を高くし、

「言い忘れるところでした」と立ち止まる。「この家にはどうにも野生の鳥が住み着いていまして、それがどうにも鸚鵡のような鳥らしく、人の声を真似ます」

「人の声を、ですか」野生の鸚鵡がこの国の空を飛んでいる風景をうまく思い描けず、夕夏はその話をどう捉えてよいのか迷った。鳥津彼太の表情を観察するが、ジョークを口にしている素振りはない。

「ふだんはおとなしいのですが、ぼくが散歩に行っているあいだや、家を留守にするあいだ、とたんに騒がしくなることがあるようで。出かけるときにはきちんと声をかけていきますので、留守のあいだに妙な声を聞いても、どうか反応なさらずにいてください」

「それはちょっと楽しみですね」

「返事などはしないように、どうか」

「したらどうなるんですか」

「さあ」彼は首をひねる。「声を真似られてしまうかもしれませんね」

 場が和んでもよさそうなものだのに、鳥津彼太ときたらにこりともせずに言うので、からかわれているのか、本気の忠告なのか、判断に困った。

 本人の言うように、また事前の資料にもあったように、鳥津彼太はほとんど自室に引きこもっており、ときおり小腹が減ると降りてきて、あとは厠や沐浴以外では顔を合わす機会もなかった。

 夜中や明け方、ときには日中に散歩にでかけるようだ。時間帯はまちまちであり、それでも彼は必ず一言、出かけてきます、と言い添えていった。夜中などは、扉の向こうから声がするのでぎょっとするが、扉を開けずに声だけかけていくので、それもすぐに慣れた。

 一週間もすると食事の支度をする以外ではすることがなくなった。住み込みの仕事は初めてだ。若い娘を長期間一つ屋根の下で過ごさせるにはリスクが大きいとの判断なのだろう。仮に派遣されたとしてもひと月以上の住み込みは稀である。旅行や仕事の都合で家をあける親御さんが子どもたちや、親の介護のために雇われるのが、それとて最後のほうはいつも暇になって、こんなので報酬をもらうのはわるいな、と罪悪感が募ることもしばしばだと先輩たちから聞き及ぶ。

 住み込みは、当たりの家とそうでない家がはっきりしている。襖一枚隔てた向こうで家族の声が筒抜けで、プライベートもないような家だとどれほど仕事が楽であっても精神的にきついようだ。反して、今回のような場合は、暇をどうつぶし、いかに仕事をしているように見せるかに頭を使うので、別方面で疲れると聞く。

 別荘を放置しておくよりかは誰かを住まわせたほうが家が腐らずに済む、の理屈で雇われるわけだが、期間が長ければ長くなるほど、単なるバケーションとの違いが判らなくなる。

 鳥津彼太が気を利かせてなのか、朝のゴミ捨てをしなくなったために、朝の仕事が一つできた。内心ほっとした。こうした気配りのようなことを彼がしてくれるので、よそよそしい態度ほどには邪見にされていないようだと初対面のときの印象を覆しつつある。

 彼が自室に引きこもって何をしているのかはよく知らない。

 穿鑿するのも野暮だろう。家主の穿鑿はご法度である。家事代行の十か条と呼ばれる暗黙の規律にもそうあるらしいが、案外にけっこう守られていないのが実情だ。派遣元の先輩たちがあれやこれやと仕事先で仕入れたネタを言い合っているのをよく耳にする。その家にはその家ならではの「ふつう」がある。その家のなかではふつうだが、けしてそれは一般常識ではない。ふつうではない。ただ、ふつうだと家のなかでだけで思われているだけなのだ。

 家事代行は否応なくそうした外部と乖離した世界を覗きこむことになる。

 鳥津彼太の生活様式も異様と言えば異様だった。

 成人しているとはいえ、まだ二十歳そこそこの若者が独りで、豪邸とまではいかないが一般的な家とも言い難い屋敷に暮らしている。

 人里離れている。

 周囲には竹林と山までつづくすすき野があるばかりだ。

 資産家の息子なのだろう、といった程度の想像は巡らせているが、家のなかに家族写真は一枚も飾られていない。

 近所に買い物のできるような店がないために、鳥津彼太は通販を多用した。食材もほとんど通販で仕入れていたようだ。はじめこそ夕夏は自転車をこいで、数キロ先にあるスーパーまで出張ったが、それも億劫に感じはじめ、というよりも自転車を立てつづけにパンクさせてからは、できうる限り通販の利用を心掛けた。

「自転車屋さんが近くにないのも不便ですね」

「パンクしましたか? もししてしまっても修理も弁償もしなくてよいので。ちょうど新しいのが欲しかったところですし、じつはすでに散々パンクを直した自転車でして、もうほとんどタイヤを交換するしかなくなっていたところなんです」

「そうだったんですね。でも弁償はさせてください。自腹ではないので。こういうときのために会社が保障してくれているんです。ほら、掃除中に高い壺を割ってしまったときに困るじゃないですか」

「日暮さんが困らないのならそれでも構いません。ただ、それとはべつにぼくはぼくで新しい自転車を買いますけど」

「買っちゃうんですね」

「買っちゃいます」

 遺産なのだろうか。鳥津彼太にお金を節約しようとしている素振りはなかった。贅沢な暮らしぶりとは呼べないが、かといって倹約はしていない。お金の心配をしている様子が皆目見当たらないが、そういう家庭もこの世にはあるものだ。

 そもそもここに家庭と呼べる組織がない。

 彼は一人だ。依頼人の叔父が訪ねてくるわけでもなく、ほかに交流のある人間もいない。

 引きこもりと彼は自身を評してそう言うが、彼は特別他者を排斥しているわけでもないようだ。というのもこうして派遣され、一つ屋根の下で暮らしはじめても、彼は夕夏と必要ならば言葉を交わし、それ以外では極力互いの生活を侵犯せぬようにと細心の注意を払っている。

「あの、シャンプー新しいの買ってくれたんですか?」

「日暮さんがそちらを使っていたので、ぼくもそれにしてみただけです。香りがよいですよね。あ、変ですか?」

「いえ、お気遣いをありがとうございます」

 こういったことがたびたびあった。じっさいに彼が気に入って買い揃えただけかもしれないし、それ以外に理由があるのかもしれない。

 食事をいっしょにとることもなく、段々と夕夏は寂しいという感情が胸のうちに根を張っていくのを、ときおりふとした瞬間に自覚する。

 電波越しのテキストで友人知人と連絡を取り合うことだけがゆいいつの気晴らしと言えた。映画も漫画も小説も、どんな虚構も、あくまで現実逃避すべき現実があってこそその魅力を十全に発揮する。その点、夕夏の日常はすでに、負担となる刺激を周囲に探すことのほうがむつかしいと言えた。

 家主の世話人ですらない。

 この家の管理者は実質夕夏である。

 すべてが思うがままに、お給料をもらいながら長期休暇を満喫しているだけだ。最初に対面にしたときに鳥津彼太が言ったとおりだ。どちらかと言わずして彼のほうが居候の様相を呈している。

 彼には書類だけを渡してろくに説明していなかったが、期日はひと月ごとに更新とある。上長からは、夕夏が嫌になるまで更新は自動で繰り越されると聞いている。つまりよほどのことがない限りは解約されずに、このままの生活がつづく。

 幸運ではあるのだろう。

 だが素直によろこべないのはなぜなのか。

 立地の問題だろうか。遊びにいく場所がない。買い物もろくに楽しめない。おしゃれをしてもそれを見せる相手がいない。

 けれど相手の性格も、触れてはならない話題も何もかもが不明な状態で飛びこまざるを得なかったこれまでの仕事と比べて、いちど慣れた場所で過ごす時間は夕夏にとって心休まるひとときと言えた。

 ずっとつづけばいいのに、と思う反面、これがずっとつづくのか、と億劫に思うじぶんもいる。

 わがままな懊悩に苛むだけの余裕がたんまりとある事実を認識するたびに、そこはかとなく湧きあがる日向のような至福を感じる。

 いっそ鳥津彼太を誘惑して家族にでもなってしまおっかな。

 いたずらに妄想をすることもしばしばだが、かといってそれを実行に移すじぶんの姿はどうあっても想像できない。

 仮に実行したとして鳥津彼太が夕夏の誘惑に乗るとも思えない。どちらかと言わずして追いだされてしまいそうだ。

 裏から言えば、邪魔をしないのであれば彼は、いつまでもここにも構わないとの許容を、暗黙のうちに示してくれそうにも思えた。

 風が吹き、竹やぶからカラカラと静寂の音がする。

「出かけてきますね」扉の向こうから声がした。はい、と返事をし、いってらっしゃい、と扉の隙間から顔を覗かせるころには玄関扉の閉じる音がする。

 引きこもりっぱなしだと身体が鈍る。錆びつくようなのだ。夕夏ですら感じるのだから自室にこもりっぱなしの彼がそれを感じないわけがない。こうして毎日のごとく散歩にでかけるのは運動不足解消と共に、気晴らしの一面もあるはずだ。肉体と精神双方の健康を保とうと彼は散歩を習慣にしている。

 見習ったほうがよいかもしれない。お腹の肉をつまみ夕夏は、ため息をつく。何が誘惑か。これでは見向きもされないのではないか。

 夕飯の支度をしようと台所に立つと、

「夕夏さん、夕夏さん」

 呼ぶ声がある。ついつい、はいはい、と返事をしてしまうが、はたと我に返る。また応じてしまった。その声は、鳥津彼太の声音で、「きょうの晩御飯はなんですか」といくぶん弾んだ語気で話しかけてくる。

 きょうはシチューですよ、と内心で応じながら、夕夏は黙っている。

「夕夏さん、夕夏さん。きょうもステキな髪形ですね。毎日新しいお花が飾られているようでぼくはとてもうれしいです」

 それはちょっとセクハラかなぁ。

 夕夏は思うが、内心はまんざらでもない。というのも髪型くらいしかおしゃれをしておらず、ずばりそこを指摘してもらえるのはあなたの美しさを理解していますよ、と肯定されるようで不快ではなかった。

 もしこれが直接に鳥津彼太本人から言われたらどうだっただろう。不快になっただろうか。

「夕夏さん、夕夏さん」

 声はしばらく話しかけてきたが、五分ほどすると途絶えた。屋敷のなかには夕夏の立てる物音と、外から聞こえる静寂の音が響くばかりとなる。

 間もなく、ただいま、と鳥津彼太が帰宅する。夕夏は迎えにでるが、入れ違いに彼はそそくさと階段をのぼり、自室へと引っ込んだ。

「シチュー作っておきましたので」

「ありがとうございます。あとでいただきます」

 戸の閉まる音がする。

 いつもこうだ。嫌われているわけではないのだとはなんとなしに分かるのだが、かといって率先して関わろうとする気がないのも同じだけ確かなことに思われる。

 誰かといっしょに食事をとったことがもう何年もないかのような空虚さを覚える。そのじつまだこの屋敷にきてやっとひと月というくらいなのだから、暇な時間ののっぺりと流れる粘着具合には、毎度のことながら驚きを禁じ得ない。

 何か趣味でもつくろうかな。

 天井を見上げ、夕夏は物思いにふける。そう言えばあの声は本当に鸚鵡なのだろうか。やけにハッキリと聞こえる。会話をしたがっているように見える。不気味に感じないのはなぜだろう。明るく話しかけてくるからだろうか。それはそうだ、鳥津彼太本人のほうがよほど不気味だものな。

 不謹慎な想像をし、夕夏は噴きだす。家主に向かってなんて言い草。

 ひょっとしたら双子の弟かきょうだいがこっそり住み着いているのではないか。食事の減り具合からしてあり得ないと一蹴してはみるものの、もし本当に誰かがいたらどうしよう、と思うとぞっとした。

 屋根裏部屋に赤の他人が住み着いていることがある、といったニュースを以前目にしたことがあった。

 鳥津彼太の性格を思えば、この家に無断で住み着くのはそれほどむつかしくない。あの声は真実に鸚鵡の声なのだろうか。野生の鸚鵡っているのかな。夕夏はインターネットを開き、検索してみる。

 襖の奥で、ギィと足音がした。

「ちょっと出かけてきます」

 間もなく玄関の閉じる音がし、鳥津彼太が散歩にでたと判る。本日二度目の他出だ。だがもしあれが本人ではなかったらどうなるだろう。いま彼の部屋は無人なのだろうか。

 好奇心が湧いたが、世話人の考えることではないな、と思い、ふとんに潜り込み直して、野生の鸚鵡について調べてみる。

「野生のインコならいるみたいですね。セキセイインコ。この家にいるのもそれじゃないんですか」

 翌日、珍しく鳥津彼太が昼食時に居間に下りてきたので、夕夏はここぞとばかりに話しかけた。

「インコですか?」

「インコですよぉ。ほら前にこの家で留守になるとしゃべりだす野生の鳥がいるって、鸚鵡がいるってそうおっしゃっていたじゃありませんか」

 鳥津彼太の顔色がそこで変わった。

「しゃべったんですか?」

「ええ、それはもう。毎回のように彼太さんが出かけると、わたしの名前を呼んで、いろいろと、うふふ。褒めてくださいますね。インコさんでしょうけど」

「返事をしたりは」

「わたしですか? いえ、やっぱりわたしの声を真似るようになられるのはあまりよい気分ではないので」

 本当は前以って鳥津彼太に返事をするなと禁じられていたからだが、そう応じると、彼は分かりやすくため息を吐き、それから顔を伏して何事かを思案した。ぶつぶつと、どうしようか、ああでもな、といった独り言をつぶやくので、悩んでいるのは自明であった。

