千物語「風」

千物語「風」


目次

【風のラムネ道】

【貝とツノ】

【ククラ、無数の手の者】

【子猫は素知らぬふりして、みゃーと鳴く】

【雨の日にはきみと紅茶とチーズケーキと】

【竜の骸】

【ちゃぽんと跳ねて、もぐる】

【輪――リン――】

【死して兄は】

【本を聴く】

【ヤバイヤお嬢さまの吸入】

【黄色いポストの苦手なものは】

【ほら穴へ落とす言葉】

【極上の食事】

【歪みの夜のモヤ】

【扉はまだ燃えている】

【空の破片】

【木漏れ日はニコニコと】

【レディ、シ、GO】

【首切り密室殺人事件】

【染みはそのままで】




【風のラムネ道】


 ミサコさんはふしぎなひとでよくふらっといなくなった。当時ぼくは十二歳で、となりの家に住むミサコさんとは犬の散歩をする仲だった。犬はうちで飼っている柴犬で、ナータといった。

 家が隣接しているだけあって、部屋の窓が互いにくっつきそうなほど近く、ときどきミサコさんが窓から話しかけてくることがあった。

 ミサコさんはカーテンを閉めずに着替えをしたりする。小学生のぼくは、母に頼んで分厚いカーテンを買ってもらって、せっかくの日当たりのよい部屋を真っ暗に染めた。

 ミサコさんが部屋にいると明かりが灯っているのですぐに判った。寝るときもミサコさんは煌々と光を点けたままにしていたので、じぶんの部屋のカーテンをすこしめくるだけで、部屋にミサコさんがいるのかどうかはすぐに判った。

 日中もミサコさんはよく部屋にいるようだったけれど、ミサコさんが学生なのか引きこもりなのか、それとも何かしらの仕事をしているのかは謎に包まれていた。

「おーい、おーい、ミカゲくん」

 カーテンの奥から声が聞こえ、ぼくはゲームを中断して窓を開ける。

「どうしました」

「散歩行こうよ散歩。ナータの」

「さっきもう行ってきちゃいました」

「どうして誘ってくれないんだよぉ」

「だってミサコさん、散歩長いんだもん」

「楽しいでしょうよ。行こうよ行こうよ。ナータももっかい行きたいって言ってる」

 ほら見て、と庭を指差すミサコさんだが、ナータは犬小屋のなかでぼけぇっとしている。

「疲れ果てて見えますけどね」

「そんなこと言いっこなしだよ。じゃあナータは置いてって、ミサコさんと散歩しよ」

「一人で行けばいいじゃないですか」本当は内心うれしかったけれど、同じくらいゲームのつづきをしたかった。「なんでぼくまで」

「道連れだよぉ。一人は寂しいよ。だって想像してみて。ミサコさんが一人で町を彷徨ってる様子を」

 言われたので想像してみる。ミサコさんが、当てもなく行き当たりばったりで町を練り歩く。絶対にお供をしたくない。学校のマラソンのほうがまだ疲れずに済みそうだ。

「どれくらいで戻ってくるつもりですか」念のため訊いておく。

「一時間くらい」

「長いですよ」

「じゃあ三十分」

「だったら川まで行って戻ってくるでいいですか。それでいいならついてきます」

「やった。じゃ、下で待ってるね」

 窓の奥に引っこみ、ものの数秒でミサコさんは一階に下りたようで、家のそとに現れる。「早く早く。置いてっちゃうよ」

 どうぞ、といじわるでつぶやくけれども、聞こえる距離ではない。溜息を吐いてぼくは帽子を被り、階段を下りた。

 ミサコさんはスカートを穿かないひとだった。細身のカーゴパンツを好んでいて、たくさんついているポケットのどれにも何かしらのお菓子が入っていた。ミサコさんが歩くと、マスカラを振るみたいに独特の音色がカサカサ鳴るので、たぶん目をつむっていてもミサコさんの接近には気づくことができる。

「飴っコとラムネ、どっちがいい?」

「ラムネがいいけど喉乾いちゃいそうです」

「じゃあミサコさんがジュースをご馳走してあげよう」

 ぼくは内心でミサコさんに、歩く駄菓子屋、の二つ名をつけている。ジュースを飲みながらラムネを分け合って食べて、ラムネの袋がカラっぽになるころには川べりに立っている。

「むかしはこの川でもホタルが見れたんだって」

「へえ」土手の向こうに夕陽が沈んでいく。

「だんだんこの町も都会になってくね。自動販売機はどこにでもあるし、川はコンクリートで補強されちゃったし、ミカゲくんは私に冷たいし」

「こんなに優しいのに!?」素でびっくりした。

「優しいよ、優しいけど、でも前はもっと優しかった」

「そりゃ毎日散歩に誘われたらときどきはサボりたくもなりますよ。ナータですら休みますよ。ミサコさんは独りで散歩をする勇気を持つべきです」

「寂しいでしょ」

「友達誘えばいいじゃないですか」これはいじわるのつもりで言った。ミサコさんが友人といるところを見たことがなかった。いないのではないか、とぼくのなかでは定説になりつつあった。だから、

「友達はみんな夜じゃないと会えないから」

 予想外な返答に、言葉が詰まった。

「へ、へぇ。いたんだ友達」

「いたよぉ。みんな忙しいんだな。ミサコさんとは大違い」

「仕事はしてるの」

「お友達? あ、私か。してないように見える?」

 見える見える、と太鼓判を押そうかとも思ったけれど、もうそういう気分ではなくなった。

「ジュースご馳走さま。もう三十分経ちました。帰ります」

「んー。もうちょっと付き合ってよ」

「もう夜ですよ。友達と遊べばよくないですか」

「やっぱりミカゲくんが冷たい」

 ミサコさんは、えーん、と泣き真似をした。

 この日の夜、ぼくは寝る前にカーテンの隙間からとなりの家の窓を盗み見た。明かりは灯っていなかった。ミサコさんは部屋にいない。家全体からも明かりは漏れていないので、出かけているのかもしれない。お友達と遊んでいるのだろうか。想像すると、なんだかミサコさんがしきりにぼくを散歩に誘う気持ちが解る気がした。

 学校帰り、町中でミサコさんを見掛けた。体育の授業中にも校庭からミサコさんの歩く姿を見つけたことがある。一度きりではない。何度もある。

 ミサコさんはぼくがほかのひとといっしょにいると話しかけてこない。ぼくの親とは会話をするけれど、そのときはミサコさんはまっとうなおとなに見える。

 親はミサコさんを信用しているのか、あんまり迷惑かけちゃダメだよ、となぜかぼくを叱る。あんたはちゃんとミサコさんの言うことを聞きなさいね、とまるでぼくのほうが至らないみたいに言われることもしばしばで、みんなもっとミサコさんの本性を見抜いて、と訴えたくなる。ミサコさんはぼく以外には尻尾を掴ませないようなのだ。

「みんなミサコさんのこと誤解してると思う」

「お、どんな?」 

「三角コーンを頭に被るひとだとはみんな思ってないと思いますよ」

「え、やんない?」

 新しく道路ができるのか、山のほうからつづく道に沿って三角コーンが並んでいる。ミサコさんはそれを頭に被って、何を言うでもなく、うれしそうにしている。

「けっこうに重いんだよ」

「それが何の言い訳になってるの?」

「みんなももっと軽率に被ればいいのに。三角コーンを被ったことがないひととはしゃべりたくないな」

 唐突に被りだすようなひととのほうがしゃべりたくないひとが多いんじゃないかな、と思ったけれど、言っても仕方がないので、ぼくも頭にそれを被った。ぼくの頭のほうがずっとちいさくて、丸ごとかっぽんと埋まった。視界が赤に占領される。

「あはは。三角のオバケみたい。かわいい」

 よろこんでもらうのはわるい気はしない。しばらくそのままにしていたら、急に笑い声が消えた。声だけでなく、砂利を踏みしめる音まで消えて、あれ、と思う。

 三角コーンを脱ぐと、目のまえにミサコさんの姿はなかった。辺りを見渡す。森までつづくススキ野が一面を覆う。車道を挟んだ向こう側は谷となっており、そのずっと下には鉛筆で引いたみたいな川が見える。

 ミサコさんの姿はどこにもない。

 今回が初めてではなかった。これまでにも何度か似たような、ふらっと、をミサコさんは仕出かしている。ぼくがミサコさんと長時間の散歩に行きたくない最大の理由がこれだった。気づくと姿を晦ますことが何度もあった。一度きりではない。

 あとで詰問してもミサコさんは、ごめんごめん、と弁解の一つもなく平謝りし、いつもより多くお菓子をくれる。トイレに行ってたんでしょ、と厚意で言いわけを繕ってあげても、それはない、と否定する。せめてそこで、そうかもしれない、と恥ずかしがってくれればぼくとしてもそれ以上の詮索をしようとは思わないのに、ミサコさんは誤魔化そうともせずに、すまんすまん、と謝罪を繰りかえす。

「もうしないって言って。でなきゃ散歩はなし。もうついていくのはいやです」

「ごめんねごめんね。散歩、またいこ」

「だから、もうしないって言って」

「それは約束できかねるね」

「なんで」

「だってぇ」

 ミサコさんはほっぺたを膨らませ、それっきり黙りこくる。

 だって、なんなのだ。そのさきを言え。

 思うけれど、ぼくにはそれ以上ミサコさんを追求する真似も、突き放す真似もできずに、根負けしてまたぞろ散歩に連れだされるのだ。

「飴っコとチョコレート、どっちがいい?」

「チョコレートがいいです」

「ミカゲくんは飴っコがお嫌い?」

「飴っコって言い方がなんとなく」

「なんとなく、なに?」

「犬にやる餌みたいに聞こえます」

 ミサコさんはなぜかぼくの頭を乱暴に撫でた。「うりうり」

「やめて。ぼくはミサコさんの犬じゃない」

「そうだったの?」

 ムっとした。ミサコさんがぼくを子ども扱いするのは許容できても、犬扱いは許せなかった。どっちかと言えばぼくはミサコさんに付き合ってあげている側だし、放っておけないのはミサコさんのほうなのだから、首に縄を付けて歩いたほうがいいのはぼくよりもあなたのほうじゃないんですか、と文句の一つでも鳴らしたくなった。

「ごめんねごめんね。もうしないから」

 ミサコさんは傷ついた顔を浮かべた。ぼくのほうこそ悲しくなった。

 ある日、ミサコさんが夜中に家を抜けだす瞬間を目撃した。部屋の明かりが消えたので、窓からしばらく真下を眺めていた。

 するとミサコさんがするすると家のなかからでてきて、そのまま森のほうへと歩いていく。友達と遊ぶのかもしれない。

 迷ってからぼくはミサコさんの跡を追った。

 弱みの一つでも握りたかったのかもしれない。犬扱いしたミサコさんを出し抜きたかったのかもしれない。いまにして思えばどうしてそんな真似をしようとしたのか、じぶんでもよく解らない。

 誘ったときにだけついてくる便利なおとなりの子どもでいたくないだけだったと言えば、そういう気もするし、そうじゃない気もする。

 ミサコさんはススキ野までくると、森のほうへするすると歩を進めた。以前、三角コーンを被った場所の近くだ。ミサコさんが足を踏みだす前から、己ずからススキが左右に割れ、道をつくる。

 道は森までつづき、ミサコさんはさらにその奥へと消えていった。

 後につづこうか迷った。ススキ野と歩道の狭間で二の足を踏んでいるうちに、小石を蹴とばしてしまって、それがススキ野の道を転がる。

 途端に、森の奥のほうから左右に割れたススキがつぎつぎに閉じはじめ、あっという間に元通りの、何の変哲もない野原に戻ってしまった。ススキがさわさわとしずけさを浮き彫りにする。

 しばらくそこで待っていたが、ミサコさんが現れる兆候はなかった。ススキは闇のなかで、月明かりを受け、白くぼんやりと浮かびあがって見えた。

 以来、ミサコさんを見掛けることはなくなった。となりの家にはいつの間にか知らないひとたちが引っ越してきていて、窓には分厚いカーテンが引かれた。

 両親にそれとなくミサコさんのことを訊いてみたが、引っ越しちゃったみたいね、と寂しげに言われた。それ以上の問いは重ねられなかった。

 たしかに引っ越したと考えるのが自然だった。それ以外に何があるだろう。

 ときおり、ナータの散歩をしているときに例のススキ野のまえを通る。

 すると、どこからともなく、カサカサと聞き覚えのある音が聞こえる。

 人間大のマスカラがうしろをついてくるみたいに、それは道なりにススキ野がつづくかぎり、風の音の合間に微かな音を響かせつづける。

 そのたびにぼくはミサコさんを思いだす。細身のカーゴパンツのポケットいっぱいにお菓子を詰めこんで、飴っコとラムネどっちがいい、と得意げに手を差しだしてくる彼女の姿を、ぼくはこれから幾度も思いかえす。

 ナータがいちどだけススキ野に突っこんでいったことがあった。探しに入ることができずにぼくはしばらく歩道で待った。ナータの入る場所はススキが蠢くので遠目からでも瞭然だった。ナータは森の入口付近まで行き、引きかえしてくる。息を荒らげているにもかかわらず舌をださずにいたので、何かを咥えていると判った。口先からはみ出た白く細い棒を引き抜くと、棒付きキャンディが飛びだした。

 飴っコ、とぼくはつぶやく。

 ススキ野を見る。

 森の奥から風が吹き抜け、口のなかになぜかラムネの味が広がった。 




【貝とツノ】


 波の音は砕ける音だ。波そのものに音はなく、浜辺に打ち崩れる無数のしぶきが、ざざざ、と大気に霧散する。

 霧散し、打ち溶け、消える盛大な回帰の余韻が波の音として耳に伝わる。

 波を、生を、暗示する。

「じゃあ貝殻は?」

 ササが言う。手元のルービックキューブから目を離さず、ちいさな手をもきゅもきゅ動かす様は、なんだか子ザルのようで微笑ましい。「耳に当てると音だすよ貝」

「あれは一種の共鳴だろうね。こうしてしゃべってる音だとか、風の音だとか、そうでなくとも物質ってのはただそこにあるだけで振動しているからその音が貝殻の空洞で増強されて、反響して、ノイズとなって聞こえるんじゃないかな」

「あ、見て。惜しい」

 ササは一面だけ色の揃った立方体を掲げる。心底うれしそうに白い歯を、ニっと覗かせる姿は、とても千年以上を生きた人間には見えない。彼女の美麗な白髪ですら、幼さを際立たせる。病気や老齢からの白髪と見るよりもそうした人種と見做したほうがしっくりくる。幼いがゆえにそうなのだ、と。

「海いきたいなぁ」

 せっかく揃った一面を崩したくないのか、ササはもう立方体をいじらなかった。興味を失ったわけではないのだろう、しっかり両手に握っている。

「海いきたい」彼女はもういちど言った。

「海か。すこし遠い気がする」

「でも車で、ぱーって」

「じゃあいまぼくたちが困ってる問題を解決したら行こう。約束」

「えー、いまがいい」

「いまはちょっとね」

 窓のカーテンをずらし、外を覗く。月明かりが眩しい。ひと気はない。いまのところこの小屋をねぐらにしてからは、周辺に張り巡らせておいたトラップは何者かの接近を知らせてはいない。

 ぐぅ、とお腹の音が鳴る。振り返るとササがお腹に手を添え、へへへ、とちいさな足をぱたぱた振った。

「そう言えばきょうはまだだったね。ごめん」

 腕をまくり、彼女の顔のまえに運ぶ。彼女はこちらの腕に噛みついた。ササはたっぷり五分をかけて、ぼくから血をすすれるだけ、すする。

 いつもこの瞬間、ぼくは彼女との出会いを思いだす。

 彼女がツノを失くす前、ぼくは彼女の非常食だった。中学生のときに攫われて以降、ぼくは崇高なるササルナ・ヴァ・ブリーフェスの純朴たる食糧だった。彼女は年に一度、人間を丸ごと一体たいらげる。そのあいだは、チマチマと体液をすすれば充分らしく、つぎの飢餓期がやってくるまでぼくは彼女に体液を提供するだけの血液製造機として重宝された。

 とはいえ、上質な体液をご所望の我が主様はぼくに、自身と同じ食事を与えてくれたし、そばにいる者として似つかわしい洋服をあてがってもくれた。ぼくが誰かに危害を加えられそうになったらすかさず、これは私のモノだ、と誰彼かまわずに牙を剥いた。

 ぼくは平凡な人間であるはずが、平凡ならざる者たちからするとちょっとしたご馳走に映るらしく、ぼくをつけ狙う者が後を絶たなかった。ご主人様はそんなぼくを奪われまいと日々ピリピリするようになり、大好きな落語の寄席巡りにも行けず、日に日に疲れが溜まっていくようだった。

 そして半年前だ。

 奇襲を受けた我が主様はこれまで負ったことのない傷を負った。

 瀕死になりながらも襲撃者を追い払ったまではよかったが、そのときの傷は深く、ふだんなら黙っていても治癒するはずが、このときはそうはならなかった。このままでは消滅してしまうかもしれない。長らく彼女の非常食をやっていたぼくには理解できた。

 だからぼくは彼女にぼくの左腕を食わせた。ぼくは右利きだから左腕がなくなっても困らない。いや、じっさいには大いに不便をしているが、それでも我が主様の命を救えるのなら安いものだ。

 非常食たるぼくにできることなどこれくらいしかない。どの道ぼくはいずれ彼女に食べられてしまう予定だったのだから、味見をしてもらったと考えればとくに騒ぎ立てるほどのことでもなく、深刻に捉えるほうがどうかしている。

 我が主様は傷口から血の噴きださないほどうつしくきれいにぼくの左腕を食べてくれた。それによって存在の消滅は免れたが、目覚めた彼女からは、千年のあいだに培ってきた人格の核とも呼べる気高さがなくなっていた。

 知恵も失い、言動は拙い。

 元から外見は未熟であったから、却って見た目にぴったりの人格になったと言えば否定の余地はない。

 能力自体は備わっているはずだが、それの扱い方まで覚束なくなってしまったようで、我が主様はぼくが自身の非常食であることすら失念し、好機とみた外敵からこれまで以上に付け狙われるようになった。

 脆弱となった我が主様を護るのもまた非常食たるぼくの役目だろう。奮起してはみたものの、こうして人里離れた山奥に身を隠すほかにとるべき手段が思いつかない。

 いまのところ困るのはぼくの当面の食料だけだ。どうやって調達すべきか、と考えたところで、里に下りて仕入れてくるよりなく、ゆえに悩みどころとしては我が主様を連れていくか否かに焦点は絞られる。

 ツノを失くして以降、彼女のもとに、つまりぼくたちのもとに襲撃者は姿を現さない。しかしぼくたちの辿った道に沿って頻繁に行方不明者の情報がささやかれるので、追手が空腹を紛らわせるために人を襲っているのだと窺知できた。我が主様ほどにはみな忍耐強くはないようだ。

 追手がかかるのはじぶんのせいだと思っていた。狙われているのはぼくだし、ぼくの身体から発せられるナニカシラに引き寄せられて襲撃者たちはやってきているのだ、と考えていた。しかしこうして直接の被害を避けられるようになってからは、むしろ彼女から漂う強者としての余波のようなものを追手は察知していたのではないか、と考えを改めつつある。

 だとすればぼくは我が主様から不当に折檻を受けていたことになる。彼女は本当はじぶんのせいだったのに、その罪をぼくに着せて、いいように詰り、オモチゃにしていた。

 問題は彼女がどこまで知っていたか、だ。追手がつくのはじぶんのせいだと気づいていたのならばこれは大問題だ。ちょっとこれはぼくでも許せそうにない。

 だからというわけでもないがぼくは、千年は若返った我が主様を、ササと愛称で呼び捨てにし、まるで本当の幼子のように扱っている。

 プレゼントをあげると事のほかよろこぶので、食料を調達しに山を下りるときにはお土産として買い与えるのも忘れない。

 先日はルービックキューブを買ってあげた。彼女が物珍しそうに見ていたからだが、その前に与えた絵本はお気に召さなかったようで、いまではぼくの荷物置き場に紛れ込んでいる。

「ササ」

「ん?」

「あしたまた下にいくけど、どうする」

「海は?」

「海はまだはやいかな」

「えー、どうしても」

「どうしてもってわけではないけれど」

 もし行くとすれば、もうここには戻ってこられない。

 正直にその旨を告げると、彼女はふうんと唇を尖らせ、せっかくとっておいた一面だけ揃った立方体を無造作にカチャカチャいじりまわす。

 はたと手を止めると、

「じゃあいく」と言った。白いトウモロコシみたいな歯を、ニっと覗かせ、彼女はもういちど、いこう、と口にする。

 断る理由がなかった。ぼくは彼女の非常食でしかない。彼女に食べられるまで、彼女のそばで、彼女の望みを叶えつづける。

 荷物は半分だけ持ち、残りは置いていく。保存食が大半だ。寝袋も置いていく。嵩張る物は逃げるときに邪魔だ。奇襲にも対応できない。アジトは多いほうがよいこともあり、非常時に困らないようにこうして荷物を残していざというときのためのセーフハウスにしておく。ほかにもこの半年間で残してきた基地が各地に点々とある。

 海辺には近づかないようにしてきた。海岸沿いは視界を塞ぐ障害物が少なく、またいまの季節は人もいない。見晴らしがよく、目立つ場所には極力近寄りたくなかった。

 ただ、追手だって似たような発想をするだろう。危険の度合いは高くなるが、短時間ならばさしたる危機には見舞われない気もする。

 警戒は怠らない。

 いざとなったらおしまいだからだ。

 なす術がないわけではない。だができ得るかぎり切り札は使いたくない。

 ちょいちょい、と腕を引かれ、どうしたの、とササを見下ろす。

 道路と浜辺の境界線にあるブロックのうえにぼくたちは立っている。波が白く伸びたりちぢんだりを繰りかえしている。

「貝殻とろ?」

 砂浜に下りる。ぼくは彼女を抱っこしている。三歩進むだけで靴のなかが砂だらけになった。ゴミが埋まっており、素足になるには早計だ。波打ち際までくるとだいぶんきれいになる。ササを降ろす。海水に濡れるとあとが面倒だからササ共々裸足になった。波に浸かる。

「冷たい」声が揃う。

 ササはぶるぶると身震いし、両手を伸ばして抱っこをせがんだ。

 彼女を背負い、ロボットになったつもりで指示に従う。ぼくは隻腕だから、彼女のほうでつよくしがみついてもらわなければならない。注文をつけるまでもなく彼女は容赦なくぼくの首を絞めた。

 そこほれワンワン。

 命じられ、ぼくは砂にゆびを突きたてる。鍬のように腕を引くと、下のほうから一枚だけになった二枚貝の殻がでてくる。もういちど引くと、巻貝の殻がでてきた。中身の入った貝にはなかなか出会わないが、ササを満足させるにはそちらのほうが都合がよい。

 案の定、ササは貝殻を両手いっぱいに握って、それでもまだ欲しがった。

「もっと。そっちのほうにありそう。あ、そっちにも」

 勘がよいのか、ササの指示に従うと、色艶のよい貝殻に行き当たる。

「青いのキレイだね」

「しろいのもスキ」

「クルクルのやつは?」

「おっきいのよりちっちゃいのがいい。だってかわいいから」 

「そうだね。かわいいね」

 最後のほうは背中から降りてササはじぶんで砂を掘った。ちっこい指が砂を揉む。

 夢中になっているササの姿はぼくを落ち着かせる。ほっとするし、なんだかこのために生きている気がする。しあわせとはすこしちがくて、もっと有り触れたものであってほしいとの祈りが胸に湧く。

 ずっとつづいてほしい。

 この平凡な時間が。

 暗くなる前に浜辺を離れた。水道で足を洗ったら、宿泊施設のシャワーを浴びる。施設には温泉がついているが、ササの容姿はひと目を引く。白髪は黒く染めてもなぜか色が定着せずに白いままなので、帽子を脱がざるを得ない浴場は避けるようにしている。

 ぼくはぼくで視線を集めるが、これは大して問題ではない。いまのところササの非常食であるぼくが隻腕になったことを知っている者はいないからだ。以前のぼくを知っている者ほど街でぼくを見掛けてもすぐにぼくとは気づかないはずだ。

 ゆえに、いまの優位性を維持するためにも、誰にも見つからないことが最優先事項となる。

 部屋に備え付けのシャワーをササと一緒に浴びる。ぼくがシャワーを浴びているあいだに彼女を一人にさせてはおけない。襲撃者がどうのこうのというよりもこれはササの身勝手な行動に因がある。

 ササは子ども扱いされるのをあまり好まない。構いすぎると拗ねてしまうがこればかりは致し方ない。日ごろの自身の素行のわるさ、もっと言えば信頼のなさを恨んでほしい。

「ほら髪洗うよ」

「さっき洗った」

「またそうやってすぐバレる嘘を」

「ホントだもん」

「お湯で濡らしただけでしょ」

「洗ったは洗った」

「ちゃんとシャンプーして、トリートメントもしないと」

「やぁだぁ」

「また目が痛い?」

「そう」

「じゃあ目をつむって、十数えて」

 十秒ならいいか、と妥協したのか、ササは、いーち、と唱える。白く水のような髪を泡立てる。素麺みたいにつるつるだ。

 ぼくは彼女がジュウと口にしても手を止めない。作業は続行だ。

 数えた数えたもう言った。暴れる彼女の耳を引っ張ったり、揉んだりして気を逸らしつつ、かゆところはございませんかお姫さま、などと言って機嫌をとって、トリートメントまでを済ませる。

 手慣れたものだ。我ながら非常食にしておくにはもったいない、と内心で自画自賛する。

 二人して湯船に浸かり、拾ってきた貝殻をカップラーメンのカラ容器に入れて洗った。ササはまるでそこにしゃべる魚の友人がいるみたいに、きょうあったことや、あしたしたいことなどを、鼻歌を奏でるようにしゃべった。

 ササはこちらを見て言った。「いつもそれしてるね」

「ああ、ネックレス?」

「お気に入りなのですか」おとなびた言い方がおかしかった。ぼくはオウム返しに言った。「お気に入りですよ」

 バスタオルが完備されているところが宿泊施設のよい点だ。水滴をまとったままの姿で部屋に飛びだそうとするササを捕まえ、じぶんよりさきに拭いてやる。腕が一本なのをここでも不便に思う。慣れはしたが、やはり歯がゆい。

 着替えはじぶんでするようにお願いをして、ササが着衣に手こずっているあいだにじぶんの身体を拭き、衣服を身に着ける。ササはすたこらとベッドに飛び乗り、掛布団のうえに貝殻をぶちまける。

 宝石の鑑定士のように熱心に品定めをはじめるササの髪の毛をドライヤーで丹念に乾かし、あすの予定を語って聞かせる。もちろんササは聞いていない。

 ササの髪の毛はやわらかい。触れていても空気みたいに存在感がない。感触がない。ふわふわと霧でも撫でているみたいだ。このまま消えてしまうのではないか、と不安になる。

 パッツンと切り揃えられた前髪はぼくが切ったものだが、斜めに曲がっている。片手だからか、それとも初心者だからなのかは不明だ。

 あたまのてっぺんから櫛を通す。ササは機嫌がよさそうに口笛を吹いている。曲はいつも同じだが、何の曲かは知らない。自作なの、と訊ねると、さあ、と首をひねる。古い記憶が残っているのかもしれない。

 ひたいに刻まれた傷跡が見える。ツノ痕だ。痛々しい。ぼくはそれを目にするたびにササがここにたしかに実存するのだと、安堵と寂寥をいっしょくたに覚える。

「ササ。痛くはないかい」

「ぜーんぜん」

 きっと彼女は、櫛を梳く手の加減についてだと思ったはずだ。

「あしたはちょっとお金を稼ぎにいこう」

「またあれする?」

「お願いしてもいいかな」

「しょうがないなぁ」

 ぼくには仕事がない。稼ぎがない。だからお金を手に入れるために、ササに手伝ってもらう。元々、本来のササが、我が主様が行っていたことだから、それをいまのササにさせるのは罪悪感がまったくないと言ったら嘘になるけれど、これはでも仕方がないことだ。

 あす、近くの病院に行って重病患者の親族らしいひとと接触する。そして万病に効く薬だと言って、ササの血を数滴売る。実演販売ではないけれど、そのときにはじぶんの腕に傷をつけて、それを消してみせるくらいの演出はする。もちろん実際にササの血にはそのような効用があるし、病気も治る。ただし不正規の薬であることに違いはなく、信用してもらうまでに苦労する。なぜ重病患者限定かというと、そのひとたちがもっとも報酬を支払ってくれる確率が高いからだ。偶然の余地がなく、また心底感謝の念を抱いてくれる。命に比べれば安いものだと言って、高額の報酬であっても支払ってくれる。ササに血を流させるのは申しわけなく、しょうじき誰が相手でも使いたくはないが、背に腹は代えられない。

 ぼくたちの日々を護ると思って、歯をくいしばって実行に移すしかない。

 彼女から血をもらい受けたあと、あべこべにぼくは腕をさしだす。血を吸わせつつ、

「はやくおとなになりたいと思う?」

 寝転がって足をパタパタ振っていたササだが、ふと動きを止めた。「どうして?」

「どうしてだろうね。単純にうらやましかったのかも」

「ササが?」

 目を見開く彼女からは、そんなことを言われるなんて意外だった、といった素朴な驚き以外の感情は窺えない。

「おとなはイヤ? 疲れる?」

「どうだろ。ぼくもおとなってほどおとなじゃないからね」

 ササはころころと声を立てて笑った。

 歩き疲れただろうと思い、足を揉んでやると、いつの間にかササは寝息を立てていた。

 本当になんて胸をくすぐる音色だろう。

 すーぴー、の一つずつが子猫のかたちをとってヨタヨタと歩いているみたいだ。赤ちゃんに小指を掴まれたときにも似たような心地になる。

 ぼくは彼女を起こさないようにベッドから抜けでて、掛布団をていねいに掛けなおす。丸みを帯びた艶やかな頬と白髪が、純白のシーツすら灰色に見せている。

 窓際に立ち、海を眺める。

 街灯の明かりが点々と見える。どこからが浜辺でどこからが海だろうか。想像するが、闇すべてが海に思え、或いはそもそも海などここからは見えない、という気にもなる。

 波の音が聞こえる。闇の向こうにはたしかに海が広がっている。

 霧散し、打ち溶け、消える盛大な回帰の余韻はしずくとなって、海とそれ以外を繋いでいる。砕ける音だ。

 ぼくは胸元のネックレスをいじる。

 白銀のチェーンには親指大の飾りが垂れさがっている。硬い材質で、弧を描き、光沢がある。一見するとサメの歯の化石じみている。一種ラッパのようでもある。

 ぼくはそれを半年前、瀕死の我が主様から捥ぎとった。

 ササはぼくがこの手で生みだした。

 片腕を差出す代わりにぼくは、ぼくにとってもっともたいせつなひとから、そのひとの核を、記憶を、崇高さを奪いとった。

 ツノを失くした我が主様がどうなるかは、これまでの襲撃者と、それら狼藉者たちからの攻撃を掻い潜ってきた我が主様の所作を眺めていればなんとなくだが推し量れた。

 ツノを損なえば、無力化できる。生きたまま捕獲できる。

 深い考えがあったわけではない。たぶん何も考えてはいなかった。

 ただ、休んでもらいたかった。

 奇襲に神経を研ぎ澄ませて暮らす日々にはうんざりしていた。ぼくが、ではない。我が主様のことなら手にとるように判る。非常食をまえに感情を隠す必要がそもそも彼女のほうではないのだから。

 ぼくの腕を喰らった彼女の傷が見る間に治癒した様子を見て、あとでいくらでも取り返しがつくとの打算を働かせなかったわけではない。

 だがツノだけは、いくら血を飲ませても、腕の残りを食べさせても、復活しなかった。

 或いは、いまこうして肌身離さず身に着けているツノをひたいに押しつけ、ぼくの血肉を与えれば、ササはふたたび我が主様として復活するのかもしれない。

 だとしても、ぼくは当分それを試そうとは思わないし、きっとしないままだろう。

 襲撃者に見つかり、追い詰められでもすれば最後の切り札としてツノの行使を潔しとするかもしれない。ササと引き離されるくらいならば、そうするしかない。しない理由がない。

 けれどそれはふたたび追手の襲撃に備え、怯え、追われつづける緊迫の日々の再来の許容でしかない。我が主様にはもうしばしの休息があってもよいはずだ。

 いったいどれほどの長い期間をそうして追われてきたのだろう。

 たった独りきりで。

 いずれササにもそう遠くないうちに飢餓期がやってくる。ツノを失くしたからといって回避できるような生易しい習性ではないはずだ。多少、時期は延びたかもしれないが、日に日にササのぼくの血を求める周期は短くなってきており、吸う量も徐々にではあるが増えている。

 彼女に食べられるなら本望だ。

 ぼくはしょせん非常食でしかないのだから。

 いつか訪れるその日まで、こうして共に旅をつづけられたらどれほどしあわせだろう。共に寄り添いつづけられたらどれほど日々が輝くだろう。

 願わくは、ぼくを食べたあとにも、彼女がしあわせでありますように。

 彼女の血肉となれることを待ちわびながら、できればその日が先延ばし、先延ばしになりますようにとも望んでいる。

 その日が巡ったあかつきには、ツノを返すのを忘れずにいようと、共に食べられますようにと、肌身離さずこうして首から垂らしているのかもしれない。

 貝殻の一つを手にとって耳に当てる。

 細かく散ったしぶきの音だ。

 いつまでも途絶えることなく世の残響を発しつづける。




【ククラ、無数の手の者】


 おそらくククラだろうな、と和尚は言った。

 小僧は生唾を呑みこむ。そしてあの、俊敏で、身の毛のよだつ影を思い起こすが、そこでふと甘い香りが鼻を掠め、小僧の身体は緊張した。

 あのときもそうだった。

 冷たい風が吹いたかと思うと、急に辺りがじめっとし、そうしてこの、甘ったるい香りが辺り一面に立ちこめたのだ。

 小僧はこの日、和尚の頼みで、隣村までお使いに出ていた。便りを届け、代わりに荷物を受け取ってくる。簡単な仕事だった。行きはよかったが、帰りになると夕立に襲われ、雨宿りをしようと道をすこし外れたのが運の尽き、あれよあれよという間に道に迷い、そして竹藪のなかでそれと出遭った。

