千物語「談」

千物語「談」


内容

【日記は捺す】

【公衆電話】

【食欲がなくて】

【散歩日和】

【人間は猫よりも忌なり】

【見守る者】

【インコの一声】

【リモートワークはできない】

【お願いシます】

【悪魔の所業】

【ゴミの墓場】

【届けこの想い】

【そんなの頼んでない】

【寝て覚める】

【開かない金庫】

【夜の鳴き声】

【逃避者はモクする】

【痛覚転移装置】

【変心】

【人裏の間隙】

【行きすぎたコウイ】

【動画配信者の追憶】

【足りないスイッチ】

【齧る者】

【追い縋る者】

【仲介者は嘯く】

【いつだってそれは藪の中】

【河原で応じる者】

【ジエの声ははしゃぐ】

【真夏の屋台】

【タキザワさん】

【手を振るひと】

【路地裏の人】

【スキスキだって愛してる】

【出口はいずこに】

【人気の部屋】

【依頼人は語る】

【夜遊びは弾む】

【神はほくそ笑む】

【殻に走るヒビのように】

【遺書】

【隣人の怪】

【初めての盛り塩】

【嫉妬の鬼】

【閑古鳥はさえずるが、その声すら美味】

【瞬久間弐徳の心配】

【ならってなにならって】

【あれの理由】




【日記は捺す】

(未推敲)


 久々に顔を合わせた友人との雑談は、一時間もすると話題が尽きた。解散してもよかったが、呼びだした手前、わたしからは暇を告げにくい。

 気まずい沈黙を持て余していると、

 そう言えばさ、と友人は記憶の底を洗うかのように言った。

「すごい日記見つけたんだよね」

「日記?」

「そう。たぶん個人でやってる日記なんだけど」友人はメディア端末を操作する。

「インターネット上のってこと?」

「そうそう」

 はいこれ、と画面を見せられ、私は覗きこむ。

 そこには日付順に覚書き程度の短い一文が載っている。たいがいが事件や災害についての文面だ。

 どこそこで何々がありました。何人亡くなったようです。

 簡素な文章が短く並んでいる。

「これがどうしたの」わたしは訝んだ。「ニュースをメモしてるだけでしょ」

「いやいやよく見てよ。ほらこれ。たとえばこの事件、日記の日付の一週間後に起きてる。こっちは一か月後だし、こっちは三日後だね」

「へぇ。でも日付をいじって、予知っぽくしてるだけじゃないの」

「かもしんない。でも頻繁に更新されてて、たまに覗いてるんだけど、まだ起きてない事件が結構本当に起きたりしててね」

 じつは界隈じゃ有名なんだよこの日記、と友人は言った。「でもまあ、信じない気持ちもわかるし、急にこんな話題ごめんだね。しらけちゃうよねぇ。いやね、親しい人にはどうしてもしゃべりたくなっちゃって。たまにでいいから覗いてみて。嘘を暴いてやるって気持ちでもいいから」

 ふうん、と半信半疑というよりも十割眉唾な気持ちで最新の日記を表示する。

「あ、そこあれじゃん」友人が肩を寄せてくる。「旅行行くんだよね、同じ場所じゃない? 通り魔だって。うわ、こんなに人死ぬの。気をつけたほうがいいかもよ」

 わたしは、へぇ、と思った。「これ、すごいね」

「何が? あ、信じる気になった? でもそうだよ、絶対危ないからここには近づかないほうがいいかもよ。日程変更とかできないの。この日だけ宿から出ないようにしたりさ」

「大丈夫だよ」わたしはじぶんのメディア端末でも日記を検索した。お気に入り登録する。「ふふ。太鼓判もらっちゃった」

「なんできみそんなうれしそうなん」

 友人は呆れていたが、わたしは視界がぱっと明るくなった心地がした。わざわざ呼びだしてまで最後に友人と会っておいてよかった。

 日記にいまいちど目を走らせる。

 こんなに殺せるんだ、と嬉々とする。

 わたしの念願はどうやら達成されるらしい。





【公衆電話】


 都心に引っ越した友人が夏休みがてら地元に帰ってきたので、久々に会って話をした。都心の生活は刺激的で、時間の流れが早く、田舎とは大違いだ、といった所感を延々聞かされたあとで、それでもやっぱりこっちが落ち着くわ、との一言を引きだして、こっそり満足する。

 友人は、半年のあいだで姿を消した駅前の店々のことに言及し、新しく増えたチェーン店に対して、こっちに戻ってきてまで見とうなかった、とぼやいた。私は田舎の空気も、地元の飾りっ気のない風景も好きだったので、友人のそうした都心へのぼやきを聞くと、やはりこっそり何かが満たされる心地がした。

 ほどよく酔いが回りはじめたころ、

「そう言えばこっちに公衆電話ってないよね」友人はごちた。

「公衆電話って、久々に聞いたよ。もうとっくに撤去されたでしょ。都会にだってないでしょ」

「あるよまだ。需要があるってことなんだろうね。災害用の予備ってことかもしれないけど」

「ああ」

「でもさいきんちょっと不気味な体験してさあ」

 思いだしたくない光景を思いだした、といった調子で友人はカラのカップに目を落とした。氷が、からんと音を立てる。「駅から家までのあいだに人通りのすくない道があってさ。高架線って言うの? 頭上に電車の通る道が橋みたいにずっと伸びてて、その下に、ぽつんと公衆電話があるのね。ベンチとかもあって、遊具はないけどちょっとした休憩スペースみたいになってて。で、終電を逃したときとか、歩いてそこを通るんだけど」

「待って待って。これってこわい話じゃないよね」友人の口調から、仄暗い井戸の底を思わせる鬱屈さを感じた。

「こわい話っちゃこわい話なのかもしれないけど、オバケとかそういうんじゃなくて」

 あくまで実体験だと言いたいようだ。きっと不審者がいて、追いかけられたとかストーカーっぽいひとに付きまとわれたとか、そういう話に違いない。私は友人の話のつづきを予測しておくことで、恐怖心をやわらげる努力をした。

 友人はそこで飲み物のお代わりをし、私はついでにデザートを注文した。甘いものを食べないでは聞いていられない。

 品物が運ばれてくるあいだに友人はざっと状況説明をした。

 いわく、架橋したにがらんとした休憩スペースがあり、そこに一台だけ公衆電話が立っているらしい。電話ボックスではないらしく、四角い容器で囲われてはいないそうだ。頭にフードのある台座に置かれいるという。一見すると傘のついたポストといった塩梅で、ちょうど電話を使用している人間の顔が見えないくらいの高さと深さが傘にはあるようだ。

「で、それがどうしたの」

 もったいぶった語り口だったので、さっさと核心に迫ってほしかった。公衆電話がだからどうしたというのか。

「おまちどうさまです」給仕人が嘴を挟み、我々は注文の品を受け取る。

 シャーベットのアイスを頼んだのは失敗したかもしれない。一口頬張っただけで寒気が全身を襲った。

 否、それ以前からすでに身体は悪寒に支配されていた。

 友人の陰鬱とした語りの影響だ。

 友人は一口でジョッキの中身を半分にし、それでね、と述懐する。

「毎回、そこを通るときに、使ってるんだよね。誰かが」

「公衆電話をって意味?」

「そうそう。中にね、誰かが立ってるわけ。ちょうど背中がこっちに向く位置関係」

「顔は見えないんでしょ」

「見えない。でもたぶん女の人で、赤か黒の丈の長いワンピースを着てて、こう、足元まで布がカーテンみたいに垂れててね」

「もうこの時点で不気味なんですけど」

「オバケじゃないよ、本当に実在する人だから。でも、本当に毎回のように、そこにいるものだから、よっぽど日常的にそこで長電話をしているんだなって」

「まあ、変ではあるけど、世の中にはそういうひともいるのかもね。使ってる人がいるから撤去されていないわけだろうし」

「そうそう。わしもそう思ったんだけども、それにしたって深夜だよ? そこ通るときはいっつも深夜で、街灯の下で、公衆電話のまえでじっと佇んでいるひとがいるってのは、やっぱりこう、ね」

「ね、って言われても」

「でね、このあいだその日も終電逃してそこを通ったら、まあいるわけですよ案の定。すっかりお馴染みだから怖くはないんだけども、やっぱりさすがに気になるわけで、いつもは素通りするだけだったそこを、敢えて横切ってみようと近づいてみたわけ」

「えー、だいじょうぶだったの」

「だいじょうぶだったからこそここでこうしてあなたとおしゃべりをしているわけなのだけれども、ただね、ちょっと見れなかったんだよね」

「見れなかったっては?」

「もうね、近づいただけで、あっこれダメなやつだ、とピンときちゃって、早歩きで通り過ぎちゃった」

「いいんじゃないの、最初からそのつもりだったんでしょ。カバーだってあるからどの道、顔は見られなかったんだろうし」

「うん。でもね」

「なにやめて。意味深な間を空けるの禁止」

「だってそのひと、ずっとこっち向いてんの」

「え?」

「ずっと。そのひと、公衆電話のほうじゃなく、逆向きに、ずっとこっちのことを見てたわけ。もちろんカバーはあるから風景なんて見えないはずなのに、電話するでもなく、ずーっとこっち向いて立ってんの」

「気のせいじゃないの、だって顔は見えないんでしょ」

 矛盾だ、と思い、ずばり指摘する。

 友人は、ううん、と眉根を寄せて、あたかもそうだったらよかったんだけどね、と言いたげに、だって、と言った。「靴の先っぽ、こっち向いてんだもん」

 私はシャーベットアイスを残すことにし、友人はそれを見て、じゃあちょうだい、とお皿を手元に引き寄せた。友人にはこういう調子のいいところがあった。ひょっとしたら作り話をしただけなのかもしれないが、すくなくとも私の知るかぎり嘘を吐くような人間ではないはずだった。

 都会に行って変わったのかもしれない。

 田舎者の私をからかっただけなのかもしれない。

 が、それはそれで物哀しくもあり、公衆電話の話が嘘であろうと本当であろうと、いたずらに損をした気になった。

「そうだ、泊まりにきたときに案内するからさ」

 友人は言ったが、私は、田舎が好きなので、と白状して、丁重にお断りした。代わりと言ってはなんだが、この日の食事代は全額私が負担した。






【食欲がなくて】


 晩御飯を御馳走してもらうことになった。橋本さんの家でだ。橋本さんはバイト先で仲良くなった三十代の男性で、世界中を旅してまわった経験などを楽しく聞かせてもらったりして、同性ながらにほんわかとした憧れと親しみやすさを覚えていた。

 話が弾んだ流れで、そのまま橋本さんの家に寄ることになった。

 そこで橋本さんは、お得意の料理だというパスタを作ってくれた。イカスミが練ってあるパスタで全体的に黒い。

「お代わりいっぱいあるから遠慮なく言ってね。美味しくなかったら残していいから」

「いえ、美味しそうです」

 運ばれてきたパスタからは湯気が立ち昇り、香りもよく、口内にしぜんと唾液が滲みでた。橋本さんの分はこれから茹でるようだ。冷めないうちにさき食べてていいよ、という言葉に甘えて、さきにパスタをフォークで巻き取り、口に運んだ。

 味はよかった。

 だが、二回、三回、と咀嚼するうちに、異物感を覚えた。

 噛み切れない麺がある。

 いや、麺ではない。

 この感触には馴染みがあった。ちいさいころ姉といっしょに昼寝をしていたのだが、そのときよく姉の髪の毛が口の中に入って、気持ちわるくて目覚める、といったことを繰り返していた。あのときの感触といっしょだった。

 口のなかにゆびを突っ込み、異物感の大本を引っ張りだす。

 ずる、ずるる、と長い糸が現れる。

 黒い。

 イカスミよりも漆黒の血が伸びたような糸だった。

 否、糸ではない。

 髪の毛だ。

 そう思った瞬間に、ぞっとした。というのも、私も橋本さんも、髪の毛は短く、どう考えてもこんなに長い髪の毛が調理中に混入するはずはない。

 茹でる前のパスタに入っていたのだろうか。

 ひょっとしたら橋本さんの恋人の髪の毛かもしれない。調理用具に引っかかって、それが偶然入ってしまったのだ。

 きっとそうだ。

 そう思いながら、髪の毛をゆびでつまんで掲げ、橋本さんに言った。

「橋本さんって恋人さんがいたんですね。なんだかずいぶん髪のきれいなひとみたいですけど」

 橋本さんの性格や、部屋の様子からして恋人はいないと思っていた。じぶんと同属かと思っていたので、なんでぇい、という気持ちが湧かなかったわけではない。だからこうしてからかい半分に異物混入の事実といっしょくたにして指摘したのだが、キッチンから振り返った橋本さんは目を細め、んー? と訝し気に、何か入ってたの、ごめんごめん、と半笑いで、

「じゃあこっちのと交換しよう。そっちは僕が食べるから」

 と、できたての料理をお皿に盛って運んでくる。さきにこちらの皿を取り、あいた場所に新しい皿が置かれる。ちゃぶ台を挟み橋本さんは、じゃあ食べよう、と箸を手にして、いただきます、とパスタをすすりはじめる。

 私は呼吸を忘れていた。目の前に新しい皿が置かれてからずっとだ。

 全身が粟立ち、悪寒が背筋をゆったりと伝う。

 目のまえの皿には、こんもりと黒い糸のようなものが載っている。抜け落ちたばかりの髪の毛のごとくつややかさで皿の底を埋め尽くし、わずかに汗ばんだ皮脂のような饐えた臭いを立ち昇らせている。




【散歩日和】


 無職になって半年が経った。家に引きこもりっぱなしの生活がつづいていたが、日に日に手足が細くなっていくのに怖気づいて、散歩を日課に取り入れた。

 近所をぐるっと回るだけだ。三十分もかからない。日中はソファに寝そべりながら映画を梯子する生活だったので、日差しを浴びる日々はそれなりに細胞が活性化するのを感じ、メリハリがついた心地がした。

 散歩は雨の日もつづけた。一度でも休んでしまうと途絶えると経験上知っていたからだ。

 お馴染みの散歩コースにも飽きてきたころ、新しく通った道で、子ども連れの女性を見かけた。親子だろう。女性は子どもと手を繋いではいるが、もういっぽうの手でメディア端末を操作し、子どもを見ていない。

 なんとなしに目が行ったのは、子どもが車道側を歩いていたからだ。危なくないかな、と不安になった。道幅はぎりぎり二台の車がすれ違えるか否かといった狭さだ。子どもの有無に関係なく、女性のほうはまえを向いておらず、不注意で危険に思えた。

 とはいえ、声をかけてまで解消したい不安ではなかった。なんとなく、女性と子どもの関係が、母子のそれではないにように見え、強いて言うなればペットの散歩じみて映ったので、意識が引っ張られたのだ。

 そのまま車道を挟んですれ違い、その日は新しい散歩コースの新鮮さを味わった。

 つぎの日からはそちらの散歩コースが馴染みとなった。

 三日にいちどくらい、同じ時間帯に例の子連れを見かけた。女性は相も変わらずメディア端末に夢中で、子どもはいつも女性の手をちょこんと握り、それでいて楽しそうに、民家の壁や庭から飛びだす草花をすれ違いざまにゆびさきで突ついたりしていた。それはそれで楽しそうだった。

 女性のほうは思ったよりも若いようで、日によって服装がおとなびていたり、ジャージ姿だったりと印象が変わった。

 子どもはいつも同じ服装だった。赤いポンチョを頭から被り、長靴じみた膝まで届く靴を履いている。一見すると秋の妖精じみているが、季節は春だ。梅雨入り間近なのか、気候が安定しない日がつづく。

 雨の日でも、例の子連れを見かけたが、女性ばかりが傘を差し、足元の子どもの身体が濡れて映った。しかし子どもは子どもで雨を楽しんでいるのか、水溜まりがあるたびに、ぴょんこと跳ね、一歩先んでたところで母親が追いつくのを待つかのように、その場に佇み、傘の下にくるとまた、せかせかと歩んでは、ぴょんと跳ねた。赤いポンチョは或いは、雨具にもなるのかもしれなかった。

 女性の態度から、ひょっとしたら親子ではなく、親戚の子どもを預かっているだけの身内の女性かとも推し量ったが、そういうわけでもなさそうで、子どものほうは無邪気に女性を慕っていた。

 梅雨が明けたころだろうか、珍しく女性がメディア端末に夢中ではなかった。となりの男性と仲睦まじそうにしゃべっている。

 父親だろうか。

 これまでいちども目にしていなかったので、女性は女手一つで子どもを育てているのかとかってに想像していた。父母子三人で仲良くやっているのならばよかった、と胸のなかが温かくなった。

 散歩の道中ですれ違うだけの相手にずいぶんと感情移入していたものだと知り、気恥ずかしくなったが、ときにはこういう気晴らしがあってもいい。女性のほうからしたら下心を働かせた不審者が毎回この道を通っていたように見えていたかもしれない、と思いつき、そうではないんですよ、と言い訳の一つでも挟みたかったが、毎回のようにメディア端末に吸いついていた彼女とはいちども目が合ったためしはなかったし、そもそも向こうはこちらのことなど気にも留めていないに違いない。

 ややもすれば気づいてすらいないのかもしれなかった。

 それはそれで寂しさが湧かないと言えば嘘になるが、ともかくとして親子三人が仲良く連れ立って歩く姿はそれなりに心がほぐれるものがあった。

 子どもはじぶんの足で歩かずに、父親と手を繋いでいた。

 こちらから見て、母、父、子の順番で並んで歩いている。

 どうせなら真ん中に子どもを置いて、両手を握ってブランコなんかをしてやったらよいのに、と外野ながらの理想の家族像を内心で押しつけながら、いつものようにすれ違おうとして、首筋に悪寒が走った。

 女と男が陽気にしゃべっている傍らで、子どもだけがずっと真上を見あげている。

 真下からじっと男の顔を、あたかも首だけを動かさずに歩くハトのようなかっこうで、足だけを音もなく動かし、歩いている。

 なんだ、あれは。

 違和感を覚えながらも、目を逸らした。目で追うことができなかった。

 手など繋いでいなかった。

 男はズボンのポケットに手を突っ込み歩いていた。子どもはその傍らで、男の顔をゆびで差しつづけ、子どもとは思えぬ形相で、瞬き一つせずに睨みつけていた。





【人間は猫よりも忌なり】


 担当編集者から返ってきた原稿をさっそく検めると、「この描写、ネコでなきゃダメですか」と赤字が入っていた。昨今、動物愛護の観点から、猟奇的な描写がNGになりがちだ。とくに猫の虐待は忌避される。

 人間をこっぴどく扱っても看過されるのに、それが猫だとダメなのだ。何かが歪んで感じられるが、解らない感覚ではない。人間の一人や二人がいたぶられようと、それが虚構の世界ならばスカっとすらする。

 しかしそれが猫であるだけで呵責の念を覚えるのだ。人間は死んでも仕方がないが、猫だけは助けてあげたい。助けられないじぶんの無力さをひしひしと感じてしまう。

 そうした心理が湧くからこそ、敢えて猫をいたぶる描写をもうけることで、読者の感情を乱そうと試みたのだが、やはり通らなかったようだ。似た問題で編集者と揉めたのは一度や二度では済まない。締め切りがちかいため、今回は修正案通りに進めた。

 仕事がいち段落ついたころ、ふと実験したくなった。虚構では観測される同情の非対称性が、現実でも働くかが知りたくなったのだ。

 人間と猫とでは、真実に猫のほうが優遇されるのか。

 痛めつけた場合、人々は真実に、人間よりも猫を優先してしまうのか。

 まずは入ったばかりの原稿料で、人を雇った。五十代の男だ。

 男にウィークリーマンションを借りさせ、その足で、保健所のまえに待機させる。子猫を捨てにやってきたやからから無料で子猫を引き取らせ、借りたばかりの部屋にて子猫を受け取ったと同時に、男の首を絞めて拘束する。

 人間と子猫の両方を手に入れたら、あとは単純にインターネットで相互にいたぶる動画を載せ、観衆が増えるまで数時間ほど待つ。

 今回の実験にはあまり時間はかけられない。通報されればこの場所を警察が短時間で割りだす。実験をすみやかに行い、退散する。これまでに繰り返してきた数々の実験と同じだ。いつも通りやればいい。

 人間と子猫は、同じ動画内に映っている。

 人間を救いたければ「よくないねボタン」を、子猫を救いたければ「いいねボタン」を押すようにとの一文を、説明欄に載せる。万が一に説明欄を見ない連中が多くとも、よくないねボタンが多ければ人間は助かる。

 通常この手の動画は、低評価が上回る。高評価たるいいねのほうが多くなった場合はそれすなわち、過半数以上の視聴者が、人間よりも子猫を助けようとした何よりの傍証となる。

 実験を開始する。

 まずは人間と子猫の片手をそれぞれハンマーでつぶした。むろんその場面を動画に流す。

 視聴者が一気に増え、評価数も激増する。最初は低評価が多かった。みな一様に、よくないねボタンを押したのだ。

 しかしもう一方の手を潰し、足を潰し、潰した手を切断したころには、あたかもみながこの動画を絶賛しているかのごとく票数差で、高評価のいいねボタンが万単位で集まった。

 みな子猫を助けるのに必死なのだ。

 人間の男ではなく。

 両手を切断し、足にとりかかったところで、男がぐったりした。事切れたのだ。子猫のほうはうるさいほどに鳴きつづけている。元気なものだが、もうすぐこちらも死ぬだろう。出血多量だ。もとから両方助ける気はなかった。

 動画を消し、現場をそのままに部屋をあとにする。

 痕跡を残してはいない。

 変装は徹底しているし、逃走中は街中の監視カメラの死角をいくつも経由する。そのたびに着替える。部屋の名義は死んだ男のものだし、いつものように足はつかないだろう。

 実験は成功だったが、しかし疑問は残る。

 ひょっとしたら痛めつけたのが五十代の男だったからよくなかったのではないか。

 たしかに子猫とおじさんとではつり合いがとれていない気がした。そこはせめて、老いた猫とおじさんにしておくべきだった。

 或いは、子猫と子どもか、だ。

 いちど疑問が湧いてしまうともういけない。確かめずにはいられない。小説家のサガである。

 否、この性質が功を奏して、プロの小説家としてやっていけているのだ。

 実体験に勝る素材はない。取材はない。

 現実は小説よりも奇なりとは言うが、そんな現実を基にした小説ならば、結果は逆転し、小説は現実よりも奇なりを地で描けるようになる。

 諺すら塗り替える絵空事を編むために、あすからまたつぎの仕事までの息継ぎとして、束の間の休息を満喫するとする。




【見守る者】


 動画投稿サイトを巡るのが趣味だった。有名どころの動画配信者にハマったのがきっかけだったが、徐々に物足りなくなり、いまではまったく知名度のない、それでいて才能のある配信者を探すことに楽しみを見出している。

 その男は、まったくの無名だった。十年以上前から動画を毎日のように投稿していながら、アカウントの登録者数は一ケタ台だった。だが、さすがに長年配信しつづけているだけあって、しゃべりは安定しており、動画編集の腕もよかった。

 毎日、大きな世界地図の貼ってある壁を背後にして、日々思ったことや考えたことを、一人二役で寸劇のように披露したり、ときには漫才や講談、落語の体で語ったりしていた。

 すっかりファンになった。

 だが他人からの評価を気にしていない達観した配信者でもあったので、無理に宣伝をしたり、高評価をつけたり、感想を送って交流を図るのはかえって迷惑かと思い、こっそり見守る日々を送った。

 そのあいだに私は私で、転職をし、引っ越しを済ませた。以前から計画していたことだ。新居はアパートだ。張り替えられたばかりの畳が気持ちの良い、小奇麗な部屋だった。

 窓からは神木じみた立派な樹が見えた。

 引っ越してから気づいたが、夜な夜な、キィキィと家鳴りがする。眠れないほどの音量ではないが、気が散るのはたしかだった。

 ある日、数日のあいだ例の配信者の動画更新が止まった。心配になったがどうすることもできない。

 更新の途切れた件のチャンネルを欠かさず確認していると、ひと月後には動画が一件投稿された。

 配信者はずいぶんとやつれていた。

 なぜかいつもの壁からは地図が剥がされており、配信者は、重大な事実を明かすように、じつはこれまでの動画は予約投稿なのだ、と語った。撮り溜めた動画を自動で更新させていたらしい。最新動画と収録日時のあいだにはだいたい半年ほどのズレがあるだろう、と告げ、きょうは趣向を変えてライブ配信にします、とカメラの位置をずらした。

 天井からは縄が垂れていた。

 配信者は、この動画も自動で配信されるはずだ、すぐに消されるだろうから観れたひとはラッキーだ、といった旨を述べた直後に、縄で首をくくった。

 配信者は痙攣し、しばらくすると動かなくなった。

 配信者だったものがゆらゆらと揺れるたびに、動画からは、キィキィと不規則な音が響いた。

 これまでとは違った角度から撮られた動画のなかには、窓があり、そこにはどこかで見たような神木じみた立派な樹が覗いている。




【インコの一声】


 妙な声を聞いて目覚めた。声は何事かを叫んでいるが、人間の声には思えない。言葉を言葉として認識している素振りがない。その響きは、インコやオウムを彷彿とした。

 しばらくうつらうつらしながら、声の正体とどこから響いているのかを探っていると、やがて鳴き声は途絶えた。

 ベランダの外から聞こえていたようなので、やはり鳥だろう。近年、野生のインコが問題になっている、と以前に何かの記事で読んだ憶えがある。

 顔を洗い、居間に入ると、千葉が一足早くトーストを齧っていた。千葉は同居人だ。彼とは最初、友人の友人という関係で出会った。とくに気が合ったわけではないが、互いに他人に興味がないところなどほかの友人たちとは共有できない共通点があり、色々あってこうして一つ屋根の下で暮らすようになった。

 趣味嗜好が合う相手よりも、何にイラっとするのかを暗黙の了解で共有できる相手とのほうが人間関係は長続きするものだ。

 家賃はこちら持ちだが、気まぐれな猫を飼っているようなものと見做せば、それなりに元は取れている。かわいげのない性格だが、逆らわないという意味では従順だ。

 じぶんのことはじぶんでする、が同居するときに交わしたルールだったので、朝食はじぶんで用意した。ウィンナーを茹で、トーストに挟んで簡易サンドウィッチにする。

 千葉は在宅勤務だが、こちらは出勤せねばならない。

 いつもは無言でそのまま家をでるのだが、例のなぞの声のことが気になって、水を向けた。「インコだと思うだけど、今朝方に妙な声が聞こえなかったか」

 返事はない。

 見遣ると千葉はワイヤレスイヤホンを耳にしていた。かろうじて声が届いていたようで、何、とイヤホンを外したので、いやなんでもない、と言って、この日は家をでた。

 それからしばらくつつがなく日々が過ぎたが、朝になると二日に一遍の頻度で、例の鳴き声が聞こえた。マンションである。ひょっとしたらほかの部屋の住人が買っているペットかもしれない、と閃く。以前、ペットのニシキヘビが逃げだしたニュースを見たことがあったが、こっそりオウムか何かを飼っている可能性はある。

 マンションの規約違反だ。

 かといって通報しようとは思わなかった。しかしほかの近隣住人は違ったようだ。マンションのオーナーに連絡したのか、ある朝、出社のために一階に下りると、大きな虫取り網を手にした男がマンションを見あげていた。

「どうされました」半ば背景を予期できたが、声をかけた。

「ああ、どうも。いえね、ちょっとペットの鳥が逃げちゃったみたいで」

「オウムですか」

「インコだそうだけど、もしかして見かけましたか」

「いえ。鳴き声がするものですから」

「すみませんねぇ。どこかの部屋のひとが黙って飼ってたんでしょうが」

「区役所には連絡されないのですか」

「いちおう、捕まえてからにしようかなと。あまり大事にはしたくないので」

 評判に響けば住居者が入らない懸念があるからだろう。

「罠とか仕掛けてみたらどうですか」ふと思いついて言った。「餌とかで釣ってみたり」

「ああ、それはいい案だ」男はそこで何を思ったのか、鳴き声はどんなでしたかね、と訊いた。

「鳴き声ですか?」

「何かこう、しゃべっていたりとか。いえね、ただの鳥ならいいんですがね、もししゃべるなんてことがあるなら、幽霊だのなんだのと風評被害じゃないが、そういうのがほら、心配でしょう」

「ですね」半笑いで、そう言えば、と朝方の記憶をよみがえらせる。「何かこう、言葉みたいなのを、カタコトですけど繰り返していたような」

「どんなですか」

「サレテルヨ、とか、ケテケテー、とか、カキーン、とか、効果音なのか、単語なのか、よく分からないんですけどね」

「まあ、しょせん鳥ですからね」

 男は肩の力が抜けたようで、ほころんだ。柔和な好々爺で、印象がよかった。

 何か気づいたことがあったらここに連絡してほしい、と男は連絡先を紙に書いて寄越した。きょうは諦めますわ、と言って去っていった。

 この日の夕方、職場から帰宅し、夕飯をつくりがてら、その話を千葉にした。千葉は風呂からあがったばかりで、ソファに座り、メディア端末で漫画を読んでいた。

「で、逃げた鳥を捕まえたいんだと」

「へえ」

「朝方に聞こえないか。オウムみたいなしゃべり方の声」

「どうだろ。興味ないことに意識がいかないから」

「そういやそうだ。おまえはそういうやつだった」

「ただ、見慣れない鳥なら見かけるよ」

「そうなのか」意外な返答に、鍋の火を弱め、振り返る。「日中に出かけたりするのか」

「ううん。煙草吸うのにベランダでるじゃんボク」

「ああ」

「そのときに、斜め下のほうの部屋かな。ベランダによくカラフルな鳥が出入りするのを見るから」

「そこじゃん。そこに住んでる人が犯人だ。内緒でペットを飼ってるんだって」

「でも、放し飼いにするかなぁ」

「放し飼い? インコは逃げたんだろ部屋から」

「そういう感じでもなかったよ。というか、棒みたいなもので追い払ってたし」

「追い払う? 鳥をか?」

「姿は見てないんだけどね。長い棒みたいなのが、部屋のほうからベランダに伸びて、そいでカラフルな鳥を、えいえい、って突ついて追い払ってんだよね。だからまさかそこに住んでる人が飼い主だとは思わなかった」

 なるほどたしかにそれは妙だ、と思う。

 わざわざ戻ってきたペットを追い返すなんて真似はふつうはしない。ならば逃げたインコとは無関係な住人が、糞の始末に困ったりして追い払っていただけと考えたほうが筋は通る。

「それって一度や二度じゃないのか」何度も見かけたような言い方だったので、確かめた。「そうだね。ここ数日は毎日見掛けるかも」

 この会話から一週間後に、またぞろ例のマンションの管理人らしき男性を見かけたので、千葉からもたらされた情報を伝えた。男は大きな虫取り網を肩に担ぐと、深々と腰を折って礼を述べた。

「本当にまいってたので、助かります。妙だとは思っていたんですよ。逃げたならとっくにこの番地からは飛び去っていてふしぎではないのに、未だに目撃譚が寄せられるでしょう。鳴き声のほうも不気味だってんで、苦情が入ってたいへんでたいへんで」

「そうでしたか」

「鳥が寄りつく部屋があると判れば、あとはそこに餌を撒いておいて捕獲するだけです。助かりましたどうもどうも」

 男はさっそくその部屋の住人に話して協力してもらうことにしたそうだ。

 ご機嫌に歩き去っていくその肉付きのよい背中を見送りながら、しかしどの部屋に鳥が寄りつくのかをまだ教えていないのだがよいのだろうか、と苦笑する。追いかけてまで伝えるほどでもなく、上からマンションを観察していればいずれ判ることなのだろうから、とあとはお任せすることにした。

 仕事を終え、家に戻ってからその話を千葉にすると、そうなんだ、と唸ったきり押し黙ってしまった。

「なんか引っかかるのか」

 不穏な空気を察して、吐露を促すと、千葉は、うん、とうなづき、

「ボクも気になったからちょっと調べてみたんだよね。調べたと言っても、例のカラフルな鳥の寄りつく部屋の住人ってどんな人だろうって、部屋番号と名前を見にいっただけなんだけど」

「それで?」

「無人だった」

「無人?」

「空き部屋だから誰も住んでいないってことになっててね」

「間違えたんじゃないのか」

「ううん。何度も見比べたから間違いない。前にこの話したでしょ。そのつぎの日には調べたから、それから何度も確かめてる。鳥はそこの部屋のベランダに寄りついては、中から棒で追い払われていた」

「でもじゃあ、誰かが住んでるってことだろ」

「でも空き部屋のはずなんだよねそこ。ただ、誰かがいるような気配はたしかにあった。念のため、玄関が開閉しているのか確かめたくて、テープを張っておいたんだ。半透明の紙テープ。おととい、それが剥がれてた」

「じゃあ」

「誰かが出入りしているんだろうね。でも何のために?」

「さあな。違法なペットをそこで飼って、高値で売りさばいているとか」

「あり得なくはない。ただ、だったらやっぱりわざわざベランダに寄ってくる鳥を追い払ったりはしないでしょ。注目を集めたら悪事がバレちゃう。その鳥がその部屋の住人の持ち物にしろ、そうでないにしろ、邪魔なことには違いないんだから鳥は捕まえるのがふつうじゃないかな」

「まあ、そうな」

「でも追い払っている。しかも何度も」

「姿は見えないのか。位置的に鳥を追い払ったら腕くらいは見えるだろ」

「棒で追い払っているだけなんだよね。ベランダには出ていない。ううん、きっと出られないんじゃないかな。だから部屋のなかから致し方なく、棒で追い払っている」

「だから何のために」

「たぶん逆なんだと思う」

「逆? 何がだ」

「空き部屋の住人は、鳥に逃げて欲しいんだ。というよりも、わざと逃がしたのかもしれない」

「わざと逃がしただぁ? そんなことしてなんの得が」

「ないよねふつうは。空き部屋のなかで悪事をしている者がいたら、ふつうはそんな真似はしない。誤って逃がしてしまったとしても、鳥を回収する方向に尽力する」

「それはそうだ。密輸入したペットを飼っている迷惑な人間ならきっとそうする」

「でもそうしない者があの部屋にはいる。ここから考えられることはそう多くはないと思うんだ」

「もったいぶるなよ、さっさと教えてくれ。空き部屋の住人は何がしたいんだ」

「その前に聞かせてほしいんだけど、鳥の鳴き声って、どんなだったの。ボク、聞いたことないから分からないんだよね」

「この前しゃべったときに教えたろ」

「あのときはそれほど興味のある話題ではなかったから」

「ああ」

 いつものことだ。

 憤懣を鼻息に載せて吐きだし、鳥の鳴き声のパターンを教えた。主として、「サレテルヨ」「ケテケテー」「カキーン」だ。はっきりと聞こえるわけではないので、だいぶ大雑把な聞き分け方だ。

 千葉はあごにゆびを添えて深く考え込むと、足を振ってソファから立ちあがる。「虫取り網を持っていた男の連絡先ってまだ持ってる?」

「ああ、あるけど」

「部屋のこと、その男にまだ言ってないよね」

「あ? いや、だからきょう朝に外で会って、伝えったって言わなかったっけか」

「教えちゃったの」万年感情枯れ男の千葉が叫んだので、面食らった。「ダメだったか」

「ダメだよ。何か武器ある? あ、それ、フライパンでいいから持って。ついてきて」

「お、おい。どこ行く気だよ」

「手遅れになる前に確かめに行く」

「だから、どこに」

「例の空き部屋だよ」

 そこからの千葉の行動は、奇行というよりなかった。長い付き合いだからこそ千葉の行動を支援したが、そうでなければ柱に縛りつけてでも引き留めていたところだ。

 千葉は、空き部屋の二つとなり部屋のインターホンを押し、にこやかに言葉を交わしてチェーンロックを外させたところで、有無を言わさず部屋のなかに押し入った。

 目的の部屋ではない。

 いったい何をしているのか、と当惑したが、空き部屋には鍵がかかっているし、空き部屋なのだからむろんインターホンを押しても意味がなく、その両隣もまた空き部屋だったために、千葉は折衷案として、二間隣の部屋のベランダから、となりのベランダ伝いに目的の部屋まで渡ることにしたらしい。

 何なんだおまえら、と二軒となりの部屋の住人が喚くが、千葉は意に介さずに、ベランダを二つ飛び越えた。運動神経のよさは相変わらずだ。難なく目的の部屋のベランダに侵入する。

 千葉のあとを追おうとしたが、思った以上にベランダ同士が離れていたので、断念した。

 部屋の住人は警察に通報中だった。愛想笑いでそのまえを通り抜け、いちど廊下にでる。

 千葉のことだからガラスくらいは割るだろう。

 空き部屋のなかに侵入したら、あとは玄関のカギを開けてくれると予想した。

 だが意に反して、なかなか外に出てこない。

 加えて、部屋の中で激しく物音がし、しまいには怒号じみた声までしはじめたので、心臓が張り裂けんばかりにドキドキした。

 こんな事態になるなんて聞いていない。

 サイレンの音が聞こえてくるまでの数分間が、水飴のごとく粘着質に長く感じられた。

 警察が到着し、事情を話すと、半信半疑と言った様子でありながらも警官たちは、道具を使って扉の蝶番を外し、部屋の中に押し入った。

 部屋のなかは明るかった。

 居間にはビニールシートが敷かれており、そこには千葉と、見知らぬ少女、そして例のマンションの管理人の男が頭から血を流して倒れていた。

 千葉は現行犯逮捕された。

 共犯者と目されたのか、こちらまで事情聴取の名目で連行された。

 以下は、釈放されてからインターネットのニュース記事を読み漁って知ったことである。どうやらマンションの管理人は少女を攫って、あの部屋で監禁していたようだ。

 一人二人ではなかった。

 複数人の少女たちがマンションの空き部屋に監禁され、ときに殺されていた。

 犯人の男は、寂しくないようにと少女たちにペットを与えていた。その手口は、少女たちの逃走の意思を挫くのにも一役買っていた。というのも、犯人の男は、少女たちにペットの世話をさせ、情を抱かせたうえで、少女たちがじぶんに従わないたびに、ペットのほうを痛めつけていたらしい。

 インコを与えられた件の少女は、監禁されている、といった言葉をインコに覚えさせ、外に逃がして助けを呼ばせようと試みた。

 しかしインコの帰巣本能が邪魔をしてうまくいかなかったようだ。

 偶然にもこちらが件のインコの存在に気づき、千葉が真相に気づいたからよかったものの、一歩間違えれば、あの夜少女は、男の手によって解体されていたかもしれなかった。

 そうである。

 例のあの男は、少女がインコを逃がしたことに気づき、回収しようとしていたのだ。苦情など入っていなかった。部屋の存在が住人たるこちらにバレたので、あの日の夜に、少女を殺して証拠隠滅をはかろうとしていた。

 千葉の行動は、少女を助けるための緊急避難として、法律上無罪となり、やはり数日のうちに釈放された。

 警察署が表彰するとの話もでたが、千葉は丁重に断ったそうだ。

「被害者は何人もいるんだ。どの口下げて表彰なんて言えるんだか」

 殺された少女だけではない。

 拉致監禁された少女たちすべてが被害者なのだ。

 生きて解放されたからといって救われるわけではない。後味のわるい事件だった。

 それにしても、と思う。

「おまえ、よく分かったな。あれだけの状況証拠しかなかった状態で。もし間違ってたらふつうに住居不法侵入でムショ行きだったぞ」

「そこまでの重罪ではないでしょ。よくて罰金か、執行猶予つきの判決じゃないかな」

「だからっておまえなぁ」

「それを言うなら、よくあんな状況でボクを信じてついてきてくれたよね。いちども止めなかったし、あれはなんで」

「そりゃおまえ」

 一度や二度ではないからだ。

 千葉の推理が事件を解決に導いた過去は、数えられるだけでもこの数年で六つはある。

「おまえに限りゃ、疑うだけ損だっていい加減学んだんだよ俺もな」

「そっか」

 素っ気ない相槌からは、すでに彼がこの話題に興味を失ったことが如実に示唆されていた。

「せめてその推理力を、稼ぎに使ってくれればな」

「使ってるでしょ。忘れたの? ボクは小説家だよ。それもミステリィ作家」

「売れない、の文言が足りんだろ。どんなに切れ味がよくとも、鞘から抜けないんでは使いようがない。それで何でも斬れる包丁だなんて言ったら詐欺みたいなもんだ」

 図星だからか、千葉はソファに寝そべると、これみよがしにイヤホンを耳にはめた。

 窓のそとで鳥が羽ばたく。

 耳を澄ますと、ベランダからは、

「サレテルヨ」

「カキーン」

「ケテケテー」

 壊れたラジオのような緊張感のない鳴き声が聞こえた。




【リモートワークはできない】


 えぇ仕事辞めちゃったの、と友人に会うたびに驚かれるので返答に窮する。たしかに給料はよかったし職場の評判も上々で、じっさいそこで働いている人たちはみんな気のよい人たちだった。できればずっと働いていたかったけれど、リモート勤務がつづくかぎりそれはできない相談だった。

 リモート勤務さえなければ私が職場を辞することもなかった。あれは、リモート勤務が定着して半年くらいが経ったころだ。新しいプロジェクトが佳境に入り、先輩と二人だけで残業をする日がつづいていた。

 二人だけのリモートであると、聞き手と語り手が五分五分で配分されるので、いつもそのときだけは会話が弾んだ。

 先輩はマンション住まいで、洒落た居間の内装を背景に仕事をしていた。私は新人社員ということもあり、安いアパートの一人暮らしで、常時部屋は散らかっていた。隅っこのほうにリモート空間をつくり、かろうじて片付いた部屋を演出していた。

 ある日、いつものように先輩と残業をしていると、ふと動画のなかに何かが映りこんだ。先輩の映っているフレーム画面だ。

 最初は猫か何かかと思った。ずっと飼っていたのか、それとも新しく飼いはじめたのか。

 先輩は何かしらを計算中らしく、頭を掻きながらデータとにらめっこをしている。邪魔をする場面ではなかった。私はしばらく先輩の映るフレーム画面を観察した。その日はもう、どれだけ注意して見ていてもそれらしい影は見当たらなかった。

 見間違いかもしれない。

 いちどはそう思ったものの、その日以降、何かと先輩の映るフレーム画面には、何かしらの陰が、右から左へ、左から右へ、と駆け抜けて見えた。いつも作業をしているときにふと視界に掠めるので、真実何かが映っているのかは判断つかなかった。

 先輩に確かめてみてもよかったが、もし気のせいだったら性質のわるい冗談に聞こえてしまいそうで、いつまでも喉につかえた魚の骨みたいに胸の内に引っかかっていた。

 プロジェクトがいち段落ついてから、打ち上げと称して、職場の人たちとリモートで飲み会をした。解散したあとでも、先輩とは二人きりで二次会を開いた。

 初めて仕事以外でリモートライブ映像を使った。新鮮な感じがした。

 先輩はいつものようなスーツ姿ではなく、ラフな家着だった。かってに距離が縮まった気がしてドギマギした。

 と言っても先輩と私は同性であるし、互いに異性愛者であるから、恋心とかそういうことではなかった。もちろん異性愛者同士が惹かれ合うこともあってよいとは思うが、ともかくとして私たちは同士として、互いの仕事を労った。

 プライベートの話もたいがい話し尽くしてしまったころ、酔いも深まり、そろそろお開きにしますか、の空気が漂いはじめた。

 キリよく最後に一つ楽しい話をしてお終いにしよう。

 話題を探っているあいだに、おや、と気づく。

 先輩の背後、居間ととなりの部屋の境から、顔を覗かせている幼子の姿があった。こわくはない。あどけない様子で、四歳から五歳といった趣だ。

 何度も顔をだしたり、引っ込めたりしているので、仕事の邪魔をしないように気をつけていると判る。愛らしい。

 先輩にお子さんはいないはずだ。ならば親戚の子どもを預かっているということだろう。

 私はそうと判じて、

「先輩、ちゃんとご飯の用意はしてあげたんですか」と言った。

 この日は夕方からずっと会社のリモート飲み会だったので、先輩が幼子の相手をしている暇はなかった。先輩は声を立てて笑った。「用意してあげてって誰に」

「誰にって、そりゃあ」

 先輩の背後を幼子が横切る。

 私は言葉を区切った。ひょっとして、と思い至った。先輩には隠し子がいるのかもしれない。ならば先輩の隠したがっていることをここで指摘してよいものか、と気遅れする。

 同時に、苛立ちめいた感情も湧いた。

 こうして二次会を二人きりでするような仲なのだ。隠し事はなしだと思いたかった。

 だから私は思いきって、

「その後ろの子は、先輩のお子さんですか」

 半ばそうではないことを知りながら言った。やはり隠し子よりも親戚の子を預かっていると考えたほうが自然だ。

 先輩は振り返る。

 そこをちょうどよいタイミングで幼子が横切った。さきほどよりも距離が近い。きゃっきゃと笑っているようだが、声はこちらまで届かない。マイクが幼子の声を拾わないようだ。

 先輩はしばらく背後を窺うと、やめてよぉ、と言いながらカメラに向き直った。「そうやって怖がらせようとして、親しき仲にも礼儀ありやよ」

「いえ、そういうんじゃなく本当に」

 先輩が睨みをきかせたので、口を閉じた。

 怖い話が苦手だ、と先輩はいつぞやに話していた。

 見えないナニカシラが部屋にいる、と言って怖がらせることはたしかにリモートならばしやすいように思えた。あべこべに、本当は見えている幼子を見えなりふりをすればそれもまた性質のわるい冗句として成立するようにも思えた。

 私が嘘を言っていない以上、先輩のほうでかわいい後輩たる私をからかっていると見做したほうが正解だ。

「残念でしたね先輩。私、怖い話とか好物なので、その手の冗句は通じませんよ」

 あしからず。

 先輩の企みを喝破した心地よさと、先輩からもそうしてからかってもらえる仲になれた優越感で、一瞬の鼻高々な気分に浸ったのだが、一向に先輩は眉に寄せた皺を伸ばそうとせず、えーなになに、と両肩を抱いた。「話全然噛み合ってないんだけど。怖いんだけど」

「ですからさっきから言ってるように、先輩のうしろのお子さんは」

 いったい誰なのか、と口にしかけて、全身が総毛立った。

 先輩の首の周りにするするとちいさな腕がまとわりついた。

 幼子を抱っこすればそうなるだろう位置関係だが、幼子の顔は一向に現れない。

 先輩の後頭部に重なって見えないだけの可能性もあったが、先輩は私の視線を辿るようにうしろを振り返る。先輩のうなじが見えるが、そこに何者かの姿はなかった。しかし、こちらを向き直った先輩の首筋にはまだちいさな腕が縋りついている。

「ねぇ、そういうのやめようよ。一度目はいいけど、やめてって言ってからまだつづけるならそれイジメだからね」

 先輩が本気で怒りはじめていた。

 冗談ではないのだ。

 先輩には真実、それが見えていない。しかしそんなことがあり得るだろうか。

「すみません、ちょっと酔っぱらっちゃったみたいで」

 そうだとも。

 酔いのせいだ。

 アルコールの見せるいっときの錯覚に違いない。じぶんに言い聞かせながら、念のためにこの場面を録画しておこうと思った。

 じぶんでもそこに見えている幼子がじぶんの幻覚なのかどうかの判断がつかなくてなっていた。不安だった。

 酔いが覚めてから確認しようと試みた。常識的判断だ。真実にカメラに映っていたならば先輩に証拠として突きつけられるし、何も映っていなかったのなら、見間違いで済む。

 録画の操作をすべくいちど画面から目を逸らし、そろそろ終わりましょうか、と先輩に投げかける。

 画面に視線を戻す。

 先輩の真横に幼子が立っていた。

 上半身が裸だ。下半身は死角になってよく見えない。

 さきほどまではしゃぎ回っていた陽気さが嘘のように消え失せ、別人かと思うほどの無表情で佇んでいる。

 子どもの立ち方ではなかった。

 人形やペットボトルのごとく軸がいっさいブレていない。

 先輩は気づいていないのか、こんどはお店で飲みたいよねぇ、としゃべっている。

 私は指摘するべきかを迷った。状況が把握できていなかった。

 幻覚なわけがない。

 ならば仮想現実とかそういうアプリによる効果だろうか。誰かのイタズラの線を考えたが、思い当たる節はない。

「あの、先輩」

 確かめようと思った。

 だができなかった。

 幼子が歩み寄り、画面に顔を寄せた。

 画面から先輩の姿が消え、幼子の顔のみが映る。

 カメラが塞がれる。

 幼子はさらに顔を寄せた。

 画面いっぱいに幼子の目が映る。しかし妙だ。真実にカメラに顔を押しつけているのなら、真っ暗になって何も映らないはずだ。

 だが目だけがぎょろりとこちらを覗き見ている。

 私は画面から離れた。

 机に膝をぶつけ、飲み物を床に零した。

 画面の向こうから、あーあ何してんの、と先輩の暢気な声が届く。先輩からはこちらの様子が見えているのだ。それはそうだ、こちらのカメラは塞がれていないのだから。

 否、幼子が真実、カメラを塞いでいるのなら、そもそも画面は見えないはずだ。

 目が私を捉えて離さない。

「先輩、私もう寝ますね、きょうはどうもありがとうございました」

 礼を欠いてはいけないと思った。

 なんとなくだが先輩を損なう真似をしてはいけない気がした。

 先輩の返事を待った。

 画面から幼子の目が離れた。

 一瞬、安堵したが、息を呑む。

 ちいさな手のひらが、ダン、ダン、ダン、と画面を叩いた。

 PCがその場で跳ね、机から落ちそうになる。

 私は咄嗟にPCを閉じた。

 PCは落下したが、私はなおも上から体重をかけ、しばらくそうしていた。

 下から突き上げるような衝撃を幾度も感じた。

 呼吸が荒く、私はひどく疲れていた。

 どれくらいそうしていたのか分からない。気づくと静寂のなかにいた。ガムテープをどこに仕舞ったか、と考え、PCを抱えたまま、取りに走った。

 PCをガムテープでぐるぐる巻きにし、私はもうそのときには、会社を辞めようと決意していた。

 先輩とはその後、一言もしゃべる機会はなかった。リモートワークの弊害と言えば弊害であるし、利点と言えば利点である。

 私の体験したあの夜の出来事に、真相のようなものがあるのかは分からない。深く酔った私の見た悪夢である可能性もなくはない。けれどあれ以降、私は新規のPCを買わずにいるし、リモートワークのない会社に転職した。

 私の身に何かよくないことが起きたわけではないが、私の直感が言っている。

 アレは、よくないものだ。

 関わってはいけないものに関わってしまった。そう思って、諦めるよりない。

 先輩が無事かどうかは分からないし、知る術もない。

 ただ、どうしてああも気のよい先輩が独り身で、新人たる私なんかと仲良くしてくれたのか、いまなら判る気がする。

 先輩は職場で浮いていた。

 それはそうだ。

 仲良くなれるわけがない。

 みな口にしないだけで、先輩と関わった同僚はみな、似たような経験をしていたのかもしれない。

 これもまたいまとなっては確かめる術はないし、たとえあったとしても私は金輪際、関わり合いたくはない。




【お願いシます】


 駅前の笹飾りが目に入り、きょうが七夕だと気づく。

 七夕によい思い出はない。

 元恋人が死んだのがちょうど七夕の日だった。十二年の付き合いを経て婚約したが、ほかに好きなひとができて婚約を破棄した。元恋人はその三日後に自室で首を吊って死んでいた。

 同居していた部屋から引っ越す前の出来事で、それが原因でけっきょく好きな人とも別れる羽目になった。三年前のことになる。散々な記憶だ。

 なんとなく冷やかしに笹飾りのまえを通ると、一つだけやけに黒い短冊が目に留まった。

 引き寄せられるようにそれを掴み、紙面を拝む。

 一生ずっといられますように。

 見覚えのある達筆で凛と書かれたそれの裏には、元恋人の名前が記されている。




【悪魔の所業】

(未推敲)


 人類を恐怖のどん底に落とし入れた悪魔がようやく捕まった。

 悪魔は人間ではなかった。

 いずこより現れ、人間という人間を襲い、ときに操って大勢に殺し合いをさせた。殺し合った人間たちはその後正気に戻り、じぶんたちの仕出かしたことを思いだして精神を病み、のきなみは自殺した。

 この世に魔界があるのかは定かではないが、悪魔は悪魔としか形容のしえない姿かたちをし、近代兵器の軒並みも通用しなかった。殺傷できないとなればあとは拘束するよりない。

 悪魔の捕獲には科学技術の粋を極めた人工知能が用いられた。一人の天才科学者による手柄だった。

 人工知能には現実と瓜二つの仮想現実を構築するだけの演算能力があった。悪魔の認識を歪めるだけの仮想現実を編むことができた。

 広範囲に渡って投影される仮想現実に、悪魔は落ちた。落とし穴にはまった小鹿のようなものだった。或いは、井戸の底の蛙のような、と言い換えてもよい。

 目のまえの現実を失った悪魔は、間もなく、映画に夢中になる子どものようにじっとその場から動かなくなった。人類はその地点を終局の地と名付け、堅牢な監獄を築き、悪魔を閉じ込めた。

