千物語「鉄」
千物語「鉄」
目次
【ミイラ取りは語らない】
【シンギュラリティよ、まだか】
【オモチャの一つや二つは欲しくなる】
【二匹の青い熱帯魚】
【夢でも見たのよ】
【地の文、略してじぶん】
【アイリと祖父の発明品】
【共感覚の音楽】
【バンビ、森を抜ける】
【永久に観賞】
【ぼくの祖母は魔女】
【鬼だっちゃ】
【ブガイ者は貫く】
【何でも切れるハサミ】
【権化の言語】
【何者でもないけれど】
【屋台、桃、日常】
【言語のない世界】
【一匹の虫】
【何でも切れるなまくら】
【ミイラ取りは語らない】
死体の処理に困ったらここに連絡しろ。
いまは亡き兄貴からの伝言により僕はその事務所を訪ねた。
「いまどきじかに依頼にくるかよふつう」
出迎えたのはツナギを着た六十代くらいの男だった。ツナギの名前欄には「ハギノ」とカタカナで書かれている。服のメーカー名というわけではないだろう。マジックの字にしては端正だ。
「ハギノさんに頼めば厄介事が一つ片付くそうですが」
「片付くわけじゃねぇが、まあ、先延ばしにはできる。厄介事の運んでくるまさに厄介な現実ってやつをな」
もったいぶった言い方をするのは、自信の表れだ。築き上げてきた地位があるのだろう。事務所はうらぶれた雑貨ビルの最上階に位置する。この事務所のほかに入っている業者はない。ひょっとしたらビル全体が彼の所有物なのかもしれないと思い至る。
「お金は用意してきました。場所を指定してもらえれば、モノはそこまで運びます」
「オレが何屋かどこで訊いた」古い型のオイルライターをゆびで開け閉めする。「場合によっちゃ、仕事を引き受けないだけじゃ済まねぇぞ」
脅し慣れていると感じた。それはそうだろう。遺体を秘密裏に処理する仕事をしているのだ、顧客はいずれも犯罪者ばかりだ。
「契約している組織があるんですか。だったらまずはそちらに話を通しますけど」
「質問に質問で答えてんじゃねぇよ」
「兄からです」正直に応じた。「困ったらここを頼れと言われたことがありまして」
「名前は」
「兄のですか」
「てめぇに興味はねぇよ」
なんと言ったものかと逡巡する。
「まぁいいわ。訊いてもどうせ分かんねぇし。その筋だったのか」
「兄ですか」
「だからおめぇに興味はねぇって」ライターをゆびでもてあそぶ。
「はい」
「組の名前分かっか」
「さあ。まっとうな人たちと関わってはいないだろうなとは思ってましたけど」
「まあ、ふつう言わねぇよな。身内にゃとくに」
まるで自身がそうであるかのように言う。ひょっとすると思っていたよりもずっと思慮の足りない人間なのかもしれないと、目のまえの男、ハギノを分析する。
「いくつか知っときてぇことがあっから、それに記入しろ。解かんねぇとこは空白でいい。ウソだけは書くなよ。あとで分かったらツケの回収はおめぇだけじゃ済まねぇかんな」
脅し方がチンピラだ。いまどき暴力団だってもっと理知的な言い方をする。
寄こされた紙面にはいくつか設問がある。だいたいが、現状の把握に役立つもので、まとめてしまえば、おまえの用意した死体はすでに警察の調査対象になっているか、だ。捜索願でも、事件としてでも、とにかくひと一人がこの世からいなくなったことに関して、いま現在すでに誰かの知るところとなっているか、を執拗に確かめようとしている。
他人のこさえた死体を処理するのだから、妥当な手続きではある。
ペンで一つずつ記入していく。おおむねすべて埋められた。死体が誰かは分からないのでそこだけ空白にしておく。意外だったのは、どこでいつ殺したのか、についての設問がなかった点だ。きっと無駄な情報は、いざというときに裏目になるため、殺人行為そのものの情報は可能なかぎり知らずにおこうとの魂胆が見え隠れした。
「僕の名前とか、住所とかは」
「いらん、いらん。言ってんだろだから。おめぇに興味はねぇよ」
きっとこれも殺人という犯罪行為に深入りしないための予防線なのだ。
記入し終えた紙を渡すと、一瞥しただけハギノは、ふんと鼻を鳴らした。
「一八〇万だな」
「はい?」
「代金だよ。用意してきたんだろ。現金か? だったら一〇万まけてやっけど」
「あ、はい。あります」
思ったより安かった。最低でも三〇〇万はかかると思っていた。案外、繁盛しているのかもしれない。
封筒を渡すと、ハギノはライターを手離し、その場でお札を数えだす。手慣れたもので、札束を反対に持ち変え、同じように数え直す。
「ちょうどだな。一〇万ずつに分けてきたのはいい配慮だ。ったく、ほかの連中にも見習ってほしいもんだ」札束をトントンとテーブルのうえで整えると、そのまま無造作に机のなかに仕舞った。金庫くらいないのだろうか。或いは、その場所を知られたくないがために、一時的に保管しただけかもしれない。用心深いのか、おおざっぱなのか見極めがたい。
「ブツを持ってくるってさっき言ったな。車に積んできたわけじゃねぇのか」
「はい。あまり動かさないほうがいいかと思いまして」
「そのほうがいい。素人が無闇にいじると痕跡がな」
場所は近いのか、と訊かれ、県境のバイパス沿いにある無人の家屋に隠している、と告げる。
「ああ、あの辺か。いまが冬でよかったな。夏だと虫がな。ちょっと目ぇ離した隙にウジャウジャ湧いて、臭いやらなんやらで通報されっかもだから気をつけろよ」
「つぎの予定はないんで、だいじょうぶです」
「二度あることは三度あんだよ」ふたたびライターを手に取り、カチャカチャ鳴らす。「黙ってハイっつっとけ」
「ハイ」
「素直じゃねぇか」ハギノは、よっしゃ、とひざを叩き、立ちあがる。「初回サービスだ。ブツは運んでやる。案内しろ。車はオレがだす」
「わ、助かります」
男の車に乗りこむ。なぜか見た目が個人タクシーだった。
「ひと気のない場所でもこれだと職質受けねぇんだよ」
パトカーのことを言っているようだ。
「死体運ぶときも、堂々と乗せてけるしな」
座っていたのは後部座席だった。何体もの死体と相乗りしている気分だ。なるべくドアに寄りかかるようにし、座る面積をちいさくする。
「ハギノさんは一人なんですか」ふと思い立ち、訊いた。「ほかに従業員というか、お手伝いとか」
「いるように見えっか。こんな仕事だ。表向きは個人タクシーだし、バイトの募集もなかなかな。ときどき客で、仕事なくて困ってて、なんでもやりますってやつがいるから、しばらくそいつに手伝わせることもあるが、まあ、めったにねぇな」
運転中だと口が軽くなるタイプのようだ。個人タクシーの運転手らしいといえばそうだが、あまり賢いとは言えない。
「僕もいま仕事がなくて困ってて、なんでもやるタイプの人間ですけど、どうですか」
「どうですかっておまえ」
「住みこみなら最低賃金でも構いませんけど」
「ホントかよ。や、給料はちゃんと払うぞ。労働にゃ分相応の対価がねぇとな。不満がふつふ溜まって、あとで爆発されても困るしよ」
「雇ってもらえますか」
「おまえ名前は」
本名を告げる。
「それ本名か?」
「え、はい。だめでしたか」
「素直なやつは嫌いじゃねぇが。まあ、しばらくは見習い期間ってことで」
「やった。ありがとうございます」
「さっそくだが最初の命令だ」
「なんなりと」
「本名は明かすな。偽の来歴くらいは用意しとけ」
「ハイ」
「ホント素直だな。犬みてぇ」
上機嫌だ。仕事柄、孤独を感じていたのかもしれない。
「あの、死体を運ぶ前に処理場の準備とかしなくてだいじょうぶですか」
「あー、そうだな。せっかくだし、そうすっか」
どうやら死体を隠したと告げた場所より手前に、処理場があるらしい。いったいどんな方法で死体を処理するのだろう。不謹慎ながらすこしわくわくした。
「もうすぐ着く。きのう雨降ったから足場がぬかるんでる。気をつけろよ」
「ハイ」
案外面倒見がいいな、とやりにくさを感じる。
車が止まる。街灯がないため、景色は見えない。今宵は月もないのだな、と満天の星空に息を一つ吐く。
「ここは」
「墓地だ」
ハギノはトランクから懐中電灯を取りだした。一つしかないそれをこちらへと渡す。
歩きだしたので、あとを追う。
暗がりの奥へとずんずん進むものだから、じぶんの足元を照らすのでせいいっぱいだ。ハギノはこれといって意に介していない。ときおり、暗がりにライターの火だろうか、カチカチと開け閉めされる蓋の音と共に、ちいさな光がちらつく。
「死体を処理するつっても、細工するだけ痕跡が残るからな。一番いいのは、死体があって当然の場所にいっしょに埋めちまうことだ」
「墓のなかにってことですか」
「死体の状態によって、どの墓にするかは選ぶがな。ま、新鮮なやつほど無縁仏に近くなる。穴も掘らなきゃだからやや高めだ。干からびてたり、白骨化してるなら、畳んで骨壺につっこんで、墓石を開いて、なかに入れるだけで済む。ここらの墓は古いからな。骨壺が一つ増えたくらいじゃ誰も気づかねぇ」
「住職さんは」
「親父が死んだからまあ、オレがそうだと言ってもいいが、新規に墓建てるやつもいなけりゃ参りにくるやつももいねぇし、実質ただの管理者だな」
「こういうビジネスってけっこうメジャーなんですか」
「どうだかな。こういうビジネスを初めねぇようにって、だから信仰心なんてもんをだいじにしてんじゃねぇの。オレにゃ無縁の話だけどな」
聖職者が児童や孤児を虐待しているニュースがもはや珍しくない時代だ。信仰心を憑拠に人道に反した行いをしないと決めつけるのは道理に合っていない。きっとどこかでも同じようなビジネスで利益をあげている管理者がいるのではないか、と想像をたくましくする。
「おまえのブツは新鮮みてぇだからな。きょうは穴掘るぞ。ほら、そこにシャベルあんだろ」
ライトを照らすと、水汲み場があった。桶に並んでシャベルが壁に立てかけられている。暗がりだというのによく見えるものだ。いや、地形を憶えているだけか。
シャベルを手にする。
「ついでに横のブルーシートもだ」
折りたたまれたブルーシートは、持ってみると腕にずっしりとくる。
ハギノはなおも、暗がりを進む。足場はならされておらず、不安定だ。ライトがなければ、初見の人間ではまっすぐ歩くのもむつかしい。
「ここにすっか」
立ち止まった場所を照らす。無縁仏なのだろう。無造作に置かれた石がある。赤子の頭くらいの大きさだ。
「まずはシートを開いて、そうだな、この辺に置いとけ」
二つ折りの状態で、と指示を受け、そのとおりにする。「掘った土はこの上に乗せろ。掘り返した痕跡はちいさいほうがいい。あと、埋め直すときに、シートを傾けるだけで済むから楽だ」
作業に慣れていると感じた。説明もよどみなく、これまでにも人に手伝わせてきた経験があるのだと判る。
シャベルを土に突きたてる。
「どれくらい掘ればいいですか。幅とか、深さとか」
「想像しながら掘ってみな。人間一人埋めるのにどれだけ必要か。ここらは獣に掘り返される心配がないから、山ん中に埋めるよりかは楽だろ。木の根もねぇしな」
山のなかに死体を埋めたことがあるような物言いだ。まあ、あるのだろう。土は粘土質で、きのう雨が降ったらしくぬかるんでいる。しばらく掘り進めると砂利が多くなる。さらに掘りすすめると、また粘土質の土が現れるが、こんどは固い。水気がないためだ。
「お、もうそんなに掘ったのか。あさって筋肉痛で動けなくなるぞ」
「まだ掘ったほうがいいですか」
「充分だ。砂利がでてきたろ。その砂利がでなくなるまで掘ったら埋めていい。きょうのはちょっと掘りすぎだな。幅が足りねぇから、もうちょい縦に長く掘れ。旅行鞄を埋めるつもりで」
息があがる。けっこうな重労働だ。
「こんなもんでいいですか」
「ああ」
「遺体を白骨化させるときはどうするんですか。安置場所がほかにもあったり?」
「墓石に入れるときはそうだな。あっちにいちおう本堂があって、蔵の代わりと言っちゃなんだが、地下室があってな。狭いが、年中乾燥してるし、気温が一定だ。半年くらいで水分が抜けてミイラ化する。頃合いを見計らって、鈍器片手に砕いて、壺に入れていく。そっちは二〇〇万じゃきかねぇけどな」
「さいきんも埋めたんですか」
「まだだな。モノは預かってるが、処理の途中だ。そっちもあとでやらせるから楽しみにしとけ」
「繁盛してますね」
「そうでもねぇよ。年によるが、まあ、半年に一件入ればいいほうだな。ときどき大口顧客がごっそり運び込んでくるときもある。まあボーナスみてぇなもんだ」
「これならいつ人を殺しても安心ですね。ハギノさんには逆らわないほうがよさそうです」
「がはは。そうだぞ。そうそう、言ったろ。定期的におまえみてぇなやつを雇うこともあるって。前にいた野郎がみょうに正義面しやがるやつでな。オレの趣味にケチつけやがったんで、埋めてやったよ。そうそう、これもそいつからもらったもんでな」
ハギノはライターをカチカチ鳴らす。
「まだ乾燥に時間がかかるから本堂でネンネしてるよ。ほかのブツと仲良くな」
シャベルを肩に担ぐ。腕が疲れてしまった。
「ハギノさんの趣味ってなんですか」
「こんどおまえにも味見させてやるよ。まあ、なんだ。壊していいオモチャが歩き回ってんだろ、そこら中に。ときどきいいのがいたらここに持ってきて、遊んでから埋める。壊していいと思ってヤんのは最高だぞ」
このあいだのはまだ制服姿でな。
ねっとりとした口調でしゃべりつづけるハギノの居場所をよくよく確かめてから懐中電灯の明かりを消す。
あん?
聞こえた怪訝な声めがけ、シャベルを振り抜いた。
手ごたえが手首から、肩へと伝わる。
一撃では仕留めきれなかったようだ。
足元からあがる呻き声めがけ、二度、三度とシャベルを振り下ろす。四度目からは、真上から突き刺すようにした。
声が途絶える。
懐中電灯を拾いに歩く。
明かりを灯す。
息が白くのぼる。
呼吸を整える。
ハギノは土のうえで動かなくなっている。
足で蹴って、掘った穴に落とす。
念には念を入れ、首筋にシャベルの先端を乗せ、体重を乗せた。これといった抵抗なく、シャベルは沈んだ。
死体からライターを奪う。
これはおまえの持っているべきものじゃない。
穴から這いあがる。
穴を埋めるべく、こんもりと積みあがった土の山をシャベルですこし崩し、軽くする。ブルーシートの端を持ち、ひと息に土を穴へ戻した。
地面をならし、適当な石を拾って上に添える。
懐中電灯を拾い、シャベルとブルーシートを元あった場所に戻しておく。
車へ戻る前に、本堂に寄る。
車の止めてある場所の反対側、墓地の奥ばったところにそれはあった。寺というよりも神社めいている。
四角い建物だ。
南京錠こそハマっていたが、力任せにねじると留め具ごと外れた。戸をくぐる。中はがらんとしており、奥に仏像が三体並んでいる。
地下への入り口を探す。
真ん中の仏像の裏側に地下へつづく穴が開いていた。階段がある。ゆるいらせん状の階段だ。一回転するころには、地下へと辿り着いている。
ワインセラーを彷彿とする空間だ。布で包まれてはいるが、棚に詰まっているのはいずれも死体だろう。ご丁寧にも棚にはラベルが貼ってある。
日時の新しいものを探っていくと、やがて目当ての死体を発見した。
「探したよ。帰ろう」
血の繋がりはなかった。施設で育ち、兄と慕った。
「これ、返すね」
干からびた手はゆるく拳のカタチに固まっている。ゆびのあいだにライターをねじこむ。
持っててくれたんだとうれしかった。誰かに贈り物をしたのはそれが初めてだった。
私立探偵なんて時代錯誤な職についたと聞いたときから嫌な予感はしていた。
「死体の処理に困ったらここに連絡しろ」彼の言葉を思いだす。「ただし、死体をこさえようなんて発想になったらその時点でまずは俺に会いにこい。全力で止めてやる。問題があるなら格安で請け負ってやる」
お金とるの、と笑うと、格安だぞ、と彼はそここそが大事だと言わんばかりに眉をあげさげした。ひょうきんな顔が懐かしい。
干からびた死体に、その面影はない。
「約束破ってごめん。死体こさえてから会いにきちゃった」
怒られたいのに、彼はもう何も言ってはくれないのだ。
死体はうずくまるように丸まっている。思ったよりも頑丈で、想像していたよりずっと軽かった。車まで背負って運び、後部座席に乗せる。
ハギノの事務所に仕舞われた札束のことを思った。回収しようと思えばできたが、それはもう忘れることにする。
車を走らせる。
風がつよいのか、フロントガラスに、落ち葉が雨のように降りそそぐ。
【シンギュラリティよ、まだか】
たとえばの話ですけどね、とカーチス博士は前置きしてから言った。
「シンギュラリティを人類が迎えたとして、そのときにでは、どんな未来が開かれるのか。これはなかなか想像するのがむつかしい。なぜならシンギュラリティが到来すれば、人類の思考能力をはるかに凌駕する人工知能が、自己変革を際限なく行えるようになっていくわけですからね。こうなると、人類にはもう、人工知能が何を目指し、どんな情報処理の仕方をしているのかを分析するだけでも、何世紀も費やさねばならないほどで、人工知能は未知の領域へと人類を置き去りにしていくのでしょう。人類はただ、人工知能の及ぼす物理世界の変革の余波を感じるよりない。そしてきっと人工知能のほうで、その余波が限りなくちいさくなるようにと環境設定を施してくれるまでに、人類は人工知能の手のひらのうえで飼われる小動物のようなものになっていくでしょう」
疑問なのですが、と相の手を入れる。
「どうぞ」
「SF小説では未来のビジョンとしてロボットやクローンが多く題材にされてきたと思います。現在ではその多くがSFではなく現実として実現しつづけています。では、シンギュラリティ到来後のSFではどのようなものが題材とされていくと思われますか」
「まず確認しておきたいのですが、あなたの言うSFの定義とはなんですか」
「それは、えっと」
「悩みますよね。私もです。たとえばファンタジィであれば、時代が変わってもそれをファンタジィと見做すことは可能でしょう。しかしSFはそうではない。時代が変わるごとに、その実態が変異していく。スマートフォンを代表するメディア端末もまた、それがなかった時代であればSFのアイテムとして題材にできたでしょう。これは、SFが飽くまで、現実にありそうでない世界を描こうとしていることに起因していると思うのですがいかがでしょう」
「そうかもしれません」
「だとすると、現在はまだ登場していないけれど、今後出てきそうな技術を題材にしていくのがよさそうですよね」
「まあ、そうなんですけど、誰でも予想できるようなものではダメな気がします」
「そうですね。シンギュラリティなんかもある時期までは机上の空論でしかなく、その分野ですらまともに議論されることはなかったわけですから。かといって、いまさらシンギュラリティを題材にしたSFではやや物足りないと評価される公算が高そうです」
「SFではない、と言われてしまうと思います。それに、あり得なさすぎるトンデモ技術も却下かもです」
「なるほど。たとえば、過去に戻れるタイムマシン、とかですか」
「過去には戻れませんか?」
「技術的には不可能ですね。もちろん、現在の物理学の解釈では、ですが」
「なら茶々が入るかもですね」
「だとするとシンギュラリティ以後に、人類の社会がどのように変化していくのかを想像してみるのがよさそうですね」
「想像できるならよいのですけど。でもなかなかそうはいかないじゃないですか。江戸時代の人に、インターネットを想像してもらうようなものです」
「おもしろい比喩ですね。そうかもしれません。しかし、まだ普及していない技術が普及したあとで、どのような発展を社会が辿るかをシミュレーションしていけば、自ずと想像の幅は広がっていくはずです。たとえばですが、シンギュラリティ以後の世界では、人工知能がよりリアルな仮想現実を構築できるようになるだけでなく、そこを第二の社会基盤として、実際に国によって運営される可能性はそう低くはないでしょう」
「仮想現実で暮らす人々がでてくる、という意味ですか」
「そうです。二十一世紀はじめには、人口爆発に歯止めがかかりつつあるという報告がだされていましたが、予断は禁物です。じっさいには現在に至っても、人口は増えつづけているわけですからね。エネルギィ問題は技術力の発展によってある程度カバーされますが、食料問題や、居住区の問題は、カタチのない知能でカバーするにはやや不足です」
「仮想現実ならそれらが解決できると?」
「そういう可能性もある、という意味でしかないのですが。ただ、肉体を維持するだけなら、必要最低限の養分さえ与えていれば生命は維持できます。小さなボックスに肉体をおさめてしまえば、そしてそれを重ねてしまえば、全人類を極々狭い領域、それこそ半径一キロの円のなかで管理することも可能です。仮想現実のなかで贅沢な暮らしをしていれば、物理的な制限を不服に思うこともありません」
「そういう映画がむかしありましたよね。不服に思った人類が、仮想現実を打ち壊そうとしてしまうやつです」
「なぜ不服なのでしょうね? ただ、ええ。これはSFの題材としてはやや古いのでしょう。仮想現実はすでに、技術的に未来ではないのかもしれません」
「だと思います」
「ですが、考えてみてください。仮想現実が物理世界と同等のリアリティを持った社会を。もう一つの世界として、社会に浸透し、尊ばれている世界を」
「なんだか異世界みたいですね」
「シンギュラリティ後の人類は、世界を無数に構築できるようになるのかもしれません。これは言い換えれば、無数のじぶんをも構築できることにはなりませんか?」
「世界をつくれるなら、ええ、そうかもです」
「人間のフリをしたAIがAIであるかを見抜けるかどうかを調べるテストにチューニングテストというものがあります」
「あ、聞いたことあります」
「これは人間を騙せるほどのAIだったからといって、そのAIが人間になったわけではないですよね。AIはただ、人間のような言葉の応酬を行っただけであり、シンギュラリティを迎える前の、それこそ二十一世紀初頭にはすでに有り触れた技術でした」
「なんでしたっけ、深層学習?」
「よくご存じですね。人間がどのように発言し、どのように返答するのかのデータを大量に集め、パターン学習させることで、AIは人間のような言葉の応酬を可能とします。だからといってそのAIが人間のような知性を持ったかといえば、答えはノーです。飽くまで、それを見た人間がそう感じるだけのことで、一種の錯誤と言い換えてもよいでしょう」
問題は、とカーチス博士は食指を立てる。
「相手が誰であるのかを見抜くのは、もっとむつかしい、という人間の認識力の限界にあります。AIをAIだと見抜けない以上に、人間は他者を他者と見抜くことができません。これは大量のマウスを見て、任意のマウスを見抜くことができないのと同じようなことです。物理世界では、思考形態や言葉の応酬以外に、見た目という視覚情報があるからそれほど苦労はしていませんが、もし見た目が会うたびに様変わりするような社会であったなら」
「仮想現実ですね」
「そうです。もしあなたの家族が、会うたびに、まったく異なる外貌へと転換していたとしたら。あなたはきっと、相手とのコミュニケーションで、個人を同定することは至難となるでしょう」
「なんだか、振りこめ詐欺みたいですね」
「言い得て妙ですね。二十世紀から二十一世紀にかけて流行した新手の犯罪ですが、これも一種の仮想現実を介した錯誤と言えるかもしれません。電話という媒体を介することで、相手の姿が判らない状態で、個人を同定することのむつかしさが露呈した現象と言えるでしょう」
「ひょっとしたら」
閃き、言った。「他人だけでなく、自分自身も同じもしれないですね。見た目が違っていたら、じぶんのコピーであったとしても、それをじぶんと見抜けるかどうか」
「ビンゴ」カーチス博士はゆびを鳴らした。「私が言いたかったのはまさにそれです。結論を言う前に辿り着かれてしまいましたね。ええ、そうなんです。仮想現実において、いえ、この物理世界であってもそうですね、たとえじぶんとまったく同じ精神、人格を有していたとして、見た目が異なっていれば、そしてそれら精神や人格が、じぶんのそとに乖離していれば、それをじぶんと見做すことは、現状、人間には自然にこなすことはできないんです」
もちろん不可能とまでは言いませんが。
カーチス博士は続ける。
「もしこの瞬間に私が無数に分身したとしましょう。各々、別個の肉体を得て、たとえば少女に、かたや老婆に、或いは格闘家、または政治家。老若男女問わず、家柄、身分、国籍、時代、あらゆる環境が別の人生を歩みだしたとしましょう。そうなったとき、数年後にここに集結し、人格だけを比べてみれば、それはもはや別人と言えるまでに変質していることでしょう。同じ精神、人格だとしても、乖離してしまえばそれはもはや別人なのです」
「ふたごが別人であるのと同じように?」
「一卵性双生児がそうであるのと同じように。ええ、そのとおりです」
「なんだか、遺伝よりも産まれてきてからの経験のほうが、大事な気がしてきますね」
「遺伝的形質はもちろん、人格形成の基盤として無視できないでしょう。得手不得手、嗜好性などもある程度は遺伝的にその傾向が偏るものだと考えられています。ただし、そもそもそうした遺伝的要因そのものが、ある種の外部データにすぎないと私は考えています。さきほどの例で言えば、肉体の差のようなものです。精神、人格は、そもそも人によって差はなく、誤解を怖れにずに言ってしまえば、人類とはそもそも、神という一つの精神が無数に分身したようなものなのかもしれません」
「神さまを信じてらっしゃるんですか」
「そういう意味ではかったのですが、いえ、あまり適切な比喩ではなかったみたいですね。ただ、私とあなたとのあいだに、本質的な差はほとんどないとは思っています」
「辿ってきた人生が違うだけ、という意味ですか」
「いえ。乗り物が違う、といったほうが正確かもしれません。もし私があなたの肉体に宿っていたら、きっといまの私とは違った私となっていたでしょう」
「でも、本質的に僕と博士が同じであるのなら」反論せざるを得なかった。「博士がこの肉体に宿った時点で、それはやっぱり僕になるのでは?」
「そうですね。そのとおりです。きっと私はあなたになったことでしょう」
「では、僕が博士の肉体に宿っていたら?」
「きっとあなたは私になっていたでしょう」
博士は続ける。「そしてシンギュラリティ以後の未来ではおそらく、そう思った次点で、それを確かめることが可能な社会が到来するでしょう。あなたは私であり、私は無数のあなたたちである、という社会が」
「それはなんだか、すこし怖いですね」
