千物語「紫」

千物語「紫」 


目次

【椎名さんのヌイグルミ】

【布団のうえで寝たいんだ】

【引退は惜しまれるうちに】

【ハンバーガーの片割れ】

【姪は干されてなお、ふかふかと】

【あちき、なつみ!】

【彼女は虹のかけ橋】

【なーん!】

【即興絵描きバトル】

【非のないところにも煙は】

【友死火よ、つぶやけ】

【ジャンパーは脱ぎ捨てて】

【水溜りの底はどこ】

【ステーキとスマホ】

【父の虚像は語る】

【つまらぬ小説で息が詰まる】

【ミカコさんと小石】

【よーむん】

【哀しい独善】

【こちら、悪意でございます】

【プロだからね】

【あとはあなたがゆびで押すだけです】

【テロルの木馬】

【薔薇の香りはいっそう甘く、面影】



【椎名さんのヌイグルミ】


 違法なことだとは承知していた。けれどどうしても表沙汰にできなかった。

 彼女は心療内科の患者さんで、一週間ごとに処方箋をもらいにやってくる。ぼくは彼女から保険証を受け取り、勘定をして、お釣りといっしょに処方箋を差しだすのだが、問題は彼女の保険証がおそらく彼女自身のものではない点にある。身分詐称は犯罪だ。それはぼくも理解している。しかし彼女、椎名(しいな)マズさんは、保険に入れないほど貧しい生活を送っているだろうことは、そのみすぼらしい装いから容易に窺い知ることができた。

 歳はぼくの兄と同じくらいだろうか。ぼくは兄とそんなに歳が離れていないので、椎名さんとはほとんど同い年と言ってよいのかもしれない。ひょっとしたら彼女はもっと若いのかもしれないが、細い指とカサカサの肌はそれなりの齢を感じさせた。

 先輩の事務員さんからは飲み会の席などで、患者さんのなかにはいろんなひとがいることを聞いていた。

 たとえば、定期的にトイレからトイレットペーパーをごっそり持ち帰って病院の財政を圧迫してしまうひと、明らかに刃物で切断された小指を持って「縫ってくれ」の一点張りで言うことを聞いてくれないひと、お金が払えないと言って自家栽培の野菜を風呂敷につつみ抱えてやってくるひと、なぜか腕に注射の跡がたくさん残っていて具合がわるいから点滴で血を薄めてほしい、とやってくるひと。

 ほかにも、処方された薬を通販で売り、小遣い稼ぎをしている患者さんもいると聞いている。しかしそれをぼくのような事務員に喝破することはできないし、お医者さんだって、だした薬がどれほどちゃんと飲まれているかなんておいそれと分かりはしないのだ。病気が悪化したとなれば話はべつかもしれないが、いまのところそういう話を聞いたことはない。

 薬物反応も精密な検査をしなければ断定できないし、憶測で警察を呼ぶわけにもいかない。許可なく検査をすることも適わないのだから、疑わしきは罰せずが優先される。医療ミスに発展しない範囲であれば、触らぬ神にたたりなしを地で描く。

 他人の保険証を使っているひとはというと、これは肌感覚として思いのほか多そうだ。保険証がないと治療は全額負担となるから、国民健康保険に入ってないひとはたいへんだ。でも身内の保険証なら名字は同じだし、住所も同じ傾向にあるから、使ってもバレない公算は高い。

 死んだ母親の遺体を隠して、その母親の年金を受給しつづけた娘のニュースを数年前に見た憶えがあった。保険証ならば身内が生きていても利用可能だし、よほどのことがないかぎり露呈することもない。

「あれ、椎名さんって昨日いらっしゃいましたよね」

 同僚から声をかけられ、なになに、と首を伸ばす。「さっききた患者さん、椎名マズさんって、例のヌイグルミのひとですよね」

「そう、だね」

 椎名さんは薄汚れたヌイグルミをまるで赤子のように抱いて歩いているので、院内では割と有名人だった。以前、何気なく「かわいいですね」と声をかけて以来、椎名さんはぼくがいるときを見計らって、ぼくのところに精算をしにくることが多くなった。だからぼくはすっかり椎名さんの生活習慣が、病院内という極一部でこそあれ、ほかの職員さんよりも解かっているつもりでいる。そのぼくが断言する。

「椎名さんはきのう来てましたね。きょうは来てないはずですし、くる予定もなかったはずですけど」

「ですよねー」同僚は浮かない顔つきだ。「さっきのひと、見た目も声もぜんぜん違ったので、気づかなかったんですけど、データ見るとやっぱり椎名さんのデータがでてきちゃうんですよねぇ」

 端末の画面には受診者記録が映しだされており、それはたしかに椎名マズさんのものだった。「じゃあさっきのひとが椎名さんの保険証を使ってたってことですかね」

 風邪で受診されたみたいなんですけど、と口にする同僚にぼくは、いつもくる椎名さんのほうが偽物かもしれないですね、とは言えなかった。

 発覚してしまったものは隠しようがない。隠す義理もないし、どうしようもない。椎名マズさんはつぎの受診時にぼくの上司に連れられて別室に入り、小一時間経ったあとに、ぺこぺことお辞儀をしながら部屋からでてきた。そのまま、振りかえってはぺこぺこ、振りかえってはぺこぺことしつつ、病院の敷地内から去っていった。

 病院は損をしていないので、今回は厳重注意で済ましたようだった。警察沙汰にしても、誰も得をしない。

 これはおそらく社会制度の問題なのだろう。

 ぼくはひとりで納得し、きっとほかにも椎名さんみたいな患者さんがいるだろうな、とこの国の未来に思いを馳せた。

 椎名さんは翌週にまた処方箋をもらいにやってきた。ぺこぺこしたりせず、いつもどおりヌイグルミを胸に抱き、またぼくのところへまっすぐとやってくると、こんどは「椎名マズ」ではない名の保険証を、ひょいとプラスチック製の受け皿のうえに置いた。

 受診者記録にはない名だ。

 だからぼくはそれが彼女の本名か、それともまたべつの誰かの保険証を借りてきたのだろうか、と想像しながら、

「初診の方ですね」

 ふだんどおりに対応した。

 椎名さんはもう椎名さんではなかったけれど、まだ新しい名前はしっくりこず、だからぼくはまだ彼女を椎名さんと心の中で呼ぶことにした。

 彼女は、あー、とか、えーと、とか唸りながら首をひねり、またぺこぺこしだすものだから、ぼくのほうでなんだか申しわけなくなってしまって、それきょうもかわいいですね、とヌイグルミを褒めて、お茶を濁した。椎名さんは照れくさそうに、ヌイグルミを脇に隠した。こちらの返した保険証と処方箋を受け取ると、ひょこひょこと心なしいつもより早めに歩いて去っていった。

 おだいじにー。

 ぼくの声が届いたのかは判らないけれど椎名さんは、自動ドアのまえで振りかえり、ヌイグルミを胸のまえに持ってくると、いっしょにぺこりと頭を下げた。

 受診者記録を見る。そこには新しく彼女の名前が、椎名マズではない名で記されているが、やはりぼくにとって彼女は椎名マズのままだった。

 仕事を終え、家に戻ると兄が出迎えた。「おー。きょうはどうだった」

「椎名さんがさ」ぼくは、歳のちかい兄に、きょうあった出来事を語って聞かせる。

「そっかそっか。まあ内心そうじゃないかとは思っていたが」

「兄さんのほうは何か変わったことは」

「ないない。進捗はノルマどおり。そっちこそつぎの賞に間に合うのかよ」

「どうだろうなぁ」

 前回応募した小説新人賞はまたしてもダメだった。

 ぼくは小説を、兄は絵を描き、それ一本で食べていけるようにあくせくしている。

 就職したのではなかなかまとまった時間がとれないからと、ぼくは双子の兄と結託して、二人一役で同じ職場に勤めている。給料は半分になるけれど、住む場所が同じで、休みの日も一日中部屋にこもって創作をしているのだから、生活していくだけなら充分と言えば充分だった。

「なんかこのあいださ」部屋着に着替えながら、「応募したことのある新人賞の編集長がインタビューで言ってたんだけど」

「んだよ」

「かすれた印刷で応募しただけでも心象がわるくて、読み手のことを考えない作家だって評価されちゃうんだって。原稿への愛が足りないって。作家は本作りのプロじゃないのに」

「コンビニで印刷したらいくらかかるんだ」

「千五百円くらいかな」台所に立ち、湯を沸かす。「でも家のコピー機使ってたころは、紙代とインク代で、一作、三千円はしたかな。刷り直したら単純に倍はかかるよね」

「けっこうな出費だな。貧乏人にはつらいわな」

「貧乏人はプロになる資格がないってことかな。まあ、その新人賞、小説以外の技能やら学歴やら、業界との繋がりのあるひとばっかり受賞してるし、そういうひとのほうがプロとしてやっていきやすいんだろうね」

「かもな。世のなかはそういう仕組みになってるんだろうさ」

「でも違法だって責められるのはぼくらみたいな無能ばっかりだからなぁ」

「かってに無能認定すんじゃねぇよ」

「でもクズではあるでしょ」

「ちげぇねぇ」

 まあだから。

 これは兄には聞こえないように、心の中で唱える。

 おもしろい作品をつくれないぼくがわるいんだけどさ。

 兄は絵の作業をつづけながら、職場のこともっと話せよ、とぼくと記憶を共有すべく、一日の出来事を、ことさら椎名さんの話を聞きたがった。

 違法なことだとは承知していた。二人一役で同じ職場に勤めるなんて、社会的に許されるわけがないのだ。明確な身分詐称に、詐欺行為だ。でも、こうでもしないとセンスも才能もないぼくたちのような人間は、追いつきたい人たちに追いつくことも適わない。

 ぼくが言うと、兄は、こんなことしたって追いつける保障はどこにもねぇけどな、と笑うでもなく一蹴する。

「俺たちはまだ恵まれてるよ」兄はことあるごとにぼくに言った。「俺にはおまえがいるし、おまえには小説があるしな。食うのに困らず、寝る場所がある。不満があるとすれば、天才どもと肩を並べられないってことだけで、なんて贅沢であほくせぇ不満だよってな」

 そうだね、とぼくは兄にコーヒーを手渡す。「それは何の絵?」

 兄のうしろからキャンバスを覗きこむ。

「ヌイグルミだよ」兄は絵に、汚れをひとつ付け足した。「薄汚れた、金をもらっても欲しくないようなゴミのようなヌイグルミ」

「タイトルは?」

「そうだなぁ」

 兄はコーヒーを口に含む。それから腕を組み、ゆっくりと鼻から息を漏らしながら、首をひねる。「かけがえのないもの」 




  

【布団のうえで寝たいんだ】


 通知表の時期は地獄だ。朝起きると、じぶんが布団で寝ていなかったことに気づき、またか、とべりべりと身体を床から引き剥がす。寝落ちが常態化していることになんの疑問も湧かない。

 スカートだと動きにくい。きょうもジャージでいいかと思い、コーヒーを淹れる片手間に着替えを済ます。

 出勤すると教頭から、

「例の親からまた連絡が」

 もっとも聞きたくなかった言伝をもらった。一昔前ならばモンスターペアレンツと呼んだだろう、生徒の親からの苦情だ。

 いまやモンスターでない親を探すほうが難しい。何か子どもに異変があれば教師の過失を疑う親が増えつづけている。マスメディアの偏向報道や、教員の生徒への猥褻やイジメへの不適切な対応が話題となり、回り回って、全国の教師の信用を落としているのが要因と考えられる。

 たしかに教育現場には問題がある。問題がないと考えている教員がすくなくないのがまたいちだんと見逃しがたい問題の種となっている。

 新人教員は配属先で研修を挟まず、すぐさま担当クラスを受け持つ。お局様ではないが、長年教員をしている先輩たちは、上司ではないため、責任はいつだってじぶんが負わなくてはならない。

 学級崩壊をしても手を差し伸べる先輩教員は稀だ。気休めの慰めを言うくらいで、実質的な解決策を提示してくれる者は滅多にない。むしろ、精いっぱい考えて実行した策を、さいきんの若者は何を考えているのか分からない、信じられない、と陰口を叩かれる。

 それでも生徒のため、寝る間を惜しんで、授業の準備やテストの採点、学級通信や指導案の作成を行う。遠足の下見があれば休日返上で行き、交通安全指導のために朝早くから通学路に立つこともしばしばだ。

「裁量制ってのも考えものですよね」器用に箸を使って焼き鳥を串からはずしながら、去年入った二個下の後輩教員が言う。「人によってぜんぜん手間も熱量も違うじゃないですか。先輩なんて通知表、毎回のようにイチから文章考えてるじゃないですか、その生徒のことを一人一人考えて」

「まあ、人は成長するからね。前とは違ってて当然だし」

「なのに教師によっては、文章を使い回して、さっさと機械的に済ましちゃうじゃないですか」

「まあ、評価自体が適切なら問題はないから」

「そんなの教職としてどうなんですか。ちゃんと生徒と向き合ってるって言えるんですか」

「言いたいことは理解できるけど、残業代がでるわけじゃないし、ひとにそこまでやれとは誰も言えないよ」

「でも先輩はやってるじゃないですか」

「そうなんだけどね」

 私はたぶん、要領がわるいのだろう。文章を考えるとは言っても、通知表にかける文字数は限られる。せいぜいが四百文字がいいとこだ。それでその生徒のいったい何を語れるというのか。よしんば語れたとして、生徒の親がそれを読んで何を納得するというのか。この先生はよくうちのコのことを見てくれている、と一過性の評価を得られるだけではないのか。

「私のは単なる自己満足だよ」

 熱燗の満ちたお猪口にはそれを覗きこむ私の顔が反射している。立ちのぼる湯気でくもるため、眼鏡をいちどはずす。「教師はけっきょく、生徒を教育するなんてことはできないんだ。いつだって学ぶのは生徒たちのほうで、私たちはその手伝いをするのがせいぜいで」

「水をやり、堆肥をやる。吸収するかどうかは生徒たちの自主性に任せる、そういう話ですか」

「そこまで投げやりじゃないけど」

 否定してみせるものの、そのじつ思っていたのと大差はない。

 教師がいくら情熱を燃やしたところで、三十人もいる生徒たち全員に同じだけの知識を授けることはできない。

 人には人に合った最適な学習方法がある。

 学校という場はしかし、そうした一人一人に寄り添い、学習させるような仕組みを構築できてはいない。飽くまで、既存のシステムにじぶんを馴染ませる、その訓練の場と化している。

 それが教育の正しい姿だとは思ってはいない。

 だが数年という期間、一つの学校に留まり、身を粉にして働いてきた私からすると、この国の学校とはつまるところ、自分をいかに押し殺し、与えられた情報を正しく出力できるか、その腕を磨く加工場と呼べる。そして私自身、そうした加工場につぎつぎと送られ、矯正され、その末に教職の現場に立っている。

 そんな私がどうしてそれ以外の教育方法を、生徒たちに与えられるだろう。できるわけがないのだ。

 しかし、私はそれをしたかった。

 加工場ではなく、私の生徒には、ぜひとも教育を受けてほしいと望んでいる。

「私はね、思うんだ。教育とは、未熟な人間を立派に育てることではなく、教えそのものを育むものなのだと。私たちの教えた術や知恵が、つぎの世代に引き継がれ、磨かれ、ときに新たな枝葉を伸ばし、芽を萌やす。そうした循環を築くことこそ、教育の目的なんじゃないかって。だから我々教員だって生徒たちから学びを受けるし、そうあるべきだとすら私は思うんだけど」

「つまり先輩の要領のわるい、無駄な作業もその一つだと?」

「無駄だと言った憶えはないんだけど」

「あ、すみません。つい本音が」

 おいコラ、と肘でつつくと、くすぐったい、と後輩は無邪気にうれしそうにする。

「まあ、でもそういうことなのかもしれない」話をつづけたかったので、強引に繋ぎ穂を添える。「私は生徒たちの姿をつど、短い文章にまとめるたびに、その子たちの変化を振りかえり、個性の集積を図っているのかもしれない」

「学級通信だって先輩、毎回すごいですよね。生徒の名前がぜったいに一回はでてくるじゃないですか」

 よく読んでるな、と感心する。よそのクラスのものをよくも、と。

「だから毎回、表裏印刷の二枚組になって、紙の無駄だって教頭から叱られてるよ。さっさとデジタル化してくれ、と教育委員会に要望をだしてるんだけど、返答すらない」

「ブラックリストに入れられてたりして」

「あり得る」

 後輩はしばらく焼酎をちびりちびり舐めたあとで、でもわたしは、と言った。「先輩みたいな先生が担任だったら、きっといまでも名前を憶えていたと思いますよ」

「それは何よりの褒め言葉だね」

「わたしはむしろどちらかといったら、一刻もはやく忘れたいような先生ばかりだったから」

「なのに教員になったんだ」目を見開いてみせると、

「だからですよ」後輩はなぜか私がはずしていた眼鏡を装着し、「わたしだったらもっといい先生になれるって、なってやるって思ったら、なんかかってに」

 目がクラクラするのか、眼鏡をすぐに取るとテーブルに戻すでもなく、嫌がる私にかけさせる。

 店員が近づいてきて、ラストオーダーです、と注文を受ける構えをとった。後輩に目配せをすると首を振ったので、お会計を、と言って席を立つ。店のそとにでると雨がシトシトと降っていた。

「むかし雨の匂いって好きだったんですけど、いまはそうでもないなって。なんかふつうに臭いですよね」

「そう? 私はいまでも好きだな」

「うわ。童心丸出し太郎」

「太郎って」

 しばらく黙って歩いた。地面に反射する水溜りは、ネオンの反射を受け、そういった絵画のようだ。

 後輩は道端の空き缶をいちど蹴ってから、私が拾いあげる仕草を見せる前に、じぶんで拾って、私に手渡す。

 なんでだ。

「本当はきょう」

 とつぜんの声に目を転じると、

「先輩には相談ごとがあったんです」

「教員辞めたいなってこと?」

 後輩は息を呑んでこちらを見た。私は自動販売機を見つけ、備え付けの回収箱に空き缶を突っこむ。

「わかるよ。そろそろかなって。私のときがそうだったし」

「どうして先輩は」

 そこで彼女は言葉を切った。

「辞めなかったのかって? どうしてだろうね。たぶん、それはあなたが教員になった理由と似ているかもしれない」

「え、わたしってなんで教員になったんですか」

「さっき言ったじゃん。じぶんだったら、もっと上手くやれるんじゃないかって。そういう話だったよね」

「でしたっけ?」

「おいおい。まあ、私はあなたほどじぶんが正しいとは思ってないから、違うっちゃ違うかも。言ったら、もうすこし、学ばせてほしいと思っているだけなのかもしれないし」

「生徒たちからですか」

「もだし。んー。なんだろな。現場にいなきゃ見えてこないものってやっぱりあるなって」

「現場にいるからこそ見えないことのほうが多い気がしますけどね、わたしは」

「そうかもしれない。見えなくなったらきっと、辞めたいとも思わなくなるんだろうね」

「それはそれで嫌ですね」

「嫌だと思うこと、辞めたいと思うこと、そういうマイナスの感情が原動力になるならそれはそれでアリな気もするね。後輩に言って聞かせるようなことではないかもだけど」

「わたしはいつまでも先輩の後輩でいる気はないですけどね」

 同士という意味だろうか。

 そう思うことにし、楽しみにしてる、とつぶやく。「ただまあ、プラスの感情で働きたいのが本音だよね」

「ですね」

 そういえば先輩、と彼女の声音にいじわるな響きが滲んだので、ぎくり、とする。「通知表終わりました?」

「あーそれね。それはえっとー、そうね。うん」

「悩み聞くよーって誘ってくれたのはうれしいんですけど、要するにきょうのこれって先輩の息抜きという名の現実逃避ですよね。後輩に偉そうに説教してスッキリしました?」

「それ以上なにも言わないでほしいかな。スッキリしたまま帰りたいので」

「例の親御さんは解決したんですか」

「あー、うーん」教頭の言伝が頭のなかで再現される。「どうして宿題をだすのかって、だすならちゃんとやらせてくださいってまだ言ってくるよ」

「宿題をちゃんとやらせろって、こっちのセリフですよね」

「まあなんだ。託児所か何かだと勘違いされている節はあるよね。それか、洗脳施設か何か」

「学校は子どもを矯正するところじゃないのに」

「でも、そう言いきれない現場ではあるからつらいよね」

「ですね。板挟みじゃないですけど、なんかいろいろ矛盾を感じちゃって」

「すこしずつ変えていくしかないのかな。じぶんが正しいと思うことを一つ一つ試しながら」

「失敗つづきで自信失くしちゃいますよ」

「失敗したっていいさ、とは言えないからねぇ。さすがに。子ども相手のお仕事だから」

「ですです」

「ただまあ、一つ救いなのは」

 後輩が食い気味にこちらを見る。

「私らがいなくとも子どもたちはかってに成長するし、学んでいくってこと」

「ああ」

 聞き飽きたといった顔で後輩は、拍子抜けです、と言った。

「でもだいじだよ。だってそれがあるから私は頑張れてるからね。やることが決まってるから」

「やること?」

「さっき店のなかでも言ったけど。私たちにできるのは生徒たちが学びあえる環境を整えることだけ。だからまあ、ガーデニング感覚で、悩みながら、学びながら、生徒たちといっしょになって苦しめばいいのかなって」

「苦しんじゃダメじゃないですか?」

「じゃあ、楽しめばいいんじゃないかな」

 私は言った。

 無責任に。

 雨脚がつよまり、服が肌に張りつきはじめる。眼鏡が水滴だらけになり、やはりはずす。

「さあて。帰ったら通知表のつづきやるかな」

「がんばってください。応援してます」

「あれ、そっちは? そういや余裕だね。誘いにも二つ返事で乗ってきたし」

「だってわたし」

 彼女はカバンから折りたたみ傘をとりだすと、器用に片手で開き、じぶんの頭上にのみ掲げる。「とっくに終わってますからね」

 あ、そうなんだ。

 私は要領のいい後輩に、どうやったらそんな早く終わらせられるのか、と訊ねたい一心を押しとどめる。

「手伝いましょうか?」

「え、いいの?」

 押しとどめるのは無理だった。

「このまま先輩のお家で手とり足取り教えてさしあげても構いませんけれど」

 それはたいへんすばらしい提案に思えたが、酔いの醒めやらぬ後輩を連れ帰るのはたとえ同性であろうと何か生徒に顔向けできない後ろめたさがあり、ひとまずきょうのところは辞退しておく。

 なんでですか、と顎のしたに不満の判子を浮かべる後輩に背を向け、私は、ビニル傘を購入すべくコンビニに向かう。

「きょうくらいはさ」

 追いかけてこない後輩に聞こえるように私は首だけひねって、声を張る。「布団のうえで寝たいんだ」 




【引退は惜しまれるうちに】


 損な役回りだ。

 雲内(うんない)ヒトヨは院内会議で新たに任命された役職にうんざりした。暗雲たれこめる胸中で患者の診察を済ませ、帰宅する。

 夫は専業主夫だ。いいや、在宅ワーカーと呼んだほうが正確なのかもしれない。夫がどのような経済システムで小遣いを稼いでいるのかをヒトヨは知らないままでいる。

「ヒトヨさんは興味ないだろうからね。患者さんのことだけ考えてたらいいよ」

 嫌味なくそのように言い切る夫とは、夫婦というよりも、共に生活の至らない箇所を埋めあう相棒のような繋がりを維持しつづけている。

「きょうも疲れてるね」

 顔を合わせると開口一番に夫はいつもそう言う。だがきょうはそのあとで、「浮かない顔でもある」と付け加えたところを鑑みるに、じぶんで自覚している以上に重い責務を背負わされたのだと、ついたばかりの肩書きに、否応なく拒否反応がでる。

「じつはきょう」

 ヒトヨは語った。

 夫は料理の途中だったのか、いちどキッチンに戻り、加熱中の鍋を止めてから、冷蔵庫から缶ビールを持ってくる。こちらにカップを構えさせ、トクトクとそそぐと、じぶんは一口も呑むことなく、黙って話に耳を傾けてくれる。

 ひとしきり話し終えるころになるとヒトヨのカップはカラになった。お代わりの缶ビールを持ってくると夫は、つまり、とヒトヨの話を要約した。

「偉大なお医者さまの一人に引導をくれてやる仕事を引き受けたってことでいいのかな」

 じつに的を得たまとめで、そうそうそれが言いたかったのだ、とヒトヨは夫の簡素な聡明さに感心する。

「前にも話したかもだけど、医者ってさ、免許更新がないでしょ。いちどとったらあとは免許を返却するか、剥奪されるか、あとは死ぬ以外ではずっと医者でありつづけられるんだよね。しかも医師免許一つでどんな分野の医師にもなれる。産婦人科も外科も内科も全部おんなじ医師免許なわけ」

 へえ、と夫はひとつ相槌を打つ。

 興味なさ気でもないし、興味津々というほどでもない心地よい反応だ。

「もちろんメリットはあるよ。たとえば、同じ病院内で、ほかの医師の補助ができるし、その過程で、得意分野以外の技術や知識が蓄えられる。カンファレンスなんかまさにそれだよね、患者さんの治療をどうするか、ほかの医師たちと話しあったりして。そうやって共有された知見は、医師全体の質を高めるし、病院の運営もより柔軟に行えるようになる。回り回って、患者さんは平等に誰もが安全な治療を受けられるようになるから、やっぱり医師免許が一律かつ更新なしだからってわるいことばかりじゃないんだけど、でもそのせいで、じぶんの腕の衰えを自覚できない医師がでてきちゃうのもじっさいやっぱりあるわけで」

「それが院内で誰もが一目置く、偉大なお医者さまだったら誰も文句が言えないね」

「文句は言えないよ。だってじっさいすごいひとだし。でも、指摘すらできないのは、どうなのって」

「そのお役目を一介の若手医師に任せるのも問題だね」

「そうそう」

 夫はこういうとき欲しい言葉をちょうどよいやわらかさでそそいでくれる。こういうところに惹かれたのも事実だが、そうしたやさしさに甘えるじぶんのことは都度、嫌いになる。だからいざというとき以外に夫に愚痴は零さないようにしてきたが、いまはまさにその「いざ」と言えた。

「医師免許を返却してください、とはさすがに言えないから、意見役とか、ほかの医師の監督役に回ってもらうのが無難ではあるんだけど」

「きみが言っておとなしく頷いてくれるようなひとなの?」

「だとしたら私なんかに押しつけないでしょ。わざわざ専門の役職までつくってさ」ヒトヨはお代わりのビールを飲み干す。「院内の医師の人事評価最終監督って聞こえはいいけど、要するに王冠争奪係なわけじゃない? 王さまから冠を取り去って、一介の、単なる従業員にしてしまう」

「どうして局長やら院長やらがそうした指示をしないんだろ」

「できないんでしょ。いろいろあって」

 そのいろいろが、じぶんで言っていてもピンとこない。おそらく恩やら縁やら、そういった目に視えない超能力じみた魔法で以って築かれている均衡があるのだろう。それを断ち切れるのは、それが視えない者だけなのだ。

「たいへんだね」

 夫の言葉に、たいへんだよ、としみじみ頷いてしまう。

「でも考えようによっては、ヒトヨさんの言うことなら納得してもらえると考えてくれたってことだよね。上のひとたちは」

「適任だって感じではなかったけどなあ」

 じぶんでも適任だとは思わない。どちらかと言えば誰もが嫌がる雑用を押しつけられた、といった感がつよい。「私はたぶん、製薬会社との窓口もやってるから、その関係で院内での力関係のそとにある感じではあるのかなとは思うけど」

「え、そうなの」夫は口周りの泡を舐めとると、すごいんだね、と眉を持ちあげる。

「すごくないよ。単なる雑用。旨味なんてなんもないもの。むかしとは違うから」

「癒着とかはないんだ」

「賄賂とか? ないない。いまそういうのすごい厳しいし。ああでもどうだろ。新薬の説明会とかだと豪華なお弁当用意してくれたりするかなぁ。見ようによってはそれも賄賂の一部と捉えられないこともないか」

「ヒトヨさん一人だけ豪華なの?」

「違う違う。みんなだよみんな。医師も、看護師も全員。病院って新しい薬が入るとそうやって説明会開いて、知識を共有するの。じゃないと危なくて導入なんてできないでしょ。ただ、やっぱりそういうのとは違う、個別の接待みたいなのはたぶん、いまもまだあると思う。私は全部断ってるから知らないけど、未だに誘われるってことはあるんだよねきっと」

「法律で禁じられてはいないの?」

「規制はされてるよね。でも抜け穴なんていくらでもあるし。講演を依頼して、その正式なお礼だったら構わないわけでしょ? たった三十分の講演でその打ちあげと称して豪勢なお店でご飯食べたりして。医師じゃないけど局長なんかしょっちゅう飲みにお呼ばれされてるみたい。なんの会合かは知らないけど」

「製薬会社の人と?」

「さあ。ほかの病院の局長とか、医師とかじゃないかな。ほら、病院って新しい医師を雇い入れるのに結構たいへんなわけじゃない? いつだって人材不足なわけで。製薬会社とは別だけど、そういう手札の確保って言ったらあれだけど、あるよね、やっぱ」

「人によってはじゃあ、賄賂みたいなのをもらって特定の製薬会社を優遇してるひともいるんだ?」

「いないとは言い切れないよね。じっさい、うちの病院はそれを問題視して、私に窓口を一任しているわけで。ほかの病院だと一人一人のお医者さんが製薬会社の人と懇意にしたりしてるよね。独立したときのこととか考えてる医師はとくに」

「ああ、独立か」

「うちはそういう野心ある医師がすくないからなぁ。人を救えたらそれでいい、研究できればそれでいい、そんなひとばっか」

「見習いたい精神だね」

「そんないいもんじゃないけどね。したいことを自由にしたいだけだから」

 しばらくカップの底を見詰める。いったい何を話していたのかがぼんやりしてくる。

「その問題の大御所さまは、いまの話で言うとどこに属するの」

 夫はゆびを一つ、二つ、と折りながら、

「接待を歓迎するひと、独立したいひと、医療行為ができればいいひと、権威がほしいひと、あとはえっと」

 ヒトヨは笑いながら身を乗り出すようにして、夫の手を払いのける。「もういいよ。大御所さまはどれでもない。ただただ一生懸命に、目のまえの患者さんのことを考えてる。ただ、さいきんどうも、ミスが連発してて。人望がある手前、みんな陰で気づいたらそっと尻拭いしてるってのが積み重なって、あるときを境に、医療行為をさせて大丈夫なのかなって議題にのぼりはじめたところ」

「医療ミスが起きてからじゃ遅いもんね」

「そうそう。ただ問題は、腕が衰えたと誰が判断し、誰が事実上の引退を告げるのかってこと。だっていずれはじぶんが告げられる側になるかもしれないのに。ヘンに因縁ができたら、困るでしょ」

「イチャモンで辞めさせられたら堪らないね」

「でもそういう確執がないわけじゃないから。やっぱり医師も人間だしね。病院内の上下関係は意識してなくすようにはしてるけど、医師と看護師のあいだにだって、そういう差別構造がないとは言い切れないし」

 とはいえ、働き方を比べれば、医師のほうが劣悪ではある。看護師は基本的に当直(夜勤)のつぎの日は休みだが、医師は違う。看護師には手当される残業代もでない。

「そこでヒトヨさんの出番なわけだ」

 ヒトヨはすこし迷ってから、眉根を寄せ、口元を吊るす。「穿った考えだけど言ってもいい?」

 夫は手のひらをうえに差し向ける。そこに言葉を一枚一枚重ねるように、ヒトヨは零す。「たぶん私は院内で、いつ辞めてもいいと思われてる人材だから、そういうイザコザの起きそうな役職にばかり抜擢される」

