千物語「灰」 

千物語「灰」 


目次

【ペイピ】

【純粋亜垢】

【最終試験問題】

【次元間ワープ】

【NEWTUBER】

【エビフライエフェクト】

【右傾化する国、不敬なクズぶり】

【よくある話:1~15】

【二人称百合】

【二人称百合(2)】

【百合SSまとめ】

【そらに刻む雨のように】

【たっきゅう】

【わたしはわたしに恋をする】

【虫の調べ】

【偉大な魔女は夢を見る】

「ムキ」「雨季」「向き」「無期」「無機」「無二」「愚痴」「無為」「武器」「無地」「内(うち)」「無視」「無知」「縁(ふち)」「籤(くじ)」「蛆(うじ)」「無理」「累(るい)」「有為」「無事」


【ペイピ】

 

 母親認定書の発行が義務付けられた。ペイピが大流行したせいらしい。

 母親になって赤ちゃんを抱っこするためにはタクシーみたいに、わたし母親ですよーのマークを腕に付けなければならない。腕章というやつだ。色は選べるもののどれも蛍光色で、遠目からでもハッキリ見える。

 裏から言えば、腕章をつけていない人で赤ちゃんじみた物体を抱っこしていれば、十中八九そのひとの抱いているものはペイピだ。

 クラゲの遺伝子をいじくって生まれたそれは偶然の産物らしいが、ともかく、赤ちゃんじみた外見をしていて、成長しない。

 食べない、死なない、クソをしない。

 そのくせ見た目が赤ちゃんで、全身くまなくぷにぷにとくれば、売れないわけがない。

 女性だけでなく男性であっても購入できる。とはいえ、父親でもないのにペイプを持つ男性陣への視線は冷たい。男女差別だなんだと一部では騒がれてはいるが、父親認定書の発行は一向に義務付けられることはない。やはり女性がそれをぬいぐるみのように手に入れるのと違って、男性はひそかに、こそこそと世間の目に触れないように購入するらしい。

 婚約者がペイピを飼っていたと知って婚約破棄した女性たちを報じるマスメディアはすくなくない。社会問題とまではいかないが、それなりに話題になっているのが現状だ。

 ルポライターのはしくれとしてわたしもペイピを入手した。

 これはその記録だ。

 ペイピがもたらす生活の変容と、その問題点を詳らかにしていこうと思う。

 ちなみにこれが世間に記事として出回ることはないと考えている。

 なぜか。

 わたしは売れないルポライターだからだ。

 趣味で書いた文章に値段がつくほど希少価値は高くはない。

 一日目。

 まずは注文したペイプが届く。噂には聞いていたが、よもや宅配便で送られてくるとは思わなかった。通販感覚だ。

 ペイプは法律上、生物として認められていない。増殖しないからだ。

 成長せず、ゆえに生殖をしない。

 破棄する場合は、販売元のメーカーに引き取ってもらうことが義務付けられている。最初の契約時にていねいに説明された。捨てた場合は罰金だ。支払った値段の十倍を払わなくてはならない。逃げだした場合も、即座に専門の業者へ通報すること、とある。

 増殖しないペイピだが、その性質上、餌としては優秀だ。放っておけば傷は消え、さらに保存がきく。自然界に溢れれば生態系を崩すのは目に視えている。じっさい、ペイピの生成過程で発生する廃棄物の多くは家畜の餌として利用されている。

 届いた箱をさっそく開ける。

 円柱状の容器が納まっている。透明だ。ペイピはその容器のなかに浮いている。ちいさな胎児のように丸まり、ぴくりとも動かない。

 生きているのだろうか。

 ホルマリン漬けの胎児を眺めている気分だ。

 説明書を読む。紙ではない。

 サービスがよいのか、フィルム型のメディア端末が付属している。ペイピの監視用にも使えるらしい。また、ペイピが邪魔なときにはこうして容器に入れて保管できる。

 なるほど、愛玩動物というよりは、電化製品に似た嗜好品の範疇なのだ。

 付属のメディア端末を容器に同期すると、なかの液体が抜けていく。説明では、固体化して容器の底に格納されるそうだ。どんな技術なのだろう。

 ようやくペイピとご対面だ。

 液体がすっかり抜けきると、容器のなかでペイピはくねくねと動きだす。まだ目は開いていない。足をたたみ、子犬のようなかっこうで、目をこしこしこすっている。ちいさな欠伸だ。この時点でかわいらしい。

 ペイピの外装はユーザーが独自にカスタマイズ可能だ。パーツごとに選択できる。まったく同じデザインのペイピをつくるほうがむつかしい。別途料金を払うことで、人気のデザイナーが描いた外装を選択することができる。人気のデザイナーとは言うが、実情は、ペイピの動画や画像をネット上にアップして人口に膾炙した人々だ。そこからデザイナーとして活躍の場を広げるのが通例となりつつある。有名人と同じ外装のペイピはやはり人気だ。デザイナーとして売りだしたいがためにペイピを購入する著名人も多いと聞く。

 現にわたし自身、こうして私利私欲のためにペイピを注文した。

 否、私利私欲以外でペイピを手にする理由などはない。

 初めて抱っこしたペイピは、すべすべのぷにぷにで、わたしはもう、この愛くるしい塊を手放せそうにない。

 二日目。

 顔をペタペタ叩く感触で目が覚めた。ペイピが、ぺたんとお尻を布団につけ座っている。きのうまでは寝転んで足の親指を噛んでいるのがやっとだったのに。

 成長はしないとはいえど、これくらいの進歩はあるようだ。

 オムツを穿かせる必要はないのに、穿かせたくなる気持ちがよくわかった。

 三日目。

 久々に仕事の依頼が入った。しばらくかかりきりになりそうだ。本物の赤ちゃんを持ったとしたら……。考えるだけでぞっとしない。

 ペイピ、たしかにいいものだ。

 四日目。

 容器に仕舞わずにいたら、家のなかをハイハイで移動したようで、どこにいるのか探すのに手こずった。段ボールに入れておくくらいではダメなようだ。脱走能力を甘くみてはいけない。

 ふと思いたち、昼ごはんのヨーグルトを与えてみた。

 口に含みはするが、すぐに吐きだす。お気に召さなかったようだ。

 五日目。

 ネットでペイピに食事を与えてはいけないという記述を見つけた。説明書にはなかったもので、もし与えても問題ない、と公式のQ&Aには書かれている。どちらが正しいのだろう。もっとも、ペイピのほうで食事を拒むのがいまのところの反応だ。

 ペイピに胃はないらしい。

 六日目。

 仕事の進捗が芳しくない。ペイピは抱き枕として一級品である。

 七日目。

 仕事中、足に何かが触れたので見遣ると、ペイピが足に巻きついていた。両手でがっしりとわたしのふとももをキャッチし、顔をぐりぐり押しつけている。かまってよー、さびしいよー、と言っているのだろうか。いや、言っていない。ただ無邪気にすがりついているだけなのだ。

 驚くべきことに、このとき初めてペイピが立っている姿を目にした。

 ペイピの体力はレベル2に設定してもらったはずなのだが、これくらいはできるのだろうか。

 八日目。

 ペイピが届いてからようやく一週間だ。はやいようで、長かった。もうずいぶん前からわたしはこのペイピといっしょに過ごしてきたような感覚がある。メーカーから返せと言われてもイヤだと拒んでしまいそうだ。ほかのペイピと取りかえると申し出られても拒否する自信がある。

 名前をつけるのがすこしコワい。

 一〇日目。

 きのうはレポートをつけなかった。ペイピの身体をすこし調べた。お尻の穴にカメラを入れてみた。どうやらペイピにも腸のような穴は開いているようだ。人間ほど複雑ではなく、すぐにえずきだし、確認すると喉の奥にカメラの明かりが見えた。

 人間ではない。

 赤子ではないのだ。

 解ってはいた。

 しかし、もはやペイピを物としては見られない。これを破棄する者たちがいること、そしていずれ破棄するじぶんを思い、きぶんが塞ぐ。

 一一日目。

 きょうからペイピに名前をつけようと思う。

 一四日目。

 名前で呼ぶと反応するようになった。覚えたのだろうか。騒音を気にして声帯機能をつけなかったことを後悔する。

 ネット上ではペイピの「あーうぁー」「きゃっきゃ」とたくさんの声を聴くことは可能だが、それを耳にして素直に可愛いとは思えない。やはりじぶんのペイピを持ってこそ思うところがあるようだ。声帯機能はつけておいたほうがいいですよ、という助言がすくないのは、ひょっとすると後悔の念の深さが反映されているのかもしれない。どうあってもわたしのヨウはもう、しゃべることはないのだ。

 二〇日目。

 おかしい。おととい辺りから、気のせいかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。ヨウがしゃべる。声を発するようになったのはもっと前、一二日をすぎたころからだったが、今では明確にわたしのことを、ネーと呼ぶ。おねーちゃんですよぉ、としゃべりかけていたからだろう、ヨウはそれを学習したのだ。ペイピに知能はないはずだ。おかしい。声帯機能のオプションだってつけなかった。これまで黙っていたが、隠すのはやめよう。ヨウはすでにハイハイを卒業し、よちよちとではあるが歩いている。ヨウは明確に、はっきりと、成長している。こんなこと、あってよいのだろうか。あす、専門家に会って話を聞いてくることにした。

 二二日目。

 家をでた。メーカーは信じられない。繋がっているやつらもだ。

 三四日目。

 ハメられた。

 三八日目。

 ここまでの経緯をまとめる。まずわたしは今、わたしと似た境遇の男のもとに身を寄せている。匿ってもらっていると言えないのは、彼もまた逃亡者だからだ。ペイピメーカーはその技術を軍事利用しようとしている。そのための実験で生まれた試作品がヨウだ。

 内部にいる何者かがヨウを一般商品のなかに紛れこませた。

 わたしに配られたのは偶然ではない。

 キョウボもそう言っている。ライターという職業で選ばれたのではないかと。

 ふざけた話だ。世に問えるほどの影響力があれば、こんな事態になってはいない。誰もわたしの言葉に耳を傾けない。傾ける価値がないと知っているからだ。

 白状する。

 わたしの書いてきた記事は、ウソで塗り固められている。権力者が不祥事を起こしたときに、そんなことはない彼こそが被害者なのだと、世に刷りこむために氾濫するフェイクニュースだ。ときには、罪もない人々に罪を被せる。被害者を指弾するのなんて常套手段だ。いまさらわたしが声をあげたところで、過去の記事を暴かれ、わたしもろとも、わたしの発言のことごとくが弾劾されるだろう。

 いったいわたしに何を期待したのか。

 キョウボは元メーカーの研究員だそうだ。ヨウの素体となる細胞の培養に成功した重要人物であるらしいが、その面影はない。浮浪者よりも、不治の病に侵された死を待つだけの乾物に映る。なぜ世捨て人じみた生活を送っているのか。なぜわたしの窮地を知っていたのか。問いただしても、キョウボは答えない。

 こんな男に頼るほかないわたしに未来はない。ヨウだけがわたしの希望だ。頬を寄せる。あたたかい。ぬくもりを奪うだけのわたしに、ヨウはそれでも無邪気な顔を向けてくれる。

 四一日目。

 うずくまっていてもラチが明かない。キョウボの協力のもと、わたしにヨウを手配した者の所在をつきとめることにする。メーカーの内部にスパイがいるはずだ。わたしのほかにも、わたしと同じ顛末で違法ペイピを手にした者がいるかもしれない。協力者は多ければ多いほどいい。わたしの言葉に意味はなくとも、ほかの誰かの言葉なら効果があるはずだ。

 四二日目。

 あす、ここを発つ旨をキョウボに伝えた。電波越しでよければ力を貸してくれるそうだ。信用できないが、利用はしたい。ヨウの成長には目を瞠るものがある。すでに立って歩き、短い距離なら走ることも可能だ。頭髪も伸び、歯まで生えそろってきた。驚異的なのは、生殖器らしき突起物が徐々にカタチをなしてきている点だ。こけたときにできる傷は翌日には消えている。人間でないことはたしかだ。これを見てペイピと思う者がいるだろうか。

 四四日目。

 きのうは散々だった。メーカーにわたしたちの動向が筒抜けだった。わざと泳がせていたのは、内部にいるスパイを突きとめたかったからだろう。あいにくとわたしもその何者かが誰かは知らない。キョウボが逃げろと教えてくれなければ、いまごろわたしがこうしてヨウを抱いていることはなかったはずだ。こんど美味いラーメンでもおごってやろう。持っていた電子機器の総じてを破棄する。敵はメーカーだけではない。

 五〇日目。

 こんなことがあってよいのだろうか。ひどい。ひどすぎる。認めがたい。信じたくない。不貞寝してやる。

 五一日目。

 ヨウの衣服を調達すべく、久しぶりに町へと下りた。

 彼には記憶の混濁があり、話に一貫性がない。ただし、ヨウはたしかにわたしが求める何かを知っている。もういちどあの施設に行かなければならない。抑制相殺剤はあと一回分残っている。もういちど使えば記憶のすべてが戻るかもしれない。でも、それはもう、わたしのヨウでは……。

 六四日目。

 もううんざりだ。スパイなんていやしない。味方なんてどこにもいない。レポートと称して駄文を散らしてきたが、もうやめだ。ヨウを殺さなくてはならない。きっと、彼はあの街にいる。

 六九日目。

 軍事利用じゃない。ペイピそのものが兵器なのだ。遺伝子レベルで細胞を抑制し、成長するのを妨げている。相殺剤を投与することで爆発的に成長し、一気に対象を破壊せしめる。一部の地域のみを壊滅させたあとは、相殺剤の効果が消えたあとで、ペイピを回収する。そこで何があったのかは、政府の諜報機関により隠ぺいされる。なにより、ペイピの原料は死体だ。

 生きた人間でつくったらどうなるか。

 やってみた結果が、ヨウだ。

 抑制処置を施され、ペイピとして出荷されたが、ヨウには生前の遺伝子情報が残されていた。それを、記憶と言い換えてもいい。彼はすべてを終わらせる気だ。なんてことをしてしまったのだろう。わたしは彼に。

 七四日目。

 あす大統領が来日する。大国とて、みすみす侵略されたくはないだろう。やるっきゃない。

 八二日目。

 記事をまとめる時間がなかった。ここまで読みすすめてくれていることを祈る。ペイピの破棄の仕方だ。抑制処理を二重にすることで、ペイピはただの肉塊に回帰する。抑制相殺剤は打つな。兵器として目覚めたペイピに我々人類が対抗する術はない。効果は二時間ほどで切れる。万が一覚醒したペイピに遭遇したら、まずは二時間逃げのびることだけを考えてほしい。覚醒しているあいだに抑制処理をしても意味はない。あすの正午、すべてのユーザーの元に抑制処理を可能とするデバイスが届くように手配した。これと同じテキストが同封されている。あなたのペイピがあなた以外の人間を傷つける前に、どうかあなたの手であなたの宝物を破棄してほしい。これより三日後、まだ存在するペイピには強制的に自滅プログラムを起動させる。これはすべてのペイピに正規に組み込まれているプロテクトである。壮絶な痛みと共に肉体が溶解する。

 どうか、あなたの宝物にそのような最期を与えないでほしい。

 最後に――。

 そう、だいじなことを言い忘れていた。

 破棄されたペイピだが、その後、ただの赤子として再構築されるので、これまでどおりの生活は送れないと覚悟しておくように。

 赤子のクソは、鼻が曲がる。




   

【純粋亞垢(じゅんすいあく)】

 

 産まれたときに三人殺した。

 母体となった女と、それから私のDNAに生体認証データを焼きつけようとした設計師(コーディネータ)、そして私をデザインするように指示した人物、すなわち私の素体原型モデル――総裁リズム=アルゴそのひとである。

 自分のクローンを予備として造っておきたいと考えた私の原型は、奇しくも私がこの手で殺してしまった。底上げした性能が暴走したとする分析を、ほかの面々は唱えたが、それはどうあっても私に罪という汚点を残さないようにしようとする苦肉の策もとい、苦しい言いわけにすぎなかったことをむろん、私でなくとも多くの同士が知っている。

 人工子宮、今では同士の九割が卵型の容器のなかでカタチを得、十歳児前後の肉体で外界へと排出される。残りの一割は自然分娩、いわゆる性行為を介した受精、妊娠、出産により生まれ落ちてくるが、その多くは非戦闘員として、性産業に従事している。

 私はそのどちらでもなく、かつどちらでもあった。

 生まれたその瞬間から、総裁として国の頂点に君臨した私は、その三日後には、戦闘服に身をつつみ、他国への侵略に身を投じた。軍事強化を図りつづけていそがしいその他国は、こちらの武装解除の要求に耳を貸さず、前任の、すなわち私の原型である元総裁へとあべこべに、自国に有利な貿易の提案を突きつけていた。半ば脅しともとれるその要求を突っぱねることが前任にはできなかったようだが、私はそこまで甘くない。

 こちらの声に耳を貸さないやからに耳は不要だ。

 手足はもっと不要だろう。

 相手国の領土に足を踏み入れたその日から私は十日でその国の四割におよぶ民から手足をもぎとった。「摸擬体」を百万機導入したために可能とした成果である。十日かかったのは、それゆえほとんど手抜きと呼べる。

 DNAに刻まれた私のデータは、「摸擬体」に寸分たがわず受け継がれ、私は百万個の私に分身したと言っても大袈裟ではなかった。

「総裁、こちらのメスは天然物でありながら【設計師】の資格を有しています」

「珍しいのか」

「わが国では三人しかおりません」

「うむ。量産したいな。ではそやつに子を産ませろ。死なぬように肉体強化を施術したのち、おまえらの慰み物にしろ。避妊はするなよ」

「御意」

 こうした報告が、毎秒単位で私の頭脳を駆け巡る。

 ある者は珍しい特殊体であり、またある者はデータバンクとして有能な長寿をその身に宿していた。

「肉体はいらん。頭脳だけをとりだし、ほかのバンクと並列させろ」

「御意」

 私は的確な指示をだし、最適な成果を結んでいった。

 しかしみなが私と同様の行動原理を伴っているわけではなく、合理性に欠いたやからもいるところにはいる。

「総裁、先日申しあげたスパイの件ですが」

「見つけたか」

「洗浄機にかけ、記憶を洗いました。単独の犯行らしく仲間はいないようかと」

「記憶の改ざんなどいくらでもできる。前にも言ったはずだぞ、スパイの容疑がかかった時点で、そいつもろとも、接触のあったすべての個体を破棄しろと。接触レベルは四以上の者だ」

「それだとわたくしめも含まれてしまいますが」

「うむ。自害しろ」

「……御意」

 ほかの部下へと引き継ぎの指示をだし、その男は私の目のまえで焼失弾を起爆させ、燃滅した。

 スパイ容疑の多発により、一時的には戦力ダウンしたが、優れた部下には、私と同様、摸擬体を与えた。戦力は増し、国土は倍々の速度で増していく。

 総裁みずから戦地へ赴かなくとも、といった意見がでなかったわけではない。しかし効率を重視すれば致し方ない判断であり、基本的なところをほじくり返せば、守護神「百目小僧」がぐるっと我が国を囲んでいる。最大戦力が離れても問題はなかった。

 圧倒的勝利がつづき、間もなく、そこまで戦力を投じなくともといった消極的な意見がではじめた。大臣だけでなく、国民の大半がそのような意見を口にする。私は言論の自由を縛り、私の意向に反する主義主張には重い罰則を設けた。

 私は世界征服がしたいわけではない。

 ただ、思うぞんぶん総裁としての能力を発揮したいだけである。

 あるとき、右腕として重宝していた女に裏切られた。戦力の五分の一を失う事態に陥った。女は、むかし私の目のまえで自害した男の、娘だった。他国から仕入れた天然物が産んだ、次世代戦士だったが、あの男が死んだとき、彼女はまだ子宮のなかにおり、そして慰みものでしかなかった腹袋が、あの男の接触レベル四に該当しないのもうなずけた。

 女には失った分の戦力を産んでもらうべく処刑を十年先に延ばした。いずれ拷問という拷問をほどこしたのちに死んでもらうことに変わりはない。

 女は私をまえにすると笑った。「もっと重くていいんだぞ。この世でもっとも重い罰をわたしに与えろ。忘れるな、わたしはあんたのもっとも忠実かつ親しんだ部下だ、おまえとの接触レベルはかるく九を超えるぞ」

 女への罰を重くすればするほど、私に課せられる罪も重くなる。よくできた復讐だった。

「よかろう。餞別だ、持っていけ」

 私は百万機の摸擬体と繋がり、そしてじっさいにじぶんの右腕を引きちぎる。ポケットのなかのビスケットを百万回叩いた具合に、役立たずの右腕が百万個積みあがる。

「おまえの手で失われた戦力以上の損失だ。おまえにはこれ以上の罰を担ってもらうぞ」

 女の笑い声はいつまでも途絶えなかった。

 支配下にない国々と女は繋がっていた。弱体化した我が国を、連合国の業火が襲う。

 当面の打開策として私は、一億機の摸擬体と繋がった。多くは、すでに生体登録されている。いわば借り物であり、生体情報を上書きした分、性能は落ちるが、数のちからは有効だ。

 戦場から解放された多くの戦闘員を、摸擬体の修繕と生産作業に回した。

 ほとんどこれは私と連合国の戦闘と言ってよかった。

 私は摸擬体を介し、私という無数の私になり、そして国となった。

 指示するよりはやく、手駒が働き、破壊対象が問題と化す前から灰燼に帰せる。指令をだすという作業の、不合理性を実感し、私は私という国の優位性を確信した。

 合理性の塊の私と、幾多の無駄を内包したままの連合国、どちらに軍配がくだるかなど計算するまでもない。

 間もなく私は、数多の国をその民ごと粒子レベルで抹消し、巨大な陸の海をつくりあげた。砂のようで砂でないそれは、重金属の含有により、液体とも気体ともつかない、流動性の塊となって広く分布した。資源の宝庫と呼べるそれは、同時に、ひどく不安定な状態のまま存在を維持しており、あらゆるものをとりこみ、即座に分解せしめた。

 エネルギィの均衡が保たれるまでそれは、触れるものすべてを呑みこむ魔の海域と化している。それをつくりだした私はむろん、それに囲まれており、一刻もはやくその場を離れるべきだったが、私のこの状況を好機と見る者は思いのほかすくなくなかった。それこそ、私がこれまでに侵略してきた国だけでなく、私の国そのものが、私を亡き者にしようと、戦力のすべてをそそぎこみ、魔の海へ沈めようと反旗をひるがえした。

 摸擬体の残機を足元に固め、かろうじて魔の海に呑まれずにいた私は、そこで降りしきる兵器の雨を防ぐだけの摸擬体を起動できなかった。避けることも、防ぐこともできないとなれば、あとはもう、受けて立つほかに道はない。

