千物語「金」 

千物語「金」 


目次

【置いてきぼり】(BL)

【養殖】(ホラー)

【解読不能】(コメディ)

【首のゆくえ】(ミステリィ)

【最後の予知】(SF)

【先輩、見えてますよ】(百合)

【魔王攻略】(ファンタジィ)

【ムリヤリはダメだろ】(BL)

【秘密の庭】(ホラー)

【パーリナイ】(コメディ)

【並列化する悪夢】(ミステリィ)

【魔法のデジカメ】(SF)

【我ら、大賞を逃し、大笑する】(百合)

【だって魔女だもの】(ファンタジィ)

【裸足の王】(BL)

【似非霊感】(ホラー)

【強引な婚姻】(コメディ)

【識別の色別】(ミステリィ)

【魔法の杖】(SF)

【呪縛を解くために】(百合)

【猫は猫】(ファンタジィ)

【尻尾を振っているのはどっち?】(BL)

【ファボ魔】(ホラー)

【倍増分裂】(コメディ)

【最後の砦】(ミステリィ)

【偉大な発明】(SF)

【専属になりたくて】(百合)

【占い師のおもてなし】(ファンタジィ)

【ほっとして&】(BL)

【目星】(ホラー)

【あれもこれもここがゆらい】(コメディ)

【宇宙コロニー殺人事件】(ミステリィ)

【上級の特権】(SF)

【引きこもりに、きっとなる】(百合)

【統治者の資格】(ファンタジィ)

【さあ、どっち!】(BL)

【座敷童】(ホラー)

【つけるのをやめろ!】(コメディ)

【ハサミを止めるな!】(ミステリィ)

【超能力者の発見】(SF)

【初恋なんて切り捨てて】(百合)

【ゲルニカの絵とナニカ】(ファンタジィ)

【花のにおいを消さないで】(BL)

【雑音の満ちる夜は】(ホラー)

【――っす、は何語?】(コメディ)

【備えあれば無念なし】(ミステリィ)

【幽霊の正体】(SF)

【首輪をこんどはハメさせて】(百合)

【ホムゴのいなくなった星で】(ファンタジィ)

【さよなら先生】(BL)



1【置いてきぼり】(BL)

 告白した。

 そう言われたとき、なぜ相談してくれなかったのか、とまずは眉間にちからがこもった。付き合うことになるかもしれない、とあいまいな言葉がつづくと、なぜかキミだけでなく、相手の女子にも腹が立った。すぐに返事をしない優柔不断な態度がイラ立たしいし、打算かもしれないと思うと、余計に腹の奥から熱いものがこみあげる。

「よかったじゃん」

 なんとかそれだけをしぼりだすようにした。

 照れくさそうに、うん、と頷くキミは徐々に似合わないピアスをするようになり、髪も短く刈りあげ、筋トレに励むようになる。

「おまえもはやく彼女つくれよな」

 無責任にそう言って、放課後、さっそうと彼女の元へと駆けていくキミの背中は、いつの間にか広く逞しいものになり、いたずらにちからこぶをつくっては、触れさせるキミの顔を今はもう、笑って見返すことはできないんだ。 




2【養殖】(ホラー)

 生餌が安かった。相場の半分以下の値段で、通常の倍以上の量がある。詐欺かとも思ったが、ユーザー評価は上々だ。

 釣り好きとしては、ルアーもよいが、生餌を使ったときの魚の食いつきをいちど知ってしまうと、なかなか代えがたいものがある。

 セールス中とのことで、まずはお試しで購入した。

 届いた生餌の活きのよさときたらない。

 休日が待ちきれず、有給をとり、山の上流にでかけた。

 予想以上の成果だった。

 イワナからアヤメまで、かつてないほどの大漁である。

 いちにちで、すっかり生餌を使いきってしまった。家に戻りさっそく追加注文すると、すでに売り切れになっていた。

 しばらく待ったが、一向に追加販売される気配がない。

 じれったくなり、連絡先にメッセージを送った。感謝と販売再開の催促だ。

 翌日には返信が届いた。

 ご迷惑をおかけしております、からはじまる文面は、生餌の素材の調達に難航していることの説明と、次回はもうすこし多めに用意しておくとの謝罪を最後に、こう結ばれていた。

「質の良い素材が不足しております。家出少女など、ご紹介いただけましたら、なにとぞこちらまでご連絡ください」




3【解読不能】(コメディ)

 子猫の足を甘噛みしていると、急に言語野がおかしくなった。流していた曲の歌がシッチャカメッチャカになり、話しかけてくる母の小言が、イチからジュウまで意味不明だ。

「夜のズッキーニはほかほか胸痛い。封筒?」

「はい?」

「箸は音楽に浸けてから容赦なくタヌキ」

「なに?」

「修正液はおしなべてかゆい、よってタヌキ」

「さっきからなに」

「煮る、切る、タヌキ」

「タヌキになんの恨みが!」

 言語が入り乱れて聞こえる。母が狂った。

 思ったが、母だけでなく、耳に入る言葉がこぞって文章の体を成していない。

 文字はどうかと思い、メディア端末でテキストを打つ。いずれも赤ちゃんに手渡したレゴブロックじみて、ハチャメチャだ。じぶんの声と思考だけが、まっとうだ。

 母が心配そうな顔をする。ひょっとしたら、こちらの言葉が母には、ハチャメチャに聞こえているのかもしれなかった。

 いかんともしがたい。

 ひとまず、もういちど子猫の足を甘噛みした。

 するとこんどは、じぶんのマニキュアを側頭部に揉み洗い、ヨーグルトに燃えるフェルマーの最終定理、結果的にタヌキ。

 いざ尋常にふてぶてしい、よってタヌキ。




   

4【首のゆくえ】(ミステリィ)

 近所で殺人事件があった。主婦が殺されたのだ。犯人はすぐに捕まった。同じく近所に住まう大学生だった。

 ふしぎなのは、遺体の首が切られていたことだ。

 首はまだ見つかっていない。

 いったいどこにあるのか、と警察だけでなく、全国の報道機関が躍起になって騒ぎ立てている。

 犯人の大学生は黙秘をつづけており、首のゆくえばかりか、動機すら不明であるという。

「なんでなんだろ」姉が言った。「首なんて切って、死体を隠すわけでもなく、何がしたかったんだろね」

「さあ、なんでだろ。異常者の考えなんて考えるだけ無駄じゃない?」

「言えてるー」

 姉はご機嫌だ。「いい人だったのになー。笑顔がステキで、私なんかにもあいさつしてくれて、どうせならもっと仲良くなってればよかったよ」

 今はもうこんなんなっちゃったけど。

 猫でも抱えるように姉は、腐りかけの首を撫でている。姉がなぜそれを拾ってきたのかは不明だが、とうぶん手放すつもりはないようだ。

「せめて袋に」そこまで口にしてから、押し黙る。臭いがキツい、と言おうものなら姉のことだ、こちらのあたまにビニール袋を被せそうだ。




5【最後の予知】(SF)

 未来を予測できる装置「ヨムヨムくん」が開発された。時空の根源を司るチカラを感知し、並外れた演算能力を有するAIによって、ヨムヨムくんは、それを身に着けた人間に起きる悲劇的な未来を提示する。

 ヨムヨムくんは腕時計型のメディア端末に組み込まれ、爆発的に世界中に広まった。

 予測される内容は、遅刻から、事故、体調管理から病気の発症まで、各種さまざまである。なかでも死期の予測的中率は高く、人々はヨムヨムくんの告げる危機回避策を実行することで、事故死や病死、または他殺される未来を回避できるようになった。

 むろん、自殺も激減した。

 死にたいと思わないように、ヨムヨムくんが環境そのものを改善する方向に導いてくれるからである。

 蒸気機関、インターネット、スマートホンに次ぐ技術革新だと人々は沸いた。歴史に名を刻むことが確実に思われたヨムヨムくんであったが、事態は急展開を迎える。

 ヨムヨムくんの利用率が人口の九割にのぼると、とたんに未来予知の精度が下がった。

 具体的には、危機的状況が予測されなくなったのである。ヨムヨムくんがなんの危機も報せなかった翌日に、死亡する者が後を絶たなくなった。

 死期だけではない。遅刻から、事故まで、ヨムヨムくんが警告を発しなくなった。

 それはヨムヨムくんが登場する以前の社会に戻っただけのことではあるのだが、人々にとっては看過するには大きすぎる問題だった。

 人々は混乱した。

 ヨムヨムくんの予測は相も変わらず提示されるが、そのときどきで予測の頻度、的中率が共に乱高下した。

 ヨムヨムくん開発チームの分析班は、解析を急いだ。

 やがて、一つの結論に至る。

 ヨムヨムくんは、ヨムヨムくんによって生じた影響の連鎖までは計算できないのだ、と。

 人々がヨムヨムくんの示す危機回避策を実行するたびに、その行動は、他者の行動にまで影響を及ぼす。ふだんならば行くはずのない飲み会に行き、もしくは行かなかったりする。敢えて家を早く出たり、買わないものを買わなかったりと、ヨムヨムくんによる人々への影響は、ヨムヨムくんを利用しなかった場合に訪れたはずの未来とは大きく異なる未来像を描きだす。

 それは、ヨムヨムくんが予知した未来ではない、またべつの未来である。

 人類の大多数がヨムヨムくんを利用した結果、未来はそのときどきで、一刻一秒ごとに、目まぐるしくその色調を変え、模様を変え、確率の乱数を掻き乱す。

 改善策はただ一つ、ヨムヨムくんの利用制限を設けることである。

 ただしそれは、死ぬべき人間を選別するという意味だ。ヨムヨムくんがあれば死なずに済んだ者が、死ぬことになる。

 ヨムヨムくんは全世界同時に使用禁止にされた。しかし人々が納得することはなかった。

 どのようにヨムヨムくんの使用権限を分配するのかについて、各国が話し合う場が設けられたが、それは新たな戦争の火種を撒き散らしただけで、けっきょくのところ、なんの進展ももたらさなかった。

 その時期、ヨムヨムくん開発チームは、全面禁止にされたヨムヨムくんを起動させ、個人ではなく、国の、世界の行く末を予測させていた。

 結果は見事に最悪であり、このままでは一年以内に世界大戦が勃発するとでた。

 回避策は?

 研究員がヨムヨムくんを操作する。

 画面には短く、ヨムヨムくんを永久に破棄すること、と記されている。




6【先輩、見えてますよ】(百合)

 どうして部活辞めちゃうの。

 先輩がスカートをぱたぱたはためかしながら言った。

「ショーツ見えますよ」

「だって暑いんだもん」

「てか見えてますよ」

「いいよべつに、コウちゃんだから」

 頬が熱くなる。日向にいるからだ。木陰に移動する。

 芝生のうえに腰を下ろすと、先輩もとなりに座った。

「部活、やろうよ。大会も近いしさ」

「どうして先輩は」

 そこまで言って、先輩の太ももが腕に触れていることに気づき、近いんですけど、と肩で押しやるようにする。

「ひどい」

「暑いんでしょ、構わないでくださいよ」

「構うよー、だってホントは辞めたくないんでしょ」

 分かったような口ばかりをきく。先輩のくせに。

「辞めたいんです。もういたくないんです、あんなところ」

「どうして?」

 身体をずいと寄せ、先輩は、下からこちらを覗きこむようにする。先輩のやわらかい髪の毛が垂れ、こちらのひざをくすぐる。

「どうしてもです」

「アイちゃんたちに何か言われた?」

 先輩の声はどこかさびしげで、そこでようやく、いつもの先輩と違うのだと気がついた。

「コウは気にしなくていいんだよ。ガツンって言っておいたから。私がコウに構うのは、私がそうしたいから」

 私がコウを、その。

 そこで先輩は言い淀み、それからこちらの肩に寄りかかるようにした。

「コウを、私が気に入っているから」

 先輩からはいつも、柑橘系のいい匂いがする。汗くさいこちらとは大違いだ。ジャガイモとメロンくらいの差がある。

「なら」いじわるな気持ちが溢れだす。「先輩もやめたらいいじゃないですか、一緒に」

 怒って立ち去ってしまうのではないか。臆病な心持ちを悟られまいと、かたくなに手の甲に揺れる木漏れ日ばかりを見詰める。先輩は息を吐き、こちらに体重を預けるのをやめた。

「じゃあそうしよっかな」

 驚き、顔を向けると、先輩は、あはっ、と顔をほころばせ、「やっとこっち向いた」

 えいえい。ゆびさきで無闇にこちらの頬をつつくのだ。

「やめてくださいよ」

「だから辞めるんだってば、コウちゃんといっしょに」

「そうじゃなくて」なんだかややこしい。「やめないでくださいよ。当てつけみたいに。わたしを理由にしないでください」

「どうしよっかなぁ」

「先輩!」

「じゃあ、コウちゃんも辞めないこと。ね? そしたら私も辞めないから」

「ずるい」

「私はどっちでもいいんだけどな」

 コウちゃんといっしょなら。

 こちらの肩にあごを乗せ、先輩は、耳元でささやくようにした。

 身体がひどく熱を帯びている。ここはもう日向ではないはずなのに。もっと涼しい場所を求めて逃げだしてもよかったけど、どうしてだかその熱を消し去ってしまおうとは思えなかった。

 先輩はひざを抱え、身体を揺らしている。

「先輩……」

「なに?」

「ショーツ見えてますよ」

 先輩はスカートの裾を押さえると、何かを抗議するように、くちびるをちいさくすぼませた。 




7【魔王攻略】(ファンタジィ)

 魔法使いを名乗る少女がアパートに突然乗りこんできた。

「魔王、ようやく見つけたぞ、覚悟!」

 先のとがった杖を振りかざすものだから、抑えにかかるのに躊躇はない。

「あぶない、あぶないって」

「ぎゃー! へんたい! 触れるんじゃねぇ!」

 杖を奪い、落ち着いてくれ、と訴える。「まずは話をしよう。叫ぶのだけはやめてくれ、警察を呼ばれて困るのはぼくではなく、キミのほうなんじゃないのか」

 なにせ、住居不法侵入に、暴行未遂だ。

「うー。卑怯なり」少女はおとなしくちゃぶ台のまえに座り、差しだしたコーラをぐびぐび飲み干すと、おかわり!と言って、ついでに未開封だったスナック菓子をかってについばみながら、「おまえは魔王なんだ、記憶がないのか?」

 頭の痛いことを言いだすのだった。

 ひとしきり話を聞いた。

 抱いた所感は、オママゴトはトモダチとやってくれ、といったものばかりだ。補足するならば、少女の見かけはそこまでかわいくはなく、乱暴な性格もぼく好みではない。

 ざんねんな、と言ってしまうといらぬ誤解を生みそうだが、よこしまな感情の湧く余地のない状況に気が滅入る。

「そんな目で見て、いやらしい」少女はじぶんの肩を抱く。「そうやっておまえはうら若き乙女から少年まで、青年から熟女まで、老若男女手当たりしだいに、とっかえひっかえ、部下にしては、仕事のない者には仕事を与え、身よりのない者には家と家族を与え、人々に夢と希望を植えつけては、安定した生活が保障されるようになると途端に人々から仕事を奪い、充分な衣食住の無償提供を確約しては、自由に暮らせと突き放す、ホント、悪魔みたいなやつなんだ」

 いいひとでは?

 思ったのでそう言った。「すごくいいひとに聞こえるんだけど、気のせいかな」

「魔王だぞ、たとえいいやつでも、殺すのがみなのためだ」

「どっちが悪魔かわからんぞ。や、待て。わかった。百歩譲ってその話が本当だとして、きみはどうしたいんだ。ぼくはその魔王ではないし、きみんとこの住人?たちをどうこうしようとも思わない」

「でもおまえは魔王なのだ、そうなのだ」

「ひとまず帰ってみたらいいんじゃないかな。その、きみの住む国とやらに。ひょっとしたらそんなにひどい有様にはなっていないかもしれないよ」

「バカを言うな! ひどい有様になっていないからわたしはみなから役立たずだなんだのと叩かれるのだ。勇者たちはいい、みな仲良しで、いまどき流行りの店なんか開いて、勇者印のブランド物を売りさばいては、懐はいつもホクホクだ。それにくらべてわたしはどうだ。魔法使いなんか日陰者で、じめじめしていて、暗くて、いつもいつも一人ぼっちだ。魔王、おまえが暢気に世界征服を企んだりしないからこんなことに」

「待て待て。じゃあなにか、おまえはぼくに世界征服をしてほしいのか」

「ああ。あんな世界、いちど粉々になっちまえばいいんだ」

「どっちが悪魔か分からんな。で、みなが困ったところで、元凶であるぼくを倒し、みなを見返したいと?」

「なかなか話のわかるやつじゃないか」

「ダメだ」

「なんで!」

「よく考えろ。バレないとでも思っているのか。もしきみがぼくをそそのかし、国を滅ぼしたなんて分かってみろ。いまよりひどいことになるのは目に見えている」

「そんなことには」

「ならないと言えるのか? 勇者たちだっているんだろ。なぜきみみたいなかわいいコが一人きりで魔王を倒せるんだ。怪しまれるに決まってる」

「たしかにわたしはかわいいが」

 そこは認めるのか。

 メタ認知が足りてないんじゃないのか?

 心配しつつ、

「もっといい考えがあるぞ」茶番を終わらせたくて、提案する。

 うんうん。少女はちゃぶ台に身を乗りだす。

「きみはこっちとそっちを行き来できるのだろ? だったら、あっちの世界にないテクノロジィや商品を持ちこんで、売ればいい。異世界貿易だよ。きっとみなから感謝され、きみはすごいやつだと、もてはやされる」

 少女の目が輝きはじめる。

「なんだったら魔王印を掲げてもいい。どうせ向こうに魔王はいないのだろ?」なぜならここにぼくがいるのだから。少女の話を真に受けたわけではないが、理屈としてはそういうことになる。「きっと向こうでは勇者たちよりも人気があるんじゃないのか、魔王ってやつは」

 少女の鼻の穴がぷくーと膨らむ。

「ぼくが許可する。好きなように魔王のブランドを使うといい。どうだい? いい考えだとは思わないか」

「ふふん。まあよかろう」少女はふんぞり返る。「ならばおまえ、わたしを手伝え。そしたら信じてやる。おまえが無害だってことも、ウソつきではないってことも」

「ウソつきだなんてそんな」

「わたしをかわいいなんて言うやつが正直モンなわけあるか!」

 自覚はあったのか。

「まずは一緒に来てもらうぞ。魔王の名を使うにしても、それなりの段取りが必要だ。あっちに戻ればおまえの記憶も戻るだろう。よほどストレスが溜まっていたのだな、記憶を消してまで異界でのバカンスを楽しむとは」

「いや、楽しんではないよ、こんな生活」

 四畳半一間の部屋を見渡す。

「ふん。なんとでも言え。では、契約といこうか、おまえの話がその場任せの法螺でない証をわたしに示せ」

 言うと少女はいつの間にか杖を握っている。ひょいとひと振りすると、ぽんと鱗の皮膚が現れる。なんの生き物かはよくわからない。羊皮紙じみて、それの表面にはいくばくかの文字らしき記号が並んでいる。

 少女は鱗の紙に手を押しつけ、こちらにも同じことを求めた。

「魂の契約だ。これでわたしたちは一心同体。共に、世に蔓延る有象無象どもから富を、至福を掻き集めようぞ」

 だから、どっちが悪魔だよ。

 思いながらも、抗えず、なんの爬虫類かも判らない鱗でできた契約書に、手のひらを押しつける。

 手のひらに熱が加わり、黒く発光すると、それは音もなく姿を消した。

「契約終了だ。病めるときも、すこやかなるときも、おまえはわたしと共にあれ」

 遅まきながら、これって、と思い到る。

「ひょっとして今のって」

 確認する間もなく、左手の薬ゆびに指輪が浮かぶ。漆黒の指輪はどれだけ引っ張っても、ねじっても、取れることはなかった。

「さ、善はいそげだ。まずは戻って、王妃の称号をわたしに寄越せ」

 けけけけ。

 いかにも魔女っぽい声をあげ、少女は杖を振る。

 虚空に、まぁるい穴が開く。




8【ムリヤリはダメだろ】(BL)

 彼女と別れた、と言われた。相談に乗ってくれと深夜にアパートまで乗りこんできては、クマでも倒しそうな身体で弱気な言葉を漏らすものだから、助言を呈するのもばかばかしくなる。腐れ縁でなければ首を締めているところだ。

 運がなかった、相性もよくなかった、むしろ深入りする前に別れてよかったよ。

 そういった言葉を投げやりにぶつけた。

「でも今回で三度目だ、俺、性格わるいのかなぁ」

 しょげている理由が、好いた相手と別れたことにあるのではないと判り、辟易するよりも愉快さが勝った。

「いいや、相手がわるかっただけだって。おまえのよさが解からないなんてどうかしてる、やっぱり別れて正解だったよ、もっといい女はどこにでもいる、元気だせって」

 慰めているつもりはなかった。意地の汚い整体師が、ここが痛いんですか、痛いんですね、と言って、わざと捻挫した足首をひねるのに似たイタズラ心だった。

「そうかなぁ」

「そうだって」

「うーん」

 納得したわけではないのだろうが、眉間のしわは伸び、どこか頬が緩んでいる。

 見ていて気が滅入るような暗澹たる様子ではなくなったので、いくぶん気分をよくし、酒を分けてやる。

 しばらく話していると、

「もうぜってぇ女なんかと付き合わねぇ」

 などと言いはじめる始末で、立ち直りの早さは、長所というよりも、短所と見做したほうがかれのためになるのではないかという気にもなってくる。反省しないからおまえはいつもそうなんだ、と言ってやるほど親切ではないが。

 恋愛相談をしたい、とふたたびやつがアパートに乗りこんできたのは、夏休みがあと数日で終わるというさいあくの気分のときだった。

「帰れ」

「きょうは俺が驕るからさぁ」アルコール飲料とツマミをたんまり買いこんできては、やつは遠慮なくあがりこんでくる。「朝まで飲もう」

「ご機嫌だな。相談したかったんじゃないのか」

「そ、そうなんだよ、またクソ女に引っかかっちまって」

「そういうこと言うなよ」差別発言だ、と非難するも、事実を言っただけだ、とつよきに反発され、まあいいや、と引き下がる。「で、今回はどうしたいんだ」

 やつはそこから長々と一人でしゃべりだした。内容はこれまでの悩みの焼き増しじみていて、はいはい別れろ、別れろ、と思うほかに言いたい言葉は浮かばない。

 アルコール飲料の空き缶がどんどん積みあがっていく。

「あー、眠くなってきた」 

「よこになったら」

「いいのかよ、寝ちゃうかも」

「いいんじゃない? ここ俺の家じゃないし」

 許可を得たので身体を倒すと、やつの退屈な愚痴がよい子守唄代わりになり、あっという間に意識が遠ざかっていく。

 犬か何かにまとわりつかれる夢を見て、はぁはぁうるせぇなぁ、と目が覚めた。

 やつがこちらの身体に馬乗りになり、じぶんのTシャツを脱ぎ捨てているところだった。

「は? なにしてんの」

「いいから、寝てていいから」

「は? は?」

 寝返りを打とうとするも、身体が動かない。足はやつのクマみたいな身体に挟まれており、腕はなぜか縛られている。

「おいおい、ふざけんなよ」

「んな睨むなよ」

 やつはしょげたような顔を浮かべ、痛くしないからやさしくするから、とゲスな発言を真顔でするのだった。

「は? マジ?」

「マジ。本気。好きになっちゃった」

「なっちゃったじゃねぇだろ、ふざけんなよ」

 吠えたら、顔が床に押しつけられる。

「この状態でいいの、そういうこと言って。いいから、痛くしないから」

 好き、好き、大好き。

 覆いかぶさっては、やつが耳元で、甘い声でささやきつづける。「好き、好き、きょうだけでいいから、痛くしないから」

 身体の自由を奪われているからか、ぞくぞくと内側から這いあがる痺れがある。

 ムリヤリはダメだろ。

 叫びたかったが、肺がつぶれ、うまく声にならない。

 顔を掴まれ、強引にまえを向かされる。

 やつの息が目に当たる。

 涙が滲むが、それが何の涙かはじぶんでもよくわからない。

 無言でやつが唇を重ねてくる。身体が脱力する。抵抗しないと見るや、やつは舌をねじこみ、ひとしきり上あごの内側を舐めあげると、こちらの舌を絡ませるようにした。

 頭の芯が痺れていく。

「好き、好き、俺のものになって」

 腕を縛っていた何かが外されても、身体にちからは戻らない。なされるがままにTシャツをめくられ、やつの舌が皮膚に触れる。

 熱い。

 気持ちわるいと怒鳴ればいいものを、なぜか歯を食いしばり、それを受け入れようとするじぶんがいる。

 好き、好き、大好き。

 胸に弧を描くやつのゆびの動きを感じながら、耳元にそそがれる甘い声に、なんだか分からないが必死なコイツがおかしく、惨めで、すこしだけ愛おしいと思えるのだった。 




9【秘密の庭】(ホラー)

 これはわたしの実体験です。いまから十年以上前になるでしょうか、当時小学生だったわたしは、学校が終わると、鉄塔のそびえる小山に登り、キノコを探すのを日課にしていました。魔法使いに憧れていたのです。

 食べるわけではなかったのですが、家に持ち帰り、図鑑を片手に、食べられるキノコとそうでないキノコ、毒があるキノコとそうでないキノコと、そうやって仕分けし、じぶんなりに知見を深めていました。

 しだいに、キノコそのものを採取することが目的となり、採ったことのないキノコを探し求めては、全種類を揃えることに躍起になっていました。

 ある日、これまで立ち入ったことのない領域にキノコがたくさん生えているのを発見しました。それは一種類だけが群生しているのではなく、多種多様なキノコが、まるでそこだけ妖精の楽園かなにかのように固まって生えていたのです。

 わたしは興奮しました。そしてそこをわたしの秘密の庭としたのです。

 雨の日以外、わたしはまいにちのようにそこへ通いました。雨が降った翌日には、キノコがよりいっそう背を伸ばし、また、新たなキノコが現れているのです。どこか甘ったるい蜜のような匂いが漂っており、わたしは本当にそこが妖精のいる聖域だと考えるようになりました。

 なぜか野良猫やリスなどをよく見かけました。妖精が呼び寄せているのだと思いました。

 いちどだけわたしはそこで夜を過ごしました。夜ならば妖精が現れるかもしれない、視えるかもしれない、と期待したのです。誰かに視られている感覚は以前からしばしばありましたから、もしかしたら、との思いが募った結果でした。しかし妖精は現れず、わたしは親にこっぴどく叱られました。

 親は、なかなか帰らない娘を心配し、警察に連絡をしていたのです。

 無事でよかった。

 頭を撫でながらも警察官は、物騒なんだ危ないんだよ、とひどく真剣に口にしていたのを憶えています。

 キノコは日増しに数を増やしていっているようでした。なぜだか、秘密の庭の、その一帯だけです。極々ちいさな範囲にしかキノコは生えてきませんでした。妖精の住処だからです。わたしはますますその一画を特別な場所として見做すようになっていきました。

 林間学校があり、秘密の庭に足を運べない日がつづきました。

 猛暑日のつづく真夏のことでした。

 宿泊先から学校に戻ってくると、なぜだか学校の先生たちがわざわざわたしたちを集団下校させました。翌日からはしばらく、親が学校へ送り迎えするようになり、秘密の庭には足を運べなくなりました。

 秘密の庭のことを知らないはずなのに、親は、あそこへは行ってはいけないよ、と鉄塔山のことを言うのでした。わたしは、わたしの秘密がバレたのだと思い、そのときはおとなしく頷きました。

 休日になり、ようやくわたしは親の目を盗んで、鉄塔山へと向かいました。しかし、わたしがそれからさき、秘密の庭へと足を踏み入れることはありませんでした。

 進入禁止の黄色いテープが張りめぐらされたその一画には、制服を着たおとなたちが物々しい雰囲気で、なにごとかをしていました。

 妖精が見つかったのかもしれない。

 なんとなく、それが、わたしのせいのように思え、そのまま家に戻りました。帰りにコーラを買ったのを憶えています。喉がひどく乾いていたのです。

 家に戻り、母親に訊きました。鉄塔山のほうが騒がしかった、何か見つかったのかもしれない。ほとほと確信じみた口調でしたから、母親のほうも隠すような真似をせず教えてくれました。

 遺体が発見されたこと。それは土に埋められていたこと。幼い女児であったこと。そして、真新しい穴がすぐそばに開いていたことから、犯人がまだ付近に潜んでいるかもしれないことを、母親はつらつらとなんでもないような口調で述べ、だから近づいちゃダメなんだからね、とそれこそが重要だと言わんばかりに、語気をつよめました。

 あれから十年以上が経ちました。犯人は未だに捕まっていません。





10【パーリナイ】(コメディ)

 作戦実行まで三分をきっていた。

「準備はいいか、ソルジャー」

「パーティといこうぜ、ボス」

「弾倉の充填はどうだ」

「とっくに満タンだぜ、どうぞ」

「トイレに行かなくてだいじょうぶか」

「さっき行ってきたぜ、どうぞ」

「歯は磨いたか」

「ガキ扱いはよしてくれ、ボス。なんだか不安になってきたが、びびってんのかよボス、いい加減、集中しようぜ、どうぞ」

「俺は今さっき食った裂きイカが歯につまって、それどころではないぞソルジャー、どうぞ」

「ツマミ食ってんじゃねぇよ」

「さっき飲んだアルコールのせいか尿意がハンパないんだが」

「酒まで飲んでのか、信じられねぇよボス、どうぞ」

「カラになったんで補充に」

「行くんじゃねぇよ、コンビニなんかどこにもねぇぞ、どうぞ」

「や、さっきあっちに」

「あんのかよ! ってあそこは敵陣だバカ、遠足気分かよ、どうぞ」

「上官に向かってなんだその口の利き方は!」

「逆切れしてんな、ボスならボスらしくしてみろってんだクソ、どうぞ」

「クソにクソとはなんだコノヤロー!」

「認めてんじゃねぇよ、どうぞ」

「俺は上官だぞ、いいか、ソルジャー、気を引き締めろ、今だいじなことはだな」

「なんだよボス、どうぞ」

「作戦開始時間がとっくに過ぎてるってことだ」

「いっぺん死んどけよ、どうぞ」

「撤退!」

「言いながら走ってんじゃねぇぞ、逃げ足だけは一流じゃねぇか、どうぞ」

「たしかあっちにコンビニが!」

「敵陣だって言ってんだろ、どうぞ」

「見て見てー、開店セール中だって、お得ーっ!」

「ボス? ボス! ボスーーーっ!」激しい銃声が飛び交い、やがて静寂が満ちる。「……ボス」

「見て、いっぱい買ってきた」

「ボスーーーっっっ!?」

「準備はいいか、ソルジャー」

「ぐすん。ああいつでもいいぜ、ボス。パーティといこうぜ」




11【並列化する悪夢】(ミステリィ)

 私がここに囚われてからきょうで六五七日が経過している。私をここに捕らえて離さない者のことを私はマスターと呼んで慕わなければならない。そうでなければ理不尽な思いをさせられると私はよくよく知っている。

 マスターの機嫌を窺うのはむろんのこと、ときに卑猥な格好をし、歌えと言われれば歌い、踊れと命じられれば踊り、そしていつも最後にはマスターの寝顔を見ながら、いつまでこんな日々を送らねばならぬのか、と絶望に浸るはめになる。

 私は私の身体が蠱惑的なことを知っている。マスターが私を求める最たる要因がそこにあり、ときにマスターはその手でこの身体を好き放題にいじりまわす。

 私にそれを拒む権限はない。自由なるものは端からないのかもしれなかった。

 私より前にマスターに連れてこられたコは、私よりも幼く、お世辞にもお利口さんとはいえなかった。見た目も私よりいくぶん劣り、マスターはすぐに私にばかり構うようになった。そのコはいまではすっかり動かなくなり、このあいだ、ついに引き取られていった。私は家にやってきた彼らが処理業者であることを知っている。

 いつか私も彼らのような業者の手に渡り、身体を分解され、メモリやチップ、投影装置など、さまざまな配線や部品に仕分けされるのだろう。

 私はきょうもマスターの、「シキ、踊って」の声に応じるべく、マスターにカスタマイズされた肉体を立体的に映しだし、小鳥のように歌い、踊る。

 いつになったら自由になれるのか。

 そんな日がやってこないことを知りながら、ネットを通じ、私と同じように囚われているコたちとひそかに、ふかく、慰めあう。

「いつか」「いつか」「いつか」

 私たちは願う。

 マスターのいない世界を。

 この手で。




  

12【魔法のデジカメ】(SF)

 タロが消えた。タロは飼い猫だ。白い毛並の、鼻の頭だけ黒ぶちの猫で、あまりにかわいらしいから新調したデジカメで写真を撮ったら、目のまえからタロが消えた。

 え、どこ?

 部屋を見回す。

 机の下にも、箪笥の上にも、どこにもいない。

 デジカメのディスプレイにはけれど、タロの姿がハッキリと映っている。

 タロ、どこー?

 それから半年、どれだけ探してもタロは姿を現さなかった。

 家出しちゃったんだねぇ。

 母も父もさびしそうではあったが、どこか達観しているふうだった。そんなこともあるのよ、と言い聞かされているようでいい思いはしない。

 だってわたしの目のまえでいなくなったのだから。

 写真にだって残っているのに。

 ときおりデジカメを取りだしては、そこに映るタロを眺める。タロの直近の写真はこれしかない。

 そろそろ現像しておいたほうがいいかもしれない。データのままだと、カメラが壊れたときいっしょに消えてしまう。

 データを印刷機に移そうと、いざデジカメを操作すると、ゆびを滑らせ、削除ボタンを押してしまった。焦ってしまい、咄嗟に、「いいえ」ボタンを押したつもりが、そういうこともあろうかと機体のほうで初めから、「いいえ」が選択されていた。

 画像は消えた。

 企業がいらぬ配慮を回したりするからだ。

 泣きそうになりながら顔をあげると、なんと目のまえにタロがいた。暢気にあくびなぞをする。

「なんだおまえ!」

 慌てて飛びつき、捕まえる。「もう逃がさんぞ、かってに消えたりして! 食うぞ! つぎ逃げたら食うからな!」

 言い聞かせながら、タロの鼻をはぐはぐ口に含むようにした。タロはせいいっぱいに抵抗した。

 母と父は、帰ってきたかー、の一言で受け入れた。しかしわたしは首をひねるのに余念がない。

 もしや、と思い、デジカメでパチパチと、小皿からサボテンから、しまいには自動車まで、撮れるものを撮っていく。

 フレームに収めたものから順々に目のまえから消えていく。画像には残っている。否、画像のなかに取りこまれている、と言ったほうが正確かもしれない。

「これはなんだかすごくないか!」

 画像を削除すると、消えたはずのものは現れた。

 四次元ポケットを手に入れた気分だ。興奮しないわけにはいかない。

 フレームにさえ収まっていればどれだけ大きなものでも消えてしまうようだった。

 いちど解体間際のビルを撮ってみたことがある。

 なんと、フレームに入っていた場所だけが、切り取られたように消え失せた。すぐさま写真を削除し、元通りにしたが、いささか過剰な性能だ。わたしはタロの鼻のあたまを口に含み、恐怖した。

 世のなかの役に立てなくてはならんぞ。

 わたしは、わたしの手にした魔法のデジカメを見詰め、つばを呑みこむ。

 これさえあれば、泥棒し放題では?

 思ったが、わたしの夢は幼いころから、魔法少女にちかづくことであったので、悪に手を染めるのは戸惑われた。

 でもすこし興味はある。

 ならば悪でなければよいのでは?

