千物語「藍」 

千物語「藍」 


目次

【ポチに首輪をはめましょう】

【心に熔けた鋼を忍ばせて】

【蝶は道に舞う】

【黒いビニル袋】

【人形の生々しい部位】

【不倫反省文】

【ホバリングの週末】

【必死は向かうよ滾々と】

【瞬久間弐徳の休日】

【あすのチャイムは特別で】

【僕は虚構に恋をする】

【カミサマ。僕の神さま】

【新しいマシン買った】

【ヤモリではない】

【デビットバードは雲を知らない】

【腸内ガスが止まらない】

【彼岸の白い花】

【作者と読者と物語】




【ポチに首輪をはめましょう】


 彼女のことを僕はポチと呼ぶけれど、そう呼んでほしいと言ったのは彼女のほうだ。

 昨今耐震強度の問題ですっかり淘汰されたオンボロアパートに僕は住んでいて、いったいなぜこれが区の検査をパスして改修工事を免れているのかがふしぎなほどにどこを見渡しても鉄骨は錆びているし、外壁は剥がれている。部屋の壁は薄いが、住人がすくないのでそこは空き部屋をあいだに挟むことで、それなりの防音効果を発揮する。二階までしかないので、二階の部屋にさえ住んでしまえば、騒音に苛む心配はない。真下もずっと空き部屋だ。

 バイトが終わるのは午後二十二時を回った時分で、僕はスクーターに乗って帰宅する。そのとき、階段したで蹲っている女性がいて、結末から言ってしまうと彼女は血まみれで、人殺しで、一年を一緒に暮らしたのちに僕の元から去ることとなる。

 いちど彼女を見て見ぬふりをして、僕は階段をのぼってじぶんの部屋に入った。完全に混乱していた。ちょっとした恐怖を感じて、幽霊じゃないよね、と幼稚な考えを巡らせたりもした。けっきょく玄関口で靴も脱がずに思案して、安否だけでも確認しておこうと思い直したところで部屋をでた。階段を下り、真下に蹲っていた彼女に声をかけた。

「だいじょうぶですか」

 鋭い眼光を向けられ僕はひるんだ。「すみません、その汚れって、泥、じゃないですよね」

 服はケチャップで汚れたみたいにデロデロと黒く染まっている。そういう模様の服と見做すには重そうに湿っている。粘着質に映った。

「逃げてるって言ったら匿ってくれる?」

「追われてるんですか。警察に言ったほうが」

 言いながら僕は、敷地の入り口から死角になるように、じぶんの背中で彼女の姿を隠した。彼女は僕を見上げた。

「ここに住んでるの?」

「ええ二階に。寒いですよね、警察がくるまであがりませんか。不安なら僕はそとにいてもいいですし。あ、Tシャツでよければ着替えとか」

「お願いしてもいいですか」

「それはええ」

 どうやら彼女の身体の汚れは、彼女自身の血ではないようだ。

 部屋に招き入れると彼女はすすすと身を滑らせ、扉のよこに備え付けてある台所を漁り、包丁を手にした。

 ん? と僕が思っているあいだに彼女はこちらに切っ先を向けた。僕が飛びのいた隙に部屋の扉を施錠し、部屋の奥へと僕を追い込む。

「なんですか、なんですか」僕は両手をあげる。

「お願いします、しばらくここで匿ってくれませんか」

「そうしたらその包丁を下ろしてくれるんですよね、約束してくれますよね」

「断ったら刺します」

「じゃあ断れないですね」敢えて場を明るくしようとの僕の企みは、彼女が自身の肩まで伸びる長髪を稲刈りよろしく包丁でざっくりと切り落としてしまったのを見てカタツムリの触覚さながらに引っ込んだ。

「警察には通報しないこと。いい?」

「あの、もしかしてですけど」

「そう。私は警察から逃げてるの」

「それは理由を訊いてもいい感じのやつですか」腕がしびれてきた。下ろしてもいいだろうか、と悠長にもそんなことを考える。

 彼女は台所に包丁を仕舞いに歩くと、こんどは空き缶に詰まった筆記用具の中からハサミを掴み取る。不揃いの髪の毛をそれで整えはじめた。

 台所のある空間には姿見が立てかけてある。彼女はそれを覗き込みながら、ハサミを器用に扱った。僕は手を下ろす。彼女はひとしきり髪を整えると、なんでもないようにこう言った。

「人を殺しました。それも、たくさん」

「警察の肩を持つわけじゃないんですけど」僕はこう切り返すので精いっぱいだ。「それじゃあ追われても仕方ないですね」

 彼女を僕の部屋に匿ってから三日後に、彼女の言った通りの内容が全国ニュースで大々的に報道された。彼女の言葉を信じれば、彼女は人を殺しており、それも歴史に名が残るほどの大量殺人をしでかした。

「これはちょっと自首したほうがいい気がしますけどね」

「変な気を起こしたら殺すから」

 殺人犯がうちにいます、と警察に通報しようとするのは果たして変な気を起こすの範疇に入るのか。正常な精神ではなかろうか。僕の憤懣が顔にでていたのだろう、

「助かりたかったら言うことを聞いて」彼女は言った。

「助かりたいので言うことを聞きます」僕は誰にともなくそう誓う。

 彼女との共同生活もとより同棲は、極めてこれまでの生活と変化がなく、強いて並べるならば、食費と光熱水道代、ほか雑費が少々かかるくらいで、僕自身の生活行動様式にはさしたる変化は見られなかった。

「これ、いちおう今月末までは引き出せるはずだから。警察にも見つからないはず」

 手渡されたのはキャッシュカードだ。これでお金を下ろしても足がつかないらしい。

 資金援助を受けられると助かるのは事実だった。同時に、その資金が尽きるまでは彼女を匿いつづけなければならないことの裏返しでもある。だとすればできるだけ口座の中身は低いほうが僕としては好ましかった。

 僕の望みは、口座の残金を見て潰えた。

 一日の限度額いっぱいまで下ろしてから、帰宅後に彼女を問いただす。

「この口座、いったい何なんですか」

「下ろせた?」

 封筒を手渡す。

「毎日下ろせば、いまからなら一千万以上は下ろせるね」

「絶対怪しまれますって」

「店舗は分けて下ろして。念のため。でもたぶんだいじょうぶだと思うけど」

「殺したひとから奪ったんですか」僕は初めて彼女を非難する声をだした。彼女がどこで誰を傷つけようとそれは彼女の問題だが、そのことで得た利益に僕が手をつければ誰がどう見ても共犯だ。

 彼女に脅されて匿っているだけならば被害者の立場に甘んじていられたのに、これでは開き直りもできやしない。

「駄々をこねないで」

 包丁をとりに歩く彼女を制して僕はしぶしぶ従った。

 僕はひと月をかけて見たこともない大金を手にした。

「それだけあれば充分でしょ」とは彼女の談だ。「私のことはペットの犬か猫だと思ってればいいから。ちょっと我がままで、気に入らないとすぐに引っ掻くけど、丁寧に世話をしてくれたらおとなしくしてる。ひとに訊かれてもペットを飼ってるって言えばいいと思う」

 私のことはポチと呼んだらどうかな、と彼女は提案し、僕はそのほかの提案と同様に、あなたが望むならそうするしかないですね、と応じた。

 僕は飽くまで脅されて生活圏を侵害されているだけだ。不承不承の協力であって、本来であれば警察に通報していますぐにでも彼女を逮捕してほしいと欲している。

 けれどニュースやネットの記事に目を通すと、大量殺人犯の容疑者はまだ見つかっていない。どんな人物が凶行を犯したのか、と犯人像の推理合戦が繰り広げられている。どの犯人像も大概は男性で、テロだとか、新興宗教だとか、某国の工作だとか、陰謀論じみた言説が多々見られた。僕はそれらを眺めながら、犯人はじつは線の細い女性なんだ、ほとんど少女みたいな見た目なんだ、といったことをそこはかとない優越感を覚えながら思うのだが、そのじつ、日増しに明らかになっていく事件の全貌とその規模の大きさからすると、ネット内に散見される陰謀論のほうが遥かに信憑性があるように思え、本当に彼女が犯人なのだろうか、との疑念は、日に日に深まるのだった。

 どうしてあんなことをしたのか。

 日に何度も気になりはしたが、それを彼女に訊ねる真似はしなかった。大量殺人をしでかしたかもしれない相手に、どうしてあんなことをしたんですか、と水を向けられるほど僕は無神経ではないし、じぶんの命も軽んじていない。

 そもそも動機を知ったところで何になるだろう。

 バイトから帰るたびに、玄関を開けたら死体が転がっているのではないか、ナイフが飛びだしてくるのではないか、と気が気ではない。

 さいわいにも彼女に僕を殺す気はなかったらしい。いまのところは、との注釈がつくだろうことは僕であっても理解できていたが、結論から言えば、最後まで彼女は僕に危害どころか、敵意すら向けなかった。

 最初に包丁を突きつけられて以降、あとはもう、本当に彼女は僕の部屋で引きこもりの生活をつづけた。

 彼女からの資金は、初めこそ彼女の生活用品を一式揃えるのに僕のひと月のバイト代くらいの金額を費やしたが、それ以外はほとんど使わなかった。食費だって、これまでとさほど変わりない。僕がダイエットをすれば、減った分の食費で彼女の分を賄えただろうくらいに、彼女には食欲というものが見られなかった。

 代わりに、四六時中僕の卓上メディア端末を独占するので、彼女の分の端末を購入したが、けっきょく新しいほうは僕が使うことになった。

「こっちのほうが目立たないから」とは彼女の談だ。

 ビッグデータに僕のデータがタグ付けされているらしい。新しい端末では、新たにそこにタグがつくので、検索ワードの偏りから任意の人物として探知されやすいのだそうだ。

「警察はそこまで調べられるんですね」

「警察にはそこまでの権限はないけど、有力な情報が有力である限り、その出どころはあまり関係がないみたい」

 この国には国民の知らない仕組みがすでに築かれている。これはそういう話なのだろうか。

「詳しいですね。そういうお仕事をされていたんですか」

「してないよ。無職だったし。いまと暮らしぶりはそんなに変わらない。きみがいろいろ世話をしてくれるから、その分楽なくらい」

 黙っていてもお風呂のシャンプーが補充されていて、トイレットペーパーが切れることがない。喉が渇いたらおいしい飲み物が冷蔵庫に常備されていて、こんなに便利なことってないと思う。

 彼女はそのような旨を、抑揚なく、しかし彼女なりに感動しているのだろう僅かに弾んだ語気で、述べた。

「前に暮らしていた場所は、ここが楽園に思えるほど劣悪な環境だったんですか」

「ここが楽園だとは言ってないよ」

「でも、地獄ではないわけですね」

「そりゃあね。きみがいるし」

 なかなかどうして彼女は人心掌握の術に長けている。僕はそこでほどよくよい気持ちになってしまった。彼女に尽くせばそれに応じて、彼女からの、解りにくくもたしかな感謝の念を感じた。労いの心は彼女にはないようだったが、僕という従者がそばにいることで恩恵を受けているとは思っているらしく、そこには無条件の肯定が含まれた。

 ペットを飼えばこんなふうなのだろうか。彼女との共同生活をはじめてからひと月もすると僕はそう思うようになった。ふた月もすると彼女が大量殺人犯だとする彼女の証言のほうこそ狂言なのではないか、嘘なのではないか、と思い込みたいくらいに彼女の世話をすることが日々の彩の一つとなっていた。

 単純に、僕にとって彼女はよい触媒だった。

 それまでの僕の日々は、自宅とバイト先の往復で、たまの休日に遠くの温泉に浸かりに旅行に出張るくらいで、毎日をただ漫然と耐え抜いて生きてきた。時間をたいせつにするよりも、はやくつぎの休暇、連休がこないか、つぎはいつ旅行に行けるだろうか、と案じ、それまでいかに苦なく時間を潰していけるかに思考の大半を割いていた。

 それが彼女を匿ってからは、家に帰るのが毎日楽しみだ。小学校の遠足以来のウキウキを体感している。

 たぶん世の中の多くの飼い主は、ペットに対してペット以上の気持ちを抱いている。或いは、粗相の始末をせずに済む分、手間のかからないペットとして僕は彼女を好ましく思っているだけなのだろうか。

「本当に無害なひとだね。よくそんなんで生きてこられたね」

「脅されてたら誰だって無害にもなりますよ」

「私、けっこう無防備だと思うんだけど、本当に何もしないんだね」

「警察に通報するなと言ったのはポチさんのほうですよね」

「ん。そっちじゃなくて」

 しばし黙考する。

 彼女はそんな僕を尻目に、髪の毛をゆびでいじくる。

「ずいぶんご自身の自信がおありなんですね」意味が分かったのでそう言った。

「自信? そんなのないけど、でも、言い寄られたらどうしようとかけっこう緊張してたんだよ」

「僕は年上がタイプなので」

「二十歳でしょきみ? だったら私年上だけど」

 目を見開く。華奢で、幼い顔つきだったために彼女を年下だとかってに思い込んでいた。

「どう? ちょっとはドキドキしてきた?」

 僕は無視した。どうあっても僕が手出ししないと知っていてそういうことを言う。脅迫されても湧かなかった嫌悪感が湧いた。端的に、バカにされているのだ。

「怒ったの? ごめんね、もう言わないから」

 その声には、弱い立場の者の反応を愉快に思っている人間の嗜虐的な響きが滲んで聞こえた。僕はこの日、バイトが終わってもまっすぐに帰らずに、朝まで居酒屋で飲んだ。始発で帰宅する。

 扉を開ける前にドタドタと部屋のなかから足音が聞こえた。中に入るとしかしシンと静まり返っており、僕の支配者たる彼女は布団にくるまって呼吸音だけをつむいでいた。

「ただいま」僕は台所を見渡す。彼女が昨晩はカップラーメンしか食べなかったことを見抜く。罪悪感が胸の辺りまで競りあがる。

 腹いせはするもんじゃないな。

 脅されて致し方なく住まわせ、世話を焼いているだけにすぎないのに、僕はたった一晩、彼女に尽くさなかっただけで、何か償いをしたい気持ちになった。

 僕は彼女をポチと呼ぶけれど、だからといって彼女のことをペットのようには見做せず、或いは世のペットなる存在はそもそも僕が考えていたような人間よりも格下の存在ではないのかもしれなかった。

 僕にとってポチという呼称は、もはや愛玩動物のそれではなく、じぶんと同等かそれ以上の、護らねばならないものに付属する名に昇華された。

 神の名がポチであっても、もはや僕に違和感はなく、どちらかと言えばしっくりきた。

 ある日、帰宅すると彼女の姿がなかった。

 どうしよう、どうしよう、と焦ったが、いつかはこんな日がくると覚悟していた。探しに行くべきか、それともこのまま何もせずに、やっと自由になれたと、努めてせいせいすべきかを僕は吟味した。

 そうこうしている間に、三十分ほどで彼女は戻ってきた。

「どこ行ってたんですか、だいじょうぶでしたか」

「はは。散歩いってただけ」

「散歩って」

「久々外でたら、めっちゃ足疲れた。筋肉痛になりそう」

「歩き回ってだいじょうぶなんですか」

「たまには歩かないと死ぬでしょ」

「それはそうでしょうけど」

「なんか思ってたより安全そう。誰も私のことなんて気にしてない。服がちょっとダサいのがあれだけど」

「お金あるんですからご自分で通販してください」

 前に下着を買ってきてほしい、と言われて店に買いにいったが、あれはもう勘弁願いたい。

「サイズがわかんなくて」

「失敗したっていいじゃないですか」

「よくないよ。節約しなきゃ。お金はもう下ろせないんだから」

「外にでられるなら買い物でもなんでも行ってきたらよくないですか」

「はあ疲れた」

 彼女は布団に飛び込んで、「もう一年分歩いた気分」

 投げ出された太ももの裏側はむちむちとしていながら、すらりともしていて、なんだか生クリームを連想する。

 家の中に引きこもっているからか、ただでさえ華奢な彼女の身体はますます華奢になって映った。その割に、肉付きは前よりもよくなって見える。筋肉は体重の三倍重いから、筋肉が衰えて、見た目がふくよかになっても、見た目が弱弱しく、また体重が減ることはある。

 以前は毎日確認していた大量殺人事件の記事も、このころには一週間に一回、ときには忘れて見ないことも増えてきた。大した追加情報はなく、容疑者候補すら現れない。

 警察はどこまで真相に迫っているのだろう。ひょっとしたら彼女は犯人ではないのかもしれない、と僕はよくよく考えるようになった。

「どうして殺したりなんかしたんですか」絶対に訊かずにおこうと思っていた質問を僕はしていた。彼女はシャワーを浴びたばかりで、頭にバスタオルを被っている。Tシャツに短パンという格好はいつものことだ。太ももに虫刺されの痕が見え、僕は虫刺されの薬を手にとり、指にひねりだして、構える。言葉なくとも彼女は僕のまえに立ち、太ももを晒す。僕は土壁職人のような心持ちで彼女の脚をゆびの腹で撫でつける。

「人を殺すのってたぶん疲れると思うんですよ」

 ほかにも虫刺されがないかを僕は探る。彼女は、くすぐったい、と笑うが、脚はどかさずにいる。

「こんなに頼りない身体で、いったいどうすればあんなに大量の人間を殺せるのだろうってずいぶん考えてみたんですけど」

 報道では、死者の多くは刺殺だとされている。毒殺ならまだしも、散歩に行くだけで筋肉痛を心配するようなひ弱なこの身体で、何人も刺殺できるとは思えない。

「本当は誰も殺してないんじゃないですか」一番言いたかったことを僕は言った。それは僕が僕自身に問いただすような響きがあった。

「それに答えて、何か意味あるの」彼女は脚に余分についた虫刺されの薬をゆびで拭い取って僕の頬に擦りつける。「私が何をどう言ったって確かめようがないでしょ」

 その通りだった。唯一の打開策は、警察に通報して彼女を調べてもらうことだけだ。案外、逮捕されることもなく彼女は解放されるかもしれない。住む家がなく、愚かな男を利用して、宿代わりにしていてもふしぎではない。

 ただしそれだと彼女の持っていたキャッシュカードの出処が不明だし、彼女の服に染みていた大量の血痕も謎のままだ。血ではなかっただけのことだ、と考えることもできなくはないけれど、ニュースにもなっていなかった大量殺人事件の発生を口にした彼女の言動はやはり不自然と言うよりない。

 彼女は事件に関係してはいる。ただ、犯人とは決まっていない。すくなくとも僕には判断がつかなかった。

 彼女を部屋に匿ってから半年が経つころに、久方ぶりに記事を漁った。目立った続報はなかったものの、被害者たちに共通点があることが判った。また、生存者はのきなみ意識不明のまま入院しており、行方不明者がいるらしく、警察が行方を追っているといった記事もある。そこに重要参考人の文字はなく、行方不明者はいまのところ容疑者とは見做されていないようだった。

 行方不明者の名前が載っている。年齢は僕よりすこし上だ。どうやら女性らしいということだけが名前から判るすべてだった。

 奇しくもその女性の住まいはここからほど近い。大量殺人事件の起こった建物は、ここから十キロ近く離れた郊外の集会所だ。そこでは社会問題に対する抗議活動の集会が開かれていたようだ。被害者はみなその関係者だった。

 容疑者が見つかった、と報道されたのはそれからさらに半年が経過してからのことで、僕と彼女が出会ってから一年が経とうとしていた。

「ニュース見ましたか。容疑者がでたって」バイトから帰宅して早々、僕は何気ない口ぶりを意識して言った。今晩はお好み焼きですよ、と付け加える。特売品で安かったので、あすの朝の分も購入してきた。

「容疑者は容疑者だから。犯人とは違うから」

「そうですね。疑わしい者って意味ですもんね」僕はこのときすでに、やっぱり彼女は人を殺してなどなかったのだ、と決めつけていた。

「ちゃんとニュース見たの? 意識不明者の一人だよ。ためらい傷があったからってだけの理由でしょどうせ。自殺を図ったんじゃないかってだけの理由。根拠なんか皆無」

「そんなことはないんじゃないかな。警察だって恥じは掻きたくないだろうから捜査は慎重に進めていると思いますけど」

「恥じを掻きたくないからだよ。容疑者一人挙げられない無能の誹りを受けたくないからって適当な人捕まえて、しかも意識不明の反論すらできないひとを貶めて、威厳を保とうとしているんじゃないの。そのひとは犯人じゃない。被害者。なぜなら犯人はほかにいるから」

「たとえば、ここに?」

 彼女はいっしゅんきょとんとした。その反応が意外で、僕まで固まる。

 瞬きを二回してから彼女は、そうだよここにいるから、と髪の毛をいじくった。この半年で、彼女の髪はまた肩まで伸びていた。じぶんで梳いているのか、重たい印象はなく、照明の明かりですら天使の輪ができるほど艶やかだった。

 彼女が散歩に出かける頻度は日に日に増えていった。たいがいは僕がバイトに出かけているあいだに済ませてしまうようで、かろうじて靴の配置が違っていることで彼女の他出を僕は見抜いた。

 彼女自身、僕に他出している旨を知られたくないようで、以前のように散歩の愚痴を零すことはなく、筋肉痛を嘆くこともなかった。

 単なる散歩ではないのだろう。どこで何をしているのかは気になったが、それを訊ねる真似をすれば彼女の気分を損ねるかと思い、好きにさせていた。

 警察は本当に彼女の存在を気にも留めていないのか。

 僕は幾度となくネットで、事件関係者のなかで行方不明になっている女性の名前を検索してみたけれど、ついぞその女性の画像には行き当らなかった。

 秋が更け、息を吐けば白くなる。

 コタツをだすと、ポチはそこから一歩も動かなくなった。ダウンジャケットが欲しいというので、通販で女性物のすこし値の張る品を購入してあげたが、彼女は僕が着古した安物のダウンジャケットをかってに着て歩いた。

「メンズのほうが好きだな。大きくて楽」

「お好きにどうぞ」

「ただちょっと匂いがな」

「申し訳ありませんね」

「クサいってわけじゃないけど、なんだか四六時中きみといるみたいで照れちゃうな」

 そう言えば僕のほうこそ照れると知っているからわざと口にする。彼女のそうしたいじわるな性格もだいぶん肌に馴染んできた。

 臍を曲げるだけ損なので、いまでは、はいはい、と聞き流す。

 彼女がいったいどこに出かけているのかは気になってはいた。部屋に置いたままの大金はとくに減っていないようだから買い物をしているわけでもなさそうだ。いちどだけバイトに行くふりをして、休日に彼女のあとをつけたことがある。

 初雪が降ってから数日後のことで、地面にはうっすらと足跡が残った。

 彼女は駅前のファーストフード店に入り、窓際の席に陣取った。眼下にうごめく雑踏を一時間ほど眺め、それから店を出ると今度は駅に入った。電車で移動するのだろうか。あとに続いたが、彼女はプラットホームのベンチに腰掛けたきり、目の前に停車しては去っていく電車をただ見つめていた。いや、電車ではない。彼女はそこからあふれ出してくる人々を目で追っていた。

 そこでようやく、彼女が何かを探しているのだと判った。おそらく人だろう。彼女は誰かを捜している。

 僕は三時間ほど彼女を遠くから見守り、それから映画を二つ観て、帰宅した。

「ただいま。きょうはタコライスにしますね」

「タコはあんまり好きではないかも」彼女はコタツでぬくぬくしていた。

「ミートソースをご飯にかけて食べるやつです。タコは入ってません」

「スパゲティでよくない?」

「ご飯、冷凍したのがたくさんあるので」

「なある」

 彼女はご飯をレンジで温め、皿に盛ってくれる。そこまではしてくれるが、あとはいっさい手伝わない。後片付けも僕がする。もうすぐ彼女を匿ってから一年が経過しようという段にあって、僕たちの関係性は最初のころのままだ。僕は彼女に脅されて世話を焼き、彼女は僕からのあらゆる献身を享受する。ただ、関係の名前は変わらずとも、すくなからずその中身の色合いは変化しているように思うのだ。

 僕にとってポチという名前がすでに、よそのペットの名前のうちの一つではあり得ないのと同じように。

 タコライスの評価は上々だった。しばらくはカレーとこれでいい、とポチが言うくらいには彼女の口に合ったようだ。あまり時間がとれないので手作りの料理は週に多くとも三回くらいだが、これならいちどに大量に作り置きできるのでカレーと並んで新しい主食にしてもよい。

 デザートの杏仁豆腐を二人で食べる。市販のものだ。杏仁豆腐は僕の好物で、比較的よく食卓に並ぶ。彼女はこれまで食べたことがなかったらしく、だからこの一年、僕は彼女に、僕の好きなものを提供し、それをどれだけ共有できるかを実験感覚で試してきた。

 彼女に受け入れられるとうれしいし、またあれが食べたい、と催促されるとなんだか勝ち負けなどないにも拘わらず、一世一代の賭け事にでも勝った心地になる。

「嫌な質問になるけど、訊いてみてもいいですか」僕は迷いながら口にしていた。彼女を尾行しようと思い立った日からずっと胸にわだかまらせていた。

「いいけど答えたくなかったら答えないよ」

「このさきずっとこのままでいるつもりなんですか。いえ、誤解してほしくないのですが、資金が切れてもいまのままならこの生活を僕は維持できます。出費もそんなに多くないですし、前とそれほど負担が変わらないので。ただ、ポチさんのほうで本当にこのままで満足なのかなとすこし不安で」

「そりゃずっとこのままだったらいいよね」

 それは暗に、このままではいられない旨を彼女もまた承知していることを告げていた。「そうそう、私もいつ言おうか迷ってたんだよ」なぜか彼女は僕の質問には答えずに、春になったら旅行に行ってきてほしいんだよね、と言った。

「旅行に? 僕とポチさんとでですか?」

「違う違う。私はお留守番。きみだけで行っといで」

「それはあれですよね。僕がいると邪魔だから」

「違うってば。感謝の気持ちをね。そうそう。まだお金が残ってるうちに恩返しの一つでもしておきたいなって」

「だったら一緒に行ってくださいよ」

 彼女が機敏に僕を見たので、慌てて、荷物持ちくらいしてくれてもいいじゃないですか、と言い添える。彼女は笑った。「私はいいよ。ゆっくり羽を伸ばしてきなよ。留守番は任せとけい」

「家でゆっくりしたほうが僕は気が楽なんですけど」

「それじゃあ私の気が晴れないからさ」

「恩返しの押し付けじゃないですか。恩返しって言えるんですかそれ」

「いいじゃんいいじゃん。私に気持ちよく去らせてよ」

 暗に、それを最後にここを出ていく、と彼女は言っている。

「ならお言葉に甘えてそうしましょうか。ちょうどバイトも替えようと思ってたところですし」

「ならしばらく休んだらいいよ。まだお金はたくさん残ってるし、すこしくらいは置いてくから楽しなよ楽」

「いいですよ、ポチさんがじぶんのために使ってくださいよ。だいたいそんなことされても僕が捕まるだけじゃないですか。巻き込まないように、出ていくときは全部持っていってください。立つ鳥は跡を濁さないんですよ」

 口調に棘が混じっているとじぶんでも判った。でも止められなかった。たぶん僕は怒っていたのだろう。けれどそれは彼女への怒りではなく、じぶんの思いどおりにいかない世界への怒りだった。幼稚な当てこすりだ。彼女はわるくない。それが解っていてなお彼女を傷つけようとするどうしようもないじぶんに僕はますます苛立った。

「じゃあそうする」彼女はただ一言そう言った。

 年越しに実家に帰る予定はなく、僕は彼女と最初で最後の年末と元日を迎えた。いいや、それを言うなれば彼女との日々は総じて初めてのことばかりで、もっと言えばそれは僕たちだけでなく、誰であってもそうなのだ。日々はただ一度きりとして過ぎ去っていく。

 初詣に行きますか、とコタツから顔だけだして眠そうにしている彼女に伺ったが、彼女は、寒い、めんどい、人混みが好きじゃない、の三語を矢継ぎ早に口にして僕を黙らせた。

 僕としては何か彼女と思い出の一つでもつくりたかったのだ。その気持ちを無下にされたようで、いじけたがるじぶんを努めて僕は慰めた。

 けっきょく春になるまで彼女と思い出らしい思い出は何もつくれず、もっと言えば彼女と部屋の外にでたことすらない。尾行を抜きにすれば、という但し書きがつくけれど、それは彼女の預かり知らぬことなので、端的になかったことにしているので、勘定せずにおく。

 梅が散り、桜が咲き誇りはじめたころ、彼女は一通の封筒をくれた。中には切符が入っていた。

「旅館も予約しといたし、楽しんでくるといいよ」

 期日は一週間後だった。前以って話は聞いていたから心構えはあったにせよ、急すぎる贈り物に、バイトを休むのにもそれなりの段取りがあるんだよ、といったことを愚痴のように零したが、どうせ辞めるんでしょ、と彼女は取り合ってくれなかった。

 切符が目の前にある以上、どちらを優先すべきかは決まっていた。旅館まで予約をとられてしまったのなら、切符の払い戻しをするよりもバイトを無理を言って休むほうが気持ちの上では楽だった。

 彼女は以前に行ったことのある旅館らしく、あれこれと見どころやお勧めスポットを教えてくれた。僕は気が重かった。彼女が無駄に明るく話しかけてくれるから、そこに潜む彼女の真意をどうしても幻視してしまうのだ。

 おそらく、と僕は思う。

 戻ってきたらもう、彼女はこの部屋にいないのだろう。

 旅行は四泊五日だ。費用はすべて彼女が持ってくれた。お小遣いまでくれて至れり尽くせりだが、これでは餞別ではないか、とあからさまなお別れの儀式を前に、茶番を演じている気になる。

 急速に彼女への愛着のようなものが薄れるのを感じた。それはひょっとしたら自己防衛からの逃避であって、本当は駄々をこねてでも彼女を呼び止めたかったのかもしれない。けれど僕と彼女の関係からすればそれはふさわしくはなく、いまの関係を崩せばどうあっても彼女は僕のもとを去るだろうことは漠然とであるにせよ予想できた。だったらいまの関係は残したままで、壊さぬままで、潔く彼女の意のままに別れようと思った。

 旅行の朝、とくにこれといった会話もなく、行ってきます、と僕は旅行鞄を引きずって外に出て、彼女は部屋からでることなく、玄関口から、行ってらっしゃい、と見送った。

 そのあまりの呆気なさに、或いは本当にただ僕にお礼をしたかっただけではないのか、との疑念が湧いた。それは旅行のあいだ中ずっと僕の思考の表層に薄膜のように張り付いて離れなかった。早く帰宅してその真相をはっきりさせたいとの欲求が、旅館にいるあいだ僕の胸のなかで呼吸を繰り返していた。

 帰りの電車に乗ったときに、家にまだ彼女がいる現実と、もういない現実が同時に存在しているのだと思った。

 何か高尚な考えを巡らせている気持ちになったが、そんなことはなく、僕はただ、この一年のあいだに築き上げてきた失いたくないものを、僕にとってそれが失いたくないものだったのだとの確認作業を、延々つづけているだけにすぎなかった。

 玄関口に立った瞬間に、僕はめまいのようなものを覚えた。それは、頭のなかに設置されたシーソーが一方に勢いよく傾いたときに覚える浮遊感で、現実味が薄れつつも、この扉を開けたらもう取り返しのつかない現実を認めることになるとの予感が、僕に懸命に、まっとうな思考を巡らせないように姑息な作用を働かせる。 

 案に相違して、扉を開けてもそこには見慣れた部屋があるばかりで、台所には汚れた食器が積み重なって放置されているし、脱ぎ捨てられた衣服が洗濯機のところに溜まっている。下着だけはじぶんで洗うからか、奥の部屋の窓際には彼女の下着が風に揺れていた。窓が開けっぱなしだ。いくらここが二階だとて、もっと警戒をしてほしい。

 彼女の荷物はすべてそのままになっていた。彼女の姿だけがない。またぞろ他出しているのだろう。僕はそう思い、彼女の存在を示す食器を洗い、汚れものを洗濯機に放りこんで、清潔にした。

 僕は待ったが、夜になっても彼女は帰ってこず、部屋には大金がそのままで残されていた。

 つぎに僕が彼女の姿を目にしたのは、僕がその部屋を引き払ったふた月後、彼女が僕のまえから姿を消して半年後のセミの鳴きはじめた初夏のころのことだ。

 あらゆる報道機関が彼女の姿を報道した。彼女は人を殺していた。被害者は三十代の男で、背後からナイフで滅多刺しにされた。刺したのはむろん彼女だ。

 僕のよく知る人物が、ニュースになっている。

 だがもとから彼女は大量殺人をしでかしていたのではないか。なにゆえ僕はこれほどまでにショックを受けているのだろう。

 たぶん、僕はこのときに至ってもまだ、彼女が誰も殺したりしない無害な人物だと思い込みたかったのだ。

 だが彼女は人殺しだ。

 画面越しに見た彼女の衣服は、黒い液体に塗れていた。初めて彼女を見かけたときと同じだ。彼女は何でもないような顔で連行されていた。

 助けてあげられなかった。

 僕はなぜか善良な呵責に苛まれた。そしてそんな傲慢な呵責を覚えてしまうじぶんに失望した。

 僕はけっきょく、心の底から彼女を愛玩動物のように見做していたのだ。僕の一存で、一挙手一投足で彼女の運命を、至福を、操れると思いあがっていた。

 だから彼女が僕のもとから去ったことがショックだったし、彼女が僕に相談もなしに人を殺して、罪を重ねたことが哀しかった。

 だが最初から彼女は僕の愛玩動物ではなく、一人の人間で、そして人を殺してしまうような人物だった。

 彼女の素顔にちかい姿を知って傷つくほうがおかしいのだ。

 僕はけっきょく彼女の残したお金には手をつけなかった。彼女の情報を警察に提供することもなかった。或いは警察のほうで僕のもとに事情を尋ねにやってくるのではないか、と構えていたけれど、そんなことはなく、僕は引っ越し先で新しい職を探し、こんどはバイトではなく、就職をした。

 彼女の起こした事件の続報にはなるべく目を通さないようにしていた。じっさい、彼女の起こした殺人事件はその後に続報が大々的に報じられることもなく、彼女が大量殺人事件の犯人として再逮捕されることもなかった。

 かといって、では大量殺人事件の犯人が改めて捕まったり、見つかったりしたのかというと、そういうこともなく、二つの事件は僕のなかでのみ結びついた不可解な線として、僕の記憶に消えない傷跡を残した。

 彼女はいったい何者だったのだろう。

 報道された彼女の名前は、僕が何度も検索した大量殺人事件の失踪者の女性とは似ても似つかない名前で、報道を信じるに限り、僕がポチと呼んで一緒に暮らしていた女性は、天涯孤独の住所不定の無職だった。つまるところ浮浪者が一般男性を通り魔的に殺害したと世間は、というよりも、警察や司法は判断したようだ。

 彼女が逮捕されてから五年後、つまりさいきんになって僕は二つの事件を改めてじぶんなりに調べはじめている。

 大量殺人事件のほうでは、関連書籍が刊行されていたりと情報源には困らない。知らなかったが、被害者たちはみなとある活動家を支援する会のメンバーだったそうだ。事件現場もそのための会合を開くために利用されていたようだ。

 活動家はいわゆる過激派と呼ばれる、公安にマークをされているような人物で、国から指定されているわけではないにしろ、被害者たちの参加していた会もまた、いわゆるテロリスト予備軍として危険視されていたようだ。

 だからといって殺されていいはずはないし、客観的に見れば犯人のほうがよほどテロリストだろう。

 ただ、あの事件には謎が多く、何か知られてはいない大きな事件が背後に隠れているのではないか、といった陰謀論が、どの書籍でも真面目に論じられていた。

 だがそこに、例のあのコ、僕がポチと呼んだ女性が起こした通り魔殺人事件を結び付けている著者はなく、やはり二つの事件は関係がないのかもしれなかった。

 あと数年もすると、僕がポチと呼び、共に一年を暮らした女性は刑を終えて釈放される。果たして彼女はその後に、まっとうな生活を送っていけるのだろうか。

 彼女の残した大金を、僕は手つかずのまま保管している。寄付もしなければ、警察に届けもしなかった。大金は、彼女が僕に残した、彼女の私物だ。ならば僕はこれを彼女に返す義務がある。

 僕は、たくさん人を殺したと自称する女性に脅されて、一年を共に暮らした。彼女はじぶんをポチと呼ぶように指示し、ペットだと思って、と命じた。だから僕はその言葉に従い、彼女をペットとして扱った。

 ポチはまだ生きている。

 ペットはたいがい、飼い主のもとから脱走して、いちどは行方を眩ませるものだ。しかしあいにくと僕は彼女がどこにいるかを知っている。会おうと思えば、すぐにでも会えるのだ。

