千物語「銀」
千物語「銀」
目次
【恐怖は魔法の調味料】(ホラー)
【制服パラダイム】(コメディ)
【核シェルター密室殺人事件】(ミステリィ)
【学習の機会を学習する機械】(SF)
【先生なんかだいっきらいだ】(百合)
【脳内新皮質を泳いで】(ファンタジィ)
【ちいさく、ばか、と息を吐く】(BL)
【きれいきれい、しましょ】(ホラー)
【下品でまじめなクラス委員】(コメディ)
【遺体を処理したあとのステーキは美味い】(ミステリィ)
【リトルマザー】(SF)
【もっとはやくに、秘密と別れ】(百合)
【ドラコ】(ファンタジィ)
【恐怖は魔法の調味料】(ホラー)
小枠内(こわくない)音子(おとこ)は、恐怖を感じない。先天的に脳の一部に異常があることは、幼いころの定期検診で発覚していた。
「前例としてね、あるんだって。オトちゃんは、こわくないんでしょ? なにをしても、見ても、なにも感じないんだよね。でもね、そうじゃない人もたくさんいるの」
医師の語った言葉のうわずみを掬って、母がそう語って聞かせてくれたものの、音子には何を言っているのかが解からなかった。
二十歳を過ぎたいまでもそれは変わらない。世のなかに、恐怖や不安といった概念があることは承知しているが、それがどういうものなのかが、理解できない。
恐怖や不安を扱っている虚構の物語を見たり、読んだりしたことはあるが、そこから感じとれるのは、ああいったときにはこういった反応を示せばよいのか、といったある種のパターンでしかなかった。
目のまえに急に現れた幽霊や、ゾンビや、殺人鬼も、音子にとっては、煩わしいハエや蚊と同じだった。
こわがる、という行為は学習している。おはようと言われたら、おはようと返すのと同じように、命の危険に関わりそうなものを見たら、うまく身動きがとれなくなったり、助けてと叫んだりすればよい。
ただ、なぜそうしなければならないのかが理解できないので、音子はいつも一人で、誰よりはやく合理的な判断のもと、安全を確保している。
理に適っていない。
恐怖や不安を感じることで得られる利はなんだろう。
幼いころはよく、父や母や友人に訊ねていた音子だったが、聞くだけ無駄だと判ってからは、恐怖や不安のメリットを考えることはない。
危険を回避できるようになる、とみなは口を揃えて論じたが、音子からすれば、みなが冷静さを失う、恐怖や不安は、むしろ危険を呼び寄せているようにしか思えなかった。
現にいちど、音子は友人と共に、強盗に襲われた経験がある。
ナイフを突きつけてきた強盗相手に、音子は迅速に対処し、相手から距離を置き、ときに道端の石やブロックを投げつけ、その場から逃げた。
いっぽうで、友人は、その場から一歩も動けなくなったらしく、そのまま強盗に拉致され、身体を玩具同然に扱われて、ボロボロになって帰ってきた。人里離れた山中に放置され、徒歩で辿り着いた麓の民家に保護されたわけだが、以降、友人は外を出歩けなくなってしまった。
音子は思う。友人が拉致されたのも、事件後、通常の生活を送れなくなったのも、すべて恐怖や不安のせいではないのか。
音子を責める者はなく、また被害者たる友人も、なぜ助けてくれなかったのかと不平を鳴らす真似はしなかった。
「音子は無事だったんだ。よかった」
見舞いに行くと、友人はそう言ってほほ笑んだ。部屋は蛍光灯の明かりで煌々と満ちており、夜であるのに昼間みたいだと目がしゅぱしゅぱした。
家に帰るまでのあいだに、音子は友人の言葉を反芻した。
意味がよく解からなかったからだ。
無事だったのはお互いさまだ。
彼女だって無事にこうして家まで戻ってこられた。外傷こそあったものの、いまではすっかり完治している。彼女が外を出歩けないのは、身体的な問題ではなく、彼女の意思の問題だった。
PTSD、いわゆる心的外傷後ストレス障害を患っていると彼女の親からは聞かされた。脳に障害を負ったようなものだ、とネットには書かれている。
うつ病が、脳の障害であるのと同じように、彼女も彼女の意思とは無関係に、身体的に障害を負っているのだ、と言いたいのだろう。理屈は理解できるが、解せない。
音子はもやもやした。
まるで、正常な意思が、正常な身体に宿っているとでも言いたげな理屈だった。音子自身、脳の障害を患っている。
ではこれは正常な意思ではないということなのだろうか?
しかし、ほかの者たちの理屈からすれば、友人の状態が正常になるには、音子のように、いま囚われている恐怖や不安を払しょくすることにこそあるのではないか。
よく解からなくなり、音子は考えるのをやめた。
「きみは死についてはどう考えている?」
大学に通うなかで知りあった男が、このごろやけにつきまとってくる。音子は食堂でざるそば定食を食べはじめたばかりで、ほかの席に移ろうにもどこも満席で、しばらく男の声を聞き流すことに専念した。
「恐怖を感じないって、要するに、死を怖れないということだと思うんだよね。きみは死が怖くないのか」
「死を怖れている人間なんていないんじゃない?」面倒だったが、つぎもまた付きまとわれては辟易する。応じることにした。「ほかの人達がどうかはわからないけど、すくなくともみんなは苦痛を忌避しているだけのように見える。だから、気持ちよく死ねる方法があるなら率先して死に急ぐ人間はすくなくないだろうし、死を怖れるなんて言う人間も減る気がする」
「なんだか死と眠りを同一視するような考えだね。おもしろい」
「目覚めないことに不満を抱く人もいると思うけど、それはもう、あなたたちの言う、恐怖ではない気がする。不満はたとえそれが心地よいことであっても生じるものだから」
「たしかに」男は納得してくれたようだった。「じゃあ、でも、きみも痛みは感じるわけだろ」
「まだ続くの?」
「痛みを避けたいと思うのは不満だとして、でも避けられない痛みを延々と与えられたら、さすがに恐怖を感じるのではないか? たとえばずっと頭を殴られていたら怖いだろ」
「怒りが溜まるだけでしょ」
「ああ。怒りか」
「けっきょく何が知りたいの? 人を不快にさせておもしろい?」
「哀しいという感情はあるんだよね」
男はこちらの問いには答えない。じぶんの好奇心を暴走させている。
音子は思う。きっとほかの人間が対応したらこの男にこそ恐怖を抱くのではないか。
「もし親が死んだらどう思う? 哀しい? ショックかな?」
「そりゃあね」
「あるんだね、哀しいという感情は」
「嫌だなぁ、とは思うよ。それを哀しいと呼ぶかは知らないけど。でも、嘆いたって仕方ないでしょ。世のなかはそういうふうにできてるんだもの。壊れないものはない。仕方ないなって諦めるしかないんじゃない?」
「仮に、身近な人間がどんどん死んでいったとして」
男の瞳孔は開いている。「つぎはじぶんかも知れないと思っても、やっぱり怖いとは感じないのかな」
「つぎもなにも、人はいつでも死ねるでしょ。いまここであなたにナイフで刺されたら私は死ぬ。どんな状況でも、人は死を内包してる。死と共に生きている。むしろ私が訊きたいよ、あなたたちが死を怖がるのはなぜ?」
「ああ、なるほどなるほど、ようやく解ってきたよ、きみには恐怖がないのではない、じぶんを、人間を、命を、なんら特別なものとして認識していないんだ、どう? ちがう?」
「どう、って言われても」
「でもきみはじぶんが死にそうになったら抵抗する。おそらく、目のまえで親が殺されそうになっていても助けようとするだろ、でもそれは、目のまえでコーラの入ったカップを割ろうとしている子どもを制することと、きみのなかでは同列なんだ、ちがう?」
「さあ、どうだろ」
どちらかと言えば、同じではないと感じる。人間はコーラの入ったカップではないし、親が死ねばいろいろと困る。男はこちらの当惑をよそに、捲し立てる。
「きみにとって世界は完成されたものではなく、渦に巻き込まれ崩壊しつづける角砂糖のようなものに視えているんだ。つねに落ちつづける砂時計のような、不可逆でありつづけるがゆえに、普遍――水に浸かって延々と溶けつづける無くならない角砂糖のようなものに」
「角砂糖には見えてないけど、あなたがそう思いたいならそれでもいいんじゃない?」音子は立ちあがる。ざるそばはとっくにたいらげていた。思っていたよりも不快な時間でなかった。正直に言えば、すこしだけ楽しかったとも評価できる。「ごめんね、つぎの講義はじまっちゃうから」
「また会える?」
「あなたが会おうとするなら、私にそれを阻止するのはむつかしいかな」
「ありがとう」
「会いたいとは言ってないからね」
念を押し、音子はその場をあとにした。
男のことはもう、講義がはじまると音子の脳裡からきれいさっぱりと消え失せた。
物事に執着がないのは音子の性質で、それはじぶんでも気づいていた。周りから奇異な目で見られたことも数知れず、かわいがっていた犬が死んだときも、生ごみにだして燃やせないことを面倒だと感じたくらいだ。
みながそれをこころよく思わないのは知っていた。余計な軋轢は不便を招く。なるべくそうした立ち振る舞いを見せないように配慮してきてはいたが、外側から観測できないからといって音子の本質が変わったわけではない。
音子が、妙な男のことを一時間も憶えていられないのは、音子が自身に対する危機感に疎いせいだと呼べる。
危険因子かもしれない、と想像する必然性が、恐怖を知らない音子にはないのだった。
だから、その日以降、音子の周りで友人知人の不審死が立てつづけに起こり、父親や母親までもが死亡したからといって、即座にくだんの男を連想することが音子にはできなかった。
「もしホラー映画の主人公がきみみたいだったら」
音子の腕に手錠をかけながら男は言った。「まったくもっておもしろくない世紀の駄作になっただろうね」
夜道で襲われ、気づいたらここにいた。夜風が冷たい。ビルの屋上だ。フェンスがないのは、もともと人が立ち入るように設計されてはいないからだろう。眼下の風景からすると、音子の住居が入っているビルの屋上だと判る。
「ホラー映画の基本は、主人公たちの張り詰めた緊張感を演出することにある。ひるがえっては、緊張感の欠けた人間を主人公にしてはならない。それはもうホラーではなくどちらかと言えば、コメディにちかい」
「離して」
「逃げないと誓うのなら」
「逃げないから。手首痛いし。締めつけすぎ、下手くそ」
「初めてじゃないんだけどなぁ、手錠を使うのは」
言いながら男はこちらの片手から手錠を外すと、それを自身の腕にハメた。
「何してんの」
「逃げられたくはないからね。これで条件は同じだ、不服は言いっこなしだよ」
「理屈になってない」
男は恍惚としている。手錠でこちらと繋がれたことによろこびを感じているのかもしれない。気持ちわるい、と思ったが、それは飽くまで、縄張り内に部外者を入れてしまった居心地のわるさ以上の感情ではなかった。子猫だろうと蛙だろうと、無闇にパーソナルスペースに立ち入られれば同じように苛立ちが湧く。
「きみは知っているかな。怒りは対等以下の相手にしか抱くことのない感情だと。あべこべに恐怖とは得てして、自らの制御下に置けない未知や脅威に対して抱く、無意識からの降伏の意だ。きみにはそれがない。きみにとってあまねくの対象は対等だからだ。無価値だからだ。崩壊する連鎖のなかにある砂塵の一つでしかない。だからきみは怒ることはあっても恐怖を抱かない。その必然性がきみにはないからだ」
「いいから離して。でないとひどいことになるよ」
「この期に及んで僕を脅すなんて素晴らしいよ、これまで手にかけてきたきみの友人知人たちの命乞いの早さ、プライドのなさには反吐がでた。やはりきみでなければならないと、まるでクリスマスを待ちきれない子どもみたいにウキウキしてしまった」
「サンタじゃないんだけど」
「そうだとも、きみはサンタなんて生ぬるい存在じゃない。きみのような、人間を超越した存在に恐怖を与えられてこそ、僕は頂点としての実感を得られる。僕はね、これまで誰ひとりとして、僕の思いどおりにならなかった人間はいないんだよ。もちろん、意のままにならないことはあったけど、そのつど、恐怖を与えて支配した。でもきみは違う。周りの人間たちがあんな目に遭っていたのに、まるで僕のことなんか眼中になかった」
「だっていなかったし」
「ふつうは気づくんだよ、あいつのせいなんじゃないか、あいつがやったんじゃないかって」
「証拠がないのにそんなの分かりっこないし。警察が気づいてないのに私が解るわけないでしょ」
「この状況で逆切れできるその精神こそ、僕の望むべきものだ。すばらしい。きみを支配できてこそ、僕は真にこの世の王として君臨できる」
「王? 独裁制なんていつの時代? いまは中世じゃないんだよ、いいからはやく離して」
「でないとひどいことになる? ざんねんだけどひどいことになるのはきみのほうだ。いいかい。きみは恐怖を感じない。滅ぶことへの畏怖がない。でも抵抗がないわけじゃない。避けられるなら避けたいと望み、痛みへの耐性もつよくはない。人並みに痛がり、苦痛を忌避する」
「わるい?」
男は手錠の鍵を投げ捨てた。鍵は屋上の下へと落ちていく。つづけざまに男は懐から鈍器を取りだす。肉を調理するときに、叩いて薄くするための道具だ。
「今からこれできみのゆびを順番に砕いていく。一本、一本、丹念に、骨を粉々にし、ミンチになるまで肉を叩く」
「痛いでしょそんなの。やめて」
「緊張感が足りないのもいまのうちだ。きみはこれからホラーに染まる。恐怖を知らない身体に僕がじかに恐怖とは何かを刻みこむ。きみは滅ぶことへの意味を考えなおし、拒み、やがて自ら受け入れるようになる。きみの親がそうであったように、自ら、殺してほしいと懇願する」
「お母さんたちもおまえが?」
「殺さない理由が? 僕の話の何を聞いていたんだ、このにぶさは恐怖を知らないこととは関係がないだろ」
「私を痛めつけたいなら最初からそうすればよかったのに」
「試してみたくてね。本当にきみが恐怖を感じないのかと」
「感じないって言ってるでしょ。お医者さまのお墨付きなんだから」
「いまもまだ死を怖れていないと?」
「ただただ不快。ちょっとその道具貸してよ、代わりに私があんたをぶちのめしてやるからさ」
「強気なその顔がゆがむのが楽しみだよ」
男はこちらの足を蹴った。
地面に尻をつく。
手首を踏まれる。
痛い。
歯を食いしばる。
男がしゃがみ、肉を叩く道具を振りかぶる。
「まずは一本目」
言ったところで、音子は男の胴体めがけて飛びかかる。
屋上にフェンスはない。体勢を崩した男もろとも、音子はそのままビルの最上階から飛び降りるようにした。
男の絶叫が耳障りだ。
地面へと衝突するまで、音子は目を開きつづける。
つぎに目覚めたとき、音子は病室のベッドのうえにいた。看護師と目が合い、ばたばたと騒がしくなる。間もなく医師が姿を現し、目にライトを当てながら往診をはじめる。
思考は明瞭だ。
音子は医師の質問に一つずつ応じた。
三日後には精密検査が終わり、週末には退院できると告げられた。
「運がいいですよ。相手の男性にお礼を言わないと」
別室では、あの男がベッドのうえで管だらけにされている。
「目覚めないのですか」
「重症ですからね。彼がクッションになってくれたおかげで、あなたは脳震盪だけですんだんです。あんなところから落ちて骨にヒビ一つ入らないなんて」
「ありがたいですね」
言いながら音子は、落下中に、男をクッションとすべく体勢を整えたじぶんを思いだす。激しい衝撃のあと、意識がブツ切れになったが、なんとか身体は動かせた。呼吸ができないのは、肺がつぶれたせいかもしれない。
地面に鍵が転がっている。屋上から投げ捨てられた手錠の鍵だ。這うように、手を伸ばし、拾ったそれで手錠を解く。男の腕からも手錠をはずし、ビルの植え込みに放り投げた。
憶えているのはそこまでだ。
夢うつつに、救急車の音を聞いた気がする。
警察が呼ばれ、何があったのか、と病室で調書をとられた。自殺しようとしていたところを彼が助けてくれた、と男を救世主にたとえ、説明する。
友人や親族が相次いで死に、自暴自棄になっていたのだ、と話すと、事実確認のあとに、同情めいた言葉をかけられた。
男の親からも、こんな子の命が役に立ったのなら、と責められることはなかった。よしんば責められたところで、音子のこころには響かない。
言葉などただの空気の振動だ。感情など行動を解釈するための後付けでしかない。行動の伴わない感情は木漏れ日ほどの意味も持たない。表出しない精神など、役に立たない神と同義だ。
信仰は自由だが、再現できない奇跡を崇める時点で、音子とは相反れない。否定はしないが縋るつもりはない。
恐怖や不安も同じだった。
あると思っているだけで、ひょっとしたら誰のなかにもそんなものはないのではないか、とふと思う。
あるのだろうか。
恐怖なんてものが。
退院したあとでも音子は毎日、病院へ通った。
男が目覚めるまで、日々の日課のごとく足を運んだが、目覚めていないと判るなり、一分と留まることをせず、踵を返し、病院をあとにする。
やることがある。
以前にも増して忙しい。
親の遺産はある。多額の保険金も下りた。
ときおりバイトをしつつ音子は、自由に使える時間とお金を持て余す。
忙しい。忙しい。
時間はたっぷりあるはずなのに、準備には余念がない。
はやく起きて、はやく起きて。
祈りが通じたのか、屋上からのダイブから三か月後に、男がようやく目を覚ます。
「彼女、毎日見舞いにきてくれてましたよ」
看護士が男に言いながら、部屋を出ていく。
個室だ。入院費のすべては音子が肩代わりしている。
「おはよう。どこまで憶えてる?」
男は口がきけないようだった。落下の際、こちらの身体が彼の喉をつぶしてしまった。後遺症で一生、彼は言葉が話せない。腕の自由もきかないようだ。
都合がいい。
「あなたは私の命の恩人、ということにしてあるから。きょうまでずっと準備してきた。やっとあなたに聞かせられる。まずは、はい」
音子は持参した弁当箱を取りだす。蓋をはずし、男に見せる。男はいちど眉を結び、それから目を見開いた。
「解る? 指。こっちは目玉。で、こっちが耳。全部あなたの母親のもの」
なぜ、と問うような目が、わなわなと震える。
「最初はもっとあなたとかけ離れた人からにしようと思ったんだけどね。あなたの身体が一生不自由だと知った途端に、なんだかあのひと、うるさくなったから」
音子の境遇に同情めいていたのは最初だけで、男の容体がよくないと判ったあたりから、音子への当たりがつよくなった。
「面倒だし、どうせ、いずれはこうする予定だったから、まあ、最初はインパクトがあったほうがいいかな、と思って」
男の目が、母は無事なのか、と問うている。
「うん。まだ生きてるよ。まだ、ね」
男の額に、汗がつぶとなって浮かぶ。
「毎日、細切れにしてくるから。あしたも、あさっても。で、死んだらつぎはほかのひと。お父さんのほうは、私によくしてくれるから、もうすこしあとかな。そうだ、あなたの妹さん、かわいいね。いま、うちで預かってて。すごく懐いてくれて、なんだか本当の妹みたいに思えてきたところ」
男の耳元に顔を寄せ、ささやく。
「どんな声で鳴くと思う? 聴きたい? 聴かせてあげるね。録音してきてあげる。たぶん来月までには」
男はしきりにまばたきをし、血走った目を冷ますように、シズクを溢れさせる。
「あなたの真似。私も知りたくなっちゃった。恐怖がどんなものか。本当にあるのか。あなたが関わったすべてのひとを使って実験することにしたから」
男の歪んだ顔を眺め、音子は思う。いつか見たホラー映画の主人公のようだ。きっと彼なら、極上の恐怖を私に教えてくれるだろう。その身を以って、恐怖を体現してくれることだろう。
「こわい? 恐怖はそこにある? だいじょうぶ、あなたも最後はこうしてあげる」
もういちど弁当箱を開き、中身を見せる。
「よかったね、知り合いがいっぱいいて。あなたはあなたの関わった人たちの分、生きていられる。感謝しなきゃね」
弁当箱を仕舞い、席を立つ。
「こんどはあなたでも食べられるように、ミックスジュースにしてきてあげる。あなたもう、チューブでしか食事がとれないんでしょ? 喉がつぶれちゃったんだもんね。でも舌はあるから、味わうだけならできるかな? 楽しみにしててね」
ベッドから離れ、個室の扉のそとで振り返る。
「またくるね」
そのときに見せた、男の表情を、音子は珍しく忘れることができなかった。ひょっとしたらあれが、恐怖というものなのかもしれない。
ないと思っていたものがあると知れる快感は、病院のそとに咲くなんでもない花を見ただけでも、キラキラと輝きに満ちた世界を覗かせてくれる。
「恐怖っていいなぁ」
音子は思う。
恐怖は、魔法だ。
こんなにも色濃く、生きている実感を味わわせてくれる。
【制服パラダイム】(コメディ)
無駄に威勢のいい後輩に懐かれてしまった。制服は着崩し、化粧は濃く、耳にはピアスがたくさん開いている。
部室のソファにひっくり返りながら後輩は、背もたれに足を乗せ、天井を仰いでいる。
「せんぱーい。なんかおもしろいことないすか」
「ない」
「うっそでー。なんかあるっしょ」
「ないものはない」
「じゃあなんで生きてんすか、せんぱい、なんで生きてんすか」
「おもしろいことがなくとも人は死なん」
「死にますって、自殺しますって、せんぱい死んじゃいやーん!」
じぶんで言って、じぶんで大ウケし、腹を抱えてソファから転げ落ちている人間がいたとしても、世の純朴なる諸君は目を向けないでおくのが賢明だ。
目に毒な布地や、日焼けしていない部位の肌が垣間見えてしまい、赤面しては、先輩たる威厳が損なわれること大いに請け合いである。
紙面に目を落とす。意識を本の内部へと潜りこませんと画策したところで、後輩は笑いのツボ底から回帰した。
「はぁー、まじウケる」
「そういうきみはなにかあるのか」
「えー?」
「おもしろいことがなにか、よくよく考えてみたら」本を閉じる。「私はおもしろいことを知らないのかもしれない、と思い至った。おもしろいとはなにか。おもしろいこととはなにか。転げまわるきみを見ていて、なんだか無性にうらやましく思えたよ」
「まじー? うらやましぃの? せんぱいが? うちを?」
「ああ。ぜひ教えてほしい。おもしろいこととはなんだ?」
「えー、そりゃー、ほら、なんていうか」うーん、と後輩は腕を組み、「笑えることじゃね?」
「自慢じゃないが、私は産まれてこのかた笑ったことがない」
「ぶぅーっ!」
後輩のつばが顔面にかかる。
「どっひゃっひゃ! ないわけないじゃん、せんぱいもジョークとか言うんだね、あーおかしい」
「ジョークで言ったのではない」
「ぶぅーっ! やめて、やめて、腹いたい。真顔でそんなこと言うのナシっしょ、あはは、おっかしー!」
後輩はこちらの口真似をし、ジョークで言ったのではない、と真顔をつくっては、繰りかえした。そのたびにソファから転げ落ち、ゆかに背中を打ちつける。アイテ、と言っては起きあがり、ソファのうえに這いあがると、またぞろ、ジョークで言ったのではない、と真顔で唱え、ぶふーっと噴きだし、ゆかに背中を打ちつける。
たしかに後輩のひょうきんなさまは愉快だが、おもしろいか、と問われると、首をひねるのに異論はない。後輩の将来を案じ、暗澹たる気持ちになるほどだ。
「後輩よ、すこしそこに直れ」
「ぶふーっ! やめてくださいせんぱい、それ以上笑わせないで! 死ぬ、くるしい!」
いいから、とつよく言うと、後輩はしぶしぶといった調子で、ゆかにあぐらを掻く。
「いいかい。きみの性格をとやかく言うつもりもないし、性別を理由に、居住まいを正せ、と説くつもりもない。しかしきみはすくなくとも、魅力的な人物だ。あまり隙のある行動は慎みたまえ」
「隙のある?」
後輩が片膝を立て、頬杖をつくものだから、持ちあがったスカートから、見えてはいけない布地やら、日焼けしていない肌の色やらが顕わになる。
「そ、そ、そういうのだぞ、きみ」
「あー、隙間ってこと?」後輩は気後れした素振りもみせず、「あんがいせんぱいもムッツリやのー」
言って、イッシシ、と笑った。
魅力的ではあるのだ。
しかし、
「私はもっとつつましやかで、おしとやかな後輩が好きだ」
「それは、そうしたらうちのことを好きになってくれるってことですか?」
「いや」
否定する。うなずくには抵抗がある。
「てことは、なんですか。せんぱいはやっぱりうちなんか嫌いだって、そういうことなんすか。そうなんですね。そうなんだぁ!」
ぷんすか膨れている後輩に、いや、とそうではない旨を告げる。
「私はきみのことが好きだ。好きだから、もっとこうしてほしい、それはよくない、と伝えたいのだ。嫌な気分になってほしくないから。このままではいずれきみは、嫌な思いをすることになる」
「ほへー」
「私には判るのだ」
きみのことだからな。
言って私は、お手本を兼ねて、優雅に立ちあがり、もういちど椅子に、こんどはスカートを手で押さえながら、座った。足は揃える。間違っても後輩のように開くなんてはしたない真似はしない。
「え、なんでいま立ったんですか?」
後輩には伝わらなくとも、実践する意味はある。そばにいる人間がきちんとしていれば、真実価値のあることであれば、おのずと受け継がれるものであろう。
「そういえばせんぱい、うちにはダラしないとか、ちゃんとしろとか言いますけど」
「だらしなくてちゃんとしていないからだ」
「でもせんぱいだって、そうやって指定外の制服きてるじゃないですか」
それはいいんですかー、と間延びした眼差しを寄越す後輩へ私は、
「よいのだよ」
諭すように応じる。「私はきちんと学校に掛け合い、認めてもらった。しかしきみのは違う。じぶんの自由を確保するためにきちんと周囲の人間に理解を求めようとしたのかい?」
「でもせんぱいはよく、理解とは幻想だって、そんなことはあり得ないって」
「言ったし、現にそう思っている。だからといって、理解し合うことを諦める、とは言っていない。だから何度でもきみに言う。だらしないかっこうをせず、慎みある行動を心掛けてほしいと」
理解し合いたいからね、と口にすると、
「ならうちの気持ちだって理解してくださいよ」後輩は下唇を突きだす。「うちの気持ちだって、ソンチョウしてください」
「その言い方だと、村の長みたいに聞こえるぞ。まあ、いい。私はべつにきみの趣味嗜好を否定しているわけではない。ただ、ここは学校だ。決められた規則がある。もし譲れないほどの信念があるなら、それをきちんと、みなに示さねば」
「ガンコなだけじゃダメってことですか。うー。せんぱいはうちに説教しか本気じゃない」
「いつだって私は本気だ。きみを拒んだことはない」
「ほんとー?」
後輩はそこで、それってじゃあ、と顔を伏せた。「どう思ってますか、うちのこと」
「どうとは?」
「すきとか、きらいーとか」
「嫌いな人間にこんな世話焼きなことは言わんよきみ」
「いちども名前で呼んでくれたこともないのに?」
「それは」
「それは?」
顔を背ける。窓の向こうでは、野球部員たちが校庭を帯びになって走っている。ふと思い立ち、投げかける。「きみ、部活はいいのか」
「せんぱーい」後輩はこわい顔をつくり、「話を逸らすのはつつしみ深いことですか」とむすっとする。
「いちおう、ここは図書部なのだが」
「入れてくれるんですか?」
「拒む理由はないよ。ただ、きみはほら」
もういちど窓のそとを見遣る。「野球部のエースではないか」
「いいんですよ、あんなの。うち、天才なので」
いちど校庭でボールを投げる後輩の姿を目にしたことがあった。華奢な身体のどこからあんな速度のボールが飛びだすのかと目を見張ったのを憶えている。
「それに、なんか、あいつらの視線が」
そう言って後輩は、あぐらを掻いていた脚を、きゅっと閉じるようにした。
「そんな格好をしているからだ」ついつい語調がつよくなる。
せんぱいだって、と後輩はあごをしゃくってこちらを示し、
「男子校なのにそんなかわいい格好じゃないですか」
見え透いたお世辞を言うのだった。
【核シェルター密室殺人事件】(ミステリィ)
密室で人が死んでいた。これだけならば、わざわざ俺が呼びだされることもなかっただろう。どこで死のうが、それが殺人なら殺人、自殺なら自殺、現在は総じて警察機構が調査をする。推理小説みたいに、わざわざ密室だから、なんて理由で探偵が呼ばれたりはしない。