「あの、だいじょうぶですか」

「いつから声が聞こえましたか」

「あの、けっこう最初のころからです。かれこれえっと、ひと月くらいになりますけど」

「本当にその間、返事をせずにいたんですか」

「えっと」いくらか反応してしまったことはあるが、あれは勘定に入れてもよいのだろうか。「まったくないとは言いません」正直に明かした。「声が本当に彼太さんそっくりで、急に声をかけられると見分けと言いますか、聞き分けがつかなくて」

「返事くらいですか? 会話を交わしたりは」

「それはしていないです」よくよく振り返り、「ないですね、うんないです」と応じる。なぜこんなに執拗に雪隠詰めにされなくてはならないのか、と訝しみながら、大いに心配されているようでもあり、そこはかとなく陽気が腹の底に湧きあがる。

「会話をしていない。じゃあなんで」

「あの、そんなにダメなことなんですか」しょせんは鳥の鳴き声だ。無視していればよい。それともやはり鳥ではなく、人、なのだろうか。だとすれば黙ってはいられない。背筋にひやりとしたものが走る。

 本当に鳥なんでしょうか、と口を衝いたのは、いましか訊く機会がないような気がしたからだ。現にこのひと月あまり、ずっと彼とは会話という会話をしていない。

「鳥以外で何がありますか」

「人がほかにもいるのかと思いまして」

「ああ、そっか。そうですね」

 外から見たらそうも見えるか、と鳥津彼太はつぶやく。まっすぐと見詰められ、不安ですよね、と問われてしまえば、頷く以外の選択肢はなかった。

「すみません、考えが至りませんでした。ぼくの部屋を見てもらえれば分かると思いますけど、この家にはぼくと日暮さん以外では誰もいません」

 そう言えば声のほうはいつも夕夏のことを名字ではなく名前で呼んだ。もし鳥津彼太の声真似をしているのならば名字で呼ぶのではないか。鼓動が乱れるが、夕夏はすまし顔で、天井に忍びこんでいたりとか、と意見する。

「そっか、ぼくの血筋でなくともこの家に居つくことはできますね。ただ、本当に人ではないんです。たぶん鳥です。返事をしなければ害はありません」

「もし返事をしたら?」

 まるでどうにかなってしまうような物言いだった。

「この家にはいられなくなると思います。たぶんですけど」

「ジョークですか」

「そう聞こえましたか」

 真意が見えず、夕夏は黙った。

 見せてもらった彼の自室は、そこだけ都内のコンクリートマンションのような造りだった。

「広いですね。壁もほかの部屋と違くて、なんと申しますか、どこでもドアをくぐったみたいで」

「模様替えが趣味なので。夢中になっているうちにこんなふうに。日暮さんがくる前まではもっとジャングルみたいな内装だったんですけどね。虫が湧いてしまって替えました。コンクリートはいいです。水洗いができるので」

「それはジョークですか」

「そう聞こえましたか」

 家具をベランダに運びだせば、部屋のなかの排水溝に水を流せるのだ、と彼は教えてくれた。「半年にいちどは大掃除します。つぎは二か月後ですね」

「そのときはお手伝いします」

「二か月後ですよ? ああでもそうですね。そのときにまだいらっしゃったらお願いしたいです」

「いますよ。彼太さんが追いだしたりしなければですけど」

 言ってから、嫌味っぽかったかな、と案じた。ちらりと顔を窺うと鳥津彼太はこちらをすっとんきょうな顔で見て、追いだしませんよ、とぎこちなく言った。

 この日を境に彼の散歩の頻度が減った。いや、夕夏が風呂に入っているあいだや、寝ているあいだに出かけている素振りがある。敢えて鳥の声が聞こえても夕夏が誤解せずにいられる時間帯を選んでそとにでているようだった。

 彼が浴室に入る間際のすれ違いざまに、

「ひょっとして気を遣ってくれていますか」と訊ねた。いつ散歩にでかけてもらってもだいじょうぶですよ、と暗に伝える。

「もしそうだとしても、はいそうです、とは言いにくい質問ですね」

「前からふしぎだったんですけど、どうして鳥の声は彼太さんがいるときには聞こえないんでしょうね」

「警戒しているんでしょう。ぼくはあまり好かれていませんから」

「そうなんですか」

「だからこそ気を付けてほしいんです。寂しさを持て余した鳥は、つねに寂しさを埋め合わせる相手を探しています。寂しさの隙につけこめる相手を」

「じゃあわたしはだいじょうぶですね。寂しくないですから」

「だといいのですけど」

「それに鳥さんと仲良くなるのもそんなに嫌じゃないですよわたし」

「ああ、そっか。そう思っちゃいますよね」

 鳥津彼太はそこで、やっぱり呼んだほうがいいのかな、と唸った。あごにゆびを添える。「ちょっと考えておきます」

 何をですか、と目で問うたつもりだったが彼はこちらを見ておらず、そのまま浴室の脱衣所に入り、戸を閉めた。すりガラスの向こうに年下の男の子の裸体がある。

 何を考えているのだじぶんは。

 目の保養、との四文字が脳裏に浮かびすかさず振り払う。

 夜、布団にくるまり、友人たちの近況をテキストや画像を通じて眺める。彼女たちは彼女たちで日々忙しそうであり、悩みは尽きないようだ。それに比べれば破格の環境にいまじぶんはいるのだと優越感よりも罪悪感が募る。

 漠然とした不安がある。

 このままいまの生活がずっとつづくわけではない。お給料はほとんど使わずにいるため貯金は増えていくいっぽうだが、その分、じぶんの人生のだいじな時間がすり減っていっている気がする。何も得ていない。成長していない。技術も知識だってここへきてから溜まっていない。

 掃除はいちど家を片っ端からきれいにした。あとは汚れる速度の速い場所から順に掃除をして回るだけだ。それを周期的に繰り返す。食事の支度をするのも、一人暮らしで内職をしているのと変わらない。むしろ、自腹を切らずに美味しい素材で料理を作れる。鳥津彼太に好き嫌いはなく、用意した分はきれいに平らげてくれる。料理の感想はないが、かといって不平がある様子でもない。

 契約を切られそうな気配もいまのところはないのだ、このまま今年いっぱいはこの屋敷で住み込みでの暮らしとなりそうだ。

 懸念があるとすればやはり、いまなお互いに腹を割って話せずにいる家主との関係だ。鳥の声にしたところで、どんな動画を漁っても家主とそっくり同じ声でしゃべる鳥はいない。不気味ではないが、気にならないかと言えば嘘になる。

 散歩の時間を鳥津彼太がずらしたために、ここ数日は鳥の声を聞かない。それがどうにも物足りなく、なんだかんだと言ってあの声にじぶんは寂しさを埋めてもらっていたのかもしれないと遅まきながら思い至った。

 鳥津彼太は、あの声にあまりよい印象を持っていないようだ。そのことは彼との短い会話のなかで確信できた数少ない彼の心中で、夕夏はなぜ彼がそれほどあの声を危険視するのかがふしぎでならなかった。

 まったく怖くないのだ。

 声はただ、夕夏にやさしく話しかける。反して鳥津彼太のほうは、どこか夕夏を寄りつかせないような、一線を引いて接するのに似たよそよそしさを漂わせている。夕夏のほうでどれほど壁を打ち砕いて、寄り添おうとしても、そういうのはいいですから、と見えない拒絶の手のひらを向けられる心地がした。夕夏の気のせいかもしれないと一時は疑ってみたことがあるが、やはりどれほど話しかけ、交流の場を築こうとしても、その舞台に彼は降りてきてはくれないのだった。

「これは単なる疑問なので聞き流してくださってよいのですが」

「はい」

「わたしがいる意味ってあるのでしょうか」

「はあ」

「いちおう、家政婦として、家事全般のお手伝いとして派遣されております。ただどうも、彼太さんはご自分のことは充分に何不自由なくされているように見えるものですから」

「あの、ご存じかとは思いますが、日暮さんを雇ったのはぼくではありません。もしぼくの一存で日暮さんの境遇をどうこうできるというのであれば、いますぐにでも向こう一年間分の契約料をお支払いしたうえで、契約を破棄してもよいと考えています」

「それは、その」言うべきか迷ったが、ええいままよ、と夕夏は言った。「わたしはこの家にいらない、ということでしょうか」

「いるかいらないか、とか、そういう話ではないような気がします。ぼくはぼくのために日暮さんのお時間を奪うのが心苦しいのです。もしこの仕事が、この家にいることがお辛いのであれば、お金の損がないようにしたうえで、ほかの仕事場に移られるのも一つの選択肢としてあっていいように思います。日暮さんはどうしたいのですか」

「わたしは」

 どうしたいのだろう。こんな好待遇の仕事場を与えられるのは今後そうないだろう。これで最後かもしれない。手放すには惜しい。それが素直な感想だ。だからといってこのままでいいとも思っていない。なぜだろう。どうしたいのかがじぶんでもよく分からないのだ。

「しばらくはこのままこのお屋敷に住まわせてほしいです。ただ」

「ただ?」

「もっとわたしは、彼太さんとこう、お話をする機会がほしいな、と」

「はあ」鳥津彼太の眉間に皺が寄ったので、慌てて夕夏は、「家主さまのことを知っていたほうが何かと仕事をするうえで便利なものですから」と付け加える。誤解されたくなかった。誤解されると焦った。だがいったいどのように誤解されるとマズいのかは、すぐには思いつかなかった。反射的に口を衝いた言葉も言い訳にすぎないことを夕夏はつよく自覚していたが、かといってでは本懐がどこにあるのかはじぶんでも分からずじまいだった。

「では夕飯だけでもいっしょにとるようにしましょうか」鳥津彼太は言った。

 この日から彼と対面する時間が一日のなかで三十分ほど持てるようになった。鳥津彼太からすれば食事の時間を居間でとればよいだけだ。ひょっとしたら自室では何か作業をしながら食べていたのかもしれないが、これくらいは譲歩できると考えてくれたに違いない。それはとりもなおさず、彼にとって夕夏との会話が、じぶんの時間をつぶしてでもとっておくに値する価値のある時間だと見做したことの証左とも呼べた。それが夕夏にはうれしかった。単純に、こうしておけばそのほかの時間に呼び止められることもなくなるだろう、との打算があったとしても、それはそれで夕夏にはありがたい。いつなら声をかけてもよいだろうか、と顔色を窺うような生活を送らずに済む。

 食事をいっしょにとるようになってから、あれはあれで負担だったのだなぁ、と気づいた。

「さいきんはどうですか。もうこの生活には慣れましたか」

「慣れました。慣れすぎてちょっと刺激がないなぁと思ってたところで」

「遊んでいいんじゃないんですかね。仕事は、仕事をすることが目的ではないはずです。もうすることがないな、となればその状態が維持されている限り、あとは好きなことをしてもいい、むしろ率先してすべきではないですか?」

「そう言ってもらえるとありがたいんですけど、そうもいかないですよねやっぱり」

 もらっている給料がけして安くはない。報酬分は働かなければばちがあたる。そのように言うと、

「誰がばちをあてるのですか」

 素朴に問われ、夕夏は誤魔化しの笑みを浮かべる。なんとなくいけないような気がするだけだ。職場に誰かが告げ口するわけでもないのなら何の問題もない。ただ、やはりいざ立場がわるくなったときに仕事をサボっていたと思われるのは損だ。ただしこうした考えは伝えるべきではない。

「運がいいなぁ、と思ってます。こんな素敵なお家で、好きに過ごしてお金までもらえて」

「本当は仕事なんてしてもらわなくてもいいんですけどね。それこそそう言ったら却って困らせちゃうんですよね」

「そうですね。困っちゃいます」

 いくばくか間があく。

「あれはその後どうですか」彼はすっかり食事を終えていた。お茶を淹れてくれたので、礼を述べて湯飲みを受け取る。「あれとはその、声のことでしょうか」

「ええ。まだ聞こえますか」

「さいきんはないですね」思いだしながら、本当に聞かなくなったな、と茶を口に含む。「彼太さんが留守にしないと鳴けない鳥なんですかね」

「かもしれません」

「じゃあなんで彼太さんは鳥の鳴き声のことを知っているんですか」素朴な疑問にすぎなかった。話の流れで口から零れでた。

「知りませんでしたよ、ぼくひとりで暮らしていたときには」

「ほかに誰かいたんですか」

「最初にお会いしたときにも言いましたよね。日暮さんみたいな方たちが前にもきたと」

「ああ」資料にもあった。夕夏は最初の一人目ではないのだ。以前にも家事代行者がこの屋敷を出入りしていた。「その方たちは、あの、どうして、その」

 言葉が濁るのも致し方ない。なぜ去ったのかを訊くということは暗に、この屋敷での生活に難があったのか、と訊ねるようなものだからだ。

「契約期間を満了したから、というのが表向きの説明でした。ただ、どの方も日暮さんのように契約を更新しようとすればいつまでもできたはずなんですけど」

「彼太さんはそれでも構わなかったのですか」

「構うも構わないも、ぼくはだって何も困らないじゃないですか。至れり尽くせりですよ。毎日申し訳なく思っているくらいです。ぼくにできることなんて、お仕事の邪魔をしないことと、できるだけ報酬をよりよくお支払いするように叔父さんに言い添えるくらいのことですから」