 彼女はきっと赤の他人のフリをするだろう。

 犬というよりも猫にちかい彼女の性格を思いだし、僕はいちど希薄になって消えかけた我が愛玩動物への愛着を取り戻しつつある。

 僕はいちど、彼女に捨てられたと思った。最初から僕たちのあいだには何もなく、凶悪犯とそれに脅された可哀そうなじぶんがいるだけだと思い込もうとした。

 だがいまは、本当は彼女は僕を遠ざけたかっただけなのではないか、と思い込もうとしている。

 なぜだろう。五年も経ってからなぜいまさらそのような、彼女を庇うような、じぶんの思い出を美化するような真似をするのか。

 ふしぎに思いながらも僕は、きっと迎えにいくのだろう。ふたたび自由の空気を吸いこんだ彼女が途方にくれないように。

 本当は何があったのかを確かめるために。

 いまさら再会したところでどうせ彼女のことだから本当のことなど何一つとして口にしないのだろう。それでもいい。

 僕はただ、あのときの脅迫を受けつづける。

 彼女は僕に包丁の代わりに、一年間という同じ時間の共有を以って、僕の人生に干渉し、いまなおこうして切っ先を突きつけている。

 このまま彼女を忘れて、人生のそとに放りだしてしまうのが僕にとって一番いい選択だとは解っているけれど、それだと僕は死んだことになってしまう。

 僕は飼い主だ。

 じぶんの愛玩動物を庇護する義務がある。

 人であるために見殺しにはできない。彼女は僕の、人としての根幹に楔を打ち込んだまま姿を消して、人を殺した。

 せめてこの楔を取り払ってもらわねば、僕は人として生きることすらできないのだ。

 脅迫はいまなおこうしてつづいている。

 彼女に会って、この身に打ち込まれた楔を引き抜いてもらうほかに、僕が助かる術はない。

 夕方、スーパーに寄って出来合いの夕食を購入する。帰路を歩いていると、ポチ、と飼い犬を呼ぶ子どもの声が聞こえた。

 そちらを見遣ると、大型犬が子どもを引きずるように歩いており、どちらが飼い主かが判らない光景に、僕は思わずほころびる。

 犬と子どもは紐で繋がっていて、それはそうだよな、と僕はだいじな事項を心に刻む。

 つぎこそはポチにも首輪をつけておこう。

 ただきっと彼女は嫌がるだろうから、もっとちいさな、負担のすくない、指につけられる輪っかでも、この際、よしとしてもよい。

 ポチ、と僕は口にする。

 夕闇のなか、車道を横切る猫が歩を止めて、見開いた目で僕を見る。




【心に熔けた鋼を忍ばせて】


 組織の長はじぶんの判断に私情を挟むべきではない。個々人を守るために組織を維持補強し、より長くつづく安寧の土台を築く。私情を挟めば大義は失せる。組織を私物化しないためにも私情と組織存続のための判断は切り離して考えるべきだ。

 同時に、構成員の安全は何よりも優先して守る。規則に反しない限りそれを罰することも、軽んじることもしてはならない。

 組織を生かすために個を尊重する。

 個を守るために、組織を維持する。

 ゆえに、もし個を犠牲にしなければ組織を存続させられないときは、それを潔しとはしないまでも、不承不承その選択を取らざるを得ないのが組織の管理者としての絶対にしてゆいいつの義務だ。

 ある意味でそれは組織のために個を切り捨てることと同義だ。本来はあってはならないことである。責められて然るべきであるし、そうした長の判断を批判するのが組織の構成員に与えられた権利でもあるだろう。

 甘んじて非難される。組織を生かすためには進んで手を汚す。そしてその罪を贖いつづけていくしかない。そうした判断を下さなければならない局面が往々にして長には巡ってくる。

 ライバンはことし齢五十四になる男だ。彼は反社会的勢力対策の専門組織に属している。公的な機関ではない。民間企業だが、全世界の戦場を渡り歩いた傭兵たちと契約しているれっきとした部隊だ。

 ふだんは信頼の置ける十人に満たない少人数のみで活動している。どうしても部隊を動かさなければならないほどの大規模な依頼、作戦を実行する場合に限り、全世界に散っている傭兵たちを一挙に招集する。

 表向きは警備会社だが、いざ依頼が舞いこめば行う作業は守りではなく、攻めである。依頼主に仇をなす勢力の鎮圧および瓦解が最終目標となる。

 新しく依頼が入ったため、相手側と会うための支度をしていると、部下のジュリアがやってきた。年中眠たそうな彼女には珍しく神妙な表情を浮かべていたので、これは面倒ごとだな、と当たりをつける。

「ライバンさん、【障案(しょうあん)】が発生しました」

「そうかなと思っていたところだ。概要は?」

「以前の依頼主が不服申し立てをしてきたのですが、内容があまりに理不尽だったため突っぱねていました。今朝、相手方から脅迫ともとれる事象を確認し、障案認定しました。報告が遅れて申し訳ありません」

「申し立ての内容は?」

「我々が依頼を十全に遂行してしまったために、現在苦境に立たされているそうです。こうなったのは私たちのせいだと彼らは見做しているようで」

「イノシシを捕まえるために掘らせた穴にじぶんが落ちたからってそれを穴を掘った者のせいにするのはちょっとな」

「山の主たるイノシシを駆逐してしまったがために、山にべつの主が、クマが住み着いて困っているような話でした」

「そっちの比喩のほうが上手だね。で、脅迫じみた事象というのは?」

「今朝、新しい依頼要請が入ったのですが、標的対象欄に我が社の名前が」

「はっは。じぶんでじぶんの首を切って詫びろとそういう迂遠な非難かな。それはその問題の依頼主からなの」

「別名義ではありましたが、探知したところ、依頼発信者の居場所がその依頼主の本拠地周辺でした。十中八九そうではないかと」

「そこはもうすこし慎重に判断してほしいところだがね。この機に乗じて、我々にそいつらへの敵愾心を植え付けようとした第三勢力がいないとも言い切れない」

「はい。調査を進めておきます」

「まあ、いまのところは放置しておくしかないだろうな。ただもし今後きみを含めて、我が社の人員に危害を加えるようなことがあれば、それがたとえ恫喝であったとしても、三度目はない。そのときは社の威信にかけてそいつらにはそれなりの報いを受けてもらう。だからこれは障案ではなく、事案認定に格上げしといてくれ。明確に我が社への敵対行為と見做す。ただし、猶予期間は設けてやろう。元依頼主への我々なりのこれが誠意だ」

「かしこまりました。そのように進めておきます」

「うん。報告ありがとう。判断も順当だったと思う。助かったよ」

 彼女は一礼し、またじぶんの仕事に戻っていく。

 こうした障案は日常茶飯事だ。事案に発展する前に問題の種を刈っておくのが組織の長としては賢い判断だと呼べる。が、本当につぎからつぎへと障案は発生する。いちいちそれらすべてに人員と時間を割いて対処している余力はない。それこそ、仕事を一つ受け、完遂する過程で障案は副次的にぽこぽこと気泡のごとく生じる。むしろ障案が発生しなければ、そこには何かしらの作為があると考えたほうが利口だ。誰かの手のひらのうえで踊っている確率が高い。

 崖の側面に穴を掘っていっていちども固い岩盤にぶち当たらずに向こう側へとトンネルを掘れたとすれば、そこには元から穴が開いていたと考えるほうが利口だ。誰かがいちど掘った穴を埋め、我々にもういちど掘らせたのだ。或いは操り人形であれば、障害物を避けながら踊ることも可能だろう。

 新規に作戦を実行すれば必ず現場では、障案にぶち当たる。それが事案へと昇華されれば、奇禍として我が社に降りかかる。火の粉の雨を凌ぎながら火薬を運ぶようなもので、いつ大爆発を起こしてもふしぎではない。だが、そうならないようにするコツのようなものがあり、それがだから、障案のうちのどれに看過できない火種が内包されているのかを見抜く眼力、或いはそれを大局観と言い換えてもよい。

 組織の長には、俯瞰の視点と未来の視点の二つが入用だ。二つの視点を駆使し、大局を立体的に見渡さねばならない。どこに死角があり、何が最も面倒であるのか。

 面倒事は往々にして、障案を無数に放置していると抵抗が増す。面倒なことを面倒なまま放置しておかないことが組織運営のうえで基本の姿勢となる。

 新しい依頼主との初顔合わせは上々だった。とある組織を壊滅させたい。あくまで自然に瓦解したように仕向けたいが、できるだろうか、との相談だ。可能か可能でないかから言えば可能だ。しかし何も我が社はテロリストではない。その標的組織に、消えてもらうだけの理由があるのか、もっと言えばそれが社会全体の利益になるのかが依頼を引き受けるか否かの境目になる。

 大義は必要だ。

 どんなことであれ、それが仕事である以上、社会の発展に与さねばならないと考えている。建前だったとしても、それが仮にきれいごとにすぎなかったとしても、表向きはそのように見えるように工夫をしておくべきだ。

 ゆえに、単なる競合他社を貶めたいとの考えからの依頼ならば受ける道理はない。しかし依頼主はこちらが説明するまでもなくいくつかの資料を寄越した。そこには、標的組織が行ってきた数々の非合法の事業、もっと直截に言えば、犯罪行為の数々が記されていた。

「これだけの証拠があるならば、我々ではなく司法に訴えたほうが手っ取り早いのでは」

「これは私の憶測でしかありませんが、司法や行政と癒着している可能性があります。それら証拠を集めるために私どももそれなりの危険を犯しました。おそらく根は、私どもが見ているよりもずっと深いようです。なればこそ、迅速に対処し、芽吹こうとしている悪果の種には早急に消えてもらったほうがよい。私はそう考えています」

「単純な話、組織を瓦解させても構成員が生きていればまた組織は再編され得ます。そのリスクを考慮したうえでのご依頼でしょうか」

「現行の勢力を瓦解し、いちど組織ではなく一個人の集合体、烏合の衆にまで弱体化してもらえれば、あとは私どものほうで手を打たせてもらいます。きっかけとなる組織瓦解を、ぜひ偶発的な出来事として周囲のほかの勢力に認識してもらいたいのです。対組織の場合、私どもが動けば否応なく知れ渡りますが、個々人に対するそれならば、こちらにも相応の心得があります」

 つまり、暗殺には自信があるということだ。組織の場合、頭を失ってもまたほかの頭が生えてくる。組織を瓦解させるには、各部位を一挙に攻撃し、全体としての機能を損なうよりほかはない。生物と同様に組織は外部供給なくして生きながらえはしない。そういう意味では、資本を断つのが定石ではあるが、おそらくその手法では今回の標的には太刀打ちできないだろう。それほどに大きな組織だ。

「見積りとしての概算ですが、費用はこれくらいになります。ほかに予想外の事態への保険をかけるとなると、これに加えてさらにこうです」

 見積りをその場で書いてみせると、一瞬覗き込んだだけで依頼主は、構いません、と応じた。

「仕事をこなしてくださればそれで」

 商談は成立だ。今回は久方ぶりに部隊を動かすことになりそうだ。世界中から傭兵をかき集める。戦闘のためではない。工作活動の手駒としてだ。

 世の中から一つ組織を消す。内部から崩壊してもらえたら言うことがない。自滅したとしか見えないように導線を引き、火薬を運び、しかるべきタイミングで起爆する。簡単な仕事だ。むつかしいのは、それら計画の図面を引くことだ。

 基本、反社会的勢力対策の需要は年々指数関数的に増している。急成長の市場だ。依頼は何もせずとも向こうからやってくる。どうやって断ろうかと迷うほうが多いくらいだ。

 ライバンの行う最も重要な仕事は、考えることだ。組織を生かすため。存続させるため。社会のなかでの立ち位置を明確にするため。居場所を確保するため。できることがないかと、つねに思考の根を張り巡らせる。

 いちど会社ビルに戻り、あれこれと指示をだした。ついでに緊急レベルの高い報告書から順に時間いっぱいまで目を通す。ジュリアから、例の脅迫まがいの元依頼主についての子細なレポートがあがってきていた。それだけ最後まで目を通す。すこし厄介だな、といった印象を強める。件の組織が現在困窮している理由は、今回請け負った仕事に関連していた。我が社の標的となる強大な組織を瓦解させるとますます元依頼主との因縁が深まる。下手を打てば元依頼主、もはやクレイマーでしかないが、彼らに今回の仕事が我々の手によるものだと見抜かれる懸念すらある。見る者がピンポイントで見れば、そこから我が社に固有の勝ちパターンを喝破するのはさほどむつかしい作業ではない。ただ多くの場合、ピンポイントで事象を観測するということが偶発的には起こりにくい。それだけ目立たないように仕事を完遂するし、終わったあとでならば過程を観測されることもない。だがいまは違う。クレーマーと化した元依頼主は常に我が社を見張っている。弱みを握れないかと眼光炯々と射貫いている。

 何とかうまい対処法がないものか、と思案しながら退社し、その足で待ち合わせ場所に向かった。

「すまないね、待ったかい」

「ううん。いまきたとこ」

「どこかでご飯でも食べよう。お腹が空いちゃってね。きみはもう食べた?」

 サロエは首を振り、こちらの袖をゆびで掴んだ。

「急に呼び出してごめんね、仕事はいいの?」

「問題ないからここにきた。何か用があったんだろ」

 顔を伏せたまま口を閉ざしてしまった彼女の頭に手を伸ばすが、撫でてよいものか悩む。逡巡している間に、周囲の目が気になって、場所を移動することにした。

 店までは徒歩で向かう。個室完備で、非常口を確認済みの店だ。これまで一度も利用していない。誰かが盗聴器を仕掛ける懸念はこれで払拭できる。

 安全に利用できる店舗の確保は習慣化している。我が社は必然、敵が多い。じつのところ観測可能な範囲に、敵と呼べるほどの組織はないが、我が社に敵対し得る勢力であれば我が社が勘づいた折にはすでに何かしらの攻撃を行ったあとだと予期できるため、そうした敵対組織があるものと想定して常日頃の行動を選択している。雪崩は、雪崩が起きたと気づくずっと前から着々とその脅威を溜めこんでいる。

 店につき、簡単なコース料理を頼む。慣れない店構えだったのか、サロエはますます委縮した。

「いつもこんなとこで食事してるの」

「まさか。特別なときだけだよ」

「デザートこれ食べてもいい?」

「好きなのをどうぞ」

「やった」

 ちいさくガッツポーズを決めるその仕草が会うたびに健在で、変わらぬ純朴さに何とは言えないが救われた心地になる。

 料理が運ばれてくるまで最近観た映画の話をし合った。

 前菜とスープを空にしたころで、そろそろいいかと思い、水を向ける。

「で、何があったんだい。僕に相談か何かあったんじゃないのかな」

 聞いてみてもいいかい、と眼差しに乗せると、彼女はスプーンを置き、ナプキンで口周りを拭ってから、あのね、と話しだす。

 質問を挟まず、彼女が満足するまでじっと耳を傾ける。三十分ほどしゃべり尽くすと、彼女はようやくそこで、どうかな、とこちらに意見を仰いだ。

「まとめると、大学を休学して海外旅行に行きたいが、寮の方針で保護者の同意が必要だと」

「端折りすぎだと思う。それだとまるでサロエが海外旅行に行きたいってわがまま言ってるみたい」

「分かってるよ。ボランティアなんだろ」

「そう。卒業してからじゃなかなか時間とれないし、やるならいましかないんじゃないかなって」

「ツアーみたいなものなのか。団体行動っていうならまあ、分からないではないが」

「向こうで合流するから、旅行自体はサロエ一人でしなきゃなんだけど」

「安全面でやや不安があるね」

「そうなの。でも行きたいの。行ってみたいの」

 いまにも泣き出しそうな顔で見つめられたら、しょうがないのため息を吐くしかできないではないか。

「費用はあるのかな」

「だいじょうぶ。バイトして貯めてた」

「ずいぶん前からじゃあ計画してたってことだね」

「相談するの忘れててごめんなさい」

「本当に忘れてただけなのかな」

「だって最初に相談したら、何から何まで口出しされそうで」

「そりゃ心配だからね」

「サロエ一人でもちゃんとできるって証明したかったの」

「でも最後には保護者のサインが入用だったってわけだ。でも一ついいかな」

「いいよ。一つだけね」

「僕はきみの保護者なのかな?」

「ほかの人から見たらそうとしか見えないからだいじょうぶだと思う」

「親じゃないってバレたらたいへんなんじゃないか」

「バレないからだいじょうぶ。書面に書いた番号に確認の連絡はいくかもしれないけど、そこでライくんはちゃんと上手に保護者のフリをしてくれるでしょ」

「保護者をそんな呼び方してたら怪しまれるぞ」

「じゃあパパって呼ぶ」

「何だかそれも怪しい感じがするな」

「ライくんはだってお父さんって感じじゃないもの」

「そうかな」

「そうだよ」

 もうすっかり旅行には行く前提で話が進んでいる。本音ではできるなら近場でできるボランティアで満足してほしいところだが、おそらく言ったところで、それはもうしたからいいの、と言われてお終いだろう。彼女がこちらを頼るくらいだ、できることはだいたいすでに試しているはずだ。それくらいは浅くない縁だ、解かっているつもりだが、さて。

 ライバンは腕を組み、しばし黙考する。

「きみの人生のことだからいちいち首を突っ込んだりはしないが、保護者としてサインをする以上は、その時点で僕にも責任が生じる。旅行の日程と、毎日の連絡を欠かさないと約束してくれたら、きみの計画の共犯になってあげよう」

「わー、ありがとう。ライくんを頼ってよかった」

 言われて気づく。ここで断ってもつぎの保護者候補が彼女にはあるのだ。「つぎもぜひ頼ってほしいところだね」

「そうするつもりだよ。ライくんはやさしいから好き」

「これは甘さであってやさしさではないよ。厳しさのないやさしさは、単なる甘ささ」

「えー、じゅうぶん厳しいよ。ライくんにもっと厳しくされたらサロエ、ライくんのこと嫌いになっちゃいそう」

「いつでもどうぞ」

「おとなの余裕ってやつだ。ずるい」

 ひとしきり食事を楽しみ、タクシーを捕まえ、彼女を送り届けるように指定する。

「つぎに会うのは旅行から帰ってきてからになりそうだ」

「サロエはいつでもいいんだけどな」

「すまないね、仕事がいま楽しい時期なんだ」

「仕事中毒」

「お土産楽しみにしているよ」

「空港のおまんじゅうにしちゃお」

 ドアを閉めてやり、手を振る。彼女は澄ました顔で姿勢よく座っていたが、車が走りだすと、唇を窄ませながらも、手を振り返した。

 やさしいのはどっちだ、と胸の奥がくすぐったい。費用は足りていると言っていたが、彼女が旅立つ前に口座にいくらか振り込んでおくことにする。ビルの合間に曇天が見える。その曇天の向こうから、甘やかしすぎだ、と声が聞こえた気がしたが、つづけて轟く雷鳴に掻き消された。雨が激しく落ちてくる。

 サロエが海外に旅立った翌日には、ライバンの管理する組織は傭兵部隊を編成し、作戦は第二段階へと移行していた。

 標的組織は、この国の軍需産業を一挙に引き受けている誰もが知る大企業の子会社だ。大企業の傘下に無数に名を連ねる一中小企業にすぎないが、その権威は、裏社会にて絶大な影響力を誇る。武器商人の仲介役を統括し、運営しているのがその子会社だからだ。表向きはすべて合法だ。商品を顧客に売る。その卸売りの立場であったり、派遣会社よろしく仲介者を紹介したりと、行っているのはどの国のどんな市場にもみられる経済活動だが、その商品と、それを売買した結果にもたらされる社会への影響は、看過するにはいささか大きすぎる悪果を実らせる。

 ライバンの編成した部隊が行うのは、武器を買う側からの反感を極限まで高め、標的組織の内部から組織を瓦解させることである。

 傭兵たちの豊富な武器の知識があれば、比較的容易に子会社に採用され、内部に潜り込めるだろう。その際、身辺調査はされるだろうが、その辺りの改ざん作業はお手のものだ。

 作戦開始から完了までの予定期間は半年だ。

 作戦の規模の大きさからすれば破格の短さだが、長く時間をかければそれだけ痕跡を残す。今回はあくまで組織の瓦解が目的だ。関係者の誰一人としてこの世から消えることはない。むろん、依頼主たちの話しぶりからすれば、作戦終了後に、独自に何かしらの破壊工作を行うようだが、それはあくまで作戦外のできごとだ。起きるかも分からない不定の事象を計画に組み込むのは浅はかだ。それこそ障案の種となる。

 すべての関係者が今後二十年生きつづけたとしても、我が社の工作が発覚しないように、仮に発覚したとしても、しっぽを掴ませないように、証拠を残さぬように、短期間でケリをつける。

 作戦の概要としては、標的たる子会社の社員となった傭兵を介して、顧客に不信感を抱かせる。商品たる武器に細工をしてもいいし、どんな武器を誰に売ったのかを、顧客の敵対勢力に漏らしてもいい。また、仲介役たる武器商人たちの素性も別途に探り、あらゆる弱みを握っておく。最も有効なのは親族や、親しい友人、或いはペットの情報だ。じっさいに手を出さずとも、情報を握っているだけで脅しとして使える。むろん、そんな脅しに屈するような人間が武器商人なんて仕事をしているわけがない。だからこれは脅すための情報ではなく、これがあれば脅すことができますよ、と敵対する組織に流すための情報だ。火種はそこかしこにくすぶっている。燃えやすい火種を用意してやって、或いはちょっと背を押せしてやれば、山火事も雪崩も、狙い通りに起こすことは可能だ。

 まずは誰が敵で誰が味方かを分からなくする。疑心暗鬼の渦を巻き起こす。

 その動画がサロエからの定時連絡で送られてきたのは、作戦が開始されてからちょうど三か月が経とうとしていたときだった。あとは引いた導線のどこから火をつけるか。戦略の最終段階、作戦の佳境に入っていた。

「ライバンさん、何かあったんですか」

 ジュリアに声をかけられ、メディア端末を仕舞う。

「いや、時間を見ていただけだ。なぜ?」

「いえ、顔色というか、物凄い形相をされていたので」

「欠伸を噛みしめてたんだ」「ああ」

 しばらく時間あるので仮眠でもどうぞ。

 言い残し、ジュリアは情報解析室のほうへと歩いていく。

 ライバンは個室に入り、ロックをかける。そこでいまいちどメディア端末を取りだし、さきほどの動画を再生する。

 サロエの仕事風景だ。地元の子どもたちに算数を教え、井戸掘りを手伝っている。村の女性たちに倣って料理をし、さらに男衆に交じって弓矢を引いている。腕がよいのか、喝さいの的だ。ボランティアに精をだしている姿が、遠巻きに、第三者の視点で撮られている。全部で一分半ほどの動画だったが、最後に、寝室だろう、ドアを開けたさきには闇が、そしてライトの照らすさきにはベッドで眠るサロエの姿がある。

 動画は、そこでサロエのメディア端末を使って、こちら宛てに動画を送り付けるところまでを短く編集して映しだされていた。

 サロエの仕組んだことではない。サロエを隠し撮りし、寝室に侵入し、あまつさえ彼女の私物を漁った人物がいる。

 明確にこれは脅しだ。

 サロエとの接点は可能な限り消してきた。唯一の例外は、直近では、三か月前の会食のときだ。滅多にないサロエからの誘いのうえ、仕事が立て込みそうな気配があったために、会えるときに会っておこうと気を緩めてしまったが、おそらくあのときに尾行をされたのだろう。だとすればこの間、サロエの身辺調査を通してこちらの素性も相応に筒抜けになっていると身構えていたほうが身のためだろう。あいにくとしかし、サロエから辿れるこちらの側面像には限りがある。せいぜいが名前と年齢、そしてサロエに偽って教えている仮初の社会的地位が判るのみだ。

 だが、サロエとの関係を知られたのは非常にマズい。

 彼女を脅迫の出汁にされれば、こちらは相手の要求を突っぱねる真似はできなくなる。ライバンは時計を見やる。つぎの報告会まで時間がない。つぎに仕事以外のことに思考を割けるのは、この仕事をすべて終えたときだろう。それまではほかのことに、それがたとえサロエのことだろうと思案している暇はない。

 今ここで、この事案をどうするかの判断をくださねばならない。

 だがサロエのことは明確にライバンの不覚だ。そしてサロエはこの組織とは関係がない。ハッキリ言ってしまえば、私情にすぎない。じぶんの私情で、仕事を、作戦を、部下たちを危険にさらす真似はできない。

 要求がないことから、おそらく私怨だろうと判断を逞しくする。動画を送りつけ、いつでもおまえを苦しめることができる、たいせつなものを奪うことができるぞ、とみずからの力を誇示したいのだろう。そうした輩への対処は往々にして、好きにしろ、と突き放すことだ。サロエを殺傷するならすでにしている。それをしない時点で、相手にはまだ、サロエを傷つけようという気がないと解釈できる。

 ゆえにここはまずは、相手の思惑にハマったように見せかけるために、慌てふためいてみせたほうが利口ではある。相手の思うつぼを演じれば、いずれは留飲を下げ、要求らしい要求をしてくるようになるかもしれない。

 希望的観測だ。これが職務上の事案ならば、いまからでも兵隊を動かし、問題解決の糸口を探すところだが、そうもいかない。

 作戦完了までの時間を稼ぐべく、相手の思うつぼを演じておくのが妥当だ。

 最悪、サロエを深く傷つけ、失うかもしれない未来を想像する。耐え難い未来だが、しかし組織の長として、優先すべきは決まっている。いまの組織を率いることになったときに、いずれこうした事態に遭遇するだろうことは覚悟していた。

 最も大切な身内を喪うことになっても、優先すべきは我が組織だ。

 民を救うためには国という仕組みがいる。一人を救うためにその仕組みを擲てば、回りまわって何千倍、何万倍もの人々の人生が狂い、ときに失われる。個を守るためには、仕組みがいる。組織がいる。

 個の命を、生活を重んじるからこそ、何を優先すべきかはおのずと決まってくる。むろんこれは、組織の長だからこその葛藤であり、判断だ。組織に属する一構成員であるならば、組織を犠牲にしてでも個を守れ、と訴えるだろうし、そうあってほしい。

 サロエにはわるいことをした。この償いは一生していくしかない。

 だからといって、いま手掛けている仕事を、作戦を、部下たちを、危険な目には合わせられない。

 それはライバンが組織の長だからだ。

 判断を下したあとでも、ほかに道はないかと、同じ考えをぐるぐると巡らせている。

「休めましたか」気づくととなりにジュリアが立っていた。無意識のうちに個室を出て、会議室のまえに移動していたようだ。「十時間は寝た気分だ。夢のなかでハワイの波でサーフィンをしたよ」

「それはステキですが、もっと緊張感を持ってください」

「きみが言うならそうしよう」

 じとっとねめつけられ、両手をあげる。降参のジェスチャーだが伝わったかは不明だ。扉をくぐった彼女のあとにつづく。

 一通りの情報を整理する。ジュリアがそれらを読みあげ、続けて各セクターの管理者からの意見を集める。その後、作戦の第三段階の確認をし、戦略実行の号令を発する。

 この日、世界中の紛争地から一時、銃声や爆発音が消えた。刹那の平穏は、嵐の前のしずけさによく似ていた。

 通常、どんな軍隊も武器商人に牙を剥くことはない。いちどビジネス関係をご破算にしてしまえば、あとはもうどのような武器も手に入らなくなる。戦はどの時代でも消耗戦だ。かつては兵糧の差がそのまま戦力差として計上できた。いまは武器の量が戦力差として表れる。

 だが今回、全世界の紛争地で、武器商人たちに銃口が向けられた。本来敵対することのない死神と殺戮者たちが睨みあった。

 ライバンに残された仕事は、死神と殺戮者のどちらに加勢し、どちらを弱体化させるかだ。微妙な火力の調整にある。むろん死神が劣勢になれば、死神のほうでもいっさいの取引を、殺戮者たちとしなくなるだろう。そうなれば困るのは殺戮者たちのほうだ。死神たちには、死神としての力を振るうための後ろ盾がある。すなわちそれこそが我々の標的となる。

 死神たちに後ろ盾を頼らせる。頼られたほうは黙ってはいられないが、かといって直接大きな動きはできない。何せ、組織にとってだいじな顧客は死神ではない。死神たちが死神としてこの世に君臨できるのは数多の殺戮者たちがいるからだ。金を直接運んでくるのは死神だが、それは元を辿ればすべて殺戮者たちが搔き集め支払った金と言える。湖とバケツ、どちらが真実に水を恵んでいるのかは考えるまでもない。

 つまり、死神たちが後ろ盾を頼った時点で、死神たちの生殺与奪の権は握られたも同然だ。組織は殺戮者たちを無下にはしない。半面、殺戮者たちは、死神を含めて、武器を扱う商人たちへの不満を募らせる。

 死神たちにしたところで、そもそもの発端は、元締めたる組織への疑心暗鬼だ。そこで誠意ある対応をされなければ、言い換えれば殺戮者たちからじぶんたちを守らなければ、組織への不信感は確固たるものとなる。

 元締めにあった絶対的権力が緩やかに、しかし確実に崩れはじめる。

 そこで最後の一押しだ。

 内部告発の体で、組織内部から各国の諜報機関に、現在起きている混乱を詳細に密告する。武器商人と戦争屋たちのあいだで軋轢が広がりつつあり、その発端が元締めたる軍需産業の管理企業だと知らしめる。

 各国の諜報機関はここぞとばかりに作戦を練り、何かしらの行動を起こすだろう。すでに何かしらの異常が、武器商人たちのあいだで起きていることは察知しているはずだ。

 根本的な話として、武器商人が武器を世界中にばら撒かなければ、テロリストたちはただの誇大妄想狂だ。そこへ武器を運ぶ者たちがいるからこそ、紛争の火種は各地で燃え盛り、世界中で軍隊の必要性が増す。

 軍隊とは国家を守るための組織だ。外敵が国家の安全を揺るがすからこそ、軍隊を強化する言い分が成立する。制圧可能なテロリストは、軍隊を強化するための方便としてはむしろなくなっては困るちいさな火種と言ってよい。

 各国の諜報機関は、おそらく武器商人たちに接触し、己が国家の子飼いの軍需企業を紹介し、匿うはずだ。それを囲うと言い換えてもよい。

 そうなれば、標的たる組織は顧客と信頼をいちどきに失い、企業としてやっていけなくなるはずだ。テロリストを含めた戦争屋たちからの報復にも怯えることとなる。

 そうなればもう、傾いた経営を立て直すのは至難だ。むしろ畳んでしまって、解散するほうが身の安全を確保できる。

 通るべき道は見えている。あとは障害物に足を取られぬように、怪我をせぬように、目標地点までまっすぐに向かうだけだ。

「順調ですね。不気味なくらいです」ジュリアが横に立つ。彼女はいつも足音を立てずに接近するので心臓にわるい。

「いちおう警戒しておこう。現在の未解決の障案および事案は?」

「例のクレーマーは泳がせたままですが、大きな動きはまだありません。事案については、数人の兵隊が公安にマークされたようですので、前線から離脱させ、国外へと逃がしました。すでに各国の諜報機関からは目をつけられていると思われます」

「だろうな。やつら情報が欲しくて苛立ってるようだ。お望みの品を届けてやろう。いけるか」

「手配済みです。ライバンさんの許可さえいただければいますぐにでも」

「よし。やれ」

 このときを以って作戦および戦略は最終段階に入った。よほどの事態が起きない限り、このままライバンの引いた図面に沿って仕事は否応なく終焉を迎えるはずだった。

「社長、あのこれ」

 別れたばかりのジュリアが慌ただしい様子で戻ってくる。「見覚えありますか」と言って見せてきたのは、サロエの画像だ。一枚ではない。どの画像にも束縛されたサロエの姿が映しだされている。

「社長に見せろ、とメッセージがいっしょに。差出人は不明です。この少女、お知り合いの方ですか」

「いや」

 弱みを見せまいとする自己保身がまず働く。それから、いったい何が狙いだ、とそれを送り付けてきた相手の思惑を推し量るが、なかなか明瞭な像は浮かばない。

「ほかにメッセージは。要求はあるか」

「いえ。ただ社長に見せろとだけ」

 よくない兆候だ、と思った。通常、脅迫には要求がつきものだ。しかしそれがない場合は、端的に報復の意味合いがつよい。つまるところ、破壊が目的だ。どうあっても傷つけるとの悪意のそれは塊と言ってよい。

 サロエを救出する策を何かしら講じなければ十中八九、彼女はこのさき無事では済まされない。おそらく段階的にサロエを痛めつけた動画が送られてくるだろう。或いは、身体の一部が切り取られ、送付されてきてもふしぎではない。

 たしかにサロエはライバンの弱みだ。

 一個人としてならば、サロエを人質にされれば、どのような交渉にも応じただろう。だがいまは組織の長として二十四時間のすべてを注いでいる。仕事が完了されるまでそれが解かれることはない。

「放置しておいて問題はない」

「ですが、お知り合いなのでは」

「まったく知らない少女だ。だが、そのようないたいけな少女を痛めつけるような輩は遠からず自滅するだろう。そうだな、いまの仕事が終わったら警察にでも通報しておいてやれ」

「いまじゃなくていいんですか」

「いま我が社の近辺にどんな些細なことであれ警察が介入してくる事態は避けたい。それはきみも充分承知しているだろう」

「この少女を見殺しにしろということですか」

「殺されるかどうかも分からんし、真実に拉致監禁されているのかもその画像からでは判断できない。赤の他人である少女を救出するにしてもまずは様子を見たほうがいいと言っているだけだ。反応した時点で弱みだと相手に知られるようなものだ、効果はないと厳乎な態度を示すことが我が社のとるべき選択だ。きみなら言うまでもなく了解していることだろう、なぜそう食い下がる」

「いえ。社長がそれでよろしいなら構いませんが」

「仕事が佳境だ。十全に終わらせよう」

「かしこまりました」

 不服そうに言い残し、ジュリアは去った。心なし足音が重く聞こえた。

 嘆息を漏らし、ビルの窓から夜景を望む。

 冷酷だとじぶんでも分かっている。だが以前、サロエの盗撮動画を送られてきたときからこうなるだろうことは予期していた。あのときに何かしら策を弄していれば、ほかの勢力にサロエの存在を知られただろう。救出するには部隊を動かす必要がある。社の長としての権威を使うことになる。そうなれば否応なく悪目立ちする。のみならず、私情で部隊を動かせば、我が社を見限る傭兵もでてくるだろう。仕事に支障がで兼ねない。

 ゆえに、あの時点で最悪の結末を想定しながら、何もしない道を選択した。

 サロエを見殺しにする未来を受け入れる臍をあの時点でライバンは固めていた。いま手掛けている仕事が終われば、けじめはつけさせてもらう。サロエの負った傷、受けた恐怖、損なわれた時間、このさき引きずりつづけるだろう悪影響の諸々を残さずすべて清算させてもらう。それでサロエが救われることはないが、同じ目に遭う者は今後でてこなくなるだろう。きっちりと報いは受けてもらう。

 それは脅迫してきた相手だけでなく、ライバン自身も同じだ。

 たったいちどの判断ミスが招いた悲劇だ。サロエへの情を優先し、じぶんを律しきれなかった。だからあんな無防備な状態で会ったりしてしまった。

 サロエの身の安全を思えば、そもそも彼女には金銭的援助のみをしていればよかったのだ。それをじぶんの欲望に流された。縁を繋ぎ留め、彼女との仲を深めようと考えてしまった。

 おまえは何も学ばないな。

 夜景に浮かぶ満月は眩しく、その奥から懐かしい声が聞こえた気がした。

 戦略的撤退を各地に派遣した兵たちに指示したのは、予定よりもひと月も早い時期だった。各国の諜報機関が思った以上に活発に動き、こちらがこれ以上手を加えずとも遠からず標的組織は瓦解するだろうと予期できた。

 とはいえ、これはあまりよい展開とは呼べない。依頼内容から逸脱してはいないが、各国の諜報機関がこれほどに大々的に動くとなると、瓦解した組織の構成員は当然マークされ得る。そうなれば依頼主が企てていただろう、後処理にも好ましくない影響が残る。端的に、手を出しにくくなる。

 もっと言えば、各国の諜報機関が標的組織を吸収し、潰さぬように立て直す事態もあり得る。そうなれば依頼内容そのものが達成困難になり、契約不履行として賠償金の支払い義務が生じる。今回はただでさえ部隊を動かした。経費だけでも馬鹿にならない。資金に余裕はあるとはいえ、今後の活動に大きな爪痕を残すのは必須だ。

 軌道を修正せねばならない。バランスを見直す必然性に立たされた。

 各国の諜報機関が跋扈しても、確実に標的組織が瓦解する結末へと誘導せねばならない。しかし、諜報機関相手に情報戦を仕掛けるほどの準備も時間とてない。長引けば長引くほど経費がかかる。期限は残り一か月。それでダメならば賠償金を払ってでも、仕事を打ち切らねばならない。そうでなければ、深みにはまり、渦中に身を投じることになり兼ねない。

「この仕事、渦中をどう生みだすかが要と言っていい。渦の中心になることだけは避けねばならない。いつだって水に石を投じ、ときに水を抜いて、或いは流れを妨げ、渦をつくる。渦に巻き込まれたら一巻の終わりだ」

「だからってここで撤退すれば我が社は」ジュリアが歯噛みする。彼女にだけはまっさきに社の命運がどこで分かれるかを、今後の方針を話しておく。彼女になら社を任せられるといつのころからか考えていたが、そろそろ本腰を入れて後釜に据える意思があることを話しておくころかもしれない。

「分かっている。信頼を失い、つぎからの仕事も当分入ってこなくなるだろう」

「でしたら」

「飽くまで最悪の事態を想定してのことだ。いまのところ我々の計画は完遂間近だ。ただ懸案事項及び、不確定因子が増えすぎている点は看過できない。いまのうちに不測の事態に備えて、最悪の事態に備えておく必要がある」

「いま標的を瓦解させるのはダメなんですか」

「そうすれば十中八九、大国の諜報機関が乗っ取るだろうな。鳶が油揚げをかっさらうどころの話ではない。そうなれば依頼主の目的は果たせなくなる」

「ですが契約にかような項目はありません。我々が依頼主のその後を案じる義務はないのでは」

「ないな。だが、これは仕事だ。依頼主に最終的になしたい目的があるならば、そこに繋がるように契約を果たしてこそ、ビジネスと言えるのではないか。我々は反社会的勢力ではない。それらに対抗する組織のはずだ。であればまず、我々がまず、社会倫理に則りまっとうにビジネスをする道理があるはずだ」