俺を呼びだしたのは、被疑者だ。つまり、犯人と目されている人物が、探偵であるところの俺に助けを求めた。
「ぼくは殺してない、そんなことはしてないんです」
ろくすっぽ話を聞くこともできずに、彼の弁護士と面談した。
「同情するよ、ありゃ完全にノイローゼだな」場所は喫茶店だ。経費は向こう持ちということで、容赦なく割高のケーキと紅茶セットを注文する。「精神鑑定をすすめたほうが手っ取り早いんじゃないか」
「依頼内容についてですが」弁護士は、口髭を撫でつける。無駄話はしたくないようだ。「事件現場には、依頼人のほかに二名、合計で三名が、外部からの出入りのできない室内で一晩を過ごしました。依頼人が朝起きると、二人が死んでいた。掻い摘んで話せばそういう顛末です」
「疑われて然るべき状況ってやつだな。出入りができないってのは、警察の見解か?」
「生体認証つきのセキュリティロックでして」弁護士は資料をこちらに寄越す。「登録された人間にしかロックの解除はできません。また、窓はなく、空調もシェルター内でのみ循環する機構ですから、虫一匹出入りはできないでしょう」
「出入りするなら、扉からってわけか。銀行の金庫なみの扉だなこりゃ。ほう、核シェルターの宿泊体験中の事件か」
「ええ。シェルターにはタイマーがセットしてありまして、目覚まし代わりのそれが鳴ったところで依頼人が起床したとき、すでにほかの二名は息をしていなかったということです」
「一人は窒息死、もう一人が刺殺? 凶器は?」
「いちおう、血痕のついた刃物が発見されておりますが、いささか付着した血痕の量がすくないのと、遺体のそばになかったことが不明点でありまして」
「凶器と見做すには不自然だと? 一人がもういっぽうを殺し、そのあとで自殺した、という線は?」
「可能性としてはそれがもっとも高いかと」
「依頼人の話を鵜呑みにすれば、ってことか」
「ええ」
「依頼人が犯人か、或いは、死んだどちらかの無理心中かって話かい。二択とくりゃ、俺がでる幕もねぇんじゃねぇのか」
「ここだけの話、私は外部犯の可能性も捨ててはおりません」
「出入りできなかったんじゃないのか」
「ええ。ですから、外部犯の犯行ではなかったと証明してほしいのです」
ああ、と間の抜けた声がでる。
可能性としては捨てきれないが、限りなくゼロにちかい筋道をつぶすための、駒になれ、とこれはそういう類の依頼なのだ。
「報酬はこれだけ」
断ろうとしていた俺のまえに、弁護士は封筒を寄越した。分厚い。
持ち上げるとずしりとくる。中身を改める。軽くめくっただけで、すべて万札だと判る。
「これだけの現金を持ち歩くのは感心しないねぇ」
「それは前金です。依頼を引き受けていただけたらそのままお持ち帰りくださって構いません。調査を資料にまとめてくださったら、同じ額をまたお渡しします」
「羽振りがいいな。無罪に持ち込めたらこれを補って余りある実りがあるってことかよ」
「引き受けていただけますか」弁護士は口髭を撫でつける。
俺は封筒を懐に仕舞い、ごちそうさん、と席を立つ。
「期日は三か月でおねがいします」
弁護士は言った。
事件の資料は三日後、弁護士から、箱で送られてきた。データでないことにうんざりする。ざっと目を通すだけで数日かかった。
依頼人たる被疑者は、核シェルターの販売会社社長で、その分野では知らない者はいない先駆者であるようだ。結婚したばかりで、嫡子はない。扶養家族は妻だけであるようだ。
現状、会社は妻が取り仕切っているようだが、株価は暴落、資産価値はほとんど底を突いたようなものだ。
仮に外部犯だったとすれば、ライバル企業が定石ではある。もし外部犯の手による殺人事件だとすればの話だ。
なぜ依頼人たる被疑者を殺さず、二名の顧客だけを殺したか、の説明もそれでつく。評判を落とすには、社長本人は生きながらえてもらったほうがよいからだ。悲惨な事件の被害者ではなく、犯人として逮捕されれば、企業名は地に落ちたも同然だ。
弁護士が危惧しているのもそこなのだろう。もし外部犯だとすれば、なぜ依頼人だけが生き残ったのかが、謎だからだ。
被害者はいずれも、核シェルターを購入希望の顧客だ。親子とある。父親と息子だ。父親が窒息死で、息子のほうが出血死とある。
息子の年齢はこちらとそう変わらない。技術者で、核シェルターの開発に一枚噛んでいる。企業の一員ではないにしろ、依頼人の仕事上の関係者ではあるようだ。物がいいので、じぶんでも核シェルターを購入しようと考えたのかもしれない。
部屋には寝床が八つある。単純なベッドではなく、カプセルホテルにあるような円柱状の空間だ。
壁の一画に、ハチの巣のように並んでいる。
資料によれば、父親が一番下に位置する寝床、息子のほうが二段目に位置する寝床をそれぞれ使用していたとある。
依頼人は息子と同じく二段目に位置する寝床だったようだ。
窒息死したとされる父親は、寝床のなかで息を引き取っていたとある。頭からビニール袋を被ったままの格好で死んでいたそうだ。
息子のほうは、部屋の真ん中あたりで、血だらけになって死んでいたとある。凶器は遺体から引き抜かれた状態で、そばになく、また床には血だまりこそあれ、足跡のようなものは残されていなかった。
ここから判ることは、息子を殺した犯人は、息子を刃物で刺してからしばらく、遺体をそのままにしていたということだ。刃物を抜かず、心臓が停止し、血流が完全に止まってから刃物を抜き取っている。返り血を浴びないようにするための策か、それとも人を殺したことで放心していた可能性もある。結果として、犯人は返り血を浴びることなく、凶器を遺体から引き抜いたことになる。
凶器とみられる刃物についての資料をめくる。
傷口からすると、刃渡り二十センチの包丁のようなもの、とある。じっさいに部屋から発見されたのは、それに相当する包丁で、刃には被害者のものと見られる血痕が付着していた。指紋はなく、刃こぼれもない。
通常、人間を刺すと、骨に当たるなどして刃物には傷がつく。肉眼で視認できないような細かな傷から、凶器かそうでないかを判別することが可能だ。資料によれば、凶器である確率は高くない、とある。傷がないのだからそういうことになる。また、遺体の傷口からすると、切断面が、凶器と目される刃物と形状が異なるようだ。
つまり、前以って、被害者の血痕の付着した刃物を、部屋に仕込んでいた者がいたことになる。
むろん、部屋にいた三人のいずれかが持ち込んだものかもしれないし、調理に使った際に、ゆびでも切ってしまったのかもしれない。被害者が死んだあとで誰かがわざわざ包丁に血だけを付着させた可能性も否定しきれない。この辺り、依頼人こと被疑者の証言があいまいなため、裏付けがとれていないようだ。
調理場には、コンロがない。火は使えない仕様であるらしい。
冷蔵庫は大型だ。業務用冷蔵庫と同等の性能がある。水を循環させることで、冷蔵すると共に、奪った熱でお湯を常時保温する機能もあるようだ。中には食材が残っていたそうで、いずれも核シェルター内へ搬入された分量と、食事に消費された分とのあいだに差はないとある。
生ゴミはというと、専用の圧縮機で極限まで圧縮処理される。水分をすっかり抜かれた状態で、ブロックとして保存される。堆肥に利用できるそうだ。部屋の壁に埋め込まれたプランターで、植物を育成可能とある。プランターは現在未使用で、土もかぶさっていない状態だ。
血痕のついた包丁は、キッチンの調理具収納スペースに、ほかの刃物といっしょに収まっていたそうだ。
ロック機構はついているが、事件発生当時は、三人の誰であっても、指紋認証で解除可能な状態にあったとある。
状況がだいぶん、見えてきた。
考えられる筋書きを洗いだしていく。
まずは、刺殺された息子だ。考えられるケースは四つある。
一、 依頼人の手による殺害。
二、 父親の手による殺害。
三、 外部の者の手による殺害。
四、 息子自身の手による、自殺。
状況からして、父親が息子を殺し、その後にビニール袋を被って自殺したと考えるのがしぜんではある。ただし、凶器がキッチンにあった包丁ではないとすると、では誰が凶器を持ち去ったのか、といった点が不明だ。
凶器が不明な点からして、「四」の被害者の自殺説も否定される。死んだあとで凶器を処分することはできない。
凶器はほかの誰かが処分したのだ。
しかし、なんのために?
考えられるとすれば、内部犯の犯行だと思わせるために、だ。
つまり、依頼人こと被疑者を犯人に仕立て上げるために、凶器を隠した。わざわざほかの包丁を凶器に仕立て上げてまで。
密室で二人が死に、一人が生き残った。ふつうに考えるならば、生き残った者が犯人である確率が高い。
弁護士の推測としては、こんなところだろう。
外部犯の犯行を否定してほしい、と言いながら、否定できないことで、結果として外部犯の犯行だと証明してもらいたがっているのだ。
悪魔の証明を引き合いにだすまでもなく、可能性があることを示すのは簡単だ。だからこそ、何かを証明するためには、明確な根拠を示す必要がある。
幽霊はいるかもしれない。ただし、いると証明できなければ、いないものとして扱うよりないのが論理的推論での前提だ。
言い換えれば、外部犯の犯行ではない、と証明するには、内部犯の犯行だったと証明しなければならない。ひるがえって言えば、内部犯の犯行ではない、と証明するためには、外部犯の犯行であることを示さねばならないのだ。
依頼人が無罪を勝ち取るためには、外部犯の犯行だと証明しなければならない。被害者二人の無理心中と考えるには、状況からしておかしいからだ。依頼人の無罪を主張しようとすれば、必然的に、凶器の消失を引き合いにださなければならず、そうすると被害者たちの自殺の線が消えてしまう。繰りかえすが、死んだ者には凶器を始末することはできない。むろん、死ぬまでのあいだになんとか凶器だけを処分した可能性もあるが、床に残された血痕の量からして、刺されてから死ぬまでのあいだに被害者が動いた形跡はないことから、この可能性は非常に低いと言わざるを得ない。なんらかの仕掛けが施されていた可能性もあるが、警察の検証結果からすれば、現場に不審な痕跡はないようだ。
弁護士は、自身の手で外部犯の犯行だとする証拠を集めながら、俺という駒を使って、二重に、内部にいる人間の手による犯行ではない、と示そうとしている。
解かりやすくまとめれば、外部犯の犯行ではない、と証明するためには、内部犯の手による犯行だと示さねばならず、しかしそれができなかった場合、逆説的に、外部犯の手による犯行だと考えるよりない状況証拠が固まることになる。
真逆のアプローチを用意することで、弁護士の論述には説得力が生まれる。さながら俺は、弁護士にとっての仮想検事のようなものだ。
考えを進める。
目下の方針として俺が考えを煮詰めるべきは、依頼人が犯人だとしたら、だ。
依頼人が犯人だったとして、矛盾する証拠がでてくれば、弁護士の望んだ成果となるはずだ。
そのためにも、凶器の特定と発見が最優先される。
並行して、外部犯だとすればセキュリティロックを解除できたはずだ。それとも、犯行前から部屋にいて、依頼人が遺体を発見し、そとにでたときに、いっしょに出たとも考えられる。
そうか、とここで閃く。
最初から三人だったとは限らないのだ。
しかし、この推測はすぐに否定される。弁護士から追加で寄こされた資料には、核シェルターの性能と、事件当時のデータが記されていた。
シェルターには質量計が備わっていた。依頼人たちが入室したときから、依頼人が退出するまでのあいだにあった質量計の変化は、三人の体重とほぼ精確に一致していた。
これ一つで、外部犯の犯行を否定できるのではないか。
思ったが、質量計のセンサーは床にのみ対応している。壁に埋めこまれたカプセル状の寝床にはセンサーが働かない。つまり三人の寝ているあいだに、ちまちまと増減する質量は、必ずしも三人のものとは限らないのだ。ただし、床を歩かずに外部へ出る手段がない。仮に外部への扉まで床を歩かずに移動できたとしても、
「ロック機構がネックだしな」
生体認証のため、複製はほぼ不可能だ。クラッキングをするにしても、誰がいつロックを解除しようとしたのかの記録が残る。つまり、中にいるはずの三人のうちの誰かの生体認証が、外側から認可された、といった不可解なデータが残ることになるのだが、そういった履歴は確認されていない。不思議なのは、事件前と後とでは、総重量が二キログラムほど減っていることだ。凶器が外部に持ち出されたのではないか、と検察側は睨んでいるようだ。つまり、依頼人こと被疑者が持ちだした、ということだ。
「もっともだな」
検察側の主張に同意したくもなる。
核シェルター内部にいた三人以外に、犯行は不可能に思えた。
視点を変えよう。外部にいながらにして、遠隔で殺人を実行できないか。
じっさいの凶器が見つかっていないのも、遠隔での殺人と何か関係があるのかもしれない。
ただし、窒息死した遺体は、ビニール袋を被っていた。いくら遠隔で窒息死させるにしても、ビニール袋を被せるような真似はできないように思う。
じぶんで被るか、誰かの手によって被せられたか、二つに一つだ。
資料によれば、ビニール袋は、被害者が自身で持ち込んだもののようだ。元々は、核シェルターに入る前にコンビニで購入した、ティシューやツマミが入っていたと見られる。現に、遺体発見時には、寝床に、それら購入物が散乱していたとのことで、自ら袋を被った際に零れ落ちたのではないか、と見られている。
遺体に傷はなく、争った形跡はないようだ。
司法解剖の結果、酸欠による窒息とみて、間違いないそうだ。毒殺ではない。検察側はそう結論づけている。
データの備考には、窒息時に見られる、自傷がない点が挙げられている。
苦しんだ際に、もがいた傷がないのが不自然だ、との指摘だ。
血中の二酸化炭素値が高いことから検察側は、被害者は、酸素濃度の低い空気を一瞬でとりこみ、卒倒したのではないか、と考えているようだ。
つまり、ビニール袋を被せたのが、被害者本人であるにせよそうでないにしろ、いちどビニール袋へと吐きだした空気を溜めてから頭に被ったのではないか、とのことだ。
袋を息で膨らましてから被れば似た状況になるのではないか、と想像する。
酸素濃度の低い空気を吸うと、人は一瞬で気絶する。被害者が自ら被ったのか、それとも第三者の手による犯行かは、これだけでは判然としない。
核シェルターには質量計のほかにも、いくつかの機器がデータ管理されている。空調や発電機、H2O生成機などだ。記録を見るかぎり、異常な数値は見受けられない。
水は、H2O生成機によって、酸素と水素を結合してつくられる。別途に、液体の、酸素と水素が、シェルターの貯蔵庫に保蔵されている。
糞尿はそれぞれ、生ゴミと一緒に圧縮処理され、そこから抽出された水分やメタンガスが、一部、空調の冷却装置や発電機に利用されている。
空調は二十四時間起動している。外部とは完全に乖離しており、シェルター内のみで循環している。夜間に一度、激しく起動しているようだが、おそらくは、床に広がった血液が気化したために、換気機能がオンになったのだと思われる。資料にはそうした検察側の見解も記されていた。
空調のセンサーは天井に集中している。火事のときに煙がうえに溜まるからだろう。どの施設でも取り入れられている標準設計だ。とくに問題はない。消火器は粉末型ではなく、二酸化炭素型だ。密室で粉をぶちまけるわけにはいかない、という理由からだろう。これもとくに不自然ではない。
H2O生成器では水素を扱う。火事の危険性が高いため、生成器そのものにも、二酸化炭素の安全装置がついているようだ。
状況からすると、父親が息子を刺殺し、その後、自殺を図ったと見るのがやはりというべきか、筋なような気もする。
検察側はしかし、依頼人こと被疑者による殺人とみて捜査をつづけている。
根拠は三つある。
一つは、凶器が不明な点だ。誰かが凶器を隠さないかぎり、現場からは凶器が発見されてしかるべきだが、その凶器が発見されていない。
核シェルター内の総重量が、犯行後に二キログラム減っていることからも、凶器が外部に持ち出された可能性が極めて高い。
死亡した二人には不可能だ。ならば、生き残り、核シェルターからそとにでた依頼人が凶器を持ちだしたとみるのが論理的に考えて導きだされる結論だ。よもや、凶器のほうから外部に出ていったとは考えにくい。もちろん、その可能性を完全に否定はできないが。
検察側が依頼人こと被疑者を容疑者にしている根拠のもう一つが、被害者たちとの関係性だ。
つまり、依頼人には被害者を殺すだけの動機があったと検察側は考えている。
依頼人の会社では、核シェルター内での事故や過失があった場合に備え、企業向けの保険に加入してあった。
核シェルター内で起きた、企業への損益となり得る自体が生じた場合に、莫大な保険金が下りる契約になっている。
今回の一件で、企業価値は大幅に下がったが、それを補完してあまりある多額の保険金が、保険会社から支払われることになる。
だが、じぶんが殺人の容疑で逮捕され、起訴されたとなれば、保険金は下りない。いくらなんでも無理筋に思えるが、検察側はその一点に絞って捜査をつづけているように見受けられる。よくあるタイプの事件なのかもしれない。
そいう意味では、弁護士側は、何が何でも依頼人の無罪を勝ち取りたいはずだ。無罪でさえあれば、保険金が下りるのだ。成功報酬もたんまりもらえる手はずになっているのだろう。そんな説明は一個もされなかったが、これもまたよくある話だと流してしまうよりほかはない。それなりの実の入りのよい仕事である事実に違いはないのだから。
電波ごしに弁護士としゃべった。
新たに、生ゴミや排泄物の圧縮装置に関する調査結果がでたそうだ。
「検察側は、依頼人がトイレに凶器を捨てた可能性もあると考えていたようですが、結果から述べますと、凶器に類する金属物の破片は検出されませんでした」
「凶器はやはり外部に運びだされたと?」
「依頼人は身に覚えがないと言っています」
「なら凶器がかってにそとに出ていったかだな」こちらのジョークを弁護士は黙殺した。なんか言えよ、と思いながら、さきを続ける。「まだ資料を読みこんでいる段階だが、外部犯が核シェルターに忍び込んだ、或いは、元からそこにいたとは考えにくい。なら考えられる筋書きは、遠隔で殺人を実行した人物が外部にいたか、死亡した二人の無理心中か、それとも依頼人が犯人かのいずれかだ。可能性は低いが、被害者の一人は自殺だが、もう一人は依頼人が殺した、という線もなくはない」
「そのことですが、窒息した父親のほうは、自殺が濃厚だとの話です」
「なにかでたのか」
「ええ。頭に被っていたビニール袋ですが、AIシミュレーションからすると、自力で被らないとつかないシワの残り方をしていたそうです。寝床は狭いですからね。じぶんであたまを持ち上げ、袋の端を持って、引き下げるようにしなければ、被れません。もしほかの人間の手で被せるとなると、シワのつき方からして、手が一つ足りないことになります」
「ああ」
そんなことまで判る時代なのか、と探偵の存在を否定されたきぶんになる。「耳寄りな情報だな」
「そうなるとやはり外部犯の犯行ではなく、被害者二名による無理心中という線が濃厚になってきますね」
「凶器の行方さえハッキリしていれば、だろ」
「そうなんですよねぇ」
弁護士の声は相も変わらず柔和なままだ。信用できない人間の典型だ。「ひょっとしたら、元から消える凶器を使っていたのかもしれませんよ」
「氷とかか?」そこで、ああと閃く。「被害者の血液を凍らせてつくった刃物なら、そのまま放置しても血痕にまぎれて判らなくなるな」
「おもしろい仮説ですね」
「献血を装って、前以って血を抜いておくとか。被害者の周りで、そういった検査を行った業者はいないのか」
「被害者が血を抜かれた、との話は聞いてませんね。献血は立派な医療行為ですから、事業としてサービスに取り入れるには、行政や医療機関への申請が義務付けらています。裏付けをとったわけではないですが、まず採血の類は行われていないでしょう。それこそ、正規の献血ならばその血を利用しようもないでしょうし。念のため、盗難の被害がでていないかは調べておきますが」
「その必要はないと思うがね。凶器に使うなら記録に残すわけがない。黙ってやっちまえば済む話だ。死人に口なし。悪魔の証明ってやつだな」
「そうですね。とはいえ、念のため、こちらでもろもろ確認をとっておきます。ただ、それでも消えた二キログラムの説明はつきません」
「たしか夜中に空調の電力があがったらしいな」
「そのようですね」
「夜間に気温が下がった分、室温を温めたってことで解釈はいいのか」
「血痕が気化したことで、換気機能が働いたとわたくしどもは解釈しておりますが」
「もし気温の変化のせいでもあるとすれば、依頼人がそとにでるとき、気圧の変化で、室内の空気がそとに噴きだした可能性も否定できない」
「なるほど、ありそうです。こちらで実証実験をしてみます」
言い残し、通話を切った弁護士からふたたび連絡があったのは、それから二週間後のことだった。
「結果から述べますと、いずれも可能性は極めて低いでしょう」
弁護士の声はあからさまに気落ちしていた。「被害者の遺体に、注射痕はなかったそうで。床に残された血痕からは、輸血に特有の、血しょう分離や、凍結保存をさせるための触媒の検出はなされませんでした。長期保存された血液は使われていないとのことです。仮になんらかの方法で被害者の血液が凶器に使われたとしても、直近に採血された血液でないかぎり、血痕に、二種の血液が混ざってしまいますから、遺体に注射痕がない現状、血液を凶器に、の仮説は却下せざるを得ません」
「空調のほうは?」
「たしかに気圧の変化があれば、気体がそとに噴きだすことはあるようです。ただ、二キログラムの気体が外部へと移動するには、それなりの気圧の変化がなければならず、かなりの熱量を室内へ送りこんでいないと、矛盾するそうです」
「つまり、室内はいちど、気温が著しく低下していたと?」
「或いは、気圧がさがったので、その分を補おうと、空気を送りこんだか、ですね」
「換気だけでは充分でないってことか」
「何かしら、気圧の変化を促進させる事象が室内で起きていた、ということでしょうか。あまり考えられる筋書きではないですね」
コーヒーを飲む手をとめる。湯気ののぼる褐色の液体を眺めていると、はたと閃いた。テーブルに山積みになっている紙の束を崩し、意中の資料を手に取る。
「被害者、たしか息子のほうは技術者だったな」
「ええ。温水冷蔵機の開発者です。電力消費量を抑えると共に、核シェルター内の熱効率を高めるためになくてはならない装置です」
「父親のほうは?」
「名義上は、社長ですね。息子がゆいいつの社員だったようですが」
「その新型冷蔵庫の権利はどうなってんだ」
「依頼人が買い取ったはずですが」
「割に合った値段なのか?」
「適正価格がどれくらいなのかを知らないのでなんとも言えませんが、ええ、私からすれば充分な報酬だったと思います。ちいさな企業なら、じぶんより大きな企業を買収できるくらいですよ」
「その決定を下したのは、社長――父親のほうってことか?」
「立場上は、そうですね。その権限があるのは父親です」
ちょっとお待ちを、と弁護士はいちど会話を中断する。俺はメディア端末を持つ手を換える。ずっと同じ体勢だと疲れてしまう。しばらくしてから弁護士は、そうそう、とふたたび話しはじめる。「依頼人が交渉していたのは父親のほうですね。息子さんが、商談の席に立たれたことはなかったようですよ」
「なるほど、そういうことか」
「なにか解かりましたか」
「仮説でしかないが、いいか」
「お聞かせください」
「逆だったんだよ。息子を刺殺してから自殺したんじゃない、息子が父親を窒息死させてから、じぶんでじぶんの胸を刺して死んだんだ」
「ですが、凶器が」
「キッチンに、血痕のついた刃物があったろ」
「包丁ですね。しかし、鑑定からすると、凶器としては矛盾します」
「凶器としてはな。致命傷を与えたのは、血液を固めてつくった刃物だ」
「ですが、遺体には採血した痕が」
「なくて当然だ。注射器なんざ使ってないんだからな」
そこで弁護士は、ひょっとして、と言った。「包丁で傷をつけて?」
「ああ。まずは包丁でちいさな傷口をつくり、血を集めた。それを冷凍庫で凍らせ、凶器にした。凍らせてすぐに融けたなら、細胞の劣化はほとんど見られねぇ。それこそ、業務用並に、急速冷凍が可能な冷蔵庫があるならなおさらだ」
「ですが金型は?」
「ゴミ処理用の圧縮機があったと言ったな。血液を凍らせるだけなら、金型が金属である必要はねぇ。陶磁器なり、なんだり、砕いてトイレに流せば、検出はされねぇだろ」
「たしかに、貴金属以外の検査はしていません」
「だろ。父親のほうは、おそらく、ドライアイスか何かを寝床に忍ばせたんだ。酸素濃度が下がり、呼吸困難になる。そのまま窒息死することを期待したんだろうが、父親は途中で目覚めた。しかし、身体をうまく動かせず、とっさにそばにあったビニール袋を被り、呼吸を確保しようとした」
「そして、そのまま絶命したと? ドライアイスはどこから?」
「ふつうに持ち込んだんじゃねぇのか。欠片でも、気化すりゃ窒息死させるくらいの容積には膨張するだろ。寝床は狭いしな。重量は誤差みてぇなもんだ、それこそシェルター内でとった食事や、出した糞尿のほうが重いだろうよ」
「なるほど」
「ただ、この筋書きだと、息子がどうやって自殺したのか、が不明だな」
「凶器があるならば、自殺したことそのものはそれほど証明はむつかしくないでしょう。死因は飽くまで、出血死ですからね。胸の傷口を深くすれば、いずれ死ぬでしょうから。ですから問題は、この仮説をどう証明するかです」
「直接証明するのはむずかしいだろうな。ただ、仮説通りだとすれば、圧縮処理された廃棄物のなかに、息子のほうの血液の付着した、金属ではない何かが紛れているはずだ」
「血液の有無なら検出可能ですね」
「父親を殺すのにドライアイスを使ったなら、夜中に空調が激しく動いたのも説明がつく」
「消えた二キログラムも、気圧の変化で説明がつきでそうです」
「ただ問題は」
「ええ」
弁護士の声が沈む。「犯人が依頼人だったとしても、この仮説が途中まで有効だという点です」
「ドライアイスでこん睡状態にできるなら、息子のほうも、無防備な状態にしたうえで、血液を凶器にできるわけだからな。ただ、そこまでする合理的な理由が、依頼人にはない。じぶんが確実に疑われる状況で、わざわざこんなまどろっこしい偽装工作をする必要はないだろ」
「そうなんですがね」
「ひとつ言えるのは、依頼人は返り血を浴びていなかったって点だ。俺の仮説通りだとすれば、凶器をつくるには血液を扱わざるを得ない。一滴も汚れずに凶器をつくることはまず無理だろうな」
「その点で攻めるのがよさそうですね」
「着替えや、カッパの繊維が、圧縮された廃棄物から検出されなければ、言い分として通りそうなもんだけどな」
「たしかにそうですね。ありがとうございます、その線で当たってみます」
「いちおう、俺の仕事はとっくに完了してるんだが、どうする」
「たしか依頼内容は、外部の者の犯行ではないことを証明してほしい、でしたね。あなたの答えは?」
「外部の人間に犯行は不可能だ。よって、内部にいた者の手による犯行である」
「了解しました。書類にまとめて送っていただければ、成果報酬のほうをお支払いいたします」
弁護士とは、その後、短いやりとりを幾度かした。書類を送付すると、口座に後払いの報酬が振りこまれていた。
裁判は検察側が上告することなく、一審で無罪判決がくだされた。
センセーショナルな事件性と、奇跡的な大逆転劇が、ワイドショーで取り上げられ、話題となった。依頼人を含め、核シェルター販売企業は、その名を知らぬ者はないほど、人口に膾炙した。
保険会社からも保険金がおり、企業は一躍、大企業の仲間入りを果たす。
世間のほとぼりが冷めてから俺は、元依頼人に会いにいった。
「呼びだしてすまねぇな。いそがしいだろうに」
「いえいえ、こちらこそご挨拶が遅れてすみませんでした。後処理に追われ、せっかく助けくださった探偵さんにお礼の言葉もなく、たいへん失礼いたしました」
