千物語「不」 

千物語「不」 


目次

【文字を食む】

【殺戮の法則】

【異能特殊追跡班】

【不可視の瑕疵】

【山を崩して国を盗る】

【櫛を梳くタビに】

【魔王の飽食】

【紙面怪魚】

【もげた翼を投げないで】

【いつもので】

【さよなら缶コーヒー】




【文字を食む】


 糸手(いとで)キストを最初に意識したのは、彼女がいついかなるときでも、本を手放さないことに気づいてからのことで、おそらく高校に入学してから一年が経ってからのことのように記憶している。当時の私の日記にもそうある。

 いわゆる彼女と私は同級と呼ぶ関係性にあって、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 言葉を交わしたことはなく、挨拶をしても糸手キストは言葉を返したりはしなかった。必然、彼女の交友関係は狭く、高校を卒業するまでのあいだに彼女が教員以外で口をきいている姿を見た憶えはなかった。

 大学に進学すると、高校からの同級生が糸手キストのみであったことで急速に私の生活圏に、彼女の存在が浮きあがった。

 新しい環境では、顔馴染みであるだけで安心感を抱ける。彼女は愛想こそないが無害であることは、高校時代に教室でぽつねんとクマのぬいぐるみのように過ごしていた彼女の姿を目にしたことのある者ならば誰もが認めるところであり、私は新しい友人ができるまでの最初の一週間を糸手キスト、彼女のそばで過ごすことにした。

 同じ講義や、学食で姿を見かけるたびに私は彼女のとなりに陣取った。

「知らない人ばっかで緊張するよね。あ、餃子定食? いいな私もそっちにすればよかった」

 彼女は黙々と餃子を箸で口に運ぶ。その片手間に本を開き、じっと目を離さない姿は、初めて目にしたときは、一生お近づきにはならんだろうな、と思ったが、彼女はそういう人物なのだといちど呑みこんでしまえば、却ってそういう性質は、私を取り囲む緊張と不安の緩衝材として有効だった。

 私はオムライスをついばんだ。

 彼女は私を無視しているわけではなかった。本を読みながらも、食べ終わってもすぐに去ることはなく、私が席を立つと黙ってあとをついてきた。講義の移動時間も彼女は私のあとをひな鳥のようについてくるので、なんだか懐かれてしまったな、と面はゆい心地がした。

 反面、その日の講義が終わると彼女はさっさとじぶんだけで帰ってしまうし、やはり私とは一言も口をきかずに、本にじっと目を落としている。

「何をそんなに夢中になってるの。おもしろい?」

 講義の合間に投げかけると、彼女はわずかに頷いた。

 ほんのわずかな応答の片鱗を見ただけで私は、なんだかこの動物は思ったよりもかわゆいのではないか、と驚天動地の衝撃を受けた。意識改革だ。産業革命だ。

 私は大学の敷地外でも、彼女が乗るバスに同席し、彼女がそれを拒まないと見るや、率先して夕食をいっしょにとったり、アパートまでついていって部屋の掃除を申し出たりと世話を焼いた。

 どうやら彼女は私に懐いているわけではないらしい、と少々の認識を覆したのは、彼女が私以外の背中も、ひな鳥よろしくついて歩いていると知ってからのことだ。

 駅の構内や、バスの中など、本に目を走らせているあいだ彼女は、他人の行動に同調することで、身の安全を図っているらしかった。

 目的地が同じ相手や、同じ行動様式を伴なった相手のあとを辿ることで、読書に費やしている思考の分の処理力を賄っているようなのだ。

 私はいわば、彼女のカーナビにすぎなかった。

「てやんでい。そりゃないっすよキストちゃん。私がこんだけ仲良くなりたいアピールしてるってぇのに、そりゃないっすよ」

 彼女は私に目もくれず、本のページをぺらりとめくる。

 私は、ちぇっ、と唇を尖らせる。

 本好きの多くがこんな偏執狂ではないはずだ。私の両親も本を読むほうの人間だったが、もっと分別を弁えていたし、私が食事中に本でも読もうものなら、食べてからにしなさい、と注意を受けた。

 もし糸手キストがうちの子だったなら、私の姉妹か何かであったなら、うちの両親は四六時中ガミガミどやすはめになっただろうし、それとも糸手キストのほうから家出を試み、実行しただろう。

 彼女はお手洗いのときですら本を手放さないので、もはや文章を読んでいるというよりも、その体勢を維持することが目的なのではないか、と訝しんでしまうほどだ。病的なまでの人見知りゆえに、人と目を合わさぬように、言葉を交わさぬように、わたし本を読んでますよアピールをしているのではないか、と。

「で、本当のところはどうなんよ」

 かように私が問いただしても彼女は、ふるふると黙って首をよこに振るだけで、真意のほどは闇のなかだ。

 大学一回生の秋、糸手キストが講義に顔をださなくなった。テキストメッセージを送ったところでいつものように返信はないだろう。だが心配なので、心配していることを知ってほしかったので、送ったが、案の定、音沙汰はなかった。

 休学したのだろうか。よもや退学したわけではないだろう。

 風邪でもひいたかな、と最初の一週間はそっとしておいた。それ以降は、出席日数が危うくなる前になんとかせなあかんよ、とメッセージを送り、ついでにアパートの部屋のまえまで行って、ドアノブにそれとなく、栄養ドリンクやゼリー、バナナなど、病用セットを置いてきてはみたのだが、後日、足を運ぶとそれらはなくなっており、そのくせメッセージへの返信はないのだった。

 嫌われたかな。

 それとも部屋の中で野垂れ死んでいたりしないだろうか。

 いよいよとなって私は、糸手キストの部屋の扉をどんどんやって、いるのはわかってんだ、でてこーい、と取り立て屋の真似をした。

「なんかあったの」

 うるさかったからか、隣の部屋から眠そうな女性が顔をだす。

「あ、いえ。友人がずっと学校にでてこなくて、心配で」

「ああ。買い物にはでかけてるし、たぶんいまもいると思いますよ」

「そうなんですね。じゃあ、ひとまず安心しました」

「どうしてもってなら、下に管理人さん住んでるから言って、鍵開けてもらったら」

 口ぶりからするに、暗に、これ以上騒ぐな、と釘を刺しているようであったので、ありがとうございますそうします、と腰を追ってその場を辞した。

 さすがに管理人の手を煩わせることでもないだろうと思い、

「もう心配してやんないからな」

 無言の扉に言い捨てて、私はカンカン足音を立てて階段を下り、来た道を戻った。

 週末を挟んだ月曜日、糸手キストは講義に顔をだしていた。いっちょうまえに気恥ずかしさや申し訳なさを感じているのか、いつもなら私のとなりに寄ってくるのに、この日は教壇に近い席に座っていた。

 昼食時、私のほうで彼女の姿を探して、対面に腰を下ろした。

「どっこいしょっと。キストちゃん久々。この期間いったい何をしていたんだい。心配したのはそう、私のかってだけど、何か一言あってもよかないかい」

 彼女は口に運んでいた箸を止めた。ぴたり、と一時停止したような姿に嗜虐心がこみあげる。

「本をたくさん読んでるキストちゃんなら判るよね、この微妙な機微。わりとここが分かれ道だよ。分水嶺だよ。対応間違ったらもう私はここには座らないから、私を遠のけたいとか、縁を切りたいとか、そういうことなら、いつものように黙ってたらいいんじゃないかな」

 糸手キストはそこで何を思ったのか、箸を置き、本をぱたりと閉じた。彼女がことさら意識して本を閉じたのを初めて目にしたので、私は気圧された。

 怒気は引っ込み、すっかり何かしてはいけないことをしてしまったような呵責の念を覚えたが、なにゆえ私がひるまねばならぬのか、と奮起して、おうおう何か言いたいことがあるなら言ってみろや、と背もたれにふんぞりかえった。

 糸手キストは何を思ったのかそこで、すすす、と食器を寄越した。彼女は何かしら麺を啜っていたのだが、いまさらのようにその中身に注意がいった。

 真っ黒いそれは麺だった。

 いや、これは麺なのか。

 糸手キストは麺を箸で一本つまみ、宙に線を描く。垂れたそれは、ジグザグと不揃いで、なんだかボロボロのちぢれ麺に見えた。

 彼女はそれを私の受け皿に添えた。

 私は黒いちぢれ麺をゆびでつまみあげ、目のまえに掲げる。

「え、なにこれ。文字? 文章? すごいね、特別メニューとか何か?」

 すっかりこれまでの脈絡など擲って、物珍しい麺に釘付けになった。

 私はひととおり麺をいじりまわした。どう調理したらこんな緻密な麺がつくれるだろう。一本の麺はそれで一つの文章として成立していた。文面からして大衆文学の一節だと判る。

 説明を求めて私は糸手キストを見た。

 彼女はふたたび本を開くと、ゆびで紙面をカリカリと掻いた。

 シールを剥がすのに似た動きで、私はしぜんと彼女のゆびもとを注視する。

 音がしたわけではない。

 にもかかわらず私の脳裏には、ぴり、ぴりり、といった効果音が聴こえた。

 文字が紙面から剥がれていく。本に印刷された文章が、一筋の糸となって、糸手キストのゆびの動きに連動して、ぴり、ぴりり、と数珠つなぎに宙に浮きあがっていく。

 それはあたかも噴水から落下する水の流れを、超高速カメラで捉えたような、無数の蟻たちが互いに齧りつきあって一本の橋となるような、立体感の伴なった文字の糸だった。

 紙面からは、浮きあがった文字の分、空白が広がっている。

 本から文字が糸となって垂れている。

「印刷不良とか? というか、え? キストちゃんこんなん食べてたの? お腹壊さない?」

 あ、だから休んでたのか。

 我田引水に合点する私に、糸手キストは、箸で持ちあげた文字の麺を私の口のまえまで運び、無言で、あーん、と口を開け閉めした。

 私は唯々諾々とそれにならって、文字の糸を頬張った。

 もちもちとコシがあり、塩辛い風味が、ピリリと舌を刺激する。

 ごっくん。

 嚥下してしまえばなんてことはない、単なるこれは美味なる食べ物だ。

 ね?

 そう言いたげに糸手キストは小首を傾げ、説明はこれで終わったと言わんばかりに、開いた本のつづきを読みはじめる。片手間に律動よく麺をすする姿は、もはやそういう生態の小動物と考えたほうが理に適っている気がした。

 その日からというもの、糸手キストの食べ物は文字の糸ばかりとなった。自前で持ち込んだそれを、どうやら彼女は食堂で堂々と啜っていたらしい。

 麺ばかりではない。

 文字の糸をこねることで、真っ黒い板状の塊にし、それをチョコレートでも食べるかのごとく彼女は口に放り入れる。

 私も味見をさせてもらうのだが、甘くて香ばしく、お菓子としては一級品だと舌鼓を打った。

 味見をしつづけて分かったことがある。

 どうやら文字の糸は、それをつむぎだす本の内容によって、性質や風味が変わるようだった。

 私はいつの間にか毎日のように糸手キストのアパートに通うようになっていた。宿泊するのも珍しくなくなった。いちど泊った際にこれといって迷惑がる様子が、彼女のほうになかったからだが、私はいっそう身近に糸手キストを感じるようになった。

「印刷が剥がれてるわけじゃないっぽいね」

 文字の糸を調べるようになったのは、興味本位が半分、もう半分は、それを主食とする糸手キストの体調を慮ってのことだった。

 彼女はどれほど私が勧めても、手料理を振舞ったところで、文字の糸以外の食事をとらなかった。頑として、の言葉通り、彼女は糸の文字以外を食べ物として見做そうとはしなかった。

「むかしからそうだったわけじゃないんでしょ。どうしてそう急に。たしかに美味くはあるけどさ」

 味の種類も豊富だ。食べ飽きたりはしない。それはそうだが、栄養が足りているのかははなはだ疑問だ。

「まあ、元気そうだからいいけどさ」

 体調を崩したりすれば、引きずってでも病院につれていって強制入院させるつもりだった。

 本から文字を引っ張りだせるなんて技能は、たしかにそりゃすごいとは思うが、命を損なってまでつづける習慣ではない。

 私の胸中とは裏腹に糸手キストは、それをしたいがためにそうするように、それをつづけた。

 食べるため、というよりも、私の目には、彼女がそれを引っ張り出すことそのものに何かしらの愉悦を見出しているように思えてならなかった。

 万年無表情の鉄仮面が、文字を糸につむぐときだけは、頬を上気させ、目を爛々と輝かせるようになった。

 中毒を連想する。

 かといって私にそれを止める筋合いはなく、理由だってなかった。

「それ食べたら頭良くなったりするの? 内容がするする頭に入ってきたりさ」

 私はいつも問いを投げかける側だ。糸手キストは首の振り具合で、肯定否定を示す。意思表示をしてくれるようになっただけマシである。

 冬休みに入ってから、私は彼女の部屋に入りびたりになった。こういう言い方はしたくないが、半同棲と言っても間違ってはいない。 

 居心地がよいのだ。

 糸手キストの部屋には本ばかりが無駄に積み重なっている。本棚を買おうよ、と最初に足を踏み入れたときには叫んだものだ。

 壁は本で埋め尽くされ、階段状に手前にくるほど低い棟が立つ。三面、どこを向いてもピラミッドを見上げているようで、よくぞまあここまで、と呆れを通り越して、これぞ糸手キストだ、と褒め称えたくもなる。

 寝床は寝袋が一つあるだけだったので、私はわざわざじぶん用の布団を購入した。もちろんそうすればいつでも泊まりにこられるし、できれば彼女にも使ってほしくて、きちんと布団のうえで寝てほしくて、気をきかせていわば買ってあげたつもりだったのだが、彼女には私の真意は伝わらなかったようで、或いは伝わったにもかかわらず無下にされたのか、彼女は寝袋を使いつづけた。

 夜な夜な彼女が、本から糸をつむぐので、しゅるしゅる、と糸のこすれる音がする。彼女の手腕は研ぎ澄まされており、全ページから一気呵成に文字を抜き取るので、文字が紙面を焦がす音が聴こえる。

 寝不足にならないように私は耳栓を買った。

 半同棲生活は私が彼女を監視しておきたかったことが理由の大半を占める。なし崩しではない。

 文字の糸しか食べないなんてどうかしている。

 せめて体調が崩れたら即座に対応できる環境にしておきたかった。

 私は私で、おやつ感覚で文字の糸をつまむことがある。毎日一口は齧っていた。美味は美味なのだ。味が変わるし、この本はどんな味なのかな、と気にならないわけではない。

「ねぇ、そろそろ切らないの。だいぶ長いよ邪魔じゃない?」

 高校時代は短かった糸手キストの髪の毛は背中に届くほどの長さに達している。読書の邪魔になるからかふだんは団子に結っており、彼女の風呂上りの姿や、寝姿を見るようになってから、そんなに長かったのか、と新たな発見をした。

 実家住まいだったころは親が理髪の世話をしていたのではないか。一人暮らしをするようになって彼女はあるがままの姿を維持している。

 それでいて他人を不快にさせない見た目なのは、得をしているよな、と人一倍外見に気を使っている身の上としては歯噛みしたくもなる。

 むろん彼女は風呂にも本を持ち込んだ。寝るときも手放さない。その徹底ぶりには、どうかしている、と思うよりもどちらかと言えば、そうだよね、そうこなくっちゃ、といった安心感が勝った。

 ある日、買い物帰りに、雨にずぶぬれになって凍えている子猫を拾った。保健所に連絡するのが筋なのだろうが、どうしても放っておけなかった。

 糸手キストの部屋に向かう途中だったので、そのまま連れていく。

 子猫を見せると、彼女は珍しく感情を面にだした。それは恐れや不快な感情ではなく、初めてアイスクリームを食べた赤子のような、びっくりとうれしいと、これはなんだ、の驚きがいっしょくたになった表情だった。

「保健所に連絡して引き取ってもらう? たぶん貰い手がなければ可哀そうなことになると思うけど」

 彼女は洗面所からタオルを持ってくると、それで子猫を包みこみ、即席でつくった本の籠のなかに安置した。

 本は文字の糸を抜き取った白紙のものだ。煉瓦のごとく積みあげる。文字の抜けた本には用なしの判を捺すのか、彼女は無地の本への扱いは雑だったが、捨てずに手元に溜めておく。

 ノート代わりになるので私はたまにそれを譲り受けて、重宝した。

 子猫はけっきょく彼女の部屋で飼うことになった。予防接種などもろもろの手続きは私がこなすことになったが、そのことへの礼の言葉はなかった。いつものことである。拾った子猫を飼わせていただけるだけ、私のほうが感謝を示すべきなのだ。

 私はバイトがあるので、昼間は家を空けている。糸手キストは大量に本を購入しながらも金銭に困っている様子は窺えない。実家が裕福なのだろうか。

 それとも、食費を文字の糸で切りつめているからこその余裕なのかもしれなかった。

 キャットフードを買って帰ると、すでに子猫は何かしらの餌にむしゃぶりついていた。

 黒い山もりのそれは、細かく練って千切られた文字の糸だった。

「食べてさせてだいじょうぶなの」

 人間は平気でも子猫はどうなのか、と訝ると、彼女は抗議のつもりなのか、猫の餌を一粒つまんで、口の中に放りこむ。これ見よがしにしゃくしゃく言わせて、背を向ける。

 だいじょぶに決まってるでしょ、ふんだ、の意思表示だ。

 はいはい。

 おこちゃまの相手には慣れっこである。

 私は子猫の寝床を整えるべく、本の籠を覗く。新聞紙や段ボールの代わりに、黒い布のようなものが一面に敷かれていた。子猫の粗相を受け止めるための下敷きなのだろうが、もしや、と思い指で触れると、ざらざらと見知った感触が伝わった。やはりこれも文字の糸だ。

 前々から知っていたことではあるが、改めて文字の糸の汎用性に思いを馳せる。千切るだけでなく、本の内容ごとに性質が異なるために、こうして素材を見繕えば、布の代わりにもできる。

 粘土のように捏ねてカタチを整えれば、それで済むのだから、縫う手間も不要だ。

 よく見れば、糸手キストの着ている服も、漆黒のワンピースのようでいて、それもまた文字の糸を捏ねて、伸ばして、服のカタチにしたものだ。

 いよいよ本の権化となりつつある。

「着心地はいいのそれ? 私にも見繕ってよ」

 私は彼女の背中に寄りかかり、読みかけの本を手に取る。彼女と出会ってから読書に目覚めた。両親の影響で本に囲まれた家ではあったが、読書とは縁がなかった。

 それがこうして家にいるあいだの大半を、彼女の体温を背中に受けながら、文字の羅列を目で追い、いつの間にやら旅立っている異界のなかで過ごしている。

 子猫がしきりに鳴いている。

 喉が渇いたのだろう。現実に引き戻されるが、私の背もたれちゃんは、なおもここではないどこかに旅立ったまま、戻る気配を見せないでいる。

 年末年始、私は帰省することにした。糸手キストはアパートに残るようだ。子猫の世話のこともあったので、申し訳なく思いつつも、お土産を買ってくることを約束して、久方ぶりに、背中のさびしい時間を過ごした。

 お土産は何がいいだろうか。新幹線のなかで考える。

 どの道、あの娘は何も食べない。文字の糸さえあれば生きていける。ならばやはり本がいいのだろう。私は実家での時間の大半を、両親の書斎を漁る作業に費やした。

「そんなに持ってってどうすんのよ」

「読むに決まってるでしょ」

「売るんじゃないだろうな」とこれは父だ。

「売れるような本なの、これ?」

「値段じゃないんだよ。だいじな本なんだから」

「そうなんだ。じゃあほかのにしよっかな」

「何でもいいなら、あっちの部屋の段ボールのなかのやつはどうだ。重いからあとで送ってやるが」

「どうしてもこの本を手放したくないとみた」

「やらないからな」

 駄々をこねる父親がおかしくて、私はことさら本棚を漁った。

 新年を三日実家で過ごし、四日の朝には家を発った。

 お土産を持っていくと約束した手前、父の大事な本を一冊だけもらい受けてきた。糸手キストに渡せば、読んだあとで文字の糸になることは必須である。

 父にはわるいことをしたなぁ、と思いながら、欠伸を噛みしめる。子猫は元気かな。

 いちどじぶんの部屋に寄って、荷物を整理し、その足で糸手キストのアパートに向かった。

「ただいま。はいこれお土産」

 寝袋にくるまったまま本を読みふけっている彼女の枕元に置く。それから本の籠のなかを覗いたが、なぜか子猫の姿が見当たらない。

「おーい、どこだ、どこだ」

 本の山に隠れているのかと思い、探したが見つからない。しびれを切らして私は糸手キストに訊ねた。

「子猫どこ行ったか知らない?」

 本のページをめくる手を止め、彼女はしばし固まった。それからまた何事もなく眼球を動かし、文字を辿りだす。

「いやいや、そこで無視はないでしょうよ。何? 嫌になって捨てちゃった?」

 まさか逃げちゃったとか。

 おどけつつも、言葉には刺をまとわせた。無責任にすぎる、と私は怒っていた。

 珍しく本以外に関心を向けたようだから、彼女も子猫が気に入ったのだと思っていた。

 本来であれば、糸手キストなる女にだけは、子猫の世話を任せてはいけないのだ。じぶんの世話も充分にできない人間に、か弱い生き物の世話が務まるわけがない。

 だが私は任せてしまった。

 たった数日子猫の面倒もろくに看られない彼女の性格に嫌気が差すし、そうやってじぶんのなかの糸手キストと、現実の糸手キストとの相違点に失望するじぶんにも腹が煮えた。

 ひとしきり部屋を探し回ったが、台所にも洗面所にも、靴置き場にも、どこにも子猫はいなかった。

「わかった。もう問い詰めたりしないからこれだけは教えて。生きてるんだよね」

 死んだわけではない、と判ればあとは子猫のそれが運命だったのだと諦めようと思った。拾わずにいれば、濡れたまま凍え死んでいただろうし、保健所に引き取られても生き永らえたとは限らない。

 薄情なじぶんに呆れる。

 ぺらり、ぺらり。

 部屋に本のページの擦れる音が、一定の間隔で反響した。糸手キストは夜になるまで、紙面から顔をあげることはなかった。

 いったいいつトイレに立っているのか。ちゃんとこの期間食べていたのだろうか。

 冷蔵庫を開けると、大量の文字の糸が突っ込まれていた。黒く丸い塊だ。いくつもある。毛玉と言えばそれらしい。以前から見られるこの部屋の台所事情だ。もはや糸手キストは、文字の糸を食べることよりも、それを引き剥がし、つむぎだすことそのものに取りつかれていた。

 夜な夜な彼女の奏でる、しゅるる、しゅるる、の音色が、私の夢のなかにもこだまする。

 私はいったいどうしてこんなけったいな女の世話を焼いているのだろう。

 文字の糸なる不可思議な現象に惹かれたからか。

 それもあるが、やはりというべきか私は、本に夢中の彼女の姿をそばで眺めていたかったのだ。

 一時であれ、子猫を飼ってみてよくよく理解した。

 私は、このさき彼女のそばにいられれば、一生ペットを飼わずにいられる。寂しさを覚えずにいられる。胸に開いた間隙を、しゅるる、しゅるる、と埋めていられる。

 一時の気の迷いや錯覚だ、と言われれば否定の余地はない。

 余地はないが、その余地を文字にしてつむげるのもまた確かだ。

 私は私の言葉を日々、編んでいる。日記をつけている。そしてそれを読み、引っ張りだせるのは、この世にたった一人しかいないのだ。それは私自身ではきっとない。

 子猫が失踪してからというもの、糸手キストはいっそう人間の生活を放棄した。寝袋のなかが彼女の唯一の居場所となり、私は彼女のために、文字の糸を、パスタやパンの形状に捏ねて、差しだす。

 さすがに申し訳なく思うのか、それとも残飯の処理を任せたいのか、彼女は文字の糸のご飯を半分くらい私に寄越す。私は私で、本物のハンバーグやらパスタやらを調理して食べるので、お腹がいっぱいでもあるし、一口、二口、齧るだけで、彼女の食べ残した文字の糸の大半は、冷蔵庫行きとなっている。

 腐るわけではないようなのがさいわいだ。かってに捨てると怒るだろうから、もちろんじっさいには彼女が感情を波打たせるようなことはないのだが、けして気分のよいことではないだろうと思い、彼女のつむぎだした文字の糸は、服飾やらタオルやらに錬成して、消費している。

 肌触りがよく、吸水力も高い。市販の品より私は好きだ。

「どうしたの、かゆいの?」

 季節柄乾燥するためか、このところ彼女がしきりに肌を掻いている姿を目撃する。指摘するとやめるので、病院に行くほどのことではないようだが、気になる。

 彼女を背もたれ代わりに読書をするのはつづいているが、ふとした瞬間に彼女が私の足や首筋を、ゆびでなぞるので、くすぐったくて中断を余儀なくされる。

「なに? 甘えたいの? やり返してもいいの? 私がやったら怒るのにちょっとそれずるくない」

 彼女は私に触れられるのを嫌がるくせに、私にはかってに触れてくる。不公平だ。

 お詫びの印なのか、彼女はことさら文字の糸を私に食べさせようとした。

「美味しいのは分かったから。もうお腹いっぱい。またあしたね」

 一月も半ばになってから実家から本が届いた。段ボール三箱分にいっぱいの本が詰まっていたが、それを彼女は、一晩で文字の糸に変えてしまった。

「ちょっとはあとを考えてよ」

 いくら腐らないとはいえ、これではトイレットペーパーで遊ぶ子猫よりも性質がわるい。彼女はわるびれもなく、私の目のまえで、最後の一冊から文字を引っぺがしていく。

 バイトに行っているあいだ、私は彼女との生活を振り返り、ふと疑問する。

 いったいつからだろう。

 彼女が、読書よりも、文字の糸をつむぎだすのを優先するようになったのは。

 かつては、読み終わった本にしかそれをしなかった。

 だがいまでは、それそのものをするための素材としてしか本を見なくなっている。

 気のせいだろうか。

 むかし読んだことのある本ばかりだから、癇癪を起こして、あんな真似をしたのだろうか。そうだとしても、あれほど大量の本を一晩で糸にしてしまうのは、何かが行き過ぎている。

 この日、私はバイトを終えても彼女のアパートには戻らなかった。久方ぶりに、じぶんの息遣いしかない夜は、それはそれで尊いものに思えた。

 それからしばらく、私は糸手キストの住処には近づかなかった。私が彼女を妙に思うのと同じように、私は私にこそ奇異な眼差しを向けるべきだった。

 あの娘が本に見せる執着に畏怖を覚えるならば、私があの娘に向ける執着にも、畏怖を覚えるべきなのだ。

 私はたぶん、おかしくなりかけていた。

 何か、大きく歪みはじめていて、それにずっと気づけずにいた。

 ブラックホールの近くでは、そのつよすぎる重力の影響で、時空すら歪むのだ。糸手キストほどの強固な個性のそばにいて、歪まずにいられる人間がいるとは思えない。

 距離を置いたほうがよい。

 じぶんのために。

 私はあの娘ともっと適切な距離で関わるべきなのだ。

 どうあっても縁を切るという選択肢を並べないじぶんを認識しながらも私は、とっくにじぶんがおかしくなっている可能性からは目を逸らしつづけている。

 冬休みが終わる。

 講義室に手下キストの姿はなかった。もはや彼女はべつの世界で生きる臍を固めているのかもしれなかった。それもいいだろう。彼女の人生だ。

 だが、せめて、こちらの道もあるのだぞ、と示すくらいは、短くのない期間彼女に関わった者として示してあげてもよい気がした。

 私は久方ぶりに、彼女のアパートを訪ねた。

 日中は日向のぽかぽかと照っていた道路が、夜は凍て返り、一気に真冬の顔を取り戻す。

 私はマフラーで首筋を覆う。黒いこのマフラーが、文字の糸を捏ねて繕いだ品だと思いだし、急に現実から異界に足を踏み入れた感覚に襲われた。

 あちらとこちら、明確に線引きができる世界に私はいたのだと、あの娘のそばにいた時間を、初めてはっきりと異質に思った。

 扉に鍵はかかっていなかった。

 私はインターホンも押さずに、いまから行くとテキストメッセージで告げることもせずに、なぜこそこそと忍び込むような真似をするのだろうとふしぎに思いながら、それでもふいに足を運ばねば見えない何かがあるように思われてならず、私は彼女の部屋の玄関をくぐり、部屋に、異界に、足を踏み入れた。

 廊下の明かりを灯す。

 だが、居間は、いくらスイッチに触れても暗いままで、廊下から漏れる光すら、部屋にびっしりと詰まった黒に塗りつぶされた。

 闇が部屋に充満している。

「キストちゃん?」

 呼びかけたが、返事はない。彼女は元からそういう人間だ。たとえこの部屋にいたところで、返事などがあるはずはないのだ。

「ねえ、いるんでしょ。ごめんね、かってに入っちゃって」

 歩を進める。

 足の裏に、ざらざらと弾力のある感触が伝わる。絨毯を踏んだような厚みのある抵抗だ。闇は、物理的なカタチを伴なっている。

 腰をかがめ、手で掬う。

 闇は、ぶちぶちと千切れながら、私の手のひらのうえに乗った。視界はなおも闇に埋もれたままだ。

 私は理解した。

 大量の文字の糸だ。

 文字の糸が、部屋を埋め尽くしている。

 でも、どうして。

 どうやったらこんなに大量の文字の糸を、あの娘が一人でつむげるだろう。段ボール三箱の本ですら、文字の糸を集めれば冷蔵庫のなかに入れられる大きさに固められた。毛玉にできた。

 尋常ではない量だ。

 私はメディ端末を取りだし、簡易照明を灯す。

 足元を照らし、部屋のなかを照らした。

 体温が、ひゅっと下がる。

 次点で、鼓動の乱れと共に熱を帯びる。

 部屋の壁に積みあがっていたはずの本の山は崩れ、部屋の至る箇所に、本の籠がつくられていた。中には何もおらず、しかし山盛りの文字の糸が、餌のカタチに錬成されて放置されている。

 一匹だけではないはずだ。

 何匹もの犬猫、種類は分からないが、小動物を、彼女はここで飼っていた。

 この短期間で?

 ではその動物たちはどこへ消えたのか。

 私は、私の拾った子猫の姿を思いだす。そして突然と姿を晦ました子猫の行方に思いを馳せた。

 唾液を呑みこむ音が耳の奥に響く。

 私はもういちど糸手キストの名を呼んだ。足の裏の感触を頼りに、寝袋を探す。定位置には、それらしい布が闇の底に沈んでいたが、そこに人間の輪郭を見つけることはできなかった。

 しゅるる、しゅるる。

 夜な夜な、一心不乱に本から文字を引き抜く女の姿が脳裏をよぎる。彼女はきっと、踏み越えてはいけない一線を越えてしまったのだ。止まることができず、渇きに渇いて、そして行ってしまったに違いない。

 戻ってはもう、こないのかもしれない。

 こられる状態に、もはやないのだ。

 私は、文字の糸の海のなかに、彼女が身に着けていた漆黒の衣服を見つけた。手に取ると、ずっしりと重たかった。水面に浮かぶ枯れ葉とは異なり、それの内側には、みっしりと闇が根を張っており、ぶちぶちと千切れる、細かな糸の感触が腕に伝わるばかりだった。

 しきりに身体を掻いていた彼女の姿を思い起こす。

 私の身体にゆびを這わせていた彼女は、いったい何を探していたのだろう。

 彼女が初めて私に、文字の糸を共有してくれた日、あの娘は、本の表面をかりかりと掻いた。

 そのゆびの動きを真似るように、私はじぶんの腕を掻く。爪がどこにも引っかからずに、なめらかに肌を滑る様子に、なぜか私は、生きている、と実感する。

 もうここにくることはないだろう。

 最後にもう一度だけ部屋を見渡し、私物もそのままに、私は踵を返す。

 玄関口で靴を履き、顔をあげたさきに、一冊の手帳が置いてあるのが目に留まった。

 靴脱ぎ場の靴に紛れて、私の置いたままにしていたブーツのなかに、それは差し込まれていた。

 手に取り、中を開く。

 目のきめ細かな文字が、規則正しく列をなしている。

 私が日々つづってきた日記だった。

 なぜこれだけここに残っているのだろう。

 私はその文字を爪でこする。

 黒い印字は寸毫も剥がれることはないが、耳の奥にはふしぎと、ぺり、ぺりり、と聴こえるはずのない音がこだましている。 




【殺戮の法則】


 全世界を震撼させた連続大量殺人事件の被疑者が逮捕された。自然の猛威が襲ったその時代、世界的に人の遠距離移動が制限されていたなかで多発した不審死が同一犯による殺人かもしれないと見抜いたのは預言師の二つ名を冠する名探偵ただ一人であった。

 私はいち早く世界の裏側でひっそりと繰り広げはじめられていた彼女らの攻防を追った。私が記者であることを抜きに、純なる名探偵の狂信者の一人としての一側面が、そうした早期からの追跡を可能としていた。

 死者に共通点はなかった。ときに頭上から落下してきたブロックに頭をかち割られ、ときに線路の上に落ち、またあるときには不倫の現場を目撃されて逆上された恋人に殺されたりした。自殺と片付けられた被害者もすくなくない。犯人と目される人物が捕まってなお、被害の規模は未だ拡大の一途を辿っており、その全貌は闇の中だ。

 被疑者は犯行を否定しているが、取り調べには協力的であるそうだ。ほかの犯罪行為のいくつかを犯しているために仮の名目での逮捕起訴が真面目に見当されている。

 釈放などさせるものかとの警察機構の矜持が見え隠れした。

 どのようにして名探偵が被疑者に目をつけたのかは依然として公になっていない。説明されて理解できるような筋道があるのかすら、彼女のこれまでの活躍を追いつづけている私にしてみたところで首を傾げてみせるのが精々だ。

「その名探偵ってのは会いにきてはくれないのかな」

「私も会ったことはないんですよ。本当に真実彼女が一人なのかも定かではなく、性別だって彼女がじぶんは女だと明言したことがかつてあっただけのことで、本当は男かもしれない、どこぞの諜報機関のコードネイムかもしれない」

「もっと言えば人工知能であってもふしぎではないわけだ」

「そうですね」

 思っていたよりもずっと滑らかに会話が成立する事実に戸惑いを覚える。

 私は面会の約束をとりつけ、世界的大事件を引き起こしたと目される人物に強化ガラス越しに会話を交わしている。

「いまのところ僕は犯人ではないのに、どうしてこうも窮屈な思いを強いられているのだろうね。いくら警察だからって市井の人民の自由を奪ってよいはずもないのに」

「いちおう、児童ポルノを所持していた疑いでの逮捕だとのことですが」

「端末を見せてほしいというから任意で見せてあげたんだ。かってに中身を漁られて、いつ観たかも分からないポルノ動画を俎上に載せられたら、この世の大部分の男はみな塀のなかですよ。ことこれだけ素人の投稿した無修正動画が氾濫している世の中で、いったいどれが未成年の動画かなんて観る側が判るわけないじゃないですか」

 未成年者が自ら配信していることすら珍しくないでしょうに、と彼、被疑者こと宗坂(そうさか)クリツはそう言った。

 痩身で背が低く、ひっつめに結われた髪は長い。紐を解けば肩まではありそうだ。まつ毛は長く、肌の艶もよい。身に着ける服装にもよるだろうが街中ですれ違えば彼の性別を見誤ることもありそうだ。本人がそれを自覚しているかは分からない。ことさら男性性を強調するような言動をとるのは、或いは己の肉体が相対的に貧弱な側面を自覚しているがゆえかもしれなかった。

「で、そろそろ本題に入りたいんだけどいいかな。えっと、紗津井(しゃつい)さん、だっけ?」

「はい。紗津井セキと申します。セキでも、シャツイでも、お好きなほうでお呼びください」

「で、本当なの。セキちゃんの質問に答えたら名探偵さまさまの情報を教えてくれるってのはさ」

「本当です」

 私のほうが六つは年上なのだが、敬称のつけ方でいちいち機嫌を損ねたりはしない。安い挑発には乗らないのが主導権を握るコツだ。相手に、じぶんが主導権を握っていると錯覚させるのも常套手段だ。優越感に浸っている者には隙ができやすい。それを死角と言い換えてもよい。

「お約束しますし、ご心配なら契約書を御用意もしていますが、どうされますか」

「面倒だからそういうのはいいや。セキちゃんを信じるよ」

 だから暗にじぶんのことも信じてよ、と言いたげな微笑が不愉快だ。いったいじぶんがなぜそこにいるのかをすっかり忘れているのではないか。全世界で数万人をゲーム感覚で殺した犯人だと疑われているのだ。

 そしておそらく、と私は直観する。

 コイツが真実に殺戮を実行した犯人だ。誰にも気取られずに多数の命を、人の生を、弄んだ。

 予言師こと名探偵がいなければそれはいまでもつづいていただろう。そう、この男、宋坂クリツが被疑者として逮捕されてから例の連続不審死はぴたりと止まった。

「じゃあまずは何から訊きたい? ここは裁判所ではないし、弁護士もここにはいないから黙秘権はできる限り行使しないように約束するよ。知っていることは洗いざらい話してあげる」

「ではまず、いかにして宋坂さんが人を殺めたか。その手法からお聞きしてもよろしいですか」

「僕の生い立ちには興味ないんだね。哀しいなぁ」

 軽薄に言って、彼は椅子にふんぞり返る。右上の虚空を眺めながら彼は、

「成長ってのは確率を操作できるようになることなんだよ」

 まったくお門違いな言葉をつむぐ。「僕はもともとジャグラーでね。あ、ジャグラーってほら、道化師みたいなさ、ピエロが瓶とかボールとかポンポン宙に投げまわすでしょ。あれと似たのを趣味でやってて。百回のうち一回しかできなかったことを、練習を重ねることで、百回のうち十回、二十回、と成功する確率をあげていく。やがては百発百中にもなる。それが成長の意味だと僕は考えていてね。まあ、好きだったんだろうね。成長するのが」

 つまりが、確率を操作することに彼は熱中していた。

「それで」私はさきを促す。でき得る限り彼の述懐を妨げぬように、最低限の相槌だけを打つ。

「あるとき、確率の仕切りのようなものを突破していることに気づいたんだ。百発百中のなかで、百パーセントのさらにそのそとに確率を広げられることに気づいた。むつかしく言っているけれど、要は、確率を測る場そのものを拡張することができた。ただボールを投げていただけが、そのうちにボールの個数を増やし、ボールがナイフになり、やがてはどんな物体でも手玉にとれるようになる」

「成長から上達に変化した、ということでしょうか」

「そう。まさに」彼は前のめりになる。私を理解者の一人として認めてくれつつあるのだとその態度から推し量る。彼は心を開きつつある。そのように私が仕向けているのだから当然だ。

「お手玉に飽きたらつぎは石積みにハマってね。石からコイン、それから街中にあるポールや椅子や、捨てられているゴミ、なかでも空き缶や空き瓶なんかを積み木さながらに積み重ねて放置した。いまでもネットを漁れば僕の作品の数々が観られるよ。誰がそれを作ったのかって、一時期はそこそこ話題になった」

 私はその話題を知っていたが、あとで調べてみますね、と言ってメモをとってみせる。無知を装っていたほうがかってに相手がしゃべってくれる。立場が上であることをそこはかとなく示してあげる。

「積み木もあれでなかなかどうして確率のお遊びでね。物質の重力変移を予測して、重心を探るだけじゃなく、周囲の空気のうねりや、風の有無、環境の変化を加味して、それらを統合したバランスを考えて積んでいかなきゃならない。結構これがおもしろくてね。自在に積めるようになってから、僕は気づいた。視界がまったくこれまでと一変してしまっていたんだ。驚いたよ。たぶん観察眼の一種のようなものだったんだろうな。天気予報を見ずとも天候を予測できたし、人混みを歩いても誰がどう動くのかを予測できた。財布や端末を抜き取るのなんてお遊びにもならなかった。簡単すぎる。段々僕は世界に飽きてしまってね。で、もっと面白いことがないかと考えていたら」

「閃いたわけですね」

「そう。本当は何か社会にとって好ましい作品をつくってもよかったんだけど、それはだってもう結構ほかのひとが黙っていてもやってくれるじゃない? だったら僕は僕にしかできないことを、ほかのひとたちがしない方面でこの能力を発揮してみようかなって」

「人を殺すことはでは、宋坂さんにとっては極上のお遊びだったんですね」

「人を殺すことをというよりも、他人の行動を操ることを、かな。個々人の人生に宿る確率を操作できるようになってみたかった。物理に限らないけれど、自然現象ってやつは案外に予測するのが簡単だ。法則に従って起きている事象だからね。それはいまではかなりの精度で現象の結果を予測できる。量子の世界にまでちいさくなってしまうと、不確定性原理のように、何かを観測するまではその位置すら定まっていないといった確率の揺らぎが生じてしまうようだけれど、それだって突き詰めて考えれば、確率の問題だ。どこにどれだけ顕現しやすいのかは、確率の多寡で判断できる。ただ、人間の場合は」

「その確率が変動しやすいということでしょうか。ゆえに予測がしにくいと?」

「そう。生き物は物理法則の、とくにエントロピー増大の法則に反して見える。じっさいには従っているけれど、エネルギィを率先して吸収しやすい環境に身を置こうとする。その結果に、確率の変動が頻繁に起きてしまうんだけど、なんだ、思ったより話のできるひとだったんだねセキさんって」

 ちゃん付けでなくなったことで、彼が私に対して敬意を持ちはじめたことを察する。よい兆候だが気は抜けない。ここで賢さをアピールすれば、これまで積み上げてきたすべてが台無しとなり、却って彼との心理的距離が遠のく。

「宋坂さんのお話が分かりやすかっただけです。聞いていてとてもおもしろいです。ですが、そこからどのようにして宋坂さんは世界的に同時に大量の人を殺害できるようになったのかは、まだまだ予想もつきません。そこのところをお聞かせ願えるとたいへんにうれしいのですが」

「いいよ。セキさんが信じてくれるかは知らないけど、僕のなかの現実(リアル)を教えてあげる」

 それが真実であるかは定かではないけれど、と私は心の中でつけ足すが、表情にはおくびにもださない。

「僕はまず、社会的に成功しているひとたちに目をつけた。彼ら彼女らには、僕に似た視点が備わっている。成功するために確率を見定めて、高い確率で目的が達成されるような環境を築こうとする。そこに身を置こうとする。これは裏から言えば、彼らが極めて確率に支配され、その法則に忠実に生きていることの傍証ともいえた」

