千物語「年」
千物語「年」
目次
【お湯で割るのも忘れない】
【きょうも日はあけまして】
【ニュイヤの器】
【年越さナイト】
【シメナと冬の夏祭り】
【実らぬ恋の飛び道具】
【元日の朝は川へ】
【それでもなかなか突けません。】
【ふつうにしてたら大丈夫】
【本懐はねじれて】
【後悔はねじれて】
【自制心大敗の乱】
【わるい子、泣く子はもういない】
【七日スパイス】
【干支戦記】
【お屠蘇さま】
【箱根の道をいま】
【コタツムシ】
【乃某の人偽】
【根を張る者】
【ミズキさんの雑念】
【クチバシはとれない】
【着物とマスクと御神籤と】
【水神信仰】
【異種間交流禁止条約】
【シライさん】
【足場は抜けて】
【エセ経済学】
【福笑いの女】
【竹取、跡を濁さず】
【カカア天下】
【お湯で割るのも忘れない】
お酒と畳の匂いの漂うぽわぽわとした空間にその声は朗々と響いた。
「井の中の蛙は大海を知らないし、たぶん大海なんて概念すら知らないから、じぶんの暮らしてる井の中が蛙にとってのこの世のすべてだろうし、比較対象がなければそれは蛙にかぎらないことなんじゃないのってアタシなんかは思うわけなのだよ」
カラになったカップを、くいっ、と突きだされたので慌てて芋焼酎を注ぐ。お湯で割るのも忘れない。
「でだね、チセちゃん」
「はいな」
「じぶん家がふつうだなんて思っちゃいけないよ。チミがふつうだと思ってる習慣もよそのうちじゃぜんぜんふつうなんかじゃないわけだよ。通じないよ。変人扱いされちゃうよ」
気を付けたまえよ、とカドマさんはまたぞろ、ぐびっと芋焼酎を呑み干しては、くいっ、とカップを突きだす。もはやお代わりの言葉もない。
カドマさんがわたしの家にやってきたのは昨日の晩、つまり大晦日の夜になってからのことだった。
わたしの家には祖父母が暮らしていて、父は長男でもあるから、親戚一同は正月になると毎年決まってウチにやってくる。なかでもカドマさんはお父さんの妹で、要するにわたしにとっては叔母さんにあたるわけなのだけれど、父とは歳が離れているせいか、どちらかと言えばイトコのお姉さんといった風情だ。
母からは、ことしはカドマちゃんはこないらしいよ、と聞いていたので、大晦日の晩に急に母から、これからくるってカドマちゃん、と若干の迷惑そうな声音を隠そうともせずに、あんたお布団の用意してあげなさいね、と命じられたときには、カドマさーん、とじぶんでも出処のよく分からない嘆き声が胸の奥にこだました。
カドマさんは家に着くなり、お風呂に浸かって、そのままわたしの部屋にノックもなしに押し入ってきては、おやすみー、とわたしのベッドに突っ伏して、そのまま鼻ちょうちんでも浮かべていそうな、すーぴー、を立てはじめた。
わたしは彼女のために敷いた布団で寝る羽目となったが、ことのほかおじぃちゃんのイビキ声が華やかで、ぐっすりとはならなかった。カドマさんがわたしのベッドを占領した気持ちも分からないでもないが、姪っ子にこの仕打ちはおとなとしてどうなの?
「おとなじゃないからよいのだよ」翌朝、カドマさんは言った。栗きんとんをつまみ食いしながら、「どっかの綿菓子の弾丸でも飛びかってそうな小説にでてくるキャラも言っているだろ。【これ、コスプレ。おとなの】ってさ」
「へえ、物知りー」カドマさんが小説を読んでいるところを想像できなくて、どうせまた口から出まかせを言ってら、と思いながら、「お母さんたちがおせちの支度してるよ。手伝わなくていいの? それ栗きんとん、お父さんの好物だよ。残しとかないと怒られるよ」
「怒る? 兄貴が?」
「うん」
「じゃあ食べちゃおうぜ」
「えー。わたしはだってお年玉もらうまではちょっと」
「じゃあこれ、アタシからのお年玉ってことで」
ゆびさきでこそげとった栗きんとんを差しだされては、さすがのわたしも、ゲッという顔を隠せなかった。カドマさんは愉快そうにじぶんのゆびさきを口に含むと、美味なり、と舌づつみを打った。
わたしは彼女を横目で見る。
「カドマさん」
「ん?」
「寝癖すごいことになってますよ」お風呂からあがってすぐに寝るからそんなスーパーサイヤ人みたいになってしまうのだ。カドマさんは満足げにはしゃいだ。「すごいじゃろ、すごいじゃろ」
底の突きそうな栗きんとんを眺め、わたしは思う。
おとなのコスプレ?
どこが?
朝ごはんは御節料理とお雑煮とおぜんざいだった。元旦はいつもこうだ。カドマさんは御節とお雑煮が好きではないので今年もおぜんざいだけをたんまり食べる。
ぺろりとたいらげておきながら、
「見て! おなかぽんぽこりん!」
まるでヘンゼルとグレーテルを太らせて食べてしまう魔女がこの家にいるかのように捲し立て、
「摂った分は消費しなきゃ。チセちゃん、お散歩いこーぜ、お散歩」
ひとを犬か何かのように引っ張っていく。
歩いていける距離に神社があるからよいものを、初詣とはこんな気軽に出張るものではないはずだ。神さんもこんなひとに投げ銭されたところで何を願われても叶えたくはないだろう。同情しちゃう。
「チセちゃんはなにお願いしたの。当ててやろーか。ことしこそは恋人に振られないよーに、でしょ」
「あ、そういう」
カドマさんが急にウチにやってきた理由が判ってしまった。やってくるなりひとのベッドを占領したのもきっと単なる不貞寝だ。
「アタシはねー、世界の平和を願ったね。大晦日にかわいい恋人を振るような男はみんなクマのぬいぐるみにでもなっちまえばいいんだ」
「ああ、それはいいね。かわいい」
「そうじゃろ、そうじゃろ」
カドマさんはしきりに鼻をすする。わたしはため息を吐いてから、カドマさんにハンカチを差しだした。ん、と言ってカドマさんはそれを受け取り、なんか寒いね、と言いながら目元を拭い、ついでに豪快に鼻を、ちーん、とした。
「あだっでがえずがら」
「洗わなくてもいいよ」
言って、汚れたハンカチを返してもらう。どの道ウチの洗濯機を使う気だったに違いない。手で揉み洗いする気遣いをカドマさんに期待しろというほうが無理がある。カドマさんの鼻水といっしょにグルグル回るじぶんの下着を想像し、
それはちょっとなぁ。
思いながら、ハンカチをちいさく畳んでポケットに仕舞った。
カドマさんはそこで思いだしたように御神籤を買ってくれた。
「わ、ありがとう」
「大吉だといいなぁ」
「そうだねー」
さっそく御神籤を開くと、カドマさんは目を吊り上げた。「なんじゃくそ、大凶じゃん」
「やった。わたし大吉」
「チッ」
「舌打ち!?」
いまこのひと舌打ちした?
「あーあもったいない。今年の運をここで使い果たしちまうなんてチセ、なんて可哀そうなコ」
「ふ、不吉なこと言わないでほしいかも」
「大丈夫、大丈夫、いいことあるって」
「なんで慰めるの!?」
「あーあ。つまんね」
開いた口がふさがらない。
じぶんから誘っておいてそういうこと言う?
「なんかいいことないかなー」カドマさんは後頭部に手を組むと、くるりと周囲を見渡した。「ここにいるカップル全員別れるとか」
「人として最低すぎるよカドマさん!」
祈っていいこととわるいことがある。
おとなげないというか、人としてどうなの!?
「あ、そうだチセ。御神籤預かっといてやるよ。あ、代わりにこっちのクソみたいなクジ、あっちの縄に結んできて」
「ヤダ。ぜったいヤダからね。カドマさん、渡したそれじぶんのにする気でしょ。そんでもって大凶のやつ、わたしに結ばせてなすりつける気でしょ」
「チッ」
「また舌打ちした!」
「さっさと帰ろうぜチセちゃん。神さまなんか嘘っぱちだ、こんなとこにいたって風邪ひいちゃうだけだよ、百害あって一利なしだ。お参りなんかするやつの気が知れないね」
わたしは声なき叫び声をあげる。
なんてこと言うのこのひと。
周囲の参拝客も同じような目でカドマさんを振りかえっては、首をひねっている。わたしは内心で、すみません、すみません、と謝りながら、カドマさーん、と出処不明な叫びを重ねるのだ。
家に戻ってからというもの、父をはじめとしたほかの面々は駅伝に夢中で一同、オジゾウサンの様相を醸している。母はすでに夕飯の支度をはじめており、男どもも手伝えや、と思いながら、わたしもまたコタツに潜って、カドマさんの相手をしている。
母からすればカドマさんを自由にしておくよりかはわたしをお供につけたほうが無難だと判断したようだ。それはそうだ。目を離した隙にせっかく用意した晩ご飯のおかずがカドマさんのお腹に吸いこまれてしまう。
年賀状を宛名別に仕分けるのはわたしの役目だ。
祖父母や両親にきた束のような年賀状を見て、カドマさんは呻いた。「うげ、年賀状まだこんなにくんの。とっとと廃止すりゃいいのに」
親戚のちびっこたちが代わる代わる親に引きずられてウチにやってきては、お年玉をもらってほくほく顔で帰っていく。
わたしももらうものをもらったが、カドマさんが財布のひもを緩めた気配はない。
「そういえばわたし、カドマさんからお年玉もらった記憶ないかも」
「アタシだってチセちゃんからもらった記憶ないよ」
そっかぁ、と一瞬思ってしまったじぶんを殴りたい。わたしが不満そうな顔を上手に隠せていなかったせいだろう、カドマさんは、あのねチセちゃん、とどこからともなく紙パックの芋焼酎を手繰り寄せては、カップに、とぷとぷと注ぐ。
「あのねチセちゃん。井の中の蛙は大海を知らないし、たぶん大海なんて概念すら――」
そこからは長く忍耐の時間だった。晩ご飯の支度が整い、その後、祖父の新年の挨拶を聞きながら晩ご飯がはじまって、父たちの晩酌が進み、政治談議に華がさき、母や祖母など親戚の女性陣がようやく落ち着いて近況を報告しあうさまを眺めながらわたしは、延々とカドマさんのカップがカラになるたびに芋焼酎をそそぎ、お湯で割り、彼女のありがたくもなんともない説教を右から左に受け流しつづけた。
「その家にはその家の流儀というものがあって、うちじゃあほら、兄貴たちは時代錯誤もはなはだしいよね、食事の準備をしなけりゃ手伝いもせずに、後片付けすらしないってんだから、チセちゃんのお母さんもたいへんだよ、ありゃ怒っていいよ、まったく躾けがなってない、アタシからも謝っておくよ、すまんねダメな兄貴で」
や、カドマさんも食っちゃ寝してるだけだからね?
思ったけれども、酔っ払いに正論は、火に油よりも危ないので、わたしはぐっと呑みこんだ。
「まあ、チセちゃんもお母さんに甘えてるところはあるよね、ふだんからちゃんとお手伝いしてる?」
それカドマさんが言いますー???
思わず目にチカラが入ってしまったけれども、反論はよしておく。一理はあるのだ、一理は。
「まあね、あれだよね、このお手伝いって言い方もよくないよね。だって家事するなんてそんなのあたりまえのことだよね。べつにチセちゃんのお母さんがやって当然ってわけじゃないでしょ、そんなのは家族みんながやって、助け合って、分担するのが筋だと思うんだよね、そこのところ兄貴もアタシもダメだからさ」
だからかなぁ。
カドマさんは顔面をぐしゃっと歪ませて、
「振られちゃったよぅ、大晦日に、きみにはもう付き合いきれないって、一週間前の食器そのままにしてただけなのに、振られちゃったよぅ」
おいおいと泣きじゃくるものだから、
えー。
わたしは大いに引いた。それはもう、どこの引き潮ですかってくらいのドン引きだ。海の底とか見えた。お魚とかピチピチ跳ねてた。原始人も海を渡れる。
カドマさんが泣き上戸だったのもびっくりしたけれど、それ以上に一週間前の食器をだしっぱなしはちょっとね。しかもそれ、恋人の家の話でしょ。同棲はしてたの? してないの? してないでそれなの?
きっと恋人さんは試していたのだ。一週間、食器をそのままにしておいて、いつ片付けてくれるだろうと。
これまでにもそうして見兼ねて片付けてあげていた粗末がたくさんあったはずだ。
それでも辛抱強く片付けてあげていたのかもしれない。
それが最後の最後に、一週間、出しっぱなしで、気づきもしてくれなかった。
そりゃ愛想も尽きますよカドマさん。
わたしは教えてあげたかった。恋人さんの代弁者として、あなたのそういうところですよ、とずばり突きつけてあげたかった。
でもわたしはカドマさんの恋人でもなんでもないので、彼女の背中をさすりながら、あとで揉み洗いしようと思ってちいさく畳んだままだったハンカチをポケットから取りだし、それを彼女の顔に押しやった。
ちーん。
豪快に鼻をかんだ彼女は顔をしかめ、なんかこれ、とハンカチとにらめっこをする。
「すこしちべたい」
そりゃ鼻水で濡れてたからね。
思ったけれどもわたしは、そう? と素知らぬ顔で、カドマさんのカップに芋焼酎を注ぐのだ。
【きょうも日はあけまして】
こうして一人で迎える正月は何度目だろう。この世に生を享けてからいったいどれほどの期間を他者と過ごしてきたのか。
記憶にあるかぎり、家族と過ごした正月の記憶はない。父や母が家にいなかったのかもしれないし、じぶんが押し入れの中に引きこもっていたからかもしれない。当時、アパートは狭い一室だったから、子ども部屋はなく、高校を卒業するまで押入れの中がゆいいつ自由にできるじぶんの空間だった。
ドラマや映画などでは正月に家族でわいわい賑やかに団らんゴッコをしている姿を目にする。社会の平均的な家族像がそれだとは思わないし、思っている人間がいるとすら信じていない。
正月におせち料理を食べるなんて貴族階級もいいとこだ。ガスを止められ半年間水風呂にしか入れなかった小学生にいったい誰がおせちの中身を教えてくれるだろう。おせちという言葉は知っていてもそのじつ、どんな食べ物かは知らない。フォアグラやトリュフのような架空の食べ物とどっこいどっこいだ。ドラゴンやユニコーンと変わらない。
そう言えば、と思いだす。水風呂は冷たすぎるので、父や母が必ずさきに入って、温度をすこしでもあげてくれていた。風呂からあがるとすぐさまタオルで包みこんでくれた。それもいまでは遠い記憶だ。
父や母がいまどこで何をしているのかは知らない。あのアパートにはもういないだろう。家賃を払えるだけの稼ぎはないはずだ。生活保護を受けてくれていればよいが、とは思うものの、その方法を試そうとする意思があのふたりにあるとは思えない。よしんば思いついてもどうすればいいのかと途方に暮れて、けっきょく借金だけを重ねているのではないか。
いずれすでに他人だ。
じっさいこうして父や母のことを思いだしたのはじつに一年振りだ。ということは去年のいまごろもこうして過去の思い出に浸り、じぶんを慰めていたのかもしれない。いったい何が慰められているのかは定かではないが。
スーパーの惣菜をちびちびとかじる。閉店間際の割引商品で、三割引きだ。過去、割引でない食品を買った憶えがない。安ければ安いほどいい。量が多ければ文句はない。味はいいし、カロリーも高い。よい時代に生まれたと皮肉なしにそう思う。
酒は飲まずにいる。値段が高いし、なによりいったん摂取すればアル中まっしぐらだ。こればかりは父の教育のたまものだろう。「依存するなとは言わないが、依存対象は選べ」と口を酸っぱくして言い聞かされた。ほとんど洗脳にちかいそれを未だに律儀に守りつづけているところを鑑みれば、親の影響力たるや、三つ子の魂百どころの話ではない。一滴でも混じれば井戸の底すべてが死の水と化す毒薬じみている。
ギャンブルもしなければ他人に貢いだりもしない。色恋なんて夢物語はそれこそマンガや映画の世界で充分だ。金もなければ日々生きていくだけで手ぇいっぱいで、恋にかまけている暇もなければ、誰かをしあわせにする余裕もない。
じぶんが死ぬときのことを考えなくなったのもずいぶん前のことに思える。高校を卒業してネジを加工する工場に勤めたが、エンジン自動車が間もなく全面的に製造されなくなり、工場はつぶれた。エンジンとは違ってモーターにネジは必要ない。
それからは二十年ちかく、日雇いや派遣を転々とした。四十を目前にして、残ったものはこの身一つだ。
人との縁もなければ、蓄えもない。経験もなければ、技術や知識だって培えなかった。
終わっている、とひとはきっと言うだろう。あんなおとなにはなってほしくはないと、口で言わないだけで道ですれ違う主婦たちが我が子の手を引きながら内心でつぶやいている様を妄想する。
そこまで意地汚い者ばかりではないはずだ。解かっているはずなのに、思わずにはいられない。
おそらく、と食後の楽しみのプリンに口をつける。
じぶんでじぶんを惨めに思い、恥辱の念を抱いているからそんな邪推を巡らせるのだ。
気分が滅入った。せっかくの休日がもったいない。
正月とはいえ、単なる休日でしかない。過ぎた日は二度とやってこないし、同じ日々もあり得ない。
特別な日として指定されてはいるが、何がどう特別なのかはとんと解からぬままにここまできてしまった。年が変わったところで急に周囲の環境がポンと変わるわけではないはずだ。カレンダーをめくるようにはいかないものだし、そう考えてみると新年を祝う意味合いがあるのかも疑わしくなってくる。
誕生日であれば一年を無事に迎えられたという意味で祝うのも分からないではないが、誕生日がある時点で、新年を祝う必要はなく、新年を祝うのならば誕生日は二度手間となる。
現に誕生日を祝われた記憶がない。そういうものが世にあるとは知っていたが、じぶんには縁遠いことだと納得していた。クリスマスにしろ、祝日にしろそれは変わらない。
何かを祝った試しがない。そういう家だった。家族だった。いまではもう家族であるのかすら曖昧だ。
窓のそとから若者たちの声が聞こえた。路地を通り過ぎていく。初詣でに行くのかもしれない。それとも初売りだろうか。やはりこれも縁のない行事だ。どんなものかと行ってみようとすら思えない。
TVを点ければいくらでも観られる。ああこういうものか、と頷き、それで終わる。エベレストの映像を観たところで、では行ってみるか、と腰を上げる者はそう多くはないだろう。それと何が違うのか。いったい何が楽しくてみなああして、いもしない神に銭を投げつけ、他力本願を地で描きに向かうのか。
理解しがたい。
そして理解する必要もないのだろう。
ただみな、そうした行事を毎年のように通過していくのがしぜんな家に育ったのだ。そうした家族に囲まれ育った者たちが思いのほかたくさんいるというただそれしきのことでしかない。
うらやましいと思ったことはない。思う道理がない。面倒な枷を背負わされなかっただけよかったと考えるが、さすがにそこまでいくと自己肯定がすぎる。
比べるものではない。優劣はない。行きたければ行き、祝いたければ祝えばよいだけの話だ。それをするだけの自由はある。それをしないのは父や母には関係がない。ただじぶんがそれをしたくないだけなのだ。
貧しい家ではあった。いまも貧しいままだが、それはけしてあのひとたちのせいではない。それを克服するだけの意思も、術も、身につけることができなかった、これは我が身の問題だ。
ひるがえってそれは現在の父や母にも言えることだ。仕送りをすべきなのだろう。育ててもらった恩、産んでもらった恩を返すべきなのだろう。だがそれをするだけの余裕がなく、そしてきっと義理もない。
父や母は、じぶんたちの身の程も弁えず過去恋に走り、未来を切り拓こうともせずにいたずらに子を儲け、そしてその子にさしたる知恵も育ませずに、貧しい日々の過ごし方のみを享受した。
不満はない。それでもこうして日々を生きていられる。うまい飯を食い、温かい布団によこになれる。
雨風を防げ、魔法のような電子機器を操作すれば娯楽に事欠くことはない。
何百年前の王族と比べるまでもなく、半世紀前の金持ちたちと比べてもじぶんのほうがまだ贅沢をしているのではないか、と想像することがある。
苦しくないと言えば嘘になる。
重労働のなんたるかも知らずに、ゆびさき一本を動かしてこちらが一生をかけても稼げない金を一日で儲ける者がある。同時に、この世界の裏側と言わずして、すぐ隣では食う物に困り衰弱死する者もあれば、進退窮まって自殺する者がある。
両極端なのだ。
そのなかでじぶんはきっとその端にはいない。
そう思える。いまはまだ。
世のなかには、貧困は自己責任ではない、と言い張る者たちがいる。それもよい。そういう声があって初めて築かれる制度もあるだろう。福祉もあるだろう。社会は弱者に冷たいが、それを突き離す真似を潔しとはしない。知らずに突き放すことはあるだろう。だが故意ではけしてないと信じたい。
せめて当事者であるじぶんくらいは、自業自得だと胸を張って生きていたい。もしいつか手にする至福があれば、それもまたじぶんの手で掴み、切り拓いた道だと思いたいから。
傲慢なのだろう。
だがそう思ってでもいなければ、日々を生きてはいられない。まえに進んでいると思えなければどうしてあがくことができるだろう。エスカレーターのように誰かのお膳立てがあってまえに進み、幸福の多寡がそれにより決まるというのであれば、一向に進まず、後退しつづける日々をどうして受け入れることができるだろう。
まえに進まないのはじぶんが進もうとしないからだ。進む術を持たないからだ。
そう思わずに、どうしてこれまでの日々を許せるだろう。
誰がなんと言おうと自業自得だ。
そうでなければ生きてはいかれない。奪われていたなどと思いたくはない。
気づくと窓のそとは明るく、子どもたちの声がする。カーテンを開け、そとを見遣ると、電線の向こうに高くあがる凧が見えた。
いまどきの子どもでも凧をあげるのか。思うが、いまどきもなにも、じぶんの子どものころにはいちどもあげたことはなかった。世代ではない。これもまた個々人の問題だ。
なんとなく公園まで散歩にでかけるじぶんを想像した。見知らぬ親子の姿を遠目に眺め、目のまえを未来ある若者たちが横切っていく。寒いだろうな、と思い、一瞬浮きかけた腰がまたどっしりとコタツに根付く。
寝正月だ。
ふだんと変わらぬ休日でしかないが、それもまたよい。どの道、同じ日は巡ってはこない。
父や母はどうしているだろう。
なぜか思った。
寒い思いをしてはいないだろうか。
何かを買い与えてやることはできないが、そう、古着を送るくらいはできるかもしれない。
どこに住んでいるのかを知らないが、連絡くらいはつくだろうか。
思いながら、メディア端末を手にとる。
生活に困窮していればまっさきに契約を切っているはずだ。通じるかも定かではない。番号が変わっていてもおかしくない。
それでもゆいいつ登録してある番号を選択し、通話マークにゆびで触れる。
呼び出し音が鳴る。
それはしばらく静寂に響き、そしてその奥からちいさく、はい、と声が聞こえた。
言葉を探す。
こういうときはなんと言うのだっけ。
遅れて、ひとと会話をするのが本当に久しぶりなのだと思いだした。
「アキ?」
母はこちらの名を呼んだ。うん、と返事をする。「急にごめん」
「どうしたの。げんきしてた?」
「うん。かぁさんは」
「んー、さいきんはちょっと腰が痛くてねぇ」
このあいだね、と平然と世間話をしはじめる母へ相槌を打ちながら、
この様子だと父もまた元気なのだろう。
時計に目をやる。
いまから行って間に合うだろうか。
まだ起きてこない父への愚痴を並べはじめた母の言葉を遮り、あのさ、と声を張る。
「きょう、暇?」
というかいまどこ住んでんの。
母は、以前と同じ街の名を口にした。いまは近所の塾で、留学生相手に日本語を教えているそうだ。父は家の壁の補修工事の仕事をしているらしい。職場のひとと意気投合して、思った以上に長続きしているそうだ。
あんたは、と訊かれ、ぼちぼち、と答える。
「何か送ろうか? ちゃんと食べてる?」
そっちこそ、と口を衝きそうになり、じゃあ、と言い換える。「いまから取り行くわ」
母は、あらそう? とつぶやいたきり、押し黙った。
ややあってから、寒いから着こんできなさいね、と聞こえた。
詳しい住所を聞きだし、通話を終えようとしたところで母はついでのように言った。
「あけましておめでとう」
「あ、うん」
とっさのことでそのまま切ってしまった。
おめでたいのだろうか。
おめでたいのだろう。
でも何が?
よく解からないままに、それでもたしかに何かが明けた気がした。
コタツの電源を消し、着替えをカバンに詰めこみ、靴を履く。
そとにでると風が吹き抜け、身体が震えた。
マフラーを首に巻き直す。
初日の出は見逃した。
だが見上げたさきには、いつもと変わらぬそらがある。
【ニュイヤの器】
連れて行かれたのは地下室だった。
敏田(としだ)マオは目を丸くする。うちにこんな部屋があったなんて初耳だ。マオはただ父親に、これまでのお年玉はどうしたのか、と訊ねただけだった。
数分前までマオは認知症の祖父のよこで年越し蕎麦をすすっていた。本来ならば新年を迎える前に食べるものなのだろうけれど、気づいたらコタツで寝てしまって食べ損ねていた。
蕎麦はじぶんで茹でた。祖父は呆けた表情で障子を見詰めているばかりで、ときおり思いだしたように、ありがとう、とつぶやく。誰に言うでもない言い方が愉快で、本当は笑ったらよくないのだろうけれどもいつも頬がゆるむ。かわいいボケ方だよね、と母はよく言った。マオもそう思う。
時刻は午前三時だ。そとはまだ暗い。
母は寝たらしく、父は自室で仕事をしているはずだった。この時間帯はいつもそうなのだ。研究者なのは知っているが、中学生になったばかりのマオには父の専門はちんぷんかんぷんで、ややもすれば研究対象すら分からないままかもしれない。
考えるだに脳みそのシワが、ちむちむと縮こまる心地がする。
父が二階の自室から下りてきたのはマオが蕎麦をたいらげ、食器を片しているときのことだった。
「まだ起きてたのか」父はコーヒーを淹れにきたようだ。
「ねえ知ってた? きょうお正月だよ。元旦。年越し。昨日はもう去年です」
「ああ」父はカレンダーに目を留め、ぽかんとしてから言った。「知ってた」
ぜったい嘘だ。
思ったが、マオは水を止め、食器を拭きながら、
「手ぇ冷たい。食洗機ほしい」
「買えばいい」
「お金ないもん。お母さんは食器洗うの好きだって言う。そのくせ食器そのまましてると怒るのに」
「わかる」父は言ったが、たぶん何も解かってはいない。父の横着に機嫌をわるくした母のイライラを宥めるのはいつも決まってマオの役目だ。「お父さんが買ってよ。お金あるでしょ」
「じゃあ今年のお年玉はそれということで」
「何がじゃあなの。というかそうだよ、お年玉どこにあるの。これまでの毎年のやつ。わたしいっつもお父さんにとられて、貯金しとくからって、それどこにあるの。いいよそれで買うから」
食洗機。
マオは手をぬっと突きだす。
その手を見つめ返すだけで父は反応を示さない。
眉根を寄せてみせる。我慢比べならマオのほうに分がある。伊達に母の、あれやっちゃいなさい、を受け流してきたわけではない。
お湯が沸いたらしく、ピーとヤカンが高い音をあげる。電子ポットくらいあればいいのにそれでもこの家は未だにこうなのだ。友達の家へ遊びにいくたびにマオは未来へタイムスリップした錯覚に陥り、家に帰るたびにこんどは過去へタイムスリップした気分を味わう。
慣れっこではあるが、我がままの一つでも言いたくなる。除夜の鐘を聞き逃したせいかもしれない。煩悩を置いてくるのを忘れてしまった。
緩慢な所作でコーヒーを淹れると父は間もなく、
「もうそういう歳か」
誰に言うともなくつぶやいた。マオは思う。きっと父も将来ボケるぞ。祖父みたいにかわいくボケてしまうに決まっている。
「ふうん、分かった。どうせもうないんでしょ。知ってた。お年玉を預かっとくなんて言って返ってきた者はいないんだ」
「そんな魔境のように言わなくとも。ちゃんと貯めていたさ。年頃になったら渡そうと思っていた」
「ほんとう?」
「ああ。思ってはいたんだ。本当に」
「なんか嫌な予感するんだけど」
「食洗機なんかよりももっと役に立つものを用意しておいてあげたよ」
「ひとのお年玉をかってに使って? 泥棒だよ。いいよ知ってた。魔境に行って帰ってきた者はいないんだ。そりゃお年玉だって返ってこないよ」
「ひとを魔王みたいに言わないでくれ。いいから来なさい。きっとマオも気に入ると思うよ」
そう言って案内されたのが地下室だった。この家にそんな空間が備わっていたなんて知らなかった。階段を下り、なんの変哲もない木製の扉を開ける。
「うわ暗。カビくさ。えー、埃すごそうなんだけど。スリッパ履いてくればよかった」
「来るのはしばらくぶりだからな」
えっとー明かりはっと。
父の声が壁沿いに移動し、ややあってから地下室に明かりが灯った。
マオは目をしばたたかせる。
地下室は丸く、天井もドーム型だった。足場も平らではなく、くぼんでいる。
おっきなタコ焼きを作るのにうってつけの部屋だな。
思いながらマオは、視線のさき、くぼんだ床の中心に目がいった。そこにはちいさな人形がぽつんと椅子に座っている。否、ちいさくはないのかもしれない。遠近感が掴みにくい。
人形としては大きいほうだろう、と判断する。
それをゆびさし、
「あれ?」と父の顔を見る。
「ああ。お気に召すとよいのだけど」
「どこで買ってきたの」
言いながら一歩足を踏みだす。思ったより傾斜がきつい。扉は球状の地下室の側面ではなく、やや中心に寄ったところにある。まるで卵のへその緒みたいだ。卵ご飯を食べるときにいつも白く残って箸で取り除きたい衝動に駆られるあれだ。母からは、栄養があるのだから、と言ってたしなめられるのでいつも見えなくなるまでかき混ぜてからご飯に垂らしている。
人形の元に辿り着くまでにマオは、そうして卵ご飯や、蟻地獄、ブラックホールや滑り台、それから子宮のなかを連想した。
マオは人形に触れる。「うわ、すごい本物みたい」
生きているような瑞々しさがあった。反面、生々しさはない。生きているみたいではあるが、動きだしそうな気配はなかった。死体のような不気味さもなく、人間ではないと判るのにそれでいて人形とも思えず、そして単純に目を奪われた。それを胸を焦がされたと言い換えてもいい。
「お気に召したかな」
「えー、うん、どうだろうな」
正直になれなかったのは、思った以上に、期待以上だったからだ。「でもお年玉をかってに使うのはよくなかったと思う」と続けたのはほとんど負け惜しみだ。
「お父さんのお小遣いだけじゃ足りなかったからマオのお年玉を借りたんだよ。わるいとは思ったんだけどね。でもよかっただろ」
「んー。そうだけど」
「しかも彼女、しゃべるんだよ」
「しゃべる?」
頷きながら父が地下室のゆかを滑ってきたので、マオはぶつかると思って、よこに避けた。父は慣れた調子で足を踏ん張る。ブランコから飛びだすように、ふわりと人形のまえに立つ。
矢継ぎ早に父は人形の頬に手のひらを添えた。人形の耳をいじっているようでもあったが、マオにはよく見えなかった。
しゃべるって言った?
これが?
父の発言を真に受ければそういうことになる。どちらかと言えばそういう機能はいらなかった。どうせお腹を押したら笑い声をあげるとか、よくて決まりきった言葉を発するだけだろうと想像した。
案に相違して、それは閉じていた瞼を開き、そして目だけをマオに向けた。ぎょっとしてマオは一歩後ずさる。
「ここはどこ?」人形は言った。
「地下室さ」父が応じる。「うちのね。こっちのほうが安全かと思って」
「あれからどのくらい?」
「時間かい? たしか二十年は経っていないはずだ」
「そう」
人形は首を勢いよくヨコに倒し、さらに反対側に倒す。そのつど、ゴキ、ボキ、と人形らしからぬ生々しい音がし、マオはさらにぎょっとして身動きがとれなくなった。
「このコは?」
「ぼくの娘だ。約束したろ。いずれ会わせるって」
「ああ、このコが」
人形と目が合う。
マオは口を開け閉めしながら、人形を見、それから父を見た。どういうことか説明しろ、とねだったつもりだ。
マオ、と父に呼ばれ、身体が跳ねる。
「あとは任せた」
言い残し、父は慣れた調子で地下室の斜面をのぼり、そのまま地上へと去っていった。
あんぐりと口を開けたままマオはその背を見送り、はっと我に返って人形に向き直る。「えっとー、わたし」
「マオ」
「はい。そう。わたしマオ」
人形の目はとびきり青くてきれいだった。声もまるでその青が波打っているような澄んだ音色をしている。
「マオ、お願いがあるの。ときどきでいいの。毎日でもいいけど。ニュイヤに会いにきて。おしゃべりして。顔を見せて。そしてときどきやっぱり会いにきて」
「ニュイヤ?」
彼女はゆっくりと瞬きをする。
「あー、うん。きみのことだよね。ニュイヤ、いい名前だね。というか、うえに行かない? なんかここ汚いし。ちょっと寒いし」
ニュイヤは首を振った。それはできない、と言っているようだ。
「あ、動けない? だったらおぶってくけど」
また首を振る。
「んー、ここにいたいの?」
こんどは首を振らなかったが、とくに肯定も示さなかった。出られないということはないはずだ。すくなくとも扉は開いているのだから。
「もっかい触ってもいい?」マオは許可を得る前に顔に触れる。「生きてるわけじゃないんだよね。人形なの本当に? なんかお父さんが――あ、さっきいた大きいひとね、そのひとがわたしのお年玉をかってに使ってあなたを買ったんだって」
「買ったわけではないはず」
「あ、うん。そう、用意したって言ってた」
思えばたしかにおいそれと購入できるような品には見えない。売っているのかすら怪しいところだ。
「彼にはたくさん助けてもらいました。こうしてあなたまでつくってもらって」
「わたしまでつくってってなに? べつにわたし人形じゃないよ」
「そう、マオは人間。彼の娘で、ニュイヤの器」
「うつわ?」
「ようやく巡りあえた。そう言えばソウジロウは元気? まだ生きてる?」
ソウジロウは祖父の名だ。でもなぜ彼女は祖父の名を知っているのだろう。父が教えたのかもしれない。でも何のために?
「ソウジロウにもたいへんよくしてもらった。ソウジロウも器ではなかった。だからつぎをつくってもらった。でも彼――あなたの父親もニュイヤの器ではなかった。だからあなたをつくってもらった。そしてようやく器に巡りあえた。長かった。本当に長い時間、ニュイヤはマオ――あなたを望んでいた。求めていた。探していた」
青く澄んだ眼球に見詰められ、ぞっとした。彼女の頬から手を離す。すかさず伸びてきた手に腕を掴まれた。幼子みたいにちいさな手だ。だのにツルに巻きつかれたみたいに動かない。
「離して。ごめんなさい。もうかってに触ったりしないから」
「いいの。触って。もっと欲して。意識を向けて。知りたがって」
「おとうさーん!」マオは叫んだ。恐怖で助けを呼ばずにはいられなかった。
「来ないと思う。彼はもうここには」
なんで、とマオは目に涙を浮かべる。
「役目を終えたから。彼は使命をまっとうした。ソウジロウがそうしてくれたように」
腕を握っていたちいさな手が離れる。マオは勢い余って尻もちをついた。そのままずるずると斜面に尻を引きずり、人形が追ってこないと見るや背を向け、脇目をふらずに球状の地下室から逃げだした。扉をしっかりと閉め、地上への階段を駆けのぼる。
こわい、こわい、こわい。
お父さん、お父さん、お父さん。
陽はすっかり高くなっており、元日だというのにマオは夏を連想した。温かい。
居間に顔をだすと祖父がまだコタツに座ったままでいた。
「お父さんは」
つい声をかけてしまったが返答は期待できない。祖父はただ障子に向かって、ありがとう、とつぶやく。
マオは廊下にでて、二階への階段を急いだ。父の自室兼研究室の戸を乱暴に開け放つ。
「お父さん! お父さんって呼んでるのに!」
どうして来てくれないの。
あんなに助けを呼んだのに。
父は椅子に腰かけていた。その背にカーディガンをかけながら母が振り向く。
「お母さん、お父さんが!」
マオは地団太を踏んで、暗に地下室を示す。父がよく分からない、おそろしいことをしている。置き去りにされて、すごくこわかった。マオは目頭が熱くなり、そしてぼやけた視界を手の甲で拭う。
「マオ。明けましておめでとう」
母は頬をほころばし、父の肩に手を添える。父は視軸の定まらないうつろな眼差しで、ただ虚空に、ありがとう、とつぶやく。
【年越さナイト】
「あと十秒。五秒」
チカの声が反響する。
サン。
ニ。
イチ。
ボクは一年前を思いだしている。
その日は祖父の家に親戚一同集まっていた。ご多分に漏れずボクもそこにいた。子どもたちのなかでは歳は真ん中で、だからでもないが、上の姉ちゃんたちからは下の子たちのお守りを押しつけられ、下の子たちからは遊具扱いされていた。
なかでも同い歳のチカとは似たような境遇で、下の子たちが寝静まるころには二人して満身創痍の有様だった。
「お疲れ」
労うと、チカはにこりともせずにひたいを拭う仕草をする。「ひどい目に遭った」
居間のほうからおとなたちの笑い声が聞こえる。まだお酒を飲んでいるようだ。顔をだすと絡まれそうなので、二人して客間に移動する。
コタツに足を突っこみ、ほっと息を吐く。時計を見ると年越しまで残り五分をきっていた。
TVを眺めていると、コタツのなかで足を蹴られた。
抗議の眼差しをそそぐ。
素知らぬ顔でチカは、姉ちゃんらは? と頬杖をつく。
「初詣に行ったらしいよ。ボクらには内緒だって。聞こえよがしに出て行った」
「ふうん」さほど悔しそうというほどでもなくチカは唇を尖がらせる。
ボクはみかんの皮を剥き、一粒ずつ目のまえに並べていく。白い筋をきれいにとるのがこだわりだ。
最後の一粒を手にしたとき、ツルツルに処理済みのみかんをチカにごっそり奪われた。彼女はそれを一口で頬張った。汁が口の端から溢れ、慌てて袖で拭っている。
「それボクの」
「ねぇ記念ほしくない?」
「いま食べたでしょ」
「そうじゃなくて記念。もう今年は終わりなわけでしょ。あと二分ないね。どうしよっか、なにする」
「なにもしなくてよくないかな」
「つまんない、やだ、却下」
「写真でも撮るとか」
そばに置きっぱなしになっている父のデジカメを手にとる。
「そういうんじゃなくて」
チカは両手で顔を隠す。そう言えば写真が嫌いだったっけ、と思いだし、じゃあなに? と訊ねる。こういうときは言いだしっぺが案をだすべきだ、と暗に迫る。
「記念っていうか思い出。そう、思い出がほしいよね。きょうだけの、今年だけの、最後の最後に、えいやー!みたいなさ」
「眠くてわけわかんなくなってない? だいじょうぶ?」
「兄ちゃんが言ってたんだけど、年越しの瞬間にジャンプしたらその瞬間だけ地球上にいないんだって、おもしくない?」
「そんなわけないじゃん」
「理屈としてはでも合ってるでしょ」
「屁理屈に聞こえる。だってそれって年越し関係ないよね。いまジャンプしても、あしたジャンプしても、その瞬間、ボクは地球上にいないことになる? ならないよね。はい論破」
「論破言うな腹立つ」
「まあでも、チカがやりたいなら止めはしないけど」
言ってまたカメラを構える。チカはそれを手で床に下ろさせ、
「いっしょに」とすごむ。
「ボクもやるの?」
「あたりまえじゃん。じゃなきゃ記念にならないっしょ」
「んー」
「あ、もうあと三十秒。ほら、さっさとする」
強引に腕を引っ張りあげられ、半ば吊るされるようにボクは立った。
チカが秒を数えだす。壁掛け時計を見詰めながら、「サン」と言い、「ニ」と言い、「イチ」でチカはその場にちいさくしゃがんだ。
ぜろ。
ボクたちはいっしょになってジャンプする。
その瞬間、たしかにボクらは地に足を着けていなかった。
だからだよ。
チカはすっかりそう信じ込んでいる。
それからボクらはずっと、ただ二人きりで「今年」に取り残されている。
灰色の世界だ。
ひと気はない。鏡の世界に迷い込んだようでもある。
ときおり風景が虹色に光って見えたりもする。まばたきをするかしないかのあいだにまた灰色に戻り、そして何不自由なくボクらを――ボクとチカだけの二人を――この「終わらない今年」に閉じこめている。
チカに肩を揺さぶられ、目覚める。
「交代。食べたら眠くなっちゃった」
彼女はポテチの袋を投げ捨てる。「ごめん食べちゃった。もう食料ないけど、さきに寝かせて。どうするかは起きてから」
「わかった。おやすみ」
チカはボクと入れ替わりに布団に潜りこみ、十秒も経たないうちに寝息を立てはじめる。よっぽど眠かったようだ。
この世界に夜はない。
物体はあの日を境に運動を停止した。そしてボクらの触れているあいだだけ自在に動きまわる余地を宿す。だからたとえばさっきチカが投げ捨てたポテチの袋も、チカの手を離れたその瞬間に宙に浮かんだまま静止している。
ボクらが干渉しないとずっと止まったままだから、どれだけ時間が経過したのかも分からない。さいわいにもこの世界に踏み込んでしまったとき、チカが腕時計を身に着けていたから、時間の経過が分からなくなる事態だけは避けることができた。
それ以来ボクらは、三個以上の時計をつねに身に着けるようにしているし、こまめに時計の電池を入れ換えている。必要な物はのきなみよその家を漁れば見つかった。スーパーに行けばたんまり食料から日用品まで手に入る。ただ、危険がないわけではない。
生き残ること。
時間の経過を見失わないこと。
現状、ボクらの最優先事項は、この二つだ。
チカはまだこの世界から抜けだす希望を見失ってはいない。
またもういちど「年越し」の瞬間がやってきたら――つまりこの世界にやってきてからちょうど一年経ったそのときにジャンプをすれば――きっと「来年」に着地できるはずだと、そう信じているようだ。
ボクは半信半疑だ。そんな単純な理屈でこの世界から脱せられるとは思っていない。ただ、わざわざ希望を否定する必要もない。日々を生き抜いていくのにそれはたしかにボクらには欠かせない暗がりのなかの灯のようなものだった。
この世界に人間はボクらだけのようだったが、人間ではない何かはいるようだ。
それをチカは「ジュグジュグ」と言った。
ジュグジュグはカタチの定まっていないモザイクみたいな「揺らぎ」だ。ときおりそれがこの世界を動き回る。灰色のこの世界はたまに点滅するみたいに虹色になる瞬間がある。ジュグジュグはそのとき、まるで虹色の世界からやってくるみたいに現れるのだった。
現れたジュグジュグがその後どうなるのかは分からない。ただ、ジュグジュグの通ったあとにはナメクジの這った跡みたいに、空間がギザギザと鋭利になる。いちどボクがそれと知らずに触れて、足に大怪我を負った。
ジュグジュグの跡は半透明で、注意していないと判らない。出現する場所に偏りがあり、いまボクらの暮らしている場所は比較的安全だと言えた。
それでもジュグジュグがこの辺りに現れないとも限らない。
だからボクらはぜったいにどちらかが起きているように、交互に寝るようにしていた。こうすれば世界が虹色にまたたくそのときを見逃さずに済むからだ。
チカがしぜんと起きるまでボクは待った。ただでさえさきの見えない日々だ。寝るときくらい安心して休ませてあげたい。
チカはそれでも三時間ほどで目覚めた。この世界にきて彼女がそれ以上眠ったところをボクは見たことがなかった。
食料が底を尽きた、とチカは寝る前と同じことを言った。眠たそうに目をこする彼女に水の入ったカップを手渡しつつボクは、この家を離れるべきだろうか、と意見を仰ぐ。引っ越しはもう何十回と繰り返している。
「居心地はよかったんだけどね。布団がふかふかで漫画がいっぱいあって」
「じゃあまだここにいる? 食料だけならまたスーパーからとってくればいいし」
「あんな怪我しておいてまだ行く気なの」チカは目を見開いた。「信じらんない」
あのときはだって、とボクは反論する。「ジュグジュグがいるなんて知らなかったし。【跡】だっていまは気をつければいいって解かってるだろ。でもわかった、チカが引っ越したいならそれでいいよ。どの家にする?」
「この辺はもうだいたい入っちゃったしな」チカははたと思いついたように壁をゆびさす。「あっちのほうにマンションあったでしょ。もうあそこにしようよ」
「どうして?」
マンションは逃げ場がないから嫌だった。足の怪我の後遺症でボクは走れない。この話は何もきょうが初めてではない。
だって、とチカは目を伏せる。「こういう家にいるとむかし思いだすし」
ああ、と息が漏れた。
色のある世界を生きていたころのことを思いだして嫌なのだ。彼女のそれは分からないでもなかった。
ならそうしよっか、と言うと、チカは無言のままいそいそと荷物をまとめた。
この世界にも法則はあった。
それに気づくまで半年かかった。実験を繰りかえして徐々に知った。
たとえば食料だ。
ボクらが干渉しなければそれはただそこに存在しつづける。腐ることはない。時間が経過しないからだ。でもボクらがそれに触れていると、それには時間が流れる。
ボクらの干渉がどの程度だと時間が流れはじめるのか。
たとえば袋に入れて持ち歩く。これは保存状態にもよるが、元の世界と変わらない期間で食料は腐ったり、カビたりした。
つぎに紐で縛って引きずって歩く。この場合は、紐の長さによって、その先端に結びつけた物体の変質具合に差が生じた。つまり、ボクらからの距離と、時間のそそがれ方は相関関係にあった。
これはおそらく、地面や衣服にもあてはまる。ボクらの足の裏が触れている地面や靴には時間が流れるが、それはボクらから距離が遠のくほど効力が薄れる。だから衣服はボクらと共に薄汚れるし、破れたり、消耗したりする。
ひるがえってそれは、ボクらが順調に歳を重ねている裏返しでもあった。
世界は時間を静止したが、ボクらはそのなかにあって、これまでと同様に変質し、歳をとる。
――一年。
たとえ元の世界に戻れても、ボクらは一年分の歳をとっている。もしつぎの機会を逃せばまたさらに一年、歳をとる。
さいあく、この世界で老いて死ぬこともあり得る。もっと言えばだから、ジュグジュグの存在を例にあげるまでもなく不注意から怪我をしたり、病気にかかったりして死んでしまうこともあり得るのだ。
正直なところ、ボクはその未来を覚悟している。このままチカと二人きりでこの世界で生きていくことになるかもしれない、とその可能性を考えている。
でもチカはまだ、元の世界に戻れると信じているし、信じていなければいまにも押しつぶされそうな不安と戦っている。
ボクにとって「チカを守ること」にはいくつかの選択肢がある。それに比べてチカには、元に戻ろうとする以外に、ボクを守る術を思いつけない。たぶんそういうことなのだとボクは想像している。
無理もない。彼女にそんな重圧を植えつけてしまったのはボクだ。ボクに注意が足りなかったから、【ジュグジュグの跡】に触れて大怪我をするなんて失態を犯してしまった。
チカをひどく傷つけてしまった。
この世界の法則を知るのに半年、さらに半年をかけてボクらはこの世界に順応した。
マンションに引っ越したあと、またしばらくして引っ越した。こんどは最初の家、ボクらの祖父の家を目指した。
もうすぐ一年が経過する。
あの日を正確に再現するために、ボクらははじまりの地点に舞い戻る。
時計に狂いがなければ、ボクらは計画通りに、きっかり年越しの瞬間を狙い定めてジャンプできるはずだ。
それでまた元の世界に戻れるかは分からない。
それでも試してみるしか術はない。
本音を明かせばボクは、元の世界に戻ることよりもそれが失敗に終わったときにチカをどうやって励まし、つぎの日々をいまよりも楽しく送っていけるかに頭を悩ませている。
ひょっとしたらボクはもう、チカほどには元の世界に戻りたいとは思っていないのかもしれない。
あの日、チカは記念だと言ってボクを誘った。
口にこそださないが、彼女はそれをいまでも悔いている。
気にしなくていい。
言うだけなら簡単だが、それを解かってもらうにはまだもうすこし時間がかかりそうだ。
「あと十秒。五秒」
チカの声が反響する。
サン。
ニ。
イチ。
ボクらはふたたび年を越す。
【シメナと冬の夏祭り】
わたしの住む地域には「どんと祭」がある。毎年一月十四日くらいの正月が終わるころに、正月飾りや、去年の年賀状、お守り、そうした何らかの念がこもっているものを神社で燃やす。
高校に入るまでどんと祭は一般的な行事だと思っていた。お正月と同じように全国で広く行われている祭りだと思っていたのだけど、どうやらそうではないらしい。
「どんと祭? 冬の夏祭りか?」
シメナは海外からの留学生で、うちにホームステイしている。大学を卒業するまではいるそうだ。
「冬の夏祭り、そうだね。当たらずとも遠からず」
「アタラズトモ?」
「間違ってはいないけど、正確でもないって意味」
「ゴロウたちは細かいチガイにウルサイ」
「シメナがおおざっぱなだけでしょ」
なにせわたしの名前はゴロウではない。言いやすくかわいいという理由で彼女はわたしをそう呼ぶ。ちなみにわたしの父のことはブシと呼んでいる。あんなにひょろひょろなのに武士。シメナの感性はズレている。
「シメナ、こっちの正月は初めてだっけ?」
「そう。夏にきた」
「もう半年経ったんだね。はやいなあ」
「はやいヨ。アットユーマ。ん? どうしてユーマには【@(あっと)】をつける?」
「ユーマいずノットヒューマン」慣れない英語で注釈を挿す。かといってシメナに英語が通じるかというとそうでもない。「シメナはどうしてこの国に来たの? べつにアニメが好きとかそういうわけでもないんだよね」
彼女はうちの初めてのホームステイさんではなかった。これまでにもわたしは幾人かの外国人の若者たちと交流を持ってきた。たいがいはこの国の文化に興味があり、その大半はアニメや漫画などのサブカルチャーに影響を受けてこの国に来たようだ。
「この国は嫌いではないヨ。でもそんなにラブでもない」シメナは金髪をひっつめに結いながら、「でもゴロウたちのことは好き」と屈託なく続ける。「ほかになかったんだヨ。行ける国。ここがいちばん安かった」
「お金なの?」
「そうだヨ。だいじと思う」
シメナがどの国から来たのかをわたしはよく知らない。聞いてもピンとこなかったし、シメナ自身があまり自国のことを語らないからだ。
「ゴロウはいま何してる?」
「正月飾りをつくっています」
「カザリ?」
「クリスマスには扉にリースを飾ったりするでしょ。似たようなものかな」
「貸して」
「シメナもつくる? はい。この紐を輪っかにして、そう、じぶんで好きにデコレーションしていいよ」
材料を手渡す。わたしもそれの名前を知っているわけではないけれど、赤や黄色の紙製の紐、それはどこかご祝儀袋についているリボン――水引きを形作る紐に似ている。それを松の葉や麦藁と編んで、ミカンや和紙などを付けて垂らせば、即席の松飾りのできあがりだ。
「できた。ジョウデキ?」
「上出来、上出来。じょうずだね」
シメナは鼻の穴をムフーとふくらまし、
「もっとつくる」
余った材料でさらに小さな松飾をつくった。いくつもつくった。そんなにつくっても飾る場所がなかったけれども、夢中になっている姿はなんだか胸のうちをくすぐるような心地にしてくれるので、そのまま好きにさせておく。歳は彼女のほうが上のはずなのに、言葉がまだ拙いからなのか、それともシメナの性格のたまものなのか、背の大きな妹ができたようでわたしはこのところすこし背伸びをしてしまう。
家の周りをシメナといっしょになって歩いて回った。正月飾りをつけるためだ。つける場所は探せばあるもので、すっかりつけ終える。
名残惜しげにしていたので、最後の一つはシメナにあげた。
彼女は満足げに手のひらのうえでもてあそぶ。それから小首を傾げ、ゴロウ質問、と言った。「これ、なんでつける? ほかに誰か見るのか」
「やー、クリスマスツリーとかとは違う気もするけど」
訊かれても困る。そういうものだから、としか言いようがなく、言ってしまえば風習だ。たとえ何らかの意味合いや役割がそのむかしあったとしても、いまではそれは形骸化していると呼べる。
「たぶんだけど」わたしは口からデマカセを言った。「神さまをお招きしたり、厄を払ったりしてくれるからかな」
「ヤク?」
「悪魔みたいなの。デビル。鬼」
「あくま……オニ」
シメナはなぜかじぶんの肩を抱き、ぶるぶると震えた。
うちはいわば旧家のようなものだ。かつては豪農で、いまは広大な敷地を活かした貸し倉庫業で生計を立てている。
ぶるぶる震えたシメナが可哀そうなので、寒いよね、と言って家に戻った。
すっかり身体が冷えてしまったらしいシメナに、温泉に行くか、うちでお風呂で済ますかを訊く。一週間のうちの半分くらいは、そうして車で八分の距離にある温泉まで浸かりにいく。
「いっしょに入る」
「温泉ってこと?」
シメナは首を振った。
「うちでいいの?」
「でもいっしょに入る」
「なんで?」
「ゴロウは嫌か」
「そんな哀しそうな目をしないでも。や、いいけどさ。じゃあ沸かしてくるからちょっと待ってて」
この日、わたしは物心ついて初めて他人と二人きりでお風呂に入った。温泉で他人の裸には慣れてはいたけれど、家のお風呂となるとまた違った感覚が湧く。
ほのかに緊張しているじぶんを自意識過剰だな、と思う。
当のシメナはというとまったく気に留めている素振りがなく、さきに湯船に浸かったわたしの目のまえで、頭から湯をかぶり、肩まで届く長い金髪を団子に束ねている。
「入るヨー」
湯船からお湯が盛大に溢れる。
湯船はそれほど広くはない。どちらかと言えば小さいほうに思える。改修工事をしなかったせいだ。むかしながらのこじんまりとした風呂なのだ。
二人で入れば肩と肩が触れるくらいに狭い。シメナはいつ持ち込んだのか分からないヒヨコの人形を湯に浮かべ、これをこうするとおもしろい、などと独り言ちながら、沈めてはぴょんと飛びだしてくるヒヨコを披露してくれる。
「敢えて訊かずにおこうと思ってたけど訊いてもいい?」
「ドントコイ」ヒヨコがまたピョンと飛びだす。
「シメナって、悪魔とか怖いの?」
「アイタ!」
湯から飛びだしたヒヨコが顔面に直撃したようだ。シメナはヒヨコをゆっくりと湯船のふちに置き、
「コワクナイヨ」と言った。
「うちの裏にある山にはむかしから鬼がいてね」
シメナは耳を両手でふさぐ。
「夜な夜な山から下りてきてはうちの周りをうろうろしていて」
「アーーーー」
「この時期になると一人、また一人と町のひとがいなくなっちゃうの。なんでだと思う?」
「キコエナーイ」
「そう言えばこの窓に飾りをつけるの忘れちゃったね」
背後の窓をゆびさし、
「ひょっとしたらここから入ってくるかも」
ほらそこに!