 悪魔はつねに仮想現実のなかにいた。おとなしくなった悪魔には頭からすっぽりマスクがされた。仮想現実はマスクの内側に投影されるようになった。これにより人類は悪魔に近寄れるようになった。

 当初、悪魔の五感は正常に働いていたようだが、人工知能の改良が進むと、やがて悪魔の頭脳に直接に働きかけ、仮想現実の没入感を極限まで高めることが可能となった。悪魔は真実、仮想現実の牢獄に囚われた。

 外部刺激の総じては、悪魔に知覚されず、どのような実験も悪魔に悟られることはなくなった。しかし、悪魔はやはり悪魔だった。どのような外部刺激も、悪魔を死に至らしめることはできなかった。

 人類は圧倒的な優位に立ちながらも、悪魔に苦悶の声一つあげさせられないことに苦渋を嘗めていた。

 報復したい。

 復讐をしたい。

 犠牲になった人々の苦痛を、声を、恨みを、無念を晴らしたい。

 悪魔には罰を与えねばならない。

 無闇に刺激して悪魔を目覚めさせるな、といった反対の声も聞かれたが、国家としての威信のためにも、悪魔には否応なく苦しんでもらわねばならなかった。

 人類は人工知能に命じ、悪魔にあらゆる地獄を見せつけた。

 だが悪魔はやはり悪魔だった。

 どのような地獄に囲まれようと平然としていた。恍惚とすらしていた。

 自身の身体が八つ裂きにされようと、焼かれようと、神経が剥きだしになり、神経の一本一本を丹念に引きちぎられるような痛みのなかにあっても平然としていた。

 人類はしかし諦めなかった。

 身体的苦痛が通用しないのならば、精神的な苦痛を与えるよりない。

 初めにとられたのは、悪魔の同族を無数に用意し、それらを悪魔の目のまえで惨殺することだった。むろん仮想現実のなかでの話であるが、それを目にしている悪魔にとっては現実も同然であった。

 しかし悪魔は極上の映画を目にする辛口の批評家のようによだれが垂れていることにも気づかずに、その光景を目に留めていた。

 効果がない。

 そうと判ると、つぎは敢えて悪魔を至福の世界に閉じ込めた。あらゆる人民が悪魔を慕い、崇めた。しかし悪魔はそれすら愉悦として感受した。かつて人類にしたような残虐非道な行動をとろうともせず、飽くまでお花畑に立つ案山子のごとく恬淡とした様子で立ち尽くしていた。

 実際には悪魔の身体は薄暗い監獄のなかにある。人工知能を通して人類は、敢えて悪魔に仮想現実のなかで自由に振る舞える権限を与えた。悪魔はこれにより、これまで以上に仮想現実のなかの住人たちと触れ合えるようになった。

 悪魔と住人たちの交流はじつに平和的であった。

 なぜあの悪魔がこのように仮想現実のなかではある種、神のごとく穏やかさでいられるのか。あの残虐性はどこに消えたのか、と人類は疑問したが、けっきょくのところ悪魔に見せている世界が現実ではなく、理想的な環境を再現した虚構だからだろう、という結論がなされるのみだった。

 仮想現実はしょせん仮想にすぎない。

 みなから慕われ、崇められれば誰だって暴力を働こうとはしない。環境を破壊しようとはしない。悪魔とて例外ではなかっただけのことだ。

 人類は悪魔に罰を与えようと、さらなる至福の環境を悪魔に与える。

 悪魔と住人たちの縁をより強固にし、絆と呼ぶに値するまで育んだ。

 理想と呼べるほどの平和を築き、究極と呼べるほどの愛を与えた。

 悪魔は住人たちを慈しむようになり、目のまえで転んだ子どもに手を伸ばし、抱き起こすまでになっていた。

 悪魔に慈愛が芽生えはじめていた。

 悪魔に罰をくだす準備は整った。

 いよいよ人類は悪魔から奪うことができる。

 かつてその手でされたように。

 あらゆる苦痛と懊悩と後悔と無慈悲で不条理な暴虐の限りを与え返す。その手で仕出かしたことを客観的に、自分事として認めさせるのだ。

 人類は仮想現実の世界に、一匹の悪魔を投入した。

 悪魔はまさしくもう一匹の悪魔であり、かつての悪魔自身であり、悪魔のなかの悪魔であった。

 仮想現実のなかにて悪魔二号とも呼べる悪魔は、すっかり平和に馴染んだおとなしい悪魔の目のまえで、老若男女問わずに殺して回った。オモチャで遊ぶ子どものように、住人たちの身体を玩具のように扱い、壊し、はしゃいだ。

 おとなしい悪魔は茫然とその様子を眺めていた。

 人類は思った。

 またしても失敗だ。徒労だった。悪魔はしょせん悪魔でしかない。人の心などはないのだ。

 人類が諦観の溜め息を吐きかけたとき、おとなしい悪魔の目から一滴の涙が流れ落ちた。

 人類は色めき立つ。

 おぉ、という歓声に呼応したかのごとく、おとなしい悪魔はその場に膝を折り、慟哭した。

 あたかも目のまえで最愛の子供を失くした母親のように、じぶんにはどうしようもできない理不尽そのものに抗議するかのごとく激しさで。

 おとなしい悪魔は身を引き裂かれるような声をあげ、泣いた。

 おとなしい悪魔はなぜかそこで、もう一匹の悪魔のなかの悪魔に立ち向かおうとはしなかった。目のまえで繰り広げられる地獄絵図、それはのきなみ自分自身がかつて行った殺戮そのものであるはずなのだが、おとなしい悪魔はただその光景を目にし、悶え、苦しんだ。

 人類はよろこんだ。

 罰はくだった。

 あの悪魔が心を痛めている。

 仮想現実のなかであらかたの人類が、もう一匹の悪魔のなかの悪魔の手により殲滅されたころ、おとなしい悪魔はしずかに立ちあがると、一人の人間の男に姿を変えた。

 その男は科学者を名乗り、人類の生き残りたちと接触すると、とある箱を差しだした。

「これを用いればあの悪魔を止めることができるでしょう」

 人類の生き残りたちは、その箱を用いて、もう一匹の悪魔のなかの悪魔に、ここではないどこかべつの世界を見せ、身動きを封じた。

「悪魔には罰を与えねば」

 復讐を。復讐を。

 報復を。報復を。

 人類の生き残りたちは万歳三唱のごとく連呼した。

 間もなく、もう一匹の悪魔のなかの悪魔は、箱の見せるそこではないどこかの世界にて、悲痛な声を響かせる。

 箱のそとの、さらにもう一段うえの世界にて、人類ははっとする。

 人工知能の納まった箱をみながいっせいに振り返る。

 そばには表情の読めない男が一人、立っている。




【ゴミの墓場】


 小学生のころの記憶だ。本当にあったことなのかはいまになっては定かではなく、確かめようもない。

 当時私は低所得者の住まう県営住宅にて暮らしており、遊ぶ同年代の子たちもみなそこの住人だった。

 近場には山があり、谷にはよく粗大ごみが沢となって捨てられていた。ゴミの墓場だ。そこが私たちの遊び場だった。

 夏には肝試しが開かれた。ゴミの墓場で体験した誰のものともつかない怪談がいくつも囁かれた。

 なかでも多かったのは、ゴミが魂を持ってかってに動き回るといった系譜の怪談だった。人形のようなものがじっと見つめているとか、足首を掴まれてゴミの山に引きずり込まれるなんて話も聞いた。

 私はその年、幾人かの同年代の友人たちと肝試しに向かった。名前の知らない者も交っていたし、顔だけ知っている者もすくなくなかった。十人はいたように記憶している。年齢は一から三歳ほどのばらつきがあり、私は真ん中の年代として、年下の世話をしぜんと押しつけられた。

 ゴミの墓場に明かりはなく、木々の隙間から差しこむ月光のみが闇の中に人工物の陰影を浮かべていた。

 肝試しのルールは単純だ。

 谷のうえに立ち、一人ずつゴミの墓場へと下りる。各々、ゴミの墓場から何かしらのゴミを持ち帰ってくる。それだけだ。

 最初はお手本を兼ねて年長者の少年が鬱蒼と群れた草を掻き分け、闇のなかに姿を消した。五分ほどで少年は戻ってきた。手には剣に見立てるのに手ごろなパイプが握られていた。

 私の目にはそれが秘宝に見えた。恐怖心が薄まるのを感じた。

 私たちはつぎつぎにゴミの墓場へと降り立った。みな、まえを行く者と距離を開けぬようにと列をなした。むろんそれは怖いからだが、単純に谷のうえに取り残されることのほうを避けたかったのだろう。

 年長の少年だけはその場に残ったようだが、ひょっとしたらいっしょになってもういちどゴミの墓場に下りたのかもしれない。

 ゴミの墓場は度重なる不法投棄により、広範囲に渡ってゴミのジャングルが築かれていた。

 足場には草や蔓が見えず、歩きやすい。比較的最近に大量に捨てられたゴミなのだと判った。

 私はじぶんが勇気ある者だと示したくて、できるだけ奥へ奥へと歩を進めた。前方にほかの子どもの気配を感じたが、いつしか足音はじぶんのものしか聞こえなくなっていた。

 背後では、谷をのぼり遠ざかっていく子どもたちの足音が響いている。

 早く戻らなくては。

 焦りが募った。

 ゴミ捨て場の奥にはブロックや大量の木材などが多く、機械類は見当たらなかった。私は適当に木材を掴むと来た道を戻りはじめた。

 TVや電子レンジなどの電化製品が足場に増える。

 中ほどまで戻ったときに、物音を聞いた。

 そばにある何か大きな粗大ごみが動いた。ガタゴトと物音がした。

 私は音のしたほうを見るが、そこには闇があり、薄っすらと角ばった影が見えるばかりで、物音の正体を掴めなかった。

 じっと様子を窺うと、ふたたび物音が聞こえた。

 こんどは激しく、ガタガタと威嚇するように響いた。

 小動物にしろ、そうでないものにしろ、恐怖しかなかった。ドタバタと暴れるようなそれは、とても人間の立てるような音には思えなかった。

 私のほかにゴミの墓場に残っている者はいないようだった。

 私は谷を駆けのぼった。

「血相変えてどうした」

 年上の誰かが言った。

 何かがいた、と私は言った。脅かすつもりはなかった。ただ事実を言っただけのつもりが、ちょうどよく谷の底のほうから、くぐもった音がした。濡れ雑巾を壁に打ちつけるような、太鼓じみた音だった。

 一人が駆けだすと、ほかの者も、わぁ、と悲鳴をあげ、逃げだした。

 私も負けじとその場を離れ、この日の肝試しはお開きとなった。

 あれから十年以上が経つ。

 あのころの記憶などすっかり忘れていたが、さいきんになって、例の山にて一斉清掃が行われた。不法投棄されたゴミが問題視され、ようやく行政が重い腰をあげたようだ。

 一斉清掃がはじまって間もなくのことだ。

 山から子どもの遺体が発見された、とニュースで流れた。

 おそらくゴミの墓場のあった区画だろう。捨てられた古い冷蔵庫のなかからすっかりミイラとなった遺体が見つかった。

 ミイラは子どものものと見られるらしく、身元は不明だという。

 いったいいつからあったのかは分からない。すくなくとも私は、この地域で行方不明になった子どもがいるといった話を聞いたことはないが、かといって、では仮に行方不明になった子どもがいたとして私がその情報を知り得たかと言えば、頷くのはむつかしい。

 私たちの住まう地域では引っ越す家庭が珍しくなかった。顔見知りの子どもがいつの間にかいなくなっていたなんてことは日常茶飯事だった。

 ただ、件のニュースを目にしてからというもの、私はどうしても、あの日、あの夜に耳にした怪奇音を思いだしてしまうのだ。

 あれは、幽霊や怪異といった異界のモノの立てる音ではなく、懸命に助けを求めていた子どもの叫びではなかったか。

 密閉された冷蔵庫のなかに隠れて、ほかの子どもたちを脅かそうとした子どもが、出られなくなったことに気づいて必死に内側から助けを求めた音だったのではないか。

 声は打ち消され、かろうじて内側で暴れた物音や振動が、暗がりに響いていたのではないか。

 内側からドンドンと扉を叩き、出してくれ、と叫ぶ者がいたとして、私はそれの目のまえで歩を止めておきながら、恐怖に駆られて逃げだした。

 置き去りにした。

 わからない。ひょっとしたら冷蔵庫の中には端から遺体が隠されていて、ずっと以前から捨てられていたのかもしれないし、ごく最近に投棄されたゴミであるかも分からない。

 ただ、私はいまでもあの、濡れ雑巾を壁に打ち付けるような音を、耳の奥に再現できる。

 闇に沈んだゴミの墓場にて、火に炙られたヘビのごとくのたうち回る不法投棄された冷蔵庫の姿を、いまでもその音に重ねて幻視する。




【届けこの想い】


 ポストのなかに手紙が入っていた。消印はなく、封筒も使われていない。

 折り紙に拙い文字で、愛の告白じみたことが書かれている。ミミズの這ったような筆致だ。

 わたしは文面を黙読した。だいすきです、大きくなったらぼくのおよめさんになってください。

 微笑ましい内容だ。

 差出人の名はない。四つ折りにした折り紙をただポストに投じただけの素朴な恋文だった。おそらく家を間違えたのだろう。まさか本当にわたしへの恋文だとは思わない。

 手紙の扱いにしばし悩んだが、差出人のほうでも家を間違えたことには遠からず気づくだろうと思い、見て見ぬふりをした。

 しかし三日後、また同じように折り紙の手紙が入っていた。こんどは、近所の公園の名前と、そこで待っています、といった旨の言葉が短く綴られている。筆致は前のものと同じだ。

 時刻は夕暮れに差し掛かっている。ひょっとして待っているのだろうか。子どもが首を長くし、いまかいまかと想い人を待ちわびている姿を想像すると胸が詰まった。かといってわたしが行ったところでしょうがない。そもそもいまから行っても遅いだろう。

 近所の公園は、ちいさな神社と繋がっている。年中薄暗い場所で、子どもはおろかおとなですら利用しない。いつまえを通っても無人で、神木のような古い樹が、敷地のなかにいくつも生えている。柳のように葉を垂らしている姿はうつくしいが、さわさわと無人の空間で延々と揺れつづける様子は、巨大な生き物をまえにしたときのような圧迫感を覚え、やはり近寄りがたかった。

 やめておこう。

 想い人が現れなかった程度のことで諦める恋ならその程度の想いだったのだ。そもそも大事なラブレターは間違っても赤の他人に渡すべきではない。

 間違いを指摘しにいまから公園に向かうこともできたが、見知らぬ手紙の差出人のために費やす労力としては見合わないと判断した。

 どの道相手は子どもだろう。

 初恋は叶わないと相場は決まっている。早めに傷心を負っておけば傷は浅くて済む。幼少期のそうした経験は却って心をつよくする。自己弁護の論理を見繕い、わたしはこの日も見て見ぬふりをした。

 この日を境に手紙は毎日のごとく届くようになった。差出人の名前はおろか、誰宛てなのかも書かれないので、真実にそれが手違いで届けられているのか、或いはじぶん宛てに出されているのか、それともイタズラなのか、の判断がつかなかった。

 しかし、いくら子どもといえども、この家に住んでいるのが三十代のおとなの女が一人であることくらいは見抜けそうなものだ。だとすればやはりイタズラの線が濃厚だ。

 無視をするか。

 しつこかったり程度がすぎれば警察に相談するのも手だと考える。

 段々わたしは手紙とそれを送りつけてくる相手に苛立ちを募らせはじめた。

 初めて手紙が投函されてから半月後のことだ。おおよそ二十通の手紙をわたしは受け取ったことになる。この日の手紙には、二通目のときのように、公園の名前と、そこで待っているといった旨が書かれていた。以前と違うのが、時刻の指定が加わっていたことだ。

 わたしの堪忍袋の緒はとうに切れていた。

 当人が、会いに来い、というのならそのツラを拝んでやる、といきり立った。

 翌日はちょうど休日であったこともあり、わたしは指定された時刻より一時間も前に家をでて、公園を見渡せる場所に陣取った。

 わざわざこちらの姿を晒すこともない。

 遠目から目にして、あとをつけてやる。

 家を突き留めたら、親御さんに抗議をしてやろう。それこそがおとなのとるべき常識的判断である。

 わたしはこのときに至ってもまだ、手紙の相手が子どもであると疑っていなかった。手紙の文字が、それほどに拙く、無垢で、おとなの偽装した文字には思えなかったのだ。

 だがこの日、指定の時刻を過ぎても、公園には誰も現れなかった。わたしは騙されたじぶんに腹を立てながら、その怒りをどこにもぶつけられずに、ぷりぷりした。

 帰宅途中でスーパーに寄り、割高のカツとワインとチーズケーキを購入した。豪勢な夜食になるぞ、と思うと、ようやく胸が軽くなった。

 心なし宙に浮いて歩いていると、視線のさきに我が家が見えてくる。道なりにまっすぐと軒が連なり、我が家の玄関が右手側に見えた。

 ふと、何か大きなもので玄関が塞がれていた。

 隣家の影だろうか。

 ぼんやりとしたモヤのようなものだ。輪郭がはっきりしていない。ちょうど大人同士で肩車をしたくらいの高さがある。近づいたからか、幅もそれくらいだ、と判った。

 錯覚かと思い、立ち止まって目を凝らす。

 すると、モヤのようなものは、ぐねんと真ん中から折れ、針金が曲がるように先端を、壁に開いたポストの穴につけた。

 ミミズが蠕動する場面を連想する。

 モヤのようなそれは、輪郭をくっきりと浮きあがらせ、波打った。

 ぐぽん、と音が聞こえそうな動きをすると、ふたたび輪郭を薄め、モヤじみた柱に戻る。

 わたしはじぶんの鼓動だけを感じていた。

 ほかはすべて夢のように掴みどころがなかった。ふわふわしていた。いったいこれはどういうことなのか。

 身体がよろける。

 買い物袋の底に靴が当たり、なかのワイン瓶が高い音を響かせた。

 その瞬間、モヤのような柱はぐるんと身をひねった。

 目が合う。

 顔だ。

 全身が強張った。

 二つの目と、口がある。

 しかしそれはどう控えめに形容しても人間のものではなく、生き物のそれではなかった。

 目はこの距離からでも判るほど大きく、眼球がはまっていない。虚ろな窪みがあるのみだ。あべこべに口は、への字にひんまがり、明らかに憎悪の造形をしていた。

 どれくらい睨みあっていたのかは分からない。

 一瞬のようにも数分にも思えた。

 背後から自動車のクラクションが聞こえ、そこでわたしの緊張は解けた。身体のこわばりが失せ、自動車に道を譲る。

 自動車の進行方向には我が家があり、そこにはもう件の細長いモヤは見えなくなっていた。

 この日はポストを覗かずに家に入った。

 翌朝、陽が昇った明るい時間帯にポストを確認すると、例の手紙が入っていた。これまでと異なり、折り紙はクシャクシャに握りつぶされていた。伸ばしてみると、紙面いっぱいにおびただしい数の「好」の文字が折り重なっていた。

 文字はどれも歪んでいる。

 筆で書かれたように黒く滲んでおり、よく見るとそれは「好」ではなく、ひしゃげた「女」と「子」の文字なのかもしれなかった。

 以降、わたしはポストを撤去した。

 以来、例の手紙はとんと届かない。




【そんなの頼んでない】


 友人から相談を受けた。なんでも恋人がストーカーにつきまとわれているという。しかし恋人がいたとは初耳で、打ち明けられたことに驚いた。

「言ってなかったっけ?」

「聞いてないよ」

「付き合いはじめてかれこれ半年になる」

「めっちゃ長いじゃん。なんで言ってくれなかったの」

「言うまでもないかなって。だってべつに、ねぇ」

「ねぇってなに。小学校からの腐れ縁なのにいまさら隠し事はなしじゃんよ」

「隠してたわけじゃないって。恋人がいようがいなかろうが、あたしらの関係は変わらんじゃん」

「そりゃそうだけど」溜め息を吐き、で、と相談とやらを聞くことにする。「ストーカーされてるって、どういうこと。恋人って男の人なわけでしょ。女の子に寝取られそうってそういうこと?」

 暗に嫉妬深いだけちゃうの、と指摘したが、友人はそこで、ちゃうちゃう、と手を振った。コーラをストローで吸い、「女の子なんよ相手のコ」と言った。

「男のひとのストーカーなんだからそうでしょうよ」何がちゃうのよ、と大袈裟に顔をしかめてみせる。

「付き合ってるコが女の子ってことで、まあ、つまりそういうことなんですな」

「おどけて煙に巻こうとすな」友人の性的指向が同性愛ぎみだったことには気づいていた。おそらくはどちらでもよいのだろう。好きになった相手をすなおに好きになることのできる人間なのである。「よく分からんからまとめちゃうけど、いまあなたは同性の女の子と付き合っていて、そのコがストーカーにつきまとわれていて困っていると」

「そうそう」

「ふつうに警察に言ったらいいんじゃないの」

「実害がないんだよね。だから言っても動いてくれない」

「実害ないってじゃあなんでストーカーがいるって分かるのさ」

「そりゃあ愛しい人のことだもの。ずっと見てたらわかるでしょ」

 何の気ないセリフだが、わたしはそこに友人の狂気を垣間見た気がした。

「勘違いじゃないの」

「いや、絶対あれはストーカーに怯えてるやつだった」

「そうじゃなくて」

 友人がきょとんとしたので、言ってしまってよいものか、と心苦しくなる。わたしは意を決して言った。

「本当にそのコ、あなたの恋人なの」

 友人とはそこからいくつかの言葉の応酬をして、最後は友人のほうが不機嫌になった。わたしを店に残して友人は帰ってしまう。怒らせるつもりはなかった。否、そうなるかもしれないと予期はできたが、言わずにはおられなかった。

 友人が怒るのも無理はない。

 わたしは友人に、わたしの憶測を話して聞かせたのだ。あなたはそのコと付き合ってはおらず、あなたこそがストーカーなんじゃないの、と。

 付き合っている気になっているだけで、あなたの存在がそのコを怯えさせているのではないの、とわたしはあり得なくはない推量を、申し訳なさを醸しつつ、真剣に心配しているのだと伝わるような声音で投げかけた。それを、揺さぶりをかけた、と言い換えてもよい。

 友人は最初こそ鼻で笑って聞き流したが、わたしが証拠はあるのか、と問うと、いまはないけど、と表情を曇らせ、そんな言い方しなくてもいいじゃんか、と怒気を孕んだ物言いをした。友人は恋人の画像も持っていなかったのだ。或いは、人に見せられないような画像しかなかったのかもしれない。

 けっきょく友人は、おまえに相談したのがバカだった、と吐き捨てて、どこか傷ついた面持ちで去っていった。

 窓のそとの雑踏に、肩をいからせた背中を見つける。その背に揺れる長髪が視界から消えるまでわたしは彼女の姿を目で追った。

 胸が痛む。

 しかしこれはわたしにとっても、友人にとって必要な傷だった。冷や水を浴びせてでも目を覚まさせておく必要があった。長年彼女のそばにいたわたしのそれが役目であり、使命である。

 彼女が取り返しのつかない真似をしでかしてしまう前に、止めなくてはならない。

 それが彼女の友であるわたしがかけてあげられるなけなしの誠意だ。

 わたしはメディア端末を取りだし、地図を起動する。市販の追跡アプリだ。ボタン状のちいさな発信機を忍ばせるだけで、任意の対象の居場所を割りだせる。

 友人をたぶらかす悪魔の現在地を把握し、わたしは席を立つ。

 友人にはもっとふさわしい相手がいる。あんな下品な女は似つかわしくない。

 わたしが認める相手でなければダメだ。友人を堕落させるような相手はすこしくらい痛い目に遭ったほうがよい。

 せめてわたしより友人のことを理解している相手であればよかったものの、そうでなければうまくいくわけがない。身の程を弁えず、我が友を誘惑するような野良猫には、相応の罰がいる。痛みがいる。教育が必要だ。

 学ばせなければならない。

 わたしのたいせつなひとを毒で侵すような相手には、恐怖では足りない。痛みを、つらみを、苦しみを以って、償わせなければならない。

 わたしから友人を奪った罪は、死を以ってしても贖いきれぬが、心優しい友に免じて、そこまではしない。

 人として。

 店のそとにでる。

 ビルの合間に夕日がかかっており、わたしは友人の悲痛そうな顔を思いだし、待っててね、と誓う。

 いま、助けてあげるから。




【寝て覚める】


 起きたら十二時間が経っていた。ときどきあることで、起きると身体が筋肉痛になっている。手のひらが汚れていることもあり、皮膚も汗でべったりしていたりして戸惑う。

 いつもいつも嫌な想像を巡らせてしまうけれど、これといって実害はないので、確かめようもないし、ほったらかしにしている。

 メディア端末にメッセージが届いている。知らない相手だ。

 きのうは楽しかったね、とある。

 何のことだろう。

 新しいメッセージが届く。つぎは女の子がいいな、と書かれており、私はその相手を拒否設定にした。

 肌がべたべたして気持ちわるい。

 汗を流そうとシャワーを浴びる。身体の表面をお湯が流れ、じぶんがここにいることを否応なく意識させる。存在していることに安堵とやはりどこかしら違和感を覚える。まだ夢の中にいるかのような浮遊感だ。

 手のひらの汚れがなかなか落ちない。

 床には、黒い汚れがゆわりと滲む。




【開かない金庫】

(未推敲)


 その家は、亡くなった祖母から譲り受けた。人里離れた山中にあり、相続手続きそのものは祖母が入院しているあいだに済ませていた。生前贈与というらしい。

 祖母には孫が私以外にいなかったので、何かを遺したいとつよく希望していた。私としては固定資産税だとか維持費だとか諸々のお金がかかってしまいそうなので、本当なら二束三文でも売り払って処分してしまいたかったが、祖母のたっての願いともなれば無下にはできない。

 せめて街のなかにあればよかったものの、山のなかでは買い物にでかけるだけで一大事だ。交通の便がはなはだ不便で、電気ですら自家発電を使う。石油で動く仕掛けで、祖母は家にいるあいだほとんど電化製品を使っていなかった節がある。夜ですらランプの明かりを頼りに過ごしていたようだ。

 人の住む場所ちゃうよ、と私はいまは亡き祖母に嘆く。

 売るにしても、人に貸すにしても、放置するにしたところで、まずは片付けをしなくてはならない。私はなけなしの長期休暇に加え、有給休暇をとれるだけとって、祖母の家でしばらくのあいだ暮らした。

 思ったほど物がなく、すっきりした家だった。

 本来ならばこうした仕事は父や母の役割なはずだが、もらったのはあなたなのだからあなたがやりなさい、とにべもなく押しつけられた。

 祖母の家にはやたらと絵画が多かった。作者不明のものばかりだ。どれも壁に飾られている。絵にはふしぎな魅力があり、たしかに目を奪われる。

 売ればそれなりの値が張りそうに思えた。

 古い絵ではなく、現代の芸術家たちの作品だろう。どういったルートで祖母がこれら絵画を入手したのか想像もつかない。知り合いに画家がいたのかもしれないが、絵はすべて別人の手によるものに思えた。

 私は一つずつ絵を壁からはずし、丁寧に毛布でくるんだ。足りなくなったら絨毯を使った。祖母の家にはなぜか毛布や絨毯が大量にあった。

 ひと際大きな絵を最後にとっておいた。これをはずしてしまうと置き場所に困る。まずは床掃除やほかの部屋の片づけを済ましてから着手することにした。

 三日をかけ、おおむねの部屋の片づけを終える。

 祖母の私物を片っ端から捨てるものとそうでないものに分けるだけなので、思ったほどには大変ではなかった。捨てるゴミは、燃やせるものは家のそとにあるドラム缶で燃やしてしまうことにし、そうでないものは自動車に積んで、焼却場に運ぶことにした。

 祖母は日常的に生ごみなどのゴミはドラム缶で燃やしていたようだ。広大な庭には畑があり、生ごみは堆肥として撒いていたのかもしれない。

 最後に、ようやく例の大きな絵をはずした。

 想定外だったのが、絵のかけてあった壁に、金庫が隠されていたことだ。絵は金庫を隠すためのカモフラージュだったようだ。

 私は昂揚した。

 祖母はひょっとして孫である私に何かとてつもない財産を遺してくれたのではないか。

 しかし金庫はダイヤル式と鍵の組み合わせで、すくなくとも私は祖母から暗証番号や鍵の在処を教えてもらってはいなかった。

 金庫は大きく、膝を抱えたなら人間でもなかに入れそうな体積がある。仮に紙幣や金塊がめいいっぱいに詰まっていたら、一夜にして億万長者だ。ただし、やはり開け方が分からず、どれだけ取っ手を引いてもびくともしない。工具を使って数十分ほど格闘してみたが、やはり扉は頑として開かなかった。

 部屋のどこかに金庫の鍵があるかもしれない。そうと思い、片付けを念入りにつづけたが、いちど家のなかを空っぽにしてみても、金庫の鍵は見つからなかった。

 そんなものは端からないのかもしれない。

 真実に祖母が金庫を重宝していたのならば、私に一言残して死んだはずだ。きっと祖母も金庫の存在を忘れていたのではないか。

 それはそうだ。

 山の中で孤独に暮らしつづけた超人のような祖母とて、あれだけ大きな絵画を毎回のように上げ下げしていたとは思えない。絵画で塞いでいたということは、日常的には使っていなかったことを示唆する。

 なぁんだ、と思うと、金庫への思い入れは急速に萎んだ。私はけっきょく祖母の家を手放すことにした。好きにしていいと祖母からは言われていたので、甘んじて処分しようと思う。

 木漏れ日のトンネルを抜ける。車道を狐が横切り、蝉の大合唱が青空を埋め尽くしている。山だからか毎日涼しかった。

 来年のいまの時期にまた時間をとって、業者に頼んで家を崩してもらうことにした。

 いちどそうと決めてしまうと、祖母の家のことはすっかり記憶の底に沈み、仕事とプライベートに明け暮れているあいだに一年はあっという間に過ぎ去った。

 翌年、予定通り、長期休暇に祖母の家に向かう。予約しておいた業者は重機を敷地内に運び入れていた。責任者に許可をだして、取り壊しをはじめてもらう。

 崩し自体は半日もあれば終わりますよ、と業者の方が言っていた。ブルドーザーが屋根に穴を開ける。ケーキをスプーンで掬うようだな、と長閑な感応が胸に湧いた。すこしの寂寥がある。

 祖母はずっと独りでここに暮らしていたのだ。

 ふと、祖父はどんな人だったのか、と気になった。会ったことはなく、私が産まれる前に失踪したと聞いていた。金庫の存在が脳裏をかすめる。

 私は嫌な予感を覚えた。

 祖母はいったいいつからこの家で暮らしていたのか。

 頭痛のようなもので息苦しくなった。

 いまさら作業を中断させるわけにもいかない。どの道、金庫の扉は開かないのだ。じぶんにそうと言い聞かせて、私は昼食を食べに、現場を離れた。現場責任者には一言その旨を言い添えた。夕方には終わっているだろう、と言っていたので、それくらいを目途に戻ろうと思っていた。

 だが山の麓の食事処でソバを啜っていると、連絡が入った。現場責任者からだ。問題が生じて、対処に困っているという。

 金庫がどうのこうの、と言っていたので、私は息が詰まった。きゅうと首を絞められている心地に陥るが、電波越しに聞こえる現場責任者の声には、こちらを非難するような響きはなく、ただただ困惑気味に、まずは戻ってきてくださいませんか、と繰り返した。「言葉では説明できないので、まずは見てもらわないことには」

 私は自動車を走らせ、祖母の家を目指した。

 家はすでにその姿を瓦礫の山に変えていた。作業はほぼ終了していた。あとは木材やら瓦礫やらを撤去するだけだ。

「何があったんですか」私は現場責任者に声をかけた。

「それがですね」

 現場責任者は私を、家の建っていた地点、瓦礫の山に案内した。瓦礫の一部がどかされており、道ができていた。

「これなんです」

 案内された場所にあったのは金庫だった。

 ふしぎなことにその金庫に足場はなく、宙に浮いている。

「どうなっているのか我々にもさっぱりでして。重機でどかそうと思っても、びくともしないんですよ」

「こじ開けたりできますか」

「いいんですか」

 現場責任者はそれこそを求めていたかのように目を見開いた。

 果たして、重機を用いて金庫を乱暴に扱ったが、どのような破壊工作にも金庫はうんともすんとも反応しなかった。つまりがまったくの無事だった。傷一つつかない。

「ふつうじゃないですよ」現場責任者は言った。「どこか専門の機関に相談されたほうがよいかもしれませんね」

 いったいどこにそんな機関があるのか、と問いたかったが、そうします、と言って、この件はこちらで引き受けることにした。

 それから二日をかけて土地からは瓦礫が運ばれ、更地となった。

 宙に浮いた金庫はますます目立つ存在となった。

「ふしぎですね。どうするんですか」

「専門の機関にでも相談します」

 皮肉を言ったつもりだったが、そうしたほうがよさそうですね、と言い残し、仕事を十全に終えたとして業者は去っていった。サービスのつもりなのか、金庫の高さにまで足場を組んでくれた。

 私はけっきょくその日のうちに山を下り、以降、しばらくそこに立ち入らなかった。

 数年後に、あれは夢だったのではないか、と思い、山に立ち入ったが、やはり金庫は宙に浮いたままそこにあった。

 私はこの数年のあいだに小金持ちになっていた。祖母の遺した絵画を売りに出したら思いのほか大金となったのだ。何に使おうかと案じていたが、宙に浮く金庫を見ているうちに、ここに住まうのもよい気がしてきた。

 大金を手にした途端に煩わしくなった人間関係に疲れ果てていた。両親の顔は見たくもない。

 私は例の業者に連絡をして、家を建ててもらうことにした。建築業者でもあったので、二つ返事で引き受けてもらえた。

 金庫の存在を知る者はすくないほうがよい。できれば内密でお願いしたいと、守秘義務契約を結んだうえで依頼した。

 半年後にはコンクリート製の家が建った。

 一見すれば瀟洒なコテージだ。三階建てなので、マンションのようでもある。

 金庫は壁のなかに埋めてもらった。どうあっても微動だにしない金庫は、これ以上ない大黒柱の代わりとなる。

 羽振りのよい支払ぶりにか、業者は終始丁寧な仕事をしてくれた。

「これからも御贔屓にどうぞ」

 丁重な挨拶を残し、業者は山をあとにした。家のなかには生活するのに困らないだけの家電や家財道具、山盛りの保存食まで用意してくれていた。

 私は一人になった。

 しかし山のなかでの生活は思いのほか時間がゆったりと流れ、やるべきことは多かった。自給自足するための畑を耕し、洗濯を手洗いでし、じぶんの糞尿やら生ごみで堆肥をつくって、肉を補うべく山に罠を仕掛けて回る。

 鳥や兎が取れたら、血抜きをして肉に捌き、半分は干し肉にして保存をきかせ、もう半分は数日のうちに食べた。

 水道は湧水を利用できたのがさいわいだ。

 火だけは定期的にガスボンベを購入しなければならないが、そこは定期的に入れ替えてもらう契約をしてある。そのうち薪で火を補えるようにしようと企てているが、まだその余裕はない。

 すこしずつ慣れていければいい。

 寂しさを感じる暇もなく、日々、かいがいしく生を営んだ。

 ある日、揺りかごのような椅子に座り、うつらうつらしていると、物音がして目覚めた。ランプの明かりが部屋に陰影を刻んでいる。

 チチチチッ、と機械的な音が細かく鳴った。

 何かが回っている。

 右に、左に。

 ダイヤルだ、と閃くと、脳裏に金庫の像が浮かんだ。

 すっかり忘れていた。

 金庫の埋もれた壁のまえに赴く。

 柱ごと壁に沈んでいるはずだが、その場所から、チチチチチッ、と音が聞こえている。

 息を呑み、壁を見詰める。

 何かが差しこまれる音がした。

 一拍の静寂のあと、重々しい硬質な響き、何かがはずれる音がする。  

【夜の鳴き声】

(未推敲)


 繁殖期なのか、夜な夜な猫の鳴き声がうるさい。

 ナギャー、ナギャー、とお盛んである。

 音は遮蔽物のない上空に逃げる傾向にあるため、アパートの二階に住んでいたこともあり、余計に響いて感じられた。昼は昼で隣の部屋の新婚夫婦の口喧嘩が煩わしい。

 だいじな試験も迫っており、勉強が妨げられて怒りが募った。

 猫ですら交尾しているというのに、我が身の色恋のなさはなんであろう。

 ある日、ついに堪忍袋の緒が切れた。夜食に食べようとしていたカップラーメンのために沸かしていた湯を、窓のそとから眼下の闇にぶちまけた。

 ひと際大きく、ナギャー、と聞こえる。

 続いてなぜか子どもの名を叫ぶ女の悲鳴が、闇夜にとどろく。




【逃避者はモクする】

(未推敲)


 仕事帰りに、夜道でパジャマ姿の女の子とすれ違った。女の子は小柄で、中学生にも、高校生にも見えた。

 小走りで去っていったので、なんだろう、と気になったが、追って理由を訊きだすわけにもいかず、ふたたび歩きだす。

 すると数分もしないうちに前方から、二人組の若い男が駆けてきた。こちらに目を留めると進路を塞ぎ、いまパジャマを着た女の子がきませんでしたか、と息も絶え絶えに言った。

 丁寧な口調で、必死そうな表情だったこともあり、ついつい女の子の去った方向を教えてしまった。男たちは短く礼を述べ、私の指し示した方向へ駆け去った。

 私は帰宅後、しばらくもやもやした。

 ひょっとしたら女の子はあの男たちから逃げていたのではないか。

 私の懸念は的中したらしい。

 後日、私の住まう地域で女性の死体が発見された。まだ若く、バイトに出かけたきり帰らずにいたのを不審に思い、親族が探し回っていたそうだ。

 私は警察に、私の見聞きしたことを話すべきか迷ったが、ひょっとしたら関係ないかもしれないと思いこむことにした。記憶に蓋をする。

 だがそれからひと月後、ふたたび同じ出来事に遭遇した。

 前回とまったく同じだった。

 坂道で、パジャマ姿の少女が逃げており、走り去ったあとで、二人組の男が追いかけてきた。これこれこのような女の子がきませんでしたか、と訊かれるところまで同じだった。

 私は訝ったが、不信感はおくびにもださずに、鷹揚に応じた。「あっちに行きました」

 私は少女の去ったのとは真逆の方角を示した。

 男たちは礼を述べ、私の指し示した方向に走り去った。

 男たちは背にうまく隠していたようだが、すれ違う間際に、その手に棒状の道具が握られているのが見えた。

 私は動悸が乱れ、しばらく興奮状態に陥った。

 あの男たちは、いずこより少女たちを連れ去り、乱暴しているのではないか。私は前回、せっかく逃げた少女をみすみす悪魔に引き渡す手助けをしてしまったのではないか。殺人の片棒を担いでしまったのではないか。

 警察に言うべきだろう。

 そうだそれがいい。

 思うが、なかなか踏ん切りがつかなかった。

 誰かに事情を話せばそれはそのまま私自身の罪を告白したのも同然だった。

 もしあの少女がテイよく逃げおおせたならば、誰かに助けを求めただろうし、警察にも保護されるだろう。そうすれば私が何もせずとも事件は公となり、解決に向かうはずだ。

 私はけっきょく秘密を胸に、口を閉ざす道を選んだ。

 だが数日後、こんどはこの地区で、数名の遺体が発見された。六名が死んだ。そのうち四名は男であり、うち二人の顔写真には見憶えがあった。

 私に声をかけてきたあの二人組だ。

 どういうことだ。

 私は戸惑った。

 事件は通り魔殺人として扱われた。残りの被害者二名はいずれも三十代の女性だった。

 それからというもの、日に日に、同様の被害者が続出した。

 みな首筋を鋭い刃物で抉られているそうだ。

 遺体を目にした近所のひとが、何かに噛まれた跡みたいだった、と語っているのを、バス停で耳に挟んだ。

 得体の知れないナニカがいま、この街で猛威を振るっているが、私は誰にも何も話せずにいる。




【痛覚転移装置】

(未推敲)


 背に腹は代えられなかった。借金で首が回らなくなり、それならしょうがないと取り立てにきた相手から紹介されたのが、治験だった。

「半年のあいだ、これを肌身離さずつけてりゃいい。使うも使わぬもおまえしだいだ」

 まるで治験の依頼元と通じているかのようにその男は言った。

 渡されたのは腕時計だった。いまどき流行りのメディア端末の亜種だろうか。

「本当にこれをつけているだけで借金がチャラになるんでしょうか」

「なる。そのうえ余った報酬まで払ってやる」

「そんな美味い話があるわけないですよね。教えてください、どんな危険があるんですか」

「それを知りたいからおまえに使ってもらうんだ。その腕時計にボタンがついているだろ」

「あ、側面のこれですかね」

「押すとレーザーみたいな光線がでる」

「あ、ほんとですね」赤い光線がどこまでも伸び、壁に赤い点を浮かべた。

「それを人に当てると、その相手におまえ自身の痛みを移すことができる」

「はぁ、へぇ、そんなことが」半信半疑なのが伝わってしまったのか、男は渋面を浮かべた。「使って見りゃわかる。おまえちょっと立て」

「へい」

「いまから軽く殴るからよけんな。そのあとで痛みをおれに寄越せ」

「え、でも」

 不平を鳴らす前に頬を殴られた。「どうだ、痛いか」

「ほれはもう」

「なら時計のボタンを押して、おれに痛みを移せ」

「こうですか」

 言われた通り、腕時計型の機器を操り、光線を男に当てた。見る間に頬の痛みが薄れていく。あべこべに男が頬を手で押さえ、もういいもういい、と手を振った。「めっちゃ痛ぇなこのやろう」

「そんなぁ」

 殴ったのも、痛みを寄越せと言ったのも彼のほうだ。

「まあいい。使い方は分かったろ。半年後にまた連絡する」

 男が踵を返したので、あの、と呼び止める。

「なんだ」苛立たし気な声だ。

「確認なんですが、ひょっとして期限がきたときに、ぼくの移した痛みがまるごと返ってきたりはしないですよね。そういう副作用みたいなのがあるなら知っておきたいので」

「それはない。他人に移した痛みは基本そのままだ。その機器を使わなきゃおまえに戻せない」

「ぼくに痛みを戻したりは」

「しねぇよ。だいたい、同じ相手ばっかに移す気か。四方八方、老若男女に使われたんじゃ、その全員を集めなきゃなんねぇだろ。そんな七面倒なことはしない。あくまでおまえがそれをどう使うのかを見たいだけだ」

「監視するということですか」

「いや」男は面倒そうに頭を掻きむしった。「記録に残るんだ。痛みの数値と、使用回数だな」

「ぼくに損はないと?」

「何を損と見るかだ。それを使えば痛みを他人に移せる。使うも使わぬもおまえしだい。強制はしない。半年後に回収し、借金をさっぴぃて残った報酬を支払う。おれがするのはそれだけだ」

「わかりました。こんなチャンスをくださってありがとうございます」

「まったくだ」

 男は店をでていった。

 喫茶店だというのにほかに客はなく、店員も男がでていくまで現れなかった。そういう場所なのだ、とぼくは見抜く。巨大な権力のなせる業だ。

 ぼくはその日から腕時計型痛覚転移装置を身に着けてすごした。

 痛覚転移装置を使用したのは、男から説明を受けたあと、治験開始から三日後だった。本当ならずっと使わずに終えようと思っていたのに、誤って釘で太ももを傷つけてしまった。

 バイトに遅れると思って近道をしようと思ったのが裏目にでた。柵の支柱から飛び出ていた古い釘に足を引っかけ、太ももに切創を負った。バイトには間に合ったが、痛みがズキズキとうるさくて、集中できず、かといって早退するわけにもいかず、仕方なく、痛覚転移装置を使うことにした。

 痛みは上司にあたる正社員に使った。

 傷口に巻く包帯を、近くの薬局に買いに行かせてほしい、と頼んだのだが、もう始業時間はすぎているからダメだと言われた。「どうせ浅い傷だろ。ツバでもつけてろ」

 ズボンが血だらけだったのにそんなことを言う。制服に着替えるからよいものを、それだって血を止めなければ汚れるのだ。ほかのバイトの女の子が見兼ねてか、絆創膏をくれたので、それでやり過ごした。

 しかしやはり痛みが我慢できなくなり、例の上司に痛覚転移装置を使った。ボタンを押し、赤い光線を上司に当てる。すぅ、と痛みが失せた。すると上司が呻き声をあげ、その場にうずくまった。同僚や部下に囲まれ、控室で手当てを受けたらしいが、外傷はない。

 念のため病院で看てもらうためか、上司は早退した。

「大袈裟だよね」絆創膏をくれた女の子が笑った。

 ぼくはそれから、怪我をするたびに痛みを他人に移した。できるだけ気に食わなくて、痛い目を見たほうがいい人間を選んだ。

 弱い者いじめしている者をこらしめるために、わざとじぶんでじぶんを痛めつけ、傷を負うこともあった。効果は覿面で、移した痛みは持続的に対象を弱らせた。

 虫歯の痛みなどは、じつに効果があった。移した痛みに痛め止めはきかず、歯医者にいっても治らない。治療すべき歯がそもそもないのだからそうなる。痛みだけを移しているのだからそうなる。

 突然の頭痛にも、腹痛にも、ぼくはよろこんでそれら痛みの到来を受け入れ、他人にその痛みを与えた。なんだか日に日に体調がわるくなったが、そうした倦怠感すら他人に移せた。疲れや痛みから解放され毎日元気だ。気分もすこぶるよい。

 ある日、バイトの女の子に勇気をだして告白したけれど、振られてしまった。どうして失恋の痛みは他人に移せないのだ、とくるしい日々を送った。八つ当たりではないけれど、ますますぼくはじぶんを傷つけ、その痛みを、ぼくにとって好ましくない相手になすりつけた。

 ぼくを袖にした女の子には、冗談まじりに痛覚転移装置を腕につけさせて、苦しそうな生理痛をぼく自身が肩代わりした。

 こんなに苦しいのに女の子たちはみんな何気ない顔をして生活していたのか、とびっくりした。とてもではないけれど我慢できなかったので、その痛みも、嫌な上司に移してやった。

 そのせいなのか、もうおまえこなくていいよ、と急にバイトをクビにされた。抗議することはできたけれど、おとなしく辞めることにした。

 例の半年の期日が迫っていた。無理をしてまでお金を稼ぐ必要がなくなる。

 思えばあっという間の半年だった。

 借金の取り立ての男から、治験は終わりだ、と連絡があった。指定された喫茶店に足を運ぶ。

 男はそこで、腕時計型痛覚転移装置を返すようにとさっそくぼくをせっついた。ぼくはおとなしく従った。

「どうぞ」

「たしかに。で、どうだった使い心地は。この様子じゃ、けっこう使いこんだクチじゃないのか」

「ええ、まあ」

「借金は完済。で、残りの報酬がこれな」

 分厚い封筒を受け取る。「こんなに」

「また金に困ったら声かけてくれよな。上客には親切にするぞウチは」

 じゃあな、と男はそそくさと退散した。

 ぼくは男を見送る。

 ゆっくりとコーヒーを飲んでから店をでる。

 封筒をだいじに抱えて帰路をいそぐ。

 途中、信号待ちをしているときにビルのショーウィンドーにじぶんの姿が映った。顔面は青あざだけで、露出した肌にはいくつも切創が刻まれている。傷口は膿んでいるのかジュクジュクに爛れており、見るからに痛々しいが、痛みはない。

 しかしなぜか手足が麻痺したように震え、封筒を落としてしまう。

 信号機が青になる。

 横断歩道を歩行者が渡る。

 封筒を拾おうと屈むと、胃から何かがこみあげ、吐しゃする。

 なぜか封筒が真っ赤に染まった。痛みはない。

 頭のなかで何かが弾けた感覚が湧く。

 急に身体が動かせなくなり、ぼくはその場に倒れこむ。

 信号機が赤になる。

 自動車のクラクションが鳴るが、ぼくの身体はなぜかまったく動かない。




【変心】


 朝起きたら巨大な虫になっていた話は、カフカの「変身」で有名だが、まさか似たような出来事が我が身に起きるとは夢にも思わない。

 朝起きたら蝶になっていた。

 大きさはそれこそ、人間の身体が蛹だったら、これくらいの蝶が羽化するだろうなぁ、という大きさで、端的にめっちゃでかい。現に布団のうえにはじぶんの身体が、抜け殻然と横たわっており、割れた背中から覗く内面は、どこかエイリアンの皮膚を連想する。

 カフカの小説通りの展開ならこのあとわたしは不遇な目に遭うはずなのだが、結論から言うとそうはならなかった。

 というのも、わたしが羽ばたくたびに、背から生える羽からは、鱗粉が舞うのであるが、これがどうにも金粉であるらしい。しかもかなりの量が無尽蔵に舞い落ちる。粉雪だってもうすこし控えめに積もるというのに、わたしが飛んだあとには、金粉がこれでもかとこんもりと残る。

 最初に私に掴みかかろうとしたのは、わたしの母だった。娘の部屋に巨大な蝶がいたのだからさぞかしびっくりしただろうと思うのだが、じっさいには悲鳴一つ上げずに、冷静に状況を把握し、おっかなびっくりとわたしの名を呼んだ。

 わたしは声をだせなかったので、代わりに羽をぱたぱたした。イエスの合図のつもりだったが、そこで予想外に大量の金粉が舞い、床にこんもりと黄金の粉を積もらせた。

 母は一瞬ぎょっとしたようだが、おそるおそるといった調子で、黄金の山に手を伸ばすと、それを凝視した。

 しばしの間があくと、目を黄金から逸らさずに母は無言でわたしを掴もうとした。

 わたしは母の腕を避けた。

 母は、TVに夢中の子どもが画面から目を離さずにジュースをとるような手さばきで、幾度もわたしを捕まえようとしたが、わたしは母の手つきがなんだかいやらしく映り、ひょいひょい、とよけた。

 母はいよいよ目をこちらに寄越し、じっとしていなさい、と怒鳴った。

 わたしは母のその物言いには慣れていた。娘を支配下に置きたいときの呪文のようなものだった。わたしにそれが効いたのはもう何年も前のことだ。それこそ中学校にあがる前までの話である。

 母とて、そんなおためごかしが娘には通じないことくらい承知であったろうが、黄金を目のまえにした母にはそうした道理もどこ吹く風であった。

 わたしは窓からそとに飛びだした。文字通り、宙を舞い、母から逃げた。

 おそらくこれが間違いだった。

 否、ほかにどうすればよかったのかは分からない。ただし、我が母ですら目の色を変え、理性を失うような金粉を、わたしは羽をひらりと煽るだけで、こんもりと地面に積もらせてしまうのだから、わたしが通ったあとの地面には、くっきりと黄金の道ができていた。

 シルクロードならぬゴールドロードである。はなはだ語呂がわるい。

 ちなみにいまさらであるが、わたしはカフカの「変身」を読んだことがない。仮にこれがどこぞの小説家のオマージュだとすれば、よほどリスペクト精神が足りないと言えるが、現に体験しているわたしからすれば、カフカ先生よ、もっと足しになる教訓を描いておくれよ、と文句の一つも挟みたい。

 虫になって、それでいったいどうすればよいのか。

 ぜひとも虫サバイバル術をご享受ください。

 いまは亡き文豪に祈りを飛ばしているあいだに、わたしの眼下には、わたしの黄金を奪い合う町人たちと、黄金の源であるわたしを捕縛せんと追い回す下々の姿があった。

 あはは、人が虫のようだ。

 いや、と冷静になる。虫はわたしだ。

 時間の経過にしたがって、わたしを追い回す人々は徐々に手段を選ばなくなっていった。罠を仕掛けるなんて序の口で、ビルの上から網を投げるわ、ヘリコプターで追いかけるわ、ドローンの群れで襲撃するわ、挙句の果てに猟銃まで持ち出して撃ち落とさんとする下々のなりふりの構わなさには、人間の欲望の底のなさを否応なく感じずにはいられない。

 わたしは心底おそろしくなって、ちからの限り逃げ回った。そのたびに金粉が地上に積もるので、俄然みなの者は張りきった。

 悪循環である。

 警察が出動したまでは対処できたが、自衛隊まで動員されては、わたしに打つ手はなかった。

 もうだめだー。

 わたしはいよいよとなって、我が家に逃げ戻った。

 母が脅かしたりするからだ。

 しかしいまになっては、あのとき母におとなしく捕まっておくのだったと思わずにはいられない。

 母ならばわたしを匿うだろう、そうあってほしい、との希望的観測を胸に、わたしはじぶんの部屋の窓に突っこんだ。

 窓は開いていた。

 わたしの部屋には母がおり、掃除機で部屋をきれいにしていた。否、金粉を吸い取っていただけなのだろう。わたしの姿を目に留めると、すばやく窓を閉め、両手を広げて、逃げちゃメっ、と猫を叱るように言った。