「人間のなかでもより自然現象にちかい存在という意味でしょうか」

「そうとも言えるし、そうではないとも言える。彼らは自然現象につきものの、崩壊ではなく、生き物に共通した創造を求めて動く。けれど自然現象と反していながら、自然現象のように確率の多寡を判断基準にして行動の幅をある一方向に収斂させていく。本来は安定という名の崩壊に向かって移ろうこの宇宙のなかで、彼らは混沌という名の秩序を築こうとする。仕組みを築き、回路を有する構造体を生みだし、関係し、循環し、総体として機能する何かしらを生みだそうとする。そういう存在は、ほかの雑多な生き物に比べて予測がしやすい。何を求めそのために何を欲し、その結果どうするのかが、手に取るように僕には解かった。もちろんそれは僕にとってという意味でしかないけれど」

 傲慢だ、と思うが、いまさらの所感だ。他人の人生を狂わせ、奪おうとする者が傲慢でないはずがない。

 私は敢えて魯鈍な理解者を演じる。

「私の意見で恐縮なのですが、それは宋坂さんもまたそうした道を歩いているある種の法則に忠実な存在だ、ということでしょうか」

 的外れな所感に苛立ったのか、彼は声に険を滲ませる。

「道があればその道を見ればいい、これはそういう単純な話だよ」

「俯瞰の視点で世界を見られる、宋坂さんには特殊な技能が開花しているみたいです」

「僕は目をつけた彼ら彼女らの現れそうな場所へとさきに辿り着いて、彼ら彼女らのほうから接触してくるように仕向けてみた。驚くほど僕の思った通りになったよ。まるでクヌギの木に蜜を塗っておけばカブトムシやクワガタムシが寄ってくるみたいに単純だった。そこからさきは操縦桿を握ったパイロットみたいなものでね。巨大な飛行船に乗りこんだらあとは行きたい場所に舵をとればいい。縁を結んだ彼ら彼女らの影響力を用いて僕は世界中から情報を集めた。個々人の私生活を覗きこむような真似なんかしなくていい。個々人のほうからそうした情報を、肌身離さず持ち歩く端末を用いて提供してくれる。こんなのはいまじゃ子どもだって知っている世界の真実だが、誰もそれを奇異に思わない。危機と見做さない。すぐそこに忍び寄る影があまりに大きく、安らかな眠りをもたらす夜そのものだと勘違いしてくれている。僕はそんな無垢で愚かな個の群れに、一時の娯楽を提供してあげたにすぎない。死がすぐそばにあり、ほんの運命の気まぐれによっていともたやすく取りあげられる世界にじぶんたちがいるのだと思いださせてあげたにすぎない。生きることの素晴らしさを気づかせ、じぶんたちがいかに恵まれた環境に、時代に、社会に生まれ落ちたのか、守られているのか、を意識させたにすぎないんだ」

「それが大量に人を殺した動機ですか」

「動機は娯楽だよ。暇つぶし。ただしてみたかったから、そうしただけで、僕にできてしまったからしてみただけだ。いまの話は、客観的な事実だよ。僕のしたことの社会的意義を改めて定義してみただけ。最初にも言っただろ。僕はほかの偉人たちみたいに社会貢献をしたかった。でもそんなのはあまりにふつうすぎる。おもしろくない。だから僕にしかできない方法で、僕は社会の役にたってみせたってわけ」

「その結果が無差別の殺戮ですか」言葉に刺が交ったのを自覚し、ほほ笑むことで誤魔化す。

「無差別? ああ共通項がないってことになっているのか。あるよ。あるに決まってる。僕が何の考えもなしに人を殺したりするものか。なんだ、そっか。セキちゃんも僕をそんじょそこらの人殺しと同じに見做しているんだね」

 がっかりだよ、がっかり。

 肩を大げさに落とす彼は、道化を演じる無邪気な子どもに見える。こんなふざけた人間一人のために大勢が死んだ。私には事実を明らかにする義務がある。使命がある。私はいよいよすべきことをしようと固く心を閉ざして、彼に阿諛追従する。

「すみません、私が愚かなばっかりに。ですが一介の人間風情が神の行動原理をイチからジュウまで見抜くなんて真似はできるものではないのではと大勢の愚かな民の一人としてそう思います。ご寛恕願えるとうれしいのですが」

 暗に、神ならこれくらい許せるだろ、と発破をかけた。通じたかは半々だ。

「まあそうだよね。ちょっとセキさんは話が通じるひとに思えたから、期待しちゃったんだ。でも僕のほうですこし予測に齟齬があったみたいだ。だいじょうぶ、セキさんへの評価は修正したからもう僕はあなたに失望したりはしないよ」

 かろうじてまださん付けをされている。が、彼はもうこちらをじぶんたち側の人間だとは見做さないだろう。それが私にとって好ましい事態なのかはいまのところ判断のしようがない。手駒としての利用価値がないと思われたならすこしばかり気が休まる思いだが、それゆえにいつ死んでもらってもいいと思われたなら、冷や汗を禁じえない。

 あまり時間をかけている場合ではなさそうだ。信頼関係を結んでからと思ったが、そもそういう関係に価値を見出すような人格を彼に期待するほうが間違っていた。

 私は方針を変えた。

 最初の被害者と目される男性をどうやって殺したのか。私は単刀直入に彼に訊いた。

「ソイツは仕事にばかりかまけて、子どもの世話をせずに、外に女をつくって、それでいて親戚一同には仕事熱心な家族思いの父親を気取っていた。行動様式も野鳥の習性のように単純で、どこに何を置けば躓いてくれるのかを予測するのは造作もなかったよ。躓くというのは言葉の綾ではないからね。真実彼には、ブロックに躓いて高所から落ちて死んでもらった。躓くように仕向けるために、三百ほどの細工を施したけれど、これは確率の揺らぎを収束させるためのもので、まあボーリングにおけるレーンみたいなものだ。両側の溝に落ちないように緩衝材を敷いたりするだろう、あれをしないとさすがの僕でも確率を測ることができない。操作できないのさ」

 ひるがえって言えば、舞台さえ整えれば彼には人間の行動を操り、事故死するように仕向けることができるということか。にわかには信じられないが、ではほかにどんな可能性があるのかと問われても答えられない。

「ふしぎに思わないかな。どうしてみなはあれほど自動車の行きかう外を歩いて事故に遭わないのか。どうして事故に遭ってしまう者がいるのか。交通ルールに従えば、事故に遭う確率を減らすことができる。みなが交通ルールを守っていればより安全にそとを出歩ける。ただそれだけのことだろう。誰もがルールを守らなければ、そこら中で事故が多発して、自動車に乗ろうとする人間は減るだろうね。似たようなものだよ、僕のしていることは。暗黙の内に従っているルールにちょっとした例外をつくってやる。そこに対象人物を落としてやればいい。それをするだけの情報網と道具を僕はすでに手に入れていたんだからね、あとは実行するかしないかの判断があるのみだ」

「ではほかの被害者の方々もそのようにして殺したのですね」

「んー、一ついいかな。きみたちは僕のしたことを殺人だと言っているけれど、これって起訴できるの? だって僕のしたことはジャグリングと同じだよ。ボールを投げたり、積みあげたりしただけだ。僕の蹴飛ばした小石に数年後偶然躓いて死んでしまった人がいるとして、たしかに僕がそのきっかけをつくったとはいえ、それを罰することがこの国の司法にできるのかな。世界のほかのどんな国にだって、偶然を用いて人を殺した者を裁く法はないんじゃないのかい。業務上過失致死と言うなら別だけどね。僕のは本当にただ、偶然そうなるように確率を操作しただけだ。殺意はあったよ。でもそんなのは呪いのようなものだ。呪いが偶然大量に成就したからって、占いが当たったからって、その責任の矛先を僕に定めることが可能なの?」

「だからこうして捕まってみせたと?」

 なぜ彼があっさり捕まったのかを遅まきながら考え至った。そもそも検察だって、彼を殺人罪で起訴しようとはしていない。逃がさぬようにほかの罪をでっちあげているのが現状ではなかったか。

「気づいた? そうなんだよね。彼らは僕を裁けない。だって彼らには、僕に見えているこの世界を見るための目がない。能力がない。魔法を使えないんだから。そんなものがあることすら証明しようがない」

 なぜなら再現できないからだ。

 特殊な能力を駆使して行われた犯罪を、どの国であっても裁くことはできない。魔女狩りをするような国ならば別だろうが、その能力が真実この世に存在すると科学的に証明できないかぎりは、再現できない限りは――。

 ――誰も彼を止められない。

「無理だよ。誰にも僕の真似はできない。僕はいまだってここから出ようとすればいますぐにでもでていける。そうしないのは僕の意思だ。僕がここに留まっていたいと欲しているだけだ」

「その言葉が真実だとすれば、まるで私がいまこうしてここにいることすら宋坂さんの意思によるもののように思えてきますね」私は動揺していた。そんなはずはないと知っていながら、それを否定するだけの論理をじぶんに示せない。私はなぜ彼にこうして会いにきた。話を聞きにきた。彼が彼であること以上に、そこに動機は見当たらなかった。

「最初に約束したよね」彼はもう軽薄な笑みも、安い挑発もしなかった。「僕が僕の胸中を明かしたら、質問にしょうじきに答えたら、セキさんは僕に例のあのひとの情報を教えてくれる。予言師と呼ばれる名探偵の情報を」

 ねえ紗津井セキさん。

 彼は私の名を繰り返し呼ぶ。

「僕ほどの人間があらゆる手を尽くしてもどうしても辿り着けない人物のことを、どうしてあなたは知っているのだろう。どうやってその情報を仕入れましたか。どうやってそのひとが僕の犯行をつきとめ、僕を名指しで糾弾し、各国の調査機関に情報を提供したことを知り得たのですか。あなたはただのジャーナリストだ。それもふだんは芸能人のスキャンダルを追うような、けして調査機関に属するような特別な人間ではない。そのはずのあなたがなぜ僕ですら探れない人物の情報を握っているのですか」

 知っていることはすべて教えていただきますよ、と彼、宋坂クリツは組んでいた手を解き、ゆったりと背もたれに寄りかかる。

 目だけで見下ろされ、私は唾液を呑むのを我慢できなかった。ごくり、と静かな部屋に音が響く。

「このためだけにわざと?」私は訊かずにおれなかった。「わざと捕まったと? 私に会うために? 彼女の、予言師の、名探偵の手掛かりを知るためだけに、わざとこうして?」

「だとしてもそれを確かめる術をあなた方は持たないんじゃないですか」

 もはや当初の面影はない。目のまえにいるのは先刻までの犯罪自慢をする人格破綻者などではなかった。

 否、破綻はしているのだろう。常軌を逸している。逸脱している。人の理をこの人物は踏み越えてしまったのだ。

「私が知っていることはそう多くはありません」しゃべるしかなかった。端から聞かせるつもりではあった。そのつもりだったが、いまはもうこれを明かすことの危険性をひしひしと感じる。押しつぶされそうだ。

 私はいま、私の憧れにして、信仰の対象を、悪魔のような人物に明け渡そうとしている。心臓を掴ませる契機を与えようとしてしまっている。

 予言師、名探偵、この世の悪を暴くことのみに全身全霊のそのひとはそれでもなお、窮地を脱し、この人物の横暴を止めてくれるだろうか。そうあってほしい、そうあるはずだと信じたいが、そう妄信するだけの余力をいま目のまえにいる人物はものの見事に、完膚なきまでに私から剥奪した。

 教えるべきではない。

 私の理性はそのように判断するが、私の本能が、約束を破るな、裏切るな、と全力で警告を発している。

 いまここで最初に交わした約束を反故にし、信仰の対象を優先して庇護しようとすれば、私は目のまえのこの人物によってほかの大多数の被害者たちと同様に、不慮の事故に遭い、ときに突然の自殺に走っていまある環境を失うのだろう。

 死ぬのだろう。

 それを殺人だとすら見做されずに。

 数多の死と同列に語られ、墓の下に埋葬される。

 予言師、名探偵、素性の知れない彼女の存在のみが唯一、闇に埋もれた真相を、法ですら裁けない罪の重さを白日の下に曝けだす。

 暴く、と私は彼女の推理をそう呼んでいる。

 予言などではあり得ない。彼女のそれは、予測でも、予言でも、ましてや確率の操作なんてけったいな代物でもない。純然たる事実の積み重ね、検証の積み重ねによって得られるそれしかあり得ないという逃げ場のない監獄だ。

 彼女は不確定な現実のなかに揺るぎがたい真実を掘りだし、暴き、削りだされた監獄へと、そこに納まるべき人物を突き落とす。

 突き落とされ、閉じ込められた人物は、これまで目を背け、ときに欺いていた真実を直視することとなる。それによって何がもたらされるのかは、当人にしか分からない。否、当人にすら解らないかもしれない。

 だがそこに生じる変化、そのことによってのみ生じる波紋のようなものをこそ彼女が望んでいるのは、これまでの彼女の解決してきた数々の事件を追ってきた私だからこそ断言できる彼女のゆいいつの性質だ。

 彼女はそういう人格だ。彼女の行動原理とはかくも単純で、ゆえに御しがたい。

 揺るぎがたいがゆえに、確率の操作すら及ぼせない魔の領域と化している。

 私は、私の知り得た彼女の情報を、名探偵の側面像を、過去の事例と統計データを列挙しながら、宋坂クリツに惜しみなく提示した。

「つまりが、何も解っていないってことですね」予想はしていたのか、宋坂クリツは表情を変えない。端正な眉をゆびで撫でつけ、彼女はどうやって推理の提供を、と質問する。

「特定の捜査官が仲介役になっているようで。というよりも、彼女とやりとり可能がゆえに捜査官として抜擢されたというべきかもしれません」

「その人物については? いや、いい。それは僕のほうで調べよう。相手が予言師でなければ見つけるのは容易い」

「これは私の憶測ですが、見つけた時点でおそらく仲介役は換わるものかと」

「僕の行動が監視されていると?」

 まさか、と言いたげに口元をほころばしたあとで、じぶんが相手にしようとしている人物がどんな相手なのかを思いだしたようだ。「仮想僕といったところか」

 彼はつぶやく。じぶん自身がもしじぶんを標的にしたとしたら。目まぐるしく入り乱れる確率の揺らぎに、彼の頭脳が熱を持ったのが、比喩でも誇張でもなく、強化ガラス越しに伝わった。

 頭脳だけが優れているのではない。熱を帯びてなお崩壊しない細胞の進化を思わずにはいられない。突然変異、と私は思うが、単なる錯覚であってもふしぎではない。目のまえの尋常ならざる人物をじぶんと同じ人類と見做すよりも、新たな進化を経た別種の人類と見做したほうが脳の負担が少なくて済む。

 そろそろ時間です、とアナウンスが流れる。面会時間の終焉が近づく。

「セキさんは直接会おうと本気で探したことはあるんですか、彼女に」彼の最後の質問に、私は、いいえ、と首を振る。じぶんの髪の毛が口に入り、息を吐いて払ってから、「推理の邪魔をしたくはないので」と本懐を明かす。

「ならもし僕が彼女を見つけだしても、セキさんには知らせずにおきますね。ああでも、死んだらニュースで流れるかな」

 顔色の変化を丹念に観察されているようで、全身を舐め回されるのに似た嫌悪感が湧く。

 私は私の仕事を放棄し、そのやっすい挑発に乗った。席を立つ。

「残念ですが、あなたはここから出られませんし、ふつうに法律で裁かれて、罰を受けますよ。だって彼女にかかればあなたの思考なんてスケスケの丸見えで、辿った筋道をえんぴつでなぞって百均のノートに書き写すことだってわけないですからね。確率の操作? へぇ、ずいぶんおもしろい趣味をお持ちですね、きっと彼女なら海外ドラマを十本同時に流し観しながらその片手間にでも習得してくれますよ。再現なんか簡単ですよ、あなたはここから出られない、もちろん彼女にも辿り着けないし、きっと彼女はもうあなたのことなんか忘れてほかのもっと知的な事件を解決すべく貴重な頭脳を働かせているころですね。おもしろい話をありがとうございました。死刑が決まったらカップラーメンの差し入れでも持って会いにきますね。どうかそれまでお元気で」

 言った。

 言ってやった。

 ぜぃぜぃ、と荒ぶった呼吸を整えて鞄を手に持ち、私はくるりと背を向ける。

 扉を開けて、思いのほか響くじぶんの足音をじぶんのものではないように感じながら、その部屋をあとにした。

 私は事務所に戻って、この日の会話をさっそく記事にした。どこの新聞社に持って行って載せてもらおうかと吟味する。出版社にいって本にしてもらってもよい。

 一通り企画を調整し、メモを清書しながら、並行して録音しておいた宋坂クリツとの会話を文字興しする。

 何気なくニュースサイトを覗くと、途切れていた連続殺人事件とみられる被害者がふたたび発見されたと速報が流れていた。

 嫌な予感がして知人に連絡をとる。警察組織の動向に詳しい同業者だ。

「何か動きあったら教えて。宋坂クリツ関係で」

「耳聡いな。どっから聞いた?」

「何、なんかあったの」

「裏を取ってる段階だからまだハッキリと判らないが」

 これはつまり、まだ公にするな、の意だ。

「宋坂クリツは脱走したそうだ。行方を晦まし、いま県警含め、自衛隊の出動まで要請された節がある。こりゃ大ごとになるな」

 礼を述べ、見返りのつもりでデータを送信する。さっそく中身を確認したようで、そいつは語気を荒らげた。

「会ってきたのか。でもどうやって」

「向こうから会いたいって面会を許可してくれた」

「脱走に一枚噛んでないだろうな」

「私はただ話をしただけだけど」

「そのとき脱走を匂わすようなことは言っていたか。どこに消えたとか勘でもいい、何か分かるか」

「まったく」

 予言師、名探偵、彼女へのなみなみならぬ執着をみせていたことは黙っておく。

 これからどうなるかの感想合戦を数分して通話を終える。

 疲れた身体をソファに横たえ、私は目をつむる。事務所のセキュリティは万全だろうかと想像し、強盗が入っただけでもこの命は危ういな、と警備の手薄さに笑みが漏れる。

 いまこの瞬間に私の周囲の環境が操作されて、私の死ぬ確率が急上昇していたとしてもそれを私に確かめる術はなく、見抜くこともおそらくできないだろう。なるべく予想外な行動をとってみて、規則性のある行動様式に変数を投入してみてもよいが、それはそれでなんらかの操作の結果のようにも思え、仏様のたなごころの上で転がされる孫悟空の気分を味わう。

「どうしたらよいだろうね。あとは任せてもいいのかな」

 まどろみに沈む間際、あべこべに奥底から浮上してくる彼女の気配を私は感じる。私に蓄積された記憶を一瞬で掠め取って、彼女は私の肉体の壇上にのぼる。

 私は彼女のことを何も知らない。知りようがないのだ。私は彼女と会うことができないのだから。

 いつだって情報を提供し、記憶を覗かれ、寝ているあいだに肉体の主導権を握られる。

 いいや、昼間のあいだだけ握らせてもらっているにすぎないのだ。優越感、上の立場、崇め、強請られ、脅かされる側の者の役目を私は担わされている。虚栄をまとった女の仮面を、彼女は私を通し、被っている。

 予言師、名探偵、正体を明かさぬ存在しない存在。

 窓から差しこむ月明かりのなかに、目覚める女の影がある。




【異能特殊追跡班】


 表現型可塑性とは、その個に固有の変質のことである。環境の変容に際して個々の生物がそれ単体で完結して獲得する変異、それはたとえば日焼けであり、或いは格闘家における拳の硬化、アスリートに見られる筋肉の膨張および関節駆動の繊細な制御域の向上など、こと人間に焦点を当てたとしてもその内訳は多岐に亘(わた)る。

 しかしそれら後天的に獲得される肉体の変異におかれては遺伝子情報に上書きされることはなく、子には踏襲されない。一世代のみで完結して発現するそれら変異は、通常ほかの生物群にも広くみられる生命に基本内蔵された仕組みとも言える。

 なかでも近年、異能者と呼ばれる突出した変異を肉体に発現させる個体が多数観測されている。カメレオンのごとく身体の色を背景に合わせて変色させる者、ひと踏ん張りでビルを跳び越える者、鋼鉄とみまがう頑丈さを筋繊維に宿す者、などなど挙げ連ねればキリがない。

 かつて超能力として扱われたそれら特殊表現型可塑性発現者を総括して一般に異能者と呼ばれるようになってから十余年。

 現代は異能者を渦の中心とするように、これまでとは異なる方向に舵をとり、新たな社会構造を構築しつつある。

 異能特殊追跡班は、そうした社会変容における新たな仕組みの一つと言えるだろう。

 ここに一人の異能特殊追跡調査官がいる。名を弐葉麻(にようま)タタビという。齢若干十六にして特殊捜査官として抜擢された彼女もまた異能者だ。異能者支援制度を用いて未成年ながらも公的な捜査権限を有する。

 その才覚は、柔にして剛を地で描く。

 柔よく剛を制すではない。柔を装い、剛を極めんとする野心溢れたよく言えば普遍的な若者の一人である。わるくいえば傲慢ともいえるが、実力の伴なった者の驕りとはすなわち、剛そのものと言えよう。

 大晦日の夕刻、弐葉麻タタビは調査室にて頭を抱えていた。

 別の部署に異動した佐竹捜査官の案件を引き継いだはよいが、これがことのほか根の深い事案であることを見抜き、なにゆえ彼はこれを調査保留にしていたのか、と憤りと共に、資料に目を通し直していた。

「あれ、タタビさんまだ残ってたんですか。大晦日くらい休めばいいのに」

「なんだ、ハキさんか。ハキさんこそきょうは有給とってたはずじゃないんですか」

「だからこうして好きな仕事をしてるでしょ。ふだん手がだせないような個人的興味による調査を」

「職権濫用」

「適切に利用する職権はもはや使命と言えるのだよ。で、タタビさんは何をそんな目をこんなにしてたの」ハキは目元をゆびで釣りあげる。

「いえね。仮面連続強盗事件ってあったじゃないですか」

「ああ、あったっけねそんなのも」

「佐竹さんから引き継いだはいいんですけどこれ、よくよく資料に目を通したらふつうに異能案件っぽいんですよね」

「ありゃ。佐竹君じゃあ見逃しちゃったわけ?」

 そんなんだから異動なんてされるのだ、と思うが、聞くところによれば佐竹は依願異動であるという。率先してほかの部署に異動したというわけだが、佐竹の異動先は、密偵を行うような謎多き、斟酌せずに言えば胡散臭い部署であった。飛ばされた、と考えるほうがタタビには妥当に思えた。

「まあ、一見すると異能っぽくないんで相当過去の事例をあたったことのある人じゃなきゃ類似の事案は探し当てられないと思うのでしょうがないと言えばしょうがないのかもしれないんですけど」とってつけたように異動した先輩をフォローしておくのも処世術の一つだ。

「はやく上も事案のデータベースに人工知能搭載してほしいよね」ハキがぼやく。

「安全面がどうのこう言ってますけど要は予算がないんですよ予算が」

「で、タタビさんは何に引っかかったの。お姉さんにちょっと教えてみなさいよ」

 デスクに乗りあげ、ハキが手元の端末を覗きこんでくる。太ももが引き締まっており、これで蹴られたらひとたまりもないな、と格闘家顔負けの肉体美を誇る彼女をうらやましく思う。タタビは資料をデスクに展開し、立体映像として投影する。

「事案の概要としては、当時頻発した強盗事件の犯人がみな同類の仮面をつけていたことで一連の事件を連続性のある事案と判断されたことでうちにもその調査申請があがってきたみたいなんですね」

「たしか仮面って木彫りとかそういうのじゃなかったけ」

「これですね」仮面の画像を宙に浮かべる。「監視カメラの映像を見分したところほぼ同一の仮面を犯人たちはつけていたようです。このことは資料にも載っています」

「でも犯人はみな別人なんだよね。模倣犯の犯行ってことでうちでの調査は保留という名の却下の判断を佐竹君は下したと」

「監視映像からすればたしかに仮面をつけた人たちに共通項は見当たらず、年齢も性別も体格もてんでバラバラに見えます。これを異能者の犯行と判断するのは無理があるのは分かるんですけど」

「タタビさんは何を見つけたの?」

「むかしの事案でちょっと似ているなと思ったのがあって。それでいま改めてその過去の事案と見比べてみたら」

「どれどれ」

「これです」

 タタビは別の事案の資料を展開する。

「寄生型異能の発現観測って、これ」

「滅多にないんでほとんどツチノコ扱いですけど、ないわけじゃないんですよね。蜂の一種で、蛾や蝶の幼虫に毒針を刺して、生きたままじぶんの幼虫の餌にする蜂がいるのを御存じですか」

「聞いたことはあるよね」

「似たようなもので、自身の細胞を脱皮のように剥いで、それを任意の個人に貼りつけることで根を巡らせ、神経系を乗っ取り、自身の制御下におくような異能が過去にじっさいに報告されていて」

「ものすごく大雑把に言えば、簡単に他人を洗脳できるってこと?」

「そうです」

「じゃあこの仮面もそれだってこと?」

「かもしれないという可能性でしかないんですけど、どうにもこの事案、強盗事件だけを調べてもどれも類似性というか、何かしらの作為のようなものを感じられてならなくて」

「それは調査官としての勘?」

「ですね」

「強盗事件では何が盗まれたの?」

「ほとんどは通り魔のようなものなんですけど被害者はみな一定以上の裕福層で、大手企業の部長以上の職制にあった者です」

「ルサンチマン的な犯行ってこと? 強盗に見せかけて世直しをしてやろうって輩がいたってことかな」

「そこまではまだなんとも。ただ、仮にこれが同一犯による他者を遠隔操作した犯行だとすれば、これで終わりだとは思えないんですよね」

 ハキが無言で席を離れたので、タタビは彼女を目で追った。珈琲を淹れて戻ってくると彼女は、はい、と手渡してくる。受け取り、礼を述べる。

「ひょっとしたら仮面はカモフラージュだったのかもね」ハキの言葉に、タタビは頷く。「洗脳するためには対象の肉体内部に根を張り、神経系を侵す必要があります。そのためには頭部へと根床となる細胞を貼りつけるのが最も効果が高いかと」

「それを隠すための仮面だったと」

「まだ憶測にすぎないんですけどね。ただ可能性としてこれを否定しないうちには、保留判断は早計だなと悩んでいたところでして」

「リュウグウさんには相談してみた?」

「ええぇ」あからさまに嫌そうな声をだしてしまい、タタビは咳ばらいをして誤魔化す。「いまのは咽ただけですので。珈琲の湯気で」

「いいよいいよ、そういうことにしておこう。でもこういうのはやっぱり専門家に相談したほうが話は早いし、再捜査の申請をするにしても、リュウグウさんからの太鼓判があるなら上もすんなり通すと思うよ」

「でもあのひと、何かと上から目線で、喧嘩を売ってるとしか思えない物言いしかしないじゃないですか」

「そういうつもりで言ってないところが腹立つよね」

「ですです」

「わたしはそうは思わないけどね」

 タタビは目をしばたかせる。「ずっるぅ。ハキさんいまのはちょっとずるいですよ。調査でもないのにカマかけるのは人としてどうかと思います」

「調査官の職業病第一位なので」

「ちなみに第二位は何ですか」

「大晦日でも働いちゃうくらいの仕事中毒」

「そっちを第一位にしといてください」

「いやあでも、本当相談するなら早いほうがいいよ。なんだかんだ言ってこの部署ってあのひといるから成り立ってるようなもんだしね。部長なんてお飾りよ。リュウグウさんがもし去ったらあすにもここは解体されちゃうだろうね」

「じゃあ誰が異能案件の調査するってんですか」

「特捜がこっち方面の手柄寄越せってうるさいから、まあ引く手数多ってわけじゃないにしろ調査組織そのものはなくならないし、どこでもできるんじゃないかな」

「名前なんかどうでもいいのに」

「そういう甘いこと言ってられるのがタタビさんの可愛いところだよね。年相応って言うか、そういうの聞くと安心しちゃう」

「はあ」

「あ、ごめん。子ども扱いしちゃったね。わたしより仕事ができるエースのことは尊敬いたしておりますともええ」

「とってつけたように褒めていただかなくとも結構です。じゃあまあ、ハキさんがそこまで言うならちょっと相談に行ってきます」

「リュウグウさんならいまの時間は地下の書庫にいるはずだよ。第四資料室ね。扉開けて珈琲の匂いがしたらまずいるから探してみて」

 じゃがんばってね。

 常備しているチョコレートを丸々一枚寄越してハキは去った。彼女もまた異能者だ。その異能の特性上、消費した分のカロリーを摂取しつづけなけらばならない枷を背負っているが、食べるのが趣味でもあるようなので、彼女にとっては枷でもなんでもないのだろう。

「さてと」タタビはチョコレートを齧り、これから受けるだろうストレスへの耐性もとより、態勢を整える。「いっちょやったるか」

 大晦日である。

 一年の総決算の日としては申し分ない。この一年、リュウグウなる不遜な先達から受けてきた屈辱は数えだしたら暇がなく、除夜の鐘では浄化しきれぬほどの禍根をタタビのなかで煮えたぎらせている。

 佐竹はリュウグウと接点を保ちつづけた数少ない調査官のうちの一人だった。二人が肩を並べ話していた姿を過去幾度となく目撃している。楽しそうに、とは口が裂けても言えない雰囲気ではあったが、リュウグウと対等に言葉を交わすことのできた同僚は彼だけだったのではないか。

 そんなリュウグウにとって特別な佐竹の見逃した異能案件をこうして目のまえに突きつけてやったらあの傲慢な鉄仮面はどんな表情を覗かせるだろう。

 リュウグウはタタビと同じく異能支援制度によって調査官になった女だ。当時彼女は十二歳だった。タタビよりも四歳も早く頭角を現した。天才の部類と言ってよい。現在の年齢はタタビよりも十ほど上だが、いまなおその頭角は成長をつづけている。最年少調査官の名が掠れるほどにその類稀なる頭脳と異能、なにより手柄の数々は、彼女の手腕の特異性を証明しつづけている。

 タタビはまるで目のまえに立ちはだかり、じぶんの道を邪魔をするような彼女のことが疎ましくて仕方がない。むろんリュウグウにその気はないのだろう。歯牙にもかけられていない事実がまた一段とタタビの矜持を傷つける。

 地下、第四資料室にリュウグウはいた。じぶんで持ち込んだのだろう、古い木造りの机と椅子に納まり、本を読んでいた。資料ではない。小説のようだ。

 こんなところで仕事もせずに。

 タタビは憤るが、そもそもきょうは仕事をするなと上長から言われていたくらいだから、人が休暇になにをしようとかってなように、きょうこのときその姿を目撃したところで咎めるのはお門違いなのだろう。だがハキの言動や、リュウグウのくつろいだ雰囲気から察するにふだんからこの時間帯はここで読書に耽っていたのだろう、と推量するのに苦労はない。

「リュウグウさん、お邪魔してすみません。ご相談したい事案がございまして」

「それは私の読書の時間を邪魔するに値する事案なのか」

「佐竹さんの扱っていた事案についてです。異能案件ではないと判断されたようなのですが、引き継ぎをしたところで異能案件だった可能性がありまして」

「で?」

「で、というのは」

「引っかかったなら調査申請をしてじぶんで調査したらいい。私に相談する義理はない」

「それはそうなんですけど」

「それともなに。きみは私の助言がなければ調査もろくに再開できないようなグズなのか」

「違います」

「ならまずは読書の時間を邪魔したことを詫びて、さっさと消えるといい」

 タタビは拳を握る。

 知ってはいた。

 リュウグウ。

 彼女がかような人格を有していたことは百も承知だったが、好ましい先輩であるところのハキの助言を無下にするのもどうかと思い、顔を立てるつもりもあって話をしにきたのだ。

 それがどうだ。

 この態度である。

「いちおう話だけでも聞いてくださいませんか」

「邪魔。うるさい」

「では読書が終わるまでここでお待ちします」癪だったので食い下がった。「静かにしておりますので、どうぞ読書をお楽しみください」

 リュウグウは本を閉じた。

「わかった聞く。なに? もしこれでくだらない内容だったらあなたには調査官を辞めてもらう」

「構いませんが、リュウグウさんにそのような権限がないことだけは告げておきますね」

 もしくだらなくない内容だったらおまえこそ辞めろよ、と口を衝きそうになって堪える。無駄にじぶんの格を下げることはない。幼稚な相手の人格に合わせる必要はないのだ。

「仮面連続強盗事件についてなんですが」タタビは語った。ハキにいちど説明していた分、事件の概要を伝えるだけならば資料が手元になくとも行えた。

「その件については知っている。で?」

「つまり仮面は異能を隠すための偽装であり、あれら一連の強盗は模倣犯による犯行ではなく、一人の異能者による犯行であった可能性があります」

「可能性だけならそりゃあるだろうな。妖精や妖怪がこの世にいる可能性がけしてゼロではないのと同じように」

「もっと高い確率であり得るとわたしは考えています。発覚している事件だけでこれだけあるんです。同一犯による、しかも異能者による犯行だとすればもっと卑劣な事件がどこかで密かに行われていてもふしぎではありません。それこそ行おうとすればこの種の異能者は自ら手を汚すことなく他者に濡れ衣を着せて、ありとあらゆる犯罪行為を代わりに行わせることもできるのですから」

「それを放置していたほどの愚か者だと聞こえるな、うちの部署が」

「愚かでない可能性もまたゼロではないかと」

「一理ある」

 飄々と受け流され、頭に血がのぼっていたことを自覚する。冷静になれ、と鼻から息を漏らし、体内の熱を逃がす。ムキになってもよいことなど一つもない。

 リュウグウ、彼女はけして喧嘩腰ではないのだ。素でひとを不快にすることにかけても天才的なだけであり、もし彼女がその才だけに突出していてくれればこうして顔を突き合わせて無駄に不快になることもなかった。

 先達として見做さずに済んだ。

 同じ職場で働かずに済んだ。

 神は二物を与えないとは言うが、余計な荷物は軽々しく与えるようだ。その対象が天才であるとこうまでも不幸を撒き散らす。

「わたしの見立ては以上です。ハキさんにリュウグウさんの意見を仰ぐように助言をたまわったので、こうしてご意見を伺いにきたのですが、読書の時間を邪魔してしまい申し訳ありません」

 当てつけに器のでかさを示しておく。人としての振る舞いとはこういうものだ、と手本をこれみよがしに見せた。

「意見と言われてもな。いまの話で分かったのは、ハキも含め、おまえたちが偏見に満ちて、考慮すべき可能性を見過ごしているってことだけだが。まあ、調査申請する分には不足ない疑惑ではある。上に掛け合ってみればいいんじゃない」

「まるでわたしに見えていない何かをリュウグウさんは見ているような言い草ですね」

「見えるものを見ないのはきみらの自由だ。責めてはないが」

「何かあるならおっしゃってください。余計な手間が省けるならその分、調査の過程が省けて犯罪を未然に防ぐ確率をあげられます」

「調査の過程を省くなよ。いちばんそこがだいじだろうが」

 正論ではあるが、言いたかったのはそういうことではない。タタビの気持ちは冷めていく。このひとには何を言っても無駄なのだ。相手の言葉尻を挙げ連ねて、批判ばかりし、相手の本当に言いたいことを想像しようともしない。

「ありがとうございました。考えを整理できました。失礼します」

 腰を折ってその場を辞そうとすると、

「佐竹はそのくらいのことはとっくに見抜いていたぞ」

 リュウグウは本を開き、紙面に目を落とす。深窓の令嬢さながらの凛とした佇まいに、黙っていれば仲良くなれたかもしれないのに、と何ももったいなくないにも拘わらずもったいなく思った。

「なんです」

「佐竹だ。あいつはおまえの考え程度のことはとっくに考慮に入れていた。そのうえで異動願いをだしたんだ。あいつはおまえと違って調査というものの重要性をよくよく知っているからね」

「負け惜しみにしか聞こえないんですけど。お友達の尻拭いをこんな若輩にされて悔しくなったんですか。ならどうして佐竹さんは調査保留なんて」

「対象が我々の扱う事案を超越していたからだ」

「超越していた? 何をですか。犯人が異能者ならばその犯行を白日の下に晒し、真実を明らかにすることがわたしたち調査官の務めじゃないんですか」

「罰する契機をつくるのも務めの一つだ」

「社会秩序のために、ですよね」

「償い、更生する契機を与えるためだ。排除の理論ではない。なぜこんな基本的な事項をおまえに確認しているか分かるか」

「さあ、何でですか。先輩風でも吹かしたくなりましたか」

 皮肉を口にしただけだったのだが、そこでリュウグウは眼鏡の奥の眠たげな目を見開き、なんだ分かってたのか、と口元をほころばすものだから、小馬鹿にしているのか、真実よろこんでいるのか解釈に困る。

「先輩らしく出来のわるい後輩に道を説いてあげた。ちゃんとそれを理解できる理性があるのは予想していなかった。謝罪するよ。おまえはまだ手遅れではないらしい」

「手遅れ? 犯罪者の更生うんぬんを言った舌の根の乾かぬうちによくそういうこと言えますね。手遅れな人間なんていないんじゃないんですか」

「誰がそんなことを言った? 手遅れな人間はいないが、手遅れな考え方ってのはある。そういう考えに固執した輩にはほかの考えを押しつけ、無理やりにでも矯正するしかないときもある。勘違いしないほうがいい。我々のしていることは正義などではない。ある条件下において悪を行使してもこの社会からは罰せられない、ただその特権があるのみだ」

 タタビはいまいちど彼女に向き直り、まっすぐとその顔を睨み据える。三つ編みはじぶんで編んでいるのだろうか、とそんなことに意識がいく。

「わたしたちが悪だと? そうおっしゃるんですか」

「存在に善も悪もないよ。風や山や海に善悪があるか? 行為の結果を見てそれを悪と思う者がおり、思わなければ好ましく思う者がいるだけだ。そして総じて我らの他者への干渉にはそれを苦痛に思う者がいる。けして善ではあり得ないという事実を述べたまでだ」

 できのわるい後輩のためにな。

 紙面から顔もあげずに吐かれる説法にいかほどのありがたみがあるだろう。ハッキリ言ってそんなものはない。微塵もない。タタビはリュウグウの言動をいまいちど脳裡で反芻し、それを以って宣戦布告ととった。

「物解かりのわるい後輩ですみませんね。ぜひご教授願いたいのですが、佐竹さんですら見抜いていたという超越的事案? でしたっけ? その概要をぜひとも伺いたいものですが」

「資料を見ろ。そのうえでじぶんが考慮していない可能性にも目を向けろ。それができなきゃ調査官は向かない。ちょうどいい、たしかきょうは年越しだったか。区切りをつけるには上出来な日だ。辞表くらいなら同じ部署のよしみだ、代わりにだしておいてやるがどうする」

「お言葉ですがわたしは資料につぶさに目を配りました。そのうえで考えられる可能性はすべて考えています。そのなかで最も可能性の高い仮説を元に調査の再申請をしようと考えただけです。なぜこれしきのことでここまでの侮辱を受けなければならないんですか。リュウグウさんこそいい機会なので引退なされたらどうです。向いてないですよあなた。調査官にも。人として生きるのも」

「否定はしない。私もたまに思うことだ。私は人に向いていない。或いは社会が私に見合った構造を有してないというべきか」

「孤高ごっこはさぞかし楽しいでしょうね。で、ご教授願えるんですか、それとも辞職してくださるんですか」

 リュウグウはぺらりと本をめくる。まるでそこに並ぶ文字の羅列を音読するように、

「犯人と目される人物たちはみな仮面をつけていた。監視カメラに記録されたそれら人物たちの外貌、体系、服装などから彼ら彼女らは模倣犯、或いは異能者による洗脳を受けた被害者だと推定される。おまえの仮説とやらはまとめればこれでいいか」

「最も確率の高い仮説を二つ挙げるとすればそうなりますが」

 ほかにいったい何が考えられるというのか。

「論点そのものは私もおまえとそう変わらない。なぜ犯人と目される人物たちはみな仮面をつけていたのか、だ」

「隠したかったからでしょう。素顔を」

「その通りだ」

「ですがわたしはそれが真犯人の偽装だったと推量します。真犯人が犯罪実行者たちに付与した洗脳するための媒体を人の目から隠すために用いた偽装、これがこの事案の真相であり、異能調査官たる我々の出番である根拠です。何が不満なんですか」

「不満はない。だが充分ではない。真相からは程遠い。それも調査をすれば解かる。さっきも言ったが、調査申請する分には不足ない疑惑ではある。おまえの選択を否定してはいない」

「否定してるようなもんじゃないですか。もったいぶるのをやめてください。わたしの何が間違ってるって言うんですか。負け惜しみじゃないってんなら言ってみせてくださいよ」

「同一犯だ」

「はい?」

「資料をよく読め。監視映像を何度も観比べろ。すべてはそこから類推可能な筋道を有している」

「ですからわたしもこの一連の強盗事件には同一犯による真犯人が別途にいるとそう主張して」

「真犯人などはいない。実行犯もすべて一人だ。異能案件なのはその通りだ。そいつは自在に体型を変えられる。厳密には遺伝子レベルで変異可能だ。表現型可塑性の極致、それがその者の持つ異能の形質だ」

 タタビは身動きがとれなくなった。混乱する。

 同一犯?

 共通項の見当たらなかった実行犯たちがすべて同一人物?