浴室の隅っこをゆびさすと、シメナは無言でこちらの腕にしがみつき、目をぎゅっとつむった。
わたしはそのシメナの行動に驚いて、短く悲鳴をあげる。
その声にさらに怖気づいたのか、シメナはしばらくじっとしていた。
天井の水滴が湯に落ちる音が浴室に響く。
気まずい。
ややあってからわたしはヒヨコを手にとり、何事もなかったように湯に沈めては、飛びだすそれを繰りかえした。たしかにすこしおもしろい。
シメナは顔を起こし、恨めがましくこちらを見る。のぼせているのか顔が赤い。
「嘘だから。鬼とかいないから」
「ウソはダメと思う」
「そうだね。ごめんなさい」
「あしたもいっしょに入ること」
「え? あ、うん」
「夜もいっしょに寝ること」
「うん」
頷いてから、
「え? それは、えーっと」
「ダメ。もうオソい」
シメナは感情のない声で言い、ぶるぶると震えた。湯のなかにいるのに本当にサブイボが立っていて、イジワルで言っているわけではないのだと判った。
「わかった。ごめん。もう言わない」
「悪魔なんかイナイヨ。オニ、そんなのいるわけナイ」
でも、とシメナは言った。「コワイはコワイ」
正月が終わるまでそうしてシメナとはまいにち一緒にお風呂に入って寝床を共にすることとなった。なんだかちょっとドギマギしてしまったけど、寝相がわるく、恥じらいのないシメナの態度は、意識しているこちらがバカみたいに思えるほど色気の欠片もなく、やはりドギマギしたじぶんをアホらしく思う。
どんと祭を前にして、彼女と共に正月飾りを回収して回った。
「燃やすのか?」
「うん。もったいないけどね。だいじょうぶだよ。燃やしちゃっても鬼はこないから」
シメナの目つきがわるくなったので、わざとらしく口に手をあてる。「あらごめんなさい」
「ゴロウはすこしさいきんすごくザンコク」
「イジワル、ね。そうかも。でもシメナもすこしというかすごく怖がりな気がする。お国柄? それともシメナに固有の何かかな」
「これはあれ。ウマシカ」
「トラウマと言いたかったんだろうなってのはなんとなく解かるけど」
シメナは家のほうを見た。手には正月飾りの入った紙袋を握っている。
「ジャーハ。祖母さんがむかし悪魔の仲間と見られて燃やされた」
「シメナのおばあさん? 火あぶりにされたってこと?」
「ジャーハは魔法を使う。母も。でもそれは悪魔だからでない。悪魔は敵。鬼と同じ。やっつけるもの」
「ならシメナも魔法を使えるんだ」
話を合わせた。茶化そうとも思ったけど、シメナの顔は真剣だった。
「使えるヨ。ちょっとだけ」
見せてみて、と迫ってもよかったけれど、困らせたくはなくて、そっかそれはいいね、とわたしは言った。
翌日、わたしはシメナをどんと祭に連れていった。
神社の境内で大きな炎があがっている。山盛りの藁が燃えている。近づくほど煙たい。そこに列をなした人々が順々に手持ちの品を投げ捨てている。
「わたしむかしここでお年玉燃やしちゃったことある。紙袋に入れてたの。間違って投げちゃった」
「ゴロウは【王女チョコ】だから」
「オッチョコチョイって言いたいのは解かった」
寒いのでくっつきながら待っていると、ようやくわたしたちの番が巡ってきた。炎からはまだ何メートルも距離があるのに熱風が顔をひりひりと炙る。闇夜に火の粉が舞う。きれいだな、と思う。
前のひとたちの仕草を見て覚えたのだろう、シメナはわたしが何も説明しないうちから紙袋ごと正月飾りを宙に放った。焚き火のずっと手前にそれは落ち、消防隊の方がそれを拾って炎のなかにくべてくれる。
「これもお願い」
わたしはじぶんの分をシメナに手渡す。彼女は気持ち一歩まえにでて、こんどは見事焚火へと投げ入れた。
それから屋台に寄って、焼きそばを購入した。シメナは箸の扱いがわたしよりもずっと上手で、食べながらほかの場所も見て回った。
「火は怖くないの」気になったので訊いた。
「コワイ? なぜ?」
「おばあさんがほら」
「ああ」
シメナは綿菓子の屋台に寄っていく。それもついでに買ってあげると、代わりに彼女はわたしにペンダントをくれた。龍を模してある。礼を言うと、シメナは満足げに目を細める。
「売り物じゃないよねコレ。シメナの?」
「祖母さんからもらった」
「いいの?」
「困ったらそれ握って念じろ。いつでも駆けつける。そういう魔法」
「シメナが? 来てくれるんだ。あは。いいね。だいじにする」
「ウソだと思ってるダロ」
「思ってないよ」
「ウソだ」
「じゃあウソかも」
シメナは無言でわたしの綿菓子に大きな口で齧りつく。半分に減った。
「シメナ、そろそろ頭染めたら? 生え際黒いよ」
「ダメか?」
「や、いいけどさ。しょうじき金髪似合ってないし」
わたしの残りの綿菓子も一瞬のうちに消えた。
「シメナはさ」なぜか口を衝いている。「故郷が恋しくならない?」
正月くらいは帰りたかったのではないか。いまさらのように思い至った。
「なる。いつも恋しい。でも寂しくはない。ゴロウたちがいるから」
ゴロウがいるから、とシメナはわざわざ言い換えて、それから母国の言葉だろう、歌みたいにきれいな音色を口ずさんだ。
なんて言ったの。
わたしが訊いても彼女は焼きそばをすするのに忙しく、こちらを見てはくれないのだった。
【実らぬ恋の飛び道具】
正直何から話そうか迷っている。これをいまここで言ってしまってもよいものかの判断がつかない。というのも、おそらく薄々気づいてはいるのだろうが、神さまなんていない。
なぜなら神社にいるのは神ではなく、アヤカシモノだからだ。
人間の欲を喰らい、生きつづける【魔】そのものだ。
僕がソレを知ったのは三日前、そう元日のことだ。
神社には大勢の参拝客が押し寄せていた。初詣とは言いながら、このさき今年中に二度目を参る者は稀だろう。願掛けにしてもそうだ。
気候変動の危機が謳われて久しいが、参拝客の何割が環境問題を懸念し、祈っただろう。いたとしても神頼みをする時点で、解決する気がないと言っていい。
そう、祈る時点で他力本願だ。
問題があるならじぶんで打破すべく行動すべきだ。
「言うだけなら簡単だよね、じゃあ具体的に何してる?」
唇を尖らせ、きみが言った。僕たちは神社のガラガラを振るために長蛇の列に並んでいる。年明け早々にきみに引っ張りだされて付き合わされたわけだが、僕はどちらかと言えば理神論者であり、人格的な神を信じておらず、なにより特定の宗教を信仰してはいない。
「とか言って、ちゃっかりクリスマスははっちゃけてるじゃん」
それも誤解だ。きみがクリスマスを前に恋人ができなくて寂しいとうるさいから気を使って家でパーティごっこを開いているだけだ。
「恩着せがましい男は嫌われるよ」
ああそうかい。
僕はふて腐れるが優しいので、恩知らずな女も嫌われるだろうよ、とは言いかえしたりはしない。
「聞こえてるんですけど」
聞くほうがわるい。
「だって聞こえちゃうんだもの仕方ないでしょ」
周囲の参拝客がきみを奇異な眼差しで見るが、きみは一顧だにしない。すこし前まではメディア端末を耳に添えて誤魔化していたが、いまはもう気にしないことにしたらしい。
そう、きみには僕の独白が聞こえている。
読心術ではない。
きみには霊感がある。
僕はそう、すでに死んでいるのだ。
きみとの共同生活はそれほど長くはなく、二年か三年のそこらだ。記憶が曖昧なのは、僕に蓄積される記憶に限りがあるからだ。つまり僕にはおおよそ二年分の記憶しか保たれない。
きみの言動からすれば僕が亡くなったのは三年前だ。一年前までは死んだときのことを憶えていたそうなので、その証言を信じるにかぎり、なるほど僕には記憶の限界があるのだと推し量るに至ったわけだが、それはそれとして僕が霊として現れたときのひと悶着をいまの僕が憶えていないのはさいわいと呼べた。
というのも、何かにつけきみがそのときのことを引合いにだし、
「あたしがいなきゃいまのきみはないんだからね」
言い張っては、それが事実かも定かではない恩を免罪符に僕をこき使う。意中の男の私生活を覗かせたり、偶然を装って会うために相手の行動を監視させたりと、やることなすことハチャメチャだ。
「だって便利なんだもん」
とはきみの談だ。さながら僕は実らぬ恋の飛び道具だ。
申しわけないことにいまの僕にはこの二年間のきみとの共同生活の記憶しか残っていない。きみがたびたび引き合いにだす過去のなかには、もちろん死後の僕ときみとのドタバタの日々が交じっている。
だから僕はきみとの関係性を、きみが思うのと同じように解釈してはいるものの、それでももはや僕にとってきみはただの恩着せがましい女でしかない。
「ほら、賽銭。ふたり分投げとくから何かお祈りしなよ」
ガラガラを心なし長く振ってきみは手を叩き、目をつむる。
僕はただきみのその横顔を眺めている。
うしろの参拝客からせっつかれるまできみは拝みつづけていた。いったい何をそんなに懸命に祈ったのか。僕が訊ねてもきみは、いー、と歯を剥き出しにして僕を威嚇するばかりで、教える気がさっぱりなその態度からは、世界平和なんて殊勝な祈りではなかったこと以外を読み解くのはむつかしかった。
雑踏を抜け、境内をあとにしようとしたとき、僕はソレの存在に気づいた。
きみが気づいていないことにまずは戸惑った。
僕はソレが何かをよく知っていた。
きみがたびたびソレらを祓っていたことを知っていたから、またぞろきみが騒ぎだすぞと身構えたのに、きみは暢気に鼻歌なんかを奏でながら、長い階段を下りていく。
僕にはそのときに二つの選択肢があった。きみにソレの存在を知らせるか、それともきみに内緒にしておいて僕が独自にソレに対処するかだ。
きみのご機嫌な後頭部を見下ろし、そして僕は後者を選んだ。きみは振り返り、どったの、と言いたげに眉根を寄せる。
何でもない、といつになく素直に応じた僕をきみは訝しんだようだが、しかめ面以上の詮索を向けてこようとはしなかった。
きみには僕の独白が聞こえているはずだから、僕がそのときに何を誤魔化したのかは伝わっているはずだった。だのにきみはそのときに限って追求してはこなかった。
きみが神社のソレに気づかず、さらに僕へ、どったの、と眉をひそめてみせた時点で、僕にはきみに生じた異変を確信を以って窺知できた。
だから後者を選んだ。きみには知らせずに、自力で対処する。
神に祈ったりはしない。
僕は理神論者で、他力本願を忌避している。なにより神社におわすのは神ではなく、人の欲を喰らうバケモノだった。
僕はこの二年間、きみと過ごしているあいだに学んだことがあり、そのすくなからずはきみのずぼらな性格と、そしてこの世にある【裏の顔】についてだ。
この世には物理法則以外の理がある。きみはそれを【魔】と呼んだが、僕からすればそれは【裏】だ。アヤカシモノたちの跳梁する【裏の世界】がこの世にはある。
きみの言葉を信じれば、僕はその【魔】に遭い、そして死んだ。きみは死後の僕との出会いについてはよくよく恩着せがましく話す割に、僕の生前に関してはほとんど聞かせてはくれなかった。きみの私生活や、きみの態度からして、僕ときみには生前からの浅からぬ縁があり――そしてそれはきみと僕との関係性からすれば当然といえば当然ではあったが――生前その当時、僕もまた【魔】に明るかった。
いまでこそ記憶にない生前の僕は、きみのそばでおそらく【魔】の対処にあたっていた。
きみがときおりそうしているように、僕はアヤカシモノを見つけては、呪術を用いて討伐していた。
きみの親は他界している。なぜ亡くなったのかをいまの僕は知らないが、きみにとってそれがひとに聞かせる類の過去ではないくらいは承知しているつもりだ。
きみは親を亡くし、そして裏の世界に通ずる機関に保護され、そして育った。
自由奔放に社会を生きて見えるきみだが、それでもその自由と引き換えに義務を背負わされていることくらいは、いまの僕であっても推して知れる。
それの一つが、アヤカシモノの対処であり、討伐なのだろう。
きみはそうした事情を筋道立てて話してはくれないから、そういうことなのだろう、といつだって僕は推し量るしかない。
それは暗にきみが僕に【魔】には関わるなと拒絶の意を突きつけているようで、内心穏やかではなかったが、それすらきみには筒抜けで、強いて僕を苛立たせたいがためにそうするかのようにきみは僕を煙に巻いた。
だが僕だって、きみの実らぬ恋の飛び道具にただ徹していたわけではない。
アヤカシモノを討伐する際のきみの手練を観察していたし、きみが寝静まったあとできみが隠し持っていた書物を盗み読んだりした。
霊体は眠らずに済むから便利だ。もちろんきみは僕に余計な真似をする暇なんかを与えないようにと、実らぬ恋の飛び道具として、日々忙しくも無駄な任務を命じていたのだろう。ざんねんながらしかし僕は、どうせ実らない恋にいつまでも真剣に付き合うようなタマではない。
初詣に付き合わされてから三日後、ほかの場所で見つけたアヤカシモノを討伐するためにようやくきみは出張った。
いつもなら無理を言ってでもついていく僕が珍しく映画に夢中になっていたのできみは僕の狙い通りにプコプコ怒って出て行った。
僕はその隙にとばかりに件の神社へと向かい、そして神を騙る不届きモノと対峙した。
対峙したとは言っても、ソレは大きく、ただただ大きく、神社の境内はソレの胴体で埋まっていた。
きみがなぜソレに気づけなかったのかはいま以って僕には不明だが、仮に視認可能だったとしても、濃い霧のなかにいるようにしか視えなかったかもしれない。
僕にはソレが巨大なムカデに視えている。
視る者によって姿が違って視える、ときみが以前に言っていたから、きっとコレも僕の根幹がそう解釈して視せている仮初なのだろう。仮初だとしてもその威圧感、そして否応なく身の危険を感じさせる異様には、たしかに神と呼ぶべき畏怖があった。
きみに義務を課している組織はコレを知っているのだろうか。神を騙り、人々から欲を掻き集め、貪っている超規格外のアヤカシモノがいることを。
ひょっとしたら公認なのかもしれない。許容されているのかもしれない。
それこそきみがコレに気づけなかったのは、そうした裏事情があるからなのかもしれない。きみに課せられた何かが、きみにソレの存在を気づかせなかったと考えればお粗末な憶測ながらにも筋は通る。
ぷくぷく肥えたソレが僕を虫ケラがごとくに意に介さないのをいいことに僕は、きみの部屋からごっそり持ちだした呪具を境内にばら撒き、そしてありったけの呪術を仕掛けて、起動した。
僕はすでに死んでいて、この身体はきみの言葉を信じるのならば霊素の塊だ。霊素は呪素に変換可能で、言ってしまえば僕は呪術を発動するための電源みたいなものだった。
だからこそきみはいつまでも恩着せがましいことを言っては自身の手の届く距離に僕を置きつづけたのだろう。きみがいなければ僕はとっくにアヤカシモノの餌になっていて、或いは正規ではない術師たちのテイのよい呪具にされていたはずだ。
もっとも僕はきみに実らぬ恋の飛び道具として酷使されてきたわけだから、境遇としては同じようなものだったのかもしれない。
それでも敢えて言わせてほしい。
僕は死してなおきみのそばにいられたことを好ましく思う、と。
意識のあるうちに教えておく。
仮初の神――超規格外のアヤカシモノがその後どうなったのか、を。
初詣の参拝客から欲をたらふく喰らっていたソレはすっかり身動きがとれなくなっていた。空腹だったならともかく、お腹いっぱいのソレがテイのいい餌である僕に気を留める素振りはなかった。
そして僕は自身を電源としてありったけの呪術を起動させた。きみの言い方なら、術式展開だ。
展開された術式は仮初の神――僕には巨大なムカデに視えていたソレを直撃し、その胴体部に青白い稲妻を走らせた。ジグザグと走ったそれは神の化身を木端微塵に砕き落とした。
僕はそのとき、じぶんに蓄積されていた霊素の尋常ではない量を知った。きみの仕業だ、とすぐに思った。これまで討伐してきたアヤカシモノの呪素をきみは僕に注ぎ込んでいた。
僕がこの姿を、存在の輪郭を保てるように、と。
本来なら僕はとっくに消えているはずだった。
図星だろ。
家に戻ったきみがこうしていまここに辿り着いたということは、もう大方の事情は筒抜けなんだろう。家にあったはずの呪具がごっそりなくなっていて僕がそこにいなければ、きみは三日前に感じとっただろう僕への違和感とそれら事実を結びつけて考えるのにそれほど時間はかからなかったはずだ。
きみがそんな顔をする必要はない。
僕はとっくに死んでいて、いまはそう、きみにとっての実らぬ恋の飛び道具だ。
きみに恋を成就させようなんて気がないのだから、まったくどうして無駄だろう。もうあんな無益な日々はこりごりだ。
解かっている。
そしてちゃんと解かってほしい。
きみはよい姉だった。
これからもそれが揺らぐことはない。
断言する。
きみはもう、実らぬ恋なんかしなくていい。
聞こえないフリはよしてくれ。
僕はもう、きみの呪縛でなんかありたくはないんだ。
【元日の朝は川へ】
雁冶(がんじ)は凍えていた。家畜小屋にはいくつもの隙間が空いており、そこから夜風が吹きこむ。ただでさえ外は凍てついている。正月はめでたいと村の人々は浮かれているが、雁冶にはとてもそうは思えない。
数えで二十歳になるが、村で嫁をもらっていない男衆は雁冶だけだった。ゴツゴツした岩肌がごとく顔面は桶に汲んだ水を覗きこむたびにじぶんでもうんざりする。
慣れはしない。慣れるというなれば村の人々からの視線だ。どんな目で見られてももう心を乱されはしない。
元々はよその里で育った。流行り病で親共々七人のきょうだいを失くし、雁冶は一人この村へと奉公にきた。初めは村長の屋敷で丁稚として働いたが、何かと小言を吐かれては折檻を受けた。陰では醜い容姿を悪しざまに言われ、面と向かえば潰れた蛙を見るような目を向けられた。やがて指示されるがままに屋敷のそとの掃除を受け持つようになると、あとはなし崩し的に村の厠の汲みとりを専門に任されるようになった。
任されるとはいえど、誰もやりたがらない肥溜めの管理を押しつけられただけだ。家畜の糞の始末も仕事のうちだ。
堆肥として糞は春と秋に畑に撒くが、そのときにも山のような糞を雁冶は一人で樽に移した。
身体に臭いがこびりつき、屋敷に住まうことも許されなかった。
家畜小屋の一画を住処として与えられた。
ひと気のない場所は却って心が落ち着いた。
小屋には絶えず虫が這っている。それを叩きつぶすことも追い払う真似も雁冶はしなかった。
村人は雁冶を避けた。ただでさえ人と同じ外見をしていないうえに、臭いもひどいときたものだ。当の本人はとっくに鼻が麻痺してけろりとしたものだが、季節に関係なく村人は雁冶に川での沐浴を命じた。
それはこの厳しい真冬でも等しく課せられた習慣だった。
誰かが確認するわけでもないが、村人のそばを通ったときに臭いと判断されたあかつきには、雁冶はその場で川へと清めにいくよう命じられる。それはひどくぞんざいに、ゆびを川のほうへと向けられるだけの所作だった。犬に棒を投げて、もってこい、と言葉で示すでもなくそうさせる投げやり感に溢れていたが、それを拒むことは許されず、雁冶はそれがいつどのようなときであっても、たとえ川に入ったばかりであっても冷たい水に浸かり直さねばならなかった。
夏場は夏場で苦労する。
村の子どもたちが川で水浴びをして遊ぶために雁冶は陽の沈んだ夜になるまでの待機を余儀なくされた。汗だくのまま、全身にこびりついた糞を落とすこともできずに、睡眠時間を削って夜な夜な身体を清める日々である。
だがやはり秋や冬に比べれば夏場はいくぶんも好ましく感じた。
そして現在、雁冶は小屋の隅にうずくまって凍えている。
新年を迎えたばかりである。厠へ立った際に、運悪く酔っぱらった村人とすれ違い、そうするのが当然だとばかりに川に向けて食指を向けられた。半ば条件反射である。雁冶は夜も更けた時分に、雪を掻き分け、川へと向かい、そして浸かった。
衣服は小屋で脱いでいた。川までは近いが、年の瀬に降り積もった雪はまだここだけ雪掻きが済んでおらず、それはのきなみ雁冶にその暇がなかったからだが、つまり昼間は村のほかの場所の雪を掻かなければならなかったからで、雁冶は裸のまま雪を蹴散らしながら川まで行き、そしてガチガチと凍えながら戻ってきた。
いそいで身体を雑巾で拭う。汚れた布地でいくら拭いてもまた汚れるだけだ。雁冶が日に何度もの沐浴を課せられる理由の一つがこれである。村人の誰もがそのことに気づいていたが、誰一人として新しい布を与えようとはしなかった。
荒く全身の水気をとったらそのうえから襤褸をまとい、いそいで家畜の餌たる干し草の山に潜りこむ。温かくはないが寒さは和らぐ。徐々にじぶんの体温がこもってきて、そこでようやく雁冶は、あー、と呻くことができる。
雁冶は普段からほとんど喋らなかった。返事としての、へい、とあとはのきなみ謝罪の言葉くらいなもので、それで事足りてしまう日々の営みに、もはや不満を抱く余地もない。
生きている。
生きていられる。
ただその繰り返しだ。
きょうも死ななかった。また死ななかった。
死にたいわけではなかったが、死なないじぶんをふしぎに思いはした。
いっそこのまま眠りにつき目覚めなければよいのに、と思うことはある。だがそう思ったところで翌日には目覚めなければならず、そうでなければ死ぬよりひどい目に遭うのではないかとの予感が、鞭打つように雁冶の身体を衝き動かす。
だがこの日はどうも様子がへんだった。
身体が動かない。
じぶんに与えられた小屋ではなく、こうして家畜小屋で過ごしているのは牛や馬がいる分空気が温かいからだ。いっそ家畜に抱きついて眠ってしまいたいくらいだが、以前それで踏み殺されそうになったのを機に、場所を共にするだけに留めるようになった。
干し草をじぶんの小屋に持ち込めば、それはそれで盗人扱いをされるだろう。それくらいの想像は雁冶にも巡らせられた。似たような経験があるからだ。この村のものを、よしんばそれが単なる土くれであろうと、かってに持ち去ってはならない。扱ってはならない。じぶんのモノとしてはならない。
見つかれば盗人として折檻を受ける。道理には適っている。雁冶はこの村の者ではない。居候をさせてもらっている身の上だ。食事も住む場所も、衣服だって与えてもらっている。感謝こそすれ逆らう道理はないのだった。
それにしても寒い。雁冶は肩を抱く。
普段ならばとっくに身体の震えは治まっているはずだ。
それが今宵はガタガタと地震がごとく震える。
気温が低い、それもある。
だがそれだけとも思えない。
雁冶はふとこの村にくる前のことを思いだす。
家族はみな流行り病に倒れた。母が死ぬと、立てつづけに幼い順に弟や妹たちが逝った。兄や姉は看病に徹し、そして自らも罹患して命を落とした。父は最後まで家族の世話をしたが、やはり病に倒れ、帰らぬひととなった。
雁冶はただひとり家族の看病を任せてもらえなかった。家はおまえが守るのだと言って、父は雁冶を生かすことを決めていたようだ。だがその甲斐虚しく、雁冶は家を守ることはできずに故郷をでた。
あの里にはもう誰も住んではいないだろう。この村で暮らすようになってからしばらくして、家のあった方角から黒いモヤが昇っているのが見えた。村人は誰も何も言わなかったが、きっと流行り病をおそれ、どこかの誰かが火を放ったに違いなかった。
雁冶は何も思わなかった。ひょっとしたらそのときはまだ火葬の煙だと思っていたのかもしれない。だがよその集落のためにわざわざ危険を冒してまで死の吹き溜まりへと足を運ぶ者はいないだろうといまなら分かる。
あのまま里に残っていたら遠からず殺されていただろう、燃やされていただろう。そういう意味では父の遺志を雁冶は守ったことになる。家は失ったが血は絶やしてはいない。だがしかしそれもじぶんの代で終わる。
子は無理だ。
雁冶は悟っていた。
相手がいないのもそうだが、仮に子を儲けたとしても育てることができない。食べさせていけない。生きていくのでやっとだ。この身を生かすことだけで。
身体が熱い。
胸の奥に炭が赤く爆ぜている。
息をするのも苦しく、節々が痛い。
いよいよこれはただごとではないと気づいたとき、もはや雁冶は身動きがとれなくなっていた。
全身に力を籠めると震えがしばし消える。
そうすると小屋のそと、屋敷のほうから人々の宴の声が聞こえた。
楽しそうだ。
耳を欹てていると、すこしだけ穏やかな気分になった。
意識が朦朧としているせいかもしれない。
宴の場にじぶんも居合わせているようなふわふわとした心地がした。
そんな気分は初めてのことだった。いつもは明日の目覚めを思い、気はそぞろ立って仕方がなかった。寝過ごしはしないか、きょう見落とした失態はなかったか。あれば朝早く起きて挽回しておかねばならない。
いつもじぶんを疑い、そして責めることで最悪の事態を回避しようと努めてきた。
雁冶は村人を畏れてはいたが、恨んではいなかった。同じ人間として対等の扱いを受けているとは思わなかったし、事実じぶんは人間ではないといまでは受け入れている。
こうして家畜と寝食を共にするほうが性に合っているし、そのことに不満を抱いたことはない。
抱く余地がそもそもないのだ。
生きている。
生きていられる。
家族はみな死に、じぶんだけが生かされた。
生き残ることがじぶんに与えられた最初で最後の務めだと思ってきたが、いまではもうその思いも薄れた。家族はないが、じぶんには奉公すべき村の人々がいる。
家族として見做されてはいないが、一員として認められてはいる。
雁冶にはそれが得難く、尊いものに思われてならなかった。
身体の震えはいよいよ増し、それを押さえつけるために足を折り畳み、肩を抱き、できるだけ丸くなって、石となる。
じぶんは石だと意味もなく思い、なるほどだからこれほどまでに寒いのかと合点するが、同じ頭で、なにゆえじぶんの身体はこれほどまでに熱いのかと、手のひらに伝わる肩の熱に思いを馳せる。
丈夫な身体だけが取り柄だった。
年を越したばかりだというのにこれでは明日からの仕事に支障をきたす。時刻からすればもはやきょうだ。
治さねばならぬ。
治さねばならぬ。
年を越したばかりの夜である。雁冶を訪ねる者はない。
屋敷から漏れ聞こえる人々の声も、やがてシンシンと舞う雪の静けさに溶けこんだ。
小屋の隙間から粉雪が吹きこみ、地面の一部を白く染める。
ほぉ、と雁冶はそれを眺める。
眺めているうちに、隙間の奥から光が差した。
誰かがやってきたのかとも思ったが、そんなことはあり得ないと知っている。
今年最初の陽が昇ろうとしていた。
起きなくては。
雁冶は思う。
目覚めなければ。
ふしぎと身体の震えは止まっていた。ガチガチとうるさかった歯の音もない。節々の痛みも鳴りを潜めた。
干し草の山から抜けだすと、全身から湯気がわっと立ち昇った。ひどく汗を掻いていた。
壁に開いた無数の穴からは、光が筋となって地面を照らす。
足を踏みだすたびに霜柱がサクサクと潰れる。
戸を開けると雪が吹きこみ、火照った顔が冷めていく。身体は軽い。空にはまだ雪が舞っていたが、雲間からは澄んだ青が覗いていた。
雁冶は深く息を吸う。
吐くと息は白くキラキラと瞬いた。
よし。
掛け声を発し、いまいちど小屋に引っこむと、雁冶は裸になってまたそとにでた。小屋の裏手に流れる川へと下っていく。
ふしぎと寒さは感じず、太ももまで雪に埋もれながら川べりに立った。
景色が輝いている。
村の人たちもきっと清々しい朝を迎えているはずだ。
せっかくの元日だ。
じぶんのみすぼらしく汚らしい姿で台無しにするわけにはいかない。
丹念に身を清め、人一倍のお役に立たねば。
雁冶は川へ、トブトブと浸かった。
***
村長の使いが小屋を覗くと、そこに雁冶の姿はなかった。人手の足りないときに限って姿を現さない。恩知らずも甚だしい。
憤りながら小屋を見て回るが、やはりいない。
ふと、干し草の山に目がいった。妙なカタチにくぼんでいる。
汚れた布切れまで出しっぱなしになっている。家畜が食べたら腹をくだす。
ゴミくらい始末しろ。
村長の使いは踵を返した。アイツがいないせいで新年早々にこんな目に遭っている。こんど見かけたらどんな目に遭わせてやろうか。村長にも進言しておこう。使いはつれづれと折檻の種目を思い浮かべては溜飲を下げた。
だがこの日以降、村で雁冶を見掛けることは二度となかった。
そしてそのことを気にする者もまた誰もいない。
つぎの正月が巡ってきたときにはもう、この村にかつて雁冶というみすぼらしく汚らしい醜い男がいたことを憶えている者はただの一人もいなかった。
村は流行り病に襲われることもなく、末永く栄えた。
【それでもなかなか突けません。】
宇宙から見た地球と似ている、と思った。青いくりくりの目がこちらを覗いていて、それはぱちくりと瞬きをする。数秒の間を開けてからそれの主は、にゃー、と言った。そのときぼくはたしかまだ小学校にあがって間もないガキンチョまっさかりであったのに、それでもその、にゃー、が猫の鳴き声ではなく、ましてやほかの獣のものでもないと判った。
そしてそれは人間の声でもなかった。
たちどころに喝破できたのは、そのときぼくが潜りこんでいた場所が賽銭箱の裏で、そしてその目はちょうどぼくの顔のまえ、賽銭箱の側面に、中からすり抜けるように浮かんでいたからだった。
家出をして行き当ったそこでぼくはぼくだけのちいさな神さまに出遭った。
そう、チヨウは神さまだ。じぶんでそうと名乗ったことはなかったけれど、神社を住処としている人間ならざる者であるのだからそういうことになるのだろう。神社とは言ってもそこは竹林の奥にぽつねんと佇む祠のようなものだった。そばに鳥居と賽銭箱がなければそれを神社だと見做せる者はいないだろう、ぼくであっても自信がない。
「不敬な。人の子ごときに我の庭をとやかく言われる筋合いはみゃあ」
「ゆいいつの参拝客に向かってその態度は感心するよ。年間で一人もいなかったら消えちゃうんでしょ。いいの?」
「ヌシのほかにも我を参るものくらいはあるぞ」
「へえ。それは人間?」
「うぐ」
「犬とか猫とか、まさか鳥だなんて言わないよね」
「うぐぎ」
「そんなに歯を食いしばらなくとも。安心してよ、ぼくはべつにチヨウが見栄っ張りの強情っ張りでも嫌いになったりはしないから」
チヨウは顔をぱっと明るくし、
「我を参る者が虫でもか?」何かを期待するように目を逸らす。
「虫、なの?」
参拝客が一年を通して虫だけなの、と驚きのあまり言葉を失う。
「う、う、うそじゃ。ちょっとしたジョークじゃ。そんなわけなかろう」
「だよね」ここは話を合わせる。「だって虫じゃお参りはできないもの。できたって、この敷地内に入りこむくらいがせいぜいでしょ、それをさすがのチヨウだってお参りとは見做さないよね」
だいじょうぶだよ解かってたよおもしろいジョークだね。
ぼくがお大袈裟に言いつくろうと、チヨウは、そうじゃろうそうじゃろう、と言いながらその場にしゃがみこみ、顔をひざのあいだにうずめた。
久しぶりなのでからかう加減を間違えたようだ。
月が雲に隠れる。ふたたび月光が頭上に垂れるまで、チヨウはぼくが何を言っても返事をしてくれなかった。
こういうときの対処法は心得たもので、だからぼくは捧げ物として持ってきていた地元の銘菓をチヨウのまえに差しだした。
彼女はそれに目を留めると、鷲掴みにしてあっという間にたいらげた。食いしん坊は相変わらずのようだ。ぼくは安心する。
そう、ぼくは彼女と会うのはじつに一年振りだった。そしてつぎに会えるのもまた一年後となる。
幼いころに彼女とここで遭遇してから、ぼくたちはゆびきりげんまんをしたわけでもないのに、こうして元日にだけ顔を合わせる。
本当は毎日のように足繁く通っていた時期もあったけれど、やっぱり彼女は新年の最初の一日にしか姿を現さず、そしてそのあいだの記憶もないようだった。彼女は元日にか目覚めないひどく寝つきのよいお寝坊さんだった。
にしてもだ、と彼女は言う。
「ヌシら人のコらはほんにタケノコのようにスクスクと伸びるの。ヌシしか来ぬから見分けがつくものを、これでは狐に化かされておっても気づけぬな」
「あれ、言ってなかったっけ。ぼく狐だよ」
「ほうじゃろう、ほうじゃろう。えー!」
万歳をして、たまげた、を全身で表すちっこい神さまがおかしくてぼくはまたひとしきり彼女をからかい、そして種明かしをして、これでもかと臍を曲げた神さまに、とっておきのプレゼントをする。
リュックから懐中電灯を取りだし、そして彼女の背後、ちいさな祠と賽銭箱を照らす。
「なんじゃ?」
「神さまも夜目がきかないんだねぇ。ぜんぜん気づかないんだもの」
チヨウはその青く、くりくりおめめをぱちくりとして、ほわーほわー、とこんどは一転、綿あめみたいな奇声をあげはじめる。足取りはまるで雲のうえを歩いているようで、身体を右に左に傾けては、なんでじゃ、なんでじゃ、とはしゃいでいる。
彼女が眠っていたこの一年、ぼくは時間を見つけてはここにやってきて彼女の住処をかってにペンキで塗りたくった。ひょっとしたら怒られるかもしれないと案じたので、この計画を実行に移すまでのあいだに段階的に似たようなイタズラを単発で仕掛けて、彼女の喜怒哀楽の変化を観察してきた。
屈折十年にも及ぶ計画になったけれども、思っていた以上の反応でほっと胸を撫でおろす。
「かってに改修しちゃってごめん。でも白アリとか腐ってるところとかひどかったから」
チヨウは両手で顔を覆いながら、感激じゃ、と叫んだ。「生まれてこのかた斯様な、斯様な」
うべ、うべ、と汚い嗚咽を漏らすのでぼくは耐えきれずに噴きだした。
「なんで笑うんじゃー。ひとがせっかく、せっかく、うべうべ」
ぼくはお腹を抱える。立っていられなくなって地面を転がった。
「うー。ヌシのその不敬な態度、まっこと業腹じゃが、きょうのところはヌシの【ぷれぜんと】なる厚意に免じて許してやる」
膨れながらも彼女は慈しむような手つきで自身の住処を撫でまわす。そこでふと、何かに気づいたように手を止めた。
「ヌシ。これはなんじゃ」
ちっこい指が差しているのは、貼り紙だった。祠じみた拝殿の屋根部分にぺたりとくっついている。彼女の目の高さからしてそれの全貌は見えないはずだ。辺りは薄暗い。ぼくは努めて平静を装い、それはイタズラ、と言い添える。
「ほおん」
「剥がしていいよ。というか剥がすよ。ちょっと待ってて」
ぼくは彼女のよこを素通りし、彼女には全貌が見えないだろうそれを引っぺがした。
引っぺがしつつ、油断した、と内心で舌を打つ。
きのう来たときにはなかった。その前には幾度か貼られていたので警戒してはいたのだが、どうやら大晦日だというのにわざわざ残していったらしい。
嫌がらせだし、これは脅しだ。
それだけ相手も切羽詰ってきていることの裏返しでもある。
「なんじゃこわい顔をして」
服の裾を引かれ、ぼくは笑った。
「こわくないよ。こわくないし、ぼくほどかわいい男の子はいないんじゃないかな」
「たしかに前はかわいかったのー。我よりちっこくて、ちんちくりんで、どんぐりのようじゃった。それがどうじゃ、いまじゃこんなひょろひょろに伸びよってからに。愛で甲斐のないやつよの」
「愛で甲斐? いつチヨウがぼくを愛でたのさ。愛でるってのはぼくがチヨウにしてるようなことを言うんだよ、知らなかったの」
「知らんかったな。ヌシは我に不敬ばかり働きよる」
「美味しい食べ物はもう持ってこないようにしよう」
「そら見たことか、そら見たことか。ヌシはすぐにそうしてイジワルをするんじゃ。嫌いじゃ嫌いじゃ。もっと愛でてたも」
「しょうがないなあ」
ぼくはちいさな神さまの頭を撫で、それからひざのうえに乗せ、月を眺める。陽が昇るまではこうしていよう。それから陽が暮れてきょうが終わるまで、チヨウの喜怒哀楽を嵐のように浴びるのだ。
ぼくは一年振りのぬくもりを味わった。
彼女もまたぼくからありったけの信仰を得たはずだ。
崇められることのない神は、神さまではいられない。
だからそう、本来であるならば彼女を好ましく思っているぼくのとるべき態度は、こうして一年に一度ここに足を運ぶことではなかったし、彼女を喜ばせるためにこっそり贈り物を用意しておくことでもなかった。
一人でも多くの参拝者を集めるべく、この場を世に知らしめ、宣伝し、引きずってでも連れてくることだった。
でもぼくがそれをする未来は訪れない。
「ヌシはやさしい」
別れ際、彼女はいつも寂しそうに言った。また来年も来てくれろ、と祈るみたいに、それでいてそう祈るじぶんを卑しいと責めているみたいに。
あたりまえじゃないか、とぼくは返し、ぼくがやさしくないのはチヨウにだけだよ、と減らず口を叩く。そうして彼女の頬が膨らむ様子を目の当たりにして、ようやく、またね、と手のひらを向ける。
彼女は両手を合わせ、低頭する。「ヌシに幸多くあらんことを」
霞んでいく彼女の姿はまるで暗がりに消えるロウソクの灯のようだ。ぼくは真っ暗な闇に取り残され、つぎの年がやってくるまで、その闇に埋もれつづける。
「さて」
ぼくは彼女の住処に背を向ける。一年分の英気を養ったというにはあまりに短い時間だ。たった一日。これまでにたった十数回。ぼくはそれしかぼくのちいさな神さまと触れあえずにきた。
それでもそうするしかないのなら呑みこむしかないこれが現実だ。解かっている。このままあとどれだけ幸運が重なっても、百回会うことすら適わないのだ。
それでもいいとじぶんに言い聞かせてきたが、それもいまでは怪しくなってきた。
ポケットに手を突っこむ。
くしゅくしゅに丸まった紙を取りだし、シワを伸ばす。拝殿の屋根に貼ってあったものだ。表面には、撤去予定日、とあり、さらに日付けが記されている。
あとひと月もない。
ぼくの神さまの住処は、このままだと二月を迎えることなく、消えてなくなる。
ぼくは歯を食いしばる。
あれだけ頼んだのに。
やめてくれと、頭を下げ、謝礼を用意し、説得したが、取りあってはくれなかった。
「不法侵入だろおまえ。警察呼ばないだけ感謝してほしいなあ」
たしかにチヨウの住処は私有地の一画にあった。竹林と言えども誰かの土地であり、そしてそれは国有地ではなかった。土地の所有者はしかしあの場を訪れる真似なんかしやしないし、ひょっとしたらいちども足を運んだことがないのかもしれなかった。
そして去年、手に余った土地を売ることにしたらしい。
その際に土地を整理しようと、さびれた神社を取り壊してしまうことにした。よくある話だし、止める理由も、権利だってぼくにはないだろう。それでもぼくにとってあの場所は、あそこだけは失くなってもらってはダメな場所だった。
必死だった。
お金なら用意すると申し出たが、告げられた金額は土地代込みとしても破格だった。支払い期限は何かの冗談のように短かく、二十歳をようやくすぎたくらいの碌な稼ぎのない男にどうにかできる話ではなかった。
それでもなんとか抗った。
だが、抵抗すればするだけ反感を買うだけで、裏目にしかでなかった。
ひょっとしたら神社ごと盗みだしてしまえば、それこそ取り壊す予定の建物だ、被害届も出されずに却って無料で処理できたと感謝すらされるのではないか、と甘い考えを巡らせたこともあったが、どうやらいちど買った反感を白紙に戻すには、ぼくのしてきた行動は根強い因縁と化してしまっていたようだった。
なす術がない。
だからぼくはこうするしかなかった。
「た、助けてくれ。子どもたちは関係ない、やるならせめて俺だけに」
「恨んでるわけじゃないんです。でもこうでもしないとあなたは解からないのでしょ」
「例のアレか。あんなボロ欲しけりゃくれてやる、タダでやる、だから頼む、何もしないで出ていってくれ」
目のまえでは、あの土地の管理者――それは所有者とは異なるのだが、土地整理の責任者が梱包用のビニル紐で手足を縛られ、床に転がっている。彼の奥さんも同様で、そちらの口はガムテープで塞いである。彼らを縛ったのはぼくで、そんなぼくの腕のなかでは赤子がすやすやと眠っている。
「残骸だけをもらったってしょうがないんです。あの場所にあるから意味があるのであって。でもあなたはぼくの頼みをきいてくれないから」
こんなことをしても無駄なのかもしれない。
それでもぼくには時間もチカラだってなかった。
ヌシはやさしい。
彼女の声がよみがえる。
脳裡にいくどもこだまするそれをぼくは無視して、手に握った刃物のさきを腕のなかのやわらかく、温かいものに押し当てる。
【ふつうにしてたら大丈夫】
初めて家のそとで年越しを迎えた。コンビニのなかでだ。恋人同士らしい見知らぬ男女が避妊具を購入していて、あたしはその避妊具の側面のバーコードを機器で読み取り、ぴっと鳴らせる。
うんにゃら円になりまーす、と唱え、精算を済まし、礼を述べ終える前に恋人たちは夜の向こうへと消えていく。
ひとりだ。
コンビニのなかに客はなく、ほかに店員の姿もない。
店員が女だったらふつうは気をきかせてもう一人バイトをつけるとか、夜勤はさせないとか、そうした配慮があったほうが安全面の観点からもよろしいのでは、と思ういっぽうで、ここの店長は同じく女性であるから、いまの時代にそんな甘いこと言ってんな、みたいななんだかちょっと当たりが強く感じるきょうこのごろである。
まあでも、と爪を見る。そろそろ切ったほうがいいかな、と思いながら、その思考の裏側で、たしかにこの店の客層はおじぃちゃんおばぁちゃんばっかりで、さっきの恋人たちですら若くはなく、なんだったらあたしの父親や母親と言ってよさげな塩梅じゃった。
強盗なんかきやしないし、若者だってこんな田舎のコンビニには立ち寄らないだろう、それこそ元日の、まさに年の明けたその夜に。
そろそろおでんの容器洗っちゃってもいいかな。
肉まんの入れ物も洗わなきゃだしな。
ふだんよりも時間ははやいが、どうせ客はこないだろうと思い、おでんの具を容器に詰め、業務用冷凍庫に入れておく。それを廃棄にするのか否かは店長の気分しだいだ。売り上げがわるければ、使いまわす。そこら辺、衛生管理の観点からしてどうなの、と思うけれどもきっと問題はないのだろう。ということはSNSに書かれても問題ないはずだ。辞めたらいつか書いてやる。
夜とは反対に、元日の昼間は繁盛する。商品が品切れにならないようにその分を夜のうちに補充するわけで、夜勤は夜勤で楽はできない。
年越しだから一人でもだいじょうぶでしょ、と店長は軽々言うが、ふだんは夜勤は二人体制なのだからケチらず二人つけてほしい。
おでんの入れ物を水洗いしながら、そういやきょうもハエ浮いてたなあ、とか思いながら、不満をぐつぐつ煮込んでいると、来店を知らせる旋律が店内に響く。
「っしゃせー」
首だけで振り返り、入口を見遣るとそこには一人の女の子が立っていた。店内をきょろきょろと見渡し、本棚のある方向へと進み、レジからは見えなくなる。
しばらく待ったが親らしき人物があとから入ってくることはなかった。駐車場に自動車はない。女の子は一人で来たようだ。
大晦日だもんな。
もう年越して元日だけど。
思いながらも、あんなちいさな子がくるかぁ?