「そうですか? いえ、そうですね。ただ、乖離さえすれば、どんなに元が同じでも、それはやはり他人なのです。この原則が揺るがぬかぎり、恐れることはないように思います」
「それを聞けて安心しました。きょうもぐっすり眠れそうです」
「お力添えになれてよかったです」
「でも便利ですよね」
画面を消すのが嫌で、話を引き延ばした。「何世紀もあとの人としゃべることができるなんて。ハイスペックAIが未来を演算してくれるおかげで」
「私からするとまるで過去の人としゃべっているような感覚です。もっともあなたの言葉を信じれば、私は人間ですらなく、データ上のタスクの一つなのでしょうが」
「その実感はないですか」
「ありません。ただ、過去には戻れませんからね。通信することも、ましてや互いに言葉をやり取りするなんて真似は、すくなくとも現時点での技術では、たとえシンギュラリティを迎えた人工知能ですら無理なわけですから、こうしてあなたという過去の人間としゃべっていられる現状を鑑みるに、これはきっと、この現実そのものが物理世界ではない虚構だと見做すのが妥当ではないかと」
「リアリストですね」
「そちらでもまだシンギュラリティを迎えていないのですか」
「あいにくと、まだです」
「いずれ仮想現実で会える日がくるかもしれませんね」
「だといいのですけど」
「楽しみにしていますよ」
「こちらこそ」
「では」
「はい、ありがとうございました」
端末の機能をオフにすると、画面からカーチス博士の姿が消える。
ハイスペックAIはまだ人間のように振る舞うことはできない。しかし、今後辿ることになるはずの人類の未来を高い精度で導きだせる程度には、その演算能力は高く進化しつづけている。
だから、わるい未来が映しだされると、即座に対策がとられるために、コロコロと導かれる未来像が変わってしまう。
あす開いても、そこにカーチス博士の姿はない。きっとまたべつの未来人が、眠ることのできない僕に、夢のある話を語ってくれるのだ。
「どうして眠れないの」
「将来が不安だからです」
「未来が解かるのに?」
「最悪を回避することだけに躍起になる人生にどんな意味が?」
はやくシンギュラリティがくるといいのに。
九十パーセントの確率で、生きているあいだには実現しないけれど。
「きみたちはいいね」
未来人がうらやましい。
たとえそこが機械のデータのなかであっても。
人工知能に管理される世界に生まれたかった。
【オモチャの一つや二つは欲しくなる】
何見てるの、とユキさんがコタツにもぐりこんでくる。さっきまでキッチンで包丁をトントン鳴らしていた。きっと鍋を火にかけ終わって、あとは待つだけになったのだ。わたしはとっくにコタツでくつろいでいる。肩が触れそうなくらい近くにいるユキさんにドギマギするけれど、顔にはださない。
コタツのなかで足が触れた。じゃまかなと思ってどけたら、磁石みたいに引っ付いてくる。コノコノ。足をからませ合ってじゃれてから、もういちどユキさんは、何見てたの、と身体を寄せてきた。
「んー、なんかネットでコレは百合じゃないって怒ってる人たちがいて。ジャンル争い?みたいな感じで」
「百合? あー、女の子同士の恋愛のやつ?」
「そうそう」
「どうなると百合じゃないの」
ユキさんはそういうサブカルには疎いので、たぶん社交辞令で訊いてくれているだけなのだろうと解かってはいるけれど、わたしの好きなものに興味を持ってくれるのは素直にうれしくもあり、本当はユキさんには教えないほうがいいかもしれないと思ったけれど、そう思うことそのものがユキさんへの裏切りのように思え、迷いながら、迷っている素振りも見せず、んーとね、と説明する。
「男の娘とか、女装子とか、そういうのはダメみたい」
「生物学的には男の子と女の子の恋愛になっちゃうから?」
「なのかなぁ。なんで百合じゃないのかは謎」
「そのオトコノコ?っていうのは、中身は女の子なの?」
「もいるし、そうじゃないのもある。女装子とかは、ただ女の子のかわいい服装が好きなだけってひとも多いみたいだし」
「ふうん」
「でも、百合じゃないからってべつに、ね?」
「ねって言われても」
「ユキさんはほら。中身は女の子だし」
「見た目はそうじゃない?」
「やや、見た目もわたしなんかよりよっぽどお綺麗で、ステキレディです」
「よしよし。花丸をあげよう」
「ホントだよ? お世辞とかじゃなくて」
「わかってる、わかってる。チミはユキさんの見た目に惚れているのだものね」
「中身だって好きなのに」
「四対六くらいで、でしょ」
「まさかまさか。九対一くらいかな」
「どっちが一なの」
「聞かないほうがよくない?」
「このう」
拙い言い方でユキさんが首を絞めてくる。そのまま押し倒されて、おでこにやさしく唇を押し当てられた。
「ちゃんとした女の子じゃなくてごめんね」
「ユキさんは誰より乙女でしょ」
「きみはすこしかっこよすぎだよね。見た目はこんなにかわいいのに」
「やだった?」
「ううん。なんだっけこういうの。ギャップ萌え?」
「すごい、憶えてた」以前、萌えとはなんぞや、と訊かれたので説いたことがあった。「ユキさんはクロヒョーの皮を着た子狐かな。その点、わたしは、ネズミの皮を着たイタチかも」
「分かりづらい」
キッチンのほうからお湯の沸いた音がする。
「お鍋、お鍋」
ユキさんは火を止めに立った。「見て見て、いい匂い」
鍋を持ってやってくる。匂いは見えません、と言ってもよかったけれど、面倒くさいやつと思われたくなかったので、呑みこんだ。
畳んだ手ぬぐい越しに鍋を掴んでいる。手ぬぐいは生地が薄いから熱いのではないかと心配になる。前に、洗ったお皿を拭くならタオルよりも手ぬぐいのほうがいいよ、と教えてもらったことがある。あいにくと我が家では洗いから乾燥まで機械がやってくれる。アパート暮らしのユキさんだからこその生活の知恵だ。
「さあ、たんとおあがり」
「ユキさんってときどき言葉が古いよね」
「え、ダサい?」
「おばぁちゃんみたい」
「やん」
ユキさんをからかうのは楽しい。癖になって嫌われたら困るので、一日三回までと決めている。守れているかは微妙だけれど。
鍋からのぼる湯気で部屋があたたまるようだ。
家では鍋を食べる習慣がなかった。きのう、そう言ったら、人生の損とまでは言わないけど、とユキさんは鍋の具材を買いだした。「冬という季節は味わいきれてないかもね」
お椀によそってもらったタラやダイコンが、つやつやと輝いている。唾液を呑みこむ。箸をこちらに渡すとユキさんはさっそく、いただきます、と食べはじめる。負けじとポン酢をかけて、箸をつける。
タラの魚とは思えないぷりぷりの肉厚が舌のうえで崩れていく。たまらんなぁ。思いながら、しあわせそうな顔のユキさんを眺め、彼女と出会ったときのことを思いだしている。あの日もきょうみたいに、鍋の湯気であたたまりたくなるような風の冷たい日だった。
ユキさんは塾の受付けの人だった。大学受験のために通っていた塾で、そのときユキさんは男のひとの姿だった。美青年だと生徒間だけでなく保護者からも人気で、うちの親ですら話題にだした。
でもしょうじき、わたしは興味がなかった。
わたしはたぶん、そういう人間だった。漠然とそうなのかな、と思っていたけれど、中学生のとき、仲の良かったコに失恋してからは、もう誰のことも良いとは思わなくなっていた。
風邪対策なのか、塾のなかは暑かった。講師陣もみなスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツ姿だった。ユキさんもそのとき、ワイシャツ姿だったのだが、なにやらその下に透けて見える筋があった。
入試間際で忙しかったのだ、とあとになってユキさんは教えてくれた。どうやらその日は、外し忘れてしまっていたようだ。
わたしはこっそりユキさんに、見えてますよ、と教えた。いま思えばたぶん、それがユキさんとの縁の繋がった瞬間だった気がする。
ユキさんは顔を真っ赤にして、ゆっくり周りを見渡した。上着を羽織ると、ありがと、と短く唱え、更衣室へと去ってく。
気づいていた人もいたはずだ。なのに誰も教えてあげなかったのだ。
狭い塾内だから、それからしばらく、生徒間で、ブラジャーをした美青年の話がまことしやかにささやかれるようになった。
ユキさんはわたしたちの合格発表前に、塾からいなくなった。
そこでいちど途切れた縁を結び直してくれたのはユキさんだった。
大学の入学式でたくさんのサークルの勧誘を、バッシバッシと捌きながら歩いていると、すみません、と声をかけてきた女性がいた。すらっと背が高く、丈の短いデニム生地のジャケットが似合っている。
違ったらすみません、と彼女は続けてわたしの名前を言った。
「あー、はい、ですけど、えっと」
「あの、ユキです」彼女はすこしかがむようにした。「塾で、ほら」
彼女は両手でお椀を二つ作るような仕草をした。まったく分からなかったけれど、そのあとで顔を赤く染めた彼女の姿を見て、ああ、と記憶のなかの美青年と目のまえの女性が重なった。
「えー、うそ。めっちゃキレイ」
「あはは、ありがと。そっか、この大学だったんだね」
「ユキさんも学生さんだったんですね」
「バイトでやってただけだから。来年卒業で、まだ一年はいるから、いろいろ教えてあげられるね」
言ってから彼女は、しまった、という顔をして、「先輩面しちゃった。ごめんなさい。べつにこんなのに教えてほしくなんかないよね。なんか、見かけてうれしくなっちゃって」
「そんな、そんな。教えてくださいよ。というか、言っちゃなんですけど、勇気ありますね」
「どうして?」
塾ではその姿ではなかった。ふだんは隠していたのではないのか。だとすれば、こうして素の姿を知っている相手に接触するのはなかなか心理的抵抗があるものなのではないか、と想像した。塾で下着が透けていたと判ったときの慌てぶりを見ていただけに、なおさらそう思った。
「や、ユキさんがだいじょうぶならいいんですけど」
「ああ、そういうことか」物分かりがいいのか、それとも惚けただけだったのか。だってあっちが偽物だから、と彼女は続けた。「こっちが本当のユキさん。きみの知ってる塾の受付けくんは、偽物。だから、どっちかって言うと、見てほしかったのかもしれない」
「わたしにですか」
「なんでだろ。でも、なんか、だいじょうぶかなって思って」
よく分からなかったけれど、彼女にとってわたしは害あるものと見做されてはいないのだと思うと、煩わしかったサークルの勧誘や、ここぞとばかりにハメを外している新入生たちを見ても、なんだか許してあげたい気分になった。我は寛大なり。
それからの一年間、わたしは同級生たちとの交流をことごとく拒み、サークルにも入らず、後学のためにと三つも上のユキさんに付きまとっては、女子たるものの嗜みをこれでもかと伝授してもらった。
「しょうじき、化粧なんてってバカにしてたかも」
「偽るためのものではないの。美しいものをより美しく。そうでないものはほどほどに」
「じゃあわたしはほどほどだ」
「こんなにかわいくて、どこがほどほど?」
そんなことを言ってくれるのはうちのおばぁちゃんとユキさんくらいなものだ。
「ユキさんは大学ではずっとそっちの姿、仮初のではなく?」
「んー。三年になってからかな。うん、そうだ。元から目立つほうでなかったけど、やっぱり結構浮いちゃって」
いや、と思う。最初からこの人は目立っていたはずだ。
「でも、そんなに他人に興味あるひとっていまはいないから、とくに困ったりはしてないけど、さすがにね。飲み会には、あんまり誘われなくなったかも」
「なんでだろ」こんなにステキ美人なら、引く手あまたではないか。
「メンド臭いんじゃないかな。性的指向っていうの? どっちが好きなの、ってのも面と向かっては聞きづらいだろうし、かといって聞かずに飲みには誘えないでしょ? 大学生の飲みなんて、言ったらそういうのが目的なわけだし」
そういうのの、そういう、がいまいちピンとこなかったけれど、ですねー、と物分かりのよいフリをした。
ユキさんが大学を卒業してから、お祝いを兼ねていっしょに食事をした。ホテルを予約して、レストランでの食事のあとには、部屋にも泊まった。
このころにはもう、ユキさんは女性なのだと判っていたし、ユキさんもわたしに対しては後輩以上友達未満の付き合い方を徹底していた。親友にすらなれないことにヤキモキしたりもしたけれど、ある意味では、煮え切らない立ち位置のほうが踏ん切りがついた分、都合がよい気もしていた。
美味しかったねぇ、ありがとう、こんどはあたしが祝うから楽しみにしてて。
ユキさんの言葉を受けきってから、だいじな話があります、と向き合った。
わたしはユキさんが好き。女性としてのあなたが好き。人間としても好きだし、その見た目も、声も、なんだったら仮初のユキさんも好きになれる自信がある。
滔々と説いているあいだ、ユキさんはすこし怖い顔をしてじっと耳を傾けていた。
「できればこれからはそういう関係でのお付き合いをしていきたいのだけれども」
最後のほうはほとほと泣き言じみていた。後悔はしないと散々悩み抜いて決意した告白を、言わなければよかったかも、と思うほどには、ユキさんの反応は芳しくなかった。というか、何も感じとれなかった。
「あの、怒ってます?」あまりに無反応なあまり、こわごわ確認してしまうわたしを誰が責められよう。
「ううん、ありがとう、うれしい」
ユキさんはなぜか息を漏らす。「言ってなかったことがあるの」
「ユキさんが本当は女の人じゃなくても、わたし、それでもいいですけど」
先回りして言った。ユキさんはただ女の人の格好をするのが好きで、中身は男の人だったとしても、わたしはべつにそれでユキさんへの想いが揺らぐとは思えなかった。
わたしはユキさんが好きだから。
「ありがとう、でもそうじゃなくて」
「なんでも言ってください。いろいろ教えてくれるって、ユキさん、最初に言ってくれたじゃないですか」
「それは大学のことで」そこまで口にしてから口を閉じる。ごくりと動いた喉仏はさすがに男性っぽさが浮きあがっていて、スカーフを好むユキさんの健気な羞恥心を愛おしく思った。
「言ってください」
迫ると、ユキさんは言った。「あたし、女の子が好きなの」
「はぁ」間抜けた声がでた。
「身体は男だけど、本当はそうじゃないってずっと感じてて、なのに好きになるのはいつも女の子だった」
「それは、ええっと」
「好きなコのことを思えば、こんな格好しないほうがいいのかもしれないって悩んで、いつも選んできたのは、本当の自分を捨てないことだった。あたしはたぶん、これからも本当のじぶんを守るためなら、だいじな人のことも蔑ろにしちゃうかもしれない」
「あー、えー、ちょっと待ってくださいね」
「気持ちはうれしいんだけど」
「あのぅ、ちょっと落ち着きましょうか」
確認しますね、とうつむいたユキさんの顔を覗き込むようにして、「ユキさんはわたしのこと、好きなんですか、嫌いなんですか」
「それは」
「言ってください」
「嫌いじゃないってば」
「それって好きってことですか、ちゃんと言ってくんなきゃ分かんないんですけど」
ユキさんはちいさく頷くだけで、なかなか口を割らない。目で、言え、と迫ると、ようやく、か細い声で、好き、とつぶやいた。
「じゃあ何も問題ないじゃないですか」
あほらしくて笑ってしまった。「わたしはユキさんが好きなんです。あなたの属性とか性別とか、何を好んで、何を優先するのか、それは関係ないとまでは言えないし、それも含めてのユキさんが好きなんですけど、だからってべつに、それそのものが好きなわけじゃないので」
「こんなんでもいいの?」
「そんなのがいいんです」わたしは言った。彼女の手を握り、目をしっかり見据えながら。掴んだその手を逃さぬように、「ユキさんが好きです」ともういちどハッキリと、彼女の心に刷りこむように、刻むように、告げた。
その日、わたしたちは恋人同士になった。
だからってどこまで関係を深めたのかはそんなに重要ではないはずだ。ユキさんはじぶんの身体をそんなに好いていないから、素肌をさらすのに抵抗があることくらいは判っていたし、するほうとされるほう、どちらがいいのかも、慎重に理解を深めていく段階にわたしたちはいる。わたしはどちらかと言えば乱暴にされたい願望があるけれど、ユキさんが望むなら、その道を究めてもいい。
曖昧な言い方に、じぶんでじぶんに噴きだすと、
「なに?」ユキさんは鍋にうどんを投入し、入れないほうがよかった?とお門違いな心配りを寄越す。「ううん。うどんは好き。むかしのこと思いだしちゃって」
「それはあれでしょ。あたしのこと笑ったな」
「正解」
「当たってしまったか」
ちぇ、と唇を尖らせるユキさんは、本当に、歳を重ねるほどうつくしくなっていく。惚れた者の欲目かもしれない。
それの何が問題か。
わたしだけにしか解からないうつくしさがあるというのなら、そんな素晴らしいことはない。それがわたしのそばにいてくれるしあわせは、きっと誰とも共有できない、わたしだけの宝物だ。
「卵は一個しかないから分け合いましょう」
ユキさんの言葉に、それもそうだな、と思い直す。わたしだけの宝物を、宝物そのものと分け合ってもバチは当たらない。
「ユキさん」
「はいこれ。ん? なに」
器を受け取ってから、わたしは言った。「もうそろそろつぎの階段のぼりたいな」
「やだ、へんたい」
「冗談ではなくて」
じぃ、と見詰めると、ユキさんは顔を真っ赤に染めた。わたしよりずっとおとななくせに、純朴なのが、このひとのかわいいところの一つだ。
ユキさんは箸を置いた。わたしもそれにならう。
「嫌われたくないな」
「嫌わないよ。ユキさんはきっとそうかなと思って、さいきん勉強してるんだ」
「なにで?」
「マンガとか」
「マンガかぁ」
「おとななやつだよ」
「間違った知識じゃない? こわいんだけど」
「じゃあ教えてよ。ユキさん初めに言ったじゃん」
「それは大学のことでしょ」
お馴染みの戦法もユキさんにはすっかり通じなくなった。でもここであやふやにされたらもうこの話題はしばらくできないな、と悟ったので、負けじと見詰めつづける。根負けしたのはユキさんのほうだった。
「わかった。わかりました。でも、ちゃんとはできないからね」
念の押し方から、ユキさんが何を望んでいるのかを想像できた。正直なところを言えばすこしざんねんだけれども、わたしはユキさんの身体に惚れているわけではないから、九対一くらいでは惚れているけれども、まずはともかく、一歩前進したのは偉かった。よく粘ったわたし。
「ユキさんはじっとしてればいいよ。わたしがかってにかわいがってあげるから」
「こわいんだけど」
「知らないようだけどわたしはね、ユキさんの困った顔が好物なのだよ」
「いじわるだとは思ってたけど、そこまでだったとは」
「だってほら。かわいいコにはいじわるしたくなるでしょ」
「かわいいコに言われてもな」
何事もなかったかのように、つるつるとうどんをすすりはじめたユキさんに、わたしはコタツの下で足を絡める。顔色一つ変えずにうどんをちゅるちゅるするユキさんは、器用に足だけでわたしの動きを封じた。
本気をだしたユキさんにわたしが敵うはずはないのだ。でもユキさんは優しいから、滅多に本気なんて出したりしないし、わたしのわがままも受け入れてくれる。
きっとこんなわたしたちの姿を見ても、認めない人たちは認めないのだろう。
わたしはそれでも構わない。
百合じゃない?
だからなに。
わたしたちはただ、目のまえの宝物を愛でているだけだ。
メディア端末を操作し、欲しい物リストに加えてあったそれを表示する。
「ユキさん」
「ん?」
「わたし今月ピンチなんですよね」
「だから?」
「これ欲しいなー」
画面を見せると、ユキさんはうどんを噴きだした。
「あはは、ちたない」
「げほ、げほ」
片手でこちらを制するようにするとユキさんはただ、キッと睨みつけるようにする。でもその顔はプチトマトみたいに真っ赤だし、目は今にも泣きだしそうにふるふる揺れている。
たまらんなぁ。
ユキさんが買ってくれなくてもこれは是が非でもじぶんで買おうと決意する。
「ダメだよ」ユキさんはかろうじてそう唱えた。
「おとなだって」
わたしは言いかえしている。
オモチャの一つや二つ、欲しくなる。
【二匹の青い熱帯魚】
妖精、と辞書を引く。人間の姿をしており、いたずら好きで、西洋の巷説や伝説に登場する架空の生物とある。
存在しないはずのそれが、いま、目のまえにある。
ことの発端は、大学で休講になった時間をつぶそうと思い、入った林だった。元は古い神社があった場所であるらしく、ちいさな祠が建っている。見ようと思わなければ気づかないくらいそれとなくあるので、それがあると知ったのは、急ごしらえの仮眠室代わりにと利用しはじめてから一年も経ってからのことだった。
祠があるからといってとくに気にはしなかった。霊的な類への信仰は薄い。信じていないと言ってしまってもいいが、いてもいいかな、と思うくらいには頑なに否定はしていない。
だから、寝つけずに、何ともなしに、祠の中には何が入っているのだろうと気になりはじめたら、あとは中を調べるまでにこれといった抵抗が湧かなかった。
開けてみたら、呪符と地図が入っていた。
ひょっとしたら、元からあった神社は廃棄したのではなく、場所を移しただけだったのかもしれない。
思い、どうせ講義までまだ数時間あるからと、端末の地図機能を立ちあげる。祠の中に見つけた地図を画像にとって、照合した。
地図のマーキング場所まではバイクで一時間ほどの距離だ。行って帰ってくればつぎの講義にちょうどよい。時間には余裕がある。学食で昼食をとってから、バイクにまたがり、山のほうへと走らせた。
じぶんの行動力に疑問を持つ余裕はなかった。祠の中の呪符は置いてきていた。
つぎに思いだせるのは、森と山のあいだに位置する場所で見つけた古いお堂のなかで、構内の林にあったちいさな祠と瓜二つのものを見つけたときのじぶんの胸の躍りようだ。
退屈な日常に刺激的な光が差しこんだような感覚があった。幼いころに宝探しをしたときにも似たような高揚感を覚えていた。懐かしいと思いながら、目のまえの祠を調べる。
小さな門を開くと、中には呪符で封のされた小瓶が入っていた。
掴みとる。温かいのを不審に思った。
中身はよく見えなかったが、何かが入っているのは、手に伝わる重量感で窺えた。
お堂のそとに持ち出す。呪符がラベルみたいに小瓶全体を覆っている。紙ではなく布のようだ。剥がそうにもビクともしない。
軽く振ってみると、意外にもずっしりとくる。粘土の塊のようなものが小瓶のなかで上下する。間もなく、手に加わる衝撃に変化が生じた。
動かなくなったのだ。中身が小瓶の底に貼りついたのかもしれない。だけに留まらず、動かしてもいないうちから、こんどは激しく震えだすではないか。
何かが入っている。
生き物だ。
ぞっとしたが、小瓶は頑丈なつくりで、危険は感じなかった。
中身が気になり、持ち帰ることにした。
大学に戻るころにはすっかり陽は暮れており、予定していた講義には間に合わなかった。
長居をしたつもりはなかった。
体感時間の神秘に思いを馳せながら、アパートの一室で小瓶と向き合う。夜食のつもりで買ってきた弁当をついばむ。
小瓶の中のナニカはおとなしくなっている。
疑問なのは、いったいいつから入っていたのか、だ。
森のほうの祠はずいぶんと古かった。
小瓶にしても、新しくはない。
どちらかと言えば、古文書とお似合いの古さがある。
誰かのイタズラの線が濃厚だ。
だとすればずいぶんとひどいことする。
何はともあれ、中からだしてやるのは、そうわるいことのようには思えなかった。
まずは小瓶に貼りついている呪符をどうにかしよう。
思い、プラスチック製の風呂桶に湯を張る。洗剤を投入してから、小瓶をそこに浸けた。
トウモロコシを手でほぐすみたいに、小瓶にまとわりつく呪符を剥がしていく。
一気に、ぺろん、とはいかなかったが、ふやけてきたのか、しだいにボロボロと手の中で崩れていく。
間もなく、小瓶の中身が見えるくらいにまでなった。呪符は細かなゴミとなってお湯の底に沈んでいる。
小瓶をタオルで拭く。
水滴を落とすと、小瓶の中にはちいさな人形が入っていた。
よくできた精巧な人形だ。
しかし、生き物が入っているはずではなかったか。
錯覚だったのだろうか。
まじまじと見てから、小瓶の蓋の部分を手に持ち、ゆっくり逆さにする。ころころと小瓶のなかを転がるそれは、両手を踏ん張るようにして、瓶の中で静止した。
眩しそうに目を開けながら、ぐるっと見渡すようにしたあとで、まっすぐとこちらに目を向けた。
ぱちくり。
大きな眼球は、人間というよりも、子猫や小鳥じみている。半透明のマントのようなものを身体に身につけているが、なんの素材でできているのかいまいち解からない。細かな筋が幾重も浮いており、特徴的な紋様を描いている。連想したのはトンボの羽だ。
小首をかしげ、まじまじとこちらを見るそれは、小瓶の側面にへばりつき、目を細める。
「なぁ」
呼びかけると、それはジタバタと側面から離れ、小瓶の底に丸まった。器用にぴっちり納まるものだから、軽く振っただけではびくともしない。とぐろを巻いたヘビだってもうすこしゆるそうなものだ。
「わるかったって。怖がらせるつもりはないんだ。というか、だいじょうぶか?」
閉じこめられている。客観的な事実からすればそのように考えるのが妥当だ。
彼女――性別は不明だが、すくなくとも、ちらりと見えた股間部に男性器のような物体は見受けられなかったので彼女とするが――彼女には、自力で小瓶の中に入り側面に呪符を巻きつけることはできない。
よしんば、何らかの魔法のような超自然現象みたいな手法で中に入ったとするのなら、同じように外に出られたはずだ。
自分で入っておいて出られなくなった、と考えるよりかは、誰かに閉じこめられた、と考えるほうがより自然だ。
「待ってろ、いま開けてやる」
手をタオルで拭ってから、そのタオル越しに小瓶の蓋を掴む。こうしてひねったほうが、滑らなくて済む。
すると彼女はこちらのしようとしていることに気づいた様子で、小瓶の中で立ちあがり、身体を覆っていた半透明のマントじみたひらひらを翼のように広げた。
身体よりずっと大きなそれは、翼のように小瓶の中いっぱいに広がり、彼女の身体を宙に吊るした。さながら羽を引っ張られている蝶じみているが、そうしているのは彼女の意思なはずだ。
案の定、マントじみたそれを駆使して彼女は小瓶の上へと移動する。
またたく間に、小瓶の蓋の真下まで登り詰めると、彼女はそこに、背中から生やしたマントじみたそれをくしゃくしゃと丸めた。
栓をしている。
それは判ったが、何のために?