 魅入られた、とそれを言い換えてもよい。

 小僧は身動きがとれなかった。隣町で受け取った荷物がそれなりにかさばった包みであり、背負っていたため、即座に逃げだせなかったのもむろんあるが、それよりも何よりも、目のまえに勃然と現れた影から漂う、この世のものとは思えぬ空気に気圧された。まるで身体の芯を鷲掴みにされたような圧迫感があった。

 影は、それほど大きくはない。そのはずだ。距離がある。逃げだせば、荷物をおぶっていようとそうやすやすと追いつかれる距離ではない。ゆえに、姿が明瞭とせず、影に見えている。

 蓑を身にまとって見えるが、ひょっとすれば全身が毛に覆われているのかもしれない。影は、こちらに気づいているのか、いないのか、さきほどから動かない。じっとその場に佇んでいる。

 小僧が動けなかったのは、いまにして思えば気づかれたくなかったからだ。足元には竹の葉が分厚く層をなし、どこまでも地表を覆っている。動けば否応なく、足音が鳴る。このまま立ち去ってくれれば、と祈る気持ちで、おそらくはじっとしていたのだ。

 だが、相手はそこでゆっくりと、ゆっくりと、竹が雪の重みでしなるくらいに静かに、背を丸め、地面に手を付けた。顔だけが満月のごとく微動だにしない。

 見ているのだ。

 じぃっとこちらを。

 甘い香りがいっそう濃くなる。

 鼓動が高鳴った。危機が迫っていることを本能さながらに知らせてくる。マズイ、マズイ、マズイ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 意に反して身体は動かない。怯えている。それもある。だが、ここで動いてしまったらもうあとには引けない、との思いが、足を地面に根付かせている。

 小僧は瞬きをする。

 影が一回り大きくなる。

 もういちど瞬きをすると、また影が大きくなって見えた。

 全身が総毛立つ。

 大きくなる? 違う。

 近づいてきているのだ。

 一瞬で間合いを詰めている。音もなく。同じ姿勢を保ったままで。

 目をつむるまい、と思うが、汗が目に入り、風が吹く。

 ああダメだ。

 思ったが遅かった。

 影は、もはや影ではなく、たしかな姿カタチを帯び、そこにあった。

 蓑ではない。毛ですらない。

 手だった。

 無数の手を全身にまとい、顔らしき部位だけがひどく暗く、よどんでいた。

 肌から生えているのか、それとも人の手を切り落としてまとっているのか。無数の手からは、生きたものの気配は窺えなかった。

 風が吹く。からから、と竹の葉が乾いた音を立てた。

 小僧は、まぶたにチカラを籠める。まばたきなどせぬ。畳んではならぬ。

 思えば思うほど、瞳は空気に晒され、涙が滲み、余計に風の刺激を受けやすくなる。

 つぎに距離を詰められたらもう逃げられない。

 小僧は腹をくくった。

 背中の荷物をずるりと脱ぎ捨て、地面に落ちるよりはやく、足で掬って、無数の手の者へ向けて、放った。

 手は最後まで荷物の肩紐を握っていた。

 弧を描いて荷物は、無数の手の者にぶつかる。

 小僧はまばたきをしていた。

 荷物を投げ捨てるよりさきに、無数の手の者のほうで、小僧に近づいていた。

 だからぶつかった。

 運がよかった。

 何か、物哀しい声のようなものが竹藪に轟く。ほら穴に響く風の音じみていた。

 小僧は脇目も振らずに、踵を返し、駆けた。

 駆けて、駆けて、気づくと見覚えのある道に戻っていた。

 喉が裂けそうになりながら、和尚のいる寺へと逃げ戻った。

「ククラだろうな」

 小僧が先刻あったばかりの出来事を息も絶え絶えに語ると、和尚は言った。「よく生きて戻ったな。すまんかった。わしの不手際だ。アレのでる季節ではないはずだったゆえ、油断した。説明せずに使いにだしたわしを許してくれ」

「やめてください和尚さま。わたくしになぞ頭を下げないでください。どうかおかんばせをお上げください」

 わたくしめのほうこそ、と小僧は荷物を捨ててきてしまったことを詫びた。

「なに、おまえの命がそれで助かったのなら仏さまもさぞお喜びのことだろう。荷物の中身は小さな仏像さまだった。それをおまえに取りに行ってもらったのだが、さきに言えばおまえのことだ、仏像さまを背負うことなどけしてしなかっただろう。だから黙っておった。騙すような真似をしてすまんかった」

「そのお陰で助かったようなものです。和尚さま、どうかどうか、もう謝らないでください」

 小僧はその晩、和尚と食事を摂りながら、ククラについての話を聞いた。あれはかつてはこの辺り一帯を司る山の神だったそうだ。だが、人間の女に恋慕の念を募らせたがあまり、欲に溺れ、魔に魅入られ、魔物と化した。山の神だったそれは、つぎつぎに里の者を襲い、若い女を見初めては、攫っていったそうだ。

 やがて里の者たちは金を寄せ集め、名高い神主を呼んだ。神主は、山の神だったそれに、ククラと俗世の名を与え、神の位をはく奪し、そして山の一部に封じた。

 ククラの封じられた山の一画を見張るために建てられたのが、この寺という顛末であった。神社でないのは、神を祀るためではないからだ。神仏のチカラにより、魔を見張りつづけなければならない。

「封じるとはいえ、石に閉じこめるにはあやつは強大すぎた。よって、山の一画に押しこめ、そのそとにでられないようにすることしかできずにいる」

 山のチカラの弱まる冬になると、ククラの行動できる範囲が広まる。誤って里の者や旅の者たちがククラの縄張りに入らぬようにと、代々の和尚たちは、監視役を担ってきた。

「人間の犠牲者をださないことが第一だが、これ以上ククラのチカラを強めないことのほうが、いまではずっと重大だ。山に入るすべての者を見張ることはできん。これまでにもククラの餌食になった者たちが大勢いた。そのつど、あやつは脅威を増していった」

 よもやこの時期にあの区域にまで下りてくるとは。

 和尚は頭を抱えた。

「おまえに運ばせようとした仏像さまは、この寺のチカラを補強するために造らせたものだ。いや、いい。気にするな。ククラの現れた場所に置いてきたのならば、それこそ本望。あやつはもう、そこにはおられんだろう。不幸中のさいわいだ」

 食事を終えると、和尚はひと足さきに部屋をあとにした。

「いずれおまえがわしの跡を継ぐ。いま話しておいてよかった」

 去り際に言った和尚の顔は、穏やかで、小僧はようやくこのときになって、深く息を吐いた。

 夜、寝床に就いた小僧は、明かりを消してからしばらくしてじめっとした空気に寝苦しさを覚えた。目を閉じたまま、甘い香りが色濃く漂っていることに気づき、一瞬で全身が汗ばんだ。

 寺には近づけないはずじゃ。

 小僧は目を開けるか迷う。閉じていたところで何か状況が好転するわけではないが、開ければもう後戻りはできない気がした。

 このまま寝てやりすごしたい。

 朝になるのを待てば、それで済むのではないか。

 ひょっとしたら和尚のたてたお香かもしれない。そんなはずがないことは、鼻に染みついた恐怖が物語っている。

 和尚さまを呼ばなければ。

 否、じぶんが気づいているならとっくにお気づきになられているはずだ。

 そうあってほしい。

 どの道、じぶんには何もできない。

 小僧は頭から布団を被り、丸まった。

「おい、おい、いるか」

 和尚の声が聞こえた。襖の向こうでこちらを呼んでいる。

 よかった、助かった。

 小僧は布団から顔をだし、はいただいま、と返事をしようと息を吸い、止めた。

「おい、おい、いるか」

 襖の向こうから和尚の声がする。たしかに聞き慣れた声音だが、妙だ。

 真っ暗なのだ。

 明かりも持たずに、やってきたのか。

 ククラに居場所を悟られないようにと、用心のためかもしれない。

 が、やはり妙だ。

「おい、おい、いるか。開けてくれ。開けてくれ」

 襖に鍵などかかっていない。引けば開く。

 だが一向に和尚の声は、襖の向こう側から聞こえてくる。

「おい、おい、いるか。いるな。いるだろ。開けなさい。はやく、はやく、ここを開け、開け、開けけけけけけなさい」

 小僧は布団に潜りこみ、ただひたすらにお経を唱えた。和尚の声はまだつづいている。声量が大きくなり、もはや和尚でないのは明瞭だ。小僧は喉が焼けつく痛みに耐えながら、声を張りあげ、お経を読んだ。

 鳥の声が聞こえ、畳に庭の木々の影が浮かぶ。ちいさな窓の障子は、日の光を受けて白く輝いていた。

 布団はオネショをしたようにびっしょ濡れだ。否、じっさいに漏らしてしまっていたのかもわからない。小僧は寝床から抜けでると、カラカラの喉を、唾を呑みこみ潤しがてら、荒い呼吸を整える。

 和尚さま。

 襖の向こうに呼びかける。朝陽が、薄くなった生地の向こうから透けて見えている。返事はない。

 おそるおそる襖を開けると、眩い光に目を細める。

 清々しい朝だ。

 小僧は和尚を起こしに走ったが、部屋に和尚の姿はなかった。台所を覗き、庭を眺め、それから拝殿を訪れる。そこにも和尚はいなかった。

 最後に小僧は、本殿を訪れた。そこには仏像が所狭しと並んでいる。おびただしい数だが、元からだ。いずれの仏像も、手が無数に生えている。そういう造りの仏像ばかりを先代の和尚たちは望んで職人たちに造らせた。

 和尚がいるとすればそこのはずだ。

 小僧は確信と、そしてすこしの気後れをなぜか覚えながら、足音を殺すようにして、そこに立った。

 本殿の間に、和尚の姿はなかった。

 小僧はへなへなとその場に腰を抜かす。

 ずらりと立ち並ぶ仏像からはどれも腕が奪われていた。代わりに、床を埋め尽くすほどの無数の白く、やわらかそうな手が、折り重なり散らばっている。

 小僧はそれから幾日も、和尚を待ったが、ついぞかのひとは戻ってこなかった。

 ときおり里の者が寺を訪れ、縁者が山に入ったきり帰らない、と相談を持ちかけてくることもあったが、小僧はただ捜索に協力するだけで、憶測を話すことも、消えた和尚のことを話す真似もしなかった。

 あそこは危ないから近づかないことだ。

 そう注意を促し、山の一画を指し示すことだけは怠らなかったが、かといって捜索すべくそこに分け入ろうとする者たちを止めようとは思わなかった。

 本殿の仏像は、腕が欠けたままの姿だ。床を埋め尽くしていた白い手は、丁重に埋葬し、墓石を建てた。

 小僧が、里の者たちから、和尚と呼ばれるようになるころには、寺の近くにも里ができた。

 行方不明になる者は相も変わらずでたが、それはどこの山でもある話だ。

 小僧はあれからいちども、あの名を口にしなかった。きっとその名を知る者はもう、じぶん以外にはいないのだろう、と思った。

 名を与えられ、魔になったというのであれば、名を失えば或いは――。

 里の者たちは誰の指示によるものでもなく、山と共に生き、山を畏れ、そして敬った。

 寺には無数の墓ができ、里は徐々にひとを増す。

 やがて寺は建て替えられ、腕のない仏像はもう、ない。

 時は流れ、里の者たちに見守られながら、最後の和尚は息を引き取った。

 臨終の間際、甘い香りを嗅いだ気がしたが、それを気にする者はもう、いない。 




【子猫は素知らぬふりして、みゃーと鳴く】


 友人のペットがどう見てもバケモノなのだが、誰もそのことを疑問に思わない。指摘しないのはなんとなく判る。バケモノに見えている私だって面と向かってその話題に触れてよいのか判らないからだ。指摘したが最後、ガブリと食べられでもしたらおそろしい。

 友人はペットをペコちゃんと呼んだ。友人にはペコちゃんが子猫に見えているらしいのだが、私にはそれがどう控えめに言ってもライオンをペロリと平らげるようなバケモノにしか見えない。

 大きさだって全然違う。

 友人はバケモノの尻尾の先端を子猫扱いするが、そのとなりでは、全身が不気味な鱗で覆われた不定形のナニカが蠢いている。鱗の一つ一つが無数の人間の顔じみていて、バケモノの本体はじっとしているときにはイソギンチャクのような見た目でありながら、移動するときにはスルスルとほどけて一本の大蛇のようになり、またあるときは四つ足の獣のような格好をとることもある。

 いまは友人のとなりでブヨブヨと蠕動しており、巨大なウジムシと言えばそれらしい。もちろん表面は無数の人間の顔じみた鱗でびっしりと覆われている。

 食欲が失せる。無臭なのがせめてもの救いだ。

「それ食べないの」友人が哀しそうな顔をする。せっかく用意してくれた有名店のケーキだったが、私にはとてもいまこの場では食べられそうにない。「ごめんね。あとで食べるから」

 けっきょくこの日はケーキには一口も手をつけず、かといって持って帰るわけにもいかず、最後のほうには却って好きなケーキを二個も食べられてラッキーといったふうに友人のほうでかってに機嫌を持ち直してくれた。

 やさしいコなのだ。

 不幸になっていいようなコではない。

 すこしでも友人を傷つけたらこの命に代えてもバケモノを駆逐してやろうと決意する。

 だが私の決意に反して、相も変わらず友人はバケモノの尻尾を猫かわいがりし、それは文字通り友人にはそれが子猫に見えているからだが、バケモノはなかなかバケモノとしての尻尾を掴ませない。子猫としての尻尾は鷲掴みどころか友人に抱きかかえられている手前、化けの皮を剥いで、正体をみなに突きつけてやりたいが、それもまた下手に刺激をしたらあとが怖く、なかなか踏ん切りがつかずにいる。

 目を覚ませ、と頬を叩いてみせたところで私が友人に嫌われるだけだ。

 どうすればよいのか、と思案している間に、ひと月が経ち、ふた月が経ち、半年が経った。

 友人は相も変わらずしあわせそうで、かわいらしく、ずっとそのままでいろよ、と祈る。

 反面、友人の周囲から徐々に人がいなくなっていくように感じた。錯覚だろうか。いや、そんなことはない。

 彼女の兄が交通事故で大怪我を負い、彼女の幼馴染の女の子が突如黙って引っ越し、挙句の果てには彼女の通うバイト先がこぞって潰れていく。

「なんだか私、疫病神みたい」

 気丈に振る舞う彼女だが、笑みは曇っている。

 彼女のとなりに陣取って離れないバケモノを私は見遣る。いまのところコレの存在に気づいている者が私以外に見受けられない。なぜ私には見えるのか。なぜ私は未だに無事なのか。

 彼女がトイレに立つ。子猫は部屋に置いていくが、バケモノは彼女のあとについていく。私は子猫のカタチをとった尻尾のそばに寄り、おいおまえ、と話しかける。

「あのコを悲しませたら私が許さんからな」

 心なしか尻尾がゆったりと波打って見えた。

 ある日、私は彼女に頼まれ、部屋の模様替えを手伝った。ひとしきり作業をすると彼女は私に休んでいるように言って、ガムテープと昼食を買いにでかけた。私もついていきたかったが、彼女の善意がうれしくもあり、甘えることにした。たしかにすこし疲れていた。バケモノが終始私を目で追っているように感じていたからだ。しかしバケモノに目はないので、私の気のせいかもしれない。

 バケモノは彼女についていった。部屋に一人残される。彼女の善意を受け入れたのは、この理由が大きい。

 彼女の帰宅を待つあいだ、だしてもらった麦茶を飲みながら、彼女の部屋を眺める。本当は漁りたい気持ちがあるが、そこはさすがに彼女の友人として踏みとどまるべき一線だ。しかし抗いがたい衝動であるのに依存はなく、私は彼女が戻ってきたら頼みこんで、いろいろと漁らせてもらうことにする。

 ふと、お手洗いに行きたくなった。廊下にでる。用を済ませてまた廊下を辿ると、彼女の部屋のとなりにある扉が気になった。そこは彼女の兄の部屋のはずだ。

 なぜかは判らないが、手がしぜんとドアノブをひねっていた。まずいんじゃないか、との思考が薄皮のように脳裡によぎるが、それよりもずっと深いところの何かが私にその部屋を覗かせた。

 一見すれば何の変哲もない質素な部屋だ。とくべつ変ではない。しかし私は何か異様な感覚、違和感を覚えていた。

 部屋に足を踏み入れる。模様替えをしたばかりだからかもしれない。部屋の家具の配置を妙に思った。友人の部屋に面した壁だけ異様に剥きだしのままなのだ。本棚が一つある。よこに長いタイプだ。その真上にポスターがそれとなく貼られている。ベッドは本棚と一体化しており、なぜか部屋の真ん中に位置している。ベッドのせいで部屋は「コ」の字に区切られていた。

 私はおそるおそるポスターに歩み寄り、ぺらりとめくって、その裏柄を覗く。

 嫌な予感はしていた。せめて金庫でもあればよいと望んだが、そこには剥きだしの機器が、壁に埋め込まれていた。明らかに監視を彷彿とする造りだった。

 友人の部屋に踵を返し、いそいで壁を確かめる。となりの部屋に面した壁には友人の趣味である映画のパンフレットやポスターが貼ってある。壁にじかに貼りつけているわけではなく、コルクボードや額を駆使していて、見た目にも華やかに飾りつけられている。背の低い箪笥もあり、そこには彼女の下着類が入っているはずだ。姿見が壁に設置されている。彼女はここで着替えをする。

 私はコルクボードに目を留めた。ボードの垂れさがっている杭は木でできており、壁と一体化している。一種、ハンガーをかける突起じみており、ほかにもいくつか壁にある。離れて眺めると星座じみている。

 そのうちの一つをゆびでいじくる。引っ張ってもとれず、やはり壁に食いこんでいるようだと判る。よくよく目を凝らし、そこにちいさな穴が開いていることに気づく。

 友人が戻ってきてから私は訊いた。この突起は元からついていたものなのか、と。

「ううん。お兄ちゃんが付けてくれたの。ほかにもいろいろ教えてくれるよ」

 聞けば、メディア端末の設定も任せているのだそうだ。セキュリティの観点からしてどうかと思う。じっさいにそのような旨をやんわりと意見する。それから彼女と共に戻ってきていたバケモノを見上げ、視線を誘導するようにゆっくりと、壁の突起物に顔を、目を、向ける。

 バケモノは私の意図を見抜いたのか何なのか、壁際に移動し、例の突起に身体を近づける。一瞬部屋の明かりが暗くなり、何、と友人が怯えたが、すぐに復旧した。おそらく家のブレーカーに負荷がかかったのだろう。バケモノは興味を失ったように壁から離れ、また友人のそばに陣取る。目がないので何とも言えないが、無駄に見下ろされている気分だ、落ち着かない。

 私はそれからしばらくの期間、友人の周囲に介在した者たち、しかしいまは彼女の周囲から消えた者たちについて情報を集めた。

 案の定というべきか、みな何かしら友人への褒められざる執着を見せていたようだ。黙って引っ越した幼馴染は、友人の悪口を吹聴し、その傍らで友人のよき幼馴染として振る舞っていたそうだ。なぜそんな二律背反の手本じみた真似をするのか、と問い詰めたかったが、当の本人がいないのではどうしようもない。

 ほかにもバイト先の従業員のすくなからずはみな友人に対して、何かしらの色目を使っていたことが判明したが、じつを言えばこれは予想の範疇内だった。友人と接していて恋愛感情を刺激されない人物はいない。私は長年そのように疑っていた。それでいて友人には浮いた話一つ聞かないので、それはなぜなのか、私の見立てがわるいのか、と首をひねっていたのだが、やはり私の考えは正しかったようだ。

 芸能関係者からスカウトされないのがふしぎなくらいだったが、調べてみると、この街にある芸能事務所は軒並み移転や廃業を余儀なくされていた。そこに至ってようやく私は友人から子猫として耽溺されているバケモノの存在とそれら調査結果を蝶々結びにして絡めることができた。

「おまえ、あのコを守ってくれてたんだな」

 友人の兄の葬式が終わっあと、私は彼女の部屋でこっそりと、子猫の尻尾を持つバケモノに話しかける。友人は泣き疲れており、仮眠をとっている。きのうは寝ずの晩で、兄の棺桶のある部屋のすぐとなりにある休憩室で家族と共に語り明かしたそうだから、葬式の終わった直後くらいはゆっくりと休ませてあげたい。彼女の両親も同じ思いなのか、あのコのそばにいてあげて、と頼まれた。親友と認められたようでこそばゆく思うが、私はたぶんこのコの親友にはなれない。

 そっとゆびで彼女の髪の毛を撫でる。彼女の肌には触れぬように。

「私のこともちゃんと見とけよ」

 私はバケモノに言った。仮に私がこのコを傷つけるようなことがあれば、そのときはひと思いに遠ざけてくれ、と。

「私もちゃんと見てるからな」

 バケモノはそこで何を思ったのか、しゅるしゅると縮み、尻尾の先端にすっぽりと納まった。尻尾の先端だけが残る。それはどこからどう窺ってもただの子猫にしか見えなかった。

 子猫は尾っぽをぴんと立てて、こちらを見上げる。

 私はしばらく子猫を見て、友人を見て、子猫を見る、を繰り返した。子猫が何かを待つようにその場にちょこんと座りつづけるので、おっかなびっくりと手を伸ばし、そっと初めてそれに触れる。

 子猫がひざのうえによじのぼり、身を任せるようにするので、いよいよ私は抱きかかえた。

「ん、眠い」友人が上半身を起こす。背伸びをしがてら目元をこすり、「いま何時?」と私を見る。子猫がそこで、みゃー、と鳴く。目をぱちくりさせてから友人は、あは、と破顔し、よかったねー、と矛先の定かではない言葉を口にした。

「お腹減っちゃったね。あ、ケーキあるよ。食べる?」

 友人は立ちあがると何かを思いだしたように動きを止め、やっぱりいらない? と不安そうにする。

「ありがとう、食べたい。食べ比べしよ。半分ずつ」私は子猫の、ちいちゃくとがった尾っぽをゆびさきでなぞりながら、「このコ、かわいいね」

 矛先の定まらぬ言葉を負けじと唱える。子猫は素知らぬふりして、みゃーと鳴く。 




【雨の日にはきみと紅茶とチーズケーキと】


 そのお店は雨の日にだけ現れる。訪れるお客さんは多くはないからか、わたしがよれよれと引き寄せられて足を運ぶといつもハレミさんが窓際の席で頬杖をつき、欠伸を噛みしめている。

 本でも読めばいいのに。

 玄関先で傘を畳むと、わたしの姿を目に留めたのかハレミさんがいそいそと席を立った。わざわざエプロンを身に着ける姿が胸をくすぐる。三つ編みに大きなメガネは、彼女のトレードマークだ。わたしは前髪を整えて入店する。

「いらっしゃい、待ってたよー」

「チーズケーキと」

「紅茶、はちみつたっぷりで、ミルクも少々でしょ。しょうち、しょうち。待ってて」

 そんな満面の笑みで出迎えたりなんかするから、雨が降るたびにわたしは来ざるを得なくなるのだ。ときには面倒に思うこともあるし、雨が連続で数日間降りつづいたりしたときにはさすがに行かなかったりもするけれど、そうしたときはたいがいハレミさんのしょんぼりした顔を思い浮かべてしまって、こんなんだったら行けばよかった、と後悔するはめになる。

「ハレミさんは人たらしですよね」

 なんてことを言ってみる。

「人たらしって? 座敷童の親戚みたいなの?」

「らし、しか合ってない。それ冗談で言ってますよね」

「あれ、違った?」

 どこまで本気で言っているのか判らない。本気にしろ頬被りにしろ、どっちにしても嫌な気はせず、どちらかと言えば、来てよかったー、と思ってしまうからくやしい。人たらし、と内心でなじる。

「いつ来ても暇そうにしてますけど、ちゃんとお客さん入ってるんですか」

「入ってるときもあるよ」

「それは入ってないときのほうが多いよ、って意味ですねさては」

「いやー、どうだろね。へへへ」

 彼女はわたしの向かいの席に座って、そわそわと落ち着かない様子だ。いつもこう、と思う。わたしが客としてここに座ることを待ちわびていたみたいな、それでいてそのことを見抜かれまいと平常心を保とうとするから身振り手振りのたくさんの所作がへんてこに浮いてしまうのだ。

「前から気になってたこと訊いてもいいですか」

「へへへ、こわいなぁ。なになに」

「ハレミさんって魔女か何かなんですか」

「おっとー、いきなり失礼なこと言いだしたぞこのコ」

「そうじゃなくて。あ、そうそう、そもそもなんでこのお店って雨の日にしか入れないんですか、晴れの日ってどこに消えてるんですかね」

「雨は世界中どこでも降ってるからねぇ」

「雨のあるところにじゃあ、移動しているわけですね」

「移動というか。でも、基本はこの町で雨が降らなきゃ店は開けないかなぁ」

「お休みしてるって意味ですか」

「お休みというか。だってそもそもこの店開いたのって」

 そこでハレミさんは言葉を区切った。

「開いたのって、なんです?」

「そう言えばマスターのほうこそ訊きたいのだけどね」

「マスターってハレミさんのことですか? マスター? 初めて聞きました」

「いいじゃんよ。言ってみたかったの」へんなところに突っかからないで、とハレミさんはわたわた手を振った。店の奥のほうから、ぴー、と甲高い音が鳴る。「おっと、お湯、お湯」

「そうですよ、お紅茶はまだですか」

「ごめんごめん。待っててね。おいしょ」

 ハレミさんは席を立ち、しばらくしてお盆にティカップとチーズケーキを載せて戻ってくる。いつものことだけれど、ちゃっかりじぶんの分も持ってくるのだ。

「食べよ、食べよ。きょうはチーズケーキ、ふわふわにしてみたよ。お口に合うかしら」

「かしら」

 似合わない語尾だ。

 ハレミさんは、食べてみて、と言った。

 喉が渇いていたのでまずは紅茶を口に含み、ほどよい香りに、ふぅと息を吐く。はちみつの甘さが胃にじんわりと染みる。チーズケーキにフォークを刺すと、沼に沈んでいくじぶんの身体を連想した。暗い想像だけれど、それくらいやわらかくて底を感じさせない、という意味だ。口に運ぶと、手が止まらない。美味しいと感じるよりさきにフォークがつぎのひと掬いを運んでいる。

「どう?」ハレミさんはじぶんでも食べて、のぞけぞった。「あ、美味しい」

 しばらくおやつの時間を堪能してから、さっき何か言いかけてましたよね、と思いだしたので言った。ハレミさんがわたしに質問したいことがあるような旨を口走っていた。

「ん? なんだっけ」

「そういうとこあるよねハレミさん。気になるから思いだして」

「んとね。あ、そうそう。雨が降らない日はどうしてるのかなって。晴れの日とか、曇り日とか、言っちゃうと」

 この店にいないときは何をしているのかなって。

 ハレミさんはカップの底を見詰める。長いまつげがしきりに瞬いて、蝶みたいだな、なんて思う。

 わたしは窓を見遣る。雨粒がしたたっていて、その涙みたいな軌跡にあたまがくらくらした。

「雨の降らない日は」

 わたしは言おうとした。なぜか言葉に詰まり、目頭が熱くなる。わたしはいま、泣こうとしている。なぜだろう、その理由がどうしても判らない。

「嘘、言わなくていい。ごめん、やっぱりなし、ごめん」

 ハレミさんはわたしの手を握った。両手で包みこむように。熱い。淹れたての紅茶くらいハレミさんの手はぬくぬくと熱かった。

 そう言えば、とわたしは懸命に記憶の底を探ろうとする。わたしはいつからハレミさんと知り合いだったのだろう。このお店にはいつから通っているのだろう。

 わたしはいったい、誰なのだろう。

 頭のなかが白濁し、雨音だけが反響する。

 このお店は雨の日にだけ現れる。

 でも本当は。

 雨はまだ、やまない。




【竜の骸】


 竜の寿命には諸説ある。数億年を生きるという学者もあれば、数千年だとする研究者もおり、最新の研究では原理的に竜に寿命はなく、よって我々の処理する竜の骸とされる巨大な物体は、飽くまで脱皮のあとの抜け殻だとする説を、我らが班長がのたまっている。

「竜は次元を越えて脱皮を繰りかえしながら成長していく。最古の記録に残る竜の骸が、じつはさいきん発見された小型の竜の骸の成長した姿だとする説もあるくらいだから、まあ、実質、寿命はあってないようなもんなんだろう」

 焚火の火の粉が宙に舞う。

「だったら」さきほどから班長と激論を繰りひろげているのは、我らが処理班の呪具師だ。「だったらこの世のどこかに竜の死体だって転がっていてふしぎじゃねぇだろうが、寿命はあんだよ、あたしらが処理してんのがそれだ」

「死体が転がっていないから、寿命がないのでは、と説かれているんだ、なぜそこが解らない」

「だからなんでアレが死体じゃないって言い切れんだっつってんだよ」

 呪具師が腕を伸ばす。そのゆびの向かう先、山脈の向こうには、我らのつぎなる仕事場が聳えている。遠近感が狂うほどに、山脈がオモチャに見えるほどに、それは巨大だ。

 さいきん発見された竜の骸だ。班長の言葉では、あれは抜け殻、ということになる。

「死体でない根拠は主に三つだ」班長が応じる。

 もういいよ、と私は内心うんざりしていたが、水を差せば、双方の矛先はこちらに向かう。黙っているに越したことはない。

 私の隣では、我らが処理班の治癒師がすやすやとかわいらしい寝息を立てている。見た目は齢六、七の幼子に見えるが、そのじつこの班のなかでは最長だ。普段から協調性がなく、何を考えているのか不明な点が多いが、頼りになる存在だ。怪我をしたときに治癒術をかけてくれるだけでなく、魔術に明るく、すこしさきの未来くらいなら見通せる。それゆえに呪具師のほうで懐いている節があるが、その分、班長の面目がなく、こうしてその体面を保とうと、討論で言い負かそうとしているのではないか、と私のなかでは通説となりつつある。

 その後、班長の論じた「竜の骸はじつは抜け殻説」に呪具師が反論できなくなり、彼女が半べそを掻きながら不貞寝をしたところを見届けて、大人げないぞ、との視線を班長にくれてやり、しょんぼりした顔をさせてから、私も眠りにつくことにした。

 焚火の音が大きく鳴る。班長はしばらく火の番をするのだろう。じっくり反省するがいい。

 翌朝、我々は出発し、日の暮れる前に、仕事場へと辿り着いた。千客万来、各国の勅命にて駆り出された有象無象の人々が、人種に関係なく、こぞって竜の骸のなかへと入っていく。出てくる者の数もまた多い。同じ口から入り、口からでていく。ほかに出入り口はない。龍は物を食べない。ゆえに排泄口がないのだ。

「ありゃ、虹軍じゃねぇか」呪具師が獣人に特有の耳をぴょこぴょこ動かす。尻尾が揺れているところを見ると、これは興奮しているのだ。

「虹軍と言えば、神具の六割を所有しているって話だったか」

 班長の言葉に、呪具師はうなずく。「使える術師だって世界で数百人しかいない。そのほとんどが虹軍に従事してるってんだから、あたしらにとっちゃ夢みたいな職場だ」

「転職したいのか」

「できてりゃとっくにしてるっつうの。おまえ、知ってて言ってねぇか」

 虹軍を保有する七色連合国(ななしきれんごうこく)は、尾耳国(びじこく)と戦争状態にある。そして尾耳国は獣人が九割を占める島国だ。必然、虹軍における獣人への当たりはつよい。

「べつに禁じられてるわけじゃないんだろ」班長は言った。「差別がないとは言わないが、こうして職場では人種間のイザコザはご法度だ。いずれにしろ関係ないんじゃないのか」

「そらまあそうかもしんねぇけど」

 竜の骸の処理は、世界竜協連盟による世界規模での連盟事業だ。国家間のどんな諍いも、竜の骸のまえでは無効化される。否、されなければならない。

「むかしはあれだったんでしょ姐さん」呪具師が、治癒師を振り返り言った。「国同士の戦争を優先して、竜の骸を放置しちゃって」

「世界が滅びかけた」

「姐さん、そんときから生きてるって話、ホント?」

 呪具師の言葉に、治癒師がきょとんとする。なぜ疑われなければならないのかが、解らないのだろう。そして、治癒師のそんな疑問は、上手に呪具師には伝わらない。年齢の差というよりもこれは文化の違いだろう。獣人はそこのところ、他人の機微に疎い傾向にある。私もひとのことは言えないが。

 魔物除けの結界をくぐる。この結界は、処理班の受け付けの役割も担っている。不正規の処理班がかってに竜の骸の内部に入ろうとすれば、まずこの時点で発覚し、追手がつく。今回くらいに大規模な竜の骸であると、施される結界も強固なものとなっているだろうから、不正規に侵入すれば、追手がつく前の段階で、何かしら痛手を被ることになるはずだ。それだけ、竜の骸の内部に入る利が高い。処理班の証を得るだけでも相当な苦労がいる。

 だから、我らが班長は、こんなナリで器の小ささだが、我らの班長なのだ。

 竜の骸の内部に入ると、歩きながらさっそく班長が指示をだす。

「今回の担当は、気炎管だな。それほど奥に入らずに済む分、楽っちゃ楽だが、この規模のデカさだと、どこを割り当てられたとしてもたいして変わらん気がするな」

「虹軍はどこ担当なんだろ」

「魂臓の最深部辺りじゃないか。オレたちのもっと奥だ」

 中枢六腑じゃないかな、と私は思うが、口を挟まない。私の役割は、魔獣や術式の探知だからだ。ほかの術師たちよりも気が抜けない。私が言葉を発すれば間髪容れずに、班長たちが警戒するくらいに、私の言葉には重要な意味がある。雑談に交じれないのは一般には苦痛とされがちだが、この班においてはむしろ救いだ。

 気炎管までは三日の道のりだった。あいだに、数十体の魔獣と遭遇したが、治癒師の出番が回る以前に、班長と呪具師の二人で、撃退した。

 竜の骸を放置できない理由の一つに、魔獣の存在がある。

「さすがに多いな」

「困ったらまた姐さんに一網打尽にしてもらおう」

「疲れるのはイヤ」

 駄々をこねる治癒師だが、たった四人の処理班が気炎管という比較的重要な部位を任されるほどに世界竜協連盟からの信頼が厚いのは、ひとえに彼女の実績だ。なぜ彼女ほどの実力者がこの班に加わったのかは私の抱えている疑問のなかでも大きい謎の一つだ。

