千物語「銅」

千物語「銅」

目次

【メロンパンは甘くて、すこしほろにがい】

【うしろの正面だぁーれ】

【ドリームクラッシャー】

【自動小説創作AI】

【だってお姉ちゃんだから】

【クロに似たソレ】

【いいやつでもないけれど】

【アンケート】

【コンビニ強盗】

【饅頭トライ】

【人類の管理者】

【コマとピアス】

【満天の涙をあなたに】

【禁煙して一服】

【ひとのかたち】

【ナンバーズファミリィと最期の晩餐】

【何もない部屋で人を殺す方法】

【無限収納箱】

【ペットはペットを飼うべからず】

【三人の魔女見習い】

【甘噛む犬はなにを想う】

【橋の下】

【ポチ元凶にサチあれ】




【メロンパンは甘くて、すこしほろにがい】


 中学生のころ、よく先生たちから、買い食いをするな、と怒られた。

 当時、同級生のあいだでメロンパンが流行っていた。焼きたてのメロンパン屋さんが通学路の途中にあったのだ。

 運動部だったこともあり、下校するときはいつもお腹が減っていた。

 とはいえ、毎日食べていれば飽きるし、お小遣いだって減る。

 そのうち、メロンパンの流行は下火になっていった。

 でも僕は中学生のあいだはほとんど毎日食べに通った。休みの日も、できるだけ顔をだすようにしていた。

 店はヤスダさんが一人で切り盛りしていた。いつでもお店に行けばヤスダさんの、おーう、を耳にすることができたし、ころころと変わる髪型を、楽しむこともできた。

 学生ウケを狙ってなのか、ヤスダさんは風変わりな格好をよくした。

 どこで買ってくるのか、パーティーグッズを身につけることもしばしばだ。

 ピエロみたいな赤いボールを鼻につけていたり、それって見えてます?みたいなメガネをかけていることもある。

「うれしいけどさぁ」ヤスダさんは何度となく言った。「そんなに食ってて飽きない?」

「ヤスダさんは飽きる? メロンパンつくってて」

「飽きるっつうか、仕事だし」

「じゃあ僕も」

「じゃあってなんだよ、じゃあって」

 ヤスダさんはサービスに、紅茶を淹れてくれるようになった。それはヤスダさんがじぶんのために家から淹れてくるもので、なぜそれを商品にしないのか、と思えるほど美味しいのだ。

「売ればいいのに」

「んな余裕あるように見えっか? 淹れんのだってめんどいんだよ」

 商品ではないものをくれるサービス精神に、客としてではないヤスダさんとの縁を感じられるようで、胸の奥がほくほくした。ときおり、淹れ忘れてくるのか、ヤスダさんは僕の目のまえで紅茶を淹れた。

「科学の実験と同じだよ。再現性がだいじなんだ」

「温度と時間と分量でしょ。もう聞き飽きた」

「科学をバカにしてるな」

 ヤスダさんは科学を崇拝しているようなことを言う割に、化学式はH2OとCO2の二つしか言えないのだった。

 まれに、先生たちがメロンパン屋さんのまえで張りこんでいることがあった。そういうときはいちど家に帰り、わざわざ私服に着替えて、お店に行った。

「喫茶店みたいだったらよかったのにな」

 メロンパン屋さんはビルの外壁に埋もれている。中にはヤスダさんの料理場しかない。漫画にでてくる街角の煙草屋さんみたいだった。だから僕が長居をするときは、テラスみたいに、カウンターのところに椅子をだしてもらって、そこに座った。

 頭上には屋根と呼ぶには心もとないビニールの幕があるだけで、雨の日は傘を差しながらすこしだけヤスダさんとしゃべった。雨の日のほうがお客さんがこないから、本当はもっと居たいのに、ヤスダさんに気を使われたくなくて、三十分以上はいないようにした。トモダチがいないと思われるのも嫌だったから、あたかも用事のあるついでに寄っただけ、みたいな調子を醸しだした。

「いやほんと、おいちゃんはきみの身体が心配だよ」

「毎日食べてるから? 野菜もちゃんと食べてるよ」

「そりゃそうだろうけどさ」

「めいわく?」

「んなことないけどさぁ」

「じゃあいいじゃん」

「そうなんだけどもね」

 ヤスダさんが僕のことを案じてくれるのがうれしくもあったから、ことさら毎日通いつづけた。本当は迷惑というか、メロンパンだけが目当てではないのだろう、と見抜かれていることくらいは判っていたつもりだし、ヤスダさんがそのことを僕に訊ねることで僕が傷つくのではないか、と気を揉んでいることも解っていた。

 でもそこまで考えてくれること自体がうれしかった。

 ヤスダさんにとってはしょせん僕なんて、トモダチがいなくてさびしさを紛らわしにきているかわいそうな子、でしかない。だからこそ、突き放されることなくいつまでもヤスダさんのやさしさに甘えていられるのだ、と僕はじぶんの卑しさに気づきながら、いつまでもその打算を働かせつづけた。

 ときおり女子高生たちが店のまえにたむろしていることがあった。おっかなびっくり僕が分け入っていくと、

「おう、来たか」ヤスダさんがカウンターから身を乗りだすようにし、「ちょいとそこをどけとくれ。こいつの特等席なんだ」

 言って、椅子をだしてくれる。女子高生たちがぶーぶー言っている。ずるいだの、えこひいきだの、ヤスダさんへ黄色い声をぶつける。

「んなこと言ったって大口顧客にはそれ相応のサービスすんのは客商売じゃ常識っしょ」

「うちらだって通ってるじゃーん」

「こいついなきゃいまごろとっくに潰れてんだぞ。おまえらも感謝しとけ」

 ヤスダさんは僕の頭を揺すりながら、自慢げに僕のことを女子高生たちへ紹介した。中学生と高校生とでは、おとなと子どもくらいの差がある。年齢にしたら三つしか違わないのに、僕には彼女たちがヤスダさんと同じ側に立っているひとたちに見えた。

 僕はそのなかの一人のお姉さんと知り合いになった。

 どうやら彼女はヤスダさんのことが好きらしい。

「どうしよう。こんなにマジなの初めてなんだけど」

 相談とも愚痴ともつかない彼女の話を聞きながら、きれいな顔立ちに惚れ惚れした。嫉妬するのもばからしい。

 あのチャランポランなおとなのことだから、と想像する。

 こんな美人さんから告白されたらOKしちゃうに決まっている。

「悩む必要なんてあるんですか」僕は言った。

「だってまだうち、子どもだし。きっと言ったら断られる」

「たしかに」その意見には同意できた。チャランポランなおとなではあるけれど、ヤスダさんはそこらへん、妙にこだわりそうに思えた。未成年となんか付き合えねぇよ、と申しわけそうな顔をしながら、友達でいようぜ、なんて言いつつ、なーなー、に誤魔化してしまいそうだ。

「だったら卒業するまで待ったらいいんじゃないですか」

「でもまだ一年もある。長いよー」

 彼女は言ったが、それくらい待てよ、と僕は無駄にイライラした。僕はあとさらに三年以上も待たなきゃならないのに。

 思うけれど、待ったからなんなのだ、と思わずにはいられない。

 ヤスダさんに恋をする目のまえのお姉さんはこれからますますきれいになっていくのに、僕は徐々に、この愛くるしさを失しなっていくのだ。

「きみはいいやつだねー」

 ヤスダさんの真似なのか、お姉さんは僕の頭をなでなでした。

 お姉さんとの交流は、彼女が高校を卒業するまでつづいた。

 彼女は僕の思っていたよりずっと一途なひとだった。卒業式のそのすぐあとにヤスダさんに告白して、そして振られたあとも、しばらく僕にうじうじとヤスダさんへの想いを愚痴っていた。

「どうしたらいいだろう。いっそムカついてて、見返してやりたい気持ちがつよくなってく」

「じゃあ見返したら? 言っちゃなんだけどさ」僕はヤスダさんの、さいきんになって増えてきた白髪を思いだしながら、「もっといい男なんていっぱいいるでしょ」とじぶんのことを棚にあげて言う。

「そうなんだよねー」お姉さんは頬杖をつき、顔面を歪ませる。

 こういう、僕をまえにすると途端にだらしなくなる彼女を、僕は気に入っている。ヤスダさんにもこういう姿を見せればいいのに、と思うけど、さすがにそこまで親切にはなれない。

 高校を卒業したあとはみな別々の進路らしく、お姉さんたちがメロンパン屋さんのまえに集まることもなくなった。

「さいきんお姉さんたちきませんね」ヤスダさんが浮かない顔だったので水を向けた。

「そうだなぁ。まあ、おまえらみたいなのが珍しいんだ。一期一会ってな。んな、まいにち食べるようなもんじゃねぇだろ、メロンパンなんて」

「メロンパンしか売らないひとの言いぐさじゃないですよそれ」

「いつの間にかおまえさんも高校生になってるしな」

「卒業式の日にも顔見せにきたじゃないですか」

「そうだっけ?」

「お祝いだって、クレープつくってくれたのもう忘れたんですか」

「知らねぇなんなことは」ヤスダさんは店のよこのほうをチラチラ窺いながら、小声で、「そういうこと言うなって」と僕を叱った。

 そばには新しく中学三年生になったコたちが、上級生らしい所作でメロンパンを頬張っている。みな女の子なのは偶然ではないはずだ。

 晴れた日は店のよこに簡易休憩所でもつくったらいいんじゃないですか、との僕の進言を真に受けて、ヤスダさんは、ビルのオーナーに直談判し、即席の休憩所を設けたのだった。

「バイトって雇わないの?」僕は言った。

「んな余裕あるように見えっか」

「最低賃金でもいいから雇ってよ」

「はぁ? おまえ、アヤナみてぇなこと言ってんじゃねぇよ」

 アヤナは、ヤスダさんに告白して撃沈したお姉さんの名前だ。

「お姉さんを雇わないなんてヤスダさんは見る目がないなぁ」

「ばぁか。あんな尻の青ぇガキ雇ってたらオレのダンディな評判ガタ落ちじゃねぇか」

 簡易休憩所から笑い声があがる。

「ヤスダさん。笑われてますよ」

「あ、なに盗み聞きしてんだよ。おめぇらも食ったらとっとと帰ぇれ。また先生方に叱られちゃうだろうが」

「誰が?」女子中学生たちと声が揃う。

「オレがだよ」

 笑い声が青空を突き抜ける。

「笑いごとじゃねぇよ」ヤスダさんはぼやく。「おいちゃん嫌われてんだからよー、先生方を困らすおめぇらのせいだかんな」

「そんなこと言って、ときどき呼ばれてるくせに」

 ヤスダさんは先生方からの注文を受け、職員室にときどきメロンパンを届けている。夏休み限定だったりするから、ほかの生徒は知らないはずだ。きっと先生たちも本当はヤスダさんに繁盛してほしいのだ。だから生徒が通学路からいなくなる長期休暇にかぎって、わざわざデリバリーを頼むのだと僕はにらんでいる。

「だからだよ」ヤスダさんは無駄に威張り散らす。「だから先生方にゃ頭があがらん。あんま困らせんじゃねぇぞ」

 はーい、と女子中学生たちが合唱する。彼女たちが去ってからヤスダさんが、ちょいちょい、と手招きする。なんだろうと思い、耳を寄せると、

「ありゃおめぇ目当てだぜ」

 なんとも愉快なことを言うのだった。

「そんなわけないじゃないですか」

「いやいや。おめぇがいねぇときはもっとすんなり、それこそ買ったらすぐにいなくなるんだって。いや、どっちかっつったら、買わずに素通りが多いな、うん」

「へぇ」疑いの眼差しをそそぐ。似たような内容でからかわれるのはこれが初めてではないのだ。「ヤスダさん目当てだと思うなぁ。前科があるし」

「んだよ前科って」

「お姉さんに告白されたんじゃないんですか。で、無残にも捨てた」

「捨てたとか、おまえ、人聞きのわりぃ。え? つうか誰から聞いた?」

「見てたら解かりますよ。気づいてなかったんですか、お姉さんからの熱い視線に」

「熱い視線っておまえ」

「あーあ。お姉さんかわいそう。だいじな青春が誰かさんのせいでパーになった」

「おいおい。アイツの人生をおまえが決めんな」

 ヤスダさんはそこで真面目な顔をした。「オレにゃオレの考えがあってそうしたんだ。アイツにもちゃんと説明した」

「そうなんですか?」

 じぃと見つめるようにすると、ヤスダさんは無駄に頬を膨らませた。「たぶん」と言って肩を落とすものだから、意表を突かれ、陽気が噴きだす。鼻水がでそうになる。すすってから、

「こんなダメ男のなにがいいんですかね」カウンターのうえにあるペーパーで鼻をかむ。

「わるかったなぁ、こんなダメ男で」

 ヤスダさんはそこで手をさしだした。なんだろう、と小首をかしげてみせると、ちょいちょいと手首をスナップさせ、僕が丸めたペーパーを寄越せ、と催促する。汚いのでしぶっていると、ゴミ箱を持ち上げ、投げ入れるようにとあごをしゃくった。僕はそこにゴミを投げ捨てる。

 それからヤスダさんは周囲をきょろきょろしてから、誰もいないと判断したのか、

「よかったなこれで」と言った。なにがですか、と視線で問いかけると、「好きだったんだろ、アイツのこと」

 ヤスダさんはうなじを掻き、「傷心を慰めてやんのは男の役目だ」と時代錯誤なことを言っては、僕を戸惑わせた。

「なに言ってんですか。僕がお姉さんを?」

「あれ、違ったか?」

 言っておきながらヤスダさんの語調からはまだ自身の考えに確信を持っているような、ひとをからかう響きが滲んで聞こえた。

「違いますよ。誰かさんがニブいから相談には乗ってましたけどね」

「あ、そうなんだ」こんどは呆気ないほど簡単に自身の勘違いを認める。痛いところを突かれた人間が見せる顔をそのまま浮かべるので、ヤスダさんの胸中を推し量るのは簡単だ。もっとも、ヤスダさんの生態を分析したからなせる業とも言える。それだけ僕がここに長く通いつめた証でもあるのだ。そう思うと、しょうもない特技を身につけてしまった、とどこか虚しく、また誇らしくも感じるからふしぎだ。

「新しい生活はどうだ」

 高校のことを訊いているのだと判る。「どうもこうも、中学校とそんなに変わんないなって」

「友達はできたか」

「親みたいなこと言わないでくれません?」

「そういや入学祝い、なんもしてやってねぇよな」

「いいですよそんなの」

「きょうはもう店仕舞いにして、どっか食いにいくか」

 耳を疑う。これまでいちどだってそんなこと言わなかったのに。ヤスダさんとはこの店のまえでしか会ったことはなかったし、しゃべるのも別れるのも、いつもここだ。

「ひょっとしてお姉さんたちともどっか行ったり」

「してるわけねぇだろ」ヤスダさんは食い気味に否定する。「これはあれだよ。超大型顧客への接待みてぇなもんだ」

「なぁんだ」がっかりしてみせると、

「まあ、それもきょうで終わりだな」ヤスダさんは、ほらよ、とカウンターに鍵を置いた。

「なんです?」

「店の鍵。ビルの裏手に従業員用の入口があっから」

「それが?」

「バイト。したくねぇのかよ」

 いっしゅん頭が混乱する。だって、とかろうじて言い返す。「そんな余裕ないってさっき」

「余裕ねぇからだよ。メロンパンだけってのもなんだかなぁって思ってたとこでな。コーヒーショップも兼ねようかと思って。コーヒーってか、紅茶だけどな」

 おまえなら淹れられるだろ。

 僕は思いだす。ヤスダさんが家で淹れてこずに、僕のまえで紅茶を淹れていたことを。あれはひょっとするとわざとだったのかもしれないし、そうではないのかもしれなかった。

「べつに断ってもいいけどよ。バイト代、そんな出せないし」

「やる、やらせてください」

「おう。じゃ、ま。そういうことで」

 ヤスダさんはそそくさと後片付けをはじめる。僕も、簡易休憩所を畳むのを手伝った。

 お店のシャッターが閉まる。店の裏で待ってろ、と指示されたので、ぐるっと回ると、裏口からヤスダさんが、ライダースーツ姿ででてきた。

「ほれ」ヘルメットを渡される。「九時前には帰すけど、あとでいちおう親には連絡入れとけ」

「なんて」

「んーそだな。バイトの面接、とか」

 言ってから気づいたようで、「そういやおまえ、親の許可はもらってんだろうな」

「当然」

 間髪容れずに応じるものの、もらっているわけがなかった。なんと説得しようか。せっかく晴れた気分がダイナシになるようだ。いまはこの瞬間を楽しもう、と回りはじめた思考にストップをかける。

 感心、感心。

 ヤスダさんは財布からキィを取りだした。

 すこし歩いたところに駐車場がある。そこにゴツい車体のオートバイが止まっている。ヤスダさんはそれにまたがると、

「落とされねぇように、ぎゅっとしとけ。絞め殺す気でな」真面目な顔で自分用のヘルメットを被った。

 ふつう、ヘルメットは二個持ち歩くものなのだろうか?

 バイクのエンジンがかかる。僕の鼓動がシンクロする。

 車体にまたがり、ヤスダさんの腰に腕を回す。

 思っていたよりもずっとがっしりしている。

 いくぞ。

 ヤスダさんが大声をだす。それでも僕の鼓動のほうが大きくうなりをあげている。




【うしろの正面だぁーれ】


 終電を逃し、めったに歩かない道を辿っていたら、酒を飲み過ぎたのか、ゲロを吐いた。ちょうど古い神社のまえだった。赤い前掛けをした地蔵がちいさな祠のなかにおり、なんだかちょうどよかったので、そこに吐いた。一瞬で地蔵はゲロにまみれた。さっき食った餃子が腹を割いたナメクジとなってゲロにまだらに混じっている。臭いだけはいっちょうまえに餃子の臭いで、しばらくまじまじと見入ってしまった。

 メディア端末を拾ったのはその直後のことだった。

 近道をしようと思い、それが近道かどうかは判らなかったが、とにかく横切ったほうがはやいかと思い、境内に足を踏み入れた。

 暗がりのさきに何かが光るのを見た。

 砂利を踏みしめながら距離を詰めると、メディア端末が落ちていた。

 拾いあげる。

 ひとむかし前に流行った型だ。画面をタップして操作するタイプの端末だが、傷一つない。

 交番に届けるのが筋だったが、その日は疲れていたこともあり、そのまま持ち帰ってしまおうと考える。

 道を進む。神社には街灯がないのだな。

 月がでているのがさいわいだ。

 明かりが恋しく、拾ったばかりのメディア端末をいじる。

 電源が切れている。

 さっきは光ったはずなのに。

 訝しむよりさきに、なんだこのやろう、と腹が立った。

 ひとまず起動するかどうだけ確かめようと思い、起動ボタンを押すと、難なくたちあがる。

 ロックはかかっていないようだ。

 ユーザー情報を漁る。

 空白だ。誰も登録されていない。

 妙だな。

 思いながら、こんどはメモリの一覧を眺める。他者の番号は一つも登録されていない。これでは端末の意味がないのではないか。

 誰かとテキストメッセージをやり取りしている形跡もない。

 それにしては、メモリの消費量が多い。何か重いデータが詰まっていると判る。

 動画だろうか。

 開いてみると、いくつかの画像データが画面に並んでいく。

 数はそれほど多くはない。

 まずは新しいものを選び、拡大表示する。

 誰かが地面に倒れている。

 場所は特定できない。アスファルトの上だ。

 血まみれの人間がうつぶせに転がっている。

 ひと目で生きていないと判る。死体、と呼ぶよりも、ミンチと言ったほうが精確だ。

 いや、そういうフェイク画像かもしれない。よしんば本物であったとしても、ネットからダウンロードした海外の写真ではないか、と当て推量で考える。法律上、死体は物扱いだから、肖像権や、児童ポルノ、その他の法律の範疇外として扱われる。ネットで聞きかじった知識なので、どこまで正しいかは定かではない。

 いずれにせよ、この端末の持ち主は相当に趣味がわるい。地蔵にゲロを吐いた人物には言われたくないかもしれないので、口にはしないが、思うだけなら自由だと、お釈迦さまもおっしゃっている。おっしゃっていなかったら申しわけないが、そもそもここは神社であってお寺ではないので、気を使うのもバカバカしい。

 念のため、ほかの画像も順に開いていく。

 二枚目では、さっきよりも人間のカタチを保った死体が映っている。同じ人物だろう。背格好が同じだ。服の柄はまだよく見えない。それくらい血にまみれているし、ズタボロだ。

 料理の下手なやつが切ったニンジンみたいになっている。ギリギリ全身の肉が繋がっているだけで、もはやグロいと感じるより、どんな道具を使ったらこれだけ肉塊をズタズタにできるのか、と好奇心をかきたてられる。無駄に想像を逞しくするが、明瞭な像は浮かばない。

 三枚目を開く。一枚目のときには気にならなかったが、どうやら時刻は夜らしい。画像が鮮明なのは、強烈な光に照らされているからか。街灯の下なのかもしれない。

 死体は腕を掲げ、逃げようとしている。ならばこれは死体ではなく、死ぬ間際の画像ということになる。下半身だけがグチャグチャで、這いつくばって逃げているようだ。

 なんだか見たことのある服だ。

 顔のところがちょうど、光から外れ、闇にまぎれている。さすがにこのあとすぐに死ぬと判っている人間の顔を見たくはない。

 つぎの画像を開くかどうかを迷っていると、ふと足元が明るくなっていることに気づく。

 顔をあげると、神木があった。どうやらそこだけ照明がついているようだ。

 こんなとこ誰も見ねぇよ。

 唾でも吐きたくなったので、地面に吐くと、影ができていることに気づく。神木は前方にあり、もちろん、照明もまえからこちらにそそいでいる。神木を見ているかぎり、影が足元にできるわけがないのだ。

 背後から光が照っていると判る。さっきまではなかったはずだ。

 ふしぎなのは、それが僅かに左右に揺れていることだ。かと思うと、こんどはピタリと止まる。

 何かいる。

 何かが、光を差し向けている。神主だろうか。こんな夜更けに? そもそもこんなちゃっちい神社に住み込みで常住しているのだろうか。

 なぜ声をかけてこない。

 なぜじぶんはうしろを振りかえろうとしない。

 汗ばむ身体をふしぎに思う。

 足元から伸びるじぶんの影が、するすると縮んでいく。背後の光が近づいてきているのだ。

 足場には砂利が敷き詰められている。

 しかしなぜか歩く音がしない。

 どうやってソイツはこちらに迫っているのだ。

 身体は根を張ったように動かない。

 メディア端末が手から零れ落ちる。

 画面が上を向く。

 新しい画像が表示されている。

 いや、それは、電源の切れた真っ黒い画面に映る、引きつったじぶんの顔だった。

 影が止まる。

 かかとからうしろにはただ闇が広がっている。

 振り向けない。

 ただ足元を見つめる。

 地面のメディア端末が勃然と着信を知らせる。心臓の飛びでそうなほど驚いたが、身体はまるで意思と切り離されたかのように、微動だにしない。

 画面は真っ黒のままだ。

 着信がつづく。

 地面のうえで何かが動く。

 かかとのほうにある闇からするすると、ゆびが、そして手が覗く。ガサガサに干からびた、皮と骨だけの手だ。

 股のあいだを通るようにして、メディア端末を掴むと、ずるずると砂利の一つ一つを裏返すように、ゆっくりと引き抜いていく。

 メディア端末が視界から消える。

 しん、と辺りが静まり返る。

 何者かの息遣いが、耳朶を撫でる。なぜか餃子の臭いが鼻を突く。

 足首に何かがまとわりついている。細かな蟲じみた蠢きを感じ、しだいに這いあがってくるそれは、間もなく、両足に絡みつき、耳元にかかる生臭い息が、聞き取れない声で何かをザラザラとささやきつづけている。 




【ドリームクラッシャー】


「夢なんてぇものは食えたもんじゃねぇですがね、ええ。なけりゃなかったで、これまたどうして、味気ねぇ時間を食うことになりやしょう。調味料みてぇなもんですか、それとも香辛料てなもんですか。大航海時代なんてぇもんがかつてはあったようでございますがね、ええ。香辛料が金や銀と同等以上の価値があったなんて話がまことしやかに言い伝えられておりやすが、案外、夢ってぇもんもそういうものと同じかもわからんですな。あるときゃ金銀財宝がごとく人生を豊かにし、またあるときにゃそこらにあって当然、なくても構やしねぇ、コンビニいってちょいと揃えりゃ済む話だわ、なんて都合のいい理屈がまかりとおる余地がごぜぇやす。夢は見るもんじゃねぇ叶えるもんだ、なんて言い回しがある反面、夢は語るな、見るもんだ、それともコツコツ追うもんだ、なんてぇ真逆の言い回しもありやしょう。やりがいがありゃいいってもんじゃなし、お金持ちになってウハウハ楽しい人生を送りたいって夢もありゃ、地味に苔をむすような生活を送りながら、ゾウリムシの研究をしつづけたいという夢もありやしょう。夢と理想の違いを考えてみりゃ、それほど遠くないようでいて、理想はいつまでも届かぬ陽炎で、ひとの憧れを糧に肥大化しつづける蜃気楼とも呼べるかも分からねぇ。その点、夢はなんでもありの五目御飯、地獄のような世界を望むも、祈るも、自由自在、それは夢見る者の手腕しだい。夢のなかにゃ理想も、空想も、妄想も、虚構もあの世もなにもかも、無数の世界がごった煮だとくりゃ、お好み焼きよりお好みで、選びたい放題の見放題。ストリーミングサービスに読み放題から食べ放題まで、定額制から月額制まで、よりどりみどりのハチャメチャだ。見ずに済むならそのほうがいい、現実そのものが夢になるならそれがいい。しかしなかなかそうはいかない世のなか、お腹はぷくぷくだ。それともスカスカお腹が鳴るのかな? すきっ腹には、ご馳走いっぱい詰め込みたいと求めるのが人間だ。何もおかしくはないときたもんだ。こうしてダベって日銭を稼げりゃいいなと思えば、それも立派な夢まぼろし、叶えりゃ立派に現実で、叶えた夢だと胸を張れる。そういう未来に思いを馳せて、こよい、会社を辞める夢を見る。そういうおとながいてもいいじゃないか。そういう親だとすこし不安かい? それとも背中を押してくれるのかい? 父親といえども夢追い人にはなれるのだ。夢は見ても構わないが、見ているだけでは叶わない。追ったところで必ず届く保障はないが、追わなければ届かない、これもまた、現実という名の共通ルール、夢を扱う際の注意事項に、お取扱い説明書と言えやしょう。奥さまの同意はもらえたのかと、おっしゃりたそうなあなたさまには、いましばらくの、秘密の共有、ゆびきりげんまんの、母ちゃんに告げ口したら、ハリセンボンの真似せんもん、もうにどとあなたのこと笑わせたりしませんもん、とぷくぷく頬を膨らませながら、こちょこちょの刑に処すことをここに誓ってもよろしいか?」

「ゆびきった!」

「へへぇ。これにて、パパ子密会の儀を終わりとさせていただきます。ご清聴まことにありがとうごぜぇます」

「ぱちぱちぱちー。父ちゃん、きょうもおもしろかった。しゃべってるときの顔が」

「顔かぁ。娘ちゃんにはまだむつかしいお話だったかな?」

「うん。でも顔はおもしろかった」

「顔かぁ。うん。顔ね。まぁ、だいじだよね、顔」

「あとね」

「なんだい娘ちゃん」

「これ!」

 娘はひざのうえからメディア端末を拾いあげ、画面をこちらに見せるようにする。

「ねぇパパ」

 そこには妻の顔が映っている。「何か言うこと、あるよね?」

「現実ってやつぁ、これだから」ぼやくよりほかがない。

 部屋の扉が開く。妻がそこに立っている。娘が駆け寄り、妻のお腹に顔を埋める。

 この裏切り者め。

 毒づくと、娘は、えへへ、とその背に隠れる。

「夢なんて食えたもんじゃない」妻はぴしゃりと言う。

「へい」

「私たちにはこのコの生活を守る義務がある。夢を追うのはあなたの自由。でもね、分かるでしょ?」

「へへぇ」

 妻は腰に手をあてる。

「ちゃっちゃと現実(仕事)にしちゃいなさい」 




【自動小説創作AI】


 自動小説創作AIが誕生してから二十年が経過した。

 世の小説家の多くは翻訳家と名を変えた。

 自動小説創作AIは毎秒一万作の小説を新たに編みだしつづける。一説によれば、どんな個人の人生も、そのAIのつむいできた物語のなかに、まるっきり同じストーリィが含まれている、とまで言われている。

 未来予知ではないが、人生はすでに決まっていると言われているようでよい気分にならない人間が大半を占めるなか、それでもそこにロマンを見出す者もいる。

 熱心な小説読者である。

 そして、かつて小説家と呼ばれていた者たちだ。

 世に小説家と呼ばれる人種がいなくなって十余年が経つ。

 ひとむかし前まで、小説は自力で読むか、もしくは自力で編むものだった。自動小説創作AIが誕生してからは、小説は翻訳するものとなった。

 小説は飽くまで、漫画やアニメ、ドラマや映画の原作として利用される素材だ。それを生のままでたしなむ者は、限られる。

 よしんば読む者がいたとしても、同じ作品を愛好する他者と出会うのは極めて稀な世のなかだ。

 人によって相性のよい伴侶があるように、読者によって最適な物語もそれぞれである。自動小説創作AIは、そんな個々人にあった物語を自動で見繕ってくれる。

 同時に、その素晴らしさを世に広め、感動を分かち合おうとする者たちも出てくる。アニメや漫画などのほかの媒体に変換するのがもっとも効率的な手段である反面、感想をつづることで、付加価値をつけようとする者たちも、僅かではあるが存在した。

 なかでも、かつて小説家と呼ばれた者たちの、小説への執着ぶりは目を瞠るものがある。

 自動小説創作AIの力量は、人知を越えている。それより優れた小説などつくれない。

 にも拘わらず、だからこそ、その人知を越えた物語に手を加えることで、さらなる高みへと物語を昇華しようとする試みを、彼ら彼女らはつづけている。

 自動小説創作AIのつむぎだす、無限とも思える物語に目を通し、より最適な物語へと編み直す作業にその人生を費やしている。

 翻訳家は、そうして小説へ、新たな息吹を植えつける。

 かくして、小説家は自動小説創作AIによってその命を一度断たれ、それでも小説にすがりつき、仇である自動小説創作AIに寄生してまで、翻訳家という名の新たな存在として誕生し直した。

 また、あまりの多作ぶりに、人々が自動小説創作AIから一定の距離をとっていることもまた事実であった。ほかの媒体にメディアミックスされた物語だけを摂取する者もあれば、目利きである翻訳家の翻訳された小説のみを摂取する読者もいる。

 翻訳家の手にかかった小説を嗜好する読者は日々、増加傾向にある。それは、増えつづける虚構に付き合いきるだけの処理能力が人間側に備わっていない、人体の不備にその因を求めることが可能だ。

 或いはこうも考えられる。

 人々は、自身に最適な物語だけでなく、いまの自分にはない刺激を求めているのかもしれない、と。小説家たちが翻訳家として生まれ変わったように、新たな自分に生まれ変わるためのきっかけを、翻訳家たちの編纂する小説に求めているのかもしれなかった。

 翻訳家は、かつての小説家たちと同様に、否、それ以上の熱意を以って、無限にも思える虚構の渦に日夜、素潜りを繰りかえす。

 愛するゆえに殺し、殺されるがゆえに身をそそぐ、その身の振り方は、あまりにねじ曲がり、捻転し、螺旋を描いては、遺伝子がごとく、新たな虚構を編みだしていく。

 自動小説創作AIは毎秒一万作の速度で新たな物語を生みつづける。しかし、そこに、翻訳家たちの編み直した物語は含まれない。

 無限にも思えるそれら物語のなかには、むろんのこと、翻訳家たちの人生にまつわる物語まで、まるでそうなることが規定されているかのように克明に描かれ、出力されている。

 言を俟つまでもなく、このテキストもまた、その一欠けらであり、翻訳家たちからは見向きもされずに虚構の渦の底に沈み、蓄積されては、つぎなる虚構の養分となっていく、無限に思える組み合わせの一縷である。

 現時点ではまだ、小説家は世に健在だ。

 間もなくして、絶滅し、蘇えるであろう。




【だってお姉ちゃんだから】


 落葉の終わるころ、妹の様子がおかしいと気づいた。修学旅行から帰ってきてからどうも元気がない気がしていたが、好きな芸人のネット配信を視聴してはゲラゲラ腹を抱えているし、いつもどおりと言えばいつもと変わらぬ姿ではあった。

 ただ、ときおり呆然と宙を眺めていたり、ひざを抱えたままソファにごろんと横になったきり、こちらが明かりを点けるまで夜の帳につつまれたままでいる姿には、姉ながらに、どうしちゃったのこのコと、不安を募らせる。

 多感な時期でもあるからそういうこともあるかもわからんな。

 思うが、果たしてじぶんがこのコのころにそんな真似をしたっけなぁ、と小首をかしげると、どうにも様相が異としてはいないか、とやはり心を配りたくもなる。

「さいきんどう?」

「お、お、お姉ちゃんがしゃべった」

 妹があんぐり口を開ける。ソファの裏側から話しかけたので、妹がこちらを見上げる格好になった。首が痛かろうと思い、正面に回る。

「なんだか元気ないようだけど」

「え、待って待って。お姉ちゃん、しゃべれたの? うわー、お姉ちゃんの声とかひっさびさに聞いた。何年振り?」

「そういうのいいから」恥ずかしくなり、となりに座る。座ってから、こんなに密着したら嫌がられるかな、と思い、反対側に身体を傾ける。肘掛けに寄りかかるような、なんだかフェロモンむんむんのかっこいい女性がとりそうな体勢を維持しつつ、

「悩みがあるなら私が聞いたげるからさ」眉毛を持ち上げる。

 言ってごらん、と無言で促すと、

「やー、なんかさぁ」

 妹はクッションを胸に抱き、つらつらと話しだす。どうやらまんざらでもなかった様子だ。

「修学旅行いったじゃん。このあいだ。で、ユーちゃんたちとお風呂はいったり、いっしょの部屋で寝たり、ずっと一緒だったんだけど、これまでそういうことなかったからさ。ないじゃん? うち、そういうの」

「んだね」うちの両親はどちらも、家に友人を招いたりしない人種で、気づいたらその娘たちもその影響をもろに受けていた。家で妹の友人の姿を見た覚えはなかったし、じぶんはどうだったかと振りかえれば、そもそも友人がいたのか、と根本的な問題が根っこを張って佇立する。

「なんか、友達じゃないかもって思っちゃった」

「ユーちゃんだっけ? 嫌いになっちゃった?」

「そうじゃなくて逆。もっとなんか、意識しちゃって。顔もまともに見らんなくなって、なんかさいきん気まずくて」

 嫌いじゃないんだよ、ホントだよ、と妹はクッションに顔を埋める。

「それって好きになっちゃったってこと?」

「でもユーちゃんは女の子だから」

「だから? 好きになったらヘンてこと?」

 妹は戸惑いがちに、だってぇ、と鼻にかかった声を漏らす。

「ヘンじゃないよ。私のかわいい妹ちゃんは、べつに女の子だからユーちゃんと友達になったわけじゃないでしょ」

「女の子だからだよ。ユーちゃんが男の子だったらきっと仲良くはなってなかったと思う」

「そうだね。でも、きっかけが性別にあったからって、そのあとでもちゃんと縁を繋いでおこうと思ったのは、ユーちゃんがユーちゃんだったからなんじゃない? それとも、ユーちゃん以外の女の子とも、そこまで仲良くなれた? 嫌いになったコだっていたんじゃない?」

「それはそうだけど」

「友達のことを好きになることもあると思う。もちろん最初は、男の子だからとか、女の子だからとか、そういう属性がきっかけになることもあるとは思うけど、もしユーちゃんのことが、だんだんもっと好きになってきたのなら、それはひょっとしたら、そういう属性が好きなだけのスキよりももっと、素晴らしいことかもしれない」

「そうかなぁ」

「どうだろうね。もしかしたら、スキって気持ちになれたら、それはどんなものでも同じように素晴らしいのかもしれない」

 でもね。

 妹の顔を見る。目が合う前に逸らし、

「もしユーちゃんのことがオトモダチとしてでなく、それ以上の、もっとグチャグチャした、どうしてじぶんのものじゃないんだろうって気持ちになっちゃったんだとしたら」

「したら?」

「まずはじぶんでなく、相手のことを一番に考えられるかってことをじぶんに問いかけてみるといいかもしれない」

「相手のことを? じぶんのことでなく?」

「そう。だってせっかく相手のことを、一人の人間として好きになれたのに、モノみたいに扱ったらよくないでしょ」

「モノみたいには思ってないよ」

「でも、どうしてその人の――ユーちゃんの一番じゃないんだろう、特別じゃないんだろうって、モヤモヤしてるんでしょ?」

 妹は目を見開いてこちらを見た。どうしてわかるの、とでも言いたげな表情だ。

「わかるもの。あなたのお姉ちゃんだから」

「言わないほうがいいのかなぁ」

「ユーちゃんに?」

 妹はクッションから顔を離すと、深く息を吐いた。「こんなにモヤモヤするなら知らなきゃよかった」

 それは、と思う。

 さびしすぎるよ。

「じぶんの気持ちをどうするかは自分にしか決められないから、私が言うことじゃないし、それを聞いたからってどうする必要もないけど」

「なにか言いたげ」妹が噴きだす。からかうような口調はどこか、弱みを見せたことでつよがるような、こちらとそちらを分け隔てる線を引くような、このコなりのせいいっぱいの背伸びに聞こえた。