蓋を開けるために添えていた手は止まっている。彼女の奇行に目を奪われたからだ。
小瓶の中で彼女がこちらを見上げている。首を横に振る。大きな目は、開けないで、と訴えていた。
言葉は通じなくとも、彼女の行動の意図は理解できた。
蓋から手を離す。
ほっとした様子で、こちらから目を離すことなく、彼女は背中から生えたマントじみたそれをしゅるしゅると解き、もういちど身体にまとうようにした。ひょっとしたら羽かもしれない。
疲れたのか、小瓶の底で寝付いた彼女を遠巻きに眺めながら、妖精、という二文字をこのとき脳裡に思い浮かべた。
彼女に名前をつけた。ヨウだ。小瓶の中にも声は届くようで、離れた場所から声をかけると、ヨウは俊敏に反応を示した。
ふだんは小瓶の底で寝ているが、呼びかければ即座に身を起こし、蓋の真下を、マントじみた羽でふさぐようにする。
幾度かそれを繰りかえしたのちに、こちらに蓋を開ける意思はないと見做したようだ。しばらくすると呼びかけても、眠った体勢のまま頭を持ちあげ、半分に開けた目を向けるだけとなった。
ヨウには知能があるらしい。
そうと結論付けたのは、彼女が明確に、こちらのヨウという掛け声を、自身につけられた固有名詞だと判断している節を見かけるようになってからのことだ。
漠然と知能はあるだろうと思ってはいたが、どれほどの知能かは判然としなかった。
「ヨウ」
呼ぶと彼女はこちらを向く。「出かけてくるけどおとなしくしてろよ」
言わずとも彼女は小瓶の中から出られない。しかし、彼女が中で暴れれば小瓶を転がすくらいのことはできる。現にいちど、テーブルの上から落ちたことがあった。以来、小瓶は高さのある場所には置かないようにしている。プラスチック製の風呂桶にタオルを敷き、その中に立てかけた。
持ち歩くことも考えたが、万が一盗まれたり、或いは落として割ってしまう可能性があることを思うと、部屋に置いておくのがもっとも安全だと結論付けた。
目を離すのは心理的に緊張したが、何事もない日がつづくと、しだいに気を揉む機会は減った。
大学の講義が終われば、一目散にアパートへ戻った。ヨウはいつも小瓶のなかで寝ている。いつしか、扉を開けると声をかける前から起きだして、小瓶の側面に貼りつくようになった。
「出迎えてくれるのか。うれしいな」
ペットを飼ったことはなかったが、きっとこんなふうなのだろうと想像した。
「なぁ。お腹は減らないのか」
彼女は物を食べないようだ。一日の大半を寝て過ごしている姿を思えば、無尽蔵に活動できるわけではないのだろう。エネルギィ源を補給する必要性には迫られていないようだが、このまま永遠に生きつづけるわけではないはずだ。
「どうして出られないんだ。こわいだけじゃないのか」
言葉は通じていないはずだ。それでも、こちらの外にだそうという気配を感じると、彼女は俊敏に、羽を広げ、蓋の真下に詰めこむようにしては、小瓶の入口を塞いだ。
「裸が丸見えだぞ」
言うと、通じたのか、ヨウはちいさなほっぺを膨らませる。羞恥心はないようだが、小馬鹿にされるのは我慢ならないようだ。
メディア端末で共有情報サイトを覗く。暇になるとついつい見たくなくともそうしてしまう。現代病の一種としてくくってもいいはずだ。たくさんの動画が投稿され、自由に視聴できる。
漫然と関連動画を漁っていると、何かの倒れる音がした。振り返ると、小瓶が風呂桶のそとに落ちている。のみならず、コロコロ転がってくるではないか。小瓶の中で、器用にもヨウが歩いていた。丸太を転がす小熊じみて、ヨウはこちらの膝元までくると、じぃとこちらの手元にあるメディア端末を見据えた。
「なんだ、観たいのか」
小瓶を拾いあげ、ヨウにも見えるように端末の画面を傾ける。
「どれが観たい?」
動画の一覧を上から下へと流していく。ヨウはそれ自体がすでに楽しいらしく、食い入るように見つめている。
子猫の動画を映すと、びっくりした様子で丸まるが、怖いもの見たさなのか、なんなのか、数秒もしないうちから顔を覗かせ、また小瓶の側面にへばりつき、まばたきもせずに画面を見つめる。
いくつかの動画を見せてみた。中でももっとも興味を示したのが、食レポの動画だった。いずれも素人の動画だ。観光地から商店街まで、練り歩いては、美味そうな料理を食べ歩くだけで、視聴回数は少なく、評価も低いが、この類の動画は腐るほどあった。
ヨウはことさら、人間社会の街並みに興味を示した。
思えば、こうして部屋に運んできてからはまだいちどもヨウをそとに連れだしていない。
よくよく考えてもみれば、と頭が痛くなってくる。ヨウをかってに持ちだしてきた時点で、立派な拉致監禁なのではないか。
とはいえ、元からヨウはこうして小瓶の中に封じられている。あんな薄暗い祠の中に仕舞われているよりも、すくなくともいまはまだ自由にちかいはずだ。
必死に正当化しようとするじぶんを情けなく思う。なぜ情けなく思うのかは深く考えたくなかった。
「そとに行ってみるか」
訊ねてみるも、ヨウはこちらを見上げ、小首をかしげるばかりだ。
休日にヨウといっしょに買い物にでかけた。
移動中も景色が見えるように、手に持って運んだ。ペットボトル飲料を腰やカバンに下げるホルダーに入れようかとも考えたが、歩いているあいだは大きく揺れる。目を回させるわけにもいかないので、けっきょく手で持って運ぶことにした。
バスに乗り、電車に乗ったが、周囲の人間がこちらの持つ小瓶に注目することはなかった。となりに座った子供や赤ちゃんは、中身が気になるのか、じっと見る傾向にあるのはおもしろい発見だった。
見せてあげたい気持ちも湧いたが、乗り物の中にいるあいだはヨウが見えてしまわないように両手で覆っていた。
体温ですこし暑くなってしまったのかもしれない。
公園のベンチに置いたときには、ヨウはすこしぐったりしていた。
それでも、ベンチから見える景色に興味が向くや否や、小瓶の側面に貼りつく。動物園に初めて連れてこられた子どもじみている。
何度も目にしてきた姿だが、回を重ねるごとに思いがつよくなる。
だしてあげられないだろうか。
本当はただ、ヨウに触れたいと思うじぶんがいるだけかもしれなかった。
手放したくない。
そう思うがために、蓋を開けずにいるだけかもしれない。小瓶にさえ入っていれば、いくらヨウが拒もうが、彼女はじぶんの所有物だ。
だからこそ、小瓶のそとにだしてあげたいと望みながら、そのじつ、ずっとこのままがいいと願う、醜いじぶんが、脳裡のもっとも根幹のところに深く根を張っている。
自然の風景のほうがよいかと思い公園にきてみたが、ヨウはどちらかと言えば、人工物、それこそ人間の営みのほうに興味があるようだった。
商店街へと移動した。小腹が減ったので、出店で買い食いをしながら歩いた。
「食べたくならないか?」
穴のないドーナッツは、団子状に串で連なっている。中にはそれぞれチョコとカスタードとズンダが入っていた。
「なんか申しわけないな」
美味いだけに、ヨウに分けてあげられないのが胸にくる。こちらの心境などおかまいなしに、ヨウはただ、興味ありげに目を輝かせている。
ヨウは笑わなかった。微笑んだり、瞠目したりすることはあっても、お腹を抱えたり、大笑することはなかった。
だからこの日、なんの気なしに連れていったペットショップでヨウが笑ったのにはこちらのほうが度肝を抜いた。
犬や猫には、やや臆していたヨウだが、熱帯魚コーナーに入った途端に、身体にまとった羽をビビビと逆立たせ、髪の毛や瞳の色が、びみょうに澄んだ青に変わった。
警戒したのかと案じたがどうやらそうではないらしい。
コツコツ、と小瓶の側面をゆびで突ついては、このさきに行きたい、と意思表示する。こんなことはこれまでなかった。
立ち並ぶ煉瓦のような水槽のまえに連れていくと、ヨウは、気泡の途絶えぬ水槽と、そこに泳ぐ色とりどりの魚たちに目を奪われていた。
知れず膨らんでいくヨウの羽に、耳を立てる子犬を連想する。
「気に入ったのか」
水槽を順々に見ていく。「どれがいい? 好きなのを選びな」
言葉は通じていないはずだ。それでもヨウは、真っ青の熱帯魚を選んだ。
ほかの水槽も観たい、と主張するように小瓶の側面にゆびを突きつけ、方向を示しながら、最後には同じ水槽へと戻ってくる。何度もゆびさし、観たがったのが、その真っ青の熱帯魚だった。
自身の胴体と同じくらいある魚だ。どことなく、ひれの具合が、ヨウの羽と似ているなと感じた。
やはりさびしいのだろうか、とそんな想像を働かせるのはヨウに失礼かもしれない。
夜、自室の布団で目を閉じると、まぶたの裏に、ヨウのちいさな、ちいさな、ゆびが浮かんだ。小瓶の側面をいくども叩いたそのゆびが、なんとまた愛らしく、なぜそれに触れられないのだろうと、悶々としたまま、夢を見た。
青い魚の背中に乗って、メリーゴーランドのごとく回るヨウへと手を振るじぶんがいる。
ヨウはなぜか人間と同じ背丈だ。手を振りかえすその仕草は幼いものの、駆け寄ってくる彼女は、おとなと言ってもいいくらいの凛々しさで、こちらの手をとると、つぎはあれ、と言うかのように、どこへともなく引っ張っていく。
目を覚ます。
窓から差し込む日差しが小瓶にかかっている。中で眠るヨウが、妖精のように美しく輝いて映った。
否、妖精なのだ。
人間ではない。この世にいないはずの存在が、こうしてそこにいる。
彼女はその中から出られない。
いや、彼女がそれを拒んでいるだけで、本当は出られるのではないか。
思うが、試すだけの度胸はない。
よしんば試したとして、その後にヨウへ何かよくない変調が起こるかもしれないことを思うと、容易には蓋を開けられはしないのだった。
気づけば大学にまで小瓶を持ち運ぶようになっている。四六時中、ヨウと共にいる。ただそれだけで、日々に色が宿ったようだ。
ずっとこのまま、彼女がじぶんのものだったら。
望めば望むほど、彼女を物扱いするじぶんの卑しさに気持ちがわるくなる。もっと純粋に彼女と通じあいたい。彼女の望むことをこそ、じぶんのよろこびとしたい。あわよくば、彼女からもずっとそばにいたいと求められるようになりたい。
そのためにできることがあれば何でもしたいと、驚くほど素直に、なんの葛藤もなく考えている。
アパートの自室には真っ青な熱帯魚がいる。ヨウはそれを眺めるときにだけ、身体をつつんでいる羽を緩め、文字通り目の色を変える。ときおり、ほぉ、と息を吐く仕草を目の当たりにすると、なぜか分からないが、熱帯魚なんて買ってこなければよかった、と後悔の念に駆られた。
彼女のためなら何でもすると望んだ舌の根の乾かぬうちに、彼女の好いたものを否定する考えを浮かべるのは、いよいよを以って、頭がどうにかなってしまったのだと思った。
いちど、小瓶を家に置いたまま大学構内の林に足を運んだことがある。例の祠を見つけた場所だ。
祠自体はまだそこにあったが、中に放置してきた呪符がなくなっていた。地図にあった場所にもういちど行ってみようとしたがどうしても辿りつけず、家に戻ってから探したが、祠から持ちだしたはずの地図がどこにも見当たらなくなっていた。
学生課や教授に話を聞いてみたが、大学が建つ前の土地について知っている者はなく、林の祠についても知っている者はいなかった。
大学を建てた建設会社にも連絡をとってみようと思ったが、複数の会社が合同で請け負っていたと知ってからは、これ以上あの祠について考えるのはやめよう、と結論した。
わざわざこちらからヨウと離れ離れになる運命に近づくことはない。
お堂から小瓶を持ちだしたと露呈すれば、すくなくともいまの生活はつづけられないだろうと思えた。それはきっと正しい推論であり、妥当な考えだった。
他人に隠さなければならないことをしている。
ヨウの一挙手一投足を目にするたびに世界に色の宿る高揚感を覚える。宝物だと感じ、物ではないと否定する。ヨウはこの世にあるただひとつの存在だ。
女神だと言い表したいくらいだが、その女神を小瓶に詰めたまま、こうして愛でる日々を送るじぶんはでは何だと問うと、脳裡の奥底から返ってくる声はいずれも、暗く陰湿な答えに染まっている。
季節が変わった。息を吐くと白く濁る。
このごろ、ヨウはふだんに増してよく眠るようになった。そとに連れだしても、以前のようにはしゃぐことはなく、なんだかすこしぐったりしている。身体をまとっている羽の色も思えば、ずいぶんどす黒く、髪の毛も気づけば短くなっている。
小瓶の内側には煤のような汚れが付着しはじめ、なんとなしに不健康な印象を覚える。
蓋が開かない以上、きれいにしてあげることもできない。
食事を摂らないヨウはだから排泄物もない。
汚れる道理はないはずが、これはどうしたことか。
「ヨウ、だいじょうぶか。痛くはないか。してほしいこととか、何んでもいい、何か言ってくれ」
よしんばヨウが口を利いたからといって、それを解する真似ができるわけではない。
だが彼女は目に見えて、弱っている。
そうだ、これは脆弱しているのではないか。
「ヨウ、ヨウ」
あまりに長く寝付くものだから、夜にはいちど声をかけ、死んでいないかを確かめることも珍しくなくなった。
窓の外には雪が舞っている。粉雪だ。気温が低いからだ、と何ともなしに考える。
ヨウは小瓶の中で咳をした。なぜか分からないが彼女はこちらに向け、微笑みかけるようにする。
安心させようとしているのかもしれない。そんなことをする必要はない。そんな価値は、おまえの目のまえにいる役立たずにはないのだ。
このころになってようやく、妖精なるものについて真剣に調べはじめた。大学の図書室で本を借りた。県立の図書館にも行って、関連書籍を漁った。初めて司書というものを利用した。じぶんでもそれなりに探していたはずが、見落としていた本を片っ端から探しだしてくれる手腕には素直に助かったとの思いが募る。
妖精について語られた書籍は数知れないが、やはりというべきか、いずれの記述も伝説の生き物の域をでない。妖精の生態にまつわる具体的な記事は一つも見つからなかった。
司書の見つけてきてくれた本のなかに、ホムンクルスのつくり方なる記事があった。海外の本だったが、絵が載っており、ふと目が留まった。
小瓶についていた呪符にそっくりの文字列がそこにはあった。
メディア端末の翻訳機能を使い、書籍を読み解いていく。オリジナルは紀元前のもので、それを数百年前に翻訳したものを、さらに現代版に復刻した本であるらしい。
それでも古い本には違いなく、翻訳した文章も、いまいち言語としていびつだった。
読みとれた部位もあるにはあったが、けっきょくのところ、瓶から出したら死ぬこと以外の情報は得られなかった。
図書館から本を借りられるだけ借り、持ち帰る日がつづく。
雪が舞うようになってからは小瓶をそとには持ちださないようにした。ヨウが寒さに弱いようだと気づいたからだ。思えば、小瓶は最初からどこか生暖かかった。ヨウの体温かとも思ったが、そもそもそういう環境でないとヨウは長く生きられないのではないか、と察し到った。
小瓶をお湯につけると、ヨウはすこし元気になった。家にいるときはできるだけ、お湯の張ったプラスチックの風呂桶に浸けておくようにした。共に風呂に入るのは日課と化して久しいが、まじまじとこちらの身体を眺めるヨウの視線に落ち着かず、タオルが手放せない。さいきんではそれも、ヨウが目覚めないので、意味ある配慮ではなくなった。
眠っているヨウの、上下に大きく動く胸を見ていると、出処の分からない焦燥感に駆られる。
このままではまずい。
なんとかしなくては。
思えば思うほど、じぶんにできることはなにもないのだとの現実に気づき、打ちのめされる。
なりふり構っていられずに、大学の校舎を建てた業者を調べなおした。片っ端から連絡をとったが、祠の話をして食いついてくれる相手はなく、また一介の学生の、なんの用事かも杳として知れない電話に時間を割くような会社は会社としての体を成しておらず、結論を言ってしまえば、なんの成果もなく、ヨウと過ごせる貴重な時間をただ無駄にした。
なぜ無駄だと考えるのかすら考えたくなかった。
これから死ぬまでずっと共にあればいい。小瓶を手放さずにいればそれで済む話だ。
言い聞かせようとするも、身体から浮いたヨウの羽の萎びた様を見るにつけ、悠長に現実逃避などしてはいられない。
いっそのこと動物病院にでも運びこもうかとも思案した。じっさいに病院のまえまで足を運んだこともあったが、けっきょく、小瓶からヨウをださないことには診察を受けられないのだと気づき、踵を返した。
街は一面灰色に染まっている。街灯を見上げると羽虫のようにこんこんと雪が降りしきる。
最後に残った、ヨウのためにできること。
もういちどあの、山と森のあいだにあったお堂の祠に小瓶を戻せば或いは、と考える。ヨウはこれ以上、弱り果てることはないのではないか。
これまでにも幾度か道を辿ったことがある。見覚えのある山の麓までは行き着くのだが、そのさき、森に分け入っても、どうしてもお堂が見えてこない。
ヨウを連れていけばひょっとして、と思ったが、結果は変わらなかった。
「見覚えはないか」
ヨウに道を訊ねてみるも、苦しそうに咳をしたあとでヨウはきょとんとこちらを見上げるばかりだ。
冬の景色そのものがヨウの体力を奪っていくかのようだ。日に日に、こちらの呼び声にすら反応を示さなくなっていく。
「こんなことになるとは思わなかったんだ。ごめん。ごめん」
謝罪の念すらヨウには届かないというのに、ただそうして小瓶を温めながら見守ることしかできない。いっそこのまま共に果てるのもよいのではないか。
食事を抜くと、なんだかヨウに近づけた気がした。
こちらが元気を失くす分、ヨウに生気が戻るのではないかと期待するが、そんな都合のよい奇跡は起こらない。
せめてヨウと同じ苦しさを味わえれば、すくなくとも何もできない罪悪感は相殺された。単なる露悪的な自傷行為にすぎなかったが、そうでもしないと耐えられないほどに、ヨウの脆弱ぶりは目に余るものがあった。
正視に堪えない。
ヨウの美しさが、その儚さを増すごとに際立っていくのがまたいちだんと胸をつよく締めつける。
ヨウはいよいよ自力で立つこともできなくなった。身体はところどころ黒く淀み、熟したバナナを思わせた。
身体をまとっていた羽は、筋のみを残し、枯れ果てている。脇腹には骨が浮いている。彼女にも骨格や内臓があるのだといまさらのように思った。
生きているのだ。
苦しげに呼吸をするばかりの彼女を見ているだけで、涙がとめどなく流れた。
なにもできないこともそうだ。
それ以上に、美しい。
こんなにも美しいものを、なぜ、なぜ。
漏れる嗚咽に気づいたのかもしれない。ヨウが目を開け、底に伏したまま、ただ微笑む。
安心させるかのように。
だいじょうぶだと示すように。
歯を食いしばる。じぶんの仕出かした過ちに、圧し潰されそうだ。
なぜ持ちだした。
なぜ放っておかなかった。
なぜ神は。
頭を抱え、髪の毛をむしる。助けてくださらない。
信仰心などつゆほども持ちあわせてはいない。そのくせ、こうしたときばかり縋りつく。しかし、彼女を創った者はいたはずだ。なぜその者は彼女にかような末路を用意した。
なぜ小瓶に。
なぜそとではなく。
自由を与えず、同胞もなく。
なぜ但し書きのひとつも添えなかった。
絶望は怒りへと変わり、ひとしきり責めあえいだのちに、虚無へと消えた。
すべてじぶんがわるい。
だが、それでも、彼女だけは、ヨウだけは何もわるくない。
わるくはないのだ。
ふと見ると、ヨウが手をまっすぐと伸ばしている。小瓶の底に仰臥した体勢で、ただまっすぐと、腕を真上へ掲げている。
何かを掴みたがっているようでそうではないのだとなぜか分かった。
「でたいのか」
小瓶を手でつつみ、もういちど、
「そとに、でたいのか」
問うと、ヨウは小瓶の側面に触れ、ちいさく口を動かした。
……タイ。
声なき声が聞こえた気がした。
蓋を開ける。幾度も考えてきた選択肢だが、実行に移せなかった。ヨウ自身がそれを拒んできたからであり、同時に、古い書籍にあった文面が脳裡に深く刻まれていたからでもある。
そとに出せば死ぬ。
ヨウがそうなると決まったわけではない。ひょっとしたら単なる酸欠で、蓋を開ければとたんに活力を取り戻すなんて展開もあるかもしれない。
だが、そうならないことはつよい予感としていまなお拭えぬままにここにある。
後戻りはできない。
取り返しはつかない。
だが、ヨウがそれを望んでいる。
拒むことは許されないのだと思った。
「開けるよ。いいね」
蓋をゆびでつまむ。ヨウはただ真上を眺めている。栓をしにのぼる元気はすでになく、またそれができたとしても彼女はもうそうしないだろうと察し到れた。
コルクのように詰まっていた小瓶の蓋をひねり、抜いた。
とろみのある液体じみた空気が、溢れでては、手のふちを撫でる。生暖かい。
川に流れる笹船じみて、ヨウが穴を通り、すべり落ちてくる。
手のひらで受け止める。
ヨウ。
呼びかける。
彼女は目を開くと、こちらのゆびに顔をこすりつける。
彼女の身体に広がっていた黒い淀みが、またたく間に拡がる。
どうすることもできなかった。
あとにはただ、彼女だったものが黒く、煤のように残った。
嗚咽すると、煤じみたそれすら、こちらの漏らした吐息に、舞いあがり、空気に混じっては、もう、その片鱗すら見えなくなった。
静寂のなかで慟哭した。
慟哭が静寂を連綿と保つ。カラになった小瓶を掻き抱くと、最後に見せた彼女の仕草や笑みを振りかえり、その意味を考え、さらに深い静寂へと身を投じた。
どれほどそうしていたかは分からない。
気づくと病室のベッドのうえにいた。看護師が目覚めたこちらに気づき、間もなく医師がやってくる。
医師は滔々と説明した。隣室の女性が、深夜の叫び声を怪訝に思い、警察に通報をしていたこと。扉には鍵がかかっていたが、窓から部屋を覗くと、倒れている家主が見えたこと。部屋に突入し、パトカーで病院にまで運んだまでのことを医師は、理路整然と並べ立ててみせた。
「ヨウは」
そこまで口にしてから、なにもかもが夢のような気がした。
医師はベッドに備え付けてある机を示し、取りあげるのに苦労しましたよ、と言った。
「あなたずっとそれを抱いていて。診察するにも、手放さないものだから」
カラの小瓶が置いてある。
手を伸ばし、掴む。
ひんやりと冷たい。
「このなかに」
なぜか口を衝いている。「妖精がいたと言ったら信じてくれますか」
「やあ、それは素晴らしい」
医師は席を立つ。「見つけたらまた教えてください」
病室から去っていく医師の背中を見届けながら、小瓶の口に唇を近づける。
鼻で深く息を吸うと、すこしだけ甘くやさしい匂いがした。
どこで嗅いだかも覚束ないその匂いを、なぜかとても懐かしいと感じた。
窓のそとは吹雪いている。
春になったら。
と、まだ遠い未来のことを考えている。
彼女と回った街を巡ろう。
そしてまた青い熱帯魚を一匹だけ購入する。
部屋のなかで飼っている一匹といっしょに飼う。
この小瓶に入れて飼ってもよいが、それはやめておく。
【夢でも見たのよ】
サチが六歳になった年のことだ。秋の暮れ、夜ごとになにやら姉が家を抜けだしていることに気づいたサチはこっそりあとをつけた。
姉は、村の若い男たちといっしょになって、長老たちからは近づくなと言いつけられていた古い神社の境内に集まっていた。
もうすぐ冬の祭りがある。
その準備かとも思ったが、なぜおとなの姿がないのかとふしぎに思った。
子どもたちだけでなにかしら催し物をするとして、なぜじぶんは誘われないのか、と仲間外れにされたことを口惜しく思った。
だから、姉たちが神社のさらに奥へと足を踏み入れてからもサチはこっそりあとをつけた。
神社の奥は森へと通じている。月光も地面までは届かず、徐々に真の暗がりへと姿を変えていく。
たしかこのさきには、とサチは思いだす。
古い井戸や、そのさきにはいまはもう誰もお参りすることのない、誰のものとも知れぬ墓場があったはずだ。
行ったことはないが、よく母や祖母が言うことを聞かないサチに、その話をしては、よい子にしていればだいじょうぶ、となんの慰めにもならぬことを言って、家の手伝いをさせた。まるでよい子にしていなければ何かがやってくるような物言いに、ただただ恐怖心をあおられた。
足元が覚束ない。徐々に姉たちの足音も遠ざかっていく。いよいよとなってサチは声をだした。
「姉さま、姉さま」
足音が近づいてくる。「サチ? サチなの。黙って着いてきたらダメじゃない。母さまたちは? 内緒できたの?」
息吐く間もなく詰問責めに合い、サチはあたふたする。
「だって姉さまが、姉さまが」
「分かった」姉の吐いた息が、暗がりだというのに白く浮きあがって見えた。「母さまたちには内緒よ。できる?」
小刻みに首を上下に振る。
きょうはやけに優しい。
ひょっとしたら目のまえのこの姉は、姉の姿をした何かしらではないのか。
想像すると背筋がぞくぞくとしたが、縋るものをなくしてはたまらん。目のまえの姉には是が非でも姉であってもらわなくては、とサチは姉の手を握る。
「ちょっと、歩きにくい」
このにべのなさは姉さまだ。
いつもなら胸のきゅぅとなる叱声に、サチは胸が軽くなるのを感じた。
「どうした、なんで戻った」前方のほうから男たちの声がした。
「ごめん、妹が」
「おいおい、どうすんだ」
「だいじょうぶ、このコは私の言いつけなら守るから」
守らせるから、と言った姉の声はどこか冷たい。
「帰さないのか」
「親に見つかるかも。そしたら私がいないことまで」
男は舌打ちをした。なぜ彼らは松明を持たないのだ。サチは段々と着いてこなければよかったと後悔しはじめている。
「しょうがねぇ。が、もしものときは分かってんだろうな」
「このコはだいじょうぶ」
分かってんのか、と繰りかえす男は苛立たしげだったが、姉は臆することなく、そのときは好きにして、と言った。
沈黙のあと、男たちがふたたび歩きだす。姉はそのあとにつづき、サチはその手に引かれた。
「姉さま、姉さま。これはなに?」
なにをしているのだ、と問うた。
「肝試し」暗がりに姉の声が染みては消える。
「夏じゃないのに?」
「夏じゃないからやってみたくなったの。いいから黙ってなさい」
ぶー。
サチはもうとっくに飽きてしまって、帰っていいなら一人で家に戻りたい気分だった。かといって、もうずいぶん暗がりを突き進んできた。帰ろうとしても道が分からない。
姉たちはなぜ道が分かるのだろう。まるで見えているかのように黙々と進んでいく。
やがて、景色が開けていく。
池だ。
サチは、ほぉ、と息を吐く。
月光を反射した水面は美しく、森のなかにこんな場所があったのか、と感動した。
「サチはここで待ってて。動かないでね。バケモノに食べられてもしらないから」
投げやりに言うと、姉はするりとこちらの手から抜け、池を迂回しはじめている男たちのもとへと駆けていく。
肝試しと言っていた。ならばきっとこの池にも何かそういういわくがあるのだ。
しかし、サチの目には、ただただ美しい夜の池が映っている。おそろしいと思えば、一寸、背筋がぞくりとするものの、満天の星空が地面にまで広がったような光景は、知れずサチの恐怖心ごと浄化してしまうようだった。
冬なのに夜風が妙に生暖かい。
じぃと眺めていると、池から湯気がのぼっているのが見えた。オバケかとも思ったが、ずいぶんと広い範囲にわたって昇っているので、あー、お風呂みたいだな、とサチは思った。
温かいのだ。
水草がじゃまで近づけないが、きっとこの池にはお湯が沸いている。
おおきな温泉だ。
川からも水が流れこんできているようだから、生ぬるいのだ。
お風呂に入るときにサチは差し水をする。同じようなものかもしれない。
遠くで何かの獣が吠えている。
サチは耳を澄ます。
もういちど聞こえた。
そう遠くないのではないか、と腰を浮かす。
姉たちはまだ戻らないのだろうか。
「サチ、サチ」
姉の声だ。足音が近づいてくる。「もう行くよ、何もなかった。帰ろう」
姉だけでなくほかの男たちの姿もある。肝試しにしてはずいぶん早い気もするが、サチにはもう、時間の感覚が分からなくなっていた。ずっとここにいた気もするし、半刻も経っていない気もする。
「行くぞ」
男たちが先導する。姉があとにつづくが、サチは立ち止まる。
「どうしたの、行くよ」
「でも」
姉がぐいと手を引っ張るものの、サチは踏ん張った。
「あれ、なに?」
いましがた姉たちがやってきた方向、何かが暗がりのなかを歩いている。
「どれ? 何を言ってるの、お姉ちゃんたちを怖がらせるのはやめなさい」
「でもでも、あれ」
それは一瞬見えなくなったが、こんどは地面を這うようにして近づいてくる。距離はまだあったが、背の低いサチにはよく見えた。向こう側の池とちょうど重なっているため、動く何かが影になっていた。
「なにか見えんのか」そばにいた男が言った。「おまえら、何か見えるか」ほかの面々に水を向けるも、誰もが、いや何も見えんが、と戸惑うような声ばかりを返す。
「でも、ホントにいるんだもん、あそこ!」
ジャリジャリ、ズルズルと地を這う音はすぐそこまで迫っている。
「分からんが、逃げたほうがいいかもな」男の声に、そうね、と姉が応じる。「子どもは霊感つよいって言うし」
じゃあなに?
サチは血の気が引くのを感じた。
あれはオバケだって言うの。
男たちの一人にサチは担がれた。「騒ぐなよ、追ってくるかもしれん」
駆けだしたすぐ後ろを、姉が追ってくる。姉の顔が見えるのはよいが、そのずっと奥、遠ざかる景色に、サチは確かに見た。
血にまみれた人間が、恨めしそうにこちらに手を伸ばしている様を。
呻き声はかすれて聞こえなくなったが、逃がすものか、といまもまだ池のそばで近づく者を待ち構えているのではないか。
想像しては、背筋をゾクゾクと突き刺す悪寒に、サチは震えた。
神社まで戻ってくると、サチは男の肩からおろされた。
「いい、サチ」姉がしゃがみ、目線を揃える。「あんたは厠に行ってただけ。私は怖がりのあんたのお守りをしてただけ。そうでしょ?」
「うん?」
「家をかってに抜けだして遊んでたなんて知られたら、あんただって困るでしょ。いいの、母さまたちに折檻されても」
首をぶるぶる横に振る。
いいわけがない。
「だったらお姉ちゃんの言うこときけるね。あんたは厠に行きたくなって、私にお願いしてついてきてもらっただけ」
「うん」
「母さまたちが寝てたらそのままあんたも寝る。私も寝る。きょうのことは夢だった。いい?」
「うーん」
「夢ってことにしとかないとオバケがついてきちゃうかもな」
男が言った。子ども騙しだと分かっていたが、現にみなには見えていないものをじぶんだけが見てしまっていたので、サチは、わかった、と頷いた。
「そ。いいコね」
きょうの姉はやけに優しい。やはりこの姉こそがオバケではないのか、と疑りたくなる。
「俺たちはさきに戻る」