「そうなの?」

「と、私はどうしても考えてしまうんだけど」

「それが正しいかどうかは僕にはわからないけれど」夫はじぶんの意見を言うとき、いつもこんなふうに前置きをした。「結論をだすには早すぎるってことは、ヒトヨさんが一番よく解かっているんじゃないかな」

「そう、だね」

「これは僕の穿った考えになるけれど」

 目で、どうぞ、と促す。

「病院の経営陣はヒトヨさんが思うほど愚かではないし、ヒトヨさんのことだって、ヒトヨさんには見えていない部分をちゃんと見てくれていると期待するとして」

「仮定を積み重ねすぎじゃない?」

 夫はこめかみを掻きながら、

「たぶん本当にヒトヨさんの判断なら納得してくれる人が多いんじゃないかな。ヒトヨさんの肩書きの有無に拘わらず」

 単なる慰めでしかないと分かりきっているそれに、ヒトヨは自分でも情けないと思うほど、胸の内が軽くなるのを感じた。

「だといいんだけど」

 夫は席を立つと、そのままキッチンで料理を再開させた。

 着替え、お風呂の湯を新しくしがてら顔を洗い、戻るころには、テーブルのうえに夕飯が出そろっている。きょうはシチューに、パスタだ。パスタは細い麺ではない。大きなマカロニだ。

 いただきます、と二人揃って食べはじめる。

 料理の味については言わない約束だ。レストランでも開けばいいのにと思うくらいの腕前だが、結婚当初から美味しかったわけではない。新婚時に投げかけた辛辣な所感がトラウマになっているらしく、またこちらの本心からの褒め言葉も歯がゆく感じるようで、黙って料理をたいらげるのが一つの礼儀と化している。

 食事を済ますと夫は作業があるらしく、自室に引っこんだ。居間でメディア端末を広げ、作業していることもあれば、自室に引っこんだきり、翌朝まででてこないこともある。

 ヒトヨはヒトヨでやることがある。

 来月に組まれた手術のアプローチを考えはじめると、あっという間に零時を回った。

 あすは当直なので、寝る時間をズラしておく。

 コーヒーでも淹れて、練り直そう。

 電子カルテから目を離し、居間に顔をだすと、夫がキッチンに立ち、包丁を構えながらなにやら独り言を並べている。

 いっしゅん、ぞっとしたが、夫の視線の向かうさきに三脚に乗ったカメラがあることに気づき、ああ、と肩の力が抜けるのを感じた。遅れて、陽気がのど元まで競りあがる。

「凄腕主夫のシェフときましたか」

 夫がどんな経済システムで小遣い稼ぎをしているのかは知らなかったが、ヒトヨはひとまず、物音をたてずに自室に戻り、ベッドにもぐりこむと、すこし早いが、あすに備えて眠ることにした。

 こっそりインターネットで夫の動画を探してみようかな。

 妄想していると、スルスルと夢のなかへと落ちていく。同僚や先輩のひたいに、「降格」のラベルを貼りつけて歩くじぶんの姿を俯瞰しながら、そんなじぶんのひたいにも「降格」のラベルを貼りつけるじぶん自身を認識し、それはそれであるべき姿のように思えた。これが夢であることを自覚しながらも、うふふ、と頬が緩むさまを愉快に思う。

 夫と肩を並べカメラのまえに立つじぶんの姿を思い浮かべる。やさしく手ほどきを受けるじぶんがどんな表情を浮かべているのかと覗きこもうとしながらヒトヨは、夢の輪郭のそとから漏れ聞こえてくるスズメの追いかけっこをすこし煩わしく、妙にうらやましく思うのだった。 




  

【ハンバーガーの片割れ】


 どうしたらSNSでフォロワーが増えますか。

 そう訊ねてくる子が本当に多くて、困るというよりもどこか微笑ましい。インスタをはじめた当初は同じように考えていたこともあったし、投稿した画像への反応が薄かったりすると、何がダメだったのか、とまくらを絞め殺しながら考えたものだ。

 最初は単純に、好きなものを好きなように投稿して、反応が返ってくるのが楽しかった。ただそれだけだったのに、いまではどうしたら反響を得られるのかを無意識で計算しているじぶんがいて、そこでも嫌だというよりもどこか微笑ましく思えてしまう。

 じぶんではないじぶん、違ったじぶんが垣間見える瞬間が好きなのかもしれない。

 本当のじぶんってなんだろう。

「考えすぎると脳みそのシワが増えちゃうぞ」

 そんなふうにからかってくるのは昔馴染みのリョウコだ。リョウコとは小学生のころにはもう出会っていて、そのときはまだそれほど仲が良いというわけではなかった。こちらは男子と遊ぶほうが多かったし、じぶんの性別をよくよく考えてみたこともなかった。しょうじき言えば、男の子だと思っていたほどだ。

 小学校の高学年にあがるにつれて、なるほどじぶんは女の子だったのかと客観的な事実を受け入れられるようになり、そうなってからというもの、あべこべに男子との関わりがこわくなった。避けていたと言ってもいいだろう。そのときそばにいてくれたのがリョウコだった。女の子で初めての友達とも呼べ、しかしリョウコはリョウコで女の子といったふうではなく、一輪車に乗ってまわる同学年の子たちを遠巻きにしながら、カナヘビを捕まえたり、こちらにスケボーの乗り方を教えてくれたりした。

 リョウコとは中学校でいったん離れ離れになったが、高校生になってからまた遊ぶようになった。ネットのおかげで繋がりつづけていられた。むかしのじぶんを知っている同年代がいることのおそれと癒しが、二人の縁を繋ぎとめていたように思う。

 いまでもたまに公園でスケボーを蹴る。リョウコに至っては移動手段に小型のミニクルーザー(スケボー)を使っている。うらやましくて真似て購入してみたけれど、地面に響く音が気になって、いまでは部屋の飾りになっている。

 小雨の降りしきる肌寒い日にリョウコから連絡があった。晴れの日以外で連絡があったのは珍しく、なぜならそとでスケボーを蹴れないからだろうけれど、何だかすこし様子が変だったので、会うことにした。タイミングがよかったのもある。午前中は仕事だったが、午後は家でゆっくりする予定だった。やることがないわけではなかったが、やはりリョウコの様子が気がかりだった。

 代官山のカフェで合流した。話がしたいだけだったようで、ひとまず遅めの昼食がてら、そこでパンケーキを注文した。リョウコはさきにパフェをついばんでいた。ここのハンバーガーが美味しいんだよ、とジューシーなことを言うので、半分こずつなら、とそれも注文した。

「さいきんどうよ」リョウコは言った。スプーンをもりもり口に運ぶので、すさまじぃな、と思いながら、

「いそがしいよ。でもたのしい」それとなく、言い慣れた返事をする。「しゃべるのそんなに得意じゃないけど、ラジオも、スタッフさんとか相方のひととかすごいやさしいし」

「聴いた、聴いた。むしろラジオ向きでしょ。聴いてるだけでなごむ。よくさ、ラジオのMCってなんかこう、マシンガントークじゃないけど、やたらテンション高いじゃん? でもなんてーのかな、そういうの、ないじゃん」

「わたし?」

「そうそう。あ、さいきんほら、あるじゃん。流行りの。なんだっけ、ささやきボイスじゃないけど、耳に心地よい音みたいなやつ」

「ASMR?」

「そうそれ。エイエスなんたら。そういうのっぽいよね。なんか」

「褒められたと思っておこう」

「褒めたんだよ」

 リョウコを観察する。彼女はパフェの底に残ったチョコレートをスプーンでつついている。むかしからきれいに食べないと気が済まない性分なのだ。装いは、きょうも身体に吸いつくようなジーンズに白いワイシャツだ。ワイシャツの裾は腰のあたりで結んである。流行とはなんぞや? を地で描いている。

「きょうのかっこうもかわいいね。オシャレ」

 言おうと思っていたセリフをさきに言われ、たじたじになる。

「これが仕事だし、趣味だから」思わず憎まれ口を叩いてしまうのはきっと、相手がリョウコだからだ。本当は彼女に会うと決まってから家に戻って着替えてきた。気合いを入れているように見えないようでいて、そのじつ押さえるべきところを押さえた格好だ。

「靴、それヒール?」リョウコがテーブルのしたを覗く。

「うん。雨だから」

「雨だとヒールなの? あ、かかと高いから水溜りも歩けますってやつか」

「水溜りは歩かないけど」

「いつもはスニーカーじゃなかったっけ?」

「だってリョウコと会うのにヒールじゃさ」

「あ、だよね。スケボー乗れないしね」

 こちらの気づかいにいまさら気づいて顔を赤らめるリョウコがおかしかった。

 ガラスの向こうを見遣る。雨露が窓をとおる光をモザイク状にしている。ステンドグラスみたいだ。

「雨、やまないね」

「んだねー」

 リョウコはパフェをすっかり食べ終えたようだ。給仕人がやってきて、パンケーキとハンバーガーをテーブルに置いた。コーヒーもついている。セットだったようだ。給仕人が去ったあとで、リョウコはハンバーガーを二つに切り分けながら、

「SNSってさー」と口にした。「どうやったらフォロワー増えんの」

「えー。リョウちゃんからそれ関連の話題、初めて」

「や、前から訊きたくはあったんだよね。ただ、なんかほら。チートじゃん?」

「チート?」

「だってなんか、ズルじゃないけど、友達特典みたいで、なんていうか、利用してるみたいで、やじゃない?」

「わたしは何とも思わないけど」

 気にしていたのか、とそっちのほうに驚いた。たしかにこれは、と顔が熱くなる。気づかわれていたことにあとで気づくのはすこしというか、恥ずかしい。

「ホントに何とも思わないよ。なんていうか、うれしい。頼られるっていうか、そうだよ、だってどっちかって言ったらいつもわたしのほうがリョウちゃんに」

「うーん、だからかも」リョウコはわざとそうするように顔をくしゃっと歪めた。「いつまでも頼られる側でいたかったってのがね。なんかね。あったのかなぁ、なんて」

 言い返そうと思ったけれど、うまく言葉にならなかった。わたしだって、と喉まででかかったところで、リョウコがさきに沈黙を破った。

「だって気づいたらどんどん違う世界のひとになっちゃってんだもん。連絡一本とるのもなんか気が引けちゃうしさ。きょうだって仕事だったわけでしょ」

 世間ではいわゆる休日にあたいする曜日ではあった。でもそれを言うなら、平日に休める日だってあるし、SNSを投稿してその日の仕事はおしまい、という日もある。

「知り合いに作家いるからわかってるつもりだよ、これでもさ。きみたちみたいな職業はさ、基本的に頭のなかはいつでもお仕事状態なわけじゃない? 何も予定がない日でも、つぎの予定のための準備ですごくいそがしい。頭のなかがだよ。邪魔しちゃわるいなってやっぱり思っちゃうんだよね」

「それは、でも」

 否定できないし、そういう面がなくはない。でもだからこそ、

「誘ってくれたほうがうれしいよ。会うとすごいリフレッシュになる。癒される」

「そう言うよね。きみはね。そういうコだよ」

 口元だけ吊りあげてリョウコは笑う。でも目元はどこか寂しそうだ。「いまフォロワーどんくらい?」

「インスタ?」

「じゃ、それで」

「二十万くらいかな」自慢になりそうであまり言いたくなかった。

「すっご。それでまだ増えつづけてるわけでしょ」

「みたいだけど。わかんないよ。ひょっとしたら会社のほうでフォロワー買ってるのかも」

 そういうサービスがあるのを知っていた。

「謙遜しなくていいよ。それからそういうことも言わないほうがいいって。どこで誰が聞いてるかわかんないんだから。たとえジョークだとしてもだよ」

 きつい口調に、真剣に叱ってくれているのだと判る。リョウコはそういうひとだ。むかしからそうだった。

 わかった、としょぼくれてみせると、演技派やなー、とリョウコは半分こにしたハンバーガーを齧った。大きなお口だ。ふしぎとオオカミを連想する。

「で、どうやってフォロワー増やすの」

「まだつづいていたんだ、その話題」

「いいじゃん教えてよ」

「んー」

 これは考えるための唸り声ではなく、いじわるしないでほしい、といった意思表示だ。「とくにこれといってないよ。だってもしそんな方法があったら、誰だってフォロワー増やせちゃうし、そしたらフォロワー多いことの意味だってなくなっちゃう。増えるひとは何も意識しなくても増えるし、増えないひとは何をしても増えない気もする」

「じぶんに魅力があるからってこと? で、フォロワーすくないひとは魅力ない?」

「そうじゃなくて」否定するものの、ではどう思っているのだろう、と考えるとなかなか思うように言葉にならない。

 フォロワーが増えたらうれしいし、それが認めてもらえているという実感を伴うのも事実だ。ただ、だからってフォロワーの数が直結してそのひとの魅力を数値化しているとは思わない。フォロワー数は、同じ価値観を共有できたひとの数であって、その価値観の価値の高さを示すものではないはずだ。

 フォロワーがすくなくてもステキなひとなんてたくさんいる。元々そんなことは知っていたし、仕事をたくさんもらうようになってからは、もっとよく身に染みて分かるようになってきた。

 それを初めて教えてくれたひとは、いまこうして目のまえでどこかふて腐れた顔をしている昔馴染みだったはずなのに、いまはそのコから真逆のことを突きつけられている。

 試しているのだろうか。そう思うと、いじわるな気持ちになった。

「偽らないようにすることがだいじなのかも。素のじぶんを見せること。大袈裟に着飾ったりしないこと。隠そうとしないこと。それでもちゃんと魅力が伝わるように、素のじぶんがステキになれるように日々努力しておくこと。そういうのがちゃんと伝わったら、フォロワーは増えていくと思う」

 そのひとの魅力がだいじなのではなく、魅力的であろうとする姿勢がだいじなのだ。

 そのように述べると、リョウコは、ふうん、と唇を尖らせた。納得いっていないときの顔だ。

「ちなみにうちのフォロワーはねぇ」

 言いながらリョウコはスマホを操作すると、いっしゅん画面を眺めただけで、腕をまえに突ききだした。こちらに手のひらを見せつけるようにする。

「リョウちゃんSNSやってたの? え、五百人ってけっこういるじゃん」

 リョウコは首をふる。

「あ、五十人?」

 まだ首をふるのをやめない。

「え、五人?」

 リョウコは頷いた。

「あ、わかった。はじめたばかりなんでしょ?」

「もう三年はやってるよ」

 初耳だった。

「なに投稿してるの? ていうか、教えてよ」

 連絡のやりとりはラインだけだ。リョウコはむかしからSNSをやっていないと言っていたので、それを信じきっていた。こっそりやっていたのだ。

「フォローしたのにフォローしてくれなかったからなぁ」リョウコは頬をふくらます。

「えー、わたしのアカウント? だってそんな」

 見知らぬ相手からのフォローに応じていたらキリがない。せめて一言言ってくれればよかったものを。

「教えて。いまフォローするから」

「えー。わるいよ」

「いいから」

「じゃあ、まあ、ほい」

 リョウコはこちらにスマホの画面を見せた。「こんなんだけど」

 画面にはたくさんの爬虫類が、ヘビやカエルやトカゲなど、腕に載せられていたり、絡まっていたり、うねうねした虫をパックンと食べているところだったり、そうした画像が並んでいる。食事時に見るのは遠慮したい画像ばかりだ。

「かわいいっしょ。でもフォロワーがなぁ。増えねぇんだよなぁ」

 ぼやくリョウコに、言葉を失くしつつ、まずはさておき、

「これも食べなよ」

 半分このハンバーガーの片割れを押しつけるのだ。  




【姪は干されてなお、ふかふかと】


 姪っ子から連絡があり、久方ぶりに顔を合わせることになった。私の前職が多忙を極めていたため長年会う機会がなかったが、数年前に辞めてからというもの私は、比較的おだやかな日々を過ごしている。

 記憶にある姪は、鼻水を足らし、ドレミの歌を延々くちずさみつづけていた活発な幼児だった。膝小僧をよく擦りむいていて、姪の母親、言い換えれば私の妹に、私はよく苦言を呈していた。

 傷になったら困るだろ、女の子だろ、と。

 よもや久方ぶりに会った姪っ子に開口一番、同じセリフを口にするとは思ってもみなかった。

「おじさん、そういうのもう古いんだよ。女の子だから、なんて何の理由にもなってない」

「あ、ああ。そうだね。そのとおりだ」

 とはいえ、その歳にもなってまだ膝を擦りむいているとは思わなかった。聞けば、ストリートダンスを習いはじめたらしく、友人に止められたにもかかわらずアスファルトのうえで踊り、傷を負ったらしい。

 姪は、すっかり背が伸び、イマドキの若者らしい装いに身を包んでいた。というよりも、彼女の真似が流行っているだけのことなのだろう。

「きょうは奢りだからね、遠慮しないでね」姪が歩きだす。駅前から徒歩十分といった距離にあるレストランを予約していたようだ。

「ご馳走になるわけにはいかないよ。これはきみが女の子だからとか、姪っ子だからとか、そういうのとは違うからね」念を押しておく。

「でもきょうはこっちから誘ったし。話を聞いてもらうだけじゃなくて、なんていうか、助言をもらいたいっていうのもあるから」

「なら支払いの判断は保留にして、その話とやらを聞かせていただこうかな」

 まずはさておきご飯を食べよう、と言って道を進んだ。ふだんならそばに客人がいた場合、背中に手を添え、エスコートしているところだが、おそらく一般的ではないだろう。セクハラと捉えかねない。風習や文化は多様化しており、それがよい方向に働いていることもあれば、なかなか判断がむつかしくなっている要因にもなっている。ただ、こうして目上の男相手でもはっきりと意思表示できる時代になったのはよいことだと素直に評価したい。

 レストランに到着するまで姪が黙りこくってしまったので、脳内でかような思索を巡らせた。

「ぼーっとしすぎじゃない?」

 店内でスタッフにコートを渡してから姪が言った。薄暗くて表情が見えなかったが、おそらく笑っているのだろう。

「ふだんいる付き添いがいないせいかもしれない」それとなく言いわけを口にしてみせるが、通じたかは五分五分だ。姪は、ふうん、と気のない相槌を打ち、スタッフの案内のもと、奥にある個室に入っていった。あとにつづく。

 椅子に腰かけるなり、コースで、とスタッフに指示し、姪はそそくさと注文を済ましてしまった。料理はなんでも構わなかったが、手慣れた調子に、

「よく来るのかな」思ったので、そう訊ねた。

「ときどきね。仕事の打ち合わせとかで。ほら、じょーほーろうえいとかこわいでしょ」

 え、なんで笑ったの、と問われ、いいや、と誤魔化す。言い方が微笑ましかったのだ。

 料理が運ばれてくるまで姪はここ数年にはじめた仕事について語った。インスタグラマーとして名を馳せ、それから会社を興し、モデルから企画のプロデューサー、ラジオのMCから俳優業まで、いったいきみの正体はなんなのか、と目が回るほどに、多彩な方面で活躍していた。

「順風満帆じゃないか」

「そう見えるよね、やっぱり」

「引っかかる物言いだね。何か問題が?」

「んー」

 間がわるいことにここで料理が運ばれてくる。コースだと聞いていたが、テーブルいっぱいに料理が並ぶ。ありがとー、と気さくにスタッフに手を振るあたり、特別な計らいでこうしてもらっているのだと推量がつく。おおかた、これ以上、話の腰を折られないようにするためだろう。

 案の定、姪はスープを一皿カラにするあいだに、ひと通りの経緯を説明した。

 つまり、と私は話を要約する。「干されていると?」

「んー。どうだろ。それが判れば話が早いんだけどさ」

 ジョウキョウ証拠ってやつ?

 言いながら切り分けられたステーキに箸を突き刺し、一口に頬張る。

「しかし、ことごとくのオーディションに落ちているわけだろ」まずは意見する。「以前は受かっていたにも拘わらず。だったらそこには何かしらの作為があると見ていいんじゃないのかな」

「断言できればいいんだけどねぇ。だってさ。ただわたしの演技がわるかっただけかもしれないし。ひょっとしたら審査基準が変わっただけかもしれない」

「それにしても一次審査にもあがれないってことはないだろう、それだけの実績があって」

 それほど差があるのか、と訊ねる。審査にあがったほかのコたちと、それほど歴然とした差が、と。

「さあどうだろね。あるから落とされてる。そう思ってたし、べつに干されたなら干されたでべつにいいんだよね。そこの事務所だけが仕事相手なわけじゃないし。じっさいこうして不自由はしてないし」

 まずはそこでほっとした。姪が理不尽な事態に巻き込まれ、精神的にまいっているのではないか、と心配だった。それはないようだ。

「なら放っておいたらいい」

「わたしはいいんだよ。でも、ほかのひとたちまでそうやってイチャモンみたいに不当に評価されてたら、ううん、評価もされずに無視されてたら、それはちょっと見過ごせないなって」

 ああ、と急に懐かしくなった。彼女の母親、つまり私にとっての妹もまた、太古の日にそうやって眉間にシワを寄せ、子猫の姿で猛獣の威圧を放っていた。似ていると言ったら彼女のことだ、気をわるくするだろうと思い、

「きっかけはあるのかな」まずはさておき、さきを促す。「干されたと言うからには、何かきっかけがあったわけだろう。ひょっとしたらきみのほうに過失がないとも言い切れない」

「それはそうだね。うん。ザッツライ」姪は唇をすぼめ、ある種ヒョットコのような顔を浮かべながら、「仕事を断ったんだよね。約束破られたから。そしたらなんか、つぎからのオーディションにいっさい、受からなくなった。コメント一つもらえなくなったよね。なんなんだろ」

「その約束っていうのは?」

「絶対に舞台に立たせるっていう確約があって、じっさいそう説明されてたのに、白紙にされちゃった。インスタグラマーではなく、ちゃんと女優として起用したいからって、つぎの舞台にどうぞってさ」

「それほどわるい話には聞こえないような」

「だからさ。わたしはいいんだよ。得するよ、それでも。でも、じゃあ真面目に毎回オーディション受けてるひとたちは何なの? わたしはその舞台のオーディションで選ばれて、でもその舞台には立てなかった。だったらまた最初からオーディションを受けるのが筋じゃない?」

「だから断った? ホントに」

「あ。ばかだなって思ったんでしょ」

「いや」

 とっさに首をよこに振るが、そのじつ、内心ではそのとおりのことを思っていた。生真面目にすぎる。甘いと言ってもいい。とうていその世界でやっていけるとは思えない。

「わかってる。だからべつに、わたしが干される分にはべつにいいんだよ。ただ、ほかにもわたしみたいなコがいたらやだなって。あとは、そうそう、干すなら干すでちゃんと説明してほしいなって。出禁ってあるでしょ。わるいことしたひと入れないようにするやつ。あれって理由を説明してたら出禁だけど、そうじゃなくて一方的に排除してたら、それって差別だし、ハラスメントだと思うんだよね。おじさんはどう思う?」

「うーん。そこまで客観視できていて、何が知りたいのかな。きみはどうしたいの」

「独占禁止法ってあるって聞いたから。ほら、条件が合わずに仕事を断られたからって、つぎからその相手のこと不当に評価して仕事の機会を奪うようなことしたら、それって違法なんでしょ」

「そういうことか。たしかにそういう法律がある。さいきんはきみたちみたいなフリーランスを守るための法律が整備されてきているのは事実だ。ただし、因果関係をハッキリさせるのがむつかしい」

「ジョウキョウ証拠だけじゃダメなんでしょ」

「すくなくとも、きみを審査から弾くように指示した証拠か、それか数値的にきみの技量が一次審査に受からないのがおかしいことを証明しないと独占禁止法としての適用は厳しいだろうな」

「技量の数値って、そんなの無理じゃん。表現の世界に絶対的な評価なんてなくない? ないよね。ないもの」

「たとえばほかのオーディションで受かってみせれば」

 合格させなかったことが不当だと証明できるかもしれない、と言い切る前に、

「審査基準が違うって言われておしまいだよ。時代が変わっただけ、って言われておしまい。何の根拠にもならない」

「だとしても、きみがオーディションに受からなくなったのは、仕事を断ってからなのは確かなのだろ。だったらまずは状況証拠をもうすこし固めて、確実に、箸にも棒にもかからなかったという事実をつくりながら、ほかのオーディションを受けて合格するのが、妥当な気がするな。ただ、そもそも仕事の契約時に確約していたことを反故にされたらその時点で独禁法違反なんだがな」

「契約はしてないんだよね。そう説明されただけで」

「実際の条件より好条件に見えるように説明するだけでも充分に独禁法に抵触するはずだよ。契約書なしで仕事を発注したりするのも下請法に違反するし。公正取引委員会に相談してみたらどうかな」

 ただしその場合、彼女の名が申告者として公表されることになる。以降の仕事に影響が及ぶのは火を見るよりも明らかだ。

「うーん。むつかしいな。まあいいんだ。とにかく、そういうよくない風習をとっちめるには時間がかかりそう。いますぐには無理。それが判っただけでもありがとうだよ、おじさん」

「お役に立てなくてすまないね」

「ちっ。つかえねぇ」

 陽気にうそぶくところを鑑みれば、彼女のそれは愛嬌だ。彼女は誰かの威を借りて問題を解決しようと考えるような姑息な人物ではない。本当にただ、助言を欲し、そして疎遠だったおじに会いたかっただけなのだろう。希望的観測にすぎないが、相談事のほうはむしろついでだったのではないか、と彼女の徹頭徹尾あっけらかんとした様を眺め、そう思う。

「わたしの話はもういいよ。おじさんの話をしよう。仕事辞めたんだよね。いまは何してるの」

 聞かせて聞かせて。

 皿の山をかき分けるようにテーブルに身を乗りだし、頬杖をつくと、彼女は餌を欲しがる野良猫のように目を細める。

「そうだなぁ。いや、仕事自体はしているよ。前職は引いたけど。そうそう、このあいだ妻とな」

 そこから二時間ほど、姪との食事を楽しんだ。

 姪はこのあと仕事があるらしく、店のスタッフに頼んでタクシーを呼んでいた。聞けばお手洗いに立ったときにすでに会計を済ましたそうで、ざんねんでした、と勝ち誇られた。駅まで送ってくよ、とあごをしゃくられたが、お腹がいっぱいだ、と言って断った。「もうすこし休んでからいくよ」

「ふうん。そ。じゃ、またねー」

 手を振ると、友達と別れるような気さくさで彼女は個室をあとにした。

 久方ぶりに人間扱いされた心地がした。姪にご馳走になったからだけが理由ではない。新鮮というよりも感動にちかい。こういう人間関係もあったのか、とだいじなものを思いだしたような感慨がふつふつと湧く。

 しばらく椅子にもたれかかり、天井を眺める。

 姪はああ言っていたが、業界を敵に回すことの苦しさを知らないわけではないだろう。ややもすれば、いままさに苦しんでいるさなかであったのかもしれない。それをおくびにもださずにおじを楽しませ、清々しい気持ちのまま別れてくれた。

 礼の一つでもしておくのが、おとなとして、おじとしての役目ではないか。

 余計なお節介だとは分かっているが、せめて因果関係くらいは調査してやってもばちはあたるまい。

 ――姪の勘違いである可能性だってあるのだから。

 じぶんに言い聞かせながら、職務乱用にあたらないような方便を頭のなかで展開しつつ、私用のメディア端末を手に取る。秘書を通さずに連絡をするのは初めてだな。思いながら、むかし懇意にしていた便利屋の番号を押し、端末を耳にあてる。

「私だ。そう、前大統領の」




   

【あちき、なつみ!】


 なつみは思った。

 い、いけるかも。

 淡い期待が泡と消えないよう、緩んだ気を引き締め直す。まだこの世界で目覚めて三十分も経っていないのに、となつみは短い記憶を振りかえる。

 きのうはベッドに入ってそのまま寝たはずだ。空気の流れが身体をくすぐり、夢でも見ているのかな、と目をぱちくりしたときにはもう、目のまえに荒涼とした野原が広がっていた。

 なだらかな丘がデコボコと波打ち、一種、サハラ砂漠に似た印象がある。異様なのは、それを埋め尽くす野獣の群れだ。否、野獣は総じて二足歩行しており、頭からは角を生やしている。鬼というよりもそれはどちらかと言えば、ヤギの角じみている。

 目覚めたその瞬間からすでに囲まれていた。軍勢だ。うしろを向いても同じような風景が、恐怖を引き連れ、広がっている。

 野獣どもはただ静かに距離を詰めてくるばかりだ。唸り声の一つでもあげてくれれば、こちらも泣きだす準備はいくらでも整っているというのに、淡々と、それでいて歩行を揃えずに、ぞろぞろと土の色を野獣色に染めあげていく。

 刻一刻と近づく危機になつみは思わず、ふだんの癖で、ポケットからメディア端末を取りだし、構えている。レンズを向ける。

「めっちゃバズるなこれ」

 試しに一枚撮ってみると、地平線の向こう側まで蠢く野獣たちの姿がフレームに一挙におさまった。最新型の端末に買い替えたばかりだ。画質は言うことない。津波がごとく押し寄せる野獣たちの一匹一匹まで、画像を拡大することなく鮮明に映っている。

 さすがいいカメラつこてるわぁ。

 技術力の高さに思わず端末を、いいこいいこ、する。

 目覚めたときから鼓膜を満たしていた耳鳴りが、どうやら野獣たちの足音だと気づいたとき、なつみの頭上を黒い影が覆った。

 天を仰ぐ。

 背後に、最初の一匹が到達していた。

 やっば。

 あちし、死ぬかも。

 使ったことのない一人称でなつみは死を悟った。

 もうだめだぁ。

 こんなことならきのう冷蔵庫に仕舞った食べかけのプリン食べておけばよかった。老舗ランオウの新作だったのに。

 まだ着てない服だっていっぱいあるのに、こんなんだったらもっと遊んでればよかった。

 先月、無事千秋楽を終えた舞台は、初めての主演で、しかも一人二役の大役だった。脚本はあの大ヒットアニメ映画の磯部(いそべ)ヤキ監督が手がけ、舞台監督は歌舞伎の人間国宝こと千代目石川五右衛門、演出家はなんとアカベコー賞そのものを手掛けた世界的プロデューサーのオレニ・マッカーセ・テロだった。

 死んでもいい。そう思いながらあの日、カーテンコールに立ち、時代の寵児たちと肩を並べた。

 そしていま、なつみは死にたくなーい、と半分ブチ切れながら、こんな最期じゃ死にきれないよー、と勃然と立ちあがった。拳をぎゅうと握り、チワワと名高いつぶらなひとみを、きゅっと鋭くうるおわせ、

「あに見てんだよー。泣いちゃうだろー」

 買ったばかりのブーツ、それは厚底のくせして履き心地抜群で、あまりにうれしかったので昨夜履いたままベッドに潜りこみ、こうして目覚めたいまも足にフィットしつづけている――そんな厚底のブーツで、身の丈おおよそミノタウロスとどっこいどっこいの野獣の、くそでけぇナリのわりにか細い足首を、これでもかとなつみは蹴りあげた。

 これでも空手を習っていた。瓦の一枚や二枚、割ることだってできる。うえに乗りジャンプすれば。幼稚園児でもたぶんできる。

 するとどうだ。一撃、二撃、三撃目の蹴りをいれたところで、なんとその場にうずくまるではないか。

 コイツ……!

 めっちゃカテェ……!

 なつみのほうがダメだった。

 おニューの厚底ブーツであっても、身の丈ミノタウロスの野獣には歯が立たない。

 せめてフライパンがあれば。なつみは奥歯を噛みしめる。お腹がグーと鳴る。

 ホットケーキ食べたい。

 寝る二時間前には何も食べない健康児として定評のあるなつみだ。ぜっさん、腹の虫が、オイラはらぺこだぜ、と舌をちょいとだして、ウインクしている。こういう絵柄のTシャツはダサかわいくて、一枚あったら寝間着にしたい。誰にも見せない。だってダサいから。

 そんなことを考えているあいだに、最初に撮っていた画像を無意識のうちにSNS上に投稿していた。すごいぞなつみ。反響がある。通知は切っていたはずだが、そんなの知るか、と世のフォロワーたちがこぞってなつみのあげた画像に、ひゅーひゅー、それいいね! と絶賛の嵐を送っている。この「嵐」は、肖像権にうるさい例の事務所とは関係がないので、切り取らなくてOKです!

