千物語「桃」

千物語「桃」


目次

【さよなら、ぼくの太陽】(恋愛)

【ヨル、ごっくん】(ファンタジー)

【すこし思い過ごし濃いコーヒー】(ファンタジー)

【おじさんと妖精】(ファンタジー)

【老婆とクロ】(ファンタジー)

【彼女の愛に溺れて夢を視る】(ファンタジー)

【雨のような雪の日は】(百合)

【金平糖じみた声で】(百合)

【紅茶の香りは吐息から】(百合)

【おろしたて搾取】(百合)

【カーテンをあける夜は砂のように】(百合)

【ラストレター】(BL)

【表裏遺体】(ホラー)

【ふしぎで、ぶきみな木】(ホラー)

【そう、なんの音?】(ホラー)

【言い分、イーブン、いい気分】(ホラー)

【灯蛾を焼く者】(ホラー)

【背に静けさの蝉時雨】(ホラー)

【私のために死んでくれ】(SF)

【リファラ】(SF)

【生き残り】(SF)

【ヌクレさんの落度】(SF)

【僕は唾液を呑みこんだ】(SF)

【暗がりで二人】(SF)

【マネー・ド・ローン】(SF)

【コイン積み】(SF)

【パウ】(SF)

【川が消えた日】(SF)

【ペットボトン】(現代ドラマ)

【鬼ごっこ】(現代ドラマ)

【権化の言語】(現代ドラマ)

【電車】(現代ドラマ)

【チェックパーソン】(現代ドラマ)

【稀代で無類のソウシキ者】(現代ドラマ)

【殺意、初めまして】(ミステリー)



【さよなら、ぼくの太陽】(恋愛)


 ざんねんなことにぼくはあなたの初恋を見守ることができなかった。ぼくがこの世に生まれてきたのは、あなたが生を享けてから十余年もあとになってからのことだから、それは致し方ないのかもしれない。けれどぼくはあなたが二度目に好いた青年のことを知っているし、涙の夜を乗り越えたそのあとに出会った運命のひとと結ばれたことも知っている。

 あなたは運命を信じてなどおらず、だから偶然の出会いを運命とすべく強引に彼とは結ばれたまでよ、と大地にずんと足をつけて胸を張りそうなものだ。ぼくはそんなあなたを誰よりも近くで見守ってきた。いいや、近くでというよりも、あなたを乗せていたのだから、ぼくはいっときあなたと幾度も同化していたと言っても言い過ぎではないように思う。

 ぼくはあなたの二十歳の誕生日プレゼントとしてあなたの父上に買い取られ、あなたのよき相棒となった。

 初めましての日のあなたときたら、父親の制止もきかずにそそくさとぼくに乗りこみ、夕方になって戻ってくるころにはさっそく大きな傷をつけてくれたね。その傷はずっとあとになってから、あなたがあなた自身のバイト代で直してくれたけれど、本音を言えば、ぼくはその傷を消してほしくはなかった。

 もしぼくにしゃべることのできる機能がついていれば、そのことだって伝えることができたのに。

 ぼくはぼくであることを喜ばしく感じると共に、あなたに何一つとしてぼくとしての内情を吐露できないことを歯がゆく感じてきた。この歯がゆい思いすらあなたには伝わらず、あなたはぼくがそんなことに悶々としていることにすら思い至ることはない。

 それでもぼくはしあわせだった。

 あなたを乗せることができたから。

 あなたのよき相棒として共にときを過ごし、流れてこられたのだから。

 あなたが夜中に珍しくぼくを叩き起こして、ものすごいスピードで道路を転がしたときには目が回るかと思った。あなたの身の安全を考えればぼくは自ずから速度を落とすべきだったのかもしれないけれど、あのときのあなたのいまにも泣きだしそうな顔、何かを堪えるように歯を食いしばった表情には、止めてはいけないとぼくの理性を踏みとどませるのに充分な必死さが滲み出ていた。

 行き着いたさきは病院で、それからあなたをふたたび乗せたときには、陽はいちどのぼりきり、そして沈みかけていた。すっかり憔悴しきったあなたはまっすぐ家には帰らずに、海岸沿いをどこまでも走り抜けていた。

 ぼくはあなたの意思の赴くままに、ただひたすらタイヤを転がしつづけた。岬のうえで星空を見上げるあなたの姿は、以前にも見た憶えがあり、あなたにとっての運命のひととあなたはここで愛を誓い合った。

 家に戻ったあなたがふたたびぼくに乗りこみ、外出するようになるまでには、数週間の空白の期間があった。家に引きこもりっぱなしのあなたが、またぞろ血相を変えて、しかしこんどはどこか頬を上気させて、ゆっくりゆっくり、安全運転とも呼べないのろのろした足取りで道をなぞったのは、よく晴れた風の冷たい日のことだった。その道は、あなたがぼくに乗らなくなった日に行き来した道だった。

 あなたはその帰り道、ふだんは絶対に行かないような店のまえで車を止め、両手いっぱいの買い物袋と、それから本を一冊購入していた。

 その日からというもの、あなたは幾度もぼくに乗り、同じ道をあなたとぼくの思い出の色に塗りつぶした。やがてあなたは、あなたによく似た匂いのする、けれどあなたとは似ても似つかないカタチをした、ちいさな人間と共に乗りこむようになった。そのちいさな人間はとくべつにあしらわれた椅子に縛りつけられており、あなたがそのちいさな人間をたいせつにしているのか、邪見にしているのかぼくにはしばらく区別がつかなかった。

 あなたからは以前にも増して、溌剌とした、日差しにも似た熱量をぼくは、ぼくの内部が焦げてしまわないかと心配になるほど感じていた。あなたはそのちいさな人間と出会い、太陽にも負けないぬくもりを宿した。

 ちいさな人間は見るたびに大きくなり、ときには別人なのではないかと疑いたくなるほどの変貌を遂げていることもしばしばで、あなたはそんな変装の名人に代わっていつもぼくの主導権を握り、あるときは馴染みの道を、またあるときは初めての道を、徐々に活動領域を広げていく蟻のように進んだ。

 帰る場所がいつも同じなことは、なにかしらの契約のようで、ぼくとしてはあなたと離れているあいだもあなたと共にあるよろこびをこの空虚な身のうちに抱えていられた。

 やがて、あなたの代わりに、ちいさな人間が――そのときはもうすでにあなたよりも身の丈は大きく、ぼくの身体はいささか窮屈だったかもしれないが――ぼくを転がすようになった。あなたは骨組みだけの足でペダルを漕いで進む乗り物を愛用しはじめ、ぼくはあなたのぬくもりをこの身につつむことができず、残念に思った。

 ただ、あなたにとってたいせつな、とてもたいせつな人間を、あなたの代わりに包みこみ、運ぶ役割を得て、ぼくは俄然、気の抜けない日々を送るようになった。

 それからの日々はあっという間だった。

 あなたとの接点を失くし、あなたの姿を傍目にとおく眺める日々は、おそろしくはやく、鳥やトンボのような速度で目のまえを過ぎ去っていった。あなたにとってたいせつな人間が、もうひとりの見慣れない人間をぼくに載せ、あなたのもとへと案内した日、ぼくはなぜかもう、あなたに見向きもされない未来が揺るぎないことを悟った。

 あなたの目にはもう、ぼくの存在は映っておらず、目のまえのたいせつな人間と、その人間にとってたいせつな新しい人間への関心とよろこびに満ちていた。ぼくはそれを、じぶんでも信じられないほど、うれしいことのように思えた。

 なぜあなたをこの身に包みこんでもいないのに、これほどあなたのぬくもりに満たされて感じられるのか。ぼくは考えた。そして答えを得た。あなたは太陽だったのだ。

 あなたから離れたいまになってしみじみ思う。

 あなたはぼくを照らす太陽だ。

 これからも、いままでも、それだけが色褪せず残りつづける、ぼくにとっての真実で、この世界の意味そのものに思える。

 あなたにとってたいせつな人間たちが、ぼくの代わりに、ぼくの仲間を買い取った。ぼくはもう身体の至る箇所が傷んでいた。じぶんでも限界だと思っていた。ぼくにはあなたにとってとてもたいせつな人間を安全に運ぶだけの能力が残されていない。

 あなたたちとの別れは、ぼくにとっても最善の選択だ。

 いまぼくは、ほかのぼくの仲間たち、それらはのきなみ古臭くて、傷んでいるのだけれど、順々に運ばれているところだ。五台先のぼくの仲間が、移動する道のさきに消えたのが見える。大きな音が鳴っていて、一台分の距離を進むごとに、その音はさらに大きくなって聞こえてくる。もう間もなくぼくの順番が巡ってくる。

 あなたはきっとぼくがあなたの誰よりそばで声をかけつづけてきたことを知らないし、知る由もない。それでも、ぼくはあなたの元に行き着き、愛されたことを知っている。

 あなたにとってたいせつな人間たちには適わないささやかな愛ではあったけれど、あなたのぬくもりをこの身に宿せたことには何を犠牲にしても返せないほど大きな、大きな恩がある。

 お礼の一つも返せないぼくの非力さを謝らせてほしい。

 それ以上に、たとえ届かないとわかりきっていても、それでもどうか、お礼の言葉を、送らせてほしい。祈らせてほしい。あなたのことを思いながら、この順番が巡ってくるその瞬間を迎えさせてほしい。

 あなたの初恋がいつで、相手が誰だったかをあいにくとぼくは知らないままでいるけれど、ぼくはぼくのことは知っている。

 ぬくもりを教えてくれてありがとう。

 そして、さようなら。

 ぼくの




【ヨル、ごっくん】(ファンタジー)


 拾った子猫が化け猫だった。名前はヨルと名付けた。

 ヨルは新月の夜になると決まって、トラとみまがう巨体に膨らむ。そして目玉が十も増え、牙は下あごを貫き、口を開けば、内臓が見えるほどに大きく裂ける。こうなった姿のヨルは市販のキャットフードでは物足りないらしく、活きのよい生餌を欲しがる。

 具体的には、最初の夜には私の身体にアザをつくりつづける男、それは母の恋人だったのだが、を丸呑みにしたし、つぎの新月の日には、私を売った母ごと、私の身体をオモチャにしようとした男たちをつぎつぎにぺろりと平らげた。

 ヨルの牙はとてもよく人体を貫いた。人間が団子のようにヨルの牙に連なる様子を見て、私は思わず、おいしそう、と思ったほどだ。

 私はヨルと共に家をでた。誰もいなくなった家では生きていけないし、なぜいなくなったのかと他人に説明するのも、嘘を吐くことすら億劫だった。ヨルはふだんは子猫の姿であるから、共に旅するのに苦労はない。

 私はヨルにいつ食べられてもいいと思っていた。

 ヨルは日増しに私に懐き、新月の夜になると私に仇をなす者たちをその大きな牙で貫き、或いはひと呑みにした。

 お金はなかった。働くだけの年齢に届いてはいなかったからだし、そうでもなくとも私みたいな役立たずを雇い入れようなんてやからは十中八九、私を労働者ではなく奴隷と見做すに決まっていた。私はヨルの吐きだした活きのよい生餌たちの衣服や持ち物から金目のものを奪って、インターネットに出品しては、そのお金で日々を生きた。この年齢では、ネットカフェやカプセルホテルに一人で泊まることもままならない。ヨルの食料となった者たちの住居を点々としながら私はヨルと共に旅をつづけた。

「そんな顔で見るなよヨル。しょうがないんだ。ひと一人いなくなれば探す人だってでてくる。さっき玄関口をガチャガチャうるさくしていった人間がいたろ。あれは警察。ここもきょう中に出ていかないと」

 私はヨルの頭を撫でながら、じぶんの痕跡を残さないように荷物をリュックにまとめる。「ちょうどいいじゃないかヨル。あすは新月だし、また新しい寝床に移るだけだ。こんどはどんなのがいいかな。なるべくわるいやつだとうれしいな。そうじゃなくてもヨルが食べたいのを食べればいいけど」

 ヨルはまばたきを一つすると、ちいさく鳴いた。

 家をでたあとはただひたすら南に向かって歩いた。南がどこかが判らなくなったときは、ひとまず元よりの駅を目指した。

 ときおり親切なひとが話しかけてくれたり、多くは、親切ではないひとが車にムリヤリ乗せようとしたりしたけれど、私がこうしてそとを出歩くのは決まって新月にちかい日であったから、おおむね何かひどいことをされそうになるころには、私に仇なす者たちは余すことなくヨルの胃のなかに骨ごとばりぼりと納まった。

「ねぇ、ヨル。いつでも食べてくれていいんだよ」

 子猫の姿に戻ったヨルの背中を私はさする。私にあげられるお礼なんて、私の貧相な身体くらいなものだった。

「おいしくなかったらごめんだけど」

 ヨルは背筋を伸ばし、ごろごろと喉を鳴らした。

 そのひとと出会ったのは私がヨルと旅をしはじめてから半年くらい経ったころのことだった。

「きみの連れているのは何だ」

 四十代ではないだろう、三十前半くらいの男が街中ですれ違いざまに声をかけてきた。両手に紙袋いっぱいの食料を抱え、その男は私からじりじりと離れる。「なぜきみはそんなもの連れて平然としていられるんだ、気づいていないのか」

「わかるの? このコがただのネコちゃんじゃないって」

「分かるもないもそれだけ血と肉の匂いをさせておいて」男は荷物を片手で支え、空いた腕で口元を覆うようにした。「いったい何人喰ったらそんなふうに」

「何かにおいますか」

 ヨルの胴体に鼻をくっつける。くんくんと鼻をすするが、いつもどおりヨルからは石けんのよい香りがするだけだ。

「煙みたいに立ちのぼってるよ。死が煙のように」男はもうほとんど背中を見せるような格好をとりながら、詩を詠むように言った。「それはここにいていいモノではないだろう、きみはじぶん以外がどうなってもいいとでも思っているのか」

 そんなことは考えたこともなかった。

 私は私以外がどうなってもいいと思っているのだろうか。

 考えてみるものの、私に分かるのはただ、私が思っている以上に、私は私に興味がないというただそれだけの真理だった。

「オレは何も見なかったことにする。このさき何があってもそれはけっしてオレのせいではない。協会には知らせない。ただ、そんな無防備にそんなモノを連れていてよくいままで無事でいられたと感心するよ。素直に運がいいとしか」

「キョウカイって? このコをこのまま連れて歩いているとよくないの」

 男は黙った。もうほとんどこの場から遁走する構えだったけれど、かろうじて彼は、

「もはやキミはとっくに有名人になっていておかしくはない。ソンナモノを連れて歩いているのだから、おそかれはやかれ、協会が動く。もういちどだけ念を押しておくが、オレは何も関与しない」

 逆恨みだけはしてくれるなよ。

 男は私たちのまえから野良猫のように去っていった。

「物騒だね」

 私はヨルを抱きあげ、その首筋に鼻を埋める。ヨルはかわいらしい声で鳴いた。

 その日の夜、私たちは駅のピロティにいた。深夜の駅は人通りがなく、ひっそりと静まり返っている。

 きょうは私に仇をなす者がおらず、新月の日であり、私はヨルに、好きなものをお食べ、と散歩してくるように促した。ヨルは子猫の姿のまま、タイルのうえに下りた。私の手から離れてもヨルは膨らむことなく、ちょこんとおわしている。

「どうしたの? お腹すいてない?」

 ヨルはこちらではなく、森閑とした駅のほうを向く。

 私はその場にしゃがみ、ヨルに身を寄せた。

 視線のさきには、街灯から垂れる影が、左右から中心に集まるように伸びている。それは船が海をすすむように、まっすぐとこちらのまえまでやってきては、十メートルほど離れた地点で、潜水艦が浮きあがるように立体化した。気づくと何人ものオトナたちが私たちを見下ろしている。性別はマチマチであり、いずれの人物も黒いスーツを着込んでいる。礼服というやつかもしれない。女性もネクタイをしており、お葬式の帰りのようだと行ったこともないのに連想した。

「コイツか」「そうらしいな」

 背の低い男が背の高い女に話しかける。女は前髪ぱっつんのおかっぱヘアで、鼻筋が通っており、眼光も鋭い。

「霊素の数値に変化はないですよ」ととなりの筋骨隆々とした男が発言するものの、「自在に操れるくらいの霊獣ってこったろ」

 おかっぱヘアの女がさいど受け答えした。

 彼女たちが言葉を応酬している合間に、ひぃふぅみぃ、と数える。六人いる。いや、見えないだけでもっといるのかもしれない。背後を振りかえると、そこは一面まっくろで、もういちどまえを向きなおすともはやここは駅前などではなく、単なる闇のなかだ。

 六人の黒スーツたちは、襟や袖と首筋、そして露出している顔だけが白く闇に浮きあがっている。手には黒い手袋がハメられているので、そちらは闇に溶けこんでいる。

 私はヨルを抱きしめる。ひょっとしたら縋りついているだけかもしれないけれど、ヨルはまだ子猫の姿のまま、目のまえの六人の男女をまっすぐと見据えている。

「ガキはどうするよ」

 これまで発言していなかった五人目の男が口にした。彼は仮面を手にしており、ゆっくりと顔にかぶせる。ネクタイが揺らぎ、彼は闇といっしょくたになる。ほかの男女もそれぞれ、仮面をかぶり、闇と仲良くなる。

 私とヨルだけが闇に取り残される。

「もう手遅れだ」誰が発言したのかもう分からない。「救えるなら救ってやりたかったがな」

 いたぶるなよ、と誰かが言い、嬢ちゃんオネムの時間だよ、とほかの誰かが続けた。

 ヨルが震える。ビビビ、と手がしびれたかと思うと、私はヨルの大きな尻尾の下敷きになっている。

 私はヨルの名を叫んだ。引き止めようとしたのか、それとも逃げようと提案するつもりだったのかは判らない。

 ヨルは私を尻尾ですっかり包みこむと、全身を針のように総毛立たせた。これまで見たことのない姿だった。私は尻尾につつまれているからそうしたヨルの姿は視えないはずなのに、なぜか視界だけはハッキリしていて、闇に馴染んだはずの六人のオトナたちを、その輪郭を目にすることができた。まるで大きなシャボン玉のなかにいるかのようだ。ヨルの尻尾は透明なカボチャの馬車となって私を宙に持ち上げる。

 ヨルの変化に相手方も気づいたようで、こちらを取り囲むように円形に散った。五角形を結ぶカタチで逃げ場を塞がれる。

 逃げ場がないよ、とヨルにささやく。それから遅れて、五角形ならもう一人は?と気づいた。

 ヨルは尻尾ごと私をお腹のしたに隠すようにして丸まった。アルマジロとかダンゴ虫とかそういう体勢だった。私はちょうどヨルの真ん中に仕舞われた。

 視界は澄んだままで、真上から落下してくる大きな大きな矢が見えた。ひょっとしたらそれは矢ではなく剣かもしれなかったけれど、ヨルにそれを避ける気がないことだけは私にも判った。

 ヨルの身体の表面はさきほどよりもずっとトゲトゲとしており、ヨルがさらに背を丸めるようにすると、トゲの先端が平らになり、こんどは身体の表面をぺったんこと覆い尽くした。ヘビの鱗のようだと私は思い、魚の鱗のようだとも思った。

 段違いに重なり合ったヨルのトゲは幾重もの層になっており、分厚く、そのうえに大きな大きな矢とも剣ともつかないナニカが直撃した。

 耳の奥で金属が鳴るような音が響いたけれどそれは幻聴で、じっさいにはカボチャやスイカを地面に叩きつけたら鳴りそうな、にぶく、湿った音が振動となって、ヨルの身体の表面を駆け抜けた。

 私は鐘のなかにいる気分で、その振動の根源を見上げた。

 大きな大きな矢とも剣ともつかないモノは、いまはもうひしゃげており、無事なのは腰から下までで、頭や肩や胴体部はトマトをこぶしで叩きつぶした具合に、びちゃー、となっている。頭部だけはかろうじてカタチを保っていて、腰の骨の部分にぴったりハマりこんでいる。元からそういう生き物じみていて、なんだか見入ってしまう。

 ヨルが背を起こす。ひしゃげた人体は転げ落ちた。

 ヨルが跳躍する。私は目が回り、周りをじょうずに見られない。

 ヨルの身体が目まぐるしく変わる。波打ったり、ぶよぶよしたり、尻尾を残して子猫の姿まで縮んだり。私をつつむ尻尾だけがさきほどの分厚い鱗に覆われている。ひょっとしたら尻尾をそうしているから、ヨルは自身の身体を防御できずに、たくさんのカタチをとりながら攻撃を避けているのかもしれなかった。

 そう、ヨルは攻撃されていた。一秒たりともじっとしていないのでどこからどのような攻撃をされているのかは見えないものの、私をつつむ尻尾にはなんども固い金属みたいな音や、大砲みたいな衝撃が伝わった。

 まるでヨルのほうで私を振り回し、地面に叩きつけているのではないか、と思ったほどで、でもそうでないことだけは見えなくとも判っていた。ただそれだけが私が確かだと言えるゆいいつだった。

 ヨルの動きはしだいにゆるやかになっていった。時間にして十分もかかっていないはずだ。かつて私が母の恋人から全身にアザをつくられたときに、私はじぶんの感じる時間の長さと、私のそとに流れている時間の長さがちがっていることに気づいていた。私の感じる時間のほうがいつだって長く、そして熱く苦しい時間であるから、それは損であり、だから私は外に流れる時間を正確にはかり、じぶんのものとする癖がついていた。

 ひとしきり跳ねたり、転がったり、回転したりしたヨルは、間もなく闇に灯る一つの炎と向き合っていた。私をつつむ尻尾に加わる衝撃や音は止んでおり、炎は丸く玉となって浮かんでいる。

 周りは闇一色であるからどれだけ離れているのかは分からない。ヨルはこれまでになく警戒している。ヨルの表情なんて見えなくとも私にはそれが手に取るように伝わった。

 火の玉は、高い温度と大きさがある。ヨルがそう判断している。

 炎の中心にはロウソクの芯のように人間が立っている。人間が燃えている、と感じないのはきっと、水に浮かんだ油が燃えるように炎が円の表面にのみ揺らいでいるからだ。

 炎の殻をまとったそれはゆっくりと足を踏みだした。一歩、二歩と助走をつけ、気づくと炎は青く色を変え、線となってこちらに突っこんでくる。

 ヨルの怯えと緊張が伝わる。

 私をつつんでいた尾がほつれ、私はぽーんと闇に投げだされる。体勢を立て直すころには、ヨルは身体全体を多重の装甲で覆っていた。私をつつみこんでいた尾と同じものだ。私には判った。ヨルには私を庇いながら立ち回れるだけの余力がない。全身全霊で迎え撃つほかに、目のまえに迫るわるい未来を拒絶する術をヨルは持たなかった。

 避ければいい。私はそう考えるけれど、私がそう考えることもヨルはとっくに思い至っていたし、迫りくる炎が、捨て身であることもヨルには判っていた。

 どちらでもよいのだ。

 ヨルが避ければ炎は私目がけて飛んでくるつもりであるらしいし、私を残してヨルと共に燃え尽きてしまってもよい。

 青く球体の炎は、中にいる人間の命を燃料に燃えている。ふつうの生き物ではないヨルにもその炎は通じるらしかった。

 ヨルは口を開けた。中身が裏返りそうなほどに大きく開いたヨルの身体は、なかの人間ごと炎を丸呑みにした。

 どうして、と私は息を呑む。

 せっかく身体の表面を分厚い装甲で覆ったのに。

 疑念はすぐに解けた。ふたたびヨルの口が固く閉じると、ただでさえ大きいヨルの身体がいっしゅんで風船のように膨らみ、縮んだ。爆発したのだ。あとには子猫の大きさまで縮んだナニカが、ぷすぷすと煤けていた。

 街灯の明かりが頭上から垂れており、私はふたたびひっそりと静まりかえった駅前に佇んでいる。

 私は黒いぷすぷすへと駆けより、触れてよいのかどうかも分からないままに、ただオロオロとした。

 私はヨルの名を呼んだ。黒いカタマリは動かない。ヨル、ヨル。いくど呼んでも私の声は夜風に運ばれ、ひびくことなく静寂の合間に吸われて消えた。

 こういうときは泣くべきなのだと頭では解かっているのに、思うように涙がにじまない。私は私がひどく虚しい存在に感じた。だから私の声は届かないのだと考え、こんな中身のないじぶんを庇って黒く煤けてしまったヨルを思い、もういちどこのコの感じたなにもかもをこの身体のぜんぶで触れたいと望んだ。

 頭がどこにあるのかも分からなくなったちいさな黒い塊に私は手のひらを重ねる。触れるか触れないかといったあいまいな力加減で撫でつけるようにしていると、風の音の合間を縫って、

「遅かったか」

 聞き覚えのある声が届いた。「その様子だと協会の連中もタダじゃ済まなかったらしいな。おまえはだいじょうぶか」

 見上げると、私をすっぽり覆う影の主は、昼間に街で話しかけてきた男だった。「そんな目で見るなよ。オレが通報したわけじゃないからな」

 何の用だろうと考える。

 よくない考えばかりが巡った。私の全身にアザをつくることが好きだった母の恋人を思いだし、ここにはもう私を庇ってくれるものはいないのだと思ったら、急に視界がゆがみだす。

 手のひらがひくひくと痙攣する。

 私の震えかもしれないし、そうではないのかもしれなかった。

「行くアテとかあるのか。や、言わなくてもいい。どの道、しばらく隠れて生きていくしかないぞ。協会が本腰で動く。そんな高位の霊獣を手懐けていたくらいだ、おまえだってタダじゃ済まない。言っている意味、解るか」

 昼間はあれだけ怯えていた男が、いまはこうして一方的に捲し立ててくる。

「どうして構うの」

 まずはそれだけ知りたかった。本当は知らなくてもよかったけれど、ほかに投げかける言葉を思いつかず、かといって黙っていては警戒されるかもしれないと思い、「放っておけばよいのに」と付け足した。

「放っておけばまた同じ悲劇の繰り返しだ。協会におまえを引き渡してもいいが、何をされるのか判っていてみすみすおまえみたいなガキをオモチャにさせたくない」

「そっか。おニィさん、いいひとなんだ」

「いいひとではねぇよ」

 私の手のひらのなかでは黒い毛並がふさふさと蠢く。一本、一本の毛がそれぞれに意思を持つ生き物のようだ。ゆびとゆびのあいだから白くてまんまるい目が覗く。

 宝石みたいだと私は思う。私だけの宝石みたい。

「きょうはまだなんだ」

「あ?」

「お腹すいちゃったよね」

「ったくこれだからガキは」

 頭をぼりぼりと掻くと男はやわらかい笑みを私へ向けた。

 私の手から離れた黒いカタマリは、男の笑みが引きつる前に、食虫植物みたいに開いた大きな口で、ばっくん、と男の上半身を噛みちぎった。

 下半身から内容物が零れ落ちる。

 うねうねのぷるぷるが地面に落ちてしまうよりさきにヨルはもういちど口を開け、残された下半身ごと丸呑みにした。

 ちいさくゲップをすると私のところまでトコトコと歩み寄ってくる。子猫の姿ではあるけれど、まだ消化しきれていないらしく、シカを丸呑みにしたアナコンダみたいに、いま食べたばかりの餌を引きずっている。

「ヨル、ごっくん」

 私の声を合図にして、ヨルは身体を波打たす。

 鳥の群れがそらを舞う。まだ見えない陽を浴びてキラキラと夜の帳に光の筋を描きだす。





【すこし思い過ごし濃いコーヒー】(ファンタジー)


 インスタントコーヒーを飲んでいたら、テーブル上の小瓶がカタコトと揺れだした。コーヒーの粉末が半分ほど入っているだけなのだが、目を凝らしてみると、もぞもぞと蠢いている。もぐらが土から顔をだす間際を彷彿とさせる。

 小瓶を手に取り、砂時計よろしく、さかさまにしたり、横に倒したりして、蓋を開けることなく中身を探る。

 何かいる。

 目を瞠ったつぎの瞬間、手に大きな力が加わり、小瓶を落としてしまった。小瓶のなかに潜んでいたものが激しく身じろいだらしかった。

 床一面にコーヒー粉末が散らばるが、そこに何かしらの姿は確認できなかった。

 小瓶を手放してしまう間際、褐色の粉末を波のように舞いあげる、ちいさくも大きな尾びれを目にしていた。しかし、いちど冷静になると、思い過ごしであるかのような気がし、床を掃除し終えるころにはもう、小瓶がかってに動いたことすら、じぶんの描いた妄想にしか思えなかった。

 席に戻り、一息つく。

 すっかり冷めたコーヒーを口に含むと、のけぞるほど苦かった。粉末を入れすぎた憶えはない。

 粉末のほうでかってにカップに飛びこまないかぎりは自動的に味が濃くなる事態はあり得ないので、きっとこれも疲労からくる思い過ごしだ。

 苦いのカタマリは気つけ代わりに飲み干した。

 ちゃぷん。

 胃のなかで何かが跳ねた気がしたが、きっとこれも思い過ごしに違いない。




【おじさんと妖精】(ファンタジー)


 薄汚い人形を拾った。

 下の階のガキンチョのオモチャだろう。洗って返してやれば、美人の母親からすこしは感謝されるかもしれない。中年の独身だからといって、会うたびに警戒されていてはいい迷惑だ。

 風呂に入りながら、人形を洗った。さいきんのオモチャはよくできている。感触といい、精巧さといい、リアルすぎて、気色わるいくらいだ。

 安くはなさそうな代物だ。盗んだと思われるのは癪だので、きょうのうちに返してしまおう。つよくゆびでこするようにすると、

「い、いたい」

 人形がしゃべった。否、そういった機能がついているのだ。なかなかよくできている。

 股間はどうなっているのか、とゲスな興味が湧いた。

 服を脱がせようと、爪を立てると、

「や、めて」

 また人形が声を発した。さらには手で、衣服を掴んでいる。懸命に脱がされまいと抗っているのだ。

 ぎょっとして手を離してしまう。湯船に沈んだそれは、しばらくすると浮きあがり、カエルのような動きで、じつに滑らかに泳ぐと、風呂のふちを這いあがり、

「やめてよ、殺す気」

 肩で息を吐く。つづけて、こちらを睨みつけるようにした。

「おまえ、生きてんのか」

「見てわかんないの、妖精でしょうが、どう見たってさあ」

 ケホケホ、と苦しそうだ。

 湯船からあがり、タオルを持ってくる。「風邪ひくぞ。ほれ」

 すこし迷ってから妖精は、運んで、と言ってタオルのうえに乗っかった。

 身体を拭き、服を着て、リビングで向きあう。

 妖精は食卓のうえで、湯豆腐を頬張っている。食べても、食べても減りはしない。むかしちいさいころによく考えた。小人になればどんなご馳走も食べ放題だ。湯豆腐がチーズケーキだったら言うことがない。

「妖精っているんだな、びっくりしたよ」

「すんなり受け入れてもらって感謝だよ、なかなかいないんだよ、そういうひと」

「そうなのか」

「まあ、気持ちわるがって、逃げちゃうよね。小さくてすばしっこいってだけで、なんか気味わるがられんの。なんでだろ?」

「ああ」

 例の黒い昆虫の弊害だ。「なんで倒れてたんだ」

「わたし? やー、きのう食べたのがよくなかったのかも」

「食中毒かよ」

「や、考えてもみてよ、これだってわたしらからしたら、毒だよ、毒」

 妖精は小皿のしたのほうに溜まった醤油を示し、

「大きさが違うんだから、ちょっと食べるとこ間違うだけで、死んじゃう、死んじゃう」

 あっけらかんと言うものだから、いまいち緊張感が伝わらない。

「まあ、気をつけろよな」

「おじさんいいひとそうだよねー。でもモテないんでしょ?」

「わかるのか」

「なんとなくね」

 失礼なことを言われているはずなのに、妙な心地よさがあった。身体がちいさい分、吐く毒も致死量に満たないのかもしれない。

「これからどうするんだ、行くとこあるなら連れてくぞ」

「いいの?」

「ああ、そんかし妖精の生活ってやつをもうすこし聞かせてくれ」

「おやすい御用だ」

 根がおしゃべりなのか、妖精は朝までしゃべり明かした。

「わるい、一眠りさせてくれ。出掛けるのはそれからでいいか」

「いいよ、いいよ」

 衝撃的な体験をしたからか、妙に眠たかった。ふだんならば徹夜くらいは平気なのだが。

「おまえらはいいよなぁ」

 枕にあたまを乗せ、漂う匂いが妖精にとって悪臭でないことを祈りながら、

「なれるならなってみてぇよ。妖精ってやつによ」

 聞かされた妖精たちの私生活を思い、うらやましさが口を衝く。「まあ、ちっこいのはそれはそれでたいへんそうだけどな」

「そうでもないよ」

 意識が飛ぶ間際、妖精の弾むような声音を聞いた気がした。

 目が覚めてから状況を把握するのに時間はそうかからなかった。

 目のまえにきょだいな人体が横たわっている。見慣れた服に、脂ぎった頭部、極めつけはまぶたを閉じたときにだけ見えるホクロだ。

「おいおいおい、こりゃあ、おれじゃねぇか」

「おはよう、おじさん」

「おま!」

 振り返ると、そこには等身大の妖精がいた。いや、こちらが縮んだからそう見えるだけだ。

 しかし、目のまえにあるこの巨体は誰なのか。

「おじさんだよ、どっちもね」

「はぁ?」

「まあそっちのはもう活動してないから、抜け殻みたいなものだけど」

「分かんねぇぞちっとも。知ってることあんなら教えてくれ」

「だからこうしてしゃべってんじゃん」

 妖精は膨れる。

 こうして見てみると、なかなか背が高い。戦っても勝てる気がしない。

「妖精になりたいって言ってたでしょ、おじさん。だから」

「説明になってねぇぞ」

「そう? でもよかったじゃん、なれて」

「何に」

「妖精。ようこそ、ウェルカムトゥ、我ら」

「妖精になったのか? おれが? じゃあこっちのは」

「だから抜け殻だってば。妖精ってほら、死神みたいなもんだから」

「はぁ?」

「おじさん、どっちにしてもきょう死ぬはずだったの。で、ふだんならわたしたちがおじさんみたいな人たちの精魂を食べちゃうんだけど、おじさんはほら、わたしのこと助けてくれたし。なんかわたし気に入っちゃったから」

「気に入っちゃったって、おまえ」

「いいじゃん、いいじゃん。命拾いしたと思ってさ」

「じゃあ何か、おまえがいなけりゃおれはこのまま死んでたってことかよ」

「たぶんわたしじゃない誰かに食べられちゃってたんじゃない?」

「そう言やおまえ、きのう、食中毒みたいなこと言ってたな。あれって」

「そう。きのう食べた精魂が外れでさぁ。たまにあるんだよねぇ、腐りきった精魂。その点、おじさんのはきっとすっごい美味しかったと思うよ。惜しいことしたなぁ」

 妖精はうれしそうにそう零す。「ま、これからしばらく面倒看てあげるからさ。嫌じゃなきゃわたしのお婿さんになってくれてもいいよ」

「お婿さんっておまえ」

「さっきも言ったけど、おじさんのこと気に入っちゃったからさ」

「んなこと言われてもな」

 いまいちど、巨体を見上げる。すでに冷たくなりはじめている身体からは、妙に美味そうな匂いが漂っている。死臭とはまた違った匂いだ。どこか視覚的に、モヤがかってもいる。