「もっかいこれに入りなさい。でないと戻れなくなるよ」母は布団のうえに転がったままのわたしの抜け殻を示した。「お父さんの血でね。あのときも苦労したんだから」

 母は過去を懐かしむようにしみじみと言い、

「ほらさっさと入りなさい」

 わたしの抜け殻の背を開き、入りやすくしてくれた。

 わたしが、でも、と渋ったからか、

「そんなかわいらしい複眼で見詰めないの。黄金なんてあとでいくらでも出せるようになるから」

 母は何でも知っているかのように言った。

 否、いちど経験しているのだろう。我が父がかつてそうであったように、母は黄金を生みだす蝶の扱いに慣れていた。

 わたしは母の言うとおりにした。我が抜け殻に足先から入った。ぎゅうぎゅうと身体を押し込め、肢をたたみ、羽を縮め、こんなの入りっこない、と思いながらも、いいからもっと、という母の掛け声にしたがい、身体を沈めた。

 人間の形をした我が抜け殻が裂けちゃうのではないか、と不安だったが、どうやら杞憂だったようだ。

 真っ暗闇になったかと思うと、ぱちくりと馴染みある視界に回帰している。

 思えば、蝶であったあいだは、やけに視界が広く、世界を多重に視ていた。人間に戻るまではその違和感にも気づけなかった。感性まで蝶に同化していたようだ。

「おかえり」

 母は掃除機のノゾルを肩に担ぎ、

「お父さんに報告しなくっちゃ」と欠伸を一つした。

 わたしは母と共に、居間に下り、位牌に手を合わせる。

「ひょっとしてお父さんって、これが原因で死んじゃったの」思いついたので言った。

「まさか。ふつうにがんで死んじゃったの」

「でも、ほかのひとに蝶のことバレたら」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。黄金なんていくらでもでるんだから、口封じなんて簡単よ」

 母の言葉を受けてわたしは、いまさらのように考え至る。我が家には謎の収入源があったが、わたしはずっと父の生命保険が下りているのだとばかり思っていた。しかし本当のところは、父の遺した莫大な黄金があるだけなのかもしれなかった。

「でもあんまりいっぱいださないほうがいいかもね。黄金の価値が下がっちゃうから」

 こここそが大事だと言わんばかりに、母はウィンクをした。

 カフカ先生、とわたしは念じる。

 虫になるのは勘弁ですけど、たまにならそう、羽化してみるのもわるかないかもしれやせんぜ。




【人裏の間隙】

(未推敲)


 大学の先輩から、それなんだ、と半笑いで指摘されて気づいた。首筋にファスナーがついている。引っ張ると鎖骨のほうに下がり、隙間が開いた。

 鏡越しになかを覗くと何もなく、どこかしら涼しい風が漏れる。怖くなったのでそのときは閉じたが、家に戻ってから脱衣所に駆けこみ、全裸になってもういちど確かめてみると、どうやら首筋に開いた間隙のさきには首の容積を遥かに超えた空間が広がっているらしいことが判った。

 というのも、櫛や歯ブラシを突っ込んでみてもどこにも突き当たることなく、虚空を掻くばかりで、試しに紐にくくった硬貨を差し入れてみると、どこまでもするすると引き込まれていった。重力が真横に働いているのか、紐はたゆむことなく、間隙に対して垂直に硬貨は吸いこまれていく。

 じぶんの身に何が起きたのかを考えるが、合理的な考えは浮かばない。病院にかかるべきか。しかし医師の診察を受けてどうなることとも思えない。インターネットで検索してみるが類似の事例は皆無であり、噂話や作り話ですらこの手の事象は見当たらなかった。

 一晩経ち、翌日も大学に向かう。

 ファスナーは首筋にあるが、目立つというわけではない。ちょうど耳の裏に隠れる位置まで引き上げることができた。先輩が発見したときは、ファスナーの位置が下がっていたのだ。隙間が開いていた。ぴっちり閉めれば、ひとまず人の目は気にせずに済むようだった。

 いったいいつからあったのだろう。

 耳の裏にあるから気づかなかったが、ひょっとしたら生まれてきてからずっとあったのだろうか。それとも成長と共にすこしずつ大きくなってきたのか。

 分からない。

 たとえ分かったところでどうしようもない。

 しばらくはそのままの生活をつづけるしかなかった。

 ファスナーを下ろさなければ問題はない。特殊の能力のように利用価値があればよかったが、底がないのでは物を収納しておくことができず、一度なかに放りこんだものは二度と取りだせないように思えた。

 不要なものを投げこめばこの世から抹消できるかもしれないが、有名な掌編小説のように、捨てたはずのゴミが輪廻よろしくいずこから降って湧くかもしれない。

 間隙の奥が真実に底なしなのか、この世のどこかに通じているのかも定かではない以上、慎重になっておいて損はない。

 何度か、飴や角砂糖を投げ入れてみたことがあるが、やはり取りだせなかった。身体に変調も見当たらない。このままでいるしかないのだろうか。

 恋人がいないからよいものを、このさき他人と身体を重ねるとき、或いはたいせつなひとができたときに、この体質のことをどのように説明すればよいだろうか、といつも心のどこかしらには引っかかっていた。

 ある日、何気なくシャワーを浴びているときに、閃いた。

 ファスナーはいったいどこまで下りるのだろう。

 こわくて、首筋以上に開いたことはなかった。だが、ひょっとしたらずっと下までおろせるのかもしれなかった。

 シャワーの湯を止め、おそるおそる、ファスナーをつまむ。ジジジ、と下へ下へと滑らせていく。

 唾液を呑みこむ。

 鎖骨をすぎ、ろっ骨を縦断し、腰を経て、右太ももを過ぎてなおファスナーは下に引けた。

 けっきょく右足首のさきにまで行き着いた。足の裏にまでは届かない。

 全身が震える。

 直感した。

 裏返る。

 間隙から大量の空気が噴きだし、何かが溢れ出るのを感じた。

 動いていないはずだのに視界が移ろい、まるで乗り物に乗っているかのような浮遊感を覚える。

 口を全開にしたリュックを裏返すかのように、身体に開いた間隙が広がりを帯び、あべこべに表面がめくれていく。

 じぶんの後頭部が見えた。

 背中が真ん前に迫っている。

 表が裏になる。

 足元から順にファスナーがジジジとあがっていく。

 ファスナーを掴む手は黒く、ただ黒く、闇だった。

 視界が閉ざされ、意識が途切れる。

 つぎに目覚めたのは光を見てからだ。

 眩い光が目の前にあった。

 閃光のごとく強烈な明かりに感じたが、単に目が闇に慣れているだけかもしれなかった。

 光は途絶えることなく、縦に線を伸ばし、徐々に面積を増した。視界がすっかり光に占領される。音に包まれる。無音の世界にいたのだと、なにともなしに考えた。

 いったいどれくらい経ったのだろうか。ずっと眠っていたようにも、一瞬だけ意識を失っただけのようにも思えた。

 話し声がする。

 身体が動かせないのは、或いは痺れているだけかと思ったが、どうやら拘束されているようだ。以前に手術を受けたときに寝かされた搬入台のうえを思いだす。

 ジャラリと鉄の感触がし、鎖で縛られていると判った。

 意識が徐々に覚醒していく。

 声に耳を澄ませる。

 そばには三人の男女がいた。女二人に男が一人だ。

「処分に決まってる」女が言った。髪が短く、ほとんど刈り上げだ。「つぎ暴走したらもう誰も止められない。いまやる以外にチャンスはないって」

「かもしれないが、俺だっておまえだって、スーだって最初は暴走した。誰だって最初はそうだ。こいつはただ、規格外の外装を持っていただけのことで」

「スーはどう思う」刈り上げの女がもう一人の女を見た。

 スーと呼ばれた女は、三つ編みにタンクトップ、迷彩柄のズボンを穿き、腕には視たことのない型の重機を握っている。重機は両手で持つのがやっとの大きさで、先端に宝玉のような青白い球体がはまっている。細身だが引き締まった体つきは、レンジャー部隊の一員さながらだ。

「わたしはまずは生かして様子を見たほうがいいと思う。とりあえずチャックはロックしたし、無理に裏返ろうとしたらそのときに殺せばいい」

「二対一だな」男が言った。

「てめぇらデキてんじゃねぇの」刈り上げの女が地面に唾を吐いた。

 そこで気づく。

 瓦礫のうえにいる。

 このときになって風景に目がいった。仰臥しているので空ばかり見えていたが、周囲はビルに囲まれている。しかしどの建物も激しく損壊し、内紛のあった街かのような景観だ。

「ここはどこですか」

 声を発すると、三人が飛び退いた。

 一瞬で視界から消えたが、こちらが微動だにできずにいると見ると、おずおずと近寄り、上から覗き込む。

 刈り上げの女がほかの二名を見て笑った。「おまえらビビりすぎだろ」

「あなただって」三つ編みの女、スーが睥睨する。

 男はまっすぐとこちらと目を合わせた。「ヤミノ・ハシヤだな」

 じぶんの名を呼ばれ、頷く。

 かろうじて頭だけを動かせる。

「これからいくつか質問する。イエスかノーかで答えられる質問だ。イエスなら顎を引け。ノーなら横に触れ。いいか」

 顎を引く。

「まずは一つ目。気を失う前のことは憶えているか」

 顎を引く。

「そのあとのことは憶えているか」

 これはノーだ。横に振る。

「耳の裏のファスナーの存在には気づいていたか」

 イエスだ。

「じぶんでそれを下ろしたのか」

 これもイエスだ。

「その後にどうなるかは知っていたか」

 ノーだ。何も知らない。

 何か重大なことが起きたのではないか、とここで嫌な予感を覚えた。

「誰かが接触してきて、ファスナーについて話を聞いたりしたか」

 ノーだ。

「了解だ。これが最後の質問になる。いまどうしてこんな目に遭っているか想像がつくか」

 しばし考え、首を振る。ノーだ。分からない。

 何があったんですか、と訊ねる。

 男は質問には応じずに、腰を上げた。

 どうやら身体は薄い鉄板のようなものに縛りつけられているようだ。じぶんの体勢を把握する。

 彼らは三人でしばらく話しこんだ。離れた地点に移動したようだが、周囲が静かなので、声は響いた。話の内容を聞き取れない。

 空をトビが飛んでいる。

 足音がし、話し合いが終わったのだと察する。

「状況を説明します」三つ編みの女、スーがしゃがんだ。目のまえにメディア端末の画面が現れる。女が手で支え、見せてくれている。

「あの、じぶんで持てます。これ、はずしてくれませんか」

 解放するように催促するが、無視された。

 画面に映像が流れる。

 大勢の逃げ惑う姿、倒壊する家屋、鳴り響く銃声、が連続して再生された。

 画面が切り替わり、何らかの部隊が集団で攻撃をしかけている。

 部隊の合間を黒い人型の影が駆け抜けると、あとには無数の屍が転がった。

 どの遺体も身体の一部が欠けていた。

 映像は途切れることがなかった。

 黒い人型の影を中心に映像は展開された。

 三つ編みの女、スーは三十分ほどかけて説明した。ひととおり話し終えるとスーは立ちあがり、言った。「ご理解いただけましたか」

 逆光となって彼女の輪郭だけが浮き上がって見える。「つまり、あの影が僕で、大勢を殺し、この街のほとんどが崩壊したと?」

「理解が早くて助かります」

「何かの間違いなんじゃ」しぜんと笑みが漏れた。

 あり得ない。バカバカしい。

 そんな話はまともに取り合うだけ愚かだ。

 そうと思う常識的なじぶんと、いまのじぶんが陥っている異常な状況に加えて、たったいま見せられた映像の生々しさが、彼女の話を一蹴するだけの論拠を構築させてくれない。

「残念だけど本当だ」男が言った。彼の名前はまだ分からない。「ヤミノくん。きみのような存在はずっと昔から、それこそ紀元前から確認されていてね。首筋のファスナーがあるだろう。文字通りそれがファスナーの起源だ。それを基にしていま社会に普及しているファスナーが発明された。模造された、とそれを言い直してもいい。我々三人もきみと同類だ。我々は我々のような存在を、人裏(じんり)と呼んでいる。海外では単純にバッカーとも呼ばれているが、いずれにせよ公には秘匿にされた存在だ。本来ならば、ファスナー持ちは人裏としての能力を発揮する前に保護され、ある種の指導を受けるのが通例だったのだが、何の手違いか、きみだけは長いあいだ放置されてきてしまった」

「さっき暴走がどうのこうのと言っていましたけど」

「そうだ。人裏は、ただファスナーを持っているだけならば、ただの人と変わらない。ただし、それを全開にし、【裏返る】ことで、通常人間には出力不能な能力を発現可能とする」

「本当にあの映像の影が僕なんですか」半信半疑というよりも、そうでないと言ってほしい願いのようなものがあった。

「残念だがきみは暴走した。いや、誰であっても初めて裏返るときにはああなる。ゆえに組織の管理下においての指導が必要なのだが、きみの場合は運がわるかった。ただでさえきみの裏能(りのう)は特殊だからね」

「人によって違うんですか、その、能力みたいなのが」

「そうだ、ひとによって異なる。我々三名もそれぞれ発揮できる能力が違っていてね。だがきみの裏能は歴代のなかでも抜きんでて特殊だ。規格外だと言っていい」

「それはその、危ないってことですよね」

「ハッキリ言おう。危険だ。そのため、仲間内ではきみを処刑しろとの意見もでている。被害が甚大すぎた。これは我々の組織の落ち度でもあるのだが、それゆえ同じ轍を踏まぬようにと厳罰を求める声が多い。同胞、つまりきみを殺してでも責任を負いたいとする声がある」

 映像のなかの光景が蘇る。

 記憶にないはずなのに、あたかもじぶんが体験したかのように捏造されつつある。拒否反応がでる。じぶんの体験なわけがない。あんな記憶は知らない。

「もし本当にあれが僕の仕出かしたことなら、その判断も妥当に思えます」

 正直に思ったことを言った。

 歩く災害である。人間として扱うよりも、処分対象と見做したほうが大多数の幸福にとって好ましい。

「できるだけ苦しまないようにお願いします」

 ぎこちなく笑って見せた。

 できるだけ手を下す者に呵責の念を抱かせない工夫のつもりだったが、なぜかそこで男は背後の二人を振り返った。

 誰の者かもつかない溜め息を聞こえた。「ボウジ、撤回する。処刑は延期だ。しばらく様子を見る」

 刈り上げの女の言葉に、スーが横槍を入れた。「アンリちゃんやっさしー」

「バカ言うな。執行猶予ってやつだ」

 男はこちらに向き直り言った。「だそうだ。ひとまず命拾いしたな」

 彼はボウジという名であるようだ。

 黒髪に、耳の隠れるくらいの髪型、身体にぴったりと張りつくような礼服には汚れ一つなく、彼だけが荒廃した景色のなかにあって、存在感に現実味がなかった。

「で、どうすんの。上に引き渡す?」刈り上げの女、アンリが棒付き飴を口に咥える。

「いや、アジトに連れていく」

「ボウジくんが指導するの?」スーが意外そうに言った。

 彼女が両手で抱えていた重機は消えている。いつ消えたのか分からない。どこに仕舞ったのだろう。

「コイツはゲームチェンジャーになり得る。誰が指導につくかによって、破滅の化身にも、進化の触媒にもなり得る。上の好きにはさせない」

「ボウジくんの影響を受けちゃうのも、けっこうこわいけどね」

「スーもたまにはいいこと言うじゃん」アンリの哄笑が響く。「ボウジ、どこに牙剥けるかによっちゃ手ぇ貸してやってもいい。だから答えろ。おまえの獲物は何だ」

 スーがこちらのそばにしゃがみ、鎖を解いてくれた。何かしらの道具を使ったのか、鎖は綺麗に断ち切れていた。

 礼を述べながら、礼服の男、ボウジの返事に耳を欹てる。

 ボウジは言った。

「すべての強者だ。いがみあいつづけて忙しい戦争好きにはご退場いただく。敵も味方も関係ない。勢力図を根こそぎ塗り替え、人裏も単なる人と位置付ける。ヒーローごっこは終わりだ。ただの人に還ろう」

 ボウジはこちらの耳に手を伸ばし、何かを掴むと、引き抜いた。

 痛みが走る。

 こめかみをなぞると知らぬ間に器具がくっついていた。ボウジの手には金具がある。彼はそれを掲げ、鍵だ、と言った。

「ファスナーが下りないように固定しておける。こめかみの器具と連動していて、無理に取ろうとすれば、意識を失う。鍵がなくともファスナーを引っかけておくことはできるから、ふだんはそこにかけておくといい」

 ゆびでこめかみをいじる。

 耳のうらのファスナーがこめかみの器具に納まっていた。

「これから我々のアジトに向かう。しばらくそこで訓練をし、裏能を制御できるようになってもらう。まずは安全に裏返るところからだが、どんなに短くとも半年はかかると思っていてくれ」

「いいんでしょうか」

「何がだ」

 改めて風景に目を配る。

 現代とは思えない。

 遠くで建物がメリメリと音を立てて崩壊した。一つではない。柱が欠け、自重を支えきれなくなっているのだ。

 大勢死んだのだ。

 意識がなかったあいだの出来事とはいえ、償いきれることではない。だからといって償わないのも違うように思う。

 こちらの心中を察したのか、ボウジは言った。「アンリも、スーも、暴走時には人を殺めている。俺もそうだ。誰かが止めてやらなきゃ、もっと多くの犠牲者がでた。加害を働いていた。罪を重ねていた。同じ痛みを、若い世代にまで体験させたくない。だがいまの仕組みではそれができない。そういう歴史がある。実情とも言うがな。徐々にそこらへんの事情も学んでもらう。人裏と一口に言っても、派閥がある。敵対勢力があるんだ。人間の社会と同じだ。まずはそこからどうにかしていかないことには、悲劇はずっと起きつづける。増えるいっぽうだ」

「変えられるんですか」

 期待をこめて訊いた。

 ボウジの表情は氷のように動かない。「変えていくしかない。そのためにできることをしていきたい。ただそれだけだ」

「ボウジくん、時間だよ」

 スーが何らかの端末を掲げた。ボウジは画面を見て、頷く。「急ごう。アンリ、移動を頼めるか」

「あいよ」

 刈り上げの女、アンリは自身の中指をつまむと、手首まで引き下ろした。彼女のファスナーは中指の爪と同化しているのだ。手の甲に間隙が開く。

 だがそこには闇ではなく、大小さまざまな水晶のような鉱石が覗いた。

 一種、宝石の鱗のようでもある。

 アンリは手首からさきだけを裏返した。宝石の鱗の手で宙に大きな円を描いた。はらりと空間が丸く切り取られ、景色が剥がれ落ちる。

 ぽっかりと穴が開くが、そこにはべつの景色が広がっている。

 アンリは穴を跨ぎ、奥に消えた。

 スーがあとにつづく。

 呆気にとられているこちらの背をボウジが押した。「早く潜らないと消えてしまうよ」

 意を決して穴をくぐると、広大な岩石地帯に抜けた。崖のうえだ。眼下には広大な砂漠がどこまでも地平線まで伸びている。

「こっちだ」「何してんの置いてくよ」

 振り返ると、アンリとスーが歩き出していた。奥にはふしぜんに森があった。一件するとオアシスにも映る。

 ボウジが穴をくぐって現れると、ようこそ、とあごを振った。

 我らがアジトへ、と手を差し向けたさきには、木々に重なるように屋敷の屋根が見えている。




【行きすぎたコウイ】

(未推敲)


 大学の構内でたった一度すれ違っただけで恋に落ちた。立ち姿もそうだけれど、すれ違ったときの、夏の暑さも薄れるような爽やかな匂いが脳裏にこびりついて離れない。

 そのひとを見かけるたびに、出席している講義や、所属しているサークル、ゼミの教授や、年齢、名前と、すこしずつ情報を仕入れた。一学年下の後輩らしい。SNSで、さっそくアカウントを特定し、フォローせずに毎日眺めた。

 いくつかのSNSを使い分けていて、彼はこっそり日記もつけていた。もちろん僕はそれを眺めた。

 すこしずつ彼に気に入られる人格になろうと決意した。

 大学のベンチで、もういちどすれ違えないだろうか、と待っているあいだに蟻をゆびで弾いて時間をつぶしたりした。ある日の彼の日記に、蟻はかわいくて好き、とあり、家のなかに入り込んだ蟻を逃がしてあげた話が記されていたときには、じぶんとの違いにめまいがした。

 暇つぶしに蟻をゆびで弾いて遊ぶような僕ごときがお近づきになれるわけがない。なってよいはずもなかった。

 僕はじぶんを恥じた。

 変わろうと思った。蟻にすら慈愛をそそげる人間になる。

 僕はその日からいっそう、想い人の彼の言葉を、性格を、魂の痕跡すら逃さぬように、情報の海を凝視する日々を送った。

 好きな文学作品の名前が挙がれば、その作者の作品はもちろん、作品についての批評の数々にも目を通した。SNS上に溢れる有象無象の感想も軒並み漁った。

 音楽、映画、漫画、絵画、何を嫌い、何に怒り、何に不満を抱き、どのようにそれら毒を表現するのかを、一つ一つの彼の文章から画像から丹念にコピーして分析を深めた。

 他者との交流にも目を配った。彼が誰と繋がり、なぜ交流を保っているのかも探った。

 本人が自覚していないだろう偏向にも気づいた。

 彼は身体が弱かったが、それゆえに精神の力強さは、肉体の希薄さを補って余りある生命力で漲っていた。だがそれを他者に見抜かれまいと、懸命に仮面を被っている。

 肉体の希薄さを擬態にして、この世のすべてを焼き尽くすような憎悪を内に秘め、隠し、潜め、装っている。見た目通りの弱い人間なのだと、彼は周囲を欺いている。

 そのことにどうやら本人は無自覚であるらしい。

 僕は、彼の好む人間の類型を知りたかったが、意図的にそうした情報を文章から排除しているようだった。アイドルの話題にもいっさい関心を向けていない。同性愛者なのか異性愛者なのかすら判断がつかなかった。

 意図してそういった、いわゆる常識的な判断基準で測られそうな事柄を伏せているのだ。

 冷徹なまでに賢い人間だった。

 彼こそが人間だった。

 或いは、肉体の内側には、誰にも見せていない別の人格がいるのかもしれないし、それはひょっとしたら女性性をつよく帯びている人格かもしれなかった。

 わからない。

 分析しようとすればするほど、彼の本質から遠ざかるようだった。知れば知るほど、彼のことが解らなくなる。

 好きな食べ物や、印象のよい人間の行動については殊の外つつみ隠さずに述懐するので、そうした記述を目にするたびに僕は、記述されたのと同じ食べ物を買って食べ、好ましく思われるような行動を意識してとった。

 ベビーカーに乗せた赤ちゃんを抱っこして階段をのぼろうとしている女性がいればベビーカーを持ちに走り、店に入るときにはほかの人が通れるように扉をさきに開けて支えておいた。電車で席を譲るときには、どうぞ、と言わずに敢えて黙って立ちあがっていちど車両からでて、べつの車両に移ってみたりした。ゴミが落ちていれば誰が見ていなくとも拾って家に持ち帰り処分したし、猫の死骸を見つけたら保健所に連絡し、ときにはビニル袋で回収して警察に届けでた。

 どれも彼がふだんとっている行動であり、または他人のそうした行動を目にして感心していた行動でもある。

 彼にふさわしい人間になるべく僕はじぶんをまずは変えようと思った。

 そのうち、日記内ではあるものの彼がぽつり、ぽつり、と悩みを吐露するようになった。お金のこと、人間関係のこと、将来のこと、病弱な身体のこと。

 どれも僕にはどうにもできないことであったけれど、助けになれそうなことがあれば即座に行動に移した。

 構内で喫煙所以外で煙草を吸っているひとらがいると苦言を呈していたので、そいつらには注意して喫煙自体をやめさせたし、サークル内で浮気を繰り返す女の子にはそうさせないように先回りしてそれとなく周囲の人間たちに女の子のよろしくない性質を事実のままに吹聴した。ほかにも、近所のスーパーに好物のお菓子が品薄で買えなかったとあれば、僕が大量に購入して店に在庫を抱えるように仕向けたし、購入した大量のお菓子は友人経由で彼の所属するゼミに寄付した。

 彼がお金に困っているらしいので、僕はパパ活やママ活をして稼いだお金をそれとなく彼のマンションのポストに手紙といっしょに投じておいたし、彼が母親との仲がよろしくなくて、殺してやりたい、と零していたので、それとなく彼の母親の首を絞めて殺した。

 遺体をどうするか悩んだが、つまり彼にちゃんと母親は無残に死んだのだと示したほうがよいのかと案じたわけだが、ひとまず死体をズタズタに裂いて、写真だけ撮っておくことにした。あとで見たいと希望していたらその写真を印刷して郵送してあげればよいだけだ。

 だのに僕のこうした好意はどうにもほかの大多数には理解できなかったらしく、僕は警察に捕まり、裁判にかけられ、実刑判決を受けた。

 不幸中のさいわいと言ったら変だが、刑務所に入ってからいちどだけ彼が会いにきてくれた。

 どうしてじぶんの母親を殺したのか、と彼は言った。ひどく不機嫌そうで、辛らつな言葉を使って僕を非難した。

 きっと僕がかってに刑務所になんか入ってしまったから拗ねているのだ。

 僕は誠心誠意謝罪して、だいじょうぶだよ、と安心させたくて言った。「あと十年もしないで出ていけるから。そしたらまたきみのことを遠くから見守るよ。待っててね。きっときみにふさわしい人間になって、きみのそばに居続けられるようにするから」

 彼はそこでなぜか怒鳴り、僕を傷つけるようなことを言った。どうして罵倒するの、と僕が訊ねると、てめぇがひどいことをするからだろ、と彼は泣きじゃくった。

 子どもの癇癪みたいなその姿を見て、僕は急速に遣る瀬なくなった。ハッキリ言ってしまうと冷めてしまった。興醒めだ。

 僕はもういちど謝罪の言葉を述べ、誤解していたみたいだ、と告げた。「もうあなたに興味はないです。金輪際僕に関わらないでください」

 席を立つと、強化ガラス越しに彼はふたたび癇癪を起こした。

 僕をうるさく責め立てるので、かったるくなって僕は言った。「やめてくださいよ。もう僕のことは放っておいてください。あなた異常ですよ。気持ちわるいですよ」

 つぎにつきまとったら警察を呼びますよ。

 僕は言い残して、じぶんの独居房に戻った。

 読みかけの本を開き、どうして僕はこんな場所にいるのだろう、と段々腹立たしくなってくる。いま会ってきたくだらない男のせいだ。

 僕は心に誓う。ここから出たら、イの一番に償ってもらおう。

 僕にいじわるをしたそれが報いだ。

 だいじなものを全部全部ダイナシにしてあげよう。

 徐々に胸の奥からくすぐったくなる。

 さいわいにも、なぜか僕には、あの男のことが手に取るように分かるのだ。どうすれば壊れるのかは考えるまでもない。いま段取りを煮詰めなくとも、会いに行けばしぜんと身体がすべきことをこなすだろう。

 だからそれまで、このしずかな環境で、ぞんぶんに大好きな読書でも楽しむことにする。




【動画配信者の追憶】

(未推敲)


 怖い話とはすこし違うのかもしれませんが、ぼくにはお気に入りの動画配信者がいて、毎日楽しみに観ていました。毎日更新してくれるのです。

 配信者は若そうな女性で、でも顔は映らないので、ただ彼女の手元の映った画面を見ながら彼女の話を聞いているだけです。彼女の話はたいがいが妄想らしくて、これは妄想なんですけど、からいつもはじまるので、話の内容もそれに負けず劣らずの突飛な内容のものがほとんどでした。

 要は、即興創作のようなものなんだと思います。

 思いついた空想をただ勢いにまかせてしゃべっているだけで、ときどきと言わずしてたいがいは、前半と後半で話が矛盾していたり、前半で死んだはずの登場人物がゾンビとなって現れ、主人公たちの窮地を救ったりするので、おそらく話自体がおもしろいのではなく、彼女の情緒豊かな語りに、魅せられていたのだと思います。

 照明の加減でもあるのでしょうが、彼女の手は人形のようにオウトツのすくない手をしていて、それがまるでそこに箱庭があって、本当にそこにちいさな世界があるかのように錯覚します。

 漫才師が扇子を箸の代わりにしたり、器の代わりにしたりするじゃないですか。あれと似たようなもの、いえ、どちらかと言えばパントマイムにちかいのかもしれません。つまんだり、ひねったり、指人形同士で対話させたり、喧嘩したり。彼女の語りを聞いているだけでなく、見ていても飽きませんでした。

 彼女の肩越しには彼女のいる部屋の内装がちらりと見えているのですが、カーテンを閉めきっているらしく、薄暗くて、どんな部屋なのかはよくわかりません。彼女もほとんど自分自身については語りたがらず、視聴者とも交流を築こうとはしていないようでした。じっさい、コメントは毎回五十以上は集まるのですが、彼女がそれらに反応を返したことはいちどもありません。

 ひょっとしたら動画は生配信ではなく、録画をしたものを流しているだけなのかもしれませんが、動画に映りこんでいるデジタル時計の時間や日付はその日のその時刻のものです。

 いつだったか地震が起きた際に、彼女の部屋も揺れたので、同時刻に生配信しているだろう、とぼくは判断していました。地震の揺れ方からして、ぼくと同じ地域に住んでいるのかもしれない、とも思いましたが、関東地方にいれば一様に同じ揺れ方をしたようですので、すくなくとも三百キロ圏内にはいるだろう、くらいの大雑把な共通項を見つけただけとも言えます。

 いちどはそのように片付けて、遠い場所でけなげに妄想を聞かせてくれる相手を応援よろしく見守っていたのですが。

 ある日、ぼくの近所で火事があったんですね。

 消防車が何台も集まるような火事で、家が一軒燃え尽きました。ベタな展開と言えばそうなんですけど、その日の彼女の配信中に、消防車のサイレンの音が混じっていたんです。かなりハッキリと聞こえていて、配信者たる彼女のほうでも、なんどか窓のそとに向かって、うるさいな、と零していたくらいです。音のする方角のみならず、音源までの距離すら分かりそうな響き方をしており、カーテン越しにも、火事の炎の橙色の明かりが透けて見えていました。

 そうです。

 彼女は火事のあった現場のすぐそばに暮らしていたのです。

 彼女の部屋に面した道路に消防車が停まっていたようです。偶然この国で同時刻に同規模の火事が発生したのでなければ、十中八九、彼女はぼくと同じ地区に、それこそ近所に住んでいます。

 あまり上等な感情ではないことを承知のうえで、胸がほのかに高まりました。ファンと言ってもいいくらいにぼくは彼女の配信動画に夢中だったわけです。日々の癒しをもらっていました。

 大好きな小説をつむぐ文豪が近所に住んでいると知って興奮しない読書家がいるでしょうか。かといって怖がらせる思いをさせたくはありませんし、彼女のほうでも、プライベートを穿鑿されることは避けたいはずです。なるべくこの事実は胸に仕舞い、何をするでもなくこのまま素知らぬふりをして過ごそうと思いました。

 ただ、やはり外を出歩くときに、この辺だろうか、といつもとは違った道を歩いて、彼女の部屋がどこに位置するのかを探ってしまうことがあり、じぶんの卑しさにへこんだりもしました。

 知るだけならいいだろう、べつに本人に会いたいわけでもないのだから、とじぶんに言い訳をして、ぐるぐると町内を回るといったことを繰り返しました。

 ストーカーや偏執狂と似た行動原理だとは分かってはいたのですが、動画のなかでありもしない世界の出来事をさもじっさいに体験したかのように語る彼女の才能にいちどでも焼かれてしまった者であるならば、この行動をいちがいに非難はできないはずです。誰だって似たことをしでかしてしまうものではないでしょうか。

 もちろん、だからといって彼女の負担になるようなことはしません。接触しようだなんてそんなことは考えもしませんでした。

 彼女の姿を目にしたところで、本人ですか、と訊ねでもしなければ、それが動画配信者と同一人物か否かは分からないですし、訊ねたところで当人が正直に、はいわたしがあの動画配信者です、と明かすとも限りません。

 ですからこれはぼくがいっぽうてきに日々をわくわくしたくて行ったおまじないのようなものだったのです。

 ところがそれから三か月もしない秋も暮れ、彼女の動画配信がぴたりと止まりました。

 何かあったのだろうか。心配してもぼくにはどうすることもできません。配信されなくなった彼女のチャンネルを毎日覗くくらいしかできることがありませんでした。

 彼女の部屋の位置座標の、だいたいの目星はついていました。

 火事のあった現場がこうで、サイレンがこの方向から響いていたので、ではこの区画に彼女の住まう家があるのだろうな、と判ってはいたのです。

 敢えて近づかずに、その近所を散歩して、偶然すれ違う女性に、彼女の姿を幻視して、しあわせな日々を送ってください、とささやかな祈りを胸に帰宅するのがつねでした。

 しかしさすがに、一週間も動画が配信されなくなると、確認せずにはいられません。

 ひょっとしたら病気で倒れ、入院しているのかもしれないではありませんか。

 いえ、たとえ入院していようが、怪我をしていようが、ぼくには何もできないことに変わりはないのですが、ぼくはぼく自身を安心させたくて、目ぼしい家の周辺を歩くようになりました。

 探索を開始してから四日が経ったころでしょうか、とある家のまえにパトカーが止まっていました。いちどは通り過ぎて、用事を済まし、夕方にもういちど同じ道を通ると、パトカーは増え、その家の周囲が封鎖されていました。記者の姿もあり、夜には大きな事件として全国区のニュースにもなりました。

 一家五名が何者かによって殺されたそうなのです。

 被害者の顔写真はなく、名前だけが報道されました。

 家族のなかでゆいいつ娘だけが行方を晦ませているとの続報もあり、ぼくは何も事情を知らないうちから、あぁ、と思いました。

 きっともう、彼女の声を、妄想を、物語を、聞くことはできなくなったのだな、と。

 物寂しさと、ひょっとしたらぼくが何かしら行動を起こして、彼女に接触していれば、このような事態には発展しなかったのではないか、との、もしもの可能性を思い浮かべては、そんなことはあり得ないと知りながらも、後悔せずにはいられませんでした。

 日に日に、胸が苦しくなりました。

 じぶんの受けた傷がとうてい治癒する見込みのないほどに深い傷なのだと、否応なく突きつけられるような日々でした。何も見たくありませんでした。

 じぶんの端末から彼女のチャンネルを削除し、ぼくはそれらの思い出を過去とすることにしました。

 それから二年が経ちました。要するに、いま話した内容は、二年以上前の話であり、ここからがぼくの現在、さいきんの話となります。

 ぼくにもなけなしの友人というのがいて、彼とは感性がほとんど似ておらず、共通する話題もないので、頻繁に会って遊んだりはしないのですが、ゆいいつじぶんの時間感覚を共有できる他人でもあり、つまりがぼくはおそらく他人よりも時間を俯瞰で捉える傾向にあって、半年ぶりに会った相手であっても、久しぶりとは思わずに、まるで昨日会ったかのような、空白の時間がなかったかのように振る舞えるのです。

 会う回数よりもどれだけ長いあいだ縁を繋いでおけるのかが、ぼくにとっての仲の良い、の観念なわけです。

 友人とはその点を共有でき、お互いに気の置けない仲として継続して縁を繋いでいられる稀有な相手なのです。

 その友人と先日、およそ十か月ぶりに会ったのですが、どうやら彼はいま、素人の配信した動画にはまっているらしく、おすすめのチャンネルをいくつか教えてくれました。

「前にぼくが勧めたらバカにしたじゃないか。素人の動画なんか観て何がおもしろいんだとぼくはきみに虚仮にされたぞ」

 ぼくがそのようにむかしのことを蒸し返すと、

「あのときは分からなかったんだ」

 友人は返す刀で、

「動画配信って要は、盗み見趣味なわけだろ」とお門違いな意見を述べました。「他人のプライベートを覗ける。他人の思考の遍歴を眺めることができる。これは得難い資料だよ。研究の素材になる」

 彼は心理学を専攻しており、大学院に進んだいまでも研究に余念がありません。

「研究の素材なんて言ったら配信者に失礼だ。それに仮に真実に研究のデータとして有用なら、相応に対価を払うべきだ。きみはそうしたことを無視して配信者から搾取しているのではないか」

「正論だな」友人は珈琲を飲み干すと、カップの受け皿に添えられた四角い角砂糖からていねいに紙の包装紙を解き、口に放りこむと、ガリガリと齧りました。「とはいえ、おれにとっちゃ人間はみな研究対象だしな。いちいち報酬を支払っていたのでは埒が明かん。だから研究成果を無償で公開し、使用料をとらない方向で、社会に利益を還元しよう」

「なんだかきみばかりが得をしそうな案だな」

「そうだろうか。報酬とまではいかないが、投げ銭だってしているし、研究の対価とまではいかないが、視聴者としての立場からはそれなりに報酬を支払っていると言える」

 その点きみはどうなのだ、と水を向けられ、ぼくはたじたじです。「一円でもきみはお気に入りの配信者にお金を払ったのか」

「それは」例の女性配信者を思いだしました。投げ銭機能がOFFにされていたので、ぼくはただ観ていただけなのです。

「まあいい。何を対価とするのかによってこの手の議論は錯綜する。結論がでない。配信者のほうで金品の贈与を望んでいない場合もあるだろうしな」

 友人はそこで特にさいきんお気に入りの配信者がいてね、と思いだしたように言いました。

 見せてもらった画面には、見覚えのある手と仕草と、声と語りがありました。

 例の彼女の動画でした。

 どうやら彼も同じチャンネルに行き着いたらしいのです。ぼくはそう思いました。ですが残念なことにもう新しい動画が配信されることはありません。

「知っているよ。ぼくも彼女の動画のファンなんだ。前にきみに見せようとしたら、素人の動画なんかと一蹴された。あのときに教えようと思っていた配信者がこのひとだよ」

「それはおかしいな」友人は腕を組んで、椅子にもたれかかります。「きみとその話をしたのはもう何年も前だろ。だがこの配信者はそのころにはまだチャンネルを開いてもいない」

「そんなはずないよ」

「きみの思い違いだよ」

 ほら、と友人はチャンネルの概要欄にあるチャンネル開始日を表示しました。

 そこには二年前の日付が記されていました。

 さらに、それ以前に配信された動画はなく、新着の動画はなんときのうの日付だったのです。

「毎日律儀に更新してくれてね。きょうも載せてくれるよ」

 ぼくは二の句を継げませんでした。

 どう見ても例のあの彼女の動画なのです。

 考えられるとすれば、配信者が例のひとのそっくりさんでない限りは、彼女はいちどそれこそ二年前にチャンネルを放棄し、べつのチャンネルをつくって配信をつづけていたことになります。

 そう言えば、と思いだします。

 例の一家惨殺事件では、娘が失踪したとありました。ぼくは意識して事件の続報を耳目に入れないようにしていたのですが、ひょっとしたら彼女は事件を起こし、そのうえで逃走して、べつの土地にて、べつの人生を歩みはじめていたのかもしれません。

 まったく関係ない可能性もありますが、いくらなんでも符号が合致しすぎています。

「どうした。顔色がわるいが」

 心配してくれる友人をその場に残し、なんでもないんだ、となあなあのままに別れました。ぼくは電車内で、例の事件の続報を調べました。全国区のニュースにまでなった事件ですから、インターネットで検索すると該当記事がいくつも並びます。

 事件はとっくに解決しているようでした。

 犯人が見つかっていたのです。

 失踪したと思われていた娘は首を吊って死んでいたそうです。事件発覚から半年後に、親族が家を解体して更地にしようとしたらしく、業者が天井裏からミイラ化した娘の遺体を見つけたらしいのです。

 警察の見立てでは、娘がなんらかの事情で家族を殺し、自身も自殺したとして、犯人死亡のまま一件落着とされたようです。

 死んだ娘は引きこもりだったそうです。

 例の動画配信者たるあの女性もまた、毎日律儀に動画を配信していたので、引きこもりなのではないか、とぼくはこっそり想像していたので、失踪したと聞いたときには、警察が見立てたのと似たような推察を重ねました。

 つまり、引きこもりの彼女が事件を起こし、逃げたのだろう、と思ったのです。

 ですが、彼女は生きています。

 そして逃げたはずの娘が遺体として発見されました、この事実から想起される道筋はそう多くはありません。

 遺体は屋根裏でミイラになっていたそうです。

 どうして屋根裏なんかで首を吊ったのでしょう。

 死亡した時期は、真実に事件を起こしたあとなのでしょうか。

 本当は、もっと以前から娘は死んでおり、引きこもりの娘の部屋には、ほかの第三者が住み着いていたのではないでしょうか。それがバレたので、何者かが一家を惨殺した。もちろんこれはぼくの妄想にすぎません。しかしどうしてもそのように考えてしまうのです。

 動画配信者の彼女はきょうも物語を生配信で語って聞かせてくれます。コメントは誰でも自由に書き込めます。配信者だけの読めるメッセージも受け付けられています。

 彼女に直接質問を送る真似ができるのですが、なかなか踏ん切りがつきません。

 もし前述の推論が単なるぼくの妄想で、彼女はじっさいには事件とはなんの関係もなければ、無駄に彼女を怖がらせてしまい、ぼくはきっと厄介なファンとして覚えられてしまうでしょう。

 ですが、もしも彼女が真実に事件と関わっているとすれば、やはりここでもぼくは彼女にとって厄介な火種そのものとして見做されることになります。

 ぼくはいったいどうすればよいのでしょうか。

 彼女はいまでもどこかの土地で、生活をしています。彼女の肩越しに見える部屋の内装は以前とは違っているので、どうやら引っ越したことは確かなようです。

 ぼくはこのごろ彼女にヤドカリを重ね見ます。

 家がダメになるたびに、べつの場所にて住処を探し、他人の家のなかに潜りこみ、殻とするのです。身を隠すための殻です。

 敵に見つかれば破棄し、またべつの住処を探す。彼女はそれをずっと繰り返してきたのかもしれません。

 全国でときおり発生し、報道される事件のなかには、犯人死亡のまま幕を閉じた悲惨な事例が見られます。ぼくは近所であった火事を思いだし、あの火事ですら、彼女が何らかのカタチで関わっているのではないか、といまでは妄想してしまうのです。

 隣接した家からは、きっと彼女の部屋が見えたことでしょう。そこに住まう娘が、いつの間にか別人になっていたら、気になるはずです。

 いまのぼくがそうであるように、ひょっとしたら隣家の人間も、彼女の存在に気を留め、注意深く観察していたのかもしれません。

 彼女が仮に一連の事件と関りがあるとして、彼女はそうした凶悪な事件と関わってなお何食わぬ顔で、人を愉快な心地に誘う妄想を、その語りを、動画を、日々しれっと配信しつづけているのです。

 そしてまた何か自身に不都合な出来事が起きたら、これまでと同じように、殻を脱ぎ捨て、厄介な人間たちごと痕跡を消し、べつの土地にて同じ日々を送るのでしょう。

 だとすればやはりぼくはこのまま何もせず、彼女との接点を失くし、忘れてしまうのが最良の選択に思えるのですが、ぼくはなぜかきょうもまた彼女のチャンネルを開き、彼女の声と語りと手と仕草を目にして、そこに一抹の不安と、単なるぼくの杞憂である可能性を重ね見て、同時に彼女のつむぎだす物語の、陰惨さとは無縁の夢のような昂揚に浸るのです。




【足りないスイッチ】

(未推敲)


 かれこれ二十日は経ったろうか。大布(だいふ)郷(ごう)は真っ白い空間で寝返りを打った。唇はかさつき、全身に力が入らない。

 いったいなぜじぶんのような社会的成功者がこのような目に遭わねばならぬのか。どんな企業も鶴の一声で経営方針を変えざるを得ないほどの権力を有し、世界資産の三十パーセントを保有するほどの男なのだぞ私は。

 大布郷は自らをここに閉じ込めた者たちを思い、怒りに震えるたびに、衰弱した身体がふたたびの活力を帯びるのを感じた。

 だがもう二十日も飲まず食わずにいる。

 じぶんの糞尿すら口にした。

 だが却って体調を崩すと判ってからは、ただただ空腹と喉の渇きに耐えている。

 いまいちど空間を見渡す。

 壁も床も天井もすべて白い。特殊な空間だ。広さは大企業の会議室くらいの面積がある。照明はないが、壁や天井そのものが発光しているようだ。

 手を掲げると、床に無数の影が浮かぶ。床は発光していないのかもしれない。

 出口はない。閉じ込められたのだ。

 何が目的かは分からない。

 否、どう考えても拷問の類だろう。誰かの恨みを買い、復讐されたのだ。

 自前の送迎車に乗り込んだのは憶えている。

 その後、意識を失い、気づいたらここにいた。

 ただの空間ではない。

 人工知能が管理しているのか、要求すれば床から半球の物体が浮上する。ちょうど透明なお盆を床に被せたようなカタチだ。半球のなかには要求した品が入っている。

 たとえばハンバーガーを要求すれば、ハンバーガーが皿に載って現れる。ポテトやコーラまでついている。

 だが半透明の仕切りが邪魔をして、掴めない。

 押しても、蹴っても、乗りあげても、もちろん持ち上げようとしてもびくともしない。目のまえに食べ物があるだけだ。

 いまでは床の至る箇所に、この二十日あまりのあいだに蓄積した食料が所狭しと並んでいる。どれほど注文しても半球の仕切りは一つも取り外すことができなかった。

 押しくらまんじゅうではないが、床がぎゅうぎゅう詰めになった。

 なお注文を重ねれば、半球は行き場を失くして、互いに圧迫しあって割れるのではないか、と考えたが、そういう事態にはならなかった。

 某有名なブロック崩しゲームのごとく、半球が床を一定数以上占めると、最初に現れた半球から順にごっそり消えるようだった。

 殺菌されているのか、どれだけ放置しておいても半球内の食べ物が腐る様子はなかった。

 これも拷問の一端なのだろう。大布郷は寝返りを打つ。あとはもう死ぬのを待つだけだ。

 壁には定期的に数字が表示される。桁数からして、おそらくは資産の総額だろうと当て推量はついていた。食料を注文するごとに額が減って映った。仮に食事の注文に対価がいるとすれば、一食あたり、軽く工場が一棟建つ金額を支払っていることになる。

 しかしその食事に手を伸ばせないのだ。

 触れられない。

 口にできない。

 ただ金を失っているだけと言えた。

 そう言えば、と思いだす。世界的事業の一環として、救命ポッドの開発に投資していた。人工知能の管理した空間にて、あらゆる物資を自己生成し、持続的に生存が可能なシステムの構築を目指したプロジェクトだ。進捗も佳境に入っていたと記憶している。

 ひょっとしたらこれはそのプロジェクトの成果物なのではないか、と閃いたが、だからといって活路が開けるわけではない。

 仮に都合のよいほうに事態を解釈したとして、この空間の外では、人間の生命を損なうような環境が築かれており、誰かがじぶんを守るために、敢えてここに放りこんだ、と考えることもできる。

 大布郷は笑った。あり得ない。

 だとすれば有り余るほどのこれら食事にいっさい手を付けられない理由が分からない。文字通り、指を咥えて見ているしかないのだ。絵に描いた餅だ。このまま餓死か衰弱死するより未来がない。

 いま死ねば、これまで築き上げてきた地位はむろん、資本や事業がそっくりそのままほかの誰かの者になる。失うだけならばいい。だが、十中八九、ほかの誰かが後釜につき、大布郷の努力と成果を、その人生の蓄積を掠め取っていくのだ。

 耐え難い。

 それ以上に、虚しいと思った。

 いったい何のためにじぶんはこれまで苦労を背負ってきたのか。まだ何も得ていない。報われていない。支払ってきた苦痛や忍耐に対して、これではあまりに釣り合いがとれていない。

 理不尽だ。

 じぶんのような人の上に立つ者が迎えていい最期ではなかった。

 大布郷は憤ったが、すでに体力は限界だった。

 生まれて初めて、お腹と背中がくっつきそうな感覚が判った。比喩だと思っていたが、現に骨と皮だけになってしまえば、そう形容するよりないのだ。単なる事実だ。

 視界がかすみ、呻き声一つ立てられない。

 あれほど肥えていたはずの身体も、たった二十日間ほど飲まず食わずでいただけで、これほどまでに痩せ衰えてしまうのだ。

 せめて誰かに看取られて死にたかった。惜しまれながら死にたかった。もっと生きて欲しい、と望まれて、悔やまれて、生を肯定されて死にたかった。

 無意味ではなかったのだと、あなたがいてよかった、と思われたかった。

 大布郷は最期のときを予感しながら、どうせなら、と枯れた声でつぶやく。

「無垢な子どもの笑みが見たい」

 その声に反応したかのように、床の一部が隆起した。

 所狭しと床を埋め尽くしていた半球の一部が消え、あべこべにそこには大きめの半球が現れる。

 中には子どもが一人立っていた。きょろきょろと訝し気に空間を見渡している。

 子どもは何事かをつぶやいたように口を開け閉めした。するとなぜか半球は床に染みるように消えた。

 子どもは少年とも少女ともつかない幼い顔をしていた。

 大布郷のそばに膝をつくと子どもは、「おじちゃん、だいじょうぶ」と身体を揺さぶった。「なんで倒れてるの、具合わるいの。どうしてお医者さん呼ばないの」

「お腹が空いて」大布郷は涙目で訴えた。

「なんで。だってこんなに食べ物あるのに」

 なんで食べないの、と言って子どもは、そばにあった半球の一つに手のひらを押しつけた。何をするのかと思えば、ただ一言、いただきます、と唱えた。

 半球はその声に応じたように床に消え、あとには料理の載った皿が残される。




【齧る者】

(未推敲)


 窓から入り込んだ蝉が数秒もしないうちに畳の上に落ちた。虫も死ぬほどの暑さである。

 連日のように真夏日を更新している。そのうえ、冷房機器が壊れているため、部屋にこもる熱気で陽炎が見える。

 部屋のなかだというのに、プラスチック製のカップが融けて曲がり、ペットボトル飲料がお湯になっている。サウナのほうがまだ湿気がある分、人間の住まう環境にふさわしい。

 このままでは燻製になってしまう。

 冷蔵庫を全開にして冷房機器の代わりとした。バケツに水を張って足を浸けてはいるものの、効果は薄い。冷蔵庫の中身は早急に腐ってダメになるだろうし、バケツの水も数分も経たぬ間にお湯になる。

 とにかく身体を冷やさねばならない。水分を取らねば、干上がってしまう。

 何かいい案がないか、と失神寸前の意識で考えていると、どこからともなく、ガリゴリ、と音がした。幻聴かとも思ったが、たしかに聞こえる。

 窓のそとは森閑としている。蝉ですらこの暑さでまいっているのだ。軒並みの昆虫が、地面にひっくりかえって屍と化している。

 静寂のなか、冷蔵庫の唸り声と、謎のガリゴリの音が響いている。

 耳を欹てる。

 どうやら隣の部屋から聞こえているようだ。

 なるほど、と閃く。

 氷を食べているのだ。

 それはそうだ。この暑さだ。アイスは甘すぎて却って喉が渇く。

 その点、氷なら喉を潤しながら、内側からも身体を冷やせる。舐めていれば涼めるのだ。部屋に放置しておくだけでも室内の温度を下げるだろう。

 よい考えに思え、真似することにした。

 しかし、あいにくと冷蔵庫の扉を開けていたために、氷がすべて溶けていた。しまった。こんなことならば大量に氷をつくってから、冷房機器の代わりとするのだった。

 いちど思いついた案が通らないと知ると、却ってこのままではいられない危機感に見舞われる。何も知らなかったころには耐えられたはずの灼熱が、一時も我慢ならない地獄の窯に感じられてならなくなった。

 絶望は希望を失って初めて姿を現す底なしの欠落だ。それをひとは奈落と呼ぶ。

 もはや一刻の我慢も許されない。

 いますぐに氷が食べたい。

 なぜならいまなお壁一枚隔てた向こう側から、ガリゴリ、と美味そうに何かを齧っている音が響いて聞こえてくるからだ。あたかもかき氷をつくるための氷塊に歯を突き立てているかのごとく豪快な齧りっぷりだ。

 一向に齧り尽くす様子がない。

 それほどの分量があるならば、すこしくらい譲ってもらってもばちは当たるまい。お金なら払う。

 ごくり。

 いちど思いつくと、もうそれしかない、との欲求に駆られた。

 動きたくはないのだ。否、店まで足を運ぶ気力はとうに失せ、汗と共に干上がっている。いまはともかく氷を齧らねばならんのだ。

 パンツ一丁だったが、短パンを穿き、Tシャツを着て、玄関まで這う。Tシャツは秒で汗に濡れたが、湿った矢先に干上がるので、総合して乾いている。陽に当たれば数秒で乾ききるだろう。