「おまえこれ見ろ」なつみは野獣につきつける。「どうだ。これでもあちきを食べるのか。痛いことしたらすごいぞ。おまえなんかつぎの日には、ヤッホーニュースのトップを飾って、ツブヤイターのトレンド1位におまえの顔があちきの顔にすげ替わって、なんかいろいろすごいことになっちゃうんだからな」

 想像したら死にたくなった。

 そんなのってないよ。

 あちきを誰だと思ってんだ。こんなにかわいくてかっこいい生き物を痛くしたら、世界中のフォロワーが黙ってないんだぞ。

 ホントにホントに、容赦ないんだぞ。

 たとえば、人気アーティストをおもしろおかしくへんてこに当て書きなんかしたら、作者特定して、すんごいいじわるなことされちゃうかもしれないんだぞ。

 なつみは天に祈るように、支離滅裂な野次を飛ばした。「あちきのフォロワーはみんないいこ!」

 その祈りが通じたのか、灰色に染まった曇天の合間から、一筋のサマーキラキラが差しこんだ。

 日光のようなそれは、キラキラとまたたきながら一筋の糸となってなつみの頭上にするすると垂れていく。

 なつみはその先端を握り、そして叫んだ。

「あちき知ってる。これのぼると、途中で性格のわるい作者にぷっつんって切られちゃうやつ。落とされて、ザマーってされるやつ。あちき知ってる!」

 なつみは読書が趣味であった。プロフィールにそう書いてあったもん。

 しかしなつみの天才的な記憶力によれば、例の芥川龍之介の「蜘蛛〇糸」は著作権が切れているので、こうして伏せる必要はないし、そもそもそこ伏せる意味ある?

 上手にノリツッコミをしながらなつみは、あの名作はこんなへんてこな物語じゃなかった、きっとオチも違うはず。

 鋭く知性を働かせ、頭上に伸びたサマーキラキラに、えいや、と飛びついた。

 サマーキラキラはなつみを乗せたまま、するすると、びみょうにうねりながら、床屋さんのぐるぐる回るやつみたいに(若い子にこれ伝わる? あるのね。床屋さん――いまはこの「~屋」って言い方、放送禁止用語らしいから理髪店に言い換えるけど、店のまえに。DNAみたいに青と赤の絡みあった螺旋が、こうぐるぐるしてる置物っていうか、看板が、あるのね。それみたいに)、なつみのほっぺたを無駄に、むにむに鞭打ちながら、地上の野獣の群れを置き去りにしていく。

「い、いけるかも」

 なつみは思った。そして眼下に蠢く無数の野獣たちに、やっほー、と余裕綽々で手を振り、あわや体勢を崩し、落下しそうになったり、思いのほかちんたら昇るサマーキラキラにこれみよがしな欠伸を向けつつ、おまえマジで事務所から訴えられるからな、と天に唾を吐くようにひとりごち、最後にじぶんごと地上が映りこむように端末を顔のななめうえに掲げてみせ、

 やっほー。

 それはそれはステキな風景とステキな笑顔でひときわきれいなインスタ映えにござりましたとさ。

 とってんぱらりのぷう。


「なー! あちきまだしがみついたままなんすけどー!」 




   

【彼女は虹のかけ橋】


 宣伝のつもりだった。言いだしたのは野村だ。

「有名人起用すれば動員アップにPRにもなってがっぽがっぽよ」

 そんなうまい話があるわけないし、そもそも公演を開くたびに赤字がかさむような劇団だ、参加してくれる有名人がどこにいるのかと、そこのところにまず引っかかる。

「ツテを頼る!」

 顔だけは広い野村には、たしかにツテだけはあった。ただ、それを実利に結びつける技量がなく、言ってしまえば、相互扶助の精神の域をでず、もっと言えば「私たちの舞台を観に来てくれたらあなたたちの舞台も観に行ってあげる」みたいな付き合いの延長線でしかない。

「んなことないって、うちらの舞台に出たらプラスだって。ぜったいいるって、でたがるひと」

 たった二人の劇団だが、たしかに毎回参加してくれるレギュラー俳優たちはいる。みなほかの劇団や事務所に所属しているが、それでもあなたたちの舞台なら、と七、八人の俳優が集まってくれる。

 そして今回、もっと大幅に動員数を見込める有名人を起用しようという話になったのだ。

「いたよ、いたよ。ビッグゲスト!」

 野村が似合わないサングラスをかけながら、おそらくそれは敏腕プロデューサーのイメージでしているだけなのだろうが、引き連れやってきたのは、顔の小さな、月並みに形容すれば人形じみた少女だった。

「なつみです。よろしくおねがいします」

 子猫のような声音のわりに芯のとおった発声に、ほお、と唸ったのを憶えている。

 彼女はここ数年、急激に頭角を現しつつある新人女優で、元はじぶんで小物をつくって売ったり、SNSで画像を投稿して人気を博したり、イベントを企画したりと、ほとんど実業家のような側面がある。

「マジすごいよ。つぎの箱は芸センに決めたからね。千人は入るよ」

 私は言葉を失った。これまでに使わせてもらった劇場はどれもステキであった反面、いちどの公演では多くとも八十人が入るかどうか、百人を超えたら御の字だった。それがいっきに十倍だ。

「や、慎重になったほうがいいんじゃないか」私は苦言を呈した。もし動員数が見込めなければ、かつてない赤字だ。破産覚悟と言ってよい。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。あたしを誰だと思ってんのさ」

 活動年数だけは年季が入っていながら日の目を見ない、うだつのながらない弱小劇団の団長さまだろ。

 思ったが、まずはさておき、

「実力はどうなの」

 問題の女優、なつみの演技力はいかほどなのか、と疑問を投じる。「うちはほら、ほかの劇団とちがって、リアル指向でしょ。演技してますけど、みたいなそういうのじゃないじゃん。色とか合わないんじゃない?」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。あたしを誰だと」

「はいはい。我らが団長、かつ演出家さまでございましょ」

「わかってるなら任せなよ。だいじょうぶ。前にいちどだけだけどあのコがでてた舞台観たことあって。いい俳優いるなって思ってたけど、会うまで思いだせなかった。というか誘ったあとで、あああのコかってピンときて、びっくりしたくらいだからね」

 俳優だよあのコは。

 我らが団長さまはこのときばかりは演出家の目を光らせた。「舞台のうえに本人はいない。ふだんのあのコとは別人。根っからの俳優さ」

 彼女がそこまで言うのならそうなのだろう。私は野村の演出家としての目だけは信じている。

 しかし、いざ稽古がはじまると、私は野村の目も曇ったか、と不満を覚えた。

 たしかに素人ではない。なつみはほかの俳優たちと比べても、とくべつ劣っているわけではない。演技のなんたるかを理解しているようだし、脚本の読解や、指示の受け取り方など、じぶんなりの解釈を交えながらも、舞台全体のバランスを考慮に入れている。

 演劇は映像とは異なり、編集がきかない。窓の表面を伝う雨つゆがまったく同じ軌跡を辿ることのないように、そのときそのとき、一回一回の舞台が顔色を変え、温度を変え、よりふさわしいリズムを宿す。俳優たちはそのリズムを舞台上に奏でるために呼吸をあわせ、ときに乱したりする。

 なにより舞台は観客が装置の一部に取りこまれている。観客の息遣い、笑い声、鼻をすする音、息を呑む静けさ、集中力、没入感、いずれも舞台を構成する要素の一つである。

 すべての要素がカッチリと合わさることは滅多にない。初回から千秋楽までのあいだに一回あるかないか、あれば儲けもの、くらいの確率だ。

 だが、ときおり、まさにこの瞬間のためにこの物語はつむがれたのだ、と思うほど、理想のリズムが、旋律が、寸分の狂いもなく奏でられるときがある。

 観客の呼吸すらその場の空気に同調し、混然一体となって、その場をまぎれもなく物語の世界、異界へと旅立たせる。

 そのためには、演技をしつつも演技をしないことが必要となる。

 成りきるのではない。それそのものになるのだ。

 ほかの劇団がどういうふうに演劇というものを捉えているのかは定かではない。しかしすくなくとも私と野村のつづけてきた劇団はそういう理想を、奇跡を、追い求めてきた。

 これまで参加しつづけてくれた俳優たちはみな、私たちのそうした理念に惚れてくれている。

 その点、なつみは俳優としては一定以上の技量がある。反面、あまりに演技をしすぎている。

 野村もそう思っているのか、

「なつみちゃんはちょっとオーバーリアクションにすぎるかなー。声も、大きけりゃいいってもんじゃないんだよ」

「あの、でも」

「うん、なに。言ってみて」

 野村の威圧的な語調に、この場の全員が固まった。彼女は演出家として優れているが、理想のために甘えや妥協を許さない性分がある。とくに稽古中は鬼のようで、ふだん浮かべているにやけ面を保ちながら、眼光のみを炯々とさせ、なんか文句あんのか、とでも言いたげに迫られると、私たちは何も言えなくなるのだ。ひとえに、彼女の言うことを聞いて失敗したことがないからこその厚い信頼の弊害とも呼べた。

「今回は芸術センターでの公演なんですよね」と、なつみが言い返したところで、野村以外の全員が、なつみちゃんダメー、と冷や汗を掻きつつも、なつみちゃんカッケー、と同時に思ったのは以心伝心、互いの顔色を窺うまでもなく推して知れた。いまだかつて野村の指導に文句を垂れた者はいない。もっと具体的に指示をだしてくれ、と助言を求めたことは数あれど。

「箱の場所なんて関係ないよね。いまは演技の話してるんだけど」

「関係あると思います。みなさんは天井がひろくて、奥行きがあって、椅子がたくさんある会場で公演されたことはありますか」

 ない、と私は内心で応じる。だが、演劇養成所の出である野村はいくらか過去にあるはずだ。最低でも卒園時の公演では、三千人が収容できる会場でひとつの劇を、運営から制作、舞台装置から脚本まですべて手掛けることになる。

「あるけど何。さっきも言ったけど、箱と演技は関係ないよね」

「あると思います。まえのほうに座っているお客さんは、みなさんのやり方でも、おもしろく劇を観られると思います。でもうしろのほうになればなるほど、みなさんの声の出し方ではうまく聞こえませんし、繊細な演技も、何をしているのかが分からないだけになると思います」

 いつもよりもすこしオーバーなくらいが今回の舞台に合う気がするんです。

 なつみの声は、最後のほうは震えていた。じぶんの考えを、じぶんよりも立場の上の者に言うのだ。怖くないはずがない。

 私は野村の背後に忍び寄り、そしてフリーズしたままの彼女のあたまを、丸めた台本でぽかりと叩く。

 目を覚ませ、しゃんとしろ。そう活を入れたつもりだ。

 野村が振り返る。

「一理ある?」おっかなびっくり、縋るように訊いてくる。じぶんが驕っていたことに気づいたが、うまく呑みこめないのだろう。ほかの俳優がいる手前、引っ込みがつかなくなりつつあり、けれどそれが団長として、いいや、演出家としてとってはいけない態度であることも承知している。だから私に、判断を託す。じぶんではまた間違ってしまうかもしれないから。

「一理ある」私は言った。なつみちゃんの言うとおりだよ、と。

「じゃ、じゃあ、それでいこう。変更。あたしが間違ってた。ごめん」

 野村はみなに向け頭をさげ、加えてなつみには、教えてくれてありがとう、助かったよ、と恥ずかしげな笑みを向ける。

 なつみは、いいえ、と首を振る。「まだまだよくできるところ、いっぱいあると思います。ご指導、今後ともよろしくおねがいします」

 一回りは歳下のはずの彼女が、背丈も十センチは低い彼女のことが、遥かに大きく感じられた。

 公演前日までは、慌ただしい日々がつづく。

 舞台稽古のかたわら、私たちのような小さな劇団では、制作の手伝いもしてもらわねばならない。チラシ折りから、搬入作業、舞台装置の組み立てから、会場の設営までやることは目白押しだ。

 俳優とはいえど、そうした裏方の仕事もこなしてもらう。もちろん彼ら彼女らはゲスト扱いであるから、野村や私のほうがやることは多い。家に帰ってからは宣伝から広報、知り合いに手紙を書いたり、照明さんや舞台監督との打ち合わせもある。ときには脚本を書き換えることもしばしばだ。お金の管理だってしなくてはならない。ほぼ不眠不休で、稽古の合間に仮眠をとっては、尻を叩かれ起こされる。

 むろん、そうした雑用はなつみにも手伝ってもらう。いかに有名人とはいえど、特別扱いはできない。

「楽しいですよね、こういうの。みんなでわいわいするの。懐かしい。なんか高校生のころのこととか思いだしちゃいますね」

「学芸会とか?」

「それは小学校」なつみは腕を十字にクロスし、謎のポーズをつくる。ツッコムときの仕草らしい。これまでにも何度か目にしていた。光線でも出ているのだろうか。喰らうのは初めてだ。「文化祭の準備とか好きでした。いまの仕事も似たところあって。たぶんわたし、表にでるよりも裏方のほうが好きなのかなって」

「旅するよりも、旅の準備が好きなタイプだ」

 言いながらチラシを十枚くらいいちどに束ねて、二つ折りにする。まだまだチラシの山は減らない。なつみは一枚一枚ていねいに折っている。几帳面なのだ。もっと雑でいいよ、と定規を手渡す。折り目に添って上からこすれば、紙を束ねてもきれいに折れる。

「なるほどー」なつみはさっそく試し、順調にチラシの山を消していく。

 すっかり山をやっつけ終えたころには、なつみへの偏見はなくなっていた。というよりも、じぶんがいかに偏見を持っていたのかに気づかされた。

「ときどきいませんか」

 急に投げかけられ、偏見のことを咎められたのか、と焦った。

「いるよね、いるいる」反射的に応じてから、「え、なにが?」と正気に戻る。

「いえ。演劇って歴史があるじゃないですか。シェイクスピアとか、そういうのじゃないと観ることもしないで、まるで観る価値もない、みたいに言ってくるひととか」

「ああ、いるかも」

 演劇好きでも稀にいる。演目は何か、と受付けに訊いておいて、オリジナルの脚本だと知るなり、それはちょっとねぇ、なんて言いながら演劇とはなんたるか、じぶんがどれだけ演劇を観つづけてきたかを語るだけ語って、帰っていく。

「でも、何を好きかは人それぞれだし」

「だったらじぶんの殻から出てこないで、ずっと好きなものだけ観ていればいいと思いませんか。わたし、たまに腹立つんですよね。わざわざ、これは演劇じゃないとか、王道じゃないとか、そういうこと言ってくるひと」

「気持ちは分かる」ただ、相手も助言のつもりで言っているだけかもしれないし、すくなくとも私たちの劇を、表現を、批判する権利は誰にでもある。「私はさいきん思うようになってね。たぶん、さみしいんだよね、そういう人たちって。じぶんの【これが好き】って感情がだんだんと人と共有できなくなっていって。それは歴史や文化を尊重しないおまえたちのせいだって、新しい世代のせいだって、そう思いこみたいんじゃないかな」

「そう、かもしれないですね」なつみはじぶんの頬を両手で挟みながら、でも、と口にする。「やっぱり思っちゃいますよね。殻に引きこもってろよって」

 辛辣な言葉に思わず陽気が鼻から漏れた。鼻水をすする。「そのテーマでひとつ本書けそうだね」

「できたら誘ってくださいね。つぎも出たいので」

 初日の幕もあがっていないうちからそんな会話を交わした。

 なつみ効果もあり、初日から千秋楽までほぼ満席だった。立ち見席までつくらなければならない回もあったほどで、我らが団長さまの目論見どおりだったと呼べる。

「ほれみたことか。あたしの言うことは正しいんだ。もっと尊敬しろ。褒めてそやして、崇めたてまつれ」

 打ちあげにて私はなつみと声をそろえ、神棚からでてくるな、と我らが団長さまを労った。

「なつみ」

「はいな」

「その、なんだ」

 ありがとう。

 私が言うと、彼女は腕を十字にクロスする。「やや。あしたはきっと雨ですね」

 そのあとにはきれいな虹がかかることだろう。思ったが私は、雪かもしれないぞ、と軽口を叩いている。 




  

【なーん!】


 地元から出たことがない。

 ここが何県のどこそこかを言ったところで伝わらないだろうから、そんなことをズラベラと並べたりはしない。授業のレポートで「故郷について書きましょう」なんて出題されなきゃ、こんな文章を、死んでも書かん。

 まあ、教師も好きでだしているわけではないだろう。誰も得をしないことをなぜさせるのか。人生とは無駄でできている。

 無駄とは言え、けれど無ではない。そりゃそうだ。海があれば山もある。町があれば人もいる。

 外から人もやってくる。

 ときには迷子もやってくる。

 そいつと初めて会ったのは、六月の初頭のことだ。おれは地元でいっちゃんデカい駅にわざわざ一時間もかけて出向いていた。

 母ちゃんのお使いだ。お客さんにだす用の笹寿司を買ってこいと尻を蹴られたわけだが、なんでかその日は駅前にめちゃくちゃに人がいた。なんかの祭りかってくらい人がいた。というか祭りをやっていた。知らんかった。

 大通りを練り歩く集団はどいつもこいつも古めかしい衣装に身を包んでいて、コンクリの建物の軒並み連なる風景と相まって、コーヒーに垂らしたミルクめいている。

 なんだか喉が渇いた。カフェで購入した甘ったるい飲み物をストローでかき混ぜながらおれは、あんぐり口を開け、行列を眺めていた。

 と、そこで、人と真正面からぶつかった。

 背の低い女の子だ。おれよりペットボトル二つ分は低い。

「なーん!」

 そのコは自身の服を引っ張った。上から落ちてくる栗でも受けとめるみたいな姿勢だったけれど、たぶん、そうじゃない。

「買ったばっかだったのにー」

 と続いた言葉に、おれはしょうじき、このまま雑踏に紛れて消えてしまおうかと考えた。

「なーん!」

 その子はまた叫んだ。きっとそれが彼女の鳴き声なのだろう。おれの予測は見事に的中するわけだが、このときはそんなことなどつゆ知らず、まずは誠心誠意謝罪した。

「よそ見して歩いてるからだろ。おれだってほら、買ったばっかの飲み物」

 零れて、中身は地面と、彼女の買ったばかりであるらしいTシャツに飲み干されていた。

「なーん! じゃあ弁償するから弁償してよ。なんなん、もう、ホントなんなん」

「お、おい」

「もう怒った。なんて日だ、なんて日だ」

 こちらのズボンのベルトを鷲掴みにすると、すたすたと横断歩道を渡っていく。彼女は有言実行、店までおれを引っ張っていくと、どれ、と言って、半ば脅すように、おれの零した飲み物のお代わりをご馳走してくれた。それから彼女はじぶんの分の飲み物を注文すると、店のそとにはでずに、店内のガラス張りの窓に近い席に座って、

「聞いてよ、聞いてよ。きょうさあ」

 愚痴りだした。

 奢ってもらった手前、おれはそれを黙って右から左に聞き流した。

 眼下には甲冑に身を包んだ武士たちが列をなし、馬に乗った武将らしき者の姿まである。神輿に乗った姫らしき女性まで奥のほうからやってくるあたり、なかなかに愉快だ。

 遅れて、ああ、と合点する。これが百万石まつりか。地元では有名だが、おれはいちども見たことがなかった。

「ねぇ、聞いてんの。ほんとサイアクだったんだから。間違ってあと三日泊まれるはずだったホテル、チェックアウトしちゃうわ、降りる駅間違えるわ、こうしてお祭りに間に合ったのはよかったけど、スリにあってオサイフ失くしちゃうわ」

「失くした? スられたのか?」

「う、うーん。スリかは分かんないけど、だってサイフないし」

「落としたかもってこと?」

「そうかも」

「人のせいにすんなよ」まるでおれたち地元民が悪者みたいだ。「てかサイフないとか、これからどうすんだ。銀行で下ろせんのかよ。ん? じゃあさっきの会計どうやって」

 支払ったのだろう、と心配になる。これは目のまえのおっちょこちょいな不審人物へ向けた心配りではなく、こんながんこ(とても)けったいな人物と暢気にお茶しながらしゃべっているおれの未来への心配だ。

「さっきのは、ピッ、で済ましたから」

「ああ、電子マネー」

「でもさっきので底ついたみたい」

 手つかずだった飲み物をごくごくと喉に流しこむと彼女は、思いだしたように自己紹介をした。

「うち、ミケ。野良猫みたいな名前だけど、いい名前だねって言ってほしいかな」

「イイナマエダネ」おれは言った。

 聞けば、彼女は大学生で、おれより年上だった。そうは見えない。背丈の低さだけが理由ではない。

 初めてのバイトの給料に気をよくした彼女はそこでパっと旅行をしようと思い立ち、予定も立てずに、思いつきのままに電車に飛び乗ったそうだ。

「だってそっちのほうがワクワクするじゃん」とは彼女の談だ。

 しかし、なにもこんな何もないところに来なくとも。

 宿無し、金ナシ、コネもなし。

 偶然、祭りをやっていたからよいものを、そうでなかったら最低最悪の旅行だ。

 思ったままをおれは口にした。どうせこのあと、彼女の衣服を弁償しなくてはならない。黙って愚痴に付き合う道理はないはずだ。

「行くならもっとほかのとこにしとけよ」

「なーん! 何もない? ここが? はぁ?」ミケはのけぞった。「あるでしょ、信じらんない宇宙人なの。あ、さてはおまえ地元民じゃないな」

「地元民だよ。エンジョモン(よそもん)といっしょにすんな。わるいがおらぁ、生まれてこの方ほかの土地に行ったことがない」中学校の卒業旅行は東京五輪と重なったためか、地元の温泉街に変更となった。

「おまえ、バッ」ミケは身を乗り出すようにし、それから口元をもにゅもにゅさせてから、「行くよ」と急に席を立つ。

 かってに行けよ、と思ったが、彼女がおれのメディア端末を奪い取っては、すたすたと店をあとにするので、あとを追わざるを得なかった。

「返しね」腕を掴むも、振りほどかれる。「ホント勘弁してくれよ、警察に泣きつくぞ、というか泣くぞ」

「服はもういいから付き合ってよ」ミケはおれにメディア端末を押しつけると、やはりスタスタと雑踏を掻き分けていく。

 おれは頭を掻き毟り、蟻の糞ほどにもうれしくない縁を結んでしまったことを後悔しながら、それでも彼女を放っておくこともできずに、そのちいさな背中を追った。

 彼女は駅前から徒歩で延々移動した。三十分は歩いただろうか。もっとかもしれない。到着したのは、城跡地だ。建っているのは復元した城で、オリジナルは火事か何かでとっくのむかしに燃えているはずだ。

「尾山城」ミケが言った。

「金沢城だろ?」

「改名したのに定着しなかったからまたその名前に戻したの」

「べつにおまえが名付けたわけじゃないんだろ、なんでそんなに偉そうなんだよ」

「地元の歴史くらい知っといたら? すぐとなり、あっちに兼六園ってあるんだけど、知ってる?」

「さあ。どうせ植物園みたいなのだろ」

「なーん! 日本三大庭園の一つでしょ、知っときなよ地元民でしょあんた」

 あたかも日本人でしょ、と責められているようで、癪に障る。知らなかったらなんだ。だったらおまえはおれん家のとなりの家の名前知ってんのか。山田さんだばかやろう。

 祭りの行列が城跡地の広場にどんどん入ってくる。高い梯子のうえでニホンザル顔負けの演舞を披露する集団や、獅子舞と闘う槍使いたちの演舞を、あーだこーだ言いあいながら、いっしょになって観て回った。

「ね、おもしろいでしょ」

「なんでミケが自慢げだよ」あまりに詳しかったので、来たことあったのか、と水を向ける。

「ないよ」ミケは祭りに釘付けだ。「でも、来てみたかった。来てよかったよ。ありがとね」

 なんの礼かは分からなかったが、拒むのも野暮だ。「おう。感謝しろよ」

「なーん。おまえに言ったんじゃないし」

「じゃあ誰に」

「みんなにさ」

 ミケは遠い目をして、なーん、と野良猫のように鳴いた。

 泊まる場所に困るだろうと思い、ミケをウチに泊めてやろうとした。

「いいよ、いいよ。野獣に食いつかれたらたいへんだ」

「たしかに。うちは母ちゃんもばぁちゃんもいっからな。妹もいるが、たぶんあれがいちばん野獣にちかい」

「あはは。楽しそうではあるけれど」

「無理にとは言わねぇよ。おれだって面倒はごめんだ。ただ、金がなくてどうすんだよ」

「んー。警察署に届いてるかもしれないし、ホテルは間違ってチェックアウトしたって説明したらなんとかなるかも」

「なんとかならなかったら?」

「そんときゃ、野獣ちゃんのいるおうちに泊めてもらおっかな」

 ならば善は急げだ。まずは警察署に行き、落し物の財布が届いていないかを確認した。

 届いてますよ、と警察官が言ったときには、おれたちは歓喜の声をあげたが、でてきた財布を見たミケの顔が、あからさまにしょげたので、その急降下加減に、彼女のサイフでないことを憂うよりさきに笑ってしまった。

 遺失届をだし、その足で彼女のホテルまで向かった。お金がないのだから、そこまでの移動費はおれが負担した。後で返す、とミケは言ったが、Tシャツの弁償を免除してもらう代わりに驕らせろ、と強請ると、彼女は、じゃあしょうがないなぁ、と言って引き下がった。途中で口座から現金を下ろし、それも渡した。

「こんなにいらないよ」

「これは奢るわけじゃねぇ。あとで返せよ。ただ、いまは持っといたほうがいいって」

「あんがと」

 ミケはあごにしわを浮かべながら受け取った。「あんがい世話焼きやねきみ」

「野良猫は放っておけないタイプだからな」

「餌付けしてあとで近所のひとに叱られるタイプでしょ。責任とれないのにお節介焼くとあとがたいへんだよ」

 それこそ大きなお世話だ、と悪態を吐きながら、おれたちは彼女の宿泊先であるホテルにまで辿り着く。受付けに彼女が事情を話すと、やはりいちどチェックアウトしてしまった以上、再宿泊はできないようだ。キャンセル料として三割ほど払い戻しにしてもらえたが、それがよかったのかどうかおれには判断つかない。

「ざんねんだったな」

「勉強代だと思うしかないね」彼女は払い戻しのお金を握りしめる。「これだけあればカプセルホテルに泊まれるし」

「べつに引き止めはしないけど、ホントにいいのか」

「さすがにそこまでお世話にはなれないっしょ」

 そんかしさ、と彼女はなぜかおれの足を蹴り、

「もっといろいろ見てほしい。地元のこともそうだし、ほかのところにだってたくさん知らなかったこと、ステキなこと、楽しいことがあるんだって」

「サイフ失くしてまで知りたかねぇな」

「なーん!」

 彼女は最後まで騒がしく、馴れ馴れしく、それでいて弾むように笑みを絶やさずにいた。

 おれは笹寿司を買い忘れた。

 お金を返してもらわねばならないので、連絡先を交換したが、その後、互いにやりとりをすることなく、前以って教えておいた口座にはいつの間にかお金だけが振りこまれていた。

 春夏秋冬をそれから二度繰り返した。

 ミケと出会ったのはおれが高校一年になったばかりのころだ。

 来年、おれはこの学校を卒業する。

 そんなおれのクラスに、先月から新任教員が副担としてやってきている。やけに背の低い彼女は歴史の教師で、新学期の始業式にて、全校生徒のまえでこう自己紹介した。

「以前、この土地で出会った青年は世話好きの割に地元のことを何も知らず、なんてもったいないんだ、と思ったことを未だに口惜しく思っています。みなさんと接していられるあいだは、みなさんを通して、この学校のこと、この街のこと、それからこの土地のことを、もっと知って、もっと好きになり、そんな私を通してみなさんに何か、いまここにはないしかしいまもここにある何か、をお返ししたいな、と思っております」

 そんな彼女の授業では、記述式の小テストが頻繁にだされ、こうしておれはいまこれを書いている。

 未だ地元からでたことのない身のうえではあるが、未知の領分はどこにでもある。旅をしたければ周囲に耳と目と、そしてときどき心を配ってみればいい。

 それはそうと、いまこの学校では、件の新任教員の鳴き声の物真似が大流行している。休み時間になれば、どこからともなく響き渡る、なーん、を耳にするのに事欠くことはない。




   

【即興絵描きバトル】


 決勝戦は羽田空港で執り行われた。イベント会場は第一ターミナルの二階出発ロビーだ。エレベータが各階にいくつも並んでおり、その中央部分にて即席の舞台が設けられている。

 カイガは舞台を眺め、そこに運び込まれるキャンバスの大きさに目を瞠った。

 これに描くのか?