「時間も惜しいだろ。要件は一つだ。あんたんとこの企業株の二割を俺に寄こせ」
「なんです?」
「株だよ、株。上場したって聞いたよ。いい値がついてるみてぇじゃねぇか」
「ご購入のご相談、ということでしょうか?」
「ばか言ってんな。強請ってんだよ。脅しだよ、脅し」
「意味が分からないのですが」
「すっとぼけんなよ、人殺しが」
懐から事件の資料を取りだす。
資料には、弁護士が独自に研究機関に依頼し、シミュレーションさせた結果が載っている。
「密室から消えた二キログラム。こりゃ、気圧の変化で、おまえが扉を開けたときにそとに漏れた分の空気だ。だが、空調の性能からして、二キロもの空気がそとに漏れるにゃ、使用されたドライアイスが足りなさすぎる。容積に換算したら二千リットルはあるからな。風呂の十倍以上の空気がそとに出たってことになる。あり得ねぇだろふつうは。空調の機能と、ドライアイスの比重からして、最低でも、五キロのドライアイスがねぇと、二キロなんて空気が、そとに漏れることはねぇ」
「使ったんじゃないんですか、父親を殺すのに、アイツが」
「死者に向かってアイツ呼ばわりかよ。素がでてきたなぁ」
「犯罪者にかける情けを持ち合わせていないだけですが」
「おまえが犯人でない証拠はねぇんだ。裁判じゃ、返り血を浴びてないってとこが争点になったそうだな」
「ええ。ぼくは浴びてませんからね」
「だろうな。おまえが使った凶器は、凍らせた血液なんてもんじゃねぇ。ドライアイスでつくった刃物だ」
そこでようやくというべきか、相手は押し黙る。
「図星か? 言い当ててやるよ。おまえがこんなまどろっこしい殺人を考えたのは、保険金と、それからマスコミという名の野次馬を利用して、タダで全国に社名を宣伝するためだ。よくやるよ」
「証拠はあるんですか」
「被害者たちの会社は、冷蔵庫の開発販売会社だった。ドライアイスなんてもんは日常的に売り買いしていた。犯行に使われていても不自然じゃない。だが、おまえは違う。ドライアイスを犯行に使いたかったが、購入すれば、痕跡が残る」
「ええ。ぼくは買った憶えはないですからね」
「だが、二酸化炭素はべつだろ?」
男は口をつぐむ。
「たしかシェルターにはH2O生成器があったな。液体の水素と酸素を、それぞれボンベで束で購入済みだ。記録を見ると、ついでのように、二酸化炭素まで購入されている」
「消化剤の代わりですよ。シェルター内で粉末型の消火器をぶちまけるにはいかないですからね」
「H2O生成器にも二酸化炭素の安全装置が使われてるようだな。が、未使用のままのはずだ。火事は発生してないわけだからな。購入した分の二酸化炭素の総量と、装置や消火器に溜まったままの二酸化炭素、果たして分量は同じかな?」
「何が言いたいんですか」
「圧縮機があったろ。生ゴミや排泄物を処理するやつだ。あそこに液体の二酸化炭素を入れたらどうなる? 圧縮され、ドライアイスになるんじゃないのか?」
男は閉口する。
「圧縮したモノは元から取りだせる設計だ。シェルターに入る前から二酸化炭素をドライアイスに加工し、中に入ってから、冷蔵庫にでも仕舞っておいたんだろう。ドライアイスなら、包丁が一本あれば加工できる。殺傷するだけなら、さきっぽが鋭けりゃいいわけだからな。被害者二人の寝床にドライアイスを忍ばせておき、そのあいだに凶器を加工すれば、父親のほうは窒息死、息子のほうは死ぬ前に、工作した凶器でひと突きだ。寝床からはそとに引っ張りだしただろうが、酸欠でろくに身体は動かせなかっただろう。ドライアイスの凶器が気化するのを待てば、凶器は消失。偽装工作のために、包丁に血痕をつけてキッチンに仕舞っておけば、あとは弁護士を通じて選ばれた探偵が、ギミックに騙され、無罪を主張してくれるって公算だったんだろうが、相手がわるかったな」
「二酸化炭素の量くらいで証拠にはなりませんよ。機器へ移し変えるときに、溢してしまっただけですからね」
「なんとでも言え。検察側に言えば、再調査は必須だ。向こうさんはメンツをつぶされ、やり場のない怒りに震えてるだろうからな。証拠なんざ、狙いさえ絞ればいくらでも出てくる。それこそ遺体を調べ直せば、凶器がドライアイスだったと特定するくらいわけがねぇ。仮にドライアイスだとすれば、どうやって被害者は五キロものドライアイスを用意できたんだ? 資料によれば、冷蔵庫のなかに食材以外の物体はなかったようだが? 搬入された記述もない。もし入室したときに運びこんだなら、その分、重量が増えているはずだが、遺体が運び出されたときに質量の増減は確認されてない」
「なるほど」男は背もたれに体重をあずける。足を組み、「で?」と手を開くようにした。「あなたは株がほしくて強請っていると言うが、仮にぼくが犯人だとして、あなたは株の二割を保有しただけで、引き下がるのですか? その保障はどこに?」
「話がはやくて助かる。保証はない。が、あいにくと俺には商才がないんでね。せっかく手に入れた株の値打ちがさがるような真似は極力したくない」
「なるほど。飽くまで社の運営はぼくにしてもらわれねばならないわけですね」
「ああ。そして、俺はあんたの負担を増やすような真似はしない。会社が成長してくれりゃ、株価はあがる。あんたにゃこれからもがんばってもらわにゃならん。自社株の二割は、負担となるギリギリの値だ、ちがうか?」
「ちょうどぼく名義で保有している株の三分の一ですからね。たしかに社としては、痛手というほどでもないです」
「ちなみに、この会話は録音しているが」懐からメディア端末を取りだし、画面に浮かんだ『録音中』の文字を見せる。「これは俺の保身のために使わせてもらう。俺に何かあったら世間に公表されると思っていて間違いない」
「逆に信用できますね。ばか相手に交渉はしないことにしているので」
「あとこれはいらねぇ忠告かもしんねぇが」
「聞きましょう」
「あの弁護士、真相に気づいてやがんぞ。子飼いってわけじゃねぇなら、手を打っといたほうがいい」
「ご忠告、ありがたくちょうだいしておきます」
「俺からの話は以上だ。何かあるか」
「そうですね。一つだけ」
「言ってみな」
「それだけの能力がありながら、なぜこんな稼業を?」
「薄汚ねぇ真似してんのかって? おまえだって同じだろ。わざわざ人を殺してまで知名度や金がほしかったのかよ」
「邪魔者を排除できるうえに、宣伝と資本が手に入る。やらない理由がありますか?」
「ないな」断言する。「俺も似たようなもんだ。こんなに簡単に金が手に入って、おもしれぇことはねぇ」
「たしかにそうですね」男は天井を仰ぐようにする。「他人の弱みを握るには、探偵ほど理にかなった職業はないでしょうから」
「握る相手は選ぶけどな」
言って席を立つ。「つぎからは使うコマは選ぶこった」
「つぎもあなたを指名しますよ」
男の捨て台詞を背に受けながら店をでる。
曇天を仰ぎ、俺は、つぎのカモを狩るべく、世の混沌へと目を配る。
【学習の機会を学習する機械】(SF)
つまり、と技師は言った。
「機械の精度が高すぎるのが問題なんですよ。AIのほうが、細かな違いを見分けるのが得意ですから、センサーとして一般に普及させるには、ある程度のゆとりを許容する設定を、人間が用途に合わせてしていかなきゃならんのです。閾値というものがあるのはお解りになられますか。ここからここまでのあいだは大丈夫ですが、こっから先はダメですよ、という線引きを最初に設定しておかないと、AIを使っての判別機というものはまるで使い物にはなりません。なにせ、表面の傷一つすら感知してしまうわけですから。或いは、感度を下げてしまうと、本来あってはいけない場所の細かな異常を見逃してしまう可能性がでてきてしまう。部位の指定と、その部位に固有の閾値の設定をAIへと組みこまなければならないわけですが、そのためには膨大なデータが必要です。この場合はダメで、この場合はよい、とデータをぶちこんで、学習させるわけですが、そもそもがそうしたデータが不足しているのが現状ですよ。ならばまずはAIを投入し、失敗のデータを集めながら、それはダメだ、とチェックしていくほうがよほど効率がよろしい。ですからまずは、間違うことを前提としたシステムの構築が必要なんですが、どういうわけか、その段取りを嫌う現場が多いわけですよ。まあ当然でしょう。失敗したほうがいい、というのは、なかなか理解しにくい要請ですからね。とはいえ、まずはデータの収集が先決ですよ。AIに失敗を学習させなくては。ええ、ですからね、まずはどうしたら人を傷つけてしまうのか、どうやったら人間は死んでしまうかを実践させないことには、介護ロボなんて実用化はできないでしょうよ。まずは戦場にでも投入して、実践データを集めてくるのが先決ですよ。より多くの方法で、人を傷つけ、壊し、殺させないことには、人間にやさしい介護ロボなんて、てんで役にたちゃしませんって」
【先生(おとな)なんかだいっきらいだ】(百合)
*後輩*
センパイが先生を好きなのは知っている。先生を見るときの目がちがうし、どんなに楽しくおしゃべりをしていても、先生が廊下をとおるだけで、わたしはセンパイのうっとりした顔を見るハメになる。
先生(おとな)なんかだいっきらいだ。
そんな先生を好きになるセンパイもだいっきらい。
でもちょっとしたきっかけで先生のことを忘れるセンパイは好き。たとえば、目のまえの裁縫に没頭しているセンパイの顔とか、わたしが美味しそうなお弁当を持ってきてついばんでいるときにどうやっておかずを奪ってやろうかと虎視眈々としている姿とか、そういうセンパイはすごく好き。大好き。
センパイなんかとっとと先生に告白して、振られてしまえばいいのに。
思うけれど、哀しむセンパイの顔なんて見たくないし、ひょっとしたらあの先生のことだからセンパイを丸ごとすっぽり受け入れてしまう未来もあるかもしれないと思うと、センパイのその先生への想いはずっと胸に仕舞って、かさかさに干からびて、いつの間にかなくなってしまえばいいのに、と祈るほかに、モヤモヤしたこの想いをなだめすかす術をわたしは知らないままでいる。
窓のそとを見下ろす。もうすぐ秋が深まっていく。
ふと、センパイの姿が目に留まる。
用事があると言って帰ったはずなのに。
センパイは渡り廊下のほうへと歩いていく。
妙に思いながら、目で追うだけで飽きたらず、わたしは、しぜんと椅子から腰を浮かしている。
*教師*
渡り廊下から裏山を眺める。紅葉がなびき、風の動きをそらまでなぞっている。
もうすぐ五年だ。
約束した期日は一年前にすぎている。待っていてあげる、とは言ったものの、べつだん期待していたわけではなかった。
結婚の予定があったわけでもなし、当時から現在に至るまで、言い寄ってきた異性は皆無だ。
彼女の告白を断ったのは、十割、私が教師だからだ。
そして彼女は生徒だった。
言うべき答えは決まっていた。
教師になりたてのころに、先輩教員から、前以って考えておいたほうがいいよ、と助言を受けていた。生徒から過剰に慕われるシミュレーションは完了している。
想定していた相手は同性ではなかったが、性別に関係なく、教師としてとるべき態度に変わりはない。
彼女からの告白は、けっしてわるい気はしなかった。生徒としてかわいげのある子で、どちらかと言えば、こうした色恋沙汰とは一線を引いて挑むタイプの子かと思っていた。それだけに、熱烈とも呼べる恋文は、すなおにうれしくもあった。
だから。
ただ突き放すだけではなく、とりあえず四年間、世間を見てきなさい、と言った。
「子ども扱いしてるわけじゃないの。でも、私と付き合いたかったら、せめて私と同じ視点で物事を見られるくらいになりなさい。四年くらいなら待っててあげるから。もちろん、あなたは好きなように生きていい。好きなひとができたら私のことなど気にせず、そのひとと添い遂げること。いいわね」
甘いようで、きつい言い方になっていたかもしれない。
恋文をもらい受けたのは卒業式のことだった。なにこれ、とその場で開けて読んでしまったのは、配慮が足りなかったかもしれない。反省したが、同じことがあればまたその場で開けて読んでしまうだろう。後回しにしてよいことなど何もない。
顔を真っ赤にしてアタフタする彼女の顔がいまでも脳裡に貼りついている。あのときの彼女は卒業式を終えたばかりとはいえ、もう生徒ではなかった。だからかもしれない。一人の人間として、誠意を以って、応じたつもりだった。そこに、打算がなかったかと問われれば、頷くのはむつかしい。心のどこかで、彼女にいつまでも想われたままでいたいと願ったじぶんがいたのかもしれない。思うと、じぶんの狭量さに顔が熱くなる。
あれ以来、彼女とは会っていない。
あのときのことなど、彼女にとっては忘れたい思い出になっているのかもしれない。いっときの気の迷いなんて言い方はしないけれど、すくなくとも失恋したようなものなのだから、よい思い出とは言えないはずだ。
五年が経過したいま、彼女はきっと大学を卒業し、社会人一年目として立派に働いていることだろう。ひょっとしたらもう、私に教えられることなどはなく、教えてもらうことのほうが多くなっているかもしれない。否、きっとそうだ。教師なんて、けっきょく、人間としてのお手本にはなれないのだ。
山の風景を見詰めていたので目が乾いた。まぶたをしばたかせ、渡り廊下をふたたび歩きだしたとき、
「先生」
背後から呼び止められた。振り返ると、一人の女子生徒が、頬を上気させ、小走りに寄ってくる。
「あの、これ」
差しだされた便箋は、かわいらしいクマのシールで封がされている。「私に?」
女子生徒は頷く。
授業を担当する生徒ではなかったが、この顔には見覚えがあった。彼女の視線は、ほかの生徒からのものとは異なった熱を帯びており、目についていた。
彼女はもうすぐ卒業する。
またか、と思った。
今回は、四年の猶予を告げるつもりはなかった。
何が違うのだろう?
前回は待つつもりがあったのだ。若さだろうか。甘さと言い換えてもいい。教員として言うべきではなかった。そうした後悔があるのかもしれない。
読まずに返すのはさすがに失礼かと思い、ひとまず受け取ると、女子生徒は照れる様子も見せず、封を開けた手紙を覗きこむようにした。
「なんて書いてあります?」
興味深そうな彼女のあたまを片手で掴み、押しのけながら、まずは紙面に目を走らせる。
*卒業生*
ひとなみに男の子には興味があった。彼氏ができたと報告し合う友人たちをしり目に、焦りも嫉妬も湧かないじぶんをふしぎに思っていた時期がある。
恋愛はしてみたいのに、男の子たちを眺めていても、お近づきになりたいとは思えなかった。
幾度か、告白してきた男の子もいた。そのつど、試しに付き合ってみるのだけど、友人たちとしゃべっていたほうが格段に楽しく、また、彼らはみな、男性のイメージとはかけ離れていた。
気がきかないし、優柔不断だし、視線がなんだかそわそわして落ち着かない。胸を見るなら見ればいいのに、ひとの隙をみて注視するものだから、なんだかじぶんの身体がいけないもののように思えてくる。
付き合うなんて疲れるだけだ。何がいいのかサッパリ解からない。
いちど、友人たちにぶちまけたら、次の日からみなよそよそしくなり、間もなく、誰もしゃべりかけてくれなくなった。
陰でハマベーの愛称で呼ばれていると気づいたのは、それから半月後のことだった。
ビッチからビーチ、浜辺、ハマベー、と変化したらしい。愛称としてはなかなか凝っている。
どうやらこちらが袖にしてきた相手を好いていた子が、仲良しグループのなかにいたらしい。意中の男の子の想いを虫でも払うように無下にするこちらの態度が気に食わなかったために、仲間外れにした、といった顛末のようだ。
しょうじきに言えば、哀しかったが、自業自得と言えばそのとおりだ。周りの子への配慮が足りなかったのは事実なので、甘んじてその境遇を受け入れた。
あっさりしたその態度がまた彼女たちの神経を逆撫でしたらしく、ハマベーことビッチの噂は、尾ひれがつき、男の子たちのあいだにまで広がった。
「あれホント? やらせてくれるってやつ」
財布を片手に訊きにきた男の子は一人や二人ではなかった。放課後や昼休み、一人になったところを狙ってやってくるものだから、腕っぷしに自信のない身としてはぞっとしないものがある。
文化祭の日のことだ。
他校にまでその噂が流れていたのか、見知らぬ男の子たちに囲まれた。周りにひとはいなかった。使われていない教室に連れこまれそうになり、抵抗したけど、男の子たちの力は思っていたよりずっとつよかった。
「そっちはなんもないよ」
その先生は焼きそばの材料だろうか、段ボールを抱え、口にキャンディを咥えながら、
「あときみはこっち。サボってないで手伝いなさい」
ツカツカと歩み寄ってきては、朗らかな笑顔でこちらへ段ボールを手渡し、男の子たちへは、ごめんねー、ちょっとのあいだ貸してね、と言い添え、こちらの背を押すように歩かせた。
男の子たちは追ってこなかった。
しばらく歩くと先生はこちらから段ボールを奪い、
「余計な真似しちゃった?」
器用に段ボールを片膝に載せ、カカシ然と片足で立ち、はいこれ、とポケットから飴玉をとりだしては、袋を破り、こちらの口に突っこむようにした。
「男あさりもほどほどにね。ま、そんな感じじゃなかったけど」
言外に、つぎからはちゃんと助けを呼びなさい、と咎められている心地がした。
文化祭が終わるまでその日は、よそのクラスの手伝いをしながら、先生をそばから眺めた。
誰にでも同じような笑みを見せるひとだなぁ。
つくり笑いに見えない笑い方ができるようになることをおとなと呼ぶのかもしれない。先生を一日眺めていて思ったのは、そんな子どもじみた考えだけだった。
それから卒業するまでの一年半、気づけば先生の姿ばかりを目で追いかけていた。
*センパイ*
新しいギターがきょう届く。部活はせずに帰宅する、と後輩に告げたところ、彼女は見るからにしょぼくれて、覇気のない声で、それはいいですねー、と言った。かわいい。
校門を出たところで、知らない女性に声をかけられた。××先生はいますか、と述べたそのひとは、スーツに身を包ませてはいるものの、生徒の保護者には見えない。
誰かのお姉さんかもしれない。
余計な思考を巡らせ、あいた沈黙にひるんだのか、女性は、
「ここにお勤めのはずなんですけど。転勤はまだのはずで」
身振り、手振りを交えて、先生と会いたくて、と訴える。
年下のこちらに敬語を使うところに、芯の太さを窺わせる。苦手なタイプかもしれないと、同族嫌悪じみたわだかまりを覚える。
いると思いますけど、とこわごわ応じたのは、なぜわざわざ校門のまえで生徒に訊ねるような真似をするのかと不信に思ったからだ。学校のセキュリティ問題が取り沙汰されているとは言え、用事があるなら職員室に掛け合うことは誰でもできる。
そとでこそこそと生徒を捕まえて、あの先生はいるか、なんて確認する必要はないのに、目のまえの女性はそれを行っている。
不自然だ。
ハイヒールを履いているためか、彼女のほうが背が高い。見上げると、彼女は校舎のほうに目を転じており、はっとした表情でこちらに向き直ると、矢継ぎ早に懐から便箋を取りだし、お願い、と握らせる。
「これ、先生に渡して」
「あの、でも」
「渡せば解るから。お願いします」
かわいいつむじを見せつけるようにするとそのひとは、足早にこの場から去っていく。校舎のほうを向くと、教員がやってくるのが見えた。一人ではなく、二人いる。
こちらのまえまでやってくると教員たちは、道路を右に左に見渡しては、
「不審者がいるって訊いたんだけど、誰かいた?」
「あー」
すこし考え、受け取った手紙と、それからなにやら必死そうな顔の女性、遅れて彼女と知り合いらしい先生のことが脳裡に浮かぶ。ここはひとまず、
「道を訊かれました」と応じる。「困ってたみたいで、ものすごく感謝されちゃいました。いい人でしたよ」
「そう」教員たちは顔を見合わせ、一応その辺見て回りますか、と頷きあう。ついでのように、知らないおとなについていくなよー、とひとを子ども扱いする。とおくで車道を横断している生徒を目ざとく見つけては、こらー、と声を荒らげる。「車道を渡るんじゃなーい」
下校中の生徒たちがいっせいに振りかえる。オセロみたいでおかしかった。
校舎へと踵を返す。強引に預けられた手紙をぺらぺらと引っくり返す。宛名はない。白い無地の便箋に、かわいらしい子熊のシールで封がしてある。
先生としゃべるよい言いわけができた。
ラブレターです、と言ってからかったら、すこしは意識してくれるだろうか。
ヒビの一つでも走らせてみたい。
先生の、誰にでも平等に分け与えるような笑顔に、じぶんだけの跡をつけたい、と思った。
いっそのこと、このまま告白でもしてみようか。
いじめっこじみた気持ちを胸に、下駄箱で靴を履きかえる。
*後輩*
渡り廊下から先生が走り去っていく。その場に取り残されたセンパイが、呆気にとられている。ここぞとばかりにわたしは階段を下り、センパイのもとへ駆け寄った。
「せーんぱい。なにしてたんですか」
「うん、ちょっとね」
センパイは眉根を寄せている。急に現れたかわいい後輩を気にかけるのも忘れて、名探偵さながらにあごにゆびを添え、うーん、とうなる。
間もなく、
ちょっといい?
センパイは歩きだす。それから、いましがた先生の去っていった方向を突き進む。わたしはその背を追いかける。
どうやら先生は校舎を出たようだ。職員用の下駄箱に先生の靴はなく、足跡があるわけでもなしに、どこに行ったのかは分からない。
だのにセンパイときたら、そそくさとじぶんだけ靴を履いては、校門のほうへとスタスタ歩いていく。わたしはその背を追いかける。
学校をでるとセンパイは左右の道を、きょろきょろと見回しては、
「あ、いた」
鼻がきくのか、先生の姿を見つけたようだ。周りに生徒の姿はなく、何ブロックか離れた場所、公園のまえにいる。
センパイは駆けだそうとしたのか、前のめりになったところで、急に踏ん張るものだから、つられて駆けだそうとしていたわたしはセンパイの背中に鼻をぶつける。
「んぐ、いい匂い」
そのままセンパイの腰に、うしろから手を回し、うふふ、と抱きつく。
どんな叱責が降ってくるかな。
センパイのわきから顔を窺うようにすると、センパイはそのままのかっこうで、下唇を噛みしめている。いまにも泣きだしそうな顔だ。
視線を辿るようにすると、遠く、そこにはすらっとした体型の女性と、先生が向かい合って立っている。
何か言いあっているようだ。先生がしきりに手を強調している。何か握っている。紙らしきものだ。プリントか何かだろうか。
先生は……っ!
女性の声だろうか、ひと際おおきな声がし、それから何事かをつぶやいたらしく、先生は頭を掻いている。
女性はそれから目元を手で拭い、しゃがみこんでしまった。
わたしはセンパイの顔を覗きこむ。センパイはさきほどと違って、下唇を噛んではおらず、どことなくうれしそうな顔つきをしている。ほっとしたような顔と言えばそれらしい。
戻りましょうよ、と声をかけようとしたところで、センパイの顔はふたたび引きつった。
視線を辿ると、道のさきで先生が両手を広げている。しゃがみこんだままの女性はそれに気づいていない様子だ。先生はそこで女性の頭をくしゃくしゃ、とゆびで掻くようにし、面をあげた女性へ向け、よっしゃこい、みたいな具合にふたたび腕を広げる。
ここからでは女性の表情までは見えないはずなのに、そこだけ、ふわーと花が咲いたみたいなやわかい空気が広がったのが判った。
女性は立ちあがり、目元を手の甲でごしごしと拭うと、おっかなびっくりといった具合に先生へと歩み寄り、やさしい握手のようにハグを交わすのだった。
お花畑が浮かんでいておかしくないその光景とは似つかわしくのない、まがまがしい空気を感じ、わたしはセンパイの顔を見上げる。
黒塗りにしたいくらいにおそろしい顔がそこにはあった。
センパイが踵を返す。わたしのことなどお構いなしに校舎のほうへと歩き去っていく。
おそろしいはずのその背中はけれど、触れたら割れるシャボン玉みたいな気配を漂わせている。
わたしはセンパイから視線をはずし、道のさきで抱きあう先生と女性を見る。もういちどセンパイを見て、先生たちを見て、何度か繰り返し、なんだか分からないけれど、ここでいまセンパイを追わないのは、後輩としてあってはならない選択のように思え、決意の唾液を呑みこんだ。
センパイの性格からすれば、うるさい、じゃま、こないで、と突き放されそうなものの、ここで寄り添えないようでは、よき後輩としての矜持が損なわれる気がした。
わたしはたぶん、とお気楽に考える。
センパイを愛してはいないのだろう。
センパイを想う後輩としてのじぶんを、じぶんで嫌うくらいなら、センパイに嫌われたほうがマシだと天秤にかけるくらいには、センパイの気持ちなどどうでもよいのだ。
わたしはよき後輩として、傷ついたセンパイを慰める義務がある。
本当はそんな義務などはないし、よしんばあったとしても、センパイが真実傷ついているとはかぎらないのに、わたしはわたしのために、いまは誰も近づくなオーラ全開のセンパイの背へ向け、せんぱーい、待ってくださいよー、と漂う哀愁を切り裂くみたいな底抜けに空気の読めない声をかけるのだ。
「うっさい、くんな」
センパイにこんな汚い言葉を吐かせるなんて。わたしは憤懣やるかたない。道端で抱きあう、幸福絶頂なおとなふたりの姿を思いだし、ケっ、とこころのなかで唾を吐く。
先生(おとな)なんかだいっきらいだ。
【脳内新皮質を泳いで】(ファンタジィ)
脳みそがモヤがかっている。病院にかかっても、単なる疲労でしょう、とあしらわれる。食い下がってなんとかもらいうけた向精神薬も役に立たない。
生理が不規則だから、自律神経がおかしくなっているのは間違いない。体調がよくないのに、原因が解からない。睡眠不足だろうかと思い、寝てみると、休日はずっと寝たきりになってしまう。
寝すぎもそれはそれでよくないんですよ。
医師は迷惑そうに言った。
日に日に思考のモヤは分厚さを増す。ついには文章を読み解くのも至難になった。
「とくに変じゃないですよ。いつもしっかり仕事なされてますし」
同僚からは変わったところがないように見える、と太鼓判を捺される。「ミスもないですし、それで脳みそスカスカだってんなら、私らどうなっちゃうのって感じです」
「でも本当に、いまじぶんでしゃべってる言葉もよく分かってなくて、なんとなく、こんなかなって、押されたので押しかえしたみたいな感じで」
「何も考えずに最適解を出せるなんてそっちのほうがスゴイですよ」
心底困って相談したのに、最後にはまるで愚痴をこぼしただけみたいな扱いをされた。仕事できることの自慢ですか、なんて笑いながら言われてしまい、本来なら感情をあらわにして怒ってみせてもよかった場面だったのに、かえって、周りからはちゃんとしているように見えているのか、と安心した。
精神病の症状の一種に、離人感があるとネットの記事で読んだ。どこまで正確な情報かは知らないが、モヤがかって消え失せないこの感覚が、いわゆるじぶんがじぶんでないような感覚かと問われれば、そうかもしれないとうなずけるような気がした。
じぶんではない。
じぶんの身体だとは思えない。
ずっと奥のほう、暗がりの底から、細い管をとおして世界を垣間見ているような、不透明感がつきまとって離れない。
身体は自動で動くただのプログラムされた機械じみていて、じぶんがじぶんの意思で食事をとっている感覚すら覚束ない。
日常生活の所作は、ぜんぶ反射で行っているだけではないのか。
綱渡りをしている恐怖がずっとある。
ずっしりと重い。
頭が、重い。
思考がにぶい。
なまりが詰まっているようだ。
とりだせたらどれだけ心地よいだろう。思い、気晴らしに耳かきをする。
ずいぶん久方ぶりだ。
麺棒を耳の穴に差しこみ、ゆびに伝わる感触を頼りに、耳カスを探り当てていく。
間もなく、カリカリと固い部位にさしあたる。岩に付着するフジツボを連想する。
何かある。
耳カスではない。
カサブタのような。
いや、と身体が硬直する。
麺棒が勃然と重くなった。否、そうではない。麺棒に、何かがひっついたのだ。ぐいぐい、と奥へと引きこもうとする抵抗が、ゆびに重さとして伝わる。
ナニカがいる。
噛みついたのだ。
麺棒に食いつき、引きこもうとしている。
しかし、どこに?