よくて小学校低学年にしか見えなかった。振り袖っぽい服装だった。初詣に行く途中かな、と想像を逞しくしながら不審に思う。それを心配すると言い換えてもよい。
コンビニの周囲に民家はない。国道線沿いにちょこんと一軒だけ建っている店だ。ここまでくるのにいつも原付きバイクで三十分かかる。その間、徐々に家屋は見えなくなっていき、最後の五分は山と森と道しかない。
とすると、女の子は自力でここまできたことになる。
徒歩で?
まさか。
自転車か何かくらいはあるだろう。それともやはり誰かおとなの運転する車があったのかもしれない。
店長の娘さんである可能性も考えたが、店長の家はあたしの家からさらに離れている。ここらで一番上等なマンションだからその話がでたときのことを憶えている。コンビニの店長は儲からない、たいへんだ、とネットの記事に書かれていたのを読んだことがあるが、それもケースバイケースだろう。すくなくともこの店の長はそれなりに羽振りがよい。バイトをケチって儲けた金だ。やっぱりいつかSNSに書いてやる。
女の子は入ってきたのと同じ扉からでなければそとにはでられない。しばらくレジに立って待っていた。
以前、店内にヤマバトが侵入した際に追い駆けまわして難儀した。どうせ入ってきた場所からでなければ出られないのだから、入口を開け放ったままにしていればいずれはじぶんからでていくのだと気づいたときには、ヤマバト共々ヘトヘトになっていた。ハトを無事そとに逃がしたあとも店内に散らばった糞やら羽やらの後始末でたいへんだった。店長は言葉で詰りはしなかったが、明らかに報告を受けたときの顔はあたしを責めていた。いっそ土下座を強要してくれればSNSに書きこんでやれたのに。
店長はここぞというときにはけして尻尾を掴ませないできた人間だ。
そんなできた人間をどうやって炎上させてやろうかと意地汚く策を練っているあいだにも時は刻一刻と過ぎ去っていく。そして待てども、待てども、女の子はレジのまえに現れず、棚の合間を横切ることもなかった。
立ち読みでもしているのかな。
思い、レジから抜けでて、入口のまえに立つ。ここからであれば入れ違いになることもなく、店内の死角を覗ける。
だが意に反して、そこに女の子の姿はなかった。
背筋がぞっとしたが、店内に流れるお気楽な音楽がすぐにその嫌な感じを薄めてくれる。通路の奥にはトイレがある。女の子がいるとすればそこだ。それ以外には考えられない。
だがひょっとしたら棚の合間を横切る姿を見逃していて、反対側の通路にいるかもしれない。パン売り場のほうだ。だとするといまここでトイレを覗きにいくと、すれ違いにそとに逃げられる可能性がでてくる。もちろん女の子は窃盗犯ではないだろうし、逃げる意味もないのだが、その可能性が残る以上、あたしは入口から目を離すわけにはいかなかった。
やはり待つべきだ。
それがいい。
この場から声をかけて向こうからでてきてもらうのも一つの手だったが、「っしゃせー」「ありーしたー」以外の大声を店内で発したことがないので、お客さんいますかー、どこにいますかー、でてきてくだーい、と呼びかけるのは気が引けた。端的に恥ずかしい。
だものであたしは入り口に背を向けないようにしながらじりじりと後退してレジに戻り、物音や人影を見逃さんと五感を研ぎ澄ませていた。
どれくらいそうしていただろう。
もはや店内に女の子などいないのではないか、錯覚だったのか、思い違いだったのか、とっくに退店しているのではないか、と頭がこんがらがってきたところで、駐車場にトラックが止まるのが見えた。間もなく、来客を知らせる旋律が店内に響く。
「おはようございます。雪すごいですよ。こりゃ積もりますね」
「ありがとうございます。あー、やっぱりめっちゃ多い」
「はは。お疲れさま」
今年もよろしくねー、と業者のおじさんは荷物をどっさり置いていく。
はたと閃き、呼び止めた。
「あの、申しわけないんですけどトイレのなかを見てきてくれませんか」怪訝な表情をされたので、「女の子がでてこなくて」と事情を掻い摘んで説明する。勘違いかもしれませんが、と言い添えると、おじさんは気前よく、いいよいいよ、と笑ってトイレのなかを確認しに歩いてくれた。
しばらくして戻ってくると、
「きれいなトイレだ」と褒めてくれる。
「あの、いました?」
「このくらいの背の子だろ」おじさんは手で背丈を示す。おじさんの腰骨の位置くらいで、たしかにそれくらいの背丈だった。
「やっぱりいたんですね」
ほっと息を吐くと、
「ときどき出るんだよね」おじさんは言った。「ま、悪さするわけじゃないから。それと出ていくときはちゃんとこれ鳴るからさ」
頭上を示す。
入退店を知らせる旋律のことを言っているのだと判る。
「ま、つぎにこれ鳴ったら出てったと思っていいよ。間違っても追いだそうとなんかしちゃダメだよ。お客さんなんだから」
言い慣れた調子でおじさんは、じゃがんばって、と言い残し店をあとにした。
あたしはしばらくそれら言葉の意味を考え、咀嚼しつつ、山積みの商品を検品しては棚に詰めていく。
冗談を言ったのだとまずは判断する。こちらが嘘を言っているとおじさんは見做したので、同じように嘘で返したのだ。
お返しだ。
イタズラの一種だ。
そう思おうとすればするほど、ではあたしの見た女の子はどこに行ったのだろう、と背筋が寒くなる。
ときおり視界の端に何かが映った気がするけれど、そちらを向いても誰もいない。それはそうだ。いま店内にはあたししかいないのだから。
本当に?
じゃああの女の子はなんだったのだろう。
おじさんの言っていたあの話はなんなのだろう。
悪さはしない、と言っていた。
なんだそのほかのコらとは違うから、みたいなニュアンスは。まるでほかの何かしらは悪さをして当然だと言いたげな口ぶりだった。
よくないものなのだろうか。
よくないもののなかでも危害を加えないタイプだよ、とそういう意味なのだろうか。
えー。
めっちゃ怖いんですけどー。
検品と棚出し作業に集中する。店内には有線の音楽と、たまに新商品や割引商品のCMが流れる。
そう言えばきょうは元日じゃん。お正月じゃん。
思いだし、なにともなく店のそとを見遣って、目が合った。
目と鼻のさき、一センチでも動けばぶつかるだろう距離に、誰のものともつかない顔があり、そして目が微動だにせずこちらをじっと見つめている。眉間がむずむずする。
ぎょっとして転倒してもよいはずの場面で、あたしの身体は動かなかった。金縛りになったことがなかったがすぐに、これか、と思った。
手足を動かせない割に、全身は総毛立つ。ぞくぞくと肌を突き刺すような悪寒は、目のまえのそれを無害だと認めてはいなかった。
ポップな音楽が店内に流れている。明るい口調で正月を祝うMCの声が聞こえる。どこかで聞いた憶えがあり、さいきん流行りのお笑いコンビのものだと思いだす。
スっ、と目のまえの影が動いた。身体の緊縛が急にとれ、うしろにバランスを崩し、尻もちをつく。
体勢を整えたときには、目のまえに誰もおらず、店内には入退店を知らせる旋律が途切れ途切れに鳴っていた。入口の扉は自動ドアでもないのに、前後に激しく揺れている。
その奥で、初日の出が山の合間から光の線を伸ばしている。
朝八時になってようやく昼勤のバイトさんたちがやってきた。店長とソリが合わないのに副店長並の権限と仕事を任されている人が欠伸をしながら入ってきたので、あたしはここぞとばかりに詰め寄って、さっきあったできごと、視えない客のことを言った。
「ありゃりゃ、店長から何も訊かされてなかったの? そりゃ怖ったでしょう」訳知り顔でその人は言った。「毎年出るんだよね。この辺りじゃ有名だよ、あんたもたしか地元のひとでしょ、聞いたことなかった? 毎年この日だけはお客さんがこないんだ、夜はね。むかしはお祓いを頼んだこともあったらしいけど、あ、ヤバ。こういう話するのもホントはよくないんだよね、ウソウソ、お祓いなんてしないよー」
その人はまるでこの場にいない誰かに言い聞かせるように店内に響く声で言った。
「本当に害とかはないんですか」
「害? ありゃそれは誰から? あ、わかったヨトさんっしょ」
業者のおじさんのことを言っていると判る。
「あのひとも長いもんね。うんそう、まあ、悪さはしない。こっちが何もしなければね。ただ、まあ、うん。あんたなら大丈夫でしょ」
「あの、何だと大丈夫じゃないんですか」
「うーん。いちおうアレもお客さんなんだよね。で、ここがお気に入りらしい。だからこの店にとってよくないことをしようとすると、まあ、怒るよね。だからまあ、ふつうにしてたら大丈夫」
「ふつうにしなかった人がいたんですか」
「いた。で、まあそれはそれは可哀そうな目に遭ってね。それが結構つづいて。だからこの店はスゴいんだよ。こんな辺鄙な場所にあっても繁盛してる。店長もだからいつも懐がほくほくだ」
気をつけなよ、とその人は言った。
「ネットにこの店の悪口なんか書いてごらん。ひどい目に遭うよ」
「あの、お店じゃなく店長の悪口でもですか?」
「あー、それは大丈夫」
その人は言った。「でも私が死んだら気をつけな。きっとそれもダメってことだから」
【本懐はねじれて】
神にも位がある、そして私は低級だ。
低級の神には下々の願いを叶える回数に限度がある。そして私ほどの低級ともなれば叶えられる日も限られた。
すなわちその年の最初の一回きりである。
初詣にやってくる参拝客の中から一人だけを選び、そしてその者の願いしか叶えられない。
「まったく私のどこが神なんだ」
「またまたそんなお卑下をおっしゃって」
「お髭とか言うな。まるで私の顔面が毛むくじゃらみたいだ」
「いえいえ、カゲロウさまのおかんばせは、たいへんにつやつやのスベスベでございます」
ほらこのとおり、と遣いのヤマネのコジョウが私の顔に飛びつく。掴みきれずに滑り落ちていく。
「やめろやめろ。どこの遣いが神にぶらさがる。もはやそれ自体が我が神としての位の低さを示しておる」
「だってカゲロウさまは親しみやすいのですもの」
私はおもしろくなくて、拝殿の短い階段のうえに寝そべった。「どうせ今年も冷やかししかこぬだろう。銭も投げずに肝試しだと。もはや参る者は皆無だな。願いを叶えようもない」
「はて、それはどうでしょう。ときおりやってくるあの娘っこなれば、初詣でにやってくるのではありませんか」
「散々お参りしても、私はあの娘御の願いを叶えてやらなかった」それは低級の神としての制約があるからでもあった。元日以外に願われても叶えようもない。「因果だな。低級であればあるほどせっかくの信者たちの信用を損なう。銭だけ巻き上げて何もせぬ。もはや神としての位も返上せねばならぬかもな」
「わたくしめは思うのでありますが」
控えめにゴジョウが窺いを立てるものだから、なんだ言って見ろ、と目でさきを促す。
「参拝客の多さが神位を決めるというのは横暴に思うのでございますが」
「ああ」なんだそんなことか、と苦笑が漏れた。「おぬしら獣には判らぬだろうが、どれだけ人々から慕われるか、崇められるか、これは神の必須だ。なくてはならぬ神の代名詞と言うても構わん。下々に慕われぬ神など存在せぬ。こうして社を組んでもらえぬ八百万の神々ですら、人々の信仰を糧にその存在の輪郭を保てておる。神とは人々の願いが生みだし、昇華せしめるもの。条件というよりも、むしろ存在理由そのものだ」
だからな、と上半身を起こし、ゴジョウを持ち上げ、そのちいさな背に頬を押し当てる。
「参拝客の多さが神位を決めるのではないのだ。参拝客の願いの多さが、神を生み、そしてチカラを与える。よって、位が低かろうとそれはそれで分相応、致し方ないことなのだ。ひがんでもはじまらん。上級の神とて、すべての願いを叶えられるわけではない。そこは私と変わらぬ」
「そういうものですか」ゴジョウは髭を引くつかせる。「ではきっと、位の上下と神さまの器の大きさもあまり関係がないのでしょうね」
「それはどうかな。やはり上級の神は立派だぞ」
「そういうカゲロウさまのお控えめなところ、お慕い申しております」
神らしからぬけれども、と注釈がつきそうな響きに、私はいよいよ素直によろこべないでいる。
陽が昇りきった時刻に、一人の女が参拝にやってきた。女は歳を召している。この足場のわるい山道を一人で登ってきたのだろうか、と心配になる。やがてうしろから息子だろうか、口髭を蓄えた男が欠伸をしながら姿を現した。
「初めて見る方々ですね」
「むかし来たことがあるのかもしれん」男のほうに見覚えはないが、女のほうにはどことなく懐かしさを覚えた。
賽銭箱に小銭を投げ入れると、例に倣ってお辞儀をし、女はジャラジャラと頭上の鈴を鳴らした。
私はあぐらを組んで見守る。頬杖をついていると、カゲロウさま、とゴジョウが小声で叱ってきたので、めんどうだなあ、と思いながら、居住まいを正した。
退屈のあまり私がゴジョウの尻尾を引っ張りだすまで、女は長く目を閉じ、両手を合わせて祈りつづけた。
背後から孫らしき男が、ばぁちゃん、と呼びかけ、ようやく女は顔をあげた。
「凍っちまったかと思ったよ」
「うふふ。たくさんお願い事しちゃったから」
「欲張りは身体に毒だ」
「長生きの秘訣なのに」
仲睦まじそうに拝殿に背を向け、鳥居のほうへと去っていく姿を見ていて、はたと思いだした。
あれはたしか何十年だか前のことだ。一人の娘御の願いを叶えてやったことがあった。あれはたしか、お料理が上手になりますように、だったはずだ。その子は料理が別段下手というわけではなく、想い人が彼女の料理を食べても美味いと言わないというただそれだけの問題だった。
だから私は男の夢枕に立って、このままだとおまえはだいじなモノを失うぞ、と脅したのだ。白状するとだから私は彼女の願いを叶えたわけではなく、もちろん彼女の料理の腕があがったわけでもないのだが、すくなくとも彼女の「本当の願い」は叶ったようだ。
こうして自身の孫だろう、労わるように背に添えられた手のやわらかさを眺めれば、かように巡らせた妄想がてんで的外れではないと思うのには充分だ。
加えていま女がしていった願いは、
「カゲロウさま、いまの老婆は何を願っていったのですか」
「老婆という呼び名は失礼だぞゴジョウ」
「そうですか? では老女と言い直しましょう」
「間違ってはいないが、うーむ。まあいい。彼女はな、何も残さずにこの世を去りたいと願っておった」
「何も残さずに、ですか?」
「禍根、因縁、愛情、寂寥、執着、約束事、まあなんにせよ、私の出る幕ではないな」
「そうでしょうか。カゲロウさまのお得意な類の願いに思えますが」
「人々の記憶から彼女の思い出を消すのはそうむつかしいことではないのだがな。ただ、それをして彼女の願いを果たせるかと言えば否だろう。彼女は何も残したくはないと願ったのだ。彼女の記憶がぽっかり空いた人々には、自身にすら自覚できない虚空が残るだろう。それは彼女の本意ではない」
「ではどうされたかったのでしょう。理解に苦しむ願いですね」
「残したくない、と彼女は願った。それですべてだよ」
「はてはて。わたくしめにはそれこそ理解の及ばぬ話のようです」
「ある意味ではもうすでに彼女の願いは叶っておる。そう言い換えてもよい。彼女はここに【何も残さずに逝きたい】と願いにくることが願いだったのだ。もうすでに果たされておる。よって私にできることはない」
「酔狂な御仁もおられるのですね」
「何を言う。ゴジョウ、おぬしだって充分に酔狂だ。何を好きこのんでこんな尽くし甲斐のない神の遣いになっておるのやら」
「おー、たったいま老女の酔狂が理解できた気分です。なるほど、たしかにわたくしめと似ていますね」
「そこまで勢い共感せずともよい」
ゴジョウのあごを薬指で撫でつけながら、なぜじぶんは神さまなんかをやっているのか、と疑念を抱く。物心ついたころにはすでにこうして神社をねぐらにしていた。ひょっとしたらよそからきてそのまま居ついた流れモノではないかと疑っていた時期もあったが、ほかに主らしきものを見掛けないし、元日の日にはこうして神らしいチカラを発揮できる。
一年に一回、たった一人の願いを叶えるだけのチカラだ。
それでも何もできないよりかは好ましい。
本当に?
いっそ誰の願いもきかないほうが平等で、公平なのではないか。
一回だけならばどんな願いでも叶えてやれる――私をその気にさせたならば。ゆえに神のお眼鏡に適った者だけが願いを聞き入れられるなんてそちらのほうが何かこう、言葉にしにくいヨドミのようなものを感じる。
わるいことではないはずだ。それは解かるが、ではまったく微塵もわるいことがないのかと言えばそれもまた否だろう。ゴジョウに問い質してみたところで答えを知っているわけもなし、仮に答えを返されたところで、それが真実唯一無二の正しい答えなのかは知れぬままなのだ。
神とは所詮この程度のものだ。
卑下ではないと思いたい。ありのままをそのまま受け入れているだけの話だ。
神が完全無欠の存在でないといけないなんて誰が決めたのだろう。やはりそれも下々の願いがそのような神を生むだけなのではないか。とすればこの身がこの程度の器なのも、それを願った者たちがいたからだ。
そう思うと、この程度の器であることにもそれなりの自負が芽生える。
矜持とまでいくとさすがに危ういが、この身が未熟な存在であることにも意味があると思えばこそ、やはりそれをそのままに受け入れるのはさほどにわるい咀嚼には思えない。嚥下したそれで腹を下すということもないだろう。
否、あるのだろうか。
「カゲロウさま?」
ゴジョウがこちらを見上げ、髭を垂らした。
「いや、すこしむかしのことを思いだしてな」
「むかしとはわたくしめの生まれる前のことですか」
「ああ。おまえの生まれるずっとずっとむかしのことだ」
聞かせてくださいまし、とゴジョウがねだるものだから、またいつものように、これはさて話して聞かせたことがあったものか、と首をひねりながら、たとい同じ話でも心地よさそうに目を閉じじっと耳を欹てるゴジョウのちいさきあたまをやはり薬指の腹で撫でつけるのだ。
陽が暮れるまであとはもう参拝客はこなかった。
もう今年はないだろう、と思った。願いを叶えなくてはならない、といった制約はとくになく、神の称号を失うこともない。ひょっとしたらあるのかもしれないが、これまで無事につぎの年を迎えたので、ひとまず誰の願いを叶えずとも差し障りはないと言えた。
「寂しくはありますよねー、でも」
「私が寂しくないのだから問題はない」応じてから、しばし考え、「なにゆえゴジョウが寂しがる」と質す。
「いえそれはやっぱり見たいですもの」
「見たい?」
「カゲロウさまのご活躍を」
「おいおい。それではまるで日頃私が活躍をしていないみたいではないか」
はっは、と笑って見せるも、ゴジョウが黙ってこちらを見上げるものだから、咳払いをし、
「活躍はたしかに」と認めせてみせる。「しておらぬかもしれぬが、それを恥と思うたことはない」
「その何事にも動じない気丈な性格はご立派かと思いますが、やはりすこしくらいの恥じらいは持っていてほしいものかと」
「神としての自覚が足りぬか?」
「いえ、けしてそのような。もごもご」
否定するゴジョウだが、動きがせわしない。ひげもピンと張っていて、申しわけなさの欠片も見当たらないとくれば、なるほど神としての自覚か、と我が身を省みる動機としては申し分ない。
「おや、カゲロウさまあれを」
ゴジョウが背伸びをしたので、そちらを見遣ると、鳥居をくぐって近づいてくる影があった。
「いつもの娘御ではないか」
「やはり来ましたね」
「しかし一人でか。こんな夜分に危ないではないか」
「むかしほどにはこの辺りもそうそう危険ではない、ということなのでは」
「それにしてもだ」
不用心にすぎる、とはらはらしてしまう。神とはいえ、できることは願いを叶えること、しかも年に一度きり。暴漢や獣に襲われても助けてやることはできない。
娘御はいつものように小銭を投げ、祈った。
「いよいよ叶えてあげられますね」
ゴジョウは嬉々として言うが、私は気が進まなかった。
「そう言えばこのコの願いとは何なのですか。カゲロウさまはついぞ教えてくださらなかったから」
「うむ」
なんと言ったものか。
いつも以上に、長い時間をかけその娘御は祈り、拝礼をしてから去っていった。投げていった銭も、ふだんの十倍はある。
「カゲロウさま?」
こちらの不穏が伝わったのだろう、ゴジョウが身体を小刻みに震わせている。いや、それは元からなのだから、その仕草から不安を読み取るくらいにこちらが自身に不審感を抱いているのだろう。願いを叶えてやってもよいものか、と。
「ちと社を離れる。すぐ戻る。留守を頼んだ」
返事を俟たずに私はウスバカゲロウのカタチをとる。季節外れだが、その分、人に見つかっても即座に撃墜される心配がない。
ゴジョウがこちらを呼んだが、意に介さず、さきほどの娘御のあとを追う。
どうか世界が滅びますように。
聞き入れるには、いささか気の滅入る祈りである。
【後悔はねじれて】
どうか世界が滅びますように。
アンナは祈ったが、それが叶うことはないと知っている。何を祈っても神さまは願いを聞き入れてはくれない。初めから知っていたこの世の摂理だが、淡く期待を募らせるくらいの余裕はむかしのアンナにもあった。
しかしいまはもう、神さまなんていないことを知っている。
目のまえを一匹のウスバカゲロウが横切る。掴もうと手を伸ばすも、それはするりと闇に溶けて消えた。
アンナは祈る。
どうか世界が滅びますように。
アンナの母親はアンナが六歳のときに亡くなった。お葬式に集まる親戚たちが何かとアンナを甘やかしてくれたので、アンナは母親が目のまえからいなくなった現実に気づくのに随分かかった。
ちゃんとお別れをしなかったからだ。
アンナは母親に、さよなら、を言えなかったあの日を引きずっている。ありがとうも言えなかった。知らなかった。死ぬという意味も、人はみないつかは死んでしまうということも、アンナは母の葬式から何年も経ってからそういうことかと納得した。
人は死ぬ。
給食に並ぶ肉や魚みたいに、呆気なく、ある日突然死んでしまう。
アンナは父親と共に、祖父母の家で過ごすことになった。母方の祖父母はすでに他界しており、また父や母にはほかに兄妹もいない。祖父母がアンナにとってもっともちかい親戚と呼べた。
「ママのお葬式にきてたひとたちは?」アンナは父親に味噌汁をよそいながら言った。
「あれはパパの従妹だよ。おばぁちゃんの妹の娘」
「ややこしい」
「お正月にはウチに集まるからまた会えるよ」
「ふうん」
アンナはなぜじぶんの気持ちが暗くなったのか、そのときは解からなかった。だが、お正月や母の法要を経るごとに、その理由が徐々に解かるようになっていった。
「アンナちゃんにはコレとかどうかな。こっちも似合いそう」
つぎつぎに洋服をあてがわれ、アンナはじぶんが人形のようだと思った。オモチャにされている気分だったが、父の従妹はアンナの亡くなった母と同じくらいの年だから、嫌な気分というよりも、苦しいと表現したほうがしっくりきた。
アンナの顔に陰が差したのを察したのだろう、父の従妹は困ったふうに眉根を寄せ、
「ごめんね、そうだよね、おばちゃんのお古じゃ嫌だよね」
お門違いな慰めを口にした。アンナにしてみればおとなの女性のお古ならよろこんで着たいし、実際に父の従妹の服のセンスはアンナの琴線にぴったりだった。本来ならば手放しで尻尾を振り、はしゃいでもよい場面なのに、アンナにはそうすることができなかった。
思いだしてしまうのだ。
母のことを。
そしてたぶん、思い浮かべてしまうのだ。
本当だったらいまごろ目のまえにいるのは父の従妹なんかではなく、母だったのに、と。
そうしたアンナの胸中がまるっと伝わればよいものを、父の従妹や祖父母に伝わるのは、アンナの底なしの寂しさだけだった。
アンナ自身、それを寂しさだとは認めていない。そんな埋めることのできる代替可能な何かではなかった。でも、アンナのなかにあるそれの影だけが余韻のように人に伝わると、それはどうやら寂しさとしてのカタチを帯びるのだとアンナは徐々に諦めるようになった。
他人にじぶんの気持ちを伝えることへの諦めだったし、他人から理解されようとする気持ちからの逃避でもあった。
苦しい思いをしてでも理解されたいと欲する相手がすでにアンナには欠けていた。そして他人から優しくされるたびに、その事実を突きつけられる心地がした。
父親が病に倒れたとき、アンナは中学二年生だった。母親を亡くしてから八年が経過しようとしていたが、アンナにはまるで過去の再演を見ている気分だった。
失われた記憶がつぎつぎとよみがえるようで、どうしていままで思いだせなかったのか、とたびたびじぶんをこっそり責めた。ひょっとしたらその追憶すら気のせいで、記憶に留めておくことのできなかった母の死に際の日々と、父の闘病のいまを重ねて、足りない部位を補完しているだけかもしれなかった。
父はつぎの年、アンナが中学校を卒業する前の秋に亡くなった。
それがきっかけかは定かではなかったが、その年から祖父はめっきり呆けてしまって、祖母が毎日のように怒鳴るようになった。祖父を施設に預けられればそれが最善だとアンナにすら理解できたが、それをするだけの金銭的余裕が祖父母にはなく、アンナに託された父の貯金も、それを補うほどには遺されてはいなかった。
アンナは高校に進学してからというもの、家にいるときは祖父の介護をした。祖父の介護をすることが、すなわち祖母の助けになると判っていたからだ。
祖母はときおりふらりと散歩にでかけ、夕方になるまで帰ってこないことがあった。祖父を任せきりにされる不満はもちろんあったが、それ以上に、アンナにはもう誰にも倒れてほしくはなかった。祖母はめっきり老け込み、祖父はもはや徘徊することもできなくなった。
父の貯金を切り詰めてなんとか捻出した費用で、介護サービスを頼んだが、それはアンナがプロから介護の技術を盗むためだった。派遣されてきた介護士はアンナの本懐を見抜くまでもなく、ていねいにどうすれば安全に介護ができるかを教えてくれた。
寝たきりの病人の介護はやはり、素人がやるには骨が折れるものなのだとアンナは知った。介護士はしきりにアンナを褒め、就職に困ったらうちにきたら、と冗談のように言った。アンナにはその言葉がありがたくもあり、呪いのようにも聞こえた。
高校二年生になったある日、アンナは祖母からお願いをされた。
「神社にお参りに行ってきてほしくてね」
「お参り?」
「もう腰がね」
「わかった行ってくる、無理しなくていいよ。どこの神社?」
祖母は街はずれの土地の名を口にした。ちいさな神社があるらしい。アンナはその土地に足を運んだことはなかったが、自転車で行ける距離だったので、休みの日に向かった。
何を祈ってくればいいの、とアンナは出掛ける前に祖母に訊いた。
「なんでもええよ」祖母は言った。
「なんでもって、じゃあおじぃちゃんおばぁちゃんの健康とか?」
「それは祈ってもね。いまさらね。ふっふ」
笑いごとじゃないと思うんだけどなあ。
釈然としないながらもアンナは、祖母から受け取った小銭を財布に突っこみ自転車にまたがった。
地図を頼りに辿り着いたのは、小山だった。竹林に囲まれた高い丘じみていて、電車に乗っているとときおり目にする風景、畑の真ん中にそれだけぽつねんと佇んでいる小山に似た印象があった。住宅街の裏手に面しており、奥にいけばそのまま深い藪へと繋がっている。
「ここぉ?」
しょうじきを言えば不気味だった。入ったら出てこられなくなるのではないかと幼稚な想像を巡らせてしまうくらいに、ひと気がなく、また背の高い草木が鬱蒼としている。
草木の合間に申しわけていどに敷かれた道があり、藪を掻き分けるようにアンナは進んだ。
やがて背の低い鳥居が見えてくる。潜ると、相撲の土俵くらいの面積の境内があり、その向こうにお社があった。
狛犬とかはないんだな、と妙なところに目がいった。
いったい何の神さまがおわしているのかは定かではなく、賽銭箱を覗いてみてもほとんど空で、なかには空き缶やペットボトルのキャップ、ガムの包装紙といったゴミが紛れていた。元から小銭を回収する気がないのか、手を伸ばせば底に届きそうで、アンナは辺りを見渡してから息を吐き、それからゴミを拾いあげた。
すっかりゴミを集めきってから祖母のお願いを実行する。小銭を投げ、祈願する。とくに何も祈らなかった。目を閉じ、両手を合わせ、ただ祈るカタチをつくっただけだ。
元から信仰心は薄い。ゴミを拾ったのも、そこに小銭を投げこみたくなかっただけだ。
賽銭箱の底には五円玉ばかりが大量に散らばっていて、そしてアンナの渡された小銭も五円玉が十枚だった。
ひょっとしたら祖母は頻繁にここにお参りをしにきていたのかもしれない。
階段を下りながらアンナは想像した。
祖母はいったい何を祈らんがために、ここに通っていたのだろう。そしてその祈りは叶ったのだろうか、と。
アンナはそれから定期的に祖母からお願いをされて神社に出向いた。途中からは祖母から頼まれなくてもじぶんから足を運ぶようになった。散歩や気晴らしにちょうどよかったからだが、果たして祖母からそれ以外の目的地を指定され、お使いを頼まれたとして、同じように行きつけのコースにしたかは自信がない。
高校三年の卒業を控えた時期、祖父が言語を喪失しはじめた。馴染みの介護士からも、家での介護はこれ以上は、と率直に入園を勧められたが、すでに予約は数年先までいっぱいで、費用もいまはまだ捻出するだけの余裕がアンナにはなかった。
祖母はじぶんたちの年金を使えば或いは、と言っていたが、そうすると祖母がまともに生活していかれない。身体を壊されては元も子もなく、だからアンナは卒業と共に働くことにした。
習慣として月にいちどは例の神社へ出向いた。ウスバカゲロウが目のまえを横切る。
「安らかに死ねますように」
さいきんでは不謹慎な祈りばかりをするようになっていた。その祈りの主語がいったい誰を示すのかはじぶんでも定かではなかった。
特別養護老人ホームに就職したのは、馴染みの介護士とは関係がなかった。じぶんで探して、じぶんで就活をした。
介護士の資格を持ってはいないので給料は思ったほどにはよくはなかったが、父の貯金を切り崩さずとも生活していける日々はアンナの心を軽くした。
祖父は相変わらず家におり、祖母の負担が増したが、介護士のはからいで半年後には施設に入園できる手筈となっている。
久方ぶりに未来が拓けた気がした。
半年後、祖父が施設に入ると、安心したのかこんどは祖母の記憶があやふやになった。その年の暮れには、祖母は買い物をするたびに新しい油や惣菜を買ってくるようになった。きっともうすぐ、お金を持たせることもできなくなる。
アンナは嘆息する。これではせっかく解約した介護士をまた雇うしかなくなる。父の貯金に手を付けるのは心苦しかったが、それしかアンナには術がなかった。
大晦日、アンナは祖母を寝かしつけると、あすも仕事であることを思いだし、気持ちがすぅと萎むのを感じた。
あすは仕事を終えたその足で、例の神社に歩を向けよう。
翌日の日の暮れはじめた時刻、アンナはすっかり行きつけの道の途中にいた。介護士からは祖母が食事を吐いたとの留守電が入っていたが、ひとまずそれは見なかったことにした。
神社には相変わらずひと気はなく、心なしここだけ時間が経過していないような錯覚に陥る。
アンナは例のごとく小銭を投げ、そして祈った。
どうか世界が滅びますように。
なぜそんな願いを祈ったのかはじぶんでもよくは解からない。そう祈ったところでしかし神は何もしない。ただそのことだけを知っていた。どんなひどい願いでも神は聞き入れたりはしない。どんなひどい考えを巡らせても咎められることはない。
そう実感できるだけでじぶんはやわらかな気持ちで家に戻れる。
息を白く吐きながらアンナはすっかり歩きなれた階段を、目を閉じているみたいな闇のなか、踏み外すことなくトントンと下った。
家に戻ると祖母が明かりを点けたり、消したりしていた。
「どうしたの。もう寝る時間だよ」
「お父さんがね帰ってこなくて、探しに行こうかと思って」
「そっか。じゃあおじぃちゃんは私が探してくるから、おばぁちゃんは寝てていいよ」
「そう?」
祖母は安心したように笑って、アンナに誘われて布団に寝そべり、子どものように目を閉じた。
「おやすみ、おばぁちゃん」
「アンナちゃん」祖母は目を開き、目じりを潤わせる。「明けましておめでとう」
なぜか息が詰まった。
手を固く握っているようだったので、何かを誤って呑みこんだらたいへんだと思い、痛くしないよう注意してゆびを開かせると、じゃらり、と五円玉の塊が転がった。
目のまえをウスバカゲロウが飛んでいる。
【自制心大敗の乱】
またこの日が来てしまった。
大晦日、年越し、元旦と、順調に自堕落街道をまっしぐらに進んできた我が主こと肉田ゼイ十八歳、華の高校三年生は新年三日目にして恒例の現実直視を決行した。
すなわち、体重計に乗る、である。
私はその光景をハラハラと見守った。まさしく我が主こと肉田ゼイの腹心らしく、腹らしく。
「うっそーでー。ありえーん!」
頬を両手で挟んで一人サンドウィッチごっこを繰りひろげる我が主だが、体重計の示す数値は彼女がこの家にこもりはじめた去年の十二月三十日に量ったときから、つまりこの五日間に、優に三キロは増えていた。
私はこの事態を前以って予期していた。なにしろ我が主が増やした三キロもの脂肪はそのままどっしりと私に垂れ下がっているからである。
垂れ下がっているのはいままさに我が主が自身の手で私をつまみ、ぶいぶい、とその下膨れた肉をもてあそび、「これ取れんじゃろか」とありもしない未来を想像しては、ふたたびの現実逃避に明け暮れるがゆえである。さいわいにしてその手を離せば、大部分の脂肪は私の奥底へと引っこむし、小部分の脂肪はぽっこりと私に膨らみを与える。
「こうなったら!」
我が主は拳を突きだした。「ダイエットしてやる!」
叫んだ矢先に、はー疲れた、と言って彼女は湯上りの一杯を呑むべく、キッチンに立った。冷蔵庫から野菜ジュースを取りだし、喉をごくごく云わせ、私のなかに大量の糖分をそそいだ。「ぷはー、うめー」
と、そこへ廊下から弟君がやってきた。我が主の姿に目を留めると、
「うげ。ゼイちん、裸でなにやってんの。風邪ひくよ」
「チッチッチ。バカは風邪ひかないんやで。そしてほれ、バスタオルは巻いておる」
「まあゼイちんがいいならそれでいいけど」弟君はそこで背後を振り返り、「あ、こっちだってこっち」
手招きをした。すると背後からずらずらと男衆が列を成して現れた。我が主は野菜ジュースの入ったカップを煽ったまま硬直した。目だけで男衆を見遣っているので、おそらく物凄い形相になっていることだろう。男衆はこぞって我が主に視線をそそぎ、そしてバスタオル越しにぽっこりと膨らみを湛えた私を直視した。
「あ、これぼくの姉ちゃんね。こんなだけどいちおう姉だから」
ぼくの部屋はこっち。
弟君は男衆を引き連れ、自室へと進んだ。扉の閉まる音がする。
ごっくん。
ひと際大きく喉を鳴らし、我が主はようやく野菜ジュースの入った――否、もはやそれはカラであるが、カップを置いた。ぜいぜい、と呼吸を荒くし、声もなく、身体を荒ぶらせる。具体的には、キッチンカウンターに両手を置き、まるで力士の突き押しの練習、いわるテッポウを延々繰りかえすがごとく力を籠め、足を踏ん張り、歯を食いしばって、何かしらの感情の爆発をそれにて発散しているようだった。あたかも巨大な一枚岩を相手にちゃぶ台かえしを試みる屈強な武士を彷彿とする。
「あ、そういや姉ちゃんさ」
弟君が顔を覗かせたので、我が主は何事もなかったかのようにその場にしゃがみ、ゴミを拾うテイを装った。立ちあがる際に、両足の膝はしゃんと閉じ、髪の毛を耳にかけてみせるなどの小細工を弄したが、顔をあげたさきには弟君以外の姿はなかった。我が主は即座に、だるん、とした。
「なに」
「きょう母さんたち留守にするって言ってて、出前で済ましてだって。こっちはこっちでお金もらったから、姉ちゃんは好きなのじぶんでなんとかして」
「さっきの人たちはなに?」
「部活動」
「ああ」
「夜にはみんな帰るから」
「べつに襲われる心配とかはしてないけど?」
「そんな心配はぼくもしてないんだけどな。帰るときに挨拶させたほうがいい?」
「いらんてそんなん」
「やっぱり思うんだけどさ」
弟君はお盆にカップを並べ、ペットボトルごと飲み物を抱える。「家のなかで裸はやめたほうがいいと思うよ」
「うっさい」
弟君は我が主の蹴りを颯爽とかわし、下着も穿いてない、と溜息まじりに言い残し、自室へと吸い込まれていった。
我が主はまた声もなく荒ぶった。
ダイエットなるものが氾濫している世の趨勢は知っていた。その有様も様々で、その時代、折々で何を以ってダイエットとするかは変化する。断食から、糖質制限、有酸素運動から、サウナ、野菜摂取率先主義から、タンパク質摂取率先主義、と矛盾に思える手法の入り乱れである。
そこにきて、では我が主のダイエット歴はいかがなものか、と言えば、むろん今回が初めてではなく、かつて似たような逼迫を繰りかえしてきた。
正月太り、と呼ばれるこれらは我が主の宿命にして不倶戴天の敵、それらを相手取り、長きにわたってつづけてきた闘争を我が主はこっそりと、「自制心大敗の乱」と呼んだ。
「さーて、今夜は何にすっぺ」
ピザ屋のサイトを眺めながら我が主は、多めにデザートを注文しておけばあしたも、あさっても楽しめるぞ、うっひっひ、と意地汚い考えを巡らせている。親の金と知ったが最後、ふだんは働かせない思考野を存分に覚醒させ、お釣りが一円もでない注文の組み合わせを計算する。
電波越しに注文を済ますと、ちょうどそこへご友人からのテキストメッセージが届いた。
遊びに行ってもよいか、との旨が記されている。時間帯からして暗に、泊まって行ってもよいか、と訊いている。
我が主はすこし迷った末に、いいよー、と返事をした。逡巡した理由の大半は、せっかく注文したピザが減ってしまうなあ、という打算であり、それを退けた理由は、ダイエットするにはちょうどよいかもしれない、とする理性的な判断にはなく、どちらかと言えば、ご友人にもピザを勧め、自堕落街道への道連れにしてしまえ、との魂胆が大きい。
ともすれば、ご友人の正月太り、すなわち「自制心大敗の乱」の程度を知りたいとの欲がなかったとは言いきれない。
三十分以内にご友人はどっさりと菓子を携えやってきた。
「はい、おみやげ」
我が主の目が輝く。「うわー、どうしたのこれ」
「親戚が集まってて、置いていってくれるのはうれしいんだけど、食べきれなくって」
「それは暗にワシならたいらげられると?」
「たいらげられないの?」
「んじゃこりゃ舐めんなありがとー」我が主は自身の腹を、つまり私をぽんと叩く。
「うっわー、ことしもよくもまあ、ここまで育てて」
「いっしょにダイエットしよ」
「いいけど、え、じゃあお菓子は余計だったね。持ち帰ろっか?」
「食べるー、めっちゃ食べるー、ぜんぶ置いてけー」
「ちなみにだけど晩ご飯どうする?」
「ピザ頼んじゃったよ」
「あんたさ、ダイエットする気ないでしょ」
「気だけはあるんだけどさ」
「そういうのをないって言うんだよ」
「うわーん」
ご友人に甘えて、遠回りな自己肯定をもらおうとする姑息な我が主であるが、どれほど私がぽんぽこりんであろうと気にする素振りのないご友人の態度には、たしかになにかしら胸の軽くなる思いがある。私は胸ではなく腹なので重いままではあるのだが。
ご友人と仲睦まじく、ときに悪態を吐きあいながらじゃれあっていると、間もなく注文していたピザが届いた。デザートのアイスがなんと五つもついている。
「弟くんの分も?」
「うんみゃ。あいつはあいつで食べるって」
「じゃあこれ全部食べるつもりだったの呆れた」
「違う違う」そこで我が主はご友人の名を呼び、「――がくるって知ったから多めに注文しといたんだよ」
「うそだ」ご友人の声と私の思いは重なった。
「なんで決めつけるの」我が主はアイスを冷凍庫に仕舞い、それからさっそくピザを開けた。「ひっひ、いい匂い。食べよ、食べよ。あ、ちくしょー。コーラ全部持ってかれた」
弟君が男衆に持っていったのだ。
「買ってくる?」
「冷めちゃうよ」ピザのことを言っているのだと判る。
「したら紅茶でも淹れる?」
「あ、いいね。レモンティにしよ。ミルクティでもいっか」
「ねえ知ってる? おっきな鍋で一気にやるといいんだって」
我が主はいたずらっ子のように身を乗りだす。「へぇー、へぇー」
ピザを齧りながら、ご友人といっしょになって、大きな鍋に湯を沸かし、そこに茶葉を投じて、大量のミルクティをつくった。
「できたね。でも一つ疑問なんだけどさ」
「うん」
「なんでピザもうないの? 意味ないじゃん」
「食べちゃった」
「わたしまだツーピースしか食べてないのに」
「ごめんごめん。あ、きのうの残りあるよ。おぜんざい。ゴマ団子もあるし」
そこで我が主の腹たる私は盛大に声を立ててしまった。
「ピザ食べたばっかなのになんでそんな大きな音が鳴るの」ご友人の呆れ口調には反論のしようがない。
「むしろそっちはなんでお腹すかないの。ていうか太った? 太ってないんでしょどうせ」
「そりゃ雪掻きとかしてたら太る暇なんてないよ。ていうか雪掻きした? どうせまた弟くんに任せっきりなんでしょ」
「そうだよ!」
「逆切れ!」
「もういい」
我が主はぷいっと背を向け、ご友人から距離を置くと、冷凍庫を漁ってアイスを取りだした。
「そうやってまた食べる!」
「ここあたしん家!」
ご友人は肩を竦めると、何も言わずにリビングに戻った。ソファに腰を埋め、メディア端末をいじりだす。
我が主はその様子をキッチンから眺めながら、あっという間にアイスを二つぺろりとたいらげた。
部屋は静まりかえり、どことなく冷えて感じる。我が主は三つ目のアイスを手に取り、蓋を開けているところだった。
するとそこへ、ぞろぞろと足音が聞こえてきた。廊下を男衆が歩いている音だろう。お帰りのようだ。弟君が顔を覗かせ、帰るってー、と声をかける。廊下から一斉に、おじゃましましたー、と聞こえた。
「どっか行くの」
我が主は訊いた。弟君が防寒具を着込んでいたからだろう。弟君は頷き、初詣、と言った。「きょうまでだし、部活の連中と必勝祈願にでもって」
「どうせなら恋人ほしいとかそういうのにしときなって」
「否定はしないけど、そういうのよりいまはこっちが大事だから」
弟君はおとなだ、と私は思った。我が主は、ふうん、とつまらなそうに唇を尖らせ、気を付けてなー、とせいいっぱいお姉さんぶって言った。
行ってらっしゃーい、とリビングからご友人が叫ぶと、そこに至ってようやく弟君はその存在に気づいたようだ、身体を硬直させ、口をぱくぱく開け閉めしたあと、小声で、行ってきます、とつぶやき、ついでのように我が主をねめつけた。我が主はスプーンを唇に垂らしている。
「なに」
「きてるなら言ってよ」