「それはそうかもしれませんが」

「諜報機関が動き出している旨はすでに界隈には周知だ。もうすこし情報を恣意的に流し、諜報機関の存在を強調してみるか」

「諜報機関が標的組織を瓦解させたと周囲に思い込ませると?」

「おそらくそうなったとしても、諜報機関のほうでは否定しないだろう。実際に手を下したか否かは不明だし、仮にそう認識されたとしても機関の権威があがるだけだ。不名誉な形でなければむしろじぶんたちの手柄だと向こうさんから認める声明すらだすかもしれん」

「そうでしょうか」

「分からんが、我々がいますべきことは、着地点を探すことだ。当初の計画では、標的組織の瓦解はあくまで偶発的なものと見做される必然性があったが、諜報機関が暗躍しはじめたいま、すべてを彼らのせいにできる環境にある。諜報機関はいわば自然災害みたいなものだ。被害を受けないように身を守る術はあるが、それを今回、標的組織はおざなりにした」

「だから瓦解したと周囲に思わせればよいわけですね」

「依頼主たちの作為をまったくどこからも感知されないことが重要だ。そこは契約内容にも反しない。依頼主たちの目的にも沿うかたちで仕事を完遂可能だ」

「では、動機をつくってみてはどうでしょう」

「いい案だな。俺もそこを考えていた。諜報機関が動くだけの理由を、標的組織につくってやればいい。武器商人たちという隠れ蓑で以って、テロリストたちとの繋がりを表向き消してはいるが、実質やってることはテロリストの支援だ。戦争屋たちの援助なんだ。そこをハッキリと示す証拠を提供してやれば、諜報機関も動きやすく、なおかつ破壊に動くだろう」

「ケーキに毒を盛る、これはそういうお話ですね」

「ああ。わざわざじぶんのものにしようとは思わないように仕向ける。かといって放置はできない。そういう構図をつくりあげる」

「ならば私に一つ案があります」

「なんだ」

「お任せいただけませんか」

「俺にも説明できないことなのか」冗談だと思い失笑してみせるが、彼女は意固地な眼差しを寄越したままだ。「それは許可できんな。社の命運がかかっている。俺に言えない案ならそこまでだ。任せるわけにはいかない」

「信用してくださらないのですか」

「信用はしている。それとこれは話が別だ。俺は社の判断を下すときは必ずきみに相談し、打ち明け、同意を得てきた。俺に何かあったときはきみにこの社を任せる気があったからだ。だがその判断もいま揺らいだよ。組織の長は独裁者ではない。そこをはき違えてくれるなよ」

 そこで彼女は目を見開いた。意外だったのだろう。それとも内心では独裁者だとでも思っていたのか。

「すみません、その通りです。じぶんの能力を買い被っていました。訂正します。一つ案があります。聞いてくださいますか」

「ありがとう。聞かせてほしい、どんな案だ」

 そこで彼女はこちらが思いもつかない発想で、一つの打開策を口にした。

「それが上手くいけば確かに我が社にとって、ひいては俺にとっても最善の結末にできるが、ジュリア、それはいま閃いた案ではないだろ。いつからだ」

「ライバンさんは一つ勘違いしておられます。私たちはたしかに我が社のいち構成員でしかありあませんが、それは何も私たちだけでなく、ライバンさんですら例外ではありません。組織は一人のために、一人は組織のために。ライバンさん――社長は我々のためにいつだって最善を尽くしてくださいます。誰一人として犠牲にしようとはしません。我々とて同じです。ライバンさん一人に社の命運を背負わせるなんて真似、断じてさせませんよ」

「わるいが、俺は社のためなら一人の構成員を犠牲にするのも厭わない。それこそ買い被りだ」

「そうですね。ライバンさんは、じぶんという一人ならいくらでも犠牲にするでしょう。申し訳ないですが、あの少女については調べさせてもらいました。ライバンさんのご友人のご息女だそうで。ご友人はすでに他界なさっているようですが、それとあのコを庇護していることとは関係がありますか」

 嘘を吐くこともできたが、誤魔化すには懐に入られすぎた。よく短期間でそこまで調べ上げたと感心すらする。ライバンは苦笑する。よく俺にも気取られずにそこまで、と。

「関係はある。だがそれはさほど重要ではない。いまはサロエを人質にされていることが重要だ。動機がどうであれ、拉致監禁は犯罪だ」

「それ以前に脅迫も犯罪です」

「そうだな。犯人が誰だか見当はついているのか」

「ライバンさんのほうでもそれなりについているんじゃありませんか」

「例のクレーマーか?」

「でしょうね。調べてみたところ、やはり例の企業は我々の標的組織のいまは末端企業に属しています。我々を監視するなかで、我々がどこを向いているのか、何をしようとしているのかくらいは憶測であれ、目星はついたかと」

「だが決定的な証拠までは見つけられず、ひとまず揺さぶりをかけてみた、といったところか」

「人質をとったのは敵ながら迂闊だったのではと」

「そうだな。飽くまで間接的であれば、脅迫行為を逆手にとって我々が行動することもなかった。我々を脅迫したつもりで、自ら墓穴を掘った。そんなだから何をやっても上手くいかないんだと助言の一つでも呈してやればよかったかな」

「我が社もひとのことを言えるほど上手くいっているわけではありませんけどね」

「それはそうだ」

「では、私の案で一つ終止符を打つということで」

「終止符を打つなんて言葉、いま初めて聞いたな」そんな言葉づかいをする人間を見たことがなかったため、冗句を言ったつもりだったのだが、彼女はそうは捉えなかったようだ。それはそうでしょう、と眼鏡をはずし、ハンカチで拭うと、装着し直しがてらこう述べる。「終止符なんてもの、打たれたらもうその後はふつうありませんから」

 我が社のこれからすべきことはおおまかに三つだ。一つは、現状の依頼主に説明をして、いちど契約を解いてもらう。完全に無関係の状態をつくってから、二つ目に、部隊の再編制だ。我々を脅迫した不届き者を討伐すべく、本格的に、面と向かって、堂々と、陰に日向に、あらゆる手段を講じて迎え撃つ。表向きは、人質救出の名目を掲げる。サロエがいまどのような状況にあるのかはしかし、不明だ。ひと月前に拉致画像がいちど送られてきたが、それ以来音沙汰がない。こちらが無反応ゆえ、相手側も出方を伺っていたと見るのが妥当な解釈だが、予断は禁物だ。罠を仕掛けるのに時間をかけているだけかもしれない。

 拉致画像が送られてきてからすでにひと月が経つ。真実にサロエが拉致されていれば、精神的にも肉体的にも極度に疲弊している頃合いだ。世話係がいるならば、心を開き、自身の生い立ちからこちらの側面像まで、知り得る情報をあらかた吐露し終えているころだろう。だがその点は抜かりはない。サロエに話した身の上話に真実は一つも混じっていない。彼女の母親との関係にしろ、従弟だと偽っているくらいだ。

 ライバンは最後の準備に手を焼いた。

 脅迫犯をこらしめ、なおかつサロエを救出する。その過程で、そもそもの標的である軍需企業へと矛先を変える筋道をどうしても固めきれない。情報が足りない、それもあるが、一番の理由は、真実にサロエを拉致監禁したのが、我が社のクレーマーこと元依頼主なのかの断定がまだついていない点だ。

 ジュリアの案は言ってしまえば、我々が大義名分を得て、独自に、我が社の意思で、標的たる組織に喧嘩を売ることにある。

 依頼主から依頼を受けての行動の場合、そもそも我が社の関与が疑われては困る。しかし、どこかの不届き者が我が社に脅迫を仕掛け、その元締めが誠意ある態度を示さず、知らぬ存ぜぬを押し通したならば、こちらにもそれなりの手段を講じる名分が生じる。建前に過ぎないが、我が社に喧嘩を売った不届き者が現れたのは偶然であり、依頼主の依頼とは関係がない。つまり、偶発的ななりゆきで、我が社がじかに、標的企業を瓦解せしめることが可能となる。

 単純な武力ではさすがに分がわるいが、標的組織はすでに混乱の渦中にいる。戦力たる武器商人たちから盛大に不信感を買い、本来護衛の役割を果たすはずの戦争屋たちからも非難されている。

 加えて、各国の諜報機関にこちらの戦略の一部を流す。上手いこと手をださずに見守ってくれれば御の字であり、邪魔立てしてくるならば、こちらも相応の札を切らせてもらう。この期間、各国の諜報機関は標的組織へと工作活動の数々を行ってきた。それら情報をジャーナリストどもに子細に送り付けてやるのは最も効果的な切り札の一つだ。むろん実行する前にその旨を告げてやる。ちなみにこれは親切であって脅迫ではないが、相手側がどう解釈しようがそれは相手側の自由だ。

 我が社は堂々と、弱体化した軍需企業に人質救出を大義とした報復行為を実施すればよい。

 ただしこれらジュリアの案は、前提条件として、サロエを拉致監禁した犯人グループが我が社のクレーマーこと、元依頼主でなければならない。標的組織の末端企業であるそこの組織が我が社へと脅迫を行ったと誰が見ても明らかな状態にしなければならない。

 そのためには、まず脅迫にいちど反応し、犯人グルールと接点を持つ必要が生じる。だがいまさら連絡をとっても怪しまれるだけだろう。連絡がつくかも定かではない。

 サロエの拉致画像は見ていなかったことにしよう、と決めたのは、ちょうどサロエが海外ボランティアから戻ってくる期間をすこしすぎたころのことだ。

 なかなか戻ってこない身内を心配し、捜索した。その過程で、拉致監禁に気づいた体でいれば、ひとまずの解釈は用意できる。脅迫状たるサロエの拉致監禁された姿の画像は、部下が迷惑メールと間違って削除していたことにすれば、すくなくともすぐにそれを喝破することは犯人グループ側にはできない。なにせこれまでの期間、何の反応もこちらは示さなかったのだから。

 サロエを捜索し、初めて事件に気づいたことにする。拉致監禁に気づいていない体で動き回れる分だけ、だいぶん楽だ。犯人グループへの配慮は無用で、好き勝手にサロエを探し回れる。現地に兵隊を送ることもできるが、これは本来ならばライバンが最も行うことのない会社の私物化である。しかしライバンの信条を犯人グループが知っているとは思えず、そこは強引に、一般的な常識の範疇での捜索を是とした。

「犯人グループは焦るでしょうね。まったく警戒することなく堂々と人質を捜しはじめたんですから」

「何かがおかしいとはすぐに察するだろう。アイツらまだ誘拐に気づいてないんじゃないか、脅迫に気づいてないんじゃないか、と思ってくれれば御の字だ」

「向こうからきっとまた何らかのアクションがあるでしょうね」

「あるだろうな。真実にサロエが誘拐されていれば、だが」

「されていない可能性をライバンさんはお考えだったんですか」

「可能性は低いが、なくはない。画像なんていまはいくらでも編集できる。人質を囲いつづけるってのは金もかかればリスクも高い。そうおいそれととれる策じゃない。サロエからの定期連絡が途絶えて久しいが、武器商人どもと繋がった組織の犯行だとするなら、ジャミングくらいは簡単だろう。サロエは定期連絡をしてるつもりで、じつはメッセージは正常に送れていなかったとしてもふしぎではない。俺のほうでも律儀に返信をするタイプではなかったからな。サロエのほうでも機嫌こそ損ねはするだろうが、不審には思わん」

「ライバンさんが返信をおろそかにするなんて想像できませんね」

「俺はこう見えてもずぼらなんだよ」

「いえ、ずぼらなのは見たままですけど」

「口が達者になったな」

「おかげさまで」

 結論から言うと、サロエは無事だった。逗留地を襲った嵐の影響で、滞在期間が延びていただけだった。やはり犯人グループはサロエに直接手をだしていなかったのだ。偽の情報を送りつけて様子を見たに違いない。慌てふためけばその分、こちらにとってサロエがだいじな娘だとの傍証になる。反応がない場合は二つの可能性を考慮するだろう。メッセージそのものが届かなかった場合と、メッセージを見たが偽物だと喝破したかだ。その実は、単に対策を講じるだけの余力がなかっただけなのだが、それは相手の知るべくもない情報だ。順当に考えれば、可能性の高い二つを念頭に置きつぎの行動に移すだろう。つまり、様子を見る、だ。

 メッセージが届かなったのであれば何も起きないが、仮に偽の情報で恐喝したのだと露呈した場合は、報復行為があってしぜんだ。その見極めのためにいくらか時間を置くはずだ。そしてその間に、じぶんたちの後ろ盾たる親会社がたいへんな状況に立たされてしまい、嫌がらせをしている場合ではなくなったのだろうと、これはやや楽観的な見方だが、一つの筋の通った解釈としてあり得そうだとライバンは見做す。

 筋が一つとも限らない。ほかにもいくつかの不可視の布石が、事態を複雑にしている可能性は、これは現実というものの複雑性を思えば、それほど的外れな警戒とは呼べない。

 だが現状、あらゆる可能性を考慮しながらも、策を講じ、実践していかねばならない。最悪と最善と妥協案をその都度見繕いながら、目的達成へ向けて歩んでいかねばならない。ときには立ち止まり、最終目的を、すなわち指針を確かめることも有用だ。

 それはどんな仕事でもそうだ。いまだからというわけではない。

 予測不能な分水嶺をいくつか内包してしまうが、どっちに転んでも構わないように策を講じる。

 サロエを救う。敵の尻尾を掴む。親玉に揺さぶりをかけ、決裂するように仕向けたのち、実力行使で、根こそぎ討伐する。

 かつてこなしてきた仕事と変わらない。むしろ大手を振るって部隊を動かせる。実力を示せる。社の広報にもなって棚から牡丹餅の気分だ。

 あらゆる可能性を悲観的に考えながら、その裏でじぶんを鼓舞し、目的達成までの気力を奮い立たせる。

 いざ戦略を展開し、蓋を開けてみれば、ライバンの見立てはおおよそ当たっていた。想定外なのは、サロエのいっさいが無事だったことだ。

「無事ですが、足取りが掴めません。現地はすでに発っているようで。何者かに拉致された可能性も」

 ジュリアの心配をよそに、会社宛てにメッセージが届く。彼女は無事だ、からはじまる文面は終始礼儀正しく、それでいてじぶんがどこの誰で、どんな組織にいて、なぜこんな真似をしたのかが詳らかに書かれている。一瞬、告発文か何かだろうか、と見間違えそうになったくらいだが、文面にある企業名が、例のクレーマーかつ標的組織の子会社だったため、なるほど、とそこに滲む意図を察する。

 内通者からのこれは招待状だ。或いは、導きとも言える。

 どの国の諜報機関かは知らないが、これは手引きだ。標的企業内部に属する者の手で、じっさいにサロエを拉致させ、明確な脅迫を行わせた。

 サロエは無事だが、拉致監禁と言ってもよい扱いを一定期間されるだろう。新型ウイルスの感染疑いがあるために二週間ほど隔離処置をします、と言われれば、サロエのことだおとなしく従う。

 クレーマーには前科がある。組織内で、ライバンの会社に圧力をかけろと指示がでていたのは明白だ。二度目があってもおかしくはなく、じっさいに企業関係者の手によって行われた犯行となれば、ライバン側の大義は充分に確立される。

 何かしらの司法取引でもあったのかもしれない。じぶんだけは罪に問われずに済む代わりに、諜報機関の言うとおりにする社員がいてもおかしくはない。

 これは暗に、早く終わらせろとの指示であり、我々は手を出さないとの宣言でもある。

 あらゆる線が一本に繋がった。大義もある。あとは揺さぶりをかけ、相手からこっぴどく無視されるなり、非難されるなり、交渉の余地もない状況をつくりだせば、待ち受けるのは世界有数の軍需企業との戦争だ。

 ライバンの企業理念は世界平和であり、ひいては戦争なき世界の実現であるから、戦争と表現するのは本意ではないが、戦い、争うという意味では、戦争としか形容のしようがない。

 サロエを救出する。

 標的組織を打倒する。

 依頼主の要望は適い、世界の軍事バランスがほんのすこし修正される。

 その結果良い方向に社会が転がるかは定かではない。

 だがすくなくともこれまでのようなやり方ではうまくいかないことは証明される。問題が発生したら対策が練られる。因縁を生まぬように、禍根を残さぬように、より長期的な利益を追求する姿勢が、ライバンのこれから行う仕上げによって強化される。

 やっていることそのものは戦争屋と変わらない。諜報機関と五十歩百歩だ。

 じぶんたちを正義だと言うつもりはない。暗殺者と何が違うのか、と疑問に思うからこそ、サロエには絶対に打ち明けないと決意している。

 危険に巻き込むから話さずにいるのだ、といった詭弁もこれまでなら成立したが、すでにもう十二分に危険な目に遭わせてしまった。

 彼女にじぶんの素性を正直に話せないのは、十割、じぶんの側面像が血にまみれ、穢れているからだと自覚しているためだ。

 ただ、真っ向からそのことを認めてしまうと、サロエと言葉を交わし、触れ合うことすらできなくなる。頭を撫でることも、ケチャップに汚れた口元を拭ってやることも、転びそうになった彼女の腕を掴むこともできない。

 すこしばかり目を逸らしていたかった。

 そうした気の緩みのせいで、彼女を危うく不幸にし、あまつさえ死なせてしまい兼ねなかった。じぶんはそうなる未来すらいちど呑み込んだ。

 もうにどと彼女に近づくことはできない。

 最後のけじめだ。

 ライバンはジャケットを羽織る。すでに部隊は編成し終え、主要ポイントに配置済みだ。あとはライバンの号令一つで戦闘の火ぶたが落とされる。

 先陣へと向かうべく、セーフハウスを出ようとすると、ジュリアに呼び止められた。

「どこに行かれるんですか。組織の頭がノコノコと戦場に遊びに行こうだなんてお考えではありませんよね」

「ここはきみに任せる」

「ライバンさんのデスクを漁ったらこんなものが」

 ジュリアは分厚い書類を掲げる。「組織運営の権利周りの書面です。あとは私がサインをすればいいだけになっていますが、おかしいですね。私はまだ何も知らされておりませんが」

「今回の失態はすべて俺のミスが発端だ。軽はずみなことをした。身内を狙われるなんてそんな基本的な失態を犯し、組織存続を危ぶめた。管理者にはきみのほうが適任だ。任せたい。社を、みなを、よろしく頼む」

「嫌ですよ。社長の尻拭いをしろってそれはそういう話ですか。いやに決まってます。なんだか感傷的に、センチメンタルに、メルヘンチックになられておいでのようですが、幼稚にすぎますね。責任を放棄して逃げようとしているようにしか見えません。組織の長ならば、長らしく、腹をくくって、泥水でもなんでも啜って、私たち社員に楽をさせてください」

 いまよりもっとよい目を見させてください。

「平和な世界をつくるんでしょう。私はまだその片鱗すら見せてもらっていませんけど」

 眼鏡の奥の瞳が、氷のような怒りにしずかに揺らいでいる。

「すまない、その通りだ。すこし血迷った。だが俺の考えは変わらない。きみこそこの組織のボスにふさわしい。支えるから、どうか俺たちを、組織を、率いてくれないか」

「だから嫌ですってば。すくなくともいまじゃありませんよね。今回のこれが終わっても、しばらくは雇った兵たちへの特別手当分の利益をださなきゃいけないんです、当初の予定よりもはるかに経費が嵩んでいます。依頼主とはすでに契約を破棄していますから、請求はできません。完全なる赤字です。その分、きっちり責任とってから辞めるなり、引継ぎなり、なさってください。まずはやるべきことをやってからですよ」

 寝言を言うのはそれからです。

 またしても正論を吐かれ、もはや頭があがらない。

「生まれて初めて使う言葉だが、馬車馬の気分がわかるようだ」

「社長の尻を叩くのも社員の仕事のうちですから」

「それはどうも」

 暗号通信を全部隊に繋ぐ。作戦と戦略の概要を述べ、これより戦争状態に突入する、と宣言する。敵を倒すまで終わらない。短期間でケリをつける。一週間後にはみなでバーベキューをすべく南国の浜辺に集まろう。旅費はだせないので自力でこいよ、と付け加えると、いっせいに野次代わりの緊急シグナルが全部隊から送られてきた。ジュリアにねめつけられ、すまないと無言で詫びてから、旅費はうちで持つ、と発言を撤回する。緊急シグナルが失せる。みな現役の傭兵というだけあって現金なやつらばかりだ。

 ライバンは耳たぶをいじる。

 組織の長はじぶんの判断に私情を挟むべきではないが、いやはやしかしむべなるかな、私情はどんなことであれ挟むべきではない。そう努めないことには、私情ばかりに絡めとられる。言い換えれば、どんな判断とてけっきょく私情と言える。なるべく理想なる私情を指針に掲げたいものだ。

「訓示は以上だ。健闘、否、圧倒を祈る」

 全部隊へ向け、行け、と命じる。

 音もなく今宵、ひとつの終焉がはじまる。




【蝶は道に舞う】


 逃げる。ただそれだけが私のすべきことだ。

 道は兄者たちがつくってくれると言っていた。管理者たちの妨害を振り切ってそんな真似ができるのか、そもそもどうやってこの檻からみないっせいにそとにでるのかは知らないが、私は最後までここに残って、みなが一人一つずつ妨害を抑え込み開けてくれた道を駆け抜ける。

 そのはずだ。

 兄者たちが言っていたのだから私はそれを信じるしかない。

 できっこない。

 私はずっと反対していた。そんな真似、できっこない。

 たとえ壁のそとに出られたって私たちがいったいどこに位置するのか、ここがどこにあるのかすら私たちは知らないのだ。

 断崖絶壁の孤島だったらどうするのか。

 私たちが箱と呼ぶこの巨大な鳥籠がどこにも繋がっておらず、出口なんて端からなかったらどうするのか。もっと言えば、管理者たちの話している通りに、世界はとっくになくなっていて、ここが最後の人類の砦だったとして、そうしたら私たちはむざむざと地獄の門を開ける愚か者だ。

 兄者には言いたいこと、聞きたいこと、問い詰めたいことがたくさんあったけれど、私なんかの言葉は聞き入れてくれないどころか、兄者のまえに立つことすら許されない。

 ハブかれ者の私がどうしてこんな大役に抜擢されたのか。そのことだって私は兄者たちに異議を投じたかったのに、兄者たちは問答無用で配役を決めて、かってに行動を開始した。

 始まってしまったらもう、こなすしかないではないか。

 どの道私たちに未来はない。この管理棟、巨大な鳥籠のなかで死んだ目をしながら、暗がりのなかで洞窟を掘って、光る石を集めるだけの人生だ。

 管理者たちはみな全身を鎧で覆っている。兄者はそれを防護服と呼んでおり、中身はバケモノだとそう言って私たちに真実を教えてくれた。

 でも私は一人だけ、本当にそうだろうか、と訝しんでいた。管理者たちは私たちにあれこれと指示をし、ときに厳しく当たるけれど、傷つけたり、苦しめたりはしなかった。

 具合のわるいコがいるといちはやく連れだして、どこかしらへ隠すけれど、すこしするとまた元気な姿のそのコが戻ってくる。

 どこにいたの、と訊いてみると、憶えていない、わからない、と答える。ずっと眠っていたようで、それはほかの連れだされたコたちに訊いても同じだった。

 防護服の管理者たちは、兄者たちが言うほどおそろしい存在には私には見えなかった。

 ただやはり、この薄暗い鳥籠のなかに閉じ込められつづけるのには抵抗があった。そとに出られるならば出たい。私たちはみな、ふしぎとそとがあることを知っていた。

 私たちがここに連れてこられる前の記憶はみな一様に曖昧なのに、みな同じようなそとの世界への憧憬、回帰の念を抱いていた。 

 兄者は言う。

「俺たちはこの石に触れても死なずに済む。だから採取のためにこうして扱き使われてるんだ」

「光る石って珍しいのかな」兄者の側近が言う。

「どうだかな。ただすくなくとも俺たちはこの石があるからこんな暗がりでも生きていける」

「でも肌寒いよねここ。もっと温かいとよいのに」

 岩盤に囲まれた空間で、私たちはそれぞれ穴のなかに部屋を持つ。扉は硬く、重く、頑丈だ。鍵は、空間の真ん中に聳える監視塔から遠隔で開け閉めできる仕組みだ。私たちに手枷足枷ははめられていないけれど、そもそも掘削作業以外では部屋のなかで過ごすから、自由はない。ときどきみんなで交流できる時間を与えられるけれど、それだってときどきだ。掘削作業が毎日あるとしたら、みんなとわいわいできるのは五回に一回くらいの頻度だ。

 でも、そもそも掘削作業がいったいどれくらいの周期で行われているのかが分からない。時間の経過がここではよく分からないのだ。

 掘削作業自体は、光る石をトロッコ三台分集めたら終わる。すぐに終わることもあれば、なかなか終わらないこともある。終了時間はまちまちだ。

 兄者が壁と呼ぶそれは、掘削場に行く途中にある。毎回通るけれど、トロッコに乗って移動するので、一瞬だけしか見えない。そこだけ光る石がなく、真っ暗なので、私は兄者に教えてもらうまでそこに何があるのかなんてまったく気にしなかったし、気づかなかった。

 兄者たちの計画はすこしずつ、けれど着実に進んだ。トロッコで移動するときに、壁のほうに光る石を投げて、明かりを積み重ねてその全貌を目にしたり、監視塔がどういう仕組みで部屋の鍵を操作し、管理者たちがいったい何人で、いつどこにどの程度配備されるのかも、よくよく観測して把握した。

 管理者たちはどうやら私たちが掘削作業をしているあいだは、監視塔からも、その空間からも姿を消しているようだ。掘削作業には幾人かの管理者が別途につく。こちらは防護服の色や形が変わる。ただ、中身の人物は同じなのかもしれなかった。

 私たちは管理者と言葉を交わしたことはないが、彼らの指示はよく理解できた。身振り手振りで行う言語がある。言葉ほど細かくはないが、何をどうしろ、といった簡単な指示くらいならばそれで充分だった。

 具合がわるい、といった私たちの訴えは言葉を使うが、それは難なく伝わるようで、意図して管理者たちが私たちと言葉を交わさないようにしているのは自明だった。

 よもや声がだせない、なんてことはないはずだ。

 同じ疑問を呈した兄者の側近がいたが、そのとき兄者は、

「いいや、そうかもしれないぞ」と応じた。「だから中身はバケモノなんだって」

 兄者はよくよくその点に拘った。

 バケモノに支配された子供たち。

 扉を開けて、地獄のそとへと脱出する。

 そのために兄者は作戦を練り、扉まで駆け抜け、開けるという大役を私に命じた。

 きっと私がいちばん身体が小さく目立たないからだろう。いざとなれば坑道のどこにでも隠れることができるし、身軽だから、扉をすこし開けただけでも、隙間からそとに出られる。

 扉に鍵がかかっていたらどうするのか、との疑問は、兄者のほうでも考えてくれていたようだ。

「どうしようもないときは爆破すればいい」

 兄者はとっておきを披露するように、計画の全貌を話してくれた。

 私たちの集めている光る石は、つよい衝撃を加えると爆発する。壁の前に光る石を積みあげて、そこにトロッコを勢いよくぶつければ、その衝撃で物凄い爆発を起こせるはずだ、と兄者は言った。

「爆発するのかあれ」

 光る石は各部屋に照明として設置されている。堅牢な冊で囲われているので私たちには触れられないが、光る石はただ光るだけではないのだと兄者はいつからか見抜いていたようだ。

 ただ、掘削時の作業ではけっこうぞんざいに光る石を扱ったりするので、加える衝撃というのはけっこうに大きなものになるのだろう。

「欠片で実験したからそこは信用してほしい」

「でも爆発って、危険じゃないか」

「危険だ。だがほかに方法があるか?」

「だったらもっと適役がいるんじゃ」

 みな私に大役を任せるのに及び腰のようだ。私だってそうだ。もっと適任がいるのではないか、それこそ兄者がすればいいのではないか、と考えてしまう。私はけして意見できないし、兄者たちの議論に口を挟めないのだが、視線でそれとなく訴えてみせる。

「だいじょうぶだ。俺たちのなかでコイツが一番、トロッコの扱いに長けているし、積み木をやらせたら一番だ」

「積み木って」

 一同からため息が漏れる。

「や、だいじだぞ。光る石を積みあげて、トロッコをぶつける。そのときにどれだけたくさん光る石を一か所に積みあげられるか。できるだけ薄く、壁を埋め尽くすようにできるといい。そうでなきゃトロッコの勢いが死ぬ。うまく光る石を爆発させられない」

 光る石はトゲの生えた球形の物体だ。それを崩さないように積みあげるのにはコツがいる。丸いので、すこし崩れるだけでもばらばらと散らばってしまう。トロッコに詰めるのだって工夫がいる。隙間なく埋めるのがたしかに私は得意だった。

「食事の時間だ。そろそろ戻ろう」

 私たちは堆肥作りの当番を利用して、ちまちまと会議を繰り返した。

 坑道とは反対側の空間に畑が築かれている。光る石を採掘しきったかつて坑道だった空間だ。光る石はそこでも活躍する。野菜の苗一つにつき一個の割合で、光る石をうねに沿って置いていく。そうしておくと野菜は丸々と実る。なくても育つけれど、実るまでの時間がぜんぜん違う。短時間で収穫できるのだ。ただ、何度も採っていると土が痩せてしまうので、私たちはじぶんたちの排せつ物を一定期間寝かすことで堆肥にし、土に撒いて、耕す。

 堆肥つくりは当番制だ。みなが部屋に収納されているあいだ、比較的自由に会話ができる。このときばかりはなぜか管理者が一人しかおらず、大概は畑のほうに移動しているので、堆肥つくりの時間は内緒話がはかどった。

 作戦実行日が迫ったその日、私は兄者に肩をたたかれ、頼んだぞ、と私たちの命運を託された。

「おまえはただ逃げることだけを考えればいい。管理者どもは俺たちに任せろ。失敗しても誰もおまえを責めやしないし、逃げられるなら一人きりでも逃げるんだ。いいな」

「でも」

「反論は受けつけない。おまえはただ逃げることだけを考えろ。いいな」

 私の話を兄者はけして聞いてはくれない。決められた道を私はいくしかないのだ。

 いよいよその日、兄者たちが部屋を抜けだした。監視塔のなかが騒がしくなる。

 兄者たちの怒号が空間に反響し、どたどたと管理者たちの足音が集まってくる。

 畑のほうで爆発音がした。地響きが轟く。

 本当に光る石は爆発するのだ。

 兄者はうそを言っていなかった、と胸が躍り、同時にじぶんは兄者を疑っていたのだと知って、じぶんでじぶんに失望した。

 身体はそうあるようにとゆっくりと部屋を抜ける。私だけが最後まで部屋に残っていた。そういう指示が下されていた。トロッコに乗りこみ、通い慣れた坑道を滑走する。

 目指すは壁のある空間だ。

 毎日すこしずつ光る石を岩の陰に蓄えてきた。それをトロッコに積み直し、壁のまえまで運ぶ。壁の周囲にも、これまで照明代わりに投げ捨ててきた光る石が転がっている。

 壁の真下にくる。

 改めてこれが単なる壁ではなく扉なのだと実感する。真ん中に裂け目が一本走っている。直線ではない。ジグザグと亀裂のようでもある。

 開けるための機構がある、と兄者は言っていた。以前、ここまで足を運んだことがあったそうだ。

 どうしてそのとき兄者は逃げなかったのか、と疑問に思ったけれど、やはりそれを問う真似はできなかった。

 兄者はいつだってそうだ。じぶん一人きりでもやり遂げられたはずのことを、みなを巻き込んで、大ごとにする。

 本来ここにいるべきは私ではなく、兄者のはずだ、と改めて思う。

 扉の面に四角い仕切りを見つける。ぱこりと開けられた。中にはハンドルが横になって納まっている。引っ張ってみるとくるくる回せそうだ。

 だが重くてなかなか回らない。体重をかけても、石で叩いてみても、うんともすんとも言わない。

 私の力では無理だ。

 だから言ったのに。

 思うけれど、兄者だってここまでは見つけられたはずだ。

 きっと兄者でも無理だったのだ。

 だから兄者は、光る石を爆発させて扉を打破し、活路を切り開こうとした。

 私はその役目を託された。

 やるしかない。

 やり遂げるしかなかった。

 遠くでまた地響きがした。またぞろ監視塔のある空間で爆発が起きたらしい。兄者たちは無事だろうか。

 ひどい目に遭ってないとよいけれど。

 思いながら、もうすぐ後を追ってくるだろう兄者たちのことを思い、早く済ませておかねば、との焦りに衝き動かされる。

 光る石をトロッコから掴み取り、一つずつ丁寧に積み上げていく。

 パズルみたいな感覚だ。

 一つ一つ、扉の面に沿って積み上げていく。

 なぜ私はパズルを知っているのだろう、とふしぎに思う。具体的な記憶はないのに、そういうものがあることを知っている。

 無我夢中で光る石を積みあげる。トロッコを走らせる道の砂利を取り去り、いざ兄者の計画を実行に移す。

 と、そこで私は足が止まる。

 トロッコに勢いをつけるには、押して走るしかない。ここにはレールがない。だとすると、私もトロッコといっしょに光る石に突っ込まねばならない。

 無事では済まないのではないか。

 はっとした。

 だから兄者は私を抜擢したのだ。

 犠牲にしてよいと思ったから、ではない。

 身体のちいさな私なら、トロッコにすっかり身を隠せるからだ。

 爆発が起きても、トロッコの形状からすると、くるんとひっくり返り、爆風をトロッコの底で受け止めるカタチになる。

 私なら無事かもしれない。

 けれど、恐いものは恐い。

 失敗すれば死ぬ。

 ただ、ここで臆しておめおめと引き返す真似だけはできない。

 兄者たちとて命を賭けた。

 私もそこにつづかねばならぬ。

 そんな義務など本当はないことなど頭ではわかってはいたが、私自身、そうしたかったのだと思う。

 裏切りたくはなかったのだ。ただ一方的に押し付けられたそれが役目だったとしても。

 身体はふわふわと軽い。地面を足で蹴って、トロッコを押す。

 加速、加速、加速。

 足が置いてかれそうになり、ひときわつよく地面を蹴って、トロッコに乗りこむ。

 がこん、とトロッコが跳ねる。大きな小石を一つ取り除き忘れたらしい。

 態勢を崩しそうになるけれど、身体を傾けて、修正する。

 身体を縮めてトロッコに潜り込む。前方の側面に背中を押し付ける。光る石の明かりだろう、頭上がどんどん明るくなる。くるぞ、と身構えると、ドンと衝撃が背中に伝わり、息が止まった。

 音という音が消える。

 衝撃があちらこちらから加わった。

 地面を転がり、壁にぶつかり、瓦礫が無数に飛んではぶつかった。

 トロッコはひっくり返って止まる。

 闇。

 意識はある。

 いいや、失っていたのだろうか。

 私はすっぽりとトロッコに覆われた格好で、闇のなかでシンと静まるのを待った。

 身体を撫でつけて傷がないか、手足がもげていないかを確かめる。打撲の痛みがあり、そこに触れてもゆびにぬめり気がないことで、血は流れていないようだと察する。

 もういいだろうか。

 トロッコを持ちあげようとするも、なかなか持ちあがらない。上に瓦礫が乗っているようだ。このまま閉じ込められたらどうしよう。

 不安になるが、踏ん張ると、大きな音を響かせながらトロッコはひっくり返った。

 一面、瓦礫の山だ。酸味がかった臭いが鼻を突く。

 大小さまざまな瓦礫が転がっている。大きな瓦礫にぶつかっていたらひとまりもなかった。思うが、実際はぶつかったが無事なだけなのかもしれなかった。

 トロッコの頑丈さには目を瞠る。材質は何なのだろうといまさらながらに気になった。私たちの部屋の扉と似ていると、いまさらのように思う。

 ふと、冷たい風が頬を撫でた。

 風の根っこを辿ると、それは壁に空いた大きな穴の奥につづいていた。

 役目は果たせたのだ。

 兄者。

 私は振り返るが、そこで息を呑む。

 通路は瓦礫で塞がっていた。どうやら坑道との接点にて、岩盤が崩れたらしい。

 これでは兄者たちはこちらまでやってこられない。

 そこで私は、はっとした。

 兄者は知っていたのではないか。

 扉を爆破すれば、岩盤は崩れ、通路が塞がれることを。

 兄者ほどに、石の性質、坑道、この鳥籠に詳しい者ならば、それくらいの事態は予見できたはずだ。

 最初から兄者は私を、私だけを逃すためだけに計画を練っていた?

 何のために?