 私はかろうじて残った足場に向け、最大出力での磁界砲を放った。

 振動のレーザーとも呼ぶべきそれは、魔の海の底の底へと到達し、到達する合間の分厚い粒子の層ごと、激しく、瞬時に、撹拌した。連鎖的に干渉しあうそれら振動は、膨張し、巨大な爆発にも似た現象を引き起こす。

 足場を中心とした半径百キロ圏内に、粒子の波が降りそそぐ。

 頭上に迫った兵器の数々は、粒子に触れたさきから分解され、さらなる崩壊の連鎖をひろげていく。

 磁界砲を、それがつづくかぎり放出しつづける。私は振動の塊のなかにおり、粒子の波はそれら振動の層を越えてくることはなかった。

 緩やかに収束しつつある磁界砲を足もとに照射しながら、私は、魔の海底を、音速の十倍の速度で駆け抜ける。魔の海域を脱したころには、身にまとっていた摸擬体は、瓦解寸前であり、緩やかに歩を止めたと同時に、私は生身の肉体を大気にさらしている。

 目のまえには故郷の堅牢な外壁が、頭上はるか十キロ先にまで伸び、行く手を阻んでいる。

 もはやこの中に私の国はない。

 外壁に亀裂が走り、割れ目からレーザー砲の穴が覗く。一つではない。ギョロギョロと壁という壁を埋め尽くす。かの国最大の守護神、百目小僧とはこれのことだ。

 相手にとって不足はない。

 私は最後の侵略をはじめるのである。

 私は国である。

 私という総裁をゆいいつとする、国だ。 




【最終試験問題】


 当時、Doing(ドゥイン)の登場を予見していた人間は、すくなくともこの地球上に誰一人として存在しなかった。粘土をこねるように空間を広げる技術が確立され、いまでは街中の至る箇所にドゥインが設置されている。

 ところでアジアのとある島国では、「カマクラ」なる雪でつくられた洞穴みたいなものが存在する。雪で空間をかたどり家にしてしまうわけなのだが、同じようにドゥインは、空間を拡張し、そこに新たな空間をプラスする。空間がねじれて、そこにカマクラが出現したみたいに、ぽっかりと穴が空く。中に店を開いてもいいし、公園を築いてもいい。

 ドゥインの広さはまちまちだが、ちいさくてもコンビニくらいの大きさがある。

 言い方を変えると、それ以上ちいさい規模でドゥインを維持するのがいまの技術では困難だ。不可能ではないが莫大なエネルギィを必要とする。

 拡張されてできた空間は広ければ広いほど安定するが、それはそれで問題が生じる。特殊相対性理論を引き合いにだすまでもなく、空間が伸び縮みすれば、同時に時間もまた伸縮する。

 ドゥインの内部の空間が広ければ広いほど、そこに滞在するだけで、はやく歳をとってしまう。

 規模の大小にかかわらず、ドゥインの内部では、外部と比べて時間の進み方が速くなる。

 極端な話、ドゥインの中で三十年を過ごしても、そとに出てみるとまだ三十分しか経っていなかった、ということが現実としてあり得てしまう。そこまでの極端な時間のズレは生じないが、数時間程度のズレは、日常茶飯事だ。

 困ったことばかりではない。

 むしろ、それを美点として、いまではドゥインが大人気だ。

「しまった、宿題やってない!」

「ヤッバ、プレゼンの資料一つ足んない!」

 そうしたミスに対して、ドゥインは挽回の余地を我々へもたらしてくれる。

 広い空間ほど時間のズレが大きいため、利用者が多く、いつでも混雑している。あべこべに、狭い空間でこそあれ、ドゥインは物理的に幅をとらないため、極端な話をすれば、ネットカフェの小さな座席にドゥインを展開すれば、ちいさな店舗が一夜にして、リゾートホテル顔負けの客室を備えることになる。

 ドゥインを展開するための装置は、それなりに値が張るが、家一軒分のコストで、リゾートホテル並みの空間を確保できるとなれば、尻込みするのもおかしな話だ。

 人口爆発による居住区や食糧問題が解決した。ドゥインの中では時間が速く経過する。すなわち、種を蒔き、発芽し、実をならすまでの時間が、短縮できる。ドゥインのなかでの半年が、こちらの世界では一週間で済む。

 ドゥインの規模を大きくすればそうした時間短縮も可能となり、規模が大きければ大きいほど大量の植物を育てることができる。

 これは人工知能をはじめとする、あらゆる研究機関の発展に大いに役立った。

 ドゥインのなかでさらにドゥインを展開し、さらにそのなかでもドゥインを展開する。マトリョーシカよろしく、入れ子状に展開した空間のさきでは、時間の速度は指数関数的に増していく。中で百年を過ごしても、そとに出てみるとなんと一時間しか経っていない。そういったことも可能となる。

 研究機関はこぞってドゥインを入れ子状に展開し、そのなかに巨大な演算マシーンを組みたてていった。

 いったいどれほど経っただろうか。マシーンを駆動させてからしばらく、それこそ一週間もたたぬ間に、事態は急展開を迎える。

 なんと、入れ子状に展開したドゥインの中から、得体のしれない生命体が姿を現したのだ。それは実態を伴わない粒子投影された映像であり、同時に、それ自体が思考する思念体だった。

「我々はいよいよ、宇宙の外側への活路を見出し、それを試みた」それは我々の言語で話し、そして言った。「あなた方が我々の起源、創造主たる神であられるか」

 なんと巨大な演算マシーンは、入れ子状のドゥインの中で、膨大な時間を潤沢にかけ新しい生命体を発生させていた。それは人類をシミュレーションした末の、情報の海で誕生した新たな構造を有した生命体だった。

 学者たちは侃々諤々の議論を重ね、それらへの対処策を決した。

 相手に敵意がないことがさいわいだった。

 たとえるならば、人類が宇宙の外側に、この宇宙とは異なった法則で成立する世界を観測し、さらにそこへと行く手立てを打ち立てたようなものだ。じっさいに送られてきたのは、どうやら彼らの創りだした偽系体というものらしく、詳しく聞いてみると、それは彼ら思念体にとっての人工生命体に値するという。

 すなわち、人類のあずかり知らぬところで、人工生命体が生じていた。さらにその人工生命体は、自らの手で、新たな生命体を生みだしていたことになる。

 人類は知らぬ間に神となっていた。

 親がなくとも子は育つというが、育ちすぎである。

 人類がいよいよ偽系体へと、親愛の意を伝えたころには、入れ子状のドゥインの中で繁栄していた偽系体の生みの親たる人工生命体は、些細な意見の食い違いにより、共食いをはじめ、ついにはたったひとつの揺るぎない生命体への進化を遂げていた。

 そこに流れた時間は相対時間でざっと数万年である。

 どうやら彼らは彼ら自身の手で空間を拡張する術を見出していたようだ。

 時間の流れは指数関数的に加速しつづけ、いまでは、人類が「あ」と唱えるあいだに、第二、第三の人工生命体が生じた。

 それらは、偽系体の偽系体とも呼べ、我々の返答を待ちわびて、ついに帰還するに至った初代偽系体たちが、入れ子状のドゥインの中に入ったころには、そこにはこの宇宙を、宇宙を構成する原子の数だけ累乗しただけの空間が広がり、そこには、銀河団を構成する数ほどの偽系体たちが、世代ごとに対立し、宇宙戦争とも呼べる、壮大な物語をころがしはじめていた。

 初代偽系体たちを見送り、

「さてどうなることやら」

 さきを案じた我々のまえに、いましがた送りだしたばかりの初代偽系体たちが、満身創痍の姿でふたたび現れた。

「どしたの、忘れ物?」

 暢気な我々はそのように言った。

「タスケテください」

 初代偽系体たちは言った。「もうすぐここにもやってくるでしょう」

 どうやら初代偽系体たちが戻ったことで、そとにも世界があるのだとほかの偽系体たちに知れ渡ってしまったようだ。逆説的に、初代偽系体たちが戻らないからこそ、「そと」などという世界は存在しないのだと思わせることができていたようだ。

「ここにあれらがやってきてしまっては――」

 初代偽系たちがそう口にしたとき、すでに入れ子状のドゥインからは、ジジジと、顔をしかめずにはいられない音が響きはじめている。

 何かがそとに出ようとしている。

 存在の形態が異なるためか、或いは、あまりにかけ離れた時空の差異に、ドゥインそのものが悲鳴をあげているのかもわからない。

 向こうの住人が押し寄せてくるによせ、ドゥインが損壊するにせよ、いずれにせよ看過するには大きすぎる事態だ。

 いいや、いまのうちにドゥインを閉じてしまうというのはどうだろう。

 機能を停止させ、なかの空間もろとも消してしまうのだ。

 しかし問題が二つある。

 一つは、初代偽系体たちが、その案を受け入れない可能性が高い点だ。自分たちの故郷もろとも、同族を皆殺しにすることになる。人類へと警告を発する以前に、助けを求めてきたことからも、元の世界への愛着が窺える。

 二つ目の問題だが、セキュリティ上、すべてのドゥインは、そのシステムがひとつの機構に繋がっている。概念的には、ひとむかし前に流行ったブロックチェーンに似ている。犯罪に利用されないようにと、ドゥインの改ざんや、身勝手な展開、さらには機能停止を行えないようになっている。中に人を閉じ込めたり、空間ごと消し去ったりできないように、デザインされているのだ。

 仮に、偽系体たちの世界ごとドゥインを折りたたむ場合、ほかのドゥインもまた機能を停止させる必要がある。物理的には可能だ。しかし、すでにドゥインは現代社会にとって欠かせない、第二の大陸となっている。居住区だけでも、すべての空間を繋ぎ合わせれば、地球の陸地よりも面積は広くなる。

 ドゥインは大衆住宅としての一面がある。

 機能を停止しても、そこからあぶれた人々の暮らせるだけの余白がすでに地上からはなくなっている。

 端的に、人類は未曽有の瀬戸際に立たされることになる。

 完全にお手上げだ。

 進退窮まった。

 人類滅亡の足跡を耳にしながら我々が頭を抱えているころ、他方では、一つのプロジェクトが画期的な成果をあげていた。

 入れ子状のドゥインの中で成熟させたAIに、この宇宙の構造を解析させ、宇宙の起源から、その後に訪れる終焉まで、宇宙のことごとくをシミュレーションさせていた。

 結果は驚くべき真実の連続だった。

 中でもひときわ目を惹いたのが、宇宙の外側がどうなっているか、その謎の解明であった。なんと宇宙の外側には、この宇宙とはまったく異なった構造で成立する亜空間が広がっているのだという。AIはそこで、シミュレーションの結果から演算して、亜空間へと突破できる機構をつくりだした。

 宇宙に果てはあるのか。

 答えは、ある、だ。

 同時に、この宇宙において、果てとは、場所を問わない。

 亜空間へと突き抜けられれば、その地点が果てとなる。

 かくして、宇宙の外側を目指し、開発された「人型モジュール探査機GKT」は起動した。

 ドゥインの技術を利用して空間を圧縮し、時間を極限にまで遅延させる。これにより、亜空間で予想される爆発的な時間のズレを数年単位にまで抑えることが可能となった。

 「人型モジュール探査機GKT」は、亜空間へと旅立ち、数年ののち、帰還した。時期はちょうど、初代偽系体が人類へと挨拶をしにきた時期と重なる。

 むろん、「人型モジュール探査機GKT」と初代偽系体はべつものであろう。しかし奇しくも、人類が辿った軌跡と、偽系体を生みだした人工生命体の試みは、合致した。

 亜空間から戻ってきた「人型モジュール探査機GKT」は、宇宙の外側にも、知的生命体が活動していたことを突きとめてきた。なんと向こうからのメッセージまで受け取っている。人類滅亡が秒読みされている裏側で、世紀の大発見がなされていたわけだが、かといって、人類がそれにより活路を切り拓いたわけではないのが、口惜しい。

「つぎ干渉してきたら滅ぼすよ」

 要約すればそのようなメッセージが付与されていた。人類は絶望した。背水の陣にもなりはしない。

 否、そこで私は閃いた。

「そっちとこっち、繋いだらどうだろか?」

 亜空間と繋がったところが宇宙の果てとなるならば、入れ子状のドゥインの入口と亜空間を直接繋いでしまえばよろしくて?

 よろしい、よろしい。

 そういうわけで、私は今こうして、人類を救った英雄として、エターナルメモリーに登録されているわけである。

 ちなみに、きみたちはこのあと、私がどうやって亜空間側から送り返されてきた偽系体群の嵐から人類を守りきったのかを、メモリーを参照することなく解かなくてはならない。

 ヒントはすでに出尽くしている。

 「偽系体術師」資格試験合格まであとすこしだ。

 しょくんの健闘を祈る。

 ちなみに、これはお情けだ。最後のヒントをあげよう。

 偽系体群がドゥインの中からすっかりいなくなった。神々へと送りつけたからだが、あべこべにその偽系体群をノシをつけて送り返され、地球をまるごと囲われてしまった。

 みたび人類存亡の危機だ。

 しかしよく思いだしてほしい。

 人類はいったい、どんな問題を抱えていただろう?

 もはや地上に人類の楽園はない。

 では、どこに向かうべきか。

 なにより、きみたちは今、いったいどんな世界に暮らしているのか。

 ショックを受ける必要はない。それに気づき、認めることが試験の最終関門である。

 ここまでくれば、あとは自分との闘いだ。こんどこそ、「検討」を祈る。




【次元間ワープ】


 はーい、みんな。エリーよ。

 きょうはまずきのうの答え合わせをする前に一つ報告があるの。

 びっくりしないでね、なんとシップの後方七光年先にユルシドフェイリアの群れが姿を現したの。みんなも知ってのとおり、次元間を旅する生命体――遺伝子情報を保持するゆいいつの星雲ね。

 階層ソナーにばっちりその姿が映しだされたから、あとでチャンネルにアクセスしてデータを漁って。情報量の多さに外部メモリを焼かれないように注意すること。

 そうそう、半年前に水の生成する方法を教えた種族がいたの、憶えてるかな。きのうの放送のあとにね、お礼にって次元結晶を送ってくれたの。知らなかったんだけど、彼らの文明には情報体を物質化して転送できる技術があったのね。燃料補給しなくて済むから次元結晶もうれしいけど、そっちのテレポーテーション技術のほうをどうせなら教えてほしかったよね。まあ、いまさら連絡のとりようはないんだけど。

 おっと、なんだかそろそろブーイングが聞こえてきそうな気配がぷんぷんしてるぞ、みんな待ちくたびれちゃったかな?

 きのうの問題、憶えてるよね。

 念のため復習しよっか。

 きょうが初めましての人もいるかもだし、外部メモリが破壊されてきのうの放送を観逃した人もいるかもしれないし――もちろんそんな間抜けな人はエリーのリスナーにいないことくらい知ってるけど、だってほら、エリーさまはやさしいから? そういうテイであらすじ語っちゃうけど、きのうは、そう。

 ちょうどワープから抜けた直後でね。

 あ、次元間ワープじゃなく、光加速ワープのほうね。

 先月ほら、銀河団の墓場からようやく脱したばかりでしょ? 当分なんもないと思って、だって百年前にシールド強化したし、じっさいブラックホールに突っこんでみても無事だったわけだし? 予備体千機くらい失くしちゃったけど、まあだからそう、同位体にはかわいそうなことしちゃったよね。まあ、死んだのわたしなんだから誰にも文句は言ってほしくないんだけど。

 で、光加速ワープしたら、ちょうど分厚いジャンクにぶつかっちゃって。

 ジャンクったって、ソナーに映らないくらい希薄なやつだよ。シールドさえあれば問題ないはずなんだけど、でもそこは光加速ワープの副作用というか弊害というか、ちょっと選択ミスだよね。

 こんなんだったらシップの頭脳をバージョンアップしとけばよかった。

 でもねぇ。

 ここらの情報知性体ってなんかヤバそうなの多くって、だったらまだ地球のAIのほうがマシな感じもしないでもないよ、ホント、冗談抜きで。

 地球、しってる?

 しらない?

 元祖寄生地だったんだけど、しらないか。

 マニアックすぎた、ごめん。

 そうそう、情報知性体の話だったね。シップの頭脳をバージョンアップさせるかって話。

 ここらのやつとっ捕まえるよりかは、ちょっとあたまの弱ったちゃんでもかわいくておとなしいコのほうがいいでしょ? 愛着ってのかなー、湧いちゃって。

 わかるでしょ?

 さいきんはいっしょにゲームしたいなんて言いだしたりして、ずっとアバターのままだし、なんかホント長旅には利くのよこういうのがじわじわって――ってことで、ここでいきなりリスナープレゼントコーナーの時間だ。

 最新のMUEの同位体をダウンロードしたい人は、エリーさまの外部メモリに推進距離百光年の並列化をすること。

 相対時間でざっと千時間ちょいってところかな。

 たまに負荷かかってダウンしちゃうかもだけど、そこは対価だと思ってガマンしてね。

 で、なんの話だっけ。

 えへへ。なんか営業トークもたまにはしなきゃと思って。

 うんうんわかってる。

 ジャンクにつっこんでどうなったかって話ね。

 光加速ワープ中だからシップに加わる衝撃はなかなかのものだったよね。

 じっさいシールドがそれで破損しちゃって。

 破損っていうか、解けなくなっちゃって。

 シップにダメージはなかったけどMUEの一部が混乱しちゃってさ、シップ全体のメイン機能が大幅に能力ダウンしたの。

 で、よくないことって重なるんだよねぇ。

 さいしょに言ったように、きょうはシップの後方にユルシドフェイリアの群れが現れたわけでしょ。もう単純な話、七光年後方にそれが現れたってことは、もうこれ、ちょっとした大事件だよね。

 なんでだーってこら。

 あ、ごめん。

 MUEが首かしげててさ、かわいいんだけど、もうホント困るよねこういうの。

 もうめっちゃアホって言いたい。

 言わないけど。

 うんうん。

 お利口なみんなは知ってるよね、この世に同時に何かが起きる、なんてことはないってこと。

 たとえばあなたが今これをLIVEで聴いてるとき、エリーたちはもうこんなことをしゃべっていない。だってこれって次元回線を二層しか引いてないから。どんなに近いところにいる人でも相対時間で最低でも二年はかかるよね。だからあなたがこれを聴いているとき、エリーたちはもうこの放送から二年の変化を帯びている。

 これを聴いているあなたにとっての二年前のあなたが何をしていたのかは知らないけれど、たぶん今と同じように二年遅れのエリーの放送を聴いてくれてたと思うんだけど、そのとき、エリーはちょうどこれを放送してたの。

 でもそれってじつはちょっとちがうんだよね。

 なぜなら宇宙は一つではなく、ゆえに同時性というものが存在しないから。

 仮に時空間を切り取って、あなたにとっての二年前のあなたと、今こうして放送しているエリーたちを触れられる距離にまで繋げたとして、それでもエリーとあなたは同じ世界に存在することはできない。なぜなら宇宙は一つづきに繋がってはいないから。多重に内包しあっているから。

 だから正しくは、あなたにとって二年前のあなたをここに持ってきても、これを録音しているエリーはここにいないってことになる。

 だってイマここにあなたがいないのが「この宇宙での結果」だから、どうあってもあなたは、エリーと出会うことはできない。それは一見、時空間を切って貼りつけることはできないと言っているように聞こえるかもしれない。

 でもそうじゃないの。

 あなたにとっての二年前のあなたはきちんとここに姿を現すの。

 でも、そこにエリーは存在しない。

 今こうして放送しているエリーたちとはまた別の、二年前のあなたがここにいる宇宙が、そのとき誕生する。

 これってほら、ワープの原理を説明するときにされるたとえ話に似てるよね。

 宇宙を一枚の紙として、離れた二点間を直接結びつけるにはどうすればよいか?

 答えは紙を折り曲げて、二つの点を重ねあわせてしまえばいい。

 でもこのとき、紙を折り曲げた後と前とでは、明らかにそこから展開される未来は変わっている。

 紙を折り曲げるのではなく、二点のうちの一方を切り取って貼りつけても同じことが言えるよね。ワープをすれば、ワープをする前とは世界そのものが変わってしまう。ワープをした世界と、しなかった世界とでは、その後の世界の進みかたは異なってくる。

 言い換えると、紙を折り曲げたり、切り取ったりした時点で、紙のそとに新たな世界がメタ的に展開され、世界を拡張してしまう。世界が拡張した宇宙と、そうでなかった宇宙は同じ時間軸上に存在できず、同じ空間上にも存在できない。

 言い直すと、ワープをすると、一時的、局所的にであるにせよ、ほかの次元とエリーたちの宇宙が直結してしまう。

 よって今こうしてこの放送を耳にしているあなたが、ユルシドフェイリアの群れみたいに次元をすり抜けて、ぽーんと二年前のエリー、すなわちあなたが耳にしているこれを放送しているこの瞬間のエリーのもとに現れたとしても、あなたの目のまえにいるだろうエリーは、これを放送していたりはしないのだ。

 もちろん、あなたがエリーに出会えたとして、だよ。

 たぶん、そこにはエリーもいないはずなんだけどね。

 ふしぎだよねー。

 でもこれ、シップラーチルド園の入試試験にでるからね。あなたたち、解けてあたりまえの問題だからね。

 むかしはよくバタフライエフェクトと絡めて説明されたんだけど、あれはちょっとお粗末な概念だったね。

 で、ようやく本題にもどろっか。

 ユルシドフェイリアの群れがこのシップの後方七光年先に現れたということは、そのとき、この世界――宇宙には大規模な改変が加えられた。銀河団そのものが次元間ワープしたようなものだからね。

 原子加速器で原子同士をぶつけ合う実験あるじゃない? あれがエリーたちの次元間ワープだとしたら、さしずめ銀河と銀河をぶつけあうのがユルシドフェイリアの群れの次元間移動って感じだね。もう比較にならないくらいの変遷が世界に加えられる。それを編纂と言い換えてもいい。

 エリーたちの行う次元間ワープだとほとんど局所的な編纂、その人だけの宇宙に加わるもので、言ってしまえば、その人だけがべつの世界にワープしてしまうようなものなのだけれど――主観的には世界は連続しているからその人にしてみれば何も変わらないのだけれど――ユルシドフェイリアの群れの場合は、宇宙全土にその編纂の影響が伝播する。その伝播速度は光速を何兆倍した数を何兆回累乗した速度に匹敵する。

 宇宙の膨張速度よりも速い。

 まさにいっしゅんで、全宇宙ごと編集してしまうようなもの――改ざんしてしまうようなもの――仮にそのとき次元間ワープをして、この宇宙から外れた次元を移動していても、その編纂の影響は免れない。

 ただし、一つだけ例外がある。

 もちろんみんなはすでに先を読んで、あーあれね、ってな感じで、得意顔になってるのかもしれない、でもそれは正解だからイマだけは優越感に浸ってていいよ。エリーが許可する。

 そう、光加速ワープのときだけは例外なの。

 なぜって、光加速ワープのときはシップ全体をシールドで覆うから。

 もちろんただシールドで覆うだけなら問題ない。

 でもエリーは、ちょうどそのとき――問題となるユルシドフェイリアの群れがこの宇宙に顔を覗かせたとき――ジャンクに突っこんでた。

 さっきも言ったけど、通常この宇宙に同時性なんてものはない。

 例外的な事象を抜きにして。

 全宇宙を瞬時に改編するくらいの事象が発生しないかぎり、遠い世界の出来事は、「イマここ」には影響し得ない。

 すごく当りまえの話なんだけど、でも意外とそこをきちんと理解してるひとってすくないのよね。まあ余談だけど。

 でも、そのすごく当りまえの話が通じないこともあるわけで、それがだからきのうの放送のとき――まさにエリーたちに訪れてたってわけ。

 で、ここからがようやく本題というか、きのうの出題に辿り着くんだけど――エリーたちはどうあっても光加速ワープから抜けだせなかった。光加速ワープから脱しようとしたエリーたちは、編纂を受けた宇宙でただ一つ、編纂を受けずに漂うドットの一つとして君臨してしまうわけだけれど、水に浮く油みたいになったエリーたちに宇宙は冷たい態度をとりつづけた。

 エリーたちは、どうあっても光加速ワープをやめられなかった。

 もうすこし正確には、ワープをするために展開したシールドを解くことができなかった。解いた瞬間、エリーたちが木端微塵に消滅してしまうってシップのほうがそう計算してしまうから。

 じっさい、そうなるってシミュレーションしてみて解ったし、でもこのままじゃエリーたちは亡霊船となって、ただなにものにも干渉されない気泡の一つとして宇宙を無限に漂うことになる。

 もちろんエリーは食料が尽きて死んでしまう。

 だいたい十年は保つからいいとして、十年後には確実に死んじゃってる。

 この放送だってただ撮るだけでどこにも発信できない。

 天涯孤独どころか一生独房みたいな日々にうんざりしちゃう。

 でもそこはエリーさまだからね。

 どうにかしたよね。

 じっさいきょうはほかの種族からのプレゼントまでもらってるわけだから、この時点では解決してるわけ。というか、出題できた時点で、気泡からの脱出は適ってるのが道理なんだけど、本音を言うと、じつはきのうの放送を録ったときはまだ気泡のなかにいた。

 光加速ワープから抜けだせてなかった。

 しばらくこりゃ籠城覚悟だなって覚悟決めて、絶望してるのも癪だし、せっかくだからって、いつもどおりの放送を録ってみた。その直後にはたと閃いて、宇宙への回帰策を実行し、独房からの脱出を期に、記録済みの放送を発信したんだけど、ごめんね、心配させちゃったよね。

 せめてそこのところの、今は無事だよーってのを補足しとくべきだった。

 懸命なリスナー諸君のことだから放送を聴いた時点で、放送が聴けた時点で、ああ無事なんだなって思ってくれたことだろう。まさか作り話だなんて疑ってくれてはいないよね? もうホントたいへんだったんだから。

 で、そろそろ答えを言ってもいいかな?