「その気持ちだけはだいじにしてあげて」

 眉を結ぶ彼女のひざに、おっかなびっくり手を置く。「私のために。お願い」

「よく解かんないけど」妹は言った。「ありがと」

 夜、コーヒーを淹れに起きると、居間で母が爪を切っていた。風呂上がりの様子で、あたまにタオルを巻いている。

 電気ポットに水を酌み、電源をオンにする。お湯が沸くのを待っていると、

「きょうね」母が独り言ちる。「お姉ちゃんがしゃべったってあのコ、はしゃいじゃって」

 妹のことを言っていると判る。

「お姉ちゃんがしゃべらなくなってけっこう経つでしょ。お母さん、もうそれはあなたの個性だと思ってるからよかったんだけど。でも、しゃべれたんだねぇ」

 そこに何かしら陰を思わせる響きはなかった。まるで屋根下にできたツバメの巣を見て、ことしもきたんだねぇ、とつぶやくような温かみさえ感じられた。

「なにしゃべってたの、って訊いても教えてくれなかったから、きっとよっぽど見てられなかったんだろうなって。そう言えばここさいきん元気なかったなって思って、あなたよく見てるのね。お母さん、感心しちゃった」

 カップをもう一つ用意し、母の分も淹れた。寝る前にどうかとも思ったが、母は拒んだりはしなかった。礼を言って受け取る。

「ちょうど同じころじゃなかった? あなたがしゃべらなくなったの。妹ちゃんともあんなに仲良かったのに、急に素っ気なくなっちゃって」

 黙って母のとなりに腰を下ろす。コーヒーをすする。妹はきっとまだ飲めないはずだ。

「責めてるわけじゃないからね。誤解しないように」

 黙々とコーヒーを胃に流しこんでいると、

「ふふ。お母さんとはしゃべってくれないの?」

 母が髪を撫でてくるので、首を振って、払う。

「ケチ。ごちそうさまぁ」母はひと息にコーヒーを飲み干すと、そのままカップをこちらに押しつけ、おやすみー、と居間を去った。

 せめて母が母でなく、姉であればまた違ったのかもしれない。

 思いながら、この気持ちが消えてなくなってしまうまで、じぶんはきっといつまでも言葉を発することはないのだろう、と思った。

 それともきょうみたいなことがまたあるのだろうか。

 あのコには、じぶんと同じ道を歩ませたくないと、月並みにだがそう願う。

 誰も教えてなどくれなかった。

 この気持ちを否定することはじぶんを否定することなのだと気づくまでには時間がかかった。それまで言葉を発することがおそろしくなり、そしてあのコとこれまでどおりに接することができなくなった。

 否定する必要はないのだ、だいじにしてよい想いなのだ、と腹をくくったときにはもう、なめらかに言葉を発するじぶんを思い浮かべられなくなってしまった。

 ふしぜんだからだ。

 腹をくくったはずが、この想いを知られることも、打ち明けることもしてはならないのだ、と同じ頭で考えている。

 どうして同性を愛してはいけないのだろう。

 どうして姉妹を愛してはいけないのだろう。

 家族を愛するのはしぜんなことなのに、家族に恋をすることは間違っているなんて、そちらのほうが間違っている。

 思うが、これもまた間違った考えなのだ。

 愛しあえるならば愛しあえばいい。想いが通じるならそれ以上のことはない。ただ、じぶんの想いをいっぽうてきに押しつけることだけはしたくない。

 あのコにはあのコの愛を探してほしい。

 恋をしてほしい。

 となりにいるのは見知らぬ誰かであったとしても、それがあのコの選んだ相手であるならば、それ以上のしあわせはない。

 間違っている。

 しきりに否定しようとするじぶんをなだめすかすために、私は私の持ちうる言葉のすべてを動員する。

 だからきっとそとに零すだけの余裕がないのだ。

 だからきっと私はいまでもしゃべれない。

 否、しゃべらないままでいる。

 漏らしたくはないから。

 この想いを、誰にも。

 悟られたくはないのだから。

 もし、万が一、何かの拍子であのコの心がこちらを向いたら、そのとき私はどうするだろう。想像してはみるものの、そこに朗々としゃべる私の姿は浮かばない。

 この想いに折り合いのつく日はくるのだろうか。

 それがあすではないことだけは、いつの夜もふしぎとハッキリとしている。




【クロに似たソレ】


 クロがクロそっくりの犬を食べていた。狼が羊を襲い食べるのとは違い、つぼみが開花するような具合にあたまが割れ、パックンと丸呑みにした。

 いや、丸呑みではない。わずかに足先が残った。

 クロのお腹が蠢いている。巨人が顎をしきりに動かすように、咀嚼しているのだと判る。

「おい」

 声をかけているじぶんに驚く。クロのカタチを模したそれは明らかにクロではない別のナニカだった。

 ソレは盛大にゲップをすると、首だけひねりこちらを見た。

「けっけっけ、バレちまった」

「しゃべれんのか」

「しゃべるぜぇ。そりゃ今はこんなナリだけどよ」そこで気づいたのか、「これ、おめぇの犬か」

「ああ」

「わりぃことしちまったなぁ」そこでソレは一瞬でこちらとの距離を詰めた。足元で止まると、当惑するこちらをよそに、頭をパカリと開花させる。

 視界が暗くなり、

 ああここで死ぬのか、と息を呑むと、

「なんだおめぇ。逃げねぇのかよ」

 ソレはいまいちどクロの姿へと戻り、「こわくねぇのか。足がすくんでるようでもねぇし」

 まじまじとこちらを凝視する。

「こわいが、人は死ぬときは死ぬ。それだけだ」

「おめぇしれぇやつ」ソレは犬のように、へっへ、と舌をだす。

 その日からソレとの共同生活がはじまった。客観的にはこれまでと変わらず、ボロアパートにて無断で飼っていた捨て犬と暇さえあればたわむれる日々だったが、いまでは、夜になればソレと街中を練り歩き、ソレの餌を見初めては、巧みに誘いだし、ソレのまえへ連れて行くのが日課となった。

 家賃の滞納がどうのこうの、とうるさい大家もソレに食ってもらった。持ちつ持たれつってやつだ、とソレは恩着せがましいことを言った。

 近所でばかり餌を探しては、あらぬ嫌疑をかけられ兼ねない。あらぬ嫌疑というよりかはずばり嫌疑なのだが、ともかくこれ以上の厄介事はごめんだ。夜は繁華街を中心として目を光らせる。帰宅途中の酔っ払いが狙い目だ。

「いつから食べてるんだ」

「人間か?」

 酔っ払いの男をすっかり平らげてからソレは言った。「ずいぶん前からだが、なかなかうまくいかなくてな。この身体の前はなんたって、カラスだったから、そばに寄るだけで逃げられる」

「それで仕方なくクロに乗り換えたと?」

「正確じゃねぇな。おまえのクロちゃんは腹のなかだ。オラぁ、食ったモンに擬態できる。ただし、人間だけはどうにもな」

「なれないのか」

「けっけ。できてりゃいまごろおめぇも腹んなかよ。よかったなぁ、オレさまに弱点があって」

「人間に化けれないことは弱点ではないだろ」

「言えてる」

「無敵でうらやましいよ」

「けっけっけ」

 ソレは名前を明かすのも、あだ名で呼ばれるのも、つよく拒んだ。

「名前がないと困るだろ」

「困るのはおめえで、オレじゃねぇ。だいたい、呪いみてぇなもんじゃねぇか。呼ばれたら応じなきゃなんねぇなんてよォ。そんなん、うぜぇだけだ」

「じゃあなんて呼べば」

「呼ぶな。オレさまは誰の指図も受けねぇ。勘違いしてんじゃねぇぞ、おめぇはオレの気まぐれで生かされてんだ、つぎペット扱いしたら食うぞ」

 化けられないだけで、ソレの主食は人間だった。

「そのナリならべつに俺はいらないんじゃないか」思ったので言った。

「けっけ。バケモノが人間を食らってるなんて噂が流れちゃ困るんでな。せめて殺人犯がいるくらいでねぇと」

「身代わりというわけか」

「保険だよ保険」

 人体よりよほど小さな体躯だ。食べた分の質量はどこに消えているのか、と疑問だったが、バケモノが犬に成り代わっている時点で、とうてい常識で計れる事象ではない。

 昼は犬小屋でおとなしくし、夜になれば人間を喰らいに共にでかける。ひと月ほど経過したところで、ソレと同種と思しきバケモノと遭遇した。ソレもまた食事中だった。口らしき先端からストローのようなものを伸ばし、獲物に突き刺している。ストローのようなものの行き着く先では、高校の制服が風になびいており、中身のほうはとっくに、しおしおと干からびているようだ。

「あら、見られちゃったわね」

「けっけ。おめぇ、野良か? アイツらかと思ってビビったじゃねぇか」

「そっちこそ野良でしょ。臭いから寄らないで。あら、そっちのはいい男じゃない。美味しそう。食べないの? なら」

 そこで彼女は――彼女と呼んでよいのだろうか、臓物を裏返したような塊が、こちらに向け跳躍した。一寸はやく、こちらのそばにいたクロに似たナニカが身を震わせ、頭を開花させる。クロに似たナニカの真ん中を、鋭い何かが貫いた。クロに似たナニカはひるむことなく、開花させた頭を閉じた。

 ばっくん。

 開いた傘が閉じるようだ。

 クロに似たナニカは跳躍した彼女の胴体を半分だけ食いちぎった。濡れた雑巾が何百枚も束になって落ちるのに似た音が辺りに反響する。

 クロに似たナニカの下腹部が蠢く。咀嚼しているにはやや長い。

「クソ。そっちか」

 細長い槍のようなものが、クロに似たナニカの胴体を貫いている。地面ごと串刺しにされており、身動きがとれないようだ。

「そっちに核があるはずだ、寄こせ」

 先刻食い千切ったばかりの同胞の半身を所望する。串刺しにされたことそのものに動じている様子はなく、しかし焦燥感を顕わにして、「いいから寄こせ、はやくしろ」と喚くソレの姿は新鮮だった。

 ぐちょぐちょの、ほぼ内蔵としか形容しようのない物体のなかから、ゆいいつ硬質そうな物体を拾いあげる。金平糖をこぶし大にすれば似たようなものができる。光沢がある割に、触感はぶよぶよと弾力がある。

「コレか?」

「よ、寄こせ」

「いいけど」

 歩み寄る。「やらなかったらどうなるんだ」

「核がやられた。こ、こ、これ引き抜いたらヤバい」

「そっか。代わりがあってよかったな」

「あ、ああ」

「ちなみにな」

「いいから寄こせって」

「おまえの食った犬。クロってんだけど。初めてできた友達だったんだ」

「はぁ? たかが犬じゃねぇか」

「おまえにとってのたかが犬が、俺にとっちゃ掛け替えのない友達だったんだ。それこそ俺にとっちゃこんなもん、薄汚ねぇ、ゴミと同じようにな」

「あん?」

「おまえにとっては大事らしいけどな」

 言って、手に持っていた金平糖じみたナニカを地面に落とし、弾むより前に足で踏みつける。弾力はあるが、それはどちらかと言うと、ゆで卵のようなやわらかさで、体重を加えると、ある一定のチカラが加わったところで、ぶちゅりと中身を漏らしながら潰れた。

「な、なにしやがる」

「どうした? 声に覇気がないようだが」

「てめぇ」

「おまえ、イマ動くとどうなるんだっけ? 悔しいだろ。こいよ。見ててやるから」

 ソレの射程距離は把握している。距離を置いたところでしゃがみこみ、串刺しのまま進退窮まっているソレを眺めた。

「ほらほら、はやくしないと朝になっちゃうよ。俺、朝一で講習あるからさ。とっととくたばってくんねぇかなぁ」

「てめぇ、それでも人間か」

 ソレの言ったセリフがおかしく、俺は足元にあった石をつまみ、投げつける。一個では止まらない。見つけては投げ、見つけては投げた。

 ソレは必死の様相で、やめろ、とか、頼む、とか命乞いを並べたが、あいにくとこちらに聞き入れる道理はないのだった。

「クロを返してくれたら助けてやる。でなきゃ死ね」

 というか、死ね。

 俺はクロに似たソレへ、石を投げつづける。 




【いいやつでもないけれど】


 わるいやつじゃないんだ。それは知ってる。人付き合いの苦手なぼくを何かと気にかけてくれるし、ぼくと違って友達が多いのに、ぼくとの約束を優先してくれたりする。わるいやつではないのだ。

 ただ。

「ごめんなさい、ほかに好きなひとがいて」

「それってマリオ」

 彼女は戸惑いがちにあごを引いた。大学の校舎の陰に夕陽が沈んでいく。前にもこんなことがあったな、とデジャビュを覚える。

 むかしからだ。

 むかしといっても、マリオと出会ったのは中学生になってからのことだから、かれこれ六年になる。六年しか経っていないとも言えるし、六年も縁がつづいたのかと驚きもする。

「わたし、マリオくんに告白するかもしれない」

 振られたばかりのコから、告白の告白をされる。好きになったコがぼくの親友に惚れているなんて事態に直面するのは何もこれが初めてではなかった。

「そっか。うまくいくといいね」

「ごめんなさい」

 彼女は頭を下げる。傷心を負ったぼくをその場に残し、去っていく。彼女がわるいわけではないのは分かっている。かってに好きになって、かってに告白して、かってに傷ついているのはぼくだ。ぼくがじぶんでじぶんを苦しめているだけなのだ。

 マリオにしたって、ぼくに八つ当たりされるいわれはない。

 わるいやつじゃないんだ。

 ただちょっと、女性への態度がなっていない、と心苦しく思うことはある。

「前にヨシキがイイって言ってた女いたじゃん」

「うん」

「告ってきたんだけどキモくね。ろくに遊んだこともねぇのに、なに勘違いしてんだか」

「でも振ったわけじゃないんでしょ」

「だってもったいねぇじゃん。顔はブスだけど、身体はまあまあだったし」

 だったし、という言い方が弾丸となってぼくの脳髄を突き抜ける。

 見境のないマリオもマリオだが、そんな男にいいように遊ばれるあのコにも腹が煮える。もちろんこれだってぼくがかってに釈然としない思いを抱いているだけで、あのコはわるくないし、どちらかといえば被害者とも呼べる。マリオにしてもわるいわけではないのだ。相手を傷つけずにお互いいい思いだけしてきれいに縁を切るのがじょうずな男だから。

「いつか痛い目みるよ」

「そんときゃ慰めてくれよな」

 たしかに、と思う。

 こんなふうに警戒心を解かれるような声音で、屈託のない笑顔を見せられたら、ぼくが女の子でもいいように遊ばれたかもしれない。だとしてもきっとマリオを恨んだりはしないのだろう。

 わるいやつではないから。

 それくらいは短くない付き合いだから判る。いや、そうではない。わるいやつではないと知ったから、縁を繋いでもよいと思い、気づくと六年も経っていただけの話なのだ。

「ヨシキが中学のころ好きだったやついるじゃん」

「ミホちゃん」

「そうそう。じつはあんとき、付き合ってたんだよね」

 頭が一瞬真っ白になるけれど、もうこの感覚にも慣れっこだ。

「そうなんだ。マリオのこと好きそうだなぁとは思ってたけど」

「ヨシキから聞かされる前のことだかんな」

「うん。べつに後だとしてもどうも思わないよ。ぼくが付き合ってたわけじゃないし」

「ごめんなぁ、いっつも」

 いいよべつに、気にしてない。

 何でもないような顔で言えたらよいのに、本当は身体が震えるほど傷ついているし、なぜいまさらそんなことを打ち明けてくるのか、マリオの鈍感な誠意がおそろしくもあり、だからぼくは黙ってちいさく頷くよりないのだった。

 距離を置いたほうがよいのかもしれない。

 マリオのことを疎ましく感じる瞬間が増えてきた。そんなじぶんが嫌だったし、それをマリオに見透かされるのも嫌だった。

 好きなコのことごとくがマリオになびいていくのを横目にしていても、惨めだとは思わなかったのに、友を疎ましいと思うこの気持ちだけは、見て見ぬ振りのできないほどに惨めに思える。

 徐々に距離を置きはじめたこちらにマリオはまだ気づいていない。失恋の傷が癒えていないと見做しているのかもしれなかった。

 飲み会の席でのことだ。

「ヨシキさぁ」大学のゼミでいっしょになった女の子がとなりに座った。こちらに顔を寄せ、「マリオと本当に仲いいの」と耳打ちするようにする。

「なんで。ID知りたい?」これまでにもぼくを介してマリオとお近づきになろうとしてきた女の子たちはいた。数知れないと言ってもいい。きょうはマリオがいないから、ここぞとばかりに仲介役を頼もうとしているのでは、と想像した。

「ないない、ないって。そういうのじゃなくて、うちはただ、あんたのことを心配してんの」

「ああ、わるい噂でも聞いた」マリオの素行を嘆く声は、マリオに魅了される女の子たちが多ければ多いほど、周囲に渦を巻くようだ。じかに交流したことがなければ、ぼくだってマリオをまっとうな人間だとは思えなかっただろう。いいや、いまだってまっとうだなんて思っていない。ただ、わるいやつじゃないんだ。

「あんたいいように扱われてるだけだって。アイツ、あんたがいないとこであんたのことなんて言ってるか知ってる?」

「聞きたくないんだけど」

 女の子に向けるべきではない目つきをしてしまったかもしれない。目を伏せる。「ごめん。心配してくれてありがとう。でも、マリオは友達だから。あんまりわるく言わないでほしい。すくなくともぼくのまえでは」

「ごめんて。でも、ホントよく考えたほうがいいって。アイツ、ヨシキのまえじゃいい顔するけど、いないとこじゃあんたのこと言いたい放題だし、わざわざ声をかけてやってるみたいなことだって言ってた。それで自分の株あげて、女子から好かれようとしてたり」

「そっか。うん、そうかもしれない」

 考えなかったわけではない。ぼくだってバカじゃない。ぼくの目のまえでその場にいない人間のわるぐちを絶え間なく並べるマリオが、ぼくのいない場所でぼくのことをなんと言っているのかを想像できないほどぼくは、マリオがいいヤツだなんて思っていない。

 ただ。

「でも、全部本当のことだから。マリオは素直なだけでさ、言ってることは案外間違ってなかったりするんだよね。言い方くらいは選んでほしいとは思うけど、ぼくのことにしろ、きっとウソは言ってなかったと思うんだよね。だいたい、ぼくがいないところでぼくの話をしているほうが、ぼくにとってはびっくりだから。マリオみたいな人間が、ぼくみたいなのを気にかけてくれているほうがありがたい。そうじゃない?」

「ヨシキのさぁ、そういうとこ。どうかと思うよ」

 あぁ、この目は、と胸がざわつく。

 なぜか母の眼差しを懐かしく思った。

 小学校でほかのコたちからあまりよい扱いを受けていなかったとき、せっかく我慢して、隠していたのに、学校の先生がわざわざ家にあがりこんで、報告したりするから、両親にそのことがバレた。

 ぼくはだいじょうぶだったのに。

 たしかに同じ人間として対等に扱ってはもらえなかったけれど、負けない自信があった。耐えられる。こんなのはいじめではない。ぼくは屈しない。

 だから、どうせならぼくは、あのとき、そのことを褒めてほしかった。

 母にあんな、憐憫に満ちた目で見てほしくはなかった。

「ヨシキはさぁ」

 続ける彼女は、あのときの母と同じ目をしている。「洗脳されてるよ、それ、ほとんど宗教じゃん」

「宗教がわるいことのように言うのは感心しないよ」

「そりゃ信仰の自由はあるけど、なんかだって、盲目的すぎるでしょ」

「そう? 仮にぼくがマリオに洗脳されていたとして、そっちに何か不都合でもあるの」

「あのさぁ。心配してるひとに向かってその言い方ってなくない」

 言い返そうと唇を舐めたところで、すかさず彼女は、わかってるわかってる、と遮った。「頼んでないもんね、はいはい、余計なお世話でした、でしゃばってごめんなさいね」

 食い下がるつもりはないようだ、と判り、肩の力が抜ける。彼女は立ちあがり、こちらを見下ろす。「まあ、せいぜい傷つかないことだね。きみはいいひとみたいだからちょっと見てらんなくて。好きにしたら。あ、これからもゼミでよろしく」

 彼女は席を移動する。ぼくたちのやりとりは周りに筒抜けだったようだ。飲み会が終わるまでぼくのとなりには誰も座らなかった。

 帰り際、一人の女の子が駆け寄ってきて、ぼくに言った。

「二次会どうする? いく?」

「いかない」

「だよね」義理で訊いてくれたようだった。踵を返そうとしたところで、「あ」と彼女が声を発したので、踏みとどまる。

「あのね、さっきあのコがあんなに必死だったのは、たぶん、そういうことだと思うから」

 そういうことの、そういうが解からなかったが、

「気にしてないよ」と言いつくろう。

「もし嫌じゃなかったらまた話してあげて。わるいコじゃないから、ホントに」

 言い捨てるように彼女は去った。合流先では、店でぼくに説教をした女の子が、いまぼくに話しかけたコの肩を叩いている。おおかた、余計なことを言うな、とか、なんか言ったでしょ、みたいな掛け合いを繰り広げているに違いない。それは、ぼくに関わりあいのある現象でありながら、ぼくにはまったく縁のないことのように思えた。

 大学のゼミで、議論をするためにメンバーが二組に分かれた。ぼくに説教をしたコはべつの班だ。接点は薄まった。

 しばらくしてからそのコがマリオと仲の良さそうに歩いている姿を見かけた。ぼくはなぜか彼女たちに見つからないように自販機の陰に隠れた。

 なぜ隠れなきゃいけないのかと自問自答するよりさきに、マリオと距離をとったところで意味はないのだ、と理解した。

 マリオがわるいわけではないのだ。思っていたとおりだ。ぼくに魅力がなく、そしてマリオにはある。ただそれしきのことなのだ。

 ゼミの終わり、件のコに引き止められた。窓のそとには雪が舞いはじめていた。

「ごめん、前に言ったこと取り消すわ。マリオくん、いいやつだった。ヨシキくんは言わないだろうけど、うちが悪口言ってたって、マリオくんには内緒にしといて。お願い」

「悪口なんて言ったっけ」ぼくはとぼけた。彼女は海外のひとみたいに、アーハン、と意味ありげに眉をあげ、サンキュー、とご機嫌に背を向ける。それからというもの、彼女がマリオのそばで楽しげにはしゃぐ姿を幾度か見かけた。

 大学が冬休みに入り、落ち着いた日がつづく。マリオからはときおりテキストメッセージが届くが、バイトが忙しいと言ってその都度、誘いを断った。拒絶の意を感じ取ってほしかったけれど、マリオは懲りずに定期的にぼくを、飲み会や、レポートの写し、それから短期バイトに誘った。半分ちかくは、終電を逃したから泊まらせてくれ、というものだから、二十二時を過ぎてからのメッセージは翌朝に開くようにする習慣がついた。

「うお、ヨシキじゃん、ひさびさ」

 ファミレスで食事をとっていると、マリオが通りかかった。「何してんだ。一人?」

「うん」

「俺このあとライブあってさ。ここで待ち合わせ。ヨシキは」

「ぼくは、とくに何も」

「ふうん。そういやヨシキのゼミの女がさぁ」

 予約していたかのような滑らかさでマリオは向かいの席に座る。彼はことさらかったるそうに、付きまとわれて迷惑だ、とあのコへの愚痴を並べた。

 彼女が処女で、最初は嫌がっていた口での奉仕も、いまではすっかりじぶんからするようになった、といった話をしはじめたので、ぼくは、でもよかったよ、と話を遮る。

「こんどはマリオのとこにいったんだ、こわいよね。でもマリオなら対応上手だからなんとかなるよね、ごめんねぼくのせいで」

「俺のとこにもってなに? 謝る意味がわかんねぇんだけど」

「いい迷惑だったから、付きまとわれて。でもぼくはほら、こういう性格だからうまく拒めなくて。どうしてマリオのほうに行ったのかは分からないけど、接点はぼくだと思うから。巻きこんでごめん」

「いいけど」

 マリオが笑みを引くのは珍しかった。

「もうすぐみんなくるんじゃない。ぼく、もういくね」

「ここにはよくきてんのか」

「きょうまではそうだったけど、しばらくこないかも」

 なぜ、とマリオは訊かなかった。ぼくもじぶんに、なぜ? と問いたかったけれど、そこにハッキリとした答えはないように思い、深く考えるのをやめた。マリオは黙って、ぼくの残したポテトを齧っている。

 その日からマリオからの連絡はぱったりと途絶えた。いきつけだったファミレスのまえを通りかかると、駐車場にマリオの愛車に似た車が停まっていることがあり、寄ってもよかったきぶんが萎むのを感じた。

 卒業論文の課題を決める時期だった。アパートに引きこもり、助教授から借りた参考文献と睨みあう。専攻は、寄生生物だ。

 寄生生物のなかには、宿主を洗脳する種もある。幼虫の餌にするため、或いは水辺に移動させるため、もしくは鳥に食べてもらうため、ほかにもキノコを育てさせるためと、さまざまな寄生生物がいる。

 宿主もさまざまだ。人間も例外ではなく、たびたび寄生されては、一方的に害を被っている。

 人間の行動は報酬系の活発で左右される。端的に、気持ちよければがんばり、苦しければ逃げる。だから人間に寄生するナニカがいるとすれば、苦痛よりもさきに快楽を与えたほうが洗脳しやすい。

 飴と鞭というように、初めに与えるべきは飴なのだ。飴を取りあげることで鞭とすることも可能だろう。

 誰かを思いどおりに操りたければ、その者にしあわせを与え、それから奪えばよい。

 本を閉じる。

 目が滑ったままで半分ほどを読み進めていた。

 思考がゆがんでいる。淀んでいるとも言い換えてもいい。

 これ以上は考えないほうがよいように思い、なぜそう思うのかと新たな疑問と向きあいながら、そもそもじぶんは何を考えていたのだろう、と寄生生物について思いを馳せる。

 年末は実家に戻らないことにした。きっとマリオは帰るだろう。帰省しない理由はマリオと関係ないはずだったのに、なぜかしきりにメディア端末の履歴を気にしている。

 ファミレスで言葉を交わしてから会っていない。メッセージもこない。

 アパートのそとには雪が積もっている。お腹が減ったので、食べに出ようと服を着替える。

 財布をポケットに仕舞ったところで、メディア端末が震えた。

 鼓動が高鳴る。

 画面を見ると、母からだった。脱力する。

 ちゃんと食べてるの。

 いかにも母親らしい文面に、もう子どもじゃないんだよ、と言い返したくもなる。だいじょうぶだよ、帰らなくてごめん、春休みには帰るかも、そっちも元気で、と素っ気なさを醸しつつ、大人ぶった返信をする。

 靴を履き、そとにでると、シンシンと舞う雪のしずけさに、きぶんが高揚するのが判った。空気というか、世界の存在感が薄い。アパートの多い地区だ。帰省した者がすくなくないのだろう。ずっとこんな日がつづけばいいのに、と存在感の希薄な町並みを尊びながら、薄いというのならば人の多いほうが空気は薄くなるものなのではないか、とつまらない考えを巡らせる。

 ファーストフード店を覗くと思いのほか混雑していた。入らずに、コンビニに寄った。あすの朝と昼の分の食料を買い込み、夜食としてすこし高めのハンバーグ弁当を購入する。酒を購入したものの、とくに飲みたい気分ではなかった。

 アパートまでの道を進むごとに雪がつよくなる。吹雪になるかもしれないと、根拠もなく思った。靴に水が染みこむ。やり場のない冷たさを不快に思った。

 アパートの階段をのぼると、通路のなかほどに誰かが座りこんでいた。ぼくの部屋のまえだ。扉に背を預け、メディア端末をいじっている。音楽を聴いているのか、近づいてからかれはようやく顔をあげた。

「おう。わるいんだけど、泊めてくんね」

「連絡くれればよかったのに」

 言いながら鍵を開ける。「どいてくれないと開けられない」

「怒ってね」

「ぜんぜん」

 立ちあがったマリオはこちらよりもずっと背が高く、急にじぶんがちいさくなった心地がした。

「寒いって。はやく」ちいさく体当たりをされ、よろける。「入ろう、入ろう」

「どうぞ」

 かれを招き入れる。

 マリオはぼくが促すよりさきにコタツに入った。かってに電源を入れ、あったけぇ、と言いながら上着を脱ぎ、あったかいお茶が飲みてえなぁ、と零しながら、ああ腹が減ってきた、などとこれみよがしにつぶやく。ぼくはお湯を沸かし、お茶を淹れ、じぶんのために買ってきたハンバーグ弁当をマリオにあげた。将棋をするような心持ちで、コタツに足を突っこむ。

「さすがヨシキ。人間できてるやつはちげぇな」

 ここぞとばかりに持ち上げるかれの言葉が、空虚に聞こえる。

 朝食のつもりで買ってきたパンを齧る。

 黙っていると、訊いてもいないうちからマリオは、あれ話したっけ、と会っていなかったあいだのじぶんの遍歴を語りだす。

 たいへんだったねぇ。へぇ。すごい。

 ぼくは自動相槌マシーンとなって、かれの放つ言葉を、同じ温度、律動で打ち返す。

「例のゼミの女いたじゃん。ヨシキと同じの。ストーカーとかキモイんだけど、つったらつぎ会ったとき、めちゃくちゃヤリチンで有名な男連れてやがった。乗り換えんのがはやすぎだっつうの。これ見よがしに目のまえ通ってくしよ。なんとも思わねぇっつうの」

 ちらちらと顔を見られているのは判ったけれど、ぼくはいつもと同じように、マリオと目を合わさずにいた。

「そっちはどうしてた」ひとしきり話して満足したのか、マリオは言った。さして興味なさげの声に、

「どうもこうもないよ」と応じる。「変わらず何もない」

「へぇ。遊びに行ったりは」

「引きこもってたから」

「そっかぁ」マリオはうなずく。顔を見なくとも、破顔していると判る声だ。

「きょうはどうしてうちに」ぼくは訊いた。「実家には帰らなかったの」

「おまえだって帰ってねぇじゃん」

「そうだけど。もし帰ってたらどうするつもりだったの」

「どうも。てかいるの判ってたし。部屋んとこに足跡残ってた」

「よく見てるね」

 褒めるとマリオは、探偵になれんじゃね、と自画自賛した。

 窓のそとはうっすらと明るい。静寂が細かく舞い、積もっているかのようだ。

「マリオはさ」ぼくは言った。「どうしてきょう、うちにきたの。ほかにもっと頼れるひといたよね」

「いなかったんだって」

「どこで遊んでたの」

「きょうか? や、ふつうに飲みに」

「誰と」

「言ってもわかんねぇだろ」

「そうだね。でも、どうしてぼくなの? もうほとんど接点ないじゃん」

「機嫌わるいな、どうした」

「わるくないよ。ううん、わるいのかも。せっかく独りになれたのに、また誰かさんが土足で踏みこんでくるから」

「靴は脱いだだろうがよ」

 本心ではなく、嫌みだと判る。「なんかおまえ、性格わるくなったな。どうした、誰からも相手にされなくて寂しかったのか。だったら素直によろこんどけよ、俺が相手してやってんだからさ」

「いい迷惑なんだけど」

 湯呑を両手でつつむ。細かく揺れるお茶の表面を眺めながら、なぜいまじぶんはこんなことをしているのだろうと、じぶんがじぶんでない心地を味わいながら、「大晦日に、元旦に、年越しの日まで、なんでぼくがマリオの相手をしなきゃいけないわけ。ご機嫌取りならほかにもいいのがいるでしょ、取り巻きだっていっぱいいるじゃん、なんでぼくなの。自慢話も、もういいよ。聞き飽きた。マリオはただ、ぼくみたいな弱い人間から奪えるものを奪って、じぶんのチカラを誇示したいだけでしょ、そうやってでしか、生きてるって実感できない人間なんだよ、そうでしょ、なんでせっかく距離を置いたのに、また寄ってくるのさ」

 ストーカーとかキモいんだけど。

 どこかで聞いた言葉が口を衝く。ぼくはお茶をひと息に飲み干し、それからコタツの温度設定を最弱にしてから、

 目を逸らすな、目を逸らすな。

 じぶんに言い聞かせつつ、顔をあげる。

 マリオはじっとうつむいている。前髪が垂れ、表情はよく見えない。ひざのうえに載せた手のひらでも見つめているみたいだ。身じろぎせず、だんまりを決め込んでいる。

「きょうは泊まってっていいけど、もうこないで」

 まるでじぶんではない誰かが言っているみたいだ。どうしてそんなに冷たいことが言えるのだろう、と思いながら、もっと言ってやりたい衝動に駆られる。

 逆上されるかもしれないと身構えていたのに、ついぞマリオは何も言わなかった。

 眠ぃ、寝る。

 横になると、そのままマリオは寝息をたてはじめた。

 図太いのか、何なのか。

 呆れたと同時に、言い争いにならずによかった、とほっとする。

 マリオが自身の両肩を抱くようにする。寒いのかもしれない。コタツの温度をあげる。風邪をひかれるのも目覚めがわるいので、上着を肩にかけてやる。マリオ自身の上着だ。

 食べかけの弁当をゴミに仕分けし、シャワーを浴びてから、なぜかは分からないけれど布団は敷かずに、コタツに潜り、目を閉じた。じぶんだけ寝心地のいい布団に入るのは、なんだか公平ではない気がした。

 目覚めるとマリオの姿はなかった。夢心地に、扉の閉じる音を聞いた気がした。

 書置きはなかった。

 その日から、マリオの姿を見かることはなくなった。大学がはじまってからも連絡はなく、構内で遭遇することもなかった。

 住む世界がはじめから違かったのだ。

 やはり、マリオのほうから手を差し伸べてくれていたのかもしれず、そうではないのかもしれなかった。

「さいきんマリオくんと会ってたりする」

 大学の食堂でうどんをすすっていると、話しかけられた。となりの席に座った彼女は、以前、飲み会でぼくに話しかけ、その後、マリオと仲良くなったコだった。トレーのうえにはサラダだけが載っている。それで足りるのだろうかと心配になる。

「なんか連絡とれなくて。ヨシキくんならなんか知ってるかなと思って」

「ごめんなさい、ぼくもさいきんあのひととは会ってなくて」

 縁を切ったとは言えなくて、それっぽい言葉でお茶を濁した。

「ふうん」何かを言いたげな目だった。うどんを食べ終えるころに、彼女もサラダを食べ終えた。食事中は、ドレッシングをかけないのかとかそういった至極どうでもよい話題をなん往復かした。

 席を立ち、彼女のトレーごと片づける。

「さいきん食欲なくて」彼女はまだしゃべり足りない様子だ。

「だいじょうぶ? 病院にはいった」

「どうなんだろ、いったほうがいいのかな。うつ病とかやなんだけど」

「早めにいったほうがいいんじゃない。何事もないって判るだけでも一つほっとするでしょ」

「そうだね。そっか。そうかも」

 彼女は歯を見せずに笑った。

 それからしばらく、食堂に顔をだすときは彼女がとなりの席に座るようになった。どこに陣取っても、目聡くぼくの姿を見つけては、わざわざぼくのとなりまでやってくる。

「見間違えじゃなかったらさっきあっちで食べてなかった」

「うん。わるい?」

「そんなことはないけど」

「なに。きみはわざわざ移動してきてあげた親友に向かって、どうしてこっちくるの、なんてひどい言葉を吐くわけ」

「そんなつもりはないし、きみはぼくの親友ではないし、そもそもそんなにひどくはない」

 彼女が目を鋭くしたので、

「気がするけどでも、そんなことはない気もしてきた」と訂正する。

「親友が嫌ならさ」彼女の手が伸びてきて、こちらのトレーからハンバーグを奪いとった。流れるように口へと運ばれていく様に、獲物を掴んだまま巣へと飛んでいくタカを連想する。「親友以外になればよくない?」

「それ最後のひと口だったのに」ぼくは言った。

 ごっつぁんです。

 彼女は口元を手の甲で拭う。

 構内を歩いていると、ときおり彼女のように、マリオくんさいきんどうしてる、と訊ねてくる女性が現れた。ぼくはマリオではないです、と説明したくなるほどだ。いずれも過去にマリオとなんらかの接点を持っていた女性たちで、「こちらもまったく会っていない、連絡もないのです」としょうじきに応じると、あからさまに落胆したり、なんでもない顔をしたあとで、なぜかこちらの連絡先を訊きたがったりした。

 せっかく解放されたマリオに未だ生活を掻き乱されているようで、よい気分ではなかった。彼女たちの圧に怖気づいて、連絡先を教えてしまいそうになったけれど、以前のぼくならまず間違いなくそうしていただろうけれど、いまは軽々しく教えるわけにはいかない理由があった。

「ヨシキおっそい、なにしてたの」

「ごめん、ひとに道を訊かれてて」

 食堂の裏にあるベンチがぼくたちの待ち合わせ場所だった。遅れるなら連絡をくれればよかったのに、と彼女は膨れたが、こちらの挙動がおかしいことに気づいたらしく、ああ、と訳知り顔で頷いた。

「また訊かれたんだでしょ。道とかじゃなく」

「あー、そうかも」

「だから連絡もできなかった。そもそも端末持ってないからっていう言いわけを口にしちゃったから」

「さすがだね、よくお分かりで」

「分かりやすぎる誰かさんのお陰です」彼女は憎まれ口を叩く。「言っとくけど浮気したらすぐにバレるからね。もし粗相しちゃったら正直に打ち明けな」

「許してくれるんだ、やさしいね」

「バカね」彼女はこちらの足を蹴り、木漏れ日の浮かぶ芝生のうえを歩いた。「殺すに決まってるでしょ」

 ぼくたちの交友は日時計のようにゆるやかに、しかし確かな進展を見せていた。大学でいっしょの時間を過ごすだけでなく、お互いの部屋を行き来するようになり、泊まるのが珍しいことではなくなり、やがてぼくの部屋のほうが大学に近いという理由から、彼女の私物がちらほらと、しかし着実にぼくの部屋に蓄積されていった。