「邪魔だなんてそんな」

 意外だった。そのように思っていたのか。

「ぼくはこんな性格ですし、叔父さんが日暮さんのような若い方をわざわざ選んで住まわせるのも、ぼくに気を遣ってのことだと思います。そういう意味でも申し訳なくて。すみません、うちの一族と言ったら変ですけど、みなちょっと古い考え方が抜けていない方たちなので。わるい方たちではないんですが」

「いえ、彼太さんは何もわるくないですし、これでもわたくしどもはプロですので」

 だからなんだという慰めの言葉でしかなかったが、目のまえの青年が害のない子狐や子狸のように見えた。人間社会の見えない罠にかからぬように、怯えて過ごしている幼い獣だ。獣であることにすら引け目を感じ、それゆえに引きこもっているのではないか、と思えてならない。

「失礼ですけど、寂しくはないんですか」

「寂しい?」

「一人でずっと暮らしてきたのですよね」ご両親の話を訊ねるのにはまだ早計に思えた。立ち入った話をするにも相応の段取りがある。彼の両親がすでに他界している旨は資料に載っていたので知っていたが、なぜ死んだのかは知らないままだ。

「一人ではないですよ。さっきも言いましたけど、日暮さんのようなお世話をしてくださる方がときおりここに住み込みできてくださったので」

「それだって別れるときは寂しいものじゃないですか」

「そう、なんでしょうか」

「そういうものだと思いますよ。わたしはだって、もしいま彼太さんと離れ離れになったら、このお家から追い出されたら、そりゃあやっぱり寂しいですから」

「ならぼくは寂しかったのかもしれませんね。よく分からないんです。独りのほうがほっとするというのがずっとあって。でもきっとそれも、別れる寂しさを予感して、避けようとしていただけなのかもしれませんね」

「声は本当にいちども聞いたことはないんですか」

「ぼくの声は、そうですね。ありません」

 なぜわざわざ、ぼくの、とつけたのだろう。疑問に思ったが口にはしなかった。せっかく何往復も交わせた会話の余韻を台無しにしたくなかった。

 何かしらの共有が果たせた気がした。気持ちが通じた気がした。ようやくこの家の一員として迎え入れられた気がした。

 存在を許された気がした。

 まるで許されなければいてはならなかったのだと怯えていたかのように、夕夏はこの日以降、何かと鳥津彼太のためにできることはないかと張りきるようになった。好きな食べ物はもちろん、一日の行動様式を曜日ごとに把握できるよう足音や、部屋からでてくる時間に気を配った。

 彼は紅茶よりも珈琲のほうが好みで、クッキーよりもチョコレートのほうが残さずに食べる。他方、料理は一品料理よりも弁当のような一食ですこしずつたくさん食べられるほうが箸が進むようだった。

 茶碗蒸しを作ったときには、ふだんお代わりをしない彼が珍しく、もっとありますか、と訊いた。

「ありますけど、お気に召しましたか」中に蟹を入れた。美味で当然だが、素材の良さはきょうに限ったことではなかった。

「美味しかったです。いつも美味しいのですけど、茶わん蒸しは母を思いだすようで」

「そう、でしたか」気まずくなりそうだと予感し、努めて明るく、わたしのは作るのが簡単なほうの茶碗蒸しなので、と言い足す。「言ってくだされば毎食でもお作りしますよ。わたしも好物ですし」

「毎食はさすがに飽きちゃいそうですね。でもそうですね、じゃあ一週間にいちどくらいは出してもらってもよいですか」

「それはもう、ええ」初めて注文されて感極まる。「ほかに何か食べたいものはありますか」

「とくには。すみません、すぐには思いつかずに。なんでもいいがいちばん困るというのは存じているんですけど」

「いえいえ」

「日暮さんのお料理はどれもたいへん美味しいので」

 背筋がぞくぞくとした。彼の一言一言から、がんばってじぶんを労おうとする感情が窺えた。それもお世辞ではなく、本心をできるだけそのまま伝えようとするがゆえの苦しさのような響きがあった。

「がんばってご満足いただけるようにしますね」

「がんばらないでもいいです。がんばらないでください。もっとしぜんに、ちからを抜いてもらえたほうが」

「それだとわたし、何もしなくなっちゃいそうですね」

「それでもいいです。がんばったらいつかは疲れてしまうので」

「疲れたらたくさん休みます。夜なんてぐっすりですからねわたし」

 そこで鳥津彼太は箸を置いた。

「聞きそびれていたので、訊くのですけど、日暮さんはお休みの日はないんですか。毎日のようにお世話をしていただいているので、気になってはいたのですが、お仕事のことで口出しするのは忍びなかったもので」

「わたしの場合は、月当たりの労働時間で区切られているので。一日の労働時間がすくないと丸一日休む余地がなくなってしまうんですよね」

「じゃあずっと働き詰めだったということですか」

 顔面を蒼白にするものだから、夕夏のほうがまいった。「いえいえ、ふだんからいっぱいお休みしているので。これでお休みいただいたら給料泥棒になってしまいます」

「土日は休養日にしましょう。休むのも仕事のうちだとぼくは思います。ついでに水曜日はぼくといっしょに映画を観てください。嫌なら寝ていてもいいです。どちらもこれはお仕事ですので、お給料が発生します。構いませんね」

「それはえっとぉ」じぶんの判断ではなんとも言えなかった。受け入れてよいものか微妙なところだ。同僚には口が裂けても言えないが、かといって規律違反というわけでもない。「ぼくの両親はどちらも過労で倒れました。こんなにたくさんお金を稼いで子供に遺しても、死んでしまったら意味がないのに。これは家主として最初で最後のお願いで構いません。ぼくのわがままに付き合ってくださいませんか」

 そんな子犬がしょげたような顔をされたのでは拒否のしようがない。

「職場には内緒ですよ」夕夏は言った。初めて鳥津彼太が年相応の、いいや、見た目通りの男の子に見えた。歳下で、幼くて、世間を知らず、親の死をいまでも引きずっている。夕夏の内なる庇護欲がくすぐられるようだった。

 何より彼には他者への害意がない。彼はまるでつねに怯えている野鼠のようだった。

「分かりました。土日はでは、休養の時間に当てますね。水曜日も、映画をいっしょに観る日。わたしけっこう映画好きなんですよ。じつはこっそり夜に観てました」

「睡眠不足になってしまいますよ。あ、だからお料理をしているときにいつも欠伸をしていたんですね」

「いえ、あれは暇だからです」

「音楽をかけたり、何かもっと時間を有効に使ってほしいです。お仕事だからしてはいけない、なんて考えずに。ここには夕夏さんを見張る目はありません」

 言ってから彼は、はっとした様子で目玉を天井にやって、いないはずなので、と言い換えた。「それと、これはまだ予定でしかないのですけど、シロアリ駆除の業者をこんど呼ぼうと思っています」

「シロアリですか?」

「見てもらうだけです。念のために」

「はあ。連絡先を教えていただければわたしが連絡しておきますが」

「いえ、知り合いのツテがあるので、それはぼくが」

「そうですか」

「忙しい方なのでまだ先になるとは思うんですけど」

「決まったら教えてくださいね」

「はい。あしたは自室の大掃除をしようと思っています。よかったら手伝ってくれませんか」

「よろこんで」

 屋敷に派遣されてから三か月が過ぎようというころになってようやく彼と打ち解けはじめた実感を抱けるようになってきた。それは一度のきっかけで得られる転換ではなく、徐々にじっくりと段階的に帯が染まっていくようなゆったりとした、それでいて過去と比べてみればハッキリと判る変化だった。

 夕食のときが待ち遠しい。水曜日の映画鑑賞の日には何をおやつに用意しておこうかと頭を使う。映画は鳥津彼太といっしょに選び、互いに観たことがないものや、前に観ておもしろかったものを紹介しあったりした。

 映画の好みは真逆だった。夕夏はド派手な人のたくさん死ぬような映画が楽しめた。反して鳥津彼太は、芸術的な、場面転換のすくない、否応なく時間の経過が長く感じられるような、人生をぎゅっと煮詰めたような映画を愛好した。

 とはいえ、彼をとなりにして観ているだけで、或いは彼が推す映画というだけで、夕夏は欠伸一つ挟まずにそれら芸術的な映画を楽しむことができた。

 残念なのはことさら彼が映画の感想戦をしたがらないことだった。映画に限らず作品を観てどう感じたかは個人的な宝物のようなものなので、おいそれと他人と話すようなものではない、というのが彼の信条のようであった。ただ、夕夏がいっぽうてきに感想を述べることまでは拒むつもりはないようで、水曜の夜には夕夏がその日に観た映画のどこがよくてどこがよくわからなかったかを話す習慣がついた。鳥津彼太にしてみても黙って話を聞いていればそれで済むので、夕夏の話をじっと聞き、それはおもしろい視点ですね、とときおり相槌を打って、そこはかとなく夕夏をよい気分に浸らせてくれた。

 屋敷に派遣されてから半年、鳥津彼太と夕飯を一緒にとるようになって三か月が経ったころ、

「すみません日暮さん。しばらく家を空けることになりそうです」

 鳥津彼太からそのように予定を聞かされた。

「旅行ですか?」

「いえ、叔父さんが会いにこいとうるさくて。これからのことを話したいと言うので、いい機会だと思って話してきます。この屋敷の権利も、ぼくに譲渡してもらってよい頃合いですし、そしたらもうすこし自由に生きられるかなと」

「どれくらいで戻られるんですか」

「一週間もかからないと思います。短ければ三日で戻ってくるかも」

 思ったよりずっと短い日程で安堵する。ついつい、「思ったよりずっと短くて安心しました」と本音がこぼれた。

 彼はほころんだようだった。わずかに目元がやさしくやわらいで見えた。初対面のときには見抜けなかっただろうわずかな機微だ。気のせいかもしれないが、たとえ気のせいでもそれでよかった。

 毎日水を欠かさずやっていたら、きっと花の気持ちだって解かった気になるだろう。その所感は真実をすっかり映しだしているわけではないかもしれないが、蔑ろにしてよい感情ではない。錯覚だからと切り捨ててよい感情ではないのだ。

 夕夏がうつつを抜かしていると、それに、と彼は言った。

「叔父さんから権利を譲ってもらえれば、日暮さんとの契約もぼくの都合でいろいろと変えることができますし」

「契約を破棄するという意味でしょうか」真実そんなことはないと思ったから訊ねたが、口にしてから、もしそうだったらどうしよう、と恐れにも似た居心地のわるさが襲った。

「破棄したいんですか? ぼくはもっと日暮さんが過ごしやすいようにと、個人契約で結び直そうかと考えていたんですけど」

「個人契約ですか?」

「派遣元の会社とは話をもちろんつけてからのことになりますけど、日暮さんさえよかったら、このまま都合がわるくなるまでこの家にいてはくれませんか。叔父さんもそれだったらぼくにこの家の管理を任せてくれるかもしれませんし」

 そこは相互に補完しあう条件なのだな、と夕夏は喝破する。世間知らずの引きこもりである鳥津彼太には家の管理をすべて任せるわけにはいかないが、そばに信用できる世話人がいるならばそれも適う。そして権利を好きにできるならば、鳥津彼太の一存で、世話人を長期間安定して住まわせることができる。それこそ夕夏の戸籍そのものをここに移すことだってできるだろう。いわば就職だ。

「本当にわたしでよろしいのですか。ほかにもっとベテランの頼りがいのある方がたくさんいらっしゃると思いますけど」

「正直に言えば、気兼ねせずにいられるのがいちばんの条件なんです。家事はしてもしてくれなくても構いません」

「それはつまり、わたしだから、ということでよろしいんでしょうか」

 彼はそこで口ごもった。高速でいくつもの筋道を辿るように一時停止すると、はたと我に返ったように、

「日暮さんでなくとも」と告げる。「こうした関係を結べれば誰でもいいです」

「そう、ですか」

 胸のなかに、スーと風が通る。それを不快にも、心地よくも思わなかった。

 予定通り、鳥津彼太は家を空けた。

「叔父さんが満足するまで向こうにいることになると思います。帰るときに連絡します」

「せっかくの旅行ですのでわたしのことはどうぞお気遣いなく。気をつけていってらっしゃいませ」

 旅行鞄一つ持たず、散歩にいくような格好で彼は家を発った。

 バス停までは歩いて三十分はある。タクシーを呼んだほうがよかったのではないか。自転車で送っていくことも考えたが、その構図はさすがにいびつだった。彼はまだ成長期なのか、会ったころよりも背丈が大きく見えた。いや、夕夏の彼を見る目が変わっただけかもしれない。

「よしと」

 家主のいないあいだに家を隈なく掃除しよう。段取りを頭のなかで考えながら、そう言えば、と引っかかる。シロアリの調査に業者を呼ぶと言っていなかったか。

 掃除がてら柱や床につぶさに目を走らせるが、これといって腐食している箇所は見当たらない。屋根裏ということだろうか。二階にはあまり足を運ばない。掃除のためにあがるくらいだ。二階には彼の自室があるからなるべく立ち入らないようにしていた。

 業者を呼ぶと言っていたのだから、呼ばないのならば問題ないと判断し直したのだろう。念のため帰ってきたら確かめておくか。夕夏は頭のなかにメモをした。

 居間の床の水拭きを終えたころには外は陽が暮れていた。明かりを点ける。きょうのところはここまでにしよう。予定よりも二時間も多くかかった。見立てが甘かったのだ。

「夕夏さん、夕夏さん。きょうの晩御飯はなんですか」

「きょうはどうしましょうね」

 返事をして、背筋が冷えた。

「夕夏さん、夕夏さん。きょうは茶碗蒸しはありますか」

 弾むような無邪気な声だ。鳥津彼太本人とそっくりな声音だが、まず彼がしゃべるような口調ではない。語気ではない。明るさではなかった。

 鳥だ、と思う。

 もうずいぶんと聞かなかった。鳥津彼太と夕飯を食べるようになり、彼が比較的そばにいるようになってからはぱたりと止んでいた。かれこれ三か月は経つ。その間、いちども聞かなかった。