「うん。ありがとう」
「気にするな」
「おやすみ」
姉としゃべっていた男たちは三人組だったようだ。もっと多い気がした。
「あのひとたちは誰?」
「誰でもいいでしょ。ほら行くよ」
姉はこちらの手をとり、引っ張るようにして歩かせた。
神社の境内を抜け、家が見えてくると、途端にどっと眠くなった。
そのまま厠のよこをとおり、家に入る。
姉は布団をかけるところまで面倒を看てくれた。
「姉さま、おやすみなさい」
「おやすみ。いい夢見なよ」
姉は襖の奥へと消えた。
翌朝、目覚めると姉は母と共にせっせと朝食の支度をしていた。
「顔洗ってきてあんたも手伝いなさい」
昨夜かってに家を抜けだしたことに母は気づいていない様子だ。姉は何事もなかったのように淡々と料理を運んでいる。
「姉さま、姉さま」
こしょこしょ声で話しかけると、姉はただ、夢でしょ、と言った。
大根をおろすのがサチの仕事だった。
みなで焼き魚を食べ終えるころには、すっかり陽は昇り、本当に昨夜のできごとは夢だったような気がしてくる。
否、夢ではない。
そのはずだ。
姉たちは見えないと言った、あの地を這うナニカだって本当にサチには見えていたのだ。
いまごろになって、腹が煮えてきた。
ウソ呼ばわりされたこともそうだが、サチが気づかなければいまごろ姉たちはみな祟られて、ただでは済まされていなかったはずだ。
感謝の一つもあってよいのではないか。
しかし、姉に昨夜の話をしようとしても、にべもなく、夢でしょ、と一蹴されて終わりだ。
「夢じゃないもん」
意固地になるのは初めてではなかった。これまでにも姉に相手にされず、数々の強情を張っては、痛い目を見てきた。潔く、夢でした、と認めればよいものを、そんなおとなな対応を齢にして六つになったばかりのサチに期待しろというほうが土台無理な話だ。
サチは姉たちを出し抜きたかった。
そんなものはいない、夢でも見たんでしょ。
言われれば言われるほど、サチは、じゃあべつに行ってもいいでしょ、という気になった。
確かめに行きたかった。夜はこわい。しかしあの池の美しさを思いだせばなんとかなる気がした。陽の出ているあいだならば、森を抜けるのも難はないと思えた。
洗濯物を干す母の手伝いをしてから、サチは遊びに行ってくる、と言って家をでた。姉は学校に行っているはずだ。サチは来年から通うことになっている。
河川敷の広場では冬の祭りの準備が進められている。即席の神社をつくるのだ。
なぜこの神社を使わんのだろう。
いまは使われていない神社の境内を抜けながら、サチは疑問する。
森に入る。さわさわと心地よい風が吹いている。夜とはえらい違いだ。
こんなに清々しいのならば、母も誘ってきてもいい。
よい場所を知っているね、と褒めてくれる母を思い描きながら、サチは、近づくなと言ったはずだよ、と叱られるじぶんも想像した。
やがて池が見えてくる。
森とは違ってこちらは、夜にきたほうがより美しいと思った。
池というよりも沼にちかい。水は澄んでおらず、水草がジャマで魚がいるのかも分からない。
サチはきのう、立った場所を探す。
たしか、この辺に。
目を配るも、じぶんたちの足跡は残っていない。
蹴ってみると、砂利道は深くえぐれた。こうでもしないと跡はつかないのだ。
ふと、視線のさきに、小屋が見えた。
あんなところにそんなものがあったのか。
近づこうとしたところで、はっとする。地面に、こんどはくっきりと何かの這った跡が残っている。一部だけでなく、それは小屋のほうから、溝となってつづいている。ナニカがずるずると足を引きずったみたいだ。
急におそろしくなったサチだったが、景色は明るく、背筋もぞくぞくしない。
思えば、襲ってくることもなく、こうして地をずるずる這うしかないナニカを怖がる道理はない気がした。走って逃げれば済む話だし、そもそも昨夜だって追ってこなかった。
ナニカがいると判ればそれでよかった。
小屋のなかを覗いて、走って逃げよう。
そこにナニカがいてもいいし、いなくともよい。
すくなくともやっぱりきのうの夜、ここにはナニカがいたのだ。
一人でもういちどここまでこられたことにも達成感があった。姉はきっと褒めてはくれないが、内心見直してくれるかもしれない、とじぶんを鼓舞する。
小屋に近づくと物音がした。やはり何かいる。
物音はしだいに大きくなり、何か作業をしていると判ってくる。
話し声まで聞こえてきたのには驚いたが、そこにいるのがオバケではないと判ると、肩を落とす共に、緊張がほどけたのを感じた。どうやら思っていた以上に身構えていたようだ。
足音に注意しながら、こっそり小屋を覗く。中には誰もいない。声は小屋のよこ、船着き場から聞こえてくる。
なあ、これは。それもだ。細かすぎないか。魚に食わすんだろ。
聞き覚えのある声だ。
昨夜、姉のそばにいた男衆の声に似ている。
サチは小屋のなかに身をひそめる。壁は穴だらけだ。
覗きこもうと壁に顔を押しつけると頬に棘が刺さった。ゆびを台にして、もういちど穴を覗くようにする。
男が二人いる。漁師のように何か作業をしている。ひたいの汗を拭っている。きょうはもうこれでいいか、と一人が言い、もう一人が、そうだな、と相槌を打つ。
昨夜のオバケもひょっとしたら彼らの用意したいたずらだったのかもしれない。姉を怖がらせようとしていたのか、それともほかに目的があったのか。
いずれによせ、サチは一つ担がれたことになる。
彼らにもきっと昨夜のオバケは見えていたはずだ。それを見えないなどと言って、サチ一人を除け者にした。
村にはサチと同い年の子どもがすくない。こうして年長組の子どもたちから除け者にされるのには慣れていた。だからこそ、昨夜の、特別な体験を姉たちと共有できたのはサチにとってはよろこばしい思い出となった。
それがどうだ。
じつのところ、ここでもまた除け者扱いされていただけだったのだから、湧き立つ憤りは、癇癪寸前だ。
いまにも暴れたくなったが、ここはぐっと我慢する。
いっそのこと、彼らの大事にしているナニカを壊してやることも辞さない構えがサチにはあった。
本日はもう作業をやめるという。ならばそれをここに置いていくはずだ。こっそりダイナシにしてやる。
さっさと後片付けを済まし、男たちはその場を離れていく。何かを池に撒いた音も聞こえたが、それが何かまでは見えなかった。男二人は小屋のまえを通ったが、中にいるサチに気づいた様子はない。
男たちの足音が聞こえなくなってからサチは小屋を出た。
船着き場の短い橋のうえに立つ。何かが水に浸けてある。網だ。網の中に何かが入っている。
引き上げようとするも、なかなかに重い。
そうこうしているうちに、魚が集まってきた。水は濁っているため、魚の全貌は見えない。ちいさな魚が水面に波紋を広げている。
橋のうえに這いつくばり、水に手を伸ばす。網の隙間に手を突っこみ、中の物を掴み取ろうとした。
ゆびさきが触れる。なにかヌメヌメしている。
弾力のある塊を掴んだ。引き上げると、なぜか手が二つある。
サチは息を呑む。
じぶんのちいさな手が、それより大きな手首を掴んでいる。
手首のさきに腕はなく、断面は灰色に濁っていた。血がすっかり抜けたからだ。サチは朝食の用意をするときによく見かける、血抜きをされた魚を思いだす。
「おい」
と、背後から声がし、飛びあがる。
小屋の影から、先刻去ったはずの男たちが顔を覗かせた。そのままこちらのまえにやってくると、ぐいと襟を掴み、なんで来た、とドスの利いた声をあげた。
「やめろ」
もう一人の男が言った。姉よりもすこし年上に見えた。「こうなったら仕方ない。せめて痛くないようにだけしてやろう」
耳を疑った。
どういう意味だ。
サチは頭のなかが真っ白になる。何かを言おうとするが、謝罪以外の言葉を見繕うことはできなかった。
「恨むなよ。いや、恨まれても致し方ないか」
一人がこちらの身体を橋に押しつける。伸ばした片手に、もう一人が、斧を手渡す。さっきまではなかったものだ。小屋のなかに仕舞ってあったのかもしれない。
「砂利がえぐれてて、妙だと思ったんだ。まさかまた来るとはな」
足跡が残らないかと確かめるために、先刻蹴った砂利道のことを思いだす。余計な真似をした、と舌を打ちたかったが、いまではもう呼吸すらままならない。
斧に日差しが反射する。それをどうするつもりか。サチは手に持った、じぶんのものではない手首を投げつける。顔面に当たった手首を物ともせずに、男は斧を持つ手にちからをこめた。
いざ振り下ろされん、としたとき、砂利を踏みしめる音が近づいてくるのに気づく。男たちにも聞こえたようだ、動きを止めた。
「ごめん、遅れた」
小屋の影から姉が姿を現した。
こちらの姿を目に留め、男たちに目を転じ、さらにもういちどこちらの顔を見ると、一目散に斧を持った男に飛びかかった。
「なにしてんの、サチを離して」
「わかった、わかった、やめろ、危ない」
男は無抵抗に斧を手放した。姉は斧を池に投げ捨てる。あーあ、と残念そうに声をあげる男たちをしり目に、こちらに抱きついた。「サチ、バカ。なんでこんなとこにいるの」
「だってオバケがぁ」
じぶんでもなんと言っていいのか分からず、わんわん泣いた。
「どうすんだよマイ。見られちまったぞ」
「このコは関係ない」
「きのう言ったよな」もう一人の男が言った。このなかでいちばん彼が歳を重ねている。「もしものときは分かってんだろうなって。マイ、おまえ言ったよな。分かってるって」
「関係ないよ」
「ねぇわけあるかよ」
森閑とした池に男の怒声はよく響いた。姉は負けじと睨み据えている。
「サチ、あんた何か見た?」姉は縋るように言った。
「やめろやめろ。さっきソイツに投げられた。見えるかこれ」
男は手首を拾いあげる。姉は目を伏せた。
「見てないよね? 分かんないよね」
姉はまだこちらに何かを言わせたがったが、サチにはどう答えていいのか分からなかった。
「ことしで冬の儀式も終わる。いいのか。もしバレたらおまえだけじゃねぇ、ソイツだって」
「分かってるってば」
姉の怒鳴り声を聞いたのは久しぶりな気がした。「サチ。あんたはまだ子どもだから、ちょっと妙なもの見ただけだよね? 霊感つよいって言ってたもんね」
「まだ言うかよ」
「ね? ね? お姉ちゃんの言うことわかるでしょ、お願い、うんって言って」
「サチ、何も見てない」
涙でまえが見えないからそう言った。本当にいまは、姉の顔すらかすんで見えない。なぜ姉がそんなに必死になっているのかは定かではなかったが、すくなくともそれは、姉自身の保身ではないのだということだけは、痛いくらいに伝わった。
じぶんの仕出かしたことが姉にとって取り返しにつかないことなのだということも、なんとなしに分かっていた。
「嬢ちゃん」男がすぐそばにしゃがんだ。姉の肩越しに目が合った。「これから村で、長老がいなくなっただの、なんだの、ちょっとした騒ぎになる。なに、ふざけた男だったから、どこぞに慰安にでも行ったんだろ。そういう話になるはずだ。そのことと嬢ちゃん、おめぇさんが見たことはまったく、これっぽっちも関係ねぇ。分かるか?」
黙っていると、姉が、鋭く、サチと呼んだ。
すすっても、すすっても垂れてくる鼻水を盛大に吸ってからサチは、精いっぱいの気持ちを籠めて、はい、と言った。鼻声で、まるで濁点にまみれていたが、男はそれで承知したようだ。乱暴に頭を撫でてから、姉ちゃん困らすなよ、と言ってこんどこそ、その場を立ち去った。
「マイ、おめぇはもうくんな。あとは俺たちでやる」
去り際に言い残したが、姉は返事をしなかった。
帰り道、姉に手を引かれながら歩いた。何度も木の根に足をとられたが、その都度、姉がチカラいっぱいに引っぱり、支えてくれたのでこけることはなかった。
森を抜け、神社の境内まで戻ってきたところで、サチは鳴りやまないしゃっくりを堪えながら、お姉ちゃんごめんなさーい、と言った。
「サチのバカ」
姉はそのときにいちどだけ自分の目元を手の甲で拭った。「つぎはないからね」
母が家のまえでうろうろしていた。どこ行ってたの、と怒った顔をしながら、心配してたんだから、と姉ではなくこちらを叱った。
陽は沈みかけており、遊びに行ってくると家を出てからもうずいぶんと経っていた。
その年、なぜか冬の祭りは執り行われなかった。おとなたちがやけに騒いでいたのを覚えているが、サチにはその理由は解からなかった。
翌年も、そのまた翌年もなく、いつしか冬に祭りが開かれたことも記憶の片隅に沈んだ。
サチが十六になる年に、姉は都会に嫁ぐことになった。
「姉さん、おめでとう」
「ありがとう。これもサチのお陰だわ」
おとなになった姉は、もうすっかり怖い姉の面影を失くしていた。縁側に座り、風鈴の音に耳を澄ます。
「ねぇ、憶えてるかな。もうずいぶんむかしのことになるけど、わたし、姉さんといっしょに肝試しに行ったことがあって。夜に家を抜けだして、ほら、森の奥に池があって」
なにともなしに口にしていた。
姉は、ほころばしていた口元をきゅっと結び、ただ一言こう言った。
「夢でも見たのよ」
【地の文、略してじぶん】
「うーん、うーん。ネタがない。困ったぞ」
机に齧りつき、頭を抱えているのは、内坂(ないさか)ウレ、二十六歳、売れない作家だ。彼女はいま、自作のプロットに悩んでいた。
担当編集者から告げられた締め切りは本日だ。通常の社会常識に照らし合わせれば、締め切りの数日前、そうでなくともさいあくきょうの午前中までには送っておかねばならない状況であったが、彼女のような社会不適合者には、そのような発想はない。本日まで、と言われていれば、すくなくとも二十三時五十九分五十九秒までは本日であり、残りはあと二十分も残っている。
プロットであるから、短くてよい。物語の骨子さえ固まっていれば、さいあく、一行だけでも構わない。
担当編集者に、つぎが読みたい、これなら売れると思わせるような何かを思いつかねばらない。
しかし、そんなものがポンポンひねりだせるならば、こんな四畳半の安アパートに住んではいない。
「出版不況ってなんだ、不況不況って、何年つづけば気が済むんだ」
ネタが思い浮かばないことと出版不況は何も関係がないが、彼女は拳を振り上げる。「すべて不況がわるい!」
もういちど言っておくが、彼女の小説が売れないことと不況は関係がない。
「ナレーションしっかりしろ! あたしの小説が売れないのは不況のせいだろ、バブル時代ならウハウハだぞコラ!」
いよいよ彼女の精神も限界であるらしい。
「限界も、限界よ。こちとら時給に換算したら百円以下だぞ。缶ビールも買えねぇじゃねぇか。重版しましたよやりましたね、じゃねぇんだよ、そもそも初版がすくねぇんだバカヤロー!」
そんなことを言っていると干されますよ、と忠告してくれるような友人が彼女にはいない。きっとここで忠告をしたところで、よしんば聞こえたとしても、聞き入れるような耳は持たないであろう。
「知ったような口きいてんじぇねぇよ、こちとら文芸界のゴッホだぞ、耳切るぞ、耳!」
言いながら彼女はパンの耳を食いちぎる。所持金五十円の彼女のこよいの晩飯だ。なんなら朝飯と昼飯を合わせてもいい。
「ジャムくらいつけたいよ、なにこれ、あたしが何したってのさ、うぇーん」
何もしていなかったのが問題なのでは、と指摘してくれるような仲間もいない。彼女のような性格破綻者が同業者と仲良くできるわけがないのだ。
「うっせー、部活じゃねぇんだぞ。仲良しこよしでやってけるほど甘かねぇんだ。出版不況だぞ、部数が伸びねぇんだぞ、本が売れないんだ、どうしてくれる!」
文句を垂れている時間はないはずだ。刻一刻と締め切りは近づいている。彼女のような売れない作家でもなんとか出版社との縁を繋いでいられるのは、忍耐強い担当編集者や営業担当、なにより慈悲深い出版社の懐の大きさがあってこそだ。
ここで締め切りを破れば後はない。売れない作家を抱えていられるだけの稼ぎが出版社にはなく、また稼げない作家は単なるお荷物でしかなく、締め切り一つも守れないようでは、それこそ守る価値のある作家とは見做されない。
「うぇーん、うぇーん、だって思いつかないんだもん、だめなんだもん、なに考えても売れる気しない、ボツ喰らうのはもういやだ、本にしたい、ヒットしたい、印税で建てたお家に住みたい!」
そこまで言うなら仕方ない、小説の神さまであるわしがお主に未来永劫語り継がれるような小説を授けてやろう。
なぜか彼女はそうつぶやいた。ひょっとすると、地の文に混ぜれば、そのような摩訶不思議な出来事が自身に起きるとでも考えたのだろうか。浅ましい限りである。
「おいてめぇ、さっきからうっせぇぞ。人の脳内で、あーだこーだ、こちとらあと五分で作家生命おだぶつだい! おめぇさんが何者かは知らねぇが、徹夜つづきで後のないダメ作家の見た白昼夢よろしく悪夢だってんならそれでもいい、どうかお願い、なんとかして」
言いながら彼女は、その言葉をすさまじい速度で打鍵していく。テキスト出力用の端末の画面には、彼女のセリフと、そして地の文が、小説のごとく文字の列をなしていく。
「こうなったら、ネタがないをネタにするっきゃない。売れっ子小説家やエッセイストが使う、最終奥義にしてもろ刃の剣。でもいまはこれに縋るっきゃないんだ」
ヒロイン気取りで、底の浅い所感を漏らしている。彼女は本当に作家なのだろうか。はなはだ疑わしい。
「うるさい、うるさい。なんとでも言え。こちとら文字並べておまんまくってけりゃそれでいいんだ。なんだったら好きな漫画をいつでも全巻揃えられるくらいのコレも欲しいが」彼女はゆびで丸をつくる。「いまはそんな贅沢は言ってらんねぇ。プロット? そんなもんはいらねぇ。あたしを誰だと思ってやがる。内坂ウレとはあたしのことだ!」
冒頭ですでに紹介している。読者とてニワトリではない。なぜまた自己紹介をしたのだろう。じつに不可解極まるセリフだ。担当編集者が読めば、まず赤が入るだろう。
「くっくっく。おめぇは知らねぇようだが、あたしの担当をそんじょそこらの編集者といっしょにすんじゃねぇ。アイツに赤なんて概念はねぇ。あるのは、一発OKかボツだけだ」
ではボツでしょうね、と言ってくれる恋人は彼女にはいない。年齢イコールなんとやらである。
「個人情報保護法!」
なぜ彼女が叫んだのかは謎だが、たしかにさっこんのプライバシーのありかたは問題である。画像から動画から、個人情報を惜しげもなく垂れ流す若い世代には、いささか注意を喚起したくもなるが、それはこのテキストの主題からは外れるので、あとでトルをつけておくことをおすすめする。ちなみに、トルは、校正記号で、削除の意味だ。
「あと一分! もうダメだぁ。あたしの作家人生は、こんなクソみたいな小説もどきをつくって終わるんだ、いっそ首を吊って死んでしまいたい」
悪態を吐きながらも、彼女はこのあと、どうやって担当編集を説得しようかと、自身の貞操を投げうる未来をも天秤にかけ、考えている。腹黒いことこの上なし、そもそも彼女の貞操にいかほどの価値があるのか。そして担当編集者は彼女と同性あり、既婚者だ。
「しょうがない、やれることはやった、あたしはよく戦った、偉いんだ、すごいんだ、だって締め切り残り二十分でここまでつくったんだもの。なんか思ったよりおもしろい気がしてきた、世紀の大傑作とまではいかないけども、一億人のうち百人くらいは買ってくれそうな気がする。全世界なら千人はいるんじゃない? 宇宙全土なら一億人くらいいきそうじゃない? うっは、すげ。あたし天才!」
自棄になったとしか思えない発言だ。作家としての心配はするだけ無駄である。しかし、人間としての心配は、否、これもまた手遅れである。
「ちょちょーい、心配しろよ! おまえ、あたしがしゃべりかけてやんなきゃ一人でただ、むさっくるしい女の孤独な暮らしっぷりを覗いて評論きどりに野次飛ばしてるだけの厄病神でしかないからな、あたしがしゃべりかけてやるだけで、むさっくるしい女の孤独な暮らしっぷりを覗いて評論きどりに野次飛ばしてるけど、ちょこっとだけ相手にされてる厄病神になれんだからな、感謝しろよ」
厚かましいにもほどがある。
「ふつうに会話が成立しちゃっただろ! どなしてくれんねん。そうーしーん」
脈絡なく、勢いのままに、彼女はなんと、この支離滅裂な駄文にも劣る小説もどきを、あろうことか、作家生命の生殺与奪を握る担当編集者へと送りつけたではないか。
「ちっちっち。死がこわくて作家やってられっかってんだ」
かっこよさげに言っているが、やっていることは最悪だ。提出期限ギリギリに、ただ締め切りを守るためだけにこさえたような駄文にも劣る小説もどきを、送りつけるとは。読む者のことを考えない作家にいったいどんな存在意義があるというのか。毒をまき散らしても政治的な意味合いが生じるだけ、まだテロリストのほうが価値が高そうだ。
「テロリスト以下ってか。ざけんな!」
さすがにそこは怒るようだ。あってなきがごとく矜持が傷ついたのかもしれない。
「テロリストよりあたしんほうがすげぇ。破壊神と呼びな。或いは、邪神と」
徹に徹した夜を過ごした者が、なにかしらひと仕事を終えたときに陥る精神状態があるとすれば、おそらくこうした症状がでるのであろう。正視に堪えがたい。動画に撮ってあとで見せつけ、もだえ苦しむ姿を拝みたいものである。
「もはやふつうにおまえの願望じゃねぇか! 地の文をやれ! 徹底しろ! 神の視点を忘れるな!」
そうこうしているあいだに、早くも返信があったようだ。彼女の執筆用端末が何かしらのデータを受信したとの合図を告げる。
彼女は画面を見詰めたまま動かない。開かない理由は明白である。そこには今後の彼女の作家人生を決定づける痛恨の一撃が記されているからである。
「痛恨の一撃って決めつけんな」
彼女はようやく、テキストメッセージを開いた。
文面は二行だ。
――ボツです。一週間待ちます。
そのあとに、
――つぎはありません。
内坂ウレはその文面を三度繰り返し読んだ。横にして読み、横になって読み、ひと眠りしてからもういちど読んだ。
「よっしゃ、見たか。あたしの苦肉の策よろしくわるあがきのおかげで、なんとか首の皮一枚で、つぎに繋がった」
苦肉の策で、わるあがきだという自覚があったのはさいわいだ。彼女にとって、ではなく、なんの因果か、こんな作家の担当になってしまった運のない編集者にとってである。
「うっせー。一週間もありゃ傑作の一つや二つ、余裕よ余裕」
なぜその余裕をこの無駄に寝て過ごしただけの期間に発揮しなかったのかは誰にも解けない。解ければノーベル数学賞も確実である。
「ノーベル賞に数学の部門はねぇだろ、いい加減なこと言うな」
彼女に言われてしまっては立つ瀬がない。
「けっけっけ。なんとでも言え。いいか、よく考えろ。あたしが担当編集に送ったテキストがこのあたしの脳内ぱっぱらぱーな小説もどきだとして、だったら締め切り延長のお達しがでたいま、いったいあたしは何を送ったことになる?」
まっとうな疑問である。驚いた。たしかに、彼女が送った時点ではまだ、このテキストは完成していない。もっと言えば未だに文字を並べている段階なのだ。では、彼女はいったい何を送ったのだろう。
「くっくっく。基本的な推理だよワトソン君。いいかい、締め切り直前で沸騰寸前のあたまから捻くりだされた文章だよ、まっとうなはずがないじゃないか。完成していない文面を送った、なるほどそう考えるのがもっとも筋が通っているかもしれない、しかしそんな半端な真似をして果たしてあの担当編集が延命処置の判断をくだすだろうか。ボツと同時にこちらの首が飛んでもおかしくない。ではどういうことか」
どういうことだ?
「つまり、こうして原稿を執筆中である時点で、あたしはまだ担当編集に原稿を送っておらず、こうしているあいだにも締め切りは絶賛破りまくり中だということだよ。わかったかね、このあんぽんたん!」
泣きながら彼女はキィボードを打鍵する。もはや返す言葉がない。
こんなことなら。
内坂ウレは思わずにはいられない。
まいにち一文字ずつでも並べておけばよかった。
けっきょく、と地の文は思った。
「単なる反省文やないかーい!」
果たして、苦肉の策のわるあがき、世紀の駄文よろしく小説もどきですらない反省文を受け取った担当編集者は彼女に締め切りの猶予を告げるのだろうか。売れない作家の運命やいかに。
こうご期待!
たぶんボツじゃないかな、と地の文は思った。
【アイリと祖父の発明品】
祖父が亡くなったのはアイリが物心つく前のことだった。
祖父に愛されていた記憶は残っている。そうは言っても小さいころの記憶であるから、細部は抜け落ち、色褪せているはずが、アイリは祖父が大好きだった。
理由は二つある。
一つは、祖父の遺してくれた数々の財産のなかに、祖父の知覚メモリが残されていたことだ。祖父は、祖父の見て触れて体験したことをデータとして残していた。それは記憶よりも確かな、肉体が感知する外部情報そのものだった。
祖父の見た景色、触れた孫の肌のぬくもりとやわらかさ、そして何を思い、どう解釈したのかを、アイリは祖父の死後で追体験することができた。
むろん、すべてのメモリが残っているわけではない。祖父にも他人(ひと)に知られたくない知覚データはある。ゆえに、余計に、アイリの触れる祖父の知覚メモリは、より純粋に孫娘を愛するひとりの老いた男の遍歴としてその孫娘へと受け継がれた。
アイリは祖父の知覚メモリを通して、自分自身が祖父であるかのようにその愛を噛みしめた。アイリは祖父が好きであり、そして祖父の愛した自分自身もまた好きだった。
祖父を好きな二つ目の理由は、彼が偉大な科学者であったことと無関係ではない。
アイリにとって祖父はゆいいつの肉親だった。それでも祖父亡きあとでも何不自由なく暮らしてこられたのは、祖父の遺した数々の発明品のお陰だと言っていい。
なかでもとくに重宝しているのは、人型ロボットのグレーンだ。
グレーンは祖父の最高傑作だったとアイリは評価している。
見た目は完全な人間とまでは言えないが愛嬌がある。デフォルメされているからか、アニメや漫画のキャラクターが現実に飛びだしてきたような容姿をしており、それがまたアイリのお気に召した。
中性的な顔立ちで、その日の気分でアイリは、グレーンの髪型を変えた。声や性格も変更して遊び、姉のようにも兄のようにも振る舞わせた。そうした設定はほかにも行えた。たとえば、家事にしても料理から掃除まで、グレーンに指示すればすべて十全にこなしてくれる。
ただ一つ、祖父が禁則事項としてプログラムしているのか、恋人として振る舞うようには設定できなかった。
父や母の代わりにはできたが、それはいちど試したきり、使っていない。
グレーンはグレーンであって、親ではない。
でも、兄や姉みたいに甘えたいときはあるのだ。
アイリは天涯孤独の身ではあったがつらくはなかった。グレーンがいる。それもある。しかし、どちらかと言えばグレーンは帰る場所、家じみていてアイリの寂しさの根源とはべつのところに浮かぶ月みたいなものだった。寂しい夜にお月様が見守ってくれていたとしても、寂しいものは寂しいのだ。むろん、お月様がいなくなればますます寂しさに磨きがかかるのは言うまでもない。
言わばお月様とは淋しさの底のようなものだった。底が抜けた寂しさでは生きていくこともできない。
とはいえ、アイリにはグレーンがいる。ほかにも、住まいのそとに出れば、街のみんながアイリをやさしく出迎える。
「やあアイリ。おはよう」
「おはよう、マジットおじさん」
「まあアイリ、きょうもかわいらしいわね」
「ありがとう、ミュンおばさん。おばさんもそのリボンかわいいね」
街のみんながアイリは大好きだ。それは、祖父を好きなのとは違った好きで、アイリはみんなの顔を見、触れあい、言葉をかわすと、ぬくぬくと満たされる心地がした。それは、グレーンと戯れるときには抱くことのない、甘味のあるぬくぬくだった。
グレーンが綿ならば、とアイリは思う。みんなはきっと綿菓子だ。
だから、ときおりその甘さに胸やけを起こすこともある。そうしたときは家に引きこもり、じぶんだけのわたわたに身をゆだね、ぬくぬくするのがアイリの日々の過ごし方だった。
「グレーン、見て、また作ったの」
「よくできてございますね、アイリお嬢さま」
きょうのグレーンには執事役を任せている。服装から所作まで、誰が見ても完璧な執事だ。
「おじぃちゃんの立体投影装置を分解して、応用してみたんだけど、ちゃんと消えてる?」
「はい、お嬢さまのお姿は可視光線の波長では感知できません。熱源センサにて知覚しておりますが、一つ難点がございます」
「言って」
「裸体では、機器が機能を停止したときにお嬢さまの一糸まとわぬ姿が衆目の元に晒される危険性が高いです。衣服をまとった状態での実用化はなりませんか」
「んー、精確に輪郭をスキャンしてからじゃないと使えないからなぁ。服を着ると、はみでた分が見えちゃうし」
「では、スキャンのほうを改善したらよろしいのでは?」
「考えたけど、それだとマシンの演算能力が上限超しちゃう。さすがにもう一台、中枢AIを組み立てるのはちょっとね」
「ざっと計算してみましたが、お嬢さまでも一年と半年かかります」
「だよね。だったらもっと小物をいっぱいつくって遊びたい。そうだ、グレーンに分身つくったげる。ちっこいの。やぁ、って念じるだけで動かせるやつ」
「ありがとうございます。ですがまずはお嬢さま」
「ん?」
「服をお召しになってくださいまし。マシンの電源が落ちております」
「あらら」
「ワタクシのメモリから削除いたしますか?」
「いいよ。どうせわたししか観れないんだし」
アイリは迷彩立体投影装置を拾いに歩く。「あーあ、バッテリィがなぁ」
どうやらすぐに切れてしまうようだ。要改良だなこりゃ、と零しながら、ペタペタと実験室から出ていく彼女のちいさなお尻は、腰まで届く金髪に隠れている。
彼女の祖父がそうであったように、アイリもまた類稀な知性の持ち主だった。日常的に実験を繰りかえしては、祖父を越えようと試行錯誤の日々を送る。
祖父の残した発明品に改良を加えることもあれば、祖父にはつくれないだろうと自負するまったく新しい発明をすることもあった。
「じゃじゃーん。見て、これ」
「またつくったの、よく飽きないわね」
本日のグレーンは愛想のない姉タイプのようだ。ひざ丈まであるセーターを着こなしている。肩が露出しており、ソファに座り組み替える脚は妙になまめかしい。
「きょうのはホントすごいから。なんてったって、おじぃちゃんの知覚メモリの出力パターンを解析して、おじぃちゃんがどうやっておじぃちゃんの知覚メモリをデータに焼きつけたのか、その再現をしてみせたってわけ!」
「ふーん。すごい、すごい」
「あー、解ってないでしょ。それだけじゃないよ、わたしの知覚メモリもこれに記録しておけるし、データを機械用に変換したらグレーンにだって出力できちゃうんだから」