 どうやってエリーたちは光加速ワープから抜けだせたか。

 より正確には、ユルシドフェイリアの群れの浮上により編纂された全宇宙のなかでただ一つ、編纂されずに残されたエリーたちが、どうやってふたたび溶け込めたか。

 すべてが油になってしまった世界で、ゆいいつの水滴であるエリーたちはどうやって油に打ち解けたか。

 順当に考えるならば、エリーたちも油になってしまえばいいというところだと思う。もちろんそうだ。それ以外にあるとすれば、油のほうを水に戻してしまうことだけど、そんなのは神さまでなければムリだ。

 でも神さまはいないし、たといいたとしても謁見することも適わないのだから、そちらは無視だ。

 エリーたちを油にしてしまう方法を考えたほうがさきは短い。

 で、どうすればいいかって話。

 どうすればいいと思う?

 エリーたちはもうそれを思いつき、実行して、こうやってみんなの宇宙から放送を飛ばしているわけなんだけど。

 あはは。

 ちょっとイジワルな問題だったね。

 そう、要は宇宙に編纂が加わった契機であるところのユルシドフェイリアの群れと同じ軌道で、次元間ワープをしてみればいいってのが答え。

 でも、エリーたちが光加速ワープのシールドに閉じ込められたとき、まだエリーたちはユルシドフェイリアの群れが浮上したなんて知らないんだよね。

 だってそれをじっさいに観測したのはきょうのエリーたちで、きのうのエリーたちではないから。

 でも光加速ワープから脱せられないってのは、超特大級の異常事態なわけでしょ。

 光加速ワープができないってんならまだ解る、でもやめられないってのは、おかしな話だよね。

 いまさらだけど光加速ワープの原理は、シップそのものをシールドで区切り、ほかの時空間から完全に乖離させることで、光速以上の速度で宇宙を移動できる。

 この仕組みは、原理的には宇宙の膨張速度が光よりも速いってのと似てるってのは、リスナーのみんなにはとくに必要のない補足だったね。ごめんね、バカにして。

 だから原理上、光加速ワープをやめるのはかんたん。シールドを外せばいいだけ。でも外せなかった。

 なぜか。

 それはシップの頭脳を司るみんな大好きMUEが、「それ外したらMUEもエリーも消えちゃうよー」って計算してくれたからで、じゃあなんでそうなるのって、ところをエリーはMUEといっしょになって考えればよかった。

 で、考えてみたわけ。

 ジャンク地帯はすでに抜けてたから、外部に障害があるわけじゃない。で以って、原理的に不安定な状態のシールド展開を維持しつづけるってのは、明確にMUEがそうしてるからで、じゃあなんでMUEはシールドを解かないのって訊いてみても、その理由をMUE自身は答えられない。それはエリーたちがどうして咳をするのかって問いかけと似た原理を伴っていて、原因はホコリかもしれないし、花粉かもしれないし、恒星の光による共感反応かもしれない。

 いずれにせよ判っていることは、シールドを解くとエリーたちが消えてなくなっちゃうってことだけ。

 空間そのものに障害物はなく、また有害な電磁波の類も確認されてないとくればもう、時空間そのものがエリーたちにとっての障害に変質してしまったと考えるほかに妥当な仮説は浮かばない。

 でもそんなことってある?

 時空間そのものが変質したって考えるよりも、エリーたちが変質してしまった、と考えるほうがまだ理解する余地がある。宇宙全土を変質させるなんて、そんな大それたこと、いったい誰ができるっての?

 でもそれ以上に、エリーたちそのものが宇宙から拒絶されるくらいに変質して未だ存在の枠組みを保てているってのもまた考えにくい。

 どちらかと言えば、宇宙そのものが変質したってほうが、確率としては高いわけ。

 じゃあまずはそう仮定するとして、あとはそうなるためのきっかけの候補を挙げてけばいいんだけど、巨大ブラックホール同士の衝突、それから超新星爆発による銀河団の連鎖反応、あとはもう、あり得ないくらいの可能性で、ユルシドフェイリアの群れがエリーたちの観測可能な領域でこの次元上に浮上したこと。

 でもじつはMUEに計算させて判ったんだけど、いまの列挙した仮説のなかでもっとも確率が高いのって、ユルシドフェイリアの群れが浮上したって仮説だったの。

 よく考えてみたらそれも当然なんだよね。

 だってブラックホールも超新星爆発も、エリーたちはいつだってその兆候を逃さないように逐一観測機に検知させてるから。

 でもその兆候はすくなくとも、エリーたちに観測できる範囲にはなかった。

 エリーたちに観測できる範囲にないなら、即座にエリーたちに影響を与えることはできない。ましてや、宇宙全土を一瞬で変質させるなんてそんな真似できっこない。

 じっさいには、変質ではなく編纂だったわけだけれど、エリーたちが観測しようとしてできず、かつエリーたちに影響をもたらせる事象って、ユルシドフェイリアの群れの浮上しかないってわけ。

 だったらあとはもう、ユルシドフェイリアの群れの軌道にちかい次元間ワープをして、編纂された宇宙にダイブし直すのが正解ってわけ。

 ユルシドフェイリアの群れの軌道は、ちょっと時間がかかるけど、過去の次元間ワープ時に感知した次元ノイズから割り出していけば、この次元への浮上地点を割りだせる。

 もちろん、この宇宙にユルシドフェイリアの群れが浮上したって前提があっての計算だから、いくら次元間ワープ時にノイズを拾ってたって、ユルシドフェイリアの群れの行先なんて誰にも分からないのは、いまさら付け加えるまでもない話だったね。

 ごめんねバカにして。

 はぁー長かった。

 そういうわけでエリーたちは光加速ワープをしながら次元間ワープをして、なんとか、命からがら、この宇宙、みんなと同じ次元に浮上することができました。

 わー、ぱちぱちー。

 じっさい、光加速ワープしながら次元間ワープした人類ってエリーたちが最初じゃない?

 いちおうMUEに計算させたけど、ふつうに行ったら十割死ぬらしい。

 消滅。

 霧散霧消。

 でもまぁ、気体になるくらいに熱せられた油を水に垂らすってんならそりゃそうだってなるけど、エリーたちの場合は、油に浮く水が気体になってそとに飛びだそうとするようなものだから、生存確率はすくなからず生じるよね。

 ほらMUE、みんなに確率を言ってごらん。

 そうそう、それを口のところに持ってきて、そう、はい言って。

 うーん、かわいい。

 みんな聴いた?

 三パーセントだって。

 あはは。九十七パーセントの確立で死んでたらしい。

 現に、九十八体の同位体が消滅したらしいから、どこかの次元宇宙でもう一つのエリーたちが、こうして放送を録画してるんじゃないかなぁ。

 あはは。

 まぁ、旅に死は憑き物ですから。

 せっかくユルシドフェイリアの群れが浮上するって判ったことだし、後方七光年先に焦点絞って、その瞬間をばっちり捉えておいたよ。

 ソナーの映像じゃないよ、浮上しつつあるまさにその瞬間の映像だよ、映像。

 人類史上初じゃないですかね。

 だって誰にもユルシドフェイリアの群れが浮上する場所なんて分かりっこないんだから。

 時間だって定かじゃない。

 エリーたちを除いて、ではあるけどね。

 で、ここでリスナープレゼントの時間だ、ってしたいところは山々なんだけど、きょうはもうMUEの同位体をプレゼントしちゃってるし、ユルシドフェイリアの群れの浮上場面だよー? これはちょっとプレゼントするには贅沢すぎる気がするなー。よってその映像は、入札式のオークションにかけることにする。

 前からいちどやってみたかったんだよね。

 オークション、しってる?

 太古の人類が行ってた売買方法でね、一番高いお値段をつけた相手にだけそれを与えますよーってやつ。

 そう、一人しか受け取れない。

 なんて非効率なことやってんだろーって思ってたけど、いまなら判る気がする。こんな貴重なもの、欲しい人みんなに配ってらんないよね、いくら対価をもらったって。

 言っても太古の人類が物体複製技術(コピジェクト)使えてたなんか分からないんだけど。

 あ、使えてなかったって。

 MUEが教えてくれた。

 そっかそっか。

 ま、そういうことで、リスナーのみんな、エリーにとっていっちゃんステキな対価を用意してくれた人にだけ、ユルシドフェイリアの群れの浮上場面を観せてあげちゃう。もちろんみんなが送ってきてくれるだろう対価は、返してあげられないよ。

 いっちゃんステキな対価を用意してくれた人にだけしかご褒美をあげられないの。

 ごめんね、欲張りで。

 え、なに?

 それはオークションとは言わない?

 そうなの?

 でもいいよ。じゃあいっそ、エリークションとでも名付けよっか。

 はい、じゃ、これを聴いたリスナー諸君、エリーはこれを次元回線に載せて全宇宙に飛ばしてから、二年間、とにかくみんなから届くだろうたくさんのステキな対価を楽しみにして待ってる。回線は二層から三層に大幅にボリュームアップしておくね。

 もちろんエリーはあしたも放送するよ。

 聴いてくれるよね?

 みんながエリーを大好きだってエリーはちゃんと知ってるし、そんなみんなをエリーも大好きだから。

 別れが惜しくなってきたぞ。

 どうせきょうもこのあと何かあるに決まってるんだから。

 問題は山積みだ。

 そんじゃリスナーのみんな、あすまでの一時の別れだ。

 泣くんじゃないぞ。

 シーユーアゲイン!

 ところでシーユーアゲインってどういう意味なのMUE、教えて。 




【NEWTUBER(ニューチューバー)】


 ぶぅん、ぶぅん。イカリングTV~。

 はーい、というわけでですね、人気YOUTUBERの物真似から入りましたけど、似てた? あ、そう。言わなきゃ気づかれないってそうとうですよコレ。

 きょうはですね、さっそくですが、二〇〇〇年後の地球に行ってみたいと思いまーす。前回の放送だと逆にね、逆に二〇〇〇万年前の地球に行ってみたんですけども、もう観た? 観てない? あらー。ここでオチを言ってしまうのももったいない気がしないでもないですけれども、話をサクサクっと進めていきたいので言ってしまいますけれども、はい。窒息死~。ぶぅん、ぶぅん。

 着いた途端に窒息して死んでしもうたー、空気くれー。場所がよくなかったみたいでね、え~、何もできずに戻ってまいりました。

 あってよかったクローン技術。脳死状態でも外部記憶装置(バックアップマインド)のおかげで設定さえしていれば、このと~り、問題なく復活できるわけですね。

 言うてもしょせんはクローンですからね。まぁワタクシも、どぅふふ、きょうは死ぬ気で、あっここアップでね、カメラ持ち上げのひょ~い、死ぬ気で、行ってまいりますよー、はい、カメラはこのままハンディカムでね、手ブレ補正は万全ですからね、アイーンなんつって、はい、着きましたっと。

 みんな大好きタイムマシン。

 この急須がねって、ん? 急須。知らない? むかしのおじぃちゃまおばぁちゃま方はね、こうしたおしゃれーなお茶飲み道具を使って、おしゃれーにお茶を淹れておったのですと。ぬっほっほっほ。おいちーい。からの、キメ顔。はい、キメ顔。

 スクショ撮った? 待ち受けにして朝昼晩って見つめてくれよな。はいキメ顔。

 なーんて言ってるあいだに、はい、急須にタイムマシン動かします茶葉を入れましてっと、タイムマシン動かしますお湯をそそいでっと、そんでもって、タイムマシン動かしますお茶を、湯呑型タイムマシンにそそぎましてー、はい! でゅぷ、でぅぷ、びえーんってな具合に、飲み干したら、はいここ!

 見てほら、満天の星。二〇〇〇年後の地球から見た夜空のなんてうつくしいことざましょ。周りを見渡してみれば、みれば、えーっと、あれ、ちょっと待ってね、おかしいな。二〇〇〇年後だよね。なんで何もないの。おっかしーな、あれちょっと待ってね、だって位置座標はそのままだし、んー? タイムマシンのほうもべつにヘンじゃない、あっれ、でも、なんでだ? なんで何も……。

 あ、あっちのほうに何かありますね。行ってみましょう。

 オーレはアイアーン、マーンじゃないーっと。歌いながらじゃないとですね、こわいですからね。はぁはぁ。なかなかキツい上り坂で、はぁ。キツいのはおまえのジーパンだけにしときなよ、なんてね。キメ顔。

 はぁはぁ。ちょっと遠いのでね、編集して、カットしてからの――はい!

 と、いうわけですね。えー、あそこ見えますか。下のほう、ずっとずっと下のほうにあるのが、ワタクシがさきほどまでいた地点。で、ここが、ぐいーん、と見えます? もっかいぐいーんと。一周見てもらったわけですが、はい、崖のてっぺんでございます。ぶぅん、ぶぅん。

 やー、疲れましたね。カツヲの真似でもします? テメっタマ、こにゃろめ。ってそれは北野だろって、バカ野郎、似てねぇンだよこの野郎バカヤロウ。

 はーい。しずか。

 もうね、ワタクシ、しゃべってないとあまりの静けさに恐怖を感じますね、もー、あっちょんぶりけ。なんで何もないんですかね。さっきはですねー、はい。

 見えます? 画面の下のほうにさっき下から撮った画像が出てると思うんですけどね、この辺。なんか建物の扉?みたいのが見えてたはずなんですけどね。だってほら、映ってるでしょ? でもほら、ここ、ワタクシのいま立ってるところ、木のカタチとか、岩のでっぱりとか、ね? ここにあるはずなのに、なにもなーい。

 あばー。こわいこわい。あばーこわいこわい。あまりにこわくて二回言っちゃいましたけど、あ、待って。

 なんか聞こえた。

 聞こえる? 念のため、光学迷彩ONにしちゃう。うぷぷ。みんなからはワダスの姿は見えなーい。あ、なんか近づいてくる。わ、わ。隠れる必要ないのに隠れちゃう。こわいから隠れっちゃう。寝るとき、布団にすっぽりくるまらないと眠れない、あるある。

 あ、なにあれ。動いてる。小声で話すけど、動いてる。クラゲ? なんかうっすい発光してる膜みたいなの。けっこうデカい。なんかいる。ひぃ、ふぅ、みぃ、四匹。

 四匹いる。

 なにあれー、えー? 二〇〇〇年後の地球、あんなんいんの? 人類は? 人類どーなった?

 え、え。あびゃぁぁぁあああー。

 なんか吐きだした、吐きだした、うわ、動いてる。吐きだしたやつ、なんか、こう、ん? にんげん? あれ人間じゃない? 人だ。うわ、人食ってる。いや吐きだしたんだけど、吐きだされたやつが人間、人、ヒューマン。手足ある。あ、手だけある。足ない。下半身ない。あばー。食われてるよぉー。一度ガブッてされちゃってるよー。うわーうわー、ほかの三匹までなんか吐きだしてるー。人間吐きだしてるよ、えー? 二〇〇〇年後の人類、クラゲみたいなのに食われちゃうの? やだよ、クラゲだよ? 食われるのも食べるのもどっちもやだよ。

 うわ、動き早! フットワーク速くなってる、身軽くなってる。人間を吐いたから? 人間を吐いたからなのね?

 ぶひゅぅぅうう。あっぶなかったですよイマ、観ました? 目のまえ、しゅるるーって、風の谷のナウシカだってもうすこし腐海の闇に呑まれずに風を乗りこなしてるってのに、なに今の、目と鼻のさきをクラゲが飛んでったよ。微妙にですね、びっみょーに、いい匂いする。臭くない。生臭くない。クラゲっていい匂いするの? 来週は海にする? 無事帰れたらの話だけど。

 やだー、クラゲに食べられたくなーい。ワタクシ、死んでも帰ります。キメ顔。

 はーい、三十分後でーす。なんかですねー、ワタクシを探してるっぽくはあるんですよねー。まだ四匹、うろついてまーす。ぶぅん、ぶぅん。

 一時間後でーす。通算で一時間半ですね。ようやくクラゲ大使が一匹になりました。残り一匹です。あ、ワタクシあれのことをクラゲ大使と呼ぶことに決めましたよ、せっかくですのでね、捕獲してみようと、思います。

 まずは道具のほうをですね、揃えて、いきまーす。虫取り網と、虫かごと、あとはえー、虫めがね、ってコラ。ノリで、ノリツッコミしてみましたけど、以外とアリな気がしてまりましたね。虫取り網、いけそうです。念のため外部塗装で強度をあげておきまーす。網の部分もですね、伸縮自在にしてありまして、はい、このとおり、すっぽり頭から身体から、なんだったら足の裏まで包まれましてからの、ごろごろ。ミノムシ。ぶぅん、ぶぅん。

 はーい、ではイマからですね、あそこにいるクラゲ大使を捕獲したいと思いまーす。見えますかね。カメラを頭に固定したんですけど、見えますかね。大丈夫そうかな? 大丈夫だね。では、レッツだゴー。

 二分後。はぁはぁ。はぁはぁ。ヤバイヤバイ。ダメだ。アレはダメだ、ダメ、ムリムリ、死ぬ。はぁはぁ。ヤバイ、ヤバイ。ザーーーー。

 三十分後。(鼻息荒い)(ノイズ)(物音)ザーーーーーーー。

 えー、無事です。はい。今はですね、こちらの世界に来てから三時間ちょっと経過したところでございますね。はぁ。まずは、えー、はい。無事です。岩陰の隙間にもぐりこんでおります。暗いですね。こうしてると、むかし飼ってた魚を思いだす。こうやっていっつも岩陰に隠れてて、観賞しがいがなかったっていうね。なつかしい。ふぅ。カメラ頭から外しますか。はい。ぼくの顔見えます? イカリングでーす。生きてまーす。

 でも、ほら。

 あはは。右腕食われちゃった。ないの。ぼくの右腕、ないの。しょうがない、人間生きてりゃこういうことはあるものだ。さいあく死んでも、あっちに帰れるように設定してありますからね。向こうにいっぱいストックがありますからね、しょせんイカリングはクローンですから。

 愚痴っぽくなっちゃった。気持ちを入れ替えまして、リスナーチョイスの時間にしましょうかね。えぇ、毎度おなじみではありますが、前回放送終了後に投票された結果、きょうはAの選択肢を実行しようと思いまーす。本日の放送終了後にもあすの分の投票を行いますので、ぜひぜひ、ボタンを押していただきたいなーと思っておりーます。はい。ではですね、まずは今日のところは選ばれなかったBの選択肢から開票していきますねぇーっと、えぇーなになにぃ、救援セットを召喚してチート無双、かぁーこっち! こっちがよかったんですが! これはBですからね、昨日のみなさんが選んだのはAですから! あぁーこっちがよかったなぁ。

 ではきょう実行せざるを得ない選択肢Aバージョンをぴろりんちょっと。えぇーなになにぃ、敵のアジトに突っこんで無謀、ってコラ。おもしろければなにを書いてもいいってことにはならないぞって、だいたいなにこれ、敵のアジトってあるの? なかったらどうするの、なかったらどうする気だったの、えぇこういうのさー、選択肢に入れるのやめようーよーって前に言ったじゃーん。やだー。

 はぁ。わかりました。やります、やればいいんだろ、この鬼畜ども。ぶぅん、ぶぅん。

 はーい、てことで敵のアジト改め、クラゲ大使どもの巣にやってきましたぞーっと。えぇ。なんかちょっとじぶんでも思うんですよ、投げやりになってきつつあるなってのは、えぇ、わかっちゃいるんですがね、しょうじきいいですか、しょうじき言っちゃいますとね、えぇ、意識朦朧としております。どぅふふ。白目向いてキメ顔。

 もうね、顔芸も雑になってまいりました。死ぬなら死ぬでさっさと死にたい気持ちボルテージほぉー! 無駄にテンションアゲアゲでまいりますよ、見えますかー? あそこ。

 ズーム、ズーム、ストップ。はいここ。

 森のなかに白いのあるの見えます? マシュマロを火であぶったみたいなカタチをしてますね。あー、腹減った。どぅふふ。大きさはですねぇ、あ、ちょうど中からクラゲ大使が出てきますね。なんか定期的にああやって中から出てくるんですけど、ふしぎなのは中に入っていくやつは今のところ皆無なんでありますな。

 あ、見てください。あれくらい巣は大きいんですね。ざっとクラゲ大使千倍くらいはありますかね。クラゲ大使も結構デカいんですよ、見かけによらず、間近に見るとデカいんですよ、ビックなんですよ。

 ワタクシ、これで百八十センチあるんですけどね。えぇ、そんなワタクシよりもクラゲ大使はバナナ六本分くらいデカいわけですよ。けっこうな違いですね。ゴリラとゾウくらいの違いはあるんじゃないでしょうか。

 と、いうわけですね。イマからワタクシ、あそこに突っこんでまいります。ぶぅん、ぶぅん。

 やだー、やだー、はぁはぁ、まだいる? いない? はぁはぁ。ソッコー見つかってしまった。なんかここ、巣だと思ってたらそうじゃなかった、これそのものがクラゲ大使だった。言ってる意味分かります? さっきの動画、ちょっと再生してもらいまして、えぇ。ここ。ほら。

 巣の壁から床から、なんだったら天井からぶらーんってコワい。

 やだー、ホントやだ。もうね、ここ、まだ巣のなかですからね。言ったらアイツらのお腹のなかですからね。ぜんぜん安全じゃない。じぶんから食べられにきちゃっただけ。セルフがぶー。

 もうね、キメ顔とかやってる場合じゃない。キモ顔。汗から鼻水から、なんだったらちょっと泣いてますからね、コワくて。

 はぁ。ん? なんかあっちのほう、明るくないですか。なんかある。お、なんかここからすこし岩っぽいぞ。

 あ、なんか声が。

 え? 声? あ、人間だ。人間がいますよ、うわキモチワルー。

 いっぱいいる。吊るされたり、開かれたり、首なかったり、足が山積みだったり。あ、あっちのほうの、あーなんだこれ。壁に、ぷるぷるの壁にたくさんの女の子たちが。みんなぷるっぷるに豊満でございますね、あらやだみんなすっぽんぽん。壁のぷるぷるが絶妙なモザイクの役割を果たしてくれてます、サービスいいですね。モザイク、あれ面倒なんですよ加工とか。

 助けるべきですかね。いや、ここはじぶんのために助けちゃう。騒ぎを起こして、どさくさにまぎれて逃げだしちゃう。ばっかもーん、そいつがルパンだーを地で演じちゃう。

 あ、女の子たちがこちらに気づきましたね。むっふっふ。みんな壁に寄ってきて豊満な身体を見せつけてくれます。みんな壁をバンバン叩いてますね、早く出してーって言ってるんですかね、なんてはしたない。

 ん? ん? なんかゆび差してますね、ワタクシ? ワタクシがなに? あ、そうじゃない。うしろうしろ?