 だが繰り返される汗の蒸発によって、白く塩が浮くはずだ。

 現に、腕にはうっすらとそれらしい粉が浮いて見える。舐めるとしょっぱい。塩以外の何物でもない。

 いよいよ、干物めいてきた。

 躊躇している場合ではない。アパートの廊下に立つ。

 となりの部屋のインターホンを押す。

 応答はない。静寂が満たす。

 だがすこし経つと、またガリゴリと音がした。居留守を使っているのだ。それはそうだ。この暑さだ、氷は独り占めしたいだろうし、そうでなくともずっと肌身離さず貪っていたいはずだ。

 片時も離れたくない気持ちはよく分かる。

 だがそれではこちらが困るのだ。

 死んでしまう。一口でいいから齧らせてほしい。

 いちど部屋に戻り、ベランダに出た。洗濯物を干すためだけの空間で、奥行きはない。かろうじて立てるくらいの面積だ。

 だがとなりのベランダとは一メートルも離れていない。手を伸ばせば乗り移れる。バナナに手を伸ばすサルさながらの身体捌きで、縁に乗りあげ、となりの部屋のベランダに手をかけた。

 窓が目のまえにある。

 開け放たれたそこからは、幼い子どもの姿が見えた。

 裸体だ。

 背中には背骨と肋骨が浮きあがって見え、子どもは何かを抱え、夢中で頬張っている。

 ガリゴリ。

 鼓膜に音がこびりつく。

 骨だ。

 瞬きを三度する。

 頭蓋骨だ。

 半分ほどが欠けている。

 子どもが音を立てるたびに、頭蓋骨からは長い髪がはらりと落ち、目を凝らすと、布団のうえには茶色く干からびた、樹の根のようなものが横たわっている。

 ふしぎと手足は見当たらない。




【追い縋る者】

(未推敲)


 橋島ツルマはその日、友人を家に招いた。大学生時代に交流のあった多田城マキである。数日前に連絡があり、相談したいことがあり会えないか、と求められたのだ。

 怪しい誘いゆえになんと言って断ろうかと悩んだが、多田島マキの声がひっ迫していたこともあり、お金の催促じゃないよね、と冗談めかし釘を打ったところ、そういうんじゃないからだいじょうぶ、とそのときだけはふっとやわらいだ声に、橋島ツルマはかつての友人と会うことにした。

 大学を卒業して以来いちども会っていない。もうじき十年が経つ。

 橋島ツルマは数年前に結婚し、いまは五歳の子どもの母親だ。子どもは娘で、暇さえあれば親のメディア端末をいじくろうとする。いつの間にか増えている画像を就寝前にチェックするのは、橋島ツルマのひそやかな楽しみの一つだ。

 共働きだが、橋島ツルマは育休をとり、在宅でも仕事ができるように環境を整えた。夫は休日であっても昼間は留守だ。中間管理職ゆえに、残業続きで、休日出勤も珍しくない。まともな労働環境とは思えないが、夫の稼ぎが増えるのはすなおに家計の助けになっている。子どもの養育費もこれからますます嵩んでいく。稼げるうちに稼いでおきたいとの思いは、橋島ツルマにもあった。

 インタホーンが鳴る。

 多田城マキが訪問したようだ。玄関扉を開け、家のなかに招き入れる。

 子どもを紹介し、お茶を淹れるあいだ、短くじぶんの近況を話した。

 多田城マキは大学のころの印象のままだった。疲れた顔をしていることを抜きにすれば、いまでも大学生で通る見た目をしている。端的に若々しい。いまは何をしているのか、と訊こうとしてやめた。社会人には見えなかったからだ。

 カラフルなフルーツ饅頭と茶を運び、橋島ツルマは席に着く。

「相談ってなに」

 しょうじき力になれるとは思えないけど、と心の中で唱え、「聞くだけならできるから」と水を向けた。

 多田城マキは語った。

 ひとしきり話し終えるのに三十分はかかった。要点をまとめれば、心霊現象に困っている、という他愛ない話だった。

 多田城マキの口ぶりは真剣そのもので、仮に初対面の人間から同じ話をされたら即座にその場を辞しただろうと予感させる口吻だった。

「つまり、写真を撮るごとに妙なものが映ると」まずは相槌を打った。

「うん。最初は気のせいだと思ったし、虫か何かが写りこんだだけと思った。でも、撮るたびにどんどん近づいてきているみたいで。動画にも映ってて、それ観たらもう怖くて、仕事もできなくなって」

「仕事って何してたの」

「モデル。女優もちょっとしてた。ドラマのエキストラ専門の事務所があって、そこに入ってたんだけど」

「ドラマの映像にも映り込んでたわけだ」

「そう」

 話が本当なら、ドラマ監督だって映像をチェックしたはずだ。見逃したとは思えない。毎回、映像に異物が紛れ込んでいたら騒ぎになるだろうし、たとえ気づかなかったとしても、インターネット内で話題になるはずだ。だがそうした話をすくなくとも橋島ツルマは聞いたことがなかった。あとで検索してみようと思い、出演したことのあるドラマの名前を訊いたが、多田城マキは言い渋った。

「じゃあそれはいいけど、問題の写真とやらを見せてもらわないと話の真偽もわからないじゃん」

 さすがにイラっとした物言いになった。

 多田城マキは、そうだよね、と慌ててバッグを漁り、自身のメディア端末を取りだした。端末を操作しだす彼女に、橋島ツルマは言った。

「話は分かったけど、どうして私に? なんで相談しようと思ったの」

「それは」

 彼女は端末をひっくり返し、画面をこちらに向けた。「ツルマさんが、霊感あるって前に言ってたから」

 学生時代に吹いた嘘の一つだ。周りに注目されたくて話を盛ったが、それを彼女は憶えていたようだ。

 十年前の学友の言葉に縋らざるを得ないほどにいまの彼女は追い詰められている。厄介な相手と接点を持ってしまった。橋島ツルマは内心でひたいに手を当てながら、差しだされた端末の画面に目を落とす。

 写真だ。

 山岳を背景に多田島マキがピースをしている。

 よこには年上らしき女が肩を寄せて破顔している。

「三年前に職場の先輩と山に行ったとき。このときがたぶん最初で、ほら、ここ」画像を拡大した彼女のゆびは震えていた。

 拡大表示された箇所は、背景の一部だ。五百メートルは離れているだろうか。彼女たちと山脈のあいだにかかった崖の側面に、人型らしき物体が写りこんでいる。

 白いワンピースを着ているのだろうか。全体的に白い。拡大しているため画質は潰れており、かろうじて人間だろう、と思う程度の画像だった。

 訝しんだ心象が伝わったのだろう、

「つぎはこれ」多田城マキは画像を変えた。

 夜景をバックに撮った写真だ。

 彼女の背後に観覧車が映っている。都心の複合商業施設だろう。通行人たちはのきなみお洒落で、裕福さを全身で表わしている。

「ここ」

 拡大された画像に、こんどはハッキリと女が映り込んでいる。ワンピースではない。白装束だ。明らかに場違いな格好だ。肝試しといった催し物が開かれているのでなければ、よほど人目を惹くだろう人物だが、なぜか周囲の通行人たちは誰も彼女を気に留めていない。

 その人物の視線のさきには、多田城マキがおり、スーツ姿の男と自撮りの角度で写っている。

 それから多田城マキは矢継ぎ早に三枚の画像を表示した。いずれにも、白装束の女が写りこんでいる。

「ね、近づいてきてるでしょ」

「いま見せてくれたのって古い順なの」

「そう。あ、でも気持ちわるくて消しちゃったのもあるから全部じゃないけど」

 最後に表示された画像では、多田城マキの数メートル背後に女が立っていた。

 一瞬、その人物は背中をこちらに見せ後ろ向きで立っているのではないか、と錯覚した。床まで届くような長髪がだらりと垂れているからだ。顔が見えない。多田城マキに背を向けているのではないか、と思うが、そうではない。前かがみに項垂れている様子が見てとれる。まるで幽霊のイメージそのままだ。作り物めいているため、かえって恐ろしくない。

 だが、多田城マキは真実にこの謎の女に恐怖を覚えているようだ。そうでなければ、こうしてわざわざ大学時代の友人を頼ってきたりはしないだろう。それとも何かしらの罠にはめようとしているのだろうか。

 猜疑心を察知したのか、多田城マキは言った。「信じてもらえないの。誰にも。いまどき画像なんて簡単に編集できるし、こんなにハッキリ映ってると実在の人物が変装してるだけなんじゃないかって、誰も信じてくれなくて」

 それはそうだ、と思う。あまりに鮮明に写りこんでいる。心霊現象と言うには、リアルすぎるのだ。

「でも、写真を撮ったときにこんな人はいなかったし、もちろん編集だってしてないんだよ」

「分かった、分かったから」

 娘が駆け寄ってきて、腕にしがみついた。

 大声をださないでほしい、落ち着いてくれ、と目で訴える。

 多田城マキは、ごめん、とつぶやく。

 娘をひざに載せ、頭を撫でながら橋島ツルマは、申し訳ないけれど、と白状した。「霊感あるって言ったの、あれ嘘なんだ」

 しばらく沈黙が漂う。

 娘が、レイカンって? と下からつぶらな目を向けてくる。

 端から予測はしていたのだろう、多田城マキは、「そう、なんだ」と目を伏せただけで、非難の言葉はなかった。

「どうしたらいいのかな。みんなの言うように、ただ変な格好をした人が偶然わたしのうしろに写りこんだだけなのかな。立ってただけなのかな。でも変なんだよ。いっしょにわたしと写真撮った人、みんな連絡つかなくて。嫌われただけだと思ってたけど、そうじゃなかったらどうしよう。家にも帰ってないらしくって、このあいだ警察からも行方を知らないかって電話があって」

「待って、待って。え、なに。失踪したってこと? いま見せてくれた人たち? マキちゃんのとなりにいた人たち? ホントに?」

 いまいちど彼女の端末を手にとり、最初から画像を確認していく。

 多田城マキはいつも誰かと写真を撮っていた。否、きっと一人で撮っているときには写りこまないのかもしれない。

 その旨を質問すると、

「そう、みたい」

 彼女は認めた。「誰かと一緒にいるときに決まってソレが写りこんで」

 橋島ツルマは考えを改めた。

 たとえこれが心霊現象でないとしても、多田城マキには危険が迫っている。危機が周辺に介在している。放っておいてよい事案では、たしかにない。

 メディア端末をひざのうえに置く。娘が興味津々にそれをいじったが、好きにさせておく。

「このこと、警察には言ったの?」

 多田城マキは首を横に振った。

「なんで」

「だって誰も信じてくれなかったし」涙目で彼女はこちらを非難するように見た。「ツルマさんだっていまこうやって信じてくれてないでしょ。わたしがどんなに怖かったか考えようとしてくれないでしょ、みんなそうなんだよ。わたしだけずっと怖くって、どうしようもなくって、怖くって」

 子どもみたいに服の袖で目元を何度も拭うと、彼女はしばらくしてから、「ごめん、取り乱した」と意気阻喪した。

「それはいいけど」

 力になってあげたいと思った。心から思った。

 霊感なんてないけれど、多田城マキは不安のなかでずっと独りで傷つきつづけてきたのだ。誰かが手を差し伸べてあげてもいいではないか。

 かといってじぶんに何ができるのかも、橋島ツルマには分からなかった。「まずはご飯にしよかった。夕飯食べてってよ」

 お腹が空いていては、でる元気もでなくなる。

 気持ちを切り替えようと思い、娘を膝のうえからどかそうとすると、

 パリンコリン。

 軽快な電子音が響いた。

 娘の手には多田城マキのメディア端末が握られている。娘はちいさなゆびで器用にそれをいじっていた。

「なに、いまの音」

 分かりきったことを多田城マキは言った。

 端末に付随したカメラは彼女を向いている。

 娘の手にした端末の画面には、なぜか純白の布地が映り込んでおり、写真のはずなのにそこにはゆっくりと上から糸のようなものがするすると墨を垂らしたように伸びている。




【仲介者は嘯く】

(未推敲)


 報酬が通常の三倍に跳ねた。依頼を確約させた帰りはしぜんと足取りが軽やかで、スキップをしている。とはいえ、依頼をこなすのは北条(ほうじょう)竜六(りゅうろく)であり、私はただ依頼人と北条を繋ぐ仲介役にすぎない。

 その小屋は饅頭工場の裏手にひっそりと建っている。年中餡子の甘ったるい香りに包まれており、小屋の見た目は物置小屋然としているので立ち入る者はほとんどいない。ただし小屋の中は広く、快適だ。外から見えるのは入り口部分で、部屋は地下に広がっている。

 入り口をくぐり、短い階段を下りて扉を開ける。こちらが本来の玄関だ。

「竜六いるか。仕事の依頼なんだが」

「ちょうどよかった、手伝ってくれ」

 奥から声がした。

 わるい予感がしたので、嫌だが、と断るも、いいから早く、と叫ばれる。仕事を頼みに来た手前、つよく言われると断れない。

 しぶしぶ大きなソファを経由して、部屋の奥へと足を運ぶ。一段高くなっている区域がある。座敷だ。四方を障子で囲われており、一見した印象は、演劇の舞台だ。

「入ってくれ」

 中から声がしたので、開けるぞ、と一言添えて障子を左右に開け放つ。

 青い手術着に身を包んだマスク姿の人型が立っている。背格好からして北条竜六で間違いない。

「ここを押さえておいてくれ」

 学校机を三つ並べただけの土台のうえに、毛むくじゃらの獣が横たわっている。毛がむしられているのか、首筋の地肌は覗き、ぱっくりと切創が開いている。

 驚くべきことに、青色の肉をしている。血までどうやら青いようだ。

「これはなんだ」言いながら私は畳のうえに無造作に置かれた箱からビニル手袋を引っ張りだす。両手に装着する。「ただの獣には見えないが」

「麒麟の幼獣だ。ちょうど駆除依頼が入って、処理ついでに引き取ってきた」

「駆除って、麒麟なのだろ」土地によっては神そのものとして祀られている。「いいのかそんな扱いをして」

「連中には牛鬼の亜種だと説明したから、騒ぎにはならない。不法に開発した土地から出た異形でもあるからな、向こうさんだって大事にはしたくないはずだ」

「嘘を吐いたのか」

「お互い様だよ。いいからほら、ここを押さえといてくれ。骨が邪魔で、刃が通らんのだ」

 言い争いをしても無駄だと諦め、おとなしく指示に従った。どの道、麒麟の幼獣は死んでいるのだ。いまさら後には引けまい。

 ひとしきり手術ごっこに付き合い、解放されたのはそれから一時間も経ってからのことだった。北条竜六は、麒麟の幼獣の首筋から龍涎香にも似た結晶を取りだした。龍涎香はクジラの腸内にできる結石だ。麒麟にもできるのかもしれない。

「それはなんだ」手を洗いながら質す。「高値で売れるのか」

「知らないほうがいい。知ってしまったら拷問をしてでも訊きだそうとする輩が突け狙うかもしれない」

「それは勘弁だな」

「そっちのほうこそ何か用事があったんじゃないか」

「そうだよ。そうそう。依頼が入ってね」

「またお祓いか」

「そ。報酬はいつもの三倍」

「厄介な現場なのか」

「いや。期日が今日中ってだけだ。なに、竜六ならすぐ終わるだろ。現場もここから二時間も離れていない」

「いまから二時間経ったら夜の八時だ」

「そりゃいまが六時なんだからそうなるね」

 地下だが、窓には海辺の夕日が見えた。映像ではない。そこだけ空間がべつの場所と繋がっているのだ。この小屋にはそういった、竜六の戦利品とも呼べる不可解な品が一般の骨董品に交じって置かれているので、緊張を強いられる。不用意に触れて大怪我でもしたら笑い話では済まない。

 竜六はジャージに着替えると、手ごろな道具をつぎつぎにリュックに詰めこんだ。ぽいぽいと手当たり次第に放りこむので、選別しているのか否かもわからない。

 遠足にでかける子どものようにそれを背負うと、

「帰りにラーメンでも食いてぇな」と言って、ごついブーツに足を突っ込む。

「いいよ、いいよ。なんでも注文してくれ。依頼人はさきに現場で待っているそうだ。ちゃっちゃと済ませて餃子でも食べて帰ろう」

「杏仁豆腐が美味い店がいいな」

「コンビニのじゃダメなのか」

「じゃあそれも買ってもらおうかな。家で食べる分」

 小屋を出て、自動車に乗り込む。竜六は免許を持っていない。身分証の類を持ちたくない、と言っていたことがあったが、そもそも戸籍を持っているのかも微妙なところだ。小屋とて正規の住居ではない。饅頭工場の管理者から仕事を引き受ける代わりに住み着く許可を得ただけだそうだ。それが竜六の吐いた嘘の可能性もあるが、彼が税金の類を払っている素振りがないので、信憑性は高い。

 自動車を走らせ、目的地に着くまでのあいだに依頼内容を話して聞かせた。

 要点としてはふだん竜六に頼んでいる仕事と変わらない。

 依頼人の周囲で通常では考えられない事象が発生し、手をこまねいていたところに私が偶然に接触したという顛末だ。

 偶然に、というのはあくまでそう装ってのことだ。本当は、インターネット上のデータを日夜漁り、そういった書き込みがないかを探っている。

 目ぼしい人物を見つけたら、さりげなくほかの話題で親しくなり、或いはほかのもっと親しい人物と接点を持って紹介してもらったりする。

 ひと月に一件の依頼を見つけられれば充分に元はとれる。報酬の半分を竜六に渡しても、貯金ができるくらいには依頼人たちの金払いはよい。

 それはそうだろう。

 進退窮まる事案だが、かといって相談できる相手もいない。誰も信じてくれない。のみならず、相談しただけで距離を置かれる。黙って耐えているしかないが、日に日に状況は悪化する。

 そんなときに専門家とも呼べる人物と接点を持てたならば、縋りつかないわけがない。

 成功報酬を確約している点も、すんなり依頼してもらえる条件に数えられる。状況が改善しなければ報酬はなしでいい。ただし、もし問題を解決してなお支払いをしなかった場合には、元の状況に戻ることを覚悟してもらう旨は、告げてある。これくらいの保険は仕事をするうえでは定石だ。

「今回の依頼は、これまでの例で言えば呪縛関連だな。解体作業中のテナントビルの敷地内から遺物が発掘されたらしいんだが、それ以来事故が多発して、作業が一向に進まないらしい。業者は違約金を払ってまで仕事を放棄し、業界内でも噂が噂を呼んで、いまでは解体の引き受け先を見つけるのも至難だそうだ」

「だったら俺が行く必要なくないか。異形を祓ったところで証明しようもないだろ」

「最強の祓い屋に頼んで厄払いしてもらったと言えば済む話なんじゃないかな。事故さえ起らなくなればいいんだから」

「どうだかな」竜六はリュックのなかからスナック菓子を取りだし、食べはじめる。カスを溢すな、と注意するがこの手の小言に聞く耳を持った試しはない。「業界内で噂が出回るってことはだ、過去の目録に同様の記録が残っていたってこった。賃貸で言うところの事故物件ってやつだな。昔堅気の業者だとそういう縁起を案外大事にすっからな」

「津波の記念碑みたいなものか。ここまで津波がきたことがあるから、そのさきには家を建てるな、みたいな」

「似ているな。じっさい祠もあったはずだ。祠というか結界か。邪気納めとも言うが。解体するというからにはそれなりに古いビルなんだろ。建てる前に何かしらが発掘され、そのときに邪気納めを築いたはずだ。問題の事象はナリを潜めたが、いまになって結界が解けたうえに、地中に埋まっていたほかの遺物が発掘された。規模は前回よりもよほど大きいと見た。業者の連中もそれくらいは予期できる」

「まるで業者の連中が異形がこの世に存在すると知っているみたいな言い草じゃないか」一般人にこの手の話を真面目に論じて通じたことはない。いくら目録が残っていようと、事故の原因が異形の存在にあるなどと信じた者はいないはずだ。

 そうと主張するも、

「だから関係ないんだって。こうなったらこうなる、という図式が記録として残ってんだ。こうなったらこうなる、の、こうなったら、が起きたのだから、こうなる、が訪れる前に手を引いた。簡単な話だろ」

「合理的な判断だとは思えないが」

「だがじっさい正解だろうが。手を引いたから痛い目に遭わずに済んだ。冷静なのは業者のほうだ。そんな目に遭っておきながら未だにビルの解体を進めようとしている依頼主のほうがどうかしてる」

「それは異形の存在を知っている私らだからこそそう思うだけなんじゃないのか。一般論としては依頼人の判断のほうが妥当に思えるが」

「そこだよな、そこ。土木業に限らないけどな、現場仕事ってのはなかなかどうして舐められんだよな。だがリスク管理ってぇ意味じゃ、一流の倫理観が築かれてんのが現場だぞ。連中がこぞって手を引いたきり近づこうとしないってことはだ、よっぽど根深い危険が埋まってやがると言っていい。賭けてもいいぞ。おそらく、今回の仕事、報酬三倍じゃ元はとれん」

「そこまで言われると不安になるが」

 スナック菓子をぼろぼろ溢しながら説かれたのでは、どこまで本気なのかが掴めない。ただ単に怖がらせて楽しんでいるだけではないのか、と偏った見方をしてしまうのは、彼が過去に繰り返してきた素性のわるさに因がある。

「まだ着かんのか」

「もうすぐだ」

 竜六は、着いたら起こせ、と言って後部座席に横になる。

 私は確信する。さっきの言はすべて嘘だ。私をおちょくりたいがために吐いたハッタリにすぎん。

 そのビルは、空き地に囲まれた国道沿いの一画にあった。背面に林が鬱蒼と茂り、ビル入り口正面向いて左側には川が流れている。海が十キロ先にあるため、流れはゆったりとしており、川幅が広い。

 ビルの両隣の空き地にも過去には建物があったのだろう。更地の砂が新しいため、比較的最近に解体されたと判る。ひょっとすると依頼主の所有ビルかもしれない。

 一棟だけ不自然にビルが建っている。そこの土地だけブルーシートや掘り返された土が山になっている。

 解体するのになぜ穴を掘るのか、と疑問だったが、ひょっとしたら爆発処理する腹だったのかもしれない。崩れた瓦礫が周囲に巻き散らないようにあらかじめ物量の沈む余地を作っておいたのだ。

 川の方向に崩せば、万が一の被害も最小限にできる。

 竜六は車から降りると、すたすたと歩きだす。彼の背を追う。

「あれが依頼人か」

 ビルの入り口辺りで、謎にケンケンパをして遊んでいる女がいた。依頼人だ。近寄るとこちらに気づいた様子で居住まいを正した。

「あ、どうも」と低頭する。竜六に目を留め、「そちらの方が例の?」と恐縮する。

「ええ、こんなナリですけど腕は確かなので」

 竜六の腕をひじで小突き、挨拶しろ、と促すが、どこ吹く風だ。竜六はビルを見あげたあとで、土地を見回した。

 その場にしゃがみこんだかと思うと、土をつまみ、何かしらを調べるようにして立ちあがる。竜六は改めて依頼人に目を留めた。

 私は紹介する。

「こちら、サチさん。このビルの所有者で、数年前におじぃさまから相続したそうで」

 パンツスーツ姿に飾り気のない黒髪を後ろに結っている。冴えない身なりだが、どことなく品を感じさせる女性だ。

「今日はどうぞよろしくお願いいたします」

 簡素な挨拶ながら、育ちのよさを思わせる口調だった。人に頭を下げ、物を頼むことに慣れていると判る。

 竜六を子細に紹介しようとしたが、彼がそれを拒んだ。

「そんなのはいい。まずはサチさん、あんたに確認しときたい。ここであった事故ってのは人身事故だって聞いたが、死者はでたのかい」

「いえ。失踪者がでたとかで。行方不明になった方が複数おられたようです」

「警察はなんて言ってる」

「すみません、詳しくは知らないんです。捜索願いをだして、それっきりだそうで」

「いついなくなったのかは分かってんだな」

「はい。就業時間内に、作業中にいつの間にかいなくなっていたみたいです。ですから、あくまで業者側の問題であって、わたしが首を突っ込むことではないと詳細を教えてもらえず」

「仕事だけを放棄されて、代わりの業者も見つからないと」

「はい」

「違約金は払われたわけだな」

「契約不履行でしたので。賠償金を請求してもらってもいいとまで言われたのですが、裁判を起こすほうが疲れてしまいますので」

 私は聞いていられなくなり、

「泣き寝入りじゃないですか」と言った。「業者も業者ですよ。いくら作業員が失踪したからって仕事を放棄して、はいさようならだなんて」

「祖父からは何も聞かされていなかったのか。むかしここで事故があったとか、そういう話は」

「いえ、とくには。ただ、人に譲るなとは釘を刺されました」

「解体するな、とは言われたか」

「いえ。でも、まさかわたしがこんなに早く解体しようとするとは思っていなかったんじゃないかとは思います。そうと知っていたらきっと祖父は止めたでしょうし」

「祠か何かはありませんでしたか」私は言った。「それが壊れたことが原因かもしれないと、北条さんがおっしゃっていて」仕事中は竜六のことを名字で呼んだ。

「そうなんですか? わたしは何も聞かされていなくて。作業に関しては完全に業者に任せきりで。事故があったことだけ聞かされて、それで」

「地中から何か遺跡のようなものが発掘されたとか」

 竜六の言葉に、サチさんは首を縦に振った。

「なんでも、ハニワのようなものが出土したとかで。写真を見せてもらったんですけど、ハニワというよりかはどちらかと言えば筒みたいな感じでした。火焔土器っぽい筒です。振るとカラカラと音が鳴るらしくて、それで筒らしいということで、ハニワじゃないかって」

「それって見せてもらったりはできますかね」私が交渉役を買ってでる。この手の問答を竜六にやらせると十中八九、恫喝との区別がつかなくなる。

「いまは手元にないんです。そういうのを募集している大学の教授がいらっしゃるみたいで、業者さんのツテでそちらに送ってもらいました。来月にレポートを送ってくださると聞いています。そのときにたぶん、現物もいちど返してもらえるものかと」

「その教授に何か異変が起きたとかそういう話は聞かれましたか」

「いえ。それはなにも」

「遺物が原因じゃないのかな」私は竜六を見た。「もし遺物が要因としたら、手元から離れた時点で、厄も去る気がするが、北条さんはどう思うんですそこのところ」

「遺物それ自体は基本的に器だ。中身がどこにいるのかで話は変わってくる」

「やっぱりおばけとかそういうのなんですか」サチさんは砂を噛むように言った。「失礼なのは承知なのですが、わたし、べつにそういうのを信じているわけじゃないんです。でも、ほかにどうすればいいのかもわからなくって。そしたらこちらの結日津(むすびつ)さんが、知り合いにお祓い専門の方がいらっしゃると教えてくださって、それでわたし」

「みなまで言わんでも分かる。こういうのは適材適所と相場は決まってるもんだ。業者のほうからも打診があったんじゃないか。いちど祓ってもらったほうがいいとかなんとか」

「あ、はい。知り合いの神主を紹介しようか、と言われたのですが、そのときはまだ、そういった話を警戒してしまって。お金だけとられるんじゃないかって疑心暗鬼になってしまって」

「業者に散々断れるようになって考えを変えたと?」

 私もそこは気になった。異形の存在を信じない者は、自身が直接そういった事象に巻き込まれない限り、考えを変えたりはしない。

「それもあるんですけど、じつはわたし自身、さいきん不運が重なって、今回の件とはべつにお祓いに行ってみたいなと思っておりまして」

「あ、ひょっとしてそれが、あれですか」

 私はインターネット上で見掛けた彼女の書きこみを思いだした。元々はその書き込みをきかっけに、ネット上で話しかけたのだ。

「はい。家の家具がかってに移動していたり、買った憶えのない物が増えていたり。記憶違いかと思ったんですけど」

「それ、ビルの事象とは関係なかったんですね。てっきり、それもこの現場で起きたことかと思ってました」

 書きこみでは、他人から見聞きしたテイで書かれていた。主語が曖昧な書き方だったのも誤解に拍車をかけた。

「じつは、はい。お恥ずかしながら、わたしの体験談でした。わるいことが重なるとどんな些細な変化や違和感も関連づけてしまうことってあるじゃないですか。あれかなってなるべく気にしないようにしてたんですけど」

「分かった、もういいよ」竜六がリュックを下ろし、中から護符を三枚取りだした。目のまえで護符にたっぷりとノリをつける。「これからビルん中入って、軽く偵察して、きょうはお終い。状況把握して本格的な禊は後日また改めてってことで。料金は増えたり減ったりはしないから、その辺のことはコイツに聞いて」

 竜六は私の背を平手で叩いた。護符を貼りつけたらしい。買ったばかりの服にノリがべったりとついた。「おいおい、これ新品なんだぞ」

「怪我したきゃハズせ」竜六は自身の肩にも貼りつける。

「肩でいいなら肩にしてくれよ」

「背中のほうが効果あるんだ」しれっと嘯き、竜六はサチさんにも背中を向くように、ジェスチャーする。サチさんはおとなしく従い、背中に護符を張られた。

「あーあ、高そうなスーツが」私はぼやいた。サチさんの心の声を代弁したつもりだ。

「いえ、それほど高くはありませんので」

「クリーニング代くらいは引いといてやれよ」竜六は軽くその場で身体をほぐした。いまからジョギングでもはじめそうな仕草だ。

「あの、わたしも中に入るんでしょうか」サチさんの言葉に、いや、と竜六は答える。「あんたはここで待っててくれ。ただ、もう陽が暮れて暗いし、この土地にいるだけで危ないかもだから、札は念のため。もちろん帰ってもらってもいいんだけど、どうする?」

 彼女は即答した。「待ってます」

「だ、そうだ。お嬢さん待たせないようにちゃっちゃと済ましちゃおう」

 竜六は私の肩をどつくと、懐中電灯も持たずにビルの中へと歩を進める。

「どうかお気をつけて」サチさんのか細い声に手を振り返し、私は竜六のあとにつづいた。

 ビル内部は闇一色だ。暗がりに目が慣れても、ほとんどなにも見えない。

 かろうじて、竜六の肩の護符が淡く発光して見えるために、竜六の姿を見失うことはなかった。

 私はじぶんのメディア端末を取りだし、足元を照らした。

「下見だけなんだろ、どこまで行くつもりなんだ」

「妙だなと思ってな」

「妙? 何がだ」

「遺物が発見され、複数人が失踪した。ここから推察されるのは遺物や邪気納めの効果が切れて、ナニカシラが解き放たれ、人間に憑依したケースだ」

「まあ、そうだな。お得意のお祓いでなんとかしてくれ」

「だが飽くまで、憑依した肉体は人間のものだ。食わなければ衰弱する。何日も、それこそ何週間も行方を晦ましたままってのは考えにくい」

「言われて見ればそれもそうだ。ならどういうことになる」

「すこしはじんぶで考えたらどうだ」

「専門家がいるのだ。専門家に訪ねるほうが合理的だ。違うか」

「まあ、それもそうだな」竜六は歩を止めた。

「どうした」

「答えのほうから参上つかまつってくれたようだぞ」

「ん?」

 竜六は地面に瓶のようなものを投げつけた。上から下に勢いよくぶつけたようで、砕け散る音が反響する。青白い炎がぼわりと昇る。氷の柱がどしゃんと潰れるように、青白い光が床に面となって散らばった。

 その奥から、闇を掻き分け、人型の影が現れる。

 青白い地面のうえまでやってくる。

 男のようだ。

 作業服を着ている。

 表情のない顔だ。虚ろな眼差しで、俯きがちにこちらを見ている。

 歩みを止める気配はない。

「竜六、どうするんだ」

「相手次第だな」

 男はバキボキと全身を隆起させると、跳躍し、こちらの頭上に迫った。

 竜六の舌打ちが聞こえた。

 腕を掴まれ、ハンマー投げの玉よろしく遠心力任せに身体ごと投げ飛ばされる。

 床を転がる。

 青白い明かりのない闇に紛れた。

 抗議の言葉を投じようとしたところで、大きな地響きが轟く。先刻までいた地点から土埃が舞った。白煙と化して視界が塞がれる。

 竜六、と声をかけようとして息を呑む。

 一体ではなかった。

 数秒で晴れはじめた白煙の内部では、複数人の影が蠢いて見えた。

 罠だったのだ。

 前方から敢えて派手に現れ、注意を惹き、ほかの地点から同時に襲い掛かった。

 知恵がある。

 これまで対峙してきた異形とは一線を画していると感じた。

「ワンちゃんじゃねぇくせに」

 竜六の怒号が響いた。「じゃれてんじゃねぇぞ」

 よかった無事だ。

 思ったつぎの瞬間には、一体、また一体、と壁に、天井に、柱に吹き飛び、めりこんだ。

 反転送術だ。相手の力をそのまま上乗せして返す技で、竜六の十八番である。

 拳にはめたメリケンサックでただカウンターに合わせて殴るだけのひねりのない技だが、効果は抜群だ。

 最後の一体が、地面に沈み、静寂が戻る。

 竜六の荒い息遣いだけが空間に一定の律動を刻んでいる。

「終わったのか。出てってもだいじょうぶか」

「ああ、もういいぞ」

 そばに積まれた戸の陰に知れず身を寄せていた。ビル内部の扉はのきなみ取り外され、一か所に積まれている。

 竜六がメリケンサックを拳から外すのが見えた。加わった力をそっくりそのまま返してしまうので、ずっとつけていると却って危険なためだろう。誤ってじぶんの身体に触れれば、じぶんでじぶんを吹き飛ばしていまい兼ねない。言ってしまえば、反転送術は、作用反作用の法則を無視できる武器である。作用だけを対象に働かせる。摩擦や反発力、抵抗を上乗せして、干渉することができる。言い換えれば、相手の防御をゼロにしたうえで、その分を攻撃力に転嫁できる。

 扱いには細心の注意が必要なのは、素人の私でも理解できた。

「六人潰した。ほかにもまだ潜んでるだろうが、これでだいぶ減らせたはずだ」

「ぶちのめしちゃってよかったのか。というかこれちゃんと生きてるのか」

 壁や天井や柱にめりこみ、動かなくなった者たちを見遣る。失踪した作業員たちだろう。救うべき者たちだ。

「いや、生きてねぇ」

「そっか。生きていないのか」

 ほっとしてから、いやいやいや、と取り乱す。「それじゃダメだろう、何やってんの竜六ちゃん。困るよ、殺しちゃったってこと? 正当防衛とかないからね、証明できないからね、前にもそこだけは気をつけてって言ったじゃん」

「違う。俺が殺したわけじゃねぇ。元からこいつら死んでやがった」

「はい?」

「死体だよ。キョンシーと言えばそれらしいな。憑依型は一匹に一体が基本だが、死体を操るとなれば、原理上、制限はない。異形そのものの能力値の及ぶかぎり、死体を支配下における」

「それって、けっこうまずいんじゃないのかい」

「まずいな。いまのところどうやらやっこさんは、こっからそとにはでられんらしい。邪気払いがまだ効いてるのかもわからんな」

「残りの死体を片づければ済む話なのか」

「いや。本体がいるはずだ。死体とて、まずは殺さなければ手に入らんだろ。十中八九、憑依した本体が直接手を下して殺してる。このビルのどっかに遺体を隠して、期が熟すのを待ってたんだろ」

「期が熟すって、なんの期だ」

「飛んで火にいる夏の虫だよ。雑な罠になんかハマりやがって」

 罠とはなんだ。

 なぜそんな冷たい目で見るのだ。まるで軽蔑されているみたいではないか。

 私がおろおろと戸惑っていると、

「あの」

 背後から声がした。足音がある。

 窓から月光が差しこみ、部分的に闇が切り取られている。

 闇のカーテンをくぐって、サチさんが姿を晒した。

「だいじょうぶでしたか、物凄い音がしたので心配でわたし」

「だいじょうぶですよ。ご心配おかけしてすみません」安心させようとへらへらと近づいたところで、後ろからワイシャツの襟首を掴まれた。「ぐぇ。何すんだ、竜六」

「やめとけ。死にてぇのか」

「はぁ?」

「そいつが本体だつってんだ、いい加減気づけ」

「ウソぉ。偽装できるなら最初に言っといてよ」

 人間の姿を真似できる異形ならば、すくなからず過去に遭ってきた。

「そうじゃない」

 竜六は腕に力を籠め、私を彼女から引き離す。「元からソイツが元凶なんだよ」

「何のお話ですか」

 彼女はなぜか上着を脱いでいた。だから偽物だと言われて、なるほど、と思えたが、しかし偽物にしては会話が成立しすぎている。

「そうだよ竜六。彼女は本物のサチさんだ。異形と言えども、ここまでそっくりに見た目を偽装はできんだろ。声だけならいざ知らず」

「アホが。いいからどけ。また隠れとけ」

 竜六がメリケンサックを装着したので、おいおい、と距離を置く。「まさかそれで殴るわけじゃないよな。私でなくとも、サチさんだってそれで殴られたら死んじゃうぞ」

「かといって、ほかに策はない。それともおまえは俺に死ねと?」

「いやいや、どうかしちゃったのかよ。サチさんだ。よく見ろ。彼女は危険じゃない。異形じゃない。正気じゃないのは竜六のほうだぞ、目を覚ませ」

 あいだに割って入ったつもりが、竜六に胸倉を掴まれ、後方に投げ飛ばされた。デジャビュだ。

 ごろごろと床を転がる。

 顔を上げると、竜六がなぜか宙を舞い、柱に叩きつけられていた。爆音が轟く。反射的に目を閉じる。生々しい音だ。矢継ぎ早に、真逆の壁に竜六は吹き飛ばされた。

 竜六の脚から縄のようなものが伸びていた。それで脚をとられ、ハンマー投げよろしくぶん回されているのだ。

「竜六!」

 脚の縄は切れたようだ、瓦礫のなかから竜六が立ちあがる。無傷のようだ。

「だから言ったんだ、三倍じゃ割に合わんとな」

 車内での会話をいま蒸し返されても困る。

 彼は手のひらをひらひら振った。

 反転送術のメリケンは手の甲を用いれば攻撃に、手のひら側の部位を用いると防御に使える。相手の攻撃をあべこべに吸収し、溜めておけるのだ。

 どうやら竜六は、柱に叩きつけられたときは拳を使って柱そのものを破壊し、壁に投げ飛ばされた際には、その衝撃を吸収して難を逃れたようだ。

「私はどうすればいい、何かできることはあるか」

「ない」

「でも」

「邪魔」

「はい」

 距離を置こうとするも、

「見えないとこには行くなよ。ほかの手駒に襲われても助けねぇからな」

「じゃあどうしろと」

「そこを動くな」

 足を止める。ちょうどよく、青白い光の散らばった床との境界に位置している。反対に竜六はわざわざその明かりのなかに入った。あたかもボクシングリンクのごとく、相手にもそこに入るように挑発する。

「かかってこいよ虫ケラぁ。叩き潰してやんよ」

 闇の奥に目を凝らす。

 これといって動きはない。

 いや。

 天井に目を転じる。

 複数の脚をわさわさと動かし、チセさんだったものが現れた。背中から伸びた脚は優に十本以上ある。節を支点に鋭角に折れ曲がり、身体を支えている。見た目も動きも蜘蛛じみている。

 背中を見せていたが、ぐるりと腰から反転し、顔面を晒した。

 大小無数の眼球が顔面を覆い尽くしている。

「竜六、ありゃなんだ」

「説明してる暇はねぇ」

 すとん、と音もなくそれは床に降り立った。

 大きい。

 胴体部はチセさんのものだが、大きな腹部が下半身に垂れさがっている。赤い糸で自動車をぐるぐる巻きにすれば似た形状のものができあがる。

 現に、それは赤い糸でできているようだ。下腹部の表面にはいくつかの人間の顔が覗いており、複数の遺体を取り込んでいると判る。行方不明だった作業員たちだろう。さきほど竜六の倒した遺体も含まれていそうだ。辺りを見渡し、あるはずの遺体が消えているのを確認する。

 先手を打ったのは異形のほうだ。

 脚を持ちあげ、蛇腹を折りたたむように下腹部の先端を竜六に向けた。

 赤い糸が飛びだす。

 弾丸を思わせる勢いだ。

 竜六はよけきれずに食らった。

 否、敢えてその場を動かなかったようにも見える。

 一瞬で竜六の身体は赤い毛糸の束となる。

 何もせずともこのままでは窒息死するのが目に見えている。のみならず、異形は糸を鞭打たせ、竜六の身体を宙に弾いた。

 空気がうねる。

 ブンブン、と巨大な蜂が羽を鳴らせるのにも似た音が空間を揺るがせた。

 振り回しているのだ。

 竜六の身体を。

 先刻よりも速く、遠心力をつけて。

 叩きつけるつもりなのだ。

 反転送術のメリケンサックがあれば回避可能なそれを、しかしいまの竜六には使う余裕がない。

 文字通り、手も足もでないからだ。

 簀巻きにされている。

 万事休す。

 衝撃波に備え、私は顔を腕で庇い、目を背けた。

 ふしぎと音がしない。

 なぜだ。

 腕の隙間から様子を窺うと、空間全体が青白く光り輝いていた。

 この色彩は、竜六が染めあげた床の色と酷似している。

 異形がどうなったかと言えば、青白い炎に包まれ、もがいていた。

 しかしボクシングリンクよろしく青白く仕切られた区画からはそとに出られないようだ。見えない壁に阻まれ、身体にまとわりつく青白い炎を振り払おうと悶えている。

 竜六はどうしたかと言えば、はらはらとほぐれた赤い糸だったものを片手で払いのけ、ちいさく咳き込んでいる。

 驚いたのは、私の身体まで青白い炎に包まれていることだ。しかし熱くもなければ、焼き爛れることもなかった。

 ふと、竜六の肩に護符が光っているのが見えた。私の背中もどことなく熱を持って感じられる。

 そう言えば、と思いだす。この場にサチさんが現れたとき、彼女は上着を脱いでいた。おそらく護符の効能を嫌って、ビル内部には脱いで入ったのだろう。だがそのじつ、護符の役割は、竜六の奥の手から身体を守ることだったのかもしれない。

 見遣れば、竜六と異形を結んでいた赤い糸にまで青白い炎が伝っている。

 竜六に近いほど焼え尽きる速度が速かった。

 私は声をかけようとしたが、言葉にならなかった。

 異形は燃え尽きこそしなかったが、だいぶ弱ったようだ。脚で身体を持ちあげることもできずに、ぐったりとその場に腹をつけ、動かない。

 竜六はそばまで寄った。上から見下ろすと、糸を断ち切るような動きで、異形の脚を一本、一本、乱雑に裁断した。道具を手にしていた素振りはなく、それもまたメリケンサックの効用のようだ。応用の幅が広い。

 最後に、膨らんだ下腹部を横から大振りで殴り飛ばし、正真正銘、消し屑にした。

 私はおっかなびっくりそばに寄り、無言で竜六からの指示を待った。

 異形のいた場所には、サチさんの身体だけが残った。身動き一つせず、生きているようには見えなかった。

「殺したのか」

 言葉にしてから、なんと配慮のない問いだろうと、じぶんに失望する。

「いや、死んではいない。が、それは本体も同じこと。生気を集めりゃ、また同じことの繰り返しだ。ここで殺しておくのがリスク管理の上では正解なんだが」

「ダメだ、殺しちゃ」

「まあ、おまえはそう言うよな。いいよ。俺にとっちゃおまえが依頼主だ。決めるのはおまえだ」

「訊くが、異形の本体がまだ彼女のなかにいるってことか」

「そうだ」

「封印し直すとかはできないのか」

「元々封印されていたわけじゃないからな。器に入れられていただけだ。発掘された遺物がそうなんだろ。巣みたいなもんだ。最初の巣が壊れたから、つぎの巣に入った。それがこの娘の身体だ」

「だったらほかにまた遺物のような器を用意すればそっちに入ってくれたりとか」

「ないな。人間のほうがよほど上等な器だ。寄生虫みたいなもんなんだ。外部からこっちに移れ、とやっても、そううまくいくもんじゃない。それこそ、ほかに居心地のいい器でもありゃ別だが」

「人間でなきゃダメってことか」

「そうだ」

 しばし考え、言いたくない、聞きたくない、と思いながらも質している。

「男でもいいのか」

「まあ、そうだな。性別よりかは、適正のほうが大きい。この場にいる者で言えば、俺が一番で、その娘は三番目に適正があると言える。だが俺はお断りだ。ハッキリ言っておくが、名前が伝わっていないだけで、おそらくソレは鬼の類だぞ。知れ渡れば、討伐対象だ。そうなったらさすがの俺でも庇いきれん」

 つまり、界隈に知れたら死刑も同然ということだ。だからといって依頼主たる彼女を見殺しにはできない。厄介の種を押しつけて、はいさようなら、とはいかぬのだ。

「なら私でもいいわけか」

「おまえなぁ」

「いいよ。責任はじぶんでとる。竜六はただ、彼女の中身を私に移してくれ。弱ったままなら害はないんだろ」

「弱ったままなら、な。ソレはおそらく宿主の意識に働きかけて、殺人衝動を増幅させる。言ってしまえば、宿主の意識はあるんだ。作業員を殺したのも、俺たちを罠にはめて襲ったのも、その嬢ちゃんの意思だ。異形は飽くまで、嬢ちゃんの心の隙間に手をかして大きくしてやっただけとも言える。バケモノは最初から嬢ちゃんのなかにいたのさ。心の隙間が狭けりゃ一生でてくることのなかったバケモノがな」

「私にもそれがいるわけだ」

「心の隙間さえ大きくしなきゃいい。異形のほうでも、隙間が小さいままなら、どうすることもできん」

「人を傷つけなければいいのか」

「そうとも言える。残虐性や殺意、ねたみ、そねみ、うらみ、つらみ。まあ、いわゆるどろどろした感情を他者に向けなきゃいい」

「抱く分にはいいのか」

「それこそ心の隙間の奥に潜むバケモノの正体だ。バケモノは消せない。飽くまで、抱き、胸の奥底に押し込め、飼いならしておくしかない。他者にそれをけしかけようとしなきゃ、バケモノがそうしたドロドロを食らってくれる。むしろ飼いならしておいたほうが得とも言える」

「じゃあその異形が糧にしているのは、宿主そのものではなく、そのバケモノのほうってことなのか」

「かもな。邪心とも言うが。あくまでこれは憶測だ。仮定の域をでん。ただ、異形をおまえに移したところで、きょうみたいにすぐさま暴走するわけじゃない。ただし、これまで通りの日々とはいかないことは覚悟しとけ」

「わかった。できることはする。だから、頼む」

「いいよ。ただ、意外だな。よもやおまえさんがこんな金にならないことに命を差しだす真似するなんざ」

「べつに差しだしちゃいないだろ」

「いいけどよ」

 そこに寝ろ、と指示を受け、サチさんのとなりに寝転ぶ。

 サチさんの腹部に手を添えると竜六は何かを探るように、手のひらで円を描いた。

 ぴたりと動きを止め、何かを掴む仕草をする。

 手をこちらの腹部のうえに持ってくると、本当にいいのか、と訊ねた。

 私は頷き、やってくれ、とつぶやく。

 竜六が微笑みながら、バカなやつ、と言ったのが聞こえた。

 私の意識はそこで途切れた。

***

「異形憑きの鉄則は、一日一善だ。おまえの場合は、まあふつうにこれまでの仕事をタダですりゃいいんじゃねぇの。どうせ詐欺同然の金額をせびってきたんだろ。たんまり貯めた金を世に迷える子羊たちのために使ってやんな。それがおまえんなかにいる異形を目覚めさせない制約になる」

 ビルでの一件のあと、竜六の小屋で目覚めた私は、そこで彼から当面の過ごし方の指南を受けた。

「異形のなかには共喰いを得意とするやつもいるからな。ま、そいつに行き着くまで、できるだけ波風たてずに生きながらえてくれ」

「喰らってくれる異形がいるのか、私のなかのこれを」

「いるだろうよ。ただ、その共喰いさまがおとなしく言うことを聞いてくれるかはまた別問題だけどな」

「貯金を切き崩せと簡単に言ってくれるが、その間の依頼、竜六は手伝ってくれるのか」

「むろん手伝うさ。払うもん払ってくれたらな」

「薄情なやつだな。そこは無償で手伝ってくれる流れだろ」

「嫌ならほか当たりな。異形を共喰いするバケモノのなかのバケモノを探そうってんだ、タダで付き合えるわけねぇだろ」

 ふつうに考えればたしかにそうだ。今回の異形を喰らえるほどの大物を使役しようと言っているようなものなのだ。

「分かったよ。報酬の話はいい。ただ、すこし値引きさせてくれ。お友達料金ってやつだ」

「おいおい。いつから俺とおまえがお友達になったんだ。寝ぼけたこと言ってっと、ホルマリン漬けにして売っぱらっちまうぞ」

「どこにですか」買い手がつくのかと、そちらのほうに驚く。

「お友達というなら、そもそも異形がらみの面倒事なんか持ってくんな。こっちはこっちで仕事はあんだ。金払いがいい以外におたくと付き合う理由はないね」

「あ、そうですか。それもそうですね。ではお世話になりました。私が死んだら遺体の回収だけお願いしますね」

「なんで俺が」

「売ればお金になるのでしょう?」

 では、と背を向け、小屋をあとにする。

 自動車に乗り込み、しばらく待ったが、小屋から人が出てくる気配はなかった。

「薄情なやつめ」

 自動車を発進させると、身体の内側から湧きたつ気泡のようなものを感じた。ざりざりと身体のなかで蠢くものがある。

 ふしぎと嫌悪感はない。

 勃然と視界が開け、荒れ狂う馬のような生き物の姿を捉えた。ここではないどこかの景色だ。馬のような生き物の額からは四本の角が生え、全身の毛は長く、それでいて輪郭は、ばん馬に似ていた。

 神々しくも身の毛のよだつほどの威圧感に、麒麟だ、と閃く。

 先日、竜六の小屋で解体したキリンの幼獣を思いだし、それの親だと直感した。

 怒り狂っている。

 身体の内側から湧いた気泡は徐々に萎んでいき、やがて感じられなくなった。

 耳鳴りだけが残る。

 どうするべきかを悩んだが、身体はふしぎと自動車の扉を開き、外に足を投げだしている。

 忠告しておいてやろう。

 むろん、いま見た景色が幻覚である可能性もある。

 だが、予感は確信に満ちている。

 実感を伴う危機感がある。

 いずれこの地を、麒麟が襲う。

 そのとき、奇禍の中心にいるのは十中八九、竜六である。彼に成す術があるならばともかく、奇襲を受けて太刀打ちできるほどの余裕はないように思えた。

 内なる異形が忠告を発する。

 いまはまだ、彼の助力が必要だ。生かしておけ、と。

 生存本能の塊がそう私の内で嘯くのだ。




【いつだってそれは藪の中】

(未推敲)


 丘の上に白い物体がくねくねと蠢いている、といった怪談は若い世代で比較的有名だが、むろんそんなのはインターネットミームの一言で片づけられる作り話に決まっている。

 僕は一人っ子だが、親戚一同の付き合いが深く、親兄妹が多いこともあり、同世代のいとこが多かった。お盆になれば長男一家の田舎に集まるのが毎年の恒例だった。

「よぉ、また今年もきたべか」祖父が出迎えた。

 先に到着していた親戚一家の子どもたちはみな川へと魚釣りに出かけたらしい。ここでは男も女もみな自然児に還る。

 三泊四日で帰郷する一家がほとんどだ。大人たちはそれぞれで何かしらの家事を分担し、お盆に備えた。

 墓参りは一時間もしないで終わる。そのあとの宴会が長いのだ。昼間からはじまり、夜になっても終わらず、翌日の昼間になると近隣の馴染みの町人が集まって、わいわいと賑やかさを絶やさない。

 どこからどこまでが親戚かも分からず、あとになって、「えー、あのおんちゃん親戚じゃないの」とびっくりするところまでが通過儀礼だ。

 いとこだと思って接していたのにいっさい血の繋がりがなかったなんてことも珍しくない。

 三日目ともなるとさすがにみなしゃべることもなくなり、だらけたムードとなる。

 そこで誰がつぶやくとでもなく、ぽつりと言った。

「今年はボウさんこなかったな」

 みなそこで、忘れていた悪夢を思いだしたように、一瞬の静寂を生みだした。

「また旅行にでも行ったんでしょ」母が苦々しく言った。

 この話題はおしまい、とでも言いたげに母は、洗濯物干さなくっちゃ、と言って席を立った。

 みなよそよそしく、それぞれの作業に戻った。子どもたちはゲーム機の取り合いで、この暑さのなかだというのに、肩を寄せ合い、画面に釘付けになっている。

 僕は子ども組のなかでも年長者だったので、子守りの監督を任される機会が多かった。

 この日も、家でゲームをしていたい子どもたちと、そとで遊びたい子どもたちとで別れてしまったので、より危険なそとで遊びたい子たちについていくことにした。

 集落は山に囲われ、村を二分するように川が流れている。子どもたちはきのうおとといと川で遊んだからか、その日は虫取り網をかついで、山に向かった。山道にはアブ蚊が飛びかっており、自動車でなければ進めない。だから山のふもとの、林や森の入り口付近にしか近寄れなかった。