 あり得るのか、そんなことが。

 脳内で資料を展開する。データは記憶している。

 実行犯たちの外見はすべて異なっている。仮面だけがゆいいつの共通項だった。そのはずだった。

 だがそのじつ、犯人は、共通項をたった一つだけだと思わせるために敢えて仮面をつけ、一連の事件を一つに結び付けていたとしたら。

 素顔を見られたら即座に同一人物の犯行だと見抜かれる事案を、仮面を被ることで、複数の不規則な人選による連続的な事案だと我々に思わせることを意図していたとしたら。

「通常異能は一人の異能者につき一つと決まっている。だが表現型可塑性そのものの特性を強化する形質を発現させた者がいたとすれば、一見すれば複数の異能持ちのように見える。それだけに留まらず、複数の人間に成りすますこともできる。犯人は素顔すら変形させることが可能だ。ただしソイツは顔に入れ墨をいれている。ゆえに隠さざるを得なかった。ソイツの名は萬間(まんま)スク。佐竹の妻子を惨殺したと目される戒指定(かいしてい)異能者だ」

 戒指定異能者。

 他者に異能の行使を禁じられた異能調査官が、殺傷を目的にその異能を行使できる例外的対象に付属される呼称だ。

「佐竹はずっとそいつを追っていた。ようやく手掛かりを見つけ、専属で追いつづけることが可能な特務部署に異動した。アイツがその案件を調査保留にした理由がこれで分かったか。我々では手に負えない相手だからだ。藪をつついて蛇に警戒させてやることはない」

「でもじゃあ、どうしてわたしに引き継ぎなんか」

「それは本人に聞いてくれ。ただ、特務部署は任意の容疑者を追いつづける部署だ。類似の事案を調査する権限も応援要請もできない。たしかおまえは言っていたな。仮面の事件に類する事案がほかにも複数発生しておかしくないと。発覚しなければこの手の事案はそもそも俎上に載ることもない。手掛かりは多いほうがよいが、佐竹にはもうその調査をすることも、データを集めることもできない。とすればとるべき選択肢はそれほど多くない」

「わたしに調査をさせ、追加のデータを集めさせようと?」

「よかったじゃないか。だとすれば佐竹はおまえがその事案の裏にある違和感を嗅ぎ取り、調査の再申請をするくらいの逸材だと期待していたことになる。案に相違して、じっさいは勘違いに拍車をかけて暴走しかけた未熟者でしかなかったわけだが」

「気持ちよくしゃべっているところ申しわけないんですが、そこまで分かっていてなぜ傍観を? やっぱりあなたは辞職すべきです。きょうにでも。調査官のまま新年を迎えるなんてはしたない真似はしないでほしいのですが」

「それを決めるのはきみではないし、そのような権限もきみにはない。御託はいい。調査申請するんだろ。こうしている間にも新たな被害者がでているかもしれない。おまえの掲げる正義とやらはその程度のものなのか」

「こんなところで読書にかまけてるあなたにだけは言われたかないセリフですね」

「私は正義なんてものを掲げた覚えがないものでね」

 タタビは冷めたじぶんの奥底に火が音を響かせ爆ぜたのを自覚する。それは瞬く間に轟々と渦を巻く炎へとかたちを変えた。

「失礼します」

 低頭はしない。敬意を示すような相手はこの場にはいない。じぶんを含めて、一人もいなかった。

 書庫の扉を音を殺して閉める。

 怒りではない。

 そんな単純な火ではなかった。

 調査室へと戻り、その入り口に掲げられた異能特殊追跡班の文字に目を留める。

 名前などは些事だ。それはそうだが、かといってこのさきもあの女がこの異能特殊追跡班の名を背負い、超法規的とも呼べる特権を行使する未来は認めがたかった。

 ここにいていい人材ではない。

 人間ではない。

 リュウグウなる類稀なる異能と頭脳を誇る才人は、酔狂な神の手により、余計な荷物を抱えている。

 特大の爆弾だ。

 危険だ。

 あれが人を救い、守るための機関に属し、あまつさえ優遇されているなどあってはならない。

 追放してやる。

 弐葉麻タタビは己に誓う。

 天才は一つの世に一人いれば充分だ。それが組織であるならば言うに及ばず、この部署に二人もいらない。

 追い抜いてやる。 

 いまはまだたしかに経験の差があるのは否めないが、けして埋められぬ差ではない。

「あ、戻ってたんだ。どうだった?」

 ハキが両腕にどっさりの食料を抱えて戻ってくる。暢気に、きょうはここで年越しちゃおっか、と飲み物とケーキをテーブルに並べる。

 彼女とは仲良くやっていけそうだ。

 まるでそういった仮面を被るようにしてタタビはとびきりの愛想を表情に滲ませる。




【不可視の瑕疵】


 佐竹は目を疑った。弾丸はたしかに標的の身体に着弾したはずだ。だが対象は物ともせずに、まるで意に介した様子なく逃亡した。

 止まれ。

 佐竹の声が路地裏に反響する。

 対象の身体能力は並外れていた。異能を持たない佐竹にはなす術がなかった。

 銃口を下ろす。

 親指の付け根に唇を押しつけ、対象を見失いました、と報告する。異能調査官に支給される体内内蔵型の通信機器だ。細胞に直接打ち込む。体内の熱をエネルギィ源とするため充電の必要もない。一般にはまだ普及していない技術だ。

 現場の位置座標を続けざまに述べ、継続して対象を追います、と行動指針を述べる。

「応援を送った。随時対象の特徴及び異能特性を報告しろ」

 指揮官から指示がある。バイクにまたがり、音声入力でレポートを仕上げながら、対象を目視で探索開始する。

 間もなくバイクに追従するように、頭上にジバドリが現れる。ジバドリは異能特殊捜査班が所有する小型のドローンだ。競技用のものを改造したとあって飛行速度、俊敏性、飛行時間ともに一級品だ。指揮官の述べた応援とはこれのことか、と苦笑が漏れる。たしかにいま割ける人員には限りがあった。新人でもよいのではやく補充してほしいと意見しているが上層部がいい顔をしないようである。

 佐竹はジバドリに見えるように手を振り、先に行け、と指示をだす。ジバドリは速度を増し、瞬時に闇夜に溶けこんだ。

 ジバドリを操作しているだろうアバラヤに通信する。

「いま何機だしてる」

「佐竹くんには三機です。上からの指示でそれ以上だせないみたいで」

「ほかにもいま?」

「はい。本部から応援要請あって、そちらに三百機ほどだしています。あと一時間で回収できると思うのですけど」

 何の事件かは聞かずにおく。どの道教えてはもらえないだろう。本部が極秘裏に人や組織を探し出したいときにこうして異能特殊捜査班に応援要請がくる。何かしら大規模な事件が起きたか、或いは未然に防ぎたいとの腹なのだろう。例によって例のごとくいいように使われている。

「ごくろうさん。対象は細胞透過型の異能者とみられる。細胞の透過の過程で肉体強化の側面も際立って見える。十階建てはあるビルを三歩で飛び越えた。銃弾も効かないとなるとスキルなしの僕では手に余る相手かもしれない」

「いまハキさんにご連絡さしあげて現場に行くよう要請しました」

「助かる」ハキは同僚の一人だ。肉体強化型の異能持ちで、単純な肉体の戦闘力では班に限らず、部署内でも随一と言える。

「いちおう目視で捉えた分の映像をハキにも観せてやってくれ。いま送った」

「拝受しました。わたしも見ていいですか?」

「いちいち許可をとらなくていいよ。すくなくとも僕の場合には」

「この対象、細胞透過型の異能者なんですか?」映像を観ているのか、どこか口調が上の空だ。「リスト照合してみますね」

 該当者はない、と佐竹は内心で唱え、応答を待つ。

「該当者ありません。おかしいですね、細胞透過型は基本、発現時に周囲の人間の目にも異様に映るので騒ぎが大きくなりやすいんですけど」

 すなわち相関して、異能者リストに乗りやすい。自ら異能を隠そうとする者はことのほかすくなく、たいがいは自身に発現した異能に戸惑い、その対処法を知るために専門の機関にかかる。先天的な異能者に関してもおおむね似たようなものだ。親がまっとうに常識人であれば、まず専門機関にかかるし、そうでなくとも出産時に医療機関の世話になっていれば、医師のほうで専門機関への紹介状を書く。

「一つ疑問なんですけど」アバラヤが言った。「どうしてこの異能者、服を着ているんですか? 透過型ならむしろ全裸のほうが都合がいいように思うんですけど」

「アバラヤさんは室内にいるからそんなことが言えるんだ。いま真冬だよ。特殊防寒着着込んでる僕ですら凍えそうな気温なのに、全裸なんて考えただけで、うぅ」

「それはいま佐竹さんがバイクに乗られているからでは」じとっと目で見られるような口吻だ。

「対象は逃亡の際に帽子を落としていったから、一般人に扮していたと見える。被害者の部屋では全裸で待ち伏せて、襲撃後に服を着こんでの逃亡を画策したんじゃないかな。街中の監視カメラの映像を参照して不審者が見当たらないとくれば、却ってすぐに足がついちゃうから」

 透明人間の可能性を考慮されないためにも、敢えて一般人に扮するのは順当な策だ。

「かもしれませんね。あの、佐竹さん。これは単なるわたしのいち意見でしかありませんが、よろしいですか」

「何か引っかかる?」

「はい。細胞透過型の場合、いくつかの範疇に分けられます。六割は、光を歪曲させたりして、可視光そのものの進行を制御するタイプですね。これはいわばサイコキネシスの一種と分類されます。もう一つがさきほど佐竹さんがおっしゃられたように、細胞そのものが変異して、周囲の風景を投射したり、或いは反射させずにガラスのように通してしまってまさしく透明になるタイプです。これは肉体強化型の一種として分類されます」

「だから今回のはそっちなんだろ?」

「そうとも限らないような気がして。じつはもう一種、大別した場合の分類があります」

「へえ。なんだろ」

「観測者側の認識を操作するタイプ、いわば洗脳型です。この場合、そもそも見ている対象そのものが虚像ですから、透明人間にも、他人にも、それこそバケモノにだって変身可能です。見ている者がそう錯覚するだけですからね」

「つまり僕が撃った銃弾が当たらなかったのもその影響かもしれないと言いたいわけだ」

「可能性の問題として無視はできないかと」

「たしかに。ありがとう、貴重な意見だ。ちなみにその洗脳型の場合、対処法ってあるのかな。もちろん目視しない、距離をとるってのは分かるけど」

「相手の異能作用範囲に入ってしまえば原理的に防ぐ手立てはありません。ただし、たとえば相手が観測者に目視されて異能を発動できるタイプの洗脳型異能者の場合は、サーモグラフィや赤外線センサなど、観測手法を変えることで洗脳を回避することも可能になるケースもあります。ただしその見極めには細心の注意と、念入りな情報収集が欠かせません。現段階でそこに賭けるのは得策ではないかと」

「ごもっとも。ほかのタイプの場合には? 何かあるのかな対策」

「洗脳型はまだまだ研究対象がすくなく、ほかの異能に比べて判明していることがすくないんですよね。というのも、洗脳型の異能者のほとんどが、その異能を駆使して擬態しているので」

「今回の透明人間くんもそうってわけだ」

「断言できません。ひょっとしたら真実細胞透過型の異能者かもしれませんし、或いはほかのもっと特異な異能者である可能性だって捨てきれません」

 すくなくとも、とアバラヤは言う。「佐竹さんの報告から断定するには情報が足りなさすぎます」

「それはそうだ」

「あ、ハキさんが現場に到着したようです。ジバドリの情報を共有しておきますね。あとわたしにできることは何かありますか?」

「いまアバラヤさんと僕が交わした会話を、リュウグウのやつにテキストにまとめて見せてやってほしい」どうせいつものように地下資料室にて読書にかまけているに違いない。「できれば意見を仰げると僕としてはたいへんに助かるんだけど」

「テキストを送り、意見を仰ぐ、というところまでは承りますが、そのあとのことまでは了承し兼ねます。こう言うと語弊があるのですが、わたし、リュウグウさん、彼女には好かれていないようでして」

「心配しなくていい。アイツは誰に対してもそうだから。たぶん僕からの要請と言えば悪態を吐きながらでも何か一言二言ヒントをくれるような気がする」

「ヒントですか?」 

 なんの、と説いたげなアバラヤに佐竹は言った。「事件解決のだよ」

 アバラヤとの通信を切ると、入れ違いにハキから通信が入った。いまどこにいる、と彼女から苛立たし気な声をそそがれ、音量をすこし下げてから、街をバイクで走り回っている、と伝える。

「バカなの。そんなんで対象が見つかるわけないじゃん」

「そうとも言えない。対象は被害者を襲撃後、しばらく路地裏でうずくまっていた。犯行のショックなのか何なのかは分からないが、元の姿には戻っていなかった。というよりも、戻れないんじゃないのかな」

「で? だとしたら余計にジバドリの熱源探査に頼るしかないんじゃない」

「どうかな。こうしてバイクで走り回っていたら向こうから仕掛けてくるかもしれない。いまのところ僕は対象からすれば、被害者の護衛だ。女王蜂を守る兵隊が嗅ぎまわっていると知って、それを放置できるほど鷹揚な相手ではないと思う」

「そもそも佐竹君はなんで現場にいたの? 何か事件の捜査中だったっけ?」

「知り合いから相談されたんだ。狙われているから助けてほしいと。異能者絡みだったらしくてね。まずは話だけでもと思って訪ねたらすでに襲撃されたあとだった。すぐに指揮官に連絡して異能案件として扱うように要請した。途中、犯人と目される人物を発見したため追跡したところ、攻撃を受けたので発砲した」

「撃ったの?」

「当たったけど効かなかった」

「ああ、だからあたしに?」

「アバラヤさんからレポート受け取ってないのか?」

「あ、これがそうかも。ごめん、開けてなかった」

「ハキさんそういうとこあるよね」

「脳筋って言ったら殴るよ」

「その言葉がすでに、だよ」

「はあはあ、なるほどねぇ。ん? ああ、そっか。アバラヤちゃんに推理してもらったんだねぇ。じゃあたぶん、透明人間じゃないってことだと思うなあたしは」

「対象が?」

「かといって、そう断定するのも危ういってのも当たってる気がする」

「洗脳型でもないってことかい」

「何か見逃している気がする。リュウグウさんに訊いてみたら?」

「アバラヤさんに頼んである」

「お。じゃああたしはその返事が聞けるまではちょっとハンバーガーでも食べてるね」

「おいおい」

「だってぇ、駆けつけるのだけでも疲れちゃった。五十キロの距離走って駆けつけたんだから感謝してほしいよね」

「応援要請してから三十分も経ってない気がしたけど」

「めっちゃ急いだからね。直線距離できた」

「ちなみにハキさんって体力測定どうだった? 百メートル走って何秒?」 

「よくわかんないんだよね。測定不能が多すぎて免除してもらったから。でも百メートル走はたしか手加減したから三秒だったかな?」

「じゃあ体力が持てば一キロを三十秒で走れるってこと?」

 十キロで五分、五十キロの距離なら二十五分だ。計算上は矛盾しないが、人間のそれではない。彼女は多少話を盛る傾向にある。真に受けるのは利口ではないが、おそらくまったくの虚言ということもないのだろう。これだから異能持ちは、と何の異能も持たない佐竹は苦笑するよりない。

「そ。だからお腹空いちゃって、空いちゃって」ハキは言った。「どうせ対象見つかるまではすることないんでしょ。あたし痩せやすい体質なの知ってるでしょ、じゃあ見つけたら連絡よろ」

 通信が切れる。

「どうしてうちの人材はこうも自由人ばかりなんだ」

 異能者はみなそうだ、とぼやきたくもなるがこれは差別発言だ。黙って呑み込んでおくのが吉だろう。

 アバラヤから連絡が入った。ジバドリが不審な熱源を感知したようだ。通常人とは異なる熱の発し方をする動く物体をジバドリは探知する。異能者は異能発動時は通常人より多くの熱を発するのは広く知られた異能者の性質だ。いまのところ例外はない。

 冷気を操る異能者とて、その者自身は熱を発する。冷蔵庫や冷房機にしたところで熱を余計に奪った分、ほかの物体や空気を冷やしている。原理的に、何か仕事を働かせるにはどんな構造物も熱を発するものなのかもしれない。異能も例外ではないというだけの話だ。

「佐竹さん、ジバドリからの映像が入りました。転送します」

「受け取った。なんだこりゃ、熱源が途切れてないか」

 映像には橙色に色付けされた物体が動いている。熱源だろう。通常それが単なる透明人間であれば、たとえ可視光で捉えられずとも、人型にくっきりと橙色が浮きあがるはずだ。

 しかしジバドリからの映像には、衣服の部分にしか熱源をしるす橙色が浮かんでいなかった。

「寒いから肌の露出した部分が映らないのか」

「違うと思いますけど」アバラヤの疑問に、ならばこれはどういう解釈すればいい、と混乱する。

「たとえば対象が気体化できるとしたらどうだ」閃いたので言ったが、「過去に確認された異能で同様の事例があります。しかし対象者は体内にマクスウェルの悪魔を宿せずに、力学的エネルギィ第二法則に抗えず、個室のそとにでられない存在になりました。エントロピー増大の法則には抗えないんです」

 気体になってしまえばもう屋外に出られない。閉じた世界の中ででしか存在を維持できない。湯気がいつまでも湯気でいられないのと同じ原理だ。

「じゃあれは気体ではない?」

「それは確実だと思われます」

「じゃあもうあと考えられるとすれば、極小の蜂みたいに分裂して、服を操っているとしか」

 そう考えれば銃を撃っても効かなかった理由が判る。服の中はバラバラの無数の蜂のような個の集合体だったからだ。

「どうでしょう。だとすればジバドリはその群れを捉えます。ですがこの映像ではそのような群れを成した熱源は見当たりません」

「だが衣服の内部に熱源たる何かがいるのは確かなんだろう。いずれにせよ確保してみりゃ解かる。いま現場付近に到着した」

「ハキさんに位置座標を送りました。到着を待ってください」

 指示に従おうとしたが、対象に動きがみられた。どうやらジバドリの存在に気づいたようだ。高速で移動しはじめる。

「追う」

「佐竹さん、ハキさんを待ってください」

「遅いやつがわるい」

 対象は被害者を殺害した。被害者は佐竹の古い知人だった。ふだんは記憶の壇上に浮上してくることのない、単なる学友の一人にすぎなかったが、頼られたことがすなおにうれしかった。

 だが助けられなかった。

 もっと早く真剣に相談に乗っていれば。

 後悔が怒りと混然一体となって、噴出する。抑え込んでいたが、対象をふたたび目のまえにして枷が外れた。

 否、すでにいちど外れているのだ。

 ゆえに撃った。

 逃がさない。佐竹はバイクのギアを最速に切り替え、ビルの屋上を足場に闇夜を飛んで移動する犯罪者のあとを追った。

「佐竹さん、そのままでいいので聞いてください。いまリュウグウさんから返信がありました。そのままを読みあげます」

 いいですか、と許可を仰がれ、頼む、とつぶやく。

 アバラヤの声が耳元で響く。

「佐竹に伝えてくれ――バカかおまえ。実像を虚像と履き違えるからそうなる。能力を持たないじぶんを不当に低く評価するからそうなる。おまえは犯人を目視した、ただ一人の目撃者だ。見たままをまずはそのまま受け入れろ。おまえが目にしたそれが現実だ。見えないものを見ようとするな。それはおまえの役割ではない」

 以上です、とアバラヤは言葉を切った。

「見たままを受け入れる?」

「わたしにはリュウグウさんが何を言っているのかいまいち捉えきれないのですが」

「いや、ありがとう。分かった気がする。リュウグウに礼を言っといてくれ。あ、いやいい、あとでじぶんで言う。アバラヤさんもありがとう」

「無理はなさらないでくださいね」

「うん。僕の推理が正しければたぶんハキさんの助けもいらない気がする。油断はしないつもりだけど、急がなくていいよってハキさんに伝えて。なんだか僕のほうの通信は切られたままみたいだ」

「食事の邪魔でもしましたか? 了解です。何かあったらすぐに連絡してください。佐竹さんの分の処理域はいつでも残しておりますので」

 そう言えば、と思いだす。彼女は本部の事件を扱っている最中なのだ。三百機のジバドリを操りながらよくもまあ、と佐竹は感心する。片手間にこちらの事件の手助けができるものだ。それとも逆なのだろうか。彼女にとっては三百機のジバドリを扱うなど、片手間で充分なのかもしれない。

 ジバドリは対象を追尾しつづけた。対象はジバドリを振り切れないと踏んだようで、真っ向から振り落としにかかる。一機がダメになるがジバドリは残り二機ある。距離を保ちながら追尾する。

 異能者の能力はたとえどんな異能であろうとそれを持たない者からすれば超能力に等しい。だが同時に、異能者はみなその異能を行使する分の対価を払っている。

 エネルギィを使っている。

 無限に動きつづける真似はできない。

 逃げつづけることはできない。いかな異能者といえど、休まずにはいられないし、補給せずにはいられない。

 仮にエネルギィを補給できなければ激しく疲弊し、ときに死にすら至る。あまり広く知られてはいないが、純粋な活動継続時間の耐久性でいえば、じつのところ能力を持たない一般人のほうに分がある。

 佐竹は容疑者を追い詰めた。

 足場となるビル群が尽き、対象は地表に降り立った。佐竹はその地点に先回りして待ち伏せしていた。

 足を目掛けて発砲する。捕獲用の銃だ。縄がついており、矢継ぎ早に足元のコンクリートにもう一発打つ。縄は二発繋がっており、対象はコンクリートと結ばれる。

 もしこれが肉体強化型の異能者であれば、難なく縄を引き抜き、逃げるだろう。佐竹であってもそれくらいの芸当ならばできたかもしれない。

 ゆえに最初に目撃した際には、通常の拳銃を用いた。捕獲用の拳銃に持ち替える時間がなかったのに加え、バイクに積んだままになっていたこともある。

「どうだ、もう逃げられないだろう」佐竹は対象に接近する。「おまえのような異能者は初めて見るよ」

 腕、胴体、足、と順々に撃ち抜いていく。刺繍をするように、衣服が地面に縫いつけられる。衣服以外はまったく見えない。

 否、見えなくて当然だ。

 佐竹はじかに対象を地面に縛りつけたのだ。

 時刻を読みあげる。

 現行犯逮捕の名目で、対象を確保する。

 背後で轟音が鳴り、驚いて振り返るとハキが肩の埃を払いながら近寄ってくる。

「どこからきたんだ」

 彼女は真上を指さす。喉を伸ばすがそこには夜空があるばかりだ。

「これが今回の透明人間くん?」ハキがとなりに立って容疑者を見下ろす。

「違う。こいつは透明人間なんかじゃない。細胞変異型の異能者だ。おそらくごく最近変異して、その異能を用いて犯行を計画し、じっさいに行った」

「透明人間じゃなかったらなに?」

「そのままだ。これがこいつの正体さ」

「服が?」

 縄に縫いつけられた服が、もがく。

「ああ。擬態能力の一種だろう。触れたものに変異できるのか、それとももうこれ以外にはなれないのかは要調査だが、いずれにせよ、こいつは肉体を衣服の形状へと変異させた異能者だ」

 なりたてゆえにまだ充分に異能を使いこなせないのかもしれない。

 そう意見すると、かもね、とハキは背伸びをして、

「連行はあたしがしとくから佐竹君はもっかい犯行現場に戻って、司令官にもろもろ報告よろしく」

 箱は? と問われ、佐竹は、わるいわるい、とバイクから異能者捕獲用の収納スーツを取りだす。

 遺体袋に似ているが、入れられた人間は一定時間異能の行使が困難になる。細胞変異型の場合は、細胞が弱り、身動きがとれなくなる。麻痺するといえば端的だ。

 ハキは手慣れた調子で容疑者を地面から引っぺがし、収納スーツに押し込んだ。肩に担ぐ。 

「そうそう、被害者聞いてびっくりだよ。異能研究者の権威じゃん。佐竹君あんなすごいひとと知り合いだったの?」

「僕がというより妻が、だけど」

「ふうん。じゃ、ま。さき戻ってるね」

 深く地面にしゃがみこむと、ボっ、という風切り音を残してハキは闇に消えた。目を回さなきゃいいけど、と容疑者の身を案じる。

「さてと」

 佐竹にはまだすることが残っている。これからが本番だと言っていい。被害者がいったい何を相談しようとしていたのか。どうして異能特殊捜査班そのものにではなく、佐竹個人に直接相談を持ち掛けたのか。

 なぜ上は、今回の一件をすぐに異能案件として認めたのか。佐竹は指揮官に、異能案件らしい、としか言わなかった。容疑者を目撃する前、発砲する前からすでに指揮官は今回の一件を異能案件と認めたのだ。

 被害者が異能研究の権威だったからだろうか。

 解からない。

 単に事態を重く見ただけかもしれない。

 それにしては、別件に三百機ものジバドリを動員させておいて、佐竹には三機しか回さなかったのには違和感が残る。

 本部はいったいなんの案件で三百機ものジバドリを使ったのか。なにより、なぜアバラヤはこうも親身に佐竹の事案に協力してくれたのか。

 彼女にはこちらに言えない何かが見えていたはずだ。三百機もの目を街中に飛翔させ、その目的を知らされていたゆいいつの人材でもあったのだろうから。

 バイクのハンドルを握り、最初の事件現場へと踵を返す。

 佐竹はふと、礼のついでに、と思いつく。その辺りの疑惑についても相談してみるか。

 いまもまだ地下の資料室で本でも読んでくつろいでいるに違いないのだ。

 千里眼の二つ名を冠する異能調査官、リュウグウからの辛らつな批判をいかにして掻い潜り、事件の推理を肩代わりさせるか。荒れ狂う龍の手綱を握るのもなかなかどうして楽ではない。

 持たざる者は、待たぬがゆえに、持つ者を使って苦難を乗り越えていくしか術はない。乗りこなすしかない。持つ者たちが力を蓄え、横車を押しとおすというのであれば、そうした世界を生き抜いていくには、持たぬ者は持たぬなりに工夫するよりないのである。

 暴れ馬ならなんとかなるが、しかしアイツは龍だからな。

 資料室の一角で孤独に本を読む龍の姿を妄想しながら佐竹は、夜の街を機械仕掛けの二輪車で走り抜けていく。 




【山を崩して国を盗る】


 漫画の影響は計り知れない。とある大富豪たちが好きな漫画のファンクラブを極秘でつくったことが嚆矢と言われている。

 賭け事で一国の政治すら動かす。

 上空を飛行物が飛ぶかどうか、ただそれだけの賭け事で国防を揺るがすほどの権力と、その者の命を賭ける。全財産に加え、その命すら擲つ未来を天秤に載せる。

 命と意固地。

 矜持と競技。

 策謀と悪行。

 残虐な戦略に盤石の反逆。

 あらゆる詭計を尽くして天命を待つ。

 最初はほんの気まぐれだった。大富豪たちがちょっとした余興にと手駒の使用人たちを代打ちに、ジャンケンやスポーツ賭博にて勝負をした。

 額は徐々に増えていった。

 賭ける対象が金以外へと移ろう。

 大富豪たちは熱を帯び、摩擦を経るごとに熱狂へと変わった。徐々に因縁を絡めながら、やがて一人の仲間を破産に追い込むまでに火の勢いを増した。

 止めようがなかった。

 遊びではあったが、真面目な勝負でもあった。

 否、どんな勝負であれ冗談では済まさない。そうした融通の利かぬ者たちだからこそ資本を手元に集める真似ができた。それは彼ら彼女らにとってサガと言えた。

 妥協はない。

 遊びがゆえに、全力で向き合う。

 逃げる余地がない。

 遊びだからだ。

 いつしか彼ら彼女らのはじめた遊びは、秤命(びんめい)と呼ばれるようになった。倶楽部宿運(くらぶしゅくうん)なる賭博組織ができあがった。

 誰かの勅令によりできた組織ではなく、単細胞生物が多細胞生物へと何の因果か進化したように、それは誰の意図とも異なる筋道を辿り、誰の予想とも異なる結果を生んだ。

 最初の大富豪たちがみな一様に秤命にて一文無しとなり、或いは命を落としたとき、倶楽部宿運は人の手による管理を離れた。厳格な原則と奔放な法による運営、誰の采配によるものでもない自然淘汰によって最も効率よく賭博をしつづける仕組みを築き上げた。組織ができた。

 遺伝情報という名の支配以外を必要としない生物の肉体のごとく、細胞のごとく、倶楽部宿運は今宵も国盗りすら可能とする賭け勝負を繰りひろげる。

 とある山岳地帯である。

 極秘に建設され、運用資金不足により凍結された地下施設がここにある。

 そこにいま、三人の秤命者が足を踏み入れた。

 一人は、実旗栖(みはたす)ウラ、三十六歳、性別は女だ。欧米の暗黒街にて最大の犯罪組織の手綱を握る女だが、そのじつは某国の諜報員である。倶楽部宿運の噂を聞きつけ、その真偽を確かめたのちに掌握へと乗りだした数少ない政府機関従事者だ。むろんその事実を知る者はすくない。

 もう一人は訓田(くんだ)コトオである。顔面の半分が薬品により焼け爛れている。秤命において最長賭博継続期間を更新中の秤命者である。秤命における勝負回数は期間の割に多くはないが、その実力は折り紙付きだ。

 最後に今宵の主人公、鴫佐(しぎさ)ツヤコである。現在の年齢は二十四と三人のなかでは最年少ながら、眼光は鋭く、一見すると裏街道にて一徒党を束ねる女豹に見えなくもない。言い換えるならば、その辺のゴロツキといった風体だ。

「揃ったか。では入るぞ」訓田コトオが施設の入り口を開錠し、三人足並みをそろえて入場する。彼の生体情報が鍵となっているのは、今宵の場所を指定できる権利を彼が別の秤命にて勝ち取ったためだ。

「きょうの勝負は何?」

 実旗栖ウラの言葉に、主人公ツヤコが応じる。「見るまで分からないんだよ。あんた初心者?」 

「場所をここに指定したのは極力邪魔者を排除したかったからだ」訓田コトオが通路の明かりを灯す。「前回の勝負では少々介入者によって手こずったのでな。ああした邪魔は遠慮したい。俺は真剣に当事者のみで勝負をしたいんだ」

 解かるだろと言いたげな視線を向けられるが、ツヤコは黙っている。勝てばいい。勝つこと以外はすべて些事だ。それがツヤコの行動原理である。介入者を用いて勝てるならば躊躇なく使うべきだ。

 おそらくすでに駆け引きははじまっている。訓田コトオはああ言うが、真実のところは、勝負相手に介入者を敢えて使わせたことで彼は勝者となったのだ。手のひらのうえで転がされ、彼の相手は自滅した。そういう男なのだ。彼の情報は可能な限り集めている。言動からは容易には推し量れない人物像だ。彼の人格は深い闇の奥底に隠され、怪物がごとく眼光を炯々と、眈々と、光らせている。

 十五分ほど歩いただろうか。

 今宵の勝負の舞台へと辿り着く。

「なんだいこれは」

「元々ここは特殊国際指定犯罪者の収容所だった。世には他人と言葉を交わすだけで相手を掌握し、意のままに操る悪魔のような者たちがいる。そうした超能力者のような犯罪者をここで管理し、その術を解析して国益に繋げようとする計画があったが、件の研究対象によって大きな傷を受けて元がとれなくなったので封鎖された経緯がある」

「あの透明な容器に人間を囲っていたってことかい」

 二人の会話を受けて、ツヤコは言った。「なんだかでっかい水槽みたい。トイレすらないじゃん。人が生活する場所じゃないよ」

「その通りだ。人権は完全に無視されていた。だから極秘施設だった。核ミサイルの攻撃を受けてもびくともしないと聞いている」

「いまじゃただの廃墟だけどねぇ」とは実旗栖ウラの言だ。

「で、勝負の種目は?」

「すでに用意してあると聞いているが」

 三人の視線が、透明な立方体にそそがれる。中には腰の高さまである机が一つだけ置かれている。机は床に固定されているようだ。その上には将棋盤があり、ちょうど駒入れをひっくり返し、盤に押しつけた具合に駒が山になって放置されている。

「あれは要は、山崩しかい」

「のようだな」

「いつも思うけど、勝負の立案者はみな幼稚園児なのかな」

 倶楽部宿運を取り仕切る者たちは、秤命者とは別に厳選され、裏の立役者として勝負の舞台を整える。勝負の舞台に直接姿を現すことは稀であるが、賭けの代償や配当を十全に取り立て、分配するための実行部隊の役割も担っている。

 一国の軍部を相手取っても取り立て可能なほどの武力を誇るとあり、各国の諜報機関はいまや倶楽部宿運の壊滅および吸収を画策している。

 今宵この場に実旗栖ウラが秤命者として立っている大きな一因でもあるが、それを主人公たるツヤコは知る由もない。彼女は実旗栖ウラとは初対面であり、彼女を欧米の犯罪組織の実質支配者だと事前情報通りに見做している。情報収集は十八番であるが、さすがに諜報員相手にはなかなか尻尾を掴めない。

「秤命原則の確認をする」場所を決めた訓田コトオがひとまずこの場を取り仕切ることになったようだ。「まず、勝負の舞台に持ち込み可能な道具は一人につき一つまで。行使するには宣言を行ってからでなければ使うことはできない。勝者はつねに一人。敗者は賭けた分の代償を払う。今宵は命も勘定に入るほどの利が約束されている。敗者は死ぬこととなるだろう。だが秤命原則により、複数人で行う場合は、命の取り立ては最下位の者にのみ有効。たとえば三人ならば死ぬのは一人だ。勝者は利を得、敗者は死ぬ。しかしそれ以外の、真ん中に位置する者は、掛け金を失いはするが、命が取り立てられることはない。利を得ず、代償を払うが、死は免れる」

 ここまでは異論ないな、と問われ、ツヤコはうなづく。実旗栖ウラも異存はないようだ。

「道具については勝負開始前に秤命者同士で確認する。その後、順番を決め、順繰りに勝負をしていく。今宵は山崩し。順番に駒を引いていき、最も多くの駒を手にした者が勝つ。使う指は一本。いちど触れたらその駒を必ず動かすこと。拾うか、崩すかのどちらかしかない。ここに加えて秤命原則により、一人一つずつ特別ルールを付与する」

「いまさらの説明じゃないか。じゃああたしからルールをつけるよ」実旗栖ウラが腕を組む。「山崩しってことは駒を引いて音がしたらつぎの者に代わるってのが基本だろ。だったら三駒以上を盤に落としたらその時点でそいつは失格ってことでどうだい。つまり駒が二つ落ちるのはセーフ。それ以上はアウト」

「追加ルールに異議は投じられない。ゆえにおぬしがそれで構わなぬのならそれが特別ルールとして追加される」

「じゃああたしはそれで」

「おぬしは?」

 促され、ツヤコは考える。まずは確認させてほしいんだけど、と前置きしてから、「あの水槽には一人ずつ入るわけでしょ。駒を引くあいだはほかの人は水槽のそとで待機している。邪魔はできないけど、邪魔をしてはいけないわけじゃない。間違ってないよね」

 透明な強化ガラスゆえに外部から内部への干渉は、工夫なしには行えない。裏から言えば、工夫をすれば邪魔立てをする余地はある。

「その通りだ」訓田コトオが認める。

「なら、もし順番を代わったあと、水槽から出たあとに、なんらかのアクシデントが起きて、たとえば駒が不安定だったのが、水槽からでるときの空気の揺らぎで落下して、三つ以上落ちてしまったら、たとえその番の引き手が水槽のそとに出ていようが、ソイツの失格になる。これは特別ルールというよりも単なる確認なんだけど、その辺はどうなるの」

「つぎの引き手が水槽内に入らない限りは、どのような状態であろうと、内部の駒が三つ以上落ちれば、その番の引き手の失格とするのが妥当だろうな」

 目線で問われたからか、それでいいさね、と実旗栖ウラが認める。

「ならそのときに二人しか残っていなかったら?」

「つぎの番の者が勝者だろう。また、三人とも残っていようが、誰かが最後まで駒を引けば勝負は終了だ。勝負終了時において手持ちの駒が最も多ければ、その者の勝利となる」

「駒の数が同数だった場合は?」

「最後の駒を引いた者の勝ちとする」

 当然すぎるルールだが、確認しておくことに越したことはない。ツヤコはうなづく。

「最後にもう一つ。勝負の終了は、最後の引き手があの水槽のそとにでた瞬間てことでいいのかな。それとも駒の山が盤上からゼロになった瞬間?」

「あの空間の外にでるまでは勝負は継続するものと見做す。ただし負けを認めずに長居する場合には中に水を流して溺死してもらう」

 どうだ、との訓田コトオの案に、構わないよ、と実旗栖ウラが同意する。

「じゃあ特別ルールを決めるね。私のルールは、道具の使用は一人につき一度までとすること。この禁止を一つ加えさせてもらう」

 特別ルールに異議は認められない。加えると秤命者が決めたならば、一人一つまでは誰がなんと言おうとルールとして加えることができる。

「では最後に俺だな」

 訓田コトオはすでに決めていたようだ。「道具はじぶん以外の者の道具も使用可能とする。拒否は認められない。使用すると宣言されたら道具を相手に手渡すこと。むろん使用可能な状況であれば同時に三人の道具を利用することも可能だ」

「まだ道具を見せてないうちからそういうことを言うかねこの男は」

「まあいいんじゃない。どんなルールが追加されようが私ら三人の立場は同じ。公平性は保たれる。それにそもそもそれって使えたら、の話でしょ」

 たとえば水槽のなかにいれば、ほかの者の道具を使うことも、仕掛けることもできない。仕掛けるところを見られれば、その脅威も半減する。

「では特別ルールを確認する。一つ、駒を三つ以上落とせばその時点で即失格。たとえ水槽のそとに出ていようが、つぎの引き手が中に入らぬまではその失格権はその番の者に付属するとする。二つ、道具の使用は一人につき一度までとする。三つ、ほかの秤命者の道具も利用可能とする。以上だ。質問はあるか」

「あ、私あるかも。この勝負、端から介入者が入る余地がないと思うんだけど、メディア端末はどうする? 回収する? いつもは好きに使ったり、特別ルールで禁止されたりしてたんだけど」

「とくにどうこうする必要があるとは思えんが」

「あたしは緊急の仕事の連絡が入るかもしれないんだよ。使っても問題ないだろ、回収なんてめんどうなことはよしとくれ」

「じゃあそのままってことで」ツヤコは引き下がる。

「では各々、道具を見せ合おう」

 三人はそれぞれ懐から、勝負のためにと持ちこんだ道具を提示する。

 どんな勝負が行われるかは、通常前以って知ることはできない。訓田コトオのみ場所を指定できたがゆえに、内部の構造上からある程度の種目には絞りこめたはずだ。すくなくとも、巨大な水槽のなかに人が入り、何らかの勝負を行う、とまでは最低でも予測可能だ。

 その点、ほかの秤命者は、どんな勝負が行われようとも自利に繋がるだろうと思われる道具を持ち込むのが通常の基本判断となる。

 だがこのとき、この場に並んだのは、総じてこの競技には不向きな、或いはまったく関係のない道具ばかりだった。

 ただ一人、ツヤコを除いては。

「なんであんた扇風機なんか持ち込んだんだい」即座にその違和感を投じたのは諜報員の実旗栖ウラだ。事前に勝負内容を知らなければまず持ち込まないだろう道具を持参したツヤコに懐疑の念をそそぐには充分な違和感がツヤコの道具からは立ち昇っていた。

 ツヤコの持ち込んだ道具は、小型扇風機だった。しかも改造され一見して出力が強力になっていると判る。

「その質問に答える義理が私にはない。そのうえで敢えて教えてあげてもいい。私はなるべく公平に勝負をしたいからね。情報は平等に知るべきだ。すくなくとも、知るためのヒントくらいは与えてあげなくちゃ、と私は思う」

 どうせ勝つのは私だから。

 ツヤコは目でほかの二人を見下ろす。「勝つならほら、気持ちよく勝ちたいでしょ。あとでズルとか卑怯とか言われたくないし」

「そういうのは勝ってから言いな。負けたときが恥ずかしいじゃないか。見てるこっちまで顔が火照っちまうよ」

「教えてもらえるなら聞いておこう」訓田コトオは冷静だった。安い挑発には乗らない。出来得る限り勝つための情報は集めておこうとする勝ちつづけてきた者がゆえの豪胆さがあった。

「いいよ、教える。私は前回の秤命勝負で、島を一つ買えるくらいの金と、倶楽部宿運の知る情報なら何でも教えてもらえる権利を得た」

「報酬が二つであり、かつ倶楽部からも利を得たということはおぬし、天越えをしたのか」

「うん。した」

 天越えとは、倶楽部宿運の代表者と秤命勝負することである。秤命勝負後に、勝者となったのちに、そこで得た利を全賭けすることで、可能となる特別な賭けだ。どんな秤命勝負であろうとも、勝者となれば天越えを行うことができる。その権利を得る。

 だが天越えの相手は倶楽部宿運が厳選した代表者だ。組織の長という意味ではない。代表者は賭け事に関して天才としか言い表しようのない天性の、生まれ持った、勝負の鬼である。

 ゆえに天越えに挑むことは、それ以前の勝負で得た利を手放すことに等しい。端から天越えを目的にしていない限りはまずそれを行う者はいないと呼べた。

 それを先日、ツヤコはこなしたばかりだった。今宵この場に立っているということは、彼女はその勝負に勝ったのだ。

 勝負の鬼に挑み、生き残った。

 利を、得た。

 その報酬が、倶楽部宿運の握るあらゆる情報から任意の情報をもらい受ける権利だった。

 一見すれば命を賭けるにはすくない報酬に映るかもしれない。しかし倶楽部宿運の世界に節々に張り巡らせた情報網はあなどれない。各国の首脳の弱みはむろんのこと、核兵器の発射コードから、要人たちの一日の予定、家族構成、ほか知り得ない情報などないと呼べた。それは言い換えれば、任意の出来事を恣意的に引き起こし、それを以って情報とすることが可能な権力を倶楽部宿運が握っているとの裏返しとも言える。

「おぬし、今宵の勝負内容を知っておったな」

 訓田コトオの言葉に実旗栖ウラが、けっ、と追従する。「何が公平に勝負がしたい、だ。これのどこが公平だってんだい」

「なるべく公平な勝負がしたい、って言ったんだよ私は。なるべくって言葉知ってる? それにいまはもうそっちのおじさんの特別ルールでこれをあなたたちも使えることになった。全然ズルじゃないじゃんよ」

「遠隔で操作可能なのかい」

「教える義理はないけど、でも教えてあげる。スイッチ押さなきゃ無理。遠隔では起動できない」

 それよりも、とツヤコは二人の道具を見遣る。

「あなたたちいつもこんなの持ち込んでるの? 使い勝手いいとはぜんぜん思えないけど」

 片や携帯型スピーカーで、片や伸縮可能な鉄の棒だ。鉄の棒はまだ武器として使えるため理解の範疇内だが、携帯型スピーカーには首をひねるよりない。これもまたツヤコの小型扇風機同様に改造されて見えるが、いくら音量が大きいからといって、何ができるわけでもないだろう。

 たとえば今回の場合、水槽の表面に携帯型スピーカーを押しつけ音を鳴らせれば、内部の空気を振動させて駒を落とせるかもしれない。だがどう考えてもこの携帯型スピーカーにはそれを可能とする出力はない。