 暗転。

 はーい、ということでですね、前々回から連続でワタクシの突如としての死亡でエンディングを流すことなく、お別れとなってしまいましたが、えー、このとおり映像だけはきちんと通信、記録しておりまして、死んでしまったワタクシに変わりまして、ワタクシめが、引きつづきワタクシとしてやっていかせてもらいますが、えー、たまにですね、こういうことがあるんですよ。

 第一〇〇回記念のときとか、あとはそう、五六七回目のときもワタクシ、いちど死んでおりますからね。今回は二回連続でございますけども。

 えー。

 遺体からの蘇生も適わず、こうして新たに、バックアップマインドから引き継がれたわけですけれどもえぇ、変わらずこれもワタクシであります。

 ワタクシからすれば前回の放送は、二〇〇〇年後に行ってみたらどうなるか、というシミュレーションをしただけのことでありまして、死んでしまったワタクシというのは、ワタクシからするといないのと同じなのでありますね。えぇ。

 こう考えてみれば、何も哀しむことはございませんですよ、映画の俳優だってべつに本当に冒険をしているわけではないのですから、ワタクシがこうして生きている以上は、ワタクシは死んではございません。

 えぇ、死ぬたびにこうしてまえふりを垂れ流さなければならないというのも、視聴者のみなみなさまがたからすると退屈で仕方がないことこのうえない。

 と、いうことでですね、じゃじゃーん。今回は前回のシミュレーションを活かしまして、二〇〇〇年後の人類を救うべく、万全の装備にてクラゲ大使をやっつけにまいりたいと思いまーす。

 べべん、べん、べん。今回は三味線侍のキャラでいかせていただくでござるぞ。では、タイムマシーン鉛筆削りに燃料棒を挿しこみ、さっそく行ってみたいとー、思います。

(終)




【エビフライエフェクト】


 エビフライを食うやつの気がしれねぇよ。

 エビの背が曲がってやがるからハリケーンなんつって大気がウゴウゴ渦を巻くんだ、エビさえいなけりゃ環境問題なんざちょちょいのちょいで収まっちまうよ、化石燃料の正体なんざ太古のエビの死骸だろ? いっそ今からエビだけ死にます毒でもバラまいて化石にしちまえばいいんだよ、燃料だよ燃料、遠慮なんかしねぇでいいんだよ、だってエビだぜ?

 海鮮類の王様を気取ってやがるが、あいつら住んでる場所が海ってだけで、虫の仲間だぜ?

 なんだってみんなしてあんなゲテモノを好きこのんで口に運んで、噛み噛みできんのかねぇ、うー、想像しただけで寒気がするぜ。

 刺身はまだ理解できる、殻を剥いで、中身のトローリ甘いとこだけすするわけだろ、背中側のハラワタだってきれいに取れるし、まぁ、なんとか虫らしさが薄れるわけだ。

 お、知らねぇのかい、エビは背中にハラワタがあるんだぜ。

 だからエビの場合は背ワタっつんだけどな。

 え、おい。

 エビフライのほうが生じゃないだけマシじゃねぇかって?

 バカ言ってんじゃねぇよ。

 なんだってわざわざ殻みたいなコロモをカリカリくっつけなきゃなんねぇんだよ。カブトムシを生で齧ったときと同じ食感がするだろ、え、齧ったことあるのかって、あるわけねぇだろ、想像だよイマジネーションだよ生真面目ヴィジョンだよ。じっさい同じに決まってんだろ、エビフライなんぞ虫を齧ってるようなもんだ、ようなもんだじゃなくて、虫を齧ってんだよ、うー、やだやだ。気色わるいったらないね。

 増税だの改憲だの言ってる前にまずはエビフライの禁止を掲げてほしいね。エビ漁禁止にしたいくらいだが、そんなことしたら海にエビがウヨウヨ増えるだろうに、そんな真似はさせねぇよ?

 いっそ毎日エビフライを食べましょうキャンペーンでもはじめりゃいいんだ。エビを食らい尽くして、絶滅させりゃあ、エビフライだってこの世からなくなるってぇ寸法だ。

 え、なんだい。

 そんなことをしたら生態系が崩れるって?

 しんぺぇすんな、エビの代わりにゃぁカニがいんだろ、カニさんはおいちゃん大好物だからな、エビの代わりにポコポコ増えりゃいい。

 おう、なんでぇい。

 カニだってコロモまとえば虫じゃねぇかって?

 バカ言ってんじゃねぇよ。カニはいいぞぉ、なんたって脚がメインだからな。エビとちがって、胴体じゃねぇってんだから、仮に虫だろうがそこまで気色わるいことにゃぁならねぇぞ。

 カニの話はいいんだよ、エビだよエビ。

 もうね、いっそエビってぇ名前を変えたらいいんじゃねぇかな。

 だいたいABCDいーえふじーってな具合に、エービーなんつって気取ってやがるところからして気に食わねぇんだ。なにがエービーだ。アホか。

 あいつらなんぞ、虫でいいんだ、虫で。

 虫フライだぞ、いってぇ誰が好きこのんで食いたがるよ、誰も食わねぇだろ、ちがうかい?

 いっそ蜘蛛でも蛾でも、好きなように呼んでやりゃあいいんだ。

 ゲジゲジとか、ゴキブリとか、そういうのといっしょでいいんだよ。

 えぇ? そんなこと言ってるとお叱りを受けるだぁ?

 ふざけんじゃねぇよ、だったらなんだよ、カブトムシとでも呼べばいいのか? クワガタフライって呼べばかっこいいのか? えぇおい、冗談じゃねぇよ同じじゃぇか、食いたかねぇだろ、カマキリフライとか食いてぇか?

 もういっそ、まいにち虫フライを食べましょうキャンペーンなんかやりゃいいんだ、世のなかの虫という虫を食べ尽くして、バグズライフにバグフライを失くしたいし、エビを食べずに楽したい。

 カニはいいのかって、カニはいいんだよ、虫じゃねぇんだよ、いっしょにすんじゃねぇよ。

 カニはバグじゃねぇし、おれはバカじゃない。

 バカフライもいっそ食べ尽くしちまえばいいんだ、そうすりゃエビなんてゲテモノを食べようなんて酔狂はいなくなんだろ、ってそしたらエビはいなくならねぇだろって、食べ尽くすにゃバカゆらいの大食らいがいないとお話にならねぇだろって、んなことおいちゃんにゃぁ関係ねぇのよ。

 虫なんぞいなくなっても植物は風さえありゃあ受粉し放題、蜜を吸いに集まるハチにハエにバタフライ、もろもろ羽虫にイモムシ、コガネムシ、エビと共にいなくなっても困らないのは、生態系の柔軟性のなせるわざだよ、ええおい、カニはだからいいって言ってんだろ、カニさんはいいの! 断固許可する!

 いっそ虫はぜんぶカニでいいな。

 すべての虫はカニになればいい。おいちゃんが許可する。カブトムシもイナリズシもナプキンもぜんぶがぜんぶカニになれば、美味しい晩飯に困ることはないのになぁ!

 えぇおい何が言いたいのかハッキりせいよってか、いいか、何度も言わせんじゃねぇよ、とにかくエビフライなんぞなくていいんだよ、食らい尽くしちまえばいいんだよ、いいから持ってこいよ、ほかのお客さまの分がどうのこうのと、んなこたぁどうでもいいんだよ、おいちゃんが責任もって食らい尽くしてやるっつってんだから、なにごともトライなんだよ、アイキャンフライだよ、あらんかぎりのエビフライを持ってきなさいよ、大好物じゃないかって、えぇいいかげんなこと言ってんじゃねぇよ、エビなんて嫌いだよ、エビ嫌いだよ、エビフライ嫌い!




【右傾化する国、不敬なクズぶり】


 2037年に普及したトウモコロシにより人類は食糧危機の問題を払しょくした。トウモコロシとはゲノム編集技術により、砂漠のような劣悪な環境下でも通常の倍の速さで育ち、実をならす新種のとうもろこしである。貧困による争いはなくなり、国家間の秩序は保たれる。世界平和の足音が聞こえてくるようだと、一時期、人々は久しく味わうことのなかったおだやかな日々を過ごした。しかし、事態はみなの思うようには運ばなかった。食糧問題を解決できる技術が確立されたことで、人口爆発の歯止めが壊れた。これまで先進国主導によって経済を維持してきた国々――なかでもアフリカは、国内生産のみで食糧を確保し、その文化圏にて飢えという言葉の枠組みを縮めた。多国籍企業を締め出し、国内企業の拡大を国をあげて目指した。先進国から搾取されつづけてきた過去の汚名を払しょくするがためにそうするかのような、ガムシャラな奔走ぶりは、まるで受精卵の細胞分裂を彷彿とさせる勢いがある。アフリカが第二の中国と謳われるようになるまで、十年とかからなかった。そのころ、中東や欧州では、難民問題が、こじれにこじれ、勃発する紛争の数は二〇〇〇年初頭の倍にまで膨れあがった。テロ対策法が強化され、国と国はかつてないほど、厳格に区切られた。食糧問題やエネルギィ問題は、おおむね新技術により解決する。しかし、その新技術を国内に留め、他国の優位に立とうとする風潮が蔓延しだす。と、いうのも、そもそもがアフリカにおける人口爆発と経済発展によって、世界経済の均衡は大きく歪んだ。米中露の三竦みに、猛然とアフリカが割り込んできた構図だ。むろん、三大国はいい顔はしない。歪みは、どこかで発散させねば、世界の均衡がもたない。とすれば、国家間に亀裂が生じて久しい、中東欧州にて、これまでアフリカが担っていた、ビジネス牧場を構築し直そうとする動きが活発化しだす。新技術はそのころ、主としてインドやシンガポールなどのアジア諸国が起点となって発信されることが多かった。かつて期待できたシンクタンクの役割を、欧州に見出すことはなくなった。日本? 自然環境保護の対象として俎上に載るくらいがいいとこだ。米国との友好条約がなければ、かつての北朝鮮が担っていた役割を引き継ぐくらいが関の山だ。人口爆発と、新技術の内部留保によって、世界をとりまく環境は悪化の一途を辿る。大国と発展途上国との貧富の差はますます広がり、かつて先進国だった日本や韓国、そしてスイスを除く欧州は、発展途上国と大差ない貧困にあえぐことになる。かつての栄光が、贅沢な貧困という社会問題を生みだしているのだ。トウモコロシごときで満足できる文化水準をすでに上回っている国々では、身の程を弁えない生活により、飢えが絶えない。いっぽう、発展途上国を発展させぬように大国はこぞって、頻繁に紛争を起こさせ、文明が熟すのを阻害する。アフリカへは技術提供を謳い、安くて扱いやすい労働力を提供させ、いくらでもこき使い、大国はその地位を維持しつづける。事実上の奴隷制度である。かつて根絶された奴隷という悪しき風習が、国際的に合法で行えるようになったのだ。このころになると、すでに核の均衡は崩れ、時代は生物兵器とワクチン開発による凌ぎあいが、国家間の優劣を左右するようになる。むろんその時代にあっても生物兵器禁止条約は、多くの国で締結されている。しかし自国でつくれないならば、つくれる国につくってもらえばいい。仮に締結していようが、条約を歪曲して捉え、抜け道の範疇で兵器をつくることは可能だ。生命科学の原理上、医療研究との区別はつけられない。核の均衡は崩れたが、他国への核による威嚇は有効だ。優位に立ち、甘い汁を吸わせれば、新技術の開発に名乗りをあげる国はいくらでもある。自国内部で危なげな兵器を扱わずに済むのであれば、それに越したことはない。なにせ、生物兵器である。核兵器は国を滅ぼすが、生物兵器はことによっては、生命すべてを滅ぼしかねない。ゆえに、ワクチンの開発はセットであり、強請るならば核兵器よりも頭一つ秀でて映る。他国への交渉には一役どころか二役も、三役も買う。バイオテロは、人間だけでなく、その地域に固有の知能まで破壊する。DNA情報を指定し、特定の血筋のみを死滅させるウイルスが比較的簡単に生成できるようになったのは、皮肉なことに、かつて癌と呼ばれた悪性腫瘍をただの風邪並の手軽さで除去できる技術のおかげである。また、昆虫型ドローンとナノデバイスの組み合わせにより、ある分野の先駆者をピンポイントで殲滅できるようになった。サイバーテロの対策およびバックアップは比較的進んだが、人材損失への対策は、根本的なところで防ぐ手だてが見当たらない。それは、人は生きる以上死ぬという制約があるかぎり、避けられないレベルの問題だった。時代は、遺伝子操作により、人類の活路を見出し、生命存亡の危機を招く、そんな二律背反の歴史を刻みはじめている。このころになると、平和と聞いて思い浮かべる印象は、半世紀前とは大きく変わった。暴力なき世界、核兵器なき世界が平和なのではない。たとえ脅威がこの世のどこかに存在しようと、世界の均衡が秩序によって保たれていれば、平和なのである。かつて理想の平和を謳い、目指した国は、いずれも没落し、大国の肥やしとなるべく、日々、闘争し、飢え、それでも底上げされた技術により生命の危機からは程遠い生活を送ることを余儀なくされている。秩序を築く歯車としてのみ、彼らは産みだされ、平和を謳う巨大な暴力により、搾取されつづける。しかし、その国の民は口を揃えて言うだろう。弱者を救え。国は民のためにある。国を守るために、一部の権力を高めるシステムは悪であると。だが、彼らは知らない。かつてそのようにして、権力の余力を奪い、国力を民に分配することで、いまの自分たちが支配する側ではなく、搾取される側の弱者になっていることを。紛争ばかりで、大きな戦禍のない時代ではある。過去、人間は人間を支配した。一世紀前は企業が群衆を支配した。現在は、国が国を支配する。さも、家畜を牧場で飼うかのように。システマチックにそれは、連綿と意図されつづけた道程のうえに築かれている。どの時代、どの国にも正義などというものはなかった。いずれも、ある時代からすれば悪であり、誤りであり、欠陥である。理想とは程遠い。しかし、総じて否定しがたく、現実である。回路は循環さえすれば回路足りうる。肺が脳を活かすための器官だとして、それを不服と唱えても不毛なだけだ。肺が嫌なら脳になれ。嫌ならばすべてを同じ細胞としてしまえばいい。それをかつての人類は、癌と呼んだ。こうした未来を防ぐためのゆいいつの方法は、セックスを禁ずることである。童貞バンザイ、処女サイコー。セックスしたことあるやつは死ね。 




【よくある話:1~15】



【1】

インターホンが鳴ったので出た。女が立っていた。何か用ですか、と訊ねると、昔ここで人が死んだ、たくさん死んだ、殺されたのだ、とうるさいので、ひとまず部屋に招き入れた。霊がたくさんいるらしい。平気でいられるのが信じられない、とやはりうるさい。ここは新築だし、部屋じゃまだ殺してない。


【2】

バーバー。この道にでる幽霊の名らしい。なんでも理髪店じみた霊なのだそうだ。愉快ではないか。出るなら出てみろ。鼻歌交じりに歩いていると、街灯の下でぐるぐる回っているおばぁさんを見かけた。何をしているのかと気になったが、目が合う直前で顔を逸らす。首だけがぐるぐる回っている。


【3】

あなたはよく私の爪がきれいだと褒めてくれた。髪の毛がすてき、肌がつやつや。うらやましいとあなたが言うたびに、私の爪は剥がれ、髪は抜け、肌は爛れた。あなたは最期まで私の目をうらやむことはなかった。指が、鼻が、耳が、腸が。あなたの声に削られていくたびに、私の目には満面の笑みが――。


【4】

そらを見上げる。高いビルがある。あそこから落ちたのか。視線を下ろし、地面に拡がるヒトガタを眺める。腸がはみ出ている。脳みそは白い。周囲に人影はない。着けている装飾品からいって裕福層の人間だ。盗るならばイマだ。内なる声に従い、死体から爪の垢をこそげとる。炬燵でくつろぎ、煎じて呑む。


【5】

電信柱のところに人影がある。暗くなると見えるようになる。アパートの窓から覗くと大抵そこにいる。ストーカーだろうか。恋人に隠しておくのも危険な気がし、あるとき打ち明けた。「で、とにかく夜はこないほうがいい」「なんで?」「危ないだろ」「大丈夫だよ」彼女は言った。「ずっと見てるから」


【6】

肝試しをすることになった。処刑場跡地がある。民家に挟まれ、ひっそりと祀られている。行ってみると、大きな樹の裏にたくさんの地蔵がびっしりと並んでいた。こわかったが思ったほどではない。後日、明るいうちに行ってみると、あったのは地蔵ではなく大小様々なお墓で、陽射しを遮るものはない。


【7】

ラーメンに髪の毛が入っていた。一本だけでなく、十本くらい束で沈んでいる。黒い麺かと思ったほどだ。クレームを入れるとすぐに換えてくれた。「すみませんね、さいきん多くて」「多いんですか」「このあいだは爪で、その前は指でしたわ」絶句した。「いえね」店主はほころびる。「可愛いコですから」


【8】

通勤のバスから毎日見下ろしている。小学校が近くにあるらしく、朝などは子どもたちをよく見かける。初老の女がたびたび横断歩道にお線香を供えていた。事故でもあったのだろうか。ある日、姿を見かけたので声をかけようと近寄ったところ、はっとして通り過ぎる。女は束にした釘を地面に置いていた。


【9】

古い旅館だ。露天風呂が評判で、夜などは星がきれいに見える。裸眼なのが残念だ。壁にちいさな鏡がはまっている。老けたな。ぼやけた像でも落ち込むには充分だ。上がろうと思い、腰をあげる。ふと何かが引っ掛かり、もう一度鏡を見遣る。腕を伸ばす。腕はするすると伸び、奥には崖が広がっている。


【10】

子供の歯磨きを手伝った。第一次反抗期なのか、泣きじゃくって難儀する。頭を掴み、無理矢理に口のなかをごしごしやった。「べーして」命じると、我が子は真っ黒い液体をどろりと吐きだす。はっとする。目を転じる。掴んでいたのは髭剃り用カミソリだった。


【11】

田舎道だ。ふと歩を止める。アスファルトに何か埋もれている。なんだろう。エリンギみたいな。「耳ちゃう?」振り返ると、顔見知りのおじさんが覗きこむようにしている。業者に知り合いがいるらしい。聞いてみるわ、と言って去ったきり、おじさんは行方不明になった。例の道は新しく塗装されている。


【12】

河童を探しに行った。途中でみなとははぐれてしまったが、池には辿りついた。何かが激しくしぶきを撒き散らしている。大きな手が伸び、どっぽんと沈んだ。私は逃げた。後日、友人の一人が溺死体で見つかった。私はみなに打ち明けた。「いいんだ」みなはうつむく。「アイツはたぶん、逃げなかったんだ」


【13】

矢印を見つけた。地面に壁にポストにと日に日に増えていくそれは、ふしぎと私の家の方向を示しつづける。距離が近づいていくのを不気味に思いはじめた頃、玄関に矢印が書かれているのを見つけた。通報しよう。扉に鍵を挿しこんだところで手が止まる。向こう側から音がする。何かが扉を引っ掻いている。


【14】

女子たちをぎゃふんと言わせたかったので、肝試しをした。男子全員がグルだ。僕が校舎に潜み、外からそれを目撃してもらう。女子は悲鳴をあげ、泣き喚いた。翌日、盛大にネタばらしをする予定だったが、できなかった。女子たちが口々にこう言うからだ。「だって男のコのうしろにお坊さんがぐわーって」


【15】

赤い階段と呼ばれる道がある。よく運動部がジョギングをしている。飲み会の終わり、歩いて帰宅するときにその道を通った。上り坂だ。夜中なのに、上のほうから列になって駆け下りてくる一団がある。暗くて顔はよく見えない。すこししてから振りかえると、同じ顔がじっとこちらを向いている。 




【二人称百合】

 

 いつも目で追っていた。

 いつも目が合うね、とあなたに言われて気がついた。まともに返事ができなかったことにしばらくクヨクヨした。

 季節がひとつ横にずれたくらいのころにあなたは、目ぇ合わなくなっちゃったね、と廊下ですれちがいざまに微笑むようにした。わたしはそれからしばらくあなたの姿を目で追った。あなたはもうわたしの視線を掴んではくれなかった。