「はへー、おまえがそれを言う?」
弟君はご友人に頭を下げると、廊下に引っこんだ。間もなく奥のほうから、玄関扉の閉まる音がする。
「初詣だって」我が主はリビングに移動した。ご友人のとなりに腰掛ける。
「ふうん」
「今年行った? あたしまだ」
「わたしも」
「じゃあ行く? きょうまでだって」
「んー。混んでない?」
「さあ混んでてもよくない? ダイエットだと思ってさ。階段めっちゃハァハァ言ってのぼろうよ」
「わたしこれ以上痩せたら死んじゃう」
我が主は無言でご友人の足を踏んだ。
だから、とご友人は言った。「アイス、わたしにも一つちょうだい。それ食べたらカロリー分歩けるかも」
「ナイスアイディア」
言って我が主は、アイスを二つ取ってきて、けっきょく注文して届いたアイスをすべて食べきってしまった。
「よくお腹壊さないね」
「壊すよ。でもそれって吸収されなかったってことじゃん。ラッキー」
「その発想はなかったなあ」
そとに出ると胃がキリキリした。アイスを四つ食べた直後にこの寒風は身に染みる。
「だいじょうぶ? やっぱやめとこっか」
「なんでよ」
「だってすごい凍えてない?」
あごがガクガクすごいんだけど、とご友人は途中から噴きだすようにした。
「ばっでザブいんだもん」
「くすくす。それだけ震えたらいいダイエットになるね」
屋台でてるかな、とご友人が口にし、焼きそばー、と我が主は私を撫でた。私は段々ぽかぽかむずむずと温かくなる。遠く、提灯の明かりが見えてくる。
【わるい子、泣く子はもういない】
血の気が引いた。
やっちまった。
手にずっしりとくるダンベルは赤黒く染まっている。
呆然と足元を見下ろすと、エリカがぴくりともせず転がっていた。頭部から溢れでる体液は蛍光灯の明かりを受け、テラテラと宝石じみた光沢を浮かべている。覗きこめばじぶんの顔が映りこみそうだ。オレはその場から一歩も動けないでいる。
事故だ。
まずはじぶんに言い聞かせる。
殺すつもりはなかった。
大晦日だった。仕事もなく久方ぶりに家でゆっくりできると思い、ふだんから素っ気なくしていた埋め合わせをしようとエリカへ過剰にちょっかいをだしたのがよくなかった。
半ば強引にベッドに押し倒し、その身体に顔を埋めると、エリカは嫌がり、抵抗した。ふだんのオレへの当てつけでもあったのだろう。そこまでしなくとも、と反射的に血が頭にのぼったときには、そばにあったダンベルを手にとっていた。
本来ならば愛を確かめ合いながら年を越せるはずだった。
それがどうだ。
目のまえにはやはりぴくりともしないエリカが横たわり、ダンベルを握ったままの腕はまるでそうすることが自身への罰であるかのようにいまにも千切れそうなほど震えている。
ようやく凶器を手離し、汚れた手を拭いに洗面所に立ったときに、それは鳴った。
インターホンの呼び出し音だ。
訪問者のようだが、オレは時計を見る。
時刻はいままさに零時を回った時分だ。
洗面所の窓には、吹き荒れる雪の影がひっきりなしに線を描いている。この吹雪のなかを出歩く者はまずいない。遭難の危険すらある。
この村には十年前に移転してきた。駅周辺にコンビニができた分は発展したと呼べるが、冬は積雪三メートルを超え、昼夜問わず除雪車が走り回らないと自動車で買い物にもでかけられないほど田舎にある。
村人がこの時間帯にそとをこうして出歩くことそのものが奇妙であり、ひるがえって訪問者があればそれだけ重要な用事であることの裏返しとも言えた。
鏡で顔色を確認する。
だいじょうぶだ、中に入れなければいい。
よしんば入室を許したとして、寝室にさえ入られなければ問題はないはずだ。
覚悟を決め、オレは玄関の戸を開けた。
いっしゅん素っ頓狂になったのは、目のまえが真っ白な吹雪だったからだ。誰も立ってはいなかった。風で雪か何かが当たって偶然インターホンが鳴ったのかもしれない、と気を抜いたそのとき、
「わるいごはいねがー」
足元から声がした。雪のように冷めた口吻で、
「泣く子はいねがー」
と声はつづいた。
子どもだ。
般若のような仮面をつけた子どもが独り佇んでいる。ひょっとしたらこちらを見上げているのかもしれないが、それは仮面に角度がついているからそう見えるだけで、本人はまっすぐ向いたままなのかもしれなかった。
「こんな時間にどうした」
玄関のそとに首を突きだし、辺りを見回す。視界がわるいとはいえ、人影が近くにあれば判る。しかしいくら目を凝らしてもこの子どものほかに人影は見当たらない。隣の民家までは三軒分ほど離れている。
もういちど足元に目を転じたところで、そこに子どもの姿がないことに気づく。ぎょっとしたが、背後から物音がしたので、しまった、と振り返る。いつの間にか子どもは家のなかに入りこんでいた。
「コラコラ勝手な真似をしたらいかんだろ」
「わるいごはいねがー」子どもは繰りかえした。
「いないって。いいからそこに座りなさい。きみどこの子? それは親にやれって言われたのかな」
たしかにこの地域にはそういった風習がかつてはあった。大晦日の夜に大人たちが、家々を歩き回って、このコが口にしたように、「わるいごはいねが、泣く子はいねが」と叫びながらその家の幼い子どもたちを怯えさせるのだ。伝統行事だ。その際、大人たちは一様に鬼に似た様相の被り物をする。
いま目のまえにいる子どもが顔に被っているのは般若のお面なので、いわゆるそれら伝統行事とは趣が異なる。そもそもを言うならば大晦日は数分前に過ぎており、それをしているのは大人ではなく子どもだ。
ハロウィンとはわけが違う。
子どもがほかの家を回ることはないはずだ。
「いいからそこに座って。寒かっただろ、お茶でも飲む?」
ひとまず怒らずにいよう、と方針を固める。通常こうしたとき子どもを叱るのは逆効果だ。
わるいごは、と子どもがまた口にしたので、
「ここに一人いるだろ」
頭を揺さぶるようにした。すると手のひらに痛みが走った。反射的に腕を引っこめる。その際、般若の仮面に指を引っかけた。
仮面が床に落下する。
オレは息を呑む。
子どもの顔はポストやトマトのように真っ赤だった。そしてなにより、ひたいからは二本の突起物が生えていた。
「お、おに」
「鬼言うな」
子どもはようやく、例の呪文じみた言葉以外を発した。
お茶を淹れることにした。第一に、落ち着くこと。第二に、鬼なんてこの世にはいないこと。第三に、子どもをコタツへ誘導するのに、いま茶を淹れるからそこに座れ、と指示するのが自然な流れだったからだ。
湯が沸くまでのあいだ、コタツには潜らずに、壁に寄りかかりながら子どもをいまいちどじっくり観察する。
化粧ではない。化粧の赤さではない。生物的な、強いて言うならばアカハライモリの腹や、人間の唇の赤さにちかい。脳裡に床に浮かぶ赤黒い光沢がよみがえり、かぶりを振る。
「この部屋にはわるいごがいる」
断言口調だった。「泣く子はまだいないようだが、いまにも泣きだしてしまいそうな子はいるみたいだ」
「あなたは鬼なのですか」自然と敬語になる。
「鬼言うな」子どもはこのときばかりは見た目相応の拗ね方をした。「いちおうこれでも神の末裔だ。ただもうこの辺りじゃ信仰はなくなっているみたいだしな、そうだな、鬼ではないだけでじゃあ何なのかと問われると困ってしまうのもたしかなり」
「神さま?」オレはこの地の伝統行事を思い浮かべる。「では本当はいたんですねあの、ほら、アレが」
「アレっておまえ」失礼な言い方になってしまったのは、どうしても鬼と口を衝きそうになるからだ。「そりゃいるだろう。いなかったらじゃあおまえらは何を真似てきたんだ」
「でもそんな、本物が真実存在したなんてそんな話はいままでいちども」
「耳にしなかったといってだからどうした。そもそもおまえ、考えてもみろ。我らを真似しておいて我らへの敬意もなくじぶんたちが本物だと言わんばかりに祭りを継続してきて、いったい誰がそこに参加する。偽物の祭りにどうして本物が交ざるというのだ、そちらのほうがおかしいだろう」
おかしいというのならばまず以ってこの事態があり得ない。
ふと引っ掛かりを覚え、言った。
「では、なぜいまさら人間の真似事を? 偽物の祭りは嫌なのではないのですか。いや、そうか。これまでにもこうしてこっそりじぶんたちで正規の祭りを開いていたとそういうことですね。ということはほかにもいま、ご同族の方々がこの村の家々を回っているんですか」
「回っていない。今宵は一人だ」子どもが台所をゆび差す。湯が沸いていると指摘したようだ。こちらが茶を持っていくあいだに子どもは話のさきを続けた。「元々は成人の儀式でな。毎年の大晦日に二から三神の同胞が里に下りて、こうして人々から穢れをもらい受ける。たいがいは幼子のいる家だが、まあ穢れがあればそれでいい」
「穢れとはなんです」
「おまえ、何かわるいことをしたな? そしてそれをいまも隠している」
違うか、と問われ、唾液を呑みこむ。
「図星だな。我らを前にして隠し通せると思うなよ。我らが【わるいごはいねが、泣く子はいねが】と訊いたらおとなしく罪過を明かすのだ」
「いえ、ですがオレはなにも」
話を逸らしたくて、どうして元日なんですか、と繋ぎ穂を添える。コタツに足を入れると子どもの足とぶつかった。「こっちの風習では大晦日ってことになっているんですが」
「遅刻だ」悪びる様子もない。「寝すごしてな。なに毎度のことだ。しょうじきこんな伝統はさっさと止めてしまえばいいと思っているのだが、なにぶん頭の固い連中が多くてな。難儀している」
「毎度のことって、これが初めてではないのですか」
「成人の儀式と言ったろ。これをこなさなければ大人として認められん。だが大人と認められる利がどこにある。おまえは大人になって何かいいことがあったか」
改めて問われてみると、すぐには候補が浮かばない。
「な? そんなもんだ。ただまあ、大人になりたいやつを否定はせん。ただなりたくもないやつにまで無理強いするのはいかがなものかと思ってな。毎年のように寝過ごしていたら、いよいよワシ一人になってしまった」
「子どもが、ですか」
「大人にならなくてはならない道理を滔々と説かれてしまってな。まあ、子は子を儲けんからな。このままだと我らは滅びる、と半ば脅されてしまえば、こうして不承不承致し方なくこなしてやるしかないだろう、ワシも鬼ではないからな」
他人事ながら、何様なのだろうこの子は、と思ってしまった。顔に出ていたのだろう、ひとのことを心配している場合か、と目だけで見下ろされた。子どもは後ろ手に体重を支え、天井を仰ぐように喉を伸ばしている。
「この穢れの濃さ、いよいよを以って尋常ではない。何かそう、今宵、おまえその手で――」
子どもの視線はこちらを経由し、よこの襖へと向かった。奥には寝室があり、そこにはエリカの死体が転がったままになっている。
「穢れを祓うとどうなるんですか」
「どうもこうも、穢れを祓う前の状態に戻る。つまり穢れを抱くきっかけそのものがなくなる」
「時間が巻き戻ると?」
「時間は巻き戻らんだろ。ただ、事象そのものがなくなる。あったことがなかったことになる、それは時間とは別だ。事象、きっかけ、因果の結び目を回収する。それが我々の性であり、ひいては糧となる」
「ではオレの――いえ、わたくしの穢れをとっていただけると、そういうことですか。そうすると、わたくしの仕出かした過失、穢れをまとうきっかけはなくなり、また元の生活に戻れると?」
「おまえの元の生活がどのようなものかがまず解からんが、そうだ。おまえがワシに穢れを寄越せば、おまえが犯しただろう【穢れの種】は消える。それはつまり、おまえの犯した行為そのものが消えると言っても間違いではない」
「こうお訊きするのもたいへん失礼かと存じますが」期待からか、目のまえの子どもがどんどん人間ならざる異形の何かのように思えてくる。「副作用というか、取り返しのつかない事態になったりとか」
「取り返しのつかないこと、それを消すのが我らの役目だ。信じられんか。まあ無理もない。ではこう言おう。我らはおまえら下々の負の感情を喰らうのだと。喰われたおまえたちからは負の感情を抱く契機そのものが奪われる」
「それはまるで神さまみたいですね」素直な所感が口を衝いた。
「だから言っているだろう。我らは神の末裔だ」
腹をくくった。一から十まで話を信じたわけではないが、目のまえの子どもが人間社会とは無縁の存在であることはなんとなしだが呑みこめる。であるならば、万に一つの可能性に賭けて、今夜しでかしてしまった罪過を打ち明けてみるのもよいかもしれない。
打算というよりもそれは足掻きだ。縋れる物なら藁にでも、鬼にでも縋りたい気分だった。
立ちあがり、じつは、と口にする。寝室につづく襖を開け放ち、
「殺してしまいまして」
視界がかすみ、ぽつりぽつりと頬を伝うしずくがゆかに染みをつくる。
子どもはコタツから立ちあがると、こちらのよこを抜け、寝室に立った。「これはまたむごいことを」
エリカが床に冷たくなって倒れている。
毛並のつややかな、ペルシャネコだ。この村に越してきてからの十年間を共に暮らしてきた。拠り所だった。支えだった。こんなひどいことをするつもりはなかった。
「よく打ち明けた。おまえの穢れ、ワシがぞんぶんに喰らってやる。安心して新年を迎えろ」
両手で宙を掴むようにすると、子どもは、くわっ、と口を開けて何かを詰めこむ仕草をした。
【七日スパイス】
人生最悪の七日間にして最後の正月となった。
事の発端は去年の秋ごろのことだ。
以前共同で仕事を請け負った霧野(ぎりの)ウラから留守電が入った。ウラは女で、若くて、赤髪で、泥棒のテクだけが取り柄のクズ仲間だ。
「やっほー。また仕事いっしょにどうかなってお誘いの連絡。正月に留守にするコガネムシの情報手に入れたから、手分けして漁ろうぜぃ」
年越しを海外で過ごす裕福層はすくなくない。旅行中であればどの家も無人だ。セキュリティは万全だが、下調べを入念に済ませた空き巣のプロをまえにすれば、どんな堅牢な防犯設備もスキヤキの鍋の蓋を開けるのとそう変わらない。ただしアツアツの鍋だからやはり注意は入り用だ。
十二月の中旬、ウラの手配したねぐらにて作戦会議を決行する。
「ああしはこっちの一帯を受け持つから、そっちはこっちね」
「おまえのほうが範囲が広くないか。その分俺のほうの期待値は高くしてくれてるんだろうな」
「そりゃもちろんだよ。ココと、ココと、ココの八つ」ウラは順々に地図をゆび差す。「これまでにまだ誰も手をつけてないのに家の中の金庫に現金で数億入ってるってぇ噂」
「噂かよ」
「もち、セキュリティのほうは本格的」
「割に合わねぇなぁ」
「じゃじゃーん。じつは竣工当時の図面ゲット済みであります」
「いくらなんでも当時のままってこたぁないだろ。防犯だってバージョンアップしてるだろうし、番犬やAIの目だってあるんじゃないのか」
「心配ナッシング。ほいこれ」
「んだこれ」受け取ったのは、手のひらサイズの円柱だ。厚さはなく、小銭を十枚縦に積みあげたくらいの体積がある。重さも同じくらいだ。
「ジャミンガー? 電波妨害器? んー、なんて言うのか知んないけど、それで電子機器とかカメラとかは全部考える必要ナッシング。持ってるだけでなんとかなるって秘密道具」
番犬は愛犬でもあるため無人の家には置いていかない。
「なるほどな。でもこれ高いんじゃないのか」
「ノンノン。今回ああしにゃスポンサーついてるからね。大盤振る舞いに乗ったつもりでいるといいよ」
「そこはぜひとも大船に乗らせてくれ」
聞けばウラは表の稼業を辞めてきたそうだ。たしか昼間は保育士をしていたはずだ。
「この仕事でがっぽり稼いでさ」赤毛を三つ編みに結いながら彼女は言った。「転職するんだ。金に困らない生活、自由な日々、好きなことを好きなだけ叶えて、夢を現実にしちゃおうぜぃ」
「俺はふつうに貯金しとくよ」
「夢がない」
「老後が心配なんだ」
ウラのスポンサーについては敢えて訊かずにおいた。この業界、知っておいて身のためになる情報よりも知らずにいたほうがいい情報のほうが遥かに多い。
下見には通常、半年はかける。手間がかかるというよりもこれはどちかと言えば、時間を置くためだ。窃盗が発覚したときに警察はすぐさま監視カメラの記録をあたる。街中の至る箇所にそれらはある。下見から時間を置かず実行すれば十中八九、映像記録越しに容疑者として特定される。
だが今回は前以って必要な情報を用意してもらっている。下見をした者と実行犯が別であれば時間を置く必要はない。今回に至ってはジャミンガーまである。犯行時の映像すら誤魔化せるのだから、提供された情報に齟齬がないかを最低限確認すれば、下見で現地に出向くことすら不要だ。
作戦会議以降、ウラとは会わないようにした。ねぐらもいまはとっくに引き払っているはずだ。
除夜の鐘が鳴り終わるを待ち、そしてさっそく仕事始めにとりかかる。
まっさきに一番大きな豪邸に向かった。家というよりも屋敷と呼ぶにふさわしい荘厳な外観だ。建物は立派だが、敷地が狭い。門の向こう側がすぐ屋敷の外壁だ。住宅街との味気ない景観と相まってチグハグな印象を覚える。
いずれ金持ちには違いない。
巨大な金庫を目指し、いざ侵入したまではよかったのだが、ここで俺の計画もとより人生が大きくゆがんだ。
頭に叩き込んだ情報によれば、金庫は地下にあるはずだった。だが地下室にあったのは札束の山ではなく檻であり、中には一人の少年が閉じこめられていた。
年のころは小学校低学年かそこらだろう。膝を抱えたかっこうで床に横たわっている。
檻のなかにベッドはなく、トイレすら完備されていない。
檻の端のほうから異臭がし、簡易おまるが置いてある。おまるとは言え実質灰皿と変わらない。
あまりに劣悪な環境がそこにはあった。
虐待と呼ぶにも抵抗がある。
人間へ与えるそれではない。獣へのそれだ。
このときほど空き巣をやっていてよかったと思ったことはない。檻の南京錠を道具で開け、なかに入る。床に足跡はつかず、掃除だけはこまめにされていると判った。
「坊主、起きろ。だいじょうぶか」
少年は目を開けたが、さらに固く膝を抱えて丸まるだけで返事はない。そもそも言葉を操れるのかも定かではない。いったいいつから閉じこめられていたのだろう。身体に目立った傷はないが、全身はやせほそり、骨に皮がついているだけだ。
背負っていけばいいか、と考えを巡らせたところではたと気づく。俺はここに盗みに入っているのだ。コイツを助けだせば侵入した事実が露呈するのは必須だ。それどころか救いだしたあとに警察に駆け込むこともできない。
「すまんな。自力でどうにかしてくれ」
檻の鍵を開けてやったのだ。あとはじぶんで逃げ出すなり、近隣に助けを求めるなりすればいい。
金庫どころか目ぼしい品一つないとくれば長居は無用だ。
地下の階段をのぼり、屋敷をあとにした。
つぎの豪邸に向かう気はすっかり削げていた。ウラの依頼主から受け取った前情報は信用できない。とくれば今回の仕事もご破算だ。相手がわるい。念のためウラに連絡をとったが案の定、通信できなかった。
やはり依頼主とグルだったか。
あの女は初めから知っていたのだ。ハメられた。
目的は不明だが、こちらが深入りする道理はない。このまま韜晦させてもらおうと思ったが、やはりあの地下室、もっと言えば少年の安否が気になった。
俺は盗人だが、極悪人になったつもりはない。まあ悪人ではあるのだが。
翌日、新年二日目の朝に例の屋敷を遠目から確認した。ビルの非常階段から望遠鏡を覗きこみ、屋敷に人の出入りがあるかを目視する。とくに動きはないようだ。
警察は動いているのだろうか。ひょっとして、と嫌な予感を覚える。
確かめずにいられなくなり、夜を待ち、屋敷にふたたび足を踏み入れた。
地下室の牢屋に少年はいた。檻は開いたままだ。逃げなかったのだ。きのうと同じように膝を抱え、こてんと床に横たわっている。死んだセミだってもうすこしくつろぎ方を知っていそうなものだ。
そばにしゃがみ込み、顔を覗きこむ。
「おいちゃん、いまからおまえに触るが、痛くしたり、乱暴にしたりはしない。約束する。だから黙ってじっとしていろ。頼むぞ」
頭に手のひらを置くと、ようやく少年は顔を上げた。
俺は目を瞠る。
少年の首には首輪がはまっており、それには数字の「6」が刻まれていた。
名前ではないだろう。よしんば名前だとしても、そこには意味があるはずで、それを推量するのに盗人の俺は苦労しなかった。
盗みに入る家には番号を振りつける。それと似たようなものだろう。六があるのだから一があり、そしてきっと三も、七も、百だってあるかもしれない。
問題は、それがいまこの瞬間に同時に存在しているのか、だ。
「おまえが六番目ってことなのか? それともおまえで六人目なのか?」
どっちだ、と迫ると、少年は目に涙を浮かべ、タスケテ、と言った。拙い発音からして異国から連れてこられた子なのだ、と察した。彼はつづけた。「ミンナヲ、タスケテ」
やはりほかにもいるのか。
この子のような子どもたちが、まだほかにも。
迷ったが、まずは目のまえのこのコを屋敷のそとに連れだすことにした。迷った理由は、仮にこのコが逃げ出した事実が「このコたちを管理している者たち」に知られた場合、ほかの子どもたちの安全が脅かされる懸念があるからだ。事件の発覚を恐れ、証拠隠滅を図るかもしれない。そのときほかの子どもたちの命はないものと考えたほうが自然だ。
だがすべての子どもたちを同時に救出はできない。
ならばいま目のまえにいるこのコだけでも、と考えて行動に移してみたものの、警察を頼ってよいものかがまず以って怪しい。
ウラの存在が俺に安易な術を選ばせない。
あの女は知っていたはずだ。子どもたちの境遇を知っていて屋敷に俺が忍び込むように仕向けた。それは或いは俺を誘拐犯に仕立て上げるためだったのかもしれないが、いまのところその兆候が見受けられない。ならばあの女の狙いはこのコを屋敷から連れだすことにあったと考えたほうが筋は通る。
となると、あの女は俺を頼る前に自力でなんとかしようとしたはずだ。俺を頼った時点で、俺がまずとるだろう術をあの女はすでに試していたと考えて不自然ではない。
コーヒーを口に含み、ほっと息を吐く。
警察に通報して終わりにできるようなこれは事案ではないのだ。
有り金でまずは中古車を購入する。ナビのついていないエンジン駆動のワゴン車だ。いまどきの性能がついていない分、足がつきにくい。
アジトがない分、いまは車を宿代わりにしなければならない。子連れともなればなおさらだ。男親なんて珍しくはないのに、いまのご時世、中年が少年を引き連れているだけで懐疑の眼差しをそそがれる。
自動車を購入した時点で、すでに年越しから四日が経過していた。
あの女から渡された地図を開き、印を数える。本来ならば俺が入る予定だった屋敷の数々だ。全部で八つある。俺は慎重に屋敷が無人であることを確認しながら、一軒一軒、虱潰しに回った。
八軒中六軒に少年少女が閉じこめられていた。すべての屋敷を回り終えたころには、ワゴン車はすし詰め状態であり、ひどい悪臭につつまれた。
どうすんだ、これ。
ひとまず大使館にでも連れていくか。
だがそうすればほぼ十割の確率で、俺は身柄を拘束され、今後、長きにわたって自由とおさらばせねばならなくなる。
誰かに頼んで、子どもたちを運んでもらうか。
いや、こんな物騒な話を誰が引き受ける。
電話だけかけて、大使館からのほうから来てもらうのはどうか。
これもダメだ。逆探知され、街中の監視映像から追跡される。電話をかける以上、ジャミンガーを起動するわけにはいかないし、姿を隠しながらかけたところで、電波を飛ばせば、発信源からやはり追跡可能だ。
手詰まりだ。
子どもたちを助けようとすれば必ず詰む。
ハンドルに頭を押しつける。見捨てよう。あと二日で屋敷の主たちが帰宅する。子どもたちがいないと気づけば、何かしら強引な手段で問題の解決を図るだろう。関係者すべて抹殺すらしかねない。
これは明確に、資本で人の命を物扱いできる者たちの手による組織的な犯罪だ。
一介の盗人にできることはない。
あるとすればやはり。
俺は背後を振り返る。悪臭の大元どもは、相も変わらず好きかってな姿勢でちっこく丸くなりながら、それでも縋るようにこちらに視線をそそぐ。
「そんな目で見ても飴玉はねぇぞ」
いや、腹は減るよな。
人生最後のファーストフードになるかもしれない。俺はハンドルを握り、ハンバーガーショップのドライブスルーへと車を走らせた。
***
「顛末としてはこんなもんだ。もうなんども同じ話をしていると思うんだが、まだオウムの真似ごとをさせたいのか」
いえ、と応じたのは歳のいった神経質そうな男だ。シャツに染み一つ付いただけで機嫌を損ねそうな清潔感に溢れている。「そのままでお待ちを」
言っていちど出て行ったそいつが、こんどは赤毛の女を一人連れて戻ってくる。
「やっほー」
「てめぇ……」
そいつは椅子に腰かけ、足を組む。上等な制服を着こんでいる。たっぷりと目でこちらを見下ろすようにするとそいつは白々しく切りだした。「大手柄だねコソ泥くん。どうだね、この機会に転職ってやつをしてみる気はないかい」
【干支戦記】
ザコ・ニナールが敗れたのはいまから三十二年前のことだ。ザコ・ニナールは人類滅亡を本気で目論んだ人類最弱にして最低の女だった。目論むだけに飽きたらず、実際にそれを実行に移し、人類を進退窮まる境地へと追いやった。
「わたしは弱いけれど、こんなわたしに滅ぼされる文明なんて高が知れていると思わない? いっそ滅んでしまったほうがよいとは思わない?」
同じ口でザコ・ニナールはこうも嘯く。
「強者を倒す方法はただ一つ。弱者にこっぴどく傷をつけられ、なんだアイツも大したことないな、と周囲の者たちに思わせること。強者という名の信用を――威信を、揺るがすこと」
強い弱いは相対的な評価にすぎない、と一蹴し、高笑い、咳きこみ、ザコ・ニナールはその人類最弱にして最低の身を挺して、人類が築き上げてきた尊い文明を損なう大罪を意気揚々と大好きな泥んこ遊びの片手間に遂行した。
人類は損なわれた。
霊長類と言わずして地球上生物種の王者として長く君臨しつづけてきたその地位を大いに揺るがされたわけだが、もちろん黙ってやられているばかりではいられない。
ザコ・ニナールは弱者だ。それゆえに強者たる人類は彼女を全力で迎え撃つことができなかった。それはそうだろう。それこそ強者や王者の資質に関わる。弱者相手に本気をだせば、それすなわちイジメである。
だがいちど損なわれ、強者の地位をはく奪された人類はようやく反撃ののろしをあげた。
ザコ・ニナールは人類最弱にして最低がゆえに、実行した目論見もまた最弱にして最低だった。すなわち、他力本願である。
じぶんの手はいっさい汚すことなく、一抹の労力を割くこともなく、動物園に赴き、偶然手に入れただけにすぎない「コレ嗅ぐとツヨクナール」を散布し、動物たちを屈強なアニマル軍団へと仕立て上げた。
「よし、司令官はおまえだ」
ザコ・ニナールは爬虫類館でアマガエルに命じた。アマガエルは動物園の展示物ですらなく、ただそこに偶然生息していた野生のカエルだったが、「コレ嗅ぐとツヨクナール」を摂取したことにより人類叡智を凌ぐ知性を育ませた。
「かしこまりましてございます」
アマガエル司令はそれからアニマル軍団を率いて人類を底なしの恐怖に陥れた。ザコ・ニナールは人類を滅ぼせばそれでよかったので、まさかじぶんが生き残るとは思ってはいなかった。だが人類叡智を凌ぐ知性を育ませたアマガエル司令は彼女を人類と見做さず、守るべき弱者(動物)として見做した。そう、アマガエル司令はけして冷酷非道なカエルではなかった。
だが人類にはそれ相応の恨みがあったので、全力を以って殲滅に励んだ。
その甲斐あって、人類は絶滅の節目に立たされたわけだが、そこで立ちあがったのはユル・サンゾー率いる科学者連合軍だった。ユル・サンゾーは言った。
「まさか俺の失敗作【コレ嗅ぐとツヨクナール】を悪用してこんな卑劣な真似をするなんて。断じて許せん。ザコ・ニナール共々、アニマル軍団を退治し、二度と地上を出歩けなくしてやろうぞ」
地下ならいいんですか、という野暮な指摘にユル・サンゾーはおだやかな笑みを向ける。「地獄ならまあ構わん」
こうして人類存亡をかけた大戦の火蓋は落とされた。
ユル・サンゾーはまず、「コレ嗅ぐとツヨクナール」のワクチンを開発せんと試みた。しかしできあがった試作品は却って、統率のとれていたアニマル軍団の兵隊たちを意思疎通もできない暴走残虐兵器へと変えてしまった。この副作用のため、ワクチン開発は断念し、つぎなる策を弄する。
つまり、アニマル軍団そのものをどうにかしようとするのではなく、人類のほうを強化する方針に替えた。
そもそも、なぜ「コレ嗅ぐとツヨクナール」が人類にその効用を発揮しなかったのか。なぜ間近でそれを嗅いだはずの人類最弱にして最低の女が、最弱のままでいられるのか。
ユル・サンゾーは疑問に思い、そして研究した。やがて、「コレ嗅ぐとツヨクナール」は弱者を強者に強化するのではなく、薬剤生成時に接触した生物の遺伝子情報を取りこんで、その生物の辿った進化の筋道を媒介する作用があると判明した。言い換えるなら、それの開発者であるユル・サンゾーの遺伝子情報が「コレ嗅ぐとツヨクナール」には組み込まれており、人類が進化を経て獲得した形質、すなわち意識や知性といったものが、ほかの動物に伝染する。
ゆえにああもアニマル軍団は知能が高く、秩序を保っていられるのだ。
「チクショウ。俺のせいだったか」
ユル・サンゾーは正直にその旨を仲間たちに打ち明けた。「煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「頭をあげてくれよサンゾーさん」仲間たちは言った。「アホウな薬をつくったのはたしかによくなかったかもしれない。盗まれたのも管理がずさんだったからかもしれない。だからといって、それを悪用して罪もない赤の他人を虐殺しようとするほうがわるいんだ。あんたはわるくない。元凶はただ一人――人類最弱にして最低のあの女だけだ」
そうだそうだ。
人類の生き残りたちはふたたび堅く団結した。
いっぽうそのころ、人類最弱にして最低の目論見が功を奏してウハウハのザコ・ニナールは、これ以上ないほどツヤツヤの泥団子がつくれてご機嫌であった。そこへアマガエル司令がやってきて、膝をつく。
「戦況をご報告にまいりました」
「みてみてこの泥団子。すごくない?」
「宝玉のごとき煌めきでございますな。失礼、しばしお耳を拝借しとうございます」
「いまいそがしいからあとにしてほしい」
「そう言わずにどうかご容赦を」
じゃあちょっとだけね、と人類最弱にして最低の女はふたたび泥団子と向き合う。
「人類の九割九分を殲滅いたしました。残りの一部残党を順次虱潰しに排除いたしますが、ご許可をいただきたく参上つかまつりました」
「いいよー。やっちゃって」
「御意」
アニマル軍団は人類にトドメを刺すべく行動する。世界中に生息する野生の動物たちに「コレ嗅ぐとツヨクナール」を散布し、兵士として覚醒させ、その勢力を刻々と増強させていった。
人類は居場所を追われた。絶滅までのカウントダウンが近づいて聞こえてくるなか、それでも未来を諦めてはいなかった。生き残りたちは、ユル・サンゾー科学者連合軍の指示によって、かろうじてまだ兵士として覚醒していない野生動物を掻き集めている最中であった。
「どうするんですか動物なぞを集めて。家畜にするにはちと荷が重いやつらばかりですよ。ネズミはまだ分かりますが、ヘビに、イノシシに、馬、猿、虎まで」
「なあに。ちょいとこいつらの遺伝子情報を抜いて、【コレ嗅ぐとツヨクナール弐号】を造ろうと思ってな」
「動物の遺伝子を、ですか」
「我々人間のサル真似でしかないアニマル軍団にゃ、ちょいと泡を吹いてもらおうや」
元々「コレ嗅ぐとツヨクナール」には生物の遺伝子情報を吸収し、定着する性質がある。ゆえに、改良はそれほど手間のかかる作業ではなかった。
間もなく、改良型「コレ嗅ぐとツヨクナール(以下、弐号)」を完成させたユル・サンゾーは、まずはじぶんにそれを打ち、試した。
「どうしてですか、動物実験を繰りかえしてからでも」
「改良型の弐号にゃもちろん人類の遺伝子も入っている。動物に摂取して最強最悪のアニマル兵が誕生したらどうしてくれる。これはもろ刃の剣。我々人類にしか与えちゃならねぇパンドラの箱なのよ」
言ってユル・サンゾーは弐号を自身に投与した。三日三晩のたうちまわった。皮膚が裂け、骨が砕け、肉は膨張と収縮を繰り返し、さまざまな動物の姿へと変態しながら、ユル・サンゾーはやはりさまざまな動物の鳴き声で阿鼻叫喚した。そのあまりの壮絶な様に仲間たちですら目を逸らし、いっそ殺してあげたほうがよいのではないか、と合議が開かれた四日目の朝、裸のままで会議の場に現れたユル・サンゾーは呆気にとられるみなのまえで欠伸をし、そして言った。
「ちょいと行ってくるわ」
どこに、と一同が問う前にユル・サンゾーは足を馬のカタチに変化させ、跳躍した。人間の体重に馬の脚力だ。移動する姿はほとんど人間の目には映らない。一同が目を白黒させている合間に、ユル・サンゾーはアジトをあとにした。
目指すはただ一つ。
人類滅亡の元凶にして最悪、人類最弱にして最低の女、ザコ・ニナールのいる敵の総本山だ。
アニマル軍団はすぐにその脅威に気づくことができた。嗅ぎ慣れない臭い。それでいて同族かと見紛う身体能力と、あり得ないほど広範囲にまで届く縄張りを知らせるフェロモンの濃さ。
アマガエル司令のもとにその脅威の接近情報が届く前から、軍団の兵士たちは闘争本能を刺激され、野生化し、狂暴化した。
強化済みのユル・サンゾーからすればそれは僥倖だった。散在していた敵が向こうからやってくる。探す手間が省ける。戦闘の数を減らせる。ユル・サンゾーは十一の動物と一匹のキメラの遺伝形質をその肉体に宿している。組み合わせは意のままだ。虎の攻撃力を保持したまま、ウサギの俊敏さで攻撃を回避し、猿のごとく身のこなしで相手を翻弄しながら、ヘビの毒で一撃必殺を手中に収めた。
アニマル軍団は見る間に兵の数を減らしていく。ユル・サンゾーの通ったあとには、まるで地図上のシルクロードのようにアニマル兵の死体の山で塗装された道ができていた。
「みてみて、もっとすごい泥団子できた」
ザコ・ニナールがモザイク柄の泥団子を手に乗せ、見せびらかしたとき、目のまえを疾風が駆け抜けた。風圧でせっかくの渾身の泥団子がダイナシにされ、ザコ・ニナールは人類最弱にして最低の名に恥じない激怒ぶりを見せた。
「だー! なにすんだ! ブッコロス!」
「それはこちらの台詞だぞ」
ユル・サンゾーは軽く指を振った。それは空を裂き、刹那の真空をつくる。宙に走ったそれはまるで妖刀カマイタチと名付けたくなるほどの切れ味で、いままさに拳を握り飛びかかろうとまえのめりになったザコ・ニナールの首を素通りした。蛇口からしたたる水にぴんと張った髪の毛を通すような滑らかさがあった。
ザコ・ニナールはそれに気づいた素振りも見せずにポカポカとユル・サンゾーの腹を殴りつける。人類最弱にして最低の名に恥じない攻撃力のなさだ。
やがて疲れたのか手を止めると、ザコ・ニナールは膝に手をつき、肩で息をした。
そのときである。
ぬちゃ、と泥から手を引き抜くような音が鳴ったかと思うや否や、床に落下する黒い塊があった。床に着地する音が鳴るよりさきにユル・サンゾーはそれを足で踏み砕く。床が陥没し、その瓦礫の合間に黒く赤く、ときに白くやわらかな何かが染みこんでいく。
背後からアマガエル司令が駆けこんでくるが、ユル・サンゾーの姿を目に留めた瞬間すべてを悟ったように、その場にひざまずく。降伏の意を示した。それは或いは、目のまえに君臨する強化人類が、もはや敵対すべき病原菌ではなく、敬意を表すべき同族と見做したからかもしれなかった。
こうして人類存亡をかけた大戦はその火蓋が落とされてから三年という月日で収束した。
以降、ユル・サンゾーは子孫をつくることを唯一の使命として、人類とのあいだに無数の子を成した。「コレ嗅ぐとツヨクナール弐号」を残りの人類へと投与しなかったのは正視に堪えない変態過程に因を求めるのはさほど的を外してはいないだろう。死んだほうが遥かに至福に思える激痛を体験するのはじぶん一人だけでよいとする判断を彼が下したのは懸命でこそあれ、愚行ではない。
こうして人類は滅亡の危機を脱した。アニマル軍団を支配下に置いた新人類は失った文明を――その威信を復活させるべく、さらなる発展を目指し、奮闘した。
終戦から三十二年が経過した今年、ユル・サンゾーの驚異的な繁殖力のおかげで、全世界の総人口はふたたび億の台に乗った。
だがその副作用とも呼ぶべきか図らずも、毎年元日を迎えるごとに、ユル・サンゾーの子孫たちはその干支に見合った動物の姿へと変態する。
「ねえねえ、来年ってなんだっけ」
「ネズミ」
翌年、人類の総人口は、大戦前と変わらぬ数値にまで激増する。
【お屠蘇さま】
私の集落では元日の朝にお屠蘇(とそ)を呑む。本来であれば歳若い者が年長者へとお酌をするのだが、いまはそんな習わしは薄れ、各々、乾杯の音頭もなく好きかってにおせち料理を箸でついばみながら喉を潤す。
この集落は地方の山脈の合間にひっそりとある。里と聞いて人々が連想するそれとたぶんさほど変わりがない。
村の中心にはなぜか背の高いやぐらが立っている。先端には半鐘が垂れているが、私は生まれてからいちどもそれが鳴っているところを目にしたことがなかった。
都会からの転校生がやってきたのは私が高校に入学した夏のことだった。
母親が学者さんで、この土地の風習や文化の調査にきたのだそうだ。
「お屠蘇?」
その子は学校からの帰り道に言った。半年後には彼女は都会に戻ってしまう。それはちょうどお正月の時期で、そういう話題になった。
「呑まない? お酒なんだけど、地酒とかじゃなくってアルコールは何でもよくて。何か種になるお酒に、漢方みたいな草を混ぜて呑んだりするんだけど。まあゲン担ぎだよね。除夜の鐘みたいな」
「ふうん。草は何種類くらい混ぜるの」
「うちは七つかな。えっとぉ」
そこで私は七種の漢方をそらんじた。山椒、細辛、防風、肉桂、乾薑、白朮、桔梗の七つだ。むかしはこれと違う七種で、赤朮、桂心、防風、抜契、大黄、鳥頭、赤小豆だったらしい。どれがどんな漢方かは見たこともないし、見てもきっと分からない。
「へぇ。物知りだね」
「違う、違う。ウィキペディアに載ってたから。このあいだ学校の課題がそれで、不覚ながら憶えちゃった」
不覚なんだ、とそのコは笑い、そう言えばあれはどうなの、とこの地に伝わる伝承を口にした。「あるんだよね鬼の話。お母さん、それを調べにきたって言ってて」
「ああ、昔話。あるね。ここで育った子なら誰でも親から聞かされるから、むしろほかの町とかでその話が通じなくてびっくりするところまでが通過儀礼」
「あはは面白い」
「そんなに珍しい昔話じゃないと思うよ。桃太郎のほうがよっぽど愉快だし」
学校から家までの道のりは優に三キロはあり、私たちはたっぷりおしゃべりをして帰った。校舎はとなり町にあり、あいだに山を一つ越えなければならない。辺りには蝉の声が満ちていて、彼女の漆黒の髪は日差しに焼かれてなお、瑞々しく艶やかだ。
私たちの交流は彼女がこの村を去るまでつづいた。学校が休みの日でも私たちは互いの家を行き来し、戯れに互いの育った家や風習の違いを挙げつらねあっては、都会の暮らしに思いを馳せた。
私は彼女をレイと呼んだ。彼女は私を、物知りの意味で、センセと呼んだ。それはきっと彼女の処世術で、ほかの土地で会ったコたちのこともそう呼んでいたのだろうな、と想像できたけれど、私は彼女にそう呼ばれるのが嫌ではなく、どちらかと言えば胸の奥がこそばゆく、ぬむぬむとした。
「お母さんがやっぱり珍しいって言ってたよ。鬼の伝説」
「ふうん。なんでだろ」どこにでもありそうな話に思えた。足元の小石を蹴ると、それは路肩の排水路にぽちゃんと落ちた。「珍しいってどの辺が?」
「鬼がただ村人を食べちゃっておしまいなところが」
「なんの寓話もないからからな。教訓がなさすぎるってことだよね」
「んー。どうだろね。たとえば河童の話なら、尻子玉を抜かれたとか、子どもと相撲をとるのが好きとか、夜な夜なきゅうり畑を荒らすとか、教訓なんてないけど、ほかの地域でもこれと似たような話を聞くよね」
「あー、そうかも」
でもそれは話題性があるだけな気がした。口裂け女の巷説を全国の子どもたちが知っているようなものではないのか。私はそういった意見を述べた。
「だとしたらやっぱりこの村の鬼伝説はヘンってことになる。いまのセンセの意見からすれば、この村に伝わる鬼もほかの地域に伝わる鬼伝説と共通性があって然るべきなのに。たとえるならこの村に伝わる伝説は、口裂け女が村中の猫を片っ端から食べてしまった、みたいなものかもしれない」
「それは、えっとぉ」私は言った。「上手な比喩なの」
「伝わらなかった? ざんねん」
レイはときおり、同い年に見えないくらい大人びて映るときがあった。そういうとき、決まって私は胸のなかに季節外れの乾いた風が吹く心地がした。
秋の暮れ、山々がそのかんばせに白化粧をしはじめた時分、母が私に蔓で編んだ籠を手渡した。
「今年はあんたの役目。お屠蘇の元つくるから採ってきて。急ぎじゃないから今月中にお願いね」
「今月ってあと十日しかないんだけど」
「採ってきたら干して薬にしなきゃなんだから。来月はもう師走だよ。お母さん、ほんと忙しくてあんた、お母さんが倒れちゃってもいいの」
母の機嫌の雲行きが怪しくなってきたので、ここはおとなしく引き受けることにした。籠を受け取ってからふと引っ掛かる。
「採ってくるってどこから」
「お山に決まってるでしょ」
決まっているのか。そんな法律があるなんて知らなかったが、決まっているならしょうがない。私はその日のうちにとぼとぼと山に登った。傾斜に目を凝らしながら、目当ての草を探し求める。
夏場はアブ蚊がひどいが、この時期は山道を歩きやすい。ただし落ち葉で地面が埋まっているから山菜を探すのには向いていない。春先は積もった雪の合間から緑色の芽が覗いているからよいものの、秋や初冬の山菜取りは目が肥えていなければたとい目のまえに目当ての品が転がっていても素通りしてしまう。
そして私には決定的にその目が欠けていた。
行きよりも足取り重くとぼとぼと家に戻った私を母が出迎える。
「遅かったね、怪我しなかった? どう、たくさん採れたでしょ」母は蔓の籠を覗きこむ。「あらやだカラじゃない」
「来年のお正月はお屠蘇なしだね」
「ばかおっしゃい。そんなことになったらたいへんなんだからね」
「おじぃちゃんたちが怒るくらいなら私我慢できるけど」
「あんた村がどうなってもいいの」
「なんで村? いまは私ん家のお屠蘇の話をしてるんだけど」
母は目を吊り上げながらも深いため息を吐き、つぎはいっしょに行きましょう、と言った。「探し方にもコツがあるんだから」