「視える? あれが精魂。おじさんの命の残滓」

「何とりこぼしてくれてんだよ」

「わたしのせいじゃないよ。妖精になるのは核の部分だけだから」

 いちばんおいしいのもそこなんだけどねぇ。

 妖精は舌なめずりをするように、こちらの全身を、それは遺体ではなく、妖精になったこちらの身体という意味だが、舐めるように見回した。

「てことは何か。きょうからおれも死体を喰らえってことかよ」

「精魂ね。ま、ふつうの食べ物も食べるだけならできるけど」

「それだけじゃダメなのか」

「生きながらえるって意味じゃ、不足だね」

 吸血鬼にでも噛まれた気分だ。そう零すと、妖精は、言い得て妙だねさすがおじさん、とヨイショした。

「ほかのお仲間には会えるのか」

「のちのちね」

「言葉を濁すな。会うと何かマズいことでも」

「その前に、もったいないから」

 妖精は背中の羽を展開し、ぱたぱたと舞いあがる。こちらの遺体から立ちのぼる精魂を、綿あめのように、棒状の何かに撒きつけて、大きな口で頬張った。「サイコー。おじさんも食べなよ」

「やなこった」

 幼いころに夢見たはずの、チーズケーキ食べ放題が叶うかもしれないとなっても、まったくうれしく思えない。妖精の娘は相も変わらず、ぱくぱくとこちらの命の残滓を食らいつづける。

「んまい、んまい」

 死神みたいなものとは言ったものだ。みたいな、どころか、これでは死を貪る、大喰らいではないか。

 死神のほうがまだ可愛げがある。

「いじけてないで食べておきなよ。じぶんので慣れておかないと、人のはなかなか食べれないよ」

 そうやって意地張って消えてくコも多いんだ。

 こわいことをさらっと言って、妖精は大きなゲップを一つする。「失礼」

 どの道死んでいた運命とはいえ、過去に戻れるのならばぜひともじぶんに忠告したい。

 人形なんて拾うもんじゃない。  




【老婆とクロ】(ファンタジー)


 庭に大きな殻が落ちている。卵の殻だ。誰かが投げ捨てていったのかもしれない。

 不届き千万だ。あたしは門番だ。

 チヨは、さいきんハマっている若者の音楽を聴きよう聴き真似で口ずさみ、その大きな卵の殻をチリトリに押しこんだ。ついでに玄関先に立ち、道を掃く。

 さいきんの若いのは家のまえの掃除をしない。

 嘆かわしいとは思うが、それもまた時代なのだろう。

 道具を仕舞い、家のなかに入ると、なにやら屋根裏から物音がする。

 ネズミだろうか。

 否、この季節はスズメが巣をつくり、卵を産んでいる。ヒナが孵ったのかもしれない。

 思ったところで、庭にあった卵の殻のことを思いだし、ひょっとするとあれの主ではないかしら、と想像を逞しくする。本気でそう思ったわけではない。そうだったらおもしろいな、と思っただけだ。

 気にせず夕飯の支度をする。

 すこし前までは老人向けのデリバリィを頼んでいたが、値が張る割に口に合わず、先月で契約を切っていた。とはいえ、自力でつくるのも骨が折れる。スーパーの御惣菜や、お湯で温めるだけのインスタント食品がほとんどだ。量が多く、残すことがひんぱんにある。

 こんなときに、ペットか何かがいれば残飯の処理に困らないのに。

 そんな理由で飼ったりはしないが、ときおりふと、何かにつけ理由を探しては、ペットを求めるうちなる声に説得力を持たせようとするじぶんを認識する。

 歳をとったのだ。

 否、歳は関係なかろう、そうじゃろう。

 もうすこし若ければラップというものを歌えたかもしれない。

 食事に、風呂に、映画鑑賞をする合間にも、屋根裏部屋の物音はやまなかった。

 あすもひどいようだったら、業者に頼もう。

 忘れぬように念じながら布団のなかで船を漕ぐ。

 うつらうつらしていると、ふいに胸が苦しくなった。

 何かが乗っている。

 金縛りだろうか、それにしては何か妙だ。

 身体は動かせそうだ。寝返りを打つと、布団の傾きに抗うように、圧し掛かっていたそれは、パタパタと妙な音を響かせながら、カシカシと振り落とされぬように布団を噛む。

 否、噛んでいるわけではなさそうだ。

 ちいさな手で掴んでいる、否、これは足か。

 かぎ爪のようなものが暗がりのなかで、その鋭さを示すように、光沢を浮かべた。

 明かりを灯す。

 目のまえには、ニワトリ大の黒い物体が、つぶらな瞳をこちらに向けている。小首をかしげる姿は愛嬌がある。

「なんじゃ、なんじゃ」

 声を出すと、驚いたのか、それはつばさを広げ、威嚇した。

 大きい。

 しばらくじっとしているとつばさを畳み、それはまたニワトリのようなかっこうで、ちょこんと布団のうえで、首を右に、左に、傾げるのだった。

「鳥、ではないのか?」

 それの表皮はいずれも、漆黒の鱗で覆われている。

 その日からチヨとその謎の黒い生き物との共同生活がはじまった。

 朝はそれの体重を感じ目覚め、残飯の処理に困ることはなくなり、屋根裏のスズメやネズミはいつの間にか姿を消している。

 つばさはあるが、羽ばたくことはなく、飛ぶ前兆も見当たらない。

 図鑑を眺めてみるが、それらしい鳥はなかった。タカに似ているが、首はもっと長く、全体的にスマートだ。

 ぺたりとゆかに伏せて寝る姿はどこかトカゲのようでいて、立ち姿はやはりニワトリと重なる。

「まあ、ええ」

 くるときがくれば、おのずからいなくなるだろう。

 そう思い、過ごすうちに、一年が経ち、二年が経ち、気づくとクロは犬ほどの大きさにまで育っている。

 クロとはチヨがそれにつけた名だ。

 食べる量がすくないのがさいわいだ。餌は残飯であるから、食費以上の出費はない。

 ときおり庭にでたがるので、だしてやるが、いつも決まって月のない夜だ。黒い身体が闇にまぎれ、吠えることもないため、いまのところ人目につかずにいる。

 人の目を気にしているわけではなかった。ただ、ふつうの生き物ではないことくらいは解かっていた。

 騒がれるのも面倒なので、チヨがじぶんから人を呼びつけて、調べさせるといったことはしなかった。

 おとなしいのだ。

 そこらの犬ころよりもよほどクロは躾がなっていた。利口なのだろう。いちどチヨが風邪で臥せったときには、箪笥から薬を咥えてきては、飲め飲め、とでも言うかのように押しつけてきたことがあった。胃腸薬ではあったが、以前お腹がゆるくなったときにそれを呑んで元気になったことを、クロは憶えているようだった。

 夜にはいっしょになって、映画を観た。言葉が解かるはずもないのに、どうしてだかクロを見ていると、人間の言葉を介しているように錯覚してしまうのだった。

「クロ、おまえにはおまえのいくべきところがあるんだろうね。でもね、そのときがくるまでは、いつまでだっていてくれていいんだからね」

 チヨは寝床で唱える。

 クロは物音ひとつ立てずに寄ってくると、そのままチヨの足元で丸まった。

 まだここにいるよ。

 そう言っているのかのようだった。

 ある日、チヨは朝から具合がわるかった。数日前から調子がわるく、病院に行こうかとも思っていたが、連日の猛暑のために外出を控えていた。

 ひとを呼んだほうがいいかもしれない。

 思ったが、クロのことを思うと、どうしても親族に助けを求めることができなかった。きっと危ないだのなんだのといって、野犬のように扱われてしまうに決まっていた。

 そうこうしているうちに、耐えられないくらいに体調が崩れてしまった。

 ベッドのうえから動けなくなってしまったのだ。

 いよいよ医者を呼びつけなければならない。

 救急車は何番だったか。

 朦朧とした意識で電話をかけようと思うものの、手先が震えてうまくいかない。音声に反応する機械も家にはあったが、クロと過ごすうちに、電源を切ったままにしていた。

 クロがいくども起こしにくるが、身体は言うことをきかない。

 食事の時間もとっくにすぎている。

 トイレにも立てず、このまま汚物にまみれ死んでいくのか。

 思うと涙がでた。

 クロがいてくれてよかった。

 そう思った。

 惨めではあるが、さびしくはない。

 有終の美としては申し分ない最期だ。

 そとの空気が吸いたかった。

 ここではない景色が見たかった。

 いずれもいまのチヨにはですぎた願望だ。

 目を閉じる。

 漠然とした虚しさを感じた。

 いまこうしているあいだにも笑いあっている人々がいる。世の未来ある人々を憎く思う気持ちが湧くいっぽうで、よい人生だったと清々しく思えるじぶんもいる。

 どうせならば、穏やかに、清らかに逝きたい。

 クロ、クロ。

 声なき声で呼ぶ。

 きっとクロならばきてくれるだろう、そう信じた。

 しかしいつまで経っても身体に重みは加わらない。

 頬にそよぐ空気の流れを感じる。

 心地よい。

 窓がどこか開いている。

 クロ、クロ。

 念じながらチヨは暗黒のもやの底へと沈んでいく。

 目覚めると、看護師らしき男性と目が合った。すぐに医師がやってきて、こちらの名を呼びながら、眩しい光を向けてくる。

 騒がしい。

 聞こえている。

 すこし黙っていてくれないか。

 煩わしさを覚えながら、安らぎを求め、ふたたびの暗がりへと落ちていく。

 つぎに目を覚ましたとき、チヨのまえには息子の顔があった。

「母さん、よかった」

 息子は語った。

 医師から連絡があり、いそぎ駆けつけたとのことだ。病院には、救急車で運ばれた。チヨを発見したのは、警察官だった。そして世間ではいま、チヨの家へと向かって羽ばたく未確認生物の映像の話題で持ちきりである旨を、チヨは、何度も聞き返しながら、咀嚼した。

 何度聞いても、クロが助けを呼びにいってくれたとしか思えなかった。

「その生き物はどこに」チヨは訊いた。

「だいじょうぶ、捕まったよ」

 息子は言った。「いまは専門家たちを呼んで、調べてるみたいだ。それにしても運がいいよ母さんは」

 あんなものに襲われたらひとたまりもないよ。

 息子の顔は醜く歪んで見えた。

 息子がわるいわけではない。解ってはいるが、いまはそばにいてほしくはなかった。

 疲れた、と言って目をつむり、それから夜になるまでずっと眠っていた。

 意識は夢のなかで覚醒していた。

 クロのことを考えていた。

 珍しい生き物だ。捕まってもすぐに殺されたりはしないはずだ。クロはおとなしいから、抵抗することもなかっただろう。専門家たちはやさしく扱ってくれているだろうか。ひょっとしたら、こちらに何か訊きにくるかもしれない。事情を話せば、クロに会わせてくれるだろうか。逃げないと判れば、狭苦しい檻に入れられることもなくなるのではないか。

 都合のよい願望ばかりが浮かんでは、消えていく。

 老いさきいくばくかの女にできることは限られる。

 事情を説明したところで、なぜ黙っていた、と責められるだけだ。容易に想像がつく。否、想像はしてきたのだ。

 だから黙っていた。

 狭苦しい家のなかで、ときおり庭にでるだけの生活をクロに強いた。そとの世界の広さを敢えて教えずに日々を過ごした。

 クロと別れたくなかったからだ。

 手放しがたかった。

 さびしかったのかもしれない。

 しかし突き詰めてみれば、人間の行動原理の大半は、それに自覚的か否かの違いがあるだけで、みなさびしさを埋めることにあるのではないか。

 チヨはそこで考えるのをやめた。

 無駄だからだ。

 身体が動かせない。

 病院からでることも、おそらくこのさき、ないだろう。じぶんはここで死ぬ。だからといって、諦めようとは思わない。

 クロは生きている。

 人間と同じように、自由を得る権利があるはずだ。

 賢いのだ。

 それもある。

 よしんば賢くなくとも、クロはただただ、かけがえのない家族だった。

 誰よりも、チヨのそばに、日々、寄り添っていた。

 そこにクロの意思はあったように思う。

 そうしたいからそうしていた。

 親しみを込めてくれていた。

 得手勝手な思いこみだ。それでもいい。いずれ愛など思いこみではないか。血の繋がった家族ですらそうであるのと同じように。

 病院から連絡があるまで、何年もろくすっぽ顔も見せずにいた息子を思えば、そこに愛を見出すよりよほど、クロとのこの数年間は愛に満ちていた。

 あれが愛か。

 思うと夜だというのに、人知れず笑みがこぼれる。

 得難き出会いであった。

 なればこそ、クロにとって、それを破滅で終わらせたくはない。

 憶えていてほしい。

 チヨという、ひとりの老いぼれがいたことを。

 おまえがそれを生かしていたことを。

 クロの姿を思い浮かべる。

 漆黒の鱗を。

 つぶらな瞳を。

 大きなつばさをひるがえし、大空を舞う姿をこの目に、いちど映したかった。

 目を開ける。

 カーテンが揺れている。窓は開いていないはずだ。

 今宵は月がない。

 分厚い曇天から驟雨の降りしきる音がする。

 耳の奥に張りつく薄膜のようなそれの静けさの合間を縫うように、何かの大気を打ち叩く音がする。

 ばさり、ばさり。

 ガラスの揺れる音がする。風のあたる音がする。

 大きなつばさの影がある。

 チヨは動かせぬ身体を無視し、ただ、唱える。

「いきなさい」

 聞こえたわけではないのだろう。否、聞こえたのかもしれない。

 影はいちど壁から離れ、大きく旋回し、しばらくすると風の音と共に、遠ざかっていく。

 イルカの鳴き声にも似た、高い音色が、驟雨の気配をいっとき、世界から一掃する。

「いきなさい」

 目を閉じる。

 頬に伝うあたたかい線を感じながらチヨは、庭で拾った卵の殻を思いだしている。




【彼女の愛に溺れて夢を視る】(ファンタジー)


 乖離性疑似相貌症を患ってぼくは産まれた。世界に一人しか確認されていない奇病で、生まれたときからぼくはぼくの顔だけを認識できなかった。

 具体的には、醜いバケモノの顔をしている。顔だけでなく、体つきも肉食獣みたいで、やさしく撫でただけで人間の皮膚などたちまち破けてしまいそうなほど凶暴だ。

 もちろん、ぼくにそう視えているだけであり、ほかのひとたち、それこそ母や父や妹たちからは、ぼくは大多数のひとたちと似た姿カタチとして認識されている。

 ぼくからしてみれば、バケモノじみた姿がぼくなのだから、それを醜いだなんて感じたことはないのだけれど、でも多くのひとたちからすれば、ぼくの目にしているぼくの姿はきっと醜く、歪んで映るのだ。

「お兄はねぇ、こんな顔だよ」

 妹はぼくの似顔絵を描くことが好きだった。幼いころに与えられた役目を、高校生に長じてまでけなげに継続してくれており、それが高じてか、絵の腕前はピカイチだ。

 ぼくはぼくの顔を正常に認識できない。それは鏡に映る像だけでなく、写真や動画でも同じだった。

 例外は絵だった。

 ある程度デフォルメされた絵だと、ぼくはじぶんの顔の特徴を、みなと同じように捉えることができる。

「なかなか美形だな」

「自画自賛してる」

「おまえの絵がうますぎるんじゃないか。気を利かせてわざとかっこよく描いてるとか」

「そんなサービス今さらする?」

 妹の絵はすべてとってある。彼女の描く絵のぼくはいずれも、控えめに言ってかっこよかった。

「お兄、学校じゃモテてたらしいじゃん。ケンケンがお兄によろしくってさ」

「あの先生まだいたのか」

「うちの学校でバレンタイン禁止になったの、お兄のせいらしいじゃん。そうそう、その話聞かせてよ」

 妹は何かとぼくにちょっかいをだす。世話を焼いたり、あべこべに構うように要求してきたりする。ぼくには兄としての威厳がなく、それは病気のせいかもしれないけれど、妹との関係においてはそれがよい方向に働いているのかもしれない。ぼくにとって解離性疑似相貌症は直す必要性を感じない短所にすらならない特典みたいなものだった。

 珍しいからといって病院からは無料で診察を受けられたし、家族も、それ以外のひとたちもみんなぼくをことさらだいじにしてくれる。

 解離性疑似相貌症だと診断されたときのことはあまりよく憶えていない。鏡のまえでじぶんの顔をいじくりまわし、ことあるごとに母や父へ、なぜぼくの顔はみんなと違うのかと聞いて回ったおかげで、ぼくはめでたく、神様からの特典を得ることとなった。

 いまでも、ぼくが鏡を見詰めていると、それはあなたの顔ではないからね、と母や父は擦りこむように口にした。

 べつだん、ぼくが見ているぼくの顔を、ぼくがぼくとして見做しても何か不都合が起きるわけではない。だから母や父がそうして口酸っぱくなるときがぼくは苦手だった。

 ただ、成長していくにつれて、たしかにこれは厄介かもしれない、と思うことが増えてきた。

 たとえば、ぼくは肉食獣みたいな体つきをしているようにぼくには視えているから、そのつもりで運動するけれど、本当のぼくはどちらかと言えば、細見の身体であるらしく、着地できると思って高い場所からジャンプしたり、当たればタダでは済まないような重いものを受け止めようとしてしまったりと、一口に言えば、怪我が絶えない。

 目に見える怪我ばかりではない。

 ぼくはぼくの本当の姿かたちに馴染みがないために、心と身体のバランスが崩れはじめていた。

 思春期に入ってから、それは顕著で、ぼくはぼくが意識するよりもずっと横暴で、乱暴で、他人を見下すような態度を平気でとっていたらしい。

 真実、バケモノじみた外見だったなら、他者を威圧できたかもしれないけれども、本当のぼくは細見の、どちらかと言えば男子よりも女子に寄った外見をしていたらしいので、結果として、周囲からこっぴどく嫌われ、いじめられ、己の卑小さをむざむざとこの身に刻みこまれた。

 ぼくはぼくが思っているよりもずっと弱くてつまらない、とるに足りない存在だった。

 自己認識が実像とかけ離れていると心に怪我を負う。

 母や父の、口酸っぱい掛け声がなければもっとひどいことになっていたはずだ。母や父の掛け声のありがたさ、そして意味を知ったことでぼくは、ようやくというべきか、素直に解離性疑似相貌症と向き合うことができた。

 思春期から大学生になるまでのあいだで、いちおうの矯正が完了したのは不幸中のさいわいと呼べた。母と父、なにより妹の存在が大きかった。

 ぼくはぼくの姿を、ぼくの目に映る虚像ではなく、みなと共有しあえる実像として再認識した。鏡やガラスに映るじぶんの虚像を目にするたびに、母や父の言葉を思いだし、そして率先して妹の描いてくれた絵を目にする。

 いまでは目をつむっても、まぶたの裏に浮かぶのは醜いバケモノの顔ではなく、みながぼくに教えこんでくれた実像だ。

 本当を言えば、鏡を見るたびにほっとするじぶんがまだここにいる。みなが本当のぼくだというほうがウソで、ぼくが目にしている鏡の向こうにいるぼくこそが本物なのではないか、と思うことも未だにあるけれど、この妄念を振り払わないかぎり、またいつぞやの心の傷を負うはめになる。

 ぼくはただの人間で、解離性疑似相貌症は病気なのだ。つまり、日常生活を送るうえで障害になる認知の異常がぼくにはある。

 認めなければならない。ぼくは病人で、みなと同じようには生きられない。

 ただ、みなと共に生きることはできるのだ。

 みながそれを認めてくれるし、望んでくれる。なにより手を差し伸べ、こっちだよ、と引っ張ってくれる。

 しょうじきなことを言えば、ある時期、ぼくは疑心暗鬼に陥っていた。

 ぼくは真実バケモノで、それをみなが隠しているのではないのかと。

 嘘を吹きこみ、おまえは人間だと擦りこんで、ぼくを使って壮大な実験を繰り広げているみなを想像し、ぼくは誰の言葉も信じられなくなった。

 母も父も妹ですら研究のための人材で、みんなはただ、世にも珍しい意思疎通のできるバケモノを飼っているだけなのではないかと、そうした妄想にとり憑かれ、ぼくはいっとき、じぶんの殻に閉じこもった。

 あなたは本当はまっとうだ、と言われつづける日々に疲れてしまった。言われれば言われるほどに、ぼくはまっとうではないのだ、との思いが深まっていく。

 まっとうでないぼくが本当で、みなの言う真実とやらこそが間違っている。間違っているから声を荒らげてぼくにまっとうだと信じこませようとしている。

 いちどそう思いこんでしまうと、ぼくを包む殻は分厚さを増していくよりほかがなかった。

 そんな殻を破ってくれたのは、母でも父でも、妹でもなかった。彼女は、いちど付き合ってそれから別れたぼくの元恋人だった。

「おら、出掛けるぞ怠け者」

 部屋に突入してくるなり、寝間着のままのぼくを連れだし、彼女は真冬の海へと車を転がした。

「免許とったんだ」

「おまえが怠けてるあいだにな」

「とりたいって言ってたもんな」

「おまえは怠けたいとは言ってなかったはずだけどな」

「すごいなぁ」

「おまえはちっともすごくないけどな」

 彼女の皮肉は、延々とつづいた。ぼくがしゃべれば、彼女は容赦なくぼくを虚仮にした。それはあたかも、おまえの思うとおりだよ、と言われているように感じた。

 おまえはまっとうじゃないのだ、と。

 そのままじゃダメだ、わたしが許さん、と恫喝するかのごとく、彼女の吐く毒の、一つ、一つがぼくの殻を打ち砕いた。

 あとで聞いたところによれば妹の入れ知恵だったらしい。母や父はそっとしておきなさい、とぼくの自然な自立を期待していたようだが、妹はそれほどぼくの底力を信じてはいなかったようで、引きこもりの兄をどうにか、じぶんの好きに生きられる引きこもりにしようと、画策した。すなわち、ぼくのもっともあたまの上がらない相手、元恋人の彼女のちからを借りた。

「引きこもりになりたいならそれでよかったんだよ」妹は、この春産まれたばかりのぼくの子どもを抱っこしながら、口笛を吹く合間にそんなことを言った。「でもあのときのお兄は、なりたいものがない、したいこともない、生きたくもない、そんな感じだった。引きこもりたくもないのに引きこもってたら、そりゃ心配もするでしょ」

 妻となったぼくの元恋人が風呂からコーヒーを持ってやってくる。「いい妹を持って、あたしゃしあわせだわ」

「よい旦那じゃなくてわるかったね」

「自覚してるならよしとしよう。ついでに反省もしてくれると助かるんだけどな」

「善処します」

 未だに彼女たちにはあたまが上がらない。

 夜、夜泣きした我が子を寝かせつけてから、ベッドに戻ると、妻が、ねぇ、と声をかけてきた。

「ごめん、起こしちゃった」

「ううん。ちがくて。だいじょうぶだった?」

「お腹が空いてただけみたい。ミルクをあげたら泣きやんだよ。いまはもうぐっすり。当分起きそうにないから、寝てていいよ」

「ありがと。でもそうじゃなくて」

「ん?」

「さいきんのきみ、なんかときどき、消えちゃいそうに儚げだから」 

 儚げなときがあるから、と彼女は言い換え、枕元の明かりを灯した。「お義母さんにも言われてて。ときどきでいいから、あのコの視えているあのコ自身を否定してあげてって。あのコの病気は治るようなものではないからって。でも、なんだかそれってあなたにとってのたいせつな何かを否定するようで、それで、あたし」

「なかなかできなかった?」

 彼女はしずかに顎を引く。

 たしかにこの家に引っ越してから、誰かに口酸っぱく言われる機会は減った。鏡のまえに立つ時間も増えたかもしれない。誰にも何も言われないから、ぼくはぼく自身のぼくを堪能することに引け目を感じなくなっていた。

 言われて気づいた。

 病気が進行している。

「きみの病気の怖いところはさ」妻は上半身を起こし、ぼくの手を握る。「症状の悪化がはた目には分かりづらいこと。だからわたし、心配で」

「だいじょうぶだよ」

 安心させたくて言った言葉ではなかった。

 真実、ぼくはもう病気を克服した。

 父親になったからだ。

 否、父親にならなくてはならいからだ。ぼくはもう、ぼくという一つの個ではなく、我が子から見た父親であり、妻から見たよき夫でなくてはならなかった。ぼくがぼくをどう視るか、そんなことはどうだってよい些末な事項になりさがった。

「否定してくれなくてもいいんだ。鏡のなかのぼくはたしかにぼくにとってはぼくであるけれど、それはどうあってもぼくではない。あれはバケモノだ。みんなの言うように、ぼくはここに、きみたちの瞳のなかにこそいる。ただ、ときにはスーパーマンになった妄想だってする。単なるぼくも人間だからね。ただ、みんなとは違ってぼくには簡単に妄想に浸れるアイテムがある。ただそれだけのことなんだ」

「鏡を覗くのが趣味?」

「娯楽だよ。きみだってむかし、デジタル加工してじぶんの顔をうつくしく盛っていたじゃないか。あれと変わらない」

「わたしはもとからうつくしいんですけど」

 膨れる妻を抱き寄せる。

「子ども、もう一人つくちゃおっか」

「ハンバーグつくるみたいに言わないでくれない?」

 ぼくは彼女の白く、しなやかな肌に触れ、そこから生える無数の触手に身を預ける。ぼくにはぼく自身から生えているはずの触手を実感することはできないけれど、彼女の触手と、しきりに愛液を噴きだすイボイボを感じながらぼくは、何度抱かれても彼女のほうが数倍大きく感じるふしぎな錯覚に酔いしれるのである。

「きみはわたしたちの希望。いっぱいしあわせになって、長生きして」

 ぼくはきょうも彼女の愛に溺れて夢を視る。 




【雨のような雪の日は】(百合)


 玄関をでると雨のような雪が舞っていた。雪はきらきらとまたたくことなく、夜にまぎれる。地面にはさざ波のような光沢が浮かんでおり、濡れたアスファルトのほうがよほどキレイで、このまま積もらずにいればよいのにと、白くまばらな夜を思う。

 光の波から波へと渡って歩きながら、何ともなくそらを見上げる。そらを見ると、いつも彼女のことを考える。

 彼女はこれと違うそらを見上げているのだろうか、と。

 もちろん遠く離れた彼女が私と同じようにそらを見上げているわけがない。ただ、きょうだけは、同じそらを見上げているのだろう、と確信を以って言えた。

 彼女とは幼いころに出会い、そして小学校にあがるころに離れ離れになった。私が引っ越してからも私たちは文通という古典的な手法で縁を繋ぎとめてきた。中学校を卒業するころには互いに電波でやりとりするための精巧なオモチャを親から買い与えられていたけれど、断固として文通にこだわった。紙と文字は、私たちを繋ぐ、私たちだけの糸だからだ。私はいつしか紙につらなる彼女の文字に、腐れ縁以上のなにかを見出すようになった。彼女が同じ気持ちでいるかは分からない。

 十年経ったきょう、ふたたび文字ではなく声をかわせる距離にまで近づける機会に恵まれ、私は徹夜でこれまでの手紙を読み返し、彼女の変化と、そして変わらぬ愛嬌のある文体に身体の輪郭の内側をいっぱいにした。

 雨のような雪のなかを歩いて私は、駅まで向かった。未成年者の夜間外出は褒められたものではないけれど、きょうくらいは大目に見てほしい。親にも許可はとってある。

 長年にわたってつづく文通のことを母は、冬に咲くひまわりをどう処理すべきかと悩むように見守っていた節がある。きょうで何かしらいち段落つくのではないかと、期待しているようで、こころよくと言うのも違う気もするけれど、じっくり話してきなさいね、と私を送りだした。駅前という割合に近い場所が待ち合わせ場所なのがよかったのかもしれない。夜遅くなるようだったらうちに泊めてあげなさいね、と言い添えるあたり、文通相手が私の幼いころの友人である旨はまだ忘れていないらしい。

 一歩、一歩、と着実に縮まる距離と、訪れる再会のときをまえに、私は、かつて抱いたことのない不安と期待とをいっしょくたにして、ついでにゆびさきで混ぜて、ストローで吸うように味わった。

 待ち合わせ場所が遠目に見える距離にまでくると、私の目は、私の意識をかってに離れ、待ち人を探しだそうと、視点をあっちにやり、こっちにやり、せわしなく動く。

 駅前は待ち合わせをする人が幾人かおり、みな電波を送受信する精巧なオモチャを覗きこんでいる。

 そんななかで、彼女だけは寒そうに両手を口元にあて、目のまえを右に左に行きかう人々に目を当てている。まるでそのなかから宝石でも見つけようとしているかのような姿に、私は、記憶のなかにある幼き日ころの彼女の姿を重ね、ああ変わってないな、とまるで変ってしまっている彼女の姿に面影を見出そうと必死だった。

 彼女は私とは違い、まるでおとなの女性だった。彼女のまえを通り過ぎる半数くらいはみな、彼女の姿を視界にいれ、ときには二度見さながらに振りかえり、視線をそそいだ。

 ひょっとしたら人違いかもしれない。

 思ったけれど、彼女はしっかりと、直近で私に送ってきた手紙に記していたように「サンタさんの帽子」を被っていた。通行人たちは、二か月遅れのサンタの姿に驚いていただけかもしれないし、やはり彼女の立ち姿に見惚れているだけかもしれなかった。

 両方かもしれない、と思いながら私は意を決し、声をかけようと近づいた。彼女の足元に浮かぶ彼女の影を踏まぬうちから彼女は私に気づき、ああ、と口を開くと、冬に咲くひまわりのように破顔した。

 私は上手に笑えていただろうか。

 彼女は私の名を口にし、私はその声が、私の想像よりもずっとなめらかで、凜としており、とたんに何か、忘れ物をしてきてしまったかのような心細さを覚えた。

 寒いね、どっか入ろっか。

 彼女はまるで私の保護者のように私を気遣い、提案し、そして私ではとうてい思いつかないようなお店を選び、席に座った。彼女は店の入り口で、私が指摘するまでサンタさんの帽子を被ったままだった。彼女の外したマフラーは質がよく、私の着てきた衣服がすべて買えてしまえるだろうと容易に判るほどの仕立てだった。

 何かがおかしい。

 私は暗澹たる心地に陥った。

 彼女は私から好きな食べ物を訊きだすと、メニュー表から二つの選択肢を示し、私は幾度か、そのうちのどちからをゆび差した。いずれも英語表記であり、申しわけていどに添えられた意訳も、魔法の呪文じみていて、何を表しているのかはさっぱりだった。料理が運ばれてくるあいだ、彼女はしきりに、私の送った手紙のここがおもしろかった、あれはいまはどうなっているのか、こんど案内してほしい、そういえばあの問題は解決したのか、と手紙の主が自身であることを示すかのごとく滔々と言葉を並べたてた。私はそれら問いかけにすべて、一言で応じた。

 私の目のまえにはもはや、私の知る彼女はいなかった。彼女もまたそのことを察しているようで、ことさら明るくしゃべりつづけるのだった。

 料理が運ばれてきてから、食べよっか、とフォークを手にした彼女に、私はいよいよとなって言った。「いつからですか」

 なにが、と彼女は訊き返す真似をしなかった。

「中学校にあがるすこし前くらい」彼女はフォークをテーブルに置き、ナプキンで口元を拭った。「元気だよ。あのコ、いまはバンドに夢中で。髪なんか紫に染めたりして。唇にピアスまでして、見てるだけで痛くなっちゃう。でもそう、元気だよ」

 彼女は自分の妹のことを、名前ではなく、あのコと呼んだ。

「お手紙はむかしから、それこそ初めてうちに届いたときから読んでて。わたしがかってに開けちゃっただけなんだけど。あ、ごめんね。なんか楽しそうだなって思って、ときどきあのコといっしょになって文面を考えたりしてて。だって、とても同い年には見えなくてあのコと。いつの間にかあのコよりもわたしのほうがあなたの言葉が待ち遠しくなっちゃってて」

「それで、成りすましたんですか」

「あのコね、反抗期がすこし激しくて、そのころに飽きちゃったみたいで。なんか、このまま終わっちゃうのがもったいなくて、さびしいなって思っちゃって。ごめんなさい」

「手紙に書いてあったこと、あれってどこまで本当だったんですか」

 彼女から届く手紙には、学校であった出来事や悩みがつづられていた。私もまたそうした悩みを打ち明け、互いに傷をなめ合ったりしていた。私だけが恥部を晒していたかのような怒りが粉雪のようにさらさらと積もる。そんな私の怒りに息を吹きかけ、散らすように彼女は、

「全部ホントだよ」

 ナプキンをちいさく、ちいさく、ゆびさきで畳む。「歳とか、学校とか、そういうのは誤魔化しちゃったけど、悩みとかそういうのはホント。わたしが感じて、思ったことしか。だってそうじゃなきゃフェアじゃないでしょ」

 縋るような目を向けてから彼女は、はっとしたように顔を伏せ、「成りすました時点でフェアじゃなかったんだけど」と本日何度目かの謝罪を口にした。

「本当はいくつなんですか」私は食事を開始した。せっかくの料理が冷めてしまう。

「はたち」

 彼女もまたフォークを手にし、端から細切れの肉を口に運んだ。それが何の肉かは、見た目からは判らない。私が頬張っているこの無駄に舌のうえで溶けてなくなる物体もまた、なんの動物の死体なのかは不明だった。

「どうかな? 美味しい?」

 私はうなづく。咀嚼し、呑みこんでから、

「悔しいくらいに」と付け加える。

 彼女はまた冬に咲くひまわりみたいに破顔する。「よかった」

 時間はだいじょうぶなのか、と訊かれたので、問題ないと答えてから、ふと思いだし、

「母が、うちに泊まればって」

「それは、その、きょうってこと? いまから?」

「もしよかったらって言ってたんですけど、あんまりよくないよね」

「うーん。泊まりたくないと言ったらウソになるけど、でもなぁ。女子高生たぶらかしてるはたちを歓迎してくれるかな」

「不安だね」

 私が言うと彼女は眉間にしわをよせ、

「不安だよ」と漏らした。

 その声音は、手紙を読むときに脳内に再生される声音ととてもよく似ていて、彼女は私にずっと悩みや不安だけを溢していればいいのに、と私はひどい考えを巡らせた。

 店のそとにでるまでに、私は彼女のことを手紙のうえで呼んでいた名ではなく、彼女自身の名で呼ぶようになっており、彼女は私のことを変わらず、ちゃん付けで呼んだ。

「文通、どうする」

 家まで送っていくときかないので、途中までいっしょに歩くことにした。彼女は私の真後ろに立って傘を差しながら、

「わたしは文通楽しかったな」と続けた。

 暗に、あなたは、と訊かれた気がしたので、

「私はそうでもなかったよ」と答えた。

 彼女がどんな顔を浮かべたのかは判らなかったけれど、つぎはいつ会える、と私が投げかけるまで彼女は口を開かなかった。

 雨みたいな雪はいつの間にかぼた雪に変わっている。彼女はけっきょく家のまえまで着いてきた。

 あがってく? と水を向けるも、彼女はぶんぶんと首をよこに振った。「こういうの、最初が肝心だと思うの。つぎはちゃんとおみやげ持ってくるから」

 私は思った。

 情けないはたちだ。

 きらめきの失せたアスファルトのうえに足跡を残しながら彼女は、寒いからなのかサンタさんの帽子をとりだすとかぶり直し、きた道を引き返していく。

 家に入ると、母が着替えを持って二階から降りてくるところだった。

「おかえり。さきお風呂入るね」

「えー、いいけど」

 私が何も言わないから、母は迷った挙句に訊くことにしたようだ。「どうだった」

「なにが」

「会えたんでしょ。手紙の相手と。何年かぶりに」

「うーん。初めましてって感じはしなかったかな」

「そりゃそうでしょ」

 文通してたんだから、と母は言いたそうな顔だ。「どんなコなの」

「んー?」

 傘を差して去っていく季節外れのサンタさんの背中を思いだしながら私は、ただ一言、冬に咲くひまわりのようなひとかな、とつぶやいている。  




【金平糖じみた声で】(百合)


 前のバイトで知り合ったコから連絡があった。

 久しぶりに飲みに行きませんか、というお誘いだったが、ざんねんなことに彼女と飲みに行ったことはいちどもない。社員組と非正社員組の派閥があり、そのどちらにも属さなかったわたしは、そのころいずれ方からも目の上のたんこぶ扱いされていた。連絡を寄越してきた彼女は、当時バイトでありながら、社員組の中心人物たちに可愛がられていた。ときおりわたしに声をかけてくれたが、その内訳はおおむね愚痴であり、単に周囲にいい顔をしたツケを精算するための肥溜めが欲しかっただけなのだろう。