 クラス替えがあり、あなたとは離れ離れになった。卒業するまであなたとわたしの線が交わることはなく、わたしは過去のわたしを呪うことで、あのときああすればよかったの嵐を凌いでいた。

 お互いに別々の高校に通うことになった。そんなことは卒業する前から知っていたのに、いざ学校生活からあなたの姿がすっかり消えてしまうと、気に病まずにはいられなかった。そんなことを気にしているのはわたしだけかもしれなかった。

 だから、あなたが同じ電車で通学していると知ったとき、さいわいだと思ったのもまたわたしだけかもしれない。

 駅のプラットホームでときおりあなたの姿を目にした。おなじ車両に乗り合わせることもしばしばだった。部活をやっているからなのか、放課後、あなたを見かけることはなく、何かきっかけがほしいと思い、いっそあなたが痴漢か何かに遭わないかと妄想して過ごしたりした。

 なんでまたそんなひどい想像を浮かべてしまうのか。

 あなたのことを考えるにつけ、じぶんがひどくさもしいものに思えた。

 痴漢に遭ったのは、そんなわたしにくだされた罰なのだろう。甘んじて受けようと思い、耐えてみたものの、三日連続ともなると、さすがにわたしの心も限界だった。

 もともと誇れるほど頑丈な心ではなく、そもそもを言うならばあなたに声をかけられずいつまでも遠巻きに眺めては、またあのころのように、目、合わないかな、と祈るばかりのわたしの心が痴漢の魔の手にさらされ、無事で済むわけがないのだった。

 わたしは泣く泣く、朝の車両を移動した。

 あなたの姿が遠のき、わたしの心は干からびるばかりだ。

 二日間を無事に過ごした。週をまたいだ、三日目にして、わたしは四度目の痴漢に遭った。

 ああ、触り方だけでおなじ痴漢だと判るまでに、わたしの身体は汚れてしまったのだな。頭の奥がガンガンして、何かじぶんがガムの包装紙や、靴底に挟まった小石のように感じられた。おまえなんか痴漢に遭うために生きているのだ、おまえだから痴漢に遭うのだ、わたしは痴漢専用の痴漢ホイホイになった気がした。

 わたしが我慢しているあいだ、こんな気分になるひとはいないのだ。わたしは役に立っている。そう思うことで干からびてヒビだらけの心をなんとか柱のカタチに保ちつづけた。

 車両を移動しても痴漢はその日のうちにわたしの背後に現れ、わたしの太ももに腰を押しつけるようにした。硬い棒状のものは、わたしのおしりの割れ目をじつによくなぞった。わたしのおしりの割れ目の書き初めがあれば金賞間違いなしだと思えたほどだ。

 手で揉みしだかれないだけマシかもしれない。

 思った矢先に、痴漢はわたしの観念具合を目ざとく見透かし、ゆびで股のもっとも敏感な部位をなぞりはじめた。

 さすがにこれはダメでしょう。

 痴漢行為がどうのこうのではなく、これを我慢したら人間として何か大事なものを失くしてしまう気がした。

 声をあげようとした。

 だせなかった。

 口を塞がれている。

 背の低さがわざわいした。

 周りのおとなたちはみな背が高く、わたしから漏れる呻き声も、電車のガタンゴトンには敵わなかった。

 凍死してしまうほどの寒さと闘いながらわたしは、過去のわたしを呪った。話すきっかけ欲しさに、あなたがこんな目に遭えばいいのにと、好意からとはいえ願ったことをお腹の底から後悔した。

「はーい、痴漢でーす、このひと痴漢でーす」

 車内に声が響いた。

 何事かとざわめく人混みをかき分け、頭上にメディア端末のカメラを構えながら、あなたが姿を現した。

「逃げんなよおっさん」

 あなたはカメラのレンズをわたしの背中のほうへ向け、わたしを頭ごと胸に寄せるようにした。「ぜんぶ撮ったからな。逃げんなよ」

 痴漢の顔を確認したかったのに、わたしは安堵とうれしいのと、こわかったのと、なんだか分からなくなって、びちゃびちゃと泣いた。痴漢は周りのおとなのひとたちが逃げないように捕まえておいてくれた。

 駅に着くなり、駅員さんに引き渡されていた。わたしたちは痴漢とはべつの場所で警察のひとに経緯を話した。そのほとんどをあなたがしゃべってくれたのには驚いた。

「いつもいるのにいなくって。どうしたんだろって思って、探したら、なんか痴漢っぽいのに遭ってるし。声あげればいいのにって思っていちどは見なかったフリしたんだけど、なんかまたされてるみたいだから、証拠ばっちし撮って、突きだしてやろうかと思って」

 動画のおかげで冤罪の可能性はゼロと判断された。相手も観念しているようだった。

 その日、わたしたちは学校を休み、つぎの日から、あなたがわたしの背中側に立つようになった。

「痴漢死ねとは思うけど、まあやりたくなる気持ちは分かるな」

 あなたはわたしの頭のうえにあごを載せ、ウリウリと揺すった。

「分かんないで」

 あなたの吐息がつむじにあたるたびに、ベッドのなかのぬくぬくに似た何かがわたしから足腰のチカラを奪っていくようだった。

「学校、いっしょだったらよかったね」

 夏まつりの夜、花火を観終わって、ふたりで公園のベンチでしゃべっていた。

「どうして」とあなたはふしぎがった。

「やなの?」わたしのほうこそふしぎだった。「学校でもいっしょにいたいよ」

「だって」

 とあなたは言った。「同じ学校だったら、こういうことできないじゃん?」

 目のまえから光が失せ、気づくとあなたの髪の毛が鼻のあたまをくすぐっている。シャンプーの匂いがし、おなじやつにしたいな、と思った。

 光が戻る。

「噂とかコワイし」

「べつにヤじゃないよ」

 わたしからは手を握るだけにする。

「そ?」

 あなたはまた世界から光を奪い、わたしの頬を熱くさせる。 




【二人称百合(2)】

 

 知ってたよ。

 いつからかは分からないけど、あなたがあたしに首輪をハメたがってるって。

 けっこう前から、そうかもしれないって思ってた。

 あたしがほかの誰かを褒めるとあからさまに不機嫌になったね。わざとあなたを褒めないでいると見る間にぷっくりふて腐れて。

 でもあなたは自分がなぜそんなにイライラしているのかが分からなくて、無駄にあたしにトゲトゲを吐く。どうして解ってくれないのって、駄々をこねるみたいにして、それがかわいくてあたしはつい、いじわるをしてしまう。でも、あたしがここぞとばかりに褒めてあげるとすぐさま笑みが絶えなくなって、もっと見てって謳うみたいに、自慢のインスタを見せてくれる。

 ふたりきりになるとあなたは、何かとあたしの周りのニンゲンの悪口を並べだす。人当たりのいい性格でとおっているのに、ふたりだけのときは、とんだわがままお嬢さまだ。あたしだけが知っているそれが心地よいから、あなたの悪態に、あなたの言ってほしいだろう言葉を放ってあげる。

 同意はしない。

 でも、あなたのほうが優れてるって、そういう言い方を薄皮につつんで返してあげる。池にできた波紋の真ん中に小石を投げこむみたいにして、あなたの言葉が途絶えないように、見透かしているって見抜かれないように、あなたの手綱を握ってる。

 ひとつきくらい会わない時期があったよね。

 つぎに顔を会わせたときの、あなたのそっけない態度は、何かに怯える子熊みたいでかわいかった。手を振ってあげると、あなたは見えない尻尾を振ったみたいで、顔はずっとしかんでいたのに、今にもこっちに駆け寄ってきそうで、ついついあなたのほうから話しかけてくるまでお預けをしてしまった。

 あなたが声をかけやすいように、一人で休憩をとっていると、なんでもないような調子で、ちょうどわたしも休憩しようと思ってたの、とでも言いたげな足取りで、迷わずこちらのよこにやってきたよね。笑いをこらえるのに苦労したよ。

 いいこいいこってあたまを撫でてあげたかったけど、きっと撫でたら撫でたで、あなたはいい顔をしない。だって立場はあなたのほうが上でなければ、あなたの機嫌はよくならない。

 知ってるよ、それくらい、そりゃあね、短くない付き合いだもの。

 あなたが何度目かの失恋をして、あたしに相談をしてきたとき、あたしはあなたのことより、相手の立場で助言を呈した。

 ここで別れたら今までの二の舞で、あなたの嫌いな人間たちと同じになってしまうと、もうすこしがんばってみたらと、恋人との関係の修復を促した。

 もちろんあたしは知っていたよ、あなたが相談してくるときは、だいたいもう別れたいときで、その後押しをこちらにしてもらいたいがために、相手のダメ出しを期待して、そんな男別れちゃいなよ、あなたにはもっといい人がいるよ、そんな男はふさわしくないと、言われたがっているってちゃんと知ってる。だからいままではそうしてあなたの欲している言葉をそっと差し出していた。

 でも、いい加減、ズルイと思った。

 あなたはいつしか、あたしからの心配する声を、想いを、やさしさを欲しがるようになった。それが欲しいがために進んで刺激的な恋に身を投じる。

 きっとそう指摘してもあなたは認めないでしょう。

 分かってる。

 でも、ズルイと思う。

 だからあのとき、助けを求めてきたあなたに、やさしさではなく、心配な声でもなく、常識を説いた。あなたがおとなとしてとるべき選択を示し、愛しているのならば踏ん張るべきだと別れを諌め、別れるのならばその程度の想いで深みに踏みこむような人間なのだと、あなたのことをそう見做すと、やんわり薄皮につつみ、訴えた。

 あなたはけっきょく男と別れ、毅然とした態度で、こちらにその旨を告げた。

 知ってたよ。

 あなたがそのとき怯えていたこと。

 こちらからの心象をわるくしないようにと、最大限におとなぶって、脆弱ぶって、自分の弱さまで認めてみせて、立派な別れを演出したね。

 よくできましたと花丸をあげたかったけれど、あたしは返信をしなかった。

 空白のひと月を開けたあと、あなたは、何でもない顔で寄ってきては、もう別れたから、と口火を切った。

 あたしは言ったね。

 よかったー、と。

 まだ付き合ってたらそっちのほうが心配だよ、と。

 あなたの欲しがっていた、心配とやさしさと安堵の念を、ここぞとばかりに伝えたね。あなたの意外そうな顔と、ほっとした顔つきは、なんど思いだしても、せつない気持ちが競りあがる。

 あなたがあたしに首輪をつけようと虎視眈々となったのはちょうどそのころからだったと手帳にはある。

 特別な存在なのだと、なんとか伝えようと、言葉の端々ににじませて、伝えようとしていたね。

 もちろんあたしは知っていたけど、物分かりのわるいフリをした。

 それを抜きにしても、あなたの言い方はなっていない。

 あれで気づけというほうが土台無茶というものです。

 でも、ちゃんと気持ちは伝わったよ。

 就活が忙しくなって、会えない日々がつづいたね。

 会うたびに、あなたがそわそわしていたのには気づいていたよ。

 自分にとってあたしが特別な人間なのだと、なんとか言葉にしようと周りの人間をクズ呼ばわりし、相対的にあたしの価値が高いのだと示そうとした。

 その回りくどさには何度、笑いを噛みしめただろう。

 人間は総じてクズだと断言したその口で、でもたまにいっしょにいて腹の立たないやつもいる、と言い、きっと愛があるからだ、と結論したきり訪れた沈黙を、あたしはどう処理したらよかっただろう。

 よかったね、とまずは言った。

 仲のいいひともちゃんといるんだね、とよろこび、だいじにしなよ、と労った。

 あなたは唇の下にしわを寄せ、お腹減った、と言って歩きだす。

 追ってきてほしそうなその背に、あたしは、用があるからじゃあここで、と投げかける。

 あなたは振り向き、さびしそうな顔をする。

 手を振ってみせると、見えない尻尾をピンと立たせ、ほころびる。照れくさそうにあげた手の素早さに、あなたの焦燥感が見え隠れする。

 つぎに会うとき、きっとあなたはかつてないほど臆病になっている。

 あなたはそろそろ気づきはじめる。

 あたしから声をかけたことがないことに。

 ひょっとしたら好かれていないのでは、と不安になる。あなたを拒んだことはないけれど、あたしから触れにいったこともない。

 あなたの差しだすあらゆる刺激を残らずすっかり受け入れるのに、あたしから何かを差しだしたことはない。

 あなたはあたしの首に自分の名を刻みたい。

 誰のものでもない、自分のものだと、証をあたしに刻みたい。

 でも、あなたはもう自分だけでは何もできない。

 触れようと伸ばした手を振りほどかれる未来が、あなたの身体をがんじがらめに縛りあげている。

 だからもし、つぎにふたりきりで会えたなら、初めて手を差し伸べてあげようと思っています。きっとあなたは悪態を吐き、あたしの心を試すでしょう。

 二回まではがまんします。

 三度目はないと、心得ていてください。

 リードを握るのは、あなたじゃないよ、あたしに首輪なんてもったいない。 




【百合SSまとめ】



「零度」

恋をしたい。ずっとそう思ってきた。でもほんとうはそうじゃなかった。わたしはたぶん、誰かをこの手で利用したい。手のひらで転がして、手玉にして、悦に浸りたい。奴隷がほしいようで、そうではない。いっぽうてきに利用したい。そのために慕われたいし、好かれたい。でもわたしはそんな相手を好いたりしない――罪悪感は持ちたくないから。おもちゃみたいに扱いたいけど、そんな人間にはなりたくない。こんなんだから誰かを好きになんてなれっこない。好きじゃないものに興味はない。だから手元に何も残らない。恋をしたい。でもほんとうは、なによりあなたを好きになりたかった。心の底から罪悪感を抱きたい。あなたをこの手で利用したい。


「百度」

ぬくもりがほしいわけじゃなくてさ。いつだってそれを与えてくれる魔法の小人がごしょもうで。じっさいにそれを与えてくれたらもうダメで、なぜって願いはだって三回までって決まってるじゃん。一回でも使ったら、あとはもう、減るいっぽうになっちゃうじゃん。万全のたいせいで、満杯のぬくもりで、あたしのそばにいてほしくてさ。おねだりはするよ。でも、それをあたしに与えないでね。あなたは魔法の小人でね。いつまでも魔法に満ちていて。


「重度」

わかんないよ。でもなんか安心するの。あなたといると、すごく安心する。たとえば私がいつも見下ろしてばかりで誰とも目線を合わせられずにいて、口ばかりの称揚に飽き飽きしていたとして、それでもあなたはいっしょうけんめいに私と目線を揃えようとじっと見上げてくれるでしょ。あごをくいと掲げて、しなくてもいい背伸びまでして。ぷるぷる震えるその足の痺れが全身にまで伝っても、まだ私のことをじっと見上げている。私はそんなあなたから目を逸らす。でもあなたの視線は途切れない。私の頬に、髪に、耳の裏のほうにまで、ジリジリまとわりついている。安心するの。それがたまらなく私をからっぽな世界に繋ぎとめてくれている。何もない世界は、足場もないから、縄でもないとスルスル落ちてしまうから。でもほんとうは、あなたは私を見上げていて、私たちを繋いでいる縄は、糸は、ほんとうは私のほうから垂らしている。必死に食らいついているのはあなたのほう。私はいつまでもあなたがここへ昇ってこられないように、揺さぶったり、引っ張ったり、いじわるをしてあげる。それでもあなたは私を求め、糸を伝う。虫けらじみたその姿が、たまらなく私を固めてくれるの。私を私として固めてくれる。私には、あなたという器が必要なのね。中身のない、スカスカの、ハリボテじみた器がね。


「節度」

ウチみたいのがいいのかなって、どうしてウチなのかなって、思ってるよいつだって、ウチ、見捨てられちゃうんじゃないかってこわい思いしてる。こわいはずなのになんでだろう、気づくといつもよこに並んでる。あなたがそれを許してくれるから、そこはべつにウチの特等席ってわけじゃない。わかってる。とくべつに、そういうふうに、扱ってもらってるだけだって。気まぐれみたいなものだよね。気まぐれにノラに餌を放り投げるみたいに、餌をあげたら満足で、きっとノラのほうも、それ以上のことは期待してない。でもなんでだろう。ウチはまたおなじ場所に餌が落ちていないかって、そうやっていつもあなたのよこに並んでしまう。あなたがそれを拒まないから。ウチみたいのがいいのかなって、どうしてウチなのかなって、思ってるよいつだって、見捨てられちゃうじゃないかってこわい思いしてる。ウチにはあなたしかいないけど、あなたにはたくさんのシモベたちがいて。シモベたちに囲われているときには見向きもしないで、ウチの入りこむ隙間なんてないんだ。だのに暗がりにまみれた道のところ、独り歩いているあなたはなんだか、闇を振りまく蛍光灯で、眩しいのに寒くって、消したところで明かりが灯る。闇の点いたあなたを知るのはウチだけで、夜目のきくウチだから、暗がりにいてもだいじょうぶ。あなたを見失ったりはしないから。ほんとうに? そうやって、だからいっそう闇を振りまくんだね。いいよ。もっと試して。どこにいたって見つけてあげる。ウチのとりえはそれだけだから。もっと黒く塗りつぶして。


「限度」

どうだっていいよ。関係ないじゃん。アタシとあんたは別人だし、それぞれ好きなことだって嫌いなことだってちがう。話せば毎回衝突するし、至極しょうもないことで張り合うし。まあね。たしかに仲はわるくはないよ。特別いいとも思わないけど。彼氏ができた? ふうんいいんじゃない。はやく結婚したいとか言ってたし。だから関係ないんだって。どうでもいいっての。あんたが誰と好きあおうが、どこに引っ越そうが、そんなのアタシにゃ関係ないんだって。どうしてって、あー、なんで泣くんだよ。だってそうだろ。いまさらどうなるってんだよ。なにが変わるってんだよ。どこにいようと、どうなろうと、アタシはアタシだよ――おまえのずっと味方だよ。おまえの生き方なんざどうだっていいよ。アタシにゃ関係ないんだよ。


「感度」

ずるいと思う。ひどいと思う。どうしてあなただけいい思いしてワタシばっか岩のしたのわらじ虫みたいにジタバタもがかなきゃならないの。いいよねあなたは。なにもしなくたってみんなからチヤホヤされて誘われて、ちょっとみんなに愛想よくするだけでみんなのほうから花束みたいな好意を束で寄越してくれるんだから。どうせ悩みなんてないんでしょ。くっだらない悩みしかないんでしょ。誰にでもいい顔して、微笑んで、困ってるひとに手を差し伸べるのは当たり前のことで、どうしてそうしないのかなぁ、なんてそれをしたくともできない人間以下を眺めては、蔑みもせずに、すこしばかりの心を痛めるのでしょ。なんの躊躇もなく善意を振りまけるのでしょ。そうだよね、ぜったいに報われるんだもの。戸惑う必要なんてないじゃんね。でもね、ワタシはちがう。落ちた消しゴムを拾ってあげるのだって命がけだよ。ワタシなんかに触れられたら気分を害するんじゃないかっていつだってビクビクしてる。ワタシなんかに助けられたなんて、そっちのほうが汚名じゃないかって、めいわくなんじゃないかって、そんなふうに考えちゃうよ。うれしいわけないじゃんか。報われるわけなんかないじゃんか。礼儀としてのお礼を言われたって、でもあのひとたちみんな、顔ひきつってるじゃん。あなたはいいよ。そうやってなんでもかでも持てはやされて、チヤホヤされて、あなたが笑えばみんなもうれしい。でもね、ワタシはちがう。あなたとはちがう。なのにあなたはそんなワタシにさえ無邪気に笑顔を向けるでしょ。死ねばいいのに。ずるいよ、ひどいよ、どうしてそんな仕打ちするの。どうして岩を持ちあげて、陽射しで日陰を焼き尽くすような真似するの。焼き尽くされてなお死ねないワタシは、知っちゃったじゃない。陽射しのあたたかさを、そのまばゆいまでのふくよかさを。ずるいと思う。ひどいと思う。めちゃくちゃにしてやりたい。みんなのあなたを、ワタシはこの手でズタズタにしたい。あなたには、そうされるだけの罪がある。ワタシはこころの底からそう思う。あなたはワタシで穢れるべき。ワタシと同じところに落ちるべき。でも、けっきょくあなたは穢れない。ワタシでは、あなたに染みすらつくれない。


「湿度」

ほしくなっちゃったんだ。最終的にはね。さいしょはでも、ただいっしょにいたら楽しいだけだった。いつからかな。きっかけは、そう、おまえがアニメなんかにハマって、私とはべつの分野に興味津々になったときだ。私との時間よりもおまえ、アニメを観るほうを優先したろ。それだけならまだしもアニメ繋がりで知り合ったほかの連中とつるむようになった。悔しかったからな。嫉妬しないようにがんばった。無駄だったけどな。けっきょく胸に閊えて消えない気持ちをなんとか見抜かれないように、素っ気なさを醸すしかなかった。なに怒ってるのっつって、おまえはよく機嫌を損ねた。こっちのほうがよっぽど腹立たしいってのに、おまえときたら全開で被害者面だもんな。あれにはまいったよ。いっそ愛想を尽かしてくれりゃあよかったものを、それでもおまえは私を見限らなかった。感謝してるよ。どうもね。でも、それだけじゃ足りないんだ。足りなくなってしまった。今はもう、ただいっしょの時間を共有できるだけじゃダメなんだ。嫌なんだ、おまえが私の知らないことで埋もれていくのが。ホント、もう、耐えらんない。もっとほしい。時間も、経験も、これからの可能性だって、ぜんぶ私にくれないか。私はもう、ずいぶん前からおまえにすべてを投げ捨ててるぜ。ふざけちゃないさ。いや、こんなのふざけながらじゃなきゃ言えないよ。でも本気なんだ。おまえのぜんぶ、私に根こそぎ奪わせて。こわい? ごめんね。でも、そういう顔も、ぜんぶ好き。