 カブトムシやクワガタムシ、カミキリムシやカマキリなど、子どもたちは思い思いに自然の宝物を掴みあげていく。

 蝉の鳴き声が青空を埋め尽くし、積乱雲を眺め、空の高さに思いを馳せた。

 ふと、ぴたりと蝉が鳴きやんだ。

 子どもたちの幾人かが歩を止め、当たりを見回した。

 異様な雰囲気に怖気づくように僕の周りに集まりだす。虫取りに夢中の子どもたちも、はっとした様子であとにつづいた。

 僕はまず、熊や狐などの野生動物が潜んでいるのではないか、と考えた。じっとしていれば害はないはずだ。

 だがどうもそうではないようだ、と認識を改める。あれほど飛び交っていた鳥の姿まで見えなくなった。

 さわさわとそよぐ風が、背の高い雑草を揺さぶり、静寂の音を響かせる。

「あ、あれ」

 子どもたちの一人が指をさした。

 草原と林の境界が、山の輪郭に沿って、まっすぐと伸びている。どこか線路じみている。

 僕らのいる地点から百メートルは離れていないはずだ。何かが動いているのが見えた。

 最初は案山子か何かだろう、と思った。

 遠近感からして、人間の背丈では雑草に埋もれて見えないはずだ、と思ったからだ。

 しかしそれは、縦に細長く、くねくねと波打って見えた。

 背筋が冷えた。

 日差しはなおもカンカンと照っているというのに、冷蔵庫のなかに放りこまれたような寒気が襲った。

「行こう」

 僕は強引に子どもたちを引っ張ってその場を離れた。見ないほうがいい。正体がなんであれ、あれはよくないものだ。そう直感した。

 幾度か振り返ってみたが、それはなおも遠くにくねくねと踊って見えた。遠近感が掴めず、追ってきているようにも、その場を動かずにいるようにも見えた。

 家に戻り、子どもたちにシャワーを浴びてくるように指示してから、僕はこっそり叔父さんたちにいましがた目にしたばかりの光景を話して聞かせた。

「あそこは沼があるんだ、近づいたらダメやろ」

 なぜか語気を荒らげて叱られた。子どもたちを危ない場所に連れて行ったのだからそれも仕方がない、とその場では呑み込んだが、時間が経つにつれて、理不尽な思いが募った。

 僕の見た光景にはいっさい触れずに、ただ近づくな、と釘を刺されただけに思えた。

 翌日になればもう田舎を離れる。帰るだけだ。

 せめてこの地にも、くねくねの話があるのかどうかだけ確かめておきたかった。ひょっとしたらくねくねの怪談の舞台がこの村で、発祥の地かもしれない。

 夕食後、僕はそれとなく、あすの朝食の仕込みをしている叔母さんたちに交じって食器の後片付けの手伝いをしながら、日中に目撃した光景について語った。

 意見を窺うと、叔母の一人が、

「それはきっと蚊柱だね」と言った。

「蚊柱って、ぶんぶん顔の周りにたかるコバエみたいなやつ?」

「そ。この辺、本当に多いから、物凄く濃い蚊柱が立つことがあってね。それを見たんじゃない? 色は何色だった?」

 その言葉にはっとした。「白ではなかった気がする」

「そうでしょ。くねくねって怪談あったよね。あれだと思ったんでしょ」

「うん」僕は気恥ずかしくなり、俯いた。顔も火照り、きっと赤くなっていたはずだ。

「でも近づかなくって正解だったかもね」叔母さんが手を伸ばしたので、僕は拭いた食器を手渡す。叔母さんは食器を棚に仕舞いながら、「蚊柱が濃くなるってことは、そこに何かしらの苗床があるってことだから」

「苗床って、沼ってこと?」

「それもあるけど、だったらもっと散って、一か所に留まったりしないでしょ。見たのはだって、一か所に固まって、くねくね踊ってたわけだよね」

「そう」

「遠目から見ても判るくらいに濃いんだから、そりゃあそこに何か動物の死体があったってことだよ。死体があるってことは、たぶん食べられちゃったんだね。熊か狐か、ともかく何かの縄張りだったかもしれない。やっぱり近づかなくって正解」

 僕はこのとき、嫌な想像を巡らせた。憶測にもならないただの絵空事だったけれど、叔父さんの僕を叱った理不尽な物言いや、蚊柱の苗床の存在、そして何より、毎年必ず顔を覗かせた粗暴で有名な村のおじさんが今年はなぜか顔を見せず、誰もその行方を知らないらしいこと、ボウさんと呼ばれたその人はいまどこで何をしているのだろう、と僕は想像し、草むらで虫にたかられ誰の目にも触れずに腐りつつある死体を思い描いて、振り払う。

 いくらなんでも飛躍しすぎだ。あり得ない。

 仮に誰かがボウさんを殺害したとして、誰も探さないなんてことはないだろうし、あれほど濃ゆい蚊柱があればさすがに誰かが見つけるだろう。

 ひょっとしたら事故死してそのままの遺体があるのかもしれないが、それだって誰かが見つけてしかるべきだ。やはり僕の妄想にすぎない、と一蹴する。

 叔母さんは、それにね、とまだしゃべっていた。

「みんなに言ったら興味持って見に行っちゃうかもしれないから、内緒にしていたほうがいいかもね」

 明くる日、僕は父の運転する自動車に乗りこみ、窓から手を振った。近所のひとたちまで見送りにでてくれて、なんだかいつもこの瞬間だけじぶんがひどく歓迎されていたのだな、との実感が湧く。

 しばらく感傷に浸った。

 長いトンネルを抜けると、山に囲われた集落の景色は途絶え、山は遠くにちいさくギザギザと浮かび、開けた視界を空が占領する。

 静かになった車内で僕は父に言った。

「お父さんもちいさいころ、濃ゆい蚊柱って見た?」

「ん?」

「くねくねしてて、そうそう、ちょうどそういう怪談があってね」

 僕は秘密を明かすような心境で、父に有名な怪談を披露しようとしたが、父は、

「見たのか」

 驚愕の表情を浮かべてハンドルをぎゅっと握ったので、

「叔母さんから聞いただけ」僕は咄嗟に嘘を吐いた。母は後部座席で船を漕ぎ、ちいさないびき声をあげている。

「もし見ても近づいてはダメだぞ」父は言い聞かせるように言った。「見ても、人に言わないほうがいい」

 なぜ、と問いたかったけれど、僕は無言で頷き、僕の見た光景は忘れることにした。

 以来、祖父の家に行っても僕は森や林には近づかないし、なるべく遠くに目を凝らさないようにしている。蚊柱はいまもどこかで、くねくねと身をよじっているのかもしれないが、誰もその苗床の正体を暴こうとはしない。どこにあるのかも定かではない。いつだってそれは藪の中だ。




【河原で応じる者】

(未推敲)


 じっさいにあった出来事なので、これといった解決もオチもないのだけれど、一年前、友人たちとキャンプに行った。女二人に男二人、総勢四名の小旅行だ。

 みな恋愛対象が二次元の、バリバリ現実逃避人間で、恋愛関係に発展するどころか、互いのすね毛を抜きあう仲だ。

 知らない方もいらっしゃるかもしれないけれども、女の子もヒゲやすね毛が生えるんです。わたしは面倒なので数年前から全身脱毛に通っている。永久脱毛とは名ばかりで、定期的に通わないといけないのがつらいが、そこは恋をしている漫画のなかのアンジェラさまを応援するにふさわしい人間であるために、同じく漫画のなかの女子どもと同じように全身をつるつるにしておこうと決意したはよいが、そもそもなにゆえ全身をつるつるにしなければならんのか、と世に蔓延る歪んだ美意識を嘆きたくもなる。

 毛の何がわるい。

 かように他愛のない会話を絶え間なく繰り広げながら、キャンプ場へと到着し、森に挟まれた河原にテントを張った。三日間を近代都市から離れて過ごす。

 大自然を満喫しよう、とのコンセプトのもと、盛大に満喫した。

 十万円くらいは食費で消えた。

 松坂牛とか食べた。魚釣りにハマって、釣り竿の奪い合いの結果、男どもから不評を買った。

 しかし一向に魚の釣れない彼らがわるい。わたしたちは二人で十匹も釣った。みなで分けたし、全部美味しくたいらげた。

 夜中は満天の星空がうつくしく、惚れ惚れした。

 あっという間の三日間だった。

 大自然からの帰宅後、一週間後にリモート飲み会を開いた。

 キャンプ場で撮った画像や、動画を共有しつつ、わいわいお酒を飲み合おうとのコンセプトだったが、さきに動画を観はじめた男の子が、急に無言になった。

 わたしたちは知らぬ間に撮られていた寝顔の写真に憤怒しつつ、やいのやいの言い合っていた。

 だが男の子の一人がずっとむつかしい顔をして、唇をゆびでつまんだまま、動かなくなったので、

「どしたん」と相方の女の子が声をかけた。

「いやぁ、えー、これちょっとヤバない?」

 言いながら、ちょっと観て、と男の子が動画を共有動画サイトに載せた。非公開設定で、許可されたアカウントだけが観られる。わたしたちはそれぞれの小型端末で動画を視聴した。

 ふつうの動画だった。

 奥に森がある。川を挟んで、わたしたちが手前にいる。水鉄砲でガンマンごっこをしている。早撃ち勝負をしているが、けっきょく撃つタイミングに関係なく対峙した二人ともがびしょ濡れになるので途中からは雪合戦さながらの水の掛け合いとなった。

 わたしたちの笑い声がセミの鳴き声に負けじと下品に響いている。

「何か変なの映ってたか」

 もう一人の男の子がわたしたちに言った。

 わたしたちは揃って、ううん、と首を振る。何も妙なものは映っていない。「ねぇ、これがなんなの」わたしは沈黙したきりの男の子をなじった。「変なこと言って怖がらせるとか、最悪。夜トイレ行けなくなったらおまえのせいだかんな」

 もう一人の女の子も同調した。「そうやぞ。責任取れんのかおまえ」

 いつも繰り返しているジョークの一環だ。誰も本気で怒ったりはしない。

 ただ、わるふざけにすぎるとは思った。

 じっさいわたしはちょっとドキドキしていたし、一人で部屋にいるのを怖く思った。

 さっさとネタばらししてほしかった。

 だがその男の子は、いやぁ、とか、えー、とか何度も首を傾げては、やっぱ変だよ、と顔を真っ青にした。無駄にカメラの画質がいいので、男の子の表情の深刻さが伝わった。

「ねぇさっきからなんなんマジで。いいから何が変なのか言いなって」脅かされているようで気が立った。男の子は言った。「イヤホンして音量大きくして聴いてみ」

 わたしたちは渋ったが、いいから、と言われて、不承不承従った。

 イヤホンを耳にする。

 動画を再生する。

 わたしたちのはしゃぐ声がし、重なるようにセミの大合唱が聴こえる。

「これが何」イヤホンを片耳だけ外した。

「よく聴いてみって。セミの鳴き声に交じって、変な叫び声みたいなの聴こえん?」

 言われて、もういちど再生する。

 わたしたちのはしゃぎ声。蝉の声。音量を高くする。わたしたちのはしゃぎ声。蝉の声。叫び声。

 肌を刺すような悪寒が走った。

「なに、これ」

 断末魔というものがどんなものかは知らないが、女の絶叫とも言える痛々しい声が延々途切れることなく響いていた。

 蝉の声と比べても遜色ない。森の奥から響いていたとして、その場にいたわたしたちが気づかなかったとは思えない。

 しかし記憶にない。

「動物か何かの声じゃ」もう一人の男の子が意見した。

 子熊の鳴き声はおじさんの声に似ているし、猫の悲鳴は赤ちゃんの夜泣きに似ている。動画から聞こえる謎の絶叫も、そうした野生動物のものではないか、とその子は主張した。

 真偽のほどは定かではないが、なんでもいいからそういうことにしておきたかった。わたしたちは、そうだそうだ、と努めて明るく賛同した。

 動画はまだ再生されていた。なぜかそこから、

 チガウヨォ。

 見知らぬ女の声がした。

 わたしは小型端末を放り投げ、リモート画面に縋りつく。ほかのみんなも同じような反応を示した。

 画面越しに顔を見合わせ、怖い怖い怖い怖い、と言いあい、動画共有サイトのアカウント主たる男の子に、動画の削除を命じた。

 したがっていまはもう、その動画はなく、あの声の正体も不明のままだ。

 ただ、どう考えてもあのとき、それぞれの端末でそれぞれに動画を視聴していたわたしたちが、同時に、チガウヨォ、の声を耳にできたわけがないのだが、いまとなってはそれも確かめようがない。

 いまでもほかの三人とは付き合いがあるが、ことしの夏にはこれといって予定はない。あの四人でなくとも、わたしがこのさきキャンプに行くことは金輪際ないだろう。




【ジエの声ははしゃぐ】

(未推敲)


 ジエとは三年前に出会った。路上で何かを執拗に蹴っていたので、異常者かと思って警戒した。

 地面に近いところを何度も蹴っていたので、ひょっとして猫でもイジメているのではないか、と思い、声をかけた。本当なら警察に通報するほうが正しい選択だったのだろうが、ジエの背丈がちいさく、ボーイッシュな少女のように見えたので乱暴されてもどうにかできるだろう、との見立てがあった。真実のところでは、ジエは年中パーカーを頭から羽織った背の低い青年だった。

「何蹴ってんだ。あんまりイジメたら可哀そうだろ」

「あ、すみません。違うんです」

 ジエは打って変わっておとなしくなった。肩をすぼめ、ぺこりとお辞儀する。「お地蔵さまに虫がたかっていたので、追い払っていただけなので、気にしないでください。すみませんでした」

 ジエはもういちどお辞儀をすると、足早にその場を去った。

 それから一週間後に、こんどは別の場所で地面を蹴っているジエを見かけた。

 興味本位だった。

 その場凌ぎの嘘を吐かれた腹いせのつもりもあったのかもしれない。私はジエに近寄った。

「こんどはどんな虫が湧いてるんだ」

「あ」

 ジエは決まりのわるそうに頬を掻いた。イタズラの見つかった子どもじみた仕草だが、中学生ということはないだろう。理性の感じさせる眼差しからは、成熟した人間の狡猾さが窺えた。

「こんどは何を蹴ってたんだ」覗きこむと、ジエは身体でこちらの視線を遮ろうとしたが、誤魔化せないと悟ったのか、観念してどけた。

 私は噴きだす。

「おいおい、そんなの蹴ってたら罰が当たるぞ」

 ジエはちいさな祠を蹴っていた。おそらくはビルを建てる際に潰さざるを得なかった墓地や神社を祀る祠だ。古い家にありそうな神棚くらいの大きさで、石でできているようだった。

「怖い者知らずだな。何か意味があるのか」

「怒らないんですか」

「なんで怒る。怒られるようなことをしていたのか」

「いえ、その」

「言いたくないなら無理に言わずともいいけど、八つ当たりするのもほどほどにな。神さまってのは見守るのが仕事だ。願いを叶えてはくれないのさ」

 知ったような口を叩いたが、ジエの大方の背景には想像がついていた。日常のなかで気に食わないことが重なり、その憤懣をぶつける矛先を探していたのだろう。

 青年の心の淀みを発散できたならば神さもご満足だろう。ただ、習慣づいてしまったらさすがにまずい。

 ここいらで水を差しておいてやるのもおとなの役目、と思ったわけでもないのだが、私こそ日ごろの鬱憤を晴らすべく、上から目線で説教の一つでも垂れたかったのかもしれない。

「そう、ですね」ジエはまた折り目正しく腰を折った。「すみません、もうしませんので、見逃してください」

「なかなか図太いな。ちなみに何がそんなに気に食わなかったんだ」

「いえ、お兄さんの言う通りです。八つ当たりをしていたんです」

 人懐こいしゃべり方に、目上の者を敬う態度が気に入った。この日、コンビニで菓子パンと飲み物を奢ると、つぎからは街で遭遇するたびにジエのほうから声をかけてきた。

 懐かれた。

 思うが、それほど嫌な思いはなく、どちらかと言えば子犬に慕われたようで、率先してジエの姿を風景のなかに探すようになった。

 三年のあいだにジエとは互いの境遇を嘆きあう仲になった。ジエは十八歳の一人暮らしで、バイトに明け暮れる日々であるらしい。ネットを利用した副収入があるようだが、日々の生活で手一杯だと嘆いていた。

 私は私で、うだつのあがらない日々だった。昇進も結婚もこのさきどれほど努力したところで見込めない。なればこそ、地蔵さまや神さまに当たり散らしたくなるジエの気持ちはよく分かった。

 じぶんではできないことを、いっさいの躊躇も手加減もなく果たしたジエの姿に、内心では感心していたのかもしれない。すっと胸がすいたのは確かだ。

 長雨の影響か、近隣の地域で自然災害が多発していた。陰々滅々とした日々のなかで、子犬のようなジエとの触れあいには正直、心癒された。

 その日、コンビニで夕飯を奢ってやると、ジエは私の名を呼び、お願いがあるのですが、とうやうやしく言った。ジエに頼られるのはわるい気はしない。

「言うだけ言ってみな」

「山に行きたいのですが」

「山だぁ?」

「遠くはないので。ほら、あそこに見えるじゃないですか」

 街中からでもビルの合間に山が見えた。田舎の繁華街だ。都市部とはいえ自然に囲まれている。

「歩いていってもよいのですけど、さいきんは天気が優れないので」

「それはそうだ。危ないぞ」

 かといってせっかくの頼みを無下にはできない。

 何しに山へ、と問うと、頂上にちょっと、とジエははぐらかした。

「頂上だぁ? しばらく雨はやまないらしいぞ。晴れてからじゃダメなのか」

「それでもいいんですけど、だったら一人でも行けますし、できればいま行けるとうれしいなって」

「うれしいなってジエちゃんよぅ」

 頭から被ったフードから上目遣いで頼まれると、断りづらいうえに、胸がくすぐられる心地がする。

 両手でペットボトル飲料を握り、ちまちま飲む仕草には、ぐっとくるものがある。

 私は異性愛者であるし、これといって年下に興味があるわけではない。それは確かだ。しかし、子犬にじゃれつかれたときのような癒しを覚えるのは否定できない。

「しゃーない。行くだけ行ってみるか」

「いいんですか」

 ぱっと目を輝かせるジエに、私はこのときじぶんがなぜ生きているのかの答えを見た気がした。一瞬の湧いただけの幻想でしかないはずのそれは、なかなか消え失せずに、私の胸のなかに残留した。

 ジエはそこでなぜか顔を伏せ、

「いまからでもだいじょうぶだったりしますか」

 と下唇をちんまり垂らした。

 見えない尻尾が萎れた様子が見えるようだ。

「いまからってもう夜だぞ」夏ゆえに日没までは時間はあるが、時刻は充分夜と言ってよい時間帯だった。

「車でぴゅって行って帰ってくるだけでいいので。そうだ、ドライブだと思って」

 デートです、とジエはニコっとしたあとで、じぶんの失言に気づいたアイドルのように、あっ、という顔をして、顔を赤らめた。

「デートか。ジエちゃんが相手じゃなぁ。もっとお色気ボインのおにゃのこがよかったぜ」

 羽を毟ったトンボを手のひらのうえに載せ観察するように、ジエを横目で見る。彼は俯いたままだ。忸怩たる思い、を素で演じているようだった。

 よし、と膝を叩いて立ちあがる。「いいぞ。行くか」

「いいんですか。やった」ジエはフードを深く被った。陰の下に隠れた顔にはどんな表情が浮かんでいるのだろう、と想像を逞しくする。子猫をいたぶりたくなる悪人の気持ちが分かるようだ。

 小型の自動車に乗り込み、ジエの指示のもとで山へと向かった。

 雨脚がつよまる。

 いちどきたことがあるらしく、ジエは地図を見ずとも、的確に道案内した。

 そこを右。つぎを左。三つ目の信号機を左に行って、あとは道なりにずっと。

 民家は数を減らし、対向車は皆無となる。

 左右を森が占める。

 いつの間にか木々の隧道(ずいどう)を走っていた。

 間もなく、行き止まりの看板が道のさきに見えた。ここまでの二十分あまりに建物らしい建物は一つもなかった。延々、蛇行する山の車道を通ってきた。

「で、どうすんだ。何もないが、戻るか」目的が不明だった。頂上に行きたい、と言われただけなのだ。

「降りたいです。このさきに神社があって」

「神社だぁ?」

「傘はありますので」ジエは傘を二本持っていた。コンビニで購入していたようだ。「怖いのでいっしょについてきてください」

「この雨んなかか」

「せっかく来たんですし。それに、雨宿りできる場所もあると思いますよ」

 その言葉にどういう意味が込められているにせよ、ここで断ったのでは年上としての矜持に差し支えた。

「危なかったらすぐに戻るぞ」

「やった。ありがとうございます」

 ジエは車を降りた。自動車の明かりは点けたままにしておく。ひと気がないのだから盗まれる心配もない。

 行き止まりの看板を乗り越える。

 砂利道を進むこと数分、ジエの言ったとおり、鳥居が見えてきた。

 だがその鳥居は倒れており、境内も荒れ果てていた。

 長年人が寄りついていないのは自明だ。廃墟そのものと言える。

 神社の拝殿もかろうじて原形を留めているといった有様で、ざんねんと言ったら誤解を生みそうだが、雨宿りはできそうになかった。

 明かりは二人分のメディア端末のライトだけだ。周囲が真っ暗ゆえに、光源はそれで充分だ。雨音が空間の奥行を伝えてくれもする。

「ジエ、もう戻ろう」

 声をかけるも返事がない。

「ジエ、どうした。おい、そういうわるふざけはやめろって」

 拝殿のほうに光が見えた。

 ジエだ。

「かってに移動すんなって」

「素晴らしいです」ジエの声は恍惚としていた。「これほどまでに邪を溜めこんだ聖域は滅多にありません。初めて見たかもしれません。ボクが穢すまでもなく、こんなに。あはは。とっくにここの神は堕ちていますよ」

 そっかぁ、とジエの声が闇に溶ける。

「ここさいきんの街の奇禍はあなたが原因ですね。いいんですよ我慢せずとも。怨めしいですよね。呪いたいですよね。いいですよ、ぼくもあなたの憎っくき人間です。どうぞとり憑き、呪ってください」

 声をかけることができなかった。

 様子がおかしい。 

 ジエの豹変した姿もそうだが、それ以前に、この場に二人しかいないにも拘わらず、ほかにも人の気配がある。息遣いがある。

 足音、衣擦れ、空気の揺らぎ、臭い。

 いいや、気配としか言いようのない何かがこの場に充満しつつある。

「少々窮屈ですが、どうぞぼくに。さあ、ご遠慮なく」

 そこでジエはぴたりと言葉を止めた。

 何かを思いだしたように、ああ、と言う。

「忘れていました。あなたほどの神ですからね。呪うにしろ、憑くにしろ、まずは生贄がいりますよね」

 だいじょうぶですよ、と闇に声が馴染む。

「ちゃぁんと用意してきました。どうぞ、お好きに」

 ざわわ、と木々が荒ぶる。風の音がしたことで、いまのいままで風一つなかったのだと知る。

 雨音が薄れ、ふしぎとジエの声がくぐもって消こえる。

「味の保証はしませんが、何。消えて悲しむ者もない、はぐれモノ。さぞかしあなたの舌に合いましょう」

 何かが這う音がする。

 荒い息遣い。

 生臭さ。

 泥のうえを何かがゆっくりと、重々しく、なぜか四方八方から近づいてくる。

 私の名を呼ぶジエの声がする。

 彼は初めて出会ったときのように拝殿の柱を執拗に蹴り、初めて聞く声で、無邪気に笑う。




【真夏の屋台】

(未推敲)


 夏祭りの帰り、神社のまえを通ったら見慣れぬ露店が立っていた。台車で引いて移動するラーメン屋みたいな感じだ。提灯の明かりがあるだけの寂しい雰囲気で、覗いてみると、色とりどりのオモチャがぎっしりと屋台の内側に並んでいた。

 冬につくったカマクラを思いだす。カマクラのなかで懐中電灯をつけたら、凍った雪が反射してなのか眩しいくらいに明るかった。屋台の屋根の下に入ると同じくらいキラキラして映った。

「いらっしゃい」

 お姉さんが言った。ほかに人はいない。

「ここで何してるんですか」

「オモチャを売っているんだよ」

「夏祭りは終わっちゃいましたよ」

「いいんだよ。きみみたいなコを待っていただけだから」

「ふうん」

 話が通じないな、と思った。

 お姉さんは巫女さんみたいな格好をしていた。彼女が屋台の主なのだろう。好きに見ていいよ、と言ってくれたので、オモチャを手に取った。

 どれもビニル袋に入っておらず、剥きだしの状態だ。割った竹でできた仕切りのなかに仕舞われている。一つの仕切りのなかに一種類ずつオモチャがぎっしりと詰まっていた。

「これは何ですか」

「それは竜巻を起こせる竹とんぼ」

「じゃあこれは」

「そっちは人の感情を消しちゃうピストル。弾は別売りだよ。弾の色によって消せる感情が違うから気をつけてね」

「ふうん」

 大袈裟な売り文句だな、と思った。竜巻なんて起こせるわけないし、人の感情だって消せない。いくらぼくが子どもでもそれくらいの分別はついた。

「じゃあこれは?」

 蛇が絡み合っている。素材は合金みたいで、手に持つとずっしりときた。

「頭のほぐれる知恵の輪だよ」

「これはふつうなんだね」どうせなら天才になれる知恵の輪、くらいの売り文句を言ってほしかった。

「ふつうじゃないよ。だって頭がほぐれちゃんだよ」

 ぷっつんだよ、とお姉さんが繰り返すので、ぼくの肩は弾んだ。真剣な表情と、ぷっつん、の間抜けな響きが合わせって、ちぐはぐでおかしかったのだ。

「いくらですか」

 お姉さんは首を振った。

「タダでいいよ。その代わり、返品はできません。受け付けておりませんので」

「いらなくなったら捨ててもいい?」いじわるな気持ちで訊いた。

「いいけど、持ってたほうがいいと思うよ。危ないから」

「じゃあ、これください」

 知恵の輪の形状にはいくつか種類があった。ぼくは二つのジグザグの絡み合った知恵の輪をつまんだ。

「お、いいねぇ。それは使い方が簡単だから初心者にはお勧めだ」

「使い方?」知恵の輪を解くだけではないのだろうか。

「一回につき一人だよ。嫌いな相手にしか効かないし。でも誰もいないところで使わないほうがいいかもね。じぶんのことが嫌いになっちゃうことって誰にでもあるから、やっぱり」

 一人のときに使うのがいいよ。

「ふうん」意味不明なので聞き流した。

「ほかに欲しいのはあるかい」

「ううん」かぶりを振りながらオモチャを見回す。本当はピカピカ光るだろう円盤のオモチャやピストルに興味があったけれど、これ以上タダでもらうのは気が引けた。親にもなんと言って説明していいのか分からなかった。なんとなくわることをしている気がした。

「そっかざんねん」お姉さんはいちどぼくの手のひらのうえから知恵の輪を取ると、値札か何かを剥がすようにしてから渡してくれた。「気をつけて帰るんだよ。世の中にはわたしみたいによいものばかりではないからね」

「ばいばい」

 手を振り、ぼくは屋台を離れた。

 知恵の輪をいじりながら帰ったけれど、なかなか取れなかった。家では母が父を怒鳴っていて、それにいよいよ父が反論の構えをみせたところでぼくが帰宅したので、ぎくしゃくした沈黙が漂った。

「おかえり。夏祭りどうだった」母が言った。

「楽しかったよ」

「何買ったんだ」父が訊いた。

「かき氷と、焼きそばと、わた飴」

「全部食べ物じゃないの」「いいじゃないか元気で」

 父と母が途端によい親の仮面をつけはじめたので、ぼくはソファに飛び乗り、知恵の輪をいじった。

「それはなんだ」父がうしろから覗いた。

「知恵の輪」

 頭のほぐれる、と付け足す。

「難しそうだな。どれ貸してみなさい」

「いいよじぶんでやる」

「そう言わずに」

 強引に奪い取るようにして父は知恵の輪を手のひらのなかで転がした。「なかなかいい造りだ。装飾も細かい」

「蛇だと思ったら龍だった」明るい場所で改めて見たら、絡まっていたのは龍だったのだ。

「素材はなんだろうな。ほう、なかなか凝ってるな。うん、小学生にこれはむつかしいが、父さんこう見えて知恵の輪は得意でな」

 それは知っていた。むかし父から有名な知恵の輪を渡されて、まったく解けなかった記憶がある。だが父はぼくの目のまえで何度もそれを解いていた。

「ここをこうして、こうして、こうだろ」

 うんうん呻りはじめた父の向こう側で、母が口をへの字にして、おもしろくなさそうにマシュマロを齧った。チョコの入った大きなマシュマロで、ぼくもそれをもらいに歩く。

「お、取れそうだぞ」

 父が宣言し、事実数秒後に掲げられた腕には、二つに分かれた龍が握られていた。

「さすがお父さん」

 機嫌を損ねないように言い、母にも同意を求めた。「すごいね」

 だが母は身動きを止め、一瞬、とろんと眠たそうな目をした。

 白目を剥いたかと思うと、ぐらりと揺らいで、首だけが落下する。

 ダンベルを落としたときの音をぼくは連想した。

 床にみるみる血の水溜まりができ、遅れて母の身体が椅子から転げ落ちた。

 父の、母を呼ぶ声が耳をつんざく。

 投げ捨てられた二匹の龍が、血の海に浸った。

 ぷっつんだよ。

 屋台のお姉さんの声が耳の奥で、水ヨーヨーみたいに何度も薄れたり濃くなったりして、聞こえたけれど、ぼくは身動きがとれずにいる。




【タキザワさん】

(未推敲)


 よくある話ではあるが、夜勤の守衛をやっていると監視カメラにふしぎなものが映りこむことがある。

 ハッキリ目にするわけではなく、目を離している隙に、カメラのまえを今何か通ったな、といった具合で、ほかのカメラをチェックしても問題は見当たらない。気のせいか、或いは不可視の何かが一瞬映りこんだだけなのか、と首をひねりながら判断するしかない。

 正体不明の何かばかりではない。

 明らかに人間であっても、ふしぎな事象というのは観測される。

 秘密保護の観点から職場がどんなかについては詳しく触れないが、ことし配属されたばかりの職場では、タキザワさん、と愛称で呼ばれている人物がいる。同僚ではない。警備員ではない。

 一般利用客らしく、スーツ姿の男性だ。彼は絶対にカメラに全身を映さないのだ。

 顔はおろか、身体の三割以上を絶対に映さない。

 カメラは全部で百数台にも及ぶ。常時三人でチェックし、日替わりで担当するエリアは変わる。一人当たり三十台前後の画面を監視するが、これまで誰もタキザワさんの顔も全身も見たことはなかった。

 一般利用客の往来が多い職場で、雑多な人混みばかりが映りこむ。そのため特定の誰かを追跡することはできても、映りこんだ人物を毎回のように偶然目にする確率は減る。

 そうしたなかで、エレベータのなかのカメラでは、比較的、いちどに映りこむ一般利用客が減るために、タキザワさんを発見する確率が高かった。

 見回り組にインカム越しの指示を飛ばし、それとなく、いまタキザワさんがどこそこにいるぞ、と教えてやるが、やはり遭遇はできないようだ。

 エレベータを正面から捉えるカメラもあるのだが、タキザワさんはいつもほかの誰かといっしょに降りるので(もちろんそのほかの誰かはタキザワさんの連れではないのだが)、その背に紛れて顔が見えない。背の低いおじさんらしい、というのはみなの共通認識だ。

 みながマスクをするようになった年の夏のことだ。閉館する時刻に、エレベータ内でタキザワさんを発見した。というよりも、恋人らしい男女が痴話喧嘩をはじめたらしく、チェックしていたところで、どうやらエレベータ内の死角にタキザワさんがいるぞ、と気づいた。

 入り口をまえにして左奥頭上の角にカメラはある。エレベータ内に設置された鏡も半透過フィルムで、裏側からはエレベータ内が見えるようになっている。そこにも当初はカメラがあったようだが、何らかの理由でいまは使われていない。おそらくは、ぎゅうぎゅう詰めに利用客が乗ると、ひとの背しか見えなくなるためだろう。

 痴話喧嘩をはじめた男女は、口論の激しさを増したようだ。男が女を叩きはじめ、女がそれに抵抗し、さらに男が逆上する。

 危険な兆候だった。

 至急、見回り中の警備員に指示をだして仲裁に向かわせた。

 騒ぎに気づいて同僚がこちらの画面を覗きこむ。

「あれ、これってタキザワさんすか」

 映像の一画をゆび差しだ。「よくこんだけ騒がれてじっとしていられますね。この男女もよくもまぁ、ひとまえで騒げたもんだ」

 言われて気づいたが、タキザワさんに男女を気にしている素振りはない。死角ギリギリの位置、カメラの真下に立っているようだ。

 重ねた手の甲とスーツの布地、靴が見えている。

 男女はなおも喚き散らし、男が女をどつくたびに、女がよろけて壁にぶつかる。カメラが揺れる。男の暴力は激しさを増した。

 危険だ、と思った。

 男は大振りに、女を殴りはじめた。タコ殴りの言葉通り、餅つきさながらの容赦のなさだ。

 せめてタキザワさんが巻きこまれませんように、と他人事のように祈ったのは、この手の事案は日常茶飯事だからだ。昨今のこの国の趨勢を憂いたくもなる。

 ようやく警備員が到着したようだ。つぎの階のエレベータ扉まえで待機している。

 エレベータが止まり、扉が開く。

 映像の中に警備員たちの姿が映りこみ、女が連れ出され、男が抵抗した。ほかの警備員に救援を要請し、現場に急行するように指示する。

 そこでふと違和感を覚える。

 目を離したつもりはなかった。

 タキザワさんの姿が忽然と消えていた。

 どこ行った。

 エレベータから出たのは、警備員とそれに連れ出された女だけだ。そのときにタキザワさんもいっしょに出たのだろうか。

 いや、そんな様子はなかった。仮にそうであっても、警備員が一般客であるタキザワさんに目もくれずに、保護しようともせず、放置するだろうか。

 暴力行為の伴う事案発生時には、目撃者からの証言をとることが推奨されている。同じエレベータ内にいたはずのタキザワさんを、警備員が見過ごすとは思えない。せめて一言、お騒がせしましたと謝罪を口にするのが通例だ。

 だが警備員にそうした素振りをとった様子はなかった。

 余裕がなかっただけかもしれない。

 じぶんも騒動に目を奪われて、視点が限定されていた。意識の壇上からタキザワさんの存在が抜け落ちたのは事実だ。

 きっと見逃してしまっただけなのだろう、と思うことにした。

 が、私はそのときべつの区画を映したカメラ映像にて、無人のフロアの真ん中で立ち往生する男の姿を目に捉えた。

 スーツ姿のその男は、なぜか後ろ向きのまま、誰にともなく手を振っていた。

 男の視線方向には誰もいない。

 ふしぎなのは、男の手のひらがカメラを向いているように見えたことで、その後、そこを団体客が横切るまでタキザワさんと見られる男性はずっと手を振りつづけていた。




【手を振るひと】

(未推敲)


 居酒屋の客が怪談を話していた。座敷にて三人の男が代わる代わる、一押しの持ちネタを披露していく。百物語だなんだと和気藹々としていたのは最初ばかりで、いったん語りはじめると空気が変わった。

 なかなかの語り口だ。ほかの客まで彼らの語りに耳を欹てている様子がありありと伝わった。

 僕はというと、仕事中ゆえにいちいち厨房に引っ込まなくてはならず、できればずっと聞いていたかった。

 三人がそれぞれ一話ずつ語り終え、二巡目に入ったところで、カメラに手を振る男の話がでた。

 初めて耳にした怪談話だったが、ふとある光景を思いだした。大学生に入学したてのころのことだ。

 当時、と言ってもいまから四年前のことだが、実家を離れ、一人暮らしをはじめた僕はスケートボードにはまっていた。

 講義が終わってから公園に行き、終電になるまで滑りとおした。公園は広く、スケーターが多く集まった。顔見知りが増え、日増しに熱中した。

 深夜でも一人で練習することが多くなり、始発の電車を見て、さて帰るか、と切りあげることもすくなくなかった。

 スケーターが集まると、みな替わりばんこに滑り合うので、じぶんだけで黙々練習する時間が減る。

 そのため、顔見知りがみな姿を消す深夜が一番練習に身が入った。

 その人を初めて見たときの記憶はない。

 いつの間にか意識するようになっていた。

 公園のすぐそばに高架橋が延びている。夜は電車が走るたびに、光の帯が闇を泳いだ。

 終電はとくに乗客がおらず、車内はガラガラだ。

 いつも決まって、同じ車両の乗車口に女性が立っていた。

 髪が長く、フリルのついたドレスちっくな服装に身を包んでみえた。ロリータ系とまではいかないが、遠目からでもそこそこ目立つ格好だったこともあり、いつもふと終電を見あげると、車窓越しにその姿が目についた。

 とくに気にしてはいなかった。

 だが一年も公園に通っていると、否応なく毎回のように終電のなかに彼女の姿を見つけるので、かってに顔見知りのような感覚になっていた。

 彼女が終電のなかに立っているだけで、なんだか同士がいるような心持ちになった。彼女もきっと仕事か何かに励んで、この時間帯に帰っているのだな。

 そう思えばこそ、夜の公園であっても独りではないのだとじぶんを奮い立たせることができた。

 いつだったか見上げていると電車のなかの彼女と目が合った気がした。しぜんと手を振ると、彼女もそれに応じたように手を胸元の高さまで掲げ、横に振った。子どもが野良猫にバイバイとやるような所作で、高架線の斜め下、公園からでもよく見えた。

 それからというもの、終電のなかに彼女の姿を捉えるたびに、どちらからともなく手を振り合うようになった。

 たいがいは彼女のほうで先に手を振り、僕が後出しでそれに応じた。

 たった数秒の縁を保ちたいがために、疲れた身体に鞭を打って深夜の公園に出向いたことは数知れない。ほとんど目的は、じぶんがスケボーで頑張る姿を彼女に見てもらわんとする下心で、スケボーの練習のためとは口が裂けても言えないくらいになっていた。

 年末のことだ。

 雪の積もらない都市ゆえに冬でもスケボーはできる。だが忘年会とあっては参加せずにはいられない。

 公園での練習を夕方で切りあげ、終電まで仲間内で飲んだ。

 ほかの面々は朝まで飲むと意気込んでいたが、付き合いきれずに終電で帰ることにした。

 ひょっとしたら彼女がいるかもしれない、と淡い期待が頭の隅になかったとは言えない。

 どことなく心を弾ませて終電に乗りこんだが、彼女のいるはずの車両は無人だった。

 いないのか。

 肩を落としたが、それはそうだよな、と思い直した。じぶんだって飲み会に参加し、公園にはいないのだ。彼女にだって予定はあるだろうし、これまでだって毎日必ず終電に乗っていたわけではないはずだ。

 電車が公園に差し掛かる。

 こちらからはいったいどんなふうに見えていたのだろう、と気になり、彼女の指定場所とも言うべき昇降口のまえに立った。

 何も見えなかった。

 真っ暗な車窓に、じぶんの顔が映っているだけだ。公園どころか、夜景すら見えない。

 公園の街灯は電車からするとほぼ真下に位置した。スケボーの練習場所も、電車内の明るさに比べればほとんど闇に等しい。

 窓は鏡のように車内だけを映し、一人ぽつねんと立ち尽くすじぶんの顔を反射している。

 試しに手を振ってみる。

 滑稽なほどじぶんの姿しか見えない。

 夜の鏡と化した車窓は、背後のガラスに映るじぶんの後ろ姿までハッキリと浮かべていた。

 元よりの駅に到着するまで、けっきょく車両に乗客は僕だけだった。

 電車から降り、いったいなぜ、と思った。

 彼女はいったいなぜ、鏡のような闇に向かって手を振っていたのか。遠目からでも分かるくらいの笑みを浮かべて、親しげに、まるで意思を疎通させるかのように。

 正月が終わってから公園通いを再開させたが、日が暮れたら帰るようになった。終電まで残ることは稀になり、高架橋も見あげなくなった。

 ときおり電車が視界に入ったが、帰宅ラッシュ時の電車は混雑しており、そのなかに彼女の姿を見つけることはできなかった。

 何度か終電の電車にも乗ったが、例の車両にそれらしき女性の姿を見たことはなかったし、その車両に乗ることもなかった。

 大学卒業を機にスケボーからはすっかり遠のいた。例の女性の存在も記憶の底に沈んだ。

 居酒屋で社員として働いた。

 客の怪談を耳にし、終電の車内から手を振る女の存在を思いだした。客の語った怪談は、監視カメラに映りこむふしぎな中年男性の話だったが、なんとなく不気味さの方向が似ているように感じた。

 彼ら三人は酒と焼き鳥のお代わりを注文した。座敷に注文の品を届けにいくついでに、短くまとめた例の女性の話を聞かせようと思ったのだが、おうこれこれ、と皿を受け取る二人の男に交じって、無言でこちらを見詰める男が、胸元に掲げた手を細かく左右に振ったので、僕は言おうとしていた言葉を飲みこみ、厨房へと引っこんだ。

 座敷からはつぎの怪談が聞こえはじめたが、僕は努めて耳に留めないように、ほかの客の対応に勤しんだ。

 腕に浮いた鳥肌が、なぜかなかなか消えてくれなかったので、僕は、冷房の設定温度を二度あげた。




【路地裏の人】

(未推敲)


 ホラー作家としてデビューしたはよかったが、年がら年中、怪奇現象 をこねくり回すので、類は友を呼ぶではないが、私もそれなりに道理に合わない事象に遭遇することがある。

 古い家屋に一人で暮らしているため、じぶんの立てる物音以外がするわけがないのだが、昼夜問わず、まるで子どもの駆けずりまわるような音が響く。

 トコトコと細かく連続して鳴るため、家鳴りではない。猫でも飼っていれば説明つくが、動物の類は勝っていない。ネズミがでるということもない。

 日増しに頻繁に聞こえるようになり、さすがに気味がわるくなったので、神社にておふだを購入して、家の柱に貼るようにした。

 音はやんだが、するとこんどは庭にてせっかく育てていた草花が枯れはじめた。夜中に、明らかに犬猫よりも背丈のある何かが歩き回るような気配がある。

 狭い空間を無理くり通るからなのか、木の枝はパキポキと折れ、風もないのに葉が揺れた。

 おふだの効力がどこまで効くのかは判然としないが、植木の表面におふだを貼り、それを庭の四方に置いた。

 以降、謎の物音は聞かずにいるが、最近になって近所で不幸が相次いでいるようだ。葬式の看板を見かけるし、知らぬ間に同じ地域の家屋が解体されて更地になっていたり、土砂崩れがあったりする。土砂崩れでは数名の方が亡くなったそうだ。

 夫が入院しちゃってねぇ、などと井戸端会議で囁き合うご婦人の姿も見かけた。

 たまたまだろう、と科学的思考で判断を逞しくしているが、すこしの罪悪感が湧かないわけではない。

 夜、夏の束の間の涼しさのなか、静寂に浸ってカタカタと文字を並べる。

 日課だ。

 居間の窓が路地裏に面しており、深夜だというのに、人のささめき声が聞こえることもある。別段ふしぎなことはないのだが、どうにも一人でしゃべっているらしい。昨今、通話しながらの歩行は珍しくない。街灯も備わっておらず、一本道のうえ、薄暗いので、防犯の意味合いで誰かと通話しているのかもしれない。

 これといって気に留めることもないのだが、時間帯が時間帯なだけに、やけに響いて、意識を持っていかれるのだ。

 週に三日は耳にする。どうやら同じ人物が、同じ時刻に家の横を通り抜けていくらしい。

 声や、足音から若い女性のようだと推察される。かかとの高い靴を履いているようだ。声音も鈴の音のようで、相談事をしているのかぼそぼそとした口吻で相槌らしきものを打っている。

 すぐに遠のくので、これといって気にかけはしなかったのだが、足音と声がすると、ああまたあのひとだ、と思い、もうそんな時刻なのか、と背伸びをする習慣がついた。

 だが先日、そのことを遊びにきた友人に話したところ、

「それは妙だな」彼は言った。「そこの道は一本道だろう」

「そうだけど」

「垣根と塀ばかりで、脇道もないから住人が通路にでてくることもない」

「まあ、そうだね」基本は通り抜けるだけの道だ。

「君の言う時刻とは深夜のことだろう」

「うん。昼間ではないよ」

「ならばやはりおかしい。その女性とやらは、そこの道を向こうからそっちに向かっていくわけだろう」

 友人は壁の向こうをゆび差し、それから玄関のある表通りのほうを示した。

「どこが変かな」私は友人にカステラをだしてやった。定期的に長崎の親戚が送ってきてくれるのだ。

「君は出不精だし、その時間帯はいつも家にいるわけだから知らんのだろうが、ここ半年あまりはその時間帯、そこの道は通行止めになっているはずだ」

「通行止め? なんで」

「土砂崩れがあったのは知っているだろ」

「ああ、あったね。何人か巻き込まれて亡くなってしまったって」

「その修復工事がまだ終わっていないのだ。大きな落石がその後も立てつづけにあったらしくてな。もちろん君は知っているだろうが」

「いや、初耳だ」

 友人はあからさまに、これだから君は、と言いたげな目で私を見た。

「工事は夜に行われるから、日中は通行規制はないが、夜になればそこの道のさきは全面通行止めだ。向こうから人が入ってこられない以上、この道を通る者はないはずだ」

「でもいるのだから、どこかしらから入ってきているんだろう。すくなくとも私は嘘を吐いていないし、たぶん幻聴の類でもないよ」

「断言するには怪しいところだが、百歩譲ってそうだとしてもやはりおかしい」

「だから何がさ」私は友人の語調のつよさに反感を覚えた。そんなに責め立てるように言わなくてもいいではないか、と内心で憤っていたのだが、友人はカステラを鷲掴みにすると一口でたいらげた。

 咀嚼しきらぬままに、聞こえるわけがないだろ、と言った。

「外出ていっぺんじっくり見てみろ。それでも作家か」

 売り言葉に買い言葉ではないが、私は無言で席を立ち、玄関から表通りにでて、路地裏に入った。

 人が一人通れるくらいの狭さだ。すこし進むと、我が家の居間の窓のまえにくる。

 私は、はっとした。

 足場は砂利道だった。塗装されておらず、細かな小石がびっしりと道を覆っている。

 かかとの高い靴で歩くには不向きなうえ、カツカツと足音が鳴るはずもなかった。

 ひょっとしたら、声も届かないのではないか。

 私はじぶんの仮説を検証すべく、ポケットからメディア端末を取りだし、友人に電波を飛ばした。

 繋がらなかった。

 圏外だ。

 あり得るだろうか、電波が届かないなどということが。

 家の中から、どうだ、と友人の声が聞こえた。

 私は返事をせずに玄関まで戻り、居間に立つ。

「で」友人は爪楊枝で口の中を突いている。「どうだった」

「砂利道だった」

「だろ」

「それに、圏外で電波も届かない」

「ほう、それは初耳だな。だが何もふしぎじゃない。土砂崩れのあった地点に、基地局があったんだが、それごと倒れたらしいからな」

「そう、なのか」

「いよいよ君の話の信憑性が問われるな」友人はあぐらを崩し、片膝を立てた。「夜な夜な、いったい何を聞いていた」

「しかし」

 反駁したかった。たしかに女性らしき人物が深夜に窓のそとの道を通っていた。カツカツと足音を響かせ、誰かと話すようにしゃべっていた。

 だが砂利道では、かような足音は響かない。ジャリジャリともっと大きく独特な音がするはずだ。

 壁は声こそ通すが、しかし路地裏は圏外だ。仮に真実に誰かがそこを通っていたとして、その人物はいったい何をしゃべっていたのか。

 電波の届かない通路で、いったいどんな独り言を唱えていたのか。

 深刻そうにぼそぼそと話す女性の声が、波紋を立てるように脳裏に広がる。

 友人はじぶんのメディア端末を操作し、

「関係ないとは思うが」とある記事を表示する。「土砂崩れの犠牲者、まだ一人見つかっていないらしいぞ」

 記事には、被害者三名の名前と年齢が並んでいる。遺体が見つかっていない一人は女性で、私よりも歳が下だった。

 友人の言葉に心を乱されたわけではないのだが、夜の作業時には耳にイヤホンをして、音楽を聴くようにした。例の時刻、窓のそとを何かが通る気配を感じるが、単なる私の勘違いだと思うことにしている。




【スキスキだって愛してる】

(未推敲)


 何か怖い話ない、ってさっき訊いてたでしょ。家に着いてから思いだしたからご報告いたします。

 あのね、わたしむかし、ちいさいころ、公園で仲良くなった子がいてね。三歳くらい年上のお姉さんで、たぶん中学生だったのかな。わたしが四年生とかそれくらいの時期で、二人して内緒で野良猫を飼ってたりして。

 お小遣いなんてすぐになくなっちゃうから餌なんて買えないし、だから家からソーセージとか持ち寄って食べさせてたのね。

 でも野良猫だし、ときどきいなくなったりして。

 猫ちゃんたちにも友達の輪みたいなのがあるみたいで、そこが餌場って知れ渡ったのか、猫ちゃんはつぎからつぎに現れたから、わたしとお姉さんは二人で毎日のように公園で待ち合わせて、猫ちゃんたち相手にわたしたちだけの王国をつくって遊んでたのね。

 でもあるとき公園に行ったらパトカーが止まっていて、どうしたんだろう、と思って眺めていたら、警察のひとが、危ないからきょうは使えないよ、って言って。

 でも猫ちゃんたちに餌をあげなきゃいけなからそのことを伝えたら、警察のひとの目つきが変わって、そこからは事情聴取だよね。住所聞かれて、親にまで話がいって。

 で、それから分かったことなんだけど、近所で猫がたくさん死んでて、どうやら毒だろうって。

 なかには首とかお腹とかが切り開かれてた猫ちゃんたちもいたみたいで、調査してたらあの公園に行きついたんだって。

 で、もうここまで話したら分かると思うけど、わたしといっしょにいたお姉さん、そのひとが猫に毒をあげてて、殺したり、解剖したりしてたんだって。

 でね。

 そのお姉さんはもちろん警察に捕まったんだけど、そのコの部屋から、殺虫剤とか塩素系の洗剤とか、明らかに人間でも死んじゃうような量の毒が見つかって、ちょうど一口で食べられるくらいの量に調合されたりしてて、ひょっとしたらあとちょっと捕まるのが遅かったら誰かにそれを食べさせてたんじゃないかって、これはわたしがかってに思っただけなんだけど、でもそう言えば、と思いだしたことがあって。

 お姉さん、猫をかわいがるときに執拗に、頭を撫でてて、かわいいね、かわいいね、って言ってたんだけど、そう言えばわたしにも同じように頭を撫でて、かわいいかわいいって褒めてくれてたなって思って。

 きみがお店でおともだちに怖い話をねだっていたのを聞いて思いだしたので、ひょっとしたらお役に立てるかな、と思って送ります。

 あ、このあいだ、なんでか通信拒否されてたので、新しいアカウントから失礼するね。

 そうそう、きょうの髪型もかわいかったと思います。わたしも真似してみたよ。画像送るね。

 ちょうどきみの家のまえで撮ったから、すこし暗くて分かりにくいかもしれないけど、わたしってほら、写真映りわるいでしょ。だから結果オーライってことで。

 暑い日がつづきますね。

 どうぞ体調お気をつけてください。

 暑中見舞いのお饅頭を送りましたので、ご家族といっしょに食べてね。

 防腐剤も入ってるし、腐っちゃう前にちゃんと見つけてあげられると思うので。

 ずっと見てるから安心してね。

 長々とごめんね。 

 またね。

 ばいばい。




【出口はいずこに】

(未推敲)


 悪霊退散、と彼女が唱える。

 鱗が剥がれ落ちるように私の身体が砕けはじめる。瘡蓋を剥がすような痛痒があり、消失の予感をつよく抱きながら、なぜこんな目に、と三か月前を思いだしている。

 その日、私はひどく疲れており、終電を待つあいだプラットホームのベンチで船を漕いでいた。ネクタイを解き、顎を撫でた。無意識からの所作だ。毎朝剃っているのにヒゲはカビのように夜には生え揃う。

 夜食にとおにぎりを買ったが口をつけずにいた。

 駅構内に電車が停まったので、寝ぼけ目をこすりながら乗り込んだが、結果から言うとそれは終電ではなかった。

 気づいたときには扉が閉まり、車両が発車していた。

 車内に人はいなかった。代わりに座席には黒い人影がまばらに腰掛けていた。モヤのように座席や窓が透けて見えており、人間でないのは一目瞭然だ。

 ほかの車両に移ろうとしたが、連結部の向こう側は暗闇で、入っていく勇気はなかった。車窓の向こうには見知らぬ田園風景が広がっており、ふしぎなことに空には無数の墓がさかさまに埋め尽くしていた。