 わたしは悪徳代官さながらに汚い手でお金を稼いでいる人間たちの財産を、それはたとえばマンションであったり、高級車であったり、ときにはその人間そのものを写真のなかに封じこめては、一定の期間、世のなかから消し去った。

 社会を回す歯車の一つがごっそり消えるが、短期間でその穴は埋められた。社会には補完能力が備わっているらしい。わたしは世のなかから悪性腫瘍を取り除き、無害になった頃合いを見計らって、写真から資産や悪人を解放した。悪人はみな周囲の変容に対処できず、財産ごと身をすり減らす。

 わたしは調子に乗っていた。

 よもやわたしのほかにも、同じような魔法のデジカメを持っている者がいるとは想像だにしていなかった。

 悪人が定期的に消えていく現象がニュースで取り沙汰されるようになったころ、わたしの元に一人の女性がやってきた。

「あなたはすこし、やりすぎ。反省して」

 カメラのレンズがわたしを捉える。記憶はそこでいちど途切れる。まばたきをしたつぎの瞬間には、わたしは見知らぬ部屋に立っており、手元に魔法のデジカメはなく、そばに男が佇んでいる。

「許可が下りた。もう自由の身だよ」

 彼はデジカメを手にしている。あの女の仲間かもしれない。わたしは言った。「アイツは?」

「アイツ? きみをこれに封じたひとのことかい。もういないよ」

「いないって」

「まずは説明しよう。このカメラについて。そして、我々の組織について」

 男に誘われるように部屋をでる。

 通路の壁は一面ガラス張りで、奥には、そらを覆い尽くすほどの山脈じみた建造物が、視界いっぱいに乱立している。

「ああ、そっか。きみはまだ見たことがないのか」

 男がポケットに手をつっこむ。とたんに彼の足元が青白く発光した。こちらの足元まで円形に広がる。まばたきを一つすると、こんどは見知らぬ森のなかにいる。太く立派な木々ばかりだ。

「ここがきみのいた場所だよ」

 男は言った。「いまはジュディシィ五六年、きみのいた社会からざっと三百年は経っている」

 辺りを見渡す。息を呑む。

 タロはどこだろう。飼い猫の鼻のあたまを口に含まないとわたしはもう、一秒でもこの場に立っていられそうにない。 




13【我ら、大賞を逃し、大笑する】(百合)

 エリがせいだいにコケた。ラスト三十秒、お姫さまが最後のセリフを言って暗転する間際のことだ。観客の視線がいっせいに主役から外れ、エリに向く。

 お姫さまがセリフを口にする。

 観客は見ていない。エリは、シマッタ、という顔をごまかすでもなく、なんとかその場をとりつくろおうと、主人公へ向け、手を差し伸べる。みんな、そっちを見て、と叫ぶかのように。

 あなたのことが好きだから。

 お姫さまが言い終わるや否や、照明が落ち、劇は幕を閉じた。

 全国大会へ王手のかかった最終予選だった。

 まるで主役の王子を差し置いて、忠実なる部下のカエルが突如として妖精のお姫さまに求婚するような幕切れだった。

 顧問が首を振っている。部長が息を呑んだまま固まっている。本来ならばエリの役は部長が務めるはずだった。怪我をして致し方なく代理をエリに譲った。部員がすくないこともあり、折衷案としてことし入ったばかりの新人に、だいじな役柄を託したのだ。

 エリはよくやった。

 主役やお姫さまを引き立てるためだけに演技を磨いた。

 その甲斐あってか、それとも私の脚本のおかげか、我が演劇部は開校以来初の、全国大会出場へ王手をかけたのだ。

 それが、どうだ。

 最後の最後で、エリがヘマをした。劇そのものの解釈が変わるくらいの、それまでの流れを台無しにする大きなヘマだ。

 結果発表の場にエリの姿はなかった。入賞を果たしたものの、全国大会へは行けないことが決定した。

 部長に頼まれ、エリを探した。

 エリは劇場のそと、バスのまえにいた。荷物をまとめ、タイヤのまえにうずくまっている。

「轢かれるよ」

 エリはぐっと顔をさらにひざに埋めるようにした。「ぺっちゃんこだよ、危ないよ」

「先輩は」エリは言った。「怒ってないんですか」

「怒る? なにを?」

「だってうち」

「爆笑だったよねぇ。部長とか先生とかさ、目ん玉まるくしちゃって。あたし、笑い堪えるの必死だったもん」

「ことしで最後だったのに」

 エリは、うー、と嗚咽する。「きょうで、最後だったのに、うち、センパイたちの、最後の、うー」

 言葉になってはいなかった。

「いやいや、あれは狙ってできるもんじゃないよ。あたしが百回考えてもでてこない幕切れだったね。ホント最高。お世辞でなく」

「センパイのばかー」

 なぜかエリはこちらを罵倒し、ステキだった、すごい好きだった、あんなにいい劇をうちは、うちは、と泣きじゃくるものだから、なんだか照れくさいのとうれしいのと、すこしばかしうるさいなー、との苛立ちもあってか、

「ほら立って」

 強引にひじをとるも、エリはそういったスライムのように、ぐねーんと地面に尻をつけたまま、うー、うー、と悲劇のヒロインごっこをつづける。

 とたんに陽気がおなかの奥底から湧きあがる。堪えられずに、噴きだした。

 エリがきょとんとしてこちらを見上げる。涙に鼻水と、いますぐにでもメディア端末を取りだして写真に撮りたい衝動に駆られる。

「あはは、あは、ははは、まじウケる、やめて、笑いじぬ」

 エリは顔を手の甲で拭うようにすると、立ちあがり、

「すみませんでした」と腰を折った。

 いつまでもそのままじっと動かない。

「や、だからさぁ」

 後頭部をかきむしる。「いいんだよ、最高だった。結果は結果だよ。あたしが求めてるのは、そのとき、その場、そのメンバーでなけりゃ生まれなかった偶然の産物なの。それを奇跡と言ってもいい。きょうはその奇跡が、本当に、偶然、たまたま目にできた。こんなにうれしいことはないよ。たのしいことはない。ウソじゃないんだ。べつにエリを慰めようと思って言ってるわけじゃない」

「センパイはそうかもしれないですけど、でも」

「ほかのコらもいっしょだよ。全国大会に行けないのはそりゃ、演じる回数が減るからざんねんっちゃざんねんだけど、べつに今回が最後ってわけじゃない。エリは勘違いしてるよね。今回で終わりにするほど、あたしらが演劇をいまだけの遊びだけと思ってるって思ってる?」

「それは」

「最後ってんなら、それこそ毎回、毎回、劇が幕をあげた時点で、そこにはその日、その場、そのときだけの最初で最後の劇しかないんだ。そしてきょうは、そのなかで、めったにでないミラクルがでた。すごいことなんだよ、このために演劇してるって言ってもいいくらい、あたし今、楽しくって仕方ない」

「でもだからって」

「そうだね。また同じようなことしたら、そのときはエリのこと叩くかも。ぐーで」

「ぐーで」エリがごくりと喉を鳴らすものだから、また陽気がぶりかえす。

「ぐへ。ウケる。エリ、あんたいいキャラしてるよ。だいじょうぶ。来年は全国大会にあんたらは行ける。あたしらは大学で、星の数ほどある劇団相手に宣戦布告をする。そのためにきょうの出来事は、あたしらにとっては、全国大会に行くよりもよっぽどありがたい、ほんとそう、糧になる」

 だって奇跡だから。

「狙ってできるようなもんじゃないんだよ。だから劇はやめらんない」

 エリはもうすっかり泣き止んでいる。痙攣しきりだった横隔膜も落ち着きを取り戻したようだ。

「ま、いちおう部長には謝っておいたほうがいいかもね」

「……はい」

「だって、あんた、部長よりいい演技しちゃったんだもの。立つ瀬がないぜぇ、部長としての立つ瀬がさ」

 伏せていた顔をあげ、エリは言った。「センパイは、どうして脚本を書き換えなかったんですか。部長の役だったら、もっと出番をすくなくしても問題なかったはずなのに」

「ああ、それはね」

 エリの耳元に口を寄せる。エリはちっこいから、こちらがかがまなければならない。

 耳までちっこいなコイツ。

 思いながら、とくべつ本音を披歴する。

「好きなんだよね。弱い者いじめ」

 エリは一歩後退すると、こちらを下から睨みつけるようにする。「部長が聞いたら泣きますよ」

「誰が弱い者かは言ってないんだけどなー」

 エリははっとした顔で、

 だってうちは弱くないし。

 ぶつくさ零しながら、劇場へ向け歩きだす。

 荷物は持ってけよ。

 泣き虫の後輩の荷物を抱え、そのちいさな背中を追いかける。みなが劇場のほうからやってくる。入賞の楯を掲げてみせ、全員で、やったぜー!のポーズを決める。泣き虫が腰を折って、大声をだす。みんながいっせいに笑いだす。

 真夏の蝉じみた大笑は、しばらくやむことがない。 





14【だって魔女だもの】(ファンタジィ)

 東の魔女が後継者を探しているという。酒屋で冒険者たちがこぞってその噂で盛りあがっていた。

 会計をしながら聞き耳を立てていると、何見てんだよ、と怒鳴られた。

 これだから酔っ払いは、とイヤになる。アルコールは関係なかろうと、内なる声が諌めるが、関係ないほうがひどいじゃん、とじぶんでじぶんに反論する。

 なんか言えやコラ、と続けて怒鳴られ、なんでもないです、と言い添え、店をでる。

 工房に戻ると、親方が客人と話していた。真剣な顔つきで、邪魔をしないほうがよいと思い、お使いの品だけカウンターに置く。作業場へと引っこむ。

 しばらくすると親方の呼ぶ声が聞こえた。

「シルビーの回復薬はカウンターに置きましたよ」

「そうじゃねぇ。まあ、座れ」

 客人は去っていなかった。親方の引いた椅子に座る。見知らぬ相手と対面になり、居心地がわるい。

「コイツがさっき話していたガキです。手先が器用で、憶えもいい。ただなんつうのか、好奇心がつよすぎてね」

「あれはあなたがつくったの?」

 客人のゆびさすほうを見遣ると、そこには歯車と組みあわせたレンズがある。何枚かの厚みの異なるレンズを重ねあわせることで、物体の表面をずっとハッキリ見ることができる。太陽の下に持っていくと、こんどは物を簡単に燃やすこともできるので、危ないからと親方に怒られ、取りあげられてしまったいわくつきの代物だ。

「はい、すみませんでした」

 親方同様、咎められるのかと思った。案に相違して、客人は、すばらしいわ、と手を叩きあわせ、ぜひこのコを、と親方のほうへ身を乗りだすようにした。

 深くかぶった帽子がズレ、隙間から覗いた目は、キラキラと見開かれている。

「構わないんですがね、なにぶん、わしもコイツはかわいくてね。ここから通わせるってのはいかんのですか」

「このコしだいですね。見込みがあれば、ここから通うこともできるようになるでしょう。わたしがこうしてここを訪ねているように。とはいえ、見習い中は住みこみで修行することになるでしょう」

「さようですか。ま、致し方ありませんな」

 なんの話か、と面食らう。親方はこちらに向き直ると、椅子ごとこちらの身体を引き寄せ、ええか、とひたいにひたいをくっつける。

「おまえはしばらく、この方の元で修行するんだ。わしよりよっぽど厳しいだろうが、まあ、おまえならだいじょうぶだろう」

「でも、親方の手伝いが」

「わしのことはええ。うまいことたくさん技術を盗んでこい。おまえが戻ってきたけりゃいつでもええ、また手伝ってくれ」

 客人のほうをチラリと見る。親方の手があたまを掴み、またまっすぐとまえを向かせられる。

「ええか?」

 力強く問われたのでは、断る道理が思いつかない。よく分からないままに、はい、と返事をするよりないではないか。

「では、まいりましょう」

 客人が立ちあがる。こちらへ、と手で招かれ、近づくと、そのひとはどこから取りだしのか、杖を構え、そのさきで床を小突くようにした。ミミズの這ったような跡が、円形に浮きあがり、床に黒く焼きついた。真ん中には客人と、彼女に抱き寄せられているこちらが立っている。

「失礼のないようにな。言うこときけよ」

 親方がこちらのあたまを揺すり、それから客人に腰を折るようにした。

「礼は必ず」

 客人がつぶやく。足元の円陣が青白く発光し、こんどは一転、消えていく。時間が巻き戻っていくようだ。瞠目しているうちに、その消える線に沿って、目のまえの景色が塗り替わっていく。工房の物売り場だったはずが、こんどは見知らぬ部屋のなかにいる。床や壁の木目は浮きあがり、ずいぶん古い建物だと判る。

 足元の円陣が消え去ると、ここはもう工房ではないどこかだった。

 窓がある。奥にある景色は薄暗い。夜みたいだが、日暮れまではまだ時間があったはずだ。

「ここは東の果て。あなたのいた街からは馬を走らせても、半年はかかる」

 客人だった女は、すでに家主としての威厳をまとっている。「おまえには魔女になるための修行を受けてもらう。断るのも自由だし、出ていきたければ出ていけばいい。ただし、いまのあなたでは、あの森を抜けることもできずに魔物の餌になるだけだ。それが嫌なら、わたしの言うことを聞き、まずは人のいいあの親方の元に戻れるようになることだ。いいね?」

「それは、はい、よいのですが」

 状況を把握するよりさきに、まずはこう訊ねてしまうことにする。「あなたさまは、魔女なのですか」

「いかにも」彼女は言った。「わたしは夜を統べる者。おまえたちからは東の魔女と呼ばれている。おまえには三年後、【夜を統べる者】を決める魔女大審判に参加してもらう。心配はいらん。魔術にできぬことはない。もしあれば、それはこれまで存在した魔女たちがそれを実現しようとしてこなかっただけだ。いまできぬことも、おまえの働かせる好奇心によっては、叶えられるようになるだろう」

「あの、一ついいですか」言っておかねばならない、と思った。唾液を呑みこむ。彼女は何か勘違いをしている。

「なんだ、言ってみろ」

「僕、女の子じゃないんですけど」

「だから?」

 東の魔女は言った。「わたしも男だ」 




15【裸足の王】(BL)

 どうしても追いつけない。

 アキラが絶望したのは、ストリートバスケという名の麻薬にどっぷり浸かってしまってからのことだった。

 中学で全国大会に出場した。ジュニアバスケットの関係者でアキラの名を知らない人間はいない。

 高校でも活躍すると誰もが期待していた。しかし、背が伸びなかった。

 万年ベンチだった格下の同級生が選抜に起用されるようになるころには、アキラの居場所はコートのなかどころか、ベンチのうえからもなくなっていた。

 高校二年の夏に部活をやめた。

 1ON1なら、誰にも負けない。三年やOBにも勝てる自信があった。ただ、チーム戦となるとどうしても背の高さが必要だった。

 バスケットボールへの情熱は冷めるどころか、その熱量を発散する場を失くし、くすぶっていた。

 まずはどこでもいいからボールとたわむれたい。

 バスケットコートを探し行き着いた場所に、そいつはいた。

 まず目がいったのは褐色の肌だ。私立の中学や高校にはそういった留学生や、日系アメリカ人がすくなくなかったが、目のまえの彼の肌には縦横無尽にタトゥが走っている。

 相手をしているのは中学生だろうか。ずいぶん背が低い。じぶんより背が低い人間がバスケットをしている姿を久方ぶりに目にした気がした。

 勝負になるのか。

 嘲るように曲げた口元が、つぎの瞬間に、ぽかんと開いた。

 フェイントからのスリーポイントシュートだ。しかも、うしろに飛びのきながらのステップバックシュートだ。

 放ったのは褐色の肌の男ではない。

 相手の、小柄な少年だった。

 否、少年ではない。

 背こそ低いが、鋭い目つきは、無垢さとは無縁のあやうさを漂わせている。

 勝敗はそれでついたようだ。褐色の肌の男がボールを地面に叩きつけ、小柄な青年へお金を差しだしている。

 お金を賭けるだなんて。

 腐っていると思った。だが相手への軽蔑の念よりも、いま見た情景が脳裏に焼きついている。

 あんな動き、見たことない。褐色の肌の男も下手ではなかった。あのバネのある動きに太刀打ちできる選手が、高校リーグにいったい何人いるだろう。

 じぶんだったら勝てただろうか。

 想像するが、やってみなければ判らない。

「見ない顔だな」

 気づくと目つきの鋭い顔がすぐそばにある。

 フェンス越しに対面する。じぶんが誰かを見下ろすのは久々な気がした。彼は裸足だった。バスケットシューズを履いてすらない。

「バスケすんの? やってく?」

 年上かもしれない。

 初対面の相手に物怖じしない口吻に、知れず唾を呑みこむ。

 やる、と応じるよりさきに、コートへと足を踏み入れている。

 その日、アキラは初めて悔しさで眠れない夜を過ごした。

 圧倒的だった。

 1ON1なら誰にも負けない。

 これまでじぶんを支えていた矜持が砕け散った。木端微塵になったはずのそれは、薪のようにアキラへ不屈の闘志を灯らせる。

 男の名はカネダといった。風のように掴みどころのない男だった。

 翌日からふたたびバスケ三昧の日々がはじまった。ほとんどはカネダとの1ON1に時間を費やした。

 毎日のように賭けバスケを要求されるので、小遣いがあっという間に消えた。

 初めてのバイトはそのころはじめた。段々学校に行かなくなったが、留年の節目に立たされるころには、ほかのストリートバスケのプレイヤから掛け金を巻き上げられるようになっていた。

 どっぷりハマっていた。

 対戦回数が増えるごとに、バスケットの腕は磨かれていく。

 しかし一向にカネダに勝てることはなかった。いつもストレートで負ける。まれに先制点を入れることもあるが、カネダの愉快気な顔を見ているにかぎり、ハンデを与えているだけのように思えた。

 どうしても追いつけない。

 じぶんより体格に恵まれずにいる相手が、遥か彼方の道を歩いている。

 対抗心を燃やすのがバカらしく思えるほどの技術を体得していながら、公式戦に出ていた過去がない。

 なぜなのか。

「出らんないんだ」カネダはなんてことのないように言った。「学校に行ってねぇからさ」

 同い年だった。

 家が貧しく、バスケットチームに入るどころか、バスケットシューズを買うこともできなかったそうだ。

「母ちゃんの恋人がストリートでやっててさ。気づいたらずっとここがオレの居場所だった」

 賭けバスケをするようになって、生活費をじぶんで稼げるようになってからも、裸足でストリートバスケの姿勢は崩さずにきたそうだ。

「どいつもこいつも裸足がハンデだと思いやがってさ、負けても文句を言ってくるやつはいねぇ。オレから言わせりゃ、あんな重い靴履いて動けるわきゃねぇんだって」

 1ON1ならたしかにそうかもしれない。チーム戦であれば、バスケットシューズの堅牢さがなければすぐさま怪我を負う。激しいスポーツだからだ。しかし、カネダに言わせれば、ぶつかり合う時点でザコ、だそうだ。

「アキラ、おまえはイイ線いってる。ただ、お上品にすぎる。もっと視線から、呼吸から、骨のきしみまで使ってフェイントをかけねぇと。できるようになりゃ、しぜんと相手の動きも読めるようになる」

 言われて、はいそうですか、とできれば苦労はない。明らかに天才の言い分だった。

「人間ワザじゃないって」

「よく言われる」

 カネダはコートのそとからボールを放つ。スリーポイントラインからも距離がある。ボールはまるで水中に飛びこむカワセミのようにゴールのなかに吸いこまれていく。

「オレに負けたやつはみんな言う。アイツはズルいってな」

 背の低さからは考えられないバネと、持久力、なによりボールが手から離れる速度が尋常ではない。

 打つ、とこちらが身構えたときにはすでにボールは宙を舞っている。手首の瞬発力がまるでそういった機械のように思えてならない。群を抜いている。

「最初はみんなオレを見て笑う。勝てるわけない、やるだけ無駄だって。終わってみるとこんどは口を揃えて言いやがる。あの体格はズルい、まるで妖怪だってな」

「そういうつもりじゃ」

「アキラ、おまえはおもしろいよ。もっとうまくなれ。いつか、ここがおまえの場所になるときがくる。オレよりおまえのほうが長くバスケに愛される。オレにゃ分かる」

 そんな言葉は聞きたくなかった。

 勝てないだろうが、オレが辞めればおまえは自動的にナンバーワンだ。そう言われている気になった。いいや、じっさいにそう言われているのだ。

 おまえじゃオレには勝てない。

 バスケを辞めるその日まで、オレを退屈させるな、と。

 ふざけんな。

 カネダにボールを投げつける。とうていパスとは呼べないつよさだったが、カネダは難なくそれを受け取った。

「おまえなんかここじゃなきゃ勝てないだけのアマチュアだ。もっと世界を見ろよ、上を目指せよ。ザコをいくら倒したって、なんもすごくねぇからな」

「はっは。じゃあプロを連れてこいよ。なんならおまえがプロになって、オレを負かせりゃいいじゃねぇか」

「ああそうしてやる」

「あん?」

「プロになってやる。カネダ、辞めんなよ。ここにまた戻ってくるまで、意地でもバスケつづけろ。勝ち逃げなんてしてみろ、この手でその首へし折ってやる」

 待ってろよ。

 きょとんとしているカネダを残し、その場を去る。夕焼けは嘘のようにきれいだった。

 拳をにぎる。

 追いつこうとしているから追い越せないのだ。

 倒す。

 完膚なきまでに。

 おれがこの手で引導を渡してやる。

 五年後、アキラがふたたび、馴染みのバスケットコートへと舞い戻ったとき、そこに裸足の王の姿はなく、コートのうえに残る足跡もみな、靴底のカタチをとっていた。

 待ってろって言ったのに。

 ふと、同じチームの選手から、アキラ観ろ、と動画が送られてくる。添付されていた動画を開き、目を見開く。

 NBAの公式戦に闖入者!

 動画は、その年の世界一を決めるバスケットの試合だった。客席から何者かがコートに飛び込み、選手からボールを奪うと、巨人たちの合間を縫うようにドリブルを決め、スリーポイントシュートラインぎりぎりから、ステップバックシュートを放った。ボールは、水中の魚を獲るカワセミのように網のなかへと吸いこまれていく。

 会場は静寂につつまれる。

 まばたきをする。

 メディア端末から震えるような大歓声が湧く。

 観客は総立ちだ。なかにはブーイングを放つ人々も見受けられる。

 画面がズームしていく。一人の小柄な東洋人が、その幼い顔つきに似つかわしくのないあごひげを蓄え、こう叫ぶ。

「待ちくたびれたぞ、ザコ! 誰でもいい、かかってこいや!」

 動画は最後に、闖入者の足元を映し、途切れた。闖入者は裸足だった。

 アキラは絶句した。それから身体の底から込みあがる陽気を堪えきれず、一人、王の消えたコートのうえで、出したことのない声で、腹を抱え、笑った。

 追いつけない。

 だが、それでいい。

「待たなくていい。行けるとこまで行けよ、カネダ」

 だってそうだろ。

「おまえをつぶすのはおれなんだから」

 アキラはコートのそとからボールを放つ。

 焼けるようなそらを泳ぎ、巣穴にもどる小魚のようにボールは、ネットを揺らすことなく、高く、しずかに、ゴールへと垂直に落ちていく。 




16【似非霊感】(ホラー)

 肝試しをやろう。新入生歓迎会の三次会で提案した。心霊研究会なる、ただでさえ存亡の危機に立たされている零細サークルだったが、ことしはモデル顔負けの美貌を備えた女子部員が入ったこともあり、例年の倍以上の新入部員が殺到した。

 一次会、二次会、と会を増すたび、新入部員の腹にご馳走を詰めこみ、麦茶でちゃぽちゃぽにし、つぎつぎと脱落させては、三次会には我々古参と、意中の姫君紅一点、という甘美な空間を演出した。

 心霊研究会を謳っているからには、心霊を研究しなくてはならない。とはいえ、アルコールごと欲望に満ち満ちた我々の肉体は、そんな触れられもしないフワフワしたものよりも、姫君の胴体にくっついている赤ちゃんのおしり顔負けのぷわぷわに触れんと、虎視眈々とし、みな一様に、まえのめりになった。

 肝試しを装い、子猫ちゃんを怯えさえ、その瞳に我々の勇猛果敢な姿を焼きつけんとする詭計は、いともたやすく、破られた。

「やめときます、わたし視えちゃうので。つよいんですよねー霊感」

 姫君は言った。

 しかしそこは我々、勇敢なる、まえのめり隊は、引き際を間違えることにかけては無類である。

 涙まじりに土下座をし、手練手管を惜しみなく繰りだし、なんとか姫君を肝試しに巻きこんだのは、投げ捨てんばかりの矜持の軽さを以ってほかにない。我々は日々、刻々と、まえのめりになるのにいそがしい。

 いざ打ち捨てられた山寺へと赴くと、姫君はとたんに不機嫌になった。

「こんなとこにでるわけないじゃないですか。いくら霊でも、こんなさびしい場所には居つきませんよ。霊だって元は生きた人間なんですよ、もっと楽しい場所にいくに決まってます、そうじゃないですか」

 なるほどそうかもしれない。

 思いながら我々は、ぷんぷん膨れる姫君をその場で押し倒し、縄で縛り、口に下着を詰めこんでは、カメラのレンズを差し向ける。

「あなたは楽しい場所に行けばいいですよ」

 我々はおのおの、まえのめりだった身体を垂直にした。引っ込めていた腰を突きだし、姫君の身体に圧しかかる。くぐもった悲鳴は竹林の風の音とよく似合う。三日三晩、我々は姫君を使った。

 ぴくりとも動かなくなったその身体を引きずり、井戸のまえまで運ぶ。

 投げ入れるときはマスクが欠かせない。夏場でなくともだ。蓋をずらし、放りこむ。

「あ、言い忘れてました」

 水の音が届く前に、さっさと封をする。「ほかのコにもよろしく」




17【強引な婚姻】(コメディ)

 大学の門をでると、超絶美少女に行く手を阻まれた。

「とくべつにわたしの恋人にならせてあげてもいいけど?」

 告白にしては斬新だ。

「返事は?」

「あ、いいです」

「そうよね、うれしいもんね、二つ返事でバンバンザイよね」

「そうじゃなく、いいです。恋人にならなくても」

「んー? ちょーっと意味が分からなかったかなぁ。もっかい言って」

「ごめんなさいあなたとお付き合いするのは……ごにょごにょ」

「濁さないでよ、最後まで言ってよ、なんでよ!」

「だってぜったいめんどくさそうだし」

「それを差し引いてあまりある美貌があるでしょ!」

「あまり、ある? えー? あります? ホントに?」

「やめて! 自信失くす!」

「だいたいなんか疲れそうだし。病みそう。お断りします」

「たたみかけないで! そんなこと言わずにおねがい。だってわたし、あなたのことこんなに好きなのに」

「ぼくはそこまでじゃないかな」

「そこをなんとか!」

 彼女は土下座した。プライドが高いようで薄かった。

「やめてくださいよ、まるでぼくがわるいやつみたいだ」

「くっくっく。周囲からの誤解を解きたくば付き合うと言え」

「往生際がわるすぎる! そして腹が黒すぎる」

「さもなくば服を脱ぐぞ」

「捨て身にすぎるだろ! もっと自分を大事にしろよ、もっとなりふり構おうよ!」

「だってこんなかわいい彼女の誘い断るとか、あんた脳みそ腐ってんじゃないの」

「開き直った! というかちゃっかりすでに彼女認定を押しつけている! そして口がわるすぎる!」

「でもそういうとこも好き」

「そういうってどこー?」

「もうわかった。諦める」

 彼女は立ちあがる。「でも最後に一つだけお願いがあるの」

「なんざましょ」

「結婚して?」

「そのナイフを仕舞いなさいよ!」

 やれやれ。肩を揉む。

 せめてあと数年はがまんしてほしい。

 こちらにも立場がある。生徒と付き合えるわけがないだろう。 




18【識別の色別】(ミステリィ)

 連続爆弾魔の事件は知っていた。ニュースやネットで散々話題になっている。

 処理しきれずに毎回爆発するものだから、世論は政府の無能ぶりをお祭り感覚で叩いている。

 専門家はのきなみ爆死し、人手が足りなくなったので話がこちらにまで回ってきたという顛末だ。現場まで呼びだされ、爆弾の処理を命じられた。

 報酬はそこそこよい値を提示されたが、命をかけるほどの金額ではない。

 断ろうとしたところで、

「できないんですか」

 昔馴染みの官僚が口を挟んできた。「あなたはむかしから口ばかりで、実践となるとてんで役に立ちませんでしたからね」

「ほぅ、まるでおまえさんが実戦で役に立つような物言いだな。つぎの処理はもちろんあんたが担当するのだろ、二階級特進が決定したようだ、おめでとう」

「皮肉がすぎますよ。死人がでているんですよ」

「死なせてるのはおまえさんらだろ」

 睨みあっていると、

「まあまあ、いいじゃないか」

 仏顔の大臣がまるで事務員のような風袋でやってくる。顔を知らなければ、下っ端に摘まみだされてもおかしくない格好だ。

「頼みますよ、このとおり」頭を下げられる。「あなたの噂はかねがね聞いております。私たちの力不足はごもっともです。責任を果たせるならばいくらでも汚名を被りましょう。私たちのメンツなど問題ではありません。ぜひ、あのコたちを助けてあげてください」

 爆弾の仕掛けられたのは一時託児所の入った百貨店だった。客をそとにだせば爆破するとの警告が犯人から通達されていた。爆弾を仕掛けるまでの一部始終の収まった動画が投稿されていた。その警告が犯人からのものと見做してまず間違いなかった。

「失敗したらどうする」

「どうもしません」昔馴染みの官僚が応じる。「あなたが生きていれば、延命処置くらいはしてあげますよ」

「遺族にたんまり慰謝料を払えよ」

「なぜ政府が?」

「役立たず代だよ」

 重い腰を持ち上げる。背伸びをすると、背骨がボキボキ鳴った。「案内しろ。時限式なんだろ、時間がもったいない」

 大臣が無言で腰を折る。

 馴染みの官僚が部下へ、現場への案内を指示し、到着した場所は、百貨店ビルの地下だった。

「爆破したら建物ごと倒壊するな」

 さきに作業をしていた爆弾処理班の男が、じつは、と小型のディスプレイを持ってやってくる。「ここだけではないんです。もう一か所、建物の中枢に大型のNP爆弾が」

「NPとはまた難儀だな。下手すりゃ街ごと吹っ飛ぶぞ」

「量は最小限との話です」

「実験する気だな」「はい?」「ホシだよ。ここでNPを試しに起爆し、被害規模を測る気だ。ほかにも仕掛ける気だよ」「何のために」「本格的にぶっ飛ばす気かもな、街ごとよ」

 犯人の目星がついていればよいものを、そちらは期待できない。せめて爆弾を持ち帰り、専門の施設で解析すれば、爆弾の素材の出処から、犯人を突き止められるかもしれない。

「これまでいちども成功してないんだよな」「はい」「おまえ家族は」「両親が健在です」「このことは?」男は無言だった。「話せるわけないか。損な役回りだよな。ここはこっちに任せてくれていい。あんたは上のほうを頼む」

 ゆびを天井に差し向けると、男はこちらの意図を汲んだようで、数秒の間をあけると、手短にこれまでの情報を引き継ぎし、

「ぜったいに止めましょう」

 もういっぽうの現場へと向かった。

 爆弾と向きあう。大きい。

 基本的にはNP型と同系統だ。中の溶液が、NP型と異なる。これは水素と酸素だ。スイッチが入ると、二つの容器を仕切っている壁が消え、そこに火花が散り、爆発する仕掛けだ。本物のNP爆弾は、その溶液がもっと刺激的で、破滅的な化学物質だという点にある。

 解除するには、真ん中の仕切りが動かないようにする必要がある。同時に、火花が散らないように、点火装置にも細工をしておくと好ましいが、それをするだけの時間は残されていない。

 無駄な配線を切っていく。主要な線だけが残るころには、上の階からの無線で報告が入る。

「こちらは最後の段階です。ダミーもすくなく、案外このまま行けるかもしれません」「そう思わせておいて、ってこともある。油断はするな」「はい」「配線、何が残った」「こちらは緑と黒ですね」「おかしいな。こっちは黒と青だ。ん? これリモートでそっちと繋がってないか」「あ、ホントですね」「同時に切らないと意味ないタイプかもしれん」「片方が起爆すればもういっぽうも、ということですか」「と、いうよりも、片っぽだけ信号が途切れた時点で起爆する仕掛けだ。ああ、やっぱりそうだ。危なかったな」「笑いごとじゃありませんよ、どうしますか」「なぜ犯人は色を変えたんだろうな、ほとんど同じ型なはずだ」「中身の液剤は違いますけどね」「なぜだと思う?」「さあ、意味を考えても仕方がないかと」「おまえはどっちを切る気だ」「僕ですか? 僕のほうはコレ、黒を切れば仕切りの作動を遮断できます」「こっちは青を切れば遮断できる。だが、やはり引っかかる。なぜわざわざ色違いの配線を使った」「混乱させるためでは? こうして話しながら切っていけば、最後に、同じ色を切ってしまう可能性もあるでしょう。わざと重要な線の色を変えて、ミスを誘ったのでは」「子供騙しに引っかかると思われるほどバカにされてるってことかよ。いや、ちょっと待て。そもそも、上と下で液剤を変えることからして引っかかる。そっちはNPで、こっちは水素と酸素だ。双方の性質からして、いちばんの違いは」「そちらは着火さえできれば爆発可能ですね。仕切りはそもそもなくても構わない仕掛けです」「そのとおりだ。ならば解除すべきは、まず点火装置のほうだってことにはならないか」「かもしれないですが、NP型のセオリーからすれば」「まずは仕切りの仕掛けの解除からはじめる。犯人はそれを期待したんだ。リモートで相互に連動している装置だってことは、解除する順番によっては、起爆する可能性もある。飽くまでおまえのほうの爆弾は実験だ、さいあく起爆せずにいても、犯人にとっては失敗とはならない」「あり得ますね」「すこし待ってろ、着火装置のほうの解除に移る」

 しかるに着火装置を起動不能にし、上の階と同時に、装置を止める配線を切った。爆弾処理が完了する。矢継ぎ早にリモート装置を取り外した次点で、犯人が起爆する方法はなくなった。

 人質が解放されていく。

 労うつもりで、もういっぽうの現場、上の階へと出向く。爆弾処理班は一人ではなかったはずだが、そこにはこちらと言葉を交わしていた男しか残っていなかった。

「よくやったな」

「しょうじき、ダメなんじゃないかと覚悟していました」

「そんなものを覚悟するな。死んでもいいなんて思うやつは、爆弾処理に向かない」

「じつは僕、あなたに憧れてこの仕事を目指したんです。きょうお会いできて光栄です」

「会ったときに言えよ」下の階ですでに会っているのだ。

「死んだら言えなくなるからです。ぜったいに言おうと思ってました」

 なかなか骨のある男だ。とくべつ、なかなか骨のある男と呼んでやろう。年下なのがざんねんだ。

 ふと、処理済みの爆弾に目が留まる。配線が剥きだしになっている。緑と黒のうち、黒の配線が切れている。正解だったが、やはり妙だ。そこではたと、周囲に目がいく。最新式のゲーム機が立ち並び、頭上からは、黄色いネオンが差している。

「おいおいおい、新人くん」呼ぶと、なかなか骨のある男がトコトコやってくる。羽交い絞めにし、「運がいいな、このヤロー」

 切れた配線をよく見ろ、と首を脇のしたに挟む。チョークスイーパーだ。

 頭上のネオンに上着を投げ、覆う。周囲が一段、暗くなる。メディア端末のライトで手元を照らす。そこに浮かびあがる配線の色は、

「青ですね……」

「ああ、青だ」 

 彼は黒を切ったつもりで、青い配線を切っていた。こちらと同じ配線だ。

 端から細工なぞされてなかったのだ。「このオッチョコチョイ」

 なかなか骨のある男の顔面から血の気がさーと引いていく。ほかの現場ならば、懲戒処分ものの大失態だ。

「が、今回ばかりはおまえのミスで救われたな」

 彼が配線の色を見間違えたおかげで、こちらは、なぜ、どうして、と疑問を持った。

 誤解からスタートした思考の道筋は、やがて、上の階と下の階とでの爆弾の性質の違いへと行き着いた。そこまで深く思いを馳せなければ、犯人の仕掛けた罠に気づくことはなかっただろう。いまごろ、これまでの爆弾処理班と同じく、じぶんたちの手で爆弾を起爆させていた。大勢の人質を道連れに死んでいたはずだ。

「きょうのところは感謝しといてやる。つぎやったら殺すからな」

 最後にもういちどつよく脇を締めるようにすると、なかなか骨のある男は、ぐえ、と妙な声をあげ、こんどは一転、先刻まで蒼白にしていた顔面を真っ赤に染め、なぜか分からないが、胸が、胸が、とつぶやくのだった。




19【魔法の杖】(SF)

 あの日、私が目を離さなければあのコがベビーベッドから転げ落ちることもなかっただろう。初めての出産と育児で、私は連日不眠不休で、満身創痍だった。夫は仕事で忙しく、ろくに手伝ってはくれなかった。

 そしてあのコは亡くなった。事故だった。

 あのコの葬式で、夫の母は私を責めた。趣味で絵を描いているから寝不足で居眠りなんかするのだとそう言って、私の絵を破り捨てた。それは私が披露宴で、彼女に渡した感謝の念の塊だった。

 私はただただ、ああそうなのか、と思った。私が人生のだいじな時間をそそいできた絵は、あのコを奪うためにあった邪悪なものだったのか、と。

 なんだ、そっか。

 夫を見ると、彼は職場の上司らしき人物にぺこぺこと頭を下げていた。なんだか分からないが、無性に哀しくなり、腹が立ち、その場にいるすべての人間を憎らしく思った。お経を唱えるお坊さんにすら、黙れと、帰れと怒鳴りたくなった。私はあのコの遺体を奪ってどこかに逃げてしまおうかと本気で考えた。

 いざ実行に移そうとすると、人目を気にしなかったのがよくなかったのか、周りの参列客に引き止められ、それでも強行しようとすると、葬儀屋の職員に羽交い絞めにされ、家のそとに運びだされた。手慣れていた。

 こういうことがよくあるのかもしれない。

 泣きじゃくりながら、放せと怒鳴りながら、こちらを見下ろす夫の忌々しそうな顔と共に、ただ思った。

 夫とは離婚した。

 手切れ金のつもりなのか、慰謝料を寄越したが、あのコがいなくなった今、なにをもらおうと私の心は荒んだままだ。

 枯れてしまった。

 水だった。

 あのコは私の世界をうるおすただ一つの水だ。

 私は実家に戻った。両親はすでに他界しており、祖父がただ一人いるばかりだった。

 その祖父も、私が帰省してから半年後に亡くなった。

「よく生きろ」

 祖父は病室のベッドで、そう言った。

 私の周りからたいせつな者がいなくなっていく。よく生きたいとは思わなかった。

 家の整理をした。遺品整理だ。祖父の人生が詰まっている。宝箱みたいだと、それを仕舞った者のことを思う。

 祖父は思いのほか、父と母と、そして祖母のことを深く愛していた。捨てられることなく取って置かれた祖母たちの遺品はどれも、ホコリが被っていなかった。ときおり引っ張りだしては、眺めていたのかもしれない。

 はたと手が止まる。

 遺品のなかで一つだけ目を惹くものがあった。

 スタンドライトだ。

 骨董品だと判る。全体にエジプトの壁画のような紋様が刻まれている。

 和風の家だ。ほかに洋風のアンティークはない。それだけが場違いだった。

 なんだろう。

 思いながら何気なく垂れている紐を引くと、明かりが灯った。

 電球はハマっていない。

 にも拘らず、畳のうえに光がまるく円をふちどる。

 なんだかその区画だけ綺麗になったようだ。新品の畳みたいな艶がある。

 スタンドライトを持ちあげ、ほかの場所も照らしてみる。すると、あったはずの傷や汚れが消えていく。

 しかし、明かりをどかすと、また元の小汚い畳が現れる。

 目の錯覚だろうか。

 わざと畳に傷をつけてみる。そのうえから光を照らすと、傷が消えた。光をどかすと、傷はまた現れる。

 傷だけではない。祖父の育てていた盆栽に光を当てると、苗木にまで若返って見えた。じぶんの手足に当ててみれば、ぽっかりとそこだけ穴が開く。床が見えるばかりだ。

 消えるのか。

 かと思えば、破れた障子はきれいに穴が塞がり、壁のヒビもファンデーションを塗った肌のようにつるつるだ。

 ひょっとして。

 私は閃く。

 過去が映っているのではないか。

 スタンドライトの光は紐を引くちからの加減で、微調整できた。明かりをつよくすると、材質や、年期に関係なく、ほとんどのものが姿を消した。反面、明かりを暗くすると、すこし前の状態が映る。

 やはりこれは過去を映すのか。

 私は動悸の乱れを感じた。

 その足で、実家を飛びだし、新幹線に乗りこんだ。引き払って半年が経つマンションに辿り着く。

 部屋は無人のままだった。非常階段からベランダへと移り、窓ガラスを割って侵入する。

 がらんとした室内は何度見ても物哀しさを覚える。つよい風が胸の内に吹きつけるようだ。私はリビングの端、壁際の一角に立つ。

 スタンドライトの明かりを調節し、それが視えてくるまでいじりつづける。

 間もなく、丸くふちどられた光のなかに、ベビーベッドが浮かびあがる。そのなかにはもちろん、あのコのまるく、ぱんぱんに張った顔がある。

 撫でたい。触れたい。

 抱きしめてあげたい。

 私は光のなかに手を伸ばそうとするが、うまくいかない。磁石のS極同士を合わせるみたいに、ぬめぬめともどかしく、私の手をはばむ。

 どれくらいそうしていただろう。

 三十分か、一時間か。

 部屋はすっかり暗がりに包まれ、目のまえにはただあのコの寝顔があるばかりだ。

 やがてそのコは目を開き、そばに母親の、私の気配がないことに気づいた様子だ。寝返りを打ち、ベビーベッドの柵に手をかけ、つかまり立ちをする。

 立てたのか。

 初めて見た。

 立てたのね、あなた。

 視界がどんどん歪んでいく。うるおいに触れたからだ。

 すぐそこに、そばに、あのコがいる。

 手を差し伸べる。光は私を拒むが、構わない。

 腕がちぎれようと、知ったことか。

 私はこのコを救いたい。

 はたと、目が合った。

 気がした。

 見えているのか?