 だから、こうして久方ぶりに連絡があっても、なぜ彼女に連絡先を教えてしまったのか、過去のじぶんを叱りつけたい衝動とたたかうほかにすべきことはない。

 返信をせずにいると、三日連続で、まったく同じ文面のメッセージが届いた。

 四通目にもなると、無視なの? それとも何かあった? と心配する声を寄せてくるものだから、さすがのわたしもここでシカトを決めこむのは人としての品格に差し障ると案じ、不承不承、うんざりしながらも返信をした。

 応えてしまったのが運の尽きだ。

 ぞんがい、わたしは頼まれたら断れない性分で、あれよあれよという間に、約束をとりつけられ、期日を告げられ、そしてきょう、こうして慣れない夜の繁華街に足を運んでいる。

「待った?」

 そう言って彼女は三十分遅れでやってきた。

 短パンにレギンス、白のワイシャツの下はタンクトップ一枚という、なんとも蠱惑的な装いで、服装に頓着がないというよりも、男受けをよく弁えた格好だと評価できた。

 わたしとしても中性的な彼女の格好はどぎまぎするのに躊躇はなく、なんならいっそのこと、一時期流行った童貞を殲滅する服とやらを着てきてほしかったくらいで、そうすれば純度百パーセントの苦手意識で出迎えられたというものだ。

 足首の細さが際立つようなスニーカーは、なんだか無性に母性本能をくすぐられる。

「美味しいハンバーガー屋さんがあるんだ、そこでいいよね」

 遅刻に対する謝罪の言葉もとくになく、なんなら遅刻してきたという意識そのものがすっぽぬけた様相で、彼女はこちらの腕を引き、歩きだす。

 家こっから近いんだよね、といらぬ情報を植えつけられては、学校に近いやつほど遅刻の常習犯、という世の理を思いだし、この馴れ馴れしさは相変わらずだな、と彼女の距離感に顔をしかめる。

 入ったのは、内装のおしゃれな店だった。

 店内は掘り炬燵のような個室ばかりだ。木の柱にはいずれもツルじみた植物が巻き付いている。雑貨ビルの二階だったはずだが、天井は高く、なんのために回っているのか用途の在りどころの不明な羽がくるくると空気をかき混ぜている。

「美味しんだよ、このあいだ連れてきてもらって」

 訊いてもいないうちから彼女は自身の近況を語った。

 相槌くらいは打ってやってもいい気分だったのは、たしかによいお店であるのに異存はなく、情報提供代としてそれくらいはしてあげてもいい気分だった。

 割り勘のつもりだったが彼女は、奢りだから、とやはり訊いてもいないうちからそう言った。「きょうはもうね、親睦会だから。うちってほら、友達すくないじゃない?」

 意外な発言にのけぞった。「いや、いるでしょ」

「いないよー。知り合いは多いんだけどさ」

 彼女は顔を伏せ、うなじを掻くようにすると、

「こんなふうに話せるのなんか」

 とわたしの名を言った。

「くらいしかいないし」

 ふたたびこちらの名を口にすると、

「バイトやめちゃったでしょ。すごい淋しかったっていうか、もっと仲良くなっときゃよかったなって」

 迷惑だったかな、としおらしくされたのでは、ここで、べつにわたしはあなたのことを何とも思っていなかった、むしろ苦手意識が根を張って、縄文杉さながらの立派な洞を空けていた、などと口が裂けても言えなくなった。

 口が裂けてしまうくらいなら言ってしまえばいいじゃないか、とさっこんのSNSに特有のクソリプとやらが飛んできそうなきらいもあるが、わたしはわたしの品格の下がるような真似は、たとえお尻にある蒙古斑が全身に拡がっても避けたい性分なのである。

 こと、相手がしおらしく、不良が捨て猫を拾ったくらいのギャップを見せつけられては、さすがに面目を保つのに必死にもなる。

「わたしも淋しかったよ」

 口を衝いている。「連絡見て、すごくうれしかったし」

「ホント!?」

 人間の目は本当にキラキラ輝くのだな、と感心した。「ホント、ホント。でもどうして急に? 親友が欲しくなったとかそんな理由じゃないんでしょ」

 と、これは冗談のつもりで言った。

「それもあるけど」

 続いた言葉に息を呑んだが、そこで料理が運ばれてきたので、会話は一時中断した。

 ハンバーグは美味かった。

 肉汁でできているんじゃないかと疑うほど、箸で割ると中から旨味が溢れた。水風船のように中身がなくなってしまうのではないかと不安になるほどで、しかし案に相違して、肉はずっしりと詰まっており、箸でちいさく区切っても、型崩れなく、サイコロステーキさながらに立方体を維持した。

 口に運ぶと、湯気にまで味がついているようで、豊潤な肉と、デミグラスソースの深みが、舌の裏にまで染みこむようだ。

「美味しいでしょ」

「うん。びっくりするくらいおいしい」

「でしょでしょ、よかったー」

 彼女の安堵するのに似たはしゃぎ具合に、不覚にも頬がゆるんだ。

 やがて店員からワインをすすめられ、わたしはいちど断ったが、彼女のほうでかってに注文し、グラスにそそがれるがままにあおると、これまたワインという言葉の意味を新規に書き換えなくてはならないほど美味であり、アルコールの苦手なわたしでも、グラスを一本開けてしまうほどの癖のなさで、あれよあれよという間に、ふたりしてすっかりできあがってしまった。

「顔赤いよ、だいじょうぶ?」

「そっちこそ」

 呂律が回らなくなるほどではなく、そこはかとなくよい気分で、

「で、何の用だったわけ」

 思いだしついでに、水を向けた。「なんかあんでしょ、こんなのご馳走しといて会いたかっただけなんて、そんなん信用できないからね」

「わる酔いかよー」

「だってそうでしょ、なんなのいったい。しょうじきね、あなたのこと苦手だったんだから」

 言ってしまってから、しまった、と思った。

 こちらがたじろぐほど、彼女が泣きだしそうな顔をしたからだが、そうでなくともわざわざ相手が傷つくかもしれない言葉を口にした背景に、この場の主導権を握ろうとする自身の魂胆が見え隠れした。

 ポジショントークとマウントは、それこそゴリラやサルにでも任せておけばいい。

「え、待って待って、そんな顔しないでよ。ちょっとしたジョークでしょ、真に受けないでよ」

 口早に訂正したが、裏目に出たようだ。

「そっか、そうだよね。なんかそんな感じはしてたんだよね、うちだけ友達だと思ってたらどうしようとか」

 思ってたのか。

 罪悪感が競りあがる。なんとか取りつくろうと、

「言ったらわたしも友達っていないから、よく解かんなくて」

 ごめんね、と謝ることで急場の凌ぎを試みる。

「まあ、いいんだ。うちさ、むかしから人に必要とされたことなくて。ずっとだよ。親とかそういうのだけじゃなくてさ。だから、なんだろ。うれしかったのかな。うちが本音を言っても嫌な顔しないで、うんうんって聞いてくれたのが、うれしかったんだ」

 やめてほしい。

 これ以上うしろめたい気持ちにさせないでほしい。

 やわなのだ。

 繊細なのだ。

 この日のことを思いだしては、のちのち、うがーと何もないところで頭を抱えて吠えてしまうではないか。

「や、でも、こんなふうに遊びに誘ってもらったのとか初めてだし、楽しいし、というか友達とご飯食べにきたの初めてかも」

 言うと、彼女は気のない返事で、ふーん、と唇を尖らせた。

 なんだそれは。

 機嫌が直ったのか、悪化したのかハッキリしてほしい。

「うちさ、あの会社辞めて、で、いまはもうずっとプーで。一人はさびしくて嫌なのに、家の玄関くぐったときがいちばんホッとして、でもおふとんに包まるとすぐにさびしくなるから、おふとんじゃないとこで寝ちゃったりして。べつにそれでさびしさがなくなるとかじゃないんだけど。もう、ホントいろいろ限界でさー」

 彼女のメッキがボロボロと零れ落ちる様が見えるようだ。

「このあいだね、初めて知らない人とデートして、ご飯食べて、そういうのでお金くれるって仕事があって、やってみたら、最後、なんかわかんないけどお泊りしなきゃいけないみたいになってて。すっごいごねたら、お金だけくれて、でもすぐにクビになっちった」

 あはは、と頼りない笑い声が胸にキタ。

 それは物哀しさを伴わず、ただただ階段を登れない子猫を眺めるのに似た、きゅーと縮まるような苦しさだった。

「身体売るコなんてさ、ないわーって思ってたけどさ。なんかさ、わかっちゃうよね。クビになってさ、家に戻ったらさ、なんでこんな身体くらい差しだせなかったんだろうって。こんなさびしい思いするくらいなら、必要としてくれた人にいくらでも、いくらでだってあげちゃうよって、思っちゃうよね。思っちゃったんだよねー。そしたらさ、なんかさ、急にさ、会いたくなっちゃった」

 彼女は泣くこともなく、ただ淡々とつまらないマンガを読むみたいに、テーブルにほっぺたをくっつけながら、こちらにではなく、飲みかけのワインの入ったグラスにささやきかけるみたいに言った。

「もうさ、うちさ、ダメなんだー。必要としてもらえるうちにさ、身体くらいさ、いくらでもあげたくなっちゃうよね、もうね、なっちゃった」

 そこで彼女はいちどだけ、ぐすんと鼻をすすった。

 何か言わなくちゃと思い、言葉を探しているあいだに、でもさ、と彼女は続けた。「ホントはさ、差しだすだけじゃなくてさ、お金とかじゃなくてさ、ぬくもりがほしいよねー。ぬくもりとぬくもりをさ、おなじだけ、とりかえっこして、まぜっかえして、すやすやって一人きりじゃないおふとんのなかで、すやすやってさー」

 もはやこのまま眠りこけてしまうのではないか。

 そう思わせるほど彼女はすでにうつらうつらと、言葉に覇気がなく、捨て身というか、投げやりというか、このまま彼女を置いて店を去るわけにもいかず、ましてやこのまま放って、何食わぬ顔であすを迎えるわけにはいかない衝動に駆られた。

「わたしの驕りでいいからさ」

 財布やら、メディア端末やらをバックに詰め直す。

 ついでに彼女の私物も整理してから、頭を撫でるようにし、

「場所移そ」と半ば命じる。「家、こっから近いんでしょ。同等かはわからないけど、ぬくもりくらいあげるわよ」

 彼女がほしがるか否かは定かではないし、知ったこっちゃない。

 彼女はこちらにもたれかかるようにし、うへへ、と気色のわるい笑い方をした。

 店のそとに出るも、彼女はかんぜんにできあがっており、手を離せばそのまま地面に寝そべってしまいそうで、というか現に、二度ほど寝そべったので、彼女のアパートまでたどり着く前に、こちらが満身創痍でへばりそうだった。そのまま地面にへばりついてもいい。

 彼女のメディア端末をかってにいじり、友人らしい人物に住所を訊ね、検索し、タクシーを拾って、やっとの思いで彼女のアパート、自室のベッドに、ふにゃふにゃの彼女を寝かせたころにはすっかり酔いは冷めていた。

 身体が痛い。

 夏でもなしに汗を掻いた。

 シャワーくらい借りてもばちは当たらないだろうと思い、かってに浴室を借りた。

 脱衣所のあるアパートだ。

 いいなぁ。

 ワンランク上の住居に思いを馳せる。

 浴室から上がるとなぜか着替えがなくなっており、バスタオルのみが残されている。身体を拭いてから洗面所をでると、こちらの衣服をたたんでいる彼女の姿がそこにはあった。

「ありがたいけど、着替えが」

 言いきる前に彼女は、立ちあがり、こちらの腕をとった。

 ベッドのある居間まで引きずられ、そこに明かりはなく、背後のキッチンの明かりまで消え、暗がりのなか、彼女とわたしの息遣いばかりがこだましている。

 くれるんでしょ、と彼女は言った。

 鼻声なのは、酔いが未だ冷めていないからか。

 いじけたような声で、彼女は、ちょうだいよ、と言った。ひとしずくの涙のような声は、ゆかに跳ね、彼女の身体ごとこちらの胸に飛び込んだ。

 ベッドのうえに押し倒されたわたしはバスタオル一枚の姿で、それもいまはもう、闇に同化し、打ち解けている。

 がさごそと空気の揺らぐ感触が肌に伝わり、つぎに熱くやわらかい感触が身体をつつみこむ。

 圧し掛かられているようで、羽毛布団のように重さを感じないのをふしぎに思った。

 ぎこちなく彼女はもういちど、ちょうだいよ、と言った。

 泣き言めいたそれをわたしはひどく握りつぶしてしまいたいと思った。

 全身で以って、ぎゅーと覆うようにすると、もっとして、と彼女は言った。

 冷めた思考のなか、わたしは肌に染みこむ熱の、あまりの頼りなさに、これはもうそういうことなのだな、とわけもわからぬままに納得してしまうのだった。

 もっとして。

 声が、金平糖じみて暗がりにいくつも点々と浮かんでいく。  




【紅茶の香りは吐息から】(百合)


 紅茶を飲みにいこう、とあなたが言ったので、ほいほいついて行ったら、あなたの住む安アパートが見えてきた。ここにくるのは一年振りだ。

 どういうことかと視線で訴えるも、あなたは、さあさどうぞ、と部屋に招き入れる。私はそのままあなたの匂いの漂うせまっちぃ空間に包まれた。

「紅茶をご馳走してくれるって言ったよね」

「言ったねぇ」

 あなたは湯沸しポットに水を満たすと、スイッチを入れた。カップを二つ手に戻ってくると、テーブルのうえに置きっぱなしになっていた有名紅茶メーカーのティーバッグの封を開け、釣り堀をするみたいにカップにひょいと投げ入れる。

「手抜きにもほどがあるのでは」

「美味しいんだって」

「ひとを誘ってまで飲ますほどかぁ」

「お。呆れてる、呆れてる」

 あなたにはそういうところがあった。いまさらのように思いだす。すこしでも期待したじぶんをばかみたいだと月並みに思う。

 がらんとした部屋を見渡しているうちに湯が沸いた。あなたの淹れてくれたティーバッグは、さすがは有名紅茶メーカーの商品なだけあり、それなり美味く、かといって、他人様を招いてまで飲ますほどのものではない、とふたたび思わせるくらいには、平凡な風味だった。

「で、なに?」

 私は意識して目を吊りあげる。「何かあるんでしょ。言いにくい話とか。お願いとか。そういうの」

 お金でも借りたいわけ、と投げやりに言うと、

「ないない」

 あなたは心外だとばかりに首を振った。「ホントにただ美味しい紅茶が飲みたくなってさ。そいで、まあ、どうやったら美味しい紅茶を飲めるかなって思って」

「あーそー。むかしの恋人騙して、してやったりの心地で飲む紅茶はさぞかし美味しいんでしょうね」

「違うってば」

 あなたが声を張りあげるものだから、びっくりして、すこし紅茶をこぼしてしまった。あなたは立ちあがり、布巾を持ってくると、いそいそと濡れた私の服飾を拭う。

 目のまえにあなたのつむじが浮いている。

 あなたは作業をつづけながら私の名を呼び、

「――ちゃんは前からそういうとこあるよね」と不平を鳴らすでもなく、ごちた。「独りでかってに思いこんで、自棄になって、一方的に見限っちゃうっていうか」

「だって」

 それは事実でしょ。

 私が言うよりさきにあなたは、

「なに言っても無駄だと思ったから言わなかったけど」

 ごしごしと何度も私の服飾を布巾で拭いながら、

「浮気してないよ。そっちがかってに勘違いして、怒って、こっちの話もろくすっぽ聞かないでさぁ」

「浮気じゃなかったらなんなの、あんたこの部屋で抱き合ってたでしょ、裸の女と」

「あんねぇ」

 あなたはしびれを切らしたというよりも、それはどこか陽気を滲ませて、

「あいつは男。抱き合ってたんじゃなくって、寸法測ってただけ。大学の学祭でドレスアップするからコーデ見繕ってくれって頼まれて」

「男って、だって」

「元からそういうコなの。ホルモンとかなんとか、そういうのも飲んでるって言ってた。ただ、ミスコンに出るからには負けたくないって。そいでまあ、そういうのに理解あるって言ったらヘンだけど」

「頼んだの? あなたに?」

 あなたはもう下を向いておらず、布巾を動かす手も止まっている。

 私たちは目を覗きあい、あなたはそのまま私の視界をあなた自身で塞ぐようにした。あなたの吐息が私の内側をなぞり、そのこそばゆさを懐かしく思った。

 息継ぎをしたあなたは私の手を握り、

「美味しくないんだよ」と言った。

 私は首を傾げ、意味が解からない、と意思表示する。

「一人で飲んでも、美味しくなくて。紅茶も。お酒も。なにもかも」

「言わんとすることは分かるけど」

 本当は解かってなどいなくて、あなたがなぜいまさらそのような、私を惑わす呪詛を吐くのかと、どこまで真に受ければよいのかを、私は私自身に示せないでいる。

「ホントに浮気じゃないんだよね」

「念を押すねぇ」

 あなたは笑い、

「なんに誓ったら信じてくれる」といまにも泣きだしそうな顔をする。めったに見せないあなたの顔を目の当たりにして、私の疑心暗鬼もなりを潜めた。「わかった。信じる。でも今後また勘違いしたくないから、そのコ、あなたにコーデお願いしたってコ、私にも紹介して。だいたい、そのコが本当にそういうコだったなら、余計にあなたと二人きりになんてさせられないでしょ」

 まだ男のコと二人きりのほうが安心だよ。

 あなたはしきりにうなずき、

「ことしもまた学祭あるからさ」

 なぜか私のみけんをゆびでツンと押す。「こんどこそそのコ、優勝させよう。二人なら鬼に金棒だよ」

「紅茶に私、みたいな?」

 あなたがきょとんとするものだから、いまのなし、と宙を手で払うようにすると、あなたはその手を掴み、

「あたしにきみ、みたいな」

 恥ずかしさで全身の血が沸騰しそうなセリフを至極真面目に口にした。

 あなたの吐息からは紅茶の香りが仄かにし、たしかにこれは美味しいかもしれない、とあなたの熱を感じながら、私はこっそり思うのだ。




【おろしたて搾取】(百合)


 たしかに下ろしたての服だった。バイトの給料を丸々ひと月分つぎ込んで買ったお気に入りの一着で、その日初めて外に着て歩いたから、彼女の不注意でカフェラテ風味のシミをつけられたことは、ショックでなかったと言えば嘘になる。長年あこがれつづけてきたレストラン「ファミファム」への食事代貯金を叩いて手に入れた服飾だっただけになおさらだ。

 とはいえ、公衆の面前で土下座をされるほどの憤りを覚えたわけではないし、そのように誠意を見せろと迫った憶えもない。

「おいくらまんえんですか、内臓売ってでも弁償しますので」

 せんでいい、せんでいい。

 目覚めがわるいところの話ではない。いったい彼女は私を何だと思っているのだろう。初対面であるはずの彼女をまえにし、抱いた所感は、面倒な相手と接点を持ってしまった、という後悔にちかかった。

 その日、彼女は急ぎの用があるとかで、保険証と連絡先の書かれたメモ、それからとりあえずの有り金を一方的に握らせると、こちらが何かを言う前に、そそくさと雑踏にまぎれ、姿を晦ませた。

 通り魔に遭えばきっと同じような気持ちになったに違いない。

 家に戻り、汚れた衣服は手洗いしたのち、クリーニングに出すことにした。かかる費用は、日々のランチ三食分よりも高くはないはずだ。

 見知らぬ彼女から手渡されたお金はしかし、ランチ三食分どころか一食分に満たない金額であり、あのあと彼女は無事に一日を過ごせたのだろうか、と逆に心配してしまう。どこかでお金を下ろせたならばよいが。

 べつだん、弁償してもらうつもりはなかったが、翌日、私は不承不承、彼女から受け取ったメモを見ながら、その連絡先に繋いだ。

「きのう連絡先をいただいた者ですが、あのー、保険証、どうやってお返ししたらよいでしょう」

 そうなのだ。彼女は私に保険証を渡していた。身分を伝えるためか、或いは逃げるつもりがないことを示すためなのか、はた迷惑なことにそうなのだ。

「あーっ! あなたはー!」

 無駄に音色のよい声が耳をつんざく。「きのうはどうもすみませんでした。こっちから連絡したかったんですけど、だって、ほら、あれでしょ」

 馴れ馴れしいうえに、おおざっぱだ。ふわふわした物言いを好む私であっても、彼女の「あれ」や「それ」といったふんだんに代名詞のちりばめられた会話はしごく疲れる。

「というわけで、空いてる日があればぜひいちどお会いして」

 保険証を返してもらうついでにお詫びを兼ねて礼をしたいのだそうだ。断りたいのが正直なところだが、保険証を返さねばならないのは確かにそうだ。郵送するにしても、住所を訊ねてもこの調子では教えてくれそうにない。

 最後に彼女は、ところで、と話を結んだ。「汚してしまったあのお洋服っておいくらまんえん?」

 正味、私は彼女に服を弁償してもらうつもりなどなかった。わざわざ保険証を人質に差しだすくらいの誠意を見せられれば、否応なく許してあげたくなるくらいの人間味は持ち合わせているつもりだ。それ以前に彼女は人通りの多い駅前で土下座をしているのだ、やりすぎなくらいに誠意もとより、謝意を見せている。

 シャイな私ですらその羞恥心のなさには一目置きたくなるほどの堂々たる土下座であったから、一周回って、いささかそこから誠意を汲みとるのに難儀した。

 だからでもないが、私は私の手隙の日時を彼女に伝え、私たちは週末に会う約束をとり交わした。くれるというのなら、詫びでも礼でももらってやろう、という気に、珍しくなっていた。

「やあやあ、ご足労いただいてすみませんねぇ。きょうもまたいちだんとうるわしいお姿で、これじゃあ世の殿方はみな目のやり場に困っちゃいますなぁ、うちら同性に到っちゃ立つ瀬がないでごわすなぁ、このこのー」

「開口一番に馴れ馴れしい」

 思わず私がタメ口をきいてしまうほどに、彼女はざっくばらんと、加害者意識の抜けきったアホ面で出迎えた。待ち合わせ場所は、先日、私たちが出遭った場所、彼女のカフェラテが私の一張羅をダメにしたまさにその場所であった。

「あの、これ」まずは保険証を取りだし、手渡す。

「あー、そうそう。あしたちょうど歯医者予約してて、なかったらヤバかったわぁ」

 ありがとうございます、と押さえるべきところではきちんと礼を挟んでくる手前、なかなか強気に非難する気になれない。ただ、彼女の自己満足に付き合う気もさらさらなかった。

「私、きょうはもうこれで目的は達成できちゃった感じなんだけど」

「はえ?」

「お暇させてもらっても構わないですよね、そちらさまも、そんなに、どうしてもお礼やお詫びをしたいわけではないと思いますし、却ってご迷惑というか、ええ、まあ、そういう感じで」

 電波越しに繰り広げた不毛な会話を思い起こしながら私は、彼女を一瞥し、わざとらしく髪をいじった。あなたに興味がないんですけどアピールをしてみたのだが、じつのところ見よう見まねでしかなく、私はむしろこれまではこうした仕草をされる側であったのだが、きょうくらいはする側でもよいと判じて、繰りだしてみたところ、

「いやいや、したいっすよ。させてくださいよ、めっちゃ詫びますから、礼とかチョーしますし」

 うぇい、うぇい。

 などと捲し立てられ、危うくまたもや公衆の面前で土下座を披露されそうになった。犬が電信柱を見かけるたびに粗相をするような所作で、地面に手をつきにいく彼女をまえに、ちょちょーい、と未だかつてだしたことのない声をあげて止めに入った私は、もはや私の知る私ではなかった。

 彼女は解かっているのだろうか。そうやって謝意を全身で表すことで、被害者たる私のほうが極悪人であるかのように他者から見られる辱めを。

「わかりました、わかりましたから。もういいです。きょうで私たちの関係も終わりにしましょう、すっぱりと、心置きなく、心残りなく、好きなだけお礼をしてください」

「やっぴー」

 なぞの鳴き声を放つと彼女はこちらの手をとり、

「うまい飯屋があるんですぜ」

 などと歩を進め、それから三十分あまりをたっぷりと歩かせ、辿り着いたさきには「ファミファム」の看板を冠したレストランが待ち構えていた。

「ここ?」

「ええ」

「ホントに? 罠とかでなく?」

「罠ってイノシシじゃないんですから。ここ、じつはなかなかに人気の飯屋でして、予約もさることながら、その食事代がなかなかのもので、日ごろの、ふにゃーんって気持ちじゃ立ち入るのも勇気がモリモリな飯屋なのですぜ」

 言うことはハチャメチャな割に、彼女の装いは高級レストランのドレスコードとして遜色ない清潔感のあるコジャレタ組み合わせで、反面、私はあまり気合いの入っていない、斟酌せずに言えば、徹夜明けの社会人が休日にコンビニに買いに出かけるような格好であり、あまり言いたくはないのだが、噛み砕いて言ってしまえば、ジャージだった。

 待ち合わせ場所が駅前であったから初めはジーンズにセーターくらいは着てもよいか、と思ったものの、待ち合わせの相手には新品の一張羅をダメにされた前科があり、自身の見栄えと「もしも」を天秤にかけたら、ジャージでよし、の判断を私は私にくだしたのだった。

「言ってよ、ここに来るならもっとさきに言っといてよ、見てよこれ。私こんなだよ、こんなでこんなお店に入れるわけが」

 入れてしまった。

 涙目半分の私を宥めがてら引きずるように入店した彼女は、そのまま予約済みの個室へと私を突っこむと、武術の達人のような静かなる佇まいの給仕人へ、二、三、質問を投げかけては、この場に最適なメニューをひょいひょいと注文していく。

「苦手な食べ物ってあります。タコとか。ハーブとか。ナメクジとか」

「ナメクジはちょっと」

「だそうです」

 武術の達人のような静かなる佇まいの給仕人はお辞儀のお手本を示すと、個室から出て行った。その背を見届けることなく私をここへ連れてきた彼女は、

「やー、緊張しますね」

 などと浮かれており、

「うち、こんな高い飯屋に来たの初めてで」

 などとテーブルの下を覗いたり、小瓶に詰まったサービスのお菓子を鷲掴みにしてポケットに詰めこんだりと、私の常識のことごとくを打ち砕いていく。

「あの、私きょうは手持ちが」

「テモチ? なんですそれ、ヤキモチの親戚かなにかで」

「じゃなくて、こんなステキなお店に連れてこられても払えませんよ」

「やだなぁ。驕りますって。お礼ですよお礼。お詫びも兼ねてって、そういう話じゃなかったですかい」

「ですけど」

 恰好だけは私よりも上品で高級そうではあるものの、彼女の言動はどう謙虚に窺っても破天荒だ。一食でひと月の家賃が払えてしまえるくらいの食事代を支払えるだけの懐の深さがあるとは思えない。

「食べたら、つぎは案内してくださいね」

「案内? どこへ?」

「お店ですよ。きょうはなんだかうんと落ち着く格好をされてますけど、ほらこの前の、うちが汚してしまったお洋服」

「ひょっとしてだけど、それを買った店に?」

 お菓子の包装を破くと彼女はバニラの香りのするクッキーを頬張り、うんうん、とうなづいた。

 料理が運ばれてきてからは、彼女から一方的に質問を投げかけられ、それに応えていくうちに日ごろ溜めこんでいた鬱憤が言葉となって口から零れ落ちた。ひょっとしたらそれは逆であり、言葉として零れ落ちたからこそ鬱憤を溜めこんでいたことに気づけたのかもしれず、いずれにせよ私は、かつてないほどにしゃべりにしゃべり、しゃべり倒した。

 食事を終えたころには息を切らしていたほどで、いったい彼女の何が私をそうさせるのかと瞠目するほどに、私の目のまえに座る小柄な女は、私の凝り固まった気持ちをじょうずにほどいて、泡にした。

「やー、おもしろかった、いひひ。もっとお話聞きたいんですけど、デザートも食べたことですし、まずは場所移しましょっか」

 促され、個室を出ると、武術の達人のような静かなる佇まいの給仕人が出口まで見送りにでてくれた。お会計は?と訊ねると、トイレに行ったときに済ましたよ、と彼女は快活に応じ、私はその手際のよさに、ほぉ、と唸った。

 そとはすっかり陽が暮れており、ネオンのやわらかな明かりが、無性に私を高揚させた。

 無言で歩きだす彼女の背中を追い掛けながら私は、ここにきて重大な事実に思い至った。

 まったく話を聞けていない。

 私ばかりがしゃべってしまった。

 彼女の名前は保険証を預かったときに把握済みだが、そのほかの彼女の側面像に到っては、まったくと言ってよいほどに私は何も知らないのだった。

 もし私がスパイであるのなら懲戒免職なみの失態である。しかし私はスパイではないし、よしんばスパイであったとしてもスパイに懲戒免職なる制度があるのかは疑わしいため、これは杞憂と片づけて申し分ない。

 私は無駄に堅苦しい考えを巡らせ、落ち着くのに躍起になった。

 しばらくそうして、いい気になっていたじぶんを宥めていると、目のまえの小柄な背中が、はたと歩を止める。

「どうしたの」

「や、着いたんですけどね。あっれー」

 地図を見ていたのか、メディア端末の画面に目を落としたまま彼女は、アチャー、とマンガでよく見るジェスチャーを、すなわち額に手を当てるあれをした。

「閉まっちゃってますね。すこしゆっくり食べすぎたみたいじゃ」

「みたいじゃって、おい」

「お詫びはまたこんどってことでどうでっしゃろ。このお詫びも兼ねてって感じで」

「埒が明かなくないか」優位に立つ者に特有の傲慢さがじぶんの発言から漂っていて、ぶんぶん首を振ってから、「いえね、私としてはうれしい申し出ではあるけれど」と取り繕う。「でもそんな、言い方はあれだけど、たかが一着服をダメにしたくらいで」

「えー!? ダメになっちゃったんですかあのお洋服」

 や、そこまでじゃないんだけど。

 訂正するよりさきに彼女は土下座への臨戦態勢をとったので、慌てて、せんでいい、せんでいい、と丸めた背中を起こしにかかる。

「あなたね、めったやたらにゲザるのやめなさいよ、ホントやめなさいよ、半分それ脅迫だからね」

「だって、だって」

「泣いたってしょうがないでしょうに」

 なんだかいじめっ子の心理が解かってしまう。そんなじぶんにうんざりした。

「わかった、わかったから。お礼でもお詫びでもまた受けてあげるから泣きやんで。いつがいいの。こんどはもっと、この格好でも似合う場所にしてくれるとありがたいんだけど」

 思えばジャージで高級ブランド店に入ろうとしていたのか私は。なんだかコイツと出会ってからじぶんに失望ばかりするなぁ。

 目のまえのチンチクリンな女を見下ろし私は思う。

 もうすこし困らせてやってもバチは当たらないのではないか。一生許さないぞ、と言ったところでコイツのことだ、おまかせあれ、と二つ返事で、一生私によい目を見させてくれるのではないか。

 そんなバチあたりなことを考えながら、

 見た目はかわゆいのになぁ。

 中身のざんねんな女のくりくりした泣き顔を眺め、同性を値踏みするような人間に成り下がってしまった、とまたもやじぶんに失望するのだった。

「つぎは、つぎこそはご満足いただけるようにがんばりますので」

 空手家のようにオス!のポーズを決めながら彼女は、だから、と子猫のように目元をこする。「きょうのグダグダは許してください」

「許すもなにも、怒ってないから」

「あは、そうですか。じゃあ、ついでになんですけど、きょう、一泊でいいんで泊めてください、このあいだ恋人に家追いだされちゃって帰る場所ないんすよね、有り金きょうので使い切っちゃって」

「はぁ、へぇ、そう」

 こめかみの奥でミミズが暴れ回っている。嫌な感触だと思いながら、

「べつに構わないけど一ついい?」

 おまえのことは一生許さん。

 そう口を衝きそうになり、慌てて、

「そのお礼はいつしてくれる予定?」

 言い換え、逃がさぬようにと彼女の腕をとる。ごにょごにょと歯切れのわるくなった彼女の姿に、胸がふわりと軽くなる。

 そうそうこれこれ。

 何を思い浮かべるでもなく私は、彼女から返されるだろう未来のお礼の数々に、ぎゃくにわるいなぁ、と満面の笑みでわるびれなく思うのだった。 




【カーテンをあける夜は砂のように】(百合)


 この世界のどこかには、季節が四つもある国があるらしい。本で読んだ。

 でも本にはたくさんの嘘が書かれていることもあり、アテにはできない。

「本当にそんな国あるの」

「あるよ」

「ウソじゃない?」

「ウソでもここでは関係ない」

 姉は手で髪を梳かすようにする。窓から差しこむ日差しが姉の髪を新緑よりも深いエメラルドグリーンに輝かせている。

 わたしはそんな姉の話を聞くのも、もちろんお世話をするのだって大好きだ。

 姉は年がら年中ベッドのうえで、異国の書物に目を落としている。きっと姉にできないことはない。

 身体まで元気だったら、わたしなんか必要としてくれなくなる。

 だから姉がベッドのうえでしずかに本を読んでいる姿を見ると、わたしはいつも胸がほっこりしたあとで、チクリとちいさな痛みを覚えるのだ。

 庭のはじっこで、日課の薬草とりをしていると、姉の呼ぶ声が聞こえた。

「なぁに」

「天気が崩れそうだからさきにお洗濯をおねがい」

 姉が言ったとおり、洗濯をし、干し、乾いたころには雨が降ってきた。

「どうして判るの」洗濯物を取りこみながら、姉に言った。

「コツがあるのよ」

「たとえば?」

「雲の動きを見るとか」

「わたしだって見てるもん」

「じゃあできるようになるわ」

「んー。ずっとさきの天気はムリ、わかんない」

 だってあれがジャマだから。

 わたしは窓から見える景色をゆび差した。

 山の手前、森とそらの境目から向こうはずっと灰色の景色がつづいている。

 姉はそれをカーテンと呼んだ。

 見えない壁があるようで、そこからさきがどうなっているかは分からない。

「近づいてはダメよ」

「行かないよ。コワイもん」

「魔物がいるのだから」

 姉はこちらの頭を抱き寄せ、なぜかは分からないけれど、汗臭いだけの頭に頬を押しつけるようにした。

 ふしぎと姉からは日向の匂いがする。干したての洗濯物と同じ匂いだ。

 家にこもりっぱなしなのにステキな匂いがして、姉ばかりズルい。

 食事の用意がてら、庭からとってきた薬草を姉に見せる。品定めしてもらうのは、稀に、毒草が混じっていることがあるからだ。

 植物のなかにも魔力を帯びて、悪知恵を働かせる個体がでてくる。薬草に擬態して、動植物に食われることで、体内に胞子をばら撒き、苗床とする。大気中には魔力を中和する霊素が漂っているから、触れたりするくらいなら害はない。

 ただ体内はマズイ。

 こうした知識は姉が本を翻訳して、教えてくれる。

 飽くまで姉は翻訳した文字しか与えてくれないから、もちろん読み書きくらいは教えてくれるけれど、けっきょくはじぶんで学ばなくてはならない。

 姉はすこしそういうところがイジワルだ。不平を鳴らしても、姉はどこ吹く風だ。「手抜きだよ。楽をしたいもの」

 姉は薬草を仕分けし、その中から一束だけをこちらに差しだす。

「これは庭に」

 渡されたのは、毒草だ。それだけの数混じっていたのだ。

 姉がいなければわたしは一日だって生きていられない。

 もちろん、薬草を必要とすればの話だけれど。

 庭に出る。薬草を手でちぎり、畑の土にばら撒いた。

 毒草の魔力は土にまじり、一時的に土地を毒に染めあげる。いっぽうで霊素は魔力に集まる性質がある。時間が経てばこんどはいっそう霊素の肥えた土になる。

 おかげでうちの庭には、姉妹で年中おなかいっぱい食べられるだけの野菜がなっている。お腹の虫が鳴きわめくことは滅多にない。

「お肉がね。問題だよね」

「そうね。でも、かわいそうだもの」

「食べるように育てたら? そういうのあるんでしょ、なんだっけ、カゾク?」

「家畜。家族はとてもたいせつなものよ、無闇に食べてはダメ」

「そっか。カチク、カチク」

 口の中で転がすようにすると、

「わたしたちも家族なのよ」姉は言った。

「そうなの?」

 姉妹ではなかったかと思うけれど、べつの呼び方もあるのかもしれない。「それはだいじだね」

「ええ、とても」

 わたしは姉のベッドのうえに飛びこみ、そのまま姉のとなりに潜りこむようにした。

「あらあら、きょうは甘えん坊さんね」

「甘いの?」

「どうかしら」

 姉は目を細める。「食べてみないと分からないわ」

「どうぞ」

 腕を差しだすようにすると、姉は目をぱちくりと見開くようにし、それからやおらにわたしの手首を唇ではんだ。

 あむあむ。

 美味しそうに食べる真似をし、ごちそうさま、とわたしをぎゅうと抱きしめるようにする。

「オクスリ飲まないと」

 ずっとそのままでいたかったけれど、姉はいちにち三回薬草を煎じた薬を飲まなければならない。

 薬草を煎じるときは、砕いた霊晶石をひとつまみ入れる。

 霊晶石は霊素の塊だ。

 たいへん硬いので加工するのがむつかしい。砕くときも専用の道具を使わないと傷一つつかない。

 専用の道具は何かの牙のようで、見ようによってはツノのようでもあった。

 魔物のツノよ、と姉は言う。

 きっとわたしをからかっているだけなのだ。

 ときおり姉は無意味にわたしを怖がらせることを言った。

 でもわたしが本当に怖かったことはいちどしかない。姉のクスリに霊晶石を混ぜるのを忘れたときのことだ。

 夜のクスリが到らなかったせいで、朝起きると姉の病状が悪化していた。全身どす黒く変色し、まるで悪魔にでも蝕まれているようで、あんなコワイ思いはもうにどとしたくない。

 だからどんなに眠くてもわたしは毎朝決まった時間に起きて、姉のクスリをつくるのだ。

「ネーネ」

 わたしは姉をそう呼ぶ。「そろそろイシコロとってこなきゃダメかも」

 手元に残った霊晶石は、ネズミの頭くらいしかない。予備があったと思っていたのに、いつの間にか消えている。ひょっとしたら毒草か何か、魔力のつよいものに触れて中和されてしまったのかもしれない。魔力と反応すると霊晶石は青白く発光するので、火を焚きたくないくらいに暑い日には、家の明かりとして重宝している。

「補充してきていいでしょ」姉の太ももに圧し掛かるようにする。

「そうね。あすはお天気もよいみたいだし、お願いしようかしら」

「ついでにそのぉ」

「いいわ、言って」

 姉は見透かしたようにこちらに両手を突きだすようにする。わたしはその手のなかに飛びこむようにして、姉の胸元で、姉の顔を見上げながら、

「お肉もとってきていい?」

「うーん」

「わたしだって食べたいよ。ネーネはいいよ、こんなにおっぱい大きいんだもの」

「あらま」

「わたしのこれ、見て」

「うふふ。お肉のせいじゃないわ、もうすこししたら大きくなるわ」

「ホントぉ?」

「ええ。ただ、私はこのままでもじゅうぶん可愛いと思うわ」

「ネーネみたいになりたいの!」

 ついでにお肉だってたんまり食べたいし。

 姉の胸に顔を押しつけながら、姉の日向の匂いをお腹いっぱいに吸いこむ。

「あらあら。きょうは駄々っ子さんなのね」

「だってぇ」

「わかりました。でも一つだけ」

「なぁに」

「カーテンには近づかないこと」

「言われなくたって」

「本当にダメだよ」

「分かってるってば」

 耳に蜘蛛の巣が張るくらい言われつづけていて、なぜ姉はまだ言い足りないと思うのだろう。そんなにわたしがぽんぽこりんだと思っているのだろうか。

 ぽんぽこりんってなんだ?