 否、この世のどんなスピーカーを用いたとしても、強化ガラス内の駒を倒すほどに空気を振動させるような真似はできないだろう。そもそも強化ガラスが音を内部に通すかも定かではない。通ったとしても、出力は激減するだろう。ほとんど不可能だ。

「あたしゃこれまで一度だって勝負のために道具を使ったことがないからね。ただ、音楽を聴きながらのほうが集中できる。対戦者の集中力を削ぐにも、イヤホンよりかこっちのほうが都合がいいってだけのことさ」

 真実の一側面ではあるだろう。だがすべてではない。ツヤコはそのように実旗栖ウラの言葉を読んだ。

「では順番を決めようぞ」

「何で決めるんだい」

「ジャンケンでいいでしょ。というか私はべつに何番目でもいいよ。二人でジャンケンして決めたら?」

 訓田コトオと実旗栖ウラは顔を見合わせる。

「ならお言葉に甘えるとしよう」

 ジャンケンの結果、訓田コトオが勝ち、先手をとることになった。実旗栖ウラが最後、ツヤコが二番目の順番となる。

 今宵の秤命勝負はこうして静かに幕を開けた。

 山崩し。

 強化ガラスに囲まれた密閉空間内に一人で入り、盤上に無造作に置かれた駒を音を立てずに引き抜く。音を立てたらつぎの者へと順番を譲り、それを繰り返す。駒の数は全部で四十ある。三名の秤命者が参加する以上、どれほど順調に、平等に事が進んでも、勝つのは一人となる。

 ツヤコがこの勝負に勝つためにはまず何を措いても失格とならないようにすることが肝要だ。あべこべに相手を失格とさせることができれば誰より有利に事を進められる。

 駒をより多くとることもまた優先されるが、これらは矛盾しない。同時に満たすことが可能だ。

 最も合理的なのは、いちども順番を譲らず、じぶんの番ですべての駒を取り去ることだ。だがこれは至難と言ってよい。

 ではどうすべきか。

 まずは相手がどのような選択をしてくるかを探るのが妥当だ。

 山崩しにおいて、基本的な戦略が一つある。

 最初は最も手堅い駒を取っていき、中盤に差し掛かれば一転、敢えて困難な駒に挑戦する。わざとバランスの欠いた駒を残すことで、相手が失格する確率をあげるのだ。三つ落とせば即失格、負けが確定するこの勝負、いかに相手にミスをさせるかが機運を左右すると言ってよい。 

 ゆえに前半にはより多くの駒をできるだけ無難に集めておくことが優先される。前半とはいえど、今宵の面々の掻い潜ってきただろう修羅場を思えば、一巡目で駒数の優劣は決まると言っていいだろう。

 先手が有利なのは言うまでもない。だが二番手は、手堅い駒が取り尽くされたあとの堅牢な山を崩さねばならない。順番が変わるのは、失敗してからだ。したがって、二番手よりも三番手のほうが有利になるのが道理である。

 すでにツヤコは窮地に立たされていた。順番決めを相手に譲るなど通常この手の勝負においては考えられない選択をした。大胆不敵なのか、或いはただの考えなしなのか。

 ツワモノたち相手に勝負は長引かない。多くても三巡目には命運は決しているだろう。

 初手、訓田コトオは四つの駒を取り、敢えて自ら安全に音を立てて順番をつぎに譲った。

 ツヤコの番である。

 確実に取れそうな駒はない。訓田コトオは盤上から駒を取り去るときに音を立てたがゆえに、盤上に放置された安全牌は残されていない。総じて堅牢な檻と化している。触れれば即座に崩れる砂上の楼閣でもある。

 ツヤコに選べるのは、二つ以上を落とさぬようにいかに安全に失敗できるかだ。そのうえでうまく事が運び、駒が一つでも多く手に入れば儲けもの、程度の策しか取れない。

 ただし、ここで失格とならずにつぎに順番を渡せたならば、策を弄しておくことはできる。たとえば強化ガラス内のそとにでる際に、小型扇風機を起動したまま置き去りにするのは一つの手だ。駒の山の崩れない程度の距離を保ち、盤上に放置する。

 細工をすれば小型扇風機を停止不能にすることもできる。

 つぎの引き手は、小型扇風機を当然止めようとするだろう。だが秤命原則により、使用できる道具は一人につき一つだ。通常ならば相手の道具を使用することがほかの秤命者にはできない。だが今回は特別ルールにより、他者の道具も使えることになっている。ただし、道具を使用するにはいちど宣言しなければならない。一度使えばその後は使えなくなる。小型扇風機を止めれば、それ以降、じぶんの道具を使う機会を失くすのだ。

 相手から道具使用の権利を剥奪し、さらに風を当てつづけることで駒の山のバランスをより不安定にさせる。

 むろんこれには致命的な欠陥がある。

 強化ガラスの外にでてから、もし風によって駒の山が崩れればその時点でツヤコの失格は確定する。駒の山の崩れないように調整して小型扇風機を設置することそのものが細心の注意を要する。目視による繊細な演算をこなさねばならない。

 ツヤコには可能だ。

 どの角度でどのくらいの距離から風を当てれば、ギリギリで駒の山を崩さずにいられるか。触れれば崩れる駒の山から無事に駒を引き抜くよりもそれは優しい作業と言えた。

 だがツヤコはその仕掛けをとる素振りをいちど見せてなお、それをせずにおいた。

 まだだ。

 いまじゃない。

 そう、断じた。

 やるとすれば、いまじゃない。

 これは切り札だ。使わずにこの回を終える。そのための段取りは整えてある。

 ツヤコは安全牌を使った。すなわち、敢えて制御可能な崖を崩した。駒の山の一角を切り崩し、二つの駒を落として順番を譲った。

「ここで終わるかと思ってハラハラしちゃったじゃないか」

 入れ違いに仕切りの中に入っていく実旗栖ウラのささめきが耳に届いた。

 ツヤコは奥歯を噛みしめる。潜めた感情を悟らせぬように。焦りを相手に気取られぬように。

 実旗栖ウラはツヤコの崩した二つの駒を順当に拾い、さらにつけ爪を器用に用いて、山の上のほうにある駒を、ゆびの腹に転がすようにして手のひらのなかに収めた。

 一歩間違えれば取りこぼすだけでなく、ほかの駒に当たり、即失格だ。二つの意味で綱渡りを平然とやってのけた。

 計、六つの駒を回収し、駒を一つ落として順番を終えた。

 一巡目が終了する。

 この時点での成績は、

 訓田コトオ、四枚。

 鴫佐ツヤコ、〇枚。

 実旗栖ウラ、六枚。

 加えて、二巡目開始前から、実旗栖ウラの取りこぼした一枚の回収が容易である訓田コトオの利は大きい。

 自らの失敗がそのまま相手の成果となる。

 山崩し、それは自らの運命を切り崩すことが敵の活路を切り開く屈辱の処刑台。

 自らの首を絞め、相手へと救いの手を差し伸べる強制自己犠牲の戦場である。

 二巡目がはじまる。

 訓田コトオが盤上に転がる駒を一つ回収する。彼はここで大きく動いた。

「俺はここで道具を使用する。使うタイミングはまだ決まっていないが、それに関して制限はないはずだ。異論はないな」

「構わん」

「いいよ」

 長考の末、訓田コトオは最上部に立った駒を指で傾けた。それを元の位置に戻すことで、ほかの駒にぶつけ音を立て、山を崩さずして降りることを選択したようだ。

 懐から鉄の棒を取りだす。伸縮する造りだ。彼はそれを伸ばすと、机と強化ガラスのあいだに挟まるように固定した。即席の物干しざおでも掛けたような格好だ。

 いったい何がしたいのか不明だ。

 机を固定したかったのだろうか。だがじぶんの番を終えてからそれをする理由がよく分からない。

 鉄の棒をそのままにして訓田コトオが退室する。

 ツヤコの番だ。

 だが強化ガラスの立方体のなかへと入室したとたん、実旗栖ウラが道具の使用を宣言した。

「使わせてもらうよ」

 携帯型スピーカーを外から強化ガラスに押しつける。その地点には、鉄の棒の先端が接している。位置関係としては部屋中央から順に、机、鉄の棒、強化ガラス、携帯型スピーカーと一直線に並ぶ。

 遅まきながらツヤコは彼女が何をしようとしているのかを察した。

 否、彼女たちが何をしようとしていたのかを察した、というほうがより正確なところだろう。

 組んでいたのだ。

 彼女たちはグルだった。

 はめられた。

 訓田コトオと実旗栖ウラは、裏で繋がっていた。

 互いに道具を持ち寄り、二人で一つの工作を行うことを合意してこの場にはせ参じていたのだ。

 舌打ちをする。

 予想外だ。

 いいや、こうした事態になり得る可能性は常に考慮にいれてきた。きょうだけではない。秤命において、複数の参加者で勝負をする際には真っ先に警戒をしておくべき事項の筆頭に挙がる。

 しかし今宵はそれは度外視してよいはずだった。

 強化ガラスに仕切られた空間だ。

 今宵の勝負に、介入者はおろか、協力関係はさして影響しない。勝負の内容は、単純な個人競技の結果で測られる。駒の数さえ多ければよい。

 確率の問題として、同じ駒の山から順番に引いていくという不確定な要素が加わるにしろ、じぶんさえ最善を尽くせば充分に勝てる内容だった。多少の心理戦を挟む余地があるにせよ、それは相手を失格にさせるための布石(ブラフ)でしかない。

 もちろん道具を用いて相手を失格にすることは認められており、ツヤコ自身それを狙っていた。

 じぶんだけがほかの二人を出し抜いていると思いあがっていた。そのじつは、じぶんがカモだったのだ。

 狙われていた。

 だが分からない。

 いつからだ。

 ツヤコには勝負内容を事前に知ることができた。天越えの報酬として、つぎの秤命勝負における種目をあらかじめ知ることが許された。

 だが彼女たちは違うはずだ。

 いや、違うのか。

 例外がある。

「まさか」

 そのまさかだよ。

 実旗栖ウラの唇がそのカタチに動く。

 強化ガラスに押しつけた携帯型スピーカーのスイッチがONにされ、徐々に音量があがっていく。

 そう、ツヤコだけではなかったのだ。

 天越えは、秤命勝負で勝った者ならば誰であっても行える。勝てる確率が通常の勝負よりも遥かに低いというだけであり、天越えを目的にして秤命勝負をする者が、ツヤコ以外にいてもふしぎではない。

 ツヤコのように、情報を得るためにそれをした者がいたとしても、何のふしぎもないのだ。

 それをするだけの利が、今回のこの秤命勝負では約束されている。

「倶楽部宿運の組織構成員を、いちどだけ自在に動かせる権利。今回の報酬は、三人が持ち寄った掛け金のほかに、それだけの利が約束されている。負ければ死ぬ。だが秤命原則により、死ぬのは最下位の者だけ。つまり、ツヤコ、おまえが死ねばたとえあたしが勝てなかろうが、死ぬことはない。二位であっても問題ない。いいや、最悪わざと失格して勝ちを訓田に譲っても失うのは、掛け金だけだ。おまえの命と引き換えなら安いものだろう。違うか」

 声は聞こえない。

 だが唇の動きでなんと言っているのかは分かった。

「私怨か?」そうとしか思えなかった。わざわざこうして手の内を明かすのも、優越感に浸り、留飲を下げたいからとする心理が働いているからではないのか。「以前どこかで会ったことがあるのか」

 何か因縁があるのか、とツヤコは問う。

「直接はない。あたしとおまえはきょうが初対面だ。だが弟は違う。おまえと秤命勝負をして負け、命を落とした」

「逆恨みにもほどがある」

 秤命勝負は互いの同意のもとに行われる。たとえ死のうがそれは勝負に応じたその者の落ち度だ。

「当事者同士ではそうかもしれんが、あたしにとっちゃ弟の死はとうてい受け入れられる現実じゃあないんだよ。こんなクソな話があるか。クソったれなゲームがあってたまるかってんだ。それを運営する組織も、それを可能とする権力も総じてクソだ。あたしが全部潰してやる」

 おまえの命を糧にしてな。

 実旗栖ウラの言葉に、本当にそれでいいのか、とツヤコは問う。彼女に、ではない。訓田コトオに対してだ。長年秤命勝負にて勝ちつづけてきたあんたのような男が、こんな陳腐で卑近な動機で倶楽部宿運に反旗を翻していいのか、と問いただす。唇の動きだけで互いに意思を疎通する。

「構わん。どの道それが目的だ。支配されつづけ、盤上の駒でいつづけるのは性に合わん。勝てればいい。仕組みにさえも。動機など些事だ。勝てるか勝てないか。それだけが大事だ」

 おまえは違うのか、と反問されたが応じている暇はなかった。

 実旗栖ウラが携帯型スピーカーの音量を最大にした。いかな強化ガラスとはいえど、微塵もまったく振動しないというわけにもいかぬだろう。ただそれだけならば大過ないが、とりわけいまは鉄の棒が強化ガラスと机を結んでいる。僅かな振動とて、机に伝わる。

 そしてその上に乗る盤上にも。

 駒の山にも。

 今宵の勝負において、負けの条件は大きく二つある。

 盤上から駒が一つ残らず取り払われた時点で、最も手持ちの駒がすくなかった者。

 そして、駒を三つ以上落とした者。

 何よりツヤコ自身が確認したことだが、駒に手を触れていないあいだであっても、順番が巡りこの部屋に入った時点で、駒の山の状態はその者の影響下と見做される。すなわち、どのような外部干渉がなされようと、いまそれを引く順番にある者の過失として扱われる。

 たとえ外部から強制的に駒の山を崩されようと、その結果崩れたならばそれは引き手の失態として扱われる。駒が三つ以上崩れれば即失格である。

 ツヤコは鉄の棒を叩き落しに走った。

 扉から机までは三歩も駆ければ届く。しかし勢いよく払えばその振動で盤上の駒は崩れるだろう。かといってそのまま経過を見守れば、強化ガラス越しに鳴らされた大音量が鉄の棒越しに机へと伝わり、駒の山を打ち崩す。

 進退窮まった。

 突きつけられた刃を払えば自滅し、そのままにしていても首を刎ねられる。地雷を踏んだようなものだ。

 なす術がない。

 いいや、術がないのならば編みだすよりない。生みだすよりない。この手でじかにつくりだすしかないのだ。

 ツヤコは駆けた。

 一歩、二歩、三歩で加速できる全力の助走で以って足を踏みきり、跳躍する。

 足の裏の一点に集中し、全体重を乗せて蹴り飛ばす。

 鉄の棒を。

 ではない。

 それを支える強化ガラスとの接点へ向けて。

 わずかに場所をずらし、壁を蹴った。

 核ミサイルの衝撃にも耐えうる構造の立方体である。

 しかしそれは外部からの衝撃に限る。

 たとえば卵は地面を転がっても上から母鳥がのしかかっても割れない強度を誇るが、内部からはいともたやすく雛がヒビを割り、穴を開ける。

 外側からの耐久性と、内側からの耐久性は必ずしもイコールではない。

 また頑丈であるということは、裏返せば、なかなか歪(ひず)まないということでもある。鉄の棒は机と壁のあいだに挟み込まれている。机側はいざ知らず、壁側はほとんど歪まずに接触しているはずだ。これが粘土やほかの材質の壁であれば、或る程度の圧を受けて壁に僅かなりともめりこむ。だがこの立方体の壁は違う。強化ガラスは違う。頑丈だからだ。

 そしていかに頑丈といえども、面である以上、まったく歪まないというのもあり得ない。

 一瞬であろうとも、一点に圧をかければ、そしてそれが内側からの衝撃であるならば、ほんの刹那に、ごくごく微小のズレが生じるはずだ。

 それで充分だ。

 鉄の棒を外すだけなら。

 しずかに。

 震えさせることなく。

 ほんの十分の一ミリ、それ以下であろうと、隙間さえ空けば、鉄の棒は落ちる。

 そして壁ごしの振動、携帯型スピーカーの音を伝えなくなるはずだ。

 ひるがえって、強化ガラス越しに音が伝わるのは、それだけ強化ガラスが硬質で頑丈であることの裏返しでもある。歪まないがゆえに、より鋭敏に音の波を伝える。空気中よりも海中のほうが音が速く伝わるのはこの体積弾性率が低いからだ。すなわち歪みにくいからである。

 より正確には、波は邪魔するものがないほうが速く伝わる。ゆえに本来であれば鉄や水よりも空気のほうが音を伝えやすいと呼べるが、それよりも遥かに体積弾性率の多寡のほうが音の伝えやすさに影響を与えるために、堆積弾性率の低いより歪みにくい物体のほうが音を伝えやすいと言える。

 いわばツヤコはいま、鋼鉄の板を蹴飛ばそうとしているところだった。

 一点集中して加速した体重をぶつける。僅かにたゆんだ隙間が、鉄の棒をしずかに外す。

 単純な術だ。

 だがツヤコがそれに思い至らず、それをしなければ不可避の音の衝撃波が駒の山を襲うのは必須である。

 そうせざるを得なかった。

 でなければ負ける。

 ゆえにツヤコは全身全霊の蹴りを放った。

 強化ガラス越しに。

 そこに押し当てられた携帯型スピーカー目掛けて。

 ツヤコは渾身の一撃をお見舞いしたのである。

 静寂が訪れる。

 強化ガラス内に外部の音は届かない。押し当てられでもしない限り。大音量をじかに流しこまれでもしない限り。

 ツヤコの息遣いだけが反響していた。

 鉄の棒の転がる音を耳にした覚えはなかった。だがそれはそこに転がっていた。

 机のうえに目を転じる。

 盤上のうえに積みあがった駒の山はそっくりそのままの姿を維持していた。崩れていない。

 間に合った。

 成功した。

 ただただ運がよかっただけにすぎない。

 ツヤコは気を引き締めた。

 いまの回避策が有効だったということは、携帯型スピーカーを使わずとも、外部から蹴るだけでも机の上の駒の山を打ち崩す真似ができたかもしれない、ということでもある。たまたま実旗栖ウラたちがそのことに考え至らなかっただけで、いまなす術もなく負けていてもおかしくはなかった。

 負けていた。

 本来であれば。

 相手が復讐心に囚われ、勝利よりも、眼前の宿敵の無様な様を眺めることに意識をそそいだ。それゆえに開いた隙に付け込ませてもらったにすぎない。

 相手の瑕疵に救われたにすぎない。

 ツヤコは敢えて駒の山から一つも取らずに、駒を傾け、戻すことで音を立てた。

 人を呪わば穴二つ。

 一つ目の穴は埋めさせてもらった。つぎはツヨコが呪いを返す番だ。

 盤上の上に小型扇風機を置き、外にでる。

 起動はしていない。風は生みだしていない。ただ置き去りにした。

 つぎは実旗栖ウラの番である。

「いい気になるんじゃないよ。どういう狙いがあるかは知らないけどね、あんたはいま宣言をしなかった。たとえ遠隔できないと嘯いた前言が嘘であっても、あんたはあの道具を使うことはできない。窮地を脱して呆けたのかい。あんたの駒獲得数は未だゼロだ。どの道おまえの負けなんだよ」

 実旗栖ウラは声を荒らげ、立方体の中へと入った。

 扉が閉まる。

「宣言する。私は道具を使う」

 ツヤコは言って、メディア端末を取りだした。通信用に用いられる一般の端末だ。

「遠隔は無効だと言っただろ」訓田コトオが述べるが意に介さない。「誰が小型扇風機を使うと言った? 私の道具はこの端末そのものだ。端から扇風機を使う気はない。とはいえ今回のルール上、この端末で外部と連絡をとることはそもそも無条件に行える。宣言をする必要はないが、まあ公平でありたいと願う私の良心とでも思ってくれ」

「秤命原則違反じゃないのか。道具は前以って互いに提示するのが原則だ。外部と連絡して何かを起動すれば、その道具を我々は事前に知らせてもらう必要がある」

「ないな。そんなルールはない。なぜなら私はただ、古い地下原子力発電所を爆破処理するだけだからだ。秤命勝負のあいだに私的な仕事を一つこなすだけにすぎない。とはいえ、もしメディア端末が使用禁止の前提が今回の勝負に組み込まれていたなら、そのときはこの端末を道具として提示したが、そうはならなかった。ゆえに代わりに使う予定のない小型扇風機を提示した」

 ツヨコは端末越しに爆破の指示をだし、通話を切る。

 強化ガラス内の実旗栖ウラには何が起きているのかはっきりとは伝わっていないはずだ。しかし自身が窮地に立たされているとは模糊としながらも判ったはずだ。

 彼女は慎重になる。ゆえに、すぐに駒は動かさない。

 それが命取りになるとも知らず。

 そして彼女が窮地であることを、共犯者の訓田コトオが報せることはない。なぜならもしいま順番が変われば、窮地に陥るのが彼だからだ。ゆえに黙っている。共犯者が失格になるのを待つために。じぶんが負けないために、いちど手を組んだ相手すら造作もなく見捨てる。

 それが訓田コトオなる秤命者の本質だ。

 足場が揺れ、頭上から埃が落ちてくる。

「きたな」ツヨコは身構える。

 揺れは大きくなり、やがてその場に立っていられなくなるほどの地震と化した。三十秒はつづかなかったが、体感時間は長く感じた。

 揺れが治まってからゆっくりと勝負の舞台へと目を転じる。

 その場に膝を崩し、目を点にさせている実旗栖ウラの姿があった。

 盤上から駒は一つ残らず毀れ落ち、机の下に散らばっている。駒の山は崩れ、勝負は決した。

「あーらら。だから言ったのに。どうせ勝つのは私だって」

 ツヨコは肩を竦める。

 訓田コトオを振り返り、あのひと聞いてないんだけど、の仕草をして立方体内で未だ茫然とする実旗栖ウラを見た。

「じかに言わなきゃ締まらないなぁ」

 ツヨコは立方体のなかへと足を踏み入れ、ちょいちょいと彼女の肩を叩き、ね? と微笑んで見せる。

「私の勝ち。あなたの負け。言ったとおりになったでしょ?」

 言いながら、床に散らばった駒を拾い集め、

「ほら立ちなって」

 実旗栖ウラを支えて歩かせる。勝負の舞台のそとへと運ぶ。

 かくして盤上から駒は消え、勝負続行は不能。

 実旗栖ウラは失格ゆえに敗者となった。

 この勝負、現時点で駒を最も多く手にしていた者の勝ちとなる。

「おまえは負けなかったが勝ちもしなかった。俺は駒を五個とった。おまえはゼロのままだ。勝ったのは俺、それ以下がおまえだ」

「何言ってんの。私の駒はほれ」

 両手を開いてみせる。

 そこには床に落ちて散らばった残りの駒がすべてある。いましがた拾ってきたばかりだ。一目して五つより多いと判る。

「何を言っている。勝負は盤上の駒を多く取った者の勝ち。おまえは一つも取っていない。その駒は無効だ」

「そっちこそ何言ってんの。勝負は、勝負終了時により多くの駒を持っていた者の勝ち。失格の条件は、盤上から駒をとるときに三つ以上崩すことと、その他ルール違反を犯したとき。でも私はルール違反をしていないし、失格に値する行為もしていない。勝利の条件は満たしてる。だいたい私はちゃんと確認したからね。勝負は、盤上から駒がゼロになった瞬間に終わるのではなく、最後の引き手があの水槽のなかから出た瞬間だって」

「そんな屁理屈がまかり通るとでも思っているのか」

「おじさんこそそんな駄々をこねていいのかな。秤命原則に反しない限り、勝負は絶対だよ。特別ルールにも私は違反していない。三人のまえで勝負の内容は確認した。言質はとってる。倶楽部宿運はこれまでの流れをすべて監視しているし、聞いてるよ。記録は残ってる。私の勝利がおかしいって言うならそう申し立てすればいい。ただし相応の覚悟はしときなよ。勝者じゃないくせに勝者を気取れば、それなりのペナルティが課せられるのは知っているでしょ」

「しかしおぬしはただ床の駒を拾っただけではないか。何一つ危険を犯していない。こんな勝利は美しくない」

「駄々をこねるなよ、おじさん。みっともないだろ。だいたいあんたら端から組んでてそれで私に勝てなかったからってひがんでんじゃないよまったく。ちなみに公平でありたいから教えておくけど、私、最初から気づいてたからね。おじさんたちが共謀してるって」

「いつからだ」

「最初からって言ったじゃん。ウラちゃんが天越えしたって話をどうやったら私が知らないままでいられるわけ? 倶楽部の情報を教えてもらえる権利を持っている私がさ」

「しかし天越えで得られる情報は一つだったはず」

「誰が決めたのそんなこと。ウラちゃんが何を賭けたのかは知んないけどさ、ちゃんと釣り合う代償を賭ければ、対価はそれなりのものを得られるんだよ知らなかったの。私はちゃんと賭けたよ。私がこれまで関わってきた――私がその気になれば自由にできるすべての人たちの未来を。私の全財産、権力、この命ごとね」

「他人の命まで賭けたというのか。そんなかってがまかり通るとでも」

「関係ないんだよね。大事なのは、私が真実にその人たちの人生を、未来を、掌握可能かってことだけだから。そして倶楽部宿運は、可能だと見做した。そこに賭けが成立した。大事なのはそれだけなんだよおじさん」

 ねえおじさん。

 ツヨコは懐からカカオ七十二パーセントのチョコレートを取りだし、齧る。

「あんた、浅薄だね」

「その決め台詞はしょうじきないと思うがな。それにしてもこの勝負のためだけに原子力発電所を爆破するとはな。そこまでして勝ちに拘りたい理由はなんだ。目的はなんだ。よもや勝ちたいだけとは申すまい」

「これに勝てば私は倶楽部宿運を一度だけ好きに動かせる。いちどだけやってみたかったんだよね」

「なにをだ」

「国家転覆」

「国に喧嘩を売って、それで勝ちたいと申すか」

「戦争にすら発展させず一方的に蹂躙するまでもなく、内側から瓦解させ、塗り替えられたら、それこそ最高の謀略にして、賭け事、勝負になると思わない? 何なら全世界をまとめて相手にしてもいい。世界征服、天下統一、なんでもいいけど、やっちゃダメなことをしてみたい。ルールをきちんと守ったうえでね。公平な勝負のうえで。そのためにはまず準備がいる。手駒がいる。私の引いた線の通りに動く蟻がいる。きょうの勝負はそのための蟻を手に入れるための布石でしかない。古い原発くらいいくらでも壊せるよ。大したことじゃあない」

 遊びをまえにしたらそんなことは些事だよ、些事。

 ツヤコはそう言って、未だ茫然自失として身動きのとれなくなった敗者の姿に目を留める。

 彼女は負け、命を取り立てられる。

 だがその命、ただ刈りとるだけではもったいない。

 敗者の掛け金は勝者のものだ。

 ならば命とて例外ではない。

 その命、我が供物にしてくれよう。現在重宝している手駒がそうであるように、その姉である彼女もまた、さぞかし使い勝手のよい駒となるだろう。願わくは、目のまえのもう一人の対戦者、訓田コトオをもこの手のひらの上に転がす蟻の一匹にしたいものである。

 鴫佐ツヤコは欲に磨きをかけて、そう望む。 




【櫛を梳くタビに】


 祖母の三回忌に形見分けを行った。祖母が亡くなった年は世界的な天災が起こり、葬式どころではなくなった。そのため、三年目の月日を経てのようやくの後処理と言えた。日々の生活にも余裕ができ、祖母の家もそろそろ片付けなくちゃね、となったわけだが、それにしても何もない家だった。

 祖母は早くから夫を亡くし、つまり私にとっての祖父を亡くしているので、ずっと一人で私の母を育ててきた。

 母は大学を卒業後に、バイト先で出会った保険営業の男と出会い、結婚して私が産まれた。祖母は二世帯いっしょに暮らすのを快く思っていなかった様子で、ずっと手持ちの家で暮らしていた。

 足腰が弱り、介護が必要となってからの数年間は母が毎日のように食事や洗濯の世話をしに祖母の家へと足繁く通っていたが、私は数える程度にしか手伝いに行ったことはなかった。祖母にしてみても、孫の手を煩わせるほうが嫌だ、と拒んでいた様子がある。

 祖母が亡くなってから、もうすこし孫孝行をしておけばな、と思ったが、時すでに遅しだ。そう後悔してみせることで良心の呵責を薄めているにすぎないことをむろん私は自覚している。

「欲しいのあったら確保しといてね。残ってるのは全部業者さんに持って行ってもらうから」

「この家はどうするの」

「売っちゃうしかないわよねぇ。二束三文にしかならないだろうけど」

「余計にお金払わなきゃいけないんじゃない」

「粗大ゴミといっしょにしないの」

 祖母の生前にいちど改修工事をした。壁も定期的に塗り替えていた。高値とはいかないだろうが、そこそこの値段で売れるのではないか、と私は内心で思っていた。

 祖母の遺品を見て回ったがとくに目ぼしいものは見当たらない。着物や家具は母が質屋に持っていくと前以って宣言していたので見なかった。どの道、着つけ方も分からない。家具のなかには桐の箪笥や骨董のランプなど、そこそこ値が張りそうなものが交じっていた。

「おばぁちゃんってお金もちだったの」

「どうかなぁ。お母さんはけっこう貧乏だと思ってたけど、思ったより蓄えがあったのかもしれないねぇ」

「口座のお金とかどうしたの」

「半分くらいは相続税でとられちゃったわよ」

「あ、もうそういうの済ませてたんだ」

「そりゃそうよ。お父さんがほとんどしてくれたけど」

「そっか」父は保険を商材にしているだけあって、その辺の制度には詳しいのかもしれなかった。

 三十分ほど漁ると、もういっか、という気になった。欲しいものはないし、たとえあったとしても喉から手が出るほどではない。見逃したとしても腹は痛くない。

「さき帰ってるね」

 母に言い添える。物置小屋から母が、帰っちゃうのぉ、と罪悪感を植えつけるような声をだすので、手伝ってほしいことがあるの、と声に棘をまとわせて訊き返すと、とくにないけどサ、とじつにあっさりした返事である。

 本当にもうあとは捨てちゃうだけだからね、と追い打ちをかけられると、すこしばかりもったいない気がした。

「じゃあもっかい見て回ってなかったら帰る」 

「帰りにじゃあスーパーで食パン買ってきて。お昼は卵に浸して焼いたパンにするから」

「フレンチトーストね。じゃあさきに作って食べてるよ」

「待っててよ」

「じゃあ全部食べちゃお」

「お母さんの分もとっておいてね」

 はいはい、と生返事を残し、私は物置小屋の母を置いて、もういちど祖母の家のなかを見て回った。

 いったい祖母はここで毎日何を思って生きていたのだろう。最期の半年は寝たきりだった。ベッドのうえに敷布団はなく、骨組みだけになっている。私はそこに腰掛けて、ほぉ、と部屋を見渡した。

 目のまえに姿見がある。

 じぶんの姿が鏡に映り、祖母は毎日のようにこれを目にしていたのだな、と思う。

 鏡台にはちいさな引き出しがいくつかついている。中には何が入っているのだろう。宝石とか入ってないかな。

 入っているわけがないと知っていながら私は腰をあげ、鏡台のまえに立ち、引き出しを開けた。

 何も入っていない。 

 なぁんだ。

 ついでにほかの引き出しも開けていくと、一つだけ中身が入っていた。

「櫛だ。きれい」

 鼈甲だろうか。何かの骨を削ったようにも見える。透き通った瑪瑙のごとく材質の櫛が一本だけ残されていた。

「こんなの使ってたんだおばぁちゃん」

 身だしなみだけはしゃんとしたひとだったもんな。

 改めて祖母の姿を思いだし、いつ会っても髪型が整っていて、背筋の伸びたひとだったと感慨深く思った。

 せっかくだし形見の一つでももらっておくか。

 何ももらわずに去るほうが無礼に思え、おばぁちゃんこれもらうね、と念じながら、何気なくじぶんの髪をその櫛で梳いた。

 ピリピリと静電気のような感触がゆびさきを伝った。櫛と髪の毛のあいだにわずかに粘着な抵抗があった。

「なんじゃ?」

 視界に変化が起こる。

 鏡のなかに映っているじぶんの姿が歪み、髪の毛が真っ白くなった。

 いいや、そうではない。

 鏡のなかに映っているじぶんの姿そのものが、別人に変わっているのだ。

「おばぁちゃん?」

 祖母が髪の毛を梳いている。私は腕を止めたけれど、目のまえの祖母はなおも櫛で髪を梳かしつづけた。

 じぶんの姿が祖母に変わったわけではない。

 これは、と思う。

 祖母の過去だ。

 鏡に祖母の過去が映っている。

 櫛を髪から抜くと、祖母の姿は消えた。

 何か考えがあったわけではない。なんとなくもういちど櫛で髪を梳いてみると、こんどは街中の風景が見えぎょっとした。

 視界のなかに鏡はなく、祖母の家のなかですらなかった。

 見知らぬ場所だ。

 すっかり視界が入れ替わるわけではない。祖母の部屋に重なるように、べつのここではない場所の風景が視えている。

 鏡に過去が映っているわけではなさそうだ。

 髪を梳く手を止めると風景は消えた。

 私は櫛を見詰める。

 生唾を呑みこみ、それを持って祖母の家をあとにした。

 祖母の部屋がすこし怖かった。祖母の思念のようなものが櫛に宿っているのかもしれず、或いは部屋を離れれば幻覚は見えなくなるのかもしれなかった。母に頼まれたとおりにスーパーまでパンを買いに寄ったついでに、店のなかで櫛を使うと、こんどは学校のなかの様子が視えた。古い木造の校舎だ。しかしそれを古いと思うのは私の知る校舎と内装が違うからで、床や柱を見てもそれは何十年も経過したような年季の入った木材ではなかった。

 祖母の記憶だ。

 きっとそうだ。

 櫛を梳くのをやめると視界はもとの明瞭さを宿した。いつでも元に戻れる。私は家に戻り、パンを台所に放りだすと自室に引っ込んだ。

 ベッドに腰掛け、櫛で髪を梳かす。そのたびにじぶんのものではない視覚が、私の視界に重なって流れた。

 私は時間の許す限り、髪を梳かしつづけた。

 櫛で髪を梳かす作業そのものが地肌を刺激し、心地よかった。

 祖母の記憶らしき風景は、櫛で髪をひと撫でするたびにころころと変わった。ときに子どもの視界で、ときに少女の、または社会人、恋する乙女、子を持つ母の視界と目まぐるしく変わった。

 私によく似た子どもがひざの上に乗り、これが幼いころの母か、と微妙な気持ちになる。かわいいのだが、素直にかわいいと思ってあげたくない反発心が湧く。私は母にこうしてひざのうえであやされた記憶がなかった。

 髪の梳き方によって、好きな時間軸の風景を見れることに気づいた。櫛のギザギザの先端が地肌に突き刺さるほど深く櫛を髪に埋めると、よりむかしの風景が見えるようだった。

 祖父はどんな人だったのかな。

 私が産まれてくる前に亡くなったからどんな声かも知らないのだ。櫛を操り、ちょうどよい過去の場面を探った。

 祖母は思っていたよりもずっと貧しい家の出だったようだ。祖父にしたところで、じっさいに櫛を通して垣間見ると、あまり柄のよい人物ではなかった。祖母はいつも祖父の暴力と暴言に怯えていた。

 幼き日ころの母はそんな中で、まるで両親の夫婦喧嘩など目に映っていないかのように一人遊びに興じている。

 祖父は出先で不幸に遭って死んだようだ。話には聞いていたが、その事故のあった日の夜の祖母の様子からすると、ただの事故ではなさそうだ。

 暴漢に遭ったのか、それとも喧嘩をしたのか。

 事件と呼んだほうがよさそうな慌ただしさがあった。病院の霊安室に横たわる祖父の遺体、その後に警察らしきひとたちから祖母は調書を受けている。祖母のそばには幼き日の母が、何も分からぬ顔でぬいぐるみのクマを抱いていた。

 見ていられない。

 私は時間を飛ばした。

 祖父亡きあと、どうやって母と祖母は暮らしてきたのか。祖父に遺産があったとは思えない。

 そう言えば私は母から、母の幼いときの話を聞かされた覚えはなかった。祖母との思い出もほとんど聞いたことがない。世の中の母子とはそういうものだろうと漠然とした常識のようなものの枠に押し込めてきたが、なにかしら作為のようなものを感じなくはなかった。

 私は櫛を操り、祖母の記憶のなかに母の姿を探した。

 祖父亡きあとの祖母と母の生活は貧しいという言葉そのものが張りぼてとなって組み立てられたような、笑ってしまいそうなほどに典型的な貧困生活だった。

 四畳半の部屋に、新聞紙で穴の塞がれた障子、壁は薄く、柱との繋ぎ目には小さな穴が開き、ときおり黒い虫がそこを出入りする。

 申し訳程度に家電があるが、それを使っている様子はなかった。

 祖母は日中は近くの工事現場の事務の仕事をし、夜は飲食店で男客の接待をした。そのあいだ母は家で独りで過ごしていたのだろう。ランドセルが床に転がっているから小学校にはあがっていたはずだ。

 胸が苦しい。

 もう見るのはよそうと思い、櫛を引き抜こうとしたところで、病院のベッドが見え、手を止める。慎重にゆっくりとその場面の前後を探った。

 祖母は倒れたようだ。過労だろうか。現実の世界で最近まで生きていたことを思えば重い病気ではないはずだ。案の定、間もなく退院した様子だが、その間、母はどうしていたのだろう。祖母の元に見舞いに訪れた者がいたようには見えなかった。

 その身体ではそれまでのような無茶な働き方はできないはずだ。

 案じたとおり、祖母は家に入りびたりになった。せっかくつづけていた仕事はすべて失い、入院のあいだに体力はぐっと落ちたようだった。

 母はどうなのだろう。この間、祖母の記憶らしき風景には母の姿がすっぽり抜け落ちて見えた。

 櫛の操作で見ることができる場面は、さほどに繊細に選べるわけではなかった。よくて一週間刻み、そうでなければ半年飛ばしで、場面は移ろった。

 つらい日々を見たくなくて私は、母が高校生くらいに長じたころを見ようと思い、櫛を操る。

 そろそろ頭皮が痛くなってきた。

 母も祖母の家から戻ってくるころではないか。祖母の記憶を探りながら、現実の時間の流れにも思いを馳せる。

 自室の箪笥に重なるように母の姿が浮かぶ。若いころの母だ。ずいぶんおとなしい姿だ。いまのわるく言えば厚顔無恥な、図々しい性格からは思いもつかないしずかな娘だった。

 犬に吠えられただけで腰を抜かしそうな脆弱な気配を漂わせている。しかしそれはなんだか妙に艶めかしく、つらつらと蜜に濡らす雌しべのような妙な軽薄さを感じさせた。

 私はなんとなく、もうここで手を止めておくべきではないのか、といった緊迫感を覚えていた。

 このさきは見ないほうがいい。

 直感のささやきに、私はまるでそれこそが逃げであり、じぶんの未来を、活路を塞ぐ隘路のように思い、櫛を握る手にちからをこめた。

 祖母の記憶をさらに洗う。

 狭い畳のある部屋に布団が一式敷いてある。祖母はそのうえで下着を身に着け、見上げる。視線の先には、お札を二枚投げて寄越すスーツ姿の男の姿があった。

 私は急いで、場面を飛ばしたが、そこからさき、しばらくは似たような光景がつづいた。

 時間が進むごとに、祖母の足元には母が転がり、その頬にあざをつくり、ときに頭から水を浴びせられていた。

 声が聞こえないことにこのとき気づく。飽くまでこれは過去の場面であり、映像であり、記憶であり、そこに音声は記録されていないようだった。

 しかし祖母の記憶からは、祖母が怒声を発しているとしか思えないほどに激しく上下に揺れる場面が散見された。

 祖母は母に暴力をふるっていた。

 それはまるでそれ以前に、祖母が祖父にされていたことの再現に思えた。 

 母に抵抗をしている素振りは見受けられなかった。

 どうして、と私は思う。

 母の無抵抗な様子と、なぜ我が娘にそんな真似ができるのか、との祖母への怒りが湧いた。けれどそれら怒りは、もっと大きなやるせなさ、せつなさ、哀しい気持ちに雪崩のごとく流され、埋め尽くされた。

 私は鉄でできた紙芝居をめくるように、つぎの場面を覗き見た。私はすくなくとも現在、母が元気なのを知っている。どうあってもこれはハッピーエンドで終わる喜劇であり、悲劇ではあり得ないと知っていた。

 救いを求めるように私は祖母の記憶を漁る。

 より現在にちかい記憶を、手繰り寄せるように。

 髪はとっくにサラサラで、もはや櫛に伝わる抵抗感はないに等しかった。

 祖母が玄関口を開けると、狭い畳の一室に敷かれた布団が盛り上がっている。蠕動運動をする芋虫のごとく、ひとしきり蠢くとそれは、ぴたりと動きを止めた。祖母はいちど扉を閉じ、そとで煙草の煙をくゆらせる。

 玄関からスーツ姿の男が現れ、祖母にお札を五枚渡した。去っていく男の背中を見届け、祖母は部屋に入る。

 まだあどけなさの残る母が布団のうえで下着の紐を肩にかけていた。

 顔から痣は消えていたが、その素肌には大小さまざまな紫色の斑点が浮いている。

 祖母が何かしらをささやいたらしい。制服に着替えた母はそこで、何かを口にしたようだが、なんと言ったのかは分からない。祖母は空になった煙草の箱を握りつぶし、若い娘でしかない母に投げつけた。

 布団のうえでくしゃくしゃの髪の毛を垂らしたまま、その奥から、おおよそ少女のものとは思えないうつろな眼光が覗く。

 母はもういちど何事かを言ったようだった。

 祖母はそこでしぶしぶといった様子で、五枚のお札から一枚を母に投げつけた。

 母がそれを受け取るより前に私は場面を飛ばした。

 動悸が荒い。

 本当にこれは祖母の記憶なのだろうか。これは彼女の、彼女たちの過去なのだろうか。

 あの濡れた獣のごとく眼光を放った少女は、果たして私の知る母なのか。

 まるで結びつかなかった。

 もうやめておいたほうがよい。

 本能はそう告げているのに、私の理性が、ともすれば危機感が、恐怖心が、その直感に従うのを潔しとはさせなかった。

 私は流されるように、髪に櫛を通す。

 鏡台が見える。

 見知った姿見があり、そこに映るのは祖母の部屋だ。さきほどまでいた祖母の家、そこの一室だ。

 祖母の顔は私の記憶にあるものとほとんど同じだ。だがいくぶん、老けてみえる。縮んで見える。しわくちゃに見える。

 祖母は鏡に触れ、引き出しから櫛を取りだすと髪を梳いた。

 なぜかそこで、櫛を操作していないにも拘わらず、祖母の若かりしころの記憶が流れこむ。二つに重なっていた視界がこんどは三つになる。夢の中の夢じみてそれは、記憶のなかの祖母がさらに記憶を展開する。