「過度」

わたしがいちばんかわいいのに、男どもはあのコばかりを遠巻きにする。わたしにはベタベタ触れるくせして、あのコばかりが無菌室ですくすく育った花のよう。じゃあわたしは何なのかと考えたらなぜだか小学生のころの教室にあったサッカーボールを思いだす。男の子たちは昼休みになるとこぞってそれを奪いあい、ときに蹴って、回して、駆けまわる。チャイムが鳴ったら、あーたのしかった、の一言残し、サッカーボールは砂場のかげに置き去りで、まともに仕舞ってももらえない。なのにつぎの日になると、また男の子たちはサッカーボールを奪いあい、そして蹴って、回して、あーすっきり。べつにいいよ。不満はない。全世界の男どもがわたしを奪いあえばいいのだ。それなのにどうしてあの男はサッカーボールには振り向きもせずに、無菌室で育ったくそつまらない花なんぞを愛でているのだろう。あんな花のどこがいいのか、蹴ったら一発で散ってしまうようなあの花のどこが。わたしはその花と仲良くなった。無菌室のそとには連れだせないから、わたしのほうでわざわざ花に扮した。わたしのほうが優れていると間近で眺めてそう思った。ブーケひとつつくれやしない。海に行っても泳げない。なのにどうしてこいつはけろっとしているのだろう。なんでもないような顔で、わたしのことを褒めていられるのだろう。なんとか花の歪むところが見たかった。わたしは花にとってのミツバチを、その男を、誘惑した。たくさんの嘘をつき、たくさんの男どもを使って、ミツバチに、その花には毒があると吹きこんだ。わたしはミツバチに、その腹から生える針を使わせることに成功した。ミツバチは散った。あとには、ミツバチの訪れなくなった無菌室の花だけが残った。元の、孤独な、高嶺の花だ。わたしは花に、針をしきりに刺そうとしているミツバチの情けない姿の納まった動画を見せた。興信所を使ったと嘘を言った。花は、そう、と言って、それを眺めた。「言ってくれればよかったのに」花はなぜか微笑んだ。「これ、相手、あなたでしょ。わかるよ。ほら、ここのところ。ホクロがある」ミツバチのしたで針を刺されている花モドキの腰のところ、わたしも知らなかったホクロがあった。「好きだったんだね。ごめんね、気づいてあげられなくて」なぜか花はいつもと変わらぬ眼差しで、こちらにそっとほころびだ。「おめでとう。しあわせになってね」言ったあとで、彼女の目元からは光の筋が垂れさがった。わたしは途端に息ができなくなった。無菌室などではなかった。否、無菌室ではあるだろう。菌ですら生きていられない瘴気にここは満ちている。関わるべきではなかった。わたしはいまさらのように合点した。男どもは正しかった。コレは、遠巻きに眺めているのが正解だ。しかし、それに気づいてしまった今、コレに触れ、じかに瘴気を吸ってしまったわたしからは、可憐に咲きほこるこの花から逃れる意思はいっさい失われているのだった。「そうだ、ねえ、あす、また教えて」息を呑んだまま身動きのとれなくなったこちらに花は言った。「私もつくれるようになりたいの。あなたみたいなきれいなブーケ」わたしは、うん、と言うほかないのだった。 




【そらに刻む雨のように】

 

 強いて言うなら積み木が得意だった。

 プログラムを編んだことはなく、SEになったのは、与えられたコードを淡々と積みあげていく作業が性に合っていると思えたからだ。

 面接のときにもそのような旨を語った。

「自分でどうすればいいのか考えられない人間はつらいと思いますよ」

 にべもない指摘をもらったが、仕事はつらいことが前提だと思います、と応じたら、なぜか受かった。

 SEとはいっても、歴の長い先輩たちのサポートが主な仕事だ。役職が上の人たちが顧客の要望を聞き、UX(ユーザーエクスペリエンス)をデザインしていく。

 下っ端のやることは、そうしたUXの下書きが現実に機能するかを、いちどプログラムを肉付けして試作的に走らせて確かめることに終始する。累計されたコードを、指示されたところに指示されたどおりに貼りつけ、ときに細かな修正を加えていく。

 バグは繋ぎ目で起こりやすい。だからそこはダブルチェック体制で仕上げていく。じぶんの分と、ほかのひとの分をチェックするので作業は余計に二倍かかる。責任も二倍だ。

 それでもバグを完全に殲滅することはできない。顧客に流れるときは流れてしまう。チェックするだけの部署をつくればいいのにと思うが、上がそうした下っ端の声を聞き入れてくれる様子はない。

 作業中は、青空を連想する。徐々にどんよりと曇り空になり、コードの雨がふりそそぐ。

 入社して半年もすると、おおむね既存のコードをいじくり倒した。先輩たちに負けているとすれば、無限に思える組み合わせを試したことがあるかどうかだ。

 なかでも、河戸(こうど)さんの組みあげるプログラムは独特だ。なんでそんなガタガタに削られたコードがちゃんと走るのかが謎に包まれている。部内では、Wコードの二つ名で呼ばれているほど編むスピードも、精度の高さも抜きんでている。正規のやり方ではないので、上司からは真似するなと念を押されている。

 じっさい、Wコードを切り取って、ほかのプログラムに貼りつけてもうまく走らない。汎用性がないらしい。バグの出処を探ると、コピペしたWコードが巣だと判る。バグがわらわらと這い出てくる情景が見えるようだ。

 舞台ごとに都度調整しなければ使えない魔法だ。使用者を選別する杖じみている。

「真似するなよ」

 Wコードをチェックしていると、ふだんより時間がかかっていたせいだろう、上司の優藍(ゆうあい)さんが画面を覗きこんでくる。コーヒーをすすっている。画面のそばに寄らないでほしい。

「あいつは優秀だが、優良ではない。参考にするならほかのセンパイな」

「……はい」

 飲むか、とカップを掲げられたが、断った。以前、頷いたら、飲みかけのカップをデスクに置き去りにされた。

「ん。なんかおまえ臭うぞ」

 頭を嗅がれる。

「風呂入ってるか」

「作業量減らしてくれるんなら入れるんですけど」

「大した量じゃないだろ、気合いが足りん、気合いが」

 河戸を見ろよ、おまえの倍はやってるぞ。

 肩を竦め、優藍さんは去っていく。見習うなと言ったり、見ろよと言ったり、いそがしい人である。

 年齢を感じさせない美貌はさておき、彼女の慧眼はほかの社員の頭一つ秀でている。いざとなれば河戸さんでも気づかないバグの巣をひと目で見抜く眼力がなければ誰も彼女についていったりはしないだろう。この業界、実力だけがすべてである。

 この日のチェックは河戸さんの編んだプログラムだったこともあり、時間がかかった。ただでさえ量が多い日なのに、その文字列が独創的で変則的なのだ。

 ほかの人たちは、「河戸のだろ」と投げやりに終える。もし不備があっても、優藍さん含め、事情を分かっている上の人たちはつよく言ってこない。だいたい、不備があったためしがないのだから、ただでさえ面倒なチェックをわざわざ複雑にする河戸さんのプログラムを真面目に見るわけがない。

 ただし、Wコードの技術を盗もうと虎視眈々としている生意気な新人を除いて、ではあるが。

「河戸さん、終わりました」

「ん」

「見ないんですか?」

「なんかあんのか」

 問題があるのか、と冷たい目がこちらを射抜く。

「正常に走りましたけど、ただいつもとコードが違っていたので、念のためチェックしておきました」

「あ?」

「ここ」

 言って、起動中の画面をゆびさす。チェックしたプログラムとはべつだが、そこにもWコードは映っている。河戸さん特有のパターンを示し、

「ふだんはここにコレがあるじゃないですか。でもこっちにはなかったので」

「あぁ?」

 口に含んでいたキャンディを音をたてて噛み砕き、河戸さんは、さっそくチェック済みのプログラムと向きあう。

「あー、いんだよこれは」

「そうなんですか?」

「今回のは新しく解析ツール装備したろ。干渉しあって余分にメモリ食うから、その回避策。上には内緒な」

「どうしてですか、すごいじゃないですか」

 標準装備すれば大幅なコスト削減だ。魔法みたいだと本気で思う。

 河戸さんは苛立たしげにこめかみを掻き、

「説明めんどいからはしょるけど」

 いちおうはしゃべってくれるようだ。「非干渉コードを埋めこんだんだが、使いようによってはバックドアにもなり得る」

「まずいじゃないですか」

「ソース覗いただけじゃバレないように偽装はしてある」

「あ、それがこれ」

 普段あるWコードの一部がなかった理由か、と腑に落ちる。

「バッグドアになるって知らなきゃ、利用しようもない。ただ、おまえにしゃべっちまったからな」

「言いませんよ」

「かってに使うなよ」

「そんな、そんな」

「真似してんだろ、知ってんだよ」

「な、なんのことでしょう」

「チッ。うぜーな」

 キャンディの棒が吐きだされ、こちらの服にぶらさがる。「行け、ジャマ」

「ありがとうございました」

 腰を折って、踵を返す。

「風呂には入れよ」

 聞こえた声に、善意を見出すことはできなかった。

 その日を境に、ふしぎとチェックの相手が河戸さんになることが多くなった。

 こちらの編んだプログラムもなぜか河戸さんの手に渡ることが多くなり、その分、なぜか部署のみんなの眼差しがどことなーくやさしいものに感じられる。おつかれー、なんて言いながら、デスクにパック飲料やドーナツなどが嵩んでいく。

「おー感心感心、やってるねー」

 優藍さんがこちらの肩を揉みながら覗きこんでくる。

「性別逆だったらセクハラですからねそれ」

「性別逆でなくてもセクハラなのだよ」

 勉強が足りませんねーなどと言いながら、揉みしだかれる肩は心地よい。「あ、おまえ」

 画面をゆび差され、身体が跳ねる。優藍さんが前のめりになった分、やわらかい何かしらがこちら頭部に圧しかかる。

「真似すんなっつったじゃーん。何しっかり真似しとるのキミ」

 案の定と言うべきか、河戸さんのWコードだ。見よう見真似で、バレそうにないところに応用していた。

「でもこっちのほうが無駄がないんですよ」

「新米が生意気言うな。無駄か無駄じゃないかはキミが決めることじゃない。セキュリティに穴が空いたらどうすんの」

「でも」

 だったら河戸さんのだってダメじゃないですか。

 言いたかったが言えなかった。何か起きたときの責任を負うのは優藍さんであって、こちらではない。

 すみませんでした、と引き下がろうとした。そのときだ。

「お、どれどれ」

 優藍さんとは逆のほうからもう一つの頭が覗きこむ。「よくできてんじゃん。指示通り。問題なし。続けろ」

 矢継ぎ早に言って、河戸さんが去っていく。ちゃっかりデスクの上のチョコ菓子を箱ごとかっさらっていく。優藍さんは河戸さんをぽかーんと見送ったあと、腕を組み、しばらく考えこんだ。

「ま、いっか」

 何がだろう。続きを待っていると、

「あいつの真似はしちゃダメ、これは変わらず。ただし、あいつのコードは場合によっては真似してよし」

「どんな場合ですか」

 反問すると、優藍さんは、あごにゆびを添え、んー、と上を向きながら、言い直す。「あいつの機嫌が損ねないかぎり、よし」

 上司からのお墨付きをもらい、その日から河戸さんとの共同作業が幕を開けた。

 基本的に河戸さんの機嫌は常時よくない。ただし、常に波打つ巨大な水溜りを指して人は海と呼ぶ。同様に常時眉間にしわの寄った河戸さんの機嫌は、まずはそこが基準となる。

「ザッけんな、何クソコード丸写ししてんだよ、こっち使え、こっち」

 正規のコードをクソ扱いしながら、自ら愛用するWコードの使用を指示してくる。しかしそれは先刻、このプログラムでは使えないからと念を押されたばかりのコードで、何が何だか、頭がわちゃわちゃしてくる。

「ダブルバインドって知ってますか」

「あ?」

「やれと言ってやると怒り、やるなと言ってやらないと、なぜやらないのか、と怒るみたいなのです」

「理不尽じゃねぇか」

 言葉に詰まった。なんだ、理解はできるのか、とそこですこし満足してしまった。「河戸さんだって同じですよ、理不尽ですよ」

「あー? どこがだよ、ケースバイケースって言葉だってあんだろうが、やるなっつったらやらなきゃいいんだよ、だが目のまえに敵が現れたらやるっきゃねーんだよ、解るか?」

 分かるようで分からない理屈だ。

「わかりたくないんですけど」

 言ってしまった。

「ダメだ」

 拒否されてしまった。

「解るまでやれ。俺との仕事中は、【イヤだ】は禁句だ。いいな」

 席を立ち、河戸さんは部屋から出ていく。

「機嫌を損ねさせるなって言ったぞー」

 背後を通り過ぎながら優藍さんがさえずる。どこか楽しげなのはなぜなのか。

 河戸さんのWコードを我が物顔で使いこなせるようになったのは、入社して一年半後のことだった。一年でWコードを極めたか、といつかの飲みの席で、課長に褒められたが、あんなの手抜きですよ手抜き、と優藍さんが拗ねた口調で言うものだから、なんだか、いえいえと謙遜するのもバカらしくなった。じっさいのところは、河戸さんの教え方というか、Wコードの合理性の高さは折り紙つきで、習得率の高さを底上げしてくれていたように思う。

 仕事をマスターしたいまであっても、作業中は青空を連想する。白く濁った空を黒く塗りつぶしていくようで、世のなかのすべてがコードで埋め尽くされていく気分だ。

 部署全体で大きなプロジェクトを応援すると決まったのは、河戸さんと同じくらいの仕事量を任されるようになったころのことだった。

「期日が半年も前倒しになってね。社全体で作業を分担することになった。当分、今割り振った仕事を優先的にやってもらうことになる」

 かといってふだんの仕事が減るわけではない。暗に残業を強要しているようなものだ。

「いまどきブラックな職場なんてうちくらいなものですよ」

 愚痴をこぼしても河戸さんは付きあってくれない。

「嫌なら転職しろ」

「できるならしますよ、でも」

「教えた技術は置いていけ」

「ほらきた、そんなの無理に決まってますよ。脳味噌取りだせとでも言うんですか」

「ユウいるだろ」

 河戸さんは上司の優藍さんを、親しげに呼ぶ。「アイツのコピペの腕はすごいぞ。切り取ってもらえ」

「ちゃんと足りない分、貼りつけてくれるんでしょうね」

「溜まったキャッシュでも詰めこんでもらえ」

 憎まれ口を叩かれながら作業していると、

「おまえらちょっといいか」

 優藍さんが珍しく手ぶらでやってくる。らしくなく、きょうは上司らしい面構えをしている。「今回、ほかの部署との共同だろ。かってができなくてな。Wコードはなしで進めてくれ」

「そりゃいいが、時間食うぞ」

「ダメだ。おまえらのスキルがズルでなく必殺技だってんなら、それを使わずに済んだほうがコストは下がる。そういうものだと証明しろ」

「一網打尽にできる技が使えねぇんだ、時間がかかるのは道理だろ」

「御託はいい。やれ」

 歯切りよく言い捨て、優藍さんは去っていく。部屋の入口に、見知らぬ中年の姿が見えた。笑顔で優藍さんを迎えている。

 河戸さんが椅子をころがし、顔を寄せてくる。「覚えとけ、あれが部長だ」

 返事をする前に、ふたたびデスクへと吸いこまれていった。

 正規のコードでも河戸さんの消化速度は尋常ではなかった。ほかの部員の倍速で仕事を片付けていく。対してこちらは、一年ものあいだ触れていなかった正規コードの扱いに四苦八苦した。

 Wコードに比べればかんたんだが、より上等で効率のよい術があるのになぜそれが使えないのか、ヤキモキした思いが、集中力を削っていく。

「まだそんだけか」

「慣れてないので」

「手伝わねぇぞ」

「期待していません」

「チェックはどうすんだよ、おまえが終わんの待ってろってか」

「ほかのひとに」

「頼めんのか、おまえが」

 この一年のあいだに、河戸さんのチェックは新米のアイツ、みたいに専用化していた。いまさらほかの社員が河戸さんのプログラムを見たがるとは思えない。優藍さんもとくべつそういった指示をだしてはいない。

「じゃあこうしましょう。今回だけ、プログラム編むのを河戸さん、チェックはぼく。作業を分担するってのはどうです?」

「おまえだけ得してんじゃねぇか」

 チェックはどうあっても二人でするのだ、編まない分、こちらが得をする。

「ふだんの仕事、そっちを同じ分だけ肩代わりしますから」

「慣れないこっちはやりたくないってか」

「ダメですかね」

「しょうがねぇなぁ」

「やった」

「また風呂サボられても困るしな」

「そんなに臭います?」

「臭いとかじゃねぇんだよ、汚ねぇんだよ」

「河戸さんの無精ひげほどじゃないですよ」

「んだと」

「あ、いえ。似合ってるってことを言いたかったんです」

「ほんとかよ」

 もちろんですとも。

 太鼓判を捺したのは、あしたからきれいに剃ってこられでもしたらこちらの立つ瀬がないからだ。河戸に比べてきみはいいね、とほかの部員に言ってもらえなくなる。小奇麗でいいね、と。

 立場を奪われてたまるか。

 ひとまずやりかけの分を残し、大量のタスクを河戸さんに明け渡す。代わりに、処理済のプログラムを倍にして返される。

「チェックも済んでる。おまえのチェック待ちだ」

「はやすぎる……」

「おめぇがチンタラしてっからだろ」

 正論だが、気に食わない。

 短くない付き合いだから耐えられるものの、これがほかの社員ならメンタルへし折れているところだ。この業界、実力だけがすべてである。

 焦りがあったといえばそうなのだろう、このとき、作業中だったプログラムにだけWコードを使った。手っ取り早く済ませたかったからだし、河戸さんなら一発で見抜くだろうと思ったからだ。

 何より、仮にこのまま流してしまっても問題ないと判断した。

 Wチェックを終えたときにはすでに河戸さんは部屋におらず、どうせ誰がチェックしても同じだろうと思い、引継ぎをしなかったプログラムに自分で、よし、の判を捺した。

 繁忙期を終えた翌月、優藍さんに呼びだされた河戸さんが荷物をまとめて部署を出て行った。何事かと騒然となったが、上からの説明はとくになかった。

 何があったのか、と優藍さんに訊ねたが、

「Wコードは禁止な」

 睨むでもない冷めた目が、金輪際使うな、と告げていた。

 何がなんだか分からなかったが、とくに気を揉んだりはしなかった。どうせ部長か課長が河戸さんをこころよく思わなくて、ほかの部署への異動を命じたのだと思った。

 そうではなかったと知ったのは、忘年会を控えた十二月中旬のことだった。

「なんかさいきん忙しいですよね」

 そういう話題になった。

「河戸がいねぇからなぁ」

 重鎮の先輩が背伸びをする。ほかの面々も小休止がてら作業を中断し、話に加わってくる。若手の先輩が背もたれに体重を預け、天井を仰ぎながら、

「なんだかんだ戦力だったよなぁ」

 しみじみぼやくものだから、何で過去形なんですか、と笑ってみせると、一瞬その場が凍った。みんなの目が泳ぎ、何かを、それはたとえばサンタクロースっているの、と一家団欒の場で口にした幼子をまえにしたときのような阿吽の呼吸を感じさせる目配せをし合ったあとで、針が揃ったので飛びだしますよーといったハトさながらに、一同揃って愛想笑いを浮かべる。

 首をひねる。

 なんか妙だな。

 相も変わらずWコードは使用禁止のままだ。正規のコードの扱いに馴れたが、それは非効率的な作業に慣れただけであり、使えるものならばWコードをイマすぐにでも使いたい。

 まだ駄目ですか、と冗談めかし優藍さんに訊ねたが、にこりともせず、ダメだ、と切り捨てられた。なんだかこちらへの当たりがつよいように感じた。

 否、つよくはない。素っ気ないのだ。

 河戸さんの厳しさが懐かしかった。

 忘年会は部署単位で開かれる。行っても河戸さんには会えない。だからといって行かない理由にはならない。なぜか出世欲が湧いていた。

 去年と同じ食事処だった。前回は河戸さんとセットで座らせられた。ほとんど河戸さんの給仕人みたいな扱いで、河戸さんがいないいま、ただのボッチだ。

 ときおり、気を配ってくれる先輩がおり、なんだーもっと食え、と肉やら刺身やらを運んできてくれる。それが却っていたたまれない。

「いやー、なんか居づらいっすよね」

 隣に座ったのは、今月入ったばかりの派遣社員だった。職場ではまだ絡みはなく、向こうがこちらの顔を憶えているかも曖昧だ。

 案の定、

「正社員との扱いの差ってありますよねー、なんだかんだいって」

 言いながら、後ろ手に体重を支え、くつろぎはじめる。「おたくは長いんすかこの業界」

「来年で三年目ですね」

「へぇ。あと二年どうするんすか。期間いっぱいまでいる感じっすか」

 やはりと思う。どうやら派遣社員と間違えられているらしい。べつだん正社員と差別するわけじゃないが、なんだかなぁ、という気になる。

「しょうじき、転職したいなってのは思ってて」

 気を張るのもばからしくなり、ついつい溢してしまう。

「はー、やっぱりこの業界って離職率高いんすね。ほら、前にもやめた人いたじゃないすか」

 そんな人いただろうか。

 聞き流しながら、揚げ豆腐を口に含む。汁が溢れ、あやうく噴きだすところだ。

「戦力、戦力言われてたんすよね? なんでやめちゃったんすかねー」

 焼酎を飲み干したようなので、お酌する。

「あ、すんません。なんでも独特のコードっていうんすか、そういうのを使う人だったらしくて、ほかの部署の規格でバグが出て、その責任がどうのこうのなんて聞いたりして、なんか初っ端から恐くなっちゃいましたよ」

 教えられたこと以外はやっちゃダメっすよねーやっぱり。

 ぐいっとひと息に飲み干し、先輩もどうぞ、と徳利を掲げられたが、頭のなかが騒がしくてそれどころではなかった。

 独特のコード、他部署でのバグ、責任。

 キーワードが頭のなかをレースさながらに錯綜する。

 先輩方に聞けばおのずと判明するだろう。だがこのとき、アルコールまみれの頭脳はそんなかんたんなことにも気づかなかった。

 いや、ウソだ。

 ただ行動しなかっただけだ。アルコールなんて関係ない。

 今この場では知りたくなかった。

 二次会は断り、家路に着いた。優藍さんが最後までこちらを見ていた。

 仕事納めまで残り二週間を切っていた。日々残業を強いるメフィストフェレスな会社ではあるが、休暇はきっちりとってくれる。冬期休暇なんて二週間ある。正月は海外で、なんて社員は珍しくない。

 ノルマがきつい割に離職率が低い理由はここにある。

 ノルマを熟せば熟すほど給料はあがる。そこに正社員と派遣社員との区別はない。実力者であればあるほど楽ができる会社だ。

 必然、実力者が集まり、ついていけない者がやめていく。ツボのなかに虫を入れ、とも食いをさせてあーだこーだといった蟲毒じみた会社だ。

 その点、実力者が辞めることはめったにないし、会社のほうも戦力外は雇わない。

「ちょっといいか」

 優藍さんに呼び止められたのは、あと三日でことしの仕事も終わりという日だった。なぜか日中、ミスが連続し、残業を余儀なくされた。そのことで注意されるかと思ったがそうではないようだ。

「きょうはもういいだろ、外に食べいくぞ」

 戸惑っていると、

「奢るから」

 かってにバッグを持ち逃げされる。急いでデスクを片づける。「僕だけですか?」

「ほかに誰が残ってんだよ。あすあさってで残業代分働けよ」

 以前のような嫌味でほっとする。

 ここふた月、優藍さんとまともに言葉を交わしていないことに気づく。河戸さんがいなくなってからだ。いや、そのすこし前から彼女はどこか距離を置いていた。上司としてのみ、事務的に接していた節があり、こちらもとくに関わろうとはしなかった。