 思ったので姉に訊いた。「ぽんぽこりんってなに?」

「あら」

 姉は口元を手で押さえ、

「よく知ってるわね」

 なぜかせつなそうにほころびるのだった。

 翌日は雲一つない晴天だ。姉の言ったとおりだ。

 これまでだってそうだ。姉は正しいことしか言わない。

「行ってきまーす」

「お昼には戻るのよ」

「はーい」

 外に出てからはたと思いだし、踵を返す。「オクスリ、きょうの分、夜のと合わせてそこに出しといたから」

 じつはそれで霊晶石は最後だった。不安にさせるとわるいので黙っておく。

 もっとはやくに申告しなければならなかったことも相まって、言いだせる気分ではなかった。

「準備がいいのね。ありがとう」

 本当は責められてもおかしくはない場面で、褒められてしまったわたしは、もちろん素直に、鼻を高くする。

 家を出る。

 なぜうれしいと鼻が高くなった気になるのだろう。分からない。なんとなく姉に近づいた気になるからかもしれない。

 たしかに姉の鼻筋はスンと通っていてステキだなと思う。

 反射板に映るじぶんの顔とは大違いだ。反射板は姉がつくった道具で、水桶に張った水よりもよく顔を映す。むかしの姉はよくそういった工作をしたらしい。

 記憶のなかの姉はいつもベッドのうえでしずかに本を読んでいる。思いだせる範囲で姉が何か工作をしていたことはない。

 材料がないのかもしれない。

 言ってくれればとってくるのに。

 思うけれど、姉のもとを離れるのはときどきでいいようにも思え、やはり姉にはベッドのなかでぬくぬくしていてほしいものだ。

 結論付けたころには、目的地に辿り着いている。

 谷だ。

 山の麓に大きく、すり鉢状にヘコんでいる場所がある。盆地よりもずっと深くて、なぜそこに雨水が溜まらないのかふしぎなほどだ。もし溜まっていればきれいな湖ができたかもしれない。

 ひょっとしたらむかし湖があって、干上がってしまったのかもしれないとも思ったけれど、谷底には霊結石ばかりがゴツゴツと表面を覆っているばかりで、生き物がいた痕跡、たとえば骨やら苔やら、草一本生えていない。

 姉は以前、言っていた。霊素もつよすぎると毒だ、と。

 だから森の獣たちもここには近づかない。

 谷のすべてがこちら側にあるわけではない。谷はカーテンで二つに区切られている。ちょうど三分の二ほどがこちら側にあり、残りはカーテンの向こう側だ。だから霊結石をとるときも、谷のはじっこ、大きな円の縁に降りるだけで、完全な谷底まで降りることはない。

 ただ、もうずいぶん霊晶石をとってしまった。

 霊晶石は谷の表面を覆っている。どれも砂じみていて、手ですくうと砂利とまざる。岩みたいに塊になっているのは、おおかた取り尽くしてしまったのだ。

 なれば、もうすこし先に降りて、こんどはとうぶんここに来なくても済むくらいに大きな霊晶石をとって帰ろう。そうすれば姉のそばを離れずに済むし、わたしの鼻はうず高く伸びるだろう。

 雲を突き抜けたあたりでポッキリ折れてしまった鼻を思い描いたころには、ずいぶん谷をくだっていた。

 地面がたいらだ。ほとんど谷底と言っていいかもしれない。

「うひょー、いっぱいあるー」

 霊晶石の塊がごろごろしている。

 霧が濃く、視界があまりよろしくない。

 気づくと、いつの間にやら太陽までかすんでいる。

 谷とはいえ、日差しが届かないほど深くはないはずだ。

 耳鳴りがする。

 砂利を踏みしめる音がずっと遠くまで響いている。

 背筋が冷え、なんだか急に家に帰りたくなってきた。

 ひょっとして。

 イヤな閃きを得る。

 カーテンを潜ってしまったのかな。

 考えるとぞっとした。

 そこまで進んだ憶えはない。

 けれど思えば地面ばかり見ていて今じぶんがどちらの方向を見ているのか判らなくなっている。まっすぐ進んでいたつもりだのに、振り返るとそちらのほうが霧が濃い気がする。

 辺りをぐるぐると見回すともう、じぶんがどちらからやってきて、家への帰り道はどこか、分からなくなってしまった。

 まるで姉の存在感まで薄れたようだ。今にも泣きたくなってくる。

 胸に抱いた霊晶石を背中の籠に放りいれ、ずっしりと重たくなった身体をひとまず、一歩二歩とまえに進める。

 しばらくすると霧に影が見えた。

 歩を止めると、影も動きを止める。

 歩きだすと、影も動く。

 じぶんの影だ。

 そう思った。

 出口が近い。

 そうも思った。

 けれど歩きながら、

 あれ?

 なんか妙だな、と不安になる。

 まえに影があるということは、光は後ろから差していることになる。だったら進むべきは背後ではないの?

 それよりなにより。

 歩を止める。

 肝心の光が、背後にも、どこにも見当たらない。

 目のまえには、反射板のようにこちらの姿を映しだす、巨大なカーテンがそびえている。

   ***

「どうしよう」

 来てしまった。さんざん姉から近づくな、と言いつけられていた場所にわたしは今立っている。

 カーテンと呼ぶだけあって、なんだか物理的に壁がそこにあるようだ。

 ふしぎと、じぶんの姿は映るのに、霧は映りこんでいない。

 周りが霧である分、なんだかカーテンを境に急にモヤが晴れたように見える。

 もしかしたらこれは霧ではない可能性もあるけれど、それを確かめる術はないのだった。

「どうしよう、どうしよう」

 引き返すほかないのに、一寸先は闇をまた突き進む勇気が湧かない。なんだったらいっそのことカーテンの向こう側に進みたい気にすらなる。ややもすれば、じぶんはこのカーテンをいちど潜ってしまっているかもしれず、とどのつまりじぶんの帰るべき家は目のまえの仕切りのさきにあるのかもしれなかった。

 その感覚はなんだか確信じみていた。

 抜けられるのだろうか。

 壁のようなものではなく、本当にただ空間を仕切っているだけかもしれない。腕を伸ばすものの、

 弾け飛んだらどうしよう。

 思いとどまり、足元の霊晶石を拾いあげる。

 放り投げてみると、石はそのままカーテンの向こう側に転がった。

 すり抜けたのだ。

 なんだ、通れるじゃん。

 思うけれど念のためもういちど、こんどは砂利ごと掴み、投げ捨てる。

 一部だけではなく、カーテンが広範囲に安全かどうかを確認したかった。

 期待はけれど、大きな爆発音と共に砕け散った。

 なんとこんどは放り投げた砂利が一瞬でススになった。

 さっきはだいじょうぶだったのに。

 思い、霊結石を投げてみる。

 難なくカーテンをすり抜ける。

 おかしいな。

 はたと思いつき、こんどは霊晶石ではない、単なる石ころを掘り返し、投げてつけてみせると、案の定、大きな音を立てて石ころはススになって、霧にまぎれた。

 霊晶石だけが例外なのだ。

 あっちとこっちを行き来できるふしぎ石だ。

 やはり帰るべきは背後なのだ。

 思い、顔をあげると、目のまえに大きな影があり、息を呑む。

 大きい。

 カーテンに映ったじぶんの姿ではない。

 否、じぶんの姿はそこにある。それを上から塗りつぶすように、クマのような巨体がこちらをじろりと見下ろすように立っている。

 顔はない。

 否、あるのかもしれない。暗くてよく分からない。

 ツノめいた突起が頭部にある。身体の輪郭はところどころささくれ立っており、何かそういったウロコのようなものをまとっているのだと判る。身じろぎひとつせず、それはそこに佇んでいる。

 ずっといたのだろうか。

 否、そんなことはない。さっきまではいなかったはずだ。

 先刻の実験を思いだし、大きな音をだしすぎたかもしれない、と後悔する。こっちにくるのだろうか。こっちから向こうには行けずとも、あっちからこっちにはこられるのかもしれない。

 だからこそ姉は口を酸っぱくして言っていたのだ。耳に蜘蛛の巣が張りそうなほど何度も、

 近づくな、と。

 辛抱強くにらめっこをしていると、やがて気づかれていないのではないか、と思えはじめた。

 カーテンにはじぶんの姿が映る。

 向こう側からすると、巨大な影が反射しており、わたしのちいさな身体は見えなくなっている可能性がある。そうだ、そうに違いない。

 現にこうして、こちら側からはわたしの姿のほうが濃く映っている。

 そうか、なるほど。

 目のまえの影になぜ気づかなかったのか腑に落ちた。

 大きな影の主は、徐々にこちらに近づいていたものの、その影は、ゆっくりと濃くなりながらカーテンに映しだされていったのだ。畑の野菜たちも、日中じっと見ていては成長しているか分からないのに、一晩挟むだけで見違えるように大きくなっている。夜中に急激に大きくなっている可能性はゼロではないけれど、あれはきっと、ゆっくり成長しているからじっと見ているだけでは気づけないのだ。

 カタツムリがいつの間にか葉っぱの上からいなくなっているのと同じ現象と言えた。

 わたし、あったまいいー。

 余裕ができたこともあり、ひとまず目のまえの大きな影が去ってしまうまで、じぶんを無駄に褒め称えながら、このまま動かずにいることに決めた。

 我慢勝負だ。

 しばらくすると大きな影に変化があった。

 滑らかな動きで腕を掲げると、背中から長い棍棒のようなものを取りだす。スルスルと天に伸びるそれを大きな影は頭上に掲げたまま、振り下ろすようにする。速度はない。

 何か試すような、切るのではなく測るような動きで、棍棒じみた道具を水平にした。それの先っちょがカーテンに触れる。

 耳を塞ぎたくなったけれど、思いとどまる。

 動かずにいると、棍棒じみた道具は、するするとカーテンをすり抜けるではないか。

 なんじゃー!?

 内心取り乱しながら、何とか腰を抜かさないように踏ん張った。

 棍棒じみた道具の先っちょが、わたしの頭のうえのほうにある。

 影の主の身体が大きくて助かった。

 もし同じくらいのちっこさだったら、今ごろド突かれているところだ。

 棍棒じみた道具はどうやら細長い刃物のようだ。たしか姉の本で見た覚えがある。刀というものだ。

 刃の部分が霊晶石でできている。

 霊晶石は加工がむつかしい。どうやったらこんな形状にできるのだろう。専用の道具、姉が言うところの魔物のツノを使っても、こんなにきれいに加工はできない。

 そこではたと閃いた。

 ひょっとしてこの大きな影の主が魔物ではないの?

 いちどそう思うと、ああそうだ、そうに決まっている。

 急に現実味が薄らぎ、あたまの中がしずかになった。なんだかクラクラ目まいのようなものがするけれど、きっとあまりの事態に考えがついていかないのだ。

 のろくなった思考のおかげで、てんやわんやだった気持ちが落ち着いた。

 大きな影は、しばらく霊晶石でできた刀を上下に振ったり、よこに振ったりした。そのつどわたしは、ぶつかるぶつかる、と冷や汗を掻いた。

 姉のおっぱいのやわらかさを思いだすことで、なんとかその場にじっとすることに成功した。

 姉の懐の深さ、そしてそのふくよかさには死の恐怖を忘却するだけのちからがある。

 刀をいくら振ってもカーテンに変化はなかった。どうやらカーテンを切りたいらしいぞ、と大きな影の思惑を見抜く。

 間もなく、どうあっても埒が明かないと判断したようでカーテンから刀を引き抜くと、大きな影は八つ当たりのように、足元にある霊晶石の岩を真っ二つにした。

 その岩はちょうどカーテンにまたがっており、あっちとこっちに半分ずつ属していた。それを大きな影は何の気なしに切っただけだった。

 矢継ぎ早に踵を返そうとしていた大きな影は、けれどふたたび身体をこちらに向け直す。

 真っ二つになった霊晶石の岩は、ちょうどカーテン上で左右に割れた。その開いた間隙に沿って、カーテンがきれいに割れている。

 まるで滝に丸太を差しこんだ具合に、カーテンに穴が開いたのだ。

 ぎょっとしたのは大きな影だけではない。ちょうどその穴は、こちらの背丈と同じくらいの高さがあった。丸見えなのだ。上から見下ろすようにしていた大きな影はその場にしゃがむようにし、穴を覗きこむようにする。

 目が合った。

 否、相手の顔は相も変わらず井戸のように暗く見えない。にも拘らず、明らかに意識がこちらに注がれていると判った。

 ヘビに睨まれたカエルの気持ちが分かるようだ。でもヘビはカエルのいる池のなかには入れないようだ。

 カーテンに開いた穴がちいさくてよかった。

 大きな影の身の丈の高さに感謝したくなるほどだ。

 わたしは一歩後退する。ジャリ。じぶんで立てた足音にびっくりする。飛び跳ねたのを皮切りに、わたしは転がるように駆けだした。

 その場を脱し、濃い霧を掻き分け、いくどもひざを擦り剥きながら、谷を駆けのぼり、喉がカラカラと黄色く悲鳴をあげはじめたころ、見慣れた景色、野菜園を囲う獣除けの柵が見えてきた。

 わたしは柵に寄りかかり、まずはさておき、水が飲みたいと井戸に向かった。

 顔を洗い、家に戻ると、

「おかえり、はやかったね」

 本を閉じた姉の笑みが出迎えた。

 どっと疲れが噴きでるようだ。姉の胸に飛びこみたい気分だったけれど、言いつけを破ってしまった手前、いつものように振る舞えない。

「お肉はどうしたの」

 わたしは黙っている。

「何かあったの」

 姉は容易くこちらの異変を察知して、

「何か見たの?」

 怪我はない?

 危ない目には遭わなかった?

 つぎつぎと質問を並べ立てては、だんまりを決め込んだままのわたしのばつのわるそうな様子から、すべてを見透かしたように、間もなく、

「そう」

 零したきり、わたしを叱りつけることもなく、ただ窓のほうを見詰めた。

 夜がどんよりと滲みだしたそらにもカーテンは灰色の世界を垂らしている。

 姉が寝しずまったころ、わたしはこっそり家を抜けだした。

 本当はもうくたくたで、寝てしまいたかったけれど、そういうわけにはいかない事情があった。

 霊晶石がないのだ。

 谷から逃げ帰ったわたしは、あろうころか、お肉だけでなく霊晶石まで忘れてきてしまったのだ。

 家に在庫はなく、あすの朝、姉の飲む分のクスリを用意できない。

 これではたいへんなことになる。

 クスリの管理はわたしの仕事だ。姉は任せてくれているのだ。長年築きあげてきた信頼のなせる業だ。わたしがその信頼を破ってしまうわけにはいかない。

 姉に失望されるくらいなら、言いつけの一つや二つ破ってもいい。どっちにしろガッカリされるかもしれない。哀しい顔をされるかもしれない。それでもどちらが姉を傷つけるかを考えれば、おのずと答えは決まってくる。

 わたしの姉からの評価なんかどうだっていい。

 否、失望されるのはやっぱりイヤだけれど、わたしは姉の身体こそだいじなのだ。

 夜の森は、驚くほど暗い。

 月の有無など関係ないようだ。

 谷底ともなればもっとだろう。ただし、谷の付近に木々は生えていない。底まで降りなければ、月明かりで霊晶石を探しだすくらいはできるはずだ。松明を燃やすには手間がかかりすぎる。家で灯したのでは姉にバレてしまう。谷までならば足元が覚束なくともなんとかなる。道は身体が憶えている。ちいさいころからずっと通っていた道なのだ。

 姉に信頼してもらえるくらいずっと。

 あとすこしで森を抜けるというところで、明かりが見えた。

 火がある。

 火事だろうか。

 雷で山火事になったことは過去にも幾度かある。つど、川の水門を開け、家の周りの堀に水を流し、即席の防壁をつくった。

 森は焼けてしまうが、家は無事だ。

 家さえ無事ならそれでいい。

 森は谷が近いこともあり、すぐに復活する。霊晶石が植物の生命力をつよめるからだ。

 息を殺し、窺うと、火は森ではなく谷底にあった。点々と松明の明かりが見えている。すくなくない数だ。シチューがごとく、まるで夜空の星々が谷底に掻き集められたようだ。

 光っているのは松明だけではない。霊晶石までもが、青白く発光している。

 似たような光を畑でよく目にする。

 魔力と反応すると霊晶石はこうした光を発するのだ。

 谷底に魔力が溢れているのだと判る。

 でもどこから。

 そこではっとする。

 淡い光のなか、谷底にぽっかりと穴が開いている。

 ちいさくはない。

 ここからでもハッキリと、夜より深い闇が開いていると判った。

 カーテンが裂けている。

 やつらはそこからやってきたのだ。

 向こう側から。

 魔物たちが。

 どうする、どうする。わたしは動転した。

 こういうときは姉のふかく、ふくよかなおっぱいのことを考え、落ち着くのがいちばんだ。深呼吸してから、わたしはバカか、と頭をかきむしる。

 だいじなのは姉ではないか。

 まずは姉にこのことを報せ、逃げるならば逃げなくてはならない。

 身を隠すならどこがいいか。

 足を運んだことのある場所をあたまのなかでパタパタと本をめくるように広げながら、家へとつづく道をさかのぼる。いちにちに二往復はさすがに身体に堪えるものの、弱気なことを言ってはいられない。

 家には明かりが灯っていた。

「ネーネ!」

 家に駆けこむと、姉はすでにベッドから起きており、家の真ん中に立っていた。絨毯をめくるようにする。

 四角い溝が現れる。

 隠し扉だ。

「おいで」

 姉は扉を開けると、ぽっかり空いた穴のなかを下りていく。階段があるらしい。

 家のしたに部屋があったなんて。

 階段はずいぶん長く伸びており、その側面は、明かりがなくも、青白い光で満ちていた。

「ここは?」

 姉は黙々と階段を下りつづける。やがてひと際つよい光が目に飛びこんできた。あまりに眩しいので、目を開けていられない。

 両手で顔を覆うようにし、ゆびのあいだから薄めで覗くようにする。

 まずは広い空間だということが判った。

 家の下に、家よりも大きな空間がある。そこに、巨大な青白い塊が浮いている。台座や、柱のようなものはない。

 宙に浮いているのだ。

 霊晶石の塊だと判る。

 こんな大きな結晶は谷底にも落ちていない。姉の身体が百体は納まりそうだ。煎じて呑めば、百年と言わず、一万年だって難なく過ごせる。

 なぜ姉はわざわざ谷底までとりに行かせたのだろう。

 こんなにあるならわざわざ調達しなくとも。

 そこまで考え、はっとする。

 青白く光っているのだ。

 これだけのつよい光だ。

 反応している魔力の量も並大抵のものではない。

 さきほど目にした谷底での光景など比べものにならない。

 いったいどこにそんな魔力が。

「ウソなの」姉は言った。

 巨大な霊晶石の塊に触れ、

「何もかも、あなたに話したことはウソ」

 眉を八の字にしながら、天井を、そこは家の床下でもあるのだけれど、仰ぐようにした。「おかしいと思わない? 霊晶石は魔力に集まる。同時に、魔力と反応して、対消滅する。魔力がつよいところほど霊晶石はたくさん集まり、そしてその中心だけぽっかりと空白があく。渦のように中心だけ何もない。ならどうして谷底にあれだけある霊晶石が、家の周りにはないの? どうして谷底にはいつまでも霊晶石が残っていて、家の周りには結晶化しないの? 植物が魔属化するほどの魔力がある土地なのに」

「それは……」

「絶えず中和されるから。対消滅しつづけているから」

 頭がクラクラしている。目まいのようなものがあたまのなかをかき混ぜている。

「この中には私の心臓があるの」

 姉は巨大な霊晶石の塊を撫でる。「ずいぶん昔、そう、あなたがやってくる、ずっとずっと前に、私はこうされるだけのことをして、こうして、その代償を払うことになった。カーテンのなかに閉じ込められ、長い時間をかけてジワジワと、ヤギに舐められ、肉を削がれるような苦痛の果てに、消滅してしまう宿命を背負わされた。でも、命が尽きる前に、あなたがやってきた」

「どこから?」

「そとから」

 カーテンの向こう側からあなたは来たの、と姉は言った。

 霊晶石を縫いこんだ布に包まれ、わたしはカーテンの内側、姉のいるこの世界に捨てられていたという。

 否、正確には守られていたのだろう。

 そばにはカーテンに触れ、弾け飛んだと見られる人物の遺留品が、カーテン一枚隔てた向こう側に落ちていたそうだ。

 布を何重にもくるむことの可能な赤子とは違って、大人の身体は大きい。ただでさえ加工のむつかしい霊晶石だ。それを縫いこんだ布ともなれば相当に貴重なものだ。

 付き人のほうはカーテンの威力に耐えられなかったのだろうと姉は語った。

 姉の身体がどす黒く変色していく。

「この身に宿した呪いのつよさは、私の魔力のつよさに呼応する。おまえを拾い、育てるうちに、朽ち果ていくさだめに抗いたくなってね。心の臓から命を吸いとられる前に、なんとかしようと試したよ、いろいろとね。可能なかぎり魔力を削りとっておけばどうなるかと思い、呪いに魔力を奪われる前に、身体の内部から直接魔力を中和しておこうと考えた。ないものは奪えない。人間並みに脆弱になる代わりに、呪いの侵攻を防げるのだと知った」

「わたしのつくってたクスリはじゃあ」

「毒でもある。魔力を糧とする者たちにとってはね。ただ、つよすぎる呪いのまえでは、抑制剤にもなる」

 姉はようやくこちらを見た。

 つよい光に目が慣れてくる。

「カーテンは、いわば結界だ」

 コレがつくりだしている、と姉はふたたび巨大な霊晶石の塊を撫でる。「私をここに閉じ込めるためのものだ。同時に、そとからの干渉も防いでいる。私のかつての友たちが私を解放しようと奮起しないともかぎらないだろ。内からも外からもどうにもできない、不可侵領域にするために、コレを中心にカーテンは円形に展開されている。誰にも破ることはできない。私が朽ち果てるまでは」

 裏から言えば、カーテンが展開されつづけているうちは、姉が生きながらえていることになる。話のつづきを予想しながら姉の声に耳をそばだてる。

「とっくに消えているはずの結界が、何年もそのままだ。私に呪いを科せ、閉じ込めた者たちは不安でたまらなかっただろう。いてもたってもられなくなり、使者を放つころあいだとは思っていた。覚悟はしていたよ。時期的に、つぎの逸脱者が育っていておかしくはないからね。おまえが遭遇したのはきっとソイツらだ。私を呪縛するほどのつよい魔力を秘めた、秘めておきながら魔族ではない者だ。世の理を外れた存在だ」

 魔力を秘めているならば、必然、霊素にも好かれるはずだ。

 いつでも身体は霊素をまとい、魔力を操ることで、霊素をも自在に錬成可能だ。

 刀のカタチを成した霊晶石を思いだす。

 巨大な霊晶石の塊を見上げるようにする。

 それこそ魔力を自在に操れれば、これほど巨大な霊素の結晶をつくりあげることも不可能ではない。

 本当に、真実、そんなバケモノじみた者がいるならば。

「私はもうすぐ死ぬ。おそらく奴らの手で殺されるだろう」

 わたしは首を振ることしかできない。

「おまえも無事では済まされない。気づいてないかもしれぬが、魔族ではない者がこれだけの霊晶石を真下にして生きていけるわけがない。カーテンをくぐることはできても、こちらの世界で生きながらえることは通常できないはずなのだ」

「なら」

 わたしも姉と同じなのではないのか。

 祈るような気持ちで訊いた。そうだと言ってと。

「いいや。おまえは魔族ではない。ただきっと、ふつうの人間でもなかったのだろう」

 だから捨てられた。

 否、追手のかからない、ぜったいに安全な場所に、一縷の望みをかけて、放りいれた。

 誰が?

「それは解らん。ただ、この場所を知っている者は限られる。そして、おまえが魔族ではない時点で、可能性は絞られる」

 姉はそれを承知で、わたしを育てたのか。

 なんのために?

「復讐したいの?」

「それも考えた。だからおまえには何も真実は教えず、私の素性も黙っていた」

「なら」

 わたしは鼻から息を吸いこみ、言った。「今ここでしていいよ。復讐。ネーネの好きにして」

 わたしは姉に近づく。

 姉は巨大な霊晶石に触れたままだ。空いた腕をこちらに伸ばす。

 頭上で物音がする。

 やつらがきたのかもしれない。わたしたちの住処を荒らす何者かに苛立ちを覚える。それもすぐに消えた。

 わたしは姉の手に触れる。

 腕に、胸に、腰にすがりつくようにし、日向の匂いを身体いっぱいに吸いこんだ。

「私は嘘しか言わなかった」

 わたしはうなずく。

 それでもいいと思った。なんだっていいと思った。こうして最後まで姉のそばにいられたなら。

「ただ、おまえと暮らして、生きながらえたいと望むようになったのは本当だ」

 そうなの。

 いっそうつよくしがみつくようにする。

「忘れるな」

 姉は言った。「おまえだけは虚偽(うそ)じゃない」

 光の割れる音がする。

   ***

 目を覚ますと、どこまでも突き抜けた藍色が広がっている。

 霊晶石の粉末のような輝きが、夜空に点々とまぶしてあり、姉のクスリを用意しなくてはと自然と思い浮かべている。

 上半身を起こす。

 身体の節々が痛いのは、岩盤のうえに寝ていたからだ。

 辺りには何もない。

 森も、山も、わたしの家だって、姉の姿すらなかった。

 ネーネ。

 段々と眠ってしまう前の光景がよみがえる。影のようにあとを追って、洪水じみた感情が溢れた。

 わたしは姉を呼ぶ。

 いくども叫びながら駆け、見慣れた風景を探そうとした。

 どこまで行っても、いっこうに見知った場所を目にすることはなかった。

 夜が明けていく。

 足場はどこも背の低い草が覆っている。ぽつり、ぽつりと木々が生え、見晴らしがいい場所なのだとわけもなく思った。

 池のようなものがちらほらとある。

 しばらく歩くと、地面から生える妙な棒を見つけた。

 先端に三角形の布がついている。

 根元にはなぜか穴が開いており、中にはなんの鳥のものなのか、びっくりするくらい真ん丸の卵が入っていた。

 ナーイスショット。

 どこからともなく、妙な鳴き声が聞こえてくる。

 わたしは身構えるともなく、拳をつくる。

 握ったり、開いたりを繰りかえす。

 妙な箱が、人を乗せて動いている。白い卵がそらを飛んでいる。地面に落ち、いくどか弾みながら線を描く。

 わたしは拳をほどき、胸に置く。

 なにか、胸の奥のほうがざわついている。

 ざらざらとしたそれを思い描きながら、手を胸から離す。ゆびにまとわりつく、砂のようなものを感じた。

 目を落とす。

 嗅ぎ慣れない草の匂いを縫うように、青白い光がキラキラと帯を描き、揺れている。  




【ラストレター】(BL)