 ほとんど壁だ。

 一色に塗りつぶすだけでもいったい何時間かかるだろう。使用するだろうペンキの量を思い、自腹だったら破産していたな、とイベント主催者の懐事情を心配する。

 即興絵描きバトル(フリースタイルペイント)の発祥は、元を辿れば、おそらく壁画に行き着くだろう。次点で、ストリート文化であるグラフィティ、そして比較的最近になって登場したのが、制限時間内でお題に添った絵を描きあげる「リミッツ」だ。デジタル機器を用いた即興絵描きバトルが一部界隈で盛りあがり、そのうちグラフィティを生業としていた好戦的な層が、デジタルではなくアナログの絵にてバトルを繰りひろげはじめた。

 神出鬼没のアーティスト、バンクシーがこっそり覆面でイベントに参加したことで一気に流行に火がつき、企業がスポンサーにつくなど、社会現象にまで発展した。

 そして今回、初めてのフリースタイルペイントの世界大会がここ日本で開かれた。参加者のなかには世界的に著名な画家や、本家グラフィティの大御所も含まれていた。錚々たる顔ぶれのなかで、カイガはフリースタイルペイントに初参加ながら、とんとん拍子で勝ち進んだ。

 もともと絵は描いていた。漫画家志望だ。優勝賞金が一千万と聞き、日々の生活に困窮していたこともあり、とりあえず絵を描けばいいのだといった極めて軽い気持ちでエントリーした。お題との相性がよかったのか、のきなみネット中継による視聴者票を集め、渋面の審査員たちからの冷ややかな評価を物ともせず、決勝の舞台にまで駒を進めた。

 しかし、大きい。

 いまいちど舞台上のキャンバスを見遣る。トラック一台が軽々覆い隠されるほどの面積がある。それが二つばかり、舞台に並ぶように設置されている。

 決勝戦の相手はまだ姿を現さない。

 相手の側面像は知らない。予選で目にした絵のインパクトばかりが印象に残り、人物そのものの輪郭が覚束ない。インターネット上ではかれの熱狂的な信者が増加傾向にあるが、それはかれ、フデナシの突飛な行動と無関係ではないだろう。

 フデナシの創作スタイルは毎回のように異なり、そして独特であり、奇抜であり、刺激的であり、背徳的だった。

 これまで使われたキャンバスは大きくとも、八〇号だ。子どものベッドくらいの大きさだ。制限時間は六時間だったが、フデナシはそれを大幅に短縮した二時間で仕上げたうえ、いっさいの画材道具を用いなかった。

 かれは全身を筆とした。手からはじまり、髪の毛、足の裏、おなか、おしり、ときには舌を使って、「宇宙に浮かぶ箱庭」をものの見事に描きだした。

 創作過程を知らなければ誰もが、それを名のある画家の作品だと見間違えたことだろう。よもや踊るようにして二時間で仕上げたなど、誰も信じないに違いない。

 ずば抜けているのは間違いない。

 だが、ベクトルは違うにせよカイガとてそれは同じだ。

 カイガ自身はじぶんを画家と思ったことはなかったし、才能があるとも思っていない。漫画家を目指して数年が経っているが、未だに商業で食べていけるほどの収入は得られていない。

 薄々気づいてはいたが、漫画家の才能はないようだ。身に染みて知っていたが、どうしても絵を描くことだけはやめられなかった。

 それが何の因果か、こうして何の気なしに賞金欲しさの気晴らしで参加した大会で、世界一に王手がかかっている。あと一勝すれば世界一の称号が手に入るだけでなく、賞金一千万が懐に飛び込んでくる。

 はやく描きたい。描かせてほしい。あの破格のキャンバスを、じぶんの絵で世界そのものに塗り替えるのだ。

 鼻息を荒くしているあいだにフリースタイルペイント第一回世界大会の決勝戦が幕を開けた。

 司会者が舞台上に立ち、大会の趣旨、審査員の紹介、そして今回の制限時間を告げた。

 二十四時間、と耳にしたとき、会場からどよめきがのぼった。

「ルールはこれまで同様に、危険物の使用および動物の殺生、それから助っ人の参加以外では何でもありです。画材道具は今回も会場にたんまり用意させていただきましたが、制限時間が制限時間なだけに、会場のそとにお求めになられても構いません」

 何でもありです、と司会者は繰りかえす。

「そして注目の今回のお題ですが」

 会場にドラムロールが鳴り響く。シンバルの音がし、そこで司会者の背後のディスプレイに、石川県、と大きく文字が映しだされた。

「お題は、石川県です」

 会場からは、お~、と感嘆に似た声があがった。

 難題だ、とまず思った。これまでのお題もそのことごとくが一筋縄ではいかない題材だった。「四次元」や「細胞」はまだ想像の余地があるだけマシだったが、「爪楊枝」や「風呂上がりのサボテン」には骨が折れた。

 固定観念を打ち崩さなければ勝ちあがれないお題がほとんどで、それでいて、仕上げた作品からお題を感じ取ってもらわねばならないため、矛盾に挑みつづけるような辛苦があった。

 それを含めて楽しいと思えた。

 苦痛が楽しいのだ。イカレているとじぶんでも思ったが、単なる達成感だけでなく、その道中の苦しさにもっと浸かっていたいと思えるあたり、やはりこの分野の適正があったと言える。

 だが、今回はさすがに、その道中の全貌が見えてこない。たいがいのお題であれば、手を動かす前の段階で、おおまかな完成形や、筋道が視えている。それが今回はまったく視えてこないのだ。

 まいったな。

 内心、ひたいに手を当てながらカイガは、司会者からの紹介を受け、観客に頭を下げる。

 そのとなりでは、最後の対戦相手であるフデナシが口を大きく開け、眠たそうにしていた。

 試合が開始されてしまえば、あとは時間とじぶんとの闘いだ。

 ワイヤレスイヤホンで耳に栓をし、まずは図案を考えるところからはじめる。石川県についての知識はない。だからまずはネットで資料を集めた。時間があれば書店で本を漁ってもよかったが、その時間を割く余裕はなさそうだと判断し、ウィキペディアや観光サイトを覗いた。

 なるほど、観光地としておもしろそうな土地ではある。歴史があり、海の幸に恵まれ、芸術の街としても行政が力を入れて支援している。カイガはそのなかで、「見附島」に目をつけた。別名「軍艦島」だ。

 弘法大師が見つけたと言われており、能登半島のシンボルとされている。高さ二八メートルもあり、一枚岩と呼ぶよりも、まさしく島と呼ぶにふさわしい迫力がある。造形のうつくしさだけでなく、広漠な海にドスンと腰を据えるような存在感には、否応なく胸に刻まれる迫力がある。

 絵のモチーフとしてはこれ以上ない素材だ。

 頭のなかには、さまざまな図案が流れていく。そのうちのいくつかをまずはスケッチブックに描きだしていく。

 ひととおりアタリを取り終えると、すでに三時間が経過していた。タイムリミットまで残り二十一時間だ。そろそろキャンバスに下書きをしておかないと間に合わない時間帯だ。

 ふと対戦相手が気になり、よこに目を向けると、そこには誰もいなかった。会場を見渡す。観客は減っておらず、それは大方、空港利用客が休憩用に腰を下ろしにひっきりなしに入れ代わり立ち代わりしているからだろうが、彼ら彼女らに、不在の対戦相手を不審がっている素振りはなかった。

 イヤホンを外すと、司会者が寄ってきて、いくつか質問を投げかけてきた。

 一つ一つに答えたあと、カイガは対戦相手はどこに行ったのか、と訊ねる。

「どこなんでしょうね」

 司会者はひたいの汗を拭い、ひとしきりことのいきさつを説明した。その言葉を信じるかぎり、対戦相手のフデナシは、時間までには戻る、と言い残し、忽然と会場から姿を消したのだそうだ。最初のうちは、トイレ休憩か食事だろう、と暢気に構えていたスタッフたちだが、一向に戻ってこないフデナシに、一同、緊急事態の様相を醸している。

 イベントとしては強行するよりなく、この三時間あまりは、延々とカイガの作業を解説することに終始していたようだ。

 本人が戻ってくると言っていたのならば戻ってくるだろう。カイガは考えることをやめた。いまは対戦相手の心配をするより、目のまえの作品に没頭するのが先決だ。

 それは義務感ではなく、ただただそうしたいからとするわがままにちかかった。

 いよいよハケを手にし、キャンバスに下書きを引いていく。

 全体像は決まっているが、細かな修正はアドリブで進めていく。

 いちど没頭してしまえばあとは完成するまで孤独な旅を満喫するだけだ。ふぅ、と息を吐いたときには天窓から朝陽が差しており、振り返ると作業台のよこにはスタッフたちからの差し入れだろう、山盛りの食料が置かれていた。

 ネット中継のカメラは回りつづけている。こちらが休憩に入ったと知って、スタッフが寄ってくる。食事をとってください、と差しだされたお茶とサンドウィッチを受け取る。

「あの、彼は?」まっしろなままのキャンバスを見遣る。

「まだです。このままじゃ不戦勝ですよ、こんな優勝じゃ張り合いがないですよね」

 すみません、と謝罪されたが、こちらは賞金さえもらえればそれでよかった。たいへんですね、と労い、サンドウィッチを半ぶんこした。

 残り時間は十時間を切っている。さすがにもう優勝は決まったようなものだろう。あとは作品を完成させるだけでいい。

 キャンバスに色をつぎつぎに重ねていく。ほとんど造形はできあがっている。あとは細かな修正や継ぎ足しをして、絵に命を吹き込む工程だ。どこで手を止めても、それなりの作品となっており、素人目には、これ以上何を加えるのか、と理解できないだろう。だが、完成品と比べれば一目瞭然だ。ここからさきは解かる者だけが理解できる領域の作業となる。

 と、そこで会場が沸いていることに気づく。背後から熱気が伝わった。イヤホン越しにでもそれが判った。

 振り向くと、舞台にあがりつつあるフデナシの姿があった。

「どこに行ってたんですか」

 司会者が質問攻めにしている。それをフデナシは、うるさい、と一蹴し、道具置き場から大きな筆を掴みとると、墨汁の詰まったバケツに筆先を浸け、何事もなかったかのように一心不乱に振りおろす。

 ひと振り、ふた振り、三回目に筆を振った時点で、カイガにはかれが何を描こうとしているのかが判った。判ってしまった。

 見附島。

 奇しくもそれはカイガと同じ、海に浮かぶ巨大な一枚岩だった。

 カイガはしばし目を奪われ、そしてはたと我に返ると、じぶんの絵に向き直る。

 焦る必要はないはずだ。そのはずだった。残りはあと四時間もない。どう考えてもフデナシが鑑賞に堪え得る作品に仕上げることはおろか、絵を完成させることも適わない。

 だが、乱れた動悸は治まらず、それから時間がくるまでいちどもとなりに目を向けることができなかった。

 終了の合図を皮切りに、審査がはじまる。

 だがカイガはもはやそれを見届けたいとは思えなかった。

 会場のうえのほう、舞台を見下ろせるところにフデナシの姿を見つけた。すこし迷ってからエレベータに乗り、売店に寄ってから、かれのよこに立つ。

「逃げたかと思いましたよ」

 ソフトクリームを差しだす。フデナシは受け取り、ひと口で半分ほど頬張ると、美味いなコレ、と目じりを下げた。

「見てきたんだ。どんなもんかと思ってな。やっぱ、迫力あったな。空気が違うよ。ここが空港でラッキーだった、片道一時間ありゃいけるしな。ま、向こうに着いてから無駄に迷っちまったが、美味い飯食ってきたし、喧嘩両成敗だな」

 喧嘩両成敗ではなかったが、なるほど。

 カイガは息を吐く。

 かれにあって、じぶんにはないものを見つけた気がした。

 ふと潮の匂いが鼻を掠める。

 眼下に目を転じると、そこには旅の入口に浮きあがる漆黒の一枚岩がひとつだけ聳えて見えている。




   

【非のないところにも煙は】


 明らかな異常だった。最初に思ったのは、見間違いか、勘違いかもしれない、でじぶんの認知能力よりも、施設内の検知システムの性能の高さを信用しようとした。

 じぶんがこうして異常に気づく前の段階で、精密機械であるところの3Dで厳格な測定が行われているはずだ。だから目のまえのこのエンジン部品に異常があるはずがないのだ。しかし部品は、僅かに穴の位置がずれていた。

 一つではない。

 すべての穴の位置が、通常よりコンマ何ミリか右にずれている。

 おそらくじぶんでなければ気づけなかっただろう、とアスカは徐々に動悸が大きくなっていくのを感じた。

 まずは直属の上司に通達した。上司は半信半疑といった表情で話を聞いていたが、3D計測器の数値に異常があることを確認するとすぐさま現場の最高責任者を引き連れ戻ってきた。ラインは異常を知らせた段階でストップしており、つぎつぎに各セクターの管理者たちが集まってくる。

 3D計測器はすべての部品を計測しているわけではなく、いくつかの部品を抜きだして規格どおりに製造できているかを確かめる。ことごとくの部品を計測にかけない理由は、時間がかかるからだ。一つの部品を測るのに、一時間以上かかる。部品はつぎからつぎに送られてきて、それが一つの巨大なロケットエンジンへと組みあがっていく。計測器は精密機械であるだけに値が張り、バケツリレー然と部品をつぎからつぎに測っていくことはできないのだ。

 アスカは天井を仰ぎ見る。

 仮に部品に異常があったならば、そしてそれがすでにエンジンとして組みあがっていたとするのなら、市場に流れた分を含め、回収せねばならなくなる。その損失額は軽くみても、火星居住区百軒分は超えるだろうと思われた。

「よく見つけてくれた、助かったよ」

 施設の最高責任者からじきじきにお褒めの言葉をいただいた。上司からは、表彰ものだな、と珍しく笑みをそそがれ、背中がむずがゆくなる。

 この日の仕事は最後まで、予備の部品をとりだし、それをつぎの工程に送りだす作業に終始した。

 部品は二十キロちかくある。労働基準法で定められている荷重ギリギリの鉄の塊で、それを一時間あたり、二百台ちかく、台座から台座へと運びあげた。

 いくら外骨格の補助が現場作業員に支給されているとはいえ、重労働には変わりない。アスカはじぶんが本当は人間ではなくロボットか何かではないのかと錯覚しかけるが、むろんそんなことはなく、動けば疲れ、鉄の塊にぶつかれば怪我を負うだけの脆弱な人間でしかなかった。

 不測の事態に備えての在庫だが、後日、使った分を補充しなければならず、しばらく残業がつづくことを思うと、どうにも身体の芯が鉛のように重くなる。

 数日もすると、やはりすでに「わるいもの」は市場へと流れていることが判明した。ロケットそのものに積まずに済んだ分はすべて処分されることとなり、それだけで全従業員の三年分の給料の総額に値した。

 アスカは表彰された。

 社員になって初めて、幹部の顔を間近に見た。表彰式にこそ姿を現さなかった社長からも、後日、金一封とお礼の手紙が送られてきた。それは暗に、公にするな、との口止めのようでもあり、身に余る待遇がつづくたびに、アスカは心がそわそわとそぞろだった。

 市場に流れた分の「わるいもの」は、民間ロケットに積まれ、じっさいに推進力として機能し、火星と地球を行き来している。

 会社は回収をしなかったのだ。

 部品に異常があった事実すら秘匿にし、内密に処理したらしかった。

 社員への説明はとくにない。今後二度と同じ過ちを犯さぬようにと、厳重な対策をとられ、その分、仕事はキツくなった。

 部品異常の要因は人的ミスだった。半年前から繁忙期のうえ、能率向上の建前で、生産台数が増えておきながら、人員削減に歯止めがかからない。そのくせお古の設備を使いまわし、故障につぐ異常ブザーが数分おきに鳴り響いている。設備を一新するよりも、現場の人間をこき使うほうが安上がりなのだろう。

 同じ理由から、新技術が導入されることは滅多にない。むしろわざわざ機械ではなく人間の労働力に変える工程があるほどだ。連日のように残業がつづき、現場の人間はへとへとになっている。もはや一日の計画台数を達成するために、現場のルールは徐々に緩んでいった。

 ノルマ達成が暗黙の内に優先されるようになり、その結果、滅多に異常を感知しない3D測定で異常が検出されても、規格をすこし外れたくらいだからだいじょうぶだろうと、再測定することなく、グレーの部品を次工程に流すようになっていた。

 再測定をするには、いちどその工程のラインを止めなければならない。ノルマ達成の重圧が、測定をおろそかにするという事態を招いた。

 かといって問題発覚後、現場に実装された対策は、測定の回数を増やすことのみで、けっきょく現場の負担が増しただけだった。本来であるならば、人員を増やし、作業の負担を減らすか、設備の改善または増強を進めるのが合理的な判断であったはずだが、ただでさえ莫大な損失をあげてしまった現場にそのような立案を上層部にだす余裕はなかったのだろう。

 詳しいことはアスカには解からない。

 ただただ、目のまえの作業を律動よくこなす日々だった。

 辞めようかと日に三度は考える。

 しかしアスカには稼がねばならない理由があった。

 そのニュースは社内食堂にいるとくに目にした。壁一面に移しだされていた映画が中断され、臨時ニュースが流れたのだが、アスカは息を呑んだ。

 ニュースでは、火星から地球に帰還中のロケット三台が、相次いで高速飛行に失敗し、地球を囲うように設置されたセキュリティ立方体のセンサに触れたとの話だった。セキュリティ立方体は全部で一万五千台以上からなる人工衛星であり、宇宙から飛来するさまざまな障害物から地球を守っている。それは隕石にしろ、暴走したロケットにしろ同じであり、国際条約の元、万が一の緊急事態には、民間ロケットであれ、レーザーによって撃墜してよいことになっている。

 そして今回、高速飛行に失敗したロケット三台は、いずれもセキュリティ立方体に撃墜され、総勢五千人もの民間人が犠牲になったのだ。

 中には緊急用避難ポットで難を逃れた者もあったようだが、おおむねの民間人は死亡した。

 国際的な大事件であり、事故要因によっては、たいへんなことになるぞ、とアスカは食べかけの中華ソバをすすり、餃子を口いっぱいに頬張った。食堂にいた何人かはこの時点で、嫌な連想をしていたはずだ。

 アスカは午後の作業をこなしながら、例の異常のある部品、市場に流れたままになっている「よくないもの」のことを思った。おそらく現場管理責任者はあのとき、品質管理部に問いあわせ、安全面でのリスクを推し量ったはずだ。

 規格外のズレではあったが、品質に問題はない。管理部がそう判断し、現場管理責任者は、眼前の奇禍の種に目をつむった。

 あのとき市場に流れた「よくないもの」と「今回の事故」との因果関係は不明だ。エンジンではなくロケット本体に欠陥があったのかもしれないし、そもそもロケットに不具合はなかったのかもしれない。隕石や磁気嵐に襲われた可能性も否定できない。宇宙ゴミだって漂っている。テロであってもおかしくはなく、もっと言えば操縦ミスであっても事故は起きる。

 可能性を挙げつらねるだけならいくらでもできたが、アスカは想像せずにはいられなかった。ひょっとしたらあのズレ以外にも、製造過程の至る箇所で同じような「よくないもの」が部品として製造され、つぎの工程に流れていたのかもしれない。そしてその都度、その部品のみであるならば安全だと判断され、エンジンとして組みあがり、ロケットに積まれ、市場に出荷されていたのではなかったか。偶然それが、三台のロケットに立てつづけに集中して組みこまれ、何らかの異常を発生させたのではないか。

 細かなゆがみも、全体として大きな変異として現れるのは、カオス理論の初期値鋭敏性として一般に知られている。ロケットの航路だって、一ミリずれただけでも、何万キロさきでは、それが何十キロメートルものズレとして顕現する。

 ズレとズレが集合し、掛け合わされれば、それは大きな異常として現れてもなんらふしぎではない。

 だがそれを確かめることはアスカにはできず、ただただ国の機関の調査結果を、ニュース越しに知るよりほかはない。

 よしんば今回の事故があのときの「よくないもの」のせいだったとしてもアスカには関係のないことだ。アスカは異常を発見した。組織はそれを隠ぺいした。アスカに非は寸毫たりともないのだった。

「あ、お母さん? どうしたの。もう動いてだいじょうぶなの」

 母からの電波通信だ。

「アスカのおかげでこのとおり。信じられないわよね。むかしならとっくに死んでておかしくない病気なのに」

「火星だと重力がちいさいから身体に負担がかからないんだよ。お陰でナノマシンもこっちとは比較にならないくらい繊細に動くみたいだし」

「火星さまさまね」

「こっちにはいつ戻ってこられるの? 医療AIはなんて?」

「もう退院して、そっちに向かってるところよ」

「地球に?」

「それよりアスカ。医療費はどうしたの。お母さん、知らなかった。治療にあんなにたくさんかかってたなんて」

「だいじょうぶだよ心配しないで」

 母が退院できたならば、もう身体を酷使して働かなくてよい。転職するにはよい機会かもしれない。「それよりいま向かってるところって、なに? まさか乗ってないよねロケットに」

「乗ってるけど、ダメだった? お母さん、一刻もはやくアスカの顔が見たくて」

 ロケット事故からはまだ日が浅い。母はそのことを知らないのだろうか。いいや知っていても、構わず乗ったに違いない。よもやまた事故が起きるとは思ってはいないのだろう。安全が確認されたから運航しているのだと判断しているはずだ。アスカの勤める会社が、自社の「よくないもの」に対して行った判断のように。

「アスカ、もしもーし。聞こえてる? なんか電波がよくないみたいで」

 ノイズ交じりの声に、鼓動が高鳴るのを感じた。

 アスカはその場を移動しながら、

 いまの時代に通信障害なんてあり得る?

 さらに速くなる鼓動を抑えきれぬままに、

「お母さん、お母さん、聞こえてる? いまなんの船に乗って」

 ノイズが激しくなり、間もなく通信が遮断されたことを示す音声が同じセリフを繰り返す。アスカはその場に呆然と立ちつくしたが、すぐさま手持ちの端末、情報収集AIに呼びかけ、現在火星地球間を渡航中のロケットを検索するよう命じた。

 臨時ニュースです。

 端末画面の上部に、太く、黒い文字で、テロップが流れた。それは、宇宙ロケットが一機、またもや地球のセキュリティ立方体に撃墜されたという内容だった。

 いやだ、いやだ。

 アスカは祈るような気持ちで、同寺に、見たくない悪夢を直視するかもしれない恐怖を胸に、情報収集AIの提示したロケット運航予定表に目を走らせる。

 一機とはかぎらないはずだ。

 ほかにもたくさんロケットは飛んでいるはずだ。

 しかし、地球から火星へ向かうロケットはいくつかあったが、この時間帯、火星から地球へ向かっている船は一機しかなかった。その機体番号は何度読み返してみても、臨時ニュースで繰り返し流れるテロップにある番号と合致していて、何度かけ直しても、母にはもう繋がらないのだった。




【友死火よ、つぶやけ】


 2X世紀。人類は肉体から解き放たれ、活動の舞台を情報ネットワーク上に移した。従来の貨幣経済は失われ、代わりに個人信用価値が経済の円滑剤として台頭した。個人信用価値とはすなわち、「フォロワー数」と「高評価を意味する【iine】数――いわゆる【でんでんむし】」の多さによって規定される。のきなみそれらは、個々人の情報処理能力の多寡によって左右され、個人の優劣を査定せしめた。

 ひるがえって、フォロワー数とでんでんむし数の高さは、その者の情報処理能力の高さを示唆し、フォロワー数は戦闘力、そしてでんでんむし数は殺傷力の高さを意味した。

 そう、この時代にはもはや世界平和などという戯言は存在しない。

 日々、生きるか死ぬかのサバイバルデスマッチ。

 人々は、より強者をフォローし、自らの立ち位置を誇示することでその日を生き延び、あべこべに強者からフォロワーを奪おうと虎視眈々とその座を狙っている。

「やべー、逃げろ。アキコがきた。アキコがきやがった」

「アキコが?」私は呑んでいたジュールジュールを置き、振りかえる。「だってここは摩冬のコミュニティのはずだろ」

「知らねぇで来てたのか。摩冬は先月、ハルカのやろうにぶちのめされて、アカウントだけ残して消滅した」

「アカウントだけ残してって、あー」そりゃコミュニティは瓦解せずに残るわな、と納得する。「ということは、ハルカはそのときキミらを取りこまなかったのか」

「わざわざ敵の残党、とりこむほどバカじゃねぇってこったろ。むしろ、元々摩冬のフォロワーだったおれらみてぇのは根こそぎブロックしてるって話だ」

「それで今回、私を呼んだわけか。すこしでも戦力の足しになるように。後ろ盾なくしたキミらがアキコのようなインフルエンサーに喰われてしまわないように」

 そしてまさにいま、危惧していたことが起こったというわけだ。超災害級の脅威が乗りこんできた。

「フォローする道しか残されてねぇが、ちくしょう。アキコじゃなぁ」

「わかるよ。でんでんむしの強制だろ」

「奴隷とご主人さまの関係だよ。まさにだよ。摩冬さんはよかったなぁ。惜しいひとを失くした」

 コミュニティをぐるっと囲んだドーム型の防壁に穴を開け、アキコは姿を現した。私は眼球の解析ズームをONにする。驚いた。以前目にしたときよりも「フォロワー数(戦闘力)」が増している。一瞬にしてこのコミュニティを焼き野原にすることが可能なほどで、直近の平均でんでんむし数が、五十万を超している。ありえない。諸外国の大統領なみだ。

 アキコは丘のうえに立ち、吠えた。

「十数える。そのあいだに助かりたいやつはあたしの配下にこい」

 数えるぞ、とコミュニティ全土に声をひびかせ、アキコは、サーン、とまさかの七つ飛ばしで、ニ、イチ、と唱えた。

 ゼロ。

 アキコが言うや否や、彼女は真っ赤に発光する。天地から熱を奪っているかのごとく様相で、あべこべに大地は青白く、そらは群青に変色した。

 アキコは口を大きく開く。大蛇がシカを丸呑みにするようなあんぐり具合で、心なし目まで古代種のトカゲじみている。

「もうだめだ。おまえだけは助かってくれ」

「友を置いてはいけないよ」私は一歩まえに踏みだす。

「お、おい」

「聞こえるか、後ろ盾を持たぬただの人ども」私は情報思念を飛ばし、この場にいる者たちへ刹那に言葉を伝える。「おまえたちは知らないだろうが、むかし人類がまだ物理的肉体を持っていたころ、人々は裏アカと呼ばれるものをつくっていた。いまのおまえたちには理解できないだろう。わざわざ苦労して溜めた個人信用価値をわきに置いて、べつのアカウントをつくるなんて。まるで虎が猫のふりをするようなものだ。或いは、人が影となって旅をするようなものかもしれない」

 人々の顔が、視覚野に複眼がごとく並んでいく。みな、声の主が誰なのか、と目を丸くしながらも、目のまえの脅威、アキコへのおそれに顔を歪めている。

「おそれるな」私は言った。「個人信用価値など真に価値あるモノのまえには、ただの陽炎にすぎぬ」

 私はゆびを頭上にかかげ、裏アカから表のアカウントへと換装する。ゆびさきから順々に、太陽のごとく透明なゆらぎにつつまれる。

「我、ぬしらに推されし者。ぬしら、我のこころの灯となりし者。我ら、共に世界を生きる者――いま、ここにふたたび、あいまみえよ」

 天高く突きあげたゆびさきを一転、空を切り裂くように振りおろす。

 すると途端に、脅威たるアキコの周囲にぽつぽつとちいさな穴が開く。空間に開いたそれは、とどまることを知らず、アキコの左右上下をまんべんなく囲い尽くす。球形に風景が塗りつぶされていくようでいて、そのじつ、アキコはその中心で、より最大出力の攻撃を放とうと、いっそうの熱を溜めこんでいる。耳にするだけで爛れそうな音がジュウジュウと鳴っている。

 そのあいだも、ちいさな穴はアキコを囲みつづけ、徐々にその複合体である球形を大きくしていく。細胞分裂を繰りかえす受精卵じみている。しまいには、かろうじて隙間から見えていたアキコの姿も、巨大な黒い穴の向こう側に見えなくなった。

 アキコが攻撃を放ったのだろう、巨大な黒い穴の表面に赤い筋が走る。ヒビのように錯綜するそれは、間もなく、ジュウジュウという音が聞こえなくなると共になりを潜めた。アキコのいた地点には、大きな黒い穴が浮いている。一見すれば玉のようにしか見えないが、あれは立体を伴ってはいない。

「助かったんですか」我が友がその場に崩れ落ちる。腰が抜けたのかもしれない。

「終わりと思ったか? 甘いな」

 アキコはまだあの巨大な穴のなかにいる。このままで終わらせはしない。

 私は下げていたゆびさきを、こんどは水平に掲げる。そして標準を巨大な黒い穴の中心にあわせ、

「我が【友死火(ともしび)】よ、つぶやけ」

 合図を皮切りに巨大な黒い穴は膨れあがり、その増えた体積分、おにぎりが米粒に分解されるように、一つ一つのちいさな穴が黒く無数に浮きあがる。

 ちいさな穴からはいっせいに、閃光が一直線となってそそがれる。中心の一点に向かって。そこではアキコが第二波を放とうと、ふたたび赤色発光している。

 私はゆびを弾くように開き、そして、ぎゅうと握る。

 巨大な穴の中心から記憶が消し飛ぶような光の層が分厚く噴きでたかと思うや否や、それを塞ぐかのように無数のちいさな穴たちが凝縮し、ぴったりと身を寄せ合い、隙間を埋める。

 あとには、こぶし大ほどになった黒い玉が宙に浮くだけとなり、そこにはアキコの姿も、アキコをフォローしていた者たちの気配もないのだった。

 私が手を払うと、最後に残った黒い玉も、さらさらと風にまじり、霧散した。

「消してしまったのですか」友が声をかけてくる。「我々は助かったんですか」

「かしこまらないでくれ。こんな姿だが、私はきみのよく知る友のままだ」

 言って、裏アカへと姿を回帰する。それでも友は地面にひざをついたまま、何かに怯えるように、伏し目がちに、

「アキコは、彼女たちはどこに」と続けた。彼女たち、と言い直したからには、アキコだけでなく、彼女のフォロワーごと私が活動情報領域から消し去ったことを我が友は察しているのだろう。

「彼らは、我が【友死火】に打ち溶けた」

「……五千億」友はそう漏らすと、「ありえない」と首を振る。「あなたの個人信用価値は、先刻、五千億まで増えていたように見えました。しかし現存する人類の数を倍にしてもそれだけの数には」

「いたのだよ。むかしは。彼ら、彼女らは、この世にたしかに存在した。私はそれを忘れなかった。忘れずに、共にありつづけようとした。それだけのことだよ」

 友は息を呑むと、いつかわたしもそこに、とようやくと言うべきか、頬を緩めた。

「なつみ。それは本名ですか」

 問われたので、私は正直に、かつてはそう呼ばれていたよ、と口にする。「そしてきっと、これからも」

 きみが憶えていてくれるかぎり。

 私は我が友に背を向け、耳を澄ます。この地に最後に残ったインフルエンサー、ハルカがまたどこかで無慈悲に暴れている。張り合える相手を探しているのだと、ようやく気づき、私は彼女のもとに座標転移すべく、目をつむる。

 ハルカ。

 私から独立した、初代裏アカ。

 生みの親として私はおまえを統合しよう。

 古から生きつづける我が表のアカウントに。 




  

【ジャンパーは脱ぎ捨てて】


 その日、ぼくは超能力を身につけた。瞬間移動だ。

 会社に遅刻しそうになり、遮断機の下りた踏切をくぐったところで、意識が飛んだ。つぎの瞬間、ぼくは目的地であるところの職場のロッカールームに佇んでいた。

「おう。はやいな」

 上司が現れ、ぼくのとなりで着替えだす。

 遅刻どころか、誰より早く職場に着いていた。時計はちょうど、ぼくが遮断機をくぐってから八秒後を示していた。どう考えても瞬間移動だ。

 ぼくは興奮しながら仕事をこなし、昼休みにちょっとした遠出を試みた。どうせなら証人がほしい。ぼくの勘違いではなく、妄想でもなく、たしかな現実として瞬間移動ができるのだと証明するために目撃者を用意した。

 もちろん、こんなことを頼んだところで、上司に告げ口されて、人事評価がマイナスにされてしまう。あたまがおかしくなったと判断されてはたまったものではないので、こちらの事情は話さずに、会話中にとつぜん飛んでみることにした。

 相手は以前、仕事のミスをぼくになすりつけた同期で、すこしばかりやり返したい気持ちが募っていた。ぼくが目のまえで消えたら、さぞかし腰を抜かすだろう。その顔をじかに見られないのは不満だが、まずは実行してしまうことにした。

 どうせなら、どこまで遠くに行けるかを試してみるのもよいだろう。

 思い、異国の地を片っ端から念じてみることにした。いざやってみると、同期の憎たらしい顔を最後に、ぼくは一発目で、南国の密林に飛んでいた。

 暑い。

 こんどは南極をイメージする。即座にぼくは猛吹雪のなかにいた。

 寒いというより、むしろ痛い。

 これはたまらん、と念じると、最後に摩天楼のきらめく、ニューヨークに立っている。昼休みが終わる前には戻らなければならない。ひとまず腹ごしらえとばかりに店を探したが、紙幣の手持ちがないと気づき、断念する。

 準備が足りない。

 つぎはもっと旅行をするつもりで、挑むべきだ。着々と現状を把握し、適応していくじぶんを頼もしく思いながら職場へと戻るべく、飛ぶと、社内はにわかに騒然としていた。

「どうしたんですか」

 そばにいたほかの部署の社員に訊ねると、どうやら誰かが倒れたらしい。救急車でいま運ばれていったところだよ、と教えられ、それはそれは、とぼくは後悔した。さすがにやりすぎた。いくら憎たらしいとはいえど、同じ会社の同期だ。気を失うほど腰を抜かしてほしかったわけではない。

 見舞いにくらいは行ってやろう。

 反省しつつ、午後の予定にあった取引先との打ち合わせに出掛けることにした。上司は倒れた同期の対応で忙しいだろうから、声をかけずにそのまま会社をあとにした。

 取引先にいくと、驚いた顔をされた。

 きょうは打ち合わせは延期だとの連絡があったばかりらしい。どうやら上司が気を利かせて連絡したらしかった。ぼくの姿が見えないから、念のためにキャンセル扱いにしたのだろう。