母の言った通り、コツを教えてもらうと蔓の籠はあっという間に満杯になった。
「ね。落ち葉が積もっていても、その下に何かあればその分出っ張るんだから。色で探そうとしないこと。起伏を見て。あとは周囲にライバルがいないかも重要」母は一本の草を千切りとる。「これは繁殖力が強いから弱い草木はその近くに生えてこられない。ただ、たくさん生える分冬を越す動物たちにとってはうれしい餌になるから、春ごろにはむしろ繁殖力の弱い山菜が目立つようになる」
「へぇ。お母さん、物知りー」
「そうでしょ、そうでしょ」母は胸を張る。「ウィキペディアに載ってた」
師走に入ると母はお屠蘇の元をこしらえはじめた。もちろんおせち料理やお雑煮の準備も怠らない。祖父や父などの男衆は台所には近づかない徹底ぶりだが――これはむしろ母や祖母の邪魔をしないでいようとする善意だと本人たちは主張する。しかし戦力とならないのは日ごろから手伝っていないからで何の言い訳にもなっていないことを母や祖母はもちろん私ですら知っている――その代わり、父や祖父は餅をつき、正月飾りの準備をする。
「お餅は買わないんだね」レイが庭を覗いて言った。ちょうど父たちが臼にモチ米を放りこんでいるところで、モワっと宙に蒸気が広がる。「そもそもここらじゃ売ってないからね。駅のほうまで行かないと」
元よりの駅までは軽く三十キロはあった。村からもっとも近い繁華街がそこにはある。
「レイの家の分もついてもらおっか」
「うーん。ありがたいけど、お正月にはもういないから」
それを聞いて私はとたんに笑顔を上手につくれなくなった。承知していたはずなのに、目のまえがグラグラと揺らいで、取り繕おうとすればするほど頬が引くつく。
「こんどはセンセがうちに遊びにきなよ。案内するよ。都会は都会で何もないけど」
山があるだけここはいいよ。
気休めだと判っているけれど、レイのその言葉は私のグラグラをすこしだけ打ち消してくれた。
レイは大晦日の前の日にこの村を去った。お別れパーティでもしようかと提案したのだけれどそれをレイは頑なに拒んだ。「サプライズとかもしないでね。あれはやるほうの自己満足で、やられるほうのことを何も考えていない迷惑そのものだと思う」
まさにサプライズプレゼントを画策していたので、私は恥ずかしくなった。
「これで最後じゃないんだもの。特別なことはしなくていいよ」
特別な日にしないで。
レイの言うとおりにした。私は彼女を見送りに出ることもなく、前日に遊んだ際にバイバイまたね、と普段通りに別れた。レイに変わったところはなく、まるであすも、あさってもまた会えるかのような、こんな別れなんて大したことはないのだ、と示すように飄々としていた。
春休みに私が遊びにいく約束を交わしたけれど、じぶんの部屋の布団にくるまり、大晦日を寝て過ごしてしまった私は、やはり胸にぽっかりと空いた穴を埋める術を見いだせずにいた。
元日の朝、母はいよいよそんな私にしびれを切らし、怒鳴りこんできた。
「起きなさい。もうみんな席についてるよ。不貞寝するのはいいけど新年の挨拶くらいしゃんとしなさい」
不承不承、布団から抜けだし、居間に顔をだした。新年の挨拶が矢のように飛んでくる。私はまとめて、おはようございます、と返した。おめでとう、なんてたとい嘘でも口にしたい気分ではなかった。
食卓に並んだおせち料理も、お雑煮も、お屠蘇にすら口をつけなかった。お腹の虫は、ぐーと鳴った。
「お屠蘇だけでいいから呑みなさい」
母が口うるさく言い、みなの視線が集まる。私は盃に似た屠蘇器を手に持ったが、唇を濡らしただけで、中身は意地でも呑まなかった。みなからは呑んで見えたかもしれない。
母は満足したのか、それ以上は何も言わなかったが、私はさらに気分が塞いだ。
風邪をひいたみたいだ。
けだるさは時間の経過と共に増した。悪化したかと思い、風邪薬を服用したが、効果は感じられなかった。
新年三日目の朝に、母が私に言った。
「七草を採ってきてほしいんだけど」
「つくんなくていいよ」
「あんたはよくてもみんながダメなの」母はそこでようやく娘の様子がおかしいことに気づいたようだ。「あんた顔真っ赤だけど、風邪? 薬は呑んだ?」
呑んだけど効かなかった、と私は言った。なんだか身体が重くて、頭痛がひどい割に、ときおりものすごくお腹が空いて、でも何を食べても吐き気しかしない。
「夜は?」母はしゃがみこみ、私の身体をまさぐった。何かを探すような手つきは、マッサージにも似ていた。
「夜はだいぶ楽。だから病院にはいかなくていいかなって思ってたんだけど、昼になると泣きそうなくらいつらい」
「どうしてこんなになるまで我慢してたの」
あんた呑まなかったでしょ。
母の声は悲痛な響きを伴っていた。「お屠蘇。呑まなかったんでしょ。あれほど呑みなさいって言ったのに」
なぜここでお屠蘇の話をするのかが解からなかった。いっぽうで、母はそれが要因だと考えていて、そして母はお屠蘇を呑まなければこうなることをずっと前から知っていたのだと想像したら、しぜんと涙が溢れた。申しわけなさと、つまらない意地を張ったじぶんの幼稚さに、すべてを投げだしてひれ伏したくなった。
「待ってなさい。いま七草粥をつくってあげるから」
「それ食べたら治る……」
「分からない。でもなんとかする」母は大声で祖母を呼んだ。それからこちらのひたいをゆびでしきりに揉むようにすると、はっと何かに気づいたように息を呑み、それから物哀しげな顔をした。
「どうしたの」
母は黙りこくり、つぎに私の顔を覗きこんだときには、まるで何かを固く決意したかのような炎の揺らぎを目の奥に宿していた。
「だいじょうぶ」
母は窓のそとを見遣った。窓からはやぐらが見えており、なぜかいちども耳にしたことのない半鐘の音が鳴り響いている。「屠らせはしない」
【箱根の道をいま】
まさか選ばれるとは思わなかった。箱根駅伝と言えば年明けにおいて全国の注目を一身に集める一大イベントだ。
子どもの頃から観ていたし、夢見ていた。
実家がちょうど箱根駅伝の往路の途中にあり、幼いころはよく父に肩車をされながら選手たちを応援していた。目のまえをびゅんびゅん横切っては選手たちの姿があっという間にちいさくなっていく。順位に関係なくどの選手も輝いて見えた。
小学校にあがると運動会や陸上記録会といった走る競技にみずから進んで参加した。そのときは箱根駅伝を意識していたわけではなかったが、いま思えば確実に影響を受けていたはずだ。
箱根駅伝の選手を追い駆けて並走するなんて真似をいちだけやったことがある。TV中継を見ていた父にその姿を見つかってこっぴどく叱られたのはよい思い出だ。その年のお年玉を没収されたのも悔しかったが、何よりよかれと思ってやったことが選手たちにとって迷惑な行為だと知ったときの頭を殴られたような衝撃は、軽くトラウマになっている。
ひとに迷惑をかけることを極度に恐れるようになったのはその後遺症だろうと自己分析しているが、慎重な性格は周囲との調和を築く上ではプラスに働く。
中学校にあがってから入った陸上部では、一年生でありながらエースとしてその年の駅伝大会に出場した。二区を走ることとなった。駅伝は箱根だけでなくほかの大会でも最短区間が二区なのだと知って、妙に興奮したのを覚えている。
結果は散々だった。
大舞台で緊張し、たすきを受け取った直後に臨んだ五百メートルにも及ぶ上り坂で体力を使い果たした。坂を下っている最中、平地に下りてからと、どんどんほかの選手に抜かれ、ほとんど泣きっ面の様相で、青色吐息、先輩にたすきを繋いだ。
卒業生にとっては最後の大会でありながら、最終順位はこれまでで最低だった。
慰めの言葉も、責める言葉もなく、ただただみな無言だった。まるで人を殺してしまったかのような罪悪感を覚えたが、先輩の一言で救われた。
「俺ら三年が全員区間新だったら優勝してたのにな。情けねえ先輩で、すまねぇ」
あたかも、思いあがるなよ、と釘を刺されたような心地がした。同時に、おまえの失態くらいは織り込み済みだ、と背中を押してもらったような気にもなった。
駅伝は一人で走るのではない、みなで繋ぐのだ、と。
一人の走りで結果が決まるのではない、一人一人の走りが結果に繋がるのだ、と。
二年後の中学最後の駅伝大会では、ふたたび二区を任された。というよりも、じぶんから名乗りを上げたわけだが、雪辱を果たすべく積んだ鍛練の甲斐あって、区間新記録を打ち立てた。チームの順位も総合で二位と、学校設立以来はじめて全国大会へとコマを進めることができた。
ただやはり全国の壁は厚かった。健闘もむなしくほとんど最下位にちかい順位で終わった。上位チームはのきなみ中学生ながらに一キロ三分を切る猛者しかいなかった。
だが箱根駅伝の選手たちはさらにそれよりもずっと速い。
一キロ二分五十秒を切る者すらいる。これは百メートルを十七秒以下で延々走るようなものだ。百メートル走の世界記録が九秒台、それより八秒遅いだけの速度で百メートルの何百倍もの距離を走りきる駅伝選手たちはバケモノじみている。
何より、トラック競技と異なり、駅伝は公道を走る。これは走ったことがある者でなければ分からない機微がある。それを戦略と言い換えてもよい。
ほかの選手たちとの駆け引きはもちろん、コースに対するペース配分をどうするのか、これがタイムに大きく左右する。
たとえば上り坂よりも下り坂のほうが足に負担がかかる。呼吸は上り坂のほうが苦しいが、下り坂は速度がでる分、太ももにかかる負荷が大きい。坂を下りきり、平地になった途端、足に重りをしているかのような荷重を感じるのだ。それは軽快に下ってきた身体の錯覚であると共に、意識下にない足の負荷の蓄積でもある。
だがコース配分を徹底して考え、身体をそれに馴染ませ、ときに凌駕するような訓練を積むと、坂道であっても平地であっても、ペースを乱さず、一定の速度で走りつづけることができる。
その領域には中学生のうちに入ることは適わなかった。
だが高校生になってからは、身体が成熟してきたせいもあるのだろう、どんなコースでも一キロ三分を切るペースで完走できるようになった。
このころから定期的に学校の尿検査で引っかかるようになった。再検査の結果はいつも軽度の貧血で、処方された薬を飲んでからはむしろタイムはよくなった。
血中の赤血球の量が常人の半分しかなかったそうだ。ランナーは常時足の裏を地面に叩きつけているようなものだから、赤血球が破壊されがちだ、といった話はときおり耳にしたが、まさかじぶんがその弊害を受けていたとは思ってもいなかった。
高校の陸上部では四百メートル走にも挑戦した。適正はあったとじぶんでは思っているが、短距離走に必須の筋トレによって体重が十キロも増えてしまい、かえって長距離走のタイムが伸び悩んだ。
このころはまだ箱根駅伝にでたいという欲求は具体的なカタチを伴ってはいなかった。タイムからすれば四百メートル走のほうが大会で上位に食い込める公算が高かったが、顧問と相談した末に、このさき大学でも陸上をやっていきたいならおまえは長距離走のほうが合っている、と言われ、そうすることにした。
他人にじぶんの人生の選択を任せたわけではない。幼いころから短距離よりも長距離に慣れ親しんできたせいで、身体が瞬発系の筋肉ではなくなっていた。端的に、筋肉が肥大しにくい体質だった。顧問の助言はもっともであり、じぶんでも薄々そうではないか、と思っていた。
大学でも陸上をやるならば、いまからでも長距離に見合った身体に特化して調整していくべきだ。高校レベルならばたしかに上位に食い込めたとしても、それ以上のレベルへは、この身体ではいけそうにない。
大学には推薦枠で入った。もちろん陸上選手としてだから、もし途中で陸上競技から離れるようなことがあれば、退学も覚悟しなければならないだろう。ただ、その不安はなかった。走らないじぶんの姿はどうあっても想像がつかなかった。
陸上部では入部初日から、目標を設定させられた。このときになってようやく箱根駅伝の四文字が具体的な通過点として目のまえに現れた。
それは幼いころからずっとそばで見守りつづけてくれていたかのような親近感があり、入学した大学がこれまで数回しか箱根駅伝に出場できていない事実などは二の次で、箱根駅伝出場を目標に掲げた。
「駅伝は一人だけ速くても出場できねぇぞ」
先輩たちの幾人かが嘲笑したが、ならみんなで速くなりましょう、と間髪容れずに返すと、その場は静まりかえった。新人にしては大口を叩きすぎたかもしれない、と反省したところで、部長が口を開いた。
「おまえら。きょうからコイツより遅い奴はスパイク磨きな」
部長は選手たちの闘争心を煽るのが上手かった。
陸上部の先輩たちはおおむね特待生で、中学生時代から陸上記録会などの全国大会で記録を残してきたひとたちで、専門の競技はさまざまだ。箱根駅伝への出場歴がすくないとはいえ、この大学の陸上部は個人種目では毎回のように入賞を果たしている。プロとして活躍している選手も数多く輩出している大学でもあり、実力は折り紙つきなのだ。
ただ駅伝の実績だけがなかった。
まずはチームをつくらなければならない。自己紹介のときの第一印象が生意気に映ってしまったらしく、メンバー引き抜きの交渉は難航した。そもそも部員ごとに競技種目が異なり、みなじぶんの練習で手いっぱいだ。わざわざ時間を割いてまで駅伝にでるメリットはない。
困り果てていると、部長がそばに寄ってきて言った。
「顧問に相談するといい」
「顧問の先生に、ですか? コーチではなく?」
「滅多に姿を見せないが、実質部活の最高責任者だからな。何かをするには許可をもらったほうがいい」
無許可では駅伝にエントリーすることもできない。
正論ではあったが、顧問は強面で有名で、それでいて部活動に熱心ではなかった。選手たちの育成はコーチが担当しているので問題はないが、やはり何かを自発的に提案するには気が引けた。
しかし、渋っていても先は開けない。
ダメで元々と思い、「駅伝にでたいのだがメンバーが集まらない」と顧問に打ち明けると、顧問は目の色を変え、それならほかの部活動から引き抜いてくりゃいい、と言った。体力自慢だが技術力不足でくすぶってる選手がいるはずだ、と。
「もし駅伝にでるなら助成金がでる。部員も増えて一石二鳥だ」
その考えを支持するつもりはなかったが、顧問の後ろ盾があるならこれまでよりも動きやすくなる。
ほかの運動部に顔をだし、駅伝の話をして回った。厄病神扱いされながらも、一人、また一人と脚力自慢でありながら主要種目においてくすぶっている選手たちが集まってきた。
駅伝はとにかくたすきを繋ぐこと。
それさえできれば、カタチにはなる。出場だけはできる。
そしてなにより、一人一人がじぶんのために走り、そのことが回り回ってチーム全体のためになると知れば、個々人の目的は違っていて構わない。
みなを見返したい者、腕を試したい者、じつは走るほうが好きだったと気づいた者、目立ちたい者、各々たすきを巻く理由は異なっていたが、一丸となるには充分だった。
箱根駅伝に出場するためには予選を勝ち上がらなければならない。その予選にでるためには参加資格がある。公式トラック記録で、五千メートルか一万メートルにおいて一キロ平均三分二十秒を切っていればまずエントリーが可能だ。
とすればあとはチームのメンバーが個々人で陸上記録会に参加し、参加資格を満たせばよい。メンバーのタイムは申し分ない。
あとは参加資格を満たすだけだった。
メンバーが順調に公式記録を獲得していくなか、じぶんのタイムだけがどんどん下がっていった。もちろんメンバーのなかではまだ一番速かったが、それでも追い越されるのは時間の問題に思えた。
「体調でもわるいのか」部長が様子を見にきて言った。「顔色も優れないようだし、なんか痩せたな」
「かるい貧血みたいです。むかしもなったことがあって」
「病院には?」
「いえ。鉄分とれば治るらしいので」
「横着しないほうがいい。医者に診てもらえ。いいな」
部長はいつになく厳しい口調で言った。
だからでもないが反発する理由もとくになく、おとなしく病院にかかり、そしてそこからさき、二度と陸上トラックに選手として足を踏み入れることはなかった。
急性リンパ性白血病、と宣告された。
駅伝にでるなんてもってのほかだと告げられ、それからあれよあれよという間に長期入院を余儀なくされた。
大学は休学し、それから長い闘病生活がはじまった。
医学は日々進んでいる。
早期発見できたおかげで死ぬまで入院していなければならない未来は避けられた。部長の助言のおかげだ。
二年後には大学にも復帰し、陸上部のマネージャーとして過ごすうちに、気づくと卒業していた。
白血病は完治していないが、薬で抑えることはできている。日常生活にも不自由はないが、以前のように駆けることはできない。
大学を卒業するまでのあいだに公務員試験を受け、合格していた。そのおかげで就職先に苦労はなかったが、じつのところ走ることへの憧れを捨てきれずにいた。
だからなのかもしれない。
交番に配属されてからも白バイ隊への転属を志願しつづけてきた。
警察官になって六年目になってようやく念願叶って、部署を異動となった。そこから技術を学び、磨き、運転技術を競う白バイの大会で好成績を収めるまでに上達した。
今年、箱根駅伝の選手先導の白バイ隊の一員として声がかかった。
まさか選ばれるとは思わなかった。
だが、長年夢見つづけてきたことは疑いようがない。
来年の正月に、いよいよ例のあのコースを走る。
選手たちと共にTV中継にこの姿が映り込んでも、父に叱られることはきっとない。
【コタツムシ】
またこの季節がやってきた。アイツらが蔓延りだす忌まわしき冬だ。
アンコがそれの存在に気づいたのは幼少期、まだ固定電話が各家に備わっていたころの話だ。TVを観ているあいだに電話が鳴って、さあいったい誰がでるのか、と兄妹間で暗黙の牽制合戦が繰り広げられる。母親か父親がそばにいればアンコたちに出番はないが、母が仕事道具をまえに頭を抱えていたり、父が台所に立って慌ただしくしているときには、叱声が飛んでこないうちにと、なるべくはやく受話器をとる習慣がついた。
いつもは兄が不承不承の体ででてくれるのだが、それはもちろん兄の年長者としてのやさしさであったが、冬となると兄はまるで人が変わったかのごとく頑としてその場を動こうとしなかった。
ヤツだ。
ヤツに魅入られてしまったのだ。
アンコ自身、ヤツの底なしの魔力、逃れがたい引力のつよさは身を以って知っている。
ソレには四つの脚があり、口は大きく、一つではない。床まで届く膜で身体全体を覆っており、たいがいは固い甲羅を背負っている。甲羅はぺったんこで、うえには物が置けるようになっている。ソレに誘われ囚われた者たちが持ち寄ったミカンや湯飲みがそこに置かれるはめとなる。
いちど浸かってしまえば抜けだすのは至難だ。
アンコも日々、ソレの魔力に引きずり込まれてしまう。翌日の朝まで身体を首まで呑みこまれたままでいることもしばしばだ。ソレは人間を呑みこむことはしても消化はしないので何度も呑みこまれてはそとに脱するサイクルを繰りかえす。
ソレの内部はほどよくぬくぬくであり、いちど入ったら身も心もとろけてしまう境地は、陸の湯船の二つ名を冠しても遜色ない。
半身を呑みこまれたままで寝てしまうと、熟睡していたはずなのに精気を吸われたようにぐったりしていて、目覚めるたびにいつも驚く。
そう、ソレはけして人類の味方などではない。
日々、こっそりとしたたかに人間たちから精気を吸いあげ、自身の生命維持の糧にしている。いずれ人類はソレの魔力に骨抜きにされ、気づいたころにはすっかり奴隷と化しているだろう。
アンコは未来の危機に思いを馳せ、ひそかに行動を開始した。
まずは兄や母や父の行動を観察し、ソレへの依存度の高さを計った。案の定、アンコの睨んだとおり、冬が更けていくほどに家族たちのソレへの依存度は上昇傾向にあった。アンコ自身、なるべくソレとは距離を置こうと心していたはずなのに、気づくといつもソレに呑まれていて、朝はそこからモゾモゾと抜けでる日々を余儀なく過ごしている。
こんなはずではなかった。
なにかそう、ソレからは人間を操る化学物質か何かが放たれているに違いない。
アンコは洗濯バサミで鼻をつまんだ。それを見た兄がいかにも不機嫌そうな顔でソレのなかから足を抜き、靴下を脱いで自身の顔のまえに掲げた。
「そんなに臭うか」
「にぃひゃんのへいじゃない」
「俺の屁がなんだって。屁なんかこいてねぇぞ」
アンコは鼻から洗濯バサミをはずし、ひねりだす。「鼻を高くしようと思っただけ」
兄は笑った。「アンコ、おまえはいまのままでもかわいいぞ」
アンコは照れた。そして心に誓う。なんとしても我が兄をソレの魔の手から救わなくては。
その日からアンコの葛藤よろしく格闘の日々がはじまった。まずはソレの魔力を削げないかと画策した。ソレの魔力が弱まればじぶん含め、兄たちもソレに呑みこまれたりはしないはずだ。
そう思い、ソレの動力源――尻尾のようなものを家の壁から引き抜いた。ソレは人間たちからだけでは飽き足らず、家からも精気を吸いあげているようだった。
だがアンコの渾身の策にも拘わらず、目を離した隙にソレはまた尻尾を壁に突き刺し、そばにはソレに呑みこまれ、無残にもいまにも極楽に昇りそうな顔で眠りこけている兄の姿があるのだった。
失敗だ。
アンコはさらに策を練った。じぶんがすっかりソレのなかに丸呑みにされて中を占領してしまえばほかの者が入ってくることはないはずだ。だが苦慮もむなしく、みなはアンコの身などまったく省みず、あっちこっちの口から足を突っこんでは、アンコの身体を足蹴にした。アンコは猫のように丸くなって耐えたが、父や兄の足の臭いは得も言われぬ忍耐をアンコに強い、母は忙しい身のうえであるからしきりに足を抜いたり差したりを繰りかえす。そのたびにアンコは顔を、肩を、腹を、おしりを蹴られ、なぜじぶんがこのような仕打ちを受けねばならぬのか、と守るべく家族を深く憎みそうになったのを機に、ソレのなかから這い出るに至った。
「なあに、どこにいたのかと思ったらそんなところに潜って」
母は素知らぬ顔でつぶやいた。干からびちゃっても知らないよ、と言いながらココアを差しだしてきたので、アンコは破裂しそうな堪忍袋の緒をきゅっと締め直して、ココアごと胃のなかに押しこんだ。なんでいじけてたんだ、と父がお門違いはなはだしい一言をよこから投じ、いじけてたんじゃなくて修行してたんだよな、とこれまた的外れ清々しい慰めを兄は投げてよこした。
アンコは歯を食いしばる。くじけそうだった。負けてしまいそうだった。投げだしてしまいそうなじぶんはすごく嫌なのに、身体は未だ腰までソレに呑みこまれたままでいる。兄や父や母といっしょにこのままソレに囚われ、寄生され、細々と精気を吸われてしまってもそれはそれでいいかな、と思いはじめていた。
「なあに、眉間にシワなんか寄せちゃって」母がゆびでつついてくる。このとき、アンコははっきりとじぶんの闘志がしゅるしゅると萎んでいくのを感じた。
諦めるってけっこう気持ちいいんだ。
何かにつよく束縛されていたのだと知って、アンコはそれから解放された心地よさにしばらく瞼を下ろして浸かった。母や父や兄たちのなんてことのない取るに足りない雑談を耳にしながらみずからの半身を呑みこんでいるソレの甲羅に頬をくっつけ、ぬくぬくとヒンヤリの贅沢なひとときを満喫した。
以降、アンコがその年にソレへと敵対心を向けることはなかった。
ソレは例年通りに、春うららかな日差しが窓から差しこむようになると、母を操って居間から姿を晦ました。アンコはソレがいったいどこに消えたのかを知らなかったが、大方この家のどこかに隠れているのだろう、と睨んでいる。それでもそれはそれで致し方ないようにも思えた。
寄生されてはいたかもしれないが、精気を吸われた分、ぬくぬくと温かな空間を提供されてもいたのだから、これはひょっとしたら共存と呼ぶに値する平穏ではなかったか。
奪われているものばかりに目を向けていた。与えられているものに気づこうともしなかった。
翌年になればソレはまたアンコのまえに現れるはずだが、そのときはもっと丁重にお迎えし、労い、半身を預けてやってもいいかな、という気になっていた。
だがいざ家のなかでソレを見掛けることがなくなると、アンコはもうソレに対して抱いていた危機感や敵愾心といった負の感情を、それを抱いていた事実すら忘却の彼方へと押しやっていた。なぜじぶんがそんな発想を思い浮かべていたのかも思いだすことはなく、それは翌年になってみたびソレが目のまえに姿を晒しても変わらなかった。
やがてアンコの背は伸びた。中学、高校、大学と卒業していくたびに、現実の厳しさから逃れようと、いっそ丸ごと身体を呑みこまれてしまえ、と思ったが、背中が仕えて潜りこめなくなった。猫はいいなあ、まるごと呑みこまれて。猫の気ままさに嫉妬しながらソレに半身を預ける冬を過ごした。
就職を機に家をでると、あとはもうソレと接する機会もなくなった。独り暮らしの家にはソレは場所をとりすぎる。精気を奪われるのも損に思えた。できるだけ夜はお布団にくるまって寝たい。そうでなければ厳しい社会人生活を乗り切れない。
あるときアンコは職場近くのレストランでシェフをしている男と恋に落ちた。三年の交際を経て結婚したのは、さきに子供ができたからだが、それはアンコにとっては根耳に水ではなく、棚から牡丹餅に相違ない僥倖であった。
子宝という言い方をアンコは好まない。どちらかと言えば子どもは好きではなかった。うるさいし、わがままだし、じぶんのことばかりに敏感で他人の事情なんて想像すらしてくれない。
アンコ自身がそういった子ども時代を過ごしてしまったゆえの苦手意識だ。だがいざじぶんの子供ができてみると、これがまたなんとも言えぬ手の負えなさで、何度安易に子をつくってしまったのかと後悔したことか。
だが子へと注ぐ労力が地獄に思えれば思えるほど、ときたまみせる赤子のやすらかな寝顔、笑い声、遅々としながらも確実に日々成長していく姿には、スイッチを切り替えるような至福のひとときを覚えた。
最初の子が三歳になると、こんどは夫と相談して二児をもうけた。
二人の子供たちはさいわいと大きな病気をすることもなく、すくすくとわんぱくな娘と息子に育った。姉弟は仲が良く、まるでむかしのじぶんと兄を見ているようなふしぎな心地がした。母や父の偉大さを思った。
ところが娘が来年小学校にあがる段になると、アンコは気を揉むようになった。決まって冬の時期にその苦悩は襲った。夫が、これがないと冬じゃないよね、と買ってきた一匹のソレだ。
学名、ヌルプスオプルキスと言う。別名、コタツムシとも呼ばれる。
ヌルプスオプルキスは四足歩行の大型寄生生物だ。体温が高く、長い尻尾を家の壁などに突き刺して、そこに蓄積された情報変移量――すなわち時間を食べる。ヌルプスオプルキスを家に一匹置いておくだけでその家は朽ちることなく、またソレの体温の高さから暖房としても重宝されている。
反面、他生物の生命エネルギィ、主としてアドレナリンなどの興奮物質を糧とするため、それに呑みこまれているあいだ、人間は徐々にやる気を失う。同時に、アドレナリンを出すために食欲が増し、射幸心を煽るような行為に更けるようになる。
中毒性がないために国による規制は敷かれてはいないが、子を持つ親としては不安の種だ。だが幼いころからそれに慣れ親しんできた者であれば、とくに問題を感じないため、親子、共々ソレに依存しきってしまう。それを堕落しきると言い換えてもよい。
夫も例に漏れずそちらのタイプの幼少期を過ごしてきたようだ。
アンコにはしかし、かつてソレに抱いていた危機感や敵愾心がある。忘却の彼方へと押しやっていた幼き日の記憶が、感情が、まざまざと、沸々と、それでいてのべつ幕なしに舞い戻ってきた。
「コラ、パパにばっかりお料理させないで、あんたたちもすこしはお手伝いして憶えたらどうなの」
「だってパパ、こだわりつよいんだもん」
「それはそうだけど」
「ママだってパパのお手伝いしてるわけじゃないでしょ。カレー以外で何かパパより上手につくれるのあるの」
アンコは閉口した。
だってしょうがないでしょ。
プロのシェフと比べられても勝てるわけないじゃない。
子供たちは足から腰までをヌルプスオプルキスに呑みこまれている。手元の電子機器に夢中だ。いま我が子たちはつぎからつぎに分泌されるアドレナリンをあの四足の生き物に食べられているのだ。枯渇するから分泌は止まらず、やがて脳みそが疲弊し、深い眠りに落ちる。寝ているあいだも吸われつづけるから、起きても体力は回復せず、むしろ疲れが蓄積する。
むろん安全ではあるのだろう。ソレに殺されたといった話はついぞ聞かない。だが我が娘息子たちが堕落の底へと落ちていく様は、親として心の乱れを禁じ得ない。
こうなればとる道は一つしかない。
アンコは籠いっぱいにミカンを載せ、お菓子の詰め合わせとお茶の用意をお盆に載せると、娘と息子の足を押しのけるようにソレの口に半身を突っこみ、意気揚々と映画を再生させる。
「ママ、足もっとそっちにやって」
「上に載せていいからちょっと黙ってて」
いまいいとこなんだから。
アンコは映画に齧りつく。だってしょうがないじゃない、と思いながら。
諦め半分にミカンを口のなかに放り入れる。
またこの季節がやってきたのだ。
【乃某の人偽】
東北の奥羽山脈の奥地にその本殿はある。獣道ですらない木々の合間を母たちは迷わず進んでいく。記憶にあるもっとも古い情景で、おそらく私は三歳だった。
新年を迎えるたびに我が一族はそうして本殿へと赴く。本殿は神社というよりもお屋敷じみていて、しかしそこに誰かが住んでいる気配はなく、それでいて踏み入れると手入れが行き届いている。人の出入りはあるようだが、私の知る限り、一族以外の者を見かけたことはない。
本殿には「祷場(とうば)」と呼ばれる間があった。道場のようながらんとした空間の真ん中に、ぽつんとちいさな神棚があり、その裏に、地下へとつづく階段が開いている。
私たちは祈場に正座をして並び、一人ずつ階段を下りていく。そのさきには茶の間のような狭い和室がある。襖と畳だけの質素な空間だ。太い大黒柱が奥にあり、そこに空いた大きな洞のなかには精巧な日本人形がまるでフクロウのように納まっている。
私たちはその人形を「乃某(のぼう)さま」と呼んだ。
乃某さまはハッキリと人形と判る造形をしていながら、生きているような、いまにも動きだしそうな生々しさがあった。ふしぎとおそろしくはなく、幼い私であっても、それを間近に見たいがためにはやくじぶんの番が巡ってこないだろうか、とそわそわして待った。
一人ずつ乃某さまのまえに座り、そして誰が用意したのかも分からない巾着袋を一ついただく。それは和室に入ると、乃某さまとのあいだに置かれている。
私がそれを受け取れば、和室からは巾着袋はなくなるはずなのに、代わる代わる階段を下りて和室に入っていく一族の者たちは、みな一様に巾着袋をだいじに両手で包みこんで祈場へと戻ってくる。
六歳のときに私はじぶんの「人偽」を一式揃えた。それは六つの部位からなり、胴体、左右の腕と足、そして最後に頭部をいただき、人形とする。私たちが乃某さまからいただく巾着袋のなかにはそうして毎回、どれか一つが入っており、すべて揃うと以降は、毎年のように部位を付け替えていく。
人為は私によく似ていた。似ていながらに、まったく同じではなく、ゆえに不気味ではなく、理想の姿カタチをしていた。
私だけではなく人偽は、それぞれ持ち主にそっくりな顔に造形されている。私たちはそれをつぎの新年までだいじにだいじに仕舞っておく。カビらせるなんてもってのほかだから、ときおり箱のなかから取りだして髪を梳いたり、湯で濡らした布で表面を拭ったりする。
「飾ってはダメなの」私は六歳のときに母に訊いた。せっかくすべて揃ったのだから、見える場所に置いておきたかった。
「ダメよ。もしものことがあったらたいへんでしょ」
「もしもってたとえば」
「壊してしまったり、汚してしまったり。ほら、地震がきたら怖いでしょ」
「んー。だいじょうぶな気がするけど」
「我慢して。ひな祭りのときだけは一日だけ飾ってあげてもいいから」
ホント、と確認すると、母は、ホント、と破顔した。
私はその日から毎日のように、じぶんの人偽をたいせつにした。箱を開けなかった日はなかったし、話しかけない日はなかった。人偽は私自身であり、分身であり、誰より親しい友人であり、理想だった。
ある日、私は怪我をした。小学校に入学したてで、男子と遊具で競いあって、誤って地面に落下した。腕がぷらんと折れていた。担任の運転する車で病院に運ばれ、診察を受け、母が迎えにくるころには、ふしぎと痛みは引いていた。きれいに折れた分だけ治ればかえって頑丈になるでしょう、とお医者さまからはお墨付きをもらえた。
帰りの電車のなかで母が私に言った。
「帰ったら人偽にお礼を言いなさいね」
母は向かいの車窓をまっすぐと見ていて、すこしのあいだ私はじぶんに言われたのだと気づかなかった。
「いいわね」
母の声音がいつもと違った。私は骨を折っても湧かなかった哀しさに襲われた。家に帰り、イの一番でじぶんの人偽へとお礼をしに走った。部屋の明かりも点けずにただひたすらに人偽へ、ありがとうございます、ありがとうございます、と繰り返しお礼を言った。私が部屋をでて、母のもとに戻ると、母は私をぎゅうと抱きしめてくれた。
えらかったね、よかったね、本当に心配したんだから。
電車のなかでの母とのやりとりが、幻のように霞んでいく。
私はその日からしばらく人偽の手入れをしなかった。箱を開け、眺めたり、しゃべりかけたりはしたが、人偽に触れるのだけは気後れしてできなかった。
おひなさまの時期が近づき、母が言った。
「そろそろおめかししてあげよっか」
「おめかし?」
「人偽の。お母さんのにも新しい着物を用意してあげたいし、いっしょにおめかししてあげよ」
着せ替え遊びのようなものだろうか。私はわくわくしながら母に手を引かれ連れていかれたが、行き着いた先が、高級織物の老舗であったから出鼻をくじかれた心地で、縮まった。
「いつものお願いします。今回は娘の分もお願いしたくて」
「あー、もうそんな年かい。はやいなあ」
大きくなったねえ、と声をかけてきたのは、見覚えのあるおじさんだった。本殿で見かけたことがある。ということはこのひとも一族の一員なのだ。
「じつは娘がこのあいだ骨折して」
「じゃあもう【受け】を?」
「はい。していただけたようで。できればその分も奮発してあげたいなと」
「なるほどね。そりゃいい心掛けだ」
母がおじさんのあとについて店の奥に進んでいく。あとを追うと、店の奥にはこじんまりとしたカウンターがあった。喫茶店みたいな造りで、壁は本棚が埋め尽くしている。
どうぞ、と促され母と共に席に座った。
コーヒーと共に手渡されたのは、一冊の本だ。開くと、中にはびっしりと布地が貼りつけてあった。そのなかから好みの生地を選べとそういうことらしい。母がいくつかの生地を見繕い、私はそのなかから好きな青色の生地を選んだ。
母はそれからまたおじさんと話しこんでしまったので、私は席を立ち、狭い空間を見て回る。
本棚には古い本ばかりが並んでいた。本に交じって木箱のようなものが納まっていることに気づく。
「気になるのかい」
声をかけられ、飛び跳ねる。おじさんが背後に立っていた。おじさんは木箱を取って、見せてくれた。なかには人偽が入っていた。しかし六つの部位のうち、頭がなかった。
「ここは人偽のお墓でもあるんだ。ワタシだけではないよ。一族の年長者はみな大なり小なり、墓守りとしての任を得る。まあきみのお母さんはまだ若いからまだしばらく気楽でいられる」
母が微笑む。その笑みがふだん私に見せる笑みとは違っていて、まるで母が私くらいに幼い小娘に見えた。
ひと月後には人偽の着物が届いた。私はさっそく着せ替えようとしたが、母がそれを止めた。
「見てなさい」
言って、私をそばに置き、お手本を見せるように私の人偽を裸に剥いていく。
胴体がはだけたところで、私は息を呑んだ。
人偽の腕にヒビが入っていた。私はじぶんの骨折した箇所を撫でる。同じ場所だ。
「偶然?」
母は応えなかったが、私は人偽の手入れをふたたび熱心にするようになった。
年明けに本殿へと赴くと、私はそこで新たな人偽の腕を手に入れた。なぜ管理者が私の人偽の腕が壊れていると知っていたのかは定かではなく、ひょっとしたら母がこっそり伝えていたのかもしれない。
乃某さまは私の記憶にあるよりもすこし大きくなって見えた。大黒柱の洞も以前よりも膨らんでいる気がしたが、気のせいかもしれなかった。
「今年はおてんばをしないこと」
母は帰り際、言い聞かせるように言った。「来年こそは新しいかんばせをもらえるようにしなさいね」
言われて気づく。母の人偽は毎年のように新しい顔にすげ替わっている。まるで母の齢を写し取っているかのように。
「似ていることがだいじなの」
母は食指の腹で私の人偽の頭を撫で、ついでのように私の頭を揺さぶった。
父は私が幼いころに亡くなっている。父は一族の者ではなく、ゆえに人偽をもらい受けてはいなかった。
「人偽があれば生きてたのかな」私は父の位牌に手を合わせる。「そうしたら私のときみたいに身代わりになってくれたのかな」
人偽が、と口にすると、頬が弾けた。母が私を平手打ちしていた。「滅多なことを言うもんじゃありません」
「ごめんなさい」呆気にとられつつも、謝罪が口を衝く。もちろん何の謝罪かなんてじぶんでも解かっていない。
「いいのお母さんこそごめんなさい。でも、人偽はそういうのじゃないの。違うのよ。解かって」
何を解かればよいのだろう、碌に説明もされていないのに。不満に思いはしたが、私が未熟だから話してはもらえないのだ、と呑みこんだ。
私はこのときまだ七歳で、世のなかのことなど何も知らない子どもだった。
母の言うことが世界のすべてだったし、母の言うことは正しいと信じる以前に、疑う意識がそもそもなかった。
翌年も、そのつぎの年も、私は母と共に本殿へと赴き、新しいかんばせを、ときに壊れた部位を新たにもらい受けた。
乃某さまはやはり年々、僅かにではあるが変化しているように見えた。もちろん人形が成長するわけがないのだから、私たちの人偽のように部位をすこしずつ付け替えているのだろう。ひょっとしたら毎年新しい乃某さまをこさえているのかもしれない。ただ、私たち一族に名はなく、当主もいなかった。
中学生にもなると、私の人偽は私同様に、齢分の変化を遂げている。もはや六歳のころとはまったく別の人形だ。かんばせからは幼さが抜け、おとなの色艶が宿って見える。胴体部にも膨らみが加わり、私は女だったのだと否応なく気づかされる。
今年の秋、中学卒業を前に、私は母と喧嘩をした。母のことは好きだったが、人偽のこととなると不条理に思える説法を命令調でしてくるのが煩わしくて仕方がなかった。
母が家を留守にしているあいだに、私は母の人偽にいたずらをした。母のたいせつなものを傷つけたかった。母を心底傷つけてやりたかった。ややもすれば私よりも後生大事にしている母の人偽に当たり散らしたかったのかもしれない。
私は母のそれを両手で握り、雑巾をしぼるようにひねった。
そんなに乱暴に扱ったのは初めてのことで、このときになって初めて人偽が何か動物の骨を削って造られた彫刻なのだと知った。
母の人偽は粉々に砕けた。かろうじて右腕と両足の先端、それから頭部だけが残った。
ざまあみろ、といちど声にだして言った。でもそのあとはどれほどひねりだそうとしても言葉にはならず、涙がしきりに目から溢れるのだった。
もしじぶんの人偽を誰かにこんなふうにされたなら。
想像すると私は吐き気に襲われた。
その場から逃げだしたくなったが、まずはコレをどうにかしなくては。粉々になった母の人偽を拾い集めていると、メディア端末が着信を知らせた。見知らぬ番号だったが、嫌な予感がして、逡巡しながらもすぐに出た。
救急隊からの連絡だった。母が倒れ、救急車で病院に運ばれている最中だという。重体で意識不明だが、身元が解からず難儀している、いますぐ病院まで来てください、と言われ、私はうまく呼吸ができなくなった。
すぐに行きます、と告げ、いちど通話を切った。箪笥を漁り、母の保険証や通帳、印鑑、その他必要に思えるものを掻き集めながら、私は未だ粉々のままのソレを目に留める。
乃某さま。
私は自室へと飛びこみ、じぶんの人偽を手に取った。それから母の人偽をていねいに箱に詰め、家を飛びだす。病院ではなく、以前母と共に出向いた高級織物の老舗へと向かった。あのひとならどうすべきかを知っている気がした。
正月以外に本殿へ出向くことは固く禁じられている。
だがいますべきは、乃某さまへ助けを乞い、許しを乞うことに思えた。
はやく、はやく。
涙がしきりに溢れて、止まらない。
母が死んでしまう。
人偽はいま手元に二つある。こんなものがあるからだ。怒りがこみ上げる。呪いの人形なんかつくるから。責任転嫁を巡らせながら、どうすべきかを考える。選べる道は限られている。
【根を張る者】
初めはひと粒の種子だった。私の素となるそれはどこからともなく風に運ばれてきては行き倒れた兵の首筋に着地した。そこは山間だ。麓では合戦が繰り広げられており、遺体がそこかしこに転がっている。騒々しい時代だった。
遺体から甲冑や刀を拾い集める男たちがやがてどこからともなく現れたが、遺体は燃やされることも、埋められることもなく、私の素となる種子はそのまま遺体を苗床として芽を萌やした。
おそらく植物としては成長が早い部類だろう。十年やそこらで木と呼ぶに値する高さにまで育った。
私が私としての輪郭を経て言葉を操るまではそこからさらに数百年を費やすこととなるが、このときすでに私の素となるそれには意識があった。自己とそれ以外を区別し、認識していた。
私の素となるそれは順調に幹を太らせ、枝葉を伸ばした。周囲にほかの木々は生えず、動物たちは死期が近づくと根元に身を寄せ、そのまま朽ちた。
二十年もすると山の麓にいくつかの里ができ、しばらくすると私の素となるそれは神木として崇められるようになった。そばに祠が建ち、拝殿ができる。
となりの山からでも目に留まるほどに幹を伸ばすころには、そこを中心として大きな村ができた。神社として祀られ、そのときに私の素となるそれは言葉を覚えた。まだじぶんが何者であるのかについて考えを煮詰めたりはせず、人間たちの生活を目まぐるしく眺め、幹を這う蟻との違いに思いを馳せた。
大規模な山火事があった。あとでそれが空襲による火事であったのだと知るが、そのときの私の素となる神木には何が起きているのかが解かっていなかった。それはそうだろう。よもや鉄の塊が空を飛び、ましてや火薬をたんまり詰めこんだ筒を人のうえに落としていくとは夢にも思わない。
村の者たちは山をあとにした。村を捨てたわけだが、彼らはそのときに私の素となる神木を伐り倒して持ち去った。神木は、私を含め、八つの材木となって運ばれた。