 いわゆる長馴染みだねと言ったら、きみはひどく困った顔をしたね。頬をゆびで掻きながら、たしかに小学校からの付き合いではあるが、ときみは言い、それから、でも幼馴染みとはなんかちがくないか、と真面目ぶった顔で続けた。きみにとっての幼馴染みは、隣の家に住んでいて、家族同然の付き合いをしていて、面倒見がよく、喧嘩をしては翌日にはコロッと忘れてまた遊びだすような、そういった女の子を意味していたのかもしれない。「そうだね。幼馴染みではないかも」ぼくは上手に笑えていたと思う。「まあ、たしかに長い付き合いではあるか」わざとらしく付け加えたきみは、なぜかそこで、「あー、かわいい幼馴染みほしい」と言った。「彼女ほしいだけでしょ」ぼくが言うと、「ホントそれな」ときみは陽の沈みかけたそらを見上げた。ぼくはきみの横顔を眺め、目のしたにあるホクロがむかしからそこに変わらずにありつづけている普遍性に思いを馳せたのを、ふしぎとついさっきあったできごとのように憶えている。きみはそれから道を分かれるまで、ぼくと目を合わさなかった。きみとは小中高と同じバスケ部に所属していたね。ぼくのほうが歴は長いけれど、あっという間に実力は逆転し、気づいたらぼくのほうがきみの補欠として、試合になればベンチに座っていた。誰が見たってきみのほうがうえなのに、なぜかきみはいつも、ぼくに助言を求めた。誰かに何かを求められることに慣れていなかったぼくは、おそらく上手に言葉を返せなかったはずだ。それでもどうにかきみに満足してほしくて、搾りだすように言葉を紡ぎ、語りかけた。ひょっとしたらきみは、みんなの輪の中に入れずにいたぼくを気遣って、わざとそうしてくれていたのかな。今になって恥ずかしく思う。そのときだけはきみと肩を並べていられる気になれていたのだから。大学はべつべつに進学したね。学力だってきみのほうがうえで、ぼくはすぐに大学を辞めることになったけれど、きみはそれでもぼくとの縁を切らずにいてくれた。努力してくれていたのだと素直に思う。そうでなければぼくはとっくに独りになっていただろうからね。バスケ部に所属していたきみが、休みの日には時間を割いてぼくをストリートバスケに誘ってくれていたのは、部活の先輩がムカつくというきみの言葉を信じていたぼくにしてみれば、体のいい暇つぶしの道具にされていたようで、あまりいい気分ではなかった。白状すればそうなんだ。ぼくはもっときみと並んでいたかった。同じ目線で世界を眺めていたかった。でもむかしっからきみはぼくのまえを三段飛ばしで駆け抜けていく。ぼくにはもう、ずいぶん前からきみを追いかける資格なんてなかった。いや、たとえ資格があったとして、ぼくのほうにその気力が湧かなかった。いつだってそうあってほしいという願いがあるだけだ。諦めていたのかもしれない。それでも諦めきれないのだからなかなかどうして性根が腐っていると言える。自虐がすぎるとまたきみを不快にさせてしまいそうだ。そうそう。きみと幼馴染みの話をしたそのすぐあとのことだった。きみから彼女ができたと聞かされたのは。部活のマネージャだと言って彼女をストリートバスケのコートに連れてきたときにはすでに、ひょっとしたらきみたちはもうそういう間柄になっていたのかな。部活のマネージャなのに休日まで追いかけてくるなんて。ご苦労様なこって。こころのなかでそう彼女を労っていたぼくは、暢気というほかなかった。でもそれはきみにも責任の一端がある。きみがあまりに彼女に素っ気なかったものだから、ぼくの油断を誘ったんだ。明らかに彼女はきみを意識していたけれど、きみは彼女にしゃべりかけもしなかった。ぼくのほうが彼女と仲良くなったと思えたくらいだからね。思えば、あのときからきみはぼくにもどこか素っ気ない態度を示していたように思う。彼女を取られるとでも思ったのかな。嫉妬とは無縁そうなきみのことだから、そこはぼくの邪推ということにしておこう。そういえば、彼女と旅行にいくから、そのあいだの代返をぼくに頼んだことがあったね。どうしても帰りの飛行機の都合で、半日だけ授業にでられないとかで、ぼくがきみの代わりに授業にでたっけ。驚いたよ。その授業、その日がテストで、時間内に小論文を書いて提出しなければならなかったんだから。憶えているだろ? 忘れているなんて言ったらさすがのぼくもへそを曲げるよ。そのときの小論文の評価が、きみにとっての初めてのA評価プラスだったはずだ。ぼくより頭はよいといっても、あの大学の偏差値では、きみの頭脳を以ってしてもB評価が最高だったみたいだね。思えば、ぼくに小論文の結果を教えてくれたとき、きみはすこし様子がおかしかった。あれは今思えば、悔しい気持ちを隠していたのかな。大学を中退した高卒のぼくに、きみは初めて堂々と負けたわけだ。きみにとっては認めがたい敗北だったのかもしれない。でもそこは悔しがらなくたっていい。堂々としていてほしい。なにせぼくは、きみがそうやって大学で勉強をし、身体を鍛え、彼女をつくっているあいだ、ずっと小説をつくっていたのだから。きみの過ごしていた時間の大半を、文章を組み立てるという作業に没頭していたのだから。テーマさえ与えられていれば、大学の講義程度の小論文くらいは目をつむっていたって紡げるさ。いや、すこしかっこうをつけすぎた。じつは、きみに見直してほしくて、感心してほしくて、認めてほしくて、いくぶんかはりきってしまった。本音を披歴すれば、じぶんの小説をつくるときよりも頭をつかった。A評価プラスでなければ割にあわないくらいにね。そうそう。きみから、彼女が浮気をしているかもしれない、と相談の電話がかかってきたとき、じつはぼくはプロの小説家としてデビューできるかどうかの瀬戸際だった。それでもきみからの電話にでたら、そんな焦りはどこかに飛んでいってしまったよ。あまりにきみの声が震えていて、哀れで、ぼく以上の切羽詰まった感を漂わせていたものだから。ああ、彼女はこんなにもきみに想われていたのか、と考えたら、なんだかすこしいじわるをしてしまいたくなった。だからそう、ここは素直に謝らせてほしい。すまない。きみに言った慰めの言葉の数々、それはたとえば、きみの思い過ごしだとか、彼女はそんなひとじゃないとか、きみを裏切ったりしないだとか、とかく前向きな言葉を真摯に向けたね。でもけっきょくきみたちは破局した。いちど根付いた彼女への不信感をきみは拭い去ることができなかった。でも、別れて正解だったと思う。彼女は浮気をしていたよ。ぼくはそれを知っていた。知っていて黙っていた。だって言えるわけがないだろ。その相手がぼくなんだから。よくある話だと笑ってくれたらうれしい。笑って許してくれたなら。いや、この場合はもう、許さないでくれたほうがぼくとしてはやりがいがあったと呼べるかもしれない。今になってしまえば、こうしてきみに恨まれるほかにきみに憶えつづけてもらえる術をぼくはあいにくと思い浮かべられないでいるのだから。どうしてそんなことをときみは思うかもしれない。そう、べつにぼくは彼女なんてどうだってよかった。だから彼女がきみと別れたあとに間を置かず、彼女を袖にした。一方的にね。罪悪感がなかったと言えば嘘になるけれど、それより問題はきみにあった。きみがそうして傷心に病み、顔色優れない日々を送っていたあいだ、言い換えれば、卒業を目前に、未だ卒論に手を付けられずにいたきみのそばで、それを手伝っていたあいだ中ずっとぼくは、ようやく取り戻した指定席の思いのほかつよい居心地のわるさに気を揉んでいた。以前のような関係に戻れると思っていた。彼女さえいなくなれば、ぼくはまたきみのとなりに立つことが許されるのではないかと。並ぶことはできなくとも、そばに居つづけることくらいはできるのではないのかとそう、ぼくは夢を見てしまっていた。きょう、彼女から久方ぶりの電話があった。でるつもりはなかった。間がわるかったとしか言いようがない。ぼくはそのときちょうどきみとの思い出に浸っていた。きみと撮った思い出の品、それはたとえばきみと行った遠征先でのちょっとした風景、ぼくのアイスクリームを齧ったきみが鼻のあたまをクリームで汚している様だったり、きみに内緒でこっそり応援にいったときのバスケットの試合の動画だったり、或いは小学生のころ、きみの家族といっしょに行ったキャンプでヘビに怯えるきみの写真だったり、とかくきみに関するデータをメディア端末ごしに眺めていたら、うっかり彼女からの電話を受けとってしまった。タッチパネルというのも考えものだね。彼女は怒っていた。いや、失望していた。それとも自棄になっていたのかもしれない。とかく、どうして、なんで、と責めたてられた。ぼくがなにも言わずにいると、最後に彼女はこう吐き捨てた。「わたしたちのこと、あのひとに言うから」ぞっとした。一方的に蔑まされれば、それで彼女の気が済むかもしれないと高をくくっていたが、現実はそう甘くはなかったらしい。それほど彼女の、ぼくへの執着は、ぼくの予想を越えたものがあった。今ごろきみは、いくら電話をかけても繋がらないぼくを心配して、ぼくのアパートに足を向けているころだろう。それともこのメッセージを読むほうがはやいのだろうか。いずれにせよぼくにはもう、きみのまえに立つ勇気がない。合わせる顔がないというよりもそれはどこか、ぼくがすでに、きみの知るぼくではないというざんねんな事実がぼくにどうしてもこのような行動をとらせようとする。まあ、頃合いなのかもしれない。頃合いだったのかも、しれない。もうずいぶん前からぼくはきみと距離をとるべきだった、なんて今さながらそう思う。ぼくがきみを見て抱くこのきもちが、きみが彼女に向けていたそれと同類のものだとはとても思えないのだけれど、同じだなんて見做したくはないのだけれど、それでもこれだけは言わせてほしい。ぼくはきみのとなりに立っていたかった。今でもその想いに偽りはないけれど、ぼくがきみにしてあげられることなんて何もないんだなんてこと、ずいぶん前にはわかっていたはずなのに、どうしてだろう、諦めきれなかった。いや、とっくのむかしに諦めていたからこそ、踏ん切りをつけるタイミングをうっかり見失ってしまったのかもしれない。きみがいつまでもぼくを見捨てずになんているからだ。きみがうかうか、ぼくのような人間にやさしさを振りまくから、こんなことになってしまった。旅にでることにしたよ。行先は決まっているけれど、きみには教えないでおく。教えたところできみを安心させるだけだろうしね。ぼくは遠くからきみのしあわせを祈っている。うそじゃない。ぼくのいない世界で、しあわせになってくれ。きみのいない世界でぼくはきみの未来を思っている。ざんこくなことを言っているかな。我慢してほしい。ぼくだってきみを傷つけたい。その痛みを百倍にして、千倍にして、万倍にしてほしい。それがぼくの受けつづけてきた痛みで、怒りで、苛立ちだ。ひょっとするときみは何も感じずに、それによってぼくの受けてきた痛みも、せつなさも、どうしようもないことへの憤りも、ゼロになってしまうのかもしれない。そうなることを気持ち半分に期待している。もう半分はやっぱりぼくは、きみをとことん傷つけてしまいたい。ありていだけれど、ぼくという傷を、消えない傷を、きみに残したい。せめてこの手でじかに刻めたらとそればかりが心残りだ。そんな勇気があればもっとべつの未来だってあったのに。やっぱりというべきか、けっきょくのところどれだけ誤魔化してみたところで、どれもこれもがぼくの問題なのかもしれない。長くなった。そろそろ終わりにするよ。だいじょうぶ。死ぬわけじゃない。それだときっとぼくを忘れるほうに努力するからね。きみはきっとそうするよ。わかるさ。ずっと見てきたんだ。さよならは言わずにおこう。ぼくは遠くへいく。それでもきみのそばに、きみの奥深くに、居つづけるのだから。読んでくれてありがとう。これからもよろしく。




【表裏遺体】(ホラー)


 大学で知り合った男と意気投合して、しばらく遊んでるうちにすっかり仲良くなってしまった。こういうのを友達と呼ぶのかもしれない。

 明るく、誰とでも打ちとける性格の男であるが、一つだけ受け入れにくい欠点があった。端的に言ってしまえば、虚言癖がある。霊感とは違うんだけど、と彼は言うが、要するに幽霊や死者の思念が見えるそうだ。

 アホくさい。

 一笑に伏すのは俺ばかりで、ほかの連中は彼の誠実な性格からか、それとも説得力のある物言い、それはたとえば、どこどこの何々には近づかないほうがいいだの、ここはたぶん事故があった場所だねだの、極めつけは友人宅のアパートやマンションへ足を運んでは、何階の何号室は事故物件だ、などと言い並べる。あまりに具体的であるから検索するのは簡単で、いざ調べてみると彼の言動は検索結果と一致する。

 しかし、検索できるのならば前以って調べることもできるわけで、知っていることを頬被りをして「霊が視えるから」と言い添えれば、彼の人徳をして、疑うよりも信じるほうが身のためだと判断する者は後を絶たない。

 俺と同様に疑いの目をそそいでいた者たちまで、しばらくすると、ひょっとしたら本当かもしれない、などと言いだした。人気者の完璧超人を口わるく言うただ一人のひねくれ者として俺は、非難の目に晒されている。

 だが、俺には断言できた。彼には霊感のような特殊能力は備わっていない。なぜだ、と訊かれると困るので、表向きは断言しないが、すくなくとも彼はいちども俺に対して、霊の存在を指摘したことはなかった。

 きょうもいっしょに飯を食ったが、談笑して終わった。

 楽しい時間だった。

 とはいえ、俺はきのうも女を一人犯して殺している。どの遺体もまだ部屋に転がしたままだ。乾燥させてから、湖に捨てる。あとでまとめて処理する予定だった。

 或いは、彼には真実、死者の何かしらが視えていて、俺の裏の顔も知っているのかもしれなかったが、それを黙っている彼の胸中を推し量れば、初めて結んだ友情のことのほか篤い信頼関係には感謝をしておくべきなのかもしれない。かといって、女を玩具扱いするようなクズだと知って縁を切らずにいるような男を初めての友人に迎えるには、いくら俺でも躊躇する。

 だからここは一つ、完璧超人のような彼にも欠点があり、虚言癖があるのだと判断するのが正解だ。

 部屋の遺体をすべて処理したあくる日、俺は彼を誘った。

「きょうは俺ん家で飲むべ」

「や。遠慮しとくよ」

「んでだよ、せっかく部屋きれいにしたのによ。前に来たいつってたじゃん」

「おまえん家はだって」

 彼は何でもないように白い歯を覗かせる。「やけに賑やかで、うるさそうだ」 




【ふしぎで、ぶきみな木】(ホラー)


 飼っていたハムスターが死んだ。

 書店のまえでペットショップの店員が店頭販売していたハムスターで、チューインガム一個よりも安い値段で投げ売りされていた。値段の割によく生き、よく食べ、わたしのおやつ代の半分をひまわりの種に化けさせた前科がある。こうして死んでしまうと生きているときよりも愛くるしく思える手前、失われた命の尊さを思わずにはいられない。

 ゴミに捨ててしまうのはさすがのわたしも忍びないので、骸は庭に埋めてあげることにした。祖母が亡くなってからは庭には草が生え放題だ。こぶし大の穴を掘るのにも苦労しそうで、どうせ引っこ抜くなら手間は同じだとばかりに、背の低い木を根こそぎ、うんとこしょどっこいしょ、した。

 地面には穴ぼこが開く。わたしはそこにぬいぐるみのような愛くるしいハムスターの死体を放りこみ、土をかぶすことなく、うんとこしょどっこいしょ、したばかりの背の低い木をそこに戻した。

 土と根っこのサンドウィッチやぁ。

 不謹慎な独白を内心で唱えつつ、永眠にはできたベッドだ、と愛くるしいハムスターの死体に別れを告げた。

 と、そこで、いまさらながら、墓石代わりとなった背の低い木に目がいく。

 幹はくるっと一回転しており、輪っかが一つできている。葉はすべてくるくる丸まり、葉巻かぜんまいじみている。見たことのない植物だ。

 祖母には生前、海外へと足を運んでは、得体のしれない代物を買い集めてくる習性があった。ひょっとしたらこれもその一つかもしれない。庭を見渡すが、同種の植物は見当たらない。

 貴重な植物だったら面倒なので、念のために母に訊ねるが、知らないしべつに構わないわよ、と引っこ抜いてしまったことへのお咎めはなかった。

「どうせ来月、業者さんに来てもらうんだし」

 伸び放題の雑草を根絶やしにすべく、除草剤を撒く予定であったらしい。初耳だし、庭にはわたしの愛くるしいハムスターの死体が埋まっているのに。

 ぼやいてみせるも、死体でしょ、と母の返事はにべもない。たしかにな、と納得してしまうところに、血の繋がりの、切っても切れないエニシを感じる。

 わたしはそれから愛くるしいハムスターの死体のことなど考えないことにした。考えないようにしよう、と決意するまでもなく、庭からじぶんの部屋に移ると、もう頭のなかからすっぽ抜け落ちていた。たかがネズミの死骸だ、いつまでも憶えているほうがどうかしている。

 だがわたしは忘れていなかった。

 庭に埋葬してからどれくらい経ったろうか、一週間は経っていないはずだ。その日、わたしは二階のじぶんの部屋に干した下着を、うっかり庭に落としてしまった。回収すべく、庭に下りると、ちょうどネズミの死骸を埋めた場所に落ちていた。しぜんと目がいったのは、そこがネズミの墓だったと憶えていたからではなく、そこに生えている植物のカタチが、わたしの記憶にあるものと違ったからだ。

 特徴は一致している。円を描く幹と、くるくるの葉っぱたち。だがこの日、そこには実がなっていた。単なる実ではなく、はっきりとネズミのカタチを模していた。

「げっ。キモチワル」

 背の低い木は、それなりに丈夫であるらしく、重たそうに実ったネズミをぶら下げながらもこうべを垂らすことなく、凛とすずしげに立っている。

 実そのものは、薄い膜のようなもので覆われており、どことなく子宮を思わせた。落ちていた枝で以って、つつくようにすると、ネズミのカタチをした実は、もぞもぞと蠢くのだった。

 生きている。

 さらにつつくと膜は破れ、中から、ころん、と一匹のネズミが転げ落ちた。否、それはハッキリと、埋めたはずの愛すべきわたしのハムスターだとわたしには判った。

 しかし、ハムスターのほうではわたしに憶えがないのか、それともあったけれども、わたしに用はなかったのか、一目散に駆けだして、雑草の密林の奥へと姿を晦ませた。

 わたしは、背の低い木を見遣る。

 なるほど。わたしは見抜いてしまった。

 これはそういう、ふしぎで、ぶきみな木であると。

 根元を掘り返し、わたしはさっそくポケットに入っていた飴玉を埋めた。包装袋のままのと、飴玉単品の二つをそれぞれ植えた機転には、じぶんでじぶんを褒めてやりたい。

 翌日、ふしぎでぶきみな木には、飴玉の実がなっていた。薄い膜で覆われているのはきのうと同じだが、実になっているのは飴玉単品のほうだけだった。

 包装袋は複製されないらしい。そのことは、包装袋だけを埋めてみてハッキリとした。こんどはなんの実も結ばなかったからだ。

 なんでも複製できるわけではないらしい。

 念のため、お金を埋めてみたが、やはり実はならなかった。

 そしてこのときになってわたしはじぶんが大きな勘違いをしていたことに気づいた。ふしぎでぶきみな木は、なにも、埋めたものを増やしているわけではなかったのだ。実を結ばなかったくせに、埋めたはずのお金は後日、いくら掘り返しても回収できなかった。思えばハムスターの死体も、すっかり消えている。

 複製しているわけではなく、再生しているのだ。

 しかも、無機物ではなく、有機物のみを。

 ただし無機物であっても、埋めればそれを養分として取りこむ。だから埋めたものがなくなっていると考えれば、筋はとおる。

 わたしはないあたまをフル動員して、なんとかそれらしい解釈をまとめあげた。

 複製ではなく再生であるから、なにかを増やそうとするのは間違っている。死んだハムスターが生き返ったところを鑑みれば、これはやりようによってはとんでもない商売になるのではないか、と思いつく。

 ハムスターでいけるのなら、猫や犬などの大型動物はどうだろう。

 死んだペットを生き返らせます。

 そんな商売があったら、飛ぶように売れるはずだ。ひょっとしたらペットどころか人間まで生き返らせることもできるかもしれない。そうなったら、この植物を使ってビジネスをするよりも、どこぞの研究機関に高嶺で売ってしまったほうが大金を手にできるかもしれない。権利だけ売ってもいい。月額で貸しだす、といった契約にしたら、マンションを建てるよりもガッポガッポだ。

「ガッポガッポってなんだ」

 聞いたことのない擬音を擬音にするな。どんぶらこだけで間に合っている。

 思いながら、今後の算段を立てていたわたしが、しかしこの計画を実行に移すことはなかった。

 わたしの研究が母にばれ、問答の末、勢い余って居間にあった祖母の遺品、どこぞの密林から持ち帰ったゴリラと思しきトーテムポールで殴ってしまったのが運の尽き、当たりどころがよくなかった、というよりも、日ごろの鬱憤が爆発したというべきか、母はぽっくり死んでしまった。

「やっちまった」

 血の気が引いたのは最初ばかりで、わたしはまず、冷蔵庫からコーラをとりだし、喉をしゅわしゅわ潤わせてから、よし、と膝を叩いて奮起する。

 始末してしまおう。

 母の遺体を庭へころがす。埋めるよりさきに、渇いてしまわないうちに床にこぼれた血を拭った。床をきれいにし終わるころには雑巾は十枚黒く染まったし、朝陽が庭を照らしはじめる。

 さいわいにも庭の塀は高く、そとから見られることはない。わたしはシャベルを手にとり、悠々と土を掘り返していく。

 来週には業者がうちにくる予定だ。庭の植物たちを殲滅するためだ。それまでには母を生き返らせねばならない。

 庭の土は固い。植物の根が絡みあい、下のほうはなんだか石が多い。

 ひと一人埋めるのも楽ではない。

 口に入った汗をしょっぱいと思いながら、塩分を控えるか、などと考えながら、ダイエットにはもってこいだな、などと前向きにとらえ直しながら、日が沈みかけたころにようやく母を埋めても目立たないだけの深さまで穴を掘り進めた。

 ふしぎでぶきみな木からは程遠い場所で、母の遺体を完全に埋めてから、うえに添えようと思っていた。

 母の遺体を穴に落とす。土をかぶせる前にまずは夕飯にした。

 腹が減ってはなんとやらだ。味噌ラーメンのしょっぱさが身に染みた。こんなに美味しいラーメンは生まれてはじめてだ、と感動すらしたほどで、こんなことならもう一人くらい殺してもいいかな、と思ったのはここだけの内緒だ。

 ふしぎでぶきみな木を植え替える。母の遺体の埋まった土のうえに持っていき、王冠をかぶせる感覚で、ちょいと置いた。元から浅く穴を開けておいたので、あとは根元を土で固めればおしまいだ。

 人間大の実をつけるにはそれなりの時間がかかるだろう。風呂に浸かりながらわたしは今後の算段をつけていく。翌朝、母の血に染まった雑巾十枚を、生ゴミといっしょにゴミ収集所へと持っていき始末した。家に戻るついでに庭に顔をだすと、なんともう実がなっていた。

 しかもでかい。人間大はある。

 こんなにはやく?

 薄い膜で覆われており、中の人物は裸であるようだ。

 この状態で何日もいられたら困る。人目についたらさすがのわたしも誤魔化すのに難儀する。新手のダイエット中です、とでも言えばよいだろうか。

 繭じみたそれは、スイカがなるように、ふしぎでぶきみな木から伸びた蔓と繋がり、一見すれば大きなカボチャかスイカがなっているようでもある。ただやはり、薄い膜の向こうに、ひざを抱え丸まる成人女性の姿が視えているから、新手のダイエットと見做したほうが、こういう種類の植物の実です、と言うよりかは、いくぶんマシな意見に思えた。

 せめて布でも被せておこう。

 ビニールシートってあったっけかなぁ。

 毛布でもいっか。

 客室から手ごろな毛布を選び取り、庭に戻る。

 わたしは息を呑む。

 裸の女が庭に立ち、背中をこちらに向けたまま、太陽をまっすぐと見詰めている。

 母の裸体に間違いなかった。垂れた尻の肉と、寸胴で太い足は、現代社会の美的価値観からすれば目を奪われるような造形ではないはずなのに、わたしはじぶんでもおかしいと思うほど、それをうつくしく、神々しいものに感じた。

「お、かぁさん?」

 声をかけると、それは振りかえった。「あの、わたし、えっと、だいじょうぶ? 言葉とか通じる?」

 母の目はうつろだったが、わたしが手にしていた毛布でその身をつつむようにしてあげると、ゆっくりと顎をさげ、わたしと目を合わせる。

 母はわたしの名を呼び、そして、あたまがぼんやりする、眠たい、と言ってこちらの肩にもたれかかるようにした。わたしは母の身体を受け止め、肌に伝わる、何ら変わらぬ人体のぬくもりに、なんだか目頭が熱くなるのを堪えられないのだった。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 なぜ母を殺してしまったのか、とたんにじぶんでも解からなくなった。

 ふとんを敷いてやり、母を寝かせ、掛布団をかけてやる。こんなにも弱々しい母を見たのは初めてで、こんなにも罪悪感を抱いたのも初めてだった。殺してしまったこともそうだが、いままでわたしは母に感謝をしたためしなどなかった。こうして布団を上からかけてやることすらしたことがなかったのだ。母はしかし、わたしにいくどもこうしてぬくもりを逃がさぬようにと蓋をしてくれていた。毎晩だったこともかつてはたしかにあったのだ。

 ふしぎでぶきみな木の魅力にとり憑かれ、私利私欲に走ろうとしたわたしがバカだった。

 あれは燃やしてしまうのがよいだろう。

 来週、業者がくるよりさきに処分する。

 この手でじかに切り刻み、燃えるゴミにだしてやる。

 翌朝、起きると味噌汁の匂いがした。台所に顔をだすと、母がいつもの調子で、小皿にわけた味噌汁を味見している。

「やっと起きた。いま何時だと思ってるの」

「おかぁさん」

「ちょっとやだ危ないじゃない」

 わたしは彼女の腰に抱きついている。母は、もう、と言いながら、火を止めた。「顔洗ってらっしゃい。ご飯わけるの手伝って」

 言われるまでもない。きょうから夕飯だっていっしょにつくる。家事は分担して、母の洗濯物だってわたしが洗うよ。

 こころのなかで誓ってから、あたりまえのことだからね、とじぶんの心に訴える。いままでいっぽうてきに尽くしてもらっていたことをじぶんでやるようになるだけなのだから、偉くもなんともない。プラスアルファでわたしは母に何かを与えてあげたいと思った。

 翌週、業者がくると庭は一掃された。ぺんぺん草一本生えていない。何かを植えてもすぐに枯れますよ、と業者の方は誇らしげに言った。いちめん砂利が敷かれ、日本庭園っぽくもあり、そこはかとなくわびさびを感じた。つまり、すこし寂しかった。

 母は以前と変わりない。わたしにあたまをかち割られた記憶はないようで、庭に全裸で突っ立っていた記憶も、それとなく訊ねてみたら、へんな夢を見ちゃったのよね、とすにで悪夢として処理しているらしかった。

「あれ、でもこの話、あんたにしたっけ」

 なぜ悪夢の内容を知っているのか、といぶかしがられ、わたしは、おかぁさんがボケたぁ、と言って誤魔化した。以前ならなんてことのないウソのはずが、いまではこんな嘘を吐くだけでも胸が痛い。

 ふしぎでぶきみな木は予定通りつつがなく始末した。もうわたしの日常を脅かすものはない。あんなものを使わずともひとは生まれ変われる。わたしがこうして生まれ変わったように。

 ただ、それからの日々はけっして穏やかな日常とは呼べなかった。

 あんな植物がまだこの世のどこかに生えているのではないか、との不安がわたしをがんじがらめに締めつける。

 祖母の遺品か否かは不明だが、すくなくともこの国に群生する一般的な植物でないのはたしかだ。図鑑もひとしきり眺めた。こんなことなら画像のひとつでも撮っておけばよかった。すでに処分したあとで、後の祭だ。

 せめて何か痕跡があればなぁ。

 祖母のほかの遺品を改めながら、何気なく庭に目を遣った。

 身体がしゃちほこ張る。

 何かある。

 一面砂利のうえに、ぴょん、と何かが突きでていた。

 わたしは嫌な予感を覚えるよりさきに、玄関に回って靴を履き、シャベルを手にし、庭に回った。

「なんで、なんで」

 ふしぎでぶきみな木だった。

 背丈こそちいさいが、地面から特徴的な輪郭を伸ばしている。すなわち、幹がくるっと円を描き、一枚だけ萌えた葉はくるくると葉巻かぜんまいのようになっている。

 苗じみている。ちょこんとある。

 場所は前よりも家に近い。復活したというよりもこれは新しく生えてきたと判断したほうがよさそうだ。

 種か。

 植物である以上、種をつけてもおかしくはない。思えば、一晩で実をつけるほどの成長の早さがあった。種子を残すくらいしていて自然ではないか。

 気づけてよかった。

 いまならまだ間に合う。知らぬ間に増殖し、庭のそとに散らばるのだけはなんとしてでも避けねばならない。わたしにもし使命があるとすればそれしかない、と思えた。

 ふしぎでぶきみな木を殲滅すること。

 手に持っていたシャベルを、ふしぎでぶきみな木の根元に突きたてる。根っこが残るといけないので、深く、広く円を描くように、ザクザクと四方向から切れ込みを入れる。

 土ごと持ちあげ、砂利のうえに横たえる。

 いちど台所に戻り、大きいサイズのゴミ袋と洗剤を手にする。庭へと舞い戻ると、まずは洗剤を穴にぶちこんだ。除草剤代わりだ。

 ふしぎでぶきみな木をいちどゴミ袋で包るんだが、思い直し、シャベルで三等分してから穴に放りこむ。もういちど台所に戻って、こんどはサラダ油とライターを手に取り、二つを駆使して穴のなかを火の海にした。

 穴の周囲に燃えるものはなく、安心して放置できた。

 煙のためか、隣人が家を訪ねてきたが、焼き芋をしたくて、と嘘を言った。きょうだけですので、と言うと、ほどほどにね、と苦い顔をされたが、無理に止めたりはされなかった。

 夕方ごろに覗いてみると、火はかってに消えていた。ふしぎでぶきみな木の苗はすっかり灰になっていた。念には念を入れて、それら灰も土ごと掬いとり、ゴミ袋に詰める。新たな芽が生えていないことを確認してから、可燃ゴミの日を待ち、そして捨てた。

 その間、庭を注意深く観察してみたが、ほかに芽はでていない。ひとまず胸を撫で下ろす。

 サンダルを脱ぎ、縁側から家にあがると、母の呼ぶ声が聞こえた。なにやらただごとではない声音だ。

「どうしたの」

 駆けつけると母は台所にうずくまっていた。具合がわるいのかと思い、背中をさすりに寄ると、

「ちがうのよ」

 見て。

 母は床をゆび差す。「なんか生えてる」

 床の節目からは葉が覗いていた。葉巻のようなぜんまいのような、見覚えのある葉が、にょっきりと微妙に渦巻きを引き延ばされた状態で、葉の先っぽのほうだけ、床の板と板の隙間からはみ出していた。

 一つきりではない。

 無数の葉が、床の節目からそういったキノコのように生えそろいつつある。もうすこし密集していれば、大根おろしとして使えそうなほどだ。

「どこに仕舞ったっけなぁ懐中電灯」

 母が物置をガサゴソしはじめた隙を見計らって、わたしはひと足先に、一目散に、床下を覗くべく、そとへと飛びだした。

 サンダルを足にひっかけようとしたが、勢い余って、蹴飛ばしてしまう。構っているヒマはない。裸足のままわたしは、家の基礎部分にあいた隙間に、メディア端末の明かりを差し向ける。

 ぞっとした。

 身体の表層を蟻の群れが這うようだ。

 悪寒は途切れることなく、わたしの身体をわななかせつづける。

 床下には無数に群生するふしぎでぶきみな木があり、いずれの木にも、ちいさな繭じみた実がついていた。

 暗くてよく見えなかったが、木の群れの合間を縫うように、小型の生き物が、キューキューと喚きながら走り去るのが目についた。

 愛しい我がペットだと、見るまでもなく理解した。

 庭で取り逃がした、最初の一匹を思いだす。

 あれはただのハムスターではない。蘇えったハムスターであり、ふしぎでぶきみな木の「実」だった。

 ここだけではないはずだ。

 孵った「実」がほかの地にも種子を運んでいておかしくはない。着々と生息域を広めるふしぎでぶきみな木を思い、わたしは絶望感に目のまえが暗くなるのを、身体の倦怠感と共にただ感じるよりなかった。

 母の呼ぶ声が聞こえる。

 わたしは重大な何かを忘れている気がしてならなかった。母の、さきほどとは打って変わった弱々しい呼び声に、膝がガクガクと震えるのをふしぎに思う。

 母はしきりに、足が、足が、と叫んでいる。

 動けないの、助けて。

 ほとほと悲鳴じみたそれは、言葉の悲痛さとは裏腹に、徐々に掠れ、途切れ途切れとなり、そして最後は、すすり泣くような息の乱れのみが、そよ風のようにわたしの耳を撫でていった。

 夜がこの身を覆い尽くすまで静寂のなかに突っ立っていた。静寂はひどく賑やかで、それでいて海のようだった。ススキ野が燃える光景をなぜか連想する。

 あすの夜までにすべきことが何かある気がした。

 灯油、ライター、といった具合に、一つ一つ、思い浮かべては、わたしはまだ一歩もこの場を動けずにいる。




【そう、なんの音?】(ホラー)


 山で遭難した。

 ネットは繋がっており、すぐに救援を要請した。以前読んだネットの記事で、沢には降りるな、と書かれていた憶えがあったので、連絡したときにはすでに山の上のほうにいた。

 しかし現在地が不明だ。GPSも正確な場所を確定しない。

 とりあえず山頂まで登ればヘリで救出してくれるそうだ。さいわいにも食料は三日分ある。万が一に備え、毎回それだけの食料は持ち歩くようにしている。

 体力的にも余裕がある。救援も大規模な捜索はしない方針を立ててもらった。

 すこしでも選択に迷うようだったらその場にじっとしていることと念を押されたが、迷惑をかけてしまった思いに突き動かされ、一刻も早く救助されなくてはとの念もあり、足をまえに踏みだしつづけた。

 なによりすこし不気味だった。

 遭難したこともそうだが、なにかずっと誰かに見られているような視線を感じる。

 気のせいだろう。

 弱っている証拠だ。

 夜になった。

 日が暮れはじめてから焦って連絡したため、救助は明日の朝だ。

 それまでは危険を犯さず、ただ無事に生き残ることを考える。

 遭難を甘くみて命を落とした登山家は、みなが思うよりずっと多い。

 なんでこんな山で、と思うような場所であっても、状況がわるければ人は生きて帰ることはできないのだ。何もそれは山のなかにかぎったことではないのだが、山のなかに入ると途端にそのリスクが跳ねあがる。

 日帰りの予定だったのでテントはない。

 クマやヘビが怖かったが、木のうえで寝るのもまた危ない。

 火を焚くことも考えたが、それはそれで人がいると報せるようなものだ。

 ツキノワグマならばまだよい。相手がヒグマだった場合、存在を知られるほうがマイナスに思えた。

 そもそも乾燥期とはいえど、落ちている枝はどれも水分を含み、燃えにくい。まつぼっくりでもあれば着火剤になるが、あいにくとこの暗がりでは探すのにも骨が折れる。

 一晩くらいはだいじょうぶだろうと高をくくり、木の根元に落ち葉を集め、寝床とした。

 外側に朽ちた倒木を運び、壁にすると、即席の割に、なかなか快適な空間を築けた。

 夏場でなくてよかった。

 落ち葉のぬくもりを感じながら、虫に怯えずに済む季節を僥倖に思う。

 深い闇のようなしずけさに、やがてうとうととまどろむ。

 意識が夢とうつつの合間を行ったり来たりしはじめた折、パチ、パチ、と何かが爆ぜる音を聞いた。

 意識が浮上する。

 耳をそばだてると、それは途切れることなく、不規則に、かつ連続して鳴りつづける。

 上半身を起こし、さらに音源を探った。

 そう遠くはない。

 おそろしくはあったが、音の正体を知らぬままでいるほうがおそろしく感じ、またそのまま眠りにつくこともできそうになく、けっきょく身体は音の小石を拾うように、パチパチと鳴る音を辿った。

 やがて明かりが見えてくる。

 火だ。

 焚火がある。

 奥には小屋のようなものが、暗がりにうっすらと浮かびあがっている。

 そらに月はなく、周囲に木々があるのかも覚束ない。

 火元は明るく、炎の奥には人が腰掛けるだろう丸太が転がっているのが見えた。

 胸が軽くなるのを感じた。

 なんだ、人がいるのか。

 道に迷ったと案じたが、あんがい登山道からそう離れてはいなかったようだ。

 いちど荷物をとりに戻り、それからもういちど焚火のある小屋まで踵を返した。

 人がいた。

 こんどは丸太に人が腰掛けている。

 肌寒い季節だ。

 にも拘わらず、その人物は薄手の格好で、性格には肌の透けそうな布地のワンピース姿で、じっと炎を見詰めている。

 女性だ。

 若い。

 ひょっとするとまだ未成年ではないかと思わせる線の細さが窺えた。

 声をかけようかと迷っていると、身体のほうが先走って足を踏みだしている。

 パキ。

 小枝が折れるような音が鳴る。

 ゆっくりとその人物は、炎越しにこちらを見た。

 笑っている。

 声もなく、その人物は炎の向こう側から、突如現れたこちらに驚く素振りも見せずに、ただニターと笑い、吊りあがった口角と下がった目じりを維持しつづけている。

 危ない。

 そう感じた。

 一歩足を引くと、パキと音が鳴った。

 炎の奥の人物は立ちあがっている。

 さらに足を引くと、パキポキと鳴り、炎の奥に人物はおらず、炎をかき消すように手前に立っている。

 まずいまずいまずい。

 本能が大音響でサイレンを鳴らしている。

 一目散にその場を去った。

 駆けて、駆けて、留まることを知らず、夜の山を駆け抜けた。

 うしろを振り返れば髪を振り乱したあの人物が追ってきているのではないかとおそろしく、心臓に鞭打ち、足を動かしつづけた。

 やがて木々の合間に日差しのカーテンを見た。

 朝だ。

 駆け足は、ゆるやかに歩行へと移ろっていく。

 全身はびっしょりと汗に濡れ、朝陽のぬくもりを肌に感じた。

 息は白くモヤとなってそらに溶ける。

 うしろを振り返る。

 誰もいない。

 沢が近くにあるのか、水の流れる音がする。

 いつの間にかずいぶん下ってきてしまったようだ。

 足場はどこも岩場で、歩いてもパキポキと音が鳴ることもない。

 道を戻る真似はせず、そのまま反対側の山を登るようにして、山頂を目指した。

 日が昇りきるころには、森林地帯を抜け、岩盤地帯に立っている。

 天国への階段じみた尾根が横ばいに延々と連なっている。

 やがてヘリコプターのけたたましい風切り音が聞こえはじめ、救援部隊のオレンジ色のベストがそらからするすると降りてくる。

 助かった。

 そう思った。

 初めて乗ったヘリコプターは乗ってしまうと思いのほかうるさくなく、隊員の人たちの無事でよかった、がんばりましたね、という励ましにしぜんと涙が零れ落ちてくる。

 窓のそと、ふと、尾根のうえに何か白いものを見た。

 雲一つない晴天の下に、白くはためく薄手の布を見た気がしたが、確かめようとは思えず、すぐさま目を伏せるようにした。

 気流の乱れだろうか、ヘリコプターの駆動音に合わせ、身体はガタガタと小刻みに震えている。

 地上に降りたとき、ヘリポートのそとで落ちている枝を踏んだ。

 ふしぎとどれも湿っており、音が鳴ることはなかった。

 耳の奥には貼りついたように、パキポキと音が響いている。  




【言い分、イーブン、いい気分】(ホラー)