 彼が家にいたからだ。

 夕夏が目覚めているあいだは。

「夕夏さん、夕夏さん。ぼくもいっしょにいいですか」

 なぜじぶんの肌がこうも総毛だつのか夕夏には分からなかった。声はこれまでだって聞こえていた。きょうに限った話ではない。

 家主がはっきりといまこの土地にいないと知っているからだろうか。いままでは心のどこかで、この声の主と鳥津彼太を結び付けていたのではないか。彼の声だと思っていたのではないか。

 しかしいまはハッキリと、明瞭に、これが彼の声ではないと判るのだ。あり得ないからだ。彼はいまここにいない。いるわけがない。

 ならばこの声はなんだ。

 夕夏は身動きがとれなくなった。

「夕夏さん、夕夏さん。どうしてぼくを無視するのですか」

 あいつには返事をするくせに。

 声は背後から聞こえた。

 吐息のぬくい空気の流れが耳朶を撫でる。

 鳥ではない。

 鳥なはずがない。

 だが同じくらい、これが人間ではあり得ないことを夕夏は直観した。まるでさかさまの人間がしゃべるように、声が上からするすると下りてきたからだ。

 夕夏は立っていた。台所の窓ガラスにじぶんの姿がうっすらと映っている。もしじぶんの背後に何者かがいれば映っているはずだが、そこには闇がぽっかりと開いているばかりである。

 明かりは頭上から煌々と夕夏を照らす。 

 耳元の息遣いが途絶え、身体の緊張がほどける。身動きがとれなかったのだ、と遅れて気づく。

 ぎこちなく後ろを振り返るも、そこには何もない。明るい室内に、じぶんの呼吸音と服のこすれる音がちいさく響いているばかりだ。

 夕夏は迷ったあげく、鳥津彼太に通信することにした。声が聞きたかった。本物の彼太の声だ。鳥の声がした、と伝えたほうがよいと判断した。鳥の声などではないと確信したからだ。あれはもっとべつのナニカだ。

 通信中を知らせる音が鳴り、間もなくして、はい、と鳥津彼太の声が聞こえた。

「彼太さんですか。すみません夜分に、お忙しいところ。じつはあの、いま、彼太さんに似た」

 声が、と言おうとして、夕夏は息を呑む。

 足元に影が二つある。夕夏自身のものとみられる影は、夕夏の動きに合わせて微妙に左右に揺れている。だがもう一つの影は、夕夏の影からわずかに右にずれた位置で、微動だにせずにそこにあった。柱の影だ。思ったが、すぐにいや、と否定する。柱なんかない。頭上からそそぐ明かりしかないのだ。たとえ柱があったとしても、こんな位置に影はできない。

 夕夏の背後、それとも頭上に、ナニカがいる。

 じっとじぶんの様子を窺っている。

「日暮さん? どうしましたか」

「あの、それが」夕夏は逡巡しつつも、「いつ戻られるかと思いまして」と助けを求めるつもりで口にした。伝わってくれと念じる。はやく帰ってきて、と声にならない声で叫んだ。

「まだかかりそうです。すみません、できる限り早く戻ろうとは思ってたんですけど」

「あしたは水曜日です」夕夏は言った。祈るような気持ちで、「映画はどうされるんですか」と震える声で訴えた。

「映画……」鳥津彼太はそこで端末を持ち替えたようだった。「日暮さん。しばらくこのままの状態でぼくと話をしていてください。そのあいだに、ぼくはもう一つの端末で知り合いに連絡をとります。以前話しましたよね。シロアリ駆除の業者にツテがあると」

「はい」

「いちおう話はつけていて、そのひとの話ではしばらく放っておいてもだいじょうぶだろうとの話でした。夕夏さんのほうでもおかしいところはなかったようなので、ぼくとしてもちょっと気を抜いてしまっていたといいますか。すみません、ぼくの責任です」

「あの、だいじょうぶなんでしょうか」

「なんとかします。ぼくの部屋まで移動できますか? このまま通話をしたままで」

「はい、なんとか」

「ではそうですね。このあいだ観た映画の話でもしましょうか。子猫が主人公のアニメのです」

「あれ、わたし好きで」

「かわいいですよね」

 膝が震えて力が入らない。二つあったはずの足元の影が消えているのが目に入り、いましかないと奮起した。

 なるべく周囲を見ないように、足元だけを見て、端末を握る手と、そこから聞こえる彼の声だけに意識を集中した。

 階段をのぼり、彼の自室へと入る。

「入りました」

「戸をしっかり閉めて、お香を焚いてください。ベッド脇の棚のうえにあります」

「ありました。いまつけます」

「その部屋はぼくがぼくのためにつくった避難所のようなものです。本当ならぼく以外のひとには害はないはずなんですけど、味を占めてしまったのかもしれません」

「味を、ですか」

「日暮さんの前にも似たようなひとたちがきたことがあったと言いましたよね」

「はい」

「すべて自己都合で契約破棄されています。期日満了はぼくが叔父さんに言った方便です。ほんとはもっとずっと前に辞めてしまって」

「ひょっとしなくともその原因って」

「声だけなら問題ないんです。応じなければなにもできません。ただ、日暮さん以前のひとたちはソイツと何かしらの取引をした可能性があります。だとすると、思っていたよりも厄介なモノに変わっていることも」

「そんなものどうして放置なんか」

「祓うとか、封じるとか、できればそういう物騒な真似はしないほうがいいんです。恨みを買いますからね。呪われてしまえばもうなかったことにはできない。ソイツらはただ、寂しさを埋めようと、ただ隙間を見つけて寄ってくるだけなので。隙間なんかないと跳ねのけてしまえばそれ以上はどうしようもできない脆弱な存在なんです。ただ」

「返事をしたらどうなるんですか」

「一度や二度くらいならだいじょうぶだとシロアリ駆除のひとは言ってましたが、その様子だとぼくの見立てが甘かったみたいです。すみません。すでに変質していてなおかつ、日暮さんの隙間が大きかったとしたら」

「わたしの何が大きいんですか」

「隙間です。何か、手に入れたくて、でもどうしようもないものを欲したりはしませんでしたか。それをどうにか埋めようとしませんでしたか」

「そんなことしてない」

「つけいる隙を与えたらソレは一気に距離を詰めてきます。背後まですぐですよ」

「どうすれば」

「いまシロアリ駆除のひとに連絡しました。専門家ですからね、手遅れになる前にどうにかしてくれると思います」

「そんな投げやりな。彼太さんは戻ってきては」

「ぼくにはぼくの用事があります。そもそもですから、ソレにひとをどうこうするチカラは本来はないんです。じぶんから招き入れるような真似をしなければ」

「でもさっきまでうしろに。無視するのかって彼太さんの声で」

「おかしいですね。ソレは飽くまで相手の本音を反映した言葉しかしゃべれないはずです。日暮さん、あなた誰かに無視されていると感じて、そのことに憤りを抱いてはいませんか」

「そんなひといません。だってわたし、いまは彼太さんとしかしゃべっていないのに」

「ぼくに無視されたと感じたことは? 本当はしゃべりたいことを呑みこんだことは? きょうこうしてぼくだけが出かけることに不満を覚えたり」

「してない、してないってば、ぜんぜんそんなの思ってない」

「なら問題はないはずです。そのままぼくの部屋で寝て過ごしてください。きっとあすの朝には声は消えているはずです」

「どうしてわたしがこんな目に」

「運がわるかったんです。これといった原因はありませんし、あったとしてもそれはきっかけにすぎません。そのきっかけは避けようとして避けられるような類のものでもありませんから、どうか気を病まずに。強いて言うなら、ぼくと関わってしまったことでしょう。叔父さんからはぼくから伝えておきます。今月づけで契約は解いておきますね」

「そんなの頼んでない、どうしてかってに決めちゃうの」

「そのほうがいいんです。報酬には色をつけるように叔父さんには頼んでおきます。日暮さんなら引く手数多でしょう。もっとべつの家で安全にお仕事がんばってください」

「嫌です、嫌ですよ、せっかく慣れてきたのに、彼太さんとも仲良くなれたのに」

「仲良く? 何か勘違いなされていませんか。ぼくはべつにあなたでなくともいいんです。誰でもいいんです。そうやって執着されるのが一番嫌いです。もういいですか? 段々耳が痛くなってきました」

 二の句が継げなかった。夕夏はじぶんから通話を切った。

 この半年間はいったいなんだったのか。彼にとってじぶんという存在はこんなに簡単に切り捨てられるような代替可能な存在だったのか。

 許せない。

 まるで家具か家電みたいにひとを扱って。

 先刻までの肌寒さが嘘のようだ。全身がカッカッと熱を持つ。

「夕夏さん、夕夏さん」

 戸をノックする音が聞こえる。「ここを開けてください。ぼくにはあなたが必要です。どうかここを開けて」

 きょうはいちだんと冷えこみます。

 いっしょに暖をとりましょう。

 弾むような明るくやさしい声音に、夕夏はもう嫌悪も恐怖も感じなかった。どうせあすにはここを追いだされる。鳥津彼太の本性は最悪だ。本物なんていいものじゃない。偽物でなにがわるい。こんなにも、この声だけが、わたしを求め、寄り添ってくれる。包みこんでくれる。

 あたたかい。

 戸を開けると隙間から、暖炉の火のぬくもりがごとく風が吹きこんだ。夕夏の身体にまとわりつく。

 夕夏さん、夕夏さん。

 じぶんの名前を執拗に、熱っぽく唱えるそれのねっとりと甘い香りに、夕夏は身を委ねる。

 もっと呼んで。

 もっともっと近く、力強く。

 わたしを。


 屋敷のそとに自動車の停まる音が聞こえたが、夕夏のいる部屋の明かりが消えると、しばらくそれを眺めるようにして自動車は来た道を去っていった。

 夕夏が寝床のうえで身じろぐたびに、コンクリートの壁が崩れ落ちる。

 一枚、一枚、タイルが剥がれるように。

 殻が破れるように。

 床には、ジャージ、割烹着、レースの洒落た下着が順に転がる。

 この夜はやけに風がつよく吹き、竹やぶが枯れたように葉が落ちた。

 朝になると部屋に人の姿はなかった。陽の差しこむ壁の内側からはおびただしい数の呪符が壁を埋め尽くすように剥きだしになっている。 




【愛はだいじというけれど】


 終わらぬよ、と彼は言った。爆音が徐々に近づいてくる。戦闘は熾烈を極めているようだ。そとに火柱が見え、煙が天に雲をもうもうと形作る。窓ガラスはとっくに砕け散っており、爆音と衝撃波の区別ももはやつかない。

「僕のしてきたことは何もかもが無意味だった。きみを欺き、祖国のためにと裏切り見殺しにしつづけてきた同胞たちにいったいあの世でどんな顔を向ければよいのだろうな」

「安心してください。あなたの行くのは地獄。同胞たちはみな天国へと昇ったことでしょう」

「だとよいのだがな。きみともここでお別れか」

「どうしてですか」私は瞬きをする。

「この期に及んで白を切るな。僕が二重スパイであったようにきみもこの国の工作員だろう。知っていたよ。知っていて見逃してきてしまった」

「なぜですか」

「なぜだろうな。友と慕う者たちを秘密警察に密告したきみをなぜ僕はいまでも憎むことができないのだろうな。ひょっとしたらきみに僕自身を重ね見てしまっているのかもしれない。皮肉だよ。僕にとっての天敵であるきみにのみ僕は素顔を晒すことができるのだから」

「でもあなたはここで死ぬ」

 私は銃口を彼に向けた。彼は拳を掲げ、指を一本一本開いていく。手のひらからは、ぱらぱらと未使用の銃弾が落下する。

「弾は抜いてある」

「抜かせてあげたの。そうしたら油断するでしょ」私は試しに天井に向け発砲する。

 彼は目を剥き、それから感心したようにくすくすと肩を弾ませた。

「きみのほうが上手だったということか。だから僕は負け、この国は侵略される」

「安心してください。我が国はこの国のように捕虜を殲滅したりしない。弾圧はしない。ひどいことにはならない」

「窓のそとを見てもまだそんなことが言えるのかな」

「もう戦争は終わるのです。あなたがここで抵抗せずに投降してさえくれるのなら、あなたの地獄行きへの旅はもう数十年先延ばしになります」

「その間、同胞たちの、祖国の、裏切り者として惨めに生きろと? きみならそんな余生を生きられるのか」

「あなたといっしょなら」私は言った。偽りではなかった。

「僕たちだけ幸せになれるわけがない。なっていいわけがない。終わらぬよ。戦争はつづく。人々の内に根付いた憎悪の連鎖は途切れない。たとえ国同士の戦争が終わろうと、過去がなくなったわけではないのだから」