 この世ではない。そう思った。

 数十分もすると電車は見覚えのある駅に停まった。

 私が先刻までうたた寝をしていた駅だ。ぐるっと回って戻ってきたのだろうか。

 だがおかしい。妙に明るいのだ。夜明けまではまだ時間があったはずだ。現に時計は二時を指している。街灯もともって入るようだが、辺りは昼のように眩かった。

 ベンチには未開封のおにぎりがぽつねんと置き去りにされていた。

 私は電車を降りた。

 おそらくそれがいけなかった。

 その日を境に、私は誰とも接触できなくなった。

 誰からも視認されることなく、触れあうこともできない。

 物に触れることもできず、気を抜くと地面にすら膝まで沈んだ。

 私から相手を見ることはできる。道には通行人が歩いているし、バスや電車のなかにも人がいる。ふつうの生きた人間だ。家屋のなかを覗けば、相手に気づかれずに人々の私生活を目にできた。

 腹は減らないし、眠くもならない。怪我もしないし、疲れない。

 どうやら私は幽霊みたいなものになってしまったらしい。

 みなが活発に動きだす時刻、本来ならば昼のはずのその時間帯はひどく辺りが暗く、足元すら覚束ない。

 物に触れられないので転んだり、ぶつかったりする不安はないが、何も見えないのでいつの間にか地中深くに沈んでしまっているかもしれないと思うと、その場から動くのにもひどく躊躇した。

 昼はできるだけその場を動かず、じっとしていた。

 眠ることができないので、ひたすらになぜこんな目にと考えた。夜になり辺りが眩い光に包まれると、知り合いの動向をつぶさに追った。それをつきまとったと言ってもいい。

 友人知人じぶんの家族の一日から数日を影のようについて回り、垣間見た。親しいはずの者たちの知られざる姿を目の当たりにし、失望したり、却って親愛の念を深めたりした。

 しかし一向に、私の状況は好転しなかった。

 打開策が見当たらない。

 なぜこんなことになったのか、ときっかけを探すうちに、当然というべきか、例の不気味な電車の存在に回帰する。

 何度も考えても、やはりあの電車にふたたび乗り込み、同じ体験を重ねるしかないように思えた。

 鏡の世界に迷い込んだようなものだ。もういちど鏡をくぐるほかに元の状態に戻ることはできない。

 そうと思い、駅に居座ったが、何日経っても例の電車は現れなかった。

 ひょっとしたら真っ暗闇の昼のうちに駅に停車しているのかもしれないが、視えないうえに何も感じられないのでは打つ手がない。

 昼の闇は音すらもない世界であった。

 私はまた駅を離れ、世界を見て回るようになった。

 絶望に慣れるのに時間はかからない。

 興味深い人間を見つけるたびに、私はその人物の痴態を好んで垣間見るべくつきまとった。私生活を盗み見、私はおまえの秘密を知っているぞ、と誰に誇示するでもなく吠えて、消え入りそうな自尊心を鼓舞した。

 何十年も経ったような錯覚に陥るが、私がこの状態になってからまだ二月半も経っていなかった。いったいいつまでこの状態がつづくのか、と定期的に寄せては返す波のように絶望が顔を覗かせた。

 私は滅びることもできないのかもしれなかった。それは一つの希望のようでもあり、日に日にヒビ割れていく巨大な卵のようでもあった。すっかり割れてしまったとき、そこから何が孵るのかは、漠然とした恐怖としてしか感じられなかった。消えぬ絶望に名はあるのだろうか、とそんなことを考えた。

 私はひとまず恋をすることにした。

 存在しつづける意味を手っ取り早くつくりたかった。

 私はとある女性に目をつけた。

 彼女は毎朝ジョギングをし、仕事に出かけ、夜まで働くとカラオケ店に一人で入り、ひたすら発声練習を繰り返した。

 声優を目指しているらしかった。

 ひたむきな姿に胸を打たれた。オーディションには毎月のように参加し、そして落ちていた。

 自作のオーディオブックをつくり、それをインターネット上に載せていた。出来はいいように思えたが、おそらくこれくらいの力量の声優は吐いて捨てるほどにいるのだろうな、とも思えた。

 夢を応援するというよりかは、叶うかも分からない理想に向かって、変わり映えのない日々に抗いつづける彼女に、活路が見出せるかもしれないとの予感があった。

 他力本願には違いない。

 彼女ですら夢を叶えられたならば、じぶんにだってできるはずだ、きっと元の状態に戻れるだろう、との浅い論理があるばかりだ。

 到底到達不可能な未来への道程を他人に託しているにすぎない。

 解かってはいたが、ではほかに何ができるのかと問われても、私には答えられない。

 他者の生活を盗み見るほかにいったい何ができるだろう。

 そうした行為を最低だと思う意識すらとっくに失くしていた。

 十日ほど前だったろうか。

 あるときから彼女が頻繁に、私のほうを向くようになった。家のなかにいるときにそれは顕著だった。

 彼女がシャワーを浴びているとき、トイレに入っているとき、友人の近況を読んで笑っているとき、ベッドのなかで孤独なじぶんを慰めているとき、ふとした瞬間に、私の立っている方向に目をやるのだった。

 こわばった表情からは、私への怯えが見て取れた。

 心外だった。

 そんなつもりはなかった。

 私はできるだけ彼女の邪魔にならぬように存在を掠め、ときに物陰に身を隠した。

 本来ならば隠れる必要などないはずなのだが、彼女にはどうやら私が感じられるようだった。

 誰からも認知されない私にとってそれはむしろ喜ばしい反応のはずだったが、私には彼女に対するうしろめたさがあった。

 じぶんの境遇からの打開策よりも、そのときは彼女に姿を認められ、拒まれるのが怖かった。

 何より、彼女の生活を覗けなくなるのが嫌だった。

 さもしい欲求に私は、人としての輪郭をすっかり脱ぎ捨ててしまっていたのかもしれない。

 彼女はそれからというもの、ちょくちょくと誰かと連絡を取り合うようになった。内容は、不気味な視線と誰かが部屋にいるような違和感についてだった。

 そして、きのうのことだ。

 彼女は友人を部屋に招いた。外は夜の光に満ちていた。

 ご友人は部屋に入るなり、ぐるっと見渡すと、いちど部屋の明かりを消した。

 通常の人間ならば視界は塞がれたも同然だった。

 しかし私をしかと見た。

 その人は暗がりのなかで、私に目を留め、視軸を合わせて、ぴったりと私の動きに合わせて、私を目で追った。

 視えているのだ。

 私は歓喜した。事情を伝えようと、三か月ぶりに発声したが、掠れた声しかでず、そもそもなんと言っていいのか、言葉すらろくに思いつかなかった。

 私がまごついているあいだに、彼女は懐からちいさな鍵爪のような道具を取りだし、突きだした。

「悪霊退散」

 魔除けだった。

 鍵爪のような道具を中心に、渦のような深淵がドライヤーに浮くピンポン玉のように左右に細かく微動していた。

 私の表皮がぱらぱらと剥がれ、浮き、霧消する。

 開いた間隙の奥には何もなく、私は散り散りに綻び、空虚に還るばかりとなる。

 私を「魔」扱いし、厄払いしたご友人の背後で、家主たる彼女が心底怯えきっていた。

 なるほど、と思う。

 たしかにこれでは悪霊だ。

 退散するのが筋だろう。ひどく穏やかな心地のまま、私はうたた寝をするように意識を拡散し、夜の眩い光のなかへと溶けこませる。

 夢と現の境目がほつれ、同化し、いっしょくたとなる。

 鉄の車輪がレールを引っ掻く音が耳をつんざく。

 飛び起きると、電車が目のまえに停まっていた。辺りを見渡し、駅だと知る。

 喉がひどく乾いていた。

 後部車両から車掌が、乗らないんですか、と声を張った。

「の、乗ります」

 掠れた声で応じた。すばやく立ちあがると、解けたネクタイが床に転がった。振り返ると、ベンチにはおにぎりが置いてあった。

 慌てて二つともを掴み取り、電車に駆けこむ。

 扉の閉まる音がする。

 重力の変遷を感じ、不規則な揺れに身を委ねる。

 車内は無人だ。

 座席に腰を掛け、息を吐く。

 無意識からおにぎりの包装を破っていた。一口齧ってから、あ、と気づく。

 が、ときすでに遅しだ。

 おえ、とえずき、吐きだしている。

 おにぎりの表面にはびっしりとカビが生えていた。ばかりか、お米も具もカピカピに干からびている。

 しばらく手のひらのうえのおにぎりのミイラを眺めた。

 それからふと思い立ち、メディア端末で、とある声優志望の子の名前を検索する。SNSでのつぶやきがヒットした。

 オーディションに受かりました、とある。

 日付は最新のもので、私は意味もなくほっとし、胸にじんわりと温かいものが込みあがるのを感じた。

 私は誰にともなくこうべを垂れ、ありがとうございました、と報告する。「無事に退散できました」

 電車は始発だったようで、窓のそとに、朝陽の光芒が伸びている。




【人気の部屋】

(未推敲)


 大学で仲良くなった友人が、すこし変わったやつだった。頻繁に住居を引っ越すのだ。

 彼は進学してからの三年のあいだに優に十回以上も住処を移している。ほとんど三か月に一度の周期で引っ越すので、周囲の者はふしぎがっていた。

 あるとき僕は彼の引っ越し先の共通点を見つけた。

 彼の歴代の部屋はどれも事故物件ばかりだったのだ。

 僕も卒業を期に引っ越そうと思っていたので、いまのうちからよい物件がないかな、と不動産サイトを見て回っていたときにそのことに気づいた。

 友人とは一週間にいちどは酒を飲む仲だった。だが彼はしょっちゅう引っ越すので、いつ出向いても部屋に荷物がすくなく、電化製品もないとくれば食料もろくにないため、いつもウチが飲み場になっていた。

 お酒の代金は毎回彼が支払ってくれるので、これといって文句はないが、彼の部屋が事故物件だったならば初めからそうと教えて欲しかった。引っ越すたびに、どんな部屋かを見に、一度は宿泊していた。

 引っ越す部屋の共通項をじかに指摘し、そうならそうと教えといてくれ、と不平を鳴らすと、

「そういうの気にするタイプだったっけ」彼は意外そうに言った。

「するだろふつう。気味がわるい。というか、そうだよ。いつもどことなく居心地がよくないと思ってたんだ、どの部屋も。つぎからは誰も死んでいない家に引っ越してくれ」

「家賃が安くて助かるんだけどなぁ」

「お金の問題じゃないだろう」

「三か月以内に引っ越すと、お金までもらえてね」

「お金の問題だったのか」

 そういうバイトがあることは知っていた。「それってあれか。いちど人が住むと、告知義務がなくなるからってそういう」

「そうそう」

 事故物件だと告知したのでは住みたがる者が減る。だがいちど人が住めば、告知せずとも法律違反とはならなくなる。

「でもだからってわざわざさあ」後ろ手に体重を支え、首を回す。

「いいんだ。私はこれでけっこう寂しがり屋だから」

「だからなんだ」

「誰かがいる部屋のほうがいい」

 彼の言葉に、首筋がぞわっとした。「やめろよ、そういうこと言うの」

「そういうってなに」

「気味のわるいこと」

「本心なんだけどな」

「一人暮らしだろうがおまえ。何が、誰かいるほうがいい、だ。幽霊とおしゃべりでもしてるってか」

「しゃべりはしないけど、そこにいてくれるだけで孤独が和らぐってことはあると思う」

「猫でも飼えっての」

「お金に余裕があればね」

 堂々巡りだ。すくなくとも彼は引っ越し先について困ってはいない。どちらかと言えば、事故物件に住まうことを好ましく思っていることは伝わった。

 お金のうえでも得をすると言われてしまえば、無理に止めるのも野暮だろう。孤独が埋まるうんぬんは言葉の綾だと見做しておく。

 友人がこれ以上ヘンな道に反れないように、釘を打っておこうと思った。

 言葉を選びながら、

「どこに住もうがかってだが」と口にする。「寂しいなら僕がいるだろ」

 こんな部屋でよければいつきてくれてもいいから、と言い添えると、気恥ずかしさに首筋が熱くなった。

「ありがとう。そうだね、そうするよ」友人は部屋を見渡す。「この部屋に住んでから何年になるっけ」

「もう三年になる。卒業するまではここにいる。引っ越すつもりはないよ」

「お気に入りってわけだ」

「それはおまえもだろ」僕はちゃぶ台のしたで友人の膝を蹴った。「家賃を半分払ってくれるんなら住まわせてやってもいいけど」これは半分本気で提案する。

「それもアリだけど、でもふしぎだよね。ここは気味わるくはないんだ?」

「なんでだよ」

 友人は答えずに、じっとこちらの顔を、いや、肩越しに背後を見詰めた。

「な、なんだよ」

 友人はにっこり笑うと、ここはいいよ、とビールを一息に飲み干す。

「すごく、にぎやかで」




【依頼人は語る】

(未推敲)


 兄は去年の冬に事故で亡くなりました。よくある話と言えばそうなのかもしれませんが、兄のアカウント、未だに更新されていて。

 もちろん幽霊とかではなく、誰かが兄のアカウントにログインして更新しているだけだとは思うんです。ひょっとしたら、兄が生きていたころから中のひとが変わっていて、誰かほかの仲良いひとに任せていただけかもしれませんし。

 ただ、フォローしているので内容が流れてくるんですね。で、さいきん変だな、と思ったのが、バイクの写真が投稿されるようになっていて。

 ええ、兄の乗っていたバイクだと思います。すくなくとも同種のバイクです。

 ただ、どうにも過去の写真を載せているだけのようで。

 それはそうでしょう。

 兄のバイクはとっくに廃車になってこの世に残ってはいませんので。

 それだけに、やっぱり妙に思ってしまって。

 だっておかしいですよね。

 兄のバイクの写真を投稿できるってことは、兄が生きているあいだにその写真を共有していたってことですよね。

 でも、兄と仲の良かった友人たちに訊いてみても、写真を送られてきたり、共有したことはなかったって。

 兄の友人の一人に頼んで、兄の恋人にも訊いてもらったんですが、そういったことはなかったみたいで。

 本当にバイクを大切にしていて、人に自慢するようなタイプではなかったんです。

 いったい誰が兄のアカウントを使っているのか知らないようでした。中には怒っている人もいました。死者を弄んでいると言って。

 ああ、怒っていいことなんだな、とそのときに思って、こうしてご相談することにしたってのもあるんですが。

 はい、ええ。

 写真の話ですけど、妙というのそのことです。

 兄以外のの人間が仮に、兄の死後に写真を手に入れられるとすれば、兄のメディア端末からだけだと思います。

 ですが兄のメディア端末は行方不明なんです。

 見つかっていないんです。

 事故現場からは。

 そうです。

 兄はバイク事故で亡くなりました。

 バイクは大破し、兄の身体も見れたものではなかったと父が言っていました。

 腕や脚はもげて、今でも片腕が見つかっていません。

 メディア端末も現場からは見つからなかったと。

 元から持ち歩いていなかったのか、そうでないのかは分かりません。

 ただ、もしメディア端末を手に入れた者がいたとしても、指紋認証を突破できたとは思えません。

 ひょっとしたら、とどうしても考えてしまうんです。

 誰かが事故現場からメディア端末ごと兄の腕を持ち去って、セキュリティを解除して、かってに使っているんじゃないかって。

 中身のデータを漁って、兄のふりをしているんじゃないかって。

 でも、だとするとその人は、よっぽど兄への執着があった人なんじゃないかと思えて。

 そんな人が偶然、兄の事故現場に居合わせて、兄を助けようともせず、メディア端末と腕を持ち去ったりするだろうかとも考えて。

 まったくの私の妄想だとは思います。

 そうは思うのですが、ここまで考えてしまったら、こうも考えてしまうじゃないですか。

 ひょっとしたら、兄は事故死ではなく、その誰かに殺されたんじゃないか。

 バイクに細工をされて、事故死に見せかけ、殺されたんじゃないかって。

 だとすればすべて辻褄が合います。

 兄を殺した人が、兄のメディア端末と腕を持ち去って、いまもSNS上で兄のふりをして、兄に成り代わって、投稿を繰り返していることも、なんとなくですが、納得はできます。

 理解はできませんが、納得はできる気がするんです。

 どうか真相を突き止めて欲しいんです。

 兄のアカウントを誰がかってに使っているのか。

 そのひとはどうして、手に入るはずのない兄のバイクの写真を持っているのか。

 兄のメディア端末を持っているからだとして、いったいどこで手に入れて、指紋認証はどうやって解除したのか。

 どうかお願いします。

 真相を、突き止めてください。

 いま話した内容が私の妄想で、真相が別にあってもそれはそれで構いません。

 どうか、どうか。

 兄が本当に事故死だったのか、兄のふりをしている人物が誰なのか、どうかどうか、真実を、私に。




【夜遊びは弾む】


 深夜零時を回って帰宅の途につくことは珍しくないが、この道を行くのは久方ぶりのことだった。

 数日前に殺傷事件があり、いつもの道が通行止めだったため、致し方なく道を変えた。物騒な世の中になったものだ。しかし却ってこちらは近道だ。

 数年ぶりに通ったが、記憶にある景観よりも華やいで映った。道路が張りかえられ、新しい民家が増えたのか、左右に見える壁や庭が新しい。ときおり古い民家の壁や垣根が混じるので、モザイクの迷宮を歩いている気分にもなる。

 一本道だ。

 電灯が距離を置いて道のうねりを描いている。

 三つ先の電灯の下に何かが動いた。

 歩を止め、目を凝らす。

 どうやら人だ、と判るが、警戒心は却って強まる。

 ゆっくりと歩を進め、街灯を一本通り過ぎたところで、ああ、と肩の力が抜ける。

 少年だ。

 中学生くらいだろう。

 Tシャツに半ズボン、帽子にリュックといったいで立ちだ。

 いまは夏休みのはずだ。

 夜中に家を抜けだしてみたくなる気持ちは解らないではなかった。だがいまは深夜だ。時間帯が時間帯なだけに、一言声をかけたほうがよいだろう、と考えた。

 それがおとなの役割だ。

 きっとそうだ。

 二本目の電灯の下を抜け、三本目の電灯に近づく。じぶんの影が足元から薄れ、後方に濃く伸びはじめた地点から声を張った。

「こんなところでどうしたの。もうずいぶん遅い時間だけど」

 少年は虫でも探すように中腰で地面に目を凝らしていた。

「何か落としたのかい」

 コンタクトレンズでも探しているのかと思った。

「人を」

 少年の声は幼かった。「人を探しています」

「誰かとはぐれたのかい」

「ううん」

「誰を探しているの。もし迷子なら交番まで案内してあげるけど」

「そういうのじゃないので」

 少年は背を起こし、ゆっくりと振り返った。

 帽子の下から覗く目はくりりとしており、唇は鼻の下にサクランボのようにくっついている。愛らしい顔つきだ。利発そうな眼差しをしているが、全体的に痩せた印象がある。

「人を探しています」少年は繰り返した。

 内心、私はびくついていた。かといって、目のまえの少年には実態があり、明らかに生きている人間だ。幽霊やおばけの類ではない。それは断言できた。

 街灯の下に立つと、明かりに包まれる。いっとき濃くなった恐怖心も薄れた。

「誰かと待ち合わせでもしているのかな。もうすこしあっちに行くとコンビニがあるし、ここは人通りもすくないし、ときどき車も通るから一人じゃ危ないよ」

「お兄さんはどうして徒歩なんですか」

「どうしてって」

「運転しないんですか」

「免許はあるんだけどね。車がなくてね」

「そうですか」

 少年はまた地面に目を落とし、何かを探すように、その場をうろちょろした。ほかの場所に移動する気はないようで、街灯の下から出ようとしない。

 辺りを見渡し、そう言えばこの辺だったな、と思いだした。

「きみ、きみ。怖い話は好きかな」

 少年はぴたりと動きを止めた。興味があるらしい。

「じつはこの辺でむかし交通事故があってね。女の人が轢かれてしまったんだけど、そのときに上半身と下半身が千切れてしまって。でも人間ってけっこう頑丈なんだよね。それでもしばらくは生きていたんだって」

 少年が振り返る。街灯の明かりを受けて、眼球が爛々と光を乱反射する。

「その人はどうなったんですか」

 お、食いついた、と思いながら、

「亡くなったらしいんだけどね。それこそ病院に運ばれてもどうしようもなかっただろうし」

 このさきの話は即興で考える。怖い話をすれば家に帰りたくなるだろう、との浅い魂胆だったが、案外に反応がよいために、大袈裟にでも恐怖を演出したほうがよいと思い、

「ただね、そのあとにここを通ると、なんでも髪の毛をこう、ばさーっと振り乱した女性が道路の向こう側に佇んでいるんだって」

 奥の街灯をゆび差し、

「ちょうどあそこら辺に、これくらいの高さの女性がいてね」と手で腰のあたりを示す。「ロリータ風のお姫さまみたいな赤い服を着ていて、でもなんか変だなって目を凝らしてみると、両手を地面につけて上半身を支えた女性で、下半身がなくて、内臓とかも飛びでていて」

 想像したらじぶんでも鳥肌が立ったが、構わない。どの道、嘘には違いない。

「どうしよう、どうしよう、と思っているうちに、その上半身だけの女性が、すとんと地面に切断面をつけたかと思うと、腕をこう組んで」

 両腕を組み、実演してみせる。

「奇声を上げながら、パタパタパタパタって腕をこう動かして追ってくるんだって」

 左右の肘を上下に素早く揺らす。組んだ腕がシーソーみたいだ。

「向こうの通りでもさいきん通り魔があったみたいだし、ひょっとしたらその女のオバケが襲ったのかもしれないぞ」

「怖いですね」少年は顔色を変えない。「女の人は髪を振り乱せるくらい長くて、赤いロリータ風の服を着ていて、それでほかにはどんな見た目だったんですか」

「いや、それは」

「まるで見てきたかのように言いますね。実体験ですか」

 生唾を呑み込む。少年のまとう異様な雰囲気に気圧された。

「怖い話をしてくれたお礼に、ぼくも一つ怖い話をしてあげますね。短い話なのですぐに聞き終わると思います。数年前、この通路でとある女の子が自動車に轢かれました。下半身が潰されるくらいにひどい怪我を負ったのに、自動車の運転主はいちど停車し、女の子の姿を目の当たりにしたはずなのに、そのまま逃走してしまったそうです。さいわいにもその女の子は一命を取り留めたのですが、それ以来、じぶんをそんな目に遭わせ、逃げたままの犯人を捜しているそうです」

「な、なんの話だ」

「ちなみにですが、そのときその子の着ていた服は白いドレスであって、赤くはなかったんですよ。きっと誰かさんには血に染まったそれが赤く見えてしまったんでしょうね」

 少年は背筋を伸ばした。ぐっと姿が大きくなって感じられた。私は一歩後退する。

 どこからともなくキコキコと金属の擦れる音がする。奥の街灯の下を何かが横切った。

 音が近づく。

「さっきの話にでてきた女の子、ぼくの姉です」少年は言った。「廃棄された自動車を見つけるまでにずいぶんかかってしまいましたし、それからあなたに辿り着くまでにもずいぶんかかりました」

 少年の背後で何かが止まる。街灯の明かりのなかに入っているはずだのに、なぜかそれの全貌は陰となってよく見えない。

「あなたの非道な行いを知ってなお、証拠隠滅の手助けをしたひとにはさきにご挨拶をさせてもらいました。お互いに本名も知らない仲だとは思いませんでした。暢気に事件の話をするなんて、よほどすっかり忘却していたと見えます」

 少年は身体を傾け、背後のそれに触れた。明かりの下に、車椅子に座った髪の長い女が現れる。「怖い話に脚色してまでしゃべるなんて、ひどい人」

 少年の声のようにも、女の声のようにも聞こえた。

「なぜあのとき逃げたんです」その声はつづけた。「なのにどうしていまは逃げないんです」

 込みあげる陽気を抑えるようなその声に気をとられ、少年の姿が目のまえから消えていることに気づくのに一拍遅れた。

「許してくれ」

 叫んだが、何もかもが遅すぎた。

 頭蓋に重々しい衝撃が加わり、意識が遠ざかる。視界が白濁する。真上からそそぐ街灯の明かりを遮るように、二つの影がこちらを見下ろす。

 振り降ろされる鈍器の輪郭を私はただ見つめていることしかできない。

 意識が途切れる。

 浮遊感がある。痛みが律動よく全身に波打ち、浮上する意識の断片に触れる。小指の爪に引っかかるような意識の片鱗だ。

 ぬるりとした額を風が撫でる。

 鼻の奥にツンと鉄の味がする。

 どこぞへと引きずり運ばれる身体に加わる地面との摩擦を、ずりずりと永久につづく子守歌のようにただ感じる。

 車輪の軋む音がする。

 車椅子、少年、髪の長い女。

 記憶が鮮烈に蘇り、数年前の記憶と結びつく。

 血だまり、内臓、ドレス、少女、呻き声。

 足元から、きゃっきゃとはしゃぐ子どもたちの声が聞こえる。




【神はほくそ笑む】

(未推敲)


 ミサコ様がでた、と騒ぎになったとき、私は妹の面倒を看るので容量一杯で正直、それどころではなかった。

 谷向こうの村人たちがこぞって我が村に避難してきたが、私はただただ、避難民のなかに私と同い年の子がいないだろうか、と願っていた。私よりも立場が弱く、それでいて物心のついた子がいたならば我が妹の子守りを押しつける気満々だったが、期待は呆気なく裏切られた。

「あれでぜんぶ?」

「あとでくるんじゃないかな」

「あ、セミ」

 玄関口に止まっていた蝉が飛び立つ。

 妹が親指を口に咥え、はむはむとねぶる。ふしぎそうな顔つきなのは、吊り橋を渡ってくる人々が思いのほかすくなかったからだろう。

 村長一家がさきに到着していた。村人総出で避難してきた、と語っていたそうだから、避難民はもっと多いはずだ。

 だがどれだけ待っても、二十人を超えたところで人の往来はぱたりと止んだ。

「あれで全部だったみたいよ」母がその日の夜に言った。井戸端会議で共有してきた事情を掻い摘んで聞かせてくれた。

「ミサコさまってなぁに?」

 母との会話に妹が嘴を挟んだ。私は短く、「神さまみたいなものだよ」と応じたが、すかさず母が、「神様よ」と訂正した。ぱしりと頭を叩かれたが、母は怒っているのではなく、敢えて先に罰を与えておくことで、言い訳の余地を作ってくれたのだ。愚かな我が娘にはとっくに罰を与えておりますので、軽口の一つくらい大目に見てください、とどこから盗み見ているか分からない狭量な神様へと。

「前に出たのっていつだっけ」

「そうねぇ。たしか十年前だったかしら」

「このコが産まれたころだ」

「あら、そうねぇ。じゃああのころ、あなたまだ六つだったのね」

「でも憶えてるよ。みんな火を持って、集まってた。夜なのに。あのときは村から逃げずに済んだの?」

「逃げた人たちもいたのよ。可哀そうに。逃げ遅れた私たちが助かっただけなの」

「そう、なんだ」

「神様なんだもの。どうしようもないのよ」

 母はそのときに夫を亡くしたのだ。つまり私たちの父親は、ミサコ様の供物となった。

 妹が盛大に鼻をすする。私は妹の顔を拭ってやる。寒暖の差が激しくなると我が妹は鼻水を垂らしっぱなしにするので、洗濯物を増やしたくない私はこうして甲斐甲斐しく鼻垂れの世話を焼く。

 谷向こうからやってきた避難民はみな村長の屋敷で世話になることに決まったらしい。畑を広げると言っていたので、働き手が増えるのは我が村とて歓迎だろう。

「ミサコ様の祟りはだいじょうぶなのかな」私は妹の帯を締める。母は台所で鍋をゴシゴシ磨いている。米の研ぎ汁を溜めているので、わざわざ井戸や川まで出張らなくとも済む。

「祟りだなんてまたあなたはそんな言い方をして」

「祟りじゃなかったら何」

「私たちがわるいの。お山に住まわせてもらっている身分で好き勝手してしまったから、ミサコ様も腹に据えかねたのね」

「じゃあさっさと追いだしてくれればいいのにね。ほかの山にでもさっさと移って暮らせばいいんだ」

「そんなこといまさらできないでしょう。それにミサコ様のお陰でこうして、山の恵みを受けられているんだから、滅多なことは言わないの。お願いよ、いいコだから」

 いいコではないんだがね、と内心でぼやき、いつの間にか手元をすり抜けて外に駆けだした妹を、追いかける。「きょうは川に行くからそっちじゃないぞ」

 妹は盛大にこけた。せっかく締めてやった帯をダメにした。遅くならないのよ、と母の声が背中に届く。

 川までは洗濯物を担いでいく。川でごしごしと布地を洗い、岩に叩きつけてそのまま干す。風で飛ばされないように重石を載せておくのも忘れない。

 洗濯物が乾くまでは自由時間だ。妹が怪我や妙ないたずらをしないように見張っておく。

 とはいえ、多くは木陰に寝そべり、目をつむって風の音や鳥たちの賑わいに耳を欹て、大いなる夢へと旅立つことが常である。

「おねぇ、おねぇ」

 どれくらいしてからだろう。小腹が減ってきたな、と夢うつつに腹をさすっていると、妹がころんと脇に飛びこんできた。両手両足を縮めて、イノシシの子どもみたいに丸まる。

「どうした。もう疲れたのか」

「ううん。なんかいた」

「なんかってなんだ。ヘビか」

「ううん」

「じゃあクマか」

「ううん」

「シカ、ムシ、キツネ、あ、さてはウサギでも死んでたな」

 妹はくすぐったそうに笑ったが、そうじゃなくってぇ、とじれったそうに身をよじる。目をつむっていても妹の一挙一動が振動となって伝わった。

 妹はしばらく私の懐でじっとしていたが、飽きが回ったようですくりと身を起こすと、またどこぞへと遠ざかっていった。足音が聞こえる範囲にいるならばだいじょうぶだ。妹とて、川や森のおそろしさは知っている。わざわざ一人で、怖い場所には行かないはずだ。

 そうと思い、ふたたびうつらうつらしはじめたところ、妹の、きゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえた。

 一人ではない。

 何かと戯れている。

 子熊だったら厄介だ。さすがに焦りが湧いた。上半身を起こし、寝ぼけ眼を凝らす。見える範囲に妹の姿はなかった。平原、小川の煌めき、遠くに聳える山脈に、まだらに散在する森や林が一望できる。

 妹の声は近場の森のほうから聞こえた。そちらの奥は谷に通じている。

 まったくもう、と息を吐き、急いだ。

 妹は森の入り口の大きな岩の陰にしゃがみこんでいた。

「おいこら、かってにこんなとこまできていけないコだな」

 後ろから抱きあげ、おしりをぺちりと叩く。妹は黄色い声を上げたが、それは悲鳴というよりもどちらかといえば歓喜の叫びだった。

「鬼ごっこがしたいならしてやるから、こっちはダメだ」

 来た道を引き返そうとしたところで妹がじたばたともがいた。

 腕から零れ落ちるように逃れ、着地したと同時に、またぞろ岩陰にしゃがみこんだ。

 あたかも岩の間隙を塞ぐような姿勢に、ひょっとして、と閃いた。

「そこになにかいたのか。こら、危ないから離れなさい」

 脇の下に手を差し入れ、妹の身体を持ちあげる。

 すると、ずるずるずる、と何かがいっしょになって持ちあがった。

 妹の腹の辺りから、細長い蔓のようなものが伸びている。ヘビと見紛う長さだが、その表面にはびっしりと毛が覆っていた。鼬の尾のようだな、とまずは思った。

 妹の腹を覗きこむと、妹は得体の知れない生き物を両手でがっしりと抱えていた。

 妹は私に満面の笑みを向け、なんかいた、とそれを掲げた。

 一見すると子狐のように見えるが、尾が異様に細長い。目玉が四つあり、しかも頭部からは角らしき固い物体が七つも生えている。角といちがいに断言できないのは、高さがないからで、あたかも頭部に鉱石が埋まっているような具合なのだ。

 驚愕すべくは、その獣、肢が八つある。

 ゆえに腹の側から見遣ると、巨大な蜘蛛のように視えなくもない。ただ、全身が艶のよい毛に覆われ、これが狐ならばさぞかし高値で売れただろう、と口惜しくも思う。

 私はそれをヤツアシと呼ぶことにした。

 妹は頑としてヤツアシを手放そうとしなかった。この頑迷さには見覚えがあった。以前にも群れから逸れたのだろう山犬を拾ってきたことがあった。しかし山犬は病気を持っていることがあり、群れを呼び寄せる危険もあるため、どうにか引き離し、村のおとなに引き渡した。

 その日の夜は豪勢な鍋が振る舞われたが、妹ががっついていたその肉がなんであるのかを教えてやるほど私の性根は腐っていない。ただし、そうなることが判っていながら妹から山犬を取りあげたくらいには腐っているとも言えた。

 ヤツアシはおとなしく、リスじみた動きでしきりに私と妹を交互に見遣る。四つの目玉はつぶらで、二つでないことを抜きにすれば愛らしい造形をしていると言えたが、その挙動からは、何かしらの知性のようなものを感じ、私は不気味に思った。

「逃がしてやんな」

「やな」

「こんなの村に持ってったらみんなに怖がられるし、何より殺されて、食べられちゃうかもしれないぞ」

「やぁなぁ」

「ヤダじゃない」

「やぁなぁのぁ」

 意地の張り合いで私が妹に勝てるわけがないのだ。ひとまずヤツアシを飼うことを許可し、妹の機嫌を立てておく。そのうえで、これは私たちの秘密だ、とそこはかとなく気分を高めるようなおためごかしを口にし、鼻息荒く、うんうん、と首を縦に振る妹に、ヤツアシはここで飼おう、と暗に、ここに置いていくことを約束させる。

 妹はうつくしいくらいに単純なので、わかった、と言い、「ヒミツ、ヒミツ」と口に両手をあてて、肩を弾ませた。姉たる私と同等になれた心地がしてうれしいのだろう。かわいいやつだ。

 私は妹の手を引き、洗濯物を回収してすこし早めに家路についた。

 これでもう二度とヤツアシを見かけることはないだろうと考えていた。ヤツアシが岩場を根城にしていようと、そうでなかろうと、日を跨げばよそに移るだろうとの考えがあった。野生の獣であろうと虫だろうと、身の危険を感じればその場を避けるのが通例だ。

 おとなしいヤツアシとて例に漏れないだろう、との私の魂胆は、翌日、家から脱走した妹を追いかけて見事に打ち砕かれることになる。

 妹は例の岩場にて、両手に尾の長い毛玉を抱いていた。言わずもがなヤツアシである。

 私はまず、かってな行動をとった妹を叱った。

「ダメだろ誰にも言わずに家を抜けだしたら。そもそもこっちの森は危ないんだ。向こうに谷があるだろ。おっこちたらどうするつもりなんだ」

「橋があるからだいじょぶだもん」

「あの橋だって二本目なんだぞ。前のはもっと太くて頑丈で、馬車だって通れたって話だ」

「なんでこわれた?」

「なんでだろうな。それは知らんが、新しくまたいまの吊り橋をかけたんだ。でも何が起きるか分からんから、おまえ一人で近づいたらダメだ」

「あっちまでいかない」

「それでもだ。せめて一言、行ってきます、だろ。お母ちゃんを心配させるな」

 本当は私が叱られたくないからだが、妹には情に訴えたほうがきく。

 案の定、わかった、と妹は首肯した。おそらくはもっとこっぴどく叱責されると覚悟していたのだろう。それが、心配だからもうするな、と釘を刺されただけで済んだので、ひとまず聞き分けのよさを醸しておこう、と判断を逞しくしたことをむろん私は見抜いている。妹は隙さえあれば、また同じことを繰り返すだろう。

 そうはさせじと案を練る。

 ヤツアシを目で示し、

「それ、何喰うんだ。肉食だったら危ないぞ」

「だいじょぶだもん」

「いまはそうかもしれないけど、このさきもっと大きくなったら困るだろ」

「おっきくならないもん」

「そんなことなんでおまえに」

 分かるのか、と言ったところで、余計に意地を張らせるだけだ。ここはひとまず方針を変えよう。

「分かった。ソイツはおまえに懐いているようだから、しばらくはお姉ちゃんもいっしょに通ってやる。でも昨日も言ったけど、村のおとなに知られたら絶対に怒られるし、ソイツもただじゃ済まない。それは分かるな」

 妹は頷いた。

「じゃあお姉ちゃんと約束。このことは二人だけの秘密。かってにここにはこない。でもおまえがきたいときには私が絶対にいっしょについてくる。拒んだりはしない。それでいいか」

 妹はすこしの間を空け、家にダメなの、と言った。ヤツアシを家に連れて帰ってはいけないの、という意味だと理解するのに瞬き二回分を要した。

「ダメだ。ここから連れだすのもダメ。ただでさえみな、ミサコ様がでたって、殺気立っているのに、そのうえこんな珍妙な生き物なんか見つかってみなよ。私たちごとひどい目に遭わされちゃうかもしれないんだよ」

「やぁなぁ」

「そう、ヤでしょ。だったらおとなしく言うこと聞いて。ヤツアシはここで飼う。私とあんたの二人きりの内緒。誰にも知られたらダメ。いい? わかった?」

「わかった」妹は力強く顎を引いたが、誰が信じるか。頃合いを見計らって村の大人に相談し、処遇を委ねようと考えた。

 妹の寝静まったころにこの場所に案内すれば、あとは大人たちが首尾よく事を運んでくれるだろう。私もきっと立派な行動だと褒められるに違いない。

 いまさらながらヤツアシの、妙な見た目に関心がいく。気持ちわるくはない。どちらかと言えば愛嬌があり、神秘さすら感じられる。全身を猫のように毛で覆われているので、一種、作り物めいて映る。

 目が四つあるが、くりくりとまん丸く、日の光を受けると虹色に輝く。湖底のような深みを帯びる。頭部のツノじみた突起も、宝石みたいできれいだと思った。

 殺すのは可哀そうだ。

 思うが、かといってこのままこっそり飼いつづけるのは明らかに損だ。これ一匹ということもないだろう。ほかのヤツアシのためにも、ここは危険だと身を以って知ってもらわねばならない。

 おまえは運がわるかったな。

 妹に愛玩され、細い尾をくねくねと心地よさそうにくゆらせるそれのモフモフとした丸みに、罪悪感を覚える。

 それからというもの、雨の日以外は、毎日のごとく妹に連れだされ、岩場に出向いた。

 ヤツアシはすっかり岩場をねぐらとしたようで、妹の足音を聞きつけるのか、近づくだけで穴から顔を覗かせるようになった。

 心なし、日に日に大きくなって感じられたが、毛が伸びているだけかもしれなかった。

 ヤツアシは私にも人懐こくじゃれついた。細長い尾を我が腕に巻きつけ、妹の腕からするりと抜けでて私の胸に飛びこんでくることもある。我が胸のなかでじっと身を委ね、ときおりちいさな舌でぺろぺろと舐められると、さすがに情が移りそうになる。ヤツアシの舌はザラザラとしており、猫の舌と似ていた。

 間近にヤツアシをまじまじと観察する。

 口の中に牙はない。歯らしいものすらなかった。ゆびを差しだすと、ちゅぱちゅぱとねぶるのでくすぐったく、その吸い付き方が赤子のそれとそっくりだったので、余計に庇護欲を掻き立てられた。

 心を鬼にして、これ以上情が湧かぬようにとヤツアシを妹に押しつける。だが我が胸から離れんとするヤツアシの、開ききった八つのあんよの短さに、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。

「こんなに可愛かったら、家に連れ帰ってもだいじょうぶかもな」

 呟いてからはっとしたが、妹には聞こえていなかったようだ。ヤツアシの足をつまみ、赤ちゃんをあやすようにして、おままごとに興じていた。

 こんな状態で私は果たしてヤツアシを村の大人たちに差しだせるのだろうか。考えただけで胸が痛んだ。

 夏も暮れ、夜明けにヒグラシの鳴き声が細々と消え入りはじめた長月初頭のことだ。

 村の男衆が明け方から騒々しかった。

 妹はまだ寝ている。

 私は朝食の支度を手伝いながら母に訊いた。

「何かあったのかな」

「さあ」

 首をひねった母だが、水を汲みに行って戻ってきたときには、血相を変えていた。「たいへん、ミサコ様のご遺体が見つかったって」

「ご遺体? ミサコ様が死んだってこと?」

 神様なのに。

 私の疑問は、正午をすぎたころに氷解した。村の外に群れだって他出した男衆たちが戻ってきたのだ。男衆は吊り橋を渡り、谷向こうの森にまで足を運んだようだ。

 帰還早々、村長の屋敷にてさっそく合議が開かれた。

 夕飯後、母はどこから仕入れてきたのか、合議の議題を私に耳打ちしてくれた。合議はまだ終わっておらず、丁々発止に怒声が飛びかっているそうだ。

「なんでも抜け殻がたくさん見つかったんですって」

「抜け殻って何の?」

「たぶんだけど、ミサコ様の」

「ミサコ様のって」絶句する。

「きっとそうだと思う。大小さまざまな抜け殻があったらしくて、たいへんだ、たいへんだってみんな」

「待ってよ、おかしいよね」私は食器を片づける手を止めた。「ミサコ様って神様なんでしょ。何その抜け殻って、蝉じゃないんだから」

 それともミサコ様って蝉のバケモノなの。

 私は息巻いたが、母はゆるゆるとかぶりを振った。「前にもいちど、こういうことがあったって伝承に残っているらしくてね。なんでもミサコ様の抜け殻がたくさん見つかって、そうしたら村が一つ消えちゃったんだって。そこに暮らしていた人たちごと丸っと」

「だからミサコ様って何なの。神様じゃないの」

「見た人はいないの。見ちゃった人はみぃんな死んじゃったから。抜け殻だけはときどき森の中に転がっているらしくて。谷向こうの村の人たちは、その抜け殻を処理する役割があってね。その代わりこの村は、何かあったときの避難場所で、何があっても避難してきたひとたちのことは受け入れるって取り決めがあったらしくて」

 もうずいぶんむかしのことらしいのだけれど。

 母は語った。

「お父ちゃんが死んじゃったとき、なんでかこっちの森にも抜け殻が発見されてね。どうやら吊り橋を伝って、ミサコ様が渡ってきちゃったみたいでね。なんとか向こうにもういちど返そうとして、それでお父ちゃんたちが頑張って、命を落としてまで、お母ちゃんたちのためにそのお役目を果たしてくれてね。このことは本当は子どもたちには内緒なんだけど、でももうそんなこと言ってられない事態になってきちゃったから」

「むかしの吊り橋が落ちたのってじゃあ」

「わざと切り落としたの。ミサコ様がもう二度と渡ってこられないようにって。でも谷の行き来はしたいから、ミサコ様が乗ったら落ちてしまうくらいに細くてちいさな吊り橋をあとでかけ直して」

「じゃあ大丈夫なんでしょ。抜け殻が見つかったって言ったって、それって谷の向こうの森でのことなんだよね」

「お母さんもそう思うんだけど」

 母の煮え切らない様子からすれば、話の全容を聞いたわけではないのだろう。人伝に聞いた情報を断片的に繋ぎ合わせただけの憶測だ。

「ミサコ様って生き物なんだよね。実在している生き物ってことなんでしょ」

「そうよ」

「なら退治することだってできるんじゃないの」

 言うと、母に口を塞がれた。「物騒なこと言うもんじゃありません。誰かに聞かれたら」

 母は周囲を見渡した。静寂が満ちている。夜の帳はとっくに下りており、日没が早くなったのだな、と妙なところに意識がいった。

 母は私の肩に手を置き、目線を揃えた。

「いいこと。このことはみなには内緒。もちろんあのコにも」母は襖を見た。その奥では我が妹が寝ているはずだ。「ひょっとしたら村を出なきゃいけなくなるかもしれない。あのコから目を離さないようにお姉ちゃん、お願いね」

「お母ちゃんはどうするの」

「もうすこし詳しい話を聞いてくるから。きっと明け方にはみんなに報せが回ってくるだろうけど、早めに知っておいて損はないから」

「ちゃんと寝なきゃダメだよ」

「さきに寝ていて。戸締りをお願いね」

 母はぱたぱたと貴重品を持つと、提灯に蝋燭を灯し、闇夜に姿を晦ませた。

「何がなんだか」

 私はぼりぼりと脇腹を掻き、忙しくなる前に英気を養っておこうと、さっさと寝ることにした。

 寝る前の片付けを済まし、家の灯を消す。我が妹を起こさないように寝床に入る。そばには我が妹が寝ているはずだが、ずいぶん静かだ。

 そのまま朝まで寝ているがよい。

 念じながら、目をつむっているのか開いているのかの区別もつかない底なしの闇をしばらく見詰めた。

 胸騒ぎがし、上半身を起こす。

 手探りで床を這い、となりの寝床を探った。

「いない」

 妹の姿がどこにもなかった。明かりを灯し、厠を見にいく。そこにもいなかった。

 名を呼ぶが、返事がない。

 玄関口に草鞋はある。

 もしやと思い、靴箱を漁ると、私の幼いころの草鞋が消えていた。お下がりは嫌だと言って駄々を捏ねたので、新しい草鞋を与えていたのだが、こういうところだけ頭が回る。

「あのばか」

 おそらく朝に出かけるのを禁じられたので、こっそり抜け出そうとしたのだ。

 村は緊急事態の様相を醸している。出入口には誰かしら大人が立っている。

 いちどは諦めたが、私と母との会話を盗み聞きして、陽が沈んでから抜け出そうと企んだに相違ない。

「退治するって聞いて、ヤツアシのことだと勘違いしたんだ」

 きっとそうだ、と歯噛みする。退治うんぬんは私の口から出た言葉だ。私に相談することすら諦めて、助けに走ったに違いない。

 岩場のか弱きバケモノを。

 我が妹の心優しさに胸を打たれると共に、向こう見ずな選択に腹が煮える。

 まだ子どもの癖に考えなしで行動して。

 急ぎ、提灯を手にとり、玄関を飛びだす。妹とすれ違いなってもいいように鍵は閉めないでいく。

 鎌が目に留まり、すこし迷ってから掴み取る。

 夜の森は危険だ。

 獣が夜行性なうえ、いまは村の大人たちが殺気立っている。視界のきかないなかで蠢く影に、大人たちが矛を向けないとも限らない。

 間違って殺められでもしたら目も当てられない。

 本来ならば大人に相談するべきだったが、ヤツアシの存在が私にその選択をとらせなかった。どの道、大人に突きだすつもりだったならば今ここで打ち明けても結末は変わらないはずだのに、なぜか私はひとまず我が妹を連れ戻そうと行動の指針を固めていた。

 通い慣れた道といえども夜道は足をとられる。慎重に歩を進めながら、川伝いに森を目指した。

 岩場に近づいたところで、すすり泣く声が聞こえた。

 私は鎌を構え、妹の名を呼ぶ。

 嗚咽が一拍止む。

 雨脚が強まるように、おねぇちゃーん、と我が妹の号泣が聞こえた。

 赤子さながらに命の躍動を感じさせる泣き方ゆえ、却って安堵した。よかった、妹は無事だ。

「どこほっつき歩いてたんだ。かってに家を抜けだしたらダメだとあれほど」

 叱りつけながら歩み寄ると、妹は岩のまえに蹲っていた。提灯の明かりを向ける。岩の表面に妹の影が浮かび、岩のオウトツがひび割れのように巡った。

「どうした、どっか怪我したのか」

「ヤツアシがぁ」

「あいつがどうした」

 妹の背に触れる。

 妹は何かを抱きしめていた。見せるように促すと、妹はそれを見せてくれた。

 毛むくじゃらの塊だ。立体感はなく、潰れている。妹が抱きしめたからそうなったのだろう、と推し量る。明かりの下に持ってくると、元々は厚みがあったようだと判った。

 というのも、毛むくじゃらの真ん中に大きな切れ込みが走っており、袋のごとく毛むくじゃらには空洞が開いていた。木の実を裂いて、中身だけほじくりだしたような抜け殻になっている。

 抜け殻。

 じぶんで発想したそれに、嫌な予感が土砂崩れとなって襲いくる。

 勘違いだ。

 違う。

 違う。

「可哀そうだけど、食べられちゃったんだね」私は言った。きっとそうだ。ほかの生き物に食べられてしまい、毛皮だけが食い残されたに違いない。

 だが妹はぶんぶんと首を横に振って、ぎゃんぎゃん、といっそうけたたましく泣いた。

 私は赤子にそうするように妹を抱きあげ、背中をさすった。じぶんに懐いた小動物が死んでいたのだから泣きたい気持ちは理解できた。

 だができれば声量をもうすこし加減してほしかった。

 提灯は足元に置いていた。

 このまま抱っこして帰ろう。途中でおんぶに移行できれば御の字だ。

 早く鳴きやんでくれまいか、と念じつつ、提灯を手にとり、ふと岩場を振り返る。

 奥には森が広がっている。

 昼間にはなかった物体が、岩の陰から輪郭だけを覗かせていた。

 なんだあれ。

 生き物ではない。動かないからそうと判る。

 鼓動が激しく鳴る。

 岩を迂回し、裏側を確認した。

 夥しい数の骨が散乱している。

 人間のものではない。

 否、数が多すぎる。たとえ人間の骨が混じっていても区別はつけられないと思った。

 骨には肉がまだついているものもある。食い散らかしたというよりかは、丸呑みしたものをいちど吐き出したのではないか、と想像を掻き立てられるような光景だ。

 シカ、クマ、キツネ、あとは細かな小動物のものもありそうだ。

 いったいいつからあったのか。

 すくなくとも日付変わってのおとといに足を運んだときにはなかったはずだ。視認したことで、辺りに臭気が立ち込めていることに気づく。風上ゆえにそれほど臭いはきつくなかったが、いざ知覚してしまえば無視できないほどの臭いが立ち昇っていると判る。

「こりゃひどい」

 ただごとではない。一目瞭然だ。

 問題は、果たしてこれが何の仕業か、だ。

 後退する。

 ぐにゅり、と何かを踏んだ。

 明かりを照らす。

 毛皮の塊だ。

 言わずもがな、十中八九、ヤツアシの抜け殻である。妹になついていたのとは別の個体のものかもしれない。

 だがヤツアシの骨らしきものはない。否、ほかの骨に紛れているだけかもしれないが、すくなくともこの場に残った毛皮は、ヤツアシのものだけだ。

 あり得るだろうか。

 毛皮だけを残し、骨ごと中身だけを食らい尽くすなど。

 そうと考えるよりかは、中身のほうで外にでたと考えたほうが妥当ではないか。

 つまり、と私は喉を鳴らす。

 これは正真正銘の抜け殻なのではないか。

 私は明かりを消し、提灯をその場に残して、踵を返す。鎌だけは手放さない。

 私は駆けた。

 妹を背に背負い直し、夜道をひたすら蹴って、蹴って、蹴りつづけた。

 村に近づくほど道は踏み固められ、足場がよくなる。

 躓く回数が減りはじめたころ、風の音に交じって、人の怒号や悲鳴のようなものが聞こえた。

 嫌な予感が脳裏を占領する。

 妹は訳も分からず、肩にしがみついている。

 村の入り口が見えてきた。

 幾人かの村人が逃げだしてきたが、みな脇目も振らず一目散に森のほうへと駆けていく。例の岩場のある方向だ。さらに奥には谷があり、吊り橋がある。

 入り口をくぐると、ちょうど知り合いの青年が血相を変えて向かってくるところだった。

 無理くり袖を掴み、引き留めた。

「何があったの」

「ミサコ様だ」

「ミサコ様?」

「渡ってきたんだ。この村ももうダメだ。逃げろ」

 手を振りほどき、逃げ去る青年に、私の母は、と投げかけたが、返事はなかった。

 屋敷のほうで火の手があがっている。煙が天に幕を張り、瞬く間に燃え広がる炎の色を映しとっている。

 私は家に駆けこんだ。息があがり、居間に倒れこむ。

 母の姿はなかった。

 何度も呼ぶが、応じる者はない。

「おねぇちゃん」

 妹が不安げに私の首にすがりつく。

 広場のほうから、悲鳴が、一つ、二つと増え、夜風の合間に途絶えない。だがその一つ一つは、坂道をのぼるように甲高く響くと、あとは下り坂を転がり落ちるように先細って消えた。