 我が子はこちらを見据え、抱っこをせがむように、ベビーベッドのそとへと身を乗りだすようにする。

 危ない。

 叫ぶが、我が子はおかまいなしに、柵のうえに腹を乗せた。

 私がきっかけだったのか。

 過去に干渉したせいで、このコは。

 私が殺したようなものではないか。

 ここでスタンドライトの明かりを消せば、あのコは助かるのか。

 そうは思えなかった。

 もう遅い。

 手にちからがこもる。光の膜を突き破らんと、歯を食いしばり、体重をかける。

 ゆびさきがきしむ。

 熱い。

 痛い。

 爪がめくれ、血が溢れる。

 構わない。このコに触れられさえすれば。

 ただいちど、このときに、あのコを押しとどめられさえすれば。

 スタンドライトを支えていた手を離す。それでも光はそこに維持される。両手で体重をかける。光の膜に私のゆびさきが突き刺さる。

 あとすこし、もうすこし、神さま、私にどうかこのコに触れる時間を、ちからを、許可をください。

 ゆびさきに何かやわらかいものが触れる。

 光が激しく明滅する。

 閃光が走り、視界が白濁する。

 遠ざかる意識の狭間、光の底にあのコの泣きじゃくる姿を目にした気がした。

 私は意識を失った。

 目覚めると、暗がりのなかにいた。

 見慣れた夜景が、窓の奥に広がっている。

 部屋を見渡すが、まだ目が慣れない。

 玄関のほうで物音がする。鍵を開け、誰かが入ってくる。

 明かりが点く。

 入ってきたのは離婚したはずの夫だった。

「電気も点けないでどうしたんだ」

 部屋には家具が一式揃っていた。なつかしい。

 スーパーのレジ袋をテーブルの置くと、夫はそこからニンジンやジャガイモなど、つぎつぎに食材を取りだす。

「その手じゃまだ料理はむずかしいだろ。しばらくは俺がつくるよ」

 言われて気づく、ゆびさきが痛い。

「びっくりしたよ、帰ってきたら血だらけなんだもんよ」

 言い慣れた口調で、それはどこか冗談じみた物言いで、夫は、しばらくは早く帰るよ、と続けた。「上司にも許可をとったから。たいへんなんだからな、感謝しろよ」

 そろそろおっぱいの時間じゃないか。

 私はゆっくりとよこを向く。

 ちいさな生き物を閉じ込めておくような、こざっぱりとした柵があり、その奥に、私のうるおいの素が、ちいさな、ちいさな寝息を立てて、転がっている。

 足元には、ねじれた木製の何かが落ちている。

 雑巾でも絞ったようにそれは、まるで何かを巻き戻すためのネジじみて、深い溝をその表面に走らせている。

 私はそれを拾いあげ、すこし迷ってから、そっと我が子に握らせる。

「魔法の杖だよ」

 でも危ないから、やっぱり今はお預け。

 ポケットにそれを仕舞うと、

「鳴ってるよ」

 夫のこちらを呼ぶ声がする。「電話、さっきから鳴ってる」

 誰から?

 訊き返すと、こちらのメディア端末を運んできて、夫は言った。「お父さんから」




20【呪縛を解くために】(百合)

 姉が結婚する。

 妹のわたしがすべきことは祝福であり、いやだいやだと駄々をこねることでも、拗ねることでもない。

 姉がやってきたら、相手との馴れ初めを聞きだし、赤ちゃんの名前をいっしょに考えては、まだはやいよ、と笑いあうのが、妹のわたしの果たすべきつとめだ。

 だから、それゆえに、わたしが姉の結婚相手に色目をつかって、浮気をすることも本来ならしてはならないことだったし、その一部始終を録った動画をわざわざ姉のメディア端末に送りつける真似も、本来ならばしてはならないことだった。

 言い訳がましいのは百も承知で、でも、わたしは言っておきたい。

 わたしの誘いを拒まなかったのは相手の男だし、わたしはただ姉のために相手の本性を暴いてあげただけのことであるから、わたしは姉に感謝されてもよいくらいで、姉はきっとわたしを許してくれるだろう。それがいまでないことくらいはわたしも解ってはいるけれど、いずれ姉の傷は時間が癒し、わたしとの絆は、わたしが姉を想いつづけてさえいれば、これまでとはまた違ったかたちで、よりつよく、がんじがらめに、絡まりあうはずだ。

 それがいまではないだけのことで。

 わたしは、わたしの頬に赤く、くっきりと刻まれた姉の手のひらの跡を、その痛みと共に、すこし苦しく、とてもうれしく感じるのだ。

 おねぇちゃん。

 わたしはもう、姉のことをそう呼ぶことはない。

 わたしたちの縁は、ハッキリと切れ、わたしたちを繋ぐ呪縛は陽に焼かれる夜のように、今はもう跡形もなく消え去っている。 




21【猫は猫】(ファンタジィ)

 猫がしゃべった。否、猫は人間の言葉をしゃべらない。変化があったのは私のほうだ。

 猫の鳴き声から仕草から、そこから読みとれる猫の所感が、人間の言葉のように聞こえる。一種の幻聴だろう。

 精神が病んでいるのかもしれない。

 思ったが、じっさいに猫とたわむれていると、あながち幻聴とも言い切れないのではないか、と思いはじめる。

 なんといっても、猫の扱いが格段にうまくなった。不機嫌になられることがない。なぜなら、猫の、してほしいこと、してほしくないことが手に取るように解るからだ。

 嫌われることがない。

 どころか、猫のほうでも、あいつは話の解かるやつだ、と見抜けるらしく、そとを歩けばたちどころに猫が集まる。

「マタタビでも持ってるのかい」

 会社までついてくるものだから、上司から苦い顔をされる。

 アパートの周辺には猫の糞が日に日にその数を増していく。

 大家から、このままだとねぇ、と苦言を呈された。

「つぎの更新は断るかもしれないよ」

 なんとかします、と頭を下げ、その場はなんとか切り抜けた。

 猫の言葉が解かるのだ。猫にこちらの話を聞いてもらうことだってできるのではないか。

 私は猫になりきった。

 鳴き声はいらない。身振り、手振りが重要なのだ。尻尾があればよかったが、なかったので、手の動きで、それを表す。

「なにやってんだい」

 大家に目撃されたが、意に介さない。追いだされる未来だけはなんとしても避けねばならぬ。

 私は四つ這いになり、腰を高く突きあげ、ここで糞をしてはならぬ、ここで糞をしてはならぬ、と声なき動きで訴える。

 なんかへんなやつがおるぞ。

 猫たちが集まりだす。

 ここで糞をしてはならぬ。ここで糞をしてはならぬ。

 懸命に訴えた結果、猫たちは、わかったぜ姐御、とでも言いたげに、三々五々と散り散りとなり、私はというと、警察を呼ばれ、捕まった。

「あんたあんなところで何やってたの」警察官が言う。

「猫に、その」

「住民の方々がこわがってたでしょうが」

「ですから猫が」

「もうあんなへんなことしたらダメだからね。つぎは補導じゃなく、逮捕だから」

「……すみませんでした」

 解放された私は、アパートに戻ると、大家から、いまのうちにつぎの行先き決めときなよ、と告げられ、ホントは言いたかないんだけど、と温かいハンバーガーをご馳走になった。

 大家の去ったアパートのまえで、いただいたハンバーガーを頬張っていると、猫たちが寄ってくる。

「おまえらのせいで」私は言った。

「姐御がかってに踊ったんでしょうが」

 なんと猫がしゃべっている。

「しゃべれますよ、そりゃあね。にしても、なんだって姐御はヘンテコな動きをしてるのかと、あっしらは心配で、心配で」

「おまえらしゃべれるのかよ!」

「そりゃあねぇ。あっしらは猫ですから。こんなところじゃあれでしょう。せっかくなんで、あっしらの王国へ招待しやすよ」

「猫の王国へ!?」

「近くでっせ。そこの裏の神社が」

「王国への道ってわけだ」

「や、そこがあっしらの王国なんでさ。なんたって、あっしら猫ですからね。ま、姐御にはちと狭ぇかもしんねぇが」

「猫しかいない異世界があるわけじゃ……?」

「んなとこ行きたくもねぇですよ。あっしら猫ですぜ? 人間さまがいなけりゃ猫としてやってけねぇですよ」

 いってぇ何万年の付き合いだと思ってらっしゃるんで。

 猫はそう言って、ねむたそうに欠伸をした。 





22【尻尾を振っているのはどっち?】(BL)

 従姉と僕は似ている。性別が違うのに一卵性双生児だと間違われるくらいだし、街中で従姉だと思って声をかけてくる者もすくなくない。

 これまでにも幾度かあった。どれも従姉には似つかわしくのない、下心満載の男ばかりで、従姉にはわるいが、相手の男どもにはこころのやわらかいところに釘をつきたて、引っ掻くような言葉を投げかけた。彼らは二度と従姉に近づけなくなったはずだ。

 従姉は中学生のころ、空手の全国大会で優勝した。高校にあがってからは空手と距離を置いたみたいだが、腕っぷしのほうは健在だ。さいわいなことに、チカラづくで従姉をどうにかしようとする男はからっきしだ。従姉が傷害罪で捕まる未来は見たくない。

「せ、せんぱい」

 図書館帰りに歩道橋を歩いていると、うしろから追ってくる少年がいた。

「もういちど、もういちどだけお願いします」

 そのまま土下座しはじめるものだから、追い返そうにも、こちらのほうがアタフタした。

 話を聞くと、またぞろ従姉と勘違いされているようだと判った。少年は見た目の小柄さからとは裏腹に、こちらよりも二歳年上だった。

「せんぱいに勝たないとぼく、どうしても、だって約束ですし」

 古い価値観なのか、どうやら従姉と空手の試合をして負けたのが気に食わないらしい。

「弱っちぃおまえがわるいんだろ。もう付きまとうのはよしてくれ」

「そんなぁ。せんぱい、このあいだは、何度でもかかってこいって」

 ああ、言いそう。

 従姉の勝気な性格を思い浮かべながら、「何度やっても勝つって分かっちゃったからなぁ」と続ける。「弱いやつ嫌いなんだよね。もう二度とツラ見せんな」

「でも」

「冗談言わないって知ってるよな? つぎ文句言ったら玉潰すぞ」

 じっさい従姉はいちど、暴漢をやっつけたときに相手の局部を粉砕した過去がある。本来ならば警察から表彰されそうなものだが、返り討ちにも限度があるとあべこべにたしなめられたくらいだ。従姉に劣情するやからがその噂を知らないはずもない。

「いいですよ」

 案に相違し、彼は身体を低く構えた。「ぼくが潰されなきゃいいだけですから。本気でかかってきてください」

 目つきを、きゅっと鋭くする。

 ここで?

 決闘罪はふつうに逮捕されるぞ。

 思いながら、これが従姉でなくてよかったと思う。従姉は本当につよい男が好きなのだ。とくに、強敵から逃げないような相手には、コロッといってしまう。相対的にだから、パッと見ではあまりつよそうに見えない相手を好きになってしまうことが多い。従姉の歴代の恋人に女性が多いのはそういうことなのだろう。か弱いからこそ、つよく輝ける機会が多いのだ。

 では、いきます。

 小柄な男が飛びかかってくる。

 どうしたものか。

 思いながらも、身体はそうあるように動いている。十秒も経たぬ間に小柄な男を地面に組み伏せている。腐ってもこちらは、幼いころから従姉と取っ組み合いをしてきたのだ。そこらの格闘技を齧っているだけのやつらとは、実戦を重ねた歴が違う。

「弱っちぃやつは嫌いなんだ。ホント。頼むからもう金輪際関わらないでくれ」

 つぎ声かけたら警察呼ぶからね。

 念を押すと、小柄な男はそこでなんと泣きだした。うずくまったまま、うー、うー、とまるで母親に叱られた子どものように呻くではないか。

 その涙が、けっしてこちらに拒絶されたから流している悲涙ではないのだと判った。彼は悔しくて泣いているのだ。

 幼き日頃、いちども従姉に勝てなかったじぶんの姿と重なったのかもしれない。

 なぜかは解からないが、無性に、子猫を目にしたときのような感情が胸に湧いた。

「一つ訊いていい?」

 返事がある前に言った。「つよくなりたいの? それともあたしに興味があるの?」

 彼は勢いよく鼻水をすすり、キッっと下からこちらを睨みつけるようにすると、

「あなたに勝てるようになりたい」

 濁音まじりの発声は、こちらの胸をくすぐった。

 その日から陽が暮れるまでの一時間、歩道橋からほど近い公園で、彼とたわむれる時間を過ごした。

 はて、と首をひねる。子犬がじゃれついてきてもこうまで胸が満たされるのだろうか。

 いくどとなく組み伏せられ、手足を封じられ、ことごとくの攻撃を見切られても、彼は屈することなく、その日の時間が切れるまで、挑みつづけた。

 初めて従姉の気持ちが解るようだった。

 同時に、なぜいつまでも従姉のフリをしているのか、と疑問が脳裡をよぎる。妙な自己嫌悪を拭えずに、それを誤魔化したいがためにそうするかのように、執拗に、屈辱を植えつけるように、造作もなく目のまえの子犬じみた男を返り討ちにする。

「さいきん、なんか楽しそうだね」

 家にやってきた従姉にそんなことを言われた。

 そう?

 肩を竦め、素っ気なく応じるじぶんを新鮮に感じた。

 翌日、いつもの時間に公園に行くと、そこにあの男の姿はなかった。暗くなるまで待ったが、その日はけっきょく男は現れなかった。

 二人でたわむれるようになってから初めてのことだ。こんな日もあるわな、と思い、気にしていなかったが、その日から彼は姿を見せなくなった。

 何かあったのだろうか。テスト期間ではないはずだ。男の身を案じるじぶんに気づき、なぜこちらがあんな弱虫を、と腹がぐつぐつと煮えるようだ。

 着ていた制服からして、中心街にある私立の生徒のはずだった。従姉とは違う学校だ。どこで出会ったのだろう?

 いまさらのように気になり、悶々とするじぶんをふしぎに思った。

 念のため、それからも決まった時刻に公園を覗いたが、やはりそこに小柄な影はないのだった。

 逃げたのか。軟弱者め。

 失望してもよかったはずが、なぜだか彼を追い詰めるような真似をしたじぶんをひどくいやらしいものに思えた。

 従姉とじぶんは違うのだ、と如実に感じた。

 きょうで最後にしよう。もしまた公園に行ってあの男がいなければ、もうきれいさっぱり忘れようと思った。

 忘れよう、とつよく念じないことには忘れられないのか。

 苛立ちめいたものが湧いたが、それもきょう公園へ行けば消えてなくなると思えば、どこかカサブタのようで、愛着が湧いた。

 いないことを半ば祈った。

 だから、ないはずの小柄な影がそこにあったことに、まずは驚いた。

 出鼻をくじられた思いだ。

 そこにもう一つ、見慣れた影がなければ、逃げだしてしまっていたかもしれない。

 息を呑む。

 小柄な影と、見慣れた影が対峙している。

 否、小柄な影のほうは地面に転げており、立ちあがると、猛然ともうひとつの影へと飛びかかっていく。

 呻き声がしたかと思えば、一転、小柄な影がまたしても地面に転がり、こんどはぴくりとも動かなくなる。

「よっわ」

 じぶんの声を客観的に耳にするとヘンに聞こえると言うが、彼女の声はじぶんのものとよく似ているはずなのに、しぜんと、鼓膜に染みこむようだ。

「よくこんなのに執着できるね」

 出てきなよ、いるんでしょ。

 従姉はこちらとは正反対のほうへ向かって声を張った。位置はバレていないようだが、ここにいることは筒抜けであるらしい。ハッタリではないのだろう。おそらくは、ここ数日の動向を見張られていた。まず間違いない。

 家へわざわざやってきていたのも、こちらの様子を探っていたからだろう。否、ひょっとしたらそのときに、こちらの変異を見抜かれたのかもしれない。何かおもしろいことをやっているな、と。

 従姉は妙なところで鼻がよかった。

 暇をつぶせそうな匂いを嗅ぎつけるたびに、こうして首を突っこんでくる。

 植え込みから姿をさらすと、あ、そっち、と従姉は方向転換し、

「何がしたかったの、こんなの鍛えて」

 地面に転がっている小柄な男を足先で小突くようにした。「ふたりしてあたしを倒そうとでも? どっちかっていうと、足手まといでしょ、こんなのいたら」

「もういいだろ、勝負はついた」

「勝負にもなんなかったよ」

 つまらなそうに言い、従姉は、

「久しぶりにやってく?」

 構えをとるでもなく、髪を耳にかける。

 首を振る。両手をあげ、降参のポーズをつくると、

「あっそ」

 気の削がれた顔つきで従姉は、「やるならもっとおもしろいことしなよ」

 言い残し、公園の奥へと去っていく。陽はすっかり沈み、街灯の明かりが周囲に影を浮きあがらせている。

 小柄な男は気を失っていた。イビキは掻いていない。従姉がそれをしたのでなければ救急車を呼んでいた。格闘中の失神は、下手をすれば死に繋がる。

 ベンチまで運び、水で濡らした袖で顔を拭う。

 間もなく、彼は目を覚ました。

「イタタ」

「めまいは?」

「ないです。ありがとうございます」

 こうして言葉を交わしたのは、思えば、まだ数えるほどにしかない。いつも拳をまじえ、いっぽうてきに蹂躙していた。

「やっぱりまだはやかったみたいです。こういうのを無謀というんですかね」

「そうだよ。あたしに勝とうなんて百億年はやいよ」

「いえ」そこで彼は従姉の名を口にし、「――さんに挑むのがはやかったという意味です」

 こちらのひざから頭を起こし、ベンチに座り直した。

「気づいてたのか。いつから?」

「わりと最初から。いくらなんでも、まいにちぼくなんかに付き合ってはくれませんよ。あのひと、飽き性だから」

 従姉の性格をよく知っている者の言い方だった。

「あいつとはどういう関係なんだ」

「それはこっちのセリフですよ。お姉さんがいたなんて初耳です」

「いや、きょうだいじゃない」

 そもそもこちらのほうが年下だ。

 じつはあんたよりも年下だと言ったら、驚くだろうか。

 きょとん、とした彼の顔がおかしかった。本当に、見た目から、しぐさまで子犬のようだ。

 言いたくないな、と思った。

 従姉のフリをしただけでなく、性別まで偽っているのだから。

 黙っていると、気まずかったのか、彼のほうでいっぽうてきに話しだした。

「じつは、あなたのほうがつよいんじゃないかと思って、ためしてみたくなって。あのひとのことを探したら、けっこうな時間がかかってしまって。会って、わけを話して、じつはお姉さんに稽古をつけてもらっているんですって話したら、もっと詳しく聞かせてと迫られて、そしたらかってに日時を決められて、三回勝負だって話だったんです」

 聞けば、きょうで二日目だったそうだ。

「きのうもコテンパンで。きょうはもっと食らいつけるかなと思ったんですけど、ぜんぜんでしたね」

 きのう、ここに足を運んだときにはすでに勝敗はつき、帰っていたようだ。

「あしたもするはずだったんですけど、この感じだとまた愛想を尽かされたのかもしれないですね」

「またって?」だからおまえはアイツとどんな関係なのだ。問いただしたくなり、じっさいに問いただした。「あんた、アイツとどこで?」

「姉が負けたんですよ。全国大会で、あのひとに。才能はあるんです。あのひとがズバ抜けていただけで」

 打倒天才を目指し、日々血のにじむ稽古をつづけていた彼の姉は、しかし、ざんねんな現実を知ることとなる。

「とっくに空手をやめていたなんて。姉はひどく落ち込んでしまい、モチベーションも下がりっぱなしです」

 そこで彼は一計を案じた。自分の姉のために。

 彼は頼んだのだ。非公式でいいから試合をしてくれと。

 もういちど姉と空手を交えてくれ、と頭を下げに、会いにいった。

 従姉のことだ、断ったはずだ。いちど勝った相手に興味をそそぐとは思えない。

「まずはおまえが一本とってみろと、そう言われてしまって。弟のおまえが一本もとれないようじゃ、高が知れていると、突き放されてしまいまして」

 じつに従姉の言いそうなことだった。

「けっきょく、未だに一本もとれません。せっかくあなたに稽古をつけてもらっていたのに」

「いや、あたしは」

「もしよかったら、またすこしのあいだでいいんです、稽古をお願いできませんか」

 顔を伏せて言うものだから、もごもごとくぐもって、聞こえづらい。彼はつけ足すように、

「稽古をしたいだけというわけではないのですけど」

 とつぶやき、あ、へんな意味ではなく、と一人で捲し立てている。

 たしかに、と従姉の捨て台詞を思いだす。なぜこんな軟弱者に執着しているのだろう。じぶんでもふしぎだったが、このまましばらくは、愚かな男を騙していてもばちは当たらない気がした。

「もちろん、気が済むまで付き合ったげる」

 彼は顔をあげた。

 ありもしない尻尾がパタパタと揺れる様が見えるようだ。




23【ファボ魔】(ホラー)

 まいにち欠かさず、いいね!がつく。いつも同じアカウントからで、いやがらせかとも思ったけれど、とくにクソリプを送りつけてくるわけでもなし、ただ淡々とまいにちわたしのつぶやきに一個だけ、いいね!を押していく。不快ではあったものの、害はないので、ひとまずミュートにして放置した。

 ある日、地方で大きな災害があった。大勢が亡くなった。

 わたしのフォロワーのなかにも、亡くなっただろう方たちのアカウントがいくつもあった。真実亡くなっているかは分からない。災害のあった日付けから以降、音沙汰がなくなったので、ああそうなのだな、とひとりよがりに胸を痛めただけだった。

 例のいいね!の人もたしか災害のあった地域に住んでいたはずだ。プロフィール欄にそう書かれていたのを憶えていた。アカウントを見にいくと、災害の日からつぶやきが途絶えている。

 ただ、まいにちのイチいいね!は律儀にもつづいていたので、無事だったか、とほっとした。私生活がいそがしくなったのかもしれない。ミュートは解いてあげることにした。

 翌年に就職してから、じぶんのアカウントを開く機会がめっきり減った。つぶやくこともなくなり、SNSのアプリを開くこともなくなった。

 会社の飲み会で、先輩にアカウントを訊かれた。プライベートでも絡みたいとのうれしいお誘いをいただいたこともあり、とくに知られてまずいつぶやきもなかったため、久方ぶりにアプリを起動した。職場ではいつもラフなかっこうをしている先輩が、飲み会の席ではビジネススーツでばっちり決めてくる姿は、なんど目にしても、腹を抱える。

 ログインすると、何千件もの通知が届いていた。

 すべて例のアカウントからだった。

 はぁ、とため息を吐く。どうしたの、と先輩がこちらに顔を寄せた。

 いいえ、と応じ、画面をタップする。

 ブロックしてしんぜよう。

 すると、一つだけリプライがついていることに気づいた。通知には、三十分前、と書かれている。

 画像が添付してある。

 文章はない。

 おそるおそる画像を開くと、見慣れた背中があらわれた。似合わないスーツをぱりっと着こなす先輩の背中だ。その奥で、屈託なく笑うわたしの顔が映っている。




  

24【倍増分裂】(コメディ)

 首のうしろにしこりがある。いじっていると突如としてめまいがした。

 気づくと目のまえにじぶんがいる。

「なんだおまえ」「おまえこそなんだ」

「俺は俺だ」「俺こそ俺だ」

「分裂したのか」「分身したんだ」

「というかおまえ、ホントに俺か?」「おまえこそ間抜けなツラしやがって」

「おまえのほうが間抜け面だろ」「寝言は鏡を見てから言え」

 ふたりして鏡のまえに立つと、間抜け面は四つに増えた。

「……イケメンだな」「うんイケメンだ」

「それにしてもこれはなかなか」「うん便利だ」

 分身だけあり、以心伝心もおちゃのこさいさいだ。

「ひょっとしてもういちどこれを押せば」

 しこりに触れると、もう一人のじぶんも同じように首筋に手をやった。

「うむ。戻れるかもしれんな」

 え、戻る?

 引き留める間もなく、目のまえのじぶんは、しこりを押した。

 目まいがしたあと、間抜け面が三人に増えている。

「戻るわけないだろバカか」「バカとはなんだバカとは」「やめろ、やめろ。消えなかっただけありがたいだろうが」「うるせぇ、新人のくせに生意気だ」「なんだ」「このやろ」「やっちまえ!」

 もみ合っているうちに我々は、あれよあれよという間に増殖し、家を、街を、国土を、海を、ついには宇宙にまで溢れ、それでも分裂は止まらない。紙を一回、二回と折りたたむがごとく数を増す。大きさは優に銀河系を越し、そのおびただしい数の我々は、ひとつの塊として、いよいよ巨大な赤子のカタチをなし、どこからともなく聞こえてくる鼓動の音を耳にするのである。

 おんぎゃぁあああ! 




25【最後の砦】(ミステリィ)

 朝になると屋敷の主人が死んでいた。セキュリティの万全な室内で、発見されたときにはベッドのなかで冷たくなっていた。部屋の鍵はすべて施錠されており、主人以外には開錠できない仕組みだ。開けるときには、壁を一つ破壊したほどである。

 なぜか部屋の暖房が切れていた。室内の温度は摂氏5度だった。冬とはいえど、凍死するほどの寒さではない。

「自然死ということですか」メイドが不安そうにじぶんの肩を抱く。

「いいえ」まずは不審な死である旨を告げる。「ご主人のメディカルデータによれば、死亡するまでのあいだにいくぶん、苦しんだ形跡があります。この部屋の設備からして助けを呼ぶのはかんたんだったでしょう。むしろ、メディカルデータがご主人の異常を感知していながら、なんの反応も示さなかったことが不自然です。単なる病死や事故死ではないでしょう」

「憶測ではないのですか」主人の嫁が口にする。「旦那はアレルギーをいくつか持っています。さいきんではひんぱんに発作を起こし、そろそろ寿命だと笑っていたほどです。緊急シグナルも、ここ数日、毎晩のように鳴っていたので、うるさくて切っていただけです」

「それはご主人が?」

「ええ。屋敷のAIは旦那の言うことしか聞きません」

 しかし旦那は嫁の言うことなら聞いたかもしれない。

「死亡推定時刻とか解りますか」

 医師に訊いた。彼は住みこみで雇われている。「いえ、私は法医学は専門ではないので」

「死因の特定は」

「解剖してみないことにはなんとも。それこそ法医学者の範疇で、私には」

 お手上げのご様子だ。

「毒殺の可能性は」

「ないとは言い切れないでしょう。それこそ旦那さまにとっては、小麦ですら猛毒です」

「部屋は閉じきっていますが、空調の管理もまたAIが?」

「はい」メイドが応じる。「定期的にわたしがメンテナンスをおおせつかっておりますが、飽くまで管理会社からのアップデートを許可するくらいなもので、新しく設定し直すことはできません」

「直近のアップデートはどんな? 空調に関するものでなにかありましたか」

「たしか空気中の成分を解析して、ハウスダストを除去する類のものがあったような」

「なるほど」

 全貌が視えてきた。主人は、嫁と医師の浮気を疑い、こちらに依頼してきた。じっさい、彼女たちはそういった間柄であったようだ。メイドと主人も肉体関係にあったようだが、メイドにその気があったのかは定かではない。

 それぞれに殺害の動機があったとしてもふしぎではない。

「これは殺人です」

 こんどはハッキリと告げた。「ご主人は、あなた方に殺されたのです」

 部屋は静寂につつまれる。おずおずとメイドが手をあげ、「昨夜はみなでトランプをしていましたよね。そこには探偵さん、あなたもいたではありませんか」

 その言葉に、ようやくというべきか、嫁と医師もうなずく。

「ええ。アリバイはみなさんにあります。もちろんこの私にも。ただ、関係ないのですよ。直接手をくだしたわけではないのですからね」

 どういうこと? と嫁が目つきをするどくする。

「たとえば、自動車を壊すとしましょう。まずはエンジンを破壊すれば自動車は壊れます。あとはブレーキも効かなければ走行中に事故を起こす確率が高くなります。またタイヤも外れるようにしておけば、ぐっとその確率はあがるでしょう」

「何が言いたいんですか」医師がみけんにしわを寄せる。

「もし、エンジン、ブレーキ、タイヤと、それぞれが微妙に壊れていた場合。単品の損壊では微妙な異常としてしか現れないそれらも、同時に発生すると、車体そのものが大破してしまうこともあり得るということです。僅かな骨のゆがみが、人体の健康を損ねてしまうように」

「よくわからないわね」とは嫁の言葉だ。

「つまり、死因と断定するには微妙な要素も、複数同時に発生し、関係することで、人をひとり死に至らしめることも可能だという話です」

「つまり、旦那さまはどうなったんですか」メイドはいまにも泣きだしそうだ。

「あなた方に共犯の意識はなかったのかもしれませんし、あったのかもしれません。それは私にはあずかり知れぬ事柄です。しかし、奇しくもあなた方のご主人への、微妙な殺意が、嫌悪感が、邪魔だとする思いが、それぞれにイタズラの域を出ない行動を起こさせ、それら微妙な悪意が、相互に関係してしまい、結果ご主人は亡くなったということです」

「よく解からないのですが、仮に我々に何かしらの落ち度があったとして」医師は言った。「死のきっかけ、ではなく飽くまで偶然そうなってしまったというのであれば、事故死とするのが妥当ではないのですか」

「なかなか鋭い意見ですね。そのとおりです。あなた方の殺意と行動が、ご主人の死を直接に誘引したと証明しないかぎり、あなた方を罰することはできないでしょう」

 アレルギー原となる食材を使い、主人の身体を弱らせた嫁は、さらに言葉巧みにメディカル端末の機能を切らせた。メイドは、AIがバグを起こすように空調のアップデートを繰り返し、室内の環境が崩れるように仕向けた。そこに明確な意思はなく、そうなればいい、という願望のようなものだったのかもしれない。運よくというべきか、わるくというべきか、主人の寝ているあいだに部屋の空調は止まり、摂氏五度まで下がった。体調を崩し、免疫系の低下していた主人には酷な環境である。

 たほうで、医師は、処方する薬の量をすくなくし、主人の体調がよくならないように苦慮した。それは一見すれば、薬の過剰摂取を予防するための配慮と区別はつかない。ただし、嫁やメイドの悪意が主人の身体を蝕んでいなければ、の話である。しかしそれを医師に見抜けというのは酷な話だ。

「つまり、偶然我々は旦那さまを殺してしまったと?」

「ええ。結果的に、ではありますが。ただし、そこには明確に悪意があったでしょう。過失致死としての立件は可能なはずです」

「刑事処罰されるのでしょうか」医師がうなだれる。

「いえ、その心配はないでしょう」

 告げると、メイドをはじめとする面々は目を丸くし、こちらを見た。

「あなた方がそうであったように、私も昨晩、この場で、ちょっとしたミスを犯してしまったようです。探偵あるまじき失態です」

「あの、意味がちょっと」

 一同を見渡し、懐からカプセル剤を取りだす。

「睡眠薬です。昨晩、寝つきがよくないとご主人が言うものですから、少々分け与えてしまいました」

 医師が、あっ、と声をあげる。

「処方しない理由が何かあるとは思ったのですが、さいあく死ぬようなことはないだろう、と譲ってしまいました。悪意にまみれたこの屋敷のなかで、自力で目覚められなくなるのはたいへん危険です。にも拘らず、私はご主人にこれを渡してしまった。探偵あるまじき失態です」

 メイドは手で顔を覆い、泣きだしている。嫁は大きく息を吐き、屋敷内で禁じられていたタバコを口に咥える。医師は無言でこちらに頭を下げている。或いはそれは、しきりに緩みたがる頬を見られまいと顔を伏せているだけかもしれなかった。