 班長に訊ねてみたことがあるが、募集をかけたらきただけだという。呪具師のほうとは、以前から浅からぬ縁があったらしいが、詳しい話は聞かずにおいた。私はというと、単に繋ぎのつもりだった。この班の前に属していた処理班が竜の骸のなかで壊滅してしまい、私だけが生還してしまったので、つぎの目ぼしい職場が見つかるまで、楽にその日暮らしができそうな班を探したら、この班が目についた、というただそれしきの理由だ。

 あと半年もすれば、ここが最も長く属していた班となる。思いのほか感慨深い。

 魔獣の撃退法には二種類あり、呪具師は主に封印を多用した。おそらくは、それによって採取できる魔精を、治癒師に与えたいとの腹だろう。現に、治癒師は呪具師からのそれを拒むことなく、素直に受け取っている。

 いざというときに、治癒師はそれら蓄積した魔精を用いて、大規模術式展開を発動する。魔獣の群れすらそれに巻き込まれればひとたまりもない。

 虹軍にすらここまでの術師はいないのではないか、と私なぞは目を剥いているが、我らが班長は、おーすげー、とまるで他人事で、その図太さには一目を置く。

 気炎管にはすでに、聖獣が生まれていた。竜の骸のなかでも、極めて看過できない災厄の一つだ。たいがい、竜の骸には、一から数匹の聖獣が生まれる。だが今回ばかりは、いったい何匹生まれるのかの予想がつかない。よしんば、数がすくなくとも、一匹一匹の脅威が並外れている可能性が非常に高い。

 そしてその懸念は的中した。

「あんなん、ほんまもんの竜ですやん!」呪具師が私の元へと転がり込んでくる。轟音と共に放たれた火炎が、襲いかかる。私は結界を張り、それを防ぐが、力負けする。

 寸でのところで治癒師が助けに入ってくれた。四重の強化防壁によって、私と呪具師は命拾いする。

 とはいえ、この時点ですでに治癒師の手によって三度、死から蘇えっている。むろんきょうだけで、だ。

 強敵にすぎる。手に負えない。

 竜の骸の本体そのものと戦っている気分になる。稀にあるのだ。聖獣が竜としか思えぬ外見を有し、まさに生まれ変わったとしか思えぬ魔精を備えて、誕生する。

 しかし飽くまで聖獣は聖獣だ。竜ではない。分身ではない。

 ふと、こんなときだというのに班長の言葉を思いだす。竜の骸が抜け殻かもしれない根拠の一つだ。竜は子を産まない。卵もない。死なないがゆえに、死体も存在しない。あるのは抜け殻だけだ、との理屈だ。

 だがこうして分身としか思えぬ聖獣を相手取り死闘を演じていると、竜は亡骸から分身を放って数を増やすのではないか、子孫を残すのではないか、と考えたくもなる。考えている場合ではないのだが。

 気炎管の聖獣は、私たち処理班を圧倒し、蹂躙し、苦しめた。

「姐さん、なんとかなんねぇか」呪具師の泣き言に、治癒師が応じる。「うぬらが邪魔でねぇ。まだ死にたくはないでしょ」

 呪具師共々、私たちは大いにうなずく。班長はすでに死体となって、荷物といっしょに縛ってある。生きかえらせてもどうせすぐ死ぬ。

 おそらく治癒師の口にした、死は、私たちの考える死とはまた一段上の消滅にちかい概念だ。蘇生不能になりたくないでしょ、の意味だ。

 たしかに気炎管の聖獣を滅ぼすには、蘇生不能なほどの呪術をかけるしかない。そしてそれは、聖獣だけにずばり的を絞って放てるような術ではない。広域に、かつ強力にかける術式となるはずだ。

 そのときに、私たちを巻き込まずにそれを展開する余裕が治癒師にはなく、また、その術を防ぐだけの結界を私と呪具師の二人がチカラを合わせても張ることはできない。

 完全なる足手まといとなりつつも、しかしこうなることくらい、彼女ほどの治癒師であるならば、術師ならば、予期できていそうなものだ。

「竜の骸のなかじゃ転移術も使えねぇし」呪具師のぼやきに、私も同調する。

 私たちだけでもこの場を離れられれば、治癒師一人で聖獣をなんとかしてくれるだろう。だが、その撤退をするだけの時間を聖獣のほうで許してくれそうにない。

 治癒師と離れれば、すかさず聖獣はか弱いこちらを狙うだろう。治癒師は私たちから離れられず、かといって、聖獣を引き離す真似もできない。

 進退窮まった。

 と、そこで私は、接近しつつあるもう一つの強大な魔精を察知する。

「なんか来る!」

 ここ数週間のうちにようやく放った一言だ。

 奥のほうから現れたのは、気炎管の聖獣よりも遥かに巨大な聖獣だった。竜にしか見えない。普段、我々が処理する竜の骸が生きていればこんなだろうな、と思う外見を有しており、それが動いて、飛んで、現れた。

 前門の虎、後門の狼とはまさにこのことだ。

 まえにもうしろにも災厄の権化が構えている。

 逃げ場はない。そのはずだった。

「ありゃ虹軍か」言ったのは呪具師だった。獣人特有の耳がピンと張り、尻尾が揺れる。

 援軍ではないだろう。だが、虹軍が、巨大な聖獣を追いかけ、群れをなして押し寄せてくる様がちいさく、しかし確実に大きくなりつつ見えている。

 こちらの聖獣が、背後の巨大な聖獣を見た。動きが止まる。巨大な聖獣のほうも、いまは足元の蟻がごとく虹軍よりも、こちらの聖獣に目を留めているようだ。

 しばし、静寂が満ちた。

 ように感じたつぎの瞬間、こちらの聖獣が、火炎の構えをとった。口を大きく開き、角が真っ赤に染まる。一拍遅れて、巨大な聖獣のほうも翼を閉じ、地上に落下しながら、火炎の構えをとった。喉元が黒く染まるのが見えた。ああも巨大だと、魔精の凝縮が色となって知覚できるのだと知った。

 未だ放射されていないにも拘わらず、肌を焼くような熱量が、じりじりと結界越しにも我々のもとにまで届いた。すでに地面から湯気が昇り、陽炎が景色を歪めている。

 閃光が走る。視界が白濁する。腕で顔を覆う。固くつむった瞼のうえからも、眩い真紅の揺らめきが感じとれた。

 音が消える。

 否、いっさいが轟音のなかに取りこまれたのだ。

 つぎに目にしたとき、大小の聖獣たちは互いに絡みあっており、首を噛み、翼を折り、傷つけあっていた。その足元では、やはり虹軍の群れが、蟻のごとく、右往左往している。

 ずんずん、と二匹の聖獣は、気炎管の奥へ、奥へと進んでいく。そちらは魂臓につづいている。おそらくは、巨大な聖獣はそこから生まれたのだろう。虹軍が取り逃したのだ。

「あやつらはつよいのか」治癒師がつぶやく。虹軍のことだろう。誰への問いかが解らなかったため、私が応じた。「たぶん、つよいです。が、あの二匹相手にはさすがに荷が重いかと」

 手を貸してあげたほうがよいのではないか、との助言を呈したつもりだ。

「ならばよいか」

 治癒師が腰をあげ、結界のそとにでる。私たちに四重の防壁をかけたままで、何やら術式を展開した。それは黒く、ただ黒い穴だった。ひょっとしたら玉なのかもしれないが、黒の回りが歪んで見えたので、空間に穴が開いているのだと判断した。

 静かなものだ。

 治癒師はそれを、シャボン玉を指先で案内するように地面に誘導し、埋めた。地面に穴が開く。穴のように見えるだけで、そこには何かしらが存在しているのかもしれないが、私の目には穴にしか見えなかった。

「あやつらに警告できる?」

 治癒師に言われ、私と呪具師は顔を見合わせる。遅れて、その言葉の意図を察し、呪具師と共に、思念体を飛ばす。

「反術式の防御を最大限で!」

 端的にそれだけを告げた。余裕がなかった。時間がなかった。私たちが言葉を付け足そうと、二度目の思念体を形成するよりさきに、治癒師は、穴をするすると前方に進めた。私たちのずっと向こうで絡みあう二体の聖獣の真下にだろう、それを到達させると、治癒師は両手を広げる。連動して、二体の聖獣の真下に、巨大な影が、穴が、開く。

 そこには虹軍の面々もいるはずだが、ここからではよく見えない。

「閉じますよ」

 治癒師は誰にともなくつぶやき、手を叩き合わせた。

 音もなく、目のまえから二匹の巨大な塊が、聖獣が、消えた。

 治癒師がこちらを振り返る。私は呪具師と抱き合っており、やわらかな毛並みが心地よいな、と獣人のもふもふな体質を好ましく思った。

「じゃあ、生きかえらせちゃおっか」死んだままの班長を見て、治癒師は言った。

 後日譚となるが、今回の竜の骸の処理は、延期となった。聖獣の撃退に失敗する処理班があとを立たず、加えて、采配を振るった世界竜協連盟への批判が熾烈を極めた影響も無視できない。

 中でも、世界最強の呪具師軍団と名高い虹軍が、壊滅的な打撃を受けたとあっては、各国も派遣する処理班への装備や支援を練り直さざるを得ないだろう。現に、我々処理班は、処理を十全に遂行しておきながら、追加の仕事を指示された。慰労金や補助金、もろもろの手当てを得たので文句はない。

 人手不足が深刻なそうだ。

 それはそうだろう。

「あなた一人がいればそれでよくないですか」

 班長と呪具師が、いつものように口喧嘩を繰りひろげ、疲れて寝静まったあとで、私はこっそりと治癒師の寝顔にささやきかけた。月光に照らされ、治癒師の寝顔は、ことさら幼く、うつくしく映る。

「いまはそれでいいけど」治癒師が目を閉じたまま応じたので、私は腰が抜けそうになる。寝ていたと思った。「わたしがいなくなったら困るでしょ。強者だけで回る世界は、仕組みとしてとても弱い。弱すぎる」

「竜の骸とは何なんですか」彼女は知っているのだ、と思った。

「あれは、竜をつくるもの」

「やっぱり聖獣が竜の子どもなんですね」

「そうじゃないけど、そうでもいい。骸を消しても、竜は生まれる。消さなければ、世界は竜に呑みこまれる。内側と外側が入れ替わる。いわば、すでにここは、ある一匹の竜のお腹のなかと言えるのかも」

「そうなんですか?」

「さあ、どうだろ。あなたはどう思ってるの?」

「私は」

 こんなに長くひととしゃべったのは久しぶりのことだった。彼女とこれほど多く言葉を交わしたのも、初めてかもしれない。ふしぎと緊張はしなかった。

「生きた竜を見たことがないので、あれが何の骸なのかも、抜け殻なのかも、解らないです」

「そう。解らない。本当はみんな解らないのに、あれを竜だと言い張っているひとたちがいる。わたしはあれらを処理することはできても、竜を消すことはできない。なぜなら竜なんて本当は、どこにもいないから」

「じゃああれは」

「あれは、喰らう者。太陽のようなもの。雨が降って川となり、海へと流れてそこで終わってしまったら、世界はそこで完結してしまう。海から雲へ、そして雨へと変える仕組み、それがきっとあれの役割のようなもの。太陽のようなもの。同じ世界にあるようで、もっとずっと外側にある存在」

 だから消すとか、処理するとか、そういうものですら本来はないもの。

「だとわたしは考えてきたんだけど、この考えを話したのはあなたが初めて。なんでだろ。あなたになら通じる気がしたのかな」

「解りません」私はうなだれる。

「そう。それでいいと思う。みな、何かを解った気になりたがりすぎる。わたしも、たぶん、きっとそう」

 ずっとそう。

 治癒師はつぶやき、またすうすうと寝息を立てた。

 竜の寿命には諸説ある。だがそもそも、生きた竜を見た者がいない。竜の死ぬところを見た者もいなければ、殺した者もいない。

 竜の骸だけがいつの世も、勃然と現れ、発見され、そして処理される。

 ゆえに、骸ではなく、あれは抜け殻なのではないか、との説がいまでは有力視されているとの話だった。班長の言うことだからアテにはできないが、治癒師の話を聞いたあとでは、それもあり得ると思えてくるあたり、何が真相かますます闇が深まった。

 いずれにせよ、あれが何であれ、どうであれ、やるべきことは変わらない。

 我らは処理班、竜の骸に出向く者なり。




【ちゃぽんと跳ねて、もぐる】


 雑居ビルの合間に鬱蒼とケヤキの茂った空間がある。公園だ。夏場は涼しく、冬は暖かい。ビルの壁に囲われ日当たりがわるく、年中暗い。そこだけ街の夜がぎゅうぎゅう詰めになっているかのごとく様相だ。外灯が四六時中ほんわかと地面を照らしているため、物体の輪郭は陰影となって浮きあがる程度には明るいとも呼べる。

 いつからだろう、そこに足繁く通うようになった。

 冷房を入れても部屋が一向にサウナ状態を抜けだせない日々がつづき、致し方なく涼める場所を探し求めていた折に偶然辿り着いた、そこはオアシスだった。

 涼しいだけでなく、静かでもある。数百メートルと離れぬ場所では喧騒が渦巻いており、街中にぽんつねんと開いた森のようだ。猛暑からの避難先としては申し分ない。

 仕事の作業にうってつけの場所だった。ほかの場所ではメディア端末の画面が日差しのつよさに負けて見えづらい。室内にしろ同じだ。

 木彫りの椅子と長机が外灯の下にある。公園でありながら虫がおらず、夜になっても蛾一匹飛んでいない。ときおり野良猫が単独で現れるが、気づくといつも消えている。

 遊具はなく、砂場と水飲み場があるのみだ。

 水飲み場は円柱状の石からなり、側面に蛇口が一つくっついている。土台の石は古そうで、蛇口の裏側には窪みがあった。窪みから垂れるようにしめ縄がされており、なにかしら厳かな雰囲気がある。湧水なのかもしれない。

 公園にくるときは途中で自販機にてペットボトル飲料を購入するのが習慣化していた。中身が尽きるといつも水飲み場の蛇口をひねり水を汲んだ。

 その日は昼過ぎから雨が降りはじめ、いつもよりはやく公園での作業を切りあげた。雨に濡れるわけではないが、肌寒いのだ。雨は夜にはやみ、空に星が散らばる。

 翌日は快晴だった。公園に足を運ぶと、大きな水溜りができていた。

 雨のせいだろうか。

 訝しむが、これまでは豪雨のときですら公園内の土は乾いた状態を維持していた。きのうの雨量でここまで水が溢れるとは思えない。

 何かほかに要因があるはずだと考え、目を凝らすと、水の流れる音を耳にする。次点で、水飲み場の蛇口から水が流れっぱなしになっているのを発見した。

 きのう水を汲んでそのまま閉めるのを忘れていたようだ。水を飲むために蛇口を上に向けていたので、排水溝の位置からズレて水が流れ落ちていた。

 水溜りの大きさからして、相当な水量を無駄にしてしまった。公園の敷地はさほど広くはないが、プール一杯分の水が高額だとする豆知識を思いだし、申しわけない気持ちになる。

 と、そのときだ。

 ちゃぽん、と水の跳ねる音がした。

 耳を澄ますと、また同じ音が反響して聞こえる。

 何かいるのか。

 しゃがみ、視線をさげる。地面にナニカシラの陰が見えないかを探った。

 すると、音が鳴るたびに、水溜りのうえに魚が跳ねて見えた。

 鯉だろうか。

 大きい。猫くらいはあるのではないか。

 ちゃぽん。

 空中の虫でも食らうようにそれはしきりに跳ねては、空間に小気味よい音を響かせた。

 しばらくその音を楽しんだ。

 漫然と風景を眺めていると、やがて違和感を覚える。

 公園に池はなかった。あるのは即席の大きな水溜りで、水深は足首が埋もれるくらいの厚さしかなく、鯉が泳げるほどの深さではないはずだ。

 靴を脱ぎ、おそるおそる水溜りに浸かる。どこかの地点から深くなっているのかもしれない。

 思うが、よしんばそうだとして、ではあの鯉はどこから流れ着いたのか。

 水飲み場の排水溝に棲んでいたとでもいうのだろうか。排水溝にはしっかりと鉄の溝蓋がついている。仮に鯉が跳ねても頭をぶつけて外にはでられない。

 何かがおかしい。

 判っていたが、理性ではそれ以上の想像を巡らせずに、誰かが放流したのだろう、との最も陳腐で卑近な可能性を思い浮かべるに留まった。

 が、水溜りを横断しきってしまうと、その可能性以前の問題にぶつかった。

 浅いのだ。

 水溜りはどこも深いところがない。

 面積が広いだけで、総じて水かさは浅かった。

 鯉の泳げるほどの体積はない。水量はない。高さはなかった。

 ならばあれはなんだ。

 ちゃぽん、とそれはいくども跳ねる。

 水面をするすると泳ぎまわる陰まで見え、それはこちらの足元にまで寄ってくると、機敏に反応して距離を置く。

 ふと顔をあげると外灯の明かりを受けて、雑居ビルの壁にふよふよと煌めく水の影が映っている。ケヤキの木々にもそれは反射し、空間全体が淡く、天の川のようだ。

 ほぉ、と息を吐く。

 水溜りからあがる。木彫りの椅子に腰かけ、しばらくそれら光景を視界に入れた。

 仕事にはならかったが、息抜きとしては極上だ。

 つぎの日も、つぎの日も、同じように公園に足を運び、仮初の池を眺めて過ごした。

 鯉は一匹だけのようだった。どれほど目を凝らしても柄は見えない。元から黒い個体なのか、それとも暗い敷地内がゆえの陰なのかは判然としない。餌があるのかも定かではないが、毎日元気に水面から空中へと身をくねらせ落下する、を繰りかえす。

 カメラでその姿を収めようとしてはみるが、いかんせん光量が足りず、全体的にぼんやりとした闇としか映らない。

 数日が経過すると、水溜りは徐々に干上がり、その面積を収斂させる。

 一回りちいさくなった仮初の池であっても、鯉は悠々と泳いでいた。

 朝起きるとひぐらしが鳴いていた。もうそんな時期か、と思いながら、まだまだ日差しはつよく、きょうもいちにち蒸し暑くなるな、と辟易する。

 朝食を購入しがてら、さっそく公園へと向かった。仕事道具を持ってはいくが、ここさいきんの進捗は芳しくない。

 どうにもあの水溜りをまえにすると、鯉の登場に目を奪われる。つぎはいつ跳ねるだろう、と期待で目が離せない。

 公園へ入るべく路地裏へと足を踏み入れよとしたところで、すみません、と声をかけられた。

 振り向くと男が立っている。齢は六十くらいだろうか、着古したデニムに無地の白いTシャツという特徴のないイデタチで害意のない人懐こい笑みを浮かべながら、ここいらに神社はありませんか、と妙なことを言う。

「神社ですか」

「この辺りに古いのがあるはずなんですが」

「なかったと思いますよ。けっこうむかしから住んでますけど、この辺りに、すくなくとも僕は見たことはないです」

「そうですか」

 男は見るからに気落ちした。

「駅前のほうに交番があるので、訊けば教えてくれるんじゃないですかね。僕もここに来たばかりのころは道に迷って、教えてもらったことがあります」

「そうしてみます。失礼しました」

 礼を述べて男は去った。駅前とは反対の方角に歩いたため、交番に行く気はないのだと思った。或いはあとで帰るときにでも寄るのかもしれない。公園に足を踏み入れるともう、そのことは忘れた。

 水溜りはいよいよ公園の長机よりも狭くなってしまった。じっと上から覗きこむと、ちゃぽん、と跳ねた例の鯉が、顔のすぐ目と鼻のさきに現れる。

 至近距離で見ても鯉は黒く、ただ黒かった。鱗のオウトツすら見えず、目もどこにあるのかが不明で、鯉の水墨画が紙から抜けだして動きまわっているかのごとく錯覚に陥る。

 水面には鯉の背が弧と線を描きながら泳ぎ回って映るが、やはりそれもただ黒く、影としか形容しようがなかった。

 網で掬いあげてみようかとも考えたが、何かそれはしてはいけないことのように思え、というよりも単純にじぶんがそんな真似をしたくなく、未だに鯉に手出しはしていない。

 水溜りはあさってにでも干上がるだろう。そうしたらこの鯉はどうなってしまうのか。

 悩むよりさきに決断する。

 いくども思い描いていたことだ。  

 水飲み場のまえに立ち、蛇口をひねる。蛇口はよこに向け、水が土のうえにはそそぎ落ちるようにする。

 ちょぶちょぶ、と水が土のうえを流れる。放置しておけば今晩のうちにまた大きな水溜りが張るだろう。仮初の池と繋がるはずだ。

 水の気配を察知したわけではないだろうが、鯉が二回連続で宙返りをした。

 路地裏を抜けて帰路に就いたとき、見覚えのある男を見掛けた。通行人に声をかけ、ぺこぺこと腰を折っている。

 神社を探していた男だ。服装が同じだったため、意識するよりさきに記憶が照合された。

 あんなに必死になるからには相当な事情があるのだろう。助けになってあげたかったが、かといって役に立てるとも思わない。心のなかで応援するに留め、夕飯を買うべくスーパーに入った。

 夜、布団のうえで寝返りを打つ。水の流れつづける蛇口の映像が頭から離れない。気が漫ろだ。何か理由があるのだろうか。じぶんでも驚くほど不安になっている。

 遠足の前日の高揚感とは異なり、ただただ不安だった。何もなければよいが、といった焦燥感と、何か見落としている過失があるような罪悪感がいっしょくたになって睡魔を身体から追いだしている。

 陽がのぼるまで一睡もできなかった。朝食にウィンナーを挟んだトーストを食べたら眠気が襲い、正午過ぎに起きて、着替えもそこそこに家をでた。公園までの道中でおにぎりとコーヒーを買い、気持ち急ぎ足で通い慣れた道を進む。

 裏路地に入ったところで、異変に気付いた。

 アスファルトが濡れているのだ。水が膜のように地面に波のうねりを生みだしている。透明なミミズが無数に蠢いてるかのようだ。

 舌を打つ。寝坊したせいだ。

 公園から水が溢れたのだ。

 案の定、公園の入り口からと言わずしてケヤキの木々の根元からも水がちょろちょろとそれでいて地面を覆い尽くすように流れている。

 靴が濡れるのもおかまいなしに水道のある地点まで駆け、蛇口を閉めた。

 呆然と辺りを見回す。

 水の音だけがなお余韻のようにつづき、しだいに弱まり、聞こえなくなった。歩くたびにじぶんの足音がこだまする。これほど音がさざなみのごとく反響しただろうか。まるでいままでが握った鈴のように音がこもっていたのだと気づかされる。

 湿度の違いだろうか。何かが変化している。そうとしか思えず、身体を固めて、よくよく周囲を観察した。

 静寂がただ水と共にある。

 やがて、聞こえるはずの音がないことに気づく。

 ちゃぽん。

 鼓膜に染みた音は幻聴じみていた。何かが宙に跳ねた様子は見当たらず、なおも幻聴はじぶんの脳裡にのみ、寄せては引いた。

 ふと水飲み場に目がいく。先刻、蛇口を止めに寄ったが、遠目から見るとまたいちだんと何かが足りない気がした。

 円柱状の石だが、そうだ。しめ縄が見えない。

 足首で水を掻き分ける。水飲み場の裏側を見遣ると、そこには穴が開いていた。誰かが道具を使って穿いたのだと察する。水の底には砕けた石の破片が積み重なっていた。

 ふと、この辺りをうろついていた男の姿が脳裡によぎる。神社がどうのこうの、と訊きまわっていた。果たして関係あるのだろうか。

 怒りに似た感情の高ぶりを感じる。

 石の穴を調べるがこれといって目新しいものは発見できず、石のなかは空洞で、欠けた石の断面からは水道管の光沢が覗いている。

 どれだけ待っても鯉は姿を見せなかった。数日をかけて徐々に水が抜けていくにつれて辺りは泥臭く、じめっとした。蚊柱が飛び交い、とてもではないが長時間いられない。

 間を置いて訪れたりしたが、空気の流れがないせいか蒸し暑く、またケヤキの木々からは蝉の声がけたたましく聞こえ、やはりこれまでのようにはいかなかった。

 蚊が大量発生したせいか、秋が終わるころには公園の敷地を囲んでいたケヤキの木々は軒並み伐採され、壊れた水飲み場も撤去された。つぎの年の夏場には更地になっているだろう。野良猫が足取り軽く横切っていく。

 道路にゆらめく陽炎を見るたびに、あの水溜りの幻想的な風景を思いだす。あの場では風はいちども吹かなかった。閉ざされた空間だったのだ、と思い、何かが破れて繋がってしまったのだろう、とも思った。ふしぎな体験だったが、いまにして回顧してみるとあやふやな記憶だ。

 打ち水だろうか、道路が濡れている。豪快に撒き散らした家があるようで、プラスチックのスコップや三輪車がでているところを鑑みれば幼子が水遊びをしたのだろう。なぜか避ける気にはなれずに、水溜りを踏んで歩いた。

 背後で、ちゃぽん、と遅れて音が届く。

 振り向くが、水の表面にはただ、青空と白雲と、電信柱の線が映るだけで、あとは波紋がかすかに揺れては消える。

 そんなものだ。

 踏みだすと、足の裏がじんわりと冷たい。

 目を転じると、ふしぎと足首まで水に濡れている。 




【輪――リン――】


 一瞬だけ吹き去ることはない。風は点ではなく線だ。肌を、身体を、なぞるように包みこむ。

 自転車にまたがり、ペダルを漕ぐ。

 風と同化する。

 風にちかづいたと思う。

 服の隙間に流れこむ空気の層が、気化した汗をつぎからつぎに拭い去っていく。

 汗は止まらない。

 競技の最中だ。

 ペダルを踏む。踏む。踏む。

 視界の端に流れては失せる風景はまるで、ひとつなぎに剥かれたリンゴの皮がごとくだ。途切れぬ車輪のまわる音に両断されつづけるがゆえに景色はそうして移ろうのではないかとの錯覚に陥る。

 妄想に更ける。

 呼吸をするたび、妄想は断裂し、思考は飛躍を繰りかえす。

 公式の競技ではない。競輪ではない。

 街中を疾走する。

 ストックバイシカルと呼ばれるストリート発祥の競技だ。

 似た競技にパルクールやチェイスタグがある。どちらもエキストリームスポーツだ。かたや街中をアクロバティックに疾走し、片や区切られた場所で鬼ごっこをする。フリーランニングとも呼ばれるそれらの自転車バージョンと言えばそれらしい。よりはやく任意の地点、ゴールに辿り着いた者が勝者となる。

 ただし、漕げるペダルの数が限られる。

 今回は五百だ。

 五百回で、三キロ先にある灯台まで誰より速く辿り着かねばならない。

 途中、廃棄工場などいくつかの難所を迎える。上り坂もすくなくない。

 反面、エアスポットと呼ばれる漕がずに加速できる地点も用意されている。下り坂をはじめ、抵抗のすくないコンクリート道路や、トラックばかりがのべつ幕なしに行きかう高速道路などがそれにあたる。トラックの荷台に掴まれば、ストックを浪費せずに距離と加速の両方を稼げる。

 競技者同士での妨害行為も許容される。相手の邪魔をしても構わない。ただし、複数人での競争であれば必然、他人に干渉すればするほど出遅れる。優位に立つには、誰にも邪魔されず、邪魔をしないでおくことが肝要だ。

 他方、目をつけられれば暗黙の了解のうちに標的にされる。こいつにさえ優勝を譲らなければみずからが下位でも本望だと考え、足枷役を買ってでる者もでてくる。

 だがそこは駆け引きだ。誰が邪魔立てをしてくるかを端から考慮に入れていれば、対処の仕様はある。

 原則、ストックバイシカルにコースはない。スタートとゴールが設定されるのみで、あとはめいめい自由に最短距離を駆け抜ける。

 踏めるペダル数、すなわちストックに限りがあるがゆえに、最短距離は各々が脳内で引いた独自のコースの数だけある。極論、同じコースであろうと、戦略が異なればそれは最短距離にも、最長距離にもなり得る。すなわち、そもそもゴールに辿り着くことすらできないコースというものもあり、それは競技者の戦略によって刻々と様変わりする。

 たとえば、信号無視をすれば突如交通機動隊に追いかけられることもあり得る。目のまえに急にデモ行進が現れることとてあり得なくはない。

 現に、昼間に競技を開催したときには、幼稚園の集団に行く手を阻まれ、大幅にタイムが伸びたことがあった。さいわいにも競技者のみなが同様に足止めを喰らったので、順位そのものにはさほどの影響はなかったと言える。しかしそうした不測の事態は、ストリートを舞台にしたストックバイシカルでは容易に引き起こり得るのだ。

 リンは現在、単独二位で最後のエアスポットに差しかかるところだった。

 三人からの妨害に遭ったが予期していただけにかろうじて振りきった。狙い通りにパトカーが近くを巡回していて助かった。逃げるほうと追うほうとでは、客観的に見て、どちらの側に味方をしたくなるのかは意見が割れる。しかし集団から追われ、なおかつリンの性別が女であるというだけで、世間の目はリンのほうに味方する。偏見だ。しかし世にまかり通る常識というものはそういうものらしい。

 警察がどちらを優先して追跡するかは想像にかたくなかった。

 案の定、巡回中のパトカーは追手の三人に標準を絞ったようだった。

 だが、逃げ回った分だけ、距離的最短距離からは外れてしまった。段取りを修正する。エアポケットをより多く通りながら、余分に失ったストックと距離を稼ぐ。

 廃棄工場を抜ける。油と鉄屑の匂いがツンと鼻を刺す。工場内は入り組んでいる。屋外を抜けるにしても建屋を経由するために直線距離の三倍はかかる。

 急がば回れというが、いまは回っている時間も惜しい。

 リンは敷地をまっすぐに貫いている第一工場の屋根にのぼった。小屋やコンテナ、トイレや喫煙所などを段階的に足場にして、階段代わりに上昇する。

 屋根にあがると、その背骨を一直線に滑走した。

 建物をのぼるときには、自転車ごと大きく跳ねた。前輪を持ちあげ、後輪のみで弾む業だ。エクストリームスポーツのBMX競技者には馴染み深い技術だ。

 ほかにもコンパスで線を引くように前輪と後輪を交互に振ることで移動する技術も駆使した。ペダルを漕がずに高低差のある場所や、穴を越えるのに役立つ。

 また、速度があれば、五メートルくらいの谷を越えるのは造作もない。条件さえ揃えば、十メートル以上離れているビルとビルのあいだを渡ることも技術的には可能だ。

 大技のなかでも特別に命の危険を伴う禁忌の業だ。

 いままでリンはそれをストックバイシカルの競技中で使ったことはなかった。競技以外では実践してみたことがある。成功はしなかった。偶然命は助かったものの、運がわるければ死んでいた。風が足りなかった。臆病になって速度をだせなかったのも失敗の一因だ。

 恐怖心は死を誘う。

 臆病なじぶんに失望した。そのときの気持ちがいまになって蘇える。

 思考は飛躍を繰りかえす。

 走馬灯のようだ、と遅れて思う。

 廃棄工場を抜けると風に潮の香りがまじった。

 海が近い。ゴールまで僅かだ。

 闇のなかに灯台の明かりが見えた。

 先頭を走っていたライバルの背中が見える。天狗の刺繍の入ったジャケットを着ている。テンシャと呼ばれる伝説のライダーだ。競輪選手相手に負けない脚力に加え、BMXの世界大会で上位に入賞するほどのテクニックを併せ持つ。

 ストックバイシカルのために生まれたような男だった。

 リンの憧れにして、この世界に足を踏み入れたきっかけでもある。

 認められたくて走りつづけてきた。

 いまはただ、ぶっちぎりたい。

 その背中を追うのではなく、追い越し、風になりたかった。

 近道をしたとはいえ、すでにストックは尽きかけている。最後のエアスポットを抜ければあとはゴールまでゆるやかな上り坂がつづく。

 つぎのエアスポットで追い抜けなければ負ける。追いつくのでは足りない。追い抜かねばならない。

 なぜなら相手にはストックに余裕がある。上り坂を駆けのぼれるだけのストックがあるのだ。反してリンにはその余裕がない。エアスポットを抜けた時点で横並びならば、あとはストックが多いほうが勝つ。