村の者たちは三々五々に山を下り、地方へと散らばった。疎開地に定住する者もあれば、全国津々浦々を転々とする者もあった。八つの私たちは、それぞれ各地にて、仏像や神体、きのこを育てる原木や炭、そして人形に組み上げられた。
人形として組まれたのは私を含め三体だ。すべて同じ人形師の手による作品で、私はそのうちの一体だった。私を崇める者たちからは「緒某(おぼう)さま」と呼ばれた。ほかの二体はそれぞれ、「乃某(のぼう)」「孤某(こぼう)」の名を与えられたが、私はついぞそれらを目にしたことはない。
私をこしらえた人形師は、私に意識があり言葉を操ると知るなり、自害した。なぜみずから死に急いだのかは定かではない。人形師は遺言状を記して死んだが、そこには私を大事にすべし、と一族へ告げる以上の内容は記されていなかった。
以降、私は長きにわたって連綿と人形師の一族によって重宝されることとなる。
私は樹であり、材木であり、人形であるが、条件次第では成長できた。生きているのだからふしぎではないが、元は樹であるからか、人の子らのように自在に動き回る真似はできない。その代わり、私は意識を分散できた。私から零れ落ちた木片に、私は私の意識の断片を宿し、或いはそこから外部情報を収集できた。それは私の素となった神木が元々備えていた性質であるらしく、ある時期まで私は、私のほかの八つの私たちとも交信が可能だったが、いまではそれも途切れてしまった。
意識の交信には制限があるようだ。距離にも影響されるようであり、これらの条件は私が私となってからしばらく経ってから知ったことの一つだ。
私は、私を崇める一族に、私の一部を与えるようになった。元々は、成長しすぎた私へおそれをなした一部の者たちが私を燃やそうとしたのをきっかけにとった自己防衛策で、同じ轍を踏まぬようにと、定期的に身体から余分な部位を切り離すようにしたのが嚆矢となる。
私は私の身体から切り離した木片を元に、ちいさき人形をこさえた。それは私の分身であり、私自身だった。私は無数の私を切り離し、外界を見るための目とせんと画策した。出歩くことのできない身の上ゆえ、それらちいさき人形を目とするには、いちど外界に運びだされなければならなかった。
私は私のこさえたちいさき人形たちを、一族の者たちへと贈与した。一族の者たちはそれをみずからの分身として慈しみ、肌身離さず持ち歩くようになった。最初は手のひらに収まるくらいにちいさな人形だったが、それのカタチがより大きく、より持ち主との繋がりが濃くなるほどに、本体である私との交感が増すと知ってからは、頭、胴体、両手、両足と、六つの部位からなる人形へと昇華せしめた。
一族の者たちはそれを「人偽」と呼び、私同様に、特別に重宝した。
新年を迎えるたびに、私はそれら人偽を一族の者たちへ、つど与えた。すでに人偽を保有している者には、新たな部位を一つずつ贈り、細胞が入れ替わるように六年周期で新しい人偽となるように仕組みを整えた。人偽の保有者が歳をとるのに合わせて、人偽のほうも姿を変えていくほうが、私の目としての感度を高く保てたからだが、同時に、思いもよらぬ作用を発見した。
人偽は、それの保有者に似れば似るほど、保有者との交感をつよくした。言い換えるならば、私は人偽のみならず、一族の者の身体そのものを目とすることが可能だった。
一族そのものが私の分身と言って遜色ない環境が整うと、私は私の能力の一部を、人偽を通して、一族の者へと伝播させることすらできるようになった。
それはたとえば、人偽の保有者が傷ついた際に、私がその傷の一部を引き受けることで、保有者の治癒能力を高める、といった塩梅だ。
或いは、私の見聞きしている情報を、それとなく共有させ、一族全体の生存確率をあげたりもした。害となりそうな人物や、危険となりそうな場所には無意識のうちから拒否反応がでるように仕向けることもしばしばだ。しかし、あまり情報を共有しすぎると、意識までが癒着しはじめ、却って一族の存命を危ぶめる方向に傾くと知ってからは、やはり最低限の情報共有のみで済ますようになった。
一族には派閥があった。私を唯一の「人偽主」と崇める一派と、私以外の人形も「人偽主」と認める一派だ。
私にとっての一族は、私を仕立て上げた人形師の末裔を示す。そして人形師は私のほかに、私の素となる神木から採れた材木で、二体の人形をこさえていた。
それら二体は、またべつの地域で、人形師の一族たちから崇められ、たいせつにされている。一族同士に交流はないものの、互いに存在は窺知しているようだ。不用意に接触することで敵対関係になる未来を極度に恐れているのを、私はもちろん、向こうの二体も知っている。
私にはもはや、ほかの二体と意識を繋ぐ真似はできない。長く切り離されたままであるし、互いにどうやら距離がある。
ほかの二体もまた、私のように人偽のようなものを駆使して、外界の知見を深めているはずだ。元々が同じ素体から生じたことを思えば、ほかの二体が私と似た発想に至らなかったと考えるほうが不自然だ。もうすこし言うならば、人偽がなくては一族はとっくに瓦解し、私を祀る者もいなくなっていたはずだ。
ある一面で、人偽は枷だ。
私と一族を繋ぐ鎖であり、一族を縛る楔でもある。
人偽を通して私はそれの保有者を操れる。一族に仇を成そうと考える者があれば、行動に移される前に、その人物の意識に干渉し、必要とあらば掌握した。それを支配と言い直してもよい。
その前段階として、私は人偽と保有者を密に繋ぎ、相互に損失を補完しあえるように細工する。これをされた者は、私が人偽を意図して傷つけるだけで、共鳴して同じく身体が損なわれる。
あべこべに、身体を損なってしまった保有者は、人偽を見繕い直せばある程度の修復は可能だった。
ある年のことだ。
新年を迎え、例に漏れず、私のもとに一族が集まる。私は一年分の成長を、細かな木片に削ぎ落とし、それにて新たな人偽の部位をかたどった。一族の数はつねに一定に保たれており、増えすぎれば、剪定をするように残すべき者を選び、それ以外の者は切った。ある者は病で、ある者は事故で、ある者は自決し、たいがいの者は奇行を犯し、一族を追放された。いずれも人偽を通して私がさせる所業である。
海岸沿いにある壁に洞窟が開いている。鍾乳洞だ。その奥底に私を祀る本殿がある。本殿には地下があり、私は鍾乳石を抉り取ってつくられた神輿のなかにいる。
一族は本殿の「拝謁の間」にて順番を待ち、一人ずつ私のまえにやってくる。私は身動きがとれないが、代わりに人偽を通して意識を掌握した保有者を手足とし、貝殻にくるんだ「人偽の部位」を私の足元に置かせる。一人、また一人と一族の者がやってきては、今年の「人偽の部位」を手にして、きた道を戻っていく。
みな見知った顔だ。一族の者しか足を運ばないのだから当然だ。
しかしこの日は違った。
最後に、一人の娘がやってきた。歳の頃は二十歳、否、十代かもしれない。知らない顔だ。人偽を通して娘の側面像を漁ろうとするも、彼女は私の人偽を保有してはいなかった。
明らかな部外者に私はつよい不快感を覚えた。
どこの者か、と私は詰問した。何用か、と。
声は地下の空間に反響し、そしてそれはどこから聞こえているのかは娘には判らないはずだった。
「緒某さまにお願いがあって参りました」娘は言った。目はこちらをしかと見据えている。「わたしは元々乃某さま――ほかの御神体の元に集っていた一族の者です。訳あって離縁し、いまは方々を調べて回っています」
何を、と私は言った。何を調べているのか、と。
娘はそれには答えず、緒某さまはなぜ、と続けた。
「なぜ、わたしたちのような手足を欲するのですか。このさき何を成したいがために、わたしたちに人偽を与え、命を使い、ときに断ち切る真似をするのですか」
あなた方はいったいなぜ――。
娘の悲痛そうな叫びに、私は既視感を覚えた。それは私にはないはずの記憶だったが、私には私が体験したもののように感じた。
乃某、そして孤某。
私と対をなす、二体の人形たちと、彼女はここを訪れる前に会っている。
会っていながら、ここにも訪れたのだ。
ほかの二体では満足いく答えを得られなかったから。
得られなかったから彼女は私を――私たちをその手で。
ふしぎと何も感じなかった。怒りも、不安も、哀しみも。どことなく愉快な気持ちが湧きかけたが、感情と呼べるほどに色めき立っているのかは私自身にもよく解からなかった。
予感と言ったほうが正確かもしれない。私以外の二体が辿ったように、私も彼女の手によっていまある環境を失うのだ。
変化の兆しに、私はいよいよを以って、長らく自身がこの境遇に飽いていたのだと知った。
天井から水がしたたり、静寂に波紋を広げる。
「ないな」私は応じた。「理由はない。目的はない。ただそうあるようにと生みだされ、そうあるようにと生かされてきた。私を私として保ちつづけた者たちの末裔であるおまえには終わらせる自由もまたあろう。好きにするがいい」
娘は沈黙した。伏していた顔をあげ、立ちあがると懐から何かを取りだし地面に放った。私の目のまえに、二つの首が転がる。私は凝視する。それらは私とは似ても似つかない、人形のゆがんだ頭部だった。
「死んではいない。殺せない。首を跳ねても、身体を燃やしても、みなの人偽はそのままで、おまえたちはゆっくりとけれど確実に再生していく」
蘇えっていく。
「おまえたちを亡き者にするには、一族を根絶やしにしなきゃいけない。それをおまえはわたしにしろと?」
人偽を放棄しろ。
娘は言った。
「一族を解放してくれ。このとおり」
娘は頭を下げた。それしかできないのだ、と示すように、幼子がそうするようなぎこちない所作で、ひざに手を添え、腰を折る。
「嫌だと言ったらどうする」私は敢えて挑発的に問うた。
娘は低頭したままこう告げる。「おまえの顔も醜くゆがむことになる」
私は声を殺し、笑った。
【ミズキさんの雑念】
毎日朝は五時三十五分に起きます。三十秒ほど目覚めたくないなあ、の葛藤をしますが、起きないのなら死ぬしかありませんので、まずは起きる方向に目的を再調整します。私は人間ですからもちろん朝食も食べなければなりません。顔を洗い、そこで水を一杯飲みます。一杯とはいえ、三口を呑みこむくらいです。
着替えを済ませ、台所に立ちます。台所には二台目のメディア端末があり、それで好きな曲をかけます。一週間ごとに好きな曲をリストアップするので、これは週によってまちまちですが、好きな曲はいつ聴いても好きなので、リストは増えることはあっても、あまり大きく変わることはありません。一台目のメディア端末は仕事用で、家で開くことはまずありません。
朝食のメニューは四つのうちから選びます。日によって食べたいもの、食べたくないものにブレがあるので、四つの選択肢を用意しています。きょうはパンをコーンスープに浸けて食べることにしました。どちらもスーパーで購入できる市販の食品です。パンはトーストにし、コーンスープは電子レンジで温めたミルクを加えます。栄養バランス的にはサラダを摂ったほうがよいのでしょうが、私は横着者なので、食用のホオズキを三粒食べておしまいにします。
仕事がある日は通勤電車内で読む文庫本を一つ選んで出掛けます。読みかけであってもつづけて同じ本は選びません。ひと月で平均して八冊を読み終えます。
お休みの日でも私は駅まで行き、そこでお買い物を済ませます。駅までの道中には商店街があり、そこでお買い物を済ませても、いちど駅まではいくのです。そうすると私は何か日々を生きている気がしてほっとします。それが果たせないとつぎの一週間はモヤモヤと落ち着かない気持ちになるのです。
私の仕事はデザインです。飲食物に表示する「アレルゲンの表示」をどのように効率よく需要者の方へと提示できるかを考えます。ペットボトルならペットボトル、包装紙になら包装紙に見合ったデザインを考案します。アレルゲンの表示はたいせつです。購入者の方が見落としてしまわないように見やすさを重視します。
自宅でもできる仕事ですが、私は横着者なので職場まで出向いてそこで仕事をします。私はいまの職場が好ましいです。化粧をせずにいても誰も苦言を漏らしません。私は前の職場が化粧をしなくてはならない環境だったために辞職しました。あれはとても哀しい出来事でした。
私には苦手なものがたくさんあります。人と会話をすることもそうですが、相手のお顔を見ながら話すことにも苦労します。相手のお顔のちょっとした変化に気をとられてしまうのです。目じりのシワ、口元の産毛、鼻の形状、眼球に浮いて見える毛細血管の赤さ、眉毛の付け根に浮いた油脂、化粧の粉、シミそばかす、唇と皮膚の境目とそこにできたヘルペスの白さ、そのニキビは治りかけなのか、それともこれから悪化してしまうのか、どうかゆびで潰さないでほしい。そういったことが会話とはべつに頭のなかに洪水のように流れてしまうのです。
お年を召した方々のお顔はむしろ落ち着きます。どこを見てもシワだらけで、それは私に情報処理不能の判断をくだします。匙を投げてしまえば、私はもう会話に集中できるのです。これは私の意識とは切り離されたところでくだされる判断なので、私にはどうしようもありません。
生理はみなさんが言うほど苦にはなりません。そういう体質みたいです。周期的にやってくるものはどちらかと言えば私を落ち着かせます。一般に生理周期は崩れることもあるそうなので、これまでそうした目に遭ったことのない身の上ですからまるでいずれ絶対にやってきますよ、とおどかしてくる大地震のようにいまからたいへん気が重たいです。もしも、を考えはじめるととたんに気が滅入ってしまうので、そうしたときには私はゆびでキツネをつくって、きゅわわわー、きゅわわわー、と鳴かせます。キツネはコンコンとは鳴きません。私はその愉快さを思いだし、滅入った気分を持ち直します。
祝日などの特別な日も苦手です。私はできるだけ毎日同じように過ごしていたいと望んでいます。そのほうが落ち着いて、モヤモヤを抱かずに過ごしていけます。
たとえば年末からお正月にかけては生きた心地がいたしません。
公共施設はのきなみ閉じていて、公共機関は混雑します。TVやラジオも――インターネットのなかですらどこも普段通りではなく、大事件でもあったかのように口を揃えて似たような話題を並べています。年末やお正月と耳にするだけで私は気が重くなってしまうのに、そんなに繰り返しささやかれてしまうと私はなんだかビルほどにも大きなお饅頭にゆびでつつかれ、この社会から追いだされているような錯覚に陥ります。
イジワルをされている気になるのですが、もちろんそういうつもりの方は一人もいらっしゃらないことは存じています。これは私に固有の問題であり、誰がわるいわけでもありません。
お正月の初売りなる行事も苦手かもしれません。いつもと同じような品ぞろえにしてほしいのに、特別に装飾された福袋や特売品に売り場は圧迫され、ただでさえ混雑するお店のなかが窮屈になります。私は人混みも苦手なのかもしれませんが、そもそも得意な方がいらっしゃるとは思っていないので、ことさら苦手である旨を明かしたりはいたしません。
私には親戚づきあいがありません。両親共に健在であり、稀に電話がかかってきますが、いっぽうてきに親族の近況を聞かされ、あなたもそろそろ落ち着いたらどうなの、と言われると顔をしかめたくもないのに顔の至る箇所にシワが寄るのがじぶんでも判ります。
落ち着いていないひとに落ち着けと言って落ち着けると思っている両親の考え方がまず以って落ち着きませんし、落ち着けと言われるたびにあたかも私が落ち着いていないのだ、と突きつけられているようで、これもまた落ち着きません。
私はおそらく落ち着いていない人間なのでしょう。でも私は私が独りきりでじぶんの時間を、周期を、保っていられるあいだに限り、落ち着いているように感じます。それがたとえ他人から見て落ち着いて映らなくとも、私にはそちらのほうが好ましく感じます。
私は感情の起伏に乏しいと評価されることがあります。しかし私は私自身を感情的だと思っており、何かとすぐに感情を乱し、それに振り回されるじぶん自身に困り果てています。
たとえば公共機関が、お正月運航に変更となると、なぜそんな真似をするのかと怒りに震えます。普段通りにしてほしいのです。余計な変化を加えてほしくはありません。もちろんお正月となると利用客が増えるので、そうした変更を行うのは、未然に問題発生を防ぐのに有効なのでしょう。解かってはおりますが、だったらそもそもお正月を廃止すればよい、と考えてしまうのです。もちろんこれは極端な考え方です。そうすることができない事情があるのもなんとなくですが想像できますし、かってな憶測ですが私以外の大部分の方々はお正月を好ましい行事として見做しているように思えます。
私は特定の宗教を信仰していません。強いて言うなれば空の奥には宇宙が広がっているのだ、程度の信仰は持ち合わせています。
ですから宇宙とは関係の乏しい正月飾りにも頓着はなく、私の住まう「アパートにしてはセキュリティのしっかりしているけれどもマンションと言うには質素な部屋」にももちろんお正月らしさは欠片もありません。
ですが私の右隣にお住いの道明寺さんは、門松を玄関に置き、アパートの住人に鏡餅を配って歩き、さらにはお手製のしめ縄をかってにドアノブにくくりつけていきます。分かります。そこに悪意はなく、善意でそれをしてくださっていることは理解できるのですが、私は私の生活圏に他人の干渉が及ぶのを好ましく感じませんし、どちらかと言えば気分が塞ぎます。
管理人さんに苦情を言えば、或いは道明寺さんも行き過ぎた厚意を改めてくださるのかもしれませんが、横着者の私はふだん会話をしない管理人さんに連絡をとるのも億劫で、気が重く、腰まで重くなってしまって、ついぞそのままに、お正月を迎えるたびに道明寺さんからの侵略を受け入れるはめになってしまうのです。
道明寺さんの名誉のために注釈を挿しておきますが、私が朝早くから好きな曲をかけても、道明寺さんは何も言ってきません。お世辞でも壁が厚いとは言えないアパートですからもちろん道明寺さんにとっては騒音に聴こえてもふしぎではありませんが、すくなくとも道明寺さんは私の習慣に苦言を呈してくることはないのです。私はもちろん道明寺さん――彼女はまだ学生さんらしいのですが、溌剌な彼女――を、苦手ではありますが、嫌ってはおりません。
道ですれ違えば、笑顔で挨拶をしてくださる姿には憧れにちかい感情を覚えます。私は上手に言葉を返すことができずに会釈をするだけになってしまい、そのことでしばらくじぶんの至らなさにクヨクヨしてしまうので、できれば彼女とは会いたくはないのですが、言うまでもなくそれは彼女がわるいわけではないのです。
「ミズキさん、ミズキさん」
玄関を開けていると、道明寺さんがとなりの玄関口から顔を覗かせました。ついさっきのことです。私は、はい、と向き直ります。
「お正月ってどうするんですか。わたし去年は実家に帰ったんですけど、ことしはこっちにいようと思って」
「はあ」
「もしミズキさんも残るなら時間あるときに鍋しませんか、鍋」
「お鍋ですか?」
「めっちゃいい肉仕入れたんで。あ、まだ手元にはないんですけど、手に入る予定なので」
「はあ」
「あ、ご迷惑でなければって話なんですけど」
私の反応が芳しくなかったからか、道明寺さんは萎縮しました。
「お正月もここにいます」私は言いました。「お鍋、いいですね。ご一緒してもよろしいんですか? お高いお肉ならもっと親しいひとたちと食べたほうがよい気がします」
「もっと親しいひとたちはなんか疲れちゃって」ミズキさんは笑っても目じりにシワができません。その代わり笑窪が空くので、私はそれに目がいくのを必死にじぶんで宥めながら、「毎日この時間帯は部屋にいますので」と明かします。「ご用があればいつでもインターホンを鳴らしてください。あまりきてほしくないときや手が離せないときには居留守を使いますので、そのときは申しわけありませんが、気をわるくしないでください」
「ぶは」道明寺さんは噴きだします。「そういうことをちゃんと言ってくれるひと、楽でいいなあ。あ、楽とか言っちゃった。すみません」
「いいえ。思ったことは言ってもらったほうが助かります」
「引き止めちゃってすいません。じゃ、また予定がついたら連絡します。当日にいきなりは迷惑ですもんねやっぱ」
「そうですね。戸惑ってしまいます」
なぜか道明寺さんの顔は真っ赤でした。それから彼女は扉をいちど閉じてから、思いついたようにまた顔を覗かせます。「毎朝いっつもいいなあって思ってて」
私は首を傾げ、先を促します。
「歌っす。朝に歌ってますよねいつも。すごくきれいな声だなって。布団にくるまりながらそれ聴いてると、きょうもがんばろってなって。あ、キモチワルイですよね。気にしないでくださいよ、言おうか迷ったけど、だって言っちゃったら歌うのやめられそうで嫌だったから、でもなんかミズキさんなら気にしないかなって」
こんなんだったらもっとはやくしゃべりかけてたらよかった。
彼女はぺこりとお辞儀をして、こんどは扉をぴっちりと閉めました。私はしばらく待ちましたが、彼女はもう現れませんでした。会話は終わったようです。
一方的に会話を終えてもらえるのは助かります。どうやったらおしまいにできるのかといつも決まって当惑するので、これくらい独りよがりにしゃべってもらい、用が終わったら去ってもらえるほうが胸に湧くモヤモヤを引きずらずに済みます。
私は部屋に戻ると、荷物を置き、手を洗い、それから手帳を開いて、そういえばまだ日程は決まっていないのだった、とモヤモヤを持て余しながら、それでも来年のお正月の欄に大きく「鍋」と書きこむのです。
【クチバシはとれない】
年に二回、頭の皿をはずす。ついでに甲羅もはずし、水かきも引っこめ、爪を切り、カツラを頭から被って、岩に抱きつき全身からまだら模様を消して、粘土色に変える。粘土色は黄色がかっていて、里の者たちの肌の色にちかづく。
肌の色で同族か否かを判断するなんて野蛮だと思うが、かといって、ではじぶんたちはどうかと言えば、肌の色どころか皿の有無や甲羅の有無で同族か否かを見極めるというのだから、ほとほと野蛮に違いない。
クチバシだけは最後まで身体に残る。簡単に取り払う真似ができないので、口元を隠すよりないのだが、さっこんは「ますく」なるものが人間たちの生活圏で流行っているので、むかしよりかは正体が露呈する心配がなくなった。
ひとむかし前には、人前ではらりと口元が顕わとなり、噂となって広がってしまった事例がある。それはあっという間に全国に広がってしまったのだが、その理由の最たるものは、口元を晒してしまった動揺からか、「私きれい?」と口走ってしまった愚か者のせいだとされている。
つまり、私のせいである。
「師範、準備できました。総勢十二名、擬態完了、いつでも出発できます」
「うむ。では参ろっか」
年長者が引率するのも、私の一件があってから義務付けられた規律の一つだ。本来ならばこうして集団で「下見遊山」へ行くことはなかった。一匹、一匹が単独で下山して人間たちの生活を観察してくるのが習わしだったのだが、さっこんの人間社会の著しい発展の模様とそれについていけない我ら一族の衰退ぶりに、さすがに長老たちも保身のかけ方を学びはじめた。
今年は総勢十二名、雄が八匹、雌が四匹の初陣だ。だいたい一匹あたり十回、言い換えれば五年をかけて人間社会に溶けこむ術を磨くのだが、その後「下見遊山」を終えてから人間社会に下って生活する者はほとんどいない。ときおり酔狂な者が人間になりきって里をあとにするが、そのときはクチバシを切り落とし、河童の膏薬にて人間の顔を形成してしまうので、正体がバレる心配はないはずだ。
皿がなければチカラを発揮できない。おそらく一定期間を経れば、河童の神通力――すなわち尻子玉を抜いたり、食べたり、腕が引っこ抜けたり、岩を持ちあげることもできなくなるはずだ。皿が乾くと弱るのは事実だが、死ぬまでには至らない。
私は初陣の子たちを河に浸からせ、一本の縄を掴ませると、振り落とされないようにと冗談を言って、彼ら彼女らを河の底へと引っ張りこむ。そのまま流れに乗って、下流へと運んでいく。
電車で言うところの駅のようなものが河のなかにある。人間たちが河へと築く下水口や水門がそれにあたる。大きなものであればまず間違いなく我ら一族の駅としての側面がある。
「人間たちに知られたら怖いですね」子の一人が言った。水のなかでも声は響く。陸とは異なり、線形の言語だ。人間には聞き取れない。
「怖いって何が」ほかの子が言った。おまえに言ったんじゃない、と言いたげに最初に発言した子が目を細め、ふたたび私のほうへ声を飛ばす。「人間たちに知られたら、待ち伏せされちゃうかもしれないじゃないですか。一網打尽ですよ一網打尽」
「それはあり得るね」私は首肯する。「一人残らず捕らえられてしまえば山に戻って危険を知らせる者もいなくなる。何かあったな、とまでは判るだろうけれど、それがどこで、なぜ起きたのかまでは知れないわけだから、ひとまず駅にまでは捜索しにくるかもしれない。そうしたら最後の一匹になるまで捕らえつづけられて私たちはおしまいだ」
「何か対策とかとってないんですか」
「とってないねえ」私は笑うが、子どもらは不服そうだ。私のうれしい気持ちはたぶん伝わっていない。長老などは人間かぶれした若い衆の発言には渋面を浮かべる者が多いが、私はこうして若い世代の子たちが人間社会のよい面から学び、それをじぶんたちの日常に活かそうとする姿勢は好ましいと感じている。一族の未来は明るい。
「対策をとらない理由も含め、まずはじぶんたちの目で見てくればいい。それでどうしても対策が必要に思えたら、きみたちがじぶんたちでそれをしてみるといい。そのときは私も手を貸すよ」
「何か理由があるわけですね」疑いの念は拭えないまでも、まずは納得してくれたみたいだ。「わたしたちのせいで人間たちと戦争になっても知りませんよ」と皮肉がつづくあたり、彼ら彼女らの偏見が見え隠れしてこそばゆい。それは裏返せば、子どもたちを育ててきた私たち世代が隠しきれずに滲ませてきた偏見でもある。
やがて駅が見えてくる。とくに印はないが、私たちにとって目を引く渦ができているので、間違って通り過ぎてしまうこともないだろう。黙っていてもおそらく我ら一族はそこに引き寄せられていく。
駅に近づいても、水からは上がらずにおく。下水口とはいえど雨水がほとんどでヘドロの臭いもきつくはない。洞窟のようにつづく穴の奥へと身を進めたら、光が届かなくなったところで浮上する。
「このさきで水を浴びてもらう。狭いから一人ずつな」
脇道に逸れると、水に浸かっていない道が現れる。そのさきはどんどん狭くなっており、やがて行き止まりに突きあたる。水道管が腸のように壁を埋め尽くしている。輪っか状の取っ手があり、それを回すと水道管から水が溢れでる。私たちはそこで身体をきれいにし、濡れたままの格好で、地上へとつづく階段をのぼる。
「師範、何か聞こえませんか」「人の声がするよ」「なんかたくさんいる気がするけど」「やだコワイ」
子どもらは身体をくっつけ合い、その場から動かなくなった。師範の指示とはいえ、不信感を抱けばじぶんたちの価値判断を優先する。私たちの世代になく、いまの若い世代に芽生えはじめている価値観だ。これも私には好ましく感じる。
「人はいる。大勢だ」私は言った。腰に手をあて、子どもらを見下ろす。「でもきょうが何の日か、きみら忘れていないかい。はいそこのきみ。きょうは何の日?」
ゆびを差された子がおずおずと応じた。「お正月?」
「正解」私はふたたび階段をのぼりだす。子どもらはまだその場を動かない。構わず歩を進め、数十段さきにある扉のまえに立つ。子どもらは一歩、一歩と距離を縮めてはいるが、不用意に近づいてはこない。すぐにでも逃げだせる用意をしている。利口な子たちだ。
「扉の向こうに人間たちが待ち構えているとでも?」私は扉を開け放つ。むわっとした熱気が顔をつつみこむ。光はなく、機械のぐおんぐおんとうねる音が空間を満たしている。その音を縫うように、奥から人々の喧騒が漏れて聞こえる。
「ボイラー室。ここでまずは服を乾かします。ほら、いつまでビビってんの。それともきょうはここまでにして帰る? そんな班はきみらが初めてだけど」
挑発するとさすがに聞き捨てならなかったのか、子どもらはむっとした顔つきを隠そうともせず階段をのぼり、私の脇を抜けて、ボイラー室に立った。「あったかーい」
「服はすぐ乾くからかってに行動しないでね。迷子になっても探したりしないから、そのときはここになんとか自力で戻ってくること」
「薄情すぎはしませんか?」
「一人のせいで全員が危険に晒されても同じことが言える?」
「それでも探そうとする努力はすべきだと思います」
意固地な目にねめつけられ私は折れた。「解かった。嘘を言った。おまえたちは山に戻すが、そのあとに私たちおとなが子を探す手はずになっている。ただそれに安心しきって、勝手をされては困るからすこし脅した。嘘を言ってわるかった」
「おとなはこういうところがズルイよなー」子どもらは鬼の首をとったように私を物笑いの種にした。
「さーてそろそろ服は乾いただろうから、そとに出るぞ」
「誤魔化したー」ようやく笑い声が戻ってきた。いい具合に緊張が解けたところで、私は説明をする。
「外は神社の境内だ。ここはお湯を沸かす場所で、まあ滅多にひとがこない。で、いまは正月で、きのう新年を迎えたばかりだから、参拝客がたくさんいる。いまは夜で、周囲は暗いし、みな浮かれているから滅多なことでは気づかれないし、たとえきみらがボロをだしても気のせいで済まされる。だからといって気は抜かないこと。祭りの外にはでないこと。見上げて提灯が見えないところにいたら、そこは外だからすぐに戻ること。迷子になったと思ったら迷わず、ここに戻ってくること。うえを見上げて一番屋根の高い建物がここだからどこにいてもまず見えるはず」
「攫われそうになったら?」
「お皿は置いてきただろ、というのは冗談で」子どもらはクスリともしない。私は咳払いをする。「そのときは諦めておとなしく捕まっておきなさい。抵抗しないこと。きょうのうちに戻ってこない子がいれば私たちおとなが絶対になんとかします。まあ、河童を攫おうだなんて物好きは現代にはいないから、もしそういうのに会ったらむしろ喜びなさい」
きっとよい友達になれるでしょう、と言い添えると、子どもらの顔に赤みが差す。人間たちへの不安もあるが、同じくらい期待もあるのだ。それは世代にかかわらず、いまもむかしも変わらないものに思えた。
私はいちど戸を開けてそとの様子を窺う。短い階段が地上へとつづいている。その奥は境内で灯籠が並んでおり、参拝客がごった返している。こちらを注目している者はない。いてもたいして気にしないだろう。ボイラー室に完備されているマスクを子どもらに配る。
「さ、ぞんぶんに勉強してこい」
送りだすと、その姿が祭りに消えるのを私は見届けた。
さてと。
祭りが終わるまでにはまだ時間がある。
以前にボイラー室に掲げておいた鏡を覗き、私は身なりを整える。水を浴びたが、やはり匂いは気になる。隠しておいた香水を身体に吹きつけ、それからマスクをし、私もそとに繰りだした。
境内ではなく、その裏側、拝殿ではなく本殿のほうへと歩を向ける。そちらには神主たちの住居があり、私はさらにその裏手に回った。
戸には赤い手ぬぐいが垂れている。目に留め、私はほっと息を吐く。今年も待っていてくれたようだ。
念のために戸を叩くと、しばらくして奥のほうから足音が近寄ってくる。せっかく用意した土産を置いてきてしまった、と思い至り焦ったが、言いわけを考える間もなく、戸が開き、見知った顔が出迎える。
「こんばんは先生。子どもたちは無事に祭りに?」
「無事でないことなんてある?」
「きみが引率だからどうかな。あるかもしれない」
「まっ」
寒かったろ、お疲れさま。
そう言って住居のなかに招き入れてくれるのはこの神社の三十七代目神主だ。祭りの管理は彼ではなく、ほかの者たちが担っている。そういう取り決めなのだ。彼らの血筋の者は、長年、我々一族との親交があり、「下見遊山」に協力してくれている。
私が引率者として初めて参加したとき、彼はまだ若く、神主としての威厳もなかった。いまも威厳があるのかと問われると困るが、まあなんというか、媚びを売っておいて損はない身分になってはいる。
「おや。煩悩を感じるな」
「はて、なんのことだろ」
廊下を進みながら彼は急に、さいきん親戚一同がうるさくてね、と言った。「そろそろ後継ぎがほしいのだそうだ。ところで話は変わるが、きみはまだこっちで暮らす決心はつかないのかな」
「それは私も私で言われているからね。あなたのほうこそ私の村にくる気はないの?」
「クチバシを生やせればそうしたいのも山々なのだけれどね」
「忘れてた、人間って不自由な生き物だった」
「そうなんだ。自由とは程遠い」
彼は私を寝室に連れて行く。目でいちおう非難してみせるけれども、私としても拒む理由はない。
「クチバシなんてなければいいと思ってる?」私はいじわるのつもりで言った。
「ぼくはこのスベスベが好きなんだ。なくならないと一緒になれないのは心苦しい」
「念のために確認しておくけど、あなたは神主だよね」
「いちおうはね」
「煩悩の匂いがする」
「そうなんだ。ぼくは煩悩の塊なんだ」
うっすらと壁の向こうから祭りの太鼓の音がする。私はそれを、彼の鼓動の音でかき消そうと試みる。
夜がこれから更けていく。
【着物とマスクと御神籤と】
祭りの日は着物と決まっている。そうでなくては祭りの意味がない。アズサはそれをこの世の真理と認めており、断じて異論は許さない。だが、アズサの信念を小馬鹿にする者もいて、放っておいてくれればよいのに、わざわざ姿を見にきては馬子にも衣装だと嘲笑う。
「何がそんなにおかしいの」
「だっておまえ、ふだんはズボンしか穿かないくせに」
「だったら何? あんたはふだんご飯しか食べなかったら一生パンを食べないわけ? バカみたい」
「パンも食ってるし」
「そういう意味じゃないし。ああもう嫌。しゃべりかけないで」
「そっちこそイチイチ反応すんなよな」
同じクラスになってからというもの、この坊主頭は何かにつけアズサにちょっかいをかけてくる。なまじ足が速く、顔もそんなにわるくはないから、クラスのほかの女子たちはこの坊主頭を持てはやすが、断じてアズサの好みではないし、それは恋愛対象としてはもちろんのこと人としてすら好きではない。
小学四年生にしては利発なほうだとアズサは自身を振り返る。家では祖母が話し相手だからしぜんと興味は俳句やお花や仏像鑑賞に向いていて、ときおり母が宝塚を観に行こう、と言って連れて行ってくれるので、歌劇にも詳しくなりつつある。
同い年の男の子は仕方がないとして、女の子とも話が合わないから、アズサはいつも歳上の子たちに交じって、サッカーや縄跳び、トランプをして遊んだ。そこでも話は合わなかったけれど、それはお互いさまであり、相手は歳下のアズサが話についてこられないことを承知で付き合ってくれるので理解をしようとする姿勢をそそぎあえるだけ楽だった。同じ歳の子たちといると、決まってじぶんばかりが損をしている気になった。
「それで同い年の子たちと仲良くできないんだねえ」祖母はコタツでぬくぬくしながらお茶をすする。
「それでってほどじゃないけど、だって損をしてる気になってるわたしのほうが餓鬼みたいでヤなんだもん。みみっちくいじけてるのがイヤ」
「いじけたっていいじゃないの。おばあちゃんなんて未だにオバケが怖いんだよ」
「わたしだって怖いもん」
ついつい張り合ってしまい、こういうのが嫌なの、とますますお腹の虫が暴れだす。ピンセットでつまんで放りだせないだろうか、と想像してなんとか爆発しないように制御するのだが、その発想そのものが幼稚に思えて入れ子状に腹が立つ。
「わたし子どもっぽい。ときどきすごくヤダと思う」
「アズサちゃんは貪欲だねえ。でも、じぶんの至らなさに気づいているのなら充分おとなだとおばあちゃんは思うよ」
それは物の道理が解かっているひとならでしょ、と溜息を吐く。「おばぁちゃんはそれでいいよ。だって物知りだもん」
「そうかいねえ。そうそう、ことしは着物どうする? おばあちゃん、アズサちゃんに着てほしいのがあって直してもらってね」
祖母はひとに相談をするという発想がない。いつも後出しですでに実行済みの計画を話されるのでアズサには拒否権がないのだが、それで損をしたことがないのだから文句を言う筋合いはないのかもしれない。
祖母が持ってきた着物は、元々は母のものだ。けれど母は忙しく、着付けるのに時間のかかる着物を好まず、けっきょくほとんど新品同然のそれをアズサが受け継ぐこととなる。
「似合う似合う。アズサちゃんは本当によく似合うねえ」
「孫びいきにもほどがある」
本心ではまんざらでもない。これほど着物の似合う小学四年生がこの世にいるだろうか。じつのところそう疑っているのだが、口にだしたら似合わなくなってしまいそうで、それは縁起とか魔法とかそういうことではなく、現実に似合わない人間になってしまうのと同じに思えて、なるべく言葉にはしないようにしている。ゾウはゾウであるかぎりゾウなのだ。わたしはゾウです、と言ったらもうそれはゾウではないゾウに似たナニカシラとなる。
大晦日が近づき、冬休みの宿題を片づけているあいだに気づくと年を越していた。従姉たちが受験でことしは親戚がこない。そのせいか例年よりも静かだが、慌ただしいのは変わらない。父は出張で家におらず、母は元日の朝から職場へと出勤した。
アズサは祖母とゆっくりお雑煮を食べ、あんこ餅を食べた。
「どうしてこれはお汁粉じゃなくて、おぜんざいなの?」
「どうしてだろうねえ」
「おばぁちゃんホントは知ってるのに知らないフリしたでしょ」
知ったかぶり、と指摘すると、
「そういうのは頬被りって言うんだよ」
祖母はやわらかく顔のしわを深くした。
夕方になってからアズサは、初詣に行ってきます、と家をでた。祖母はお留守番だが、お年玉とはべつにお小遣いをくれて、それでお土産に御神籤を引いてきて、と言った。毎年アズサが祖母の分も代わりに引く。
神社は、小学校の裏山の反対側にある。通学路を辿っても神社には着くが、なんだか特別な感じが薄れるのでわざと遠回りをして、いつもは通らない道を通っていく。こっちの道は猫が多いから好きだ。
境内は賑わっていた。
屋台がずらりと立ち並び、提灯が頭上に浮かんで、道案内をしてくれる。
着物のときはせかせかと歩幅が狭くなってしまうから、しぜんとじぶんが忍者になったかのような錯覚に陥る。
頭の中で何を買おうか計算する。まずは焼きそばでしょ、それからリンゴ飴でしょ、綿あめも食べなきゃだし、甘酒も飲んでおかなきゃいけない。
祖母からもらったお小遣いはもうきょうで使い切ってしまって、神さまにうんと媚びを売っておこう。
お賽銭はだから五円玉でいいよね。
いいよいいよ。
頭のなかで想像上の神さまと戯れていると、視線の向こうに嫌なものを見た。見て見ぬふりをしたかったのに、坊主頭がこっちにズカズカと近づいてくる。
「馬子にも衣装かと思ったら馬子にも衣装だな」
「悪口ですら質が低いってどういうこと?」
無視しようと思っていたのに、あまりの悪態のセンスのなさに反応してしまった。「あ、ごめん聞かなかったことにして。わたしとあんたは会わなかった。ここでも学校でも、生まれてこの方会ったためしはないのだから、赤の他人でいましょ、お互いのために」
「早口で何言ってっかわかんねえよ」
それは揶揄ではなく本当に解かっていないようだった。言い回しがすこしむつかしかったかもしれない。相手がアホウなだけなのに、まるでこちらが愚かみたいだ。腹の虫がムズムズしだしたので、ピンセット、ピンセット、と想像のつばさを羽ばたかせる。
「どいて、邪魔」
押し退けて進む。そこで坊主頭は何を思ったのか背後からアズサの髪の毛をむんずと掴んだ。束ねていた髪が解ける。簪を抜き取られたのだ。祖母がきれいに挿してくれたもので、アズサは簪そのものよりもむしろ祖母が整えてくれた髪型が崩されたことに猛烈に怒りがこみあげた。
怒りに震えているのに身体は動かない。
悔しさが限度を超えるとひとはかえって身動きがとれなくなる。アズサはそうと知ってますますやり場のない憤懣が募り、目頭が熱くなった。
「女はいいよなあ、泣けばいいと思ってんだから」
このときほどアズサはじぶんに超能力があれば、と思ったことはない。目のまえの坊主頭に簪を百万本突き刺して、お手製の門松にして神社の入口に飾ってやる。思うのに、いくら念じてもそんな現実は起こらない。
「こっちも取っちまえ」
坊主頭の手が着物の帯に伸びた。身体はやはり動かずに、顔の筋肉という筋肉が痙攣するのがじぶんでも判った。
そのときだ。
アズサの脇を抜けて、少年だろうか、おかっぱ頭の子どもが、目のまえの坊主頭の腕を振り払い、同時に足を払ってなぎ倒した。軽い所作に見えたのに、坊主頭のほうは大仰にすっころび、尻もちをついた。頭部を抱え、悶絶している。
突然の出来事にアズサは毒気を抜かれた。「だいじょうぶ? すごい音したけど」
「気にしなくていいよ」
行こ、と手を引いたのは、突然現れたおかっぱ少年だ。
少年はアズサと同じくらいの背丈で、なぜかこの冬空の下だというのにハーフパンツを穿いていた。上着も薄手の合羽じみているし、いまは日も暮れている。寒くないのだろうか。
横顔を窺うも、少年は大きなマスクをしていて目元しか見えない。いつまでも手を握られていて気まずいし、ずんずん境内の奥へと歩を進めていくので、段々怖くなってきた。
足を踏ん張ると、手が離れる。
「もういいよ、ありがとう」
「そ?」
少年は振り返り、首を傾げた。「なんだか助けてくれって言われた気がしたから。余計なお世話だったかな」
「どうせなら殺してくれたらよかったのに」
口にしてから物騒だな、と思い、人殺しにならなくてよかった、と言い添える。「ありがとう。助かったかも」
「それはよかった」
少年は見た目にそぐわず大人びた物言いをする。なんだか生意気に見えたが、それはじぶんも同じだろう、と思い直して、その点については不問に付す。
「どこ小のコ? そこのじゃないでしょ」裏山の向こうをゆびで示す。少年はまた小首を傾げて、まあうん、と歯切れわるく言った。話題を逸らすように、「それきれいだね」と着物を褒められ、アズサはその解かりやすさに陽気がこみあげるのを感じた。
「そうだよ、きれいなの。おばぁちゃんのなんだけどわたしのほうが似合うからって。わたしもそう思うんだけどもうちょっと渋くてもいい気がするんだよね」
言いながら、はっとする。
簪を返してもらうのを忘れていた。
背後を見遣って戻ろうとすると、手を掴まれる。いや、と振りほどくと手はあっさり離れた。代わりに、手のひらのうえに簪がある。少年が取り戻してくれていたのだ。
でもいつの間に?