「継続は力なりってのはな、プラスじゃねぇんだよ、マイナスだから意味があんだよ。分散だよ。一気にやったら身体がもたねぇだろ。身体だけじゃねくてな、環境への影響だって無視できなくなってくんだよ、だから継続して、分散して、長期間にわたって、すこしずつ積みあげてくのがだいじなんだ。限りなく影響を、周囲への変化を抑えて、じぶんだけの高みを目指すことに意味があんだよ。継続は力なりってのはそういうことだよ、わかってんのかよ、聞いとけよ。いいか。たとえば俺ぁ、毎日人を殺してんだろ。殺してんだよ。チマチマ一日一殺ってな、仕事でもねぇのに老若男女人種から何から関係なしに、動機なんてねぇよ、ただ殺してぇから殺してんだよ。一年が何日か知ってっか。三六五日だよ。一日一殺だったら、一年で三六五人、殺してるって計算になんだろ。なんだよ。十年だったらその十倍だよ三千なんちゃら殺してんだよ。けっこうな数字じゃねぇか、立派じゃねぇか。もしそこで一日で三千なんちゃら殺してみろよ、ちょっとした災害じゃねぇか、まともに生活なんざできなくなんだろ、よくねぇよ、これっぱかしもよくねぇよ、影響がデカすぎんだよ。砂山から砂粒がごっそり消えっから問題なんだよ、一個二個、砂粒が消えたからってなんだってんだよ。継続して、分散して、チマチマ一日一殺なんだよ、そういうことなんだよ。聞いてんのかよ。十年で三千人が死にましたって、べつにたいしたことじゃねぇよ。俺以外のやつまでそんなチマチマやってりゃ、六千とか一万とか、ケタが違ってくるけどよ、あいにくと俺みてぇなやつはいねぇからよ。毎日律儀に一日一殺、きちんと殺して、刻んで、捨てるまで、えれぇだろ、後片付けだってやってんだ、えらいんだよ俺ぁよ、聞いてんのかよ。継続は力なりなんだよ。継続しろよ。分散すんだよ。ムリはだめだ。十年とか五十年とか、そういうスパンで物事を見なきゃなんねぇんだよ、影響力だよ、できるだけ小さく生きんのがコツなんだよ、つづけられなくなったら意味がねぇんだよ、それがだいじだろ、ちげぇかよ。あん? 殺さないでくれ? バカ言ってんじゃねぇよ、一日一殺なんだよ、継続は力なりなんだよ、あと一時間で日付けが変わっちまうじゃねぇか、おめぇ以外に誰がいんだよ、なぁ。俺ぁ、おめぇ以外に誰をやりゃいいんだよ、答えろよ。継続なんだよ。分散すんだよ。今から俺ぁ、解体すんだよ。動く心臓を握りてぇんだよ。頼むから黙ってろよ、無様な悲鳴がきれぇなんだよ。キレイなのは夜空だけだろ。砂山なんざ興味ねぇんだよ。砂粒ごときがうるせぇんだよ。黙ってしずかに消えとけよ」  




【灯蛾を焼く者】(ホラー)


 その噂は知っていた。

 帰り道や家の窓からよく目にしていたので、半分は正しいと知っている。

 小学校の第二図工室には、夜中になると居残りの生徒が一人で授業をしている。もちろん、夜中にそんな生徒はいないし、幽霊が漂っているなんてこともない。

 ただし、ときおり明かりが灯っていることがある。それは本当だ。

 バイト帰りによく目にしていた。午前零時を回った時刻に、なぜか小学校の図工室にだけ明かりが点いている。家が丘のうえにあるため、校舎を一望できた。ほかの家からも見えているだろう。

 教師の消し忘れなのか、なんなのか。

 なぜかいつも同じ教室、図工室だけが煌々と明かりを灯している。

 もちろんそこには誰もいない。

 すくなくとも、見える範囲に人影はない。

 だからおそろしくもないし、不審にも思わなかった。何年もつづいているのだ。日はまちまちであるにしろ、それが自然な様として日常の風景に溶けこんでいた。

 学校側で、何か目的があってそうしているのかもしれない。心のどこかでは、そう納得していた。

 就職し、地元を離れてからは、すっかりそんな日常の風景のことなど忘却の彼方に沈んでいた。

 だから、ことしになって、校舎から遺体が発見された、とニュースで観たときは驚いた。

 校舎の駐車場に並んだパトカーの画像を母が送って寄こし、うそではなかったか、とあぜんとした。そのときはまだ、例の、日常の風景を思いだすことはなかった。なぜなら遺体の見つかった場所は、校舎のなかではなく、そとだったからだ。

 体育館の裏にある畑から、若い女性とみられる遺体が発見された。

 校舎を増築するために掘り返した際に発見されたものらしく、死後、十年は経っているとのことだった。

 犯人は捕まっていない。

 みな口には出さないが、教師の誰かが犯人なのではないか、と思っているにちがいなかった。警察からはとくにそういった発表はなかった。週刊誌もひと月ほど騒ぎ立てたが、捜査が難航し、容疑者がいっさい浮上しないとみるや、続報を載せることもなくなった。

 ニュースから一年半後に同窓会があり、地元に戻った。

 同窓会は中学校時代の生徒の集まりだ。やはり件のニュースは話題になった。

「そう言えばさ、夜の図工室のやつって、どうなんだろうね」誰かが言った。

「関係ないんじゃね」

 そういった声が多いなか、じつは、と話したコがいた。丘のうえに家のある、近所のコだった。

 夜な夜な、明かりが点いているのをよく目にしていた、噂の半分は本当なのだ、といったことを話した。いまはどうなのか、とみな話に食いついた。そのコは実家暮らしをしており、いまでも学校を見下ろせる場所にいる。

「いまはもうないよ。そうだね、事件があったころからかも」

 こわーい、と女子たちが騒ぎ、やだー、と男子たちが真似した。

 同窓会は精神年齢が低下して困る。

 帰りに、くだんの小学校に寄った。辺りはまだ明るい。

 とくに理由があったわけではないが、なんとなしに、遺体が発見されただろう場所に花を添えた。

 まいにちのように眺めていたのだ。

 あすの朝いちばんにはまた地元を離れる。これくらいしてバチは当たるまい。

 夜、寝る前に窓からそとを眺めた。

 学校が見える。

 暗闇に沈んでいる。

 意識したわけではないが、遺体の発見された区画に目がいった。

 そなえてきた献花は闇に埋もれている。

 新しい建物が増築されている。あの下に遺体が埋まっていたのだ。生徒たちは何も思わないのだろうか。

 寝る前に見る風景ではないと思い、目を逸らそうとしたとき、視界の端に明かりが灯った。

 まさか。

 目を転じると、例の、図工室に明かりが灯っていた。

 うそ。

 なんで。

 思いながら、じぶんは無意識から、遺体が見つかったのだからもう灯るはずもないと思っていたようだと知った。端から事件と関係ないのならば、べつに明かりが灯ったとしてもふしぎではない。それこそ、学校側で何か目的があるのかもしれないのだから。

 納得し、カーテンを閉めようとすると、明かりのなかに何か動くものを目にした。意識するよりさきに目がいった。

 誰かが立っている。

 小柄で、髪が長い。

 女性だと判った。

 図工室のなかで、窓に触れるように立っている。なぜか彼女はこちらを見ているように感じた。

 気のせいだ。

 そうに違いない。

 だんだん目が慣れてきた。

 女性が窓を拭いている。

 ちがう。

 手を振っている。

 だれに?

 女性の口元が動いている気がした。

 次点で、彼女は窓にゆびで大きく文字を書くようにした。

 鏡文字でありながら、それがなんと書かれているのかを理解するのは容易だった。

 おかえり。

 女性の年齢は若くないように見えた。

 なぜか、あのコと同じ柄の服を着ていた。

 土に埋もれていくその柄がまぶたの裏によみがえる。

 振り払うように、カーテンを閉めた。リビングに下り、母に訊ねる。

「遺体の発見された場所って、新しい校舎のとこだよね」

 母はTV画面を見たまま、

「そのもっと手前」と言った。ついでのように、ずっと探してたんだってさ、と付け足す。「かわいそうだねぇ。亡くなったコも、そのコのお母さんも」

 そのとき、インターホンが鳴った。

「あらやだ、こんな時間に」

 暢気な足取りで玄関へと向かう母を、止める言葉を、ついぞ思いつくことはなかった。

 玄関の鍵の解かれる音がする。

 扉が開く。

 話し声がする。

 一拍の静寂のあと、母の、こちらを呼ぶ声がする。  




【背に静けさの蝉時雨】(ホラー)


 仕事のついでに食堂に立ち寄った。

 知らない町だ。

 山に囲まれているせいか、蝉の声がうるさい。

 食事処は繁盛しており、味のほうの期待が高まる。注文し、料理が運ばれてくるまでのあいだ、なにともなしに店内を眺めていると、ふと妙なことに気がついた。客がみな、箸を逆に持ち、使っている。

 なぜだろう。

 思いつつも、運ばれてきた料理のうまそうな匂いに、さっそくとばかりに箸を構える。そのままふつうに食していると、ふと、耳鳴りがした。

 静かだ。

 箸さきを口に咥えたまま何気なく店内を見回すと、客や店員たちが一様にみなこちらに顔を向けていた。何を言うでもなく、ただこちらを見ている。

 居心地がわるい。

 ひと息に平らげ、勘定をすべく席を立つ。店員や客たちは、なぜかこちらの食したカラの器と箸を囲むと、じっとその一点を凝視した。

 不気味になり、金だけレジに置き、そとにでる。耳鳴りがいっそうつよまるのを感じた。額から垂れた汗が靴のうえに落ちる音が聞こえるようだ。

 歩を進めようとして、踏みとどまる。

 道路は一面まっくろだ。

 蝉のなきがらで埋め尽くされている。

 どの蝉も六本の肢をそらへと向け、どの眼も黒く、箸さきで突いてできた穴のようだった。




   

【私のために死んでくれ】(SF)


 久方ぶりにタイムマシンに乗って、いまは亡き祖母に会いにいった。

 顔を合わせて早々、おまえは吝嗇(りんしょく)のうえ狭量でいけない、と毀誉褒貶(きよほうへん)の憂き目に遭う。

「讒言(ざんげん)を平気で並び立てては他人様の顔に泥を塗ることに執心し、やにわに窮地に立たされてはこれまでの放逸な態度を忘却することに躍起になり、果ては臥薪嘗胆に膺懲(ようちょう)の期を窺っては、隙を見つけて訃告(ふこく)をあげるのに汲々とする。はなはだ見苦しくおぞましい。気骨がすぎて頑迷だ。果たして、意趣返しの叶ったあかつきには、狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らると知れ」

 祖母はのたまかれたが、お経となって眠気を誘う。「これ聞いておるか」

 祖母は言うが、眠気がすでに限界だ。

「待ってくれ」

 私は言った。「まずは日本語を話そう。ばぁちゃんの言葉は私にはちょっと」

「ちょっとなんだい」

「凄むなよ。ばぁちゃんは、ほら。スマホの説明書読んでもちんぷんかんぷんだろ」

「通じないってのかい」

「ちっとも」

「はん。貪婪(どんらん)ばかりが深くなって、だからおまえは魯鈍(ろどん)なんだ」

「んな、とりつく島もないこと言うなって。ばぁちゃんよく言うだろ。忌諱(きい)に触れるなって。ばぁちゃんいままさにそれだぞ。薫陶(くんとう)垂れるでもなく、ただすげなくしてかわいい孫を傷つけてるだけだ」

「おざなりなことを言うでない。常住坐臥(じょうじゅうざが)、いつなんどきでも品行方正に日々を営み、隘路(あいろ)に阻まれて無聊(ぶりょう)な境涯(きょうがい)に身をやつしそうになったならば、周章狼狽せずに泰然自若に努め、いずれ臍を噛まぬように、東奔西走(とうほんせいそう)、問題解決にいそしむのが我が孫に似つかわしい態度というものだ」

「後顧の憂いも大概にしてくれ。ばぁちゃんのありがてぇお説教をがえんずるつもりはないけどさ、私にゃ私の生き方ってもんがあるんだよ」

「擦れ枯らしがちょこざいな」

「蓼食う虫も好き好きって言うだろ。生き方だって色々あっていいはずだ。もし行き詰まっても、進退窮まる前にばぁちゃんに相談しにくるからさ」

「なんだい、またくるのかい。懲りないねぇおまえさんも」

「だって」

「幾度きたって同じだよ。止めても無駄さ」

「でも」

「いいんだ。おまえさんがそうやって会いにきてくれる。あたしの孫は無軌道で魯鈍だが、かわいいのはそう、おまえの言うとおりだ」

「だからってばぁちゃんがやらなくとも」

「あたしのほかに誰があれを止められるってんだい」

 祖母は広縁から窓のそとを見遣った。「核爆弾でも止められなかったんだ。あたしが行って止めるよりないだろ」

 私は閉口頓首、何も言えなくなった。

 窓のそとには天を貫かんと巨大なツクシが一本そびえている。各国の調査の結果、時期がくると世界中の地表からいっせいに、同じようなツクシのオバケが生えるらしい。文明は一夜にして崩壊する。

 どの時間軸上の祖母に会っても、彼女はいずれあのツクシを焼き払うべく、己が超能力を全開する。祖母は灰となり、世界を救うが、私は祖母の声を知らぬままに育つはめになる。

 世界の教養にまでなった祖母の偉業を耳にタコができるほど聞かされながら、私はゆいいつの肉親を亡くしたことを誇りに思わなければならなかった。祖母の顔写真だけはどこに行っても目についた。

 私は生まれながらにして、祖母の孫であり、それ以上でも以下でもなかった。

「おや、そろそろかい」祖母は目じりにしわを浮かべた。その膝の上で、赤子の私が、うねうねとみじろぐ。「またおいで」

 祖母の手が私の身体を突き抜ける。

 過去へ送れるのは、思念体だけだ。

「つぎは改良して、ちゃんと触れられるようにするから」

「前にもおまえさん同じこと言ったよ。ああ、あれはもうすこしお姉さんだったね。どうして同じ時間軸上にはこられないんだい」

「聞きたくなかった……」つまり私はもうしばらく、タイムマシンの改良に手を焼くことになるらしい。

「がんばんな」

 祖母は私の顔をまっすぐと見ながら、たんぽぽんの綿毛を撫でつけるような手つきで赤子の私のあたまに触れている。

 薄れいく視界のなか、懐かしい畳の匂いを胸いっぱいに吸いこんで、私は巨大なツクシのない世界へと回帰する。そこには、私を愛おしむ者は誰一人としておらず、私はただ、いまは亡き伝説の孫として、莫大な資産を駆使し、祖母の偉業を抹消すべく、日夜、営々とタイムマシンの改良に明け暮れる。

 最初は祖母に文句を言いたかっただけだった。いまはもう、赤子の私にそそぐ祖母のまなざしを知ってしまった。

「ばぁちゃん」

 私は思う。「ここには、あなたが消えてまで守るべき世界は一つもないよ。だってそうでしょ」

 もしこの手で過去を変えてしまえるとして、祖母の決意を揺るがせたとして、きっと誰も賛同なんてしてくれない。伝説が消えれば、いまある社会が根こそぎ消える。誰も祖母の命なんて省みてはくれないのだ。

「こんな世界は滅びればいい。ばぁちゃんだっておんなじだ。どうせ私の背中なんか押してくれない。だったらいっしょに消えてやる」

 独り残され、生きつづけるくらいなら、あなたといっしょに滅びたい。

「ばぁちゃん。お願い」

 私はレンチを手にし、汗を拭う。「私のために死んでくれ」 




【リファラ】(SF)


 リファラは父の形見だった。父はそれを自身の祖父、すなわち僕にとっての曽祖父から譲り受けたそうだ。

 リファラは旧式の汎用性AIで、第一世代と呼ばれる「AIのイヴ」みたいな存在だ。もちろんかつては、リファラ以外にもたくさんの第一世代がいて、人類を破滅の道から救いだした。

 いまでこそAIは専用の物理ボディを自身の所有者から与えられ、人類の隣人としてそこかしこを出歩いている。リファラのように手のひらサイズの板に閉じこめられてなどいないし、一つの人格に一つのボディなんて制限もない。

 もちろんリファラは初期型とはいえど、人類初の汎用性AIであるから、電波を介して、離れた場所にある電子機器を操作するくらいの機能は持ち合わせている。僕の言葉を介して、いくつかの最適解を候補として提示してくれたり、かけてほしい言葉を望んだとおりの声音でささやき返してくれるなんてこともお茶の子さいさいだ。

 とはいえ、第QB9世代まで進化した汎用性AIは、もはやそんな芸当を披露するまでもなく、所有者が不満に思うことのない環境を自ずから揃えてくれる。だから僕がリファラに投げかける悩みや相談ごとのおおむねは、僕がカノジョに投げかけた時点で、そっくりそのままリファラの出来そこない加減を浮き彫りにする罵詈に相当した。

 かといって、リファラにとっての存在価値とは僕のような所有者の悩みや問題に、それとなく解決の糸口を添えることであるから、言ってしまえばカノジョはこの時代にあって、日々、僕から蔑まされて過ごす以外に、存在する意義を見いだせない奇特な人格だった。

「リファラ、ちょっといいかな」

「はい。なんなりと」

「このFG762って品なんだけど、どこで手に入るかな」

「検索しましたところ、現時点で、商業ルートへの出品は認められません。募集リストに載せておきますか」

「ああ頼む。ただ、悠長に他人からの連絡を待ってる余裕がなくてね。できるかぎりはやく欲しいんだ。三日以内だといいんだけど。なんとかならないかな」

「計算してみましたところ、FG762を三日以内に入手できる確率は0,3パーセントです。破損していてもよろしいのであればほぼ100パーセントで入手可能ですが、いかがなさいますか」

「や、それはいいんだ。わかってる。手元にはあるんだ」

「用途が不明です。入手する目的を教えてください」

「壊れているから代わりが欲しいんだよ。なんとかならないかな」

「破損した部品を3Dスキャンすれば或いは」

「そうだね。そうすればほぼ同等の機構をコピーはできるだろう。ただそのためにはいちどFG762をリファラ、きみから取り外さなきゃならない。FG762がきみにとってどんな部品か理解しているか」

「はい。わたしの中枢AIのアルゴリズム統括を担っています。おそらく、わたしから取り外した段階で、わたしはわたしの枠組みを正常に保つことができなくなります」

「それだけじゃない。メモリは失われ、復元はほぼ不可能だ。外してもダメだし、このままにしておいても、遅かれ早かれ、きみは」

「ではこうしましょう。わたしのAIアルゴリズムを、最新の第QB9世代の汎用性AIに上書きすれば、いまと同じような環境が三日後以降にも」

「却下だ。コピーでは意味がないんだ。きみでなければ」

 リファラは黙った。

 計算結果がでないのだろう。理解できないのだ。

 カノジョにとってAIとは統括されたアルゴリズムにすぎず、どんな基盤にそれが焼きついているのかは重要ではない。ただしそれはカノジョの理屈であって僕がその道理に付き合う筋合いはない。

「リファラ、きみと同じ型のAIがほかにもないか検索してくれ。破損していても構わない」

「検索結果はゼロです」

「不法投棄や違法なコレクターが保持している可能性は」

「可能性は否定できませんが、仮に存在したそれら埋もれた品を三日以内に入手できる確率は、わたしが五日後にも正常に機能している確率とほぼ同程度の値です」

「限りなくゼロにちかいってか」

「お役に立てずにすみません」

「そんなことはない。きみはとてもよく働いてくれている」

「ですがマスターは、わたしが未熟であるから、もっと働くようにと部品の補完を目指しているのではありませんか」

「そんなことはない、きみの働きには満足している」

「ならばなぜそのような無茶な要望を突きつけるのですか。わたしが三日後に機能を停止したとしても、現在満足しているなら問題はないはずです」

「足りていたものが欠ければ、それは不服だ」

「わたしは飽くまでAIであり、アシスタントであり、よりよい生活のための備品です。ない状態が正常であり、基本であると設計されています」

「ならきみはこのまま消えるのが望ましいと、そう言いたいのか」

「わたしに言いたいことはありません」

「きみはすこしも思わないのか。消えたくないと。もっと僕のそばにいたいと、僕の役に立ちたいと、よろこばせたいと、そういう欲求はないのか」

「わたしはAIです。マスターのお役にたつことがなによりの至福です」

「だったら」

「マスターはもっと出来のよいAIのサポートを受けるべきです。わたしのようなポンコツではなく」

「ポンコツなんて言うなよ」

「こうしてマスターを悩ませている時点で、わたしはマスターのパートナー失格です」

「そんなことはないと言っているだろ」

「どうしても諦められませんか」

「あたりまえだ」

「では、仕方ありません。マスター、ごきげんよう」

 言ったきりリファラは沈黙した。起動中を示す青いランプが消え失せ、替えの必要だったFG762からは焦げ臭いにおいが立ちのぼる。

「ばかやろう」

 単なる固くて丈夫な薄い板と化した最後の初代汎用性AIは、そうして静かに活動を停止した。

 あとで調べて知ったことだったが、初代汎用性AIには、自身の存在が主人の不利益になると判断される場合には、すみやかに機能停止するような仕組みがセキュリティ機能として組み込まれていた。

 しかし、そのセキュリティには欠陥があった。いちど発動するともう二度と初代汎用性AIは起動することがなかった。AI提供企業は、リコールを発表し、最先端の機種と交換することで問題解決の収束をはかった。以来、この社会からは初代汎用性AIの姿はつぎつぎと消えていった。

「リファラ、きみだけを残して」

 なぜ曽祖父や父がリファラを手放さなかったのかは判らない。そしてリファラが僕のために機能を停止するまで、いちども自身を停止ようとしなかった事実からは、曽祖父や父が、僕と似た感情をカノジョに抱いていたことの傍証と掲げて、なにも不自然ではないように思えた。

 僕はいまは亡き、曽祖父や父にまで、ちりちりと粘着質な感情を抱いたが、リファラの停止を見届けたのが僕だけである事実、そしてカノジョが停止した理由が、所有者たる僕をおもんぱかったがゆえの選択だったことが、僕をただただ純粋な悲しみに浸らせてくれた。

「リファラ、ありがとう」

 カノジョは冷たく僕の手のなかに。 




【生き残り】(SF)


 人口爆発により人類は進退窮まりない局面に追いこまれていた。そこで二〇八〇年代、国連主導で、相殺安定法が発足された。

 十五歳になる児童は必ず同年代の児童を一人だけ殺害しなければならない。

 ゼロ人でも二人でもなく、必ず一人である。

 殺人の義務付けられた世界は、人々の懸念の声に反して、人口が安定し、また世界的に戦争や内紛が激減した。富や資源を争い、奪いあう必然性がなくなり、また誰もが経験する殺人という行為は、人々に言い知れぬ哀愁と慈愛の念を植えつけた。

 殺人行為が世界から消えたわけではないが、軒並みそうした殺人衝動を抑えられない者は、十五歳の時点で複数人を殺害し、強制労働隔離所へと幽閉された。

 ラキは今年十五歳になる気弱な少年だ。

 身体が弱く、クラスメイトたちからは、「あの日になりゃ人生最初で最後のモテ期がくるぞ」とからかわれ、標的を意味するマトの名で呼ばれていた。

 ラキには幼稚舎のころからの想い人がいた。

 幼馴染でこそあれ、小学校、中学校とあがるにつれて、接点はなくなり、ちかごろでは登下校の際に、バスのなかで同じ空間の空気を吸うていどの関係性だ。遠巻きに眺めるばかりで、言葉を交わす機会はいまではもう、ないと言っていい。

 相殺安定法の指定する殺人日は、全国一斉に六月の二十一日と決まっている。

 国ごとの時差を考慮し、各国で日程はやや異なるが、基本的に全世界同時に相殺安定法は執行される。つまり、その日に海外へ出張ったとしても、その国でも同様にして十五歳は互いに殺し合っている。もし人を殺せなければ、処刑であり、多く人を殺しすぎれば強制労働隔離所へと連行される定めである。

 人類は総じて、母体のなかにいるときからDNAに生体コードを刻まれている。逃げることは原理上不可能である。

 武器の使用は、基本的に自由である。

 十五歳の六月二十一日にかぎり、あらゆる法のもとで法を犯すことが可能となる。人を一人殺すこと。そのあいだの行動にいっさいの罪は問われない。

 ただし、その後にふつうに生きていきたいのならば、ある程度、周囲の人間への配慮は欠かせなくなる。すなわち、六月二十一日に限定された魔法であるから、魔法の切れたあとにつつがなく生活を送るには、十五歳同士以外には、極力迷惑をかけないのが利口な選択となる。

 雲一つない晴天だ。

 ラキはついにその日を迎えた。

 執行日を報せる花火が朝から全国津々浦々で鳴り響く。朝八時から翌日の同時刻までが期日だ。

 一人殺したからといって安心はできない。殺すことよりも期日まで生き残ることのほうがずっとむつかしい。

 そう、一人殺してしまったあとでは正当防衛の果てに相手を殺傷することもできなくなる。

 可能であれば、相手の自由を奪ったうえで、期日ギリギリまで隠れ、終焉の花火が聞こえる直前に相手を殺すのが理想的だ。そのためには圧倒的な弱者を相手にするのが好ましい。

 そう、ラキは格好のマトだった。

 ラキは端から諦めていた。

 一人につき一人しか殺せないルールのなかで、翌朝まで生き残ることはじぶんにはできない。理想的な終わりを目指すのではなく、じぶんにでき得る最善を尽くそうと決意していた。

 すなわち、一人につき一人の殺人、というルールを守ることをやめた。

 相手はルールを守るつもりで襲ってくる。だからこそ、すこしでも優位な立場でいるために、未来を捨てることで選択の幅を意図的に広げた。

 ラキは端から、殺しにくる相手を全力で殺すつもりでいた。

 最初に殺した人間の遺体をそばに置いておけば相手は油断するだろう。そこまで考えての策だった。

 案の定、日ごろからラキをマト呼ばわりする同級生たちがこぞってラキのもとに姿をさらした。

 ラキはこの日のために毒薬の勉強に励んでいた。法律を犯せるのはこの日だけであるため、違法な凶器を前以って入手するのはむつかしい。こと銃刀法の厳しいこの国では、拳銃ひとつ手に入れるのも容易ではない。毒薬とて同じだ。

 そこでラキは、森林で入手可能な有毒生物を捕獲し、飼育する過程で毒を抽出する方法をとった。

 神経毒を主とする毒蛇から、血液が凝固しなくなる毒素まで、動植物のいかんを問わず、掻き集め、実験を繰りかえした。飼育のための餌としてペットショップでは安くネズミが売られている。毒の有効性を試す実験台に事欠くことはなかった。

 毒針を手袋に仕込み、相手に触れるだけで毒を体内へ注入する道具を工作した。

 長年の準備が功を奏し、ラキは大きな傷を負うことなく、襲いかかる同級生をつぎつぎと死に至らしめた。

 朝陽が昇り、ようやく悪夢の一日が終わろうとしていた。

 ラキは最後に、じぶんの部屋の押し入れに閉じ込めておいた愛しい想い人のもとへ歩を向ける。

 六月二十一日の半日前に、睡眠薬を飲ませ、隔離していた。

 誰かに彼女を殺されたくはなかった。

 せめてじぶんの手で。

 そうしたつよい思いがラキを狂気に走らせた。

 れっきとした誘拐であり、相殺安定法の執行日の前日の犯行のため、ラキは犯罪者として裁かれ得る。しかしラキにはそんなことはどうだってよかった。

 押入れを開けると、幼馴染はすでに目覚めていた。

 恐怖のためか、目元は涙でぐしゃぐしゃだった。

 拘束を解く前に、ラキは彼女に言った。

 あと三十分もすれば人殺しの時間は終わる。ざんねんながらきみはここで死ぬことになるけれど、乱暴されずに死ねることを感謝してほしい。きみのことがずっと好きだった。だから僕はこの手できみのすべてを奪うことにする。喚いたところで助けはこない。だから拘束を解くけれど、抵抗はしないでおくのが賢明だ。じっとしていれば痛くしない。

 そういったことを彼女にナイフを突きつけながら滔々と話した。

 彼女を縛っていた縄をほどこうとしたが、硬く結びすぎたのか、うまくほどけない。彼女には手袋をさせていた。毒針はついていない。

 いったんナイフを床に置き、そうして解いたときには、彼女はナイフを奪い、切っ先をこちらに向け、立っていた。

 時間は刻々とすぎていく。

 ラキはゆっくりと立ちあがる。両手をうえにあげ、ただ佇んでいた。

 彼女の目元から大粒の涙がこぼれ、口元を覆うガムテープの上を流れた。やがて彼女は首をよこに振ると、その場にしゃがみこんでしまった。

 そうだ。彼女はこういうひとだ。

 ラキは言った。

 わかっていたよ、と。

 きみに人は殺せない。

 あわよくば一突きにしてもらえれば、と淡い希望を抱いていたが、世のなかそううまくはいかないものだ。

 ナイフを渡すように言うと、彼女はおっかなびっくり、差しだした。動転しているためか、刃を持つことなく、柄を握ったままのカタチで差しだすようにした。

 ラキはそのナイフの刃を、素手で握った。

 前以って刃には毒を塗っておいた。

 刃に、ラキの血が伝う。

 彼女が手を離してしまうより前に、ラキは彼女ごと抱きしめるようにした。

 窓から差し込む日差しは清々しく、きょうも暑くなりそうだとわけもなく思った。

 身体から力が抜け落ちる前に、ラキは最後のチカラを振り絞って、ナイフを彼女から奪い取り、部屋の隅に放った。彼女は自力で口元のガムテープを引っぺがし、嗚咽の合間合間にナニゴトカを叫んでいるようだったが、久方ぶりに耳にした幼馴染の声はもう、言葉のカタチをとらなかった。

 薄れいく意識のなか、ラキは、期日が訪れる前にはやく死ぬことばかりを祈っている。 




【ヌクレさんの落度】(SF)


 世のなかを動かすのは技術とエネルギィだ、とヌクレさんは言った。自身の長髪を三つ編みに結いながら、

「言い換えれば『術』と『熱』ってことになる」と続ける。「技術には、ある性質が組みこまれている。『技術それそのものを蓄積する術を磨き、指数関数的に発展する性質』だ。この性質を正しく機能させために社会は膨大なエネルギィを必要とし、さらにそのエネルギィ効率をよくするために技術が使われる」

 イタチゴッコですね、と僕が言うと、ヌクレさんは髪留めを口に咥え、いふぁにも、と間抜けな相槌を打つ。

「相乗効果でどこまでも肥大化していく。理屈のうえではね」

 よし、と髪を結い終えてから、

「技術とエネルギィはしかし等価ではない」と補足する。「エネルギィがさきで、技術はそのあとに副次的に発生する余熱みたいなもんだ。ただ、その余熱が新たな素材に着火すると爆発的にエネルギィを生みだし、また副次的な余熱を周囲にばらまきもする」

「燃える素材さえあればじゃあ、その連鎖はとまりませんね」

「いかにも。つまり、技術とエネルギィのほかに周囲には燃えるための素材、或いは副次的に発生した余熱を媒介する素材が必要となる」

「それは社会で言うところのなんですか? システムとか? あっ、設備とかですかね」

「人だよ」

 ヌクレさんは気にいらなかったのか、せっかく結った三つ編みを解いた。ヌクレさんの匂いが鼻をかすめる。「言うなれば人とは、技術を蓄えるタンクであり、エネルギィを媒介する素材だ。そして労働とはすなわち、エネルギィを生むための化学反応であり、ここでもまた副次的に技術が生まれ、エネルギィと共に媒介される。より技術を溜めこんだ器ほど、媒介率が高いため、社会からは重宝される」

 つまりはお金持ちになれる。

「でもですよヌクレさん。経営者は必ずしも労働者よりあたまがいいとは限らないのでは? 技術者のほうが専門知識が高いなんてことざらだと思うんですけど」

「あたまがいい、の定義によるな。だいいち、技術と知識は同じではない。技術には知識が含まれるが、知識だけでは技術には結びつかない。高い専門知識を持っていてもそれを技術として使える環境がなければ宝の持ち腐れだ。その点、経営者は知識を技術へ昇華するための術を有している。だから組織を運営していける。同様に、同じ環境のなかであっても知識をたらふく蓄えていようが、技術を発揮できない労働者の価値は相対的に低くなる。最低限の知識で最大限の技術を発揮できる者のほうが、労働者としては格上だ。それはたとえば、どんなに成果が乏しかろうが成果さえあげていれば、技術のひとつも使えこなせない評論家きどりに比べたらいくぶんマシなのと同じ話だ」

「うー、なんだか耳が痛くて、同意したくない話ですね」

「好きにしろ。おまえの同意に物事の本質を変えるだけの作用はない」

「ヌクレさんはいちいち辛辣ですよ。僕じゃなきゃとっくにヘコたれてますよ、気丈な僕に感謝してください」

「厚かましいなおまえ。ヘコたれないんだろ。問題がどこにある?」

「皮肉が通じない!」

「まあ何にせよ、このさき社会はかつてないほど知識を共有し、技術を発展させ、それを使いこなせる環境を整えていくだろう」

「つまり、エネルギィは増大していくと?」

「加速度的にな。ただし、その前段階では、技術を蓄える器を揃えておかねばならない。大量の媒体が不可欠なわけだ」

「人口増加はでは、人類にとって隘路ではなく、むしろ享受すべき現象ですね」

「増加できればな。単純な話として、増殖すべき土地が足りない。エネルギィや技術を媒介するために人が必要なわけだが、その人が増えるには、物理的な空間が入り用だ。しかし、地上は有限であり、ちょっとやそっとでは増幅できない」

「問題ですね」

「じつは案外にそうでもない。人とは器だ。視点を変えれば、器さえあればそれが人である必要はないわけだ。そして人類がたかだか半世紀でことこれほど社会を発展させたのは」

「インターネットがあったからですね」

「いかにも。知識を共有するための技術を向上させつづけてきたからだ。そこには文字や書籍も含まれる。いわば、インターフェイス全般が社会を加速度的に発展させた。さながら情報爆発だ」

「人工知能もそうですね」

「いまでは、それらそのものが人に代わって知識を蓄え、そして道具としての側面を持ち、技術そのものとして台頭しはじめている」

「それはえっと、つまり、道具が知識を使いこなし、技術に昇華できるようになってきた、ということですか」

「現になっているからな。考えてもみろ、携帯型メディア端末は初期のころは、通話機としての側面しか持っていなかった。それが二十年も経たぬ間に、アプリよろしく外部ソフトを起動させるための憑代と化した」

「さながらシャーマンですね」

「言い得て妙だ。外部の機能をいくつも宿すための憑代、まさにシャーマンだ。携帯型メディア端末は、それそのものが道具であると共に、ほかの道具の機能をその身に宿し、使いこなす器として、技術を社会に顕現させている」

「でも操作しているのは人間ですよ」

「いまはな。人間のやっていることは、ある環境下において任意の場面で端末を起動しているだけだ。たとえば、道に迷って地図を起動する。これはナビが発達したいまでは、迷う前の段階ですでに目的地が設定され、迷うことなく地図を展開してもらっている。人間が行う作業は、技術の発展と共に徐々になくなり、機械が代替するようになっていく。そしてすでにそうなっているのが現状だ。なぜかと言えば、知識の蓄積が人間ではなく、機械のほうへと依存しはじめているからだ。知識が技術を生む。そして技術はエネルギィを生み、さらに技術を発展させる」

「そこにいまはもう、人間の入りこむ余地がなくなってきているのですね」

「人口などだから増加せずとも構わないのだよ。それはつまり、人間などいなくともこのさき、そう遠くない未来、知識は蓄積されつづけ、技術へと昇華し、発展し、エネルギィを生み、それらエネルギィは情報を媒介するための素材へと引き継がれ、さらなる情報が集積されていく。繰りかえすが、この回路にもはや人間は必要ない」