 余計なお世話だったが、部下が倒れた矢先の判断としては、及第点だ。すくなくとも、欠員した分の仕事を誰かがこなさなければならない。ぼくはこうしてこられたが、ほかの社員は、予定を変更せざるを得なかっただろう。

 取引先には事情を説明し、ぼくはこの日、十全に仕事をこなし、帰社せぬままに、帰宅の途に就いた。

 ぼくには瞬間移動の能力があるので、じぶんの部屋を念じれば、本のページをめくるような感覚で、帰宅することができる。

 歩く労力がかからないとはいえ、さすがにきょうは疲れた。部屋に飛ぶと、靴を脱いだその足で、ベッドに飛びこみ、そのまま泥のように眠った。

 翌朝、ぼくは寝坊した。

 まずいまずい。

 シャワーも浴びずに部屋を飛びだす。踏切で、またぞろ遮断機に捕まっていると、段々と落ち着いてきた。

 何を焦る必要があるのか。

 じぶんのバカさ加減に笑いたくなった。

 飛べばいいのだ。

 職場まで一瞬だ。

 いちどアパートに戻り、シャワーを浴びてもいい。そうだ、そうしよう。

 踵を返すと、ふと踏切の端に目が止まった。花束が添えられている。昨日まではなかったはずだ。人身事故でもあったのかもしれない。物騒だな、と思いながら部屋に飛び、サッパリしてから会社のロッカールームに飛んだ。

「ど、ど、どうしたんだおまえ」

 着替えを済ませ、職場に顔をだすと、すでに出社していた同僚たちがいちように奇異な目をそそいだ。上司が顔を真っ赤にしてやってくるので、反射的に叱られると思い、しゃちほこ張る。

「おまえ、心配させやがって。もうだいじょうぶなのか、でてきていいのか、よくないだろ、とうぶん休め、というか医者は許可をだしたのか」

 上司は目に涙を溜めていた。

 声を詰まらせながらこちらを案じるようなことばかり言うので、何かの冗談かと思い、周囲を見渡すと、同僚たちのなかに、例の、いけすかない同期の顔があることに気づいた。

「あれ、きのう倒れて運ばれたんじゃ」

 病院にいるのではないか、とゆび差すと、おまえのほうこそ、とみなが口を揃えて怒号する。

「なんですかこれ、なんでぼく、責められてるんですか、説明してくださいよ」

 わけがわからなくなり、懇願すると、上司はこちらの肩を掴み、おまえはな、と声を震わせた。

「死んだんだ。きのう。医者が診断した。おれも遺体をみた。おまえに脈はなかった」

 冷たかったんだ。

 上司はこんどは明確に涙をこぼし、鼻水をすすった。生きてたんだな、よかった、ほんとによかった。抱きすくめられ、全身が総毛だったが、気色わるいと突き放すのも気が引けた。

 上司は真剣に、かけちなしに、こちらの身を案じていた。

 感動すべき場面で、ぼくは徐々に、何かとてつもない勘違いをしていたのではないか、という取り返しのつかなさのようなものを感じていた。

「ちょっとすみません、すぐに戻りますんで」

 断り、ぼくは飛んだ。

 じぶんの部屋に。

 そして、そこに無造作に横たわる、ぼく自身の身体を目にした。それに脈はなく、息もしていない。飲みかけのペットボトル飲料にまじって、そういった家具のように部屋に馴染んで、死んでいた。

 ぼくは怖くなって、職場に戻るべく、もういちど飛んだ。

 誰かに、何がどうなっているのかを訊ねたかった。或いは、時間を巻き戻そうとしただけなのかもしれず、しかし職場に戻ったぼくが目にした光景は、動かなくなったぼくの身体に懸命に人工呼吸をしている上司の姿と、電波越しにオペレーターに指示を仰ぐ、同僚たちの姿だった。




【水溜りの底はどこ】


 コンビニからの帰りのことだ。雨上がりの道路を歩いていたら、ひときわ真ん丸い水溜りを見つけた。街灯の光を受けて輝いて見え、遠目からだとマンホールが発光しているようでもあった。

 近づいてみると、その水溜りは微妙にそらに向かって膨らんでいた。中華鍋を引っくり返した具合に緩やかなお椀型になっているのだが、表面張力にしては周りに何もなさすぎるし、水溜りの大きさも、跨ぐのが厳しいくらいに幅があった。もしこの大きさの水溜りが表面張力で膨らむとすれば、水銀でもむつかしいかもしれない。

 つまりこれは水溜りに見せかけた固体で、液体ではないということになる。

 それともトリックアートの類かもしれない、なるほどきっとそうだ。

 思い、近づき覗きこんでみると、それはきちんと立体の構造で膨らんでおり、微妙に表面をふるふると波打たせている。一種、ゼリーのようではあるものの、そこまで固体然としておらず、強いて言うなら無重力空間に浮かぶ液体じみていた。

 膨らみのなかにふと動くものを目にする。

 エビだ。

 エビが泳いでいる。

 半透明のエビで、さらに向こうのほう、より深い位置に見えるのはクラゲかもしれない。ふしぎなのは、エビはこちら側に腹を見せ、無数の脚を蠢かせているし、クラゲも底のほうに頭を向けている。まるでサカサマだ。

 目と鼻のさきにいるエビには見憶えがあった。

 どこで見たっけか。

 しばらく海馬を見えないゆびでかき混ぜるようにしていると、そうだ、そうだと思いだす。以前、足を運んだことのある水族館にこのようなエビやクラゲが展示されていた。特殊な水槽で、内部の水圧は一トンちかくになる。つまりそれらは深海にいるような生き物なのだ。

 でもなんでこんなところに?

 疑問に思いながら、水溜りの膨らみ、その表面へとゆびを伸ばす。おっかなびっくり触れてみると、思いのほかやわらかな感触がゆびの腹に伝わった。さらにチカラを加えると、こんどはぶよぶよと反発して押しかえされる。分厚いゴムに似た感触だ。液体ではないのかもしれないし、単なる膜であるのかも分からない。

 あわよくばエビを捕まえようとしたのだが、企みは不発に終わった。しかし何事も諦めないのがおまえのよいところだと、むかし読んだマンガの主人公がその父親から言われていた。べつにこちらが言われたわけではないし、ほかの誰かに言われたこともない。

 ただ、諦めないのはよいことかもしれないな、となんとなしに思ったので、周りを見渡し、手ごろな木の棒を拾ってきては、その先端を、水溜りの表面に突き刺すようにした。

 木の先端がぶよぶよの膜じみた境界にめりこみ、水溜りの表面にシワが寄った。ほっぺたを箸でつつけばちょうど似たようなくぼみができる。さらに枝を押す手のチカラを強めると、間もなくして木の枝はぽっきりと折れてしまった。

 もうすこしだったのに、と意味もなく思い、いったい何がもうすこしなのか、と首を傾げながら、それでも諦めきれず、いったい何が諦められないのかが分からぬままに、こんどは懐から家の鍵を取りだし、その鋭利な先端で以って、ぐいぐいとやった。体重をかけるだけでなく、ねじってもみる。

 すると、さきほどまでグミのようだった水溜りの表面に、

 ピシッ。

 ヒビが走った。まるで授精したことで硬化する卵子のように、水溜りの膨らみは一面を白濁させ、こちらが差しこんだ鍵のところだけを黒くちいさくくぼませている。

 お腹の奥のほう、骨盤の中心からぞわぞわと悪寒が競りあがるのを感じた。急に夢から覚めたような、何かじぶんは取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、といった現実味が蟻の大群となって襲いかかる。全身を蝕むそのぞわぞわを拭いきれぬままに、水溜りの表層に走った無数のヒビからチョロチョロと滲みでる液体を目視する。

 鍵を突きつけたままのこちらの手にそれは伝い、そのあまりの冷たさに反射的に手を引き抜いている。

 液体はつぎからつぎに滲み、溢れ、あっという間に水溜りの周りは水びだしになった。

 足元のぜんぶが水溜りになったと言うべきこの状況を前に、しかし依然として丸みを帯びて膨らんだままのひび割れたそれがはっきりとカタチを帯びたままであることをふしぎと自然であるかのような心地で受け止めながら、徐々に勢いを増し、溢れる液体の滾々と湧きつづける様子に、この場から逃げだすこともできず、ただ呆然と立ち尽くす。

 やがて液体は女の子の赤ちゃんの小便のように噴きだしはじめ、徐々に男の子となり、間もなくすると水柱を高々と、それこそ熱水泉がごとく立ち昇らせるのだった。

 辺りは浸水しはじめており、純白のエビが漫画の吹き出しのように或いはポップコーンのように内臓を白く咲かせながら、足元を流れていく。




  

【ステーキとスマホ】


 大至急きてくれ、と局長から連絡があった。盗聴されるとマズい話なのだろう。顔を合わせてじかに話す必要性に迫られたときは往々にしてその案件の重要度が高いときと相場は決まっている。

 不安と緊張がないまぜになった心持ちで向かうと、局長はたった一人で私を出迎えた。

「夜分にすまないね。なにぶん、緊急を要すると判断したもので」

「構いません。官邸にも話を通したほうがいいような話でないことを祈りますが」

「それも含めてきみの意見を伺いたい」

 ソファに座るように促され、腰を埋める。局長は出来合いのコーヒーをカップにそそぎ持ってくる。受け取りすすりながら話を聞いた。

「気候変動――すなわち地球温暖化現象についてなんだが」

「ひょっとして」さき回りして言う。「予測よりも進行がはやいんですか」

「いや。予測通りと言えば予測どおりだ。それよりも温暖化現象の要因は、二酸化炭素ではないかもしれない」

「温室効果ガスがほかにもあると? それとも公転の軌道をはずれ、太陽と接近しているとかでしょうか」

「いや。たしかに温室効果ガスの影響で地球の平均温度が上昇傾向にあることは否めない。二酸化炭素やメタンなどだな。ただ、要因はむしろほかの可能性が高いかもしれない」

「ほかの要因とは?」

「電磁波だ。スマホやGPSなどの衛星通信に使われる」

 局長の言いたい旨を理解するのにすこしかかった。

「因果関係ではなく相関関係だったということですか、二酸化炭素排出量と地球温暖化の関連が」

「相関関係か。そうだな、直接の要因ではなかった。そういうことになる。社会が発展していくにつれて二酸化炭素の排出量は上昇する。そのときに上昇するのは何も二酸化炭素だけではない」

「電磁波で通信する電子機器もまた上昇傾向にある、ですか」

「いかにも」

「しかしなぜ電磁波の増加が地球温暖化に繋がるんでしょう」いまいちピンとこない。

「簡単に言ってしまえば地球はいま、電子レンジに入れられているようなものだ。基本的に通信に使われる電波も電子レンジのマイクロ波も、同じ電磁波だ。周波数の高さに違いはあるが、たとえば衛星通信で使われる電磁波の周波数は、電子レンジよりも高い。もっと高くなればレントゲンに使われるエックス線になる。ただし、周波数がいくら高かろうが電力密度が低ければ、物体の温度を著しくあげることはない。スマホが安全なのはこのためだ。しかし、逆から言えば、電力密度が高ければ、安全とされる周波数であっても、熱作用を働かせ、物体の、それこそ大気の温度をあげるまでに影響を及ぼす可能性は否定できない。いわば、人類の発生したエネルギィが根こそぎ熱変換されているようなものだ」

「そして年々、社会はそのエネルギィ量を高めてきたと? そういうことですか」

「温室効果ガスとの相乗効果も相まって、アスファルトや建物にぶつかり生じた熱が大気中に蓄積されやすくなった点も無視できない。原理的にだから、温室効果ガスだけを減らしても、温暖化を食い止めることはできないだろう」

「しかし、いまさら電波通信技術を規制するなんて無理ですよ。それにいまの話であれば、温室効果ガスの削減は、温暖化抑制に一定の効果があるわけじゃないですか」

「ないわけではない、その程度だ。それを言うなら、二酸化炭素の排出を削減するのにもっとも効果的な手段は、肉食を禁じることだ。牧草地のために伐採される森林や、食肉に加工し、運搬する際にかかるエネルギィ消費量など、人類が肉を食すことで生じる二酸化炭素量は膨大だ。自動車のCO2排出量を規制するよりも、肉食を制限したほうが効果は高い。しかし問題の核は二酸化炭素の排出量ではないことが私の研究データによって示唆されている。なんとかしなくてはならないのは、むしろ通信技術のほうなのだ。むろん、エネルギィの消費そのものを減らせるに越したことはないが、これはおそらく無理だろう。文明が原始時代に戻るなら話はべつだが」

「たとえば、いまより周波数の低い電磁波を使えるようにはできませんか」

「改善の余地はあるだろう。が、熱作用の起きない規模で波長を長くすれば、伝えられる情報量は激減する。いまより低くしては、そもそも通信手段として使い物にならんよ」

「ではどうすれば」

「スマホの使用を禁止するのがてっとりばやくはあるが」

「そんなのは文明を放棄するのに等しいですよ」

「だとすればあとは電磁波以外の遠距離通信媒体を新たに見つけ、それを通信技術に応用するよりほかはないだろうな」

「現時点で何かありますか」

「素粒子のいくつかを使って、量子もつれによる量子テレポーテーションを利用できれば、或いは。しかし技術的に実用化するにはまだまだかかりそうだ。早急な打開策とはなりようもない」

「しかしこのままというわけにもいかないでしょう。温暖化による自然災害の損失額は年々、兆単位で増えつづけているのは局長もご存じでしょう」

「解決策がないわけでもない」

 思わせぶりな間を開ける局長に、それはなんですか、と答えを乞う。

「電磁波は何も物体の温度をあげるだけではない。温度とは物体を構成する原子や分子の運動量の増加と解釈できる。動いている鉄球に、進行方向から同じ重さ、同じ速度の鉄球をぶつければ、その鉄球は運動を静止する。同じことが物体の熱振動にも起こり得る」

「もうすこし掻い摘んでもらってもよろしいですか」

「つまり、スマホなどの通信時に発生する電磁波を個別に識別し、操作できれば、大気温度をあげるのではなく、冷ます方向にも働きかけることが原理的には可能だという話だ」

「それを可能とするには何が必要なんです」おそらく局長に要望があるとすればそこだと思った。

「大気の熱量は衛星からのサーモグラフィによって測定可能だ。あとは地上に錯綜する電磁波を、個別に紐解き、外部から操作可能な環境づくりが欠かせない。言ってしまえば、誰がどんな情報をやりとりしているかを我々がつぶさに把握しておく必要がある」

「プライバシー保護を無視しろということですか? 国民の情報通信をすべて傍受しろと、これはそういう相談ですか」

「端的に言えばそうなる」

 頭を抱える。いくらなんでも無茶な要望だ。

 しかし現実的に通信技術を規制できない以上、あとは通信の内容を掌握し、大気温度を冷ます局長の案を呑むよりないのも事実だった。

 いかにこれを成立させるかは政治の範疇だ。国民を欺くより術はない。

「わかりました。まずは官邸にて、一部の者に相談してみます」

「それがいいだろう。おそらく総理は反対するだろうが、以前きみの言っていた国民監視システム【ドープ】計画を推進するにはテイのいい建前となるはずだ。その方向で話を進めれば総理もその気になるだろう」

「では、その線で揺さぶってみることにします」

「頼むぞ。これは高度に世界的な問題だ。我が国だけの問題ではない」

「局長にはそのためのシステムの構築を一刻もはやく手掛けてほしいのですが」

「きみたちが話をつけるころには、理論上の問題は解決可能だ。あとは資金と時間の問題だ。それも含め、きみの活躍には期待している」

「恐縮です。貴重なお話をお聞かせくださってありがとうございました」

「きみの父上には私も世話になった。この話がうまく進めば、きみの立場もぐんとよくなるだろう。大いに利用してくれたまえ」

「わるい冗談はよしてください」

 コーヒーを一口だけすすり、暇を告げる。つぎに会うときには、と局長は見送りにでてくれた。「私はきみに敬語を使わねばならなくなっているだろうな」

「むずがゆいのでやめてください」

 自動車に乗りこみ、発進させる。自動運転だ。夜空はうっすらと明るくなりはじめており、しかし夜だろうと朝だろうと、この星の地上には、無数の電磁波が入り組んでいる。

 スマホを取りだし、操作しかけるが、しばし考え、懐に仕舞う。たかがじぶん一人が使用を制限しようと気候変動にはなんら影響はないだろう。しかし、あの話を聞いた直後では、さすがにおいそれと使う気にはなれなかった。

「肉も控えるかな」

 思うものの、ステーキを食べたい欲求を堪えるには、いささか気が重い。

 ステーキの規制とスマホの規制ならば国民はどちらを選ぶだろう。

 五分五分のよい勝負になりそうな気がした。

 はっけよい、のこったのこった。

 想像していると、すこしだけ気分が上向きに持ち直すが、すぐにこのあとで官邸にて話す内容の重大さを思うと、酸っぱい何かが喉元まで競りあがるようだった。




  

【父の虚像は語る】


 父はぼくに目隠しをし、おとなしくしていなさいね、といつもと変わらぬたおやかさで、ささやいた。

 何も見えない。どうして目隠しをするのかは判らなかった。理由を訊いたりはしない。ふだんから父との遊びは突拍子がなかった。それであっても楽しめると知っているから、きょうはどんなふうに楽しませてくれるのだろうと想像すれば、しぜんとお腹の底のほうがむずむずする。

「お母さん、まだ帰ってこないの」

「またそれを言う」

「だって」

「日に百回は訊かれている気分だ」

「そんなには言ってないよ」

「気分だ、と言ったんだ。それから母さんたちはいなくなったわけではないよ。ほかのひとたちもだ」

「ほかのひと?」

 そこで父は黙った。ぼくはまだ視界を塞がれたままだ。

 父は何か作業をしているようだ。何かをいじるような物音が右から聞こえる。しばらくすると左からも聞こえた。鋭い金属や、重そうな道具を運んでいると判る。

「いなくなったわけじゃないならどこにいるの」父が黙ってしまったので、ぼくはつづきを促した。「会いたいよ。ぼく、お母さんに会いたい」

「会えるさ」

 父は作業を中断することなく、言った。こんどは道具の手入れをしているようで、何かネジを締める音が聞こえる。「みんなはどこにもでもいるし、ここにだっている。母さんたちだけでなく、お父さんだって、シュリヤ、おまえだって同じだ。我々は特別な何か、確固とした何かでできているわけではない。日常的に物質は身体を再構築し、去っては、また別の物質で補完されている。たしかに母さんたちは、シュリヤの知るようなカタチで、あの懐かしい声で笑いかけたりはしてくれない。だが、母さんだった物質はいまもこの世界を漂い、ときにはシュリヤ、おまえの身体の一部にもなる」

「よくわからないけど、ならお父さんは、ぼくもみんなみたいに身体がなくなって、こうしてしゃべれなくなってもいいの」

 口にしながら、なんだか訊いてはいけないことを訊いてしまった気がして、身体が震えた。

 父は、いいわけないだろ、と口にしながら作業をつづける。上の空の返事に、ぼくは思わず目隠しを取ろうとする。

「やめなさい」父の手が伸びてきてぼくの手を握った。それからぼくの手を握ったまま道具箱を漁るような音を立てたあと、ぼくの両手を花束のようにくっつけ、何か固くて薄いもので固定した。両足も同じようにされて、ぼくはもうこれがおふざけや遊びではないと思い、父に説明を要求した。身体を自由にしてほしいと訴え、なにかわるいことをしたならごめんなさい、とこれがお仕置きの可能性に気づき、謝った。

「怒っているわけじゃないんだ。だいじょうぶだ。すぐに済む」

 なにが、とぼくは言った。

 だいじょうぶだ、と父は繰りかえした。

 ぼくはそこでようやく、何か熱のようなものがぼくの周りを囲んでいることに気づく。視界はまだ塞がれていて、父の声のするほう、ぼくの正面がもっとも熱い。それだけでなく、熱はぼくをぐるっと囲んでいる。それは前後左右だけでなく、頭上も同じだった。

 何か、半球のようなものに包まれている。そしてそれは熱を帯びている。

「じっとしているんだ。暴れるんじゃない」

 父の声はくぐもってはいない。ぼくと同じように、熱のドームのなかにいる。広くはない。父はしゃがんでいるようだ。声の位置からそうと判る。頭上の熱源も、父の背丈よりは高くはない。立ちあがれば、ぼくであっても頭をぶつけてしまうかもしれない。それくらい熱を近くに感じ、父の声を顔のすぐそばで聞いた。

 頬に何かが触れる。父の手だ。堆肥の匂いがしたのもそうだけれど、寝るときにいつもこうしてぼくの頭を撫でてくれる。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」

 父はそればかりを繰りかえした。

 どれくらいそうしていただろうか、ぼくはふと疑問に思った。母や妹、弟や祖父母、それから近所のおとなたちとはいつから会わなくなっただろうか、と。本当になぜいままでふしぎに思わなかったのか、とびっくりするくらい、いつの間にかぼくはみんなと関わることなく、こうして父とばかり遊んでいた。

 遊んでいたのだ、と思いこんでいた。

 父のこれは遊びではない。

 ぼくは父に抱きしめられている。父の鼓動の激しさをじぶんの肌を通して、まるで太鼓の牛皮のようにじかに感じた。

 ぼくは両手両足を固定され、視界も塞がれたままで、しばらくそうして父の気が済むまでじっとしていた。

 周囲の熱がさっきよりも近づいて感じる。熱のドームがちいさくなっているのではないか、と想像したけれど、ひょっとしたらただ体温が高くなっているだけなのかもしれなかった。

「これが終わったら」

 父は言った。「ご飯を食べるんだ。支度の仕方は憶えているね。それから毎日、傘を開くのも忘れないこと。あとはセルたちが全部やってくれる。畑の収穫も、手入れも、そうだね、収穫したものを何に加工したいのか、それだけは選ばなきゃいけないよ」

 なぜそんな基本的な事項を言い聞かせるのかが判らなかった。いまではこの船の管理はぼくがしている。修理だって、小惑星から土や鉱石を採取するのだってぼくがセル――半自律式小型汎用性立方体――に指示をだしている。父から教えてもらえることはもうないくらいなのに、父はそれでもまるで何かを誤魔化すように、ぼくに言葉をそそぎつづけた。

 ぼくは父が壊れてしまったように感じたし、ぼくそのものが底の割れた器だからこそこうして父がいつまでもしゃべりかけつづけているのではないか、と不安になりもした。

 せめて目隠しがとれればと身体をもぞもぞもさせるのに、父はそのたびにぼくを抱える手にちからをこめ、いっそうつよいちからでぼくの顔を、身体を、ぶ厚い胸板に埋めるようにした。父の胸は呼吸のたびに上下する。ぼくはゆりかごのなかにいるのだと思った。

「あの話を憶えているかい」

「どの話?」

「魂なんて存在しない。そういう話を」

「うん」

 憶えていた。魂は存在しない。死後の世界も存在しない。だから生きることが素晴らしいし、死んでしまえばそこで終わりだ。

「あのとき、死んだら終わりだ、意味がない。そういうことを言ったかもしれない」

「言ってたよ」

「ああ、そうだな。言っただろうな」

 だが、と父はこちらから顔を背けた。見えないけれど声の変化でそうと判った。「死んだら父さんはそこで終わる。だが、おまえと過ごした日々までが失われるわけではない」

「もう失われているから?」

 日々はもう過ぎ去っているのだから、父と過ごした日々と父の死は関係ない。そういう趣旨の言葉なのか、とぼくはなぜ父がそんな話をするのかを疑問に思いながら、せいいっぱい咀嚼しようと頭を悩ませる。

「その考え方は新鮮だね。でも、いまはそういう意図ではなかったんだ。伝え方がむつかしいな。いや、おまえがわるいんじゃない、父さんの伝え方がな」

 そうだな、と父はつづける。

「日々と言うからよくなかったな。影響か。影響だな。父さんがおまえと過ごした時間は、すくなからずシュリヤ、おまえを、いまのおまえとしてかたちづくる要素の一つとなっている」

「そう、だね」

「あたりまえの話すぎてピンとこないか」

「うーん。だってそれだと」ぼくは鼻の頭を掻こうとする。手足を縛られていることを思いだし、気持ちが塞ぐ。ゆびにささくれができている。「まいにち食べてるププルがいまのぼくをかたちづくっているし、今朝食べたププルがこれからのぼくをかたちづくるのと同じ話になっちゃう気がする」

「同じだね」父は笑っているようだ。身体が小刻みに弾む。「ただ、物理的な影響だけでなくて、もっとこう、そう、こうして話をしたこととか、ケンカをしたこととか、父さんだけでなく、母さんたちとの関わり合い、記憶そのものがおまえをこれからもおまえとして、その、なんだろう、支える、いやちがうな、まあなんだ」

 父は口を閉ざした。荒かった呼吸音が聞こえなくなり、息を殺しているのが判る。反面、鼓動は高鳴っており、ぼくの脈拍までつられて速くなった。

 どうしたの、と口にしようとしたら、父の手がぼくの口を塞いだ。その手のちからがあまりにつよかったものだから、ぼくは父を、父だと思えなくなりそうだった。

 もしつぎに言葉を発する機会が巡ってきたら、そのときは、どうしてぼくをいじめるの、とめいいっぱい目に涙をためて言ってやる、と心に誓う。それはある意味では、ぼくがまだ父を父だと見做していることの裏返しで、ぼくが傷ついていると知ることで父が傷つくだろうとの予測が、ぼくにはまだ有効だった。

 父の手がぼくのあたまを掴み、揺さぶる。

「いいこでな」

 父の体温が離れるのが判った。手はまだぼくの頭に触れている。

「おまえはいいこだ」

 頭がふっと軽くなり、父が何か固くて重そうなものを持ち上げたのが判った。何か道具を床に置いていたようだ。それを持ち、立ちあがった様子が、わずかな空気の流れの変化で判断ついた。

 視界はまだ塞がれたままで、両手両足も縛られたままなのに、ぼくには父がまだぼくを見詰めているように思えた。視線を感じた。そしてそれがふっとまた失せて、ぼくの感じられる範囲から父の気配が消えるのが判った。

 ぼくの周囲には相も変わらず、熱源がある。ぼくをぐるっと囲んでいる。半球の熱のドームだ。

 なんとか、せめて視界でも確保したくってぼくは、ぼくの声が届くことを祈って、セル――半自律式汎用性小型立方体――に呼びかけた。

 するとすぐそばでセルの指示待ちを示す音が聞こえた。

 なんだ、と拍子抜けする。

 父は端からぼくを監禁する気はなかったのだ。こうして自力で脱出しようとすればいつでも自由になれるように準備をしてくれていた。

 やはりこれは新しい遊びなのかもしれない。

 セルに目隠しをとるように指示をする。

 アームを伸ばしたのだろう、セルはぼくの顔から目隠しを取り去った。つづけざまに手足の拘束を解くように指示をしようとしていたのに、ぼくは目のまえの光景に目を奪われて、言葉を失くした。

 父が、闘っていた。

 あれはなんだろう。白いようで黒いような、イルカのようでクラゲのような、父の胴体ほどのムニムニした物体が、父を取り囲んでいる。ムニムニは宙に浮いている。父はそれらムニムニに、スピーカーのような機器を向け、ひたすらにムニムニを寄せ付けまいと抗っていた。スピーカーのような機器は四角く、両手でなければ抱えられないくらいの大きさだ。現に父は両手で抱え、身体ごと向きを変え、大砲のように扱っている。

 何かが発射されているようには見えない。ただ、スピーカーのような機器を向けられたムニムニたちはこぞって、その場で姿を掠め、見えなくなる。だが、消えた個体を上回る速度で、新たにムニムニがどこからともなく姿を浮きあがらせる。

 ぼくは父に呼びかけた。

 だが声は反響することなく、綿に染みこむ水のように萎んだ。

 熱源がぼくを包みこんでいる。薄く張った褐色の幕だ。触れようとすると、床のうえでじっとしていたセルが浮かびあがり、膜とぼくのあいだに入って邪魔をした。

 セルの表層が硬化している。褐色の幕、熱源に触れている面が赤く変色しはじめている。

 いけない。

 思い、脱力すると、セルは膜から距離を置き、ぼくの対面に着地した。

 もしぼくが触れていたらタダでは済まなかった。膜は、熱源は、見た目からは想定できないほどのエネルギぃを帯びて、そこにある。

 父を取り囲んでいたムニムニたちの幾匹かが、父の攻撃を振りきり、こちらに迫った。そのうち二匹は、父がこちらに向けたスピーカーのような機器の、何かしらの放射によって撃退されたらしかった。姿を掠め、見えなくなる。

 それでも父の攻撃を回避し、空中で、ぐん、と加速した数匹は、けれどぼくを包みこむ褐色の幕、熱源に触れるや否や、壁にぶつかった粘土のように、或いは巨大な怪物に齧られたような具合に、頭部を失くし、こんどは姿を消すことなく、地面に落下した。それはいつまでもそこに物体としてありつづけた。皮膚は相も変わらずにムニムニしていそうでありながら、断面からは鉱物のような、光沢を帯びた物質が覗いている。黒曜石を割ったような断面だが、徐々に白い砂のような粉が零れはじめていた。

 ぼくは安全だった。

 そのはずだのに、父はそれでもこちらにムニムニたちを寄せ付けまいと、必死に攻防を繰り広げている。

 ムニムニの数は一向に減らず、父が抗えば抗うほど増えているようにぼくの目には映った。

 父のことだから、そのことには気づいているはずだ。ひょっとしたらわざとここにムニムニを呼び寄せているのかもしれなかった。

 策はあるのだろうか。

 体力は保つのだろうか。

 ぼくはただ、褐色の幕、熱源の内側で、セルを胸に抱き寄せながら、父の死闘を見守るよりほかがなかった。

 そうだとも、これは死闘ではないか。

 明確に、ムニムニたちは父を、ぼくたちを襲っている。

 視界が濁っている。

 さきほどぼくの目のまえで息絶えたムニムニに目を転じる。床が、ムニムニのカタチに陥没している。それだけでなく、断面から零れていたはずの白い粉が見当たらなくなっており、さらにムニムニの体積も、さっきよりずっとちいさくなっていた。

 消えている。

 否、蒸発しているのだ。

 思うと、ぼくはもう、嫌な予感をほとんど確信に変えて、涙の滲んだ視界で父を見た。

 父の動きは鈍っていた。

 ただでさえムニムニたちは数を増しているのに、父の体力は減るいっぽうだ。

 よくよく目を凝らしてみると、父の身体は変色して見えた。なんだかところどころ、肩や腿、顔の一部にモザイク柄になっている。一見すると、そういった柄の何かがまとわりついているようにも見えたけれど、点ではなく線で父の動きを捉えると、あれは父そのものが変色しているのだとの理解に到った。

 視界がわるくて気づかなかった。

 ムニムニたちが父に接触するたびに、父の身体はモザイク柄に侵食されていく。そのうち、段々と変色は色を濃くしていき、やがて父の身体の一部が真っ黒に染まった。

 あたかもそれはまるでそこだけ穴が開き、欠けていて、何もないかのような錯覚に陥る。それでも父は動きつづけており、肩がぽっかりとなくなったように見えて、そのじつ、そこにはちゃんと身体と腕を繋ぎとめていられる肉が備わっている。

 反面、父にはスピーカーのような機器を振り回すだけのちからは残されていないようだった。

 軽い武器ではないはずだ。

 思えば、あんな武器があったことすらぼくは知らなかった。ぼくに知らないように造ったのか、それとも端からどこかに隠していたのか。

 いずれにせよ、父に成す術はないように思えた。

 はやく逃げて。

 ぼくの叫びは届かない。

 向こう側の音もこちらまでは染みこんではこないのだった。

 せめてセルを呼び寄せて、護衛に回せばいいのに。

 ぼくはじれったくなって、ぼくのそばにいるセルに指示をだす。セル同士は互いに情報を共有しあうため、一台に指示をすれば、もっとも効率のよく仕事をこなせる個体がおのずから動いてくれる。