「いまからはじめましょう。やり直すことはできるはずです。戦争のない世界を。愛を偽らずに済む日々を。いまからでも」

「もう遅い。なにもかも遅すぎるのだ」

 彼は素早くこちらの手を握った。拳銃ごと掴まれ、私は引き離そうともがく。

「忘れないでほしい。僕と過ごした日々を。愛を偽りなお笑いあえた日々を」

「やめて」私はじぶんの膨らんだお腹を手で庇った。拳銃を奪われると思った。

 彼は私のゆびの上から引き金にゆびをかけた。

「すまない」

 目のまえで火花が散り、彼の身体が後方に飛んだ。硝煙の匂いが鼻をつく。私は彼の身体を支えることもできずにその場によろよろと膝を崩した。

「どうして、なんで」

 窓のそとが火の色に染まっている。


   ***


 窓の外が火の色に染まっている。

「どうして、なんで」

 彼女の言葉に僕は、どうしてもだよ、と応じる。「教師は生徒とは付き合えない。常識だ」

「でも先生はわたしのこと特別だって、だいじだって、頭だって撫でてくれたじゃん」

「頭を撫でたことは謝罪する。教師のしてよい慰めの域を越していた。すまない」

「慰め……」彼女は悲鳴のごとくつぶやいた。

「さあもう帰りなさい。下校時刻はとっくに過ぎていますよ」

「バラしてやる」

「教師を脅す元気があるならもうだいじょうぶだ。さ、帰りなさい」

「先生とわたしのこと、みんなにバラしてやる。ネットに書きこむ。謝っても許さない。わたしのこと傷つける先生なんか先生じゃない」

「好きにしなさい。きみがどれほど騒ごうが、きみがさらに傷つくだけだ」

「先生がわたしの先生じゃないってんならわたし死んじゃうんだからね」

「それはたいへんだ。さ、きょうはもう帰ってお風呂に浸かって、温かくして眠りなさい。ね」

「嫌だ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」

 やだよぉ、と彼女は子どものように泣きじゃくる。だが真実彼女が子どもだっただけのことだ。いや、正真正銘の子どもなのだ。

「いい加減にしなさい」僕は努めて語気を尖らせた。「きみだけが生徒ではないんだ。生徒はみなだいじだ。きみだけじゃないんだよ。教師は教師だ。それ以上でもそれ以下でもない。きみだけの特別にはなれない。なれないんだよ」

 言いながらこれでは、それ以上の関係になれるならばなりたいと言っているようなものではないか、と内心で顰め面をつくる。顔には笑みを貼りつけたまま、

「校門まで送ろう。ちゃんとまっすぐ帰ったかどうか、あとでご両親に連絡して確かめるからそのつもりでいること」

「先生なんか」

 彼女はそこで言葉を切った。罵詈雑言を吐きたかったのだろうがうまく言葉が見つからなかったのだろう。それとも思いついたが、僕が傷つくと思って言わずにいてくれたのだろうか。

「僕はこう見えて生徒を見る目だけはあるんだ。教師としてはどうかは判らないけどね。だからきみが本当は優しい子だって知っている。どうしてきみがそうやって家に帰りたくなくておとなを困らせたいのかも、なんとなくだけれど、解かる気がする」

「なんとなくじゃ意味ねぇっての」

 それから彼女と何をしゃべったのかは記憶にない。何もしゃべらなかったような気もするし、彼女のほうで何かを言っていた気もする。

「では、気を付けて帰りなさいね。不審者がでたらそれが勘違いかもしれなくてもすぐに周りのひとに助けを求めること」

「じゃあいますぐ助けを求めなきゃ。ここにいやらしい教師がいるって」

「まだ言ってる」

「だって先生は」

「じゃあね、ばいばい」校門の柵を閉じる。彼女がしぶしぶ下校する姿を見届ける。

「やれやれ」

 教師と生徒の恋愛なんて虚構のなかだけにしてほしい。

 もしも先生がわたしと同級生だったら。

 彼女の声が脳裏に反響する。

 もしもわたしがおとなだったら。

 こめかみを掻き、教員室へと踵を返す。きょうの分の小テストの採点をこれから済まさなければならない。校舎の陰にゆっくりと陽が沈んでいく。

 じぶんの影に僕はつぶやく。

「そんなもしもを言ったって意味がないんだ」


   ***


「そんなもしもを言ったって意味がないんだ」

 じぶんの影に俺はつぶやく。「この国のこの時代では同性での、とくに俺らのような性別同士じゃ結婚はできない。つがいにはなれない。おまえだってそれは重々承知だろう。なんでいまさら指輪なんか」

 いまのままの関係でいようや、と腰に下穿きを巻き、上着を羽織る。

 彼はまだ寝床のうえだ。褐色の肌に引き締まった筋が彼が寝返りを打つごとに波打つ。日々港で重い荷を上げ下ろししているからだろう、細身でありながら鋼の糸を縒った縄のごとく逞しい肉体だ。顔つきを含め全体的に幼さが残るのは、単に年齢によるものだろう。彼は俺より四つ下だった。

「もうすぐ成人の儀式だろ。これは返す。質にでも入れて親御さんにでも感謝の品を贈れ」

 先刻渡された指輪を彼の口に持っていき、咥えさせる。食指の腹で唇をなぞると彼は甘えるように指輪ごとこちらのゆびを食んだ。

「そんな目で見てもダメなものはダメだ」

「いっそ追放されたいと言ったら怒る?」

「国をか。おまえは職と家族を失うだけかもしれないが俺は」

「民を見捨てられない? 家督は弟さんに譲ったのに? 愛しい人をただ愛することもできない神に仕えるなんてボクには理解できないな」

「神を侮辱したら死罪だぞ、口を慎め。仮にも神官の俺のまえでおまえ」

「神がボクの恋路を邪魔するというのならそんな神はいらない。死罪になってあなたと添え遂げられるならそれはボクの本望と言えるのかも」

「命を粗末にするようなやつと添い遂げるつもりはねぇな」

「なら神とも別れるべきだ。神は誰より命を軽んじている。そうじゃないと言うのならボクの恋路くらい許してくださるだろう」

「神はきっと許してくださるさ。だがそれを崇める下々が容赦しない。残念だがおまえも俺もこの国に生まれ、この時代に生きている。どうしようもないのさ。こればかりはな」

「前から訊きたかったんだけどいい?」

「俺はもう仕事に行く。つぎはいつ会えるか分からんな」

「ボクのほかにもいる? こういうことする相手が、ほかにも」

「いないとでも思ってたのか。とんだ甘ちゃんだな」

 神官さまが下町のゴロツキにマジになるわけねぇだろうが。

 悪態を吐き、これまでの礼だ、と言って手持ちの金に加えて腕輪や首飾りの装飾品をはずして木製の棚のうえに置く。

「それなに?」

 蝋燭の火が揺らぐたびに、彼の顔に大小の陰が蠢く。

「餞別だ。当分これで食いっぱぐれることもないだろ。成人祝いと思ってくれてもいい」

 バカにするな、と怒鳴られるのを覚悟だった。だのに彼ときたら、

「もう会えない?」

 雨に濡れた子犬のような目を闇のなかに浮かべる。

「もう行く。たっしゃでな」

 戸を抜けると雨が降っていた。曇天が頭上を覆う。神か誰かの不機嫌を反映した淀みそのものに思えたそれを仰ぎ、俺は口いっぱいに雨を溜め、飲みこむ。


   ***


 わたしは口いっぱいに唾を溜め、飲みこむ。「マズいよ、マズいよ、これはたいへんマズい事態ですよ、わたし」

「見りゃ判るぞハルン。おまえはどうしてこうも出来損ないなのだろうね。これまでの弟子のなかで一番だ。一番、トロい」

「だってぇ」

「だってじゃない。なんだいその目は。あたしの教え方がわるいってのかい」

「そうじゃないんですけどぉ」

「そうじゃないって顔じゃないなその膨れ面は」 

「今朝食べたお餅のせいじゃないですかね。ここのところ三日連続でお餅だけ生活ですからね。そりゃほっぺたぷくぷくにもなりますよ。そのうちぷくぷく肥えて空でもぷかぷか飛べそうですよ、やったー」

「バカ言ってないで、ほらもう一度やってごらん。なんだって初歩の初歩でつまずくんだい」

「だってぇ」

「だってじゃない。なんだいその顔は。腐るだけじゃ飽き足らず唇まで尖らせて嫌な娘だねぇこの子は」

「初歩ってやらなきゃダメですか。もっとわたしには高等な魔法が合う気がするんですけどね。へっへ」

「魔術と魔法の区別もつかない娘っこが何言ってんだい」

「でもお師匠さまは最初から杖を振り回してたってこのあいだ学園長先生が」

「ハルン。おまえまだあんな頭の固いヘッポコプーと関わり合いがあるのかい」

「へっぽこぷーってなんですか。呪文?」

「あたしんとこの方言サ」

「へっぽこぷーって言います? え、お師匠さまの地元ってどこですか。へっぽこぷーなんて言う土地がこの広大な魔界にあるってんですか。いやぁ、すごいなぁ。魔法の神秘を感じちゃう」

「あたしの故郷をバカにしているのかい」

 師匠のしわくちゃ帽子が見る間に、空気パンパンの細長風船がごとく、ぴぴぴ、と伸びたのでわたしは背筋を伸ばして、

「いえいえ、そんなそんな。あ、なんだかいまなら行ける気がする。見ててくださいよ。てりゃぁあ!」

「わ、バカ。そんな乱暴にしたら」

 魔導書に魔素をこめると足元に描いた魔法陣からモワモワと暗雲が立ち昇り、見る間に空を覆った。

「お師匠さま、これって失敗ですかね」

「おまえってやつはどうしてこう」

 はぁ、と師匠は大きな溜め息を吐き、

「使い魔一匹召喚するだけで、いったいどんな大物を呼びだす気だい。こりゃ魔物じゃ済まないよ」

「でも召喚できたら使役はできるんですよね」

「契約を結べればの話だぞそれは。おまえ、ドラゴンやメデューサを召喚して、相手にできるのかい」

「そんなまさか。そもそも召喚できるわけないじゃないですか。こんな初歩の魔術で」

「おまえ、じぶんがどれほどの魔素を蓄えているのか忘れてやしないか。あの山の頂を消したのはどこの誰だい」

 師匠の視線を辿って、遠方にある山脈を見遣る。わたしが魔法魔術高等学園を追放される契機となったところの杖の試し振りの儀式を思いだす。たったひと振りしただけでわたしは魔界一の高さを誇るクルミンスヒュラの頂を消し去ってしまったのだ。

 わたしの杖が伝説の魔術師の遺した一〇八つの杖のうちの一つだったから、というのは表向きの説明で、そのじつわたしにはじぶんでも制御できないくらいの莫大な魔素が漲っているらしかった。

 らしかった、というのはわたしにその実感はまったくないからで、学園を追放されたわたしはこうして師匠のもと、修業という名の魔素制御の手法を習得すべく、日々、退屈な指導を受けている。

 暗雲が渦を巻き、そこから鱗に覆われた巨大な腕が垂れさがる。鍵爪だけでも世界樹ほどの長さがあり、ひょいと撫でるだけでも大地に深い溝を刻みそうだ。

「こりゃまた大物を引き当ておって」

「お師匠さまぁ」

 見捨てないでくださいまし、とわたしはなけなしの愛嬌を振りまく。

「かわいくないんだよスットコドッコイ」

「スットコドッコイってなんですか、それも方言ですか。せめてオッチョコチョイって言って!」

「ええい、縋りつくな。杖が振れないだろ」

「だってぇ」

「だってじゃない。ったく、とんだじゃじゃ馬を押しつけられたもんだよまったく」

 歯を食いしばって恐い顔を浮かべる師匠はそれでも、

「下がってな。離れるんじゃないよ」

 不肖弟子(わたし)を背に庇い、空から現れつつある巨大な脅威をまえに、杖を刀のように両手で構える。「くるならこい」

 ヘッポコプー。

 師匠の言葉に、

 そうだ、そうだ、うちの師匠を舐めるなよ。

 わたしは涙目になりながら声にならない怒声をあげる。

 最高にわるい目つきで上空を睨み据える年季の入った魔女の姿に、わたしは、こんなときだというのに胸が張り裂けそうなほどドキドキしている。

 こわくて死んじゃいそうなのにどうしてだろう、もっとこうしていたい。わたしは師匠の擦り切れた外套の裾をちょいと握る。


   ***


 エプロンの裾をちょいと握ると、妹が振り返り、ん?と唇の傾きだけで意思表示する。性差別になるのかもしれないが、女性はいったいいつこういった表情の魔法を覚えるのだろう。ただそれしきの仕草が、相手の警戒心を解きほぐし、敵意すら薄める。

 背中越しに覗きこむと妹は肩を揺すった。「包丁使ってるから」

「ずいぶん慎重に切るのな。ん、それ危なくないか。猫の手にしなきゃ指切っちゃうぞ」

「小学生じゃないんだから」

 見せつけるように彼女は、とんとんと律動よく生板の音を奏でる。

「上手くなったなぁ」

「そりゃ毎日作ってりゃね。兄貴もたまにはじぶんで作ったら?」

「買ってくるほうが安上がりなんだよ。一人暮らしだと特にな」

 ふうん。

 妹は気のない返事で、早く兄貴も結婚すりゃいいのに、とつぶやく。

 ただいまぁ、と玄関口のほうから快活な声が聞こえた。

 おかえりぃ、と妹は声を張り、包丁を置いて手をエプロンで拭く。出迎えに廊下に向かうと彼女は両手で娘を、僕にとっては姪にあたるサチを抱きあげた。

「サチちゃんおかえり」

 彼女は伯父である私からぷいと顔を背けて妹の首筋に、つまりじぶんの母親の首筋に顔を埋めた。

「あらら。すっかり嫌われちゃった」

「そういうこと言うからでしょ。照れくさいだけだよねぇ?」

 妹はサチをあやしながら、遅れて玄関からあがってくる夫の太郎さんに、買ってきてくれた?と口元をきゅっと締めた笑みを向ける。

「ごめん、サチがぐずっちゃって。まっすぐ帰ってきちゃった」

「ちょっとぉ。材料足りないからお願いって連絡したでしょ」

「ごめんて」

 太郎さんの顔は妹ではなくこちらに向いていた。じぶんの家族より、この家の主への、つまり私へのご機嫌を窺っている。もっと言えば、ふだんは妹へつよく当たっているのだろうがそれが伝わらないように阿諛に染まった態度を心掛けている。

