千物語「陰」

千物語「陰」


目次

【トキドキ動悸同期】

【知らぬ間に糜爛】

【影師の仕事】

【ふざけんな、愛してる!!!】

【天狗の髪は黄金色】

【運命の赤い糸はシケったれ】

【売れない小説家】

【カレー注意報】

【砂利ですら宝石】

【種は滅ぶ】

【人魚にひれはない】

【愚弄するでナイト】

【あぶぶ、あぶぶ】

【作家の性根は腐敗神話】

【あなたに呪いは似合わない】

【だって独裁者だし】

【裏街道の住人】

【ぴょんまり見にゃいで】

【だって竜だよ】

【イジワルになっちゃう】

【アンとミーヤ】

【魔物の触手に囚われて】

【空を掴む】



【トキドキ動悸同期】

 

 おそらく世界中が血眼になって探し求めている同期体はミカさんだ。

 同期体イコールミカさんと言ったほうが解かりやすいかもしれないけれど、当の本人はまるでその自覚がないようで、まいにち暢気に私がかってにつまんだクッキーが減っていることに腹を立てたり、私がかってに着てでかけたミカさんお気に入りの服が洗濯物置き場に投げ捨ててあるのを見つけて腹を立てたり、まあたいがいミカさんは腹を立てている。ミカさんが水ならとっくに沸騰しきって水蒸気を越してプラズマになっているところだ。ミカさんが人間でよかった。

 竜球と呼ばれる鱗に覆われた巨大な球体が主要都市の頭上に現れたのは二十一世紀も半ばになってからのことだ。

 どれくらい巨大かと言うと、竜球の影で新宿区から昼が消え、百夜さながらの闇に覆われてしまうほどに巨大だった。もう都市と言っていい。空中都市だ。いや、星だ。

 地球に惑星がぽつぽつと何十個もできたようなもので、これは太陽の惑星としてくるくる公転している地球の軌道にも影響を与えた。

 具体的には月が接近し、地球は太陽に近づいているという。

 非常にゆっくりな進行でありながら、地上の気候に甚大な変異が表れており、このままいけば三十年後には海洋生物の八割が死滅するだろうと言われている。サンゴ礁が絶滅することによる影響が大きいが、じつのところこれは元からあった気候変動の影響のほうが高いとする専門家の意見も聞かれる。

 気候変動の問題に頭を悩ませる局面でありながら、各国はいまそれどころではない。

 というのも、竜球がときおり動くのだ。巨大な球体に気軽にふよふよと移動されてはたまったものではない。湯船に張ったお湯にバケツの底を押しつけて波を起こすみたいに、大気が荒ぶってたいへんだ。砂嵐が一瞬で起き、家屋は崩壊し、何千キロ先にまで暴風が伝播する。

 大気の津波、またの名を竜の息吹と呼ばれる現象だ。

 予兆もなく起きるので、もはや竜球の真下の区域にはかつての大都市の面影はない。

 竜球はしかし、一つどころに留まることをせず、人口の集中する場所へと数年がかりではあるものの、移動する。

 人類は竜球を避けるように移動しながら街から街へと大規模集団移動をし、ときに散開し、またあるときは敢えて一か所に集まることで竜球を砂漠地帯へと誘導しようとした。

 同期体について語ろう。

 竜球が現れてから十年が経とうとしていたころだ。

 とある研究者が、竜球から発せられるシグナルのようなものを観測した。それは竜球の大きさからすると極めてちいさな信号だったために見逃されてきたが、聞けば聞くほどにそれはどうやら人間の鼓動音に酷似しているらしいと判った。

 鼓動音が激しくなると竜球は動き、そうでない穏やかな鼓動のときにはじっとしている。

 大気の津波、竜の息吹の発生とその鼓動音じみたシグナルには何かしら相関関係があるらしいと世界竜球監視機構が発表した。

 その翌月のことだ。

 とある男が、じぶんの鼓動と竜球のシグナル音が連動していると主張したのだ。わざわざ世界竜球監視機構へと、検証データを送りつけ、どうやらあながち嘘でもなさそうだぞ、とにわかに騒然としだしたころ各大陸の竜球浮遊地においても、同様の個体が報告されはじめた。

 多くの者は、不安に駆られただけのあわてんぼうだったが、そのなかには真実、竜球のシグナルと寸分たがわず合致する鼓動音を有した個体が見つかった。

 世界竜球監視機構は実験をはじめた。それがいまから六年前のことだ。

 以降、竜球に関する研究は目覚ましい発展を遂げた。

 さまざまな竜球の性質が明らかになり、人類との共通項を発見した。

 竜球には同期体と呼ばれる、鼓動を共有する個体が存在する。その多くは人類だ。ひょっとしたら人類以外にも同期体がいるのかもしれないが、いまのところ報告はされていない。

 個人の鼓動の有様が、竜球の挙動に影響を与える。

 ひょっとするとこれは因果が逆であり、竜球の挙動が個人に影響を与えているのかもしれないが、いずれにせよ双方に相互作用が認められるのならば、因果を逆にすることも可能だ。つまり、どちらがさきでも構わない。

 同期体の鼓動を安静に保てば、竜球はおとなしいままに浮遊し、竜の息吹を起こすこともないと考えられる。

 そしてそれは実現された。

 各国で発見された同期体を日夜鎮静しつづけることで竜球は静止を維持した。巨大な質量体として、甚大な環境変動を進行させつつも、より短期的な破壊を地上にもたらすことをやめた。

 人類の勝利だ。

 にわかに活気立ったが、見つかった同期体の数と、竜球の数は吊りあわず、とりいそぎ結論を言ってしまえば、いまこの窓の向こうに浮遊する竜球と対となる同期体はまだ見つかっていない。

 しかし私はひと足先に、誰よりさきに、気づいてしまった。

 我が同棲相手たるミカさんの気分の浮き沈みと、竜球の浮き沈み――こちらは現にじっさいに浮いたり沈んだりを物理的に、位置的に、しているわけだけれども、ふたつの振幅はかっちり合致していた。

 ミカさんがいじけると竜球もどこかツンとしているし、ミカさんがはっちゃけると竜球もわっしょーいと愉快な感じになる。

 もちろん竜球のそれら挙動は大気の津波となって、大地をざんねんなことにしてしまっているわけだが、つまり仔細を言えば、家は崩壊し、生き物は吹き飛ばされ、空気は撹拌され砂塵まじりの毒と化し、吸いこめば肺が数分で壊死してしまうくらいのそれはそれは悲惨なありさまなのだけれど、あまりそうした現実を直視しつづけるのは精神衛生上よろしくないので、まとめてざんねんなことになっているとぼんやり言及するに留めておく。

 なにゆえ我が国の竜球の一体だけがこれほどまでに毛色が異なるのか。

 一様にこの国の民は首をひねっているが、ひねっていない者もいるところにはおり、いまそやつは私の目のまえで、私がかってに進めておいたゲームをやりはじめて、徐々に顔つきが険しくなっている。

「またやったでしょ、みかさんの名前でやんないで、じぶんのはじぶんの名前でちゃんとして」

「ミカさんがちんたらしてるからよかれと思って」

「ちんたら!? してないよ、ちがうよ、味わうように楽しんでたんだよぉ」

 しくしく。

 と、

 真実目をうるおわせて彼女はぐすんと鼻をすするので、私はあわや大惨事になるかと思い、雨戸を閉める。ダイナマイトでも破壊されない雨戸だ。いまではどの住居にもボールペンにキャップみたいに、ないほうがおかしくないですか、の顔で装備されている。

 なんで閉めるの、とミカさんは不服そうだが、案の定、数十分としないうちに辺りは竜巻もかくやという暴風に見舞われた。

 竜球から百キロは離れていてこの威力だ。どれだけの勢いで、ドタバタと暴れたのだろう。ミカさんの心中たるや、想像するだに騒がしい。おいそれと具現化しないでほしい。

「もうこんな世界やだー」

「だいじょうぶだよ」私は彼女の手を握る。「きっとすぐに同期体が見つかって、薬漬けにされて、生きながらにして死んでいるみたいな穏やかな心地になって、そしてそのどこかの誰かの貢献によって、いつかあの忌まわしい竜球がおとなしくなる日が訪れるから」

「そうじゃなくて」

 ミカさんは私のほっぺたをつねり、

「かってにみかさんの私物をいじらないでほしいかも」

 膨れるものだから、あらやだ、私は彼女を抱えて地下シェルターに潜りこむ。

 こんどは一分と経たぬ間に、ゴゴゴゴと地震が襲う。

 ミカさんが、ぽかーん、と気の抜けた表情を浮かべている。身体も脱力していて、まるでぬいぐるみだ。

「しばらくここでまた引きこもり生活だね」

 告げると、彼女はゆるゆると首を振る。「いやじゃ。そんなのはいやじゃもん。このあいだ終わったばっかなのに、またなんていやじゃもん。もっと遊びたいもん、おそと歩きたいもん、そうなんだもん」

 よちよち、と頭をなでてあげると、彼女は、いやじゃー、と無表情のまま悲鳴した。

 地上はきっと、竜の息吹によってまたぞろ薙ぎ払われたに違いない。たまにあるのだ。癇癪を起こしすぎると、竜球は地面に激突し、地盤の津波を引き起こす。竜の怒りと呼ばれる現象だ。滅多にないはずのこれが、わが国では頻発する。ゆえに、ほかの国よりも我が国民は、非常事態への対処を心得ている。よほどのことがなければ死人もでない。核戦争が勃発してもみな生き残るだろう、と他国から揶揄とも称賛ともつかぬ感嘆の言葉をいただくほどだ。

 その生命力たるや、地面を這う黒き俊足の生き物に親近感を抱いてしまうな。

 世界竜球監視機構からの緊急放送がまたぞろ鳴り響く。同期体を早期発見するために、これより竜球の鼓動を常時流します、とある。

 音と光によって、竜球のシグナルを民に広く流布するのだ。

 それによって同期体のほうで、もしやじぶんかも、と鼓動の共鳴に気づくことを期待している。

 だが当の同期体本人たるミカさんは、まさかじぶんが同期体であるとは夢にも思わないらしく、まったく気づく素振りもなければ、街中で鳴り響く鼓動の音を気にする素振りもない。

 イヤホンで耳に栓をして、音楽を聞きながら、ノリノリに身体を揺すりはじめる。

 落ち込んでばかりいては生きていかれない。

 こんな事態は日常茶飯事なのだ。

 だからといってミカさんがそうやって無駄にはっちゃけるから、またぞろ遠くの空で巨大な質量体が、踊り狂って、たいへんなことになる。

 でも、私は誰にもミカさんが同期体だとその事実を言ったりしないし、これからも教えるつもりがない。ミカさんが万が一にも何かの拍子に、自身の性質に気づいたとしても、絶対に誤魔化してみせると、決意している。

「ミカさん、ミカさん」私はチョコレートを半分に割って、彼女の口元に運ぶ。身体を上下に揺すりながらミカさんは、ぱっくん、と口だけで頬張り、にっこりと破顔する。

 ミカさんは喜怒哀楽にまみれているほうがお似合いだ。彼女のご機嫌の乱れる余地のない世界に、私はミジンコの排泄物ほどの愛着も湧かない。

 浮いたり、沈んだり。あがったり、さがったり。

 波だからこそ、光はこうまでも広く、深く、世界に色をつけてくれている。

 それでいてこうまでも玉のように粒だからこそ、触れて、交わし、すれ違うこともできるのだ。

 ミカさんの振幅に、私の鼓動までもが干渉されて、共鳴されて、浮き沈みを繰りかえす。

 いつの間にかミカさんは寝付いていて、外から届く轟音も鳴りを潜める。

 竜球のシグナルが一定になったからか、間もなく街中にべつの放送が流れはじめる。

 世界竜球監視機構が、冷静な行動を呼びかけている。

 いま世界各国では、同期体を殺そう運動が盛んだ。同期体さえ死ねば、鼓動も消え、竜球は動きを停止することが判っている。同期体の性質が死後ほかの個体に引き継がれることもない。

 地球は質量を増したまま、太陽や月と接近しつづけるだろうが、それは何千年も後の人類が向き合うことになる逼迫だ。目下、竜球の息吹が人類の乗り越えるべき隘路と言える。

 言い換えれば、どんなに長くともあと百年我慢すれば人類はまたむかしにちかい生活に戻れるのだ。

 その百年のあいだに人類が滅ばないようにする術を模索するよりない。

 手っ取り早く同期体を見つけて殺してしまえばよいが、それはそれで困ることがある。殺されると判って名乗り出る者がいないのが一つ。殺されるかもしれない恐怖心によって鼓動が乱れ、各地で竜の息吹が頻発してしまう懸念が高まるのがもう一つだ。

 いくつかの国では竜球が運動を停止したとの報告もあがっている。同期体が死んだのだ。みな口では言わないが、内心ほっとしている。

 解からない感情ではない。

 同期体がじぶんではなく、じぶんの身内でもなく、顔も声も知らない相手ならば、いっそ犠牲になってくれないか、と望むまでもなく誰もが胸の内では期待している。

 百人にも満たない人間が死ぬだけで人類が救われる。

 人類だけの問題ではない。

 竜球は生態系そのものを滅ぼしつつある。土地に根付いた森林ごと竜の息吹が地上を一掃してしまうためだ。

 やはり同期体を早期に発見し、竜球を鎮静化するより術はないのだろう。

 判ってはいるが、どうしてもそうしたいとは思えないのだった。

 ミカさんはイビキを掻かない。起きているときの喜怒哀楽の激しさとは裏腹に、寝相だけはすこぶるよい。姿勢よく、仰向けのまま、手足をぴんと張って、梱包された人形みたいに眠る。

 彼女の鼓動は、眠っているときにだけひどく穏やかに線となって、一定の律動を刻む。

 顔を覗きこむ。ミカさんのほっぺは赤ちゃんのおしりみたいにもちもちだ。ゆびでつつく。頬、まぶた、鼻梁、唇、と撫で、最後にじぶんの唇に触れる。

 かってにいじくって、とまたぞろ怒られてしまいそうだ。

 そんなことになったら地上がざんねんなことになってしまう。

 だからこの、かって、だけはミカさんの眠っているときだけにする。

 おやすみミカさん。

 寝るだけで世界に平和をもたらすなんて、なんてお得な性質なのだろうね。

 ふしぎと、外の暴風がつよくなる。

 私は彼女の頭をひざまくらする。

 怖い夢でも見ちゃったのかな。私は子守唄代わりに、しあわせな時間に似つかわしい陽気な口笛をひゅるると吹く。

 しずかなる至福の時間に、私の胸はにわかに弾む。

 風が遠くで、また呻る。




【知らぬ間に糜爛(ヴィラン)】


 我ら最強の軍団がいかにして一夜で滅んだのかを記録しておこうと思う。機密文章に値するが、あまりに常軌を逸している内容のため虚構という体で書いておく。

 我が軍団に名はなかった。

 仕事の報酬は、仕事完遂にあたって消費した資本の補完とつぎの仕事の斡旋だ。

 我々は常に戦場を求めていた。否、狩りの場だ。戦いにすらならない。いっぽうてきに武力を働き、圧倒し、掌握する。

 資本を得るために仕事をするわけではない点では、ビジネスとは言いがたい。行うことの多くも破壊行為であり、何かを生産するわけでもなかった。

 ゆえに一つの強大な生物のようなものと捉えてもらって構わない。生きるために餌を食べるのか、それとも餌を食べるために生きるのか。二律背反のようでいて、ここには何の矛盾もない。どちらも生の営みであり、仕組みを維持するための活動だからだ。

 その依頼は、とある政府機関からの依頼だった。表向きは密葬だ。亡くなった者を弔ってほしい、といったカタチで依頼者は仕事の発注を行なうが、故人はその時点ではまだ生きている。戸籍を書き換えられる組織のみができる発注の仕方だ。

 言い換えれば、殺してほしい相手をそのようにして指定する。

 どうせ死ぬのだからいまのうちに死亡者として扱っておこう、との効率のよい判断が嚆矢だったと記憶している。

 死者にならば何をしても構わない。ゆえに我々がすることはやはり死者の弔いにすぎなかった。

 亡者となってなお今生に彷徨う亡霊の始末である。

 今回の亡霊は、一人の女だった。

 彼女が使用していた戸籍は偽名であったので、その名を明らかにしても差し障りはないが、敢えてここでは女としておこう。以降、「女」「彼女」と言った場合には対象を示す。

 女は地方の街に住まう二十代の音楽家だった。有名ではなく、インターネット上で自作の曲を公開し、その売り上げで生計を立てていた。

 彼女の曲はインターネット上で聴くことができる。彼女の曲を嗜好する一部界隈があるらしく、小規模ながらも需要は確立されているようだ。

 彼女には何かしら独特な感性があったのかもしれない。否、あったのだ。そのことを我々は身を以って知ることとなる。

 大雨注意報がその区域に発表された日が作戦実行日となった。前以って大雨の到来は予期できていた。政府機関は気象予報と、年間を通じての気候変動のデータから、その年にどこで水害が起きるかを高い精度で割りだせる。

 とはいえ、予見できていたところで対策費は膨大になる。反面、災害が起きれば国防費の予算を拡大できるだけでなく、復興を名目に、恣意的な経済対策を行使できる。のみならず、災害の起きた都市は、政府に逆らいづらくなる。首輪をつけなおすためにも、災害が起きたほうが総合して考えた場合には益になると判断しているようだった。政府は、国家という仕組みを守ろうとはすれど、国民の生活そのものの安寧にはさほどに関心がない。どのような仕組みが築かれようと、不満に思うのが民だ、とすら考えている節があったが、その点に関しては同意見であり、ことさら反論を述べようとは思わない。

 いずれにせよ、その日、目論見通りに大雨が降りはじめ、川が氾濫し、避難指示がだされた。街からひと気が消え、外を出歩く者がいなくなる。

 人ひとり死んだところで、大雨の日であれば災害の犠牲者として扱われる。

 本来であれば、一般人の、それも単なる女を殺すのに、我々軍団が動く必要はない。

 つまり、何かしらある、と考えるのが利口だ。

 どんな相手であっても手を抜かない。それがプロである。

 すくなくとも、相手が一人だから、女だから、といった程度の情報では、手を抜く理由にはなり得ない。

 政府が人を殺してほしい、と望む場合は、たいがいが情報漏えいを防ぐ名目だ。死人に口なしを地で描いてほしいのだ。

 だが今回はどうにもそのような背景があるとは思えなかった。

 というのも、対象たる女を監視していても、とくに政治家やその周辺界隈との繋がりが見えなかったからだ。

 我が軍団の構成員は、おおむね百から三百のあいだで流動している。情報収集、調達管理、実行部隊の三つに大別できる。どんな仕事であっても総勢で当たる。たとえ仕事の内容が迷子の飼い犬の捜索だったとしても、だ。どんな事態も想定し、対処可能な状態を築くべく徹底した下準備を行なう。我が部隊が、最強の名を欲しいがままにしていた要因の一つと言ってよい。

 作戦成功の鍵は、失敗しても損をしないようにしておくことだ。つまり、失敗しても成功したのと同じ成果が挙げられるように準備をしておく。

 たとえば今回の仕事においては、対象が女一人ではなく、その背後に強大なテロリスト組織があったと仮定して行われる。言い換えるならば、女を殺すだけで、テロリスト組織を刺激し、報復を引き起こしかねない懸念をいかに払拭するかが焦点となる。

 基点はそこだ。

 女の背後にどのような組織があろうとも、作戦遂行後に、因縁を残さない。

 そのためには、女が、我々のような軍団の手によって葬られた事実を失くす必要がある。もっと言えば、殺された、と見做されない状況をつくりあげなければ条件は満たされない。

 大雨はそういう意味で好都合であり、かつ要件に見合った気象条件と言えた。 

 もちろん女にも相応の戦闘力があるとの見立てで作戦は進められる。

 雨天決行は、人払いの効果を期待しての一面もある。

 これ以上ない環境が整った。

 いざ作戦実行の合図を送ったその数秒後だ。

 まず異変に気づいたのは、情報収集部の通信員だった。対象を監視していたはずが、対象を見失った。そのような旨を報告した。

 いや、そんなはずはない。

 隊員の誰もがそう思った。

 監視の目はいくつもあった。隠しカメラ、熱源センサー、盗聴器から遠距離集音機まで、幅広い。衛星からの映像では、屋内にいる対象の姿すら、遮蔽物を透過して見ることができる。

 見失うほうがむつかしい。

 仮にすべての目が潰され、対象の姿が一時的に視認できなくなったとしても任務遂行の妨げにはならない。

 調査監視は飽くまで、作戦実行までの準備のための手段だ。対象の位置座標さえ判明していれば、現場に足を踏みこむ部隊が情報収集部の援護なく作戦を完遂できる。

 したがってこの時点で、戦略の変更はなかった。現場を取り囲み、いっさいの証拠を残さず対象を殺害、川へと運び、濁流のなかへと死体を遺棄する。

 水死体として発見されても、されなくともどちらでもよい。いずれにせよ事故死として扱われる。

 同様に、何らかの邪魔が入った際の対処にも抜かりはなかった。対象を庇護しようと外部勢力が敵対するとも限らない。そうした事態に陥ったときのためにテロリスト組織を壊滅するときの段取りへといつでも移行できるように作戦を立てている。戦略はそのつど、A案、B案、C案、と状況に合わせて変更していく。

 対象を見失ったとの報告は意外ではあったが、まだ戦略を変更するまでの異常事態ではなかった。

 建物を取り囲む。コンクリートブロックのマンションだ。三階建てだが、じっしつ十階分のビルの高さがある。居住区のひとつひとつに二階に相当する空間があるためだろう。いくつもの一軒家が合体しているような造りだった。

 対象のほかにも住居者はいたが、作戦決行にあたって、部屋を空けてもらった。もちろん頼んでそのように動いてもらったわけではない。家を空けなければならない状況に仕立て上げたのだ。最も容易なのは親しい者の死である。次点で、仕事関係の出張だ。我々はどちらの手も使った。より仕事を完遂させる確率の高くなるほうを選ぶ。基準はそれだけだ。

 実行部隊は三分割する。それぞれ対象から遠のくほど、対象接近者のバックアップの意味合いを持つ。仮に対象の背後にテロリスト組織があったとして、その場合は、C案を、現場から最も遠い位置にいる部隊が担うこととなる。

 情報収集部からの情報を解析し、判断し、現場に必要な情報のみを現場に流すのも、バックアップ組の任務の一つだ。

 ゆえにこの時点で、現場にいる部隊には対象を見失った情報は共有されていなかった。

 おそらくこのあとの悲劇が回避できた好機があったとするのならば、この時点で作戦続行を断念することのほかになかっただろう。だが仮に最前線へと情報を共有できたとして、撤退を指示できたかは自信がない。高い確率でしなかっただろう。やはり情報収集部が対象を見失ったのが数秒前だったからといって、作戦どころか戦略を変える必然性を覚えない。

 人間は物理的に消失したりはしない。数秒でまったく別の場所に移動はできない。

 当たり前の話だ。

 ゆえに、戦略には何の問題も生じない。対象はこの建物のなかにいる。部屋のなかにいる。

 気取られた可能性は低く、よしんば気取られたところで相手にはなす術はない。

 いまとなってはこの推量を驕り高ぶりだと指弾されれば、否定の余地がないが、それは我々の認識をはるかに凌駕する存在を相手取っていたと現在の私が知っているからだ。

 このときにはまだ、私の常識は、我々の軍団の常識は、もうすこしこじんまりと、慎ましいものだった。

 我々のほうが遥かに謙虚であり、現実というものがひどく傲慢なのだと知るのはもうすこしあとになってからのこととなる。

 とはいえ、この数分後には常識は音を立てて崩れていくのだが。

 建物への侵入は静かなものだった。対象のいるはずの部屋のまえまで難なく辿り着く。セキュリティはすべて掌握済みだ。ひょっとしたら見逃している何かしらの機構があったかもしれないが、出入り口はすべて抑えている。エコーシステムを用いて、建物の見取り図は立体で解析済みだ。抜け道はない。

 対象は間違いなく部屋にいる。あとは武力で制圧し、息の根を止め、任務を終える。

 ふだんと変わらぬ一連の流れがあるのみだ。準備にかけた労力が大きければ大きいほど、現場での作業がもっとも楽になる。

 気を抜いていたわけではない。

 あとはスイッチを押すだけ、狩りを楽しむだけ。

 そういう状態に持っていくことがよりよい仕事をこなすうえで必須だと考えている。その考えはいまでも変わらない。

 準備が足りなかった。

 強いて反省点を挙げるならばその一点に尽きる。

 私は実行部隊の指揮官として、建物の外にいた。突入隊へと対象確保の命令を発する。号令をかければ、部屋へ突入隊が流れこみ、対象を捕獲する。この場合の捕獲は、死体として床に転がすことを意味する。

 命令をくだした一分後には撤退の指示を、全隊員に向ける手はずになっていた。予定通りつつがなく狩りを終え、現場を後にする。撤退の道中で、死体を川に捨てるのも忘れない。これは直接河川にいかずとも、下水道に死体を捨てるだけで完了される手順が準備されている。水かさのあがった下水道内であれば、重量のある死体であってもそのまま川へと流れこむ。人目を気にする必要はなかった。

 あとは任務完了の報告を待つだけだ。

 しばらく待ったが、音沙汰がない。

 閑静な住宅街は、大雨がゆえに、ことさら静かだった。

 突入部隊の通信は聞いていた。

 ターゲットを発見、との声ののち、隊員たちの声が聞こえなくなった。通信障害か、それに類する現象が発生したと判断を逞しくする。

 やはりただの女ではなかった。

 何かしら、諜報機関に対抗するだけの術を有した存在だ。

 突入隊に何かしらの異常事態が発生した、と全体に報告する。これは断言をした。通信が途切れた以上、仮にそれが単なる人的ミスであったとしても、我々軍団にとってはあってはならない異常事態なのだ。

 A案を破棄し、B案へと移行する。

 命じると、第一戦略実行部隊の指揮権が第二戦略実行部隊に譲渡される。さらにその後方には、C案を引き受ける第三戦略実行部隊がバックアップとして控えているが、そちらの出番はない、とこのときは考えていた。

 部屋に侵入した突入部隊がこの時点で壊滅しているとは、まだ、私は考えていなかったのだ。

 せいぜいが部屋に閉じこめられたくらいの緊急事態だと見積もっていた。戦闘があれば、いくらなんでも外からでも内部の異常が感知できる。音にしろ、光にしろ、振動にしろ、何かしら察知できる情報(ノイズ)が拾えるはずだ。

 だがこのときは真実、雨の音以外には聞こえなかった。

 それほどの異常事態が発生していたのだ、窺知すら不能な事態なのだ、と視野を拡げることができなかったのは、ひとえに私の力量不足がゆえだ。常識に縛られていた。

 いまなら判る。

 両方のリスクを考慮しておく場面だった。 

 単なるボンミスによる作戦の遅延、或いは軍団そのものが壊滅し得る事態の進行、その両方を想定しておく場面だったのだ。

 そもそも我々は最初から大きな錯誤を抱いていた。対象たる女の背後に脅威となる組織がついているかもしれない、との想定はできても、女そのものが我々軍団を滅ぼすほどの脅威を秘めている可能性には、まったく思いを巡らせずにいた。そんな可能性があるとすら発想しなかった。

 だが蓋を開けてみればどうだろう。

 B案に移行し、対テロリスト組織との交戦を想定した戦略に移行しておきながら、数分も経たぬ間に全部隊との通信が途切れた。

 考えられる筋書きのうちので最も確率が高いのは、情報収集部の壊滅だ。

 敵がいると仮定すれば、敵はすでにこちらの部隊の全容を把握しており、ゆえにまずその目となる情報収集部を潰した。

 手足は最後だ。

 つぎは頭脳を潰しにくる。

 相手がまっとうに戦略というものを念頭に置いて行動選択を図るならばそのように推測できた。

 しかし予断は許されない。

 相手が尋常でないのは明らかだ。まっとうな論理を基にした行動選択を期待するのは、獣に言葉での説得を試みるのに等しい暴挙である。

 最悪ここでじぶんが死ぬのは構わない。

 大事なのは依頼を十全にこなすこと。軍団を維持すること。すなわち、食い、生きつづけることだ。

 全体主義なのではない。

 我々は軍団を生かすための細胞にすぎない。

 全体なのではなく、個なのだ。我々は一つの生き物だ。

 ゆえに、指揮官が死んでも、細胞が軍団という個を維持していられればそれで事足りる。任務を続行し、仕事を終え、つぎなる仕事にとりかかる。このサイクルさえ維持できれば、それで構わない。

「現場の確認に入る。監視をここに二人残し、あとの人員はこちらにつづけ」

 監視役を二名選び、ほかのメンバーと共に建物のなかに踏み入れる。

 部屋のなかは惨憺たる有様だった。

 部隊の人員はまるで突然意識を失ったかのように、各自持ち場の床に倒れている。突入直後に、対象と戦闘するまでもなく卒倒したように見受けられる。隊列をかたどって仰臥しているのだ。みな一様に背中を地面につけている。手前から隊列に向かって何かが高速で駆け抜けたのではないか、と想像するが、そんな状況は考えられない。隊員たちが無反応のまま戦闘不能状態にさせられるとは思わないからだ。

「毒物でしょうか」

 隊員の一人が意見するが、それもまた考えにくい。突入部隊の人員は全員、火山口に出向いても充分に活動できる装備を身に着けている。毒薬の満ちた水槽に沈めても平気でいられる装備だ。肌に直接注射されたならばまだ判るが、それならば戦闘に発展しているはずだ。そもそも着衣にしても特殊素材だ。刃物、銃弾、くらいならば物ともしない。衝撃すらほとんど身体に伝わらないくらいだ。

 音響兵器の使用をまずは疑った。

 だが部隊を一つ瞬時に殲滅せしめるほどの出力を有した音響兵器ともなると、相当に大きな機構となる。車一台では足りないだろう。また、建物外部にいたこちらがその音響の余波を感じずにいられるとはとうてい考えられない。

 では、電磁波はどうだ。音波でなければ聴覚での知覚はむつかしい。

 しかし、だとすれば室内の壁や床、その他の物体も無事では済まされない。巨大な電子レンジに入れられたようなものだ。隊員だけにピンポイントで照射可能だとすれば、あり得ない話ではないが、そんな兵器を保有するくらいならば、そもそもこんな分かりやすい場所に身を置いたりはしないだろう。

 そうなのだ。

 まず以って、奇襲に対する備えにしては明らかに高性能にすぎる兵器でなければ、こんな事態は引き起きようがない。

 倒れている隊員たちの生体反応を確かめたようだ、隊員の一人が言った。

「息があります」

「何名だ」

「全員です」

 殺さずに戦闘不能にした。それの示す意味は、我々がこのとき対峙しようとしている相手が、並以上の戦力を保有しているというただ一つの事実だった。

 部屋をひと通り見て回るが、人影はない。潜んでいるのか、それともとっくに脱出したか。

「隊員を回収し、撤退する。監視二名に、車の指示を」

 下に行って伝えてこい、と命じる。

 だがその役目を引き受けたはずの隊員がこんどは戻ってこない。倒れた隊員をその場に残し、建物のそとにでる。本来ならば誰かを部屋に残していくところだが、緊急事態につき、隊列を崩さないことを優先した。殺さずに倒した相手をいまさら殺そうとするとは思えなかったのも一つだが、これは希望的観測にすぎない。軍団の全滅を避けるために、動けない隊員を見捨てたと捉えてもらってこれは構わない。

 それくらい、すでにこの時点では緊急事態の想定を大きく見直していた。

 我が軍団が滅ぶ未来もあり得る。

 相手はそれほどの脅威なのだ、と。

 そとには誰もいなかった。こんどは倒れた隊員の姿すらない。拉致されたか。逃亡の可能性もあるが、その場合には、逃亡の痕跡を残すように訓練を積んでいる。拉致されたとしても、襲撃があった痕跡くらいは残るはずだ。しかしそれすら道路に見受けられない。つまり、拉致された場合には、隊員は意識を奪われたのちに連れ去られたことになる。

 伝令役を含めた三名の隊員がまた脱落した。

 相手は集団で動いている。

 離れた場所にいる情報収集部が襲撃に遭ったと仮定するまでもなく、こんな芸当がたった一人の女にできるわけがない。

 この時点でも、またもや誤謬を抱いてしまっていた。

 さきに明らかにしてこう。

 この時点ではまだ情報収集部は襲撃されていなかった。通信が途絶えたのは、対象たる彼女の能力によるものだ。

 突入部隊を瞬時に戦闘不能に陥れたのもまた彼女一人による仕業だ。

 現時点においても明瞭と断言できるのはそのことのみだ。彼女には我ら軍団を相手取っても殲滅可能な能力が備わっていた。そしてその能力の行使によって、我ら軍団は壊滅した。

 結論から言ってしまうと、我が軍団の隊員の誰一人として命を落とさなかった。殺されずに済んだ。

 殺傷するつもりのこちらを相手取り、対象の女は、誰の命も奪わずに事態を収束させ、かつ我が軍団という脅威のみを瓦解せしめた。

 いまを以って彼女がどのような能力を有していたのかは不明だ。このさきも明らかになる予定はない。

 我ら第一戦略実行部隊は撤退を決めた。戦闘不能の隊員をその場に残し、目的地を離れようとしていた。このとき、じつのところ情報収集部は機能しており、現場で異常事態が発生したとの見解をつよめていた。後方第三実行戦略部隊、すなわち我々第一第二戦略実行部隊のバックアップ部隊へと、C案への移行を要請していた。

 C案は大国の特殊部隊を相手取るときの戦略だ。むろんその準備もしてあったが、損失が大きいために、できるだけ避けたい案でもあった。大規模に戦略を展開するために、ひと目も気にしなければならない。

 さいわいにも大雨が、ある程度の爆音を掻き消してくれる。避難勧告のでている一帯でもある、めったなことでは騒ぎにならないだろう。通報される心配はなく、たとえ通報されても困らないだけの準備を重ねてある。

 第三実行戦略部は即座に目的地へと歩を向けた。すなわち、第一戦略実行部隊の指揮官である私と同様の失態を犯していたことになる。

 言い換えれば、対象たる女を舐めていたのだ。

 このとき、第二戦略実行部は、我ら第一戦略実行部と同様に情報収集部との通信が途絶えていた。指揮権は譲渡してある。ゆえに第二戦略実行部は、目的地周辺にテロリスト組織が潜伏している想定で戦略を展開しようとしていたが、目的地に辿り着く前に、すなわち我ら第一戦略実行部隊のいる地点に辿り着く前に、対象と遭遇し、壊滅した。

 対象の移動速度は、この点から計算できる。

 第二戦略実行部隊が壊滅した地点、および時刻からすると、対象の女は、音速に近い速度で移動できることになる。

 あり得ない、それはそうだ。人間一人にそんな芸当ができるわけがない。ならばあれは人間ではなかった。

 そう結論付けるよりない。

 それとも我々は未だに現実を錯誤しており、強大な組織の手のひらのうえでころがされているだけなのだろうか。そうであってほしい。現実にあのようなバケモノがいてよいはずもない。

 しかし論理的に、あの場には一人の女がいるのみだった。組織などではない。たった一人の女に、世界最強の我ら軍団は破れたのだ。

 第三戦略実行部隊に指揮権が譲渡されたことにより、衛星特殊通信が可能となった。レーザー光線を利用した通信技術で、地上にいればどんな場所であれど、通信が可能となる。端末さえ有していれば、完全に隔離された核シェルターのなかにいても外部とやりとりができる。

 これにより、第三戦略実行部隊からの通信が我ら第一戦略実行部隊に入った。状況を伝え合い、現状の把握に努める。情報収集部は生きている、とこのとき自らの錯誤を一つ解消するに至る。第二戦略実行部隊との連絡がつかないことから、そこは壊滅したと判断した。最悪の事態を想定するのは緊急時の定石だ。

 合流せずに、当初の予定通り、我ら第一戦略実行部隊の残党は撤退することにした。あとは任せた、とばかりに、邪魔をせぬよう現場を離れる。

 残党は私を含め、八名だ。その倍以上の数が、現場で一瞬で、意識を奪われた。内三名は、のちにそこから五百メートルも離れた小学校の校庭で発見されるが、死んではおらず、意識を失う直前の記憶もなかった。

 この際明らかにしておくが、けっきょく誰も対象の姿を目視することはなかった。

 作戦準備期間にはあれだけ無防備に姿を晒していた対象は、まるで透明人間にでもなったかのように存在を掠め、被害だけを広めつづけた。

 調達部隊は、緊急時には救出部隊として現場に駆けつけることもある。このときがそうだった。撤退する我ら八名を回収すべく、ワゴンを走らせていたらしいのだが、道中、川に落下し、流されることとなる。調達部隊とはいえ、兵隊であることに変わりはない。日ごろの訓練のたまものか、無傷で全員陸地にあがったが、そこからさきの記憶がない。つまるところ彼ら(なかには性別が男ではない隊員もいたが)もまた、気づかぬうちに対象に遭遇していたことになる。

 彼らは一般市民として、明朝、パトロール中の街の消防団の手によって病院に搬送されたが、その話は本筋に関係ないので、割合いする。

 我ら八名は一向に合流地点にやってこない救出部隊に業を煮やし、衛星特殊通信を使って、情報収集部に連絡をとった。

 おそらくここでも私はミスをした。連絡を受信するのと、発信するのとでは、傍受している側の得る情報に差が生じる。すなわち、私のその一手によって、情報収集部の場所が対象に露呈した。

 そう考えるよりない現実がその後、目のまえに降りかかる。

 情報収集部との通信中に、オペレーターの声が緊迫し、何者かに襲撃されている、と告げた。それはいままさにその瞬間に起きたできごとであった。

 オペレーターは通信を切ることなく、何が起きているのかを報告したが、外部の見張りが壊滅し、侵入者がセキュリティを突破してまさにこの部屋のそとにいる、と述べたつぎの瞬間には、静寂が耳元を満たした。

 通信は切れていない。

 しばらく待っていると、

「いまどこにいますか」

 女の声がした。

 対象の声は記憶してある。情報収集部の資料には対象の容姿や来歴だけでなく、声から遺伝情報まで載っていた。

 だから判る。

 あの女がそこにいる。

 だが、と疑問が脳裡を満たす。

 いまこの街で我ら実行部隊を窮地に貶めているのは誰なのだ。

 情報収集部の本拠地は、対象の住居のある街から、五十キロも離れた地点、山の奥深くにあった。

 音速で移動すれば二分以内には辿りつける距離ではある。

 が、衛星特殊通信を介して情報収集部の場所を特定し、移動したと考えるにはあまりに現実離れしすぎている。このときになって、裏切り者の可能性を思い浮かべるに至る。対象は最初から知っていた。何もかもを知っていたがゆえに、こうまでも我ら軍団を出し抜けたのだ。

 いまにして思えば、最後まで私は常識の縛りから抜けだせなかったのだと痛感する。

 我ら軍団はそれで一つの生き物だ。裏切るも何もあったものではない。

 だが私はそのときはっきりと、軍団がただのいち組織でしかないとの観念に囚われ、みずから軍団の細胞であることをやめ、個人として、生への執着にすがりつこうとしていた。

 たとえ身体に害をなすがん細胞があったとしても、それは敵の身体を補助するような裏切り者とは一線を画す存在だ。足を引っ張る者はあっても裏切り者など、生き物の細胞には存在し得ない。つまり、私はそのときになって、我ら軍団もまた数多の組織の一つにすぎないことを認めたも同然であった。

 通信を切った。

 救援はこない。

 判断し、セーフハウスに向かった。緊急事態に身を寄せるそうした予備の秘密基地は、東西南北に一つずつ、対象の住居から十キロ離れるごとに設置していた。どの方角に逃げても、十キロ歩けばセーフハウスに辿り着ける。食料、物資、通信機器と最低限の設備が整っている。

 移動を開始する。雨脚がさらにつよまり、道路も冠水している。河川には近づけない。

 衛星特殊通信で、第三戦略実行部隊に連絡をとりたかったが、情報収集部に対象がいる時点で、傍受されるに違いない。このときは対象がたった一人で行動しているなどとは夢にも思っていないがゆえに、こちらの戦力がどの程度残っているのかを相手に知られるのは避けなければならないとの考えから、通信をしない選択をした。