 私は兄者がけして私とだけは言葉の応酬を図らず、手駒の一つとしてしか接してこなかったわけをこのとき、ぼんやりと分かった気がした。

 単なるじぶんの願望かもしれない。とびきりこじつけにちかい希望にすぎないと分かっていても、いまこうして私だけが扉を通り抜けられる存在であることが、そのぼんやりとした兄者の本懐に一定以上の信憑性を与えている。

 偶然だと考えるよりも、兄者が私を特別視していたからこそ誰より徹底して懇意になろうとしなかった背景に思いを巡らせずにはいられない。

 光る石はもう手元にない。こちらから瓦礫の壁を爆破するためには、もういちど坑道に戻るか、別の場所で採掘しなければならない。

 そのためにも私は扉を抜け、そとに脱しなければならなかった。光る石がいる。

 逃げる。

 ただそれだけがいまの私がすべきことだ。

 凍てついた川を遡るように私は、感じたことのない冷たい風を辿って、穴の奥へ、奥へと歩を進めた。

 暗がりのなかで、ときおり何かが足にぶつかる。手探りで触れる。障害物は布をまとっており、掴むと細く、軽かった。

 私はふしぎと、それはここにあって当然のもののように考えた。通路の至る箇所には、白骨化した死体が転がっているのだ、と。

 ここはそういう場所なのだ、と。

 奥へ行けばいくほど通路は広くなり、やがて明かりが見えてくる。

 そとへ通じていると思ったけれど、行きついたのは銀板の空間だった。天井が高く、どこを見てもツヤツヤの板でできている。太い柱が地面と天井を繋いでおり、そうした柱がいくつも無数に、四方八方に広がっていた。

 私の通ってきた道は柱の一つに開いていた。

 ここは私の記憶の奥底にある「外」ではない。しかしここは何か重要な場所に思えた。

 ほかに道らしい道がないかを、柱の一つ一つを見て回った。扉がないか、壁がないか、と歩きつづけると、やがて荘厳な扉が現れた。遠目からだとそのさきにも延々白銀の世界が広がって見えるが、そのじつそこには扉があった。装飾は細かく、近寄るとそれらが幾人もの人間を模していると判った。

 扉にはちいさな仕切りが四角くあり、そこを開けると例のハンドルが現れた。こんどは難なく回り、私はその扉に隙間を広げる。

 隙間から吹き込む生暖かい風に、私が最初に思ったのは、爆発の懸念だった。

 この扉の向こうでも誰かが光る石を爆発させたのではないか、と案じたが、そのようなことはなく、扉の隙間から顔を覗かせると、むっとした空気が顔を覆った。空気は澄んでおり、これまで嗅いだことのないよい香りがほのかに、しかし満遍なくした。

 目がくらくらした。遅れて、見たことのない鮮やかな色、そのときまで私は鮮やかという言葉も、そのような事象がこの世にあることすら忘れていたのだと思い知ったほどに、豊かな色彩の渦に、身体が硬直し、しぜんと目からは涙があふれた。

 私はそこに広がるものが、お花畑だと知っている。

 無数の蝶がそれら鮮やかな色彩のなかを舞っている。蝶は羽をはためかすたびに、きらきらと鱗粉を輝かせる。その輝きはどこかほんのりと弱く、光る石の発光に似ていた。

 お花畑の奥には、巨大な水溜まりが見えている。それは遠く、遠く、空との境が分からないほど遠くに広がっている。

 そとだ。

 こここそがそとだ。

 私は扉の隙間から一歩足を踏みだす。

 足元には無数の布地が折り重なっている。それはいましがた通ってきた暗がりのなかに点々と転がっていたそれらと同じような肌触り、踏み心地だった。絨毯がごとく延びているが、私はそれを道と信じて疑わず、シャクシャク、ボキボキと音を鳴らせながら、こんなすばらしい世界があるのにどうして、と暗がりで防護服に身を包み暮らす管理者たちのふしぜんな振る舞いを、すこし哀れに、大いに滑稽に思うのだ。

 兄者たちにも見せてあげたい。

 道はどこまでも長く、延々と伸びている。

 蝶は私のために道を開ける。

 私はいずれまた、あの薄暗いちいさな世界へと舞い戻る。

 兄者の話声を思いだしながら私は、兄者のごとく今後の算段をつける。

 頭上には、いままで目にしたどんな光る石よりも大きく、まばゆい石が煌々と、燦燦と輝き、ぬくぬくとした熱を放っている。




【黒いビニル袋】


 これはひょっとしたらおそらくそんなに珍しい話ではないのかもしれないが、ゴミ収集作業員である白鳥木(はくちょうき)レイこと俺が遭遇した日常のちょっとした謎を日記の総集編として記述しておく。

 いまこうして文字を並べているが、この時点ではすでに謎は解明されている。解明されてはいるが、では問題までもがきれいさっぱりゴミ収集車がごとく性能のよさで解決したかと言えばこれは否であり、問題は問題として放置されている。

 が、それによって俺は何も困らないので、ひとまず一区切りとしてこうしてまとめておこうと思い立ったわけだが、さてどこから話したものか。

 白鳥木レイこと俺については、日記のほかの部分を読んでもらえればつぶさに知れるので、ここでは謎の概要だけに焦点を絞って叙述する。

 毎日八十件ちかいゴミ収集所を回る。六台分のゴミ収集車が満杯になる。

 この仕事のつらさを並べるだけなら言葉は止まらないし、誰であっても文豪になれるほどに吐いて捨てるほどに書き連ねる憤懣に苦労しないが、あいにくと俺はこの仕事がそれほど嫌いではないので、誤解を生むような不平は鳴らさないでおく。

 最初にそれを拾ったのは、まだ息を吐けば白くモヤとなってのぼる正月明けのことだった。

 真っ黒いビニル袋が置かれていたので、指定のゴミ袋に入れて出し直せ、のシールを貼って放置しようとした。通常こうしたルール外のゴミは持ち去らない。町内会のリーダーか誰かが、あとで指定のゴミ袋に入れて出し直す。

 だが、安全性を考慮して、中身はいちおう確かめておく。動物の死骸や、胎児、ごくごく稀に大金が入っていたりと、この仕事をしていれば、都市伝説かよ、と思うような、ゴミと呼ぶには抵抗のあるものが捨てられていることがある。年に数回は確実にそうした話を耳にするし、俺自身、そうしたゴミならざるゴミに当たることもある。

 このときも、手に持ったときの袋の感触からして、嫌な予感はしていた。体積の割に重く、それでいて、弾力がある。

 いやまさかな、と思ったが、開けてみてそのまさかだったので、絶句した。

 腕が入っていた。

 肩から切り落としたのだろう、蟹の脚じみて、ぱったんと二つ折りになってビニル袋に詰まっていた。

 ふしぜんなほど白く、艶やかで、俺は最初、それが本物の人間の腕と考えるよりさきに、精巧なドールの腕だと見做しかけた。切断面が生々しくさえなければ、そのまま不法投棄品としてその場に放置しただろう。それくらい人間の腕らしさがなく、もっと言えば、生き物らしさすらなかった。

 誤解をされたくないので注釈を挿しておくが、俺には死体愛好の気はない。いまだってない。それは断言していい。俺はべつに死体なんざ好きではない。

 だがなぜかその腕を、純粋にきれいだと思った。目を奪われた。

 うつくしい。

 俺はそれをゴミと認めたくなかった。放置はせず、回収もせずに、俺はそれをこっそり電信柱の陰に隠した。そのときは明確にどうこうしようとの魂胆があったわけではなく、単に、人の目に触れさせたくなかったのだ。そのうえで、どこかの誰かが拾い、警察なりなんだりに届け出てくれれば、それはそれでいいと思った。ただ、その確率を少しでも下げるために、往生際のわるい真似をした。

 仕事終わりに立ち寄ってそこになければそれきり、忘れようと思った。

 だがいざ夕方になって帰宅の足でそこに出向くと、それは電信柱の陰にそっくりそのまま置いてあった。

 俺が置いたのだから驚くことはないのだが、そこには何かしら天命のような、偶然でくくるには惜しい定めのようなものを感じた。

 俺はそれを自宅に持ち帰った。

 独身だったが、たとえ俺に家族がいても同じ行動をとっただろう。それくらい、そのときの俺には、白いその腕が、魅力的に映った。

 家に持ち帰ってどうするというのか。じぶんでじぶんの行動に戸惑ったが、本心を打ち明ければ、俺はそれを家に飾りたいと思っていた。芸術作品のように扱いたがるじぶんがおり、それをひとに見せて歩きたい欲求すら湧いた。

 俺はしかし俺以外の者の目にそれが触れるのはハッキリと嫌で、手で撫でられるところを想像するだけで、誰とも知らぬその相手を罵倒したくなった。

 見せびらかしたい衝動と、じぶんだけのものにしておきたい独占欲がそのとき明確に俺の内側に根付いた。

 ここで終わっていれば、俺の一時の気の迷いで済んだ話だが、いや、じっさいにはそんなかわいらしい悪戯ではなく、れっきとしたこれは違法行為なのだが、たとえば職場にこのことが発覚すれば俺は問答無用で懲戒免職に処されるわけだが、いまなお俺はゴミ収集作業員をやっている。

 腕は右腕だった。

 そしてひと月後にこんどは右足を拾った。膝から下だけが黒いビニル袋に詰まっていた。同じゴミ収集所だ。近所にこれを捨てた人物が住んでいるのかもしれない、或いはまったく別の土地に住まう者がわざわざここに捨てにきているのかもしれなかった。

 ビニル袋内に血は溜まっておらず、切断面も、生々しくはあったが、グロテスクではなかった。幼いころにトカゲの、胴体から切り離された尻尾をつまんだことがある。トカゲの尻尾の断面とそれはどこか似ていた。

 右腕のときと同様に俺はそれを電信柱の陰に隠し、夕方拾って、家に持ち帰った。

 右腕と右足が揃う。太ももがあるとよいな、と思い、どうせなら左手や左足も欲しいな、と思った。

 なぜ一時に全部を捨てないのか、と疑問に思ったが、よくよく考えを巡らせてみたらそんなことができるわけがないのだ。死体をどれほど細かく切り刻もうが、同じ時間帯の同じ場所に捨てれば、それは十中八九、そのまま死体を捨てるのと同程度の規模で発見され得る。

 現に、切断したところで、俺はそれを見つけたわけだ。指定ゴミ袋は透明だ。中身が見える。必然、見られたくないものを捨てるには指定以外の袋に入れなければならない。だがその上で指定ゴミ袋のなかに放りこんでしまえば、俺たちはそれを回収する。

 そうしなかったのは、なぜだろう。そこまで気が回らなかったのだろうか。それとも、敢えて見つかるようにしたのか。

 死体を切り刻んだ者の心理を想像していると、ひょっとしたら、と思い至る。ほかの部位はべつのゴミ収集所に捨てたのかもしれない。ほかで問題なく回収されてしまったので、ここでも同じように捨てただけなのでは。

 だとすればもう、新しい部位を手に入れることはできなくなる。

 落胆したが、それはそれとして右腕と右足だけでも拾い集められたのは幸運だったと思い直した。

 俺の持ち帰った右腕と右足はビニル袋に入れて保管した。冷凍保存するまでもなくそれは腐ることなく、そのままの美麗さを保ちつづけた。弾力も失われず、俺は、俺がそれに抱く所感が、蠱惑なのだと認めるまでに、家にいるあいだはずっとそれを手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離に置いて過ごした。じっさいに幾度も触れ、弄び、愛玩した。子猫を飼ったらきっと同じように耽溺するだろう。俺にとってそれは、飯や糞の世話をせずに済む愛玩動物だった。

 生活習慣にも変化が生じた。

 一番大きな生活様式の変容は、ふだんは気にも留めなかったニュースに目を通すようになったことだ。この地区で殺人や失踪者がいるなら、それは高い確率で、この右腕や左腕の持ち主だと考えた。性別はどちらで、年齢はどれくらいで、どんな見た目をしていて、どんな人物だったのか。

 あまりに端麗すぎて、腕や足だけでは、性別はおろか、年齢すら判別できなかった。

 子どものようでもあり、男のようでもある。大人のようでもあり、女のようでもあった。

 さすがにもうこんな幸運は巡ってこないだろう、と諦観じみた高をくくっていたら、また一月後に、同じゴミ収集所で、新しい部位を手に入れた。それは左足の太ももだった。右足ではないことを不服に思った。リーチがかかったビンゴで、まったくカスリもしない場所に穴が開いたようなもどかしさを覚えた。

 こうなったら集められるだけ集めてやる。

 もはや俺からは、死体が細切れにされて捨てられていることを警察に通報しようという考えはからっきしなくなっていた。それどころか、誰かにバレることへの懸念、もっと言えば、バレてもどうにかなるだろうと現実の認知をひどく歪めていた。バレたって構うものか、と構えてすらいた。

 俺の望みを聞き入れたかのように、ひと月周期だった黒いビニル袋の出現は、このころから一週間刻みになった。

 毎週のように俺は蠱惑的な死体の一部を手に入れた。高価なパズルを定期購入して組み立てている気分で俺は、はやくつぎの週にならないか、こんどはどの部位が届くだろうと、ありていだが、クリスマス前夜の子どものごとく胸を躍らせていた。

 胴体部は三分割されており、胸は小ぶりだが、そこに至ってそれが女なのだと判った。

 さらにふた月もすると、残りは、骨盤の部位と頭部だけとなった。

 季節は初夏、猛暑の到来が日差しのつよさから窺えた。ゴミ収集作業員にとっては覚悟の季節だ。ただでさえ異臭を放つゴミどもが、悪魔の変化を遂げる。

 そんなかにあって、黒いビニル袋だけはやはり何の匂いもさせぬままに、うつくしい造形を内包し、無数の悪臭の権化のなかに埋もれていた。

 骨盤部位を入手し、俺は初めてそのときに至って、すべての部位を組み立ててみようと発想した。

 俺は部位たちを、家族写真のように部屋の至る箇所に飾り立てていた。お気に入りの太ももだけは、左右どちとも、椅子のすぐそばに、クッション代わりに置いていた。

 とくに気に入っているのは右の太ももだった。

 張りがあり、なめらかで、枕にして眠ることもあるほどだった。ひんやりスベスベで寝心地は抜群だ。難点はせっかく無臭なのに、俺の頭の匂いがついてしまうことで、折衷案として枕は左太もものほうにした。

 各部位をそれぞれ用途に分けながらも愛でていたが、それらを一つの肉体として、組み立て、愛でたことはなかった。

 あとは頭部さえ揃えば、一つの死体が丸ごとできあがるぞ、と気づいたときにはもう、俺はそれらをベッドのうえに並べていた。

 各部位をあるべき場所に配置する。時間はかからない。簡単なパズルを行うように、或いは歴戦の棋士がごとく正確さで、部位をシーツのうえに置いた。

 画像を撮るつもりでいた。

 だが、レンズを構えたときに、違和感を覚えた。

 いびつだ。

 配置に間違いはなかったが、どうにも全体像がちぐはぐだ。

 切断するときに肉を多く削いでしまったがゆえに左右で大きさやカタチが異なるのだ、と俺はそのときまでは解釈していた。

 だがどうにもそれだけが理由ではないようだ。全体像を見下ろし、俺は悟った。

 各部位は、一体の死体からとれた手足ではなかった。

 すべて別々の人間の部位なのだ。

 俺はこのときになってようやくじぶんの認知のふがいなさを知った。

  翌週からどれだけ丹念にゴミを掻き分けても、仕分けしても、もう新しい黒いビニル袋は現れなかった。もちろんほかの袋に人間の四肢が、死体が、切断されて入っているなんてこともない。

 これを書いているいまも俺の膝のうえには切断された太ももが載っている。丸まった猫のようだ。

 ほかの部位たちもまた、各種定位置に飾ってある。

 それらがいったい誰の部位で、残りの大半の部位がどこに捨てられたのかは知らないままだ。すくなくともこの地区で死体が遺棄され、発見されたといったニュースは聞かない。失踪者の情報も、俺は目にしていない。

 人殺しが捕まったとの話も聞かないので、きっとどこかにまだいるのだろう。死体をこさえ、切り刻み、ちいさくした部位を黒いビニル袋に詰めて捨てた者が。

 特殊な加工を施してあるのか、猛暑のなか部屋に放置しても、虫一匹寄りつかない。例年であれば部屋を舞うコバエも今年は見かけなかった。

 右腕、右足、ほか各種部位は、きれいなまま、うつくしいままで、俺に癒しを提供している。

 あまり褒められた趣味ではないと頭では理解しているが、しかしこのうつくしさは無類だ。

 人殺しを芸術家と呼びたくはないし、同列に語るのはおかしいのは重々承知のうえで俺は、これらうつくしい物体を生みだし、それを俺にもたらした創造主には、何かしら恩にも似た憧憬の念を覚える。

 事件として発覚するのは時間の問題だ。

 俺がどうこうせずとも、遠からず、ほかの作業員が黒いビニル袋の中身を目にして、通報するなりなんなり、俺とは違った、まっとうな対応をするはずだ。

 これほどの美を生みだす者が、このまま終わるわけがない。

 いまもどこかで、黒いビニル袋を持った人物が、それのふさわしい場所に置き去りにしているのではないか。俺はしばしば妄想する。

 ひょっとしたらすでに美を生みだす者は俺の存在に気づき、居場所を突き止め、監視しながらも、何かしらの嫌悪感を募らせているかもしれない。

 だが俺は危険を感じない。

 どうあっても俺が作品の素材として抜擢されることはないと判るからだ。

 どう切り刻んだところで俺の手足に、このような美麗で、蠱惑なうつくしさが宿るわけがない。

 安心して俺はゆえに、愛でていられる。

 人殺しという名の、神からの贈り物を。

 けして褒められた所業ではないにしろ。

 丹念に、執拗に、撫で、つくろい、眺めながら。




【人形の生々しい部位】


 ピノキオが実話かもしれない、とまずは思った。人形に命が宿り、やがて生身の人間に変質した可能性が、これで皆無ではなくなった。

 私は、人形を見下ろす。私自身の手で創りだしたそれは人形だ。

 椅子のうえにて微動だにせず座っている。右腕だけが生々しく、明らかに人形のそれではなく、人の、生身の、腕だった。

 誰かの悪質なイタズラの可能性を考えたが、右腕は人形の肩の関節部と完全に癒着しており、誰かが付け替えたと考えるよりも、どちらかと言えば人形の腕が本物の人間の腕に変質したのだと見做したほうが現実に即した解釈に思えた。

 数日をそのままで過ごしたが、それ以上、人形が変質することはなかった。

 展示会に飾る予定の人形だったため、頭を抱える。いまから新しく作り直すには時間が足りない。折衷案として私は、人形の右腕を、肩から切断した。

 変質した生身の腕を傷つけないように、人形の肩部位をゴリゴリとノコギリを使って切り離す。

 とれた右腕は庭にでも埋葬しよう、と思い立つが、いつかこれが骨として発掘されても困るな、と思い直し、やはり頭を抱えた。

 これは果たして本物の腕なのだろうか。

 一向に腐る気配を窺わせない右腕を眺める。

 ひょっとしたらどこかで生きている人の腕が人形の腕と入れ替わってしまったのではないか。持ち主がいまなお生きているから腐りもせず、こうして美しい造形を維持しているのではないか、と私は想像し、これでは破棄することもできないではないか、と悄然とした。

 偶然、生きている人間と何かしら波長の合う人形を私がこさえてしまったから、完璧に波長の融合した右腕が入れ替わってしまったのではないのか。私の妄想はしだいに、確信を帯びはじめた。

 むろん単なる妄想だ。信憑性はおろか証拠だってない。

 だが、確かめたい衝動は日に日に嵩んだ。

 展覧会には、右腕のない人形を展示した。欠損した人形は、これまでの私では絶対に創らない型の人形で、来店客を含めた界隈のあいだで賛否両論を巻き起こした。

 私は、私のファンだという古くからの付き合いのある顧客から、見損ないました、といった内容の言葉を、やさしくではあるが、投げかけられた。

 知らんがな。

 私の所感はかようなものであった。

 ときおり、私の見た目が、私の創る人形たちと似ているために、モデルはご自身なんですか、と質問されることがある。人形は私ではないし、私は人形でもない。私の性別がいまと違ったら、私の創る人形たちの見た目が変わったかと言えば、変わらなかっただろう。私は飽くまで、私であり、性別も年齢も、関係がない。多少の影響はそれはないとは言えない。毎日何を食べているのかで病気のなりにくさや、体質、老化の進行速度に影響がでるのと同じ話だ。だからといって、私がたとえば朝はパンしか食べない、お米は夜と決めている、としたところで、それが私の創る人形に、もっと言えば私の作家性とどれほど因果を深く結びつけているかは、はなはだ疑問の余地がある。言ってしまえば、関係がない。

 ひとまず右腕の件はよこに措き、新作を手掛けることにした。ひと月を要して創ったそれも、一晩経つと、今度は右足が本物の足に変質していた。太ももはそのままだが、膝から下が人間のそれだ。義足ならぬ、生足だ。

 今回の人形は受注生産ゆえ、買い手がすでにいる。右足を切断したものを提供するのは私の創作者としての矜持に障るので、謝罪と共に、過去作をおまけでつけることを条件に、また一月の猶予をもらい受けることにした。

 念のため、右足を切断した新作を見せると、それでいい、という返事があった。承知しかねる旨を電子文にしたためるも、是非それが欲しいと所望され、致し方なく、半額で譲ることにした。利益はでないが、欲しいという者の望みを絶ってまで優先できるほど、私の矜持に価値はない。

 このとき、私は一つの懸念を覚えていた。

 私はもう、完全な人形を創ることはできないのかもしれない。

 どんな人形をこさえようと、それが等身大の、渾身の一作であるかぎり、人形のどこかしらが生身の部位と入れ替わってしまう気がしてならなかった。

 似た事象が世界のどこかで、或いは過去の歴史の中で発生してはいまいか、と考え、資料を当たったが、そもそも事象は観測されなければ記録には残らず、仮に観測されたところで記録に残さねば残らぬのだ。縋った藁のあまりの心もとなさに私は早々に資料を読み漁るのをやめた。

 私個人の問題であれば、いつか治まるだろうそのときまでを、欠損人形師としての側面像で偽装して耐えれば済むことだ。

 しかしもし、この生足や生腕たちが、どこかの生きた人間のものだったとしたら、それは私としても気が気ではなく、返せるものなら返したいとせつに願う。

 目下、私が確かめるべきは、生の手足に持ち主があるか、ないか、だ。

 そのためには、専門の調査機関に調査をしてもらわねばならない。かといって、私自身がそれら手足を持ち込み、調査を依頼したくはなく、言ってしまえば矢面に立ちたくはなかった。

 品だけを送り付けようかとも考えたが、昨今、郵便物の逆探知は容易であるらしく、ポストに投げ入れることのできる品ではない以上、持ち込んだ店舗の監視カメラ映像で、やはり難なく足がつくと想像できた。

 ならば、もはや誰かに頼んで、持ち込んでもらうのがよいのではないか。

 とはいえ、いったいどんな機関が、切断された手足の身元を調べてくれるだろう。それこそ警察くらいではないのか、と自棄になったのを機に、その手があったか、と膝を打つ。

 事件になればよいのだ。

 切断された手足が発見されれば、否応なく身元の調査がなされる。

 そのうえで、身元が判明しなければ、これはもう人形の手足がピノキオよろしく生身になったと判断して差し障りない。

 公園に放置しておく案を採用しようとしたが、それだと子どもたちにいらぬ傷心を与えかねない。交番には監視カメラが設置されているので、無人のあいだに置き去る案も却下だ。

 ほかに何かいい案はないだろうか。

 ゴミ捨てをしながら考えていると、ふと、おとといのゴミがそのまま放置されているのを目にする。指定のゴミ袋ではないために回収し兼ねる旨が、シールに記されていた。

 これだ、と思った。

 ゴミ回収業者ならば大人であるし、多少は、ショッキングな代物への耐性もついているだろう。偏見極まりない期待でしかないが、ほかに有効な策が思いつかなかった。

 黒いビニル袋に切断した腕を入れ、燃えるゴミの日にだしておく。作業員は中身を確認するだろうか。するだろう。燃えるゴミの日に、燃えないゴミが回収されずに残されていたのだ、中身が見えなければ中身を検めるはずだ。

 調べてみると、ゴミ収集業が、危険度の高い仕事だと判った。ゴミと一口に言えど、中身は様々だ。ルールを守らない住人のせいで、ガラスで指を切り、有害物質に肌がかぶれ、体調を崩すほどの悪臭を浴びることになる。

 じぶんがしようとしていることは、やはり人を傷つけることなのだ。

 ゴミ収集作業員だろうが、心労をかけていいはずがない。

 だが、家に放置したままの右腕と右足を眺めていると、どうしてもこのままにしておくわけにはいかないとの思いが、衝動となって、私に罪を犯させようとする。

 否、べつに死体というわけではない。元は人形の手足だ。捨ててわるいわけがない。

 私の与り知らぬ間に、生々しい質感を帯びただけだ。これが人間の手足だというのなら、それこそ事件として調査すればいい。

 私は投げやりになっていた。

 思うような理想の人形をもう二度と創れないかもしれない、との苛立ちと、理解不能な現象が、まるで植物は春になると花を咲かせるのだ、といった自然の摂理じみた顔で悠然と目の前に顕現する現実に、私の精神はひび割れた。

 私はその日、人形から切り離した生々しい右腕を、黒いビニル袋に入れ、ゴミ収集所に放置した。

 その日は、昼間から布団に潜り込み、夕方まで眠りこけた。

 パトカーがゴミ収集所を取り囲む夢を見た。きっとそうなっているだろうと思い、起きたが、家のそとは静かなものだった。夕飯の買い出しついでにゴミ収集所のまえを素通りしたが、そこにゴミは残っておらず、すべて持ち去られたのだと判った。

 気づかずに捨ててしまったのだろうか。

 近場のスーパーからコロッケを買った。帰り道に、もう一度、そこが単に通り道だからだが、ゴミ収集所のまえを通ると、ふと電信柱の陰に、黒い光沢のあるものが見えた。

 まさか。

 思いながら、近づくと、そこには私が捨てた黒いビニル袋が落ちていた。

 ゆびでつつくと、弾力のある感触があり、中身がそのままだと判る。

 誰かがここに隠したのだ。

 一瞬、ひやり、とした。

 罠だと思った。

 それの捨てた人物を見定めるために、わざとそこに置き去りにしたのではないか。

 私はとっさに周囲を見渡した。見渡してから、これではじぶんが持ち主だと証言しているようなものではないか、とじぶんの愚かさを呪った。

 遠くに人影が見え、私はそそくさとその場を離れる。

 こうしているあいだにもどこからか調査員が現れ、取り囲まれ、手錠をかけられるのではないか、とひやひやした。

 私は最も近い曲がり道を曲がり、そこに身を潜めた。

 調査員とは限らない。

 ほかの誰かが私を怪しみ、あとをつけているかもしれない、と不安になった。家までまっすぐ帰るのには抵抗があった。

 曲がり角から、ゴミ収集所のほうを覗くと、遠くから現れた人影が、私と同じように電柱のまえで歩を止めた。迷いなくしゃがみ、そこから黒いビニル袋を持ち上げると、そのままいまきた道を戻っていく。

 回収したのだ。

 どこに持っていく気だろう。

 私は、ふしぎと怒りに打ち震えていた。じぶんのたいせつなものを、横取りされた気分だった。警察の手に渡るのは呑み込めても、それ以外の者の手に、私の人形の身体の一部が持ち去られるのは我慢ならなかった。

 私はけっきょく、あの生々しい腕や足を、人形のもの、もっと言えば、私が創りだしたものだと心の底では見做していたのだ。

 私の作品を持ち去ったのは男だった。

 私は男の跡を追ったが、途中から自動車に乗られ、見失った。

 男はいったい何者なのだろう。

 いくつかの可能性を考えた。そのうち最も妥当なのは、彼こそがゴミ収集作業員だとの仮説だ。作業中に黒いビニル袋の中身を目の当たりにし、そして彼は何を思ったのかそれを職場に明かすことも、警察に届け出ることもせずに電柱の裏に隠し、仕事が終わってから回収にきた。

 いちどそう考えてしまうともう、それ以外にはないとの思いに駆られた。

 実際、彼はゴミ収集作業員だった。

 つぎのゴミの日に、私はゴミ収集所を見張っていた。歩き方や、輪郭からしてまず間違いなかった。私の人形の、生々しい右腕を持ち去った男が、ゴミを収集車に投げ入れていた。

 男は拾った右腕をどうしたのだろう。

 よもやそんざいに扱ってはいないだろうな。

 私はいてもたってもいられなくなったが、かといってどうすることもできなかった。

 私は運転免許を持っていない。ゆえに、車を乗りこなす男の自宅を突き止めるのは容易ではなかった。

 職場はハッキリとしている。ゴミ収集業者は公務員だ。粗大ごみともなれば民間の業者があるが、男は公務員として働いている。

 男がいったいどんな人物なのか、私は気になった。

 並行して、新しく創った人形は、翌日には太ももが人間のそれとしか思えない質感を宿した。こんどは右足ではなく、左足だ。

 膝から下は人形のままなので、脚を丸々一本切り落とすのはもったいなく、仕方がないので、太ももの欠落部は針金で補強するに留めた。

 よく誤解をされるが、球体関節だからといって、部位を付け替えるのは至難だ。人体の代わりがそう容易く見つからないのと同じように、人形の部位も、ほかの部位と正確にイチから連動してつくられる。パズルのように、或いはプラモデルのように、壊れたから代わりを、とはいかない。

 基本、一度失われた部位は、失われたままだ。義足のようにツナギを用意するしかない。

 悩みに悩んだ末、私はもう一度、ゴミ収集所に人形の生々しい部位を置くことにした。右足だ。最初にゴミ収集所に置いてからひと月後のことだった。

 前回と同じように黒いビニル袋に入れ、放置した。

 作業員が例のあの男でなくとも構わなかった。当初の目論見通りに警察の手に渡るならそちらのほうが好ましい。

 案に相違して、また例の男が、黒いビニル袋を電柱の裏に隠し、その日の夕方に回収していった。私の期待はいつも裏切られる。

 私はこの日、例の男の跡をつけた。運転免許を持っていない私であっても、スクーターには乗れる。スクーター自体を持っていなかったので、知人に借りたが、その甲斐あって、男の家を突き止めた。

 私はもうこのときすでに、社会的な倫理観が崩壊していたように思う。

 私はその日、男の家の敷地内に侵入し、窓から家のなかを盗み見た。

 男は、私の創りだした生々しい右腕や右足を、部屋に飾っていた。まるでトナカイのはく製のように、高価な置物のごとく慎重さで、男はそれを愛でていた。

 たいせつにされている、と一目で判った。人形愛好家たちのそれと寸分たがわず、否、もっと神聖なものに対する敬愛のようなもので以って、男は私の生みだした手足たちを扱っていた。

 じぶんの権威を誇示するでもなく、誰に見せるでもなく、部屋を装飾するための置物ではなく、じぶんの人生を彩るための一品として、男はそれらを我が物とした。

 胸に渦巻いていた男への怒り、ともすれば嫌悪感は、しゅるしゅると穴の開いた風船のごとく萎んだ。

 人形師としての私にとって、私の生みだした子たちが、それを最もだいじにしてくれる相手にもらわれることこそが生き甲斐であった。私は、男ほどに、それらを慈しみ、人生の一部に取り入れている者を見たことがなかった。

 いいや、多くのそうした人形への執着を深めた者たちは、自らの手でそれを生みだすほうに回る。だが男は、純粋に受動者として、それのそばにいる者として、人形と同じ目線で、親でも創造主でもなく、それらを重宝していた。

 私は男の家を離れ、来た道を戻った。

 警察に調査してもらうとの当初の予定は、私のなかでボロボロと崩れ、風に舞って、消えた。

 私はひと月をかけ、もう一作、人形をこさえた。確かめたいことがあった。丹精込め、こんどは明確に、貰い手のことを考えて、自己満足ではなく、誰かのために創った。

 脳裏に浮かんでいたのは、例のあの男の姿だった。

 完成した人形は、一晩経つと、胴体部が丸ごと生身に変わっていた。いつ変質するのかと寝ずの番で見守っていたが、ふと目を離した隙に、ほんの二、三秒のあいだに変わっていた。

 蟹の足を捥ぐように、私は胴体部から手足と頭部を切り離し、さらに胴体を三等分した。切断しても、中から内臓が溢れることはなく、というのもそれは当然で、なにせ私は人形に内臓を創ってあげたことはなく、やはりこのふしぎな現象は、人形の部位が変質するのだと判断するに至った。生きている人間の部位と人形の部位が入れ替わっているわけではない。

 人形の左足の太ももを、ゴミ収集所に出してからは、一週間刻みで、毎週のごとく私はゴミ収集所に、黒いビニル袋に詰めた人形の生々しい部位を置き去りにした。

 つまり私はハッキリと、例のあの男にそれをくれてやろうと思ったのだ。

 この世で最もそれをだいじにしてくれるだろう、男のもとへ。

 創造主たる私自身ですら手に余っていた、それを、届けた。

 定期的に私は男の家を覗いた。男に家族はなく、それでいて一軒家に住んでいた。近所との交流はなく、友人らしい友人を見かけない。

 寂しい男だ、と思い、それはじぶんも同じではないか、と思い直す。

 私はひたすら新しい人形を創りつづけた。

 変質する部位は毎回、これまで変質しなかった箇所だ。いちど変質した箇所は、たとえそれがほかの人形であっても、変質することはなかった。すべての部位が変質しきったあとにどうなるのか、一抹の不安と、一縷の希望のようなもの、要するにこの奇妙な現象が終わるのではないか、との期待が募っていく。

 いよいよ残すところ頭部だけとなったとき、私の生みだしてきた生々しい部位たちは、そのほとんどが例の男の手に余すことなく渡っていた。そこには一種、一体感のような、言葉すら交わさぬ相手との縁を感じずにはいられなかった。

 一方的な縁である。男は私のことなどまったく知らず、内心、怯えているかも分からない。私はそれら人形の生々しい部位が、人形のものだと知っているが、男にはただ、惨殺死体の一部にしか見えないはずだ。

 腐敗しない点に疑問を抱く余地があるとはいえど、見た目にはただ、端麗な肢体の一部でしかない。

 私も相当に倫理観が崩れ去っているが、例のあの男ほどではないと、どこか彼を思うと気が楽になる部分があった。

 そしてそんな彼の悪しき生態を好ましく思っているじぶんがおり、そんなじぶんに戸惑いつつも、どこか肯定的に受け入れている。

 私は、すべての生々しい部位を男に与えてやるつもりだった。

 だがけっきょく、頭部だけはいまなお男に渡せずにいる。

 切り離せないのだ。

 私がこさえたその人形は、全身が生々しく変質した。人形の部位がひとかけらもなく、切断することはおろか、人形として扱うことすら適わない。

 私はそれをベッドのうえに寝かせ、今後を案じた。これをどうすべきか。息はなく、排せつもしない。腐ることはなく、ただ蝋人形のごとく、生々しくそこにあるだけだ。

 おそらく切断したところで、ほかの生々しい部位と同様に、血は流れず、内臓も備わっていないのだろう。たとえ発見されたとしても私が殺人罪で起訴されるかは微妙なところだ。

 これは果たして人間か。

 生々しいだけで、けっきょくのところ人形にすぎないのではないか。

 ピノキオは最後には、生きた本物の人間として神の祝福を得る。人形から人間となった彼は、果たして真実に人間であったのだろうか。

 私はもう、新しく人形をつくれそうになかった。

 全身が生々しく変質した最後の作品をまえにし、途方に暮れる。私はこの作品を、最後の作品にさせつづけない限り、取り返しのつかない事象をこの世に生みだしてしまいそうに思えた。

 身体がすべて生々しく変質したのならば、ではつぎはどうなるのか。

 そこで終わるのか、それとも欠けたままの何かが補完されるのか。

 ピノキオは最初からそれが備わっていた。最初にそれが宿ったと言い直してもよい。

 私とは逆なのだ。

 私の生みだしたこのコたちとは逆なのだ。

 ベッドのうえの、最後の作品を、私のコを、私は見下ろす。病の我が子にそうする親の手つきで、私はそれのひたいを撫でる。冷たいが、弾力があり、死よりも生を色濃く感じる。

 私が死んだあと、このコはどうなるのだろう。

 私はこのコを、どう扱っていけばよいのだろう。

 共に生きていくしかない未来は、すこし重く、底のほうには弾けることのない歓喜の波動を覚えさせる。

 私はたぶん、うれしいのだ。

 我が手で、理想のそれを生みだしてしまえたから。

 人形師冥利に尽きるだろう。

 いいや、もはやこれは、人間としての究極の至福ではないか。

 到達点、と私はつぶやく。

 しかし目の前のそのコは目覚めることなく、このさきも眠りつづける。

 絶対にして唯一の核が欠けたまま、ただ存在の枠組みのみを維持しつづける。

 どうすればよいだろう。

 私は果たして、どうしたいのだろう。

 誰かに相談したい気がした。

 図らずも、私にはこれを打ち明けられる相手がいる。

 候補が、いる。

 だがなかなか踏ん切りがつかない。

 彼は、あの男は、このコをきっと拒みはしないだろう。自身が滅びるまで、己が世界のなかでのみ、いくらでも愛でつづけるだろう。その未来に疑いはない。

 しかし彼はきっと、私のことは受け入れないのではないか、と思えてならない。或いは、やむにやまれぬ理由があったとはいえ、一時的とはいえど、これら生々しい部位を、うつくしいそれらを、ゴミ捨て場に放置した私に、憎しみすら募らせているかもしれない。私が逆の立場ならば、そう思うだろう。ましてや、男はそれを人間のそれだと思っているはずだ。ならば私は人殺しだ。