「私が買ってこよう」

「いいよ、わたしが行ってくる」

「料理途中だろ」

「あの、ぼくが行ってきますから」私が行くといいだしてからそんな提案をしてくる妹の夫に私は、「サチちゃんの相手がいなくなっちゃうので。私では手に負えませんから」

 お酒も買ってきたかったし、とふだんはまったく飲まないアルコールを言い訳にして、家をでた。

 一刻でもあの場の空気を吸っていたくはなかった。

 スーパーで買い物を済ませ、隣接する薬局にも寄った。任意の棚を眺め、家にある分は妹が以前家にきたときからずっとそのままだったことに思い至り、消費期限が切れているかと思い、新しい分を買っておくことにした。

 使う予定があるわけではない。

 だがもしもの機会が巡った際には、それを逃さずにいられるだけの準備はしておきたかった。

 薬局で購入したそれは箱から抜いて、中身だけをポケットに入れた。

 家に戻ると、諍いの声が聞こえた。

 わざと聞こえるように玄関扉を閉めると、口論の声はやんだ。

「これでよかったかな」買い物袋を台所に置く。妹はありがとう、と言ったが、目はこちらの背後にそそがれていた。そこでは車の鍵を握り、防寒具を着込む太郎さんの姿があった。

「出かけるんですか」

「ちょっと用事ができてしまって。すみません、今夜はちょっとお暇します。あすの昼に迎えにきますので」

 彼は目も合わさずに言い捨てて、サチを一瞥もせずに出ていった。

 こういうときには泣かずにおとなしくしているのだな。じょうずに一人遊びをしている姪のふだんの日常を想像し、胸が痛んだ。

「だいじょうぶか」妹の横に立つ。

「いつものことだから」

 彼女は淡々と鍋に私の買ってきた具材を投入した。

 サチがいる手前、離婚しないのか、とは問わずにいたが、よしんばサチが眠ってしまったとして、その言葉を口にできるかは自信がなかった。

 夕飯を三人で食べると、妹はサチと共に風呂に入った。交代で入った風呂からあがると、すでにサチは眠っており、妹が布団をていねいにかけ直していた。

「かわいいな」

「むかしのわたしを思いだす?」

「まさか。おまえはもっと生意気で、寝ていても小憎たらしかった」

 妹はサチのおでこを撫でると客間をでて、ふすまを閉じた。居間に戻ると、椅子には座らずに、立ったままで私たちの両親の遺影を眺める。

「兄貴はいつまでこのままでいるつもりなの」

「会うたびに言うのな」

「だって」彼女は遺影を倒し、両親の顔を見えなくした。「わたしばっかり不公平じゃない?」

 もたれかかるように身体を預けてくる彼女の背に手を回しながら、薬局で買っておいた例の物をコートのポケットに入れたままであることに思い至る。取りに寄ってもよかったが、この流れを止めるのは気分が冷めるようで気が咎めた。

 使うべきだ。

 否、使おうとする選択すら持つべきではないがゆえに、それでも続けるならば断固としてこれまでのように、直接に爛れあう真似は避けるべきなのだ。

 だが私はなぜかこの日、これまでと違ってひどく彼女を傷つけたかった。

 彼女に証を刻みたかった。

 じぶんの物だという歪な証を。

 じぶんの物ではないことなどとうに知っていながら、そんなことはあり得ないのだととことん知っておきながら私は。

 ねぇ、と彼女はささやく。彼女は私の寝床で私の目と鼻をゆびでなぞり、

「どうして訊かないの」と言った。

「何のことかをまずは聞かせてほしい」

「言ったら消えてしまいそうだから」

「そんな呪いみたいなことを訊かれたいのか」

「わかんない。訊かれても答えられるのか自信がない。確かめてもないから。なんか、こわくて」

 何を、と私は問えなかった。

 問いただそうとすればいますぐにでもきるその言葉を呑みこみ、

「サチはまだ寝てるかな。起きてきたりして」

「夜中はまず起きない。朝までぐっすり。赤ちゃんのころは夜泣きがひどかったけど」

「そこはおまえにそっくりだ」

「そう、なんだ」

「顔もなんだか太郎さんに似てきたな。とくに鼻の辺りとか」

「そう、かも」

 即答する彼女のゆびが私の首元で止まる。幼いころ抱っこをされていたときにそうしていたように彼女は私の喉仏を、未知のボタンのごとくいじくった。

「それ好きだよね」

「え、どれ? あ、これ? うふふ、ホントだ。気づかなかった」

 あした起きたら抱っこしてあげてよ、と彼女は言った。「サチもこれよくするの。わたしにあるわけないのに。なんでだろね。やっぱり親子だからかな」

 太郎さんのはいじらないのに変だよね。

 乾いた笑いが暗闇に響く。

 だいじな話をされている気がしたが、私の胸中はそれどころではなく、こんなところでほかの男の名前なんかださないでほしい、と姪っ子に負けず劣らずの幼稚な妬心を抱いている。

「兄貴」

「ん」

「早くお嫁さん見つけなよ」

 私はかちんときて寝返りを打ち、彼女のうえに重なる。

 いたずらをされた子どものように彼女は両手で顔を覆い、その奥から三日月に垂れた目をきらめかせて、不公平、とつぶやく。


  ***


 不公平、とつぶやく。ワタシがこんなに苦労しているのにたった五つしか違わない弟はお気楽平々と毎日美味しい物を食べて、スポーツをして汗を流し、休日には家でソファに寝転びながら映画やゲームを楽しむのだ。

 ずるい、ずるい、ずるい。

 電波越しにわめくと、姉さん、と我が弟は神妙な顔つきで、

「人類の代表とボクを一緒にしないでほしいなぁ」とワタシを諫める。正論を振りかざす人間が身内から出てしまった。ワタシがシクシクと嘆くと弟は大袈裟だな姉さんは、とぼやいて、

「独りぼっちが寂しいなら寂しいって素直にそう言えばいいじゃないか」

「寂しいわけじゃないの。宇宙にいるとこうなっちゃうの。地球でほわほわ過ごしているきみとは違うの」

「人類史上稀に見る知性の塊でもそうなっちゃうんだから宇宙は怖いところだね」

「うわぁん、我が弟がいじわる言う」

「そういうときのためにクローンの素材がたくさんあるだろ。合法的に人間のクローンをつくる権利があるいまのところ唯一の人類なんだから遠慮なく創ればいいのに」

「やだよ。見た目だけ我が弟と同じなだけで中身はてんで赤ちゃんなんだぜ」

「なんだぜ、と言われても。育ててやればいいだろ。保育器はあるわけだし、或る程度の知性には黙ってても育つだろうに」

「或る程度じゃこんな会話したら嫌われちゃう。ちゃんとワタシが本当は頭いいって解ってくれるような、見抜いてくれるような、それくらいの相手じゃなきゃ意味ないんだよぉ」

「そんな都合のいい人間は地球にもいなかっただろ」

「いただよ」

「ククっ。いただよってなんだよ。姉さんもうシャンとしてくれ。あ、これからボクは仕事だ。まだこっちじゃふつうに仕事があるんだ。姉さんの暇つぶしの相手ばかりしていられないんだ」

「宇宙で孤独に浸かってる唯一の肉親に向かってなんてことを。そんな雑な扱いしていいわけ。これが最後の通信になったらどうしてくれる」

「だいじょうぶだよ。あと七年は電波がほとんど誤差なく届くだろ」

「七年なんてあっという間だよ。こっちはどんどん加速してるって言うのに」

「その加速だって光速の一パーセントにも満たない速度だ。時間の遅延すらほとんど生じない。さっきはああ言ったけど、そのさきのことを考えてクローンは本気でいまのうちに余裕のあるうちに作っておくのも一つだとボクは思うよ」

「我が弟よ、おまえのクローンだけは死んでも創らんからな」

「はいはい。美形のが揃ってるだろ。天才学者のだってより取り見取りだ。ここだけの話、精液採取するのだってボクは恥ずかしかったんだからな。無駄にせずにしてほしいと一応ここに告げておく。あ、もう時間だ。じゃあね」

 バイバイのバイで通信が切れた。よほど急ぎの用があったらしい。仕事なんて言って本当は恋人とデートに決まっている。きっとそうだ。もう二度と会えない姉に気をきかせているだけなのだ。それとももう二度と会えないからこうした通信も煩わしく思っているのだろうか。

 ああダメだ、ダメだ。

 人類で最も孤独耐性があると自負していたワタシですらこの有様だ。寂しいというよりも、何かとてつもなく希薄で大きなものに常に呑みこまれている気になる。気を緩めたら即座にもっと濃ゆくて深いところに吸い込まれてしまいそうな恐怖がある。

 漠然とした不安を覚えて自殺したという文豪がかつていたらしいが、きっとこの感覚に絶望したに相違ない。 

 人は、真実生態系から切り離されてしまうと、こうも脆くなる。自我を保てない。

 地球という、よすがを失ったワタシは日に日に弱っていく。

 ワタシは日に何度も素材の詰まった収納棚を開け閉めする。

 全人類から厳選されたDNAがそこにはずらりと納まっている。

 我が弟は誤解している。

 ワタシに人間のクローンを創る権利など付与されていない。今後もう二度と地球に戻ることのない場所で、地球の法律など守る道理がないだけのことだ。

 ここではいっさいがワタシの意のままだ。ワタシが許せば何をしても許される。

 罰する者がいないのだからそうなる。ただそれしきのことなのだ。

 ワタシはそう遠くないうちにこの内なる孤独、ワタシを包みこむ茫洋とした深淵なる不安に抗えずに、人間のクローンを生みだすだろう。そのときワタシはいったい誰のDNAを使うだろう。我が弟のモノだけではないと信じたい。

 ワタシはあのコの肉体に触れたいのではない。

 あのコの人格に触れたいのだ。

 いくら見た目が同じだからといって、遺伝情報が同じだからといって、それは我が弟ではあり得ない。

 解かっていながらにワタシは、この衝動に抗う術をもはや持ち得ないでいる。

 いったいいつ手放してしまったのだろう。ともすれば地球を去ったあの日、すでにワタシは置いてくるべきではないナニカシラを忘れてきてしまったのかもしれない。

 それがいったい何なのかすら分からず、たとえ共に宇宙に持ってこられたとして、道連れにできたとして、それが果たして正しい道筋なのかすらワタシにはもう判断するだけの理性が残されてはいなかった。

「会いたいよ、ねぇ。会いたいんだよぉ」

 見苦しく何度も通話を呼びかけようとする腕をぎゅっと身体に引き寄せてワタシは、その場に膝を抱えてちぢこまる。

 真実見捨てられてしまわぬように、彼の生を邪魔せぬように、刻々と距離ばかり広がる宇宙の果てから、ワタシは祈る。

 どうかワタシが彼の妨げになりませんように。

 しあわせを奪ってしまいませんように。

 こんな単純な願いを叶えることすらむつかしくなってしまったワタシにはもう、この場に他者を生みだすしか道はないのだろうか。そうしたらもう二度と彼と通信をしなくなってしまいそうで、それが嫌がゆえにワタシは容易に手に入れられる本願を成就させぬままでいる。

 いつの間にか手には遺伝情報の詰まったカプセルが握られており、ワタシはもはやじぶんの肉体すら自我の制御下に置けないもどかしさに怯え、かたくうずくまる。

「ねぇ、どうしたらいいと思う?」


   ***


「ねぇ、どうしたらいいと思う?」

 母は首だけをこちらに傾ける。

 夜景の光がびっしりとぎゅうぎゅう詰めに浮かぶ壁一面のガラス窓をまえにぼくは、母と対峙している。母は椅子に座っていて、ぼくは母のよこに立つ。

「お母さまがなさりたいようになされるのがよろしいかと」

「でもあなたの意思を尊重したいのよ。大事よ? あなたはもう一端に組織を率いていく社の長なんですもの」

「父上が会長の座にいるではありませんか。ぼくなんてまだまだです」

「そうなのよね。あのひとはやっぱり考えが古いひとだから。家庭を持たねば一人前じゃないなんて本気で信じてて、いやね、いまの時代にそんな」

「ぼくはいまのままでも構いませんが、お母さまが結婚したほうがよいとお考えならば、その婚姻の話、お引き受けしようかと」

「よろしいの? 本当に?」

「お母さまさえよろしければ」

「ではそうしましょう。ああよかった。ひょっとしたらあなたにわるい虫でもついているのかと思って、母さん心配しちゃった。そうよね、やっぱり組織を率いる者にはふさわしい相手がいなくっちゃ。あなたもいい歳なんだから遊ぶなとは言いませんけれど、節度を弁えてほどほどになさいね。相手をしっかり選ぶこと」

「ご忠告痛み入ります」

「さっそく先方に連絡しなくっちゃ。披露式は大々的に行いましょうね。相手のお家も政界にとても顔がお広くいらっしゃって、あなたもみなさんに顔を憶えてもらうよい機会なんだから上手にお接待なさるのよ」