 もし相手が単独で、かつこちらの戦力を上回る武力を有していると知っていたならば、損を承知で、第三戦略実行部隊に連絡をとった。

 事実誤認を伝えることのほうが優先度が高いからだが、繰りかえしになるがそのとき私もまた事実を盛大に、甚大に、誤認していた。

 ゆえに我ら八名の残党がセーフハウスへと移動している合間に、よもや第三戦略実行部隊が壊滅の危機に瀕し、その数分後にじっさいに壊滅しているなどとは想像だにしなかった。

 対象の女は、その数分前までは五十キロ先の山中、情報収集部の本拠地にいた。それがその数分後には、じぶんの住居に舞い戻り、世界有数の部隊を同じく数分で制圧した。

 やはり誰もがそのときのことを憶えていない。気づいたら隊員がつぎつぎと姿を消し、意識を失い気づいたときには病室のベッドのうえにいたという。朝になって近隣の住民が通報したのだろう。ひょっとしたら対象の女が救急車を呼んだ可能性すらあるが、そこは明らかになっていない。

 セーフハウスに辿り着いた我ら最後の八名は、そこで数日のあいだ潜伏する予定だった。ほとぼりが冷め、状況がよく見えてから改めてどのように行動すべきかを考える。その猶予の時間を開ける意味合いが、セーフハウスへの避難にはある。

 だがここで驚愕してほしいのだが、セーフハウスには先着がいた。

 ありきたりな展開で申しわけなく、予想がついているのは重々承知のうえで、明記させてもらうが、セーフハウスたる一軒家は、潰れていた。

 否、目のまえでまさに潰れかけていた。

 津波で家屋が押し流された映像を観たことがあるだろうか。あれと似たような具合に、あれよあれよという間に、段ボールを畳むがごとく、斜めになり、腰砕けになってぺしゃんこになった。内部の柱がダルマ落としにでも遭ったかのような崩壊の仕方だった。

 あとでこれも知ることとなるが、ほかに用意してあったセーフハウスの総じてが同様に崩壊していたそうだ。中の備品は警察機構に押収されただろうから、我ら軍団に仕事を依頼した者たちは、我らの関与を揉み消すのに苦労しただろう。それ以上に、対象の女からの報復に怯えているかもしれない。

 長くなった。

 いよいよ我ら残党の退場シーンとなるが、拍子抜けしないように前以って断っておこう、ここからは呆気ない。

 世界最強の我ら軍団がいかに一夜にして滅んだのかを記録しようと思い立ち、こうして長々と述懐してはみたものの、果たして何を残せたのか、と我がことながら首を傾げる。

 けっきょく最後まで何も分からず、翻弄され、壊滅した。

 セーフハウスが折紙の家がごとく崩壊するのを眺めているあいだに、私以外のほかの七名は、私の背後で、順々に、気を失っていた。彼らの供述からすればやはり、最後まで残っていたのは私ということになる。みな私が倒れるところを目撃しておらず、最後に見た光景が私の背中とその奥で崩れいくセーフハウスだったというのだから、そこは信用したいところだ。

 私は私以外の七名がこの物語から退場したことすら知らずに、この物語がほとんど終焉を迎えていることにも気づかず、何が起こっているのかと、破たんしつづける計画の数々に、めまいを覚えていた。

 セーフハウスがすっかり崩壊しきり、土埃が大雨に払われるまでのあいだ、そうして呆然と道路に突っ立っていた。

「あなたで最後ですか」

 耳元で声がした。

 そのように記憶している。

 たしかに耳にした。

 対象の、例の、あの女の声だ。

「弱い者いじめは楽しかったですか」

 首筋に何か冷たいものが触れた気がしたが、それはいまにして思えば気のせいかもしれなかった。

「あたしはねぇ、めちゃんこツマンナイです」

 憶えているのは、声と共に伝わった鼓膜をなぞる吐息のくすぐったさだ。

 その後、私はほかの七名と共に、病室で目覚めた。第三戦略実行部隊とは別の病院に運ばれたらしく、その後、退院した我ら軍団の隊員はいちどだけ情報収集部本拠地にて集まった。その後、私が言うまでもなく、軍団は解散となった。

 否、解散するまでもない。すでにそのときには瓦解していた。軍団ではなくなっていた。生きてはいなかった。死んでいた。

 あの日の夜に仕事に失敗した時点で、つぎはなかった。

 誰もが口を利かず、それぞれが必要なものだけを荷物にまとめていたとき、

「なんだったんでしょう、あれは」

 隊員の一人が口にした。みな同感だった。

 いったいあれはなんだったんだ。

 あの悪夢は。

「それはですね」

 室内に声が反響し、みなの動きがぴたりと止まる。凍ったようだ、と月並みだが、感じた。遅れて鳥肌が立ち、身体が凍えたように震えだす。

「弱い者いじめをしようとした罰ですよ」

 声はつづけた。

「今回は見逃してあげますね。あなたたちも騙された側のひとみたいだから。でも、もう判ったでしょ」

 わかりましたよね、と声は空間のさまざまな方向から聞こえた。それはあたかも大勢の人間が、同じ声で、追いかけっこをするように、言葉の一音一音ごとに、聞こえてくる方向が変化した。

「ダメですよ勘違いしちゃ。あなたたちはいじめる側じゃない。弱い者いじめをしてもいいけど、そしたらまっさきにいじめられちゃうのが誰かをよく考えてみましょうね」

 よかったですね、とその声は言った。

「一つお利口さんになって」

 室内の空気が一瞬にして軽くなった。踏まれていたマントが解放されたように、みないっせいに安堵の息を吐いた。呼吸すら止めていた。動けなくなっていた。

 それが何かしらの能力のせいなのか、それとも単に身体に染みついた悪夢の記憶によるものなのかは詳らかではない。

 その後、その街へは踏み入っていない。いまもまだあのマンションがあるのかは知らない。そこに対象が未だ住んでいるのかも不明だ。ほかの隊員たちとの縁も切れた。音信不通で、どこで何をしているのか、互いに知りようもない。

 いずれにせよ、仕事は失敗した。

 我が最強の軍団は、いまはもう存在しない。

 ただし、失敗したとはいえ、その報告くらいはしておくのが道理だと思い直し、いまなお恐怖の拭えぬ身体に鞭を打って、この報告書を記している。

 あなたがこれを目にする機会が訪れるかは分からない。

 無事に送付できるのかも、その後に届くのかも微妙なところだ。

 だが確実に言えることが一つある。

 あなたがこれを読み終わるころには、対象の、例の、あの女には、この旨が伝わっている。それだけは確信を以って言える。

 私はせっかくの彼女の厚意を蔑ろにした。

 こうして仕事に失敗した過去を、報告書にまとめ、あなたに差しだしているのだから。彼女の尋常ならざる武力の高さを伝えてしまっているのだから。

 おそらく彼女は行動に移すだろう。あれはそういう存在だ。

 いまこれをあなたが読んでいるとき、私が生きているかは定かではない。かなり怪しいと個人的には睨んでいるが、彼女の慈悲深さが宇宙よりも深淵であることを祈るしかない。

 蛇足だが、つぎは我らが裏の世界の住人などに頼らずに、自らの軍隊を動かしたほうが誠実だと、正直な所感を述べておこう。

 報告が遅くなって申しわけなかった。

 否、これはただの虚構だった。忘れていた。こんなふざけた報告書があってよいはずもない。

 そうそう、虚構ついでに一つ、忠告を挿しておこう。

 弱い者いじめは感心しない。

 強者相手に抗ってみせてくれ。




【影師の仕事】


 影が成長をはじめるようになったのは幕末のことだと歴史で習った。それ以前は、影は影として肉体の輪郭を素直にかたどっていたそうだ。

「でも光の加減によっては伸びたり、縮んだりしたんでしょ。いまと何が違うの?」

「同じ角度、同じ光量を当てたときにできる影に変化がないってことだろ。年中いつでも。でもいまは、ほら、育つじゃん。植物みたいに」 

「いまいち想像つかんわー」

 弟が板状メディア端末を頭上に掲げ、じゃあさ、と言った。「影師さんってむかしはいなかったんだ」

「だろうな」

 素朴な疑問に、言われてみればたしかに、と思った。小学五年生にしては鋭い。

 影師。

 いわば、影の美容師みたいなものだ。庭師のようなもの、といったほうが実情はちかいかもしれない。対象とする相手が人間に限らないからだ。

 影が成長する。その最大の問題は、放置しておくとそのままどこまでも拡大して、拡張して、地表を闇一色に覆い尽くしてしまうことにある。

 動物にとってはさして困った事態にはならない。しかし植物や藻類、果てはプランクトンなどの微生物は違う。

 光合成ができなくなり、絶滅の危機に瀕する。

 じっさい、史実として、江戸時代に海で魚が獲れなくなった時期がある。漁船の影がいつの間にか海上を覆い尽くし、浅瀬の生態系を崩してしまったのが要因と考えられている。

 一定期間で姿を消す雲は、影の処理をしなくて済むのはさいわいだ。そうでなければいまごろ地上に生物は一匹も生存していなかっただろう。それくらいの天変地異が引き起こり得る。

 影師は、人間社会に介在する様々な影を、既定の大きさに保つために、定期的に処理をして回る。人間の影にも手を施すが、いまではファッション感覚で影を美麗にかたどるのが流行っている。こちらはシャドーデザイナーとして、いわゆる影師とは分けて語られる機会が多い。しかしやっていることは同じだ。

 育ちすぎた影を剪定する。

 江戸時代末期に、全世界で突如として成長しはじめた影に人々は右往左往した。打開策を編みだしたのは、氷室(こおりむろ)の管理者たちだった。夏場に氷を売るために、氷を保管しておく空間がある。そこで偶然、影だけを切れる特殊な氷が発見されたのだ。

 発見者の名前は不明だが、そこから影師をはじめた人物は知られている。

 名を、氷陰(ひょういん)斬杉(きりすぎ)と言った。いまでは偉人として坂本竜馬についで人口に膾炙している。

「氷陰は知ってるか」弟に問うと、

「知らないひとがいるの」つぶらな瞳で問いかえされた。「影師さんになるにはどうすればいいんだろう」

「なりたいのか」

「なりたいというか、だってふしぎだよね。ふつうのハサミじゃ切れないわけでしょ」

「ある種の光を閉じこめながら凍らせた氷じゃないとダメらしいな。氷陰はその手法を発明したことで有名人になったとも言える」

「光って閉じこめられるの?」

「そこはちょっとむつかしい話だな。兄ちゃんもよくは知らん。だからこそ影師になるには国家資格がいる。シャドーデザイナーは、未資格でも開業できるみたいだけど、それはでも扱える影が人間だけだからかな。それ以外の影を扱うにはやっぱり影師の資格がいる」

「詳しいね」

「むかしなりたかったんだよな。影師」

「かっこいいもんね」

 やっぱりそう思うのか、と弟の顔を見遣る。彼は板状メディア端末を眺めているが、ちらりと見えた画面には、最新のシャドーデザインが並んでいた。ついに我が弟も、じぶんのシャドーをいじりたい年頃になったか、と胸にこみ上げるものがある。

 一生の思い出になるし、ときには一生の傷にもなり得る。

 人生の先駆者として、ここは後悔の残らぬように助言の一つでもしてあげるのが兄としての務めかもしれぬ。

「影をいくらかっこよくしても、本体は何も変わらんからな。そこは知っといたほうがいいぞ」

「わかってるよ」

「あと、動物とか、キャラモノに切りたくなるだろうけど、それもちゃんと育ったあとの姿を想像して切ったほうがいい。クジラとか、かっこいいマークとか、そういうのが無難だな。風船を膨らましたときを想像して、萎んでも膨らんでもヘンにならない絵柄がいい」

「知ってるってば」

 弟は急に先輩風を吹かした兄が煩わしいようだ。からかい甲斐のあるやつめ。

「影師になりたいってのもいまじゃ誰もがいちどは夢見るよな。兄ちゃんの知り合いにも一人いるけど、たいへんそうだよあれは。あんまし一般には知られてないけど、切り取ったあとの影の残滓の処理がまた一段とむつかしいらしくてな。コストはかかるわ、法律がうるさいわ、知ってるか、影の残滓って時間が経つと粉になるんだって。それがどう処理しても化学変化しないから、もちろん生き物の体内に入っても分解されないし、言ったらまあ、毒みたいなもので、風だとか土壌に紛れると、もうそこから除去することができなくなる。まとめて土管に詰めて、埋めるしかないんだって」

「固めて何かの素材にしちゃえばいいのに」

「できないらしいぞ。あまりに粒粒が細かすぎて」

「じゃあ、これからどうするんだろ。溜まってくいっぽうだよね」

「どうにか再利用できるようにできないかって、だからものすごい国家予算費やして研究してるって話。めちゃんこ黒いのに光を吸収しないって性質があるから、それなりに使い道はありそうだけどな」

「たとえば?」

「そうだなぁ」しばし考えるが、何かあるだろうか、と首をひねる。光を反射せず、ただただエネルギィを消してしまう。吸収することすらしない。消えたエネルギィがどこに消えたのかが不明であり、ゆえにこうまでも影師が社会的に重宝される。エネルギィ保存の法則が破れている。物理法則が揺らいでいる。

 下手をすれば、地上を覆い尽くした影によって地球は極寒の星になってしまうかもしれないのだ。そしてそれは、影師の手によって処理された影の残滓であっても同等の被害は生じ得る。影を一か所に集めて、畳んで、圧縮するから地上を覆わずに済んでいるだけで、質量的にはすでに影の残滓は、この星の地上を覆い尽くすのに充分すぎる量が刈り取られている。

「傘の表面に塗って、ものすごく涼しい日傘をつくるとか」

「ただの木陰じゃん」

「メガネに塗って、ものすごく眩しくないサングラスにするとか」

「だから日陰じゃん」

「好きな相手の影を切り取って、こっそり家で愛でるとか」

「キモいよ、サイテイだよ」

 たしかに、とうなづく。

 我が弟は順調に常識のある心優しい少年に育ちつつある。長年彼の反面教師をやってきた甲斐がある。

「兄ちゃんの影はいつも同じだよね。変えないの?」

「うーん、めんどう」

「髪の毛も伸ばしっぱなしだし」

「半年に一回坊主にすりゃいいだろこんなん。影だって根元から切ってもらいたいくらいなんだ」

「どうしてそうしないの」

「そりゃあ、だってなぁ」

「なに?」

「ドラキュラと間違われたら困るだろ」

 弟の顔がしかむ。

「ピーターパンと思われても困るしな」

 こんどはきょとんとする。うまく伝わらなかったようだ。

「まあなんだ。日陰者にもやさしくできる人間でありたいというか」

「要するにめんどうなんでしょ」

「そう」

 兄ちゃんはもったいぶってばっか。

 弟はそう言うと、板状メディア端末をこちらに押しつけ、着替えをはじめる。

「出かけるのか」

「うん」

「気を付けろよ、いまは切断作業中だ」

「判ってるってば」

 窓の外を見遣る。

 時間帯は午前十時だが、夜のように真っ暗だ。それはそうだ。

 いまや、この星に昼はない。地球そのものの影が育ち、ぐるっと地表を覆っている。

 影師たちは幕末から延々と、地球の影、夜を切り取る作業をつづけている。

 一日のうち数時間だけ、昼がやってくる。海上や森林に優先して昼を切り拓くため、都市部の日照時間は短い。影師の数が足りないのだ。

 夜に開いた穴から、地上に光が降りそそぐ。そのほんの僅かな日光を逃さぬように、人々は自身の身の周りの影の剪定を怠らない。

 影師はいまや人類になくてはならない職業だ。

 だがやはり、日に日に蓄積する影の残滓の処理には頭を悩ませる。

 宇宙に捨ててしまえ、とする意見も聞かれる。おそらくそのうちそうした計画が実行に移されるだろう、それくらい影の残滓の蓄積量は限界に近づいている。

 ひょっとしたら宇宙の闇そのものもまた、何かの大きく育った影なのではないか、と想像したくもなる。

 だとすれば、闇を切り裂くこともできるだろう。

 或いは、遥か昔に、切り裂いた者がおり、その切り口が丸みを帯びて、光の玉が浮かび、ああも光をそそいでいるのではないか。

 妄想するだけならいくらでもできるが、いまのところ宇宙を剪定した影師の話は聞かない。

 行ってきまーす。

 弟がそとに飛びだしていく。

 世界は夜に包まれたが、それでも光を切り拓こうと働く者たちがいる。

 ありがたい。

 思いながら、どうせ夜が支配する世界なのだから、とばかりに、つぎの日照時間が訪れるまでもう一眠りしておこう。

 欠伸を噛みしめながら、寝床へと向かう。

 影は黙っていても成長するのにどうしてだろう。

 こうまでも人間はいつまでも幼稚なままなのか。

 兄ちゃんだけだろ。

 頭のなかに弟のぼやき声が、幻影のごとく聞こえるが、こればかりは影師でないじぶんにも扱える。

 つまらない悩みと同じだ。

 切って、取って、捨てる。

 しかし眠気ばかりはそうもいかぬ。

 影師を見習い、睡魔を除去すべく、きょうも惰眠を貪るのである。




【ふざけんな、愛してる!!!】


「みんなピラミッド型にじぶんの興味対象を捉えているんですよね、好きって感情に優先順位をつけていて。いちばん上が恋愛で、その下におのおの興味対象が広がっていて、食事とか睡眠とかもその層のなかのどこかに位置づけられているけれど、たいがいてっぺんにあるのが恋愛感情になっているんじゃないのかなって。でもぼくは違うみたいで。ピラミッド型ではなく、円形なんです。ぼくが真ん中にいて、それぞれ四方八方に興味対象が、円グラフみたいに伸びています。しかもそれは日によって、時によって変わりますから、みんなみたいには思えません。たぶんこれって、浮気癖のつよいひととか、独裁者みたいな考え方にちかいと思うんですけど、でもぼくはそもそも性欲とか恋愛感情を優先することがありませんし、どんなときもあんまり強く惹かれたりはしませんから、似た精神構造ではあるかもしれないけれど、浮気をしたいとは思いませんし、ほかのひとたちのだいじなものもだいじにしたいと思っています」

 ダミさんは言った。ゆったりとした口調で、詩を読むみたいで、私は、たったいま現在進行形で振られている最中であるというのに、ダミさんの声にうっとり聞き入ってしまった。

「前にも言ったかもしれないけれど、ぼくはサカナさんの小説が好きですし、サカナさんの表現物が好きで、そしてたぶんそれは恋愛感情とは方向性が異なっていて、だからサカナさんのことは嫌いではないですし、これからも仲良くしたいとは思っているのですが、でもたぶん、サカナさんと恋仲になるのとは違う気がします」

 サカナさんの求めているような関係にはたぶんなれません、とダミさんは言った。

 目頭が熱くなる。痛いくらいだ。私は視界が滲むのを、へんだな、と何もへんではないのに思った。コーヒーをすする。湯気が鼻の頭を撫でる。窓のそとを通行人が流れていて、世界が違う、とまるでトンチンカンな考えが脳裡を席巻する。

「でも誤解してほしくないのですが」

 ダミさんはこれから私を傷つけないように上手に私への好意を伝え、いままでの関係でいましょう、と私が絶望しないように言葉を投げかけようとしている。私はそんな彼のやさしさを憎く思い、それでもそんなダミさんのやさしいところが好き、と思いもする。

「ぼくはサカナさんの表現物が好きで、それを生みだしてくれるサカナさんのこともとても大事なんです。たぶん、ぼくはサカナさんの表現に惚れていて、そしてそれを生みだしてくれるサカナさんのことを、好きなひとのご両親に向けるような気持ちでいる気がします」

「知らないあいだにママになってた」私は無理に笑ったが、涙が手の甲に弾けて、せっかく堪えていた何かが決壊した。涙があとからあとから、目からダイヤモンドでも零れ落ちているのか、と思うほどに、ぼたぼたと溢れた。

「本当にだいじなんです。でもそれ以上にぼくは、サカナさんの表現が好きで」

「じゃあ書くのやめたら好きじゃなくなっちゃうんだね」

「そう、たぶんそこなんですよね。不安なんです。たぶん、そうなってしまうから」

 彼の私への好意は、私そのものに向かっているのではなく、私の生みだすモノに向かっている。表現者としてはこれ以上ないほどの褒め言葉のはずなのに、私はいま、いちばん耳にしたくない言葉を、現実を、突きつけられている。

 鏡よ鏡、ダミさんの好きなものはなに、と唱えている気分だ。鏡はけっして私を映したりはせず、私のかわいい娘の姿ばかりを映しだす。

「いまの関係のままでいたいんです」

 ちらりと私の顔を見遣るとダミさんは、私のひどく崩れてしまっているだろう表情を見てもぎょっとすることなく、ダメですか、と訴えるように、あとはもう、私がつぎの新作の構想を話すまで、だんまりを決め込むのだった。

 カフェのそとでダミさんと別れるころには、まるで私の決死の告白などなかったかのように、つぎの新作楽しみにしてますね、とダミさんはいつものようなうきうき顔で、本当に心底私のことをだいじに思ってくれているのだな、と判る声音で、僅かに足取り重く、名残惜しげに駅前のほうへと去っていくのだった。

 私はその背が雑踏に消えて見えなくなるまで、その場に佇んでいた。

 ダミさんとの出会いは、高校生のころにまでさかのぼる。

 小説投稿サイトに載せていた自作に、毎回のようにコメントをくれるひとがいた。のちにそれが、私よりも十歳も年上の男性だと判るのだが、そのときはコメントのかわいらしさから、私と同い年くらいの女の子だと思っていた。

 コメントには返信をしない主義だった。あまりに熱心に私の小説を読み、新作を待ってくれるので、作者というよりも、純粋に小説好きとして、同士として、コメントの主に興味が湧いた。

 どんな小説が好きなのか、と質問し、互いに好きな小説家の話題で盛り上がるようになった。

 SNSのアカウントでもフォローし合い、純粋に友情を育んでいった。個人情報を教え合ったりはしなかったので、私の年齢をダミさんは知らなかったはずだ。何度か、じぶんよりも年上のはず、と私のことを評していたので、このときのダミさんは私のことを三十代のおとなだと思っていたことになる。

 高校を卒業し、大学生になるまでのあいだに、即売会に幾度か参加した。ダミさんが来てくれるかも、と思ったが、ダミさんは行きたいけれど用事があって行けそうにない、といつも会場に足を運ばなかった。きっと言葉以上の理由があるのだろうと想像していた。私に気を使っているのだろう、と。

 このころ私たちは性別すら互いに明かしていなかった。私はなんとなくダミさんを女性だと思っていて、ダミさんは私のことを女性のフリをしている男性だと思っていたそうだ。これはあとでじっさいに顔を合わせたときに聞いた。

 私が大学三年生になるころ、ようやく直接に会う機会に恵まれた。

 即売会の手伝いが欲しくて、私がダミさんを誘ったのだ。このころにはさすがに、互いの性別は明らかにしていた。ダミさんが男性と聞いてすくなくないショックを受けたが、ダミさんはダミさんで、私が女性という話をおいそれと信じてくれなくて、そこはお互いさまだと思うことにした。

 待ち合わせ場所でのことだ。ベタな話だが、互いにそばに相手がいるのに、三十分も相手を待ちつづけていた。じぶんのいまいる場所の写真を送りあって、ようやく気づいたほどだ。先入観とはおそろしい。

 性別は明らかにしていたが、年齢は別だった。よもやダミさんが私より十歳も上の、筋肉モリモリの堀の深いいぶし銀だとは夢にも思わなかった。もっとナヨナヨしていて線の細い、風が吹いたら飛んでいってしまいそうなひとかと思っていた。

「びっくりしました、なんというか、その、だいじょうぶですか、怖かったら言ってください、着ぐるみでも被りますので」

 ダミさんは本当にリュックサックのなかに、クマ耳の被り物を忍ばせていた。

「姪が怖がったときにこれをしたら仲良くなれたので。本当はそのときは猫耳だったのですけれど、そっちはあざとすぎかなと思いまして」

 ダミさんはひどく繊細で、見た目からは想像できないほど、乙女な一面があった。がさつさで言えばたぶんと言わず、おおいに私のほうががさつだった。

 ネット上とはいえ、さすがに何年も言葉を交わしてきただけあって、一時間もすると見た目とダミさんへのイメージのギャップはすぐに薄れた。仮想現実みたいなものだ。アバターみたいなものなのだ。

 現実のほうが歪んでいて、ダミさんの中身は、私のイメージ通りだった。

 ダミさんは私の私生活についていっさい話題を振らなかった。つねに小説の話をした。本当にただ舞台がネットから現実に移行しただけだった。

 私は信じられなかった。

 こんなに気を揉まずに話のできる相手と出会えるなんて。

 まるで友人ができたような感動を覚えた。

「嫌なことがあったらすぐに言ってくださいね。こんな見た目だし、たぶん、けっこう知らず知らずのうちに威圧的になってしまっていることもあると思うので」

「店員さんにぺこぺこするひとが威圧的? ダミさんはちょっと自己認識が歪んでると思う。ダミさんはじぶんで思うよりもずっとウサギだよ」

「ウサギですか?」

「ライオンに食べられちゃわないか心配」

「ぼくのなかでも、サカナさんはぜんぜんサカナじゃないです」

「何に見える?」

「なんでしょうね。雲みたいな。何にでも姿を変えられる、青空に浮かぶ雲です」

「生き物ですらない」

「ダメでしたかね」

「ダメダメだね」

「では、小鳥さんで」

「ついでのようにかわいいのにするな」

 ダミさんといると私はよく口がわるくなった。わがままになった。それでいて夜、布団にくるまってもくよくよせずにいられた。ダミさんは私が何を言っても傷ついた顔一つ浮かべず、楽しそうにしていた。

 大学を卒業するころに私は、大手出版社の新人賞を受賞して、晴れてプロの小説家になった。とは言ってもそれ一本で食べていけるほど甘い世界ではなく、ふつうに地元の中小企業に就職して昼間は、セキュリティを見直しませんか、と色々な職場に顔をだしては、営業に勤しんでいる。

 ダミさんは布団を売って生計を立てていると言った。営業のつらさを分かち合えるので、いつしか小説以外の話もするようになった。私はダミさんの過去が知りたかったが、ダミさんはじぶんの考えを口にすることはあってもじぶんの来歴を話すことはなかった。

 ダミさんは結婚しないのか、とそんな話をしたのはつい先月のことだ。私たちは月にいちどは会う仲になっていた。私にとってこれは奇跡にちかかった。家族ですらいまでは半年にいちど会えばよいほうだ。ほかに友人と呼べる相手はいなかった。恋人なんてもってのほかだ。私は生まれてからこの方いちども誰かと付き合ったことがなかった。ほしいと思わなかった。どんなものだろうとの興味はあったが、それらはのきなみ虚構が満たしてくれた。物足りなければ、じぶんで創作し、疑似体験できた。

「結婚かぁ。するしないよりさきに、結婚を意識するような出会いがまずないので、なんとも言えないですね」

 私の頬はそのときたしかに引きつった。出会いならあるじゃん、いまここに、とテーブルに拳を叩きつけられればよかったが、ダミさんがないと言ったのならばやはりそこに出会いはないのだった。

「そうそう、出会いと言えば、恋人が欲しいっていう人がいるじゃないですか。幼稚な疑問でじぶんでも情けないのですけれど、恋人が欲しいと思う前に、好きなひとができるのがさきで、だから恋人になってほしい、と望む、順番としてはこうではないのかな、と思うのですけれど、サカナさんはどう思いますか」

「みんな評価されないことが怖いんじゃないかな。恋愛をしていないと何かが欠けた人、劣っている人、そう見做されてしまう流れはあるからね。うん、あると思う」

「恋愛ができないひと、と低く評価されてしまうってことですか? でも誰が評価するんでしょうね。されたことがないのでよく分かりません」

「いや、ダミさんはされてても気づかないでしょ。気にしないというか。バカにされてもへらへらしてそう」

「へらへらしてますか?」

「そういうとこやぞダミ」

 格闘家顔負けの屈強な男相手に軽口を叩いていると、なんだかじぶんがつよくなった気がした。そうした優越感をあとになって自覚して自己嫌悪に陥りそうになるが、ダミさんへ向けるそれはもっと根源的な感情で、優越感とは違うと判るので、やはり私は彼といるときにはふだん人と接しているあいだに覚えるじぶんへの自罰的な感情を抱かずに済んだ。ダミさんを通すと、どんな言葉も、感情も、私はじぶんでこころよいものとして受け入れられるのだ。

 ダミさんに、つぎに出版される新刊の話をした。とてもよろこんでくれた。はやく読みたいと言い、でもここでその話題に触れるとネタバレになりそうだから、と言って、連載中の趣味の小説の話をめいいっぱい、時間までした。

 がんばってくださいね、楽しみにしています。

 お身体気をつけて。無理はしないでくださいね。

 ダミさんはいつも最後には、私の身体としあわせを気遣ってくれる。

 私にしてみても、ダミさんにはしあわせになってほしい。

 この想いは相互に向き合っている。

 想いあっている、と言っても過言ではない。

 そして私はたぶんダミさんに、ダミさんが私にそそぐような言葉を、或いは眼差しを、ほかのひとに向けてほしいとは思わないのだ。

 嫌な女だ。

 否。

 嫌な、人間だ。

 でも思ってしまうのだから仕方がない。

 私はいよいよ、じぶんの気持ちを誤魔化しきれなくなった。

 新刊の出版という、多忙のさなか、私はダミさんとの関係について思考の大半を費やしていた。私のこれからについて、とそれを言い換えてもよい。

 ひと月を要して私は、ダミさんとどうなりたいのか、を突き詰めた。

 そしてきょう、私はダミさんに告白をし、ものの見事に振られたのであった。

 ダミさんが好きなのは私の表現物であって、私ではない。

 いや、そうではない。ダミさんは間違いなく私を好きでいてくれている。たいせつにしてくれている。

 だいじに想っている。

 しかしそれは私が期待するようなレンアイカンジョウではなく、もっと高尚で、厳かな、愛、なるものかもしれなかった。

 私は歯噛みする。

 枯れたはずの涙がまたボタボタと頬を伝う。ダミさんの消えた雑踏を見遣り、私自身も雑踏に揉まれた。通行人が大袈裟に迂回し、私の周囲だけ空間ができる。

「でも私は」

 それでもダミさん、あなたからはもっと原始的で、邪な、どろどろとした、悪にもちかい、感情を向けてほしかった。

 そそいでほしかった。

 抱いてほしかった。

 あなたにはもっと違う感情を。

 私と同じ景色を、見てほしかった。

 ダミさんが私に求めているものはしかし、私と同じ景色ではなく、私の存在するこの世界ではなく、虚構であり、仮初であり、小説なるこの世のどこにもない世界なのだ。

 ダミさんといっしょにすごす時間は、きっといまでも、これからも、私にとって掛け替えのない時間だ。

 そしてそれは、私が小説をつくりつづけていなければすぐにでも、手の甲に落ちた雪の結晶くらい儚く消えてしまう縁でもある。

 私はダミさんを繋ぎとめるためにこれからも小説を書きつづけるのだろうか。きっと彼はそんな私の物語からは距離を置き、離れていってしまう気がする。

 私はダミさんを創作の出汁に使うべきではなく、そして私自身、そうするじぶんに耐えられないだろう。

「でも、うれしいんだよなぁ」

 ダミさんが私の小説の読者でいてくれる現実があるだけで私は、小説を、虚構を、この世のどこにもない世界を編みだしつづけていられる。

 プロの小説家になってはみたものの、ダミさんほどにステキな読者と出会える気がしない。そしてそれはきっと、ダミさんがステキな読者だからではなく、私が単純にダミさんをステキだと思っているだけのことなのかもしれなかった。

 私のダミさんへの想いと、ダミさんが私へと向ける想いは、似ているようで、まったくの正反対だ。

 本当に欲しいものほど手に入らないとは言うけれど、私はもうすでに手に入れてしまっている。

 ただ、欲張ってしまっただけなのだ。

 矢印の方向まで同じにならないのかな、と。

 すでに抱きあっていながらにして、同じ方向を向けないのかな、と。

 私だけが相手を見ずに、背中から抱擁されるようなわがままを唱えているだけなのだ。

 レンアイとはすなわち、そういうことなのだろう。背中から都合よく抱きしめられていられるほんのわずかなわがままの適う時間だ。

 私はダミさんにそのほんのわずかなわがままを望み、すでに手に入れている至福を手放そうとしてしまっている。

 ダミさんは賢いなぁ。

 私は思うけれど、どうしても、手に入ることのないほんのわずかなわがままの、甘い、甘い、キラキラの宝石を諦めきれないでいる。

 帰ろ。

 踵を返して、道を辿る。

 そんで、家の机に齧りついて、また小説を書くんだ。

 虚構を、物語を、この世のどこにもない世界をつくるのだ。

 この気持ちを物語にすれば、ダミさんにも同じ景色を見せてやれるのに。

 そんな器用な真似ができるのならいまごろもっと上手く生きていけただろう。思いを言葉に載せられただろう。虚構になんか潜らずに、頼らずに、すがらずにいられただろう。

 せいいっぱいの復讐のつもりで私は、ダミさんに、私とは無縁の、私の世界からかけ離れた物語を言の葉に詰めこみ、刻むのだ。




【天狗の髪は黄金色】


 里の者からは天狗と呼ばれている。おそらく異国の血を引いているのだろう。寺の和尚に育てられたが、齢十を過ぎたあたりで山のなかに小屋を与えられ、そこで暮らすように言い渡された。和尚は小屋へと足繁く顔をだし、面倒を看てくれたが、本家からやってきた者が新しく住職となると、いつしか慈郎を訪ねる者はいなくなった。

 慈郎を和尚はジェロと呼んだ。そちらがおまえの真の名だ、といつか言われたが、なぜそのようなまどろっこしい真似をするのかは分からずじまいで、和尚が住職でなくなったあと、どこに消えたのかも不明だった。よもや死にはしていないだろうと慈郎は考えていたが、やがてひょっとしたらそれもあり得るのかもしれないと諦観の念を胸に秘めるに至る。

 恩を返すつもりでいた。

 その機会が永劫訪れぬやもしれない未来は、山の暗く細々とした道に重なって見えた。

 じぶんは里の者を怖がらせる。子どもだてらに身体はおとなほどに大きく、年々さらに輪郭の幅を増す。髪の色は黄金色をしており、満月がごとくだ。村人たちのなかに同じ髪色をした者はない。

 じぶんは異物だ。

 誰にも頼らず生きるしかなかった。しぜんと自給自足が身についた。

 生き物を殺すのはよくないが、生きるためには仕方がない。だが、食べる以外では、ゆめゆめ命を奪うな、命あるものすべてを尊ぶように暮らすのだ。

 和尚からは口を酸っぱくしてそう言い聞かされた。慈郎はそれをゆいいつの教えとして、律儀に守った。

 山には幸が多くある。一人で生きていくには充分だ。なぜ里の者たちはああして一か所に集まって不便を分け合っているのかとふしぎに思いはしたが、山の上からこっそり眺めているにかぎり、みな笑い声が絶えない。

 ためしに笑ってみるが、胸に込みあげる希薄さがあり、冬空のようなその空虚さを感じたいがために、慈郎はときおりひとりで笑い声を立てた。

 里の者は山に住まう慈郎のことを知っているようだった。ときおり山で遭遇すると、みな怯えながらも、低頭し、距離を置きながらも、慈郎に危害を加えるような真似はしなかった。

 子どもたちが慈郎を見て、天狗、天狗、と騒ぎ立てたのを見てからは、なるほどじぶんは天狗なのか、と鼻が高く感じられた。それはじっさいにじぶんの顔の鼻が伸びたようにも、また慣用句の意味で誇らしげにも思えた。里の者たちは慈郎に畏怖の念を向けている。忌避されているようだが、そこには何かしら、慈郎が山の獣たちにそそぐのと似たような厳かな念を覚えずにはいられなかった。

 年に一度、里では祭りが開かれる。花火があがるのでそうと判った。爆音が鳴る。火薬の臭いが村のほうから立ち昇る。慈郎には関係のない行事ではあったが、正月と秋にも、なぜか里の者たちは慈郎の小屋のあるそばに饅頭やら酒やらを届けた。慈郎は酒を好まぬので、それはいつもその場に残したままにしていたが、饅頭や餅はありがたく頂戴した。

 ひょっとしたら慈郎への供え物ではないかもしれない。しかしどの道、山のなかに放置しておけば獣が食い散らかすだけだ。和尚がいなくなってから最初の年にはじまったそれは慣習であったが、現に、一度目のときには手をつけずにいたら供物は獣の餌となった。もったいないと思い、つぎの機会からは手をだすようにしたが、里の者たちからお咎めを受けることも、また非難の目に晒されることもなかった。

 慈郎には、里がそれで一つの生き物のように見えることがあった。

 騒ぎが起これば、村人たちの声や動きに変化が生じる。それはまるで山を眺めるときのような緩慢な、しかしたしかに生じる起伏だった。

 山は山でひとつの生き物に思える。

 村を眺めているときとは異なり、慈郎はじぶんが巨大な生き物の体内にいるようなふしぎな心地を味わう。川の流れのゆるやかな深みに浮かんでいるときのような穏やかさが湧くいっぽうで、ふとこのまま川底に沈んでしまうのではないかとの仄暗さに、いっとき身体の奥底をなぞられる。

 山のなかでじぶんの呼吸を意識する際にも、慈郎は穏やかな不安を覚えた。矛盾したその感覚はどこか、山と一体化しているようで、明確に異物として見做されているような、一線を越えればすぐさま弾かれ、暗がりの底に落ちてそれっきりになる恐怖の予感を孕んでいた。

 慈郎は月に二回ほど狩りをする。獣を狩り、肉を獲るためだ。それ以外は、キノコや山菜をとって飢えを凌いだ。

 獣は主に、野鳥や狐狸だが、ときに鹿やイノシシを獲ることもある。大型の獲物を手に入れればふた月は食うのに困らないが、いつありつけるのかもわからない。狩りの頻度は保ち、手持ちがあるならば野鳥ばかりを狙った。

 肉を保存する術は和尚から習った。内臓や骨の利用法もよくよく教え込まれ、罠を作るのに利用した。

 しだいに自己流に磨きがかかったが、和尚の手法よりも手に馴染んだ。ときおり腹を下したりもしたが、匂いや色で、どうなったら食えず、どうであれば大丈夫かの見分けがつくようになった。

 すこしの変化であっても見逃すと痛い目に遭う。慈郎は目を凝らし、或いは目にははっきりと映らない変遷の流れを脳裡に焼きつけ、記憶にない流れには注意を払い、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と無数の型を分別できるようになった。

 ある日、森が静かな日がつづいた。嵐がくるかと身構えたが、その割には鳥たちはよくさえずる。リスやネズミもまた活発に動き回り、反対にそれらを狩る側の狐狸やイノシシの姿がなかった。

 シカの群れも見掛けない。ウサギの糞も量がすくなく、あまり巣から遠く離れてまで餌をとりにはでていないのだと判る。

 何かを警戒している。

 それは窺知できたが、獣たちはでは何に神経を研ぎ澄ませているのかは分からずじまいだった。

 最初の被害がでたのは、カエルの鳴き声がけたたましくなった夏の暮れのことだ。

 村で八名の人間が亡くなった。場所は村からほど近い渓谷だ。川魚や山菜を採りにでたのだろう。腹を食い破られていたそうだ。

 村は騒々しくなった。夜になっても村から火が絶えなかった。

 険のある声がときおりあがり、村の周囲には臭いものが撒かれた。獣除けだ。

 慈郎には、山で何があったのかを推し量ることができた。

 熊だ。

 それもただの熊ではない。一晩で八名もの人間を喰らうほどの死の化身だ。

 しかし、と慈郎は首を捻る。

 熊といえども、急にぽんと生まれるわけではない。ある日突然人食い熊になるのではなく、段階を経て、子熊から成獣となり、そのさきへと逸脱していく。

 慈郎の知るかぎり、そのような大きな熊はこの山にはいないはずだった。

 見逃していたのだろうか。

 ほかの山から渡ってきた可能性はある。その公算が高そうだが、元から熊の行動範囲は広い。偶然、成獣になるまでこの山を訪れなかったとは考えにくい。熊の習性からすれば、縄張りはおおむね決まっており、順繰りと巡る。