 真実を打ち明ける以前に、そもそも話すら聞いてもらえないのではないか。

 私はいったい何をそれほど恐れているのだろう。

 ここに至って私は、私自身の内面に戸惑った。

 私は何に怯えているのだろう。

 人形だけが私の生のすべてだった。だが、いまでは、そのすべてを受け入れてくれる器を見つけてしまった。

 私と同類の、しかし私よりも遥かに純粋な器を。

 人物を。

 彼を。

 私は、怖い。

 彼に拒まれる未来が、それが不動の現実となって目のまえに降りかかる未来が、けして私の妄想などではなく、きっとそうなるであろう未来が、おそろしくて仕方がない。

 何より、たとえ受け入れられたとして、肯定されたとしても、そのために私は私の生みだしたコたちを利用したにすぎないかもしれない疑念はその後延々とつきまとう。私は、私の存在を彼に知らしめ、何かしらの好意を得たいと欲している。

 いいや、そんなことはない。

 幾重もの言い訳が眼前に、山のごとく並ぶたびに私は、いよいよ自身の変質を知った。

 誤魔化しようがない。

 私はいま、人形よりも、我がコたちよりも、それをじぶん並みに、私より純粋に愛でるあの男を、憎からず思っている。

 それは、世にはびこる恋愛や憧憬、家族愛や慈愛とは異なる、我が身そのものへと向けられる自己愛にちかかった。

 私は、私自身を愛するために、もう一人のじぶんではないじぶんから認知されたい。認められたい。受け入れられたい。

 そのための小道具として、我がコたちを出汁に使おうとしている。

 仮にそうでなかったとしても、もはや彼との縁をいまより深め、結んでしまえば、そういうことになってしまう。

 現に、そうなりつつある現実に、私はいよいよ深い、深い、自己嫌悪に陥った。

 私にはこのコたちさえあればいい。

 このコたちを生みだすチカラさえあればよかったのに、いまではこの、全身が余すことなく生々しいこのコを、あの男に見せてやりたくて、それができない現実に胸が張り裂けそうだ。

 せつない。

 私はいませつないのだと知った。

 あの男はこのコを見たらどんな顔で、いったいどれほど深く愛してくれるだろう。そのほんの余波でいい。私もその粘つくような執着を感じたかった。

 生々しい太ももを枕にして眠る男を、私は彼の家の窓のそとから眺める。男の寝室は二階だ。物置小屋をのぼって、私は難なく辿り着く。

 きっと男は、あのコのことも、そばに置いて眠るだろう。人形愛好家たちが仰々しく飾り付けるのとは違い、まるで我が子のように扱うに違いない。

 このコにとってもそのほうがよいのではないか。

 私は、背中におぶったそのコを見遣る。

 全身の生々しい人形だ。核の欠けた人形もどき、或いは人間もどき、それとも人形でもあり、人間でもある神秘そのもの。私の最後の作品だ。

 内臓が空だからか重くない。私の体力ですら、おぶって物置小屋を伝い、二階にあがれたほどだ。元が小柄なのもある。

 私は空がうすぼんやりと明るくなるまで窓のそとから男の寝顔を眺め、そして日が昇る前に、去った。

 スクーターにまたがり、走り去る。背中は涼しく、肌寒い。もっと厚着をしてくるのだったと後悔する。

 男はきっと警戒するだろう。

 もう二度と男の家には近づけない。

 引っ越しすらしかねない、と考えるが、あの男が、私の生みだしたコたちを、その一部ですら手放す未来は想像できず、私はなにか、とてもよいことをしたような解放感に包まれ、帰宅した。

 室内はがらんとしている。もはやここは作業場ではない。

 私は、最後にひとつだけ人形を創ることにした。

 完成したそれに、何が宿るのかは分からない。何も変化はなく、私はまたこれまでと同じように、人形創りに精をだすようになる可能性があることを承知のうえで、しかしそうはならない予感を、つよく覚えながら、私は、私の魂を、削り、捏ね、カタチにしていく。

 名前はさてなんとつけようか、と悩みながら。

 何をと言わず、祈る気持ちで。




【不倫反省文】


 不倫なんてバカみたいって思ってたし、現にいまでも思っているけれど、先に出会っただけのことで人間一人の自由意思を、好意を、束縛できるなんてそっちのほうがおかしいとも考えるようになってしまった。

 それもこれも多田さんのせいである。

 多田さんは母の職場の同僚で、母はよく多田ちゃんと呼んで可愛がっていた。職場の全員が全員、互いにチャン付けで呼び合っている奇妙な空間にあって、多田さんだけがみなから本当に真実子ども扱いをされていた。

 年齢がみなより一回り低いこともあるのだろう。十数年ぶりの大卒社員ということもあってか、みな多田さんの活躍に、というよりもずっとこの職場にいてほしいとの願望が露骨に、甘やかしとなって表出しているように私の目には映った。

 多田さんはそんな甘やかし攻撃もなんのその、いつまでも謙虚に、慎ましくおり、みなはますます多田さんをチヤホヤした。

 多田さんは既婚の三十五歳の男性で、新卒採用では全然なかった。

 私よりも十個も歳が上の彼とは、最初はほとんど接点がなかった。飲み会のたびに母を送り迎えしてくれるので、それとなく家にあげて話をするようになったのは、初めて多田さんと出会ってから半年も経ってからのことで、私はてっきり母は多田さんと浮気をしているのかと思っていた。うちには父親がいないので、そこは母の自由だと割り切ってはいたけれど、なんとなく言葉や態度にとげとげしたものが混ざってしまっていたかもしれない。

 ある日、酔っぱらった母をうちに送り届けてくれた多田さんを私は家にあげた。そのとき多田さんは、クミちゃんは僕のこと苦手ですよね、と臆面もなく言った。

 私はちょうど眠気覚ましのコーヒーを淹れてあげていたところで、本当は私が飲みたいだけだったのだけれど、彼にも褐色の液体の入ったカップを渡した。

「苦手っていうか、だって多田さん、うちの母とその、お付き合いされてますよね」

 薬指の結婚指輪をまじまじと見ながら私は言った。

「え、ないですよ。違いますよ。だって僕、結婚してますし」

「おとなはすぐに浮気するって本に書いてありました」

「いやいや、クミちゃんだってもう充分におとなじゃないですか。浮気、するんですか」

「私はしないけど、でも」

「そんな大人ばかりではないと僕は思いますよ」

 見た目通りの誠実なひとなのだ、とそのときは思った。

 しばらくすると二人で会うようになっていた。きっかけというきっかけはなく、たぶん街中で私を見かけた多田さんが自動車で家まで送ってくれたとか、駅まで送ってくれたとか、そういうことが何度かつづいて、気づいたら休みの日にいっしょに映画を観に行くようになっていた。

 奥さんはいいのか、といったことを何度か訊いたことがあった。

「いいのって、まるで友達と映画を観に行くのがわるいことみたいだね。ちゃんと知り合いのコと映画を観に行くって言ってきてるからだいじょうぶですよ」

「今度ちゃんとご挨拶したほうがいいような気がします」

「じゃあ今度うちにも遊びにおいで」

「奥さんってどんなひとなんですか」

 それから私は多田さんにたくさんの質問をし、そのすべてに多田さんは短くも、的確な返答をくれた。そこに何かを誤魔化す響きはなく、本当にただじぶんは多田さんの友人なのだとの安心感、それから、じぶんよりもしっかりしたひとと友人になれたことへの、誰に対するというわけではないにしろ、優越感を覚えた。

 多田さんと会うのが楽しみになっているじぶんには気づいていたが、そこに恋愛感情があるとは思わなかった。多田さんに触れたいとか、何かこう、恋人のような真似事をしたいとも思わなかったが、多田さんともっとおしゃべりをしていたい、会っていたいとはよく思った。

 私はなぜか母に、多田さんと会っていることを言えなかった。ときおり母から、多田さんにちゃんとお礼を言っときなさいね、と念を押されたりしたので、多田さんのほうでは私を遊びに連れ出していることを言っているのかもしれなかった。きっと言っていたのだろう。

 私は就職に失敗つづきで、バイトに明け暮れていたから、社会人としての助言をしてやって、と母のほうで頼んでいた節がある。そこは正確なところはよくわからないが、多田さんへの母の無邪気な信頼だけは嗅ぎ取れた。

 私には夢があり、そのために勉学とバイトに励んでいたが、どうにもそろそろ人生の舵を大きく切るころなのではないかと思いはじめていた。端的に、夢を諦め、堅実に日々を生きるべきではないのか、との思いが頭をもたげはじめていた。

 多田さんの影響は無視できない。多田さんの職場、すなわち母の勤め先は、けして人に誇れるような会社名ではない。業務内容は、例えるなら、冷蔵庫の内部を流れる保冷液の処理をしている、みたいな仕事だ。人に言えば、ふうん、で終わりそうな内容だが、私はけっこうそういうのに興味が湧くほうで、多田さんからはよく仕事の話を聞いた。

「クミちゃんは聞き上手ですね。記者になれそうだ」

「多田さんの話がおもしろいだけだと思うけどな」

「そう言ってくれるのはクミちゃんくらいですよ」

 多田さんとは三日に一度は会うようになっていた。夕飯を一緒に食べに出かけたり、休みの日にはよく映画やショッピングに出かけた。

 けっきょく私はいちども多田さんのお家にお呼ばれされることはなく、彼の奥さんとも顔を合わせずじまいだった。

 多田さんがいったいいつから私のことを性的な目で見ていたかは知らないし、いつからこうなるように仕向けていたのかも分からない。多田さんに訊いてみたところで彼自身、ハッキリとは答えられず、互いになあなあの空気に流されていたと言われてしまえばそうかもしれないと思いもする。

 母が旅行で家を留守にしている晩に、私と多田さんはそういう仲になった。

 じつを言えば、唇を触れ合わせる真似事はときおりしていた。私が就活に失敗つづきで、空元気だったときに、多田さんがことのほか深く寄り添ってくれて、支えてくれて、無条件に肯定してくれるものだから、私はついふらりと、多田さんの肩にもたれて彼のぬくもりをねだってしまった。多田さんは困った顔をしながらも、頭を撫で、耳たぶをいじり、それから戸惑いがちに首筋に唇をつけた。

 私はそこで駄々をこねた気がする。

 もっとして、と。

 思い出すとなんて幼稚な真似を、と顔から火がでそうだけれど、おそらく記憶が正しければ、私のほうで目をつむって、多田さんに唇と唇の接触をねだった。

 多田さんはそれに応えてくれたのだ。大人として振舞うならばそこで拒むべきだっただろう、との正論もよくわかるし、友人としてでも相手のことを思うならば一時の気の迷い、ともすれば気の弱みに付けこむ真似はすべきではなかったとの理屈もよくわかるのだが、私はたしかにそのときは救われた心地になったし、またあしたからがんばろう、人生捨てたもんじゃないな、と思ったのも事実なのだ。

 いちど一線というか、身体の関係を持ってしまうと、急速に私たちの関係は一つの名前に収斂して、互いに秘密を共有しあう特別な関係に昇華された。

 不倫なんてバカみたいだと頭ではわかっているつもりだったのに、いざじぶんがそういうものの深みにハマってしまうと、私のこれはそういうのではないし、不倫とも違うんだよ、といった反論が無意識の領域に根強く膜を張って、正常にじぶんの行為を認識できなかったことは、いま振り返ってみて痛感する。

 私と多田さんの関係は、母にその関係を問い詰められるまでつづいた。期間で言えば一年と半年だったように思う。多田さんと出会って二年とちょっと。付き合って三年記念に温泉旅行に行こうと計画を立てていたが、けっきょくそれを実行に移すことはなかった。

 母は我が娘のことを第一に考え、事を大きくすることも、多田さんの奥さんに誠意を示すこともなかった。つまり、このまま何事もなかったこととしてお互いに忘れましょう、ということにした。多田さんと私を引き合わせた引け目もあったのかもしれない。多田さんを不必要に信用しすぎたじぶんを責めているのかもしれない。単に、多田さんの奥さんにこのことを知られて裁判沙汰になるのを恐れただけかもしれないが、私としても、そうした不倫に関するあらゆる不都合な事実をまじめに目の前に突き付けられ、冗談でなく冷水を浴びせられた心地がした。

 母は私のしたことを、火遊びと言った。

 私としては本気で多田さんに恋い焦がれていたのだが、たしかに火遊びだからこそ焦がれてしまったのだろう、焦げてしまったのだろう、と思い直した。

 多田さんはというと、まだ母の会社に勤めているらしいが、母の口からはもう彼の名を聞くことはない。飲み会にもじぶんでタクシーを呼んで往来している。

 就職先が決まって、しばらく慣れない環境で働きはじめると、以前のじぶんがじぶんではないような奇妙な感覚を覚えるようになった。

 すっかり忘れてしまわないうちに、記憶を捏造してしまわないうちに多田さんとのことを記録しておこうと思ったけれど、すでにけっこう忘れていて、ありゃりゃ、となっている。

 もし多田さんが結婚していなかったら、あのまま私たちは行くところまで行って家庭を築いていたのだろうか。そう考えるとふしぎだが、ひょっとしたら多田さんが未婚だったらそもそも私は多田さんに惹かれてなどいなかったかもしれないし、母だって私と二人きりにはしなかったのではないか、と不毛なもしもを想像しては、くだらんな、の判子を捺す。

 人生に活路が見えずに弱っている女子を元気づける年上の男性だとかつての私は多田さんのことを好意的に見做していたが、いまにして思えば、弱った女子の未来のことなどお構いなしに一時の衝動、それこそ性欲に流された哀れな獣だったのではないのかと、不倫に走った男を、じぶんを棚上げしつつ哀れに思う。

 不倫の是非を語れるほど私は多くの恋を知らないし、不倫のなんたるかも知らないが、すくなくとも、相手のしあわせを考えるならば、不倫のまま付き合いつづけることはないだろう。互いに遊びと割り切れているならば分からぬでもないが、それだって今回の件で言えば、すくなくとも私は多田さんとのそれを遊びだと割り切ってはいなかったし、もっといえば多田さんの奥さんにバレてほしくないと願いつづけていた。いいや、心の底ではさっさとバレて離婚してくれないかな、くらいのことは考えていた気がするけれど、いずれにせよ、不倫は、するほうだけでなく、されるほうこそを不幸にする。すくなくともいい気分ではないだろう。そこでも了解を得ているのなら、つまり、関係者全員が、不倫してもええよ、誰と恋愛しようが自由でしょ、の思想に合意していたならば、不倫もまた文化と言っても、そのひとたちのなかではアリな気がする。

 けれど、そんな思想を支持するならばそもそも結婚なんてしないのではないか、とすこし疑問に思わないでもないが、私としてはもう、金輪際、不倫をしようとも、不倫をするような男とも、お近づきになりたいとは思わない。

 もちろん不倫をするじぶんのような女とも近づきたくはないし、あのときの精神的に未熟で、純朴で、誰でもいいからじぶんを肯定し、支えてくれる相手、じぶんの価値を実感させてくれる相手、に依存するような、身を委ねるような、支配と自由の違いも嗅ぎ分けられずにいたじぶん自身とも、今後は再会せずにいられたら、これ以上じぶんを嫌わずに済む気がするし、じぶんを嫌いたくないからって、過去の一時の気の迷い、大いなる失敗談を好意的に解釈しなおして、記憶の捏造を試みて、あれはすばらしい時間だったと、もっともっととドツボにハマるような真似もしたくない。

 不倫をする人間にも様々な理由があるだろうから、不倫をする人間を弱いとは言わないけれど、すくなくとも私は弱かった。不倫に逃げ道を求め、人生の活路を求め、縋ってしまった事実からは目を逸らさずにいようと思う。

 なんて並べてみたら、中学生の反省文みたいになってしまった。反省文なんて書いたことはないけれどきっとこういうものに違いない。

 不倫の善悪をまじめに論じるなら、それ以前に、結婚の善悪をまじめに論じるべきだろう。べきというか、まず以って人間にある自由を侵害し得る結婚なる束縛の制度の是非を論じずには、不倫の善悪は述べられないだろう。結婚したらもう二度とほかの人間と恋愛をしちゃいかんよ、というのはそれはそれでなにか大切なものが損なわれている気がする。だったら別れてから好きに恋愛でもなんでもしたらいい、というのはたしかにそうだけれども、別れてからでなければしちゃいけない、という限定そのものがおかしいのではないか、と私は思うが、やはりこれはいちど不倫に足を突っ込み、身体の芯まで浸かってしまったがゆえの自己弁護にすぎないのだろうか。

 ただ一つ私自身に言えることは、多田さんを伴侶に選ばずに済んでよかった、ということと、じぶんの気持ちは案外にたやすくじぶんを裏切るということで、まとめてしまうと、私はもう、不倫なんてこりごりなのである。まる。




【ホバリングの週末】


 ハチドリがこの国にいないと知って驚いた。なにせうちの庭にはよくハチドリじみた飛翔体が花から花に渡っているので、てっきりあれがハチドリなのだと見做していた。

 だがよくよく目を凝らしてみると、たしかに鳥のようなクチバシはなく、ではあれは何なのかと気になって調べてみると、どうやら蛾の一種らしいと判った。

 そそっかしい性分はむかしからで、よくこうした勘違いを犯す。気づいていないだけで、ほかにも多くの誤謬を抱いたままでの生活を送っていることだろう。いまのところ大した被害がないのはさいわいだ。積もりに積もった誤謬に誤解に勘違いによって大やけどを負う前になんとか一つずつ是正していきたいところではあるが、なかなか自覚するのもたいへんだ。

 さいきんでは、私は二十六歳だと思っていたが、よくよく勘定してみるとまだ二十三歳だった。さすがにそれは嘘だろ、と思われるだろうが、本当によくこうした勘違いをしたまま何不自由なく暮らしているので、いったい世のひとはどうやって世界をより正しい姿のまま、種々雑多な情報を扱い、捌いているのだろう、とこれは純粋な好奇心で、というよりも、疑問であるが、首をひねっている。

 そうは言っても、誤解のしようのない情報もあるにはある。たとえばじぶんの性別は、さすがの私であっても間違えない。かといってでは生物学的性差、すなわち肉体の性別ではなく、精神的な、内面のじぶんの性別は、と問われると、これもまたしばし固まる。自信がない。本当に私は、じぶん自身を、肉体的な性別と同等のものと見做しているのだろうか。

 仮の話として、私の肉体的性別とは真逆の、もういっぽうの性別の肉体に私の精神が移ったとして、そこで私は激しい戸惑いを、違和感を、覚えるのだろうか。

 身体が異なるのだから大なり小なり違和感は生じるものだろうが、案外しっくりと馴染んでしまいそうだ。

 肉体とまではいかずとも、たとえば服装を異性に多い傾向の服飾に変えたとして、たいして恥ずかしくも、嫌悪感も湧かない。

 性的対象も、どちらかと言えば異性に目がいくが、かといって同性が嫌かと言えばそんなことはないのだ。

 私はじぶんで思っている以上に、じぶんのことを分かっていないのかもしれない。誤解をしているのかもしれない。誤謬を抱いているのかもしれない。

 それはそうだ、べつにそれはきみに限ったことではない、と私に言ったのは、私にハチドリがこの国にいないことを教えてくれたアキダアキだった。

 彼女は私の古くからの友人で、言ってしまえば腐れ縁だ。互いに成人式にはでなかったし、修学旅行にもいかなかった。かといってではそのときに二人で何かしらの思い出をつくっていたのかと言えばそうではなく、私は盲腸の手術やら愛猫の臨終の立ち会いやらで湿っぽく孤独を味わっていたし、アキダアキにしてみたところで誰かと時間を共有していたとは思えない。

 私は大学を中退し、家でできる仕事をはじめた。おそらく年齢に頓着がなくなってしまったのは、それがきっかけだったように思うが、やはりこれも定かではない。

 アキダアキは順調にというと語弊があるが、大学を卒業し、どうやら就職も果たしたようだ。こうして休日になると職場の愚痴を吐きにやってくる。必ずケーキやら菓子やらの差し入れを持ってきてくれるので不承不承、毒壺の役割を引き受けている。愚痴は吐くほうはすっきりするが、それは内なる毒を相手に吐き捨てているからだ、というのはもちろんアキダアキもご存じなのだろう、私がすこしでも辟易した態度を見せると次週の土産がすこし豪勢になる。むろん翌週になるとランクは戻る。

「ハチドリってね」アキダアキが庭を眺める。私がだしてやったせんべいを齧りながら、床に横になった態勢のままで、「身体の割に心臓と胸筋が鳥類なかで抜きんでて発達してんだって」

 どこで聞きかじったのか、雑学を披露してくれる。

「へぇなんでだろね」

「ホバリングするじゃん。宙で一時停止。あれって、ほかの鳥はできないわけよ」

「言われてみればそうかも」

「鳥の飛び方も、羽を動かさずに滑空すんのと、羽ばたくのがあるっしょ。あれも全然別の原理で飛んでるんだってさ」

「へえ」

「前縁渦って言ってね。羽ばたくときは、羽の根元から先に向けて渦がこう、くるくる移動しながら発生して、んでそれが揚力になるらしい」

「全然わからんわ」

「まあ、昆虫だってそら飛ぶわけで。ハチドリはどっちかと言えば昆虫ちっくなのかな」

「ハチドリって本当にこの国にいないんだね」思い出したので言った。「ネットで調べたら本当にそう書いてあった。図鑑にも載ってた。私がハチドリだと思ってたの蛾だったっぽい」

「ネットの記事はでも当てにならんよ。図鑑に載っててもけっこう情報が遅れてることもあるし。たとえば海の生き物って、早くても時速十キロ程度らしい。カジキとかマグロとか、めっちゃ速い気するけど、平均したら時速七、八キロでしか泳いどらんらしいよ」

「まじか」

「あとはね、シロナガスクジラ。めっちゃデカいじゃん。でもマッコウクジラが深海千メートルちかく潜るのに比べて、シロナガスさんのほうは三百メートルくらいしか潜らんらしい。それでも東京タワー並みには潜るからすごいっちゃすごいけど」

「へえ、なんでだろ」

「シロナガスさんはほら、口ぱっくり開けて海水ごと魚群を飲み込んで、髭で濾して食べんじゃん。あれがめっちゃ体力使うらしくて、深く潜ってらんないらしい。酸素使っちゃうから」

「マッコウクジラさんのほうは? あれも口ぱくーっで魚食べてんじゃないの」

「あっちは髭がないでしょう。ダイオウイカに食らいついてるイメージない? あれがマッコウクジラのほう。省エネだから深くまで潜れるらしいよ」

「ふうん」ヒゲがあっても深海の生き物をぱくーっと食べられる気がしたけれど、そこは互換性がないのだろうか。気になりはしたけれど、気分よくしゃべっている相手の腰を折るのは好きではないので、物知りだねぇ、と褒めておく。

「受け入りだけどねぇ」

 機嫌がよいのはおそらく恋人との関係が良好なのだろう。クジラだのハチドリだのの知識も恋人から仕入れたに違いない。

「あれ、でも、ん?」

 アキダアキは上半身を起こし、庭に目を当てる。ゆびで輪っかを作ってそれを覗きこみながら、「あれってハチドリじゃないか」とこちらを招くように手を泳がす。

「蛾だと思うよ」

「いやぁ、蛾ではないなぁ」

 夕陽に照らされた庭には、草木の影が長く伸びている。そのなかを一匹の小さな点が、ちろちろと花から花へと移ろっている。

「ハチドリでもないな」アキダアキがそう続けたので、そうでしょそうでしょ、と思いながら、じゃあなんなの、と正体が気になり私も身を乗りだした。庭を注視する。「んー? なんか人形っぽくない?」

 小指ほどの人型が宙をびゅんびゅん縦横無尽に飛行して見える。羽は高速で羽ばたいているようで、ほぼ透明だ。目に見えない。

「いやいや人形に羽ついていたらそれほぼ妖精じゃん」

「ドローンかな」

「ああいうオモチャ売ってそうだよね」

「誰かが遠隔操作してるとか?」

「覗かれてんよきみの家」アキダアキは肩を弾ませるが、まだ目は庭を浮遊するちいさな人形を追っている。

「花の蜜吸ってない? え、本物?」

「なわけないっしょ」言葉とは裏腹に、そこにこちらをバカにする響きはなかった。

 ふと我に還り私は、動画、動画、と言って証拠を押さえておこうと提案する。アキダアキはすかさず端末のカメラを起動し、構えるが、すでに庭には夜の帳が下りはじめており、小指大の、それも高速飛行する物体を捉えるには、いささか光量が足りなかった。

 すっかり日が暮れるころには庭からは虫の音が響きはじめ、秋の到来を告げている。

 私は部屋の明かりを点けに歩き、ついでに夕飯はどうするか、とアキダアキに訊ねた。

「カレーでいいよカレーで。あ、ビールない?」

「アルコール嫌いなの知ってるでしょ」暗に、ない、と告げる。「アキも作るの手伝ってよ」

「わいお客さんやぞ」

「ならすこしは客らしくしろ」

 遠慮をしろ遠慮を、と先刻目にした謎の物体のことなど、まるでなかったかのように私たちはすっかり食欲に流された。

 これ以上、さっき見たものの存在には触れないほうがいいような気がした。アキダアキにしろそれは同じだったのだろう。推論合戦を繰り広げたところで正解が分かるわけでもなし、徒労を何より嫌う私たちらしい切り替えの早さだと言えばそうかもしれないし、私たちらしからぬ好奇心のなさだと言ってもあながち間違ってはいない。

 食卓を挟んでカレーをついばみながら、いちどだけ、妖精ってこの国にいるの、と私は問うた。

 アキダアキは私の皿にニンジンを寄越しながら、まるでこの世のどこかにはいるみたいな言い方だ、と揶揄した。

「いるかもしんないじゃん」

「すくなくともわいは見たことないな」

「さっきのはじゃあ何?」

「ハチドリでしょ」

「でもいないんでしょ、この国には」

「じゃあ、蛾だ」

 最初に蛾ではない、と言って庭のそれに気づいたのはあなた自身でしょうに、と呆れたけれど、アキダアキ自身、意固地になっているところがあり、それを自覚しているからか、ことさら苛立たし気に、もういいよこの話題、と打ち切ったところを鑑みると、ひょっとしたら私が思うほどには恋人とも上手くいってないのではないか、毎週のようにウチにやってくる彼女の日常に思いを馳せた。

「きょう、もう遅いし泊まってたら」

「え、まさかこれから帰れとか言うつもりだった?」

「頼むからもうちょい客人らしくしよ?」

 食器の後片付けはアキダアキに押し付けた。代わりに私は寝床の準備をしてあげる。布団をだし、シーツを被せ、枕を置く。

 台所に顔をだし、お風呂さきに入っちゃって、と促すと、

「湯上りにビール飲みてぇ」

 アキダアキはさえずり、居間で衣服を脱ぐと、下着姿で洗面所へと消えた。

 客らしくしろっつったろ。

 内心で失笑しつつ、私は気づく。

 私は笑うことすら一人でできないのだ。

 アキダアキが週末にやってきてくれるから、こうしてぷんぷんしながらも、感情の起伏を指でなぞるように実感できる。

 むかしから正しいことなど何一つとして理解しておらず、誤謬に誤解に勘違いまみれの人生だけれど、ひとつだけ私には判ることがある。それは、いっさいの誤謬のない完璧な答えという意味ではなく、たとえ勘違いであったとしても、錯誤であったとしても、よしんば私の妄想でしかなくとも、それはそれで構わない、という意味の、答えだ。

 妖精はこの世にいてもいいし、いなくともいい。

 アキダアキが、そんなものはこの世にいないと言うのなら、それはこの世にいなくていい。

 ただ、アキダアキがいくら飲みたいと言ってもウチにビールは置いていないし、私がいまから買いにいくこともない。アキダアキが望むのなら、一緒にコンビニについていってやるくらいのことはでも、してもいい。

「歯ブラシ、新しいの置いとくよ。あと着替えも」

「あいよー」

「礼くらい言え」

 浴室からご機嫌な口笛の音色が響きだす。

 こちらの厚意をさも当然とばかりにアキダアキは受け取る。きっと外ではもうすこし礼儀なるものに忠実なはずだ。アキダアキの私にだけ見せるその奔放さが、私はたぶん、それほどそう、嫌いではない。




【必死は向かうよ滾々と】


 ミカさんの性格が急激にわるくなって見えて私は気が気ではない。おそらくミカさんのことだからまたぞろ何かしらの本を読んで、或いは映画かもしれないけれど、感化されて、影響されて、何にとは言わないけれど染まり切ってしまったのではないかと私は睨んでいる。

「あたし、相手の言動が本気かどうか、真剣かどうか、解っちゃうんだよね」

「へえそりゃ便利でいいですね」窓から夕陽が差し込んでいる。部室のなかに舞う埃がキラキラと輝く。

「そうでもないよ。相手の底が知れてしまうから、なんだか疲れてしまって」

「それはそれはたいへんですね」

「ちなみにきみはいま、適当に返事をしているね。そういうの解っちゃうんだからね」

「バレてましたか」

 伝わるように言っていたのだからそうでなくては皮肉を言った甲斐がない。ミカさんはじぶんで言うほど鋭くはないし、むしろようやく人並みに他人の言動の機微を感じ取れるようになったくらいで、いままでが無頓着すぎたのだと私なぞは思ってしまうが、それを当の本人に言ったところで、認めはしないだろう。

 じぶんだけがこの世の真実を分かっているのだ、と思いあがった人間は往々にして他人を見下し、じぶんの考えを押しつけ、ちょっとじぶんの意にそぐわないことがあると機嫌を損ね、それすら相手のせいにするので、相手をするのが非常に疲れる。

 なんて思ってしまう私自身がすでにミカさんの悪影響を受けつつあり、こうして不機嫌なのはミカさんのせいだと責任転嫁を図っている。

 不快なら距離を置けばよいのだ。そうしないのはミカさんのせいではなく私が現状維持を望んでしまっているせいである。

「ミカさん、ミカさん。ミカさんが聡明なのは私もよく存じておりますけど」

「ふうん。そんな風に思ってくれてたんだ」

 疑いの眼差しが眩しい。私は身体を右に左に傾けて、その視線を避けながら、

「もしミカさんが他人の言動の真偽が判るならいまから私の言うことが嘘か本当か当ててみてください」

「え、ヤだよ。ムリだし」

「ムリなんですか?」

「ムリというか、あたしに判るのは、本気かどうか、真剣かどうかだから。言動の真偽とはまた別でね。だからたとえ科学的に間違っていても本人が真剣に信じていることなら、それは、ああ真剣に言ってるんだな、本気なんだな、って解かるってだけのことで。そう思うのだってあたしのなかでそう判るって話だから、真実本気かどうかもまた別で」

「そんなの何も解ってないのと一緒じゃないですか」

「そうとも言うね」

「まさかミカさん、なんでもかでもじぶんが感じたこと、思ったこと、考えたことが基準だなんて思ってないですよね」

「思ってないよそんなこと。ただ、あたしの気持ちはあたしだけのもので、それは客観性とか科学的とかそういうものとは一線を画していいんだなって。あたしがそう思ったならそう思った、で済ましていいんだって気づいたんだよね」

「それって物凄く当たり前のことでは?」

「そうなんだよね。でもあたしはそれすら知らなかった。あたしの気持ちに関係なく正しいことはあるし、あたしがどう思おうが間違っているものは間違っているんだって思ってた」

「そうなんじゃないんですか?」

「あ、きみもそう考えてるタイプなんだ。むかしのあたしと同じ」

「ムっ」まるで旧式だと言われたみたいな拒絶感が湧く。

「正しいことが好ましいことで、間違っていることが悪しきことってべつに決まってないんだよね。より確率的にそうなる確率が高い考え方、法則、そういうものはあるけれど、でもそう考えなきゃいけないなんてことはないわけで」

「まあ、大事なことを決めるのでなけばそうかもですけど」

「そう。大事なことを決めるのでなければ、何に本気でもいいし、真剣でもいい。でも多くのひとは、正しいこと、間違っていないことにしか、本気になっちゃいけないし、真剣になっちゃいけないと思い込んでる。でもあたしには、どんなに間違っていて、くだらないことでも、それに本気になって真剣になってるひとの言動が判る。正しいか否か、真実か否かなんてそこには関係ないんだ」

「言ってること、なんとなく解ったような解らないような」

「解ってくれなくても別にいい。理解とか共感とか、そういうものの外のお話だからね、これは」

「そういう物の見方ができるようになってミカさんはいま気持ちよく過ごせてるんですか。以前と比べて」

「どうだろうねぇ。案外みんな本気でも真剣でもないんだって判っちゃうだけだから、そんなに面白くはないけれど、だからこそときどき出会える、本気で真剣なひとの言動、ひたむきなひとの表現に出会うと、何かこう、生きるのもそんなにわるかないかなとは思えるけどね」

「正しいか否かとは関係なかったんじゃないんですか」私は敢えて揚げ足取りをする。

「そう、関係ないね。あたしがどう思おうが、そのひとたちは本気で真剣にひたむきに生きつづけていく。やっぱりこう、生きるってのもわるかないなと思うんだ」

「理屈じゃないんですね」

「そ。あたしがそう思ってしまうってだけの話だからね」

「だからって本気で真剣でひたむきでないひとたちを否定はしないんですよね」

「そうだね。そういう生き方もあっていい。ただあたしはなるべく関わりあいたくないし、近づきたくないし、見ていたくない。だからまあ、こうして部室で無駄な時間を過ごしているのかもしれないね」

「ミカさんは本気でも真剣でもないんですか」

「あいにくとね。そうなりたいとは思うんだけど」

 ミカさんから見て私はどう見えているのだろう。そばにいてもなんとも言われないからすくなくとも不快に思わていないのではないかと、そこはかってによいほうに考えておく。ミカさんに問えば答えてくれるだろうけれど、答えを聞くのが怖いので、いや、べつに怖くはないけれど、聞かずにいたほうが気兼ねなくそばにいられるので、聞かずにおくことにする。

「その点、きみは」とミカさんが私の内心を見透かしように、「いつでも一生懸命でいいね」と言うものだから、私は持っていた本を床に落としてしまった。たいせつな本を落とすなんて。

「そんなに動揺しなくとも」

「してません動揺なんて」

「必死だねぇ」

「全然そんなことないです。何勘違いしてるんですか。だいたい私はいったい何に本気で真剣だというのですか。読書ですか? ミカさんには負けますけどね」

「いやいやそんなものにきみは本気でも真剣でもないでしょう」

「ならなんですか。何に一生懸命なんですか」

「それをあたしの口からは言えないよ」

 恥ずかしいだろ、とミカさんは真実顔を紅潮させて本で以って顔を覆うものだから、私は呆気にとられ、遅れてカっと全身が熱くなった。ボっと音を立ててもおかしくないくらいで、私はじんわりと滲む汗を拭いがてら窓を開けに歩く。

「なんか暑くないですか」窓を開け放つ。秋の風が心地よく、しばらくすると汗ごと体温を奪われて寒くなった。

「もうよくないかな。ちょっと寒いよ」ミカさんの言葉に私も頷く。窓を閉め、すっかりお外は真っ暗ですよ、日が暮れていますよ、と暗に帰りましょうよ、と促す。「そうだね。そうしよっか」

 外に出て、分かれ道に差し掛かるまで私たちは肩を並べて歩く。ミカさんはきょう読んだ本の話をし、その作者の作風を分析して語った。いわゆるSFと呼ばれるジャンルの小説で、化学傍証が甘い点をミカさんはことさら強調して指摘した。

「ミカさんは客観的な正しさはさほど重視していないんじゃなかったんですか」

「バカ言っちゃいけないよ。客観的正しさ、化学的な検証は大事だよ。再現性のないものは単なる妄想や傾向にすぎないからね。ただ、客観的正しさを必ずしもあらゆる判断、考えの基準にしなくてもいいんだよってことに気づいたってだけの話。だいたい、意識や精神なんてものが真実存在するのかすら、客観的にも科学的にも証明されていないわけだから。そんな意識や精神のなかの話くらいは、つまり主観世界くらいは自由でいてもいいんだよなって気づいたって話」

「でも客観的事実を認識するのもけっきょくは主観世界なわけですよね」

「お。いい点に気づいたね。その通り。何が主観で何が客観か。そこの区別をじぶんでつけられるようになることこそ、理性の役目と言える。ゆえに、主観が何たるかを分からないひとには、客観的事実もまた充分に判断できないんだろうね。妄想と現実の区別すらつかず、妄想も現実の一断片であることにすら気づけない人間に、客観視も科学的思考も満足に扱えるわけがないのだ」

「それを聞いてすこし安心しました。また何か妙な思想に感化されてしまったのかと思いまして」

「またってなんだ、またって」

「客観と主観の両方を使い分けられるからこそ、区別できるからこそ、客観視も妄想も使いこなせる。これはそういうお話ですね」

「そうやってまとめられるとおもしろくないのはなんでだろうね」

「主観世界に他者がたやすく踏み込んできたみたいな、踏み荒らされたみたいな感じですかね」

「というよりも、たやすく喝破されるような単純な主観世界だって事実を認めたくない心理にちかいな」

「自己分析がお上手ですね」

「そこはもうちょっと否定して。ミカさんの主観世界は深淵で、おいそれとは喝破できませんって言っておくれよ」

「いやあ、どうでしょう。ミカさんほど単純で素直なひとも珍しいので」

「褒めるか蔑むかどっちかにして」

 分かれ道に差し掛かっても、私たちはしばらく車両通り抜け禁止の鉄製アーチに腰掛け、しゃべり合っていた。

 帰り道、ひっそりとした暗がりをほんりとした心細さで歩いていると、あしたはミカさんと何をしゃべろうかと考えているじぶんがいて、ああこれか、とはっとする。

 本気で真剣でひたむきで、一生懸命。

 私の必死はいつだって、たったひとつに向かっている。

 とっくのむかしから見抜かれていたことに顔が熱くなるけれど、いまは秋で、ここは部室ではない。

 冷たい風がすかさず浚ってくれる。

 熱は絶えず、身体の内から湧いて、湧いて、滾々と。




【瞬久間弐徳の休日】


「今回の犯人は凶器を密室のなかから見事に消し去り、迷宮入りを企んだわけだが、相手がわるかったようだ。私にはすぐに見当がついた」

 またぞろ先生は事件の概要を聞いて三秒で解決してしまったのだろう。人を殺した犯人に同情はできないけれど、それでも苦労をして練った一世一代の企みがこうも呆気なく暴かれたとなると、ほんのりとした申し訳なさを、まったくの無関係な外野の人間ながらに覚えてしまう。先生の代わりに謝りたい気分だ。呆気なく謎を解いてしまってごめんなさい、と。