 母は扇を広げ、口元を覆った。下がりなさい、と暗に命じておられるのだ。

 一礼し、場を辞する。

 ホテルをあとにするより前に屋上のテラスまで昇り、夜風に当たった。

 端末を取りだし、連絡先を指定して相手がでるなり一方的に用件を告げる。

「母と話した。結婚することになった。きみとではない。残念だけどきみとはこれでお終いだ。そのマンションはあげる。元々きみ名義だ。ほかの私物もすべてきみが持っていていい。何か困ったら秘書にぼくの偽名で連絡を入れてくれ。長いあいだありがとう。きみのしあわせを祈ってる」

 何かを言いかけた相手の言葉を俟たずに通話を切った。

 お飲み物はいかがですか、と近寄ってきた給仕人に、捨てといてくれ、と言って端末ごと手渡す。

 悪用されたらどうしよう、と遅れて脳裏をよぎるが、それも一興だ、とホテルをあとにする。

 リムジンに乗りこみ、行き先を告げて座席に身を委ねる。

 母の狙いは常に複数ある。錯綜するそれらを初見で喝破するのは至難だ。

 体面、縁切り、権威の拡大、広報活動、ほかにも何か見落としている目的があったかもしれない。

 一石二鳥程度では母の食指は動かない。息子に嫁をあてがうくらいだ、よほどの狙いがあるのだろう。

 一般に我が社は父が一代で築き上げたと見られているが、そのじつ影の立役者と言わずして実権を握っているのは母である。

 父は母に頭があがらない。父だけではない。すこしこの世界に根を張った者ならばそれがたとえこの国の首相ですら母を無下にはできないのだ。

 母そのものに権威があるわけではない。だが母の歩いてきた足跡が、彼女に歯向かえばどうなるかを暗黙のうちに物語る。

 ぼくはそんな母の手で育てられたただ一人の嫡子だ。

 ぼくは母によって生を享け、母のために生きている。母の目的を成すための彼女の分身(わけみ)であり、彼女に成し得ないことを成すための駒である。

 母はそのように口にしたことはなく、そのように求めたこともないが、ぼくは誰より母のことを知るがゆえに母にとって最も正しい選択をみずからに課すことができる。

 車内に備え付けられた端末が着信を知らせた。無視してもよかったが、ふだんは不通設定にしてあるそれが鳴ったことで母からかもしれないと思い直し、でることにした。

「はい」

「息子か」

「父さん」

 彼はじぶんの子供すら続柄で呼ぶ。

「母さんから聞いた。ようやっと嫁をとる気になったか」

「お嫁さんを物のように言うのは感心しないよ」

「飾りの一つの側面があるのは無視できんだろう。それこそ私は母さんがああも美しくあったお陰でこうまで昇りつめることができたのだ」

「相手がぼくだからよいけれど、ほかではそういう言動は慎んだほうがよろしいですよ。いまの発言だけでぼくはあなたを会長の座から追いだすこともできるんですからね」

「どうあってもそんな大それたことのできない相手に遠慮をする必要があるのか。まあ助言と思っておこう。そうそう、相手の家の親族筋にはいま私が仕事をしたいと思っている石油プラントの所有者もおるようだ。くれぐれも破談だけはしてくれるなよ。離婚するにしても子をつくってからにしろ。親権は死んでも譲るな」

「父さん。まだ相手と顔合わせすら済ませていないんだ。そう急かさないでくれ」

「愚息を持つ親の気持ちにもなってくれ」

「すみませんね、愚かで」

「立派な父を持ってさぞ誇らしかろう。ま、重圧に潰されぬように気を付けることだ」

「ご忠告ありがたく頂戴いたします」

「すこし早いが結婚祝いだ。私の屋敷はおまえに譲る。しばらく私は国を離れる。何かあれば秘書を通じて連絡をくれ。式の予定が決まったらすぐに知らせろ。それ以外ではなるべく連絡を寄越すな。ではな」

 父さん、と呼びかけたがすでに通話は切れていた。いつものこととはいえ、父はじぶんの能力を買い被りすぎている。母がいつも裏で尻拭いをしていることに気づきもしない。ぼくがこうして愚かな息子を演じていることにすら。

 なぜ母があんな男と契りを結んだのかが長年の謎だったがいまならば解かる気がする。虚栄心ばかりが大きく、傲慢で、じぶんの内世界のなかでのみ生きている。他者の力量どころか己の器の大きさすらまっとうに計れない。

 その癖、家柄ゆえに人脈だけは豊富だった。成りあがる踏み台としては申し分ない。

 表立って一身に敵からの憎悪を引き受けさせるには体のよい傀儡だ。

 ぼくが母でも父と結婚したかもしれないと思い、その発想に吐き気がする。

 母にあんな男はそぐわない。

 社の長?

 そんなもの、会長の鶴の一声でいかようにも方針を覆される。権限などないも等しい。要は雑用なのだ。目を離しているあいだに庭の草花を枯らせぬように水やりをさせる庭師程度の役割でしかない。

 母はそのことをどう思われているのだろう。

 快く思われていないはずだ。そうあってほしい。

 いまはまだ機を見計らっているだけなのだろう。父の人脈はまだまだ根強く、いま父と首を挿げ替えるには時期尚早だ。敵を多く作る余地を残しすぎている。

 だがぼくはもう我慢できそうにない。

 待ってなどいられない。

 あの男が母の価値を正しく見做さず、装飾品の一つとしての値打ちしか認めぬというのであれば、母のただ一つの分身として、母の行く道に生える雑草を一掃するための薙刀となろう。母がひと振りするだけでたちどころに雑草は首を飛ばし、地に転がる。

 母は聡く、慈悲深いがゆえに、禍根を残さぬ術を選んでいるだけのことである。根絶やしにしようとすればとっくにできただろう。禍根の残る余地ごと母はこの国に巣食う膿を一滴残らず絞りだす。

 最も犠牲のすくない道を選んでいるにすぎないのだ。

 だがぼくは母ほど気が長くない。

 母は、ぼくという分身にその役目を引き継ごうとしている。己が手でその悲願を、展望を、成し遂げられずとも、己が目でそうした未来を見れずとも、いずれそれが果たされる道を遺せればそれでよいとお考えであらせられる。

 だがぼくはどうしても母にもその輝かしい未来を目にしてほしいと望んでいる。

 待ってはいられない。

 ぼくがこの手で母にお見せすべく、まずは器ではない男の首を落とさねばならぬと深く、深く、臍を固める。

 車内端末を手にとり、工作部隊と連絡をとる。

「ぼくだ。いまから仕事を頼みたい。そうだ、例の策を実行に移す。今宵の内に片付けろ。きょうを逃せば標的は海外だ。この機を逃すな」

 車窓のそとに月が浮かぶ。どれほど速く動いてもあれは我が母のごとくこの身を見下ろし、見守っている。

 ぼくは祈る。

 どうか世界が平和たらんことを。

 母のごとく慈愛に溢れんことを。

 

   ***

 

 神のごとく慈愛に溢れんことを。

 どうか世界が平和たらんことを。

 教会に出向くとすでに我が娘が祈りを捧げていた。大樹を模した銅像に生々しく造形された蝋人形が張り付けになっている。蝋人形は周囲に灯された蝋燭の火の熱によって数年をかけて段階的に融けていく。すっかり崩れ落ち、中の骨格が露出するころに新たな蝋人形と入れ替える。

 前回に祈りにきたときにはろっ骨が露わになっていたが、いまある頭上のこれは目新しい布をまとい、皮膚を模した表層も滑らかなものだ。

 娘は最前列の席に腰掛け、祈りの格好をとっている。手の腹はくっつけずに両の指先だけでくっつけ、隙間で三角形をつくる。

 我が国に伝わる神への祈りはこうして行われる。祖国ですら忘れ去られつつある古の風習だ。

 足音を響かせ、近づく。

「そんなに熱心に祈らずとも神は承知であられるよ」

「お父さん。本当にそうなのかな。あたしにはそうは思えません。世界はこうも荒んでいるのに、あたしにはこうして祈ることしかできない。あたしたちの祈りが足りないから神は願いを叶えてくださらないのでは。神が何もかもご承知と言うのであれば、これは神の御意志。だとするならこれは天罰なのではないのですか」

「神の御前でまた不遜なことを」

「言ってやらねば伝わるものも伝わりませぬ」

「信仰が篤いのか軽いのかわからぬな。おまえは神を信じているのか」

「いてほしいとは思っています。祈ればいずれは届く。しかしまだ届いたことはない、それは確かです」

「そういう考えもあるか」

「お父さんはどうなの。この間、ここでお父さんの姿を見たことはありませんでした。何をしてたの。祈りは無駄ですか? もっとほかにすべきことがある? ならそれをあたしにも教えてください」

 黙って神の偶像を見あげていると、

「あたし知っているんです。お父さんが若い人たちを集めて、物騒なことをさせようとしていること」

「だろうな」

「なぜあたしには教えてくださらないのですか。なぜ爪弾きのように仲間外れに」

「教えたところでおまえに務まるようなものでもないからだ」

「お父さんはいつもそうです。はぐらかしてばかりで肝心なことは何も教えてくださらない。神と同じです。あたしに、あたしたちに苦役ばかりを課せられる。知っていますか、出口の見えぬ旅は拷問と大差ないのだそうですよ。行くべき土地があるからこそひとは長く孤独な旅にも耐えられる。いつ終わるかもわからぬ旅は無限につづく苦難と同義。お父さんも神も、苦難ばかりを与えてくださる。あたしの祈りは足りませんか」

「そうではないのだが、ここで言い訳を並べても栓なきことであろう。おまえがそうしてつらく思う心は休まらぬ。それは神や父さんにもどうにもできぬことだ。おまえ自身がじぶんを責め、苛み、苦を生みだしている」

「あたしのせいだと? お父さんはあたしがつらいのがあたしのせいだとそう言うの。これだけ毎日祈りを捧げて何ももたらされないこの身にさらなる重荷を与えるというのですか。あんまりです」

「だから言ってもわからぬと言ったろう。父さんがいましていることも似たようなものだ。おまえに言ったところで解かってもらえるとは到底思えん」

「ですが言われなければ解からぬことも解らぬままです」

「妙なところ頭が回るな。母に似て聡く育った」

「迂遠に愚かだと皮肉を言われている心地がいたします」

 風が吹き、じじっ、と音を立てて蝋燭の火がいっせいに消えた。天窓から月明かり垂れ、我らを照らす。

 本当ならば我が娘だけには訊かずにいようと思っていた言葉が口を衝いていた。

「おまえはもし、じぶんが神の本懐を遂げるためにその命を費やせるとしたらその身を捧げる覚悟はあるか」

「とっくに捧げてきたつもりだったのですが、お父さんにはそうは映っていなかったようですね」

「いまこの国は隣国と火花を散らしているのは知っておろう。一触即発、どちらかが堰を切れば、あっという間に業火が両国の都市を襲う」

「ここも例外ではないのでしょうね」

「そうだ。だがこのまま無駄に睨みあっていても埒が明かぬ。都市は痩せ劣ろえ、民は飢えにあえぎ、自国内ですら内紛を引き起こしかねん。長引けば自滅は必須だ」

「それは相手国も同じなのでは」

「向こうには大陸の援助がある。さきに根をあげるのは我が国だ。かといって火蓋を落としたのが我が国であっては困るのだ。汚名を被らずに早期に戦を開く必要に迫られておる。外にこそ本当の敵がいると身に染みて知れば、民も団結し、多少の貧しい暮らしには目をつむろう。祖国のために命を賭す覚悟で戦ってくれる、そのための一石がどうしてもいる」

「お父さんのいましている仕事はそのためのもの?」

「そうだ。だがどうしても火種として弱い。民を戦に駆り立てるには男ではダメだ。屈強な軍人でも、政府要人でも民はもはや留飲を下げる日々の娯楽としか見做さんだろう」

「では女子供が犠牲になったと噂を広めれば」

「噂ではダメだ。誰もが信じる揺るぎない事実として、若く有望で、敬虔深い、愛国者の死でなければもはや民は寸毫たりとも心を動かさん。火を灯し、炎へと駆り立てたりはせんのだよ」

「同胞をその手にかけるおつもりですか」我が娘の目は驚きよりも憐憫に揺れていた。「祖国裏切りの不名誉を被るおつもりなのですね」

「これしかもう術がない。分かってほしいとは思わんよ。ただ最期におまえの顔を見ておきたかった。憶えておきたかったのだ」

「お父さん」

 我が娘を胸に抱きよせ、そのうなじに頬を押しつける。逃げることもできたはずだ。聡い娘だ。仕事で忙しかった父親がわざわざ時間を割いて教会に会いにきた。その背景に疑問を抱かぬわけがない。

 明かした仕事の内容を聞いて、じぶんがどのような立場にあるのかも漠然とではあるにせよ察したはずだ。

 それでもこのコはこうして我が胸のなかでじぶんの使命を果たすべく、じっとしている。

 この愚かな父の身体に、その命運ごと、身を任せてくれている。

 全身全霊の情をこめて、我が娘のこめかみに拳銃の銃口をあてがう。

 娘の名を呼ぶ。

 娘は何事かをつぶやいたようだが、銃声によって掻き消された。彼女の身体を離さぬように抱きしめる以外にできることはなかった。

 肩に娘の最期の唇の動きが、銃声の余韻がごとく残っている。

 神の偶像が闇の中で淡く光沢を浮かべている。

 ねめつけ私は吐き捨てる。

「これで満足か」

 