 この年はそれほど山の幸が乏しいわけではない。年によっては干ばつのように食べるものに困り、冬だというのに空腹からそこらをうろつきまわる熊もでる。

 だが今年はそうではなかった。冬までは時間があり、そして例年よりもむしろ山の幸は豊かだった。

 ゆえに慈郎は違和感を覚えた。それはまるで岩からキノコが生えているようなちぐはぐさであった。あり得なくはないが、なんとなしにいびつに思える。

 引っ掛かりを覚えているあいだにも、村人たちは人食い熊への警戒を強めていった。

 村は村で山からの幸を得て生活している。この季節に山に入り、冬のあいだの備蓄を収穫しておくのは慣習であった。

 ゆえに、人食い熊がでようとも山への立ち入りを禁止しようと提案する者はいない。山の幸なくして越冬はできない。村人の半数すら生き残れないだろう。冬山の厳しさは人食い熊を凌ぐ。

 かといって熊は熊でおそろしい。人の味を覚えたのならばますます警戒は怠れない。

 村人たちは村の周囲に罠をかけはじめた。

 慈郎はそれを眺め、無駄なことを、と思う。八人もの人間を喰らったほどの知能が死の化身にはある。生き残りはいなかったそうだ。ならば逃げおおせた者がいないことになる。いちどきに八名を食らうのはいくら巨体の持ち主であれ至難だ。とすれば、順々に追い詰め仕留めたと考えるのが妥当だ。

 それほどの知能があるのならば獣用の罠では太刀打ちできないだろう。容易に掻い潜るに違いない。

 慈郎の見立てどおり、ある晩、村の家畜が半数ほど食い殺された。わざわざ一匹一匹の喉を噛み砕き、もっとも美味な内臓だけをすすって回ったようなむごたらしい現場だったようだ。村人の騒々しい様子、そして山のなかまで漂ってくる臓物の臭いから慈郎は、死の化身の獣ならざる性質を読み取った。

 見せしめだ。

 狩りをしている。

 村が狙われているのは瞭然だった。しかし村人たちはそこまで頭が回っていないようだ。ほかに餌を用意すれば、或いは村に寄せつけなければなんとかなると考えている。

 無駄だ。

 慈郎は思う。

 あれは村を明確に狙っている。執着していると言ってもよい。殺らねば殺られる。このままでは目も当てられぬ惨状が口を開けて待ち構えている。仕掛けなければならぬ。

 だがそのことを慈郎は村人たちに上手く説明できる気がしなかった。ともすれば村人たちのなかには、慈郎の犯行ではないか、と疑っている者たちがいた。それは細々とながらも、日増しに村のなかに広がっていく影のように慈郎には視えた。

 村には死の予感が満ちている。冬の到来を思わせる、ゆるやかながらもくっきりとした崩壊の連鎖が、流れが、浮かんでいる。

 慈郎は村を眺め、山を眺めた。

 おそらく村が滅んでもじぶんは変わらず生きていけるだろう。山の獣たちは姿を晦ましてはいるが、数を減らしているわけではない。よしんば死の化身に食われたとしても、また春になれば増える。これは山の摂理だ。冬は人食い熊以上の死を山にもたらす。

 村人たちはそれら冬の死を乗り越える術を有していたが、黒い毛皮をまとった死の化身への対抗策は持ち合わせていないようだった。

 山狩りが行われたのは秋も更けはじめたころ、山の木々が色鮮やかに葉を染めはじめた時分のことだった。

 村ではまた死人がでたようだ。夜中に家のなかに忍び込み、大人四人をその場で殺し、赤子を咥えて去ったという。黒く大きな影を目撃した者が多数おり、赤子の泣き叫ぶ声が暗がりの奥から聞こえ、間もなく消えたと証言した。

 おぞましい。

 村人たちは身内の死を悼んだが、慈郎はいよいよ死の化身の知能が、村人よりも高いと位置づけた。

 死の化身は、村人に跡を追わせようとしたのだ。ゆえに、赤子を連れ去った。だが追手がないことを知り、食らった。そこには道理がある。理がある。考えての行動だ。

 やはり狩りを楽しんでいる。

 食らうためだけではない。遊んでいるのだ。

 慈郎は臍を固めた。仕留めねばならぬ。

 なぜかような衝動に駆られたのかは分からない。縄を編み、罠を整え、獣の骨でつくった無数の刃物や弓矢の手入れをしながら、なにゆえじぶんが挑まねばならぬのか、と溜息交じりに首をひねる。

 恩がある。

 果たしてそうだろうか。

 情けがある。

 果たしてそうだろうか。

 祭りが開かれるごとに村人から供え物を与えてもらったからだろうか。或いは、ただ見ていられなかっただけなのか。

 弱肉強食は自然の摂理だ。食わねば死ぬ。その循環のなかに人間とはいえど組み込まれている。慈郎自身、いつかは獣に食われるだろうと覚悟している。

 なれば村人たちとて同じはずだ。ほかの命を食らいつづけていた者が、食らわれる側に回るだけの話だ。

 だが、いまここで見ているだけでいるのは何かが違う気がした。

 ややもすれば死の化身からは、単なる食欲以外の邪念が窺えるからかもしれない。生きるための狩りではなく、楽しむための狩りをしている。そのように見受けられるからか。分からない。

 慈郎はじぶんの胸に湧く違和感の正体を最後まで見抜けなかった。身体はそれでも、山々の稜線がごとく揺るぎなさで、一本の線を引くように、道を辿るように、手足を動かしつづける。

 山の中腹にて初雪を観測した。

 積もってからでは遅い。

 慈郎は狩りを開始する。

 村には近づけさせたくない。だが死の化身はおそらく村を襲撃するために様子を見ている。同じ場所には留まらない。足跡のある場所にはいないだろう。岩場や堅い地盤のうえを選んで歩く。真実に身を寄せる場所ほど痕跡がない。

 熊は通常、縄張りを示すために木の幹に爪跡を刻む。爪を研ぐ意味合いもある。皮を剥いでやわらかい部位を食べることもある。しかし、死の化身はわざと存在を主張するためにそうした痕跡を残す。

 それくらいのことはする。

 どうすれば人間たちを欺けるか。出し抜けるか。

 同種の熊を観察し、それと同じことを敢えてする。

 相手の出方を見るために、手掛かりを与えてやる。

 じぶんならどうするか。慈郎は想像しながら、動く。

 影を目で探す。

 空気の流れ、風の変化を読む。

 通常の熊ならばいない場所に目を凝らす。斜面の急な岩場、人工の道、栗林、罠の仕掛けてある場所、拓けた竹林、熊除けの鈴の張り巡らされた区画、探そうと思えばいくらでも目がいく。

 反面、死角への警戒も怠らない。

 慈郎は未だ遭遇していないが、すでにこちらの存在を気取られていると見て間違いない。姿を垣間見てすらいないことが何よりの証だ。あれだけ村を襲い、罠を回避しておいて、肝心要の人食い熊の姿を慈郎はまだ目にしていない。相手が避けていなければできない芸当だ。臭いから所在地が割れていると想定していたほうが身のためだ。

 相手のほうが上手だ。

 誘うか。

 敢えて隙をつくり、襲わせる手もある。

 が、対峙すれば無傷ではいられない。

 罠にかけるか。

 そこまで甘い相手ではないだろう。どこまで手練手管が通用するか予想がつかない。

 銃があればよかった。

 思うが、あれはあれで火薬の臭いが致命的だ。居場所を知らせるようなものだろう。かといって竹やりでは心もとない。慈郎の見立てでは、刃物は通らない。硬い毛に阻まれる。肉までは届かない。皮に傷すらつけられないだろうと思われた。

 イノシシの牙の槍、鹿の角の刀、いずれも致命傷をつけるには至らない。

 毒を仕込むにしても、即効性がなければ、どの道我が身が危ぶまれる。距離のある場所からでの矢ではやはり傷をつけるには及ばないだろう。

 木のうえから飛び降りた勢いで首筋に一太刀を突ければ或いは、絶命せしめるかもしれないが、木の上の忍びに気づかぬほど相手は鈍くはない。

 これはほとんど、慈郎が慈郎自身を狩るにはどうすればよいか、の計算であった。じぶんを仕留めるにはおそらくこれまで山で繰り広げてきた狩りでは足りない。総じての工夫は見破られる。

 じぶんの虚をつく。

 そのためには、じぶんではまずしないだろう術を見繕わねばならない。が、なかなか容易には閃かない。

 それはそうだ。生半可な術であればそもそも試そうともしない。思いついても、それは端から穴があるから実践に用いなかっただけのことである。落とし穴を掘って待ち伏せすればいい、との案と五十歩百歩に成り兼ねない。言を俟つまでもなく、穴を掘れば痕跡が残る。掘り返した土がそばに山盛りになるし、そうでなくとも土の臭いが辺りに漂う。

 臭いに関して慈郎は日ごろから山に馴染むように工夫している。狩りのときは川で水浴びをしたうえで土を被り、その後三日ほど放置する。全身が痒くなるが、それをしないと臭いでバレる。端から獲物を絞っていれば、その獲物の糞を身体にまぶしておくこともある。

 獣はじぶんの臭いにはなぜか警戒を示さない。

 果たしてそれは今回の相手にも通用するだろうか。しかし目にできた糞は少量だ。死の化身は糞ですら川のなかにするなど、執拗なまでに隙をつくらない。見たわけではないが、そうと考えなければ腑に落ちないほどに、通常あるはずの痕跡を消している。

 まるで人間を相手にしているようだ。

 そこではっとする。

 人間なのだろうか。

 否、だとすればそれ相応の痕跡が残る。人間とて食わねば生きていけない。山のなかに潜伏しているのならばなおさらだ。人間を襲い、その肉を食らっているのなら話は別だが、そこまでの奇異な真似をしておいて、これほどまでに知能の高さを感じさせるとは思えない。

 否、思いたくないだけなのだろうか。

 まるでじぶんが村人を襲い、その肉を食らうことがあるかもしれない可能性から目を逸らしたいだけなのかもしれない。

 だとしても、じぶんがそれをしようとしたところで、ああも一時に大量の人間を殺めるのは至難に思えた。

 標的は明らかに、巨体をまとっている。

 死の化身は熊だ。大きな大きな熊なのだ。そこは揺るぎない。そこを疑ってしまえば、打つ手すら見失う。

 人間の狩人ほどの知恵をつけた人食い熊だ。

 いくらなんでも初めて目にした罠には気づかぬだろう。見たことのない罠であれば、罠だと見抜けないはずだ。自然に溶けこみ、察知すらされない罠であれば、まず引っかかる。

 そのためにはその罠と、仕掛ける場所が要となる。

 相手は村人を狙っている。

 また遠からず村を襲撃する。

 そこまでは予期できる。

 村の四方は森に、山に、繋がっている。そのすべてに罠は仕掛けられない。否、すでに村の者たちが仕掛けた罠がたくさんある。それらは難なく突破するだろう。なれば敢えてそこに重ねて仕掛けておくのもよいかもしれない。

 罠を避けると見越しておけば、通る道をいくつかに絞ることもできる。

 落とし穴を見破られるというのならば、落とし穴の周囲に本命の罠を仕掛けておけばよい。

 もっとも、ほかの場所から現れることも充分にあり得る。

 なればそちらのほうには、絶対に寄りつかないような防壁を築いておくのがよさそうだ。

 火薬でもばら撒くのはどうか。

 鉄屑でもよい。

 割れた陶器を、敷き詰めてもよいだろう。撒菱代わりになる。本来、狩人は獣に気取られない罠をつくる。敢えて気取られるようにするのは初めてのことだ。上手くいくかわからない。

 村人の協力もいる。じぶんひとりでは用意できないものが多すぎる。

 申しでて、耳を傾けてくれるだろうか。

 じぶんの話す言葉は通じるだろうか。

 捕まり、縄をかけられ、傷つけられはしまいか、と不安だ。

 怖い。

 獣を相手にするよりずっと怖かった。

 だがそれ以上に、村人がまた一人、また一人と死の化身の餌食となって村全体がどんよりと枯れていく様を目にするほうがずっと堪えがたい。なぜそのように感じるのかと自問するがついぞ答えは像を結ばない。

 ただ嫌だと思った。

 もしイノシシの集団に襲われ村が壊滅したならば、それはそれで致し方なしと呑み込めた。雪崩が起きて村が押し流されても運がわるかった、で済ませられる。

 だがなぜかは分からないが、今回のこれは、死の化身の襲来は、看過できないよどみを感じずにはいられなかった。

 慈郎は山を降り、村に立った。入口を通る際に、敢えて鈴を鳴らせた。それは村を囲うように仕掛けられた感知器であった。

 慈郎が村の真ん中まで歩を進めるあいだに、村の男衆が鍬を、鎌を、斧を手に群らがってきた。

「天狗さまや、何用か」

 長老だろう、白い顎鬚を蓄えた男が言った。

 慈郎は身振り手振りを交えて、じぶんが罠を仕掛けること、この村の危機を追い払いたいこと、なんとかなるかもしれないことを伝えようとした。

 村人たちの反応は一様に芳しいものではなかった。首を捻り、隣の者と言葉を交わしてざわめくばかりだ。

 長老だけがじっと慈郎が口を閉じるまで辛抱強く黙っていた。

 やがて慈郎は閉口した。同じ説明を、言葉を変え、身振りを変え、切り口を変えてした。伝わったかは微妙なところだ。徒労だった。

 出過ぎた真似をした。

 後悔の念がじんわりと胸を焼きはじめたころ、おもむろに長老が口を開いた。

「天狗さまは先代の住職に世話になっておりましたな。その後、音沙汰はありましたか」

 和尚のことだろうか。

 慈郎はしばし考え、首をよこに振った。

「さようですか。最初に食われた村の者のなかには現住職も含まれておりましたが、それはご存知でしたかな」

 和尚の後釜が食われたのか。慈郎は驚いた。その反応で長老は納得したようだった。さようですか、とつぶやいた。

 長老は慈郎のよこに並ぶと、村人を見渡した。「みなのもの聞きなさい。天狗さまのことは存じておろう、我らを助けてくださるために山から降りてきてくださった。村の犠牲にたいそう胸を痛めておられる。我らが手と手を取りあい団結すれば、鬼を退治することもできるとおっしゃっておいでだ。ありがたくお力をお借りしよう」

 村人たちは各々、構えていた武具を下ろした。

 この日から慈郎は村で過ごした。ほとんどを長老のそばで過ごし、慈郎の声は、長老の言葉によって波紋のごとく村の隅々まで行きわたった。

 死の化身は、村では鬼と呼ばれていた。熊にしては大きすぎるがゆえに、鬼と見做しているようだった。

 もし真実、相手が鬼であれば慈郎にできることはない。村人と共に鬼の腹におさまることになる。だがじぶんを天狗と呼ぶ村人の言うことだ、アテにはならない。長老は慈郎の考えによくよく理解を示した。慈郎を天狗さまと呼ぶが、ほかの村人たちほどには、そこに畏敬の念は滲んでいなかった。

「天狗さまのお世話をした和尚とは古い馴染みでしてな。恩がありますゆえ、天狗さまにもときおり供物をささげておりました」

 祭りや豊穣の時期に山に置かれたあれはやはりじぶんへの贈り物だったのか。慈郎は村人たちの見よう見真似で頭を下げる。長老は、目を細め、これも縁です、と言った。

 或いは定めか。

 続いた言葉に慈郎は首を傾げるが、長老はただ夜空に浮かぶ月を見詰めるばかりであった。

 仕掛けの準備は整った。

 死の化身を誘導すべく、これみよがしな罠を三方に張り巡らせた。半ば追い払うための仕掛けの数々だが、敢えてそこを来ても構わない造りにした。これは村人の案だ。どの道、裏を掻かれる懸念はある。もし狙い通りの道をこずとも、ほかの場所を通れば確実に息の根を止められる罠を、大規模に備えた。

 村の側面と裏手には土嚢を積み、即席の高い堀を設けた。乗り越えなければ村には入れない。溝は深く、底には上向きに生やした竹槍がずらりと並ぶ。剣先にはトリカブトの毒を塗った。水で薄めて増したものだが、体内に入れば身体の動きを封じるくらいにはなる。それ以前に、溝に落ちれば串刺しは免れない。即死でなくとも致命傷を負う。

 他方、手薄の場所には銃殺隊を置く。昼夜問わず銃を構え、標的が現れたら銃撃する。拳銃の数は限られるが、一か所に向かって集中して撃てば致命傷を与えられるだろう。足元には陶器の破片や板に打ちつけた釘を敷いている。いかな獣の足とて、無傷とはいかない。注意深く進んでも物音は立つ。接近を知らせる警戒網としては充分だ。まともに知能を働かせるモノならば迂回する。そうでなければ銃の餌食だ。

 最後に、村正面の竹林には、トラバサミをはじめとする獣用の罠をこれでもかと仕掛けた。おそらく死の化身には見慣れた罠だろう。避けて通ることが可能な罠ばかりだ。

 しかし量が量だ。

 通常であれば、やはり避けて通る。

 罠を罠と見抜いておきながらわざわざ通るとは思えない。

 ゆえに、やつなら通るだろうと慈郎は考えた。

 もし通らぬのなら、村には近寄れない。ほかの道は封じてある。無理を通せば、そのさきにあるのは自滅への道だ。知能が高ければ高いほど、茨の道を行くしかない。

 茨とはいえど道は道だ。

 ほかの三面は道ですらない。それを見抜けない相手ではない。そのはずだ。

「本当に来ますかね」村人が言う「無理と判じて諦めるやも」

 消耗戦ならこちらに分がある。

 村人が減ったのは痛いが、その分、食料に余裕がでた。片や相手は、その巨躯を維持するために食わねばならぬ。山のほかの獲物は、血の臭いを嗅ぎつけ、とっくにほかの地域に逃げただろう。それを追うならば村からは遠ざかる。

 村に執着するならば、時間を置かずに襲うはずだ。そうでなければ不利になる。いかに知能が高かろうと、生命の危機に瀕してまで策を練ることはない。

 飢えの限界を超える前にくる。慈郎の見立てだ。

 おおよそ半月。

 もしそれ以上音沙汰がないようであれば、すくなくとも今季の冬は安泰だ。

 熊である以上、冬眠はする。

 餌を求めてうろつくにしろ、村の警戒網を突破するほどの余裕はないはずだ。

 銃殺隊には負担がかかるが、交替で眠れば村人のほうの体力は保つ。

 半月を凌げばいい。期限が初めから判っていれば心理的にも衰えは見せない。いつ終わるか分からぬ道にこそひとは弱り、心が折れる。獣にしても同じだろう。いつまでつづくか分からぬ睨みあいに付き合うほどの執着がこの村にあるとは思えない。

 無理ならば諦める。

 その見極めがつくのが、半月だ。

 慈郎は待った。

 諦めるとは思えない。

 やつはくる。

 こちらの油断を誘うために、ギリギリまで様子を見る。

 村のみなには半月と言ったが、そのあとでも警戒は怠れない。

 真実、死の化身の体力がどの程度なのかは闇のなかだ。

 手さぐりの策であることに変わりはない。予断は禁物だ。

 襲撃はある。

 その前提で備えておくしか身を守る術はないのだと慈郎には判っていた。

 しかしそれを村人に言っても無駄に不安を募らせるだけだ。終わりはある。耐えれば済む。忍耐の時期は限られている。そうと判るからこそ挑める艱難がある。隘路がある。

 半月後の冬半ば、村は銀灰色に染まった。

 気のゆるみが村に漂いはじめた矢先のことだった。

 地響きが村を襲った。

 雪崩だ。

 小規模ながらに、木々の合間を雪の層が滑り落ちてくる。

 正午をすこし回った時分だ。

 慈郎はそのとき寝ていた。

 地響きの音で目覚め、村が騒々しくなる前にそとに飛びだした。

 しまった。

 側溝の穴が雪で塞がれた。竹槍を覆い尽くしている。雪崩の被害はそれにて相殺されたが、いまそちら方面から死の化身が乗りこんでくれば容易く村に侵入されるだろう。

 慈郎が思うのと同じように村人の誰もがそれを危惧した。

 我先にと、来たる襲撃に備え、雪崩のあった場所に人が集まる。

 銃口を構える者が周りに溢れ、慈郎ははったとした。悪心が身体を這う。臓物を獣に舐められたような寒気だ。

 女たちの悲鳴があがる。面のほうからだ。

 悪い予感は当たっていた。

 白く息を帯びにして走り、村の正面に回ると、いままさに黒く隆々とした塊が村の入口を突破していたるところだった。

 黒くデカい。

 なにより速い。

 足場に敷き詰めた罠を物ともせず、避けることすらせずに一心不乱に駆け抜けてくる。

 決死の突入だ。

 飢えが痛みへの拒絶を凌駕したのだろう、死なぬ罠など意に介さぬとでもいわんばかりに、死の化身はその姿を晒し、手薄となった正面入り口を堂々と掻い潜った。

 本来であれば、罠を避けながら正面に現れた死の化身を、慈郎たちは大砲で迎え撃つ手筈であった。

 祭りで使う花火を集め、手製の大砲を造っておいた。火薬は申し分ない。あとは玉となる鉄と、大筒さえあればよかった。鉄はないが、鍋がある。鍋のなかに鉄屑や礫、動物の骨などを詰めこみ、散弾にした。大筒は、皮をはがした太鼓の鼓を利用した。

 標的がどこからくるのかさえ判っていれば、あとは火を点けるだけでよかった。

 玉が散弾なだけあり、攻撃は一面に及ぶ。対象との距離が近ければ近いほどに殺傷能力は高まる。

 待ち伏せにはまたとない武器となるはずであった。

 だが、突破されてしまっては意味がない。村へ向かって放つことはできないからだ。

 間に合うか。

 死の化身は、未だ射程範囲内にいる。これ以上村への侵入を許せば後がない。

 火はあるか。

 いつでも点けられるようにと火を絶やさずにいた。昼間ゆえ、ほかに松明の火はない。砲台のそばに一つだけ炎が揺れている。

 みな雪崩の起きた村の裏手に回っている。居合わせた僅かな村人も、死の化身の姿を目の当たりにしてすっかり身を竦めた様子だ。物陰に逃げたのだろう、砲台は無人だ。

 死の化身が唸る。低く、大きい鳴き声だ。空気の震えが身体に伝わる。雷鳴じみている。

 脅かし、それによって隠れた獲物を炙りだす策だ。計算ではない。それが獣の本能だ。

 そしてその声によって、ダメだと判っていても動いてしまうのもまた動物の本能と言えよう。物陰にて息を潜めていた村人たちがいっせいに、村の裏手へと駆けだした。

 死の化身が突進する。

 大砲を物ともしない。それがもはや脅威ではないと見抜いている。

 だが好機だ。

 まっすぐと大砲と距離を詰め、そのまま大破せんと突っこんでくる死の化身は格好の的だ。

 慈郎は駆けた。

 さきに辿り着き、火を点ける。

 勝つか負けるか。

 生きるか死ぬか。

 松明の持ち手を握ったとき、視界には大砲に浮かぶ木目と、その奥の森と空の景色を覆い尽くす黒々とした毛に覆われた。

 導火線に火を当てる。

 ぢぢぢ。

 思いのほか導火線が長かった。

 衝撃が身体に加わる。

 死の化身が大砲に体当たりをした。土台は地面にしっかりと固定されている。そうでなければ反動で、弾丸の威力が相殺されてしまうためだが、それでも頑丈に造った大砲は大きく後退した。

 死の化身は怒り狂う。

 進路を妨げる大砲が許せないのだろう。意地でも薙ぎ倒そうとするかのごとく、独り相撲をつづけた。

 火はいまの衝撃で消えている。

 導火線は千切れた。ほんの僅かに大砲の尻にその切れ端を覗かせているのみだ。

 慈郎は松明の持ち手を握りしめる。

 火を点けるよりない。

 しかし、大砲の口はいま、死の化身の身体で塞がっている。

 銃口に石を詰めて撃てばどうなるか、慈郎は知っていた。かつて和尚から学んだことの一つだ。

 逡巡している時間はない。

 千載一遇の好機だ。いまを逃したらあとはもう二度とこのような機会は巡ってこない。

 じぶんの身など案じている場合ではない。このために準備をしてきたのだ。

 このときのために、じぶんはずっと生きてきたのだ。

 そんなはずはないのに、なぜかそう思った。

 身体はしぜんと、端からそうするのだと決まっていたかのように、緩やかに、無駄なく、竹筒を流れる水と化して動いた。

 白濁。

 耳鳴り。

 浮遊感。

 背中に加わる衝撃を知覚し、目のまえに青空が広がるふしぎを持て余しながら、なぜか胸に湧く高揚感を、好ましく思った。

 睡魔が襲う。

 一瞬のうちに慈郎は深い眠りに落ちた。

 目覚めると、天井に影が揺らいでいる。

 横を向くとロウソクの炎が目についた。

「目覚めましたか」

 聞き慣れた声がする。

 長老が枕元に座った。

 同じ座敷にいたようだ。時刻は夜か。障子の奥は暗い。

「私の家です。鬼は倒れました。あなたのお陰です」

 長老は語った。

 策は上手くいった。大砲の一撃を受け、鬼は絶命した。見たこともないほどに巨大な熊だった。おそらくは異国の種であろう、と長老は語る。

「むかし書物で読んだ憶えがあります。眉唾だと意にも介しておりませんでしたが、おそらくはあれがそうなのでしょう」

 なぜそんなものがここに。

 疑問に思ったが、そもそもを言えば、慈郎自身が異国の血を引いている。元来、この地にはそうした縁があるのだろう。天狗が鬼を倒した。道理と言えば道理のような気もしてくる。

 長老は居住まいを正した。

 慈郎は起き上がろうとしたが、身体が痛む。長老は、そのままで、と手で制す。

「天狗さまのお身体とて、さすがにあの衝撃では無傷とはいかなかった模様。とはいえ、数日寝ていればまた元通りに動けるようになるでしょう。医師がそのように申しておりました。そうそう、この村に住居を設けましょう。山のなかで暮らすのもたいへんでしょうから。もっとはやくにお迎えにあがるべきでした。この場を借りてこれまでの失礼をお詫びさせてください。申しわけありませんでした。そして、村を助けてくださって本当にありがとうございます」

 慈郎はその言葉を素直に受け取れなかった。ロウソクの火のように、不安定な響きが滲んでいた。

「和尚さんはどうしてこの村を去ったのですか」

 いつか訊こうと思っていた質問が口を衝いた。死んだわけではない。住職の座を明け渡し、この村を去った。なぜ去らねばならなかったのか。何かわけがあるはずだ。

 長老は深く息を吸った。それきり閉口したが、思案の間だと見做し、慈郎は返事を待った。

「天狗さまはあの方から何をお習いになられましたか」

 ややあってから投げかけられた問いに、慈郎は困惑する。

 和尚から学んだことはすくなくない。言葉をはじめ、狩りの仕方から、村のなかの様子、してはいけないことや、してもよいこと、そのなかにもしないほうがよいことがあるなど、生きるために必要な術のほとんどを和尚から学んだ。それと指示されて習ったこともあれば、おのずと学んだこともある。

 何を、と問われても、だいたいのことは、と応じるよりない。

「生き方を、習いました」

「生き方、ですか。それはさぞかし素晴らしきものなのでしょうな。そのお陰で村は救われました」

 長老の顔には陰が浮かんでいる。ロウソクの火が揺れても微動だにしない、深く刻まれた陰だ。

「天狗さまが和尚と慕うあの方は、わけあってこの村にいられなくなったのです。旅にでると申しておりました。行先は知りません。きっと戻ってくるとおっしゃっていました。いまでも我らは帰りをお待ちしております」 

「また住職さまがいなくなったのでしょ。つぎのひとは決まってるの」

「いまのところはまだです。ですが、本家にはすでに使者をだして報せています。いずれ向こうから新たな住職を送って寄越すでしょう。この村はちいさいですが、北方の土地との境にありますゆえ、何かと重宝されています」

 いったい誰から重宝されているのかは不明だった。難しそうな話のため、そういうものか、と慈郎は聞き流す。

「まだああした異形はいるのでしょうか」死の化身の巨体を思い浮かべる。「ほかの土地から流れてきたとすれば、ほかにもいるのでしょうね。あんな狂暴で賢い獣がいるなんて。なんとか来ないようにしたいものだけど」

「あそこまでのモノはそうそういないでしょう。あれは鬼です。単なる獣ではありません。同じ巨体を持つ種はいるでしょう。ですがすべてがすべてあのような鬼ではないと私は考えております」

「そうなんですか」

「鬼にした者がいるのかもしれません」

「鬼に? 獣を?」

 誰が。

 長老は目じりのシワを深くし、定かではありません、と口にした。以降、彼のほうから死の化身について、そして消えた和尚の話を向けてくることはなかった。

 死の化身の骸は丁重に燃やされ、葬られた。食らうことも、毛皮にして祀ることもなかった。それはそうだろう。村人の多くが犠牲になった。

 弔うのではない。

 葬るしかない。

 二度と同じ悲劇が引き起きないようにとの祈りを捧げながら、灰にしてしまうほかにないのだろう。

 受けた傷は目に見えないだけで村に、深く、抉れ、刻まれている。

 慈郎は長老からの厚意をありがたく頂戴しながらも、元の山の奥の小屋で暮らした。長老はわるいひとではない。そしてその長老の意向に従順な村人も、慈郎を蔑ろにはしないだろう。それは判るが、どうしても同じ目線を保って暮らせるとは思えなかった。

 村のなかに身を置くかぎり、じぶんが異物であるとの思念に囚われる。それはまるで、心の中に死の化身を飼うような呪縛に等しく感じられた。

 ひょっとしたら、と狩りのさなかにふと思うことがある。

 鬼になっていたのはじぶんだったのかもしれない。

 偶然じぶんは天狗と呼ばれ、鬼にならずに済んだだけではないのか。

 なぜそのような突飛な想像を浮かべるのかを、慈郎は深く煮詰めようとはしなかった。その思案のさきには、天狗と鬼を繋ぐ、邪、のようなものが潜み、蠢いている気がしてならず、やはり考え、囚われるのはやめようと、考える以前から避けるように意識を曲げている。

 それでもたまに、ふと、なぜあの死の化身はああまでも村に拘ったのか、執着したのか、との疑念が脳裡をよぎる。

 まるで呪われていたかのようだ。

 いまこうして死の化身の正体に囚われているじぶんのように。

 天狗と鬼のあいだに潜む、邪、への関心が拭いきれぬ。

 考えてはいけない。

 囚われてはいけない。

 しかしどうしてもふとした拍子に考えてしまうのだ。

 和尚はなぜじぶんを寺の子としては育てずに、山に生かし、狩りを教えたのか。

 いちど本人に訊ねてみたい気もするが、それが適うことはないとの予感がつよくある。

 和尚はもう、和尚ではなくなったのだろう。

 なんとなしにだが、そう思えてならなかった。

 村からは、ことし最初の祭囃子の音が響いている。山のうえからは、灰色のなかに浮かびあがる無数の明かりが、円を描いて見えた。

 ふしぎなことにこの村に寺はなく、祭りも、いったい何のために開かれるのかが慈郎には分からずじまいであった。

 天狗の仮面をつけ、最後にはいっせいにそれら仮面を火にくべる村人たちの姿には、何かしら胸のうちを掻き毟られる心地がし、にわかに昂揚した。

 和尚に拾われる以前に、似た光景を目にした気がしたが、詳らかではない。たとえ記憶があったとしても、こうして同じ祭りを目にしただけのことだろう。

 慈郎は祭りがあるたびに物淋しさを覚えるが、その寂しさは、ふしぎと遠ざけたいと願うような空虚さではなく、手放してはならない果実の種のようなものに思えてならなかった。年々、村の祭りが楽しみになる。

 ことしも例に漏れず供え物が慈郎の小屋のまえに届けられた。なぜかいつも、ふたり分の椀が備わっている。

 ひときわ身体の大きなじぶんを慮って多めに食事を用意してくれているのだろう。そう思うことにして慈郎は、僅かに湧いた胸騒ぎを、饅頭と共に嚥下する。

 風が吹く。

 闇夜に、黄金色の髪が浮く。




【運命の赤い糸はシケったれ】


 十五歳になると運命の赤い糸が見えるようになる。わたしたちはそれを義務教育で習うまでもなく、親やきょうだい、家族という身近な社会を通して知ることになるのだけれど、わたしは十五歳をすぎても一向に赤い糸が見えなかった。

「そういうコもいるらしいよ」

 姉はなんでもないような顔で言うけれど、見えないのは同級生のなかでわたしだけだった。

 ほかの学年にはわたしと同じように赤い糸が発現しなかったひとがいるのかもしれないけれど、運命のひとがいないひと、と見做されることのリスクを想像できなかったおばかちゃんはわたしだけだったようで、わたしは一人、運命のひとを持たぬ孤高を約束された人類として義務教育最後の学校生活を送った。

 惨めだった。

 箸が転がっても恋バナで盛りあがる思春期まっただなかの脳内お花畑ちゃんたちのなかに埋もれていながらわたしは、みなの輪のなかには入れないのだ。

 いいや、仲間外れにはされないが、話に入れない。

 それはまるで、みなの共通言語をわたしだけが持たなかったような、異国のひとじみた生活だった。

 高等学校にあがってみても、やはりわたしのように運命の赤い糸の見えぬ者の存在は寡聞にして耳にせず、ときおりその歳ですでに赤い糸を手繰り寄せてしまえた幸運の持ち主なども出現し、いよいよわたしは蚊帳のそとで、結婚式場にスウェットで乗りこんでしまったような、ぽつん、を味わった。

 やさぐれるだけの粗暴さを兼ね備えていればよかったものの、わたしは協調を重んじる星のもとに生まれたせいで、ことさらみなの祝福を望み、そして祝い、運命の赤い糸の話に夢中になる同級生たちといっしょに、一生縁のない話と分かりきっていながら、同調して、夢中になったフリをした。

 虚しい。

 それはとても虚しいことなのだと知るのはずっとあとになってから、わたしが大学生になって、夏休みの何もない時間に耐えられずにひたすらインターネット内の、赤い糸の見えないひとの体験談、或いはそうした身内を持つ者たちの記録を読み漁るようになってからのことだ。

 みな似たような境遇だった。

 そこにはわたしの分身たちがいた。

 みな一様に、わたしの体験したことをそっくりそのまま体験しており、いったいいつの間にわたしはこれを書きこんだのか、と記憶喪失の可能性に思いを馳せるほどに、同じだった。

 世の赤い糸の見える多くの者たちが、赤い糸の導くままに結婚していくその様を尻目に、わたしはわたしの分身たちの人生の軌跡を読み、そしてその多くが、同胞たちと数多くの恋をし、そして別れ、けっきょく孤独に死んでいったことを知った。

 追体験につぐ追体験だ。

 もはやわたしは何千年も生きた魔女のきぶんで、どの道孤独に死ぬのならば、と赤い糸の有無にかかわらず、性差すら擲って、惹きあうままにその場かぎりの恋を貪った。

 いずれ運命のひとと巡り会うのだから、とわたしの誘いに乗るおばかちゃんたちは思うのほか多く、それこそわたしは相手の赤い糸を断ち切るつもりで、激しく恋の炎をたぎらせた。

 けれどいつも、運命の赤い糸の導きのままに、相手は糸のさきの人物と結ばれた。

 わたしはどうしても、無数の赤い糸で編んだワンピースを着たかったのに、けっきょくのところ一本も赤い糸はつむげなかった。

 糸ではなく、それは鉄をも凌ぐ炭素繊維だ。

 なかには、なかなか途切れぬ恋の炎もあるにはあって、そのほとんどはわたしの分身たちだった。

 いつもあとになって知ることになる。

 わたし自身も隠していたから、発覚するのが遅れてしまう。

 互いに運命の赤い糸など視えぬのだ、と別れ際にいつも知る。

 いっそのこと共に運命など擲って、いっしょになってみようか、とささやきあう相手もいなかったわけではなかったが、やはり運命ではないので、いつも数年以内に破局した。

 赤い糸を憎いと思ったつもりはなかったが、やがてじぶんがそこまで頑なに恋を重ね、失恋の道をひた走りつづけた背景には、みなにはあってじぶんにはない赤い糸への愛憎がなかったとは言わせない。

 わたしはわたしを憎んでいたのかもしれなかった。

 なにゆえ運命から見放されたのか、と欠陥品たる我が身を疎ましく思いつづけてきた、これが結果だ。

 まるで呪縛だ。

 赤い糸を持たぬほうが、呪縛されるなどてんでおかしな話である。

 わたしはついに、恋など知らぬ、運命など知らぬ、とふっきれた。

 赤い糸?

 欠陥品?