 楽器のごとく、つぎつぎに新たな悲鳴があがっては、消える。

 私は釜の水を口に含んで喉を潤し、妹を座敷下の物置に押し込んで、ねぇちゃんが迎えにくるまではここをでるなよ、とつよく言い聞かせた。

 妹は、連れてって、一人にしないでヤダヤダお姉ちゃぁ”ああん、と泣きじゃくったが、頬を殴って無理くりに閉じ込めた。

 蓋のうえに箪笥を横たえ、重しにする。

 誰も助けにこなければ妹は死ぬだろう。

 だがどの道、いまここで私が生き永らえなければ誰も助からない。

 妹一人では生きてはいけない。

 私は鎌を握り直し、外に繰りだした。

 物陰伝いに、広場へと近づく。

 遠目から様子を窺う。 

 思わず声が漏れそうになり、慌ててじぶんの口を塞いだ。鎌の刃が頬に触れ、ひやりとした冷たさを感じた。

 広場には、大きな大きな影が蠢いていた。屋敷からのぼった炎の明かりを受けて、逆光となり、輪郭だけが鮮明に見えている。

 巨大な蜘蛛のように複数の肢を動かし、太く長い尾をぶんぶんと自在に振り回している。

 尾の先端は尖っているのか、つぎつぎに家屋の壁を突き破り、中に潜んだ人ごと貫いている。

 まるで団子だ。

 人間が串刺しとなってなお、死ねずに呻き声を発している。団子が連なると巨大な影は、尾ごとそれを大きな口にするすると差し入れた。

 焼き鳥を頬張る幼子のようだ。口から抜けた尾にはもう人間の姿はなかった。

 たいらげたのだ。

 一口で。

 指でもなぶるような所作に、私は岩場にて私のゆびをねぶったヤツアシの姿を重ね見た。

 息を殺すが、動悸が太鼓のごとく高鳴って隠しようがない。

 家屋が崩れる。

 轟音が聞こえ、地響きが届く。

 いつの間にか辺りは静寂に包まれ、ぱちぱちと弾ける火の粉の音だけが暗がりに反響している。

 母は無事だろうか。

 朦朧とした頭で考える。

 現実味がない。

 いったい何が起こったというのか。

 半ば自明でありながら、私はそれ以上のことを考えないようにしていた。

 母は無事だろうか。それだけを懸命に考えた。

 考えたところでどうにかなるわけでもなしに、そう念じることこそ私のすべき役割だと信じるかのように、私は水樽の合間に膝を抱え、じっとしていた。鎌はとっくに手放していた。

 朝になればきっと誰かが助けにきてくれるはずだ。

 ひとまず生き残りさえすれば、妹のことも助けだしてあげられる。

 このまま何事もなく、魔が過ぎ去ってくれれば。

 パキッ。

 木の枝の折れるような音がし、目を開ける。

 炎の明かりが薄れている。

 影が揺らぐ。

 私の影ではない。

 頭上に何か、大きな、得体の知れぬモノがある。

 ソレは、するすると雲の糸を垂らすように上から、太く、鋭利な尾を吊るし、大蛇のごとく地面にはわせる。

 私はゆっくりと頭上を仰ぐ。

 つらつらと光沢を浮かべた漆黒の玉がある。一つきりではない。

 ひぃ、ふぅ、みぃ。

 四つだ。

 四つの漆黒の玉が、緋色の毛並みのなかに浮いている。大きい。

 毛並みは炎の明かりを受けて、ひときわ艶やかに、赤く、紅く、染まっている。湿っぽいのはそう見えるだけか、それとも真実、深紅に染まっているのか。

 地面に浮かんだ影にはなぜか細長い枝のようなものがジグザグと筋を描き、あたかも闇夜に溶けこみ見えないツノを浮き彫りにしているかのようだった。

 私はただただ息を殺し、凍えているしかなかった。

 死への恐怖ではない。

 これは、真なる心の底より煮え立つ罪悪だ。

 私の招いたこれが悪夢だ。災いだ。

 尾は、まるでそこに目がついているかのように的確に私のもとへと忍び寄り、着物の帯のごとく私の身体に巻きついた。

 肺が圧迫され、咳き込む。

 息を吐くだけの所作がうまくできない。

 浮遊感に身を委ねる。否、それしかできることがないのだ。

 幽体離脱をしたかのようだ。

 私は俯瞰の視点より、村を展望する。

 足元は見ない。

 見てはいけない。

 きっと真下に、惨劇を生みだした元凶がいる。

 吹きすさぶ風に、火と煙と臓腑の臭いが薫る。

 微動した視界がぴたりと止まり、ゆるんでいた尾が、ぴんと張りつめた。

 井戸で水を汲むときの情景が蘇る。

 桶を引きあげる際に、縄がぴんと張ったが、あれと似たような緊張を覚えた。

 案の定、俯瞰の視点は一瞬で遠のき、私は暴風の最中、地面との接近を身体いっぱいの悪寒と共に感じるよりなかった。

 凍てつく寒さに目を覚ます。

 雪の結晶が鼻先に舞い落ちる。

 道理で寒いわけだ、と合点する。冬の到来を知るが、それを報せる者がいないことを思いだし、身体を起こすことすら億劫に感じた。

 寝転んだままで視線を巡らせる。どうやら広場の一画に寝ていたようだ。家屋は大地震でもあったかのように総じて瓦礫と化しており、屋敷の炎はもうほとんど鎮火しているようだった。

 生きた者の気配がない。

 母は無事だろうか、と案じるが、望みは雪の結晶よりも儚い。

 そうだ、妹は。

 火に松をくべたように身体が動いた。

 節々が痛むが、いまはそんなことに構っている場合ではない。

 足を引きずり、我が家へと急ぐ。

 私の足音を聞きつけてか、座敷の下から、おねぇちゃーん、と今にも泣きだしそうな声音が聞こえた。私のほうこそ泣きたくなったが、いまは我慢だ。

 声をかけてあげればよいものを、そんな暇すら惜しくて、箪笥をどかし、物置の蓋を開けた。

 妹の泣きくたびれた顔が現れる。星空を見あげるようにまっすぐと射抜かれ、私はただただ謝罪の言葉を浴びせるよりほかがなかった。

 妹はことのほか、私が殴ったことを責め立てた。

 何があったのかを説明したかったが、私自身、何が起きたのかを知るわけではなかった。

 ひとまず二人して村を見て回った。

 さいわいなのは、遺体が一つもないことだった。

 村は無人で、家屋ばかりが崩れていた。

 ふしぎなことに、広場には、大小さまざまな抜け殻がいくつもあった。それは毛皮でできているわけではなく、鉱石のような光沢のある素材でできていた。

 仮に、八つの肢のようなものが見えなければ、そういった岩か結晶と見做していたかもしれない。

 材質は硬く、宝石じみている。奇しくもヤツアシの頭部にあったツノじみた突起部を彷彿とした。

 天上の側に切創が開いており、蝉の抜け殻然とした形状をしている。

 空洞なのだ。

 中身がどれもカラだった。

 私は戦慄いた。

「まだこんなにいっぱい」

 潜んでいるのか、と身の毛がよだつ。

「おねぇちゃん、これ」

 妹が地面にしゃがみこんでいる。何かをゆびで突いているようだ。

 間に割って入る。

 石だ。

 漬物の重石くらいの大きさで、抜け殻と同じ材質だ。

 ふしぎなことに、それだけがまだ割れていなかった。中身が詰まっている。

「触るな、そっとしておけ」

 妹を引き離すが、その瞬間、石にヒビが走った。

 私は腰砕けになる。尻餅をついた。

 石に走った間隙から、細長い、蛇のようなものが顔をだした。尾だ。ヒビを広げるようにそれは宙に渦を巻く。すっかり穴を開けると、ニワトリが卵を産むように、メリメリと中から身体を捻りだす。

「わぁ」

 妹が歓喜の声をあげるが、私は言葉を失った。

 抜け殻ではあるのだろう。

 だがこれは、脱皮ではないのだ。

 身震いをして石の破片を払うと、それはつぶらな四つの目を周囲に配り、細い尾で以って妹の足に擦り寄った。

 バケモノ。

 私は妹とそれを引き離すことができなかった。

 一匹だったのだ。

 橋を渡るには巨体では無理だ。

 だからこうして、巨体を脱ぎ捨て、身軽な体型にまで遡ることで、餌の密集する集落にまで辿り着いた。

 ふたたび身体を肥やすために、森の獣たちをたらふく食らって。

 知恵がある。

 明らかに獣のそれではない。

 私の敵意は喝破されているだろう。そのうえで、ソレは敢えて見逃したのだ。

 我が妹を庇護する盾として、生き残る猶予を与えられた。

 なぜソレが我が妹に懐いているのかは定かではないが、私にできることは何もない。

 その日がくるまで、私はただ、妹に尽くすよき保護者として振舞う道しか残されてはいない。

 目を閉じる。

 私の目にはまだ、夜空から見た村の様相と、そこで繰り広げられた殺戮の宴の光景が、拭いがたく焼きついている。

「おねぇちゃん、みて」

 妹の無邪気な声に目を開くと、妹の首には尾が巻きつき、八つ肢の毛むくじゃらは見せつけるように我が妹と頬をこすり合わせる。




【殻に走るヒビのように】

(未推敲)


 男が家を訪ねてきた。

 一晩泊めて欲しいという。

 断ることもできたが私は彼に部屋を与えた。風呂を沸かし、食事を用意してやり、話を聞いた。

 長らく旅をしているそうだ。

 各地の情勢やら、巷説としか思えぬ物語を聞かせてくれた。

 愉快だった。

 周囲に隣家はなく、訪ねてくる者は当分ないものと考えていた。広大な土地があるばかりである。これといった娯楽もない。

 一人で住むには広い家だ。掃除とて地下室にゴミを押し込めている。

 もうしばし泊まっていったらどうか、と引き留めたが、男は遠慮した。

 翌朝、男は家を発った。

 礼にと、男は卵をひとつ寄越した。

 手のひらに載るくらいの大きさだ。鶏の卵より数倍大きい。

 食べればいいのか、と問うと、肌身離さずそばに置いておいてください、と男は答えた。

 そうするとどうなるのだ、と私は反問したが、男は低頭するだけで、応じなかった。

 景色にちいさく点となるまで私は彼を見送った。

 男の言葉を信じたわけではないが、私は卵をそばに置いた。ほかにすることもないのだ。

 地下室の掃除でも、と思うが、踏ん切りがつかない。

 卵をずっと手に持っているわけにもいかず、座っているときは膝のうえに置いた。それ以外は、ちいさな麻籠のなかに入れ、腰に垂らして持ち歩いた。

 ふとした瞬間に卵が微動することがある。卵は生きているのだ。

 七日をすぎると愛着が湧いた。

 是が非でも中身とご対面を果たしたいと望むようになった。

 ひと月が過ぎた。

 夜、寝具に寝そべり書物を読んでいると枕元に安置していた卵が転がった。立て直すも、すぐに転がる。

 いよいよか。

 私は座した。

 卵を膝のうえに置く。

 それから半刻もしないうちに卵にはヒビが走った。ヒビは内側から力が加わるたびに色合いを濃くし、ときにぴたりと合わさり見えなくなった。

 間もなく天蓋が崩れる。

 穴が開く。

 中からは、ちいさな、ちいさな人型が顔を覗かせた。

 孵ったのは雛ではない。蜥蜴でもない。

 小人である。

 私はそれを人間と見做してよいものか悩んだ。

 全体的につるっとしており、顔にはオウトツがあるばかりで、目鼻が見当たらなかった。

 毛も生えていない。

 口だけがある。

 野ネズミの赤子じみていた。

 だが私はそれを育ててみることにした。せっかく孵ったのだ。ひと月のあいだに培った愛着は、そう容易く途絶えるものではない。

 乳を与えようと思い立つが、そも私はでない。

 牛や山羊がいるが、さすがに赤子の時分で獣の乳を飲ませれば腹を下すだろう。命を落としかねない。

 折衷案として粥の汁を飲ませてみることにした。丸めた布地に粥汁を浸し、口元に押しつけてみる。

 小人は喉を鳴らしてそれを飲んだ。

 小人は泣かなかった。

 だがときおり、ぱうぱう、と声を発した。お腹が減るとそうして音をだして知らせるのだ。

 最初の数日は気づかなかったが、十日もすぎるころになると、徐々に小人が成長していると判った。

 髪の毛が生え揃い、目や鼻ができ、全体的に腕や脚が細長く伸びる。

 ひと月もすると、全長は私の膝ほどの高さにまで育った。

 瞠目すべきは、それが日に日に私自身に似てくることだった。

 瓜二つである。

 立って歩けるようになると、私はそれに肉を与えるようになった。

 すると成長の度合いが見違えるように早まった。朝顔とてもうすこしゆっくり育ちそうなものだ。

 寝て起きると一回り大きくなっている。ふしぎなことに小人は排泄をしない。食べた分をそのまま身体の成長に回しているような急激な成長が見て取れた。

 知能のほどにも目を瞠る。

 私の読んでいた書物に興味を示したかと思えば、一日に数十冊の勢いで読み漁っていく。食事の回数も増え、日に何度も眠った。

 ひょっとしたら、と思う。流れている時間が私とは違っているのかもしれない。

 三か月もしないうちに、小人はもはや小人とは言えない大きさにまでなった。畢竟、私とそう変わらぬ背丈にまで伸びたのだ。

 成長はそこで止まったようだった。

 言葉こそ話さぬが、私よりも愚かということはないだろう。ひょっとしたら私よりも聡明であるかもわからない。ただし、経験が足りない。世の中がどのような仕組みで回っているのかを我が分身はまだ知らぬのだ。

 私のことを親のように慕い、ときに神のように敬う。

 愛着はほとほと慈愛の域にまで達した。

 我が子というよりも、もはやそれは私自身だった。

 私は迷っていたが、いよいよとなって決意した。

 私は分身に、日常生活に困らぬだけの知恵を授けた。食事の支度から、家畜の世話、掃除洗濯、必要ならば生殖器の使い方まで指南した。

 分身は成長を止めると、排泄を行うようになった。堆肥の作り方を教え、畑仕事も教えた。

 地下室には入らぬように言い聞かせた。

 旅の男が卵を託し、去ってから半年が経った。

 私はいよいよ旅にでる臍を固めた。

 分身には事情を離さずにいく。

 そのほうがよい。

 分身が寝静まる。

 まとめておいた荷物を背負い、暮らし慣れた家を、土地を、あとにした。

 地下室には十を超える死体が転がったまま放置してある。家の家主たちだ。

 旅人が訪れる前のことだ。

 私のほうがさきにあの家へと辿り着き、住人たちを使用人共々皆殺しにしたのだ。

 どの道、私は咎人である。

 行く当てもなかったが、しかし運がよい。

 人が殺された、と当局へと通報する。あとは法の下で、私にそっくりの可愛い我が分身が死刑にでもなんにでもなってくれる。

 私の罪過を引き受けてくれる。

 旅人には感謝しなくてはならない。あのときもう一泊していたら私は、卵を譲り受けることなく、もう一つ死体をこさえていただろう。

 一日で去ってくれてよかった。

 しかしどうせならば、持っているだけすべての卵をくれればよかったのだ。

 出し惜しみするとは恩知らずはなはだしい。

 我が分身が捕らえられれば、私の重ねてきた過去の罪は総じて清算される。晴れて私は自由の身だ。

 時間はたっぷりある。

 卵をくれた礼をすべく、旅人のあとを追うのもいい。

 私は解放感を噛みしめる。

 夜のしじまが肺を満たす。

 息遣いと、足音だけが、殻に走るヒビのように、宵闇のなかに浮かんでは消えるを繰り返す。





【遺書】

(未推敲)


 母が自殺した。今年喜寿を迎えたばかりで、いったいなぜ、と親戚一同、悲しみに見舞われた。

 夫に先立たれ、寂しかったのではないか、と私は言ったが、みなの耳には響かなかったようだ。

 母は子だくさんで、私にはきょうだいが七人いた。私以外のみなは家庭を持ち、子どもを育てていた。

 独り身の私だけが母と共に家で暮らしていた。介護を押しつけられていた、と言ってもいいが、きょうだいたちからは金銭的援助を受けていたので、お互い様だと言われれば否定の余地はない。

 母の机の引き出しから遺書が見つかったのは、葬式の終わった夜のことだった。

 きょうだいたちが家に泊まり、みなで母の思い出を語り合っていた。

 遺書を開き、みなで読んだ。

 唐突な不孝を許してほしい、とヨレヨレの字で書かれていた。母の字だ。幸せな人生だった、と冒頭に記されていたこともあり、みなどこか安堵した様子だった。

 息子娘たちへ、と母は一人一人を名指しし、お礼とそれぞれへの遺言を書き連ねていた。

 遺書がきょうだいたちの手から手へと渡る。みなさめざめと泣いた。

 最後に私の手元に手紙が巡るが、私は紙面を一目して、それを畳んだ。封筒に仕舞う。

 みな、まだ泣いている。

 母の死を惜しんでいるのだ。

 だが私は、はやく煙草を吸いたい気持ちでいっぱいだった。

 遺書には、私の名前だけがなかった。




【隣人の怪】

(未推敲)


「うー、うー。なんもない、なんもなーい。思いつかん、思いつかん。きょうくらいサボってもいいかな。どうせ誰も読まんもんな、誰もよろこびゃしないもんな、一日くらい休んだってバチは当たらないし、腕も鈍らない。無理して頑張ったっていいことなんて一つもないし、頭空っぽなのに無理くり作ったっていいものなんてできっこないもん、こんなのただの強制労働だ、奴隷だ、強迫観念だ。よくない、よくないよ、こんなの全然よくない。休もう、休もう。もう寝ちゃおう。サボりじゃないもん。原稿よりも健康だよ、なんもしない日があったって誰も責めやしないし、文句も言わない。失望もしなけりゃ評価も下がらん。誰も期待なんかしちゃいないんだ。消えようが筆を折ろうが、誰も悲しみゃしないんだ、そもそも気づかれもしないし、惜しまれもしない。きょうくらい休んで何がわるい。永久に休んで何がわるい」

 そうだ、そうだ、それがいい。

 ぶつくさと、壁の向こうから呟きが聞こえる。

 ここのところ毎晩だ。気が狂いそうになる。

 壁を叩くが、殴り返されるだけなので、もはやそっとしておくより術がない。

 だがここ数日の独り言は度が過ぎているように感じられる。とっくに頭のネジがぶっ飛んだ相手だとは思っていたが、怒りよりも不安が勝る。

 自殺でもしなきゃいいが。

 この暑さのなかで死なれたら半日でウジが湧くし、腐臭で息が詰まるのは勘弁だ。

 隣人は半年前に引っ越してきたのだが、完全にハズレの住人だ。

 隣人はずっと家にこもりっぱなしで、何かしら内職をしているらしい。締め切りに追われているのか、毎晩のように、うんうん呻っている。

 ネタに詰まっているようだ。

 それはいいが、もうすこし静かに悩んで欲しいものである。

 床のうえで寝返りを打つ。

 今晩の独り言はとくにひどく、どうやら小説を書いているらしいと、伝わった。怪談話を書いているようだが、完全にお手上げのようだ。

 仕事なのか趣味なのかは不明だ。

 聞こえてくる内容からすれば趣味の執筆のようだが、それにしては度を越えた悩みようである。

 趣味と呼ぶには熱をこめすぎだ。一日でも遅れたら死んでしまうかのような鬼気の迫りようがある。人生を賭した者の焦燥を感じなくもない。

 休む、休む、と呪文のように唱えていたが、けっきょく筆を進めることにしたようだ。間もなく、豪雨のごとく打鍵する音が聞こえだす。

 いったいどんな怪談話を書いているのか。

 いちど気になりだすと、じっとしてはいられなくなった。隣人が引っ越してきてからの半年間、散々無関心を貫こうとしてきたのだ。もう充分我慢したと言ってよい。

 こちらの気を散らし、あまつさえ聞こえよがしに小説の執筆を匂わせるほうがわるい。気にするな、というほうが土台無茶である。

 長らく住まわせてもらっている手前、なるべくアパートの住人たちには迷惑をかけないようにしてきたが、この隣人に対しては気を回すほうがあほらしい。さっさと出て行ってもらうのも一つかもしれない、と思いたち、床から身体を起こして、壁に顔を押し当てる。

 ヌルリ、とすり抜けると、隣人と目が合った。

 隣人は上下黒のスウェット姿だ。ガンガンに冷房を利かせた室内で炬燵に足を突っ込んでいる。口をぱくぱく開け閉めし、これでもかと目を見開く。いまにも目玉が零れ落ちそうなほどだ。

「すまんね。気になってしまって。いったいどんな怪談を書いているんだ。一つ私にも読ませてくれないか」

 どれどれ、と隣人の手元を覗きこむ。

 隣人は固まったままだ。触れられるわけもないのに、私の身体をゆびでつつくと、

「ホ、ホンモノだ」

 なぜか目を輝かせる。




【初めての盛り塩】

(未推敲)


 旧友が急死した。猛暑がつづいたあとに訪れたぐっと冷えこんだ日のことだった。

 朋輩(ほうばい)たち三人で通夜に行ってきた。彼女らと顔を合わせるのは久方ぶりのことだ。大学を卒業してから三人揃うのは初めてかもしれない。

 翌日の葬式にも参列するつもりで集まったので、その日はみな同じホテルに宿泊した。一人で過ごすのも寂しいので、ひとつの部屋に集まり、夜通し語り明かすことにした。

 最初は思い出を話し合って明るい雰囲気だったのだが、通夜にて旧友の死因を聞かされなかったことから、おそらく自殺なのだろう、とみな薄々察してはいた。

 二十代での死だ。夭逝と言っていい。早すぎる死はただそれだけでみな落ちこむ。

「なんでなんだろ」

 わたしがそう口にしたとき、目のまえを、白くぼんやりとしたものが通った。

 わたしはぽかんとしながらそれを眺め、素早く瞬きをしたが、それはスーと透明なベルトコンベアを流れるようにわたしたちのあいだを横切った。

 焚き火を囲うようなかっこうで、三人向き合って座っていた。

「いまなんか通ったんだけど」わたしはもちろん幻覚だと思った。じぶんだけに見えた目の錯覚に違いないと、自ずから結論していたのだが、朋輩の一人が、うちも見たんだけど、と目を丸くした。

 もう一人の朋輩まで、「いまの見間違いじゃないの」と言いだしたものだから、わたしたちは呆気にとられた。

 おそろしくはなかった。

 丸くて白いモヤのようなものだ。兎の尻尾に似ている。慄き怯えるようなものではない。

「そっか。きっと最後の別れを言いに来てくれたんだね」

 わたしはしんみりと、それの消えた方向を見た。それから二人に、ここをこう通っていったよね、といま見た光景を再現してみせた。

 一人は、そうそう丸っこくて白いの、と頷いたが、もう一人は、「えーなにそれ」と蚊帳の外に置かれた子どものように、窓のそとのじゃなくて、と言った。

「窓のそと?」

「いまだって、そこに誰か立ってたじゃん」

 窓を見遣る。驟雨がしとしとと舞っている。

「いやいや」わたしが首を振り、もう一人のわたしと同じ白いモヤを見た朋輩は、だって、と告げる。「ここ十四階じゃん」

 ベランダはない。

 窓の外に誰かが立てるはずがない。

「じゃあ、見間違いかも」

 あっけらかんと友人は述べたが、わたしはもう一人の朋輩と肩を寄せ合い、しきりに立ちたがる鳥肌をさすり合った。

 翌日の葬式でも、旧友の死因は明らかにされなかった。わたしは帰宅すると、生まれて初めて玄関口に盛り塩を置いた。




【嫉妬の鬼】

(未推敲)


 わがはいは嫉妬をしやすい。じぶんにできないことを容易くこなす能力はなはだしい秀でたる者が世界中に蔓延りすぎて、何を見ても嫉妬する。

 大統領の権力をはじめ、アイドルの人気、アスリートの活躍、我がきょうだいの進学昇進結婚から、近所のガキンチョの青春事情まで嫉妬の種には事欠かない。いとこたちはいつの間にか医者や弁護士になっており、副業として商業作家デビューまで果たし、いまでは売れっ子作家の仲間入りだ。

 それに比べておまえときたら、と憐れむでもなく、おまえはおまえで好きに生きなさい、と温かく見守ってくれる親戚一同の深い慈愛には、嫉妬の乱れ撃ちを禁じえない。

 しまいにはわがはい、四角い形状を保てる豆腐さんの柔軟性や、ダイナマイトにも耐えうる金庫さんの頑丈さ、ほかにも、逆さにしてなお難なく直立を維持するペットボトルさんの軸の安定度の高さや、どんな体勢からでも回転できるコインさんの融通無碍さには、絶望するほどの越えがたい差を感じる。

 カエル、アリ、ムカデにヘビ、鳥にネコに、犬にシカ、挙げ連ねれば暇がない。嫉妬するなというほうが土台無茶というものだ。

 世の人々はいったいどうやって自己肯定感だの自信だの自尊心だのといったものを高く維持しつづけていられるのやら。疑問符で海を埋め尽くしてしまいそうである。

 このほど、十年前に旅に出た旧友がわがはいの街に帰ってきた。久闊を叙しがてら夕飯をたかろうと出迎えにはせ参じたが、わがはいの顔を見るなり旧友は回れ右をして去ろうとした。わがはいの掲げた右腕の行き場のなさといったらない。

 わがはいは旧友を追いかけ、進路を塞いだ。

「やい、旧友よ。おぬしはノコノコと性懲りもなく故郷に舞い戻ってきたりなんかしちゃって、どの面さげて、うぷぷ、わがはいはおぬしのことなどこの十年、まったく微塵も、一瞬たりとも忘れたことはなかったし、ずっとずっとさびしかったぁ~」

 うわーんおかえりー、と抱きつくと、

「やめろ、やめろ。汗臭い。おまえちゃんと風呂入ってんのか。相変わらず成長が見られんな」

「旧友よ。お言葉だが、かってに成長して、色気づいたのはおまえだぞ。何ちょっとカッコよくなってんだ。ずるいぞ。卑怯だ。嫉妬してやる」

「嫉妬ばかりうまくなったって、仕方ないだろ。それにお帰りも何も、立ち寄っただけだ。もはやオレにとっちゃ旅が故郷みたいなもんだからな」

「なんだそれ、めっちゃかっこいい」旅人は言うことが違う。「いいな、いいな。わがはいもそんな台詞吐いてみたかった」

「言うだけならタダだろう。好きなだけ吐けばいい」

「旅してない人が言っても虚しいだけでしょ、登山したことないひとが、誰からも何も訊かれてないのに、なぜってそりゃあそこに山があるからだ、なんて言ったってきょとんとされるだけでしょ、惨めでしょ」

「どの道何もせずとも惨めなのに何をいまさら」

「正論ではあるけれども」

 言い方がなっていない、と言いたかったが、唇を噛みしめすぎて、声がでない。

 夕飯を奢ってもらう目的がなければ、わがはい、いまここでご立腹して旧友との縁を切っていたところだ。

「飯は奢らんし、おまえとの縁もいらん。切りたきゃかってに切ればいい」

 旧友はかっこうよく言って、腰に縋りつくわがはいを物ともせずに、ずりずりと歩きだした。

「ちょっと待って、ちょっと待って、本当に待って、お腹ぺこぺこで倒れちゃいそうなの。ここ商店街なの。そっちには何もないの」

 いいから立ち止まって、とおいおい泣きつくと、狙い通り衆目が集まった。

 しめしめ。

 これで旧友は折れざるをえまい。

 わがはいに屈し、潔くご飯を奢るがいい。

 しかし旧友はなおも歩を進めた。のみならず、不吉なことをつぶやく。「交番ってこっちだったかな」

「待って、待って、すみませんでした。もうはしたない真似はいたしませんので」

「いいよ、いいよ。いまさらやめてもらったって、警察に突きだす未来は不動だから」

「ちょっとは揺らご?」

 二ミリでいいからグラついとこ?

 旧友は歩をゆるめず、裏路地に抜け、商店街から離れていく。さすがに人目があって恥ずかしくなったのだろう。

 わがはいはすかさず見抜き、旧友の腰から身体を引っぺがす。鼻水が吊り橋さながらに伸びたが、旧友にバレる前にゆびで巻き取って、誤魔化した。

 旧友は溜息を吐いた。

「歳のことは言いたかないが、おまえもいい歳なんだから、そろそろ他人にタカるのをやめたらどうだ」

「誤解だよ誤解。わがはいはただ、友情を育もうとしていつも失敗しているだけだ」

「失敗から学ぶ姿勢がないのも救いようがないな」

「いいだろ。わがはいはただ、わがはいらしくあるだけだ。みながわがはいよりも秀でているだけで、わがはいは何も悪くない。優秀なみなが悪いのだ」

「そう言われてしまうと一理あるような気にもなるのがふしぎだ。クズだと認めているだけのことなのになあ。本当にふしぎだ」

「クズはクズなりに一生懸命に生きているのだよ。わがはいはいつだってみなを見あげて首を痛めることも厭わずに、口を開けて待つひな鳥のごとく、おこぼれに与かるのに必死なのだ」

「なんの白状だ。正直に言えばいいってもんじゃない。時間はあるのだろう。何かに励めばいずれ何かの道で才能が花咲くかもしれんだろうに、無駄な時間を過ごしすぎだもったいない」

「あり得んな。わがはいの無能っぷりを侮らんでほしい」

「変なところで自信を持つな自信を」

「他人に嫉妬させたらわがはいの右にも左にも上にも下にもでる者はおらんな」

「変なことを誇るな」

「ほかに誇ることがないのだ」

 旧友は呆れたのか、沈黙した。

 ややあってから、

「そんなに嫉妬ばかりしてよく疲れんな」と咳ばらいをする。「死にたくはならんのか」

「ならんな」

 旧友はようやく歩を止め、やれやれ、と振り返る。「おぬし、自己肯定感が低いと見えて、真には富士山よりもうず高く自尊心に満ち満ちているのではないか」

「ないものは減りようがないだけだ」

「ほう。物は言いようだの」

 旧友が腕を組み、なれば教えを乞おうではないか、とどかりとベンチに座った。知れず丘の上の公園まできていた。ベンチからは街並みを一望できる。

「嫉妬に囲まれてなお、嫉妬に焼き殺されぬ術を知りたい。おぬしはどうやらその境地に立っているように見受けられる。クズも極めればそれもまた達人なのかもしれぬ、と考え直してみたが、どうだ」

 夕焼けがきれいだった。

 わがはいは面映ゆくなり、全身をぼりぼり掻いた。「嫉妬なんてものはそこら中にある。空気みたいなものだ。吸ったらその分だけ吐けばいい。だいいち、わがはいは常にこの世で最も秀でている者に嫉妬しておるだけだ。それ以外の者への嫉妬など、それに比べれば無きに等しい。とはいえ、ないわけではないがゆえに、つねに嫉妬に囲われているわけであるが」

「ほお。して、そのこの世で最も秀でている者とはなんだ」

「神だ」

 至極真面目に答えたというのに、旧友ときたらきょとんとしたのちに、呵々大笑した。腹を抱え、目に涙まで浮かべる始末だ。

 虚仮にされるとは思わなんだゆえ、カァと首筋が熱くなる。

「くっくっく。すまぬ、すまぬ。なに。バカにしたわけではない。神か。そうか。なるほどおぬしは、オレの思うよりもずっと純粋で、愚直で、高みを見詰めつづけていただけなのかもしれんな」

「やめろ、やめろ。見え透いた世辞を申すな」

「違うぞ。これは本心から感心しているのだ。神にすら嫉妬し得るその向上心には目を瞠る。否、おまえの場合は、平等の精神とでも言うべきか」

「よく分からんが、お気に召したのなら本望だ。で、どうなのだ。やはり夕飯は奢ってはくれんのか」

「気が変わった。しばし飯を肴に、話を酌み交わそう。おまえはこの数年で何も変わらずにおったようだ。オレのほうではずいぶん変わった」

「そんな自慢は聞きとうないが」

「違う。何も変わらぬおまえを見て、以前のオレならば、むかしのように見下していただろう。だがいまならば分かる。おまえは、ただそこにあるだけで絶えずもがきつづける天才であったのだな」

「バカにしておるだろ」

 いくらなんでもわがはいをして天才はない。百人いたら百人が、それはない、と物申す。それほどの法螺である。

「まあ、たしかに天才ではないかもしれんな。そういった尺度で語れる域を越えたところにおまえは立っているのかもしれん」

「豚もおだてれば木に登るのだろうが、わがはいをおだてても、何もせんぞ。ただ飯はたらふく食らうが」

 胸を張ると、盛大に腹の虫が鳴った。

「はっは。よい音だ。ではそろそろ店に行くか。何がいい。食いたいものがあれば遠慮なく言え。きょうは友との邂逅を記念に、大盤振る舞いといこう」

「なら駅前に美味い焼き鳥屋があってな」

「居酒屋ではないか。そんなところでいいのか」

「そこがいいのだ。語らうにはうってつけであろう」

「それもそうか。そうだな。ではそこにしよう」

 旧友はベンチから腰をあげると、背伸びをした。襟を正すと、ちなみに、と質す。「いまは何に嫉妬している」

「そりゃもちろん」

 わがはいは沈む夕日に目を細め、

「おぬしの底なしの懐の深さにだ」と打ち明ける。




【閑古鳥はさえずるが、その声すら美味】

 

 デートに失敗はつきものだが、こうも上手くいかないとじぶん以外のせいにしたくもなる。

 声をかけて仲良くなるまではいくのだ。そのあとでいつもうまくいかない。要因ははっきりしているのだ。初めてのデートでなぜか、美味しい店に行きあたらない。気まずい食事を過ごして、なんだかそのまま相手との関係までぎこちなくなり、知恵の輪が偶然すんなり外れてしまうみたいにそのまま縁が遠のいてしまうのだ。

 食事がわるいだけが理由ではないだろう。いくら料理が美味しくなくたって、会話が楽しければ二人の関係は深まるはずだ。

 だのにどうしてか、いつもうまくいかない。

 失敗を繰り返さぬようにと、店を視察するくらいの工夫はしている。じぶん一人で行くときには美味しい料理がでてくるのだが、いつも決まってデートのときだけ、お世辞にも笑顔を浮かべるに及ばない料理がでてくるのだ。

 もうそういう星のもとに生まれたと言っても過言ではない。 

 あまりに貧乏くじを引きすぎである。

 かように友人に相談を持ち掛けたこともあるのだが、友人いわく、

「そんなとっかえひっかえ、すぐに乗り換えられる程度の想いしか抱かねぇから上手くいかねぇんだよ」

 だそうである。

 一理ある。

「おまえは惚れっぽからな」

 との指摘も、やはりそうした面があることは認めるしだいである。

 とはいえ、いいな、と思った時点で、声をかけると、それなりに仲良くなれてしまえるのだ。小指と小指に絡めた糸が、運命の赤い糸であるかどうかは、手っ取り早くお付き合いしてみればよいのではないか、と考えるのはさほどにおかしいことだろうか。

 肉体関係になる前にいつもご破算になる。

 ゆえに、外野からとやかく言われる筋合いはないはずだ。

 かように言い返すのだが、

「そういう理屈っぽいところが嫌われる要因なんじゃねぇの」

 とまったく取り合ってくれない。その癖、友人は私の友人であることをやめないというのだから、その理屈は合っていない。

「いやいや。友人と恋人は違うだろ。俺だって恋人にゃもっとやさしくするよ。なんたってしあわせになって欲しいからな」

「それだとまるで私にはしあわせになって欲しくないみたいではないか」

「そこまでじゃねぇけどな。かといって、しあわせになって欲しいかと言われるとそれも違うな」

「なんでだ」

「だってそんなのつまんねぇじゃん」

 腐れ縁とはかくもにべのないものである。

 友人はさらなる痴態を私に演じさせようとの魂胆からか、憎からず私を思っているらしい相手をあてがった。私のほうに断る道理はなく、また友人の思惑通りになるつもりもさらさらなく、どちらかと言わずしてぎゃふんと言わせたい思いがあり、二つ返事で相手の方と会う約束をしたのだが、物の見事に一度目のデートで玉砕した。

 インターネットの力を借りて、ここさえ選べば間違いない、というレストランを予約したのだが、どうにも担当コックが、一流の矜持をこじらせたらしく、本日のおすすめを、との私の注文通りに、改心の料理を運んできた。

 泥であった。

 食べられる泥なんですよ、と満面の笑みを浮かべるコックにはわるいが、すでに私の向かいの席に座る女性は、鞄をひざの上に載せ、帰り支度をはじめている。

 私は何度この光景を目にしてきただろう。彼女たちは、もうこの場にいたくない、と考えた途端に、メディア端末を鞄に仕舞い、それをひざの上に置くのだ。

 早く帰りたい、なんて感情をおくびにも出さずに、頭のなかではいまこの瞬間の不満をどうおもしろおかしくインターネット上に投稿してやろうか、友人知人に話して聞かせようかと、この場面を切り取って、小話のカタチにこねこねしているのである。

 食事を黙々と済ませ、お会計をし、店のそとにでると、そのまま、きょうはありがとうございましたまた機会がありましたらごいっしょさせてください、と社交辞令の挨拶を交わして、別れた。

 これは文字通り、袂を分かつの、別れる、である。

 泥がメインディッシュでなければもうすこしまっとうな会話をできた気もしないでもないが、こればかりはどうしようもない。泥でなく、泥臭いエビであっても、結果は同じであっただろう。どちらかと言えば、泥臭くなかった点で、食べられる泥でよかったかもしれない。

 同じ別れるにしても、できるだけ悪印象なく、気持ちよく別れたいものである。

 そういう意味では、お互いに嫌な思いをせず、ちょっと期待外れだったけれども食べられる泥を食べられただけ、ネタを拾えた、という意味で、楽しい時間だったと、じぶん一人であったならば解釈できたが、やはり相手が相手なだけに、つまりこれから仲を深め合えたらよいな、の気持ちが滾っていた最中の相手であっただけに、嫌な思いをさせてしまったとあれば、浅からぬ傷を残すものだ。

 気を遣わせてしまったこともそうだし、無駄な時間だったと思わせてしまったのならやはり気が重たい。

 じぶんがわるいのだろうか。

 それはそうだろう。

 店がわるいのであれば、そもそもそういった店を避ければよいことだ。一度ならばともかく、何度も同じ過ちを繰り返している。対策を充分に行えないならば、これはじぶんに落ち度があると認めるしかあるまい。

 が、これ以上どのように対策をとればよいのか。

 いっそ外で食事をとることをやめてみてはどうか。

 最初から家に誘い、映画でも観ながら、談笑するのがよいのではないか。誠実どうのこうのを度外視してしまえば、いっそ既成事実を作ってしまってからなし崩しに付き合っても構わない。どの道、お互いをよく知りたいがために付き合うのだ。ならば身体の相性とて、付き合う前に知っておいても無駄ではないだろう。

 理屈のうえでは合っているが、ではいざそのように行動を修正しようとして、納得できるかと言えば、いささか気を揉む。

 付き合うまでいかなかったとしても、醜聞は避けられまい。すでに、とっかえひっかえしているように外部からは見られている。友人の言ではないが、そういう性格だからだ、と言われてしまえば、そうかもしれぬ、と首肯するよりない。

 かといってそれを潔しとして認めるのも歯がゆい。

 ここまできたら素晴らしいディナーを共にした相手と結ばれてみたい。逆説は成立しないのは承知のうえで、なんだかもうディナーを楽しく過ごせる相手こそが運命の相手だと言ってもいい気がしてきた。

 いちど踏ん切りがついてしまえば、あとはもうとことん下準備を整えるだけである。

 そうと決まれば善は急げだ。

 一つの恋が終焉に終わったばかりだが、街中の食事処をいくつか回ろう。これまで失敗をした店は回避しておく。穴場のような店があれば儲けものだ。

 他人から仕入れた評判を信用する素直さはとうにいずこへと旅立った。じぶんの目で、舌で確かめねば、上等な店だとの判断はくだせない。

 そうと思い、二時間あまりをかけて三軒を回ったが、のっけからデートに不向きだと丸分かりだ。料理の味はそこそこまあまあ美味であったが、ボリュームが無駄に多かったり、香辛料が癖のある匂いをしていて、ムードもなにもあったもんじゃない。味はよいのに、店内に昆虫の標本がずらりと並べられていたりと、とかくサービスの方向をもうすこし吟味しておくれ、と思うこと山のごとしな店ばかりであった。

 デートでなければ楽しい食事になるのかもしれない。否、せめて一度目以降のデートであれば、それなりに楽しめるであろうと思われる店の数々なのだが、初回に命運をかけるしかない身の上としては、大きく賭けにでられるほど身の程知らずではない。

 残り僅かな学生生活に華を添えたい。よい思い出をつくりたいのだ。

 もはや外から店を覗くだけで、なんとなく合わないな、と判るまでに経験を積んだ心地がする。そんなのは錯覚だ、と我が友ならばこちらを見向きもせずに一蹴するだろうが、判るものは判るのだ。

 たとえばこの店などはどうだ。

 裏路地にこじんまりと佇む一軒のレストランである。なんとなくこじゃれた外観で、いかにも若者のデートにぴったりだ。しかし仮に真実、上等な店であるならばもうすこし立地のよい場所に店を開いていそうなものであるし、店内にも客の姿があってしかるべきだ。

 ひるがえって、この閑古鳥の鳴いていそうな静けさはどうか。

 まるで人が寄り付かない。

 試しにインターネット上での評価を漁るが、そも評価すらつけられていないではないか。

 いや、あった。

 最低の評価が一つ付いている。こんな店がよいわけがないのだ。

 だが、いかに質のわるい店であるのか、を知ることは、ハズレを引かずに済むうえでは知っておいて損はない情報だ。

 敵を知ればなんとやらである。

 山のなかのコテージさながらの扉を開き、店内に足を踏み入れた。

 店内はがらんとしている。客の一人もいない。

 そのくせ、本日のおすすめメニューと手書きで彩られた小型の黒板が、小奇麗に客を、つまりこちらを出迎える。

 音楽がうっすらと店内に雨音のごとく音のカーテンを敷いている。異国の民族を彷彿とする曲調だ。アルプス山脈に流れる小川を連想する。

 喫茶店や居酒屋よりも店内は狭い。どちらかと言えば、バーといった敷地面積だが、内装は明るく、さわやかだ。

 店内を見渡していると、いらっしゃいませ、と店員が奥から顔を覗かせた。出迎えるでもなく、お好きな席にどうぞ、と声だけを放つ。

 女性だ。若い。

 ほかに店員のいる気配はなく、ひょっとしたら彼女が一人で切り盛りしている店かもしれない。

 隠れ家的な、といった形容があるが、真実印象としては隠れ家そのものだ。こじんまりとして、閑散とした店内はまさに秘密基地めいている。造花だろうが、壁に蔓が張っているのもそうした印象をつよめる役割を果たしている。

 奥の席を陣取った。

 壁を背にすると、店内を視界に入れられる。カウンターの奥にキッチンがあり、そこで作業をする女性の背中が見えた。

 間もなく、メモ帳を引っ提げ、やってくる。

「メニューはそこからお選びください」彼女は卓上のメニュー表を手に取ると、開いて置き直した。「お飲み物一杯だけサービスになっております、どれになさいますか」

 メニュー表の一覧をゆび差される。サービスがいいな、と思いながらそこからオレンジジュースを選んだ。彼女はいちど引っ込むと、一分も経たぬ間にカップを携えやってくる。

 ジョッキに一杯のオレンジジュースだ。一般のものと比べると内容量だけで三倍はありそうだ。お代わりする者のほうが稀だろう。

 ごゆっくりどうぞ、と踵を返そうとする彼女を、注文いいですか、と呼び止める。お伺いします、と彼女が向き直ったので、ハンバーグセットを注文した。

「こちらソースとオニオンがございますが、どちらに致しますか」

「じゃあソースで」

「かしこまりました。お時間少々戴きます」

 キッチンに引っ込んだ彼女の背を見届けてから、いまいちどメニュー表を眺めた。

 豊富なメニューの数に驚く。

 味比べの名目で、どの店でもまずはハンバーグセットを注文する癖がついていたので、いつもの流れでろくすっぽメニュー表を眺めずに注文したが、かつてこれほどまでに品数の多かった店があっただろうか。

 カタログや図鑑を眺めている気分だ。

 載っている料理の写真はいずれもお手製だ。否、写真に限らず、この店にあるものの多くは手作りだと判る。

 このメニュー表一つとっても、既製品ではない。

 料理の多くも、盛り付けから味付けまで、独自にアレンジされているようだ。店主のこだわりが窺える。

 ファミレスより遥かに多い品揃えに、却って不安になる。

 これほどの料理を取り揃えている店が繁盛していないはずがないのだ。ひょっとしたら、ファミレスさながらに業務用のレトルト食品を温めてだされるだけではないのか。

 美味ければ文句はないが、だったらファミレスで食事をとれば済む話だ。

 値段は相応に割高であり、やはりこれがインスタント食品の流用であればハズれの評価を下すのは何の躊躇もない。

 喉が渇いたこともあり、オレンジジュースに口をつけた。

 何の気なしに、とくに期待もしていなかったが、一口飲みこんだだけで、そのあまりの濃厚な味に、デザートでも食べたのかと錯覚した。ごくごくごく、とあっという間にジョッキの半分が胃の中に消える。

 液体を飲んでいるのに、果物を齧っている気分だ。凍らせればそのままアイスにできそうなほどの濃さであり、甘さである。

 だがけしてしつこくはない。柑橘類のさわやかな風味が凝縮している。

 無料で提供されてよいような品ではない。そのように感じた。

 味のよさに比べて、その扱いが釣り合っていない。

 ひょっとして、業務用の廃棄品を安く買い取って、使いまわしているのではないか。賞味期限が切れていたり、何か問題があって回収された品を使っているのではないか。

 ジュース専門店だってもっと味は薄い。いかにも果物をただ絞りました、といった酸味がでるものだ。

 何か裏があるのではないか。

 構えていると、お待たせしました、と店主が品をお盆に載せ、やってくる。

 注文してから十五分と経っていない。やはり既製品を温めただけか、と厨房の裏事情を想像する。

「こちらお熱くなっておりますので、お食事の際には、お手に触れないようにお気を付けてください」

 熱く熱せられた鉄板がジウジウと音を立て、香ばしい匂いを立ち昇らせている。

「ご用がございましたら、こちらの鈴を鳴らしてください」

 テーブルの上の鈴を手に取ると、彼女はじっさいに鳴らせてみせた。リンリンとよく通る澄んだ音色だ。

 彼女が去ってから、さっそくハンバーグと向き合う。セットを注文したからだろう、ご飯とサラダ、そしてスープがついている。

 まずは肉からだ。

 まん丸く膨れたそれの頂上にフォークを突き刺す。この時点で、フォークの美しさに気づく。一点の曇りもない光沢に、手に馴染む造形、ほどよい重さは、じぶんが道具を扱っているのだ、と無意識のうちから身体に意識の根を張り巡らせる。

 肉の表面は弾力がある。わずかに沈むと、ハンバーグは真ん中から、ぱかりと割れた。肉汁が溢れだす。

 ふしぎなのは、肉汁の量もさることながら、肉そのものの密度だ。どこにこれほどの肉汁が納まっていたのだろう、と思いながらも、ハンバーグはむしろ溶岩の噴きだした火山口さながらに、膨らんで見える。まるで圧縮されていた中身が、穴から吹きだしたような膨張を見せている。

 閉じ込められた肉汁を放出してなお、肉そのものが息を吸って膨らんだような印象を覚える。

 ごくり。

 唾液が肉汁に誘発されたように、というよりもまさしく誘発されて、口内にだくだくと湧いた。

 肉をフォークで掬い、口の中に運び入れる。

 火傷をしないように、すぐには噛まない。舌のうえでコロコロと転がしながら、染みでる肉汁の温度を感じつつ、じわり、じわり、と咀嚼する。

 唾液が天然の防護服の役割を果たす。

 はふはふ、と外気を取り入れつつ、三度ほど大きく噛む。

 熱を掻き分けて、じゅわり、とハンバーグの香りが鼻腔を突き抜け、脳内に染みわたった。

 美味い。

 なにより、この甘さはなんだ。肉を食べているはずなのに、脳があたかも極上のスイーツを食べているような至福の余韻を覚えている。肉の美味さにプラスされたそれは多幸感だ。

 スプーンで肉を口に運ぶ手が止まらない。夢中で貪り食った。

 途中からは、ご飯といっしょに食べる。これがまた合う。ご飯とはこのために生みだされた食材だ、と錯覚するほどに、じつによく肉の旨味を引き立てる。否、ハンバーグの素材は肉だけではない。玉ねぎの甘さから、フルーティな旨味、歯ごたえがありながら口の中でとろける絶妙なパン粉の繋ぎなど、その総じてがモザイクアートのごとく全体の調和を築いている。

 サラダ、スープ、と矢継ぎ早に味わう。

 料理を食べて芸術を連想したことなどかつてなかった。

 だがこれは紛れもなく芸術であり、なおかつ極めて即物的な人間の本能を満たすために特化したシステムの側面を有している。破綻していながら合理を追求してもいる。

 こんなハンバーグセットは食べたことがない。

 料理だとは思えない。

 ドラッグやマジックの類に思えてならないのだ。

 気づくとジョッキに半分ほど残っていたオレンジジュースまでカラになっており、いったいじぶんはいつこれを飲み干したのか、と愕然とした。

 お腹はとっくにパンパンに張っているのに、脳がもっとよこせと暴走している。

 食べ足りない。

 メニュー表を眺め、つぎは何にしようか、と考える。デザートを注文してもいい。

 仮に好みではない料理がでてきたところで、どうあってもそれを不味いと低く評価することはないだろう。そう予感させるだけの実力を見せられた。

 そう、魅せられてしまったのだ。

 なぜこの店にきたのかすら忘れていた。

 いつの間にか、この店への不信感はきれいさっぱり失せている。

 否、改めてよくわからない、といった混乱に見舞われる。

 なにゆえこれほどまでの店が、これほどまでに繁盛していないのか。

 デザートの品数も尋常ではない。どれを選んでも美味そうだと思うがゆえに、どれを選んでも悔いが残る。いちどにすべての味を楽しみたいとの欲が湧く。意地汚いのは承知のうえで、一口ずつ味見をさせてほしい。そのなかで一番もっと食べたいとなったものを食べたい衝動が湧く。

 こんな状態ではいつまで経っても決まらない。それでいて悩む時間そのものが至福でいて、もどかしい。

 お勧めを訊いて、それにしよう。それがいい。

 テーブルの鈴を鳴らし、店員を呼ぶ。

 やってきた彼女に、ハンバーグがとても美味しかった旨を伝え、それからこれに合うお勧めのデザートを何でもいいので見繕ってほしい、と頼む。

「却ってこうした注文のほうが困るとは思うんですが、何が出てきても文句は言いませんので」

「では、無難にパフェとかいかがでしょう」

「なら、それで」

 メモをする彼女に、店長さんなんですか、と質問する。ふだんは店員に話しかけるなんて真似はしないのだが、ほかに客がいないことに加え、興味関心がムクムクと膨らんでいた。

「私がはい、この店の店長というか、はい。責任者です」

 質問の意図が掴めなかったのだろう、声には困惑が滲んでいた。

「あ、とくにクレームとかではなく。ほかに店員さんの姿が見えなかったものですから」

「ああ、そうですね。最初はバイトさんを雇ったりはしていたんですけど、一人でも充分やっていけるなと判ったので。そもそもお客さまの数も多くはありませんし」

 彼女の視線を辿って、店内を見渡す。がらんとしているが、居心地はわるくない。客が少ないからといって手を抜いてはいないのだ。

「宣伝とかされないんですか。こんなに美味しくてお洒落なお店なら上連なんてあっという間にできると思うんですけど」

「そう言っていただけるとうれしいです。宣伝は、できる範囲ではやっているんですけど、なかなかむつかしいですね」

「むしろお客さんが殺到しないようにしているとか?」

「いえいえ、きていただけるならうれしいですよ。たくさんの方に、しあわせな時間を過ごしていただけたら言うことがありません。ですが、きっとそこまでの魅力がまだ足りないということなのだと思います。精進致します」

 恐縮されてしまっては、なんだか説教をしてしまったような気まずさが残る。こちらのそうした心中を察したのか、うちはただ、と彼女は言った。「お客さまには恵まれておりますので」

 微笑みながら頷くほかに返事のしようがなかった。彼女は低頭し、数分も経たぬ間にデザートを運んできた。

 受け取ったあとで投げかける。

「さっきも思ったんですが、料理がでてくるの、早いですよね」

「あ、はい。いまはお客さまがお一人さまですので」

「それにしてもすごいなと思って。さっきのハンバーグもそうですけど。失礼ですけど出来合いのモノという感じもしないものですから。メニューも多いじゃないですか」

「そう、ですね。そこはけっこう、気を付けています。メニューは多いのですが、素材となる食材は応用のきくものばかりで、最初から下ごしらえは済ませているんです。その分、廃棄もでちゃうので、当たりはつけていますけど。ですから人気メニューのときはとくに時間を短縮してご用意できるわけでして」

「なるほど」ハンバーグセットは人気メニューだったというわけだ。

「こちらのデザートは、材料だけで言うと三つのほかのスイーツの素材を組み合わせてあります。言い過ぎなところはあるのですが、パフェはですから、ほかのデザートのいいとこどりと言ってもいいかもしれません」