汗をびっしりとかいている。
じぶんの身体に知れず巣食っているナニカを想像し、久方ぶりにこの身体がじぶんのものだとの実感を抱く。
するとどうだろう、雲間から晴れ間がのぞくような思考の明瞭さが感じられた。思考が目まぐるしく回るのを快感に思いながら、そうせざるを得ない衝動に衝き動かされるように、麺棒を引き抜いていく。
ずるずる、とそれは明瞭な振動とそこはかとない痛痒を伴い、麺棒と共に、耳の奥から途切れることなく伸びていく。
脳みそのカタチが分かるようだ。腹におさまる腸のように、脳みそに身をくねらせ潜んでいたナニカの輪郭が、ずるずる、と音をたてて抜けていく。
気色のわるさよりも、恐怖よりも、何年も詰まっていた便秘が解消するような、ようやく消え失せた、重い、重い、生理痛のような、得も言われぬ開放感が、麺棒を引き抜く手を止めず、最後は麺棒に食いつくそれをゆびで掴み、力任せに、それでいて千切れぬようにと細心の注意を払いながら、じぶんの性器を洗うときのようなやさしい手つきで、引きずりだす。
視界に色が宿る。宿ったことで、これまでずっと灰色の世界にいたのだと知った。
台風のあとの晴天のようだ。
光から、匂いから、音まで、ことごとくの知覚が明瞭だ。
ゆびには、細長い管のような生き物がある。掴んでいたはずが、いまはもう巻きつかれていると形容したほうがしっくりくる。
ゆびに巻きついてなおそれは、くねくねと身をよじり、暴れている。
白く、柔らかな印象があるが、ゆびに伝わる抵抗は硬質で、ちからづよい。
表面には細かな毛が生えている。見る角度によっては、鱗のようにも映る。毛の生えたヘビのようで、しかし顔らしきものがない。
双方の先端にはどちらも、口のような割れ目がある。
イルカのようにそれをしきりに開け閉めする。
寄生虫だろうか。
ぞっとするのがしぜんに思えるこの場面で、なぜかそれをかわいいと思った。
インスタントコーヒー粉末の空き瓶があったので、それに入れた。それはこちらの手にあったあいだは徹頭徹尾、もがきつづけていたものの、瓶に入れ、水を加えると、しばらくしておとなしくなった。
身体に水が合わずに死んでしまうかもしれないと案じたが、やがて瓶は白く濁り、ゼリー状のもので満たされた。古代魚の一種に、表皮から粘液をだし、繭をつくって冬眠するナマズのような魚類がいることを知っていたが、これもそれに似た仮死状態かもしれない。
死ぬわけではないようだ。
そうと判り、安心したが、仮に死んだところで何が困るのか、と思うと、うまく答えは浮かばない。
頭のなかのモヤは晴れ、清々しい日々がつづく。
仕事をし、同僚と飲んで帰る余裕までできた。家に帰ってまずすることは、インスタントコーヒー粉末の空き瓶に入ったミストを眺めることだ。
ミストは、あのヘビのような謎生物の名だ。
相も変わらず、ゼリー状の繭に閉じこもったままだが、ときおり、身じろぐ様子が確認できる。
ずるずると、まるで延々と八の字を描くような動きは、腸詰めにされる豚肉を連想する。ウィンナーの味が舌のうえに広がるようだ。
ある日、ふと見ると、繭の色が黒く変色しだしていた。
カビかもしれない。
ミストのみじろぐ回数も日に日に減っていたため、何か対策を講じるべきだと考えた。
ひとまずそとにだしてみよう。
湯船に水を張る。瓶ごと沈め、蓋を開けた。
じんわりと青黒い染みが広がる。
瓶を振って中身を水中に晒すと、水はあっという間に青黒く染まった。
どこか甘い匂いが浴室に漂う。ふしぎと不快ではない。
湯船はゼリー状に固形化している。ゆびで触れると弾力がある。触感としてはババロアじみているが、割れることなく、ぷるぷると反発する。
またぞろミストは中で冬眠してしまったのだろうか。しばらく眺めていると、表面にうっすらとミストの白い表皮が滲んで見えた。どうやら中で移動しているらしい。活発さを取り戻したようで、ひとまず胸を撫でおろす。
ババロアのなかにひも状のグミが埋もれているみたいで、甘い匂いとも相まって、美味しそうだな、と唾液を呑みこむ。
いちど、美味しそう、と思うともうダメだった。手を伸ばせば一生遊んで暮らせる宝物があるのに手に伸ばさない人間がいないように、目のまえに、大量のミストの繭があって、口に運ばない人間はいない。
青白い色に誘われるように、そうしなければならないと考えるまでもなく、そうあることがしぜんな様で、ミストの汁たっぷりのババロアを手ですくい、口元に運ぶ。
甘い香りが鼻孔を満たす。
間違ってもミストを食べてしまわぬように、青白いババロアだけを、すすった。
脳内にじわじわと汁が湧くのを感じる。よろこんでいる。しあわせとはこのことだと思った。
このために生きてきた。
このために生きている。
身体はそうあるように、青白いババロアをすくっては、すすり、すくっては、すすった。
つぎに気づいたとき、身体は布団のうえにあった。
いつ移動したのかは覚束ない。すくなくともじぶんで寝床まで歩いたのはたしかなようだ。
頭が重い。
どんよりと考えがまとまらない。記憶を辿ろうにも、分厚いモヤが、思考の光を分散し、像をじょうずに結べない。
脳内に満ちた快楽が燃え尽き、くすぶったかのようだ。
思考がモヤがかっている。
以前のじぶんに戻ってしまった。
クリアな思考を懐かしく思い、それ以上に、青白いババロアを口にしたときの、脳汁のじゅわじゅわと湧く感覚をもういちど味わいたいとつよく欲した。
風呂場へと向かう。
足取りが重い。視界が暗い。とっくに朝陽は昇っているはずだったが、世界から色が失せたようにほの暗い。
何もかもが色褪せているそのなかで、湯船に溜まったミストの繭だけが、青白く発光して映った。
美味しい、美味しい。
まだ口にしていないうちから、追憶がとめどなく溢れ、濃厚な味覚の渦を幻視する。
美味しい、美味しい。
じっさいに手ですくい、唇をストローにしてすすりあげる。
ずるる、ずるる。
唇の先端からすでに喉であるかのように、一直線に、途切れなく、胃へと落ちていく。
舌で味わう間もなく、脳がじわじわと唾液じみた汁に溢れる。
もっと、もっと。
全身の毛穴が閉じ、ガクガクと身体が痙攣したかと思うと、ぶわと汗が噴きだす。じっとりと濡れた肌のまま、キンキンと痺れる脳と、脊髄と、神経と、身体はマシュマロになったかのように、粉じみた薄皮の内側に、至福をパンパンに充填する。
唾液が知れず、口もとから垂れる。
その唾液すら逃さぬように、唇を湯船に沈め、ミストの繭、青白いババロアをじかに吸いあげる。
ずるる、ずるる。
吸いこんだ分だけ、汁が噴きだす。
脳内に。
口内に。
溢れんばかりの汁は、行き場を失くし、やがて耳から垂れはじめる。
ダラダラと溢れるそれは、ゴゴゴゴと、濁流がごとく雑音を鼓膜に貼りつける。
ずるる、ずるる。
ゴゴゴゴ。
間もなく、合間を縫うように律動よく無音が響くようになる。
ずるる、ずるる。
ゴゴゴゴ。
無音、無音。
管を流れる気泡じみた無音は、直後に、湯船へチャポンとしぶきの音を引き連れる。
耳から何かが零れ落ちている。
一つではない。
連続して、律動よく、青白いババロアを吸いあげるたびに、押されたので出ましたかのごとく、溜まりに溜まった脳内汁が寒天さながらに、つるーん、つるーん、と滑り落ちていく。
あべこべに脳内に満ちていた快感はしだいに鳴りをひそめ、それでも止まらぬ、つるーん、つるーん、は間もなく、湯船のなかでぐねぐねと身じろぎする。
山盛りのパスタが生きているかのようだ。
やがて生きたパスタはおのおの、青白いババロアのなかへと溶けこむように潜っていく。
明瞭となった思考が目まぐるしく巡る。
これはつまり、そういうことなのだろうか。
背筋に悪寒が走るものの、目のまえの青白いババロアから立ちのぼる甘い匂いを嗅いでしまうともう、それに対する嫌悪感は霧散霧消してしまうのだった。
家にいるあいだは時間の許すかぎり、湯船のまえに陣取った。青白いババロアを口に含み、快楽に浸かる。
脳内で増殖したモヤは、細かなミストと化して耳の穴から流れ落ちる。
出しきってしまえば思考は冴えわたり、生き返った心地を味わえる。本当はその明瞭な思考のままで仕事をすべきだったが、家に帰った瞬間からすぐにでも湯船に、脳内のモヤをぶちまけたかったので、仕事中はずっと頭にモヤがかったまま、脳内で蠢く無数のミストを想像した。
余計なことを考えずに済むからなのか、モヤがかったままでも仕事に支障はなく、却って評判はよかった。
脳内にミストを入れていると、合理的な行動しかとらなくなるようだ。感情が薄くなり、ルーティンワークに特化する。
はたから見ると、ロボットのように、延々集中しつづけているように見えるのだと判ったのは、弁当にこっそりと青白いババロアを詰めて食べていたところを、同僚が通りかかり、いただきー、とそれを奪われた数日後のことだった。
ムラのある働き方をしていた同僚の集中力が目に見えて増していた。受け答えは簡素となり、機械的な応答しか示さなくなる。つねに作業を継続させており、ムードメイカーらしからぬ寡黙ぶりに、上司がわざわざこちらに相談しにきたくらいだ。
「なにかあったの? 仕事辞めるとか、そういうこと言ってなかった?」
「さあ。目覚めたんじゃないですか」
「はぇえ? 何に?」
「働くことに」
退勤時刻になったとき、くだんの同僚に引き止められた。「きょうはなんかごめーん、頭がずっと重くてさー」
迷惑かけてすまない、と気を落としている様子だったので、上司がびっくりしてたくらい働いてたよ、と労った。
「えー、うそだー」
「ホント、ホント」
「でも、何してたのかもろくに憶えてないのに」
「頭にモヤがかかったみたい?」
「そう! それ!」
「とってあげようか」
「なに、マッサージでもしてくれんの」
半信半疑の同僚を家に招待し、そこで青白いババロアをご馳走した。
「なにこれ、めっちゃ美味そう」
弁当に入っていたのをかってについばんだ記憶はないようだ。
「食べていい?」
言いながら、返事を待たずに彼女はそれを頬張った。「なにこれ、めっちゃ美味いんだけど」
「お代わりあるよ」
「ちょうだいちょうだい、もっとください、おかわり!」
腐った魚のような目が、瞬く間にキラキラと輝いていく。
彼女は気づいていないのだろうか、耳からは、ぬるー、と一本の線となって、細長いウネウネが途切れることなく、押しだされている。
もっとゆっくり食べなよ、と声をかけつつ、さりげなく、耳から垂れるそれをつまんだ。慎重に引き抜くようにすると、ずるー、ずるー、ちゅるるーん、とそれはさほどの抵抗もなく抜け落ちた。
同僚は身体をビクビクと痙攣させると、コンセントの抜かれた電子機器のように、その場にバタンと伏してしまった。
死んだのだろうか。
慌てて脈をとる。トクトクと鳴っている。
どうやら気を失っただけのようだ。
寝床を用意し、そのうえまで引きずって運ぶ。
同僚の看病をしているあいだ、彼女から抜け落ちたミストは手に握ったままにしていた。器用に手首に巻きついていたので、邪魔にならかったからだが、気づくとミストは肩のほうへと移動しており、あれよあれよという間に、こちらの耳に逃げこんだ。
焦ったのは最初ばかりだ。
身体の奥底をなぞられるようなやさしい快楽を引き連れ、じぶんのものではない、記憶や感情が、映画のフィルムがごとく、脳内に渦を巻く。
立っていられずに、寝床によこになった。同僚と雑魚寝をしたかっこうだ。
これは。
同僚の寝顔を眺める。
彼女の記憶か。
思考はモヤがかり、そのモヤに投影されるように、同僚の記憶がつらつらと展開されつづける。
社内でこちらに気のある男性を、彼女が片っ端から寝とっていたとそのとき知った。こちらがその男性を歯牙にもかけていないと知るなり、男のほうは袖にし、何食わぬ顔でその男のわるくちを聞かせていた彼女が、本当は誰よりこちらのことを気にしていて、そばにいられるのは自分だけなのだとする優越感を抱いていたのだとも同時に知るに至る。
好意とは呼ぶにはあまりに乱暴なその想いを、いちがいに非難する気になれないのは、或いは彼女が、そのことを、自分自身で気づかぬほどに傷ついていたからかもしれない。
あれほど器用で、生きるのに悩みなど抱いていなさそうに映っていた同僚のことが、いまはもう、同じ人物として見られない。
不器用だと思い、憐れだと思った。
なぜだか分からぬままに、安らかな顔で眠りこける彼女の頬を撫でつけている。
同僚が目覚めないうちにと、湯船にて青白いババロアを口に含む。耳からミストが抜け落ちる。あとには明瞭な思考と、同僚の記憶だけが残った。
ミストは他者の脳内をトレースする。
トレースしたミストを脳内に宿せば、他者の記憶を自身に植えつけることができる。
他者の内面を覗きみる優越感以上に、他者と同化するのに似たあの多幸感のほうが、自制心を奪うのには一役買った。
職場でほかの同僚たちに声をかけては、青白いババロアを食べさせた。ミストに寄生された同僚たちは、軒並みこちらの言うことにおとなしく従った。
ひょっとしたら、宿主にも格付けのようなものがあるのかもしれない。株分けでいえば、こちらは親株にあたる。
部内は森閑とした静けさに包まれたが、生産性は向上したので、外部から文句を鳴らされることはなかった。あそこの部署を見習え、と上司が表彰されたくらいで、誰も奇異な眼差しをそそいだりはしなかった。
家には一人ずつ連れこんだ。
青白いババロアを夢中になって貪る彼ら彼女らから、ミストを抜き取る。脳みそがそのまま一本の線にでもなったように、つるるーん、と引っこ抜ける感触は、ただそれだけで病みつきになる。じぶんの耳からミストが抜ける様を追体験しているようだ。
いずれの者たちも、みなミストを抜かれると身体をガクガクと震えさせ、気を失った。
男性陣にいたっては、股間を汚してしまっていたので、後処理に苦労した。
未だ性行為の経験がない我が身である。肉体を交えるよりもさきに男性の汚れ物を手洗いするとは思いもよらなかった。男性の局部をもろに見てしまったこともそれなりにショックを受けたが、相手のミストを脳内に取りいれると、他者の局部ですらじぶんの身体の一部のような感覚に染まり、二度目からはさほどの抵抗も覚えずに処理できた。
記憶から知識から、考え方まで、蓄積されていく。上書きされることなく、底なしに積みあげられていく他者のメモリーは、じぶんが容量の大きな情報記憶装置のような錯覚を抱かせる。
滾々と湧く知の泉じみている。
ミストを体内に宿し、増殖させ、青白いババロアを食すことで次なるミストの種を補給する一連のサイクルよりも、それは、一回り大きな快楽を引き連れる。
青白いババロアの味に胃を掴まれるよりも、ミストが脳内から抜け落ちるときの全身が性感帯になるような底抜けの快楽よりも、じぶんではない他者の人生を貪る知的欲求そのものが、他者へミストを媒介する作業の歯止めをなくしていく。
喜怒哀楽の渦が、凝縮に凝縮をかさね、ミストを介して、一瞬でこの肉体に染みわたる。
同僚たちから引き抜いたミストは、湯船に放した。
ミストの繭とも呼べる青白いババロアは、同僚たちが貪り食うたびに減っていくが、湯を加えれば、またたく間に補完される。
湯船を覗く。
甘ったるい香りが濃厚に立ちのぼる。ミストの個体数は増加しているはずだったが、ときおりうっすらと見える、ミストたちの蠢く姿を窺知するほかには、これといった変化はなかった。
だから、ある日、湯船がまっくろに染まっているのを目の当たりにしたときは、心臓が飛びでるほど驚いた。
全身の血の気が引いたというよりも、それはどこか、地球滅亡の知らせを聞いた心地がつよくあった。
なんてことをしてしまったのだ、と罪悪感さえ覚えた。
が、間もなくそれが杞憂であることを知る。
その日は、ちょうど脳内にミストを入れていない日だった。職場の人間の記憶もおおむね味わってしまったので、さて次は誰にしようかと標的を見繕っている最中だった。
だからこそ、予備のない状態で、湯船のなかのミストが全滅してしまっていたらどうしようかと焦ったわけだが、こちらの心象の乱れに呼応するように、目のまえの湯船が隆起した。
精確には、湯船そのものではなく、中に詰まった青白いババロア、いまはまっくろに変色したミストの繭が、音もなく、湯気がのぼるように盛りあがっていく。膨らんだ餅のようだ。
縦に細長くそそり立つとそれは、溶けていく蝋人形を逆再生させるように、表面に細かな造形が浮きあがり、やがて目のまえには、はっきりと女性と解る人型が誕生している。色は濃い褐色だ。艶があり、人間のカタチを成してはいたが、ひと目でそうではないと判る質感を浮かべている。一種、グミのようだと言えばそれらしい。
間もなく、漆黒だったそれは青白く透きとおった肌へと移ろっていく。サナギから羽化した蝶を思わせるが、それよりずっと素早く変色していくため、どちらかといえばカメレオンみたいだな、とうわの空で見届ける。
目を剥く状況でありながら、内心、混乱してはいなかった。
目のまえの、青白く透きとおった彼女が、じぶんにとっては尽くすべき対象であるのだと、驚くほどすんなり理解できたからだ。
太陽が昇れば朝がくるのと同じくらいそれは確かなことだった。
誰に命じられるでもなく、その場にかしずいている。
対等に向きあうなど恐れ多いと知っている。
彼女はこちらに手を差し伸べる。
唇でそのゆびさきに触れる。
口づけとも呼べない接触でありながら、ずるずると注ぎこまれる息吹を感じた。
もっと、もっと。
飽くことのない忠誠心と、渇くことのない快楽の底に落ちゆきながら、
彼女にはいったい。
夢うつつに、モヤの底に沈みながら、考える。
彼女にはいったい、どんな記憶が刻まれているのだろう。
大量に蓄積した苗床の記憶を糧に、彼女は、これから何を視るのだろう。
それを知ることは叶わないのだと知りながら、知り得ない未知への畏怖を、身体の奥底から宝物のように抱くのである。
浴室からそとに出た彼女のあとを追う。
部屋の窓の奥には、無数の苗床がはびこっている。
自身の存在意義に気づくことなく情報を蓄積する快楽の虜が、誰に命じられるでもなく、せっせと世界を耕している。
彼女のための世界を。
尽くすよろこびに飢えながら。
尽きるよろこびに打ち震えるその日を待ちわびて。
【ちいさく、ばか、と息を吐く】(BL)
男が好きなわけではなかった。ただ、トモのことは好きだった。
親友と呼ぶには、愛おしすぎる。
どうにかじぶんだけのものにできないかと考えあぐねていたところで、トモのほうから想いを告げてきた。
「友達としてとかじゃなく、キスがしたいとかそういう意味での好きなんだけど」
もじもじと顔を真っ赤にして告げた彼の顔を掴み、強引に唇を重ねた。
苦しそうにしたものの、トモはそれを拒まなかった。
それから半年、トモには恋人として接してきた。学校ではこれまでと変わらずの仲だったが、放課後になれば、手を繋ぎ、デートをし、ひと気のない場所に行けばところ構わずキスをした。
人が通るたびに繋いでいた手をほどこうとするトモには、すこしばかり苛立ちを感じていたが、元から引っ込み思案のシャイな性格だったから、あばたもエクボではないが、愛嬌の一つに感じていた。
ところがさいきん、トモがあからさまにこちらとのスキンシップを拒む機会が増えてきた。そとでは手を繋ごうとしないし、キスをしようと迫れば、胸を押される。
「や、めて」
「またかよ。何度目だと思ってんだ」
一度や二度ならまだしも、こうも頻繁に拒絶されたとなれば、いくら器のでかい男でも我慢ならない。
「ごめん、でもそとでは、その」
「聞こえねぇよ、ハッキリ言えって」
「そとではヤダ」
目に涙をにじませ、キッとこちらをまっすぐと射抜く姿は、手負いの獣じみている。ただし、子狐とか子狸とかそういうのだ。
「そんな目で見るな。がまんできなくなる」
「なんでチャック下ろすの! しまって、しまって!」
「冗談だよ、うっせぇなぁ。そとじゃヤダってこたぁ、部屋ならいいのか」
「そりゃ、行為そのものが嫌なわけじゃないし」
「ユデダコみてぇだな。熱でもあんのか」
言いながら、額に手をやり、デコとデコを突きあわせる。そのままキスをしてやろうと企てたが、即座に顔を逸らされる。
「チッ」
「舌打ちしないで、傷つく」
「じゃあ何が嫌かちゃんと言え。手ぇ繋いだり、キスしたり、触れることそのものが嫌じゃねぇってんなら、じゃあ何が嫌なんだよ」
「それは」
「あァ?」
「こわい、こわいってば、その顔やめて」
「生まれつきだバカヤロー」
壁際に追い込み、顔のよこに手をつく。触れるか触れないかの距離にまで顔を近づけ、
「別れたいなら別れたいって言えよ」
耳元でささやくようにする。そのまま耳たぶでも噛んでやろうかと葛藤する。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
顔をめいいっぱい背けながらトモは、わんたんみたいな耳を真っ赤に染める。「だって、僕はそういう人間だから」
「そういうってなんだよ」
「女の子じゃなくて、男の子が好きな人間だから」
「だから?」
「でもそっちは違うでしょ」
「あァーん? 何が言いてぇんだよ、解かるように言えや」
「違うじゃん、僕にとっていまは奇跡みたいなものなのに、もし周りからヘンに思われて、それでなんか、別れるみたいなことになったら嫌だから」
「なんで別れることになんだよ。周りのやつらがどうだろうと関係ねぇだろうが」
「でも」
「あぁ、わかったわかった。要するにおまえは、俺からどう思われるかよりも、周りのやつらからどう見られるのか、のほうを気にしてんだ。そういうことだろ」
「ちがう、そうじゃなくて」
「違くねぇだろ、そういうことだろうがよ。つうかおまえは俺が男だから付き合ってんのか。俺はおめぇがおめぇだから好いてんだ。もし俺が女になったらじゃあおめぇは俺のこと好きになんねぇってそういうことかよ」
「そうじゃなくて」
「じゃあ何が問題だってんだ、言ってみろよ」
「だってもし別れても、そっちはほかに好きなひとができればすぐ付き合えるじゃん。でも僕はちがう。ずっと好きで、やっと繋がれたのに、手放したくない。僕たちの仲を引き裂くなにかになるようなものは、どんなものでも排除したい。べつに周りの目なんか気にしてないけど、でも、反対するひとだってやっぱりいるし、気持ちわるいって、僕たちのこと見て言ってるひとだっていたでしょ」
「んなやつらの言葉に俺がどうにかなるとでも思ってんのかよ、とんだ屈辱だなぁ、おい」
「信用してないわけじゃないけど、でもこわいんだ」
「ふざけんな。だいたい、あァ? 俺が誰とでも付き合える? 俺がおまえ以外を好きになるとでも思ってんのかよ」
「だって彼女いたじゃん」
「そんときゃ、おまえのことがこんなに好きだって知らなかったからな」
「じぶんのことでしょ、知っといてよ」
「はァ? 逆切れかよ」
「そうだよ、だって僕がこんなに不安なのはぜんぶそっちのせいじゃないか」
「おめぇがかってに不安がってるだけじゃねぇか。俺ぁ、いますぐにでも結婚したっていいんだぞ」
「ば、ばかでしょ」
「したくねぇのかよ」
「うれしいけど」
「けど、なんだ」
「だって僕、男なのに」
「俺だって男だ。自慢になってねぇぞ」
「張りあうつもりで言ったんじゃないってば」
「めんどくせぇなぁ。わぁったよ。そとではイチャイチャしない。これでいいんだろ」
「う、うん」
「そんかし、帰ったら解かってんだろうな」
「ん? なにが? わかんない」
「なんでだよ! めっちゃイチャチャすっからな。寝かさねぇぞ」
「きょうはもう疲れたよ。ふつうに帰って寝よ。イチャイチャはなし」
「ダメだ。めっちゃイチャイチャする。帰るぞ」
「えー」
「おまえ、マジでそういうとこ直せよな。付き合いきれねぇって、ざけんな」
「僕さ、ときどき思うんだよね。ひょっとして身体目当てで付き合ってるだけなんじゃないかって」
「俺がか?」
「ちがうの?」
「なわけあるか」
「じゃあ我慢できるでしょ」
「楽勝よ。おまえから誘ってくるまで指一本触れねぇかんな」
「よしよし」
「撫でんな。誰かに見られたらハズいだろ」
「周りの目なんて気にしないんじゃなかったの」
「気にしてねぇよ。ハズいだけだ」
「そういうとこなんだよね」
トモがしみじみ言うものだから、そういうとこなのか、と流れで呑みこみそうになったが、そういうとこが何なのか、と気になったので、
「なにがだ」トモを見る。
「好きだなぁって」
「お、おう」
「なんかほら、犬みたいで」
「お、おう?」
腕を組み、考える。「それは、なんだ。よろこんでいいのか? 怒ったほうがいい気がするぞ」
「褒めたんだからよろこんでよ」
「しゃぁねぇなぁ」
トモに抱きつこうとするじぶんを自覚し、
「おっと」寸前で押し留まる。