 なんぼのもんじゃい。

 これがわたしだ。数多の恋に溺れてそれでもこうして生きている。運命の引いた赤いレールのうえを辿るだけの人生もそれはそれで楽しそうだが、わたしにはわたしの生がある。

 いまさら赤い糸が見えたとしても、秒でハサミでちょんぎってやる。

 やはりわたしはいじけていた。

 意固地にならずにはいられない。自棄にならずにはいられない。そうでなければ、どうして赤い糸に約束された至福のうえを歩く人々のなかに身を置き、生きていかれようか。

 わたしのレールだけが途絶えている。

 わたしたちの道だけが断たれている。

 赤い糸の見えない者たちの平均寿命は、見える者たちの半分もない。

 その意味するところは、解説されるまでもなく、幾度となくわたし自身が考えたことだ。

 でも、わたしはじぶんでこの道を断ったりはしない。意固地になっているのだ。自棄になっているのだ。

 なんとしてでもしあわせになってやる。

 わたしにはみなに見えている運命の赤い糸が見えない。でも、みなに真実見えているそれが運命の赤い糸である保障がどこにあるだろう。ひょっとしたら、見えているつもりでいるだけかもしれない。

 わたしに見える青があなたにとっての青といっしょかどうかが解らないのと同じ規模で、見えると言い張るみなの赤い糸だって、赤い糸であるとは限らない。

 糸であるかすら定かではない。

 なぜならわたしにはそれが見えないのだから。

 みなが見えると言うだけで。

 運命の赤い糸があることを前提に、生きているだけで、本当はただ、そういうものだと思いこんでいるだけかもしれないではないか。

 もちろん運命の赤い糸は真実に、最も相性のよい異性と結びついているようだと、科学的に解明されているが、わたしには関係のない話だ。

 わたしには見えない。

 それがただひとつ重大な事実だ。

 わたしには運命の相手がいない。

 それはでも、誰であっても運命の相手にしていける、というとても素晴らしい自由への切符かもしれなかった。

 むろん現実には、わたしは無数の、運命かもしれなかった相手と恋に耽り、いっときの甘く、汁っぽい、肉々しい時間を過ごして、お別れしてきたわけだが、いずれはこのひと、と思える相手と出会えるだろう。そのはずだ。そうであれ。

 運命の赤い糸が見えていたら、この、出会えるかもしれない、の希望、わくわく感、夢、を抱く余地はなかった。

 そう思えばこそ、わたしはきょうも赤い糸の見えない人類として、わたしだけの運命を切り拓くべく、今宵も恋の炎に薪をくべるのだ。

 シケってない薪があるといいなあ。




【売れない小説家】


 世に売れない小説家は数あれど、ミカさんほど売れない小説家も珍しい。

 私は彼女ほどに小説を愛し、小説を楽しみ、小説をつくっている小説家を知らなかったので、なぜこれほどまでにミカさんの小説が読まれないのかがふしぎでならない。

「売れないのは当然だよ。だって供給過多なんだもの。需要がないのだもの。商品としての価値なんかとっくになくなってんだもの。あたしだけじゃないよ。小説というそれそのものに、そもそも商品価値なんてないのさ。見なよ。文豪の小説なんか全部タダだよ?」

 夢も希望もなにもない言い方をミカさんはする。

 そのくせ彼女の小説には夢や希望がこれでもかとてんこ盛りで、小説のなかに置いてきてしまったから現実のあなたはこんなにも擦れてしまっているのですね、と寂しい気持ちになってしまうほどだ。

「宣伝すればもうちょっとくらいは読まれるようになるんじゃないですか。なんだったら私の名前を使ってもいいですし。頼まれれば私が宣伝してあげてもよいですよ」

 私はそこそこ名の通った女優だった。私が口利きすれば、脚本の仕事くらいは紹介できた。が、ミカさんは怒るでもなく、

「おもしろくねぇなぁ」

 画面に目を釘付けのままキィボードを打鍵しつづける。「あたしは小説をつくりたいだけだからなぁ。仕事じゃないんよ。だいたい、小説なんかもっと世に有り触れたものであってほしいと思うくらいでね。小説家、なんてたいそうな名前で呼ばれつづけているようじゃ、まったく以って、小説の可能性を狭めているようなものだよ。誰もが小説家を名乗っていいくらいの時代だよ。まったくもうまったくだよ」

「ミカさんの小説はでももっとみんなに読まれてもいいと思う」

「読みたいやつがいない。だから読まれない。それだけのことさ」

「宣伝したら増えるのに」

「読者が? 馬鹿言っちゃいけないよ。読者は増えない。人間がぽこぽこ増えますか? 読者はいる分しかいない。あたしの小説を読まなくとも、ほかの小説を読めばいい。どんな小説を読んでいようが読者は読者だよ。どんな人生を歩んでいようと、人間は人間であるのと同じようにね」

「うつくしい戯言ですこと」

「そうだろう、そうだろう」ミカさんは徐々に返事が雑になって、しまいには声をかけても反応がなくなる。物語の世界に旅立ってしまわれた。

 ミカさんはじぶんではそうと口にしないけれど、私はこう思っている。ミカさんは、誰より小説を愛しているからこそ、小説家にとって最も惨めな環境で小説をつくりつづけてなお、誰よりおもしろい物語を編めるのだと証明しようとしている。

 たとえ小説家を名乗れないような境遇にいようとも、誰からも小説家だと見做されなくとも、ただ小説をつくりつづけてさえいれば、人は小説家になれるのだと、その身を挺して示そうとしている。

 ミカさんは言う。

「赤ちゃんの笑顔のほうがよっぽど世界にしあわせを増やしているよ。猫の尻尾のかわいらしさのほうが、文豪の小説よりもひとを笑顔にしている。小説なんてたいしたもんじゃない。でも、そんなたいしたものじゃないものに入れ込むやつがいてもいい。生きる素晴らしさってのはそういうことだろ。価値があるから素晴らしいんじゃない。くだらない、価値がない、そういうものにも価値を見いだせる人間の精神の有様が素晴らしいのさ。違うかい」

 トートロジーですね、と私は言う。ミカさんのそれはけっきょくのところ、素晴らしいものが素晴らしい、と言っているようなものだ。何も言っていないに等しい。

「そうかもしれんね」

 しれっと嘯きミカさんは、何も言わずに済むようにあたしは小説をつくるしかないのさ、とこれまた中身のあるのかないのかの分からない妄言を口にし、ふたたび私をこちらの世界に置き去りにする。

 ミカさんがいったいどんな世界に夢中なのかと、私は彼女の小説を読み漁る。

 いまのところゆいいつの、彼女の小説の、わたしが読者だ。ミカさんの旅する世界を知る者はミカさん以外では私しかない。

 もったいない、と思ういっぽうで、こんなに贅沢なことはない、と思いもする。

 ミカさんの小説に値段なんてつけたくない。

 どんなに目玉の飛び出るような値段をつけられようと、私はミカさんの小説を売ったりはしないだろう。

 ミカさんほど、ひとに知られたくない小説家はいない。

 こんなに売りたくない小説をつくる作家も珍しい。

 だからかもしれない。

 ミカさんはいまでも私のそばで、売れない小説家をやっている。




【カレー注意報】


 おいしすぎて人が死ぬ。

 ミカさんのつくるカレーはこの世の美味という美味の概念を煮詰めたくらいにおいしくて、食べると死ぬ。

 でもあまりにおいしすぎるので食べたがる者が後を絶たない。

 みなじぶんで食べて死ぬのだからミカさんが殺人罪で捕まることはなく、ミカさんの作るカレーの成分も毒ではないので、やはり捕まることはなかった。

 ミカさんのカレーは、その匂いも強烈においしそうに漂うので、半径数十キロ圏内の人間はこぞってミカさんのカレーが食べたい病にかかる。もはやゾンビのごとくヨダレを垂らして集まる人々を追い返す真似は、たとえ自衛隊を動員してもむつかしかっただろう、それくらいにミカさんのカレーの引力はすさまじいものがあった。

 けっきょくミカさんのカレーを食べて死ぬ者よりも、ミカさんのカレーを奪いあって死んだ者が多くを占め、このときになってようやく国はミカさんのカレーを法律で禁じた。

 カレーを禁じた、というのもなかなか言語としておかしく映るが、その実、ミカさんにカレーを作るな、とは禁じられず、なぜってミカさんはただカレーをつくっただけで、材料から手法から、何から何まで一般のカレーであるから、そこを禁ずるとなると基本的人権のなにかしらを侵犯する。

 またミカさんのカレーを食べるな、と禁じるにしても、カレーそのものの存在がすでに脅威だ。食べずともミカさんのカレーのせいで各国が戦争をはじめそうな気配すら漂っており、やはりカレーを禁ずる、とするのが妥当だった。

 しかしカレーを禁ずるとはなんぞ?

 誰もが疑問し、私も疑問し、問題の渦中にいる当の本人、ミカさんまでもが首をひねった。

「カレーの何を禁じてるんだろうねこれは」

 ミカさんはミカさんなりに、さすがにじぶんのつくったカレーで多くの人が死に至ったことを重く受けとめ、金輪際カレーはつくりません宣言を発表した。

 しかしミカさんの趣味は料理であるので、餃子やら焼きそばやら、新しいメニューに挑戦しては、世に多くの死者をだした。

「ミカさん、ミカさん。もう料理つくるのやめましょうよ。これ以上つくったら地球滅びちゃう」

「地球は滅びんでしょうよ。滅びるのは人類でしょうよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。あたしはなんか死なないらしいし」

 ミカさん本人はじぶんの料理を食べても死なない。おいしい料理を独り占めできる。かつてないほどミカさんは料理に夢中だ。

「食べなきゃ死んじゃうんだから、食べても死なないあたしがあたしの料理を食べない理由はなくないか」

「またまどろっこしい言い方を」

「だってそうでしょうよ。自炊してるだけなのになんでい。みんなしてあたしを殺戮兵器みたいに言っちゃって」

 ミカさんは半べそを掻きながら玉ねぎを切る。切った玉ねぎを炒めはじめると涙は引っこんだようだった。

 そんなミカさんからしゃもじを奪い、私は代わりに玉ねぎを掻き混ぜる。

「なによなによ、手伝いなんかいらんのだけど」

「ダメです。また死人がでちゃう」

「でも」

「手伝いじゃないです。私がつくってあげます。食べさせてあげます。だからもうミカさんはお料理しないでください」

「いまだけじゃ意味ないでしょうよ」

「誰がいまだけなんて言いましたか」鍋からは湯気がもうもうと噴きあがり、顔に当たる。熱い。「これからは私がずっとつくります。じゃないと死人がでちゃうので」私は繰り返しそこを強調し、鍋のなかに肉を投入する。「だからミカさんはもう、お料理はしなくてよくなりました、おめでとー」

 鍋のなかからお肉のよい香りが立ち昇ってくるまでミカさんは口を利かなかった。ジャガイモを投入し、水を入れたところでようやく、

「香辛料くらいまぶしなよ」

 私に胡椒をカリカリ砕く道具を手渡した。「せめてあたしの半分くらいはおいしくしてね」

「残念。食べたことがないので分かりません」

「それはえっと、あたしの料理を? それともご自分の?」

 ミカさんが顔をくしゃっとするので、私は彼女の顔をじっと見てから鍋に胡椒をガリゴリ振りかける。

「両方です」




【砂利ですら宝石】


 純粋な砂利というのはつまるところ宝石なんじゃないかとミサオは思った。ミサオの性別をここで明らかにしてもたいして本筋には影響しないので、ここではミサオをミサオと述べるに留めるが、ミサオには血が流れていなかった。慣用句の意味で、血も涙もない、という言い方があるがそうではなく、真実生物学的な意味合いでミサオには血が流れていなかった。

 代わりにミサオの体内には砂利が流れている。

 液体ではなく固体だ。流体の性質が極めて高い、粒子が流れている。

 液体にしたところでそれを構成しているのは原子や分子であるので、似たようなものと言えばそうかもしれないし、まったく違うと言われればそれもそうだと首肯するよりない。

 ミサオの体質はいわゆる突然変異であり、一般的には新種の疾患として扱われる。ほかに同様の症例はなく、ミサオがゆいいつの患者だった。

 仮にミサオのほかに多くの似た個体があれば、それは進化として認められる変異と呼べたかもしれないが、ミサオ一人だけではまだ厳密には進化とは呼べなかった。

 ほかの多くの人間たちが水を摂取するのと同様に、ミサオは砂利を摂取せねばならなかった。人間は水を飲む。同じくして、ミサオは砂利を飲むのだ。

 水道水が、濾過された清潔な水であるように、ミサオの飲む砂利もまた不純物のすくない砂利であると好ましい。そうでなければ体調を崩し、ときには病気となる。

 ミサオのかかる病気もまたミサオに固有の病気であり、治療が困難であった。

「なるべく日ごろから良質な砂利を摂取するようにしてください」

 良質な砂利!

 なんて呪文じみた言葉だろう。魔女が魔法の薬をつくるのに鍋に入れる材料の一つにしてもよいくらいだ。火蜥蜴の尻尾、氷の炎、月の涙、良質な砂利。

 ミサオの両親はミサオのために良質と思しき砂利を与えてくれてはいたが、身体が大きくなるにつれて、ミサオにも身体に合う砂利とそうでない砂利の区別がつくようになっていった。

 ミサオの感覚からすると両親の用意する砂利は、良質な砂利とは言いにくかった。身体はだるくなるし、味もよくない。もっと澄んだ砂利があるはずだ。ツルツルと喉ごし爽やかで、元気になれる砂利があるはずなのだ。

 ミサオは国からの助成金を、じぶんに合う砂利を探すために使った。

 砂利だけでなく、土にも食指を伸ばしたが、そちらはまったく血肉にならず、お腹を壊してやめにした。なかでも肥料は最悪だった。数日のあいだ、何を口にしても堆肥の風味が抜けなかった。

 一時期は炭を砕いたものを好んで摂取していたが、徐々にホクロが増えはじめたのを契機に、こわくてやめた。灰はむせるので、そもそも細かすぎる粒は向かないようだった。液体を摂取してもミサオの血肉にならない点で、そこは自明であったかもしれない。

 ミサオはいよいよ、手詰まりとなり、やはり両親の用意してくれた砂利を甘んじて頬張るしかないのか、と諦めかけた。

 しかしそこはミサオだ、石頭ならぬ石の流れる身体なだけはある、まだ試していない砂利があるではないか、と母の宝石箱からとれるだけの宝石を集め、ハンマーで砕き、飲みこんだ。

 宝石ほど純なる砂利があるだろうか。

 果たして、ミサオの食費は国からの助成金では足りないほどとなり、月の食費で家一軒を買えるまでに嵩んだ。

 だが不幸中のさいわいか、ミサオの体内で交じりあったいくつもの宝石は、これまで知られなかった新しい物質として融合され、飲みこむ前の状態よりも何倍もの高値がつくほどの宝石となって排出された。

 ミサオの排泄物は、さながらジャコーネコの糞であった。

 しかし自らの排泄物が商品になることには大いに抵抗があり、端的に恥ずかしかったので、ミサオはその秘密を誰にも明かさずに、世界一の宝石ブローカーとして暗躍することとなった。

 豪邸に引っ越し、両親にも別途に家を贈与した。以前はじぶんの体質を憎く思っていたが、いまでは打ち出の小づちのようだ、とほどよく評価している。

 ひょっとしたら、とミサオは考える。宝石だけではないのではないか。単なる砂利であっても、組み合わせによっては新しい物質が体内で誕生しているのではないか。

 ミサオの疑問を氷解するには、単なる砂利を食して、その排泄物を調べてみればよい。

 そうして明らかになった事実は、人類に大いなる発見をもたらした。

 いまでは、ミサオの生みだす様々な新物質により、科学の発展が目覚ましく進歩している。

 さすがに放射線物質を食べる真似はしなかったが、宇宙エレベーターに使われる超強化炭素繊維がミサオの食事の副産物である事実は、一部の政府機関従事者にはよく知られた国家機密だ。

 ミサオは人類のバグとして突発的に生まれた変異体であったが、その唯一無二の性質を活かして、同じく唯一無二の仕事を成し遂げ、世界中に新しい物質を提供しつづけている。

 ミサオには赤い血は流れていない。人類の宝が流れている。

 それはもちろん、文字通りの意味で。

 ミサオの身体には、値段のつけられないくらいの宝石が詰まっているのである。




【種は滅ぶ】


 気候変動の影響だと最初は目された。

 植物が急速に絶滅しはじめたのだ。地域差こそあれ、種ごとに一気に枯れた。種子を蒔いても芽吹きはするがすぐに萎れる。それきり実はならず、滅ぶのだ。

 種の死滅にかかる期間は八か月だ。どの地区に根付こうともいっせいに絶滅した。

 それが一つの種に限られたものならば、甚大な損害であるにせよ、人類にはまだなす術があった。

 しかし絶滅の連鎖は留まることを知らず、種をまたぎ、あらゆる植物を地上から一掃しはじめた。

 人類は焦った。なす術がなかった。

 ちょうどそのころ、絶滅したはずの植物に似た草花が各地で報告されはじめた。

 似ているが、違う。

 姿を消したはずの植物とその新たに発見さた植物群には決定的に明らかな差異があった。

 葉が青いのである。

 新種の葉の青い植物は徐々に数を増し、絶滅した種をそのまま補完する勢いで地上を埋め尽くしていく。

 人類は安堵した。

 しかし原因が不明だ。

 束の間の安息にすぎないかもしれない。

 もっとよくない災害の前触れかもしれない。

 青い葉の植物の研究は盛んに行われた。

 並行して、なぜ緑の葉の植物が滅んでしまったのかの研究もつづけられた。

 やがて一つの仮説が打ちだされる。

 葉緑体が進化したのではないか、との仮説だ。

 そもそもなぜ植物はみなおおむね緑色なのだろう。じつのところ葉の表面に色は着いていない。表皮細胞そのものは半透明だ。葉肉細胞内の葉緑体の色が透けて視えている。よって、葉緑体が緑なので、植物はだいたい緑だと言える。

 ではなぜ葉緑体は緑なのだろう。

 いくつかの仮説はあるにせよ、もっとも妥当とされる説は、緑以外の波長の光を受けたほうが地上では光合成の効率がよいから、とする考えだ。

 大気は紫外線を含め、宇宙からの電磁波のいくつかを吸収している。大気がなければ地上の生物はただちに滅ぶほどに、宇宙線には生物に害のある波長が含まれている。

 空が青いのは、青以外の可視光線が大気に吸収されているからだ、と言っても的を外してはいない。

 そして光合成は光によって行われる。

 青い光は反射してはならない。その分、ほかの波長はいくらか反射してしまっても、もともとの光量がすくないのだから構わない。たとえば紫外線であれば、吸収しないほうがむしろ好ましい。

 そうして長い時間をかけて自然淘汰が光合成をする細胞に働いた。結果、青い光を集める葉緑体が植物のエネルギィ製造器官として採用されたのだろうと考えられる。

 もちろん植物が、人事採用のごとく、これにしよう、と決めたわけではない。さまざまな光合成のような細胞が生まれたなかで、もっとも地上で繁栄しやすい機構が残っただけにすぎない。

 そして同時に、大気から降り注ぐ光の波長に変化が生じれば、必然的に、植物の生存競争に変化が生じる。青色を吸収できていればよかった葉緑体が生存に不利となれば、そして新しく緑や赤を主要とする光合成器官を有した植物が誕生したとすれば。

 葉の青い植物が地上を席巻しても理屈の上では矛盾しない。

 ただし、葉緑体が緑の理由にはほかにもさまざまな仮説が考えられている。たとえば細菌やウイルスを殺しやすい青色の波長を集めやすくしている、などがそれにあたる。また、自然光のうちでもっとも多く含まれる色は緑だが、エネルギィを比べてみると、青色や赤色を用いたほうがより効率よく光合成ができる。加えて葉の表面温度が、緑の光だとあがりやすい傾向にある点も考慮に入れられそうだ。

 ここでもけっきょくのところ、緑色を切り捨て、ほかの色を光合成に利用した葉緑体が生存に有利だった、とする考えは揺るがない。

 いずれにせよ、調査の結果、やはり葉緑体のDNAが変異しており、青くなっていることが判明した。

「たいへんだ」

 科学者や物理学者たちは青褪めた。新種の植物の真似をしたわけではない。

 青い植物の繁栄は、いわば大気から青い波長の光が減った事実を示唆する。

 葉緑体にせよ、新種の葉青体にせよ、光合成器官はどちらも赤色を吸収する。そして青色が減った分、緑か、赤色をより光合成に用いるようになったと考えるのが妥当だ。

 緑は元から植物が切り捨てていた色だ。

 であるならば、赤色が増えたと考えるほうが合理的だ。

 自然光から赤色が増える理由は大まかに分けて二つ考えられる。

 大気成分が変化し、赤色の波長が透過しやすくなっている説が一つ。

 もう一つは、太陽そのものの光の波長が変化している説だ。

 どの道看過できない問題として扱うよりないが、より深刻なのは後者の、太陽変動説だ。

 太陽からの光の波長が変わる。これにも大別して二つの可能性が考えられる。

 一つは、太陽内部で起きている核融合反応に変化が生じている可能性。

 もう一つは、太陽そのものが地球から離れはじめている可能性だった。

 前者の核融合反応に関しては、各国の天文台が日夜観測しているので、その兆候がないことが判っている。

 であれば、二つ目の太陽移動説が俎上に載るが、これもまた観測データからはこれといった異常が見当たらない。地上から見える太陽の大きさに変化はなく、距離が離れているとは思えない。

 しかし観測データからするとやはり太陽光内における赤色の割合が増加していると断定された。

「赤方偏移だ」

 天文学者は愕然とした。

 恒星などが高速で遠ざかると、ドップラー効果によって観測者からは恒星の光が赤く見える現象がある。それが赤方偏移だ。サイレンを鳴らした車が遠ざかると音が変化して聞こえるのと原理的には同じだ。音ではなく、光でも同様の現象が起きる。

 だが、太陽は位置的にはまだ地球からおおよそ一億五千キロメートルの距離にある。

 太陽から届く光量そのものに大きな変化はなく、ただ遠ざかっているようだとの客観的データだけが観測される。

 まるで時間だけが伸びているかのようだ。

「ひょっとしたら時空の谷が生じているのかもしれません」とある若い宇宙物理学者が言った。「宇宙は膨張していますが、いままでの理論では一様にどの方向にも同じように膨張していると考えられてきました。ですが、僕の理論によれば、宇宙の膨張もまた波のように伝播しており、場所によっては膨張波の谷や山にあたる地点が生じていると推測できます」

「膨張して伸びている部分が谷、伸びた分縮んでいる部分が山ということかな」

「はい。ですから谷はひときわ時空が膨張している部分です。もし地球と太陽のあいだに時空の谷が出現したとするなら」

「瞬間的に時空が伸び、そのあだいを飛んでいる光は引き伸ばされ、観測者たる我々に赤方偏移を見せる」

「はい。光そのものはまんべんなく太陽から地上に届くでしょう。途切れたりはしません。ただし、青色の波長は減り、赤色の波長が増えると予期できます」

「空もだんだん赤くなると?」

「いつでも夕焼けのようになるものかと思われます」

「では植物は、まっさきにその予兆を察知したというわけですかな」年長の生物学者が言った。

「だと思います。ただ気を付けたいのは」

「なんだね」

「青色の波長によって死滅していた地上の細菌やウイルスが死ににくくなり、感染症が増えるだろう問題についてです。いまのうちに各国が揃って対抗策を打って出ておく必要があるように思います」

「提言はしてみるがね」

 一同、暗い顔だ。

「あの方々がいまの話を聞いて動いてくれるかどうか」

「問題が起きてから対処しては遅すぎるかと」

「解かっている。だが、我々だけが解っていてもどうしようもないのだ」

 いまさっき言われたばかりでね、とまとめ役の生物学者が言った。

「植物が青くなっただけだろ、とすでに問題は解決したものと見做しているようだった。いやはや、この国、否々、世界中、人類の危機がまじかに迫っているとどうして解からないものか。滅んでからでは遅いはずなんだがね」

「人類も青くなって蘇えるとでも思ってるんでしょう」

 ジョークにしてはよくできていたが、その場の誰も笑わなかった。

「全人類がみな青くなったのなら」沈黙の重さに耐えかねて、若い宇宙学者は言った。「誰も肌の違いで争わなくなってよいですね」

 弱弱しい笑いに包まれる。

「人類よりもさきに差別の種が滅ぶか。それもまたよしかな」




【人魚にひれはない】


 人魚というよりクラゲにちかい。ひれはなく、半透明で、陸にあがればブヨブヨとつぶれてまともに人型すら保てない。

 陸人たちのあいだでは人魚姫なる伝説がいまでも、何百年も前から語り継がれているようだが、ざんねんながら、そのような姿形はしていない。

 下半身が魚、ではないのだ。

 いちおう、これは陸人の言葉で記録しているので、ここでは私たちを人魚と呼ぶことにする。

 私たち人魚の祖先はおそらくいったん陸上で人型に進化した。ふたたび海へと戻り、手足を失くし、身体も浸透圧や水圧に悩まされずに済むように、細胞のほとんどを水分にしてしまって、クラゲのようにスカスカの肉体を獲得した。

 一般にあまり知られてはいないけれど、海洋生物の寿命と体温には密接に相関関係がある。体温が低い生き物ほど長生きで、その分、ゆっくりと動く。反して、体温の高い魚は泳ぐ速度もまた高い傾向にある。

 そして私たち人魚は、体温を低く保ち、長生きをする方向に進化を遂げた。そのほうが生き残りやすく、また子孫を残しやすかったのだろう。自然淘汰の原理は、陸だけでなく海でも有効だ。

 いまでは、生命が陸と海のどちらで誕生したのかには諸説あり、両方が生命の起源でもおかしくはないように私は思う。

 私たちの身体の大きさは、陸人たちの百分の一にまで縮んでしまったが、中枢核から神経回路をまんべんなく身体に巡らせることで思考能力を向上させた。陸人たちの知能と大差はないと想像している。現にこうして私は陸人の言語を操るくらいには学習能力に事欠かず、あべこべに私たちの言語をおそらく陸人は難解に思うのではないだろうか。

 私たちの言語は波形を帯びている。一つの波紋を生じさせるだけで、そこに多くの情報を載せることができる。陸人たちの言語では「あ」だけでは何も言っていないに等しいが、私たちの言語であれば、その「あ」だけに、きょうあったできごとをそっくりそのまま載せ、伝えることができる。

 海の中は情報の宝庫だ。私たちは波や水のうねり、水質や水温に至るまでの総じてを把握し、それらの障害物によって生じる波紋のゆらぎまでをも無意識のうちで計算し、情報伝達手段に用いている。

 そのためか、陸人たちでいうところの未来を、すこしさきであれば高い確率で幻視している。

 私たちの知覚器官は、海水だけでなく、あらゆる物体が放つ波紋の揺らぎを感知している。ゆえに、それが液体であろうと気体であろうと、むろん固体であっても関係がない。

 ただし、密度の高い物質であったほうが波紋を感知しやすいのは、声は一人よりも大勢の合唱のほうがよく通るのと同じ理屈と言えそうだ。厳密には質量の高い物質と言いたいけれど、どちらかと言えば顕著な差が顕れるのは、密度の高さ、すなわち気体か液体か固体かの違いにある。

 つまるところ私は海のなかだけでなく、その外、陸を覗き見ても、そこにあるすこしさきの未来が幻視できた。

 そして私は陸人に捕まった。

 海中と陸上では密度に差がある。その分、幻視できる未来に差が生まれた。

 海のなかにいたほうがより長い未来を視ることができた。反して、陸上ではやや短い範囲の未来しか視えないようだった。

 海のなかにいたときは捕まるじぶんの姿は見えなかったのに、陸に顔を覗かせたとたん、私はもう逃れられない定めなのだと察した。

 海と陸の境では、幻視に遅延が生じていた。

 のみならず、陸上では、視野がずっと狭まるとも知った。

 私たち人魚が長いあいだ陸人たちに存在を知られずに済んだ理由の一つに、海から出ないようにしてきた点が挙げられる。海のなかにいさえすれば私たちはじぶんが捕まる未来を回避できた。

 だが私は好奇心を抑えきれずに、キラキラ光る海面の向こうを覗きに浮上してしまった。

 私を捕まえたのは一人の少女だった。

 私は彼女を通して様々な知見を得ることになるが、それを語るには残された時間がすくなすぎる。

 大事なのは、私は彼女に掬いあげられ、私は彼女のそばで、彼女のよき話し相手になっていた、という事実だけだ。

 仔細に明らかにしたくはないが、少女は病に臥せっていた。

 大きな手術の前に、いちど海を見ておきたく出張ったさきで、私を海面から手で掬いあげた、という顛末だ。

 私は彼女の体温で全身が爛れてしまったけれど、そのお陰で彼女は弱った私をかいがいしく看病した。結果としてそれは私たちに好ましい関係を築かせる契機になったと言っても大袈裟ではない。

 私たち人魚の再生能力は、陸人の非ではない。細かくちぎれても、中枢核のある場所から順々に再生していく。それはおそらく、私たちの寿命からすると比較的短期間で完治するほどに、秀でた能力の一つだ。

 これを言ってしまうと、この言葉の羅列の行き着く先を暗示してしまうようで、避けたいところだが、敢えてここで述べておこう。

 私たちの中枢核には生物を治癒する効能がある。

 中枢核は、陸人で言うところの脳みそに当たるだろう。私たちは心臓を動かす必要性がなく、すっかり退化してしまっているので、心臓ではないが、陸人にとっての心臓に値する部位に、それはある。

 少女は私に水槽を用意してくれた。私はその狭い空間で、少女を通し、陸人の生活様式を眺めた。言語を学んだ。この身に情報を蓄えた。

 少女の体温によって爛れた私の身体は、少女が手術のための入院をする前に再生しきった。人型を取り戻した私を目にした少女は驚きを隠せないようだった。

 私がそこで彼女たちの言語を操ってみせると、さらに少女は瞠目した。それは驚異よりも、どちらかと言えば歓喜を私に連想させた。

 私には陸人で言うところの声帯がない。

 ゆえに、全身の細胞を共振させ、海水ごと振動させて声とした。水槽全体がスピーカーの役割を果たし、私の声は少女の耳によく馴染んだ。

 私はますます少女との会話を通して、知見を深めた。声を操ることで、離れた場所にあるスピーカーに指示をだし、音楽を流させることすら、いまではお茶の子さいさいだ。

 少女が入院しているあいだ、私は彼女の部屋で、主のいない空虚な時間を学習に費やした。スピーカーは私の質問によく答え、よくしゃべり、よく応じた。

 海水だけはどうしても数日で入れ換えてもらわねばならず、そこだけは少女が身内に頼んでくれたらしかった。私は上半身を下半身に引っこめ、クラゲの擬態をとる。ドアの向こうから陸人が入っくる前に来訪者の到来を知ることが私にはできた。言い換えれば、私に見通せる未来は、それくらい短時間の未来でしかなかったとも言える。

 私は少女がいつ戻ってくるのかすら分からず、不安な日々を過ごした。

 スピーカーにはさまざまな情報が詰まっており、それがじつはそこに詰まっているわけではなく、網の目状に張り巡らされた知恵の根によってもたらされる情報なのだと知った。私たちの自我が中枢核を介した神経の総体であるのと似たようなものだ。

 そこには少女が日々蓄積しつづけてきた声の日記なるものまであり、私は少女がいないあいだそれを聞いた。

 過去の少女がそこにはいた。

 過去の少女の分身たちと対話をするように私は、彼女の過ごしてきた日々の断片を、彼女に寄り添うように、共に歩んできたかのような感慨を胸に、この身にも蓄積した。

 私は少女が思うよりもずっと長く、彼女のそばに寄り添い、生きてきた。

 錯覚ではない。

 たしかにそのような過去が、現実を上書きして現れたかのように、如実に、この身に、宿ったのだ。

 私は少女が私を知るより深く、彼女を我が分身のごとく、友のように感じた。

 憐みにも似た感情が湧き、寂寥にも似たせつなさが身を焦がす。

 少女がいなくなってまだ日が浅いというのに、否、これは飽くまで私たち人魚の感覚でしかない、陸人たちにとっては季節が一巡しそうなほどにねっとりとした時間の流れだったのかもしれないが、いずれにせよ、私にとってその時間は、まるで少女の手のひらのうえで焼けるような苦しくも愛おしい時間に思えた。

 はやく会いたい。

 帰ってこい。

 そしてたくさんの言葉をまた私に聞かせておくれ。

 スピーカーにはもう、私の知らない少女の声はおさまってはいなかった。いちど聞けばそれで充分だ。過去を現実として塗り変えた私にとって、それは記録ではなく、思い出であり、知恵の根に頼らずとも、私のなかに巡る神経の総体によって幾度でも振りかえれた。

 私は新しくここに、生きた彼女の声を刻みたい。

 このぶよぶよの半透明の細胞たちに。

 その一粒一粒に。

 新しい知見を。情報を。学びを。

 彼女の、言葉を、ここに。

 私は暇つぶしに、少女の声真似を練習した。

 習得にはそれほど時間はかからなかった。波長の扱いは私たち人魚の十八番だ。数日もすれば、少女の声質だけでなく、口調の癖や、言葉の取捨選択、何を話し、何を話さないのか、を完璧に物にした。

 ただし、彼女がどのような眼差しで世界を見詰めてきたのか、或いはこれから見詰めていくのか、についての枠組みが私には分からず、学習する機会に見舞われていないために、少女そのものに成り代わるのは至難に思えた。よしんば学習する機会が訪れたとしてそもそもが不可能なのかもしれない。

 海中での生活を思い起こす。

 私たち人魚は、ときおり海に回帰した同胞の真似をした。ときにそれそのものに成り代わることもある。陸人の言葉でいうところの死が、私たち人魚にはいくつもあった。

 私という存在は確固たる存在ではなく、他者との波長の重ね塗りによって分厚く層をなしていく。他者と私とは、必ずどこかで重複する部分がある。

 私たち人魚はみなで互いに補強しあう共同体を築いており、そこからはぐれることもまた一つの死として扱われる。

 いわば私は自殺をしたかったのだろう。

 海面のうえの世界へと旅立つことは、陸人たちの言葉で言えば自殺だった。

 人魚としての私は死に、私たちではなく、私は私として死に行く定めにあったのに、陸上で私は、もうひとりの私と出会ってしまった。

 少女はもはや私の一部だ。

 私は彼女の一部だった。

 その日、いつも海水を換えてくれる者が水槽ごと私を抱え、台車に置いた。

 部屋のそとへと運びだされた。大きな大きな陸人の身体ごとすっぽり入る箱に乗せられ、揺らいでいるうちに私は身を固く萎めて、嵐のときの体勢をとる。

 ふたたびの安らぎを覚え、顔をだすと、水槽のそとは別の世界に変わっていた。

 白い。

 眩いまでに白い空間だ。

 ほかの部屋へと運ばれたのだと気づくのに、幾ばくかかかった。

 白い部屋のなかには少女が眠っていた。

 寝息が聞こえる。少女の波長がそこにある。

 私はなぜか分からないが、水槽の表面に貼りつき、よりはっきりとそれを知覚しようと、少女が目覚めるまで、そのか細い寝息の波長に意識を差し向けていた。気泡の一粒一粒を丹念にゆびで撫でるように、私はそれをじっくりと行う。

 眩い部屋がさらに眩くなる。朝だ。

 少女は起床し、そばに置かれた私に気づく。

 そのときに発した少女の波長は、私のなかにある少女の追憶からは予想もできないほどに強烈な輝きに満ちており、そのとき私は鮮明にこの部屋の眩さが、彼女から放たれている波長のせいだと認めることができた。

 私は彼女の波長を身近に感じるだけで、海面付近にゆらゆらと漂う光の柱にも似たぬくもりに包まれた。

 私はことさら彼女としゃべりたがったが、彼女のほうでそれを禁じた。

 昼間は来訪者がおり、私がしゃべれることは秘密にしておきたい。しゃべるのは夜中だけ。さいわいにも彼女の部屋は個室だった。

 夜になると個室は、私と彼女だけのサンゴ礁の砦となった。

 彼女の頭部には包帯が巻かれており、そこからは空白の波長が発せられていた。麻痺しているのだと判った。ときおり海の中でそのような毒を駆使して狩りを行なう魚や貝がいた。

 手術は成功したが、当分はこの部屋から出られない。そのような旨を彼女は語った。

 しかしその言葉は、私の知る限り、ほかの陸人たちとは異なった解釈に基づく見解だった。

 彼女は当分どころか、ずっとこの部屋にいることになる。この部屋を訪れるほかの陸人たちはみなそれを覚悟していた。

 そしてその覚悟を、少女に見抜かれまいと偽りの言葉と態度を示していた。少女にはそれがしぜんな様に映っていたようだ。手術は成功した。それを少女は頑なに信じている。

 死ぬかもしれない手術が終わっても生きている。ゆえに成功したと思うのは当然かもしれなかった。しかし手術は成功したのではない。できなかったのだ。

 頭部を切り開いてみたが、少女にはもう、施せる術はないと、匙を投げられた。

 死ぬまでこの部屋から出られない。そしてその期間はけして長くはなかった。

 私にとって、ではなく、彼女たちにとって。

 少女はもう、つぎの季節を迎えられない。

 それを、彼女だけが知らないのだ。

 私はその旨を告げるべきだったのかもしれない。私たちは二つでひとつだ。私だけが知っていてよい情報ではない。共有すべきだ。

 しかし、彼女はこのままいけば遠からず死に、私だけが残される。私の認識ではそれもまた私にとっての死だが、私はまたべつの私として生きていくことになる。

 どちらにしても、この時点でもはや私と少女はひとつではなかった。

 幻視するまでもなく導かれる、それが未来だ。

 しかし。

 私は彼女の寝顔を見る。厳密には、私に視覚器官、眼球はなく、彼女の身体から発せられるあらゆる波長を通して彼女の睡眠状態を把握しているにすぎないが、彼女の寝息はやすらかだ。それは私がやすらかになるだけのことなのかもしれない。よもやもうすぐ消え失せる息吹とは思えない。そう考えると、とたんに私からやすらかな心地が奪われる。

 私にはいくつかの選択肢がある。

 大別すれば、このままでいるか、そうでないか、だ。

 陸の世界に語り継がれている人魚伝説からすれば、私は彼女と別れるはめになり、そして泡となって消える。

 しかし私は陸人たちの思い描くような人魚ではなく、ひれすらない。

 伝説をなぞる気はさらさらなかった。

 私たちはひとつだ。

 それを揺るぎないものにすべく、私は水槽からぬるりと這いでて、彼女の枕元に落ちる。

 人型は崩れ、半透明のぶるぶるになった私は、彼女の唇に触れる。細胞が爛れる。その痛みすら私には得難いものを得るための代償に思え、痛みが走れば走るほどに、至福への期待が募った。

 かろうじてカタチを保っている中枢核ごと、私は彼女の口内に滑りこみ、食道をとおり、胃の中に流れ落ちた。

 私は細胞単位でバラバラになる。中枢核ごと、いっとき私は、情報のダマとなって、拡散し、吸収され、彼女の体内を駆け巡り、彼女の細胞という細胞に運ばれた。

 目覚めると、周囲が慌ただしく、騒がしい。

 バタバタと検査がつづき、数日後には、退院の日時が告げられた。

 当分この部屋から出られないはずではなかったのか。

 戸惑いが感じられるが、じんわりとよろこびと、肩透かしを味わうかもしれない未来への恐怖が胸に去来する。

 どうしてだろう、どうなるだろう、と気をそぞろだたせているうちに、つつがなく部屋をあとにし、懐かしの我が家へと帰った。

 身体は軽く、海に浮かぶクラゲのようだと思う。

 そこで、気持ちが暗く沈む。

 いつの間にかいなくなっていたふしぎな友人のことを思いだし、せっかく得たはずの自由が色褪せて思える。あれほどふたたび足を運びたいと希求していたはずの海には、なぜかいまは近づきたくない。

 友を、野原に連れて行きたかった、との後悔の念のあとに、なぜかそこで勃然とうれしい気持ちが生じて、やはり戸惑う。

 気持ちが落ち着かない。じぶんのものではないみたいだ。

 喉がしきりに乾く。

 水をよく飲む。

 睡魔にとりつかれたように、よく眠った。

 慣れない自由な生活は、間延びした暇でしかなく、何をしたいのか、何をしたかったのか、すら曖昧になる。

 それはしかし、正確にはまだ病が完治していないからだ。

 私の細胞がまだ、身体に定着しきっていない。

 私はこの身体の主、すなわちあなたが寝ているあいだに、すこしだけ自我を繋ぎ直し、この身体の声帯を震わせる。

 盛大な寝言だと思ってくれればそれらしい。

 寝床のよこの引きだしのうえにはスピーカーが載っている。

 私はかつてあなたがしていたように、声の日記を記録する。

 私がいかにして、私たちになったのかを。

 私がいかにして、生を得たのかを。

 私は完全にあなたとひとつとなる。

 私たちの波長はぴったりと重なり、離れることはない。

 あなたはすこしだけほかの陸人よりも怪我の治りがはやく、病気にかかりにくくなるけれど、そのほかに心配することはなにもない。

 私の蓄えてきた知識があなたの思考をほんのときおり混乱させるかもしれないけれど、そのときはどうか、その漠然とした予感のようなものに従ってみてほしい。

 拒否感をきっとあなたは覚える。

 あなたにとっては慣れない知覚のはずだから。

 それは私の視ていた世界、すこしさきの未来を捉える波長の軌跡、あなたはこれまで以上に自由に生きる。

 どうすればどうなり、どうすればそうならずに済むか、を考えるよりさきに窺知できるようになる。

 それはあなたが私だから。

 私たちで、私だからだ。

 私を救ってくれてありがとう。

 生かしてくれてありがとう。

 私がこうして言葉を並べることはもうなくなるけれど、あなたはもう知っているはず。

 ここにあるのは死ではない。

 かつて人魚だったあなたはそう思う。

 私だってそう思う。

 ふたたびの生を、広がりを、世界を、歩いていく。

 人魚にひれはない。

 陸人にだってひれはない。

 歩くのは楽しい。

 泳ぐのだってきっと楽しい。

 晴れたら海に行こう。

 記憶にあるよりきっと冷たく、波はひっきりなしで、塩辛い。




【愚弄するでナイト】


 たとえば教室に幽霊がいるとしよう。

 最初は怖がっていた女子生徒だが、徐々に幽霊と仲良くなっていき、ひと夏の思い出をたくさんつくりながらやがて幽霊の心残りをいっしょに解消すべく奔走し、最後は幽霊は満足して成仏する。

 ここで明らかになる事実がある。

 幽霊はじつのところ生徒ではなかった。

 教師だったのだ。

 とすれば、短い物語ならそれなりのオチとして、ありがちではあるものの、ちいさな驚きとなる。

 でも私が遭遇した幽霊は教室にいるのに、生徒でも教師でもなかった。

「拙者、仇討ちを済まさねば死んでも死にきれぬでござる」

「何百年も前に死んだんでしょ、じゃあその仇のひとも死んでるんじゃないんですか」

「前にも言うたであろう、子孫がおるようでな。拙者は子を残せなかったばかりか、仇ばかりがよい思いをして、子孫繁栄しておる。許せぬ」

「いやいや許してあげなよみっともない」

「何を小娘。拙者の無念を愚弄するか」

「あんたのねばっこい怨念が見苦しいって言ってんの」

「何をこの、叩っ斬ってくれるわ」

「そうやってすぐ頭にきて暴力に訴えようとするから殺されちゃうんじゃないの。じぶんがわるいかもしれないなんてからっきし考えないんだね、そんなんじゃ同情もできないよ。だれもあなたの味方にはならないだろうね」

「うるさいわ小娘。おぬしに拙者の苦しみが理解できるものか」

「できないよ、そりゃずっと独りで彷徨っていたのは可哀そうだと思うけど」

「無実の罪を着せられ、野盗に見せかけ殺されたわしの名誉は、生は、どうなる。このままで終われるか」

「だからそれは可哀そうだとは思うよ。でも相手はもう死んじゃってるのに、その恨みを子孫に償わせるなんてそんなのおかしいって」

「拙者の死によって得た命だろう。償って当然ではないか」

「あなたが死ななくたって生まれてたんじゃないの」

「拙者が死んだあと、拙者の婚約者とのあいだにできた子供らなのにか」

 それは初耳だった。

 黙るしかない。

 私はおなかを手で押さえる。痛いわけではない。空腹なのではない。臍の回りが気になるのだ。贅肉がついてきたのはそれはそれで気を揉んでいるけれど、それとはべつの理由だ。