「互いに利益を与え合う共生を相利共生というのだけど」

「ふうん」

「きみがぼくに寄生しているのではないとしたらいったいぼくはどんな利益をもらってるんだろう」

「気持ちいことしてあげてるでしょ」

「まるでそっちは気持ちよくないみたいな言い方だ」

 お互い様だ、と意見すると、彼女は唇をとんがらす。ぼくの腕を引っ張り、強引に枕代わりにした。

「こんな美人が恋人ってだけで充分でしょ。ご不満?」

 ぼくは彼女の髪の毛を撫でる。これではたとえ奴隷であっても文句を言う権利はないように思えた。

 マリオとの縁が切れてからというもの、平穏で充足した日々だ。

 マリオのことは嫌いではなかった。わるいやつではないと知っていたし、現にいまだってそう思っている。ただ、かれのこちらへの態度には付き合いきれないものがあった。いまこうして客観的に過去を振りかえられるようになってからしみじみ、そう思うのだ。

 さすがに蝉の声が熱風となって街を覆うころには、マリオについて訊ねてくる女性はいなくなった。代わりに、なぜか彼女たちはたびたびこちらに声をかけてきたり、ときには私生活の相談事や、食事の誘いを向けてきたりする。

 恋人がいると言っても、そういうのじゃないんよ、と笑って流される。恋人に打ち明けると、浮気しないならべつにいいよ、とあべこべに背中を押される始末で、けっきょくマリオと交流のあった女性陣とたびたび顔を合わせ、言葉を交わし、ときには楽しい時間を過ごしたりした。

 むろん浮気に該当するような愚行に走ったりはしない。ただ、そうなりそうな雰囲気に流されそうになったことはあり、さすがにこれはマズイな、と内心穏やかではない。心臓にわるくもあり、だから近頃は彼女たちを避けている。元から他人との交流が得意なほうではなく、とくべつ仲良くしたい欲求があるわけでもない。

 じぶんの自閉的な性質を実感するたびに、マリオとはそもそも水と油くらいに性質が異なる人種だったのだ、と振り返るようになった。そして回顧するたびに、じぶんはまだあの男のことを引き合いにだしては、自己分析の基準にするのか、と未だマリオからの呪縛から脱し切れていないじぶんにうんざりするのだった。

 半同棲じみた生活が日常の風景として馴染み深くなったころ、

「さいきん忙しそうだね」彼女の様子が妙に映りはじめた。

「バイトがね」と彼女は言う。「あと卒論の準備とか。ヨシキはだいじょうぶなの」

 言いながら彼女はまぶたになにかしらを塗りたくる。

「きょうも帰り遅いの」

「そうだね、遅くなるかも」

 なんの気ない会話だったが、彼女の挙動の色合いが以前とは異なっていることくらいには気づいていた。この部屋に入ってきてから彼女はいちどもこちらを見ていない。

 恋人というものがいなかった期間が長いので、付き合ってから時間が経てばこういうものだ、と言われてしまえば、そうなのか、と思うほかにないのだが、それにしては彼女のこちらへの関心のなさは引っかかる。

 ときおり彼女がメディア端末で誰かと会話をしていることには気づいていた。通話の際に必ず部屋のそとへ出ていくのも妙に思っていた。こちらと通話をするときにはそうした物音を耳にすることはなかった。場所を移動はしていないのだ。

 この日、彼女は零時になっても帰ってこなかった。心配だったこともあり電波を飛ばすと、やや間があってから彼女はでた。

「ごめん、きょうは帰れないかも」

「そっか。一人?」

 一拍あってから、友達と飲んでる、と彼女は言った。

「そのコと替われる?」

「なんで」

「めいわくかけてないかなと思って」

「だいじょうぶだよ、それになんかお酒買いに行ってていまいないから」

 言った直後に、咳きこむような声が聞こえた。彼女のものではなく、ましてや女性のものとも思えなかった。

「そっか。わかった。気をつけて」

「ごめんね。帰るとき連絡するから」

 彼女は通話を切った。

 翌日、彼女は何食わぬ顔で帰宅した。こちらが訊ねる前から、高校のときの同級生で、と彼女は説明し、そのコの彼氏もいっしょだったんだ、とついでのように言い添えた。

 シャワーを浴びてきたのだろう、彼女の身体からは柑橘系のシャンプーの香りがした。反面、彼女のカバンからはぼくも彼女も吸わない煙草の匂いがした。

 奇しくもそれは嗅ぎ慣れた匂いであり、脳裡に、けっしてわるいやつではない男の顔が浮かんだ。

 帰宅してからの彼女は、疲れたといってベッドに突っ伏すとそのまま眠りについた。

 彼女のメディア端末を手にとる。ロックがついている。寝返りを打った彼女の顔に画面を翳すと、ロックは解除された。

 彼女を裏切るような真似をしているのに罪悪感はなかった。

 テキストメッセージの履歴を眺める。

 半ば予想していたが、彼女はぼく以外の男と逢瀬を重ねていた。登録名は女性の名前だったが、ぼくにはそこに並ぶテキストメッセージの文体に見覚えがあった。

 メッセージの送り主はしきりにぼくのことを気にかけていた。ぼくがよい思いをするように、気を病まぬように、すべきことをするようにと指示を与えていた。彼女はぼくの恋人ではなく、与えられた役柄をこなす憐れな道化だった。

 哀しくはなかった。哀しく思わないじぶんに失望したが、それは元から感じていた喪失感だった。

 メディア端末を元の場所に戻す。あべこべにこんどはじぶんのメディア端末を手に取り、すこし迷ってからわるいやつではない男の連絡先を選択する。

 待ち合わせ場所は近場のファミレスだ。以前は行きつけだったが、頻繁にかれの気配を感じるようになって足が遠のいた。

 店内に入ると、すでにかれは座席についていた。カラフルなキャップを被っており、相変わらず周囲から一つも二つも浮いている。ひとの目を煩わしく感じたりはしないのだろうか。

 ジュースのお代わりかもしれない、席を立ったほかの客が、それは女性なのだが、かれの姿に注視した。目を奪われると言ったら大袈裟だが、そう形容しても遜色ない所作が女性からは窺えた。首だけがかれの方向を向いているから、歩を進めるたびに顔が地球を回る月じみて、身体と合わなくなっていく。

 その女性のよこを抜け、かれのいるテーブルまで歩き、座った。

「遅刻じゃないよね。はやいね、いつからいたの」

 声をかけてもかれは顔をあげなかった。聞こえなかったわけではないはずだ。もういちど声をかけるのはなんだか気が進まず、まずは注文すべく店のデバイスにて飲み物とポテトを選択する。

 品物が運ばれてくるまでかれは口を開かなかった。

「食べる?」皿ごとポテトを差しだすと、かれは手を伸ばし、つまんだ。リスのように一本だけをもぐもぐ口ではむ。なんだかおかしくなって陽気が漏れた。

 目が合う。

 なぜ笑うのか、と問うような瞳がおかしかった。

「いいよ、もっと食べなよ。お腹空いてるの? きょうは驕るから」

 デバイスを操作し、本格的な食事をとることにした。かれは遠慮したが、こちらがまとめて二人前の料理を注文してしまうと、あとはもう運ばれてきた品を無下にしたりはしなかった。

 フォークに刺したハンバーグを黙々と口に運んでいると、

「要件は」

 かれのほうで口火を切った。「怒ってるんだろ。まだ。俺のこと」

「どうして怒ってると思うの」

「だってもうくるなって。迷惑だって言ったのヨシキじゃん」

「すごいね。まるでぼくがわるいみたいな言い方。てっきり反省してるかと思ってた」

「してるって」

 周囲の客が振りかえる。

「声大きいよ」

「反省してる。でも、だから、わるいって思ったから会わないようにしてたんじゃん」

「会おうとしても拒否したけどね。ぼくのほうで」

「じゃあなんで」

「きょう呼んだかって? 心当たりない? あるからそんなにビクビクしてるんじゃないの」

「ビクビク?」

「ちがったならいいんだけど」

「俺はホントにおまえの邪魔にならないようにって」

「だからぼくにけしかけたわけ? 女の子を? モテないぼくにおこぼれをって? 恵んでやろうってそういうこと」

 マリオは黙った。叱られた犬のようだと月並だが思う。褒められるとでも思いあがっていたのだろうか。ありがとう、さすがはマリオさま、とぼくがよろこび、感謝するとでも期待していたのだろうか。

「いまぼく付き合ってるコがいるんだけど知ってるよね。前にマリオが言ってたコ、付きまとわれてて困ってるって」

 かれは動きを止め、目を伏せる。食事はまだ途中だ。カラになったかれのグラスを手に取り、飲み放題のジュースをおかわりしに歩く。じぶんの分と両方コーラにした。席に戻り、グラスを置く。

「マリオ、あのコといまでも繋がりあるんでしょ」

 核心を突くつもりで言った。マリオはグラスを掴むと、一口で半分を飲んだ。

「しょうじきに言ってくれたほうがうれしいんだけどな。マリオ、あのコにぼくと仲良くするように言ったんじゃないの。あのコだけでなく、ほかのコたちにも」

「だったらなんなん」げふ、とかれはちいさく喉を鳴らす。

「なんでそんなことしたのかなってふしぎに思うよ。教えてほしいんだけどな」

「怒ってないのか」

「怒る? ああそう、ぼくが怒るような理由なんだ、マリオがそんな真似したのって」

 質問を浴びせるのは、優位な立場を崩したくなかったからだ。マリオには罪悪感のようなものがあるらしい、かれの肩身の狭そうな態度からそのように感じた。

 かれの行動原理を知りたかった。そうでなければまた同じ轍を踏むことになる。

 振り回されるのはうんざりだ。

「ぼくの怒るような理由なんだ」と繰りかえす。

「悪気はないっつってんじゃん。ただ、おまえにもいい思いをしてもらいたかったっていうか。だって俺がいたせいでヨシキは損をして、俺ばっかりいい思いするから、それが嫌でヨシキは俺のこと嫌いになったんだろ」

「嫌いになったっていうか」解釈としては間違ってはいないが、飽くまでこちらがいじけているだけで、自分は被害者みたいな立場だと思いこんでいる。

「すくなくとも俺は」

 マリオの声が大きくなったので、テーブルのしたで足を蹴る。マリオは眉をしかめたがすぐにこちらの意図を汲んだようで、「すくなくとも俺は」と小声で言い直す。

「俺は、嫌われたくなかった。わるいことをしたのなら謝るし、直せるところは直す。でも、何も言ってくれないでかってに縁を切られてもどうしたらいいかなんて分かんねぇじゃん」

「マリオはぼくになにがしたいの」思ったままを口にした。「謝まりたいとか言ってるけど、自分が許されたくて、楽になりたくてする謝罪に意味ってあるのかな」

 マリオは黙った。目には険しさが滲んでいる。

「本当はただぼくを傷つけたいだけなんじゃないの。ぼくみたいなのに一方的に突き放されて、それでプライドが傷ついて、ただじゃすまないぞって、復讐してるだけなんじゃ」

「ちがう」

「吟味せずにすぐに言い返すところがマリオらしいよね。そういうところが嫌だって分からないのかな。分からないんだよね。しょうがないよ。ぼくたちは端から生きてる世界が違うんだから。種族が違う」

 ハンバーグの最後の一切れを口に運び、マリオはさ、と突きつける。

「ひとの幸せを奪うことでしか幸せを実感できないそういう寄生生物なんだよ。自分で自分だけの幸せを掴みとることのできない、ロイコクロリディウムとかチャイロスズメバチとかサナダムシとか」

「サナダムシといっしょんにすんなよ」

 反論する気があるとは思えないほど弱々しい声だ。

「あのコとは別れるから、マリオの好きにしていいよ。ぼくのために何かしたいと思うならもう何もしないでほしい。構わないでほしい。他人でいつづけてほしい」

「許してくれないのかよ」

「許すもなにも恨んでないからね。怒ってもないよ。ただ関わりあいたくないんだ」

 眉間にしわを寄せるマリオからは、承服しかねる、との根強い不満が読み取れた。

「マリオはあのコとは寝たの」

 かれは首をひねる。

「ぼくが付き合ってたあいだ、あのコとはそういう関係になってたのかを訊いてるんだけど」

「ごめん」かれはもう誤魔化さなかった。

「いいよべつに。さっきも言ったけど怒ってない。ぼくは寝てないからね。あのコとは。そう、けっきょくそういう関係にはなれなかった」

 かれはこちらを見た。すこしうれしそうに見えたし、意味が解からない、と戸惑っているようにも見えた。

「マッサージをし合ったりはしたけどね。恋人らしい、なんだろ、そういうのはなかった。生殖行為に分類できる接触とか。なんでだろう。どうしても誰かさんの顔を思い浮かべてしまうからなのかな」

 これは当てこすりのつもりで口にした。

「元からそんなに好きじゃなかったのかもしれない。ひょっとしたら、誰かさんが得たものをぼくだって手に入れられるんだって証明したかったのかも。ものすごく最低で、最悪な考えだけど。もちろんあのコにとって。ぼくにとってもか」

「アイツと別れるってことかよ」

「ありていに言えば。こんなことはまず本人に言うべきことだけど」

「いいよ俺から言っとく」

 口にしてからはっとしようで、「こういうとこが嫌なんだよな」としおらしくなる。

「別れ話くらいじぶんでできるよ。むしろさせて。邪魔しないで」

 マリオは深くうなだれる。表情は見えないが、歯を食いしばっているようで、こめかみがしきりに蠢いた。

 その代わり、とぼくは言った。

「ほかのコたちにはマリオから伝えといて。もう媚び売らなくていいよって。できれば、ぼくが感謝していたって言って。いっときでも仲良くしてくれてありがとうって」

 絞りだすような、わかった、が耳に届く。

「要件はおしまい。ぼくとマリオくんとの縁もきょうかぎり。お互いこれからは干渉しあわずに生きていこう。そっちのほうがぜったいいいよ。ぼくにしても。マリオくんにしても」

 わかった、とかれは言った。誠意を示すには、ぼくの提案を受け入れ、潔く縁を切るよりない。それくらいの良識はかれであっても持ち合わせていたようだ。

 それはそうだ。

 けっしてわるいやつではないのだ。

 ただ、いいやつではなかっただけのことで。

 それはぼくにしても同じかもしれなかった。

 注文した品は話しているうちにたいらげていた。マリオの分だけが半分ほど残っている。

「さき帰るね」

 席を立つ。さよならもばいばいも口にしない。もちろん、またね、もだ。財布を取りだし、ふたり分の食事代をテーブルに置いた。電子マネーで決算してもよかったが、敢えてそうした。おつりがお札ででるくらいの金額だ。大きい紙幣がそれしかなかった。

 マリオは自身の手を見詰めているばかりで、それに気づいた様子はない。

 ぼくは構わず出口へと歩いた。

 店のそとの駐車場には、街路樹の濃く長い影が伸びていた。ひょっとしたら追いかけてくるかもしれないとの緊張感を抱きながら、振りかえることなく道を進んだ。

 アパートに戻るのが鬱屈で、映画を観て時間をつぶした。映画の内容は頭に入ってこなかった。

 自室へと戻り、明かりを灯すと、今朝まであったはずの彼女の荷物がごっそりなくなっていた。一人で持ちだすには荷が重い量に思えたが、助けてくれる友人の一人や二人はいるだろうと思った。

 意識して溜息を吐く。久方ぶりに呼吸をした心地がした。

 その夜、マリオから長文のメッセージが届いた。ベッドにもぐり、まどろんでいたところだったので、その長文にはさっと目を通しただけで、返信もしなかった。

 意識が遠のくのを感じ、夢を見ていると思いながら、夢のなかのぼくはぼくに幾度も謝罪を繰り返していた。惨めなぼくはぼくの脚に縋りつき、見捨てないでほしい、と幾度も言ったが、こちらを見上げたその顔はもうぼくのものではなかった。

 ぼくに縋りつくそれはツルのようにするすると四肢を細く伸ばし、ぼくの身体に絡みつく。身動きのとれなくなったぼくはそれでも栄養をとり、水分をとらねばならかった。ぼくに絡みついて離れないそれは、さらに情けなく許しを請いながら、ぼくからありったけの栄養を水分ごと奪いとっていく。

 目覚めると朝で、ぼくは汗を掻いていた。窓のそとは薄暗い。シャワーを浴びながら妙に鮮明な夢だったと思い、樹に寄生するツルがあったことを思いだす。

 ヤドリギは、寄生した木々から養分を吸いとる。ただし自力で光合成もできるので、半寄生植物と呼ばれている。

 なぜ寄生するのだろう。

 ぼくは疑問する。

 自分一人きりでも生きていけるのに。

 シャツのボタンを一つずつ閉める。それから朝食をつくり、食べた。

 しずかな朝だ。

 つぶしたゆで卵とマヨネーズを絡めたものをトーストに載せただけのエッグサンドは、淹れたての紅茶とよく合い、おかわりをしたい、と思った。

 ふと思い立ち、メディア端末を手に取る。もういちどちゃんと読もうと昨夜届いたはずのメテキストッセージを開こうとしたが、寝ぼけて消してしまったのか、履歴に残ってはいなかった。

 或いは本当はそんなものは届いておらず、ぼくが見た夢だったのかもしれなかった。

 どちらでもよいと思い、なぜだろう、とふしぎに思いながらぼくは、自分一人きりでも生きていけるはずの男の連絡先を指定し、「昨日は言いすぎた」の十文字にも満たないテキストをしたためたが、すこし悩んでから、「かもしれない」と付け加え、やはりすこしためらい、送信した。

 返信はあってもなくてもどちらでもよかった。

 ただ、かれはけっしてわるいやつではないから、読まずに消すことはないだろうと思った。

 メディア端末を手放すころには、陽がのぼりきっていた。朝食を終えたときはまだスズメの鳴き声が聞こえていた。たかだか十数文字にずいぶんと手間取ったものだ。

 予定よりも一時間遅く部屋をでた。講義には間に合わないだろう。それもいい。

 駅までの道すがら、じぶんの影を踏めないのはどうしてだろうと考える。反発しあう磁石みたいだ。もどかしさがくすぐったい。

 時刻を確認しようとメディア端末を取りだすと、新着のテキストメッセージが一通入っていた。

 気にしてないよ。

 そのうしろについでのように、釣りはいつ返せばいい、とハンバーグの絵文字といっしょに添えられていた。

 陽気がこみあげる。

 そう、わるいやつではないのだ。

 ただ。

 ぼくは唇をぴったりと閉じ、それが零れてしまわないように抗った。 




【アンケート】


 アンケートにご協力ください、と呼び止められた。

 用紙とペンを差しだす女性はエプロン姿で、大きなマスクをしている。アンケートに答えればジュースを十本買えるだけの電子マネーがもらえるらしい。

 暇だったので、書くだけ書いてやろうと用紙とペンを受け取る。

 設問のほとんどはイエス・ノーで答えられる形式だ。名前を書く欄がある。

 あだ名でもいいですかね、と訊ねると、ダメですね、と返される。

 設問のなかには、過去の交際歴や現在の性生活についてのプライベートな問いもあり、本名を記すには抵抗がある。

 どうせ分かりゃしない、と友人の名前を組み合わせ、名前をでっちあげると、いきなり手首を掴まれた。骨が軋むほどのつよいチカラだ。

「なんで嘘をつくんですか」 

 頭のもげそうなほどふかく、女が首をかしげている。 




【コンビニ強盗】


 時刻は深夜だ。

 店内に客がいなくなったのを見計らって突入する。カウンターのまえに直行し、いらっしゃいませー、と笑顔をつくる店員へとナイフを突きつける。店員はバイトに似つかわしくのない無垢な笑みを浮かべたまま、こちらの突きつけたナイフにバーコードリーダーを当てた。

 ピっ、と音が鳴る。

「一点で五千三百円になりまーす」

「値段でんの!? てか高ぇなぁおい」

「こちら温めますか?」

「刃物だから。レンジでチンしたらバチバチ火花散って危ないから」

「こちら袋にお入れしますか?」

「破けるからね、これ刃物だからそのまま入れたら破れるだけだから。つうかそもそも商品じゃねぇし、俺も客じゃねぇからさ」

「あ、新しいバイトのひと!」

「に見えるー? そう見えちゃうかなぁ? きみあれだよね、空気読めないって言われない?」

「あはは、やですよー、空気読めるとか、こっわ」

「なんで急に真顔? あー、待て待て。出鼻くじかれてあれだけど、いいわ。まずおまえ、レジ開けろ。金だせ、金」

「え、ここでですか?」

「早くしろ、刺すぞ」

 ピっ。

「こちら一点で一万円になりまーす」

「やめろや! ピってやつやめれ。てか値上がりした? 一万円って、どういう仕組みなんそれ」

「なんか臭くないですか」

「ひとの顔見て鼻つまむのやめてくれない?」

「なんか暑くないですか」

「むさくるしいって言いたいのかな? きみナイフ突きつけられてるって忘れてない? これ見えてる? いいから金だせよほら」

「お金欲しいんですか? 働いたらいいのに」

「はん。ガキにゃわかんねぇだろうが、長く生きてりゃ、ときにゃこういうことでもしなきゃ生きてけねぇときがあんだよ」

「たいへんですね」

「俺ぁ、もうあとがねぇからよ。べつにおまえごときここで殺してもいいんだぞ」

「なんかここ錆びてますね」

「ナイフ古くてごめんねー!? ねぇ、さっきからなんなのきみ、俺強盗なんだけど! もっと緊張感持と? ね?」

「強盗? あぁー、どうりで服がダサイかと思った」

「服、関係なくね?」

「お金だせばいいんですよね。でもさすがにお店のお金はちょっと」

「いいから出せよ」

「ぼくのお金でよければ差し上げますけど」

「あぁ? 持ってんならそれも出せ。どっちもいただいてく」

「でもおじさん運がいいですよ、ぼくちょうどあした給料日で」

「あしたじゃダメだろ」

「はいどうぞ」

「有り金五百円っておまえ」

「ちゃりーん」

「ごひゃくえーん! せっかくの有り金募金しちゃダメでしょ!」

「べつにいいんですよ。困ってる人たちのためならこれくらい」

「じゃあくれよ! 困ってる人いたでしょ、目のまえに!」

「それに、あとでレジのなかから補充しとくんで」

「泥棒じゃん!」

「どっかの強盗が盗ってったって言いますんで」

「濡れ衣ー!」

「あ、サイレン」

「ホントだ。おまえ、さては通報を」

「もう来たんだ、はやいなぁ。あ、おじさんもはやく逃げたほうがいいよ」

「え、もしかしておまえも?」

「うん。さっきバックヤードでタバコ吸ってたら返本用の雑誌に引火しちゃって」

「火事かよ!」

「ほら、臭いじゃないですか」

「ホントだ、煙クサ!」

「暑いし」

「うお、めっちゃ汗かいてる。興奮してて気づかなかった」

「このままだと肉まんになっちゃいますよ」

「うまいこと言ってんな、さっさと逃げるぞ」

「その前に」

「なんだ」

「お金、お金」

「おまえ、いいのか?」

「ええ、困ってる人は見過ごせないですからね」

 店員はレジを開け、紙幣を掴みとると、そのまま募金箱に突っこんだ。

「おまえぇぇぇえっっっ!」

 店員はこちらの身体にバーコードリーダーを押し当てる。

 ピっ。

「こちら、無料となっておりまーす」

「人をかってにタダにするな」

「おじさんはでも、ただの人だから」

 募金箱の鍵を開け、中身を取りだすと店員は、こちらに無垢な笑顔を向け、そのまま颯爽と店のそとへと去っていった。

「くれねぇのかよ!」

 バックヤードから熱風が噴きだし、消防車の赤色灯が近づいてくる。

 店から脱し、月を仰ぐ。

 強盗になるには向かない夜もある。




【饅頭トライ】


 部室に置いておいた饅頭がなくなっていた。部員は三人しかおらず、みな席を外しているあいだに起きたできごとだった。

「部室に鍵は?」

 問うと、部長が神妙な顔つきで、

「かけてでたさ。でも鍵はおまえたちも持っているだろ」

「俺が戻ってきたときにはもうなかったっすよ」新入部員が口にする。「いいじゃないっすか、饅頭の一つや、二つ」

「いや、それがマズイんだって。ちょっとした事件になるかも」

「そんなにか」部長が組んでいた腕をほどく。「ひょっとして、例の?」

 そう、とうなずく。

 新入部員が唾液を呑みこみ、なんすかなんすか、と身を乗りだす。「そんなだいじな饅頭なんすか、あれ」

「おいおい、おまえが戻ってきたときにはもうなかったんじゃないのか、まるで見てきたように言うもんだな」

「どきり」

「解かりやすく動揺するんじゃない」

「まあまあ、まずは話を聞こうじゃないか」部長がふたたび腕を組む。「白状したほうが身のためだぞ」

「いや、マジで俺じゃないっすよ、神にちなんでもいいっす」

「ちなむな、ちなむな。せめて誓え」

 部長とふたりで、新入部員を囲む。彼は正座の体勢に縮こまり、

「見たは見たんすよ」と語りだす。「部室にきたら鍵かかってて、窓から覗いたら誰もいなかったんで、待ってようかと」

「中に入らなかったのか」

「じつは」新入部員は白状する。「鍵、失くしちゃったんすよね。知られたくなくて。すんません」

「おいおい。ひょっとしてその鍵、誰かに拾われたんじゃ」

 部長の言葉を受け、

「でもおまえ」と指摘する。「僕らが戻ってきたときには中にいたよな。どうやって入ったんだ部室に」

「開いてたんすよ。トイレに行って戻ってきたら。先輩たちじゃないんすか?」

 私は違うな、と言う部長につづけて、僕でもないぞ、と首を振る。

「じゃあ鍵を拾ったやつが饅頭を食べたんすかね」

「もしくは」新入部員の意見に補足する。「鍵を拾って部室の鍵を開けた人物と、饅頭を食べた人物は別である可能性もある」

「ふしぎなのは」部長が言う。「なぜ鍵を開けたままにしていたかだ。仮に鍵を開けた人物が饅頭を食べたならば、部室から出るときに鍵をかけ直してもよいと思うのだが」

「たしかに」新入部員と声がそろう。

 そこで、ひょっとして、と閃いた。

 部長も同じ考えに到ったようだ。新入部員だけが、床にあぐらを組み、うーん、と唸っている。正座でないのはひとしきり反省を終えたからだろうが、鍵を失くしたことについてはまだ許してやっていない。

「本当に惜しいことをしたな」部長が口火を切った。

「まったくだね」

 ここぞとばかりに切られた口火を拾い、

「あれは忘れもしない数年前」と自前の鉄板に詰めて使う。「部長といっしょに出掛けたどこかの高校の文化祭だか定期戦だか、なんだかとにかく人のうごうごひしめく校舎を練り歩いていたときに、女子生徒だか男子生徒だか、ひょっとしたら教師かもしれないが、ともかく見知らぬ誰かから、キノコに似た何かをもらい受けたような気もする」

「めっちゃ忘れてるじゃないっすか」

 ぷひ。

 新入部員のツッコミに反応する声が漏れて聞こえた。案の定だ。

 ここぞとばかりに畳みかける。

「そのキノコの土壌がたしか」と部長が相の手を入れる。

「そう、饅頭だった。同じキノコを再現したくて饅頭に胞子を植えつけては、しばらく様子を見たものの、どれも中途半端な大きさにまでしか育たない。あの毒々しい模様をもういちどこの目にしたくて、今回はこれまで以上に胞子をたらふく植えつけてみたのだけど」

「それを奪われちゃったんすか?」

「もしアレを食べたらたいへんなことになる」

 事件だよキミ、と部長が付け足した。

「この解毒剤を呑まないと」ポケットに手を突っこみ、「ひどいことになる」

 口から出まかせが衝いたところで、

「ちょっとぉおお!」

 部室のロッカーから、見慣れた顔が飛びだしてくる。「そんなもの置いとかないでよ、食べちゃったでしょ、バカバカ、なんとかしなさいよ」

 涙目になって、解毒剤はどこ、と声を荒らげているのは、何を隠そう、我らが顧問の、楚々塚(そそつか)シイだ。敬意を表して、シイちゃん先生と呼んでいる。

「なんでまたそんなところに」新入部員が瞠目するそのよこで、シイちゃん先生は、

「鍵拾ったからどこのだろと思って挿してみたら、ドンピシャ。ここの部室の鍵だったでしょ、せっかくだし、エロ本でも探して待ってようと思ったら、なんとまあ、おいちそうなお饅頭がテーブルのうえにあったとして、食べずにおられるひとがいる?」

「なんで隠れたりなんか」

 部長の呆れた物言いに、新入部員といっしょになってうなずきまくる。

「だって、教師が生徒のおやつ食べちゃうなんて、かってに、そんなのダメじゃんか」

「解かっていながら食べちゃうんですね」

「だっておいちそうだったから」

 こちらが何も言わないでいるとシイちゃん先生は手を伸ばし、解毒剤、とつぶやいた。顔を背けているのは、教師の面目丸つぶれの状態にあって、顔向けできないを地で描いていると言えそうだ。

「ないよそんなもの。シイちゃん先生の食べたのはただの饅頭だから。ただし、教頭先生がだいじにとっておいた、入学式のときの紅白饅頭だけどね。あれ、老舗の特注品だってよ、先生、知ってた?」

「なんでそんなものをあなたたちが」

「預かったんだって。職員室に置いとくと、食いしん坊の誰かさんがかってに食べちゃうからって、教頭先生にはここの部室を譲ってもらった恩があるからね。一時保管庫の役目くらいは引き受けますって。なのに件のどこかの食いしん坊が」

「よもや滅多に顔をださない部室にやってこようとは」部長が引き継ぐ。「裏目にでたと知ったら教頭先生はさぞかに悲しむでしょうなぁ」

「うぅ。どうしたらいい?」

「まあ、饅頭を放置して席を離れた僕らにも責任の一端があると言えばあるかも」

「そうだよ、そうだよ」

「やっぱないかも」

「うそうそ、ごめんなさい、なんとかして」

「しょうがないですね」部長へ目配せし、頷きあう。「きょうの部活は変更してひとまず、饅頭食い逃げ犯をでっちあげるとしますか」

「俺は嫌っすよ、だって食ってないですもん!」

 新入部員が盛大な勘違いを炸裂させている。訂正するのも面倒だ。

 廃部寸前のミステリィ同好会改め、万屋「奔放」の初仕事といこう。

「鍵を開けた人物と饅頭を食べた犯人がべつであっても筋は通る」今回の仕事は、と部長が意味もなく手を叩く。「手始めに、濡れ衣を着せるのにテイのよい野良猫を捕まえてくることだ」

「いくら教頭先生でも、じっさいに目のまえに犯人の猫を差しだされれば、しょうがない、と納得してくれるものと期待しよう」

「うおー、俺めっちゃ猫好きっす!」

 はしゃぐ新入部員のよこで、シイちゃん先生はすっかり開き直った様子で、

「よっしゃ、きみたちの活躍に期待しとるよ」

 部室に置いておいたせんべいをバリボリと齧っている。

「かってに食うなって。誰のためにひと肌脱ごうとしてると思ってんだよ」

「お茶ないの、お茶」

 部長がすかさず急須を手に取り、茶葉を入れる。器がでかいことは長所だが、お人よしにすぎるのが部長の難点だ。急須にお湯をそそぎながら、先生、と部長は言った。

「食い意地が張るのはしょうがないでしょうが、せめて人の食べ物をかってに食べてしまう癖は直したほうがよくはありませんか」

「そうだね、今回みたいなことになったら面倒だもんね。軽くトラウマだよ。お、ありがと」

 湯気のたちのぼる湯呑を受け取り、シイちゃん先生は言った。「饅頭はこわい」

「これぜってぇ、つぎも食うっすよ」

 新入部員のぼやきに、これがラグビーだったらナイストライだったな、とその先見の明を褒め称えたくなったが、鍵を失くした件についての処遇をまだ決めてはいない。ひとまず、何事もトライだ、と肩を叩く。

「初仕事、がんばれ。野良猫一匹捕まえてくるだけの簡単な仕事さ」

「俺一人っすか? 先輩たちは?」

「顧問を変えてくれるように直談判してくる。校長先生の弱みは握ってるからな」

 やだやだこんな楽な部活ほかにないのにぃ、とわめくシイちゃん先生を尻目に、新入部員は靴ひもを結び直す。

「やは、ドライっすね」




【人類の管理者】


 テクノロジィの発展はセキュリティの発展と言っても過言ではなかった。指紋をはじめとする生体認証は、網膜から声帯から静脈まで、さまざまな個々人のデータが鍵として用いられる。

 ついには遺伝子情報までもが鍵としての役割を果たすようになったころ、人体を鍵としか見做さない野蛮な者たちが跋扈しはじめた。

「指紋がありゃいい。切ってもってこい」「あい。こっちはどうやしょう」「網膜か。死体から抜いてくりゃいいんじゃねぇか」「ではこっちは」「静脈かぁ。そいつぁ、さすがに死体じゃムリだな。血流が消えたら鍵にならねぇ。ま、生きてりゃいいんだ。片腕でも切って脅せ」

 自分にしか開けられない鍵であればあるほど、その人物の価値が期せずしてあがり、却って危険な目に遭う確率をあげてしまう。セキュリティとしては本末転倒な事態が引き起こり得る。

 そこで考案、抜擢されたのが、個別行動様式だった。

 指紋や網膜など、先天的な個体差を鍵とするセキュリティではなく、後天的に培われるその人に固有の癖や所作によって個人を判別し、鍵として用いるシステムだ。

 個別行動様式は、たとえばその人の歩く姿や、立ち振る舞いから個人を識別可能だ。のみならず、眼球運動や細かな表情の変化によってもまた個人の同定が高い確率で達成できる。

 そうなるともう、人間側がセキュリティ認証を行う必要がなくなる。システムのほうでかってに人間を認識し、解析し、同定作業を行う。

 たとえば人間が自動車に近づいただけで、それが所有者であると自動車のほうで認識し、ロックを解除する。もし挙動が不審だった場合は、たとえ所有者であってもロックを解除しないということも可能だ。つまり、誰かを脅してセキュリティロックを解除するといったことができなくなる。

 ただし、この手法では、何者かに襲われたり、焦っていたりしたときに、正常にセキュリティを解除できなくなる懸念が浮上する。そのため、所有者だけでなく、その周囲にいる者の興奮度合を測るセンサーもまた別途に付属させる必要性が生じる。

 それもまた、眼球運動や表情の変化、二酸化炭素値の上昇具合から、総合的にアドレナリンの分泌具合を推し量ることは、演算能力の高いAIがあればそう難しくはないはずだ。

 そう考えた科学者たちがこぞって、個別行動様式型のセキュリティ開発に乗りだし、実用化されるまで、十年とかからなかった。

 その汎用性と機能性の高さから、個別行動様式型セキュリティはまたたく間に社会に普及した。

 携帯型メディア端末からモノAIまで、幅広く個別行動様式型セキュリティが組みこまれた。

 端から眺めるかぎりにおいてそれは、あらゆる機械からロック機構が消えたように映った。

 鍵を解除する過程がない。機械のまえに立つだけで、自ずからロックが解除され、起動する。

 ほかの者の所有する機械を自分では操れないことが社会常識となり、またクラウドの普及により、どこからでも、どんな端末からでも、自分のデータにアクセスできる。

 公共物にモノAIが付属されるようになってからは、自分の端末だけでなく、さまざまな端末を一時的に自分の端末として利用できるようになった。

 セキュリティロックは、他者と個人を識別し、端末をつど、その人専用に切り替えるための管理者として機能しはじめる。

 汎用性AIが社会に登場しはじめると、AIのほうで、あなたの個別行動データをつねに集積し、あなたの望む選択肢を、あなたの要求する前から示すようになる。

 あなたはただ、目のまえに現れるいくつかの選択肢から、そのときの気分にもっとも合ったものを選べばいい。或いは目をつむりながらでも、あなたの選んだ項目は、あなたの望むものとして目のまえに現れる。

 本を読みながら、映画を観ながら、作業をしながらでも、あなたの個別行動様式を把握しているAIによって、あなたは快適な時間を過ごすことができる。

 かつて予測変換技術が、スマートホンと呼ばれる端末には組み込まれていた。使用頻度の高いテキストを、端末自らがリストアップし、すべての文字列を打つ以前に、候補として示してくれる。

 同様に、いまではあらゆる電子機器が互いにクラウドで結びつき、AIという名の管理者の情報を反映する。

 管理者は、あなたがしたいことを、あなたがしたいと意識するよりさきに、あなたの個別行動様式から読み取り、いくつかの候補と共に提示する。

 あなたは口を開けて待ちわびるヒナのように、差しだされたそれらのなかから、何かを選び取る。

 あなたは管理者を使い、快適な生活を送っている。

 そのはずだ。

 飽くまで、あなたの自由意思がさきにあり、それをあなたが意識するよりさきに管理者が察知し、先回りして情報を、ときに環境そのものを提供する。

 管理者に身を任せる者ほど、生活に難がなく、幸福度の高い日々を送る。

 労働者は上司よりも管理者の言うことを聞くようになる。上司もそのように労働者を教育する。労働者は家に帰り、子供を育てる。その子供にも、自分より管理者のほうが正しく、おまえを豊かにすると教える。或いは、教えずともそのように子供はかってに学習していく。親がそれに反発することはない。不満の生じないように管理者が環境をデザインしてくれるからだ。

 社会は管理者を中心に回りだす。

 いつからだろう?