「こういうのは得意なんだ」
「スリってこと?」
「スリ?」
きょとんとされて戸惑う。頬被りをしている素振りはないな、とアズサは祖母から習ったばかりの言葉を使って、推し量る。
なんだか妙に人間離れしている。訝しむといよいよ怪しくなってアズサは、屋台に並んでいる見知らぬ大人の裾を引き、ん?と振り向いた顔に、「このコの姿は視えますか」と訊いた。
「はい?」
「このコ、女の子と男の子どっちだと思いますか」伝わらないな、と思ったので質問を変えた。見知らぬ大人は目をぱちくりさせながらも、女の子かな、と眉間にシワを寄せた。声を聞かなければたしかに少年は女の子に見えなくもなかった。髪型のせいだ。
ありがとう、と言ってアズサは少年の背を押し、その場をあとにする。頭上の提灯の明かりのせいだろう、足元の影がいくつもある。
「神さまの遣いかと思ったけどそうじゃなかったみたい」
少年がそわそわしていたので説明した。ほかのひとに姿が見えていないのかと思って、と言って笑ってみせると、ようやく少年は胸を撫で下ろしたように、なあんだ、と目元をやわらげた。
けっこうかわいい顔してるのかも。
アズサがまじまじと顔を覗きこもうとしたとき、
「待てよおまえら」
うんざりする声が聞こえた。振り向くまでもない。このまま無視していよう。
そう思って、少年の手を引くも、少年はその場にとどまり、子分を引き連れやってきた坊主頭に向き直った。
何をするのかとその背を見詰めていると、少年はおもむろに耳元にゆびをかけ、その大きなマスクを半分だけはずした。アズサからは素顔が見えなかった。ちょうど屋台の明かりで逆光となっていたし、少年はこちらに背を向けていた。
だがあべこべに坊主頭たちは、こちらへ駆けていた足を土にめりこませて急停止すると、砂埃を巻きあげて踵を返した。ヒーッ、と情けない悲鳴だけがその場に残る。
なにあれ。
呆気にとられるよりも半ば噴きだしながら、なにしたのきみ、と少年の裾をちょいちょいと引く。少年はもういちどしっかりマスクをすると、なんでもないようにアズサを見て、さあなんだろ、と肩をすくめた。
その仕草が演技がかっていて、コイツはいい役者になるな、と他人事のように思いながらアズサは、祖母の御神籤を買っていないことを思いだし、ちょっと付き合ってよ、と少年の手を握り、雑踏の川を掻き分けていく。
【水神信仰】
風が身体の輪郭を撫でていた。じぶんの身体がどういうカタチをしているのかをジュジュヴァはこの世に産まれ落ちたその瞬間から承知していた。卵のようなものはなく、しかし明瞭と殻を破った感触だけが残っている。
産まれ落ちたのは海辺の崖の上だった。浜がすぐそこに見え、磯の匂いが妙に空腹を刺激する。身体のなかを満たさねばならないと欲するが、では何を口にすればよいのかの見当がつかない。
不快な苛立ちは内側から身体を蝕むようで、余計に怒りが込みあげる。
咆哮していると気づいたとき、ジュジュヴァはじぶんの身体が何倍にも膨らんだ気がした。頭上にはどこから現れたのか分厚い雲が天を覆いはじめており、間もなく石つぶてに似た重たい雨が降りだした。雷鳴がとどろき、眼下の海は荒れた。
ジュジュヴァはさらに不快になった。
身体を打ちつける雨はどちらかと言えば心地よかったが、それに比べて稲妻のこちらを威嚇するような音と光、崖を呑みこまんとのべつ幕なしに押し寄せる大波は、砕けるごとにジュジュヴァの身体を丸ごと濡らす。
意のままにならぬそれらが不快で不快で堪らない。
ジュジュヴァがそうして怒りを溜めこみ、咆哮にして爆発させるごとに、嵐はますますその勢力をつよめる。
昼と夜の区別もつかないほどに辺りは暗い。曇天は分厚く、陽の光も地上には届かない。
日差しのぬくもりが恋しかった。
ジュジュヴァは徐々に怒るのにも、咆哮するのにも疲れ、ただ波に濡れながら眠った。
深い深い眠りに落ちても空腹は紛れることはなく、身体がどんどん縮んでいく気がした。身体が冷えるのは嫌ではなかった。眠るのにはむしろ冷たいほうが心地よく感じた。
つぎにジュジュヴァが目覚めたとき、崖は無数の鳥で埋まっていた。白い鳥たちは各々に鳴き声をあげ、空を飛び、魚を捕まえてくると、巣のなかのヒナに分け与える。
いつの間にこんなに集まったのか。ジュジュヴァは自身が随分長いあいだ眠っていたとは考えなかった。
ジュジュヴァはそのとき初めて鳥を見たはずだったが、ふしぎとそれが鳥なる生き物だと理解できた。端から知っていたような既視感はどこか懐古の念に似ていた。
鳥は空を飛ぶ。
そこでジュジュヴァは、おや、と思った。
じぶんはなぜこの崖から動こうとしなかったのだろう。周囲を海に囲われている。だから動かなかったが、泳げないわけではなかろうし、だとすれば空だって飛べないわけもないだろう。
鳥にできてじぶんにできないことがあるとは思わなかった。
予感はほとんど確信めいていた。
ジュジュヴァはべりべりと崖の表層から身体を引き離す。鳥たちがいっせいに崖の上から飛び立ったが、ジュジュヴァは構わず、海へと身を投げだした。
水しぶきはない。
滑らかに海のなかへ馴染むと、ジュジュヴァは身をくねらせ、海面に一筋の影を伸ばした。
浜ではなく、沖へと向かったのにはさしたる理由はなかった。強いて言うなれば、できるだけ長く、遠く、泳いでいたいと思った。
ときおり海面から顔をだし、景色を窺う。空と波ばかりで、変わり映えがない。
海底は寝るのに良さそうではあったが、動き回るには物足りず、様々な生き物も見掛けたが、それらを口にしようとは思わなかった。
夜、月明かりにさざ波が煌めく。
海面に顔をだして泳いでいると、徐々に海とそらの境目が判らなくなった。ふと身体の表面がスースーと爽やかな刺激にくるまれたかと思うと、つぎの瞬間にはもう、ジュジュヴァは宙を舞っていた。海のなかと同じように身をくねらせ、飛翔する。
空はどこまでも深く、高く、そして希薄だった。
遠くに陸地が見えた。また元の地点に戻ってきてしまった。ジュジュヴァはそう思ったが、結論から言えばそれはほかの島国だ。ジュジュヴァが産まれ落ちたのは小島だったが、そこよりもずっと広大な陸地に辿り着いた。ジュジュヴァは飛翔したまま浜を抜け、陸地の上空を舞い、川を道のように辿って、やがて行き着いた山の麓に舞い降りた。
麓には森があり、湖があった。ジュジュヴァはそこをねぐらとした。
湖は濁っており、どちらかと言えば大きな沼といった様相だった。ジュジュヴァが居つくと水草が増え、その周囲を虫たちが飛び交い、それを食す魚たちが泳ぎ回り、いつの間にか水は澄んでいた。水が澄むとそれを飲みに獣たちが集まり、さらに森は賑やかになった。
ジュジュヴァは水底でとぐろを巻いて目をつむる。生き物たちの生の営みに耳を欹てる。海とは違った旋律があった。
空腹には慣れてしまった。身体のなかが希薄になる感覚はもうずいぶんとなくなったし、身体が縮まっていく感覚も治まっている。比較対象がないのでジュジュヴァ自身はそれを気のせいだと見做しているが、事実ジュジュヴァの身体はこの世に産まれ落ちたときに比べて二回りもちいさくなっていた。
食べなければ衰える。補わなければ減るのだ。
ジュジュヴァの身体にも世の理は浩然と流れているようだった。
どれほどそうしていただろう。
湖の底に居つき、眠りこけていると、ジュジュヴァは何か空腹を刺激する匂いのようなものを感じ取った。いまは水のなかにいるのだからそれは湖に溶けこんだ何かしらに思えたが、どうやらそれは湖のそとから漂ってくるようだ。
なぜ判るのかは定かではない。
ジュジュヴァにはそうとしか感じられず、それは予感よりもたしかなものに思われた。
水底に尾をつけたまま首を伸ばし、水のそとを覗く。
何か動くものが湖の周囲にあった。一つではない。いくつかの影が水に何かを放り入れ、そして魚たちを獲っている。
あれはなんだろう。初めて見る生き物だ。
ジュジュヴァはしばらく身を隠しながら、それらを観察した。それらは手足がすらりとして、二つ足で直立し、見たこともない形状の物体を操って、ほかの生き物を捕獲する。
ジュジュヴァはそれらをマウと呼ぶことにした。
マウは周期的に湖の周囲に現れた。近くに巣があるのだろう。魚を獲ってもすぐに食べることはなく、必ず持ち去った。
すこし興味が湧いた。気になって仕方なかった、と言ったほうが正確かもしれない。ジュジュヴァは夜、湖から抜けだすと、天に舞いあがり、森を一望した。
木々の途切れている区画が目に入る。以前はなかったはずだ。寝ているあいだにまたぞろできたのかもしれない。このときになってようやくジュジュヴァは起きているあいだに感じる時間の流れと、寝ているあいだに感じる時間の流れは違うのかもしれない、と思い至った。
木々の途切れている場所には、見たことのない形状の巣が密集していた。一目してそれを巣だと見抜けたのは、現にそこにマウが出入りしているからだ。
いくつかの木が組み合わさってできている。ジュジュヴァが体当たりすれば潰れてしまいそうなほど華奢だが、ほかの獣相手であればあの中にいるだけで身の安全を確保できるようにも思えた。
マウは何かが違う。
ほかの生き物たちとは違ったナニカを巣の形状からジュジュヴァは悟った。
マウへの関心はいよいよ揺るぎないものへと昇華した。
ジュジュヴァは毎夜、湖を抜けだして上空からマウたちの巣を眺めるようになった。曇りの日は昼間でも曇天の奥から見下ろした。雨や灰色の日にはマウたちは巣のそとにでなくなるので、退屈に思った。
この地の雨は寒くなると色がつき、冷たさを増す。地面に落ちてもすぐに消えることはなく、大地を灰色に染めた。ジュジュヴァはその期間を灰色の日と呼んだ。
湖の表面にも固い膜が張った。しかしジュジュヴァが毎夜そこを抜けだすので、いつも決まって朝には破けている。
ときおり、固い膜を残して抜けることがあり、そうすると湖にはぽっかりと穴が開いたようになる。ジュジュヴァはそれがなんとも気持ちがよく、なるべくその穴だけを通るようにしていたら、固い膜はますます固くなっていき、やがて湖は、ジュジュヴァの通る穴のほかはすっかり膜に覆われてしまった。
ある日、頭上が騒がしいと思い、日差しのある日中であるにも関わらず湖から顔を覗かせた。灰色の日がつづいていたのでマウたちも湖には寄りつかない。そのため油断していた。しかしマウたちは固い膜を足場にして湖のうえに立ち、そしていつまでも埋まることのないジュジュヴァの通り穴に何かしら蔓のようなものを垂らしていた。それはマウたちが魚を獲るときに使っていた道具だったが、ともかくとしてジュジュヴァはこのとき初めてマウたちを間近に見下ろした。
マウたちは一目散に駆けだした。何度も転げながら湖の上から脱し、森のなかへと逃げこんでいく。
ジュジュヴァはひどく胸のうちを爪で引っ掻き回された気分だったが、一匹だけまだ固い膜のうえに尻をつけ、こちらを見上げているマウがあった。
動けないようだ。
それは怪我をしているとか、元からそういう身体だったとか、そういうことではなさそうで、ただただ身体の動かし方を忘れているだけのようだった。
ときおり水を飲みにやってくる獣たちのなかにもそういった個体があった。ジュジュヴァは目のまえのマウもそれなのだと判断を逞しくし、ゆっくりとこうべを垂らして固い膜のうえに顎を載せた。鼻で息をしたら吹き飛ばしてしまいそうなので、呼吸は止めていた。
目のまえのマウはじりじりと後ずさったが、こちらが何もせずにじっとしていると、やがておっかなびっくり手を伸ばしてくる。
口のさきに触れた。
身体のなかを濁流が流れるのに似た衝撃が襲う。それはまさしく衝撃というほかなく、身体の中心に通った細く狭い管が、濁流によって押し広げられるのに似た感覚があった。
これまでずっとつきまとっていた倦怠感が消えた。慣れきってしまっていた空腹がカタチを帯びて、口から飛びだしていったかのような解放感がある。
全身の鱗が開くのが判った。
ジュジュヴァを襲った変化を、目のまえのマウもまた理解しているらしかった。マウの感情が伝わってくる。畏れ、興奮、安堵、敬意、さまざまな色彩の起伏がまるで遠くの景色を眺めるように知覚できた。そこに敵意はなく、相手もまたこちらの機微を理解している。
身を委ね、しばらくそうしていた。
マウの手のさきが名残惜しげに離れる。いままで触れられていた口元の鱗だけがくっきりと熱を持って感じられた。
湖を去っていくマウは、何度も途中、こちらを振り返った。ジュジュヴァは水底にすぐには潜らず、去っていくマウの姿がちいさくなるまで見守った。すっかり見えなくなってからいつもの寝床へと潜ったが、身体の芯に渦巻く温かさ、虹色に満たされた身体の奥底に衝き動かされるようにジュジュヴァは浮上し、湖から飛びだした。大空を舞う。
歓喜。
これを待っていた。
ずっと、ずっと欲していた、足りなかったのはこれだったのだと知った身体は止めようがなく、雲を突き抜け、さらに蹴散らす。
湖のうえから雲を一掃すると、気が済んだ。
寝床へと身を沈め、つぎはいつこれを味わえるだろう、と想像する。
また会いたい。
あのマウに。
想像は幾度も、あのときの光景を再現する。何度も何度も繰り返し見るうちに、どうしてもまたそれを体験したくなった。
会いに行こう。
つぎはこちらから。
湖面に水柱をあげ、マウの巣へと向かった。
*
その年、一匹の龍が村を襲った。
いちどは龍を撃退した村人たちだったが、その後、立てつづけに嵐に見舞われ、苦心の末、生贄として少年を差しだしたという。少年はみずから龍のもとへと旅立ったとも聞くが、これには諸説ある。
また、新年を迎えるごとにこの地では、家の玄関に「嫁迎」と書き初めを貼る。嫁でよければ嫁がせます、との意であり、暗に、家に息子はおりません、と示している。
神社には水神が祀られている。子宝と豊穣の神として知られるが、件の神の性別は不明だ。
冬になると湖には大小さまざまな穴が開く。水質のせいだと言われているが、穴の位置は日によって変わるため、いまでも水辺で見掛けたヘビは水龍の子孫として尊ばれている。
【異種間交流禁止条約】
この島に漂着してそろそろ一年が経過する。年越しを海外で過ごそうと思って、奮発してフェリーに乗ったのがそもそもの間違えだった。三十五にもなってようやく社内で班長の身分に昇級したもんだから、じぶんへのご褒美じゃないが、らしくもない海外旅行、それも豪華客船での旅に参加してしまった。
大晦日の二日前にフェリーは出港し、その三日後、すなわち元日の朝に沈没した。事故原因は大波だ。気候は安定していたので、海面を大きく波打たせる何かがあったとしか考えられない。ミサイルか、隕石か。沈没前に、夜空を横切る光の筋を見た気がしたが、覚束ない。
いずれにせよだいじなのは、そんな事故にあっても生き残り、この何もない島に漂流してノコノコと一年を生き永らえてしまった我が身の運のつよさだ。
「どちらかと言えば運がわるいのではないかな。いっそ死んでしまっていたほうが楽だったかもしれない」
それはそうなのだが、と俺は貝を割って中身を、ココナツの殻に放り込んでいく。「それでも俺は生きててよかったよ。おまえだってそうじゃないのか。なんだかんだ言っていまのほうがイキイキして見えるぞ」
画面越しに観てたころよりかはな、と揶揄すると、マコトは、ウソを言うな、と一蹴した。「ぼくのことなど知らなかったじゃないか。国民的アイドルの顔を知らない男と一年間無人島生活を送ったじぶんを褒めてやりたいな。言語が違うほうがまだ話し合える余地がある」
「たしかにおまえとはまるで話が噛みあわなかったが」
片や中年で、片や国民的大スターだ。話が合うわけがない。最初のひと月は最悪だった。俺たちの仲が最悪だったという意味でもあるし、俺たちの日々が最悪だったという意味でもある。
いつ救援がくるかも分からないから、と言って身だしなみに気を遣いつづける大スターさまは、貴重な刃物を無駄毛や髪形を整えるのに使い、手放そうとしないし、虫に噛まれたくないとの理由から食料の調達にでなければ、島の探索にも協力しない。
かってにしろ、と別々に行動したくとも、俺たちにはキキがいた。キキはまだいたいけな子どもで、三人目の漂流者だ。遭難のショックなのか、それとも元からなのか、キキはしゃべらず、またこちらの指示にも応じない。目を離すと、ふらっといなくなってしまうので、子守の者がいなければキキを抱えながら生活はできなかった。
キキの存在がかろうじて俺とマコトを結びつけていた。助けのくる気配は一向になく、マコトも段々と現実を受け入れはじめた。
いまではもうマコトを見て国民的大スターと思う者はいないだろう。髭は顔を覆い尽くし、すね毛は生え放題、下着はとっくに腐ってしまって、互いにいまはもう全裸にちかい。葉っぱを腰に巻くのは飽くまで森を出歩くときで、浜にでるときは全裸のままだ。人間というより獣にちかい。
だが俺たちは人間だから、キキを見捨てたりしないし、気に食わない相手とも協力して生き抜いていくことができる。
島を探検して判ったことがいくつかある。一つはこの島のどの海岸からも見える範囲に陸地はない点だ。また、島の中心部には大きな穴が開いており、水も溜まっていないことから、かなり深いと判る。蒸気が立ち昇るわけでもなく、たとえそこが火山口だとしてもマグマの活動は沈静化しているようだ。
キキがときおり森から妙なものを拾ってくる。
フェリーの漂流物がときおり浜に打ち上げられているからそれかとも思ったが、どうにも単なる人工物とは思えない。たとえば錆びることのない刃物。これは見た目はふつうのナイフなのだが、海水に浸けてもサビないし、どんなに固い岩盤でもサクサク切れてしまう。かと思うと誤って皮膚に触れてしまっても腕は無事で、それでいて獲物の肉はやはりサクサクと細切れにできる。
魔法としか言いようがない。
キキの拾ってくるものにはほかにも、置いておくと熱を蓄え、枝葉を発火させる黒い石や、海水に浸けておくと塩だけを吸着して結晶化させる四角い石など、さまざまな特性を持った鉱物があった。
最初は単なる宝石だと思って、放っておいた。紙幣であればまだ燃えるだけマシだが、宝石なんて無人島では貝殻よりも価値がない。そう思っていたが、それら石の特性をキキはじつに見事に見抜いて使いこなすものだから、俺やマコトはなんとかキキからそれらを奪い取ろうと虎視眈々とした。というのも、キキは俺たちに危害を加えようとしないし、とくに避けるわけでもないのだが、交流を図ろうとだけは絶対にしなかった。
頭を下げて、その石を貸してくれ、と言っても言葉がまず以って通じているのかが定かではなく、もし通じていたのだとすればキキは俺たちをこっぴどく無視していることになる。
キキのほうで俺たちを無視して得られる利はないのだから――よもや両親から中年とはしゃべるなと言いつけられていたわけでもあるまい――コミュニケーションそのものができないコなのだろうと判断し、心を鬼にして俺とマコトは二人してキキの気を引きながら、ときにはキキが寝入っているあいだに、お目当ての石を拝借した。
拝借したとは言ってもほとんど盗んだようなもので、それの便利さを知ってしまえば返す発想などはそもそもなかった。キキのほうで、石がないと騒がなかったのも返却しなかった理由の一つだ。
それとなくキキを見張って、いったいどこからあの石を拾ってきたのかを突きとめようとしたこともあったが、森のなかでのキキは神出鬼没で、幹にいっしゅん姿が隠れたかと思うと、あとはもうどれほど探しても、キキのほうから帰ってきてもらわないことにはその姿を視界に収める真似もできなかった。
無人島に季節はなかった。毎日温かく、夕方になるといちどスコールが降る。
念のために、浜に大きくSOSと木や石でかたどってみたが、それは船や飛行機ではなく、人工衛星の観測に頼った策だった。マコトはまだあと数年もすれば助けがくるかもしれない、と希望を捨てていないようだが、俺はもう一生このままだろう、と覚悟している。ただ、キキが生きているあいだにはひょっとしたら助けがくるかもしれない。その希望を捨てないためにも、できることはしておこうと考えていた。
漂流して半年のころだ。マコトが高熱をだした。何かしらの病原菌をもらったのだろう。熱にうなされるマコトはひどい下痢で、日に日に痩せ衰えていく。
看病ばかりもしていられない。食料をとらねばこちらがまいる。ねぐらを離れるときはキキにマコトの看病を任せた。
任せたとは言ってもキキはこちらの頼みを聞いてはくれないから、一応言い添えておくだけだが、こういうときはキキもマコトのそばにいつづける。
森には獣がいないわけではない。いちおう、ねぐらは木のうえにこしらえてあるが、それでも目をつけられれば、獣は襲いかかってくるだろう。毒蛇や毒虫がいないわけでもない。
もうダメかもしれない。
薬草の区別もつかず、精のつきそうな食べ物を口に運んでやることしかできずに、あとはただマコトの生命力よろしく免疫力に頼るしかなかったが、それももはや限界のようだ。マコトはついに水も飲めなくなってしまった。
こんなやつでもいなくなるのは癪だ。
寂しいとか、キキの子守を頼めるやつがいなくなるとか、そういったこととは別の感情があった。それに名前をつけようと試みたがうまくいかない。友情でもないし、もちろん恋愛感情なんてちんけなものでもなかった。それでも半身を失うような怖れを感じたのはたしかだ。
せめてきれいな顔のまま逝かせやろうと思い、マコトの顔にむした髭を剃ってやった。身体も拭い直して、さっぱりとさせてやると、気のせいかマコトはすこしだけ安らかな顔をした。
お別れだ。
見送ってやろうとも思ったが、こちらも体力が限界だった。彼は死んで楽になるが、こちらはそのあとも生きつづけなくてはならない。
申し訳ないとは思ったが、眠らせてもらう。文句があるなら生きかえってみやがれ。
思いながら寝付くと、翌朝、頬を叩かれた。何事かと飛び起きると、仏頂面のマコトが焼き魚を頬張っているところだった。
「最後の魚食べちゃったから新しいの獲ってきてよ」
「いやそれはいいがおまえ、身体は」
「なんか元気になった。寝すぎて腰イテえ。つうか人が寝てるあいだにかってに髭剃るなよ気に入ってたのに」
呆気にとられながら、ふとマコトの首筋に目がいく。髭を剃るときにつけてしまったのだろうか、丸く傷口ができていた。何か吸盤でも押しつけられたような跡がついている。
「それなんだ?」ゆび差すと、マコトは首筋を確認し、んだこりゃ、と顔をしかめながらも、「いやそっちにもついてんじゃん」とあごをしゃくった。
首筋に触れると、たしかにある。
何か虫に食われたのかもしれない。だがその因果がどうであれ、マコトは無事に息を吹き返し、以降、二人ともに病に倒れることはなくなった。キキの首筋にだけは吸盤に似た痕がなかったが、とくにふしぎには思わなかった。
樹の幹に引いてきた線の数がいよいよ三六五個になった。フェリーが沈没してその日のうちにこの島に漂着していたなら、ちょうど一年、きょうが元日ということになる。
見よう見まねでおせち料理を作ってみたが、そもそもおせちを作ったことがないのだから、贋作がいかほどに本物に近いかは推して知れよう。味はまあわるくはなかった。
軽く思い出話を語りあって、俺たちはそれぞれ床に就く。
まだ辺りは暗く、日の出には時間がある。
普段はとっくに寝ついているが、感傷的になってしまったのか、目がすっかり覚めてしまった。
月明かりの眩しさに安らぎを見出していると、もぞもぞと床を抜けだすキキの姿が目についた。かってな行動はいつものことだが、この時間帯に抜けだすのは記憶にあるかぎり初めてだ。
ねぐらから地上に降り、森のなかへと消えていくキキを、マコトを乱暴に起こしてから二人で追った。
「トイレだってきっと。もう放っておこうよ」
「そうもいかねぇだろ、キキはまだ幼い。夜はさすがに危険だ」
「じゃあもういっそ縛りつけとこうよ木にでもさあ」
マコトの薄情な小言を聞き流し、キキのあとを必死になって追った。見失わずに済んだのはさいわいだったが、追いつこうとしてもなぜか大人の足でも追いつけなかった。
「アイツ、なんであんなに夜目がきくんだ」
「昼間でもあんなに速くは歩けないよね。やっぱ変だよあのコ」
行き着いたのは島の中心部、巨大な穴だった。キキは躊躇なく穴のなかに身を投げたので、俺は焦って飛びだした。
穴はどの縁も崖のようになっている。落下したとしか思えない。
マコトと二人して青褪めていると、足元が妙に明るいことに気づく。
徐々に明るさは増し、穴のなかからやがて巨大な球体が現れた。
その光には見覚えがあった。海面の大きなうねりを思いだす。
気づくと、頭上からも光が垂れ、辺りは昼間よりも明るくまばゆい輝きにつつまれた。
キキ、キキ。
俺は叫んだが、ふしぎと声にならなかった。周囲から音が消えている。となりでマコトがしきりに口を開け閉めしているが、なんと言っているのかは分からない。
島の穴から浮上した球体は、上空の光に吸い込まれていき、間もなくしてロウソクの灯を吹き消すように、辺りがふっと、ふたたびの闇に覆われる。
「ありゃなんだ」声が戻ってきている。
「わからない、でもキキはもう」
マコトの視線を辿って、島の中心を見下ろす。そこには巨大な穴が開いていたはずだが、いまはただ青く月明かりを反射する湖があるばかりだ。
ねぐらに戻るころには海の向こうに朝陽が昇っていた。
「なあ、あれ」
その奥からいくつかの小さな陰が近づいてきては、島の上空に爆音を轟かす。それの側面には某国の軍隊を示す名が英語で連なっており、あとで気づくことになるが、ねぐらからは、例のふしぎな石はすべて消えていた。
「ハッピーニューイヤー」マコトが叫びながら、浜に着地した鉄の塊へと駆け寄っていく。俺は島を振り返り、そして上空を見上げる。空は青く、どこまでも澄み渡っている。
【シライさん】
そのひとは正月になると家にやってきて、正月の終わりと共に去っていく。
父が長男で、祖父母が家にいるというだけの理由で正月になると私の家には親戚がわらわら、どこにそんなに潜んでいたのか、と思うほど集まってくる。家にはだから客布団が押し入れを圧迫していて、その分収納できない家具や雑貨が廊下に溢れている。
「美術館みたいだね」「廊下が広くてうらやましい」「旅館が拓けるんじゃないか」
口々に親戚のおじさんやおばさんは言った。毎回耳にするお決まりの台詞だ。祖母や母、しまいには父までまんざらでもなさそうに、そんなことないわよ、うふふ、なんて気色わるく笑うのだ。ざんねんなことに私にも彼ら彼女らのうふふふが遺伝しており、私も同じように頬に笑窪をあけてしまう。
シライさんは男のひとで、背が高く、嫌でも目につく。
いつも親戚一同がすっかり集まってから、やあやあ遅れてすまないね、なんて言いながら団らんのなかに入ってくる。みんなも、遅いぞ、なんて言いながら招き入れるのだが、私はあるときから気づいてしまった。たぶん小学校にあがる前の年くらいのことだ。
「シライさん、シライさん」私はほかの子どもたちと同じようにシライさんにじゃれつく。「どうしてシライさんは誰とも似てないの」
私の家系は遺伝がつよいせいか、みな顔が似通っている。もちろん血筋ではない妻や夫を引き連れてくるひとたちもいるからみんながみんな似ているわけではない。だとしてもシライさんはいつも一人でくるので独身のようだし、食事が終わったあとはいつも大人の組ではなく子どもたちの組に交じって、遊んでいる。
誰かの弟さんなのかな、とも思ったけれど、父に訊いてもよくわからず、シライさんはシライさんだよ、と言われておしまいなのだ。
「誰とも似ていないかな」シライさんは私を肩車した。「まあ似させることもできたけれども、それはそれでなんかね。いちおうこの顔もじぶんでこしらえたんだけど、お気に召さないかい」
「じぶんでこしらえた?」
「こう、粘土をこねるみたいにね」
「うふふ、うふふ」
私は楽しくて仕方がなかった。シライさんは周りの大人みたいに小難しい言い方をしないし、その割に意味不明なことを、微妙にそこはかとなく解かりそうで解からない物言いでするので、おかしかった。
私はだから正月が好きだった。
シライさんに会えるから。
正月が終わってしばらくして、私は新品のランドセルを背負いながら、はたと思いついて母に言った。
「シライさんには言った?」
「誰さん? え、何を?」
「わたしが小学生になるって。シライさんにもホウコクしたほうがいいと思う」
「もうみんなからたくさんお祝いしてもらったでしょ」
シライさん以外の親戚からはそれぞれお祝いの品と手紙が届いている。ただシライさんからは一向に届かなかった。
それに、と母が眉を結ぶ。「シライさんってどなた?」
私は、うふふ、と笑ってみせたが、母が一向に眉間のしわをゆるめないので、私は怖くなって、なんでもない、とその場を去った。
それとなく父や祖父母にも、シライさんって正月にくるひといるでしょ、と訊いた。みな一様に、あのひとのことかな、と一応の名前をあげて写真を見せてくれるのだが、いずれもシライさんとは似ても似つかず、私は息を呑んだ。
正月に撮ったどの写真にも、集合写真にすらシライさんは映っていなかった。
勘違いしているだけだろう。私はじぶんに言い聞かせた。それはすんなり私に受け入れられたが、つぎの正月がやってきて、その幻想も打ち破られた。
「やあやあ、遅れてすまないね」
大人たちがほろ酔い気分になったところにシライさんはやってきた。
やっぱりいたじゃないか。
このひとだよ、このひと。
私は父や母、祖父母に対してやいのやいの言った。
「そりゃシライさんだもの、知っているよ」「なんて失礼なことを言うのだろうねこのコは」
すみませんねえ、などと言いながら母たちはシライさんに席を勧める。
私は横を通り過ぎていくシライさんを見上げる。シライさんは口元に指をあて、シー、とやった。
このひと何か隠してる!
信用してなるものか、と私はいきり立った。
大人たちがすっかりできあがって、食卓のうえにつまみばかりが載るようになると、シライさんは、よっこいしょ、と言って私たち子ども組の入り浸るコタツに入ってきた。
「トランプをして遊んでいたのかい」
「シライさんはダメ。知らないひとだから」
「そんなイジワル言いっこナシだよ。ぼくときみの仲じゃないか」
それはいったいどんな仲なのか。
怒り半分、こそばゆさ半分に私は、シライさんは何なの、とトランプを切った。ほかの子たちが私たちをぽかんと見つめている。
「何なのと言われてもね。シライさんはシライさんさ」
「お父さんとお母さん、おばあちゃんも、おじぃちゃんも、みんなシライさんのこと知らないって」
「そんなことないよ。おーい」シライさんは大人組みに手を振ると、みな愛想よく手を振り返す。母などは、何かおつまみ持ってきましょうか、と猫撫で声を発する。
いりません、ありがとうございます、のジェスチャーをしてシライさんはついでのようにこちらの頭を撫でた。
「ほらね」
「イヤっ」
頭を振ってシライさんの手を払う。「シライさんは親戚のひとじゃないと思う。だって写真にも映ってないもの」
「写真?」
「待ってて」
わたしはコタツから抜けでると、祖父母の部屋からアルバムを取ってくる。アルバムは紙に印刷されたもので、加工はできないはずだった。
「見て、いないでしょ」
「どれどれ」
アルバムを開いてみせると、シライさんは写真を覗きこみ、それからちょいちょいと私を手招きした。「見てごらん」
「なんでー!」
シライさんは映っていた。集合写真にばっちりと、父と肩を並べ、映っている。
そんなはずはない。映っているはずがないのだ。何度も確認したのだ。シライさんは映っていなかった。
「ズルしたんだ。絶対そう」
「そんなことはしていないのだけれども」
私がどんなに言い張ったところで、写真という揺るぎがたい証拠があっては勝ち目はなかった。私はしぶしぶじぶんの過失を認め、通りすがりの母に、ちゃんとごめんなさいしなね、と頭を小突かれ、やはりしぶしぶ謝罪した。
「誤解が解けてなによりだ」
シライさんは満足げに頷いたが、正月が過ぎてみるとアルバムからシライさんの姿は消え、そして家族の誰もシライさんのことを憶えてはいなかった。
私は小学校にあがってからは図書室に入り浸った。そこにある本を片っ端から読み漁って、知恵をつけた。とくに妖怪や超常現象について書かれた書物は、まるでそちらから見つけてほしいと言わんばかりに目についた。
私はつぎの正月を迎えるにあたって、一つの仮説を思いついた。
シライさんはぬらりひょんかもしれない。
ぬらりひょんは、家のひとが忙しくしているあいだに家のなかに入ってきて、何食わぬ顔でお茶をすすったり、お菓子を食べたりする。見えないわけではなく、ぬらりひょんを家のなかで目撃しても、みなはその家のひとだと思いこんでしまう。
シライさんそっくりではないか。
私はさらに研究を重ねた。
そしてまた一つの仮説を閃いてしまった。
ぬらりひょんと座敷童はそもそも同じものなのではないの?
座敷童もその姿が家人に目撃されることはない。これは何か関係がありそうだ。そうでなければ、ぬらりひょんと座敷童はどこかで鉢合わせしていておかしくはない。おまえなにやつ、と喧嘩になってもよさそうなのに、そういった話は一つもないのだ。
ならば、座敷童とぬらりひょんは同じ存在だと見做したほうが自然なのではないか。
私は小学二年生にしていよいよ頭角を現した。
半年後、年を越して新年を迎えた。
待ち構えていた私のまえに、シライさんはまたしれっと現れて、家族の団らんに加わる。私は母のメディア端末で動画を記録する。シライさんの姿は動画にばっちり映っているけれども、どうせこれも正月が明けたら消えてしまうに違いない。けれども、私が本当に「何かしら」を記録していた事実は残るはずだ。消えたのはシライさんであり、私が記憶違いを起こしている可能性をこれで消すことができる。
私はすくなくとも、たしかに正月のあいだ、目のまえにシライさんなる人物を捉えている。
いまさらながらじっくり観察して判ったことがある。
シライさんは毎年同じ服装に、同じ髪型、そして父や母と比べてまったく更けていない。このままいったら私はシライさんの年齢を追い越してしまうのではないか。シライさんを見下ろすじぶんを想像し、それはそれで見て見たい気もした。
例年通り、シライさんはひとしきりお腹を満たすと私たち子ども組みのコタツに潜りこんでくる。
「コタツはいいね。人類史上稀に見る発明だ」
「シライさん、シライさん」私はメディア端末をコタツの上に置いた。カメラは起動したままだ。それからみかんの皮を剥き、それをとなりの小さな子に分け与えながら口火を切った。「シライさんはぬらりひょんなんでしょ」
「疑問形ではないところに覚悟を感じるね」シライさんはほころびる。「そろそろ誤魔化せなくなってきたな、と思ってはいたけれども、いやはや。こうも真っ向から核心を突かれるとね」
「うちだけなの。ほかの家にもこういうことしてるの」
「どうだろうね。うん。お気に入りの家が偏ることはある。ここ数年はずっとこのお家だったからね。でもそれもそろそろ潮時かもしれない」
「わたしが見破っちゃったから?」
「ぼくにもそれちょうだい」シライさんは私からみかんを奪った。
「ぬらりひょんと座敷童は同じ?」私はじぶんの仮説を話して聞かせた。
「そこまで指摘されたのは初めてだな」
「福の神かもって思ったけど、うちはべつにそんなにお金持ちじゃないし」
「いやいや、それでもこのお家はだいぶ豊かだよ。至福に溢れている。ただ一つきみたちは誤解をしているね」
きみたち、と言われたからか、私のとなりの子が私に縋りつく。ひょっとしたらこの子もシライさんの奇妙な性質に気づいているのかもしれない。
「ぼくはたしかにきみたちとは違うし、いくつもの呼び方で呼ばれてはいる。きみの言うようにそう、ぬらりひょんだとか、座敷童だとか、福の神、ときには貧乏神とも言われるね」
「貧乏神なの」
「そういうふうに観測できる、という意味でしかないだろうけどね。ぼくらは何も運ばない。ただ、ぼくらが好む家はある。至福な家、豊かな家、笑いの絶えない家、温かそうな家――そういう場所にぼくらは引き寄せられる」
「シライさんのほかにもいるんだね。シライさんの家族?」
「ぼくに家族はいない。気づいたら生まれていたし、どうすべきかも知っていた。そういうものらしい。生き物であるのかもよくは分からない。正月以外の記憶がないんだ。ぼくらにはね。だからきっと存在そのものがほかの時間からは消えてしまっているのだと思う」
だから写真にも残らない。私はとたんに何か哀しい気持ちが芽生えているじぶんに気づいた。
「そんな顔をしなくとも。べつに死ぬわけじゃない。ただ、お別れになるかもしれない。さっきも言ったけれど、ぼくらは家に引き寄せられる。そしてその家が好ましくなくなれば離れて、またべつの家に身を寄せる。因果が逆なんだ。ぼくらが行くからしあわせになるわけじゃない。しあわせの溢れた家にぼくらが引き寄せられるというだけの話なんだ」
「だからいなくなったらその家はもうしあわせではないってこと?」
「そうとも言えるね。ただ、この家から離れるのはそれ以外の理由だね」
「わたしのせい?」
大きく骨ばった手が伸びてきて、私の頭を揺さぶる。「だとしたらもっとはやくに家を変えていたよ。そうだろ?」
この日を最後に、私はシライさんを見掛けることはなくなった。録画していた動画は案の定、虚空ばかりを追いかけており、最後のほうにだけこっそりと、私の頭を撫でる誰のものとも知らない手だけが映りこんでいる。
【足場は抜けて】
祝日に死刑が執行されることはない。年末の二十九から年始の三日も外される。だから俺が死ぬのは四日目だと想像がついた。
死刑執行日は、当日そのときになるまで死刑囚に知らされることはない。だがいまじゃ弁護士はだいたいの日時を予想できるし、望めばそれを教えてくれる。
最期の晩餐のメニューも考えておきたいし、もちろんそんなのは当日に言っても用意してくれるらしいが、やはり納得できる料理を食べたいものだ。
高級料理よりもこういうときはファーストフードのハンバーガーやポテトが食いたくなるのは、案外にどの死刑囚も同じなようだ。死刑囚の執筆した書籍や、それに関するテキストを読むが、やはり高級料理を頼む者は稀で、当人が収容前によく口にしていた食べ物を所望するようだ。母親の味噌汁なんて言ったアホウもいるようだが、冗談にしては上々だ。
あと一時間もしないうちに年を越える。最後の正月に突入というわけだ。
正月と言えば、思いだすのは初めて人を殺したときのことだ。あれは遊びの延長線だった。いまじゃなんと呼ばれているのかは知らないが、当時はおやじ狩りと世間からは形容されていた。金を持っていそうなサラリーマン――いまじゃビジネスパーソンと言わないとポリティカルコレクトネスとかなんとか非難の的に晒されるようだが、要は帰宅途中のおっさんに暴力を働いて、鬱憤を晴らしながらついでに財布もいただこうという遊びが流行っていた。
言うまでもなく極一部の若者にかぎった話だが――若者だけだったのかも俺は知らないが、殴りすぎたのがよくなかったのか、当たりどころがわるかったのか、俺の拳を喰らったおっさんがそのまま死んじまった。倒れたまま朝まで誰にも気づかれずに昏睡していたのが原因だが、きっかけは俺にあると言っても間違ってはいない。
そこで捕まっていれば俺もいまこうしてここにはいなかったのかもしれないが、さいわいにもというべきか、運わるくというべきか、俺はそのとき捕まらなかった。
殺人事件として報道されたが、いまほど監視カメラは街中にあったわけではなく、また凶器を使ったわけではないから、喧嘩慣れしていた俺が痛めた拳を医者に診てもらうこともなかったし、警察が俺の存在に気づくまでのあいだに、俺は同類の犯行を重ねていた。
人間、責められないと判ってからの拍車のかかりよう、ハメの外しようときたらない。俺はそれから十二人ものおっさんを殺したらしいが、俺にその感覚はなく、せいぜいが四人かそこらだ。憶えていないのだ。慣れれば人殺しも所詮その程度の日常の出来事に風化する。糞をするだとか、飯を食らうとか、もっと言えばマンガを読んで笑うくらいの刺激と大差ない。
いまでこそ俺はそれら十二人のおっさんが単なる「おっさん」ではなく、一人の人間であり、家族があり、友人がいて、未来があったことを知っている。教師、フリーター、銀行員、たしか俳優志望なんてのもいた。俺はそいつらの命を奪い、未来を奪ったが、すぐには足がつかなかった。
犯行の手口から同一犯との見立てはついていたらしいが、俺の元に警察がやってくるまでには時間がかかった。俺はとっくに逃げる準備をしていた。いくらなんでも捜査の手が伸びてくることくらいは予想していた。
だから警察が家の周りを張りこんでいると仲間づてに聞いたときから、俺の第二の人生がはじまった。
逃亡生活は思っていたより楽だった。指名手配されたが、報道は極力控えめで、それはそうだろう、警察はまんまと犯人に逃げられたうえに、凶悪犯が逃亡中なのだ、市民の抱く恐怖を考えれば控えめにならざるを得ない。警察の威信もあっただろう。報道管制を敷かれていたとみてまず間違いない。
市民の目はそれほど気にしなくてよかった。髪型も変えたし、服装の趣味も変えた。外を出歩く際はそのときまでいちども袖を通したことのなかったスーツを着たし、移動手段は自転車に限定した。ときおり電車にも乗ったが、通勤ラッシュの混雑した時間帯以外には駅に近づかなかった。
いっぽうで、旅館代わりに、家を転々とした。無人の家ばかりではない。
家人が少なければナイフで脅して拘束したし、多ければ隙を見て皆殺しにした。家の間取りとそのとき家にいる人数さえ事前に判っていれば悲鳴一つあげさせずに殺傷することはむつかしくはなかった。
まさか人殺しが家に侵入してくるとは誰も思っていないし、喉を裂けば、致命傷にならずとも悲鳴をあげることはできない。まずは喉、つぎは足、それからトドメを刺すのは後回しにして、つぎつぎに刺していく。
ちいさな子供は逃げるという発想がそもそもないので笑顔で近づけば、父親か母親の親戚か何かだろうとかってに信じて、ナイフを突き刺すまでその場を動こうともしない。それよりさらにちいさな赤子に至っては、ナイフを使うまでもなく、首を絞めると顔を真っ赤にしてすぐに死ぬ。首の骨を折ればいいのだが、さすがの俺もペットボトルの蓋を閉めるようにはいかなかった。あとになって、赤子というのは首を絞めたときの顔が真っ赤だからそういうのだな、と昔この国であったという口減らしを連想したが、それは収容所で本を読むようになってからのことで、もはやそのとき俺自身が何を感じていたのかは思いだしようもない。たぶん何も感じていなかったのだろう。でなければあんなふうに、人を雑草か何かのように排除したあとで、食卓のうえの飯を、焚きたての風呂を、衣服を頂戴し、なにより死体の転がるよこのベッドで熟睡などはできなかったはずだ。
捕まってしまえばなんてことはない。死刑は当然で、これを死刑にしなければいったい何を科せばいいのか、と俺自身、解釈に困る。
もちろん弁護士は死刑を回避すべくあらゆる手を尽くしてくれたが、俺には端からその発想がなかった。死刑で当然だ。何を言い逃れすることがあろう。
俺は人の命をなんとも思ってはいなかった。いまだってそうだ。だからもちろんこの命だってなんてことはない。殺されて当然だし、処分されて当然だ。それがこの国のルールだし、それが自然の摂理だ。
強者は弱者の命を握る。それに抗いたくば強者になるよりほかはない。或いは強者の役に立ってみせ、誠心誠意の命乞いをしてみせるのも一つだろうが、それだって突き詰めれば強者の意向しだいで、機嫌を損ねれば造作もなく命を摘まれる。俺のしたことと何が違うのか。
俺は間違ったことをしたかもしれないが、そもそも世界は間違っている。なぜ俺だけがその道理を曲げて、愚かにも正しい道を歩まねばならぬのか。
俺は負けたのだ。強者でありつづけることができなかった。だから死ぬのは惜しいが、それもまた然りだ。致し方ない。
したがって俺に殺されたやつらだって仕方なかったし、それはそれとして認めるべきだ。殺されて当然の命だったし、弱いじぶんが愚かだったのだと、じぶんを省みる真似をこそすれ、強者に対して恨みつらみを吐きつけるなんてはしたない姿は晒すもんじゃない。
俺は死を受け入れている。
死刑を、望んでいる。
俺は俺が殺されることで、ようやくじぶんの通ってきた道を肯定できるし、それによって世の愚鈍なやつらは認めざるを得なくなる。アイツのやってきたことは間違っていたが、それゆえにまっとうだったのだと。なぜならじぶんたちもまたその道を通り、肯定し、認め、俺の通ってきた道を以って俺という存在を殺すのだから。
じぶんたちもまた間違えるのだから。
世のなか、じぶんの過失を棚にあげて他人を責めてばかりのやつらが多すぎる。俺のように認めてしまえばいいのだ。
俺に足りなかったのは思慮じゃない。良心でもなければ、教養でもない。純粋にチカラだ。世の理不尽な暴力に抗うチカラが俺には足りなかった。
警察機構を相手取っても皆殺しにできるくらいのチカラが足りなかった。国家を敵に回してもねじふせるだけのチカラがなかった。だから俺はいまこうして最期の正月を満喫しながら、三日後の死刑を待ちわびている。
俺にとってそれは最期の日だが、俺の生きてきた道にとってははじまりの日だ。
死刑は俺にとって最良の肯定だ。俺はこの国という巨大な暴力によって命を奪われることで、ようやく俺自身の人生を歩みきれる。
弱者は死ぬしかない、というただそれしきの真理がこの世にはある。
だから俺は死ぬ。
強者でありつづけることのできなかった弱者として。
陽がのぼると、弁護士が面会にきた。そばにはなぜか普段はいない看守が四人もいて、俺は妙に思う。
「こんな朝早くからどうした。まさか死刑執行なんて言う気はないよな。最低でもまだ二日あるだろ」
「ざんねんだが、大臣が許可をだした。異例の執行だ。気休めでしかないがきみの名は歴史に残るぞ」
「おい、待て。法で決まってるだろうが、死刑は年始三日は執行できないはずじゃ」
「きみがそれを動かしたんだ。残忍極まるきみの犯行が」
俺は後ずさる。看守が俺におとなしくするよう言ったが、俺はそんなばかな、という思考に囚われ、畳にしがみつく。看守は四人がかりで俺を拘束すると、猿轡をはめ、廊下へと引きずりだした。
俺は俺の呻き声を他人事のように聞いた。
まだ二日あるはずだ。俺が死ぬのはきょうじゃない。きょうじゃないんだ。
なぜそんなに必死なのかも分からず、俺はただ何かが大きく狂ってしまった事実に愕然とした。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。俺はもっとちゃんとやれた、嬉々として笑って死んでいけたはずだ。
取り乱せば、取り乱すほど、じぶんの想像していた理想とかけ離れていき、ますます動揺した。
気づくと社長室に似たつくりの一室に連れてこられており、このメニューの中から好きなものを選んでください、と丁寧に説明を受けた。好きなものを言えば何でも食べさせてくれるのではなかったのか。メニューを開くと、それはどこのファミリーレストランにもあるような有り触れた料理名が並んでいた。
ぼうっとした思考で俺はしばらくそれを見詰めていたが、弁護士が、選んだほうがいいですよ、と言ってきたので、ハンバーグセットを指差した。
調理に時間がかかると思ってそれを注文したのだが、思っていたよりもすぐに運ばれてきた。時間の感覚がゆがんでいる。これを食べ終えたらすぐにやるのか、と訊ねると、食事の時間は三十分だ、と告げられた。
そんな短いとは聞かされていなかった。いや、これも今回に限った特例なのかもしれなかった。
「最期に何か言い残すことはありますか」
気づくと目隠しをされ、首に縄の感触がある。いつ部屋を移ったのかも記憶がない。顔面が濡れているが、じぶんが泣いているのかも判別がつかなかった。
「落とされても死なずにいれば俺は解放されるのか」そんな話をどこかで聞いた憶えがあった。
「落下すればまず首の骨が折れる」男の声が答えた。「そこで意識が飛ばなくとも、四十五分間はそのまま吊るされ、縄から下ろされても死亡診断がくだされる前に致死量の空気を注射される。そこで生きていればさらに薬物によって確実に息の根を止められる。生き残る確率はない」