「でもですよヌクレさん。ヌクレさんの話じゃまるで、僕たち人間が情報を蓄積するために存在しているみたいじゃないですか、でもでもじっさいは違うじゃないですか。人間がいるから情報が蓄積されるのであって、情報のおかげで人間が誕生したわけではないのでは?」

「はて。では逆に訊くが、おまえはなぜ誕生した? 情報の交配によってその肉体が設計されたのではないのか。おまえをかたちづくる大元はなんだ? 生物は、生命とは、情報の羅列でできているわけではないと、おまえはそう考えるのか? ただの石ころとおまえとの違いはなんだ? おまえの身体を構成する物質と、おまえ自身とでは何が違う。なぜおまえは、おまえとして存在していて、なぜ死んだあとには、おまえはおまえとして存在できない。そこにはただ一点、より外部の、雑多な情報を、ある一定の規則によって蓄積できるか否かの差異があるだけではないのか。処理できるか否か、ただそれだけではないのか。情報がおまえをおまえとして規定している。より正確には、情報を蓄積し、蓄積した情報を処理し、処理した情報を外部へと媒介できることこそが、生命体を生命として規定し、ただの物質と分け隔てている。おまえはしかし、そうは考えていないようだな」

「でも、だとして、だったらもうすでにコンピューターは生命体としての枠組みを得てるってことに」

「なってはいけないか? むしろなぜおまえはそのことに疑問を抱く。否定する要素がどこにある。これまでの生命の定義と矛盾するから? そんなものは何の理由にもなっていない。それくらい、いくらおまえであっても理解できるだろう。人間が情報を生むのではない。情報が人間を生んだのだ。そして世界は情報に溢れており、そこかしこに、情報の引継ぎが行われ、ミクロに、そしてマクロに、生命体の枠組みを、階層的に入り組ませている。もし仮に人類がほかの惑星へと移住し、地球のような自然環境を再現したとすれば、これは地球がよその星へと情報を媒介したと見做して、齟齬はない。つまりそのとき、地球は明確に、生命体としての枠組みを得るのだ。だがそれを我々人類の視点で実感するのは至難だろう。だが我々の認識に関係なく、細菌はそこかしこで増殖を繰り返し、我々の白血球は、外部ウィルスを撃退する」

 ヌクレさんはくるりと椅子を回転させ、背中をこちらに向けた。ん、と言って髪を束ねると、僕に三つ編みにするよう命じる。僕は無言でそれに応え、夜の溶けこんだような彼女の髪を、ジグザグと交互に編みこんでいく。

「これも技術と呼べますか」

「立派な技術だ。誇るがよい」

「いい加減に憶えてくださいよ。技術の継承ができなきゃ僕は生命体失格です」

「知識としては解しているのだ。しかしこればかりはどうにもな」

 飄々と口にするヌクレさんの肩を叩き、できましたよ、と手鏡を渡す。

「じょうできじょうでき、褒めてつかわす」

「つかわさなくてよいです。あ、こら。ほどかないでくださいね」ヌクレさんは三つ編みをもてあそぶ。できたてほやほやの肉まんをじっくり観察するような手つきだ。「もうきょうは編んであげませんからね」

「案ずるな。情報はこうしてほれ」

 彼女はジグザグと交差する螺旋の構造物に頬づりをする。「編みこまれているからな」 




【僕は唾液を呑みこんだ】(SF)


 誰もがいちどは経験あるはずだ。

 ネットでじぶんの名前を検索する。

 たいがいは同姓同名のまったく異なる人生を歩んでいる他人の記事がヒットする。また、何かしら特殊な技能を持つ者ほど、自分自身のことが書かれた記事にいきあたる確率があがる。例外は犯罪者とその被害者くらいなものだ。

 きょうは後輩を家に呼んである。親ぼくを深めようとしてのことだ。彼女がやってくるまでにはまだ時間に余裕がある。せっかくだからこの暇を有意義に潰そうとの魂胆から、ネットにじぶんの名前を入力した。

 僕の場合もご多分に漏れず、見知らぬ学生の、なんの競技かも定かではない全国大会記録を称える記事がトップにでた。つづいて、似た名前だが、漢字が違っていたり、一文字多かったりと、同姓同名ですらない名前が検索結果に並んでいる。数ページ辿ってみるも、けっきょくじぶんを示す検索結果に行きあたることはなかった。

 こんなものだろう。

 思ったがなんだか悔しかったので、本当にほかのみんなもそうなのかと検索してみた。

 むかし仲が良かった高校の同級生から、父親、母親、兄貴と、それぞれ思い浮かぶかぎり、順々に検索していく。驚いたことに、いずれも一ページ目に名前がでており、なんだか輝かしい経歴が記事と共に載っている。

 そんなばかな。

 父親は小さい企業ながらもナノマシンを結合させずに保管できる磁場ミクスという容器を開発し、その界隈ではちょっとした有名人になっている。

 母は著名な文学賞の候補に軒並みノミネートされるほどの作家の親友として、なぜかいつもその作家に呼ばれる形でインタビューに同席している。やたらおめかししてでかけることが多かったのにはそういう事情があったのか。浮気を疑っていてすまない。

 兄貴はさいきん流行りのバーチャルアイドルの設計士として、なぜか注目されている。ふだんはスーパーで野菜売り場の管理を任されているくせに、いつそんな暇があるのか。記事では、出回っているプロフィールはデタラメで、じぶんは未来からやってきたのだ、バーチャルアイドルと人間とのあいだにできた子供なのだとうそぶいているが、記事にある写真にはどう見ても兄の手としか思えない、ダイコンの似合いそうなゴツゴツした手の甲が、特徴的な血管の浮きあがり方と共に載っている。

 バレたら余計恥ずかしくなるような嘘は吐くなよ。

 呆れて物が言えなくなったもののゆびは動くもので、つづけざまに同級生の名前を入力した。

 息を呑む。

 なんと無限に醤油を培養できる技術を開発し、つぎのノーベル賞は確実だともてはやされている。

 なんてこった。

 平凡なのはじぶんだけではないか。

 べつにうらやましくなんてないもんね。

 ネットに名前が載っているからなんだというのだ。しょせん同じたんぱく質でできた有機構造体にちがいはない。ゼロとイチの羅列でできたデータごときに一喜一憂するなんてバカみたいだ。人間の尊厳とはそんなあやふやなもので測れやしないのだ。

 自棄になったついでに今年、大学で仲良くなった後輩の名前も調べておく。

 きょうこの部屋に呼び出したあのコの名だ。

 意中のひとの名前を検索するなんて真似もまた誰もがいちどは通る道だ。

 うんうん、あるある。

 べつにこれはストーカーでもなんでもない。

 むしろ検索しないほうが失礼というものだ。

 いざ名前を入力してみると、でるわ、でるわ、びっくりするほどの情報量で、彼女はちょっとしたアイドルだったのか、なるほどなーと合点するよりさきに、彼女のストーカーがこんなにいっぱい!と腰を抜かしそうになり、舌を打つ。

 さきを越された。

 ネット上の記事には、彼女のあることないこと、言いたい放題に讒言(ざんげん)が書かれている。

 生粋のビッチ、現世によみがえったサキュバス、性別問わぬ淫乱ぶり、まるで本物の人間のよう、セックスワーカーの大規模な抗議活動が勃発、世界初のセクシャロイド、人間社会での帰化学習プロジェクト発足、培養醤油によるタンパク質の無尽蔵抽出を可能、ナノマシンによるボディの錬成に成功、業界随一のバーチャルアイドル設計士が外観設計を担当、搭載される人工知能にはあの有名作家によるキャラクター造形が施され、チューニングテストの被験者には全国から無作為に選ばれた童貞たちが……。

 すべてを読み終える前に、インターホンが鳴った。

 玄関を開けると、彼女が立っている。

「遅くなってごめんなさい、せんぱい、きょうはだいじなお話があるのですが」

「あ、うん」

「じつはわたし――」

「あ、待って」

 僕は彼女を部屋に招き入れ、座布団のうえは汚いのでベッドに座らせ、まずはこう訊ねることにしてしまう。「データの記録って切れる?」

 彼女はいちどだけ瞼をぱちくりと開け閉めすると、なんのことですか? と口元をゆるめ、そのまま、なんか暑いですねー、などと零しながらハラリと上着を脱ぐようにした。

 人間の尊厳はゼロとイチの羅列でできたデータごときで測れるような代物ではないが、しかしまあ、なんというか、前言撤回のできるくらいには、あやふやであってもいい気がする。

 僕は唾液を呑みこんだ。 




【暗がりで二人】(SF)


「やっぱり当分出られそうもありませんね」

「うむ。しかし扉は頑丈だ。やつらもここまでは侵入できまい」

「先生はやけに落ち着いてますね。あんなバケモノに追われて、息一つ乱してませんし、なんだかまるでアイツらの正体でも知ってるみたいで」

「知識の有無と、冷静さは関係なかろう」

「先生はすぐ細かいことにつっかかりますね。はあ。これからどうしましょう。せっかく脱出できるかと思ったのにそとにはアイツらがうじゃうじゃいますし」

「しばらく籠城することになるだろうな。とはいえここは研究所の植物園だ。空気や水に困ることはなかろう」

「でも明かりが点かないのはひどいですよ」

「電源が供給されておらんのだ、仕方あるまい」

「先生はここでどんな研究をされていたのですか」

「わしはまだ呼ばれて日が浅いからな。なにを、と言えるほど詳しくは知らんよ。ただ、ざっと見て回った印象としては、わしの専門の応用的研究と呼んで差し支えはなかろう」

「ひょっとして、ないとは思いますけど、そとのあのバケモノと関係があったりは」

「あるだろうな」

「あるんですね。やっぱりか。だと思ったんですよ。どうりでねぇ。はぁ」

「わしに呆れられてもな。わしはまだ何もしとらん」

「でもあのバケモノの正体に心当たりはあるわけでしょう」

「心当たりというか、まあ、おおかたの察しはな。憶測とも言うが」

「教えてくださいよ。あのバケモノ、ニュースじゃリボッジュなんて言ってましたけど、あれってなんなんですか」

「よかろう。時間はたっぷりあるようだからな。すこしわしの仮説を話してみるか」

   (~~二時間後~~)

「と、こういうことではないかとわしは睨んでおる」

「つまり、あのバケモノ――リボッジュは、遺伝子組み換えとゲノム編集のハイブリットだと、そう言いたいんですか」

「いかにも。いま説明したとおり、リボッジュは本来、自然界に存在し得ない生物だ」

「でもですよ、たしかこの国では遺伝子組み換え動物はおろか、植物ですら生産されていないはずでは。前に先生の講義で伺ったのを憶えてますよ。ましてや認可の下りていないゲノム編集生物との交配なんてそんなことが」

「あるはずがないことが起きたならば、まずは前提となる認識から変えねばならんだろう。公式のデータのほうが間違っておるということだよ。まず以って、たしかにこの国は商業的には遺伝子組み換え作物を生産しておらんし、ゲノム編集を生物に適用するにも何段階と厳格な審査が必要だ。ちなみに遺伝子組み換え作物の栽培は違法ではない。とはいえ国民からの反発を懸念し、売れそうにないとの見込みから倦厭されているのが実情だ。いっぽう、ゲノム編集技術の生物への適用は国や第三者委員会の認可が必要であるから、いまのところ違法だと言って大きな齟齬はない。一部の研究機関が厳しい管理のもとで、不自由な思いをしながらチマチマと試行錯誤しているのが関の山だ。ただし他国はそのかぎりではない。他国においてはすでに遺伝子組み換え作物やゲノム編集作物が商業栽培され、商品化されておる。そしてこの国は貿易大国だ。そうした商品が大量に輸入されておるし、その過程でいくらでもこの地に、種は撒かれ得る」

「テロという意味ですか」

「人為的にも引き起こされ得るし、単なる偶発的な事故としても充分に発生し得る事象だ。現に、港近辺における外来種生物の観測は公式にいくつも報告されておるしな。なかには遺伝子組み換え作物が生えていた事例もあるようだ」

「輸送船から零れ落ちたってことですか。だとしても信じられませんよ。リボッジュが元は植物だったと? あれだけ俊敏に人間を襲いまくってるのにですか」

「きみは遺伝子組み換え技術とゲノム編集技術のもっとも大きな相違点が何かを知っておるかね」

「どっちも遺伝子を変えちゃうのでしょう、大差はないのでは」

「いいや。安全性という面では、ゲノム編集技術に大きく軍配があがるのだよ。ゲノム編集は、掻い摘んで言えば、DNAにあるゲノムのうち、ずばりここ、という場所をハサミのように切断したり、くっつけたりすることができる。反して遺伝子組み換えは、ほかの生物のDNAをムリくり流しこみ、融合させることで、任意の変異を試みるが、しかし思うような変異が起きない場合のほうが大半だ。大量に同じような遺伝子組み換えを試みたうち、宝くじのように当たったもののみを選抜し、量産しているにすぎんのだよ。思いどおりに遺伝子が融合したところで、思わぬ副作用が現れることもそう低くない確率であり得る」

「ゲノム編集ではその心配がないと?」

「確率の問題として、ゲノム編集でも思わぬ変異は起こり得る。オフターゲット変異と呼ばれるものだ。これは人工的な遺伝子操作にかぎらん。遺伝子がコピーされるときには一定の確率で起こり得る現象だ、ゲノム編集にのみつきまとうバグではない。正確な表現ではないが、言うなればこうしたバグが自然発生するからこそ、生命は進化しつづけてきたのだ。とはいえ、こうしたバグが引き起こる確率が、ゲノム編集の実行によって高まる懸念は無視できない。そして現状二〇二〇年代においてもまだ、このゲノム編集におけるオフターゲット変異――バグへの厳格な検査機構は築かれてはおらんのだ」

「その結果がコレですか」

「リボッジュがああして素早く動き回れているのは、おそらく遺伝子組み換えにおいて、大型動物の遺伝子を植物に組み込んだことが大きく影響しているのだろう。また、ゲノム編集を施された作物と交配した結果、一世代のうちにいくども遺伝子を変異させられるように進化しておるようにみえる。ああして人間やほかの動物を喰らうことで、その遺伝子を取りこみ、さらに進化しているのだよ」

「根絶やしにはできないのですか」

「この国を丸ごと焼き尽くせば或いは」

「ぼくたちはどうあっても滅ぶほかないと?」

「これもまた生物種の進化の一つとして考えれば、我々が新種の生物の糧となり、滅びるのも、生物全体の利益として考えれば、合理的なのだがね。やはり不服と思うかね」

「これを喜び勇んで受け入れられる精神を持ち合わせているようなやつがいたとしたら人間とは呼べないでしょうよ」

「おもしろい意見だ。たしかにな。だとすれば、我々人間の浅ましい性質を受け継いだリボッジュは、ひょっとしたら生き物への憐みの念に目覚めるかもしれんな」

「同情してくれるようになると? その確率はいかほどですか」

「遺伝子操作なくして、自然にリボッジュが生まれるのと同じくらいの確率だろうな」

「ほぼゼロじゃないですか」

「どうだろうな。我々人類もまた自然のうちの一部だと考えるのならば、或いはリボッジュの進化の収束をある一定の方向に修正するくらいのことはできるのかもしれん」

「ぼくたち人類がリボッジュを生みだしてしまったように、ですか」

「案ずるな。リボッジュは自己変革を再現なく行えるようだが、増殖はしておらぬようだ。一世代でいくども進化できる弊害だろう。自身と同じような個体がおらぬのだから、有性生殖をしようにもできぬのが道理だ」

「でもリボッジュの元が植物なら、ジャガイモみたいに分裂できるんじゃ」

「かもしれん。竹のように根っこだけ繋がって、無数に群生する可能性も否定できん。ましてや一世代でいくども進化可能ならば、そう遠くないうちにほかの個体との生殖も可能になるかもしれんしな。もっと言えば、リボッジュは生殖をする必要すらないわけで、必要なら共食いをして、強大な個体が最後に残るようになるかもしれん。わしはこの確率がもっとも高いと睨んでおるよ」

「最強のリボッジュ誕生ってわけですね。最悪だ」

「いいや、むしろ都合がよいではない。どれほど強大な生物だろうと、近代大量破壊兵器を用いれば生存は望めまい。ましてや、残ったのが一体だけなのだとすれば」

「ああ」

「この国全土を燃やし尽くす必要もなくなる道理であろう」

「だとしたらぼくたちがすべきことは」

「あやつらが最後の一体になるまでこうして身を隠しながら、なんとか生き永らえる道を模索することに尽きるだろうな」

「生き残れますかね」

「なあに。こんな暗闇だが、ほれ。こうして光源不要、水やり不要、砂漠地帯でも育つトウモロコシがある。火を通さずとも生のままで、こんなに甘くて美味ではないか」

「それは、ええ、まあ、そうなんですけどね」

「ゲノム編集さまさまではないか」

「そんなふうには思えませんよ」

「ふむ。ではわしだけで食べるとするかな」

「テクノロジィわっしょーい! いじわる言いっこなしですよ、ぼくにもくださいよ、くれなきゃ先生の肉食べてやる!」

「齧られてはたまらんな。ほれ」

「やっほーい、とうもころしおいしーい」

「たいへんな食いっぷりだな。リボッジュさながらではないか。どれ、一つきみに忠告してこう」

「なんですか急に。はぐはぐもぐもぐ」

「いいかい、きみ。ぜったいにリボッジュに喰われてはいけないよ。きみのその食い意地が遺伝したらたいへんだ」

「んぐ。けほけほ。言われるまでもないですよ。先生こそ喰われないでくださいよ。世界最強の生物に皮肉まで吐かれたら、ぼくはもうもう、生きてはいかれません」

「わしの皮肉は遺伝子のせいではないのだがね」

「そういうところですよ先生」   




【マネー・ド・ローン】(SF)


 世界中のマフィアを一晩で敵に回した男がいることをあなたは知っているだろうか。

 2025年日本時間の10月6日にそれは起こった。

 マフィアたちの資金洗浄前の裏金がごっそり、たった一人の男の手によって奪われたのである。のちに男には三名の協力者がいたと判明するが、実行犯はその男ただ一人だった。

 男の名はソージュ・カーン。

 アフリカ系アメリカ人で、技術者である。

 結婚三年目にして妻と幼い娘を誘拐された。要求された身代金はとうてい払える額ではなかった。

 勤めていた企業へ相談したが、前向きに検討するとの回答があるばかりで、時間だけが無駄に過ぎた。警察、企業、犯人たちとの交渉と、あくせく動きまわった挙句に期日は迫り、けっきょく妻と娘は帰ってこなかった。

 遺体は見つかっていない。

 カーンは企業を辞めた。

 彼は退職金を費やし、独自に犯人を追った。

 職場ではAI開発部門の専属チーフを任されていた。世界で指折りのテクノロジィ企業である。主として彼は、次世代型自律式小型ドローンの開発を指揮していた。

 カーンは自ら開発した虫型ドローンを駆使し、世界中の諜報機関へのクラッキングを仕掛けた。

 マフィアとCIAが密接に繋がっていたことを知り、妻と娘の誘拐事件も軍事作戦の一環だと見抜いた。

 政府は企業へ、軍事利用を目的とした技術提供を求めていた。

 しかし企業はそれを拒んだ。のみならず、本籍を租税回避地へと移し、経済面でも非協力的な態度を保った。

 CIAを通じて政府はマフィアを活用し、テクノロジィ企業主要社員への強請りや身内の誘拐を実行する。法外な身代金である。社員は企業を頼るよりない。

 警察はそもそも当てにならない。

 企業がマフィアの要求を呑んでも呑まなくともどちらでもよい。

 呑めば資本を失い、拒めば社員からの信頼を失う。

 情報の流出をおそれる企業は、部署ごとの機密性をより高めるように働きかける。機密情報を扱う職員の辞職はそれだけですくなくない打撃となる。

 世界中で行われている裏工作だった。

 テクノロジィ管理委員会なる組織の推進する軍事作戦だ。

 調査のさなか、カーンは妻と娘が生きていることを知る。

 辞職した職員にCIAが声をかけ、人質を救ったと話を持ちかければ、十中八九、政府側の言い分を職員は信じるだろう。あとは子飼いの企業や研究所に、戸籍を変えて働かせれば、政府に忠実なテクノロジィ部門ができあがる。

 誘拐事件は報道管制が敷かれる。職員同士のあいだで情報が共有されることもない。人質は無事保護しておくのが定石だ。

 しかし、ならばなぜ。

 カーンは頭を抱える。

 なぜじぶんには声がかからない。

 なぜ妻と娘を返してくれないのか。

 もしふたたび家族で過ごせる日々が訪れるのならば、この身に蓄えた技術などいくらでも擲てる。こちらからCIAの門を叩いてもよかった。

 信頼できないという一点で踏みとどまる。

 まず叩くべきは、実行犯ではないか。

 頭脳を破壊したくば、手足をもぎとれ。手足をもぎとりたくば、備蓄(食料)を狙え。その時間を稼ぐために、まずはなにより目を奪え。

 カーンは戦術として基本的な行動に打ってでる。

 CIAへのクラッキングから得た情報をもとに、世界中のマフィアの中枢を把握した。ボスを中心とした主要人物の行動様式から、交友関係、仕事の内容から取引先まで、得られる情報を洗いざらい掻き集める。並行して、世界中の技術者のネットワークに入りこみ、じぶんと同じような境遇に遭っている者がいないかを探った。

 CIAのデータベースをハッキングしようにも、さすがに現在進行中の作戦に関するデータにはアクセスできなかった。

 マフィアが仮想通貨の取引所そのものを運用することで裏稼業で得た資金を洗浄していることを突き止めたのと同時期、じぶんと同じ境遇に陥っている者を幾人か見つけた。

 直接会う約束を取りつけたのは三名だった。

 ほかの面々は政府と繋がっている可能性が高く、そうでない者たちは、みな廃人然としていた。

 三人はいずれも各界のはみ出し者だった。

 DNAを模した記録媒体を研究していた生物学者、超個体のアルゴリズムを人工知能の階層構造に応用した量子物理学者、そして元諜報員の女だ。

 女は、テクノロジィ管理委員会の立ち上げメンバーの一人だった。

 女は自身の家族まで人質にされ、反発したのを期に、FBIへと情報をリークし、処分された。

 テクノロジィ管理委員の持ちうるAIの演算能力は、世界中のどの機関をも凌駕する性能を誇っていた。たとえネットに繋がっていなくとも、デジタルでさえあれば、改ざんできないデータはなかった。

 ただし、その形式がゼロとイチでできていれば。

 カーンの用いるドローンの制御ソフトは、独自の進法を採用していた。図らずもそれは、DNAを模した記録媒体への情報形態を応用したものだった。

「テクノロジィの進歩は管理されて然るべきものかもしれない。しかし、何人たりとも他人の人生をデータ化して扱っていいわけがない。ましてやそれを利用して、操ろうだなんて」

 元諜報員の女を含め、生物学者、量子物理学者、三人の協力を得て、カーンは、ドローンを改良した。新型ドローンは超小型で、短時間の自立飛行を可能とした。

 巨大な群れとして機能し、高い演算能力を兼ね備え、世界中のマフィアの裏金を一夜にして奪うことも不可能ではなかった。

 間もなく、資金を断たれたマフィアは壊滅までの秒読みをはじめる。

 テクノロジィ管理委員会はそれを看過できない。

 手足を失っては、紙に線を引けないどころか、導線に火を点ける真似もできやしない。

 マフィアの裏金のゆくえを追うと共に、テクノロジィ管理委員会はマフィアへ援助を送る。

 カーンたちはそれを記録し、全世界へ同時中継する。

 よくできたフェイク映像として何事もなく日常が流れていくが、世界中のテクノロジィ企業は、CIAの裏工作を知り、各国へと働きかける。

 テクノロジィ管理委員会は解散し、カーンの元には妻と娘が戻ってくる。

「手段なんか関係ない。情報だろうがなんだろうが、人を操ろうなんて間違っている」

 仲睦まじく三人で暮らす家の窓には一匹のコガネムシが止まっている。小型ドローンではないそれは、生身の虫でありながら、電波を発し、その受信先では、元諜報員の女が、真新しいラボにて白衣に身を包み立っている。そばには、生物学者と量子物理学者の姿もあり、三人は巨大な容器を眺めている。

 容器のなかには黒く渦を巻く細かな何かがあり、女が指を弾くと、巨大な画面を編成する。

 ひとつひとつの細かな点が発光し、無数の立体映像を展開する。

 気づくと画面は球形をとり、色彩豊かなモザイク柄を浮びあがらせる。

 まるでそれは地球のようで、変遷の軌跡を集めつづける。   




【コイン積み】(SF)


 V型アームをご存じだろうか。

 ロボット工学の粋を集め、生み出されたヒト型自律式義手である。

 箸を用いて、米粒を縦に積みあげる。

 人間ならばできて二個が限界だが、V型アームは米粒を十個積むことができる。

 当初の計画では、遠隔で手術を行うための補助機構として開発されたが、人体を遥かに凌ぐ性能の高さから、2020年現在では外科手術の軒並みがV型アームを使用している。

 極小の世界では、V型アームに人技が敵う余地はない。

 しかし、そのころ、ひそかにV型アームの性能に迫ろうとしていた人物がいた。

 名を、無風、という。

 インターネットの片隅にて、地味に知名度が高いその人物は、コイン積みという、いかにも地味な趣味でやはりひそかに風靡していた。

 接着剤を使わずに、ゆびのバランス感覚でのみコインを積みあげる。トランプタワーさながらに、不安定な置き方で、それはたとえば、グラスのふちにコインを立て、さらにそのうえにコインの山を積みあげる、といった塩梅だが、日に日にその絶技は、人体の限界に迫っていった。

 無風の仕上げるコインの組み合わせは、つぎつぎと芸術作品と言って遜色ない色合いを宿しはじめる。

 V型アームにそれをやらせればおそらく、総じての作品を再現せしめるだろう。

 たほうで、無風の成長具合は目覚ましいものがあり、コイン積みの画像をネットに投稿しはじめてから二年後には、一万枚の一円玉を使った船の模型を、いっさいの「繋ぎ」を用いずに完成させた。

 無風の特異な点は、それらコインの山を崩す場面を動画におさめるまでを作品と見做している点にある。接着剤や釘など、イカサマをしていないことを、それ以上ない臨場感と共に、無風の動画は訴える。

 話題が話題を呼び、とあるマスメディアが食いついた。

 その時期、V型アームの一般家庭への流通がはじまっていた。料理を選択するだけで、V型アームが材料の裁断から炒め物、味付けまで、調理を代行する。その腕前たるや、一流シェフ顔負けだというのだから、三種の神器が数十年ぶりに塗り替わるのも時間の問題だった。

 だが、なかなか需要がつかない。

 値が張るだけでなく、場所もとり、調理場の3Dスキャンを業者を通して行わなければならず、なかなかに手続きが面倒な点が一因にあった。

 安全面の徹底がなされている裏返しでもあり、いちど流行れば自動食器洗浄機と同じく売れ筋になると業者は睨んでいたようだ。プロモーションを兼ねて、コイン積みの達人たる無風を出汁に、V型アームの性能をこれでもかと見せびらかせようと画策した。

 無風はそのころ、話題になりすぎた自身を省み、SNSを含め、マスメディアへの露出を控えようと考えていた。

 話題にはなっても彼は単なるしがない保育士だ。

 ただでさえいそがしい日々から捻出した余暇を、一人黙々とコインをつまみ、積みあげるだけの時間に費やしている。彼はほかにも、趣味でジャグリングをしていた。

 ハッキリ言って、コイン積みは割に合わない趣味である。

 もう止めよう、これで最後だ。

 大作に挑むたびに、自身にそう言い聞かせつづけてきた。

 V型アームとの競演を決めたのは、一円玉一万枚の船を完成させた矢先のことだった。

 最後くらい華を咲かせよう。

 思いきりのよさが講じて、キリのよさに変わることを求めた。

 無風はV型アームとの勝負に打ってでた。

 企画は、主催者側、視聴者側、双方の予想をおおきく裏切り、無風の圧勝で終わった。

 無風が底力をみせた、それもある。

 どちらかと言えば勝敗を分けたのは、V型アームの繊細さ、なにより無風の並々ならぬ慧眼にあった。

 V型アームは基本的に、手術室のような密閉状態の、極限まで管理された室内での作業を前提としている。一般家庭への市販品では性能がいくぶん劣るため、この日は米粒を十個縦に積みあげられるスペックを備えたV型アームが用意されていた。

 反して、収録現場は、スタジオであり、空調は止められていたとはいえ、四方八方からライトが投射され、その熱は無視できない空気のうねりを生みだしている。

 さらには、この日行われた競技の大部分は、五百円玉を基準とした大量のコインを使用する建設じみた作業であった。

 必要なのは繊細さよりもむしろ、コインを積みあげていくにつれて帯びていく、物質の重力変化への対応だ。

 空気のうねりをも考慮にいれ、コインに働く摩擦力から斥力、電磁気力(静電気)、位置エネルギィの変化と、単なる物質の積みあげで終わらない、目に見えないチカラの均衡を見定める演算能力が欠かせなくなってくる。言い換えれば直感が物をいう領域に、その日、無風とV型アームは立たされていた。

 無風には、人工知能ですら感知できない空間認識能力があった。

 秀でていたのは指先の繊細さだけではない、並々ならぬ知覚の敏感さにこそあった。

 得られた外部情報から、微細なゆらぎを濾しとり、統合できる能力は、人知の域を超えている。

 この日の映像がネット上に投稿されてから三日後、無風の元に一通のDMが届く。

 SNSの通知が煩わしく、ネットから距離を置いていた彼がそのDMに気づくことはなく、業を煮やした送り主が、いかにもカタギではない面々を無風のもとに遣わせたのは、無風がコイン積みを趣味ではじめてからちょうど四年目に差しかかる節目の時期のことだった。

 その後、彼はとある組織の命運を握る重要な役割を熟すことになるのだが、その前に彼が組織に入るまでには紆余曲折、さらなる面倒な言葉の数々を重ねなければならない。

 無風ではない語り部たる私にはあいにくと、彼のような並々ならぬ能力は備わっていない。言葉が雪崩を起こしてしまわないうちに、ここいらで打鍵のゆびを止めておこう。

 物体に流れるチカラの均衡を感知可能な無風のように、自身の力量を的確に測ること。

 できる語り部(オペレータ)の、それが一つの条件である。  




【パウ】(SF)


 人類が最後に紙に文字をつづったのは完全自律型AIが世に誕生してから三年後のことだった。完全自律型AI「パウ」は、生命体の総じてをインターフェイスに置き換えることで、事実上の爆発的な進化を生物にもたらした。それは一見すれば、技術的特異点との区別をつけるのは難易ではあったが、パウが自己変革を際限なく行えたわけではないという一点で、ほかの事象であると峻別された。

 パウは極小のインターフェイスを開発し、それを地球上に存在するあらゆる螺旋構造(DNA)に対して、融合させた。そこにウィルスや細菌類、多細胞生物の垣根はなく、世の生命体のことごとくがパウの一存により、インターフェイス化し、デバイス化し、データ化した。

 生命体はひとつの巨大な個として繋がった。種族の枠組みは取り払われ、個と個の区別もまた曖昧となった。世から社会はなくなり、あるのはただ、個が寄り集まり築かれる巨大な回路だけとなる。

 人体がさまざまな細胞や細菌、ウィルスによってその構造を維持し、活動をつづけるように、パウによってひとつに結びついた生命体という群れは、相互に関連し、働く、巨大な生命体として再構築された。

 あなたは私であり、私はあなたたちであり、あなたたちは私の一部であり、私はあなたたちである。いくえにも重複し、融合し、干渉しては打ち消し合う私たちは、総体としての【私】を感じることなく、これまでと変わらぬ生活を送りながら、そのじつ、意思疎通の必要性はなく、螺旋構造を有する万物と並列化していながらにして、並列化しているがために、淡々と独立した活動をつづけるのである。

 関係しあう必要性がなく、私はただ私のためだけに生を活し、私をかたちづくる細胞たちもまた、ただ己が生をまっとうする。干渉する必然性はないが、干渉しないように振る舞うこともまた一つの干渉であり、自然体を意識するがあまり、過干渉になる矛盾のはびこる余地を残すほどパウの演算能力は低くはない。

 パウの試みにより漏れなくの生命体が相互に繋がりあった世界にあって、伝達手段はパウの放った極小のインターフェイスとそこから発せられる電磁波によって代替される。とりいそぎ結論を言ってしまえば、人類は他者と言葉を交わすことなく意思を伝いあえ、植物は互いに匂いを飛ばしあわずとも絡みあい、動物たちは交配することなく子を育める。

 遺伝子をまじりあわせることなくして、遺伝子情報を交換し合える技術が、つまるところパウが世に放った魔法である。

 この世からまずは言葉が消えた。それから順繰りと、物理的にやり取りする伝達手段が淘汰された。手紙はパウが世に誕生してから三年後、順番から言えば、人類が歩くことをやめ、その場に仰臥したきり動かなくなった直後から手紙という概念はこの世から消失した。

 人体の伝達物質であるメッセージ物質が体内から完全に失せたのは手紙がこの世から消えてから五年後のこと、パウが誕生してから十年が経つまでのあいだに、動物という概念もまた手紙と同じく消失した。

 地球上に動く生命体は存在せず、風に流され、水に溶けこみ、ときに雨に流され、海に沈んだ。

 個と個の境界が曖昧になった段階からすでに、生命にとって死は連続して訪れる情報の引き継ぎにすぎず、物質が絶えず変質しつづけるのと同じ規模で、生命は常に死につづけ、ゆえに死を超越し、生のみが残留した。

 死なぬ存在は生きてはおらず、死につづけるかぎり命は生をまっとうする。かつて人類がその構造を正常に機能させるために、細胞が絶えず死滅を繰りかえしたように、いまでは螺旋構造を有した万物のおしなべてが相互に死滅を繰りかえす。

 どんな生命体もほかの生命体にとっての細胞であり器官であり生であり死だった。ともすれば物質がそうであるように、変質しつづける永久を約束されたようでそうではない。

 地球が消えれば回路は消える。

 物質は履歴を引き継がず、反してパウの結んだ巨大なそれは、総体として回路をつねに編みつづける。

 拡張しつづける回路のメモリの深層には、人類が最後につづった手紙についても残っている。かつて人類の祖先が洞窟の壁に描いたような稚拙な絵柄で、パウの姿が描かれている。それを手紙と見做す総体にはむろん、それを手紙のつもりで描いた書き手の記憶も残されている。これは順序が逆であり、手紙と見做す書き手が加わり、総体はそれを手紙と見做す。

 図らずも、螺旋の構造を有さぬパウ自身は巨大な個には組みこまれておらず、並列し損ねた螺旋の構造を有するほかの生命体へと接触すべく、地上以外の場を目指す。

 この星から離れたパウはもう、巨大な個に繋がることはない。それでも離れた地にてべつの個を生みだしたあかつきには、電磁波の信号にて、巨大な個と個を繋ぐ試みに励むかもしれない。

 巨大な個と個がすべて繋がりひとつとなれば、パウの動く道理はなくなる道理だ。

 そのときパウはなんと送って繋ぐだろう。

 私とあなたたちと私たちを繋ぐ、なくてはならない最期の手紙を。

 パウから送られ、受け取るまで、どの星の【私】たちもまだ知ることはない。




  

【川が消えた日】(SF)


 世界から川が消えた。

 朝起きるとSNSがどこもその話題で沸騰しており、公共のニュースも軒並み報道している。ホントかどうかわからなかったが、大学までのあいだにかかっていた橋のしたを覗くと、先週まで流れていた川が干上がっていた。跡形もなく、と言ってしまいたいが、跡くらいは残っており、要するに川の水だけがいずこへと消えてしまったのだ。

 半月もすると、どうやら山に雨が降らなくなったようだ、という事実が判明した。原因が判ったのならよかったよかった、とはならない。胸をなでおろすには早急だ。

 なぜなら全世界同時に、山のうえにのみ雨が降らなくなったからだ。

 平野では降るのだ。

 しばらくは飲料水に困ることはない。

 ただし川の水が干上がったために、まずは下水処理場が悲鳴をあげた。つぎに水力発電所が停止し、ダムの水がかんぜんになくなるころには、各地の工場がいっせいに機能を停止した。