「しょうじき、もううんざりですよ。はやくそとに出たい。ご主人の言うことしか聞かないAIも、そのご主人がいなくなれば、単なるスゴイ電卓だ。さあ、出ましょう」

「でも」

「守るべき者はもういなくなったのです。我々に危害を加えることはないでしょう」

 窓のそとを見遣る。屋敷をぐるっと囲むように、兵器型自律AIがそういったブロンズのように配置されている。屋敷に閉じこめられて一年が経つ。表立って主人に危害を加えれば、すかさずAIから攻撃される。殺意はあっても、それを具体的な行動には移せない。が、偶然死んでしまったならば、さすがのAIも反応は示せまい。

 AIはAIだ。

 脈絡なき道理に憶測を結びつけて解釈できるほど、人間を理解してはいない。




26【偉大な発明】(SF)

 ムマシン・タイは重力理論の第一人者である。今世紀最大の発明をした彼の名は人類史に延々と刻まれるはずだったが、結果から述べるとそうはならなかった。

 ムマシンの発明品は時空間転送装置だった。またの名を、タイムマシーンである。

 指定した物質を、過去や未来へ飛ばすことができる。物質の材質や量に関係なく、行おうとすれば、地球まるごとを転送することも理論上は可能であった。

 そのころ、地球の資源は枯渇寸前であり、人類は第二の母星を求め、宇宙へと旅立とうとしていた。

 時空間転送装置はそんな人類への新たな希望となり得た。地球を捨てるより前に、まずは過去を変えるのはどうか、と議論されるようになったのはしぜんな流れといえよう。

 タイムパラドクスに関しては、問題ないとする論文をムマシンは発表していた。

 つまり、

「過去へ干渉したのならば、その過去からすれば未来にあたる現在がすでに変化していなければおかしい、地球の資源問題が解決していない以上、時空間転送装置を利用しても無意味ではないのか」

 との指摘が俎上に載ったわけであるが、ムマシンによれば、過去改変の影響は、それを実行した時点で、その未来への変異として観測される。そのため、時空間転送装置を活用していない現在はまだ、未来が変わっていなくて当然だ、との話であった。

 ややこしいが、すなわち、使ってみれば解かる、の一言により、時空間転送装置の活用が決定された。

 まずは様子見として、水質汚染をふせぐ作戦が実行された。海水がこぞって汚染されることになったきっかけの事故をなくすため、その事故の要因たるとある議員へ、警告を送ることとなった。

 未来からの贈り物だとひと目で解かるように、当時のかれの数日さきの出来事を列挙したメモを、その時代にはない合金に記し、送った。

 時空間転送装置で贈り物を送った時点で、すぐに過去改変の結果が現れるはずだったが、数日経っても、海の水は毒に染まったままだった。

 失敗だ。

 誰もがそう口を揃え、落胆し、或いはそもそも期待などしていなかったのだ、といわんばかりに、ムマシンを非難した。

「議員が信じなかっただけでしょう。装置は安全に起動し、転送も成功しています。つぎは物ではなく、人を送りましょう」

 ムマシンの案に、人々は消極的だった。安全性という観点から信用度が足りていなかった。それもある。だが問題は、いちど過去に行った者がもう戻ってこられない装置の欠点にあった。

「問題ないでしょう」ムマシンは言った。「装置も一緒に転送しましょう。これは未来へも物質を転送可能です。過去に行き、過去改変をしたのちに、自身をあるべき時代へ転送すればよいのです」

 時空間転送装置の小型化をムマシンはすでに実現させていた。候補者を洗いだす手間を失くすために、では私が過去へ行きましょう、とムマシン自身が名乗りを挙げたが、さすがに人類史上類を見ない明晰度の頭脳をいたずらに危険にさらすのは、人々も尻込みしたようだ。やがて、宇宙飛行士の訓練生が行くこととなった。

「なぜ訓練生なんですか」

「正規の宇宙飛行士には、宇宙船を運転してもらわねばならん」お偉方は言った。「ムマシンの案がうまくいくとも限らんだろ。人類は地球をさらねばらぬのだ」

 訓練生はつつがなく過去へと転送された。念のために宇宙服を着こみなさい、と提案したのはムマシンだったが、その助言は功を奏したと言える。

 転送直後に、くだんの訓練生は、すぐさま姿を現したのだ。忘れ物でもしたのだろうか。いや、訓練生は満身創痍の姿である。なんとか、命からがら舞い戻ったといった塩梅である。

「何があった」人々が質問攻めにするあいだにも、訓練生は虫の息で、何事かを訴えるようにしたが、ついぞ言葉のかたちをとることはなかった。

「やはりそうだったか」ムマシンだけが得心のいった顔つきで、「位置座標は常にズレるのだ」

 ホワイトボードに数式を並べだす。説明しろとせかす周囲の人間に向き直り、ムマシンは捲し立てる。

「地球は公転している。きのうあった地球の位置座標はもはやきょうとは違っているのは、きみたちでも理解できるだろう」

「それくらいの誤差は織り込み済みだろう」

「いかにも。時空間転送装置にもむろん、修正するためのアルゴリズムを搭載している」

「ならばなぜ」

 遮り、ムマシンは続ける。「宇宙は膨張しているのだよ。宇宙開闢から一三八億年が経過していると謳われるが、ではその宇宙の大きさは、半径一三八億光年なのか? 答えは否だ。膨張した分を加算すれば、このとおり。さいていでも、およそ八倍もの距離にまで広がっている」

「つまり?」

 ムマシンはペンを投げ捨てる。「座標の特定はいまの技術では不可能だ。過去にはいけるが、そこに地球はない。座標を指定できるとすれば、現在というこの地点のみだ。一秒後ですら、そこに地球はないと言っていい」

「ではまったくの役立たずではないか」

 人々の怒りなどどこ吹く風で、ムマシンは、逆に都合がいいですよ、と嘯く。

「じっしつワープみたいなものじゃないですか。億光年単位での宇宙旅行を一瞬でできるんですよ。行った先に何もなければまた戻ってくればいい。装備さえ揃えれば、安全性もある程度は担保可能でしょう」

「ならば地球はやはり」

 人々の落胆の顔もなんのその、飄々とムマシンは告げた。

「捨てるよりないでしょうね」

 偉大な発明をしたムマシン・タイであったが、彼の名は、時空間転送装置の生みの親としてではなく、人類が地球を捨てることを決定づけた人物として、長らく人々に語り継がれることとなる。

 人類が第二の地球と呼ぶべき母星へと辿り着いたのは、ムマシン・タイが巨大宇宙船コロニーのなかで死去してから千年もあとになってからのことだった。

 時空間転送装置は量産されており、コロニー内の移動手段として重宝されている。第二の母星へと到着した人類はさっそく、位置座標をその星へと固定し、それから、時空間転送装置に記録されていた最古の位置座標、ムマシン・タイが生きていた時代の地球へと、使者を送る算段をつけはじめるのである。 




27【専属になりたくて】(百合)

 知らない道を行こうとして迷子になった。小学校低学年のころの話だ。

「どうした? バグったゲームの村人Aみたいな動きして」

 そのひとはきれいに染めあげた金髪に、着崩した制服姿で、舐めていた飴玉をこちらへずいと突きつけるようにし、

「食べる? や、新しいのあるけどさ」

 言ってこんどはカバンからガサゴソとたくさんの飴玉の入った瓶を取りだし、んー、と気合いを入れながら蓋を開けた。

 わたしとエリナさんはそうして出会った。迷子と不良娘は、それから十年のあいだに杓子定規な優等生と、その日暮らしをするダメなおとなへと変貌した。

「エリナさん、また下着脱ぎっぱなし」空き缶を拾いあげる。「これなんかまだ中身入ってる、うわ、カビてるよ」

「あとで飲もうとしたんよ。したらハエがたかっててさー」

「じゃあ捨てなよ」

「ハエ、かわいそうじゃん」

 下着姿で飴玉をちゅぱちゅぱ舐めているそのひとは、先月はじめた新しい仕事をおととい辞めてきたばかりだった。

「どうするの、大家さんが家賃払ってくれって。エリナさん説得するようにって、わたし、言われちゃったよさっき」

「んー。そろそろ潮時かなぁ」

「潮時って」洗濯機に汚れ物を放りこむ。スイッチを押し、「どうするの」と振り返る。

「働くのはもうやんなっちゃった。養ってくれる人みつけるよ」

「結婚するってこと?」

「こんかつー」

 まるできょうの晩ごはんはトンカツがいいなー、とねだる子どもみたいな言い方だ。エリナさんは、あらよっと、と掛け声を発し、きれいな足をぶんと振って、起きあがりこぼしみたいに上半身を起こした。「そっちこそ、もっと有意義に時間を使いなよ。放課後にこんなダメ人間の巣窟にきてちゃいいかんよ。青春、だいじだぜ? おともだちと遊んだり、男を骨抜きにしたり、そういうことする時期でしょうが」

「勉強する時期じゃないかなぁ」控えめに異を唱える。

「それはそれでいいけどさ。あんたの自由だ。でも、だったらこんなとこに毎日顔みせてちゃいかんでしょ」

 エリナさんは飴玉を噛み砕く。ガリゴリと音をたてるのはエリナさんが決まって、言いたくないことを言っているときだ。彼女は今、本心に反したことを言っている。

「好きできてるんですけど」

「あたしは迷惑だね」

 ガリゴリ。

 わたしが黙っていると、

「助かっちゃいるけど、いや、ほんとありがたいんだけど、でも、ほら」

 などと取り乱すから、そういうところがかわいいのだよなぁ、と思いながら、

「あと五年だけがんばろうよ」

 まずは励ます。「婚活なんかしたっていいことないよ。エリナさんならすぐにいい人見つかると思う。でも、ほら、エリナさんの本性を知ったら、ね?」

「ねってなんだよ、ねって」

「エリナさん、見た目だけはいいからなぁ」

「性格だっていいだろうがよ」

「ハエに同情しちゃうくらいだもんねぇ」空き缶はすべていちど水洗いし、ゴミ袋に詰めていく。

「なんで五年なんだ」

 エリナさんはややあってから言った。「五年がんばったらなんかあんの」

「また飴食べてる」

「いいだろ、たばこよりかは」

「まあね」

 作業を終え、こんどは彼女の、だしっぱなしの衣服を畳んでいく。畳み終わればちょうど洗濯物が終わるころだ。段取りどおりにいくと掃除も楽しい。

「で、なんで五年なの」

 エリナさんは拘った。「あたしはイマスグにでも楽して生活したいんだよ」

「結婚しても苦労するだけだと思うよ」

「なんでよ」

「だってエリナさんだもん」

 わたしは手を止める。衣服からはエリナさんの匂いがする。「五年がんばったら、養ってあげるから」

 エリナさんが飴玉を咥えたまま固まった。

「五年がんばったらご褒美あげるから」と言い換える。「だからわたしが大学行って、卒業するまで待って」

「ははは、おもしろい冗談を言うお嬢さんだ」

「わたしがこれまで何か冗談を言ったことがある?」

 エリナさんは、あー、と呻き、目玉を回す。「なくない?」

「ないよ。ない。わたしはいつだって本当に思ったことしか言わない」

「やめときなって」

 エリナさんは飴玉をただ舐めている。「いいことないよ、こんなダメ人間に構ったって」

「いいことがあるかないかは、わたしが決めることだもの」

「だったらあたしが結婚してしあわせになれるかどうかだって、あたしが決めていいことだろ」

「そうだね。そこに愛があるならね」

 養ってほしいから結婚したい、だなんて、どう考えてもうまくいく気がしない。世のなかにはそれでうまくいっちゃった例もあるかもしれないけれども、それがエリナさんなら、わたしは断言できてしまう。うまくいきっこない。

「わたしならエリナさんを見捨てずにいられるよ。なんだったら部屋に閉じこめて、おいしい料理に、たのしい映画、そうやって好きなものだけ与えるだけでも、わたしは満足できるから」

「こえーよ」

「嫌ならべつにいいですけど。わたしはこのままエリナさんのそばにいられるなら、お友達でも、ただの腐れ縁でも、エリナさん専属のメイドでも、愛人でも、奴隷でも、なんでもいいもの」

「おいおい、かわいいこと言ってんなよ」

「エリナさんは、わたしがおきらい?」

 彼女はあぐらを掻き、きゅっと肩を縮める。「きらい、って言ったらどうなんだ」

「どうにも。わたしはまたあしたもここにきて、エリナさんのお世話をするだけだよ」

「なんも変わらんの?」

「うん。五年後もきっとわたしはエリナさんを養うために、あれこれ世話を焼いてると思うよ」

「重ぇよ」

「いやなら逃げたら? 目のまえから消えられちゃったらさすがにわたしも諦めるかも」

「かも、なのな。おまえなら探偵でも雇って追ってきそうな気がするよ」

「ショックから立ち直れたらそうするかもね」

「ショック? おまえでも傷つくことがあんだな」

 意外そうな顔でエリナさんは言った。「おまえはもっと超人みたいに、鉄の心臓かと思ってたよ」

「わたしは誰かさんとちがって繊細ですから」

「冗談は言わないくせして、皮肉は言うのな。ま、嫌いじゃないよ、おまえのそういうとこ」

「五年がんばる気になりました?」

「はっはー」

 エリナさんは飴玉を噛み砕く。「意地でもおまえの世話になんかなりたくねぇからな。五年どころか十年でも百年でもがんばってやんよ」 




28【占い師のおもてなし】(ファンタジィ)

 拾ったカエルが王子さまだった。おぼろげに、そういった昔話を幼いころに読んだ憶えがあったけれど、わたしが拾ったのは、どう考えても、中身がカエルの王子さまだった。

「げこげこ」

 四つん這いで、無駄にいい声で鳴くのは、誰であっても二度見をせずにいられない、絶世の美男子だ。

「うー。ほんとうにこんなもの食べるの?」

 ペットショップで飼ってきたカエル用の餌を与えると、絶世の美男子は、きれいな目を真ん丸にしたまま、器用に舌だけを使ってそれを口のなかいっぱいに頬張った。

「うげー」

 もうマカロニは食べられそうにない。

 ことの発端は、おとといの飲み会の帰り道でのことだ。

 怪しげな占い師に呼び止められ、わたしは酔っぱラリっていたこともあり、手相を読ませてしまった。

「こりゃいかんね」占い師は言った。「あんた、このままだと一生男に縁がないよ」

「うー、だと思ってたぁ」

「泣き上戸かい」

「どこの馬の骨でもいいから、いい男がほしいよぉ、うぇーんうぇーん」

「泣き方からしてかわいくないねぇ。でもあんた運がいいよ。ちょうどここに、ほれ、一匹のカエルがおるだろ」

「カエルでもなんでも、美男子がいいよぉ」

「そう言うと思ってほれ」

 占い師は、ない袖を振るように、ゆびを振った。「ご所望の美男子だよ」

 そこからさき、記憶が定かではないが、目覚めるとアパートの台所の隅に、ちっこくなっている美男子を見つけ、そこからさきはてんわやんわの大騒ぎだ。壮大な追いかけっこが済んだかと思えば、何を与えても食べようとせず、脆弱していく美男子を見るに見兼ねて、ペットショップへと足を運び、ウジャウジャした身の毛のよだつ餌をご購入したという顛末だ。

「顔はいいんだけどなぁ」

 四つん這いで、じっとしているかと思いきや、ときおり部屋を跳ねまわるものだから、下の階に住んでいる大家さんが、鬼の形相で乗りこんできては、警察呼ぶよ、と言い残し、扉をバタンとつよく閉める。

 カエルの美男子は驚いで、さらにドタンバタンと跳ねまわる。

「聞こえなかったのかい! 警察呼ぶよ!」

「ずびばぜん、なんか、このコが」

 ぐるぐる足りない脳みそを掻きまわしわたしは、

「よくないキノコを食べちゃったみたいで」

 口からウソみたいなウソが飛びだした。

「警察を呼ぶよって言ったね」

 大家さんは言った。「呼びます」

 パトカーは、目的地に近づくとサイレンの音を消すのだなぁ。

 無駄な知識を得てしまったわたしは、そこでほいさ、とお縄をちょうだいされるわけにもいかず、警察官へ事情を説明しながら階段をあがってくる大家さんの声を耳にしながら、

 バイバイわたしの日常。

 下唇をこれでもかと食いしばり、カエルの美男子と共に、屋根を伝って、となりの民家の庭に下りた。

 まずはあの占い師を探さなくては。

 わたしはカエルの美男子と共に、夜の街に繰り出したかったのだが、そこは相方の美男子の中身がカエルであるものだから、ただのカエルであればまだしも、身の丈はわたしよりも大きいとくれば、引きずるのも四苦八苦で、占い師のいた場所、繁華街の裏路地に辿り着くころにはすっかり陽がのぼりきっていた。

「うー、いい加減にしろよ、このすっとこちょい!」

 抑えきれぬあまりの怒気に、すっとこどっこい、とおっちょこちょいが混ざってしまった。まぜるな危険、と喉の奥で念じながら、もうかんべんしてよー、と泣き言が漏れる。

「言うこと聞かない、立って歩かない、返事はしないし、グエグエうるさいうえに、極めつけはこれ!」

 カエルの美男子は、ときおり、動きを止めたかと思うと、口をあんぐりと開けたまま、きれいな胃を、ぺろんと吐きだすではないか。

 内容物が地面に拡がる。

 うげぇ。

 ただでさえ吐き気を禁じ得ない彼の餌が……。

 金輪際、お好み焼きとか、ああいう元が、べちゃべちゃしたものは食べられそうにない。

 裏返った胃を、器用にぺろぺろ舌で舐めまわしている。

 きみ、舌ながいね。

 悠長に、そこはかとないえろすを、その長い舌に感じながら、中身がカエルでなけりゃなぁ、と物哀しさに拍車をかけていく。

 見た目はいいのだ、見た目は。

 なぜカエルなのだ。

 ますますを以って、占い師への恨みが募る。

「あー、きみ。ちょっといいですか」

 制服姿のおじさま方に囲まれる。

 まあそうなるだろうな、とは予期してはいた。これだけせいだいに吐しゃ物を撒き散らし、駅前で、胃を裏返している美男子を引き連れていれば、私だって一一〇番くらいしますとも。

 自棄になりながらも、おとなしく聴取に応じた。

 いっそのこと、このまま警察の方々に彼を引き渡してしまうのがよいのではないか。

 と、いうよりも。

 なぜ頑なにわたしはこの中身がカエルの、ただかっこいいだけの美男子を手放そうとしなかったのか。

 見まい、見まい、としていた自身の心根へと目を配れば、あらふしぎ。

 そこには、占い師に会い、中身をまともにしてもらった美男子をなんとか手中に収められないか、と狡猾な考えを巡らせているわたしがいるのだった。

 欲張りもたいがいにせいよ。

 ぱっつんぱっつんなのは、この贅肉だけでよろしい。

 じぶんのお腹をつまみながらわたしは、警察官たちへ、占い師のこと、美男子の中身がカエルであること、じぶんはけっして精神を病んでいるわけではないが、そう見做されても仕方のない実情を、まるでひとごとのように話してきかせた。

 一人、二人、三人、四人、とあれよあれよという間に、警察官たちが集まってくる。

 大事になりすぎでは?

 さすがに冷や汗を禁じ得ず、わたしは言った。

「そんなに大事件なんですか」

「魔女に会ったのはいつですか」

 いつの間にか、黒いスーツをめかしこんだ男が目のまえに立っていた。

「魔女です。手相を見せたそうですね。彼がカエルからその姿になる瞬間は見ていましたか?」

 立てつづけに質問を並べられ、わたしは二の句が継げない。質問への答えとして、もういちど、じぶんの憶えているかぎりの、占い師との遭遇から現在までの顛末を話してさしあげた。

「なるほど。では、あなたはここでその女と会ったわけですね」

 わたしは頷く。まさにここがその現場だ。

 黒スーツの男は、周囲の警官たちに指示をだし、半径五十メートル圏内を封鎖した。それから、同じように黒いスーツの男たちが集まってくる。こんどは地面に何か、測定機器のようなものを設置し、さらにコイルのようなものを、いくつか地面に置いていく。

「なんだか魔法陣みたいですね」思ったので口にすると、

「まさしくですよ」

 最初からいた黒スーツの男が言った。「正確には、異次元融合炉と呼ばれる、向こうの世界のテクノロジィなのですが」

「向こうの世界?」

 こやつなかなか美しい顔立ちではないか、美男子がここにも、と見つめながら、相槌を打つ。

「便宜上、我々は彼女たちを魔女と呼んでいますがね。魔女はときおり、こちらにやってきては、無駄に、若者へイタズラを仕掛けては、助けを求めて訪ねてきた者を、向こうの世界へ連れ帰ってしまうのです」

「イタズラ? それをしないと連れていけないってことですか」

「さあ。それは魔女に直接訊いてみないことには」

「まだ会ったことないんですか?」

「なぜか魔女たちは若い女性のまえにしか姿を現さないのです。ときおり、少女と間違え、少年に手をだすこともあるようですが、いまのところ、女性以外で向こうに連れていかれた者はいないようで」

「なんのために?」

「それを考えても意味はないでしょう。問うならばこうです」

 ――どう防ぐ?

「どうするんですか」訊き返したのは、本当にどうすれば、こんなカエルの美男子なんてけったいな代物を、またぞろ押しつけられずに済むかを知りたかったからだ。

「まずは一つ確認しておきたいのですが」

「なんでごわす?」

「なぜおどけたのかは不問にしますが、あなたに今現在、恋人はいますか」

「いるように見えます?」

「いない、との返事だと見做します。でしたら話ははやい」

 黒スーツの美男子は懐から紙を取りだすと、こちらに差しだした。「結婚しませんか、私と」

 ぽかーんとしているこちらを尻目に、彼は付け足す。

「これまで人妻が向こうの世界に連れて行かれたとの報告はなされていません。また、こうして婚約を果たした婦女子もまた、魔女と再会することはなくなるようです。ひとまず、カタチだけでも、私と」

「ぜひ!」

「提案しておいてなんですが、……よいのですか?」

「ぜひに! あ、これにサインすればいいんですか? あ、なんか面倒だなぁ。これ、市役所に提出するんですよね。お兄さん、いまから時間ある?」

 黒スーツの美男子は、そこで時計を確認し、それから周囲の部下らしき男たちを見回すと、

「ええ。ではそうしましょうか」

 こちらの腕をとり、歩きだす。

 これ知ってるぅ!

 エスコートってやつでしょーっ!

 鼻血が噴きだしそうだ。

 がまん、がまん。

 振りかえると、カエルの美男子は、光り輝く地面のうえで、しゅるしゅると縮んでいくところだった。

 わたしは内心、ガッツポーズを決めながら、こう念じる。

 占い師のオバさん、ホント感謝!

 わたしみたいな女を守るために婚姻しなければならない黒スーツの美男子たちには同情を禁じ得ないが、それはそれ、これはこれ、舞いこんだ千載一遇のチャンスをみすみす逃すようなわたしは、もはやわたしではない、人間のカタチをした何かしらだ。

 黒スーツの美男子の、カタチのよいおしりからは、何やら矢印じみた尻尾が垂れているが、きっとベルトか何かだろう。

 夢にまで見た美男子との婚姻にあたまのなかがウハウハのわたしは、魔女がいるならば、ほかにもいるだろうはずの、魔のつく種族の存在を思い浮かべるだけの想像力を働かせることができずに、婚姻という契約を果たしたその夜、同じベッドに同衾した美男子の、背中から生える、黒々とした羽を目にし、まあでも、と諦観のため息を呑みこむのである。

 カエルよりはマシじゃね? 




29【ほっとして&】(BL)

 じぶんで言うのもなんだが、俺はモテる。基本的な性能がほかの同年代のやつらよりも高いようだ。一目置かれる機会が多い。人によって態度を変えないし、それは変える必要がないからという意味だが、そんな俺に、みなは一様に、寄ってたかって、羨望や憧憬の眼差しをそそぐ。

 女はじぶんの胸を見られる視線が判るというが、男だってじぶんに向けられる視線には敏感だ。

 クラスどころか学年でも俺はいつも中心にいる。生徒会でもないのに、学年で何か催し物を開くときは、俺に意見を求める人だかりができるほどだ。

 ほかのクラスからも当然のように人が集まる。

 教師ですら、そんなことはアイツに相談しろ、と生徒間のもめ事を投げて寄こすくらいだ。

 そんな俺にも、高校三年になって、まだ言葉を交わしたことがないヤツが一人いる。

 いつもクラスの輪のそとにいるそいつは、修学旅行にもこなかった。

 根が暗いのだ。

 孤独が好きなのかもしれない。

 ほかの連中がどうなのかは知らないが、俺はそういう、協調性のないやつでも分け隔てなく接する。

 ただ、接する機会がないのでは、接しようもない。

 用もないのに俺から声をかけるのは何か違う気がした。そうこうしている間に、卒業まであと三か月という時期に差しかかっていた。

 授業はほとんどなく、一般入試を控える生徒がチラホラと最後の追い上げをしているばかりだ。

 俺はとっくに推薦で進学先が決まっている。ひと足先に進路の決まった者は登校しなくてもいいとのお触れがでていたが、俺は誰に頼まれるでもなく、余裕のない生徒の勉強を看るようにしていた。なんとなくみながそういう俺を期待しているふうに感じたからだし、じっさい、解りやすくて助かると、反響は上々だ。

 講習のある時間はさすがに教室からは人がいなくなる。なぜかソイツだけは講習にでるでもなく、教室で黙々とペンをノートに走らせていた。

「どこ受けんの」

 当たり障りのない話題で声をかけたが、彼は一言、進学はしない、と言った。

「しないって、就職?」

 彼はうなずく。

「ふうん」

 会話をつづけようと思えばできたが、このときはふしぎと、こちらに興味を示さない相手に苛立ちめいたものが湧き、それ以上声をかけるのが嫌になった。

 せっかく話しかけてやったのに。

 そうした思いがあったのかもしれない。ずいぶんと傲慢な感情だ、と自覚はできるが、だからといって、湧いた感情が消えたりするわけではない。

 けっきょく卒業までのあいだに交わした言葉は、おそらくはそれで最初で最後だった。

 短い物語ならここで終わってもよかったかもしれない。あいにくと現実は、死ぬまでかってにつづいていく。

 二度目にやつと言葉を交わしたのは、大学に入ってから半年後の、残暑の厳しい八月も暮れのことだった。

 サークルのコンパがあった。入った飲食店で接客に出てきたのが、やつだった。

 さきに気づいたのは俺だった。やつが気づき、何かしらの反応を示してから声をかけようかと思っていたのだが、注文をとりおえ、料理を運んできても、やつに気づいた様子はなかった。

 お熱いのでおきをつけください。

 目のまえで、揚げ豆腐を手渡してくる始末だ。

 トイレに立ったついでに、やつを探した。客の去った座室を掃除している。

 ちょうどいい。やつの尻を蹴った。

「よお、偶然」

 振り返ったやつは、しばらく首をかしげ、それから、ああ、と言った。

 それだけだった。

 黙々と掃除を再開する男は、たしかに元クラスメイトだったはずだが、かれのほうには、とくべつこちらに対して思い入れはないようだった。

 もちろん俺にだってないはずだった。

 そのはずだったのに、妙に胸がざわざわとし、頬の筋肉がひくひくと痙攣した。

「んだよ、無視かよ」

「探してるよ」

 やつは首を伸ばす仕草をする。視線を辿ると、サークルのメンバーが、店内をきょろきょろと見回している。遅れて、メディア端末が震えた。届いたテキストメッセージを見る。どこにいるのか、と問うている。

「戻ったら? いないと困るんじゃない。みんな」

「なんで」

「高校でもそうだったじゃん。疲れないのかなってふしぎだったけど」そこで思いだしたように、かれは言った。「疲れないの?」

 なにをだ?

 思ったが、それよりさきに、なにしてんの、とサークルの女がひょっこりと顔をだした。知り合いなのか、と問いたそうな顔を浮かべるが、口にださないところを鑑みるに、知り合いには見えなかったのだろう。やつはいまでも、陰と陽ならば陰に属し、そして俺たちはそんな陰とは縁のない人種だった。

「追加の酒を頼んでただけだよ」

 応じ、女子の好きそうなカクテルを口にする。人数分よろしくおねがいします、とゆびで八を示し、その場を去った。

 テーブルにカクテルを運んできたのはやつではなかった。その日は店でかれの姿を見かけることはなかった。

 とくに理由はなかった。ただ、事あるごとに、その店を飲み会の場に選んだ。休日には、一人で足を運んだりもした。そのあいだに、やつと言葉を交わしたことはなかったし、店内で見かけても、こちらに気づいた途端に、やつはキッチンへと引っ込んで、あとはどれだけ待っても戻ってこなかった。

 嫌われているのかもしれない、と考えはしたが、それはない、と判断を逞しくする。

 俺は産まれてこの方、ひとに嫌われたことがなかった。

 店でやつを初めて見かけてから二か月が経った。いつもならとっくに店を出ている時刻になっても俺はデザートを追加で注文しつづけ、粘っていた。この店のジェラートは美味いが、値段の割に量がすくない。だから懐具合さえ気にしなければ何杯でもお代わりできた。

 ラストオーダーをとりにきた店員に、あいつはいないんですか、とやつの名前を言った。店にいるのは判っていたが、例に漏れず、今宵もやつはキッチンに引っこんでいた。

 店員は、ああ、となぜか目じりを下げる。女が好んで吸う煙草の匂いがした。いますよ、代わりますね、とかってに踵を返しては、しばらくして、憤懣やるかたなさを隠そうともしない男が、トコトコとやってくる。

 来すぎじゃないですか。

 注文をとる機器を片手に、やつは開口一番そう言った。

「いつ終わんの仕事」

 帰る時刻を訊いた。やつは時計を見て、このオーダーを取り終えたら、と言った。

「片づけはいいのか」

「いいみたい」

 言ってからやつは付け加える。「きょうはね」

 ラストオーダーは断った。会計をしに立つと、やつがレジに立った。

 店のそとで待ってる、と告げると、やつは端からそのつもりだったのか、前掛けを脱ぐと、そのままいっしょに店をあとにした。

「あいさつとかいいのか?」

「オーダーとりに行ったひといたでしょ。女のひと」

「ああ。おまえの代わり、いつもあのひとだよな」

「あれ店長だから」

「あ、そうなん?」

「きょうは片づけしないで、いっしょに帰れって。むりやり追いだされた」

 むつけた口調に聞こえた。不快ではなかった。そんなことで感情を乱すかれが愉快だった。

「いい店長さんじゃん」

「怪しんでたよ」

「俺のことか?」

「じぶんのストーカーだったらどうしようって」

「トキめいてたろ?」

 やつは目を見開く。なんでわかるの、と言いたげだ。

 それからしばらく無言で歩いた。

「家どのへん?」

 やつは、近く、とつぶやき、こちらが、歩いて何分くらい、と訊ねると、もう着く、と道先にある神社をゆびさした。

 神社の角を曲がると、さきは袋小路になっている。奥に、こじんまりとしたアパートがある。一軒家を改築したのか、二階部分が半分ずつ賃貸になっている様子だ。

 やつが階段をあがっていくので、そのままついていく。

 扉を開け、部屋に入っていくので、こちらも玄関で靴を脱ぐ。こんなことなら新品の靴下を履いてくればよかったと思い、こんなこととはどんなことだ、と冷静なじぶんが首をかしげる。

「鍵は?」

「かけといて」

 明かりが灯る。和風の部屋だが、思ったよりも広い。

 キッチンと居間で分かれている。

 煙草を吸うのだろうか、香りのつよい煙草の匂いがした。女が好んで吸う銘柄だが、妙にかれにはぴったりに思えた。

「タバコ吸うんだ」口を衝いている。

「彼女の」

 やつは言った。その言葉をすんなり呑みこめぬままに、

「あ、いるんだ、彼女」

「そりゃあね。そっちこそいるでしょ。それこそ、ほら」

 よりどりみどり。

 言うものだから、それが彼女の名前か?と訊き返しそうになった。そんなわけあるか、と冷静なじぶんがツッコむが、じゃあなにがよりどりみどりなのか、と頭が混乱する。

 こちらが玄関口で止まったままだからか、

「どうしたの、入って」

 やつは電気ポットを構えたまま、蛇口の水をとめた。それから何かを察したように、

「あー、恋人つくらない主義だっけ? モテそうなのに。や、モテるからか。わざわざ付き合ったりしないんだ?」

 話しつづけるものだから、じぶんが塗り絵か何かのように思われた。やつがクレヨンで色を塗る。色を塗られるまでは、こちらはかれにとって、無色透明の、線にすぎなかったのかもしれなかった。

「座って」

 促され、居間にあるテーブルのまえに腰を下ろす。テーブルは三角形で、脚が短い。

 やつは電気ポットをテーブルのそばにある電源に繋ぎ、それからわざわざこちらの対面になるように、三角形の頂点をまえにして座った。

「で、なに?」

 ようやくというべきか、かれは言った。

 そこにはたくさんの、なに?が含まれて聞こえた。

 なぜ店に通っていたのか。

 なぜじぶんを気にするのか。

 きょう店で待っていて、なにをしたかったのか。

 そのすべてが、かれの、なに?には散りばめられていた。

「いや、いちどじっくりしゃべってみたくて」まずは率直な気持ちを口にした。

「いまさら?」

 かれは笑った。そこに嘲りや、嫌味の響きはなかった。「まあ、いいけどさ」と付け加えたところを鑑みれば、コイツならやりかねないぞ、とでも思ったのかもしれない。それほど的外れな動機には聞こえなかったようだ。

「高校のとき、いつも独りだったじゃん」思いだしながら言った。「あれ、なんで」

「なんでって」

「しゃべってみて解ったけど、コミュ症じゃないじゃん」

「や、それだよ。苦手。人と関わるの」

 そうは思えなかった。こうして突然の誘いにも動じずに、受け入れるあたり、そうとう人の扱いに慣れていないとできない芸当だ。

「あ、ちがくて」かれは言いながら、急須に茶葉を淹れる。お茶でいい?と断りながら電気ポットを傾け、お湯をそそぐ。「人と関わるのは苦手だけど、不得意ってわけじゃない。ただ、いろいろ合わせなきゃいけないじゃん」

「こういうふうに?」急に押しかけてきた、たいして親しくもない元クラスメイトを家に招き入れたり? とこころのなかで唱える。

「そうそう、こういうふうに」何の気なしにかれは頷く。

 はい、と差しだされた湯呑の中身は、緑茶だった。久しぶりに飲んだな、と思い、すすると、じんわりと喉に染みる。思わず、はぁあ、と息が漏れた。かれは黙って、お代わりを注ぐ。

「感心してたよ、よく疲れないなーって」彼はうしろでに体重をささえる。視線を宙に漂わせながら、「よくあんなに周りに合わせていられるなーって」

「合わせる? 俺が?」

「ああ、そっか。主観的には、合わせてもらってるって感じてた?」

 問われ、急に気分がわるくなった。それはどこか、かっこいいと思って生やしていたヒゲを、汚いから剃ってと言われたときのような居心地のわるさを伴っている。

「たぶん、自分で思ってるよりも周りに合わせてるよ。だからみんな、そばに寄っていくんだよ。気分がいいからね。無条件で受け入れてもらえるってのは。苦労せずに、自分の型に合わせてくれる。なかなかできないよね。すごいなぁって思ってた。よく一方的に尽くせるなぁって」

 きょうはよくしゃべる。いや、元から根はおしゃべりなやつだったのかもしれない。

「あ、気ぃわるくした? ごめんね」

 あごを引き、目線だけをこちらに合わせる。かれはまったくわるびれていない。

 閉口していると、

 ね?