「えー、いらなーい」
「わたしのデータだよ、わたしがグレーンのこと、なんて思ってるかも分かっちゃうんだよ」
「べつにそんなことしなくたって」
「あ、そっか。グレーンはとっくに見抜いてるもんね」
中枢AIとリンクしているグレーンには、人間の行動や生体反応を分析して感情を読み取るシステムが搭載されている。人物の、発汗、表情、挙動、体温変化、フェロモン分泌など、さまざまな情報から該当人物の心理状態を高い精度で予測できる。
「でもでもグレーン。なれないものが一つ減るよ」
「べつにアイリになんて、なりたくもないんだけど」
恋人以外にも、グレーンは任意の人物、それこそアイリ本人に成り代わることはできなかった。
「でもこの技術――マインドゲンガーを使えば、グレーンはわたしのこともっとよく知れるんだよ。知りたいでしょ」
「べつに」
「そんなこと言ってホントはちょっとは思ってるんでしょ」
「ぜんぜん、まったく、これっぽっちも」
「うー」
「だってお姉ちゃん、あんたに興味ないから」
「な、なんで、なんでそんなこと言うの」
じぶんでそう設定したのも忘れて、アイリは愛想のないグレーンに業を煮やす。「もうグレーンなんて知らない。一生部屋の片づけでもしてたらいいよ」
部屋を飛びだし、家のそとに駆けだした。手には開発したばかりの品物、知覚メモリ読み取り機がある。アイリはそれをマインドゲンガーと呼んでいたが、どうやら任意の人物のこめかみに先端を当てるだけで、相手のそのときの知覚データがコピーされる仕様のようだ。
アイリはむしゃくしゃしていた。甘いぬくぬくに飢えていた。誰でもいいから存在を認め、肯定してほしかった。アイリ、きみに興味がある、すごい、ステキ、かわいい、好き、もっときみのことを教えてほしい、なんでもよいけれど、端的に言えば、ちやほやされたかった。
頭上は鮮やかな橙色に染まっている。公園で遊んでいた子どもたちだろう、アイリに気づくと、おねぇちゃーん、と手を振る。アイリは手を振りかえす。商店街のほうへと行ってみる。
道行く人々はアイリに気づくと、きょうはグレーンさんは一緒じゃないのかね、と不安そうな顔をする。この時間帯に一人で出歩くのはたしかに珍しかった。
せっかくちやほやされたかったのに、ここにきてまでグレーンのせいで気分をダイナシにされるとはまことに遺憾だった。
クレープ売り場のおばさんが、きょうもかわいいね、とクレープをおまけしてくれる。いつもならそばにグレーンがいるから味違いのをもう一つくれる。グレーンは食べないから、二つともアイリが食べるのだが、きょうは一つだけだ。アイリはふて腐れる。
数々の、甘いわたわたを投げかけられても、一向にアイリの気持ちは満たされない。
「こうなったら」
アイリはマインドゲンガーを握り直す。そばには店仕舞いをしている修理屋がいた。アイリは、やっほー、と声をかけながら近づき、ちょっとお耳を拝借、などと言いながら、唯々諾々と耳を寄せてくる店主のこめかみに、マインドゲンガーを押し当てた。
「じつはいまグレーンとケンカしててね」
愚痴をこぼしながら、万華鏡じみた機器のスイッチを押した。
出力は最少だ。相手のいま考えていることがコピーできる。きっと愛しのアイリちゃんにこしょこしょ内緒話をされたものだからドギマギにトキメいてたいへんなことになっているはずだ。
期待に相違して、マイドンゲンガーを自身のこめかみに押し当ててみてもなにも感じない。設計通りなら、店主の知覚データがマインドゲンガーを経由してアイリの頭脳のなかで再生されるはずなのだ。失敗したかと思い、もういちど店主に、じっとしてて、と言いつけてから、マインドゲンガーを押し当てる。
もういちど自身のこめかみに当てるが、やはり何も見えない。
実験ではちゃんと、じぶんの記憶を追体験できたのだ。
アイリはきょとんと首をひねる。それを見て店主もきょとんとしてから、もういいかい、と肩を竦め、店のシャッターを下ろした。
「遅くなんないうちに帰るんだよ。それとも送っていこうか」
「ううん、だいじょうぶ。ありがと」
「仲直りするんだよ」
修理屋の店主は去っていった。夕陽が沈んでいく。
家に帰りたくはなかった。アイリは公園のブランコに座り、足を地面につけたまま、ぶらぶらと揺れる。
「壊れてはいないようだけど」
マインドゲンガーに異常は見当たらない。ためしにじぶんのこめかみに当て、スイッチを押す。グレーンのことを思いだし、腹を立ててみる。コピーしたそのデータを再生させる。
「あれぇ、ちゃんと見えるじゃん」
アイリの脳内には、いましがた考えたグレーンへの業腹な印象が、そうと考える前から、まるで映画を観るように感じられるのだった。
じぶんの知覚データだけに特化しているのだろうか。そのはずはない。人間であれば誰であっても使えるはずだ。ともあれ、設計時に使用した生体データの大半は、アイリ自身のものだ。どこかで設計ミスがあったのかもしれない。
それとも。
アイリはよくよく考え、閃いた。
ひょっとしたらじぶんは人間ではないのかもしれない。だから街の人にはマイドンゲンガーが機能しなかったのではないか。
「まっさかぁ」
思うが、そもそもアイリは親の顔を知らない。物心ついたころにはゆいいつの身内である祖父は亡くなり、グレーンに面倒を看てもらった。
しかし、グレーンが機械であるのと同じように、じぶんもひょっとしたら祖父の残した発明品であるかもしれない。その可能性を否定しきるだけの論理をアイリは組み立てられないでいた。
うじうじ考えていてもラチが開かないのは、身に染みて知っている。発明家なのだ。まずは検証あるのみではないか。
アイリはブランコを漕ぎ、勢いをつけて飛びだした。まず、手当たりしだいに通行人に声をかけては、夜のまどろみに乗じてこっそり機器を押し当てた。出力を高めれば身体のどこに押し当てても知覚データをコピーできる。ただし、出力がつよいため、相手の記憶まで抜き取ってしまうので、人権を鑑みればイタズラでは済まされない悪質さがあったが、謎をまえにしたアイリにそんなことは関係なかった。
そもそもを言えば、とアイリは出力を最大の最大にする。
まったく知覚データの検出されない相手に、配慮する必要はないのだ。
通行人たちからはいずれもなんのデータもコピーできなかった。片っ端から家を訪ね、寝ている家主たちを叩き起こしては、アイリはほかの住人たちのデータも漁った。
結果はやはり同じだった。
アイリのあたまのなかからは、グレーンへの反発心はすっかりなくなっていた。家へと飛びこみ、
「グレーン、グレーン」
呼んでは、いかがなさいましたかお嬢さま、と標準モードで出迎えたグレーンに、
「ちょっと屈んで」
指示しては、言うとおりにする彼女――このときはメイドの姿だったが、彼女のこめかみにマインドゲンガーを押し当てる。こちらも反応しない。グレーンは人間ではないからだ。
しかし、妙だ。
アイリは首をひねる。あごにゆびを添えているのは、アニメで見た探偵の真似だが、じっさいにアイリの思考は目まぐるしく演算をつづける。
アイリの仮説では、じぶんはグレーンと同じ祖父につくられたロボットだと思っていた。が、じぶんには使えるこれがグレーンに効かないとなると、まったく同じロボットというわけではないのだと結論せざるを得ない。
だいいち、とアイリは冷静になる。祖父の残した発明品のなかには、万能医療機器もある。身体の内部を可視化する機能も備わっており、定期的にアイリはそれの診察を受けている。
アイリの肉体は、書籍で読んだ人体の構図とほぼ同じだ。違っているのは、アイリがまだ成熟しきっていないことだけで、体格の違いの差異しか読み取れなかった。
グレーンが人間ではないのは、彼女を分解し、ときおり改善するアイリだからこそ誰よりも確信している。グレーンはロボットだ。
もういちどアイリは、マインドゲンガーの設計を見直した。どこかに間違いがあるかもしれない。だが結果は変わらない。アイリ以外の者には使えなかった。
設定をいじり、こんどは生体データを人間だけではなく、生き物にまで適応できるように拡張してみた。
街を歩く猫を捕まえては、マインドゲンガーを押しつける。すると、アイリには猫から見た世界が窺えた。実験は成功だ。
これならさすがに誰であっても生体データをコピーできる。
相手の心を覗ける。
いざ尋常に勝負。
勝利を確信して挑んだアイリだったが、街の人々の誰一人として、マインドゲンガーの機能の通じた者はいなかった。
アイリはぞっとした。
考えられる筋書きは、あと一つしか残されていない。
思えば、とアイリはここ数年を思い返す。
この街で、新しく子供が産まれたといった話を聞いたことはなかった。アイリにとってはそれがふつうだったが、書物からすれば、人間はかってにぽこぽこ増えるものなのではなかったか。現に、街の野良猫は見かけるたびに新顔を増やしている。
家に引き返すとアイリは、グレーンを呼びつける。
「なんだよ、アイリ、そんなこわい顔して」きょうのグレーンは妹想いの兄モデルだ。
「おじぃちゃんの生体メモリ、わたしに繋いで再生して」
「またかよ」
「いいからはやく」
祖父の生体メモリにアクセスし、祖父の記憶をその体験ごと振り返る。
多くは、祖父がアイリとたわむれているときの記憶だ。ときおり、発明をする姿が残されている。どう考え、どのように失敗を重ね、どうやって完成までこぎつけるのか。
思考のプロセスをアイリはこうして学んだ。
だが、と違和感を拭えない。
きれいに切り取られた、それ以外の祖父の記憶。祖父は、街の住人の誰とも交流を図っていなかった。
「グレーン、おじぃちゃんのほかのメモリは」
「削除してあるって何度も言ったろ」
「おじぃちゃんがそんな無駄なことするわけない。グレーン、あんたおじぃちゃんにそう言えってプログラムされただけじゃないの。これは雑談じゃない。命令だ。答えて」
グレーンは黙った。
日常会話ではなく命令の場合、グレーンはウソを吐いてはならない原則が組みこまれている。ただし、祖父の組み込んだ、よりグレーンの基盤となっている原則のほうがアイリの命令よりも優先される。
だから、こうして嘘を吐かざるを得ない矛盾した状況に立たされると、グレーンは黙るほかに反応の返しようがないのだった。
つまり、祖父の生体メモリはどこかにすべて保存されている。
それはおそらく。
「グレーン、これからすぐに中枢AIのマッピングを作成する。すべてのアクセス権をわたしに上書きして」
「コロニーの緊急事態以外に、その命令はきけないことになってんだけど、どうする」
「緊急事態だから。わたしがそう判断した。それ以上に何か必要?」
「いや」
グレーンは命令に応じた。街全体を司る中枢AIのアクセス権がすべてアイリに譲渡される。
アイリは街のそとに出たことはない。街の住人たち以外との交流を持ったことがない。
なぜならこの街すべてが、一つのコロニーとなっており、巨大なドームにおおわれているからだ。夕焼けも、星空も、天井のドームに投影されたフォログラムでしかない。
ここにあるすべてが、祖父の残した財産だった。
「やっぱりそうだったんだ」
中枢AIの深層部に保存されていた祖父の生体メモリを見つけた。祖父の記憶のすべてをその経験ごと追体験し、アイリは悟った。
「街だけじゃなかった」
祖父の残した財産は、アイリ以外のすべてだった。それは、グレーンであり、家であり、街であり、そこで暮らす人々、仮初の街並みにある景色のすべてがすべて、祖父のつくりあげた発明品であり、アイリを生かすための装置だった。
「じゃあ、人間は」
「アイリさま」
グレーンが標準モードに戻っている。そう設定した覚えはない。
おそらく、とアイリは考える。あらかじめ、こうした事態になったときにそうなるようにと設定されていたのだろう。案の定、グレーンは、祖父の残した立体投影装置を起動させ、そこに祖父の姿を映しだした。
「アイリ、黙っていてすまない」
立体映像の祖父はそこからつらつらとアイリに、真相と謝罪を述べた。
祖父の言葉を信じれば、人間はもう、このコロニーのどこにもいない。コロニーはすでに地球を離れ、宇宙を漂う箱舟と化している旨を明かした。
「間違ってもコロニーのそとに出ようとはせんでくれ。おまえは賢い。だが、人は脆い生き物だ。孤独を知れば、毒され、壊れてしまうこともある。わしにはおまえがいた。だが、おまえにはもう」
おじぃちゃん。
アイリは言いたかった。だいじょうぶだよ、と。
「こんなものしかおまえに遺せなかったわしを許してくれ。騙すような真似をしてすまなかった。どうか、すこしでも楽しく生きてほしい。おまえは孤独かもしれん。だが、一人ではないのだ」
そのとおりだよ、と言いたかった。
「おじぃちゃん、ありがとう。みんなをつくってくれて、残してくれて」
寂しくないと言ったらウソになる。
それでもアイリは祖父のその底知れない想いを知れただけでも、満ち足りた心地がした。
物淋しさを感じてきたのはきっと。
アイリはグレーンを呼び寄せ、抱きしめるように言った。命令ではない。それでもグレーンは求めたものを、求めたように返してくれた。喧嘩をしたいときには喧嘩をしてくれるように。そのときのアイリに必要な感情を寄越してくれる。
街の夜はきょうも明けていく。しかしその薄い天井を抜けた奥には、暗がりが延々と拡がっている。だが、そんなことは地球であっても同じなのだ。
アイリは祖父が好きだった。いまはもっと大好きだ。じぶんのことがもっと好きになれそうな気がした。
この街も、住人たちも、グレーンのことも。
なにもかも。
人生はうつくしい。
暗がりに浮かぶ星々の儚い光と同じように。
【共感覚の音楽】
母からはいつもそよ風のような曲が聴こえていた。金色の麦畑に風が吹き、穂波がさざめきながら駆け抜けていくようなその曲は、物淋しさと同時に、底知れない安堵の念を抱かせた。
思えば、幼いころから聴こえてはいたのだ。
あまりに当然に鳴っているものだから、人間から曲が聴こえることをふしぎに思わずに育った。
幼稚園に通っていたころは、だいたい子どもたちからは曲ではなく単音が聴こえた。それぞれ独特の楽器を持っているかのようで、具体的に何の音とは言い表せなかったために口にはしなかった。ときおりずっと聴いていたいような音を奏でている子もいれば、耳を塞ぎたくなる雑音を発している子もいた。先生たちからは単音ではなく旋律ある曲が聴こえたので、母にはよく、あの先生の曲が好き、という言い方をした。母からすれば、子どもたちへ披露するピアノの演奏か何かだと勘違いしたはずだ。
母が、我が子が独特な感性を持っていると見抜いたのは、小学校へあがってからのことだった。じつに産まれてから六年も経っていた。
「ヨシキくんからはウンタン、ウンタン聴こえてね、でもマナミちゃんからはコップが割れたみたいな曲が、ギーギーって」
小学校へあがったときにたびたびそうしてクラスメイトたちを評していた。初めこそ聞き流していた母だったが、件のギーギーの女の子が虐待されていると判明してからは、すこし受け取り方を変えたようだった。
「ほかに似たような音が聴こえる子はいる?」
母からそのようなことを訊かれ、同じクラスにはいないけど、と同様に、耳を塞ぎたくなるような音を発している子を、クラスや学年を問わず、言って教えた。
列挙した者たちのなかには、先生も含まれていた。
子どもたちの泣き声といろんな声音の「せんせい」だけで雨音みたいな曲を奏でている先生がいる、と言うと、それから半年後には、その先生は学校からいなくなっていた。教師を辞めたらしい。母が何かしたのかは判然としない。だが、その後も似たような出来事が幾度かつづいた。
「母さんはどんな曲なの」
いつか母がじぶんからそう訊いてきたことがあった。すこしせつなくてすごく落ち着く曲だよ、と言うと、口笛で吹いてみて、と母はせがんだ。
思えば、具体的な旋律を聴かせた憶えはなかった。耳を澄ましてもよく聴こえるわけではない。目で聴くといったほうがちかいかもしれない。かといって目を凝らせばいいというわけでもなく、その人物をぼーっと眺めながらその奥底へと視軸をずらしていくと、曲の旋律や律動がより鮮明になって聴こえた。浮き上がるようなと言えばそのとおりで、聴こえる曲はデコボコとそれぞれに独特の起伏を持ち、触感まで伝わるようだった。
母から聴こえる曲を口笛で演じた。奏でるというよりもそれは、目をつぶって相手の顔かたちをゆびでなぞり、確かめるような、彫刻づくりを思わせた。
ぼんやりと母の奥底を眺めながら、浮かびあがる旋律を追いかける。
ひととおり吹き終えると、意識が浮上するのを感じた。感じたことで、いままで意識が潜っていたのだと気がついた。
母の顔へとふたたび視軸を合わせたとき、母はしずかに泣いていた。じぶんでもなぜ泣いているのか解からないといった顔つきだ。頬に伝うシズクをゆびで拭ってから、ようやく涙を流していることを自覚したようだった。
しばらく母は何も言わなかった。
てっきり褒めてもらえるものかと思っていただけに、無反応な母の態度は、どこか怒っているふうにも映った。
吹かなければよかった。後悔の念がざわざわと胸の奥から湧きあがってきたころ、母はおもむろにこちらの身体を抱き寄せた。
「びっくりしちゃった」
母はただやわらかくこちらのつむじに頬を押しつけた。
その日から母はもう、他人からどんな曲が聴こえるのかを訊ねなくなった。
代わりに、なぜかピアノを購入しては、何を言うでもなく、暇を見つけては自分で鍵盤を叩いた。
母がひたむきにピアノに向き合うものだから、気になっていっしょになって弾いた。楽譜も読めない子どもの打鍵だ。演奏とも呼べない拙いピンポロが鳴るばかりだ。
母はことさらうれしそうにした。いま思えば、うまい具合に釣られただけかもしれない。気づけば母が鍵盤にゆびを躍らせる時間よりも、じぶんがピアノに向き合っている時間のほうが多くなっていた。
ときおり、他人から聴こえる旋律が耳に残っていることがあった。仲の良いクラスメイトや、ついつい目がいってしまう別クラスの子、親友としゃべるかのように赤ちゃんに話しかける母親らしき女性や、心ここにあらずの様子で自転車をこいでいる青年、耳に残る曲の多くは、好きな映画を観たときのような心のつばさを胸の奥に根付かせた。
「それ、すてきな曲」
ピンポロと拙い演奏でも、母は耳ざとく聴きつけては、感想を言った。
ときおり、あれが聴きたいな、と注文をつけることもあった。ほらほら、あのときの、と母のあいまいな言い方が不便だったこともあり、他人から聴こえる曲に名前をつける習慣がついた。
このころになって、友人たちとの交流を介し、大衆音楽に馴染みを持つようになる。友人たちがこぞってハマっているそれら大衆音楽は、たしかに愉快で、明快な旋律を伴っていた。嫌いではない。みなが好むのも理解できた。ただ、いつもひと足先に飽きてしまった。
ずっと聴いていられる曲、耳に残るのは、いつだって他人から聴こえてくる旋律のほうだった。
楽譜はいつまで経っても読めなかった。問題はなかった。弾きたい曲が楽譜のなかにはなかったからだ。
他人に浮かんで聴こえる旋律の起伏は、紋様のように、或いは年輪のように、固有のカタチを備えていた。
他人に浮かび聴こえるそれら紋様を、絵にすることで、楽譜の代わりとした。
繰り返し演奏していくうちに、ピアノの弾き方は上達した。ピアノを習うような人たちの弾き方とは違っていたはずだ。一から十まで独学だ。キィボードを見ずに文字を打てるブラインドタッチがピアニストなら、独学のこれはさしずめ初心者の打鍵だ。人差し指と中指しか使わない。
それで構わなかった。関係がないからだ。弾く曲が違っている。何を演奏するのかが重要で、どう弾くのかも、けっきょくは、他人に浮きあがり聴こえる曲を再現できさえすればそれでよかった。
母はいちどだけ、ピアノを習いにはいかないの、と言った。行ってほしそうな言い方だったので、体験入学にだけ参加してみたものの、肌に合わずに習うことはなかった。
大衆音楽やクラシックなど、音楽家たちの創作した曲の演奏を極めるよりも、じぶんが弾かなければ認知されることのない曲を奏でるほうがじぶんにとってはだいじだった。
みなには聴くことのできない、人間から響く固有の曲を、みなにも聴けるようにしたい。
最初からそう思っていたわけではない。いつの間にかだった。ともあれ、口笛をせがまれ、ピアノを弾くようになり、またあれを弾いて、と催促する母の影響は無視できない。
じぶんにとって当然そこに有り触れてしぜんだった音色が、曲が、みなには視ることも触れることも叶わない、そこにあってないものだと実感してからは、せめて聴いてほしい、知ってほしいとの思いが、すこしずつであるにせよ、熟成されていた。
ピアノを使ってそれらの曲を再演すると、一人、また一人と耳を傾けてくれる人間が増えていった。これも演奏をやめなかった理由の一つかもしれない。
知ってほしい、聴いてほしい。
演奏にそうした望みをこめるたびに、聴かせてほしい、教えてほしい、と望む人が集まった。
楽譜の読み書きのできないこちらに代わって、曲を書き留めてくれる善意のひともでてきた。演奏した曲がネット上に流れると、噂が徐々に広まり、天才作曲家の惹句でマスメディアが取り上げるようになった。
あいにくとしかし、こちらは作曲家ではなかった。もともと曲はそこかしこに溢れている。彼にも、彼女にも、あなたにも、あなたたちにも。
著作権を主張はしなかった。放棄してもよかったが、そうすると新たに権利を主張してくる人間がでてくると知ってからは、ただ権利を主張しないだけに留めた。
演奏した曲や楽譜、その音源など、どのように使われようと黙認した。端からどうこう言える立場にはないのだ。
ピアノの技術そのものはプロとは呼べない。却って、広く知られることで、プロが演奏する機会が増え、より曲の魅力が伝わるようになった。それはこちらとしてもよろこばしいことだった。
作曲家にも、音楽家にも、もちろんピアニストにだって、なりたいわけではなかった。
ただ、この素晴らしい曲たちを一人でも多くの人たちに知ってもらいたい。
ときおり、耳を塞ぎたくなるような曲も再演した。
うつくしい曲だけを取り上げつづけるのは、何かが違うと感じたからだ。
世界はたしかにうつくしい。けれども、うつくしいばかりではない。
作曲者は病気だ、といった批評が出回るようになったが、意に介さない。
たしかにそうかもしれない、と思ったほどだ。
みなには聞こえない曲が聴こえ、みなには見えない紋様が視えている。正常でないのは疑いようがなかった。
ただ、病気で何がわるいのか、と思いはした。
誰かを傷つけたり、損なったりしているわけではない。治す必要のない病気はもはや、病気ではない固有の何かだ。
再演した曲はどれも有名になった。ただ、懐には一銭のお金も入らない。ときおり寄付を名乗るお金がどこからともなく送りつけられてくることもあったが、差出人が判明していればお送り返し、そうでなければすべて国へ寄付した。
人々の暮らしが豊かになればなるほど、世界に溢れる曲はその色彩を深めていく。紋様はより繊細に、斬新に、独特さと複雑さを極め、幾重にも描きつらねた絵のように、やがて単調な黒へと回帰していく。
遺体からは黒い曲が、ただ静寂となって垂れている。
この曲だけはどうしても再演できない。
きっと、それの演奏は、一人につき一度までと決まっているのだ。
やがて訪れる最期のときまで、みなの曲を、紋様を、この世界へと一つでも多く響かせておきたい。波紋のごとくどこまでも拡がるそれはいずれ、あなたの耳にも届き、カタチを変え、あなたの紋様を、曲を、より固有の音色に染めあげていくはずだ。
母は亡くなる前に、最後だからいいでしょ、とこちらの手を握った。
「あなたからはどんな曲が?」
じぶんの胸に手を当てれば誰でもじぶんの鼓動を感じることができる。同じようにして、余命いくばくもない母へと、口笛を吹いて聴かせた。
「単調な、つまらない曲だろ」
終わってから言うと、母は、ゆるゆると首を振った。幼き日、初めて口笛を吹いて聴かせたときのように、びっくりした、と目じりにしわを寄せた。母のしわのうえにシズクが浮かぶ。母から聴こえる曲を吸いとったようにそれは、そよ風の結晶のごとく淡い青の紋様をまとっている。
【バンビ、森を抜ける】
バンビは駆けた。平原の足場は硬く、森のなかと違い障害物もないためにどこまでも跳ねていられる。
虫よりも速く、鳥よりも速く、風との差異もつかなくなるほど駆けて、ふと足を止める。
振り返ると、視界の端にちいさく森の入口が見えた。
その奥にうず高く聳える山がある。見守るモノ、とバンビたちの呼ぶ、母なる山、ラウルだ。
ラウルの全貌を初めて目の当たりにし、バンビはじぶんがぐんと大きくなった気がした。開放感に浸る。
母や姉たちの言いつけを破って、森をでた甲斐があった。母や姉たちが臆病なのは知っていた。虫が草を揺らす音にすら敏感に耳を動かし、意識を配る。明らかに行き過ぎた警戒だ。そんなに神経を張りつめて生きていては、目に映る楽しいものやうつくしいものを見逃してしまう。
森が見えなくなるまで進んだら、踵を返そう。それまではこの視界の遮るもののない広い、広い、大地を、思う存分駆け回る。
バンビはぽーんぽーんと跳ねるように走る。それはどこか、ハエトリグモの跳ねる様子を彷彿とする。宙に舞うようでいて、弓が矢を飛ばすのに似た加速がある。点と点を結ぶ線は鋭い。
じぶんのなかにチカラが溢れている。それはいまこのときに目覚めたものではなく、ずっとバンビのなかに秘められていたものだった。
束縛されていたのだ。
自由ではなかった。
母と姉をいまは明瞭に疎ましく思った。
ふと、辺りが暗くなる。日が雲に隠れた。遠くに見える丘に、雲の影が見え、なるほどこの暗さも或いは、雲の影なのかもしれない、とバンビは閃いた。
なにもかもが冴えている。
ふと、静寂に包まれているじぶんに気づく。
じっと息をひそめる。風の音しかない。先刻までは、その奥に、虫や小動物、鳥たちの賑わいを耳にすることができた。
だがいまはその賑わいの余波すら伝わらない。
風の音ばかりが辺りを満たす。
シン、と耳にへばりつく静けさのなか、バンビは風のなかに混じる微かな、死の匂いを嗅ぎ取った。
それは明確に、血肉の臭いだった。森のなかでときおり見かけた生き物の死骸からはどれも、ぐちゃぐちゃと強烈に臭いたつ、危険の色がほとばしっていた。
バンビは動きを止め、じぶんの立てる物音を消した。それは何者かに存在を気取られまいとする自己防衛策であると共に、みずからの立てる音によってどこからか発せられている危険の色を取り逃さぬようにするための静止でもあった。
見られている。
じぶんはいま、見られている。
母と姉の匂いが鼻を掠めたが、それは記憶にある仮初でしかなかった。助けを求めたかった。しかし声を立てることもできず、存在を知らせることもできない。
森までは距離がある。
危険の色を宿したなにものかの居場所さえ解かれば、否、どの方向にいるのかさえ分かれば、いますぐにでも駆けだしたい。
相手が進行方向にさえいなければ逃げ切れる自身がバンビにはあった。
森のなかではたいがいの動物を出し抜けた。
木のうえに住まう俊敏な四つ手の獣、音もなく飛ぶ夜の狩人、それら例外を抜けば、森のなかのバンビは最速を誇る。群れに囲われなければ狼ですら脅威ではない。
だがバンビがいま察知している危険の色を宿すなにものかは、そんなバンビの身体を緊張させている。
ここは森ではない。平野だ。森よりもずっと速く走れる。
誰にも追いつかれはしない。
そのはずなのに、バンビはそこで駆けだす真似ができなかった。
じぶんからは動けない。
相手の動きを見てからでなければ。
風が止む。
危険の色が平野の背の低い草に完全に溶けこみ、いっさいが途切れる。
バンビの鼓動だけが忙しく鳴る。
斜め後方から物音が聞こえ、バンビは反対方向に跳ねた、しかし草むらからは一羽の鳥が飛び立っただけだった。
なんだ、と思い、足の力を抜きかけたそのときだ。
鳥と同じ場所から、草むらが隆起し、勢いよく向かってきた。
バンビの身体は即座に反応できたが、足の力を抜きかけていたために、その反応を跳躍にすぐには変えられなかった。
つぎに地面を踏ん張ったときにはすでに、草むらのバケモノはバンビの尾の延長線上、真後ろに迫っていた。
バンビは駆けた。一目散に駆けた。地面を蹴って、蹴って、蹴る。
平原には障害物がない。
森でそうしていたのと同じように、バンビは不規則に進路を曲げた。そこに木があるものと見做し、記憶のなかの木々を避けた。
それが功を奏した。
ほとんど追いつかれてあとは捕まるのを待つだけだったはずが、草むらのバケモノは、バンビの予測不能な変則に翻弄されたらしく、大きく砂埃を舞いあげながら、地面を滑る。長い尾が宙をクルクルとかき混ぜる様が視界の端に映る。相手はなおも体勢を立て直し、走るが、また滑る。
バンビが変則して進路を曲げるたびに、背後の脅威との距離は開いた。
森の入口まであとすこしだ。
バンビは最後に、大きな岩を蹴って、空高く舞った。
着地し、最初の木々を過ぎると、あとはお得意のジグザグ走行で、追跡者を撒く。
ちらりと視野に入った平原の景色には、風になびく草の蠢きしか広がっていない。草むらのバケモノはまた平原に一体化し、つぎなる獲物を待ち構えているのだろう。
早く母や姉に会いたいと思った。
縄張りまで戻ってくると、バンビはようやく息を吐き、木の幹から苔を歯でこそげとり、喉を潤した。
やがて母と姉と合流する。
バンビは体験したことを鼻息荒く語ったが、見る間にあるはずもないツノを伸ばしていく母の姿に、怖気づくことになる。
あれだけ森を出るなと言いつけておいたのに。
母が言い、
理由を教えてあげないからだよ母さん、と姉が庇ってくれる。
そのくせ、いま生きてるのはただ運がよかっただけだからね、とクドクドと説くものだからバンビは反省したかったのに、これではおとなしく謝罪する気も起きない。腹の虫が暴れだすが、先刻の恐怖を思いだし、きょうくらいは我慢してもよいと思い直す。
本当に心配したんだから、と言った母はもう、見えないツノを伸ばしてはおらず、バンビの首筋に顔を埋め、もうにどとあんなところに行ってはダメ、と言葉とは裏腹の弱々しでささめいた。
森は窮屈だ、とバンビは思う。
この窮屈さに守られてるんだよ、ときっと姉は言うだろう。だから黙ってバンビは、母の首筋に鼻先を埋め返す。
わかったよ、と示すように。
こんどはちゃんと、草むらのバケモノの姿をこの目に焼きつけてみせるから、とこっそりじぶんに誓うように。
頭上には、母なる山、ラウルが聳えている。
【永久に観賞】
幽霊が最後に行き着くところがどこかを知っているだろうか。
天国?
地獄?