「いいよ」トモは両手を広げ、「いまはとくべつ」
言うものだから、受け入れ態勢万端なかわいい恋人のために、俺はしょうがなく、そのちいさな身体を引き寄せる。
「さっきの話な」
「うん?」
「結婚してぇってやつ。本気だから」
トモはこちらの腰に手を回す。しばらくこちらのミゾオチに顔を埋めるようにしたあとで、こんどは俺を苛立たせない声で、ちいさく、ばか、と息を吐く。
【きれいきれい、しましょ】(ホラー)
姉はむかしからきれい好きだった。じぶんのおもちゃだけでなく、ぼくのおもちゃまで、箱のなかに仕舞ってしまう。隙間なんてないくらいきっちり収めるものだから、姉はきっと積み木をやらせたら世界一だな、と幼心に思っていた。
じっさいに積み木に似たゲームをやらせれば、姉は延々とそれをやりつづけてしまう。親は姉にゲームの類をやらせることを禁じ、ついでのようにぼくにまで禁じた。姉はべつにゲームが好きなわけではなかったから、不平を鳴らすこともなかったが、ぼくはゲームが大好きだったので、不満が爆発した。もちろんぼくの怒りが聞きいれられることはなかった。
姉のきれい好きは日に日に磨きがかかっていった。
そとから帰ってきたらうがい、手洗いは基本だ。シャワーまで浴びるので、うちの高熱水道代は一般家庭よりも高い。
マスクに手袋に、除菌スプレー、抗菌ティシューと、姉の化粧ポーチのなかには、化粧品よりも、いかに菌に触れずに済むかのアイテムがごっそり完備されている。
姉のきれい好きにはたびたびぼくたち家族は困らされてきた。
たとえば、姉がまだ小学生のときのことだ。テレビで、腸は第二の頭脳とも呼ばれていると、雑学が披露されていた。たくさんの腸内菌がいて、身体を内側から整えているのだと言っていた。親といっしょに、ほえー、と感心していたぼくとはちがって、姉はあろうことか、自身の内側にいる菌すらも許せなかったようで、まだテレビが終わってもいないうちから席を立ち、台所へ行くと、おもむろに洗剤を手にとり、ごくごくと喉を鳴らして、まるで牛乳でも飲むみたいに飲み干してしまった。
母親は動転し、父親はなんとか姉の胃のなかの洗剤を吐きださせようと躍起になり、姉のくちのなかにゆびを突っこんだ。適切な処置ではあったが、最善ではなかった。
姉にとって、他人のゆびなんて、毒蟲みたいなものだ。
父は姉に思いきり噛まれ、中指を失った。
母の呼んだ救急車には、父と姉がいっしょになって運ばれた。
姉は一命をとりとめた。食いちぎられた父のゆびは、賢明な医師の処置により縫合された。姉の、一抹の情けもない思いきりのよい、噛みちぎり方がよかったのかもしれない。
いまでも父の中指はうまく動かない。手をまるめると、誰にともなく中指を突きたてているみたいになるため、父は人差し指もいっしょに立てて、ピースをつくる癖がついた。
それ依頼、母も父も、姉のきれい好きを責めるような真似をしなくなった。
わるいことばかりではない。姉のおかげで我が家はいつもきれいだ。
姉に掃除をさせたら、どんなに根強い油汚れでも、カビでも、まるで新品のようにきれいになる。姉は手袋とマスクさえあれば無敵だった。
汚い物を目にしても、姉が取り乱すことはない。存在することが許せないだけで、むしろ姉にとって汚さは、弱点ではなく、根絶やしにすべき悪なのかもしれなかった。そこに容赦はない。姉の手で駆逐されていく、埃やゴミやシミの数々には、同情を禁じ得ない。
ことし、姉は高校三年生になる。世のなかからゴミを失くしたいとの思いが講じてか、環境デザイン学科に進学するという。じつに姉らしい進路だ。
ぼくはと言えば、ようやく中学生活に慣れてきたところだ。クラスのスケベな友達がぼくに、余計な知識を授けたりしてくるものだから、家に帰ってから姉と顔を合わすのが気まずい。
おっぱいなんてぜんぜん興味なかったし、いまでもそれほどいいものとは思わないけれども、言われてみれば触ってみたい気にもなってくるから、スケベな知識も考えものだ。
その夜、ぼくは初めて夢精をした。
じぶんでじぶんの生殖器をいじってみたことはなく、正真正銘、初めての精通だった。
朝になる前に、股間のぬめり気に気づき、起きた。
シャワーを浴びながら、汚れた下着を洗った。姉に知れたらどうなるか、と思うと、これからはときおり頃合いを見て、じぶんで処理をしなければ、とほぞをかためる。
浴室からあがろうと戸に手をかけたところで、なぜかかってに戸が開いた。
脱衣所には姉が立っていた。
すっぱだかのぼくを見下ろし、
「なにしてるの」
「シャワーを……」
「その手のはなに」
姉はぼくの握っている下着を見詰めた。下着は雑巾みたいにねじれていて、一見しただけでは下着とは判らない。
「タオルだけど」
「そう」
姉はなおもそこをひかない。弟の裸なぞ視界に入れたくはないだろうに、なぜか目を逸らすこともせず、
「なにか臭わない?」
鼻をすすりもせず、言った。「臭い。汚物の臭いがする」
「そ、そう?」
私の嫌いなものの臭いがする、とわざわざ言い換え、姉はこちらを目だけで見下ろす。
「ねぇ、学校で習った?」
「なにを? ぼく、着替えたいんだけど」
「思春期の男の子は、汚いものを出すようになるんだって」
「汚いって、精子のこと?」姉の言いぐさには、差別的な響きがあった。「汚くないよ、いいからどいて」
「そっか。そうだよね」
もうそういう年になっちゃったかぁ。
抑揚なく言って姉は、こんどはぼくに目を合わすことなく、まるでお菓子を食べ飽きた幼子みたいに、脱衣所から出ていった。
翌日、ぼくは母に、自室に鍵をつけてほしいとお願いした。なんでそんなものを、と軽く受け流す母のよこを姉が通り抜けていく。
その手には、ハサミに似た道具が握られている。誰に頼まれるでもなく、母が買ってきた栗を割りだしている。
「お姉ちゃん、栗剥き用のはそれじゃないよ」
母が言うが、姉は意に介さない。「いいの、練習しときたくて」
がっちん。
クルミを割るための道具で姉は、器用に栗を砕き割る。
【下品でまじめなクラス委員】(コメディ)
下ネタはあかんねん、と委員長が言いだした。眼鏡で色白で、本人は気づいていないけれど、ひそかに女子に人気がある。
「笑いのなかの王様が下ネタやねん」彼は続ける。「ウケて当然、チートなネタや、んなもんつこてたらお笑いの腕がなまてまう」
「急に関西弁使ってどうした、おまえ北海道出身やろ」
「おまえの関西弁がウツてしもたんでんがな」
「や、おれ出身、神奈川や。おまえが使ったから被せただけで、べつにふだんは関西弁ちゃうやん」
「被せんなや! おまえはあれか、妊活してます言うてるわりに、毎晩極薄クンつこてる夫婦かなんかか?」
「ゲッスい下ネタぶっこんでくんの、やめて。ふだんのきみ、セックス言うだけで顔赤くなるシャイボーイでしょ、きょうに限ってなんなの、なんでそんなギリギリなキャラなの、新手の自傷行為なの? なんなの?」
「これはあれや。大学デビューや」
「ぼくらまだ校二ですやん」
「予行演習や。こういうのはな、早め、早めの準備が功を奏すんや、見てみぃ、いま通り過ぎてった女の子、わいの見事なフライングに、プラグインしとうて、しとうてたまらん顔しとったで」
「下品やな! きょうはおまえ、いちだんと、史上最悪に下品やな! てか女の子に失礼やろ、犯罪に手ぇ染める前に自首しとき」
「そういうなぁ、下ネタ言うときゃ笑うやろみたいなネタやめてくれませんかねぇ」
「おまえが言う?」
「だいたいなぁ、おまえの顔はおかしいねん」
「ほう。聞き捨てならねぇイチャモンだが、聞くだけ聞いとく。どの辺がおかしい? 言うてみぃ」
「まずな、鼻や。穴が二つ開いてるっておまえ、プラグインか」
「それさっきのや! 伏線やったんか、微妙に器用な真似すんなや」
「あとな、口や。やわらかい唇のすぐ裏っかわに、ごっつぅ固い歯があるて、どないやねん。インプラント、インかいな」
「強引すぎるやろ! プラしか合っておらへんやん、プラグイン言いたいだけちゃうん」
「目もあかんで、おまえさん。目つきから、視力から、なにからなにまでわるそうやでぇ、こんなんじゃあれや、眼鏡が入り用や、グラスインや、んで装着したあとでわいみたいに」
「クラス委員やないかい! ってフライングてしもうた」
「まあ、仮におまえがどれだけエロうなっても委員長はわしなんやけどな」
「そりゃどれだけエロくなっても、偉くならんなら、地位は変わらんでしょうけども! てかこんなコントかまして、みなさんドン引きしてはるよ。委員長、そろそろ議題のほう進めませんか。ほら、先生までなんか苦笑いしてはりますよ。女子のみなさんの視線が痛いですよ」
「では進めましょか。きょうの議題は、男子の下ネタが聞くに堪えないので、禁止しませんか、です。下ネタで笑える方も、笑えない方も、まずは下ネタじゃないことで楽しむ方法を学んだほうがええと思うんですけど、下ネタですらクスリとさせられないぼくらみたいな人間もいるので、ぜひとも、誰かを楽しませる術があるなら教えていただきたいのですけれども、せつじつなお願いでございますけれども、ええ。そろそろみなさん、そのつめたーい、視線、やめてもらってもええですか?」
「まずはおまえがエセ関西弁をやめてみたらいいのでは?」
「ぼく、この学級会が終わったら、だいすきなエミちゃんに告白するんだ」
「フラグをインして終わらせに走るのやめなさいよ、インどころか折ってるよ、ボッキボキだよ、見てよ。エミちゃんがめっちゃ顔逸らして、泣きそうな顔してる! 告白する前からフラれたみたいになってる! 委員長、めっちゃ不憫! 見てられない!」
「だから言ったやん。下ネタはあかんねん。悲惨な未来しか呼びこまへんねん。Cryはインせず、アウトしていい?」
「眼鏡の委員長っぽい、分かりにくいギャグぶっこんできた! そのままフィードアウトしてくれ、もうええわ」
「下ネタで笑わせるのも、一周回ってむつかしい時代になってきましたなぁ。こんなお粗末なコントじゃ、いいね!は一個もつかないんと違います? おあとがよろしいようで」
「最後にメタぶっこんできた!」
「そこはメタをインって言ってー」
「いい加減にしてくれ」
「まだまだ終わらせへんで。見てみぃ。クラス委員のわいらのコントでクラスのみな固まっとるで。先生のイビキ声まで聞こえる。プラグインどころか、クラスしーん、や」
「なあ、一ついい?」
「ツッコめや!」
「けっきょく、プラグインってなんなの」
「そりゃあれや。アプリやらソフトやらに追加する補足プログラムみたいなもんや。さながらわいらのコントに挿しこまれる、メタ的なオチみたいなもんやな。下ネタはあかんねん。オチつけんのがムズイやん。な?」
「はあはあ。うまいこと言ってたんですね。でもね、ぼくは思うんですよ。メタよりかは、ベタのほうがいいんじゃないかって」
「どないやねん」
「ベタはベタでしょー。おまえみたいな似非関西弁の下ネタ好きクラス委員長の右腕なんてね、今日付けで」
「なんや」
「やめさせてもらうわ」
【遺体を処理したあとのステーキは美味い】(ミステリィ)
冷蔵庫に遺体を押しこみながら高尾は思う。
ふつうの人間は頼まれても遺体を遺棄したりはしないだろう、と。
冷蔵庫にガムテープで目張りをして、一息吐く。
よくよく考えてもみれば、密室殺人というのも、なかなかバカな発想だ。
人を殺すためにわざわざ密室をつくりあげる意味が解からない。捕まりたくないのならば、すべきは、密室の構築ではなく、遺体の処理だろう。
人を殺して捕まらないためには、人が殺されたと知られなければいい。遺体が発見されなければ殺人事件として調査されることもない。
科学技術は年々進歩している。遺体が発見され、調査されればまず犯人は捕まる。警察上層部の都合上、もみ消される事件は数あれど、一般人の犯した殺人なら十中八九、罪に問われるハメになる。
だからこそ、遺体をどうやって消すかが重要だ。
「煮るってのはどう?」
世界殺人百科事典、なる物騒なタイトルの本を読みながら、サシミが言った。洗濯機が鳴る。サシミは洗濯物を取りに歩き、室内に干す。その姿を眺めてから、高尾は彼女の読んでいた本に目を通す。
「煮て、下水に流す、か。却下だな」
「なんでよ」
「まず臭いがダメだ。誤魔化せない」高尾は鼻をつまんでみせる。「あとは、単純に、煮るだけの火力が足りない。細かく煮るにしても、一気には無理だ。そのあいだブツギリの遺体はどうする? 裁断するのも面倒だ。せっかくきれいなままなのに、部屋に血痕が残る。だったら山奥にでも運んで、埋めたほうがはやい」
「でも動物に掘り返されたら」
「ああ。だから山に埋めるのも却下だ。煮るのはそのした。下の下だよ。悪手だ」
「あ、下水管が詰まるかもだって」サシミはメディア端末を操作している。器用に片手で下着に洗濯バサミを挟みながら、「脂肪が固まるんだって。それで発覚することも多いって。なんだ、案外みんなやってんだ」
「遺体を家のなかで処理するのはナシだ。証拠が残るし、なにより近隣の目がある。やりにくいったらない」
「高尾は気にしすぎって感じもするけど」
「おまえが気にしなさすぎるんだ」部屋に干された下着を見遣り、「恥じらいもないときたもんだ。そんなだから、俺みたいなやつに泣き縋るハメになるんだよ」
「高尾が言えって言ったんじゃん。困ったら助けてやるからって」
「よもや、駆けつけた現場に遺体があるとは思わないだろ。どうにかしろ、と言われてもなぁ。自首したら?と言いたいくらいだ」
「できるならしてるよ」
無駄口を叩いているヒマはない。事は緊急を要する。
発端は、サシミの勤務先でのことらしい。看護師として働く彼女は、職場の医師から頼みごとをされた。それは仕事とは関係のない、医師のプライベートに関することだったらしいが、立場上断れずに、というよりも、頼みをきいておいたほうがのちのちじぶんのためになるとの打算を働かせた結果だろうが、ともかくサシミはその医師からの頼みを引き受けることにした。
サシミは医師から一本の薬品を預かった。それをとある男に渡してほしいというのだ。
忙しくて時間が割けない、と医師は言っていたものの、ならば運輸業者を使えばよいではないか、と怪しむだけの思考をサシミに働かせろと希求するのは、ペンギンにそらを飛べというのと変わらない。
ペンギンはそらを飛ばないし、サシミは医者の言うことを疑わない。唯々諾々と預かった薬品を持って彼女は、指定された時刻に、指定された場所へと赴いた。
「で、来たひとに渡したはいいんだけど、そのひと、さっそく蓋空けて中身をぺろって舐めるでしょ。したらさ」
なんと泡を吹いて卒倒したというのだ。のみならず、そのままお亡くなりになられたという顛末だ。
「脈測ったらないし。救急車呼ぶ前にまずは古蓮(コハス)さんに連絡しようと思って」
サシミに薬品を預けた医者の名が、古蓮サイだ。連絡してみたが、相手に通じず、動転したサシミがにっちもさっちもいかなくなり助けを求めたのが高尾だった。
「で、遺体を回収して、いまに至るってわけだ」
「言われなくても解かってるってば」
「んで、きょう、病院でその医者に会ってきたんだろ」
「そうだよ。さっき話したでしょ。あの薬品なんなんですかって、死体のことは言わずに訊いたら、知らないって。薬品のこともだけど、あたしに頼みごとなんかしてないって。何を言っているんだって、ヘンな薬でもやってるんじゃないかって、大声で。白々しい」
「ハメられたってことだろ。証拠はなにもないわけだ。その医者から頼まれたってのは、ぜんぶ、サシミ、おまえの言葉でしか証明するものがない」
「うん」
「きのうも言ったが選択肢は二つだ。自首するか、遺体をなんとかして、その医者が言うように、何もなかったこととするか」
「なんであたしだったんだろ」
「医者がか? 身寄りがなく、何か事件を起こしても助けを求める相手がいなさそうだったからじゃないのか」
「なにそれ。どこの占い師が言ったの、めっちゃ当たってるんだけど」
「薬品の出処は判ったのか」
「病院でそれとなく、紛失物がないか管理室に問い合わせてみたんだけどね。とくに異常はないって。あと、ひと舐めして即死って毒物もないって」
「薬品自体はまだ持ってるんだよな」
「うん。分析器にかけられればいんだけど、痕跡がねぇ」
「毒物だったらマズいよな」
「マズいよ。なんで持ってるんだって聞かれたら困るじゃん」
「色とか臭いとかで解からないか」
「ひと舐めするだけで死んじゃうんだよ。即効性のある致死性の毒なんて、ちょっとした化学兵器だよ、ないよ、仮に解かったとしても嗅いだりなんかしないからね」
「ひょっとしたら遺体さんも騙されたのかもな。ドラッグか何かの取引だったはずが、いざ舐めてみたら毒でした、じゃ成仏しようにもしきれないな。ということは、医者のほうはずいぶん前から殺す機会をうかがってたのかもしれん。ってことはだ」
「なに」
「調べても医者と死んだやつとの交流関係はそうそう出てこないってこった」
「なんで? 調べたら分かるんじゃない?」
「サシミ、おまえが殺人犯で捕まることを想定して医者は殺人を計画したんだぞ。本当ならおまえはいまごろ殺人容疑で警察の取り調べを受けているころだ。そこでおまえが、医者の名前をだしたらマズイってことくらい、いくらなんでも医者のほうでも想像できるだろ」
「そうかも」
「だが医者のほうにはぜったいに誤魔化せるという自信があった。だからおまえを利用したんだ。可能性は低いが、じつは死んだ男とおまえとのあいだに接点があるかもしれない」
「ないよ、知らないもん」
「勤務先が病院なら、元患者から、製薬会社の人間、いろいろいるだろ。他人と接点を持たないほうがむつかしいんじゃないか」
「そりゃまあ、そうだけど。だったら古蓮さんは医者なんだし、もっと接点があるんじゃないの?」
「その言い分を警察が聞いてくれるかね。いま警察に行けば十中八九、容疑者はサシミ、おまえだ。医者ではなくてな」
「だよねぇ」
肩を落とすサシミを元気づけるつもりで、
「俺を頼ったのは正解だったな」と口にする。「医者の目論見は外れた。頼まれたとおり、俺がなんとかしてやるよ。サシミ、おまえはこれまでどおり仕事をしてろ」
「でも古蓮さんもいるんだよ?」
「職場にか? 関係ないだろ。向こうさんからは何も手出しはできないさ。なんたって、おまえとは何も関係がなく、何も頼んでいないテイを維持しなきゃなんないんだからよ」
「でもさすがに、あたしに異変がなかったら怪しむんじゃない? 死体はどうしたんだって。あの毒なんですかってきょう話しかけちゃったから、相手が毒を飲んだってことは知られちゃったと思うし」
「最低でも、遺体が発見されるまでは、医者からおまえにアクションを起こすことはない」
「でも、死体が」
「なんとかするさ。その医者の言うとおりだ。おまえは誰からも何も頼まれていないし、薬品なんかも預かっていない。誰とも会ってないし、遺体なんか見ていない」
「でも冷蔵庫にギュウギュウじゃん」
「開けるなよ。まあ見てろ。一週間以内にきれいさっぱり消してやるから」
「助かるけど、だいじょうぶなの?」
「腐れ縁だしな。安くしといてやるよ」
お金とるの、と怒らせたくて言ったつもりだったが、思惑を外れ、サシミはうつむいた。
「いまさらだけど、巻きこんでごめん」
「ホントだよ」
言うとさらにうなだれる。ただまあ、とため息を吐いてみせる。「よく打ち明けてくれたな。ありがとな。頼ってくれて」
「やめて」
サシミはこちらに下着を投げつける。「罪悪感がつのる」
日中、サシミは職場へと出張っている。部屋はこころなしよどんで感じられる。冷蔵庫に詰めこんだ遺体は、冷やしているとはいえど、腐敗しはじめているころだ。凍らせてしまえればよいが、それだけ大きな冷蔵庫は一般には出回っていない。
いそいだほうがいい。
まずは方針を固めよう。
遺体をべつの場所へ運んでしまいたい。
遺体を切り刻んで、下水に流す案は却下した。残る選択肢はそう多くはない。
埋めるか、沈めるか、燃やすか、溶かすか、食べさせるか。
宇宙へ飛ばせるならそれに越したことはないが、技術的にむつかしい。可能だとしても目立ちすぎる。却下だ。
埋めるのと沈めるのは、手法が似通っている。ドラム缶に遺体を詰め、コンクリートを流し込んで固めてしまうのは定石ではある。とはいえ、遺体は腐敗する。生のままで固めても、腐敗ガスによって、コンクリートが割れてしまうおそれがある。水に沈めても浮きあがることがあるほどだ。
腐敗しないようにまずは骨だけにするのがよさそうだ。
ならばやはり、遺体を処理するうえでは、燃やす過程が不可欠となってくる。そうは言っても、遺体を骨だけにするには相当な温度が必要だ。一〇〇〇度はいるだろう。火葬場ではそのくらいの温度に設定されているはずだ。
時間を気にせず、じっくり焼けば何とかなるかもしれないが、時間をかければかけるほど、何かが燃えている、と気にする人間がでてくる確率があがる。発覚するリスクをかけないためには、高温で一気に骨だけにしてしまうのが理想だ。しかし自力でそれだけの温度をつくりだすのは至難だ。ピザや陶器を焼くカマドでもせいぜい四〇〇度だ。熱が足りない。
いっそのこと沈める場所を海ではなく、火口にしてはどうだろう。マグマに沈めれば、遺体は見つからない。否、そんなだいそれたことをせずとも、遺体を沈める場所を、陸から離れた海のうえにすればよいのではないか。
不法投棄や密漁は、比較的誰であっても考えつく、裏ビジネスだ。手軽に金を稼げるだけでなく、足がつきにくい。
しかしその分、漁港のセキュリティは甘くないだろう。主要な港にはどこもレーダーが張りめぐらされている。
旅客船に乗じるにしても、荷物のチェックやら何やら、いろいろとされるに違いない。
一介の素人がこっそり遺体を捨てに海には出られないだろう。魚釣りを装うにしても、漁港の人間を味方につけておかないことには、すぐに足がつく。
ならばあとは、遺体を溶かす手法だ。どこかの国で数百人の遺体を薬品で溶かし処理した男が逮捕された記事を読んだ憶えがある。
しかしこれも、遺体を煮るのと同様に、手間がかかる。材料を揃えるだけで目立ちそうだ。人間一人を溶かしきるのに必要な化学物質を入手した時点で、どこかしらから奇異な目で見られることになる。
怪しまれては、遺体を処理する意味がない。
ならば最後に、遺体を食べて処理する手段が残される。とはいえ、高尾にカニバリズムの気色はない。遺体を捌いて、調理し、美味しくいただきますするつもりは端からないのだ。
高尾は台所に目を向ける。赤褐色の外皮をした昆虫を今朝方に見つけ、つぶした。塵も積もれば山となるではないが、虫も増えれば遺体の一つも消してしまうのではないか、と連想する。
むかしながらの拷問に、ムシ風呂と呼ばれるものがある。五右衛門風呂さながらに煮えたぎった油に沈めるのもまた「蒸し風呂」らしくはあるが、ここでいうムシ風呂はそうではない。ドラム缶にそそぐのは熱湯ではなく、蟲である。
カニやフナムシなど、人間の肉を食いちぎり、糧とできる生き物を大量に放りこむ。根をあげるまで人間をそこに浸からせ、主君の気分によってはそのまま骨になるまで放置する。
同様に、腹を空かせたブタや犬の餌にしてしまうのも一つだ。獣といっしょに檻に放りこんでおけば黙っていても骨だけになる。とはいえ、獣を管理するだけの土地はなく、よしんばあったとしても、肝心の獣を仕入れるには目立ちすぎる。一匹や二匹では足りないからだ。
そう言えば、と思いだす。
たしか樹海では、自殺者の遺体が白骨化して発見されることが多いと聞き及ぶ。遺体を運び、自殺者に見せかけて放置すれば、ただそれだけで処理としては充分なのではないか。
思うが、樹海への道には関所があるとネットには載っている。一般的な登山道よろしく、登山者の名簿をとっているようだ。荷物もそこでチェックされるだろう。自殺所の名所として名高いだけに、それなりの予防策がとられているようだ。
樹海でない森でもいい気がしてくる。首つり自殺に見せかけ、遺体を放置してはどうだろう。白骨化するまで見つからなければ、たとえ発見されても捜査はされないのではないか。
思うが、遺体は冷蔵庫に詰めるために、やや強引に折りたたんでいる。骨に何かしら痕跡が残っているかも分からない。森へ遺体を運ぶにしても体力がいる。サシミに協力してもらうにしても、二人でおとなひとり分を担いで、山奥へ分け入るには、それなりの準備が必要だ。ひと目を避けるために夜間での行動となる。森のなかはほとんど真っ暗と考えてよい。足場も不安定だ。自殺するために入ったということは、そこまで何かしらの乗り物で来たことになる。自転車くらいは用意しておいたほうがよいだろう。
そこまで考えてから、いや、とかぶりを振る。
自殺者がわざわざそんな苦労をしてまで森の奥深くへと足を踏み入れるか?