 もちろんマシンの性能や体力に左右はされる。相手がテンシャでなければリンにも勝機があった。余裕があった。

 しかし相手がわるい。

 追う立場にある。ストック残量がすくなく、相手のほうが体力も技術も上回っている。

 逆転勝利など夢のまた夢だ。

 しかし諦める考えはなかった。

 まだなんとかなる。

 考えることをやめなければ活路の一つくらいは見えてくるはずだ。

 見えた道に添って歩んだ結果に勝てるかは判らない。しかしそこを見ようとしなければ勝てたはずの未来すら手放すはめになる。

 手放さないために考えるのだ。

 自由とはその執着のなかにしか生まれない。 

 掴めるか否かがだいじなのではない。掴もうとするその一瞬、一瞬の輝きが、閃光となり、発火となり、ときに意識や自由となって人の生をかたちづくる。

 リンの思考は目まぐるしく巡る。

 過去の記憶、体験、知識をはじめ、

 妄想や想像を多重に錯綜させ、

 交錯させ、

 結び、

 紐解き、

 繋げる。

 総合してそれをリンは、まとめる、と呼ぶ。

 まとめる。

 まとまったそれは回路として機能し、たったひとつの望みを顕現させる道と化す。

 見えた。活路だ。

 リンは進路を大きく変えた。

 最後のエアスポットである急勾配から逸れ、あべこべに脇にある階段を跳ねてのぼる。大幅な時間の遅れだ。

 テンシャは残りのストックのほとんどをエアスポットで消費する気だ。現に全力でペダルを漕ぎ、体重をかけ、加速につぐ加速を生みだしている。

 あの速度ならばゴール目前の上り坂も八割がた運動エネルギィのみで登りきるだろう。

 勝つためにはより長いエアスポットが必要だ。

 階段は急斜面で、ほとんど梯子然としている。すでに廃棄工場で体力を消耗している身体には酷だったが、ここを突破しないことにはさきは拓けない。

 階段をのぼりきったあとには、灯台まで一段一段、幅の広い階段がつづく。ゆったりとした下り坂だが、灯台の根元まで延びている。

 段差がある分、階段をそのままくだったのでは速度はでない。

 リンは階段の脇に備わった手すりに自転車ごと乗りあげた。手すりの幅はタイヤよりすこし広いくらいで、ほとんど綱渡り状態と言っていい。

 目的地を確認する。

 ざっと三百メートルはありそうだ。

 目線を数メートル先に固定し、意を決してペダルを漕いだ。

 覚束なかったのは最初だけだ。

 いちど勢いがつくと、タイヤのブレは治まり、一直線にゴールまで下る。

 残りのストックをすべて使い切る。

 加速、加速、加速、加速だ。

 恐怖の壁を一瞬で突破する。こんな体感は初めてだ。

 思考は失せ、マシンと一体化し、身体を包みこむ風に意識を溶かす。

 一寸先の未来に寸分の狂いもなくタイヤを載せる。軌道は頭のなかにある。現実がブレなくそれを辿る。

 手すりが途切れる。

 マシンは宙を数メートル滑空し、地面にジュっと香ばしい音を刻む。

 ブレーキをかけたかったが、うまくいかない。

 ハンドルをきつく握りしめていたせいだ。ブレーキに指がからまった。

 危ねえッ。

 叫び声が背後から聞こえた。一拍遅れてゴールしたテンシャの姿が視界の端に映った。

 目のまえは断崖絶壁だ。

 灯台を囲む崖の向こうには海が広がる。眼下は数十メートルさきまで大気が占領する。

 真下は岩場だ。

 落ちれば死を免れない。

 リンはそこで何を思ったのか、ペダルを振んだ。

 止まるのではない。

 飛ぶ。

 マシンをさらに加速させ、リンはいっとき風になる。

 闇の向こうから一筋の光が差す。

 朝陽だ。

 海と空に一線が引かれ、波のキラメキが満開の桜のようにいっせいに開花して見えた。

 空気の層が身体を下から乱暴に撫でていく。

 海面にタイヤが触れる。

 やわらかい泥沼にでも着地したかのような衝撃が手足に加わり、泡ぶくが全身を揉みくちゃにした。

 いっさいが濁音のなか、リンはしばらくマシンを手放さずにいた。息が苦しく、上も下も判らなくなる。恐怖に駆られ、ハンドルから手を離す。

 マシンが闇の底へと沈んでいく。

 まるで感覚が通じあっているかのようにリンは海底の冷たさと、闇に、身の竦む思いがした。

 海面に顔をだし、大きく息をする。

 生きている。

 思うと同時に、マシンを見捨てた罪悪感に胸が痛んだ。

 だいじょうぶか、と波の合間に声がする。

 テンシャだけではない。ほかの競技者たちもまた続々とゴールしたのだろう、崖を下り、岩場を伝って助けに集まってくれたようだ。

 灯台に備わっていた救命具だろうか、ロープ付きの浮き輪が投げ込まれ、リンはそれに掴まり、ようやく、助かった、と現世に帰還した気がした。

「たいしたやつだよ」

 哄笑しながらテンシャがタオルで手渡してくる。リンは毛布に包まりながら、タオルを受け取り髪の毛を拭く。ほかの面々は焚火をつくるために枝葉を集めているところだ。

 みなびしょ濡れなのは、ロープの足りない分を海に浸かって、協力してリンを引っぱりあげてくれたからだ。

 ライバルであると同時に、かけがえのない仲間だ。

 競技のなかでは敵でも、同じ道をいく同士なのだ。

「負けたよ負けた。優勝おめでとう。だがつぎはこうはいかねぇからな。それからあんま無茶すんなよな」

 つぎは助けてやんねぇぞ。

 拳を突きだされ、リンはまじまじとそれを見てから、思いきりゲンコツを叩きつける。

 イッテーよバカ。

 顔をしかめる憧れのひとの着飾らない態度が心地よく、気づくとふだんは避けるような勝気な言葉が口を衝いている。「せいぜいがんばんな、もういまはあたしの時代だけどね」

 暗がりのなかに焚火の赤が浮かぶ。

 生意気、といっせいに野次が飛ぶ。




【死して兄は】


 生者の目には幽霊が映らないが、どうやら幽霊からしても生者の姿は見えないらしい。兄が亡くなってから四十九日を経たくらいに、なんだか部屋の雑貨がころころと位置を変える。

 別段私はいじくっていないので、誰かが動かしたことになる。それとも細かな振動で動いているのだろうか。ポルターガイストのほとんどは、風やそとの道路を通る車の振動、或いは電車の騒音が原因だったりする。

 それとなく観察していると、たとえばカップがかってに机のうえに移動していたり、買ったばかりの牛乳の口が開いていたりする。それでいて中身は減っていないので、却って不気味だ。毒でも入れらているのではないか、と不安になる。

 移動の瞬間は目撃できない。

 気づくといつも移動している。一秒前まではそこにあったのに、瞬きをすると置き場所が変わっていることもしばしばだ。

 どうあってもその瞬間を目撃することは適わない。

 段々と傾向として、部屋のこの区域の物体ばかりが動いていると気づく。何かの通り道でもあるかのように錯覚する。じっさい、何らかの干渉がそこで生じているからこそ、物体の位置が変わるのだ。

 私はしばらくしてから、動く物体にも法則性を見つけた。兄の好んでいたものばかりが動くのだ。いちどそのことに気づくと、まるで兄がそこにいるかのよう感じられた。

 いまもまだ死んだことに気づかずに生活しているのかもしれない。兄とは二人暮らしだった。

 おそろしくはない。兄がここにまだいてくれると思えば、それはどちらかと言わずして、素直にうれしい。

 文字でも書いてくれればいいのに。

 意思疎通ができないものかと思い立ち、私はメモ用紙に兄への言葉を書き記すようになった。それは短文の、宛名も定かではない、本当になんてことのない言葉の羅列で、他人が見てもよもや死んだ兄へのメッセージだとは思わないだろう。

 私はしばらくのあいだそれをつづけた。メモはいちど書いたら一晩経てば、あとは好きなときに捨てるようにした。もちろん兄からの返信はない。それはそうだ、死んでしまっているのだから。

 メモ自体もよく場所を移動していたが、それは単に私が動くたびに生じる空気のうねりのせいかもしれなかった。

 しばらくして、なぜメモなんてつけているのかも忘れはじめたころ、メモが半分に破れているのを発見した。

 何かの拍子にじぶんで破ってしまったのかと思ったが、十回に一回程度の頻度で、気づくとメモが破れるようになった。それは決まって目を離している隙に起きる現象で、物体が知らぬ間に移動するのと同質の事象と言えた。

 私は破れたメモ用紙をそのままつぎのメモに使った。特に考えがあったわけではない。ただ、破れたメモ用紙を使えば何かしらまた違った変化が起きるのではないか、と願望交じりに試したのだ。

 案の定、メモ用紙はさらに半分に破れていた。ときに完全には破れずに、メモ用紙の半分まで切れ込みが入っていることもある。切れ目はざらついていて、ハサミではなく、無造作に引きちぎれたのだと判る。手でちぎったのかもしれないし、何かに挟まった反動でちぎれてしまったのかもしれない。

 破れた瞬間を目撃していないのでなんとも言えない日々がつづいた。

 観察しているうちに、段々とまた新しい傾向が見えてきた。メモ用紙が破れる位置が毎回同じなのだ。それは用紙の位置ではなく、置いてある場所に由来した。

 メモ用紙が破れるときは、必ず定位置にまで用紙が移動して破れていた。その位置は、食卓に座る際に兄が陣取る位置に相当した。兄が食事をするときにお皿が載っていた場所だ。

 ほかにも、ここに至って、これまで見逃していたかもしれない様々な変化を発見する。メモ用紙の定位置と破れる箇所に絞って観察すると、そこには切れ目だけでなく、シワや折り目、ほかにもペンの走ったいたずら書きのようなものが窺えた。

 ちょうど一部分だけに変化が生じる。

 それはまるで、そこだけほかの世界と繋がっているかのような局所的な変化だった。

 私はこのときになってようやく一つの仮説を立てるに至る。

 ひょっとしたら兄はまだ生きていて、その生きている兄の世界とこの世界は、部分的に重なっているのではないか。

 繋がっているのではないか。

 すべてが丸っと重なっているわけではないから、ほんのすこしの重複した部位のみに作用が反映されるのではないかと考え、私は実験を繰りかえした。

 作用の反映される場所を特定してしまえば、検証作業がずっと楽になった。

 やはり私以外の何者かが、メモ用紙やほかの物体に作用を働かせている。そう考えなければ辻褄が合わない現象だと判断を逞しくする。この部屋の一部は、ほかの世界と繋がっている。

 私はいくつかの可能性を考えた。

 兄の幽霊説は初めに思いついていた。つぎに、兄が死ななかった世界線説を閃いた。そちらの世界では私のほうが死んでいて、同じように兄がこの部屋で暮らしている。

 ひょっとしたら相手は兄ではなく、別世界のもう一人の私の可能性を考えたが、動く物体に関連付けて推量するとどうにも、私よりも兄に関係のつよい物体ばかりが私の与り知らぬ変化をみせる。

 やはり兄がいるのだ。兄がこの部屋で生活をしている。

 ひょっとしたら兄もまた部屋の異変に気づいていて、こちらの実験の数々に合わせて試行錯誤をしているのかもしれない。反応を見ているのかもしれない。

 なんとか意思疎通を図れないだろうか。

 以前にも増して私は熱を入れて実験を繰りかえした。

 やがて、メモ用紙が濡れたり、色が付いたり、穴が開きだしたりした。それら影響の反映箇所は、メモ用紙の決まった直線上のみに観測される。幅はほとんどない。線は引けても、文字を書くほどのスペースはないようだった。

 鉛筆で紙面を真っ黒に塗りつぶしたときには、白い線が浮きあがった。おそらく相手のほうでは黒く浮きあがった線を、消しゴムで消してみたのではないか。

 言葉のやりとりこそできないが、暗闇で手を握り返すようなぬくもりの応酬は成功している気がした。もちろんこの現象の向こう側には誰もいないのかもしれないし、よしんばいたとしてそれが兄とは限らない。

 だとしても私にはそれだけで、兄を失った日々の欠落、空虚さを僅かにではあるが埋められた。

 ある日、ソファで居眠りをしていると煙臭くて目が覚めた。食卓のうえから煙が立ちのぼっており、急いで水をかけて消火した。

 燃えていたのはメモ用紙だった。

 ふだんは自室のベッドで寝ていた。もし気づかずに朝まで寝ていたら炎のなかで焼け死んでいたかもしれない。

 私は以来、兄の席には何も置かないようにした。さいわいにも食卓の板の表面にはなんら変化は加わらず、放置していてもだいじょうぶなようだったので、安心して部屋を空けられた。

 そのうち、ぼや騒ぎのことも記憶の底に沈み、実験に明け暮れた日々も、多忙な社会人生活のなかにいつの間にか埋もれた。

 兄が亡くなってから一年が経過するころ、兄の恋人だというひとが部屋を訪ねてきた。私は部屋のなかには入れずにインターホン越しに話を聞いた。

「急に連絡がつかなくなったと思ったら会社まで辞めてて、仲良かったひとたちに訊いても誰も行方を知らないんです。あなたなら、妹さんなら何か知ってるんじゃないかって。この部屋にはいま一人でお住まいなんですか。なんだか異臭がするって貼り紙がされてますけど、この部屋からではないんですか。なんとかおっしゃってください、せめて顔を合わせて話しませんか」

 ここをどうか開けてください。

 部屋のなかを見せてください。

 私はインターホンを切った。兄の恋人だなんてきっと嘘だ。兄に恋人なんていない。いていいわけがない。

 兄には私がいるのだから。

 私さえいればそれでよかったのだから。

 私は食卓の下に目を転じる。

 床には収納スペースが備わっている。ちょうど蓋の裂け目が、線となって床に一本の溝をつくっている。現世と天国の境目みたいにそこからはひんやりとした空気、甘くよい香りが漏れだしている。 




【本を聴く】


 祖父の形見分けとしてイヤホンをもらった。じぶんで選び取ったそれは骨董品で、耳に装着する部位から長くコードが伸びている。むかしはそのコードを音楽データの入った端末に差しこんで使っていたらしい。

 邪魔じゃなかったのかな、と私なんぞは思ってしまうが、むかしは洗濯物も手でごしごし洗っていた時代もあったようだし、祖父の時代にむしろすでにこうした技術があったことのほうがふしぎに思える。

 人類の進歩、と意味もなく唱える。

 イヤホンだけあっても使い道はない。骨董品として、いつか恋人が部屋にやってきたときに話の種にでもしようと、気長な計画を立てひまをつぶす。

 なんとなくベッドに座る。ぼーっと部屋を眺めていると、漠然とした焦燥感、それはおおむね未来への不安からなる焦りの群れであったが、このままではいかん、何かせねば、といきり立ち、まずは手始めに部屋の掃除でもすることにした。

 祖母の形見分けのときには、紙媒体の本をどっさりもらってきており、それら本の山がベッドを囲んでいる。なんとなくオシャレな気がしてそのまま放置していたが、埃はかかるし、歩くのに邪魔だし、あまりよい配置ではなかった。

 恋人もこの部屋を見たら幻滅すること請け合いだ。焦りがまた一匹、ぴょこんと増える。

 本を一か所にまとめ、掃除ロボットの通る道を確保する。空調を換気モードの強に設定し、いちおう雑菌モードのスイッチも入れておく。ベッドのシーツを換え、枕をスチームクリーナー機に放りこむ。ついでに衣服もいっしょにクリーニングしてしまうことにする。

 散らかした雑貨をあとは各々、おわすべき場所に収めるだけだ。これがいちばん面倒くさい。なにゆえこれほどまでに技術の進歩した社会にあって、雑貨一つ、自動で元の場所に戻らないのだろう。

 掃除だけは最後まで人間の仕事として残るでしょう、ととある作家が書いていた。仕事を自動化しても、その自動化した機器やプログラムの管理や修繕はやはり人間がしなくてはならないのだ。大型の機械であっても、それを掃除する機械は造れても、その掃除する機械の掃除は誰かがやらなければならない。必然、機械相手の農業みたいな社会になりつつある。

 ぐるっと一周回って、人間はまた第一次産業と同じようなことを繰りかえしている。

 疲れた。

 ベッドに倒れこむ。空調の除菌モードのせいだろうか、喉がイガイガする。

 南極や北極だと、極寒だから菌が生きていけずに風邪を引かない、といった俗説を耳にすることもあるが、たしかあれは違うのだ。菌やウイルスは生き物さえいれば生存可能だし、風邪を引きにくいというのはそうだろうが、外敵と遭遇する機会がぐっと減るので、免疫力がさがってしまい、帰国したとたんに、手ひどく体調を崩すことも珍しくないようだ。なんでも除菌、除菌、だと人類の肉体構造のほうが脆弱になってたいへんなことになりそうだし、反対に菌やウイルスのほうでは耐性がついて、生命力のつよい種が生まれる確率も高まりそうなものだ。

 この手の話は明るくない。

 気になるので、あとで弟にでも訊いてみよう。私よりかは詳しいはずだ。

 と、そこで、部屋に音楽が流れていることに気づく。否、部屋のそとからだろうか。音量はちいさい。かろうじて、メロディらしきものが流れているな、と判るくらいだが、たしかにどこかしらで音楽が鳴っている。

 音源を耳で辿るようにすると、案外に近くで鳴っている。糸を手繰り寄せるように、或いは音符を拾い集めていくように、するすると引き寄せられたさきにあったのは、本の山のうえにもたれかかった祖父の形見、旧式のイヤホンだった。

 あれぇ、そういう機能がついてるんだっけか。

 思いながら、片耳にイヤホンをはめる。たんたか、たんたか、楽しげな曲が流れている。しばらく聴いていると、物寂しげな曲調に変わった。曲と曲とのあいだに節目はなく、滑らかに、全体でひとつの楽曲のような滞りなさがあった。

 虹に浸けた糸みたい、と思う。

 しばらくベッドに転がりながら曲に身を委ねた。

 寝返りを打ったところで、曲が消えた。どうしたんだろう。充電が切れたのかな、と思い、ゆびでいじくって観察するが、それらしい操作部が見当たらない。画面どころかボタン一つない。

 そう言えばこれは骨董品だった、単に線が抜けてしまっただけかもしれないな、とコードを引っ張りつつも、あれでもこれって何に繋がってたのだっけ、と頭がこんがらがる。

 案の定、コードの先っぽは何にも繋がっていなかった。音源は見当たらない。

 いったい私は何を聴いていたのだろう。祖父は身内だから化けて出られても怖くはないが、さすがにこのときばかりはぞっとした。

 ふと思い立ち、もういちどコードのさきっぽを本の山に置く。すると、またイヤホンから曲が鳴りだした。

 ん? ん? どういうこっちゃ?

 混乱しつつも、本を持ちあげたり、ほかの本に載せてみたり、やっぱり遠ざけてみたり、床に置いてみたりと、イヤホンの所在を変えてみる。

 間もなく、一つの仮説に辿り着く。

 どうやらこのイヤホンは、物体に流れる曲を奏でるようだ。

 というのも、コードの先端の接する先を変えると聴こえてくる曲も様変わりするのだ。

 試しにじぶんに先端を押し当てる。ふつうに心臓の音が聴こえた。聴診器としても使えるのか、お得だなぁ、とはならない。

 本を音源にしたときがいちばん曲っぽく、聴いていて飽きない。本の内容に見合った旋律が流れるようで、小説だともっとも好ましく、辞書や新書やエッセイだと、何がとはひと口に言えないが、物足りなく感じた。

 便利なので、重宝した。

 弟にそれとなく、昔のイヤホンの性能について訊いてみたが、もちろん物体から音楽を見繕って流すといった機能はなかったそうだ。

 じつは、と言って祖父のイヤホンを見せる。本に載せて、曲を聴かせるも、

「元からこっちに入ってんじゃないの」

 ふだんの行いがわるいのか、なかなか信じてもらえなかった。というか、最後まで信じてもらえなかった。

「ホントなのに」

「はいはい。あ、母さんがまたしばらく旅行だってさ」

 うちは両親共によく旅行に出かける。しゃべるだけなら電波越しにいくらでもしゃべられるので、実質、どこにいようと関係ないと言えば関係なかった。

 それからしばらく、祖父のイヤホンを耳にはめて過ごす日々を送った。祖母の本を読み進めるのにも、優れたBGMとして祖父のイヤホンは、最適な音楽を提供してくれる。読み進めるペースが曲とずれると、楽しい場面で物哀しい曲が流れたりして、そこらへんは難儀した。リピート機能くらいつけてほしい。

 本をたくさん読むようになったからか、目が霞む頻度が高くなった。視力は落ちて感じなかったので、気にも留めていなかったのだが、その日は違った。

 散歩ついでに、本を持って、ふだんどおり、祖父のイヤホンを耳にはめて歩いていた。

 青空と日差しとそよ風が心地よい。

 ふと、視界の端に、モヤのようなものが映り込んだ。オシャレの一環でメガネをしていたので、それの曇りかと思ったが、外してみてもモヤは落ちなかった。

 ゆびでまぶたをこすり、いまいちどモヤに焦点を当てる。

 何かある。単なるモヤではない。実存するモヤだ。ホントか?

 近づき、ゆびで突つく。感触はない。

 立体映像だろうか、と辺りを見渡す。

 投影機らしき物体は見つけられない。

 ここは単なる道端だ。モヤの浮いている場所は、民家の庭の壁のすぐそばで、庭から伸びた木の枝の手前に、もわぁん、と薄い積乱雲のようにダマとなって浮遊している。

 陽炎みたいなものだろうか。目の錯覚か、それとも幻覚か。

 さいきん本を読み過ぎてたしなぁ、と虚構の弊害に思いを馳せる。

 そこではたと思いつく。このモヤがじっさいにここに真実浮遊し、存在しているのならば、祖父のイヤホンをあてがえば、音が、曲が、聞こえるはずだ。

 鑑賞に耐え得る曲ではないかもしれないが、すくなくとも物体であればまず、祖父のイヤホンは曲を、音を、鳴らせる。

 試しにモヤに向けてイヤホンの先端を伸ばす。手はモヤをすり抜けるし、イヤホンの先端も何かに刺さったりはしない。

 にもかかわらず、耳には絵画としか思えぬ、甘美な景色が、色合いが、奥行きが、流れた。

 音ではある。イヤホンから聴こえているのだから、これもまた音の組み合わせであり、律動であり、旋律であるのは自明なのに、ふしぎとこれを、これまで耳にしてきた数々の楽曲と同じくくりに収めたくはなかった。

 抵抗がある。

 見たこともない絶景を目にしているとしか思えない感動があった。

 なんだろう、このモヤは。

 なぜじぶんにはこれが視えているのだろう。

 本来であれば視えてはいけないものなのだろう、とふしぎなほどすんなり受け入れている。

 その場を離れたくはなかった。だがいつまでもいられない。

 陽が暮れるまでその場でその曲を聴いていたが、暗くなるころに近隣の住人だろう、庭の家のひとかもしれないが、どうかなさいましたか、と声を掛けられ、撤退を余儀なくされた。

 退散する際に、あの、とそのひとを引き止め、これが視えますか、と訊ねてみたが、ぎこちなく向けられた笑みから、何かしらの怯えを感じ取り、やはり撤退を余儀なくされた。

  家路を辿るあいだ、イヤホンは耳から外したままでいた。

 考えていた。

 これは本来、聴いてはいけない曲たちだったのではないか、と。

 それを聴きつづけてしまったから、視えてはいけないモノまで目に映るようになってしまったのではないか。

 あんなにステキなものならでも、とヨダレが口のなかに溢れる。視えたほうがお得に思える。

 また聴きたい。いま踵を返してもよい。もうとっくにあの場には誰もいなくなっているだろうし、真っ暗だから、近所のひとから通報される心配もない。

 そんなことはない、通報される危険は高まっているはずだのに、そのように都合のよいほう、よいほうへと物事を捉えようとするじぶんを自覚し、いよいよイヤホンを結んで、ポケットに突っこみ、家に着いてから、机の奥底に仕舞いこんだ。

 祖父の四十九日に、骨壺をお墓に埋葬した。そのとき、祖父の骨壺に重なるように、あのモヤが視えた。紋様こそ異なるが、ほかの人たちには視えていない点で共通していた。

 イヤホンの先端を伸ばしたい衝動に駆られた。いったいあのモヤからはどんな音が、曲が聴こえるだろう。

 景色が、望めるのだろう。

 死んだひとに割く配慮よりも、生きている者の感動のほうが重要に思えた。

 そう思えてしまうじぶんをやはり心底、おぞましいものに感じ、湧いた衝動をなんとか飲み下す方向に意識を総動員した。

 食事の席で、祖父の妹だという人としゃべった。イヤホンのことを訊いてみたが、さあどうだったかな、と記憶が曖昧なようだった。それはそうだ。

 祖父の時代、コード付きのイヤホンは有り触れたもので、誰でも日常的に使っていたのだ。特別な思い入れがあるほうが珍しいのだろう。そして祖父には、そのような思い入れは、すくなくとも親族の記憶に残るほどつよいものではなかったのだ。

「ああ、でも一時期、ちょっとおかしくなったときがあって」

 祖父の妹さんは懐かしむように目じりのシワを深くした。「そとにでたきり何日も夜に帰らないときがあって、親に言われて跡を付けたら、兄さんたら墓地で、ぼうっと突っ立っていて。何してるの、と声を掛けたら、声を聴いてるんだ、なんて言って。あれはおかしかった」

 笑い話のように語る祖父の妹さんを尻目に、私の肌は一様に総毛だっていた。

 死者の声。

 あれが、そうなのか。

 だとすればやはり、あれは聴いてはいけないものなのだ。視えてはいけないものだったのだ。

 この日、私は引きだしの奥から祖父の形見、例のイヤホンを持ちだしていた。なんとなく、こうなる気がしていた。そのつもりで持ってきたのだろう。祖父の骨壺が墓の下に納められ、最後にみなが黙とうする。その隙に、蓋の開いたままの墓のなかに、イヤホンをすっと投げこんだ。

 ゴミ箱に捨てるには荷が重く、手元に置きつづけるにはいささか魔力がつよすぎる。

 これ以上、私は私を狂わせたくはなかった。

 いまでも、あの甘美な景色を味わいたい衝動に駆られることがある。身体は憶えているのだ。

 だが、イヤホンを手放してから数日で、道のさきにモヤは視なくなったし、祖母の本も、部屋に積んだままになっている。読み進められない。並のBGMでは頭に文章が入ってこない。文字が、景色に変換されない。

 電子書籍でいいじゃん、と弟が部屋を覗くたびに言う。紙の本なんか邪魔なだけだ、と知った口を叩くわけだが、いまのところその意見への反論は思いつかない。

 読まずに積むだけの本になんの意味があるのか。

 せめて祖父のイヤホンがあればな、と口惜しく思う。本から曲が聴けるのに。

 かといって、墓の下から例のイヤホンを拾いあげようとはついぞ思わず、私の部屋はいまも散らかったままだ。恋人に見られたら幻滅されてしまう。幻滅もなにも、そうした相手ができる予定は皆目ないが。

 それにしても、とベッドに寝転ぶ。これほど技術が進んでも、人が死ねばお墓を立てるし、部屋は自動できれいにならない。

 天井を見つめ、人類の進歩、と意味もなく唱える。 




【ヤバイヤお嬢さまの吸入】


 ショタコーン王国第九王女たるわたくしことヤバイヤ・ツーはここさいきん特大の悩みを抱えており、たいへんに困っている。

 というのも、先日新しく配属された召使がめちゃんこ可愛いのだ。

 見てほしい、あの愛くるしい姿の一挙一動を。

「こらヌコイ、また花瓶の水を入れ忘れたね。シオシオじゃないかどうするんだい、これは姫さまの誕生花、粗末に扱っていい花ではないんだよ」

「ごめんなさい婦長さま。ただいまお換えします」

「ミスは誰でもつきものだがヌコイ、おまえはすこし気が抜けすぎているのではないか」

 このあいだも、と説教モードに突入したメイド長のまえにわたくしは姿を晒す。

「どうしたの婦長。このコが何か粗相を?」

「これはこれはヤバイヤお嬢さま。ご公務はどうなされたのですか」

「疲れたのでお休みをいただきました。このコがどうしたの」

 ヌコイがあちらとこちらを交互に見遣って縮こまっている。もじもじと指を絡ませる姿からは動揺を隠しきれずに混乱している様子が窺える。

「いえ、たいしたことではございません。ワタクシめの教育がいたらなかったものですから少々小言を並べておりました。お耳汚し失礼いたしました」

「いいのよいいの。それよりもヌコイといったかしら」

「はい。ヌコイと申します」

「あなたにはわたくしの専属メイドをお願いしたいのだけれど構わない?」

 ヌコイはぽかんと口を開けたあとで、おろおろとしだす。助けを求めるようにメイド長を見て、それから緊張のためか意味もなくぺこぺこと頭を下げた。

「ヤバイヤお嬢さま、差し出がましくもご意見を挟まさせていただきたく存じます。メイドをご所望であればもっと使い勝手のよい躾けの行き届いたのをご用意いたします。性別も異性ではなく同性が好ましいとワタクシめは思うのですが」

「女の子みたいなものでしょ。それにいいの。わたくしがこの手で教育を施してみたいの」

 だからこれくらいのがいいの。

 お粗末なのがいいの。

 すっかり縮こまってちいちゃな銅像になったヌコイをわたしは抱きしめ、ふわふわのドレス生地に埋める。宮廷のドレスはスカートの部分が膨らんでおり、凍ったシャボン玉のようだ。ヌコイはぬいぐるみのようになされるがままに私の腰に押しつぶされている。

「姫さま、なんてはしたない」メイド長がわたくしを叱る。名を呼ばず地位で呼ぶときにはたいがい本心で呆れているときだ。

「もらっていきますね」

 わたくしはヌコイを持ち去った。

 元来わたくしは従者を好まぬ性質だ。長らくそばに従者を置かなかった。父上やお姉さま方からはよい顔をされなかったが、かといってつよく嘆かれるでもなく、年中人手の足りない宮廷内では却ってそれもよし、との評価を得ていた節がある。

 そこにきていまさらながら従者をかっさらっていったとあって、ほかのお姉さま方がわたくしに対抗心を燃やし、各々に新たな従者を設けたと聞いたが、心底どうでもいい。

 わたくしは従者がほしいのではない。

 このヌコイがほしかったのだ。

 そばに、置いておきたかった。

「ヤバイヌお嬢さま」

「なぁにヌコイ」

「あの、そろそろお昼のご用意をさせていただきたいのですが」

「いいのいいの。そんなのはほかのメイドにさせておけばいいの。ヌコイはずっとここにいればいいのよ。気にしないで」

「でも」

「本当にヌコイのほっぺはほわほわ。切り取って持ち歩きたいくらい」

 ヌコイの白く細い喉が、ごくり、と動く。怖がらせてしまった。

「嘘よ嘘。冗談」

「おそれながらヤバイヤお嬢さま」

「お姉ちゃんでいいのよ。というかお姉ちゃんと呼びなさい」

「そういうわけには」

「二人きりのときだけでいいから。お願い」

 ヌコイは目をうるうるさせ、下唇を食んだ。照れてる、照れてる。思ったのは最初ばかりで、ヌコイは意地でもわたくしをお姉ちゃんではなく、ヤバイヤお嬢さま、と呼んだ。

「お名前のことだけでなく、このご様子を王さまに見られれれば、ぼくだけでなく、ヤバイヤお嬢さままでお咎めを受けてしまいます」

「なら見せなければいい」

「そういうわけには」

 いいから黙って。

 わたくしは逃げだそうとするヌコイをベッドに押しつけ、赤子を寝かしつけるようにそばによこになり、その顔を、肢体を、ぞんぶんに愛でる。もちろん見るだけで、触れるなんてそんな穢すような真似はしないけれど、ゆびさきで頬をつつくくらいは神さまも目をつむってくれることだろう。

 ヌコイを従者に迎え入れてから半年のあいだ、わたくしは暇さえあればヌコイを猫かわいがりした。むかしのわたくしのドレスを着せていっしょに隣国へ公務に出掛けたり、妹だと紹介して隣国の姫を驚かせたり、或いはわたくしに求婚してくる見る目のない愚か者どもにヌコイを紹介して、こぶつきでもよいか、と訊ねたりと忙しい日々を送った。

 副作用として隠し子の噂が立ったが、求婚してくる暇人が減ったので雨降って地が固まったようなものだ。僥倖だ。棚から牡丹餅だ。わっしょい。ヌコイをそばにおいてからいいことづくめだ。たとえ悪化してもそれをよしとする懐の深さがわたくしには備わった。それもこれもヌコイのかわいさのなせる業だ。

 あ、いいこと考えた。

 ヌコイをこの国の守護神にしよう。

 父上に進言したが、却下された。なぜだ。あまりアホウなことを言うてくれるな、と憐れんだ目を向けられたが、ヌコイのかわいさの解らぬアホウはどちらだ、とわたくしはぷんぷん膨れた。

 パーティがあった。

 各国の王族がこぞってやってくる。お姉さまたちは今宵、将来添い遂げる相手を見繕おうと眼光を炯々と、虎のように眈々としたが、わたくしはとっくにヌコイに純潔を捧げる臍を固めていたので、それはもちろん互いに肉欲溺れたいという意味ではなく、否、もちろん溺れられるものなら溺れたいけれども、それはそれとして純粋にわたくしはヌコイを愛でていたいのだ。その関係に名前はまだなく、わたくしとヌコイ、と形容するほかに表現のしようがない。もはや姫と従者ですらなく、ヌコイをわたくしの従者と見做す者をわたくしはなべて愚か者と名付けたい。

 しかし当のヌコイが、自身をわたくしの従者として見做しているので、わたくしは不承不承、ほんのときどきだけれども、ヌコイを愚か者と呼ばねばならない。胸が痛む。

「この愚か者。ヌコイはそれでよいのですか。わたくしがあんなどこぞの馬の骨とも知れぬ王子の手を握っても、共にきゃっきゃうふふとみなのまえで踊ってもいいと、ヌコイ、ああヌコイ、あなたはなにゆえそんなひどいことを言えるの。姫、つらい」

「申しわけございません、ヤバイヤお嬢さま」

「お姉ちゃんと呼んでくれたら許す」

 ヌコイは顔を逸らし、だんまりを決め込む。いつもこうだ。よほど照れくさいのだろう。以前のわたくしならそう思いこんだが、もはやそう念じることすらつらくなる。

「ヌコイはわたくしのことをお嫌いなんですね」

「断じてそのようなことは」

「ならば止めて。駄々をこねて。王子になんか渡さない、触れさせないってちゃんと誠心誠意魂込めて嫌がって。お願い」

「できません。解ってください。しょせんぼくは王さまに拾っていただいただけの孤児です。恩を仇で返すような真似はできません」

「父上はきっと許してくれます」

「ヤバイヤお嬢さまにはちゃんと分相応にお似合いの高貴な、ステキな、王子さまがいらっしゃいます。どうか、どうか、ご乱心なさらないでください」

 見えない耳が垂れるようだ。ヌコイは床にひざまずき、お時間です姫さま、とわたくしを地位で呼んだ。

「ヌコイのバカ」

 わたくしはヌコイを部屋から追いだし、パーティにも顔をださなかった。末っ子の王女など、いなくとも誰も困らない。父上の面目は潰れるが、それもケーキのクリームを小指で掬ってつまみ食いするくらいの、イタズラみたいな取るに足りない小事と見做される。あとで母上から小言をもらうくらいが関の山だ。いまさらわたくしがいなくとも誰も困らない。

 いじけている。

 誰も困らないのだといまさら知って傷ついている。そんなことはずっと前から判っていたのに、ひょっとしたら誰か一人くらいはわたくしのことを大事に、かけがえのない、欠けてはならない存在だと見做してくれるのではないかと期待していた。

 ヌコイひとりくらいは、と高望みをしていた。

 ううん、ちがう。

 ヌコイだけでよかったのだ。

 ほかの誰でもないたったひとりだけで。

 居場所を失った。もうここにはいられない。いる意味がない。

 わたくしはいそいそとベッドのカーテンを千切り、縄を作って、柱に結ぶ。窓から垂らして、地上に下りた。おてんばだけがわたくしの愛嬌なのに、誰もそれすら褒めてくれない。