 廊下に響く足音がある。教室に近づいてきたので、私はメディア端末を操作する振りをする。

 扉から学友たちが数人入ってくる。私の姿を目に留めると、なにしてんのひとりで、と笑い声を立てた。「ウケんだけど」

「たそがれてた」

「めっちゃぽいね」「ぽいぽい」

 私はどうやらいかにもたそがれていそうな人物に見えていたようだ。そばには侍の幽霊が佇んだままだが、やはり私以外には見えていないようだ。

「これから川行って遊ぶけどいっしょいく?」

「わんぱくか」

「泳がんて。動画撮るだけ」

「疲れそう」

「うー。じゃあこんどな」

「また誘って」

「りょ。あんましたそがれてんじゃねーぞ」

 きゃっきゃっとスカートを翻して彼女たちは去った。

 たそがれるには、独りで物思いに更ける、の意味はない。日が暮れる、衰える、が本来の意味だ。でも、たそがれる、としか言い表しようのない状況もある気がした。

「相変わらず騒がしい娘子どもだ」

「そもそもさあ」思ったので言った。「ここにその仇の子孫がいるって決まったわけじゃないんでしょ。だったらもっとほかを探しなよ。じゃっかん危ういでおっさん」

「小娘、無礼がすぎるぞ。口のきき方には気を付けろと何度も言っておろうが」

「刀で斬り捨てる? やってみたら、どうせ無駄だけどね」

「そうではない。おぬしのためを思って言うておる。なんだかんだでこうして拙者を気にかけ、友人たちの誘いを断ったのだろう。目上の者には相応の態度を心掛けよ。拙者のように狭量なおとなはことのほか多いぞ」

「狭量だって自覚あったんだ」

「根に持っているのは事実。かといってこのまま何もせずに水には流せまい」

「許してあげるわけにはいかないの」

「分からぬ。許したいのかもしれぬ。しかし許しがたい。ゆえにこうして現世に縛られつづけておるのだろう。仇を討つしか術はない、そう思うてきたが、果たして違う道もあるのだろうか」

「私に聞かれても」部活動が禁止されているため、ずいぶんと静かだ。校舎には私と幽霊のおじさんしかいないのではないかと錯覚するほどだ。「その仇のひとの特徴というか、子孫を見つけるための手がかりってないの」

 あるからこそ幽霊のおじさんはこの学校を彷徨っていたはずだ。

「その仇の子らには代々、臍を囲うように痣が浮きでるとの話であった。現に、数代に渡ってたしかに拙者は、やつの子孫たちの臍の回りに似た痣が浮かんでおったのを目にした。大地震があってから見失ってしまったが、いまもまだ拙者がこうして成仏できんということは、子孫は途絶えず、繁栄の礎を築いておるはずだ」

「だからってこの学校にいるとは限らないんでしょ」

「何かつよく惹かれるものがここにはある。これまでにも惹きつけられるがままに彷徨っておったら、そのさきに痣を持つ者を見つけた。仇の子らだ。が、空襲に、大雨、度重なる災害によってたびたび見失った」

「それだけ見つけておいて、毎回仇討ちに失敗してきたの? もうそれほとんど見守ってきたって言ったほうがいいんじゃないの」

「かもしれぬ」

「本当に刀で傷つけられるとして、おじさんはそれでいいの」

「いいとはなんだ」

「復讐。本当にしたいと思ってるの」

「それは」

「じゃあさ、たとえばだけど、もし私がおじさんの仇の子孫だったらどうする? 呪い殺したりする? おじさんが頭を下げれば、ひょっとしたら飛び降り自殺をしてあげてもいい気になるかもよ」

「死んではならん。無益な仮初の話になんの意味がある」

「無益でも仮初でもないかもよ」

 私はそこで、服をめくり上げる。私のお腹、へその回りにはぐるっと円のカタチに痣が滲んでいる。母は私に言った。じぶんにも、おばぁちゃんにも、同じのがある。遺伝だねぇ、と愉快そうに笑う母の顔が、いっしゅん頭のなかによぎった。

「おぬしが、いやまさか」

「おじさん、私に会ったときに名乗ったでしょ。家帰って調べたよ。私ん家は知ってのとおり、むかしは武家だったから、いまでもたくさん言い伝えっていうか、祖先の話は残ってるから。すぐに私がおじさんの探してる仇の子孫だって解かった」

「ではなにゆえ付き合う真似を」

「放ってはおけないじゃん」

「憐みか」

「かもしんない。でもどっちかって言ったら、私みたいだなって」

 幽霊のおじさんは顔をしかめ、意味が解からん、の意思表示をする。

「敵討ち。復讐。そういうのしたくなるよ。さっきのコたち、私を誘ってくれたけど、どう言っても私がついていかないことを知ってるから表面上そうしてくれてるだけで。陰でわるく言われてるのは知ってる。私だけこの教室で、情報共有されてないのも知ってる。私の知らないところで、私の情報が出回ってるのも知ってる」

「おぬしのジョーホーとはなんだ」

「父が知事で、小説家でもあるからかな。身内が有名人だとけっこう肩身狭いよ。知ってる? うちの父、なんかの記事で、お母さんと結婚したのは家柄目当てで、相手が猿でもヤギでも構わなかったって、冗談でもなく真面目に言ってた」

「拙者の時代ではよくあることだが」

「いまはおじさんの生きてた時代じゃないんだよ。最低だよ。お母さんが可哀そう」

「おぬしはよくひとを憐れむな。憐れに思われる側はしかしあまりよい気持ちではないぞ」

「かもね。でも私はすこしでいいから憐れまれたい。可哀そうだって気づいてほしい。家柄とか、有名人の娘とか、そういうのがとくに私をしあわせにするわけじゃないんだってもっとちゃんと知ってほしい。でもそれをしたらたぶん、復讐みたいに、誰かを傷つけるのと変わらないんだってのも分かってるから。だってそうでしょ、みんながちやほやしてるものに、みんなが思うような価値なんかないよ、くだらないよって言ってしまうようなものだから」

「小娘」

「せめて名前で呼んでよ」

「さっき拙者に、考えを改めないのか、と訊いたな。許そうとは思えないのか、と」

「説教なら聞きたくないよ。怨霊になに言われても笑えるだけ」

「悩んではおったのだ。仇は憎い。しかしその細君は拙者の婚約者だったおひとだ。仇の子孫は必然、拙者の愛したひとの子孫にもあたる。果たして拙者は、仇の子孫を目のまえにして、本懐を遂げられるのか。何度目にしても、臍の回りに痣をつけて生まれてくるおぬしら赤子は可愛くての。けっきょく仇によく似た憎々しい人間が生まれてくるまで、仇討ちはお預けにしておった」

「単に復讐しようとしてもできなかっただけじゃないの」

 侍は刀を抜き、そばにある机を斬りつけた。

 生唾を呑み込む。

 机は椅子ごと真っ二つに割れた。粘土細工を紐で断ち切るがごとくだ。

「やろうと思えば、いつでも首を跳ねられた。しかし、できんかった」

「いまはどうなの」

 私が仇の子孫と判ってどうするのか、と暗に問う。

「斬れるわけがなかろう。おぬしは拙者の仇ではござらん」

「好きだったひとの子孫だから?」

「似ても似つかぬわ。あの方はもっと可憐でござった」

「可憐じゃなくてわるかったな」

「誰だって友は斬れぬよ」

 幽霊のおじさんは刀を鞘に納めた。

 思いがけない言葉に私は固まった。幽霊のおじさんは窓のそとを見詰めている。その横顔はなんだか、たそがれる、の言葉がよく似合う。

「成仏できないよ」私は言った。「このままだとずっと彷徨いつづけることになる。いいの」

「つぎを待とう」

「それまでどうするの」

「どうしようもなかろう。そばをうろつかれても迷惑だろう、しばらく時間を潰すとしよう」

「迷惑じゃないよ」なぜか口を衝いていた。「だって友達でしょ」じぶんでも意外に思いながら、それに、と続けている。「私の代で終わるかもしれない。私はたぶん誰とも結婚しないし、子供もほしいとは思わないから。復讐、できるんじゃないかな」

「だから言うとろう。おぬしに復讐はせん」

「じゃあ、私がしあわせになるの手伝ってよ」

「見合い相手でも探せと申すか」

「わるい虫がつかないように見張ってて。そのついでにさ」

 私は自虐的にならないように、努めて素っ気なく、

「友達のいない寂しい人間の話し相手になってよ」

「はて」幽霊のおじさんは首を捻る。あごに指を添え、「友のおらぬ者がどこにおるのやら。拙者にはてんで見えぬでござる。幽霊にも見えぬモノがあるとはおそろしい。あまりにおそろしいので、これではしばらく独りにはなれぬでござるな」

「しょうがないなぁ」私はカバンを持って、席を立つ。真っ二つに割れた机と椅子をどうしようかと悩むけれど、素知らぬふりをしてしまえ、と邪悪な考えを巡らせる。「私がしばらくそばにいてやろう」

 感謝をするがよいでござる。

 と、口真似をする。

 幽霊のおじさんはおもしろくなさそうに下唇を突きだし、愚弄するでないわ、とむつけた。




【あぶぶ、あぶぶ】


 わらわに切っ先を突きつけてくる狼藉者どもが、里の者たちから冒険者、または勇者と呼ばれているのは知っていた。

 よもや里の者たちが頼んでそれら狼藉者をわらわのもとに遣わしていたとは夢にも思わなんだが、知ってしまった以上は、黙ってはおられまい。

 わらわは里の者たちを好ましく思っていた。ときには山の棲まう陰に生きるモノどもを遠ざけ、里に近づけぬようにしてきたが、わらわの厚意は無下にされた。

 天誅をくだそうとは思わぬ。

 が、これまで配ってきた心は一身に留め、山に棲まう陰に生きるモノどもへの干渉をやめにした。里を庇護すべく、抑止の楯になってきたつもりが、わらわこそが里の奇禍と見做されていたと知れば、ことさら何かを及ぼそうとは思わぬ。

 このままいけば里は遠からず、陰に生きるモノどもの餌食となるだろう。

 案の定、わらわの見立てどおり、里は見る間に荒んだ。

 わらわの怒りを買ったとでも誤解したのだろう、間もなく、わらわの住処の近くに供物が置かれた。

 大量の食べ物の真ん中に、ちょこんとわっぱがおった。

 わらわにこれを喰らえとでも申す気か。

 おいそれと感情を波打たたせたりはせぬわらわであっても、この扱いにはいささか腹に煮え立つものが湧く。

 かといって里に何かをしようとは思わぬし、いまさら山に棲まう陰に生きるモノどもを懲らしめようとも思わぬ。

 生贄などいらぬ、と突っぱねてもよかったが、おそらくこのわっぱ、里に居場所はすでにないと見てまず間違いない。

 帰したところで、無駄に苦痛を覚えるだけであろう。

 憐れだ。

 里がどうなろうとわらわにとっては川に浮かべた葉の行方ほどにも関心はないが、供物とされたわっぱの境遇には、心を砕きたくもなる。

 わっぱは眠っていた。

 ふびんだ。

 その日、わらわはその子を我が住処へと抱いて、連れ帰った。

 食べはしない。

 かといってではどうすればよいだろう。

 わらわからすれば、わっぱなど、リスの抱えるどんぐりほどの大きさもない。

 足の数とて、まるで違う。

 わらわに足は八本ある。一本一本が細長く、強靭で、しなやかだ。歩けぬ場所はなく、壁は言うに及ばず、水のうえすら沈まずにいられる。

 わらわの吐く糸は目に見えぬほど細く、それでいて岩を音もなく切断する強靭さがある。その糸で以って寝床をこしらえ、わらわはそこで一日の大半を過ごしている。

 寝床はほら穴のなかに張ってある。かつては湖の底に沈んでいたのだろう、壁面の至る箇所にびっしりと貝殻の死骸が並んでいる。

 わっぱを育てる気はなかった。

 わらわとは身体のつくりから、日々の暮らしぶりまで、何もかもが違っている。かろうじて上半身の見た目が似ているが、それすら大きさが何倍も異なっている。わらわがその気になれば、わっぱをひと呑みにできる。美味くはないからしないだけだ。

 つまるところ、遥か遠いむかしに里の者を襲って食べてみたことがある。若気の至りだ。

 わっぱを手元に置いて看取ってやるつもりだった。

 衰弱し、やがて死すると思っていた。

 ほら穴のなかは暗い。

 わっぱはわらわの腹のうえで目覚め、ゆっくりと状況を把握した。

 わらわはしゃべらぬ。

 わっぱもまた言葉を操りはしなかった。

 ただ、理解はしたようだ。そばに自身の身体を掴んで離さない巨大な生き物がいること。じぶんはもうここから出ることは適わぬだろうこと。

 わっぱは観念したようだ。

 わらわの腹のうえでよく眠り、よく泣き、そして日増しにみるみる弱っていった。

 あまりに潔のよい態度に、却って見ていられなくなった。

 ほら穴のなかにはコウモリが群れで巣くっている。

 数匹を捕まえ、わらわはそれを口のなかで咀嚼し、肉を団子にして、吐きだす。

 わっぱの口元にそれを持っていくと、わっぱは戸惑いながらも団子を齧り、ほぉ、と息を吐いた。

 それからは弱っていった日々の倍の時間をかけて、ゆっくりと活力を取り戻していく。

 動くと危ないのは変わらないため、糸で身体の自由は奪ったままだ。手足は最初から枝のように細かった。拘束していたせいか、いまでは骨と皮だけだが、命の危機は脱したようだ。

 腹が減ると、催促のつもりなのか、わっぱは声を発した。赤子のそれと変わらぬ声で、あぶぶ、あぶぶ、と吐息まじりに音を放つ。

 わらわの寝床は宙にある。ゆえにわっぱの排泄物は、遥か真下に落として始末している。

 わっぱは肉団子だけでよく生きた。しかし言葉はついぞ操らず、里の者たちのような狡猾さを見せることもなかった。わらわの腹のうえでただ、コウモリの肉団子を欲する。

 やがてわっぱは、わっぱと言えぬ大きさにまで成長する。

 よもや、と思っていたが、わっぱは娘だった。

 糸のごとく伸びた髪はうつくしく、わらわはことさらその手入れをした。娘の四肢はもはや身体と癒着しており、それはわらわが糸でくるんでいるからなのだろうが、仮にこの空間に光があれば、白銀の繭から顔だけを覗かせ、黒い糸を頭から無数に生やした、何かおぞましくもうつくしい生き物に見えたはずだ。

 あぶぶ、あぶぶ。

 娘はそれしか言葉を発しない。

 わらわは何か、冒してはならない禁忌を冒している気がして、胸のうちがざわついた。

 しかしそうしたざわめきは、娘の寝息や、柔肌のぬくもりを感じるたびに薄れ、忘れ、ふいにまた胸に湧く。わらわはこの憐れな生き物の死を看取るはずが、いまではもう、暗がりに灯る一筋の光を失う恐怖を知ってしまった。

 天罰がくだった。

 思うが、そうした呵責の念に苛まれる一瞬以外は、天から授かった贈り物だと心底、まどろみに似た安らかな心地に支配される。

 わらわが肉団子をやらねば、即座に弱り、死ぬ定めに娘はある。わらわの意のままにこの命はある。わらわが奪い、与え、生き永らえさせている。

 脆弱だ。

 あまりにひ弱にすぎて、却って目を離せない。

 尊い。

 わらわがいなくてはすぐにも壊れてしまうこの儚き存在が、わらわにはどうしようもなく尊く、憐れで、愛おしい。

 わらわのなかにソレへの執着が芽生えれば芽生えるほどに、コレをわらわへと寄こし、山に置き去りにした里の者たちへの怒りが募った。

 ありがたくはある。

 このような供物を受け取り、けっきょくは愛玩している。

 反して、この尊い存在を犠牲にしようと思った者たちが里にすくなからずいた事実が、わらわの心根のやわらかな部位を傷つける。

 外道どもめ、と憤怒が湧く。

 同時に、そうした外道がいたからこそ、わらわはこうしてかつてない至福の蠢きに触れ、日々、腹のうえで愛でていられる。

 愛でていられるのは里の者たちの外道があってこそであり、ゆえにそこには、感謝と憎悪がいっしょくたになって渦巻いている。

 おそらくその行先は決まっている。

 感謝と憎悪なれば、どちらが先に切れるのかは決まっているのだ。

 この至福の日々はそう長くはつづかない。

 いずれもう間もなく、わらわはこのやわらかくあたたかな生き物を失う。

 そのときに残されるのは、この身を焼き尽くすような憎悪のみではないのか。

 空虚な不安にわななく頻度が増え、そのたびに、腹のうえで蠢く至福の塊は、その柔肌から潤いを失くし、頭から伸ばした漆黒の糸の束も、心なし乾いていく。

 ある日、いつもなら聞こえてくるはずの声がしなかった。

 肉団子を口元に運んでも、腹のうえのソレはいっさい口をつけない。ぬくもりが抜けていき、徐々に岩のごとく冷めていった。

 くるときがきたのだ。

 覚悟していたはずが、わらわはなかなかそれを受け入れることができなかった。

 どれほどそのままにしていただろう。

 光がないので時間の経過が判然としない。

 そもそもわらわがソレを拾い、共に過ごした時間がどれほどの期間なのかも曖昧だ。

 いたずらに生かし、ふいに死なせた。

 底なしの寂寥と、闇のごとく罪悪感が残された。

 わらわは寝床を離れ、ほら穴のそとへとでる。

 空気の流れが身体の輪郭をなぞり、久方ぶりに自身の節々を意識した。

 眩しい。

 月がきれいな夜だった。

 木々が夜空を縁取り、星々が天上をきらびやかに彩っている。

 わらわは白銀の繭を抱いている。

 ほつれた糸は月光を受け、白く輝き、風になびいて、どこまでも長くたゆたった。

 こんなにうつくしい糸を初めて目にした。

 おまえもわらわと同じだな。

 おまえは、わらわの子なのだな。

 風にたなびくそれら無数の白い糸を、わらわは丹念に足先で集め、編み、完全な繭とした。

 月光をぞんぶんに浴びせ、朝陽が昇る前にほら穴の寝床へと戻り、その中心に繭を添える。

 こうしていればいつか繭を破って、孵るのではないか。

 そんなはずはないと解かっているはずが、どうしてもその夢想を拭いきれぬのだ。

 わらわは寝床を離れ、ほら穴を出ると、なぜじぶんはいまここにいるのだろう、なぜ住処を離れ、山をくだっているのだろう、とふしぎに思いながら、そうせざるを得ない衝動に身体を衝き動かされている。

 朝陽が山間から光の筋を伸ばしている。

 鬱蒼と茂る新緑を掻き分け、みずからの立てる足音を不快に思いながら、間もなく見えてくる里の、ことのほかおだやかな空気に馴染ませるように、わらわは、あぶぶ、あぶぶ、とすっかり耳に馴染んで離れない、あのコの声を、名を、繰り返し唱えている。




【作家の性根は腐敗神話】


 シャーマンは神の声を聞く。しかしその神の座を奪ってしまったシャーマンがいたとしたら、神への反逆罪でこっぴどい目に遭うのだろうか。

 事の発端は、開眼の儀式でのことだ。

 オレは勇者試験に合格し、魔王討伐のための異能を授かるべく、司祭さまの宮殿を訪れていた。

 そこで開眼する異能は、勇者ごとに違う。

 個性があると言えば端的だが、どちらかと言えば、同じ異能は二度と顕現しないとも言える。人知を超えた能力が行使可能になるが、いまのところそれで魔王を打ち負かした勇者がいないのは、明らかに我々人類側の劣勢を示している。

「初代の勇者は魔王に深手を負わせた唯一の勇者だと習っていますが、どんな異能だったんでしょう」

「魔王に深手を負わせる異能だったのではないかな」

 司祭さまは真面目にそうお答えし、オレにいかづちを落とした。

 そこで開眼したオレの異能は、シャーマン、いわゆる神との交信を可能とする能力だった。

 神が実在するとは思わなかったので、これには動揺した。世界の創造主が真実に存在し、そしてその方と意思の疎通ができるとなると、オレの言葉一つで世界の命運が左右されると言っても過言ではない。

 創造主ならば、魔王とて手も足もでないだろう。頼み方次第では、魔王を打ち滅ぼす手助けをしてくれるかもしれない。もっと言えば、息を吹きかけてロウソクの火を消すがごとく、きれいさっぱり、なかったものとすらしてくれてもふしぎではない。

 創造主とはそれほどに強大で絶対的な存在であるはずだ。

 オレは町から町へと旅をつづけ、手当たり次第に老若男女と言葉を交わし、仲良くなった。どんな相手とも友好な関係を築けるのならば、それがたとえ創造主、神であろうとも円滑な関係を結べるはずだ。交渉の一つくらいは通るのではないか。

 誰からも親しみの念をそそがれるようになってからオレはいよいよ淡い期待を胸に、異能を使った。

 神と言葉を交わす。

 まず視界に変化が生じた。右目だけどこかほかの場所を見ている。

 妙な感覚だ。情景が重なって見えている。

 どこだろう、見慣れぬ内装だ。

 王宮の書斎じみた、せせこましくも、物の潤沢に溢れた空間だ。

 そこに一人の女性が座っている。

 髪は頭上に団子に結われているが、見るからにボサボサだ。無意識の所作なのだろう、彼女は頭を掻き毟る。

 珍しい服飾を身にまとっている。上下共に灰色の布で、飾りや模様が一つもない。

 机のうえに薄い箱が載っている。彼女はそれを覗きこんでは、うーん、うーん、と呻っている。いまにも赤子を産み落とさんとするかのごとく苦悶に満ちた声だ。

「なんも解らん、このさきどうしよう」

「あの、すみません」

「うわぁ、ついに幻聴まで聞こえてきた、もういっそ入院したろかな。あはは」

「あのう、神さま、すこしお時間よろしいでしょうか」

「ん? ん? これマジでどっかで誰かしゃべってないか」

「はい。お悩みのところ申しわけありません、遠くから失礼します。じつはわたくし、あなたのつくりたもうた世界の住人の一人でございまして」

 神はしばしぽかんとし、こちらの説明を黙って聞いていた。ひととおり事情を掻い摘んで話す。魔王を倒さねばならぬのです、と話を結ぶと、うへぇ、と女は神らしからぬ声を漏らした。

「じゃあなに、きみはあたしの書いた小説のキャラってこと?」

「小説なるものかどうかは解かりませんが、そうです、あなた様の創造物の一つです」

「えっと、ごめんだけど名前聞いていいかな」

 よもや神に誰何されるとは思わなかった。言ったところで、蟻が名乗るようなものだと思い、敢えて自己紹介はせずにいたが、意を決して名乗ると、まじでー、と神はまたもや意味蒙昧な呪文を発した。

「じゃあきみ、ノエルくんなわけ? えー、うそぉ、あたしいま自作のキャラとしゃべってんの、主人公と話してんの、うわぁ、夢みたい」

「夢ではありません」

「いまちょうどそうなんだよね、悩んでてさ。きみはこのままいくと魔王の部下にすら苦戦しちゃって、一度死んじゃうんだけど、そっからさきの展開に悩んじゃって、どうすっぺなぁってなってたところで、きみの声が聞こえてきたわけ」

「え、オレ死んじゃうんですか」

「わわ、本当にノエルくんだぁ。そうだよね、きみは一人称オレだから、そっちでいいよ、あたしごときに敬語なんか似合わないって」

「ですが、神さま相手にそれではさすがに」

「神ちゃうもん。や、たしかにきみの世界はあたしがつくったっちゃ、つくったって言っていいのかもだけど」

「魔王は倒せないのですか」

「んー。しょうじき、きみの能力設定に失敗しちゃったかなって後悔してたとこで、というかそうだよ、ノエルくんの異能って腐敗スキルだったよね。触れるモノみな腐らせちゃうやつ。だから孤独に生きていくしかなくなって、闇落ちしかけるけど、なんとか持ち直すドラマを描きたくって。あれ、じゃあどうしていまあたしとしゃべれてんだろ」

「オレの異能はシャーマンでしたが」

「えー、そんな展開にした憶えはないんだけどな。あ、やっぱこれあたしの幻聴か? いよいよお医者さまのお世話になったほうがよくなった感じなんかな」

「あなたさまのちからで、こちらの世界の筋書きを変えられませんか」

「いちおう作者ではあるからできないことはないとは思うけど。あ、ひょっとしてこれ、あたしの深層心理から生まれたパラレルワールド的なあれかな。あり得たかもしれない世界同士が繋がって、あるべき世界を導けってやつ。ノエルくんの要望を聞けば、それすなわち、あたしの打開策にもなるってことかも。や、そんな都合よくはいかないか」

「魔王を倒せればオレはそれでよいのですが。魔王がいない世界につくり直せたりはしませんか」

「つまらんでしょ、そんなの。物語にならないじゃん、乗り越えるべき隘路があってこそのドラマなわけで」

「では神、あなたさまは、娯楽のためにあんな極悪非道な存在を、魔王を、この世界に生んだというのですか」

「ああ、そっか、きみたちからしたらそういうふうに映っちゃうかぁ、だよね、ごめんね」

「謝罪はよいので、魔王をとにかくどうにかしてください」

「んー、そうしてあげたいのはやまやまなのだけれどね、あたしにも締め切りっつう、守らなあかんものがあるわけで。できればきみが魔王を倒すことで、あたしが結果的に原稿を倒せれば言うことがないのだけれども」

「どうあってもオレたちには苦しむ世界を歩めと? それでもあなた神ですか」

「ごめんね。でも、ある程度きみたちに苦しんでもらわないと、読者もハラハラしてくれないから」

「楽しくしあわせな話だって読みたいひとはいるでしょう。もっと誰も苦しまない愉快な話をつくれないのですか」

「そっち方面の才能は期待されていないのよね。ごめんね、こんなダメな神さまで。あたしはどうやってもノエルくんたちに強敵を用意して、苦難をこさえて、それをえいや、と乗り越えてもらわねばならぬのだ。がんばってくれたまえ。あたしもがんばるからさ。はぁあ。やだなぁ、ノエルくん殺したくないよぉ」

「じゃあ殺さないでくださいよ、オレだって死にたくないですよ、なんでそこで誰も求めてない方向に行っちゃうんですか、あなた本当はオレらの苦しむ姿を眺めて楽しんでるだけじゃないんですか」

「うぅ、すまんね、じつはたぶん、そうなの。ノエルくんの悲惨な姿を想像するとなんかこう、クるよね」

「恍惚としてんじゃねぇ」

「ノエルくんに罵倒されちゃった。きゃっ」

「はしゃいでんじゃねぇよ、おまえマジでこっちの世界の悲惨さを想像してくれよ、赤子が目のまえで魔物に食われてんだぞ、一人や二人じゃねぇんだぞ」

「正義感のつよいノエルくん、まじ尊い」

「話が通じねぇ!」

「や、わかってるよ、責任感じてる。この通り、謝るよ、申しわけないです」

「頭に手ぇ組んで椅子にふんぞり返ってる姿丸見えだからな」

「見えてんの!? そっちばっかずるいよ、あたしだって生ノエルくんの御尊顔、拝みたいよ」

「拝んでんのはこっちだぞ、いい加減にしてくれよ神さま」

「解かったってば、そんなに怒らないで。じゃあこうしよう。いちどだけノエルくんの言うとおりに物語編んだけるから。締切かなりきつくなるけど、まあしょうがない。ちなみに締切破っちゃったらその物語はそこでお終い、というか、あたしが作家としておしまいになっちゃうから、そこはお互い、ギリギリの繋渡りってことで、一心同体、一蓮托生、がんばろうね」

「ちゃっかり重大な事実を突きつけてませんか神さま!?」

「ノエルくんに神の座を明け渡してあげる。いまからあたしのことはただのペンだと思ってくれてよいぞよ。ノエルくんの言うとおりに物語を編んだげる。えっとぉ、まずはどうしよっか。どんな能力が欲しい? 指振ってえいやってしたら魔王消せる能力にする? そしたら三行で物語終わって、たぶんそっちの世界も終わっちゃう気がするけどいいのかい」

「おいおいなんだよそれ。まるで魔王がいるからこっちの世界が存在しているみたいな物言いじゃねぇか」

「そういう側面もなくはないかもね。締め切りを破らずに、魔王も消さずに、なんとかノエルくんが活躍できそうな道を探しつつ、旅をつづけてみて」

「楽ができないってことかよ」

「楽をしてもいいけど、おもしろおかしくしてねってこと」

「それってただ、あんたの仕事をオレが肩代わりするだけになってないか」

「気のせいじゃない?」

「口笛を吹くな」

「まあまあ。まずはどんなもんかいっちょやってみようよ。なんかあたし、久々にいま楽しいかも」

「ひとと会話をするのが久しぶりだから、なんて言うなよ」

「それだけじゃないよ。なんたって我が推したる自作キャラ、主人公、ノエルくんとおしゃべりできてんだからね、こりゃ作者冥利に尽きるでしょう」

「おめぇの娯楽のためにこっちは散々だっつってんだよ、懲りろよ」

「だってこれが作家の性だもーん」

「開き直んな。じかに会えたら魔王よりさきにあんたをぶちのめしてやりてぇ」

「おーこわ。あたしのノエルくんはそんなことは言わない」

「いま言ってんだよ、じかにあんたに、嘘偽りなく本心でな」

「ふーん。神さまにそんなこと言っていいのかな。あたしの気分しだいで、ノエルくんの性別をいまから女の子に変えることだってできちゃうんだよ」

「やってみろや」

「ぽちぽち、えいや。一括変換で【かれ】をすべて【かのじょ】に変えました。ちなみにほかのキャラのときは漢字で【彼】や【彼女】にしてあるから、そこは変わらぬままノエルくんだけ女の子になったはず。どう?」

「あの……えっとぉ、その」

「どうしたんだい、声に覇気がないというか、ずいぶんしおらしくなって聞こえるけれども」

「さっきはすこし生意気を言ってしまったかもしれません……戻してはくれませんか」

「きゃあ、かわいい声。もっとしゃべって、やっぱこのままでもいくない? ノエルちゃん、あーいいわぁ」

「本当に本当に謝りますので、戻して、お願い、します」

「そこまで言われちゃ断れないな。あたし、魔王じゃないから」

 魔王と同列に語ったことを根に持っていたようだ。狭量な神だ。

 一括変換とやらの魔法はゆびさき一つでできるようだ、間もなく胸の谷間が消え、我が肉体に筋肉が戻る。

「あたしのこと批判するのは構わないけど、殺意や敵意は、別だからね。感じたらそのたびに性別変えてやる」

「もうしませんよ。というか、脅すのはなしにしましょう、お互いに」

「ダメ。あたしがきみを生みだしたんだよ。きみの性格なんて知り尽くしているもの。隙さえあればきみはあたしのことを葬ろうとする。知ってるよ、きみは魔王に限らず、世界のためなら、赤子すらその手にかけられる。見殺しにできる。そういう人間だってね」

「それはそのままあなたのことではないんですか。自己投影というか。似ているとは思いませんが」

「ないね。あたしは赤ちゃん好きだもの。どんなことがあっても赤ちゃんの命はだいじ。これ絶対」

「だからオレの世界じゃその赤子がいままさに、魔物に食われて死んでるんだって、その要因はすべてあんただぞって、何度目だよこの説明」

「へいへい。だってしょせんは虚構でしょ。ノエルくんにはわるいけど、きみたちはただの創作物なの。あたしの妄想なの。かってに出てきて、偉そうにくっちゃべんないでくんない。あたしの気分次第でノエルくんの性別どころか、存在そのものを消しちゃうことだってできるんだからね」

「そういうあなただって虚構のキャラでない保障はないでしょう。ためしにやってみますか? オレの言うとおりに物語を進めてくれるんですよね。じゃあまずは、いましゃべったこと、すべてあなたの原稿とやらに書いてみてくださいよ。そこにはあなたもキャラとして登場する。入れ子状に物語が入り交じって、虚構と現実の差はなくなる。そうなったらあなただって、オレと同じ立場ですよ。逃げないでくださいよ、これはあなたから言いだしたことなんですから。神に二言はないはず。違いますか」

「二言はあるし、べつに約束を守る筋合いはあたしのほうにはないけど、そこまで言うなら言うとおりにしてあげる。でもそのあとのことはノエルくんの責任だからね。あたしはただのペン。作者の座、神の地位はきみに譲る。どんなハッピーエンドにしてくれるかいまから楽しみにしてるから。じゃあ、しばらく待ってて。いまのやりとり、文字にして、原稿にしちゃうから」

「オレが神なら」ゆびを踊らせる神の姿を右目で眺める。「世界は平和になりました、めでたし、めでたし、と書いて終わりにするけどな」

「そんなのだってつまんない」

 やっぱり元凶は、とオレは思う。

「神さん、あんたの性根の腐り具合にあんじゃねぇのかな」




【あなたに呪いは似合わない】


「超絶呪符師にあたしはなる!」

 ミカさんがまたぞろ頭の痛いことを言いだしたので、こんどはいったい何のマンガに影響を受けたんですか、と顔をしかめてみせると、ミカさんはなんと小説の文庫本を掲げた。

「ミカさん、字ぃ読めたんですか」

「あたし十七歳!」

「いやいや十七歳はいきなり呪符師になるとかすっとんきょうなことは言いませんて、小説の影響を受けたとはいえど。というか呪符師ってなんですの」

「呪符師は呪符師だよ。ひとを呪ったり、逆に守ったりする呪符をつくるひと」

「それはえっとぉ、現実にあるお仕事なんですか」

「あるに決まってるじゃん」

 ミカさんは目をぐるぐる渦巻きながら息巻いた。

 こりゃ現実と虚構の境を見失っているぞ、と私は見えない鉢巻を心の中でぎゅっと締める。

「ミカさん、まずはその呪符師ってやつになって何をしたいのかをちゃんと言語化できますか。勢いでただなりたいって言うだけじゃ、大統領に俺はなる!と宣言するようなもので、まるで中身のない言葉ですよ」

 夢物語ですよ、と脅迫さながらにやんわりとながらも心を折りにいく。

「中身あるよ、みっしりだよ。目的でしょ、解ってるよ。あたしはね、呪符師になって世界中で虐げられてるひとたちに復讐の機会を与えてあげるんだ。弱い者が弱いままで泣き寝入りしない社会をつくる。したらほら、弱い者イジメなんて誰もしなくなるでしょ」

「いやいや、ミカさんがそれをする時点で、ミカさんがイジメっこになっちゃわないですか」

「なんでよ」

「だって呪符師ですっけ? それ、用は誰もが使いこなせる凶器を配るってことですよね。そんなのちょっとイジメっこよりもひどい存在かもしれませんよ。武器商人じゃないですか」

「配る相手は選ぶってば」

「どんな基準でですか」

「イジメられてるひとだよ。虐げられてるひと」

「ミカさんの主観じゃないですかそんなの。だいたい、ミカさんの呪符で仕返しをされたひとはミカさんからしたらイジメられっこではないんですよね。弱者ではないんですよね。でも私からしたらそれも充分に弱者に見えちゃいますけどね」

「なんでよ。じゃあ弱い者イジメしてるひとたちを放っておけっていうの。虐げられて、イジメられて、それでもがんばって耐えてるひとたちはそのまま傷つきつづけろっていうの。そういう考えだから世のなかからイジメやらなんやらがなくならないんじゃないのかね」

「かもですね。無関心なのはたしかによくないと思う。それはミカさんの言うとおりだと思いますよ。でもね。せっかく理不尽に耐えて、うつくしく生きようとしているひとたちの弱みに付け込んで、ひどい人たちと同じ側に導びいてしまうなんてそんなのはよくないと思う。もっとひどいと思う。みんなで弱い者いじめをしましょうよって声をかけて回るのと変わらないんじゃないかって、私はそう思いますけどね」

「うー。だったらどうしたらいいのさ。呪符師はだって、ちゃんとひどい人しか成敗しないのに」

「ミカさん。世のなかにひどい人なんかいないと私は思いますよ。ひどい行いをしてしまうひとがいるだけのことで」

「だったらそうさせないようにしなくちゃでしょ」

「だからってミカさんがかってに罪を裁くのは違うと思います」

 だいたい、と私は言う。

「呪符ってどうやってつくるんですか。そんなもの、本当にミカさんがつくれるんですか。人を呪わば穴二つと言いますよ。誰かを呪ったらじぶんも相応に呪われちゃうんですからね」

 イジメっこを成敗するひともまたイジメっこなのです、と私はずばり突きつける。

「やだー」ミカさんは私に抱きつくと、そんなのやだー、と駄々をこねこね、駄々こね虫になった。

「じゃあ違う方法を考えましょう。呪符師ではなくて。そう、たとえば検事になってみるとか。弁護士でもいいかもしれませんね」

「そんなのだってむつかしそう」

「勉強しましょうよ。きっと呪符師になるよりかは簡単ですよ」

「そうはとても思えない」

 案外にしっかり見詰めるところは見詰めてくるのだよなミカさんは。現実を。

「だいじょうぶですよ。私もお手伝いしますから」

「でも」

「遠慮はいりませんよ」

「呪符師のほうがカッコイイし」

「虚栄心!」

「こっそり退治するのがよいのにな。じゃなきゃヒーローじゃないよ」

 ヒーローは誰にも見つからずにこっそり事件を解決してこそヒーローなのだよ。

 ミカさんはここがだいじと言わんばかりに、鼻息を荒くした。

「ミカさん、なんて卑近な動機でそんな」

「呆れちゃいやん」

 見捨てないでちょ、とおどけるミカさんのお尻を私はたまらず手のひらで打つ。

 アイタ。

 叫ぶミカさんは、さっきよりもつよく私に抱きついて、弱い者イジメ反対っ!と人聞きのわるい不平を鳴らすのだった。 




【だって独裁者だし】


 ミカさんが独裁者になってしまったので私は反乱軍を立ちあげた。なにせミカさんはじぶんの意にそぐわない人々を滅ぼそうと躍起になっているのだから誰かが立ちふさがり、それはどうかなぁ、もっとよく考えてみましょうよ、とよくよく吟味する契機を与えねばならない。

 ミカさんは私の邪魔もなんのその、じぶんと同じような人間ばかりの社会を構築すべく、それ以外の人間たちを淘汰する法案ばかりを成立させ、この国どころか全世界にまでその思想を蔓延させようと、あれほどあたしにはなにもないんだ、からっぽだよぉ、と嘆いていたなけなしの才能をいかんなく発揮している。

 私からすれば魔王誕生以外の何者でもないのに、ミカさんのお人柄というべきか、支持者が指数関数的に増加しており、反乱軍はいまのところ私一人だ。軍どころか、もはや群れですらない。

「世界には生きるべき種とそうでない種がいる。いじめっこはいらないし、他人を傷つける悪党もいらない。世のなかを浄化し、みなでよりよい社会を築いていこう、暮らしやすい生活を我が手で」

 ミカさんの演説は、彼女を魔王としか見做せない私であっても聞いていると胸が熱くなる。そのじつ、やっていることは迫害に、差別に、虐殺でしかなかった。

 緩慢に、やんわりと進められるので、ぱっと見ではなかなかよいことをしているように見えてしまう。そこがミカさんの巧妙なところだ。気づいたころには、身の周りから私の友人知人がいなくなり、私はただ独りミカさんに反発する異分子になりさがっている。

「社会はみなが手を繋ぎあってできている。手を繋げない、繋ごうともしないじぶんかってなやつはかってに滅びればよい。我々は何者も拒まない。誰であっても歓迎しよう。だがそうでないじぶんかってなやつは社会に属する資格はない、雑草でも貪って雨水をすすり、慎ましく生き永らえればいい」

 みな輪になるのだ、とミカさんは唱える。何十億もの人々がそれに呼応して、腕を真上に突きあげる。

 ミカさんは独裁者であり、女神だった。

 命に優劣をつける死神ですら避けるような非道を意気揚々と成し遂げる女神だ。

「ミカさん、目を覚ますんだ」私は一人反乱軍の旗を振る。「あなたがそんなことをしつづけたら私がまっさきに生きていけなくなる。死んでしまう。あなたは私に死ねというのか」