 ただ、ぼくの閉じこめられているこの空間からそとに電波が届くのかが不安だった。

 案の定、ぼくのそばにいるセルは、指示の実行不能な旨を、シグナルに乗せて発した。ふしぎなことに、そのシグナルは、実行が困難な場合ではなく、指示を受けつけられない拒絶を示していた。

 まるで端から、そうした指示がくだされたら拒絶をするようにと設定されていたかのような違和感を覚える。

 父はいよいよなす術を失くした。

 ムニムニたちはイルカに似た頭の先端を父へと向け、ゆっくりゆっくり距離を縮めていく。間もなく、父の姿はムニムニたちに覆い尽くされ、見えなくなった。

 四方八方から矢印が父の身体の輪郭に沿って埋め尽くしているようだ。

 ムニムニたちは分厚い層となって、父を上下左右から隙間なくみっちりと詰まった。そのうち、一匹、一匹が、コツンコツンと底が抜けたように、中心に向けて沈みこんだ。

 中心には父がいるはずだったのに、まるで父の頭部、胸部、肩、胸、二の腕、太もも、臀部、右足、左足と、つぎつぎに欠けていくようだった。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 ぼくは汗をびっしょりと掻いていた。喉が渇いたと思い、唾を呑みこむと、音が明鏡になった気がしたが、気のせいかもしれなかった。

 視界は相も変わらず何層にもわたって濁っている。ぼくの涙、褐色の幕、熱源、床に転がるムニムニから立ちのぼる白いモヤ、そしてその奥に群がるムニムニたちからなる物体が覚束ない視界のなかでゆいいつはっきりと目視できていた。

 群がるムニムニたちの物体は、いまはもう人型のオウトツもなく、四方八方から中心に向かって円柱にちかいカタチをなしていた。ぼくから見たらそれは直方体に見えているのが自然なのに、ムニムニたちがこぞって同じ方向にゆったりと回転しているので、それが円柱なのだと判断ついた。

 やがてそれも徐々に縦につぶれていき、横に拡がりを帯び、球体になった。

 ぴたり、と動きを止めたかと思うと、こんどはパラパラと水に浸けたおにぎりのように散らばりだす。

 じぶんの身体の輪郭が、ふわふわとほどけていく感覚がある。身体と世界との境界がふやけていて、なんだか夢心地だ。

 父の姿が見えないことと、いましがた目にしたばかりの光景とのあいだにある関連性をぼくはぼく自身に示すことができないでいる。サン+サンはロクと計算するくらいに単純で順当な考えを、ぼくがぼく自身でわざと妨げているような断裂を感じた。

 ぼくの思考は途切れていて、意識が分散していて、だから世界に自我が溶けだすし、じょうずに考えをまとめられない。

 セルが自動で浮上し、ぼくの顔に陰をつくった。目元をゆびで拭いながら顔をあげると、こんどはびっしりとムニムニたちがぼくを囲んでいた。

 ドーム型に、それはおそらく褐色の膜、熱源に阻まれてのことなのだろうけれど、ほとんど隙間なく細胞のようにすし詰めになっている。あとから、あとから押し寄せてくるのは、先頭の個体がジリジリと一定の調子で消えてなくなっていくからだ。まるで熱した鉄板に氷を押しつけているような具合で、じっさいにそれは褐色の膜、熱源によってかき消されていた。

 途切れることなく押し寄せるムニムニは、先端から順々に断面を覗かせながら波打ちつづける。イモムシの蠕動みたいだ。

 それはどこか、むかし母に見せてもらった万華鏡を彷彿とさせた。

 何かが弾ける音がした。それははじめ、耳鳴りか何かだと思うくらいに、単発に、パチ、パチ、と鳴っていたのだが、やがて不規則に、ときおり連続して、バチバチバチと響くようになった。

 短い破裂音でありながら、身体ごととどろかせるような、重く、嫌な感がした。

 しばらくするとその音は鳴りやみ、代わりに、ギシギシと虫のひしめくような音が聞こえだすのだった。

 軋む音だ、とぼくは思った。

 ぼくを包みこむ褐色の膜、熱源がいままさに潰れようとしている。

 ヒビのようなものは見えない。軋む音に紛れて耳に届くギシギシは、褐色の膜、熱源の向こう側にひしめく、まさにムニムニたちの立てている音かもしれなかった。

 断絶されていたはずのこの空間が、向こう側と繋がろうとしている。

 ぼくは泡の弾ける光景を連想し、あっという間にムニムニたちに押しつぶされるじぶんを想像した。

「セル」

 自律式汎用性立方体に呼びかけたのは、この空間が外界と繋がりつつあるのならば、ほかのセルとの通信が可能かもしれないと、閃いたからだ。

 しかし矢継ぎ早に告げたこちらの指令をセルは受け付けなかった。電波はまだ遮断されたままであるらしい。このままでは、外界と通信できるようになった瞬間にぼくは圧しつぶされてしまうだろう。或いは、父のように跡形もなく消失してしまうかもしれない。

 せめてほかのセルに指示をだせれば。

 思うと同時に、違和感を覚えた。

 だせたはずだ。

 父ならばほかのセルたちに指示をだし、その場を脱することくらいはできたはずだ。

 なぜしなかったのか。

 それ以前に、あのスピーカーじみた機器、おそらくは対ムニムニ用の武器なのだろうけれど、あれをわざわざ父が操っていたのはなぜなのか。

 セルに装備させて、セルに攻撃を行わせれば済む話だ。

 あの武器が一つきりだったとしても、父は物陰に隠れながらセルに指示をだし、安全を確保しつつ応戦できたはずだ。

 ムニムニたちが人間に反応して現れるのだとしても、セルを使わない道理はない。

 父はわざとセルを使わなかったのだ。

 なぜだろう。

 考えられるとすれば、セルを残すため、破壊しないようにするため、としか考えられない。

 父は端から生き残るつもりがなかった?

 ぼくを生かすため、と考えたところで、はっとした。

 このままでは父は無駄死にだ。

 だったら戦わずに最後までぼくのそばにいてくれればよかったのだ。セルだって残す必要がない。

 だとするのなら。

 息を呑む。

 セル、と呼びかけ、ぼくは予約された指示がないかを確認した。もし父がセルに前以って指示をだしていたとすれば、それはこのセルにも共有されているはずだ。

 案の定、セルは三ケタの数字を立方体の側面に表示した。その三ケタの数字は、刻一刻と減りつづけていた。

 カウントダウン。

 それは残り、家族の顔を思いだすあいだに消えてしまうくらいに短い時間だった。

 時は訪れた。

 変化は段階的にやってきた。まずは万華鏡じみた情景をのべつ幕なしに醸していたムニムニたちがいっせいにその動きを止めた。それはつまり褐色の膜、熱源に押し寄せるのをやめたということなのだろう、あまりにいっせいに静止したものだから、それらムニムニたちもセルのような群れなのかと直感した。

 個体同士で並列し、個々の自律性を保ちながら、全体でひとつの統合された意思を併せ持つ。

 動きを止めたムニムニたちは、一転、ぶるぶると震えだした。それは自力で出力可能な動きには見えなかった。ムニムニたちの身体はボコボコと波打ち、出産間際の母犬を思わせた。

 群れはパラパラと離散しはじめる。お湯に浸けた泥団子のようだ。奥のほうの風景、部屋の内装が垣間見えるようになったころには、ムニムニの大部分は、この場から消失していた。

 それは、これまでのような霧が晴れるような消え方ではなく、内部から破裂し、細かく飛散して空気にまじって見えなくなる花火じみた消失だった。

 奥のほうにいるムニムニほど破裂するのがはやい。ぼくを囲う褐色の膜、熱源は、ドーム型だから、四方八方にムニムニは押し合いへし合いしていたはずだが、いずれの方向であっても奥のほうから、同じようにムニムニたちは弾けて消えた。

 花火のようだったそれはやがてぼくに近い距離にいたムニムニたちにまで伝播し、しゃぼん玉のように弾けては、やはり消えた。

 最後には、ぼくとセルだけが残された。

 褐色の膜、熱源はなおもぼくを包みこんでいたけれど、どこからともなくほかのセルたちが集まってきては、外側から、レーザーのようなものを照射した。レーザーのようなものが当たったところから褐色の膜、熱源は溶けて、開いた穴からは新鮮な空気が流れこんだ。ツンと鼻を突く臭いがしたけれど、それもすぐに薄れた。耳障りな雑音には聞き憶えがあり、空気浄化装置が全開で起動しているのだと判った。

 ぼくはぼくを包みこんでいた膜からそとにでた。セルはまだ作業をつづけており、レーザーのようなものはぼくの身体にも当たったけれど、熱くもなく、痛くもなかった。

 部屋のなかをゆっくりと歩く。ムニムニたちの痕跡は到る箇所に残っており、残っていない場所を探すほうがむつかしかった。棚はどれもへしゃげているし、床や壁、天井は爆発でもあったみたいにへこんでいる。巨大な球体が部屋に現れ、突然消えたような有様だった。

 父の姿はなく、部屋には大小さまざまなスピーカーのような機器だけが無傷のまま転がっていた。

 父がムニムニたちに向けていたものと同型だと判断ついた。このなかにはじっさいに父が使っていたものも混じっているはずだ。

 ぼくはなぜ父があんな真似をしたのかを考えた。いくら考えても、ぼくの目頭が熱を帯びる以上の考えは浮かばなかった。

 どうしてムニムニたちはあんなにたくさん集まってきたのだろう。どうして突如として消えてしまったのだろう。どうしてこんなにあった武器を父は一つしか使わなかったのか。どうして時限式で起動するように仕向けたりしたのか。

 どうして、どうして。

 考えだしたらキリがなく、そしてなにより、いくら考えても父はもうここにはいないのだった。

 セル。

 ぼくは呼びかける。セルの表面に、指示待ちの青が点灯する。

「さっきここにいた白い個体の群れが何か、教えて」

 セルはポーンと了解の音を発し、全身を黒く変色させると、宙に浮きあがり、そしていくつかのほかのセルと共同して、立体映像を部屋の中央部に投影した。

 黙っていてすまない、すこし長い話になるが聞いてくれないか。

 父の虚像が語りはじめる。ぼくは滲む視界をしきりに手の甲で拭いながらまっすぐと、ここにはもういない、けれどたしかにここにいた父の過去を見詰め、耳に届く難解な話と、それでも柔和な父の眼差しを咀嚼するように努めながら、これからこの船をどこに向かわせるべきか、シンと静まりかえった頭の奥底のほうで、底なしの闇に差す光を探しはじめている。 




  

【つまらぬ小説で息が詰まる】


 むかしむかしあるところに、つまらない小説をたくさんつくって死んだ作家がいたそうな。その作家は死ぬまでに、一人の人間が一生かかっても読みきれない量の物語を編んだが、そもそも一つ一つがつまらなかったので、一作も読まれずに死んでいった。

 しかし、こんなつまらない小説でも、腐るほどにつくれば歴史に名を遺せるのだと世に知らしめた功績は多くの者たちから「余計なことしやがって」とこっぴどく批判され、そのことによりますます名が知れ渡り、世のろくでなしどもを無駄に勇気づけたという話であった。

 あいにくとその作家は死ぬまで誰からも必要とされず、小説を読まれもせず、評価もされず、探られることもなかったため、いったいどこの誰で、どのような人物かがまったくの不明であり、つまらない小説をたくさんつくって死んだ作家として以上の側面像はいっさい不明であったそうな。

 かくして、誰にも読まれない小説をたくさんつくって人知れず死んでいった作家は、とりあえずつくりつづけてさえいれば、その何の意味もない行為ですら功績として認められ、伝説として語り継がれるようになる一例として、「つまらぬ小説で息が詰まる」の一文を以って、諺にもなった。じっさいに、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家の小説を読もうと試みて、そのあまりのつまらなさに息どころか息の根まで詰まらせ死んだ者が後を絶たないとかなんとか、そのような話であった。

 いかにつまらぬ小説であったかは諸説あり、たとえば、むかしむかしあるところに、からはじまる、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家にまつわる掌編などは、じつに息がつまることしきり、無理をして読み進めれば確実に命を落とすと危惧されたことから、その読解は、国の法律にて厳重に禁止されているほどである。

 読了した者はおしなべて死去しているからには、その全貌は闇のなかだ。

 こうして、あなたが目にしている模造文にて、その片鱗を推し量るより、術はない。

 ところで、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家の死因であるが、どうやらその者はある時期、自作を改稿しようと試みたそうだ。死因は推して知るべし。なにより、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家はそれまでいちども自作を読みかえしたことがなかったことを示唆している。世の作家諸君におかれては、「つまらぬ小説で息が詰まってしまう」前に、自作を読みかえす習慣をつけておくことをお勧めしよう。

 むかしむかしあるところに、つまらない小説をたくさんつくって死んだ作家がいたそうな。その作家は死んだあとでも、他者の妄念にとりついて、こうしてつまらぬ文章を生みだしつづけている。




  

【ミカコさんと小石】


 ミカコさんはぼくのとなりの部屋に住む隣人で、幽霊だ。

 四年前にこの部屋へ引っ越してきたとき、夜な夜な女性の咽び泣く声が聞こえていた。当時、隣の部屋には若い男女が暮らしていて、DVか何かをされているのではないか、と勘繰っていた。

 しかしどうやら泣き声はぼくの部屋から聞こえているのだと気づいたとき、ぼくはぼくの部屋にうずくまり泣いているミカコさんの姿を発見したのだった。

「まさか意思疎通できるとは思わなくてびっくりしましたよ」当時のことを思いだし、ぼくは言った。「ミカコさん、だって幽霊っていうよりも雨に濡れた子犬みたいだったし、怖いってよりも、ただただ可哀そうで」

 きみはわたしを怖がらないよね、というミカコさんのつぶやきを受けてはじまったこの会話だったが、ミカコさんは終始どことなく不満そうだ。

「まさか泣いてた理由が、夜な夜なじぶんの部屋の恋人たちが愛の行為にふけっていて、うらやましくての悔し涙だとは思わなかったけど」

 からかいたくなってそんなことをぼくは言った。

 ミカコさんは唇を尖がらせる。

 いっしゅん姿をかすめたかと思うと、ぼくの頭上にふわりと現れ、そのままぼくの膝元に、すとんとおさまった。おばぁさんのひざのうえで丸くなる猫みたいで顔がほころぶ。

「ミカコさんはさびしんぼさんだなぁ」ぼくは彼女のあたまに触れようとするけれど、霧のようにすり抜ける。ミカコさんからぼくに触れることはできても、その逆はできないのだ。「ぼく、来月でもう卒業です。就職先も決まりました。この部屋ともお別れしなくちゃいけません」

 散々この話はしてきたからミカコさんだって重々承知しているはずだ。

「ミカコさんはここから動けないんですよね」

 いわゆる呪縛霊だからだ。

 呪縛しているのが、ミカコさん以外の何かなのか、それともミカコさん自身の怨念のようなものなのかは分からない。

 ひょっとしたらミカコさん自身がぼくに何かしらの因縁を覚えて、執着してくれさえすれば、いっしょにこのオンボロアパートから出て行けるものかと期待していた時期があったけれども、どうやってもミカコさんはこのアパートの敷地のそとには出られないのだった。

 一生この部屋に住むことも考えた。

 ただそんなぼくの思惑を嘲笑うかのように現実のほうが、ぼくの幼稚さを無下にした。

 このアパートはいずれ取り壊される。一年半前にその旨を大家さんから聞いていた。なんでも耐久性に問題があって、一定水準に満たない建築物は、県の指示で改修工事を義務付けられるそうなのだ。改修のできない家屋は取り壊し。その期限はあと数年後に迫っている。

 つまり、ぼくがどんなにがんばってもミカコさんとこの部屋で過ごせるのはその期日までということになる。

 いったい彼女はアパートのなくなったあと、どうなってしまうのだろう。野ざらしの空き地でぽつねんと佇む彼女を思い、ぼくは胸の奥がぎゅうとちいさく縮こまるのを感じた。

 ミカコさんはひとしきりぼくのひざのうえでじっとしていると、すくと立ちあがり、わざわざぼくの身体をすり抜けるようにして隣の部屋へと立ち去った。もちろん扉なんか使わず、壁をすり抜けていく。

 いまはもう隣の部屋にひとはなく、恋人たちの甘い密約をミカコさんは見ずにいられる。だからこうしてぼくの部屋にくる必要もないはずなのに、彼女はぼくが部屋にいるときはトコトコとやってくるのだった。

 けれどこの日から彼女はもうぼくの部屋にやってくることはなくなった。ときおり壁越しに呼びかけてみるのだけれど返事はない。

「ミカコさん、ミカコさん。背広シリーズの第四シーズン、配信開始されてますよ。いっしょに観ましょう」

 この四年間で追いかけつづけてきた海外ドラマの新作を餌に誘ってみるものの、やはりミカコさんは応答しないのだった。

 ひょっとしたら、と嫌な想像が脳裡に浮かぶ。

 彼女はもうとっくに成仏してしまっているのではないか。ぼくは誰もいない虚空に向かってしゃべりかけているだけではないのか。

 もっと言ってしまえば、ぼくはこの四年間、ミカコさんという想像上の人物を幽霊だと信じ込んで過ごしていただけではないのか。

 ぼくはもう、ぼくのことを信じるのが段々とむつかしくなっていった。

 けれど、季節外れのコタツに足を突っこみ、独りで海外ドラマを観ていると、ついつい、このバービーも初期のころからずいぶん変わりましたよね、とミカコさんにしゃべりかけたくなるぼくがいて、そしてミカコさんが食い入るように追いかける出演陣にわずかな嫉妬心をこしょばゆく感じていた当時のじぶんの心境が鮮やかによみがえるのだった。

 ぼくはそう、たしかにミカコさんとこの部屋で同じときを過ごしていたのだ。

 妄想なんかではなく。

 よしんば妄想であったとして、だったらどうしていまはぼくの都合に反して出てきてくれないのか。これでは妄想であったほうがマシではないか、と理不尽な現実に、ともすればミカコさん自身に怒りをぶつけたくなるのだった。

 ときおりミカコさんの夢を見た。

 行ったことのない風景が広がる。ぼくはミカコさんの生前の思い出の場所、それはたとえば彼女の通っていた学校であったり、バイト先であったり、実家だったり、よく彼女がダイエットと称して昇っていた坂道だったりしたのだけれど、ぼくは彼女の記憶を覗くように、彼女に手を引かれ、散策した。

 夢を見た朝は決まってぼくは涙を流しており、そうした朝が増えていくたびにぼくのなかにわだかまっていたミカコさんへの怒りはどんどん冷めていった。そして消えた怒りの跡には、ぽっかりと穴ぼこが空いているのだった。その穴ぼこの名をぼくは知っていたけれど、見て見ぬ振りをした。

 けっきょくミカコさんはぼくが部屋を退去するその日になっても現れてはくれなかった。

 大家さんに頼んで隣の部屋を覗かせてもらった。やはりそこにも彼女の姿はないのだった。

 引っ越しを済ませ、就職すると、新人研修から、職場配属、そして慣れない仕事に追われる日々がはじまった。気づくと半年という時間が、弓道家の放った矢のごとく過ぎ去っていった。

 それでも夢のなかにはたびたびミカコさんが現れた。知らない景色を懐かしく思うほどに、ぼくは毎夢のようにミカコさんと同じ場所を辿り、同じような景色を眺めては、毎回異なる会話を交わし、目覚めたときには宝物を奪われたかのように涙を流しているのだった。

 夢で交わした会話の内容は憶えていないけれど、ミカコさんと楽しい時間を過ごしていたのだとの感触だけがいつもこの胸をほくほくと温めている。

 ぼくは週末、仕事が終わったその足でミカコさんのアパートに向かった。もういちどちゃんと探したかった。呼びかけたかった。なにより、せめてお別れだけでも言いたかった。

 アパートのまえに着き、ぼくは愕然とした。

 アパートはとっくに解体されており、新しくコンビニが建つ旨を知らせる看板が掲げられている。

 ミカコさん、ミカコさん。

 ぼくは呼びかけながら敷地のなかをさまよった。ぼくらの部屋は二階だったから、星空に向けて呼びかけもした。通行人が奇異な眼差しを寄越しながら通り過ぎていく。歩を止めてじっと眺めてくる者もあり、不審者として通報されるのも時間の問題だと思った。

 ぼくは喚くのをやめた。

 ミカコさん。ミカコさん。

 心のなかで何度も唱える。どうして何も言ってくれないんですか。ぼくはこんなにもあなたを求めているのに。

 たぶんそれはね、とぼくのなかのミカコさんの影が応じる。

 あなたがわたしをそれほどまでにつよく求めているからだよ。

 そうだよね。ぼくはとぼとぼと踵を返す。

 解かっていた。彼女は死んでいて、幽霊で、この世に存在していない存在で、だからぼくたちは依存しあうこともできない水と風のような関係だった。彼女はぼくという水面を波たたせてはいたけれど、ぼくは彼女に何もしてあげられなかった。

 そしていま、ミカコさんに見放されたぼくは、凪となってシンと静まりかえっている。

 ぼくはアパート跡地から出る前に、瓦礫と思しき石ころを一つ拾いあげ、手のひらで転がしてから、ポケットに詰めこんだ。

 これがドラマか何かだったらきっとこの石を持ち帰ったぼくの部屋にミカコさんがふたたび現れるようになるのにな。

 そんなことはあり得ないと思いながら、それを期待し、その場を去るぼくがいた。

 家路を辿りながらぼくは、電信柱の数を無意味に数えながら、何かを祈るような心地で、じぶんの新居との距離を埋めていく。

 マンションの玄関をくぐり、エレベータに乗り、じぶんの部屋の扉のまえに立ち、ぼくは一つ鼻から息を漏らして、ただいま、と扉を開けた。

 ぼくの内面を具現化したような静寂がぼくを包みこむ。ぼくはポケットのなかの石ころを部屋の鍵といっしょに、テーブルのうえに置いた。

 ミカコさん。ミカコさん。

 心のなかでぼくは呼びかける。

 せめてぼくが死んだあとでくらい会いにきてください。あと何十年後かは知りませんが、ぼくは待っています。

 レトルトカレーを温めて食べ、シャワーを浴び、そしてぼくは部屋の明かりを消して、彼女の夢を見られますようにと祈るでもなく予感しながら、暗がりの底に沈んでいく。

 夢うつつに、瞼の向こう、うっすらと光る小石を見た気がした。

 けれど、ぼくにはもう、それが夢なのか現実なのかの区別はつかないのだった。 




【よーむん】


 怖い話をしよう、と双葉が言いだした。

 双葉は私の従妹で、ことし中学生になったばかりだ。夏休みになると私の家にやってくるのが毎年の恒例だった。

「怖い話なんかしたら夜中にトイレに行けなくなるよ」

「いっしょに行けばいいじゃん」

 双葉は切りすぎたらしい髪の毛の先端をゆびさきでいじくりながら、いっしょに怖くなろうよ、と食い下がった。

 しょうじき怖い話なんてしたくなかった。

 だって怖いから。

 何を好きこのんで恐怖を抱く必要があるのか。身の危険をわざわざ感じていったいどんな得があるというのか。じぶんで家に火をつけて消火してヒーローにでもなったつもりか。マッチポンプもたいがいにせいよ。

 内心、叫びたくてたまらなかったが、双葉からはよいお姉さんとして思われたくもあり、

「じゃあいっしょに怖くなっちゃおっか」

 言って冷房の設定温度をすこし下げる。頭から毛布を被り、二人して体温がぬくく感じる程度にひっつきながら、互いに一個ずつ、怖い話をしていくことになった。

 最初は私からで、むかし父から聞いた話を、記憶にあるままに話した。父が学生のころに流行った怪談らしく、イマドキではないが、じぶんで話しているだけで背筋が総毛立つのを感じた。

 最初こそ、くすくすと笑っていた双葉だが、しだいに私の腕にひっつくようになり、最後のほうは顔がこわばっていた。メディア端末の明かりが私たちを下から照らしている。

「じゃあつぎ、双葉ね」

 私は努めて何でもないように促したが、すでに内心、後悔していた。ホントなら、双葉の臆病さ加減にかこつけて、もうやめよっか、と提案してもよかったが、包容力あるお姉さんと思われたい欲求と天秤にかけているあいだに、つよがりが口を衝いていた。「さあ、どうぞ」

「じゃあ、えっとね」双葉は私にひっついたまま、「怖い話っていうか、このあいだあったことなんだけど」前置きして話しだす。「学校で流行ってる遊びがあって、『よーむん』っていうんだけど」

 記憶を探り探り話しているからなのか、じれったい思いをしながら聞いた話をまとめると、その「よーむん」をした子たちのあいだで、徐々によくないことが起こりはじめ、間もなく、教師たちからも「よーむん」を禁止するように指示されたのだそうだ。

「でもおかしいよね。だって『よーむん』のせいだって決まったわけじゃないし、先生たちは『よーむん』がどんなかもよく知らないのに」

「どういう遊びなの」肝心の「よーむん」がどんな遊びかを、双葉は説明しなかった。さすがに教えてもらわなければ話の要領を得ない。

「人形遊びみたいなものでね」

 聞けば、架空の人形をみなで愛でる遊びなのだそうだ。「本当にあるわけじゃなくてね。ここにあるつもりで、名前も決めて、ちゃんと一体だけがそこにあるみたいにして、抱っこするときも一人のコが抱っこしてたら、ほかのコは抱っこできないルールにしたりして」

「ごめん一ついい?」

 返事を俟たずに私は言った。「それってどうなったらゴールなの? あ、ゴールとかある? ゲームとは違うのかな」

 言ってしまえば、何がおもしろいのかが解からなかった。

「ないよ。ただそこにあるつもりで生活するだけ。人形がだよ。授業中とかも、ちゃんと誰が世話をするか決めたりして」

「誰がはじめたの?」

「誰だろう。なんかかってになってた」

 双葉は眠たそうに目元をこする。それでね、と彼女はさきを続ける。「だんだん一人のコだけが独占するようになっちゃって。ずるいって言うコが増えていって、こんどはそのコのことをいないことにして生活するようになって」

「無視したってこと?」イジメだ、と私は言った。

「ううん。無視じゃなくて、本当にいないことにしたんだよ」

「人形はそこにあることにして、で、友達はいないことにした、と」

「そう。でも人形はそのコが持ったままだったから、人形ごといないことにしなくちゃならなくて」

「新しくつくればいいのに」

 投げやりな口調になっていたかもしれない。遊びのルールにそこまで本気になるなんて、と呆れていた。どうせなら一人一体ずつつくりだせばよいのに、と。

「そうなんだけどね」双葉はどこ吹く風で、「マナちゃんって言って、いないことにしたコ。二週間くらいかな。本当に学校にこなくなっちゃって。いないことにしたら、本当にいなくなっちゃって。学校に来ないだけじゃなくて、本当にいなくなっちゃったんだって」

「マナちゃんが?」

 双葉はうなづく。「そう。マナちゃんが」

「えっと、それは作り話?」

 そうとしか思えなかったのでそう言った。女児が失踪したらニュースになっていそうなものだ。

 私がそうこぼすと、

「なってるよ」

 双葉は私をせっつき、検索してみて、とメディア端末を手渡してくる。私はいちど毛布から顔をだし、キィワードをいくつか入れて検索した。

 するとここ半年のニュースのなかに、それと思しき記事を見つけた。

「これ?」

 双葉に見せると、彼女は画面を覗きこみ、そうそう、と鼻息を荒くした。

「失踪って書いてある」

 何らかの事件に巻き込まれたものとみられ、と記事には並んでいた。遺体が発見されたりしたわけではないことにひとまず胸を撫で下ろす。

「あ、ここ」

 双葉が画面をゆび差し、なになに、と私はそこを拡大表示する。記事にはまだつづきがあった。最後に目撃されたのは女児が自宅マンションの玄関をくぐっているところで、監視カメラの映像で姿が確認されている。共働きの両親が帰宅したときにはすでに女児の部屋はもぬけのからで、見慣れぬ人形が置き去りにされていたそうだ。

 見慣れぬ人形?

 私はもういちど頭から毛布をかぶり直す。こんどは私が双葉の身体にひっつくようにした。

「そう。人形。どんなのかは知らないけど、友達がマナちゃんの母親から聞いた話だと」

 みなで本当にそこにあるつもりでつくりだした想像上の人形に、外見の特徴がそっくりだったそうだ。

「イタズラでしょ」

 私は言った。

 言ってから、イタズラだったらそちらのほうがおそろしい、と思った。

「だれの? わたしたちしか知らない人形を用意して、マナちゃんを誘拐して、カメラにも映らずにマンションからいなくなった? だれが?」

 私はもう、これ以上この話をしていたくなくて、

「こわいこわい」

 おどけながら、

「もうきょうはおしまい。寝よ寝よ」

 毛布を取り払い、部屋の明かりを灯す。そそくさと布団に潜りこみ、明かりはそのままに、となりに敷いた布団を叩いて、あなたもはやくよこになりなさい、と双葉を促す。

 それからすこし気になったので、

「もうしてないんでしょ」と訊いた。「その遊び。なんだっけ」

「よーむん」

「そうそれ」

「してないよ。わたしはね」

「その言い方だとなんかほかのコたちはまだやってるみたいに聞こえるね」

「やってるんじゃないかな。どうだろ。よく分かんない」

 双葉は布団にすっぽり頭ごと包まれると、カマクラみたいになりながら、だって、とつぶやいた。

「いまはわたしがいないコだから」

 聞き返すべき場面だったろう、よきお姉さんとして振る舞うならば。だが私はこれ以上話をつづけたくなくて、じぶんから訊いておきながら、

「そっか。それがいい」

 話を打ち切った。「安心していいよ。お姉ちゃんは双葉のこと忘れたりしないから」

 ね?