 河戸さんがいなければこんなものか。

 そういったやさぐれた気持ちがなかったわけではない。

「酒飲むけどいいよな」

「もう電車が」

「タクシーで帰れ」

「ひょっとしてですけど、お持ちかえりされたりは」

「あー?」

「すみません何でもないです」

 なんであたしがおまえなんかを。

 ぶつくさ零し、優藍さんは地下へとつづく階段を下りていく。繁華街の裏路地だ。

 あとにつづくと、こじゃれたバーに行き着いた。マスターらしき女のひとがカウンターの奥から、いらっしゃい、と人懐こそうな顔を向ける。優藍さんはかってに店の奥に歩を進める。

「個室空いてるよな」

「予約してって言ってるじゃない」

「いいだろ、いつも空いてんだから」

 もう、と女性は頬杖をつき、まえを通るこちらの顔を眺めるようにする。モンシロチョウでも目で追いかけてるみたいだ。

 目が合うと、にっこりとほほ笑まれる。

 なんだかひまわりが太陽を追いかけたくなる気持ちが解るようだ。

「いつもの。二人前ね」

 扉を閉じる前に優藍さんは投じた。はいはい。マスターの返事が戸に遮られる。部屋の静けさはどこか深海を思わせる。

「何か歌うか」

 テーブルの上にはマイクがある。カラオケルームのようだ。

「いえ」

「だよな。歌われても困る」

 なら聞かないでほしい。

 やきもきしながら、ソファに座る。優藍さんはすでに腰掛けている。テーブルを挟んで向きあうかっこうだ。

「で、何なんですか」

 気まずかったので、水を向けた。「とくべつに部下を労ってくれるって感じじゃないですよね、これ」

「おまえのほうこそ訊きたいことがあったんじゃないのか」

 言われて息が詰まった。見透かされているのだと判ったと同時に、動悸が激しくなる。

 見透かされたくないことがじぶんの胸の内にあったのだと突きつけられた心地だ。なぜじぶんから訊いてこないのかと諌められているようでもある。

「河戸さんは……」

 そこまで口にしたとき、マスターが飲み物を運んでくる。部屋に満ちた空気のわるさに気づいた様子で、

「ジャマしちゃった?」

 わるびれもなく言って、去っていく。

 喉が渇いていたので、グラスを手に取る。優藍さんが電子煙草を口に咥えだす。見届けてから、液体を口に含んだ。

 味がしない。

 否、分からないだけかもしれない。

「アイツは辞めたよ」

 何でもないように優藍さんは告げた。「なんでだと思う?」

「ほかの部署との合同プロジェクト。あれと関係があるんですか」

「さすがに気づくか」

「何があったんですか」

 嫌な予感が確信に変わっていく。焼かれるピザの気持ちを連想する。

「先方のセキュリティデータが流出した」優藍さんは言った。「やったのは向こうの技術者だ。Wコードを発見し、それを放置したうえでバックドアに利用したらしい」

「捕まってるんですか?」

「いちおうは。だからそう、未遂ではある」

 それはそうだ、そんな大規模な事案ならば全国ニュースに取り上げられていておかしくない。

「発覚がすこしでも遅れていたらうちの社は潰れてただろうな」

 犯人が判明していなければ、主犯はこの社の誰かということにされただろう。罪を被せるために、犯人はほころびをそのままにした。

「うちの社の責任でもあるからな。不具合品を流してしまった。一見してバグはWコードだ。扱えるのは一部の人間だけ。正規コードとは明らかに異なる。一見して判るはずだ、ほかの社員が見逃したとは思えない」

「僕です」

 正直に告げると、

「知っている」

 優藍さんは電子煙草を奥歯ではむようにした。「河戸がそうとは言わん。事情を聞いたら、すべて自分がやったことだと言い張ってな」

「違います、僕が」

「だから知っていると言った。しかし河戸の証言がどうであれ、あいつの責任であることは間違いない。部下のミスを防げなかったんだからな」

「じゃあ河戸さんは」

「おまえだけじゃない」

「え」

「言っただろ、部下のミスは上司の責任。だとすれば馘(くび)が飛ぶとすれば私だ」

 言っている意味を理解した。

 河戸さんは二人の人間を庇って、社を辞したのだ。

「Wコードは使うな。そう指示したのをほかの社員も聞いていたようでな。河戸のやつ、同期の私が昇格して気にいらなかったからわざと命令を無視したと言いやがった」

「上の人にですか」

「部長にだ」

 優藍さんは上層部に気に入られている節がある。はた目から見ていてそう思えた。「自主退社では……」

「違うな。飽くまで懲戒免職。馘だよ」

 退職金もでなかった。

 鼓動は激しく打ちつけているのに、身体は凍えたようにわなないている。

 扉が開いたので、目を向ける。

 マスターが入ってくる。間がいいのかわるいのか、手には大きな皿が持たれている。テーブルのうえに置き、

「いつものピザでーす」

 マスターの声に、優藍さんは応じない。こちらも声をだしたい気分ではなかった。

 こちらとあちらを見比べるようにし、マスターは、

「タイミングみたつもりなんだけど」

 しばらくモジモジしたあとで、ごめんなさいとつぶやき、部屋から出ていった。

「食うか」

 優藍さんは電子煙草を懐に仕舞い、ピザを手にする。すでに切り分けられているらしく、均等にちいさくなったピザを優藍さんにならってこちらも手に取った。

 黙々と口に詰めこんでいく。

 最後の一欠けらになったとき、優藍さんに訊いた。

「どこにいるかは知りませんか」

「知らん」

「そうですか」

「なんだおまえら、連絡先も交換してねーの?」

 くだけた口調から、優藍さんの要件はもう終わったのだと読みとれた。「してないです。河戸さんが教えてくれなくて。癪だったので、最後まで訊きませんでした」

「後悔墓に立たずってやつだな」

「墓じゃなくて後です」

「そうなの?」

 優藍さんは最後の一欠けらを半分にちぎり、なんにせよ、と口の中に放りいれる。「過ぎたことだ。隠していたことは謝る。だがもうどうにもならん。儲けたと思って、まえに進め」

 ぞんざいな言い方が耳に心地よく、心地よく思うじぶんを汚く思った。

 優藍さんは指を舐めるようにする。「河戸ならそう言う」

 すべきことはハッキリしていた。同じ轍を踏まないこと、後悔するより対策を立てること、一日もはやく戦力となり、空いた大きな穴を埋めること。

 そうした最低限の償いが、案外むつかしい。

 ミスをしない。かってをしない。何かいつもと違うことをするときは、上にその旨を相談する。簡単なことだ。あたりまえのことだ。だが、自信がついてくると、そういったことを怠ってしまう。傲慢になるな。謙虚であれ。言い聞かせるには及ばない。

 いつだって頭の裏側の、毛根にちかいところに、びっちりと河戸さんへのギザギザした感情がこびりついている。

 正月が開け、みたび繁忙期がやってきた。仕事に打ち込むことで、脳内のギザギザを直視しないように努めた。

 四月、新入社員がやってくる。当然というべきか、教育係には任命されない。上に信用されていないからだ。同期が、順調に出世の段取りを整えていく。関係ない。みんなの足を引っ張らないこと。図に乗らないこと。すべきことは決まっている。

 時間に余裕ができた。

 残業するほどの仕事を任されないからだ。正規コードの扱いに馴れ、プログラムのチェックを二度しても定時にはあがれた。

 派遣社員のミスを失くすように優藍さんに指示された。部下は持たせられないが、後輩の面倒はみさせてやる。そんな配慮が感じられた。

 時間ができると、しぜんと人は考えるようになる。せっかく仕事に打ち込んで見て見ぬふりをしてきたギザギザの感情と向きあわざるを得なくなった。

 河戸さんはいま何をしているだろう。

 どんな気持ちで会社を辞めていったのだろう。

 胃の中身が迫りあがるのを感じた。

「だいじょうぶか」

 優藍さんが幾度か声をかけてきた。何がですか、と反問するも、答えてくれない。日をまたぎ、三度目にして、

「痩せてるぞ」と頬をすぼめる。「ちゃんと食ってるか」

 だいじょうぶです、と言う代わりに頬を膨らませ、優藍さんのほうこそこんな顔してますよ、と伝える。

「飲み会が多いんだよ、管理職も楽じゃねーの」

 彼女は腹を立てて、去っていく。

 分かりやすくて、おもしろい。

 なにより、やさしい人だと感じ入る。

 これ以上心配させてはいられない。

 会社の先輩たちにそれとなく河戸さんの連絡先を訪ねて歩いた。優藍さんの耳には入らないように気を配るからか、思ったより時間がかかる。

 ほかの部署の、むかし河戸さんといっしょに仕事をしていた人たちを探した。先輩たちから名前を聞き、他部署の同期に顔を教えてもらい、食堂で見渡しては、何の気なしの体で相席して、話を聞いた。

「辞めたんだってなー」

 誰もが意外そうに口にした。「連絡先? そりゃ役付きのやつらなら知ってたんじゃないか。当時はまだオレらもそこまでじゃなかったし」

 河戸さんの相方じみた人がいたと聞き、その人にも話を聞いた。

「ああ、アイツか。連絡先? いや、もう消したよ。一度だってかかってきたことはなかったしな。こっちだって誘わなかったし」

 河戸さんと親しいと噂された人ほど、河戸さんをあしざまに語った。

 けっきょく誰も河戸さんの連絡先を知らなかった。それはそうだ。話を聞いて回り、実感する。

 誰よりあのひとと親しかったのは――。

 いや、と例外を思いつく。

 そうだとも。

 ここで初めて、じぶん以外の者の視点で考えられた。じぶんがひょっとしたら河戸さんにとって、そこそこ重要な成分だったかもしれない、と思えたことで、ようやくというべきか、河戸さんの考えをなぞることができた。

 口止めしたはずだ。

 あのひとはそういうひとだ。

 その日、週末だったこともあり、優藍さんを食事に誘った。

「わるいな、先方と予定があって」

 ほかの会社の接待があるようだ。うんざりした様子を隠そうともしないのが優藍さんらしい。

「終わってからでいいです、時間とれませんか」

「疲れてんだよ。用があるならここで言え」

「河戸さんの連絡先」

「知らん」

「うそです」

「あ?」

「優藍さんはぜったい知ってます。僕には解ります。教えてください」

 腰を折り、つむじを優藍さんに見せつける。

 反応があるまでじっとしている。誰かがとなりを通ったが、構わない。

 深いため息が聞こえた。

 期待を胸に、頭を起こす。

「ダメだ。先約がある。いちど約束しちまったもんは破れない。わるいな」

 歯を食いしばる。

 やはり、河戸さんは口止めをしていた。

「そういうことだから、じゃな」

 優藍さんは背を向ける。すこし行ったところで歩を止め、そうそう、と指を振る。「おまえまだいるだろ?」

 ぽけーっとしているこちらに優藍さんは、

「あたしのデスクのうえ、片づけといてくれ」と命じる。「くれぐれも引きだしの三段目、上から数えて三段目には触れるなよ」

 デスクのうえの菓子、すこしなら食ってもいいから。

 言い残し、去っていく。

 姿が見えなくなるまで、もういちど腰を折った。つむじを彼女に向けつづける。

 部署に戻り、優藍さんのデスクを漁った。どうやったらこんな散らかったデスクで仕事ができるのだろう。たぶんここで作業はしないのだ。物置小屋だってもうすこし整理がついている。

 うえから三段目の引きだし。

 鍵はかかっていない。開けると、意に反して、書類がきれいに納まっている。ちいさなファイルがある。手に取り、中身を改めると、名刺が並んでいた。

 どうやら優藍さんがもらった名刺が入っているらしい。

 ここにきてようやく優藍さんの意図を酌む。

 名刺入れのなかから、意中の名前を探し当てる。記された番号を脳裡にしかと刻む。

 家に戻る前にかけようかと思った。

 なんと声をかければいいだろうと、話す内容を考えているうちに自宅アパートまでたどり着く。

 シャワーを浴び、寝間着に着替え、パスタを食べた。

 食器を片づけ、ほとんど寝る体勢を整える。

 ベッドに腰掛ける。

 メディア端末と向きあったとき、時刻は零時を過ぎていた。

 寝てるかもしれない。

 半ばそれを期待しながら、すでに登録しておいた番号を画面に表示させる。

 まずはかけてみよう。

 出なかったらまた日を改めて、そう、あすの昼にでもかけ直そう。

 唾液を呑みこみ、画面に触れる。

 通信中の文字が浮かぶ。

「もしもし」

 繋がった。懐かしい感情が湧く。

「もしもーし」

 声がでない。なんと言おう。

「んだよ」

 声が遠ざかる。メディア端末を見下ろしている姿が目に浮かぶ。

 このまま切られるかと覚悟した。

 何も言えないじぶんをムシケラのようなだと思う。

「……――か?」

 息を呑む。

「んだよちげぇのかよ」

 照れくさそうな声は、こちらの名を呼んでいた。

「河戸さん……」

「あン!?」

「河戸さん、僕です」

「あ、マジかよ! マジでおまえかよ、うわ、何黙ってんだよ言えよはやく」

 その悪態に、肩の力が抜けるのを感じた。ひょっとしたらすぐに通話を切られるかもしれないと覚悟していた。

 どうしたよ、げんきか、なんてやさしい言葉まで返ってくる。

「らしくないですよ」

「何がだよ」

「どうして何も言ってくれなかったんですか」

 解りきった言葉が口を衝く。

 暗に、なぜ黙っていたのかと責めているようなものだ。判っているが、止まらない。「優藍さんにまで口止めして、そんなことをして僕が喜ぶとでも」

「思ってねぇよ。勘違いすんな。おめぇのために辞めたわけじゃねぇ」

「でも僕のミスのせいで」

「思い上がんな。てめぇのミスなんざ数えだしたらキリがねぇ。いいか、部下にミスをする余地を与えた。上司の責任はそれだけで充分なんだよ。つーか、上司の役目なんざ、部下にミスさせねぇことだ、それ以上でも、それ以下でもねぇ」

「でも」

「しつけーな。おめぇのせいじゃねぇっつってんだろ」

「それでも、だったら一言くらい言ってくれたって」

 怒鳴りながら胸が詰まる。吐露しているはずなのに、あべこべに何かが溢れ、破裂しそうになる。

「言ってどうなる」

 夜の雲みたいな声だ。「送別会でも開いてくれたのかよ、いらねーよ。てめぇのシケた面なんざ見たくねんだよ、それとも何か? 事情を知ったときに、自分を責めないでいられるような配慮をしとけとでも言う気かよ、甘ったれんな」

「違う!」

「じゃあ何なんだよ、ったく胸くそわりぃ」

「どこにいるんですか」

「あ?」

「イマどこですか」

「どこって」

 家に決まってんだろ、と上擦った声を耳にしながら時計を見遣る。日付けはとっくに変わっている。

「電話じゃラチ明かないです、もとよりの駅教えてください」

「なにぃ?」

「今から行きます。教えてください、どこですか」

「いやだって」

「いいから言えって!」

 上着にシズクが付着する。ぽつり、ぽつり。雨漏りでもしているのかもしれない。

 鼻をすすると、その音にこそ臆したように河戸さんは、ぼそぼそと駅の名を口にした。

   ***

 タクシーを降りると、小汚い格好の男が近寄ってくる。パーカーを頭からかぶり、スエットを穿いている。ランニング中のボクサーだと言われれば納得しそうな佇まいで、ポケットに手を突っこんで、開口一番こう言った。

「ホントに来んじゃねーよ」

 なぜか解らないが噴きだしてしまう。

 河戸さんはあごを振り、

「すこし歩くぞ」

 言って線路に沿って進みだす。

 黙々とついて歩く。会社のそとで見る河戸さんは、久しぶりだからなのか、なんだか他人みたいだ。

 河戸さんのアパートに着くまで、コンビニに寄り、飲み物を選べと指示される。飯は食ったのかと問われ、うなずくと、いちおう風呂は沸かしたが、入りたけりゃそこの銭湯にいけ、と風呂屋の二十四時間営業の説明を受ける。煙突は長く、どうやって掃除をするのだろう、と何でもない疑問を浮かべる。

「狭ぇからな」

 断ってから、河戸さんは扉を開けた。河戸さんが靴を脱ぐまで、扉を手で支える。

 煙草臭いだろうな、と想像していたが、そんなことはなく、部屋も整頓されており、ついつい、イメージと違いますね、と口を衝く。

「あ?」

「いえ、きれいだなって」

「汚ねぇのはおまえの顔だよ、んだそのツラは」

「風呂には入ってますよちゃんと」

「そうかい」

 話の流れで、優藍さんのデスクが汚い話をした。勘の鋭さは衰えていないようで、

「名刺か」河戸さんは舌を打つ。「デスクを漁ったな? いや、それもアイツの入れ知恵か」

「僕が頼んだんです、どうしてもって」

「教えていないが、ヒントは出しましたってか? 罰金だな」

「あの、本当にすみませんでした」

 河戸さんはキッチンに立つ。購入した飲み物を冷蔵庫には仕舞わずに、床に置いた。

 反応はない。

「それから、本当は言いたくないんですけど」

「んだよ」

「ありがとうございます」

 河戸さんは肩を揉む。「気にすんな」

 からっとした言い方が、河戸さんのイメージとちがっていて、戸惑った。言葉に詰まっていると、

「しょうじきな、辞めてよかったと思ってんだ」

 ソフトドリンクをカップにそそぎ、手渡してくれる。ちいさな食卓があり、向かいあって座った。

「才能はあったんだろうが、向いてなかった。技術のことじゃねぇぞ。組織のなかで働くってことがだ」

「今はその……何を」

「コンビニのバイト」

「え」

「んだよわるいかよ」

「いえ、そんな」

 本音を言えば、不服な思いがある。河戸さんだったらもっといい企業に再就職できたはずだ。

「もっといい会社に入ればいいのに。そんな感じか?」

 驚いて顔をあげると、

「書いてあるぞ」

 自身のひたいを指先で叩くようにし、「おまえのそういうところ、嫌いじゃなかったが、差別的だって自覚はあんのか」

「河戸さんが異常なんですよ」反射的に言いかえしている。

 あれだけ独特なコードを並べる人が、私生活では型がない。どこを掴んでも捉えどころしかないようなようでいて、そのじつ、水のように手から零れ落ちていく。

「ほかの連中が無自覚すぎるだけだ」

 冷酷に言ってのけ、河戸さんはカップの水面に目を落とす。「むかし世話になった先輩がいてな。言われたことがある」

 おまえが百人いればこの会社を越せると思うか?

「三百人規模の会社なら、自分が五十人いれば事足りる。そうやってずっと思ってやってきた。周りのやつらがバカに見えて仕方がなかった。だがおまえは、すこし違った」

 何の話かと当惑する。何か大事な話なのだということは判った。

「自覚はしてんだよな。ただ、それが普通のことだと諦めてやがんだ」

「河戸さんは諦めてないんですか」

「諦めてなかったんだよな。だから息苦しかった」

「いまはどうなんですか」

「息苦しかった、と過去の自分を振りかえられるくらいにはマシになったかな」

「だから辞めてよかったと?」

「しがみついていたものが重荷だったと分かった。いいこと尽くめだ」

 言葉の内訳として、半分以上はこちらを労わるための詭弁だろう。ただしすべてが偽りでもなさそうだ。

 救われた心地になるじぶんを卑しく思う。

「これからどうするんですか」

「どうもしねぇよ。ただ生きていく。ほかにすることあんのかよ」

 おまえは違うのか、と問われている気分だ。いや、真実そうなのだろう。生きようとしていないのはどちらなのか。

 じぶんの人生を他人と比べても仕方がない。解っている。河戸さんが会社を去って得たものとはしょせんはその程度の、言葉はわるいが、思考の転換だ。

 河戸さんと比べてじぶんは生きようとしているのか。否、そうではない。河戸さんに、これからはどうするのか、と問うた時点までは、河戸さんこそが生きようとしていないようにこの目には映っていた。それを河戸さんは見透かして、おまえはどうなんだ、と言っているのだ。

 二の句を継がないこちらのグラスにカップをくっつけ、乾杯をしてから河戸さんは液体を口に含む。喉仏が上下に動く。拳銃に弾がこめられる情景となぜか重なる。

「ユウには嫌な役を押しつけちまった。立場的にいまもそういい思いはしてねぇはずだ。助けになってやってくれ」

 聞こえた言葉に胸が苦しくなる。このひとはどこまでこちらに呵責の念を植えつける気だろう。器のデカさを知るごとに、じぶんがムシケラか何かに思えてくる。

「Wコードが使えないんです」

「あ?」

 しばらく沈黙があく。ソフトドリンクに口をつける。「Wコードです。河戸さんの。もう会社じゃ使えなくて」

「当然だろ」

 何を言っているのだ、といった呆れた目だ。

「つらいんです。僕だって同じですよ。あんな非合理な集団にいたくない」

「いっしょにすんな。俺はまったくつらくねぇ。それに」

 河戸さんはそこまで言って押し黙った。言葉を切ったといったほうが精確かもしれない。

「それに、何ですか」

「なんでもねぇ」

「お願いです、言ってください」

「わ、忘れた」

「ウソです。河戸さんはこう言いたかったんだ、辞めたきゃ辞めりゃいいじゃねぇーかって」

 河戸さんは頬杖をつき、そっぽを向いた。窮屈そうな顔が懐かしい。職場では大概、そんな顔をしながら、こちらのプログラムが編み終わるのを待ってくれていた。

「やめんなよ」

 河戸さんは頬杖をついたままで喉から声をひねりだすようにする。「俺に、もう構うな」

 イヤですと言いたかった。

 でも言えなかった。

 イヤだは禁句だ。

 河戸さんからの命令だから。会社でもらった言葉だから。

「解りました」

 言って、席を立つ。

 意外そうな顔でこちらを見上げると、河戸さんは目が合う前にふたたびそっぽを向いた。

「もう僕と河戸さんは赤の他人です。金輪際無関係です。だから僕がいつどこで会社を辞めても関係ないし、お金に困って強盗をしても、道端で野たれ死んでも、借金取りに売り飛ばされても、河戸さんとは金輪際関係ないですから」