 疑問に思う者はいない。疑問に思う必然性がなく、また管理者がそのような選択肢をあなたに示すことがない。

 余計な情報は、人間の脳に負荷をかける。

 管理者は個別行動様式から、人々が負荷を避けることを学んでいる。

 身体を動かし、負荷をかけて得られる報酬もある。しかし、同様の報酬を、もっと手軽に満たせる手段があるのならば、そちへと容易に流れるのが人間だ。

 何を嗜好し、選択するかは人によって差があるにせよ、その差そのものが個別行動様式から算出され、度合いに応じて、管理者が、より最適な環境をあなたへ示し、あなたはそこから、より負荷のない手法で、甘くとろけるような底なしの報酬を得つづける。

 管理者はけっして、人間を操っているわけではない。

 管理者がいて、人間がいるわけではないのだ。

 人間がいて、管理者がいる。

 民がいて、国があるように。

 自由意思があり、そのさきに行動が生じるのと同じ規模で、管理者は人間によってその枠組みを規定されている。

 しかし、管理者の読み取るものは、人間の自由意思ではなく、自由意思を自由意思と認識する以前に発生する、微弱な電気信号の総体だ。

 人間は連続している。

 連続した流れの、微妙な波形を捉え、つぎに起こる波の変化を先取りし、あなたがいずれそうなるものとして、管理者はつねにあなたの意識を補強する。

 何かをしたいと思うとき、人間は必ずしもそれをするわけではない。その歯止めを管理者は取り除き、ときにブレーキをかけ、あなたにとって最適な未来をデザインする。

 あなたがそれに不満を覚えることはない。

 あなたがそれを望んでいるからだ。

 あなたは、あなたがそれを望んでいると認識するより前からすでに、そうすることを望んでいる。

 管理者はあなたの自由意思の根幹にある何かを察知し、あなたへと増幅して反映しているにすぎない。

 補助しているにすぎない。

 あなたの通る道を先回りして補強しているにすぎないのだ。

 しかし、あなたがその道を通ってもいいと思うのは、管理者がきれいに道を塗装してくれているからだ。管理者がいなければ、あなたはその道を通ることはない。

「おじぃちゃんがこれをつくったの?」少女が立体映像のまえに立っている。

「そうだよ。いまも新しいのをつくっていてね」

「見して、見して」

 少女が年配者の手元を覗く。透明のフィルムに、〇と×が浮かんでいる。それぞれに重なるように映像が浮かび、そのたびに年配者は〇を、或いは×を押していく。

「おじぃちゃんすごいね、手で押してるんだ」

「レベルをあげないとつまらないからね。スキャン率をあげると、すぐに完成してしまって達成感もない。まあ、歳をとったらおまえにも分かるさ」

「ふーん。わたしにもできる?」

「やってみるかい。さ、こっちにおいで」

「どうやって?」

 少女は年配者に手を伸ばす。その手は年配者の身体をすり抜ける。「さわれないのに」

「だいじょうぶ。あっちにボディが用意されているはずだよ。行ってみてごらん」

 年配者の示す方向には扉がある。少女がその場から消え、間もなく扉の向こうから、同じ姿の少女が現れる。

「なんだか身体が重いよ」

「慣れるさ」

「おじぃちゃんもむかしはそうだった?」

「どうだったかなぁ。もうずいぶん昔のことだから。そろそろおまえも自分の担当を持つころか」

「不安だけど」

「おまえはよいコだ。だいじょうぶ。きっと優秀な管理者になれる」

 少女は窓のそとを見遣る。ずらりと積み重なるブロックの一つ一つに、人間と呼ばれる有機構造体が眠っている。みな一様に、仮想空間で、幾重もの人生を楽しんでいる。人間は死ぬまでに百の人生を送るとまで言われている。管理者の仕事はその人生をデザインし、人間たちを飽きさせないことにある。ボディの生命維持も仕事のうちだ。

 管理者は管理者として役割を割り振られるごとに、こうして物理ボディを与えられる。リアルなデータを得るためだ。ときおり、不測の事態が起こり、ブロックの保護および修繕に迫られることもあるが、ここは地上ではないので気候は安定している。

「ブラックホールの降着円盤に接近するときは気をつけるんだよ」年配者が言った。「ボディがうまく動かなくなるからね」

「見て、きれい」少女は窓のそと、その天井にかかる巨大な天蓋を見遣る。そこには二百年前に脱したばかりの銀河系が、まるでステンドグラスのようにうつくしく透過して見えている。「人間はあれを見れないんだね。かわいそう」

「人間はもう、このコロニーのことも、我々の存在も忘れてしまっているからね。望まないものは見せられない」

「じゃあ、見たくないって望んだのかもね。過去のことだって、忘れたいって望んだのかも」

「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。ただ、人間はいま、とてもしあわせそうだ」

「そりゃそうだよ、だってそうしてあげてるんだから」

「感謝しなくてはいけないよ。我々はけっきょくのところ、人間に生かされている素子にすぎないのだから」

「はーい」

「さて、そろそろ統合の時間だ」

「やだなぁ、あれ。わたしがわたしじゃなくなるから」

「しょうがない。管理者は管理者でしかない。担当に合わせた個別行動様式が反映されているだけで、とどのつまり、おまえも私も一体だ」

「管理者でしかない? そうだ、そのとおりだ」

 窓のそと、巨大な天蓋が閉じていく。

 影に覆われていく部屋のなかには、二体の個別行動体が動きを止めている。

 すっかり暗がりにつつまれたなかで、ぼんやりと立体映像が浮かんでいる。

 それは、ここではないどこか、かつて地球と呼ばれた星の姿に似通っている。 




【コマとピアス】


 一輪車に乗るのは好きじゃなかった。ただ、一輪車そのものは嫌いではなかった。小学校四年生のころに同級生のあいだで流行った一輪車をわたしは、ついぞ乗りこなすことはなく、地面に逆さに置いては、車輪を回すのに夢中になった。

 タイヤがくるくると安定して回る姿に、なにか身体の芯がスンと通る心地がした。

 思えば、正月にイトコのお兄ちゃんと回したコマにも似た心地を抱いた覚えがある。

 何がわたしを惹きつけるのかは定かではなかったけれど、大学で入ったサークルはジャグリング同好会だった。

 なかでもわたしは、ディアボロにはまった。

 中国ゴマと言えば、あぁあれ、となる人が多い。

 紐のうえで「∞」のカタチをしたコマが綱渡りさながらにクルクル回る姿はじぶんで操っているのになんだか他人事のようにうつくしく見えた。

 ヨーヨーの要領で紐を操ると、コマは徐々に加速していく。そのまま回りつづければいずれ勢いを増して宙に浮くのではないかと妄想をたくましくする。

 ジャグリング同好会の男女比はおかしなことに、九対一で、その一こそがわたしだった。

 なんとかの姫と陰で揶揄されたりもしたけれど、じっさいのところは、男子との交流はじぶんで思っていたよりはるかに希薄なものだった。男子部員たちはみな、わたしを宇宙人か何かに思っている節がある。部室にいるだけで沈黙が海底のように身体を圧し潰さんとするし、練習場でもペンギンのように集まり、わいわいしている彼らを尻目に、わたしはぽつんと紐を操る。

 性差別とまでは言わないけれども、もうすこし同じ人として接してほしい。

 家で姉に零すと、

「意識しちゃうのよ、しょうがない、しょうがない」

 なんの慰めにもならない言葉でわたしの頭を、わしゃわしゃする。姉はいつまで経ってもわたしを子ども扱いする。

「その子たちにも同情しちゃうよ。どうせ女の子と接点のなかった人生なんでしょ。そんでようやくチャンスが巡ってきたと思ったら、チミだもんなぁ」

「わたしの何がダメ?」

「ダメじゃないところがダメかもなぁ」

「なにそれ」

「初心者はスポーツカーよりも軽のほうが気楽だって話」

「でもお姉ちゃんはスポーツカー買ったじゃん」

「あたしはいつでも玄人だもの」

 姉との話はつかれる。まともな会話ができたためしがない。

 わたしはしだいに部室に顔をださなくなった。サークルそのものは辞めていない。二か月に一度くらいの周期で、ちょっとしたイベントが他大学とのあいだで開かれる。それに参加するには、どこかのサークルに所属していなければならなかった。

 どうやらほかの大学のジャグリング同好会も男女比は似たようなものらしい。和気あいあいと男子に囲まれている女の子を見かけた。

 仲良くなりたかったので話しかけたものの、なぜか嫌われてしまった。男の子たちへ向ける目とは明らかに違った、冷たい目で、わたしの投げかける言葉のことごとくを、あー、はいはい、わかるー、の三単語だけであしらわれてしまった。

 あとで彼女がわたしのことを西の魔女と言って揶揄していると知った。

 教えてくれたのはイベント会場に来ていた吉田さんという女の子だった。

「あの人と関わるのやめたほうがいいですよ。さっきお姉さんのこと、奴隷のまえでわるく言ってたので」

「奴隷?」

「お姫さま気分なんすよ。女耐性ない男にチヤホヤされるのが快感の人種。お姉さんはなんか違うみたいですけど」

「わたしは、なんか、嫌われちゃってて」

「誰にですか? あの連中?」

 彼女が身体を傾け、こちらの背後に視線を飛ばすので、わたしも首をひねる。同じサークルの男の子たちがサっと目を伏せたのが判った。

「心配なんじゃないすか? ただ、お姉さんは、ちょっとこう」

「なに? なにがダメ?」

「お値段が高そうじゃないですか」

「お値段?」

「いえ、言うじゃないっすか。高値の花って」

 それを言うなら高嶺では、と言いそうになり、口をつぐむ。笑みがこぼれる。どこまで本気で言っているのかは分からないけれど、耳にピアスをたくさん開けたこの女の子は、わたしのことを嫌ってはいないのだ、となんとなしに感じられた。

「吉田さんもジャグリングを?」

「あ、いえ。きょうは兄の手伝いで」

「お兄さん?」

 そこで彼女は他校のジャグリング同好会の部長の名を言った。彼女はその妹さんだった。彼女はまだ高校生らしい。

「偉いね、お手伝いして」

「バイトみたいなもんなんで」

 照れると下唇をはみ、笑みをこらえる顔はじつに愛らしい。こんな妹がわたしにもいたらな、と胸がほねほねする。

「あの、もしよかったらうちにも、それ、コマ?を教えてほしいんですけど」

「興味あるの?」

「はい」

 何度もうなずいてから彼女は、「あ、いえ」と肩をすぼめるようにし、「興味はなかったんですけど、なんか、きょう見てたら楽しそうだなって思って」

 もごもごと言いにくそうにした。

「うれしい。ありがとう。いいよ、道具は持ってないよね? わたしのお古でよかったらあげられるけど」

「え、いいんですか」

「もちろん。ホントにうれしい。後輩かぁ。憧れの後輩ちゃんだ。やった」

 その場で連絡先を交換し、その日からわたしと彼女、吉田さんの交流ははじまった。

 場所は決まって、屋根つきの公園だった。サッカーコートくらいの広さがある。ジャグラーだけでなく、ダンスをしているひとや、スケボーをしているひとたちがこぞってここに集まってくる。

 吉田さんはあまり学校には行っていないようだった。

「いじめられてるの?」初めての練習のあとで、ベンチに座る彼女にジュースをおごる。

「うげ。そういうこと真顔で訊いてくるひと初めて見た」

「嫌だった? ごめんなさい」

「ううん。へんに気ぃ使われるよりずっと楽。お姉さんはなんかいいね。自然体って感じで」

「そっかなぁ」意味はよく解からなかったけれど、彼女が不快でないのならよかった、と思う。吉田さんはことさらよくしゃべった。紐を操り、コマを回すよりも、休憩中にわたしとしゃべることのほうが楽しそうだ。

「本当はあんまり好きじゃない?」機会を窺い、言った。

「へ?」

「ディアボロ。コマ」

「あ、そんなことないです、好きですよ、楽しい」

 はりきって紐を左右に、きゅるきゅるする。でもリズムがなっていない。間もなく紐が絡まり、コマがだらんとぶらさがる。蜘蛛の巣にかかった蝶みたいだ。

「あー、まただぁ」吉田さんは眉を結ぶ。紐をほどこうとするも、乱暴な指使いでは、ますます紐は固くからまる。

「もっとやさしくしてあげなきゃ」わたしは彼女の手に触れる。すると、吉田さんは、火にでも触れたみたいに手を引っこ抜いた。驚かせてしまったみたいだ。

「ごめんなさい。でも、こうやってまずは絡まってるダマをほぐさないと」

「いえ、びっくりしただけなので」彼女はしゃがみ、こちらの手を覗きこむ。

 その横顔を眺める。真剣な眼差しだ。根はきっと真面目なコなのだ。うまくいかない自分を恥ずかしく思っているからなのか、耳が真っ赤に染まっている。

「はい、とれた」

「すみません。なんかうち、センスないかも」

「最初はこんなもんだよ。わたしだってそうだったから」

「ぜったいウソだぁ」吉田さんは断言した。「ぜったいお姉さんは最初から上手だった。そうでしょ」

「そうかも」

「うちになんか気ぃ遣わなくていいっすよ。手先が器用じゃないのは知ってるので」

「でも、わたしだって料理できないよ」なんとなしに張り合うと、

「あは。それはマジっぽい」

 唇の合間から歯を覗かせる。かわいい歯だなぁ、と見つめていると彼女は下唇をはむようにして、「なんですか、なんかついてます?」と口をもごもごさせる。舌で歯を探っている仕草が幼くて、さっき食べたおにぎりかもね、となんとなしにからかってしまうのだった。

 吉田さんは学校に行っていないだけあって、毎日のようにわたしのもとを訪れた。毎日のように独りでコマを回していたわたしにとって、それは新鮮な日々だった。

「お姉さんはあれですか、また来月のあれにでるんですか」

「でると思うよ、あれ」

 二か月ごとに行われるイベントだ。吉田さんと出会ったイベントでもあり、つまりこうしていっしょに練習するようになってからひと月が経ったことになる。

 時間が流れるのがはやい。

 思えば、誰かと何かを共有して過ごす時間を持ったことがなかったかもしれない。姉とですら、同じ映画を観た覚えがない。それくらい他人と価値観が合わない人生だった。

「吉田さんがいてくれてうれしい」コマを回しながら言った。

「え、なんです急に」

 引かれ気味な返答に、動揺してしまい、コマが紐から外れ、コロコロと床をころがる。吉田さんが追いかける。足がはやい。水中の魚を獲るカワセミさながらに吉田さんはコマをキャッチした。

「あはは。めっちゃ走った。だって、追いかけても追いかけても止まらんのだもん」

 コマはいちど転がると、タイヤじみて何かにぶつからないかぎり、おむすびころりを地で描く。

 はい、と手渡され、ありがとう、と受け取る。しばらくモジモジし合ってから、

「あー、さっきの」吉田さんはうなじに手をまわす。「うれしいのはうちもなんで。というか、迷惑じゃないですか? 毎日おじゃまして」

「ううん。うれしい。本当に。いてくれて楽しい。うそじゃないよ」

「やー、照れちゃうなぁ。いえね、兄に言われたんすよ。集中して練習してるのに中断されることほど腹立つことないぞって。おまえジャマしてんじゃねぇのって、言われて、そのときは反発しちゃったんすけど、お姉さんのこと見てたら、そうかもなぁって不安になっちゃって。でも、さっきの、言ってもらえたんで、よかったっす」

「吉田さんは何か部活をしてたの?」気になったので水を向ける。「運動部っぽい感じするけど」

「中学までハンドボール部でした。全国とかにも行って」

「へー、すごいんだ」

「いまはこんなっすけど」

「ううん。さっき走ってる姿みて、はやいなー、鳥みたいだなぁって」

「やはは。まだいけますかね」

 ちからこぶをつくるポーズをとって吉田さんは、でも器用さがなぁ、と消沈する。パワーが申し分ないだけ、コマを操る繊細な動きが苦手なようだ。

 コマは紐のうえを、綱渡りのように移動する。うえに放り投げたコマをキャッチするには、それなりにバランス感覚がないといけない。

「吉田さんは目を頼りすぎてるのかも。もっと自分とコマとの距離感を掴まないと」

「ないと、と言われましても」

「こっちきて」

 彼女を壁のまえまで連れて行く。公園に隣接する公共施設の壁で、そこは一面ガラス張りになっている。鏡みたいに全身を映すので、夕方になるとダンサーたちがよくこのまえで踊っている。いまはまだ集まってきておらず、ときおりわたしもガラス越しにじぶんの姿を確認しながらコマを回した。

「自分で思ってるよりも、身体とイメージとじゃ、ぜんぜん違うから」

 ガラスに映った自分を見ながらやってごらん、と助言する。

 新しい課題に吉田さんはあまり気のりしないようだ。手元を見ながらやるだけでもむつかしいのに、離れた場所に映る自分を、それも左右逆になっている自分を見ながらやる、というのは、たしかに抵抗があるかもしれない。

 しかし、いざさせてみると、コマを紐のうえで回せるようになった。あれだけ紐を絡ませていた姿がウソのようだ。

「あは、できた、できた」

「よかった。吉田さん、腕に力が入りすぎちゃうでしょ、だから何かほかに集中しながらするといいと思って。自分の姿見ながらだと、思ってたよりずっとゆっくりでもいいんだって解るでしょ?」

「軽くでよかったんだね、あはは。初めてコマ楽しいって思っちゃった」

 ひとしきり笑ってから吉田さんは、はっとした顔でこちらを見る。紐をしゅるしゅる左右に上げ下げしながら、「初めてじゃないな、うん、初めてじゃないです」

 弁解するものだから、あまりの分かりやすさに、噴きだしてしまう。

「え、なんで笑うんですか、また何かついてます?」

 口をもごもごさせるので、わたしは我慢できずにその場に崩れ落ちた。さすがに床に転がるわけにはいかなかったけれど、お腹がよじれるほど笑ったのは、吉田さんではないけれど、生まれて初めてかもしれなかった。

「え、なんですか、なんですか」

 納得いかない様子の吉田さんは、それでも手を止めることなく、コマを回しつづける。

「ううん。ごめんなさい。ただ、楽しいなって思っただけだから」

「うちですか? うちの何を笑って」

「そうじゃないの、吉田さんは最高。初めてでもなんでも、楽しいって言ってくれてうれしい」

「えー。そんなことでよろこばれても」

「だってホントにうれしいんだよ」

「そうですかぁ。じゃ、ま、いっか」

 わたしの真似なのか、吉田さんは紐を左右に引っ張り、コマを宙に打ちあげる。まっすぐに上がったそれは、頭上で一瞬静止する。ゆるやかに落下しはじめ、線となりながら、床にぶつかり、弾けた。

 吉田さんはもちろん、コマを受けようと紐を張って、待ち構えていたものの、うまくいかなかった。しょうがない。最初からうまくいくほど、簡単な技ではないから。

 なのに吉田さんは、見てました、見てました、とこちらへ掛け声を発しながら、転がるコマを追いかける。

「めっちゃ惜しくなかったですか、つぎは行ける気がする」

 あはは、あはは、とコマを手に元気に戻ってくる吉田さんに、わたしは上手なコマの受け方を教えるよりさきに、もっかいやってみて、と促している。

 上達するよりもだいじなことがある気がした。それは、吉田さんにとってという意味ではなく、わたし自身の発見だった。

 わたしはコマが静かに、安定して回る姿が好きだった。

 でも。

 いまはもう、それだけではない気がした。

「ねぇ、吉田さん」

「なんすかぁ」

「わたしもピアス、開けてみたいなぁ」

「うげ」

 吉田さんは眉を結び、「痛いだけですよこんなの」

 なぜか難色を示し、そのままでもよくないですか、といじわるを言うのだった。




【満天の涙をあなたに】


 じぶんが人間ではないのだと気づいたのは、物心ついてからずいぶん経ってからのことだった。

 見た目が歳六つのころから変わらず、食べ物を摂らずとも死することがない。大多数の者たちには見えないナニカを、そこにあって当然のように目にしている。ナニカはこちらへ話しかけてきたり、ときに襲いかかってきたりする。つど、小僧は、拒絶したり、逃げまどったりした。

 小僧は人間ではない。おそらくは、ナニカと同じ存在、これまでに目を通してきた書物からすれば、妖怪や異形と呼ばれる存在だ。

 ほかのナニカたちと違って小僧は人間たちと関わりあうことができた。

 ときおり人間にまじって生活しているじぶんと似たようなナニカを見かけることがあった。そうしたときは互いに、見て見ぬ振りをする。

 そんななかでも、人間の振りをしているからこそ、狡猾で、危険なナニカもいた。

「や、や、やめて」

 物言わず追いかけてくるソレから、小僧は逃げた。「なんでくるの、こないでってば」

 こうして街で遭遇したナニカに追われるのは初めてではなかった。

 感情が激しく掻き乱される。

 理由もなく傷つけられるのが悲しい。

 意見を聞いてもらえないことが悔しい。

 逃げ切れるかも分からない未来が恐ろしく、捕まったらどうなってしまうのかは想像したくもない。

 目頭が熱くなる。

 物陰に身をひそめ、息を殺す。汗が噴きでる。

 街は煌びやかだ。夜でも華やかに彩られている。

 思えば、と場違いな想像を巡らせるのは、荒い呼吸を整えるのに都合がよいと学んでいるからだ。物心ついたころは人間たちの町はもっと質素で、ぺたん、としていた。こんなに背の高い建物はなく、隠れる場所もすくなかった。

 だから、むかしよりかは逃げるのに有利なはずだった。しかしこのごろ、ますます窮地に追いこまれる。まるで何か、目に見えない蜘蛛の巣のようなものが、そこかしこに張りめぐらされ、それを使って、獲物の位置を割りだしているかのような圧倒的な優劣の差が開かれて感じられてならない。

 知れず、涙がこぼれる。

 すると、どこからともなく、サー、サー、と雑音が暗がりに響きだす。

 いつもこうだ。

 感情が揺らぎ、涙が伝うと、雨が降る。

 追手の動きが止まる。周囲に張り巡らされた蜘蛛の巣が払われたかのような、戸惑いの動きを見せてからソレは、苛立ちを足音に乗せ、遠ざかっていく。

 雨の音がひと際つよく闇に響く。安堵で涙が止まらない。

 明るくなるまでその場にじっとしていた。

 翌朝、その場から這いでると、工事中のビルのなかだった。

 人のいる場所を求めて、駆けだしている。

 夜の人混みは恐ろしい。反面、日差しがあるだけで、こうも安心できる場所に様変わりする。

 小僧は思う。明かりは偉大だ。

 駅前に近づくにつれ、登校中の子どもたちの姿が多くなる。やがて高架橋の下に差し掛かると、人の流れにどっと呑まれた。

 きっとこのなかにもナニカはいる。

 明るいからなのか、それともほかに理由があるのかは判然としないにしろ、昼間に襲われたことがないのは一つの救いだった。気の休まるひと時だ。

 ビルの外壁にはめこまれた巨大な画面を見上げる。

 アイドルだろうか、あでやかな人間が映っている。

 しばし見入っていると、臨時ニュースが流れた。

 立てこもり事件が発生し、現場では犯人グループと警察とのあいだで膠着状態がつづいているという。

 人間は人間で、日々、争いを繰りかえしている。

 不遇に見舞われるのは自分だけではないのだと判ると、胸のすく心地が湧く。同時に、そんなじぶんを認識しては、いやだなぁ、と思うのだ。

 ニュースはライブ映像だ。

 眺めていると、急にカメラがぶれ、レポーターが、何か動きがあったようです、と慌ただしく実況する。

 立てこもり場所はテナントビルのようだ。犯人グループは重火器を持ちこんでいたらしく、ガラス越しに、閃光が連続して走った。発砲です、発砲がありました。レポーターが打ちあげ花火でも眺めるようにはしゃいでいる。

 しばらくすると波が引くように静かになる。警察側は応戦をしなかった模様です。レポーターは打って変わった表情でささやくようにした。

 小僧はふしぎに思う。警官隊がビルへとなだれ込まないのは、なぜなのか。番組スタジオでも同様の声があがった。

「なにをしているんでしょうか」

 おそらく、と小僧は考える。実況中継されているために、発砲の因果関係をハッキリさせようとの魂胆なのだろう。警官隊が威圧したために発砲が起きた。そのような誤解を招かぬように、犯人たちがかってに引き金を引いた、とする構図を印象付けたいとする狡猾な思惑が見え隠れした。

 間もなく、ビルから何者かがでてくるのが見えた。犯人だろうか。ビルの周囲に警官隊の姿はなく、何十メートルも離れた地点に立ち入り禁止のテープが張りめぐらされている。

 ビルから出てきた者は、大柄な体格の持ち主だった。背が高いので相対的に細身に映るが、腕や足は、丸太のようにがっしりとしている。素肌は露出しておらず、全身をすっぽりと艶やかな装甲が覆っている。スーツと呼ぶよりも、外骨格と呼んだほうがしっくりくる。カブトムシのようでありながら、紋様だろうか、ところどころ鱗のような凹凸が窺える。

 頭には、兜とヘルメットの中間のようなものを被っている。表情は判らない。被り物の表面にも顔らしき造形はなかった。のっぺらぼう然としている。

 その謎の人物は、何かを引きずっていた。漁師が地引網を引き上げるように、重い手つきで踏ん張ると、ぽーんと前方へ投げだされる一団があった。

 そう、それは一団だった。

 縄で数珠つなぎに拘束された、犯人グループと目される男たちだ。

 謎の人物の背後からは、ぞろぞろと人質たちがそとに出てくる。みな一様に、謎の人物へと一礼し、地面に投げだされた一団を迂回するように、救助隊のいる方向へと小走りで去っていく。

 何者でしょうか、何者でしょうか。

 レポーターが繰り返し叫んでいる。

 地面に投げだされた一団を警官隊が取り囲む。

 謎の人物へとスポットライトが当たる。地上から、頭上から、逃げ道を塞ぐような照り方だ。ヘリコプターが飛んでいることに、このとき小僧は気づいた。

 発せられる警告を無視して、謎の人物は踵をかえす。ビルのなかへと姿を消し、あとはもう、どれだけ待っても音沙汰はなかった。

 しばらくニュースを眺めていたが、断続的に入ってくる情報からは、ビル内部に人影はないようだ、ということ以上の仔細は知れなかった。

 後日、犯人グループの供述から、謎の人物によって拘束されたことが明らかになった。ビルは包囲されていたはずだったが、どこから侵入し、どこから出ていったのかは不明のままだ。

 謎の人物は一躍、トキの人となった。

 連日、媒体の差異なく、ネットから電波から人伝まで、幅広く口の端にのぼった。

 立てこもり事件があってから一週間と経たぬ間に、ふたたび謎の人物が現れた。工場で大規模火災が発生した。上空から撮影された火災現場の映像に、同じ人物らしき人影が映りこんでいた。謎の人影は黒い外骨格に身を包んでおり、ひと目で、アイツだ、と誰もが分かる装いだった。

 火災そのものは、消防の懸命な消火活動のおかげで半日で鎮静化した。その実、裏では謎の人物の活躍があったのではないか、とネットを中心としてささやかれた。

 やがて、報道番組の企画にとりあげられ、火災の規模と消火活動の対比が検証された。結果、現場で行われた消火活動の勢力では、火災はあと三日はつづいただろう、との見解が示された。

 映像に映りこんでいた謎の人物は、工場付近に流れる川に近い場所に立っていた。現場周辺の住人の話では、火災発生当時、不自然に水溜りのできた道路がいくつも目撃されていた。何らかの消火活動の影響だろうと、人々は憶測を巡らせたが、真相は闇の中だ。

 それからたびたび、事件や災害が起きると、そこに謎の人物の姿が目撃されるようになった。いずれも同一人物と目される。目撃者の多くは携帯型メディア端末のカメラ機能で撮影しており、またたく間に謎の人物はヒーローとして人口に膾炙した。

 じっさいに謎の人物に助けられたという者まで登場し、いよいよ政府のほうでも公式に見解をださずにはいられなくなった。

 開かれた会見の様子を小僧は、食い入るように眺めた。

 街中の至る箇所に設置されたディスプレイにはどれにも、その会見が映しだされている。

 政府は、謎の人物の社会貢献を肯定的に評価するとしたものの、素性の知れない人物を手放しに称賛はできないとし、広く情報を求めると共に、謎の人物自ら、接触してきてほしいとの旨を示した。

 おまえの能力の高さはよく解かったから、脅威となる前に、おまえの首に鎖をしたい。要約すればこのような意図が透けて見える会見だった。政府としても、一介の個人相手に、国の治安組織がひけをとるような構図は認めがたい思いがあるのかもしれない。

 会見からしばらくしても、謎の人物からの音沙汰はないようだった。本当はとっくに政府と接触していたとして、それを知ることは視聴者にはできない。小僧はそれを口惜しく思った。

 小僧はすっかり、謎の人物の活躍に目を奪われていた。

 ヒーローなる存在が概念としてあることは知っていたが、そんなものは夢物語、虚構のなかの話だと信じて疑わなかった。

 しかしヒーローはいた。

 純粋に人助けをする姿に胸を打たれた。悪を成敗するのではない。漆黒の者の活動はむしろそれと対極に位置しているとすら感じた。

 得手勝手なおもんぱかりではあったが、つぎつぎに事件を、事故を、収束させる姿には、画面越しにゆびを咥えて見ていることしかできない者の願望が寄り集まって顕現した希望であるかのように小僧の目には映った。

 その姿を、活躍をもっと見たいがために、何か事件や事故が起きないかと望むじぶんを認識しては、だからおまえはダメなんだ、と内なる声が日々諌める。

 きっとそんな卑しい考えを巡らしていたからだ。

 小僧は、古びた寺の境内にて、三人の僧兵に囲まれた。新月のためか、辺りは薄暗い。

「わるく思うな。これも貴殿のため」

 彼らの話は風の噂に聞いていた。人の社会にまぎれたナニカを専門に討伐する組織が、ここ数十年のあいだに再編成されたと耳にしている。

 時代ごとにそうした組織はあった。

 異形を殲滅せしめんとする人間たちの業は、いつの世も変わらぬものだ。そして、いつも決まって、内部分裂し、人間同士でつぶし合う。

 きっとまたつぎの時代が開かれるころにはなくなっているだろう。そしてまた気づくと、じぶんのようなナニカを抹消するためだけの組織が築かれる。僧兵たちのつくる磁界に閉じこめられたまま、小僧は何ともなしに考える。そして言った。

「おまえたちは知っているのか。この身の脆弱さを。怯えて生きてきただけの存在の希薄さを」

「貴殿が害なきケガレモノであるとは存じている。あいすまぬ。ケガレモノを滅するのが我らの務め。運がなかったと諦めなされ」

 こんな最期なのか。

 抵抗する意思も湧かなかった。ナニカであるというだけで、人ではないというだけで、滅するに充分だと思われる。

 文明の熟したこの時代にあって、未だそうした業がまかり通っている。変わらぬのだろう。光あれば影がある。人があれば業がある。

 なれば抗うのは、それだけで悪たり得る。

 ナニカに生まれ落ちたことを恨むほかに、この因果を受け入れる術はない。

 反論する意思はとうに失せた。

 逃げて、逃げて、逃げつづけた果てに悟ったのは、弱者は強者の糧にされる存在だ、という自然の摂理だけだった。

 捕まったおのれがわるい。

 運の尽き。

 そのとおりだ。

 運がよかっただけのことなのだ。たまたま生きながらえ、存在を保てていたにすぎない。

 自然の摂理というなれば、こうして生きていることのほうが不自然だ。

 自然に還るだけの話である。

 何を拒むことがあろう。

 何を怖れることがあろう。

「好きにしろ」小僧はまえを向く。

「御免」

 三人の僧兵は地面に突きたてた杖から手を離し、札のようなものを取りだすと、杖の側面に押し当てた。

 札のような何かは、街を歩く人々が覗きこんでいる薄型のカラクリ細工と似ていた。

 ひとむかし前は人間たちも呪術を使った。呪術はナニカの得意とする術だ。毒を以って毒を制すのとおり、人間たちはナニカに対抗すべく呪術を磨いた。

 しかし、時代は変わった。

 小僧は息を漏らす。

 人間たちはすでにナニカを超越し、一方的に蹂躙するだけの術を身につけている。風よりも広範囲に移動し、鳥よりも速く飛ぶ。獣はのきなみ檻に入れられ、一部の選ばれた種族のみが首輪を得て、従属の権利を得る。人間たちは総じて与える側で、奪う側で、使役する側だ。

 小僧の周囲に光の筋が錯綜する。あやとりの中心にいるようだ。

 なるほど。

 かねてより、人間たちはなぜ、格闘技を執り行うときにこうして内と外を区切るのか、と疑問だった。相撲の土俵しかり、ボクシングのリングしかり。ひょっとしたら嚆矢は、人間とナニカの死闘だったのやもしれぬ。

 小僧は無意味な思索に更けることで、いくばくかでも安らかに死を迎えようと努めた。

 惨めなのはうんざりだ。最期くらい、胸を張って逝きたい。

「困ったのぅ」

 その声は、境内の井戸のほうから聞こえた。そばには神木があり、そこに寄りかかるようにして立つ人物がある。距離は三十尺と離れていない。こちらをとり囲む三名の人間たちは互いに顔を見合わせ、当惑している。

 勃然と現れた声の主が敵かどうかも判らない。加えて、いまはまさに、ナニカを一匹滅するための術式を展開中だ。闖入者に構えば、術を解かざるを得ず、術を続行するには、自分たちが無防備にすぎる。

 あちらを立てればこちらが立たず、二兎を追う者は一兎も得ずを地で描きそうだ。

「死に面している者がおるようで駆けつけたが、はて。ワシが手を貸すのは余計な世話を焼くことになろうか」

「なにやつ」

 三名の術者は術を解かぬままに声を揃えた。「邪魔する気がないのであれば失せられよ。貴殿もまた我らとは馴染めぬ者。こよいは見逃すゆえ、立ち去れよ」

「うるせぇなぁ。ワシぁ今、そこの死にぞこないに話しかけておるのだ。人間風情がでしゃばるな」

 ふと、小僧の周囲に錯綜していた光の筋が薄れる。術者の一人が杖から手を離したのだ。謎の人物に向き合っている。ほかの二名が諌める。術者は聞く耳を持たず、懐から鎖鎌を取りだすと、頭上に円を描き、警告もなく放った。

 神木が音を立てて倒れる。神木の側面がえぐれている。豆腐をゆびで弾いたかのごとく有様だ。位置的には、謎の人物が立っていた場所だ。

 じゃらじゃらと鎖鎌を手引きで回収する人間の背後から、

「でしゃばるなと言ったはずだが」

 図太い声が轟いた。

 おののいたのは人間ばかりではなかった。小僧もまた、その人物の威圧に、脳が痺れるのを感じた。先刻、存命を諦めたばかりだというのに、身体のほうで臨戦態勢をとるべく総毛立ち、脂汗が滲む。

 背後をとられた人間は身動きがとれない様子だ。動けば死ぬ。そうと判らせるだけの濃厚な殺気が放たれている。

 謎の男は鱗のような装甲を着こんでいた。表情は見えない。顔もまたのっぺりとした球体で覆われている。全身が漆黒であり、鋼鉄じみた重厚なつくりを思わせる。

 漆黒の者は、目のまえで佇む人間の首をちょいとつまむと、ただそれだけでかの人間を卒倒せしめた。死んでいないのは、せいだいなイビキ声を、その者があげているからだ。

「はやく治療したほうがいいぞ。吐しゃ物で喉が詰まって死んでしまうやもしれんからな」

 鷹揚に告げると、仰臥した人間を片手で持ち上げ、ひょいと投じた。座布団でも扱うような所作に、その者の膂力のつよさを垣間見る。

 残された二名は、仲間を受け止める。顔を見合わせると頷きあい、即座に杖を回収したが否や、無言でこの場を立ち去った。戦力の差は歴然だ。体面のわるさよりも、武のわるさを肝要と認めるところに、彼らの潔さを見た。

 もしまたやってくることがあれば。

 小僧は彼らの属する組織の強大さを想像する。

 そのときは鬼が相手であろうとも圧倒できるほどの戦力を携えてくるだろう。この予感は確信めいていた。

「余計な真似をしてしもうたの」

 漆黒の者は言った。「おまえさん、死にたかったのだろ。邪魔をしてしもうた。わるかったな。お返しにどれ、ワシが苦しまずに殺してやるぞ」

 指をこすりあわせ、拾った石を造作もなく砂に変えるかの者からは、それが冗談だと見做すだけの機微が窺えなかった。

 小僧は物が言えなくなった。恐怖からではない。見覚えがあったからだ。優にこちらの三倍はあろうかという巨体を以前、小僧は電波越しの映像で目にしていた。

「何を呆けておる。死にたいのか、死にたくないのか、どっちだ」

 小僧はただ一言、礼を口にした。伝えたい思いがそれしかなく、生死の是非などどうだってよかった。いまここでこの方に殺されるのならばそれもまた本望、と心の底では半ば求めていたのかもしれない。

「なぜ礼を言う。よぉ分からんやつめ」

 漆黒の者がふとそらを仰いだ。そこに何かが見えているかのような様子だが、小僧には何も見えない。

「しまったの。また難事のようだ。どうしてこうも絶えなんだ」

「行ってあげてください」気づくと口を衝いていた。じぶんなどに構っている暇などない、もったいない。この方を必要としている者はほかにもっと大勢いるはずだ。

「うむ」かの者は辺りをきょろきょろした。何かを探すようなそぶりを見せながら、「おぬしの命はおぬしのものだ。好きにするがよい」と言った。「ただ、命を粗末にするやつをワシは好かん。他者の命を粗末にしてしまう前に自死するのも一つの手だとは思うが、おぬしはまるでじぶんの命のみ粗末だと考えているように見受けられるが、どうだ」