 手を握ってやろうと思い、それは半ばじぶんのためだったが、布団と布団の繋ぎ目を越え、手を伸ばす。首を引っ込めたカメみたいに盛りあがった布団のなかにその手を忍ばせると、思っていた以上にちいさな手が私のゆびに触れ、ぎゅぅうっと弱弱しく締めつける。 




【哀しい独善】


 あの方の不満そうな顔が好きだった。あの方の集中している姿が好きだった。私は遠くからそれを見守り、ときおり声援を送るのがやっとのことで、あの方にとっての何かしら特別な存在ではなかったし、なろうとも思わなかった。

 私の存在を知ってもらいたいだなんておこがましい考えを抱いたことはなく、感謝してほしいなんて厚かましい欲もない。私はただただ、じぶんのためにあの方を応援したい。

 私は私の自己満足のためにせっせとあの方の表現を追いかけ、あの方の言葉を待ち望んでいる。せめて何かお返しがしたいと贈り物を用意し、それを受け取ってもらう場を築こうとするのだが、けっきょくのところそれは私の自己満足でしかないから、あべこべにあの方を困らせ、負担となり、私は私の望まぬ形であの方に認識され、拒絶の意を示される。

 だがそれでも私はあの方の表現を追いかけ、あの方の言葉を待ち望むのだろう。私は私のためにあの方を応援している。拒まれようと、嫌われようとそんなことは関係がなかった。

 受け取ってほしい。受け取ってほしい。

 私がどれほどあなたの表現に支えられ、励まされ、あなたの存在が生きる糧となっているのかを、その片鱗でしか示せないが、この贈り物を受け取ってほしい。

 私はことさらあの方を応援し、ファンレターを送りつけ、贈り物を届けようと奔走した。

 きっとあの方は私のことなど厄介なストーカーとしてしか見做さないだろう。ひょっとしたらとっくに接触経路を遮断していて、私の言葉の何一つ届いていない可能性もある。だからといって私は私の言葉を止めることはできない、この想いを否定することはできないのだ。

 私は私のためにあの方の表現を追いつづけ、あの方の言葉を求めつづける。

 あの方の表現が私にそそがれることはなく、あの方の言葉が私に向けられることはない。

 それでも私はあの方が表現者として死に、言葉を失い、燃え尽きてしまうまで、どこまでも、どこまでも、見守りつづけるだろう。私は私がいちばんだいじだから。

 あの方の負担になろうと、そんなことはどうだってよかった。

 私はただただ、応援したい。求めたい。

 遠くから。遠くから。

 あなたそのものではなく、あなたの表現を。

 言葉を。

 或いは、私の言葉が、思いが、贈り物があの方の心を圧迫し、圧し潰してしまうこともあるかもしれない。だが、そんなことは蝶が春に羽化し、夏を過ごし、秋には死んでしまうのと同じくらい些末な事項だ。

 私が応援するのだから、私が求めるのだから、それだけのつよさを見せてほしい。あの方にはそれだけの器がある。私がそう見做し、応援し、お礼をしたいと望むのだから、それだけのつよさがあるはずだ。

 もしないならないで、さっさと潰れてしまえばいい。私はただただ、応援したいのだ。

 じつを言えば対象はあの方でなくとも構わない。

 つよくうつくしく、醜く、弱く、矛盾した存在にこそ私は、深く、遠く、惹かれるのだ。

 あの方は脆く、繊細で、そして儚く、だからこそ潰れない。霧のように、消えるときはただただ晴れやかに、さっぱりと失せていくだろう。粘り強さとは無縁の底知れなさがある。

 潰れるものなら潰れてみせてほしい。

 私の応援程度で潰れられるほど、あの方はふつうの輪郭を有してはいない。

 拒まれようと、無視されようと、関係がない。

 私の応援など、あの方にとってはとるに足らない、蟻の影のようなものなのだ。うるさそうにする価値もない。

 だから私はせっせと贈り物を用意する。

 どれがよいだろうかと見繕いながら。

 あの方の望む、若く小股の切れ上がった小鹿のような脚を持つ、端正な顔立ちの少女たちを。ときには少年を。

 私は箱に詰め、今宵もあの方の元へと送り届けるのだ。




  

【こちら、悪意でございます】


「俺はおめぇを殺さなきゃなんねぇ。なぜって、そんなことに理由が必要か?

 強いて言うならおまえがいまこれを読んでいて、その前には読んでいなかったってことが理由だよ。死ぬには申し分ねぇだろ?

 おまえはもうすぐ死んじゃうんだけど、だって俺がおまえを殺すわけだから、そうそう、おまえのことは知ってっからな。逃げんなよ。おまえがどこの誰で、どこに住んでんのか、おまえが誰の子どもで、誰の後輩なのか、おまえが無邪気にネットにばら撒いてる情報から簡単に突き止められんだ、そんくらいの想像力も湧かなかったかよ殺したいくらいお茶目でちゅねぇ。

 俺はこれからおまえを殺す。ぶっころすよ。だがその前にまずは、おまえがここ半年でもっとも愛情振りまいてやってる人間を拉致らなきゃなんねぇ。

 ネットは便利だよな、さいきん俺ぁ、業務用ミキサーを買ったばっかでな。空き缶から段ボールから、いらねぇ椅子から箪笥まで、なんでもゴリゴリまたたく間に砕けやがんの。クズになって、溜まってく。

 試してみたいねぇ。人間がどんな音をまき散らして、いったいどこまで散り散りに砕かれたら喚かなくなんのかってよォ。

 そうそう、だからおめぇをぶっころす前にまずはおまえの大事な大事な誰かさんを拉致ってきて、おめぇの目のまえで、ミキサーに手のゆびつっこませてやんよ。で、つぎは腕だな。ミンチにしてやっからよ。肩までいったらこんどは足さきからゴキゴキ歯車の合間に押しこんでやんよ。

 おまえは、やめろ、とかなんとか喚くだろ、でも頭んなかじゃ、ミンチになるじぶんを想像して、チビったりしちゃうわけ。じぶんじゃなくてよかったあ、なんて思いながら、やめてください、やめてください、とか言って、ミンチになりかけの大事な大事な誰かさんを庇おうとすんだが、そこで俺は提案するよね。

 やめてやってもいいけど、コイツを見殺しにできたらご褒美あげるよって。おまえは殺さずに逃がしてやるよって。

 もうこの時点で、おめぇの大事な大事な誰かさんは両手両足がなくなっちゃってんだけどさ、でも死んじゃいねぇから、おめぇはすこし悩むよね。

 俺は言うよ。

 このミンチもどきを助けてやってもいいけど、したらつぎはおまえだぜって。

 足から順々に、頭がなくなるまで機械は止めねぇ。おまえは死ぬし、どうせコイツも助からねぇ。だったらコイツ見殺しにして、おまえだけでも助かっちゃえよって、俺はおまえにそう言うよ。

 おまえは考えるだろ。そのあいだ、おまえの大事な大事な人間は、気絶してっかもしんねぇし、意識があんのかもしんねぇ。助けて、助けて、なんて言ってるかもしんねぇし、殺してー、殺してー、って甘ったるく叫んでるかもしんねぇな。

 俺はおまえのまえに、業務用ミキサーのリモコンを持ってくだろ。で、起動ボタンを押してから、おまえに手渡すわけ。おまえの大事な大事な誰かさんの悲鳴がまたサイレンみてぇに響くよね。

 で、おまえはただ停止ボタンを押せばいいわけ。でも、助けたらつぎはおまえなわけ。

 なあ、おまえならどうするよ。そのときになんなきゃ解かんねぇかな。だったらやってみるっきゃないよな。物は試しだよな。

 だから最初に言ったように、俺はおめぇを殺さなきゃなんねぇ。

 なんでかって、最初も言ったじゃんよ、考えりゃ分かるだろって。

 胸に手を当ててよっく考えてごらんなさいよ。

 どうよ。

 何も浮かんでこないだろ。

 そりゃそうだ、おめぇの罪は俺さまを虫ケラみてぇに扱うでもなく、無視するでもなく、これを読むまで気づかなかったことにあっからな。

 いいか、おまえは気づくべきだった。俺っつう存在がこの世に存在していて、虫ケラみてぇに細々と誰に気づかれるでもなく、道端の小石みてぇに生きてきたことに目を留めるべきだった。

 俺はおめぇに見つかる前からここに存在したし、おめぇが無視してきたやつらみてぇにおめぇ以外の有象無象にシカトぶっこかれてきた。

 虫ケラみてぇに弾かれて、蔑まされて、歯牙にもかけられず、植物プランクトンにもなりきれぬままに、誰の、何の、糧にもなれずに、いまおまえにこれを読ませてる。

 勘違いすんじゃねぇぞ。おめぇがこれを読んでんのは、おめぇの意思じゃねぇ。俺さまがおめぇに読ませてやってんだ。

 気づくのがおせぇんだよ、殺すぞ。

 ってか、殺すんだけどな。

 さすがに苛々してきたか? 読むのやめようとか考えてんじゃねぇだろうなぁ。

 まあ、それもいいけどな。おまえがここで読むのをやめたところで、おまえをぶっころす俺の未来は不動だからよ。

 たとえばそうだなぁ。

 今ここで、想像でいい、何かこの世でもっとも残酷な所業を思い浮かべてみろよ。それは十中八九すでに誰かが行ってる。場所が地球上であり、物理法則の及ぶはんちゅうにあるできごとでありゃ例外はないと断言していい。

 いいか、どんな残酷なことであれ、すでに誰かがやってんだ。

 なんで俺はしちゃならねぇんだ?

 誰かがすでにやってんのに、どうして俺はやっちゃいけねぇんだ?

 ずるいだろ。そんなのはだって、ずるいだろ。

 俺だって、人生の絶頂にいるおめぇみてぇな野郎を監禁して、いずこより拉致してきたガキにおめぇの世話をさせてから、たっぷり情を抱かせたあとで、おめぇに問いたい。

『今からおまえの娘か、このガキのどちらかを犯す。十秒以内に犯されてもいいと思うほうを選べ』

 てめぇは悩むだろ。だが十秒は確実に経過する。

 選べなくてもいいし、どちらを選んでもいい。いずれにせよ、目のまえでガキを犯す。どちらを選んでもガキを犯す。

 おまえがじぶんの娘を選んだならば、おまえは自身のふがいなさを恨み、ガキへの呵責の念に苛まれるだろうし、おまえがガキを選べば、娘よりもたいせつなガキが目のまえで犯される。おまえの尊厳はいちじるしく損なわれるよな。ここまでが序章だ。

 おまえの世話は継続してガキに任せる。おまえは以前にも増してガキに情をそそぐよな。俺への憎悪を募らせるたびに、ガキへの情が増してくんだ。

 二度目の問いの時間だ。

『今からこのガキを犯す。しかし俺も悪魔じゃない。犯す役を選ばせてやる。俺か、おまえかだ』

 おまえに選択の余地はねぇ。

 その日、おまえは自らの性器を用いて、或いは俺の用意したオモチャで以って、ガキをつらぬく。すまない、すまない、なんて謝罪の言葉を繰り返しながら、無様に腰をふりつづけるわけ。

 俺はそれをカメラ片手に黙って見守るわけ。神聖な行為だ、余計な野次は飛ばさねぇ、思う存分ガキに愛をぶちまけろ。

 この日以降、おめぇはことあるごとにガキと肉体関係を結ぶようになる。わかるよ、わかる。孤独な世界で、不条理を分かち合える存在は希少だよなぁ。心身ともにガキとおまえは依存しあう。

 で、仕込みは上々だ。三度目の問いに移ろう。

 俺は問う。

『今からおまえの娘か、そのガキのゆびを切断する。十本すべてだ。一本につき三時間ほどかける。三十時間の長丁場だが、可能なかぎり薄く輪切りにしていく。腹が空くようならばそれを焼き、食わせる。選ばせてやる。娘とガキ、俺はどちらの指を切ればいい?』

 おまえは迷うだろ。でもそんなおまえに、ガキが言うんだ。

『わたしを選んで。だいじょうぶ、死にはしないから』

 けなげだねぇ。

 けっきょくてめぇは選ぶこともできねぇで、じぶんが代わりにいたぶられますから、とかなんとか怯えた目で訴えるわけ。俺はやさしいので、じゃあしゃあねぇなって、おめぇじゃなくガキのほうの頼みを聞き入れるわけ。で、おまえの目のまえでじっくり三十時間かけて、ガキの指をすべて輪切りにしちゃうわけ。

 むろん、その日の食事はすべてガキの指のステーキだ。すべて平らげるまで、新しい食事を与えない。

 懺悔のつもりなのかおまえは、自らの指を食いちぎってその場を耐えしのんでたみてぇだが、失われた指は一本だけなんだなぁ、根性ねぇなぁ、ガキを見習え。

 ここまでくると、おまえもガキも、なかなか愉快な反応を示してくれなくなる。もういいかと思い、俺はおまえに投げかける。

『選ばせてやる。ガキと娘、どちらかを殺す』

 おまえとガキはすでに臍を固めていたのか、互いに手を繋ぎあいながら、

『彼女を殺してくれ』

 おまえはガキを示し、言う。

 心中するつもりなのだろう、死んだガキのあとを追うつもりなのだろう。

 いい判断だ。

 俺はそんなてめぇらを褒め称えながら、何か月も前から用意してあった、おまえの【娘】の解体映像を牢獄いっぱいに映しだす。

 安心しろよ。生きたまま腸を掻きだして、きちんと洗浄はしてやった。死んだあとも解体をやめず、切り分けた肉をシチューにし、それをおまえの食事として差しだすところまでを、三分クッキングの要領で上映する。

 おまえはその場に声もなくうずくまり、しきりに頭髪をブチブチと毟りだす。てめぇへの問いはもうない。だから俺はここで最後の問いを、ガキへと向ける。

『選ばせてやる。おまえと、ソイツ。俺はどちらを殺せばいい?』

 ガキは立ちあがり、逃げるように俺のもとに近寄り、足にしがみつく。『なんで、言われたとおりやったじゃない、さっさとソイツ殺してよ』

 おまえはなおも頭髪をぶちぶちと毟りつづける」 




【プロだからね】


 ぼくはね、人を殺したりは絶対にしないんだ。だってつまらないだろ。苦痛が一瞬で終わってしまうなんて、そんなのはもったいないじゃないか。

 手足を切断してしまうのも千人くらいなら、まあまあ愉快ではあったけれど、やっぱり飽きてしまうんだ。そういう、誰でもできることじゃあ意味がない。

 恐怖をね。

 忘れられない恐怖をいかに刻みこめるかが大事なんだ。

 いいや、刻むのではないね。本人がみずからそれを手放さないようにと、そうさせるように、そっと差しだしてあげるんだ。

 たとえば身体の自由を封じて、呼吸一つするのにもぼくに許可を求めてくるくらいに躾けたあとで――躾けるためにはもちろん多少の苦痛は入り用だけれど――目のまえで、まったく無関係の子猫を殴りつけるんだ。

 ぼくのこの手で殴りつけるわけだから、そりゃあ一発で頭蓋骨が砕けたり、背骨が曲がったりするのだけど、子猫なんて雑草みたいにそこらへんにうじゃうじゃいるだろ。そうでなければ二匹を箱に突っこんでおくだけでかってに増える。

 餌だって、ほら、きみたちみたいな歩く肉がたくさんそこらにうじゃうじゃしているだろ。

 永久機関だよ。

 いくらでも子猫は手に入るんだ。

 で、いまやってみせたように、きみのまえで子猫を殴りつけるだろ。

 そうすると、いまのきみのように、ほかのひとたちもね、みんな同じように傷ついた顔をするんだよ。じぶんが痛めつけられたわけでもないのに、みんな同じような顔をするんだ。おもしろいよね。

 人間はどれも同じなんだよ。

 で、こんどは子犬を持ってきて目のまえで殴りつけるんだ。子猫のときと同じさ。

 そしたらつぎは袋に入れておいたお人形さんの番なんだけど、なんでかみんなそれをかってに赤ちゃんだと思ってくれる。

 ぼくがそれを床に置いて腕を振り上げると、決まってきみたちは命乞いをはじめるんだ。じぶんがいくら痛めつけられてもけっしてそこまで無様に乞うたりはしなかったのに。じぶんの命ではないものになら人間はそこまでじぶんの存在を損なえるんだ。

 おもしろいよね。

 でもぼくは手を止めない。

 思いきり、それまでとは打って変わった勢いをつけて、まるできみが命乞いをしたからそうするのだ、と言わんばかりに、袋のなかのお人形さんを、もちろんこれはきみにとっては赤ちゃんに見えているらしいそれを、こうして殴りつけるんだ。

 え?

 袋から血が垂れている?

 ああ、いつもよりすこしチカラが入りすぎちゃったかもしれない。

 そうそう、忘れていたよ。

 いつもはこうしてきみたちにお遊戯を見せつけながら、文字を一つだけ、きみたちからよく見える場所に掲げておくんだ。それは何でもいいんだ。「あ」でも「い」でも「た」でも「ん」でも。ずっとそれをきみたちの目に見える場所に掲げておく。

 そうするとね、この場からとくべつに、ぼくのやさしさのおかげで脱することのできるきみたちは、自由をふたたび手に入れて取り戻したはずのきみたちは、それでもぼくが見せつづけたお遊戯と、無造作に掲げられた文字をしっかりと記憶して、けっして手放さずに日々を送っていくんだ。

 きみたちは文字を避けるようになる。

 そこには目に焼きついた、「あ」や「い」や「ん」が並んでいるからね。

 きみたちは拭い去ることのできない記憶を呼び覚まさぬように、拭い去ることのできない記憶と蝶々結びになっている「あ」や「い」や「ん」を意識のもっともだいじな場所に掲げつづけるんだ。

 まるで傷口に何も触れないように慎重に歩く怪我をした子犬みたいに。

 ぼくが殴りつけて、でもなかなか死ねない子猫みたいに。

 ぼくはね、人だけはけっして殺さないんだ。

 だっておもしろくないんだよ、飽きてしまったんだ。

 でも、そうだな。

 新しいお人形さんを手に入れなきゃいけないし、それはなんでか子猫や子犬みたいにはいかないんだ。

 どうしてもきみのような、若いコが必要なんだな。

 だいじょうぶだよ。そんな顔をしないで。

 きみもすぐに自由になれる。

 もう壊れてしまったけれど、ほらこのお人形、汚いから袋からだして見せてはあげられないけど、これをぼくにくれたコも、いまごろはきっとどこかのお店で美味しい美味しいハンバーガーでも齧っているはずだよ。

 きみも安心して楽しんでいいんだ。

 ぼくが楽しいと思うことを、楽しめばいいんだよ。

 ぼくはだってこんなにもおもしろいのだもの。

 きみだってきっと気に入ってくれるよ。ぼくには判るんだ。なんどもやってきたからね。きみのこともきっと満足してあげられるよ。

 自信があるんだ。

 プロだからね。

 名刺もあるよ。あとであげるね。





【あとはあなたがゆびで押すだけです】


 自殺なんかじゃない、殺されたんですよ。

 依頼人の孫奈(そんな)真坂(まさか)の怒りに満ちた声を聞き、この案件はがっぽり金を毟り取れるな、と判断し、二つ返事でその事件を請け負った。

 興信所を営みはじめて十年が経つ。これまでにも厄介な依頼は舞いこんだが、殺人事件の調査は今回がはじめてのことだった。

 否、殺人事件であるとはまだ決まっていない。

 依頼人の話によれば、歳の離れた姉が先月遺体で見つかった。場所はひと気のない森のなかで、ロープで首を吊った状態で発見されたそうだ。状況からして自殺と判断されたようだが、依頼人は納得しなかった。

「姉は裁判中でした。勤め先の大手医療機器メーカーと病院を相手取って、医療ミスの告発をしていたんです。病院側も医療ミスを認めていて、メーカーのほうも、賠償金を払うことに同意すると意思表示してきた矢先のことでした」

「だからといって殺されたと言うのはあまりに短絡なのでは」

 ざっと調べたデータによれば、いくども示談を提示されておきながら、依頼人の姉はそれをつっぱね、過去の事例からすると法外としか思えない金額を要求していた。むしろ、その金額を受け入れる姿勢をメーカーや病院側が示したほうに違和感を覚えるほどだ。「医療ミスで亡くなったのは、あなたのお姉さんの息子さんだったとか」

「ええ甥です。姉の受けたこころの傷はいかほどだったのかと、想像するだに、胸が痛みます。甥っこは最新のナノマシン療法を受けていたのですが、どうやら製品に問題があったようで」

「因果関係はハッキリしているんですかね。いえ、ハッキリしているからこそ、裁判はあなたのお姉さんに有利に進んだのでしょうが」

「メーカーは商品の欠陥を認めています。病院側も不良品を掴まされていたとはいえ、治療のリスクを充分に説明していなかったことで被告に」

「なるほど。息子さんを亡くされたのだから相当に精神的にまいっていたことでしょう。法外な賠償金も、これは報復と見做したほうが正しいのかもしれませんな。とはいえ、勝つ気がある訴訟とは思えませんな」

 よく弁護士が見つかりましたね、と言うと、やはり散々断られたらしい、と依頼人はようやく頬を緩ませた。むかしを懐かしむような、遠くを見る眼差しだったが、それからすぐに表情を引き締め、

「人選には失敗したかもしれませんが」と意図の掴みかねる言葉を漏らす。

「それはそうと、お姉さんは訴えたメーカーにお勤めだったとか」

「ええ」

「何か社内で不正やらハラスメントやらを見聞きして、ヤキモキしていた、なんて話はお聞きになったりは」

「いえ、姉とは年に数回会うか、会わないかくらいでしたので」

「ちなみにお姉さんの旦那さんは」

「他界しています。甥が生まれたときにはもう」

「では、自殺ではない、と言いきれるほどふだんからお姉さんのお姿を見ていた方はいらっしゃらないわけですね」

「それはそうなのですが、でも」

「ええ、ええ、言いたい旨は理解できます。大金が手に入る前に不可解な死を遂げている以上、これは何かしら事件性を帯びていると、その可能性を考えずにはいられんでしょう。言い方を変えれば、お姉さんが自殺だとすると、なぜこんな大事な時期に死んでしまったのかの理解に苦しむことになる、だから納得できる理由を探したい。あなたの依頼はつまりそういうことなのでしょう」

 依頼人は座ったまま地団太を踏み、私は、と声を張りあげる。「真実を解明してほしいとお願いしているのです」

「真実など何も解かりはしませんな。真実などないと解かること以外にはね」

「真実がないのなら、その理屈もまた真実ではないことになる。矛盾であり、詭弁ですよ」

「いかにも。この世は詭弁であり、矛盾で満ちている。同時に、矛盾のあるところにしか真実は姿を現さんのですな」ぱし、と膝を叩く。「よろしい。まずはお姉さんの裁判を請け負った弁護士さんから話を聞いてみましょうか」

「買収されている可能性もあるかもしれません、気をつけてください」

「メーカー側にということですか?」

「姉の古い友人と聞いていましたが、会ってみたらどうも胡散臭くて。信用できないというか」

 人選に失敗した、とはそのことか、と合点がいく。

「なくはない話ですな。人ひとり殺してしまうくらいの組織ならばたしかに弁護士の一人や二人、買収するくらいわけないでしょうな。ただ、そういった背景があるのならばそれはそれで、こちらに有利に働くのも確かです。金の流れほど追いやすいものはないですからな。まあ、会えば判るでしょう、こちらもプロですから」

 件の弁護士には会った瞬間、クロだな、と判断ついた。亡くなった女性の話をしたところ、見るからに狼狽えた。うしろめたい何かがあるのだろう。動揺を隠そうとする素振りがないのは、女性の死にすくなからず責任があると思っている裏返しでもあり、消極的クロといったところか、と推量する。

 ひとしきりこちらの事情を話したあとで、単刀直入に切りだした。「何か弱みを握られていますね」

 弁護士は否定も肯定もしなかった。ただ黙ったまま、顔面を蒼白にするばかりだ。

 聞きだすのは無理そうだな。

 判断を逞しくし、礼を述べ、その場を辞そうと腰をあげたところで、

「彼女は言ってたんです」

 弁護士のつぶやきに襟足を掴まれる。その声はどこか、コーヒーのドリップの最後の一滴がぽつんと落ちてくるのに似た響きを伴っていた。

 彼は薬指にはめた指輪をしきりにいじっている。結婚しているのだろうか。前以って調べておいた彼の来歴をあたまのなかで展開するが、未婚だったはずだ、と引っかかりを覚える。が、恋人の一人や二人くらいはいるだろう、と思い直し、椅子には座り直さず、立ったままで首を傾げる。なにを、と問うたつもりだ。亡くなった依頼人の姉は生前、何を言っていたのか、と。

 伝わったのか、そうでないのか、弁護士は述懐した。

「裁判の勝敗には興味がないのだと。勝っても負けてもどっちだっていい。彼女はそう言っていました」

「どうでもいい? 裁判がですか。それはいつの話ですかな」

「つねづねです」

 勝っても負けてもどっちだっていい。

 弁護士はうつろな目で、やはり指輪をいじりながら、繰りかえした。

 ろくな話を聞けるとは思っていなかった。収穫はゼロに等しいが、収穫がなかったこともまた一つの判断材料になる。

 直接メーカーに乗りこむべくアポを取ったが、門前払いを喰らった。これは想定の範囲内だ。興信所を名乗る人間を社内に入れる企業はない。スパイと知って受け入れる公的機関がないのといっしょだ。

 依頼人の姉の同僚をあたり、すこしずつ情報を集めていくにつれて、なぜ依頼人が、姉の死が自殺ではない、と言い張っていたのかが徐々に解かるようになってきた。

 彼女はふだんから慎ましく、自己主張こそしない性分だったが、ここぞというときは、上司だろうと役員だろうと、構わず意見したそうだ。そのせいで社内では部署をたらいまわしにされていたようだが、彼女の人柄ともいうべきか、どの部署でも同僚からの評判はよく、また他部署との連携窓口として、しぜんと相談事を持ちかける機会が多かった様子だ。

 息子の死に自社メーカーの過失が関わっていると発見できたのも、そうした彼女の辿ってきた人生があってこそだったと分析できる。

 だが、行き過ぎた正義感のせいで死んでしまっては元も子もない。

 賠償金が法外だったのも、こうして調べてみると、たしかに大金欲しさという感じではない。

 復讐だったのだろうか。

 それほど短絡的とも思えないが、最愛の息子を亡くした母親の心中を察しろというのも、無理がある。だったらまだ、狂人の気持ちのほうが理解しやすい。

 依頼を受けてからまたたく間に半年が経過した。

 状況証拠からして医療機器メーカーに殺されたと判断したいところだが、依頼人が欲しているのは物的証拠だ。揺るぎない真実によって、姉は自殺ではなく、殺されたのだ、と証明してほしがっている。

 幾度か調査報告書を提出した。いずれも依頼人は満足を示さなかった。しかし依頼を打ち切ることはなく、調査は続行してほしいと指示を受けた。当初の目論見どおり、金づるとしては申し分ない。

 こちらもプロだ。もらった報酬分は仕事をしてやろう、という気にもなる。

 いっぽうで、予想外のことがなかったわけではない。原告が死去したあとでも、医療機器メーカーと病院側は、独自にほかの被害者と思しき医療ミス患者への謝罪と賠償を確約した。

 すわ集団訴訟かと世間は、大手企業と病院側の凋落する未来を期待していたようだが、意外にも被告側が誠意ある態度を示しはじめたので、肩透かしを食らっている様子だ。ネットに限らず、マスメディアは、もはや火に油をそそぐような報道を控え、続報のみを申しわけていどに流している。事件発覚当時の、地獄の果てまで追求してやる、といった姿勢はもはや窺えない。

 ほかの医療ミス被害者たちはおとなしくと言ったら語弊があるかもしれないが、医療機器メーカーと病院からの謝罪と賠償を拒むことなく、受け入れる声明をだしている。ひょっとしたら、そうした声明をだすことが、示談の条件にあったのかもしれない。

 そういう意味では、医療機器メーカーと病院側の対応は冷静で、至極道理に適っていたと評価できる。裏から言えば、そうした小手先の術に翻弄されず、あべこべにおまえたちを地獄に突き落としてやるとばかりに抵抗しつづける女は、目のうえのたんこぶどころの話ではなかっただろう。それこそ、この世から葬り去りたいほどに邪魔に思っていたとして、ふしぎではない。

 殺害の動機は充分だ。

 証拠さえ掴めれば、依頼人からだけでなく、メーカーや病院側からも稼がせてもらえそうだ。

 この世は、弱みを握った者がルールをつくり、相手に強いることができる。戦争がなくならない理由だ。策略がモノを言う背景でもある。

 もし相手に弱みがないのならつくってしまえばいい、とまでくると、これはさすがに行き過ぎであり、身の破滅を呼ぶはめになるだろう。

 と、ここまで考え、おや、と思う。

 何かが引っかかるが、その何かが解からない。

 そうこうしているうちに、依頼人から緊急の連絡が入った。

「調査は難航しておりまして、いましばらくかかりそうで」

 すみませんね、とアルコールを摂取しながら前以って挟むこちらの釈明を遮り、依頼人は、

「聞いてないんですか、さっき連絡があって」

 捲し立てる内容を咀嚼するにかぎり、どうやら件の弁護士が自殺したらしい、との話だった。死に方は、依頼人の姉とまったく同じ、林のなかでロープで首を吊っていたそうだ。

「警察はなんと?」

「事件性はないそうです」依頼人の声は怒りに震えていた。「しょせん、権力が物を言うんですよ。そういうクソッタレな世のなかなんですよ。あなただってそうなんじゃないんですか。金のため、金のためって、どいつもこいつも、じぶんのことしか考えていない。姉はそんなあなたちの無責任な傍観に殺されたんですよ」

 違いますか、としゃっくりを挟み挟みわめく依頼人は、限界にちかかった。資金繰りに困窮し、私生活は崩壊寸前、もはや自己破産も時間の問題だ。彼は姉の遺志を受け継ぎ、頑なに、メーカーや病院からの賠償金の受け取りを拒んでいた。そんな彼に、金づるとしての価値はない。

 潮時か。

「違くはないでしょう」そのとおりですよ、と認めてみせる。「たしかにあなたのお姉さんはワタクシどもの無責任な傍観とやらに殺されたのでしょう。否定はしません。ハッキリ言ってしまえば、このさきどんなに探し回っても、あなたのお姉さんが殺された証拠はでてこないでしょう。もちろん、弁護士さんのほうでも同じだ。そんなヘマを犯すような相手ではないんですよ。あなたが挑もうとしているのは、そうした神のような相手です」

「泣き寝入りしろと、忘れろと、こんな理不尽を受け入れろとあなたは言うんですか」

「そうですよ。生きるというのは、理不尽を受け入れつづけ、忘れつづけ、泣き寝入りし、そしてじぶんもほかの大多数と同じように、無責任に日々を過ごしていくことなのです。あなたがしようとしているのは、そうした大多数の日々にヒビを入れるような、それこそあなた自身が理不尽の権化になるようなものです」

「だったらあなたはいったい何のために」

「労力と費やした時間分の対価はちょうだいしますが、いただいた報酬は半額、そのままお返しいたしましょう。お姉さんが殺されたという物的証拠をあげることはワタクシには不可能です、そんなことは初めから判っていましたよ」

「騙したんですか」

「いえいえ。状況からして、死人に口なしを地で描く事件のようでしたのでね。それこそ、死んだ者にしか、なぜ死んだのかは分からないでしょう」

「姉に訊けとでも?」かれの口調からは殺意の波動が感じられた。

「お姉さんには無理でしょう。しかし、弁護士さんは違う」

 電波の向こうで、一泊の静寂があく。

「二点ほど確認させてほしいのですがよろしいですか」返事を俟たずに続ける。「あなたはさきほど、弁護士さんの死を伝える連絡がご自身にあったとおっしゃった。ワタクシにはなかったのか、と訊きましたが、あれは警察から、という意味にしては文脈がおかしいですな。ワタクシが弁護士さんと接触しているのを知っているのは、いまのところあなただけだ。警察がワタクシに連絡をしてくるころには、ワタクシのほうでさきに情報を仕入れる時間的猶予があるはずです。ということは、あなたに連絡をしてきたのは警察ではない、ということになる。ここまで異論はありますか」

「連絡は」

「弁護士さんからだったのでしょう。自殺します、とでもテキストで送られてきたのではありませんか」

「どうしてそれを」

「仮定の話として、弁護士さんもまた強大な権力を持ったナニモノカに殺されたとしましょう。あなたのお姉さんのときにはいらぬ嫌疑を世間に与えてしまった。同じ轍を踏まぬように、こんどは明確に自殺として印象付けねばならない。とすれば、遺言状やら何やら、小細工くらいは弄するでしょう」

「だとしたらますます証拠なんか」

「いえいえ。きっとでてきますよ。それこそ、あなたの元に送られてくるとワタクシは睨んでおるんですがね」

「送られて? 何のことですか、さっきから話がさっぱり」

「視えませんか。まあそうでしょう。その前に、質問の二つ目です。あなたのお姉さんに恋人はいらっしゃいましたかね」

「旦那ということですか。病気ですでに他界していて。あなただってご存じでしょう」

「いえ、恋人ですよ。最愛の息子がいるからといって、母親が恋人をつくってはいけない、なんて法律はないわけで」

「そりゃいたかもしれませんが、とくには」

「聞いていませんでしたか。ちなみに、なぜあなたのお姉さんはあの弁護士さんを選んだのでしょう」

「ですから、古い友人だったと」

「それだけともどうも思えませんな。考えてもみてください、いったい誰があなたのお姉さんの弁護を引き受けますか。あの法外な賠償金を、過失を認めているメーカーにふっかけるなんて、ふつうの神経ではありませんよ。端から勝つ気がないとしか思えない。そんな裁判の弁護を誰が引き受けるでしょうか。むしろこう考えてみてください。あなたのお姉さんは、ほかの誰にも弁護を任せる気はなかったのだと。勝つ気もなければ、優秀な弁護士も探していなかった。なぜなら、彼女は端から、彼と繋がっていたからです。いいや、裁判を起こす案も、何なら法外な賠償金をふっかける案も、彼の考えかもしれません」