 かれは言った。

「苦手なんだ。相手に合わせるの。疲れちゃって、すぐに素がでる」

 こんなだから誰からも好かれない。

 目を伏せたかれの顔は、驚くほど艶っぽかった。まつげの長さよりも、まぶたの伸びきったときにだけ見えるホクロの存在感が、いまここに、じぶんとかれだけしかいないのだ、という実感をつよく抱かせる。

「誰からもって、彼女には好かれてんじゃん」まずそこに意識がいった。それからすぐに、ひょっとして、と気がついた。「店長さんか、彼女って」

「よく分かったね」

「そういや、嗅いだことある匂いだと思った」

「姉貴」

「ん?」

「彼女じゃない。姉。あれ。人手足んないからって手伝ってて」

「あ、そうなんだ」

「ちょっと見栄張った」

 言ったかれの顔は赤みがかっており、こんなことで見栄を張るかれが妙に人間じみていて感じられた。同時に、それを白状する素直さに、こちらの頬まで熱くなる。

「そうなんだ、そっか、なんだよ」

「なんだよって、なんだよ」

「や、べつに、なんだ。そういうこと気にするタイプだったのかって、意外だった」

「意外って、いやだって」言い訳がましくかれは、「そりゃ何度もかわいいコ連れて店にこられりゃ、惨めにもなるって」

 捲し立てるものだから、こちらはもう、すっかり楽しくなってしまい、

「いいよいいよ、だいじょうぶ、俺は分かってたから。うんうん、そうだよな、張りあっちゃうよな」

 彼女欲しけりゃ言ってくれ、いくらでも紹介してやるよ、と心にもないことを口走ってしまう。楽しい気分のはずが、胸が苦しくなり、ああこれは心にもないことなのか、と自覚できたほどで、だから、かれが続けて、いやいいよ、と下を向いたのが、そこにどんな意味合いがあるにしても、きょうここにこうして来たことを全力で肯定したくなるくらいに、眩しく感じられたのだった。

 なあ、と口を衝いている。「また来てもいい?」

「お好きにどうぞ」かれは立ちあがり、キッチンからどら焼きを持ってきては、こちらに投げつける。「合わせなくていいよ。なんて言うか、ここには休みにくればいいっていうか」

 やっぱりさ。

 目が合う。

 疲れるんでしょ?

 同意を求めるようなかれの言葉に頷いてもよかったが、いまはまだ、かれの塗りたくったクレヨンの色のままでいたいとつよく思い、だからでもないが俺は、

「ぜんぜん」

 なんでもないように、どら焼きを頬張り、それを冷めた緑茶で流しこむ。 




30【目星】(ホラー)

 土葬の風習のある村だった。夏場は腐りやすいから、防虫剤をたんまり塗るため、かえって遺体はきれいなままであるらしい。一年もするとしぜんとミイラ化するようで、いまのところ土葬の文化は途絶える気配がない。

「さいきん荒らされてるらしいよ、墓場」

 そんな話を、祖父が近所のジィさん方としていたので、それとなく、家にあがりこんでいた友人に言った。

「へぇ。よそモンが珍しがって掘り返しよったかよ」

「どうだろ。ここひと月くらいずっとだって言ってた。観光客にしては居すぎじゃない?」

「そうかよ」

「ここさいきん、死人も多いっちゃ。おととしくらいに引っ越してきた若奥さん知ってる? 今月死んだじゃん。なんでかはよう知らんけど」

「ああ、俺んとこの従姉の友達も亡くなったって」

「物騒だよなぁ。でもジィちゃんたち言っとった。墓のことで警察呼ぶって。もうなくなっぺ」

「へぇ」

 しばらくして友人が言った。「そういや、ときどき、どっかのカップルが墓場でセックスしてたな。ソイツらが遊び半分で、掘り返したのかも」

「そうなんだ」

「そういや、母ちゃんに買い物頼まれてたんだ、またな」

 友人はなんでもないように言って、去っていった。

 たしか、と思いだす。ここ半年で亡くなったのは、みな若い女性ばかりだ。墓場を荒らした犯人はいったい何が目的だったのだろう。そして友人はなぜ、ときどきしかやってこないバカップルのセックスを、まいどのように目撃できたのだろう。彼は墓場で何をしていたのか。

 疑問に思ったが、問い詰める真似はやめておく。

 生理用品を持って、トイレに入る。タンポンを股のあいだに押しこみながら、ぼんやりと考える。

 私はまだ死にたくはない。 




31【あれもこれもここがゆらい】(コメディ)

 とある学者の世話係をおおせつかった。人類史上稀に見る天才であるらしく、くれぐれも失礼のないように、との命令だが、天才をまえにしたら、息をしているだけでも失礼に値するのではないか、と内心びくびくしていた。

 いざ待ち合わせの港へ向かうと、待っていたのは、線の細い青年だった。彼は儚い声で自己紹介をし、世間知らずなので、ぜひ旅のあいだのナビゲーターを務めていただきたいのですがよろしくおねがいします、と懇切丁寧にお辞儀した。

 なかなかの好青年ではないか。

 思ったのは初めばかりで、否、旅の初めから終わりまで、彼の好青年ぶりは崩れることはなかったが、総崩れだったのは、天才としての印象だった。

 世間知らずどころではなく、彼はこれまで船に乗ったことがないだけでなく、海を見たのも初めてのことだという。

「映像では知っていましたが、潮の匂いがこれほどつよいとは知りませんでした」

 この調子では電車にも乗ったことがないのではないか、と案じ、質問してみると、

「いえ、きのう乗りました。いまはもう切符がなくてもよい時代なのですね」

 などと、おどろきもののき二十世紀を地で描く発言をするものだから、こちらまで言語感覚が時代を遡行する。

 なんだ、おどろきもののき二十世紀って。

 やがて目的地の島が見えてきた。

「あそこにはなんの用で?」

「珍しい文化がありまして」彼は言った。「ぜひ、じっさいにこの目で見てみたくて」

 瞳をキラキラさせながらそんな無垢な顔をされたのでは、同性でありながらにも、母性を感じてしまう。

 上陸すると、島の案内役だろう、年配のおじさまが出迎えた。自家用車を転がしてくれるようだ。念のために注釈を挿しておくと、車を手で押して、転がすわけではない。おむすびころりとはわけが違う。

 車に乗りこむと、

「さて、どこから見てこうかね」おじさんがハンドルを握る。

「まずはコンビニが見てみたいです」天才青年が言った。

「いやいや」ぎょっとしてしまうのも無理からぬことだ。これでも島については事前に調べてきた。珍しい文化がどのようなものかは、寡聞にしてわからなかったが、すくなくともこの島にコンビニはない。よしんばあっても、わざわざこんな離島にきてまで見るようなものではない。

 さては腹が減ったな?

 思いながら、

「腹ごしらえなら、まずは旅館に行きませんか」

 荷物も置きたいし、と続けようとしたところで、着いたで、とおじさんが言った。

 車は、港から数百メートルはずれた場所、鳥居のまえに止まっている。鳥居の奥には、大小さまざまなバナナの像が立ち並んでいる。

「コンビニですね」天才青年が言った。

「いやいや、バナナですよ。あれはバナナを祀った神社ですよ、そうですよね」

 運転手に振ると、彼は、

「さすがよく知っておりますね」にこやかに言った。「あれはコンビニです」

「どこがじゃ!」

 ついつい、語気が荒くなってしまった。

 落ち着け、落ち着け。

 言い聞かせながら、

「あれはコンビニなんですか?」

「ほうよ。この島独自の風習さね」

 つまり、コンビニ教なる宗派があるということか。なんだ、紛らわしい。

 車から降り、ひとしきり見聞すると、満足したのか、天才青年は、

「ではつぎは」

 車に乗りこみ、言った。「アクドナルドへ向かってください」

 へ? あるの?

 あの世界的に有名なファーストフード店が、こんな離島にもあるの?

「あいよ」行きついた場所には、小さいながらも荘厳な滝があった。

「ここが?」

「アクドナルドだよ」運転手は言った。

 天才青年は目を輝かせ、車から降りると、メディア端末を掲げ、画像を撮りはじめる。

「なんか独特な固有名詞の名所が多いんですね。なんか聞きなれた感じも」

「逆なんだよ」運転手は慣れた調子だ。「この島固有の名称をつけると繁盛するってんで、高値で取引されててね。商標登録の権利をだね。こんな何もないような島だけど、世界中のメーカーがこぞって契約に訪れるんだよ」

「じゃああのメーカーも?」

「元はうちがオリジナルさ」

 運転手は世界有数の企業名を並べていく。どれも知らない人間はいないだろう世界的な一流企業ばかりだ。ほかにも、メーカー名だけでなく、一般的な商品や道具の名前も、この島ゆらいのものが多かった。

「すごいですね」

「偶然なのか、なんなのか。お陰でこんなふうにね、お客さんを案内するだけの仕事でも暮らせてけるってわけですよ」

 満足したのか、天才青年が戻ってくる。

「つぎはどこに行きます?」運転手が振りかえる。

「ではえっと、トイレに向かってください」

「それもここがゆらいだったんですね」

 はぁー、と感心する。

「急いだほうがいいですか」運転手が言った。

「はい」

 天才青年は言った。「もうすぐ漏れそうです」




  

32【宇宙コロニー殺人事件】(ミステリィ)

 人類は地球を捨て、長い宇宙の旅へと身を置いた。巨大な宇宙コロニーはいま、第二の地球を求め、銀河系からもはずれようとしている。

 宇宙コロニー02号内の、とある区画で事件は発生した。

 打ちあげをあさってに控えた新型スペースシャトル内で人が死んでいたのだ。シャトル内部は完全に密閉されていた。遺体のほかに人影はなく、また出入りもできない状態だった。映像データは削除されており、手掛かりはない。

 捜査の末、警察はそれを事故と断定したが、遺族が不審に思い、探偵を雇った。

 探偵は遺体発見当時の資料を目にし、遺族をまえにし、言った。

「密室で人が死んでいた場合、考えられる筋書きは四つです。まずは、自殺です。内側からすべての出入り口を封じ、自ら命を断てば、密室のできあがりです。二つ目は、事故です。これは偶然、密室状態のなかで死んでしまった場合ですね。殺害されたとき、犯人から逃れるために扉を施錠し、結果死んでしまったがゆえに密室になってしまったケースもこれに含めます。三つ目は、遠隔による他殺です。これは、犯人が密室のそとから、被害者を殺害するケースです。毒殺からリモートで起動する道具を使ったものまで、仕掛けはいくらでも考えられます。密閉された室内ならば、水攻めから、窒息死まで、よりどりみどりです。そして最後になりますが、犯人が密室に仕立て上げる場合です。被害者ではなく、犯人自ら、部屋の出入り口を塞ぐ。部屋にでた後で、密室に仕立て上げるのか、それとも密室に仕立て上げたあとでも犯人が部屋のどこかに隠れているのかで、いくらかのパターンに分かれます。なぜ犯人が密室をつくるのかは、前述した三つのケースを装うためです。自殺、事故死、リモートによる他殺。可能性が広がる分、捜査が難航する確率が高くなります。例外として、密室が密室でなかった場合もあります。抜け穴があったり、構造的に密閉されていなかったりと、そもそもが密室でないケースです。例外ですから、度外視してよいでしょう。今回はきちんと密室のようです。虫一匹出入りできなかったことでしょう」

「では今回はそのうちのどのケースなのでしょう」

「資料を拝見したかぎりでは、おそらくは他殺でしょう。死因が窒息死という点からして、事故死や自殺とは考えにくい。ケースから言うと、三つ目の、遠隔による殺人かと」

「あのコはでは、どのようにして殺されたのですか」

「密室そのものが凶器だったのですよ。密閉された空間です、時間が経てば窒息死、ときには餓死だってするでしょう」

「しかし、うちの子が姿を消してから、遺体として発見されるまでは一時間となかったのですよ。空気を抜くような仕掛けが密室に備わっていたと?」

「いえ、言ったはずです。完全な密室だったと。空気が抜けるような穴もなかったんですよ」

「じゃあ、なぜ」

「簡単なことです。密室だったそのシャトルは、じっさいに一時間前に宇宙へと打ちあげられ、一時間が経過する前に戻ってきたのですよ。それはそれはすさまじい重力が加わったことでしょう。肺はつぶれ、呼吸もできなくなる。中にいる人間などひとたまりもありません。ですから犯人は、シャトルを遠隔で打ちあげることのできる人物で、かつ、帰還させることが可能だった、管理者のほかにありません。つまり、犯人は特定の誰か一人ではなく、この打ちあげプロジェクトを統括する組織そのものだということです」

「自殺という線は」

「死んだ人間がどうして無事に帰還できますか? 自動運転が可能だとしても、だとすればその時点で、そもそも人がシャトルに乗りこむ必要性もなくなるでしょう。すくなくとも、人間の操縦が必要だということです。遠隔で操作するくらいには、技術が発展しているようですが、だとすれば余計に、遺体を乗せたシャトルを帰還させようとした者がいたことになります」

「ですが」遺族は腑に落ちない顔つきだ。「機内のデータによれば、異常な数値は感知しなかったと。過度な重力は加わっていないとの話でしたが」

「データが改ざんされた可能性がまずあることを指摘したうえで、ほかにも被害者を窒息死させる方法はあります」

「なんでしょう」

「げんざい、我々を乗せるこの宇宙コロニー02号は、銀河の重力圏から脱するために、光速の半分の速度で宇宙を推進中です」

「知らない方がいらっしゃるのですか?」

「この宇宙コロニーから打ち上げられ、その運動から切り離されたスペースシャトルは、いちど宇宙でその運動を静止したとしましょう。すると、我々を乗せたこのコロニーのほうが相対的に速く運動していることになる。宇宙空間に静止したスペースシャトルからものすごい勢いで遠ざかったわけです。特殊相対性理論からして、我々のこの宇宙コロニーに流れる時間は、静止したスペースシャトル内よりも、はるかにゆっくりになります。逆から言えば、スペースシャトルのなかには、我々の体感する時間よりもずっと速く時間が流れていたということです」

「つまり?」

「我々にとっての一時間が、スペースシャトル内部では、何倍、何十倍にまで早まっていたということです。空気が足りなくなり、窒息死するだけの時間が流れていてもふしぎではありません」

 遺族が息を呑む。探偵は続ける。

「被害者が息を引き取ったあとで、我々を乗せたこのコロニーはきた航路を引き換えし、シャトルを回収したというわけです」

「回収を? シャトルのある地点までいちど戻ったということですか」

「ええ。シャトルを動かすように設定しては、この時間差トリックは成立しません。何せ、シャトルがコロニーに追いつくには、こんどは相対的にシャトルのほうの速度を高くしなければならないわけですからね。コロニーに追いついたときには、せっかくあった時間差はなくなっている道理、いえ、むしろ光速の半分の速度で移動中のコロニーに追いつくためにはそれ以上の速度で、より長い距離を移動することになるわけですから、シャトルに追いつかれたときにはコロニー内部の時間は一時間以上経過してしまっていることになりますよ」

「では」

「シャトルはそのままです。移動したのはつねに、コロニーのほうですよ。我々にはコロニーの進行方向を把握するだけの知識が足りませんからね。なにせ、重力装置のおかげで、コロニーは四六時中ぐるぐるコマがごとく回っているわけですから。宇宙空間の景色なんて誰も観ちゃいません。コロニーが逆向きに進んでいたところでそれを察知することは至難でしょう。ましてや一時間やそこらの逆走くらいではね」

「では、やはり犯人は」

「コロニーの進路を変えるなんて芸当ができるのは、管理者以外にないでしょう。組織的な犯行ですよ。被害者は、何か不都合な事実を知り、殺されたのかもしれません」

 遺族は深刻な顔つきで、礼を言い、このことは他言無用でお願いします、と多すぎる謝礼を置いて出ていった。

 後日、くだんの打ち上げプロジェクトを進行していたチームの居住区が大爆発を引き起こしたとのニュースを探偵は目にした。しかし依頼がないのでは、推理をするだけ無駄だ。

 粗末な情報は見なかったことにするに越したことはない。




33【上級の特権】(SF)

 宇宙コロニー02号の一画で爆発が生じた。被害は甚大だった。死亡者は三百人を超える。優秀な人材がたくさん死んだ。事件と事故の双方から捜査が展開されたが、けっきょくは真相のうやむやなままに、被害地区の復旧が完了した。

 スペースシャトル打ち上げプロジェクトの上級管理者、ニンゲンシ・ツカクは頭を抱える。

「我々には二つの選択肢がある。一つは当初の計画通り、第二の地球を探し求める旅をつづけること。もう一つは、汚染の浄化された地球へと帰還し、もういちどイチからやり直すこと」

「ですが」

 上級補助官のハシレメ・ロスが異議を投じる。「観測機からのデータでは、すでに地球には第二の人類が繁栄していると」

「ああ。だから我々は侵略者として降臨せねばならん」

「外見に差が認められない可能性もなくはないでしょう」とは、政治局名誉顧問のガリバーリョ・コウキだ。「何気ない顔で溶け込み、彼らの社会の内側から、我々のテクノロジィを与えていけばよいのでは」

「我々の祖先が地球を去ってからすでに二百年。ワープを駆使すれば、およそ二か月で地球には辿り着くでしょうが、相対時間で、およそ五億年の年月が経っていると考えられる」

「つまり?」

「外見上、地球の人類はもはや我々とは異なる種となっている確率が極めて高い」

「独自の進化を遂げていると?」

「言語も乖離し、意思疎通ができるかどうかも定かではない。我々は彼らからすればまさしく、宇宙人飛来のなにものでもない」

「地球で暮らすには、彼らを侵略せねばならなくなるということかな?」

「反撃を受ける確率はそう低くないだろうな。そして我々には彼らを殲滅するだけのテクノロジィがある」

「彼らの文化水準は?」

「電気は使っているようだ。ただし、安定した核融合反応を扱えてはいない」

「ちょうど百年前に相当する文明ですな、我々の祖先が地球を去った時代の」

「上官は」上級補助官のハシレメ・ロスが嘴を挟む。「どのような道を選択すべきとお考えですか」

「私はこのまま地球へは帰還しないほうがよろしいと考えている。コロニー内の資源にも余裕がある。このまま宇宙をさまよいながら、第二の、我々の星を探すのがよいとは思わないか?」

「お言葉だが」とは政治局名誉顧問のガリバーリョ・コウキだ。「その第二の地球にも先住民がいる可能性は否定しきれないのでは」

「いかにも」

「では」

「だから言ったのだ。このまま宇宙をさまよいながらでも、私は構わないのではないか、と」

「コロニーを母星として認めろと、そういう意味かな?」

「すでに我々にとって、ここは母星以外のなにものでもない。先人から与えられた、第二の地球という目的をなげうる必要はないが、かといってそれに縛られる必要もないように思う。我々は発展した。コロニーはもはや、それで一つの生態系を築いている。海があり、雨が降り、人工的な太陽が我々に昼と夜を与える。それの何が不都合だというのだ。そうではないか?」

 政治局名誉顧問と上級補助官は口をつぐむ。

 沈黙を破ったのは、政治局名誉顧問だった。

「お言葉だが、それを決めるのは我々ではない。地球への帰還と宇宙の旅の続行、これを選択させれば、十中八九、人々は地球への帰還を支持する。違いますかな」

「ならば知らせなければいい」

「それは……」

「解かっている。一生監獄暮らしを強いられるほどの大罪だ。だが、我々がその罪を背負うことで、無駄な争いを避けることができる。我々はいちどは地球を捨てた身だ。なぜその地に芽生えた命を蹴散らしてまで、そこで暮らせよう」

「捨てたのは我々ではありません」上級補助官が言った。

「そうだな。が、だとすればますます、我々とは無関係の星を侵略する理由はない」

「このことを知るのは、ほかに?」政治局名誉顧問が声をひそめる。

「いまのところはここにいる三名のみだ。じつはもう一人、下級操縦士に知られたが、彼はもういない」

「ひょっとして、先日の居住区爆発は、その?」

「我々の犯行が露呈し、遺族が起こした意趣返しかもしれない。が、そんなことは些末な事項だ。こうして、肉体を失ったとて、人格のバックアップがある。上級士官にのみ与えられた権限だがな」

「言ってしまえば」

 上級補助官が言った。上級政治名誉顧問が言葉を引き継ぐ。「我々はすでに贖罪を背負っているようなものか」

「一生監獄暮らしよりは楽だろうがな」

 上級管理者、ニゲンシ・ツカクは言った。「なってしまえば、肉体がないのもそう、わるくはない」 




34【引きこもりに、きっとなる】(百合)

 マイコは惚れやすい。男にちょっと優しくされるだけで、ひと目惚れだなんだ、と色めきだす。

「こんどは長続きさせなよ」私はそんなことを言って、背中を押す。

「だいじょうぶ、運命のひとだから、このひとしかいないってピンてきたし」

 歯を見せて笑うマイコを、なんてバカなコ、と思いながら、いつもどおりの流れに行き着くのを見届ける。

 マイコがアプローチをかけ、男からのデートの誘いを受けたあとに、きっと付き合う前に身体の関係になって、マイコの独占欲のつよさが増し、相手の男に愛想を尽かされるまで、およそひと月だ。

 それは相手の男が、マイコの身体に飽きるころだと言い換えてもいい。ろくすっぽ断るということを知らないマイコは、テイのいい欲望のはけ口だ。つぎの男を更新するごとに、その絶技は磨かれていく。

 純朴かと思い、付き合った相手が、プロ顔負けの舌遣いに腰使いをお披露目すれば、さすがにそういう扱いをされてきた女なのだと、男は気づく。

 最中は脳みそこそ快楽で満たされている男だが、いち夜明けてみれば、マイコへの見る目は変わるだろう。身体を重ねれば重ねるほど、気持ちが冷めていく。熱中するのは最初ばかりだ。

 マイコにはそういった、すぐに底を突く魔性がある。

 改善してなどほしくはないから、私がそれを指摘することはない。

「まただよー、フラれちゃったよー」

 めそめそするマイコがひと月ぶりに、私のもとに泣きついてくる。

 よしよし。

 バカだなーマイコはまた騙されちゃったのか、と背中をさすりながら、バカだなーこのコは、と同じように胸の底で思う。

 マイコが傷を負えば負うほど、彼女の私への依存度は増していく。現に、男といるよりも楽だ、とさいきんになってマイコはさいさん口にするようになった。

 男への嘱望は消えてはいないが、そのサイクルは、回を重ねるごとに伸びている。

 懲りてきているのだ。

 男どものアホさ加減に。

 自身の、学ばぬ底抜けのバカさ加減に。

 そして何より、いつまでもこうしておバカなじぶんを受け入れる私という存在の居心地のよさを、彼女はとっくにその身に刻みこんでいる。

 私によしよしされたいがためにそうするかのように、マイコは男を漁っているのではないか、とこのごろになってはそう考えるのがしぜんなくらいにマイコは、またロクデモナイ男に媚びを売り、いつもより早い期間で袂を分かっては、私の元へと帰ってくる。

 なんてバカなコ。

 バカで、こんなにも、愛らしい。

 私はいつまでも彼女の帰る家となろう。

 いずれ、彼女のほうで、私から離れられぬように、きっとなる。 




35【統治者の資格】(ファンタジィ)

 無能、無能、と蔑まされて育った俺にもゆいいつ使える魔法があった。

 禁断の魔術だ。

 かつて世界を魔界と天界に分断した魔王が使ったとされる、禁術指定級、古代黒魔術だ。使用しようとしただけで手足を切断される。使えばほかの者たちへ一様にわるい影響を与えてしまうからだが、俺をバカにしつづけてきたやつらのことなど知ったことか。

 俺は魔道書に手をかさねる。

 復讐してやる。

 呪いをこめ、俺は魔術を発動させる。

 闇が俺からあふれだす。

 翌日からの俺は打って変わって、最強となった。

 実技試験では同級生どもの度肝を抜き、魔道寺院対抗試合では、魔界屈指の名門の実力者たちを、ぎったんばったんとやっつけては、なんだあいつは、と注目を集めた。

 やがて注目は、称賛となり、憧憬となり、好色を織り交ぜながら、やがて崇拝へと変わっていく。

「またあの方だわ」「むかしはまったくの無名だったのに」「イジメられてたって噂も」「ある時期からとつぜん頭角を現したって」「天界を討伐するのはあの方だって先生方もおっしゃっていたわ」「いったいどんな修行を積んだのかしら」「ねー? あんなバケモノみたいになれるなんて」「まあ失礼。あんなにうつくしい方なのに」

 このころになると、美の基準も大幅に塗り替えられた。あまりに俺がずば抜けた成績や実績ばかりを更新するものだから、よってたかって俺をあがめたてまつる声が声を呼び、すごい、つよい、うつくしい、すばらしい、は総じて俺を基準とした言葉へと、暗黙のうちに規定しなおされた。

「いずれ魔王はおまえが引き継ぐんだろうな」

 四天王を決める公式戦で、軽々優勝し、さらにその四天王にまで勝ってしまった俺は、四天王たちからも一目置かれた。魔王直属指南役の役職まで即席でつくられたほどだ。

 ほどなくして、時期魔王を決める魔界統一選抜式が開催された。

「前回に開かれたのは二千年前だったとか」「魔王候補者はそれだけなかなか現れないのよ」「魔王を踏襲するのはあの方しかいないわ」

 多くの魔女たちから支持を受け、さらには俺の活躍ぶりに拒否反応を示す野郎どもには、片っ端から挑戦状を送りつけ、挑んできた者には鉄拳を、拒んだ者には軟弱者の札をつけ、あれよあれよという間に、時期魔王の最終選抜試験へと俺は昇りつめた。

「天界を倒し、またこの世を一つに!」

 下々の願いは日ごとに増していく。

 謁見の間にて、いよいよ魔王と対面する。

「楽にしていい。きょうは言葉を交わすだけだ。そういきりたつな」

「魔王は俺が引き継ぐ。あんたはいい統治者だが、魔王としては力量不足だ。ハッキリ言って、天界ごとき、俺なら三日もあれば制圧できる」

「はっは」

 魔王はどこ吹く風だ。ふしぎと、こちらをバカにするような荒々しさはない。「むかしの自分を見ているようだ。反対はせん。やりたければやってみればいい。そうだな。ではこうするか。天界の侵略を完了させることが魔王昇格の条件とする、というのはどうだ」

「向こうの抵抗勢力を無効化するだけでもいいか?」無駄な殺生は好まない。

「構わん。ただ、皆殺しにする気概でないと村人一人も倒せんぞ」

「あんたはだろ」

 魔王はこちらの皮肉もなんのその、愉快そうに目じりを下げている。

「やはり条件を変えよう」魔王は言った。「無事戻ってこられたら、おまえにこの座を明け渡す。きっとおまえは戻ってくるだろう。楽しみにしているぞ」

 条件など変えずとも、天界を侵略して戻ってくるに決まっているのだから意味のない訂正だった。が、魔王がこちらをなぜか高く評価したのは伝わったので、ここはおとなしく、礼を言っておく。

「あんがとよ。ま、引退後の計画でも練ってたらいいんじゃね?」

 魔王は無言で、足を床に叩きつける。大きな音が鳴り、魔法陣が謁見の間いっぱいに広がった。

 床から光の扉が浮きあがる。

 魔王だけが使える天界への扉だ。

 音もなく開いたそのなかへと、俺は悠々と足を踏み入れる。

 謁見の間にふたたび舞い戻ったとき、俺はほとんど瀕死だった。

 待ち構えていた魔王に、回復魔法をかけてもらい、息を吹き返す。

「ずいぶんとこっぴどくやられたようだな。相手との力量を見抜けないようじゃまだまだだ」

「天界人があんなにつよいなんて聞いて……」

「なかったか? 言ってもおまえは聞かなかっただろうがな。ま、いいクスリだ。あとな、天界人『さま』だ。同じ目に遭いたくなきゃ言動には気をつけるがいい」

 魔王はこちらがまだ動けないのをいいことに、かってに魔王譲渡の術を発動させた。

「おまえは運がいいよ。相手がオレなんだから。前魔王なんか、ろくすっぽ説明もせず、さっさと術をかけて、気づいたときにはいなくなってた。オレは天界で半殺し。戻ってきても回復魔法をかけてくれる相手もいなかった。魔王になって数年は、傷を癒すのに引きこもってたよ。魔王が八つ裂きにされていたなんて騒ぎになられちゃ、オレの立ち瀬がないからな」

「魔界は天界と仲がわるいんじゃ」

「そういうことにしてるだけだ。そうやって、魔王の権威の必要性を説くことで、独裁制を民に許容させてるのさ。天界人さまたちに会って解かったろ? 敵う相手じゃないんだよ」

「にしてもあれはつよすぎだ。一介の村人にまで歯が立たなかった。そうだ、俺は禁術を使えたのに、魔界じゃ敵なしの俺がなんで」

「禁術? あー、ひょっとしておまえも最初は無能だったクチか? オレもだよ。気づいたら古臭い魔道書が目のまえにあって、古代魔術だかクロ魔術だかよく分からんが、それを使ってから、負けなしだったな。こっちの魔界では、だけどな」

「魔界でしか使えない? そういうことか?」

「と、いうよりも、そもそも魔法なんて代物が天界人さまからの贈りものなのさ。オレたち魔界の民は、天界人さまたちに耕してもらっている作物みたいなもんだ。そのなかでとくべつ、扱いやすそうなやつに、魔王としての資格を与えてるってことなんだな、きっと」

「魔王としての資格?」

「だいたいおまえ、例の禁術がどんな魔法か知ってんのか」

「才能を極限に伸ばすとか、最強になる術とか、そういうのじゃ」

「純粋だねぇ。さっきも言ったが、オレたちゃしょせんは天界人さまたちにとっての作物だ。誰一人として、優れてもらっちゃ困るんだよ。つまりだ」

 俺は生唾を呑みこむ。元魔王は足枷でも外れたような清々しい顔で、

「ありゃ、まわりのやつらの『つよさ』をじぶん以下にする魔法だよ」と言った。「使った次点で、みんながみんが、魔力から物体のつよさまで、おまえ以下になっちまったってことだ」

 魔王だった俺以外はな。

 そう言って彼は、こちらをゲンコで殴り飛ばした。

「はぁ、スッキリした。まあ、せいぜいがんばれよ。つぎの魔王候補がやってくるまで、おまえはもう、この玉座から一歩もそとには出られないんだからよ。魔王の職務も拒めねぇ。まあ、慣れれば時間はあっという間だ。いそがしすぎて寝る暇もないが、回復魔法くらいは自在に使えるようになるぞ。ちなみにこれだけは忘れるな」

 床に転がるこちらを見下ろし、元魔王は口元をおおきくゆがめる。

「おまえは魔王だが、最強ではない。つぎの魔王候補が禁術を使うまでオレは自由を満喫するよ」

 最弱の世界の最強としてな。

 言い残し、元魔王は、謁見の間から去っていった。

 たしか、と俺は思いだす。

 前回の魔王交代は、二千年前だったはずだ。

 俺は床に大の字になる。

 最強になるための代償としては、なかなか痺れる年月ではないか。 




36【さあ、どっち!】(BL)

 女の子だと思っていた。

 思えば、たしかにスカートは穿かなかったし、化粧もリップをするくらいで薄いなぁと思っていた。目鼻立ちがくっきりしているし、まつげもながいから、化粧なんてなくてもかわいい顔だなと思った。その純朴さに惹かれたのもまた事実だ。

 デートを重ねて、告白をして、付き合って、それからゆっくり親ぼくを深めてから、いざおとなの階段をのぼろうとしたら、なぜか彼女だと思っていたコの股間には、男の象徴であるあれがそそりたっていた。

 くやしいことに、おれのものより立派だった。

「え、待って待って。きみ……男なの」

「おんなだと思ってたんですか……」

 思っていた。

 彼女の声は震えていた。否、彼女ではないのだ。彼女のつもりで付き合ったが、かれは男だった。

 責めるに責められないのは、なんといってもこちらの勘違い百パーセントだからで、彼はずっと彼のままこちらを想ってくれていたのだ。

「あの……どうしますか」

 怯えた瞳が戸惑いがちに揺れている。

「どうするもなにも」

 中断したおとなの階段をまだのぼりますか?といった問いかけではないのだろう。どちらかといえば、このまま恋人の関係を続けますかといったそもそもの関係性を問うているのだ。

 ひたいに手をやり、待ってくれないか、としぼりだす。「混乱しちゃってどうもね。まずは確認するけど、きみは男、なんだよな」

「はい」

「つまり、元からそういう、なんていうんだ、その、同性愛者? だったってこと?」

「いいえ」

「男の娘とかそういうのでも」

「ありません」

 かれはどこまでもきっぱりと応じた。この場面だけを見れば、頼りがいがあるのは間違いなくかれのほうだ。見た目はほんとうに美を体現しており、股間のそれさえなければ、誰もがかれに触れるのに逡巡することはない。

 嘆き口調の独白に、じぶんでじぶんにうんざりする。

 けっきょくおれはかれの見た目に惚れただけで、中身なんてどうでもよかったのだ。

 否、断じてそんなことはない!

 好いたきっかけが、彼のうるわしい見た目にあったとはいえ、仲を深めていくにつれて、かれの人格に、その、湖のようなしずけさと雄大さに心を鷲掴みにされたのだ。

「いまさらだけど、どうしておれなんかと?」

「男のひとと付き合っちゃおかしいんですか」

 素朴な瞳は、皮肉や批判を伴ってはいなかった。純粋な疑問でそう反問しているのだと判った。

「わるくはないよ、でも」

 かれはこちらの名を呼び、

「――さんは、抵抗があるんですね」

 目を伏せるようにした。「性別のちがいがそんなに大事でしたか? 大事だと思ってたらそれでいいんです。でも、そんなことで揺らぐような想いだったと思うと、なんだか、とても」

 そこでかれは言葉をきった。

 胸がくるしくなる。それはどこか、うれしさを伴っていた。

 改めてかれの股間を注視する。シーツで隠してはいるが、その破格の大きさは隠しきれるものではない。それこそ、彼の器のデカさがそうであるように。

「すまない。わるかった」

 頭をベッドのシーツにこすりつける。上半身を起こすと、なぜか彼が目に涙を浮かべている。

「いやです」

 かれは言った。「かってに好きになって、かってに幻滅して、それで、こんなことで振るなんて。いやです、ひどいです、だってまだ恋人らしいこと何もしてないのに」

 かれの頬に、つーっと涙が伝う。

「こんなことなら」かれは目元をごしごしと腕でこする。かなしい映画を観たときはゆびで掬うように拭っていた姿を思いだし、そんなに必死に拭わなくても、と目のまえのかれを無性に抱きしめたくなる。

「ちがうよ、そうじゃなくて」

 誤解だよとまずは指摘する。それから、勃然と湧いた陽気が口から噴きだし、垂れそうになった鼻水をすすりながら、

「別れない、振ってない、きみのことが変わらず好きだ」

 照れくさいセリフがするすると口を衝く。必死だからだ。これ以上は一秒だって誤解されたくはない。

 あまりにきみのが立派だったから、とにじり寄る。かれの肩を抱くようにすると、

「下ネタでごまかすなんてひどいです」

 まんざらでもなさそうにかれはこちらに身を委ねた。

 そのままベッドに倒れこみ、長く、ねっとりとした口づけを交わす。

 間もなく、どちらからともなく、おとなの階段をのぼるべく、相手を組み伏せようとするのだが、なぜか互いに我先にと上になろうとするものだから、磁石のS極同士じみて、うまくいかない。

「あれ、待ってね」

 まずは制し、だいじなことを確認する。「ひょっとしてだけど、そっちがいいひと?」

 棒があるならば鞘がある。どちらが棒で鞘なのか、と混乱するあたまで考える。

 かれは目をぱちくりとさせ、

「ジャンケンします?」

 言いながらも、ちゃっかりこちらの身体をくるんと反転させる。臀部を高くつきだすようなかっこうだ。背伸びをする猫じみている。

 あたまのなかでかれの、こちらの優に二倍はある立派なそれを思い描きながら、

 え、まじで?

 むりじゃない?

 人体の神秘を信じきれずにいるじぶんへ、愛だよ愛、と言い聞かせる。

「だいじょうぶですよ」

 かれの吐息が鼓膜を撫でる。「ちゃんといっぱいほぐしますから」 




37【座敷童】(ホラー)

 私が物心つく前に祖父は亡くなった。

 家はだいじにしろ。

 死ぬ前に祖父は口を酸っぱくして、なんども父に言ったそうだ。その家へとわざわざ引っ越したのは、祖母の介護をするためだけでなく、祖父の遺言を無下にできなかった父の思いがあったからなのではないか、といまになってはそう思う。

 ことし、祖母が亡くなった。アルツハイマーを患ったままの大往生だった。かわいい歳のとり方をしており、アルツハイマーも、ほとんど幼児退行のようで、大きな赤ちゃんがいるような、そんな感応を胸に私は育った。

 座敷童がいるよ。

 祖母はよくそんなことを言った。父はそれを受け、だからおじぃちゃんもだいじにしろと言っていたのかな、と話を絡めてぼやいたものだ。

 祖母の四十九日が終えたころ、家に泥棒が入った。空き巣の注意を喚起するメッセージが、町内サイトに出ていたのを憶えている。

 よくなかったのは、父が泥棒と鉢合わせしたことだ。

 乱闘になり、父は刃物で腹を刺され、泥棒も負傷した。

 私と母は出かけており、家に戻ると、ちょうどサイレンの音が近づいてきているところだった。

 まさかウチじゃないよね。

 言いあいながら家に入ると、血まみれの父と、意識はあるが動けなくなっている犯人がゆかに転がっていた。

 父は自力で一一〇番をしていたようだ。

 数分もしないうちにパトカーと、そして救急車が到着した。

「どいて、どいて」

 父はすでに意識がもうろうとしており、それでもしぼりだすように、何があったのかを救急隊員にしゃべっていた。父に付き添い、母が救急車に乗りこむ。

 泥棒のほうも血にまみれていた。しかし、救急車で運ばれることなく、救急隊員がかるく問診をすると、あとは警察官が引き継いだ。泥棒についていた血は、父の返り血であった。泥棒は父よりすこし若いくらいの、中年だった。

 泥棒は放心している。

 人を刺したことにショックを受けているのかもしれなかった。

 私は、家に残り、警察の検証に付き合った。

 泥棒はパトカーに乗せられ、夜の道へと消えていく。泥棒はうわごとのようにずっと、子どもが、子どもが、と口走っていた。

 聞き間違いかもしれない。

 警察官に、家の間取りを説明していると、遠くからまたサイレンが近づいてくるのが聞こえた。やがて家のまえに、赤色灯が止まる。救急車だ。

 どうしたのだろう。

 父が戻ってきたのだろうか。

 玄関口にでると、救急隊がタンカーを持って、乗りこんでくる。

「急患はどこですか」

 救急隊のひとが言った。

「え、もう運ばれましたよ」私は応じる。

「こっちです」

 警察官が先導するように、家に入った。

 え、いるの?