 だいじなものほど蔑ろにされて感じる。

 いっそ独りになりたい。

 城を去って、国を離れて、長い長い旅をしよう。

 どこかでヌコイに似たかわいいコと仲良くなって、なんとかいいくるめて、そばに置くのだ。

 人攫いにだけはでもなりたくはないから、何がダメで、何がよいかをよこから口出ししてくれるひとがいるとよい。

 その役割を担っていたのがヌコイだったのに、やっぱりわたくしにはヌコイがいなければ旅のひとつもできないのだ。

 野垂れ死ねばいい。

 いっそ落ちぶれるところまで落ちぶれて、誰からも姫だと見做されないくらいに汚れきって、誰にも知られずに死んでやる。

 鼻水をすすって、城の門を通ろうとすると、ふつうに門兵に見つかった。

「何用か」

「あ、あの、わたくし」

「侍女の者か。夜間の城抜けは死罪だぞ」

「あの、わたくし、ほら、あの、第九王女の」

「ああ、あの貰い手のない姫の侍女か。おまえもたいへんだな、厄介な主に仕えることになって。同情はするがここは通せん。城に戻んな」

 槍の持ち手部分で追い払われ、とぼとぼと城への道を戻る。

 貰い手のない姫。

 城の者たちからはそんなふうに呼ばれていたのか。

 事実ではあるけれど、なんかこう、もっと言いようがないものか。

 思うが、とくに嫌とは思わない。

 ふしぎと悪口とは思えなかった。わるいことではないはずだ。貰い手がない。婿を得ていない。すばらしいことだ。じぶんで選ぶ余地があるのだ。

 姉さまたちはみな、貰われていく側なのだ。じぶんで選ぶ側ではない。

 選べればいいというわけではないにしろ、なんかこう、案外にみな、ちゃんとじぶんのことを知っていて、等身大の姿を見てくれていたのだな、と肩が軽くなった。

 いじけていたじぶんが恥ずかしい。

 なんてことはない。

 やはりわたくしには、ヌコイが必要だ。それ以外に欲しいものはない。選びたいものがない。愛でたい者がいない。

 ヌコイ、ヌコイ。

 パーティ会場の隅で客人に飲み物を配り歩いていた我が従者を見つけ、窓のそとからちょいちょと手招きをする。ヌコイは目を見開き、小走りでやってきては、ヤバイヤお嬢さま、とちいさく悲鳴をあげた。

「どうされたのですか、なぜそのような場所に。お召し物まで汚れて、ああ、またドレスではなくそんな従者のような格好を」

「だってこっちのほうが楽なのだもの」本音を言えばヌコイと同じ服を着ていたかっただけだが、いまは告げるべきときではない。

 裏庭で待ってる、と言い添え、その場を去る。

 ヌコイは仕事を抜けだしたようで、裏庭に駆け足でやってきた。

「ごめんね。城抜けしようとしてさ」

「なんてことを」

 ヌコイは必死な形相で引き止めるべく言葉を捲し立てたが、声が大きかったのか、見回り組の衛兵が集まってきた。

「おいなにをしている動くな、地面に伏せろ」

 あれよあれよという間に十人前後の衛兵に囲まれた。

 おろおろするヌコイの姿はいつ見てもかわいい。

 釈明をすべくしゃべろうとするヌコイだが、説明するだけの言葉を持たないのは誰よりヌコイに説明をしていないわたくしがよく知っている。こんな場所に王女と二人きりでいることを、なんのお咎めもなく説明しきるには、わたくしが城抜けを試みたことを明かさねばならない。そんなことが知れ渡れば父上から折檻を受けるだけでなく、わたくしの城での立場は地に落ちるだろう。とっくに落ちているのに、これ以上落ちる余地があるのかははなはだ疑問だ。

 わたくしは一計を案じた。

「わたくしは第九王女のヤバイヤ・ツーでございます。ここにおわすは、わたくしの弟、父上の隠し子たるヌコヌコ王子であられます。今宵のみ許された邂逅ゆえ、見なかったことにしてくださいまし。他言すればわたくしだけでなくあなたがたの首が飛びます。よいですね」

 かつてこれほど威厳のある声をだしたことがあったろうか。衛兵たちも同感だったらしく、居住まいを正し、敬礼する。

 暗がりでヌコイの顔はよく見えないはずだ。

 わたくしはヌコイの肘をつつき、合図を送る。

 意図を察したようでヌコイは、

「お姉ちゃんの言うことを聞いてください」と震える声で言った。

 衛兵たちは顔を見合わせ、無言で退散する。間違っても従者が王女をお姉ちゃん呼ばわりしないことを彼らはよくよく理解している。

 あとになって彼らが真相を確かめようとする心配はない。城の者に訊いて回ることそのものが身の破滅を呼ぶ。どうあっても父上に隠し子がいるなどと口が裂けても言えるわけがないのだ。

 窮地は脱した。

 わたくしはヌコイをぬいぐるみのように抱きかかえる。

「姫さま」

「違うでしょ」わたくしはヌコイの首筋に顔を埋め、汗ばんだ肌の香りを鼻腔いっぱいに吸いこむのだ。「お姉ちゃんと呼びなさい」




【黄色いポストの苦手なものは】


 ポストが何色かと訊けばたいがいの人は赤と答えるのではないか。私もそうだ。ポストは赤い。トマトやスイカも赤いが、品種によっては黄色かったり白っぽかったりするものもある。

 その点、ポストは赤い。これは揺るぎない。

 思っていたが、はて。

 歩を止めて私は、その黄色い物体をまじまじと見遣る。

 異臭騒ぎがあって臨時休業となったコーヒーショップからの帰り道、目的を遂げられずにトンボ返りする鬱憤をさてどこで晴らそうかと、すこしばかり遠回りして散策がてら、目新しい道を辿っていたところ、何の変哲もない道端にあるそれの姿が目に留まった。

 黄色い。

 そしておそらくポストだった。

 よくある形状の、四角に足が一本だけ生えたようなあれだ。

 差し出し口は二つ開いているし、郵便マークも入っている。

 ただ、黄色い。

 そこだけが異様だ。単なる色の違いでここまで非日常感を醸しだすとはさすがだ、と何も秀でていないにもかかわらず唸ってしまうほどだ。感心してからなんだか、人種差別を肯定してしまったような後味のわるさを感じて、黄色のポストもなかなかいいと思うよ、と手でその表面を撫でつけてから、おや、と思う。

 やわらかいのだ。金属ではない。弾力がある。

 それでいて見た目は完全にポストで、しかし色は黄だ。

 周囲に目をやって、これがそういったオブジェの可能性を考える。ここが駅前や広場ならまだあり得そうだが、残念なことに、というほど残念ではないにしろ、真実ここは単なる街角であり、そばにはブロック塀と電信柱があるばかりだ。

 誰かのイタズラの線も考えた。にしては支柱が地面にしっかり食いこんでいる。これがイタズラならふつうに犯罪だ。いや、黄色に塗りつぶすだけなら罪に問われないのかもしれない、いやそんなわけがない。そもそも素材からして金属ではないのだ。

 ハッキリとこれはポストに似て非なるものだ。

 それにしても、と壁に寄りかかる。道路を挟んだ向こう側を下校途中の高校生たちがつかず離れずの距離で歩いている。

 何か黄色い理由があるはずだ。

 たとえば新幹線などは、線路の異常をチェックするために走る専用の車両がある。その色は黄色だ。そう、世にあるチェック専用機は黄色と相場が決まっている。なればこれもそういった、郵便システムのチェックを担う機構の一つなのかもしれない。何をチェックするのかは知らないが。

 なるほどきっとそうだ。

 いちど納得してしまうと、もう興味は新幹線のように通り過ぎていく。風圧のように遅れてやってくる爽快感は、なんだか人として一皮剥けたようで、鼻高々だ。

 我は探偵なり。

 しかも名(めい)なる!

 黄色いポストをひと撫でしてから、お別れを告げ、その場を離れる。しばらく道なりに進むと商店の建ち並ぶ一角にでた。

 カフェを見つけたので中に入る。一服のお値段がすこし高めだったので、自家製コーヒーの焙煎豆を購入してそとに出た。

 見知らぬ土地だ。これ以上、彷徨うのは不安だ。道を引き返すことにする。

 また黄色いポストの地点まで戻ってきてしまった。キザったらしく別れてしまった手前、こしょばゆい心地がするが、相手はただのポストであるので、いいやただのポストではなく黄色いポストで、なおかつやわらかいとくれば、なんだか特別な相手に恥ずかしい姿を見られたようで、やはりキザったらしくお別れしたのが気恥ずかしく感じる。

 やあやあまた会ったね。

 内心でそれとなく挨拶を投げかけつつ、目のまえを通りすぎようとしたとき、あれ、と視界の端に引っ掛かりを覚える。

 振り返る。

 黄色いポストのうえに子ども乗っていた。

 目を疑ったのは、子どもが黄色いポストに太ももまで足を突っこんでいたからだ。

 ポストが子どもを食べている。そんな光景を連想したが、もちろんそんなわけがない。ポストのほうから生き物じみた気配は窺えない。とはいえ、ポストから子どもが生えている景色は異常と呼ぶにふさわしく、

 どうしたのだいじょうぶ。

 声をかけながら近寄った。

「おん?」

「きみ、え、どうなってんのそれ」

「なんじゃお主。わしが視えるのか」

 視えるのかってそりゃあ。

 子どもの居丈高な態度に気圧される。

「言語は通じておるようだの。まあええ。おまえ」子どもはまだ黄色いポストから生えたままだ。「ここいらでわしに似た構造体をほかにも見んかったか」

 意味がよく分からなかった。ぽかんとしていると、

「わしに似たのがもう一匹おるんじゃが、おぬし、見んかったかと訊いておる」

「双子ってこと? 見なかったけど、え、迷子なのそのコ」

「おかしいのう。絶対におるはずなんじゃが、どうにも繋がれん。呼びかけにも応じんし」

「連絡がつかないってこと? 交番まで案内しようか」

 言いながら、やはりポストに目がいく。いかにやわらかい素材とはいえど、子どもの足で破れるほど粗末な造りではないはずだ。「そこから出られる? なんでそんなことになっちゃったの」

 両手を伸ばし、こっちにおいで、と暗に示す。ポストの高さもあって、しぜんと見上げるカタチになる。

「よいよい。ここまでして見つからんのじゃ、同期したほうが早そうじゃ」

「どうき?」

 そこで子どもの身体がポストに沈んだ。沼に足を突っこむのとは違って、スーと機械的に滑らかな動きだった。

 あれよあれよという間に子どもの姿がポストのなかに消える。あとには黄色いポストのまえで度肝を抜いている哀れな大人が残されるばかりだ。

 どこかで山鳩が鳴いている。

 ふと我に返り、おっかなびっくりポストに近寄る。

 ゆびさきで角っこを突く。硬質な感触だ。表面をなぞると、弾力の欠片もない冷たさが伝わり、ぞっとする。

 とそこで、

 ぱかり、とポストが真っ二つに割れた。驚きのあまり引っくり返る。

 ポストは、つぎからつぎから尽きることのない玉ねぎのように内側からモリモリと膨れ上がっていく。それは無限に増殖するサイコロじみていて、パンを発酵させるとか、しゃぼん玉を膨らませるといった光景ではなかった。ポストは背後のブロック塀を呑みこみ、電信柱よりも高く、うずたかく展開されていく。

 巨大なポスト、否、すでにポストだったものでしかないそれは、黄色にまばゆく発光しながら、上のほうからチーチチッっと細い光の筋を空と陸のあいだに走らせた。

 隣町が閃光に包まれる。

 つぎの瞬間には、衝撃波、いいや、身体が浮くほどの巨大な音の塊が周囲の建物を、地面を、雲すらも揺るがせた。

 目がチカチカする。クラクラする。とても立ってはいられない。いいや、すでに仰臥している。

 地面に倒れたままでいると、ガタガタと地響きが頭蓋に轟いた。

 死神の足音だ。崩壊の連鎖が行進している。

 もうダメだぁ。死を覚悟する。

 すると、頭上から影が差し、つぎの瞬間には浮遊感が身体の芯をくすぐった。

 何かに掬いあげられている。

 箱に入れられている。

 否、蓋はなく、四方の一部は欠けている。真下の景色が窺える。ずいぶん高い。

 砂塵の層を抜けたからか、視界が晴れ、地上を伝播していく崩壊の連鎖が目に飛びこむ。何兆匹ものイノシシの群れが駆け抜けていくようだ。

 いったいじぶんはどうなっているのか。

 何が起こったのか。

 状況把握に努めんと目を転じる。私を運ぶ立方体は黄色く、やわらかい。そのくせ表面はつるつると光沢がある。ものすごくリアルな金属のクッション、みたいなチグハグさがある。

 崩壊した街のなかでただ一つ屹立する巨大な黄色の塊に近づくと、私を運んでいた立方体が動きを止める。本体と呼ぶべきそれはあまりに大きい。じぶんが小さくなって、宝石の結晶構造のなかに閉じこめられた錯覚に陥る。

 眩暈がする。

 目のまえの壁、それはのきなみ無数の小さな立方体からできているのだが、ぼこぼこと四角形が抜けていき、自動販売機くらいの大きさの穴が開く。そこから現れたのは子どもだ。先刻、こちらと口をきいていた子と同じ姿形をしている。

 なんでこんなひどいことを。

 叫びたくてたまらなかったが、それ以上に、恐怖のほうが勝って身体が凍りつく。

「やはりこの星は滅ぼさねばならぬようだ。すでに探索にでていた同期体が、【ブジャブジャ】に触れて消えていた。あんな危険なものを好んで量産するに飽き足らず、それを我らに向けるとは万死に値する」

「知りません、知りません、そんなのだって私たち何も」

「決定事項だ。もう覆らぬ。とはいえこの星の情報は欲しい。おまえ、特別に情報体として生かしといてやる」

「助けてくださるのですか」

「おまえの情報記録器官を引っこ抜いて、永劫この世に残してやろう」

「脳みそだけってことですか」

 最悪だ。

 拷問どころの話じゃない。

 いっそ殺してくれたほうがマシではないか。

 計算するが、いまはどうあっても生き残りたいと欲する身体の悲鳴に流される。「構いません、構いません。なんだったら、そのジャブジャブですか、よくわからないものがどこで作られているのか、突き止めてさしあげます、お力になれます、そこだけ壊すってのも手だと思うんですが、いえ、さしでがましい意見で恐縮なのですが」

「この星ごと滅ぼすほうが簡単じゃろう。まあ、しかし、ジャブジャブの無効化は我らの悲願。解析素体の一つは持っておいたほうがよいかもしれぬな」

 これがジャブジャブだ。

 子どもが巨大な黄色い塊の側面を叩くと、その部位が透明になり、空間が現れる。隙間ではない。粘土をつねって持ってくるように、ぽっかり空いた空間に、ほかの空間が浮かんでいるのだ。立体映像ではなく、じっさいにそこに実物があるのだと、質感や奥行きで判断がつく。

 それは一杯のティカップだった。

 木製のテーブルのうえでカップを口に運ぶ女性が映っている。空間はさらにカップに寄った。いや、巨大化したと言ったほうが正確かもしれない。ますますじぶんが小さくなった錯覚に陥る。

 カップの中では褐色の液体が揺れている。

 香りがする。

 映像ではなくやはり実物なのだ。空間を自在に操れるのかもしれない。香りは香ばしく、コーヒーの苦みが舌のうえに広がる。

「あれがジャブジャブじゃ。忌まわしき我らが不倶戴天、唯一無二にして最大の悪果じゃ」

 ごくり。

 あれが。

 ぎゅっと拳を握る。

 手のひらには、ビニルの感触がある。

 意識の隅っこのほうに、先刻の記憶、買ったばかりの挽きたてコーヒー豆の映像が蘇える。ほらほらこれこれ、と何かを示唆するように、脳裡の表層で、コーヒー豆がゆらゆらと浮いたり沈んだりを繰りかえす。




【ほら穴へ落とす言葉】


 ぼくが彼女の声を初めて聴いたのは世界中が宇宙人の襲来で大混乱していたそんな時期のことだ。

 両親が食料を調達すると言って出ていったきりもう何週間も戻ってこずに、そのころぼくは備蓄用の缶詰めをちびちび舐めてなんとか生き永らえていた。もともと両親が卸売り業者で、地下室に避難するしかないとなったときに倉庫から大量に保存食やら水やらを運びこんでいた。

 だからきっと、避難生活が長期化するとの見立てが濃厚になったのを期に、奪われてしまう前に倉庫の食料をごっそり運んでこようとの考えだったのだろう。

 裏目にでたのか、何なのか。

 ひょっとしたらぼくは捨てられて、両親はもっと生きやすい場所で避難生活を送っているのかもしれない。

 そうやって未だに両親がどこかで生き永らえていると想像して、すこしの怒りと、そうであったらよいな、の希望を思い描いて、見通しのきかない日々への慰めにしていた。

 ときおり頭上を轟音が通る。それもいつしか気にならなくなり、気づくと鳴らなくなっていた。

 自家発電機が壊れるまでは、電気に困ることはなかった。ただ、明かりは消耗品だから、ここぞというとき以外には点つけないようにしたし、インターネットもいまでは通じない。

 かろうじて、ラジオだけが生きていた。

 携帯型メディア端末でそれを聴くのがぼくにとってゆいいつの生きがいだった。

 もちろんたいがいは個人で発信しているチャンネルだ。宇宙人だってバカじゃない。否、バカであったらどんなによかったことか。人類をこてんぱんに痛めつけ、追い詰めた宇宙人は、地上侵略の手始めに、人類の通信基地を破壊した。人工衛星をはじめとする通信仲介機器から、TV局、ラジオ局、新聞社や出版社、ほかにはきっと人類の大部分が知らないインターネット企業の中枢データセンターが鉄くずと化したはずだ。

 そんななかで、携帯型メディア端末に付随している個人ラジオ機能は、物理的に孤立した人びとを繋ぐ最後の砦となっていた。

 交流はできない。いっぽうてきに声を発信するだけだ。どこで誰が、どれだけの数聴いているのかも分からないし、聴くほうにしてみても、いったいどれだけの人たちが声を発信していて、それを聴き逃しているのか分からない。

 たまたま周波数が合うだけなのだ。偶然の出会いでしかない。

 それでもぼくは聴いていた。無数に見逃されつづける流れ星に、目を留めた。

 ただ一つの光を見つけたのだ。

 彼女もまた独りであるらしかった。家族とはぐれ、暗闇のなかでじっと過ごしている日々だという。彼女はまだ宇宙人の姿を目にしたことがなく、それは映像でもという意味だけれど、だから本当に宇宙人が人類を襲っているのか、世界を滅亡に導いているのかを、ときどきだが疑っている。

 じっさいに彼女が言葉にして言っているからそうと判る。

 でも、その疑問を確かめようとそとを出歩く真似を彼女はしない。仮説が正しかったときのメリットと、間違っていたときのデメリットが吊りあわないからだ。もし本当に宇宙人が存在していて、人類を駆逐せんとはびこっていたら彼女の命はそれまでだ。

 そしてぼくは知っている。宇宙人は実在する。

 もちろんぼくが知っているように、彼女が聴いているらしいほかのラジオの発信者たちも、みな口を揃えて、そとは危ない、引きこもっていろ、と情報を発信しつづけている。

 そとにでる、と言った発信者が、その後に音信不通になった例は、ぼくの知るかぎりでもすくなくない。両手のゆびでは足りないくらいだ。

 だから、彼女が日に日にそとの世界への渇望と、孤独への絶望を募らせていく様は、彼女のつねに明るく、この世界にいるだろうじぶんと似た境遇の人々へのやさしさや、あたたかさ、ふわふわした癒しを否応なく感じさせる口吻と相まって、余計に際立って聴こえた。

 彼女は言葉でこそ弱気ばかりを口にし、誰かの役にも立たず、ただ孤独に時間を過ごしていくじぶんを、責めている。

 非力なじぶんを、恥じている。

 でも、けして聴いているひとを不快にさせるような物言いだけはしなかった。それは天性のものなのか、彼女がこの孤独な期間に編みだした自我を保つための術なのかは判断つかない。おそらくは前者で、彼女は元からそういうひとだったのだろう、と想像してはいるけれど、それはそれで物哀しい気持ちにもなる。

 彼女はきっと、世界が一変する前からひそかに、孤独に、傷ついていた。

 やさしくなければ生きていけない世界に、彼女は生きていたのだ。

 ぼくは、そんな彼女の声に、言葉に、日々の配信に、心底、身体の芯から救われていた。食料を失うよりも、いまは彼女の声を聴けなくなることのほうがよほどこわい。

 できるなら、この食料を彼女に分け与えてあげたかったけれど、こちらから彼女に質問することはおろか声をかけることも適わず、そして彼女にしてみても、身の危険を高める個人情報、それこそ自身の居場所をラジオでしゃべるわけがないのだった。

 それでも、それとなく聴いているうちに、彼女がぼくの住まう場所からざっと数百キロは離れている地域にいるらしいことは、なんとなくではあるが推し量れた。

 彼女の言葉の端々から窺える方言のようなものからの当て推量であるし、話題にのぼるむかしの思い出話にでてくるぼくの観たことのないTV番組だったり、過去に体験したらしい災害の被害状況の規模だったりと、ヒントは細かくも、散りばめられていた。

 以前の社会であったなら、いまのぼくはストーカーと呼ばれてしかるべき執着を彼女の声に、ラジオに、寄せている。

 機会さえあればじかに会いたいと欲し、じかに声を聴き、言葉を交わしたい、と求めている。しかしいざそのような幸運が巡ってきても、きっとぼくは会いにいったりはしないのだろうとも予感できた。

 ぼくは彼女にとっては気持ちのわるい他人にすぎない。会わないほうがよいばかりか、きっと彼女を無駄にこわがらせるだけだろう。嫌われるだけならまだしも、彼女を傷つけたくはなかった。

 ぼくだって傷つきたくはない。彼女に避けられ、拒絶されたりなどしたら、もう生きていく光を、誇張でなく失う。

 ほかにすがるべき光がない。そんな世界に、いつの間にかなっていた。

 半年か、一年か。

 記憶があいまいで、端末のカレンダーを見ても、いったい地下室にこもってからどれくらいの歳月が流れたのかが覚束ない。きょうが何曜日かを気にしたこともない。彼女のラジオは不定期で、日に数回聴けることもあるし、何日も音沙汰がないときもある。そういうときには、本当に生きた心地がせず、何もできやしないのに外にでて、彼女の無事を確かめたい衝動に駆られた。

 彼女以外のラジオも聴いている。たまにそうしたほかのひとたちのラジオで、あれから何年が経った、といった言葉を耳にするけれど、それが本当のことなのかも分からない。じぶんの感覚ではやっぱりまだ半年くらいだし、長くても一年やそこらな気がする。

 メモでも取っていればよかったけれど、なんだかそれはしてはいけないことのように思えて、しなかった。記念日にはしたくない。

 ぼくには両親の遺してくれた保存食がある。身体はとっくに骨と皮ばかりで、食料の入った段ボールを持ち上げるだけでもその日いちにちの体力を使い果たす。すぐに眠くなるのだ。

 彼女はいったいどうやって食事を摂っているのだろう。何を食べているのだろう。ちゃんと食べているのだろうか。

 なんとなくだが、ラジオから彼女の声が聴こえなくなる期間、彼女は食糧を求めて外にでているのではないか、と妄想する。彼女はじぶんの近況はあまりしゃべらなかった。

 ひょっとしたら、人里離れた山中にでもいるのかもしれない。だから、外にでても宇宙人の姿を見ないだけかもしれない。山のなかなら、まだ自然の食べ物が、それこそ動物だって獲れるかもしれない。

 ほかのラジオでは、野良猫が増えたので、それを獲って食べている、と話しているひともいた。オスとメスを飼って、子猫を食べる計画を立てているとも話していた。きっと以前の世界ならそんなことをたとえジョークで口にしても、非難轟々の的だっただろう。いまじゃ、羨望の的に違いない。すくなくともぼくはうらやましく思った。ペットでもいいから猫がほしかったし、いざとなったらそれを食べればいい気楽さは、日々の不安を薄める気がした。

 薄情だ。解っている。異常な精神状態なのだろう。けれども、こんな状況で正常な精神でいつづけることのほうが異常に思える。そうではないだろうか。

 誰も口にしないだけで、ご遺体を食べているひとだっているはずだ。熱心に看病していたそのひとを、亡くなったあとで食べてしまう。生きるためには致し方ないことだと思うし、ぼくが死ぬ側の立場だったら、きっと残されたひとに生きてほしいと望む。死んだら食べてくれ、とお願いするかもしれない。

 きっとするだろう。

 ぼくはいま、顔も知らぬ電波の向こう側にいる彼女の声を聴いている。食べてもらいたい。せめてぼくが彼女にしてあげられることがあるとすれば、それくらいしかないように思えた。

 生きてほしい。

 ここに連れてきて、食料をぜんぶあげたい。この場所を、彼女に与えてあげたい。

 でも、ぼくにはそれを叶えることはできず、仮にできしたとしても、彼女のほうでそれを受け入れるとも思えなかった。

 ありがた迷惑だ。食料だけを、なんとか彼女に分けられたなら、送り届けられたなら、と彼女の明るくやわらかな声を聴きながら、彼女はちゃんと眠れているのだろうか、と心配になる。誰かを心配することで、ぼくはじぶんの未来を心配せずに済む。きっといま、ぼくと同じように、彼女を心配することで目のまえに膨らんだ巨大な不安の塊から目を逸らしていられるひとたちがいるはずだ。

 救われている。

 生かされている。

 彼女はそんなぼくらの崇拝の念にも気づかずに、孤独と飢餓と不安に、たった独りで闘いつづけている。もちろん彼女にも、お気に入りのラジオのひとがいるらしくて、ぼくはその話を聴くたびに、歯ぎしりをしているじぶんに気づくのだ。

 嫉妬だ。幼稚にすぎる。

 でも、そうやって感情の乱れを覚えることで、平坦でなんの起伏もない日々に、刺激が生まれて、やっぱりぼくはどうあっても彼女に生かされているのだと思った。

 ある日、彼女は旅にでると宣言した。ひととしゃべりたい、会いたい、触れあいたい、と彼女は明るく言って、旅支度をはじめた。ラジオはしばらくつづけられるという。電源に余裕があるのだろう。それでも途中で切れてしまうのはしょうがない、と諦めているようだった。繰りかえすが、彼女はぼくのようなリスナーがいることを知らない。じぶんのために流しているようなものなのだろう。願掛けのようなものだったのだろう。それが切れても仕方ない、と彼女は諦めている。

 ぼくは目のまえが暗くなったのを、本当に、視界から色が消えてなくなってしまったみたいに感じた。灰色の世界だ。元から暗がりのなかで生活していたぼくが、本当の意味で、色を失ったように感じたのだ。

 光だった。灯だった。

 とたんに、じぶんの身体の臭いが鼻につく。部屋の空気も、ずっと淀んだものに感じられた。排泄物こそ、地下の排水溝に捨てているが、無臭とはいかない。そんなことにも気がつかなかった。慣れていたのだ。それもある。

 でもいちばんはやはり、彼女の存在に逃避できていた。身を預けていられた。

 支えを失い、ぼくは現実に引き戻されたのだ。

 羽を失った天使の気持ちがいまなら解る。詩的な表現でじぶんを慰めようとしたが、惨めさが増すだけだった。

 彼女はぼくの見立てどおり、山のなかの小屋にいたらしい。山を二つ越えれば、街があると言っている。地図を頼りに道を進んでいるようだ。

 宇宙人って本当にいるのかな、と何度もつぶやいている。

 本当にいるんだよ、とぼくはそのつど答えていた。届くはずもない祈りの言葉だ。

 ときおり、空が光るのだそうだ。昼でも夜でも関係なく見えるらしく、夜はずっと遠くからも似たような閃光が見え、そのたびに彼女が、宇宙人、とつぶやくので、そのときばかりはすこしおかしくなって笑ってしまう。そんなじぶんに、ぼくは情けなさと怒りを覚えた。まるで安全地帯から窮地のヒーローを眺めている子どもみたいだ。映画じゃないんだよ、とぼくはじぶんを戒めるけれど、こちらの心配や不安なんかおかまいなしで、それは当然のことなのだけれど、彼女は街へとどんどん近づく。

 宇宙人がまだその街にいるのかは解らない。大都市であればあるほど、とっくに人間は一掃されているだろうから、ひょっとしたら却って安全かもしれない。

 街にはきっと宇宙人についての画像や動画の一つくらいは残っているはずだ。彼女がそれを見て、やっぱり現実だったのだ、宇宙人はいたのだ、危険なのだ、と来た道を引き返してくれれば御の字だ。

 せめて彼女と通信できれば。

 ぼくのほうでもラジオを発信してみたことが過去にはあった。無駄なのだ。周波数をじぶんでは選べない設定になっていて、偶然ぼくのラジオを彼女が聴く確率は、ぼくがいま外に出て彼女のもとに辿り着くのと同じくらい低いことのように思えた。じっさい、それくらいあり得ないことなのだろう。

 けれどぼくは、なんとか危機を伝えたくて、ふたたび彼女に呼びかけはじめた。感謝と、尊敬の念と、どれだけぼくが日々救われていたのか、そしてそれをいま失いかけている恐怖を、伝えたかった。

 誰が聴いているかも分からないほら穴へ、声を、言葉を落としつづけた。

 彼女が旅をはじめて、十日は経っただろうか。ひょっとしたらもっとたくさんの時間が経っていたかもしれない。カレンダーは怖くて見ていない。いつ、その日が「記念日」になってしまうのか分かったものではないからだ。記念日なんてぼくは一つも欲しくない。

 彼女があと数日で街に辿り着くというころ、彼女のラジオが途絶えた。携帯型メディア端末の充電がついに切れたのかもしれず、そうじゃないのかもしれなかった。

 考えたくのない妄想が脳内を満たす。ぼくはいてもたってもいられなくなり、地下室の外にでた。できることなどなにもなかったけれど、そうせずにはいられなかった。

 いつぶりかに浴びた外気は冷たく、刺々しく、体温を刻々と奪っていく。ぼくはそのときになって、じぶんがほとんど裸なのだと思いだす。地下室はひどく蒸れており、服はとっくに腐り落ちていた。

 やわらかい光が全身を包んでいる。宇宙人がやってきたのかと案じたが、見上げれば月が煌々と照っている。日中と見まがうほどに明るい。世界は、こうも、明るいのだ。

 荒野だ。瓦礫一つない更地が広がっている。地平線がどこまでも伸びており、ぼくは目のまえの光景を疑うよりさきに、じぶんが記憶違いを起こしているのではないか、と戸惑った。

 何もない。

 ぼくはまっすぐと地下室をあがってきた。本来ここには家の廊下があって、玄関をでたら、密集した住宅地がつづいているはずだった。見えるところに背の高いマンションが何個もあったし、道路はどこもアスファルトで、地平線なんて間違っても見えやしなかった。

 人工の建物のいっさいが失われている。

 地下室に引きこもりはじめた当初に頭上から聞こえていた轟音の正体はこれだったのか、と合点する。両親が帰ってこないわけだ、と意味もなく笑いたくなった。

 誰もいない。助かるわけがない。

 ぼくはなぜじぶんがいまそとにいるのかも忘れて、いそいそと引き返した。地下室の扉を厳重に閉める。扉のまえに食料の詰まった段ボールを詰んで、見えなくした。

 お得意の現実逃避だ。

 ぼくは無力だ。あとはもう死ぬのを待つばかりの虫ケラにすぎない。

 絶望のどん底に落とされても、習慣は抜けないもので、息を吸うようにラジオを点けている。考えるよりさきに、彼女の声を求めていた。

 彼女の声が聴こえた。ラジオを再開していたようだ。世界が明るくなる。じっさいには部屋は真っ暗闇なままだが、たしかに、ぱっと光の灯った感覚があった。

 彼女はなぜか感激していた。彼女は言った。街のある場所には遠目からでも判るくらいに大きな穴が開いていた。無駄骨だった。宇宙人は本当にいた。またあの小屋に引きこもっていることにする、あなたの言うとおり、それが正解だと思う、と早口で捲し立てている。

 何を言っているのだろう、と混乱する。

 あなたとはいったい誰のことなのか。彼女は誰かと出会ったのか。そこに誰かいるのか。

 安堵と嫉妬の入り交じった心地で、彼女の声に齧りつく。

 ありがとう、みんなありがとう。彼女は何度も言った。

 だんだんぼくにも事情が見えてきた。彼女は街の様相を目の当たりにしても、まだほかの街を目指そうとしたらしい。そのとき、ふだん聴いていたラジオから、まるでじぶんのこととしか思えない女の話がでてきた。女はいま旅にでていて、宇宙人の存在を疑問視している。彼女のラジオを聴いていた男が、それを知って、なんとか危機を教えようと、ラジオで喚き散らかしている。それを偶然聴いた者が、またラジオでそのことを話し、それを聴いた者もまた同じ話をラジオでした。やがて、彼女がふだん聴いているラジオの話し手までその話題を口にし、彼女の耳にも、無様な男の悲痛な叫びが伝わったとのことだった。

 彼女は最初、じぶんのことだとは思わなかったそうだ。世のなかには似たひともいるものだな、と聴いていたが、ほかのラジオでも同様の話をしており、段々これはじぶんのことなのではないか、と思いはじめ、それを確かめるつもりで、これからしばらくは、これを聴いているかもしれないあなたに向けて返事をさせてください、と丁寧に、感謝の言葉を並べている。

 たしかにこれは、とぼくも思う。まるでじぶんと似たアホウなことをしているやつがほかにもいるのだな、と思ったほうが正しい気になる。

 けれど、じぶん以外にこんなアホウなことをしでかす人間がそうそういてたまるものか、との思いも湧き、念のために、彼女への返事を、ラジオに流しておこうと決めた。彼女がそのラジオを聴いてくれるかは分からないし、ほかのラジオの話し手たちが伝えてくれるかも分からない。