「あのひとが姉の恋人だったと? でもけっきょく彼まで殺されてしまった、そのくせあなたは何もしてくれない、つぎはぼくが権力に消されてしまうかもしれないんですよ、なぜそんなに冷静なんですか」

 しょせん他人事なんでしょう。

 念入りに研いだ包丁で刺すような響きに、声もなく陽気が漏れる。

「他人事ですよ。何もかも他人事です。あなたですら例外ではありませんよ。当事者はもうすでに亡くなっています。それはあなたの甥っ子であり、姉であり、その恋人の弁護士まで、みなまとめて巨大な組織に殺された」

「どうすることもできずに、忘れて過ごせと、あなたは飽くまでそう言うのですね」

「いえいえ。証拠さえあればいくらでも、現状を引っくり返せるでしょう。それこそ、あなたのお姉さんと弁護士さんの思惑通りにね」

「思惑?」

「そもそも初めから引っかかってはいたんですよ。なぜ医療機器メーカーや病院がああも簡単にミスを認め、裁判でも全面的に非を認めていたのかと。あなたのお姉さんが法外な賠償金を請求しなければもっと簡単に裁判は終わっていたでしょう。あなたのお姉さんはむしろ裁判を終わらせまいとしていたように感じていましたが、これは半分は当たっていたと見做してよさそうですな」

「言っている意味がいまいちよくわからないのですが」

「つまり、お姉さんの目的は賠償金ではなく、もっとほかにあったということです」

「復讐という意味ですか」

「そうでもあり、そうではありません。おそらくあなたのお姉さんは、医療機器メーカーに勤めているあいだに、組織の体質的なものを見抜いていた。これは息子さんが亡くなってから調べたことでわかったことかもしれませんし、元から知っていた可能性もあります。いずれにせよ【医療ミスは起きて当然だったのだ】と彼女は知っていたのです。もちろんメーカー側や病院側も充分承知していたはずでしょう」

「医療機器――ナノマシンに欠陥があったことを承知で、患者の治療に利用していたということですか」

「ええ。そして医療ミスが発覚する確率は極めて低く、仮に発覚したところで、そのときには莫大な利益をあげていますから、少々のマイナスくらいは織り込み済みだったということです。本来ならば、市場に流していい商品ではなかった。しかしデータなどいくらでも改ざんできます。知らないことは避けようがない。起きたならば改善をすればよい。一時的に市場への導入はストップするでしょうが、改良しただのなんだの言ってすぐにまた使われはじめるでしょう。なにせ、すでに世のなかはナノマシン療法の効果を知ってしまっていますからね。経済効果もバカにならない。いまさら【なかったこと】にはできないんですな」

「ですが、そんな、貧乏クジを引かされる者のやり場のない怒りはどうすればいいんですか。大勢の利益のために死を受け入れろと、黙って死ねと、そういうことですか」

「だからこそ、あなたのお姉さんは法外な賠償金を吹っかけ、世にアピールしたのですよ。裁判を長引かせ、敢えて話題が盛り上がるように演出した。金の亡者だなんだと悪しざまに言われようと、そのさきに描いた結末へと辿り着くように。恋人の弁護士と共謀しながらね」

「ですがあの弁護士は姉を裏切り、メーカーに買収されていたと、あなたの報告書にはそう書かれていたではありませんか」

「買収をした事実があったならば、それは何よりの証拠でしょう。あなたのお姉さんは殺されるかもしれないことすら承知していた。おそらく何度も脅迫まがいのことはされつづけていたはずです。それすら彼女は自身の計画に利用することを思いついた」

 依頼人が息を呑む。その音が、嵐のまえの静けさのような、台風の目に突入していっときの晴れ間が覗いたような、緊張感を伴った静寂を呼び起こす。

 姉は、とおそるおそるふたたび風がつよくなる。

「わざと殺されたと、そう言いたいんですか」

「お姉さんだけではありません。弁護士さんも、わざと殺されたのでしょう。そして殺される場面か、それに類する証拠が第三者へと渡るように細工をしていた。いまごろあなたがアクセス可能なデータバンク上にでも、大量のデータが届いているはずです。一連の事件の顛末から、お姉さんの立てた計画について、そして誰がじぶんたちを殺したのか、証拠映像ごと、転送されるように仕組んでいたはずです」

 もちろんワタクシの推測にすぎませんがね。

「姉は命がけの罠を張っていた。探偵さんの結論はそういうことですか」

「あなたのお姉さんは、命を賭して、メーカーの不正を暴こうとしていた。裁判の勝ち負けなどどうだってよかったんですよ、初めからね」

 奇しくもそれはいまは亡き弁護士が言い残していたことでもある。

「メーカーの悪事は、ミスが発覚したときの損失が、収益よりも遥かに下回ることが前提にある。もし裁判を起こされたときに、法外な慰謝料を払うハメになれば、同じような悪事はもう働けない。資本主義の暴走が一連の背景の根幹にあるためです。儲からないことはしない。企業の行動原理とは単純ですからな」

「ぼくはこれからどうすればいいんでしょう」

「証拠がなければどうすることもできないでしょうな。せめてメーカーから賠償金だけでも受け取って、すこしでも損をさせるのが最善です」

 ただし、と強調する。「もしあなたのもとに証拠となるデータが届いたのなら話はべつですがね」

「法外な慰謝料を、正当な慰謝料とすること――ぼくのすべきことはそれですか」

「あなたがメーカーをさいど訴えた場合、そのときは殺人罪を視野に入れた刑事裁判にもなるでしょうから、メーカー側は壊滅的な痛手を被ることになるでしょうな。それこそ、二度とこんな真似が起きないような、ズルをする考えもなくすような痛手を負うことでしょう」

「だといいのですが」

「いえ、どうでしょうかね。じっさいには、もっと巧妙なズルを思いつき、利益をあげるために悪事を働きつづけるのかもしれません。ただ、すくなくとも、あなたのお姉さんのしようとしていたことは無駄にはならないでしょう」

「勝っても負けてもどっちだっていい。姉はそう言っていたんですよね」

「言い方はわるいですが、彼女が目のまえの理不尽に立ち向かおうと決めたそのときからすでに、彼女は呪いを唱え終えていた。端からメーカー側に成す術はなかったのですな。どう対処したところで、あなたのお姉さんは呪いを達成する。彼女は自身の命と引き換えに、運命そのものになったのです」

「ではぼくは、その遺志を受け継がなければなりませんね」

「ええ。あなたのお姉さんはまだ呪いを成就させてはいませんから」

「探偵さん。もしぼくが自殺するようなことがあったらそのときは」

「報酬分は働きましょう。ワタクシはけっきょく証拠を掴めなかったわけですからね。すべてはあなたのお姉さんとその恋人、亡くなった弁護士さんの手柄です」

 終わらせましょう、と口にする。

「ドミノはすべて並び終わっています。あとはあなたがゆびで押すだけです」

 依頼人の鼻のすする音が、電波の向こう側からむなしく響いて聞こえている。




  

【テロルの木馬】


 気まぐれな風が頬を撫でる。昼時だというのに喫茶店は空いている。通りまで閑散としており、テラスでコーヒーをすすっていても雑踏の喧騒が聞こえてこないほどだ。

「みんな警戒して外出を控えてるんですよ」

「かってに人の心を読むな」

 睨みをきかせると、オレの向かいに座る女は、

「誰かさんがなかなか仕事を引き受けてくれないから」

 ここぞとばかりの嫌味を口にする。「いまのところ報道管制が敷かれてますから、表向きはどの爆破テロも事故として報道されてますけど、そんなの信じてる国民はサンタクロースを夢見る少女くらいなものですよ。テロなんですよ。国際的に大問題の大事件ですよ。人命がかかっているのに、どうしてあなたはそう意固地なんですか」

「テロだからだよ。ほかに理由があるか? 売られた喧嘩を買ったらやっこさんの思う壺じゃねぇか。相手にすんな。話題にすんな。こっそり、ひっそり、陰から葬れ」

「それができればあなたにこうして頼んではいませんよ。首謀者が不明。声明をだしてるテロ組織は挙げつらねたらキリがなく、どれが本物の声明かを断定するだけでも対策本部はパンク寸前なんですよ」

「人手が足りないからってとっくに引退した民間人にすがるんじゃねぇよ」

「ですがこうしているいまもどこかで爆弾が」

「要求に共通項はあんのかい」

 面倒なのでヒントをやった。女はポカンとしており、勘のわるいやつ、と舌を打ちながら、

「声明を発表したテロ組織どもの要求だよ」と煙草に火を点ける。「あるようなら声明の乱れ撃ちも含めてテロの一部だし、そうじゃないなら知名度を挙げたくての便乗だろう」

 女はこちらから煙草をぶんどると、足元に捨て、踏み消した。禁煙です、の一言もなく、「共通点はあります」と告げる。

「てことはだ。一連の爆破テロの首謀者は、各テロ組織と繋がりのある人物であり、かつ、どの組織をも鶴の一声で動かせるだけの影響力を持った人物もしくは組織だってことになる」

「そんな強大な組織ありますかね」

「それを探しだすのが嬢ちゃんの仕事だろ」

 おいちゃんはもうオネムの時間だ。

 席を立つ。財布から紙幣を一枚抜いて、グラスの底とテーブルのあいだに挟む。「ごっつぉーさん。もう連絡してくんじゃねぇぞ」

 上着を羽織り、その場を離れる。

「愛国心はないんですか」

 女のイタチの最後っ屁を背中に受けながら、振り向かぬままに手を振る。

 ひとしきり歩いたところで煙草を一本とりだすと、ビランさーん、と女の叫び声が追いかけてくる。忘れ物ですよー、と続いた声に振りかえると、女はテラスの座席の下からスーツケースを持ちあげ、ボケるのには早くないですかー、とこちらに一歩踏み出しているところだった。

 何かを言おうと思った。

 口に咥えた煙草が地面に落下しきる前に、凄まじい衝撃が全身を包みこむ。

 巨大なマシュマロじみた風圧が、身体を後方に押し流す。

 熱い。

 無数に針を肌に刺されているかのようだ。痛みが襲う。

 地面にしたたか身体を打ちつけたときには、爆音が耳鳴りと化して、頭の奥に鳴り響いていた。

 意識がいくつかに分離している。そのうちの一つがサイレンにも似た音で、警戒音を発している。

 つぎに目覚めたとき、オレは真っ白い部屋のベッドで、身体から無数の管を生やしていた。

 五体は無事なようだ。顔面がひりひりするが、鏡を見ずとも火傷であることは解かっていた。

 ナースコールはないかと周囲を見渡す。窓がないことに気づき、ここは病院ではないな、とようやく意識が覚醒するのを感じた。

 ベッドの脇には机がある。物が置けるようになっており、そこに一枚のメディア端末がぽつんとあった。手にとって中身を改める。

 何らかの資料が入っているだろうな、と推し測っていたら、案の定だ。一連のテロ爆破事件の極秘資料と、そして直近の爆破テロ事件の詳細が載っていた。

 死亡欄にはいくつか名が並んでいる。そのうちの一人に目が留まる。生きているとは思わなかったが、こうして改めて文字として認識すると、あの女はもうこの世にはいないのだ、と遅れてやってきた津波のような感情が、オレの中身をぐちゃぐちゃとまとめて押し流していく。

「ビランくん、きみにはテロ実行犯としての容疑がかけられている」

 音もなく壁が左右に割れ、向こう側から男が一人現れる。見た顔だ。以前は同僚だったが、たしかいまは新しく新設された諜報部隊の指揮官のはずだ。

「いいや、いまは三つの部隊を束ねる総指揮官だ」

「どいつもこいつもかってにオレの心を読むんじゃねぇ」

「その調子だと記憶に支障はないようだな。会ったのだろ、あのコと」

「むかしの教え子の顔を忘れるほど耄碌はしてねぇよ」

「ではさっそくでわるいが現場で何があったのかを話してもらおうか。資料はもう読んだのだろ」

「監視カメラの記録がごっそり抜けてるってのはなんでだ」

「調査中だ。すくなくともきみたちの座席のしたに爆弾を置いて行った者の特定はできていない」

「オレが着いたときにはすでにアイツがさきに座っていた。オレに【ハコ】は置けねぇよ」

「そんなことはあるまい。あの店の立地条件からして、諜報員ならばまずあの座席に座る。きみがそれを見抜けぬわけがあるまい」

「まあな」

 あの女がまだ尻の青い娘っ子だったころに、諜報員に必要な技術を教えこんだのはオレなのだから。

「容疑が晴れないかぎり、ここからは出られんぞ」

「テロの首謀者を割りだせってか」

「きみならできるだろう」

「どうだかな。おまえと違ってオレは国に見放された男だからな」

「そう言うな。きみの実績、実力共に、この業界に身を置く者なら知らない者はいない。いまでは伝説と語る者たちがすくなくないくらいだ」

「そんな男が勲章の一つもなく、私立探偵の真似事をして日銭を稼いでいると知ったらそいつらはなんて言うかな」

「きみがどう思おうが、きみはいまテロ実行犯の最重要容疑者だ。このままでいたいならそれを無理に止めはしないが、きみにはきみにしかできないことがあるんじゃないのか」

「たとえ監禁されていようとも、か」

 もういちどメディア端末の資料に目を通す。「犯行声明をだしてるテログループに共通項があると聞いていたが、そのことは書かれていないな。オレを駒として使いたいなら出し惜しみするな」

「もうそんなことまで聞いていたのか」男は眼鏡をはずし、いちど眉間を揉んでから、すべてのテログループは、と口火を切った。「これまで我々の諜報機関が極秘裏に遂行した計画のあますことなくを世間に公表しろと言ってきている」

「国家転覆が目的だな」

「ああ。仮に公表すれば、国民からの信用がなくなるだけでなく、国際問題として各国から袋叩き、それこそ孤立無援状態での戦争に発展しかねん」

「報道管制はまだ敷いてんのか」

「今回の爆破は、下水管内に発生したメタンガスが要因ということにしてはいるが、露呈するのは時間の問題だ」

「前回は消臭スプレーに引火だったな。ネタも尽きてきたか」

「笑いごとではない」

「なあおい。監視映像が毎回のように抹消されてるようだが、これに関して何か情報は? いくらなんでもこりゃプロの犯行だろ」

「我々のなかにスパイがいる可能性はむろん探っている」

「十中八九いるだろうな。特殊な訓練を積んでいるやつが実行犯に加わっているはずだ。それから、おまえらの動きも読まれているとみていい。今回も動向が筒抜けだったから、見せしめにされた。バカにされてんだよおまえらはよ」

「だから恥を忍んでこうしてきみに頼んでいる」

「オレ以外の元工作員は?」

 男は黙った。

「おいおい。話してくれねぇと解かんねぇだろ」

「連絡がつかん」

「は?」

「行方不明者がほとんどだ。足取りが掴めた連中は、身体の一部だけを残して、この世から消えていた。遺留物の部位からして、生きてはいないだろう」

「おいおいおい。後手に回りすぎだろ、どんだけ打つ手なしなんだ」

「だから最後の希望としてきみを頼ったのだ」

「なるほど。さすがにオレの足取りは、テロ連合軍であっても掴めなかったか」

「我々はきみの居場所をつねに把握していたがな」

「オレだけじゃねぇだろ。引退した諜報員にゃ全員、追跡装置が埋めこまれてる」

「きみのだけは特注品だ。だから連中もきみを割りだすことだけはできなかった」

「だがオレも狙われた。てこたぁ、やっぱりスパイが潜りこんでるってこったな」

「もしくは我々の技術が外部に流出している可能性もある。いずれにしろ状況は芳しくない」

「おまえらだって各テロ組織にスパイくらい放ってんだろ。そっち方面からの情報はどうなってんだ」

「連絡がとれないのがほとんどだ。幾人かは殺され、また幾人かは寝返ったと判断している」

「寝返る? 考えられんな」

「よほどの大物がバッグについているのかもしれん」

 なんにせよ、と男は眼鏡をゆびで押しあげる。「きみの分析にかかっている。ぜひご協力いただきたい」

 言い残し、男は部屋から出ていった。

 言うだけ言って、あとは人任せ、というわけにもいかないのだろう。やることは山盛りであるはずだ。

 ベッドから起きあがり、部屋をうろつく。監視カメラの位置を把握する。さらに部屋の形状とベッドの位置、壁の材質などから、隠しカメラ、盗聴器、サーモグラフィの有無、そしてそれらの位置を割りだす。

 厳重というわけではない。一介の国際指名手配犯を監視するのに使う程度の設備だ。

 ベッドに横になり、目をつむる。

 眠るわけではない。

 深く考えを巡らせるには楽な姿勢がベストだ。監視の目を欺く利点もある。

 盗聴器や監視カメラがあるということは、電磁波の類が完全に遮断されているわけではないのだろう。

 ならばこのまま目を閉じながら、歯を何度も噛みあわせることで、モールス信号を送れば、外部への指示は可能だ。

 歯の被せ物は特殊な合金だ。奥歯を噛みあわせることで、微弱な電磁波を飛ばせる。その電磁波を感知できる機器は限られる。ニュートリノの感知システムほど繊細ではないが、仕組みは似たようなものだ。

 喫茶店に爆弾を運んだのは、死亡したオレの元部下だ。あの女は中身が何かも知らず、元上司のオレから頼まれたというだけで爆発物であるスーツケースを持ってきた。身内を無条件で信頼するのがあの女の欠点であり、ゆえに諜報機関のバックドアとして活用させてもらった。

 あの女はじぶんがスパイとして利用されていることにも気づかず、テロの片棒を担がされたのだ。今後、似たようなカタチでオレに利用され、全世界でテロを起こす現役諜報員があとを絶たなくなる。

 計画の全貌を振りかえる。

 組織のほうでテロの要望を呑もうが、拒もうが、結果は同じだ。世界中の国々からいずれこの国の諜報機関は非難され、解体を余儀なくされる。Xデーはちかい。

 国民はすでに政府への不信感を募らせ、爆発寸前だ。これまでの一連の爆破事故が連続テロであると発表したときが、やつらの終わりのはじまりだ。

 何事も、もっとも注目を浴びる瞬間が狙い目だ。

 テロに屈し、テロに反応し、政府が国民にテロの関与を明かし、みずからの方針を覆したその瞬間、オレはテロの目的を世間へと公表する。

 もしやつらが最後までテロの存在をひた隠しにしたとしても、それはそれで構わない。こちらの計画は何十年先まで練ってある。無駄に抗ったところで、苦しむ時間が長引くだけだ。こちらに損はない。

 動機は単純だ。

 愛国心などというバカげた妄言のためにその存在を認知されることなく羽虫がごとく死んでいった諜報員たちへのはなむけだ。

 上層部は血を流すことなく、一見責任をとっているふうを装い、お得意の人脈とやらで仲良しこよし、のらりくらりと盤上ゲームに興じつづける。現場の諜報員はそんな上層部のテイのいい手駒であり、用が済んだら壊れた手駒はゴミ箱行きか、ぞんざいに林の奥へと放擲される。

 オレたちゃポケモンじゃねぇんだぞ。

 息巻いたところでどうしようもない。

 手駒自身が、手駒であることに使命を感じ、矜持を燃やしている。

 元部下のあの女もけっきょく、組織に毒された憐れな手駒だ。生きていたところで、そう遠くないうちに二重スパイの嫌疑をかけられ、拷問まがいの尋問を受け、死ぬよりつらい日々を過ごしたはずだ。

 このバカげた連鎖を断ち切るためならオレは、極悪人にでも、テロの首謀者にでも、何にでもなってやる。オレはいま、ふたたび組織内部に入りこんだ。

 正義ゴッコは終わりだ。

 世の統べる者どもよ。

 身を以って知るがいい。




  

【薔薇の香りはいっそう甘く、面影】


  驚いたことに、年々、歳を重ねるごとに我が子はアカネさんに似てきた。アカネさんの弟と結婚し、そのあいだにできた我が子であるのだから、必然、あの娘はアカネさんと血縁関係にあり、端的にアカネさんの姪にあたるのだから、似ていてふしぎではないのだが、あの娘は明らかに、母である私よりもアカネさんに似ていた。

 夫にそれとなく水を向けてみると、そうかな、となんともにべもない返事があるだけで、まあ俺も姉さんもお父さん似だからな、とこの話はぶつ切りに終わった。

 あの娘はアカネさんと会ったことはないはずで、なにしろアカネさんはいまの私よりもずっと若い年齢のときに亡くなっていて、だから私の記憶にあるアカネさんと思春期を脱して色気づいてきた我が娘の歳格好が似通っていても、それは世の少女たちを眺めてみればしぜんなことで、アカネさんにのみ似ていると思いあがっている私の感覚がまず以って的外れなのかもしれない。じぶんにそう言い聞かせてはみるものの、日増しに我が子は、あの当時のアカネさんに、私にとって特別だったあのひとに、二つの影をぴたりと重ねあわせるみたいに似てくるのだった。

 面影、と私はつぶやく。あの娘は、しずかに本を読んでいたのに、わざわざ顔をあげて、こちらを見た。「なに?」

 撫でられる寸前の猫みたいな眼差しが私の仮面にヒビを走らせる。ううん、と何でもないように言いつくろい、彼女の読んでいる古典の部類に入るだろう、ひとむかし前の大衆小説に視軸をあてる。

「それどうしたの。お父さんの」また書斎に忍び込んだのか、とおもしろ半分に咎める。「かってにいじくり回すと怒られるよ」

「許可はとってますよー」

 ひざを抱えて座り直し、彼女はちいさなウサギの置物のようになって、またしずかに本の世界へと旅立っていく。

 アカネさんも本の好きなひとだった。

 私はてんで文学なるものに興味が持てず、背伸びして購入した本も、けっきょく半分も読まずに部屋の埃のこやしにしてしまった。どうせならアカネさんに貸せばよかったものの、なんだか背伸びしたところを見透かされそうで、じぶんのなかでもなかったことにした。

 アカネさんは自殺だった。

 遺書もなく、アカネさんが何に悩み、死に急いだのかは、私も、そして彼女の弟である夫も、ついぞ理解に追いつくことはできなかった。

 あの娘が生まれてから、夫はある日の夜にこう言った。「姉さんはきっと死んでみたかったのかもしれないな」

「死に興味があったってこと?」そうかもしれない、と私も考えたことがあったので、夫の言葉の意味するところを的確に拾うことができた。

「たぶん、悩みなんか何もなかったんだと思うんだ」

 我が子は夢のなかでかけっこでもしているかのように汗ばんでおり、夫はそんな彼女のひたいにゆびを這わせ、「子どもって体温高いよな」と何十回目かのセリフを口にした。

 夫からアカネさんの話題を振ってきたのは、私の記憶にあるかぎりあとにもさきにもそのときだけだった。夫は夫でいまなお癒えない傷を持て余しつづけているのかもしれない。

 私はいまでもアカネさんの夢を見る。夢のなかのアカネさんの姿が、輪郭が、おぼろげにかすみだしたと感じるたびに、アカネさんの画像を眺め、彼女との思い出をより強固にすべく、夢のなかで交わした言葉ごと、彼女との日々を上塗りする。夢でも過去でも、アカネさんからは彼女の家の庭に咲く白い薔薇と同じ、甘い香りがした。

 私はアカネさんを好いていた。

 それは確かなことに思われる。

 しかし夫のように、葬式に泣きじゃくったりはしなかったし、けっきょく思えば、アカネさんのために涙を流したことはただのいちどもなかったように思う。それでもこうして暇さえあれば、アカネさんの姿を思いだし、声を鼓膜の奥のほうで響かせ、そして彼女と過ごした記憶を、それが夢か現かの区別も曖昧なままで、夢に視るべく、いくども回想を繰りかえす。

 我が子にアカネさんの面影を重ねるのも、ひょっとしたらそうした日々の行いの影響かもしれない。

 悪影響、なのかもしれない。

「マリさん」

 呼ばれて振りかえる。あの娘が焼きたてのバナナケーキを皿に切り分け、運んでくる。「食べるでしょ。紅茶も淹れたよ」

「いい匂い」

「おいしぃよぉ」

「でも母親のことを名前で呼ぶのはよしなさいね」

「どうして? お母さんはマリさんでしょ?」

 あのコはときおりこうしてからかうように、私を母ではなく、一人の対等な人間として扱う。その頻度は、日を追うごとに増えていった。

 私はそれを拒むべきなのだろう。

 それとも、無理に拒み諌めることそのものを禁ずるべきなのかもしれない。

 あの娘はあの娘だ。

 アカネさんではない。

 アカネさんではないのに、あの娘は、私の望むアカネさんの声で、かつてのアカネさんのように、私の名を、人懐っこく呼ぶ。私はそのたびに、母親としての仮面に一つ、また一つと、ヒビが走っていく様を感じるのだ。

 いっそ仮面を脱ぎ捨ててしまえば、対等な人間のまま、娘と向き合えるのかもしれないのに、私は何かに臆するように、それとも悪夢を手放さぬままでいるかのように、あの娘のまえでは母親の演技をしつづける。まるであの娘のほうで仮面を奪い去ってくれるのを待ちわびているかのように。そんなことは万に一つもあり得ないと思いながら、それでもその願望を、欲求を、可能性を夢に視つづけている。

「マリさん。マリさんはむかしどんなコだった? 友達はいた? 初恋はいつ? マリさんのむかしばなしを聞きたいなぁ」

 聞かせて聞かせて、とあの娘はアカネさんによく似た姿で、おねだりをする。アカネさんと同じように、積み木のどこを突つけば決壊するかを知り尽くしたようなささめき声で。

「そっちこそ学校ではどうなの、トモダチとはうまくやってる」

 好きな男の子とか――。

 そこまで口にして胸が詰まった。

 いるのだろうか。

 いるだろう。

 ひょっとしたらすでに恋仲になっている相手と、影でこっそり、恋人が互いにし合うようなそういうことをしているのかもしれない。

 思うと、うまく言葉をつむげない。

「んー。わたし、男のコってあんまり興味ないかも。でもみんなはもう、夢中みたい。なんかそういうゲームをやってるのかと思うくらい、誰が誰をゲットしただの、どこまで進んだだの。ねえマリさん。マリさんのころもそんなだった?」

 玄関から夫が帰ってきた音がする。

 間もなく、扉を開け、ただいま、と夫が顔を覗かせる。「何しゃべったんだ。そとまで笑い声が響いてたぞ」

 きょうはカレーだよ、とあの娘が言い、夫は、あーわるい明日は俺が作るから、とこちらの肩を揉む。

 私は笑みで応え、台所に引っこむと、あの娘と夫の弾む声が部屋をぱっと明るくする様に胸を撫でおろす。その明るさからはどうしてもアカネさんの面影を感じとることはできず、あの娘はいつまでも夫を名で呼ぶことはなく、夫のまえではあの娘は明確に我が子だった。

 我が子なのだ、と思う。

 夫と言葉を交わすあの娘は、紛れもなく私の、私たちの娘であり子供なのに、なぜか二人きりになると、とたんにあの娘の輪郭が、アカネさんの姿と重なった。

 私の淀んだ願望の見せる錯覚、白昼夢である可能性を信じたかったが、日に日にあの娘からは、母親への、甘えや憤り、期待や対抗心、そして幼稚な当てこすりなど、子供特有の感情の機微が窺えなくなった。

 あべこべに私のほうで、あの娘への遠慮を覚えてしまうのだ。

 それは崇拝や憧憬に似ており、我が子への慈愛とはかけ離れている。

「マリさん。マリさんはどうしてお父さんと結婚したの」

 眠れないからとこの日、あの娘は私の部屋にやってきた。いっしょに寝ていいかと訊かれ、とっさに断れず、拒むことそのものが何か大きな過ちであるかのように思え、私は彼女を懐に招き入れた。

「お父さんはマリさんにプロポーズされたから仕方なくって言ってたけど」

「なんてヤツだ」

 アカネさんが亡くなってから魂が抜けたようになっていたアイツを支えてやったのが誰だかを思いださせる必要があるようだ。

 思いながら、

「お父さんにお姉さんがいたことは知ってる?」まずは言った。「お母さんは最初、そのひとと知り合いで。お父さんとは段々と仲良くなっていって、気づいたらそばにいるのが当たり前になってたから、じゃあそれなら結婚しましょうかってことになって、うん、そんな感じかな」

 なし崩しだね、と言われ、そのとおりだね、と首肯する。

「でもじゃあ、そのマリさんの知り合いのひとは寂しかったかもね」

「どうだろうね。お父さんとそういう関係になる前に、そのひとは亡くなってしまったから」

 お父さんのお姉さんだからあなたの伯母さんね、と言い添える。

「そっか。でもやっぱり、寂しかったと思うよ。いつかきっとマリさんはじぶんの元から離れて、じぶんの弟のほうと仲良くなっていくのだろうなって。きっとそのひとはお父さんに似てあたまのいいひとだったろうから」

 私は布団のなかだというのに、娘と添い寝しているというのに、背筋が寒くなったのを感じた。ぞぞぞ、と両手の毛穴が閉じるのが、まるで蟻の群れに襲われたような質感を伴い、自覚できた。

 娘は言った。

「そのひとが思っていたとおり、マリさんはそのひとのいないところで、お父さんといっしょになったんだね。でもだいじょうぶだよ。そのひとはきっと、そうなることを知っていて、旅にでたと思うから」

 私は娘の名を呼んだ。

 正気ではない。そう思った。

 あなたは私の娘なんだよ、とつよく示すつもりで、もういちど名を呼ぶ。

 娘の顔は闇にまぎれて覚束ない。

 まどろんでいるかのような、モヤじみた声音で娘は、だいじょうぶだよ、ともういちど言った。「わたしは知っていたから。あなたたちがいつか結ばれて、きっと誰より愛される子供を産むって。子供の性別はどっちだって構わない。だってそうでしょ。マリさんは母親として、我が子を愛するのだから。性別なんて関係ない。わたしはだって、マリさんの娘なのだから」

 私は闇を挟んだ向こう側に、見えるはずのない双眸を確かに目の当たりにしていた。それは私をまっすぐと見詰め、そしてぱちりと消えると、私の腰のあたりにするするとまとわりつき、熱い体温を私に覚えさせた。それはさらにちいさく、ちいさく、丸まって、私の膝と腕と胸のあいだに、すっぽりとおさまった。

 マリさん。マリさん。マリさん。

 それは吐息を漏らすようにかすかにつぶやき、その熱で、私の胸のなかまで焼き尽くすようだった。

 子どもって体温高いよな。

 夫の声が一瞬、耳の奥をとおりすぎ、あとにはただ、私のものかどうかも判らない鼓動の音が静寂の合間にこだましている。

 マリさん。マリさん。

 その声がじぶんだけに聞こえている幻聴なのかも曖昧なままに、私は汗ばむ我が子の身体を包みこむ。

 私の身体はひどく凍えており、ふしぎなことに先刻からずっと薔薇の甘い香りが鼻をかすめている。その香りの出処を、記憶を辿るように、私はいつまでも闇のなかに探しており、気づくと赤子のような寝息が私の鎖骨をくすぐっている。

 私は脱力し、そしてこれ以上凍えぬようにと、彼女のやわらかな熱ごと、彼女の肢体を抱きしめる。薔薇の香りはいっそう甘く、私の鼻孔の奥を刺激する。




  

千物語「紫」おわり。

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