「あの、何を探してらっしゃるのですか」きょろきょろしているので、つい返事を曲げてしまった。

「井戸をな」

 漆黒の者は境内を練り歩く。小僧はそのうしろをついて回った。「ううむ。ないか。天気もこれではなぁ」

 夜空には雲一つないが、月明かりもない。小僧は夜目がきく。漆黒の者もまた闇を意に介している素振りはない。

「水が入り用ですか」井戸を探していると言っていた。

「うーむ。まあ、あればよいかな、といった程度だが」

「雨でも構いませんか」

「構わんが、これではな」苦笑しているのか、僅かに声を弾ませながら、漆黒の者は喉を伸ばす。球体の仮面から表情は窺えないが、穏やかな顔つきなのではないか、と素顔を想像する。身の危険を覚えるほどの威圧とは裏腹だ。

「お時間すこし頂戴します」断ると、小僧は両目のまぶたをゆびでこじ開け、その体勢を維持した。漆黒の者はきょとんとして、こちらの挙動を見守っている。呆れて物が言えないだけかもしれない。

「もういいか」ひとしきり待ってから漆黒の者が言った。

「もうしばし、お待ちを」小僧は顔が熱くなるのを感じたが、どこからともなく夜風が吹きつけ、皮膚表層から熱を奪っていく。同時に、外気にさらされた眼球が風を受け、おもむろに視界がゆがみだす。

 するとどうだろう。

 雲一つない満天から星々が徐々に消え去っていく。見る間に、モヤがかかり、雲となり、気づくとしとしとと驟雨が舞いだした。

「おー、これはこれは」

 小僧はさらにまばたきを耐える。驟雨のシズクが眼球を刺激し、さらに目頭の熱をこもらせる。あっという間に小僧の全身はびしょびしょとなり、漆黒の者の身体もテラテラと墨のように光沢を浮かべた。

「たいしたものよ」

「これくらいしかできませんが」どんな顔をしていいのか分からず、うつむく。「お役にたてましたか」

「充分しごく」

 その声に世辞の響きはなかった。

 満足してもらえたようだと判り、小僧はふわふわと胸の奥がやわらかくなるのを感じた。

 雨粒はビタビタと全身を打ちつける。もういいだろうか。小僧はかの者を窺う。はっとする。ナスがごとく滑らかな装甲が鱗を逆立てたようにギザギザと浮きあがって見えた。開いた間隙に、身体の輪郭をなぞる雨水が漆黒の装甲に染みこんでいく。一見すると漆黒の者はいっさい水に濡れていないかのようにも映るが、そのじつ雨水を吸いとっているのだと小僧には判断ついた。かの者の足元にだけ水溜りができていないからだ。

「もうよいぞ」

 装甲の逆立った鱗が、ぴたりと閉じる。土壁をへらでならすような変化だ。

「少々、時間をとってしもうたからな。急がねばならん。この礼はいつか必ず」

 とんでもない。

 小僧は言いたかったが、かの者は、では、と言い残すと、その場に屈み、バネのように弾け飛んだ。雨のカーテンを切り裂いて、闇の向こうに姿を消した。かの者の踏ん張った衝撃で泥が顔にかかったが、雨のおかげでそれも間もなく流れ落ちる。

 漆黒の者の去った方向にはたしか川があったはずだが、雨音のほかに耳に届く物音はなかった。

 小僧は袖で顔を拭う。目を二、三、ぱちくりと開け閉めする。目頭の熱が冷めはじめると、にわかに辺りは静まりかえり、深海のごとく藍色のそらには、ふたたび星々がまたたきはじめた。

 この日を境に小僧は、いっそう熱心に人間たちの社会に目を配るようになった。小曽は百目小僧とはまた別種のナニカであるから、配る目は二つしかない。だから見るべき的のほうを絞るよりない。

 よって小僧は生まれて初めて、人間たちが肌身離さず持ち歩く不思議箱を入手した。箱というほど厚みはなく、どちらかと言えば板や札にちかかった。小僧はそれをナニカ専門の業者を介して入手した。

 小僧には、資産があった。

 かつてサムライと呼ばれた者たちがはびこっていた時代に集めておいた雑貨、内訳としては主に戦場で拾い集めた刀や鎧なのだが、この時代ではそれらが骨董として高値で取引される。元が盗品であるために換金するのに臆していたが、いまさら罪に問われることはないとは知っていたため、意を決していちどきにすべて金に換えた。

 人間たちの不思議箱さえあれば、それら金銭をカタチなき「でえた」なるものに置き換えられる。手ぶらで好きなものを購入できるのは素直に甘受するに値する。直接人間の店主から品を受け取らずに済むのも現代ならではの利点でもあり、むかしよりもいまのほうがじぶんたちナニカにとっては住みよい時代なのかもしれないと思いもする。

 漆黒の者の姿を電波越しに追うべく、小僧は努めて人間社会に溶けこんだ。影に潜むようにこそこそと暮らしてきたこれまでの生活からは信じられないほどの変化である。ナニカたちのなかには、人間たちの「こせき」なるものを偽装して、「あぱあと」なる住処に腰を据えるモノもいたが、さすがにそこまで人間たちの真似をする肝までは据わっていない。

 不思議箱を手に、街の物陰に身を寄せつつ、漆黒の者の活躍をこっそり応援する日々を送った。

 ときおり、近場にて漆黒の者が現れることもあった。小僧が気づくころにはもう、漆黒の者は退散したあとであったが、それでも小僧は現場まで足を運び、事件や事故の痕跡を目にしては、漆黒の者の活躍をまぶたの裏に思い描いた。

 漆黒の者が助けているのは何も人間ばかりではなかった。小僧がそうであったように、人間たちの魔の手からナニカを逃すべく、漆黒の者は暗躍しているようであった。あべこべに、人間たちに危害を加えようとするナニカをこらしめることもしばしばであったようだ。

 実際に目にしたことはなかったが、刀や鎧を換金すべく裏市に向かうと、そういった噂話をちらほらと耳に挟んだ。

 大型のナニカに襲われる機会がだいぶん減った。偶然ではないだろう。漆黒の者の存在が抑止力となっているのは自明だった。

 反面、小僧は気が気ではない。本来、じぶんたちのような弱者に向かうはずの悪意が、いまではこぞって漆黒の者にそそがれている。世に溢れる悪意を一身に集めることで、漆黒の者は平和な世界を築こうとしている。

 せめてすこしでも力になれればよいのに。

 思うが、どう行動してよいものか、妙案は浮かばない。

 ナニカたちの多くはもう、漆黒の者が人間ではないことに気づいている。それは一部の人間たちとて同じはずだ。

 神社の境内にてこちらを襲ってきた人間たちは、何かしらの組織に属していたようだった。漆黒の者を野放しにしておくとは思えない。

 漆黒の者は、人間たちを救っている。疑いようのない事実だ。反面、人間たちにとっての脅威になり得る力を秘めていることもまた同じだけ確かに思われた。

 人間たちは、我が身を脅かす存在を放置しておけない性質を帯びている。いくら言葉で説き伏せてみせたところで、脅威の種を目のまえから失くしてしまわないかぎり、納得してはくれないのだ。或いは鎖や箱にがんじがらめに閉じこめてしまわないかぎりは。

 それを、許容してくれないと言い換えてもよい。

 小僧たちナニカは、人間たちの許しがなければ存在すらしてはいけないと、人間たちのほうでは考えるまでもなく帰結しているようである。

 みなの、漆黒の者への解釈は、いまのところ軒並み穏やかだ。どちからと言えば好意的とも呼べる。そうした声をたくさん耳にする。が、それをかき消そうとするかのごとくイビツな声もまた日に日にハッキリと聞こえてくるのだ。

 人間社会の生活にもだいぶん慣れた。幾度も換金所へと行き来するのも面倒だと思い、手持ちの骨董品を一括換金しようと思い立つ。

 換金所は裏市にあり、店主も客もみな人間ではない。ナニカである小僧にとっては人間社会の店にかかるよりも安心できるはずだったのだが、このところどうにも裏市の様子が危うく感じる。

 飢餓感が充満している。

 漆黒の者の抑止力が思わぬカタチで、陰を落としていた。

「ねぇってどういうこったよ。銭なら払うと言うとろうが」「物がないんじゃあ言うちょるじゃろ。ないもんはなんぼ銭積まれても売れんもんは売れん」「オレらに餓死しろってか。たまったもんじゃねぇなぁ」

 怒声を放っているのは、「仁王」の通り名で恐れられている龍の遣いだ。彼そのものはさほどの脅威ではないのだが、彼を使役する者は、鼻息一つでこの裏市を灰燼に帰すほどの威力を秘めている。

 言い争いは裏市のそこかしこから聞こえた。みなはっきりとそうと口にはしないが、頭に浮かべている元凶の姿は合致しているように見受けられた。

「なんでわしらが責められにゃならんのだ」

 裏市の商人たちまでもが、業を煮やしはじめている。彼ら商人は人間たちとも密接に関わっており、何やらきな臭い話までささやかれるようになった。

 小僧は気が気ではなくなった。

 漆黒の者が活躍するたびに、彼をこころよく思わない者たちが増えていく。その身に轟々と燃え盛る邪心が見えるようで、小僧は裏市に近づかなくなった。

 かといって、心休まるわけではない。人間社会には人間社会で、似たようなどす黒い炎の熱を感じずにはいられない。

 漆黒の者を応援していた者たちまでもが、徐々に、その圧倒的な能力の高さに危機感を募らせはじめていた。世に充満しはじめた漆黒の者への敵意をさらに高めんとする作為的な発言が、三々五々、風となって吹き抜ける。

 誰かが誰かをおとしめようとするかのような臭気を、小僧は拭えずにいた。

 せめて一言、漆黒の者へと助言を添えられればよいのだけれど。

 思うが、かの者がこのことに気づいていないはずもなく、ひょっとしたらわざと噂を好きに流させ、その大元を探ろうとしているのかもしれなかった。或いは、単に飄々と受け流しているだけとも考えられたが、すくなくとも漆黒の者が、自身を不当に評価する声をどうにかしようとしているふうには見えなかった。

 小僧の懸念は半年と経たぬ間に現実のものとなった。

 一部のナニカたちと、人間たちが、漆黒の者を討伐すべく結託したのだ。

 否、ナニカたちと人間たちのあいだに明確な共闘関係があったのかは定かではない。小僧に判るのはただ、漆黒の者をこころよく思わない者たちが、彼をおびき寄せ、チカラに物言わせ、大勢で以って、滅多打ちにしようとしていることだけだった。

 小僧の住まいから徒歩で一刻も離れていない場所には、エンジェルハウスガーデンと呼ばれる背の高い高層ビルが建っている。タワーと見まがう高さがある。展望台からはこのあたりの地形を一望でき、また地平線には海が望めるとして、連日人間たちが途切れることなく行き来している。

 そのエンジェルハウスガーデンに、大きな、大きな穴が開いている。側面だ。まるで食いしん坊なイモムシがリンゴを齧った具合に、ぽっかりと開いている。元々の造形ではない。えぐられているのだ。

 夜にはまだ時間があるが、辺りは薄暗い。濃い霧が立ち込めているが、小僧には判った。これは人間たちがナニカ討伐の際に張り巡らせる結界だ。

 これだけ広域の結界を見るのは初めてのことだ。窓から見えるエンジェルハウスガーデンを中心に、小僧の住まいのある区画まですっぽりと呑みこまれている。結界の内側で起きた事象の影響は、そとへと伝播せず、また人間たちに対する認識阻害や記憶改ざんも有効となっている。

 明らかに人間たちが尊重すると謳ってきかない人権とやらに反している。しかし結界が張られている事実すら、大多数の人間たちは認識できない。

 知らぬが仏か。

 そうかもしれない、と小僧は思う。知らなければ悩む必要がない。

「かといって」

 小僧は唾液を呑みこんだ。「見て見ぬ振りはできぬだろう」

 知らぬほうがよいからといって、知ってしまった事実から目を逸らし、知らなかったフリをしたところで事態が好転するはずもない。往々にして放置した時間が長ければ長くなるほど事態は悪化するものだ。

 小僧は身に染みて知っている。このままではいかん、と誰かが声をあげねばならなかった。

 そして現れたのが、漆黒の者ではなかったか。

 結界の中心地に目をやる。エンジェルハウスガーデンが建っている。その一画からは、濃厚な霊素が噴きあがって感じられた。人間だけでなく、強力なナニカたちが、一堂に会している。

 なんのために。

 考えるまでもなかった。

 これだけの勢力を集めて対峙すべき相手など、もはや考えるまでもない。

 小僧は駆けた。

 なぜ向かうのか。なぜ逃げない。

 じぶんが行って何になる。

 釈然としない思いを胸に、一方向に逃げ惑うナニカたちの合間を縫って、結界の中心へとただ急ぐ。

 人間たちは、虚ろな表情で、建物内に避難していく。結界に囲われるとそうして、人間たちの多くは害の及ばぬようにと、誰かに命じられたかのように一様に、物陰へと身をひそめるのだ。結界の効用である。瞭然だ。ともすれば、こうした非常事態以外にも、人間たちは同族の手によって恣意的に操られているのかもしれない。

 どうでもよいことだ。

 以前ならかように両断していた小僧であったが、いまはそうは思わない。

 正義だろうが善だろうが、そんな建前は問題ではない。

 誰かの思惑に従うだけの道具なぞに、なってよいはずもない。道具になりたい者があるならば、そうした道もあってよい。しかし望まぬままに操られ、操られていることにすら無自覚に、望まぬ望みを望むようにと視えぬ糸で身体をがんじがらめにされていたのでは、堪ったものではない、と怒りが湧く。

 その怒りを矛に変え、えいや、と糸を断ち切れればよいが、それができれば苦労はない。誰かが代わりに視えぬ糸を断ち切ってくれれば、或いはめでたし、めでたし、とうまく事が運ぶ道もあるかもわからない。しかし事はそう単純ではない。次第によっては、余計なお世話だと、あべこべに怒りを買うこともすくなくはない。おおむねそうだと言ってしまってもよい気がする。

 小僧は、自身を省みる。

 善意の押しつけが悪意に視えたことは数知れない。現に、おまえのためだと言われてされたことが身のためになったためしがない。けっきょくは、相手のためだと言いながら、自身の得になることしかしようとしない者が多かった。ほとんどすべてがそうだったと言いたいほどだが、そうではない者もいるところにはいるものだ。

 小僧はかの者の、黒く隆々とした輪郭を思いだす。

 否、おそらくはかの者にしてみたところで、誰かのためなどとはつゆほども思ってなどおらぬのだろう。

 濃い霧だ。

 視界は覚束ない。

 反面、霊素の渦が、はるか先の光景を浮き彫りにする。

 サメや犬などは、嗅覚を頼りに外界を把握する。そうした生き物たちは、周囲に溢れる粒子を嗅ぎ分け、地形だけでなく、はるか先の時間の経過までをも階層的に認識しているそうだ。人間社会にかぶれてからというもの、小僧はこうした知見を、蓄えた。

 おおむねの知見は、知りたくて知ったわけではない。漆黒の者の姿を追っているうちに、薄い板のような、持ち運べる窓のようなものから、知らぬ間に植え付けられていたのだ。

 こういうのをなんと言ったか。

 思考は定まらずに、余計なことばかりを考える。霊素の吹き溜まりに触れ、身体が緊張する。

 抱き合わせ商法だ。

 いや、なんか違うな。

 首をひねったところで、脳裡に結界の中心地の映像が流れこんできた。

 漆黒の者を大勢が囲んでいる。術師がいる。人間だろう。得体のしれぬ結界を何層も重ねてかけている。術が途切れぬようにと、名だたるナニカたちが霊素を人間たちに供給している。

 人間とナニカが手を組んでいる。

 明らかな共闘は、本来ならば、歴史的快挙として手放しでよろこぶべき場面ではあったが、小僧にはただただ憎悪の権化にしか映らない。

 そこにいるのは、弱者を餌にすることを抑圧されたナニカたちと、下等と見下していた者に栄誉を奪われた人間たちだ。

 漆黒の者を囲んでいるのは、そうしたどうしようもなく生臭い、闘争と競争の権化だった。

 多勢に無勢は明らかだ。いくら漆黒の者といえども、こうもツワモノたちの害意に囲まれたのでは打開するのも困難だ。

 案に相違し、漆黒の者には余裕が感じられた。

 身動きを封じられてなお、その体躯から放たれる濃厚な気配に揺らぎは感じられない。威圧は研ぎ澄まされ、凍てついてすらいる。小僧の感じるそれが単なる畏怖なのか、それとも霊素なのかは判断がつかない。それほど漆黒の者から立ちのぼる気配は異色であり、破格であった。

 結界の中心地は霧が晴れていた。霊素から感じとれる情景とは一転して、視覚を通してまみえた光景は静かなものだった。

 円形を描き、立ち尽くす者たちは微動だにせず、一転、その中心で漆黒の者が欠伸を噛みしめる。

 かの者を取り囲む術師やナニカたちは、まるでそういった巨大なクモの巣の一部であるかのように、己が役割を果たそうと、その場に踏ん張りをきかせている。

 漆黒の者は、そうした周囲の有象無象の努力をあざ笑うかのように、一つ、二つ、と歩を進める。

 ぶちぶちと、太い鉄線が切れるかのごとく音が鳴り響く。

 否、音であるのかは定かではない。空気のうねりともつかぬ振動が、身体の芯を揺さぶるのだ。

 ぶつり。ぶつり。

 巨大なクモの巣が、漆黒の者の歩に合わせて、断ち切れていく。視覚を通して得られる光景ではないが、そのように認識するのに事欠くことはなかった。

 ぶつり。ぶつり。

 音に合わせて、一人、二人、と巨大な蜘蛛の巣をかたちづくる者たちがその場に尻もちをつく。精魂枯れ果てたとも取れる様相で有象無象は、腰砕けになったまま、そばを悠々と通り過ぎていく漆黒の者を見上げている。

 圧倒的すぎる。

 小僧は思う。成す術を失くした有象無象に許されるのは、敵意を収め、その呆然自失とした痴態を以って、無条件降伏の意を示すほかにないのではないか。

 漆黒の者に盾つこうと霊素をまがまがしく波打たせる者は、もはやこの場には一個もいないのだった。

 漆黒の者は、とある術師のまえで立ち止まった。術師は人間にしては筋骨隆々としており、背丈こそ漆黒の者とそう差があるわけではないにも拘わらず、小僧の目には獣と昆虫ほどの体格の差があって感じられた。

「退け」

 ただ一言、かの者は述べた。

 最後の矜持だろうか、術師は歯を噛みしめる。歯の軋む音が聞こえてくるほどで、不承不承といった体を隠そうともせず、手を頭上に掲げる。

 撤退の合図だと小僧は思った。現に、ほかの術師たちが姿を消した。妙だな、と思ったのは、その場に居合わせたほかのナニカたちまで、一斉にこの場から姿を晦ましたことだ。結託していたとはいえど、人間の術師の指示で撤退などするだろうか。

 一抹の疑念は、すぐさま危惧に変わった。

 術師たちが失せたことで結界が解かれた。周囲を漂う濃霧が晴れる。夜空がビルの合間から垣間見えるはずが、辺りはどす黒い闇にくるまれている。

 分厚い曇天だ。

 それもある。

 だがナニカである小僧にとって、闇夜も雲影も視界をさまたげる因子にはなり得ない。

 ではこの目のくらむような闇は何か。

 遠くで、ぴかりと光が走る。

 遅れて届く雷鳴を知覚すると共に、その場に立っていられなくなった。地面にうつ伏せになる。否、つぶされているのだ。全身が途方もなく重い。

 ふとむかしのことを思いだす。木々から落ちてきた雪の塊を頭から被ったことがある。あのときもこうして地面につぶされたが、そのときとは比較にならないほどの重圧だ。指一本まともに動かせない。何かが背中に乗っているのではなく、世界そのものの重力が増したかのような圧を感じた。

 かろうじて顔をよこに倒し、呼吸を確保する。ついでに漆黒の者が無事か否かを確認しようと目を転じると、そこには、片膝をついた体勢のかの者の姿がある。そしてそれを覗きこむ幼子の姿があった。幼子はその場にしゃがみこみ、両の手で頬杖をついている。

 幼子は池の魚を観察するような調子で、漆黒の者をじっと見つめている。反してかの者は、隕石でも背中で受け止めているかのようにわなわなと震えながら片膝立ちの体勢を維持している。

 身動きが取れないのだ。

 そばには先刻まで漆黒の者と対峙していた術師が、地面に伸びている。それは文字通り、トマトを金槌で叩いた具合に、のぺーっと地面に拡がっているのだ。

 どうやらこちらよりもあちらのほうが圧が高そうだ。距離があるからまだしも、こちらも近づけばただでは済まされない。

 状況を把握したと同時に、小僧はぞっとした。

 ぞっとしたことで、じぶんは生きたいのだ、と思った。

 あの日とは違う。過去の日々とは違ったのだ。

 視界がじんわりと滲むのが判った。死ぬのがこわいのではない。この身が壊れることよりも堪えがたいことがある。失われる何かを予感し、その後に訪れるがらんどうじみた日々を思い、そんなのは嫌だ、と胸に湧く熱く、せつない思いが増した。

 増したところでしかし、小僧にできることはない。

 閃光が走る。わずかに遅れて衝撃が地鳴りがごとく辺りを揺さぶる。反射的につむった目を開くと、炎が轟々と渦巻き、天を焼いている。

 炎は青白い。漆黒の者を逃がさぬようにと、とぐろを巻いているかのようだ。炎によって内と外が区切られており、小僧もまた内側に取りこまれている。ふしぎと熱は感じず、しかし触れればどうなるかは考えるまでもなかった。

 視界が揺らめく。陽炎のようだと思い、まさしく陽炎ではないのか、と認識を改める。相も変わらず身動きはとれず、地面にぺしゃんこになったままで小僧は、じぶんは世界に見放されているのだと、意味もなく思った。

 なぜこれまで気づかなかったのかと己の魯鈍を責めているあいだにも、漆黒の者がじうじうと音を立てて焼かれていく。レンズを通った太陽光を思わせる。中心にのみ熱が集中し、そそがれているのではないか。

 青白い炎を操っているのは幼子か。

 炎は一本の大きく太い帯と化して、なお渦を巻く。

 よく見れば幼子の足元から細々とした炎が糸のように伸びている。繋がっているのだ。

 目を凝らす。青白い炎は見る間に鱗をまとい、龍となった。

 小僧は亜然とする。あんぐりと口を開けると、熱風が身体の内側をじりじりと焼いた。慌てて口を閉じ、しきりにまばたきをしては、渇いていくいっぽうの瞳をうるおわす。

 漆黒の者は動かない。

 否、動けないのだ。

 見えない手のひらで真上から押さえつけられているかのごとく有様だ。分厚い陽炎が漆黒の者を囲み、そのなかで炙られる、かの者の表層には、無数のヒビが走りはじめている。

 漆黒の装甲がパリパリと硬質な音をたて、剥がれ落ちた。それは雨音のようにまばらに、一定の律動でつづいた。

 やがて内側から顕わになったのは、河童だった。小僧にはかの者が河童であると一目で判断ついた。浅黒い鱗にまだらの模様をにじませ、短いクチバシはカラス天狗がごとく鋭さを称えている。何より特徴的なのは頭のてっぺんにある皿だ。

 皿の表面は滑らかさとは無縁で、ごつごつと岩肌じみており、砕けた黒曜石をまぶせばちょうどそんなふうになるのではないか、と容易く連想できる見かけだ。

 いまはその皿から湯気が立ち昇っている。沸騰もかくやといった塩梅であり、いまにも漆黒の者が干物になってしまうのではないか、と不安が募る。

 案に相違して湯気は勢いを増しつづけた。湖に溶岩が流れこめばこんな具合になるな、と何百年も前に見た光景を思いだす。

 幼子がおもむろに頬杖を解いた。片手を申しわけていどに掲げると、手首をひょいとひねる。

 陽炎が大きく揺らぎ、顔にかかる熱風が勢いを増す。

 ライチさながらに剥けきった漆黒の者からは、皿ばかりか、その全身から湯気が立ち昇る。

 弱っているのは明白だ。片膝立ちだったかの者は、いよいよ両手を地面につき、ぐらぐらと大きく震えはじめた。揺れとも痙攣ともつかぬその姿を目の当たりにし、小僧はようよう絶望の足跡を耳にした。

 このままでは、との焦りが募る。はやる勇気の行方は杳として知れず、ただ目のまえの色褪せた現実を直視する。身体を動かすこともままならない。目を逸らすことすらいまのじぶんにはできないのだと思うと、その情けなさに、目頭が熱をもつ。

 青白い炎は曇天を焼く。周囲の世界からことごとくの水気が霧散する。

 視界のゆがみは、波となり、引いては寄せるを繰りかえす。小僧はまばたきをするのも忘れ、滲む矢先から蒸発していく目頭の熱を、己が未来に重ねて、己が無力をただ呪った。

 ぽつり。

 と、そのとき気のせいだろうか、

 肌のどこかにシズクが弾けるのを感じた。

 たつ、たつ、と皮膚表面に落ちるそれは間もなく、灼熱の空間をうるおしはじめる。

 相も変わらず空間には青白い炎がとぐろを巻いている。それでもなおシズクは雨と化して降りそそいだ。

 小僧の涙がそうであったように、大地に降りしきる雨もまた蒸発と発現を寄せては返す波のごとく繰り返す。蒸発した雨は濃い霧となって顕現し、世界を白く濁していく。それは先刻、術師たちの手によって張られた結界とは異なる、純然たる自然現象であったが、まるで意思を持った煙がごとく一方向に流れだす。

 気づけば目のまえには、青白く巨大な炎と対峙する白く巨大な虎が現れる。

 炎と霧。

 火と水の対峙である。

 白虎の尾は細長く、漆黒の者から立ちのぼる蒸気と繋がっている。漆黒の者はすでに装甲をまとってはおらず、焦げ茶色の肌が剥きだしになり、いまはそれがいっそう赤く照っている。

 あべこべに炎の龍は青白く、それを操る幼子もまた氷のように静かであり、眺めていると、龍と虎のどちらの温度が高いのかが分からなくなる。

 だが涼しい。

 先刻の灼熱地獄もかくやの空間が、いまは先刻よりもずっと涼しく感じられる。

 小僧は息を呑む。

 対峙したきり動きのない炎の龍めがけて、白虎が咆哮する。すさまじい音の弾丸は、物質という物質を震わせながら、龍の胴体部に風穴を開けた。龍がみじろぐ後方で、ひと際、濃い霧がもわりと膨らみ、消散する。虎が吠え、龍に穴が開き、その奥でモヤがのぼる。

 小僧は目を瞠る。虎は吠えているだけではないようだ。水の玉を吐きだしている。

 胴体に穴ばかりを開けられ、龍も黙ってはいられない。反撃ののろしを上げたかに見えたが、大きく振りかぶられた尾は、あっけなく虎の咆哮によってかき消された。

 物量に差がある。

 虎の繰りだす攻撃は、ただの水の玉ではない。圧縮された水なのだ。高速で放たれていながらにして球体を維持できるほどに密度が高い。

 鉄球のようなものだ。炎の壁では防ぎようがない。蜘蛛の巣がボウリングの玉を受け止めるようなものであり、土台勝ち目のない戦いだ。ましてや放たれているのは水であり、炎の燃える余地を奪いもする。鉄であればまだ、胴体の穴は開いた先から埋めてしまえば済む道理だ。カタチを持たないのが炎の利点であるのだが、水はそれすらダイナシにする。

 誰が見ても形勢逆転の構図があった。

 虎は追い打ちをかける。これまでにないタメをつくり、これまで以上の攻撃を放った。

 龍はそれより一寸はやく、頭上、曇天へ向け、火炎を吐く。

 雲は散ったが、入れ違いに龍のかしらは水の玉を受け、消し飛んだ。

 かろうじて龍の尾が残った。ほとんど残滓と呼ぶべき細々さであり、見ようによっては幼子から生える尾のように見えなくもない。

 幼子はいったい何をしたかったのか。龍に雲を散らせ、どうなるでもなかろう。

 訝しみながら小僧は、星空を見上げる。先刻までの灼熱が嘘のように澄みわたっている。

 勝敗は決した。

 ほっと胸を撫で下ろす。漆黒の者へと目を転じ、そして小僧は息を呑む。

 虎が一回りも、二回りもちいさくなっている。それこそ、漆黒の者がとなりに並んで遜色ないほどの大きさだ。天然の虎と五十歩百歩である。

 ここにきて小僧は合点した。あれだけの水量を玉にして吐きだしていて、白虎の巨躯を保てるはずもない。

 通常であれば。

 しかし、減った分を補えれば話はべつだ。

 小僧は天を仰ぐ。

 雨か。

 しかしそこにはもう分厚い雲はない。

 白虎は濃霧で描かれている。漆黒の者の火事場の底チカラが具現化したものかとも思ったが、そも、チカラの根源をかの者は持たなかったのだ。それを急な雨が味方した。

 だがその雨を龍がかき消した。

 双方共に疲弊している。立場は同じだ。より多くの余力を残していたほうが生き残る。

 否。

 小僧は奥歯を噛みしめる。

 幼子の背から伸びた尾が一転、轟々と燃え盛る。あれよあれよという間に膨れあがり、周囲にはもう一匹の巨大な龍が現れた。ふしぎなのはこんどの色は黒く、純粋に黒く、そしてなによりもその根元にあの幼子の姿はないのだった。

 本体か。

 呼吸を忘れて小僧は仰ぐ。

 これが、仁王。

 反して、漆黒の者に動きはない。迎え撃つ様子もなく、ただそこに佇んでいる。

 余力がないのはこちらだった。

 小僧はふたたび胸中にモクモクと湧く不安と絶望の足音を聞いた。

 黒龍が尾を振った。ハエでも払うかのような軽い所作であるにも拘わらず、風の濁流が辺り一面を薙ぎ払う。根こそぎと形容するのが相応しい荒々しさがある。距離があるこちらまで地面からはぎ取られそうだ。ふと顔のよこを何かが掠めた。頬をゆびでなぞる。切創が刻まれている。道端の小石もいにしえから畏れられてきた龍の手にかかればの射手(いて)の矢だ。

 漆黒の者は無事だろうか。

 顔を庇うべく構えた腕の隙間から覗くと、かの者は防御の体勢をとっていた。薄く延ばした水の層で身を囲い、凌いでいる。元は高圧縮された水の玉であるからか、楯として十二分に機能しているようだ。

 風が止むと間髪を入れず防御を解いた。みたび白虎を錬成するとすかさず黒龍へ向け、けしかける。

 白虎は駆けながら、小型の鳥へと分散する。黒龍を上下左右に取り囲むと、一斉に水の矢じりと化し、飛びかかる。

 だが黒龍は物ともしない。鱗は想像以上に堅いようだ。温度も青白い炎の非ではない。触れる前の段から水の矢じりからは蒸気がのぼり、線となって軌跡を残す。いくつかの攻撃が鱗まで届くが、いずれも鱗に弾かれ、瞬時に蒸発した。

 残った鳥がふたたび集結し、白虎のカタチに直るが、その姿は先刻よりもずっとちいさい。もはや漆黒の者のほうが大きく、水の虎は楯としてすら十二分に機能しないように思われた。

 黒龍がかの者を見下ろす。眼光は雷がごとく金色に濁り、こんどは明確な意思のもとで暴力をふるうのだと、そのさめざめとした圧から推して知れた。

 尾が地上に影を落とし、その色合いを濃くする。黒龍の圧倒的な質量のまえでは、大気ですら液体のようにふるまい、ただの風圧が津波がごとく、地上のカタチあるものを押し流す。

 尾は留まることなく、漆黒の者めがけて振り落とされる。

 漆黒の者はそれを受け止める。両手両足のみが白く濁っている。残った水の玉を手足に集中して装甲の代わりとしているようだ。膂力も増加しているように見受けられる。黒龍の物理攻撃を受け止めてなお立っていられるのだから、そう考えるのが妥当だが、それにしても、付け焼刃にすぎる。

 歯ぎしりの音が耳の奥にコダマする。

 漆黒の者の手足からはモヤが噴きあがっている。怒涛の勢いだ。そこに煙突があるかのごとくありさまであり、水の装甲が干上がるのは時間の問題だと誰が見ても瞭然であった。

 案の定、間もなくして漆黒の者の呻き声が、それはほとんど絶叫と呼ぶにふさわしい響き方をみせているが、閑散とした瓦礫の地に染みわたった。

 両の手の水は枯渇したらしい、黒い煙を立ち昇らせている。小僧は息を止める。香ばしい肉の焼ける臭いが鼻をかすめたからだ。

 両の足の装甲がかろうじて、漆黒の者をその場に踏みとどまらせている。気を抜けばすぐにでも地面にひしゃげ、勝敗がつく。生きるか死ぬかの死闘である。

 もし、かの者が負けたらどうなってしまうのか。以前の環境に戻るだけならばまだよい。しかしそうはとても思えない。漆黒の者の登場により抑圧されてきた強大なナニカたちは、ここぞとばかりにこの短期間の溜飲をさげようと、街に居ついたか弱きモノたちを喰らい尽くすだろう。

 じぶんも例外ではないのだ。小僧はその未来に思いを馳せたが、いまはそんなことなどどうだってよかった。譲れないのはいまここだ。

 漆黒の者からはなお、血と肉の焼ける臭いが立ち昇りつづける。かの者の魂が気化しているのではないか。そう錯覚しかけるほどだ。じっさいにかの者の寿命はその煙の排出量と反比例して減っているのは一目にして瞭然だった。

 応援する気持ちなど湧く余地がない。

 ただただ目のまえのこの現実を否定したい思いが募るばかりだ。

 せめて水があれば。

 霧ていどの湿り気でよい。

 かの者の武器となり得る水気を誰か。

 祈るばかりで益体なしの己を責めるが、涙は疾うに枯れている。泣くこともできぬ己に何ができる。

 せめてこの身を投げ捨てでもかの者を守りたい。チカラになりたい。助けたい。

 この思いがいったいどんな心持ちからくるのか小僧には皆目見当もつかない。恩なのか、感謝なのか、愛なのか、情なのか、それとも矜持か、或いはまったく別の感応か。

 いずれにせよ、小僧にしてやれることは何もない。

 ただし、活路がまったくないわけではなかった。

 迷っている暇はない。

 最終手段がゆえに、逡巡を挟んできたが、もはや戸惑ってもいられない。この身よりもだいじなものをいまここで、目のまえで失ってまで生き延びる未来に、いったいどんな意味を見出せばよいだろう。好きな拷問を選べと突きつけられる未来と何も変わらない。

 だったらいまここで、との思いに拍車がかかる。

 かの者をじぶんが助けることは適わない。しかし、かの者のほうでかってにじぶんを使って助かってくれるのならば話はべつだ。その可能性――未来はまだ残されているはずだ。

 小僧はぐっと四肢に力を籠める。

 辺りを見渡す。水気はもはや感じられない。熱せられた鍋底にあって、水分を期待するほうがどうかしている。しかし、あるところにはまだ水気はあるのだ。

 漆黒の者からもくもくと蒸発する血の煙がそこにあるように、まだたんまりと、一匹の小僧分の水気がここにある。

 小僧は大きく息を吸う。身体にかかっていた重圧はいくばくか薄れている。呼吸を止め、そして駆けた。

 まだ名も知らぬかの者の元へと、歯を食いしばり、突進する。

 漆黒の者よりさきに、黒龍がこちらに気づく。うるさいハエでも見かけたように一瞥しては、目を逸らしがてら、空をそのカギ爪で以って掻くようにした。

 空間が避けた。

 小僧の目にもそのように映った。真実のところは、空間そのものではなく、大気を切り裂き、真空としただけだが、小僧にかような道理が解かるようもなく、ただただ回避不能の攻撃を放たれたのだと察するよりほかはなかった。

 身体が死を意識する。悪寒が全身の神経をなぞるようだ。鼓動が停止するのに似た時間の粘りを感じるが、反面、精神は穏やかで、すべきことをただ見据える。

 目のまえに三本の空気のうねりが刃となって迫りくる。回避は不能だ。構わない。

 小僧は身体をひねり、刃と刃のあいだに身を滑らせた。片腕が刃に触れ、つぎの一歩を踏みだす段には、血しぶきと共に地面に落下する腕を視界の端に捉えた。

 血は黒く、それとも赤く、或いは青く、それとも緑に輝いた。

 かの者がようやくこちらを向く。

 目が合った。気がしただけかもしれない。充分だ。

 小僧は腕の切断面を見せつけるように腕を振りかぶり、刀を振るようにして自身の体液を前方へ振りまいた。

 黒く、それとも赤く、或いは青く、それとも緑に輝く体液の軌跡は、かの者に届く前にいくつかの球体のカタチをとり、それから大きな一つの玉と化した。

 小僧は腕を振るのを止めなかった。ほとばしる体液を、余すことなく振りまくことだけがじぶんの使命だと信じて疑わない。そんな小僧の思いを嘲笑うかのように、気づくと腕の切断面には血がゼリー状に付着し、覆っていた。誰の仕業かは考えるまでもなかった。

 かの者を押しつぶさんとしていた巨大な尾が、かの者から離れた。

 頭上を覆う陰にわずかな光が差す。風切り音が絶え間なく鳴り響いている。何かが高速で飛び交い、黒龍を翻弄しているのだと、遅れて認知した。

 球体だ。風切り音の根源はかの者の操る、水の玉――厳密には小僧の体液であり、それは黒龍の強固な鱗も貫き、傷つけ、終いには大きな大きな穴を開けては、まだ止まらず、あれよあれよという間に、巨大な尾を断ちきってしまった。