 貧しい暮らしのなかで祖母はいつもように帰宅する。扉の奥にこの日は布団はなく、ちゃぶ台のうえにちいさなケーキと箱が載っていた。ケーキには蝋燭が刺さっており、祖母は煙草に火を点けがてら、箱を手に取った。

 蓋を開ける。

 櫛だ。

 鼈甲とも象牙ともつかない、瑪瑙に似た光沢を湛える櫛が中には納まっていた。

 祖母はそこで煙草を口から落とし、その場にしゃがんで嗚咽した。声なき声で呻くように、櫛を胸に抱きしめる。床に転がった煙草を壁に投げつけた。

 以降、祖母は変わったようだった。

 そこからさきの記憶が曖昧なのは或いは、祖母にはそれらの日々を鮮明に残しておけるほどの余裕がなかったからかもしれない。必死だったのだ。必死に生き、必死に育てた。

 我が子を。

 私の母を。

 その手で犯した罪を償うように。

 三つに展開された視界が二つに戻る。ヨボヨボの祖母の視点に回帰した。

 鏡越しに、祖母の背後に誰かの身体が映る。エプロンの柄から母だと判る。

 母はお盆を持っている。

 食事の時間だったようだ。

 祖母をベッドに寝かしつけると、上半身を起こし、スプーンで食事を口に運んだ。

 仲睦まじいとは呼べないが、ほっこりとする母娘の介護の一場面だ。

 偉いな。

 私は母を見直した。

 あなたは偉い。

 もし私なら絶対に許さなかっただろう。それをあなたはこうもうつくしく許し、そのうえ救ってあげたのだ。

 とてもではないが真似できない。

 祖母はきっと救われたことだろう。

 母の愛に。

 親を思う、子の想いに。

 もう充分だ。

 祖母にできなかった孝行を、その分、私は母にしてあげよう。

 最後にと私は、毛先まで整えようと思い、櫛を肩まで下ろす。

 すっかり髪を梳かし終えたその間際に、視界によぎった違和感を私は見逃さなかった。

 なんだろ、いまの。

 見間違いかと思った。

 もういちど見ようと櫛を操るが、いくら髪を梳かしても、櫛はもう祖母の記憶を見せてはくれなかった。或いは、いちど見終わった記憶は櫛のなかから消えてなくなってしまうのかも分からない。飽くまでこれは、祖母が梳かしたがゆえに、櫛の中に溶けこんだ記憶なのかもしれなかった。

 しかし、それにしても、あれはいったい。

「ただいまあ」

 玄関から母の声が聞こえた。お腹ぺこぺこ、と言って居間へと入っていく。台所で手を洗っているのだろう、水の流れる音が止まると、つづけてフライパンを火にかけたようだ。予告どおりにフレンチトーストを作るらしい。

 私はいちど居間に顔をだし、目を合わせぬままに、ちょっと出かけてくる、と言った。

「何かいいのあった?」祖母の遺品のことだろう、母は言った。

「櫛を」反射的に答えてしまって、しまった、と思うが、母が櫛の効能に気づいていたとは思えない。「おばぁちゃんの櫛、もらった」

「そう。いいのもらったわね。パンどうするの。作っちゃったよ」

「すぐ戻るから。忘れ物とってくるだけ。おばぁちゃん家に忘れちゃった」

「ばかねぇ」

 靴箱のうえに置かれた鍵を手にし、靴をひっかけ、そとに出る。

 駆け足で祖母の家まで足を運んだ。

 シンと静まり返った祖母の家は、なんだかお化け屋敷のようで、入るのに気が引けた。

 何をいまさら。

 ちょっと確かめて、気のせいだったと思えばそれでいい。

 私は鍵で玄関扉を開錠し、中に入った。

 祖母の部屋ではなく、台所に立つ。調理場の掃除はまだのようで、調味料や食料がそのままになっている。大概が缶詰やパスタだ。お米もたんまり残っていて、捨てちゃうのかな、と気になったが、いまはそれよりも探すものがある。

 いいや、ここにあるとは限らない。

 なくていいのだ。

 あれはきっと見間違いだった。

 母があんなものを、祖母に食べさせているわけがないのだ。

 ひとしきり台所を漁ったが、目当てのものは見つからなかった。やっぱり気のせいだったのだ。見間違いだった。

 しょせん、幻覚にすぎない。櫛を通して祖母の記憶を覗き見るなんてそんな異質なことが起きるわけがないのだ。

 白昼夢、と唱える。

 祖母の死に、すこし感傷的になった孫が視たいっときの気の迷いだ。幻覚だ。

 はあスッキリした。

 祖母にも、母にだって、あんな悲惨な過去はなかった。何にも増して、母が祖母にあんなものを与えていたなんてひどいことがあるわけがない。

 私は祖母の家をあとにしようとし、廊下に並べられたゴミ袋に目がいった。捨てるモノを母は選別していた。業者に棄ててもらうモノはそのままに、燃えるゴミに出せる分をこうしてゴミ袋に詰めていたが、なぜそんな真似をするのだろう。捨てたくないものをとっておくのは判る。分別するのは判る。だが、いずれ業者が処理してくれる予定があって、なにゆえ捨てるモノを集めるのか。まるで、業者に見られたくないものを前以って処分してしまうための仕事に見えなくもない。

 考えすぎか。

 それはそうだ。

 引っ越しをするときだって、掃除をするものだ。いくら業者が荷造りから丸っと作業を代行してくれるとはいえ、やれることはやっておく。何もふしぎなことはない。

 じぶんに言い聞かせながらも私は、見るだけ、見るだけ、と内心で念じながら、ゴミ袋の口を開けた。

 果たしてそれはそこにあった。

 祖母の衣服やバスタオルに交じって、高血圧の祖母がまず使わないはずの高塩分のフリカケや化学調味料、特濃ソースにケチャップ、高コレステロールのドレッシングやマヨネーズ、インスタント味噌汁などがどっさりと詰まっていた。ご丁寧にもバスタオルでくるまれている。外からは見えないように工夫されている。どれもまだ消費期限は過ぎておらず、封さえ切られていないものまである。

 いったい母は何のためにこれを祖母の代わりに購入し、この家に置いていたのだろう。祖母は老衰ということになっているが、日に日に体調が優れなくなっていったのは知っている。

 高齢ということもあっていつ亡くなってもふしぎではなかった。だが、これといって死んでもいいような大病は患っていなかったのも事実だ。

「何をしているの」

 声がして、心臓が跳ねた。心臓だけでなく、身体がびくりと電気に触れたように弾んだ。

 振り返ると玄関の扉が開いており、隙間から母が顔を半分だけ覗かせている。

「遅いと思ったから見にきたの。どうしたの。何をしているの」

 遅くはないはずだ。台所の棚や引き出しを見て回っただけだ。祖母の家にきて十分も経っていない。

「ゴミを漁るなんて変なコ。何かあった? 欲しいのがあった? おばぁちゃんのお洋服しか入っていなかったと思うけど」

「服が入ってるみたいだから開けてみたけど、私には合わないみたいだったから」私はゴミ袋の口を結び直す。

「忘れ物は? どう? あった?」

「あったよ、あった」私はメディア端末を掲げてみせる。「もうだいじょうぶ」

「そ。じゃあ早く戻りましょ。卵を浸して焼いたパンが冷めちゃう」

「フレンチトーストね」

「櫛」

 母がつぶやき、どきっとする。

「もらったっていう櫛ってどういうの」

「鼈甲みたいなやつ。けっこう高そうで、年季の入った」

「むかしお母さん、おばぁちゃんにプレゼントしたことあってね。ひょっとしてそれかしら」

「どうだろ。見たことないし」

「おばぁちゃん、だいじにしてくれてたのかなぁ。だったらうれしいな」

「だいじにしてたんじゃないかな」

 母は道端に目を留めて、見て、と言った。「たんぽぽもう咲いてる」

「ほんとだね」私は家までのあいだ、母に直接訊いて確かめてみたい衝動に駆られた。だからといって、どう切り出していいのかも分からず、仮に私の思う通りだったとして、ではじぶんがどうするのかを考えると、さしていまと変わらないことに気づき、湧いた疑問は呑みこむことにしておく。

「おばぁちゃんって、薄味のほうが好きだった?」

「なぁに急に。おばぁちゃんは死ぬまで濃ゆい味が好きだったわよ。濃ゆい人生を送ってきたひとだもの」

「そう、なんだ」

 私はためらったのちにこう訊いた。「お母さんも?」

「そりゃもう」母は太鼓判を捺す。「ギットギトの、ネッバネバだったね。ハチミツさながらだもの。お父さんには内緒だけどね」

「そっか。じゃあ、あの櫛はお母さんが持ってたほうがいいかもね」

「あらどうして」

「そんな脂ぎった髪の毛じゃあ、娘の私が恥ずかしいから」

「いやあね。髪の毛の話じゃなかったでしょう。それにあの櫛、けっこう高かったんだから。いい機会だし、もらっときなさい」

「高かったんだ」

「それはもう。とか言って、ぜんぜん違う櫛だったら笑っちゃうけど」

 母の、にっ、と笑う顔を目にして私はもう、きょう視た白昼夢のことはきっぱりと忘れることにした。真実がどうであれ、私は母に長生きしてほしい。過去に囚われずにこうして笑って生きて欲しい。月並みだけれど、濃ゆい人生を送ってきた彼女の娘としてしてあげられる親孝行があるとすればそれくらいのことしかない。

 祖母孝行はできなかったけれど、祖母の娘である母のしあわせを祈るだけでも、それに値する。きっと祖母もそのようにあの世で見做してくれることだろう。

「お母さんは形見分け、なにもらうことにしたの」

「なにも」

「いらないってこと?」

「もう充分にいろんなものをもらったから。それこそ、あなたを産む機会をもらえた。出会う機会をもらえた。それだけでもう充分」

「元はとれた?」

「なんの元よ」

 濃ゆい人生の。

 口走りそうになって、慌てて私は、介護のお世話の、と言い換える。

「不謹慎。なんの手伝いもしてくれなかったくせに。おばぁちゃんもあの世で怒ってるねきっと。カンカンだ」

「そんな心の狭いひとじゃなかったと思うけど」

「そりゃそうよ。孫の人生の邪魔をしなくてよかった。きっとそう思ってるんじゃないかな」

「おばぁちゃんのことよく分かってるんだね。さすが」

 母は無言で私のつむじをゆびで押した。

「なにそれなんの意味があるの」私の野次もなんのその、母はノシノシと歩いて家の玄関を開け放つ。「冷めちゃったよ、食べよ食べよ」

「卵につけて焼いたパンだっけ?」私は言った。

 母は手櫛で髪を整えると、戸棚からハチミツを取りだし、盛り付けてあったお皿のうえにたっぷり垂らす。「フレンチトーストだよ娘よ」 




【魔王の飽食】


 魔王は飽いていた。先日、うるさ型の勇者一行をようやく撃退し、その一族郎党、果てはかの者たちに魔王討伐を依頼した国々ごと、暇つぶしも兼ねて、殺戮した。

 暴虐の限りを尽くした。

 勇者には最期までその光景を見せつけた。目のまえで、親兄妹を生きたまま切り刻み、赤子をつぎつぎに運んでは、勇者の身体を操り、みずからの手で血の果実酒を絞りださせる。

 人間の血肉は美味である。涙ながらに同族を切り刻み、すりつぶし、つぎつぎに調理する勇者の無様な踊りは、余興としては最高だった。

 だがそれも、間もなく飽いてしまった。

 食傷だ。

 食い飽きたし、見飽きてしまった。

 元から似たようなことは各地で繰り返しおこなってきた。森に入り、果実をもぎとって腹を満たす狐と変わらぬ暮らしぶりだったが、そこで現れたのが勇者一行だった。

 楽しかった。

 ぴくりとも動かなくなった勇者の首を片手でもぎとり、これをどうしたものか、と思案しながら、じぶんはこの者と対峙し、あれやこれやと策謀を巡らせ、敵対した日々を楽しんでいたのだと知った。

 その日々は戻らない。

 どうしたものか、と魔王は悩む。

 本能に従い、暴虐の限りを尽くしてきたが、日々それがつづけば暴虐も単なる日常のいち経過に成り下がる。

 人間たちが食事と称してほかの生物種を残虐し、切り刻み、美味と微笑みあって腹に入れる一連の所業をして、冷酷非道とはけして見做さず、自らの暴虐を省みないことと同じだ。

 暴虐を働かねばならぬ。

 より残酷に、この世で最も非道な行いをしたいとの欲求は、日に日に、そうせねばならぬとの使命感、ともすれば焦燥となって魔王に底知れぬ苛立ちを募らせていった。

 この世で最も非道な行いとは何か。

 奪うことだ。

 この世で最も価値のあるものをこの手で奪い、損ない、蔑ろにすることこそが我が生き甲斐である。魔王はかようにおやつ代わりの少女をチビチビと齧りながら、この世で最も価値があるものとは何かに思いを馳せる。

 いったい何であろう。

 何を、誰から奪えば、それが最も非道な行いとなるのか。

 奪うためにはまず、探さねばならぬ。

 この世で最も得難い至高の存在を。

 だがそんなものが果たしてあるのか。

 この世で最も尊いと謳われる命を、これほどに無造作に、無尽蔵に、いくらでも摘み取ってきた。もはやこの世そのものを破壊する以外にないのではないか。

 だが果たして、この世とはそれほどに価値のあるものだろうか。

 魔王は思案する。

 勇者たちは、我が存在を、この世にあってはならぬものそのものだと指弾した。我が存在の一挙一動がもたらす作用そのものが、地獄を生みだすのだと訴えていたが、もしそれが真実だとすれば、この世を破壊し、この世と共に我が存在を亡き者にしてしまえばそれは、忌むべき地獄を消すのと同義であり、けっきょくそれこそがある種の救済となり得るのではないか。

 この世が地獄ならば、この世を奪ったところで、それはけして非道とはならぬ。

 勇者とて、拷問の最中にいくども、殺してくれ、と懇願した。地獄をまえに人は正気を保てない。それを、生きる気を、と言い換えてもよい。

 ならば、どうすればよい。

 魔王は悩みに悩んで、はたと閃く。

 この世を奪ったときに、それがこの世で最も非道な行いとなるように世界のほうをこそ創り変えてしまえばよいのではないか。

 千人の赤子をつぶしてつくった酒を呷りながら魔王は、そうだ、そうだ、と一万人の男衆に殺し合いをさせる。

 人間の幼子が蟻の巣をいたずらにほじくるように、魔王は一万人の殺し合いを眺めつつ、探しだせぬのならばみずからの手で生みだすよりないではないか、と久方ぶりに胸の高鳴りを覚えた。勇者との死闘を経てから優に数百年は経っていたが、ようやくというべきか退屈な日々からの活路が見えた気がした。

 この世を、最も得難い理想の世界に創り変える。

 そのうえで、最も至福の行きわたった時点で、それを奪い去ればよいのだ。

 積みあげて、積みあげて、あと一歩で完成というところで、否、この安寧が永久につづくと誰もが至福に浸かっているところで、すべてを根こそぎ奪い去る。

 暴虐の極致である。

 魔王は鼻息を荒くした。

 与え、与え、与え尽くしてなお与え、永劫つづくそれがこの世の理だと誰しもが見做したところで、平然と取りあげ、破壊し、奪い、奪い、奪い尽くしてなお奪い、死こそが救済と誰もが疑いようなく唱える世界にする。

 想像しただけで恍惚とした。

 魔王はまず、手ごろな赤子をゆびでつまみ、この者にあらんかぎりの至福を与えんと画策した。

 服を与え、住まいを与え、食べ物を供給し、友となる者たちをあてがい、娯楽を、恋を、そしてときおり試練を与えて、乗り越え、成長するよろこびを抱かせた。

 伴侶を選ばせ、子を儲ける余裕をもたらし、さらには大勢からの称賛の声、憧憬の眼差し、尊敬に満ちた交流を築かせる。

 赤子はすくすくと育ち、順調に、少年から青年となり、誰からも親しまれる勇敢で知恵のあるおとなへと昇華する。だが、ある時期を超えるとなかなか他者と関わろうとしなくなった。孤独の殻に引きこもり、ひたすら書物を読み漁る。

 それが最も安らぐ環境であったようだが、これではダメだ。魔王は呻る。なるべくより多くの至福に囲まれてもらわねばならない。繊細に彩られた極楽であればこそ奪うに値する世界となるのだ。

 これでは実験は失敗だ。

 至福の世界をたった一人にすら与えられぬようでは、とうてい世界そのものを塗り替える真似などできはしない。

 だが、まだ遅くはない。

 男は生きている。

 なればいまからでも修正を施し、できる得る限りつぎに活かせる情報を仕入れておこう。

 魔王は娘の姿へと変貌し、男に近寄った。

 男は他者を拒まない。他人を傷つけない。ゆえに魔王扮する娘のことも無視することなく、追いだしたりもせずに、そばにいることを許容した。

 魔王はことさら男に尽くした。声をかけ、笑みを向け、閉めきった部屋の空気を入れ替え、ときに窓を開け放ち、陽の光を入れる。花を生け、子猫を飼い、栄養満点の食事を振る舞い、部屋の掃除を隈なくする。

「どうしてそこまでしてくれるのですか。そんなことをせずとも、欲しいものがあればお譲りしますが」

「あなたさまはどうしてそのようにご立派なのですか」相手を立てるのも忘れない。「まるで魔法使いのように、何でも思いのままに生みだせてしまえるかのようです」

「そういう星のもとに生まれたみたいです。僕の意思とはべつの何かが、僕にあらゆる幸運を運んできてくれます。何かが違う。それは僕に備わった能力ではなく、僕にまとわりつく何かの恩恵のようなものなのです」

「謙虚な方なのですね」

「事実を述べたまでです」

 魔王は多少、男を見直した。思っていた以上に賢い人間だった。かつての勇者を彷彿とする。誰からの教えも受けずに、自らの境遇を的確に見抜いている。自身の周囲にある環境が、じぶんの手によって築かれたものではないと、彼はとっくに見抜いていた。

 見抜かれていた事実に、魔王は多少なりとも面食らった。

 甘い果実にすぎないと思っていたら、生半でない毒を有していたと、腹を下してから知ったような心地だ。愉快である。

 恋心を寄せているかのようにそれとなく醸してみせるが、男にはまったくなびく様子がない。

 娘ではなく青年のほうがよかっただろうか。

 趣旨を間違えたかもしれないと思い、分身して、男の伴侶候補にも化けてみせたが、やはり手ごたえはない。

 それどころか、魔王扮した娘と青年を結び付けようとする始末だ。

 男にはどうあっても誰かと添い遂げるつもりはないのだと判った。それが男の至福の環境なれば邪魔をするのも野暮だろう。かといって、ここで去る真似をすれば、それこそ男から何かを奪ったようなものだ。いちど与えた供物を取り下げるのは魔王としての矜持に障る。

 否々、矜持などと腹の足しにならぬものなど些事である。与えて、与えて、与え尽くした末に奪うからこそ意味がある。

 だがこの考えにはひょっとしたら穴があったかもしれぬ、と思い直す。

 なぜなら男にいくら果報となり得る供物を与えても、満足した様子が窺えないからだ。

 魔王は苦慮した。

 至福とはこうも難儀なものであったのか。つくづく身に染みて理解した。奪えば顕現する暴虐とは一線を画する何かが、至福にはある。おいそれと実現することはできぬのだ。

 ゆえに、奪う価値がある。

 魔王の生き甲斐となり得るのだ。

 魔王は娘と青年の姿を駆使して、男にさまざまな問いを投げかけ、その問答を通して、男が何を欲しているのかを探った。

「何もないんだ。満ち足りている。僕はしあわせなんだろう。ただ、満ち足りてしまったらもうほかに何をすればいいのか分からなくなってしまってね」

 彼は言った。

「僕だけがしあわせでも意味がないのかもしれないとあるとき気づいたんだ。僕は僕だけで満ち足りている、しあわせだ。だのにそのほかの者たちはそうではない」

「あなたさまはみなにたくさんの恵みを配っているではありませんか」

「分け与えたいと思い、そうしてきたつもりだ。でもやはり誰もが僕のようにはなれない。不平等だ。不公平だ。僕はなんの苦労もなくいまの環境を手にしている。そしてそのほんのおこぼれを、みなに分けているだけだ。僕は何も痛くない。失っていない。みなからの感謝を受け、さらに至福が膨れていく。きみ、何かこれがいびつに思えないか」

「いいえ、まったく」

「僕がいなければきっと僕からの恩恵を受けていた者たちは困るだろう。だから自死したりしようとは思わない。ただ、何かが変だ。僕はその違和感を突き止めたい」

 ゆえにこうして書物を読み漁っているのか。

 魔王は合点した。彼は、無意識の領域で、自身がただの傀儡であることに勘付いている。彼は、自身の環境を整えている魔王そのものに会いたがっているのだ。

「その願いが叶わない限りは、あなたさまはしあわせにはなれないのですか」

「勘違いしないでおくれ。僕は恵まれている。しあわせだ。ただ、何かを求めずには、生きていられないことも知っている。何かを求めていたいんだ。そして僕にはもう、これくらいのものしか残されていない」

 なぜ僕だけが恵まれ、みなが僕と同じようになれないのか。

「その謎が解かるまでは、真実に至福とは思えないわけですね」

「どうだろうね。僕はきっと誰より欲深いのだ。謎が消えればまた別の謎を探し、その解明にいそしむのだろうね」

「もしみながあなたさまと同じくらい豊かになれば、すこしは気が晴れますか。もっとみなと繋がり、笑い合えるようになるのでしょうか」

「どうだろうね。みなと繋がり笑いあうことだけがしあわせではないと僕は思うよ。選べることがだいじなんだ」

 なるほど、と思う。

 勉強になる。奪えばひとまずは満ち足りる魔王にはない考えだ。

 魔王は娘と青年の姿を駆使して、男の環境に介在しつづけた。話し相手になり、ときに問題を起こして、男の手を煩わせた。

 男はほかの人間たち同様に年老いていく。

 いちど、世話役の青年に長旅をさせてみた。むろん建前上はという意味であり、魔王が分身を解いて、この世から消し去ってしまったにすぎないが、男はその事実を知らぬままにときおり寂しそうな表情を浮かべ、残りの分身たる娘へ、彼は無事だろうか、手紙は届かないだろうか、と水を向けるようになった。

 彼のほうから言葉をかけてくるのが珍しく、効果があったようだと魔王は内心でほくそ笑む。なんだかんだ言いながら、他人との交流をことのほかこの男は楽しんでいたのだ。

 ならばそれを奪ってやったら悲しむのではないか。

 試しに、青年の分身を無残な死体に加工して、事故死したことにした。男はその事実を知るなり、すっかり塞ぎこんでしまった。

 感情の起伏に乏しい男だと思っていた。

 たった一人、身近な世話人が死んだだけでこうも傷つくものなのか、とかつて市民の死に心を痛め、奮起した勇者の姿と重ね合わせる。

 魔王は娘の姿で男に献身した。

 男はもはや娘を、我が子のような慈しむ対象として見做していた。伴侶となるべく近寄ったが、それは叶わぬままに、期せずして男にとってのだいじな人物となれた。

 魔王はことあるごとに、男から要求を聞きだし、魔王のちからを駆使して男の退屈な日々に潤いをもたらした。

 しかし男の飢えはすぐに乾くようであった。

 もはやこの男は、至福になることそのものが苦痛なのかもしれぬ。魔王はかように考えを改め、そしてこの男からもう何も奪うことはないのだろう、と予感した。

 男は青年を亡くしたことで深く沈みこんだが、却って笑顔を浮かべる頻度が増した。日々のちょっとしたことに努めてよろこびを見出そうとするかのような葛藤が見られた。涙ぐましいその努力は、娘を心配させぬようにとの配慮だけではなく、真実男にとって、望まぬ形であるものの、至福をもたらす契機になってもいるようであった。

 男は、奪われることで至福を感じるゆがんだ存在になっていた。誰より恵まれているがゆえに純粋に至福を味わえぬ者が、傷を負うことで、至福を味わう権利を得られると錯誤するかのような歪みが見られた。むろんそのことを心のどこかしらで直感しているのだろう。引け目を感じているのだろう。拭えぬ罪悪感を胸に、それでも、それゆえに増す、苦痛と至福の板挟みのなかで、男はようやく笑みを浮かべる許しを、じぶん自身に示せたようであった。

 面倒な男だ。

 人間とはかくも複雑で、忌々しく、苛立たしい存在である。

 魔王は男にあらゆる恵みを与え、それを奪ってみせようと画策していたが、この企みは失敗に終わったと言えた。

 与えても、奪っても、男は苦しみ、同時に至福を得る。何をしようがもはやこの男を至福にも、地獄にも突き落とせない。

 いいや、目のまえで百人、千人、一万人の赤子を、娘を、老若男女の阿鼻叫喚を聞かせれば、さすがにこれまでの日々を至福に思い、突きつけられた現実を地獄と見做すだろう。この男に暴虐を働くのは容易である。

 しかしこれは飽くまで実験だ。

 人間一人に究極の至福を与えられてこそ、万人にその環境を共有させ、永久につづく至福の世界を見せることができる。奪うに値する豊かな世界を創りだすことができる。

 だがどうだ。

 たった一人のしがない男すら満足に至福に生かすことができぬではないか。

 これではさきが思いやられる。

 男は大病を患うことなく、齢八十を超したところで寿命を迎えた。

 臨終の間際、魔王は娘の姿で男の枕に立つ。

「おまえはいつまでも若いままだな」

「そのほうがおよろこびになられるかと思いまして」

「愚かなことを言う。年老いる喜びを知ってこそうつくしい。そうではないか」

「ですが老いれば弱ります。いまのあなたさまのように」

「これでよいのだ。死あってこその生なのだから。こうしておまえに看取られ死ぬのだ、これ以上ない至福というよりない」

「至福なのですか」

「当然だ。いままでそばにいてくれてありがとう。うれしかった、しあわせだった。本当の娘のように思っていた」

「ならばいまそれを奪われたらよほどおつらいでしょうね」

「こんなときにそんなことを言うでない」

 男は笑ったが、娘が表情を崩さぬままであったのを目にするとそこに至ってはたと笑みを消した。「おまえは、誰だ」

「わたくしはわたくしでございます。ただ、そうですね。このまま無駄に死なれるのもなんだか癪に思いはじめました。おまえをしあわせにせんとあれこれ手を焼いてきたが、こうも思い通りにならぬとはな」

 男は老いた身体を起こそうとしたようだが、魔王は男の身体を視えぬ縄で縛りつける。ちっちっち、と指をよこに振り、暗に無駄だと示してやった。

 なかなかいまのは魔王らしかったのではないか。久方ぶりに昂揚する。魔王はやはりこうでなくては。

 男の皺だらけの顔が硬直し、死の間際だというのに、生気に漲った。上質の疑問がとめどなく押し寄せていることだろう。恐怖に染まってよい場面でこそ、この男はかような顔をする。やはりまだまだこの男からは学ぶことが多そうだ。

「おまえの望みを叶えつづけてきたが、ようやく一つ目的を果たせそうだ。おまえの最期の至福、奪わせてもらうぞ」

 なにを。

 男がそう呻いたが、魔王は娘の姿のままで男の胸を腕で貫いた。

 絶命して然るべき光景にあって、しかし男は生きている。腕を引き抜くと、魔王の手には男の心臓があり、代わりに男の胸の傷は見る間に塞がった。

「おまえにはもうしばし生きてもらわねばならぬ。わしに教えてくれ。いかにすればこの世を至福で満たせるのかと。おまえならばその道が見えるだろう。いまのおまえならば」

 男の顔からは皺が消え、白髪が消え、肌に艶が宿る。胸板は厚く、腕がねじれるたびに筋が浮きあがる。

「おぬしはもうわしの許しなくして死ぬこともままならぬ。おまえにはあらゆる恵みを与えた。それをすべて奪わせてもらう。おまえの命も、運命もすべて我が手中だ」

「あなたはいったい」

「おまえは知らぬだろう。真実を教えてやる」

 彼の額に指を突き刺し、直接記憶を流しこむ。魔王がこれまでしてきたこと、その来歴、歴史、経緯、娘の姿をとって彼の世話をしてきた裏側でこなしてきた非道の数々、ともすれば彼を豊かにするためにこなしてきた工作を含めて、すっかり植えつけた。

「どうだ、分かったか」

「あなたが、魔王」

「おまえの読んできた書物にはなかった歴史だろう。おまえの知る世界は、わしの手によって狭められた箱庭にすぎん。そのそとではいまなお我がしもべたちが残虐の限りを尽くしている。しかしわしは飽いたのだ。もっと極上の暴虐を働きたい。ゆえにおぬしに課す。わしが奪うに値する世界を築け。わしはそのためならばおまえの手足となろう。どうだ、わるい話ではなかろう」

「いずれはその世界もあなたの手によって奪われるわけですか」

「そうだ。だがそれまではおまえの望みどおりに世界を動かそう。おまえは言っていたな。なにゆえこうまでも世界は不平等で不公平なのかと。しかしそれは違う。いまは違う。おまえには、世界を平等に、公平にするだけのちからがある。わしがそれを与えてやる。その代わり、永劫そのおまえの理想、至福、秩序が築かれた暁には、根こそぎ奪わせてもらおう。むろん、そうさせぬためにおまえが手を抜けばその時点で、すべてを白紙にし、またおまえのような人物を育て、これと同じことを繰り返そう。わしには時間ばかりがあるゆえ、手間がかかりはすれど、それもしょせん暇つぶしにすぎぬ」

「ひどい話ですね」

「では断るか? それも一興。もはやこの世にわしの意に反する者がおらんゆえ、反逆してもらえたほうが愉快と言えば愉快だが」

 かつて勇者がいたことを彼は魔王の植えつけた記憶を通して知っている。そして魔王が勇者に好意とも呼べる感情を寄せていることも承知しているはずだ。 

「分かりました。協力しましょう。この世を至福で溢れさせる。みなにこれ以上ない極上の至福を提供し、共有し、誰もが理想とする社会を築きましょう」

「おう、頼もしいな」

「ですが一つ問題が」

「なんだ言ってみろ」

 魔王は娘の姿のまま箪笥のうえに腰掛ける。男は手の甲に浮かぶ若々しい血管を眺めながら、

「誰もが極上の至福に浸かる世界、掴む世界、しかしそこに魔王、あなたは含まれないのではないですか」

「なんだ、そんなことか。問題なかろう、わしは例外としてよい」

「ですがあなたの部下たちはどうなのですか。この世には、暴虐をこそ至福と思う者たちがおります。その者たちをすべて度外視して、理想の至福に溢れた世がつくれるでしょうか」

「いまいちわからんな。度外視してよいと言うておろう。そも、何の問題もない。順番が多少前後するだけの話だ。わしは我慢をしてやると言うておる。おまえたちをさきに至福にし、その後に、おまえたちを損なうことで、極上の至福を味わう。何が問題だ」

「それを言うならば、魔王、あなたはあなたと似たような者たちには永久に暴虐を働かせることができぬ道理。違いますかな」

「まあ、そうなるな」

「それでは暴虐の極致など、とうてい言えるものではない。違いますか」

「かもしれぬが、しかし」

「魔王。あなたはこの世で最も、強くなければならない。意のままに操れなければならない。奪えなければならない。違いますか」

「何も違わぬが」

 何が言いたい、とねめつける。魔王は思う。少々、こやつを甘やかしていたかもしれぬ。手足を五万回ほど引っこ抜いてやらねば立場というものを弁えないのではないか。魔王は久方ぶりにイライラした。イライラはよい。まるでかつて勇者をまえにしたときのような高揚感を覚える。

「魔王。あなたはもっと大勢の者から奪えるはずです。自由を、至福を。その余地ごと、環境ごと、すべてを奪い、損ない、破壊し、暴虐の極致を手にできるはずなのです」

「そうなのか。ではそれをわしに味わわせろ」

「そのためには魔王、あなたのような方々にも至福になってもらわねばならぬのです。あなた方がその他大勢を損ない、奪い、非道を働きながらも、同時にそれらがみなの至福を侵さぬように」

「無理であろう。さすがのわしでもそれが矛盾であり、あり得ぬことくらいは解かるわ」 

 おぬし、と魔王は腕を壁に向け、その延長線上百キロほどにある土地を消し炭にする。「舐めておるのか、わしを」

「いいえ。あなたさまは本物の魔王なのでしょう。神をも凌ぐ、この世の支配者」

「ならば黙ってわしの言うことをしろ。願いを叶えろ。わしを手足とし、この世を至福の世界に変えるがよい」

 そも、と魔王は思う。じぶんを含めたすべてを至福にし、その後その世界を葬れば、必然、じぶんも死ぬこととなる。それはそれで楽しそうだが、できればいつまでも愉悦に浸っていたい。何度でも繰り返し味わいたい。なればこそ、じぶんは例外だとしてよいのではないか。それこそ傍若無人よろしく暴虐魔人と呼ぶにふさわしいのではないか。

「魔王、だいじなことなのです。あなたが至福になれぬ以上、この世に理想の世界など築けないでしょう」

「何度も言わせるな。わしはわしがしあわせになりたいがゆえに、暴虐の極致を味わいたいのだ。なればこそ、さきにおまえたち脆弱な人間どもが至福につつまれなければならぬのだ」

「では魔王、あなたはいましばし、そのチカラを振るわずに、この世のすべての者たちが至福になるために尽力すると、その手助けをすると、そういうことですか」

「最初からそう言うとろうが。なんじゃおまえ。本当は愚者なのか」

「いいえ、だいじなことゆえ確認をさせていただきたかったのです。そして魔王、あなたは言いましたね。ご自身はまずあとでよろしいと。度外視して構わぬと申しましたね」

「そこまで念を押されると素直に頷きたくなくなるな。仮に、わしを含めたすべての命を至福にしろと命じたとして、おぬしはできると抜かすのか」

「できるかできないか、ではなく、目指すか目指さぬのか。まずはそれこそが肝要かと」

「異議はない。が、達成不能な題目を立て、永久に果たせぬ約束を守りつづけるほどわしも愚かではない。その場合、期限を設けるぞ。おまえがわしを含めたすべての者を至福にしようと、できなかろうと、期限がくればわしはいちど暴虐の限りをすべての命に対してする。構わぬな」

「期限などと言わずに、いますぐにでもされてみてはいかがですか」

「おまえなぁ。話を聞いておったのか。わしは飽いておるのだ。単なる暴虐では何の意味もなかろう。違うか」

「ではやはり、究極の理想の至福に溢れた世界こそを目指さねば、もはや魔王さまは満足されないのではありませんか」

「その通りだがしかし」

「私は魔王、あなたを裏切ったりはしませんよ」

「裏切るやつに限ってそういうことを言いよる」

「ではこうしましょう。魔王、まずはあなたのような存在に対しても暴虐を働いてみましょう。これまでそれをされたことは?」

「配下を血祭にあげろということか」

「はい」

「たしかにないが」

「ではまずはそれを行い、魔王さまの気がどのように変わるのかを私は知りたいと望みますが」

「おまえが言うならそうしよう。いまはわしはおぬしの手足ゆえ」

 魔王は頭上に手のひらを向ける。世界中で殺戮を繰り広げる配下の魔物たちの位置を把握し、見えぬ糸でそれら無数の魔物たちの核を縛った。

 指を閉じ、いっせいに配下の者たちの核を握りつぶす。命を奪った。

「終わったぞ。とくに何も思わぬな。ほかの人間を殺すのとたいして変わらん」

「そうですか。ですがいま、この世界の至福の総量は確実に増えました。魔物たちの感じる至福よりも、それが失われて幸福を覚える者たちの至福のほうが濃度が高いようです」

「なぜそんなことがおぬしに分かる」

「魔王さまがそうお感じになられているからです。違いますか」

「癪だがその通りだ。どうやらわしは、人間たちを蹂躙してこそ愉悦を感じるらしい。虫や獣を蹂躙してもどうも思わん。やはりおまえたち人間に至福を与えてこそ、奪い甲斐を覚えるようだ」

「では、世界中の人間を至福にすべく私は尽力すればよいのですね」

「そう言うておろう。つぎにその言葉を口にしたらおぬしは終わりだ。代わりを用意する」

「それもよいでしょう。そうすれば魔王さま、あなたはこのさき一生、どれほど労を費やしても目的を果たすことができなくなるでしょうからね」

「あまりじぶんを買い被るな。おまえにそれほどの才はない」

「さて、どうでしょうか。たとえば私にはいま、敢えて言わずにいた考えがあります。魔王さまにはそれが何か解りますか」

「いまはもはや我らは一心同体。おまえの考えなどじぶんのことのように解るわ」

 言いながら魔王は男の胸中を探る。どうやら男は、世界中を至福にするためにはまず魔王という存在を亡き者にしなければならない、と考えていたようだ。

「当然の帰結だな。なぜ黙っておった」

「魔王、あなたはご自身がいるからこそ世界がこうも不平等で不公平で、至福の絶えた世界であることにお気づきではなられなかったご様子。いまはどうですか。お考えに違いは生じましたか」

「変わらぬが。わしがおらぬ世界がよいのならば、まずはそうした世界にすればよい。おぬしにはそれができよう。そもそもを言えばわしは、この世が至福につつまれるまでは暴虐を控えようと思っておったのだ。同じことだろう」

「いいえ。人々はいま、この世に魔王という脅威があることを知っています。いったん奇禍がやんでも、またいつやってくるのか、と怯えて過ごすことになりましょう」

「確かにな。では記憶を消すか」

「それをよしとするのであれば、そも麻薬でも幻覚でも、魔王さまの見せたい理想の世界を植えつけて、そのうえで悪夢を見せてやれば済む道理でしょう。私に記憶を植えつけたように。魔王さまはそれで満足なされるのですか」

「いいや。現実でなければ意味がない。真実の至福を与えてこそ、奪うに値する」

「なれば、まずは魔王という脅威を真実にこの世から消さねばならぬでしょう」

「それではおまえはわしに死ねと命じる気か」

「それでは魔王さまの願いは叶わぬでしょう。しかし、人々にそう思いこませることはできます。幻覚ではなく、真実に、魔王という脅威を手放せばよいのです」

「一時的に、か」

「一時的に、です。私がお預かりしてもよろしいですが、信用なさりませんよね」

「構わぬ。どの道、おまえの手足となるつもりだったのだ。魔王としての能力、おぬしに預けよう。世界が至福に満ちたら返してくれ」

 魔王は箪笥の上から飛び降り、未だ床のうえにいる男に近づく。胸に手を押しあて、魔王としての能力を根こそぎ譲渡した。

「これでどうだ」

「ありがとうございます。ちなみに魔王さまはこれまで誰かから暴虐を働かれたことはおありですか」

「ないな」

「ではもし、あなたさまよりも能力の高い者からすべてを奪い、損ない、破滅させ、絶望に突き落とせたとしたら、それは甘美に値しますか」

「さぞ甘美であろうな。おう、そうか。おまえにはいまわしの記憶が根付いておるのだったな。ではおまえはいま、わしからすべてを奪い、損ない、暴虐の限りを尽くすちからを手に入れたわけか」

「だとしても、脆弱な存在となったあなたを損なってもやはり何も感じないでしょうね。意味がありません」

「だろうな。わしはそういう存在だ。だがべつに構わぬぞ。暴虐を働かれるというのも、そこそこに愉快な刺激となろう」

「そんなもので満足してもらっては困ります。魔王、あなたには是が非でも、極上の、暴虐の極致を味わってもらわねば」

「ではどうする」

「私が思うに、至福の世界を築きあげ、それを損なっても大しておもしろくはないように思います。なぜならやはりそれもまた、脆弱な存在を屠るのと原理的には変わらぬからです」

「目から鱗だな。それはそうだ。ではいかがする」

 魔王は前のめりになり、目をぎらつかせる。男は娘の姿の魔王に手を伸ばし、ひょいと持ち上げると太もものうえに載せた。

「私たちで創りだしましょう。世界を平和にし、発展させ、より豊かにしていくなかで、魔王すら凌駕する暴虐の存在を」

「もう一人の魔王をつくろうというのか」

「はい。魔王さまよりも凶悪で、最悪で、醜い怪物を。至福に満ちた世界のなかにあって、その世界にすら染まりきらぬ異形の者を、我らの手で」

「暴虐の極致とは、では」

「はい。珠玉の暴虐を損ない、破滅させ、支配してこそ、暴虐の極致と存じます。魔王さま。あなたに足りなかったのは、暴虐の規模ではなく、矛先です。つねに弱者にばかり向けていたその矛を、もっと理不尽で強大で極悪非道な存在に向けましょう。それを造作もなく制してこそ、暴虐の極致にふさわしい。違いますかな」

「違わん。なんも違わん」

 魔王は興奮して鼻血がでた。

 ほしい、いますぐほしい。

 いますぐそれをここにほしい。

「いつだ、いつそれを生みだせる」

「しばし時間がかかるでしょう。魔王さま。それこそまずはこの世に至福の種をばら撒き、暴虐なる言葉、概念そのもののはびこる余地のない世界を築かねばなりません。そうした一点の曇りなき世界にあってなお芽生える極悪非道の種をまずは見つけなくては」

 魔王の視界にはパチパチと光が散る。世界はこうも希望に溢れ、うつくしかったのか。楽しい、こんなに愉快なことはない。

 はやく、はやくそれをくれ。

 わしによこせ。

 暴虐の極致を。

 最強最悪の極悪非道の種を、わしに。

「魔王、あなたはずっと欲していたのです。暴虐を働きたいのではなく、ただ純粋に、同じ目線で世界を見詰め、ぶつかり合える存在を、ただ望んでいた。なんて卑近でつまらない悩みに蝕まれていたのでしょう。力を誇示し、魔王としての存在意義を確かめつづけなければ満足に息もできない。最強がゆえに弱い存在だったのです」