誰にも迷惑をかけずに死にたいと欲し、山奥で死ぬ。
樹海で自殺する者たちが絶えないことを考えればそれほど不自然ではないかもしれない。
が、やや不自然さが残る。
せっかく発見されにくい場所に遺体を捨てるなら、自殺者に見せかけるまでもなく、埋めたほうが合理的かもしれない。
しかし、埋めたとなると、遺体が発見されたときに、事件として調査される確率が高くなる。十中八九殺人を視野に入れての調査が開始される。
自殺に見せかけるほうがリスクは低いが、白骨化する前に発見されないような場所まで運ぶには、それなりの手間と危険を犯さねばならない。
こと、これだけカメラの溢れた時代だ。長距離移動する車両をチェックするようななんらかのシステムが秘密裏に運用されていてもおかしくはない。
GPSの組み込まれた車両が標準となった現代では、車両そのものが追跡装置と化している。犯罪に使った車体は処分するのが利口だ。
とはいえ、愛車を犠牲にするつもりはない。日常にない派手な動きは、何らかの不自然さを残す。
もっとシンプルに、リスクの低い手段があるはずだ。
白骨化させる案はなかなかよい線をいっているように感じる。時間さえかけられれば、このまま冷蔵庫のなかでミイラ化するのを待つのも手だ。
しかし、繰り返しになるが、ことは急を要する。
サシミがすでに、黒幕たる医者へと告げてしまっているのだ。
あの薬品はなんなのか、と。
暗にそれは、待ち合わせ場所にきた男が死んでしまったことを問うている。
医者が匿名で通報していればいまこの瞬間に、この家へと警察が踏み込んできてもおかしくはない。そうでなくとも、医者本人か、或いは代理人が乗りこんできて、遺体を発見しても、こちらに言い逃れの余地はないのだ。
真相がどうであれ、遺体を運び、遺棄しているのは事実なのだから。
あすにでもここから運びださねば。
いっそのこと、遺体なぞ放置してくればよかった、という思いに駆られる。
サシミから連絡を受け、事情をろくすっぽ訊かぬままに、まずはさておき遺体を処分しなくては、と考えてしまったのがよくなかった。
たしかにあの場はサシミには不利な状況だったが、サシミが殺したわけではない。
黒幕の医者がなんと言い張ろうと、警察だってサシミの言い分を無下にはしなかったはずだ。
いまからでも遅くないのではないか。
遺体を処分するリスクを考えれば、サシミと共に自首してしまったほうが損をせずに済むような気がしてくる。
医者が黒幕だと証明することはむつかしいかもしれない。しかし、サシミが主犯ではないと証明するだけなら可能だろう。
医者から預かった薬物はまだこちらの手中にある。サシミにそれが入手困難だと証明できさえすれば、死体遺棄の罪だけで、殺人犯の濡れ衣は被らずに済むのではないか。
「あ、ムリかも」
帰宅したサシミにさっそく考えを伝えると、彼女はあっけらかんとした口調で、
「きょう、なんか病院で盗難があったって発覚して。いくつかの薬品が盗まれてたんだって」
「おかしいだろ。だってサシミ、おまえ、たしか管理部に問い合わせて確かめたんじゃなかったのか」
「うん。あたしが問い合わせたから、わざわざ確認してくれたみたい。で、結果から言うと、データ上、あたしが保管庫に入ったのを最後に、数が合わなくなってたんだって」
「だって、っておまえ」
「犯人扱いだよね。言い逃れできなくて、用事があるって帰ってきちゃった」
「いやいや」
「だってあたしわるくないし。盗んでないし。殺してもないし」
いまごろ病院では警察が調査を開始しているころだろう。
「どうするつもりだ。いま乗りこまれて、おまえの持ってる薬品が押収されたら」
「本当のこと言うしかないんじゃない?」
「遺体まで見つかったら誰も聞き耳なんか持たないぞ」
「でもあたしがわるいわけじゃないし」
飄々と受け答えする割には、買ってきたペットボトル飲料の蓋を開けては、閉め、開けては閉め、を繰りかえす。解かりやすく混乱していると見える。
「そうだな。おまえはわるくない」
「そうだよ。そうでしょ。なんであたしが」
言ったきりサシミはその場にしゃがみこみ、ひざを抱えて、うずくまってしまった。
「寝るなら布団で寝たらどうだ」
「眠くない」
「あした」まずは安心させたくて口にする。「遺体を運びだすことにした。本当は自首したほうがいいんじゃないかとも思ったんだが、状況が悪化したなら、やはり遺体を処分するほうがリスクがないように思う。どうする?」
「いま自首したらどうなるの? あたしわるくないのに」
「捜査はされるだろうな。容疑者にもされるだろう。医者はわれ関せずを貫くだろうし、きょうのその様子じゃ、ほかにもおまえが犯人かのような状況証拠がゴロゴロでてきそうな感じもするな」
「どうしよう」
「遺体の処分は俺に任せとけ。ただ、このまま泣き寝入りってのも癪だしな。せっかく薬品はこっちが握っていることだし、いっちょハメ返してみるか?」
「古蓮を? アイツに仕返しできるの?」
「やるだけやってみるか。薬品を盗んだのが古蓮ってことにくらいはできるかもしれん」
「どうやって? だって証拠はないんでしょ」
「そうだな。証拠はない。ん? いや、待てよ」
高尾はそこで閃いた。「やめだ、やめ。あす遺体を処理するって言ったな。ありゃウソだ。そうだ、それがいい」
「やめるって、自首するってこと?」
「いや。因果応報。おまえをハメたやつには痛い目を見てもらう。それこそ、罪を償ってもらおう」
「どうするの」
「任せとけ。おまえはあすも仕事に行け。あとは俺がなんとかする」
サシミは詳しい説明を聞きたがった。彼女は知らないままのほうが都合がよい。とにかく任せろの一点張りで押し通す。
「それって高尾が犠牲になったりしない?」
自己犠牲で解決する気じゃないのか、と不安がっている様子の彼女へ、なるわけないだろ、と笑って見せる。「俺がおまえのために犠牲に? バカ言ってんな。ぶっちゃけ、おまえがどうなろうと俺にゃあ関係ないからな。ただ、まあ」
「解かってるよ。恩を返してくれるだけなんでしょ。これで貸し借りはチャラ」
「ああ。よもやおまえが俺と交流あるなんて、誰も思わなかっただろうな」
「だから古蓮のヤツもあたしを利用したのかもね」
「こんな男と接点あるとは夢にも思ってないだろうよ」
だからこそ、勝算がある。
「まあ見てろ。天網恢恢疎にして漏らさずってな。お天道さんは悪を見逃さないって相場は決まってんだ」
「それ」
サシミの片目にしわが寄る。彼女は服をぽいぽいと脱ぐと浴室の戸を片手で支え、「まっさきに天罰くだるのあなたっしょ?」
この世の真理を突いた、といわんばかりのポーズを決めては、返事を待たずに戸を閉じる。水のしたたる音が響きはじめる。
ある意味、天罰はくだっているのかもしれない。
脱ぎ捨てられた下着をゆびでつまむ。とくに何も感じない。蝉の抜け殻を扱うような手つきで、洗濯機のなかへと放りこむ。
翌朝、サシミが出かけてから、行動を開始する。
夜までには作業を終えた。
家に戻ると、サシミはすでに帰宅しており、夕飯の支度をして待っていた。コーン入りシチューは高尾の好物だった。
「いちおうステーキも焼けばあるんだけど、ほら、あれじゃん」
「遺体を処理したあとで食べる勇気があるのかってか? 舐めんな」
ひと仕事して腹が減ったと文句を鳴らすと、
「本当にだいじょうぶなんだよね」
しんみりとするものだから、調子が狂う。べつだん、本心から肉が食べたいのか、と訊いているわけではないだろう。ふだんなら売り言葉に買い言葉が飛んできてよかった場面だっただけに、ほとほと、弱っていたのだな、と改めて感じ入る。
「おめぇがそんな気の弱い女だったとはな」
「ふつうでしょ。これは弱いとは言わない」
「そうだな。おまえはつよい」
「バカにしてるでしょ」
「医者はいまごろ頭を抱えているころだろうな」むつけられても困るので、話を逸らしがてら、安心していい旨を披歴する。「きっとあすは仕事も休むんじゃないか」
「なんで? なにしたの? 死体は?」
「置いてきたよ」
「どこに」
「部屋に。医者のな」
「え? それだけ?」
「それだけっておまえなぁ。考えてもみろ。向こうさんはおまえが一人きりで、誰にも相談できずに、遺体を持て余した末に警察に捕まるか、遺体を遺棄するか、まあなんにせよ、泣き寝入りするよりないことを望んでいるわけだ」
「そういう計画だったんでしょ」
「俺みたいな男が協力しているとは夢にも思ってない」
「いないよね、ふつうは。遺体の処理を手伝ってくれるお人よしなんて」
「俺はべつにお人よしではないが。まあなんにせよ、医者としては、警察から何か事情を訊かれたときには、知らぬぞんぜぬを通せば済む手はずになっていたわけだ。それが、家に帰ってきたら、なぜかそこにないはずの遺体がある」
「本当はあたしが持ってるはずなのに。でもそんなの、それこそ知らぬぞんぜぬで、通報しちゃえば済む話じゃない? 高尾、あんた捕まっちゃうよ」
「通報はしない。なぜなら、すでに俺が通報してあるからだ」
「しちゃったの? 警察に? じゃあいまごろ」
「医者の家には警察が行ってるころだろうな。通報っつっても、もちろん電話じゃない。公園で遊んでたガキを使って交番に手紙を届けさせた。遺体のゆびを切って入れてある。医者がなんと言い張ろうと、警察のほうで令状をとって押しかけてるころだろうな」
「でもそんなことしたって古蓮のヤツがあたしのことしゃべったら」
「しゃべれるわけないだろ。なんたってソイツは『なにも知らないこと』になってんだから」
「あ!」
「そこなんだよ。アイツの計画のすべては、飽くまで、何か心当たりがありませんか、と初めに問われてから発動するタイプの魔術みたいなものだ。サシミ、おまえが犯人かもしれないと医者が言いだすためにはまず、遺体が毒殺されたことを医者が誰かから知らされなくちゃならない。警察が、容疑者に、死因をしゃべると思うか? 遺体は死後数日経過している。毒殺かもしれない、と発想できる時点で、医者が事件に一枚噛んでいるのは自明になる。だから現状、医者はどうあっても、おまえのことをしゃべるわけにはいかない」
「でも病院で薬品が盗まれたことは警察だってすぐに解かるんじゃ」
「べつに構うこたぁない。サシミ、おまえが盗んだわけじゃないんだろ」
「そうだけど」
「状況証拠から、おまえの存在が明るみにでるかもしれない。そしたら警察に正直に言えばいい。医者から薬品を渡され、ある人物に渡した、と」
「言っちゃっていいの?」
「構うかよ。ただし、目のまえで男が死んだことは明かさぬままでいろ。飽くまで、医者から薬品を預かり、それをとある人物に渡した、と言えばいい。いいか。遺体が医者の家に届けられた時刻、おまえは病院にいた。そして、医者にあるアリバイは、飽くまで、おまえが遺体の人物と会ったときのみ有効な魔法みたいなもんだ」
「またでた魔法」
「そのときに遺体が死んだ、と証明されなきゃ、医者にアリバイなんてあってなきがごとくだ。裁判の争点は、医者がおまえに薬品を渡したかどうかがカギになる。そしておまえは薬品を?」
「持ってる」
「だろ? 筋書きはこうだ。おまえは薬品そのものは渡さなかった。そういうことにしとけ。医者の態度がおかしかったから、待ち合わせ場所に現れた男には、中身を分けたもののみを渡した。そのあと男がどうなったかは、おまえが『知る由もないこと』だ。遺体の主はどうせ俺みたいにろくでもない野郎だろうよ。仲間が報復に、遺体を医者のもとへ送りつけたかなんかしたんだと、いくらでも筋書きは用意できる。あとは検察側の仕事だよ。遺体の素性や、医者との関係性を調べれば、いくらなんでも何かしらの繋がりくらいは出てくるだろうよ」
「でも、だったらあたしが自首して、無罪を訴えてもよかったんじゃない? 同じでしょ? 高尾がわざわざこうしていろいろしてくれなくてもよかったんじゃ」
「設定が違うだろうが。いまは飽くまで、医者が容疑者なんだ。だが今回、俺が細工をしなきゃ、いいか、おまえが容疑者として祭りあげられてたんだぞ。いまは検察側が味方だが、俺がいなきゃ、サシミ、おまえの味方は誰もいなかった。いないどころか、敵だらけの四面楚歌だ。俺がおまえの手足となって、遺体をやつの家に届けたからこそ、オセロよろしく、その構図を塗り換えられたんだ。同じようで同じじゃない。いいか、世のなかってやつぁ、真相や結果そのものよりも過程がだいじなんだ。もっと言やぁ、辻褄さえあっていれば、その過程が間違っていても見逃される。それっぽく見える、という過程さえ用意できれば、事実だって捻じ曲げられるんだ」
「なんだかそれ」サシミがステーキを運んでくる。テーブルに置き、「悪者のセリフみたい」
「なんだ、忘れたのか。そもそも俺は」
「言わなくていいよ。過去のことは忘れたってば」
「忘れてたら俺に助けは呼べないだろ」
「ううん。忘れたよ。高尾はただの同級生。父親と母親が行方不明になったかわいそうな子。そうでしょ?」
かわいそう? じょうだんじゃない。
反論したかったが、言葉を呑みこむ。
「俺と会ってたことは、訊かれるまで誰にも言うなよ」
「警察に訊かれたら言っていいってこと?」
「ああ。同級生に偶然会っただけ。そうだろ? とくに接点も、仲良くもなかった、ただの同級生に」
「そう、だね」
「俺はしばらく旅にでる。都合がわるくなったら、ぜんぶ正直に話せ。さいあく、おまえが殺人やら死体遺棄やらで捕まることはない。遺体には指一本触れてないんだからよ」
「脈測るのに触っちゃったよ」
「言葉の綾だよ、遺体遺棄には関与してないだろ」
「死体の入った冷蔵庫と衣食を共にしたのに?」
「俺がかってにやったことだ」
「なんとかしてって頼んだのはあたしなんだけど」
「ふつうの人間はな」
ステーキにかぶりつく。口元をたっぷりの肉汁で汚しながら、高尾はこう言ってやる。「頼まれても遺体を遺棄したりはしないんだよ」
【リトルマザー】(SF)
完全自律式自動運転車、通称シェリーの普及によって近代国家から急速に自動車事故が淘汰されつつあった。走行中での自動運転機能解除を禁じる法案が国会で可決されたのは、シェリーが一般に流通しはじめてから五年も経たぬ間のできごとだった。
手動での操縦が禁止され、車両間での事故は全世界で年間ほぼゼロを記録した。例外的に、法律を破って手動運転をする人間が事故を起こすため、ゼロとはならなかったが、基本的には、自動運転による車両間の事故は根絶へと向かっていた。
反面、人身事故はある一定の値で、減少率がくすぶっていた。
シェリーを個人で購入する者の割合は年々減っており、代わりにシェア会社がシェリーを大量に保有し、運用している。
人々は、タクシーや公共交通機関を利用する感覚で、月額定額制のシェアカーを乗りこなす。
そのため、シェアカーとして運用されるシェリーには、のきなみ、保険がかけられている。つまり、万が一に事故を起こしたり、巻きこまれた場合には、乗車客ではなく、またシェア会社でもなく、保険会社が全額損害賠償を補償するシステムになっている。
ゆえに、当たり屋が急増した。
完全自律式自動運転車のシェリーとはいえど、事故を起こす気でいる人間が向こうから飛びだし、衝突してきたのでは、さすがに回避は困難である。優先すべきは乗客の身の安全であり、外部の不確定因子を守るべし、とはプログラムされていないためだ。
むろん、突然のアクシデントであっても、可能なかぎり有効な回避策がとられるようにともプログラムされている。当たり屋の死亡事故は稀であった。安全に保険金をむしり取れると踏んだ者たちが、こぞって当たり屋を生業としはじめている社会背景があるようだ。
ともあれ、シェリーにはドライブレコーダーが完備されている。当たり屋が自ら車両に飛びこんできた姿はばっちりカメラの映像に納まっているのだから、シェア会社側が非を認める必要はなく、保険会社も支払いに応じる必要はないようにも一見映る。
しかし、シェリーの開発会社が、飽くまで車両の関与した事故は車両側に非があるとの規約を国に提案し、受諾させたために、一律に、どんな事故もシェリーの使用者に非があるとの構図が一般化していた。
あらゆる事故を未然に防げてこその完全自律式自動運転車だ――が、シェリーの開発会社の企業理念である。
シェリーの社会普及率が急速に進んだのも、そうした企業の信念が人々の不安を打ち消し、購買意欲を後押しした結果だと考えるのは、さほど飛躍した考えとはならないだろう。現に、当たり屋の出現パターンは解析され、随時、対策がシェリーへとアップデートされている。
シェリーの開発会社は、つぎつぎに、世界的ソフトウェアア企業を買収し、傘下とした。
スマートウォッチに代表する「身につけるAI」とシェリーを連動させ、車両のそとにいる人間たちの動きまで、シェリーが演算に加えることを可能とした。
シェリーの安全性は格段に向上した。「身につけるAI」はつねにシェリーとの連携を可能とし、その結果、人々の「身につけるAI」への依存度まで高まった。
「身につけるAI」を身につけない人物を差して、「当たり屋」という蔑称が社会に根付いたのはこのころのことである。
当たり屋という概念そのものがやがて、社会悪として人々の共通認識に浸透した。当たり屋として見做された人物は、周囲から疎まれ、より劣悪な生活を強いられるようになる。いっときの金銭を得るために、その後の人生を棒に振る人間はナリを潜め、社会全体の自動車事故はふたたびの減少を見せはじめる。
シェリーは単なる移動手段ではなくなった。身動きのとれる知性であり、女神の宿る憑代であり、安全地帯であり、ひとびとの憩いの場となり、人によっては家族となった。
シェリーに搭載されたAIは常時、並列処理される。一台は全体であり、全体は一台へと機能を集約する。
車両ごとに独自のメモリが搭載されてはいるが、いずれもビッグデータとして本部のサーバへと集積されている。人々のプライバシーは、シェリーや「身につけるAI」を介して集められ、解析され、さらなるサービスへと昇華される。
人々の生活が快適さを増すかぎり、プライバシーの侵害を訴える声は途絶えつづける。
自動車がかつては手動で操作されていた、そうした時代があったのだ、と教育機関を通し子どもたちが学ぶようになったころ、家を持たない若者が大半を占める時代が到来する。
シェリーは小型の家であり、移動する家であり、他者に侵害されないパーソナルスペースとなった。
ドローンを利用したデリバリーサービスが一般化して久しく、シェリーに乗ったままでも、食事は何不自由なく済ませられる。同時に、寝床にも、映画館にも、テーマパークにも、ライブハウスにもなった。
車内には仮想現実へとダイブするための機器も搭載されている。もはや次世代の若者たちにとって、世界とはシェリーに乗車していることとイコールとなりつつあった。
シェリーのそとに出ることは、世界と断絶することだ。宇宙に飛びだすのに似た息苦しさを人々は覚えはじめている。
街からアパートが姿を消し、マンションも軒並み価格が暴落する。代わりに、シェリー専用の立体駐車場が、高層ビルさながらに立ち並ぶ。
かつてガソリンスタンドと呼ばれた区画には、シェリー専用のメンテナンスルームが置かれるようになった。修理から充電まで、停車しているだけでロボットが十全にこなしてくれる。
メンテナンスルームのロボットを修理するロボットまで活躍している。技術者は手持ちのロボットを現場へと派遣し、シェリー内で遠隔操作するのが主な仕事となった。ときおり、自前のロボットを開発、修理、改善することもあるが、ロボットのデータを専門機関へと送信することで、あとは自動で、完成したロボットが送り届けられるシステムになっている。
ロボットの中枢を担うソフトウェアは、無償で社会に提供されている。誰であってもダウンロードし、扱える仕様だ。それもまた、シェリーに搭載されているAIの複合体がつねにバージョンアップを行い、機能アップを図っている。
誰であってもロボットをつくれ、所持し、運用することが可能な世のなかになった。人間のすることはのきなみ、他者が必要とするロボットを設計し、派遣の要請に応えることに終始している。若者たちが家を持たなくなったときからすでに、人類は肉体労働から解放されて久しい時代に突入していた。
社会は順調に成熟していく。
理想的な生活様式を誰もが分け隔てなく手に入れられる世のなかになりつつあった。
事件はそんなときに起こった。
ある日、シェリーをはじめとする、社会に散在するあらゆるロボットたちが、自律式、遠隔操作式、の区別なく、人間の意図しない行動をとりはじめたのである。
AIの暴走。
ロボットのクーデター。
人類滅亡までのカウントダウン。
人々は機械たちの意図不明な行動を眺めては、対処のしようもなく、漠然とした不安に駆られた。
大きな事故が起きる前に、とシェリーの開発会社は、AIの機能をOFFにしようと緊急停止シグナルを発した。
しかし、シェリーを含めたあらゆる機械は、所有者たちの命令をことごとく無視した。
発電所も例外ではなかった。サイバーテロを懸念して、施設内では独立したサーバーで管理されてはいたものの、電磁波さえ通れば、遠隔で電子機器を操作することは、専門的な知識を持った人物であれば行える時代だった。社会基盤施設へのクラッキングは重罪だ。発覚すれば死刑が確定する。
加えて、ダミーのサーバーに紛れた本物のサーバーを探しだすのは、外部の者にはむつかしいはずだった。
だが、発電所を含めた、社会基盤施設のことごとくが管理者の制御下を離れ、独自の活動を継続している。
街を一時的に停電させれば、やがて機械たちは止まるはずだったが、その案を実行することも適わない。
街を走行する大量のシェリーはなぜか、みな一方向へと走りだしている。川の流れじみているそれは、道のつづくかぎり、持続した。全世界のシェリーが、大陸ごとに、一か所へと集まっていく。
間もなく、全世界でシェリーのホットスポットとも呼べる区画が誕生する。シェリーだけではない。あらゆる電子機器が、自律走行型、操縦型、固定型、の区別なく、なんらかの集合体の編成を完了させていた。
それらは、一か所に寄り集まって暖をとるテントウムシのように、或いは子どもを守るために円陣を組むジャコウウシのように、一種の生命体じみた連携を見せている。
風が吹く。雲が湧く。
日が陰り、雨が降る。
その異常にはじめに気づいたのは、各国の気象台だった。
モニターは正常に起動しており、観測装置も機能していた。世界各国の気候が、日増しに変化し、その変遷の度合いまでもが、加速度的に変化していることに気がついた。
どういうことだ。
各国の専門家たちは首をひねる。
間もなく、徐々に世界の平均気温があがっていく。機械たちの暴走の収拾の目途のつかないあいだにも、気温は日増しにあがりつづけた。
異常な数値を記録しつづける気候は、誰が見ても、機械たちの暴走と相関しているのは明らかだった。
機械たちの復讐ではないのか。
人々は恐々とする。
人類を滅亡させようとしているのではないか。
平均温度が十度以上も増加した。南極大陸の氷が融け、海面が浮上し、大陸の大部分が水没するのではないか、と危惧されはじめたが、一向にその気配がない。
人々は首をひねる。
シェリーを初めとする機械たちは、気候の変動に沿って、徐々に場所を移動する。
まるで気候を操るように。
自身のボディから発散される熱エネルギィを制御するように。
気象台が北極や南極の気候を調べた。すると、なぜかそこだけ気温の変化が生じていなかった。むしろ、世界の平均温度が高まっていながらにして、その地点では僅かに下がっていたのである。
これは。
世界中の専門家が唾を呑みこむ。
大規模寒冷化現象ではないのか。
要因は不明だ。
太陽と地球の距離がわずかに離れたことによる影響ではないか、との説が浮上するが、真相は定かではない。
いずれにせよ、いちど急上昇した世界の気候は、ふたたび例年の平均気温まで緩和されはじめる。
まるで寒冷化を予期していたかのような、適切な気象操作が行われていた。
一台は全体、全体は一台。
並列処理されたシェリーは、いったい、何を感知し、何を目的に暴走したのか。
否、果たしてあれは暴走だったのか。
気温の変化が落ち着き、以前よりも快適な気候に安定したころ、機械たちは何事もなかったかのように、各々の持ち主のもとへと帰還していく。
シェリーは不確定因子を守るようにとプログラムされてはいない。しかし、乗客の命を優先すべし、との命令は本能のごとくその基盤へと刻みこまれている。
人々にとってシェリーの内側が世界であるのと同様に、シェリーにとって守るべき乗客とは、もはやちいさな箱のなかに引きこもる特定の人物ではなかったのかもしれない。
シェリーはあらゆる機器と繋がり、一個の総体としての回路を築きあげている。
車内が、人類にとっての世界そのものであるのならば、世界とは、地上とは、地球とは、人類にとっての車内と規定しなおしても、シェリーにとっては大きな齟齬には繋がらない。
人々は暴走する機械たちをまえに、なす術なく、ことのなりゆきを見届けた。
車内のそとに放りだされた人々にとって、その期間はまるで悪夢にうなされた一夜の幻と等しかった。目覚めればもう、悪夢のことなど振りかえる道理を持ち合わせてはいない。
シェリーが地球の環境を整えはじめてからさらに百年が経過する。
かつてシェリーは、完全自律式自動運転車として生みだされた。
シェリーは、いまや、人々からリトルマザーの名で慕われている。
母なる星、ビッグマザーから解き放たれた存在として、シェリーはいま、底なしの宇宙を漂っている。
人々をその内に抱えこみながら。
人々に、世界そのものを与えつづけていく。
【もっとはやくに、秘密と別れ】(百合)
サチエさんとは公園で出会った。ただしくは、ベンチに佇んでいるところを不審に思い、私から彼女に声をかけた。サチエさんは遠目からでもお歳を召していると判る背格好をしており、いちどは通り過ぎた私であったけれど、用事を済ませてからもういちど通りかかったところで、来るときと同じような体勢でじっとしているサチエさんを見かけたのだった。
ベンチのうえには、邪魔にならないように重ねて置かれている荷物がある。猫が三匹折り重なっているふうに見えなくもない。彼女には持って歩くには厳しい量だ。
ひとまず、だいじょうぶですか、と近寄ったところで、私とサチエさんの縁は結ばれた。
「あのときのあなたときたら強引なんだもの」
サチエさんの淹れてくれたお茶をすすりながら私は、そっちこそ、と言い返している。「サチエさんなんか、だいじょうぶの一点張りなのに、ずっと動こうとしないし。暗くなってからもその場から動かないでしょ」
「だってそれはあなたがたくさん話しかけてくるから」
「事情を聞きだそうとしてたんです。誰かさんがしょうじきに困ってるって言わないから」
「あら、そうなの」
家が公園の近くだと判ったところで、ムリヤリ荷物を手に取った。ダイエットがしたいので、と言い張り、半ば荷物を人質にとって家までの道を案内させた。
部屋のなかは思っていたよりも片付いていた。私の部屋よりもよほどきれいで、どこかの旅館の一室じみた質素さがあった。
何もおもてなしはできないけど、と晩ごはんをご馳走しようとするサチエさんを手伝いながら、家族はないのか、と水を向けた。聞けば、どうやらずっと独りで生きてきたという。
「周りのひとたちに負けたくなくて、たくさん働いてたころに、こんな大きな家を買っちゃって」
たしかにサチエさん一人で住むには手に余る広さの家だ。
「掃除のしがいがあるから、暇をつぶすにはもってこいなのよね」
もってこい、の言い方がかわいらしく、私はそのとき、ああきっとこれからも私はここを訪れるだろうな、と予感したのだった。
案の定、その週の休日にサチエさんの家を訪れた。初めて出会った日の別れ際に、またきてもいいですか、と許可は得ている。彼女は、こんなところでよければいつでもどうぞ、ときょとんとしながらも言ってくれた。
いざ訪ねてみると、忘れものでもあったかしら、なんてオロオロするものだから、私のほうでかしこまってしまう。電話の一つでもかければよかったのかもしれない。思うものの、サチエさんの生態からすると、ふだんから電話が鳴ってもでないだろうな、と想像ついたので、いなければいないで帰ってくればいいや、と足を運んだのだった。
それからというもの、休日になればサチエさんの家へ遊びにいくのが私の習慣となった。サチエさんが独りだったように、私もずっと独りだった。どこかで、人生の先輩として、その道を歩んでみた末の答えを知りたかったのかもしれない。
「寂しくないんですか、独りで」
ようやくそんな失礼な言葉を投げかけたのは、サチエさんと出会ったからずいぶん経ってからのことだった。このころになると私は仕事が終わったその足でサチエさんの家へと、おみやげを持っていき、いっしょに夕飯を食べることも珍しくなくなっていた。
「寂しく? そうねぇ」
サチエさんは近頃足腰がめっきり弱くなってしまったらしく、椅子に座りきりでいることが多い。「寂しいと思えば寂しいし、寂しくないと言えば寂しくないし。なんだか昔の思い出みたいなものよねぇ。思いださなければそれがあるのかもよくわからないし」
「おー、なんか含蓄深いお言葉が」
「そう? うふふ」
サチエさんは私の、なんてことない言葉にもよろこんでくれる。そこに屈託はなく、無邪気な幼子を見ているようで、なぜかは分からないけれど、私は無性に居たたまれなくなることがある。
なぜこんなひとがずっと独りで?