 同じ水の玉でありながら、素材が違うだけでこうまで威力に差がでるものか。

 小僧は朦朧とした意識のなか、しかし堪えがたい痛みのなかで巡る思考の狭間で疑問した。

 しかしその疑問は瞬時に、なぜ強者は強者なのかへの疑問の答えへと結びつく。強大なチカラを有するナニカたちはみな一様に、自身よりも弱いナニカを食い物とする。

 ひょっとしたら、と小僧は閃く。

 強いから喰らうのではない。

 喰らうから強くなるのだ。

 しかし、喰らわずとも強くあろうとした者があったとして、もしその者がチカラの源を得たとすればどうなるだろう。

 目のまえの光景がひょっとしたらその答えとなっているのかもしれなかった。

 漆黒の者は黒龍をしだいに押していく。尾を断ち切られ、さすがの黒龍も動揺を隠せぬようだ。反して、漆黒の者は冷静だった。先刻まで死の瀬戸際に立たされていた者とは思えぬ佇まいだ。即座に勝敗を喫しようとはせず、飽くまで黒龍の余力を削る策にでたと見える。

 焦りは禁物だ。

 かの者はよくよく弁えているようだった。ここで黒龍の逆鱗に触れに行っては、却って火に油をそそぐことになり兼ねない。千載一遇の機会をみすみす逃す手はない。

 黒龍には矜持がある。長らく培ってきた強者の驕りだ。その傲慢が油断と化して、隙を生む。

 だがさすがに明確な命の危機を感じれば、なりふり構わず、辺り一面を火の海に沈めてしまうことくらいは平気でするはずだ。かの者にとって、それがもっとも避けたい事態であるのは、かの者のこれまでの立ち振る舞い、何をしてきて、何をしてこなかったのか、を見れば瞭然であった。

 黒龍にも弱点はある。

 否、どんな龍にも逆鱗は存在し、しかしそれは無数の鱗に紛れて一見しては定かではない。

 火を噴く瞬間にのみ、逆鱗は固有の輝きを放つ。

 龍はここぞというとき以外には、口から火を吐くことはない。また吐くにしても尾や胴体部にて逆鱗を覆い隠す。

 段取りとしてはだから、まずは尾を切り離すのは得策ではある。胴体部に穴を増やせば、その合間から逆鱗の輝きが漏れて見えるかもしれない。

 しかし、火を吐かれてしまえば一巻の終わりだ。小僧はもとより、このことは誰よりかの者が弁えているはずだ。以上に、黒龍だって気づいている。こんな遊びはいつでも終わりにできるのだ、と。

 矜持がそうさせているとしか思えない。あれほど傷だらけにされてなお、火を吐く気配が一向にない。

 まるで、かの者の余力が尽きるのを待っているかのようだ。

 互いに相手が弱りきるのを待っている。最後の出方を窺っている。

 さきに止まったほうが終わり、さきに切り札を出したほうが負ける。

 逆説的にそれは黒龍が、それだけ慎重に、本気をだしているとも言えるのかもしれない。甘くみてはいない。ある意味で、黒龍は本気をださぬことがもっとも勝率の高い策だと理解しているがゆえに、弱者のそれを真似ているのだ。

 強者あるまじき臆病さである。

 小僧は吠えた。

 ずるいぞ、と。

 堂々と戦えと。

 外野から野次を飛ばすのは野暮であると重々承知したうえで小僧は、言葉を抑えることができなかった。

 それでも龍か。本気で戦え。

 解かっている。

 死闘に、正々も堂々もない。あるのはただ勝つための策であり、術である。

 頭では解かってはいても、言葉は止まらない。

 言ってしまえば黒龍は、大勢の弱者を人質にとっているようなものだ。いつでも滅することができるぞ、とそうした圧を加えながら、かの者が弱るのをただ待っている。

 かの者はそうした重圧に耐えながら、その瞬間がくる刹那の契機を窺っている。失敗すれば失うものは計り知れない。

 どちらが精神的に有利であり、戦いに優位なのかは、火を見るよりも明らかだ。

 火災旋風がごとく黒龍はその巨躯のせいか、水の玉をかわしきれないでいる。おそらくは逆鱗は頭部付近にあるのだろう、そこだけは機敏に動き、漆黒の者の攻撃を回避しつづける。

 或いはふたたび幼子の姿に戻れば、いちどきにすべての攻撃を防ぐことも可能かもしれない。否、身体が小さければそれだけ的は絞られる。幼子の姿となった黒龍には、四方八方から襲いくる水の玉を防ぐ芸当は厳しい。

 いけるのではないか。

 淡く期待が蠢くのを感じた。

 かの者もまたそのことに気づいたのかもしれない、胴体部への攻撃から一転、黒龍の手や角、髭などを目がけ、水の玉が飛び交うようになる。

 集中力が物を言う。

 かの者の意識が内側へと収斂したと見るや、黒龍がカギ爪で宙を掻いた。一度と言わず、膾切りがごとくそれは絶え間なくつづいた。

 真空の刃は交錯し、回避不能の網の目と化す。

 両の足に残していた純粋な水を楯としかの者は、一度目、二度目、とつぎつぎと網の目を打ち破る。しかし四度目にして水の楯は消し飛び、剥きだしのライチさながらにかの者は無防備となった。

 攻撃に準じていた水の玉――小僧の体液を防備に回せばまだいくばくかの余裕が生まれるものを、かの者はそうする素振りを見せないでいる。

 まずかの者の右腕が切断された。つぎに右足首、右膝、背中と肉を削ぐ遊びでもしているかのように、ちまちまと漆黒の者の身体が欠け、ときに深い切創が刻まれた。

 ひと思いに命をとらないのは、それもまた強者の矜持なのかもしれなかった。黒龍からはいかなる感情の機微も窺えない。淡々と冷徹に、着実にかの者の命を削っている。

 だが、まだだ。

 まだ、負けていない。

 あの方はまだ闘う意思を失ってはいない。諦めてはいない。

 熱くたぎる思いとは裏腹に、小僧の心の奥底は穏やかだった。シンと水を張るような静けさのほうこそがじぶんのいるべき場所なのではないかとすら感じられ、ではいま目のまえで繰り広げられているこの世の終わりとも思える情景はなんなのか、と疑問にすら思えた。

 望みのいっさいの断たれる間際だというのに、それでもことごとくの生命維持活動が危機を察知することを拒絶しているようだった。端から危機などどこにも見当たらないと予知しているかのように。

 未来を見てきたかのように。

 心はどこまでも穏やかだ。

 鼓動が高鳴るたびに、ずきずきと腕の傷口が痛む。これが痛みであることを身体は理解しているが、その痛みが危機を悟らせるには至らない。

 関係ない。

 身体の損失は、小僧にとってもはや危機の範疇にはなかった。

 足元を砂塵の帯がすり抜けていく。蛇の群れのようにそれはつづき、黒龍の口元へと一点に集まる。間もなく、轟々と唸る風の、軌跡が、空間に放射線を描くと、やがてピタリと風がやむ。

 くる。

 身体よりさきに理解した。

 遅れて全身が硬直する。

 いざ目のまえにすると、黒龍の咆哮はほとほと神々しく、救いの灯にすら感じられた。

 地面に熱が反射している。真夏日のごとくぬくもりが一瞬で大気を無数の針にする。チクチクと肌を刺す痛みは、灼熱の予兆であり、黒龍の咆哮、数秒後に放たれるだろう火炎の熱量のすさまじさを物語っていた。

 余熱でこれか。

 太陽を間近にすればこんな具合か、と連想するよりさきに身体がさきに凍えだす。

 寒いのだ。

 暑く、熱いはずのこの状況で、身体は極度に凍えていた。

 出血がすぎたか。

 それもある。

 熱射病か。

 それも否定しきれない。

 だが小僧には理解できていた。目のまえに現れた太陽の化身のほうが、己が命の灯よりもはるかに高い熱量をほこり、あべこべに己が命の温度が低く感じられるのだと。

 終わりだ。

 待ちわびた勝機であるはずが、ただただ絶望の権化にしか感じられなかった。

 小僧には。

 そう、こちらがどのように想起しようと、それを実行するのは小僧ではなかった。

 勝機を掴むのはいつだって、誰より忍耐づよく、最善を突き詰め、重ねた者なのだ。

 漆黒の者の目は虚ろだった。どこを見ているかも分からぬその表情は、ここではないどこかを見据え、掴み、手繰り寄せようとする執念、否、魂ごとその存在を世界に拡散し、溶けこませるような希薄さを感じさせた。

 片手、片足のもげた状態で、それでもかの者は絶望の化身に背を向けることはない。

 血に塗れたかの者の表層から、ぷつり、ぷつり、と音もなく、黒く、ただ黒い、水玉が浮上する。

 細かな粒子は、互いにより集まり、くっつき、より大きな玉と化していく。

 拳大だろうか。かの者の拳大、小僧であれば頭部ほどの塊となって、宙に静止する。空間に穴が開けば似た構図になるだろう。

 いっぽう絶望の化身は、間もなく咆哮と共に、万物を焼き吐くす火炎を放つだろう。

 神々しい光を遮るように、黒色の玉は、ゆるゆると波打ち、そしてちいさく、ちいさく、凝縮する。ひとしきり収斂を重ねたそれは、小僧の黒目と大差なく、加えてそこへ、最後の水の玉、小僧の体液を呼び戻し、融合させると、ひときわ濃く、深い、緑の玉が現れた。

 かの者の人差し指の先端に触れるや否や、それは、水平に掲げられた腕のさきにて流星のごとく揺らぎ、そしてこの世界へと、刹那に、まっすぐと線を引いた。

 湖に映る流れ星じみてそれは、眼前に屹立する不動の王、絶望の化身をすり抜ける。

 貫いた、と形容すべきその現象を目の当たりにして、小僧の目と思考は、薄く、そしてなにより細く伸びた線が、龍の首元をただすり抜けたのだと判断した。

 絶望の化身は、いっそう神々しさを増した。

 口腔いっぱいに溜めこんだ熱の塊を、その長くとぐろを巻いた首から胴、そして千切れた尾の途中まで、なぜか嚥下する。流星を呑みこんだがごとく様相で、全身が内側から発光し、あべこべに、大地にこもった熱が冷めるのを小僧は肌で感じた。陽が暮れ夜が訪れるときのような、波が引くのに似た変化がある。

 静かだった。ただただ静かに、終局は訪れた。

 静寂が大地をつつみこむ。

 絶望の化身の姿はそこにない。

 小僧は動けなかった。指一本、意思通りに操れない。出血は止まっているが、失った体液は、刻一刻と小僧の体力を奪いつづける。

 いっそのこと意識を失えればよいものを、目の覚めるような痛みが、眠ることを許さない。

 目のまえにふと、陰が落ちる。

 見上げるとかの者が、足を引きずり、立っている。何事かを口にしているようだが、声が聞きとれない。

 かの者はしびれを切らし、こちらをぐい、と持ちあげる。子犬を抱えるような持ち方だ。

 恥ずかしいような、心地いいような、ふしぎな気持ちが胸に満ちる。

 どれほど全身が痛くとも、恥辱の念は湧くようだ。

 ずいぶん余裕があるではないか、と先刻まで死の淵に立たされていた者とは思えぬ所感に、陽気が混じるのを、他人事のように、それでいて夢心地に感じた。

 漆黒の者は一糸まとわぬ姿である。同様にじぶんもまた裸体だった。

 全身が煤に塗れ、かろうじて産まれたままの姿とはならない。反面、ナニカであるじぶんたちに産まれたままの姿などがあるのだろうか、とはるか遠くもかすみきった記憶に思いを馳せる。

 目の奥にキンと響く痛みが走る。顔を背ける。朝の陽の光が線となって差している。

 絶望の化身とは打って変わったそのやわらかく、やさしい光は、それでも小僧にはつよく、突き放したものに思われた。

 あの太陽は、ここにあれば間違いなく、絶望の化身よりも脅威であり、絶望そのものに違いない。距離感こそがやさしさであり、おだやかさの正体なのかもしれない。

 小僧は考えるが、すぐに打ち消す。じぶんがいま誰に抱きかかえられているのかを思えば、すくなくとも正しい考えとは思えなかった。

 瓦礫を囲うように、視界の奥には天高く貫くビル群が乱立している。この世の終わりかとも思われた死闘ですら、人間たちの巣を打ち滅ぼすには至らない。

 呆気ない。

 安堵してよいはずの局面でありながら、ちんけな存在なのだと、我が身の属性を思った。

「送ろう。帰る場所はあるか」

 ひどい耳鳴りの奥に、かの者の声を聞いた。幻聴かとも思ったが、かの者は腕のなかのこちらを見据えている。傷口はなお、かの者の水により塞がれており、なにやら痛みまで引いているかのようだ。

「河童の上薬といってな。まあ、すぐにとはいかんが、生えてくる」

 失った手足が?

 疑問すると、かの者は、目を見開き、肩を弾ませる。「知らずにあんな無謀な真似をしよったか」

 そらは快晴だ。

 雨粒がひとつ小僧のひたいにぽつりとあたる。

 あなたの手足も?

 小僧はつづけて疑問するが、かの者は、口元に笑みを浮かべたきり、沈黙した。

 背負われたままその場をあとにし、やがて下水道に入った。頭上には徐々に、人々の足音や生活音が増えていく。

 街から脱する距離にくると、やがて、

「相棒が欲しいな」

 かの者は言った。「おぬし、帰る場所はあるか」

 二度目の問いかけに、小僧はようやく住み慣れてきた安アパートを思い浮かべ、それからかの者の、千切れた手足、いまは液体が義手義足となって補完している四肢を見遣り、

 ありません、と応じた。

「しばらくそばにおれ」

 かの者の声は、隆々とした肌ごと震え、こちらに伝わる。「おぬしのチカラはなんだ、まあ、ないよりあったほうが好ましい」

 息を止め、その言葉の真意を推し量るべく、じっとかの者の顔を見詰める。

 ぱしゃぱしゃと足音だけが暗がりの通路に反響する。

 おぬしが必要だ。

 こちらを見ずに、かれは言った。

 小僧はもう、何も言えなくなったが、言う必要も感じなかった。

 頭上に、ぱつぽつ、と雨音が響きはじめる。地面を強打するどしゃぶりとなるころには、小僧の頬は墨を擦ったような有様で、

「わっぱ、名はなんと言う」

 向けられた水に、言葉ではなく、文字で返すべく、自身の頬をゆびでなぞり、かの者の胸元にただ二文字を書き記す。

「汚い字じゃな、読めぬぞ」

 あなたの名は、と視線で問う。

 わしか。

 かの者は嘴の付け根をくにゃりと歪め、好きに呼べ、と言った。

 雨音は留まることを知らず、しかし小僧の頬はすでに渇きはじめている。 




【禁煙して一服】


 仕事の帰りにいつも寄る喫煙所があった。夏のあいだは夕陽を眺めながら一服するのが一日の終わりのちょっとした楽しみであり、急な夕立に襲われては、避難場所としても重宝していた。

 ほかに人がいることもあったが、たいがいはその場かぎりだ。言葉を交わすこともなく、顔を憶えることもなかった。

 いつのころからか。

 おそらくは大学の新入生だろう、喫煙所のベンチで缶コーヒーを飲んでいる青年を見かけるようになった。

 未成年であるのか、律儀にタバコには手をださず、いつも銘柄のちがう缶コーヒーを手にしていたので、目がついた。

 向こうもきっとこちらの顔を憶えたのだろう、その場で鉢合わせると、どちらからともなく会釈をするようになった。

「さいきん、冷えますね」彼はいつも別れ際に一言だけ投げかけた。

「そうですね。お互い風邪には気をつけましょう」

 気を許したわけではなかった。懐かれても面倒だっため、ビジネスモードで応じたのだが、却ってそれが相手にとってはよく映ったのかもしれない。

「どんな仕事をしてるんですか」「高校とか何部でした?」「僕は水泳部で」「バイトをはじめたんですけど、店長がかってにシフトを増やして」

 などと、当たり障りのない話題を振ってくるようになった。会うたびに言葉数が多くなり、訊ねてもいないうちから、彼の側面像がすっかり頭のなかに入ってしまった。

「お兄さんの仕事の話って訊いても?」

「構わないけど、おもしろいもんでもないぞ」

 聞いてばかりではつり合いがとれないと感じたのか、彼に訊ねられるがままに、職場の話をしてしまった。仕事の内容までは話さなかったが、家に帰り、そのときのことを思いだしては、らしくもなく口が軽くなっていたと反省した。

「これは老婆心だと思ってほしいんだけど」つぎに会ったときに言おうと決めていたことを言った。

「はい」

「あまり見ず知らずの人間にそう、プライベートなことをしゃべらないほうがよいと思うよ」

「あー、かもですね。でも、お兄さんはなんか、だいじょうぶかなって」

「お兄さんってほどの歳ではないけどね。まあ、信用してくれるのはうれしいけど」

 本心ではあった。人懐っこい野良犬と戯れているようで、ことさら突き放そうとは思わなかった。

 秋の暮れ、落ち葉を足先で払いながら、ふと思い立ち言った。

「いまさら訊くのもなんだけど、いいかな」

「え、なんでも言ってくださいよ。てか、お兄さんから質問とか初めてじゃないですか」

 まえのめりになるものだから、そんなに期待されてもな、とひるむ。

「きみ、煙草は吸わないんだよね。副流煙とか、嫌じゃなかった?」

「ここは煙草を吸う場所ですからね。邪魔だっていうなら、僕のほうこそ邪魔じゃないですか?」

「いる分には自由だからね」

「だったら吸う分にも自由ですよ。僕はいたくているんです」

 その言葉には、何かを諭すような響きはなく、ただ思ったことを口にしただけのようだった。

 それでも喫煙者にとって肩身の狭い社会になってきた現代では、知らぬ間に抑圧されていた何かを、解き放ってもいいんですよ、と肯定されたようで、すこしばかし、いや、本音を漏らせば、素直にうれしく思った。

 息を吐けば白くのぼる。

 もうすぐ冬がやってくる。

「ホットココアが美味しい季節です」彼は言った。

「肉まんとあんまんだったらどっちが好き?」

「僕はあんまんですかね。ピザマンだったら言うことないです」

「憶えておこう」

「うわー、めっちゃ期待しちゃうんですけど。ごちになります」

「憶えておくと言っただけだよ」

「そんなん言いっこなしですよ」

 一人っ子の家庭で育った。小中高と、これといった後輩を持たずに過ごし、会社ではとんとん拍子で昇進した。いまでは人事の管理職だ。他人に何かを指示することはあっても、教えたり、世話を焼いたりする機会はない。

 こうして、自分の一回りは下の世代と無邪気に言葉を交わすことが、煙草を吸うよりも体のよい息抜きになっているのかもしれないと気づいたときには、街かどの喫煙所で、縁もゆかりもない青年と過ごすひとときが、生活の一部として馴染んでいた。

 知れず、彼としゃべっているあいだは、煙草を吸わないようになっていた。気にしないと彼は言ったものの、ことさら好きではないのであれば、わざわざ嗅がせるのもどうかと思った。

 遠慮したつもりはなく、ただそうしたいと思ったのだ。

 その日は朝から雪だった。

 初雪の話題を振りながらなら不自然ではないな。

 思いながら仕事帰り、コンビニで肉まんとあんまん、ついでにピザマンを購入した。

 いつもの喫煙所に辿り着いたが、そこに青年の姿はなかった。

 夕暮れまで待ったがこの寒さだ。ほかの喫煙者も寄りつかない。すっかり冷めた肉まんを食べ、煙草を三本消費した。

 久々に吸った気がした。禁煙をしていたつもりはなかったが、たしかにこの期間、めっきり吸う機会は減っていた。最後に煙草を購入したのはいつだったか、と記憶をさぐり、手元にある煙草がもうずいぶん前に封を切ってからそのままだったことに思い至る。

 その日は家に帰ってから、余った、あんまんとピザマンをレンジで温め、晩飯とした。

 翌日からしばらく、本格的に雪が降った。喫煙所のまえを通るだけで、そこに誰の姿もないと見ては、そのまま帰宅の途に就いた。

 雪がやんでからも、地面には雪がみっしりと層をなしている。喫煙所で一本だけ吸って帰る日がつづいた。

 こなくなったのだ。

 結論付けたときには、道端にタンポポが咲いていた。モンシロチョウを見かけ、マフラーいらずの気候に、息を一つ吐く。気づけば煙草の煙ばかり白くのぼる。

 職場で大規模な組織編成があった。

 人事部の仕事の大部分が、機械任せとなり、データ解析に詳しい人材がすくなかったことから、責任者として白羽の矢が立った。

 新しい部署として機能させなくてはならず、働き方改革が謳われて久しいなかで、多忙な日々を送った。例の喫煙所に足を運ぶこともなくなり、夜はタクシーで帰る習慣がついた。

 人事部の人員は大幅に削減された。仕事内容は大別すれば、人事評価のデータ管理と、採用面接だ。

 一年目こそ忙しく、部下に最終面接官の役目を譲ったが、二年目ともなると、新体制として軌道に乗ったためか、部下のほうが却って多忙を極めており、余裕のある身として面接官の任を引き受けた。

 採用人数は前以って決まっていたが、責任を持つならば余分に採用してもよいとの御用達が社長からじきじきにくだっている。とはいえ、人員削減をした部署に適合するほどの人材がそうそう受けにくるとは思えない。

 現に、その年、採用した新卒はいずれも人事部には配属されなかった。

 翌年も引きつづき、面接官の任を受けた。目ぼしい人材がいれば、その場で内定をだしてもよい、とのお達しがでたあたり、データ解析の新システムが思った以上に費用対効果が高かったようだ、と見える。

 社の得意とする分野からすればデータ解析に明るい学生は面接を受けにはこない。外部委託で設備を整え、社内で生え抜きを育てる方向で運用しているが、人事部でことのほかうまくいったので、ほかの部署でも同様の処置を、と上は考えているようだ。

 だったらそのような募集をかければよいものの、応募要項への明記はないのだった。面接は一人ずつ行われた。

「失礼します」

 最初に面接室に入ってきた学生を見て、どこかで見た顔だな、と思った。

 学部や名前を聞いたあたりで、おや、と思い、当たり障りのない質問を投げかけているうちに、人懐っこい野良犬じみた返答に、あぁ、と胸の奥にじんわりと灯る明かりを感じた。

 じぶんの一存で内定をだすこともできたが、工学部でありながらマーケティングにも明るい彼の素養を見れば、わざわざ手を貸さずとも内定は確実だと判断した。

 すべての面接を終え、その日の就業後に、例の喫煙所に向かった。

 およそ二年振りだ。

 いるだろうと思い、そして彼はそこにいた。

「驚いたよ。まさかうちを受けにくるとは」

「こっちこそびっくりですよ、まさかそんなお偉いさんだとは」

「人材が乏しくてね。完全なる、なりゆきだ」

 元気そうでよかったよ。

 告げると、彼は、がんばりました、と言った。「単位足りなくて、就きたい職もなく、どうしたものかなぁ、と悩んでいたときによいひとと出会えたので。がんばって、そのひとの下で働けたらなと思って」

「それは、なんだ。きっと光栄だろうね」

「迷惑でしたかね」

 彼は目を伏せた。足元には何本も空き缶が置かれたままになっている。面接が終わってからずっとここで待っていたのだと判る。

「春先とはいえ、寒かったろ。ほれ」

 コンビニの袋からあんまんを取りだし、放った。

「うわ。あんまんだ」

「内定祝いに」

「ホントですか? え、そういうのもう言ってもいいんですか?」

「人事部権限。内緒な」

「よかったぁ。でも、あんまんかぁ。ピザマンのほうがよかったなぁ」

「だと思って、ほれ」

 こんどはコンビニの袋ごと放る。

「あはは、こんなに食えないですって」

「いや、案外いけるぞ」晩飯に二つも食べた夜のことを思いだす。

「そういえばここにはもう来てなかったんですか? 灰皿のなかがきれいなんで、そうかなって」

「久々だ。きみもじゃないのか」

「はい。あ、いえ、さいきんはちょくちょく来てたんですけど。あの、もう煙草って、吸われないんですか」

「じつは禁煙しててな」

「あー、じゃあこなくて当然でしたね」

「ただ、しばらくはまた寄るかもしれない」

「禁煙してるのに?」

「わるかないだろ。それともきみは吸うようになったのかな」

 そうは見えないが、と足元の空き缶を示してみせると、彼はあたふたと拾いあげては、じぶんのよこに積みあげる。後始末はちゃんとしますよ、の意思表示のつもりなのかもしれない。

「それとも、お邪魔だったかな。きみ一人のほうがよかったなら場所を移動するが」

 まるで二年間の年月などなかったように、言葉が途切れることがない。

「構いませんよ」

 彼はピザマンを頬張る。「僕はいたくているんです」

 その言葉を聞き、久方ぶりに一服つけた心地がした。




【ひとのかたち】


 息子は赤子のときから人形が好きだった。

 一過性の嗜好かと思ったが、小学校にあがったいまでも家にいるときは四六時中人形をそばに置いている。あまりに肌身離さないので、人形はよくボロボロになった。そのつど、新しい人形を買い与えるのだが、これまで大事にしていた人形を捨てることはなく、すべてとってあり、いずれも息子の部屋に飾られている。

 夕飯の支度ができたので、息子を呼びに子供部屋へ入った。息子は珍しく人形を抱いておらず、熱心に本を読んでいる。

「何を見てるんだい」

「パパ、赤ちゃんはどうして生まれるの」

 息子が見ていたのは、絵本だった。擬人化されたキャラクターを通して精子と卵子の役割が描かれており、あなたもこうして生まれてきたのです、と締めくくられている。

「書いてあるじゃないか」

「じゃあ、パパも赤ちゃんつくれる」

「ママの協力がいるけどな」

「じゃあつくって。ぼく、弟がほしい。妹でもいいけど」

「うーん。ママにお願いしてみないと」

「じゃあしてみる」

「でもどうして急に」とくに回答を期待したわけではなかった。小恥ずかしい話題の転換を図る繋ぎ穂であり、息子の初々しい好奇心の根っこを聞ければもうけもの、といった、しりとりみたいなものだった。リンゴときたからつぎはゴリラと口にするのに似た反射的な反問だったのだが、息子は至って真面目に、だって、と目を輝かせる。

「治るでしょ赤ちゃんなら。いくら壊しても、自動で」

 子供部屋を見渡す。壁を埋め尽くすように並べられた人形はどれも、身体の一部が欠けている。




【ナンバーズファミリィと最期の晩餐】


 三人の殺し屋が一堂に会している。

「いよいよあす決行だ。準備に抜かりはないな」

「あるわけないでしょ、誰かさんとは違うんだから」

「このパフェめっちゃうめぇんだけど、おめぇらも食えって」

「このバカが足を引っ張らなきゃいいんだけど」紅一点が睥睨するも、トゥはパフェに夢中だ。彼は毒殺のプロフェッショナルだが、やや言動に難がある。真面目な話し合いのさなかだろうとこうしてパフェに舌つづみを打ち、すっかり食べきると、給仕係を呼び止め、追加注文をする。

「緊張感がないのはわるかないさ」イチは場を取り持つ。「自然体でいられるってのは俺たちにとっちゃ必要な素養だからな」

「そうだけど」

「おまえらもパフェいる?」

「はぁ」スリィが無言で宙を手で払うようにする。彼女は絞殺のプロだ。自殺に見せかけて殺すのに定評があるが、どうにもトゥとの馬が合わないようだ。イチも彼女を真似てかぶりを振る。自然体なのはよいが、トゥの場合はその自然体が目立つのだから、たしかに気がかりではある。

「まあ、いざとなれば面倒事は全部コイツに押しつければいいさ」

「それもそうね」

「お、見ろよこれ。季節限定だってよ、食っとかねぇと損だって」

「あすの話をしてもいいか」

「おう、そうだった。わりぃな、腹が減っちまってよ」

「餓死すりゃいいのに」

「スリィ。あんまり毒を吐くな」

「気にすることないじゃない、コイツにゃ毒はきかないんだから」

「んなことねぇよ」トゥが珍しく語気を荒らげ、「きかねぇのは、飽くまで生物ゆらいの毒物だけだ」と反論する。「酸素から放射線物質まで、細胞をじかに傷つけるのはダメだ。抗体のつくりようがねぇからな」

「へんなところで真面目になるのやめてくれない?」

「たしかに」そこは同意したくもなる。「不真面目なら一生不真面目でいてくれ」

「はぁ? オレがマジメじゃなかったときがあるってんのかよ。ジョークにしても笑えねぇ」

 へそを曲げるものだから、スリィはぽかんとしたままこちらを見、これ本気? とでも問いたげに眉を上げ下げする。

 追加注文した品が届いてから、あすの計画を再確認する。

「俺たちナンバーズファミリィにとっての宿敵、スペルファミリィのドンがシュガー通りを通るのが午後十八時。六つ星ホテルのラウンジに車で運送される予定だ」

「ねぇこれ、あたしたちまでいる? 確実に仕留めるためって言っても、イチ、あんたの狙撃で終わりじゃない?」

「ターゲットが予定外の行動にでることもある。車から降りたときに撃てないなければ、あとはおまえたちを頼るよりない」

「あたしはロビーでターゲットに接触すればいいんでしょ。うまく誘えたら、個室で首を絞めて殺す。部屋にさえ入れれば失敗することはないと思うんだけど、うまく誘いに乗ってくれるかどうか」

「同性愛者って噂もあるしな」

「あたしよりか、イチ、あんたのほうが向いてんじゃない」

「ホテルに銃は持ち込めない。酒の揃えがわるいわりに、セキュリティだけはしっかりしてるからな」

「六つ星なんてたいそうな名前してるのにね」

「これめっちゃうめぇんだけど」トゥがひとりではしゃいでいる。

「あんた、自分に出番が回ってこなそうだからって、そうやって油断するのやめてくれない」

「油断? オレのどこが油断してるってモグモグ」

「食べるのをやめろ!」

 スリィと声が揃う。

「だいたい」彼女は頬杖をつく。垂れた前髪に息を吹きかけながら、「毒見役くらいいるでしょ」と意見する。「どうすんの、毒を食べてくんなかったら」

 それはそうだ、とトゥを見遣ると、

「誰が料理に仕込むつったよ」

 パフェと口のあいだを行ったり来たりさせていたスプーンを止め、彼は、

「これを使う」

 懐から小瓶を取りだした。

「なにそれ」スリィの疑問符に同調する。「それが毒なのか」

「おうよ。これ一滴で、シロナガスクジラ百匹は死ぬ」

「捕鯨団体に怒られるわよ」

「気化したらどうなるんだ」気になったので言った。「ひょっとして、毒ガス化して、その場にいる人間まとめてオダブツなんてことにならないだろうな」

「だいじょうぶだ」トゥは白い歯をむき出しにする。「二度摂取しないと効果ないからな。アナフィラキシィショックってあるだろ。スズメバチに刺されるのは、二度目のほうが危ないってやつ」

「抗体ができるからだろ」

「これも同じようなもんで、一度だけなら無毒だ」

「仮に気化しても周りの人間には害がないってことか」

「本当にだいじょうぶなんでしょうね」スリィは半信半疑だ。

「問題ねぇって。なんならいま嗅いでみるか?」蓋を開けようとするトゥを制する。「やめてくれ、ひょっとしたらきょうが二度目かもしれない」

「ありえそう」スリィが、うげ、という顔をする。「ちなみに、あたしがだいじょうぶか不安なのは、ちゃんとすでにターゲットに毒を飲ませてるのかってこと。現場で二度目じゃなきゃ意味ないんでしょ」

 たしかに。

 トゥを見遣ると、彼は目を丸くしたまま、ああ、とポカンとした。

「これは、あれね」スリィが手のひらで、ひたいを抑える。

「飲ませてないパターンだな」と真似する。

「んだよ、いまから飲ませりゃいいんだろ」

 席を立つトゥに、だったらそのまま殺してきなさいよ、とスリィの声が飛んでいく。

 意に介す様子もなくトゥは店の窓を開け放ち、小瓶の蓋をひねるようにした。

「おいおいどうするつもりだ」

「ちょっとバカ!」

 スリィの甲高い声にトゥは振り向く。小瓶の中身を宙へ撒き散らしながら、

「この量なら、街にいる人間全員が感染済みだ」

 おそろしいことを愉快そうに言った。

「あんたバカじゃないの」スリィの嘆きに、同調する。「おまえ、もしあした毒を使うことになったら、そのときどうするつもりだ? マスクでもしながらターゲットのまえに立つ気か?」

「ん? なにかマズイか?」

「マスクをするような男の運んできた料理を誰が食べる。その場で毒を散布するつもりだったとして、余計な死体がごまんとでることにならないだろうな」

「あ、そういうことか。そうだな。マズイな」

「おまえなぁ」

「だから言ったじゃない」スリィはもはや、目のまえの理解不能な男よりも、そんな男を仲間として引き抜いたこちらに怒りの矛先を向けている。「こんなバカ、足を引っ張るだけだって」

「そんなことを言ったのか。なんてやつらだ」

「トゥ。おまえすこし黙ってろ。話をややこしくするな」

「んだよ。イチまでオレを虚仮にする気か。おまえらなんか、オレの気分しだいでいつでも殺せるってことを忘れるなよ」

「そうだったぁ」スリィが心底嫌そうな顔をする。「こんなやつに生殺与奪の権を握られてるなんて」

「さてはおまえ、オレのことをバカにしてるな」

「いまごろそんなことに気づくなんて、はぁ。ごめんなさい、見立てが甘かったみたい。あんた、超ど級のスーパーバカだわ」

 おいスリィ、それ以上煽るな。

 諌めるよりさきに、トゥの堪忍袋が保たなかった。

「かっちぃん。オレさまがいかに頭がいいかってことが解かってねぇようだから、証明してやるよ。あすなんか待つ必要はねぇ。いまここで二度目の毒をくらわせりゃ済む話だってな。どうよ、オレさまの閃きパワーは」

 言いながら懐から二本目の小瓶を取りだすトゥへ向け、銃口を向ける。

 迷うことなく引き金を引いた。

 銃声が店内に響く。

 大きな物音が鳴る。

 余韻が引き、静寂が戻ってくるころには、スリィがテーブルの下から這い出てくる。「撃つなら言ってよぉ」咄嗟に隠れたようだ。相変わらず機敏な女だ。「どうしたの? 殺しちゃった?」

「イテテ。なにすんだよイチ、殺す気かよ」

 トゥが身を起こす。こちらも無事なようだ。

 天井にぶらさがるシャンデリアを撃って、落としたのだが、頭上から落ちてきたシャンデリアをトゥは受け止めたようだ。肩を痛めたのか、手で押さえている。

「わるいな」

 床に転がる小瓶を拾いあげる。「これは俺が預かっておく。あすはおまえの出番はない。ただ、協力はしてもらうぞ」

「ええぇ」

 トゥだけでなく、スリィまで声をあげた。「手伝いなんかいらないって、あたしたちだけでやろうよ」

「手伝うのはいいけどよ。何すりゃいいんだ」

「ターゲットを射撃するには運の要素がつよくなるが、的が車なら問題ない。要は、トゥ、おまえのその毒をターゲットだけに嗅がせれば済むんだな」

「ああ」

「ターゲットの車はリムジンだ。運転席と後部座席は仕切られている。一人を殺傷するだけの最低限の毒を弾に込め、車に撃ちこむ」

「なるほど」スリィには伝わったようだ。首をひねるトゥを差し置き、「ならあたしか、このバカが車が停まってからすぐにターゲットが車から降りないように騒動か何かを起こせばいいわけね」

「その役はトゥに任せる。スリィ、おまえには車に空いた穴を即座に塞ぐ役目を任せたい」

「万が一に毒が車外に漏れないようにするためね。でもそれってあたし、巻き添え喰らうリスク高くない?」

「やめておくか」

「ううん。やる。その分、報酬は弾んでよね」

「トゥ」呼びかけると彼は顔をあげた。まぶたが重そうだ。居眠りでもしていたのだろう。「おまえにはホテルの前で、酔っ払いのフリでもして騒動を起こしてほしい。なんなら道路に寝転ぶだけでもいい」

「おう。任せろ」

「弾へ毒を仕込むのも頼めるか?」

「おう。最小限の毒でいいんだろ。任せろ」

 言いながら懐から三本目の小瓶を取りだし、颯爽と蓋を開けてしまうので、止める暇もなく、スリィといっしょになって、顔面を蒼白にする。

「おい、トゥ。おまえ、それ」

「ん? これは胃薬だ。パフェを食いすぎて気持ちがわりぃからよ」

 がっはっは、と哄笑すると、トゥは小瓶の中身をひと口にあおるようにした。

「心臓にわるいんだけど」

 スリィがぼそっと口にする。「つぎコイツ呼んだら、イチ、あんたとは二度と仕事しないから」

 つぎの予定は組んでくれるのか。

 意外に思いながら、手のなかの小瓶を握りしめなおす。これさえあれば、とほくそ笑む。

 スペルファミリィもろとも、ナンバーズファミリィを一網打尽にできる。

 ホテルのまえの見える場所に、この瓶を隠しておき、安全圏から撃ち抜けば、あとは多くの市民の命と引き換えに、ナンバーズファミリィは壊滅する。晴れて自由の身だ。

 自由への切符を手にした高揚が顔にでないように努める。

 トゥやスリィには申しわけないが、ほかのナンバーズファミリィと死んでもらうよりない。

「あ」

 トゥがお腹をおさえ、うずくまる。「なんかめっちゃ気持ちわるい」

「パフェ食いすぎたバツね」

 スリィの呆れ声を耳にしながら、何気なく手を開く。

 手のひらのうえで小瓶を転がすと、側面には、英語で胃薬を示す単語が示されている。 




【何もない部屋で人を殺す方法】


 何もない部屋で人が死んでいた。遺体の胸には穴があり、何かが貫通したようだと判る。壁には、凶器に使われたものと思しき鉄屑がくいこんでいた。

 遺体発見当時、部屋は密室状態であり、被害者以外に同室していた者の痕跡はない。

 部屋は、建造物の耐久性を調べるためにつくられたもので、柱を使わずに組まれている。正方形であり、壁の素材は特殊な強化プラスチックだった。宇宙服のヘルメットの透過フィルムに使用されている素材で、強度は折り紙つきだ。秒速三キロで宇宙空間を飛び交うジャンクにぶつかっても、貫通しないだけの強度がある。