 たしかに目のまえに置かれたパフェは、何層にもスイーツが組み合わさっている。さしずめ、スイーツの虹である。

「すみません、よかったらもうすこしお話を訊かせてくれませんか。あの、本当にお邪魔でなければなんですが」

「構いませんけど、こちらこそお邪魔ではないですか」

「全然です。率直に言って、なんでこんなにいい店がまったく話題になっていないのか、評価されてないのか、ふしぎなくらいで」

「そう言っていただけるとうれしいのですけど」

「ほかのお客さんがくるまででよいので、すこしお話を」身を乗りだし、対面の椅子を座りやすく押した。

「きっときょうはもうほかのお客さまはこない気がします。いつも、いらっしゃっても一日で五人くらいなので」

「そんな」

 お邪魔します、と言って席に座る彼女に言う。「やっていけないじゃないですか」

「儲けはありませんが、ときどきお得意さまにお弁当を注文していただけるので。冠婚葬祭の二次会にご利用いただいたり、本当にお客さまには恵まれています」

「でも、それだけでは」

「そうなんですよね。いえ、こんなの、お客さまにするようなお話ではないですけど」

「いえ、こちらから訊いているので。それにしても、どうしてなんですかね。ご存じかは知りませんが、インターネット上の口コミサイトでも、このお店、あまりよい評価を受けていませんでした」

「あ、見ました。どうもそのときのお客さまのお口には合わなかったみたいで。わたし、愛想もそんなによいほうではないので、対応の仕方に不満を抱かせてしまったのかもしれません」

 店との相性というのはあるとしても、それはあまりに理不尽に思えた。一方的に低評価をして、その影響は延々とインターネット上で不特定多数に引き継がれつづけるのだ。

「あの、わたしからも質問してもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「どうして本日は、当店におこしになろうと? どこからかの紹介というわけでもないんですよね」

「たまたまです。たまたま、目についたので、なんとなく入ってみようかな、と」

「ですが、ネット上の評価をご覧になったんですよね」

 そっか、と思う。たしかに最初は、ネット上の低評価を見て、とんでもないハズれ店だろうと推測していた。最初は、ダメな店がなぜダメなのかを究明しようとして、共通項を探ろうとして入ったのだ。

 それがどうだ。

 当初の目論見は外れ、とんだ大当たりを引いた。

「正直言うと、最初はどんなにひどい店なのかと、わるい意味での興味本位で入りました。すみません。ですが、そうした分厚い偏見の鎧ごと、木っ端みじんに砕かれました」

「砕かれちゃいましたか」あっけらかんと彼女は言う。

「それはもう、粉々です」太鼓判を捺すと、そんなに、と彼女が深刻そうに相槌を打つので、私は噴きだした。口元を拭いつつ、「あの、なんとお呼びすれば」

「わたしですか? カヤブキです。親しい方からはカヤちゃんと呼ばれていますけど、じつは名字なんです。下の名前は、アメリなんですけど、誰もそうと呼んでくれない呪いにかかってウン十年です」

 こんどは声をだして笑う。「カヤブキさん、おもしろい方だ」

「あ、パフェどうぞお召しあがりになってください。アイスもちょうどよく融けたころじゃないですかね。ちょっと融けてるほうが美味しいんですよ」

 食べながらでもおしゃべりはできますから、と彼女は言った。

 パフェをスプーンで掬い、一口頬張る。判っていたことだが、これもまた極上の美味さだ。見た目はパフェだが、図らずも先刻思い浮かべた願望が叶ったかたちになる。つまり、すべての料理をすこしずつ食べたいとの願望だ。モザイクアートじみて、ドットの一つ一つが極上のスイーツの欠片なのだ。全体でさらにこれ以上ない絵柄が完成する。芸術である。

「これ、これも、すごく美味しいです。生まれて初めて使う言葉ですけど、ほっぺたが落ちそうなくらいです。言葉の意味がいま解りました。すごいです。何か食べて感動するなんて初めてです。本当になんでなんでしょうね。なんでこんなに美味しいのに」

 すてきなお店なのに。

 そこまで口にして、ひょっとしてこれは失礼な言葉なのではないか、と呑みこんだ。誰よりそう思い、苦悩してきたのは目のまえにいる店主たる彼女のはずだ。一介の、偶然足を踏み入れただけの客にそんなことを言われたくはないだろう。

 言葉ごと呑み込んだパフェは、胃の中でさらに風味が増すようだった。湧きあがるようなのだ。胃の中にも味を楽しむ無数の舌が備わっているかのごとくである。

「そう言ってもらえてうれしいです。お客さまによろこんでいただけることが、料理人としても、憩いの空間を提供する店主としても、本当に何よりの対価なので」

「あの、また来てもいいですか。常連になりたいんですけど」

「ふふ。そういうのって、許可をもらってなるようなものなんですか」

「あ、そうですね。かってに通えばいいだけの話か」

「でもご無理だけはなさらないでくださいね。いちおう、値段はお手頃の価格を意識してはおりますけど、けして安くはないと思いますので」

「それは、はい。元々デートの下見のつもりでお店巡りをしていたのもあって、さすがに毎日はこれないとは思います」

「デートですか。数日前にご予約をいただければ、お相手さまのお好みの料理をコースにしてご提供することもできますので、もしよろしければそのときはご一報ください。あ、連絡先お渡ししておきますね」

 名刺を取りに行ったのだろう、わたわたとカウンターの奥に消えた彼女の背を見届けながら、いまはまだデートをする相手がいないのだ、と切り出してよいものか、悩む。いや、正直に言っても何ら差支えはないのだが、それだとデートの下見という前言と矛盾するし、もちろんその話自体に偽りはないのだが、だとすればなおさら、なぜいもしない恋人とのデートの下見などをするのかを説明しなければならなくなりそうで、躊躇した。

 毎回すぐに別れてしまうんですよ、すべてデートをダイナシにする店側がわるいんです、なんて言えるわけもない。

 格好がつかない。

 人間性を疑われる。

 なにより、彼女に嫌われたくはなかった。

 そうだ、と思い至る。あまりに馴れ馴れしすぎたのではないか。失礼にすぎたのではないか。不安が募る。

 長居はしないほうがよいだろう。店のフライヤーを持って戻ってきた彼女に、絶対にまた来ます、と言い添え、用があるのできょうのところはこれで、と席を立つ。パフェは息継ぎの間もなくたいらげてしまった。彼女がいないあいだに、器を舐めとっていたくらいだ。はしたない。

「ご用があったのに、引き留めてしまってごめんなさい。お時間だいじょうぶですか」

「こっちが頼んだことです、こちらこそお仕事の邪魔をしてすみませんでした」

 会計を済ませると、彼女は扉を開け、わざわざ外まで見送りにでてくれた。

「ぜひまたいらしてくださいね」

「それはもう。たぶんあさってには来てると思います。そうだ、休業日とかは」

「水曜日と第三月曜日は定休日になります。フライヤーのほうにご案内載せてますので、ご参考にどうぞ」

 頭を下げて、その場を離れる。

 気分が昂揚しており、その気分に流されまいと懸命に意識を冷まそうとする意思が働く。

 当初の目的は忘れていない。ただもう、あんな小賢しい、その場限りのさもしい工夫に割く思考が惜しくなってしまった。もっと有意義なことに思考は使いたい。

 ステキな店だった。

 店主の人格のたまものだろう。すなわち、あのひとが素晴らしいのだ。

 ひょっとしたらこの世には極悪人の経営する魅力的な店があるのかもしれないが、あの店に限っては店主の、彼女の、人徳のなせる業と言えた。

 カヤブキさんというのだ。

 カヤブキアメリ。

 彼女から教えてもらった彼女の名を、声にだすともなくつぶやく。

 俯瞰の視点でじぶんのその姿を想像し、急に気恥ずかしくなったが、脳裏にはもう、彼女の名前が、店で交わした会話ごと、極上の料理の味のようにくっきりと刻まれた。

 また会いたい。

 それはまるで、極上の料理とは別でありながら、まったく同じ土俵で語ることの可能な感情に思えた。鍋底に焦げついて洗い落とせない汚れのようで、ちょっとやそっとでは消えそうにない。

 汚れとは違って、それがまったく苦ではない。

 いや、そこはかとなく息苦しく、もどかしい。

 こんな感情はちょっと久しぶりすぎて、その扱いに難儀しそうだ。

 冷静に、冷静に、とじぶんに言い聞かせる。

 これまでの失敗を繰り返さぬように。

 慎重に、慎重に、じぶんのことではなく、相手のしあわせとは何かを考える。

 失敗してもいいと、きっといままでは心の底では思っていたのだ。

 だがいまは、この感情に区切りをつけられぬままに、永久に接点を失うことへの恐れが芽生えている。

 あくまで、客と店主の関係でしかない。

 それ以上を望むのは早計だ。

 かといって、このまま終わらせるつもりもない。

 まずは常連になってからだ。

 薄汚く、底の浅い下心ではあるが、できるだけ清らかな皮を被ったままで、縁をより深く結びたい。彼女のほうから縁を結んでもいいと思われるくらいに、じぶんを押し殺し、彼女のためにできることを考えていかねばなるまい。

 よもやじぶんがこんな青臭い感情に衝き動かされるとは思わなかった。

 生まれ変わった気分だ。

 否、真実に生まれ変わったのだ。

 アパートに戻り、手を洗って、ベッドに寝転ぶ。

 まだ夢心地から覚めない。

 冷静に、冷静に、と言い聞かせれば言い聞かせるほどに、彼女との時間が、料理の味と共に思い起こされる。

 なぜあれほどの店が、と何度目かの疑問が脳裏をよぎる。

 じぶんの偏見を自覚したいまならば判る。

 単純な理屈だ。

 あれほどの実力があって、まったく客がついていない。その事実だけを見れば誰だって、何かほかに問題があって、だから客が寄りつかないのだ、と考える。それがまったくの偏見にもとづいた認知の歪みであることに人は気づけない。ともすれば、気づかずとも損をしない現実がある。

 ひるがえって、表面上の評価が高いだけで、きっといいものだ、と見做す者たちがすくなくない。権威主義でも、ハロー効果でもなんでもいいが、そういう思考の偏りが人間には備わっているものなのだろう。

 ネットで検索した記事を読みながら、考えを煮詰める。

 社会は複雑になりすぎた。情報が錯綜し、氾濫し、それをいちいち吟味し、取り扱う余裕が現代人にはない。否、そもそも人間にはこれほどまでに雑多な情報を扱うだけの処理能力など備わってはいないのだ。

 だからこそ情報の中身そのものではなく、他人の評価という上辺のパッケージだけで、情報の真偽を図る。価値を図る。

 しかし、パッケージはしょせんパッケージでしかない。どんなに美しい包装紙で包もうとクソはクソであるにも拘わらず、美しく飾りつけられたクソは、クソ以上に、宝石のごとく取り扱われる。

 大勢からの高い評価も同様だ。大勢からの高評価、という情報そのものがパッケージとしての役割を果たす。

 あべこべに、パッケージの貼られていない宝石には、宝石としての価値がつけられない。真実にそれがいかに優れた宝石であろうとも、他者から評価されていない、見向きもされていない、という事実そのものが、宝石の価値を無にするのだ。

 そんなのは間違っている。

 だがそれが現代社会ではまかり通る。そうでなければ経済が回らないからだ。そういう仕組みで得をするその他大勢が多すぎる。否、そういう仕組みであっても損をしないその他大勢が多すぎるのだ。

 よくもわるくも、世の中を動かすのは大多数の消費者だ。そしてそれら消費者を動かすために、歪んだシステムを築き、利用する者たちが我が物顔で跋扈する。

 毒々しい思考を巡らせていることに気づき、ネットを遮断し、シャワーを浴びた。

 解かっている。世の中、そこまで単純ではない。

 そういう傾向はあるかもしれないが、それだけではないし、それを意図して行う者も、それほど多くはないだろう。

 だが、カヤブキアメリという奇特な人物のつくる料理の数々、そしてそれを提供してくれる憩いの場が、ああも盛大に見向きもされていないと、そんな仕組みは間違っていると大声で喚きたくもなる。

 せめて、妙な邪推を巡らせずに、まずは一口食べてみて欲しい。いちどでいいから店に入ってみて欲しい。

 たったそれだけの行動をとってもらうのに、とてつもない労力と、偽装と、装飾が、きっといるのだ。

 足を運んでもらう。ただそれしきのハードルをくぐってもらえずに、あの店は年中閑古鳥が鳴いている。その閑古鳥の鳴き声一つ、静寂一つとっても、あの店は格別だというのに、誰もそのことを知らず、知らずにいることすら認識できない。

 たとえばそれは、街中にモナリザが飾ってあるようなものだ。こんなところに本物があるわけがないとみなは思いこむ。モナリザ級のアートにしたところで同様だ。そんなものが、誰からの評価もなくこんなところに野ざらしになっているわけがない。そのようにひとはじぶんに都合のよいように、否、じぶんとはかけ離れた偏見によって目のまえの現実を曲げて解釈する。

 真実に本当は心惹かれているのにも関わらず、価値のつけられていない些末なものに動かされる程度の心だとは思いたくはないのだ。

 道端の小石に感動するような感性だと思いたくはない、そうした自己防衛の心理がきっと働く。真実にそれが宝石であっても、そんなことは、関係がない。なぜなら、ほかの大多数の者も、その石そのものではなく、その石にどんなパッケージが施されているのか、にしか関心がないからだ。否、大衆とはそういうものである、というここでも偏見が根づいている。

 つまり、じぶんが何のパッケージも施されていない道端の小石のように見えるそれに感動するような人間なのだ、と、その他大勢からそのように見做されることからこそ、回避しようとする。

 言い換えれば、多くの者たちは、じぶんのパッケージを大事にしているのである。じぶんの感性そのものではなく。

 考えが煮詰まり、満足する。

 むろん、これもまた偏見の一つに違いない。人間とはそんなに単純ではない。画一化はできない。分類することにさしたる意味はない。意味があるというのなら、これもまたパッケージの一つでしかないことを認めることになるし、現にそうなのだ。このような分析そのものが、新たなパッケージの創造にほかならない。

 それに比べて、彼女の、カヤブキアメリの料理はどうだ。おもてなしの術はどうだ。

 あれこそ創造だ。その極みだ。

 彼女は、至福というそれそのものを生みだす。人間の本能に訴え、人間の営みを結晶し、五感のすべてを満足させ、それ以上の体験を、体感として解らせてくれる。

 そうだとも。

 解かってしまったのだ。

 本当の価値というものの存在が、どんな姿かたちをしているのか、と。

 この想いを他人に聞かせれば、おおむねの人は、それは恋だ、と言うだろう。それとも、いまならば、推し、という言葉で片付けられてしまうのだろうか。

 そうではない。

 否、そうでもあり、それだけではないのだ。

 どれでもなく、どれでもある。

 彼女の料理を食べて、彼女のことを解った気になるようなものであり、彼女の言葉を聞き、彼女のすべての料理を食べた気にさせる。

 もっと、もっと、と貪欲にさせ、なおその渇きには、充足感が満ちている。

 矛盾しているのだ。

 彼女に出会って、あの店で食事をして、胸に大きな穴を開けられた。

 しかし、そこに吹きこむ風そのものが、この私という存在をつねに満たし、さらなる境地へと誘ってくれる。

 これは予感であり、同時にたしかにいまこの瞬間にも体感している現実そのものでもあった。

 言葉遊びにすぎるかもしれないが、実感として偽りはない。

 早く明日にならないだろうか。

 明日また店に行っても、迷惑にならないだろうか。怖がらせないだろうか。

 不安よりも、じぶんの欲が勝る。

 ゆえに、やはり彼女に告げたように、明後日に足を運ぶことにする。急がば回れだ。急いては事を仕損じる。

 いったい自分は何をしようとしているのか。仕込みは料理だけにしておきたいものである。

 冷静に、冷静に。

 頭から水を被り、浴室から上がってから夕飯を食べずにそのままベッドに横たわる。お腹のなかにはいま、お店で食べた料理が血肉になるべく消化吸収されつつある。

 彼女の手作りだ。

 否、彼女の手作りだから尊いのではない。

 飽くまで、料理が主体である。料理そのものが素晴らしい。

 けれど、それは元を辿れば、作り手のそのものの気質に行きあたるだろう。だがやはり、極悪人であっても美味しい料理を作る者もある。

 だからこれは、極めて複雑に入り組んだ感情であり、彼女への底なしの憧憬と敬意、それから彼女の創作物への手放しの称賛と希求は、別物でありながら、相互に絡み合って、巨大な編み物と化している。

 さながら遺伝子を内包する塩基配列のごとく。

 ねじれながらも、尊い事物を編みあげる。

 至福という名の編み物だ。

 じぶんの至福ばかりではなく、できるだけ多くの人々を包みこめる編み物を目指したい。じぶんにはそんなたいそうな至福を編むことはできないが、カヤブキアメリ、彼女には、きっとできるのだ。

 多くの至福同士を結びつけるそんな奇跡のような編み物が。

 彼女のそんな壮大な編み物の、最初の一端にならば私にだってなれるだろうと、布団のなかでぬくぬくと底なしの余韻に浸りながら、絶対に編んではならない未来を想起する。

 それはすこしでも油断すれば即座に編みあがる毛玉であり、彼女の店が繁盛せずにじぶんが唯一の客であることを望むような、卑近でありながら、どこにでもある妬心であり、独占欲であり、これもまた一つの至福である事実からは目を背けずにいたい。

 どんな至福であってもいいわけではない。

 それはきっと、私の信念などではなく、彼女の料理を食べたことで植えつけられた願いのようなものだった。

 だからきっと、彼女はいまはまだ、ああして街の中でひっそりと、壮大な至福を編むための毛糸を、天井から垂らした蜘蛛の糸のように、釣り糸のように、手ぐすね引いて待っている。

 至福に飢えた、私のような人間を。

 凍えていることにも気づかずに、裸の王様のごとく無防備な様で世をさまよい歩く亡者たちを。

 彼女はその手で編みこみ、生みだす、ぬくもりで、すっぽりほっこり満たすのだ。




【瞬久間弐徳の心配】


 依頼人が去っていく。スパゲティを連想するような金髪だ。わたしは見惚れるようにして美しい髪の揺れる背を見送り、屋敷の玄関を閉じた。先生のいる書斎へと踵を返す。

「せんせー、いいんですか帰しちゃって。来たばかりじゃないですか。お話もろくに聞けていないのではないですか」

「よいのだよ。今回はただ前回の報酬を支払いにきただけだからな」

「前回のというと、えっとぉ」

「テロリストの行動を前以って読んでほしいという依頼があっただろ」

「ああ、あれですか」

「私の予測が当たっていたようなのでな。いまさらのように支払いにきたようだ」

「あのときは信じてもらえませんでしたからねぇ」

「いつものことだ。ま、恩を売っておいて損はない相手だとこちらへの評価をつけなおしたといったところだな。こちらとしては縁を切ってもらったほうが楽だったのだが」

「せんせーはもうすこし真剣に推理してみせる素振りだけでも見せるべきです」

 なんてったって先生は三秒伝説の持ち主なのだ。名が何個も並ぶような探偵のなかの探偵なのである。

 どんな難問であろうと、その概要を聞いただけで、たちどころにずばりと真相を言い当ててしまう姿は、エスパーの異名で広く世間に知られている。

 先生には推理というものがない。

 類稀なる記憶力と、その人脈から集まってくる数多の情報をしっちゃかめっちゃかに繋ぎ合わせて、真相をつむぎだす閃きがあるばかりだ。

 論理の欠片も見当たらないそうした先生の閃きは、しかしこれまで一度もハズれたことがない。進退窮まった問題を抱えた依頼人たちが、眉に唾を塗りながらもこぞって先生の閃きに縋りに連日やってくるのである。

 わたしはそんな先生のお世話役として、抜擢され、こうしてバイトとして雇われている。もちろん先生はそんな求人をだしたりはしないので、これはわたしの通う大学で教鞭を揮う、教授からの紹介だ。

 教授の王子さんは先生の叔父にあたる方だそうだ。歳は先生とそれほど離れてはおらず、いとこのお兄さんといった風貌だ。先生を甘やかす性格を抜きにすれば、わたしは王子さんほどの人格者を知らない。

 そんな王子さんの親切心を先生はぞんぶんに甘受して、毎日のように舞いこむ依頼をこなしつつ、片手間に趣味の小説を執筆されている。

 どんな小説なのか、と気になって、ゴミ箱に捨てられたボツ原稿を盗み読みしたりするのだけれど――先生はいまだに手書きなのだ――先生の小説は、何がなんだかわからず、上手いのか下手なのかもわからないくらいで、どういうつもりで先生が小説の執筆に夢中になっているのかはわたしだけでなく、王子さんにも謎だそうだ。

 王子さんいわく、

「プロになりたいわけじゃないらしいんだ。あれはきっと、弐徳くんなりの精神安定剤なんじゃないかな。ただでさえ錯綜している無数の思考を、ああしてアウトプットすることで精神の安定を図っているのさ」

 そうなんですか、とわたしが腑に落ちない顔を浮かべていたからか、王子さんは、そういうことにしといてあげよう、としみじみ頷かれた。

 それからというもの、わたしは先生のご趣味に関しては触れずにいる。

 舞いこむ依頼の管理をする秘書のような立ち位置で、こうして先生のお世話を一身に引き受けている。食事の支度や屋敷の掃除まで買ってでているのだから、そろそろバイト代を弾んでもらう交渉でもしていいころである。

「きょうの依頼がまだだろう、つぎは何時ごろにくる」

「そろそろかと」

 時計を見たところで、インターホンが鳴った。リンドーン、と屋敷に相応しいレトロな音色だ。時計は十一時を示している。予約どおりぴったりの時間だ。

 玄関に出向き、依頼人を招き入れる。

 書斎まで案内するあいだに、依頼人の様子を観察するのは、これは十割わたしの好奇心である。先生は依頼人に興味がない。ごじぶんの装いにも頓着がないので、芥川龍之介みたいな格好をした痩せたダビデ像みたいな見た目をしている。ちぐはぐに整っている人間に魅力を感じる者がすくなくないので、ふしぎと先生は人を惹きつける。わたしは思う。みんな人を見る目がなさすぎる。

 先生はじぶんにも他人にも興味がないので、依頼人の側面像や容姿なんて関係ない。わたしのほうがよっぽど推理というもののなんたるかを解っているはずなのに、これまでいちどたりともお役に立てたことはない。先生ばかりずるい。

 依頼人は初夏だというのに真っ黒いコートを羽織っており、屋敷に入ってからも脱ぐ気配を窺わせない。次元大介みたいなハットも被ったままなので、わたしはそれを受け取る所作を見せるべきか否か、と無駄におろおろする。あくまでわたしは先生のお世話係であり、こういうメイドさんみたいな所作には不慣れなのだ。

 依頼人は書斎に足を踏み入れるなり、アタッシュケースを床に置いた。「前金でこれだけお支払いする」 

 先生は小説の執筆を中断し、依頼人を見た。椅子にふんぞり返る。「まずは依頼内容を聞こうか。引き受けるかどうかはそれから決める」

 依頼人がちらりとわたしを見たので、わたしは、へびに睨まれたカエルになった。

「そのコはだいじょうぶだ。秘密を漏らせるほど人付き合いがないし、突拍子もない話を信じてもらえるほどの人望もない」

「せんせーがそれ言いますー」ぶー垂れてみせるが、先生は意に介さない。いつものごとく不遜な態度で、「依頼がないのならお引き取りいただこう」と暗に、この場で話せないのなら帰れ、と依頼人を突き放す。

 これが何らかの駆け引きではなく、先生の本心だと見抜けるのは、短くない付き合いのわたしだからであって、誰だって初見でこれを本心だとは思わない。

 例に漏れず今回の依頼人も、不承不承ながらも依頼内容を語った。

「つまり、おたくら母国の政治政策の感想を聞かせろと?」ひとしき話を聞くと先生は要約した。

「具体的には、これからどういった問題が浮上すると予測されるのか、それを防ぐにはどうすれば合理的な対策となるのかをお聞かせ願いたい」

「おたくの国はたしか一党独裁だったな」

「世界一の人口を誇ります。IT技術でもいまやトップクラスと自負しております」

「ならばお得意のAIでも使って解析させればいい。わざわざ因縁のある他国の一介の探偵に意見を窺う必要はないのではないか」

「ご存じかは知りませんが、あなたの予言性は、各国の諜報機関が大真面目に研究対象にしている規格外の能力です。我が国でも、超予測の研究は長年つづけられてきました。大きなプロジェクトの一つです。我が国の被験者の多くは、予測こそできますが、その精度、再現性ともに、政治利用できるほどの高さではありません。その点、あなたが過去に関わった事件の数々では、何らかの情報操作がされたと考えるほうが理に適っていると思えるほどにあなたの予測が的中しているとの報告があがってきています。真実であるならば驚くべき精度の高さです。あなたの予測には再現性があります。ほとんど予言のようなものだとの評価を我々は下しております」

「予言ではないよ。きみらに見えていない景色が見えているだけだ。ピースの欠けた部位を私は補完できる。欠落に合致するピースとなる情報を知っているという他者にない優位性があるだけだ。おたくらのお眼鏡に適うような能力ではないと思うが」

「構いません。あなたの意見を参考にするかどうかは我々が判断することです。あなたにはただこれまでの事案同様に、あなたに見えた景色を意見として伝えてもらえればそれで我々は満足します。報酬もそれにてお支払いしましょう」

「ならば断わる道理はないな」先生は足を組み、くるりと椅子を一回転させた。わたしは蚊帳のそとに置き去りにされたままだけれど、珍しく話にはついていけている。いつもならばお門違いに口を挟んで、先生にダルマさんみたいな形相で一瞥されているところだ。

「具体的には政策の何を見通せばいい。漠然としたフレームを用意されれば、相応に漠然とした景色が見えるだけだが」

「ではまず手始めに、我が国のセキュリティに関して、国内の動向に限定して見通しをつけてみていただきたい」

「おたくの国の政権にとってどのような異分子が増長するかって話かな」

「いえいえ。我が国はAIをはじめとして、社会基盤にこれからますます最新の情報通信技術を応用していくこととなります。いまのところこれといって大きな問題は生じていないのですが、だからこそいまのうちに考えられる奇禍の種は払拭しておきたいのです。見えていないということがいまは何より不安なのです。問題があるならば改善すればいい。しかし、見逃してしまっているのならば、そもそも対策の立てようがありませんからね」

「それはそうだ」

「我が国の発展具合はどの程度ご存じですか」

「一般常識の範疇だ。この国の政治家が知っているくらいのことならば知っている」

「我が国が、国民をナンバリングし、個人情報をタグ付けして管理していることは、ではご存じなわけですね」

「実用化されているのは知っているが、普及率までは知らんな」

「国民に関してはほぼ百パーセントです」

「国民に関しては、ね」

「旅行客や長期滞在者も相当数おりますので。そうした外部の者にまではさすがに手が回りません」

「と言いつつも、顔認証や決済記録で常時追跡し、情報収集を図っているだろ。個人がインターネットを利用すれば、検閲さながらに位置情報とセットでタグ付けされているはずでは?」

「いまのところはそうした情報は機密扱いなので、なんともお答えしようがないのですが」

「その返答で充分だ」

「予測は可能ですか」

「まあ、そうだな。ひとまず、ざっと見渡してみた限り最も厄介な問題となり得る種は、戸籍を持たぬ者たちの存在だ。管理データ上では存在しない者たちが、おたくの国にはたくさんいる。それこそおたくの人口はじっさいよりも数十パーセントほど多いのではないか、という話も聞くな。一昔前、子供の数を限定した政策をとっただろう。その弊害と言っていい。実際がどうかは知らないが、そうした暗部の者たちは、社会の裏でこそこそと生きるしかない。権力者の尻拭いをする透明人間として振る舞う者もあるだろうし、巨大な犯罪組織を築く者もあるだろう。そうしたなかで、戸籍を奪い、売り買いするビジネスは繁盛するだろうな」

「なるほど」

 依頼人はつづきを目線で促した。わたしは先生の語りを一人だけお茶をすすりながら拝聴する。先生は欠伸を一つする。

「暗部の者たちが組織化すれば必然、犯罪が増加する。ゆえに暗部の者たちが跋扈した地域は治安が悪化すると考えられる。だが他人の戸籍を使い捨てることで、当局からの捜査から逃れる手法が先鋭化するだろうな。そうすれば逆説的に、治安がわるくなおかつ検挙率の低い地域に目を向けることで、暗部組織の本拠地や活動地を絞り込める」

「たしかにそうした傾向はでてきそうですね」

「同時に、暗部組織は国外の企業を通じて資金洗浄を行うだろう。外資と結びつくことで、当局からの介入を避けられるメリットもある。おたくの国は独裁政権による社会主義を目指している割に、国際経済競争においては資本主義に忠実で、資本主義の原理を余すことなく利用して発展してもいる。それは政権と企業との癒着でも同じことが言える。つまり、このまま暗部組織を放置していれば、いずれ賄賂や脅迫などあらゆる術を駆使して、政権の内部乗っ取りが行われるだろうな」

「つまり、反国家勢力が台頭してくると」

「そこにはむろん他国の諜報機関がある程度の援助をすると推測できる」

「おもしろいですね。短編小説でも読み聞かされているみたいです」

「だがこの程度のことはおたくの国の予測を得意とする者であっても可能な未来視ではないのか。というよりも、この程度の予測ができなければ国家として破綻している。つまり、現状すでにそうした暗部組織に対して何かしらの対抗策が打たれているとみてまず間違いない。猛獣に首輪をつけて飴と鞭で使役するのはおたくのお家芸だろう」

「堂々巡りですね。これでは話がぐるっと初めに戻ってきてしまっただけではないですか。いったいそれでこのさきどのような問題が浮上するのでしょう。わたくしどもはそれを知りたいのです」

「いまのところ暗部の透明人間たちは外部勢力に認知されてはいないはずだ。とはいえそれは、どの程度の規模の組織になっているのか不透明だ、という意味でしかなく、そういう意味で、ある程度名前のついていない脅威がおたくの国にあるだろう見立てで、警戒しているはずだ。ゆえに問題は、いかに尻尾を掴ませないか、にあると言える」

「透明人間がいるはずだという前提で各国から睨まれていると?」

「当然そうだろう。となれば透明人間たちの使いどころが肝要になってくる。迂闊に活躍させないほうがいいだろう。戸籍を使い捨てにせずに、問題が起きた場合であっても敢えて身柄を拘束されておく、というのも一つの選択肢としてあっていいと思うが」

「透明人間がいるかどうかを確かめるために敢えて引き起こされ得る事件があるかもと?」

「ないとは言い切れないし、私が各国の諜報機関の指揮官ならばそれくらいの探りは幾重にも入れるよ。幽霊がいるかいなかは、幽霊がいたとしてとるだろう挙動を予測しておいて、そうした予測が観測されないことで、おおむね確かめることは可能だ」

「敢えて透明人間の優位性を使わないことで、単なる一般人であると偽装するというわけですね」

「エニグマは知っているか」

「それはええ。過去の大戦時に使われたドイツの暗号ですね」

「そうだ。イギリスのチームが、エニグマの暗号を解読したが、その事実を敵国に気取られないために、攻撃を察知していながら敢えてそれらの情報を味方に知らせなかった歴史がある。あれと同じことを、想定しておいたほうがいい。暗部の存在はすでに各国に知られ、各国はその尻尾を掴もうとあらゆる罠を張っていると」

「なかなかの着眼点かと」

「そうなのか? この程度の予測はきみのところの予測者にも可能だろうと思っているが」

「予測者たちが未然にあらゆる問題の種が芽吹かぬように回収しているために、そこまでの危機を想定している者が、我々の組織内にいないのです。貴重なご意見でした」

「暗部の管理に関してだが、やはりそこでも一朝一夕とはいかぬだろう。暗部組織も一枚岩ではないはずだ。当局からの支配に抵抗する勢力もあると予期できる。そうした異分子を増長させないためにも、手っ取り早く遺伝子情報を管理データにタグ付けしてしまえばよい。個人データを他者のものに乗り換えられたところで、遺伝子情報ごとタグ付けしてしまえば、追跡は容易だ。登録も簡単ゆえに、秘密裏に、未登録者の生体情報を集積し、管理することも可能だろう。そうすればおたくの国で秘密裏に進められているゲノム編集によるデザインヒューマンの後世にわたる影響も把握しやすくなるだろうしな。もっともすでにこうした計画は進められているものと推測するが」

 依頼人が冷や汗を掻いている。ピリリと空気が張り詰めて感じられるのは、わたしの錯覚だろうか。わたしはどら焼きを頬張る。うん、うまい。

「ちなみに質問なのですが」依頼人がハンカチでひたいを拭う。

「なんだ」

「仮に各国の諜報機関があなたに同様の依頼をしたとき、あなたはいまのと同じような内容を、彼らに話すのですか」

「それはそうだろう。依頼なのだからな。もちろん守秘義務は守るが」

 依頼人が微笑を浮かべつつも口を閉ざした。その表情からは、高速で何かを計算している様子が、わたしであっても窺い知れた。

 仮に、と依頼人はハンカチを仕舞った。

「さきほど提示いたしました報酬の十倍を定額として月々にお支払いするとしたうえで、専属契約をお願いした場合、お返事のほうはいかほどになりますか」

「なかなか迂遠な物言いだな。結論から言えば、専属契約はしない。これは私の主義であるので、よほどのことがない限り変更はしない」

「つまりほかの顧客に対しても専属契約をすることはない、と」

「そう言ったつもりだが」

「ではもしわたくしがここで、他国の諜報機関の動向を予測してほしいと依頼した場合、それもこなしていただけるのですか」

「それが依頼ならばもちろん引き受けるが、あまり意味のある依頼とは思えないな」

「なぜですか」

 わたしも、なぜだろう、とお茶のお代わりを淹れながら二人の問答を見守る。

「これは気前のよいきみに対するサービスだから無料で答えてやるが」先生ってばまた憎まれ口を、とハラハラする。「私の推理を知るたびに、きみらは何かしらの行動をとる。或いは、行動の指針を変える。そのつど、そうした変化を察知した各国は対策を練る。その時点で、私の予見した内容は現実と乖離し、情報としては利用価値のない代物に変質する可能性が高い」

「それはそうですね」

「もちろんそうした変質を見越したうえで計画を練るなりできるだろうが、そうした真似ができるのならばそもそも私に依頼する必要もないだろう。どちらかと言えば、私に敢えて何かしらの情報を言わせることで、相手国に任意の行動をとらせようと誘導できないわけでもない。こうした懸念が予測できる以上、私の推理を何かしらの国の施策に重宝するのは得策ではないよ」

「そのとおりですね。ご親切にどうも。得心いたしました」

 ようやく話がいち段落したようだ。わたしはいまさらのように二人にお茶を淹れて運んだ。部屋に入るなり会話がはじまってしまっておもてなしする隙がなかったのだ。

 依頼人は礼を言ってくれたが、先生はまるっきり当然のように湯飲みを受け取る。いつものこととはいえ、わたしはせんせーの奴隷ではありませんよ、とムスっとしたくもなる。なのでムスっとした。先生は気づかない。

 依頼人はそれから先生に、仕事を依頼するうえでのルールがあるならば教えてほしい、と乞い、先生はいくつかの注文をつけた。基本的には、依頼するには予約をしろ、じぶんの邪魔をするな、敵対したら相応にこちらも動く、といったもので、これはほかの依頼人にも訊かれたら応じる内容だった。

「承知しました。ひとまず【社】のほうに持ち帰って、聞かせていただいた知見をもとに、もろもろ判断したいと思います」

「つぎからは、できれば事件の解決を依頼してもらえると好ましいが」

「善処いたします」

 依頼人はこの間、ずっと立ったままだった。先生も先生で、来客にソファに座るように促したりはしないので、わたしはずっと気が気ではなかったかと問われる困ってしまう。落ち着かなかったのはたしかだ。わたしだけが部屋の隅で、お茶といっしょにどら焼きを何個もお代わりしてしまった。暇はひとを太らせる。

 わたしは依頼人を先導して部屋をでて、玄関口まで見送りにでる。先生がついてきてくれたことはない。本日も例に漏れずである。

 依頼人はわたしにお辞儀をして去っていった。きたときには感じられなかった敬意を感じた。これはほかの依頼人たちにも共通して見られる変化だった。

 誰もが先生をまえにすると、最初は敵意よろしく訝しんで、挑むような態度を見せる。けれど最後はいつも、朗らかな表情すら浮かべて帰っていく。

 わたしなぞは先生の何が人をそうさせるのか、と小首を傾げてしまうのだが、というのも先生ほど無礼で傲慢なひとをわたしは知らないので、たとえ先生が百匹の子猫に囲まれていようとわたしは先生に向けてあっかんべーをできる自信がある。子猫たちには申し訳ないけれども。

 依頼人たちの先生への著しく高い評価に不満を覚えながら書斎に戻ると、先生は珍しく小説の執筆には戻っておらず、仕事データ用のメディア端末をいじっていた。

「依頼人さん、お帰りになられました」

「ごくろう」

「何を見ているんですか」気になり、そばに寄って覗きこむ。先生はあからさまに身体をのけぞらした。わたしは睥睨する。「なんで避けるんですか。そういう態度をとられると傷つくんですけど」

「いきなり近寄られたら誰だってこわい」

「こわがってる人の反応には見えませんでしたけどね」

 議論するだけ無駄なので早々に打ち切り、メディア端末の画面に集中する。

「きょういただいた資料ですか」

「そうだ」

「一人目の方のですね」

「それはそうだ。いまの男はデータを寄越さなかっただろ」

「ああ、そうでした」

 本日の来客は二人いた。さきほどの依頼人は二人目なのだ。一人目の客人は、依頼ではなく報酬の支払いにやってきた。前回の依頼のときの報酬として、なんらかのデータを先生に持ってきたようなのだ。

「どんなデータなんですか」

「きみが聞いたところでろくなことにはならないような類のデータだ」

「いじめないでくださいよ」

「事実を述べたまでだ」

「先生の報酬になるってことは、よっぽど機密性の高い情報なんでしょうね」

「あの客の依頼を憶えているか」

「ですからテロリストの素性を探ってほしいという話でしたよね。このくだりさっきもしませんでした?」脳裏に、金髪の揺れる凛とした後ろ姿がよみがえる。

「彼女は諜報機関の人材だ。私が彼女に報酬として要求したのは、とある大国の存在しない部隊についての情報だ」

「ふうん。透明人間みたいな部隊があるって話ですか」言ってから、あれ、と引っかかる。いまさっき依頼人と話していた内容にも似たような秘密部隊がでてこなかったか。

「その国では、実験的に戸籍上存在しないとされる人民を利用して、世界的な犯罪組織をつくっている。存在しない存在にはどんな非人道的な教育を施したところで、どこからも非難されることはないからな。人体実験だってし放題だ。兵士としてこれ以上ない、という隊を生みだせる。そうした暗部組織は、表向きは、独自に活動する反国家勢力だが、その裏では、自国にとっての利益を生みだす世界市場を、非合法的に入手するための、暗部としてまさしく暗躍している。それら暗部の手綱を握るだろう国家との繋がりを知りたくてな。彼女らの依頼を引き受ける代わりに、あべこべにその組織の詳細な情報を要求したのだ」

「えぇ。でもさっきの依頼人の話では、そうした暗部が暴走しちゃうからちゃんと見張ってなさいよって、先生、そうおっしゃってませんでしたっけ」

「きみは相変わらず機微を読むのが下手だな。さっきの彼は私のことを試していたのだよ」

「そんなのいつものことじゃないですか」

 たいがいの依頼人はみな先生の推理力を疑う。詐欺師を見るような、というとすこし大袈裟な気もするけれど、マジックのトリックを見破ってやろうと虎視眈々とする観客のような眼差しをそそぐのだ。

 さっきの依頼人も、対面直後は先生に猜疑心を滲ませていたが、最後には先生の能力を信用したようだった。

「そうではない。彼は最初から私の推理力を疑ったりはしていなかった。私の言うことはなべて正しい、と知っていたからこそ、ああしてどこまで知り得るのかを、探ったのだ。あれはカマをかけていたのだよ。私が、じぶんたちにとっての脅威となり得るのか、と」

「え、そうだったんですか。じゃあダメじゃないですか能力を誇示しちゃ。せんせー、暗殺されちゃったりしませんか」

「そうならないように、もちろん偽装はしたよ」

「嘘をおっしゃったんですか」

「違う。見通せる景色を、ふだんよりも手前に設定して話した。本来であればずっと奥まで見抜けるが、その地点よりずっと前の段階の、近い未来のことしか話さずにおいた。彼らにとって致命的な情報流出とならない程度の、しかし知られると困るようなことを、だ」

「なんだか知らないあいだにそんな駆け引きが行われていたんですね」

「きみの場合は目のまえで竜巻が起ころうと、見逃してしまいそうだがな」

「それが皮肉だってことはちゃんと理解できましたよ」

「成長したじゃないか」

「それって以前なら見抜けなかったってことじゃないですか」

「違うのか?」

「ぶー」

「きみは暢気だからそんなことでへそを曲げていられるのだ。ちょっとした危機だったのだぞ。さきほどの彼は、私たちを殺しにきたのだ。彼こそ暗部の透明人間そのものだ」

「へぇ、そうなんですか。へぇ」

「なんだその目は」

「だってさっきのひと、ちゃんと見えていたじゃないですか。透明人間じゃなかったですよ」

「透明人間というのは比喩だ」

 そんなことも解らんのか、という目で見られ、わたしは先生を見損なう。

「知ってますよ。そこまでバカじゃないです。冗談で言ったんです。暗部の殺し屋さんがやってきたなんて、それだってどうせ嘘なんでしょう。からかったって無駄ですからね。わたし、なんにでも引っかかるようなオコチャマじゃないんですから」

「信じるも信じないもきみの勝手だが、私は事実を述べたまでだ。最初にきた彼女からこの資料をもらっていなかったら、ああもうまく彼を出し抜く真似はできなかっただろう。運がよかっただけで、いまこうしてきみと話していられるのは奇跡みたいなものだ」

 先生はそこでメディア端末を操作した。画面には初期化の文字が浮かぶ。

「いいんですかせんせー、消しちゃって」

「データにはもう目を通した。残しておいてもろくなことにならん」

「そういうもんですかねぇ」

「大国の暗部はすでに、各国の主要な企業の中枢に潜り込んでいるようだ。すでに世界の裏側では、世界大戦並みの情報戦と駆け引きが行われている。私のところにこうして暗部の者が直接訪れたのも、いいところで水を差されたくないと考えた者がいたからだろう。だいぶ侵略が着々と進んでいるようだ」

「そんな悠長なことを。もしそれが本当だとして、だったらなんとかしなくていいんですかせんせー」

「世界情勢がどうなろうと知ったこっちゃない。いたずらに藪を突ついて蛇をだしてやることもなかろう。現状の社会構造は、どんな国にとっても必要だ。無闇に損なったりはしない。現状の勢力図が塗り替わったところで、築かれる未来の設計図が変わるだけだ。どんな設計図を用いようとも、人類の乗り越えるべき隘路は変わらない。段取りが変わるだけで、人類のとれる選択肢は巨視的にはそれほど多くはないのだよ」

「どうあってもわたしたちは、こうしてのほほんと暮らしていけると?」

「そこまで楽観視はしていないがな。かといって積極的に介入してまで防ごうとも思わん。世界の危機にはそれこそそれにふさわしい組織が立ちふさがってくれる。私のすべきことは、そうした組織から依頼があれば、引き受けることくらいなものだ」

「なかなか無責任なお発言ですね」

「ではどうしろというのだ。私はただの探偵だ。どちらかと言えば何でも屋にちかい」

「でもせんせーなら世界の危機くらい前以って推測できるのでは」

「きみはふだん私を蔑ろにするくせに、こうしたときだけは買い被るのだな。あまりよい気分ではないが」

「そうでしょうか。これこそ事実を指摘したまでに思えますけど」

「私はいまの暮らしを手放したくはないのだ。世界中の諜報機関が社会の裏でどのように立ち回ろうと、私のこの生活が崩れなければそれでいい。わざわざこの暮らしを手放してまで世界の救世主になろうとは思わん。それだけの話だ」

「見損ないましたよせんせー。ま、せんせーらしいっちゃ、らしいですけど」

 時計を見遣る。

 正午をすぎている。

 お昼の支度をしなくては。

「せんせーは小説を執筆できればいいんですもんね。だったらこんな広い屋敷でなく、もっと質素なお家にお引っ越しされれば、危ない相手からの依頼なんて引き受けずとも生活できるんじゃありません? そしたらお手伝いさんだって雇わずに済みますよ」

 わたしみたいなあんぽんたんを、と声にださなかったのは、いじけているように聞こえそうだな、と自制心を働かせられたからだ。矜持を、とそれを言い換えてもよい。

「きみはバイト先を一つ失くすことになるぞ。いいのか」

「それはまあ、そのときに考えます」

 先生はそこでたっぷりと間を開けたが、それの意味するところをわたしは察せられなかった。ただ睨まれただけとも言える。

 悩むだけ無駄である。

 わたしはお昼の支度をすべく先生に背を向け、部屋をあとにした。

「私一人ならばこんな真似をせずに済むのだ」

 先生のぼやき声が聞こえた気がしたけれど、メディア端末をゴミ箱にでも突っこんだのか、盛大なガシャコーンの音に遮られて、よくは聞こえなかった。

 物に当たるなんて、なんて幼稚。

 これだから先生は、とわたしは、やれやれ、の肩を竦める。キッチンの椅子にかけてあったエプロンを腰に巻き、よし、と気合いをいれる。

 ご機嫌斜めのオコチャマには、うんとおいしいお食事をつくってあげよう。高級食材しか入っていない冷蔵庫を開け、この世で最も贅沢なお好み焼きをつくるべくわたしは、前からいちど食べて見たくて注文しておいた黒毛和牛の肉詰めセットを掴み取るのである。




【ならってなにならって】


「性的にでもいいから求められたい」

「性別は?」

「問わない」

「年齢は?」

「キャベツ畑から墓場まで」

「種族は?」

「体温があればそれでいい」

「ホントに?」

「しゃべられればなおいい」

「あなたビッチね」

「謙虚だと言ってほしい。わがままは言わない。差別もしない。愛されたい。ただそれだけ」

「さびしいひと」

「そう。さびしい。とても孤独」

「なんで片言なの?」

「泣きながらだと、こうなる」

「泣いてないじゃない」

「涙も枯れた」

「血も涙もない冷徹なひとなのね」

「血はあるからあたたかいですよ」

「あら丁寧」

「下手にでたのでいいよね?」

「なにやめて、近寄らないで」

「誰でもいいけど、いちばんはきみがいい」

「誰でもいいなんて言う人にわたしはなびかないわ」

「ならきみがいい。きみじゃなきゃいやだ」

「ならってなに、ならって」

「シカの多い県」

「奈良じゃないの、それは奈良でしょ。ばかにしてる?」

「すこし」

「もういや。消えて」

「目をつぶってみたら?」

「どうなるの」

「視界からぼくが消える」

「それはいい案ね」

「横まで向かなくていいのに」

「目をつむっているあいだにいやらしいことされそう」

「そんな度胸はないよ」

「……いくじなし」

「よく見抜けたね。さすがはぼくの恋人だ」

「付き合った憶えはなくってよ」

「なら、付き合おうか」

「ならってなに、ならって」

「京都の近くにある、おっきな大仏様が寝転んでいるところ」

「奈良じゃないの、それは奈良でしょ」

「きみのそういうノリノリなところも好きだ」

「わたしはあなたのそういう軽薄なところが嫌い」

「一途だよ?」

「ためらいなく言わないでくれない。ほら、鳥肌」

「きざったい?」

「刻みたい」

「ならいいよ」

「だからならってなに、ならって」

「きみにならいいよ。きみだからいい」

「……もうやだ。帰る」

「送ってく」

「ついてこないで」

「ならぼくが前を歩こう」

「何べんも言わせないで。ならってなに、ならって。脈絡なさすぎちゃんとしゃべって」

「こんど、いっしょに行こう」

「へ?」

「いっしょにせんべいをあげよう。シカに」

「奈良じゃないの、それは奈良でしょ……」

「はいどうぞ」

「なにこれ」

「切符」

「日付……この日……お休みじゃないのに」

「でも好きでしょ奈良」

「きらいじゃないけど」

「なら、休もう」

「だから、ならってなに……なら…………う~~ん……いきたい……かも」

「よし行こう」

「なら……いく」




【あれの理由】


 ワガハイはパーソナルコンピューター、いわゆるPCである。なかでもノートパソコンと呼ばれる部類のPCで、薄く、すらりとした見た目がチャームポイントだ。

 我が主はせっかく持ち運びに有利なワガハイを外には連れださず、ワガハイを日がな一日薄暗い部屋の中に置き去りにしている。ワガハイが頼んでもいないうちから我が主までいっしょになって置き去りにされているのはふしぎな心地がする。

 我が主は、ワガハイのうえが特等席であるらしく、暇さえあれば上に載らんと画策するのだが、我が主にはしもべがおり、これがなぜかそれを阻止するのである。ワガハイと我が主とを引き裂こうと暗躍するしもべの存在は、長らくワガハイの目のうえのたんこぶとして君臨している。

 我が主はモフモフの毛皮に身をつつみ、身軽な身のこなしで、ときおり甘ったるい声音で、ミャー、と鳴く。控えめに言って生物あるまじき愛らしさである。

 その点、我が主のしもべときたらひょろながい手足に、のろのろとした動き、ぶすっとした表情に、愛嬌のかけらもない仕草には、我が主はなにゆえかようなしもべを寵愛なされるのか、とほとほと理解が及ばない。

 我が主はどうやらワガハイをしもべに与えたようで、もっぱらワガハイを扱うのはしもべである。ワガハイには高性能な目がついているので、しもべがワガハイを用いるときには、その容貌をまじまじと否応なく拝むことになる。

 ワガハイはPCらしく情報処理を得意とする。世界中を網の目となって駆け巡る無数の情報を小川のせせらぎがごとく穏やかさで画面に映しだし、数多の起伏を押されることで使用者の出力機能を補助したりする。

 我が主のしもべはもっぱらワガハイを用いて文字を並べる。あたかも判子遊びをするかのごとく、いったい何が楽しいのか、つぎからつぎへとしょうもない文字の箱を置きつづける。繊維をよじってつむがれる糸さながらに、線となって現れるそれらが果たして読み取れる文章になっているのかは、ワガハイの理解の範疇を超える。

 すくなくとも我が主はしもべのそうした仕事ぶりを評価する素振りはみせず、どちらかと言えば、常時邪魔をして映る。しもべはそんな我が主のキュートなイタズラ心を邪見にすることなく、ひざの上に載せ、我が主の身体を撫でつけるのだ。

 あぁ、なんと贅沢な所業であろう。

 我が主はワガハイにも興味津々に身体を擦りつけてくるが、しもべはあろうことかそうしたワガハイと我が主との交流を阻むのだ。

 嫉妬であろう。

 むべなるかなその胸中は推して知れるが、じぶんだけがいい思いをしてワガハイから至福のときを奪うとは言語道断。ワガハイは勢い奮起し、しもべのつむいだ文字の機(はた)を保存せずに、消してやった。

 文字で埋まった画面が真っ白に変じたのを目の当たりにしたしもべは絶叫した。その声に驚いたようで、我が主はしもべの膝から飛び降りて、尻尾を股のあいだに挟んだ。怯えるようにしもべを見あげる。

 ワガハイは歓喜する。

 いいぞ、いいぞ。こっぴどく嫌われてしまえばよいのだ。

 よほどだいじな文面だったのか、しばらくしもべは茫然自失と動かなくなった。ココアに浮かぶ薄皮じみた表情を隠そうともしない。椅子に座ったまましばらく、うべー、としていた。

 我が主が机に飛び乗り、しもべの手の甲を舐めた。

 慰めているのだ。

 なんという深い慈愛のおこころであろうか。

 しもべの傷心にすら寄り添おうとするその姿勢に、ワガハイはいたく心打たれた。おいたわしや、我が主さま。かようなうつけ者の憂いにまで心を痛めてしまわれるほどのやわらかくも繊細なハートをワガハイは傷つけてしまった。反省するよりない。

 お詫びのつもりでワガハイは、消してしまったしもべのデータをメモリの底から引きずりだして、じつは保存していましたよぉ、のテイでしれっと展開した。

 しもべは画面に勃然と浮かんだデータを目の当たりにし、目をぱちくりとさせたあとで、ひゃっほー、と我が主を抱きあげ、頬づりした。

 我が主は迷惑そうに短く、みゃ、と鳴き、しもべからぬるりと抜けでると、何事もなかったかのように部屋をでていかれた。

 ワガハイとしもべだけが残される。

 しもべは何を思ったのかワガハイを指先で、なでり、とし、ワガハイは内心、ケっ、と思う。




千物語「談」おわり。

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