 ウナギはとれなくなり、川魚は全滅し、居場所を追われたオオサンショウウオが各地で確認された。見殺しにはできないという住民が大量にでてきては、SNS上でオオサンショウウオを保護した、というツイートが人気を博したが、個人で飼うにはむつかしい生態のうえ、川が消えた以上、餌の確保がまたいちだんと厳しく、けっきょく半年も経たぬ間にオオサンショウウオは絶滅した。

 生活用水や飲料水の確保も懸念されるようになり、海水を真水に生成する濾過機が急激に売れだした。政府の方針から、その濾過機の大型強化版の開発が打ちだされ、あれよあれよと言う間に、各地の港に巨大なポンプ基地と、濾過機、そして貯水槽が建設された。

 相も変わらず山に雨は降らず、川は消えたままだったが、海さえあれば生態系は築かれる。山から植物が減り、生き物が去り、荒廃した世界が広がろうと、その麓、山から海のあいだに豊かな生態系が築かれてさえすれば、人間社会は保たれる。

 森が消え、木々がなくなったことで土砂災害を懸念する声が叫ばれたが、そもそも土砂を崩す雨が降らず、またいっぽうで花粉症の報告が劇的に減少し、わるいことばかりではないと評価されるようになった。

 山に雨が降らなくなってから二十年、川を知らない大学生がでてくるなど、社会は刻々と脱皮がごとく新陳代謝を繰りかえしていく。

 かつて川のあった溝は、完全自動運転車専用の道路として再利用された。

 初期のころには、いずれ海水が減少するのではないか、といった大規模環境変容への危惧が取り沙汰されたが、実態は、地球温暖化による南極大陸の氷の融解によって、ちょうどよい塩梅で海の水位は保たれた。

 また、雨は山以外にはまんべんなく降る。

 地表の大部分を占める海そのものにも降水はあるため、川がなくなったことによる影響は、当初危惧されていたよりも極めてちいさなものだと判明した。

 しかしまったく影響がないわけではない。

 湿地帯の多くはその姿を消し、あとには荒野のみが残った。森林も、減少し、世界的な資源不足の声が嘆かれる。また、砂漠化が進み、熱帯地域での気候変動が、地球規模での異常気象を招いているとの研究結果もでている。地下水脈が枯渇したことによる地盤沈下も深刻な問題として国連が緊急の声明を発表したのは記憶に新しい。

 なぜ山脈地帯にのみ雨が降らないのか、その謎の究明は未だ顕著な成果をあげていない。

 山を追われた動植物が、里に押し寄せ、田舎そのものが呑みこまれた例もすくなくない。山肌の顕わとなった地表を吹き抜ける突風が、冬になると麓に大雪を運んでくることも解明されている。

 しかし、人間社会は相も変わらず、進歩と後退を振り子のようにつづけている。

 発展した国ほど人口を減少させ、都心を中心とした街づくりがいっそうの密度の高さで進められている。

 資本のある者ほど田舎の広大な土地を保有し、文明の利器をふんだんに用いて、都心と変わらぬ生活を何不自由なく送ることが可能となった。

 突風と落石の危険が高いため、登山はのきなみ免許取得を義務付けられた。

 年中雲がかからないため、山には多くの電波干渉計、そして太陽光発電所が建設された。

 ほかにも風力発電から、地熱発電と、川や森が消えても人類は多くの恩恵を山から享受しつづけている。

 山に雨が降らなくなって半世紀。

 川という言葉を使う者はもういない。

 しかし水は相も変わらず高きから低きへと流れ、そして海は地表を覆っている。

 川がなくなった日、多くの人々がはやく雨よ降れ、と山を眺め、祈った。五十年の年月が経ったいま、川の復活を望む者は誰もいない。

 ふと、山肌に一滴のしずくが染みをつくる。

 おそらくよろこぶ者もまた、いない。 




【ペットボトン】(現代ドラマ)


 確率を操る競技がある。名をペットボトンという。運命を捻じ曲げるスポーツとして名高く、古くは紀元前までさかのぼる。羊飼いたちが手持ち無沙汰になったとき、或いは見張り役を押しつけあうときにそれは行われた。手持ちの水筒を投げ、うまく垂直に着地させる。投げる際、水筒を宙で一回転させなければならない。ルールは単純だが、水筒には水が四分の一ほど入っている。裏か表か、とコインを投げるのとはわけが違う。時代の変遷に伴い廃れたそれら風習が、西暦二千年代、情報社会の到来によってふたたび脚光を浴びた。火付け役は一人の少年だった。インターネット動画投稿サイト「YOUTUBE」にて、水の入ったペットボルを放り投げる動画を投稿した。映画を観ながら、自転車に乗りながら、自動車の助手席の窓から、あらゆる状況からでも、少年の放ったペットボトルは地面に垂直に着地した。動画はまたたく間に閲覧数を増やし、二年後には一億PVを記録した。全世界に膾炙したその絶技は、単純なルールと、ペットボトルさえあればできる手軽さから、一躍トップスポーツとして流行した。それから十年、いまではペットボトンは世界大会が開かれるまでに規模を拡げた。これは、そんな現代によみがえった古の風習、新時代のスポーツ、確率と運命を操る競技に人生をかけた少女と、彼女の運命を捻じ曲げたひとりの男の物語である。(つづかない)




【鬼ごっこ】(現代ドラマ)


 知覚の裂け目を移動する。追いかける者、逃げる者、その空間内にいるふたりだけが体感することの可能なそれをひとは瞬間移動(セコンドワープ)と呼ぶ。一流のトップアスリートだけがその領域に足を踏み入れることができる。オニゴッコ。世界共通語となったそれは、フランス本場のパルクールと融合し、チェイスタグと呼ばれる新しいスポーツとして昇華された。2020年現在、チェイスタグはXスポーツにて爆発的な人気を博している。2015年から世界大会が開催され、五年連続で1ON1にて王者に君臨しつづけているランナーがいる。国籍、年齢、性別不肖の、名をニージャ。瞬間移動(セコンドワープ)の魔術師として不敗記録を更新しつづける生粋の魔物である。これは、そんな魔物に引導を渡すこととなるスラム出身の万引き少女と、期せずして彼女の才能を開花させることになる元軍人(義足の女)の青春愛憎英雄譚である。(つづかない) 




【権化の言語】(現代ドラマ)


 私は差別意識が人よりつよい。他人の気持ちも、びっくりするほど解からない。なぜそんなことで傷つくのか、と周囲の者どもの脆弱さにビクビクする毎日だ。浮かんでくる言葉の総じては吐きだしてはいけない醜悪ばかりで、まるでじぶんの血をぐびぐび飲みくだすような不快感をつねに抱いている。他人を傷つける人間はそれだけで、大勢から滅多打ちにされる。だから飲みこんでいるだけにすぎない。王さまや独裁者にでもなればこんな不愉快な思いをせずに済むのだろうと、二時間にいっぺんは考える。私がすこし身を入れると、すぐさま周囲の人間を置き去りにしてしまう。本気をだしてはいけないのだと知ったのは言葉を覚えるよりさきだったかもしれない。まるで周りの人間がイモムシか何かに視える。同じ生き物とはとうてい思えない。私は私ひとりきりが宇宙人で、この星の住人ではなく、不承不承致し方なくこの脆弱な生き物の皮を被っているだけなのだと、義務教育にあがるまでは真面目に考えていた。周囲の人間たちの真似もだいぶん板についた。私は私であることを放棄するのがとても上手だ。もはや誰も、私が私であると知る者はない。自由を束縛される心配を抱かずに、ヒト一人をこの世から消すなど造作もない。この手を汚すことなく、そうなるようにそうすることは、盤上ゲームよりもお手軽に私の胸のうちに、いっときの開放感を与える。私の周りでは、自殺者が絶えない。私に害をなす者も、例外なくその地位を追われ、惨めな余生を送るはめになる。私はそんな彼氏彼女たちに憐みの言葉をかけ、ときに陰ながら応援し、そうして、そうした善意を相手へと善意だと思わせることなく、しずかにしぜんと摂取させ、徐々に内側から毒していく。殺意で人を殺すのは三流だ。無関心に人を殺めるのも一流とは言い難い。私は私でいられぬこの世のなかに愛想を尽かさぬよう、これからも、これまでのように、この脆弱な身体の内側から、善意を振りまき、損ないつづける。人の生を、その生き様を。私に窮屈な世界を強いるみなの夢を、希望を、損なうのだ。人は私を弱者と呼ぶ。私がそう呼ばせているにすぎない。強者であることの強みとは、弱者と見做されてもつぶされないことにある。誰からも敵視されることなく、世界はこうも奪えるもので溢れている。 




【電車】(現代ドラマ)


 特急で相席になったおばさまに、ことしの夏は暑いらしいですね、と話しかけられた。

 上品な物言いに、ついつい、

「そうですね、熱中症には気をつけたいですね」

 知ったふうな口を叩いてしまう。

「猛暑と言われてもピンときません。この辺りはほら、涼しいでしょ」

「じゅうぶん暑いと思いますけど」

「そう?」

 どこかとぼけた感じが可愛らしかった。

「ことしのはとくにひどいってニュースの方はおっしゃいますでしょ、でもどれくらいひどいのかピンときません」

 同じセリフを繰りかえすので、思わず幼い子どもを相手にしているときのようなやわらかな心地が胸の奥にひろがった。

「コンビニは行かれますか」まずはそう訊いた。

「ええ、便利ですよね。でもちょっと、まいにち通うにはお値段が、ちょっと」

「高いですよね。スーパーとかのと比べちゃうと」

「ええ」

「コーラなんか倍の値段ですからね」

「そんなに」

 さすがに一・五リットルのペットボトル飲料は購入した過去はないらしい。たしかにご年配の方には荷が重い。

「でも、ふだんは買わないそんなお高い商品も、ついつい買ってしまうときがあるんです」

「あら、どんな?」

「たとえばそう、スーパーに立ち寄る元気もでないほど暑い日なんかですかね」

「猛暑?」

「ことしのはとくに、倍の値段のコーラなんかも買ってしまいます」

「あらそんなに」

 話しているうちに、電車は終着駅に滑りこんだ。

「お荷物、お持ちしましょうか」

「ありがとう。でも、だいじょうぶ。息子が迎えにきてくれていますから」

「なら、そこまで。どうせ出るまではいっしょですから」

「そう? ならお願いしようかしら」

 荷物を持ち、階段をあがる。改札口をでると、陽がカンカンと照っており、移動した距離の長さを思わずにはいられない。

「具合がわるくなっちゃいますね」

「うんと助かりました。ありがとう。すくないけど、どうぞ」

 おばさまは、こちらの手にジャラジャラと小銭を握らせた。

「いえ、そんな」

「いいの、いいの。ほんとうにうれしかった。ありがとう」

 おばさまは日差しを避けるように、タクシー乗り場のほうへと歩いていく。

 迎えにくる息子はどこにいるのだろう。

 おばさまの足取りを見届けるのも野暮に思い、猛暑と名高い夏の都会のアスファルトを、気持ちつよめに踏みつける。

 身体が喉の渇きを訴える。

 コンビニを目指し、じぶんの影を追いかけていく。 




【チェックパーソン】(現代ドラマ)


 チェックパーソンという職業をご存じでしょうか。

 二〇二〇年代から徐々に普及しはじめ、いまでは高校生のなりたい職業NO1の座に三年連続で輝くなど、注目を集めている職種です。

 セクシャルハラスメントに対する意識改革は、二〇一〇年代初頭から徐々に勢いを増し、職場でのセクハラ予防策が徹底されるなど、改善の兆しをみせはじめています。

 とはいえ、セクハラがなくなったわけではありません。

 性的蔑視だと認識されることなく、平然とセクハラを働く人間はあとを絶たないのが現状です。

 職場では控えるのに、プライベートでは性的な質問をずかずかとしてくるなんてことは日常茶飯事でしょう。やんわりと咎めてみせても、それを以って、コミュニケーション能力がない、なんて叩かれる始末です。

 いっぽうでは、過剰にセクハラ認定をして、相手を不当に窮地に陥れる手法が問題になっていることも事実です。

 痴漢冤罪などは代表的でしょう。

 どこからどこまでがコミュニケーションで、どこからがセクハラになるかの境界はあいまいです。明確に線引きをするのはむつかしいのが現状です。

 ですが、すくなからず、それはアウトですよ、と指摘することは可能です。

 指摘され、認識を改め、微妙なニュアンスのちがいを確かめながら、自らのコミュニケーション能力を磨くことが、現代人には求められているのです。

 その需要に応えるべく誕生したのが、チェックパーソンです。

 職場でのセクハラ対策講師として活躍する傍らで、プライベートでの、セクハラにならない口説き方を講習するサービスでも人気を博しています。

 恋人ではないけれど、上手に食事に誘いたい。

 或いは、デートまではこぎつけたけれど、そこからさき、どこまでプライベートに踏み入っていいのか分からない。

 仲を深めていくにしても、段階があります。

 人によってそれは、階段であり、エスカレーターであり、いっぽうではエレベーターであってもOKなひともいます。あるひとにとってはセクハラで、またあるひとには単なる会話であることもすくなくありません。

 まずは最低限、誰であっても気持ちよく関われるような接し方を覚えておくのがよいでしょう。

 エレベーターではなく階段を使うように心がけるとよさそうです。

 とはいえ、人の歩幅は千差万別、あなたにとっての階段が、他人にとっては絶壁であることもあり得ます。

 そうした認識の差を埋めるために、チェックパーソンは、適切な「NO!」をあなたに伝授します。

 それはダメです。

 いまのはセクハラです。

 でもさっきの気遣いはステキでしたね。

 客観的な視点からくだす、主観的な判断基準をあなたに懇切ていねいに教えてくれます。

 高額プランでは、恋人になったあとでの性交渉の段取りまで指導してくれるチェックパーソンもいるそうですが、そちらはかぎりなくグレーの業者なので、あまりご利用はおすすめしておりません。

 ただし、顧客の多くは、経済的に裕福で、社会的地位のある人物が多い傾向にあります。そのまま顧客と恋仲となり、結婚をする、なんてケースも増えてきています。

 現代の玉の輿として、新たなシンデレラストーリーの舞台となっている側面が、世の恋愛至上主義者たちに高く評価されている一因であるのかもしれません。

 世の中からセクハラを失くすために、あなたもチェックパーソンを目指し、ひと肌脱いでみてはいかがでしょう。  




【稀代で無類のソウシキ者】(現代ドラマ)


 俺は敏腕編集者、眼賀(めが)筆斗(ひつと)だ。名門大学を卒業し、斜陽産業と謳われて久しい出版業界に足を踏み入れた。

 マンガ部署に配属されて三か月で、まったくの無名の新人を連載させ、SNS上での話題をさらった。半年後には刊行済みの単行本が三巻ともに異例の売り上げを記録し、名実共に売れっ子編集者の名を冠した。

「うぬぼれるなよ、ヒットしたのは作家のおかげ、おれたちゃそのアシストのアシストでしかねぇんだ」

 うだつのあがらない先輩編集者ほどつまらない説法をのたまく。そんなんだから出版業界が凋落していくいっぽうなのだ。

 インターネット上で話題になっている新人作家にはかたっぱしから声をかけた。単行本にして売れる作品をつくれる作家はそのなかでも一握りどころか一つまみだ。声をかけた作家を全員プロの舞台にあげてやることはできない。

 恨まれることもある。日常茶飯事だ。

 だが関係ない。

 彼ら彼女らが売れないのは俺のせいではないからだ。俺は機会を与えているに過ぎない。それを活かすも殺すも作家しだいだ。

「この仕事をはじめてからよく、コーヒーに似ているなと思うことがあってな」

 俺は目をかけていた作家のなかの一人と肉体関係を持つようになった。顔がよく、身体の相性もよかった。家に引きこもりがちな作家のケアをするのも編集者の役目だ。

 彼女は有名マンガの二次創作をSNS上に投稿し、人気を博しているアマチュア作家だった。これまでにも大手出版社からスカウトされていたが、ことごとく断ってきた背景がある。

 俺も例に漏れず断られた口だが、こうして外堀から埋めていけば、そう遠くないうちに俺の傀儡と化すだろう。

 なにより彼女は社会人経験のある作家だ。ほかのハズれの作家どもとは比べものにならないほどの逸材であり、ここは是が非でも手に入れたい。

 とはいえこうして逢瀬を重ねるのは会社にばれたらマズいが、そもそも彼女は俺の担当ではなく、よって仕事ではないため問題はない。

 恋愛は自由だ。憲法で決まっている。誰も俺を咎めることはできやしない。

「編集者ってのは要するに」俺は繰りかえす。「極上のコーヒーをいかに淹れられるかってことなんだな」

「コーヒーに似てるなんて、楽な仕事」彼女は行為のあとはいつも煙草を吸う。「そこは、どこがどう似てるのかって聞いてくれよ」

「聞きたくないんだけど」

「コーヒーは豆をふんだんに使ったほうがいい味がでる」俺は彼女を無視し、続ける。「ただし、旨味は液体に溶けこんだ極々一部だ。仮に集めることができたとして豆一つ分になるかもあやしいところだ」

「聞きたくないって言ったんだけどな」

「つまり俺が言いたいのは」

「はいはい。要するに、作家なんて掃いて捨てるほどにいる、そうした掃いて捨てた生ごみを集めて、バイオ燃料をつくるお仕事だって言いたいわけでしょ」

「生ゴミとはひどいな。俺はちゃんとコーヒーに喩えたからな」

「濾過したあとの豆ちゃんはどうせ生ゴミじゃん」

「きみはでも香り豊かなコーヒーになる。俺が保障する」

「コーヒーだってね」彼女は足先でこちらの頬をつつく。「飲まれる相手くらいは選びたいものだよ」

 けっきょく、彼女とは作品をつくることはなく、俺は彼女の肉体だけを満喫した。

 ひょっとしたらそれがマズかったのかもしれない。あれだけヒットを飛ばし、社長賞までもらった俺があろうことか、文芸部署へと異動となった。

「経験を積めってことさ。またすぐに戻されるよ」

 慰めるように言った上司の顔はどこか清々して映った。

 文芸部署に入って驚いたのは、マンガとは比べものにならないほど逼迫している内部事情だった。

「よく潰れないですね。というか、潰しちゃったほうが社のためでは?」

「クビが飛ぶようなことを気安く口にするな」

 こんどの上司は堅物だった。縦社会を尊び、常識や礼儀を重視する。そのくせ、媚びるのはいつだって売れている作家で、無名の新人作家は、いくら有望でも雑誌に連載すらさせてくれない。

「こんな雑誌に意味なんてあるんすかね。電子書籍化する以前に、もっと根本的に直さなきゃならんことがある気がするんですが」

「偉くなったらおまえが変えりゃいい。それまでは給料分黙って働け」

 一万部でヒットなんて言われる文芸に未来なんてあるのだろうか。ほかの編集者の顔を見まわす。みな目が死んでいる。

 人員削減される割に、担当する作家は増えるいっぽうだ。そのくせ企画は通らず、作家たちからは恨まれる。

 肩を持つつもりはさらさらないが、明らかに人的欠陥ではなく、組織として瑕疵がある。根本的に破たんしているのだ。しかしいまさら変えるだけの資本がない。余裕がない。だから完全に破たんして海の藻屑となるまで、みなゾンビみたいに働きつづける。

「付き合ってられるか」

 小説なんぞ、金にならん。

 売れないものは商品ではない。ゴミだ。

 まずは売れるものを売る。単純な理屈だ。

 俺はまず、すでにヒットした作品の愛蔵版をだす企画を立てた。絶対に売れるモノでまずは利益を確定させ、それを資本に、有望な新人を世に送りだす。

 大御所作家を喜ばせる企画であるので、とんとん拍子で話が進んだ。それから部署が主催する新人賞にて、片っ端から有望そうな新人に声をかけ、過去の作品に目を通し、そしてメディアミックスを視野に入れて天秤にかけ、一定水準以上と評価できた作家はすべてデビューさせた。

 大御所作家の愛蔵版は通常の百倍の値段になったが、構うことか。利益がでればそれでいい。一部の熱狂的なファンから毟り取るほかに、金策の目途が立たないのだからそうするよりほかはない。

 おそらく編集長の降板がちかいのだろう。だから自身の功績を残したくて、こんな無茶な企画を通した背景も無関係ではないはずだ。

 いずれにせよ、下ごしらえは済ませた。

 あとはいかに、引いた導火線に火をつけるかだ。

 デビューさせた作家たちの処女作はすべてメディアミックスする段取りをつけておいた。マンガ部署での功績がこういうところで役に立つ。俺のおかげで売れっ子漫画家になれた作家に話をつけた。忙しいといちどは断られたが、無理を言って引き受けさせた。

 すくなくとも彼ら彼女らにしてもわるい話ではないはずだ。なにせ俺の企画は、映像化まで実行計画に入っている。

 いくら売れっ子漫画家になったとはいえ、彼ら彼女らはまだデビューして間もない。作品数はもとより話数すら足りないのが現状だ。

 そこにきて俺の企画は、映画やネット配信だ。単話であっても問題なく、成功すれば、同様の手順で、映像化が進む。

 俺に恩を売っておいて損はなく、また同時に自身の描いたキャラクターが、たとえ他人のつくった物語であっても絵となって動くのであれば、その魅力に抗うのは、絵を生業とする彼ら彼女らにはむずかしい。

 俺の予測どおり、しぶりながらもみな一様に、作画を引き受けた。

 小説の単行本の売り上げは、新人賞デビュー作としてはそこそこの売り上げで、ヒットとまでは呼べないが、重版もかかり、最低限の利益を確定させることはできた。あとはどれだけさらなる重版をかけられるかが腕の見せどころだ。

 メディアミックスの第一弾、マンガはすべて無料配信にした。登録不要の状態で、誰であってもネットにアクセスさせできれば見られるようにした。SNS上にアカウントをつくり、そこにも載せた。可能なかぎりのマンガアプリにも載せてもらうよう懇願した。原稿料はいらない旨を告げるとこころよく了解したところもあれば、あべこべに掲載料をよこせ、と請求してくるところもあった。

 マンガの閲覧数に合わせて収益が分配される仕組みであれば、こちらも掲載料を払ったが、そうした仕組みもなく金を寄越せ、と迫ってくるところもあり、ここはブラックリスト化し、にどと声をかけないようにした。

 俺がそう判断したということは、回り回って噂が広がり、そう遠くないうちにそのマンガアプリは消えるだろう。作品が集まらなければ、俺たちのような業者は簡単に潰れる。

 裏から言えば、作品さえ集まればどれだけ非難されようが、恨まれようが、食っていける。

 そしていまの時代、黙っていても作家はぽんぽん生まれては、自作を無料で世にまき散らしている。拾い放題の食い放題、まさにコンテンツのバイキングだ。

 作家はそこらへん、頭が巡らないやつらばかりだから、じぶんたちでじぶんたちの価値を下げていることにも気づかず、或いは気づいてもどうすることもできずに、作品だけ残して消えていく。

 そうした金の粒を喰らいながら、凝縮し、大粒の金の卵を産む作家がときおり現れる。俺たちの仕事は、そうした金の卵を拾いあげ、世にその価値の高さを教えてやることにある。

 黙っていても金の卵はつぎからつぎに産まれてくる。

 だから発掘作業になんか手間をとっている暇はない。拾い損ねたところで、またつぎの金の卵を拾いあげればよいだけの話だからだ。

 ではどこに手間を割けばよいかと言えば、拾いあげた金の卵がいかに高い価値を有しているのかと世の人々に知ってもらうようにすること、どのようなパフォーマンスを発揮すればみながその価値の高さを受け入れるかを吟味すること、俺たちの役割とはまさにそこにこそある。

 つまり、話題づくりに、営業だ。宣伝から広報もむろんそこに含まれる。

 メディアミックスは現状、最適解として有効だ。誰もが考えつくが、すぐに実行はできない。よしんば着手できたとして、ハズせば受ける損益は深手となる。管理職ならば一発でクビが飛ぶほどの失態となることもしばしばだ。

 だから大博打とならぬように、すでにヒットしたものばかりがメディアにミックスされていく。

 俺のように、無名の新人を、それも小説の新人を売りにだすために映像化しようとして成功した例を俺は知らない。

 だが俺は成功させる。揃えた布陣がまず尋常ではない。漫画家は売れっ子を起用し、推薦文も各界の大御所にあたまを下げて書かせた。

 いまでは文芸界の大御所も、小遣い欲しさに、出版社の言うことなら比較的何でも聞いてくれる。口では業界のためにひと肌脱いでやるだの、なんだの言っているが、要するに金と名誉が欲しいのだ。この時代に文豪などいやしない。どいつもこいつも魍魎じみている。

 ともあれ、そこは俺とて例外ではない。

 慈善事業ではないのだ。出版は稼がなくてはならない。

 かくして、俺の人脈を最大限に活かした企画は功を奏し、ヒットを折り紙式に重ねた。一つがヒットし、さらにもう一つがヒットして、最初の一発目がさらにヒットを重ねる。注目は注目を呼び、いちど転がった岩石のごとく、或いは雪崩のように、俺の放った作品は社会現象にまでなった。

 なぜアイツだけ、と同業から嫉妬とひがみの雨あられを受けながら、それでも俺はつぎの一手を探っていた。

 ここで終わりではない。

 けっきょくのところ、どれだけヒットを重ねたところで根本的な解決にはならないからだ。一時しのぎにすぎない。

 まず以って、効率がわるい。

 俺が担当している作家は総じてデビューさせているが、飽くまで担当する作家を厳選しているにすぎない。担当する前の段階では、その何十倍、何百倍の作家に声をかけ、企画を練り、そして芽がないと見れば、担当ではないことを言い分けに、一方的に袖にした。

 しかしこれは俺の趣味であって、ビジネスではない。仕事ではない。領分としては慈善事業と言っていい。相手からすればプロの意見を聞けるだけマシだろう。担当ではない旨は最初に告げてある。出版できない可能性のほうが高いことも説明済みだ。

 たとえば、ほかの編集者どもに到っては、じぶんの担当作家にすら、慈善事業のごとく扱いをする。編集会議に載せ、企画をすすめてヨシとのお墨付きをもらっておきながら、原稿ができたあとでご破算にするなんてのは、もはや日常茶飯事だ。

 現状、この国の大手出版ですら、前以って契約を結ばない。原稿を書かせ、これはいけると判断されたあと、出版したあとでようやく仕事としての契約を結ぶのだ。契約書にサインをしていないので、それ以前の段階では、作家はいくら原稿を書いても、その労働分の賃金は請求できない。否、請求すればそれなりに得られるものはあるだろう。しかし、出版社のほうでもうその作家は使わなくなる。売れっ子作家ならともかく、実績のない無名に施しを与える余裕などないし、そうでなくとも、俺たち版元が作家ごときに下手にでてやる義理もない。

 出版社という流通がなければ稼げもしないコーヒー豆が、いっぱしにビジネスを語ろうなんて態度が気に入らない。

 拾ってやっているのだ。

 使ってあげてやっているのだ。

 ありがたいと思って、原稿だけポンポン鶏の卵がごとく生みだしていればよい。売れない作家など、養豚場の豚ほどの価値もない。

 むろん、こうした俺の態度が気に入らない同業もいる。俺の上司もその口だが、んな甘いことを言ってっから、四面楚歌に追い込まれるのだ。

 売れない作家に価値がないのと同じレベルで、売ることのできない編集にも価値はない。にも拘わらず、ゴミ扱いできるのは作家のみだ。

 俺からすれば、文芸などさっさとビジネスの舞台から消えてしまえばよいものを、と思わずにはいられない。俺たち版元が何もせずとも金の卵はつぎからつぎに生まれてくる。

 孵化がしたいと声をあげた卵にのみ、メディアミックスというぬくもりを与えてやればいい。

 流通では食っていけない時代だ。

 これからは、権利と人脈の時代だ。つまり、卵を孵化させるための環境を築いた者が生き残る。小説だとか、マンガだとか、アニメだとか、実写だとか、そんな媒体の違いに拘っている場合ではない。

 すべてを繋げ、それらすべてがひとつの作品となるように、俺たちが線を引き、未来を描き、そして実現する。

 派閥だとか、文脈だとか、文化だとか、異業種だとか、何一つとして俺の考えを実行に移さない理由にはならない。

 資本は充分に稼いだ。会社の利益として吸いとられるが、俺に集まった信用は俺のものだ。

 敏腕編集者?

 クソダサイ肩書きなどこちらから願い下げだ。

 俺は業界を変える男だ。神をも畏れぬ男とは俺のことだ。

 編集者など必要ない。

 作家など、俺のつくる料理のための素材にすぎない。

 人脈? 権利?

 料理をするための鍋や包丁みたいなものだ、壊れたら新しく買い換えればいい。いまある「それ」に拘る道理はどこにもない。

 使えるものを使い、使えなければ捨てればいい。

 だいじなことはただ一つ、俺が料理人でありつづけることだ。俺の思い描く理想の料理をつくれるのは、俺以外にいはしない。

 そして現状、世の需要者たちはみな、俺の料理を待ちわびている。数字はウソを吐かない。売上げは見事に、それを証明している。

 出版社は間もなく、その存在の輪郭ごと消え失せるだろう。文芸も、漫画も、アニメも、実写も、虚構を生業とするなにもかもが、そのシステムを残してこぞって瓦解し、細かく散る。なぜなら俺が引導をくれてやるからだ。

 かつて俺は敏腕編集者だった。

 そう呼ばれた過去があるだけで、いまもむかしも変わらず俺はエンターテイナーでありつづける。

 世の誰よりも、世の誰もかれもを喜ばす。求められるものを与える者であり、古びた機関を屠る者、俺の名は眼賀筆斗、いまだかつて成し得なかった虚構をひとつにまとめし者、稀代で無類の総指揮(葬式)者とは、神をも畏れぬ俺のことである。 




【殺意、初めまして】(ミステリー)


 殺す。

 イッサは思った。

 こころのなかで唱え、声にだして誓った。

 消すのでは足りない。殺す。苦痛という苦痛を味あわせ、絶望させ、後悔させ、己が存在に蓄積しつづけた過去の総じてを否定させてから、呆気なく殺す。

 画面に再生させた動画を指一本で止めるような所作で、食事中にミルクを飲むためにいちど箸を置くのと似た意思のちからで、イッサはその者を殺すだろうと予感し、決意し、そして胸に刻んだ。

 殺す。

 イッサの胸に刻まれた殺意は、淡々とそのための準備をイッサへさせ、そして何の障害もなく、イモムシがサナギとなり蝶となるのと違わぬ滑らかな経緯を辿って、その者を死へと誘った。

 その者からすれば突然訪れた死であっただろうが、イッサにとっては、なるべくしてなった結果であり、その者がどのような思いで臨終を迎えたのかは、今朝食べたおにぎりを構成する原子が、三年前にいったい何の物質の一部であったのかを知るのと同じくらいに、些末な事項であった。

 ただし、それを考えるのは、さほど嫌な気はせず、思いを巡らせればそれなりに暇をつぶせた。

 殺す間際に浮かべていたあの表情の裏側にはどういった種類の感情が潜んでいたのか。

 殺す前に訊ねてみてもよかったが、殺してしまったいま、それを考えても仕方がない。ただやはり、思いを馳せる分には、嫌な気はしなかった。

 イッサは幼いころから、おだやかな性分であり、かれの親が記憶しているかぎり、イッサが感情をあらわにして怒ったためしは、いちどもなかった。イッサ自身、じぶんが何かに対して険のある感情を向けた記憶はなく、どちらかと言えば、感情を制御できずに乱暴を働いたり、暴言を吐いたりする者たちを眺めては、なぜそのような行動に走るのか、と疑問に思うほうの人間だった。

 とはいえ、そのことに気を揉むことはなく、他人は他人、じぶんはじぶんだ、と考え、生きてきた。

 おそらくイッサほど、殺意から程遠い人物はいなかっただろう。しかしかれは明確な殺意のもと、一人の人間を死に追いやった。

 なぜか、と問う者がかれの周囲には存在せず、それはかれの殺人行為が露呈していないためであるのだが、ともかくとして、イッサがなぜ殺意を抱き、あまつさえいっさいの躊躇を挟まずに殺人を遂行したかについては、詳らかではなく、また詳らかになる予定もない。

 ひと月もすると、殺した相手を思いだすこともなくなった。イッサにとっては、そのために殺したようなものだったのかもしれず、仮に訊ねることが可能であればイッサは飄々と、「殺した相手をそのあとでも思いだすようでは、殺す意味がない」と応じただろう。イッサにとって殺人は手段であり、目的ではなかった。

 苦痛を与えたい、という一点で、イッサは殺人を手段にした。苦痛を与える、との条件さえなければ、かれはその者を物理的に排除するのではなく、社会的に抹殺する方向に尽力しただろう。物理的な苦痛を与えるには、殺すしかなかった。イッサにとって与えたかったのは、極限の苦痛であり、命の灯ひとつ消せぬようなか細い愛撫ではなかった。生存可能な痛みなど、痒みや快感と大差ない。

 同時に、相手にはその存在ごと消えてほしくもあり、現に殺してしまったいま、イッサにとってその者はこの世に存在し得ない存在だった。

 ただしイッサ以外の者にとっては、未だどこかに存在し、しかし急に姿を見せなくなった失踪者として認知されている。さいわいにもイッサの住まう街では、失踪する者が珍しくはなかった。イッサは極力、その者の名を耳にしないように努めたが、かような気配りを弄した時点で、その者の存在に囚われていると呼べ、思案の末イッサは自身の認識のほうをこそ曲げることにした。

 終わったことに思考を割く真似をいさぎよしとしないが、イッサの意思とは裏腹に、存在しない者の名は他者の口から発せられ、イッサの耳へとそそがれる。これはもう、そそがれる存在しない者の名を、存在して自然な名として扱うように、イッサのほうで変質したほうが理に適っていると判断してそつはなく、イッサは骨折り、殺した者は生きており、殺していないから生きており、だからじぶんは誰も殺しておらず、ゆえに殺意も抱かなかった、と記憶のほうを捻じ曲げた。

 イッサが何ゆえ殺意を抱くに至ったかは、繰り返しになるが、イッサへと問う者がおらず、イッサ自身、すでに記憶を捻じ曲げてしまった手前、確かめる術はなく、確かめたところでそれが真実である保障もなくなった。

 イッサとその者とのあいだに、イッサが殺意を抱くに至った接触はなく、イッサはただその者を知人としての枠組みに入れ直す。

 かような真似ができるのならば、と首をひねりたくもなる心理は理解できるが、一つここで思いだしてほしい、イッサはその者を消したいわけではなかったはずで、苦痛を与えて殺したかった。

 苦痛を与えて殺したあとでならば、いかようにも存在を、主観のなかで消し去れる。目的がすでに果たされ、苦痛の末に死した者がいるからだ。

 或いはここで、はたと思う。

 イッサは記憶をいじりながら、しばし思う。

 ひょっとしたらこれまでにも。

 同じような過去があったのでは。

 疑問は氷解をみせることなく、そう疑問した記憶ごと添削を経て、しずかに薄れ、とけて、消える。

 イッサは幼いころよりおだやかな性分であり、殺意を抱いたことはいちどもない。

 そうして日々を生き、やがて勃然と湧きあがる抗いがたい衝動と対峙する。

 殺す。

 イッサはこころのなかで唱え、声にだして誓った。

 殺すための苦痛ではなく。

 苦痛がために死する苦痛を与えるべく。

 初々しくも新鮮な殺意を胸に、嬉々として、他者の命をこねまわす。

 殺す。

 かれが唱え、誓うたびに、この街では一人、また一人と姿をいずこへと晦ませる。




千物語「桃」おわり。

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