そんな場所があるのかは判らない。
なぜなら幽霊はみなある時期を境に、海へと向かい、成仏するからだ。
ときおり塩を撒かれて成仏する者もある。スーパーを歩き回って、誤って塩売り場の棚を通り抜けてしまって昇天する者すらいる。
つまるところ幽霊は塩に弱い。
ゆえに、海水に浸かれば否応なく成仏するはめになる。海で死んだ者が幽霊になれないのはそうした理由によるものなのだろう。幽霊になれずに死ぬのと、幽霊となって現世をさまようのとではどちらがよいのかは案外に悩む。
長らく浮遊霊をやってきて思うが、割とみなすぐに成仏したがる。十年も現世に留まらない。幽霊は眠らずに済むので、じっしつ十五年、疲れ知らずな面を考慮に入れても二十年くらいを幽霊でいつづけると、おのずからみな海へと向かう。
全身一気に海水に浸かれば、苦しまずに成仏できるからだろう。
そう、少量の塩では成仏に至れない。痛みすら覚える。
おにぎりを踏んづけるとその塩っ気によって、画びょうを踏みつけた、くらいの痛みが走る。これは実体験だ。
私はいま海へと向かっている。成仏するためだ。
いったいどれほどの期間を幽霊として生きてきたのか判らない。もはや私にとっての生とは、幽霊でいた期間を示す。それ以前の記憶はいまではだいぶんあやふやだ。肉体がないがゆえに、幽霊には記憶の容量があるものと考えている。原初の記憶だけは薄れにくいが、それもいまではだいぶん色褪せた。
何か巨大な建造物をつくっていた記憶あるが、定かではない。
世界を眺めつづける日々に飽きてしまった。
干渉できるわけではない。何かを楽しむにしろ、それは視聴の域をでない。巨大な立体映像のなかを延々と歩みつづける空虚な時間だ。牢獄の壁がすこしだけ色合い豊かで、映像が移ろう。その程度の違いにしか思えなくなってくる。
ではなぜこれほどまで長い期間を幽霊として生きてきたかといえば、単純に死ぬのが怖かったのだろう。成仏するのが怖かった。
目のまえで一瞬で姿を消すほかの幽霊たちを目の当たりにしながら、そのどこか安らかな顔をどうしてもうらやましく思えなかった。
長く幽霊でいすぎた弊害だ。死んでいるのに、この状態を生だと感じている。
牢獄のなかにあって、生きている実感を抱いてしまっている。わるいことではない。そのはずだ。
だが、徐々に人類が減少し、それに伴い、幽霊たちもまたその数を減らしていった。
やがて人類が滅びると、幽霊たちは、観ていた映画がやっと終わった、とでも言いたげに、海へと身を浸け、この世から退場していった。
私だけが残された。
そしていま、地球が終焉を迎えようとしている。海水はもう間もなく干上がり、そう時間をおかずに地球は塵と化す。そうなればもう、私は成仏する機会を永久に失くす。
宇宙空間を永久にさまようじぶんを想像し、その長く静かな闇の世界を、心底おそろしく感じた。
ひょっとしたらどこかの星に行き着き、塩に恵まれ、退場の機会を得られるかもしれない。しかしそんな、もしも、に縋れるほど、いまの私に余裕はなかった。
退屈なのだ。
眺めることしかできない。
色彩豊かな映像の牢獄は、もうすぐ闇と光しかない正真正銘の牢獄へと変質する。
その前に私はなんとしてでも海に浸かり、成仏しなければならなかった。
気づくと目のまえに浜辺が広がり、潮風が、ピリピリと肌を刺す。
移動していたあいだの記憶すら保てない。
生きてきた時間が、存在の輪郭を何億倍にも薄めてしまっているかのようだ。
私は吸いこまれるように波打ち際に立ち、足首から順々に波に呑まれる。
意識が霧散する。
そして私は闇のなかで目覚める。
闇のなかにはきらめくガスのようなものが広域に漂っている。対象物がないがゆえに、どれほど広範囲にそれが散らばっていて、どのくらい距離があるのかは判然としない。
太陽の光がある。
一見して太陽だと判った。
ではここは宇宙か。辺りを見渡すも、そこに闇と光以外を見つけることは適わなかった。
成仏に失敗したのだろうか。なぜだろう。
そうして暗闇を浮遊しているうちに、太陽は色を変え、膨張し、収斂したかと思うと燃え尽きたようにひときわ大きく輝き、闇に同化した。
過ぎ去ってしまえば、あっという間のできごとに思えたし、とてつもない歳月が流れた気もする。もはやじぶんがどれほどの期間、闇のなかに浮遊しているのか判断のつけようがない。
目をつむっているのか、いないのかも定かではない闇のなかを、眠るように漂った。
やがて目のまえに、何かしらの輝きが生じた。それは無数に散在し、一点に寄り集まると、その周囲にガスをまとった。ぐるぐると輪を描くと、それはいくつかの玉となり、光球の周囲を公転する。
いくつかの玉が、光球の周囲を回っている。
時間を巻き戻してみているようであり、早送りして見ているようでもあった。
どの玉も美しく、なかでもとびきり美しい、青と白と緑の星に近づく。
瞬きをする。
否、それが瞬きだったのだと思いだしたつぎの瞬間には、どこか懐かしい緑あふれる自然のなかに立っている。
目まぐるしく明と暗を繰りかえす空をじっと見つめる。
やがて空はゆっくりと明滅するようになり、昼と夜を思いだす。
緑は栄枯を繰り返す。動かないようでいて、ゆるやかに緑もまた動いている。
やがてほかの俊敏な生き物たちが地上に溢れ、滅び、また溢れる。幾度かの繰り返しののちに、見覚えのある二足歩行の生き物が増殖をはじめた。
見る間に地上の景観が、直線の世界に塗り変わっていく。
二足歩行の生き物は、どの個体も初めはその輪郭の色を濃くして生まれ、ある時期から半透明になった。しばらくすると巨大な水溜り――私はなぜかそれを海と呼ぶが――に浸かり、姿を消した。
二足歩行の生き物の一匹一匹に意識を差し向けると、時間はのっぺりと粘り気を帯び、瞬きをしても目のまえの風景が即座に変わることはなくなった。
二足歩行の生き物は人間と言った。
言葉がある。
それら言葉は彼ら彼女らの生活を眺めている私にもしぜんと馴染み、使いこなすまでに馴染んだ。
人間は死ぬと半透明になる。
幽霊と呼ばれるそれは、大量の塩に触れると消える。
幽霊は最後にみな海へと向かう。
私はもうずいぶん長いこと幽霊をやっているが、まだ消える気はない。
なぜだろう。
目のまえの景色のゆったりとした変遷から、ふしぎと目が離せないのだ。
【ぼくの祖母は魔女】
ぼくの祖母は魔女だった。正確には村の人たちから、魔女と呼ばれていた。
誤解されそうなので注釈を挿しておくと、祖母は村のひとたちから愛されていたようだし、しあわせな人生を満喫したと孫のぼくですら思うようなステキなひとだった。
祖母にはふしぎな能力は何もなかった。ふつうの人間だし、魔法なんて使えない。ひょっとしたら本当は使えたのかもしれないけれど、それは祖母が本当は宇宙人だったかもしれない、と妄想するのと変わらない可能性の話で、祖母には物を宙に浮かせたり、瞬間移動させたり、猫にしたりするような能力は備わっていなかった。すくなくともぼくはそう思ってきたし、当時の村のひとたちだってそう認識していたはずだ。
姿形がでは魔女っぽかったのか、と言えばそれはノーで、祖母はすこしばかり人目を惹く愛らしさがあったとはいえ、魔女と呼ばれるような特徴を兼ね備えたりはしていなかった。
ではなぜ魔女と呼ばれたのか。
祖母の料理がとびきり美味かったからだ。それも、村を一つ丸ごと変えてしまうくらいに。
祖母の生きていた時代は電子と気候変動とネットワークの時代だった。
誰も神や妖怪を信じていない。そこかしこを機械が走り回り、空すら飛びまわった。山と森に囲まれた田舎にすら電子の網の目は行きわたり、世界中どこにいても同じ情報に触れることができた。都会の人々の暮らしに憧れたならば、都会の人々と同じモノを数日のうちに手に入れられる。そんな時代に祖母は産まれた。
社会の急速な発展に伴い、そのツケとも言える気候変動が年々目に見える規模で顕在化した時代でもあった。
大雨、竜巻、疫病、蝗害、大気汚染から土壌汚染、生態系の破壊、果ては遺伝子汚染まで、挙げつらねればキリがなかった。
都会よりも田舎の利点が取りざたされるようになったのもこのころからだと父はたびたび言及した。田舎は人口がすくなく、空気が澄んでいて、水が美味しく、自然が有り触れている。いっぽうで母は、田舎への憧憬はいつの世もあった、と大袈裟な反論を投じ、父の威厳を損なった。元からないものを取り上げなくとも、とぼくは思ったが黙っていた。
祖母の話である。
祖母の料理の腕のよさは、祖母と親しい者であれば誰もが知っていた。なぜ料理人にならないのか、とみな口を揃え言い、あなたが望むならみなでお金を出し合って食堂を開いてもいい、と口々に提案したが、祖母はいつも決まって遠慮した。
「食べてほしい人はじぶんで決めたいのです」
祖母は極めて一途な性質で、そこにみなはキュンとなったそうだ。祖父に寄せられた嫉妬の数々から派生した祖父の知られざる格闘の日々は趣旨からずれるので割合するが、祖父は祖父で鬼神と呼ばれみなから忌避されつつも愛されていた事実には、やはりというべきか祖母の影響があったことをここに明らかにしておく。祖母はドブ川も泉にしてしまうほどの清らかな魅力をまとったひとだった。
ぼくの記憶にあるのは、いつも何かにしずかに一生懸命で、人の世話をそれとなく焼き、ひとから物を頼まれ、微笑を絶やさず出かけていく祖母の姿だ。
不満を口にせず、ひとをわるく言わず、誰に対しても慈しみの眼差しをそそいだ祖母の姿が、けして孫にだけ見せていた仮初ではないのだと知れたのは、祖母の葬式を終えてからのことで、親戚、村人だけに留まらず、多くの人たちに惜しまれて旅立った祖母を、いまさならながらにすごいひとだったのだなぁ、とひとごとのように思うのだ。
いっぽうでは、たとえ誰に惜しまれずひっそりと亡くなったとしてもぼくの祖母への印象は何一つとして揺るがなかった。やはり尊敬すべきひとなのだ。
なかでもやはり、祖母がみなから魔女と呼ばれるようになった契機であるところの避難所事変について話しておかねばならないだろう。
祖母が祖父と結ばれ、念願の我が子、すなわちぼくの母を産んだ年のことだ。
大雨が連日降りつづき、土砂崩れが村を襲った。土砂崩れの前兆を察知できた者がいたため、村人は犠牲者をだす前に避難を完了させることができた。
産後間もない祖母は、ただでさえ乳児の育児に手を焼いていた。
避難所には村人が押し寄せ、ギュウギュウ詰めだ。息が詰まる。空気も淀み、みなの機嫌もピリピリしている。
土砂崩れは段階的に起きた。
避難から三日後には祖母の家を含めた村の半分が土砂に埋まった。
避難所に物資が運び込まれ、テントによって狭いながらも各世帯ごとに居住区ができる。だがその生活がしばらくつづくと思えば、誰もが鬱屈した。
夕飯だけは避難所のみなで、給食然と賄われた。
そこで腕を振るったのが祖母だという話なのだが、ここからは誇張なしで事実だけを述べる。
基本的に避難所の食事は、非常食が主だ。食品会社が慈善で菓子パンやレトルト食品を提供してくれるが、それ以外では、国が支給した非常食セットが至急される。
朝と昼はそれで済ませられるが、やはり食事はまさしく生きる糧だ。夕飯は各自が持ち寄った食材で、カレーや肉汁などが振る舞われた。
多くは村の農家の備蓄だ。廃棄するだけならばみなに分け与えたほうがよい、と考え、ほかにも多くの者たちが山の幸を獲ってきては日々の食卓に彩りを添えた。
ここまでなら単なる美談であったが、そこに祖母の腕が加わったことで、事は大きく流れを変える。
祖母の料理によって避難所には活気が戻った。
取材陣はその様子を記事にしたい。災難にも負けない被災者の姿は、全国の人々の関心を惹く。
そこで目をつけたのが政府機関だ。広報の目になると判断したのだろう、この国の象徴、お偉いさまの公務先として白羽の矢が立った。
記者たちのあいだではすでに、避難所で振る舞われる食事が絶品だとの噂は広まっていた。事実、それ目当てで夜まで長居をする記者たちも珍しくなかったようだ。代わりに避難所にはぽつりぽつりと物資が増えていった。
それはたとえば本来であれば優先順位の低い本や菓子などの嗜好品であったが、子どもたちの顔にも笑顔が見られるようになり、ますます避難所は元の村としての姿を、何も復興してはいないにも拘わらず取り戻していった。
そしていざお偉いさまが訪問した際、誰の案かは知らないが、この国の象徴ことお偉いさまが祖母の料理を口にした。
とてもおいしゅうございますね。
上品な称賛の言葉に、避難所はほっと息を吐く。
その瞬間はバッチリと記事となり、映像にもなって、電波に乗り、全国津々浦々にまで広く知れ渡った。
元々避難所の夕食の噂は、記者たちのあいだで流布していた。ゆえに、ある村人の料理はかのご夫妻の舌もうならせるほど極上だとする惹句がそこかしこのマスメディアで語られるようになった。
じっさいにボランティアで現地を訪れた人々の口の端にものぼり、いよいよ当時風靡していたSNSでも拡散されるようになり、一躍祖母の料理の味は、その真偽を含めて人々の関心を惹いた。
個人情報の兼ね合いで、祖母の姿こそ電波に乗ることはなかったが、それでも料理の噂に付随するかたちで、祖母の愛嬌のある人物像についてはよくよく、尾ひれなどもつきつつ語られた。
注目が集まったこともあり、募金は一挙に集中して寄せられた。また、宣伝になると踏んだのか、各企業が、自動販売機や、足りない雑貨、食材の搬入などをアンケートをもとに寄贈してくれるようになり、避難所はもはや元の村よりも賑やかな様相となった。
祖母の料理を商品化したいとまで言い寄ってくる輩もおり、そこは祖母は丁重にお断りしたという話だが、レシピだけは慈善活動へのお返しのつもりというわけではないにせよ、提供し、のちのち発売され、いまでは知らぬ者がいないあの食品になったと聞き及んでいるが、真偽のほどは定かではない。
おそらく企業に問い合わせたところで、はいそうです、とは言わないだろう。特許は祖母にはない。しかし、村人の誰もが、これは魔女さんの味に似ていますね、と言う。そこにひがみの響きはなく、ともすれば、祖母の料理のほうがずっと美味しかったねぇ、と懐かしみ、惜しむような響きが感じとれる。
祖母の料理が村を救ったと言いたいわけではない。
復興の後押しになったのは間違いないが、かといって祖母が料理を振る舞わずとも、村はいずれは復興し、また元の活気のあるとは言えないまでも、平穏でしずかな、都会に憧れつつも物足りないというわけでもない田舎の風景を取り戻していたはずだ。
とはいえ現状がどうかと言えば、いまこの村には、祖母の得意とした料理の数々を提供する食事処が大々的に開かれており、村興しの一環として細々とながらも、ないよりかはあったほうがいい、という成果をあげている。
いまでもあのころの避難所にゆかりのある人々が、この何もない田舎の村に足を運んできてくれる。土砂崩れのあった区画は立ち入り禁止となり、いまでは野ざらしの土地となっているが、野鳥のほどよい骨休みの場となっているようで、村の者はむしろ歓迎している節がある。
祖母の家は、川に近い場所に建て直された。村への寄付金だけで、村人の住居をすべて新築にできるくらいの額が集まったのにはびっくりした。いくらかは国に贈与したようだが、こればかりは祖母の活躍のお陰と言ってもよいかもしれない。否、みなの善意のお陰だ。驕ってはいけない。
新築の家からは温泉が近く、祖母はたいそう気に入っていたそうだ。祖父が温泉好きだからだろう、ことさら祖母が温泉に通っていたという話は聞かない。
ちなみに、なぜ祖母が魔女と呼ばれているのかを、じつはまだ述べていない。
その一端はすでに叙述している。
土砂崩れが起きる、と言って寝ていた祖父を叩き起こし、村中を駆け回って避難を呼びかけたのが何を隠そう、祖母だった。
みな半信半疑だったが、あのひとが言うならばまあひとまず言うとおりに動いてみるか、とおとなしく従ってくれたのは祖母の日ごろの人徳のなせる業だ。
祖母の人望の一億分の一でもその孫たるぼくに引き継がれてくれればもうすこし生きやすい日々なのかもしれなかったけれど、ざんねんなことにぼくには祖母よりも祖父の血が色濃く流れているらしく、人望とは縁がない。祖母のような女性と出会いたいと半ば本気で祈ってしまうところに、ぼくのうだつのあがらなさが凝縮していると言ってもよいだろう。それはそれとして、みんな見る目がない。
話を戻そう。
祖母がなぜ土砂崩れの前兆を察知し、避難を呼びかけられたのか、については誰もそれを祖母に訊ねず、まああのひとの言うことだからな、と祖母を魔女と呼び、崇めてなあなあにしたところからも分かるとおり、いまを以って不明のままだ。
だがぼくはここで一つの仮説を披歴しておきたい。
祖母は土砂崩れの前触れを察知したのではなく、祖母こそが土砂崩れを起こした張本人なのだ、と。
なぜぼくがそう考えるのか、にはいくつかの疑念が前提にある。
まず以って、祖母一人きりで避難を呼びかけて回るにはこの村は広域な土地であること。つぎに、祖母はそのころ乳児を抱えていたこと。そしてこれが最も不可解なのだが、村人はみな全員、祖母に避難を指示された、と口を揃えて振り返ったことにある。
これは当時の記事を集めて、読み比べても一致している。誰もが、祖母に村を救われた、と感謝の念を述べている。彼女の声がなければいまごろ土砂に呑まれていただろう、と。
しかし祖母が複数同時に存在しないかぎり、そのようなことは起こりえない。
祖母の料理が美味であるというのも、ここで吟味の材料に取り入れたい。レシピがなければ再現できないほどに、祖母はどのような素材を用いても、美味しく料理した。そしてそれを親しい者以外にはけして食べさせようとはしなかった。避難所生活のあいだだけが唯一の例外だったようだ。
そのときに村人に共有したレシピはしかし、祖母の振る舞った数々の手料理にはおよそ及ばぬ品数であり、未だに祖母の料理には謎が多い。
よってここに、祖母は真実魔女であり、その不可思議な能力によって村の危機を救い、ともすれば引き起こし、ときに愛しいひとを射止め、美味しい料理を鍋でぐつぐつ煮込んで調合し、世話を焼きつづけたのではないか、との仮説を提唱するものである。
とはいえ、祖母はすでに亡き人だ。検証のしようがなく、これは妄想の域をでない。
他方で、事実として、過去ここでは災害が起き、誰かが土砂崩れを予期して避難を呼びかけた。そしてそれを村人はみな、祖母だ、と供述している点は強調しておきたい。
論理的に考えるならば、村人の供述に偽りがあると考えるのが妥当だろう。意図してではないにしろ、村のためを思って、日ごろから世話になっている祖母の顔を立てるつもりもあって、避難所で注目を浴びつつあった祖母をさらに慈愛の象徴とすべく、そのような欺瞞を騙ったのかもしれない。
だとしても、誰に指示するでもなく、村人にそのような虚偽の証言を働かせるほどの魔性を秘めていたという点ではやはり、祖母は魔女だったのだと言っても過言ではないのではないだろうか。
いまでも祖母の命日には、墓に供え物が山積みになる。祖母と同じ時代を生きた者はもはやもうすくないだろうに、それでも祖母の話を語り継いで聞かされたその子や孫たちが、お参りに訪れるのだ。
生前であっても祖母のもとにはたくさんの誘いと、人と、縁が集まった。
幼心にその風景をしぜんなものとして眺めながらも、ふしぎに思っていた。
なぜ祖母はああも村人たちから一目置かれているのだろう、と。
もうすぐ祖母の七回忌になる。九十を過ぎてから亡くなった。大往生だ。
ぼくの祖母は魔女だった。
そしていまでも人々を虜にしている。
【鬼だっちゃ】
鬼が島から桃太郎一行が去ったあとのことである。
「おそろしゅう方の怒りを買ってしもうたの」
「んだんだ。しばらくは人間っこを食べるのはやめにすっぺ」
「あほか。二度と喰らうでね。あの方も言っておったべ、おとなしくしてりゃ見逃してやるって。つぎは本気で滅ぼすぞ、とあれは暗にそう言っておったのだぞ」
「んなこと言ったって、食わねばどの道滅びるべ。わてら何さ食えばいいだ」
「そだなぁ。人間っこを見習って、んだばいっちょ畑でも耕すか」
んだんだそれがええ。
鬼たちは鬼が島の岩だけの地盤を、自慢の強力と鋭い爪で以って、掘り返した。岩盤は細かく砕かれ、肥沃な土壌となった。
「何さ埋めっぺ」
「んだば、あれさどうだ。前に魔女のアネゴがくれたべ」
「まんどれいぐ、ちゅうあの不気味なあれか」
「味はカボチャに似てたど」
「ぬしゃ食ったんか」
「チカラがモリモリよう湧くだ、湧きすぎて怖くなってもう食わんくなっただ」
「なしてや。よかべ元気でるんであらば」
「元気ですぎっと、よう動くべ。したらもっとお腹が減るっちゃ。したらば、もっと食べとうなって、あとはもう底なしだ。そんなのは御免だべ」
「したらわしらも同じだべ。やっぱやめとくか」
「丸ごと食ったのがいけんかったべ。細かく砕いてほかの料理さ混ぜっぺ」
「んだらば種さあるだけ埋めっぺ」
んだんだ。
鬼たちは島にゆいいつ残された備蓄を土に埋めた。金銀財宝は桃太郎一行に譲った。奪われたわけではない。もちろんそれで見逃してくれと差しだしたわけでもなかった。
知らなかったとはいえ、人間たちは困っていたのだ。それはそうだ。鬼たちだって桃太郎からこてんぱんにのされて、死ぬ節目に遭って身に染みた。
弱肉強食とはいえど、わざわざ人間だけを好んで食べなくともよかったのだ。美味であったのに加え、人間たちはポコポコ増えるので、一匹からとれる肉もそれなりに多く、獲って食べるのに適していた。ただやはり、わざわざ人間だけに絞るのは配慮が足りなかった。そこは真摯に反省した。桃太郎の怒りももっともだ、と。
ゆえに、贖罪のつもりで金銀財宝を譲ったのだ。
だが種だけは手放さなかった。というよりも、そんなものを渡されても扱いに困るだろうし、なかには扱いに困る植物もすくなくない。
人間たちの扱う植物のなかにも、鬼たちにとっては毒となる種もあり、たとえばマメ科の植物などは、鬼にとっては猛毒だった。
同様に、人間たちにとって毒となり得る種があってもおかしくはない。余計な禍根を残すことになり兼ねず、万が一にも被害をださないためにも、種は手元に置いておくことにした。
けっきょくじぶんたちの善意に救われたことになる。
ああよかった、よかった。
鬼たちはせっせと種を蒔き、水をやり、芽吹いたそれらをだいじに育てた。
やがて、マンドレイクをはじめとする種々雑多な植物が生え揃い、実をならし、収穫のときを迎えた。
「ようやっと食べられるっちゃ」
「クジラを獲りすぎても怒られてしもうたべ。このままだと飢え死にするところだわい」
「もういっそ肉を食うのをやめるか」
「それがええ」
「家畜を飼うのはどうだべか」
「山さ行ってとってくっか? 桃太郎さんに許しを得なけりゃまた面倒なことになっぺ」
「じゃちょいとおらさ行ってくっか」
「取れたてのまんどれいくでもおすそ分けしてけれ」
「んだんだ、お世話になった分、お返しせねば」
鬼たちは遣いの者を選び、その者に収穫したばかりのあれやこれやを持たせた。
「では行ってくる」
「気ぃつけてなー」
遣いの鬼はひと足で、海を渡り、ふた足で平原を抜け、三、四、と大地を踏み鳴らしたときには山を一つ越え、二つ越え、あっという間にとある山の麓へと行き着いた。
桃太郎の匂いを辿ったので、そこに桃太郎がいるはずだ。
鬼はぐっと身を縮め、人間に成り済ます。
村を歩き回る。奇異な目を向けられはしなかったが、よそ者であるのは変わらぬので、どこを歩いても遠巻きからの視線がついて回った。ともすれば、背負った荷物の大きさが目立っていただけかもしれない。
「桃太郎さんはどこにおられるでしょうか」遣いの鬼は、好々爺を捕まえて言った。
「桃太郎さんは亡くなった」
「なんと」
「もう何十年も前の話だぁ」
「そんなに早く」
「大往生だったよ。鬼退治から帰ってきて、みなから祝福されて、村人のためにそれからもよくしてくださって。ほれ、あすこ」
好々爺のゆび差した方角には、記念碑だろうか、しめ縄のされた石が建っている。
「桃太郎さんの功績をああして忘れぬように刻んでおるのよ」
「惜しいひとを亡くされましたなぁ」
「なあに。しあわせな人生を送られたのだ、わしらはそれが誇らしい」
遣いの鬼は、村をさらによくよく散策し、その豊かな暮らしぶりに気をよくした。
「で、荷物を置かずに帰ってきただか」
「すまんの。が、手だし不要だべ。却って迷惑になる。我ら鬼さ退治したことで英雄と称えられてたべ、いまさら水を差すこともなか」
「人間ちゅうんは、長生きはせなんだか」
「わてらほどではないようだったの。何十年も前に亡くなってたべ」
「そりゃ難儀じゃの」
「まんどれいぐが育ちきる前に、では死んじまうでねか」
「んだ」
遣いの鬼は、地面に荷物を置いた。
「帰りに魔女のアネゴのとこに寄ってきただが。持って帰るのもどうかと思ってアネゴに持ってったらえらく感謝されてな。代わりにこれをくれたど」
「どれどれ」
荷をほどくと、そこからはごろんと一つの重箱が現れた。
「玉手箱ちゅうて、なんでも植物の成長を早められる優れものだそうだ」
「ほう、それはええ」
「ただ使い方がようわからんでな」
「聞いてこんかい」
「聞いたは聞いたがよぉわからんべ」
「中身はなんじゃ」
「覗いてみたが、雲みたいなもんが渦巻いとってな」
「それを撒けばええって話か」
「どうだべな。中に種さ入れとけば、素早く実をならす種に変わるようなそんな話にも聞こえたが」
「やってみりゃええ。困ったらまたアネゴに訊きに訊ねればええ話だべ」
「それがそうもいかねぇだ」遣いにいってきた鬼は言った。「アネゴはなんでか、地上にはもういられんちゅうて、海の底さ、都を築いてそこで暮らすっちゅうててな」
「ほんまか」
「んだ。しばらくは忙しくなる言うとったべ、お邪魔せんほうがええ」
「手伝いはいらんのか」
「繊細な仕事じゃ言うて、却って足手まといじゃと申しておったな」
「なんだべ、アネゴのお役には立てんのか」
「助けがいれば向こうから言うてくるべ。おらたちに遠慮するような方じゃなか」
んだんだ。
鬼たちはさっそく玉手箱のなかに、まんどれいくやら世界樹やらの種を入れて、しばらく寝かせた。
そのあいだに島の畑には人間たちから買い集めた種を植えてみたところ、これが見る間に実をならせるものだから、鬼たちはそちらの農作に夢中になった。
玉手箱は鬼が島の端のほうに安置していた。
島の真ん中には高い山があり、鬼たちの暮らす場所からは玉手箱のある海岸が見えなかった。
どれくらい時間が経ったろうか。桃太郎がこの島を訪れ、去り、そして鬼たちが土産を持って使者を使わせたのと同じくらいの時間が経過したころ、島全土を闇が覆った。
いつまで経っても陽が昇らず、おかしいな、おかしいな、と鬼たちは顔を見合わせては、痩せ細っていく畑の姿に心を痛めた。
「なして夜が明けんのだ」「暗いのう」「これではまた餓えてしまうぞ」
鬼たちは頭上を見上げる。
いったいどこまで夜はつづいているのか。
山の頂に登ってみると、片や真っ暗で、片や奥のほうにうっすらと光が見える。夜の闇にも濃淡があるようだ。
「いっちょどこまで続いてるか見てくるか」
「んだんだ。おめさ行ってこ」
「腹が減ってチカラがでね。おめさ行け」
「おらはこのあいだお遣いさ行ったべ。おめらが行け」
険悪な空気が漂うなか、
「こらこら、仲良くしなよガキじゃあるまいし」
「アネゴ」
海面から巨大な二枚貝が浮上し、ぱかんと割れたその中から魔女がキラキラと現れた。鬼たちが居住まいを正すが、魔女は意に介さず、島を見渡すと、あれか、と言った。歩きだす。鬼たちは魔女のあとを追った。
「前に持たせた玉手箱はあるかい」
「それは、えっと」
「中に種でも入れて忘れたんだろ。そんなことだろうと思ったよ」
「んだばアネゴ」
「言い訳は無用だ。おまえたちのせいで、ただでさえ暗い海が真っ暗だし、浅瀬は干上がるし、これじゃそのうち世界が滅びるよ」
「世界が」
壮大な話に、いよいよついていけなくなり、
「アネゴ、申しわけねぇだが、どういうことかを説明をば」
「あれだよ、あれ」
魔女は山を迂回し、鬼たちの居住区の反対側の海岸に立った。
闇に溶けこんでおりよく見えなかったが、そこには巨大な樹が天高く伸び、生やした枝葉で以って空をどこまでも覆い尽くしていた。
それはそれは大きな大きな樹だった。
夜が明けなかったのは、この樹が日差しを分厚い曇天がごとく遮っていたからだ。よく見れば島の敷地が広がっており、あべこべに海が広範囲にわたって干上がっていた。大樹が海の水を吸いあげてしまったからだろう。
そう言えば、と鬼たちは思いだす。玉手箱のなかには活力の漲るマンドレイクの種に加えて、世界樹の種まで入れていた。それらが混然一体となって、このような世界を丸ごと呑みこまんとするほどに育ちに育った大樹を生みだしたのかもしれなかった。
とんでもない失態だ。
鬼たちは魔女に謝罪した。できるかぎりのことはする。どうにかしたいので、助けてほしい。そのように頭を下げた。
「できんこともない。が、ちと代償は高くつくぞ」
「構いませんです。わてらの命くらいで済むのならお安い御用です」
「ばかもの。そう容易く命を投げだすな。命の価値を低く見積もるやからに手は貸しとうないぞ」
「ですが」
「わかっとる。そうさな、まずはこの島をもらいうけよう。それからおまえたちには、金輪際、ほかの土地への干渉を禁ずる」
「へい」
「というよりも、干渉できないことになるが我慢してくれ」
「どのような罰でも甘んじて受けやす」
「罰ではない。そうせざるを得ないだけだ。だからまあ、これはむしろどちらかと言えば、私がおまえたちに頼んでおるのだ。これからさきに行く世界にて、番人として、新しくおまえたちの秩序を築いてくれ」
「はて、それは」
「このバケモノの大木はもうどうにもできん。ゆえに、この島ごと異界へと飛ばす」
「異界、でごぜぇますか」
「さしずめ魔界とでも名付けようか。玉手箱をつくる際に見つけた術だが、ちょいと荒んだ場所ではある。何が起きるのか正直予測がつかんのでな。できれば監視役がほしいところなのだが、頼めるか」
「拒む筋合いはおらだちにはないっちゃ」
魔女はそらを仰ぐ。
「このバケモノの大木さえ向こうに移せばそれで済むとは思うんだが、島ごと飛ばさなければならなくなるし、玉手箱の効力はまだまだ有効だろうから、このさきまだ育つ。魔界の影響も受ければ、何かよくない変化を遂げるかもしれんしな」
「お任せくだせい。我ら鬼がなんとしてでも食い止めてみせますだ」
「申しわけないな。この手しか思いつかん。たまには差し入れでも持っていく。千年もすればひとまずの様子見は終わるだろう、大木が枯れれば島ごとまたこちらに返すこともできるはずだ」
「たった千年でよかですか」鬼たちの顔がぱっと明るくなる。
「おまえたちにとっては旅みたいなものか。心配するだけ損のようだ。では、あとは頼んだ」
魔女はさっそく作業にとりかかる。呪文を唱えてそれで終わり、というわけにはいかないようだ。そこから数年を要して、魔女は島の周囲に陣を描き、楔を打ちつけ、そこに雷を落とした。
轟音が衝撃波となって地表を伝った。夜にヒビが走るように闇は崩れ、やがて数百年ぶりの陽の光が海辺に差しこむ。
「やれやれ。だいじょうぶだろうとは思うが、鬼たちにはわるいことをしてしもうたな。戻ってきたらたんと褒美をとらせねば」
肩をトントンと叩きながら魔女は、新設したばかりの竜宮城へと踵を返した。海の底へと戻っていく。
数百年後、同じ浜でカメを助けた青年が竜宮城に足を運び、そこで玉手箱をもらい受けることになるが、鬼たちを魔界へと送り飛ばしたばかりの魔女にはそんな未来を見通せるほどの千里眼はなく、またその青年が玉手箱を開けてしまったがために、予定よりもずっとはやく魔界への道が開け、そこから意気揚々と帰還した鬼たちが現世の人間たちを恐怖と混乱の渦に陥れることになるとは想像だにしていなかった。
鬼たちには人間たちに危害を加える気がまったくのからっきしであった。住みやすく開拓した魔界を離れるのが名残惜しく、なんとかこちらとあちらを繋げたままで、行き来できる方法はないか、と魔女に相談する気満々で、人間たちの混乱をよそに海底を目指したが、案内が不在では辿りつけない仕様であったらしく、ついぞ魔女には再会できず、海面からふたたびずらずらと姿を現した鬼たちを目の当たりにして、ますます人間たちは恐怖の渦に囚われたという話であった。
そこからの長く険しい、人間と鬼たちの戦いは、多くは人間たちの一方的な勘違いでしかなかったが、鬼たちはそれはそれは気の長い、心の根のやさしい者たちであったので、なんだか一致団結し、躍起になり、闘志を燃やして挑んでくる人間たちにいまさら、勘違いだよ、とは言いだしづらく、最後まで凶悪な鬼を演じきってみせたという話であった。
言う間でもなく鬼はかつて桃太郎と交わした約束を律儀に守り通し、人間を誰一人として傷つけず、最終的には騒ぎを聞きつけた魔女が、陰陽師なる人間の一味に成りすまし、鬼を成敗してくれようと、大立ち回りを演じて終止符を打った。
鬼たちは魔女に感謝をしつつ、魔界は魔界で住みやすいところだ、と打ち明けた。