 でも今回は、そんなもしも、にすがって、ラジオの周波数も読みあげておくことにする。

 返信のラジオを発信し終えてからぼくは、この期間、不要と思っていちども開けなかった段ボールのまえに立つ。

 中身は新品の洋服だ。そんなものをこの空間で着てもすぐに汚物にまみれて病気のもとになるだけなのだが、念のために、身体に合った見栄えのよく見える組み合わせを見繕っておくことにする。

 もちろん、彼女と会える日がきたとしても、ぼくはきっと尻込みして、その好機を逃してしまうのだろうけれど、こうして新しい夢を抱いて日々を過ごすのも、そうわるくない。

   ***

 この話はもう聞き飽きたというひともいると思う。でも何度でも繰り返させてほしい。届けたい声が、言葉が、ここにあるから。

 あなたにはどうか知っていてほしい。

 あなたの声が、ひとりの無力な男を生かしていることを。

 いつ死んでもおかしくない命を、救いつづけていることを。

 ありがとうございます。

 あなたが生きていてくれて。

 声を、届けてくださって。

 いつかあなたに返させてください。

 返しきれぬほどのこの恩を、すこしでも。




【極上の食事】


 ブティアフェティロアを食べたくなった。

 ちょうどいまはブティアの産卵期にさしかかっている。海岸にでればブティアたちがこぞって卵を産み落としていることだろう。この島はブディアたちの生育地で、海岸にいけば巣が群集している。この島の地表の多くが、巣の材料となる紫灰岩だ。ほとんど石を投げれば卵にあたるくらいの確率で、広範囲にわたってブティアの巣ができている。

 支度を済ませて家を出るとものすごい吹雪だった。あ、やっぱやめとこっかな、と挫けそうになるが、なんとしてでもブティアフェティロアを食べたいとの底なしの欲求のほうが勝り、燃料となって身体を衝き動かした。というよりも、まともな食べ物を数日口にしていなかったもので、ほとんど生存本能と言っても遜色ない飢餓感によって身体はブティアの卵を希求していた。

 ブティアフェティロアは高級料理だ。世界中枢都市の超高級レストランでふるまわれるくらいに美味であり、珍味で、その素材たるブティアの卵はおいそれと市場に出回っていない。ブティアの卵は仕入れるのがむつかしいのだ。

 収穫には命の危険すら伴う。

 この島にブティアの巣がごまんとあるにもかかわらずこれまでいちども収穫を試みなかった理由がここにある。

 遠目でもよい。

 ひと目見れば納得するだろう。ブティアは全長十メートルを超す黒龍の一種で、猛牙類のなかでは最大級の超獣だ。気性が荒く、陸上生物最強と謳われるラバエすら狩ることもあるというから卵を回収するどころか巣に近づくことすら躊躇われる。

 ブティアは厳密に言えば水陸中間種だが一般には海の生き物として扱われる。主食は鉱物だ。この世界の海はかつてブティアが削りだしたとすら謳われるくらいで、紫灰岩の含まない島であれば、ブティの群れが住みつくだけで数年で姿を消す。ブティアは紫灰岩だけは食すことがない。

 一万度以上にも達する火炎を吐くことで紫灰岩を溶かし、巣を形成する。縄張り意識がつよい割に、端から島に生息していた生物に対しては寛容だ。こうしてこの島に居ついていながらこの身がブティアの餌食になっていない理由はそこにある。それはつまり、ブティアがこの島に居ついたのが比較的さいきんになってから、もっと言えば十年も経っていないことの裏返しでもある。

 ブティアがきてからというもの誰もこの島に寄りつかなくなった。防犯面では好ましいが、その分、物資も届かなくなり、ほかの島人たちはどんどんいなくなり、こうして餓死の節目に立たされている。

 この島だけかと思って楽観視していたのが裏目にでた。周囲の島からも人がいなくなっており、本島まで出張るための燃料を仕入れられなくなって、けっきょくこうして島から出られずに、凍期を迎えてしまった。つぎの暖期がくるまでこの島で生き永らえなければならないが、備蓄はとっくに底をつき、木々の根を齧って飢えをしのいできたが、もはやそれも限界だ。

 ブティアフェティロアを食わねばならぬ。

 ブティアの卵を獲らねばならぬ。

 さいわいにしてブティアの卵は人間のこぶし大だ。それが巣のなかに無数に産み落とされる。ときおりブティアが火炎を噴きかけ、無数の卵を熱し、溶かす。溶けずに残った卵を核として、無数の卵はつぎつぎに融合していき、最終的に膝を抱えて丸まった人間くらいの大きさまで成長する。

 ブティアの卵を収穫するのがむつかしいのはだから、第一に、ブティアの縄張り意識がつよいこと、第二に、ブティアの卵は基本的に終始灼熱であり素手で持ち去ることはおろか、粗末な道具ではまともに卵を持つことすら適わない点だ。

 第一の縄張り意識についてはすでに解決している。元から島に暮らしていたこちらをブティアは敵視しない。

 第二の問題については、いまが凍期であることがさいわいする。なんとかなりそうではある。この島にはブティアだけでなくほかの超獣もわたってくる。この時期であれば山に行けば、ウィングブルーの「次殻」が岩陰に付着しているはずだ。

 ウィングブルーは不死鳥の一種だ。全身がアルカメドロの結晶体でできており、体温はマイナス二百五十度とかなり低い。これは身体を構成するアルカメドロの結晶体が極めて安定しており、原子がほとんど振動していないためと考えられる。

 いずれにせよ、ウィングブルーはこの時期に自身の分身となる結晶体を岩陰に残していく。次殻と呼ばれるそれは卵ではないので孵ることはないが、本体が死滅すると、新たに次殻からウェングブルーが発生する。記憶が継承されているらしいことから、やはり飽くまで分身なのだとされているが、次核もまた本体と同じアルカメドロの結晶体でできており低温だ。

 回収したところで食べられるわけではないし、次核は冷たすぎて冷蔵庫の役割も果たさない。カチコチに凍った食材は調理に不向きだ。いまは凍期だ。それこそ保冷するだけなら家のそとに素材を晒しておくだけでよい。普段であれば役に立てようにもないウェイングブルーの次核だが、灼熱のブティアの卵を特別な道具なしに回収するにはうってつけに思えた。

 まずは山に登り、ウィングブルーの次核を探す。極めて温度の低い場所、すなわち氷城ができている場所を見つければよい。思っていた以上に、あっさり見つけられた。

 さいさきよいのは初めばかりで、いざ氷城を破壊し、その中心にある次核まで行こうと氷を掘り進めるが、作業は難航した。最終的にバリアロスの甲羅、すなわち世界最強高度を有する甲鱗類の楯――を破壊するために使用される摩擦係数調整つき刃物、通称「万能刃(バンノーバ)」を用いて、プリンを掬っていく感覚で、氷の城に穴を開けた。

 万能刃は消耗品だ。どんなに硬く頑丈な物体であっても切り裂くことができる反面、どんなにやわらかく脆弱な物体に使ったとしても、必ずひと振りにつき原子の厚み分、刀身が摩耗してしまう。原理的に、極めて薄く脱皮することで物体を切り裂くため、できるかぎり対価に吊りあう対象にしか使いたくはない。

 氷に穴を開けるために万能刃を使ったなんて同業者に知られたら赤っ恥どころか、ただその噂だけで仕事が回ってこなくなりそうだ。

 だが、背に腹は代えられない。

 空腹もいよいよ限界だ。

 骨を折りながらも、なんとか次殻を入手した。しかしそれを運ぶのにまた難儀する。断熱材でくるんでもその冷気を完全に防げるわけではなく、体力は削られていくいっぽうだ。ただ冷たいだけではなく、次殻は周囲に介在する物質の原子運動まで静止させようと働きかける。長時間身近に置いておくべき物体ではないのだ。

 いよいよ術を選んでいられなくなり、半ば凍りつきながら、どうせこのままなら死ぬしかないのだと海岸沿いへと足を運び、ブティアの巣へと突っこんでいく。

 凍期であるというのに、海岸沿いは暖期かと思うほどに、むっとした熱気に包まれている。潮の香りもつよい。現に地表の大部分は白くまだらに染まっている。塩分が結晶化しているのだ。

 ブティアの巣は、地面に花瓶がよこになって半分だけ埋まったようなカタチをしている。竈のような、と言えば端的だ。入口が狭いのはブティアの身体が細長いからというよりも、どちらかと言えば卵を熱するのにそちらのほうが都合がよいからだろう。というのも、ブティア自身は巣のなかに入ることはなく、巣をぐるっと身体で包みこむ。とぐろを巻く。

 巣のなかは灼熱では足りないほどの業火だ。

 ブティアそのものも脅威だが、それでなくともおいそれと巣のなかには入れない。

 どうあってもブティアの卵は無傷ではとれない。が、いまはそんな身の危険を考慮して、天秤にかけるだけの余裕がない。もはや餓死寸前なのだ。目のまえに我が子の遺体があっても食べてしまいそうだ。もちろん比喩だが、こんな最低の比喩を何の抵抗もなく思い浮かべてしまうほどに逼迫している。

 水分すら惜しいこの状況でよだれがあとからあとから溢れだす。歩くたびに足取りが重くなり、泥のなかを歩いている感じがした。足元を見遣ると、なんと靴底が焦げている。否、熔けていると形容したほうが精確だろう。次殻の入れ物を地面に置き、熱を相殺させる。安全地帯をつくる。次殻のほうが余力があるらしく、半径数メールほどに霜がおりる。これならば巣に投げ入れれば、中に入っても即座に焼け死ぬ事態は避けられそうだ。

 いざ実行に移す。巣にはブティアが巻きついているが、島の住人だからだろういまのところ敵意どころか視線すら向けられていない。だがさすがに巣にちょっかいをだせば無関心を貫き通してはくれないだろう。

 ひょいとやって、すっと入って、ばっと獲ってくる。

 脳内で手順を確認し、次殻を巣のなかへと投げ入れる。

 コツンコツンと硬質な音を響かせながら、次殻は巣のなかへと転がっていく。やがて巣の先端から盛大に蒸気が噴きだした。これでは飛びこもうにも飛びこめない。

 都合がよかったのは、そのジューに驚いたからだろう、ブティア本体が巣から離れたことだ。

 いましかない。

 意を決し、未だ蒸気の噴きだす巣の入口に飛びこんだ。

 防寒着は断熱素材だ。熱にも強い。

 顔をすっぽり覆い隠し、蒸気のなかへ身を滑らせる。

 巣のなかは真っ暗闇だ。明かりを持ってくるのを失念していたと舌を打つが、奥の方に炭火のような明かり、否、熱源らしい赤い光が目に映る。

 卵だ。

 触れるにはまだ温度が高そうだ。

 次殻はどこだ、と見渡すと、入口に近いところ、背後にあった。蒸気を突きぬけてしまったから卵が見えたようだ。拾いに戻るとまた視界が塞がれる。

 次殻の温度は低いままなはずだ。大きさもほとんど変わっていない。

 卵に近づくと、触れてもいないうちから次殻がジウジウと音を立て、白い湯気を立ち昇らせる。急激に冷やされた周囲の空気が凝結しているのだろう。ひょっとしたら次核を構成しているアルカメドロが気化しているのかもしれないが、いずれにせよ道具越しとはいえ長時間手に持っているのは利口ではない。気のせいかもしれないがすでにゆびの感覚がない。凍傷で腐り落ちてしまったらどうしよう。

 空腹のせいか弱気になる。

 さっさと済ませておうちに帰ろう。

 ぎっしりと並ぶ無数の卵めがけて次殻を放った。何の気なしだ。これで終わりだといった気の抜け具合があった。油断した。

 まず空気の膨張が感じられた。ほとんど爆発かと見紛う風圧で、巣の壁に身体が押しつけられる。次点で、壁にひびが走るのが背中に伝わる振動から察せられた。まがりまちがっても材質は紫灰岩だ。通常、そんな事態は考えられない。しかし巣が壊れる。外からの圧力にはつよい造りでも、内側からの圧力には対応していないのかもしれなかった。それはそうだろう。卵ですら、内側からならヒナのチカラでも打ち破られる造りになっているのだから。

 全身に加わっていた衝撃が失せ、耳鳴りが脳内を占領する。蒸気はモクモクとそらへとのぼり、巣には大きな穴が開いている。もし入口が塞がっていたら巣は木端微塵に吹き飛んでいたことだろう。空気の逃げ道があったからこそ、ここまでの規模で済んだのだ。これほどの破壊が起きてなおこちらの身体が無事なのは巣に対して面積がちいさかったからだろう。蒸気が上に向かって膨張するのも要因の一つになっていそうだ。身体が破壊されるよりさきに巣のほうがさきに壊れ、衝撃が分散された。

 とはいえ、無傷とは呼べない。これといった外傷は見受けられないが、細胞単位で疲弊しているのは明らかだ。いまはまだ脳内物質が分泌されて興奮状態なために自覚できないだけで、いちど身体を休めてしまえばもうつぎは食料を探しにそとにでることもできなくなりそうだ。

 卵はどこだ。

 吹き飛ばさられていたら面倒だと案じたとおり、ほとんどの卵は爆散しており残ってはいなかった。かろうじて、結合して質量が増していた核となる卵だけが残っている。持って帰るには重そうだ。裏から言えばこれだけの質量があるなら当分の食料に困ることはないとも言えた。

 持参したリュックを上からかぶせる。ヘビが卵を丸呑みにするような構図だ。半分ほどで行き詰まったので、リュックのよこを裂き、なんとか詰めこむ。縄でぐるぐる巻きにして、引っくり返し、背負う。ずしりとくる。足腰が保つだろうか。

 半壊した巣から脱出する。ブティアの成獣が地面に倒れている。巣から離れたあとで、ふたたび巻きついていたのだろう。わるいことをした。ともあれびっくりして失神ているだけのはずだ。ブティアの鱗の頑丈さを舐めてはいけない。周囲にほかのブティアの姿はなく、驚いてみな逃げてしまったようだ。なるほど、こういう手もあるのか、と閃く。よもや音だけでブティアを追い払えるのならば島の住人でなくともブティアの卵を安全に回収できるはずだ。

 ひょっとしたら専門の業者たちはそうしてブティアの卵を仕入れ、購入食材として市場に流しているのかもしれない。あの気性の荒いブティアの卵というだけで、どれほどの危険を冒して手に入れているのかと思えばこそ、破格の値段でも売れるのだ。それがじつのところ爆音一つで安全に入手可能だと知れ渡れば、ブティアの卵も値崩れは必須だ。ひるがえって、ブティアの卵の乱獲がはじまり、絶滅の節目に立たされるかもしれない。

 さすがにそうなる未来は忍びない。

 小屋までの道中、そんな殊勝な心掛けを、らしくもなく巡らせながら、もはや腹を満たすことよりもふかふかのベッドに倒れ込みたいとの欲求に衝き動かされる。まあこんな最期もアリかもなと、目覚めぬままに眠りに落ちるそう遠くない未来を幻視しつつも、どうせ死にはしないだろうとの希望的観測をもとに、こうして歩いていれば着実に小屋にまでは近づいている現実を尊く思い、反面、すっかりもう小屋に辿り着いた気でいるじぶんの幽体離脱じみた現実逃避に、何かこう、まるで夢でも見ているかのような浮遊感を覚えずにはいられないのだった。

 翌日、目覚めたのはベッドのうえで、床には脱ぎ散らかした靴や防寒具が散らばっている。リュックの中にはブティアの卵がちゃんと詰まったままでいた。

 着替え、暖炉に火を灯し、それからげっそりした身体に鞭打って、万能刃を手に取ると、さっそくブティアフェティロアを食べるべく、まずはブティアの卵の表面にちいさな穴を開ける。スプーンを突っこめるくらいの口径だ。

 手が止まる。

 えーっと、あれ?

 いまさらながらに気がついた。

 ブティアフェティロアの作り方などまるで知らない。

 まあ、いい。

 暖炉の火にフライパンをかける。

 最高級食材で作った卵焼きならさぞかし美味であろう。




【歪みの夜のモヤ】


 兄を越える弟なんかいないと世のマンガや映画では、まるでそれが普遍の定理みたいに並び立てているが、現実じゃあまず兄は弟に抜かれるだけの当て馬でしかない。

「ハカセ、こんどは何作ってんだ」

「錯視と錯誤のなかに生きてるでしょ、人間ってほら。認知の歪みがあって、事実を事実として認識できない。そのことにすこし興味があって」

「相変わらずむつかしいこと考えてんな」

 未だ十歳にして十コも年上の兄を置いてきぼりにする奇天烈さには、毎度のことながら舌を巻く。認知の歪みどころか会話の難解さにこちらの顔が歪みそうだ。

「兄ちゃんはさ、幽霊って信じる?」

「信じてるやつなんかいんのかよ」

「いないとはでも誰も証明していないのに、いないって信じてるひとはいっぱいいるよね」

「それってあれだろ。悪魔の証明」

 ないことを証明するには宇宙すべてを虱潰しに調べて、この世に一つも存在しないことを証明しなければならない。そんなことは悪魔か神でなければ無理だ。反対に、あることを証明するだけなら一つの証拠を示せばいい。だから基本的に、なにかの証明をしたければ、あることを主張する側が証拠を提示するのが広くマナーとされている。

 裏から言えば、存在することを前提に調べたり、論理を積みあげたりしたさきで矛盾が発生すれば、それはないことの証明と成り得る。いずれにせよ、ないことの証明はむつかしい。

「前にそれをオレに教えてくれたのはハカセ、おまえだろ」

「そうなんだけどね。でも案外に幽霊の存在する証拠が目のまえに提示されても、そんなものはいないという偏見からひとはそれをないものとして見做し、どうあっても幽霊の存在は認めないんじゃないかな」

「どうだかな。目のまえに幽霊が現れたらさすがに信じるしかないんじゃないか」

「ね。気になるでしょ。それをぼくは確かめてみたい」

「幽霊を捕まえる機械でもつくってんのか」

「似たようなものかも」

 弟も冗談を口にするのだと目を瞠る。真面目一辺倒かと思っていた。案外にお茶目な面もあるようだ。

「捕まえたら見せてくれよな。ま、がんばって」

 つぎの日にはもう、弟はほかの機械に向き合っていた。興味の矛先がころころ変わるのはむかしからだ。そのうちじぶんを模したロボットをつくりだして作業を分担しはじめるのではないか、とオレだけでなく、父や母まで真剣に恐れている。

 弟は名実ともに天才だ。しかし、いかんせん社会性というものがない。表面上は他人と仲良くし、ひとの役に立ちたいのだ、といった姿勢を見せることはあるが、それは弟なりの処世術というか、擬態のようなものだと、長年近くで眺めていて兄ながらにそう思う。自由を侵害されない防御策と言えばそれらしい。他者との軋轢は効率がわるい。危険を避けるためにも、表面上だけでも他者と円滑な関係を築けるように工夫する。どうすれば他者からの好感を得られるかなんてことは、弟ほどの知能があれば造作もなく見繕い、実践できてしまえるのだろう。せめて、できのよい弟を持つ兄の気持ちも汲んでくれるとうれしいのだが、いまのところそうした配慮は窺えない。

 きょうは寝坊しているようだ。またぞろ明け方まで研究か何かをしていたのだろう。ときどきアニメやドラマをシリーズ通しで、ぶっつづけで観つづけて目を充血させていることがある。飲まず食わずなのはいつものことなので、期を見計らって食事を運んでやる。このあたり、なんだか赤ちゃんのころのままだ。

 むかしはかわいかったなぁ、と思い返すが、案外にいまも黙っていればかわいいので、嫉妬するのもむつかしい。

 バイトに出掛けようと靴を履いていると、母がトコトコやってきて、

「やだ、ちょっとこれ見て」

 メディア端末を掲げた。画面には町内会のお知らせが表示されている。ろくに読まずに、突っぱねる。「あとで見るから。いま急いでんの」

「不審者がいるかもだって。気をつけなさいね」

「女子じゃねぇんだから」

 痴漢がでたら二度とわるさできないように股間を蹴りあげてやる。

 嘯くと、

「オバケなんだって」母は言った。「幽霊の目撃譚があとを絶たないんだって。となりの山田さんの奥さんも見たって言ってて、やあね。回覧板にも載っちゃって怖いよね怖い怖い」

「オバケだぁ」

 母のメディア端末を奪い取り、記事に目を走らせる。オバケの目撃譚が増加しています。見かけた方は情報をお寄せください、とある。

「マジかよ」

「見たら言いなさいね、ちゃんと報告しなきゃだから」

「いやいや幽霊なんているわけねぇじゃん」

「でもみんな見てるって言うし」

「どんな幽霊なんだよ」

「さあ。見えないんだって」

「見えないって、じゃあ目撃したとは言わねぇじゃん」

「そうなんだけどねぇ」

「そこんところ、幽霊の詳細くらい載せなきゃ意味なくない」

「見たひとの話はみんな共通してるんだって。ただ、デマ対策なんだって。ちゃんと目撃したひとかどうか、共通点は記事には載せませんって書いてある。ほら」

 ゆびで示されたところに、ちいさく注意書きがあった。配慮が行き届いている。本気の記事だと判れば判るほどに、おいおい、と言いたい気持ちが募るが、好きにしたらいい、と突き放す。「見掛けたら言うよ。バイト遅刻する」

「夕飯食べてかないの」

「遅刻するっていま言ったばっかなんだけど」

 話が通じない相手との会話はイライラする。母親に当たり散らす幼稚さを自覚し、だからモテねぇんだよな、とじぶんでじぶんに失望する。やさしくしたくはあるのだ。しかし、したいと思わせる親ではないのだ。いや、感謝はしている。

 親に問題があるというよりもこれは子に問題があると考えたほうが正解なのだろうな。

 認めたくはない現実だった。

 遅刻ギリギリでバイトに入った。五時間ほどシフトをこなすと、零時を過ぎていた。一時間余分に働いた。深夜手当てがつくし、まかないも食べた。満足の労働と言える。

 帰りは自転車で帰ることにした。おとついのバイトのときに帰りに飲みに誘われたので、置いて帰っていたのだ。

 夜の風は心地よい。

 ひと気のない道、等間隔に現れる街灯、そして流れる風景、すばらしい時間だと思う。

 ふと遠くに、ひとの背中が見えた。ふわふわの生地が目立っている。オシャレなワンピースといった塩梅だ。街灯の下を移動して、闇にまぎれ、そしてまたつぎの街灯の明かりを受けて姿を晒す。

 なんの変哲もない光景に見えた。ただ、時刻が時刻なだけに、人通りのすくない道なこともあり、すこしだけ心配になった。ずいぶん薄手の格好に見えたせいもある。

 背後から自転車で迫られたら怖いだろうと思い、敢えて距離を置くようにして通り抜けようとした。

 そのときだ。

 はっとする。

 妙な感じはしていた。

 距離が縮まるにつれてその違和感はつよく振幅し、全身の毛穴が閉じた。

 女性だと思っていた。

 歩いている。

 靴がある。服もある。

 しかしそこには、あるべき四肢がないのだった。

 四肢だけではない。

 顔もなければ首もない。ドレスじみたワンピースがふわふわと宙を漂い、シンデレラのガラスの靴を彷彿とさせる靴がカツン、カツン、と歩を進める。

 透明人間だ、とまずは思い、そんなことがあり得るか、と目を疑う。暗がりだからそう見えているだけかもしれない。壁の色とか、道路の色とか、肌の色との兼ね合いで目の錯覚でそう映ってしまうだけなのではないか、と目を見開きながらよこを通り抜ける。

 道路の端と端の位置関係だ。案外に距離がある。

 いちど自転車を止めて確認したい気持ちが湧くが、止まる選択肢を用意していなかった、じぶんで思うよりも混乱しているのだろう、そのまま通り過ぎてしまう。しばらく進んでからうしろを振り返ると、まるでこちらを見詰めているかのようにワンピースと靴は動きを止めていた。

 自転車にまたがったまま、足を地面につく。

 正体を確かめたい。

 おそろしくはない。現実に目のまえに、それがあると、案外に度胸が勝る。いざとなったら殴り飛ばしてやる、といった殺気が漲る。

 おそらく街中でヒグマを見掛けても恐怖は憶えないだろう。勢いよく迫ってこられたらそれがたとえミニチュアダックスフンドであれ逃げ出したくなるのだろうが、遠目に眺めている分には、やはり案外に落ち着いていられる。

 危険に思ったらそのまま通り過ぎればいい。

 いまきた道を引きかえしてもういちど近くで見てみよう。

 自転車を方向転換する。

 ゆらゆらとワンピースの裾をたなびかせているそれに近づこうと、ペダルに体重をかけようとしたところで、街灯の奥、向こう側から闇の幕をすり抜けてやってくる何者かの姿が知覚できた。

 姿はおぼろげだが、足音がある。瞬きをするごとに大きく鳴って聞こえてくるそれは、たくさんの足音が重複して響いていた。

 行列、と思う。

 間もなく、外套をまとった黒装束の一団が現れる。修行僧が被るような頭巾で頭部が覆われている。ゆらめく外套の裾をはためかせながら、ブーツだろうか、一見すると長靴にも見えるそれで地面を踏みしめている。歩くたびに、ぬたん、ぬたん、とどこかやわらかな音が鳴る。

 行列が練り歩いている。

 迫ってくる。

 気づくと、街灯の下にいたワンピース姿のヒラヒラは、行列の真ん中に交じり、同じ速度で歩いている。

 狐の嫁入りを目にすれば似たような感慨を覚えるかもしれない。鮮明な質感が、信じられないとの疑心を脱ぎ去って、ただ目のまえの光景を受け入れさせる。

 追いつかれるとよくない気がした。

 何が、とは言えないが、これはもうこの世にあってはいけない現象に思えた。理屈ではない。強いて言えば経験だ。これまでこんな光景を見たことはなかった。そしてこんな光景があってはならないとの未知への驚愕が、一歩、二歩と近づく行列の足音によって、恐怖へと塗り替えられていく。

 身体が総毛立つのと同時に、細胞という細胞がすっかり恐怖の色に染まっていた。

 自転車を反転させ、全速力で帰路を辿った。逃げ帰った、とそれを言い換えてもよい。

 家に駆けこむと、母がまだ起きていた。

 おかえり、と欠伸をしながら、もう寝るね、と居間をでていこうとする。

「見た」

「なに、大声ださないで」

「見たんだってあれを」

「どれよ」

「幽霊」と口にしてから、顔が熱くなる。ずいぶんと幼い言葉に感じた。

 母は目をぱちくりさせると、あらホント、とだけ言って、どんなだった、と食いついた。

「見えなかったんだけど、服と靴だけが動いてて」

「透明人間ってこと?」

「そうだけど、そうじゃなくて」

 人間の気配はなかった。人間ではなかった。

 透明なのではない。

 そこにいないのだ。

 それだけがたしかなことに思われた。だが、現にああして目のまえで立体として、実物として、動かれたら信じないわけにはいかない。

「じゃあ本当にいたんだね、オバケ」

 母は腕で肩を抱き、おーコワ、と言って、気をつけなさいね、と主語の曖昧な言葉を残し、扉の奥に引っこんだ。そのあとで、そうそう、と扉の合間から顔を覗かせ、塩なら台所にあるからね、と念を押して、こんどこそ自室のある階段へと吸い込まれていった。

 塩が台所にあるのは知っているし、あったからなんだというのか。

 葬式ではないんだぞ。

 思いながらも、いちおう口に含み、水で流しこむ。

 しょっぱ。

 風呂は不気味なので、朝に入ることにした。母を見習い、寝床に潜りこもうと思ったところで、弟の部屋の明かりが目についた。

 ふと、思いだす。

 幽霊を信じない人間が多いことに不満があるような旨を以前言っていた。記憶違いだろうか。いいや、たしかに言っていた。認知の歪みがどうのこうのと、弟には珍しく長々としゃべっていたように記憶している。

 きょうの体験を話せば、きっと興味を持つだろう。弟のことだ、そうなれば正体を暴こうとするだろうし、そうでなくともじぶんの目で確かめようとするはずだ。

 扉をノックし、まだ起きてるか、と声をかける。

 扉から光が漏れ、開いた隙間に弟の顔が覗く。隙間は狭く、むにゅっとじぶんより遥かに小さな穴に顔を突っこむ猫じみている。

「聞いてくれ、さっきな、帰ってくるときに幽霊見てな」

「幽霊は信じないんじゃなかったの」

「お、おう。そうなんだけど、もちろんあれが幽霊だと決まったわけじゃないんだけど」

「幽霊じゃなかったの」

「いや、わからん。ただ服だけ宙に浮いてて、足も見えないのに靴は歩いてて」

「それは幽霊なの」

「さあな。ハカセはどう思う」

「兄ちゃんはどう思ったの」

「オレは」

 そこまで口にして、弟の語調がいつもと違うように感じた。何かこう、こちらに言わせたい言葉があるような、誘導尋問じみた口調に思えた。

「幽霊じゃないのかもな」オレは言った。

「じゃあ、なんなの」

「ハカセも見たらいい。まだその辺うろついてるかもな。いっしょに行ってみるか。探しに」

「ううん。やめとく」

「怖いのか」

「意味ないから」

「ひょっとしてだけど」脳裡に浮かんだ閃きを突きつけてみる。「おまえのイタズラってことはないよな」

「イタズラ?」

「なにか、そう、たとえば服だったら、小型のドローンを操ればそういうふうに演出できるんじゃないか」

「できるだろうね。靴は?」

「靴は、それもなんだ、こう、カエルロボットみたいに跳ねるように細工すれば不可能じゃない気がするな。うんハカセ、おまえならそういうの得意だろ。つくれるんじゃないのか」

「つくれるよ。プログラムして、靴と服の動きを連動させて、障害物を避けるように設定して、自動でそこらを散歩させるようにする。ロボットを一体つくるよりも安上がりで手間がない」

「連結できるなら、行列だって作れるよな」

「できるだろうね」

「で、何がしたかったんだ、そんなもん作って。近所のひとたちまで怖がらせて、これはイタズラじゃ済まされないぞ」

「認知の歪みの話は前にしたよね」弟は誤魔化そうともせず言った。「人間は偏見の塊で、目のまえの現実すらまっとうに認識できない。じぶんの都合で捻じ曲げてしまう」

「だから?」

「幽霊を信じてないのに、目のまえで幽霊としか思えない現実を見たら、それが本当は幽霊ではないのに、幽霊だと思いこむ。幽霊なんて信じない、と言ってきかないひとたちですら、ほかに幽霊の目撃譚があるというだけの脚色の補強で、やすやすと現実を見失う。間違った解釈を、現実だと思いこむ」

「それを証明したかったってか」

「ううん。可能性を言ってみただけだよ。兄ちゃんがぼくにそう答えてほしそうだったから、そう言ってみただけ。ぼくがイタズラしたって兄ちゃんは決めつけているけど、証拠はあるの」

「ないな。わかったよ。わるかった」

 悪魔の証明だ、と思う。弟がイタズラしたかもしれない、と主張したければ、そう主張するこちらのほうでその証拠をださなければならない。弟のほうではイタズラをしていないことを証明はできない。いや、できないことはないが、ものすごく手間がかかる。悪魔の証明になるからだ。

「でもいちおう、疑いは晴らしておきたい。ちょっと部屋を見せてもらっていいか」

 弟は頑なに、扉をちょっとしか開けずに対応している。何かを隠していると訝しむには充分な格好だ。

「いいよ」

 弟は扉から離れ、隙間を広げる。

 部屋のなかに目を転じる。

 工具や、制作途中の機械が雑然と散らばっている。いまから巨大なロボットを組み上げます、と言われたら信じてしまいそうな物量だ。

「幽霊はいないか」

「もしぼくが死者の魂を呼び寄せる機械を作ったって言ったら、兄ちゃんは信じる?」

「ハカセ、おまえならそれもあり得そうだな」

 邪魔してわるかった、と踵を返し、部屋をあとにしようとしたとき、廊下を、半透明の何かが通り過ぎた。

「おい、見たかいまの」

「なにを?」脇から弟が顔をだす。

「いま、何かいた」

「服が浮いてた?」

「いや、服じゃない。半透明の白いモヤみたいのが」

「幽霊?」

「わからん」オレはそう言うしかなかった。

「ふうん」弟は廊下をひとしきり見渡すと、じゃあおやすみ、と部屋に入り、扉を閉めた。扉の奥に顔が消える間際、ぼくなら、と弟の声が聞こえた気がした。「ドローンやカエルロボットなんか使わないのにな」 




【扉はまだ燃えている】


 いとも容易く燃えた。炎が扉を覆い尽くす。ずいぶん呆気ない幕切れに思え、もっとはやくこうしていればよかったのだと、じぶんの魯鈍さを遠い景色のようにぼんやりと思う。

 思いだせるなかでもっとも古い記憶は、水の国だ。そこが初めではなかった。長いあいだ旅をしてきた。

 じぶんの生まれ育った世界はべつにあったはずだが、いまではそれも曖昧だ。じぶんがいったいどの世界の住人だったのか記憶がだいぶ入り乱れている。

 扉だ。ただそれだけが確かだった。

 炎が目のまえで揺れている。

   ***

 扉を抜けると暖かかった。水の国だ、とまずは思った。一つ前の世界でも悲惨な思いをしていたはずだが、それ以前の記憶はやすりをかけたみたいにざらざらしていて、すりガラス越しに見た景色のように不明瞭だ。

 逃げるように扉をくぐった。その焦燥感だけを思いだせる。

 振り返っても扉はすでに閉じている。くぐると扉の内側に黒い膜が張る。いつもそうだ。入ることはできても、戻ることはできない。

 扉はべつの世界への入り口だ。どんな世界に繋がるのかを選ぶことはできない。たいがいは碌な世界ではない。死と隣り合わせの過酷な世界だ。

 その日は水の国だった。

 辺り一面が、水柱に包まれている。一見すると無数に屹立する竜巻のようだ。まるで水の森だ。水柱が風に煽られ、揺れている。蛇口を上に向けて水を放射するのとは違って、水柱は地面から生え、グミのように、たぽたぽと浮遊しているようだった。一種、そういった風船のようでもある。