 男の手のひらが、魔王の頭を撫でる。魔王はその手に身を委ね、男の言葉を子守歌のように聞いた。

「あなたに欠けていたのは、力を振るう矛先でも、じぶんの分身でもない。ましてや、自身を凌ぐ最強最悪の敵でもない。暴虐の極致など端からあなたは望んでいなかった」

 己の存在を全否定するその言葉がふしぎなほどに心地よい。魔王は、否、もはや何の力も持たぬ非力な存在は、娘の姿すら維持できずに、ただ丸くなって男のひざ元で目を閉じる。

「約束は果たしましょう。あなたが言うように、私とあなたはもはや一心同体、運命共同、一蓮托生にして、同じ記憶を分け合ったそれそのもの。しかしあなたは気づいていない。僕は、本当にあなたの献身に、存在に、言葉に、救われていた。そのようにずっと感じていたのです。何も返せないと死ぬ直前に後悔していた、なにかを残してやりたかった、与えてもらってばかりで申し訳なかった。でもこうしてあなたのために生きつづける猶予をもらった。なればこそ、私はあなたを至福に致しましょう。あなたの望みを叶えるのではなく、約束を反故にするのでもなく、いずれは生まれる巨悪をまえに、あなたに極上の生を味わわせてあげましょう」

 暴虐の極致、と魔王だったものはつぶやく。

「与えて、与えて、与え尽くしてなお与え、誰もが疑いようのなく永久につづく安寧が築かれたうえで、奪い、奪い、奪い尽くしてなお奪う、そんな存在が現れたときに、その奪い尽くす暴虐の化身に、あなたの渾身の暴虐をお見舞いしましょう」

 そのためにもまずは、と魔王の能力を預かる男は、魔王だったものの頬をゆびでつまむ。「世界を平和に、豊かに、誰もが至福を抱く余地のある秩序を築きましょう。むろんあなたもそこに含まれる、そんな世界を」

 どれほど時間がかかるかは分かりませんが。

 言い訳がましく付け加える男の声が、壁に開いた穴から吹きこむ夜風に流され、弱まりながらもなお部屋には響いて消え失せない。 




【紙面怪魚】


 竜宮さんは座敷のなかで本に囲まれて暮らしていた。いつ屋敷を訪ねても着流し姿に腕には猫を抱いていて、本の海のなかに凛と沈んでいた。

 年齢は判らない。性別も初見では判断つかなかった。肩まで届く長髪は、素麺みたいに先がひとまとまりに結われていた。つむじから毛先にかけては椿油を塗ったように艶があり、いつでも櫛が通っていて、淡い提灯の明かりを受けてテラテラと光沢を浮かべている。

 竜宮さんの屋敷に行くよう指示した古書店の店主、武蔵野さんからは、竜宮さんが女性であると聞いた。

「ごめんごめん、言ってなかったけね。どうだった、ちゃんとお渡しできた?」

「はい。言われた通りに、屋敷の門で二拝二拍手一拝して、声をかけずにそのまま屋敷のなかに入りました」

「何も言われなかっただろ」

「二つ目の行き止まりの襖を開けたら、中にひとがいて」

「驚いたろ。本がたくさんで」

 竜宮さんのいる部屋は、奥行きが見えないほどに本が積み重なっていた。書架はない。いいや、あったのかもしれないが天井までびっしりと本が詰まれ、まるで本の雪崩でも起きたかのような有様だった。

「あの部屋はまだ序の口でね。これは噂だけど、国立図書館に匹敵するほどの蔵書があるとかなんとか」

「何万冊では足りないですよね」

「何億じゃないかな」

「管理しきれないじゃないですか」

「ね。稀覯本だってあるだろうに、本が可哀そうだ。おっと、これは竜宮さんには内緒だよ」

 武蔵野さんは、はいこれ、と封筒を差しだす。「バイト代。またお使い頼めるようなら頼みたいんだけど」

「お願いします。でも本当にあれだけでよかったんですか」何せバイトと称して頼まれたのは、本を数冊、竜宮さんの屋敷に届けるだけだったのだ。

「私にはできない仕事だからね」武蔵野さんは無精ひげを撫で、「じつを言うと苦手でさ」と眉をひそめた。口元だけをほころばしている。

 何が苦手なのか、と僕は訊かずにおいた。すくなくともあの屋敷に好んで足を運ぼうと思えない気持ちは僕にも理解できた。

 不気味ではない。森閑としていて、屋敷の裏手に竹藪でもあるのだろう、カサカサと風の音がどこまでも景色のなかに寂しげに漂っていた。

 木陰のなかにひっそりと佇む屋敷は、絵巻物の世界から抜け出してきたような、現代とは断裂した異界にある建物に見えた。

 駅の裏路地にひっそりとある武蔵野さんの古書店からは十キロほどの距離だ。その距離を行き来しただけでも長い旅に身を置き、無事帰還したかのような達成感、ともすれば解放感に浸れた。

 苦ではない。

 しかし、何かだいじなものを置き去りにしてきてしまったかのような仄かな消失感をいつも覚えた。そして戻ってくるたびに、もういちど足を運びたいとの衝動が湧き、またすこし時間を置くとこんどはひどく億劫に思えるのだった。

 それはどこか、登山にも似ていた。頂上に登ったとき、或いは下山したばかりのときは、またこよう、と思うのだが、しばらく経つと、温まった身体が冷えたかのように、そうした意気込みは萎んでいるのだった。

 僕は武蔵野さんからの頼みで、月に一、二度ほどの周期で竜宮さんの屋敷に書物を届けた。

 僕のほかにも来客はあるようで、ときおり門のまえに高級そうな車が停まっていたりした。そうしたときは時間をズラして訪問した。

「いつもわるいな、こんな軽い荷物を運ばせて。何度も小分けにせずに一気に注文しろよ、とか思っていることだろう」

「そんなことはまったく」

 竜宮さんは、旅館にあるような脚のない座椅子の背もたれに寄りかかっている。ひじ掛けはあるが、それは椅子とくっついてはいない。独立している。枕にもなりそうな品だ。彼女は腕のなかの猫を放し、部屋から追いだす。僕が行くといつもそうするので、まるで猫の代わりを所望されている気にもなる。

「そう畏まらずともいいんだよ。私はこう見えて、ただの隠居の婆さんだ」

 微塵も老いては見えない。

 まだまだお若いですよ、と訂正するのも却って失礼に思え、黙って頷いておく。若いことがよく、老いることが好ましくない、との価値観のうえにおのずと立ってしまう気がしたからだ。

 竜宮さんは足を崩した。

 裾の合間から素足が覗く。ひざ掛けに体重を預けるようにして頬杖をつくと彼女は、渡した書物に目を通した。書物は洋書のようだ。装丁からすると時代は古い。

「そう言えば、武蔵野くんは元気かい」

「元気ですよ」

 答えてしまってから、これでは武蔵野さんがここにこられるのに嫌だからきていないと白状したようなものだ。そうと気づき、不自然ではないように、いつも忙しそうにしています、と言い足す。

「忙しいのか。まあ、あやつはそうか。なんせ目がいい。セドリにしておくにはもったいないくらいだ」

「竜宮さんも本がお好きなんですね」部屋を見渡す。いまにも外に溢れんばかりの詰めこみようだ。広い部屋なのは判るが、その全貌が見えない。じぶんが小さく思えるほど、本の山に圧倒される。ただし、本を積みあげているだけで管理している素振りがない。これでは本は傷むいっぽうだ。そこのところで、すこしだけ嫌味を言いたくなってしまったのかもしれない。「こんなに本を集めて、どうされるんですか」

「どうもしないが、なんだ。いちおう取り寄せた本はすべて読んでいるぞ」

「これ全部ですか」

「ここにあるのなどほんの一部だが、まあ、そう思われても仕方ないか」

 そこで竜宮さんは僕をじっと見た。「きみは本が好きなのだろう。武蔵野くんが寄越すくらいだ、相当に信用されていると見える」

「そんなことはない気がしますけど」

「いいや、アイツは基本、仕事を他人に任せることはない。よほど私が嫌われたのではない限り、アヤツは注文の品を他人に運ばせる真似などせんだろうよ」

「はあ」

「武蔵野くんとはどこで?」

「お店の掃除を手伝ったのがきっかけです」訊かれることもあるかもしれないと思い、この手の話題は頭のなかで整理してあった。「元々、友人が武蔵野さんのとこでバイトをしていて、そのツテで」

「ふうん」竜宮さんは懐からキセルを取りだすと、火を点けずに口に咥えた。じっと見ていたからだろう、「ハッカだ」と彼女は言った。「風味を楽しむもので、煙をくゆらせたりはしない」

「風流ですね」

「わびさびが判るか。なかなか見どころがある。武蔵野くんが重宝するのも頷ける。無垢であり、そこはかとなく狡猾でもある」

「狡猾ですか」こめかみを掻く。

「狡猾をわるいふうにとるな。ずる賢くなければ生きてはいけない。ズルいというのは、要するにルールや枠組みに従っていないということだ。ルール違反とは厳密には異なる。ゆえに狡猾であることに罰則はない。それを嫉んでわるく言う者があるだけだ」

「はあ」

「狡猾な者は必然、時代の変遷と共に賢いと言われるようになる。ただし、そう呼ばれるまで生きていられたらの話だがな」

「敵を作ってしまう時点で賢いとは言えない気がしますけどね」

 竜宮さんはそこでかっと目を見開き、足の裏で畳を叩くようにした。おもしろい、と彼女がつづけて口にしたので、それが威嚇ではなく拍手の代わりなのだと気づく。

「おもしろいぞ、おもしろい。まことそのとおりだ。狡猾と呼ばれる時点で、敵を作っているな。賢くはない。そのとおりだ」

 竜宮さんの声音は鈴の音のごとく高い。達観した物言いのせいもあるだろう、口調から想像するよりもずっと舌足らずに聞こえる。

「褒められたと思っておきますね」

「褒めているのだよ。私はきみを気に入った。武蔵野くんにはそう伝えてくれ」

「ありがとうございます」

「茶も淹れずにわるかったな」彼女はそこで席を外し、間もなくお盆に茶とカステラを載せて戻ってきた。お構いなく、と声をかけたが、聞こえなかったのかもしれないし、端から聞き入れるつもりがなかったのかもしれない。

 いつもならとっくに屋敷をあとにしている時刻だった。竜宮さんからの質問は尽きることなく、好きな本の話になると、僕のほうでも楽しくなった。

「ほお。あの本を知っているのか」

「読みましたよ。僕もあの本の話をほかのひととできたのが初めてで、びっくりしています」

「ほうか、ほうか」竜宮さんはそこで腕を組み、しばし緘黙した。顔はほころんでいたので、機嫌を損ねたわけではないのだろうが、彼女はこうしてときおり意識をいずこへと旅立たせる。

 二度ほど足を組み替えると彼女はあぐらを組み、任せてみるか、とつぶやいた。

 なんと言ったのか、と反問しようと唇を舌で舐めているあいだに彼女は背後の本の山から一冊を取りだした。

「読めるか」

 受け取り、中を開く。

 顔が曇るのがじぶんでも判った。

 紙面に文字はなく、ただただ真っ黒だった。

「あの、これは」

「ほかの項も見てくれ」

 促されめくるも、どのページも黒一色である。

 否、ときおり色合いが薄れている部位が現れる。段差のように、境のような紋様が浮かんでいるのだが、そこで僕は目を剥いた。

「あの、これ」

「どうした」

「動いてませんか」

 黒にゆるい線が浮かんでいるのだが、それがときに消えたり、ゆったりと場所を移ろったりする。

 紙をゆびでこすり、液晶画面ではないことを確かめる。

 紙だ。

 ゆびでつまんで左右に引っ張れば容易に破けてしまう紙にすぎない。

 だがそこには、ゆったりと流れるマグマさながらに、黒い何かが動いて見えた。

「どうなってるんですか、これ」

「文章は? 読めないのか」

「黒く塗りつぶされているみたいで、しかもこれ、動いて見えるんですけど、そういう映像なんですか」

「黒い? 全部がか」

「それは、ええ」解かっていて渡したのではないのか。僕は竜宮さんに本を開いて中身を見せた。「こうなっていますけど」

 彼女はそこでなぜか僕と紙面を交互に見比べた。

 黒い?

 全部が?

 ぶつぶつとつぶやき、それからいくつかの問いを投げかけた。僕はそれにすべて一言で応じる。全部イエスで答えられる質問だったからだ。

 最後のほうになると竜宮さんは身を乗りだし、いまにも掴みかからんとする剣幕を浮かべたので僕はひるんだ。彼女は僕の怯えを察したように浮かした腰を戻し、無言で何度も頷く。僕の顔から眼を逸らさず、瞬き一つしなかった。

「なるほど、なるほどな。これはまた」

「あの、なにか、その、まずいことでも」

「いいや、けっこう。僥倖、僥倖。取り乱してわるかった、その本を差しあげる」

「いえ、わるいです」だいいち、中身が真っ黒の本をもらっても致し方ない。

「おっと、そうか読めないか。では一つ頼みたい。その本をしばらく持ち歩いてくれないか。そうだな、つぎの配達のときまででいい。ここにくるときにいっしょに持ってきて、私に見せてくれ」

「はあ」

「おそらくそのときまでには読めるようになっているはずだが」

「これがですか」僕は本の表紙をなぞり、印字された題名のオウトツをゆびの腹に感じる。

「武蔵野くんにはその旨を告げておくから、報酬は彼から受け取ってくれ。何、酔狂な婆さんが若者にお小遣いをやりたいと思った、そのていどの他愛もない心配りと思ってくれ」

 断るのも禍根を残しそうに思い、ありがとうございます、と礼を述べる。

「くれぐれもその本は肌身離さず、失くさずにおくれね。つぎに私に見せるまでは、絶対だ」

 念を押すと竜宮さんは手元の、僕が届けた本を開き、あとはもう僕が声をかけようが、おじゃましました、と座敷から出ていこうが、その本から目をあげることはなかった。

 武蔵野さんには電波越しに、文章をしたため報告した。竜宮さんと言葉を交わし、親睦を深め、気に入られたかもしれないといった旨をそれとなく伝える。

 本を預かったことはなんと言ったものか、と悩んだが、詳しいことは竜宮さんから連絡がいく予定であるのを思いだし、箇条書きで事実のみを並べた。

 返信はすぐになく、三日後に、武蔵野さんからは、すまない、という言葉と共に、その本は絶対に失くしてはいけない、との熱烈なと言えばよいのだろうか、言葉が並んでいた。ある種の説得じみた研ぎ澄まされた熱のようなものが滲んで感じられ、僕は、竜宮さんからの言いつけ通りに、それをつぎの配達の依頼があるまで肌身離さずに持ち歩いた。

 武蔵野さんからはそれからしばらく連絡がなく、いったいいつまで本を持ち歩けばよいのだろうか、と不安になりはじめたころ、また配達を頼みたいのだが、と連絡が入った。竜宮さんの屋敷を訪れてからひと月が経っていた。

 電波を介した文章での連絡だった。配達の品を受け取るためにお店に伺います、と返信したのだが、武蔵野さんは、今回はきみが屋敷に行くだけでいいそうだよ、とこれまでとは打って変わった屈託のない文章が返ってきて、僕は戸惑った。

 いちど会って話をしたいのですが、と告げたが、返信はなく、お店に足を運んだが、しばらく店を閉じます、と貼り紙があって、僕はますます困惑した。

 これまでの経緯からすれば僕は武蔵野さんの頼みを断れない。断る道理も見繕えなかった。

 竜宮さんの屋敷を訪れる以外に選択肢がなく、それにしたところで何が困るわけでもないにも拘わらず僕は、どうにも気が重たくなってしまい、家に引きこもりたい気持ちが募った。

 もちろん武蔵野さんの頼みを無下にはできない。こなすしかない。

 預かった本とて、竜宮さんにお返しせねばならないし、ようやく本との共同生活から抜けだせると思えば、やはり断る道理は見当たらないのだが、それにしたところで、僕にはどうあっても、というほどではないにしろ、できればもう竜宮さんとは関わりあいたくのない衝動のようなものが胸のうちに根づきはじめていた。

 というのも僕はこの期間、竜宮さんから預かった本を読めてしまったのである。

 全項、どこを開いても真っ黒に染まった本には、いまは、ふしぎと文章が載っている。小説だ。母国語であるので読み解けるのは当然として、炙りだしでもあるまいし、白い紙面につらつらと文字が連なっている。

 ほかの本ではない。

 取り違えたのでもなければ、入れ替えられたのでもない。僕はずっと肌身離さず、言われた通り持ち歩いた。

 僕の部屋に僕が寝ているあいだに誰かが忍び込まないかぎり、或いはお風呂に入っているあいだに入れ替えないかぎりは、この本は竜宮さんの屋敷で渡された本と寸分たがわず同じであるはずだった。

 それがどうだ。

 いまは中身は黒くなく、緩慢に流れる黒の濃淡も窺えない。

 単なる本だ。

 すこし装丁の豪勢な、古い、稀覯本と言って遜色のない、流暢な文章の、上質な本である。

 古いからなのか、開く項によっては、汚れていたりする。ひどい項では、文字が潰れて読めない箇所もあったが、抜かして読んでもそこに記された物語は興味深く、僕はすっかりその本の虜になっていた。

 とはいえ、正気を失ったり、精神に異常をきたすほどの熱の入れようではない。魅了されてはいない。そこまでではない。

 そのくせ、紙面が黒く染まっていたときには動画のごとく揺らぐ紋様を、当惑しつつとはいえ受け入れていた。いまはそれが消えたことを受け入れ、妙だなと思いつつも、そういうこともあるのだろうなと何の考えもなく、理解を拒むことすらせずに呑み込んでいる。

 僕がどう考えようと最新機器は離れた場所の風景を鮮明に映しだす時代である。本の項が黒く染まり、それとなく泥のように流れ移ろうくらいのことはあるかもしれず、その程度の現実を目の当たりにしたくらいでは瞠目するに値しないのかもしれなかった。

 漠然としかし僕は、そうした違和感をいつでもゆびでつまんでいじくりまわせる日々のなかで、これ以上のことは起こってくれるなよ、といった怯えのようなものを覚えつつあった。

 端的に、竜宮さんとは関わりあいたくなかった。

 あの人は、すこしと言わずして、こわい。

 ひとあたりがよく、物怖じせず、ひとを楽しませることに長け、有無を言わさずひとを惹きつけ、操る術を携えている。

 近づけば退屈しない日々を得られる代わりに、取り返しのつかない何かを背負わされる気がした。

 この直感はほとほと予感めいていた。

 だから僕は、武蔵野さんから指定された日時がくるまで本を肌身離さず持ち歩きながら、努めてその中身に目を落とす真似をしなかった。物語は通しでいちど読んでいる。心残りはない。あとは竜宮さんにお返しするのみだ。

 彼女はその本を、僕にあげると、いちどは言ったが、僕がそれを断ったことで、そこらへんの取り決めがなあなあになったままである。よい機会だ。すっかり返品し、運び屋の真似事は金輪際しないと告げよう。

 引退する。

 僕があの屋敷に行くのも、竜宮さんに会うのも、あといちどきりにする。

 固い決心を胸に僕は、笹の葉の擦れあう静寂の音色につつまれた街道を抜け、門のまえに立ち、例のごとく神社にするように参拝をして、小路(こみち)を渡り、屋敷のなかに足を踏み入れた。

 いつもはしないお香の匂いがした。

 足音を立てたつもりはなかったのに、襖に手をかける前から、よくきたね、と奥のほうから声がした。

 中に入ると、深紅の着物から襦袢の白い布を覗かせ、竜宮さんが横になりながら手で頭を支えていた。きょうは猫がいない。本を読んでいたようで、そこに座って待っててくれ、と彼女は言った。

 せんべいを齧っているが、とても硬い品なのか、彼女が噛み砕いても欠片は畳に零れなかった。思えばこの屋敷は時間が停まったかのように、いつ赴いても掃除が行き届いている。埃一つない。

 山積みの本にしたところでそうだ。

 まるで動かした様子がないにも拘わらず、表面の革の細かな起伏までもが部屋の僅かな明かりに照らされて、湖面のごとく乱反射のきらめきを放っている。

「すまないね、なかなか区切りが見つからなくて」

 本を閉じてから竜宮さんは身を起こした。座椅子に居直る。「調子のほうはどうかな。何か変わったことは」

「はい。その、本が読めるようになっていて」僕は本の変化を話した。竜宮さんの口ぶりからは、こうなることを想定していたような響きが窺えた。「黒かった中身が、いまはふつうの本に」

「ほお。どれ見せておくれ」

 手渡すと、彼女はなぜか両手で恭しく受け取る。眠たげだった目がいまは爛々と輝き、舌なめずりをしてから彼女は本を開いた。

 ぺらぺらとめくる。

 半分ほどだろうか、ある項に目を留めると、はたと手を止めた。目を見開き、本を持つ手が震えている。

「汚してしまっていたらすみません」異様な彼女の様子に僕は謝罪した。「なるべく丁寧に扱っていたつもりなのですが、なにぶん、ずっと肌身離さずに持ち歩いていたもので」

「いや、構わんよ。約束を果たしてくれていたことを感謝したい。これは予想以上だ。こんなことがあるなんて」

「何か、その、僕がお役に立てましたか」

「大いに。大きすぎるほどに」彼女は僕を見た。「武蔵野くんから礼は受け取ったかね」

「いえ、じつはまだ。その、予定が合わずに会えずじまいでして」

「ならばちょうどいい。何か欲しいものはないか。何でもいい、言ってみてくれ。自動車でも、家でも、恋人でも、それこそ金ならいくらでも、言い値で払ってやろう」

「そんな、いいですよ。こんな、本を預かっていたくらいのことで」冗談かと思い、敢えて軽薄に受け答えしたが、竜宮さんの表情が険しくなったので、僕は居住まいを正した。「すみません。あの、本当に何もいりません。そう、きょうはそのこともあって。武蔵野さんにはあとで言うつもりだったのですが、この仕事はきょうでお終いにさせてほしいなと思いまして」

「いかん。許さん。誰がそれを許可するというのだ。私は認めんぞ」

「と言われましても」

「これを見てもまだそんなことが言えるのか」

 彼女は慎重に本の端を持って、掲げる。中身を僕に見せつけるようにし、

「こんなことはいままでなかった。ウナギの養殖なんて次元の話ではない。卵を産ませたのだぞきみは」

 急に話についていけなくなり、僕は途方に暮れた。本の中身に異変はなく、文字が並んでいる。

 ほかの項に比べて汚れが目立つが、だからといって別段目くじらを立てるほどのことでもない。汚れは元からついていたものだ。

 いや、竜宮さんは怒っているわけではないようだ。柳眉こそ逆立てているが、それは憤怒というよりもどちらかと言えば興奮と呼ぶべき感情の発露に思われる。

「卵とは、その、僕にはよく」

「よく見ろ。これだ。おまえにはこれが汚れに見えるのか。私に見えるのだ、おまえにだって見えるだろう。よく見てみろ」

 彼女はしきりに紙面の一か所を指さした。紙に触れぬように、しかしそこにある一点を逃さぬように。

 僕は身を乗りだし、本に顔を近づける。

 目を細め、よくよく凝視し、そして、ああ、とじぶんが勘違いをしていた事実を認めた。

「卵ですね。ほんとだ。汚れかと思っていました」

 汚れではなかった。

 絵だ。

 小学生のころに見たメダカの卵を連想する。半透明ではなく色は黒い。一種、キャビアのようでもあった。

「元から描かれていたということでしょうか。挿絵か何かなんですかね」

「紙面怪魚だ」

「シメンカイ?」

「紙面怪魚。私はそのために古今東西から本を蒐集していると言ってもいい。いや、それはいまはいい。話したところで通じるとも思えん」

 竜宮さんはそこではっと何かを閃いたように天井を見上げ、ゆっくりと眼玉だけを僕に向けた。

「ひょっとしてもう孵っているのか」

「あの、僕そろそろお暇をしようかと」

 尋常ではない。

 彼女は平常ではなく、何かしらの異常をきたしている。それがいまだけの一時的な錯乱なのか、疾患のような治療を必要とする症状なのかは判断できない。よしんばただのイタズラだったとしても、はっきり言えば僕には付き合いきれなかった。

 座布団から尻を引っぺがして、痺れかけた足を引きずって座敷を抜けだそうとした。

「待て待て」

 素早い動きで竜宮さんは僕のまえに立ちはだかる。襖を閉じた。

「いましばし時間をくれ。ひと目でいい、もういちどこれを読んで、何かそう、このあいだのような動くものがないかを見てくれないか。ないならないでいい。私にはどの道見ることができぬのだ。しかしきみは、あろうことか、主を見た。呼び寄せた、とそれを言い換えてもいい。ときどきあるのだ。産卵期に、共鳴する者のもとに誘われて、主級の紙面怪魚が現れる」

「すみません、僕にはちょっとむつかしい話で」

「解かるよ、解かる。こんなことを急に言われても戸惑うだけだよな。それはそうだ。しかしいまいちど時間が欲しい、頼みを聞いてくれ。礼はする。何でも叶える。だからこの本に、稚魚がいないかを見てほしい。卵から孵った個体があるのやもしれぬのだ」

 竜宮さんは僕の胸倉を掴む。とてもひとに物を懇願する態度とは思えぬ剣幕だ。

 彼女は言った。

「黒い、ちいさな、動くものが見えないか」

 この本に。

 目のまえに突きつけられる。僕にするのとは正反対の繊細な手つきでつまみあげられた本を僕は不承不承、というよりもどちらかと言えば反論の余地すら挟まぬ彼女の迫力に根負けし、受け取った。

「見るだけですよ」

 本を開き、ぱらぱらと素早く、それでいて丹念に動くものがないかと紙面に目をそそぐ。

 速読ではない。

 文字の羅列を辿らなくてよい。

 紙魚のごとく、ダニのように、紙のうえに動くものがないかを探せばよいだけだ。なければ終わる。本を押し返し、有無を言わさずに立ち去ればいい。

 逃げだしたって失礼に当たらない場面だ。

 襲われているようなものだ。

 迫られているのだ、現に僕は危害を加えられるのではないか、と恐怖を覚えている。

 ゆえに僕は本気で彼女を満足させ、言い訳のしようもないほどに、なにもないことを示そうと、本のなかの異物を探った。

 あるはずのないものを真剣に探した。

 すっかり見終わって本を閉じる――その予定であったはずが、意に反して僕のゆびは、目は、ある項で止まった。

 何かがいた。

 泳いでいた。

 紙面を、文字の合間を、そのわずかな隙間を、悠々と波紋すら浮かべるようにして黒く細長いモノが、一匹と言わずして、数匹ほど、群れをなして泳いでいた。

「どうした、いたか」

「いえ」

 僕はなぜかここでそれの存在を認めないほうがよい気がした。いいや、そうではない。

 竜宮さん、彼女にこの存在を告げないほうが、じぶんにとって、よいことのように思った。

 どうしてそんなふうに考えたのかは分からない。いくら考えても、論理的な、筋の通った結論ではなかった。選択肢ではなかった。解ではなかったのだ。

 ただただ本能に従い、それを告げることがみずからの破滅に繋がると直感した。

 言うべきではない。

 かといってすでに手を止めてしまった。いまさら誤魔化しがきくだろうか。僕に見えているこの黒い存在が、彼女に見えていないなどということがあり得るのか。

 もしそんなことがあり得たならば、尋常ではないのは僕のほうであり、異質なのは僕のほうこそであり、医者の診察を受けるべきなのは僕のほうだということになる。

 だが、それでもよいと思った。

 何が問題あろうか。 

 異質でけっこう。

 病気で何がわるい。

 いま避けるべきは、そんな他者からの評価ではない。すでに生じた事象への解釈ではない。これから幕を開けるかもしれない狭苦しく、じゅくじゅくとした牢獄への袋小路だ。

 僕はどうしても、そっちに行くわけにはいかなかった。

 行きたくはないのだと、目と鼻のさきにいる僕よりも二回りはちいさな女性に、喉元に突きつけられた毒牙と似た嫌悪感、危機感、脅威を覚えながら、いかにこの場を切り抜けるかに思考を割いた。

 全力を尽くした。

 イチかバチかの賭けにでた。

 ゆびをふたたび動かし、紙をめくる。最後の項までめくり、いちど閉じてからもういちど最初から目を通す。やはり途中で、細長い黒くちいさなモノを見つけたが、敢えて見逃して、看過して、見なかったふりをした。

 こんどこそ本を、ぱたりと、二度と開くものかと念をこめるように閉じる。

「何もありませんでした」

「まことか。それは真実、嘘偽りなくまことと誓えるか」

 僕は唾液を呑みこむのを我慢できなかった。「はい」

 さようか。

 見るからに肩を落とし、彼女は僕からそっと本を奪うと、慈しむように胸に抱いた。

「まあよい。卵があればいずれ孵ろう。偉業には違いない。僥倖には違いないのだ」

 座椅子に崩れ落ちるように納まると彼女は言った。「礼はする。金でよいな。武蔵野くんに言い添えておく。いまいちど訊くが、もう手伝ってはくれぬのか」

「すみません」

「いやいい。もしまた気が向いたらいつでもよい。声をかけてくれ。言い値で雇おう」

 ここで暮らしてくれても構わぬが、と冗談に聞こえるような台詞を至極真面目に投じられ、うれしいお誘いですが、と丁重に断る。

「見送りにでたいが、すまない。めまいがしてな。老体にはこの手の刺激はつよすぎる」

「まだまだお若いではないですか」ついつい口を衝く。

 彼女は無言で手を払う。去(い)ね、と暗に言われた気がした。

 一礼をして座敷をあとにし、屋敷のそとにでる。

 門を過ぎたところで、武蔵野さんがしばらく店を留守にしていることを伝え忘れたことに思い至ったが、いまは一刻も早く笹の葉の奏でる静寂の届かぬ場所に行きたかった。どれほど見渡しても屋敷までの道すがらに竹は一本も生えておらず、屋敷の見える範囲に、ほかの民家も見当たらなかった。

 武蔵野さんへは幾度か会話による通信を試みたが、けっきょく一度も通じなかった。竜宮さんへの配達仕事はごめん被るが、古書店の掃除や店番ならばいつでも手伝うと、これは電波越しの文章で送信した。

 既読がつかぬままに僕の報告は放置され、つぎに古書店のまえを通ったときには、閉店のお知らせが貼られていた。

 武蔵野さんならばどこに行っても生きていけるだろう。

 これまでいちども下りるところを見たことのなかったシャッターが入り口を塞いでおり、店内が見えず、あれほどの貴重な本の数々をどうしたのか、それだけが気がかりだった。

 あとになってときおりふとした拍子に、竜宮さんのことを思いだす。彼女から見せてもらった本には、三つの異質な紙面があった。

 黒い項。

 卵の項。

 細長く黒いちいさきモノの蠢く項。

 僕の見た幻覚でしかないはずのそれらに、しかし竜宮さんの発した一言がいつまでも僕に、白昼夢の烙印を捺させてくれない。

 最初に見た全項の真っ黒い本を僕は幾度も脳裏に思い描き、そこにゆったりと流れる黒の濃淡を思った。

 仮に、紙面を一つの窓とすれば、あそこにはマグマのごとく何か黒く大きなモノが流れていた。

 それは、大蛇のごとくとぐろを巻きながら、その表層を紙面に擦りつけるように泳いでいたのではないか。

 水草に卵を植えつける魚のごとく、そのナニカは、僕の手にした本を苗床とした。

 妄想にすぎないそれを僕は、書物に目を通すたびに、或いは読み終わった瞬間、それとも文字の羅列から連想が飛躍を生み、紙面から遠く離れた世界を幻視するときどきに、うっすらと思いだす。

 書物の海を、文字の連なりをねぐらにして、回遊し、産卵し、孵化して育つナニカシラがいるとして、それはなぜ僕の手にした書物に姿を見せ、僕にだけその姿を認めさせたのか。

 あれほど書物に囲まれ暮らす竜宮さんではなく、どうして僕に。

 考えても詮のなきことだ。いずれ僕の妄想に違いはない。たとえそうでないとしたところで、僕には、それらの体験をいまある暮らしに反映させる術がない。持ちようがない。何も知らぬままなのだ。

 アレが何なのか。

 竜宮さんが誰なのか。

 それを訊ねるひとすらいまはもう、いない。

 武蔵野さんは元気にしているだろうか。

 元気でありたいがために彼はきっと、この街から去ったのだろうとそう思うことにしている。

 僕が竜宮さんと縁を切り、もうにどとあの屋敷を訪れまいと決意したのと同じように、あのひとは姿を晦ましたのだろう。

 旅や登山がそうであるように、ほんのときおりだけれども、また、本に埋もれたあの座敷を覗いてみたい気持ちが湧く。

 聞こえもしないししおどしの音が耳の奥にこだまする静寂のなかで、つまらなそうに、一心不乱に、書物を読みふける竜宮さんの、額から意識の糸を垂らし、何かを吊りあげんとする姿を、ほんのときどき、何かの気まぐれのように目に焼きつけたくなる。

 本を手にして、目をつぶる。

 ゆびの腹だけで紙面をこするが、むろん何かの蠢きを感じることはない。いまはどの本も表紙はツルツルとしていて、題名一つ読み取れない。

 もしも僕が魚なら、どこにも卵を産みつけられずにとっくに絶滅していることだろう。それともほかに、引っかかりのある水草のようなものを探して、澄んだ水底にでも生みつけるだろうか。

 書物のなかの文字そのものがそうした卵のように思えるときがある。読書なる営みは、絶えず卵を孵す反復の波だ。そうした読解されて広がる波のなかにしか息衝けぬモノも、きっとどこかにはあるだろう。物語そのものがそうした異質な、幻影そのものと言ってもよい気がするが、果たしてこれもまた僕の妄想にすぎないのだろうか。

 僕のような者たちの手によって、目によって、思考によって、いちどこの世に生み落とされた物語はいったいどこへと向かうのか。

 本を閉じて霧散するのが一つの答えとしてある反面、そうでない答えもあってよい。

 紙面のなかの文字の合間を、縫って、泳いで、旅をする。

 僕はたぶん、そういうものにならばなってもよい。

 僕のそうした望みに呼応して、ナニカシラの影が寄ってきてくれたのなら、それほどうれしいことはないのだと、断ち切ったあとだからこそ思える数奇な夢幻を、僕はこうして植えつけておく。

 卵の絡まる余地を残すためにも。

 孵化する土壌をつくるためにも。

 この世にあるはずのない、僕にしか視えぬ鱗の連なりで、大海原を黒く染めあげる。

 そんな夢想を過去の記憶に重ね見て、僕は幾度も回顧する。

 回遊する怪魚のごとく。

 卵から孵る稚魚のごとく。

 紙面を翔ける、龍のごとく。 




【もげた翼を投げないで】


 道路に人が倒れていたらどうするか。駆け寄って声をかけながら救急車を呼ぶくらいしかすることがない。

 では倒れていたのが人ではなかったらどうするだろう。

 義務教育では習っていないし、親からだってそんな局面の対処法を教えてもらってはいない。

 脳裏に浮かんだのは、かつて摂取した様々な虚構の物語での主人公のとった行動だ。

 家に運び、匿う。

 もちろん僕はそうした。救急車を呼ぶのに抵抗を覚えるほどに、人目を避けたほうがよさそうな装いを、その人はしていたからだ。

 道路に倒れていたのは、背中から大量に出血した天使らしき人物だった。なぜ僕がその者を天使と見做したのかについては、背中から翼が生えていたからだ、と答えるよりない。片っぽの翼しかない。もういっぽうは根元から千切れているようであった。地面に目を配るが、そこにもげた翼は見当たらず、僕は唾液を呑みこむと、その人物をじぶんの部屋のあるアパートまで運んだ。

 距離が近かったのがさいわいだ。

 あとで思い返してもみれば、これはとるべき対処ではなかった。誤った判断であるし、早まった行動だ。しかし僕は思うのだが、人間というものは、日々の言動にしたところでそれほど深く考えて行動に起こしているわけではない。習慣であるし、惰性である。多くは反射だろう。会話なんてその最たるものだ。こうきたらこうする、といった一種スポーツのような反復練習の繰り返しによって身に付いた型を、刺激に応じて返しているだけだ。

 ゆえに、初めて直面する事態ではどうしてよいのか分からない。文学に仮に役割があるとすれば、初めて直面する悲劇や喜劇においてどのように振舞えばよいのかを前以って追体験できる点だろう。予行演習ができる。或いは、現在進行形で直面している現実を俯瞰して眺め、対処を講じることができる。じぶんを見詰め直すことができる。

 部屋に血だらけの人物を運び込んでから、真っ赤なじぶんの手のひらを目にして、僕は後悔した。これではいまさら救急車も、警察も呼べないではないか。

 思えば、もげた翼がそばになかった時点で、これは事故ではない。誰かしらがこの人物を襲ったのだ。

 犯人と疑われてもおかしくない。

 僕は血の気が引いた。

 しかしいまはじぶんの保身を考えている場合ではない。まずはこのひとを助けなくては。

 背中の傷を焼酎で消毒し、止血をする。ガーゼ代わりに煮沸消毒をしたTシャツの切れ端をあてがい、上からさらに細く裂いた布で縛り付ける。包帯がないのでTシャツを裂いて代用品にするしかなかった。

 僕にできるのはここまでだ。あとは当人の治癒力もとより体力に頼るしかない。

 僕のほうが汗だくの血だらけだった。

 ほかに何かできることはないか、と考えながら、シャワーを浴びに浴室に入るが、その前に、と思い留まり、居間に踵を返す。

 貴重品や見られたくないものを金庫に仕舞っておくことにした。

 金庫は、大学のサークルで使うので以前購入したものだ。イベントの受付けで預かった支払金やお釣りを仕舞っておくのに使う。五十センチ四方の立方体で、両腕で抱えてようやく持ち上げられるくらいの重量がある。

 ダイヤルを回して施錠する。

 ふだんは張らない湯を湯船にそそいで、この日は身体の芯まで温まった。

 これからのことを考えようとするが、何をどうすればいいのか見当もつかない。

 それはそうだ。こんな事態に遭遇するなんて夢にも思わなかった。想定をしたこともない。

 やはり選択を誤ったかもしれない。

 救急車を呼んで、ほかのひとを頼るべきだった。

 いまからでも遅くないのではないか。

 性別は不明だが、翼を背中から生やしたそのひとをいまいちど屋外の安全な場所へと運び、匿名で病院に連絡する。逆探知がこわいけれど、救急車を呼ぶだけならだいじょうぶではないか。

 仮にあとで警察に突き止められても、わるいことをしたわけではない。そのときは正直にじぶんのしたことを話せば済む。

 そうだ、それがいい。

 いちど結論付けたそうした考えも、浴室からあがり、着替え、居間に寝ているそのひとの、月光が人型をとったような姿かたち、顔の造形を目にしてしまうと、なんだか、もうすこしここに寝かせておきたい衝動が湧いた。

 衝動でありながらそれは炭火の熱のごとく淡くいつまでも胸に留まりつづけた。陽がのぼって、ふたたび沈んでからも僕は、そのひとを部屋に置いたままにした。

 衰弱したらすぐにでも救急車を呼ぼうと覚悟していたが、意に反して、その人物は食事もとらないのに刻々と顔色をよくした。定期的に水だけは飲ませていたが、水道水は口に合わないらしく、いちど沸騰させた湯冷ましでなければ飲んでくれなかった。

 ずっと眠ったままだ。

 排せつ物の心配をしていたのに、そのひとはまったくそれらをする様子がなかった。漏らす素振りもない。

 天使のような、というよりも、このひとはまさしく天使なのではないか、と僕は妄想を逞しくするものの、果たして天使が真実存在するのかは知る由もないし、確かめようもない。仮に実在したとして、なにゆえ血まみれで道路に倒れていたりするのだろう。

 天使を襲う悪魔のような者がいるということだろうか。

 だとすれば僕はその脅威からこのひとを守ってあげたい。

 僕にそう思わせるだけの何かが、このひとの造形にはあった。手放したくない、穢されたくない、そばに置いておきたい、と思わせる何かが、このひとからは光のごとく仄かに放たれて映った。

 神々しいのではない。

 庇護し、慈しみ、所有したいと望ませる魔にも似た魅力がある。

 どんな声をしているのか。

 どんな人格が宿っているのか。

 いっそ目覚めずにこうして世話をしていられたら、と冗談半分に妄想し、さすがにそれはひどいやつすぎるな、と自己嫌悪を手のひらに載せて、もてあそぶ。

 四日目の朝にゴミ捨てから戻ってくると、ソファのうえでそのひとが上半身を起こしていた。目覚めたのだ。

 胸をさすりながら、部屋をゆっくりと見まわしている。

「だいじょうぶですか」まずは声をかけた。

 つぶらな瞳がこちらを向く。

「あの、心配しないでください。危害を加えたりはしないので。道路に倒れていたので、ここに運んで、治療というと大袈裟ですけど、血が流れていたようなので、それで」

 胴体に巻きつけた布切れを指さす。「身体の具合はどうですか。つらくはないですか。お腹空きませんか、何か食べられるものがあれば言ってもらえたら買ってきますけど」

 湯を沸かしに台所に立つ。 

 返事がなく、しばらくしてから、言葉が通じないのかも、と思い至った。目鼻立ちからすれば、異国の人種と見做したほうが正しいように思えたが、やはり背中から生えた翼からすれば、それすら妥当ではないのかもしれなかった。。

「あの、僕の言ってること、分かりますか」

「ここは?」

 正直安堵した。言葉は通じるようだ。

「僕の部屋です。安アパートですけど、ほかに誰も住んでいません。あの、傷の具合はどうですか」

「傷?」

「背中の、その、翼が」

 もげていた旨を知っているのだろうか。気づいていないとすれば酷な宣告になる。僕にしてみれば腕や脚がなくなっているようなものだ。

 そのひとは背中を丸めた。意識を肩甲骨の辺りにそそいでいるようだ。顔を顰めたので、傷口が痛んだのだと判る。

 それからそのひとはおっかなびっくり、背中に手を回し、そこにあるはずの、しかしいまはもうない物を探った。

「道路にはありませんでした。きっとどこかで落としてしまったか、誰かが持ち去ったか」

 いま訊くことではないかもしれなかったが、確かめずにはおられなかった。「あの、あなたは天使さまなんですか」

「わたしは」

 声から性別は判別できない。もし天使ならばそもそも性別なんてくくりはないのだろう。

「天使ではないと思う」と返ってきたので、僕は安堵と落胆をいっしょくたに覚えた。天使だったら僕にはどうすることもできない。このままさよならをするのが最も理に適った判断だ。しかし、天使でないならば、いましばらく僕にもできることがあるように思えた。反面、僕は、そのひとに、天使であってほしくもあったようだとじぶんの落胆ぶりを通して知り、そんなじぶんの気持ちに驚いた。