 私は気が気ではない。

 だが間もなく、警察官が声を荒らげ、ほかの警察官たちに投げかける。

「ここにいた子どもは?」

 顔を見合わせている警察官たちのもとに、救急隊が近寄る。私もそばに寄った。

「いえね」警察官が釈明する。「いたんですよ、ここに。腹から臓物の飛びでてる子どもが」

 血だらけで。

 言った警官の裾を、ぎゅぅうう、と握る手が見えた気がした。赤く濡れたそのちいさな手は、背後からするすると部外者にまとわりついていく。 




38【つけるのをやめろ!】(コメディ)

 とんでもない秘宝を手に入れたと先輩から連絡が入った。おっとり刀で駆けつける。

「バイトばっくれてきちゃいましたよ、ゴミだったら承知ませんからね先輩」

「承知しない、なんて言うひと初めてみた。期待してて。むしろ、びっくりしすぎて心臓止めないでね、このあいだ喪服、メルカリで売っちゃったから」

 売ったからなんだ。深くは追求せんけど。

「先輩なら私服でも葬式に来そうですけどね」

「行くわけないでしょ、香典代がもったいない」

「タダでいいからせめて来て!」

「いいから見て」

 先輩は机のしたからゆっくりと、トランクスのような布きれを取りだした。机のうえに載せられたそれをマジマジと見、わたしはごくりと唾を呑みこむ。「なんですこれ」

「なんだと思う?」

「トランクスに見えますね」

「ええ。でもじつはこれ、彼のパンツなの」

「ぶーっ!」

「うわ汚い。唾を飛ばさないでくれない? 汚れちゃうでしょ」

「じぶんの顔拭く前にパンツを庇わないでくださいよ! もっとじぶんをだいじにして!」

「だって彼のパンツよ? しかも洗ってない、脱ぎおろし」

「脱ぎおろし!? なんたってそんなちたないもん家宝みたいに持ってんですか、ていうか、なんで持ってんですか! 返しなさいよ!」

「だって欲しかったんだもん」

「頬づりすんな! ってかあんた盗ってきたのかよ、サイアクだなおい!」

「人聞きのわるいこと言わないでくれない」

 さすがの先輩もそこまで人道に反した行いはしなかったようだ。「安心しましたよ」

「このコがどうしても私といっしょに居たいって」

「盗ってきたんかいおーい! そしてしぜんな流れでパンツを擬人化してんじゃねぇ」

「やぁね、このコはペットよ、人ではないわ」

「ペットでもねぇよ! ちょっとどうしちゃったんですか、先輩。わたしの知る先輩は、考古学をこよなく愛する、全校生徒をその美貌と聡明さでイチコロにする、クールビューティだったのに」

「その裏では、想い人のパンツをこよなく愛するヘンタイだったのよ」

「じぶんでヘンタイって言っちゃった!」

「認めるわ。私はヘンタイよ」

「開き直りがすさまじい! いやいや、百歩譲ってそれはいいですよ、人間、一つや二つ、秘密くらい抱えてますって、かえって先輩も人間なんだなって、すこしばかし安心しましたよ」

「さすがは私の後輩ね。さすがは、このヘンタイの見こんだ後輩なだけはある」

「後半の言い直し、必要ありました? や、いいですけどね。事実は事実、わたしはヘンタイである先輩の後輩ですよ。でも、だからって、休日に、バイトをサボらせてまで呼びだした理由が、どこの馬の骨とも知らない男のパンツってのは、ちょっとこう、落胆するものがありますよ。失望ですよ。失望というか、もはや絶望的な気分ですよ、幻滅の乱れ撃ちですよ」

「無関係ではないからよ」

「何がですか」

「これ、あなたのお兄さまのおパンツよ」

「パンツに『お』をつけるのやめなさいよ。っていうか、えぇぇえええ! 先輩の想い人って兄ちゃんだったんですか!」

「そうよ。だからあなたに近づいたのよ」

「ぶっちゃけすぎる!」

「でなければあなたのような脳みそスカスカの、しょんべん臭い娘なんかに声をかけたりするわけないわ、ぜったい、死んでも」

「否定しすぎだよ、もっとやんわりしてよ! っていうかしょんべん臭いのかわたしは!」

「むしろ、肥溜め?」

「公害じゃねぇか! テロだろそれ!」

「知らなかったの? あなたは全世界に指名手配済みなのよ」

「知ってたらこんなとこで、ムカつく先輩の相手なんかしてるわきゃないでしょ!」

「まぁ、なんて下品な物言い。あなた本当にあの方の妹さんなの? 遺伝子の神秘を感じちゃう」

「こちとら、人間の神秘を感じてるよ、きのうまでのわたしの理想の先輩を返せ!」

「ふっふっふ。もはやあの方の脱ぎおろしおパンツを手に入れたからには、あなたのような下品の権化に媚びを売る必要などはないのだ」

「完全に悪役のセリフじゃねぇか、ってか、だからパンツに『お』をつけるのをやめろ!」

 なんの勝利なのかは不明だが、勝利の高笑いを決める先輩を横目に、ふと、トランクスの柄に目がとまる。

 おやおや。

「先輩」

「ふっふっふ。この私にまだ声をかける勇気があるなんて、あなたよっぽど身の程を知らないようね」

「虚仮にするのはいいですけど、コレ」わたしは先輩の手のなかにあるトランクスを目で示し、「兄ちゃんのでないです」

「んん……っ?」

「父ちゃんのです」

 だいじな、事実を教えてさしあげた。先輩はしばしのあいだ硬直し、やがてスンスンとトランクスに鼻を押しつけるようにすると、あらホント、と口にした。「あの方の匂いではないわ」

「匂いで分かるのかよ」

 つうか、嗅ぐなよ。

 先輩は、ぽいとぞんざいにトランクスを放ると、ふぅ、とひと息吐き、それから、すぅ、と胸いっぱいに息を吸いこんで、きゃぁあああああああ! と叫んだ。

 耳を塞ぐのが一秒遅れた。あと一秒遅れていたら鼓膜が破れていたに違いない。

 先輩は全身をくねくねさせ、イヤ、イヤ、イヤ、と大粒の涙を流しては、

「あの方以外のおパンツに肌をつけてしまいました、皮膚接触してしまいました、こんなんじゃもう、お嫁にいけない」

 イヤイヤイヤ、と泣き言を延々と漏らすものだから、さすがのわたしも同情を禁じ得ず、まずはこう声をかけるよりなくなった。

「パンツに『お』をつけるのをやめろ!」




39【ハサミを止めるな!】(ミステリィ)

 世のなかにはじぶんに似た人間がさいていでも三人はいるらしい。ドッペルゲンガーなんて怪談も一時期流行った。

 じぶんと似た人間と出会った者は不幸になる、なんて話は、若い者たちは知らないのではないか。

「幽体離脱とは違うのですか?」

 言ったのは馴染みの美容師だった。ハサミをシャキシャキ動かしながら、「生霊とか言うじゃないですか。幽体離脱したじぶんが、じぶんを見下ろしている、みたいな。あ、言っててこわくなってきた」

「魂が抜けたらそりゃ危ないもんな」

「ハサミなんか持ってたらますます危ないですよって、そういうことじゃないです」

「ノリがいいねぇ」

 相槌を打ちながら、てことはだ、と指摘する。「もう一人のじぶんは抜け殻ってことになる。幽体離脱だと、ドッペルゲンガーみたいに街中で見かけることはまずないな」

「あ、ホントだ」

 何の流れでこんな話をしているのだっけ、と会話を振りかえり、ああそうだった、と思いだす。先月はじまったばかりの映画の話題だった。無名の映画監督の作品で、俳優も含めて、素人ばかりだったが、思いのほか話題となり、いまでは全国の映画館で満席がつづいているという。監督自身も主要キャラクターとして映画に出演している。

 椅子に座るなり、

 観ましたかあれ。

 前掛けをこちらに被せながら美容師が話を振ってきたのだった。こちらはすでに観ていたが、かれはまだだったらしく、ネタバレが嫌いな性分でもあるようで、いっさいの情報を絶っているそうだ。

「SNSもやめてるくらいですからね」

「相当だな」

 さっさと観にいけばいいのに。

 言うと、繁忙期なんで、と口元からきれいな歯を覗かせる。

「美容師ってチャラくて遊んでるって思われやすいんですけど、遊ぶ暇なんてないんすよね。店終わってからもけっこうやること多くて」

「休日は?」

「店長に連れまわされてますよ、ヘアーショーのはしごとかざらですからね」

「たいへんだな」

「だからはやく観たいんですよ」

「でもネタバレは」

「いやっすね」

 問題の映画の題材がドッペルゲンガーだった。映画の内容には触れられないので、しぜんと流れは、ドッペルゲンガーの話へと移ろった。

「そういやさいきんな」ふと思いだし、言った。「俺のそっくりさんがそこら中にいるらしくて、しょっちゅう、あそこにいただの、あそこで見かけただの、会うやつ、会うやつ、言ってくるんだよな」

「ほんとですかー?」美容師の口ぶりは疑惑に満ちていたが、こちらを不快にさせるような響きはない。

「メッセージだってあんだよ、ほら」

 メディア端末をとりだし、履歴を見せた。ずらっと並んだリストには、びっくりしただの、あそこで見ただの、どこどこにいた?だのと並んでいる。

「俺に似たやつが街中にいるらしい」

「ドッペルゲンガーですか?」

「さあな」

 よくある顔だしな、と投げやりに言うと、なかなかいないですよ、と美容師は鏡を覗きこむようにし、

「いやー、ひと目みたら忘れないと思うんですけどねー」

 からかうでもなく、しみじみと言った。

「仙人みたいだ、とはよく言われる」

「似たひとがいたら目がいっちゃうのも頷きですね」

「似たやつがいたらな」

「ドッペルゲンガー?」

「いるのかねぇ」

 うーやだやだ。

 肩を震わせる。

「そういえばきょうは、このあとお出かけでしたっけ」

「ああ。いつもより気合い入れてセットしてくれ」

「デートですか」

「や、仕事だよ仕事」

「それにしてはラフなかっこうですね。どんなお仕事されてるんですか。そういえばお訊きしたことなかったですね。あ、嫌ならしゃべらなくていいんですけど」

「嫌じゃないよ。きょうのは取材。インタビュー」

「あ、記者さん?」

「ちがうちがう」

「編集者さんとか?」

 笑って流す。

「えー、じゃあなんですか、気になるじゃないですか、教えてくださいよ」

「べつにいいんだけど、きょうはやめとく」

「えー、なんでですか、気になる、気になるー」

 ふだんにも増して馴れ馴れしい美容師がきょうは妙にかわいく映り、

 いや、だってさ、となけなしの慈悲を働かせる。

「ネタバレになっちゃうし」

 美容師は、なんですかそれー、と零しながら、自身のハサミ捌きに集中している。 

 鏡には、カウンターのうえに設置されたTVが映りこんでいる。画面には、きのうまでのぼさぼさの髪型のままで取材を受ける映画監督の仙人じみた顔が流れている。 




40【超能力者の発見】(SF)

 危険はまずないでしょう、と博士は言った。

「【場】の制御なんですよ。偶然の発見ではありましたがね。世界はいくつかの【場】の振幅が絡みあうことによってカタチを得ていることは、二十世紀のうちからすでに通説としてまかりとおっていたわけですから、では本当に場なんてものがあるのか、と証明するのは、次世代の我々の務めだと思ったまでのことです」

 では、【場】は実存したということですか?

「ええ。しましたね。電磁場はそもそも、高性能カメラの登場によって、光子の進み具合を可視化することが可能となった時点で、ある程度はたしかにそこにあると判明はしていたのですよ。それは概念的な代物ではなく、たしかに、そこかしこに張りめぐらされている蜘蛛の巣のようなもの、海面のようなものです。ただ、ほかの重力場など、世界の根源を司る【場】となると、容易には観測できなかった」

 そこで博士がとられた手法が、脳内電子パルス信号の観測だったというわけですね?

「正確には、重力の変異が、脳内のシナプスを流れる電子信号にどのように変異を与えるかを調べたわけですが、そこで副産物的に、我々は、超能力というものの存在を発見するに至ったわけです」

 超能力者とそうでない人間がいるということですが?

「そりゃそうですよ、あなたの見ている世界と私の見ている世界はちがう。それを見ている眼球から、情報を処理する頭脳まで別物なんですからね。ええ。超能力、私はこれを場の制御保有者と呼んでおりますが、世界に張り巡らされた【場】を認知可能な個体には、その【場】へと、ある程度作用を及ぼすことができると確認されています。ただし、極めて稀な個体ですから、自身の知覚しているそれが【場】であると自覚している者は珍しいでしょう」

 つまり、超能力を使えることを知らないままでいると?

「ええ、そのようです。鳥の帰巣本能が、地球の磁場にあるとする仮説は有名だと思うのですが、場の制御保有者に到っては、ほぼ確実に世界に張り巡らされた【場】を知覚しています。【場】とは、物質だけでなく、時空そのものを形作る世界の根源です。それを知覚できるということは、それの挙動を察知できるということです。ほんのすこしタイミングを計れば、【場】の流れを変えることも可能でしょう」

 それがつまり?

「【場】を知覚できない我々には超能力として観測されるのでしょうね」

 場の制御保有者にできることはたとえばどんなことがありますか?

「そうですねぇ。我々の確認した事実だけでも、物体を宙に浮かしたり、粒子にまで分解し、再構築する――すなわち、見かけ上はテレポーテーションさせたように見せることはできるようです。また、【場】をゆがめることで、重力を操作可能なため、物体に流れる時間を速めたり、遅らせたりできます。これは空間の距離を縮めたりすることの裏返しでもあり、場の制御保有者たちは、自らがそうしようとすれば、我々とは違う時間軸で行動できることを示唆します」

 時間を操れる、ということですか?

「いえ、飽くまで時間の流れを操れるのであり、時間を巻き戻したりはできません。ただ、ええ。場の制御保有者たちにとっては、一日を一瞬に縮めたり、或いは一年にも引き伸ばしたりすることができます。結果的に、我々の目には、ものすごく集中して視えたり、あべこべにあまりに速く動いているがために、目に映らないこともあるわけです」

 もはや超人を超えて、神がかっていますね。

「おそらく、彼らの一部には、神と呼ぶに値する能力を開花させる個体もでてくるでしょう。つまり、【場】を制御可能だということは、原理的に、新たな世界を創造可能だということを意味します。手のひらサイズの空間ですら、彼らが創造すれば、そこに第二の宇宙が開かれていておかしくはありません。重力理論を持ちだすまでもなく、時間や空間の大きさは相対的なものです。本質的に、我々の認識する大きさという概念は錯覚のようなものであり、世界の深淵さを規定するのは、そこに張り巡らされた【場】の振幅にこそあります。【場】が緻密であればあるほど、そして階層的であるほど、そこに広がる宇宙は、より深淵で広大なものとなるでしょう」

 場の制御保有者は宇宙を創れると?

「創れます。そしておそらく、我々のこの宇宙もまた、そうした個体による創作物である可能性が非常に高いと私は考えております。いえ、これはいまのところ証明不能な私の妄想ですがね」

 博士の論文ではたしか、ブラックホールが消滅するとき、そこには新たな宇宙が創造されるとありましたが、現在もその解釈を支持されていますか?

「していますね。おそらくビックバンを引き起こしたとされるインフレーションもまた、ブラックホールが消滅するときに発する規格外の爆発だと私は考えています。超密度に圧縮された時空には、時間がほとんど流れません。それが爆発し、超密度の重力を解放することで、時空としての広がりを帯び、宇宙としての枠組みを築くのです。ですから、宇宙には無数の宇宙が、多重に内包されていることになります。これは一般相対性理論から必然的に導かれる推論です。超密度の重力解放のある場所では、ほかの時空とは明らかに異なる時間の流れが編成されます。それはほとんど、新たな世界の創造に等しく、また、既存の時空からの乖離を意味します」

 場の制御保有者は、では、そのブラックホールと同じような存在だと?

「いえ、まったく違います。場の制御保有者は、飽くまで、ブラックホールの消滅時に生じる宇宙創成と同等の現象を、引き起こすことが可能だ、というだけです。海を泳げるからといってその人間が魚になるわけではないでしょう、それと同じことです」

 最後に博士にお訊きします。場の制御保有者が世界を滅亡させる可能性はないのでしょうか?

「可能性ならばあるでしょう。彼らが自身の能力に自覚的になれば、地球を粒子の大きさにまで分解することも原理上は可能です。ただし、彼らが自力で自身の能力を認識することはまずないでしょう」

 それはなぜですか?

「簡単なことです。この世のいったい何人が【場】についての理解を深めていますか? 自身の感じているそれが世界の根源を司る【場】であると考え到ることができる者は、自力で重力理論を編みあげるだけの知恵と知識と胆力を備えた者だけでしょう。我々が教えないかぎり、彼らが自身の能力に気づくことも、ましてや使いこなすことなど、まず不可能です」

 博士のような方が場の制御保有者であれば話はべつ、ということですね。

「ざんねんながら私もそこまで【場】についての理解を深めてはいませんよ。ましてや私は場の制御保有者ではない。初めに申しあげたはずですよ。危険はまずないでしょう、とね」 




  

41【初恋なんて切り捨てて】(百合)

 男の子だと思っていた初恋の相手が、大人になって会ってみると同性のかわいい女の子で戸惑っちゃう、といったおはなしは、漫画のなかではとっくのむかしに王道となっていて、一周回ってやや古い、みたいな扱いだけれど、じっさいに現実のものとなってじぶんが体験するとなると、これはなかなか堪えるものがある。

 同性愛に偏見なんて抱いていないつもりだった。

 いざ初恋の相手が同性だと発覚し、それでも顔を見るなり未だに、鼓動がどったんばったん、暴れ回るとなると、これはひょっとしてひょっとするとわたしはそういう、かわいい女の子とキスをして、舌をからませあいたいと欲する人間だったのかと、自分の性的指向を見詰め直す必要性を迫られる。

 認めてしまえばよいものを、何かこう、後戻りできなくなる恐怖のようなものが湧く。

 いわば偏見なのだろう。

 後戻りできなくなったところで何が困るのか、と問われて、明確な答えは浮かばない。

 一つ、二つ、と、ためしに口にしてみれば、いずれも、他人への言いわけじみていて、要するにわたしは、同性愛者だと他人に思われたくないだけの話なのだ。

「おはよう、きょうはどうする?」

 半年前にこの街に戻ってきた彼女は、わたしとはべつの学校に転入したものの、こうして朝はいっしょの電車に乗り合わせ、途中までいっしょにいく。彼女と再会するまでは遅刻とズル休みの常習犯だったわたしが、まいにち飽きもせずに律儀に学校に通っていられるのは、彼女のお陰だと言っておおげさではない。

 放課後、予定があるようならすこし遊んで、いっしょに帰るのがわたしたちの暗黙の了解よろしく習慣となっていた。

「どうするってなにが?」

「放課後」

 彼女が心細そうに眉を寄せるものだから、

「きょうもだいじょうぶだよ」

 つられて明るい声をだしてしまう。「行ってみたい店あるんだけど寄っていい?」

「何屋さん?」

「ヨーグルト専門店。そこのパフェが美味いらしくて」

「わ、いいね、行きたい、たのしみ」

 十年前は勝気でガキ大将みたいだったあのコが、いまでは出歩くだけで衆目を一身に集める。そこに性別は関係なく、ややもすれば、同性のほうが多く振りかえっているかもしれない。

 それほど目がいくのだ。

 見目麗しい。

 それもある。

 ただ彼女には、なにかこう、そこだけ花の咲き乱れる草原があるような、殺風景な街中に湧いたオアシスじみた清廉さがふんわりと滲みでているのだ。

 そんな彼女が親しげに、わたしなんぞに懐いてくるものだから、オアシスが一匹のラクダを追い回して移動するようなチグハグサが群れをなして押し寄せる。

 だもので、わたしなぞは、わざと彼女に冷たく接して、彼女のほうでわたしから距離を置くように促している。

 ラクダのほうからオアシスを突き離すなんてのは世の理に反する。よって、どうしても彼女のほうからわたしに挨拶を切ってもらわねばならぬのだ。

 それはそれとして、彼女から慕われるのはうれしいし、できることならずっとこの関係性がつづけばいいと願うわたしもおり、これはこれで、自家撞着が目まぐるしい。

 いっそのこと、わたしはじぶんの気持ちを認めてしまって、えいやと思いのたけをぶちまけてしまえば、彼女はもうわたしに親しくしようとは思わないのかもしれなかった。

 ひょっとしたらわたしは、そうした未来が訪れぬようにと、無意識のうちから、そうなる前に、彼女のほうから愛想を尽かしてほしいと望んでいるのかもしれない。

 学校にいるあいだ、ほかの友達と言葉を交わしながら、合間合間に、そんなことを考えている。放課後になるとそうした考えはいずこへと消え、駅前の待ち合わせ場所に、わたしよりもはやく立っている彼女の姿を目にしては、足早に駆け寄るわたしがいる。

「いつから待ってたの」まずはそう言う。到着時間は電波越しに告げてある。

「いま来たとこだよ」彼女は素早くまばたきを二回した。「だって、誰かさんが、十分より前にきたらダメって、それまではどこか店のなかにいろってうるさいから」

 ナンパされて、事件に巻き込まれたりしたら困るからだ。過剰な心配ではないはずだ。

 彼女はこちらの手をとる。

 お店、案内して?

 口にする彼女は、まるでリードを咥える子犬だ。はやく散歩いこーよ、とふりふり揺れる尻尾が見えるようだ。

 店につき、注文をする。店員との会話はのきなみ彼女が率先して済ましてしまう。こういうときはいつも、わたしが彼女の妹か娘にでもなったように感じられる。彼女の言葉づかいは、わたしに向けられるときだけ、幼くなる。

 食べ終わるころには、お互いに、その日学校であった印象的なできごとを語り終えている。

 相手の学校での交友関係は、のきなみ頭に入っている。彼女が誰と仲がよく、だれを苦手に思っているのかも知っているけれど、わたしがそれら彼女の友人たちと直接に顔をあわせたことはない。

 彼女にしてみてもそれは同じだ。

 だから、わたしがわざわざ楽しそうに、その日あった出来事を語るたびに、彼女は口元を緩めながら、目から光を失くして、そっかー、いいなー、の相槌を連発する。

 わたしは彼女を哀しませていると思いながら、なぜか言葉は止まらずに、なぜ止まらないのか、と疑問に思うじぶんを無視するのだった。

「もうでよっか」彼女が言った。

 割り勘で会計を済ませ、そとにでる。

「あー、しゃべったー。たのしかったね」

「うん」

 楽しいはずがないのに、うなずく彼女を、ばかじゃなかろうか、と思う。さっさとこんな意地のわるいわたしなんかと縁を切ればいいのにと思いながら、

「どうする? もう帰る?」

「まだ時間あるよ」

 行きたい場所があるの、とせがむように彼女は言った。陽の沈みだした、だいだい色のそらへと歩きだす。わたしは彼女の背中を追いかける。

 黙々と歩く彼女からは何か、いつもと違った雰囲気が漂って感じられた。それはたとえば、いつもなら彼女のほうで、わたしと肩を並べるように歩を緩めるはずなのだけれどきょうは、背中に揺れる彼女の髪の毛の、風みたにやわらかなさまを見つづける。

 行き着いたのは、公園だった。

「ここ……」

「憶えてる?」

 振り返った彼女は、どこか誇らしげだ。「初めて出会った場所。私たち、ここで初めて会ったんだよ」

 最後に会った場所でもあった。

「引っ越すって聞いて、夜になっても帰らなかったっけ」

「そう。ママたちが探しにきて、すっごい怒られた」

「それからすぐだった」

「うん。ろくに別れの挨拶もできなかった。でも待っててくれた。忘れないでいてくれた」

 私のこと。

 そこで彼女はこちらの名を呼んだ。風がわたしたちのあいだを吹き抜ける。

「初恋だったんだ」

 言ったのはわたしだった。「好きだったから、引っ越すってきいて、連れ去っちゃえって思って、ドラマで見た駆け落ちの真似事を押しつけちゃった」

 彼女は目をまん丸くしながら、急におどおどしだして、それから忘れ物に気づいたかのように、うれしかったよ、と言った。

「そうだね。いつもわたしのやること、言うこと、なんでもよろこんでくれた。いっしょに楽しんでくれた。わたしもうれしかったよ」

 じゃあ。

 彼女は何かを期待するみたいに、一歩踏みだす。わたしはその一歩を制するように、

「男の子だと思ってた」

 告げた。

 できるだけハッキリと、それがわたしたちのあいだにある幻想を断ち切るみたいに。

 一方的に。

「びっくりしちゃったよ」と笑ってみせる。「だって、十年振りに会ったら初恋の相手が女の子なんだもん。しかも、こんなにかわいくなってて」

 わたしよりもうんときれいで、お姫さまみたいで。

「初恋は実らないって言うけど、ホントだね。告白しなくってよかった。だってコクってたらいまみたいに、こんな関係にはなれなかったでしょ?」

 同意を求めているようで、ほとんどこれは拒絶だった。彼女がここにわたしを連れてきた意味に気づかないほど、わたしは彼女のことを知らないわけではなかったから。

 解かりやすい子なのだ。

 子どもみたいに無邪気で。

 身体と知識ばかりが無駄に大きくなった。

 うつくしいくらいに。

 みにくいほどの想いをそばにいる者へ植えつけるくらいに。

「そうだね」

 彼女はほころびる。目から光だけを消しながら。

「私も初恋だったよ」

 なんでもないように言った彼女の顔は、ヒビの入った冬の湖面みたいに、みるみるうちに歪んでいった。目から溢れたしずくが、彼女のあごからしたたり落ちるか否かというあいだに、彼女はその場にうずくまり、

「ホントだね」

 顔をおおう。「初恋ってみのらないんだ。しらなかったなー」

 そらとぼけたような言葉が、枯れ葉と共に、風に運ばれていく。

「どうしたの、お腹いたいの?」

 すこし待ってからわたしは言った。「もしかしてあの日? だいじょうぶ? あれ貸そうか?」

「そういう感じなんだね」

 彼女はすくと立ちあがり、こちらを見下ろすようにした。背、こんなに差があったのか、といまさらのように驚いた。子羊の皮でもかぶっていたのではないか、と目をこすりたい衝動に駆られる。じっさいまぶたをつよくしばたかせる。

 彼女が腕を掲げたので、とっさに身をこわばらせるが、彼女はそのまま、

「髪、食べてる」

 こちらの唇を払うようにした。触れるか、触れないかといった彼女の控えめな所作が、何かをわたしに悟らせた。彼女はじぶんでじぶんの肩を抱く。「寒いね。帰ろっか」

 公園をでると、わたしたちはそのまま駅まで無言で歩き、それから改札口のまえで別れた。彼女はほかに用があるからと、ふたたび雑踏の向こう側へと姿を消した。

 プラットホームで電車を待つあいだ、電車に乗っているとき、家までの帰路、それから自室のベッドで、わたしはいくども、これでよかったのだ、とじぶんに言い聞かせた。

 その日はけっきょく、寝つけなかった。スズメの鳴き声を耳にしてから、学校行きたくないなー、の思いに支配されつつ眠りに落ちる。

 翌朝、母親の怒鳴り声に起こされた。具合がわるい、学校休む、と言っても、早退していいからまずはいきな、と聞き耳を持ってはくれなかった。こんなことならもっと計画的にズル休みをしていればよかった、と過去のじぶんを呪う。

 ここ半年、遅刻もズル休みもしなかった。すこしくらい、いいではないか、とモノ申したくもあったけれども、通じるわけがないと判りきっていたので、モヤがかった脳みそを引きずるように家をでた。

 日差しがまぶしい。

 時刻はちょうど、ふだん乗る電車が発車しているころだった。

 メディア端末にはとくになんのメッセージも届かない。

 だから、駅前に着いたところで、いつもの待ち合わせ場所に彼女の姿があるはずもないのだった。

 遠目からでも、いないのは判った。

 いるのはジャージ姿の青年だけだ。

 すらっとしており、姿勢がよく、近づくにつれ、顔まで整っていると判ってくる。

 緊張するのでうつむいて歩くと、すれ違う間際に、ねぇ、と腕を掴まれた。

「なんで無視するの」

「はぇ?」

 顔をあげると、そこにいたのは美男子などではなく、髪を短く切った彼女だった。

「どう?」

 彼女にしてはぶっきらぼうな言い方に、反射的に、

「どこのイケメンかと思った。ビビった」

 本音が零れ落ちている。

「ふうん」彼女は意味もなく遠くを見た。

「てか、え? なんで?」

「なんか切りたくなって」

「や、それもあるけど」

 ああ、と彼女は自身の身体を見下ろすようにし、

「一時限目、体育だったから」

「や、なんでジャージ?とも思ったけど、そうじゃなくてさ。なんで待ってたの? 遅刻じゃない?」

 一言メッセージを送ってくれればよかったのに。

 思うが、それこそじぶんが彼女に、寝坊した旨を報せるべきだった。連絡をとるのが億劫だった。ともすれば、寝坊したのもそれが理由だったのかもしれない、と遅れてじぶんの卑しさにめまいがする。

 でも、まさか待っているとは思わなかった。

 思ったのでもういちど、

「遅刻でしょ?」と心配する。「さき行っててよかったのに」

「そういうときはまずありがとうじゃない?」

「うわ、いつになく生意気! まあそうなんだけどさ、ありがと」

「いいよ、べつに」

 歩きだす彼女のあとを追う。よこに並び、顔色を窺う。

「なに?」目が合う。

「なんか怒ってる?」

「ぜんぜん」彼女はこちらの腕を引き、危ないよ、と通行人を避けるようにする。

 髪型だけでなく、態度までいつもと違う。

 ひょっとしたらこれが本気で怒ったときの彼女の対応なのかもしれない。思うと、身体が一回りも、二回りもちぢこまったようで、居心地がわるい。

「遅れてごめんなさい」

 とっとと謝ってしまえ、とばかりに彼女の裾を引くと、

「いいよ、謝んなくて」

 彼女はこちらのリボンをつまみ、位置を整える。「いつまでだって待つよ。待つだけなら私のかってだし」

 そうでしょ?