「密室って今回はどこだったんですか」わたしは繋ぎ穂を添える。先生から事件のあらましを話してくれるなんて滅多にないので、ここで素っ気なくしたら臍を曲げるに決まっているので、幼子をあやすような寛大な心持ちでわたしは、「また館の一室だったんですか」と訊ねる。

「いいや、今回はマグロなどを冷凍保存するための保管庫だった」

「わかった。凶器は氷だったんですね。それかドライアイス」

「犯人もそこまでアホウではない」

「間接的にアホウって言われた」

「直接的に言ったつもりだったのだが、うまく伝わらなくて残念だ。密室内部はキンキンに冷やされていた。マイナス八十度以下だ。氷やドライアイスはまず熔解しない。倉庫内に遺体以外の物体は視認できなかった。ちょうど掃除の時期だったらしくてね、中身を洗いざらいすべてだして、まったく何もない状態にされていた。そこに遺体だけが残されていた」

「鍵はもちろんかかっていたんですよね」

「かかっていた。問題は、鍵のかかった時刻がデジタルで記録されていた点にある。その時刻は、死亡推定時刻より一時間も早い。つまり被害者は、内部に閉じ込めれてからしばらくのあいだ生きていたことになる。死因は首筋の刺し傷だが、手足や顔の末端はひどい凍傷だった。刺し傷がなかったとしてもどの道助からなかっただろう。問題は、凶器が見当たらないことだ。密室内部にそれらしい物体は観測できなかった。被害者が殺害されたにしろ、自殺したにせよ、単なる事故であれ、凶器が見つからないのでは判断のしようもない。手をこまねいていたところで」

「先生にまたまた白羽の矢が立ったのですね」

「白羽の矢なんかで射られたら脆弱な私は死んでしまうが、何にせよ、密室内部から凶器はしぜんになくなったりはしない。誰かが持ちだしたのではなく、隠したのでもないとすれば、残された可能性はそう多くはない」

「持ちだしたり、隠したりはされていなかったんですか」

「さきにも述べたが、鍵の施錠時刻と、死亡推定時刻に一時間のズレがある以上、その可能性は低いと判断せざるを得ない」

「ですがその死亡推定時刻のほうが間違っていたり、ひょっとしたら施錠時刻を改ざんできるのかもしれないじゃないですか」

「そこは警察のほうで厳密に調査済みだ。データを見せてもらったが、信憑性は高い。論理的に矛盾がなかった。よってまずは凶器の持ちだしや隠匿はなかったものとして前提し、考えることにした」

「ならあとは、遺体の刺し傷が、刺し傷ではなかったくらいしか思いつきませんけど」

「なかなかよい着眼点だ。が、今回に限ってはそれも異なる、遺体の傷口は明確に、先の尖った物体で開けられたものだ。刃物にしては傷口はひどく荒く、瓦礫の破片や、ツララのようなもので刺された可能性が高いことまでは分かっていた」

「だから氷やドライアイスが凶器だったんじゃないんですか」

「さっきも言っただろう。仮にそうだったとしても、それらは現物として、熔けずにそこに残っているはずだ。そうでない以上は、凶器はそれ以外のモノだと考えたほうが合理的だ」

「でもなかったんですよね」

「遺体以外はな」

「じゃあとは、そうですね、遺体が凶器だったと考えるしかないんじゃないんですか。何がなんだか意味わからんですけど」

「なぜ意味が分からないんだ。それしか可能性が残されていないのならば、それこそが真実にちかい道を示しているとなぜ思わん」

「えぇ、でも死んじゃってたらじぶんでじぶんを殺すなんて真似はできませんし、そもそもじぶんでじぶんを刺すとか意味がまったく」

「分からないか? ちなみに被害者は液体窒素の扱いに長けていた」

「液体窒素はでも固体化しないんじゃ」

「固体化はするが凶器にできるほどの強度はない」

「もういいから答えを教えてくださいよ」

「遺体の手足はひどい凍傷だったと言ったろ。とくに右手が重傷で、生きていたとしても切断は免れなかっただろうとの鑑定結果だ」

「そりゃマイナス八十度以下に一時間以上もいたなら凍傷くらいなるもんじゃんじゃないんですか。知らないですけど」

「より深刻な凍傷を負っていた右手のほうが、左手よりもずっと血にまみれていた。私はそこにまず引っかかった。そして被害者が液体窒素を扱える人物だと知り、あとはもうそこから導かれる答えは一つしかない」

「なんとなく自殺だったのかなぁってのは先生の物言いから察しましたけど」

「被害者はそう、自殺だ。じぶんの利き手を液体窒素に漬け、凶器とし、巨大な冷凍庫のなかに自ら入り、そして首を刺して死んだ。施錠時刻から一時間のズレがあったのは、おそらくは捜査を混乱させる目的と、やはりなかなか踏ん切りがつかなかったことが大きいのではないかと、これは完全な憶測だが想像している」

「動機は何なんでしょうか」

「さてね。それは警察のお仕事さ。すくなくとも遺体の主は、殺人事件としての捜査を期待していたことはたしかだろう。状況からすればどう見ても自殺としか見做せないが、凶器がない一点で、殺人事件として捜査せざるを得なくなる。何かしら暴いてほしい事案があったのかもしれないが、それこそ死人に口なし、探偵に縁なしだ。動機の解明など探偵のすることではない」

 以前は、証拠を探すなんて探偵のすることではない、と先生は嘯かれていた。要するに、それらしい仮説を説いて、もっともらしい解釈をひねくりだせばそれでいいと思っているのだ。探偵が聞いて呆れる。本心ではそう思っているのだけれど、過去これまでに先生に解けなかった謎はなく、先生の解釈が間違っていたこともない。先生がそう言うならじゃあそうなんでしょうね、といまではおとなしく首肯するまでに、わたしの理性は腐ってしまった。それもこれも先生のせいである。責任をとってほしい。

「そういえば先生、新しい小説は完成したんですか」

「今回の事件に呼びだされて中断してしまったよ。いまから仕上げる。夕飯はまた扉のとこに置いておいてくれ」

「またホットケーキでいいですか」

「何でも構わんよ」

 きみの料理ならなんでもいい。

 ひとを便利なメイド扱いして先生はさっそく誰が読むでもないじぶんだけの物語の世界に旅立たれる。

 以前、こっそり先生の小説を新人賞に出したことがあったけれど、一次選考にも引っかからなかった。わたしもこっそり読んではいるものの、いったいなんのこっちゃ、と先生の文才には大いに疑問を呈している。

 ただ、先生は執筆が趣味であられるようだし、誰を困らせているわけでもなく、物語の世界に旅立たれているあいだだけは、憎たらしい小言を聞かずに済むので、まあなんというか、先生がペンを紙に走らせているあいだはわたしにとっても休息のひとときである。

 せめて一つくらいわたしでも楽しめる物語を編んでほしいところではあるけれど、どんな謎も三秒で解いてしまう先生よりも愉快な存在がそうそう容易く目の前に現れてもらっても困るので、それこそ先生自身でそんなものをぽんぽんと量産されでもしたら、わたしの感性は磨かれすぎて、摩擦熱で火を放ちそうで、端的に付き合いきれないので、いまのまま、独りよがりの小説をつむぎつづけてほしいとわたしは、せつに、ほんのりと、ホットケーキの種をまぜまぜしながら思うのだ。




【あすのチャイムは特別で】


 在宅ワークに替えてから通販を利用する頻度があがったために、段ボールの始末が面倒に感じはじめて久しいが、人付き合いをせずに済むようになったのはよろこばしいことだ。

 とはいえ、さすがのわたしも――何がさすがなのはかじぶんでも謎だが、人間関係を煩わしく感じることにかけては得意中の得意のわたしであっても――数か月を家に引きこもりっぱなしで過ごしていると、そこはかとなく人肌恋しくなったりするようだ。端的に誰かとしゃべりたい。

 独り身の孤独を紛らわせるための処方箋として、猫でも飼うとよいとネットには書かれていたが、あいにくとアレルギー持ちゆえそうもいかない。

 散歩に出かけるのを日課にしようと計画を立ててみたが、三日坊主どころか翌日から行かなくなってしまった。歩くのですらダルい。身体がすっかり引きこもりに適応している。無駄に動かぬように脆弱に進化し、すくないエネルギィで動けるように省エネ構造になってしまった。

 映画や漫画など、虚構の世界に没頭して寂しさを紛らわせてはみるものの、短期的には効果があるが、長期的にはむしろ孤独の深淵さを測るための試金石代わりになってしまって、いかにじぶんが社会と断絶し、あべこべに世界のどこかには虚構の世界にあるような人との交流を、それはたとえば友情や愛情を互いにそそぎあったりする関係を築いている者たちがいるのだと、まざまざと知ることとなる。

 虚構の世界に逃避すればするほどに、想像の翼は強化された。わたしはじぶんでじぶんの首を絞めながら、さびしい、さびしい、わたしはなんて孤独なんだ、とときおり猛烈に、何かに嫉妬し、焦燥感を募らせ、やはり誰でもいいから害のない他者と何かしらの交流を図りたい衝動に駆られた。

 そのひとはおそらくわたしにとって現在もっともちかしい間柄の他人と呼べた。

 名前は佐竹さんだ。それだけが、わたしの知っている彼の側面像で、もうすこし補足するならば彼は運搬業者の社員で、わたしの住まう地区を任されている配達員の一人だった。

 通販を利用するといつも同じ時間帯に荷物が届く。狙っているわけではない。曜日まで偏るようで、いつも同じ人が、すなわち佐竹さんが荷物を運んできてくれた。

 歳はわたしよりもすこし上くらいで、ひょっとしたらもっと若く、わたしよりも下かもしれないが、胸板の厚さ、引き締まった二の腕、肩幅の広さと日焼けした褐色の肌、そしてごつごつとした手の甲に浮かぶ血管には、何かしらの性的魅力を感じなくもない。わたしはおそらく男のひとの血管フェチなのだろう。世間では細マッチョが支持されがちだが、わたしはもっと格闘家顔負けの筋肉よろしく肉体美のほうが目の保養によろしいのではないかと疑っている。じつのところそうした所感を覚えてから日は浅い。

 何を隠そう、佐竹さんを見かけるうちに、知らぬ間に、そうした性癖の芽生えを体験していた。まさにセイ天のヘキ靂だ。

 夜寝る前に、暗がりのなかで目を閉じたり、開いたり、寝返りを打ったり打たなかったり、なかなか寝付けずに、わたしの人生これでええんかな、の悶々を持て余していると、なぜか闇のなかに、ひょっとしたらそれは瞼の裏であるかもわからないけれども、佐竹さんの逞しい肉体が浮かぶ。

 荷物を床に置く所作、お尻のシルエット、被り直す帽子と、したたる汗、なにより小物の荷物であるとじかに手渡してくれるのだが、そのときに間近に見る彼のゆびのうつくしさときたらない。

 毎晩のようにそうしてわたしはじぶんでじぶんに催眠術をかけるように、洗脳するように、刷り込むように、佐竹さんへの興味を滾らせていった。

 夢のなかで佐竹さんと手をつなぎ歩いていたり、後ろから抱きしめてもらっていたりしている。目覚めるといつも、夢であったことを口惜しく思った。

 日に日にわたしは佐竹さんから荷物を受け取るあの一瞬を心待ちにするようになった。待ち遠しかった。

 スウェット姿を見られるのがなんだか恥ずかしいような気がしたし、生まれてこのかた化粧品を選んだことなどなかったのに、いつの間にかモデルや同年代の化粧遣いたちの動画を観漁ったりした。

 外出するのなんて月に一度くらいなのにわたしの部屋には使いきれないだろう数の化粧品が立ち並ぶ。小人が見たら都市と見紛う。

 わたしがそうしていまさらのように自分磨きに精をだしはじめると、正比例して佐竹さんは毎日のごとくわたしの家に顔を覗かせるようになる。佐竹さんではない別のひとが配達をしてくれることもあるが、そのうちわたしは完全に佐竹さんの勤務日を把握するまでに至った。

「いつもありがとうございます」佐竹さんは飴玉をポケットに仕舞うと言った。「図々しいんですけど、いつもくるとき、きょうは何だろうなって、楽しみにしてて。あ、お気持ちだけでもうれしいので、どうぞご無理なく」

 本当いつも美味しくいただいています、と一礼して彼は去った。

 わたしは小賢しいので、佐竹さんをまずは餌付けしようと考えた。わたしの企みは功を奏し、というよりも佐竹さんが思っていた以上に人懐こく、温厚で、さわやかな青年であるだけのことなのだが、わたしはますますを以って佐竹さんへの印象をよくした。

 わたしは佐竹さんを出迎えるたびに、彼を労う言葉を忘れずにかけ、お菓子を手渡し、ことさら必要ではない食糧だの服飾だのを矢継ぎ早に注文した。

 もはや品物の中身は重要ではなく、いかに佐竹さんに怪しまれず、これは確かに入用だな、と納得づくで日々わたしの家のチャイムを鳴らさせるかに焦点が絞られつつある。

 これだけ毎日のごとく配達をさせれば、いくら人のよい佐竹さんとて、よもやオレが目当てではあるまいな、と勘づいてしまい兼ねない。

 とっくに勘づいていてもおかしくはないのだが、人のできた佐竹さんはきっとじぶんの気のせいだろう、とわたしを疑ったりはせずに、じぶんのほうこそ認知の歪みに囚われているのだとじぶんを戒め、わたしを害なきお客さま扱いしてくれることだろう。

 そういうひとなのだ、彼は。

 無駄に彼のすべてを知った気になって、涙ぐむが、実情としてはわたしと佐竹さんはただの他人だ。接点はないに等しく、毎朝律儀にベランダでピチュピチュさえずっているスズメたちと同等の関係性しかないと言える。

 言えてしまう事実にわたしは肩を落とす。もっと仲を深めたい。縁を繋ぎたい。彼と対等に言葉を交わし、好きな映画の話や、中学校何部だったのか、休みの日は何をしていて、いま付き合っているひとはいるのかを根掘り葉掘り訊ねたい。

 そうなのだ。彼にだって気になる相手くらいはいるだろうし、現在進行形で恋人として付き合っている相手がいてもふしぎではない。

 とんでもない事実に気づきわたしは床に崩れ落ちた。どんなにわたしが頑張っても彼は見向きもしないどころか、そもそもわたしは彼の人生のなかに一瞬映り込んだだけの道端のタンポポにすぎないのかもしれなかった。

「体つき立派ですけど、何かスポーツされてるんですか」

 ある日、わたしは勇気を振り絞って、投げかけた。何百回と脳内で練習し、じっさいに口にだして馴染ませただけあって、じつにしぜんな口振りだった。

「すこし格闘技を」彼は照れ臭そうに鼻のあたまを掻く。純朴な少年がごとくいたいけな所作にわたしは内心で鼻血を噴きだすが、かような心象はおくびにも出さない。

「ボクシングか何かですか」

「いえ、カポエラなんですけど、知らないですよね」

「知ってます!」食いついてしまったのは、さいきん読んでいる漫画がまさしくカポエラを題材にした作品だったからだ。その旨を告げると彼は、おもしろいんですか、と興味ありげに顔をぱっと明るくした。

「面白いです面白いです。あ、貸しましょうか?」

 咄嗟に口を衝いただけの言葉だったが、言ってしまってから、しまったでしゃばりすぎた、と焦るじぶんが現れ、遅れて、いやファインプレーやで、とつぎの展開に期待を募らせるじぶんが現れる。

「読みたいですけど、お客さまからはさすがに申しわけないので」

「ですよね」

「でも買って読んでみます。感想、つぎまでに用意しときますんで」

「つぎってたぶんまたあした荷物あると思うけど」

「それまでに読んどきますんで」

 彼はしきりに首筋をその大きな手で撫で、伏し目がちに笑う。

「あ、じゃあどうせあした来るなら」わたしはいちど部屋に引っ込み、いそいでマンガ本を三冊掴んで、「一巻だけでも、ね?」

 玄関口に立つ彼に差しだした。彼はしばし思案するが、じゃあ一冊だけ、と言って一巻目を手に取った。

「でも面白くなるのは三巻過ぎてからだから、できたらこっちも読んでほしい」

 熱心なファンさながらのセリフに、彼はこんどはハッキリと太陽のように破顔して、じゃあこっちもお借りしますね、と三冊を両手で掴み、すみませんありがとうございます、と頭のてっぺんが見えるほど深く腰を折る。

 水底の砂を手のひらで掬うようなやさしい声音で、わたしはもうそれだけで彼と深く繋がれた気になった。まるで子猫の欠伸を目撃したときのような至福が湧く。別れ際、カカオ入りのチョコレートを三粒だけあげると、いつも気になってたんですけど、と扉を支えながら彼は言った。「これ、このお菓子って高いんじゃないんですか。とても美味しいので、気になって」

「もらいものだから気にしないでいいよ」

「本当にありがとうございます。お返しとか何かできればいいんですけど、ちょっとそういうの職場にバレると怒られちゃうんで」

「いいのいいの。好きでやってることだから」

 彼は帽子を脱いで頭を下げ、姿が見えなくなるまでのあいだにそれからまた三回頭を下げた。

 わたしは彼との距離がワープでもしたみたいに縮まった気がして、この日は夜も眠れなかった。興奮していて目が冴えて、とてもではないが、寝てなんていられなかった。

 でもあすもやってくるだろう彼のまえに寝不足の顔をさらすのは考えもので、無理やりにでも寝ようと思い、わたしはすこし疲れることをしてから寝た。彼のことを考えながらするそれは、せつなく、それでいてとびきり甘美であった。

 翌日、彼は宣言どおりにわたしの家のチャイムを鳴らし、荷物を届け、ついでに貸した漫画を返してくれた。

「面白かったです。さっそく仲間に教えて、読ませてます」

「それはよかった。あ、つづき貸す?」

「あ、じぶんもう続き気になって買っちゃいました。大人買い初めてしたかもれないです」

「あはは、そっか」

 彼はそこで、あのこれ、と包みのようなものを差しだした。わたしはそれをマジマジと見てから、じぶんの顔をゆび差す。わたしに?のジェスチャーだ。

「いつものお礼です。あ、いちおう上司に相談したら、やっぱりこういうのはダメらしいんすけど、勤務時間外に友達の家に行くだけならそれは職場ではどうこう言う権利はないって」

 暗にそれはわたしのことを友達だと言ってくれているようなものなのでは。

「あれ、でもいまってお仕事中じゃ?」

「そうなんですけどね、終わってからピンポン押すのはそれはそれでなんか、危ないじゃないっすか。怖いだろうなって。だからこれはあと四時間後にもらったってことにしといてください」

 彼の手が震えている。わたしが包みを受け取ると彼は大きく息を吐き、ひたいの汗を拭った。顔が真っ赤で、ただでさえ褐色の肌がさらに深みを増した。

 わたしのほうでは赤面しないのかというとそんなことはなく、ふだんから彼のまえに立つときは顔が熱くて熱くて全身が沸騰しそうになっているが、割高な化粧品で下地を入念に敷いているからか、顔の赤みはそこまで強調されてはいないみたいだ。

「えっと、開けてもいい?」

「どうぞ」

 たいしたものは入ってないんですけど、と肩をすぼめる彼の姿が、一回りも二回りも縮んで映った。

 包みを開けると、中からはちいさな写真集がでてきた。世界中の風景が収まった本だ。いわゆる絶景スポットではなく、その地域に住んでいる人にとっては何でもないような日常の風景だけれどほかの土地で暮らしているひとからすると非日常であり、異界のような、うつくしい景色の断片だ。一枚一枚の作品が大樹の葉のようだ。壮大な物語を、旅を、つむいでいる。

「いつも家にいらっしゃるので、たまには旅の雰囲気でも味わってもらえたらなと思いまして」

 ひとしきりページをめくってから本を胸に抱く。ありがとう、とからっと明るく言いたかったのに、胸に競りあがる想いが邪魔をしてうまく言葉にならず、なぜか目頭まで熱くなって、何かが凝縮して、零れ落ちそうになった。

 重い人間だと思われる。

 わたしはすっかり滲んでしまった視界をそのままに、頬に伝うしずくには気づかぬふりをして、ありがとう、と笑顔をむりくりつくる。だいじにする、と付け足したのがよくなかった、うれしいの気持ちと、なぜ彼はそこまでしてくれるのだろうの戸惑いと、じぶんはいったいなにをしているのだろう、なにをしてきたのだろう、の悔しさが溢れた。唇を噛みしめる。

 わたしは彼に好かれたいのに、彼に好かれるだけの魅力がない。彼はこんなに優しくて素敵なひとなのに、わたしは生まれてきてからいまのいままで、彼と釣り合うだけの何かを磨こうとも、培おうともしてこなかった。

 人は平等で対等であるべきだから、釣り合うとか釣り合わないとか、そういう基準で相手との関係は計るのは愚かで浅はかだと理屈では判っているのに、どうしてもじぶんの底抜けの未熟さに卑屈になる。

 彼が素敵であればあるほど、わたしの未熟さは際立った。

 彼がわたしにやさしくすればするほど、わたしはもうこれ以上、彼との縁を結ぼうとしてはいけないのではないか、の疑念に苛まれる。

 もう充分だよと。

 これ以上、彼から何かを奪い、強いるのかと。

 わたしはわたしを叱りつけたくてしょうがなくなる。

 彼は急に泣きだしたわたしをまえにしても眉一つひそめずに、どうぞ、とハンカチを差しだしてくれる。ハンカチを持って歩く系の男子であったことにまた感動してしまってわたしはこのままだと、彼が誰かに微笑んでみせるだけで、赤ちゃんが産まれて初めてハイハイをしたくらいに胸を打たれてしまいそうだ。

「そろそろ行きますね。あしたはじぶん休みなんで、また来週。漫画、お勧めあればまた教えてください」

「仕事終わってからでいいから」わたしはもうじぶんの気持ちを誤魔化せなくなっていた。化粧をしたままこんなに泣いたのが初めてで、いったいじぶんの顔がどうなっているのか、鏡を見るのがおそろしかった。顔を伏せたままわたしは目元を拭うこともできずに、かといって彼のハンカチを返すわけでもなく、「ご飯とか、ご馳走するし」と必死になって、勤務時間外に会う口実を見繕っていた。

「じゃあ、あの、ご迷惑でなければ」

「あすでもいいし」口にしてから、ガッツキすぎやでじぶん、と血の気が引いたが、ならあすで、と彼は白い歯をニっと見せて、「時間、いつ大丈夫ですか」と手帳を取りだし、メモの構えをとる。わたしはきょうと同じくらいの時間帯を指定し、彼は手帳にそれを書き込み、ぐるぐると丸で囲んで、了解です、とうなづく。

「部屋、ちゃんと掃除しとくから。あ、お土産とかそういうのはナシでいいから」

「え、でも」

「あしたはいいから。もしそのつぎがあれば、そのときに」

 はは、と彼は目元をほころばし、

「じゃあ甘えさせてもらいます」と襟を正した。「ではあす、友人として」

 扉を開け、外に出てから帽子を脱いで一礼する。いつもの配達員の仕草で去っていった。

 わたしは玄関口でしばらく茫然とし、力が抜けて床にぺたんと尻をつける。

 きょうの分のお菓子を渡すのを忘れていたことに気づき、習慣が狂うほどの何かがたったいまあったのだと、遅れて実感が押し寄せる。

 きょうの分の仕事はまだたんまり残っていたけれど、気づくと掃除機の電源を入れ、念入りに部屋の掃除にとりかかっている。

 頭のなかではあす着る服と、ご馳走する料理の候補をつれづれと真剣に思い描いては、かれの好きな食べ物を聞いておくんだった、と一生の不覚をしみじみ味わう。

 あすのいまごろは、彼と二人きりでこの部屋で言葉を交わしている。この部屋に彼がいる。

 この空間に。

 わたしの世界に。

 彼が。

 孤独には慣れていたと思っていたけれど、孤独に道連れにしたいと願うほどの相手が現れるとは夢にも思わなかった。いっときの寂しさに理性のタガが緩んでいるだけだとしても、わたしにはもはや、わたしの孤独に立ち入ることを許した者への執着を捨てる未来など考えられなかった。

 彼が、わたしの孤独にやってくる。

 それでもきっとわたしの孤独は割れることなく、彼ごと内包し、わたしと彼だけの世界を平然と築いていくだろう。わたしはおそらく、それをこそ望んでいる。

 あまりに多くの人間と繋がるとわたしの孤独はぱりんとしゃぼんだまのように割れてしまうから。

 わたしの孤独を守りつつも、共にシャボン玉のなかにいられる相手となら、わたしはいつまでも鎖のように頑丈な縁を結んでいたい。

 きれいになった部屋でわたしはソファに仰向けになって彼からもらった本を掲げる。照明の明かりが遮られ、心地よい影が顔に落ちる。

 本を胸に抱きよせ、何を思い描くでもなく、身をくねらせて、叫びだしたい衝動を堪えながらわたしは、かつてない悶々を胸のトキメキに変えて、早くあすがきてほしいような、こわいような、騒がしい気分を捌ききれずにいる。

 天気予報を見るとあすは晴れらしく、引きこもりには関係のない情報であるにせよ、幸先がいいぞ、と念のためにお風呂のタイルも磨いておくことにする。




【僕は虚構に恋をする】


 恋愛経験を重ねずにこんな歳まできてしまったが、こんな歳とはどんなかを具体的に数字で示すのには抵抗がある。いわゆる大人として誰もが認める年齢であるので、そこはぼやかしておくけれども、なぜって念押ししておきたい点がだから、恋愛経験の一つでも重ねておいておかしくはない年齢に僕がいるという点であって、僕の側面像を仔細に述べたいわけではないからだ。

 恋愛をテーマに一つ掌編をつくってくれませんかね。

 馴染みの取引先からそのような依頼を受けた。いざとりかかってみるものの、ふだんはもっぱらゴテゴテの宇宙冒険譚を手掛けているため、恋愛を主軸に物語を組み立てるというのがいったいどういうことなのかが、感覚的に掴めない。

 自作においても恋愛要素は自ずと帯びていることがある。ただ、読者からの評判のよいキャラクターはどちらかと言えば、友情や博愛を優先するタイプの人格で、恋愛にかまけるようなキャラクターは、作者としてもいち読者としてもあまり愛着がなく、どうしても作中での恋愛要素は、ほとんど装飾の域をでず、腰を据えて描いたことはなかったように思う。

 だいたいにおいて、恋愛をテーマに物語を編むとはどういうことか。二人の人間がいればそれでいいというわけではないのだろう、そこはかとなく、そこはなんとなしにだが察せられる。むろん、二人きりしか登場せずとも極上の恋愛小説になることもあるだろう。事実そのような作品を読んだ憶えがちらほらとある。

 ただし、ロミオとジュリエットを引き合いにだすまでもなく、二人のあいだの想いをつよく描きだすためには、葛藤となる周囲の雑音を挿入するのが効果的だ。隘路と言えば端的だ。

 また、依頼されたのは掌編であるから文字数を割けない。キャラクターを複数人登場させるには向かない形式である。多くて四人、理想は三人の登場人物で物語を転がしていくのがよさそうだ。

 恋敵がいてこそ、恋愛は物語としての波乱を帯びる。

 同時に、恋愛を勝負ごととして描きたくない信条のようなものがあり、そこは、できうる限り登場人物すべてにハッピーエンドの余韻を残したい。

 小説において筆がのらない場合、往々にしてその要因に取材不足が挙げられる。宇宙冒険譚であれば実際にそれを体験するわけにはいかないので、十割想像で補うが、その想像を羽ばたかせるための地盤は、それこそ最新の重力理論から宇宙論、量子力学と目を通しておくと有意義な情報源は多岐にわたる。

 その点、恋愛であればじぶんの経験を流用できる。応用の幅も広い。身近な人物の恋話であっても取材源としては申し分ない。

 だが僕にはそのような話を聞ける相手もいなければ、恋愛経験もない。まったくない。からっきしの幼稚園児なのだ。

 もちろん僕は幼稚園児ではないが、つまり恋愛の経験値が幼稚園児、ともすればさっこんの幼稚園児のほうが進んでいるかも分からない、という疑念を比喩的に表現してみたのだが、僕ほど恋愛からかけ離れた人物はいないのではないか、といまになって、よくよく吟味してみると、疑惑は真相にちかづき、ほとんど事実と言って差し障りのない塩梅を呈しはじめている。

 とりあえず、パターンを考えてみる。これは僕がふだんから行っている創作方法だ。

 たとえば恋愛であれば、まずは主人公に好きな相手がいる。意中の相手がいる。その相手と最初から両想いであれば、障害となる隘路をほかに用意せねばならないし、片想いならば、ではどうやって相手に好きになってもらうのかが物語を転がす原動力となる。

 いちど失恋しても、相手のしあわせを願いつつ、陰に日向に相手を支えていれば、その一途な姿に読者は共感を覚えるかもしれない。少なくとも、応援はしたくなるだろう。僕はなるので、そう前提しておく。

 まずは主人公を決める。

 一途なコがいい。コというからには学生にしておこう。学生なら相手はじゃあ、同級生、いや行きつけのコンビニの店員さんにしておこうかな。毎日昼食用にカフェラテとアンパンを購入してたら、もっと栄養とったほうがいいよ、と心配されて、そこから一言二言を交わす仲になる。ある日、夜道でその人がうずくまっているのを見掛け、声をかけると、そのひとは怪我をした猫を見詰めていた。猫はまだ子猫と呼んだほうがよいくらいにちいさく、主人公の進言で、家に連れ帰って看病をすることになった。子猫はお姉さんが引き取った。翌日から、コンビニで子猫の話をするようになり、休日に子猫の様子を見に行くこととなった。

 子猫の回復日はすなわちお姉さんとの別れの期日でもある。主人公は、ずっとこのままでいればいいのにと思うさもしいじぶんの心と、純粋に子猫の元気な姿を願う心と、やはりお姉さんへの憧れの気持ち、もっと言うと触れあいたいと望む恋心を自覚していく。

 どうだろう。

 いけそうな気がするが、ちょっとあまりにひねりがなさすぎるだろうか。つまらないだろうか。どうだろうか。自信がない。

 僕はよくこうして論理的ではない飛躍した思考で以って、キャラクターの側面像を物語の進行と共に脳内で固めていくきらいがある。この手法はあまり真似はしないほうがよい。あてずっぽう感が満載であり、ここはぜひとも反面教師を眺めるようなおおらかな心持ちで見守ってほしい。

 誰かに相談したい。もちろん取引先のひとに言えば快く相談に乗ってくれるだろうが、ここで言う相談は、つまり取引先にだす前の段階の素材のよしあしの相談とも言うべきか、取引先のひとにこれを見せてもよいだろうか、という、なんというか、この素材を使ってもよいと思うかい、といった素朴な疑問への返答がほしいのだ。

 なんて書いてしまうと、取引先のひとは、そんなのいいですから書いたらまず見せてください、相談があるなら遠慮なく言ってください、とおっしゃるでしょう。みなさん仕事熱心で気のよい優しいひとたちなのだ。

 ただ、彼ら彼女らの感想よろしく相談へのアンサーは、なんというか、あまりに真剣にすぎて、それはもう頭のよろしい方々ですから、頭のわるい相談には、ぴしゃりとというかずばりというか、けんもほろろろの身も蓋もない答えばかりが返ってきて、そうでございますね、はい、としか言いようがない。

 もうすこし気の抜けた雑談のような、これこれこうなんだけどどう思う、と訊ねたら、んーそうだねぇあっこのおまんじゅう美味しい、みたいな毒気も牙も抜けた応酬を図りたいのだ。

 書いていて思ったが、おそらく僕は自信がなくて、心細くて、相談というか単に人としゃべりたいだけなのだろう。

 年がら年中椅子に座って画面に向かって文字を並べているだけであるから、たまには本を読みますけれども、それ以外はおおむね一人で部屋に閉じこもって、寝るかキィボードをパチパチするかで、もうほとんど世捨て人然としている。

 恋愛とはなんぞや、どころか、人付き合いとはなんぞや、のレベルで日常を見失っており、こんな男に恋愛小説を所望するなんて見る目がないか、よほど僕を困らせたいかのどちらかだと、卑屈に取引先を恨みたくもなってくる。

 閑話休題。

 いちど上記のあらすじで掌編をつくってみたが、どこかで見たことのあるようなありがちな話になってしまいちょっとこれは外にはだせないデキだ。いいや、ストーリーそのものはわるくない。大筋ではなく、その細部の練りこみ、もっと言えばやはり情報の粒子とも呼ぶべき経験のなさが否応なく作者の作為を臭わせてしまう。

 端的に、作り物感がすぎるのだ。

 もっと練らなくてはならない。素材が足りない。

 取材をしたいがしかし、どのようにすべきか。

 誰かに聞くよりかは、僕自身が恋愛を経験してみるのがよさそうだが、あいにくと相手がいなければ、その素養が僕にはないらしい。

 恋愛をしたいと思えない。

 恋愛とはなんだ。なにゆえみなかようにそれを珠玉がごとく追い求めるのか。

 性欲が微塵も湧かないとは言わないが、かといって他人に好んで触れたいとも思わない。じぶんで性欲の処理すればそれで充分だ。それだって半年に一回あるかないか。なくとも別段困らない。

 調べてみると、こうした属性にはすでに名がついているようだ。すくなからずの人々が僕と同じように、世間に蔓延する恋愛信仰とのズレに、その熱量の差に戸惑いを隠せずにいるらしい。

 それを知って安心したような、そうでもないような痛痒はなんだろう。

 心のどこかでは僕もまたほかの人々のように恋愛なるものを体験してみたいと欲しているのだろうか。それはどこか、この空の向こうに広がる宇宙を旅してみたいと望むような、僕の内面に巣食う創作意欲の中核をなす好奇心そのものの片鱗である気もするが、自信はない。

 ともすれば僕には、僕の理想の恋愛のカタチがあるのかもしれず、しかしそれは未だ茫洋としていて湖面に浮かぶ月光のごとくとりとめがない。

 僕は他者となるべく関わりあいになりたくない。僕は僕がずっとそう望んできたと知っているし、その欲求に忠実に日々を過ごしてきた。その裏で、僕は小説という虚構のなかであれ、キャラクターという他者を描き、接点を持ち、人間関係のなかに身を置いてきた。

 これは僕の持論というか、じっさいに覚えている感触なのだが、創作者はけして物語の神にはなり得ない。じぶんの思いどおりに物語を動かし、編纂し、操ることは、すくなくとも僕にはできないし、できたことがない。

 だから創作者たる僕は、物語のなかで動き回るキャラクターたちを眺めながら、物理世界で欠乏している人のぬくもりや会話を補完していたのかもしれない。それを否定するだけの論理を僕は僕自身に示せずにいる。

 僕はけっきょくのところ寂しがり屋なのだ。孤独になんてなりたくないし、孤立だってしたくない。できれば人と関わりあいたいし、みんなと仲良く遊びたい。

 友達が欲しいし、愛し合える恋人や子ども、その他大勢の人々との縁を欲している。けれど僕の望むような理想の人間関係はどこにも見当たらない。すくなくとも物理世界にはいまのところない。それはたしかに思われる。

 だから僕はここにないものを、虚構のなかで、夢のなかで、幻想のなかで、じぶんの手で、頭で、思考で、妄想で、編みだそうとしている。

 本当はこの考えを僕自身、認めがたいものと見做しているし、そんなことはないんだ、と否定したい。僕は孤独が好きだし、寂しくないし、生身の人間と虚構の世界の登場人物たちは全然同じではない。まったくの別物だ。代替可能な、等価な、存在ではあり得ない。

 僕は僕の編む虚構の世界の登場人物たちと同じ体験をしたいとは思っていない。あんなたいへんな目には遭いたくないし、痛い思いもつらい思いもしたくない。

 ただ、彼ら彼女らの活躍を、葛藤を、考えを、物語を通して、虚構を通じて疑似体験することで、僕自身が以前よりも好ましく変化するような予感がある。

 そう、おそらく僕が物理世界でなるべく人と関わりたくないのは、好ましい変化を遂げる予感がどうしてもしないからなのだろう。なりたくない姿になってしまいそうで、だから僕は誰とも繋がらず、関わらずにいようと考え、部屋に引きこもって、虚構の世界に逃げこんでいる。

 それは他者がわるいのではなく、僕が好ましい変化を遂げられないだけの話であって、やはり誰がわるいでもない。

 ただ、僕は僕の理想から離れたくない。物理世界の人々と距離を置くことでしかそれは適わない気がしている。強迫観念の一種なのかもしれないし、こうした考えは別段突飛でもなんでもなく、みな大なり小なり抱いている日々の懊悩の一欠けらにすぎないのかもしれない。

 解からない。

 ただ僕には、僕の理想の人間関係があり、またそれを通して帯びる理想の変化の方向性のようなものがある。それはどうやら確からしいと、いまこうして思案してみて直感している。