わざと絶望を突きつけるように、逃避する余地すら失くすように、執拗に男は聞き取りやすい声で、ゆっくりとしゃべった。
「禁止されているが俺からも訊きたい。いまもまだおまえは反省していないのか。じぶんのしたことを悔いてはいないのか」
助け船を渡された気がした。
俺はそこでようやく気を取り直し、大声で笑った。
「ないな。俺は後悔していない。これからもしないし、する必要がない。おまえらは負けたんだ。負けたんだよ、俺を殺すことでな」
「かもしれない。が、おまえは死ぬ。いまからだ」
男の足音が遠ざかっていく。
待ってくれ。
口を衝いていた。俺はまた似たような悪態を吐いた。相手をわざと怒らせるような言葉を吐いたが、相手はもはやこちらに応答はしなかった。
扉の閉まる音がする。
ブザーが鳴る。
日時を誰かが口にしている。罪状が読みあげられる。俺の名を呼んでいる。
「死刑執行」
ふたたびブザーが鳴りひびく。
【エセ経済学】
「いいかい。まずは経済というものをお金の流れとして捉えたとき、お金は流れてさえいればそれが経済と言えてしまえる点を憶えておいてほしい」
「おじさん、おじさん。御託はいいからさ」
「まあ、待ちたまえ。解かっているよ、かわいい姪っ子の言うことだもの、つぎに何を言いたがっているのかくらいは百も承知だが、まずはおじさんの話を聞いておくれ」
「長くしないでね。退屈だって知ってるから」
「退屈を知っているのはいいね。そう、たとえば退屈には価値がない。何も生産していないから価値が生じないわけだが、お金だってただ右から左に流れているだけじゃ何も生みだしていないのは同じだよね」
「まあ、そうだね」
「でも右から左に、たとえばいまおじさんがかわいい姪っ子にお金をあげたとして」
「え、くれるの?」
「あげたとして、と言ったの。で、それをかわいい姪っ子が受け取るだけでも、ここに経済が発生する、と考えることもできる」
「くれるのか、くれないのかハッキリしてほしい」
「でね、ここからが重要なんだけれども、たとえばクリスマスやバレンタインではイベントがあるからその都度、ケーキやらチョコレートやらを人々が購入するだろ。その分、普段よりも出費が増えるから経済は潤う」
「まあそうかもしれないけど」
「じゃあたとえば、募金はどうだろう。寄付はどう? ただお金を、それを欲している人にあげても、物は消費されないし、何かを新しくつくったりもしないよね」
「でももらったお金で新しく物を買ったりできるよ。買ったものを材料にして何かをつくるかもだし」
「そうだね。そもそも募金をするときはたいがい災害があったり、事故があったり、何かしら損失があって、それを埋め合わせるために募るわけだから、消費されることが決定しているし、何かを生産することも決まっている」
「じゃあクリスマスとかバレンタインとかといっしょだね」
「いっしょだけど、微妙に異なるのは、募金をしたひとの手元には何も残らない、という点だ。ケーキを買ったらお金を失う分ケーキを得られるけれど、募金はただお金を失うだけだよね」
「でもそれで崩れた建物が直って、たくさんのひとが助かったら、回り回って得をするんじゃないの」
「相互扶助の精神だね。それも間違ってはいないけれども、経済の話としてはやや的を外している。というのも、基本的に経済には未来という概念が当てはまらない。いまどうなのか、という基準しかない。すくなくとも、お金の流れを経済と捉えるならそういうことになる」
「流れているか、流れていないかが問題ってこと?」
「そのとおりだね。だいぶ解かってきたじゃないか。その考え方で言うとだから、回り回って得をするのは未来におけるじぶんであって、そのときの経済ではない。そのときの経済が滞っていても、過去の影響で得をすることはあるかもしれないけれども、それは経済の潤いの高さとはまた別の指標だ。社会が発展したとしても経済が滞ることはあるし、経済が潤っても社会として貧しくなることもある」
「そんなことってある?」
「あるのさ。お金が流れているか流れていないかが経済の潤いの指標だからね。経済が発展するというのは、その流れが速くなったり、流れるお金の量が増えたり、細かくやりとりされるようになったりと、いくつかの基準で語れる。ただし、バブルみたいにただ数字の上だけでお金がやりとりされればいずれ弾けて大きな損失を社会に与えるし、価値のない紙クズみたいなお金が大量に出回っても社会はどん詰まりになっていく。お金が細かくやりとりされるのはよいけれど、細かくなりすぎてまとまった大きなお金が動かなくなると、やはり社会としては活気がなくなってしまう。経済の潤いの高さと、社会の豊かさは必ずしもイコールで結びつかない。ただし資本主義社会においては、社会を豊かにするにはその前段階として必ず経済を潤さなければならない、とも言える」
「ああそうなんだ、ってしか思わないけど、で、それが何」
「うん。つまりね。社会を豊かにする、という目的を掲げたとき、まずは何をおいても経済を潤さなければならない。言ってしまえば、お金の流れをつくればいい。これにはただお金を右から左に動かすだけでもいい」
「募金みたいに?」
「そのとおり。ほかには、新しくお金を刷って、国民に支給してもいいし、よその国から大きな借金をしたり、或いは敢えてお金を貸しても、それはそれで経済は潤うんだ」
「お金が流れるから? でもお金を借りたら返さなきゃならないし、貸しちゃったら手元からなくなっちゃうわけでしょ。損じゃん」
「社会的には損失かもしれないけれど、経済はそれで潤うんだよ。お金は流れていればいいんだから。最悪、利益がでなくとも、つぎつぎにバケツリレーみたいにお金が渡ってくれればいい。手元に残らなくてもいい。それでも経済は潤ったと言えるんだ」
「ヘンなの。それで社会が豊かにならなきゃ意味ないじゃん」
「言い換えるなら社会が豊かになれば文句はないってことだろ」
「そうだけど」
「たとえば借金をしたなら手元にはお金があるわけだから、価値を増やして返せばいい。そうするためには仕事をしなきゃいけないし、ないなら新しく仕事をつくるしかない。国はそうして借金をすることで事業を推進する理由をつくることができる」
「それって借金しなきゃできないことなの? お金を借りなくともじぶんでかってにやっちゃえばいいじゃん」
「んー、そうなんだけど、そうもいかないんだよね。たとえば森の生態系を考えてみてほしい。生態系が完成されていれば、大きな災害や自然破壊がないかぎりはなかなか変化が起きないよね。変化を起こそうとしても、そう簡単には起こせない。でもたとえば森に吹く風が弱まったり、もしくは強すぎたりしたら、植物は受粉ができなくなるかもしれないし、あべこべに普段よりも多くの種を遠くまで飛ばすかもしれない」
「風はこの場合、お金ってこと?」
「そう。花粉を媒介する円滑剤。お金。森の生態系に変化を起こすには、まずは風の流れを変える必要がある、そのためなら風が増えようが減ろうが関係ないんだ」
「でも風が吹かなくなって受粉できなくなったら森は枯れちゃうんじゃないの」
「そうとも限らない。風が吹かなければ花は普段よりも多くの花粉を蓄えていられるから、それを集めて糧とする虫たちも活動が活発になって、数が増える。そうすると虫たちを食べる小動物が増えて、その結果、小動物を食べる肉食獣が増えるようになる。肉食獣が増えれば草食動物が減っていくから、森の植物たちは食べられずに済むので――風の代わりに活発になった虫たちが受粉を手伝ってもくれるし――一年を通して、植物はより多く生えそろうことができる。うまくいけば、風が減ったほうが森が豊かになることもある」
「そううまくいくかなあ」
「いかないことももちろんあるけれど、飽くまでこれは比喩だから。仮にお金が減ったとしても、お金が流れてさえいれば経済は潤ったと言えるし、その結果社会も豊かになることもあるよ、という一例」
「まあわかったけど、やっぱりだから何、としか言いようがないんだけど」
「もうちょっとで終わるから我慢して聞いてほしい。募金の話に戻るけど」
「えぇまだつづくの」
「募金であっても借金ですら、お金が流れることで経済を潤す方向に働きかける。クリスマスやバレンタインと同じようにね。だから国や企業は、そういったイベントごとを率先して催すし、推奨する。もうこれは経済を潤すことを是としていれば、意図するにせよしないにせよ、しぜんとそういう方向に物事は動いてしまうと言ってもいいだろうね」
「わかった。おじさんはこう言いたいんでしょ。クリスマスもバレンタインも、お正月ですら国家をあげた陰謀だって」
「陰謀だと言うつもりはないけれど、経済活動の一環としてなくてはならないものだとの位置づけはされているだろうと考えてはいるね。かわいい姪っ子にお願いするけど、去年産まれた子どもの数を検索してみてほしい」
「えー、めんどい」
「そう言わずに」
「ちぇっ。んーっと、八十六万人だって。初の九十万人を割ったって話題になってる」
「じゃあ九十万で計算しておこうか。毎年九十万人が産まれるとして、たいがいは亡くならないで育つから、単純に六歳から十八歳までの子どもは、全国で九十万×十二で、千八十万人いるとしよう。一人あたり平均してお年玉を一万円もらえるとしても、千八十億円のお金が動くことになる。何も買わずとも、千八十億のお金が世のなかを動けば、経済は潤う。これは何かをつくって売り買いするよりも手軽に、かつ確実に経済にうねりを与えるきっかけになる。なくてはならない国家事業と言ってもいいだろうね」
「でも何もつくってないから社会は豊かになってないよ。経済は潤ったとしても」
「いいんだよそれで。ひとまずはね。年に何回か、全国的にいっせいにお金が動く機会がある。それだけで国は策を練りやすくなる。一例を挙げるなら、お金を下ろすのだってタダじゃない。いや、銀行でならタダで下ろせるだろうけれども、みながそこから下ろすばかりではないし、それに銀行にいってお金を下ろす、という行為そのものが一つの経済活動だ。銀行に人が行き来するという事実そのものが、銀行の社会的価値を担保する。だから国としてはそれだけでもメリットがある。お年玉だけじゃないよ、年賀状だって、一人平均十枚として、世のなかの半分のひとがだすだけでも、六十三円×十枚×六千万人は、えっとぉ」
「三百七十八億」
「単純にそれだけのお金が動くことになる」
「まあすごいよね」
「そうだろ。じっさいにはお年玉や年賀状だけでなく、おせちや正月飾り、ほかにも実家に帰ったりするのにかかる交通費や宿泊費、お正月ひとつとっても一大国家プロジェクトと言ってもいい。だからだろうね、失くしてしまえなんて口が裂けても言えないのさ、お偉いさん方はとくにね」
「んー。でもわたしは年賀状がなくなっても困んないし、どっちかと言ったらなくなってほしい風習だと思ってるけど、でもさっきの【風の話】じゃないけど、年賀状がなくなったらその分をどこかでまかなわきゃいけなくなるわけでしょ。そうしたらまた経済が大きく動いて、潤うってことで、それってプラスになるから、やっぱり年賀状はなくてもいいってことにならない?」
「なる。けれども、そこはやっぱり動く額が大きいから、徐々に変化していってほしいと思っているのが正直なところだろうね。お歳暮にしろ、お中元にしろ似たようなものさ。そうしたイベントがあるとお金が動く。経済が潤う。うまくいけば社会は発展するけれども、必ずしも発展するとは限らない。だからといってやめてしまえ、というのは軽率にすぎる。形骸化しても、つづける意味がないわけじゃないからね」
「クリスマスもバレンタインもじゃあみんなのためになってるんだ」
「さいきんじゃハロウィンやらお花見やら、よくよく考えるとやらなくてもいいものが何かの引力に惹きつけられるみたいに勢力を拡大していくよね。どう考えてもミクロに見たら割に合わないのに」
「オリンピックとか?」
「オリンピックは楽しみだけどね。どちらかと言えばパラリンピックのほうが興味あるけど」
「ふうん」
「ま、なんにせよ、経済にとって重要なのはお金が流れることであって、損益の多寡そのものはたいして重視すべき指標ではない」
「それは分かったけど、おじさん」
「なんだい、かわいい姪っ子ちゃん」
「わたしにお年玉はくれるの、くれないの、どっちなの」
「ぜんぜん解っていなかったようだね。さっきも言ったけれど、お金は流れてさえいればいいんだ。だからべつにぼくから姪っ子ちゃんにお年玉を渡さずとも、姪っ子ちゃんのほうでぼくにお年玉をくれてもよいのだよ。もっと言えば、姪っ子ちゃんにあげる予定のお年玉をソシャゲで溶かしてしまってなくなってしまったとしても、結果としてお金はちゃんと流れているのだから、これはもはや姪っ子ちゃんにお年玉をあげたことと事実上同じと言ってもよいのでは」
「このお餅。鼻に詰めこんでもいい?」
【福笑いの女】
十歳になるまで私は毎年、母に顔をつくってもらっていた。整形と言っても間違ってはいないが、正しくもない。誤解を生む余地があるので補足しておくと、元々私に顔はなく、ゆえに毎年の元日に、母に目や鼻、口や眉をつけてもらう。
正月の遊びに「福笑い」がある。あれと似たようなものだ。事実母は、ことしもやるよ、と腕まくりをしながら声をかけてきては、私の顔からパーツを落とし、ゆびでくねくねしてカタチを整えてからまた私の顔に戻してくれる。
母はそれをサイハイチと呼んだ。それが漢字で再配置と書くのだろうと当て推量がついてからも、私はそれをサイチと呼んだ。サイチは新しい私だ。毎年私は古い殻を脱ぎ捨ててサイチになる。
サイチの顔は、たしかに母にいじくられる前よりもおとなっぽく、顔の輪郭にしっくりときた。
写真で比べてみれば一目瞭然で、成長期まっただ中の私の顔は、一年でかなり歪んでしまうのだ。それを母が元日に直してくれる。
「どうしてこの日だけなの」私は母のなんちゃってお雑煮を食べている。狭いアパートの一室だ。「毎日サイチしてくれればいいのに。髪型みたいに」
母は私の髪の毛を三つ編みに結ってくれる。このときも保育園に預けるために食事をさせながら私の髪を結っていた。元日なのに母は毎年のように仕事に行っていた。
「だってママのチカラはつよくないのだもの。ママのおばあちゃん、要するにママのママのママは、ひとの顔もサイハイチできたみたいだけど。ママのママはじぶんのだけだったし、ママは一年に一回だけ。本当はね、いつでもいいんだけど、前回いつやったっけって忘れちゃうからきょうだけって決めたの」
「ママは弱いってこと?」
「そ。ママは弱いので、きょうだけです」
母のサイチは私を、いつもステキな私にしてくれた。
私は一年を通して、新しいサイチに馴染んでいく。幼少期はよかったけれど、小学校にあがってからは毎年のように転校を繰りかえした。そうでなければ私は毎年、学校でバケモノ扱いされていただろう。歳を明けると顔だけは別人になって登校してくるのだから。
単純な話として、私は元日を機に、一年の変化を一日で得る。しかもそこに母の手心が加わり、前よりも「いまふう」にしてくれるのだから、サイチ以前の私の顔に慣れ親しんでいた者ほど私の変化に戸惑うはずだ。
母は私にとびきりのうつくしいサイチを与えることもできたはずなのに、私の顔はいつもその時代にとっての「中の上」だった。
一目置かれる顔立ちではあるが、かといって注目の的になるほどでもない造形だ。
十歳になって初めてじぶんでサイチをつくる際にまず私がしたことは、これまでのあいだにコレクションしてきたお手製の「絶世の美女図鑑」を引っ張りだしてきて、そこからじぶんの輪郭に見合った顔を見つくろうことだった。
「じぶんのことだからじぶんで決めていいけど」母はちゃぶ台の向こうで紅茶の出涸らしをすする。「これはママからの助言だから聞かなくてもいいけど、でもあんまり整えすぎないほうがいいと思うよ」
「美人は飽きるから?」
「飽きるわけないでしょ。楽しいよ。じぶんだけならね」
「ほかのひとがいるとダメってこと? あ、モテちゃって困っちゃうみたいな」
「モテるだけならいいんだけどねえ」
「ひがまれちゃうとか?」
「それだって無視していればいいわけで」
「無視できない何かがあるってことだ」
「まあねえ」
「でもママが強引に止めてこないってことは、それほど危険じゃないってことでしょ」
「さあどうだろ。もうサイハイチに関してはあなたの自己責任だからママはいっさい関知しないだけかもよ」
「そうなの?」
「いちおう、そういうつもりではいるけれども、だからまあママからの助言」
聞くも聞かぬもお主しだいよ、と母は片眉をあげた。
私は母の助言を聞かなかった。
その年、私は執拗なストーカーを両手で数えきれないほど量産してしまい、ほとほと懲りた。ストーカーに性別は関係なかった。マスクが手放せなくなるなんて序の口で、しつこく付きまとわれるだけならまだしも、ネット上に個人情報を書かれるわ、悪口やひどい噂話で溢れるわ、盗み撮りの画像が出回るわ、挙句の果てに住所に脅迫状じみたラブレターまで入れられていた。こんなの、いつでもおまえをどうにかできるんだぞ、と言っているようなものではないか。
勘弁してほしくて、もうそんなわるい虫をつくりたくなかったから一年の大半を家のなかで過ごす羽目になった。外出はコワい。ひと目がコワい。
いったいアイドルたちはどんな心境でこれら目に晒されているのだろう。よほど安全に自信がなければコンビニに出掛けるのですら決死の覚悟ではないか。
「ね。言ったとおりでしょ」
「知ってたなら言ってよ。こんなにコワい目に遭うならこんな顔にはしなかった」
翌年の元日の日、私は顔面からパーツを落として、まっさらになる。あれほど憧れていた絶世の美しいサイチのはずだったのに、落としてしまうと本当に、本当に、ほっとした。
「言っても解からないものだから。まずは体験してみるのが一番かなって」
「私がストーカーにどうにかされてもよかったの」
「そうなる前に引っ越すよ。でも経験上、まだそこまでじゃなかったから」
私は何も言えなくなった。母の私への無関心さに飽きれたのではなく、母も私と同様の失敗を経ていたのだとようやくこのときになって思い至ったのだ。
「ママのときは本当に殺されそうになってね」
「ママのママは教えてくれなかったの?」
「ママのママはもうそのときに死んじゃってたから。ママはほら、ママのおばあちゃんに育ててもらったでしょ。でもおばあちゃんはママよりもずっとサイハイチが上手で、いつでもできたから、私のこともじぶんでどうにかできると思っていたみたい。でもママは年に一度しかサイハイチできなかったし、おばあちゃんは厳しいひとだったから、相談するのが遅れちゃったの」
「じゃあやっぱりママにつくってもらったほうがいいってことでしょ。無難なのにする。ママやって」
「ダメ。あなたがじぶんで選ぶことに意味があるの。相談には乗るけど、決めるのはちゃんとじぶんでなさい。ほら、また来年あるんだからすこし冒険してみたっていいんだから。どんな顔になってみたい? 楽しむのが一番だよ。ちやほやされるのではなくてね」
「ちやほやされたかったわけじゃないもん」
言いながらも、なぜじぶんが絶世の美女に拘ったのかをずばりコレと言葉で示すのはむつかしかった。
母に手伝ってもらいながら、どうすれば整いすぎずに、それでいてかわいらしく、じぶんらしい顔にサイチできるのかを考えた。
「かわいいイコール整っている、ではないからね。まずはそこのところを勘違いしないように」
「でも歪んでるのはかわいくない気がする」
「そう。まずはそれが気のせいだってことに気づくのがだいじ。かわいくない気がするってだけだって」
「でもじぶんの娘がこんなだったらママは嫌でしょ」
私はわざとらしく、ぐにゃぐにゃに目と鼻と口をくっつける。
「んー。嫌か嫌かでないかで言えば嫌かな」
「ほらー」
「でもそれは、あなたがそれを嫌だと思っているって判ってしまうから。だから同じように、いくら美しく整っていても、あなたが嫌だと思うならそれは嫌だよ」
母の言うとおり、私はもうどんなに美しい顔でも、それをじぶんのサイチにしようとは思わなかった。
「じゃあどんなのがいいの」
「ホクロはほしい? 目は垂れていたほうがいいの、それとも鋭いほうがいい? 左右対称にすればするほど美しく整って見えるけれども、かわいらしさはむしろ、整っていないところに宿るものだとママは睨んでいるよ」
「睨んでるだけでしょ。それも気のせいかもしれないし」
「そのとおり。かわいらしさなんてその程度のものだよ。でもだからこそ、どうとでもできる。きょういちにち、ぞんぶんに悩むがよい」
母は何度も私のリテイクに付き合ってくれた。元日であれば私は何度もサイチをつくり直せた。
日付が変わるころに私はようやくお気に入りのサイチを決めた。お気に入りだから決めたのではなく、私がそれにしたから、それがお気に入りになったのだ。
「けっこう最初のうちに並べた顔だね。どうしてこれにしたの」訊いておきながら母は、「あ、やっぱり言わなくていい。理由なんてたいしたことないんだから。まずは一年過ごしてみて、選んだお顔がじぶんに本当にしっくりくるかを探ってみるとよいかもね」
「ママは新しいサイチにしないの」母は毎年同じ顔だった。サイチしている姿を見たこともない。だから必然、母の顔はシワが増えこそすれ、目鼻立ちはそのままで、年齢の割に若々しい。
「ママはもういいの。お気に入りに出会ってしまったから」
「ふうん」
私は何も知らずに、暢気に新しいじぶんのサイチを手鏡で何度もたしかめていた。
母は私が二十歳になるまで、毎年のように私のサイチに付き合ってくれた。私は年々、徐々にサイチの変動具合がすくなくなっていき、それはたいがいは成長期が終わったことに起因するのだけれども、それを抜きにしても、じぶんの顔というものが毎回同じサイチに行き着くようになっていった。
目をつむってもじぶんの顔が判る。
母は言う。ほかの多くのひとたちはじつのところじぶんの顔を憶えていないのだと。サイチによって細部までつくりこむ私たちだからこそ、ひとよりもじぶんの顔の造形を細かく記憶している。
それによって何か得をしているのかと問われると困るし、現に私が問うと母はしかめ面をして、とくにないね、と言った。
「サイハイチできてよかったことはそんなに多くはないけれど、ただ、じぶんの娘にほかのひとたちよりも一つだけ選択肢を多く用意してあげられたのは素直によかったな、と思うよ」
私が二十歳になると母はもう、私の顔をサイチしてくれなくなった。
そうなのだ。
私には、サイチの能力が受け継がれていなかった。
母はじぶんに使うはずのサイチを、私にずっと譲ってくれていたのだ。
私の顔の輪郭が定まるまで、私がじぶんでじぶんのサイチを過不足なく、不満なく、一生の顔を選べるようになるまで。
母は辛抱強く付き合ってくれていた。
私のいまの顔は、どこにでもありそうな、これといって特徴のない、人とすれ違っても二度見されることもなければ、目を反らされることのない顔立ちだ。ひとによっては好ましく感じるだろうし、ひとによってはブサイクと言うかもしれない。
でも私はいまの私が好きだし、この顔が好きだ。十歳から十年をかけてすこしずつつくってきた顔なのだ。
私の素顔は、本当を言えばまっさらで、のっぺらぼうで、何もない。顔の輪郭ばかりが私の持ち物で、ほかのパーツは寄せ集めの、付けあわせだ。添え物でしかなく、私はたぶん、一般的には偽物なのかもしれない。
でも、本物であるよりも、私はいまの私が好きなのだ。
母はいまでは、毎年のようにじぶんの顔をサイチにしている。まったくの別人の顔をして遊んでいるのは、母がインターネット上に仕事の場を移したからだ。
「いまのコたちはいいよねえ。こうやって家にいながら、メイクしているだけでお金になるんだから」
絶世の美女であっても家から出なければ問題はない。そして母は、その年齢の割にすばらしく美しく整った顔に、さらなる美を上乗せすべく、メイクキャップアーティストとしてその名を世間に轟かせている。
「前の顔、気に入ってたんじゃなかったの」
「気に入ってたし、気に入ってるよ。でも、やっぱり飽きちゃうでしょ」
「顔変えすぎて人格まで変わっちゃわない」
「ふつうの人ならそういうこともあるのかもね。でもママは目をつぶれば、いまでもママの顔を思いだせるから。こんな仮面をしていても、ママの顔はママのものだよ」
母の言うとおり、私は母の新しいサイチを見ても、いままでどおりの母の顔を連想する。
いまでは元日になれば私が母の顔で、福笑いをする。それはちょっと遊びすぎ、なんて怒られながら、私は母の目鼻や口をいじくるのだ。
【竹取、跡を濁さず】
門松ってじつは見たことないんですよねえ。
ツルベがカップラーメンをすするので汁がコタツのうえに散った。きたねぇなあ、と野次を飛ばし、脱ぎ捨ててあった靴下でそれを拭く。眠いしあんま会話したくねぇなあと思うものの、泊めてもらっている引け目もあり、門松がなんだって、と仕方なく繋ぎ穂を添える。
「門松ですよ門松。あるじゃないですか。ほら、正月に玄関に飾るやつ」
「あー、あの竹の」
「そうあれです。正月と言えばコレ、みたいな感じなのにじっさい玄関に飾ってる家とかなくないですか」
「んー。マンションに飾ってあるイメージはあるな。あと神社」
「個人宅ではなくないですか」
「だって邪魔じゃん。道路にだしっぱなしだと危ないし。年賀状とか配達してくれるひととかたいへんっしょ」
「あー」
ツルベはカップラーメンを食べ終えたのかコタツに腰まで身体を突っこんだまま寝っころぶ。そのままメディア端末の画面に目を落とし、読みかけだったのだろう、漫画を読みはじめた。
「いや片付けろよ」汁だけになったカップラーメンを手で引き寄せる。「コタツ揺れたら溢すぞ。つーか言おうか言わまいか迷ってたけどな」
「なんです」うるさそうな声だ。
「汚ねぇんだよおまえの部屋。もっと掃除しろよ、大掃除しろよ、大晦日だぞいま」
「いやでもここぼくの部屋ですし、先輩そんな言うならどうぞお引き取りを」
「泊まるよ、泊まらせていただきますけれども」
それにしてもさあ。
コタツから抜けでて、カップラーメンの残骸を流し台のなかにぶちまける。家主を振り返る。改めて部屋を見渡す。
散らかった衣服がまず目に飛び込んでくる。足の踏み場もない。食品から雑貨の包装紙がそのまま投げだされており、カラの食器から、食品が載ったままの食器まで、ゴミの草原に彩りを与えている。ペットボトル飲料のすくなからずは変色しており、蓋がしてあるにも拘わらずカビの巣となり果てている。
「たしかにここはツルベくんの部屋だからきみはそのままでいい」その口調気持ちわるいですね、と憎まれ口を叩かれるが意に介さず。「泊めてもらった恩返しをしたいので掃除していいか」
「いまからですか」
「いまからだ」
「でももう年越しますよ。あしたでもよくないですかあしたでも」
「ここで寝てすごせと? 年を越せと? こんなゴミ屋敷で?」
「えー、そんな汚いですか。ふつうだと思いますけど」
「家畜小屋のほうがマシに思える。あ、いや、もちろん泊めてもらえるのはありがたいよそりゃもうもちろん」
「先輩がそうしたいのなら止めませんけど。えー、いまからですか」
明らかに迷惑そうな声だ。ツルベは未だメディア端末の画面から目を逸らそうとしないので表情は読めない。
「じっとしてていいよ、かってにやるから」
「そうですか? じゃ、いちおう服関係は捨てるときは確認してくれるとうれしいです」
「服は汚れ物だと判断しても捨てずにまとめておくからあとでじぶんで洗濯するなり、なんなりしてくれ」
「意外ですよ、先輩がきれい好きだったなんて」
おまえが汚すぎるんだ。
反論を呑みこみ、こっちこそ意外だよ、と口にする。「よもやサークル一のモテ男の自室がこんなジャングルだったとは。女の子とか連れてくるときどうしてんだよ。や、連れ込めるレベルじゃねえからホテルだってのは分かってんだが」
「行きませんよ」
「またまたー」
まずは食器から片してしまおう。流し台のまえに立ち、溜まった食器を洗う。百均の食器が大半だ。
居間に戻り、床に置きっぱなしの食器を拾い集める。
「床ベトベトやないか」
「なんか溢しましたっけ」
「や、湿気だなこれは。埃なのかカビなのかの区別もつかん」
ツルベはメディア端末を手放し、上半身を起こす。部屋をきょろきょろ見渡すので、飲み物ならここだ、と言ってカビていない比較的新しそうなペットボトルを投げてやる。あ、どうも、と受け取るとツルベはにこりともせずに、蓋をあけた。ためらいなく口に含む。
せめて匂いを嗅ぐとかしたほうがよくない?
思いつつも、いつものことなのだろうなあ、と普段の生活を想像する。いったいどんな家で育ったのか。
「訊きにくかったのでいまさらなんですけど」ツルベはすっかり飲み干して、カラのペットボトルを床に置く。
「飲んだらすぐ片づける」
叱るでもなくつぶやくと、ツルベはおとなしくペットボトルをキッチンのほうへと転がした。
「おい」
「先輩、ここはぼくの部屋です」
「さいでした。すまんね、かってに大掃除させてもらっちゃって」
やあ、たのしいなあ。
おどけていると、ツルベは床を指差し、そこも汚れてますよ、と拭き掃除をはじめたこちらに指示をだす。これがマンガならこちらのひたいに青筋が浮かんでいるところだ。
「先輩の家はきれいなんですか?」
「ここよりかはな」
「でもじゃあなんでいま、年越しあと五分に迫った時間にこんな家畜小屋以下の部屋にいるんでしょうねえ」
「それは聞かねえ約束だろ」
「理由は訊かずに泊めてくれって言われただけで、べつに約束はしていませんよ。で、なんでなんですか。彼女さんに追いだされたとか?」
「同棲してたわけじゃないし、あの家はむしろこっち名義だ」
「あ、なんだやっぱり痴話喧嘩なんじゃないですか」
黙々と手を動かす。触れられたくない話題なのにはわけがあるが、もちろんそれを口にするつもりはない。
「まあいいですけどね。先輩の彼女さんが誰で、どんなひとで、どんなに美しくともぼくには関係がないですから」
「よしと。だいぶ片付いてきたな」
「あれ、きれいになってるの先輩が寝るとこだけじゃないですか。ひょっとしてもうおしまいですか」
「新年までもう三十秒もねぇだろうが。掃除しながら越したくはねえよ」
「まあいいですけど」
「あしたまとめて掃除してやっからきょうはもう飲もうぜ」
片付けているあいだに見つけた、まだ飲めそうな一升瓶を引き寄せる。コタツに足を突っこみ、洗ったばかりのカップに注ぐ。
「あ、ぼくにもください」
「どうぞ。元はおめぇのだ」
「ん。これ、あれですよ。先輩のお別れ会のときにみんなで飲んだやつ」
「初耳なんだが。なんで俺のお別れ会で俺がそこに呼ばれてねえんだよ」
「だって先輩呼んでもこないじゃないですか」
「まあ行かなかっただろうが」
「でも一応、みんな惜しんではいたわけですよ。あ、これ美味しいですね。さすがは先輩のお別れ会で奮発しただけのことはある」
「奮発すんなよ、ぜんぜん惜しんでねえじゃんお別れ。清々してんじゃねえよ、打ちあげてんじゃねえよ。てかマジ美味いなコレ、いくらした」
「みんなで出し合って買ったんで、けっこう高かったですよ」
「ツマミねえのツマミ」
「買ってきます? お金くれるならぼくコンビニ行ってきますけど」
「金とんのかよ」
「ここぼくの家なんですけど」
「おまえそれ言ったらなんでも許されると思うなよ」
じっと見つめられ、いまは頭があがらないのだと思い知らされる。
「わあったよ。そんかし俺も行くぞ。おまえのツマミのセレクトはおかしいんだよ。ツマミにチョコパイ買ってこられても困んだよ」
「どうして判ったんですか、まさに買ってこようかと」
「ほらみろ。そうだろ。おまえはそういうやつだ」
つうか年越してんじゃん。くだらねえ話で新年迎えちまった。
上着を着込み、さっそく部屋のそとに出る。骨だけの階段を下りる。足音が響く。空気が澄んでいる。雪が積もっており、道路は一面灰色だ。
コンビニまで歩く。十五分の距離だ。
「ホントにないな」
「ない?」
「門松。どの家のまえにもないのな」
「まだだすには早いだけじゃないですか。だっていま、年明けて十分経ってないですよ」
「それもそうか」
見れば、正月飾りもでていないし、たしかに飾るなら日が昇ってからな気もした。
コンビニでたんまりと菓子と酒、それからあすの朝食を買いあさる。店内はこの時間でも繁盛していた。恋人同士だろうか、男女の組み合わせが多く、微笑ましいかぎりだ。クリスマスはもう終わりましたよ、と親切に声をかけて回りたくもなる。
「あしたはどうするんですか」
外に出ると、後輩がポケットに手を突っこんで待っていた。荷物はすべてこちらが預かっている。けっこうな重量だ。部屋まで腕が保つだろうか。
寒さとは関係なくぷるぷる震えながら、あしたもいたら迷惑だよな、と返す。
「迷惑ではないですけど、うちはほら。汚いので」
「根に持つなって。言い換える、掃除する代わりに泊めてくれ」
「こうして朝ごはんまでご馳走になるんじゃ拒めないですね」
「カレーくらいなら作ってやるよ。昼間ならスーパーやってんだろ、で、それで昼と夜の分ってことにしてくれると助かる。それともあれか、正月早々カレーは嫌か」
「先輩のカレーがどんなものかには興味がありますけどね。ま、食べられればなんでもいいです」
「おまえなあ」
「泊めてあげると言ったんです。さては先輩、歪曲表現が苦手ですね」
「おまえのが解かりにくすぎるんだ」
腕が限界だったので、途中から半分をツルベに持ってもらった。酒類など重い荷物はこちらだが、それでもツルベは袋を持つと、うげ重ぉ、とかったるそうにした。
アパートの階段をのぼると、ツルベの足音が聞こえない。振り返ると、彼は荷物をほっぽりだして雪を一か所に集めている。
「雪だるまでもつくるつもりか」ブロック塀に寄せてつくっているのでどちらかと言えばカマクラにちかい。
「いえ、門松を」
「かどまつー?」
「あったほうがいいかなって。縁起がよくないですか、あったほうが」
「雪で門松って」
「思ったんですけど、門松って、松ってよりも、竹ですよね」
「たしかに」
酒はどうせ冷蔵庫で冷やすのだ。しばらく雪に浸けておくのもいいかもしれない。
思い、階段を下りて、ツルベのとなりに立つ。
「もう一個あったほうがいいんだよな」
「そっちお願いします」
「わあった」
二十歳すぎの男二人が、新年早々、真夜中に雪で門松をつくっている。こんな締まらない正月は初めてだ。
「ぼくは思うんですけど、門松の起源って竹取物語なんじゃないのかなって」
「なんだよいきなり」
突飛な説だな、と雪玉を投げてやると、ツルベも投げ返してくる。「かぐや姫ですよ、かぐや姫。竹を切ったらお姫さまがでてきて、月に帰ってしまった。おじぃさんとおばぁさんはだから、そのあとでもかぐや姫を忘れてしまわないように、いつ戻ってきても家がどこかが判るように、家のまえに切った竹を並べていたわけです」
「かぐや姫がじっさいにいなきゃ成り立たない説だな」
「いたんですよきっと」
ツルベは冷たそうに手に息を吹きかける。「待ってるんじゃないですか、彼女さんも。先輩のこと。いまごろ」
「それが言いたかっただけかおまえ」
慰めのようでいて、ツルベのそれは早く家をでていってくれ、長居はするな、との歪曲表現だ。癪だったので、打ち明けるか迷っていたそれを白状する。
「彼女じゃない」
「へ?」
「彼氏だ。男だよ。恋人ではあったがな」
ツルベはこちらをまっすぐと見た。
「冗談、ではなさそうですね。先輩そういうの怒りますもんね。でも、そういうのいまごろ言います? ぼくと先輩の仲じゃないですか、なんで内緒にするんですか、もう泊めてあげませんよ」
「襲われるかもと?」
「先輩がぼくを? かあー。それを言うなら逆なんじゃないですか、先輩は警戒心が薄すぎますよ、ひとの気持ちを汲む努力をそそぐべきですね。恋人さんが可哀そうだ」
「もう恋人ではないんだがね」
「あっそう。知らんですよ」
ツルベは手を止める。もういいや、と言って門松にしてはいびつな雪の塊を捨て置き、荷物も持たずに、カンカンと音を響かせ、階段をのぼっていく。
なぜあんなに機嫌を損ねてしまったのかは分からないが、何にせよ、最低でも正月が終わるまでは居候させてもらわねばならない。
雪に埋もれた荷物を抱える。
立つ鳥跡を濁さず。せめて出ていくときまでには、部屋もきれいにしておきたいものだ。
【カカア天下】
実家に帰ると親がヤクザになっていた。
「父さん、ただいま。つうか家、改装した? すごい豪邸になってんだけどなにこれ、セキュリティもゴツいし、表のSPみたいなひとたちなにあれ、こわいんだけど」
「ありゃ部下だ」
「部下って」
「手下とも言う」
「宝くじでも当たったんか。つうかうち、名前は山下じゃん。なにあの【独眼竜組】って。こわいんだけど」
「元々このあたりを締めていた組の名だ」
「そりゃ知ってるけど、だってうち普通のクリーニング店だったじゃん」
「町をクリーニングしようと思ってな」
「うまいこと言ったみたいな顔しないでくれ」
「おまえがいないあいだにこの町もだいぶ毒されていてなあ。頭にきて組に乗りこんでったんだ――母さんが」
「母さんが!?」
「そしたら向こうの頭がちょうどぎっくり腰だったらしくて、そこから母さんが腰の手当てをしてやったら意気投合しちまって」
「そのまま組を譲ってもらったなんて言うなよ」
「いやいや。母さんそれでヒットマンになってな。敵対勢力である独眼竜の本部に乗りこんでって、まあ、そういうことだ」
「どういうこと!? え、え。母さん元々敵対勢力に殴り込みにいってたの、そんでそこのひとと仲良くなって、地元のヤクザ滅ぼしちゃったの」
「そういうことになる」
「じゃあ手柄の褒美にその組ごとおまえらにやるってそういうこと?」
「いや。母さん、調子乗って元鞘にも反旗を翻してな。ほら母さんやんちゃだから」
「やんちゃで済む話かぁ?」
「元々独眼竜の勢力はこの辺りじゃ一二を争う組だったろ。そこに母さんのやんちゃが加わって、そりゃもういまじゃこの地方は母さんの天下だ」
「うっそぉん」
「姐さん姐さん慕われて、母さんもまんざらじゃなさそうでな。で、母さんは本部で会長の座について、支部であるここは父さんに任された」
「まあ、なっちまったもんはしょうがねえから、がんばってとしか言いようがねえけどさ」
「ははは、そこは死なないでだろ」
「笑ってんじゃねえよ。で、母さんはこのさきどうしたいって? まさか本気で天下とる気じゃないよな」
「それがな。もうすでに全国のほかの組に睨まれちゃってな」
「えー」
「ほら母さん、義とか恩とか好きだろ。でも近頃のやんちゃもんはどこも仁義を忘れてしまったみたいでな。オジキぃ、とか、親父ぃ、とか、口ではそれっぽいこと並べておきながらてんで腰抜けの、弱い者いじめ好きでしかない。母さん、それに本気で怒っててな」
「でも母さん、元々暴力とかは好きじゃなかったろ。なんでまたそんな」
「暴力が好きじゃないからだろ。じぶんで天下とって解散するんだと。そんな真似したらせっかく統率のとれてたやんちゃものが散らばってますます世のなかが荒れちまうって父さん止めたんだが」
「まあ聞く耳は持たないよなあ、母さんだもん」
「そこで相談なんだがな、せがれぃ」
「ドスきかすな、似合ってねぇからやめろ、盃だしてんじゃねえよ、飲まねぇぞ」
「そう言わずに頼むよ。父さん、血とか苦手なの知ってるだろ。汚れを取り除くのは得意だが、汚れ役は嫌なんだよ」
「なにしれっと本音漏らしてんだよ、じぶんの手ぇ汚したくねぇだけじゃねぇか」
「そうだが?」
「開き直ってんじゃねえよ、クリーニング店継ぐって話ですら嫌で家飛びだした息子だぞ。犯罪組織を引き継ぐわけねぇだろ」
「いや、いまじゃ犯罪はしていない」
「はあ? どういうことだよ。つか収入源ってどうなってんだ、いちおうは企業なわけだろ」
「指定暴力団として指定されているから一般の企業とは言えんがな。ただまあ、独眼竜組は元々、広大な私有地を活かした不法投棄ビジネスで莫大な資本を得ていたってのはおまえも知っているだろ」
「初耳なんですが?」
「あとは密輸品を一時的に保管しておく管理業も担っているが、こっちは母さんが頭になった途端に依頼がなくなったので廃業だ。まあ元鞘を裏切るような相手を信頼はできんよな、そこは母さん、ちゃんと考慮して報復措置は後回しにしておいてやるって」
「けっきょく報復すんのかよ」
「繁華街の色っぽいお店も独眼竜が元締めだったんだが、これも母さんがテコ入れして、いまじゃ一大温泉テーマパークだ。ゆるきゃらの、ユゲちゃんはおまえでも知っているだろ」
「えぇ、あれ母さんの仕事だったのかよ」
「デザインしたのは父さんだ」
「マジかよ。いや、驚かんけどでも、じゃあもはや犯罪組織ではないんだな」
「いや、不法廃棄ビジネスはつづけている」
「やってんのかよ」
「ただ、不法投棄ビジネスと謳っておきながら、そのじつ、ちゃんと処理している。行政にも届け出て認可してもらっているれっきとした事業だ。ただ、不法投棄でないと持ってこられないような裏事情を抱えた業者相手からも廃棄物を受け取っている点は、犯罪といえば犯罪だ」
「なんでまたそんな中途半端な真似を」
「母さんの考えだからなあ。父さんもすっかり理解しているとは言いがたいが、それでも母さんは世のなかが荒んでいく様を黙って見ていられなかったんだなあ。この町だって黙っていたらいずれ不法投棄された化学物質で汚染されて、何かしら住民に実害がでていただろうな」
「まあ、死体と関わってないならいいけどよ」
「ははは、何を言っているんだ。あるに決まっているだろ、廃棄物のなかには遺体も含まれる」
「絶句だよ。開いた口が塞がらねぇよ。で、どうすんだよそれ」
「だいたいが不法入国者の遺体でな。犯罪に巻き込まれたか、なんかしたのか、臓器がなかったりもするから、そういうことなんだろうな」
「どういうことだよ。移植の臓器にされたってか?」
「国外移植は法外だからな治療費が。ま、需要の絶えない市場ではあるのかもしれないな」
「で、父さんたちはこっそりそういうご遺体も埋葬していると?」
「表向きはそういうことにしているが、じつはICPOとも母さん繋がっていてな」
「はぁ? アイシーピーオーってあれか、銭形刑事が所属している?」
「そのピーオーだ。人身売買は国をまたいだ犯罪行為だ。これまで秘密裏に処理されていた被害者の遺体を母さんがこっそりICPOに渡してな。情報提供者として、表向きの不法投棄ビジネスを見逃してもらっている」
「一種のオトリ捜査ってわけだ」
「母さんから申し出てるわけだから、厳密にはそれに当てはまらないようだけどな。ま、いまのところは母さんが人の命を奪うようなことは――」
「そこで言葉を切るな。あんのか、ないのか、どっちだよ。そもそもこの組の幹部たちは納得してんのかよ。元の会長とか頭とかいまはどうして」
「それ以上は言わんほうがいい。いくら母さんの息子とて、首を突っこんだらいけん領域はあるもんだ」
「ごくり」
「近所のソバ屋でソバ打ってる」
「生きとんのかい」
「そりゃ生きてるに決まっているだろ、母さんだぞ。相手の方々も立場があってたいへんそうでなあ。じつのところ解散できれば解散したいと思っていたそうなんだ。ただ、できないだろう、いくらなんでも。個人的なじぶんの一存で、長々とつづいてきた組を潰せるか? できんだろうよ、それこそ仁義にもとる。組を奪われるくらいなら自決するとまで強情を張ったお方もおったが、それはそれで、母さんが引きとめてな。当てつけのような真似はやめてくれ、そんなんじゃ私は夜もぐっすり眠れないって母さんが」
「いやいや、母さんなら寝るだろ、どんなことがあっても」
「言葉の綾だよ息子よ、言葉の綾だ」
「でも相手方はそうはとらなかったんだろ。本気にして、母さんの頼みならしょうがないつって折れてくれたんだろ。わかるよもう、何年母さんの息子やってると思ってんだ」
「じゃあ話は早いな。ほれ、これを飲め」
「だから盃はかわさねぇって」
「母さんからの指示だ。もしおまえに断られたら父さん、もうお酒飲めなくなっちゃう」
「いい機会だ、禁酒しろ」
「じつは父さん癌でな」
「はいはい」
「信じられないのも無理はないが、しかし」
「本当に?」
「ああ。手術すれば三日で退院できる」
「治んのかよ」
「いまの技術はすごいぞぉ。腹を切らずともチューブを通して、癌細胞だけ除去できるんだからな。ただ、さすがにもう組の頭はやってられんよ。誰かに継いでほしい」
「ほかに若頭とかいんだろ。順番からしてそっちを優先してやれよ」
「言い方はわるいが、母さんと父さん以外はみんな本職の方だ。飽くまで母さんが采配を振るうから、いまのこの組がある。それを本職の方に譲ってみろ。あっという間に史上最悪の犯罪組織ができあがる。おまえ、母さんにその片棒を担がせたいのか。母さんのしたことを悪にしたいのか」
「いや、悪だろ。ひとさまの組織を壊滅させといて、乗っといておいて、どの口でそれを善だと言い張る気だよ。しょせん父さんたちは犯罪組織の頭目なんだよ。自在にできる権力手に入れて悦に浸ってるだけじゃねえか。こんなんだったらしがないクリーニング店営んでたほうがよっぽど尊敬できたね」
「じゃあおまえはいまからでもクリーニング屋を継いでくれるのか」
「父さんたちがこんなオママゴトやめてまた元の冴えないおじさんとおばさんに戻ってくれたなら考えてやってもいい」
「戻ろうにもしかし」
「いまからでも間に合うって」
「父さんも母さんも冴えないおじさんおばさんではなかったからな」
「そこじゃねえよ、ヘンなところに拘ってんじゃねえよ、引っかかってんじゃねえよ、美談にして終わらせろ!」
「いちおう正月のお年玉としておまえが組を継いでくれたら百億くらいはあげられるんだが」
「額がデカすぎて実感湧かねぇよ、金の力で息子を誘惑してんじゃねえ」
「でも動いたろ、心がこうグラグラと」
「してやったりみたいな顔をするのをやめてくれ。わあったよ、もうここには父さんも母さんもいないんだ。ここにいるのは欲に目がくらんで、たいそうなお題目を掲げて、じぶんらの犯してきた罪から目を逸らして、ひとさまから巻きあげた金で贅沢な日々を暮らしてる、すこしだけひとより苦労してるだけの悪党だ」
「そういう言い方をしていいのか。父さんが指を鳴らすだけでおまえは一時間後には山のモグラとお友達になっているんだぞ」
「悪党らしいセリフが似合うようになってきたじゃねえか」
「ざんねんだ」
「母さんに言っといてくれ。あ、元母さんか。あんたの息子は正義感のつよい親のことが嫌いじゃなかったってな。だが正義感を振りかざして悪党に成りさがるあんたらにゃ好きになる要素が一つもねえって、伝えといてくれよな」
「メモするからもっかい言って」
「かっこつけたのをダイナシにするのやめてもらっていいかな?」
「そこまで言うならおまえにも覚悟があるってことだろう。わかった。父さんの命もこれまでだ」
「死に急ぐなよみっともない。いいよ、わかったよ、そんなに言うなら母さんにじかにモノ申してやるよ。なあにが、天下だ。息子一人意のままにできずに犯罪組織のトップ気取ってんじゃねえよってな。その座から引きずり落として、ただのクリーニング店のおばちゃんにしてやらあ」
「息子よ、目が悪党だ」
「母さんは暴力が嫌いだった。それを失くすためにいま母さんが嫌いな暴力を駆使して、許容して、振るってるってんなら、そんなの本末転倒だろ、あっちゃならねえだろう、なんのための警察だ。任せてりゃいいんだよ、そういうのは警察のお仕事なの、クリーニング店がやっていいことじゃねえの」
「だがもう母さんは」
「そうだよ、もうあのひとは悪の手先になっちまった。組のトップじゃねえんだよ、悪の手下なんだよ、悪っつう巨大な概念の手下なんだよ、誰かがそれに気づかせてやんねえと」
「母さんを止めようとすることもまた悪でもか?」
「暴力は使わねえよ。ただ、ちょっと痛い目に遭ってもらうだけだ」
「それが悪でない保障はないだろう」
「ないな。悪で上等。どのみち家を飛びだした親不孝者だよ。目には目を、歯には歯を。毒には毒を、邪には邪を。渾身の非行で悪に染まりきった身体をクリーニングしてやるよ」
「息子よ、うまいこと言えていないが」
「そこは拾うなよ、黙ってろよ」
千物語「年」おわり。
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