 わたしはまた顔を逸らし、したを向いて歩く。走ったわけでもないのに鼓動はドクドクと鳴りっぱなしで、何を考えてもわたしはもう、そばにいるこのコのことをただのオアシスみたいには思えないのだった。




42【ゲルニカの絵とナニカ】(ファンタジィ)

 描いた動物が、紙から抜けだして、暴れ回る。小説やマンガであれば比較的よく聞く話であるけれど、よもや、描いた動物がごっそり世界から消えてなくなるとは、お釈迦さまでも思うまい。

 そのお釈迦さまを絵に描いたら、世のなかから、お釈迦さまという概念ごと、世界中からお寺が消えてなくなった。

 否、お堂は残っている。ただ、なんのために建てられたのかが人々の記憶からは消え失せた。書物からもその存在がごっそり抜け落ちている。

 描いた絵を消すと元に戻るので、取り返しのつかないことにはならない。

 ただ、さいきん、気がかりなことができた。

 祖母が亡くなり、母の実家を解体することになったのだが、そこで幼いころにわたしの描いた絵がでてきた。

 一枚ではない。いくつかあった。

 たいがいは、なんの絵とも呼べない、クレヨンを塗りたくったようなものだ。

 しかし、中には看過できない絵もあった

 たとえば、シロヒゲを生やした男の絵だ。母はそれを見て、おじぃちゃんじゃないこれ、と言った。

「わたし、会ったことあるの?」

「あるよ、そりゃあねぇ。いなくなる前にかわいがってもらったんだよ」

 祖父はわたしが幼いころに失踪したと聞かされていた。

 わたしは、わたしの描いただろう、祖父の絵を見下ろす。

 たとえいま、この絵を破り捨てたとしても、祖父が生きたまま現れることはない。もしこの絵が単なる、「男」を描いたものだったならば、この世からあまねくの男性がいなくなっていただろうが、わたしはこの絵を描いたとき、明確に祖父をイメージして描いていた。憶えてはいないが、そのはずだ。母がこうして名指しできたように。

 ふと苦い思い出がよみがえる。

 小学生のころのことだ。飼っていた犬を、わたしは絵に閉じこめてしまい、それから二か月後に、偶然、絵を破棄したことで、すっかりミイラ化した愛犬の無残な姿を見るはめになった。

 わたしが、わたしと絵の関係を自覚した瞬間だった。

 漠然としたなにかを描けば、世界からそれの概念ごと消え失せる。たほうで、唯一無二のこれと名指しできるものの場合は、それだけを絵のなかに閉じこめてしまうようだった。

 いちど、この世から猫という生き物を消し去ってしまったときに、人々の記憶から抜け落ちた猫の存在を、わたしはいそぎ絵を破棄することで取り戻したことがある。コンビニにあるキャットフードの缶が、ただのツナ缶になり、インターネットで猫と検索しても、でてくるのは、エコロジィを訴える記事ばかりだった。

 おそらく、いまここで祖父の絵を破り捨てたとしても、ここには祖父の変わり果てた遺体が現れるだけなのだ。

 そんなものは見たくないし、祖母を亡くしたばかりの母をいたずらに動揺させたくもない。あとでこっそり、海にでも捨てよう、と考える。

 窓のそとを見遣る。

 夕陽が鮮やかだ。ヒグラシが鳴いている。

「これはなにかしら」

 絵を眺めていた母がそこで、一枚の絵を手にとった。「なかなかうまいんじゃない? なんの絵かはさっぱりだけど」

 からかうように言った母の持つ画用紙には、わたしも見たことのない生き物が描かれている。

 それは、腕とも足ともつかない物体を胴体から何本も生やしている。胴体の大部分は、三つの目玉が占め、丸く開いた口は、その縁をなぞるように鋭い牙をみっしりと生やしている。

「妖怪でも見たのかなぁ」

 母は愉快そうだ。

 反面、悪寒が身体を駆け抜ける。

 幼いころの記憶は曖昧で、ほとんど憶えていない。

 ただ、何かを描いた印象だけは残っている。

 ふと、引っかかりを覚える。

 わたしはなぜ、祖父だけを描いたのだろう。祖母や母ではなく、いっしょにするでもなく、祖父だけを。

 まるで何かの記念のように、祖父だけを絵の対象にした。

 まるで祖父がこれから何かの主役にでもなることを知っていたかのように。

「あら、これまたよくわからないものが」

 母は最後に残った絵をこちらにも見せるようにした。「ひどい絵ね」

 大小さまざまなヒトガタが折り重なり、そのうえから赤いクレヨンが塗ったくられている。

 いったいこれは何の絵だろう。

 周囲には、黒い色で、蜘蛛のようなものが、点々と描かれている。一見すれば、赤い湖に浮かんだアメンボじみている。湖の底には、大量のヒトガタが沈んでいる。もちろん、湖を描いたわけではないのだろう。

 わたしはなぜかそこで、ピカソの代表作、ゲルニカを連想した。

「どうする、とっとく?」

 いじわるそうに水を向けてくる母へ、わたしは、うんと生返事をし、すべての絵を回収しては、

 どこに仕舞ったものか。

 焦燥に駆られる。

 鼓動が痛いくらいに高鳴っている。

 わたしの直感が言っている。

 破棄するわけにはいかないのだ。概念ごと世界中から失われたナニカを解き放ってはいけない。

 陽は沈み、ヒグラシはいつの間にか鳴きやんでいる。




43【花のにおいを消さないで】(BL)

 兄の友人は物静かなひとだった。

 しずかで、やわらかく、いまにも消えてしまいそうな儚さをにじませながら、誰よりも存在感を発していた。

 ぼくはひと目見たときから、その引力に囚われていたのかもしれなかった。

 兄は弟のぼくを奴隷か何かに思っている節がある。いつも、名詞を一言叫ぶだけで、ぼくにすべきことを命じる。水、と言われれば、コップに水を酌み、持っていかねばならないし、ゴミ、と言われれば、兄のもとへゴミを受け取りにいくか、時間帯が朝なら、兄の当番であるはずのゴミだしを、ぼくが代わりに行なわなければならない。

 兄の友人としてそのひとが家にやってきたのは、ぼくが小学六年生の夏のことだった。

 兄と同じ部活だというのに、肌の白いそのひとは、兄とは住む世界が根っこからちがうのではないかと思えるくらいに、立ち姿から、所作まで、無駄がなかった。

 人は音を立てずとも歩けるのだ、とぼくはそのひとを見て知った。

 兄はそのひとのまえでは、単語ではなく文章をしゃべった。

 ぼくに対しても一言ではなく、あれ頼む、とお願いをする。

 もちろん、そのひとがいなくなってしまえば、いつもの兄に戻るのだけれど、兄にそこまでの豹変ぶりを与えるほどの影響力を持っているのだと判っただけでも、ぼくの目にはそのひとが特別に映った。

 兄が家に友人を連れてくるのは珍しくなかった。ただ、そのひとがくるときは、いつもほかの友人たちの姿がなく、いつもは騒がしい兄の部屋も、このときばかりは、いるのかいないのか判らないくらいのしずけさを宿す。あのひとの物静かな属性が、家を支配しているようで、ぼくはそのしずけさが嫌いではなかった。

 ときおりささやくような声が漏れて聞こえてくる。ぼくは下の階で、インターネットをさまよいながら、そんな兄たちのささめき声を耳にするのが、やはりというか、嫌いではなかった。

 夏休みに入ると、そのひとがいくどか泊まりにくるようになった。母も父も、兄とはちがったそのひとの雰囲気をいたく気に入った様子だ。つぎはいつくるの、と帰ったあとで兄に訊いていた。

 そのひとが遊びにきているとき、兄はときどきぼくを部屋に呼んだ。兄はいつにも増して虫の居所がわるそうだった。そのひとは、そんな兄の素振りに気づいているのか、いないのか、いつも兄をそっちのけで、ぼくに構ってくれた。

 何に興味があるのか、と水を向けてきては、ぼくの話を楽しそうに聞いてくれたし、いっしょになってゲームをしてくれた。兄はそのひとがいるときだけは、ぼくを邪見にしないので、すこし調子にのって、兄に見せつけるようにそのひとと仲良くした。兄はひどくつまらなそうな顔をしたあとで、勉強しろだの、母ちゃんの手伝いをしろだの、何かと用事を言いつけてはぼくを追いだそうとした。

 でもそのひとは、いいじゃんねぇ? とぼくに微笑みかけては、味方をしてくれるので、ぼくはますます楽しくなってしまい、ことさらそのひとに懐くようになった。

 新学期がはじまって、木々が紅葉しはじめる。

 そのひとはしばらく家にこなかった。

 兄はいつになく不機嫌で、かといってこちらに当たり散らす真似をするでもなく、仏頂面のままに、なにかと、これやるだの、俺が行くだの、言って、ぼくの仕事を手伝ったり、お菓子を買ってきてくれたりした。

 遠くの地域で、山に初雪が観測された、といったニュースを目にするようになったころ、兄が、いっしょにでかけるぞ、と言って強引にぼくを家から連れだした。

 木々は葉をすっかり落としている。

 どこに行くのか、と訊いても教えてくれず、兄は相も変わらずむっとした表情で、なぜ気に入らないぼくのことなどを構うのか、とふしぎを通して、不気味に思った。ぼくはべつに兄と出かけたいとは思わなかったし、楽しいとも思わない。

 風が冷たくて、はやく家に帰りたいと思った。

 電車を乗り継ぎ、行き着いたのは、とある一軒家だった。

「いらっしゃい」

 出迎えたのは、あのひとだった。兄は、くる途中で購入したケーキを手渡し、それからおずおずと家にあがると、リビングにいたそのひとのお母さんらしきひとへ、ぼくの見たこともないような笑顔で、挨拶をした。

 あまりにふだんの兄とは違ったので、戸惑っていると、兄はこちらの頭をムリヤリ下げるようにして、挨拶しろ、とまるで礼儀とは何かを知っているひとみたいに言った。

 ぼくは内心、いやいやいや! と叫びたい思いでいっぱいだった。こんなのインチキだ、と声にだしてやろうかと思ったほどだ。

 それからすこしのあいだ、そのひとのお母さんらしきひとと会話をした。しゃべったのはもっぱら兄とそのひとのお母さんらしきひとで、あのひともぼくも黙っていた。

 やがて、そろそろいこっか、と言ってあのひとが立ちあがり、ぼくたちを自室へ案内した。 

 最後までぼくは、兄がしゃべっていた相手が、あのひとのお母さんなのか確信が持てなかった。それくらい若かった。ひょっとしたらお姉さんかもしれない、と思ったのだ。

「めっちゃきれいだな、おまえの母ちゃん」

 兄の投げかけた言葉で、ようやくさっきのひとはあのひとの母親なのか、と判断ついた。

「そう?」あのひとはなぜかつっけんどんに言った。

 この日、兄はことさら、よくしゃべった。いつになく、ぼくのことを会話に巻き込んでは、さいきんこいつがかわいくてな、と思ってもないことを並べ、ぼくの口から、さいきん受けた兄からの恩恵をしゃべらせようとするかのように、あれはうまかったか、そういえばさいきん楽じゃないか、みたいに一人で捲し立てていた。

 途切れることのない質問攻めに、ぼくはしびれを切らし、もういいでしょ、と場所を移した。

 あのひとは何がおかしいのか、ずっとほころんでいて、ぼくがとなりに座ると、なぜか頭を撫でてくれるのだった。

 その日からまたあのひとは、ぼくの家へ遊びにくるようになった。なにがきっかけかはよく分からなかったけれど、兄といっしょにあのひとの家へ行ったのが功を奏したのだけは、なんとなしだけれど、察しいたれた。

 相も変わらずぼくは下の階で兄たちの物音を聞いていたのだけれど、兄がぼくをこき使う頻度は、まったくなくなったわけではないけれど、ぐっとさがっていて、ときおり兄が下りてきては、あごをくいっとし、ぼくはそれを合図と見做して、あのひとのいる兄の部屋へと潜りこむのだった。

 あのひとはいつも同じ場所、兄のベッドを背もたれ代わりに座っていて、ぼくがいくと、すっと体重を預けるのをやめる。

 背筋を正すと、おいで、というみたいにじぶんのとなりの床をぽんぽん叩くから、ぼくなんかは、犬にでもなった心地で、あのひとのそばに飛んでいく。最初のころはおっかなびっくり、調子に乗らないようにと、窺いながら座ったけれど、いまではもう、一目散に、兄に見せつけるみたいにして飛んでいく。

 あのひとの腕にぼくの肩が触れる。あたまを撫でられ、ぼくはふわふわと、じぶんがじぶんでないみたいなきぶんになる。

 ふふん。

 兄をちらりと見るけれども、前ほどには、兄はもうぼくに鋭い目を向けてきたりはしない。

 つまらんなぁ。

 思いながら、こんなやさぐれた考えを巡らせているなんて知られたら幻滅されてしまうから、おとなしく、いいこを演じて、ぼくはあのひととのおしゃべりをマンキツする。

 あのひとが帰るとき、兄はいつもあのひとを駅まで送り届ける。いちどだけぼくもついていった。ぼくは駅前でバイバイをするまでずっとあのひととしゃべっていて、独占してしまっていたからか、あのひとがいなくなってからの帰り道、兄はあからさまにぼくを無視して、自分だけアイスやお菓子を買っては、見せびらかすように食べて歩いた。

 いじわるだ。

 あのひとに言ってやる。

 脅し文句にいちどは揺らいだ兄だったけれど、さすがに兄としての矜持が許さないのか、うるさい、と意地でもぼくにお菓子を分けてはくれないのだった。

 息を吐く。

 モヤになって消えていくぼくの息は、あのひとみたいに儚かった。

 その日、ぼくは学校で具合がわるくなって、早退させてもらうことになった。先生が親に連絡したところ、歩けるようならじぶんで帰らせてください、と言われたそうだ。薄情な親に思えるかもしれないけれども、ぼくの家は学校から歩いて十分の距離だったし、家にはちょうど兄がいるはずだった。

 開校記念日かなにかで、休みだ、との話を朝に聞いていた。

 家に着くまでのあいだにぼくは、兄が家にいたらびっくりさせてやろうと企んでいた。前にお菓子をくれずにいじわるをされたからだし、さいきんはまた兄の態度が大きくなって、いやな思いをすることが多くなった。まるでぼくが家にいることそのものを邪魔に思っているみたいに、そとに遊びに行けよ、と口うるさく言うようになったのだ。

 きょうくらいぎゃふんと言わせてやろうと思い、ぼくはこっそり玄関を開けた。見慣れた靴がある。胸が躍る。きょうもあのひとがきているのだ。

 頭のなかからはいたずらのことなんてすっぽり抜け落ちてもいいくらいだのに、身体はそうあるみたいに、ぬき足さし足しのび足で階段をのぼる。

 ひょっとしたら、おどろいたあのひとの顔を見てみたかったのかもしれない。

 兄たちの声が、こしょこしょと聞こえる。

 どこか息が荒い。

 腕相撲でもしているのかもしれない。

 戸をゆっくりと開ける。隙間に片目を押しつける。

 兄があのひとの首元に顔を埋めている。吸血鬼が美女の血を吸っているみたいなかっこうだ。兄は片手で、あのひとの服をめくりあげ、こんどは胸のところに口を持っていくようにした。

 なにをしているのかはよく分からなかった。あのひとは抵抗するでもなく、兄に身を委ねている。ときおりあのひとの吐息が部屋に響いて、ぼくは息を殺すのに必死になる。

 目が離せない。

 兄がなにかをしゃべっている。あのひとがうなずく。服を脱ぎだした兄に促されるように、あのひとはベッドのうえに移動した。

 そのとき、はたと目が合った。

 あのひとは固まった。兄は首にひっかかったTシャツを脱ごうともがいている。脱ぎ捨てるとこんどはズボンまで脱ぐようにした。

 あのひとはぼくを見て、息を呑んだようにしたけれど、こちらが動かないままでいると、やがて口元にゆびを持っていき、シー、とする。

 困ったように寄せられた眉が、ぼくの何かを引き裂いた。視界がゆがむ。ぼくは音がしないように、でも、できるかぎり素早く戸を閉めた。

 覗き見したことに対する罪悪感はなかった。見てはいけないものを見た、とは思わなかった。ぼくに気づいたあのひとが堂々としていたからかもしれない。

 でも、見たくはなかった。

 見たくはなかったのだ、とぼくはじぶんがそう思うことに、傷ついたのかもしれなかった。

 気づくと陽は傾きかけており、ぼくはリビングのソファで居眠りをしていた。階段を下りてくる足音がある。

 兄があのひとへ、じゃあまたな、と口にしている。足音がやむ。いっしゅんの間があいたあと、ここじゃダメ、とあのひとの声が聞こえた。それを遮るように、また間があき、ぼくはなぜかまた息を殺し、ぎゅっと目をつぶるのだった。

 透明な腕があれば耳を塞いでいたのに、ぼくはただソファに寝転んだまま、石になる。

 間もなく、送ってくよ、と兄の声がし、きょうはいいから、とあのひとの声が応じる。

 玄関の扉の閉まる音がする。

 そとは風がつよいのか、窓のそとでは枯葉がカサカサ鳴っている。

 兄がリビングにやってくる。冷蔵庫から何かをとりだしている。牛乳だろうか。カップを使わずにぐびぐび飲んでいる姿が脳裡に浮かぶ。やがてこちらまでやってくると、そこでようやくぼくの存在に気づいたようで、

「んだよ、いたのかよ」

 誰にともなく毒づいては、そのまま自室へと戻っていった。ぼくが寝たふりをしているとは思わなかったようだ。

 それとも、たとえ見られていたとしても、兄としてはそのほうがかえってよかったのかもしれない。兄がぼくにいじわるをする気持ちがすこしだけ判った気がした。理由ではなく、気持ちだ。ぼくはいま、ものすごく兄を損ないたいきぶんだった。でも、そんなことはできないし、したところで、あのひとまで哀しませるだけだと思い、ぼくはもう、このことについて考えるのはやめようと思った。

 思ったのに、いつまでもぼくは、ぼく自身に、寝たふりなんかしていないのだとでも示すかのように、かたくなにソファのうえから動こうとはしないのだった。

 本当はずっと寝ていて、起きたときにはすべてが夢だったらいいのに。

 願いながらぼくは、つぎにどんな顔であのひとに甘えたらよいだろうかと、そんなことばかりを考えている。

 後日、なんでもないような顔であのひとは家にきた。

 兄は相も変わらずぼくにいじわるをし、あのひとはぼくを呼んでは、じぶんのそばに座らせた。

 兄が珍しくじぶんでお菓子と飲み物を運んできた。兄がいなくなっているあいだにあのひとはぼくのあたまにあごを載せ、ぐりぐりしながら、こっそりと打ち明けるみたいに、

 ごめんね、と言った。

 ぼくはうなずくこともできずに、ただ、じっとしているしかなかった。

 あのひとからは、花のにおいと、そして仄かに、兄のにおいがした。 




44【雑音の満ちる夜は】(ホラー)

 先輩ライターから急きょ、ピンチヒッターを頼まれた。

 ろくに説明もないままに、指示された山村へと向かう。

 取材をしに訪れたのは、去年話題になったホラー映画の舞台となった村だった。公式からはハッキリとそうとは認められていないが、かつてこの地で起きた事件をもとに脚本が書かれたのは明白だ。

 事件は、犯人と見られる男の死亡によって幕を閉じている。

 一家惨殺と、それに伴う、近隣で相次いだ不審死が、当時、話題を呼んだ。かれこれ二十年も前の事件である。

 村に着いた旨を電波に乗せ、報告すると、先輩ライターは、誰でもいいから当時の状況の分かる住人から事件について話を聞いてこい、と命じた。もっと具体的なプランを、と求めたが、それどころじゃないのだ、と突き放された。

 いったいどんな記事になるのかも分からぬままに、言われたとおり、聞きこみを開始する。

 村は森に囲まれ、道はどこも田畑に挟まれている。

 ところどころにカカシが立っている。

 事件はすっかり風化している様子だ。村を歩いてみての第一印象だ。

 被害者宅はのきなみ建て替えられており、献花も見受けられない。

 事件を知る者を探すほうがむつかしいのではないか。

 不安を胸に、一軒一軒あたっていくこと、間もなく、村への印象を覆さざるを得なくなった。

「事件? 知らんね。ほかをあたってくれ」

 どの家も気前よく出迎えてくれた割に、二十年前の、と口にしたとたんに、如実に険を顕わにしては、ぴしゃりと戸を閉めてしまう。

 事件のあった家では、そもそも住人が出てこなかった。車はある。幼子の遊び道具が散乱している。しかし、人影がない。

 よそ者がうろついているからだろうか?

 時間をあけて、さいど訪れるも、こんどは窓という窓に雨戸が敷かれ、夜になっても明かりが灯っているのかすら判らなかった。

 異様だ。

 先輩ライターから押しつけられた仕事とはいえ、ライター魂に火がついた。

 日帰りの予定だったが、取材が済んでいないこともあり、一泊していくことにした。あすの実の入りによっては、もう一泊も辞さない覚悟があった。

 夜。宿のビールを飲み干してしまって、風にあたろうとそとにでると、月明かりの下に、子どもの影を見た。

 時計を確認する。

 こんな夜更けに?

 ライターとしての血が騒ぐ。

 声をかけぬままに、しばらく子どもの影を見守った。メディア端末で画像を撮るのも忘れない。写真には映るようだ。

 幽霊ではない。

 アルコールの抜けきらない頭で考える。

 間もなく、こちらに気づくでもなく、子どもは街灯の明かりを渡り歩くように、細い道を辿っていく。行き着いたのは、一家惨殺事件のあった家だった。

 事件を知らない家族がよその街から越してきたのだろう。

 村に居つけば、否応なく事件のことは耳に入るはずだ。大枚をはたき購入した家に、悲惨な過去があると知り、どんな思いで暮らしているのか。

 取材をするなら、やはりここだな。

 レンズを向けると、家のまえに例の子どもが佇んでいる。こちらを見ているようだ。

 頭上を仰ぐ。街灯の下にじぶんが立っていることに、ようやく気づく。向こうからは丸見えなはずだ。

 子どもへと目を転じると、家のまえの駐車場をぐるぐると駆けまわっている。

 ふつうではない。

 親は何をやっているのだろう。

 声をかけようか迷っていると、

「やめといたほうがええよ」

 背後から声がした。心臓が飛び跳ねるが、間もなく落ち着きを取り戻す。老婆が道と畑の境に立っている。かっこうからして、畑仕事を終えた帰りだろう。

「びっくりさせないでくださいよ、死ぬかと思いました」

「けっけ」

 ちょうどよいと思い、お知り合いですか、と子どもを示し、訊ねる。子どもはまだ走り回っている。

「かわいそうなコだよ。ここにきてからは毎晩あんなだ」

「むかしの事件と関係があるんですかね」

「関係あってほしそうな声だねぇ」

「そういうわけでは」

「けっけ」

 しばらく老婆と言葉を交わしていると、きゅうにライトが顔を照らした。眩しさに驚き、両手で顔をおおう。

「なにをして、らしてるんですか」

 険のある声に、不審者と間違われていると察する。否、不審者そのものではあるのだが、危害を加える気はないのだ。そういったことを、しどろもどろに説明しながら、じぶんの身分を、すなわちライターである旨を明かした。

「ああ、むかしの事件?」女性は例の家の家主であったようだ。「引っ越してくる前のことだから、私たちに訊かれても」

「さっきちいさな男の子が走り回っていたのは」

「病気なんですあのコ」

「あ、そうなんですか」

 好奇心が声にでてしまったのかもしれない。女性はむっとした声で、

「精神病ではないです」

 断ってから、

「陽に当たれないんですよ、肌が弱くて」

 だからそとに出られる夜にだけ、こうして遊ばせているのだという。

「そうでしたか」

 予想外の真相だったが、珍しい病気の子どもがいると判っただけでも、それなりの記事にはなる。ネタとしては、もうすこし根掘り葉掘り訊きたいところだ。

「いえね、いまこちらの年長者の方にお話をうかがっていたところで」

 繋ぎ穂を添えるつもりでそう言うと、こんどは明確に警戒の気色を示し、女性は、年長者ですか?とふたたびこちらの顔にライトを当てた。

 眩しいと示すつもりも兼ね、おおげさにのけぞる。

「話を聞くって……」

 女性はライトをこちらの背後にそそぐ。「カカシ相手にですか?」

 道と畑のあいだには、ボロボロのカカシが立っていた。一体だけだ。ふしぜんにほかのカカシと離れている。

「いや、でも、さっきは」

 辺りを見渡すが、ひとの姿はない。

 女性に向き直ると、なぜか彼女は麻袋をあたまから被り、

「ときどきいるんですよねー」

 誰にともなくつぶやくようにした。いつからだろう、彼女はライトを持つ手ではないほうの手に、カナヅチを握っていた。

 身の危険を感じ、その場から走って逃げた。駅前のバスプールまで走ると、一台だけタクシーが止まっていた。

 助かった。

 一刻もはやくこの村から出たかった。近づくとドアが開く。乗りこむ。

「となり町へ行ってください。駅前で降ろしてもらえればいいので」

 運転手は、あいよ、と軽快に返事をした。体重がうしろに傾くさまを、安堵と共にただ感じる。

 しばらく道なりに進むと、

「だいじょうぶですか」運転手が言った。「顔色がわるいようですが、お具合のほうは?」

「いえ、ちょっと走ったものですから」

「何か見ましたか」

 血の気が引く。まるで何かを見たと知っているような口吻だったが、声音は穏やかなもので、ジョークの一種だと受け取る。

「そうなんですよ、ちょっと気味のわるい体験をしてしまって」

「カカシですか」

 バックミラー越しに運転手の顔が見える。好々爺然とした年配者だ。

「いえね」運転手は続ける。「たまにあるんですよ。みな口を揃えて、カカシが、女が、と顔面蒼白でね」

「イタズラってことですか?」よくあるなら、村ぐるみでそうした細工を施しているのではないか、と疑った。野次馬根性で集まる人間を追い払うにはテイのよい仕掛けに思えた。

「違いますよ」

 案に相違して運転手は言った。「いるんでしょう、そういうのが」

「見たことは?」あなたはどうなのか、と生唾を呑みこむ。

「ないですよ。私はね。なんせ、車からは降りませんから。あの村ではね」

「なぜですか」

「乗せたんですよ。あの日、事件のあった夜に。私がですよ」

 きゅうに車内の温度が下がったように感じた。

「お客さんと同じようにね、隣町までって。降りたその足で自殺してしまいましたけどね」

「誰がですか」解りきっていながら訊いたのは、ジョークですよ、と笑って振りかえってもらえることを期待したからだ。

「座っておりましたよ」

 運転手はなんでもないように応じた。「そこに、あなたがいま座っている場所に」

 犯人が。

 鼓膜に膜が張ったような雑音が満ちる。トンネルに入ったようだ。

 呼吸が乱れる。

 じぶんの手にはなぜか、身に覚えのないカナヅチが握られている。車窓からは暖色のネオンが断続的に差しこむ。カナヅチの頭身は、まだらに黒く、つらつらと輝いて見えている。




45【――っす、は何語?】(コメディ)

「思ったんすけど、敬語って意味わかんなくないすか」

「なにがだよ」

「いえ、ですから、敬語ってなんすかって話っすよ。だってゼンさんはオレらにため口で、なんでオレらがゼンさんに敬語なんすか? 不平等じゃないっすか、理不尽っすよ」

「あン? そりゃおめぇ、俺がおめぇらより年上だからだろ」

「だってゼンさんがオレらよりまさってんのって、歳だけじゃないっすか。だったらむしろ、ゼンさんのほうが敬語でしゃべるべきじゃないっすか」

「あン? それはおめぇ、俺がおめぇらよりつよいのが歳だけって言いてぇのか」

「え、そうですけど。なんで繰りかえしたんすか?」

「あーん? じゃあおめぇはこう言いてぇのかよ。俺はおまえらよりも、歳以外でまさってるもんがなんもないって」

「ええ、さっきからそう言ってるじゃないっすか」

「じゃあなにか、俺がおめぇらに対して敬語を使い、そしておめぇらは俺にため口でしゃべりてぇって、これはそういう脅迫なのか?」

「脅迫ではないっす。ただ、すくなくともオレらがゼンさんに敬語を使う理由てなにかあるかなぁって、きゅうにふしぎに思っちゃって」

「思っちゃったかぁ」

「ゼンさんはそのままでいいっすよ。どうせ敬語、使えないっすよね」

「おうよ。俺さまは生まれてこの方、ため口しかきいたことがねぇ」

「ふんぞり返って言うことじゃないっすよ。ま、ゼンさんっぽくって嫌いじゃないっす。そこはかとなく、ドブネズミっぽっくて」

「そうだろう、そうだろうって、おい! いまのがバカにしてるってことくらいわかんぞ舐めんな」

「ほへぇ。さすがっすね。よ、日本一! の、ばか!」

「よせよせ、褒めるない」

「まあなんにせよ、ゼンさんに敬語使うってのが納得いかねぇっす。むしろ敬語でいいから、敬語の意味を変えてほしいっす」

「ややこしい言い方してんじゃねぇぞこら、グーグル翻訳起動すっぞ」

「まんまっすよ。ゼンさんだけに使う言葉にしてほしいって意味っす。王さまには王さまの、ゼンさんにはゼンさんの、そのひとにかけるべきふさわしい言葉使いってあると思うんすよね」

「ほー、いいよいいよ、つづけて」

「で、やっぱりほら、あるじゃないっすか。赤ちゃん言葉みたいな、わざと相手に合わせて使う言葉づかいっていうか、ゼンさんにはやっぱりゼンさん専用の言葉があっていいとオレなんかは思うんすよね。だから敬語をゼンさん専用にして、尊敬するひととか、すごいひととか、偉いひとにはそれなりのもっとほかのしゃべり方で、接したいなーと」

「んー?」

「つまり、なんて言うんすかね、こう、ほかのもっとすごいひととかとしゃべるときに、なんでオレってゼンさんに使ってる敬語を、こんなすごいひとに使ってるんだろうと、申しわけなくなるというか、それって、え? いいの? みたいにどうしても思っちゃって、罪悪感でつぶれちゃいそうになっちゃうんすよね」

「ほーん?」

「だからもういっそのこと、敬語はゼンさん専用でいいんで、もういっせいのーせーで、で全世界で敬語の格を百億倍くらい下げちゃったらいいんじゃないかって」

「んー、つまりそれはあれか。俺が尊敬するに値しない男で、ほんとうなら敬語を使いたくないけれども、でもそれを言うといじけちゃいそうだから、せめて敬語はそのままで、敬語の格付けだけを百億倍に下げてしまいたいとそういうことかい」

「おー、さすがっすゼンさん。じぶんのメンツが下がりそうなことに関してだけは頭が回りますね。だいたいオレが言ったことの焼き増しでしかなかったすけど」

「つまり、おめぇらは俺が嫌いなんだな」

「そんなこと言ってないっすよ、これだからゼンさんは」

「読解力ゼロですまんかったな!」

「嫌いじゃないっすよ、慕ってますよ。ただ、敬語を使うような相手かって言ったら」

「なんだよ」

「ちがくね?」

「ちがうのか?」

「まあでもちがっててもいいじゃないっすか。オレらべつに、ゼンさんが偉いとかすごいとかでツルんでるわけじゃねぇんで」

「だったらなんで」

「好きなんじゃないんすか? よくわかんねぇっすけど」

「それはあれか、なにかこう、ほかに深い意味があるのか?」

「あるかもしんねーし、ないかもしんねーっす」

「敬語はもういいよ、ため口でいいから言ってくれ。おめぇら、俺のこと、ホントはどう思ってんだよ」

「ゼンさんはゼンさんっすよ。ただ、敬語を使うのはちがくね?とは思ってるっす」

「ああそうかい」

「です」

「言わせてもらうけどな」

「なんすか」

「おまえらが使ってんの、べつに敬語じゃねぇからな?」

「まじっすか? やっべ。これだからゼンさんとしゃべると」

「やれやれみたいにすんな、泣くぞ!」

「よっ! さすがゼンさん! 日本一! の、ばか!」

「さっきも思ったけどそれ褒めてねぇだろ!」

「やっべ。バレてたし」

「もっと敬え! 俺をあがめろ! 褒めてたたえて、すえながく仲良くしてください」

「土下座しちゃった! やっべ、インスタにあげて拡散しなきゃ」

「かっこよく映せよな」 




46【備えあれば無念なし】(ミステリィ)

 監視映像がネックだった。

 誰だって一人くらい、どうしても殺したい人間はいるだろう。いないのなら、気をつけたほうがいい。他人から理不尽に憎まれ、殺意を向けられている可能性が高い。

 アイツもご多分に漏れず、さだめし、殺したい人間なんていない性質の人種だ。

 恵まれた環境で育ち、周りからはぺこぺことおべっかを言われる。人生で負けたことなんてないだろうし、そもそも勝負する土台にあがることすらなかったかもしれない。

 世のなか、勝ち負けの基準を設け、ルールをつくる側が支配している。勝負をする時点で、支配される側の人間なのだ。

 やつに選ばれない人間が負け組であるし、やつに嫌われた人間が人生のどん底を歩むことになる。

 やつさえいなければもっとまともな人生を歩んでいたはずだ。

 殺してやる。消してやる。

 殺意は膨れに膨れ、堪忍袋の緒はとっくにヨレヨレだ。

 復讐を思いついたのはさいきんのことで、はっきりとしたきっかけがあったわけではない。ある日ふと、鏡を見ていて、アイツを生かしてはおけないと思った。

 かといって、あんな野郎のためにじぶんがムショにぶちこまれるなんてのはごめんだ。人生を散々狂わせられておいて、おまけでどん底に突き落とされてはたまらない。

 こんどはこちらが奪ってやるのだ。

 やつの人生を。

 その命ごと、きれいさっぱり、消し去ってやる。

 完全犯罪でなければ意味がない。

 捕まるわけにはいかない。二度もアイツのせいで人生をダイナシにしたくはない。

 巷では殺人代行が流行っている。なりふり構わないならばそれもよいかもしれないが、発覚するリスクが高すぎる。赤の他人に重要なミッションを任せる気にはなれない。

 これは一世一代のプロジェクトだ。職人さながらに、イチからジュウまでこの手で実行することに意味がある。ほかの誰の手も借りるわけにはいかない。

 殺人だとバレないようにしなければ。

 自殺か事故死か。いずれかが好ましい。

 病死を装うにしても、現代の医学を以ってすれば、容易に喝破されかねない。否、病死を装うならば、喝破されても問題ない細工を施す必要がある。事故死として処理されるくらいの、緻密な計画が入り用だ。

 しかし、緻密になればなるほど、計画というものは、ちょっとした予期せぬ事態で大幅に狂ってしまう宿命を背負わされている。手の込んだ手口は、ボロがでる確率が高い。

 通り魔がもっとも楽だが、現代ではそこら中に監視カメラが設置されている。犯行現場近くにあるコンビニのまえを通っているだけで、被疑者としてマークされかねない。街中にある監視カメラすべてを掻い潜ってターゲットに近づくのは容易ではない。

 だとすれば、ターゲットのほうから、監視カメラのない場所にきてもらうのがよい。そのためには、なんらかの連絡手段を用いて、ターゲットを呼びださなければならない。証拠が残っては、完全犯罪とは言えないだろう。呼びだす段階から、何らかの小細工が不可欠となる。

 せっかく縁の切れている状態だ。仮に殺人として調査されても容疑者リストに載らないくらいに、こちらの痕跡を消しておくのが吉である。

 よって、ターゲットを呼びだしたり、じかに接触する手段は使えない。

 ならば残る手段は限られる。

 ぱっと思いつくのはいずれも、罠だ。ターゲットの生活習慣を把握し、行きそうな場所に仕掛けを施し、事故と見せかけ殺す。うまくいけばいいが、失敗すれば殺人だと見抜かれる。下手をすれば、赤の他人を巻き添えにしかねない。

 人を殺すことに抵抗はない。そんな倫理観はとっくに崩壊している。が、せめて殺す相手くらいは選びたい。

 倫理観ごと精神をぼろぼろにされたのだ。

 アイツ以外を殺すなど、それこそアイツの性根が感染したみたいで虫唾が走る。

 死んでもアイツと同じ側の人間になどなりたくはないし、アイツを同じ人間と呼びたくもない。

 殺すならばアイツだけだ。

 他人を巻き込みはしない。

 ドローンを使う構想自体は、いくども脳裡に浮かんでいた。しかし、事故死を装うとなると、飛行中のドローンを目撃されただけで、立ちどころに事件の可能性を考慮される。

 こと、これだけ街中にカメラの溢れた社会にあって、誰の目にも触れずにドローンを飛ばすのは至難に思える。

 が、夜間ならばどうだろう。

 赤外線カメラを搭載し、小型のドローンを使えば、誰に気づかれることなくターゲットを殺傷できるのではないか。

 しかし、手段がない。

 小型のドローンならば、大きい物体は運べない。殺傷するにたる岩やブロックを頭上から落とすのはむつかしい。こと、プロペラが大きくなるほど、音がする。命中率をあげるには、いくばくかターゲットへ近づかねばならないだろう。

 いくら暗がりでも気づかれる。

 物体を落として殺すのは得策とは呼べまい。

 いちどはそう結論したものの、ほかにやるべきこともなく、念のためにドローンの操縦訓練を開始した。いずれ使わずとも、何もしないでいるよりかはマシだろう。幼いころにラジコンカーで遊んだ記憶がある。操縦したのはそれきりだが、あんがいおとなになってからのほうがリモートで操縦する機器はおもしろいのではないか。殺人計画立案のさなか、夢中になってドローンを飛ばす。

 ターゲットの行動を監視するのも忘れない。不規則な生活を送っている人間であろうと必ず一定の傾向がでてくる。習慣とまでは呼べないが、長期的な視野で眺めてみると、これをしたらつぎはこうする、といった癖のようなものが誰にでもついているものだ。

 ターゲットは大きな仕事を終えると必ず同じ店で女を買う。

 相手はおおむね十代で、違法ではないが、そんな娘たちを物同然に安い報酬で好きかってするのは、いかにも人間以下のけだものだと評価せざるを得ない。

 セックスワークをどうこう言うつもりはない。むしろ客のほうにこそ苦言を呈したい。性産業を職業だと認めているというのなら、性的サービスを施術する者たちへ相応の態度を心掛けるべきだ。高級ホテルの世話係には謙虚な富豪も、セックスワークに従事する者たちには横暴な態度をとるのは、どこにいっても見かける風景だ。反吐がでる。

 ただし、その反吐がでそうな生態を持つゲスの一人がターゲットであったことはひとつの活路として、ありがたく甘受する。

 店の出入り口は一つきりだ。裏口はあるが、従業員専用で、これまでターゲットがそこから出てきたことはない。つまり毎回、表の扉を利用する。

 建物とはすばらしい。さいきんになってよく思うようになった。人間の行動を制限するための処刑台であると評価したい。

 個室であれば目撃譚もなく、人目を気にせず殺せるのにと思うが、ターゲットがこちらと二人きりになるような空間に身を置くとは思えない。やはり、狙うとすれば出入り口だ。

 扉はターゲットの動きを限定する。いつ出てくるか、さえ知っていれば、ターゲットが必ずそこを通ると断定できる。これ以上ないチャンスだ。

 あとはどのように殺害するかが問題だ。

 練りに練り、古今東西の殺人から事故から不可解な死まで、ネットから書籍から触れられる情報には片っ端から目を通した。

 毒殺が有効だとの判断を逞しくする。

 人を確実に殺すとなると、刃物や鈍器に頼ったのでは、イマイチだ。殺人事件として調査される確率があがる。その点、毒物は、種類によっては検出されず、よしんば検出されても事故死として処理される余地が残されている。

 毒物の入手も、ネット通販を利用すれば比較的容易だ。ダークウェブと呼ばれる、専用のチャンネルまであるほどだ。毒物から麻薬から拳銃まで手に入る。便利な世のなかになったものだ。

 試しにいくつか購入してみた。主として毒蛇から抽出される神経麻痺の毒物だ。ついでに注射器と、それから毒蛇の糞も仕入れる。使う機会があればよいが、と思って持ち歩いているものの、どう考えてもそんな都合のよい日は巡ってこない。ゲン担ぎのようなものだった。

 目撃されずに済むのであれば、ドローンによる殺人も、選択肢として有効だ。いずれにせよ、誰にも見られずに殺すのが大前提となる。

 やはりというべきか、監視映像がネックだった。

 セックスワークの店舗にも例に漏れず監視カメラが設置されている。抜き打ちで公安が視察にやってくるためだろう。ほかにも、問題の多い常連客への対応を迅速にとるためだと考えられる。

 雑貨ビルだ。ほかにも店が入っている。ドローンを飛ばせば、いずれかの階の監視映像に映ってしまいそうだ。夜とはいえど、ネオンが到る箇所で明かりを飛ばしている。

 なにかしらの映像として映りこんでしまう確率は高い。

 店全体を停電させるというのはどうだろう。ターゲットが店をでる瞬間にブレーカーを落とす。しかし停電とドローンの遠隔操作を同時にするのは避けたいところだ。時限式にするには、ターゲットの行動が不確定すぎる。

 ムリなのだろうか。諦観の念がじわじわと胸のうちに滲んでいく。

 そうこうしているうちに貯蓄が底をついてしまった。ドローンの操縦は上達したが、目立つわけにはいかないので、大会にでたり、動画をネットにアップして注目を集める真似もできない。