 ならばそこにはきっと、理想の恋愛模様も含まれる。それは世に溢れるいわゆる恋愛観とは違っていて、ひょっとすると一般的には恋愛関係とは呼ばないのかもしれない。

 僕にとって性行為の有無は、恋愛の必要条件ではないし、付き合ったとか結婚したとかそういった契約の有無にも影響されない。

 もっと互いの魂の癒着のような、同化のような、いちど結びついたら解けることのない呪いのようなものが、僕にとっての恋愛関係なのかもしれないし、これはいまここで閃いただけの一時の錯誤で、あとでもういちどよくよく考えてみたら、まったく違う恋愛模様を思い浮かべていたとしても、気分屋の僕のことだからそれほどふしぎではないし、さもありなんだと評価できる。

 もし僕が恋愛をテーマに小説をつくるとしたら、きっとそれは一見すれば恋愛をテーマにしているようには見えないだろう。相手と一体化したいとの衝動、相手をとりこみたいとの狂気、そしてそれがどうしても適わない現実への失望と葛藤を描けば、僕なりの恋愛小説をつくれそうに思えた。

 やっぱり迷ったときは、こうして思考を言語化してみるにかぎる。

 あとで読みかえせば、何言ってんだこいつ、の気持ちに頭をますます悩ませることになるのだろうけれど、僕に恋愛なんてテーマで小説を依頼した取引先に、見る目のなさを自覚させてあげるのも長年の仕事相手への恩返しになるだろうと考えて、とびきり破たんした恋愛小説をつむぎあげてやろうと、いまからまた文字を、一文字、一文字、並べていくことにしよう。する。します。

 僕は恋をした。

 この世のすべての物語に。

 そしてそこからあぶれたきみという名の物語に、とびきり虚無の恋をした。




【カミサマ。僕の神さま】


 僕は十四歳にして悟ってしまった。恋愛には二通りの結末しかない。結ばれるか、結ばれないか、だ。

 たとえ結ばれたとしてもそのあとにはまた、別れるか別れないかの分かれ道が待ち受けていて、別れてもその後に縁を繋ぎとめておくか否かでまた道が分岐し、別れないにしても仮面夫婦よろしく実質、縁が切れている場合もある。

 そう考えてみると、恋愛を成就させようと考える前提がまず理に適っておらず、恋愛における成就を、数少ない結末のどこに設定するかで人生の満足度は大きく変わってしまいそうだ。

 結婚とか付き合うとか、そういうことでは本来ないはずだ。

 恋愛の成就とは意中の相手と結ばれることだとすれば、そんなのはあまりに儚い一瞬の結合でしかなく、基本を穿り返してもみれば、二つの直線はいちど交わればあとはもう延々と離れていく定めなのだ。

 たとえば性行為をすることを成就と呼ぶのならば、それこそ長くとも六時間、平均すれば一時間しか持続しない。何度も同じ相手と性行為をすることとしても、ではその相手がほかにも同じように何度もほかの相手と性行為をする人間だとしたら、それを成就と呼んでよいのかは、やはりひとによるだろう。

 心の結びつきを恋愛の成就と呼ぶとしよう。互いに相手を尊び、しあわせを願い、そのように振る舞うことを日々是とする。だがそれは親と子の関係でも成立するし、孫と祖父母の関係でも成立する。友情であっても充分だろう。何故恋愛の専売特許のごとく、成就の条件にしなければならぬのか。

 恋愛の成就とは、黒や無色のようなものだろう。色をさまざま重ねあわせたときに表れる偶然の産物、或いは潤沢の産物だ。

 そもそも成就するようなものではなく、仮にさせるとすれば、それはさまざまな失敗を得なければ手にすることのできない茨の道の先にある幻の秘宝のようなもので、求めることで却って至福からは遠ざかる、そういうものなのではないか。

 しかし恋愛の成就を大衆が求めはじめると、ファッションから自分磨きから、流行りの情報収集まで、資本が動く。経済が潤う。恋愛を成就させよ、それこそが生きるための目的だ、と吹聴すればするほど、豊かな者はさらに肥え、貧しい者たちは惨めな思いをさらに重ねる。

 恋愛の成就には、友情も性愛も親子愛も家族愛も隣人愛も博愛も慈愛も何もかもの慈しみや愛おしみ、縁や鎖が、含まれる。

 ゆえに、叶わぬのがふつうなのだ。一瞬の錯誤を抱けるか否かしかない。

 求めるだけ不毛だ。

 恋愛は成就しない。

 それが十四歳の僕のだした答えだった。

「助けてくれ、早く早く、頼む、落ちる」

 落盤した道路の割れ目に僕はぶらさがっている。それを死に際にぶらさがっていると言い換えても齟齬はない。

 割れ目の底は目視不能で、どこまでも闇がつづいている。

 落ちれば一巻の終わりだ。

 僕の手が掴むのは道路の割れ目、まさにそこから突きでているアスファルトで、いまにも折れてしまいそうだ。

 道路には僕を見下ろす影があり、それはスカートを押さえながらしゃがみこむ。

 僕は叫ぶ。

 早く助けろ、と。

 僕を見下ろす影は、そこで顔から表情を消した。消えたことで僕はそこにさっきまで笑みが浮かんでいたのだと知る。

「そういう言い方しちゃっていいんだ、この状況で」

 彼女は僕の手の甲に、なぜか石を置いた。さらにその上に石を積みあげていく。

 何の真似だ、と混乱するが、問うたりはしない。

 生殺与奪の権を握られているのだ、そんな相手にこれ以上の居丈高な物言いは慎むべきだ。僕は下手に出た。

「このままだときみは人殺しになっちゃいますよ、いいんですか、きみみたいなやさしいひと、毎晩のようにこの光景を思い出して、あとで絶対に後悔しますよ」

「しねぇよ」

 するわけねぇじゃん、と彼女は僕を睥睨する。「早く落ちたら? 見ててあげるからさ。おまえみたいなのが死んでも誰も困んねぇよ。いいよ。早く死ねよ」

「ごめんなさい、助けてください。何でもしますから。奴隷にでもペットにでもなんでもなりますから」

「ばぁか。んな言葉信じられるわきゃねぇじゃん。みんな口ではなんとでも言うよね。でもいざ対等に平等に、顔を突き合わせたとたん、みんなわたしのことぬいぐるみかなんかみたいに扱うよね。なんなんだろ。わたしが弱っちぃから? 身体がちっこいから? 若いから? 女だから? もういいよそういうの。疲れちゃった」

「そのことと僕を見殺しにすることとどう関係が」

 なにせ彼女とは今日この場で出会ったばかりだ。顔馴染みですらない。知り合いですらないのだ。

「知らねぇよ。どうせおまえも若い女には傲慢に振る舞って、あわよくば女体貪ろうなんてくだらねぇこと考えてる脳内お花畑ちゃんなんだろ」

 彼女はしゃがんだままの体勢で頬杖をついた。和式トイレにまたがるようなかっこうだ。おもむろにひざを開いた。

 彼女に助けを求めて縋りつく勢いの僕はもちろん彼女を見上げているから彼女の股のあいだの様子はよく見えた。

 べつに見たいわけじゃなかった。

 顔を逸らすのが一瞬遅れた。

「何見てんだよスケベ」

 彼女はもはや僕にとって女神にも悪魔にもなり得た。もはやなっていると言っても過言ではない。

「お願いします」泣き落としを試みるが、

「思ったより粘んじゃん」彼女は嗜虐の笑みを湛えている。「見ててやるから情けなく射精するみてぇに落ちてくれよな」

「お願いします、お願いします、僕はまだ死にたくない、死にたくないんです」

「おめぇら男はわたしがいくらそう言ってもやめてくれなかったじゃん」

 彼女が怒号を発したので、僕はあやうく手を滑らせそうになった。もうほとんど限界で、落ちる、落ちる、と内心で唱えるしか術がなかった。声すらもう発する余裕がない。僕は涙の滲んだ目で、彼女を見上げた。下着なんかどうだっていい。そんなもの見たいわけがないだろ。

「チっ」

 彼女は盛大に舌打ちをすると、立ちあがり、僕を一人この場に残し去っていく。 

 待ってくれ、待ってくれ。

 僕は声なき叫び声で呼びとめる。

 見捨てないでくれ、お願いだ、死にたくないんだ、まだ僕は死にたくないんだ。

 涙が目の端から粒となって頬に垂れる。ひょっとしたらそれは汗かもしれなかったが、僕はいまはっきりと絶望していた。

 と、そこで僕の頭上にふたたび影が戻り、砂利を踏みしめる音が聞こえた。

 僕の身体にワイヤーが垂れる。

「死にたくなけりゃかってに生きな」

 彼女はそう言って、こんどは真実、僕をこの場に残して去った。命綱一本を残して。

 僕には片手で身体を支える体力などとっくに残ってはおらず、ワイヤーを掴むためにはいちど落下しなければならなかった。そんな真似ができるわけがない。死ぬか生きるか。いちかばちか。

 だいいち、彼女の垂らしてくれたこのワイヤーが真実に僕の体重を支えるに値する強度があるのか。そもそもちゃんとどかこに固定されているのか。

 疑いは拭えないが、縋りつくのはもうこのワイヤーしか僕にはなかった。

 さいわいにもワイヤーは長く、割れ目の底へ向かって垂れている。

 落下しつつワイヤーを掴む。あとは僕の体力がそこからどこまで持つか、だ。

 長考している時間ももったいない。余力はとっくに底を切っていた。腕がいまにもちぎれそうだった。僕は意を決して割れ目の縁から手を離し、宙に身を投げだした。

 浮遊感にお腹の底がむずむずした。

 ワイヤーを握ろうとするも、うまくいかない。

 一度、二度、三度目にしてワイヤーを手のひらのなかに確保する。握るが、ずるずると手の皮をひっぺがしながら、焦がしながら、赤剥けにしながら、僕はなんとかかろうじてワイヤーを確保した。

 手のひらに痛みはない。脳内麻薬がどくどくと全身に巡るのを、まるで細胞の一粒一粒で感じるように僕は身体のふだんは閉じている何かをこじ開けている。

 まだ窮地は脱していない。

 僕はまず身体にワイヤーをぐるぐる巻きにして、どうあっても落下しない状況をつくった。

 それから割れ目の側面にあたる壁を足場に、ワイヤーをすこしずつ、すこしずつたぐりよせ、身体を持ち上げていく。

 身体にワイヤーを巻きつけたことで、休みながら進めた。

 腕の疲れを癒しながら、すこしずつすこしずつ登り詰め、ようやく地上に這いだしたころにはすっかり辺りは夜の闇に包まれていた。

 ワイヤーを身体から剥ぐ。手のひらだけでなく全身の皮膚が剥けている。手や腕の感覚はとっくになくなっていて、痛みがズキズキとさざ波がごとく途絶えない。

 生きている。

 痛みのなかにあって僕は安堵の念からか、極上の至福を味わっていた。

 生きている。

 道路に寝っころがり、満天の星空を眺める。

 いったいこの地で何が起こったのか。いまさらのように考える。街は崩壊し、僕は死にかけた。あの女以外に生存者を見掛けていない状況から、被害はすこぶる深刻だと見做してまず間違いない。

 頭上にヘリコプターの音がない。

 幼いころにいちど震災に遭ったことがある。あのときは昼夜問わずヘリコプターの音が上空を飛び交っていた。いまはそれがない。自衛隊や報道陣がまだこの地に到着していないのだ。否、出動できないほど広範囲で被害がでている可能性もある。

 いずれにせよ、まだ安全とは程遠い。

 いまいちど気を引き締め、これからどう過ごしていくべきかを考えなければ。

 意思とは裏腹に、意識が朦朧とする。

 睡魔だ。もう限界だった。

 僕はそうして初日を生き延び、静かに眠りに落ちていく。

 翌日、顔に液体をかけられ目覚めた。そばに立っていたのはきのうの僕に活路を与えながらも見捨てて去った女だった。僕はむせ返る。

「生きてたんだおめでとう。あの言葉、憶えてるよね」

「どの言葉だよ」

「敬語。あんた命の恩人に礼もできないわけ」

 言葉に詰まる。しばし計算し、ありがとうございました、とまずは言った。彼女が食料だろう、袋を携えていたので、分けてもらえるかもしれないとの打算を働かせながら、「本当に助かりました。このご恩は一生かけても、いつか、絶対にお返ししますので」

「いつかってなんだよ。おまえはもうわたしの奴隷なんだよ。ペットだろ。じぶんでそう言ったろ、もう忘れたとかぬかすなよ」

「それは」

「嘘なら嘘だったって正直に言いなよ。いいよ、そういう人間ならそういう人間だって諦めるから」

 諦める?

 いったい何をだ。

 奴隷にするのを?

 ペットにはしない、という意味だろうか。

「嘘じゃない。本当に奴隷になるくらい、ペットになってもしょうがないって思うくらいに感謝しています。でも、だからってそんな、そうですよ、僕みたいなのを奴隷にしたってそちらのほうがむしろ困ってしまわれるんじゃないですか」

「わたしのことはカミサマと呼びなよ」

「カミサマのほうがお困りになられるのではないかな、と思いまして」

「困るね、超困る。おまえみたいなのに慕われたって、うれしくもなんともない、むしろヤダね。すごい迷惑」

「ですよね」そこまで言うことないだろ、と不満に思いながら、だったら、と提案する。「恩は絶対に返します。なんだったらしばらくのあいだ、僕が得た食糧だのなんだの、そういうものを、差し上げてもよいですし」

「当然だろ。なんだよしばらくのあいだって。一生に決まってんだろ。おまえの命をわたしが助けた。もうわたしのもののようなのだ、そうでしょ。わたしが死ねと言ったら死ね。わたしの許しなくかってに死ぬことも許さない。おまえはわたしのために生き、わたしのために死ね」

 いいな、と彼女は腕を組み、こちらに袋を放り投げる。「食え。わたしはおまえの神だからな。まあこれくらいの施しはやる」

 袋の中身は、コンビニの菓子パンだ。飲み物まである。

「ありがとうございます」僕はさっそく貪った。手を止められなかった。パンを見た瞬間に空腹だったのだと思いだした。細胞単位でそれを食らえ、と命じてくる。

 三分もかからなかったはずだ。僕は目のまえに差しだされた餌に食いつき、魂に鎖をされた。僕はまさしく下僕に落ちたのだ。

「食ったな」彼女は瓦礫のうえに腰掛ける。スカートの下に、きょうはデニムを穿いている。彼女が履くには大きそうで、誰かの衣服を拝借したのだと判る。「まずはこっち。付いてきて。荷物が多くて運べなくてね。しばらくはおまえはわたしの荷物持ち。夜も見張りをよろしく。いま世界はたいへんだよ。復興なんて見込めない」

 彼女が歩きだしたので、その背中を追う。

 何があったのですか、と問いながら、いまさらのように周囲の景色に目を転じる。

 ビル群は軒並み崩壊しており、開けた視界の奥には、もうもうと立ちのぼる煙が、柱のようにいくつも無数に天に伸びている。それら煙は分厚い曇天がごとく空をどこまでも覆い尽くした。

 十四歳、僕はそのときの光景を一生忘れないだろう。

 世界は終わった。

 ただそれだけを如実に予感できた。直感できた。

 僕の身体は傷だらけだ。だが立って歩くことはできるし、致命傷ではない。力だけなら目のまえの、僕の神を自称する女を押し倒し、制圧することは可能に思えた。

 が、僕のほうでも何かしらの怪我を負うのは必須だ。お互いに無事では済まされない。いまのところ彼女のほうで僕を痛めつけるような素振りは見受けられない。だったらひとしきりの体力の回復を図り、そのうえで彼女の素性もとより、性格を把握し、必要ならば信頼を得、そうでなければ隙を見て逃げだそうと考える。

「カミサマ」

 彼女は首だけで振り返る。

「家族の無事は確かめられたんですか」

「家族?」そこで彼女は噴きだした。あの辺、と立ち昇る煙の真下に指を向けた。「家はあそこにあった。いまは跡形もない。生きてるか? さあね。死んでたら御の字、生きてても野垂れ死ぬしかないんじゃない。わたしは生きるけどね。だっていまは生きてるし」

 僕の暮らしていた家のある区画も壊滅的に思えた。おそらく僕の両親や兄たちは生きてはいないだろう。

 彼女に助けられてからこの間、生存者らしき人影を目にしていない。死体すら皆無だ。みな瓦礫の下に埋もれているのだろう。生きている者が果たしているのか。

 呻き声一つしない。

 僕はこのとき一つの発想を得た。

 このさき、一人きりで生きていくのは至難だ。協力者がいる。夜の番だってしなくてはならないだろう。生存者を発見したらまずは声をかけずに、跡をつける。夜の闇に乗じて荷物を奪うなり、襲うなりしたほうが、生存確率はあがる。

 復興の見込めない世界で、相互幇助の精神は諸刃の剣だ。みな生き残ることに躍起になる。ことこれほど甚大な都市の崩壊が発生した以上、遠からずそこに帰着する。

 生き残るためには、一人よりも二人だ。そこにあるのは助け合いではなく、利用であり、支配だ。他者をより支配した者が生き残る。

 いまいちど僕は、僕の神を自称する女を見る。

 歳のころは僕よりも上だ。高校生だろう。けれどその見た目は、中学生でも通りそうなほど華奢で、男と言わず、成人の女ですら彼女をまえにして警戒するとは思えないほどの弱弱しさだ。

 誰もが彼女をまえにすれば彼女を舐め、そして何かしらの愛嬌を覚えるのではないか、そこはかとない嗜虐心をそそられるのではないか。それはいま世界が崩壊したから生じた認識の変化ではなく、彼女はずっと以前からそうした井戸の底から真上を覗くのに似た、虫かごのなかからそとを眺めるような世界を生きてきたのだろう。

 僕はふしぎと、組むならば彼女だと考えはじめている。背中を預けられるとすれば、屈強な男でも、聡明な女でもなく、僕の神しかいないのではないか。

 彼女はきっと真実僕を奴隷にし、ペットにし、死ねと命じない限り僕を損なう真似はしないと、なぜかふしぎなほどすんなり呑みこめた。

 それは或いは、彼女の姿に僕自身を重ね見ているだけなのかもしれない。僕はこの崩壊しきって、自然に還ってしまった世界のなかで、彼女からの信頼を得るべく、あらゆる努力と工夫をそそがねばならない未来を予感する。

「なに見てんの。つぎそんな目で見たら潰すから」

「ごめんなさい」どこをだ、と思いながら謝った。

 十四歳の僕にとっては恋愛も、性行為も、いっときのまやかしにすぎず、電子ゲームとの区別すらつかない。

 幻想や虚構そのものでしかないそれを、僕はいま初めて求めてもいいような気がした。

 彼女からの慈悲、ともすれば執着、或いは利用価値と言ってもよいかもしれないそれを僕は、これからいまよりももっと高め、増やしていかなければ、生き残ることも、ましてや至福を掴む真似もできやしないのだと、この世界の景色と同等の規模で、僕につよくそれが真実であると自覚させた。

 カミサマ。

 僕の神さま。

 僕は彼女からの寵愛を独占すべく、彼女との恋愛の成就を望む。

 恋愛はくだらない。成就するようなものではない。よしんば成就したところで幸福になることもない。

 だが、成就させられればすくなくとも僕は、この壊れた世界で生き延びることができる。

 報酬としては上出来だ。

 僕は彼女と恋人になる。彼女からの愛を得る。彼女に恋をさせ、好きにさせ、惚れさせてこそ僕は僕の生を謳歌できる。

 僕こそが彼女の神になる。

 奴隷やペットもよいけれど、僕はこう見えて、見下されるのが好きではない。

 彼女との共通点が僕にあるとすれば、それはこのどうしようもないほどの、世界への憎悪と、他人を支配仕返したいと欲する自由への渇望なのかもしれなかった。

 彼女が地面にかがみ、瓦礫の中から血まみれの首輪を拾いあげる。僕からは見えなかったけれど、犬が潰れて死んでいるのは自明だった。

「はいこれ」

 差しだされたそれをじっと見てから僕は、黙って受け取り、おとなしく首につけた。

「似合う、似合う。どう? うれしい?」

 黙って首肯する。

「よかった。プレゼントした甲斐があった」

 彼女は僕の服で手を拭い、いいこだね、と僕の頭には触れずに、僕を撫でる仕草をする。

「シャワー浴びたいね。武器も欲しいし」

「荷物というのは」

「このさきにきのう拾い集めた色々があるから、それをね」

「どれくらいあるんですか」

「いっぱいあるよ。奪われてなければ」

 どこからどのようにして拾い集めたのかは知らないが、彼女にはもう、きのうまであっただろうこの世界の倫理観は残っていないのだろうと思った。ともすればそもそもそんなものは彼女に備わってはおらず、この世界が壊れるよりずっと前からすでに彼女はとっくに壊れていたのかもしれなかった。

「名前をつけてあげなきゃだね」彼女はゆびをあごにあてがい、んっと、と幼い挙動で、ポチにしよう、と言った。「きょうからきみはポチだ。どう? うれしい?」

 僕は、わん、と返事をする。彼女はコロコロと笑う。無邪気だ。

 カミサマ。

 僕の神さま。

 いまからその顔が僕を見るたびに紅潮し、目も合わせられなくなるくらいに心底僕を惚れさせてあげるから、どうかこの壊れた世界で、壊れずに、壊れつづけていてほしい。

 地響きがし、地平線の彼方にまた新しい煙の柱があがる。

 彼女は歌う。

 子供向けのアニメのオープニングソングで、陽気で明るい小鳥じみた歌が、荒廃した街のなかに反響し、瓦礫の合間に染みこんでいく。

 カミサマ。

 僕の神さま。

 僕と、一世一代の命をかけた恋をしよう。




【新しいマシン買った】


 店内は涼しく、閑散としていた。客の姿はなく、電化製品だけが所狭しと並んでいる。有線なのだろうか聴いたことのない南国じみた曲が流れている。

 人目を気にしてワンピースを着こんできたが、こんなにひと気がないならもっとラフな格好をしてくればよかった。自転車をかっとばしてきたので汗がだくだくだ。化粧もドロドロで、いますぐに冷水で顔を洗いたいくらいだ。

 さっさと用を済ませて退散しよう。

 まずは店員を探した。目的が決まっている以上、専門家の意見を仰ぐのが先決だ。目的の品がなければそれまでだし、予算内で購入できる品があれば御の字だ。

 しかし店内を練り歩くがなかなか店員を捕まえられなかった。客のみならず店の者がいない。よもや無人店舗ではあるまい。

 しょうがないと諦め、目的の品の陳列されている棚を見て回った。

 通販が主流のさっこん、物理店は繁盛しない向きがつよい。店舗を維持するだけでも経費が嵩むのだろうし、管理には人件費もかかる。だったら在庫だけ抱えてあとは注文があったときにだけ品物を手配し、送り出したほうが効率がよいのは、これは誰が考えてもその通りだと思うだろう。仲介料をとれば、右から左に商品を移すだけで利益が懐にチャリンチャリンと音を立てて入る。転売屋なんてアコギな業者が跋扈するのもそのほうが儲かるからだろう。健全な経済なるものがあるのかは知らないが、まっとうに社会の財を増やそうと堅実に付加価値を作りだしそれを売って利益をだそうとあくせくしている者たちからすれば、ズルをするなズルを、と言いたくなる気持ちは理解できる。

 が、あと十年も経たぬ間に物理店はコンビニや一部の専門店のみが残り、あとは野となり山となり、いずこへと消える定めなのだろうと、家のなかで仕事ができる気楽な身の上としては、時代の変遷をのほほんと無責任に嘆いていられる。

 とはいえ、いざ仕事用の携帯型インターフェースが壊れてしまうと、仕事がまったくはかどらず、何もできない益体なしの気分を味わうはめとなる。今日中に壊れたのと同種の機器を入手せねばなるまい。そうでなければ仕事にならぬ。

 通販であってもあさっての朝には届いただろう。だがそれでは遅いのだ。一日の仕事の遅れを取り戻すのに一週間はかかる。繁忙期のうえ、あろうことか締め切り間際だ。仕事を休むわけにはいかない。

 そういうわけで自転車をかっ飛ばしてやってきた店舗で、予算は月給の三分の一程度の値段で購入可能な携帯型インターフェースがないかを、陳列棚を右往左往しながら眺めていく。

 陳列棚は腰の高さくらいで、合わせ鏡のなかに延々とつづく作業机を思わせる。そんななかでなぜか一番端に冷蔵庫くらいの大きさの黒い箱が置かれていた。位置的にカメラやほかの電子機器置き場なのだろうと思ったが、覗いてみるとなんとそこには人が収まっていた。

「うわびっくりした」

「びっくりさせちゃいましたね」ソイツは店員らしき制服に身を包んでおり、利発そうな顔をしていた。背が高く、私はしぜんと見上げる格好となる。

「なんでそんなとこに」

「隠れていたのか、ですか。御覧のとおり店内は無人のカンコさんがドリームでしくしくなので」

「閑古鳥が鳴いてるって言いたいのかな? や、いいですけどね。びっくりはしましたけど、店員さんがどこにいようとそれはええ、お店のかってですから」

「店員さんがどこにいるんですか?」

「ここー」声を張り上げてしまった。「ここにいるよね、なんでとぼけた?」

「ああ、僕が店員?」

「じゃなかったら何ー? 何なの? え、かくれんぼしてたとかじゃないよね、だってここお店だもんね、電化製品の量販店ですもんね」

「お姉さん、お姉さん」

「なに」

「そんな大声ださなくてもちゃんと聞こえてますよ」

「耳元でこしょこしょするのやめてもらっていいかな」

 くすぐったいわ、と距離をとる。彼はにこやかに黒い箱から抜け出てくると、お求めの品はなんですか、と急に店員らしく振舞った。

 私は一刻もはやく家に帰って仕事のつづきにとりかかりたかったので、要望を手短に述べた。主に、予算と用途だ。

「それですと、これとこれとこれになりますかね」

「お値段の高さって何で決まるんですか」

「いまだと、そうですねぇ。たとえばこれなんかは古い型で、お手頃な値段ですが、機器の中にそのまま演算装置が組み込まれていますから、いちどご購入されますと、その後にいくらアップデートしてもマシンの性能はそれほど劇的に向上しません」

「じゃあこっちの高いのは?」

「こちらは新しい機種でして、機器本体の値段はそれほどでもないのですが、通信サービス料がセットでついております。演算マシンは企業のほうで日夜改良し、進歩していきます。そこから得られる様々なサービスを受け取るためだけに特化した機器が、こちらの最新型の機種となります。頭脳を肉体のなかではなくそとに取り出し、管理することで、超高性能のパフォーマンスを誰でも広く利用できるようになっております」

「つまりほとんどがサービス契約料ってこと?」

「そう言っても間違いではないですねはい」

「ふうん。だからこんなに軽くて薄いんだ」

「もうしこしご予算をいただければ、ナノデバイス型の最新機種をご購入いただけますが」

「それって身体のなかにいれるやつ?」

「いえいえ、そこまではまだ市販されてはおりませんからね、流通されていませんので。国の認可が下りないんですね。ですからあくまで、コンタクトレンズのようなサポート機種の域をでません。身体につけてご利用いただくタイプの機器となります」

「失くしそうだからいいや。携帯型インターフェイスのやつで。予算はすこし超してもいいので、脳みそがそとにあるほうのをください」

「ありがとうございます。ちなみにお仕事でご利用なのですか」

「ええ、まあ」きょう壊れちゃって、と伝えると、ちなみにご家族は、と訊かれ、プライベートにずかずかと踏み込まれた嫌悪感が湧く。

 露骨に顔にでていたのか、いえもしも家事手伝いなどでご負担があるようでしたら、と彼は付け足した。「お試し商品を格安でご提供するサービスもございますが、いかがでしょう、この機会に」

「お試し商品?」

「はい。超最新式のハイスペックマシンを、使用データの一部を収集させていただく代わりにほとんどタダみたいなお値段でご提供させていただいておりまして」

「使用データの収集って」

「いえいえ、あくまで使用中にどんな問題が起きたのかを改善のために集めるだけでございます。利用規約にもきちんとその旨は記されておりますし、ご利用者さまのプライベート情報のいっさいに関知しないのが、これはもう世界的に一般の企業倫理となっておりますから」

 どうぞご安心ください、と食い下がる彼の妙な熱意に負けて、タダならいいけどね、と口にしてしまったのが運の尽きだ。

「ではタダで。タダに致しましょう。そうしましょう」

「え、あなたの一存でそんなかってに」

 決めてもよいのか、と続くはずだった私の異論は、ふたたび黒い箱のまえに立った彼が、その黒い箱をちいさくちいさく、ブリーフケース並みに折り畳んだのを目の当たりにして息ごと呑みこみ、消え失せた。

 彼は手のひらを見せつけるように掲げると、ここに手を合わせてください、と指示した。

「生体認証で、僕の所有者登録をこれで済ませられます。以降、あなたが僕を破棄すると決めない限り、僕はあなたさまの所有物です」

「え、え、なにそれ、なにそれ、意味わかんない」

 いらないいらない、返品します。

 私は精一杯に辞退の意思を伝えたが、

「そうなると僕は役立たずの廃品としてあとはもうスクラップになるしかないのですけど」

 端正な顔つきでしょんぼりされてしまうと、さすがの私もというか、人間なら誰でもというべきか、情にほだされるし流されそうになるのは致し方ないにしても、それでも受け入れるには荷が重すぎるのに異存はなく、私は、いやいやと横にすばやく手を振った。私のその振った手のひらにぴったりと彼が手を合わせて、繋げてしまうものだから、私は心底たまげたし、そのうえ、ティロリロリン登録完了しました、なんて彼がいっそう爽やかな顔で謳うものだから、

「店長ー、店長はいませんかぁー」

 叫ぶのに大わらわになって、てんてこまいになって、私はもうもう、この場から一目散に逃げ帰りたい衝動に駆られたが、それを彼は許さなかった。

「登録しちゃいましたので、もうこれは取り消せませんよ」

「返品! 返品!」

「これはタダなのでクーリングオフ制度の範疇外です。あしからず」

 ちなみに僕も頭脳は外にあるタイプなので、もしもこのボディが壊れちゃっても安心してください。

 その言葉を聞いて私はいよいよ目の前が暗くなった。つまり彼の破棄とは言い換えれば企業がこのさき何年も改善を繰り返していくだろう超高性能スーパーコンピューターを破壊するのと同じことであり、そんなのは実質どうあっても認められるわけがないのだった。

「どうして私なの」

「泣かないでください。ご主人さまをよろこばせるのが僕の務めなのに」

「私はただ、代わりのマシンを買いに来ただけなのに」

 壊れた仕事用の端末を買いにきただけなのに。

「世の中みんな通販、通販、のなかで、店舗に足を運んでまでコンピューターを欲するひとにこそ、僕の生みの親たちは僕を預けたかったらしいですよ」

「単なる偶然なのに」

「あのひとたち、頭はいいのに考えなしなので」

「生みの親への口がわるい」

 爽やかなのは顔だけかよ、と毒づくと、家事をしなくてよくなったと思えばそんなにわるい買い物ではないと思うのですけど、と彼は自らを高く評価し、私の心中のモヤモヤをかってに払ったつもりで、ではまいりましょう、と私の本来の目的たる新品の携帯型インターフェイスを抱えると、

 荷物持ちだって御覧の通り。

 褒めてくれと言わんばかりに歯並びのよい口元を、にっ、と吊るした。

 おそらくこのさき、私の身に降りかかったこの不満の種をぼやきと共に耳にする者たちは、いいじゃんいいじゃん儲けもんじゃんと、タダなら問題ないじゃんか、とでも言いたげに笑い話の肴にでもするのだろうが、考えてもみてほしい。

 世界中のどの市場にもまだ出回っていない人間としか思えないような、それもじぶんよりも年下の異性の姿をした人型デバイスと共に過ごす日々を、それを眺める者たちから注がれる私への視線を。

 私はいったいどんな緊張感を以ってこの歩く国家機密のような青年と一つ屋根の下で過ごせばよいのか。

 彼を返品する余地を模索しつつ、正式に破棄の手続きをとれるのか、或いは向こうから回収しにきてもらえるように仕向けるか、ただでさえ行き詰っている仕事を片付ける片手間に、私が彼を万が一にも破損してしまわないうちに打開策を編み出さねばならない日々の苦悩を、ぜひとも想像していただきたい。

 私は彼に半ば引きずられるようにしながら、未来の私に投げかけられるだろう無数の冷たい言葉たちに前以って反論しておく。

 万が一にも、ここからはじまる恋なんてない。

 彼は機械で、正真正銘の脳なしだ。

 世界一の性能を誇るだろう頭脳はしかし彼の、超精巧なボディのなかにはなく、よしんば私が彼に何かしら親愛なる人間にそそぐのと似たような情を抱いたとしても、彼のボディのなかには、その情をそそぐべき頭脳は入ってはいないのだ。

 何の物語もはじまらない。

 大きな荷物を押し付けられただけである。

 店の外に出て自転車にまたがると、彼はそんな私ごと担ぎあげて、こっちのほうが速いので、と言って、跳躍した。三回地面を踏むあいだに、彼は優に百メートルを移動した。

 どうせなら、と思わずにはいられない。

「家事だけじゃなくてさ、私の仕事も肩代わりしてよ」

「いまはあなたの身体を肩車してますけど」

「だからなんだ」

「しょうがないですね。ではまず、その屏風から仕事をだしてみせてください」

「一休さーん」

「あなたに必要なのはひょっとしなくても、超高性能な僕なんかではなく、一休み、一休み」 

「休ませてくれないのはおまえだろ」

 すっかり夜も更けて、締め切りまで残り数時間を切ったなかで私は泣きじゃくりながら、こんなことならお店になんか行くんじゃなかった、と臍を噛んでいるが、翌日になると取引先からはなぜか締め切り延長の申し出があり、よくよく調べてみると私の取引先の多くは、私が引き取った超高性能人型マシンの開発元の下請けであり、ひょっとしたら私は石油王さながらの僥倖を得たのではないか、と思いあがったのは一瞬にすぎず、つぎの日には超高性能人型マシンを開発した旨が全世界に公表され、その管理者として私の姿が、超高性能人型マシンの目に仕込まれたカメラ越しに、私の預かり知らぬ間に、全世界に流されることなど、このときの私が知る由もないのだった。




【ヤモリではない】


 古い旅館に泊まった。満月のきれいな夜で、障子を開けているだけで、眩しいくらいに光が差し込む。窓の上部は擦りガラスで、そこに霞む月をぼんやりと眺める。

 きれいだ、と感慨に浸っている合間に眠りに落ちた。

 物音がして起きる。腕時計の時刻は深夜二時を回った時分で、寝付いてから四時間が経過していた。

 物音を耳で辿る。窓のほうだ。

 目を転じると、摺りガラスに何か動くものが見えた。

 ちいさな影が、パタパタとせわしくはためいている。

 蛾か何かだろう。

 ひょっとしたら摺りガラスに乱反射した月光めがけて飛んでいるのかもしれない。ご苦労なことだ。

 もういちど寝付こうと後頭部を枕につけ直すと、音の質が変わった。

 パタパタと羽ばたいて聞こえたそれは、こんどはベタベタと重さを増し、窓を叩いている。

 そう、叩いているのだ。

 いったいどんなに大きな蛾だろう。

 それともコウモリだろうか。

 もういちど首を持ちあげ、振り返ると、摺りガラスの下、透明なガラス部位に、逆さになってぶらさがる何か黒い、人影のようなものが、しきりに窓を、ベタベタと両手で叩いていた。その音はしだいに大きく、窓ガラスが割れてもおかしくないくらいに鳴り響き、私は飛び起きて部屋のそとに逃げだした。

 ロビーに下り、いましがた目にしたモノのことを言うと、係の者は分け知り顔で、ただいまお部屋をお替えします、とこちらが呆気にとられるほどなめらかに対応してくれた。

「泥棒ですか」

「たぶん違います。害はないと思うんですけど」

 部屋に向かいながらそんな会話をした。

 部屋に入り、明かりを灯すと、窓にはなんの影もなかった。白くもやがかって見え、近づくと、ちいさなモミジのような跡が、無数に、窓を曇らせていた。

「あの、これは」

「大きなヤモリでもいたんですかね」

 係のひとは、荷物のお忘れのないように、とせかすように言い、新しい部屋へと案内した。つぎの部屋では何事もなく過ごせたが、明かりは灯したままだったし、けっきょく寝付くことはできなかった。




【デビットバードは雲を知らない】


 デビットバードはことし五十歳を迎えるアメリカモンタナ州在住のヒスパニック系アメリカ人だが、彼は産まれたときからいちども雲を見たことがなかった。必然、雨や雪、その他、晴れ以外の気候とも無縁だった。

 TVを観なければ、最新技術とも接点がない。本は文芸を愛好するが、虚構たる小説ばかり読むので、そこに出てくる雲とドラゴンの違いはあってないようなものだった。

 何か意図されてそうなっているわけではない。デビットバードが産まれてから五十年のあいだにいちども雲を見たことがないのは単なる巡り遭わせの偶然でしかなく、極めて低い確率の事象がたまたま彼に起きているにすぎなかった。

 デビットバードが雲をいちども見たことがないと知る者はない。サイコメトラーではあるまいし、誰だってじぶんの友人や知人が産まれてきてからいちども雲を見たことがない人間だなどと傍から見抜く真似はできないし、ましてや雲なるものを見たことのないデビットバードが、他人に、じぶんは雲を見たことがないんですよ、と話す道理もない。