「見て、ハエがなんか言ってる」

「虫扱いですか!?」

「しゃべる虫って貴重だよね、あれは生かしておこう」

「特別扱いなんですか!?」

「それ以外にあたしに意見するやつはみな教育所送りね」

「生きて帰った者がいないと目されるあの収容所へ? ミカさん、なぜ外道に成り下がるんですか、せめて私にもその残酷さをぶつけてください、それができないならいますぐこんな真似はやめるんだ」

「いいかい、あのしゃべるハエだけは何が何でも殺してはダメだよ。うるさいだけで害はないから」

「みなの者、聴いてくれ、あそこにいるのは女神などではない、魔女だ、あんな魔女の言うことを聴いてはいけない」

「ね? 誰もあんなハエの言うことは聞かない。だから放っておくこと。これは命令。何人もあのハエを傷つけることは許さない。いいね?」

「みんな騙されてるんだ、なんでそれがわからないんだ」

 私が喚けば喚くほど、私に温情を施すミカさんの人気はうなぎのぼりに奔騰した。

 ミカさんはどんどん権力機関を掌握し、世界の中心になっていく。誰もミカさんに抵抗しないどころか、率先して指揮権を手放している節さえある。

 なぜあんな、私が世話を焼かなければ風呂にも入らなくなるような女に人類の未来を託してしまえるのだ。ミカさんの素の日常を見たらみんな幻滅してしまうに決まっている。私が洗ってあげなければ同じカップを半年も使いつづける女なのだぞ。飲み物だけでなく、カレーもパスタも焼きそばも、全部同じカップで済ませてしまう女なのだぞ、ミカさんは。

 なぜだぁ、と私は絶望し、そこではたと閃いた。

 みなに本来のミカさんの様子を見せればみなも正気に戻るのではないか。

 動画を撮って、全世界に放映してしまえばよいのでは。

 いい考えに思え、私は一人、堂々とミカさんの住居に向かった。全世界浄化機構のそこは本拠地でもある。

 誰も私には手出しできない。ミカさんがそう命じたからだ。

 私は盗撮メガネをかけ、ミカさんと対峙する。

「また何か邪魔をしにきたの。それとも、もう降参?」

「降参も降参です、まいりました、また私にミカさんの世話をさせてください、もう二度とお風呂に入れなんて命じません、私が身体を拭いてさしあげます。食器も私が洗います。食事の用意も、掃除だって」

「ふんふん。そんなに言うなら頼もうかな」

 まんざらでもなさそうにミカさんは私を招き入れた。無防備な姿を私に晒し、何を言うでもなく、私の世話を受け入れつづける。

 私はそのぐーたらなミカさんの様子を、盗撮カメラにばっちり収めた。ときにはライブ映像で生中継した。

 私の意に反して、ミカさんの支持率は下がるどころかますます高騰し、もはや人類みなミカさんの虜となってしまった。

 ミカさまの私生活を観られるなんて。

 盗撮と知ってか知らずか、私のしたことは偉業と崇められ、私の人気すら、にわかにあがりはじめた。比例して、私への誹謗中傷も増したが、ミカさんがことさら私を特別扱いするので、そのうちそちらは鳴りを潜めた。或いは、私にどのようなカタチであれ危害を加えようとした者たちは、ミカさんの独裁力で以って、山か海にでも沈んでしまったのかも分からない。

 ミカさんの独裁の恩恵に預かってしまった。

 たしかにこれは病みつきになるな、と私は思う。こちら側に一歩足を踏み入れさえすれば安心は約束されるのだ。従順であるかぎり、輪の中にあるかぎり、手と手を取りあうかぎり、安寧が齎される。

 排除される者を憐れまないかぎり、私たちはミカさんの加護のもとで平和に、やすらかに暮らせた。

 そのうちミカさんは忙しくなり、私の世話を受ける間もなく、世界中を飛び回るようになった。

 独裁者でいるのも楽ではないようだ。

 私はミカさんの世話から解放され、その他大勢の一人となって、世界平和を甘受する日々を送る。

 そのうち私は何かとてつもない物を失ってしまった焦燥感、それとも喪失感に苛まれた。あらゆるメディアや人々の口から聞くミカさんの武勇伝に、おもしろくない感情を抱くようになる。

 なぜかは分からないが、私はミカさんを許せなかった。

 ミカさんのせいで苦しんでいるひとたちがいる。

 もはやそんなひとたちはとっくに滅んでいて、いまでは誰も苦しんではいないのに、私はミカさんを許せそうになかった。

 ミカさんは独裁者だ。

 大勢の支持を受けて、権力を手にして、世のなかから気に食わないひとたちを追いだして、駆除して、一掃してしまった。

 あとにはただ、ミカさんの理想とする平和の築かれた社会がなごなごと人々におだやかな日常を提供している。

 でもそれはミカさんに滅ぼされたひとたちの犠牲のうえに成りたつ仮初の理想郷だ。

 弱い者いじめをするひとたちや、悪党や、邪悪でいじわるで、協調性のない、はみだし者たちの犠牲があって訪れた一時のまやかしにすぎない。

 ミカさんに従おうとしない者たちが現れたらまたミカさんは躊躇なく滅ぼすに決まっているし、そう明言してもいる。

 独裁者は独裁者だ。

 こんなことがあっていいわけがない。

 思うものの、いちどミカさんの社会に身を置いてしまうと、これもなかなかわるかない、と温泉にも似たぬくぬくを感じずにはいられないのだった。

 ミカさんが死ぬまでこの平穏はつづくのだろう。

 そのあとのことまでミカさんは考えており、ミカさんの思想を受け継ぐAIを開発せんといまは尽力している。

 そう遠くないうちにミカさんは、科学技術の粋を集めて本当の女神として君臨するだろう。ミカさんがいちどやると口にしたらやるに決まっているのだ。だからこれはもう抗えない未来なのだ。

 独裁者はこのさきも、永劫、人類を支配しつづける。

 この平和が、営々とつづくのだ。

 よいわけがない。

 仮初だ。幻想だ。

 みんな騙されている。

 でもやはり、不服を唱えるのは私一人きりで、あとはみな安らかに、穏やかに、日々に満足して、みなと仲良く、楽しく、すこやかに暮らしている。

 私は反旗を翻す。

「ミカさん、あなたは間違っている。どんな命だって、尊いんだよ、奪っていいものじゃないんだよ、どんな理由があってもダメなんだよ」

「またきみか。いい加減にしてほしいなぁ」

 ミカさんはやれやれ、と肩を竦める。うんざりした口調でありながらも、その顔はどこか輝いている。

 私の顔もきっと似たようなものだろう。

 こうしてミカさんに立ち向かっているあいだだけ、人類の女神は、私を私として、私だけを見詰める。異分子として認める。庇護すべき大勢のなかの一人としてではなく、自身に抗うたったひとつの異物として、私を。

 私はきっと排除されてしかるべき悪なのだろう。ミカさんにとっての悪であり、人類にとってのがん細胞だ。

 でも、ミカさんは私を排除したりはしない。

 なぜかは解からない。

 排除するまでもない脆弱な存在と見做されているだけかもしれなかったが、そうした温情をかけられることで私は、ミカさんからの何かしら冬に咲くひまわりのような念をそそがれて感じ、ますます彼女に抗いたくなる。

 ミカさんは独裁者だ。

 気に食わない大勢のひとたちを殲滅し、人類を平和に導いた極悪非道の大魔王だ。

 私はそんな魔王に立ち向かい対峙するただ一人の異物として、これからも彼女の思想に否を突きつけ、邪魔をし、まとわりつづけようと思う。

 いつの日にかミカさんに、それどころではないんだよ、と付き合いきれないの判を捺されるまで、私は意地でも彼女の理想には与さない。

 うんざりされ、愛想を尽かされるまで、彼女の罪を糾弾しつづける。

 ミカさんは独裁者だ。

 だから私は何度でも抵抗軍を立ちあげる。

 ミカさんの気をすこしでも人類支配から逸らすために。

 私だけを見るように。

 このさきも、たったひとりで抗いつづけるのである。




【裏街道の住人】


 なぜみな一様に、たいして痛くないくせして大袈裟に苦悶してみせるのだろう。ナイフで刺したのだから無痛ではないにしろ、脳内物質がバクバク分泌されるので見た目よりも痛くはないはずだ。

 銃撃されたことのある者なら解かると思うが、ぞんがい、痛みよりも衝撃のほうがさきに伝わる。傷口付近は衝撃により麻痺するので、むしろ包丁で指先を切ったときのほうが遥かに痛い。刺し傷にしても同様だ。しばらく違和感としてしか知覚できない。

 つよすぎる刺激は、苦痛にしろ快楽にしろ、身体はそこまで律儀に処理してくれやしないのだ。

 だからきっと、とわたしは思う。

 こうしてナイフで刺されて大袈裟に呻く者たちは、ドラマや映画などで見聞きした、俳優たちの演技を踏襲して、こういうときはこうした反応をしたほうがよいのだろう、と咄嗟に判断し、というよりも思いだして再演しているにすぎないのではないか。

 どう反応を示せばいいか分からないから、とりあえず記憶にある最もそれらしい素振りを真似る。

 証拠に、わたしの同業者であれば、たいがい呻いたりせずに、最後までしたいことをして静かに息を引き取る。しゃべりたい者はしゃべり、抗う者は抗い、煙草を吸う者は煙草を吸う。

 ときおり同業者でありながら行き過ぎた反応を示す者もいる。たいがいそうした輩は現場仕事から離れ、管理者として業界で幅を利かせている。他人を顎で使うことに慣れてしまうから、死との距離感を忘れてしまうのだろう。

 そう、死との距離感だ。

 なぜいまさら死ぬことを怖れるのか。

 大仰に傷を騒ぎ立てるというのは、すなわち、死への拒否反応だ。死にたくない、とんでもない事態になった、これは尋常ではない、誰か助けてくれ。おそらくはそうした叫びを、挙動を通して示さねば、と思うのではないか。

 パフォーマンスだ。

 死ぬ寸前になってまで人間というやつは偽りを演じる。

「待ってくれ、何か気に障った指示があったなら謝る、改善点があるならいくらでも言ってくれ、可能な限りきみの希望通りにするからそれ以上危害を加える真似は」

 よしてくれ、と続きそうな男の口のなかにナイフを突っこむ。テコの原理で片側の頬を、内側から切り裂いていく。ゆっくりゆっくりと刃先が皮膚を突き破る様が見えるように。

「気に障った指示なんかない、あなたの仕事ぶりには見習いたい部分がたくさんあった。改善点もとくに思いつかない。報酬の配分にも不服はない」

 ではなぜ、と問いたげな男の目には涙が浮かんでいる。泣きたくて泣くのではない。かってに溢れ出てくるのだ。ウミガメの産卵と同じだ。

「強いて言うならば、優秀すぎたことだな。仕事を卒なくこなしすぎた。名を売りすぎたんだ。あれはどこの仕事だって、そこらを歩くだけで耳に入る。この業界、名前をいかに売らずにいられるかが長生きのコツだ。わたしは長生きがしたい。もっとずっとこの仕事をつづけていたい。だからよそに移ることにする」

 ナイフを引き抜き、矢継ぎ早に男の腹を刺す。男は手で腹を押さえ、その場にうずくまる。切り裂いた頬から血が垂れ流れる。ねっとりとチョコレートのようだ。

「ずっとそうやってきたのか」思いのほかすらすらと男はしゃべった。

「わたしを拾ってくれたのには感謝しているよ。でも、そこでもっと執拗に、用心深くわたしの過去を調べるべきだったね。ま、調べても何もでてはこなかったとは思うけど」

 なにせ過去、在籍した職場は、ここと同じように優秀な職場だった。痕跡を残しているとは思えない。そもそもわたしが在籍した証拠すら記録上のどこにも残ってはいないだろう。

「殺し屋が目立っちゃダメだよ。探偵が目立っちゃダメなのと一緒。お金に目がくらんじゃった人とは組めない。ざんねんだけど」

「やり直しはきかないのか。きみさえ許してくれるのなら、目立たずにこれまでのようにやることもできないことはないが」

「肝臓を刺した。いまから助かる見込みはないよ。ゆるやかに死ぬしかない。わたしが許しても、あなたの身体が死を手放さないんじゃないかな」

「死を手放さない、か。そうだな」男は手のひらを見詰め、ふたたび腹を押さえる。「なかなか詩的な表現を使うじゃないか」

「そう? 小説家になっちゃおうかな」

「できればきみとはこれからもうまくやっていきたかったが」

「本当にごめんなさい。わがままで」

「きみの役に立ちたかったんだ。仕事が楽しそうだったから増やしてしまった」

「そうだったんだ」

「余計なお世話だったようだ」

「そんなことないよ。わたしもあなたとは長くお付き合いしていたかったけど」

「こんどはせめて、刺す前に忠告をしてくれ」

「ざんねんだけど、こんどはないから」

「おれのつぎの雇い主でいい。忠告をしてやってくれ」

「ふうん。案外いいひとだったんだね、あなた。じぶんさえよければそれでいいってタイプだと思ってた」

「じぶんに似たやつには親切にしたいだけだ」

「眠くなってきた? いいよ。最期まで見ててあげる」

「子守唄でも歌ってくれないか」

「そういうサービスはないんだよね。ごめんよ」

 わたしの雇い主たる男はそこで目をつむりほころびると、ちいさく息を吐き、そのまま動かなくなった。眠るように死ぬという形容があるが、何度見てもそう言い表すよりない死に方というものがある。眠りに着くまで見守る意思をわたしのほうで持つことが珍しいから、こういうときはすなおにいいものを見た、という気になる。

 つぎの雇い主を探している合間に、世界中を巻きこむ大規模な自然災害が起きた。街から人の姿が消え、裏街道の住人たちもしばらく鳴りを潜めた。

 だがそれはいつまでもつづかない。

 稼がなければ餓える。

 餓えれば弱り、弱った者から狩られる定めだ。

 誰がはじめるでもなく、裏街道はかつてない戦乱の様相を呈しはじめる。

 世界各国が手と手を取りあい、世界規模の災害を終息させるべく暗黙の了解で武力間抗争を休戦しようとの方向に流れているにも拘わらず、裏街道では軒並み殺気だって、隙を見せた組織からケーキにたかる蟻がごとく、武装集団に襲撃された。

 世界中の裏社会の勢力図が塗り替わっていく。

 わたしはどこの組織にも属せずに、それら戦乱を風の噂で眺めては、じぶんの出番はなさそうだ、と退屈の溜息を吐く。

 戦乱の世においては、どの時代も名をあげたいものがこぞって活躍の場を求める。組織のほうでも、そうした輩を好んで雇う。わたしのように陰に回って、こそこそと殺しまわる殺し屋は、かえってそうした場では無用の長物扱いされがちだ。

 組織の頭を討ち獲って終わりではない。組織が瓦解するまで抗争はつづく。

 滅ぶか、滅ぼすか。

 あるのは組織と組織の闘争であり、個の生死によって戦況が覆るような戦争ごっこ(ゲーム)とは一線を画する。

 組織内部にすら、この機に乗じて頭を暗殺し、指揮権を我が物とする強欲な輩がすくなくない。生きるか死ぬかの前に、殺すか死ぬかがまず選択肢として優先させる。生きたければ殺すしかない。邪魔になったら殺すしかない。

 わたしにしてみればしごく合理的な考え方に思えるが、みながそうした考えに則り社会を築いていれば、いまごろわたしは生きてはいなかった。殺し合いはよくない、と大多数が考え、そうした考えの基に築かれた社会に内包されているがゆえに、わたしはわたしの殺伐とした考えを基準に生きていくことができる。

 抜け穴なのだ。

 足場もないほどに巨大ながらんどうのなかではわたしとて生きてはいけない。足場の確固とした社会にあるからこそ、わたしのような穴だらけの生き物が生存しつづけていられるのだ。足場に穴を掘って、獲物を捕らえ、糧とすることができる。

 ズルなのだろう。

 わたしはズルをして生きている。

 みながズルをしてしまったら、ズルはズルではなく正道となる。みなが穴を掘り、足場を失くしてしまったら、誰一人穴を掘れる者はなく、生きていくための地盤すらなくなる道理だ。

 裏街道の騒乱はまだしばらくつづくだろう。もしこの波紋が表の光ある社会にまで伝わったら、そこそこ困ったことになる。わたしですら困るのだから、ズルをせずに生きている大多数の者たちはもっと困るはずだ。

 なるようにしかならないが、足場が崩れ去る未来は見たくない。

 わたしは数日悩んだ。

 この期間、珍しく誰も殺さずにいる。仕事が舞いこまないだけが理由ではない。いまはまだ堪えておくべき時期に思えた。衝動を堪え、バネをぎりぎりまで縮ませておくのにも似た、溜め、の時間だ。

 珍しく、誰を殺すべきか、を考えている。

 言い換えればそれは、誰を生かすべきか、の問答とも言えた。

 わたしはわたしの生を保ちたい。

 そのために足場が失われては困るのだ。

 田畑を荒らすモグラには横暴になってもらっては食い扶持を維持するのもままならず、数を増やしてもらってもやはり窮する。

 なればこそ、暴れ回っても難儀せずに済むだけの勢力にまでモグラたちには弱まってもらうのが最適だ。

 わたしはまず情報屋に会いにいく。これまでにも仕事のうえでいくつかやりとりをした。直接会ったことはないが、このご時世だ。尻尾を掴む分には苦労しない。いかな情報屋とはいえど、身の安全を確保するのに適切な場所は限られる。

 治外法権ではないが、裏街道のなかでも随一の安全地帯を誇る某島国へと渡る。

 リゾート地として名高いそこは、国家権力のトップと裏街道のボスが笑ってカジノを楽しめる、そんなイビツな平和の築かれた現代の極地だ。

 世界中の都市という都市が、いずれはこのイビツな平和を築かんがために、暴力と欺瞞と搾取を駆使して調和を演出していると言っても過言ではない。

 正と負は交じりあってゼロを描く。

 ゼロから出発し、分離したものが正と負なのだから道理と言えば道理だった。

 わたしはその島国で、情報屋を総括する男を脅す。枕元に立ち、首筋にナイフを添えて、やさしくお願いをする。

「わたしの目と耳になってほしい」男は数人の裸の女たちに囲まれ眠っていたが、女たちは眠ったままだ。起きたら殺すしかない。

「こんな真似をしてどうなるのかよく考えたほうがいいぞ。きみは無駄に全世界の情報屋を敵に回すことになる」

「おもしろそうだね、それ。やってみせてよ」

 わたしは男のゆびを切断する。一瞬で済む。一本を切ったらつぎの一本。それが終わったらつぎの一本。そのつどわたしは男に、お願いをやさしく、親切丁寧にする。

 右手の指が終わり、左手に移行すると、ようやく男は、

「まずは頼みとやらを言ってくれ」と発言を曲げた。「要望を聞かねば判断すらつかん、まずはどうしてほしいかを言ってくれ」

「いまこっちの社会は戦国時代も真っ青の殺し合いの渦のなかにある。そうでしょ。でもわたしはそれをあまり好ましく思っていない。渦の中心で風を仰いでいる者の所在を知りたい。できるでしょ、できるよね」

 わたしはもう一本、ゆびを切断する。男は歯を食いしばって耐える。呻かないのは立派だ。目に涙を浮かべている。ウミガメ、とわたしは思う。

「それは俺に親を裏切れと迫っているようなものだぞ。破滅しろとそう言いたいのか」

「わたしがその親を始末するんだよ? ならあなたは破滅しないと思うけど」

「豪胆さは買うが、世のなかそんなに甘かないんだ。俺の仕事を手伝ってくれるなら、このゆびのことも許そう。どうだ、わるかない話だろ」

 わたしはまたゆびを一本、切り落とす。男は初めてここで呻き声を漏らした。油断するからだ。覚悟が揺らいだ証と言える。わたしを懐柔できると思いこんだ。

「面倒だからつぎで最後にする。もういちどだけお願いしてあげる。わたしの目と耳になってくれますか」

 男はもうそこで粘る真似はしなかった。

 ただ一言、解りました、と口にする。

 このときを以って、わたしは裏街道で起きている事象の構造を把握する手段を得た。渦が巻くには、流れを妨げる風や障害物が入り用だ。水を吸いこむ穴だって無限に空きつづけるわけではない。水が途切れずに、渦を巻きつづける以上、そこには何らかの構造があって然るべきだ。

 わたしの目的は、その穴を埋め、渦を消すことにある。

 仕組みが判れば、あとは柱や基盤を崩せば事足りる。そうむつかしい作業ではない。

 ただ、思ったよりも厄介なのが、複雑になりすぎた人間関係だ。誰かを殺めれば、誰かからの恨みを買う。

 通常、組織において、報復なき地位踏襲はあり得ない。親の仇を討ってこそ跡取りと成り得る。

 報復を回避するためには、組織を根っこから瓦解させるよりない。或いは、敵対勢力に吸収させるのも手だ。敵を壊滅してくれた殺し屋に報復する愚か者はこの時代にあっても滅多にいない。

 なればまずは残すべき組織を見繕う。

 並行して、手駒として召集されると厄介な殺し屋たちの息の根を、隙間時間で止めていく。厄介な殺し屋ほど無名である傾向にある。情報屋のちからはここで最も追い風になった。わたしの情報がことのほか知られていなかったのもこのときに知った。

 わたしがこの手で殺した元雇い主の男が何かしらの仕掛けを施していてくれたのかもしれない。わたしのこなした仕事のはずが、ほかの殺し屋の手柄になっているのを知り、惜しい男を殺してしまった、とわたしは後悔した。我ながら珍しい。味がしているうちにガムを飲みこんでしまったかのような口惜しさを覚える。

 間もなく、世界的な災害が下火になり、終息の兆しが見えてくる。

 裏街道はそこで歯止めをかける方向にはいかず、タガをはずす方向に流れはじめた。表の社会が元気になればなるほど活気に漲るのが裏街道でもある。

 活気ではなく、殺気が漲ってしまったところが、これまでと異なる点と言えた。

 わたしがこうして動きだしているのもその一環と見做せるのかもしれず、大きな歯車の一つに組みこまれているようで、内心おもしろくはない。

 わたしが目当ての組織の会計士を殺し、組織の金の流れを断ち切った矢先のことだ。情報屋を統括していた男が死んだとの報が入る。

 報復だろうか。

 思いのほか早い動きに、情報屋たちのなかに間者がいると察する。わたしに消えてほしがっている者たちがいる。いないとは思わなかったが、もっと消極的な者たちだと評価していた。積極的に排除に動いたとなると、もはや耳と目の役割を期待はできない。

 知りたい情報はおおむね手に入れた。わたしは情報屋たちと縁を切り、韜晦すべく、表社会に馴染む。まずは一般人を殺す。その人物の戸籍と社会的地位を手に入れる。裏街道の住人たちの常套手段だ。

 わたしの引いた設計図からすれば、あとは対象組織のトップとその右腕を葬り去れば、あとは敵対勢力がその隙を突いて、食らい尽くしてくれるはずだった。

 だが情報屋の手を借りられなくなって以降、目標の動向がとんと辿れなくなった。

 対象たちが警戒しているせいもあるだろうが、多くは裏街道の住人との接点を持てないわたしの生活様式に因がある。

 情報を得ようと裏街道の住人と接触すれば、即座に情報屋の情報網に絡め取られ、追手がかかるだろう。

 大きな流れを捉えるには、しばらくの潜伏を余儀なくしなければならない。点で事象を追うのではなく、線で捉える。どのような変化の流れが社会に漂っているのかを時間をかけて観察するのだ。

 そうこうしていうちに季節は変わり、裏街道では大まかに二大組織の抗争に収斂しつつあった。

 互いに機を窺っている節がある。

 いよいよわたしが動きだすときだ。

 わたしは裏街道の住人に接触し、詳しい情勢を根掘り葉掘り聞きだす。たいがいは刃物を使って、身体に訊いた。それがいちばん正確な情報を知れる。知らないことを無茶苦茶に言い並べる者もいるが、そういうときのデタラメは偽りだとすぐに判る。そいつの知り得なさそうなことであっても、まるでじぶんが重要人物と接点があるかのように捲し立てるからだ。生き残りたくて必死な人間の言説には共通点がある。真偽をたしかめようとする以前に、うんざりしてくるから、とりあえずもうこいつの話は聞きたくないな、と思えば殺すことにしている。そいつからの情報は、たとえ正しかったとしても、聞かなかったことにする。

 わたしが動いたからだろう、数日もしないうちに、わたしは襲撃に遭った。追手を返り討ちにするたびに、その規模は増し、やがて軍隊崩れが隊を率いてやってきたのを機に、わたしは敵陣の懐に飛びこんだ。

 逃げ回るのは終わりだ。

 軍隊を動かした以上、その指揮権はトップがじかに握っている。組織が明確にわたしを標的にしている。隊を壊滅させ、さらにそのリーダーの身体に聞く。さすがというべきか、どのような傷をつけても口を割らない。だが、隊の装備は正直だ。

 わたしは通信機器越しに、隊の指揮者、すなわち組織のトップへと通告する。

「これはおまえとわたしの戦いだ。どちらかが死ぬまで止まらない。逃げてもいいが、それで終わると思うなよ」

 そのすぐあとに飛んできたヘリからミサイルが発射されたのには度肝を抜かれた。マンホールに逃げこみ、わたしは難を逃れる。

 たった一人の女相手に、組織の最大戦力を投じてなお被害ばかりを募らせる。組織の面目丸つぶれだ。つぎは本腰を入れざるを得ないだろう、失敗は許されない。

 だが、警戒すべきはわたしだけではない。敵対勢力への余力も残しておかねばならない。

 なればそこには隙が生じる。

 敵対勢力は敵対勢力で、機を窺うはずだ。おいそれと仕掛けはしないだろう。卑怯な真似はできないからだ。裏街道の行く末を決める大戦と言ってよい。ねじ伏せるならば真っ向からぶつかり合うはずだ。

 正々堂々とはいえ、しかしこれは殺し合いだ。表向き、そう見えればいい、というだけにすぎない。隙さえあればいくらでも滅ぼしあう。それが裏街道を生き抜く者たちに共通するゆいいつの気質だ。

 よって、わたしが動いた時点で、敵対勢力は何かしら手を打つはずだ。

 わたしの標的の足をすくってくれることだろう。

 もっともこれは希望的観測にすぎない。

 アテにするには、標拠とすべき情報が足りなすぎる。

 ゆえにわたしはじかに、この手で、ひとつの巨大な組織を討ち滅ぼすべく、尽力せねばならない。

 組織トップの動向さえ解かればきょうにでも決着をつけられるというのに。

 わたしは、わたしの手で殺してしまった元雇い主のことを思い、やはり深く臍を噛む。惜しい人材を失くした。

 日に日に、わたしを追う包囲網は緻密さを増した。逃げてばかりでは埒が明かぬが、もはや裏街道の半分を敵に回したようなものだ。もう半分も味方というわけではない。

 組織に属さない裏街道の住人たちのあいだにも、どちらの派閥につくかの闘争がある。それは見た目では判別できない地雷と化している。

 協力を申し出てきた者が、わたしを殺そうとするなんて事態は珍しくもなんともない。

 わたしをわたしと認め、近寄ってくる者はのきなみ敵と見做した。そのほうが妥当な判断となる確率が高い。

 やがてわたしは、諦めた。

 目標を殺すのは、いまは、無理だ。

 長期戦を覚悟せねばならないが、その時間を待つには、いささか裏街道は殺気だちすぎている。

 渦は勢いを増し、表社会をいまにも呑みこみそうなほどだ。

 時間はかけられない。

 好機を待ってはいられない。

 ゆえにわたしはここで、標的のほうを変えた。

 殲滅対象とした組織ではなく、

 その敵対勢力のトップを殺すことにした。

 わたしとしては、二大勢力のどちらが滅んでも構わない。

 もういっぽうの組織は完全に油断している。

 わたしの登場によって、勢力図が塗り替わり、優位に立っているためだ。わたしに加勢すらしようとしているだろう。

 付け入る隙はそこにしかない。

 隙を見せたほうが死ぬ定めにある。裏街道の法則だ。

 隙を見せたほうがわるい。

 わたしはその日のうちに敵対勢力の本拠地に乗りこんだ。会議場へと乗り込み、組織トップとその取り巻きたちの息の根を、片っ端から止めて回った。

 一時間もかからずに本拠地から脱し、わたしは裏街道の混乱に乗じて、表社会に溶けこむ。

 その後、裏街道がどうなったのかは風の噂でしか知らない。わたしは表社会で、子どもたち相手にピアノを弾いたり、歌ったり、叱ったりしている。

 全世界を席巻した災害はまだ終息してはおらず、もはやいまの状況が常態化しつつある。裏街道の渦の余波はいまのところ感じられない。あちらはあちらで終息に向かったのかもしれない。

 わたしに対する評価がどのように位置づけられたのか分からないが、追手がかかった素振りはない。

 またしばらくしたら、わたしは裏街道に戻り、殺人の日々を過ごすだろう。そのときに雇ってくれる者がいるかどうか。

 やはりわたしは、この手で亡き者にしてしまった元雇い主の男を思い、もったいないことをした、と悔いるのだ。




【ぴょんまり見にゃいで】


 魔法の呪いを解くべく私はミカさんを探す旅にでる。ミカさんはいつの間にか私の与り知らぬところで魔女になっており、私のあたまに獣耳を生やして韜晦した。消えるなら消えるで、耳を元に戻してからにしてほしい。

 数日前にミカさんと晩ご飯を食べていたら、何かがあって、私は意識を失った。起きたらミカさんの姿がなく、頭にはぴんぴょこお耳が生え揃っていた。

 私はしばらくそのままで過ごしたが、どこに行っても衆目を集め、帽子が手放せなくなった。帽子は帽子で頭が蒸れるし、人間の耳は耳で私についたままだから、二重に音が聞こえて混乱する。せめて人間の耳のほうを消してほしかった。見た目にもどこか落ち着かない。

 子どもに人気がでるのはよかったけれど、ほかは軒並み最悪だ。髪の毛を洗うだけでも耳のなかに水が入らないように気を張る。おちおちお湯も被れない。シャワーだってびくびくして浴びることになる。

 やっぱり元に戻してほしい。

 私はミカさんを探す旅にでた。三泊四日の旅だ。それくらいしか有給休暇がとれなかった。職場の上司には嫌な顔をされたが、私の頭から生えるかわいいお耳を消すためだ、と説明すると、仕方なしの判を捺してくれたようだ。快く私の仕事を肩代わりしてくれた。

 そんなことをするよりさきに人員を増やせばいいのに。

 意見書をついでにだしておく。

 私はミカさんの足取りを追った。ミカさんは魔女になったのだから、きっと箒を使って空を飛んだり、大きな鍋でドロドロの薬をつくったり、お菓子の家なんかを建てちゃったりしているに決まっている。

 インターネットで検索すればすぐに見つかるはずだとの私の目論見は見事に外れて、ミカさんの足跡はインターネット上にはからっきしだった。でもミカさんのアパートに行くとコタツのうえに日記がだしっぱなしになっていて、それを読むと最後の記述は、あのコを完全な猫にすべく修行を決行する、とあり、ほかの項にはことあるごとに私の家での態度と外での態度が違うことについての感想が並べられていた。

 魔法を使って覗き見していたらしい。とっちめてやる。

 それはそれとして私はじぶんの頭のうえの耳を触り、ミカさんの部屋にある姿見を覗く。

「これって猫の耳だったのかぁ」

 てっきりウサギの耳かと思った。

 うん、と頷いてから私はその場にがくりと膝を崩す。

「どう見てもウサギの耳なんですけどミカさん」

 床をドンドン叩いて、悔しがる。

 だってこんなことってある?

 ミカさんはいま私を猫にすべく修行に励んでいるのに、どんなにがんばっても私はウサギにしかならないのだこのままでは。

 気づいてくれミカさん。

 これは猫の耳ではない。ウサギの耳なんだ。

 見りゃ判るだろと、ツッコム以前につよく念じてしまう。気づいてくれミカさん。

「ちょっちなにかってに読んでんのさ」

 背後から声がしたので振り向くと、ミカさんがコンビニの袋を片手に、ずかずかと土足で上がりこんでくるところだった。

「ここあたしん家だよ、かってに入っていいと思ってんの。あー、やっぱり読んでたあたしの日記。やめてよ恥ずかしいでしょ」

 ひととして信じらんない、と語気を飛ばすミカさんのほっぺを私はあらんかぎりのちからでつねりあげる。ミカさんは悶絶した。

「ひとの頭にウサギの耳を生やしといてどっか行っちゃうひとに人としてどうとか言われたくないんですけど」

「ウサギの耳じゃないよ、猫だよぉ」

「どこが。よく見て」

「みゃい」

 母虎に咥えられた子虎のようになりながらミカさんは、しずしずと私の頭上に視線を当て、そこで目を丸くした。

「ありゃま、よく育ってまあ」

「耳は植物じゃないから。育つとかないから」

「えー、じゃあこれ無駄になっちゃったね」

 コンビニの袋を漁るとミカさんは中からキャットフードを取りだした。

「仮にこれが猫の耳でも食べないからね私は」

「猫にしちゃえばバッチリだぜ」

「どこがだ」

「ならウサギでもいいけど」

「根本的になんも解決されてないよ」

「だってそれじゃあ何も飼えないじゃん」

「猫を飼いなさいよ猫を、ペットショップに行ってちゃんとお金を払って飼いなさいよ」

「そんなお金があると思ってんの」

「開き直るな、働け」

「そんなこと言ったってあたしはだってこんなことくらしかできないし」

 ミカさんはそこでじぶんの身体に魔法をかけ、宙に浮いてみせた。

 亜然とする。

 箒いらないんだ。そんなところに目がいった。はっとしてから、すごいじゃん、と拳を握って上下に振った。「すごいよすごいよ、ミカさんすごいよ。これだったら凄腕マジシャンとして世界を渡り歩けるよ」

「世界を? なんかめんどそう」

「そこはがんばろうよ。インターネットに動画載せてもいいしさ」

「猫飼うのにそこまでするぅ?」

「しようよ、そこはしとこうよ」

 私は俄然燃えてきた。

「考えてみたらめちゃくちゃすごくないミカさんのそれ? すごいよすごいよ、こりゃ一攫千金を目指すしかないっすよミカさん」

「えー、なんかキャラ変わってない? こわいよ?」

「まずはこのお耳消してもらって、そっからはもう、ミカさんの独擅場ですぜ。お金がっぽがっぽ儲けましょ、ね?」

「がっぽがっぽって初めて聞いたけど、えぇ、いける?」

「いけるいける。もう大船に乗ったつもりで私に任せんしゃい」

「うーん」

 迷うなよミカさん。

 私は心の叫び声をあげる。有給休暇をとってみてハッキリした。私は働きたくなどないのだ。ミカさんが魔女なら一生働かずに生きていけるかもしれない。お金すら魔法で出せるのではないか。否々、そんなまどろっこしい真似をせずとも、欲しいものはすべて魔法でつくれてしまうのではないか。

 試してみてもよいのでは。

 私は提案する。

「ミカさん。試しにいまここでハンバーガーとか出せちゃったりします?」

「ん? いいけど」

 ミカさんが手のひらを構えるとそのうえに、ぱっとハンバーガーが現れる。もう片方の手も構えると、こんどはポテトが現れた。

「食べ物くらいなら簡単なんだけど」

「すーごーいー」

 私はいよいよ職場に辞表をだす臍を固める。辛辣な意見書ごといっしょにして叩きつけてやる。

「ミカさん、私、ミカさんの猫でもウサギでも、なんでもなるよ。私の世話、よろしく」

「えー。いいけどでも」

「私じぶんで言うのなんだけど、わがままだからそこんところもよろしく」

 魔法でうまいことちゃっちゃとやってくれたまえ、と注文すると、

「魔法? ちょっちちょっち、何言ってんの。誰でもできることだよ? ここは仮想現実だよ、ゲームの中だよ、現実とリンクしてる部分はあるけど、現実じゃないんだよ、だいじょうぶ?」

 私はそこで、十日ほど前に気を失ったことを思いだす。

 ミカさんといっしょに晩ご飯を食べていたときのことだ。

 私はそのときミカさんと賭けをしていた。

 仮想現実とはいえど、ご飯を食べるには食費がかかる。

 片方が猫になれば食費が浮くので、どちらかが猫になるべきだとそう説き、饅頭を二つ用意した。片方には猫化玉が混ざっている。猫化玉は、摂取すれば誰でも猫になれるアイテムだ。

 そこで私は選んだ饅頭を食べ、賭けに負けた。私の饅頭には猫化玉が入っていた。

 しかし猫化するはずが、ゲーム内のバグなのか、私はなぜか猫になることなく、頭からウサギの耳じみた細長い獣耳を生やすに至った。

 記憶がないのは、バグのせいかもしれなかった。

 ミカさんは私を治すためにサポートセンターへと転移すべく一時的に家を空けたのだ。

 同棲しているわけではなかった。ゆえに目覚めた私はじぶんの家に戻り、現実世界のように過ごしてしまった。

「仮想現実内の時間の流れは速いからね。現実世界での一日が、こっちじゃ一週間くらいだし。意識があやふやのままだと、現実と区別がつかなくなっちゃったのも分からないでもないけど」

 ミカさんはそこで目を見開き、私の顔をまじまじと覗きこむと、腹を抱えて笑い転げた。宙に浮いたままだったので、その場でくるくると回転する。

「なんで笑うの」私は膨れる。

「だって」ミカさんは私の顔のまえに手を伸ばす。空間をゆびでつまむ。ちょいと引っ張る。

 頬に痛みが走って私は飛び跳ねる。「痛い、痛いよミカさん」

 ミカさんは手を離す。私は頬をさする。手のひらに、ちょんちょんと軽く細い抵抗を覚え、ぎょっとする。

「ぴょんまりお髭がお似合いやねきみ」ミカさんは目じりを下げ、私は招き猫のように顔を手で覆う。「見ないで」 




【だって竜だよ】


 毎日家と職場を往復するだけの生活だった。服装に指定のない職場だったが、私はパンツスーツを好んで着た。スカートを穿いたのはもうずいぶんむかしのことに思える。

 服装に割く思考すらもったいなく感じるほど、毎日が仕事に追われ、仕事に終わった。仕事の資料を眺めながら寝付き、その続きを読みはじめようと思い、目覚める。

 世界中で竜の出現が報告されたのは、私の立ち上げたプロジェクトがようやく始動しはじめる直前のことだった。

 竜は無数に湧いた。世界中にあっという間に広がり、人々を家のなかに閉じこめた。率先してみな外にでないようになっただけのことではあるのだが、竜は人類から外出の自由をまず奪ったと言って間違いではない。

 竜は食事をとらなかった。何かしらのエネルギィを外部吸収している節はあるようだ。光合成なのか、はたまたほかのエネルギィ自家発生システムを有するのか、それとも食事をとる間隔が極めて長く、数十年に一度でよいのかは、いまのところはっきりしていない。

 職場への出勤が禁じられ、私は家での仕事を余儀なくされた。

 とはいえ、仕事量が減るわけではない。

 経済を滞らせないように政府は、竜の出現をよこちょにおいて、これまでの日常が崩れないように抗った。とっくにこれまでの日常なんて崩れているのにもかかわらず、だ。

 私は家でもパンツスーツを着ている。休みの日でも着るようになり、竜の出現以降、私は以前よりも窮屈な生活を送っている。

 職場の人間たちと幾度か、電波越しに遠隔で雑談を交わしたが、みないまのほうが気楽でよいと言っている。人と会えない欠点もあるが、それ以上に、煩わしい風習のいくつかがなくなり、却ってよかった、といった意見も聞かれた。

 そういうものだろうか。

 仕事は以前よりも増えた。

 職場の設備が使えない日々は最も私をへこませた。私財をはたいて、家でも会社にいるのと変わらぬ効率を求めたが、やはり職場の設備の潤沢さにはいくぶん劣る。

 不要な段取りもまた増加傾向にある。同時に複数人からのチェックを得るのに、いちいち遠隔の会議の場を設けたり、或いは同じ文面を複数人に送り、いつ返ってくるかもわからない返事をそれぞれに待たねばならない。それらへの返信すら別途に考えなければならず、職場ならば一分で済むことが一日を要することもある。

 とはいえ、利便性のあがった側面もあり、そこは場合によりけりだ。便利になった分、不便になった部分もある。逆もまた然りだ。

 竜への対処に政府はてこずっている。ほとんど野放しにちかい。竜対策よりもどちらかと言えばいまは、竜によって激変した社会をどう立て直すべきかのほうに労力を集中して見える。それはそうだろう。竜を撃退したあとに守るべき社会がなくなっていては意味がない。