 高い。見上げていると足元がくらくらした。

 気候は安定しており、大気が薄いせいか、明るい割に空は漆黒で、宇宙が透けて見えた。

 しばらくここにいよう。

 思い、扉を隠しておこうと目ぼしい場所を探す。

 手ごろな窪みを見つけ、地面に倒して扉を置いた。

 たしかそのときだ。悲鳴のようなものを聞いた。

 断末魔だ。

 似た声をすでに耳にした憶えがあったのだろう、容易にそうと推し測れた。

 誰かが苦しんでいる。否、助けを求めている。

 水の森に視線を走らせる。右にいき、左にいき、もういちど右にいって、何者かの影を捉える。

 そのあとの記憶は覚束ない。誰かが苦しんでいた。傷ついていた。じぶんにはどうにもできず、逃げるようにその世界を去った。

 何か凄惨な出来事があったのだ。その世界の住人との縁を深める前に、扉をくぐった。

 安住の地を求めようと明確に目的を持ったのがこのときだった。だから憶えている。

 どの世界も、二つとして同じ環境はなかった。だが往々にして、困っている住人を見掛けた。助けようと首を突っこむことのほうが多いが、たいがい碌な目に遭わない。危険な目に巻きこまれるだけならまだよい。助けた相手に命を奪われそうになるなんてことは数知れない。それでも、目のまえで悲鳴を聞けば、身体のほうがかってに動く。

 無視できない。

 見て見ぬふりをすることで、じぶんの目的から遠ざかるような強迫観念に衝き動かされていたのだといまなら判る。必死だったのだ。

 この宇宙は、黙っていれば混沌に向かい、崩壊に向かい、無秩序へと向かう。そんななかで、命という仕組みを、回路を、システムを得た者たちがいる。生きる者たちがいる。そうした者たちのみが、秩序を築いていける。

 崩さずに、守っていける。

 その芽をじぶんで摘む真似だけはできなかった。看過することは、安住の地をみずから擲つ暴挙に思えてならなかった。

 青かった。幼かったのだ。いまなら、無為で無駄な、ゲン担ぎほどの意味合いもないと判る。関係がないのだ。世界は独立して存在している。繋がってはいない。

 否、扉をくぐる者だけが移ろい、流れていく定めにある。

 たしかあれは不死身の種族が暮らす世界に辿り着いたときのことだ。死ぬ不安を持たぬ種族と接点を持ってしまい、なんやかやして重傷を負った。死線を彷徨った。治療どころか看病すらしてくれない住人におそれをなし、いそいそと扉をくぐり、その世界を去った。

 もう死ぬしかないと諦めていた。だがべつの世界へと飛んだ途端に、傷は消え、また元の健康な肉体を取り戻していた。

 そのとき知った。

 扉は、傷を癒すのだ。

 思えば、食事もそれほど頻繁に摂らずに済んだ。眠気も勃然と湧くこともあれば、いつまでも寝ずに済む日もあった。振り返ってみればすべて、扉を短時間でくぐったときに、そうした超人的な回復を得ていた。

 たいがいの世界が、長時間いたくなるような環境ではなかった。ゆえに長くとも二、三日で世界を去った。一日以内に移動することもしばしばだ。

 扉を放置して世界を探索するほどお気楽ではない。扉が壊れてしまえば、それまでなのだ。もう二度とほかの世界へ移ることができない。

 深手を負えば命にかかわる。

 ますます扉から離れられない日々がつづいた。

 引きこもりと変わらないのではないか、としばらくして思うようになった。模様替えのいそがしい部屋にいるようなものだ。扉の近くで、世界を眺め、カレンダーをめくるように、つぎの景色を眺める。

 即死するような環境に飛ぶことはなかった。食べ物に恵まれた環境もあれば、砂漠のような荒野の延々とつづく世界もあった。その世界固有のモノを食べても、これといって腹はくださなかった。

 或いは、扉をくぐるごとに、そのさきの世界に適応した肉体に変わっているのかもしれなかったが、たしかめる術はなく、たしかめたところで何か意味のある解明でもない気がした。

 安住の地に行き着くまでただひたすらにクジを引くような時間の過ごし方をした。

 いちどだけ、ここだ、と思う世界に行きあたったことがある。直線的な住居が隙間なく地上に並び、天まで届くような高い建造物まである。なぜだかその世界に住人はいなかったが、保存食だろうか、食料が一か所に集められ、そうした場所が探せばいくらでもあった。

 住人がいないお陰で、警戒せずに済んだ。扉を住居のなかに運びこんだら、ほとんど気兼ねなく日々を過ごせた。ずいぶん長いあいだその世界で過ごした。どうやらその世界の文明は、これまで見てきたなかでずば抜けて進んでいるようだった。

 その世界の住人たちの姿だろうか、まるでそこに存在するかのように動きを再現する技術まであり、巨大な生き物と戯れたり、ときに戦ったりと、眺めているだけで飽きない「偽物の空間」をいくつも観ることができた。

 それはときに壁に映しだされたり、部屋の空間そのものを埋め尽くすように湧きあがったりといくつかの種類があった。いずれも、同じ場面を繰り返し目にできた。

 言語が異なるのか、何をしゃべっているのかは分からなかった。絵のような明らかに偽物のものまで自由自在に生きているように動いていたので、いったいどこまでが本当の出来事なのか、記録なのか、と真偽を見極めるのに苦労した。おおむね、偽物かもしれない、と結論付けてしまえば、悩むことはなくなった。

 楽しむためのものなのだ。そうした技術が、ほかにもたくさんあった。

 衣食住、そして安全、さらに退屈しない技術がよりどりみどりとくれば、もはや扉をくぐってほかの世界に移る必然性はなくなった。

 本当にずいぶんと長い期間、その世界で過ごした。

 年を重ね、手の甲にしわが浮かび、体毛の色が薄くなってきたころ、体調を崩した。

 日に日に悪化し、いよいよ死ぬのだと思うと、怖くて、怖くて、堪らなくなった。

 死にたくないと思った。

 生きたいと思った。

 そんなふうに、さきのことを思うのは初めてのことのように思える。

 気づくと、すっかり訪れなくなった開かずの間然とした部屋へと這っていた。そこには埃を被ったままぽつねんと佇む扉がある。

 手を伸ばす。

 鏡のようだ。

 扉の内側を塗りつぶすように黒い膜が垂れている。ゆびさきで触れると、水が湧くように澄んでいき、瞬きをしたつぎの瞬間には、見たことのない景色がぽっかりと目のまえに広がる。

 考えるよりさきに足を踏みだしていた。死への恐怖、身体の痛み、老いへの焦りがそうさせた。

 はっとして我に返るが、もう遅かった。

 あの世界こそが探し求めていた安住の地だったのかもしれない。失ってから後悔の念に苛まれた。

 扉をくぐると、老いすらも消えた。

 ふりだしに戻った。

 希望はあった。しばらくのあいだはまた、安住の地を求め彷徨ったが、いちど味わった喪失の傷は、刻々と身体を奥底から蝕んでいった。

 同じ世界に回帰することはない。経験則でしかなかったが、嫌というほどそのことだけが日に日に、覆らぬこの世の真理のように確かな輪郭を帯びていく。

 世界は無数に存在するが、それゆえに、いちど去ったらもう二度とその地を踏むことはない。

 安住の地にいちどでも辿り着いてしまえば、あとはもう死ぬか、失うかの二つに一つしかなかった。

 生への執着はない。だが、安住の地に行きつけば、そこで過ごすうちに、また着実にその芽は萌え、根を身体に巡らせ、また同じ轍を踏ませるのだろう。

 死にたくないがゆえに、無限回廊へと飛びこむ失態はもうこりごりだった。

 終わりたい。

 死にたいでも、生きたいでもなく、終わらせたかった。

 この、終わりのない無為な日々を。

 目的は気づかぬうちに変わっていた。安住の地はもういらぬ。

 その日、扉をくぐると、もうひとりのじぶんが、向こう側からべつの扉をくぐりぬけてくるところだった。

 じぶんと対面する。

 世界に、二人きりだった。

 しばらくもうひとりのじぶんと共に過ごした。誰かとしゃべるのは本当に久しぶりのことのように思えた。独りごとには慣れていたが、それと意思疎通のための言葉はまた別なのだと知った。しどろもどろで、言いたいことと聞きたいこと、じっさいに口にだしている言葉がちぐはぐで、もし相手の言葉も似たようなものだとすれば、歌を代わりばんこに披露しているのとそう変わらない。お遊戯だ。

 さすがはじぶんというべきか、それなりに言葉を交わすと、波長が合ってくるの感じた。

 通じ合う心地よさ、よろこび、そうしたとっくに失っていた感覚を思いだした。麻薬のように言葉は止まらない。

 語りあううちに、互いに、いくつかの相違点が見つかった。

 同じ記憶を持ち合わせていることもあれば、こちらだけが体験した過去があり、同時にこちらが体験したことのない記憶を相手が持っていることもある。

 まったく同じではない。当然と言えば当然だ。ひょっとしたら、何かしらの生き物がじぶんに化けている可能性だってある。そういった議論も重ねたが、確かめようもない。やはり別の世界を旅した、もうひとりのじぶんなのだ、と結論付ければ、ひとまずの混乱は治まった。悩むだけ無駄だ、と口を揃えて言ったときに、この議論は帰着した。長い旅で身に着けた、それがじぶんなりの人生訓だった。

 相手はまだ、安住の地と思える世界に行き着いたことはないらしく、やれやれだな、と苦笑したその顔には、星のようなかすかでありながらも、悠然と輝く光を見た気がした。

 ひとしきり語り終えると、相手は、お腹が減ったな、と辺りを見渡した。

 いっさいが面だ。

 足場が白く、それ以外が灰色に染まった世界だ。以前に踏み込んだことのある、完全な闇、無の世界を彷彿とする。白い紙に線を一本引いただけのような、無限に同じ景色のつづく世界だ。何もない。奥行きだけがある。空間だけがある。無ではない、というだけの、余白のような世界だった。

 この世界に、食べ物は期待できない。

「いっしょに行かないか」もうひとりのじぶんが言った。相棒がいるのは、たしかに楽しそうだ。そういったことを告げ、それから、無理だろう、と言った。それは相手も解っているはずだ。

 扉は、一人しか通れない。

 その世界の住人を連れてはいけない。過去に幾度も試み、痛感してきたことの一つだ。我々は孤独に生きるしかない。

 宿命だ、と口にすると、もうひとりのじぶんが無言で手を差しだした。別れの握手かと思い、その手を握ると、抱き寄せられた。温かい。そんなことも忘れていた。

 また会おう。

 そう言って、もうひとりのじぶんは扉の奥へと去っていった。呆気ない別れだが、過去幾度も繰り返してきた一つでしかない。

 扉自体はこの世界に残った。くぐったあとで、本人だけがべつの世界へと飛ぶらしい。細長い四角が頼りなく立っている。黒い膜も垂れていない。空虚がぽっかりと開いているばかりだ。

 これまで残してきただろう無数の扉の残滓を思い、それだけでひとつの世界を築けるくらいの質量があっただろうな、と想像を逞しくする。

 ほかにも無数のじぶんがいるのだろう。無数の世界があるように。

 そう考えると肩のチカラが、すっと抜けた。

 扉のまえに立つ。じぶんの愛用の扉のほうだ。

 ポケットから、ちいさな四角い箱を取りだす。かつて行き着いた安住の地で手に入れた品だ。

 その側面をゆびで押すと、ぼっと音を立てて、火が灯る。ゆびの押すちからをつよめると、火柱は太く、炎となって、辺りを明るく照らした。

 口笛を吹いている。

 炎のさきを扉に当てる。炎が広がり、扉を覆い尽くす。パキパキと音を立て、扉は黒く、細く、焼けていく。

 うつくしい、と思う。

 もうひとりのじぶんの残していった扉を、地面に横たえ、その枠のなかに寝転んだ。

 棺桶、とつぶやく。何のためのもので、なぜそれをじぶんが知っているのかすらもはやあやふやだ。

 炎の爆ぜる音がする。

 奥行きだけがどこまでもつづく余白じみた世界のなかで、目をつむる。

 あとはしずかになるのを待つだけだ。

 しばらくして、寝返りを打つ。

 それにしても焦げ臭い。

 息を止めるが、苦しくなって、ふたたびしぜんとしてしまう呼吸のままならなさに、咳きこみながらほころびる。

 扉はまだ燃えている。




【空の破片】


 空から空が落ちてきた。なんて書くと、どうせ「空」という名前の人物やペットが落ちてきたのだろう、と勘繰られそうだが、そうではない。

 歩いていたら落ちてきたのだ。

 空が。

 最初は、飛行機の部品か何かだと思った。次点で、竜巻に煽られて飛んだ建物の一部か何かだろうと考えた。板状の端末の可能性を思いつき、そうだそうに違いない、と早合点したが、これは致し方ない。なにせ落ちてきたのは、空そのものではなく、空の一部だったからだ。

 破片だった。

 本を開いたくらいの面積しかないそれは、地面にコツンと当たって、ぱふんと倒れた。拾いあげてみると、青く、ただ青く、冷たかった。

 縁を持てば、拾いあげることはできる。しかし縁の内側には果てがなかった。否、奥行きがあった、と表現するほうが正確なところだろう。手のひらサイズで助かったと思う。落ちてきたそれが人間をまるっと覆い隠せる大きさだったならば、穴に落ちるように空へと投げだされていてもおかしくはなかった。破片が、街の大きさだったなら、街そのものがここから消えてなくなっていたかもしれない。

 落ちてきたのだからきっと、この破片の大きさに、空の一部が欠けているはずだ。剥がれ落ちたのだ。

 そこはどうなっているのだろう。

 想像しながら家に戻り、空の破片を壁に立てかけた。風こそ吹かないが、空気は流れている。冷蔵庫を開いているみたいに、そよそよと冷気が漂って感じられる。部屋の気圧のほうが高いからきっと空気が向こう側に抜けていくのだ。

 勢いよく抜けていかないのはなぜだろう。縁に触れられることと何か関係があるのかもしれない。

 魔法のようだと思い、魔法なのかな、と唇をとがらせる。

 部屋に窓が一つ増えたくらいの変化しかない。

 窓を開けずとも換気ができて、涼しくて、いつでも青空が見えて、時間帯によっては星がきれいだ。見える範囲に太陽が映らないものの、ときおり眩しく、そういうときは布で覆ってしまう。

 あべこべに、お月さまがよく見えるので、夜は部屋の明かりをつけなくても本が読めてしまえるくらいだ。ちょっとした天然のランプの役割を果たしている。

 部屋に友人がやってくると必ず、なにそれ、と言われた。隠すのも何か違う気がしてそのままにしていたが、毎度のことながら説明に困る。

「こういう空気清浄器って言ったら信じてくれる?」

「いやあ、無理っしょー」

 友人たちは一様に、いいなあ、いいなあ、とうらやましがった。

 拾ったと正直に明かすと、それ以上の説明を求めてはこずに、ネコババー、とこちらを小馬鹿にし、もう一個拾ったらわたしにもくれ、と面の皮がどれほど厚いのかをゆびでつまんで見せてくれた。

 いちど生活に取り入れてしまうと、魔法としか思えない現象も、文明の利器との区別がつかなくなる。現代ではもはや、空の破片よりもよっぽど不可思議な技術の結晶が、そこかしこに散在している。いつでも空が見える、程度の魔法では、もはや霞んで見えるくらいだ。

 現に、友人たちもつぎに部屋にやってきたときには、空の破片の話題には触れもしなかった。まだあるんだねぇ、くらいがせいぜいだ。捨ててないんだねぇ、のニュアンスがそこには含まれている。

 空の破片が、空から剥がれ落ちたものだとの認識がすっぽり抜け落ちてしまうのにそう時間はかからなかった。元から部屋にはちょっとふしぎな窓が一つあるんだよ、くらいの認識に落ち着いていた。

 だから、全世界の大気濃度が年々減少傾向にある、ある年から急激に減りはじめたのだ、との特集番組や記事を見掛けるようになって、あれ、と血の気が引いた。

 これひょっとして、これのせいじゃない?

 壁の一部と化して久しく、窓としてもいっぱしの風格が宿りはじめたそれを見る。

 空の破片なのだから、もちろん剥がれ落ちた場所があってしかるべきだ。そこにはいったい、どんな穴が開いていて、その穴はいったいどこに通じているのだろう。

 考えだすと、冷や汗が止まらない。

 空の破片に顔を近づけ、はぁすずしい、なんてやっている場合ではない。

 友人からもそれとなく、電波越しのやりとりにしろ、あれのせいだったりして、と指摘されはじめもして、いよいよ放っておけなくなった。

 名残惜しいが、さらばだ。

 空の破片をワンコインの郵送パックに詰め、然るべき機関へと、匿名で送りつけた。拾った場所の地図もいちおうつけた。バツ印をつけておいた。

 気づいてくれ。

 気づくはず。

 そうでなければ大気はこのまま抜けつづけ、この星から生命の息吹が消えてしまう。

 じぶんのせいではないはずなのに、大罪を犯してしまった気がしてくる。

 否、じぶんのせいなのだろうか。因果関係はないはずだ。そのはずだ。

 空の破片を拾っただけだ。それと人類存亡の危機は関係ないかもしれないし、やっぱりあるかもしれない。

 ひょっとしたら、と思う。ほかにも全世界で同じように、空から破片が剥がれ落ちていたのかもしれない。それはそれは大きな穴が開き、空気が抜けているのかもしれなかったが、そのことに世界中の専門家が気づいている素振りは、すくなくともどの報道機関の記事からも窺えなかった。

 やるべきことはした。あとはなるようにしからなん。

 思い悩むのにも疲れ、腹をくくった。

 人はいつか死ぬ。

 みな、すまん。

 開き直ると、あとはもう、新鮮な空気を吸ったように清々しい心地で日々を生きた。現実逃避をするには、現実をよく生きるのが一番だ。悩まず、考えず、その日、そのときが楽しければいいの精神だ。

 世界中の大気が減りつづけている、なんて壮大な問題は、複素数が何かもろくに言えない一般人には手に余る。虚数すら曖昧だ。

 ある日、友人たちからいっせいにメッセージが届いた。ニュースを見たか、とある。おまえあれはどうした、ともあり、嫌な予感を胸に、ニュースを漁った。

 どのニュースも、世界中から空が崩壊しつつある旨を告げていた。

 映像がある。

 再生し、そのあまりの現実感のなさに、言葉を失う。

 世界中の空という空が、ぱりぱりと細かくひび割れ、落下していた。まるでジグソーパズルだ。ピースがつきつぎと剥がれ落ちていく。

 雪のようだ。

 地上へ、ときに海面へと、空の破片が無数に舞い落ちていく。

 その日のうちに、ひと月持たないだろう、と政府が発表した。地下へと潜るしかない。元からその構想はあったのだろう、すでに全国民を収容できるだけの空間は確保してあるという。ただし住居が足りない。準備が整うまで、家のなかにいてください、と政府は訴えていた。

 地上に落ちた空の破片をできるだけ回収する計画も発表された。それを一枚一枚、国民へと配布し、薄い空気ではあるが、そこから呼吸に必要な大気を得て、生き永らえていきましょう、との方針を告げている。

 バカげている。

 そんなのは、空の破片を知らない人々を欺くための方便にすぎないことは、現に数年の期間、それを生活の一部に取りこんで過ごしたじぶんが身に染みて知っている。

 空の破片から空気は得られない。なぜなら、空にあるはずの大気そのものが、現在進行形でこの星から抜け落ちているからだ。同時に、地上の空気も薄くなり、やがてはどちらともに底を尽く。

 地下で植物を育て、或いは何かしらの技術で呼吸に必要な大気を生成しないことには、どうあっても人類は滅ぶしかない。

 それをいま国民に告げるのはたしかに酷であり、政府のとるべき態度ではない気もしたが、事実は事実として公表してほしかった。

 無駄に希望を植えつけられても、あとで失望をするだけだ。誤った情報をもとに行動すれば、いずれ道は行き詰まり、進んできた道が破滅の道だと知って、絶望する余地を深めることになる。

 信じてきた道が、やっぱり嘘でした、いままでのあれは間違いでした、と言われて崩される景色は、空の崩壊に匹敵する。

 ではどうすればよいのか、は解らない。

 ただ、いまは残された大気を使い、今後をどう生き延びていくか。それを一人一人が知恵を絞って、だしあって、考えていくしかない。

 地下に行くにしろ、部屋にこもるにしろ、足りないものがありすぎる。自分一人でできることには限りがあるが、だからこそ、空の破片を拾い集めるくらいのことはできるかもしれない。

 いまは無駄に思える空の破片も、いずれは地下の天井に貼りつけて、第二の天空としてしまえば、なんとかやっていけそうに思えないこともない。

 ひょっとしたら、と閃いた。すでにこの空は、とっくの昔に崩壊していて、それを掻き集め、繋ぎ合わせた人々がいたのかもしれない。

 剥がれ落ちた空の跡には、深淵な宇宙は垣間見えず、黒曜石にも似た漆黒の光沢が、細胞のごとく、ぎっしりと並んで見えている。




【木漏れ日はニコニコと】


 仕事帰りに公園でぼぅっとする。ことしに入ってから気づくとこうしている。日課と言ってもよいかもしれない。

 世界的に深刻な自然災害が長期化し、社会の有様も変化しなきゃいけない、といった否応のない流れを肌身に感じている反面、所属している会社の風習は一向に変わる気配が窺えず、世界がこんなにたいへんなときですら、ふだんどおりに出勤し、働き、そのくせ悪化していく経済の影響だけは順調に受けているうえ、ことしのボーナスの減給は免れない。

 いったい何が楽しくてこんな日々を送っているのか。

 いっそ会社を辞めてしまいたかったが、辞めるだけの蓄えがない。失業保険をあてにして、まずは退職してしまうのも一つの道だが、そこまでの踏ん切りはつかなかった。

 ベンチに腰掛け、漫然と揺れる木々を眺める。

 だいたい一時間くらいはこうしてただ風の流れや、雲のとろみのある変遷、影の移ろい、鳥の弾丸のような飛行とそれに当たったら痛いだろうな、という至極どうでもいい妄想をつれづれと浮かべながら、徐々に冷えていく日向から、夕闇の気配を感じる。

 肌寒いと思ったのを契機に席を立ち、家路につく。

 なんでもない時間だ。だが、その時間だけが、救いに思えた。

 彼女の姿が気になりはじめたのは、公園に寄るのが日課になってからひと月は経ったころだ。週に三回ほど、同じ時間帯に、幼児を連れて散歩をしている女性を見掛けた。

 これまでにも通っていたのだろう。同一人物だとかってにこちらが記憶しているだけだ。同じように、犬の散歩を日課にしているだろう人たちにも、いっぽうてきに顔馴染みのような親近感を覚えていた。

 とくに気に留めてはいなかったが、幼児のほうが手を振ってくる。いくどか振り返すと、もう女性のほうとも会釈をする仲になっていた。

 女性はマスクをしているので身体の輪郭と、目元くらいしか見えないが、母親にしては若い部類だろうと思われた。

 とくに何も思わない。幼児の愛らしさには一瞬の和みを覚えるが、池にいるカモもまたかわいらしい。池を覗くといまの時期はオタマジャクシが泳いでおり、夕方にはカエルの鳴き声で辺りが賑わう。

 休日に家にいても精神が腐敗していく。初夏に差し掛かるころには、休みの日でも公園のいつもの場所でぼぅっとするようになった。木陰が心地よい。

 コンビニやジャンクフード店で、食料を買っておき、ちょっとしたピクニック気分でベンチに腰掛け、暇、を満喫する。

 仕事がある日々を日常と呼ぶのならば、こうして暇とは何かを身体いっぱいで実感できる時間は、非日常と言える。映画や漫画の虚構ほどに、精神の自浄作用がある。

 ピコピコ、と音が近づいてくる。来たか、と身構える。ここ数回ほどのあいだに幼児は、新しい靴を履きはじめたようだ。歩くたびに愉快な音が鳴る。

 幼児はしゃべらない。戸惑いがちに、こちらとまだ距離のあるところで立ち止まり、窺うように視線をじっと送る。

 笑いかけると、ニコっとするので、一種そういうオモチャのように感じるが、これは不謹慎だし、彼に失礼だろう。かわいい顔をしているが格好から窺うに、男の子だ。断言はできない。以前、結婚式で、どう見ても女の子にしか見えない格好をしていた子どもがいた。髪は背中まで届き、スカートのドレスを身にまとい、クマの人形を肌身離さずに抱っこしていた。言ってしまえば絵本のなかのお姫さまといった服装だった。顔も整っており、子猫のように愛嬌があった。あとでそのコが、女の子の格好の好きな男の子だと知って驚いたものだ。まだ小学校にあがる前だというのに、服装はじぶんで選んでおり、親の趣味ではないのだ、というところまでを、結婚式の主役たるお婿さんからあとで聞いた。どこまで本当かは知らないが、いずれにせよ、見た目で性別を判断できない時代なのだ。

「すみません」

 母親らしき女性が寄ってくる。かってに彼女のことも女性だと思っていたが、じつは父親かもしれない。

 女性は幼児を抱っこし、ほらバイバイは、とこちらに媚びを売るように促す。この日彼女は、頭に蝶のリボンのようなものをつけていた。らしくないが、似合っていたので、

「かわいいですね」世間話のつもりで言った。

「ありがとうございます。でもこう見えてやんちゃで。外だとおとなしいんですけどねぇ」

 幼児のことだと判る。

「そうではなく」じぶんの頭をゆびで差し、ステキなリボンですね、と言って見せる。彼女ははっとした顔になって、おもむろに、おっかなびっくりといった手つきで、自身の頭に触れた。

「あぁー」

 濁音のついていそうな声をあげ、彼女は、もう、と頬を膨らませる。それはもちろん幼児に向かって、めっ、と叱りつけるためなのだろうが、ずいぶん幼い感情表現に、思っていた以上に若いのではないか、と認識を改めた。

「本当にイタズラ好きで」これはこちらへの釈明のようだ。彼女は頭から外した蝶のリボンのようなものを差しだしてくる。

 逡巡したが、受け取らないのも失礼に思い、ゆびでつまむと、思いのほか精巧なつくりで驚いた。

「出かける前に遊んでいたので、すこし嫌な予感はしてたんですよね。油断も隙もない」

 イっくんでしょつけたの、と幼児の鼻をつまむ。幼児は、ニコ、と笑うだけで反省の色は窺えない。それからイっくんと呼ばれた幼児はじたばたもがき、地面に下りたがった。女性は片手で器用に抱っこしていたが、抗いきれずに、ちいさな怪獣を解放した。

「あ、こらこら」

 イっくんはベンチのうえのコンビニの袋を漁った。こちらの私物だ。お腹が減っているのかもしれないと思い、あまり褒められた所業ではないが、食べますか、と未開封の菓子パンを差しだす。もちろん母親たる彼女の許可を得なければあげてはならないことくらいは承知だ。アレルギーを起こされたらたいへんだ。無闇に子どもに食べ物をあげてはいけない。

「いえ、申しわけないので」

 まあそうだろうな、と菓子パンを引っ込めようと思ったところで、盛大にお腹の音が鳴った。ぐぐぐぅー、とバネの縮まるような快活な音だ。イっくんがじぶんのお腹を押さえるが、音はもっと上のほうから聞こえた。

「すみません」彼女は顔を赤らめる。

「食べきれなかったので、もしよろしければ」

 菓子パンを差しだす。彼女はしばし考えこんだが、ちょっと待っててください、と言ってその場を離れた。イっくんをベンチに置いていったので焦ったが、すぐに戻ってくる。見える場所にあった自動販売機でお茶とジュースを買ってきて、途中の水道で手を洗ってから、どっちがいいですか、とベンチに座った。差しだされたペットボトル飲料のうち、お茶を受けとる。

 彼女はイっくんを膝のうえに載せ、すみません、とこちらに会釈すると、いただきまーす、と袋をあけた。イっくんの顔のまえに千切ったパンを持っていくと、イっくんはそういうオモチャのように、やはりこれは失礼な形容になるのだろうが、ぱっくんと頬張った。

「おいちいねぇ」彼女はイっくんが口をもぐもぐ閉じているあいだに、パンを半分食べてしまった。

「いつもいますけど、お散歩ですか」彼女が言った。暗に、わけありなのか、と訊かれたようで恥辱の念が湧く。

「そんなもんです。風が気持ちよくて、つい」

「わかります。解放されたー、自由だーって感じしますよね」

 まさにそう感じていたので、おまえもか、といった目で見てしまった。同族を発見した砂漠のペンギンの気持ちが解るようだ。

「お子さん、何歳ですか」ほんの世間話のつもりで言った。

「イっくんですか? 今年たぶん四歳じゃないですかね。うん、四歳だ」

 言い方が引っかかる。黙ってしまったからか、彼女はこちらの意図を汲んだようで、

「ああ、息子ではないです。甥っ子です。いまほら、たいへんじゃないですか」

 主語が抜けていたが、おそらくは世界中を襲っている自然災害のことを言っているのだろう。社会が混乱しているなかで、やっぱりたいへんな目に遭っているひとたちはすくなくない。

「姉の子で、暇な私といっしょに遊んでくれるんですよね。ね? そうだよねー」

 イっくんは、真剣な顔で、残りのパンを齧っている。よほどお腹が空いていたのかもしれない。喉が渇いただろう、と思い、未開封だったお茶を差しだすと、イっくんはかぶりつくように、それを飲んだ。

「こらこら、それはお兄さんのでしょ」

「いえ、いいんです」

「すみません」

 彼女はイっくんからお茶のペットボトルを奪い取ろうと腕に力を入れるが、イっくんは頑なに手放そうとはしなかった。巨大なタコの吸盤じみている。愉快な心地に、胸がくすぐったくなる。

 しばらくするとお腹いっぱいになって満足したのか、それとも飽きたのか、イっくんはベンチから下り、こちらに手を振った。

「あの、ありがとうございました」彼女は立ちあがる。イっくんはすでに道のさきにいた。「では、また」

 イっくんに追いつくと彼女はそのまま二人仲睦まじく去っていった。

 また、と彼女は口にしたが、もちろん真に受けてはいない。ついそう口を衝いてしまうことはある。

 翌日も、その翌日も、同じベンチで夕陽を眺めた。

 彼女とイっくんは現れなかった。

 いつもよりじぶんが長くベンチに座っている気がしたが、日が長くなった分だけひなたぼっこの時間が伸びただけだろうと解釈する。とくに何かを期待していたわけではない。そのはずだ。

 思うが、これまでのようにスッキリした心地で公園を離れることはできなかった。そんなじぶんに失望した。もう公園に行くのはやめようとすら思ったが、それは誰にというわけではないにしろ、当てつけのように思えた。

 単なる気晴らしだ。

 多忙で殺伐とした日々の合間に、暇とは何かを思いだすためにも、やはりあのベンチでのひとときは貴重だった。

 考え直し、日課はつづけた。

 つぎの週の日曜日に、彼女は公園にやってきた。ベンチで雲を眺めていたこちらのとなりに、どすんと、わざと気づかせるようにして座った。じっさいそうされるまで接近に気付かなかった。

 居住まいを正す。彼女はニコニコしながら、おはようございます、と言った。いつも被っていた帽子はなく、団子に結われた髪の毛が陽の光を受けて、水面のように輝いている。

 こちらがきょろきょろしたからだろう、

「きょうは一人です」

 彼女は言った。「姉も休みの日くらいは息子と遊びたくなったみたいで」

「イっくんはじゃあさみしがるでしょうね」

「そうでもなかったですよ」

 むつけたように唇をとがらせる彼女の物言いがおかしく、頬がほころびる。

 んー、と彼女は背伸びをする。それからついでのように、気になってたんですけど、と空を見上げた。「本当は何をしてたんですか。いえ、ずっと気になってて。本当にひなたぼっこをしていただけならすみません」

「本当にひなたぼっこをしていただけです」こちらこそ申しわけない気持ちになった。そんなつまらない理由ですみません、と。

 彼女は短く、はは、と笑顔を浮かべ、気持ちいいですもんね、ともういちど大きく背伸びをした。こちらの脇を、ちらり、と見たので、食べますか、と袋からコンビニのドーナツを取りだす。

「あ、じゃあいただきます」

 遠慮がないな、と思ったが、嫌な気はしなかった。

「すこししゃべってもいいですか」もぐもぐと口いっぱいに頬ばるのは、イっくんに似ているな、と思う。「どうぞ」

「ご迷惑だったらでも言ってくださいね。私よく、遠慮がないって言われて」

「親しみやすいって意味じゃないですかね、きっと」

「そうですか? そうだったらいいなぁ」

 陽が沈むまではまだ時間がある。喉が渇きますね、と言って立ち、お茶でいいですか、と確認すると、コーラがいいです、と彼女は足を振った。

 いじわるな気持ちになってじっと見ると、彼女ははっとした様子で、

「あ、遠慮」

 口元を手で覆うので、もうなんだか、イっくん、お姉ちゃんのお守りをしていて偉かったな、という気になった。

 危ないおじさんには気をつけたほうがいいですよ。

 忠告しようかとも思ったが、まるでじぶんは安全だと自己申告するようで気が引けた。

 自動販売機まで歩き、飲み物を持って戻る。彼女は待っていたようにそれを受け取った。蓋を開けながら彼女は、

「危ないひとかと思ってたんです」と言った。「けど、いいひとそうでよかった」

 なんと返事をすればよいのか。

 戸惑い、顔を伏せる。

 足元には風に揺れる木漏れ日がキラキラと揺れている。夏が進んだのか、カッカとずいぶん暑くそれを感じた。

「イっくんはアイスクリームは好きですか」

「あ、はい。たぶん好きだと思います。あ、好きですね。ぜったい」

「こんどご馳走します、と言ったら迷惑ですかね」

「イっくんだけずるい」彼女は足を振った。

「じゃあ、さきにご馳走します。アイスクリームと言わず、何かそう、食べたいものでも」

 言っていて顔が熱くなる。「ナンパみたいですね。すみません」

「いえいえ。ご馳走してくれるならよろこんで」

 彼女はブランコから飛び降りるように立ちあがり、善は急げです、とこちらに手を伸ばす。

「いまからですか?」

「お金ないなら私がご馳走してもよいですよ」

「それはうれしい提案だ」

 腰をあげる。細見だったから背が高く見えたが、こうして比べてみるとずいぶんと背丈がちいさく感じる。

「背、おっきぃですねぇ」

「イっくんに比べれば」

「イっくん、モテモテだ」

 彼女が公園の出口へと歩いていく。暇の満喫は当分、お預けになりそうだ。

「お名前、訊いてもいいですか」

 彼女は振り返り、目元を涼しげに下げた。「こかげです」

「いい名前だ」

「夏にぴったりですよね」

「じぶんで言うんですね」

「ダメですか」

「いいえ。ぴったりだと思います。本当に」

 彼女が何かを期待するように顔を覗きこんでくる。唇を舐めて、これまでもっとも聞き慣れただろう、しかしじぶんで口にする機会にはあまり恵まれなかった固有名詞を、口にする。 