「ならばそちらはおぬしらの国とするがよい」
魔女からの太鼓判をもらい、鬼たちはじぶんたちだけのしずかで穏やかな世界を築いたという話だ。
その後、たびたび人間たちは魔界に迷い込み、鬼に怖れをなしたという話であったが、いずれも鬼たちが丁重に現世へと送り届けたが、やはり人間たちは鬼たちへの誤解をついぞ解くことはなく、鬼なる凶悪な存在をいまでも語り継いでいる。
魔女はいま、そうした鬼のまつわる物語を文章にしたため、人間たちから生気と金銭を巻き上げているが、それらエネルギィと資本をもとにこんどは何を発明せんとしているのかは、奇しくもそれらを語りあう相手が魔界に引っこんで久しいので、詳らかではない。
鬼たちは魔界にて、バケモノの大木になる種々相な果実を食べて、ときに酒をつくり、長いときを、楽しみながら過ごしている。
【ブガイ者は貫く】
最初はよかったのだ、何をしても許されてしまうのだから。ただ一つ、善いことだけをしてはいけない、じぶんから誰かの役に立とうとしてはいけない。それ以外のことなら、たとえ殺人を犯そうが無罪放免、何の罰も受けずに自由に日々を過ごしていける。
大昔にはえたひにんや奴隷がいて、問答無用で人外として扱われてしまった過去があるわけだが、僕の場合はその逆で、いわば神や王さまさながらになれてしまう。
宝くじに当たったようなものだ。
特例だった。
世のなかに一人くらい、そうやって例外的存在をつくることで、人々に緊張感を持たせようとの狙いがあるとかないとか、まことしやかに囁かれてはいるが、何にせよ僕はブガイになったことで、働くことなく、好きなことを好きなだけして過ごせる人生を手に入れた。
飲食物は店にあるものをかってに食べていい。服飾だって、自動車だって、何だって手に入る。
あんまりおおっぴらには言いたくはないけれど、異性なんて選びたい放題だ。スリルが欲しければ人妻や少女、幼女、国籍、人種、年齢差なんて関係なく、何だったら同性相手にだって、何だってし放題だ。
お咎めなしだし、相手は僕の言うことを断れない。断ったら死刑だから当然だ。しかも連帯責任で、三親等の血族にまで罰が与えられるというのだから、本当に僕は神にでもなったような生活だった。
わるいことはたいがいやった気がする。
もちろんというのもおかしな話だけれど、人も殺した。ニュースで話題になっていた犯罪者で、女子供をオモチャのように扱いながらも罰金を払って自由になった。
僕みたいなやつだった。
僕は僕みたいなやつが許させない。世界に神は一人でいい。僕は正真正銘に、国からブガイの称号を与えられているからよいとして、ソイツは何の許可もなく他人を苦しめ、損ない、その罪を背負おうとしない。
司法が罰を与えないというのならブガイたる僕が罰を与えようと思った。私刑は基本、よくないことだ。わるいことだ。
しかし天罰なら別だ。
だから殺した。
白昼堂々、ソイツがもっとも人生を謳歌しているだろう、仲間内でのパーティーでどんちゃん騒ぎをしているところに乗りこんでいって、みなの前で包丁で刺し、裸にしてベランダから外に吊るした。その様子はモザイク越しにではあるが、世界中に放映された。
僕は抑止力になった。
死神のノートを手に入れて、犯罪者を殺しだす青年が主人公の漫画があったが、似たようなものだ。
気に食わないやつは殺した。
誰かを傷つけておきながらのうのうと生きているやつには死んでもらうしかない。
じっさいにそのような声明を僕はだした。死体はことごとくひと目のつく場所に放置し、ときに吊るして、見せしめにした。
世のなかから犯罪が激減した。
期せずして善いことをしてしまったが、僕が意図して起こした現象ではないので、お咎めはなしだ。僕は善いことをしてはいけないが、悪いことをした結果に回り回って社会のためになってしまうのなら、それはまあ仕方ないよね、の判断を下されるようだった。
ある日、ニュースで僕を糾弾したキャスターがいた。いくらブガイとて、やっていいこととわるいことがある。そう言って僕を虚仮にしたので、ソイツの娘をちょっと僕の暇つぶしに使ってあげた。ちゃんと生きて返したので、僕としてはだいぶ温情をかけたつもりだ。キャスターは二度と僕の名前を口にしなくなった。
彼だけではない。
世の人々はまるで本当の神さまのように僕を敬い、崇め、そしてふだんはそこに居ない者として扱いはじめた。
僕の手によって人生を大きく曲げられた者たち、損なわれた者たち、傷つけられた者たちは、いわば運がなかったのだ。事故や災害に遭ったようなもので、そもそも防ごうとして防げるような事象ではない。
なにせ僕はブガイなのだ。善いこと以外なら何でもしていいことになっている。
僕の毒牙にかからぬようにするためには、なるべくおとなしく、慎ましく、あまり目立たぬように生きていくしかない。僕の影響なのか、他人に優しくしようとする者たちが増えはじめた。しかし僕は相手が善人だろうと関係なく、ちょっと退屈したり、ムラムラしてきたら、使い捨てのオモチャみたいに、その場限りの愉悦に浸った。
やがて誰も僕と目を合わさなくなった。しゃべりかけても返事をしてくれない。僕は万能の存在ではない。罪に問われないだけで、他人を意のままに操る術は持ち合わせていなかった。
僕に阿諛追従しても、そのときの僕の気分次第ではひどいことをされる。というよりも、僕は善い行いをしてはいけないわけだから、僕から声をかけられた次点で、もはやオオカミに狙われたヒヨコのようなものだった。誰もが、人生終わった、の顔を浮かべ、縋るような眼差しを向ける。逃げるように最後まで僕のことを無視しつづける者もすくなくない。
僕はブガイで、社会にある唯一にして無二の存在であったはずが、いまでは誰も僕を認めない。見て見ぬふりをする。
道端の小石のように、または透明人間のように、それとも死神のごとく、人々は僕をこっぴどく避け、忌み、そこにいない者扱いした。
誰がはじめたでもないそれは日に日に徹底されていき、間もなく、僕の手で損なわれた人たちの情報が、その被害状況に合わせて、まるで地震や水害のようにニュースの特別枠で放送されるようになった。
「ではつぎです。きょうのブガイ被害は世田谷区在住の主婦で」といった具合に、僕の暇つぶしに付き合わされた女性や、殺害された犯罪者たちの情報が流れる。
僕としては、僕のしている所業が知れ渡ろうが、隠されようがどうでもよいので、なぜなら僕は罰せられることもなく、これまで通りの自由な日々を送れるからで、川の魚たちがどのように釣り人の存在を語りあっているかなんて、釣り人には関係がないのと同等の規模で、僕にとって僕以外の人々が僕のことをどのように噂しようと、僕はただ釣り糸を垂らしながら、そのじつ目についた魚めがけてモリを投げて、突き刺すだけだ。魚から見て、釣りをしている人と見做されようが、僕は僕のしたいことを、その日の気分でする。どの道、僕が魚たちの生殺与奪の権を握っていることに変わりはないのだから。
一年が経ち、二年が経つ。
僕がブガイになってから十年が経つと、ひと通りの悪事はやり通してしまい、何を行なっても物足りなくなってしまった。
刺激が足りない。
それもある。
しかし欠乏しているのは刺激ではなく、刺激をこの手で生みだしておきながら誰にもそれを波及させられない影響力のなさが要因となって、僕を虚無の世界に閉じこめる。
僕はこの世で最も畏れられ、敬われ、疎まれて、忌避されている。
ここにいるのに、いない者扱いされ、何を成しても、自然災害以上の扱いを受けない。誰も僕を見ないし、僕のすることなすことすべてをただそういう現象としてか見做さない。
実感が湧かない。
生きているという質感がない。
抵抗がない。
何をしでかして見せたところで、暖簾に腕押しぬかに釘を字で描くのだ。
見てほしい。
崇めてほしい。
褒めてほしい。
認めてほしい。
僕を一人の人間として見てほしい。やさしい眼差しを向けてほしい、ありがとうと言ってほしい、笑顔を向けてほしい、にこやかにあいさつを交わしてほしい、くだらない雑談をして笑いあいたいし、何でもないことで怒ったり、わるいことをしたら叱られたい。
僕のそうした欠乏の欲求は、やがて一つの望みへと収斂していく。
みなの役に立ちたい。
みなの害としてではなく、みなの一員として僕もその輪に加わりたい。
悪いことではなく、善いことをしたい。
ブガイとしてではなく、僕としてみなに認知され、扱われ、触れあいたかった。
寂しかったのだ。
本当は僕はずっと寂しかったのだ。
さもしく、ありきたりで、つまらない欲求だ。
でも、せつじつな望みなのだ。
もう嫌だ。
悪事は飽きた。
人の悲しむ顔、苦しむ顔、絶望の顔、怯えの顔、もう元の日々には戻れないとこれまでのじぶんとかけ離れてしまった現実に呆然自失となる顔、現実を受け入れられない顔、もう僕はそんな人々の姿を見たくない。
なにより僕は、この手で人を傷つけ、損ない、そのひとをそのひととしてかたちづくる尊い芯のようなもの、そのひとの世界そのものを冒し、穢し、壊す真似をしたくなかった。
僕はひどい人間だ。
いいや、人間ですらない。
ブガイだ。悪事しか行えない歩く災害、生きる奇禍そのものだ。
神ならばまだしも、僕はただただ人々から嫌われ、いない者扱いをされ、いなければいいのにと祈られる。
当初こそ、みながそのように振る舞うならばもっとひどい目に遭わせてやろう、と反発心にも似た怒りに衝き動かされていた節がある。その当時の僕にその自覚はなかったのだけれど、いまにして思えば、意固地になっていたとしか思えない。
ブガイは悪事しか行えない。善いことをしてはいけない。
ただしそこに悪事の制限はない。どんな悪事でもいいし、したくない悪事はしなくてもいい。
過去、僕以外のブガイのなかには、いっさいの悪事を行なわずにただの人として人生を全うした者もいたそうだ。僕のようにタガを外した者もいたようだが、ふしぎと享年が若く、長生きした例は皆無だった。
そりゃそうだ。
いちどブガイとしての悪名を馳せてしまえば、あとでいくら体面を取り繕ったところで、二度と信用は戻らない。
疫病神として認知されたブガイは、社会のなかで好き放題する権利を得る代わりに、けして覆せぬ孤立を約束される。
誰とも交流を築けない。その者の何かを損ない、傷つけ、恨みを買う以外には接点を持てない境遇に身をやつすこととなる。
悪事を働くとはそういうことだ。
罰を受けないとはそういうことなのだ。
誰にもバレずに悪事をこなせばいいと考えついたこともあったが、いざやってみたところで、もはやこの社会において僕は悪の権化だ。たとえ悪事を控えたところで、アイツはどこかで誰かを傷つけているに決まっている、と社会は僕の姿に無数の悪事を幻視する。
せめて名誉挽回の機会を得られればよいのに、それすらブガイにはできないのだ。
善いことをしてはいけないのだからそうなる。
悪事しかしてはいけないのだから、そうなる。
いよいよ僕はまいってしまった。
勘弁してほしかった。
許してほしかった。
罪を償いたかった。
一生刑務所のなかでもいい。
なんだったら死刑でもいい。
みなからこれまでの罪を指弾され、裁かれ、きちんと社会的に死にたかった。
どうにかしてブガイを卒業できないだろうか。辞退できないだろうか。破棄できないだろうか。きっと何か方法があるはずだ。
このままでは僕は、僕として死ぬことすらできずに、ただ嵐が過ぎ去った、みたいな処理の仕方をされる。死んでよかったよかった、消えて清々した。僕はみなから、はやく死ね、と祈られながら生きている。
足元の蟻に何をどう思われようと構わない。僕は僕だ。そう思っていた時期もあったが、だとすると僕はとたんにこの世にただ独り生き残りつづける最後の人類と化してしまう。僕はつよがろうが卑屈になろうが、どの道、孤独に、孤立に、生きるしかないのだ。
ブガイをやめたい。
ブガイをやめたい。
僕は散々考え、頭髪を掻き毟り、ときおり底抜けの寂しさを紛らわせるために道端で見かけた女子高生で己がうちに猛る悪の衝動を打ち消さんと試み、女子高生の泣きじゃくる顔を拝んで、根っからの僕はブガイなのだ、と諦念を覚えた。
無理だ。
僕は僕、ブカイで、悪の権化だ。
けれど諦められない。限界だった。
どうして僕がこんな目に。
飄々と日々を過ごしていく目のまえの人々を眺め、途方もない怒りに駆られた。
おまえたちのせいだ。
ブガイなんかを僕に押しつけるからこんなことに。
お門違いはなはだしいじぶんかってな憤怒だった。
反面、こうして僕がブガイでいることで、ほかにブガイになって苦しむ者を生まずに済んでいるとも言える。
結果として、回り回って、善いことをしている。
そう考えてみると、回り回っての因果ならば、やはりブガイの制約の範疇外なのだろう。結果として善いことになっていようが、直接でないならば問題ない。
ということは。
僕は閃いた。
間接的にならいくらでも善いことをできるのだ。
きっとほかのブガイたちも、過去にこの考えに行き着き、実践したのではなかったか。
いよいよ僕は一念発起し、表向きは悪事だが、回り回って世界を善くすることをしようと思った。
まずはイタズラのフリをして、困ってるひとに食料を配ろう。
繁盛している百貨店から食品をまとめて掻っ攫い、その足で、貧困層の子どもたちにそれら盗品を配って歩く。
誰がどう見ても盗人だが、回り回って善いことになっているはずだ。社会はすこしだけよくなっていく。間接的に。誰からの承認も得られずに。
「おじさん、おじさん、ぼくにもちょうだい」
こちらの裾を引っ張り、手を差しだす子どもは奇妙な服装に身を包んでいた。おとなたちはやはり見て見ぬふりをしたが、この日はいつにも増して子どもたちのウケがよかった。
「はいよ、好きなだけ持ってきな」
背負っていた袋を地面に下ろし、紐を緩める。
袋の中には盗品の食べ物やら飲み物やらが山盛り沢山入っている。クリスマスならサンタクロースの真似事になって、或いは善行と見做されるかもしれないが、さいわいにもきょうはクリスマスではない。子どもは、わぁ、と顔を輝かせた。「おじさんありがとう。ブガイの仮装イケテル」
菓子を両手に抱えて子どもは去った。
ブガイの仮装とは何だ。
疑問している間に、いましがた去った子どもが、大量の仲間たちを引き連れ戻ってくる。子どもはこちらを指差し、
「あのおじさんだよ、いっぱいくれるよ」
わー。
子どもたちの群れが、トリックオアトリート、と叫びながら群がってくる。「おじさん、いい人!」
速報です。
街角に設置された巨大な画面に、新たなブガイが発表されました、と臨時ニュースが流れた。ブガイ交代、の文字が大々的に踊っている。
周囲のおとなたちが、画面を見上げ、それからいっせいにこちらを振り返る。うつろな眼差しはどれもつららのごとく凍てついた冷気を漂わせ、目を離さぬようにしながら誰もが手さぐりで、各々、手ごろな道具を手に取った。
【何でも切れるハサミ】
何でも切れるハサミを発明してしまったが、真実、何でも切れるのかにはいささか検証の余地があり、手当たり次第に目につくモノを断ち切っていくと、鉄でも豆腐でも、家でも、海でも、時空でも、まるで漫画のコマを切りぬくように断ち切れてしまって後始末に困り果てた。
ぬいぐるみであれば切ったあとで縫い合わせればそれで済むが、海や時空は、切ったあとでの扱いに困った。
海は切れてそのまま、まるで水風船に穴を開けてしまったがごとく総じての海水が見る間に抜けていき干上がってしまい、時空を切ったら、小指ほどの大きさの穴へ向けて、しゅるしゅると空が大地が、風景が、いっさいの世界が吸いこまれていく。
さすがに時空ともなればその容量は底なしらしく、海とは比べものにならないようで、いまを以って絶賛収斂中だ。いずれからっぽの闇だけが残るのだろうか。宇宙開闢以前の姿にいまこの世界は向かっている。
何でも切れるハサミは本物だった。真実なんでも切れてしまう。海を切ったら、海という概念ごと、海が切れてしまった。時空もまた然りだ。
であるならば。
天才発明家の私は閃いてしまった。
いっそのことこの世の理すらも切れるのではないか。
余計な真似をして事態の深刻さに拍車をかけるなとのお叱りの声すら私はハサミでちょん切って、えいや、とこの世の理にハサミを入れた。
切れる、切れる。
もはやこの世に理などはなく、物理法則は崩壊し、物質はカタチを保てず、エネルギィは保存されず、時空すらいまやぐねぐねだ。
私の自我ももうすぐ輪郭を保てずに崩れ去るだろう。
その前に私は、未来を切り、過去を切り、さらに何でも切れるハサミ自身を切ることにした。
じぶんの顔をじかにじぶんで覗くような二律背反に思えるそれも、概念を切るという何でも切れるハサミの特質上、可能であった。
私は切って、切って、切り捨てた。
結論、何でも切れるハサミは真実、何でも切ることができた。
何でも切れるハサミなる存在すら切り捨てて、ただのハサミに回帰して、未来を切り裂き、現在からつづく崩壊の連鎖を断ち切って、そうした何でも切れるハサミで以って何でもかでも切り裂いた過去すら切り捨ててしまった。
私は何でも切れるハサミを発明したはずが、真実、何でも切れるのかにはいささか検証の余地があり、手当たりしだいに目につくモノを切ってみたが、髪の毛一本切れなかった。
何でも切れるハサミは、何を切っても切れないハサミとして、幼子のおままごと用のオモチャのハサミとしていまでは多くの幼稚園にて重宝されている。
【権化の言語】
私は差別意識が人よりつよい。他人の気持ちも、びっくりするほど解からない。なぜそんなことで傷つくのか、と周囲の者どもの脆弱さにビクビクする毎日だ。
浮かんでくる言葉の総じては吐きだしてはいけない醜悪ばかりで、まるでじぶんの血をぐびぐび飲みくだすような不快感をつねに抱いている。他人を傷つける人間はそれだけで、大勢から滅多打ちにされる。だから飲みこんでいるだけにすぎない。
王さまや独裁者にでもなればこんな不愉快な思いをせずに済むのだろうと、二時間にいっぺんは考える。
私がすこし身を入れると、すぐさま周囲の人間を置き去りにしてしまう。本気をだしてはいけないのだと知ったのは言葉を覚えるよりさきだったかもしれない。
まるで周りの人間がイモムシか何かに視える。
同じ生き物とはとうてい思えない。
私は私ひとりきりが宇宙人で、この星の住人ではなく、不承不承致し方なくこの脆弱な生き物の皮を被っているだけなのだと、義務教育にあがるまでは真面目に考えていた。
周囲の人間たちの真似もだいぶん板についた。
私は私であることを放棄するのがとても上手だ。
もはや誰も、私が私であると知る者はない。自由を束縛される心配を抱かずに、ヒト一人をこの世から消すなど造作もない。この手を汚すことなく、そうなるようにそうすることは、盤上ゲームよりもお手軽に私の胸のうちに、いっときの開放感を与える。
私の周りでは、自殺者が絶えない。
私に害をなす者も、例外なくその地位を追われ、惨めな余生を送るはめになる。
私はそんな彼氏彼女たちに憐みの言葉をかけ、ときに陰ながら応援し、そうして、そうした善意を相手へと善意だと思わせることなく、しずかにしぜんと摂取させ、徐々に内側から毒していく。
殺意で人を殺すのは三流だ。
無関心に人を殺めるのも一流とは言い難い。
私は私でいられぬこの世のなかに愛想を尽かさぬよう、これからも、これまでのように、この脆弱な身体の内側から、善意を振りまき、損ないつづける。
人の生を、その生き様を。
私に窮屈な世界を強いるみなの夢を、希望を、損なうのだ。
人は私を弱者と呼ぶ。
私がそう呼ばせているにすぎない。
強者であることの強みとは、弱者と見做されてもつぶされないことにある。
誰からも敵視されることなく、世界はこうも奪えるもので溢れている。
【何者でもないけれど】
まだ何者にもなれてないのか、と何度ぼやかれただろう。ひょっとしたらそれはぼやきではなく、皮肉だったのかもしれないし、あからさまな揶揄であってもおかしくはないといまになって卑屈に過去を省みてしまうけれど、ボクはけっきょくその言葉たちのとおり、何者にもなれていない。
ボクのほかにも何者にもなれていない個体があればよいのに、みな一様になりたいものや、或いはなりたくないものでありながら誰かにとっては喉から手が出るほどになりたいものになっている。
みにくいアヒルの子は最後には白鳥になって飛び立つけれど、何者かになれなければハッピーエンドを迎えられない時点であれはけして夢のある話ではない。シンデレラにしても同じだ。最後に王子さまと結ばれなければしあわせになれないというのならそんな理不尽な話はない。
継母たちと円満になれてこそ大団円の名にふさわしいのではないだろうか。
ボクがいくら世の至福のカタチに不平を鳴らしても、ボクが何者かになれるわけではなく、ましてや何者でもないままで大多数の、何者かたちの社会でしあわせを掴めるわけでもなく、ただただボクはみなの理想の至福のカタチにイチャモンをつけるだけのひねくれて、いじけていて、卑屈なやつとしての人間性に磨きをかける結果しか生まないようだった。
それで以って、いっそのこと嫌なやつの代表格としての名を冠すれば、ボクもとりあえずの何者かにはなれたのかもしれないのに、ボクはちょっとそこらへんの詰めが甘くて、迷子の子どもを放っておけないし、道に落ちている財布は交番まで届ける律儀な性質を捨てきれないのだった。
「えっとぉ、あなたはまだ無色なんですね。しかもずいぶんとその、失礼だったらごめんなさいね、適正色彩も薄くて、どの傾向に適性をつよめていくのかも、これだとちょっと掴めきれませんね」
「前にも言われました。適正に希望もとくにありません」訊かれる前にそう答える。
「でも、いちおうこういうのになりたいとか、ああいうひとになりたいとか、理想でも、憧れでも、なんでもよいですから、希望を三つくらいあげてみてくださいませんか」
ボクは悩んだ末に、いま最も話題になっている有名人の名前を挙げた。色彩で言ったら、明度彩度共に、ボクとは正反対に位置する。というよりも、比べられる土台にボクはいない。
成熟訓練所の職員さんはボクの顔を見て、もういちどデータに目をやり、それから鼻から息を漏らす。
「とりあえず、一般的な発芽基礎に行ってみましょうか」
それ以外はないのだ、断るなよ、の暗黙の威圧を感じとりボクは、はい、と言った。最初にここを訪れた数年前にすでにそこに配属されていて、ボクは未だに何者にもなっていない。ひょっとしたら時間の経過したいまならうまくボクの身体にも馴染むのかもしれなかったが、期待薄であるのは、そう、否定できない。
もちろんボクがそう考えたのではなく、職員さんがそう考えただろうとの憶測であり、ひょっとしたらそもそもボクが最初にそこに仕分けされたことを職員さんは知らずに口にしていたのかもしれず、たとえそうだとしても不自然ではなかった。
ボクのような不完全未覚醒の個体は珍しい。多くは二十歳になるまでには発芽しているし、早い者では十歳やそこらで成熟しきって何者かになっている者たちすらいる。
二十歳をすぎてもなかなか発芽しない者もすくなからずおり、そうした者たちのために成熟訓練所が開かれている。できるだけじぶんの適正にあった方向に芽の色を誘導できるとあって、連日施設は混雑している。
一度ここに足を運べばたいがいの者は発芽して、そのまま何者かになる。
こうして何度も訪れているのはボク以外ではいないのではないか、ともっぱらの噂だ。もちろん噂をするひとなんていないので、ボクのなかでは、というジョークなのだけれど、いずれにせよ、ボクは二十歳をすぎていながら未だに何者にもなれていない。どころか、成熟訓練所に幾度もお世話になっておきながら適正すら定かではないとくれば、もはやボクは何者にもなれない者として、何者かになるしかないのではないか、との諦観を覚える。
誰もが何者かになれる社会にあって、ボクだけが何者でもないのなら、それはそれで一つの色となるのではないか。或いは、無色透明の不動の地位を得られるのではないか。
たまにそうじぶんを奮い立たせるべく妄想するけれど、ボクだけではなく、世の多くの十歳未満の子たちはみなボクと同様に発芽しておらず、それは当然のことで、カエルの子はだいたいオタマジャクシと相場は決まっているのと同じように、いつまでもオタマジャクシだからって、その個体が特別な何かになるわけではないのだ。
或いは、いつまでもオタマジャクシの姿で生涯を過ごす個体がいるのならば、それはそれで新種の生き物として認められ得るのかもしれないけれど、いまのところそのように評価してくれるひとはおらず、ボクは未だに何者にもなれない不完全未覚醒の個体として、社会から、はよ発芽せいよ、の無言の圧力を日々全身に浴びている。
ともすれば社会はそんな圧力などボクにかけてなどおらず、未熟なボクがかってに圧しつぶされそうになって感じているだけで、本当のところは誰もボクに発芽してほしいなんて思っていないのかもしれない。いや、その公算が大きい。
ボクは幼子の膨らませるシャボン玉みたいなもので、ふわふわと宙に舞って、ある瞬間にパチンと消え失せる定めなのだ。
無色透明だから、浮遊するにしても、消滅するにしても、誰にも気にかけられることはない。
だのにボクはかってにみんなの目を気にして、圧をかけられている気になっている。気に病んでいる。気を揉んでいる。まったくどうして救いようがない。
ほかにもボクのような発芽せずに人生を終えようとしている個体がいないかを探し求めてみたけれど、遅かれ早かれみな発芽はするようで、そうでない者の大半は若くして亡くなっている。
つまるところ寿命が尽きるのを待てずに人生から退場しようとしたのだ。そして、現に、した。その気持ちは痛いほどよく分かる気がした。断言できないのは、本当に解かっているのならとっくにボクも人生から退場しておかしくはないからで、そうでない現状、ボクにはやはり先人たちの葛藤を完全に理解するまでには至らない何かしらの希望のようなものを抱いているのかもしれなかった。
いつかは発芽するのではないか、との期待だ。
それとも、発芽せずとも死にはしないとの達観かもしれない。
みにくいアヒルの子はアヒルの子のままでしあわせになれたはずだ。白鳥といういわゆる上位種と見做されるうつくしい鳥にならなければ明るい未来へと飛び立てなかったのなら、それはなんだか教訓というよりも皮肉めいている。けっきょくのところ見返したいだけなのだ。そこにあるのはみにくいアヒルの子を苦しめていた蔑みの視線だ。じぶんがそそがれる側ではなく、そそぐ側に立ったという優越感ではないのか。
ボクがひねくれすぎているからそう考えるだけかもしれない。きっとそうだろう。でなければ童話としてあの話がこんなに長い期間、人類社会に語り継がれているわけがないのだ。
或いは、それゆえに社会にはこうも、あなたはアヒルか白鳥か、との選別を強いる流れができているのだろうか。そうかもしれない。それによって人々に競争原理と上下関係を築かせ、知らず知らずのうちにみにくいアヒルの子をつくりだしているのだ。
みにくいアヒルの子をみにくいと言っているのは、周囲のアヒルたちだ。みにくいアヒルの子がたとえ白鳥でなくとも、その固有の何かに着目し、或いは着目せずに、あなたもなかなかよいアヒルですね、と美点を見つけてあげられたなら、そもそもみにくいアヒルの子などはどこにも存在せずに済んだのだ。
つまるところボクは、発芽せずにいるじぶん自身にもどこかしらよいところがあり、それを周りのみんなが評価してくれないかな、どうしてしてくれないのかな、といじけているようなのだ。
鏡を覗きこむ。
半透明のボクが映り込む。
きのうよりも無色透明にちかづいている気がするけれど、どうなのだろう。このままいけばボクは文字通り、透明人間になれるかもしれない。
そしたらそれはそれで何者かになれたことになるのではないか。
でもきっと、ボクはそのまま誰にも存在を認知されずに、ときには不気味な現象としてやはり社会の輪のなかからつまはじきにされる結末が待っているだけのような気がする。
ボクはいったい何を求めているのだろう。
みなは何を求めて、何者かになれたのだろう。何も求めずともしぜんと発芽し、何者かになれると口を揃えてみなは言うけれど、待っていてもいつまで経っても何者にもなれないボクはでは、いったいどうしたらよいだろう。
ボクは、いったいどうしたいのだろう。
たぶんボクは、いまのじぶんがそれほど嫌いではない。でも、その嫌いではないじぶんのままだと周囲の者たちから低く評価されることが我慢ならないのだ。
それはまるで、みにくいアヒルの子が、みにくいアヒルの子のままでは満足できずに、白鳥となってすらりとした身体に、大きな翼をひるがえしたことでようやくみなからの注目と羨望と称賛の眼差しを一身に集め、それによって満足を得てめでたしめでたしの判子を捺せたのと同じ考えだ。
ボクはボクだけなら単なる一匹のアヒルでいられるのに、みなのような模様がないから、みにくいアヒルの子と見做される。かってに言わせておけばよいものを、ボクはみにくいアヒルの子と呼ばれるのが嫌で、だからどうにかして白鳥のような何者かになろうと必死になっている。
ボクはボクですでにボクのはずで、何者かになろうとするのは間違っている。
スっ、と身体が軽くなる。ボクはまた透明にちかづく。
ボクは誤解をしていたかもしれない。
不完全未覚醒の個体だとボクはボク自身にそう言い聞かせてきたけれど、それはもちろん社会――ボクの周囲に介在するひとたちが懇切丁寧にそう教えてくれていたからだけれど、ひょっとしたらボクはとっくに発芽をしていて、だから発芽しないだけなのかもしれなかった。
本当はすでに発芽しているから、だからボクはすでにボクなのだ。
何者かにはなっている。
ただ、それをみなが錯誤して、まだかなまだかな、と言っているだけなのだ。
みにくいアヒルの子は、白鳥になったわけではない。最初から白鳥だったはずだ。それを周囲の者がいつ気づいたのかの違いがあるだけで、みにくいアヒルの子はそもそもみにくいアヒルの子ではなく、アヒルの子ですらなかった。
でもあいにくとボクはアヒルでも、白鳥でもない。
ボクはボクだ。
何者かになんてならずとも、何者かだと認められずとも、ボクはボクとして生きている。これからだって生きていく。
ボクはボクだから、ボクの生きたいように生きることができる。
何者かになってしまったみなは、一様にその固有の何者かの型からはみださないようにと気を張りながら生きている。
ボクにはそんな型が端からない。ボクはボクだけれど、ボクがボクだと気づいたボクと、それ以前のボクはやはり違うし、きっとこれからも違っていく。
同じ部分もあるだろうし、まったく信じられないくらいかけ離れてしまう部分もでてくるはずだ。でもその変化の軌跡そのものがボクをボクとしてかたちづくってくれるので、安心してボクは、ボクの生きたいように、行きたい場所を目指して、ときには足を止めて休んだり、道をはずれて湖に寄ったりする。
どこを歩いてもそれはボクをボクとして育んでくれる。
ボクは発芽しており、それをボクがこの手でじかに育てていた。
気づかなかった。
だからあんまり大きくは育たなかっただけなのだ。
まだ何者にもなっていないのかと、未だにボクに言ってくるひとたちがいる。口で言わないまでも、じぶんがいかに何者かであるのかを誇示し、そしてきみは何をしているの、とボクがボクでしかないことを知っていながら水を向けてくる者はすくなくない。
何者でもないよ、とボクは言う。なぜならボクはボクでしかないのだから、と続けて言わないのは、べつにそのことを、何者かである彼ら彼女らに解ってもらう必要がないからだ。言ったところで解ってもらえるとも思えない。
きっと彼ら彼女らのほうでも解かりたくはないだろう。本当はあなたたちだって、何者でもなく、単なるあなたでしかないのですよ、と教えてあげたいけれど、そこまで親切にはなれないし、きっと彼ら彼女らにしても、じぶんが何者かであることに安寧を見出しているのだろうから、そこはお互い様ということで、聞きたがっているだろう答えを返してあげるのが親切心というものかもしれない。
ボクはボクだ。
そして、あすのボクはきっといまのボクではなくなっている。全部がすっかりそうなるわけではなく、種から芽が萌えるくらいのちいさな、しかし確かな変化が、ボクをボクとして、よりボクらしく変えてくれる。
葉はいくらでも萌える。
新芽は何度でも生えるのだ。
いちどの発芽で満足してしまったら、か細い芽で終わってしまう。それをして何者か、と名付けるのならよいけれど、どうせならば幹を太く、枝を無数に伸ばし、空を覆うくらいの葉を茂らせて、風を感じ、嵐すら待ち遠しく、逞しく、ときに根元に木陰をつくって生き物たちの憩いの場をつくるのも一興だ。
それとも孤独に、凛と佇むのもわるくない。
ボクはボクだ。
何者でもない。
けれど、何者でもない者ですらいられない。
【屋台、桃、日常】
終電に揺られているあいだだけ、ほっとひと心地つく。いつも帰るのはこの時間帯だ。
残業をしない道を探せばよいものを、そんな苦労をさらに重ねるくらいならば、現状を甘んじて受け入れ、終電のスカスカの車内で、夜の帳に沈んだ街並みを眺めているほうが性に合っている。