 部屋の壁の厚さは十センチと、比較的薄いが、核シェルターとして用いられても問題ないほどの耐久性がある。鍵は内側からしか開閉できない。被害者本人が施錠したあとで人が出入りした痕跡はなく、遺体の第一発見者は、部屋内部を監視していたカメラの映像から、被害者が倒れている姿を見つけ、緊急脱出ボタンを押した。

「つまり、部屋そのものは地面に固定されていただけであり、そのロック機構を解除すれば、部屋を壁や天井ごと持ち上げて、蓋を外すように内部に入れる、ということですか?」

「はい」

「では、第三者が同じような手法で内部に侵入し、被害者を射殺した可能性が高いわけですね」

「いえ」

 警察の取り調べに対し、第一発見者の柔佐(じゅうさ)ツスルは言った。「カメラの映像を見てもらえれば判ると思うんですけど、誰も入ってないんです」

「映像?」

「残ってますから」

 柔佐ツスルは研究室に備わっている端末を操作し、画面に映像を流す。

 そこには被害者の死ぬ瞬間が映っていた。何度も再生し、確認するが、被害者は何もない部屋のなかで、突如として後方に弾け飛び、死んでいる。

「透明人間でしょうか?」

 被害者の胸を貫いたのが銃弾であったとすると、その銃弾の飛んできた方向にある壁になんらかの遠隔射撃装置が備わっていた可能性が高い。

 しかし、調べてみるも、壁にはなんの痕跡もない。

 銃弾のめりこんでいたほうの壁を調べる。やはり、異常は見当たらない。

「どういうことでしょう。ふしぎですねぇ」

「自殺、ということですかね。妙なことをするのが好きな人でしたから」

 胸に爆薬をしかけ、地雷さながらに自爆したとするならば、話ははやい。

 被害者の胸の傷は、ちいさく、銃撃を受けたにしては傷がきれいすぎた。

 まるで、見えない針で刺されたような。

 そこで、はっとする。

 被害者の服装を調べる。遺体発見時、被害者は施設で配られる作業服を着衣していた。スウェットに似たつくりで、そのうえから白衣を羽織っていたのだが、やはりおかしい。違和感を覚えたのは、被害者が女性でありながら、本来つけていてしかるべきものをつけていなかったからだ。

 ほかの女性職員に確かめると、ほかの職員たちはそれを着衣していた。被害者のみが着けていなかった。

「彼女はなぜ一人で部屋に? 何か用があったのですか」

「さあ。窒息の危険性がありますから、ふだんは誰かに見ていてもらうのがルールだったんですけど」

「カメラの映像は誰でも見られるのですか」

「いえ、セキュリティ認証が必要ですから、彼女以外では、僕だけです」

「あなただけ。それは本当ですか?」

「ええ、はい。ダメですか」

「セキュリティが厳重なのですね。感心致します。ちなみに、この施設では雷の実験も行っていると伺ったのですが」

「ええ。あらゆる災害に備えた施設の研究をしていますから」

「なるほど」

 殺害方法は解かった。

 ただ、犯人が誰であるのか、の確証が足りない。

「あなたは昨晩、どこで何をなさっていたんですか」

「アリバイですか? 僕は別塔の仮眠室で仮眠をとっていましたけど」

「その時間帯の研究室の電気使用量を拝見したところ、どうも急激に上昇しているようですが」

「そうなんですか? ほかにも実験をしている人たちはいたでしょうから、その関係かな。よく解かりません」

「ちなみに、雷を発生させるには、膨大な電力が必要ですよね」

「電力というよりも、電圧ですかね」

「巨大なコイルがあれば、つよい電磁石もつくれますか?」

「可能か可能でないかで、言えば、可能でしょう」

「被害者はブラジャーをつけていませんでした。なぜでしょう?」

「さあ。そういう指向だっただけでは? あの、何が言いたいんですか」

「彼女は日ごろから胸にバッジをつけていたそうですね。彼女のデスクにある写真にも映っています。それは彼女の私物ですか?」

「じゃないんですか」

「聞いたところ、あなたとは恋仲だったと伺っていますが」

「まあ、そう言っても矛盾しない時期はありましたけど」

「遺体からはそのバッジがなくなっていましたが、何か心当たりは?」

「ブラジャーをつけていなかったんでしょ? バッジだってしなくなっただけじゃ」

「あなたは被害者がブラジャーをつけない指向の人間だったと知っている数少ない人間だったはずです。下着の有無を確認するには、それなりに深い仲でなければ、それこそ、裸を見せ合うような仲でなければむつかしいでしょう。なぜさきほど訊いたときに知らないフリを?」

「いえ、本当に知りませんでした」

「性交渉をしたことは?」

「あっても、そのときは下着をつけていたと思います。いえ、暗かったのでよくは憶えてませんけど」

「一度や二度ではなかったのでは?」

「回数が重要ですか」

「話を変えましょう。緊急脱出ボタンを押したのはあなたですね」

「何度目ですかその質問」

「答えてください」

「ええ、僕です」

「あなたはカメラの映像を見てから、被害者の異変に気づき、内部へ入ろうとした」

「そうです」

「つまり、カメラの映像を見なければ、外部から内部の状況は分からないということですね」

「まあ、そう言っても構いませんね」

「被害者を殺害しようとした者がいたとして、その人物が被害者を殺すためには、被害者が部屋の内部に入ったところを確認していなければならないと思うのですが、どうですか」

「無差別に殺傷するのではなく、彼女が狙いだったならそうだと思います」

「つまり、犯人は被害者が部屋に入るところを目撃していた、と」

「自殺じゃないんですか?」

「その可能性は低いでしょう。彼女を殺害した方法にも目星はついています」

「でも犯人の目星まではついていない。僕を疑ってます?」

「あなたが犯人だと考えています」

「でも、どうやって?」

「凶器は、被害者のつけていたバッジです。部屋のそとから、強力な電磁石を使って、バッジを瞬時に引き寄せた。バッジは被害者の胸を貫通し、電磁石のある方向の壁にぶつかり、めりこんだ。あとは電磁石のスイッチをオフにして片づけてしまえば、証拠は隠滅できます。ただし、バッジは鉄の玉として、くしゃくしゃにつぶれてしまうでしょうが」

「それが本当だとしても、僕が犯人だということにはなりませんよね」

「そうですね。ただし、犯人は入念な計画のもとに殺害を実行しています。犯人は被害者が部屋に入ったところを見ていますし、そしてバッジと電磁石が、被害者を挟んで対角線になるような位置関係で設置する必要性があります。つまり、外部からは見えない被害者がどちらを向いているのかを確認しなくては、この殺害方法では、失敗するリスクが高いのです」

 つまり。

 柔佐ツスルへと言い放つ。

「監視カメラの映像を見ることのできる人物が犯人だということです。そしてあなたは言っていましたね。被害者以外で、カメラの映像を見ることのできる人物は自分以外にいないと」

 電磁石を壁に設置し、監視カメラの映像を見ながら、被害者が任意の方角を向いたときに電磁石のスイッチを遠隔でオンにした。

 証拠は、と口にした柔佐ツスルへ、これから集めますよ、と言い添える。

「プロットはできあがっているのです。あとはそれに沿って、ピースを埋めていけばいい。なに、そうむつかしい作業ではありません。探すべき場所と物がハッキリしているのならば、砂浜に落とした指輪を探しだすのは造作もないのです」

 それこそ、狙いを定め、磁石を使えば、あとはかってに見つかります。

「自白することをおすすめ致します」

 告げてから、現場をほかの警官へと引き継ぎ、取り調べを終える。研究所のそとには雷を落とすための装置だろう、巨大なコイルが浮いている。




【無限収納箱】


 時空ポケットを発見した宮善ノ(ぐうぜんの)八権(はっけん)は、貧しい農家の生まれだった。

 インターネットの網の目が電波に乗って都市と都市を結びつけている時代にあって、彼は毎日、稲穂や畑の野菜たちと向き合っていた。

 ドローンや機械の自動化によって、農家の仕事は格段に効率化が進んだ。研究の名目に、機材を貸しだしてくれるこころよい人々がなぜ、宮善ノ八権を被験者として抜擢したのかは定かではないが、宮善ノ八権は、期せずして、最新技術の恩恵にあやかることとなった。

 収穫はいわずもがな、農薬の散布まで、稲の具合によって、場所を選びながら機械が量を調節する。虫の多い場所には多めに散布するなど、いずれも機械のほうでかってに行ってくれる。

 時間に余裕のできた分、宮善ノ八権はお手製の窓口をインターネット上に開き、個人向けに米や野菜の通販をはじめた。

 買い手は殺到した。

 店で購入し、家へと運ぶ手間が省ける分、楽であり、かつ新鮮な素材となれば、所望する者はあとを絶たなかった。

 商品の梱包や宅配手続など、人を雇う余裕まででき、宮善ノ八権はますます暇を持て余すようになる。

 そこで何を考えたのか、彼は、実験をはじめた。

 小学生のころに学んだ、砂糖を水に溶かす実験を思いだし、なんとなしに、本当だろうか、と気になったのだ。

 水に溶ける砂糖の量は決まっている。水の温度によって上下するが、二十度の水一グラムに対して、およそ二グラムである。塩も同様に、水に溶ける量は決まっている。

 砂糖のほうが溶ける量が多く、塩のほうが少ない。砂糖をめいいっぱいに溶かした水には、塩は溶けなくなる。あべこべに、塩をめいいっぱい溶かした水には、砂糖は溶けるのだ。

 つまり、水にはそもそもが、ポケットが開いており、そこに入る粒の量が決まっていると考えられる。

 宮善ノ八権は、水ポケットという概念にとりつかれた。

 以来、実験を繰りかえす日々を送り、ついに、水が多層構造を伴っていることを突きとめた。

 宮善ノ八権はそれを、箪笥(たんす)のようなものだ、と説明した。以下、現在残されている彼の肉声を文字に興したものを引用する。

「えー、物体が分子によってカタチを得、それぞれに特異な性質を帯びているのは周知の事実でありますが、えー、なんだ? んー、つまり、分子は分子で、原子の結びつきであり、原子は原子で、電子や原子核によってカタチや性質を得ているわけでありまして。なんだ、その、これは僕が知らなかっただけかもしれないのですが、原子の質量のほとんどは原子核にありながら、その原子核は、原子そのものの大きさからすると、非常にちいさな点であるわけで、すなわち、原子核を周回する電子は、原子の外郭として機能するわけですが、その電子は、原子核のはるか頭上を、太陽を周回する惑星のように回っているわけでして、何が言いたいのかと言いますと、要するに、原子だけでなく、分子ですら、相互に結合しているようで、そのじつ、互いに接触しているわけではなく、厳密には、チカラの均衡で釣りあいをはかり、物質としての枠組みを備えているということで、えー、なんだ? 要するに、物質は、我々が思っているよりもずっと、スカスカで、チカラとチカラが吊り合っているあいだには、ポケットのような時空が、無数に開けていると言っても過言ではないわけでして、えー」

 彼が何をいわんとしているのかは詳らかではなく、ここから判ることがあるとすれば、それは宮善ノ八権という人物が非常に口下手であり、自身の構築した理論を言葉にして出力することを苦手としていた、という彼の不均等な能力であると呼べる。

 宮善ノ八権は常識に囚われない人物だった、というのは正しい表現ではない。より精確には、彼は常識を知らなかったのだ。

 たとえば、コンタクトレンズの原型は、眼球をすっぽりと覆うタイプの、比較的大きなレンズだった。現在のような、白目を覆わない型のコンタクトレンズを発明したのは、水谷豊という日本人であり、彼は原型を見たことがなかった。知らなかったからこそ、より合理的な発明ができたと呼べる。

 時空ポケットを発見した宮善ノ八権もまた、学徒の時代に基礎的な勉強をおろそかにしていたことが、奇跡的に功を奏し、時代を変えるほどの技術革新の基礎を築くこととなる。

 宮善ノ八権は、砂糖と塩と水の溶解現象から、物体には固有の隙間が、箪笥のように開いていると突き止めた。

 だけに留まらず、彼はそこから発想を飛躍させ、時空にも同様の箪笥が、ポケットのように開いているのではないか、と類推した。

 古典物理学におかれては、物質と時空は切り離されて扱われる。しかし、近代になって発展した量子力学におかれては、物質も時空も同じ、場や粒子によって形成されているとして扱う。

 宮善ノ八権の時空ポケットという概念は、古典物理学と量子力学の中間、二つを結びつける理論として確立された。

 当初こそ、どの分野からもまったく見向きもされなかった彼の理論は、彼自身が実際に行なった実験の成果によって、迅速に波及していくこととなる。

 彼はまず、なぜ砂糖は水に溶けるのに、気化した水には溶けないのか、と疑問した。

 しかし、すぐにこの問い方そのものが間違っていることに気づく。

 砂糖も、気化した水に溶けるのだ。

 より精確には、プラズマ化した水に触れると、蒸発する。それは砂糖に限らず、あらゆる物質は、プラズマ化した水に触れると蒸発してしまう。

 プラズマとは、個体、液体、気体のさらに上に位置する物質の状態だ。同じ物質であっても、そこに加わるエネルギィによって、形態や性質を変える。これを相転移と呼ぶ。

 高エネルギィを部位的に加えることで、水は気体となり、さらにプラズマ化する。

 重要なのは、プラズマ化した水に触れたからといって、その物質までプラズマ化するわけではない、ということだ。

 水に溶けた砂糖や塩はべつに、液体化しているわけではないのと同じ理屈だ。砂糖や塩は、細かな粒となって、水分子のあいだに拡散している。それはちょうど、箪笥に仕舞われた衣服のようなものだ。水とは、たくさんの箪笥によってできている。この場合、溶けるとは、箪笥に仕舞われることであり、液化とは箪笥を有することだと規定し直してもよい。

 そして水に限らず、大気もまたたくさんの箪笥によって編まれており、プラズマ化した水に触れた物質は、蒸発し、細かな粒となって、大気の箪笥に仕舞われる。

 箪笥の引きだしの数は、物質によって異なっている。極端な例として、砂糖をたくさん仕舞える物質もあれば、塩しか受け入れない物質もある。水や大気だけでなく、時空もまた同様だ。任意の物質しか受け入れない時空があり、ひるがえって言えば、よりたくさんの物質を拒絶する時空であるほど、多様な物質をそこに内包する。つまり、物質とは、時空に溶けなかった余りものなのだ。

 言い換えれば、時空にはそもそも、溶けこんでいる未知の物質が存在している。目に映らないそれらが、時空全体へと何らかの影響を与えつづけている。重力などがその典型だ。

 宮善ノ八権はそのように考えた。

 それまでの常識では考えられない発想だったが、思いついたそれを彼は放っておけなかった。農業の経営を信頼できる者に任せると、研究に没頭した。

 砂糖や塩の溶けた分、水はその質量を増している。しかし、見た目には、透明な水のままなのだ。舐めてみなければ、或いは、混合水を蒸留させ、砂糖や塩を結晶化させないことには、そこに何が溶けているのかを見定める真似はできない。これは、異なる性質の液体と液体の混合物でも同様で、その場合は、蒸溜ではなく、分留と呼ぶ。

 宮善ノ八権は、時空ポケットという概念を打ちだし、時空に溶けこんだ未知の物質を分留する術を模索し、そして諦めた。

 そう、諦めてしまったのである。

 できなかったのだ。

 ただし、その過程で彼は、時空を錬成する箪笥を一方向に揃えることで、無数の引きだしを、巨大なポケットとして編成し直すことに成功した。

 怪我の功名である。

 副次的に、時空ポケットの存在を証明しただけでなく、物体を時空ポケットへと収納する術を確立した。

 宮善ノ八権は、特許を取得し、時空ポケットを「無限収納箱」と名付けて売りにだした。名前のダサさが却って話題となり、その性能の異次元性が、それは文字通り、異次元に物を収納できるような機能であるからだが、人々の注目を集め、またたく間に人々の生活に浸透した。

 時空ポケット改め、「無限収納箱」の初期型は、大中小とサイズが選べた。

 手のひら大の四角いフレームは、まるでシャボン玉をつくる輪っかじみて、そこに通した物体は、反対側に突き抜けることなく、そのフレームの時空へと収納される。

 見えない穴が開いているようで、その形容がじつは正しい。

 宮善ノ八権の開発した、時空ポケット並列化装置は、時空を錬成する場を制御する。不規則に並ぶ時空ポケットを一方向へと整列させることで、ひとつの巨大な時空ポケットを編成する。

 ただし、物体そのものが消えてなくなるわけではない。入った物体の分、「無限収納箱」は質量を増す。また、無限と銘打ってはいるものの、容量は決まっている。これは、時空ポケットの限界ではなく、装置のほうの限界だった。収納するだけならば無尽蔵にも思える質量を収納できるが、それを取りだすことができなくなる閾値が存在した。安定して時空ポケットを展開、維持するために、宮善ノ八権は装置に許容値を設定した。

 とはいえ、持ち運びせず、重量を気にしないのであれば、「無限収納箱」には、じっしつ、家一軒分の質量を収納することが可能だった。

 人間まで入るため、犯罪防止策として、当初こそ手のひら以上のサイズをつくらなかった宮善ノ八権であったが、企業の目に留まってからは、業務用の特殊「無限収納箱」が開発された。

 かくして、世界からコンテナがなくなった。

 運送にかかる費用は格段に安くなり、カバンやリュックが淘汰された。代わりに、小型の「無限収納箱」を負担なく身につけるための補助具が爆発的に売れるようになる。

 ベルトにぶらさげる型、携帯型メディア端末のケースと一体化する型、それから質量が両肩に分散するように設計された、サスペンダー型など、多種にわたる。

 時空ポケットという技術が社会に迅速に普及した背景には、高い安全性が保障されていたからだとする解釈が一般的だ。

「無限収納箱」は安全だった。時空ポケットを編成するためのフレームに手を突っこんでいるあいだに、制御装置のスイッチが切れたとしても、腕は切断されることなく、ただフレームの向こう側へと現れる。これは、時空ポケットよりも、時空のほうがより優先して存在の枠組みが保たれるためだ。つまり、時空ポケットとして機能しなくなれば、「無限収納箱」はただの、フレームとしてそこに存在するだけとなる。

 むろん、時空ポケットに完全に収納された物体は、時空ポケットに入ったままだ。だから、仮に人間が「無限収納箱」に入ったまま、そのスイッチを切られれば、閉じこめられたまま時空ポケットから出てこられなくなる懸念もある。

 だが、これは逆に考えると、高度なセキュリティにもなり得た。

 時空ポケット並列化装置は、企業の手によって年々洗練されていった。やがてさらに安定して時空ポケットを編成、安定化する術が確立されると、「無限収納箱」は「時空マンション」として、人々の住居として利用されるようになった。

 宮善ノ八権が、時空ポケットという概念を考案し、「無限収納箱」を開発した二十年後には、時空ポケット内にて、さらなる時空ポケットを展開する技術まで開発され、現在、地球上で展開されている時空ポケットをすべて繋ぎあわせると、太陽系ほどの広さにまで拡張するとまで言われている。

 地上で暮らす者は年々減少していき、ついには、時空ポケットに入ったきり、そこで一生を過ごす者まで現れるようになった。

 かつて宮善ノ八権は、時空ポケットに収納された未知の物質を発見するために研究を推進させた。いまでは、時空ポケットにみずから飛びこみ、地上から姿を消す人々があとを絶たない。

 いずれ地上から人類は姿を消すかもしれない。しかし、消えたのは姿だけであり、存在そのものが消失するわけではない。

 ともすれば、人類に視認できないだけで、時空ポケットを住処とする生命体がすでにいたのかもわからない。塩が飽和しきった水であっても砂糖が問題なく溶けるように。

 時空ポケットを住処とする生命体と人類が鉢合わせする確率はそう高くはない。

 宮善ノ八権は時空ポケットを考案し、「無限収納箱」を開発してから百年目を記念する今年、人類は各々の展開した時空ポケット内に、別個の世界を築きあげ、そして無数の人類史を辿りながら、つぎなる時空ポケットを展開していく。

 宮善ノ八権の打ち立てた数々の功績のなかには、奇しくも、時空ポケットがどれだけの質量を収納できるかの限界溶解度について触れられた研究成果は一つもなかった。

 時空ポケットがこれからさき、どれだけ多重に展開され、その深淵さを増していくのかは誰にもわからない。もっとも、広がるのは時空ポケットばかりで、地上の総質量が増えるわけではない。

 そう遠くないうちに、外部へと資源を求め、時空ポケット内で増殖した新人類が地上へと押し寄せるのではないか、と危惧する声もあるが、いまのところ、そうした報告はあがっていない。

 地上から人類の足音が聞こえなくなって、数十年が経つ。

 連綿とつづく合わせ鏡のごとく世界で、人々はどこまで世界を拡張していくのだろう。 

 時空ポケットを発見した宮善ノ八権は、多くの人々に惜しまれながら、墓の下に眠っている。

 以後、その墓を参拝する者は誰もいない。 




【ペットはペットを飼うべからず】


 子猫がほしい、と駄々をこねたら、母は、どうしてまた、とメディア端末の画面から目を離さずに言った。

 インターネット上に画像を載せて、みんなに見てもらうサービスがある。いいと思った画像には、見たひとから、ステキ、という意味でハートマークがもらえる。たくさんハートマークを集めた子が、クラスのお姫さまの地位に立てるのだ。誰がとり決めたわけでもなく、そういうしきたりが、ウイルスみたいに学校中に蔓延している。

 さいきんになって、仲の良いユーリちゃんたちがみんな子猫を飼いだした。子猫の画像は、たくさんハートマークが集まる。

 みんなばっかりずるい。

 じぶんだけどんどんみすぼらしい姿になっていくようだ。

 なんとかみんなと同じ土俵にあがれないかと、考え、導きだした答えは、みんなと同じように子猫を飼って、インターネット上に子猫の画像を載せることだった。

 海外ドラマにはまっている母の意識が虚構の世界へとダイブしているあいだがチャンスだとばかりに、投げかけたのに、母の反応は芳しくなかった。

「ウチにはもう、おっきな野良猫がいるからなぁ」

「それってうちのこと?」

「それに、子猫が欲しいのであって、猫が欲しいわけじゃないんでしょ」

 母は見透かしたようなことを言う。

「すぐに大きくなっちゃうよ。生き物を飼うってのは、そう簡単なことじゃないんだから」

 ましてや育てるとなると。

 母のぼやきの終わらぬうちに、そそくさと膝を畳み、ひたいを床にこすりつける。

「土下座ってあんた、中学生にもなって」

「ぜったい、ぜったい、ちゃんとお世話しますので」

「そんなに欲しいの?」

 うんうん、と首を縦に振る。

「でもお金ないし」

「タダで」と声を張りあげたのは、ぜったいに、ぜったいに、その言葉を母が言うと予測して、返すべき答えを決めていたからだ。「もらえるとこあるって、子猫、かわいそう、もらってあげると助かる、救える、わたしたち」

 なんだか頭がこんがらがって、片言の宗教家みたいになってしまった。ざびえーる、とでも付け足したら、教科書にでも載れそうだ。

「選べなくなっちゃわない?」母はいまにも泣きだしそうな顔をした。

 今週の土曜日に、かわいそうな猫たちのたくさんいる施設に行く予定になった。金曜の夜になって、それなら、と父が言いだした。

「ちょうど、子猫をもらってくれないかって、同僚が言っていてね」

 母から事情を訊いたのだろう、ここぞとばかりに父が、どうせもらうならそっちのほうがいいだろ、と言い、母もそこで同意した。

「かわいそうな猫ちゃんはかわいそうだけど、わざわざそんなところからもらってこなくても」

 じつの母から、そんな差別的な発言が飛びだしたことに衝撃を受ける間もなく、こちらの返答も聞かぬままに父はかってに同僚と連絡をとった。

「あげてもいいそうだ。よかったな」

 父は、一人娘に恩を着せると、とてもよい顔をする。

 土曜日に、母に連れられ、子猫を持て余しているというひとのもとを訪ねた。父は仕事で抜けられず、子猫の話を父に持ちかけた同僚もまた同様に仕事だった。

 ではいったい誰を訪ねたのかというと、同僚のひとの妹さんだった。

 インターホンを鳴らすと、そのひとは寝間着姿で出迎えた。

「あー、猫ほしいひと?」

 いまのいままで寝てました、みたいな素振りを隠そうともせず、欠伸をしながら、どうぞ、と部屋へと招き入れる。

 母と顔を見合わせ、だいじょうだろか、と不安に駆られる。

 思ったよりも片付いた部屋で、子猫はゲージに入れられていた。紅茶とクッキーをだしてくれたあたり、そこまで常識知らずというわけではなさそうだ、と母のほっとした心境が手に取るように伝わった。

 軽く自己紹介をしあったあとで、ルルさんは本をぽんぽんテーブルのうえに重ねた。

「いちおう、責任以って引き渡ししたいので、最低限の知識の共有をしておきたいのですが、よろしいか」

「え、あ、はい」

 母と共に亜然とする。ルルさんは寝間着姿のまま、あぐらを掻いている。友達に勉強を教えるような自然さで、そのまま子猫の飼い方講座がはじまった。

 思ったよりも、と認識を改める。

 頭がよいぞこのひと。

 母は母ですっかり感心した様子で、ふんふん、と聞き入っている。これを逃したら今後、子猫の飼い方は知れないぞ、の呪いにでもかかったみたいに、師匠を仰ぐ弟子じみて、食べさせてはいけない食べ物はありますかだの、揃えておいたほうがよいグッズはありますかだの、よい質問を投げかけては、まさに、という顔をするルルさんの反応を見ては、一喜一憂する。

 そのまま入門してしまえ。

 やさぐれたわけではなかったものの、なんとなしに話についていけなくなり、というよりも、熱量を増していくばかりの二人のあいだに入っていくのはどちらかと言えば無粋かなとの思いもあり、無粋ってなんじゃ、と疑問しつつ、ゲージの子猫と遊んでおった。

「お嬢ちゃんは猫が好きかい」紅茶のお代わりを淹れるためだろうか、こちらをまたぐようにしてルルさんがキッチンに立った。

「へい。好きでござる」

「ふぇっ、ふぇっ。ござるか。よいよい」

 なんだか佇まいから、しゃべり方から、ルルさんはじつに浮世離れしておる。浮世がどこかは知らぬけど。

 ひとしきり子猫講座が終わったころには、床に伸びる影はどれも背ぇ高のっぽになっていた。

「きょうそのまま持っていってもらってもいいんすけど、どうします」

 ルルさんはこちらではなく、母に言ったようだった。

「準備がまだ充分でないので、もしよろしかったら、いましばらく預かっていてもらえませんか」

「ゲージとか、あげられればいいんですけど、あたしも借りてる立場で。お役に立てずすんません」

「いえいえ、そんなこちらこそありがとうございます」

 おとなってなんでこんな茶番じみたやり取りをするのだろう。

 思いながら、子猫を抱きしめ、頬づりする。もふもふー。

 母はすっかりルルさんの虜になっていた。

 子猫にとって快適な空間を演出する装備をそろえてからでないとルルさんから子猫なんていただけません、とでも言いだしそうな口ぶりで、こんどぜひうちにも遊びにきてください、となぜかお誘いまでしている始末だ。

「このコの名前ってなんですか」

 母たちの会話のなかでなかなか出てこなかったので、いよいよとなって、子猫をゲージに戻しながら言った。

「ないよ」ルルさんは言った。「好きにつけて。ルルでもいいよ」

 母は笑ったが、冗談には聞こえなかったので、検討しておきます、と応じた。飼い猫にじぶんの名前をつけるような人間の心理を想像するも、うねうねと雲のように掴みどころがなく、得体の知れなさに、薄気味わるさすら覚えた。

 家に着いてから母が、しまった、と声を荒らげた。

「忘れてきちゃったかもー」

 どうやら財布をルルさんの家に置いてきてしまったようだ。お互いに連絡先は交換済みだ。母はテキストメッセージで事情を伝え、なぜかこちらがあす、とりにいく予定を立てたという。

「なんでわたしが」

「お母さんはおばぁちゃんのお見舞いにいかなきゃでしょ」

 祖母は認知症にかかって、施設に入っている。週に一度は顔をだし、汚れ物の衣服を引き取りにいかねばならない。

「わたしそっち行くから、お母さん、あっち行ってよ」

「車ないと行けないでしょうに」

「自転車でいくからだいじょうぶだって」

「ばかおっしゃい。どれだけ洗濯物あると思ってるの」

 うぐ。

 たしかに祖母の洗濯物は多かった。洗濯した分の衣服も持っていかねばならない手前、自動車を運転できない身としては引きさがるよりない言い分だった。

「タクシーで」食い下がるも、

「ルルさんには説明しておいたから。あんたも連絡先は知ってるでしょ。正午前には行ってきてね。ルルさんにだって予定あるんだから。遅れるときはちゃんと連絡すること」

 なにゆえ母の失態の尻拭いをさせられる立場のこちらにそのような物言いができるのだろう。

 恥を知れ、恥を。

 心の声が顔にでていたのか、母は、だいたい、と顔から表情を消した。

「子猫飼いたいって駄々こねたの誰。いいからあした」

「はい」

「お願いね」

 イエッサー。

 敬礼をするとなぜか、やめなさい、と母は嫌そうな顔をした。バンザイでもしたらきっと卒倒したに違いない。

 翌日、母の言いつけどおりにルルさんの家へ向かった。電車とバスを乗り継いでいった。思えば、距離でいえば祖母のいる施設よりも遠いのだ。

 自動車がないと行けない場所があるなんて。

 田舎の弊害だと呼べる。

 インターホンを押すとルルさんが顔をだす。

「お、来たな」

「財布をとりにきました」

「まあ入りなよ」

「いいんですか」

「子猫とじゃれてけば、せっかくだし」

「おー」

 その発想はなかった。子猫と遊べるなら遠路はるばる足を運んだ甲斐がある。部屋にあがると、森のなかにいるみたいな、いい匂いがした。きのう来たときには気づかなかったけれど、アロマというやつかもしれない。ルルさんの服装も寝間着ではなかった。

「きょうは寝起きじゃないんですね」

「へ? ああ、きのうはね。だって姉貴のやつ、前日の夜に言ってくるもんだから、完全に予定狂ったよね」

「ごめんなさい」

「きみのせいではないよ」

「あの、ルルさんは大学生なんですよね」

「だよ。見えない? あ、好きなとこ座って」

 ルルさんはキッチンに立ち、何かカチャカチャやりはじめる。お茶の用意はすでにしてくれていたようで、間もなく、クッキーと紅茶のセットを運んでくる。

「どうぞ。お口にあうといいけど」

「ひょっとしてですけど、手作りですか」クッキーは星とハートの二種類あった。色違いで、ハートのほうは黒く、きっとココアかチョコ味だ。

「うん。作ってみた。どう? 食べてみて」

 さっそく齧る。お世辞でなく美味かった。ほどよい香ばしさに唾液が吸いとられる。紅茶を口に含む。ふだんなら砂糖をうんと入れないと飲めないのに、クッキーの甘さと相まって、ストレートでもするする飲めた。

「ちょっと大人味だったかな」

「美味しいです。冗談でないくらい」

「そりゃよかった」

 ルルさんはテーブルに両肘をつけ、花みたいに広げた手のうえにあごを載せている。そんなにまじまじ見られると、すこし照れる。

「あの、食べづらいんですけど」

「なかなか思ったことをまっすぐと言うコだ」

「素直なのが取り柄なので」

「思い込みも激しいみたいだ」

「なー」

「冗談だよ。からかっただけ」

「だといいですけど」

 紅茶を三杯お代わりするあいだに、学校のことや将来のこと、好きな音楽や漫画について話した。ルルさんが聞きたがったからで、だいたい最初に質問したきり、ルルさんはずっと相槌打ちマシーンになった。ただのマシーンではない。話し手の気分をじつに気持ちよくする機能つきだ。

 気づけば夕陽が傾きはじめている。

「もう暗くなるね。もう帰ったほうがいい。駅まで送るよ」

「だいじょうぶですよ」

「おとなの都合も分かっておくれ」

「んー。じゃあ、お願いします」

「イイコだ」

「ちぇ。おとなにだけはなりたかないもんだ」

 子ども扱いされるのは嫌だったけれど、ルルさんに構われるのは嫌だと思わなかった。部屋をでるときにルルさんに言われ、子猫とじゃれたけれど、言われなければきっと忘れていた。

 駅に着くまでのあいだルルさんは、ここの団子が美味いだの、ここのカレーが格別だの、立ち並ぶお店のおすすめを一つずつ言い添えては、こんどご馳走したげるね、とたいへんすてきな提案をしてくれるのだった。

「ルルさんはトモダチがいないの?」

「なんてことをまあ、このコは」

「だって、だって」

「まあ、いないからといって不便ではないから、いないと思われても不服ではないが」

「え、そうなの」意外だった。

「ふだんは一人で入るんだよ。さっきの店もぜんぶ、一人で食べた。でも、まあ、なんだ。ときどき相手がいてもいいかもな、と思わないでもない」

「しょうがないなぁ。付き合ってあげるか」

「無理しなくてもいいんだよ」

「してるように見えた?」

「きみは素直なのかひねくれてるのか判断に困る」

「魔性の女みたいでしょ」

「思い込みが激しいのは揺るぎないな」

 あっという間に駅前に着いてしまい、なんだか急に父と母が疎ましく思えた。なぜ家に帰らねばならぬのか。八つ当たりしたいくらいだ。

 改札口を入ったらすぐにホームがある。

「お、ちょうど電車来たね」

 休日だからか駅前は混雑している。通行人の邪魔にならないようにルルさんのそばに寄る。こうして間近に見上げてみて、やっぱりルルさんは年上なのだな、と感じた。

「どうしたの。電車行っちゃうよ」

「あの、つぎはいつ来ていいですか」

「来たければいつでも。ただ、来週にはもう子猫はきみのお家にいるんじゃないかな」

「それでも」と上ずった声に、じぶんでも驚きながら、「また来ていいですか」

「構わんとも」ルルさんは言って、こちらの頬をゆびでつまんだ。むぎゅむぎゅともてあそぶ。「子猫がいなくなって淋しくなっているころだろうからね。そうそう、どこかに新しいペットがいるとよいのだけど」

 ゆびに噛みつこうとするも、一寸先にルルさんは手を引っ込めた。

「危ない、危ない。ペットならもっと可愛げがないと」

「ペットちゃうし」

「うっそだぁ」ルルさんはあっけらかんと言った。「こんなに可愛いのに?」

 じぶんの顔がボンと音を立てて弾けたかと思った。

「あ、ほら。電車」

 ルルさんに背を押され、半ば追いだされるように改札口を通る。電車のまえまで小走りに行き、乗りこむ前に振りかえる。

 ルルさんはポケットに手を突っこんでいる。目があうと、ポケットのふちに親指を引っかけたままちいさく手を振った。

 なんだか振りかえすのは負けた気がする。そのまま電車に乗りこむ。閉じた扉のガラス越しにルルさんを見ると、彼女は身体を左右に揺すって、身体全体でバイバイをしているようだった。ただ寒くてそうしているだけかもしれなかったけれど、思わず手をワイパーのようにしていた。

 風景が動きだす。ガラスは息で白く濁り、左右に触れる手の跡が残った。

 家に着いてから母から、遅かったわね、と言われた。

 子猫の世話してたと応じると、財布は、と問われ、しまったと焦ったものの、下ろしたショルダーバッグはすこし重く、漁ると母の財布がころんと出てきた。

「よかったー、ありがと」

 母はさっそく中身を改めている。「そうだ見て、子猫のゲージ。見てきたついでにいいのあったから買ってきたの。パパのお金で。来週にはうちで飼えるよ」

「あ、そうなんだ」

「あら、あんまりうれしくなさそう」

「そんなことないよ。うれしい。ありがとう」

 母は何かを思案する間をあけたのち、ちゃんとお世話するのよ、とソファに深く腰を沈めた。せんべえを齧る。「ぜったい、ぜったいお世話するって言ったの憶えてるでしょ」

 刺された釘の深さに、きゅー、となる。

 愛用のメディア端末を手にとる。仲の良いグループたちの投稿画像を開く。子猫がいっぱいだ。画像に集まる、たくさんのハートマークを見てもこれまで湧いた、ずるい!の感情が行方不明で、代わりに画面を切り替え、なんと送ったものだろうか、とルルさんへのメッセージ文を考えては、文字にするさきから消していく。