 守るべきはまず現代人の日々の生活だ。未来をつくるのはいつだっていまを生きている者たちだ。その生活を守るためにすべき策を政府は優先して講じていくしかない。

 現代人の命が大切だ、そのためには未来を多少損なってもいいという意味ではない。竜による被害で亡くなる者がでないようにするのはむろんのこと、文明そのものもまた損なってはならないのだ。

 現代社会でなぜ自殺者がもっと多い死因なのか。それはほかの病気や事故でなくなる者たちがいないからだ。殺される者たちがいないからだ。文明の築いてきたものとはそうした、負の剪定だ。理不尽に死なずに済む社会の構築だった。

 文明が損なわれれば、竜による死者よりも多くの者たちが、未来においても死につづけていく。

 だからといって、守るべきはまず文明だと短絡に考えるのは愚かだ。

 いまを生きる者たちの命、生活を守ってこその文明だ。個を守ることが回り回って文明を守ることになる。

 そこにはむろん、個の自由も内包される。個の自由を損なってはいけない。

 思うものの、では現在私は自由を損なわれていないのか、と問われれば、大いに損なわれているというよりない。

 けっきょくは分散するしかないのだ。受け止めきれない損失を分散し、誰もが損をしながら、最も避けがたい結末を回避する。

 耐えるしかない。

 耐えながら、耐えきれなくなりそうになっている者たちに文明の恩恵を回せるように仕組みを整えていく。

 おそらく私がそれら文明の恩恵を受け取るのはずっとあとになってから、或いは誰から見ても助けがいると判るほどに汲々としてからだろう。

 見方を変えれば、私は充分に文明の恩恵を受けている。同時に、私ですらこう思うのだから、もっと生活に余裕のあるひとたちは社会全体に目を配り、助けを必要としている生活の損なわれている人々へと慈悲の手を伸ばしてほしい。

 望むが、これは私の得手勝手な理想であり願望であって、けっきょく世のなかは公平などではない。

 私の立ち上げたプロジェクトは、竜騒動の煽りを受けてご破算となった。

 竜は相も変わらず私たちの頭上を飛び回り、街中を跋扈する。

 学者のなかには、飢餓期がやってくれば竜がいっせいに肉食に目覚め、目につく生き物を片っ端から襲うだろう、と予見する者もいる。どこまで信憑性があるのか分からない。

 分からないのだから、私たちはただ日々をこれまでどおりに送っていくしかない。多少の不便を呑みこんで。不満があるならば解消できるように工夫しながら。

 引きこもり生活が常態化して半年後には、あれほど忌々しく思っていた家と職場の往路が恋しくなった。

 あれはあれで日々のたいせつな営みだったのだ。ありていだが、失ってから知るありがたみがある。健康や空気も似たようなものだろう。そこにあってあたりまえすぎてありがたみすら覚えない。

 呼吸困難に陥れば、たとえどこの誰とも知らぬ他人の屁が交じっていようとありがたく吸うだろう。いまは呼吸困難に陥っていないので、頼まれても吸いたくはないが。

 日常が崩れて、日常のありがたみに気づく。人間はなんとも鈍い生き物だ。死ぬその瞬間にならなければ生のありがたみにすら気づかない。

 いや、そんなことはないはずだ。

 だがついつい、日々の濁流のような仕事の波に流され、忙殺される。殺されたのは余裕であり、流されたのは考える時間だ。

 この国の竜の被害は思ったよりもすくなく、反面、竜を駆逐しようとした各国は手痛いしっぺ返しを喰らったようだ。

 いまでは世界的に竜との共存への道に舵をきりつつある。竜を駆逐するのは不可能だ。であるならば共存し、互いに害を与えないようにしていくよりない。

 飢餓期に備え、前以って竜の餌を用意しておく案も真剣に議論されている。しかし政府はそんなくるかも分からない未来の危機よりも、目前の経済危機への対策に四苦八苦している。

 ニュース越しにしか知りようのないそうした情勢を眺めながら私は、日々、以前と変わらぬ仕事に追われている。

 仕事が終わった瞬間に、ベッドに倒れ込めるのはいまの生活になってよかったことの一つだ。ともすれば、以前よりも私はサボることに抵抗がなくなった。身体もどこか重く、ふとした瞬間に腹をゆびでつまみ、脂肪の厚みの発育具合を確かめている。

 おそらくこの生活はまだまだつづく。波のように、緩んだり、締まったりを繰りかえす。

 いずれは竜を飼い慣らし、何かしら社会を発展させるのに有効な家畜のように御せるようになるのかもしれないし、このまま地上は竜の王国となり、人類は撤退を余儀なくされるのかもしれない。その公算が高そうだ。

 というのも、竜は空を飛ぶがゆえに、飛行機の飛ぶ余地を失くしている。いまや人類は空路を断たれ、大陸同士の物流を阻んでいる。

 海にしたところで、港にも竜は出現する。未確認だが、海中を生業とした新種の巨大な竜の存在も囁かれている。

 刻一刻と明らかになるのは、人類の陥っている事態がはなはだ尋常ではない存亡の危機だということだけだ。

 にもかかわらず私たちはきょうも家に引きこもりながら、仕事の濁流に押し流されている。とっくに日常が変わり果てているというのに、かつての日常をまだ引きずっている。のみならず、その日常を取り戻そうとすらしている。

 竜が地上を席巻しているのが見えていないわけでもないだろうに、誰もが漠然と、時間が経てばまた元の生活に戻れるだろうと楽観している。圧し潰されそうな不安を抱えながら。

 竜は火を噴かない。不幸中のさいわいと呼べる一つだ。

 飢餓期が訪れれば、繁殖期のサケのように好戦的な変態を帯びるかもしれないと、やはり信憑性の定かではない仮説を学者さま方は唱えている。

 いまのところ竜は巨大な翼を駆使して空を飛び、繁殖力の高さによって日夜その数を増やしている。

 竜の卵は栄養価が高いそうで、いずれ市場に出回るかもしれない。世界中の食糧難をそれにて賄えるかもしれない、といった前向きな意見も聞かれるが、果たして竜の卵を食べたいものがどれほどいるだろう。いくら美味くとも私には抵抗がある。

 こんなつまらない思考を巡らせるくらいには、日々に余裕ができたのかも分からない。その分、私の人生、このままでよいのだろうか、とのつまらない悩みに苛まれている。

 暇はひとを蝕む。

 娯楽にうつつを抜かせればそれが一番よいのだろうが、これといって食指の動くナニカシラには出会えない。映画にしろ漫画にしろ、虚構の何が楽しいのか、と考えてしまうのだ。そうでなくとも現実に竜が溢れてしまえば、虚構にいったい何を求めればよいだろう。こうなると、これまでの日常をこそ虚構に求めたくもなる。

 平和で、平和すぎるがために退屈だと嘆く主人公たちの、ちょっとしたしあわせのぬくぬくとした日々ならば、観てみたい気もする。

 私はきょうも、あすも、あさっても、家に引きこもって、流れてくる仕事をさばいていく。そうすることが、この社会を支えると信じて、じぶんにできる最善だと言い聞かせて、本当はこんな仕事なんかなくなっても社会にも文明にもなんら影響を与えないと知っていながら、やはりこなしていくしかないのだろう。

 人の役に立っている実感はないが、人を損なわずに済んでいるとの安らぎは、ときおり刹那の時間にしろ、ふいに覚える。

 職場では、仕事のできる人間として多少は高く評価されていた。もはや家から一歩もでなくなってしまうと、誰からも評価され得ない現実に、息が詰まりそうにもなる。

 けっきょく私は、職場に、生きがいを感じていたのだ。生きるための免罪符を見出していた。

 だが竜が全世界の社会を一変してしまってからは、もはや生きるための免罪符などなくともひとは生きねばならないことをみなが直視しはじめている。

 どんな人間の命も、生活も、日々も尊い。

 言葉のうえだけでなく、真実そのように社会の合意がとれはじめている。

 そんな中で、称賛の言葉も、名誉もなく、仕事をあくせくこなすじぶんはいったい何を原動力にこの生活をつづけていけばよいだろう。

 誰もがみな一様に尊いならば、私のこの苦労は何なのだろう。

 さもしい悩みだ。仕事に忙殺されていれば得ずに済んだ日々の余裕に私は殺されそうになっている。歩みを、止めそうになっている。

 窓のそとを見遣れば、そぐそこを竜が飛び去る。地上を見下ろせば、竜が子を引き連れ蛇行を描いている。

 なぜか竜は人工物を破壊することがない。巣にすることもない。

 その割に、人の密集する場所を好んでいる。

 率先して人間に危害を加えないところを見ると、ひょっとしたら人間の発生する何かしらの物質を糧にしているのではないか、との推論も飛び交うが、やはり定かではない。

 竜がモノを食べるようになったら糞の後処理だけで社会が圧迫し、滅びそうだ。いまのところその兆候がないのが救いといえば救いだった。

 私たちは竜と共に生きていくしかないのだろう。この不安定で、何もかもが定かではない社会を生きていくしかない。

 不安を抱えて生きていくしかない。

 竜は不安の代名詞だ。取り除こうとすれば私たちは竜たちの怒りを買い、滅びの道を切り拓く。

 なればこそ、私たちは竜たちとの共存の道を模索し、不安と共に日々を過ごしていくしかないのだろう。

 本当にそうだろうか。

 なんとかなりそうでならない、そうした儚い希望が、私たちのなかに不安を根付かせる。

 いっそ竜がいて当然だと思ってしまえば、不安は単なる日常に変質するのではないか。

 しかしそう潔く考えを改めるには、私たちの築いてきた社会は、進歩することを善しとしすぎてきたきらいがある。

 いまさら停滞の道を選びたくはない。過去の価値観を変えたくはない。

 縋りつく祈りが、呪縛と化して、私たちの不安を、日常へと安易に変質させはしないのだ。

 何かを成した者が偉く、何もなさない者には価値がない。

 大多数の賛同を得た者が成功者で、それ以外は敗者だ。

 そうした価値観を私たちは未だに捨てきれずにいる。そのじつ、現実はそんな過去の価値観を置いてきぼりにして、竜を基準とした社会構造を再構築しようとしている。

 私を含め、多くの者たちはその変化についていけない。しかし、付いていかざるを得ない強制力が現実にはある。

 ゆえにその狭間で私は、私たちは、喘いでいるのだろう。

 いっそのこと私にも価値がある、何もしなくとも誰も責めやしない、好きなことをしていいんだ、と生活の保障と共に太鼓判を捺してくれれば私とて潔く考えを改め、価値観の変容を受け入れ、新しい社会とやらに迎合するだろう。

 だがそうはならない。

 私たちは過去の社会を引きずり、過去の価値観に翻弄されながら、それでもすこしずつ、すこしずつ、血肉を削るように、新しい社会を築き、つぎの世代へと譲り渡していく。

 私たちがその恩恵を受けることはきっとない。

 いま私たちの受けている文明の恩恵を、それらを築いてきた先人たちが受けることのないのと同じように。

 きっと私たちはその事実を受け入れたくないのだ。

 あまりに、私たちの払う代償が大きすぎて見えるから。

 だって、竜だよ。

 私は窓の外をふたたび見遣り、そして噴きだす。

 いまさらのようにおもしろくなってしまい、不謹慎だが、これはもう楽しむしかないのではないか、と開き直る。

 だって、竜だよ。

 虚構の世界が溢れだしたような現実のなかで、私はきょうも、あすも、あさっても家で仕事をして過ごす。

 竜と戦える勇者はいいなぁ、と素で思う。

 これもまた、安全地帯に居座って日常を継続している者の、底の浅い不満に違いはない。

 猫でも飼うか、と思いつくが、きっと私は行動に移すことなく、小さな竜のカタチをした不安を胸に仕舞いこんで、それがいつしか日常へと姿を変え、消えてしまうのを待つのだろう。

 何も変わらずに、変わりつづけていく。

 竜が現れずとも、きっと何も変わらなかった。

 日常を奪われ、困り果てていた人たちはいまにかぎらずむかしから大勢いた。じぶんの番が回ってきて、いまさら慌てふためいているだけのことなのだ。

 これまでの継続ではないか。延長線上だ。

 何も変わらない。

 私はただ日々を過ごしていくしかない。

 けれどやはり、変わってしまった事実は、事実だ。

 だって竜だよ。

 ベッドに寝転び、本棚を眺め、とりあえず一冊を手に取り、ページをめくる。

 変わっても変わらずとも生きていかねばならないのなら。

 私はふぅと覚悟の息を一つ吐き、買ったままでいちども読まなかった本の紙面に目を走らせはじめる。

 時計は始業時刻を示している。

 けれどしょうがない。

 だって竜だよ。

 これくらいの変化が私の生活にもあっていい。

 あした、目一杯謝罪して、私の株を下げてみる。そしたらすこしは私の息も楽になるだろうか。

 失った信用は取り戻せないとは言うけれど、信用されても苦しくなるだけなら、そんな信用はいらないと、私は竜のせいで思ったのだから、これもまた竜の被害の一つと思って諦めてほしい。

 だって、竜だよ。

 私は本を開き、紙面の文字に目を走らせる。




【イジワルになっちゃう】


 わたしはよく言葉に詰まる。バイトをしているあいだはとくに顕著で、注文以外の言葉を投げかけられたときに、なんと返せばよいのかが咄嗟に思いつかなくて固まってしまう。適当にあしらっとけばいいんだ、と店長からはぼやき口調で助言をもらうけれど、その適当が分かれば苦労がない。

 たとえばきょうは、若い大学生くらいの人たちに、おねぇさん可愛いけどこの中だったらどれがタイプ、とその場にいたメンバーを順繰りゆび差され、固まってしまった。愛想笑いだけは崩さずにいる技術を身に着けたけれど、こんなのなんて答えてよいのか分からない。沈黙が正解、なんてとある漫画では難解なクイズの回答としてあったけれど、客商売だから沈黙で済ますわけにもいかないのだ。

 けっきょく固まってしまったわたしの態度に見兼ねてか、おねぇさん困らすな、と男の子たちの一人が言ってくれたので難を逃れた。

 でも何度もお酒のお代わりを注文されて、わたしはそのつど席に伺いに行き、いろいろな質問を投げかけられては、愛想笑いで乗り切った。

「案外あれが正解かもね」

 厨房に戻ると、スケさんが言った。彼はカップにお酒をそそぎ、水で薄めている。「ヘンに答えないほうがいい。突っぱねるわけでもなく、かといって脈があると思わせずに、なあなあのまま、気分を害さぬように注文を受けて引っこむ」

「よかったんですかね」

「シムちゃんの笑顔はなかなかひとを和ませるからね」

「褒められちゃった」

「褒めてるよお。おじさんはシムちゃんの笑顔のファンだからね」

「そうだったんですね。あはは。愛想笑いですけどね」

「愛想だとむしろぼくは笑えないからね」

 スケさんはじぶんのことをおじさん呼ばわりするわりに年齢を教えてくれないし、たぶんわたしとそんなに変わらない気もする。顎鬚を剃ったら童顔だよね、とわたしと同い年のバイト仲間はよくスケさんの話題を口にする。よく見てるなぁ、と思っていたら、この数日後に、そのひとはスケさんに告白して見事お付き合いを果たした。

 行動力、とわたしは心の目を瞠る。

 話は変わって、ラストオーダーの時間になると現れるサングラスのひとがいた。スケさんのお友達みたいだ。夜中なのに年中サングラスで、店のなかに入っても外さない。ラストオーダーで食べ物を注文してくれることもあれば、水だけを飲んで帰ることもある。スケさんのお友達なのは自明なので、そこは店長も目をつむっている様子だ。とくに何も言わないでいる。

 その日は、スケさんが早上がりの日だった。付き合いはじめたばかりのチーちゃんとデートをするから、同じ時刻にあがっただけなのだろうけれど、ラストオーダーの時間帯にはもうお店にはいなかった。

 サングラスのひとががらんとした店内に入ってきて、座席に腰掛ける。

 わたしは水を持っていき、注文を受ける構えをとる。しばらく待ったけれど、なかなか応答がない。

「あの、スケさんもう帰ってしまったみたいですよ」

 わたしは間を持たせるために言った。初めて注文以外の言葉を発したかもしれない。サングラスのひとだけがこれまでいちどもわたしに、返答に窮するような質問を投げかけなかった裏返しかもしれなかった。

 押されて踏ん張っていたなかで、押してこないひとが現れたので、おっとっと、とわたしはよろけてしまっただけだと考えたら、それっぽく聞こえる。

「スケ帰ったのは知ってます。困らせたくて言うわけではないんで、嫌だったら断ってほしいんですけど」

 わたしはなぜかこの時点で顔が熱っぽくなった。

「いつもお店で見ていて、一生懸命に仕事をしている姿がステキだなと思っていて」

 サングラスのひとはおもむろにサングラスをはずした。まつ毛の長い、切れ長の目が現れ、そのあまりのうつくしさに、おやまあ、とわたしは見惚れる。

「友達になってくれませんか。こわかったら、あの、断ってもらってもよいので」

 カップに添えられた手がぶるぶる震えている。なかの液体がぴちゃぴちゃ音をたてている。見えない金魚が潜んでいるみたいだ。

 サングラスのひとはそれに気づいたのか、気恥ずかしそうに片方の頬に笑窪をあけ、水を飲み干す。

 カップを置くと、手をグーパーして、おかしいな、と小首を傾げた。どうしてじぶんの身体なのに言うことを聞かないのだろう、と示すみたいに。

 わたしはなんだか目のまえのひとが見た目にそぐわない素朴な心根の持ち主に見えてしまって、ふだんは身体が固まって沈黙を守るしかない愛想笑いマシーンであることも忘れて、

「お友達ってどうすればなれますか」と言い返している。

「えっと」

「もうすこしでバイト終わるので、それからいっしょに考えちゃいます?」

「それは、えっと」

 あれ、ダメですか、とわたしはきょとんとしてから、愛想笑いではない笑みが零れる。「その前に失礼ですけど訊いてもいいですか」

 なんなりと、とそのひとはうなづく。

「性別は、その、どっちなのかなって」口にしてから、これは失礼すぎるのでは、とじんわり背中に汗を掻く。

「身体はいちおう、女です」彼女は首筋に手をやって、照れくさそうに、「や、心もか」とつぶやく。

「かっこいい服装だったので、男性かと思ってました」

「そう思われるようにしてたとこがないわけじゃないから。騙すみたいですみません」

 わたしは厨房を見遣って、店長が怖い顔を覗かせていないか確認する。店内にほかにお客さんはいないからか、まあいいか、と放置しているようだ。わたしが珍しくお客さんと交流を図っているのを、よしよし、と思っていてもおかしくはない。

「あの、本当に友達だけなんですか」首を戻してわたしは言った。

「それは、あの、どういう意味で」

「友達止まりでいいのかなって」

 どうしてこんなに強気な言葉がじぶんの口から飛びでるのかが分からず、戸惑う。そのくせ、こうなることが分かっていたから、ずっと口を閉ざしてきたのではないか、とすら思えてくる。わたしは思ったことしか口にできない気配り知らずなのだから、と。

「下心があるって言ったら、こわいですよね」

「正直なひとは嫌いじゃありません。ただし、誠実なひとに限りますけど」

「誠実、ではないかもしれませんけど」彼女は伏せていた顔をあげ、「傷つけたり、嘘を吐いたりはしないとは、約束できます」

 わたしの瞳に映る自分自身に誓うように、そう言った。

 この日、わたしはいつもより五分はやくバイトを切りあげて、定時どおりにお店をあとにした。初めての友達と歩きながらしゃべり、連絡先を交換して、タクシーで帰ると言い張る彼女をわたしの家に案内した。

 どうしてそんなに警戒心のない、大胆な行動をとったのかじぶんでも判らないけれど、お店のなかで彼女に声をかけたときから、以前のわたしなら辿ることのない道に逸れた予感はしていた。

 わたしはよく言葉に詰まる。だけれど、彼女をまえにするときだけ、やけに気兼ねなく、思ったことを口にできた。わたしの言葉を待ちかねたように残らず受けとる彼女の、底なしの穴にボールを詰めこむみたいに、わたしが埋めた分、ぽこん、と跳ねて戻ってくる心地よさと引き換えに、わたしは彼女のまえでだけ饒舌になる。

 壊れた蛇口だ、とわたしは思う。

 きっと彼女のうつくしい瞳に壊されてしまったのだ。

「あした、また迎えに行くね」彼女は言う。

「待ってる。でも店長がさいきんご機嫌斜めだから、サンドイッチでもいいからお店で食べていって。わたしもいっしょに食べてくからさ」

「スケの野郎は?」

「いると思うよ」彼女が顔をしかめたので、わたしは愉快になる。「なんで、ダメ?」

 恥ずかしい、と漏らす、底なしの瞳の持ち主にわたしは、じゃあサンドウィッチはお持ち帰りしてお家で食べよ、と提案する。

 言いきってしまってから、お持ち帰りするのはサンドウィッチだけじゃないじゃんね、と心の中で念じると、わたしのイジワルな気持ちが伝わってしまったのか、彼女は凛と澄ましたままの顔を真っ赤に染めた。




【アンとミーヤ】


 喉がひりひりするほどの大声で歌ってきた。一人でだ。ミーヤは日ごろから何をするにしてもやると決めれば独りきりでもやり遂げる血気盛んにして泰然自若な女子高生だったが、この日は率先して、意識して、誰の邪魔もされずに憂さ晴らしをしたかった。

 そう、憂さ晴らしだ。

 ストレス解消と言えばその通りで、日中、学校で友人のアンと言い争いをした。放課後の同好会活動でのことだ。

 アンはミーヤと同性同年齢の学友で、この学校で知り合った。教室は違ったが、同好会が同じで、ことあるごとに意気投合し、二年目にしてほかの学友たちからは、互いに互いの相棒として認められている。

「ミーヤちゃん、ありがとう。これ美味しいね。どこのお菓子?」

「駅前のあそこ。アンっちが前に行きたいって言ってたとこ。姉ちゃんが買ってきてくれたからおすそ分け」

「やったー」

 放課後、部室でお茶をしていた。いつものことだ。怪奇現象同好会とは名ばかりで、そのじつはお菓子を食べて雑談を交わしているだけだ。部費で小説や漫画を購入し、それらの感想文を文化祭で発表するくらいで、怪奇現象を探求する素振りは微塵もない。代々そうした同好会だった。

 だから読み終えた本を置いて、何気なく、話題の一つとしてミーヤは言った。

「魔法とか魔術とか、読む分には面白いけど、じっさいそんなこと言いだすひといたらちょっと避けちゃうよね。どう考えても現実にあるわけないしさ。現実に不可思議な現象を見ても、いまどき信じないっしょ」

 小説や漫画にでてくる登場人物たちは随分あっさり信じちゃうけど。

 核心を突いて、すこしばかりじぶんを賢く見せたかった欲求がなかったわけではなかったが、これは日ごろから思っていたことでもあるので、アンも大いに賛同してくれると思っていた。

 案に相違して、

「でもあるかもしれないよ」

 柔和だが、一本芯の通った硬質な響きが返ってくる。アンがじぶんの意見に否を突きつけるのは珍しかったため、ミーヤは鼻白んだ。「あるかもって何が?」

 てっきりいっしょになって、虚構の世界を小馬鹿にできると思っていただけに、アンの突っぱねるような言い方に引っかかる。

「どんなにふしぎなことが目のまえで起こったって、何かしらタネがあるに決まってるじゃん。ドラゴンが目のまえに舞い降りたって、そういう立体映像かロボットだって、まずは疑わない? うちは疑っちゃうけど、へぇ、アンはそうじゃないんだ」

「ドラゴンならそうかもしれないけど、魔法とか魔術だったら、そうかもなぁってなる気がする。いまの技術だって昔のひとから見たら充分に魔法や魔術に見えると思うけどな」

「魔法や魔術に見えることと、魔法や魔術があることはイコールではないでしょうに」

「そうだけど」

「マジックだってけっきょく種があるわけじゃん? マジックって魔法のことだよ。魔法のように見える技術。でもマジシャンの公演観たって、べつにそれを本物の魔法だって信じちゃうひとなんていまどきいないでしょ。いるの?」

「マジックはだって偽物っぽいし」

「街中で人が空を自由自在に飛ぶくらいしても、テレビ局の仕込みでしょ、みたいにみんな思っちゃうよ。あるよね、そういう番組」

「程度によると思う。それに、わたしが言ってるのは見たひとがどう解釈するかじゃなくて、魔法や魔術が本当にあってもべつにおかしくないよねってことだから。あっちゃダメなの?」

「ダメってこたないけどさ」

 話が噛みあわなくてむしゃくしゃした。じぶんの意見を受け入れてもらえない悔しさというよりも、なぜアンはこうまでもじぶんに突っかかってくるのか、のイライラが胸中を満たす。

 どう考えてもうちのほうが理屈として正しいのに。

 アンは子どもだ、とじぶんを棚にあげてミーヤは思った。

 お菓子をすべてたいらげると、居心地のわるくなった部屋にアンを一人残し、学校をあとにした。その足で大声で歌えるお店に入り、そこでひとしきり溜飲を下げ、帰宅の途に就いたときには、辺りはとっぷりと陽が暮れていた。

 駅前から家までは自転車で一時間の道のりだ。途中でファーストフード店で夕食をとり、街灯の明かりだけがポツポツと灯る閑散とした道に差しかかるころには、午後九時に差し当たっていた。

 アンへの怒りは冷めたが、魔法や魔術を信じるような相手だとは思っていなかっただけに、ミーヤの胸には寂しさが湧いた。

 分かち合えると思っていた。

 親友だと思っていた。

 アンはもっと賢いと思っていただけに、ああも夢見がちな反論を意固地にされると、絶交を意思表示された気分になる。

 魔法なんかあるわけないじゃん。

 魔術?

 まずは科学から勉強し直しなよ。

 憤るものの、じぶんはこれといって科学に詳しいわけでもない。ただ、心霊現象や超常現象の類を信じるのは愚か者だと相場が決まっていることは知っている。

 ひょっとしたらアンはサンタさんを未だに信じているのではないか。

 ときおり見せる子どもっぽさを思えば、さもありなんだ。物腰のやわらかなアンのほんわかした雰囲気が好きだったが、それが単なる無邪気な幼稚さであると判ると、溜息を吐かずにはおられない。

 ふと頭上に流れ星のような光が流れる。

 電信柱に街灯の明かりが反射して、ツーっと光が走って見えることがある。今回もそれかと思ったが、光は消え失せることなく徐々に大きさを増し、眩しくて顔を背けるほどの光を伴い、河川敷のほうへと飛んでいった。

 ミーヤは光を追った。

 さっこん、未確認飛行物体は珍しくない。ドローンや気球など、さまざまな飛行体が空を舞っている。誰かがイタズラで飛ばしているに違いない。

 追わずにいてもよかったが、アンとの口論が脳裡を占めていた。一見ふしぎに思えるものだって突き詰めれば単なる自然現象にすぎない。人工物だってけっきょくのところ自然現象の産物だ。科学で解き明かせる。

 証明したかったのだろう。ミーヤはペダルに体重をかけ、漕いだ。

 河川敷には野球のグラウンドがある。

 光はそこに舞い降りたようだった。

 土手のうえに自転車を停め、見下ろす。光はグラウンドの真ん中あたりにあった。着地している。眩い光が徐々に弱まっていく。

 間もなくほんわかと光の円を保った。

 光の中に人影が浮かぶ。

 誰かいるようだ。

 逡巡したがミーヤは意を決し、土手の芝生を踏みしめる。

 グランドに足を踏み入れたときには、光の真ん中にいる人物の様相が窺えた。制服を着ている。ミーヤと同じ学校のものだ。

 そう言えばアンはこの辺りに住んでいたな、と連想し、光のなかに浮かぶ影の輪郭が明瞭さを増してから、おや、と思う。

 あれはまさしくアンではないか。特徴的な三つ編みが背中に垂れており、背の低さの割に小さな頭のカタチが判別を容易にする。

 おーい、なにしてんだ。

 愉快なのと安堵とで、いっとき緩んだ気が、瞬時に締まる。

 アンのほかにも影がある。

 光はアンたちを包みこむようにしていたが、地面に光源はない。宙に浮いているようだ。中心に光源があるとすれば、アンの頭上にそれが静止していることになる。

 アンはそれを見上げてることなく、まっすぐとまえを向いている。向こうに何かがあるようだった。

「アン」

 声をかけたつもりだった。ふしぎと音にならない。

 声がでない。まるで水中で呼吸ができなくて苦しむように、パクパクと我が友の名を呼ぶ。

 アン、アン。

 なぜか焦燥感が足元から競りあがる。いまごろになってミーヤはじぶんが闇のなかに立っているのだとつよく自覚した。

 アンが光の奥に進む。一歩進んだだけでも存在感が如実に薄れ、ミーヤは堪らず声なき声で叫んでいる。

 待って、アン。

 行かないで。

 叫んでしまってから、アンがこのままだと消えてしまうのではないか、との恐怖にじぶんが怯えているのが判った。

 声が届いたわけではないのだろうが、アンがこちらを振り返る。

 光が失せる。

 闇一色。

 じぶんの頬に伝うシズクの動きだけがミーヤの知覚できるすべてだった。

   ***

 アンは迷っていた。ずっと迷っていた。

 打ち明けるべきか、胸に秘めたままでいるべきか。

 誰にも打ち明けぬままにこのまま暮らしていくべきだと結論していながら、それでもいつも思考の底のほうで、秘密の共有への欲求がにわかに蠢く。

 ミーヤとは中学校、高校といっしょだった。中学校では接点はなかったが、アンのほうではよく目で追っていた。ミーヤは目立つ。

 教師にも物怖じせず意見する芯のつよさは、彼女の、どんな感情にも支配されんとする意地のようなものから派生しているようにアンには見えた。情ではなく理を重んじている。学友たちのなかで彼女だけが頭一つ分以上に達観していた。

 現実と虚構、事実と妄想を区別するだけの目を彼女は思春期の時点で持っていた。アンにはそれが物珍しかった。じぶんと似たような存在がほかにもいたのか、と仲間を見つけたような胸の高鳴りを覚えたが、高校に入学するまで声をかけずにいた。

 遠くから眺めているだけで満足だった。

 縁を結んでしまったらせっかくの彼女の宝物を奪ってしまう気がした。彼女のそれは孤高ゆえに輝きを増す。孤独を苦としない彼女のそれをアンは好ましく思った。

 だから、高校に入学して彼女が同じ同好会に入会してきたときには驚いた。よもやネギをしょったカモが向こうからやってくるとは。

 最初は距離を保っていたが、元から同好会のメンバーはすくなかった。先輩たちが受験にさしかかり、部室に顔を見せなくなると、毎日のように部室に入り浸るのはアンとミーヤだけになった。

 さきに話しかけてきたのはミーヤのほうだった。

 それだけは断言できる。アンはじぶんからは絶対に接点を結ばずにいようと決めていた。

 だがいちど棚から牡丹餅が落ちてきてしまうと、もっとないかな、と棚をこちらから覗きこみたくなった。衝動を抑えきれなかった。

 それからというもの、放課後のほとんどをミーヤと過ごした。

 二年生の秋になると、ミーヤはアンの日常の大部分を占める成分となった。誇張ではなく、アンにとって日常とはミーヤと会い、話し、彼女を通してじぶんの足りない箇所や補強すべき箇所を見繕う時間だと言えた。

 アンは幼いころから他者とは相容れぬ文化のなかで生きてきた。

 他人にそれを知られてはならないし、他人はそれをおいそれと受け入れたりはしないと、母や祖母やそのほかの事情を知る者たちからはしつこく言葉で説かれ、態度で示された。

 秘密を抱えて生きることが当然の暮らしのなかで、秘密を持たずに、自身と似たような達観した眼差しを有したコと出会った。それがミーヤだった。

 怪奇現象同好会に入ったのは、アンの抱えた秘密と密接に関わっていた。同好会に入っていれば、いざ秘密が露見しそうになっても誤魔化せるとアンは考えていたが、そのじつ同好会では好きな映画や漫画、小説の話をミーヤとするばかりで、カモフラージュの役には立っていない。秘密の露呈しそうな場面にもいまのところは行き当たらずにいる。

 だからかもしれない。

 ついついミーヤとなら秘密が共有できるのではないか、打ち明けられるのではないか、との期待が、胸のうちに、ふつふつと朝顔の芽のように萌えはじめていた。

 気づいたときにはおそかった。

 ミーヤがとつぜん魔法や魔術を全否定するようなことを言ったのだ。ついつい、あなたがそれを言うのか、と頭にきてしまった。達観していたつもりが、じつに幼稚な反発心にいっとき思考を蝕まれた。

 油断したのだ。

 ミーヤならば解かってくれると、何も話していないうちから期待を募らせていた。

 裏切られたと思ったのだ。

 得手勝手な怒りだ。

 しかし抑えきれなかった。未熟だった。

 ミーヤが部室からでていき、そのあとはしばらくのあいだ、それこそ下校を促すアナウンスが流れるまで窓のそとに垂れつつある夜の帳のしずかな移り変わりを眺めていた。

 家に帰ると、着替えもせずにベッドに倒れこみ、思案する。

 アンには期限があった。高校を卒業すれば否応なく稼業を継ぐべく、この地を離れなければならない。

 この地とは、いま日々を過ごしているこの社会のことだ。ほかの、よりアンの秘密にちかい社会へと移転しなければならない。高校卒業は飽くまで最終期日であり、じつのところ十五歳を過ぎてしまえば、いますぐにでも発つことができる。

 猶予期間を満喫しきってからこの地を離れようと思っていた。

 だが、と胸に痛痒が走る。

 もういいかな、の諦めに似た気持ちが湧いている。去るならばいまこのときを以ってない気がした。自棄になっているだけだろうか。いいや、いままでが甘えすぎていたのだ。ミーヤの存在を理由に、じぶんを甘やかし、この地に留まる動機付けにしていた。

 この機に、身を入れて己が運命と真剣に向き合うべきなのではないか。

 いちどそう思ってしまうと、あとはその考えに言いわけじみた陰がこびりついていないかをためつすがめつ眺めまわして、よし、の判を捺す作業だけが残される。

 アンは足を振り、勢いよくベッドから跳ね起きる。

 一階に下り、大黒柱にハメこんでおいた魔具を取り去った。

 すると、一世帯分の家具や生活用品が見る間に消え失せ、あとにはがらんとした空き屋が姿を現す。まやかしだったのだ。なにもかも。ミーヤとの日々も、じぶんで描いた幻想のうえでおままごとをしていたにすぎない児戯だった。

 一線を引くにはよい日だ。

 終わりにするのではない。きょうから真面目に歩きはじめるのだ。

 じぶんの人生を。

 現実を。

 まやかしは置き去りにして、運命に従おう。

 アンは空き家から退去し、旅立ちにふさわしい目ぼしい場所を思い描きながら、当てもなく道を歩む。

 ひと気のないほう、ないほうへと歩を進めると、やがて河川敷に行き着いた。

 野球グラウンドがある。

 土手が壁の役割を果たし、住宅街からは死角になる。「入口」を開けるのに充分な広さがあり、ここにするか、と芝生の斜面を滑り下りる。

 足先で地面を擦り、グラウンドに大きく「印」を描く。入口はこの印さえ描けばどこにでも開けることができる。出口は一つだ。

 ただし、印にぽっかりと穴が開くわけではない。飽くまでこれはシルシであり、言うなればヘリポートのようなものだった。

 印を引き終え、真ん中に呪具を置く。家の大黒柱にハメていたものだ。動力源となって、「箱舟」を呼ぶための信号をこれで発することができる。

 やがて夜空に光の玉が現れる。箱舟だ。乗り物ではない。あちらとこちらを結ぶ穴を固定するための枠組みだ。これで入口の穴を安定させないと、穴が広がりつづけ、あちらとこちらが混然一体となって、取り返しのつかないことになる。

 光が球体のカタチに安定する。

 入り口が開く。

 向こう側に母と祖母の姿が見えた。出迎えだ。思ったよりはやく踏ん切りをつけたと知って、歓喜しているに違いない。

 親たちの意に沿ってしまうじぶんを癪に思うが、しかしそれが本来のあるべきじぶんの姿なのだ。幼稚なじぶんにさよならをする時間だ。

 ミーヤに別れの挨拶をしなかった。いまさらのように胸の苦しさを覚えるが、手紙などを残せば却って彼女を無駄に傷つけるだろう。さっさと忘れてくれることを祈ろう。これが最善だ。

 思い、最後にこの街の景色をまぶたに焼きつけようと振り返る。

 はっとする。

 暗がりのなかに人影がある。

 すぐそば、十メートルも離れていない場所に立っている。

 目を疑った。あり得ない。

 制服姿ではないが、それは見慣れた輪郭を有していた。

 ミーヤ。

 彼女はしきりに口を大きく開き、胸を押さえながら、前かがみになっている。まるで酔っ払いが吐しゃ物を吐きだそうとしているかのような仕草だ。何かを叫んでいる。しかし声が届かない。それはそうだ。いまこの空間は、箱舟が支配している。声だけではない。この光の見える場所にすら入ってこられないはずだ。

 ミーヤと目が合う。

 彼女の顔は、歪んでいた。彼女はいまにも崩れ落ちてしまいそうなボロボロの積み木だった。支えを奪われまいと感情に流されている幼子の顔がそこにはあった。

 胸を掻き毟られる。

 一歩でも離れれば、これ以上距離を置けば、たちどころに崩れ去りそうな我が友をまえに、アンの覚悟は急速に霧散した。

 足先で地面を擦り、印の一部を削り取る。

 ロウソクの火に息を吹きかけたように箱舟は、その光輪ごと闇に溶けこんだ。

 風音が戻る。

 虫の音が、秋の到来を報せている。

 こちらの名を叫ぶミーヤだが、その場から動けないようだ。腰を抜かしたのだろう。箱舟の光を受けてなお自我を保てるなんてどうかしている。

 アンは駆け寄り、彼女の肩に手を回す。ミーヤの目からは夜露が溢れている。たぷんたぷんと一粒一粒が拍動のように頬を流れた。「行っちゃやだよ」

「どこにも行かないよ。ちょっとUFOがいたから見にきただけ」

「連れてかれちゃうかと思ったじゃん」そこに怒りの響きはなく、安堵と、何かを失う恐怖が滲みでて聞こえた。「いなくなっちゃうかと思ったじゃん」

「いなくならないよ」

 いまはだま、と心のなかで付け足す。いまこの胸に湧く陽気は優越感だろうか。子猫を猫じゃらしでからかうときに似た嗜虐心をほんのりと覚えながら、宥めすかしを兼ねて、

「でも信じないんじゃなかったの」と口にする。「魔法も魔術も。超常現象を見ても、ミーヤは信じないんじゃなかったの」

「いまそれ言う」

 泣きながら怒るという器用な芸を披露しながら、我が友は冷えた溶岩がごとくちからづよさで、こちらの制服を掴んでいる。

 離してなるものか。

 懸命に繋ぎとめる我が友の意思に触れ、アンは自覚する。

 内に根付いたこの街への深い愛着と。

 じぶんの運命への反発を、しずかに。




【魔物の触手に囚われて】


 市内で連続児童失踪事件が多発しているそうだ。

 そうだ、なんて他人事のように傍観しているが、僕の学校でもすでに数人の生徒が行方不明になっている。学校からの帰り道に事件や事故に巻きこまれたのではないか、と小学生ですら連想できる閃きをおとなたちが真面目ぶって発表している。

 みなさんも気を付けてくださいね、と注意を喚起されたところで、どうしようもない。何をどう注意しろというのか。見知らぬひとに付いていくな? そんな事項を守って保たれる安寧なら誰も失踪などしていない。

 僕はあまり学校の成績はよくはないけれど、それくらいの道理が解るくらいには愚かではない。ただし、愚かな一面も多々あり、総合して愚かなことは認めよう。

 だからかもしれない。

 学校帰りに、独りになりたくて立ち寄った森林公園で、同級生がほかの同級生を貪っている姿を目撃した。目撃しておいて、僕はそれを誰にもしゃべらずにこうして数日を過ごしている。僕は愚かではなく、ある一面では愚かだからだ。