 できるだけそのひとに特別な何かであってほしいとの望みが僕にはあったらしい。それはひどく醜い感情に思えた。

 僕はそのひとに名を訊き、そのひとはヤナイと名乗った。じぶんが誰でどこから来たのかを憶えているか、と訊ねると、そのひとは頷いたが、説明しようとはしなかった。

「言いたくなければ言わなくてよいのですけど、詳しい経緯なんかを、憶えている範囲で教えてもらえませんか。どうして倒れていたのかも含めて、知っていてたほうが何かと協力できると思うので」

「匿ってくださるのですか」

「それは、ええ。そのつもりだったんですけど」

 白湯を渡すが、そのひとは手を付けなかった。冷めるを待っていたようだ。僕のほうでさきにじぶんの側面像をひとしきり話して伝えると、そのひとはようやく白湯に口をつけた。

「大学生の方なんですね」

「いまは休みなので、暇なんですけどね。バイトはまあ、ちょうど辞めたばかりで」

「困らないんでしょうか」

 ここに居座っても迷惑ではないのか、と訊きたいのだろう。

「親からの仕送りがあるのでお金はだいじょうぶです。部屋も、こんな狭苦しいところでよければ。あの、食べ物とか苦手な物はありますか」

 話が逸れたので、そのひとの内情に沿う話題を振った。

「わたしたちは物を食べません。食べられないことはないのですが、ガラクの物を食べると身体が不調に」

「すみません、ガラクとは?」

 そこでそのひとはきょとんとした。それから、ああ、と目元だけをほころばし、

「この世界のことをわたしたちはそう呼んでいます。わたしたちはガラク、この世界とは違った階層で暮らしています。フフラ、とわたしたちは呼んでいます。あなた方も亡くなられると、そちらの世界、フフラへと移行します。そのなかでフフラに同調可能な者が、わたしたちのような翼を生やし、そこで暮らしていくこととなります」

 つまりそれはあなたが天使だということなのでは、との疑問は呑み込み、

「適性のある者、という意味ですよね」と相槌を打つ。「もし翼を生やせなければ?」

「消えてなくなるしかありません。そもそも肉体はこちらの世界で朽ちているので。同調可能な者のみが新たな肉体を得られるのです」

「フフラでしたっけ? そこで純粋に産まれた者たちはいないのですか。つまり、生殖ができるのか、ということですが」

 こちらの世界での記憶はあるのだろうか、と疑問が押し寄せるが、順番に訊いていくしかない。

「生殖はできません。かつては純粋なフフラの民もいたと思います。ただし、いまはほとんどが元はガラクの生まれです」

「誰でも死ねばフフラへ行くんでしょうか」

「いいえ。誰を呼ぶかは、わたしたちが選びます。あなた方がわたしたちを天使と呼ぶのは、おそらくそれに関係しているのでしょう。稀にわたしたちと接触したのちに蘇生する者があります。記憶が残っていれば、その体験をこちらの世界で語り継ぐこともあるでしょう。ですが、あなたがたのおっしゃる天使というものと、わたしたちの属性はかけ離れているものかと」

「フフラへ渡った死者に、こちら側での記憶は?」

「人によりけりです。死因によって肉体の損傷具合が異なりますし、何よりフフラへと渡るには相応の負荷がかかります。わたしたちのように翼があれば別ですが」

「翼がなければ渡れない、ということでしょうか」

「わたしたちの補助がなければ、そうですね。ですからわたしたちに選ばれた者しかフフラへは渡れません」

 言い換えるならそれは、翼を半分失った者もまた容易には戻れないということではないのか。

「フフラへはその、怪我が治れば戻れるのですか。あなたは」

「どうでしょう。翼を完全に失くしてしまったらもう戻れはしないのですが、まだ片方は残っておりますし、元々空を飛ぶためのものではないので。いわば切符みたいなものかもしれません」

「戻れるかはまだ分からないんですね」

「お邪魔ならば、是非、遠慮なさらずにおっしゃってください。わたしたちはこう見えて頑丈です。あなた方のように雨風を苦ともしません。いざとなれば、何とでもなりますから」

「警察に補導されちゃうかもしれませんよ」これは冗句のつもりで言った。

「その手のあしらい方には慣れています。周波数とでも呼べばよいのでしょうか」

 このように、とそのひとは苦悶の表情を浮かべながら、姿を半透明にした。「ガラクを離れ、よりフフラに近い階層に潜ることで、姿を晦ますこともできます」

「でも半透明でしたよ」

「すこし傷が痛んでしまって」

「ならもうしばらくはここで休んでいってください。傷が癒えるまでは。もちろん、嫌でなければですけど」

「ありがとうございます。助かります。ですが、あなたのほうでご迷惑ではないでしょうか」

「まったく。何でしたらずっとここにいてもらってもいいですよ」

 本心のつもりだったが、どう聞いても冗談にしか聞こえないだろう。案の定、そのひとは戸惑いの間を空けたのちに、

「お優しいのですね」

 天使としか形容のしようのない笑みを浮かべた。

 数日を、一つ屋根の下で暮らしているあいだに僕はそのひとをヤナイと名前で呼ぶのに抵抗がなくなった。

 ヤナイに性別はなかった。生殖行為をする必要がないからだろう。ただ、あちらの世界にも娯楽としての性行為はあるらしく、そのときどきで役柄を好きに選べるのだそうだ。

 ほかにもいくつかハッキリしたことがある。ヤナイたちはどうやら嘘を吐けないらしい。嘘を吐くたびに翼の羽が抜け落ちるのだそうで、嘘を吐いていると一目で喝破される以上、嘘を吐くメリットがない。それはこちらの世界にいるあいだにも有効な現象であり、現に目のまえで、わたしは人間です、と嘘を吐いてもらうとヤナイの翼から羽が一本抜け落ちた。

「こんなことでたいせつな羽を無駄にしないでください」僕は慌てて羽を拾った。

「片っぽだけあっても仕方がないですから。いっそのことこの翼もとってしまったほうが楽かもしれませんし」

「なんてことを」僕はヤナイからずり落ちた毛布を掛け直す。この数日のあいだにソファの上がヤナイの居場所となった。「言いたくなければ答えなくてもいいです。でもやっぱり知っておきたいので。何があったんですか。どこで何があってそんなひどい怪我を」

「言いたくないです。ただ、わたしはとれた翼を探すためにあの場所にいました。見つけ出せば、もういちど背中につけることができる気がして」

「あの近くで落としたんですか」

「なんとなくですが、翼の在処が解かるんです。本当にただ漠然とした方向みたいなものでしかないんですけど、この近くのどこかに落ちている気がして」

「ならあとで探してきますね。でも見つけても手術をしなければ元には」

 戻らないのではないか、と僕は思ったが、ヤナイは口元をやわらげた。

「だいじょうぶです。わたしたちの身体は粘土細工のようなものなので。じぶんの身体であれば、元に戻せます。原形を留めていないとなるとさすがに無理かもしれませんが、気配が感じられるので、まだなんとかなる気がします」

「そう、ですか」

「どうしてそう親切にしてくださるのですか」ヤナイはソファの上から覗き込むように小首を傾げる。それだけの所作を目にするだけで僕の胸は詰まり、部屋がぱっと明るくなって感じられる。「どうしても何も、困っているひとを放ってはおけないじゃないですか」

「わたしはひとではないのに?」

「僕には区別をつける必要があるとは思いません。困っているのでしょう?」

「あなたは犬でも猫でも、困っていたら匿ってしまいそうですね」

「犬でも猫でも困っていたら世話を焼きますよ」

「いいひとですね」

「じつはそうでもないんですけどね」僕は照れ臭くてそんなことを口走る。

 ヤナイを拾ってから一週間もすると、おおむねの事情は把握できた。ヤナイは元の世界であるフフラには戻れない。羽を両方取り戻さねば帰ることができないのだ。そしてその失った翼はこの近辺にあるらしい。

 ヤナイは嘘を吐けない。ただし言いたくないことは言わずにいられるし、翼の羽が抜けても構わないのであれば、嘘を吐くことはできる。すぐに喝破されるので、あまり意味のある嘘にはならないのだろうが。

 また、ヤナイは食事をとらなくて済むようだ。かといって物理法則を無視しているわけでもなさそうで、単にエネルギィの消費の仕方が僕ら人類よりもゆっくりなだけのようだと僕は見做している。

 つまるところ、元の世界に戻れなければ遠からずヤナイは衰弱していくだろう、というのが僕の見立てだった。

 いちどこの考えを伝えたところ、そうかもしれない、とヤナイは認めた。

「ときどきわたしの世界にもいたんです。フフラではなくガラクで暮らすのだと言って、出ていく者が。しかしそうした者たちは二度と戻ってはきませんでした。戻らないのか、戻れないのか、誰も知りません。戻れなくなった者とは連絡の取りようがなく、また戻れなくなったということはすなわち翼を失くしてしまったということでもあるでしょうから。翼のない者の位置を、その存在を、わたしたちは感知できません」

「両方の翼がなくなったらどうなってしまうんですか」

「たぶん、わたしたちはわたしたちではいられなくなると思います」

「消えてしまうということですか」死ぬと、そういうことなのだろうか。

「そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。見たことがないし、わたしたちの誰もそうしたことに興味がありません。言い方がわるいのですが、ガラクの人々、その世界がどうなろうと構わない、と無意識のうちから誰もが考えているようです。いかにガラクからわたしたちのような者を拾いあげるか。考えるべきはそこであり、ガラクの世界の在り様ではない。ガラクの民の生き方などしょせんは足元の下で起きていることにすぎないのでしょう。わたしはそうした考えに馴染めずにいたので、きっとそのせいなのでしょうね、あんなことに」

 ヤナイはそこではっとした様子で口をつぐんだ。本来は黙っておきたかったことなのだろう。ついつい口を滑らせたといったところか。

「お仲間に傷つけられたのですか」僕はヤナイの足元にひざまずき、探り探りヤナイの手の甲に手を重ねる。ひんやりと冷たい。まるで銅像のようだ。

「言いたくありません」

「すみません。でも、だったらそんなところに戻らずに、ずっとここにいればいいじゃないですか。バイトを増やせばもっと広い部屋に移ることもできますし」

「そんなご迷惑はかけられません」

「いいんですよ。乗り掛かった舟です」

 小首を傾げられ、僕は恥ずかしくなる。諺が伝わらなかったときの対処方も学校で教えてほしいと望むものだ。「僕はなんでか、あなたに不幸になってほしくはないみたいです。あなたが嫌でなければ、ずっとここにいたらいいんじゃないですか」

 食費がかからないうえ、部屋を汚すこともない。言い方はわるいが、猫を飼うよりもよほど楽だ。動く等身大の人形がいるようなものであり、僕にはまったく損がない。それで人助けになるのなら精神衛生のうえで得をする。ましてや相手は天使のごとく造形のヤナイだ。翼が片っぽしかないこと一つとっても、何か腹の底をなぞられる倒錯を覚える。

「お優しいんですね」

 ことあるごとにヤナイは僕をそう評した。僕はそのたびに一定時間、ヤナイの顔を見られなくなる。

 じぶんの胸の内に芽生える罪悪の芽を刈り取るように僕は、 

「ヤナイさんのその言葉が皮肉に聞こえてしまうのは、きっと僕が本当はまったくやさしくないからだと思います。僕は僕のためにあなたにここにいてほしいんです。せめて傷が癒えるまで。このさきどうしたらいいのかが解かるまでは、ここに」

「いいのですか」

「僕のほうでお願いをしているんです」

「でもわたしには何もお返しできるものがないので」

「何もいりませんよ」

「そんなわけには」

 僕はヤナイのまえに膝をついて、ヤナイの顔を見上げている。ヤナイはソファのうえで膝を抱え、ひざ掛けに寄りかかるようにして座っていたが、そこで身体ごと僕に向き直る。上から目を覗きこむと、

「あなたたちは快楽は好きですか。気持ちよいことは好きですか」

 僕はその言葉の意味を理解していた。それとなくいつかはそういう方向に誘導しようと企んでいたのだとこのときじぶんの邪悪な心根に気づかされたが、罪悪感を覚えるよりさきに、自己嫌悪を覚えるよりもさきに、僕は、無垢を装い、ヤナイの善良なる奉仕の心に身を委ねるべく、

「嫌いじゃないですけど」

 ヤナイの手の甲をゆびでなぞった。「好きだったら、どうなるんですか」

 膝にかけていた毛布をほどきヤナイはそれを頭から被った。それから両手で毛布を広げ、まるで翼を広げたコウモリのように僕を真上から包みこむ。

 促されるように、吊り上げられるようにして僕は、ソファにあがり、ヤナイのうえに、馬乗りになった。

 ヤナイの手のちからはまるで機械のようで、抗いきれずに、もちろん僕には抗う気がなかっただけだけれど、ヤナイの首筋に顔を埋めた。よい匂いがした。花というよりも、お菓子のような、甘く、美味しそうな匂いだ。

 言葉はなかった。

 ヤナイの唇が僕の耳を食む。あとはもう僕はその冷たい吐息の甘いくすぐるような感触に流され、たゆたい、骨の髄まで浸かった。

 ひとしきり甘美な時間を過ごし、荒い息の反響する虚空を眺めていると、

「どっちがよいか分からなくて、両方のままでしてしまいました。だいじょうぶでしたか」

 ヤナイが遅ればせながらの気をきかせてきたので、

「気にしなくていいですよ」僕はくすくすと肩を弾ませてみせる。「いちばん楽な状態で。わざわざ何かを変えようとしなくていいです。もし両方であることでヤナイさんの快感が増すならそのほうがよいとは思いますけど」

「気持ちわるくはないですか。その、偏見でしかないのですが、きみたちはじぶんたちと異なる形状の存在を忌避するといった教えを耳にしたことがあったものですから」

「そういうひともいるとは思いますし、僕にもそういった傾向はあると思います。でも、ヤナイさんに対してはどうしてだか、そのままでいてほしいと素直に、心の底から思います」

「これですこしはお役に立てたでしょうか。わたしにはこれくらいしかしてあげられることがないのですけど」

「これは役に立つとか、立たないとか、そういう範疇のことではないと思うんですけど。お返しのつもりでしたなら、もうしてもらわなくていいです。ただ、単純にもし僕ともういちどこういうことがしたいと望んでいるのなら、僕はもっとずっと毎日でもヤナイさんとこういうことがしたいんですけど。でも、お返しとか、そういうつもりなら、きょうでこれはやめましょう」

「したいです。わたしたちにとってこういった触れ合いは、相手との距離を縮めるための、いわば共同作業のようなもので」

「いいですね。共同作業。もっといろいろ試してみたいです」

 ヤナイはそこで初めて、僕のことを訊いた。どういう人生を歩んできて、何が好きで、どういうものを嫌うのか。

 僕はヤナイからの質問にできるだけ具体的に答えた。ヤナイのまとう空気はいつも鉄じみた冷たさを帯びて感じられたが、ヤナイの僕への興味の言葉からはじんわりと伝わる熱が感じられた。

 僕はヤナイからの熱をできるだけ引きだそうと、なるべくつぎの質問を投げかけやすいように、敢えて引っかかりを残した。そうした回答ばかりを口にした。

 いちど途切れた質問も、時間差で引っかかりに気づくのか、ヤナイはしばらくすると、じゃあれはどうなんですか、と途切れた心拍がふたたび鼓動を蘇らせるように、渡り鳥の羽ばたきのように、詰問の、滑空と飛行を繰り返した。

 僕はヤナイから向けられる熱が心地よく、僕のほうこそ滾る熱を持て余していると悟られたくなくて、努めてそれら熱量をおもてに発散せぬようにした。

 その代わり、日課となったヤナイとの共同作業では、ひときわ大量の、熱を、ヤナイの体内にほとばしらせた。

 まるでこうなることこそを望んでいたように、こうすることを目的にヤナイを拾い、匿ったのだとじぶんで錯覚しかけるほどに、僕はヤナイとの熱の交換を、飽きることなく反復した。

 ヤナイの言葉から熱を奪い、僕は僕の皮膚からヤナイに熱を奪われる。

 ヤナイの身体と触れあっていると、鉄を手のひらで握っているときのようにヤナイの肉体は僕の体温に馴染んでいった。それは僕に、ヤナイとの同化を錯覚させるに充分なぬくもりを感じさせた。

 僕は体温を奪われているにすぎないのに、僕の感じるぬくもりは僕自身の体温であるはずなのに、僕を包みこむぬくもりは、まるで僕のために存在する羽毛のようで、僕はただただ誕生を待ちわびる羽化寸前の雛鳥のようにヤナイから感じる熱量に身を委ね、絶えず押し寄せる快楽の余韻、その波に、ゆりかごのごとく揺さぶられた。

「ヤナイさんは何のためにここに降りてきたんですか」ヤナイの世界、フフラは別に天上にあるわけではないのに、どうしてもヤナイは上から降りてきたようにしゃべってしまう。僕の問いかけにヤナイは、「探していたんです」と言った。

「探して?」

「わたしの新しい、永久に、そばにいてくれる相手を。ただ、わたしは仲間たちと違って、みなが選ばぬような相手に惹かれてしまうようです。いつだってわたしの選ぶ相手は、ほかのみなの反対にあって、フフラの住人として迎え入れられることなく、消えてしまいます」

「それは、悲しいですね」

「悲しいです」 

「ひょっとしてのこの辺りに、そういった、いちどは見初めたひとがいたのですか」

「もしいたとしても、とっくに亡くなっているでしょうね。わたしが迎えにきたということはそういうことなので」

 ヤナイの翼からひらりと翼が抜けた。僕とヤナイのあいだに落下したので、否応なく目に留まる。

「抜けちゃいましたね」僕は平静を装った。

「すみません、嘘を吐いてしまいました。嘘のつもりはなかったのですが、羽が抜けたということはそういうことなのでしょう。じつはこの辺りに、気になっているひとがいたんです。まだ死ぬ予定のない、若い人です」

「いちおう確かめておきたいんですけど、それって僕ではないんですよね」うぬぼれと判っていても僕は訊かずにはおれなかった。

 ヤナイは眉根を寄せ、口元だけをほころばせる。それだけの所作で、これ以上はわたしの口からは言わせないでほしい、との願いが透けて見えた。

「会いたいですか。もしどういうひとかを教えてもらえたら、僕が探してきますけど」

 いま僕に翼が生えていたらきっと根こそぎ抜け落ちていただろう。心にもないことを口にしている。できるだけヤナイから立派で、心の根の優しい、そばにいっしょにいたいと思える相手に見えるように演技している。

 ヤナイは首を振った。

「もういいんです。飽くまで、フフラに連れて帰りたかった相手にすぎません。こうしてガラクでいっしょにいたい相手ではないんです。おそらくわたしはもう、フフラには戻れないでしょう」

「そう、なんですか」解かりきっていたことだ。

「翼も、これほど長く切り離されたままでは、たとえ見つけられたとしても元には戻れないと思うんです。だったらもう、わたしはこの世界で生きていけるようにじぶんを変えていくしかないのではないかと、ちょうど考えていたところなので」

「じぶんを変えるというのは、その」

「わかりません」

 羽がまた一枚、ひらりと舞う。「ガラクの住人になれば或いは生きながらえることもできるのかもしれませんが、その方法もわたしはよく知らないのです」

 羽が舞う。

 ひらり、ひらりと。

 目についていないわけがない。

 にも拘わらずヤナイはしゃべりつづける。

「フフラを去った者たちがどうして戻ってこないのか。わたしはずっと気になっていました。フフラの民でありながらわたしだけがガラクに興味を持ちつづけていた。考えられる筋書きはそう多くはありません。消えたか、ガラクに順応したか。でも、わたしたちはガラクには長く留まれません。フフラへと帰れなければ、ガラクの空気そのものがわたしたちの身体を、翼を、蝕むからです。ならばどうすればよいのか。どうやってほかの者たちはガラクに順応したのか」

「あの、ヤナイさん。羽が。翼が蒼く」

 羽の抜け落ちていく翼は、インクが染みこんでいくように蒼く斑に変色していく。

「わたしはたぶん、探していたのだと思います。わたしと似たような者を。ガラクにありながら、フフラの世界を拒まずに、興味をそそぎ合える存在を」

 ヤナイは僕を見て、それからたっぷり肺に息を吸いこみ、

「嫌いです」と口にする。「大っ嫌いです。いますぐわたしのまえから消えて欲しいですし、死んでほしいです。金輪際近づかないで欲しいですし、一生不幸に、死にたいと嘱望しながら、暗く険しい道を歩みつづけ、苦しんでほしいとわたしは心底そう願っています」

 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、ヤナイはじぶんの肩をじぶんで抱く。そうしてうずくまりながら、すみません、とつぶやく。「しばらくわたしを見ないでいてくださいませんか」

 翼はすでに闇夜のごとく蒼く枯れており、羽は落葉を思わせる勢いで、はらはらと床に舞った。

 羽は床に触れるたびに粉となって、霧散する。

 ヤナイの背中からは一本の痛々しい虫歯がごとく翼の骨格だけが残る。蒼くボロボロに炭化して見える。

 翼に留まらず、ヤナイの肉体そのものが斑に蒼く変色しはじめ、僕はどうしたらよいのか分からず、おろおろとするしかなかった。

「なにか僕にできることは」

「誓ってくれませんか。一生そばにいると、ただわたしのそばにいて、この世界のことを、きみのことを、教えてくれると、ただそれだけを誓ってくれませんか」

 僕は唯々諾々とヤナイの手をとり、一生そばにいます、といまにも崩れ落ちそうな皮膚に口づけをした。

 カシャン、と軽い音がした。

 床を見遣ると、そこには蒼い棒状のものが転がっており、徐々に砕け、間もなく床に染みこむように見えなくなった。

 ヤナイを見遣る。

 その背中からは翼がきれいさっぱり消え失せており、あれほど部屋が明るく見えた輝きも、その身体からは消え去って映った。ヤナイの身体からは蒼い染みは消え、その皮膚に触れてももう、僕はそれを冷たいとは思わなかった。

「翼が」僕はそのひとの背中に手を回し、そこにある傷跡のような細かな起伏をゆびでなぞる。火傷の跡のようにも、鱗のようにも感じられた。

「わたしはもう、フフラとは完全に切り離されてしまいました。ガラクの食べ物を食べなければ生きていけませんし、雨風に濡れれば病にかかり、すぐに弱ってしまうでしょう。これまでのわたしではなく、たぶんと言わずしてきみの重荷にしかならないと思います。いまならまだ、きみが責任を負う必要はないんですよ」

 暗に、出て行けと言われたら出ていきます、とヤナイの瞳が訴えている。たしかに僕はヤナイの、生き物とは思えない性質、それでいて生き物から得られるありったけの恩恵に惹かれて、この部屋に居座る許可をだした。留まるように仕向けた。

 けれどそれだけではない。

 僕はもっとヤナイのことを知りたかったし、これからだって知りたいと欲している。僕のことも知ってほしいし、知らないじぶんの側面に気づかせてほしい。

「このさきどうなるかは分からないけど」僕はヤナイの首筋に手を添え、そこに浮きでる血管のオウトツを指の腹に感じながら、「いまはまだここにいて欲しいと思ってる」と告げる。

 ヤナイは目元をやわらかくゆるめ、何か食べてみたいな、と言った。

 それからというもの、ヤナイは僕の部屋で暮らしている。僕はヤナイの食費を稼ぐためにバイトを掛け持ちし、ヘトヘトになりながら家に帰って、そこでもヤナイとの快楽を伴なった共同作業によって満身創痍の様相となる。ヤナイにはこの世界のことを学んでもらわねばならない。そのための学費も工面する。いずれは戸籍をつくって、名実ともにガラクの民にしようと企てているが、どうすればそれが適うかはまだ勉強中だ。

「これ美味しい」ヤナイはひたすら食についてばかり学習する。いくら食べても太らないのはうらやましいが、食費の概念をさきに覚えさせるべきだった。

「トイレにはちゃんと行きなよ。またお腹ぱつんぱつんになって痛いって騒ぐはめになるよ」

「そのときはまた掻きだして」

「恥辱の概念も教えこまなきゃだめだなこりゃ」

 ヤナイにはゆいいつ、翼のあったころの名残が残っている。傷跡のことではない。共同作業のときにそれをいつも目の当たりにするけれど、とくにこれといってどうも思わないじぶんの気質には、やはりというべきか新鮮な驚きを覚える。ヤナイはさいきん、じぶんのそれを使ってみたいと、役柄の交代を申しでてくるが、いまのところは断っている。浮気の概念も早急に叩きこんでおくべきだろう。何かと窮屈に思うたびに不満げな顔を見せてくれるようになったのは、素直にうれしいのだが。

「あ、ここにあったケーキどうした」

「ん、うーん」

「冷蔵庫に入れておいたんだけど」

「知らない、知らないです」

 本当にか、と詰め寄ると、ヤナイは口元を手の甲でぐしぐし拭ってから、うん、とうなづく。嘘の上手なつき方だけは、いましばらくは教えずにおこう。

「買ってくる。きょうは僕の誕生日でね。いっしょに祝いたかった」

「誕生日?」

「それも含めて教えておこうと思ったんだよ。いいから留守番してて。すぐに戻る」

 ヤナイはソファの上でサメのカタチのクッションを抱きしめる。「はやく帰ってきてね」

 甘え上手なのは初めからだ。主導権をけっきょく返上する羽目になるのはいつものことだった。

「ついでにゴミも出してくる」

 言いながら、部屋のゴミを集め、袋に詰める。

 ああそうだ、と忘れていた事項を思いだし、ヤナイを振り返る。ヤナイは眠たかったのか、よこになって壁に映画を流しはじめた。途中で観るのをやめていたのだろう、映画はヒロインらしき人物の泣き顔からはじまった。 

 ヤナイがこちらを見ていないと確信してから、僕は金庫のまえに屈む。ダイヤルを回し、鍵を開けた。

 ヤナイを信用していないわけではないが、部屋にいるあいだは貴重品を金庫に仕舞っていた。帰宅してからそこに仕舞うのが習慣になっていたので、財布を取りだし、ついでのように、そこに仕舞いっぱなしだった翼を引っ張りだして、ゴミ袋に詰めた。

 ヤナイが反応を示した様子はない。

 それはそうだ。

 もうヤナイには、翼を感じる能力がないのだ。

 翼は汚れ一つなく、きれいなものだ。

 蒼く変色もしていない。

 これを手放すのは惜しい気がした。

 もともと、ヤナイを拾うより先に、道路に落ちていたものを僕が見つけていたのだが、まさか落とした張本人まで拾うことになるとは思いもしなかった。 

 いまはもう、翼よりも手元に置いておきたいものができた。

 袋の口を縛り、行ってくる、と玄関扉を開けてそとにでる。いってらっしゃい、とちいさく愛しい声が聞こえる。

 ヤナイはきっと僕を巻き込んだことでいくばくかの良心の呵責に苛んでいるはずだ。引け目を感じて、仮に独りで生きていける術を身に着けたところで、僕の元から去ることはないだろう。

 僕を逃がさぬように一計を案じて、ヤナイが巧みに嘘を吐かずに済むように振る舞っていたことを僕はもちろん知っている。

 僕の拾った翼は淀んでいなかった。ヤナイが僕にそうして見せてくれたように、嘘を吐いたり、何か腐り落ちてしまうようなきっかけでもげたのではない。

 同族に負わされた傷が元で、剥がれ落ちたのだ。

 ヤナイは元からフフラには戻れなかった。居場所がなかった。追われた存在なのだ。

 堕天使、と僕は内心でつぶやく。

 居場所を求めてさまよい、運よく掴んだ藁をけして離さぬように、求めあうように、貪りあうように、ヤナイは僕のまえで立ち回り、見事に、僕の関心を引いて、この身に楔を打ちこんだ。

 僕はヤナイから伸びる鎖にがんじがらめに縛られたけれど、僕にしてみれば、そうなるように僕のほうこそ望んでいたというよりない。

 僕はどうあっても翼をヤナイに返すつもりはなかったし、この事実を告げる予定もない。ヤナイは日に日によすがと化す僕への情を分厚くしながら、僕への罪悪感に蝕まれていく。

 鎖は錆び、ほどくことすら適わぬ堅牢な錠となるだろう。

 網に入ったサッカーボールを蹴飛ばして歩く小学生が目のまえをよこぎる。僕はそれを真似て、うつくしくきれいな翼の入ったゴミ袋を、ぶんぶんと振り回す。ゴミ収集所に辿り着くずいぶん前の位置から、ソフトボール投げの要領で、ゴミ袋を投擲する。ゴミの山にそれが埋もれたのを目にしてから、ケーキを買うべく駅まえへと歩を向ける。

 僕は翼が生えたようにスキップをする。

 胸の躍る日々がこれからはずっとつづく。僕にはそれを手放すつもりが皆目微塵も、毛ほどもない。




【いつもので】


 指定のレストランへと向かうと依頼人はすでに席についていた。貸し切りだろう、ほかに客がいないためにそこにいるのが依頼人であると判断した。

 案の定、給仕人に案内される前に席についても、相手は文句を言わなかった。四十代から五十代の男だ。短く整えられた顎鬚には白髪が目立った。反してオールバックに白髪は交っていない。

「ここの料理は美味い。あなたも注文されるといい」

 メニュー表が置いてあり、開いて中身を改める。ここへは仕事の話をしにきたのだ。暢気に会食を楽しむつもりはない。ふん、とメニュー表をテーブルの上にぞんざいに放り、依頼内容を聞こう、とさっそく本題に入る。

「その前に、きみが本当にあのグティなのか。まずはそこを確認しておきたい」

「私は代理人です。管理者とも言いますが、グティは交渉に慣れていないため、そとに待機させています」

「だろうな。あのグティがこのようなお嬢さんだとは誰も思わんだろう」

「つぎに同様の言葉を吐けば侮辱と捉え、あなたを金輪際顧客と見做さないことにします。言葉には気を付けてください。私はグティの管理者であることをお忘れなく」

「きみの一存でグティが動くというのであれば、その本人をここに同席させてみせてくれないか。話はそれからだ。こちらに相応の敬意を求めたければ、きみのほうでも相応の態度を心掛けてもらおう。これはきみが小娘であることが理由ではない。誰であろうとそのように要求する。これはビジネスだ。遊びではないのだよ」

「構いませんが、私の知るかぎりグティの正体を知って長生きした者はおりません。こちらから好んで敵対することはありませんが、本当に構わないのですね」

「構わんよ。いちいちそうした脅しに屈していたらこの世界、やっていけんだろ」

「脅しではなく事実なのですが」

「いいから呼びたまえ」

 この男の情報は前以って調べてある。ここでいがみ合っても得策ではなく、またグティを紹介してもさほどの損とはならない。つまるところ、グティの情報を売買することに価値を見出すほどに懐が冷えている相手ではないのだ。

 相応の働きをする道具には敬意を払う男ではある。それは確かだ。

 メディア端末を取りだし、車のなかに残してきたグティに連絡をとる。寝ているのではないか、と案じたが、起きていたようだ。数秒以内にでた。

「グティか。いま顧客と顔合わせして、どうしてもおまえを紹介してほしいそうだ。出てこられるか。そうだ。いますぐにだ」

 渋られるかと思ったが、二つ返事で、いま行くと、と返事があった。通話を切る。

 端末を仕舞い、顧客に向き直る。

「いまくるそうです」

「楽しみだな。伝説とまで謳われる殺し屋に会えるとは」

「このレストランのセキュリティレベルはだいじょうぶですか。あまりおおっぴらに話をしてほしくはないのですが」

「安心してくれたまえよ。この店はさきほど私が買い取った。心配ならばこの会談が終わった時点で潰してもいい」

「そこまでせずとも」

「食事を楽しもうではないか」

 僅かな空気の乱れを知覚し、誰かが入店してきたのだと察する。足音がしないことから、グティだと判ったが、いかんせん早すぎる。ずいぶん気乗りした登場だ。いつもならば是が非でも顔を出そうとしないはずなのだが、と妙に思っていると、別のテーブル席から椅子を掴み取り、依頼人とこちらの間にグティが割って入った。

「もうお腹ぺこぺこ。すぐ済むって言ってぜんぜん出てこないし」

「十分も経ってないだろ」

 依頼主の顔色を窺う。驚いているというよりもこれは訝しんでいるのだろう。それはそうだ。グティの管理者が女であることに違和感を覚えるくらいだ、よもや一流の暗殺者がこんな子どもだとは夢にも思わなかったはずだ。

「失礼しました。こいつがグティです。礼儀がなっていませんが腕は確かなので、どうかご容赦を」

「本当か」

 本当にこのコなのか、と依頼主の男はやはり素直には呑み込めないようだ。かつてグティを紹介したことのある依頼主たちもみな似たような反応を見せた。みな常識というものに囚われすぎている。

「その手の質疑応答に意味があるとは思えません。すくなくとも私は依頼を引き受ければ、このコに命じて問題の処理を行います。それを以って、グティの仕業ではないと見做されるのならば、まあそういうこともあるのかもしれませんが」

「いや、仕事をこなしてもらえればそれでいいが、そうか。きみか」

 なぜかそこで依頼主は眉根を寄せた。子どもだから不安なのだろうか、と一瞬思ったが、そういう類の不信感ではないようにも映った。

「お腹が減ったのなら、たんと食べていくといい」私への口調よりもいくぶん口調をやわらげて依頼主は、卓上に置かれた鈴を鳴らした。「好きなだけ食べていきなさい」

 メニュー表を手渡すと、グティはそれを眺めるが、すぐに閉じた。そもそもそこに書かれている文字をグティは読めない。読めたとしても、そこからどんな料理が運ばれてくるのかを想像することはできないだろう。

「ご注文をお伺いいたします」

 やってきた給仕人へグティは、

「いつもので」

 と応じた。

 依頼主がぽかんとし、こちらもついつい、ん?と固まる。

「いつものとは、その」

 給仕人がぎこちなく笑みを浮かべるので、すかさず、すみません、とグティの代わりに謝った。それからグティの頭を押さえ、

「おまえこの店初めてだろう」と叱る。

 へらへらと笑うだけで、グティには懲りた様子がない。冗句ではないはずだ。本気で口にしたのだろう。映画やドラマの虚構の映像の見よう見まねだ。

「びっくりしたな」依頼主が背もたれに体重を預けた。「この店の常連かと思ったよ」

「世間知らずなんですよ。グティ、肉と野菜どっちがいい」

「どっちも食べたい」

「だそうなので」給仕人にメニュー表を渡し、「適当なのを見繕って運んできてもらっていいですか」

 かしこまりました、と給仕人は一礼して去っていく。

 料理が運ばれてきてから、早速仕事の話を再開する。テーブルの上にはずらりと料理が並び、グティが手当たり次第に手を伸ばしては、口のなかに詰め込んでいる。スプーンを使っているだけまだよいほうだが、これが家だと指で突いて味見をするので、こうした機会に見舞われるたびに躾の重要性を身に染みて痛感する。端的に恥ずかしいのだが、殺しを請け負う人間が人並みの常識を説くほうが不自然なのかもしれない。

 依頼主からひとしきり話を聞く。グティは食事に夢中だ。

「つまり、要人の始末ということでよろしいんですね」

「そうだ。ただし、そいつは自前のビルから外に一歩も出ん。仕留めるにはビル内部の警備隊と真正面からやり合うつもりでなければ無理だろう。こそこそと陰に回っての暗殺は不可能と思ってほしい」

「問題ありません。確認しますが、ビル内部の人員をすべて排除しても構わないわけですね」

「報酬は変わるのかね。手をかけた人数が多ければそれだけ支払いが増えるのか、という意味だが」

「いいえ。依頼内容を遂行する過程で発生した作業はこちらの負担となります。これはどの依頼主に対しても述べている宣伝文句と思ってほしいのですが、大統領を葬るのも、ホームレスを葬るのも、我々にとっては同じ仕事にすぎません。一人殺すのにいちいち値段を変えるようでは詐欺と同じです」

「プロだな」

「そうおっしゃっていただけるとたいへんに光栄に思います」

「これ美味しい」グティがスプーンで肉を掬って、こちらの口のまえに運ぶ。話の腰を折るな、とねめつけて見せるが、グティは意に介さない。美味しいのに、としょぼくれるものだから、管理者としての面目はおろか、一流の暗殺者としての威厳は地に落ちた。元からグティにそういった本物っぽさを求めてはいないが、無駄に依頼人を不安にさせることもない。

「どれ、私がもらおうかね」依頼人が身を乗りだすが、一足先にグティは肉をじぶんの口に放りこんだ。これみよがしに見せつけるようにして咀嚼する。

「おい」叱りつけるが、よいのだよ、と依頼主が鷹揚に制する。「なかなか元気な少年ではないか。これならたしかに怪しまれずに標的に近づける。子どもは呑み込みが早い。さぞかし立派な教育を受けたのだろうな」

 皮肉にしか聞こえなかったが、そう言ってもらえると助かります、と卑下しておく。ちなみにグティは少女なのだが、これも黙っておく。

 依頼人は一枚のメディア端末を取りだした。

「標的についての資料だ。これに入っている。以降、私との連絡もこれでつけてほしい。仕事が完了したあとの処分も任せたいが、頼めるかね」

「ええ。通信監理会社からもデータを消しておきます」

「そこまでしてくれるのか。サービスがいいな」

「そこまでしなければこの仕事をつづけることはできませんので」

 何せ現場の監視カメラ映像ごと処理しなければならないのだ。警備会社や通信会社への根回しこそ、この仕事の神髄と言える。

「資料を見ても?」

「いまここでかね。構わんが」

「では失礼して」

 任意の情報を探した。載っているかどうかを確認するだけなのでそれほど時間はかからない。目を通し終わると、グティが早くも椅子を前後に振って、早く帰りたい、の所作を見せはじめた。鈴を鳴らして給仕人を呼び、デザートをお願いした。これもグティにはメニュー表を見せても致し方ないので、パフェかなんかを、と言って適当に見繕うように指示する。

 かしこまりました、と言って去った給仕人が三人分のパフェを運んでくる。グティだけに注文したつもりだったが、人数を言うのを忘れていた。或いはサービスなのかもしれない。

「グティ、これも食べてくれないか」

「やった」

「私のもどうだね」依頼人がパフェを押しやるが、グティはそれをじっと見てから、ぷい、と目を逸らす。両手でじぶんの分のパフェを抱えるようにしている。そこにはむろん私のやったパフェも含まれる。

「人見知りですみません」

「本当にただの子どもに見えるな。いまでも信じられんよ、このコがグティなどと」

 本当はきみのほうがグティなのではないか、との無駄口を無言でいなし、

「資料を拝見しました」

 話をさきに進める。「一つお訊ねしたいのですが、あなたはここ半年で世界中から名だたる暗殺者を雇っていますね。そのことごとくが、あなたの仕事を受けてから消息を絶っています。それらの件と今回の一件、何か関係があるのでしょうか」

 資料には載っていなかった。もし関係あるのならば、それを依頼主は隠そうとしていることになる。知られたくない情報なのだろう、と睨んだわけなのだが、依頼主に動揺した素振りは見受けられなかった。

「よくご存じだ。依頼の連絡を受けてから、この短時間でもうそこまで調べられたということですかな。なかなかできることではない」

「その暗殺者たちはどうなったんですか」

「いま私がきみにしているような仕事を頼んだが、誰一人として戻ってはこんかった。かといって報復されるといった様子もない。おそらくは拷問されることなくその場で始末されてしまったのだろう。失敗すればするほどに警備は厳重になる。だが標的があのビルからほかに移った様子はない。ということは、それほどじぶんの配下に信頼を置いていることの裏返しでもある。最強の盾だ。ならばそこには最強の矛をぶつけるべきだろう、違うかね」

「そうした情報は前以って教えて欲しいものですが」

「サイを狩るのにわざわざ、サイのツノがなぜあのような形状をし、なぜサイの皮が分厚いのかを論じることにさほどの価値を認めておらんのでな。肝要なのは、狩るべきサイのいまここにある生態であろう。違うかね」

「その通りですね。しかしこの資料からでは、相手側が暗殺者の侵入を想定した警備をしているとまでは読み取れません」

「関係なかろう。サイがライオンを警戒していようが、していなかろうが、ライオン側のすべきことは変わらん。それとも私の見立てが甘かっただろうか。きみたちは一流だろ。その道のプロだ」

「信頼を置いていただけるのはうれしいのですが、プロだからこそ、些細な情報も見逃さずにいたいのです。以後、関係のありそうな情報はすべて教えていただけるとうれしく思います」

「つぎがあればそうしよう」

「確認しますが、今回のご依頼は、標的の抹殺でお間違いありませんね」

「ああ、それで頼む」

「三日以内にご連絡致します」

「ではそれまでこの店は潰さずにおこう。グティくんもお気に召してくれたようだしな」

 グティ、と声をかけ、行くよ、と立たせる。

「では、失礼いたします」

「幸運を祈る」

 腰を折る。グティは歯に挟まった食べかすを指先でほじくっている。頭を押さえつけて、無理やりに下げさせるが、んんっ、とむずがられ、逃げられた。

 依頼主の笑い声が店のなかに反響し、恥辱の念が湧く。

 店のそとに出る。車に乗りこみ、グティにシートベルトをするように指示する。何度言っても覚えないが、これは縛られることを潔しとしないグティの資質によるものなので、どちらかと言えば一度指示するだけで、しぶしぶであろうともシートベルトを締めてくれるようになった現在の態度を成長と言い表してもよいくらいだ。

「いまから背の高いビルに向かう。つぎの信号を曲がればたぶん見える。そのビルのなかに、コイツがいるから」資料用に預かった端末を操作し、画面に標的の画像を表示する。「上層階のどこかにいるらしいが、詳しいことは分からない。中に入って知っていそうなやつを捕まえて、なんとか居場所を割りだし、いつものように始末する。どうだ、できるか」