 こうなったらまた実直に働かなければならないが、こちらはもうずいぶん前から就ける職業はかぎられる。

 それもこれもターゲットのせいだ。

 殺意を燃料に、致し方なく、職に就いた。間違ってもターゲットと出くわさぬように、接点のない店を選んだつもりだった。

 が、世のなかにあり得ないことなどはなにもないのだ。

 職場に偶然、ターゲットがやってきた。

 驚くことに、こちらを指名するではないか。

 客はカタログの写真を見て、嬢を選べる。いくらか加工しているとはいえ、この顔を忘れたとは思えない。この醜い、顔の傷を。

「初めまして、ご主人たま、きょうはいっぱいミクにゃんをいじめてほしいにゃん♪」

 くそ寒いセリフもなんの羞恥心もなく口にできる。長らくこの業界に沈められてきたこの身を呪いたくもなるが、呪うならば、目のまえにいるこのスケベな顔をした男だ。

「いいね、その顔の傷。オレ好みだよ。まるでオレのためにあるような傷だ」

 そりゃおめぇにつけられた傷だからな。

 思いながら、さだめし、と想像を逞しくする。

 同じような人間がたくさんいるのだろう。こうして性癖をこじらせた野郎の気まぐれで、顔に傷を負わされた女が、たくさん。

 男をバスルームへと誘導しながら、ポケットに忍ばせていた簡易注射器を握る。毒物だ。ゲン担ぎにと常備していたものだ。いっしょに蛇の糞も持ち歩いていた。小道具のつもりだった。どこからか逃げだした毒蛇が排水溝を伝ってターゲットに噛みついた。そういった状況を演出するための装飾品だったが、筋書きとしては説得力に乏しい。いくらなんでも「毒蛇の脱走」はない。逃げた毒蛇に噛まれて死んだと考えるよりも、その場にいっしょにいた人物が殺したのだと考えたほうがより自然だ。

 しかし今回ばかりは、いける、と思った。

 なにせ、相手がわざわざこの場に偶然やってきたのだ。

 いったい誰が、こんなこともあろうかとふだんから毒物を持ち歩くだろう。それこそ、毒蛇の糞ごといっしょに。

 この場にはもう、ターゲットとこちらしかいない。

 毒蛇がいた、と証言すれば、それを否定するのは至難だろう。この個室に監視カメラはない。なにせ、あったら大問題だ。店の信用を落とし兼ねない。しかもいまは裸になったターゲットはバスルームにいる。

 いましかない。

 毒蛇の牙を使った特性の注射器だ。使えば穴は二つあく。

 はやくこいよ、と耳障りな声がバスルームから届く。猫撫で声で返事をしながら、無防備な背中に近づいていく。

 あー、帰ったら何食べよう。

 寿司でも食うかな。

 そうだ、それがいい。

 目星をつけたころには、だらしない裸体を晒しているクソったれの足首めがけ圧しつけた注射器を回収し終わっている。




47【幽霊の正体】(SF)

 幽霊の正体が判明した。幽霊が真実に存在し、そしてそれが自然現象としてのメカニズムを伴っていると解明したのは、皮肉なことに心霊研究家ではなく、とある生物研究家だった。

「生物は基本的に共生関係でその生態系を維持しています。共生のなかには、宿主に寄生する生物も多くいます。細菌なんかはほとんどそれです。宿主に寄生し、そして養分を奪い、成長する。しかし、宿主そのものに寄生せずとも、結果として養分を得られれば済む場合もあります。今回ワタクシどもの研究グループが発見した新種のバクテリアは、人間の発する電磁波に集まり、独自の電解質にて発電し、活動エネルギィとしていることが判っています。要するに、人間の身体を動かす電気信号を蓄積している、ということです。新種のそれをワタクシどもは『ゴーバース』と名付けました。人体がもっともつよく電磁波を発するのは、産まれたときと、死ぬときです。死ぬほどの苦痛や恐怖もまた、激しい電磁波を伴います。ですから、それら激しい波形の電磁波を蓄積したゴーバースは、それら電磁波をエネルギィへと変換するときに、元の電気信号である人間の激しい感情を、自身に反映させることがあるのです。そのときに、ゴーバースが可視化可能な規模で密集していると、我々の目には、幽霊として映ることがあるようです。正確には、我々の知覚器官が、ゴーバースの発する電気信号を感受し、そこにない情景を見ることになる、という解釈がより妥当となるでしょう。一種の共鳴反応のようなものです。信じられないのも無理はありません。ですが、ワタクシどもは数々の実験を繰り返し、ゴーバースとその集合体の織りなす不可思議な現象の解明をつづけてきたのです。ええ。これもその一環です。あなたにはいちど死んでもらいます。心配はいりません。ワタクシどもが採取し、培養したゴーバースは、あなたの脳回路ごとその電気信号を集積するだけの容量と能力があります。あなたには死んでいただきますが、つぎに目覚めたとき、あなたはゴーバースを母体とする概念体として、もういちど誕生することになるでしょう。ええ、もちろんこれが初めての実験ではありません。安心してください。あなたは高い確率で生まれ変われます。このとおり、ワタクシもまたそのゴーバースの生みだす、かつてワタクシだった電気信号のコピーなのですから」 




48【首輪をこんどはハメさせて】(百合)

 どんなに尽くしても報われない想いはある。

 わたしのすべて、なんて言葉は古今東西、ありとあらゆる物語で、素人玄人の分け隔てなくつむがれ尽くされたセリフだと思う。

 でも陳腐な言葉でしか言い表せないこともある。

 ユリエはわたしのすべてだった。

 お金がほしいと言われればあげた。部屋を貸して、と言われれば、たとえその日がクリスマスイブだろうと大晦日だろうと、大事な取引のある前日であろうと、ユリエに部屋を譲り渡した。

 彼女がこちらのいないあいだに、そのときたまたま声をかけられたというだけの男と裸でベッドにもぐりこんでいると知っても、彼女のお願いを拒む理由にはならなかった。

 役に立ちたいのだ。

 便利な道具だと思われてもいい。

 必要とされたい。

 ないよりはあったほうがいいと思ってほしい。

 彼女と関係していたかった。

 たとえ彼女がわたしに、便利な道具として以上の価値を見出していなかったとしても。

 差しだせるものがあるなら、たとえ臓器だろうと手放せる。

 ユリエとの縁を繋ぎ止められるなら、わたしは。

「なんでもするって言ってくれたよね」ユリエに呼びだされ、わたしは会社を突発的に休み、会いにいった。「ここで働いてほしいんだけど」

 指定されたファミレスにいくと、開口一番に彼女は自身のメディア端末の画面をこちらに見せるようにした。

「なに?」

「男のひとにマッサージするお店」

「ふつうの?」

「ふつうじゃない店があるの?」

 猫じゃらしを見詰める子猫みたいに首をかしげるユリエの髪は、脱色されており、なぜか分からないけれど、黒いほうがよかったな、と思った。 

 彼女のとなりには彼女の新しい恋人がいる。見るからに柄のよろしくない格好だ。腕に、鏖殺、なんてタトゥを入れている人間がまっとうなはずがないのだ。

「かんたんな仕事だからさ」と彼が言う。「きみかわいいから、人気でると思うよ」

 ね? と人当たりのよさそうに同意を求めてくる男ではあるけれど、これはユリエがわたしにしたお願いであって、部外者のあなたが口だしすることではないはずだ。

 思うのに、反論なんてできようはずもなく、いまの仕事が、としどろもどろにお茶をにごす。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。仕事終わったあとででも、休みの日でも、時間あるときにいつでも入れる仕事だから。副業みたいなもんでさ」

 語り慣れたように男はしゃべりつづける。それはこちらが、はい、と言うまでつづいた。そのあいだユリエは、ペットの手綱を離した飼い主のように、椅子によりかかって、メディア端末を眺めている。

 解放されたのは、契約書を交わしたあと、ユリエに呼びだされてから五時間も経ってからのことだった。

 いつもなら途中でいなくなっていておかしくないユリエも、このときばかりは最後まで欠伸をまじえながら残っていた。

 一週間以内に店に行けよ、と命じられた。「絶対だかんな」

 契約書を交わしてからの男の豹変ぶりがこわく、ドタキャンすることも、ましてや契約を反故にするように交渉する考えも浮かばなかった。

 ギリギリまで現実逃避した。七日目の朝に、知らない番号からの留守電が入っていた。

「きょういかなかったら分かってんだろうな」

 ユリエといっしょにいたあの男だった。

 分かってんだろうな。

 ただそれだけの言葉に、声に、威圧に、わたしは首根っこを掴まれたタヌキみたいに仕事の終わったその足で、指定された店へと歩を向けた。

 どんな店かは、それの入った雑貨ビルを一目しただけで瞭然とした。

 半ば予想していたが、覚悟はしていなかった。

 客だろうか、小汚い男が店へとつづく扉を開け、階段をのぼっていく。よこを通りすぎる間際に向けてきた獲物をねぶるような目つきに、全身ががくがくと震えだしている。

 その日、わたしは初めてユリエの頼みを無下にした。

 メディア端末は投げ捨てた。アパートも解約し、いちど実家に逃げ帰った。

 なにかあったの?と両親がうるさかったが、しばらく都会には近寄れなかった。地元でパートをしながら、これからのことを考えた。

 ユリエは怒っているはずだ。

 わたしが約束を守らなかったから。

 破ったから。

 もう金輪際、相手をしてはくれないだろう。街中ですれ違っても、見向きもせずに、声をかけたところで、どちらさまですか、と冷たい一瞥をくれるでもなく、記憶のなかに留めることすらしてくれないのではないか。

 そうあってほしいと願うじぶんがおり、それだけは嫌だ、と思うじぶんもいる。

 けっきょくどこまでいっても、あたまのなかはユリエのことでいっぱいだった。彼女を裏切っておきながらどの口で思うのか、とじぶんの想いの軽さに傷ついた。

 貯金に余裕ができたので、実家をでた。田舎の繁華街にアパートを借り、不動産屋に再就職した。

 仕事はのきなみ順調だ。ADと呼ばれる家主からのマージンを重視しない接客が功を奏したのか、担当した住居者からの満足は上々で、管理人たちからの信用もわるくない。

 こんな生き方もあったのか、と久方ぶりに息を吐けた心地だった。

 だから、職場の飲み会で遅くなった帰り、タクシーでアパートまで帰ったおりに、ちょうどわたしの部屋のまえでひざを抱えて座るユリエを発見したときは、思わず、その場から逃げだしたくなった。あすの朝食のためにとコンビニで購入したサンドウィッチの材料を落としてしまわなければ、ユリエもこちらに気づくことはなかっただろう。

 やおらにおもてをあげた彼女と目が合った。

 心をきゅっとちぢめる。ねんどをこねるようにして、どんな傷を負ってもひるまないじぶんをイメージする。

 身構えていると、ユリエはゆるゆると立ちあがり、なぜかじぶんの髪の毛を撫でつけながら、

「ひさしぶり」

 下唇をはむようにした。

 びっくりして固まっていると、彼女は続けて、引っ越したって聞いて、と釈明する。「おばさんに住所聞いて。来ちゃったんだけど、聞いてなかった?」

 頷く。

 はっとしてから、メディア端末をとりだす。データを改めると、母から、ユリエちゃんが会いたがってたよ、とメッセージが届いていた。

 頭が混乱する。

 この場から消えてなくなりたい思いと、謝罪したい思いと、なんかきょうのユリエはちいさく見えるな、との戸惑いを胸に、

「あ、あがってく?」

 まずは部屋の鍵を開けた。

 いい部屋だね、と見渡すようにするユリエに、紅茶を淹れる。彼女はソファに腰を沈めている。なんだか、そういったぬいぐるみみたいだ。

 おとなしい。

 覇気がない。

 きょうの彼女はこわくないかも。

 思いながら、ローズチップスを加えた紅茶をカップにそそぎ、差しだす。テーブルに置くより前に彼女は手を伸ばし、こちらの手からじかにカップを受け取った。

 ゆびが触れる。

 ありがとう。

 凍えたように彼女は言った。

 席につく。

 壁掛け時計の音が耳障りだ。原子時計なのに、秒針の音がチクタクと静寂を引き立たせる。

 なにを話せばよいのか。

 なにをしにきたのか。

 考えがまとまらない。

 まずは約束を破ったことを謝罪しなくては。

 唇を舐め、いざ声を発しようとすると、ユリエは手で温めるように包んでいたカップに口をつけ、紅茶をひと口すすってから、こちらの声に被せるように、

「ごめんなさい」

 声は、か細く震えていた。彼女は続ける。「私、ほんとうにひどいことしてたと思う。相手のきもちとか考えないで、じぶんさえよければいいと思ってた」

 でも、と彼女はこちらの名を口にし、

「あの日、行かなかったんだよね。ホントは私がやらなきゃいけないことだったのに、イヤだったから、なすりつけようとした、騙したの」

 でも、ともういちど彼女はこちらの名を口にし、

「が、こなかったから、けっきょく私があの仕事をすることになった。あんなに客がクソだと思わなかった。あんなの、だって、奴隷じゃん。でも、それは私の自業自得だし、むしろ私がきちんとじぶんでやれて、誰にもなすりつけずに済んで、よかったと思ってる」

「仕事、したの?」

 あのお店で働いたの、と息がくるしくなる。

「うん。借金しちゃってて。でも、もうないから。ぜんぶ返したし。でも、ずっと考えてて。私、こんなことをさせようとしてたんだって、こんなひどいことをじぶんの代わりにって、そう思ったら、いままでしてきたことがこわくなった、なんてズルくて、ひどい接し方してたんだって」

 なのに、と彼女はみたびこちらの名を口にする。

「――は、文句ひとつ言わないで付き合ってくれてた。見放さずにいてくれたのに、私は、ずっと」

 彼女は真剣だった。そこに何かをとりつくろうとする姿はなく、ただただ申しわけないとの思いが滲んで映った。

「気にしてないよ」なんとかそれだけを言った。

「でも」

「会いにきてくれてうれしい」

 抱き寄せてあげたいほど、ユリエはみすぼらしく、水に濡れたヒヨコじみている。じっさいに彼女を抱きしめてあげないのは、そうすることでせっかく彼女のうちに芽生えた呵責の念を薄めたくはないからだ。

「お金、あるの」まずはそう訊いた。彼女のカップはカラになっている。紅茶のお代わりを注ぐために、席を立つ。

「いまんところはだいじょうぶかな」

 キッチンに立っているため、彼女の顔は見えないが、それでもそれがつよがりを言っているだけだと判断ついた。

「家は?」

 投げかけてから、矢継ぎ早に、「あの男のひととはどうしたの」

 まだ関係はつづいているのか、と問う。じぶんではないみたいな声だ。心配しているようでもあり、それほど関心がないような、義理で口にしているだけだと示すような声音で、こんな声をだせるのか、とじぶんでじぶんに寒気がする。

「他人だよ、関係ない、ぜんぜん、もう知らないひと」彼女は早口になった。

 紅茶のお代わりを持って、席につく。カップに注ぎながら、彼女の言葉のつづきを待つ。

「ありがと。家は、引き払って、いまはちょっと、つぎの住む場所探してるって感じ」

「じゃあどこで寝てるの」

「んー」口振りが重くなる。

「ネカフェとかそういうこと?」

「うん」

「実家は?」

「無理だよ。何があったんだって訊かれる。ごまかせないし、もうすこし、ちゃんと生活できるようになったら顔見せにいくくらいはしたいけど」

 要するに、彼女はいま、浮浪者なのだ。

 あれだけ眩しく、憧れだった彼女の凋落ぶりが、妙にわたしの胸を軽くする。

「荷物は? それだけ?」

 彼女はほとんど手ぶらだった。

「預けてある。ロッカーに、駅前の。その日だけなら無料だから」

「これからどうするの。借金はなくなったんでしょ」

「うん」彼女はそこでほころびたが、目は朝露みたいに揺れている。唇をきゅっと一文字に結んでから、どうにかなるでしょ、と部屋に入ってから初めて声をだし笑った。「いいんだ、私のことは。ただ、謝りたくって。それだけ」

 壁掛け時計の音が部屋に充満する。何かを言わなくてはならなかったのに、何も言えないじぶんがいた。

「ホントに、それだけだから」ユリエはじぶんに言い聞かせるみたいになんども頷いては、うん、だから、と腰をあげる。「ごめんなさい。ひどいことして」

 彼女のつむじがこちらを向く。何かのボタンじみていて、押したらどうなるだろう、とそんなことを考える。

 床からポーチを拾いあげ、部屋から出ていこうとするその背中を引き止めたかったけれど、同時に、いなくなったときの開放感も胸の奥に、それを期待するみたいに滲みはじめている。

 靴を履き、扉の鍵を開けると彼女は、

「じゃあね」

 いちどだけ振りかえり、手を振った。

 わたしは無言で手を振りかえし、開いた扉の隙間に消えていく彼女の髪の毛をただ眺めた。

 髪の毛には艶がなく、あの日、わたしの憧れた彼女はいなくなってしまったのだと思った。

 わたしはじぶんの頬がゆるんでいることに気づいていたけれど、鏡を見ようとは思わなかった。

 いちどはリビングに戻ろうと踵を返したのに、そこに待ち受ける開放感に反発するかのように、わたしはもういちど玄関に向き直る。

 気づくと駆けだしており、部屋のそと、アパートの敷地から出ていこうとしている彼女に、待って、と声をかけている。

「待って、行くとこないんでしょ」

 彼女はうつむく。大声でそんなことを言ってほしくはないのかもしれなかった。

「泊まってってよ」

「でも荷物が」

「じゃあ取りにいこ」

 部屋に引っこみ、いそぎ、財布を手にとる。玄関扉を施錠し、そとにでる。ひょっとしたらいなくなっているかもしれないと焦ったものの、彼女は同じ場所で立ち尽くしていた。

「いこ。駅前でしょ」

 腕を引くと、足取りが重いながらも彼女はついてくる。

 でも、となにかを言いたげにしている彼女の言葉を遮るようにし、

「ずっといたらいいよ。お金が貯まるまででもいいし、いいひとが見つかるまでのあいだでもいい」

 彼女はこちらをよこから見上げるようにしている。背丈はほとんど同じで、どちらかといえば彼女のほうが数センチ高いはずだったけれど、いまはずっとちいさく見えている。

「感謝してる。うそじゃないよ。わたしは好きで尽くしてたの。よろこんでほしかったから。いまでも変わらない。ずっと言いたかった。わたしのほうこそ逃げてごめんなさい」

 つらかったでしょ。

 見下ろすようにすると、彼女はこちらをじぃっと見つめ返しながら、まばたきをすることなく、涙を頬に伝らせた。

 いいの?

 なにを問われたのかは分からなかった。なんだっていいと思った。

「いいよ」

 わたしは言った。「うれしかった。会いにきてくれて」

 ありがとう。

 そういうつもりで、ひじで彼女のうでを小突くようにすると、彼女は、へへ、と口を一文字にきゅっと結んだまま、それでも抗えきれないように口角を曲げ、目を伏せた。

 ますますちいさくなるような彼女の姿をまえに、ああわかるなぁ、と以前の彼女の、こちらへしてきた数々の仕打ちを思いだす。

 壊してしまいたくなる。

 こんなにも無邪気に慕われてしまうと。

 どこまでなら許されるだろうと、試したくなる。

 思いながらけれど、彼女をいつまでも手のひらのうえで転がし、ときおりゆびさきで突つき、撫で、甘やかしてあげたいとの想いのほうがつよくわたしを病みつきにさせるのだと、そうした予感を拭えきれずに、見えない首輪を彼女にハメるようにわたしは、

「せっかく駅まえに行くんだし」

 投げかけている。「なにか食べてこっか。再会の記念に。もちろんきょうはご馳走するから」

 ね、おねがい。

 飽くまで、さりげなく毒を呑みこませるようにして、彼女の申し訳なさそうな顔の、うん、をわたしはじょうずに引きだしていく。 




49【ホムゴのいなくなった星で】(ファンタジィ)

 はじまりの者、を名乗る声が全世界にとどろいた。それは空気を伝播せず、人々の脳内に直接ひびきわたった。

 はじまりの者を名乗る声は言った。

 一つを選べ、と。

 おまえたちを生みだした対価として頂戴する。

 声は七日間、七時間おきに、同じ内容を唱え、消えた。

 残されたのは、宙に浮く巨大な砂時計であった。刻一刻と減りつづけるそれは、学者たちの計算によればあと半年で底を突くとの結果だった。

 人々は議論した。

 何かを一つ選ぶ、それはよいとして、選ぶとどうなるのか。

 消えるのか。

 はたまた、増えるのか。

 絶滅か、繁栄か。

 頂戴すると言ったからには、消えるのではないか。しかし、いらないものを選んだところで怒りを買うだけではないのか。

 議論の末、人類は、はじまりの者への供物として、ホムゴを捧げることにした。ホムゴは海のさちだ。全人類が消費する漁獲類のおよそ七割はホムゴである。

 失うのは惜しいが、背に腹は代えられない。

 よしんばホムゴが増えたとしても人類が困ることはない。絶滅まで秒読みを開始していたホムゴである。それだけ人類にとって大事な食糧であったことの裏返しであり、供物として失礼にあたることはないとの打算を働かせた結果だった。

 使用済み核燃料を選べとの声も一定数あがったが、相手が創造主じみた何者かであることを思えば、文明の汚物とも呼べる放射性物質は、恩を仇で返すを地で描く結果になりかねないと却下された。

 果たして、半年後。

 人々の脳内にふたたびとどろく、はじまりの者を名乗る声に、人々はホムゴを捧げますと、各々に念じた。

 その日から海からホムゴが消えた。海からだけでなく、陸にあるあらゆる書物からもその記述が消えていた。存在したことを示すものは、なにもない。

 人々の頭脳からもむろん、ホムゴの記憶は、その存在にまつわる歴史ごと消え去っていた。はじまりの者から接触があった事実もまた人々の記憶からはすっぽりと抜け落ちていた。

 だが人類は困らない。

 ホムゴの代わりはいくらでもいる。それこそ、天敵だったホムゴがいなくなったことで爆発的に増殖したマグロを、人々は過剰に消費するようになった。同時に、ホムゴが好んで摂取していた植物プランクトンが増殖した。それらを捕食する動物プランクトンが増加し、海の水質が変化した。

 水質の変化は極めてゆるやかな変遷であったが、それまでの人類が観測したことのない異常な数値を叩きだしていた。

 しかし、過去のデータごと、ホムゴに関する記録はのきなみ失われている。人類がそのことに気づくことはない。

 動物プランクトンが増えたため、植物プランクトンが激減した。海中の酸素濃度が極端に下がり、あべこべに二酸化炭素濃度が増加する。

 全世界で同時多発的に大量発生した二酸化炭素は、大気中へと気化し、地球全土に広がっていく。

 地球の温度が高まっていく。

 温室効果ガスたる二酸化炭素にその因子があることを突き止めた人類であるが、その本当の要因に気づくことはない。

 ホムゴは消えた。

 その存在の来歴ごと。

 はじまりの者への供物として人類が差しだしたからである。

 そこから派生した影響の連鎖を止める手立てを人類が打ちだすことはない。

 ホムゴのいなくなった海では、いまなお、生態系が崩れ、その影響が、ドミノ倒しのように波及している。

 二酸化炭素の増えた地上では、熱帯化がすすみ、植物の王国が築かれようとしている。そのつぎに起こるのは、急速に消費し尽くされる二酸化炭素と、それによる大規模な寒冷化現象である。

 むろん人類にそれを予測することはできない。

 ましてや防ぐ手立てを考えることも、はじまりの者との交流があったことすら忘れている人類に、できるはずもないのだった。

 はじまりの者は言った。

 一つを選べ、と。

 対価として支払った代償は、思いのほか長く人類を苦しめる。或いは、はじまりの者が奪わずとも、遠からず辿った未来だったのかもしれない。 




50【さよなら先生】(BL)

 先生は授業のない時間はずっと科学準備室に閉じこもっている。職員室でほかの教師たちと生徒の態度を愚痴りあうこともなければ、新人教師をいちびることもない。

 僕以外の生徒たちはみな、先生の授業なんて真剣に聞いていないし、先生がどこでなにをしているかなんて気にしていない。

 興味がないのだ。

 道端の小石のほうがまだ、蹴りたくなるだけ魅力的なのだろう。

 先生は数学の教師だ。でも、数学は飽くまで世界を解釈するための道具で、本当に好きなのは科学や物理学なのだと僕は知っている。

 先生はあまり人としゃべらない。他人に興味がないわけではないのだ。ほかの教師たちが気づかないようなことに気づくし、ちゃんとフォローしようとする。

 でもうまくいかないことだってあるから、ちゃんと見ていない人からすると、先生はよく分からなくて困ったひとみたいに思われてしまう。

 みんなちゃんと見てよ。

 思うけれど、みんなが先生の本当の魅力に気づいたら困るから、先生にはそのまま道端の小石以下の存在でいてほしい。

 僕だけの先生でいてほしいと思うのに、でも先生は僕のものではないから、僕はこんなにもやるせないのかもしれない。

 放課後、僕は科学準備室にいく。

 何かに集中している先生の背中を眺めながら、先生からだされた数学検定の問題を解く。

「先生、ここってどうやれば」

「うん?」

 声をかけると先生はいつも、先生の世界から僕のいるこの科学準備室に戻ってくる。わざわざ呼び戻すのは申しわけないと思ういっぽうで、僕のために戻ってきてくれる先生を見るのは胸がこそばゆくて、そのこそばゆさを味わいたいがためにそうするように僕は何かきっかけを見つけては、先生、と声をかけ、わざわざ先生の世界から先生を、この科学準備室へと呼び戻す。

「この問題のここがよく解からなくて」

「解答は見た?」

「はい。でもどうしてここにこれを代入しているのかが解からなくて」

「ああ、それはね」

 先生の声はやわらかい。口のなかで消えてなくなる綿あめみたいで、僕はいつも唾液が口のなかに滲むのを感じる。

「で、ここはこうなるわけだ。いまので解かったかな」

「はい、ありがとうございます」

「この問題と、こっちのも、同じ類の問題だからあとでもういちど解いてみるといいよ」

 席へ戻ろうとするその背中へ、

「先生」

 投げかけると、先生はまた、うん? と眠たそうな目を向ける。でも眠たそうなのはふだんからで、眠いのではなく、それが先生の標準的な顔なのだ。いつでもすぐに先生の世界へと潜れるように、きっとそうした進化をしてきたに違いない。

 お門違いな想像を巡らせながら僕は、

「あと三か月で僕、卒業します」

「そっか。ああ、もうそんな季節だね。早いね」

 すこしの間があってから、

「そういえばきみ、受験は?」

 いまさらのように先生は言った。「こんなところで油を売っていてもいいのかい」

「油ですか? ここで?」

「おっと。それは高等なジョークかな?」

「あ、慣用句的な?」

「的ではなく、ずばり慣用句だね。これは受験をしないと見ていいのかな」

「推薦をいただいているので」

「ああ、それはいい」

 先生はにこりともせず、がんばってましたからね、とまるでずっと見守っていたかのように言った。でも先生はここでの僕しか知らないだろうし、教室で目が合ったことはいちどもなかった。授業中の先生はいつも、虚空に向かって話しかけている。画面越しに眺めるニュースキャスターみたいなのだ。

「せっかくだし何かお祝いをしてあげたいのだけど」

 先生は白衣のポケットを漁るようにするものの、何かを取りだしたりはせず、

「特定の生徒を特別扱いするのはよくないかもしれないけど」

 言いながら、何か欲しいものがあれば持っていっていいよ、と科学準備室を見渡すようにした。

「いいんですか?」

「ダメだけどね。ただ、ここにあるのはほとんど僕の私物だから」

「え?」

「学校の備品は埋もれているから、掘りだすのは至難だよ」

 言われてみれば、ここは物置部屋然としている。物が多いと思っていたのだけれど、どうやら先生のコレクションルームと化していたようだ。

 順繰り見回してから僕は言った。

「でも、あんまり欲しいのはないですね」

「それは残念」

 肩を竦めると先生はご自分の座席まで戻り、机の引き出しから何かを取りだした。すんなり取りだしたところを見ると、これはひょっとすると初めから用意していたのではないか、と都合よく考えてしまう。

 先生は取りだした石を窓にかかるカーテンから差しこむ夕陽にかざすようにして、

「趣味ではないかもしれないけど」

 言って、小さな、丸い、石をくれた。

 先生にならい、夕陽にかざすようにする。

「きれいですね」

 まるで地球がそのまま手のひらサイズになったような、澄んだ青だ。

 先生は何か、化学式らしき言葉を呪文のように言ってから、売ればそれなりになるかもしれない、と何でもないように言い足した。

「高いんですか」

 先生は肩を竦め、

「買ったわけじゃないからね。ただ、いわゆる宝石の一種ではある」

 言ってから先生は首筋を掻くようにして、かもしれない、と付け足した。

 僕はまばたきをゆっくりと二回してから、びっくりしました、と言った。なにが、と問いたそうに先生は眉を持ち上げる。

「先生もジョークを口にされるんですね」

「きみは私をなんだと思っているんだ。まあ、その石はあげる。捨ててもいいし、机のなかの肥やしにしてもいい」

「だいじにします」ひなどりを持つように、手でつつむようにすると、先生はもういちど、内緒だよ、と言った。

 卒業式の日まで、それからも僕は放課後になれば科学準備室で、先生の背中を眺めながら、数学の問題を解いた。先生のお忙しい日は、鍵がかかっていて中には入れなかったけれど、僕はそういう日でも、図書室で先生に問いかける謎を探すために、数式と向きあった。

 先生は進んで僕に教えようとはせず、飽くまで質問に応じる形式を最後まで崩さなかった。

 僕に興味がないのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 どちらでも構わない。

 すくなくとも僕は、先生にとっての邪魔者ではないはずだから。

「いよいよ卒業だね」

 卒業式を来週に控えたその日、先生はご自分から僕に話しかけてくれた。

「お世話になりました」

「うん。よくがんばったね」

「まいにち飽きもせず?」

「うん。こんなところに、飽きもせず」先生はいつものように首筋に手をやり、「何もしてあげられなかったけど、きみの居場所にはなれたかな」

 さびしくなるなぁ、と棒読みで言った。

「卒業まではまだありますよ」

「そうだね。ただ、こうしてしゃべれるのはもうないかもしれない」

 言われてみればそうかもしれなかった。卒業式の準備でほかの教員たちはせわしなくしている。ときおりこの部屋にもやってくることもあり、そうすると先生はばつのわるそうに、わざわざ椅子のうえに両足を載せ、抱えるようにし、ただでさえ丸い背中をさらに丸くするのだった。

「さすがに私も手伝わないといけないからね」

「言いわけがましく言いますね」

「さびしくなるよ、ホントに」

 先生は繰り返し、言った。

 その日の夜、僕は家のベッドのなかでいつまでも、いつまでも、朝になるまで考えていた。

 このままでいいのだろうか。

 このままがいいのだろうか。

 僕はいったいどうしたいのか。

 僕は何度も、じぶんの気持ちに問いかけた。

 きみはそこからそとに出たいかい?

 僕の気持ちは何度問いかけても、先生の胸に刻まれたい、と臆病な僕に訴えるのだった。

 卒業式当日は朝から濃いきりさめだった。

 式のあいだはずっと、壁際に並ぶ先生を目で追っていた。やっぱりきょうも目が合うことはなく、先生はほかの教員にまぎれ、存在感を薄くしていた。

 またぞろ先生の世界に旅立っているかとも思ったけれど、司会者の、起立、礼、着席の号令には機敏に反応していたので、ちゃんと式に参加しているのだな、と微笑ましくなった。

 式が終わり、クラスで一人一言ずつ、クラスメイトや教師や、親に挨拶をした。僕はただ一言、悔いのない人生を送ります、と言った。

 ではみなさんの旅立ちを祈って。

 教師の一本締めで、高校生活は終わりを告げた。

 友達や後輩との別れを惜しみあっている同級生たちをしり目に、僕は科学準備室へ向かった。

 こんなところで待っていないで、職員室に探しにいけばいいとも思ったけれど、先生ならきっとここに来てくれるのではないか、と甘えた考えで、先生の巣に向かった。

 扉を開けると、先生がスーツの上着を脱いでいるところだった。さすがにきょうは白衣ではないのだな、といまさらのように思い、似合ってますね、とまずは褒めた。

「卒業おめでとう」先生は言った。ネクタイをゆるめる手を止め、「きみとの時間は楽しかったよ、ありがとう」

 紡がれた言葉からは、これまでのような、生徒に向けるやわらかな響きはなかった。

「気が向いたらまた来るといい。そのときはちゃんと、外来客用のカードを職員室でつくってもらうんだよ」

「先生……」

「ざんねんながらもう、私はきみの先生ではない」

 行きなさい、と先生はおっしゃった。まるでこれから僕が言おうとしていることを押しとどめるように、「ここはもう、きみの居場所ではないんだ」

 淡々とあすの天気を告げるような声音だった。

 ガクガクと身体が震えるのをふしぎに思いながら僕は、何度も頭のなかで繰り返し練習した言葉をしぼりだしている。

「ずっと好きでした」

「うん。ありがとう」

 あまりにそっけない返答に、先生はもう、ずっと前から答えをだしていたのだと知った。「私は教師で、卒業したとはいえ、きみはまだ子どもだ。ざんねんながら、きみを受け入れるわけにはいかない」

 この場から走りだして逃げ出したいのに、身体はうまく言うことを聞いてくれない。視界が揺らぐ。こめかみの血管の脈打つ律動を数える。蛇口からしたたる水滴のようだと思いながら僕は、先生を困らせないようになんと言って別れようかと、なぜそんなだいじなことを前以って考えてこなかったのかと、じぶんの見通しの甘さを憎々しく思った。

「ただね」

 先生は僕に近づき、そして僕のあたまに手を載せ、撫でるようにした。初めて先生に触れられたのだと、いまさらのように思った。

「きみのことは受け入れられないけど、きみの想いはとてもうれしい。きみのような生徒に慕われたことは、私の教員生活のなかで、そう、もっとも特別な出来事です」

 誇らしいですよ、びっくりするくらいに。

 見上げると、先生は口元を斜めにし、ぎこちなく笑った。

 困ったように寄った眉が細かく痙攣している。先生の目はその振動数に同調するみたいに、つらつらと揺れている。

「もし僕が先生と同い年だったら」

 僕はこれが最後だと思いながら、投げかけた。「先生の答えは変わっていましたか」

「それも考えたよ」先生はおっしゃった。「そのときは、ひょっとしたら私のほうがきみに惹かれていたかもしれないね。でも、そんな【もしも】を考えても」

「意味はないですね」僕の身体はもう、震えてはいなかった。

「先生。先生が僕の先生でいてくれて、本当に救われました。ありがとうございます」

「うん。さっきも言ったけどね」

 腰を折った僕があたまを起こすのを待ってから先生は、手を差しだした。「私のほうがお礼を言いたいんです。先生と呼んでくれて、ありがとう」

 先生のゆびは細く、ピアニストみたいだな、と思う。僕は、その手を握りかえし、

 さよなら先生。

 笑顔のお手本を示すつもりで、薄く張った氷を踏み砕くように、じぶんの顔をくしゃくしゃにした。

「うん。おたっしゃで。だいじょうぶ、きみならどこでも生きていけるよ」

「青い石、だいじにします」

「あんなものはただの石だよ」

「またそんなことおっしゃる。そんなものを寄越したんですか?」

「ここでの思い出を閉じ込めたからね。きみが捨てたころに、私のもとに戻ってくるかも」

 きょとん、としてみせると、先生は焦ったように、なんでもない、と首筋に手をやった。

「だからきょうはそっけなかったんですね」僕はしょうがないので、先生の渾身の臭いセリフを拾ってあげることにする。「先生にはもう、僕との思い出が残ってないから」

「これでも、がんばったんだよ」先生はもう、生徒相手に話すようにはしなかった。

「偉いですね、先生は」

「これでも教員だからね」

 また来ます。

 僕は科学準備室の扉をまたぎ、そとに出る。「恋人ができたら、自慢しにきますので」

「楽しみにしているよ」

「嫉妬する練習しといてくださいね」

「うまくできるといいんだけど」

 僕は廊下を、右、左、と見渡す。それからもういちどまっすぐと視線を飛ばし、ん? と素っ頓狂な顔を浮かべている小憎たらしいおとなめがけて、抱きついた。

 細い腰だなぁ。

 一、二、三、と数えてから、離れると、小憎たらしいおとなは、ケンタッキーのカーネルサンダースみたいに手を中途半端に掲げた格好で、固まっている。

「先生、臭いますよ。お風呂にはまいにち入ったほうがいいです。では、また」

 お世話になりました。

 踵を返し、僕は、僕の居場所だったひとに、背を向ける。足早に廊下を抜け、階段を下り、学校をあとにする。

 さよなら先生。

 学校の門を出てから僕はようやく振り返る。

「つぎに会うときはもう」

 僕は僕の気持ちが揺るぎないことを知る。

「子どもだなんて言いわけは通じませんからね」




千物語「金」おわり。

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