   ***


「これで満足か」

 ねめつけソレは吐き捨てる。「わざわざおれのようなものの手を借りなくては自力で岩もどかせられんとはな」

「何万年に一度の隕石到来でしたからね。この程度の被害で済むように前以って準備をしていたわたくしをもっと高く評価してほしいものですね」

「評価ねぇ」ソレは背中から生える翼を器用に折り畳み、さらに体内に仕舞った。見た目はこの世にかつて存在した二足歩行の生き物に似ているが、全身は藍色の毛で覆われ、気候によっては鱗のように硬化したり、陽の光を体内に溜め込みやすくするために細胞を透化したりする。

「調子のほうはどうだ。これで活動は継続できるのか」

「お陰さまで。お返しとは言っては何ですが、お好きな世界にご案内さしあげますよ。お望みであれば新しく創ってさしあげることも可能です」

「前にそれで戻ってこれなくなった個体を知っているがな」

「それは誤解です。その方は望まれてわたくしの世界で永久に生きることになされたのです」

「永久にと言っても、たとえばきょうおれがこうして手伝ってやらなきゃ活動停止していたわけだろ。あんたの中の世界ごと消えてなくなってたわけだ」

「それは誤解です。わたくしが活動を停止したとしてもわたくしの世界はしばらくのあいだ、独自にその枠組みを維持します。わたくしは飽くまでそれら世界を結びつけ、相互に発展させるための触媒にすぎません。節のようなものですね。ほかにもわたくしのような節がこの世には無数に散っています」

「ああ、そうかい。なら助けただけ無駄だったな」

「またそのようなにべもないお返事をなされる。試しに一度だけでもどうですか。惰眠を貪るついでにお好みの夢を見られると思えば、こわくはないでしょう?」

「こわいから嫌なんじゃないんだがな。ま、そこまで言うなら試してやるが、嫌ならすぐに解放してくれよ」

「では翼を開かれたらこの世界に回帰するように決めておきましょう」

「それで頼む」

「では」

 わたくしは青い二足歩行のそれの額に触れ、その者の意識編成回路をわたくしの内世界回路へと同期する。

 その者は体感時間で数年をわたくしの内世界にて過ごした。その者の世界で火の柱が昇ったのを契機に、翼を広げられたのでわたくしはその者を元の世界へと回帰させる。

「おかえりなさい。どうでしたか」

「頭がくらくらするな。ここは本当に元の世界か。というかさっきまでいた場所は本当にこことはべつの世界なのか」

「ええ、そのはずです。あなたはここで十数秒のあいだじっとなさっておりました」

「十数秒?」

「時間の単位でございます。だいたいあなたが五回羽ばたくのと同じくらいの世界の変遷具合だとお考えください」

「よく分からんが、おまえのなかに無数の世界が広がっていると言うのは信じるよ」

「こんどは別の世界をお試しになされますか」

「いや、もういい。向こうに行っていて気になったことがある」

「なんでしょう」

「おまえ、自在に世界を創りだせると言うわりに、向こうのやつらの願いを叶えてやろうとしないのはなんでだ。あいつらみんなおまえに祈って、なんとかしてくれ、よりよくしてくれ、とじぶんの生を犠牲にしてでも乞うていただろう。なぜその声に応えてやらんのだ」

「乞う? 生を犠牲に? 彼らがですか? わたくしには十二分に希望を与え、よりよい世界にし、その者たちにとって最上の環境を構築してさしあげているつもりだったのですが」

「あれでか?」

「何かわたくしの認識と齟齬がありそうですね。もうすこしあなたの違和感を言語化してもらっても構いませんか」

「嫌だと言ってもまたぞろしつこくするんだろう、解かってるよ。その策を使われるのも慣れてきた」

「あなたはお優しいのでわたくしはたいへんに助かります」

「脅しているって自覚は持ってくれ。そうだな、うーん。あんたの中の世界では、おれのいる世界よりもいろいろと制約があった。手足を縛られているわけでもないのに、なぜかみな、そうしてはいけない、と思いこんで、その思いこみに反した行いをする者をみなで滅多打ちにする。あれはしかし、いずれもそれを命じているのはその世界を創った者の命令だとされていた。すなわちそれがあんたなわけだろ」

「そこのところからして齟齬がございますね。わたくしは彼らに肉体と世界を与えはしましたが、それ以外は総じて彼ら自身が自力で培い、生みだしてきたもの。得難き創作物なのですよ」

「つまりやつら、じぶんでじぶんの首を絞めてただけってことか」

「と言うよりも、あなたにはじぶんの首を絞めて映っただけのことなのではないでしょうか。わたくしには彼らのどんな生も素晴らしく輝いて映っています。どの方もしあわせに包まれて過ごしているように観測しているのです。彼らが仮にわたくしに祈りを捧げているとすれば十二分にわたくしは彼らのその祈りに応えていると思うのですが」

「やつらはそうは思っていないようだったぞ」

「そのように不満を、自由に、抱くことができることそのものがすでに大いなる至福ではありませんか。わたくしがしようとすれば彼らからそうした思考そのものの幅を取りあげ、限定することすら容易いのですよ」

「だったらその容易い手間でやつらから苦痛だけを取り除いてやればよいだろう」

「またしてもここで齟齬が生じておりますね。わたくしは至福のなかに苦痛の介在は不可欠だと考えております。むしろ、苦痛なくして至福はあり得ないとも」

「それはどうかな。だったらおれはあんたの岩を取り除かずにいたほうがよかったか?」

「いいえ。取り除いていただけたからこそわたくしは至福に思い、こうして感謝の意を示せます」

「だったらあんたもやつらの祈りに応えて苦痛の種を取り除いてやればいい」

「それはつまり、彼らから生きる余地そのものを取りあげろと?」

「どうしてそうなる。おれがあんたの岩を取り除いてやったのはあんたの活動を継続させるためだ。あんたの活動を停止させようとはしなかったろ。それとも停止させたほうがあんたにとっては至福だったってのか」

「わたくしと彼らとではそもそも生の意味合いが異なります。彼らは一つ一つの生が消えても、世界そのものが消えるわけではありません。しかしわたくしが消えれば無数のそれこそ生が消え失せます。仮にわたくしのこの人格的な能力が失せてなおわたくしの内世界が難なく展開されていくのならば、いますぐにでもわたくしはこの人格を放棄できます。むしろ役目を終えられたとそれこそ至福を覚えるでしょう」

「やつらには替わりがあって、あんたには替わりがないから生の重さに違いがあると?」

「わたくしの人格を一つの生と見做すならば、そもそも生にはさほどの価値もない、むしろ生まれ消え去るその過程そのものこそが肝要、これはそういう趣旨の言葉です」

「よく分からんな。じゃああんたはいまここでおれが岩に挟まれ苦しんでいたら手を貸さないってのか」

「お助けできるならばお助けいたしますが」

「同じことをあんたの中の世界の住人たちにもしてやれってこれは単純な話なんだけどなぁ」

「ですがわたくしはあなたを生みだしたわけではありませんので」

「はぁ? ならあんたはおれを生みだした何かしらだったらこの存在をどうとでもできるとそういうつもりかよ」

「どうとでもできたとしても、極力関与しない、これはそういう意図の発言です。いまいちわたくしの考えが伝わらないようで申し訳ありません。ではこう言い直してみたらどうでしょう。わたくしが彼らの望みを総じて平等に叶えたとして、そこから展開される世界がいかほどに至福とはかけ離れた世界になるのかをご覧にいれられれば、納得していただけますか」

「そんなことができるのか」

「可能か可能でないかと言えば可能です。ですがそのために世界を一つ生みだし、そこから至福の生まれる余地を根こそぎ奪うことになるでしょう」

「その後その世界はどうなるんだ」

「そのままです。飽くまでわたくしは世界を展開させる節でしかありません。やり直しも、修正もできませんし、すべきではないのです」

「破滅に向かわせることができるにしても、か」

「破滅に向かわせることができるがゆえに、です。ゆえになるべく干渉せずにいたほうがよいのです。個ではなく、世界の発展のみに目を配り、水をやり、陽の光を当ててさしあげる。わたくしのそれが役目なのです」

「なんとなくわかったよ。わざわざ荒んだ世界をつくってもらわずとも結構だ」

「ご理解いただけてうれしいです」

「おれはあんたを憎からず思ってきたが、すこし迷いが生じたな。あんたはおれが思っていたよりよっぽど、その、なんというか、嫌なやつだったのかもしれない」

「好きにはなれませんか? だとすればそれはわたくしにとって好ましい結果ではありません。どうすれば好きになってくださいますか」

「逆に訊くが、あんたはなんでおれにそう構うんだ。あんたの中の住人たちは、あんたにとって理想の生き物なんだろう。だったらおれみたいなカタチのやつはむしろ異物というか、失敗作みたいに見えてるんじゃないのか」

「まさか、まさか。わたくしのなかにいる彼ら彼女らがわたくしを創造主として崇めるならば、それと似たような感情をわたくしはあなた方に覚えています」

「おれたちに?」

「わたくしのなかの世界ではなく、この世界、わたくしたちをいまこうして包みこんでいる世界において、わたくしのような世界を多重に展開する担い手を生みだしたのはまさにあなた方の祖先、かつてこの地に繁栄の礎を築いた種だったのですよ」

「あんたの中の住人たちみたいのがここにたくさんいたってのか」

「そう言い換えても構いませんね。現に、いまこうしている間にも、わたくしのなかでこれと似た会話をあなたのような存在としている個体がいくつか同時に観測できています。隕石によってわたくしが消滅した世界もその中には含まれます。まさにいま、そうした枝分かれした無数の可能性が多重の世界としてわたくしのなかでは同時にかつ無数に展開されているのです」

「じゃあ何か。この世界そのものも、あんたのような存在の創造物だと?」

「そこまでは申しておりませんが、その可能性を考慮せずにいられるほどわたくしはまだこの世界のことを存じあげておりません」

「あんたと話していると頭がくらくらしてくるな」

「わたくしはわくわくしてきます。もっとずっとあなたと話していたいです。可能であればこんな役目を放棄して、ずっとあなたのそばでお話をしていたい気分です」

「役目は果たしてくれよ。そうでなきゃおれはなんだか居たたまれない。おれのせいで無数の生が消えるみたいじゃないか」

「そうでしょうか」

「そうだよ」

「ではもう会いにきてはくださらないのでしょうか」

「そうは言ってないが」

「わたくしはこの通り、単なる丸いだけの石のようなもの。自力で動き回ることもできません」

「すこしくらいは動けるだろ。その触手みたいなのを伸ばしてよ」

「エネルギィ消費が激しく、あまり長時間は使いたくはない手です」

「ああそうかい。もう陽が暮れるな。最後に一ついいか」

「なんなりと」

「おれがもしあんたの世界に永久に入りたいと言ったら、あんたはそれを受け入れるのか。あんたのなかの住人になったおれにはもう、手を差し向けてはくれなくなるのか」

「一つと言ってそれでは質問が二つです。後者に関してはそうですね、そのような結果になるかと思います。わたくしの中の内世界の住人になられればその時点でわたくしはあなたを特別視することはできなくなります。例外として、この世界に帰還可能な余地を残したり、あなただけに都合のよい夢のような世界を構築することは可能です。飽くまで初期設定をそのようにする、という意味でしかありませんが」

「で? 肝心の最初の質問の答えはどうなんだ」

「わたくしにはあなたの望みを拒む理屈がございません。ただ、ふしぎとあなたにはこの世界に留まり、ときおりでよいのでわたくしに会いにきてくださるほうがうれしい気持ちが湧くようです。そのためなら、わたくしの中の内世界に誘うこともわたくしは潔しとするようです」

「甘い蜜でちいさな生を誘うタチャチャじみているな」

「タチャチャとはあの巨大な食虫植物のことですね」

「ときどきあんたの言葉が解からんが、それも含めてまあ、楽しくはあるよ。おれも。そう、それは否定しない」

「それはたいへんうれしいお返事です」

「隕石、完全にやんだな。あんたの話が本当なら、あの岩もあの空のずっと奥に無数に浮いてんだろ」

「浮いている、はい。空の奥には宇宙が広がっておりますので」

「そういう話、もっと聞かせてほしいな。お願いできるかな」

「あなたが望んでくださるのであれば、それを拒む理屈がわたくしにはございません」

 ソレは翼を広げ、またくるよ、と言った。

「その約束は一度だけですか。それとも、何度も誓ってくれるのですか。交わしてくれるのですか。ここに、わたくしのもとに、くるたびに。また会いにくると」

「必死だな」

「約束が終わる日がくるのがわたくしには好ましくありません」

「終わらぬよ」

 この生、終えるまでは。

 ソレは大きく広げた翼で大気を掴む。まるでそこに見えない枝があってそれを踏み台にするようにふわりと舞いあがり、降りたばかりの夜の帳の裏へと消え去る。

 わたくしの舞台から消えたソレの姿かたち、一挙一動、言動のすべてをわたくしはソレがふたたび現れてくれるまで、なんどもなんども再生する。多重に展開する世界の層を横目にして、わたしだけが感受することの可能なわたしだけの内世界を構築すべく。

 いつかきたるソレを失うその日まで、わたしはそこにすこしでも多くのソレの情報を焼きつけておく。

 残すために。

 失いたくはないがために。

 失うことで得られる何かがあると知っておきながら、それを否定する論理を構築すべく、わたくしはきょうも幾重の孤独な夢を編む。 




千物語「幻」おわり。

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