「いまから?」

「無理ならあすでもいいが、ちょうど通りかかりだし、済ませちゃったほうがよくないか」

「そうかも」

「中に敵がウヨウヨいるらしいが、片っ端からやっつけていい。きょうは本気をだしてもいい。遠慮せずにやれ」

「いいの?」

「ダメな理由がない。ただし、指折りの同業者がこぞって失敗している山だ。それなりに用心だけはしてくれ」

「わかった」

「武器は?」

「これがあればいい」グティはベルトの飾り部分からナイフを引きだす。親指ほどの大きさしかないそれを彼女は人差し指に装着した。

「いつも思うんだが、銃だって使えないわけじゃないんだろ。どうして持っていかないんだ」

「だって必要になるくらいのときは相手が持ってるし、それを奪えばよくない? どの道大勢を相手にするときって、盾を作らなきゃだから、手が自由になるコレくらいの武器のほうが楽なんだよね」

「そういうものか」

「だいたい、人殺すだけなら指一本あれば充分じゃん」

 バケモノめ、と鼻で笑う。「それを言えるのはこの世でおまえくらいだよグティ」

「そうなの? よくわかんない。なんでみんなこれくらいのことできないんだろねっていつも思う」

「できないんだよ。おまえがお行儀よく食事ができないのと同じようにな」

「行儀よくなかった?」

 意外そうに反問され、口ごもる。グティにしてみればなかなかにおとなしくしていたと評せないわけではないが、かといって一般常識に照らし合わせればけして行儀がよいとは言えない。

「いつもよりはお利口さんだったかもな」

「お利口さんだって。バカにされた気分」

「褒めたんだ」

「ふうん」

 グティは車窓の外を見遣ったらしく、あれ、と指さす。建物の頭上にうず高く延びるひときわ高いビルがある。

「そう、あれ。少し離れたところで止めるから。どれくらいで終わりそう?」

「ついてこないの」

「いま無断駐車にうるさいからさ。その辺走って、時間になったら同じ場所に止める。それまでに戻ってきて」

「いいけど、じゃあうーん、三十分くらい」

「そんな早く終わる?」

「標的のひとバイバイしてお終いでいいんでしょ。中にいる人全員じゃなくて」

「まあそうだけど」

「だったらそれくらいでだいじょうぶ。ぱぁっと行ってぱぁって終わらせる」

「標的、どこにいるのか分からないんだよ、本当にだいじょうぶ?」

「だって中の人たちはみんなそのひとを守るためにいるんでしょ。だったら守るために動くわけでしょ。じゃあ問題ないじゃん。いちばん安全そうな場所、攻撃しにくそうな場所に行けばいい。簡単、簡単」

 それもそうか、と考えを改める。ふつうはそれが解かっても手も足も出ないが、グティは違う。獲物の逃げこむ場所が限定されるのならばそれを逆手にとるのは造作もない。却って、じぶんたちの立場の優位性を自覚している相手のほうがやりやすい。

 大統領とホームレスのどちらを標的にしても報酬が変わらないのは、何もパフォーマンスではない。真実、グティにかかれば、費やす労力は変わらない。標的の居場所が解かればそれで済む。そこまでの路銀が多少かかるくらいの差異しかない。ときには要人相手のほうがやりやすいことがあるくらいだ。今回がその典型と言えるかもしれない。

 建物のなかにその道の玄人しかいないのであれば、グティは能力を抑える必要がない。極論、獣の巣に投げ込まれるほうが楽なのだ。村のなかの狼を狩るよりもずっと頭を使わなくていい。

 対象ビルの手前の手前で道を曲がる。信号機二つ分の距離だ。路地裏に車を停める。「じゃあ三十分な」

「もしいなかったらどうする?」

「標的がか」

「うん。逃げてるかもしれない」

「資料によればその様子はないとあったがな。ま、いなけりゃしょうがない。そのまま戻ってくるしかないだろ」

「追手がかかったら排除していいの」

「それは構わんが」

「なんとなくだけど、壊滅させちゃったほうがいい気がする」

「ビル内部の連中を皆殺しにするって意味か」

「うん。だめ?」

「ダメじゃないが、そんな時間ないだろ」

「向こうから襲ってきたら時間短縮になるよ」

「襲ってきたらじゃあそうしてやれ」

 あまり長く停車はしていられない。監視映像に残り、悪目立ちする。あとでデータを消すとはいえ、消えた分は空白になって残る。「そろそろ行け。三十分後にここで。もし追手がかかったら別方向に逃げろ。振り切ったら例の店に集合。いいな」

「例の店って?」

「さっきの店。レストラン」

「ああ」

「気をつけてな」ドアを開けてやる。グティは、おいしょ、と言ってどんくさい所作で車を降りた。こちらを一顧だにせず、遠ざかっていく。ビルにはどうやって入るのかは分からないが、いつも通りならば正面突破か、壁をよじ登って、トイレかどこかの窓から侵入するはずだ。

 メディア端末を操作し、二十九分後にタイマーが鳴るように設定する。一分前にここにいればそれで済む。グティを拾ったら、その足で、例のレストランへと向かう。依頼主はまだいるだろうか。いなくとも連絡をすれば、戻ってこられる範囲にいるはずだ。

 車を走らせ、夜の街並みを疾走する。

 こうしている間にも、と車窓に流れる夜景を眺める。いまこの瞬間に命を落としている者たちがいる。グティに首を裂かれ、死んでいる者たちが確実にいるのだ。そうするように指示したのはじぶんであるのに、なんだか可哀そうに思えてならない。死神と遭遇さえしなければ死ぬことはなかったのだ。きょうの朝、職場へと出る際にはまさかきょう死ぬとは想像だにしていなかったはずだ。きょうの夜に最愛のひとと何か約束をしていた者もいただろう。子どもの誕生日を祝うつもりの者もいたかもしれない。好きなドラマや、映画のつづきを楽しみにしている者だっているはずだ。

 それらはみなきょう、グティの手によって殺される。

 仕事上のなりゆきで標的を庇護すべし、との命令がだされ、それに従っていた者たちだ。悪か正義かで言えば正義の側に属する者たちだろう。

 なぜじぶんはそのような者たちの命をこうも容易く奪う真似ができるのか。じぶんの手を直接汚していないからだろうか。グティという凶器を手にしている、ただそれしきの優位性があるだけだ。もしグティがほかの者の命に従うならば、あすにもこの命はないだろう。

 何か目的があるわけではない。偶然にグティを拾い、手懐けることができた。ただそれしきの経緯があっただけだ。大義をなしたいわけでもなく、文明を転覆させる意思もない。

 革新も革命にだって興味はない。蛇蝎視していると言ってもいいくらいだ。犯罪者とは極力仲良くなりたくないし、グティに人殺しを依頼するような腐った輩ともお近づきになりたいとは思わない。

 過去に不幸があったわけではなく、本当にただの成り行きだ。

 金になる。糊口を凌げる。

 最も効率よくいまの生活を維持しつづけられるというただそれしきの理由できょうもグティを使って、この世からすくなくない命を葬り去る。

 罪悪感がまったくないと言えば嘘になるが、かといってふだんの行いを慎むほどのものでもない。今着ている服飾や下着が、靴が、海外の工場で不当に安い賃金で働く労働者たちからの搾取のうえに成り立つ豊かさだと知っていても、手放すことはおろか、どうにかしようと行動に移さないことと理屈のうえでは同じだ。

 腹の足しにもならぬことをつらつら夢想しているあいだに、アラームが鳴った。

 回収地点へとハンドルをきる。

 信号を曲がる前からすでにグティの姿を捕捉する。返り血一つ浴びていないので、最初のころはよく、仕事に失敗したのかとハラハラしたものだ。いまでは追手がいないかに注意を割けるくらいにグティの働きもとより腕のよさを認めている。

 停車すると、グティが乗りこむ。

 発車する。追手はいないようだ。「どうだった」

「思ってたよりかは手こずったかも。だってみんなプロっぽかった」

「プロ?」

「同業者だと思う。前に見せてもらった資料に写真載ってた人とかいたし」

「暗殺者ってことか」

「じゃないの。よく知らないもんそういうの」

 しばし思案し、それからスーパーの駐車場に入り、車を停めた。メディア端末の画面にいくつか写真を映し、ビルのなかで遭遇した連中のなかに該当者がいるかを訊ねる。グティはそのほとんどの写真を見て頷いた。

「殺しちゃったよ。だめだった?」

「いや。ただ、よく生きて戻れたなと思ってな」

「あ、そう言えば標的のひと。もう死んでたんだけど、そのままにして戻ってきちゃったけどいいよね」

「死んでた?」

「うん」

「ああ、そういうこと」

「どういうこと?」

「いや、いい。こっちの話だ。そう言えば、小腹は減らないか。仕事のあとで疲れたろ」

「さっき食べたばっかじゃん。胃もたれして動きにくかったし」

「あんなにいっぱい食べるからだ」

「きょう仕事するって聞いてなかったもん」

「それはわるうござんした」

「反省してないときの言い方」グティは臍を曲げるどころか陽気に鼻歌を奏でる。「レストランに寄るの?」

「いま連絡してるとこだ。ちょっと待ってな」

 文章での連絡だ。送信すると間もなくして返信がある。

「まだいるってさ。買い取っただけあって、できるだけ満喫しておこうって魂胆なんだろ。ああいうやからは根が守銭奴だ」

「ふうん」

「その相づちはあれか。私も同類って言いたげだな」

「そんなこと思いもつかなかったよ」

「棒読みのフォローありがとさん」

 レストランに入ると、さきほどと同じ席に依頼主が納まっていた。

「忘れ物ではなさそうだが、用件を聞こうか」

「依頼は遂行しました」席につき、給仕人に水だけを注文する。「標的はどうやらすでに亡くなっていたようで。ビル内部で待ちかまえていた手練れも総じて始末しました。この報告を以ってあなたとの契約は完了とさせていただきたいのですが」

「まさか。まだ一時間も経っておらんだろう」

「ええ。排除そのものには三十分もかかりませんでした。グティの腕を甘く見てませんか」

 それよりも、と脚を組む。気持ちのうえではテーブルのうえに投げ出したいくらいだ。

「確認したところ、どうやらビル内部にて待ち伏せしていた警備隊のなかにはあなたが先日この街に召喚したプロが複数交っていたようです。お心当たりはおありですか」

「なるほど、なるほど」男は椅子の背もたれにふんぞり返り、破顔する。歯を見せないように笑う姿は上品だが、いままさにその脳内では目まぐるしく思考が巡っているはずだ。目のまえに突きつけられた刃先をどうやって回避すべきかを模索しているのだ。

「きみはどう見ているのかね。つまり、これからどのように対処をするつもりか、という意味だが」

「依頼は遂行し、いまを以ってあなたは我々の顧客ではない。したがって仮になんらかの形で我々へ危害を加えたといった事実がでてくれば、それ相応の対処を講じさせていただくことになるものかと」

「つまり私に牙を剥くとそういうことかね」

「そう捉えられても我々としては困りませんね」

「うむ。ではこうしよう。情報を提供する。なぜきみにこのような不躾な依頼をしたのかについて、私の知るすべての情報を開示しよう」

「結構です。あなたの意思にかかわらず、情報はすべて我々が拝見させていただく。これは決定事項だ。覆ることはない」

「何を差しだせばこの状況を変えられるだろうか」

「ないな。おまえはミスを犯した。我々をハメるという根本的かつ致命的なミスだ。終わっているんだよあんた。私がいまこうしてここに座っている時点でな」

 男は笑みを維持したまま卓上の鈴を手にし、激しく鳴らした。しかし誰も姿を見せない。給仕人すら未だに水を持ってこない始末だ。

「可哀そうなことをした」背もたれに体重を預ける。「この店の従業員に罪はないのだが、ただまあ運がわるかったと思って諦めてもらうしかない。あんたのような薄ぎたない男と関わってしまったんだ。心の底から同情するよ本当に」

「私は助からんのか」

 席を立ち、男を見下ろす。それからいつの間にか男の背後に佇んでいる少女へ向けて、頷いて見せる。

 男の首が音もなく傾き、どちゃり、と床に落ちた。頭蓋は弾まない。濡れ雑巾やスイカをいつも連想する。

「グティ。従業員はどうした」

「逃がしたよ。きょうはもう疲れたから」

 だめだった、と訊かれたが、ここでよくやったと言うのは得策ではない。本心を明かせば、できるだけ被害者はすくないほうがいい。だがグティにそうした甘さを植えつけてはいけない。

「ダメだな。ま、しょうがない。きょうのところはお咎めなしにしといてやる」

「やった」

「ちなみにコイツの部下もいただろう、そいつらは?」

「殺したに決まってんじゃん」

 クルクルと大型のナイフを宙に放るとグティは、それが落下しきる前に足の裏で蹴り飛ばし、壁に突き刺した。

 奪ったナイフだろう。

 自前の武器であるところの小型のナイフは指にはまったままだ。彼女はそれを外すと、首なき遺体のスーツで拭って、ベルトの飾りに収納する。

「きょうはもう終わりでいいの」

「ああ」

「けっきょく何だったの。このひと依頼主でしょ。よかったの、殺しちゃって」

「ダメって言ったらどうする」

「ごめんなさいって謝る」

「謝んなくていいよ。きょうはね」

 店を出て、車まで歩く。乗り込み、颯爽と現場をあとにする。パトカーの群れと擦れ違ったが、いずれもサイレンを鳴らしてはいなかった。大方、従業員が通報したのだろう。データを消さずに来てしまったが、いまからでもまだ間に合うだろうか。

 馴染みの設計師に連絡をとり、記録の改ざんを依頼する。位置座標を送るだけで済む。上客の特権というやつだ。

「これからしばらく忙しくなるかもしれないな」罠にはめられたのは自明である。世界中の暗殺者をこちらにけしかけた相手がいる。それは先刻首を落とした男ではない。その裏にもっと狡猾な相手が眼光炯々とこちらを狙っているはずだ。

 そもそもの標的がすでに殺されていたことからも、念入りな計画であったことが窺える。標的殺害の罪を被せられる予定だったのだ。

 おそらく元々の標的と利害関係が一致していた者の仕業だ。仲間を裏切り、同時に世界屈指の暗殺者を葬る。名実共に裏社会を牛耳ろうとしている者がいる。或いは、単に風通しをよくしようとしただけかもしれない。

 グティという道具を使える者のみが邪魔者をより効率よく始末できる仕組みを変えようと、大胆にも動いた者がいてもおかしくはない。

 構図からすれば我々のほうが悪であり、排除されて然るべき害である。

 だが黙って、退場するわけにはいかない。

 正義ならば正義らしく、つよくあってほしい。我ら程度の隘路くらい造作もなく排除してもらいたいものである。

「グティ。調子はどうだ。きょうの仕事は、難易度でいうとどのくらいになる」

「お腹いっぱいになったから百点でいいよ。デザートも美味しかったし」

 あまりの余裕綽々な返答に噴きだしてしまったが、この様子ならば、当面のあいだは現世のしがらみを楽しめそうだ。

「きょうはもう寝ていいぞ。布団までは抱っこして運んでやる」 

「赤ちゃん扱い」

 不満そうに言う割に、おとなしく目をつむって、間もなく寝息をたてはじめる。根が子どもなのだ。無邪気であり、無垢だ。ゆえにこうまでも冷酷でいられる。罪悪感とは無縁なのがうらやましい限りだ。

 グティを世界屈指の凶器そのものにしてしまった組織はすでにこの世にない。壊滅に手を貸してやったことを恩に感じてなのか、それともすなおに慕ってくれているのかは分からないが、彼女はこうしてこちらの犬に納まってくれている。

 飼い主の所感としては、犬よりもどちらかと言えば猫なのだが、いまのところ手を噛まれる心配はしていない。

 ただ、この生活も長くは持たないだろう。

 名を売りすぎた。

 目立ちすぎている。

 なればこそ、ここいらでいちど清算してしまうのもわるくない。

 かわいらしい寝息が車内にさざなみのごとく寄せては返す。平和とは何かを教えてくれる。

 ハンドルを握る手にちからがこもる。

 これほど優れた道具を手放すつもりはない。道具をそばに置き、駆使する万能感は病みつきになる。

 いちどきれいにするのもよさそうだ。

 グティの名を耳にし、その存在の脅威を知る者を、いちど根こそぎ抹消する。そうすればまた、同じ日々を過ごしていける。

 できるだけ長く、闇のなかを歩んでいたい。

 誰に認められることなく、咎められることもなく、ただその日そのときの仕事をこなし、余暇を楽しむ。

 人生の余暇を。

 数多の同業者の屍のうえに築かれる安寧の日々を。

 グティなる道具を使って、手軽に、極上の刺激だけを甘受する。 




【さよなら缶コーヒー】


 失恋には二種類ある。告白したのちに砕けるか、告白せぬ間に砕けるか。

 僕の場合は後者だった。

 好きな相手に恋人がいた。しかも半年後に結婚するらしい。

 学生の身分で結婚だなんて、と差別心満載にひがんでしまうのは、その人の結婚相手が僕の同年代どころか、社会人で、どこかしかの会社社長だったからだ。

 何一つ僕が勝っているところはない。たとえあったとしてもそれは相手が僕になれないというだけの制約であって、そんなものは相手が蟻であっても当てはまる。

 失恋した。

 僕は自棄になることもできずに、ただトボトボと家までの帰路を歩いていた。

 ふと、冷たい風が吹いて、横を向いた。いつもは気にも留めない狭い通路が目に入った。ビルとビルの合間に開いた道で、奥のほうは暗くてよく見えない。

 なんとなくいつもと違った風景が見たかった。

 どこに通じているのだろう、と余計な疑問に支配されてみせることで、脳内にひしめく失恋の苦しさから逃れようとしていたのかもしれない。

 僕は薄暗い通路を進んだ。

 すると、通路の切れたところで、辺り一面のすすき野に出た。音もなくすすきが風の流れをかたどっている。路地裏にこんな風景が広がっているなんて、と僕は感動する。あらゆるしがらみから解き放たれて感じられた。

 が、それも一瞬で、ふたたび失恋の記憶に苛まれる。

 逃れることはできない。

 忘れるなんてことはできないのだ。

 視線を足元に落として踵を返そうとしたところで、視界の端に、何かが映った。

 顔を上げると、自動販売機が目に入る。

 ぽつねんと、ただそれだけがすすきの海のなかに佇んでいる。三分の一ほどがすすきに埋もれており、もしもすすきの背が高かったら、すっぽり見えなくなっていたかもしれない。

 僕はすすき野に足を踏み入れた。それのまえに立つ。

 旧式の自動販売機だ。小銭と紙幣しか使えない型で、ふしぎなのはメーカー名がどこにも書かれていない点だ。陳列されている飲み物も、見たことがない装飾だ。何味かも分からない。一本一本が原色で、すべて異なる色彩だ。幼稚園時代に愛用していたクレヨンを連想する。

 喉が乾いていたこともあり、一本購入することにした。どんな飲み物なのか興味があった。失恋の記念ではないが、いつもと違ったことをしたいとの思いがあったのかもしれない。

 小銭を投入し、赤い缶を選ぶ。

 濃いめの色彩からしてコーラかもしれない、と思ったが、取りだし口に音を立てて転がり落ちた缶は、見本よりも光沢があり、妙にキラキラして映った。あたかも中身に鱗粉が舞っており、それが透明な器に透けて見えているみたいに映るが、瓶ではない。缶だ。中身が透過しているわけではない。錯覚だ。

 ごくり、と生唾を呑みこむ。

 喉の渇きが増し、飲み干したい衝動に駆られる。

 掴み取ると、ずいぶん硬い材質で驚く。スチールだろうか。その割に、光沢がありすぎるように思う。昨今の印刷技術はすごいなあ、とお門違いな所感を覚えながら、プルタブを持ちあげる。ぷしゅ、と鳴る音がまたいちだんと渇きを誘う。匂いを嗅ぐが、これといって香りはしない。

 おそるおそる唇を缶のふちにつけ、液体を口に含む。

 ソムリエよろしく舌の上で転がし、ゆっくりと味わってから嚥下する。

 液体が食道を滑り落ち、胃に入ると、じんわりと熱を持った。

 この感覚はアルコールに似ていたが、遅れてやってくる甘味は、濃厚で、酒ではないとの判断を逞しくする。

 美味いとか不味いとか以前に、缶を傾ける手が止まらない。

 真上を向くころには、缶からは一滴も液体が落ちてこなくなった。

 ごっくん。

 ひときわ大きな音を立てて、唇を舌で舐めとる。

 缶をまじまじと見て、これはよいものだ、と直感する。

 もう何本か買っていこう、と思い、財布に残っていた小銭で買えるだけの缶を購入する。紙幣もあったが、それを使うのは、まずはほかの色の缶の味を確かめてからでも遅くはないと考えた。ほかの色のものも気に入ったらまたくればいい。

 赤色は売り切れているらしく、手に入らなかった。

 つぎにきたときには補充されているかもしれない。

 失恋した痛みはまだ残っているが、すこしだけ元気がでた。

 なんだか全身がカッカする。

 飲み干した液体は、ひょっとしたら新発売のエナジードリンクだったのかもしれないと閃くが、こんな人通りのない場所で売るだろうかと、いまさらのように訝しむ。

 すすき野に埋もれた自動販売機は、ちょっとやそっとでは人の目につかないように思えた。

 いったいどこの企業があんな場所に置いたのか。

 自動販売機は個人でも扱える。

 誰かお金持ちが、いたずらに置いたのかもしれない。

 購入者を隠し撮りして、その動画をネット上で公開しようとの魂胆だ。

 たしかに多少、おもしろい顔をしながら飲んでいた気もする。砂漠をさまよった干からびる寸前の人間がオアシスに辿り着いたときと似たような表情ですらあったかもしれない。

 あまり人に見られたい類の様相ではなかった。できれば見られたくない。恥ずかしい。

 失恋して当然ではないか、と急に現実が脈絡もなく繋がる。

 僕が失恋したのはべつに、僕の醜態とは関係がないが、なんとなしにどこで繋がっている気がした。

 へんてこな飲み物をへんてこな顔をしながら、一心不乱にがぶ飲みするなんて、そんなへんてこな人とお近づきになりたい人間は限られる。百万人のなかで数人いたらよいほうだ。一人もいなくても驚きはしない。

 ただ僕は、そんな僕であっても好いてくれるような人と出会いたかった。

 不幸なことに、僕の恋心は、そんな僕の理想とはまったく反した相手に吸い寄せられた。僕のことをどうあっても好いてくれない人を好いてしまった。

 へんてこな人間を愛してはくれない人間だ。

 企業の社長と結婚する人なのだ。

 いいや、違う。

 これは僕のひがみでしかない。

 あの人はべつに企業の社長だから結婚したわけではないはずだ。たまたま好いた相手が企業の社長だっただけだ。たまたま優れた技術をいくつも持っていて、お金に余裕があり、性格がいいだけなのだ。

 属性で人を判断しているのは僕のほうだ。

 やはりこんな人間が恋愛を成就させられるわけがないのだ。

 告白しなくてよかった。

 僕は安アパートの一室で、購入したばかりの色とりどりの飲料物を、やけ酒よろしく、片っ端から胃にそそぎこんだ。

 とはいえすでに家のそとで一本を飲み干していたし、元から大食漢ではない。三本目の途中でお腹がたぷんたぷんになってしまった。

 まだ二本残っているが、いますぐカラにしなければならない道理はないはずだ。にも拘わらず、きみってばやけ飲みすらできないのね、とじぶんをふがいなく思う気持ちに拍車がかかる。このままどこまでも突っ走っていってしまいそうだ。

 なんだかお腹の奥底が熱い。

 カッカッしてくるのは、一本目を飲んだときも同じだったが、いまはもうその熱は、腹から四肢、首、頭部にまで達し、正真正銘、顔から火がでそうだった。

 というか、でた。

 顔からというか、口から炎がぶわりと溢れでた。内臓が気化して、一瞬で沸騰したのかと焦ったが、お腹をさするも傷はない。

 鏡を覗きに走ったが、顔に焦げも見当たらず、ひとまず安堵する。

 しばらくじっとして様子を見ていると、段々と口から炎が飛びでたことが気のせいのように思えてきた。

 錯覚だ。

 きっとそうだ。

 失恋で精神状態がどうかしていたし、もしかすると飲んだ液体が、なにかしらよろしくのない、斟酌せずに言えば危ない成分の入った危ない飲み物だったのかもしれない。

 捨てたほうがよさそうだ、といまごろになって冷静になった。

 すすき野の風景を思いだし、あんな辺鄙な場所に設置された自動販売機なんて安全なわけがないのだ、と腹の虫がどたばたと暴れた。

 すると、お腹の底がもぞもぞとし、げっぷがしたくなったので、空気を押しだすようにお腹に力を籠めると、ぶわり、とまたもや炎がまろびでた。

 こんどは壁が焦げた。天井にはモヤが垂れこめ、いま起きた出来事が現実なのだと言い逃れのない証拠を突きつけている。

 思案したのち、外にでた。

 アパートの裏手にある空き地にて、もういちど炎を吐きだそうと試みる。腹の底に力を籠めると、ゲップのこみあげる感覚があり、喉のあたりで膨張する。

 ぶわりと炎の深紅が夜空に舞いあがる。鮮やかな絵の具を広げた。

 驚きと怯えが同時に湧きあがるが、口の中のいっさいが無事であることを確かめると、続けざまに幾度か炎を吐きだし、これはもうそういうものなのだな、との認識を確固たるものとした。

 なぜかは分からないが、炎を吐ける。

 ドラゴンさながらの能力だ。

 いったいどういうことだろう、なぜこんな能力が。

 あごに指を添え思案すると、はたと閃く。

 ひょっとして、あの飲み物か。

 最初に赤い缶の中身を飲み干した。あれは炎を暗示していたのではないか。

 そんな魔法みたいなことがあり得るだろうか。

 しかしすでに現実に、魔法としか思えない事象が眼前に遠慮会釈なく広がっている。

 効果はどれくらい持続するだろう。このままずっと火焔の能力を有したままなのだろうか。

 不安と期待がないまぜになる。そうあってほしいような、そうあってほしくないような微妙な心持ちだ。

 ふと、風が温かいことに気づき、周囲に目を配ると、空き地の雑草がメラメラと燃えていた。火の粉が飛んで、燃え移っていたようだ。

 なんてこった。

 慌てて踏みに走ったが、煙のせいで鼻がむずむずとし、大きなくしゃみをすると同時に、特大の炎を吐いてしまう。くしゃみの反動で背が丸まり、じかに地面に吐きつける格好になった。

 空き地は、業火にくるまれる。

 たいへんだ、たいへんだ。

 隣家に燃え移ったら取り返しのつかない事態になる。

 冷静でいたつもりが、動顛していたのだろう。炎のなかを駆け抜け、隣家の壁のまえに立った。まずはここに火の手が迫るのを防ごうと考える前から身体が動いたのだが、かといってどうしようもない。水はなく、足場には枯れ葉が溜まっている。火種を広げてやるぜ、と言っているようなものだ。

 風が吹き、炎が踊り狂う。

 こっちにくるな、ととっさに手で払うように、或いは押しのけるようにすると、手のひらから何かとてつもなく冷たいものが噴きだした。

 それの出ているあいだはじぶんでも上手く腕を制御できずに、水平に保ちつづけるのがやっとだった。消防車の放水のようだった。

 冷気が眼球に染みたため、収まるまで目を閉じていた。

 しゅるしゅる、と蛇口を締めた具合に勢いがなくなり、腕にかかる重圧も消えた。 ふたたび眼球を大気に晒すと、視界一面、白銀に染まっていた。

 月明かりや街灯の明かりを受けて、キラキラと細かく光が瞬いている。

 氷だ。

 地面が凍っている。

 まっすぐと足元から奥に向かって、空き地と道路の境まで、否、道路すら突き抜けて、突き当たりの民家の壁が霜で覆われている。

 炎は空き地から一掃されていた。

 口からは火。

 手からは氷。

 もうこれ以上の能力はいらないと念じたが、緊張が解けてその場にへたり込もうとしたところで、じぶんの身体がぐるりとその場で一回転した。

 尻もちをつくことなく、宙に浮遊する。

 飛べるのだ。

 単なる無重力ではない。その証拠に、身体の重心を傾けると、飛びたい方向に移動できた。意識の矛先のようなものがあり、それを真上へと向ければ高く飛び、真横を意識すると前進する。速度をだそうとすれば、びゅんと一瞬で風になれるが、あまりに寒くて命の危機を覚えたので、そこがどこかも判らぬままに地上に降りた。

 矢継ぎ早に口から火を吐き、焚き火をつくった。暖をとる。

 ほっと息を吐いてから、周囲に目をやると、マンションの屋上だった。ずいぶんと一瞬で距離を移動したものだ。地上ですらない。夜景を見下ろし、駅前の繁華街に近い場所だと知る。

 屋内に入る扉は内側から施錠されている。もういちど飛ぶ以外に家に帰る術はなさそうだ。

 焚き火を消そうと、手のひらを向けるが、出るはずの冷気がでない。

 おかしいな、と思い、幾度か試しているうちに、ひょっとしてと思い至る。

 口から炎を吐こうとするが、やはりこれも上手くいかない。

 効果が切れている。

 謎の飲み物を飲んでからかれこれ数時間が経過しようとしている。時間制限があるのか、それとも能力に使用制限があるのかは定かではないが、どうやらずっと能力を使えるわけではないようだ。

 こうしてはいられない。

 空を飛ぶ能力は、おそらく最後に出現した能力だ。ひょっとしたらほかにまだ覚醒していない能力があるのかもしれないが、とにかくまずは地上に降りなくてはならない。

 空を舞っているあいだに能力が切れて、落下してしまう危険はあるが、だったらなおのこと急ぎ、ここから脱出せねばならない。

 屋上のふちに立ち、眼下を見下ろす。

 目がくらむ高さだ。せめてどこかの部屋のベランダに飛びこみ、そこから中の通路を歩かせてもらえないだろうか。いや、こんな話、どう説明したところで聞き入れてもらえはしないだろう。通報されるのが関の山だ。

 まずはともあれ、試すしかない。行動あるのみだ。

 頭のなかにじぶんの身体が浮くイメージを描くと、足が地面から離れた。まだ能力は使えるようだ。

 屋上の縁から、虚空に向けて進む。

 そのままゆっくりと下降していくが、三つほどベランダを素通りしたところで、心臓が跳ねた。

 見知った顔がそこにはあり、カーテンの開いた窓ガラスの奥で、裸の男と抱き合っていた。むろん見知った顔の人物も裸体であり、それはつまり、そういうことをしている最中であったらしい。

 窓ガラスに両手をつけて、うしろから羽交い絞めのかっこうで口に指を入れられ、恍惚とした表情で、絡みつかれていた。

 一瞬の出来事だ。

 でも僕には充分だった。

 見間違えようもない。

 相手からはこちらは見えなかったはずだ。

 僕は暗がりの中に、比喩ではなく、落ちている。

 気づくと地面にへたり込んでおり、僕はそう、本日二度目の失恋をした。とどめを刺されたと言っても大袈裟ではない。

 とんでもない能力を宿した衝撃など彼方へと消えて、ただただ受けた傷が深まらないようにと、自己防衛の理屈を構築するのに必死だった。

 失望した。

 あんな淫らな人だとは思わなかった。 

 あんな獣みたいな真似をして。

 まずは好きだった人を心の中でけなして、じぶんが傷つくいわれはないのだ、と言い聞かせる。本当はただただうらやましいだけの癖して、僕はこれ以上の傷を負わぬようにと、じぶん可愛さのための言い訳を見繕う。

 けっきょくのところ恋だったのだ。

 それはそうだ、僕は失恋をしたのだから。

 失われたのは恋であり、自分本位の性欲にすぎなかった。

 本当は誰よりあの人と、獣のような淫らなことをしたいと望んでいた癖に、他人にその役を奪われて嫉妬に狂い死にそうになっている。

 嫉妬は灼熱の印象だったが、いまはただただ凍えていた。

 絶望だ、と思うが、身体はトボトボと歩きだしており、しばらくすると見知った道にでて、そのまま家に戻る。

 畳のうえに真っ黒の缶が転がっており、そう言えばまだふしぎな飲み物が残っていたのだ、と思いだす。

 これはどんな能力なのだろう。

 なんでもいいから、気晴らしをしたかった。

 失恋のことなど忘れて、何かに没頭したい気分だった。

 思考は錯綜して、渋滞を起こしているのに、身体は渇きに耐えられなかった。自ずから缶を拾いあげ、中身を一息に煽っている。

 息継ぎをすることなく飲み干したじぶんに驚く。

 炭酸飲料なのだろうか、シュワシュワと喉ごし爽やかに弾ける気泡の躍動を感じた。ふしぎなのは、お腹にガスが溜まらないことだ。これがコーラやサイダーだったら、いまごろゲップをしていたころだが、そうした圧迫感はなく、ただただシュワシュワが身体の内部に染みこんだ。

 ミシリ、と家鳴りがする。

 力が湧いてくるようだ。

 こんどはいったいどんな能力なのだろう。もしまた超能力のような異能を発揮できたら、僕を袖にした想い人や、その結婚相手を見返してやりたい。

 身体のなかで、何か、灼熱の渦のようなものが蠢く。一点に向かって収斂していくのを感じる。

 能力を発現させようと、口を開けたり、手をまえに突きだしたり、いでよ超能力、と念じてみたりするのだが、とくにこれといった変化は起きない。

 拍子抜けだ。

 お腹の奥底からは何かしらのチカラが湧いて感じられるのに、それを実体化できない。ともすれば、単なる錯覚であるのかもしれないが、これでは下げる留飲もなく、期待しただけ損な気分だ。

 ちくしょう、と乱暴にゴミ箱を蹴ったら、思った以上に勢いよく飛んでいき、壁に当たって大破した。

 破片が壁に突き刺さるほどで、え、え、なんだこれ、と当惑する。

 ひょっとしたら、と思いつき、そばにあった本棚に手を添えると、ふだんならばびくもしない本のぎゅうぎゅうに詰まった棚が、なんと持ち上がるではないか。

 なるほどこれは、と見抜く。

 怪力の能力だ。

 膂力の向上だけではない。

 身体が頑丈になり、素手で岩をも砕ける。

 痛みは感じず、怪我も追わない。

 じっさい、さきほどゴミ箱を蹴っても痛みはなく、こうして本棚を持ち上げていても、疲労を感じなかった。

 きっと足も速くなっているに違いない。砲丸投げをすれば、大砲と大差ない威力を記録するだろうし、火災現場に飛びこんでも無傷で人を救出できる。

 きっと誰もが見直し、褒め称えるだろう。

 想い人を見返すには充分だ。

 これまで僕をバカにし、蔑ろにしてきた者たちを、無言の威圧でいなすことだってできる。

 だが効果の持続時間には限りがある。

 あとで魔法の自動販売機で缶を補充するにしても、まずは能力を使えるうちに、実験をしておきたい。その過程で、想い人の目にもそれとなく変身したじぶんの印象つけておけたら言うことがない。

 なんだったら、目のまえで結婚相手の男をねじ伏せてもいい気がしてきた。

 弱い者いじめかもしれないが、こんなじぶんのような人間から愛しい人を護れないようでは、結婚相手としてはふさわしくない。そんな非力な様で、いっぱしに選ばれし者のような顔をされるのは勘弁だ。

 仮に想い人に嫌われることになろうが、これくらいの試練を乗り越えてもらわねば幸せになっていいわけがない。

 僕を差し置いて、あははうふふ、とぬくぬくとした家庭を築いていいわけがないのだ。

 僕の惨めさを、その塊を食らってなお築けてこそ、本物の愛ではないか。

 まったく何を言っているのだ、とじぶんでも呆れるほどの、ねたみに、そねみに、逆恨みはなはだしいが、思ってしまうものは仕方がない。

 僕はこの無念をぶつけずにはいられないのだ。

 部屋をでるべく、一歩足を踏みだすと、ずん、と畳が沈んだ。

 体重まで重くなっている。

 仮にトラックに轢かれてもこの身体なら無傷で済みそうだ。のみならず、トラックのほうがひしゃげてしまうに違いない。

 いいぞ、いいぞ。

 僕は気まで大きくなっていた。

 想い人のいたマンションまで足を運んで、建物の柱に体当たりしてもいい。人工的に地震を起こして、怖がらせてやる。いまもまだどうせ裸で絡みつきあっているに決まっている。

 邪魔してやる。

 たとえ嫌われようと、人間としての格が下がろうと、そんなのは知ったこっちゃない。この身に覚えた屈辱を返さねばならぬのだ。

 けけけけ。

 無敵の高揚感から、完全に怪人の笑い声になってしまったが、義こそは我にある。仮になくとも、知ったことか。僕を振ったのがわるいんだ。

 そうだ、そうだ。

 意気揚々と、アスファルトに足跡を刻みながら、ずんずんと道を進んだ。

 思ったよりも距離があった。さきほどは飛んで移動していたので気にならなかったが、けっこうに歩く。しんどい。陽が暮れており、ひと気がないのはさいわいだ。

 やがてマンションが見えてきたところで、異変に気付く。

 足がアスファルトに沈むのだ。しかも、膝まで。

 もはや黒い雪のうえを歩いているみたいだ。ズボズボとふくらはぎまで埋もれ、間もなく太ももまで埋まる。

 だが前進はできる。

 メリメリと沼を泳ぐように、アスファルトを掻き分け、そのしたの地盤を踏みしめ、ときおり現れる水道管や下水道管を踏み砕きながら、刻々と沈みこむ身体を引きずって歩いた。

 ふしぎなことに、電灯はどれも明滅しており、前方からやってきたと思った自動車は、急に速度を落として、ゆっくりと動く。

 電灯の明かりがパチパチと点滅の速さをゆるやかにしていき、やがて光と闇が交互に世界を染めあげる。

 そう言えば、と僕は発電所のタービンを連想する。一秒間に六十回ないし五十回ほど回転するタービンに影響されて、電灯や照明は、同じく一秒間にそれだけ点滅しているのだった。

 ふしぎなのは、いまや、電灯が光を発するとき、その光が、順々に、まるでドミノ倒しのごとく明かりの範囲を広げることだ。波のようだと思い、光はそもそも波ではないか、と思いだす。同時に波は粒子でもあるために、銃弾のように軌跡を描くのだ。

 気づくと周囲の時間は停止しており、大気すら、アスファルトよりも抵抗のつよい硬さを帯びた。

 べりべりと分厚い氷を砕くようにして、身体を動かそうとするのだが、もはやその時点で、身体は臍の辺りを中心に、べっこん、とへこみはじめていた。

 収斂している。

 お腹の奥底へと向かって。

 まず両腕を動かせなくなり、その場に立っていられなくなった。

 ふしぎとアスファルトに沈むことはなく、また、足を縮めても落下することもなくなった。

 重力が消えている。

 否、そもそも世界の物理法則からも切り離されているようだった。

 しぜんと膝を抱えた格好になったが、したくてとっている格好ではない。なんとか手足を胴体から離そうとするのだが、ものすごい力で臍の奥へと引きつけられており、身体の節々が、べこべことまるでジャバラを畳むかのごとく縮みはじめた。

 それを、圧し潰れはじめたと言ってもいい。

 痛みがないのがさいわいだが、それだけに意識は鮮明であり、ベコベコと骨が、肉が、折れ、潰れ、砕ける様が、如実に感じられた。

 ああもうこれはダメだな、と諦めた。

 バチが当たったのだ。

 本来ならば至福を願うべきだった。

 最愛のひとと結ばれた想い人を祝福することこそ、僕がとるべき選択だった。僕が僕であるためにそうすることが好ましかったのに、僕は僕の至福への道を拒んで、こうして誰に見られることなく、ひっそりと圧し潰れていく。

 お似合いの最期だ。

 ああよかった。

 この世から消えてなくなるのが僕みたいな人間で。

 笑おうとしたのに、ふしぎと僕の眼球はとっくに頭蓋骨ごと鎖骨の合間に沈んでおり、呼吸もできずに、ぺっしゃんこの肺と肋骨の合間に、さらに沈んだ。

 僕はどんどん重くなり、そしてどんどん潰れていく。

 意識が途切れないことをふしぎに思いながら、圧縮に重ねた圧縮をこの身に宿し、ついには大気を構成する粒粒よりもちいさくなって、ただそこにぽっかりと針の先に生えた無数の針の、さらにそのまた頭に生えた針の先のような穴を開けた。

 僕は僕という存在を維持したままで、極小の極小にまで潰されて、収斂し、物理法則の届かぬ彼方へと突き抜けてしまった。

 意識までもが急速に折りたたまれていき、僕はいっとき虚無になる。

 そこで終わればよかったものの、なぜかつぎの瞬間には、急速に意識が覚醒しだし、あれよあれよという間に、極限にまで畳まれた身体が、高速で引っ張りだされるテントのごとく、パタパタと組みあがっていく。さながら人工衛星の太陽光パネルだ。

 あっという間に僕は復元され、見たことのある景色のまえに立っている。

 すすきが揺れている。一本きりではなく、大量のすすきが、相互に揺れ、風の軌跡を浮き彫りにしている。

 それら蠢きに埋もれるようにして、自動販売機が立っている。

 茫然としながらも、意識ははっきりとしていた。

 僕が何をしてきて、何をしようとし、どうしていまここにいるのかを、僕は走馬灯を眺めるように把握できた。

 僕にはいくつかの選択肢があったけれど、それらの道を辿る真似はせずに、目のまえの景色からも目を逸らした。

 惨めな思いを塊にして武器にすることも、憂さ晴らしに爆発させることもせずに、僕は無様なままの姿で、その場から踵を返し、帰宅の途に就いた。

 胸が痛い。

 頭がモヤがかったみたいに痛いし、じぶんがバナナの皮よりも無意義な存在に思えた。

 失恋したことも、想い人の神聖でいやらしい愛の営みを目撃したことも、八つ当たりをしようとした狭量なじぶんの姿も、そんな八つ当たりすら満足にこなすことのできないふがいないじぶんにも、なにもかもにも嫌気が差したけれど、ふしぎとじぶんを心底嫌うことはできなかった。

 心底嫌ってしまう前に、ここに戻ってこられたのだ。

 取り返しのつかない真似をせずに、よかった。

 僕は僕を嫌いだけれど、それとなく、じぶんを嫌っていられるじぶんのことは、存在するだけなら許せる気がした。

 このままでいいなんてとてもではないけれど思えないのに、無理やりに変わろうとして、扱えもしないチカラを手にするよりかは、すこしだけマシに思えた。

 僕は惨めで、情けなく、好きなひとに好いてもらうことのできない弱虫だけれど、じぶんの受けた傷を強引に他者へなすりつけるだけのチカラを持っていないのは、一つの幸運だと見做すのに、いまはふしぎと躊躇がない。

 僕は特大の回避不能な傷を負った。

 けれども、あすを、いまを、生きていく。




千物語「不」おわり。

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