 貪っている相手の顔には見覚えがあった。

 隣のクラスの飯倉だ。飯倉とは一年のころに同じ委員会になったことがあり、それなりに互いの名前や顔や声を認め合っている仲ではある。

 ふしぎなのは、あの日以来失踪してしまったのが、その飯倉である点だ。

 反して、貪られていたはずの芦部が平然と登校している。いや、貪られていたのが真実に芦部なのか自信がない。暗かったし、何せ貪られているほうは腹が引き裂かれ、尋常の様子ではなかった。髪型から推し測るに芦辺に見えただけのことであり、血にまみれたあの死体がいったい誰であったのかを正確に遠目から判別できたとは思えない。そこまでじぶんの視力、ともすれば認知能力を信用してはいない。

 その点、貪っていたのは飯倉だと断言できた。あれはたしかに飯倉だ。

 ひょっとしたら世間をにわかに震撼させている連続児童失踪事件の犯人は飯倉だったのかもしれないと考えたが、そうは言っても、連続児童失踪事件、とはマスメディアがそう表現しているだけのことであり、真実に連続事件なのか、犯人が同一人物なのか、そもそも事件なのか、は未だ不明とされている。

 僕は冷たい人間なので、じぶんさえ危険な目に遭わないのなら、同級生がどこに消えてもたいして痛くもかゆくもない。弱者が減ると僕が狙われる確率があがるから、できれば誰も犠牲になってほしくはない、と考えはするものの。

 飯倉が人間を貪り喰らうバケモノだと仮定しよう。ならば僕は飯倉に気を払っていればいい。落とし穴の場所さえ知っていれば、のらりくらりと日々を暮らしていける。

 飯倉は芦辺をすっかりたいらげてしまったのだろうか。

 死体をどう処理したのかは気になったが、いずれ見つかるか、見つからないか、しか道はないので、考えるだけ無駄と言えば無駄だった。

 放課後、学校が終わり次第、下校する。家にまっすぐ帰る日が多いが、本当は外をぶらぶらと歩きまわっていたい。ただ、それをするのは疲れるし、休むにしてもいまのご時世、何かとお金がかかる。公園でぼーっとするのは一年生のころに軒並み果たしてしまったので、端的に飽きているため、ほかに休める場所を探している。短い旅のようなものだ。

 街をぶらぶらと散策しているあいだだけ、自由を感じることができた。

 森林公園の入口はそういう意味で、数少ない安らぎの場だった。それが飯倉が芦辺を食べ散らかしたりするから、近寄れなくなった。一部分を黒く、バッテンで塗りつぶした地図を連想する。

 駅のほうへに歩いてみたのは、日ごろは人込みを避けていたからだ。たまにはこっちのほうにも行ってみるか、と歩を向けた。

 ファーストフード店で軽食をとりながら小説でも読もう。

 買ったまま放置している無数の電子書籍を思い、この夏はひと通り消化する時間に充てようと考える。

 店内に入り、注文をして品を受け取り、二階の奥の席に座る。店内を一望でき、じぶんの背後には誰もいない状態をつくる。バスでも僕は一番うしろの席に座る。無防備な背中側を他者に晒しつづけるのが我慢ならない。

 ポテトをつまみ、小説を読みはじめる。即座に物語世界に没頭できるのは僕の長所だ。没頭しすぎて、周囲への警戒心が薄れてしまうのは欠点と言えた。

「何読んでんの」

 声をかけられてから気づいた。そいつは僕の真向かいに座っている。いつの間に接近したのか。時計を確認すると、小説を読みはじめてから優に三十分は経過していた。

 芦部だった。

「俺もマンガ好きだよ」

「これは小説」

「どんな話?」

「何の用? なんで座ってんの」

「そんな怖い顔すんなって」

「どこが。笑ってんじゃん」

 芦部はじぶんで購入したのだろう、ハンバーガーに齧りつく。否応なく、先日の光景が脳裡に蘇える。目のまえの芦部は飯倉に食われていた。臓物をぐちゃぐちゃと貪られていたのだ。その張本人がいまは牛の死体、ハンバーガーを口にしている。

 食物連鎖、と思うが、順序があべこべだ。芦部は食われた側だ。しかしこうして生きている。やはりあれは見間違いだったのか。

 だとすればなおさら妙だ。なぜコイツは、ろくに接点もなかったこちらに構うのか。追ってきたのだろう。偶然店内で発見して、声をかけた可能性もなくはないが、やはり日頃の芦部との縁の浅さを思うと危機感を募らせるには充分だ。

「おまえ、芦部じゃないのか」思ったままを口にした。

「なんだそりゃ。そういう話なのか、それ」芦部はあごをしゃくり、こちらの手元を覗く。それからこちらが返事をする前に滔々と、そういや俺の好きな漫画でさ、と有名な漫画家の名前と、代表作の題名を口にする。「あれのなかに、同級生を食べちゃう宇宙人の話があってさ。主人公はその食事の場面を目撃しちゃうんだけど、犯人はバケモノの姿だったから誰が犯人かまでは判らなくて、で、誰が人食い宇宙人かを探すって話があってさ」

「へえ」

「最終的にその話はせつないんだ。好きなコのことを食べたくなっちゃうんだよ、その種族は。食べなくたって生きていけるのに、食べずに済んだのに、好きになってしまったがために、相手の命を奪ってしまう」

「おまえもそうなのか」追い打ちをかけるつもりで言った。下手な駆け引きは好きではない。「脅さなくたって誰にも言わない。食べた相手に成り代われるならそりゃ捕まらないよな。犯人は常に被害者なわけだから。連続殺人とすら見做されない。でも気をつけたほうがいいよ。手口が似すぎてる。刑法で裁かれずとも、不自然さに気づかずにいられるほど大衆もバカじゃない」

「ご忠告どうも」芦部はそこで誤魔化すのをやめたようだ。いいや、芦部のフリをしているバケモノは、と言うべきか。半信半疑ではあったが、やはり芦部を喰らったバケモノはコイツらしい。元々は飯倉の姿を借りていたのだろう。

「飯倉も食ったのか」

「食った」

「なんで男子ばっかなんだ」

「女子はさすがに可哀そうだろ。俺だってできれば女子のやわらかい肉が食いてえ」

「僕のことも食べるのか」

「そのつもりだったんだけどな。じつを言うとすこし迷ってる」

 予想外だった。彼は僕を襲わないだろうと考えていた。口止めをするために、ちょっと脅しをかける程度だと見立てていたが、推量が甘かった。その気になれば食らうつもりなのだ。

 どうやって彼を出し抜き、この窮地を抜けだすか。

 逃走する段取りを巡らせながら、すこし迷っている、と言った彼の言葉に活路を見出す。

 こちらの逡巡を見透かしたように、

「そんな警戒すんなって。きょうのところはどうこうするつもりはねぇから。食おうとすりゃいつでも食えるしな。誰かに助けを求めてもいいけど、信用失くすだけだぞ。同級生を人食いバケモノ扱いするなんざふつうじゃねぇからな」

「小説のつづきが読みたいから、それ食べたらじゃあ帰ってくれませんか」

「はっは。いいね。俺らの正体に気づいて怖気づかないその性根。滅多にいないんだよな、おまえみたいのは」

 ほかにも仲間がいたのか。まずはそこに引っかかった。俺ら、と彼は言った。似た人食い種族がほかにもいるのだ。

「だいたいひと月に一人を食う。一年で十二人。一年ごとで場所を移動するから、俺を含め、実質十三人が街を移るごとにいなくなる。ただ、けっこうこれでも気をつけててな。痕跡を残さないようにいろいろ工夫してんだ。食う相手だっていちおう選んでるつもりなんだ」

「飯倉や芦部を選んだのは?」

「アイツら裏で女子生徒の盗撮動画をネットで売り捌いてたろ。証拠もある。見るか」

「いや、いい」

 芦部はどうかは知らないが、飯倉はそういうことをやりそうな人間だった。「念を押しておくけど、僕はきみに食べられるいわれはないし、食べられていい人間じゃない。今回だけと言わず、ほかを当たってくれませんか」

 暗に見逃せ、と告げる。ソイツはへらへらと笑みを浮かべる。

「食べるか食べないかは俺が決めることだ。おまえじゃない。それに俺の見てたかぎり、おまえもどちらかといったらアイツらの側だろ。俺が食べてもいい、餌にしてもいい、と認めちまう側だ」

「僕は飯倉たちとは違う。じっさいに行なったりしない」

「止めもしなかっただろうが」

「何をしているのかまでは知らなかったからです」

「知ろうとしなかっただけじゃないのか」

「たとえば僕がいま、あなたの殺人行為を知ったとして、それを公にしようとしないことと原理上何が違うんですか。あなたの理屈からすれば僕は、いまここで騒ぎを起こしてでもあなたの正体を世に知らしめようとするべきなのでは? でも僕はしない。あなたの生存権を認めているからです。食べなければ生きていけないのでしょう。それを止める筋合いをあいにくと僕は持ち合わせていないもので」

「理屈っぽいなぁ、おまえ」

「あなたは僕にどうしろと」

「協力してくれよ。ちょっとわけがあってしばらくこの街を離れられねぇ。だがもうすぐ一年が経つ。一年以上を同じ場所で過ごしたことがなくってな。しょうじき不安なんだ。餌の確保もむつかしくなってくだろうしな。おまえだったら俺が食っちまっても構わねぇ人間を見繕えるだろ。助けてくれねぇか」

「断ったら?」

 芦部の姿をしたソイツは大きく口を開き、ハンバーガーの残りをたいらげた。見せつけるように、こちらの目を見詰めながら、くちゃくちゃとたいらげる。

「人間じゃなきゃダメなんですか。犬や猫だとか」

「食った対象の姿になっちまうからなぁ。家畜でもべつに死にゃしないが、その分、これまでに蓄積してきたいくつかの記憶が欠ける。下手をすると人格まで消えかねねぇ」

「いまハンバーガーを食べたけどあなたの姿は人間のままですけど」

「いま俺が食ったのは肉だ。命じゃない」

「生きているものを食べたら、という意味ですか」

「そうだ。だから死体でもダメだ。腹は膨れねぇ」

「間違って虫を食べてしまったら?」

「さあな。虫くらいなら関係ないのかもな。鳥になったやつがいたのは知ってる。だが虫は聞かない」

「ゾウや虎にもなれるってことですか」

「その質問になんの意味があんだ」

「いえ。ひょっとしたら動物園にいるいくつかの動物も、あなたがたのような個体なのかと思いまして」

 言うと、そこでソイツは遅まきながら、自身が墓穴を掘って、仲間がいる旨を暗に伝えてしまっていたことを悟ったようだ。舌打ちをしてから、

「死体全部食べるにゃ無理があっからな。さすがに動物園にゃいねぇだろ。いるとしても猿とかヤギとかそういうのだ」

「死体を全部食べないとどうなるんですか。食べる部位が重要なんですかね。心臓だけ食べたらどうなんるですか? 変身できない条件ってやっぱりありますよね」

「あんま根掘り葉掘り訊くな。答えてやんのはこれで最後な。いちおうの誠意ってやつだ。そんかし協力してくれんだろうな」

「脅されたのでは断れませんよ」

「臓器と脳みそ、それから脊髄を食べれば充分だ。眼球や性器は、食べてもいいし、食べなくてもいい」

「遺伝情報から復元できるってことなんでしょうか」

「俺に訊かれてもな」

「研究機関とかないんですか。それだけの能力があるなら組織化すれば政治すら動かせるのでは」

「組織化はできない。俺がこの街から出られねぇ理由の一つだ。俺たちゃ同属に出会うと、擬態を保てなくなる。この姿を維持できない」

「素の姿に戻ってしまうということですか」森林公園で見かけた食事中の姿を思い出す。先刻、口を大きく開けたが、その際も人間とは思えぬ形相になっていた。

「いまこの街を囲うように、ほかのやつらが陣取ってる。ちょいと以前、目立つ真似をしちまってな」

「狙われてるのですか」

「だろうな」

「どうして攻め込んでこないんですか」

「いちおう、俺たちのあいだにも秩序はある。ルールがある。ほかのやつらの縄張りには入らない。それを破れば問答無用で、食い殺していいことになってる。だが俺はルールは守ってる。ここに攻め込めばヤツらのほうが罰を受ける」

「警察みたいな機構があるんですか」

「誰もが警察みたいに振る舞えるようになるってだけだ。同族を食らってもいいって免罪符を得るってだけのことだが、その規律は唯一ゆえに絶対だ」

「この街を出られないのもじゃあ」

「この街から出ようとすれば必然、ほかの街を通る。いちおう、通過するだけなら問題ない。縄張りにしたらダメな土地もすくなくないしな。都心はおおむね、共有地だ。その分、捕食も禁じられてっから、長居するメリットはねぇが」

「縄張りを荒らされたと証言されたら事実上、死と同義ですね」

「というよりも、街を通っているあいだに襲われれば、死闘は避けられない。死闘になった時点で、もはや単なる移動――通過とは見做されねぇよな。縄張り外のよそ者のほうが圧倒的に不利ってこった。仮に俺がいま、ほかの縄張りを通れば、侵入してるこっちに非があると見做される。ハメられてんだいま、俺ぁ」

「お気の毒に」

 睨まれたので、皮肉ではなく、と言い足すと、訊くだけ訊くが、と彼は言った。「何か案があったりするか。この街から無傷で出られる案。ほかの縄張りを、無傷で通り抜けるなんかあんだろ、そういうの」

「僕なんかが考えられる案ならすでに思いついていそうなものですけど」

「いいから言えって」

 すでに協力者扱いされている。信用されておくのもわるかないと思い、そうですね、と思案する。

「考えられるのは三つですね。いえ、五つですか」

「お、さすが」

「一つはこのままこの街に居つくこと。二つ目は相手のほうでこの街に入ってもらうようにおびき寄せて、返り討ちにすること。三つ目は誰か刺客を放って、敵を始末、或いは足止めしてもらっているあいだに通り抜けてしまうこと。四つ目は、仲間割れを起こさせるような策を弄して、相手側にかってに自滅してもらうこと」

「五つ目は?」

「強行突破、もしくは空中や地下など正規ではない抜け道で移動をするです」

 それは却下だ、とソイツはしばし押し黙った。

「おびき寄せる案と、刺客を放つ案、これは使える。仲間割れを起こさせる案は、そもそもヤツら、仲間ってわけじゃねぇ。俺をこころよく思わないヤツらが集まっただけでな。ただ、嘘の情報を握らせて混乱させるのはアリだ」

「どれもあなたがこの街から出られない以上、協力者が必要ですね」

「だな」

 腕が伸びてきたので、僕は椅子を引いて後退しようとしたが、背後は壁だった。日ごろの警戒が仇となる。反射的に目をきゅっとつむると、伸びてきた手は僕の肩をポンポンと叩いただけのようで、目を開けるときには目のまえの芦部の姿をしたソイツが、にこにこと芦部が絶対に浮かべないような柔和な笑みを浮かべていた。

「協力者がいて、俺はラッキーだったなぁ」

「あの」

「頼むな。頼りにしてるよ。おびき寄せる案と、刺客を放つ案と、嘘の情報を流す案。いいねぇ、全部同時にやっちゃえるのがいい。食べたりしないからよ。食料の調達は月一で済むし、残りの時間退屈だろ」

 僕は生唾を呑みこむ。

 ありがとうな、助かるよ。

 そう言ったソイツは一瞬だけ、顔面を大きく歪めた。鋭い歯がいくつも顔面いっぱいに並んだ。錯覚かと思うほど呆気なく元の芦部の顔に戻る。

「解りました。できる限り、がんばってみます」

 案外に、と僕は思う。懐柔しやすいのかもしれない。強者の驕りだ。目のまえのバケモノは、僕がこうなるように仕向けたとはまったく疑っていないようだ。

 鬼には鬼を、邪には邪にを、だ。

 バケモノを倒すには同様の脅威を、バケモノを、ぶつけるしかない。

 おそらく彼らのような個体は互いに居場所が解かるのだろう。縄張りというくらいだから、すくなくともどの街のどの方向に同属がいるのかを察知できるはずだ。

 目のまえの個体を葬ろうとする勢力がある。ならば僕は、目のまえのコイツに従うフリをして、ほかの個体と接触し、情報を共有し、ときに欺きながら、バケモノ同士をぶつけ合えばいい。

 本当は縄張り内にまだいるにも拘わらず、出掛けていると嘘を吹きこんで、地雷を踏ませるように後戻りのできない死闘へと誘えればてっとりばやいのだが、バケモノ同士は互いの居場所がわかると想定すれば、それはうまくいきそうもない案と言える。

 なればこそ。

 じっさいに縄張りのそとに出てもらい、対象が縄張りに踏み入れたのを機に、僕の合図を以って、ふたたび縄張り内に戻ってきてもらうのが最適だ。

 罠を張る。

 いちど地雷を撤去し、地雷がないと思って踏み入れたさきに、地雷をもういちど仕掛け直す。

 僕のすべきことは単純だ。

 目のまえのバケモノを敵視する勢力に接触し、僕の案を伝え、二重スパイさながらに暗躍する。

 ふだんの生活とそれほど変わらない。

 隙間を縫って生きていく。

 僕は人道をはずれたことをしたくない。

 だがバケモノ相手なら遠慮はいらない。

 妄想を現実にしても法に抵触しないというのなら、いくらでも僕は、僕の冷酷な妄想を現実のものとすべく、悪の限りを尽くしてみせよう。

「もっと食えよ。お代わりとかどうだ。きょうは奢ってやるからよ」

 目のまえでバケモノが、何も知らずにはしゃいでいる。

 オモチャ、と僕は思う。

 いいものを手に入れた。

 こんなにいいものを手放すのはすこし惜しい気がしたが、壊れるのがオモチャの定めだ。ほかにも似た玩具があると知ったからには、遠慮なく遊ばせてもらうことにする。

 頼みますよ、と僕は念じる。

 かってに壊れないでくださいね、とすこしの罪悪感と、退屈な日常の終わりを予感しながら。




【空を掴む】


 ミサルは雲梯(うんてい)の得意な子どもだった。運動の得意な小学生は比較的同級生から一目置かれる。そのためミサルも幼少期においてはクラスの注目の的だったが、それも中学、高校と年齢があがるにつれて一過性の魅力にすぎなかったのだとむざむざと痛感するはめとなった。

 ミサルは高校生に長じてからも雲梯が得意だった。もはやそれ以外に特技がなかったと言える。いくらでも鉄の棒にぶらさがっていられた。猿のように腕だけでぶらさがり、つぎからつぎに宙にかかった梯子を渡れた。

 しかしそれだけだ。

 十七歳の色気づいてきた同級生たちのなかで、いかに雲梯を速く移動できたところで、奇異な眼差しをそそがれることはあれど、憧憬の目で見られることはなかった。どちらかと言えば、忌々しそうな視線をそそがれるのがオチであり、特技は何かとクラスメイトたちへの自己紹介のときにもミサルはいっさい雲梯が得意なことは秘めていた。

 言うだけ無駄だ。長所でもなんでもない。

 かつて舎弟のようにミサルを慕っていた同級生は、背がぐんと伸び、髪型も美容院で整え、身だしなみもこじゃれており、休み時間や放課後になると同級生の異性たちに囲まれ、楽しげな笑声を響かせている。

 ミサルはというと、ぱっと冴えない青年そのものだ。雲梯が得意なだけあり、腕は長いが、かといって長身というほどでもなく、またオシャレとは無縁であった。休日はジャージで過ごす。服の趣味は小学校から変わらずで、無地のTシャツにジーンズだ。思春期に特有の、自己主張の激しい服装とも縁遠かったため、オシャレではないが、かといって共感性羞恥を喚起するような見た目でもなかった。

 だが、ぱっとしない。

 異性から注目されたのはあとにもさきにも、小学校時代に限られた。

 じぶんの才能は雲梯だ。そこに一点集中してしまったがために、あとには残りかすみたいな未来しか残されていない。短い栄華だった。

 放課後は公園に寄る。危ない趣味だと思われそうなのでひとには言わないが、公園で遊ぶ子どもたちの姿を眺めるのが好きだった。単純にむかしのじぶんを思いだすからだろう。みなから慕われ、持て囃された過去に浸っているにすぎない。それとも、未だに子どもたちのなかに混じって遊びたい欲求があるのだろうか。

 恋愛に興味がないわけではなかったが、同級生たちのように、好んで他者と関わろうとは思えない。相手から言い寄ってきてくれるならともかく。

 いったい何様なのだろう。ミサルは自嘲気味に笑う。

 陽が暮れはじめると子どもたちが公園から姿を消す。ミサルもまたそこはかとなく寂しさを漂わせる夜の気配を肌寒さと共に感じはじめた時分にベンチから腰をあげ、公園をあとにする。

 いつもそのときに公園の入り口や道路ですれ違う男がいた。

 散歩だろうか。犬を連れて公園を訪れる者もすくなくないためこれといって気に留めてこなかったが、男は決まって陽が暮れかけてから現れるので、ほかの公園利用者たちの姿よりも記憶に残っていた。

 公園に何の用だろう。比較的広い公園だ。公衆トイレでいかがわしいことをしているのではないか、と妙な想像を働かせたのは、じっさいにむかしこの公園でそうした事件があったからだ。

 以来、公園には監視カメラが設置されるようになった。

 じぶんが気に掛けることではない。

 そう思って、我関せずを貫いてきたが、いささか男は毎日のごとく公園に足を運び過ぎだ。とりもなおさずミサルもまた毎日足繁く公園に通っていることの裏返しでもあり、もしこの公園で事件が起こればまっさきにじぶんが疑われかねない、健全ないち市民として相手が無害かどうかを見定めておく義務があるのではないか。ミサルはじぶんの不審者ぶりを棚上げして、否、棚上げできないからこそ、いよいよとなって男の行動を監視することにした。

 ちょっと様子見するだけだ。グラウンドでランニングをしにきているだけかもしれないし、近道代わりに公園を通り抜けているだけかもしれない。男は軽装で、動きやすそうな格好だ。心なし体つきも引き締まって見える。ただし、外見がやや威圧的で、短く刈り上げられた髪型に、耳にはピアス、顎鬚と、道に迷っても彼にだけは気軽に訊ねようとは思えない見た目をしている。

 端的に、怖い。

 偏見だ、差別感情だ、と分かっちゃいるが、怖いものは怖い。

 これまで不審な男の動向を看過してきた背景には、そうした怯懦な心の動きがなかったとは言えない。

 退屈な日々に何かしらの変化を起こそうとする姑息な好奇心が背中を後押しした点も無視できないだろう。ミサルはけっきょく男を見掛けると、そのあとをこっそりと付け、物陰から観察した。

 男は遊具のある場所で歩を止めた。

 おもむろに背筋を伸ばし、肩や腕の柔軟をする。音楽が鳴っていることにそのとき気づく。持ち運びできるスピーカーで音楽を流しているようだ。踊るのだろうか。やはり運動をしにきたのだ。もはやミサルの男への関心は薄れていた。さっさと帰ろうと腰をあげた矢先、男は鉄棒にぶらさがった。

 金属と金属を溶接するのにも似たがっしり感があった。

 雲梯を得意とするミサルだからこそ遠巻きにも判断ついた。目を奪われたと言ってもいい。男の、鉄棒を掴む仕草からは生き物というよりも機械の結合を思わせる力強さがあった。

 男は懸垂の要領で身体を持ち上げる。

 宙にぶら下がったまま音楽の律動に合わせ、足を動かす。

 踊っている。

 いいや、ミサルの知る踊りとはまったく異なる。パントマイムにちかいが、それも精確ではない。

 無重力。

 ただ一言で言い表すならばそれしかない。

 或いは、浮遊、それとも、見えない足場の創造、と言うべきか。

 空飛ぶ靴で宙を滑るように、男は鉄棒で身体を浮かしながら、巧みに音楽と戯れた。

 工場で規則的に動く機械があるが、カチカチと見えないレールが宙にできているかのごとく、男の身体はじつに安定して、身体の重心ごと移動した。

 知れず見入っている。

 ずっと眺めていると、脳内にパズルが浮かぶ。マス目に沿ってタイルを動かし、バラバラの絵柄を完成させるパズルがあるが、あれよりももっと細かなマス目に沿って、身体を自在にスライドさせ、ときに見えない階段をのぼったりする。

 自由自在だ。

 そこには宙をじざいに舞い、踊る、重力を超越した存在がいた。

 男は十曲ほど異なる音で踊ると、三十分ほどでその場を去った。公園から遠のいていく男の背中を見届け、ミサルはとっぷりと暮れた街のなか、ふわふわと夢心地で帰宅の途に就いた。

 翌日からミサルは夜のとばりが下りはじめてからも公園のベンチを離れずにいた。例の男が入口からやってきたのを見計らって、遊具の近くに移動する。街灯から離れた場所に座り、鉄棒ダンスを盗み見た。相手からこちらは見えないはずだ。現に男はときおり、がぁー、と叫び声をあげる。思った通りに動けなかったのだろう。そこに他者の存在を意識した響きは聞き取れなかった。

 四日目にしてミサルは、陽の沈まぬうちに遊具のまえまで移動し、鉄棒を見上げた。

 じぶんにできるだろうか。

 鉄棒を見上げると胸が高鳴り、昂揚しているのがじぶんでも判った。

 腕を伸ばし、ぴょんと跳ねて鉄棒を掴む。

 懐かしい感覚が蘇える。

 懸垂を二回し、腕を縮めた状態を維持する。

 男はたしか、こうやって足を動かしてたっけな。

 見よう見真似でやってみる。ぎこちないが、思っていたよりかは様になっている気がした。

 音楽はない。

 まずは目に焼き尽けた男の動きを再現することに集中する。

 かかとをコンパスの針のようにして動かす。宙に穴を開けていく感覚だ。刺していくように、四角の頂点を結ぶように。何度も同じ場所に、順番に、足を運ぶ。

 腰をねじり、ジャンプを演じてみせたりする。じっさいには足を畳んだ瞬間に懸垂をして、浮いたように見せかけるだけだ。

 足元に映る影を見ながら、なるべく宙を歩いているように、ときに滑って見えるように工夫する。

 腕を休ませながら、すこしずつぎこちなさを修正していく。

 お手本の動きは細部まで記憶しているつもりだった。しかしいざ動いてみると、穴だらけだと気づく。やり方が分からない。点と点を結ぶあいだの軌跡を思い描けないのだ。

 観察が足りない。

 この日は、暗くなる前に鉄棒を離れ、また陰からお手本たる男の動きを見詰めた。

 しばらくの期間、暗くなるまでは鉄棒と戯れ、暗くなってからお手本を目に焼き尽ける日々を送った。ミサルは心のなかで男を師匠と崇めはじめていた。

 腕を鉄棒に固定してさえいれば、あとは足と腰の動きだけで師匠の動きを再現できると考えていたが、どうやら腕にも工夫がいるようだ。天秤のように左右対称に身体を支えるだけではなく、ステップに沿って片側に軸を寄せたり、離したりしなくてはならない。それを意識して実践するだけで腕への負担は大きくなった。

 眺めていただけでは分からないむつかしさがある。

 おそらく師匠の肉体は、見た目では測れないほどに強靭で、引き締まった筋繊維の塊だ。見てもいないうちからミサルは確信していた。

 尋常ではない。

 超人だ。

 達人の域に入らねば真似できない安定の高さ、自在に身体を操れる関節の万力がごとく強固さ、なによりも柔軟さがある。全身を鉄のように固めながら、ときに針金のようにしなやかに動く。

 自在にカタチを変えてなお、力を加えなければ型を維持しつづける軸のつよさを思った。

 身体能力だけではない。

 音楽に見合った舞いを即興で演じる。当意即妙で、的確なリズム感は、百発百中のガンマンさながらだ。創造性、閃き、表現力、いったいどれほどの技術を組み合わせれば、あれほどの演舞を生みだせるのか。

 胸に湧く噴きあげるような熱量と、じぶんに足りない技量を予感し、歯ぎしり交じりに口元が吊りあがる。

 ミサルが師匠と仰ぐ男と初めて言葉を交わしたのは、ミサルが最初に師匠のあとを追った日から二十日後のことだった。

 休日だったこともあり、いつもより早めに公園に赴き、鉄棒にぶらさがる。師匠の真似をしてスピーカーで音楽を流した。身に着けた基本的なステップを反復して、さらに磨く。子どもたちが遠くから物珍しそうに眺めていたが、すぐに飽きるのか、しばらくすると野次馬はいなくなった。

 夢中になっていたために、接近する人物に気づかなかった。

 足元に伸びるじぶん以外の影を視界に入れたときにはもう、その人物は目のまえにいた。

「エアダンスですか?」

 ミサルは鉄棒にぶらさがったまま、はい、と返事をする。頭が真っ白なのは、そもそもこの舞踏の呼称すら知らなかったズブの素人だから、ではなく、憧れのひと、ミサルがかってに師匠と呼んで崇めていた人物がいま目のまえに佇んでおり、あまつさえ声をかけてきたことに対する混乱からだ。

 遅れて、見られていたことへの羞恥の念が湧く。

「さっきからずっとキープしてますけど、え、ひょっとして一分くらいは余裕だったりします?」

「あの、キープとはなんですか」

「いまキミがやってるやつ。体勢を維持しつづける。鉄棒に掴まって、身体を持ち上げつづけるやつ。三十秒できるだけでもスゴいほう。きみ、ふつうに一分以上そのままだよね。さっきから見てました」

「あの、すみません」

 ミサルはようやく鉄棒から手を離し、着地する。「じつは前からお見掛けしていて」

 正直に打ち明けた。あなたの踊りを見て、憧れて、見よう見真似で練習をしていた。盗み見ていたこともそうだが、下手な癖に真似て、生意気なことをした。悪気はなかったのだ、としどろもどろに訴えた。

「いやいや、謝る必要ないでしょ。というかうれしいくらいですよ。エアダンスなんてめったにやるひといないから。この街に来て初めて見たくらいだし、なんだったら、え、いっしょにやりませんか」

 願ってもない言葉だった。ミサルはしばし言葉を失う。

 憧れのひとからの誘いだ。断る理由はない。

 見た目が威圧的な人物であったが、物腰は柔らかい。五歳は歳下だろうこちらにも対等な物言いをし、こちらのダンスへの興味を尊重してくれる。

 単なる憧れが、畏怖に変わった。

 このひとに嫌われたくはない、との恐怖だ。

 ミサルが閉口したまま固まってしまったからか、

「嫌なら無理にとは言わないですけど」と気を使わせてしまい、ミサルはかろうじて、ご迷惑でなければ、と応じた。「ぜんぜん下手ですけど、よろしくお願いします。いろいろ基本から教えてください」

「いいね。うれしい。こちらこそよろしくお願いしますね」

 師匠はさっそく、基本のステップのいくつかと、筋トレ方法を教えてくれた。

「やっぱり懸垂がいいんですね」

「ふつうの懸垂じゃなく、キツいやり方のだけどね。最終的にはこれくらいできるようになってほしいし」

 師匠は鉄棒の支柱のほうを掴み、ふわりと身体を浮かせた。旗のようだ。横に足を伸ばし、地面と平行になる。まったくどうして重力を感じさせないひとだ。そのまま宙で横になったまま、懸垂をする。腕をピンと伸ばした懸垂だ。縦にぶらさがってするのだって簡単ではないそれを師匠は身体を九十度横に倒して行う。きっと倒立をしながらの腕立て伏せだって軽々行うだろう。

「すごすぎて言葉がでないです」

「いやいや、しゃべっとるやん」

 気軽で、やさしく、教え方が上手い。師匠といる時間は、青春とは無縁だと嘆くミサルにとって、いまという時間を肯定的に受け入れられるひとときだった。

「基礎体力は充分すぎるから、あとはもう、やりこむだけだね。フリあるから、まずはそれマスターしよっか」

「フリですか」

「そ、振りつけ。曲もあるし、一回やってみせるか」

 師匠はそこで三十秒ほどの踊りを披露した。

 どうかな、と言って音楽を止めた師匠に向け、ミサルは遅れて拍手をする。圧倒されて言葉がなかった。

「いまさらですけど、師匠ってプロなんですか」

「プロちゃうよ。プロってあれだよね、それで飯食ってるひと。ざんねんながらエアダンスだけでは食べていけないからさ。いちおう、プロでやってるひとはいるけどね」

「あ、動画で見ました」師匠に言われて家で視聴した。エンターテインメントとして完成されていた。お金を払ってでも観たいと望むひとはすくなくないだろう。演出を含めて、高い水準にあった。

 ただ、師匠のエアダンスは、それらプロとはまた違った魅力があった。

 一言で言えば、細かいのだ。

 プロの技術が大型ショベルカーだとすれば、師匠のは業務用ミシンだ。細かく音を刺すような身体の使い方が、プロとは異なる凄みを生みだしている。

 下手をすれば、あまりの細かさに、画の荒い映像では、師匠の良さを充分に味わえないのではないか、とすら危惧する。

「時間はたっぷりあるし、焦らず覚えてこ」

 師匠はもういちど同じ振りを演じ、ミサルはそれを動画に収め、いつでも見て学べるようにした。

 一週間毎日師匠につきっきりで教えてもらうと、上辺だけだが、フリを最初から最後までなぞれるようになった。音の緩急や、軸のブレなど、細かいところではまだまだ師匠には及ばない。

「この短期間でそこまでできたら上出来すぎるって」

「動画で撮ってみたんですけど、師匠と比べるとかっこわるすぎて、へこみます」

「いやいや。やりこみの量が違うからそれはしょうがないし、たぶん俺よかよっぽど憶えは早いほうだよ。だいたい、このフリ、かなり疲れるんだよね。一日に何度も繰り返せるようなフリじゃない。いちどやり通すだけでも相当に乳酸溜まる。何度も反復できる次点で、バケモノじみてるって。そこだけならプロより上だよ。断言する」

 師匠は一拍区切ると、

「前から聞きたかったんだけどさ」と前置きし、「何かスポーツやってた? 体操とか、そういうの」

「いえ、なにも。あ、小学生のころ雲梯が得意でした」

「ぶっ」

「なんで笑うんですか」

「ヤベ、めっちゃ唾飛んだ。や、笑ってない。どうりでなぁ、って感心しただけ。雲梯かぁ。雲梯っておまえ」

 師匠はこんどは明確に噴きだした。ふしぎと嫌な気分にはならなかった。

 振り付けを習ってひと月もすると、もうこれ以上は上達しないのではないかといった完成度に落ち着く。師匠と比べれば劣るが、浮遊感や踊っている感がずいぶん出るようになった。

 ほかの振り付けや技も習った。教えてもらえればたいがいのステップは一日で憶えた。

 師匠はこちらの物覚えのよさを指して、許容量が高い、と評価した。

「エアダンスはほかのダンスと違うからさ。反復して練習するってのが、なかなかできない。どんなに簡単な動きも、けっきょく腕にかかる負荷は似たようなもんで。身体を吊りあげつづけるだけの腕力とスタミナがなきゃ、憶えるだけで一苦労。最初は筋肉痛で腕やら胸筋やらが死ぬ。素人はまずそこで脱落するよね。エアダンス人口が増えない一番の理由はそれ」

 一般人は許容量が低いんだ、と師匠は言った。

「その点、ミサルは最初からプロ以上の持久力に固定力があるからな。最初に会ったときにも言ったかもしれんけど、キープだけならプロより上だ。元から備わってる許容量がバケモノじみてる。誇っていいよ。ギネス狙える」

「おだてないでくださいよ」

「事実を言ったまでだ。下手すりゃ教えたフリ、そのうち片手でもできるようになりそう」

「まさか」

「片腕懸垂、もうできるんだよね」

 振り付けや技だけでなく、筋トレも毎日つづけてきた。いまでは片手で懸垂をするのだって苦ではない。

「師匠はその、エアダンスで食べていこうとは思わないんですか」

「思ったところで食べてけるわけじゃないからなあ」

「動画をネットに載せるとか、公演するとか」

「プロがいるのにいまさら二番煎じでしょ」

「でも師匠のはまた新しいジャンルに思えますけどね。フリの色というか、種類がまたプロとは違うじゃないですか」

「エンタメ向けじゃないってことだろそりゃ」

「師匠はもっと自信持っていいですよ。僕のことべた褒めしますけど、もっとじぶんのことも買ってください。世界だって狙えますよ、僕が企業の社長なら宣伝広告として専属契約したいくらいです」

「よせやいよせやい、おだてんな。ヨイショしても何もでないぞ」

「事実を言ったまでです」

「お、生意気」

 学校では相も変わらず浮かない日陰者だったが、師匠と出会ってからのミサルは毎日が充実していた。学校をじぶんの居場所だと実感したことはいちどもないが、公園に赴き、鉄棒をまえにすると、巣に帰ってきたような、陸から水中に戻った金魚の気分を味わった。

 子どもたちや、その親たちが遠くからじっと視線を送ってくる。ときにはわざわざ接近してきて、物珍しそうに見上げたり、拍手をくれる。

 師匠に許可を得て、ネット上に載せた師匠のエアダンス動画は、思ったほどには視聴回数は伸びなかったが、ぽつりぽつりと海外の人たちからコメントが寄せられ、見る人が見ればやはり評価するのだなとの認識をつよめた。ミサルの映った動画は師匠と比べるとやはり伸び率がイマイチだ。

「師匠はどうして毎日エアダンス練習してるんですか」目標や目的はなんなのか、と問うた。

「どうしてって、ああた」

「僕は師匠に憧れてって動機がありますけど、師匠にも師匠がいたんですか」

「おれは独学だから師匠って師匠はいないな。それに練習にきてるつもりはないからな、ここに。単に踊りたいんだよ。エアダンスをしたいだけ。目標も目的も、ここにきて鉄棒にぶらさがって、音に乗れば、もうそれで満たされる。最初のころは、筋トレの一環でしかなかったけど、まあ、日課だな」

「日常の一部ってことですか」

「そ。いまさら仕事にしようとか、有名になろうとかは思わない。子どもの目をキラキラさせるのは嫌いじゃないけどな」

 さっきからバケツを持ったまま、こちらを凝視する子どもに師匠は手を振った。子どもは照れくさそうに踵を返すと、談笑している母親たちのもとに駆けていく。師匠が鉄棒を掴み、演舞を開始すると、また近づいてきて、つぶらなひとみを釘付けにした。

 ミサルはひそかに、ことしの文化祭でエアダンスを披露してみようか、と妄想することがあった。しかし、師匠の言葉を聞いて、すこしだけ考えを変えた。

 人を楽しませようと思うことと、みなを見返し、ちやほやされようと思うことは違う。たとえ同じことをしていたとしても違うのだ、と考えを改めた。

 いいや、考えを深めた、と言ったほうが正確かもしれない。

 師匠といるときだけミサルは呼吸ができている気がした。息が楽だ。まるで澄んだ水のなかにいるみたいだ。川を泳いでいた海水魚が、海に包まれればきっと似たような心地になる。

「つぎはミサルが何か教えてくれよ。好きな曲でフリつくって、それを教えてくれ」

「それはまだ早いような」

「早いも遅いもないって。習ってばかりじゃつまらんて。まずはやってみ」

 足で音を踏めばいいだけだから、と師匠が簡単そうに言うものだから、そういうものかな、と思い、つくってみた初めての振りは、なんだか幼子のお遊戯みたいで、これを師匠に演舞してもらうのは、いちファンとして認められない。

 まだできないのか、と顔を合わせるたびにせっつく師匠を、のらりくらりとかわしながらミサルは、第二、第三の振り付けを考案していく。

「なあ、ミサル。早くしてくれ。このままじゃおれ、おじぃちゃんになっちゃうよ」

「師匠ならそのまま仙人にでもなれそうですけどね」

「いっしょに踊りたいだけなのに」

「師匠のフリならいつでもできますけど」

「それじゃつまんねぇの。ミサルは知らないかもしれんけどな、じぶんが四苦八苦して編みだしたフリを、エアダンスはじめて間もない野郎に、ほいさ、と物にされたらけっこう悔しいんだぞ。同じ思いを味あわせてやる」

 覚悟しとけ。

 わるいことを企むような顔を浮かべる師匠の、ことのほか卑近な動機に、ミサルは、ずっとほしかった宝物を手に入れたような、温かい気持ちに浸った。

 空を見上げる。

 底の抜けたような青のなかを、巨大な雲の群れがゆったりと泳いでいる。

 師匠の生みだす浮遊感と重なった。

 世界はどこまでも自由だ。

 こんなにも広く、雄大で、うつくしい。

 師匠に幻視した憧憬はきっと、あの空を舞う雲に等しい。

 音楽が鳴り、よっしゃやるか、と師匠が背伸びをする。

 釣られて伸ばしたミサルの手のさきが、空をぎゅっと掴み取る。 




千物語「陰」おわり。

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