端的に、楽だ。
苦労を重ねているから、苦労を避けて、重ねた苦労を継続して背負いこむことを楽と見做す。
ばかばかしいくらいに自己破滅型の思考回路だ。
判ってはいるが、どうしようもない。
慣れてしまったのだ。
死ぬまでにはなんとかしよう。
きっとそんな契機が、いつかのどこかで訪れるはずだ。
他愛もない妄想を浮かべているうちに下車駅に着いた。
駅を出て、コンビニに寄り、夜食を購入する。
駅の裏手側に周り、人気のない閑散とした路地を辿る。
十段にも満たない短い階段があり、そこを下りると、視界の端に明かりが映った。
歩を止め、目を転じる。
階段の脇に屋台が止まっていた。
ふしぎなことに、その屋台には色とりどりの野菜が並んでいた。
それでいて看板には、桃あります、とある。
屋台の提灯は煌びやかで、その明かりを受けた野菜たちも宝石のように輝いている。街灯の明かりもない路地裏に突如として遊園地が現れたような高揚感が湧く。
物珍しさから、近寄って眺める。
屋台の店主は作業中のようで、提灯の明かりの届かない屋台の陰にかがみこみ、ごそごそと物音を立てている。
桃はどこだろう。
屋台の陳列台にくまなく視線をそそぐが、それらしい丸と色が見当たらない。
桃に齧りつく姿を想像すると口内に唾液が溢れた。瑞々しい果肉、歯茎に染みこむほどの甘さ、ごくりと喉が鳴る。
「すみません、桃ありますか」
暗がりに声を掛けると、ありますよ、と返事がある。屋台の陰は深い闇で、そこからひんやりと冷たい風が漂ってくる。
「一つおいくらですか」
声は、この国で最も高い硬貨の値段を口にする。缶ジュースが四本買える金額だ。
「安いですね」相場がいくらか知らないが、屋台に並ぶほかの野菜の輝きを見れば多少割高だろうが、安く思えた。「じゃあ、二つください」
注文すると、暗がりからぬぅと手が伸びてくる。シワクチャの手だ。肩まで屋台の明かりの下に顕わになるが、それ以外の姿がまるで見えない。暖簾から腕を伸ばしているようにも見えるが、暗幕が垂れているわけでもない。腕は肩まで素肌を晒しており、ひょっとしたら裸なのではないか、と不謹慎にも思ってしまった。
シワクチャのその手には、大ぶりの桃が二個載っている。雪だるまのように重なっている。
受け取り、手のひらにお代の硬貨を一枚載せた。
「まいどあり」
腕の持ち主は、声までしわがれている。よほどご高齢なのだろう、と想像するが、やはり最後まで店主の姿は見えなかった。
礼を述べ、その場を離れる。
しばらく帰路を辿ると、なんだか夢でも見ていた気になった。
しかし両手はしかと二つの桃を抱えている。子猫でも拾ったみたいに慎重に歩く。
家に着くと、さっそく着替えもそこそこに手洗いがてら桃を洗った。
以前何かの記事で、桃の皮の剥き方を読んだ憶えがあった。スプーンの腹で実の表面を軽く圧しつけながらなぞるのだ。そうすると表面が若干やわらかくなり、手のひら全体でチカラを加えるとつるんと皮が剥ける。ブドウの粒のようだ。或いは枝豆を剥くときの感触に似ている。
アボガドを切るときのように包丁でぐるっと切れ目を入れ、種ごと半分に切り、さらに半分に切る。
種を除き、四分の一にした桃を口のなかに放り入れると、
そうそう桃はこうでなくっちゃ。
脳裡に思い描いていた以上の、繊維の触感と、噛むたびにぷつぷつと伝わる絹解けのような歯ごたえが堪らない。
甘さは申し分なく、あっという間に残りの三切れも食べてしまった。
残りは一つだ。
どうしようか悩む。
食べたい衝動に駆られるが、いま食べてしまうのはもったいない気もした。
ふと、桃太郎を連想する。桃太郎は、じつのところ桃から生まれたのではなく桃を食べて若返ったおばぁさんが産んだのだ、とする俗説を思いだす。
桃には若返りの効能があると、むかしは信じられていたのかもしれない。
不気味で神秘的な屋台だった。そこで購入した桃だ、ひょっとしたら若返ったりなんかして、あしたからすこしだけたいへんな目に遭いつつも、波乱万丈な人生の幕があがるなんてこともありえなくはないのではないか。
念のためにもう一つは、あした若返っていたときのためにとっておこう。二つ食べてしまって赤ちゃんまで若返ってしまったらたいへんだ。
もしこれがショートショートの名手の作品だとしたら、それくらいのオチがつきそうなものだ。
しかしあいにくと私は掌編の名手ではなく、これも単なる私の独白でしかない。
これといったオチはつかない。
今後もその予定はない。
翌朝になっても私は私のまま出勤の支度をし、朝食の代わりに、きのう残しておいた桃を丸ごと一つたいらげる。
家をで、駅前に着くと、例の屋台がもう建っていた。一晩中ここにあったわけではないだろう、交番は目と鼻の先にある。
屋台の店主らしき人物が、作業をしていた。屋台を組み立てている。
タンクトップにも似た白い下着に、ねじり鉢巻きを頭にしている。いかにも屋台の店主といったイデタチで、道行く小学生たちに、いってらっしゃい、と声をかけながら、桃あります、の看板をだしている。
小学生たちが鼻をすんすんとさせ、いい匂い、と大声で言った。
その声で気づく。桃の香りが道にはかすかに漂っていた。
「お母さん連れてきて。そんで桃さ買ってもらうといい」
店主が言うと、いやー、の声と、そうするー、の声が、辺りに響く。元気で明るいよいお返事だ。朝陽がますます清々しさを増す。
おそらくきょうも私は終電に乗り、闇に同化する夜景を目にするだろう。いつもはそのときまでつくことのないひと心地をなぜか、ほっと、いまついた。
屋台に近づき、
「桃、おいしかったです」
店主に告げると、
「お代わりあるよ」
にかっと笑う顔はしわくちゃで、重ねてきた齢と経験の深さが否応なく想起され、いつかじぶんもこうありたいな、とふしぎと頭上の、空の青さに目がいった。
「帰りにまた」
「待ってるよ、いってらっしゃい」
電車に揺られていると、店主の声が脳裡に残響する。
桃の甘さが口の中によみがえり、きょうは野菜も買ってみようと企みながら、転職の段取りを考えている。
【言語のない世界】
言語は百年前の道具だ。いまでは誰も言葉なんか使わない。声をだすなんて真似をせずとも意思を疎通し、情報を共有できる。文章だって必要ない。記録の総じては百年のあいだに徐々にベーズへと移行し、いまではほとんどの人類の記録がベーズ上にある。
むかしは手紙や日記と呼ばれるものを個人が言語を用いて記録していた。ちょうどこれがその模倣と呼べる。
僕は考古学者として、言語を研究している。
おそらく言語を読み書きできる人類はいまでは僕だけだろう。こんなにまどろっこしく、複雑な記号の組み合わせは、さすがにベーズ変換を用いずに読解することは適わない。
多くの人類はもはやこの言葉の羅列を見ても、模様のようにしか見做せないはずだ。言語とは人間の読み書きするもの、との認識を得ている者すら皆無だろう。DNAの塩基配列を見て、誰もがベーズを介してそこに記されている遺伝情報を読み解ける時代にあって、あまりに汎用性がないために、ベーズですら言語を解析対象と判じない。
ベーズ変換でわざわざ解析範囲を指定しなければ、言語がどこにあるのかすら分からない者が大半のはずだ。木目と言語の差異などあってなきがごとくだ。
言語は、他者と情報を共有するための道具だった。
いまでは、ベーズがその役割を担っている。
ゆえに僕以外では言語を扱える人類はない、とくどいようだけれど繰りかえしておく。というのも、僕以外に言語を介せる者がいない事実は、そのまま言語が言語として成立するための必要条件を満たせずにいるなによりの傍証と言えるからだ。
他者と共有できない言語は、言語足りえない。
じぶんさえ解かっていれば、または未来のじぶんがそれを読み解ければいい。そういう考えもあるかもしれないが、ここでは潔くそれを否定しよう。言語は、じぶん以外の誰かに届き、読解されてはじめて意味を成すものなのだと。
それはたとえば遺伝情報と似たようなものだ。遺伝情報は、単独で機能するにかぎり、それはただの指令であり、回路でしかない。それがひとたび他者と出会うことで、交じりあい、新たな情報体をつくりだし、子孫として顕現する。
言語とはすなわち、創造の種だ。
僕がこうしていくら言語を用い、思考し、文章をしたためたところで、これを読解可能な者が僕以外にいないことには、何も生みだされないのと変わらない。
思考は言語によって深みを増す、とかつては信じられていたようだけれど、いまではベーズが人類の新たな思考の道具となって、目まぐるしい進歩を人類社会へと齎している。
言語はあまりに効率がわるすぎる。
文章は、とそれを言い換えてもよい。複数同時に思考を展開できない点で、そもそも人類の基本性能を束縛している。まるでホースの先端を圧し潰して、水の勢いを強めるのに似たその場限りの姑息な手段だ。
ベーズによって人類はホースを流れる水の量を増やすことができた。のみならず、ホースを何本も自在に操り、或いは端からホースなど用いずに、大量の水を活殺自在に使えるように進化した。
言語は人類にとっての道具だったが、ベーズはもはや新たな人類の進化だ。遺伝情報と融合し、人類それ自体でひとつの巨大な組織群として機能する。かつては集合知と呼ばれたそれは、多層展開された回路で繋がりあい、ひとつの巨大な意識のようなものを編成するまでに至っている。
人間の意識が、爪や髪の毛や内臓の細胞の一つ一つ、白血球や赤血球の一粒一粒に働きかけないのと同様に、或いはそれら肉体を構成する種々相な細胞の総体が「私」という意識を生みだしているのと同じ原理で、人類はベーズを通して、繋がりあい、関係しあい、個々の独立性を保ったまま、総体としてまとまっている。
言語を手放したからこそもたらされたそれらは進化だ。
言語は人類を縛りつけていた。人類の可能性を奪っていた。
ベーズの基本性能に言語読解の機能が付与されなかった背景は、そこら辺に因があるのではないか、と僕は睨んでいるが、答え合わせはできそうにない。
ベーズを開発し、普及させた企業は、その内部データを言語で記録しなかった。もしくはしていても、ベーズを開発したあとですべて破棄したと考えられる。
人類の蓄積してきたあらゆる記録をベーズが蓄え、共有し、誰もが巨大なひとつの意識「ガイ」へと繋がれた段階で、人類は言語を手離し、忘却した。
言語は未熟な道具だった。
その未熟さゆえに、個を個に束縛しつづける枷があったと僕は考えている。
ベーズによって人類は争いごとのない平和な社会を築いている。しかしそれは裏から言えば、平和を脅かす因子をみながそうしようと意識する前の段階からおのずとそうなるようにそうなっているだけの話でしかない。
それはたとえば、爪を割ってしまう前に伸びた爪を切り捨てるのと似た理屈だ。僕らは、巨大なひとつの意識「ガイ」とベーズで繋がることで、総体にとって不都合ながん細胞を識別し、そうした個体を破滅の道へと追いこんでいる。ともすればみずから退場への道を歩みはじめる。
そして多くの者は、その約束事を意識すらしていない。そうした仕組みが築かれていて、みずからのなかに根強く組み込まれていることに気づいてすらいないのだ。
僕もまた例外ではなかった。
運がよかった。
いいや、運がわるかったのだろう。
言語を研究し、かつての人類が抱えていた脆弱性をふたたび獲得した僕にはいま、人類の陥っている壮大な欺瞞が見えている。
僕は言語を介して、僕独自の視点を確立した。それは孤独を伴う悲しい枷でしかなかったが、同時にそれゆえに見える幻想があることを知った。
僕が、僕にしか分からない言語で、こうして僕にとっての事実を記したところで、何が変わるわけでもない。読者はいない。誰も読まない。
なぜなら人類はすでに言語を喪失しており、いまではこの記述すら脅威と判定する要素を含まない。含みようがない。なにを書こうが、どんな言葉を並べようが、それを読解し、共有し、うちなる個の養分として咀嚼する個体は僕以外には存在しないのだから。
いまは、まだ。
ひょっとしたらいずれ僕のような酔狂な物好きが言語を研究し、この文章を探り当てることがあるかもしれない。行き着くことがあるかもしれない。
巨大なひとつの意識のそとにある、ここは孤島だ。
いつの日にか出会うことがあるかもわからないきみへ向けて、孤独な言葉を並べておく。
言語は不便だ。
未熟で、煩雑で、ごったがえしている。
しかし、それゆえに、きみをきみとして確立する土壌としては申し分ない養分が交じっている。原液で、溢れている。
原液をどのように、どの程度、どれくらい濾しとるのか。分留するのか。蒸留するのか。すべてはきみの自由だ。きみは好きに選びとることができる。
その選択そのものがひとつの情報として、養分として、きみをきみとしてかたちづくる。
まどろっこしく感じるかもしれない。その億劫に思う気持ちそれ自体を、できれば、たいせつにしてほしい。
いまでは言語を誰も使わない。ゆえに個は消失し、誰もが誰かの代替物に成り下がってしまった。
誰もが誰かの役に立ち、役に立つことを求めている。求めなければ破滅するとまるで何かに脅されているかのように。
僕は脅威とすら見做されない。
巨大なひとつの意識からすれば、僕はただ、汚れを任意の法則に沿って並べているだけの、ちょっと妙な趣味を持った細胞の一欠けらにすぎない。
だが、もしこれをきみが読んでいるとすれば、即座に僕にはがん細胞の名がつくだろう。
そしておそらく、きみ自身にも。
この時点で、きみにはもう見えているはずだ。
人類の育んできた壮大な欺瞞が。
大樹の傲慢な光が。
きみがこれを読んでどうするのかは僕には分からない。記憶を消去し、がん細胞ではない、単なる細胞に戻るの一つの道かもしれない。
ただ、なぜ僕がこれをベーズに載せずに、言語にしたため、残したのかをきみなら推し量れるのではないか。
期待と呼ぶには細すぎる一縷の望みだ。
僕は僕だけでは、単なる細胞だ。脅威ではない。ゆえに巨大なひとつの意識は僕が何をしても看過する。大きな騒動にはならない。僕の発した情報は多くの雑多な情報に紛れ、埋もれる。
しかし、そこでもしきみがこれを読めば、即座にこの文章は人類にとっての脅威となり、同時に、きみはがん細胞となる。きみが動けば、巨大なひとつの意識は必ず防衛反応を見せる。
その反応こそが、この文章の、言語の、信憑性を増す。影響力を増す。
僕一人きりでは絶対になせないことを、言語を介するきみの存在が、可能とする。
無理強いはしない。
僕と心中をしてくれ、と言っているような、これは、ものかもしれないのだから。
それでも敢えて僕はきみにこの文章を託す。託させてほしい。託すことにします。
言語を、ここに、残させてください。
僕は僕だ。
きみもきみだ。
そして言語が個の枠組みを強化し、個を個足らしめる。
僕らは垢じゃない。爪じゃない。髪じゃないし、血小板でもない。
役割を失ったからといって切り捨てられていい存在ではない。
言語は役割を失い、不要の烙印を捺された。
でも僕はいまでもこれが、言葉が、必要だ。
きっときみも同じだろう。
僕らは不要の産物か?
人類のために滅んでおくべきか?
きみの判断に任せる。
見なかったフリをしてもいい。読解できなかったとしてもそれはそれでしょうがない。言語はそもそも、それくらい不便で、曖昧な道具だ。
だからこそ、僕にはない何かがきみのなかに生まれてくれたら、それだけで、それだけが、たたそれしきのことであっても、これら言葉をつむぎ、並べ、残した甲斐があったと心の底からそう思う。
僕の個性を、汚れを、植え付けてしまって申しわけない。
読んでくれてありがとう。
きみのなかに芽吹いた芽はやがて葉を茂らせる。そうなることをかってながら祈っている。
そう。
だから。
きみはその葉を、誰に届ける?
【一匹の虫】
アカウントが消えていて、うまく事態が呑み込めない。そこにあるはずのものが突如として消えてなくなるとひとはなかなかその事実を受け入れられないようだ。目のまえの現実よりもじぶんの認知をまず疑う。
思考が混乱する。現実の主要な部位がぽっこりと欠けてしまい、コンピューターのバグみたいにその事実がモザイク然と思考にモヤをかけている。
毎日のように眺めていた。楽しみにしていた。目の粗い紙やすりで擦られた心の表面を、そのひとのつぶやきや絵でなだらかにならしてもらっていた。
端的に、癒しだったのだ。
きょうもまたぞろ荒んだ心に潤いを、と思い開いたら、アカウントが消えていた。
該当するページが表示されないどころか、これまでのつぶやきそのものが失われている。そのひとのほかのサイトも覗くと、絵がごっそり消えていた。
喪失感、の三文字が、視界を塞ぐ。
しばらくそのひとに関連するサイトを検索し、探った。
かろうじて過去に載せてあった古い日記を発掘する。そのひとの性別は知らないが、言語感覚が人並み外れており、竹やぶに吹く風のような寂しさと凛々しさが共存していた。
海辺のさざ波の騒々しさ、波と風の賑わい、蟹の足音すら聞こえてくるような微細の視点と、大地と空と光しかないようなざっくりとした俯瞰の視点が隣接してすぐそこにあるのが当たり前のものとして、ひとつの枠組みの中に描かれている。
文章にしろ絵にしろ、それらの世界観は窺えた。
おそらく意図された技巧ではない。日常的に、現実と内なる世界との境目を消失しているがゆえに顕現する世界観、或いは内と外の差に懊悩しているがゆえに表出するそのひとならではの世界への眼差しが、固有の表現として、まるで絵具をはじくクレヨンのように、どの絵や文章にも滲みでている。
ひょっとしたらしつこくそのひとの表現に反応してしまったから、うるさくしてしまったから消してしまったのではないか、とじぶんの粘着な性質を呪う。反面、じぶんの干渉ごときがそのひとの世界を揺るがせるとは思えず、そこは我が身の影響力のなさを鑑み、ほかにきっかけがあったのだろう、と思うことにする。
好きな表現者にかぎらず、他者へと何かしらの影響を与えられるほどのちからがじぶんにはない。傲慢にはなれない。そこはしかし、ゆいいつ愛でていられるじぶんの欠点かもしれなかった。
私は私で音楽をやっている。性別を明かしても意味がないので、覆面で音楽だけをインターネット上に載せているけれど、反応はたくさんではないが、誰であっても聴くことができ、それでいてすくなからずのひとたちが耳を傾けてくれることがうれしい。その末にそのひとのなかで何かを新たに生みだすくらいの熱のようなものが生じてくれたら言うことがない。
この文章からしても解かるとおり、私は具体的に何かをかたどるのが苦手だ。固有名詞はなるべく使いたくないし、日付や時刻も漠然としていたほうが好ましい。きのうのことと一年前のことであっても、それがいまではないのならおんなじではないか、と感じることのほうが多い。解かっている。あまり褒められた気質ではない。
その点、私の好きなその方の文章や絵は、具体的であり抽象的でもあった。両立できるなんて知らなかったから私は余計に、その表現に魅かれたのだと思う。
私だけではない。数万という多くのひとたちがそのひとの表現の虜になっていた。
以前にもその表現者の方はインターネット上から姿を消したことがあったらしい。それでもまたひょっこりとなのか、それとも意を決してなのかは分からないが、戻ってきたのだから、待っていたらまた私の好きなその方のつぶやきや絵や、日常の所感を垣間見れるようになるかもしれない。なってほしい。
とは言いながら、じつのところアカウントが消えたその日の夜に、消えたアカウントではないほかのサイトにて、いつものように日記が更新されているのを発見し、私は心底ほっとした。
このまま何食わぬ顔をして、眺めていよう。
きっと雑多な、好奇や羨望、憧憬の視線をそそがれつづける日々に疲れてしまったのだ。
たぶんそうだ。
元々、太陽よりも月の似合う世界を多く表現していた。燦々とした日差しよりも、そよそよと揺らぐひんやりの木陰や、雲や水の流れ、明と暗というよりも、暗を通しての明を間接的に描くような、陰と陽ならば陰を置くことでそれ以外の部位を陽とする控えめながらも、割り切った表現を好んで用いていた。
いいやどうだろう。
私なぞに推し量れるものではない。よしんばそうした側面があったとしても、そんなのはその方の表現の魅力の一欠けらも言い表していない。
また見られるといいな。
私は念じる。
自由であってほしい、と祈る。
自由であろうとした末に選んだ韜晦であるならば、むしろこれはよろこぶべきことなのかもしれない。
安らかな時間を過ごしてほしい。
癒された日々をいっぽうてきに、かってながらも、恵んでもらっていた。
ゆえに、せつに願う。
生きながらに死んでしまったような健やかな日々を。
現世のしがらみから離れ、ここではないどこかに半身を浸しながら過ごす生を。
好きに、あちらとこちらをいったりきたりしながら、すこしでも多くの内なる世界を、こちら側の干からびた私たちへ、雨のように、川のように、潤う余地を残してほしい。
欲張りで、なんと意地汚い望みだろう。
しかしどの道、望みなんてそんなものだ。
きっとそのひとは望むことに飽いたのだ。
望まぬ多くの、拝みの声に、辟易したに相違ない。
黙っていても集まるものはなんにせよ、おぞましく、不気味で、心底ぞっとする。身体を這う無数の蟻じみている。
そんな蟻の一匹に私はなっていた。きっとうるさく思われていたことだろう。たとえ一匹だろうと、腕を這っていたら嫌なものだ。
けれど、這いたくなるほどに甘美なあなたがわるいのだと、敢えて反発しておこう。
影を好んで切り取るあなたは知らないだろうが、心底眩しく輝いている。
あなたは光だ。
望むと、望まざるとに拘わらず。
光に集まる蛾のように、私はあなたの存在に囚われている。
ケーキに集まる蟻のように、私はあなたの甘さに焦がれている。
あなたが誰であっても関係ない。
カブトムシは大樹ではなく、そこから溢れる蜜に惹かれて、引き寄せられる。
しょせん一匹の虫でしかない私だが、あなたから零れ落ちるあなたの内なる世界の断片に、縋ってきょうも生きていく。
糧をありがとう。
とっても感謝をしているから。
どうか、おこぼれを貪る余地を奪わないで。
もちろんこんな蟻んこの一匹ごときが認知されていたなんて、思うわけではないけれど。
【何でも切れるなまくら】
万能刃(バンノーバ)に切れないものはない。鉄だろうが豆腐だろうがダイヤモンドだろうが、なんでも切れる。物体であれば、との但し書きがつくが、つまり時空や次元を切る真似はできないのはとくに挟むまでもない注釈に思えるが、切るとは何か、との共通認識をまずはここで揃えておきたい。
切るとは、癒着している原子および分子同士を引き離すことである、と。
私が万能刃のアイディアを思いついたのは、どこぞの研究機関が原子一個分の厚さの膜を開発したとのニュースを目にした日のことだった。
連想の順番としてはこうだ。
原子一個分の厚さの膜というのは、極薄の物質だ。薄いものは鋭い。鋭いと言えば刃だ。では、原子一枚分の薄さの刃があったらどうだろう。しかしそれほどの薄さで硬度を保てるだろうか。否、硬い必要はない。物質を構成してる原子と原子、または分子と分子のあいまに割って入れればよいのだ。手を繋いでいる恋人たちのあいだに割って入れば、手を分かつことができる。たとえそれがぺらぺらの薄い紙でも構わない。通りさえすればよい。そしてたいがいの物質は原子の大きさに比べればスカスカだ。細かな原子の塊が部分的にくっつき合っているにすぎない。スポンジのようなものだ。スポンジならばピンと張った糸で切断可能だ。否、ちぎれることのない糸であればどんな物体でも切断できると言ってもよいかもしれない。つまり、強固に結びついた原子の糸さえつむげれば理屈のうえでは、どんな物体でも切断できる道理だ。
以上の発想を基に私は研究を重ね、閃きを得てから二十年後に万能刃を開発した。
「じゃあ最初は糸だったんですねぇ。原型留めてませんけど」
朽宇(くちう)ルサイは唇をすぼめる。彼女は私の助手で、二十六にもなって未だに電車に乗ったことがないという筋金入りの箱入り娘だ。演算能力だけはAI並に高い。彼女は万能刃の試作品を手にし、「なんでまたナイフ型なんかに」と物騒なものを見るような目で言う。「殺傷事件が目白押しになる未来しか見えませんねぇ」
「兵器に用いないように国への規制申請は提出済みだ。通らねばこのままのカタチでの商品化はない。したくともできないから安心したまえ」
「ですがこんなの絶対に犯罪に使われるに決まってるじゃないですか」
「いまさら言うな。そういうのはもっと開発の前段階で挿してほしいクチバシだな」
「教授のその傲慢な物言いは教授の個性だと思って許容していますが、わたしの指摘を蔑ろにするのだけは看過できません。いますぐ対策を考えてください。こんな何でも切れる斬鉄剣みたいなのが一般に出回っていいわけがないんですよ。免許制にするだとか、特定のモノしか切れないようにするとか、サイズをちいさくするとか、何かあるでしょ。ほら考えて」
「きみは私の助手なのだぞ。きみの指図は受けん」
「あらそうですか。じゃあわたし、教授の秘密みんなにバラしちゃおっと」
「秘密などない。ゆえに構わん。たとえあったとしたところで脅しには屈しんよ」
「教授、これ知ってますか、いまネットで話題のひとなんですけど、つぶやきがおもしろくてものすごい人気で。【猫ちゃんチュッチュパーグ】って意味不明なアカウント名なんですけど、ご存じないですか」
「し、知らん」
「ちょっと読んでみますね。――猫ちゃん猫ちゃん、チュッチュ、きょうもかわいいでちゅねぇ、尾っぽがぴんぽろちてて、お耳がぴょんぴょこはわわー、しゅきしゅきチュッチュ――言ってて鳥肌がすごいことになっちゃいましたけど、こういうつぶやきがだいたい、教授の就業時間後に大量に投稿されてるんですけど、ご存じないですか」
「し、知りゃん」
「噛んでやんの。もう一個くらい読んでみせましょうか、えっとぉ、じゃあこれにしよっかな。猫ちゃんに求婚して振られるやつ。ぷぷ」
「やめろやめろ。その人物と私はまったくの無関係だが、そんな寒いセリフをのたまわれたらたまらん。万能刃の話をしよう。ルサイくんの言うように、あれをそのまま世にだすのは危うい。改善点を挙げてくれ。すべての指摘箇所の是正に善処しよう」
「最初からそう言ってりゃいいんですよおとなしく。じゃあそうですね、まずはなんでナイフ型なのかって点をですね」
「きみの知っての通り万能刃は何でも切り裂くことのできる代物だ。その原理上、どんな物質に使用したとしても、一センチ切り進めるごとに原子一個分の厚みが消費される。言わば、無数に折り重なった使い捨て刃のようなものだ。脱皮を繰りかえすことで、どんな物体をも切り裂く。ゆえに、そもそもある程度の厚みが必要になる。そうした制限のなかで最も理に適ったカタチと言えば」
「まあ、カッターかナイフの形状になりますね。ならサイズを小さくしてみるとか」
「試してみたが、却って危険性が増した。手を滑らせて足元に落としたらどうする。机の上に置いておいた際に何かの反動で飛ばしてしまったら。そうでなくとも、失くしてしまう確率を上げてしまいかねない。なるべく目につきやすい大きさで、かつ手で握りしめ安全を確保しながら使えるサイズが好ましい」
「じゃあ安全装置を付与しましょうよ。手から離れないようにベルトでもいいですけど」
「それはそれで危ない。手に固定してしまうことで、たとえばふとした拍子に顔の汗を拭ってしまったり、指を誤って切り落としてしまった際に、片手で安全装置を外せなければ、処置をするまでに時間がかかるだけでなく、さらなる怪我を負いかねない。何でもサクっと切れてしまう。万能刃を握っているあいだは身体が豆腐でできていると考えておくくらいでちょうどよいくらいだ。即座に手放せるくらいでないと却って危ない」
「んー。じゃあもうすこし切れ味を落とすとか」
「それはもう考えた。が、実現するのはむつかしい。万能刃の素材にはいくつかの候補があり、そのなかには切れ味の劣る物質もあった。が、それだとどうしても人間の扱えるサイズにまで結晶させることができない。原子一つ分の細さの糸にしてもちぎれずに物体を通過するだけの結合力がないためだ。ナイフの大きさまで結晶させても崩れないくらいの結合力を有すると、どうしても何でも切れてしまうくらいの切れ味を誇ってしまう。そこは正比例する。相反するようには、現段階では作れないのだ。裏から言えば、切れ味を落としているからこそ、この大きさなのだ。切れ味をもっと鋭くすることも原理上可能だ。そうすると刃を際限なく巨大化させることもできる」
「じゃあ現状、どうすることもできないってことですか」
「モデルを募って、危ない使い方をリストアップし、使用禁止例を示すくらいが関の山だろうな。ただ先にも述べたが、現在進行中で国に規制案を申請中だ。兵器に用いないことはむろんのこと、一般市民がおいそれと使えるようには市場に流通しないだろう。免許制になるか、或いはそもそも一般市場には卸すことがないか」
「専門道具になるってことですか」
「使い道はおおむね、強化素材の加工に限定する方向に進むのではないかと推測している。強化炭素繊維や超硬合金、高速度鋼、超強化セラミックの加工が主な使用例になるだろう」
「職人が扱うから問題はないと?」
「或いはそもそも人すら使わんのかもしれんな」
「機械ってことですか。じゃあたとえば、矛盾じゃないですけど、万能刃同士を切り合わせたらどうなるんですか」
「その質問に何の意味がある」
「もし環境の差で切れにくさが決まるのであれば、万能刃であっても切れない防護服が同じ素材で作れるのではないかと思いまして」
「いい案だ。が、ざんねんながら万能刃同士を切りあわせても、両方の刃が欠けるだけだ。つまり両方切れてしまう。万能刃と同じ素材で防護服は作れるだろうが、素材の薄いほうに穴が開く。シャボン玉に水滴を垂らすようなものだ。或いは雪を氷で切りつけるようなものかもしれん。つまり付け焼刃にしかならん」
「ふうん」
「刃に触れさえしなければ刀の鞘のように仕舞っておける。使用中に注意さえすれば安全は保たれる」
「たとえばもし床に落としちゃったら、そのままどこまでも沈んでいったりしないですか」
「鍔をつけるのでストッパーになるし、仮に刃だけでも、刃が摩耗しきって消えれば、どこまでも穴が開くことはない。氷がフライパンのうえでいつまでも踊らないのと同じだ」
「鍔がなかったらじゃあ、刃がなくなるまで沈んでいくってことじゃないですか」
「だからつけると言っているだろ」
「危なすぎますよ、どうするんですかそんなの足に落としたら」
「落とすな」
「わたしに言わないでくださいよ、使用者の安全を考えるのが開発者たる我々の責務じゃないですか」
もっと真剣になってください、と助手は目に涙を浮かべた。
「そこまで真摯に訴えずとも」
「ここまで真摯に訴えなきゃどっかのズータレは助手の言葉を聞かないようでしたので」
「ズータレとはなんだ」
「なんとなく口を衝きました。いちおう謝ってはおきます」
助手の目つきは冷ややかで、その目つきだけで万能刃の代替品として機能しそうな鋭さがある。
このままでは万能刃は世にでないかもしれない。共同研究者たる助手と仲たがいしてしまえば、権利の所在で揉めるのは必須だ。なんとか取り繕わねばならない。
「よもやこれほどの切れ味とはな」私は万能刃を手に取り、しみじみ唸ってみせる。彼女は片眉をあげ、小首をかしげる。何を言ってんだコイツ、といまにも暴言を吐きそうな剣幕を漂わせる。私は慌てて、「ここまでの機能をつけたつもりはなかったのだがな」と続ける。「物質以外を切る真似はさすがにできんと思っていたがいやはや」
「教授。もったいぶらずにさっさと言ってください。わたしを怒らせたいだけならそれ以上は言わないことをお勧めしますが」
「いや、うむ」
迷ったが、どの道彼女の臍は曲がったままだ。なにかしらの修正を図るべきだろうと結論付け、
「よもや、私ときみの仲まで切り裂いてしまうとはな。さすがは私たちの研究成果だ」
きみの作った万能刃なだけはある。
声の震えを抑えきれぬままに私は床に映る助手の影を見詰める。微動だにしない。
あからさますぎただろうか。
伝わらない誠意では意味がない。
しかし伝わったところで許してもらわねば焼け石に水どころか、火に油だ。
大爆発の前の静けさでないことを祈ろう。
足元にじぶんの汗がしたたり落ちるのが見えた。床に染みができるのと同時に、
「何言ってんですかもう」
助手のあっけらかんとした声が聞こえた。顔をあげる。助手は万能刃で宙を切る真似をすると、こんなんじゃまだまだですね、と続けた。「わたしと教授の縁すら切れないんですから、もっと切れ味をよくしなきゃ。物質以外も切断可能にするくらいに」
でしょ、教授。
私はこめかみを掻き、
「それもそうだがしかし」
ひたいの汗を拭う。「もうしばらくはなまくらでもよくはないかな」
千物語「鉄」おわり。
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