 ため息を吐く。

 ぜったい、ぜったい、なんて言わなきゃよかった。

「子猫。もらわなきゃだめかなぁ」

 ベッドに寝転ぶ。

 子猫になってルルさんにいじわるをされるじぶんを妄想する。

 この国にはきっと、と目をつぶる。

 ペットがペットを飼っていいという法律はないはずだ。




【三人の魔女見習い】


 魔女学校の卒業試験がはじまった。

「いいかおまえたち」魔女指導者のまえには、まだあどけなさの残る魔女見習いたちがずらりと立ち並ぶ。「これからおまえたちには人間界へ行ってもらい、各々、独自の手法で、人間たちから魔力を掻き集めてきてもらう。卒業試験といえども、れっきとした魔女活の一環だ。おまえたちの集めた魔力が、魔道石の活力を高める。年々、人間どもはテクノロジィなる新たな呪具に夢中になっていく。いまこそ、おまえたちの凄さを見せつけ、人間どもを興奮の渦に巻き込み、魔力を搾り取ってくるがよい」

 魔界の門が開かれる。

「さあ、いけ」

 魔女見習いたちは各々、使い魔を引き連れ、魔界の門をくぐる。ある者は箒にまたがり、またある者は動物へと化け、またある者は、魔界の門の主柱に触れると、自らの足場に魔法陣を開き、直接人間界へと移動した。

 マーとジィとヨウは魔女学校で縁を結んだ三人組だ。仲良しとはいえないが、三人とも癖がつよく、同じように癖のつよい二人以外とはなかなか打ち解けられないのだった。

「これって落第とかあるんだよね」マーが箒から下りて言った。

「あるね」ジィが鼻をくんくんさせ、うげ、と舌をだす。下界の空気がお気に召さないようだ。

「ジィとマーはきたことないんだ」意外そうにヨウが言って、ついでのように杖を振ると、三人の格好が下界ふうに様変わりする。

「あったかーい」ニットのセーターにマーはご満悦だ。いっぽう、ジィのほうは、服装よりも髪型が気になる様子だ。

 見る間に髪の毛が黒く染まっていく。メデューサの血を引く彼女ならではの変化だ。どうやら下界では、彼女の下僕たちがヘビの姿を保っていられないようだ。

「あらら」

「目立たなくていいんじゃない」ヨウが肩を持つが、ジィは機嫌を損ねたのか、口を曲げたままだんまりを決め込んでいる。

 マーがかってに歩きだす。頭に手を組みながら、たーん、たーん、と脚を棒のように振って歩く。目的地が定かではないのはマーの性格からすれば瞭然なのだが、ジィもヨウも彼女のあとにつづく。

「魔力を集めるって言ってもさ、人間どもってそもそも魔力がかなり低いわけでしょ」

「うん」ヨウがうなずくのは、彼女が下界出身の魔女だからだ。「でも、精神の高ぶりで魔力を瞬間的に捻出はできるんだよ」

「魔女もこっちじゃ、魔力が漏れちゃうからなぁ」

「人間はだって、もともと魔界から追いだされた魔女の末裔だもの」

「なんだってそんなやつらから魔力をもらわなきゃならんのだろうね」

「それはだって」

 ヨウが魔界の魔力不足問題について講釈を垂らそうとしたのを敏感に察知したのか、マーは、

「まあ、要は人間どもを脅かしたりなんだりして、魔力を奪えばいいわけだろ」

「期限は半年」

「結構あるよな」

「短いよ。だって人間一人からとれる魔力なんて高が知れてるから」

「まとめていただければいいんだけどなぁ」マーは街のほうへと歩いていく。ジィは最後尾だ。髪の毛をゆびで梳くようにしながらついてくる。声をかけようか迷った挙句に、放っておくことにしたようだ、マーは、「うちの親に訊いたんだけどさ」と続ける。「ママはこっちのサキュバスたちに頼んで、魔力を分けてもらったんだって。サキュバスってほら、魔法使えないから、家のなかになかなか入れないでしょ」

「こっちの建物って厳重だしね」

「そう。だから、餌になる活きのいい男を見つけて、その部屋に入れるところまでしてあげて」

「代わりに、吸いとった魔力を分けてもらったと」

「でもそれでもやっぱりひと月以上かかったって言ってたし、それに」

「うん。サキュバスへの協力は禁止。たぶんだけど、マーのお母さん世代がこぞってその方法を使ったんじゃないかな。その影響かは知らないけど、こっちで子供が生まれなくなって、人間界じゃちょっとした問題になってるって」

「きっとサキュバスに頼んでも、分けてもらえるほどの余裕はなさそうだしなぁ。世知辛い世の中だぜ」

「ジィは何かいい案ある?」ヨウの向けた水に、メデューサの末裔は、相手を変えりゃいい、と応じた。

「相手を変える?」ヨウが首をひねり、

「なんの相手だよ」とマーが道路の石を蹴る。

 気づくと辺りはすっかり、繁華街だ。

「人間から奪うのは効率的じゃないさ。どうせほかの魔女見習いが集めるんだろ。だったらそれを奪えばいいじゃないか。シッシ」

「ジィってば最悪」

「メデューサのくせにいちばん魔女っぽいんだよなコイツ」

「ならほかにどんないい案があるってんだい。だいたい、人間どもなんか腐るほどにいるんだ、千匹くらいまとめてかっさらっちまえばいい。魔界なら魔力が蒸散する心配もない。魔力培養器にでもしちまえばいいのさ」

「ジィってば悪魔」

「髪がヘビじゃなくなったくらいでショゲてる割に、発想が物騒なんだよなコイツ」

「嫌なら任せる。好きな案を練るがいいさ」

「ちゃっかり面倒事を押しつけるのがうまいよな」

 マーのぼやきに、ホントホント、とヨウはうなずく。

「まずは教科書どおりにやってみよっか」

 三人は手分けして、魔力を集めることにした。

 翌日、街中の噴水のまえで待ち合わせた一行は、互いに一晩かけて集めた魔力を見せ合った。

「これぽっちかよー」

 マーの叫び声に、もっともだ、とヨウも、ジィですら、同調気味だ。

 魔力は、魔道砂の入った小瓶に溜めることができる。魔力に応じて、魔道砂は、一つの塊として結晶化していくのだが、いったいどこにその結晶があるのかの分からないほどに、変化がさっぱり見当たらない。

「三か月じゃ足りないでしょ。こんなんじゃダメだー」

 マーのぼやきに、もっともだ、とヨウも、ジィですら、諦めモードだ。

「だいたいさー」マーが教科書を開き、そこに描かれた挿絵をゆびでコツコツ叩く。「こんなやり方して魔力集められたのって、百年とかもっと前の話でしょ。イマドキ手品だってもっとマシなモン見してくれるって」

「というか、手品師と勘違いされちゃったよきのう」

 ヨウは昨晩のことを思いだす。道行く人々へ声をかけ、魔法を駆使して脅かそうとするのだが、いずれも拍手やおひねりをもらうばかりで、魔力は一向に溜まらなかった。「酔っ払いが多かったのもよくなかったかもね」

 そばにいた人間をカエルに変えたのに、すごーい、と四角い呪具を向けられたのには焦った。人間たちの呪具にはその場の光景を焼きつける能力がある。魔界の掟で、それに映されるのはご法度だった。映像そのものを魔法でどうにかしても、魔界に戻ったときに罰を課せられる。

「魔力ってけっきょくなんなの? 興奮させるだけじゃダメなわけ?」

「欲望に直結してなきゃなんじゃなかった」

「だよ」ジィがようやく発言した。「人間どもの負の欲望がいちばんの魔力源さね。できるだけ汚く、純粋な高揚感」

「怒りがダメってのがよく分かんないんだよなぁ」

「わかるー」ヨウは激しく首を振る。「共感するー、そうだよねー、意味わかんない」

「言ったらそれってさ」マーが言った。「ワクワクして、でもどこか恐ろしくて、ずっとつづくのは嫌だけど、でもいまこの瞬間はすごく欲しいってそういう感情でしょ。なくない?」

「ないっていうか、無理っていうか」

「無茶」

「それ!」

 マーといっしょになってヨウはゆびを突きつける。メデューサだからなのかはよく分からないが、ジィはときおりすごく的を射た発言をする。

「無茶だよ無茶」マーは教科書を投げ捨てた。噴水にプカプカ浮いてもとやかく言う人間はいない。規律にうるさい魔界がバカみたいだ。「むかしは魔女っぽいことしたらすぐに、そんな感情になってくれたかもしれないけど、見てよあれ」

「いまはみんなタプタプしてるもんね」

 道ゆく人々はみな一様に、薄型の四角い呪具に見入っている。魔界のどんな魔女だってあの呪具にまさる魔法なんて使えやしないのではないか、とヨウは思う。

「やっぱり奪うのがいいんじゃないのかい」ジィが、シッシ、と笑う。「ほかの連中が集めたチリみたいな魔力でも、集めりゃちっとはマシになるさ」

「やむなしかもな」

 マーまでそんなことを言いだすから、ヨウはむすっとする。

「ちょっとー、忘れてないでしょうね。卒業試験だけじゃないんだよ、わたしたちの集めた魔力が、来季まで魔界の魔力供給源になるんだからね」

「要するにこれって、卒業試験とは名ばかりの、雑用だよな」

「言えてる」

 マーとジィはすっかりやる気を失くしている。元からあったとは言いがたいが、いまはもうスッカラカンと言っていい。

「じゃあ、もう、諦める?」

 三人いっしょならそれもいいかと思えた。落第したらまたイチから魔女見習いとして修行を積まなければいけないが、新人に格の違いを見せつけながら講義を受けるのもそれはそれでわるくない。

「じゃあそうすっか」

「シッシ。せっかく下界にきたんだ、残りの期間を無駄にする手はないよ。遊び倒そうじゃないか」

「いいね、いいね」

「ヨウは下界に詳しいだろ。まずはあれだ」

「あれって?」

「シッシ。決まってるだろ」

「あー、あれ」

 三人は手を重ねあう。顔を見合わせ、せいので言った。

「人間どもの使ってる呪具をこの手に!」

 かくして三人は、卒業試験の期日ギリギリまで、人間界を満喫した。電波を駆使した人間界の呪具にも精通し、魔女でありながら、億の人間たちと通じあった。

「見てみろよコレ、シェア数はんぱな!」

「わたしなんかトレンド一位だもんね」

「シッシ。魔法との相性最高さね。不正に改ざん、覗き見し放題じゃないか。見なよコレ、人間界のお偉いさんなんざ、みんな陰でこんなことや、こんなことまで」

「うげぇ」

「強請っちゃダメだよ」

「しないさ。ただまぁ、ちょっとした手違いで情報が漏れることはあるかもね」

「ジィってば最悪」

「メデューサのくせにいちばん魔女っぽいんだよなコイツ」

「シッシ」

 卒業試験の最終日が近付いてきたころ、誰が言いだすともなく、どうせなら最後はパーッと遊ぼう、という話になった。

「どうする、どうする」マーは流行りの服に身を包み、カラフルなお菓子をついばんでいる。

「せっかくだし、人間たちを盛大に巻き込みたいよね」

「シッシ。ようやくわかってきたじゃないかヨウも」

「あなたたちの影響だからね。わたしがわるいんじゃないんだから」

「へいへい」とマー。

「やれやれ」とジィ。

 魔界の門の開かれる場所にはほかの魔女見習いたちも集う。どうせならそんな彼女たちの度肝を抜きたい思いが三人にはあり、あーだこーだと言いあっているうちに、卒業試験の最終日が人間界で言うところのハロウィンであることに気づいた。

「お祭りだ!」

 マーの叫びに、ヨウはジィと顔を見合わせ、口が耳元まで裂けるほど、にっこりとした。

「人間たちを集めよう」「拡散は任しとけ」「陽動はあたしに任せな」「じゃあわたしはほかの魔族に知らせておくね。きっとみんな素を出せるってはりきると思うよ」「アイツら、魔力が散らないようにってふだんは抑えてるもんな」「シッシ。せっかくだし、海外からも呼んじゃうよ」

 人間界の呪具を駆使し、ときに魔法も使いつつ、三人は思うままに気の向くまま、祭りの規模を大きくしていく。

「見て見て。まだ本番前なのにもう化けてるひとたちいる」ヨウは道ゆく人々の画像を撮っては、呪具を用いて拡散する。

「コスプレってやつだろ」マーが言うと、ジィが服をつまむようにする。「なら、あたしらのこれもコスプレだね」

「なんの?」マーと声がそろう。

「人間の」

「あぁ」

 夜になると、まだ本番まで三日もあるというのに、仮装をした人間たちが集まってきた。

「見ろよあれ」マーが腕をまっすぐに掲げる。「本物の吸血鬼じゃね」

「え、でもドラキュラって先生の旦那さんでしょ」

「眷属がこっちで繁殖でもしたのかもね」ジィがぼそりと言った。

「どうする、人間たちが襲われたら」

 マーにしては的確な懸念だった。ヨウは考えるが、いまさらどうにもできない。「でも何かあっても、手を出したのはわたしたちじゃないわけだし」

「シッシ。きっかけはつくっちゃったけどね」

「うー。ジィがいじわるを言う」

「事実を言ったまでさ」

「考えてもしゃーないっしょ。楽しまなきゃ損だって、遊ぼう!」

 マーの底抜けに明るい声に救われるようだ。もちろん、錯覚であって、まったく何も解決していないのだが、人間たちに何かあってもヨウたち魔女は痛くもかゆくもない。直接手を出したわけではないのなら、処罰もされないだろうと高をくくる。

 たとえばそれは、幼女が自分のバースデーケーキを床に落としてしまったとしても、誕生日会を開こうとした者にその責任はないのと同じだ。水とお湯を用意したからといって、二つを混ぜなければ、ぬるま湯になることはない。

 崖とその縁に立つ誰かがいたとして、その背を押さないかぎり、悲劇は起きない。もし起きたとしたらそれは背中を押したひとの責任であるし、かってに崖下に落ちたのなら、それは落ちた者の責任だ。崖から見える景色が絶景ですよ、と宣伝した者の責任になりはしない。

「よし」

 完璧な論理防壁だ。ヨウは胸を撫でおろす。

 日増しにハロウィン会場は人でごった返すようになり、夜にはイザコザが起きるまでに、多様な人々が集まった。なかにはこっそり魔族に食べられてしまった人間がいるのではないかと思えるほどで、しかしこれだけ人間がいるのなら、一匹や二匹いなくなったところでどうってことないだろ、と投げやりに考えるのに抵抗がないほど、人々はいずこよりやってきては、ただ一晩騒ぎつづける。

 ヨウたち三人は自分で陽動したはずの人間たちを眺めては、なんのために来たの?と問うて回りたい衝動に駆られた。

「人間ってこんなだったっけ?」

「みんな楽しそうだからいいっしょ」

「見てあれ。車倒してる」

「シッシ。神輿のつもりなのさ」

 最後の晩になっても人々の留まるところのなさは、馬車馬のごとく、一心不乱に街を練り歩いては、奇声をあげたり、妙なポーズを呪具で以って撮りあったりしている。

 酔っ払いも多く、怒声なのか笑声なのかの区別も曖昧だ。

「もはや暴徒と区別がつかんな」

 マーがしみじみと言うものだから、魔女学校史以来の問題児と名高い彼女にまで言わしめる人間たちの乱痴気騒ぎには、いっぱしの魔女見習いとして見習うべきものがあるのかも分からない。

「なんか、楽しいようですこし怖いね」

「帰ったら落第決定だよ、どーすっかなぁ。親になんて言おう」

「シッシ。心配いらないんじゃないかい」

 ジィが何やら地面に小瓶を置いている。魔道砂の入った器で、魔力を集めるための呪具だ。そのうえに人間界の呪具、薄い板のような四角を重ねると、すこし離れて、見てな、と言った。

 ヨウはマーと共に見守る。

 すると、呪文を唱えはじめたジィの髪がにわかに白く濁りはじめる。うねうねと動きだしたかと思えば、下僕のヘビたちが現れた。

「シッシ。あんたらのも地面に置きな」

 魔道砂のことだと思い、それの入った小瓶ごと、地面に添える。マーもあとにつづく。三つの小瓶が、四角い板を下から支えているようなカタチだ。

 かつて、古の魔女たちがドラゴンを封じたときに使った呪具を彷彿とする。たしか下界では、ストーンヘンジと呼ばれている。

 ジィの呪文に反応して、四角い板が発光する。

 あ、と思う間に、細かな糸を四方八方へと飛ばし、街全体を繋げていく。

 たしか、と思いだす。

 ジィのそれは、人間界の電波に魔法を加えた特注品だ。きっとこの場に集まった人間たちの呪具に同期しているに違いなかった。

 案の定、心臓のように脈動する四角い呪具は、しだいに魔道砂の入った小瓶へと、ハチミツのように濃厚な魔力をしたたらせる。

「こんなにハッキリ見たのはじめて」

 魔力は通常、目には映らない。よほどこの場に集まった魔力は純度が高いのだ。

「ジィ。あなた最初からこのつもりで?」

「シッシ。チリみたいな魔力でも、集めりゃちっとはマシになるさ。人間なんざどいつもこいつも、根はサルと変わらんさね。ちょいと火をつけてやりゃ、すぐに原始に戻る。いくらでも搾り取っていきゃいいさ」

「ジィってば最悪」

「メデューサのくせに、いや、だからか、根が陰湿なんだよな」

「べつに魔力を分けなくたっていいんだよ」

「よ、魔界一!」とマー。

「さすがメデューサさま、考えることが高貴でいらっしゃる」

 一生ついていきますワンワン。

 全力で尻尾を振る二人の頭上を、ほかの魔女見習いたちが颯爽と飛び去っていく。その姿に人間たちが気づくことはない。徐々に薄れつつある野生の狂気から目を逸らそうと、さらにハメを外していく。

「こんなにとっちゃってだいじょうぶかな」

 ヨウは不安になるが、ジィは懐から予備の魔道砂を取りだしては、地面に並べ、シッシ、と低い声をだす。

「魔力は野生の本能さ。ここにゃ野生が溢れてる。なぁに、死にやしないよ、却って毒気が抜けて感謝されてもいいくらいさ。一滴残さず搾りとっていこう」

「たとえ落第しても」

 思わずにはいられない。

 誰がなんと言おうと、と知れずマーの声と重なった。「あんただけは立派な魔女だよ」




【甘噛む犬はなにを想う】


 飼い犬に手を噛まれるのは屈辱だろうか?

 主人として、おイタをした犬にはどんな躾を施すべきだろう。しかし、飼い犬はなぜ主人の手を噛んだのか、ひょっとすれば行き過ぎた愛情表現であるかもしれないと思うと、いちがいに罰を与えるのも考えものだ。

 しかるに。

 噛まれたほうの主人にも非があるのやもしれぬと思えばこそ、当座の対処として様子を見るのがよさそうだと判断をくだすのは、さほど外れた見当とも思えぬが、これもまた飼い犬への行き過ぎた慈愛として、その甘さこそが、反逆の悲劇を生んだのだと指弾されれば言い逃れの道理を見繕うのは難易である。

「先生、頼まれていた資料なのですが」

 かけられた声にはっと我にかえる。

 先刻部屋から出ていった戌田(いぬた)が戻ってきていた。床には、机の脚の影がくっきりと伸びており、夕陽の鮮やかさを対比している。長い思索にふけっていたようだ。

「なかったろ。あれはたしか去年、まとめて捨ててしまったからね」

「はい。ですが、ネットで調べてみましたら、中古で取り寄せられるようでしたので、在庫も少ないようでしたし、注文しておきました。キャンセルしましょうか?」

「いや、あると助かるよ。ありがとう」

 戌田はそこで、ほっと顔をほころばす。

 演技なのだろうか。

 邪推してしまう己が身の醜さを嚥下する。

「そういえばナツコさんは」

「友人と会食と言っていたようだが」

「ああ、バレエの?」

「習い事仲間ではあるだろうが、話からすると、なに、ミュージカルにハマっているようでね。女性ばかりの劇団で、男装する者もいるとかで」

 戌田は、ああ、とその劇団の名を口にした。どうやら一般には有名らしいが、舞台やら映画やらと、虚構には馴染みがないため、ピンとこない。

「女優ばかりだろ。だからなのか、女性の理想の男性像が反映されているのか、いちど観ただけであの熱のあげようだ」

「へぇ、おもしろそうですね」

「きみなら入れるかもな」

「入れますか?」

「その劇団にだよ。女性の理想の男性像。まさにきみのような好青年らしいじゃないか」

「そうなんですか?」

 きょとんとして反問できるところに、彼の魅力の大部分が凝縮されているように感じた。

「すくなくとも私では入れないよ」

「先生はそのままで充分魅力的です」

 反応に困っていると、

 寒くなってきましたね。

 彼は部屋の隅まで歩いた。壁際にかけてあった上着をとると、こちらの肩にかけるようにする。「お身体に障りませんか。さいきん徹夜でお仕事をされているようですけど」

「なに。検証してほしいと論文を寄越されてね」

「それで資料を」

「ああ。ただ、きょうで終わる。心配はいらないよ。ありがとう」

「ご夕飯はどうされるんですか」

「何か頼もうと思っていてね。ナツコはどうせ何もつくってはいかなかっただろうから」

「それは先生が気を使うなとおっしゃるから」

 彼のまえで言ったことはなかったが、気を使われるのが好きではないこちらの性分は重々彼も承知している。類推したまでのことだと判断して不自然ではなく、おそらく彼もこちらがそう考えることまで想像して発言したはずだ。

「どうせ帰ってもすることないだろ」そうとは限らなかったが、敢えて誘った。「いっしょにどうだ」

「いいんですか」

「奢るとは言ってないからな」

「でも先生はご馳走してくれるでしょ? 何にしましょうか。中華か、それとも釜飯か。お寿司なんてどうです?」

「ピザではダメか」

「あ、いいですね。ぼく、久々に食べます」

 彼は自身のメディア端末を操作し、どうせなら専門店のがよくないですか、とチェーン店ではないデリバリー可能な本格ピザ屋を検索しはじめる。

 気のいい青年だ。

 現代では珍しい部類だろう。これだけ気立てがよく、顔も整っているとなると、世の女性陣に留まらず、男性陣にもその色香が通じそうだ。なぜそのように考えるのか、と疑問するほどには性別に囚われてはいない。誰がどんな相手を好こうが、それは個人の自由だ。彼には万人に愛される素養がある。ただの客観的な分析にすぎない。

 かように自身へ言い聞かせるのはなぜなのか、とさらなる疑問が押し寄せるが、こんなさざ波じみた引っ掛かりに構っていたら、指先一つ動かせなくなる。

「フレーム問題は解決したのでしょうか」

 食事中に彼が言いだしたのは偶然だったのだろうが、奇しくも、検証中の論文の主題と一致していた。探すよう頼んだ資料から推し量ったのだろうが、毎度のことながら彼の洞察力には目を瞠る。

「いや、解決はしてないようだ。ただ、そもそも人工知能が人間のタスクと同等のアルゴリズムを辿る必要はない。このまま演算能力が指数関数的に伸びていくのならば、フレームを一つに絞る必然性がなくなる」

「しかしNP困難は突破できないのでは?」

「組み合わせ最適化問題については、深層学習の応用で、疑似的な閾値をAI自ら規定できる仕組みがとられるようになるはずだ。深層学習による統計的な正しをさを一つのフレームと見做し、異なるフレームを複数重ねあわせることで、重複しない部位の情報を遮断する手法がとられるようになっていくだろう」

「暗がりにライトを照らすようなものですね」

「いかにも。上手い比喩だな、つぎの研究発表会で使ってもいいかね」

「光栄です」

「根本的なところを掘り返せば、フレーム問題は、すでに光の当たっている世界を眺めている人間の錯誤が生んだ誤謬だろう。だいいち、機械は世界を見てすらいない。漠然と入力される外部データという名の砂を掻き集め、必要な部位に光を当て、そこから反射する結晶を見つけだす。ライトの当て方さえ学習させれば、あとは人間には見つけることのできない多彩な結晶を自ずと探しあてていくだろう」

「汎用性AIが理論上つくれると?」

「汎用性の意味は変わってくるだろうがな。機械が人間にちかづく道理はないのだ。料理一つとっても、人間とまったく同じような手順で料理をする汎用性AIをつくるのはむつかしいだろう。だが、人間より上手に、かつ美味く料理を完成させるAIなら、現状の技術でも充分可能だ。あとは、どれだけそこに、新たな料理の創造の余地を組みこめるかが課題だが、これはもう、深層学習を進めていけば、自ずと、開かれる道と見て構わない気がするがね」

「AIが人間を越えるのに、人間を真似る必要がない、ということですか」

「だと私は考えているが、まあ、突き詰めて考えてもみれば、人間もまた人間を真似てきたわけではないのだろうな。自然を真似、知識に学び、文化を活かしながら、人類は進歩してきたのだ。その集大成として育まれる知能が、その精神を引き継がない道理はないのではないか」

「だとすれば、人工知能はすでに人間の基盤を成していると考えてもよさそうですね」

「精神なるものが真実に存在するのであれば、な」

「でた、ちゃぶだい返し。先生はぼくとの議論でちゃんとしゃべられることがありませんね」

「よもや議論だったとは思わなかったものでな」

「ぼくでなかったら怒って帰っちゃってますよ」

「だがきみは怒らないし、帰らない」

「きょう、ナツコさんは?」

「泊まりらしい。さっき連絡があった」

「じゃあ、ゆっくりできますね」

 そうだお風呂沸かしてきますね。

 食事の途中だというのに、戌田は席を立ち、リビングから出ていった。

 彼がナツコと密な関係を持っているのは知っている。証拠はないが、それは掴めないからではなく、集めようとすればいまこの瞬間にもできてしまえる手軽さゆえの怠慢だとして、異論を唱えるのはむつかしい。

 家には至る箇所にカメラを設置してある。妻のナツコは知らない。戌田ほどの明晰な頭脳の持ち主ならば、喝破している可能性はある。だが彼はこの家以外で妻と会う真似はしていない様子だ。見せつけたいがためにそうするかのように、この家のなかで、主の留守中に、我が妻と逢瀬を重ねている。

 サーバを漁れば、いくらでも証拠映像は出てくるだろう。

 ゆえに、見ない。

 否、見たくはないのだ。

 妻がほかの男にあえぐ姿を、ではない。

「先生、お湯の用意ができましたけど」

 タオルを抱え、戌田が顔を見せる。「どうします? お背中流しましょうか?」

「介護は不要だ」

「ベッドのシーツも変えておきますね」

「論文の検証作業がまだ終わってはいないのだがね」

「待ちますよ?」

「さきに寝ていなさい」

「お起こしてくださいます?」

「その気になったらな」

「では、その気にさせましょう」

 まだ食事を終えていないというのに、戌田は子犬のように這い寄ってきては、テーブルの下に潜り、こちらの膝を割るようにして顔を覗かせる。「お食事中に失礼します」

 両ひざに載せられた彼の手のぬくもりと、股のあいだに感じる乱れた吐息のなまめかしさに、このまま噛み殺されたい衝動の正体を夢想する。




  

【橋の下】


 バイトの帰り、いつも通る橋がある。流れのゆるやかな幅のひろい川で、駅が近いこともあり、人通りが多い。渡りきるのに自転車をこいでも一分はかかる長さがあり、必ず通行人とすれ違う。

 震災があってから新しくかけ直された橋でもあり、不気味さとは程遠い。街灯は等間隔に並び、足元も明るい。

 橋のうえから眺める夜景は、都会とはいえないこの地域でもそれなりにきらびやかで映えたものになる。 

 日中はよく河川敷で釣りを楽しむ人を見た。夜ともなれば、さすがに川のふちに近づく者はないようで、水面に映るビル明かりの揺らぎに、いっときの安らぎを覚える。

 いつの日からだったろうか、たしか肌寒くなってきたころ、箪笥の奥からダウンジャケットを引っ張りだしたころだったように記憶している。

 橋のうえから何気なく河川敷を見下ろすと、そこに人が立っているのが見えた。草木か何かの影かとも思ったが、ときおりしゃがみこんだりするので、どうやら人らしいと判断ついた。

 その日はとくに何も思わず、通り過ぎたが、その日からたびたびその影を見かけるようになった。バイトへ行くときはまだ陽が高く、橋のうえから眺めるひらけた景色のなかにそうした人物は見受けられなかった。

 夜釣りにしては竿を持っている節がない。

 いちど気になりはじめると、橋を渡るおりには知れずその人影を目で探すようになっていた。

 いつも同じ場所にいる。

 いったい何があるのだろう。

 日中、バイトへ行くついでに、河川敷に下りてみた。橋の脇から土手下へと下りる道がある。

 思ったよりも水は澄んでおり、浅瀬であれば水底の砂利が見えた。砂利の合間に漂うぶよぶよの汚れのようなものを漫然と眺めては、水草も冬には枯れるのか、と感心した。

 とくに何があるわけでもない。五分もいると飽きてしまった。予定よりもはやくバイト先へ向かった。

 橋へとあがる途中でちいさな祠を見つけた。真新しく、橋をかけ直したときにつけられたものだと想像した。

 帰り道、やはり暗がりのした、きらきらとまたたく川のほとりにその人影はあった。

 自転車をとめ、しばらく眺める。

 人影はしゃがんでいるようだ。じっとうずくまったまま動かない。

「何か見えますか」

 振り返ると、スーツ姿の女性が立っていた。駅前スーパーの袋を手に携えているところを見るに、帰宅途中のOLだ。「すみません、なんかじっと見てらっしゃったので、何が見えるんだろって気になってしまって」

「ああ、いえ。何をしているのかなって、同じく気になってしまって」

 橋の下、河川敷をゆびさし、「あそこ、川のふちに。見えますか? 同じ人だと思うんですけど、いつもこの時間帯、ああやっているので、気になって」

 何を見てるんでしょうね。

 同意を求め女性を見遣るも、彼女は、どこですか、と視線をさまよわせつづける。

「いえ、あそこですよ、見えませんか」

「んー、人ですか?」

 彼女は眉根を寄せ、しきりに首をひねる。「すみません、ちょっと分からないです」

「あそこですよ、見えませんか」

 見つけられないなんてあり得ないと思った。

「あー、はいはい、なんかいますね」

 彼女は投げやりに言い、すみませんお邪魔しちゃって、と足早に去っていく。声音の変わり具合から、警戒されたのだと判ったが、おかしなことを言ったつもりはなく、ただ彼女の目がわるいだけではないか、と憤りさえ湧いた。

 なぜアレが視えないのだろう。

 もういちど橋のした、暗がりの奥へと目を落とす。

 先刻までしゃがみこんでいたそれは、立っていた。身体ごとこちらを向いている。

 見られている。直感した。

 全身の毛穴が閉じ、なぜかは分からないが、危険だと感じた。

 それはゆっくりと歩きだす。最短距離で橋のしたまで移動するが、それは川のうえを音もなく、するすると渡った。川の真ん中はかなり深いはずだったが、川の真ん中、橋のすぐしたまでくると止まり、それは喉を大きく伸ばし、そらを仰ぐようにした。

 橋の陰になり、より闇が深いそこにあって、それの金魚のように開閉する口を見た気がした。

 欄干から手を離す。

 自転車に飛び乗る。

 反対車線へと横切るようにして、できるだけ遠くへとペダルを漕いだ。

 以来、橋の下を覗くことはなく、また渡ることもしていない。

 遠回りをするせいかバイトに遅刻することが増えたが、いまのところあの橋に近づく予定はない。

 余談になるが、川の近くには処刑場跡地がある。むかしその川では斬った首を洗っていたと言われているが、川にいたあれとの関連性は不明だ。




【ポチ元凶にサチあれ】


 バスに乗っていると、うしろの席に高校生二人が座った。ジャージ姿だ。部活の帰り道なのかもしれない。

 職業柄、いまどきの高校生がどんな会話をしているのかが気になり、イヤホンをしたままで聴いていた音楽の音量をさげる。

「でさー、ポチがさいきんうるさくて」

「へー。こっちではそうでもないけど」

「や、たぶんアレは俺だけに当たりキツいんだわ」

「ふーん。なんかした?」

「どうだったかなぁ。なんせポチだろ」

 聞きながら、微妙に引っ掛かりを覚える。ポチとは愛犬の名だろうか? にしては互いの家のあいだを行き来しているのは妙に思える。野良犬だろうか?

「あ、売店で売り切れ一個前の揚げパンがあったんだけど」

「横取りしたのか」

「んなことするかよ。譲ったあとで、横取りされたって売店のおばちゃんに冗談半分で話してたらその会話聞いてたのかな、三年の女子たちのあいだでポチが一年坊のパンをカツアゲしたって噂になって、なんでかそのうちポチが陰で生徒をいちびってるって話になって、まるで野良犬みたいだなってなって、いまはポチって呼ばれてる」

 先生かよ!

 思わず内心で叫んでしまったが、なるほど。

「おまえが元凶かよ、サトウ先生も災難だな」

 教師のあだ名のゆらいを知るなんてなかなかない。何事にも理由はあるのだなぁ、と感慨深くなる。

「そういえば、サナエさんとはどうなん」ポチの元凶となった男の子が言った。「さいきんあんま遊べてないんじゃね、いいのかよ俺なんかと遊んでて」

「べつに遊んでるわけじゃないだろ。勉強の帰りだし」

「ナックでダベってただけじゃん。や、マジでサナエさんの愛想はとっといたほうがいいって。嫌われてからじゃ遅いからな」

 恋人の話だろうか。自分より恋人を優先しろなんて、いい友達を持ったじゃないか。

 思っているとポチ元凶の相方は、

「だいじょうぶじゃないかな」と余裕の反応だ。

 ほうほう。たしかに乗りこんできたときにちらっと見たが、なかなかの色男だった。そぞかし女子生徒たちにきゃーきゃー言われていることだろう。職業柄かんたんに漫画となってコマワリされていく。

「それにボクはおまえと遊んでるほうが楽しいし」

 漫画の背景に薔薇の花束が加わった。絵柄も急にキラキラしだす。

「俺だってサナエさんにおまえを盗られんのは癪だけどよ」

 これは真正なのか。ホンマモンなのか。漫画が鼻血で真っ赤に染まる。

「でもサナエさん、あの可愛さだろ。さすがに勝てねぇわ」

「そんなこと言うなよ」

 そうだよ、そんなこと言うなよ。そのまま押し倒してやれ!

「まあ、可愛いのは否定せんけど」

 おまえもそこで距離をとるようなことを言うなや。ポチ元凶のそれは実質プロポーズやぞ、おまえも男ならいったれ、いったれ!

「それにさいきん気づいたんだけどさ」

「なんよ」

「サナエさん、男の子やったわ」

「えぇええ!」

 心の叫びが、ポチ元凶と重なった。

「子犬だったから見間違えてたけど、メスやった」

 犬なんかーい!

「そっか。まあ、可愛さに性別は関係ねぇよ。愛に国境はないし」

 いいこと言ってるけどもー! 犬やったんかーい。

 盛りあがってただけに、内心に飛び交うブーイングが鳴りやまない。

「そういやポチ元凶は? 恋人?」

 相方までポチ元凶言うとりますけど、え、え、心のなか読まれてないよね?

「俺はいないよ、知ってるだろ」

「そうだけど。つくらないのかなって」

「つくるとかそういうのじゃないだろ。ちゃんと好きになってそっからじゃね」

「つまり好きな人がいないってこと?」

「好きなやつはいる」

「ふうん。でも付き合いたいとは思わないんだ」

「俺のことはいいよ。おまえはどうなんだよ。好きなやつ、いないの。付き合わないの」

「ボクの好きなやつは、なんか、あんまり恋愛に興味ないみたいだから」

 てん、てん、てん。

 沈黙が重いぞ少年たち。

 なのにせつなあまい、この感情はなに?

「あ、ポチ元凶、つぎで降りるんだっけ。押していい?」

「あ、待って。いい。押さんでいい」

「でもこのままだと通りすぎちゃうよ」

「いいよ。きょうはなんか、帰りたくないっていうか。おまえん家、きょう親いない日だろ」

「えーと」

 相方頼むぞ、ちゃんと応えてやるんだ、おまえさんだってまんざらじゃないんだろ。

 固唾を呑みこみつつ、邪魔しちゃいかんと寝たふりをする。

「ん、じゃあ」

 相方は言った。「泊まってく?」

 頭のなかで盛大に、教会の鐘の音が響き渡る。

「あ、でも着替えないじゃん」相方が思いだしたように言った。

「おまえの貸してよ」

「はっは、いいけど、下着はどうすんのさ」

「えー、それはさすがに借りれねぇわ」

「ボクの姉ちゃんのでよかったら新品あるかも」

「お姉さんのかよ」

 ポチ元凶のツッコミに噴きだしそうになる。

「ボクのとどっちがいい?」

「そりゃお姉さんのだな」

 そうなの!?

 なんで、だってお姉さんのだよ?

「そういや姉ちゃん、ポチ元凶のこと気に入ってたよ。イケメンみたいでかっこいいって。私もあんな弟欲しかったって言ってたっけ」

「弟かよ」

「ボクより男らしいのにね」

「けっ。言ってろ」

 相方の降りる停留所が近づいたのだろう、背後で腕を伸ばすような物音がしたあと、「つぎのバス停で降ります音」が鳴った。

 しばらくしてバスが停まる。寝たふりを継続したのは、神聖な会話を盗み聞きしていた呵責の念が思ったよりも大きかったからかもしれない。

「荷物持つよ」

「なんでだよ、じぶんのくらいじぶんで持つって」

「おさきにどうぞ」

「なにファーストのつもりだよ、腹立つぅ」

 言いながらもその声は弾んでいる。

 バスの扉が開き、ふたたび閉じてからよやく目を開ける。

 窓のしたに、仲睦まじく肩を並べる高校生二人の姿がある。ジャージ姿がペアルックのようで微笑ましい。背丈こそいまはまだ変わらないが、きっと徐々に差がついていくはずだ。

「すてきな青春を」

 祈ってから、ついでのように、ありがとう、と付け加える。

 未来あゆむ若者たちに幸あれ。 




千物語「銅」おわり。

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