 そう、デビットバードはこの世に生を享けてからの五十年間いちども雲を見たことがないだけでなく、そのことすら知らぬままで生きてきた。

 雨や雪については、知識として知っていた。川や海、作物や木々がどのようにしてできるのかを知るのと同じ過程を経て、デビットバードは、空から水や氷が降ることを知った。だが、その際に雲が形成されることはよく理解しておらず、記憶に定着することはついぞなかった。

 デビットバードの人生のなかに雲は存在しない。ゆえに、説明されたところですっぽりと抜け落ちてしまうのだ。

 それはたとえばいまここで、サバルティクス・ドルティムス=ラパティの説明を試みたところでそれを見たことも聞いたこともないあなたが、サバルティクス・ドルティムス=ラパティをあす以降憶えていられないのと同じことだ。ちなみに、サバルティクス・ドルティムス=ラパティはいま私こと著者が思い浮かべた架空の動物の名前であり、絵にしてみないことにはそれをあなたに見せる真似はできない。

 デビットバードにとって雲は、ここで言うサバルティクス・ドルティムス=ラパティと同じ、存在しない存在であった。

 デビットバードは引きこもり体質ではあったが、外出はするし、旅行の経験もある。五十年間ものあいだ、偶然にも、彼が出歩くときのみ、雲一つない快晴がつづいた、ただそれだけのことなのだ。

 ひとよりも近代文明の恩恵から距離を置き、晴れに遭遇しやすかった。雨や冬や悪天候に遭遇しなかった、ただその幸運が重なりつづけただけのことで、デビットバードは五歳児でも知っている雲を知ることなく、五十歳の誕生日を迎えた。

 そしてそのことを知る者はなく、デビットバード自身、じぶんがいかに特殊であるかを知らずにいる。

 世の多くのひとが南極点では日が沈まないことを知っているが、それを実際に目にする機会を得られぬまま生涯に幕を閉じるのと同じように、或いは誰もがオーロラを知っていながらそれを見る機会が巡ってこないのと同じ規模で、デビットバードは雲を見たことがなかった。

 しつこいようだが、デビットバードはTVも最新科学技術の粋を集めた機械の類も、身近に置かなかった。

 人付き合いは多くはなく、挨拶代わりに天気の話をする習慣もない。

 雲を知らずとも何不自由なく人は生きていける。

 ただ、人によっては人生の感動のいくつかを体験できずに損をしているのでは、と言う者もあるだろう。野原にねそべり、仰ぐ空の青く白いうつくしさ、刻々と変遷する雲の壮大な蠢きには、竜がごとく巨大な生き物を目の当たりにしたような神秘を感じずにはいられない。

 と、そのように謳う者もあるところにはある。著者がそうだからだ。しかしデビットバードには縁遠い感応だ。

 デビットバードには、人々が当然日夜共有している雲に関するあらゆる情報が欠けている。だがそのことで損をしているとデビットバード本人が気づくことはいまのところなく、その予定もない。

 読書が趣味のデビットバードは、博識だ。じぶんでそのように自負している。客観的にも彼の周囲の者たちはデビットバードを賢人だと見做している。

 あるとき彼のもとを古い友人が訪ねた。かつてそうしていたように様々な話題で意見を交わしあい、世の中の趨勢を嘆いた。

「世のなかには原子がスカスカだと知らない者もいるらしい。それも、我々の想像するよりもずっと多くだ」

「電子にしてもそうなのだろうな」

「そのようだ。地球を公転する月のように玉として実在するものとして電子を解釈している者がすくなくないようだ」

「知らずとも生きていけるとはいえ、嘆かわしいなあ」

「じつに嘆かわしい」

 世の人々の教養のなさを案じながら、そのじつデビットバードは雲を知らない。さらに言えば彼の友人は、べつに人間は必ずしもオムツをしなければならないわけではないことを知らずに、産まれてきてからずっとオムツを毎日付け替え、穿きつづけている。

 雲を知らず、オムツを愛用していようが実害はない。当の本人たちはじぶんたちの人生を謳歌しつづけているし、まったくわるいことではないにしろ、それはほかの大多数の、原子や電子の構造を子細に知らぬ者たちにも当てはまることである。

 他人の無知を嘆く暇があるならばまずはじぶんの無知を自覚してほしいところであるが、このように望む著者もまたじぶんの無知には無自覚である。

 デビットバードは雲を知らない。産まれてからいちども目にしたことがなく、雲を知らない事実すら知らずに生きている。

 偶然そうなっているだけのことであり、雲を見かける機会がたまたま巡ってこなかっただけである。

 デビットバードに固有の珍しい特質ではあるが、かといってデビットバードにのみ観測される欠落ではない。無知ではない。

 誰であっても似たような欠落、無知は開いている。帯びている。

 たまたまそれを知る機会がなかった。偶然に、産まれてからいままでそれがつづいていただけである。偶然はそこかしこに転がっている。無知はそこかしこに開いている。

 自覚のしようはない。

 そこに転がり、開いている、と想定することしかできない。

 あるときふと、欠落が埋まったとき。

 無知から無がとれて、知に変わったときに、ああそこに穴があったのかと、あとから欠落の形状、穴の深さを身を以って痛感するよりない。

 いくら真面目に高尚な思想を論じたところで、デビットバードは雲を知らず、どれほど高度な数式を扱ったところで、彼の友人はオムツを当然穿いて然るべき下着として愛用している。

 何もわるいことではない。

 ただ、彼らが無知を嘲り、他人を嘆くとき、それら嘲りと嘆きは総じて自身に返ってきている。

 その事実にすら、デビットバードは気づくことができず、彼の友人はデビットバードが雲を知らないことに思い至らずに、このさきも雲の存在を教え諭す真似すらできずにいる。

 デビットバードは雲を知らない。

 だが、きょうも何不自由なく生きていく。




【腸内ガスが止まらない】


 今朝食べたゆで卵がよくなかったのか、夕方になると腸内ガスがたくさん排出されて困った。家には一人でほかに家族はない。人目もないので、ひとまず気兼ねなく、ぷっぷぷ、放出してみた。

 すぐに治まるだろう、底を突くだろう、そう思ってのことだったが、思いがけず腸内ガスは絶え間なく出つづけた。

 匂いが薄いのがさいわいだが、これではメタンガスが部屋に充満してしまう。静電気が弾けるだけでも、引火して大爆発を引き起こしかねない。

 ひとまず我慢することにした。窓を開け、換気はしているものの、永久機関がごとく湯水のように腸内ガスが漏れつづけるので、自力で抑える訓練をしなければ、あす病院に行くこともできないと考え、やはり我慢した。

 寝ているあいだに何度じぶんの腸内ガス放出時の音で起きただろう。

 翌日、病院に向かったが、原因は不明で、とくべつ命に係わるわけでもないとのお墨付きをもらえ、けっきょく何一つとして解決せぬままに帰宅した。医師からは、却って健康でよろしいと太鼓判まで捺されてしまい、これでは恥じを掻きに行っただけではないか、と臍を曲げた。腸内ガスがたくさん出るからと病院に行った人間はこの世にいったい何人いるだろう。人類初ではないと祈りたい。

 それからというのも、腸内ガスは止めどなく溢れ、ほとんど垂れ流し状態になった。お尻の穴からつねに腸内ガスが漏れている。天然ガスの噴出口さながらだ。いちど火がつけば、ガスが枯渇するまでお尻から火を噴いたままの生活を余儀なくされるのだろうか。不安しかない。

 音がしないように、うまく腸内ガスだけを放出する術をしぜんと体得したが、匂いの濃度は日によって変わるらしく、通勤中や、買い物、仕事中、つまり家にいないあいだは総じて緊張を強いられた。

 絶えず漏れだそうとする腸内ガスに抗い、常時腹筋にちからを込めつづけた日々は、私の腹をムキムキのボコボコにした。腹筋のみ私は板チョコさながらのブロックを手に入れた。

 私の腹筋は日を増すごとにさらに強化された。硬度は優に鉄を超え、弾丸すら弾き返す。超人的な腹筋の獲得に伴い、垂れ流し状態であった腸内ガスはほとんど体内に留めておけるようになった。

 外出中は好ましいそうした変化だが、しばらくすると閉口した。

 腸内ガスが一転、出なくなってしまったのだ。

 超人的な腹筋により、圧縮に圧縮を重ねた腸内ガスは、もはやガスではなく、液体となり、さらには固体にまで凝縮され、結晶した。のみならず刻一刻とその直径を増やしつつある。

 いまではコブシ大の大きさにまで結晶し、私の腹部を内側から圧迫し、腹痛を起こしている。このままいけば十中八九、私の腹は破裂するだろう。

 恐怖に駆られ、私はさらに腹筋を鍛えた。

 その甲斐あってか、腸内ガスの結晶はさらに圧縮され、一時的に縮んだ。

 だがこれではイタチごっこだ。いつかは摘出せねばならなくなるときがくる。

 私はいよいよとなって、病院に駆け込んだ。

「これこれこういうことで、たぶん私の腹の中には結晶が」

「こりゃいかん。いますぐ摘出手術だよきみ」

 レントゲンには大きくなってはさらにちいさく縮むを繰り返す腸内ガスの結晶が映り込んでいた。膨張と凝縮は、秒単位で律動を刻む。鼓動のごとく有様であった。

 一度目の手術は腹を切る前にとん挫した。私の腹筋は、メスをまったく受け付けなかった。傷すらつかない腹筋には早々に根をあげたらしく、医師はそこで背中側を切り開くことにしたようだ。二回目の手術にて、私の腹から、指でつまめるほどの腸内ガスの多重に圧縮された結晶が取り出された。

 医師の指示により手術前に思い切り腹筋に力を入れていた。それにより、コブシ大もあった腸内ガスの結晶がさらに収斂し、ちいさくなったようだった。

「手術は成功したんですがね」

「ありがとうございました」

「根本的な解決にはなっていないでしょう、なにせあなたの腹ではいまなおガスが湧きでておるわけで」

「そうなんですよね」

「まあ、また痛くなったらおいでなさい。背中に小窓をつけておいたから。取る分にはいつでも可能です」

「あざます」

 それからというもの私は定期的に医師の手を借りて、腹から腸内ガスの多重に圧縮された結晶を摘出した。

 じぶんでも背中の小窓から手を突っ込み、腹のなかをこねくり回して、結晶を取れるようになったころ、医師から急いできてほしい、と連絡があった。何事か、と駆けつけると、

「これを見てください」

 医師は一つの映像を見せた。それは激しく燃焼する腸内ガスの多重に圧縮された結晶だった。

「これ一粒で、原子力発電十基分の電力を十年間つくれます。画期的な新エネルギィとなり得ますよ」

 そばには政府関係者らしきスーツ姿の女性がおり、詳しい話はこちらで、と車に乗せられ、とある施設に連れていかれた。

「元々は核兵器の処理施設です。同盟国からの依頼で、ここで処理をしていたのですが、いまでは次世代エネルギィの開発拠点として活用しています」

 話からするとどうやら私の腸内ガスを多重に圧縮した結晶を燃料にしたいようだった。一生遊んで暮らせるだけの契約料を提示され、私は二つ返事でその話に乗った。

 やがて新エネルギィによる電力供給システムが完成し、世界からエネルギィ問題は根こそぎ消えたかに見えたが、空気を読めないのは私だけでなく、私の肉体も同様だった。

 あるとき、ふと、腸内ガスが止まった。

 常々腹の内側に感じていた圧迫感が消え、身体がシャボン玉のように軽くなった心地がした。

 私は燃料たる腸内ガスを多重に圧縮した結晶をつくりだせなくなり、名実ともに役立たずとなった。

 超人的な腹筋は健在であったが、その材質の研究こそさかんになされたが、再現するのは不可能だとの結果が得られるだけでなんの成果も上がらない。私はただ背中に小窓をもうけたちょっと腹筋が硬いだけのデクノボウでしかなかった。

「何か役に立ちたいのですが」

「ならダイヤモンドでもつくってみる?」

 いちどやってみたかったんだよね、と研究者の一人が言い、私の背中に開いた小窓に腕を突っ込むと、私の体内に炭素の塊を植えつけた。

「圧縮したらダイヤモンドのできあがりだよ、さあどうぞ」

 研究者の指示に従い、私は腹筋にちからをこめる。腸内ガスにそうしてきたように、私は体内のそれを圧迫した。

「もういいだろう、どれどれ」

 研究者は私の背中に腕を突っ込み、引き抜いた。掴んでいた物体を卓上に置く。そこにはキラキラとまばゆいまでのダイヤモンドの結晶がごろんと転がった。

「成功だ」

 かくして私は、新エネルギィの燃料ではなく、ダイヤモンド錬成機として活躍した。

 後年、それだけに留まらず、ガス兵器や核兵器など、処理に困った代物を圧縮して始末する役割も担ったが、放射性物質を高度に圧縮したために、何か得体のしれない物質を創りだしてしまって、私の周囲百キロ圏内が不可侵領域として国際指定されてしまったが、これでいつ腸内ガスがまた滾々と湧いてもひと目を気にせず放出できるので、いまはだいぶ、気が楽だ。

 つぎはブラックホールを創る計画が持ち上がっている。そのために私は、重ねて腹筋を強化すべく、きょうも鍛錬を怠らないのである。




【彼岸の白い花】


 隣の空き部屋がようやく埋まったようだ。引っ越してきたのは私の同年代くらいの男性だ。引っ越しの挨拶にカステラをもらった。

 顔を合わせるたびに会釈をするが、彼の眼差しがどこかしら粘着質で戸惑った。きょうなど、帰宅すると、私の部屋のまえでじっと扉を見つめていたりして、ぞっとした。

 見た目はそれなりに清潔感があったので油断していたが、あまりお近づきにはならないほうがよいかもしれない。私は気を引き締めた。

 アパートは築ウン十年で、部屋は狭い。かろうじて湯舟とトイレがついている。友人を招きたいとは思えぬ内装だが、畳が敷かれており、古き良き趣がある。

 家のとなりには墓地がある。墓地と家のあいだにはこの季節、彼岸花が咲き誇り、夕焼けに照らされた景色は、そこが墓地であることを忘れるほどにうつくしい。

 あるとき、私は一本の花に目が留まった。一面が赤い絨毯と化しているそこにあって、それだけが白く浮き上がって見えた。

 一本だけの白い彼岸花だ。

 否、彼岸花であるかは分からない。

 何かほかの花が混じって咲いているのだ。きっとそうだ。

 私はよくよく夕暮れときにはそれを窓から眺め、一日の癒しとした。

 休日に、買い物をして帰ってきたら、鍵を開けているあいだに隣の部屋の扉が開いた。そこから例の男が顔をだし、

「すみません、よかったら部屋を見せてもらえませんか」

 不躾にそんなことを言ってきた。

 いったいどういう神経をしたらそんな怖いことを、臆面もなく口にできるのか。怒り半分、おぞましさ半分に私は、なんでですか、とすごんだ。

「それは、えっと、その」

 狼狽する男は、しどろもどろに、家の間取りが同じかなぁなんて、と言い訳がましく言った。

 同じですよ。

 私は言い放ち、岩の上で日向ぼっこをしているトカゲさながらの俊敏さで部屋に引っ込む。私は彼を信用しないことにした。

「それはたしかに不気味ですね」

「そうですよ。もういまじゃ、なるべく鉢合わせしないように、気づかれないように、忍び足で階段をのぼってます」

「こちらでも気を付けて見ておきましょう。夜に見回りでも致しましょうか」

「いえ、そこまではさすがに」

 しなくてよい、というよりもこれは、申し訳ない、との意思表示だ。

 和尚さんは、こんなところでよろしければいつでも避難してくださいね、とおっしゃった。

 捨てる神もあれば、拾う神もある。その神の名はきっと仏さまだ。

 私が和尚さんと出会ったのは、ここに引っ越してきてから間もなくのことで、夜中でも窓を開けていたら、つぎの日に和尚さんが家を訪ねてきた。

 駅前のおはぎ専門店の品を手に、怖がらせるようで申し訳ないのですが、と夜は窓を閉めたほうがよい旨を忠告してくれた。

「家の中からだと外は暗いだけでしょうが、なまじ遮蔽物がない分、外からだと遠くからでも家のなかが丸見えになっておりますので」

「え、そうなんですか」

「お一人でのお住まいですか」

「はい」

「では用心するに越したことはありません。さしでがましい容喙(ようかい)でございますが、黙っていられぬ性分でございまして。一言だけ挟ませていただきました。ご容赦を」

 自身を指してヨウカイとは、なんと謙虚な和尚なんだ、とそのときの私は思ったものだ。あとで気になって辞書で引いてみたら、全然違う意味で、余計なことを言わずによかった、と胸を撫でおろした。

 本来なら私と和尚さんの縁はそれっきりのはずだったのだけれど、戴いたおはぎがあまりに美味で、お礼を返さなければいかんぞ、と思ったのと、そのついでにどこでおはぎを購入したのかを聞き出さねばいかんぞ、の衝動に駆られ、私は数日後にお寺を訪ねて、そこからはつかず離れずの適度な距離感で、互いにほどよい隣人関係を築いている。

 何かを誰かに愚痴りたいときなどは私はよく和尚さんに話を聞いてもらった。いらないと言ってもお米やら野菜やらを毎月送ってくる心配性な母のことや、大学でいまいち友人のできないじぶんはこのまま無事に卒業できるのか、もっと言えば留年せずにいられるのか、について、私はことのほか饒舌に論じた。

 そこにきて今回の新しい隣人だ。相談せずにいられるわけがない。

「もうもう夜もこわくて寝ていられないくらいで」最後のほうはほとほと誇張にすぎたが、言う分にはすっきりする。

「そこまで」和尚は憂い顔だ。「不安がおありでしたら、いつでも避難なさってくださいね。こんな場所でよければ寝泊まりする分にはいつでも構いませんので」

「え、いいんですか」

 食いついてしまったのは、じつは寺での暮らしぶりに興味があったからだ。大学で民俗学を齧ったら、思いほか琴線に触れた。いまは暇さえあればそれ関係の本を読み漁っていた。「もしご迷惑でなければ、ふつうに遊びに泊まりたいのですけど。あ、遊びって言っちゃうと変な感じになっちゃいますけど」

「こんなところでよろしければ、どうぞどうぞ。ろくなおもてなしもできませんが」

 そう言いながらも、いざお言葉に甘え、とんとん拍子に宿泊する算段がつくと、和尚さんは私のために客間を貸しだしてくれ、まるで旅館の一室がごとくそこで私はしばらく厄介になることになった。

「食事はじぶんで用意するので、お構いなく」さすがにそこまで世話になるつもりはなかった。

「そうですか。では、最初の一晩だけいっしょにお食事をどうですか。お寺のふだんどおりの食事ですが、ご興味がおありではと」

「あります、あります。ご相伴に預かりたいです」初めて口にするタイプの言葉に、ろれつが回らない。ごしょうばん、なんて初めて使った。

「では、そう致しましょう」

 快活な受け答えに、育ちのよさが窺えた。やわらかな物腰には何かしら、隣人として以上の気持ちが湧きかける。年齢こそ、私よりも一回り上だが、だからこそ信頼のおける和尚さんのおとなな対応には、やはり憧れでくくるには親しみのこもった感情を覚える。

 着替えを詰め込んだ旅行鞄を引きずって私は、お寺にお邪魔した。予定していた通り、その日の晩に食事をご馳走になった。質素なメニューかと思ったが、ハンバーグにスパゲティが並んだので、私はたまげた。

「思ったよりふつうですね。ふつうに豪華です」

「いつもより気持ちすこし気合が入りましたが、でもだいたいこんな感じですよ。小膳料理ではないんです」

 和尚もしょせんはひとですよ。

 その言葉で目の前にかかっていた膜がはらりと解けたようで、私は笑った。

 この日、私は久方ぶりにたくさんしゃべった。昂揚していたのだろう、ふだんは人にしゃべらないことまでずらべらとしゃべり、大学で聞きかじった知識を披露したりと、酔っぱらってもいないのに、酔っぱらったようになった。

 話題が尽きかけたけれど、もっと和尚さんとしゃべっていたくて思いついた矢先から、話題をころころと変えた。

 やがて、そう言えば、と私の部屋の窓から見える景色、彼岸花の野原の話をした。

「きれいですよね」

 からはじめたそれは、誰がそれを植えて、管理し、あの土地は私有地なのか否か、といった当たり障りのない質問を経由して、そこは寺の所有地であり、植えたのはじぶんだ、と和尚さんが告げたのを機に、ならばあれのことは知っているだろうか、と私は窓のそとを見遣った。ここからでも見えるだろうか。景色のなかにそれがないかと探しながら、白い花のことを言った。

「一本だけあるんですよ、彼岸花ではないかもしれないんですけど」

 外は暗くてよく見えない。位置的に見えてもおかしくはないが、距離があるはずなので、やはりここからでは見えないのかもしれなかった。

「白い花ですか」

「そうなんです。一本だけ。ちょうど真ん中らへんに」

 和尚さんはそこで微笑を張り付けたまま、しばし固まった。何か変なことを言ってしまっただろうか、と思い、私は、ここに引っ越してきてよかった、じぶんの部屋の家賃が物凄い安いのもたいへん助かっているし、何よりそばに素敵なお寺があってうれしい、とことさら熱心に説いた。

 それはよかったです。

 和尚さんはただ一言そう言った。

 夜中、敷いてもらった布団にくるまり眠っていると、砂利を踏みしめる音が聞こえた。よその家の寝具だからか、なかなか深く寝付けずにいて、私はすぐに目を覚ました。

 音は、外から聞こえた。境内を抜けて私の住まうアパートのある方向に音が遠ざかる。そちらには彼岸花の野原がある。

 遠ざかっていく足音の主が気になった。和尚さんだろう、と当て推量をつけながらも、障子を開け、外を見る。

 明かりはない。足元を照らす懐中電灯の光も見当たらず、かろうじて月光の垂れたぼんやりとした暗がりのなかに人影が見えた。

 背格好からするとやはり和尚さんのようだ。こんな夜更けにまだ作業があるのだろうか。たいへんな仕事だ、とたいして知りもしないくせに私は内心で労い、もういちど寝る態勢をつくったところで、視界の端にもう一つ動く影を見た。

 ん?

 気になり、寝床から這いだして、窓から外を覗く。

 和尚さんらしき陰を追うように、もう一つ、人型が動いている。目を凝らすと、そこにいるのは例の、私の部屋の隣人だった。

 何をしているのだろう、こんな夜更けに。

 和尚さんの仕事を手伝いにいく、という感じではない。和尚さんは気づいていない。気づける距離ではない。つかず離れず、尾行の間隔を男は努めて保って見えた。

 危うい気がした。

 何が、というわけではないが、真夜中に他人の背後をとる理由はそれほどないように思えた。その光景は異様と言ってなんら遜色なかった。このまま放置してふたたび眠りにつくには忍びない。

 私は寝床を抜けだし、靴を履いて、外にでた。月光が明るいのがさいわいだ。境内を早足で抜け、彼岸花の野原、私の住まうアパートのほうへと歩を向ける。

 何やら口論する声が聞こえた。間もなく、怒鳴り声に変わる。

 深紅の彼岸花は闇に同化し、その奥で、月光に照らされてかすかに浮かび上がる人影が二つ、絡み合っていた。

 警察を呼んだほうがよさそうだ。

 私は踵を返そうと、身体をひねった、そのときだ。

 視界の端にはらりと、白い何かが映った。

 二度見さながらに私は足を踏ん張り、いまいちど二つの人影と、彼岸花の絨毯に目を転じる。

 怒号は止んでいた。

 闇のなかに、ぽつりぽつりと白い点が浮かび上がっている。

 否、花だ。

 白い花が、数十本ほど、月光の明かりを受けて煌々と輝いていた。

 和尚さんたちのいる地点、野原の真ん中、それはちょうど私が以前から白い花を目にしていた地点に集中して生えていた。

 なぜいまのいままでそれが目に入らなかったのかがふしぎなほどに、それだけが白く、まばゆく輝いていた。

 否、あれは花なのだろうか。

 私が背を丸め、目を細めたとき、ちょうど奥のほうから悲鳴があがった。断末魔というよりもそれは、慟哭と言ったほうが正確かもしれない。ひぃいい、と聞こえ、つぎに、うぁあああ、と呻き声があがる。

 和尚さんの声に思えた。

 例の男にナイフで刺されでもしたのかとひやりとし、意を決して私は、だいじょうぶですか、と大声を発しながら、そちらのほうへと突き進んだ。

 視界から、ふっと白い花が消える。ろうそくの火でも消すように、闇に同化したので、あれ、と思う。そしてなぜか眼球に焼きついた残像はどれも、花ではなく、白くしなやかな腕が天にむかって手を広げている姿だった。

 白い花だと思っていた。

 しかし、いまのいままで目のまえに咲き誇っていた何十本もの白い物体は、白く、すらりとした腕だった。

 いいや、そう見えただけのことだ。そんなわけがない。見間違えだ。錯覚だ。

 それよりもまずは和尚さんの無事がだいじだ。

 本来であれば私はここで、警察を呼びにいくのが正解だったのだろう。だが私の身体は、情けない声を漏らした和尚さんをその場に残して去る真似ができなかった。

 いざとなれば二人かかりで相手に挑めばどうなにかなるだろうとの楽観的な考えがあったのかもしれない。

 例の、私の部屋の隣人は、華奢な印象でもあったから、それほど脅威に感じなかったこともある。

 いざ男ふたりのいる地点に辿りつくと、そこには地面に蹲り、頭を抱えて、亀の真似をしたきり動かなくなった和尚さんと、それをじっと見つめる例の男がいるばかりだった。そこには乱闘の陰も、殺傷の気配も窺えないのだった。

「あの、どうされたんですか」私はどちらにというわけでもなく声をかけた。

 男はメディア端末を操作するジェスチャーをし、「持ってますか?」と言った。

「いえ、いまは」

「僕はここで見張っているので、百十番をお願いします」

「それはいいですけど、その、何が」

「人が埋まっています」

「え」

「ここに。たぶん、僕の姉です」

 男の顔は、目だけが怒りに震えていたが、それ以外があまりに哀しげで、私はその言葉を疑うよりさきに、お寺に引き返し、言われたとおり警察に通報した。

 間もなくパトカーが到着し、ふたたび彼岸花の野原に警察官といっしょに赴くと、去ったときと同じ格好で和尚さんは地面に蹲ったまま、例の男がそれを見下ろしていた。

 男が淡々と警察に事情を話した。

 死体が埋まっていると言われてしまえば、無視はできない。警察官はそれから一時間ほどかけて、彼岸花の野原を掘り返した。

 私は本堂で、べつの警察官に経緯を語った。ひととおりの流れを三回繰り返し終えたころ、どうやら土の下から何かがでてきたらしく、一転して警察官たちの動きが慌ただしくなった。

 日が昇るころには、お寺にはパトカーが押し寄せ、あれよあれよという間にマスコミが殺到した。

 彼岸花の野原には十体を超える遺体が埋まっていた。犯人は和尚さんだった。

 私はほとんどニュースから情報を得たが、どうやら私の隣に引っ越してきたあの男は、被害者の弟さんだったようだ。彼の姉は以前、私の部屋に住んでおり、あるとき失踪したきり行方知らずとなったそうだ。

 彼はそれを不審に思い、長らく独自に調査を進めてきた。その過程で、ほかにもどうやらこの地区を中心に若い女性が失踪していると知り、もっと念入りに調査しようと思い立ったのを契機に、姉が暮らしていたアパートに引っ越しすことを決意したようだ。

 私の部屋に入りたがっていたのは、そういう理由か、と合点するが、言ってくれれば協力したのに、と男の不器用な対人交流の仕方には不満を覚える。

 和尚さんが執拗に私にちょっかいをかけていたので、男はどうやらこっそり監視していたようだ。もちろん私を、というよりも、和尚さんを、ということなのだろう。

 ほとぼりが冷めたころ、私は隣人たる彼にお礼を言うべく、菓子折りを持って隣の部屋のインターホンを押した。

「はい」

「あの、なかなか時間が合わずに遅くなってすみません。お礼ができていなかったので、これ。駅前のお菓子なんですけど、よろしかったらどうぞ」私はおはぎの詰め合わせを手渡した。

「わざわざすみません」

「いえ、こちらこそ助けていただいてありがとうございました」腰を折り、顔をあげる。部屋のなかが見えた。段ボールの山だ。「お引っ越しされるんですか」

「ええ。元々姉のことを調べるためだけに入っただけなので」

 こういうときにはなんと言えばよいのだろう。ご愁傷様です、は変な気がするし、ざんねんでしたね、ではあまりに他人事にすぎる。元気だしてください、も場違いで、閉口するよりない。

「それにしてもアイツは何がしたかったんですかね」男は表情をやわらげた。「夜中にわざわざ遺体を埋めた場所に立って。人殺しの心理なんか知りたくもないですけど、あんな真似しなければ見つかることもなかったのに」

「あの、どうして判ったんですか、あそこに、その、埋まっているって」

 言葉を濁したのは、まさに彼の姉の遺体こそが土に埋まっていたからだ。

「アイツが急に取り乱したんですよ。あとを追っていたら、急に独り言のように、許してくれ、成仏してくれ、とお経を唱えだして。声をかけたら、飛びつかれたんで、そこで揉みあいになりましたが、やっぱり急に、何かに怯えだして。精神を病んでたんだと思うんですけど、ああここがそうなんだな、とその異様な様子を見て察しました」

「白い花を見ませんでしたか」口を衝いていた。

「白い?」

「彼岸花ではないんです。私の部屋からよく見えていて。そのことをあの晩、あのひとにしゃべったんです。ちょうどそれの咲いていた場所が」

「埋まっていた場所だったと?」

 私はあごを引く。

「気のせいかもしれないんですけど」言おうか迷ったが、じぶん一人だけの胸に仕舞ってはおけず、不謹慎を承知で、声にだしていた。「あの晩にも見えたんです。白い花が、たくさん。ひょっとしたらあのひとは、私の話を聞いて、何かを確かめに行ったのかもしれません」

「確かめに、ですか?」

「あまり気分のよい話ではないですし、ご遺族の方に話すようなことではないので、あの、怒らないでほしいんですけど」

「どうぞおっしゃってください」

「手に、見えたんです」

 私はじぶんの靴の先を見つめる。「白い花だと思ってたんですけど、じつはあれ、手だったんです。白くて、うつくしい、女の人の手でした」

「僕には見えませんでしたが」男は言葉を選ぶように言った。「あなたにはきっと見えたんでしょうね。そしてきっと、あの野郎にも」

「助けてくれたんだな、と思っています。もちろん、あなたにも」私は頭を下げた。彼が何かを言うまでそのままの体勢を維持した。

「無事でよかったです」彼の声はやわらかかった。「最後にひとつお願いしてもいいですか」

「なんでしょう」

「あなたの部屋を――姉の住んでいた部屋を、見せてくださいませんか」

 私は無言で頷き、彼を部屋に招き入れる。

 彼は部屋にはあがらずに玄関口から中を見渡した。短く漏れたその息にはどんな機微がこめられているのだろう。

「あっ」彼の背筋が伸びた。

「どうされましたか」

「あれ」

 彼のゆびさす方向には窓がある。その奥にはもう彼岸花はなく、掘り返された土の色が広がっているばかりだ。

 あっ、と私も息を呑む。

 一面茶色の景色のなかに、凛と延びる白い花のようなものが見えた。一本だけ伸びたそれは、風にゆらめくように、ゆったりと左右に揺れている。

 あたかも、手を振るように。

 陽炎のように揺らいで、消えた。 

 私は、じっと佇む彼の腕に触れ、よかったら、とカップを二つ用意する。「お茶でも飲んでいきませんか」

 彼はしばし固まったのちに、戴きます、と靴を脱ぐ。




【作者と読者と物語】


「 本質を浮き彫りにしたければ引き算をしていって最終的に何が残るのかを見て見ればいい。たとえば小説だ。小説の本質とはなんだろうか。文章であること。文字であること。言葉であること。それはそうだが、では随筆と小説との違いはどこにあるのか。

 私が思うに、小説から登場人物を引いていけば、最終的に作者と読者とそして物語だけが残る。三つが必要だが、随筆は、作者と読者さえいれば成立する点に相違がある。

 小説とは物語とイコールではない。作者が語る物語を読者が享受し、共有する作業が小説なのだ。情報の伝達ではなく、飽くまで共有であり、共同作業である点が、多くのほかの文章との違いだ。

 作者ははじめから読者に、世界の創造を委ねている。小説からそこに記された情報以上の情報を引きだし、補完し、創り出してほしいと望んでいる。

 たとえば小説において基本的には二人の登場人物がいれば、物語として起伏のある流れを構築しやすい。では一人ではいけないのか、というとそういうわけでもなく、一人しか登場しない小説も成立し得る。語り部しかでてこない小説、或いは、たった一人の言動を叙述した小説。

 ではその一人すら消えた小説はどうだろう。これも成立し得る。

 たとえば人類の消えたあとの世界を叙述した小説、或いは世界の変遷そのものを叙述した小説。考えればほかにもきっとあるだろう。小説とは必ずしも人間を登場させなければならないものではない。

 だがすくなくともそこには、作者と読者がおり、そのあいだには共同作業で築かれる虚構の世界が広がっている。

 それは、ここではないどこかであり、あなたのなかにあるどこかでもある。

 随筆にしろ小論にしろ日記にしろ、文章から引きだせる情報は、そこに記された枠組みから大きくはずれることはない。論文であれば言うに及ばずだ。外れることがそもそも想定されていない表現物であるので、これは正しい。

 しかし小説はそうではない。

 逸脱そのものが想定され、ときには目的にすらされている。

 ミステリー作品ではそれが顕著だ。叙述トリックなどはその代表と言ってよい。

 ファンタジーにしろ、SFにしろ、純文学ですら例外ではない。

 作者は小説として文字を並べるが、それは飽くまで物語を召喚する呪文でしかなく、物語を機能させるコードでしかない。

 それら呪文によって読者は自身の内側に、みずからの手で世界を創る。任意の輪郭を帯びた世界を、或いは任意の骨格を有した世界を。

 作者にできるのは、物語の輪郭や骨格を極力歪まずに物語を召喚し、ときに機能させるための呪文やコードを記すことのみであり、物語そのものの質感や色彩を正確に出力し、伝えることではあり得ない。

 説明書やレシピ、その他の文章には、誤読こそあれ、逸脱を想定された文章は存在しない。あればそれはイタズラか、詐欺の道具である。

 その点、小説であれば、誤読すら許容され、ときに意図して組み込まれる。意図されない誤読もされ得るが、小説はそれすらおおらかに許容する。どのように読まれようとも、読者の内に築かれた世界こそが、その小説の真価であり、完成品なのだ。

 小説とは、それを摂取した者の内側にのみ拡張し、投影され、顕現する虚構そのものである。それを、世界、意識、自我と言い換えてもよい。

 宿主がいなければ増殖できないウイルスじみた性質が小説にはある。大なり小なり文章にはそのような性質があるが、小説ほど、文章とそこから復元される情報量(物語世界)の膨張率が激しい媒体はほかにない。

 小説が文章によってつむがれる点を抜きにすれば、小説が小説として成立する条件とは、以下の一つがあればよい。

 作者がおり読者がおり、双方のあいだに共有可能な輪郭および骨格を有した世界の創造が達成されている。

 以上が満たされていればそれは誰がなんと言おうと小説であると言えるのだ。

 では、たとえば何の風景描写もなく、登場人物もなく、作者と読者が同一人物である場合であっても、そこに物語世界の創造がなされていれば、それは小説と呼べるのか。

 答えはまだ定かではない。

 それを確かめてみるために私は、私へ向けて、この文章をつむぎ、もう一つの世界をつくりだす小説なる魔法の本質を浮き彫りにすべく、いまこれを並べている。

 ここには作者の私しかおらず、これを読む者も、いまのところは私しかいない。その予定だ。

 ここにはいわゆる物語は描かれておらず、しかし純然たる事実として、ここに私は物語を、つまり、ここではないどこか、私の内側にしかない世界の断片を幻視する。

 私は私の言いたいことをこの文章から読み取るのは容易であるが、同時に私はここから文章に記された以上の情報を、物語を、膨らませて描きだす。

 私はいまこれを書いている。

 そして私はいずれこれを読む。

 そのあいだにある時間の断絶、ともすれば作者の私と、読者としての私が、完璧な同一人物足り得ぬ事実が、ここにひとつの物語を膨らませる余地を築く。

 仮にここに書かれた事柄が、DNAについての説明および所感であったならば、いささかそれを小説と呼ぶのには躊躇を覚える。

 だがこれが、物語世界の創造(ここではないどこか)を、作者が読者に植え付け、芽吹かせ、育ませる小説なる呪術、小説なるコードについて語る場合に限り、ここには階層的に、物語の発生余地が生じる。

 私はこれを読み、おそらく何かしらの余白を感じ、補い、それを以ってこれを書いている私を思い、そこに物語を幻視する。

 単なる記録であればそれはロマンと呼ばれるが、ここではそれが小説となる。

 ここには物語は何も叙述されてはいないが、読者はこれを以って物語を膨らませ、想像し、創造する。図らずもそれは、作者たる私の世界との共有を可能とする、輪郭や骨格を有している。

 本質を浮き彫りにしたければ引き算をしていって最終的に何が残るのかを見て見ればいい。

 ここにはただ、文字が並んでいるばかりであるが、私とあなたがここにおり、そして私たちを包み繋げる物語が私たちのあいだに生まれる限り、これは揺るぎがたく小説なのである。 」




千物語「藍」おわり。

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