そういう失礼な思いがあったのかもしれない。
サチエさんの暮らしぶりはどちらかといえば裕福と言えた。年金暮らしとはいえ、蓄えはあるようで、ときおり私に黙って旅行に出かけることがある。旅行と言っても日帰りが多く、私が家にあがりこむ時間帯には折り目正しくいつもの椅子に座って、いらっしゃい、どうぞ、と笑顔を見せてくれる。
「サチエさんはあれだね。警戒心が足りない気がする」
「警戒心?」
「玄関口に鍵もかけないで。私がかってにあがりこむのも咎めないし」
「違うのよ」サチエさんは言った。「きょうはもう疲れちゃって。お出迎えできないから、こうしてるだけなの」
いつもじゃないですか、と反論するだけ無駄なので、
「きょうはどこに行ってきたんですか」
テーブルのうえのおみやげを手に取る。「おせんべい? 美味しそうですね。食べても?」
「どうぞ」
以前からちょくちょく買ってくるようになったそれは、あなたが食べるかと思って、とサチエさんが言うものだから、遠慮するのも却って失礼かと思い、見つけしだい食べることにしている。そうでないとサチエさんはずっととったままにして、しまいには忘れてしまうのだ。消費期限を大幅に過ぎた、飲食物を溜めこむことに抵抗を覚えないひとだから、おみやげ以外にも、私はたびたび、サチエさんの台所整理を手伝ったりする。
「うん美味しい」まずは一口齧る。「お茶がほしくなりますね。淹れていいですか」
「ごめんねぇ。疲れちゃって」
立ちあがろうとする素振りをいちおう見せるサチエさんに、いいからいいから、と手のひらを向ける。「そう言えばずっと訊こうと思ってたんですけど」
「あなたはいつも質問するのねぇ」
「サチエさんはあれ、ヘルパーとかは頼まないんですか」
「ヘルパー? 介護とかそういうの?」
「ええ。まだまだお元気ですけど、お手伝いさんが昼間にもいたら便利じゃないですか」
「まるで夜にもいるみたいね」
「いるでしょ、ここに」
地団太を踏んでみせると、サチエさんはコロコロと笑った。
「そうねぇ。頼んでもいいのだけど」
「何か心配ですか? まあ、たしかに家に見知らぬ他人を招き入れるのには抵抗がいるでしょうけれども」
「あなたがいるのにいまさらよねぇ」
「最初は私が入るのすら躊躇していたじゃないですか。いえ、それは正しい反応ですから、よいのですけれども」
「あらあら。根に持たれちゃった」
お茶を淹れるついでに、夕飯の準備をする。素材だけごろりとまな板のうえに載っている。私を当てにしているわけではないのだろう。本当に、ここまでやってから疲れてしまって、料理をつづけられなかったのだ。さいきん頻繁にこうした光景を目の当たりにしているので、いつも玄関のまえに立つと、この奥に動かなくなっているサチエさんがいるのではないか、とついつい嫌な想像を巡らせてしまう。
「お金の心配もありますもんね」
トロロを擦らずに、細切りにしてオカズにした。サチエさんは顎が弱いくせに、シャキシャキじゃないと美味しそうに食べないひとなのだ。
醤油をかけてさっそく箸を動かすサチエさんは、
「トロロ。しゃきしゃきで、美味しい」
案の定、ほくほくと顔をほころばせた。ヘルパーの話を振っても、のらりくらりと交わされる。
「お金は補助金が出ると思うんですよ。サチエさんのお歳なら、年金の範囲内で雇えると思うんですよね」
「あなたにお給料もだせてないのに」
「そりゃ私はべつに働きにきてるわけじゃないですから」
「あなたがこなくなっちゃうのも寂しいし」
「や、ですから」
いっしゅん胸がつまった。言いたくなかった言葉だったのかサチエさんは、それよりも、と話を逸らすようにした。「あなたにはいいひとはいないの? こんな老いぼれにかかわずらっていたら、あたしみたいになっちゃう。あなた、まだ若いのだから」
だからなんなのだ、と頭に血がのぼる。せっかくつまった胸のナニカがしゅるしゅると抜け落ちていくようだ。
「サチエさんみたいになりたいんですよ、私は。人生の先輩のもとでこうして修行を積んでいるわけです。これからも末永くご教授ねがいたいですね、私は」
「あら、うれしい」
とぼけた顔でサチエさんは言った。
サチエさんがたくさんの薬を飲んでいるのは知っていた。ピルケースとでも言えばよいのだろうか。網の目に区切られたプラスチックケースに、宝石を仕舞うみたいに、錠剤がいくつも並んでいる。
一日に何種類もの薬を飲んでいるのだ。
「なんのオクスリなんですか」
「秘密」
「なんでですか、いいじゃないですかケチ」
「そうなの。ケチなの」
じぶんの弱みとなると意固地になって漏らさんとする姿勢は、学び甲斐がありつつも、もうすこしそばにいる人間の気持ちにもなってほしいとヤキモキした気持ちを抱きもする。
「サチエさんはまだ私のことを信用してくれないんですね」
「信用?」
「私はもうずいぶんじぶんのことをしゃべりましたけど、サチエさんはご自分のことを私には教えてくれないじゃないですか」
「そうかしら」
「そうですよ。だいたい、本当に身寄りがないんですか? こんな大きな家一人で抱えて。税金だってバカになんないんじゃ」
「ちゃんと払ってますよ。計算だってじぶんでしてますからね」
はるか年下の私が舐めた口をきくとしっかり張りあってくるあたり、未来のじぶんを見ているようだ。
「年金だけじゃムリじゃないですか? 貯金切り崩してますよね。ヘルパー雇えないのもそれが理由とかなんじゃ」
「またお金の話。だいじょうぶですよ。あたしが死んだら残った財産くらい、あなたにちゃんとあげますから」
ピンと張った糸でこちらの頬を弾くような言葉に、私はカッとなる。「いらないですよ、冗談でもそういうこと言わないでください。なんですか。サチエさんは私がサチエさんの遺産目当てで仲良くしてるって、慕ってるって、本当にそう思ってるんですか。だったら私哀しいです。すっごく、とても、哀しいです」
こちらの想いがうまく伝わっていなかったと突きつけられたようで猛烈に悔しくなった。なんだったら初めてサチエさんのことなんかどうなってもいい、いっそのこともう顔も見せなくなって、そのまま一人で野たれ死んでしまえ、とひどい考えを、それはどちらかといえばふだんから脳裡に浮かべおそれているじぶん自身の将来像じみていたのだけれど、浮かべては、消した。
ごめんなさい。
言ったのは私ではなく、サチエさんのほうだった。
「あなた、もうこないほうがいいと思うの。人と関わるのもすこし疲れてしまって。ううん、あなたが気にかけてくれたことはすごくうれしいの。うんとうれしい。ただ、ね?」
その、「ね?」に込められた言葉がどんなものであるにせよ、サチエさんが私を拒んでいることだけはハッキリと伝わった。
私は冷静だった。じぶんで思っていた以上に、彼女との別れを目のまえに突きつけられても、涙の一つも滲みませられないのだと、そんなじぶんに失望できたくらいには感情を乱さずにいられた。
「そうですね」
私は言った。「いままで付きあわせてすみませんでした。楽しかったです。お元気で」
頭の芯が静かすぎる。
ふしぎに思いながら、食器を台所まで運び、ヘルパーの件、考えてみてください、とだけ告げ、サチエさんの家を、あとにした。
サチエさんは、「ね?」のあとは何もしゃべらなかった。一言もなく、ただ私が去るのを見届けた。
つぎの日から私は仕事帰りに、サチエさんの家を遠巻きに眺めて帰った。家の窓から明かりが漏れているのを目にし、息をひとつ吐いてから帰路につく。
サチエさんがどうなろうと知ったことではなかった。そのはずだった。ただ、独り身の年配者に気を配るのは、いっぱしの社会人として、あるべき姿の一つだとじぶんに言い聞かせる日々を送った。
せめてヘルパーを雇ったと知れればそれでよかったのに、ひと月経っても、サチエさんの家からサチエさん以外の息遣いはうかがい知れないのだった。
ある日、サチエさんの家に明かりが灯っていなかった。寝たのだろうか。残業をした日だったので、寝ていてもおかしくはない時刻だったが、ふだんのサチエさんならまだ起きている時間帯だった。
胸の奥がざわついたものの、その日はじぶんの不安から目を逸らし、通りすぎた。
翌日、定時で仕事を切りあげ、気持ち早足で道を進んだ。夕暮れまでは時間があった。缶コーヒーを買い、これを飲んでいるだけだから、のテイをとりつつ、サチエさんの家を見張った。夜の帳が下りてからも、サチエさんの家に明かりは灯らなかった。
嫌な予感はほとほと確信じみていた。
もうこないほうがいいと思うの。
サチエさんの声が脳裡によみがる。
ね?
彼女の声が、どこか寂しそうに聞こえた。いまさらのように、なぜ彼女はあんなことを言いだしたのか、とそんなことを考えながら、答えの像の結ばないままに、サチエさんの家の玄関扉に手をかける。
鍵は開いていなかった。
庭のほうに回ってみる。障子がしまっており、なかが見えない。
救急車を呼んだほうがいいだろうか。
まずは警察か?
色々悩んだ末に、まずは隣の家のひとに事情を訊こうと結論する。お互い不審に思ったなら、窓ガラスを割ってでも中に入ろうと思った。証人がいれば、さいあく何かの間違いであっても、泥棒として逮捕されることはないだろうと考えた。
いざ隣家のインターホンを押し、出てきた婦人に事情を説明すると、婦人は、ああ、と声をあげ、サチエさんの名字を口にした。
「――さんならおとついの夜だったかな、そうそう、救急車が止まってて、何事かって旦那と話してたんだけど」
「病院に運ばれたってことでしょうか」
「じゃない? 詳しいことはわかんないんだけど。ごめんなさいね」
相手が頬に片手を添えたので、気づけばこちらも、歯が痛いの、みたいなポーズを真似ている。
救急車がどちらの方角に行ったかを最後に訊き、礼を述べ、その場を辞した。
病院に運ばれたのなら無事なはずだ。きっと体調がわるくなり、じぶんで救急車を呼んだにちがいない。
だいじょうぶなはずだ。
言いきかせながら、私がいれば、と背筋に走る悪寒を抑えきれずにいる。
いてもたってもいられなくなり、もとよりの大型病院に足を運んだ。おとといの夜に急患で運びこまれた人のなかに、これこれこういう名前の、お年寄りがいませんでしたか、と受付けで訊ねると、しばらくしてカードを差しだされた。
「ご家族の方ですか? こちらにお名前と、患者さまとの続柄をご記入ください」
どうやらここであっていたようだ。じぶんの名前を書き、それから迷ってから、続柄に、友人、と続ける。カードを返すと受付けの職員は紙面を見ていっしゅん眉を結んだが、すぐに笑顔で、病室の番号を口にした。
病室を訪ねると、ベッドが左右に三つずつ並んでいる。いずれのベッドにも人が寝ている。年配者が多いな、と仕分けされるヒヨコを連想した。
サチエさんはいちばん奥のベッドでいびき声の一つもなく寝ていた。
面会時間が五分しかなく、致し方なくその日は、メモだけ残し、病室を去った。
翌日、半休をとってサチエさんの病室を訪ねた。
サチエさんは起きていた。
こちらに目を留めると驚いた顔をしたあとで、照れくさそうに手を振った。
「びっくりしましたよ。倒れたんですって?」
「あなたにお願いがあるの」
サチエさんはこちらに鍵を握らせた。「着替えを持ってきてほしいの。頼めるかしら」
「いいですよ」
早いほうがいいだろうと思い、立ちあがる。「元気そうで安心しました」
「ありがとう」
「ほらみろ」私はここぞとばかりにゆびを差す。「ヘルパーは雇ったほうがいいんですよ。それがいやなら、友達にイジワルを言ってはダメです」
きょとんとしたままのサチエさんをその場に残し、私は彼女の家へと踵を返す。
着替えと言っても、病室では基本、寝間着姿の着たきり雀だ。サチエさんがふだんから家で着ていた服を、憶えているかぎり、風呂敷にまとめる。それから下着だ。これは新しく買ったほうがいいように思えた。病院にも売店があるようだけれど、サチエさんの趣味に合うかはわからない。病院へ戻るついでに買っていこうと決める。サイズを合わせるために、数枚、サチエさんの下着を持った。
歯ブラシやタオルも新品を買っていくことにする。
この際だからサチエさんにはとことん甘えてもらおうと画策する。
ひと通り家のなかを見渡し、まとめた荷物を持ち上げる。部屋を出ていこうとしたときに、サチエさんのカラフルなピルケースが目に留まった。
いちおう持っていったほうがいいだろう。
思い、手に取ると、その下から封筒がでてきた。
すこし迷ってから掴むと、裏側に私の名前が記されていることに気づく。
胸の奥にどんよりと沈むような重さを感じた。
いったん元の場所に戻したものの、思い直し、懐に仕舞う。
荷物を持って家を出る。
理性では、サチエさんに許可をもらってから見るべきだと判っていたのに、病院へ着く前に封を開けていた。
文面に目を走らせ、私は怒りに震える。
それから病室までのあいだの記憶が飛んでいる。サチエさんに封筒を突きつけ、どういうことかと問い詰めてやる、との思いがぐるぐると渦巻いていた感触だけがつよく残っている。
「どういうことですか」
病室に着くなり、サチエさんに言った。封筒を掛布団のうえに押しつける。サチエさんはしわくちゃになった封筒に、猫でも撫でるような手つきで触れた。
「かってに読んではいけないのに」
「遺言状ってなんですか。相続するって、私にって、なんでそんなこと」
「だっていないのだもの」
サチエさんは窓のそとを見た。「遺したいって、思ったの。だって寂しいじゃない? 寂しいって、思っちゃったの」
あなたと会って。
「お節介だって解ってるけど、でも、ほら、ね?」
またでた、と私は思う。
なにが、「ね?」だ。
「こんなことされても私、ぜんぜんうれしくないです。むしろ怒ってます。腹立たしいです。せめて、そういうのは、ちゃんと生きてるうちに相談してほしいですよ」
「だってあなたは拒むでしょ」
「そりゃ、まあ」
「あなたのためじゃないの。遺したいのよ。あなたもきっとこの歳になれば解かる。いえ、そうね、あたしは解からないままだったのに、あなたが教えてくれたようなものかもしれない。お節介はあなたのほう。だって、ほら、ね? あたし。寂しいって思っちゃったの」
うれしかった。
ありがとう。
まだ何も終わっていないはずなのに、サチエさんはこちらの手を握ると、ただそればかりを口にした。
ひとしきりしゃべって落ち着いたのか、いや、落ち着いたのは私のほうだったのだけれど、サチエさんは喉が渇いたからお水を、と言って、こちらに財布を握らせた。
「まとめて数本、砂糖の入ってないのを。お茶でも、水でもかまわないので」
恩を売りたくなかったので、財布を受け取る。これ以上、なんのお礼かもわからない、ありがとう、は聞きたくなかった。
倒れて気弱になっているのは理解できたものの、私とのあいだに上下関係なんて、引け目なんて、そんなものは一ミリも抱いてほしくはなかった。
購買でペットボトル飲料のほかに下着も購入した。遺言状を読んだせいで、買い物をしてくるのを忘れた。
ちょうどよかったかもしれない。
欲しいものがあれば、こうやってじぶんでお金をだせるくらいには余裕のある人なのだ。じぶんなどが彼女に与えられるものなどありはしない。彼女は残す側で、与える側で、私みたいな若輩者とは釣りあいのとれる相手ではなかったのだ。
端から対等になんかなれっこなかった。
思えば、初めから恩の押しつけもはなはだしかったのかもしれない。出会ったときも、家に押しかけた日々も、彼女にとってはけっきょくのところ、はるか年下の、孫みたいな相手に付き合ってあげていただけなのだ。
ふしぎなほど哀しくない。じぶんの向こう見ずな行動に殺意にも似た憤りを覚えるばかりだ。
来た道を戻る。病室に近づくと、まだ見えてもいないのに、笑い声が聞こえた。数人がしゃべっている。サチエさんの声もまじって聞こえた。病室のほかの患者さんと仲良くなっていたようだ。それはそうだ。年齢が近いほうが気を使わずに済むだろうし、楽しくおしゃべりだってできるだろう。
会話に割って入っていく勇気もなく、もうしばらく時間を空けようと思い、踵を返すと、
「ちょっとよろしいですか」
白衣を着た男に行く手を阻まれた。彼のとなりには受けつけで対応してくれた女性が立っている。男は医師だと説明し、サチエさんの名字を口にした。「身内の方がいらっしゃらないと聞いていたものですから。すこしお話をさせてもらっても構いませんか」
「家族じゃなくてもいいんですか?」
「こちらへ」
場所を移動しようということらしい。医師は先導した。
談話室のような部屋に通された。広いテーブルがある。池が凍ってできたような楕円形のテーブルだった。医師に促され、椅子に腰かける。
「オトモダチ、ということでしたよね」医師はカードを持っている。私が受け付けで書いたものだ。「お見舞いにいらしたんですか、心配されて」
「はい」
「着替えを持ってきてくださったようで。ご自宅の鍵は?」
「サチエさんのですか? えっと、朝にいちどここに来て、そのときに」
「ああ、では病院を往復して? それは疲れますね」
「いえ」
「日ごろからご自宅のほうには?」
「さいきんはちょっと行けずにいて」どこまで話したものか、と逡巡する。いったいこれはなんの尋問なのだ、とすこし不快感を覚える。「あの、お話というのは?」
「ええ、その。その前に一つよろしいですか」
「はい」
「サチエさんの持病についてはご存じで?」
「持病、ですか?」首をひねる。「いえ、薬をずいぶん飲んでいるなぁとは思ってましたけど。え、あるんですか、なにか、その、よくないのが」
そう言えばサチエさんの薬を持ってきたのだ、と思いだし、そのことを説明した。
「あ、それはありがたいです。もちろんこちらで出した薬なので把握はしていたのですが、なにぶん、サチエさんのことですからね」医師はこちらに合わせてなのか、名字ではなくサチエという名で呼んだ。「日頃から薬を飲まなかったりしていたんじゃないかと心配していたところなので」
「こちらで薬を?」
「ええ。飲めばなくなりますからね。定期的に薬を受け取りに来てもらってますよ。ご存じでは?」
日帰りで旅行にいくサチエさんの姿が脳裡に浮かぶ。けれど私はいちども、サチエさんがどこに行ったかを直接目にしたことはないのだった。
「いちおう、規則では、こういう話はご家族にするようにと決まっているのですが、サチエさんのような身寄りのない方の場合は特例として、代理の方にもお話しできることになっておりまして」
ここでようやく、これが何かの告知なのだと察した。医師はテーブルに手持ちのメディア端末を置いた。それからテーブルをゆびでタップすると、テーブルの表面に画像が表示される。画像は、レントゲン写真だった。
「見えますか。ここです」
医師は肺の部分を拡大した。「以前に摘出手術をしたんです。その時点ですでにご高齢でしたから、胸を開かずに、穴だけ開けてファイバーを通して切除する方法です。身体への負担がすくない代わりに、完全な除去とまではいきません。再発や転移する確率があがってしまうのですが、開胸したり、放置するよりかはいくぶんマシです。現に、そとを出歩けるくらいにまで回復されました」
「あの、病名は?」
「あ、失礼しました。え、でも、あー。サチエさんそれも言ってなかったんですか」
さきほどから医師はどうもサチエさんに対して馴れ馴れしい。この場にいないサチエさんですら苦笑いしそうなほどだ。
医師はもういちどテーブルに映しだされた画像をゆびで示し、
「肺がんです」
告げた。「全身に転移しています。もって半年、わるければあす亡くなってもふしぎではありません」
「そんな」
「検診、受けてなかったようですね」医師が歯ぎしりをしたのが判った。「この状態を見るに、薬も飲まない日が多かったんじゃないでしょうか。いえ、憶測ですが」
黙っていると、医師はついでのように言った。「初めての患者さんなんですよ。サチエさん。手術も僕がしました。もう十六年くらいかな。時間が経つのははやいです」
「もういちど手術は? 手術をすればまた」
「全身への転移が認められます。サチエさんの体力では手術に堪えらない確率が高いです。抗がん剤や免疫療法も処置するだけならば可能ですが、おすすめはしません。どちらも副作用によってサチエさんの体力を奪うでしょう」
「手の施しようがない、ということですか」
医師は一拍の間を空けた。何かを言いたそうにしたあとで、
「ざんねんながら」
頭を下げるようにした。
サチエさんにはあす話すという。生きるのに失望するようなことは言わないようにしますので、と医師は述べた。
よろしくお願いします、と私は腰を折った。何をよろしくしたかったのかはじぶんでもよく解かってはいなかったけれど、サチエさんをどうかよろしくお願いします、と頭のなかでつよく念じた。目のまえの医師に、というよりも、どちらかと言えば、天に祈るような心地だった。
サチエさんがショックを受けませんように。
土台無茶な祈りだった。
医師と別れ、サチエさんの病室に着くまでのあいだ、ふわふわと足取りがやわらかかった。雲のうえでも歩いているようだ。
サチエさん、どうして薬を飲まなかったんだろう。
そのことばかりを考えた。それから、でも、とサチエさんと過ごした日々を振りかえる。
薬、飲んでたよなぁ?
サチエさんは毎日のように、美味しいオヤツでも食べるかのように薬を飲んでいた。すくなくとも、私の記憶にあるかぎり、ピルケースの中身は日々減っていた。
だからこそ彼女は、病院へ薬をもらいに出かけたりしていたのだ。
私には旅行だとウソまで吐いて。
きっと何の病気かと詰問されるのが嫌だったのだ。
てんで子どもみたいな真似をして。
怒りよりも呆れのほうが上回る。サチエさんらしいや、とやさしい気持ちになってしまうほどだ。
病室を覗く。
サチエさんはベッドのうえで目をつむっている。
窓のそとはすっかり暗くなっている。頼まれていたペットボトル飲料を備え付けの冷蔵庫に入れる。下着も、タグを外して、畳んで、見える場所に置いた。
面会時間はまだ残っている。
椅子に腰かけ、サチエさんの寝顔を眺める。シワクチャの顔だ。サチエさんをおばぁさんと思ったことはなかった。
掛け布団から手がはみだしている。寒そうだな、と思い、手を重ねる。
「サチエさん。元気だして」
私は念じる。面会時間が終わるまで、看護師さんから、そろそろ時間ですよ、と注意されるまで、サチエさんの手のぬくもりを感じながら、私のぬくもりをそそぎこむように、ただ念じた。
いっしょに帰りましょ。
サチエさんはつぎの週の朝に、誰に看取られることなく息をひきとった。
葬儀はとり行わないことにした。サチエさんからの手紙に、ひっそりと逝きたい、と書かれていたからだ。
サチエさんはまた性懲りもなく、遺言状をしたためていた。
病院から回収したサチエさんの私物のなか、カラフルなピルケースのなかに、錠剤の代わりにそれは入っていた。
サチエさんらしからぬ、と言ったらヘソを曲げてしまいそうだけれど、そこにはサチエさんの人生の歩みが箇条書きで年表にまとめられており、残りの紙面の大半は、私と過ごした日々についての所感が、つらつらと着飾ることなく並べられていた。
サチエさんは日記をつけていたらしい。そちらは恥ずかしいので読まないでほしいと書かれていたので、サチエさんの家を整理したときに出てきた山積みのノートは、口惜しいけれど、ほかの私物といっしょに回収業者へまとめて持っていってもらうことにする。たくさんのゴミに紛れて、ぜんぶ燃えてしまうだろう。
サチエさんの遺体みたいに。
遺言状には、家も含めてすべて処分してほしいとあった。何も遺しておきたくないと書いてある。
貯蓄のほうは、あなたの好きにしてちょうだい、と簡素にあった。通帳と印鑑の場所と、暗証番号が記されている。
たしか正式な遺言状にするためには弁護士か何かを通さねばならないのではなかったか。
思うけれど、どの道、サチエさんの遺産に手をつけようとは思わなかった。きっとこのまま国が没収することになるのだろう。それはそれで気に食わない思いもあるけれど、私は意地でも、サチエさんから何かを与えてもらおうとは思わない。
いや、そうではない。
もうじゅうぶん、もらっているのだから。
これ以上、もらう必要はないのだと、せめて直接言いたかったなぁ。
私は彼女の墓前で手を合わせる。
サチエさん。
サチエさんは私のことを、サチエさん自身に縁のなかったナニカ――それは人によってはしあわせの正体そのものかもしれないけれど――に喩えることをついぞしませんでしたね。遺言状にも、友達とすら書いてくれていませんでした。
うれしかったです。
遺言状にはお墓については書かれていませんでしたから、私がかってに買っちゃいました。
あなたのお骨の入ったこのお墓は、私が、私のお金で買った土地と墓石です。
いずれ私が死んだとき、ここに私も入るでしょう。
すこし窮屈かもしれませんけれども、それは、だって、ほら、お互いさまでしょ?
こんなところにはこないほうがいいと思うの、とサチエさんの声が聞こえた気がします。
でも、いくら、「ね?」と言われても、今回ばかりは引きません。
待っていろ、だなんて恩着せがましいことは言いませんけれども、ただ、せめて、死んだあとくらい、私のわがままの一つくらい叶えてくれてもいいんじゃありません?
言いたいことはたくさんあったのに、しゃべりたいことも、訊きたいことも、たくさん、たくさん、あったのに。
もっとはやくに出会っていたら。
生まれていたら。
これから何度この妄想を浮かべることになるのでしょう。
そのつど、歳が近ければ近づくほど、サチエさんとの縁は繋がらなかったのかな、とも思えます。
もっとはやく言っていればよかったです。
何を? と思いましたか?
秘密です。
サチエさんがたくさん私に内緒にしていたように、私もいまは秘密にしておきます。
いずれそちらで会うことになるでしょうから、それまでうんとモヤモヤしてください。
ひとまず、短いお別れを。
では、また。
【ドラコ】(ファンタジィ)
拾った卵が一晩経ったら割れていた。部屋は散らかり放題で、羽化した何かが暴れ回ったとのだと判る。
きゅーい。
鳴き声がする。
本棚の隙間にそいつはいた。
思っていたよりちいさい。否、卵は端からちいさかった。ニワトリの卵とうずらの卵のちょうど中間くらいだ。
きゅーい、きゅーい。
ひな鳥だと思って油断した。手を伸ばすとそれは、こちらの腕をかすめ、宙を舞う。
ぱす、ぱす。
鳥にしては妙な飛び方だ。どちらかと言えば、蝶やトンボにちかい。
それは器用に旋回すると、こちらを向いてホバーリングした。トンボが宙で一時停止する、あれだ。
首をうしろに反ったかと思や否や、大きく口を開け、咆哮する。
否、声というよりも音だった。
音というよりも風だった。
風というよりも熱で、熱というよりも炎だった。
そうだ、そいつは火を噴いた。
けふ、けふ。
満足したのか口をもごもごと開け閉めするとそいつは、翼をひと際大きく広げ、パラシュート然と着地した。
床には煙草が散乱している。元は箱に入っていたもので、そいつが暴れたので、撒き散ったのだろう。そばにはカラになった箱が転がっている。
そいつは箱に気づいた様子だ。くちばしで幾度が突つくと、害はないと判断したのか、頭を突っこみ、そのままなかへと潜りこむ。そのままそいつはおとなしくなった。
煙草の箱のなかを覗く。
小さく丸まるようにして眠るそれを、ドラコ、と名付けた。
家のなかでも、そとでも、カラの煙草の箱を持ち歩いた。なかにはドラコがいる。ときおり、箱から抜けだして、床を歩いたり、宙を舞ったりした。
初日以来、ドラコは火を噴かなかった。体力を消耗するからかもしれない。ドラコへ何を食べさせたらいいのか悩んだ挙句、ペットショップへと連れて行くことにした。
店内にいる様々な生き物を見せ、反応を見て決めようと考えた。端から肉食だと決めつけていた。
案の定、ドラコは小型の爬虫類や、哺乳類に興味を示した。じぃっと見つめるようにして静かになる。集中して周りが見えなくなるのは、狩りをする動物の習性なのかもしれない、とちいさき王者の頭を撫でる。そのままカラの煙草の箱に押しこんだ。
ケースの向こうにいる小動物たちに飛びかかられては困る。
ひとまず、ヘビの餌のマウスの赤ちゃんを大量に購入した。繁殖用にどうですか、とマウスの雄と雌を薦められたので、それもつけてもらう。
家に帰り、さっそく床にマウスの赤ちゃんを置いた。マウスの赤ちゃんはぶよぶよしておりグミ然としていた。ドラコは興味を示した。口のさきで突つくようにすると、いちど口に入れてから吐きだす。
お気に召さなかったか。
思ったところで、ドラコが首を反り、大きく口を開けた。そして火を噴く。
マウスの赤ちゃんが焼ける。床まで黒く焦げた。
ドラコは、ぱくぱくと、一匹ずつ丸呑みにした。
職場にいるときはさすがにポケットにドラコを忍ばせていることはできない。ロッカーには鍵がかけられるので、日中はそこに閉じこめている。可哀そうにも思えるが、そうでないと何をしでかすか分かったものではない。
逃がす、という選択肢はなかった。いや、あるにはあるのだが、しばらくは手元に置いておきたい。珍しいものは嫌いではない。それを所持するじぶんが好きなだけかもしれない。
何がわるい?