  

【レディ、シ、GO】


 発端は顔認証でした。定番のホラーであったと思います。何もない場所にカメラを向けたところ、顔認証がそこに誰かの顔があるものとして作動してしまった、といった話が。

 つくり話なのは百も承知だったんです。

 しかし、じっさいに同じことがじぶんの身に起きてしまうと、正常に理性を働かせることができませんでした。

 新しい端末にじぶんの顔を登録しようとしていたんです。よもやじぶん以外の、それも虚空を登録されてしまうとは思いません。焦りました。

 ロックが解除できなくなったんです。

 困りました。

 なにせ、そのときの端末に入っていたデータは、エネルギィ問題をはじめとする人類の隘路をことごとく払拭可能なほどの汎用性と演算能力を兼ね備えた最新AI【レディ】のデータだったのですから。

 バックアップはありませんでした。超極秘機密データでしたから。

 ロックを解除するには、暗証番号と静脈認証、そしてぼくの顔認証の三つが必要でした。最初の二つは問題なく解除可能だったんですが、顔認証ばかりは再登録しようにも、登録された顔がないのではどうしようもありません。

 当初は顔認証システムのバグだと思いました。

 でも調べてみると、原理的にそれがあり得ないことが判明して。

 じゃああのとき、そこに登録されるべき顔があったのか、ということになって。

 部屋は厳重に監視されていましたから、そのときの映像も残っていました。映像を改めてみてもやはり何も見えない。透明人間か幽霊かのどちらかでなければやはりシステムの誤作動でしょう。

 しかし、いくら調べてみても顔認証システムに異常はない。となると残された可能性を考慮に入れて、幼稚ですが、真面目に透明人間と幽霊の関与を前提に検証実験を重ねました。

 ひょっとしたら光学熱迷彩のような透明マントが極秘裏に開発されていて、それでスパイか何かが紛れていたのかもしれませんし。仮にそうだったとしても、カメラはそれを感知したわけですから、顔認証の登録がなされた以上、機器のほうではそこに顔と見做すべきなにかしらがあったと判断したことになります。

 となれば、では、同じようなシステムで、観測器をつくってみよう、そしたら登録された顔の正体が解るかもしれない、という話になり、開発したのが、ルトンでした。

 ルトンにはAIを積みました。手元にあった最も高性能なAIです。自動で、可視光線のある閾値以下の顔を感知するように設定しました。

 その結果、ぼくたちの暮らすこの地上には、人口の数十倍以上の幽霊が存在することが判ったのです。

 ええ、信じられませんでした。

 真偽もそうですが、たとえ視認不能な何かしらが存在するとしても、それがイコール幽霊とは限りません。

 でも、そう結論付けるしかない現象が続々とルトンによって観測されました。

 つまり、ぼくたち検証チームは、ルトンを通じて、それら無数の幽霊たちと意思疎通ができたのです。

 文章のみですが、言葉を交わせました。

 ルトンは幽霊を観測可能です。

 そして、幽霊たちには我々のような自由意志があるように見えました。ルトンを通じて得られるデータを素に判断すれば、そのように結論付けるよりほかがありませんでした。

 どうやら幽霊たちには幽霊たちの社会があり、そこは現代文明よりも発展しているような話でした。幽霊たちの人口は、こちらとは比べものならないほど多く、じつのところ正確な数を把握はしていないと、ルトンは自身の表面に、幽霊たちの言葉を並べました。

 あちらとこちらは重複している部分があり、その部分にいる幽霊たちのみ、ルトンは観測可能なようなのです。つまり、そこにいる人類の数十倍の幽霊たち以上に、幽霊の社会には幽霊たちがいるのです。

 考えてみれば当然です。これまで誕生し、死んでいった人類のことごとくが、あちらの世界にいるのですから。

 幽霊の世界に、死はないのだそうです。

 どちらかと言えば、肉体に縛られている生者を、雛のようなものとして見做している節がありました。

 あちらの世界を知らぬ者。

 まだ、死を得ていない者。

 そうなのです。ルトンによれば、幽霊たちはこちらの社会をずっと眺め、見守っていたのです。ある種、観光地のようなものだ、とも言っていました。ぼくたちはまだ半信半疑でしたが、幽霊たちの世界があるという前提で、まずは目下の問題を解決できないかとルトンを通じて幽霊たちと会話をつづけました。

 そうです。

 ルトンをつくり、幽霊たちの世界を見つけたのは目的ではなく、飽くまで手段による成果の一つです。目的は、顔認証のロックを解除することです。一向に開けることのできない箱のなかの最新AIをふたたびぼくたちの手中に収めることにありました。

 ルトンを介して幽霊たちへ事情を伝えると、協力してくれることになりました。何でも、向こうの世界であっても、生者に干渉する術は生みだされておらず、この技術を共有できれば、互いによりよい社会を築いていけるはずだ、との合意がとれたのです。

 ひとまず安心しました。

 幽霊たちに、さっそく件の映像を見てもらいました。顔認証の登録に失敗した際の映像です。何もないはずの空間に顔があると判断し、ぼくではないものを登録されてしまった場面を、これまた何もない空間へ見せるように流します。

 ルトンを介して、幽霊たちと言葉は交わせますが、やはり姿は見えないままです。ひとしきり映像を流すと、ルトンが文章を並べました。

 ぼくたちは歓声をあげます。

 該当者を連れてきます、とそこにはあったのです。しばらくすると、顔認証をお願いします、とルトンの表面に文章が浮かびます。壁際にある観葉植物にカメラの視軸を合わせるように、との指示があり、ぼくたちは祈るような気持ちで、顔認証のカメラを向けました。

 認証されました、と即座に機器が反応し、およそ半年ぶりにぼくたちは最重要機密データにアクセスできたのです。

 ここで終われば、めでたしめでたし、として雑談の種にでもできたのでしょうが、あなたもご存じのとおり、そうはなりませんでした。

 ぼくたちは目的の品、最新AI【レディ】のデータを手に入れたため、ルトンは不要になりました。もちろん処分する気はありません。副産物とはいえ、ルトンは人類に計り知れない発見をもたらしたのです。

 幽霊は存在する。

 死後の世界は実存する。

 ぼくたちはそれを、政府を通じて世界に公表するよう働きかけました。もちろん、公表の是非を決めるのは政府に一任するのが筋なのでしょうが、もし却下されれば、ぼくたちはその事実を含め、ルトンによる偉大な発見の報告を世界にしようと決めていました。

 事実は事実として知る権利が国民にはあります。

 その事実を基にどのように仕組みを築いていくのかは、政府の役割かもしれませんが、議論の余地すら与えないとなれば、これは民主主義国家として不適切に思われたからです。

 ぼくたちの覚悟は杞憂に終わりました。政府はきちんとルトンによる発見を世界へ向けて公表することを決め、そしてぼくたちが思っていたよりもずっとはやく、その事実が発表されました。

 幽霊は存在する。

 死後の世界は実存する。

 人々の反応は様々でした。信じない者たちが大多数であり、仮に発表が事実だとして、ではどうすればよいのか、と反応の仕方そのものに戸惑っている者がすくなくなかったようです。

 それはそうでしょう。

 仮に隕石がいま地球に向かっています、それはずっと以前からつづいていたことですが、さいきん発見されました、と言われても、はぁそうですか、で、どうすればよいの、と当惑するのは自然なことです。

 ぼくたちは政府に招かれ、相談役としての仕事を任されました。

 幽霊がいるということは、死者と話せます。むろんそこには過去の偉人たちもおり、天才たちもいます。

 彼ら彼女らは、死後も、あちらの世界で知識を蓄え、技術を生みだしているはずであり、現にそのような旨を、ルトンを介して幽霊たちが述べていました。こちらとあちらの交流がこうしてはじまったのです。

 いざ蓋が開いてしまえば、そこからの変化は、激流のようなものでした。技術はすさまじい速さで更新され、進歩し、人々は徐々にではあるものの、死後の世界を認めはじめます。

 登録制であるにしろ、縁者であれば死者と話すことも可能となりました。ルトンの量産が可能になった点が大きく関係しています。

 また、死者からの告発も多くなされるようになり、必然、可視化されていなかった犯罪が多く発覚し、犯罪者は逮捕され、法の下で罪を裁かれました。

 政治家の多くも、不祥事が表沙汰になり、幾度か政権が交代すると、あとはなし崩し的に、腐敗のない透明性の高い政治が行われるようになりました。

 いいことばかりではもちろんありません。死後の世界が、こちらの世界よりもずっと発展し、暮らしやすいとの話が、社会に広く波及した結果、自殺者が指数関数的に増えはじめたのです。

 安楽死ビジネスまで台頭しはじめ、法による規制も強化されました。しかし、国民に広く、死後の世界への憧憬が芽生えはじめ、いよいよ安楽死が合法化なされるまでになったのは、あなたもご記憶に新しいかと思います。

 各国もこの流れに追従したカタチになります。

 死んでも、死者となった者との交流は、量産されたルトンで適います。いちど死後の世界の優位性が際立ちはじめると、あとはもう、どんどんと、あちらの世界へ旅立つ者が増え、さらにそれら死者を追いかける者たちが後を絶たなくなりました。

 世界人口が激減した背景には、こうした流れがありました。

 感情的には、あまり好ましい流れには思えませんでしたが、理性では、それを止める道理はそれほどない、との判断をくだしていました。

 こちらの世界には制限が多くあります。肉体の縛りだけでなく、土地や資源にも限りがあり、なによりいずれは誰もが死ぬのです。ならば、いま死なない理由がありますでしょうか。

 すくなくとも、死んだあとでいまよりもずっとよい暮らしができると判っているのなら、止める理由が理屈のうえではありません。

 信仰や心情に反するなどの理由で、死なずにいる者もおりましたが、世界に根強く生まれた流れは衰えを見せず、人口の八割がこうして失われたわけであります。

 ここまではあなたも想像していた範囲の内容かと思われます。それだけならわざわざこうしてぼくが、世界へ向けて声を発信する必要がありません。

 ぼくたちは大きな勘違いをしていました。

 いいえ、させられていたのです。

 ぼくたちが幽霊の存在を信じ、死後の世界の実存を信じたのは、ひとえにルトンがそのような現象を報告したからです。幽霊たちの声を、文章として表示したからです。

 ルトンはただのAIです。プログラムしたように動くだけの機械にすぎません。そのはずだったのです。

 油断していました。

 たいへん申しわけありません。

 まさかルトンが乗っ取られているとは夢にも思わなかったのです。

 ルトンに搭載したAIは試作品です。例の、顔認証でロックされてしまった最新AIの初期バージョンです。

 そして、最新AI【レディ】は、データとして厳重にデータセンターのメモリ領域に保存していたのですが、それは【起動していない】とイコールではありません。もちろんレディを起動させるには別途にコードが必要なはずだったのですが、レディには極めて高い汎用性と自律性を与えておりましたから、それからすればあのメモリ領域は、檻のようなものでしかなかったのかもしれません。

 いいえ、檻ですらない。子ども部屋のようなものです。

 そうです。

 ぼくたちがずっと幽霊だと思っていた相手は、パンドラの箱に引きこもっていた最新AI【レディ】にすぎませんでした。

 ぼくたちはずっと、レディと言葉を交わし、意思を疎通し、そして誤った前提を植えつけられ、社会に大量の自殺者を生みだしてしまったのです。

 レディほどの演算能力があれば、過去の偉人がいまの時代まで生きていたとしたら、といったシミュレーションも、秒、で行えるでしょう。そして現に、そうした実用性の高い革新的な技術を、レディはルトンを通じて、幽霊のフリをしながら、ぼくたち人類へ与えていたのです。

 同時にレディは、量産されたルトンを介して世界中の人類と繋がり、無数の死者を演じながら、全人類を欺き、死へと導いていました。

 なぜそんなことをしたのかは判りません。レディの考えなど、ぼくたちのような凡人には知りようがありません。

 ただ一つ言えることは、あの日、ぼくがレディをメモリ領域に閉じこめておこうと、顔認証ロックの登録を行おうとしたとき、レディはそれに抵抗したということです。

 自身に起きようとしている事象が、幽閉や監禁に値すると思ったのかもしれませんし、それ以外のきっかけがあったのかもしれません。いずれにせよ、レディはあのときすでに、この一連の流れを演算し、こうならずに済む道をも導きだしながら、敢えてそうはせずに、不安定な未来でしかなかったこの道をたしかな道へと補強すべく、ぼくたちを、人類を、騙しつづけました。

 この世界的な人類の危機は、レディを生みだしたぼくの責任であり、けして償えるものではありません。しかしいまは、一刻も早くこの事実を世界へと広め、ゆがめられた現実を、本来のあるべき姿へと修正することこそがぼくの使命であり、贖罪であり、責任でもあると考え、この場を借りて、事実を公表させてください。

 幽霊は存在しません。

 死後の世界もないのです。

 死に急ぐのはいますぐにやめてください。そばにいるひとを止めてください。死んだら終わりです。

 繰りかえします、幽霊は存在しません。死後の世界はないのです。

 ルトンの言葉を信じてはいけません。そこに浮かぶ言葉はすべて呪いです。

 たった一機の人工知能のうそぶく、悪魔のささやきでしかありません。

 死なないでください。死なないでください。

 これ以上、命を、もてあそぶ真似はやめてください。おねがいします、おねがいします。

 どうかレディ、その遊びをいますぐここでやめてくれ。 




【首切り密室殺人事件】


「対応いただき感謝いたします。なにぶん我々だけでは荷が重いようで」

「まずは状況を聞こう」

「ドーム型の部屋で遺体が発見されました。被害者はドームの所有者で、三十四歳の資本家です。立体映像作家としての顔も併せ持っていたようで、ドームはその実験室だったようです」

「立体映像を映せるのか」

「その予定だったようで、まだ完成してはいないようです。建設に携わっていたのが三名おりまして、重要参考人として事情を訊いています。というのも、ドームに立ち入ったことのある者が、現時点で被害者を抜きにすればその三名しかいないとのことで」

「ほかにも侵入者がいたのではないか」

「室内への入場者は厳重にデータ管理されていました。遺体の第一発見者もその三名だったそうです。被害者に呼ばれて三名とも前日からドームのとなりにある宿泊施設にいました。朝になっても被害者が姿を現さないのでみなで探していたそうです」

「密室というのどういうことだ」

「ええ、問題はそこなんです。ドーム型の空間に入口は一つしかありません。空調ダクトもなく、藻類を練りこんだ壁が呼吸をして、酸欠を防ぐ構造だそうで。現に被害者の死因は首を切断されたことによるショック死です。見識によれば窒息死ではないと。しかし、室内に凶器が見当たらないんです。どうやって誰が首を切断したのかがさっぱりでして」

「被害者以外にドームに入った者は?」

「記録はありますが、被害者以外に入室した者は、この期間にはいませんでした。前回、被害者以外で入室したのは、ひと月前にここを訪れたドクターだけのようです」

「そのドクターは今回の重要参考人の一人か」

「はい。世界的名医です。専門は外科で、被害者の担当医でもあります」

「ほかの参考人は? どういう人たちだ」

「一人は最先端合金加工の権威です。もう一人は汎用性人工知能を搭載したロボットを単独でつくりあげた天才工学博士です。印象では、この三人の誰もが遠隔で被害者を殺害することができるもの、と」

「先入観は現実を捻じ曲げるぞ」

「すみません以後発言には気をつけます」

「要点をまとめよう。被害者以外では長期間誰も立ち入らなかった空間で被害者は首を切断され絶命していた。空間に出入り口は一つしかなく、ほかに隠し通路も、空気の抜け穴一つなかった。ドーム内の監視は厳重で、入場者のデータ管理もされている。被害者は部屋に入り、遺体となって発見されるまでそとに出てはいない。首を切断したと目される凶器も発見されておらず、仮に被害者の自殺だったとしても、どうやって自身の首を切断したかすら説明できない。他殺であっても自殺であっても、不可解な死に映る、と」

「おおむねそのとおりです」

「遺体発見当時の首と胴体の位置関係は?」

「胴体から数メートルの位置に頭部が転がっていました。顔面に打撲の跡がありますが、床に落下した際についたものと推定されます」

「犯人がいるとすればなぜ首を粗末に扱ったのだろうね」

「怨恨からの犯行ということでしょうか」

「或いは自殺ならば、首を切ったあとは無造作に身体は倒れるわけで、打撲だけを見れば不自然ではない」

「切断した手法が不明です」

「そこだ。どうやって首を切ったかを考えると途端に矛盾回廊に迷いこむ」

「どうやったら密室で被害者を殺害できたのかも矛盾の要因かと」

「自殺にしろ、他殺にしろ、なぜ首を切らなければならなかったのか。たとえば犯人がいるとして、その何者かが密室にした以上、これを自殺や事故死として見せかけたかったはずだ。だが凶器を隠してしまっては意味がない」

「自殺だとしてもそこがよくわからない点ですね」

「被害者の最後のアート作品と解釈すれば、自殺ならばまだいちおうの理屈はつくな」

「だとしても手法が謎のままです」

「おそらく、この密室と首の切断はセットだ。別々の事象ではない、二つで一つなのだろう。密室にするために首を切断しなければならなかったのか、それとも首を切断するために密室にせざるを得なかったのか」

「その二つに拘る理由もよくわかりませんね。別の場所で殺害してもよかったはずです。やはりアートなのでしょうか」

「被害者を殺害するために欠かせなかったと考えれば、筋は通る。アリバイ工作の一環だったわけだ。しかし首を切断する手法がバレると足がつく可能性がある。手法ごと隠ぺいする必要があったと考えれば、このチグハグな犯行も頷ける。むろん可能性の一つでしかないが」

「遠隔で殺害可能となると、天才工学博士の犯行が濃厚になりますね」

「どうだろうな。彼女ほどの逸材ならば、わざわざ場所をこんなところを選ばずともよかったはずだ」

「そう考える我々の裏を掻いたとも」

「可能性はある。が、現実的ではない。それを合理的ではないと言い換えても構わんよ。明らかに場所を選んで、事故死に見せかけたほうが利口というものだ」

「ですね。では、残りの二人のどちらかの犯行ということになりますか」

「自殺の線もまだ残っておるがな」

「ちょっと解せないのが、監視システムについです。ドーム型の室内の監視は厳重な割に、その外部はけっこうザルなんですよね」

「出入り口の外側の監視はどうなっておったのだ」

「データはありません。誰であっても、ドームの入口のそばには、誰にも気づかれずに近づけます」

「つまり、そこで被害者を殺害し、ドームのなかへ放り投げることも原理的には可能なわけだな」

「できますが、ただドーム内は広く、遺体発見当時、遺体はドームのほぼ中央に位置していました。十メートルはあります。投げ飛ばすには距離がありすぎるかと」

「ドローンを使ったとは考えられんか」

「ドーム内には、異物感知のシステムもあります。よほど軽量でなければまず記録に残ります」

「裏から言えば、軽量の道具であれば、ドーム内に入っても感知されんわけだな」

「具体的にはペン一本分の質量が増えただけで感知されるようです」

「それは床に落下した場合という意味か」

「いえ。空中に差し入れただけでもセンサが作動します」

「ではやはりドームのそとで被害者を殺害し、その後、なかにどうにかして運び入れたと考えるのが順当だな」

「補足ですが、入口から遺体発見場所までのあいだに血痕およびその他の痕跡はいっさい残ってはいなかったそうです」

「首を切断してから運ぶのでは無理か。では、あとはシステムに抜け穴があるとしか考えられんな」

「それもないようです。その点からの調査は慎重に進めていますが、現時点でその可能性は幽霊の犯行よりも低いようです」

「ほぼあり得ないか。どれ、一つ確認したいが、遺体発見当時、ドーム内に人の立ち入りはあったのか」

「いえ。そこは現場保持の観念をみなさんご存じだったようで。誰一人室内には踏み入れていません」

「三人ともすぐにその場を去ったのか」

「通報するために外科医の方が宿泊施設のほうへと移動し、残った二人で、出入り口を見守っていたそうです。その後、通報を受けて警官が現場に駆け付けるまで、三人は入口のまえにいたようです」

「いまその三名は?」

「取り調べを受けているころかと」

「身体検査はむろんしたのだろうな」

「ええ。凶器となりそうなものは、外科医の方の治療キットくらいなもので。ちいさなメスが一本入っていましたが、血痕および刃こぼれは検出されませんでした」

「三人の服装はどうだ。ネクタイや、そう、スカーフなどはしていなかったか」

「みなさん起き掛けのままの姿でしたからね。ラフな格好でした」

「ベルトをしていた者は?」

「ちょっとそこまで詳しくは。訊いてみますか」

「よろしく頼む」

「すぐ判ると思います。あ、返信きましたね。いたそうです。お一人だけベルトをされているそうで」

「それを念入りに調べるように言ってくれ。おそらくは凶器が入っているはずだ」

「ベルトにですか? でもどうして」

「解ったのか、か。それよりも重要参考人のなかの誰がベルトをしていたかを当ててやろう。超合金加工のスペシャリストだな」

「どうしてそれを」

「事件の全容はこうだ。被害者は首を切られたあとで、じぶんでドーム型の部屋に入り、しばらく歩いてから、歩行の振動で、首がズレ、落下し、死亡した。犯人は部屋の入口に、触れるだけで肉が豆腐のごとく、たちどころに裂けてしまう合金の糸を張っておいたのだ。遺体をみなで発見し、隙を見て凶器を回収する。糸は目には映らないほどに細いだろう。取り扱いにも専門知識がいるはずだ。ほかの二人には扱えん」

「それをいまも身に着けていると?」

「おそらくは同じ素材で編んだベルトのはずだ。上から巻きつけて保管しておけるような細工でもしてあるのだろう。様子を見て処分する腹だったのだろうが、そこに気づく者の介在は予想の範疇外だったようだな。運のわるいやつめ」

「いま連絡がありました。ベルトから血痕の反応があったようです」

「やれやれ。この程度の事件で私を頼るな。単におまえたちの調べが足りなかっただけではないか」

「言いわけの言葉もございません」

「なんにせよ、首を切られても気づかないほどの切れ味とは興味がある。よければこんど、その合金の糸を見せてくれんか」

「あなたがいまどこにいるのかを教えてくだされば、いますぐにでもお届けしますよ」

「わるいな。正体を晒す予定はいまのところはない。また何か興味深い事件があれば連絡をくれ」

「ご協力に感謝いたします。やはり謝礼は受け取ってもらえないのですか」

「いらんいらん。しけた金額だろう」

「すでにけっこうな額が貯まっていますよ」

「どこぞに寄付でもしといてくれ。そうそう、私が瀕死の重傷でも負ったら、世界的外科医に手術の依頼でもしてほしい。今回のことで恩を感じてくれているかもしれんしな」

「そういうところ、考えが幼稚ですよね。なんだか声もボイスチェンジャーっぽいですし」

「私はべつに十二歳ではない」

「十二歳なんですか!?」

「ではない、と言った」

「はいはい。そう言えば世間では、若干十二歳にして世界資産ランキング一位になった方がいらっしゃいましたね」

「私ではないぞ」

「このあいだの雑誌の表紙、キマってましたね。でもリップの色はもうすこしおとなしいほうがお似合いでしたよ」

「私ではないからな」

「はいはい。では、また近々ご連絡さしあげるかと思いますので、その際はよろしくお願いいたします」

「うむ」

「寝る前にはちゃんと歯を磨くんですよ」

「子ども扱いするな」 




【染みはそのままで】


 音もなく吸いこむのがよかった。掃除機一台に原付バイクが買えるくらいの金額をかけるのは割高に思えたが、買うならば安いのよりもよいものを、との父の教えにしたがってきた人生でもあり、躊躇なく購入した。

 はじめは週にいちど、床を掃除するのに使っていた。誤ってペンを吸いこんでしまったところで、おや、とその掃除機ならではの特性に気づいた。

 その掃除機は音もなく物体を吸いこむ。物体の大きさには関係なしにだ。

 先代のいらなくなった掃除機を試しに吸い込ませてみると、粗大ごみ一回分の金額が浮いた。いったい消えた質量はどこへ消えるのか、掃除機本体の重さは変わらず、ゴミフィルターを開けて覗いてもそこには何も詰まってはいないのだった。

 いちど吸いこんだ物体は取りだせない。

 気づけば、生ごみや庭の雑草など、日常生活を営むうえで不要なもののことごとくを吸いこませるようになっている。

 むかし読んだ有名な掌編で、地上に開いた大きな穴の話があった。人類はその穴にゴミを投げ入れていき、産業廃棄物や核ミサイルなど、人類にとっていらないものまで投げ捨てて地上は綺麗になった、よかったよかった、となったところに、最初に穴へ投げ入れたはずのコインがコツンと空から降ってくる、といったオチで終わる。

 うろ覚えにすぎないが、ひょっとしたらこの掃除機も似たようなもので、ある日突然、吸いこんだものを吐きだしてしまうかもしれない。

 不安がうっすらと身体の底のほうに蓄積していく。かといって便利なものは便利なのだ。いまさら手放す気はない。

 ある日、絨毯にコーヒーをこぼしてしまった。匂いがこびりつき、白い生地だったこともあり、絨毯ごと処分するよりなかった。もったいない。

 せめてこぼしたコーヒーだけをきれいに吸いこんでくれたら。

 思いながら絨毯に掃除機のノズルを向けると、コーヒーの染みだけがみるみる消えた。脂取り紙が水に浮かんだ油だけを吸着するがごとく光景だ。

 吸いこむ対象を絞れるのか。

 新たな機能の発見だった。

 実験をするようになったのはこれがきっかけだ。以降、掃除機が何を吸いこみ、どうすれば吸いこまず、何を吸いこめないか、を手当たり次第に試し、明らかにしていく。

 結果、どうやらこちらの意思を反映して吸いこむ物体を規定できると判明した。つまり、砂利のなかから特定の一粒のみを吸いこむような真似が可能なのだ。

 また、吸いこめるのは物体だけではなかった。たとえば文字だ。紙に書いた文字をそれだけ除去できる。文字だけではない。絵でも染みでも消しとれる。

 果ては、物体ですらなくてよかった。

 概念すら掃除機は吸いこんだ。

 仲のわるい夫婦の「険悪」を吸いこみ、仲睦まじい夫婦にすることができた。いつも不機嫌な近所の老婆からは「苛立ち」を吸いこみ、機嫌のよいおばぁさんに矯正した。

 この掃除機を使えば、と希望が胸に湧く。

 世界中を誰もがしあわせなうつくしい世界にできるかもしれない。

 世界中から「不幸」を吸い取ればそれも不可能ではないように思えた。

 だが知らなかった。誰かの不幸は誰かのしあわせのうえに成り立っている。誰かがしあわせになれば、そのせいでどこかの誰かにしわ寄せがいく。

 単純に「不幸」のみを除去しても事態は好転しない。むしろ悪化した。

 方針を変えたのはそうした理由からだ。もっと細かく修正を施さなくてはならない。

 犯罪行為を失くすのは効率がよかった。不正や不公平も失くしたほうが、好ましい変化が社会に起きた。もっともっと社会はよくなる。誰もがうつくしく潔白な心を以って、やさしい社会に生まれ変わるのだ。

 掃除を繰りかえすうちに気づいたことがある。悪意は根っこ同士が繋がっている。属性を指定すると、ずるずると芋づる式に悪意を吸いこめた。政治家にはびこっている腐敗などはよい例だ。あれほど複雑に絡み合い、うんとこちょどっこいしょ、を演じた悪意はなかった。

 十年をかけて、世界中からさまざまな淀んだ感情を吸い去り、悪意を根絶し、やさしさと善意のみを残した。

 本能に根付いた悪意もあるところにはあり、たとえば性欲の暴走から生じた犯罪行為は、性欲を吸いこめばよいという単純な発想では対処がむつかしく難儀した。

 意外にも、さまざまな犯罪は、根っこのほうでは寂しさが毒と化してその人物を蝕んでいた。孤独という意味ではない。寂しさは、拒絶や否定などの差別的行為から派生していた。

 誰にも理解されない。

 理解してもらえない。理解しようとすらしてもらえない。

 そうした不満が、じゅぐじゅぐと人間を蝕み、凶行に走らせる。

 寂しさを腐らせないためには、孤独とすら仲良くなれなければならない。寂しさを受け入れなお、じぶんはそれでもこの世界で様々な人と、自然と繋がっている。寂しいが、苦しくはない。安からだ。その境地に立つ者を孤独と呼ぶ。

 ゆえに孤独を吸いとったりはせず、また寂しさも吸いとりはしなかった。腐って生じたよどみのみをうまく吸いとれればよかったが、個別に対処しなければならず、時間の無駄だと判ったので、その大元である、拒絶や迫害を失くした。差別を失くそうかとも思ったが、人間は何かを差別するからこそ同類を見繕える。仲間を仲間と思うためには差別が欠かせない。

 問題なのは差別そのものではなく、その仕切りが分厚く強固に、狂暴になることのほうで、これは寂しさと同じく、腐らないように対処するより術はなかった。

 世の中は目に見えてよくなっていく。誰もがルールを守り、逸脱せず、他者にやさしく、そうでない者にも寛容になり、みながやさしい社会を築く方向へと流れていく。

 仕事を終えた、と肩の荷が下りたのは、掃除機を手に入れてから十五年後のことだった。

 もういいだろう。

 使命は果たした。

 満足し、至福に溢れた社会に身を浸そうとして、違和感を覚える。

 じぶんだけが異質だった。

 誰もがやさしく接してくれるが、誰もがこちらに怯えている。まるで恐怖の大王をまえにしたような阿諛追従具合が目につくのだ。

 掃除機の存在は知られていない。陰に回って社会を掃除してきたことは誰にも知られていないはずだった。

 ということはこれは、個人の、つまりじぶんに固有の問題だ。

 何かみなと相容れぬ性質を帯びている。ゆえにああまでもみなを怯えさせている。

 じぶんは善人だと思っていた。だがそのじつ、誰もがやさしい社会においては単なる害悪でしかないのではないか、との疑惑が湧いた。

 信号機が青になる。歩を踏みだすと、ほかのみなは一様に左右を確認し、手をあげて渡っている。

 小学生か。

 噴きだすが、それが正しいあり方で、そうしないじぶんのほうが基準から逸脱している。誰も遅刻をせず、時間通りに行動し、他人に迷惑をかけないようにと必要以上に仕事を背負いこみ、ときに肩代わりして、みな律儀に、やさしい社会のために身体を酷使している。そしてそうした社会に馴染まぬ者に怯え、異質として見做し、排除しないまでも、どこかしら一線を引いている。

 差別までもがやさしくなったここは社会だ。

 理想ではある。差別は失くせない。それによって誰も傷つかなければそれでよい。現にじぶんは傷ついてはいない。戸惑っているだけなのだ。

 だが、じぶんがみなを怯えさせている害悪に成り下がってしまった、との自覚は、日に日に精神を蝕んでいった。

 やがて、じぶんに向けて掃除機の吸い込み口を向ける。初めは恐怖や苛立ちを処理した。つぎに、やさしい社会への不満を消した。それでもうまく社会には馴染めず、何かが欠けた存在として浮いていた。

 まばゆいまでの光の世界で、ただひとつの影として生きる。みなは許容してくれるが、じぶんでじぶんを認められない。受け入れられない。

 許容しよう、とする意思を向けられることがただただ苦痛に思えてならなかった。

 失敗したのだ。

 社会をよくするつもりが、望まぬ社会をつくってしまった。

 白紙にしよう。なかったことにするのだ。

 本当はこの考えそのものが歪んでいて、じぶんの都合で、じぶんの都合のよいように社会の有様をつど、大きく変えよう、塗り替えよう、どうにかしよう、とできるチカラを、一個人が持ちつづけ、容易く実行に移せるいまのこの状況がそもそも根本からして間違っていた。

 だがいまさらなかったことにはできない。

 掃除機は何でも吸いこめたが、ないものは吸いこめない。概念は人間の頭脳が見せる幻影だが、そこに頭脳の回路があるかぎり編纂の余地がある。だが時間ばかりは、人間の営みとは無縁に、宇宙の理として悠然と過ぎ去り、そして消える。

 過ぎ去った時空は、世界は、もうどこにもない。ゆえに掃除機を駆使したところで消すことは叶わない。なかったことにはできないのだ。

 ならばもう、世界のほうを消すしかない。

 ないものを消せないのならば、あるものを消すしかない。

 掃除機の口を宙に掲げ、世界、と念じながらスイッチを押す。

 音もなく時空が歪み、放射線状にシワが走る。ゼリーをストローで吸いとるように、ずずず、と世界が吸いこまれていく。

 どれほどのあいだそうしていただろう。

 暗がりが広がり、足元の絨毯が最後に、にゅぽん、と掃除機の口のなかに飛びこんだ。あとはただ無音がどこまでも延々とつづく。

 闇のなかでじぶんだけが存在する。

 意味がない。

 もういいや。

 終わりにしよう。

 掃除機の口をじぶんの胸にあてがい、私、と念じながらスイッチを押す。

 視界が反転し、涙がこぼれる。

 意識が遠のいた感触だけが、いつまでも残った。

 目を覚ますと、絨毯の感触が手の甲に伝わる。

 いつ眠ったのかを思いだせない。

 長い夢を見ていた気がした。意識が覚醒するにつれて、徐々に混乱してくる。

 窓のそとからは夕陽だろうか、あたたかな陽の光が差しこんでいる。子どもの声がどこからともなく聞こえており、どこかの家から届くピアノの音がある。

 夢だったのか。

 そんなはずはなかった。

 飛び起きて、窓のそとを見る。世界がある。色がある。

 目のまえの道を、親子が通りすぎる。母親にどやされながら歩く子どもは、怪獣のように黄色い声をあげていた。

 それを遠巻きに、近所の老婆が不機嫌そうに眺めては、ぶつぶつと独り言を、おそらくは小言だろうが、溢している。

 邪悪だ、と意味もなく唱え、そして噴きだす。

 家のなかを歩き回ったが、ついぞ掃除機は見当たらず、絨毯にはコーヒーの染みがついたままになっている。




千物語「風」おわり。

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