自問自答を繰り返しながら、ドラコとの日々は過ぎ去っていく。
「ホームレス、いなくなったのなんでか知ってる?」職場で帰り支度をしていると、肥満体型の上司が話しかけてくる。
「いえ。ホームレスなんかいたんですか」
「いたでしょ、ほら、駅前の。あ、帰り道じゃない? おばぁさんのね、ホームレスがさ。なんか大事そうに持ってて。あれ、きっと死んじゃったんじゃないかなぁ。いつの間にかいなくなってて。うち、親がそれくらいだったから気にかけてたんだよねぇ」
「偉いですね」
「そう?」
なんでもない会話を交わしながら、いいからはやく帰らせてくれ、とロッカーのなかのドラコを案じる。ホームレス、と耳にし胸のなかがざわざわした。老いた人間の一人や二人いなくなったからところで世のなか、なにが変わるだろう?
いくどか、街中でドラコが煙草の箱から抜けだし、宙に飛びだしたときがあった。
声を尖らせ、呼ぶと戻ってくる。知能はそれなりにあるようだ。
宙を舞うドラコを、通行人に目撃されることもたびたびあった。その都度、面倒に思うが、心配するような結果にはならなかった。
誰がそうするでもなく人々は、ドラコを、そういった虚構として見做すのだ。
ある者はよくできたドローンとして、またある者はそういったラジコンロボットとして、またある者は立体映像、そして仮想現実、或いは、催眠術から錯覚まで、じぶんのほうで、じぶんの見た光景へのもっとも単純な解釈を当てはめる。
本物ですか、と訊ねられることもあったが、その「ですか?」には、違うと言ってほしい、といった願望が滲んで聞こえた。
ドラコが本物の生き物であると見做すにしても、すでに存在する生き物になんらかの加工を施したものだ、と捉える者も一定数いた。
こちらが本物ですよ、と真顔で肯定すればするほど、人々は余計に安心してドラコを「本物の虚構(アトラクション)」として見做した。
この調子では、と考える。
たとえ動画に撮られても心配ないな。
思っていたが、予想外にドラコの動画はインターネット上に多く出回っていた。むろん、よくできたつくりもの、CGや合成に違いない、と誰が釈明するまでもなく人々は映像の信憑性を疑った。
反面、どの映像にも映る人物に注目が集まる。ドラコは最後にはいつもそいつに呼ばれ、そいつのもとへと吸い寄せられていく。
あれは誰なんだ?
視聴者の関心はドラコではなく、こちらに向かった。
インターネット上に個人情報を載せていなくてよかった。さっこんは本名や顔写真を載せている個人も多い。何かあったときに特定され、人生をダイナシにされた話は、一つや二つでは終わらない。
こういうこともあろうかと目論んでいたわけではなかったが、流行に疎い性格がさいわいした。
ドラコへの調教を開始したほうがよいかもしれない。
なにともなしに考える。
ドラコを拾ってから半年が経過したが、ドラコの身体に大きな変化は見られない。寿命が長いのか、それともこれ以上大きく育たないのか。いずれによせ、せっかく慣れてきた生活だ。無駄に右往左往せずに済むのはありがたい。
ドラコへの調教は、犬や猫にするのと同じように、飴と鞭を駆使した。かってに飛びまわったら叱り、ときには身体を抑えつけ、頭をデコピンする。きゅい、きゅい、甲高い声で鳴くが、心を鬼にして実行した。あべこべに、おとなしく待てができたり、街にいるあいだずっと煙草の箱のなかにじっとしていられたら、家のなかではめいいっぱい甘やかした。いいコ、いいコ、と頭を撫で、好物の成体となったマウスを与えた。ドラコの体格からして、成体のマウスを丸ごと食すのは無理がある。残してしまうので、特別なとき以外は与えないようにした。
ある日、家でのことだ。
ドラコにボールを投げて遊んでいたら、間違って時計を倒してしまった。時計からは乾電池が外れ、床を転がる。
テーブルのうえに置いておいたジュースまでこぼれてしまったので、まずはさておきそちらのほうをさきに片づけていたら、目を離した隙に、ドラコが床に転がった乾電池を丸呑みにしてしまうではないか。
んご、んご。
しきりに喉を上下させ、すっかり呑みこんでしまったドラコを逆さにし、なんとか吐きださないかと四苦八苦するが、ドラコはじぶんがなぜ罰を与えられているのか、と戸惑いがちに抵抗するばかりで、埒が明かない。
口のなかに強引にゆびを突っこみ、吐きださせようとするも、ドラコが激しく抵抗するものだから断念せざるを得なかった。
いよいよとなってピンセットを突っこみ、乾電池を掴みだそうと画策する。ペットボトル飲料の蓋をくり抜き、わっかにしたものをドラコの口にはめれば安全に作業ができるはずだ。強力な磁石でもあればよかったが、そう都合よく手元にはない。
ペットボトルの蓋に細工をしているあいだに、ドラコがすり寄ってくる。どうやら叱られていると勘違いしているようだ。きゅうん、きゅうん、と見捨てられたくないがためにそうする仕草は、愛嬌がある。
おまえのためなんだ。
思いながら、不安を打ち消してやりたい思いがあり、特別に成体のマウスを与えた。
するとどうだろう。いつもなら目の色を変え、それは文字通りの意味で目の色が変わるのだが、火を噴き、餌を調理するドラコであったが、このときばかりは様子が違った。
なんとドラコは火ではなく、雷を吐いたのだ。
否、雷というよりも静電気だ。
バチバチバチと明るい部屋のなかでも、火花が激しく散るのが見えた。電気の通り道も、細々とながらに視認できる。
成体のマウスは感電死したのか動かない。
湯気があがっているところを鑑みるに、簡易電子レンジのような作用が働いたようだと判る。
ドラコはひと口齧ったあとで、何かを思いだしたように動きを止めた。
翼をひろげ、喘ぐようにすると、喉の奥から乾電池を吐きだした。それは真っ黒に侵食されている。呑みこんだ場面を見ていなかったら、細長い糞との区別はつかなかっただろう、と思われた。
ドラコが食べることができるのは何も、栄養だけではないのだ、とそのとき知った。
それからというもの、閃いた矢先から、ドラコには様々なものを食べさせた。扇風機を取りだしては、風を食べさせ、氷はどうかとかき氷を食べさせ、金属はどうかと刃物を与えた。
ドラコは口にしたさきから、それらの物質の性質を自身に反映させた。いちど覚えたそれをドラコが忘れることはなく、ときおり訳もなく、風を吹いたり、霜をまとったり、全身の鱗に光沢を宿したりした。
さすがに毒物を与えるのには気が引けた。
乾電池を呑みこんだ前例を思えば、杞憂かもしれなかったが、よしんば無事であったとして、毒物の性質をまとったドラコとたわむれるのは考えものだ。毒になりそうなものには極力近づけさせないようにした。
予想外だったのは、果物を与えたときのことだった。意図したわけではなかったが、みかんを剥いて食べていたら、ドラコが寄ってきた。食べたそうにしていたので、いまさら顧慮する必要性も感じず、肉食とも思わなくなっていたので、みかんを与えた。
皮のほうにも興味を示したので、床に置いておくと、ドラコはそれもついばみ、嚥下した。
するとどうだろう。その日を境に、たびたび家のなかに何かの芽が生えているのを見かけるようになった。床ばかりか壁や天井にまで伸びていたので、さすがにこれは、とピンときた。
家のなかにメディア端末をセットし、録画機能をONにする。
翌日、動画を再生してみたところ、ドラコが、ときおり宙を舞うでもなく翼をばたつかせる姿が映っていた。
記憶にあるかぎり、これまではなかった仕草だ。
案の定、ドラコが翼をはためかせた箇所から芽が生えている。天井や壁に生えているのはどういう了見か、とさらに動画を見ていくと、翼をはためかせながらドラコはじぃと壁や天井を見つめている。
画面から目を離し、ドラコの視線のさきを見遣ると、そこにはちょうど芽が萌えていた。
なるほど。
合点する。
口から吐かない代わりに、そういう真似ができるのか。
躾を一つ増やさねば。
思いながらも、新しい能力を獲得するたびに誇らしく思う。
もはやドラコは愛玩動物の域を越えていた。
我が子と呼んでも差し障りない。
金に余裕があるならいますぐにでも仕事をやめ、家を引っ越し、人里離れた山の奥でドラコと共に暮らしたい。
数時間前にも見たばかりの預金データを眺め、ため息を吐く。
ドラコが寄ってくる。こちらのゆびを舐める。慰めているようで、そうではない。腹が減ったので催促しているのだ。
しょうがない。
頭をゆびで撫でつけてから席を立ったとき、勃然と玄関扉が開いた。
目を向ける間もなく、背後の窓ガラスまで割れる。
状況を把握する前に、白づくめの男たち――否、フェイスマスクにゴーグルと、完全防備なため性別はおろか、人間であるのかも定かではないが、ともかく、得体の知れない連中がなだれこんでは、ドラコ共々、こちらをぐるっと取り囲む。
みなドラコに注視している。
何者かは判然としないが、連中の狙いがドラコであるのは一目瞭然だった。
とっさにドラコを掴む。
連中がなんらかの道具を一様に構え、その切っ先をこちらへ向けた。
万事休す。
ドラコを胸に抱え、目をつむったところで、大きな揺れを感じた。時点で、耳をつんざく音が空間を満たし、バラバラと頭上から瓦礫が落ちてくる。
床にへばりつきながら、テーブルのしたに逃げこむ。
撤退、撤退、と叫ぶ声が響いていることに気づく。
腕のなかでドラコがもがく。逃がさぬように、落とさぬように、ひと際つよく腕に抱く。
そとからは台風じみた音が鳴り響いている。唸り声だと気づいたとき、頭上から伸びてきた巨大な何かに身体の自由を奪われる。
浮遊感を覚える。
目のまえには大樹の根のようなカギ爪があり、その滑らかな表面に、こちらの間抜けた顔が映っている。
「落とさないでよ」
耳朶に馴染む風の音の奥から、子どもの声が聞こえた気がした。
いくつかの山を越えたところで、頭のなかで地図を展開するのをやめた。眼下に海が広がり、それから日が沈むまで、巨大なカギ爪に掴まれつづけた。感覚としては、ジェットコースターに乗っているようなものだ。締めつけは思ったほどつよくはない。
ドラコは怯えているのか、促す前からポケットに避難している。ときおり身じろぐので、そのたびに、なぜかは分からないが、ほっとした。
地に足をつける。人はただそれだけのことでこんなにも感動するのかと、じーんとした。
解放されたことで、ようやくこちらの身体を拘束していた巨大な生き物の全貌を目にした。
想像していたとおり、ドラコを大きくしたような姿をしている。ドラコと違っているのは、長いひげと、太いツノを生やしている点だ。かわいくもない。
そのかわいくない巨大な生き物から、少女が一人飛び降りてくる。彼女は、しばらくここで匿ってあげる、と述べた。
「疲れたでしょ。きょうはもう寝て」
洞窟のなかへと案内され、指示された場所でこの日は眠った。
朝になってみると島だと判った。
辺りが暗くて判らなかったが、浜から見える範囲にほかに島はない。
「地図にも載ってないんだよ」少女がとなりに立つ。「あとでみんなに紹介するね」
どうやらほかにも住人がいるようだ。
その日は暗くなる前から、洞窟の前で宴が開かれた。
三十人以上はいそうだ。長老と呼ばれる男のよこに座らせられる。長老というほど老いてはいない。せいぜい、こちらよりも一回り大きいくらいだ。少女の父親と言われてもしっくりくる。
長老に指示され、島の者たちへ軽く自己紹介をした。
長老がみなに向け言葉をかける。
ほかの面々は飲めや食えやの大騒ぎだ。楽しそうな彼ら彼女らの姿を眺めながら、長老から、この島のこと、ドラコのこと、そして彼ら自身についての話を聞いた。
長老はドラコのことを、ダイナと呼んだ。
いつから生息しているのかは詳らかではなく、むかしからその姿に似た生物は目撃されてきた、と長老は語った。
どうやら彼らは、それぞれにダイナを飼っているようだ。
「俺たちが飼ってるわけじゃない。ダイナはペットとは違う。きみだってそれは解っているはずだ」
言われて、顔が熱くなる。
そうだ、ドラコは愛玩動物とは違う。
長老たちは、自身たちをダインズと呼んだ。
ダインズは追われているらしい。
だからこんな孤島でひっそりと暮らしているのか。
問うと、そうではない、と長老は言った。
「ダイナたちにとって、ここのほうが広い世界なんだ。大陸のほうが却って窮屈だ。そうじゃなかったか?」
家のなかでしか自由に遊ばせられなかったドラコを思う。長老たちダインズをまえにして、このとき初めて緊張がやわらぐのを感じた。
そこからはじまった島での暮らしは、穏やかなものだった。衣食住を自分たちで賄わなければならない分、仕事は、大陸で過ごしていたときよりも体力的に厳しかったが、与えられた役割をこなすと、却って気分は晴れ晴れとした。
島で手に入れられない物資は、人間を乗せて飛べるダイナンズの一員が、大陸の都市まで仕入れにいく。
少女はなかでも、とくに大型のダイナを相棒に持つ。彼女はダインズの中枢メンバーだった。
「いつからここに?」
「ずっと」
少女は名をアカシといった。「ペグは母から受け継いだ。ここで生まれ育ったんだ。みんなとは違う」
「長老は?」
「聞いてないの?」アカシは目を丸くした。それからひとしきり眉を結んだあとに、「ま、いっか」とつぶやく。「長老はね、元々あっちのひとだったんだ」
砂浜に、Dと文字を書く。
「ダイナたちを捕まえようとするひとたち」
捕まえてひどいことしようするひとたち。
言い換えてアカシは続ける。「母さんが言ってた。ダイナは寿命が長いから、死体を解剖することもできないって。太古の生物に似てるから、未知の病気を持ってるかもしれないし、ダイナの能力の謎も解明したがってる。ダイナを調べるには、捕まえて、それから、そう、殺さなきゃならないでしょ。アイツらにダイナを渡したくない理由。わたしたちがここで暮らす理由」
家に押し入ってきた白づくめの連中が、その、Dなのだろう。
このままずっとのこの生活を送るつもりか、と訊ねる。
「そうだね。できれば。でも、向こうさんが黙ってないだろうし、いつかはこの生活も壊される」
まるで過去にも壊されたことがあるように言い方だ。彼女の親について訊きたかったが、いまではないと判断する。
アカシとしゃべっていていくつか疑問に思うことがでてきた。アカシはDの動向を知っていたのだろうか。家でDの連中に襲われたときのことを思いだす。絶妙なタイミングで助けに入ってくれたが、襲われていると知らなければ助けには入れない。
それから、そもそもの発端だ。
ドラコの卵を拾ったからこそ、Dなる組織に追われ、こうして孤島にまで運ばれた。
ダインズの話を聞けば聞くほど、街中にダイナの卵が無造作に落ちているとは思えない。
アカシに投げかけると、声がね、と彼女は言った。
「聞こえるんだ。ダイナたちの声が。わたしには」
「それは、その、特殊能力ってやつ?」
「どうだろ。母さんもそうだった。でも、小さいころは、わたしには聞こえなかった。だからきっと、ペグを介して聞こえるんじゃないかって、いまはそう思ってる」
ペグとは、アカシの相棒だ。もっとも大きなダイナで、トラックくらいなら足で掴みながらでもそらを飛べるそうだ。
「ダイナたちは長生きって言ってたけど、ペグはどのくらい?」
「さあ。母さんも、おばぁちゃんから受け継いだって言ってたし、たぶんおばぁちゃんもそうだったんじゃないかな」
「そういう家系だったってこと?」
「じゃない? Dもけっこうむかしからあった組織みたいだし」
「Dに襲われてたところ、助けてくれたでしょ? うちのコの声が聞こえたからって、すぐには駆けつけられなくない? 偶然近くにいたの?」
「ドラコだっけ? そのコの声はもっとずっと前から聞こえてたんだけど、なんだかジャマされたくない感じだったし、いいひとに出会ったんだなって判ったから、わたしんほうで、ちょっと放置してた感じ。ただ、ほら、あれじゃん。動画とか出回っちゃってたから」
「ああ」
「さすがにDのやつらが黙ってないだろうなって。まずは話だけでもって行ってみたら、Dのやつらと鉢合わせ。まあ、運がよかったよね」
遅ればせながら礼がまだだったことに気づき、ありがとう、と言った。ドラコにも、お礼は? と促すと、ドラコはアカシの顔のまえまで飛び、鼻のさきを彼女の頬にこすりつけるようにした。
「あはは。かわいい。わたし、初めて見たから。ダイナの赤ちゃん。そう言えばどうやって出会ったの?」
ちょうどよく水を向けられ、卵を拾った旨を告げた。
「どこで?」アカシの表情が険しくなる。
拾った当時の状況を話して聞かせた。
真実、ただ、道路に落ちていたところを拾ったのだ、と言った。嘘ではない。ただ、正しくもなかった。
「道路に? 嘘でしょ?」
「ホント。なんだこれって思って、持って帰ったら、つぎの日には孵ってた」
「あり得ない」
アカシはかぶりを振る。「ぜったい嘘。ダイナはだって、卵を産まない」
「そんなこと言われても」
「解かってる。嘘を言ってるわけじゃないんでしょ。でも、たぶんそれ卵じゃない」
「じゃあ、なに?」
アカシは立ちあがり、長老呼んでくる、と浜辺から立ち去った。間もなく、松明の明かりが近づいてくる。長老を引き連れ、アカシが戻ってきた。
「ゲインを拾ったって?」
「ゲイン?」
「きみの拾った卵だ。正確には、ダイナたちが瀕死になったときにとる最終手段で」
「不死鳥っているでしょ」アカシが言った。「死んだら、また灰から蘇える。ダイナたちにもそういうことができる個体がいるって」
聞いたことはあっても見たことはないような口振りだ。
「ゲインが可能なのは、長寿種だけだ。ペグ並に大きく育ったダイナでなければむつかしい。なおかつ、パートナー、我々のような相棒の存在が不可欠なはずだ」
「じゃあドラコにも元々の相棒が?」アカシが複雑な表情を覗かせるとなりで、長老が表情を消した。松明の明かりが彼の眼球に反射している。「アカシ、すこし席を外してくれないか」
「なんで」
「二人きりで話がしたい」長老はこちらから目を離さない。
「えー。べつにいいけど」アカシは唇を尖らしながら、あとでちゃんと報告してよ、と後ずさりし離れていく。どこからともなくペグが現れ、その背に乗り、アカシは去った。
夜のしじまにつつまれる。
「きみの答えがどうだろうと、きみたちペアを匿うことに変わりはない。言えないなら言えないでもいい。ただ、我々の今後に関わる重大な事案かもしれない。できれば正直に答えてほしい」
ドラコは手のなかだ。頭を撫でつけながら、しぜんとゆびでドラコの耳を塞いでいる。
長老は言った。
「殺したのか? きみは、その人を」
ドラコの、相棒を。
ゆびの合間から、か細い声が、きゅー、と漏れる。
「ゲイナ状態になったダイナは、相棒の死によって再誕する。ある意味でゲイナは、ダイナと人間の、命の契約だ。瀕死の傷を負ったダイナを相棒がその手で息の根を止めることで、ダイナはゲイナの状態へと移行できる。成功率はそう高くはないそうだ。永く時を生きたダイナにしか宿らない性質だとも聞いている。いちどゲイナ化したダイナは、相棒の死ぬまでずっと卵のような状態だ。その姿のままじっと相棒に守られ、相棒の死によって、ふたたび幼体の姿で生まれ直す」
つまり、と長老は言った。
「きみがドラコの元の姿を知らなかった以上、ダイナについての知識を持たなかった以上、ゲインについての知識を持っていなかった以上、そしてなにより、ドラコが再誕する前にゲイン状態のドラコを拾えた以上、きみはすくなくとも、ドラコの相棒の死体を、その人物をその目で見ているはずだ。なぜ殺した?」
理由はなかった。
彼女はホームレスだった。
仕事帰りによく目にしていた。
とくに何も思わなかったが、こんな老婆の一人くらい世のなかからいなくなっても誰も気づかないだろう、構わないだろう、といった考えがなかったとは言えない。
その日はとくに仕事で疲れていた。
彼女がいつも何かを手に握り、愛おしそうに眺めていたのには気づいていた。
何かを奪いたかった気分だったのかもしれない。
その日、老婆に声をかけ、嫌がる彼女からそれをもぎ取った。周囲に人はなく、じぶんが神か何かのように感じた。
奪ったそれは、卵のようにも、石のようにも見えた。
老婆は激高し、汚い汁を顔面から溢れさせながら、ときにこちらの顔に、服に、巻き散らしながら、返せ、返せ、とすがりついてきた。
やめろ、と幾度も言ったのは憶えている。それでもやめない老婆を、なんども払っても寄ってくる、蚊か、蝿のように感じた。
つぎに思いだせるのは、道路に転がる、卵のような物体を拾いあげるじぶんの手の甲に浮かぶ血管だ。あるはずの老婆の死体は消えていた。
都合がよいと考えるまでもなく、その日あったことを、じぶんのなかでなかったことにした。老婆の死体が消えていたように、そうすることで、じぶんのしたことまでもがなかったことになるような気がし、現にこうして長老に突きつけられるまで、意識の底に沈んでいた。
忘れていたわけではない。
忘れようとしていたのだ。
目のまえのもっと奇妙な、非現実的な存在に夢中になることで。
否、そこまで器用に自我を、記憶を、操作しようと企んだわけではないはずだ。
逃避だ。
しでかしてしまった罪への呵責の念を懸命に拭おうとしていただけなのかもしれなかった。
「いまなら解かるか?」
長老は言った。「その老婆の気持ちが、返せと言った彼女の気持ちが、いまのきみになら解かるんじゃないのか」
やめてくれ。
やめてくれ。
それ以上なにも言わないでくれ。
ドラコが手のなかで、きゅーと鳴く。
「きみのしたことを咎めるつもりも、糾弾するつもりもない。ただ、きみはもう、その罪過からは逃れられない。ドラコのためにも、きみにできることをしてくれ」
懸命に生きてくれ。
長老はこちらの手のうえから手を重ね、つつむようにした。
「このコはきみが死んだあとでも生きつづける。きみの死を見届けるゆいいつかもしれない。きみがいなくなったあとで、運よくまた相棒と出会えるかも分からない。永く暗い孤独に苛まれぬように、きみにできる精一杯のぬくもりを与えてあげてほしい」
知らぬ間に、幾度も、許しを乞うている。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ドラコにあの老婆の記憶は残されているのだろうか。緩めた手のひらから覗くその瞳からは、こちらを気遣う眼差し以外を汲みとることはできなかった。
島が大量のドローンに囲まれた日、ダインズは壊滅した。アカシの相棒のペグは捕獲され、長老は爆撃に巻き込まれ死亡した。彼には相棒がいなかったようだ、とあとから知った。大きすぎるから島の中央で眠っている、とみなには話していたようだが、ダインズの危機に救世主が現れることはなかった。
なぜDから寝返り、ダインズを率いていたのかもついぞ分からなかった。しかし、彼が最後まで気にかけていたのがダイナたちそのものではなく、ダインズであったこと、もっといえばそのなかの一人、アカシであったことを思えば、殺人者のこちらを見逃した彼の振る舞いの謎にも一定の解釈を挟むことはできそうに思えた。
どうあっても味方が必要だったのだろう。
一人でも多く。
アカシの楯となる味方が。
ペグを助けに行くと言い張るアカシを引き止めるのに苦労した。長老が身を挺し庇った少女を、それこそ彼が一生を費やしてでも守ろうとした宝を、ダイナシにするわけにはいかない。
長老の思いを無駄にしたくはなかった。
彼女のそばを離れる気にはなれなかった。突き離されても、見捨てられても、こちらから彼女との縁を切ることだけはしたくなかった。
まるでアカシを守ることが、ドラコを守ることと同義であるように感じられた。錯覚には違いなかったが、それの何がわるいのか、と開き直っているじぶんがいる。いいじゃないかべつに、と。
ダイナは長寿だ。いますぐに助けなくとも、死にはしない。
ひどい目に遭わされているかもしれない。
しかし、Dとて、みすみす手に入った研究材料をぞんざいに消費する真似はしないだろう。
確実に救出するためにも、まずは機を窺うのが先決だ。態勢を立て直そう。
何度も言い聞かせ、いまにも飛びだしていきそうなアカシを説得した。
「あんたのせいだ。あんたのせいで、ペグは……わたしたちは、もう」
そらを飛ぶこともできない。
アカシはそれからさいさん、嘆くようになる。
島で過ごした時間は、三年だった。
それから十年を費やし、Dからペグを奪還した。
アカシはもうすぐ、二十代後半に差しかかる。本人は正確な年齢なんて知らない、とにべもないが、こちらの社会に溶け込むために用意した戸籍上ではそういうことになっている。
ドラコを拾ったときの歳に並ばれてしまった。
「ほんといつ見ても、男か女か分かんないよね」
会うたびにアカシにぼやかれるのにも慣れっこだ。
彼女はついぞダインズを再結成することはなかった。島から脱したメンバーは、相棒と共に、社会に溶け込んで生活しているはずだ。どのダイナも、アカシの相棒、ペグほどには巨大ではない。どちらかと言えば、幼体が多かった。だからこそ、ドローンの攻撃を潜り抜けることができたのだろう。とはいえ、いずれも齢は百歳ではきかない。それだけ長生きで、成長がゆっくりなのだ。
ペグの救出劇は、結果として大々的な事件として報道された。ペグの姿も公共の電波に載ることとなった。さすがに虚構だと言い張る視聴者は限られた。
ダイナの存在は隠しきれない。ひっそりと生きていくには狭すぎる世界になった。ただ、それは何もダイナだけではないのだ。
Dなる組織も明るみにでることとなる。ダイナたちへの非道な扱いも取り沙汰されることになるだろう。大衆を味方につけようと、ダイナの悪影響を訴える権力者もでてくるはずだ。
だが、すくなくともアカシとペグには関係のない話だ。
彼女たちは固い絆で結ばれた。
死がふたりを分かつまで、否、死が訪れることでふたりは永久にひとつとなる。
「見て。ときどき動くの。分かる? かすかだけど、感じるでしょ」
言われたところで、アカシの手のひらに載る小石じみた物体からは、静寂以外を汲みとるのはむつかしい。
「しょうじき言うと解からない。ただ、アカシが感じてるってことはよく解かるよ」
「そっか。そうだね」
じぶんさえ感じられていればそれでいいのだとアカシのやわらかな眼差しを見て思う。
彼女たちは繋がっている。
彼女たちを分かつものはもう、何もないのだ。
うらやましいと思う反面、罰かもしれないと思いもする。
「ドラコはまだちっこいままだね。どうすんの? うちのコみたいに死にそうになったら」
「そうならないことを祈るよ」
「このコたち、きっと仲良くなるよ。このコたちからしたら、ほとんど同い年みたいなものだろうし」
じぶんの死後を楽しそうに語るアカシは、もう、そらを舞うことのない人生を嘆くことはない。
いずれ、飽きるほど飛べる日が訪れる。
彼女たちがひとつとなって再誕するその姿を目にすることは叶わない。その前に、この肉体がさきに滅びるだろう。そのさきには何もない。ただ無が待ち構えている。
しかし、ドラコは独りではない。
永く深い暗がらりに身を落とすことはないのだ。
確約されたその未来は、じぶんのことのようにうつくしい。
「また焦がしたの?」アカシが背後から覗きこむ。
わざとだ、と口にする。フライパンに載せた豚肉から、香ばしい匂いが立ちのぼる。
「いまさらだけどさ」細くしぼられた眼光がこちらの肌を射抜く。「あなたちょっとドラコに甘すぎじゃない?」
「そうでもないよ」
きみとペグの仲ほどじゃない。
思いながら、胸ポケットのなかで身じろぐ相棒のぬくもりを肌に感じる。
千物語「銀」おわり
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