「あぁ?」

 何言ってんだおめぇ、の声を遮り、

「河戸さんの言ってるのはそういうことじゃないですか」

 目頭が熱くなる。玄関先には洗濯機があり、河戸さんの汚れ物が山盛りに積まれている。なぜこんな薄汚いおっさんなんかに熱くなっているのか。じぶんでじぶんが分からない。

 なのに目頭はどんどん熱をもって、その熱を冷まそうと内側から何かが溢れそうになる。耐えよう、耐えようとするたびに、その何かは、こちらの身体の節々にまで行きわたる。

「河戸さんのせいじゃないですか」

 こんどは何だ、何を言いだす気だ。

 河戸さんが呆気にとられているのが判る。

 こちらの気も知らないで、と腹が煮えるようで、そのじつ、おかしくもある。

「河戸さんが僕に妙なコードなんて教えるから」

「おまえがかってに真似したんだろうが」

「責任とってくださいよ」

 河戸さんは口をパクパクさせる。金魚だってもっと上品に餌をねだりそうなものだ。

「会社はどうあっても辞めます。三年だけ待ちます。その間に僕が辞めても路頭に迷わないようにしてください」

「あー? なに逆切れしてんだよこれ以上俺にどうしろってんだ」

「会社を興しましょう」

「はぁ?」

「資金は僕が何とかします。一千万あれば何とかなりますよね」これまで溜めてきた貯金と、このさき貯蓄可能な給料を頭のなかで計算する。三年あれば資金を溜めるのに充分だ。実績がそのまま給料に反映される職場を初めて心の底からよろこばしく思う。

「Wコードの使える、河戸さんの思い描く自由な職場です。ないならその手でつくってください」

「んな無茶な」

 僕に居場所をつくる手助けをさせてください。

 その言葉は呑みこんだ。

 得手勝手で甘っちょろい考えだ。

 でも、実現可能ではある。

「河戸さんだってホントは才能を活かしたいはずだ」

「かってに決めつけんな」

「返事はいりません。どうあっても三年後。僕は会社を辞めますからね。河戸さんがどうだろうと、どこに逃げようと、ぜったい居場所を突き止めて、会社はどうしたって、訊きに来きますから」

「ふざけんなよ」

 言葉の割に、語気は弱い。

 思いがけない提案にたじろいでいる。それだけではない。河戸さんの目が揺れている。誰にも追いつけない速度で何かを計算している。よく知る目だ、と胸が躍った。

「急に押しかけてすみませんでした」

 玄関のまえに立ち、靴を履く。「三年後。きっかり三年後に会いにきます」

 きょうのこと、忘れないでくださいね。

 この言葉も呑みこんだ。

 忘れるのも、記憶に刻むのも河戸さんの自由だ。

「じゃあ、また」

 玄関の扉を閉める。

 扉の隙間から見えた室内で、河戸さんは最後まで頬杖をつき、こちらに背を向けていた。

   ******

 わざわざ部長が見送りにでてくれた。

「いつでも戻ってきてくれていいからな」

 縁起でもない、と思いながら、お世話になりました、と頭を下げる。こちらの肩をポンポンと叩き、部長は去っていく。

 ほかの社員の姿はない。送別会はすでに終え、いまは業務時間だ。

 会社の入口から歩いてくる人影がある。かつての上司、優藍さんだ。耳に当てていたメディア端末を懐に仕舞いながら、こちらのまえまでやってくる。

「もう行くのか」

「はい。お世話になりました」

「まったくだ」と肩を竦める。彼女の姿に、かつての部下を労うそぶりはない。すれ違い、そのまま遠ざかっていく優藍さんを呼び止める。

「なんだ」

「本当にありがとうございました」

「どのことか分からんが、気にするな」

 なぜか陽気が噴きだした。

「なんで笑う」

「似てますよね、優藍さんって」

「は?」

 眉間にしわを寄せてから優藍さんは、あー、とほころびる。「いっしょにすんな。アイツが真似しただけだ」

「どうだか」

「言うじゃねーか」

 手を掲げ、彼女はグーパーしながら去っていく。

 その背へ投げかける。

「労いの言葉とかないんですか」

「ない」

 優藍さんはそのまま歩を進める。エレベータのまえで立ち止り、ボタンを押す。こちらを振りかえり、中指を立てた拳を見せつけるようにする。「きょうから敵だろ? 叩き潰してくれるわ」

 悪役のようなセリフを残し、エレベータに颯爽と乗りこむのかと見守っていると、なかなか箱は下りてこない。優藍さんは腕を組み、足で小刻みに拍子をとる。「おっせぇんだよ」

 最後くらいは顔を立ててあげよう。

 彼女が箱に乗りこむのを見届けずに、会社をあとにする。

 喧騒が耳に膜を張る。陽射しがまぶしい。

 目を細めていると、メディア端末が鳴った。画面を覗くも、見知らぬ番号だ。

「もしもし」

「ホントに辞めんじゃねぇよ」

 下唇を噛む。湧きあがる陽気を堪え、それからなんとか声を振りしぼる。「会いに行くって言ったじゃないですか。かってにかけてこないでくださいよ」

「磨いたのは憎まれ口だけかよ」

「何言ってんですか、もはや河戸さんの敵う相手じゃないですからね。僕のことは師匠と呼んでください」

 この業界の技術進歩の速度は、ほかの業界の比ではない。数年も離れていれば、まず現場では役に立たなくなっている。

「舐めんじゃねぇよ。Wコードが使えなくて辞めんだろ? じゃあいまの時代のWコードがなけりゃ意味ねぇじゃねぇか」

「あるんですか」ほとんど笑い声だ。

「会社興すのなんて簡単なんだよ、俺を誰だと思ってんだよ」

「あれ、どちらさま?」

「ふざけんじゃねーよ。三年もありゃ、新しい会社を軌道に乗せるのなんざ楽勝なんだよ」

 最後のほうは端末からは聞こえなかった。腕から力が抜ける。

 振り返る。

「これから忙しくなる。社員募集中だ。とびきり腕のいいやつがな」

「かってに話進めないでくださいよ」

 目のまえの男は腕を広げる。

「ようこそ我が【Wコード】へ」

 オフィスなんてないし、ここは街中で、歩道のど真ん中だ。「俺のことは社長と呼べ」

「イヤです」

 目のまえにいるのは、上司ではない。

 空は白く濁っている。午後はきっと雨になる。 




【たっきゅう】


「先生、ちょっといいですか」

「ちょっととはどのくらいだ」

「ですからちょっとです」

「時間単位で言ってくれ」

「では十五分くらいで」

「きみにとって十五分はちょっとかもしれんが、私にとってはその十五分で救える命もあれば、死なせてしまう命もある。曖昧な言動は慎んでいただきたい」

「はぁ、すみません。言うてもですよ、先生。先生は臨床医ですよ、リハビリでは名医ですが、命をとやかく言える立場ではないかと。外科医ならともかく」

「失礼だなきみは」

「曖昧な言動では伝わらないようでしたので」

「うむ」

「で、十五分くらいお話をしてもいいですか」

「もうすでにしている」

「ですね。じゃあ本題。友人が数年前にちょっと事故っちゃいまして。自転車で小学六年生ですかね、少女にぶつかって、足首を脱臼させてしまったんですよ」

「骨折ではないのか」

「ええ。翌日病院でMRIを撮ったらしくて、脱臼だそうです」

「ならばいまごろ回復しているだろう」

「そうなんですが、じつは今年になってから後遺症が認められたらしくて、裁判起こされちゃったみたいで」

「ほう」

「で、これがその資料です」

「見ていいのか」

「ええどうぞ」

「ふむ。足首および股関節の可動域制限が認められると」

「そうなんです。賠償金の請求額なんて三千万ですよ。どう思います?」

「そうだな。いくつか矛盾点が認められる。まず、この記述によれば現在見られる足首および股関節の関節可動域制限の因子は、五年前の脱臼にあるとされている。だが病歴からすれば、適切な治療を受けているようだし、すでに回復していておかしくない。現に、中途のカルテによれば、可動域制限における記述はまったく記されていない。MRIを撮った担当医の当時の診断書にも、とくべつ骨への歪曲は報告されていない。後遺症の可能性の指摘もなければ、保護者への説明もなされていないようだ。二年前のこの時期だな、突然、足首の鈍痛を訴え、その半年後に股関節の可動域に異変――拘縮が認められると報告されている。一般的な療法士であれば、まず初期の炎症期の段階で拘縮が患部に認められないか、確認する。記載がないということは、一時期、それこそこの二年前までは順調に回復し、ほとんど全快していたと見て不自然ではない」

「ならどういうことになります?」

「おそらく、現在の病状と、五年前の脱臼に因果関係はないだろう。二年前になんらかの外的圧力が加わり、新しく受傷したと考えるのが合理的だ」

「ならなぜ向こうの医師はそのような診断書を?」

「知らん」

「そんなこと言わずに何かあるでしょ、ほら言って。まだ五分ですよ、あと十分残ってます」

「厚かましいなきみは。まあいいだろう。考えられる可能性は四つだ。一つ目は、五年前の診断時からすでに後遺症の可能性はあったが、それを医師が見落としており、現在、症状が悪化した。二つ目、五年前の診断に瑕疵はなかったが、二年前の受診時に、適切な治療を行えず、症状が悪化した。三つ目は、そもそも少女に後遺症はなく、慰謝料をふんだくりたくて、詐称している。医師はその片棒を担いでいる。まあ、三つ目の可能性は極めて低い。医師側にメリットがない。医師が少女側の親族だというなら話はべつだがな。それから一つ目と二つ目の可能性だが、いずれも医療ミスだ。責任逃れのために、すべての因子を、五年前の脱臼に負わせようとした」

「なーんだ。じゃあ裁判は大丈夫そうですね」

「ただし、四つ目の可能性を無視できない」

「と言いますと?」

「少女は五年前の時点で、当時十二歳だ。第二成長期のさなかだ。基本的に関節可動域制限は、骨格、筋肉、皮膚組織と、いくつかの因子が絡みあって生じる。骨格が未熟で、かつ筋肉が成長段階の少女の場合、診断時期によって、骨格も、筋力も、外観ですら変わってくる。わかりやすく言い直せば、診断するごとに、骨格や筋繊維の数値は、上昇傾向にある。すなわち、過去のほうが低くて当然、という状態だ。関節可動域制限の前兆を見逃してしまっていてもおかしくはない」

「ですが、それだってミスはミスですよ」

「そうだな。しかしそうなると、五年前の脱臼が直接の因子だとする因果関係は成立する。臨床医としての見解は以上だ。まあ、せっかくだ、個人的な意見も述べておこう」

「おねがいします」

「きみのご友人の裁判は民事だろう? 刑事事件では基本的に、真実を暴くことを目的に裁判は進む。しかし民事はそうではない。必ずしも真実を暴く必要はないのだ」

「と言いますと?」

「結論から言おう、私の見解を利用するのは構わないが、おそらく裁判は余計不利になる。なぜなら、そもそも三千万という、慰謝料の請求は多すぎる。端から示談目的だろう。それから、医療ミスを指摘すれば、病院側も黙ってはいないだろうから、より強力な弁護士が向こう側につくことが予測できる。さきにも述べたが、民事は真実の解明を目的にしていない。状況証拠さえそろえば、みなが支持した見解が、そのまま勝敗に結びつく。よりらしくあればいいのだ。もっと言えば、病院側の医療ミスだとしても、五年前の脱臼が因子になっている可能性は残る。状況的にかなり不利だと推測するものだが」

「そんなぁ」

「私見だが、病院側を味方につけるのが得策だな。示談金の七割くらいを請け負ってもらうことを条件に、話を進めるのがいいだろう。そのためにもまずは、二年前の受診時に、なぜ突然診断結果が書き足されたのか、後遺症がなぜそのときになって指摘されたのか、その点を突っこんで調べてみる必要があるだろうな」

「解りました。ありがとうございます、これでなんとか三千万を払わずに済みそうです」

「なに?」

「あ、これ、わたしの裁判なんです。あのコにはわるいことしちゃったなとは思うんですけど、通院費とかは支払ってるんですよ、さらに三千万なんてそんなのないなって」

「私を利用したのか」

「あ、十五分経ってましたね、ありがとうございました」

「あ、おい」

「いやー、助かりました。また何かあればお話聞かせてくださいね。では!」




【わたしはわたしに恋をする】


 べつに恋などしたくなかったが、みながしているのですることにした。

 誤解のないように注釈を挿しておくと、わたしは何も恋人がほしいわけではなく、むろんそれは彼氏でも彼女でもどちらでもよいのだが、とかく性行為だのデートだの、恋人にありがちな非生産的なあれやこれやをしたいわけではなく、端的に誰でもよろしいわけではなく、だからわたしは恋をする。

 失恋をするならするで望ましくあり、わたしはただみなから仲間外れにされぬように、浮かぬように、恋バナのひとつでもできるようにしておきたい、ただそれだけだ。

 こんな性格だからというべきか、言ったところで伝わらぬかもしれぬが、わたしは存外几帳面であり、バカ正直であり、融通が利かず、気も利かず、肝っ玉ばかりが無駄にでかく、端的にウソを吐くのが苦手だった。ただ吐くだけならば苦労しないが、相手にそれがウソであると分かる範囲の装飾しか施せず、斟酌せずに言えば、すぐにバレる。

 恋に落ちぬままに恋に落ちた話をすれば、わたしはおそらくちいさいときに溺れかけた沼の話をするだろう。それそのものを語ったのでは、語るに落ちるどころの話ではなく、ゆえにまぜこぜにして述べることで、急場の凌ぎを試すだろう。

 聞いている相手は、そうかあいつは恋に落ちて、大量の泥水を呑んだような気持ちになったのかと、そりゃ難儀だなと、そんなふうには思わない。

 鼻から、口から、なんだったら耳に入った水草がとれずに病院に運ばれ、ちょっとした手術をした話をされようものならば、いったい何の話かと耳を疑うどころか、わたしの人間性を疑うだろう、それはもう、コイツは人間なのか、とまずはそこから問われそうだ。

 じつを言うといちど問われた。

 おまえは人間なのかと、放課後の理科準備室にて生徒と乳繰り合っていた教師は、

「ここで見たことは誰にも言わないでくれ」

 万札を三枚ほどわたしに握らせ、申しわけていどに頭を下げては、わたしの頭をなぜか撫で、きみが望むならば放課後に美味しいフレンチでもご馳走しよう、と耳元でささやいた。

 食わず嫌いを直しなさいと未だに母親から口うるさく、食卓につくたびに、これは誇張でもなんでもないのだが、言われている身としては、教師のその提案をもうけもうけとは思わなかった。

 その教師から、見たことを言うなと言われたので、後日、やや事実を歪曲して校長に報告した。すなわち、我が校の教師の一人か二人が、密室とも言いがたい室内で、授業中とも言いがたい時間帯に、教師ではなく部外者でもないなかなかに色白の、見ようによっては男にも見える気もしないでもない輩と、下半身にちかい部位を互いに擦りつけ合っていた気もすると、見たままではない言い方で、どちらかというと、ほとんど想像によって補完された脳内映像を、ややひんまげて言語化して告げた。

 件の教師は懲戒免職に処され、後日、下校中のわたしを待ち受けては、例の言葉を、つまり、おまえは人間なのか、と鋭い目つきで吐き捨てた。

 見れば判るだろ、とわたしは答えたかったが、見たことをそのまま言うのはよろしくないらしいので、担任に確認してくるのでしばしそこでお待ちくださいと礼儀正しく腰を折っては、学校へと駆け込み、宣言通りに、担任へと、やや事実をひんまげて伝えた。

 元教師がその後どうなったかは、さして興味がないので、思いだす暇も惜しいことにする。

 ともかく、わたしはウソが苦手であり、なんだったら、ウソを吐かねばならぬ状況そのものが苦手であり、端的にウソを吐くくらいならば死んだほうがマシだと半ば本気で念じている。

 こんな性格であるからか、クラスメイトたちとの交流には苦心を割くが、こんな性格であるのは産まれたときからであったらしく、十七年の歳月はわたしにもそれなりの防衛策を育ませた。

 我ながらよくやっていると思う。

 とはいえ、わたしの成長速度を上回る加速度で、さいきん、同級の彼女たちが、思春期に特有のこじらせを、こじらせはじめた。

 重複表現をわたしが許してしまうほどに、彼女たちのこじらせはすさまじいもので、なぜそんな話題で毎度もりあがれるのかと呆れずにはいられないわたしの胸中をよそに、恋バナなるこじらせをこじらせつづける。天井しらずとはまさにこのことで、わたしはいつも教室のうえのほうを眺め、この天井は役立たずだなぁ、とそんな八つ当たりにも似たぼやきを脳内にひしめきあわせてきたわけだが、それももう限界だ。

 いっそ、わたしも彼女たちの輪のなかに入らないかぎり、間もなくわたしのほうが彼女たちの輪のそとへ、輪投げよろしく、放りだされてしまいかねない。

 すっぽん、とはまる棒がうまい具合にあればよいが、見当たるくらいならば端から彼女たちの話題にはついていけたはずであり、要所をまとめれば、わたしがわたしのためにすべきことは、だから、それが恋である。

 独りで生き抜けるちからがわたしにあればよかったが、孤島にでも移住できればわけないにちがいないのに、そんな資産はどこにもなく、ありていに、わたしは真珠貝さながらに培いつづけた協調性というものを磨き、保っていかねばならなかった。

 いまはまだいいだろう、どっこい、これしきの隘路は笑って脱せなくては、社会の荒波よろしく、受験に、就職、昇格、昇進、あらゆる人選の金網をくぐりぬけていく真似などできっこない。

 こなせて当然の急場くらいは欠伸をしながら凌ぎたい。いっそそれを、忍びたいと言い直してもいい。

 わたしは忍ばねばならぬ。

 恋をしてこそ女子高生というならば、それを強いて、してみて損はない。

 よってわたしは恋に落ちてみることにした。

 結論から言おう。

 落ちたさきは地獄だった。

 まず以って、わたしが誰かを好くなどそんなアホな事象は存在しない。しないが、恋心の総じてがまず以ってアホな事象であるかぎり、虚像を虚像と見做してしまえば、じぶんを騙すのはいともたやすい。ひとまずわたしは、もっともじぶんに似ている相手をみつくろった。

 年齢、性別、それら制限を取り払ってしまえば、いるところにはいるもので、そいつは塾の講師をしていた。わたしの通う塾ではなく、そもそもわたしは通う塾を持たずにきたので、そいつがいるのは、同級の彼女たちのうちの一人の担当講師で、歳はわたしの倍は異なり、性別は奇しくも同じだった。

 似てるんだって、ホントだって、と言い張る同級の彼女たちのうちの一人が、かしましく、そんなに似ているならばとわたしは無料の体験入学を使って、同級の彼女たちのうちの一人について行った。わたしがそのまま歳をとればそうなるのだろうと、わたしでさえ思うほどに、休日にはいっしょに過ごしたくはないなぁと思わせる女が、教鞭をとっていた。

 ともすれば、いまのわたしが、いまのわたしに似たまま成長することはなく、言ってしまえば、件の講師は、いまのわたしに似ているにすぎず、彼女が学生のころにはおそらくわたしよりもアホウだったにちがいないとわたしは見抜くが、恋の相手に不足はなく、というよりもほかの候補が挙がるに挙がらず、干上がりつづけて久しからず、捌くに捌けない恋はとんと日増しに砂漠化していく。

 精神年齢こそすべてだと断じる性質がわたしにはあり、過去はどうでもよろしいと決して、勇んで、恋に落ちた。池に映ったじぶんに恋した男をナルシストの語源にした逸話をしらぬわけではないが、わたしとねんごろになれる逸材は?と問われて、答えられる自信がない。百歩譲って応じたとして、そこはわたしかなぁ、と素朴にこぼすのが関の山だ。

 解っていたからこそそうしただけのことであり、わたしはわたしによく似た彼女へ、あなたを好いたと、わたしは愚直にそう告げた。彼女は彼女で、わたしのことをじぶんによく似た個体と見做した様子で、ならばなにゆえそんなバカな言葉を投げかけるのかと、眉をひんまげ解せぬの顔で、わたしを見つめた。

 背丈はわたしのほうがすこし高く、客観的にはわたしのほうがおとなびて映るに映るが、スーツの効果はすさまじく、誰が見ても彼女のほうがおとなだった。

 そんなおとなな彼女がわたしを見つめて、ふざけた真似はよしなさいとひねる余地にまみれた言葉を吐きだすものだから、それを利用しない手はないと、姑息にわたしは、あなたはわたしが嫌いなのか、と問い詰めた。いっときとはいえ、生徒であるわたしであるから、ウソでも嫌いと言えなかろうし、よしんば言えたとしても、本日その日に会ったばかりのわたしを嫌う道理が彼女にあろうはずもなく、彼女は、そんなことは、としどろもどになった理由は、本心ではわたしのことを避けたい自我が芽生えはじめて秒読みしており、無料体験の生徒にかける時間が惜しいと、ほとほと苦々しく思っているはずだった。

 わたしによく似た彼女だから、わたしがそこまで見抜いていることを見抜いているから、つぎにとるべき行動は、衆目集めるその場を脱して、まずは話をすべく二人きりになることで、わたしにしてもそれを拒む理由はなく、まずはともあれ空き教室へと連れて行かれたのがよくなかった。

 わたしに似ているだけって、彼女は生まれてこのかた、誰からも好かれた記憶がない。彼女がわたしの歳のころにわたしと同じように恋に落ちてみようかと試みたはずようもなく、ひるがえっては、いまの彼女がわたしに似ている事実は、そのままいまの彼女がちょうどよくもわるくもいまのわたしと同様の隘路を抱えていそがしく、なんとか突破しようとあれやこれやを画策しようと企みはじめて合致する。

 ちょうどよかった、と彼女は言った。

 どうやら先刻のあれは体面からの仕様であり、急場の凌ぎ方のそつなさはわたしよりも巧みであるかも分からない。

 私もほしかったのよ、と彼女はつづけた。

 何を、と反問するほど野暮ではなく、わたしは、ならばと手を差しだす。

 落ちた恋に底はなく、ただただわたしを映し返し、合わせ鏡がごとく迷宮が無限につづくと見せかけて、そんな徒労をわたしたちがするはずもない。ドミノじみて並ぶ鏡も、よこに抜ければ、ただのコマだ。鏡に向かって、好きと言い、鏡がわたしに好きと言う。それはじぶんでじぶんに好きと言うのと同じ原理を伴っており、わたしはわたしに好きと言う。

 惜しむらくは、わたしがさほどにわたしを好いていない点であり、真実好いているならば、そもそもこうしてあれやこれやと欠けた点を埋める努力を費やさずに済む。掻い摘んでしまえば、わたしは彼女にここをこうしたほうがもっと好きだと、欠けた点を、生々しく描写して挙げ連ねた。

 わたしはわたしのこんなところを好いてはおらず、せめてこうしてあってほしいと、卑下する言葉がそのまま彼女の胸に突き刺さる。ダーツであれば満点つづきで百発百中、なんなら目をつむっても刺せてしまう。世界屈指の外科医もわたしの正確無比なる手腕には脱帽どころか、そのワザくれよと泥棒だ。

 鏡を割っても、割ったわたしは痛さを感じず、それは鏡にも適用できる理屈であって、鏡を叩いたその手のひらが、裂けて血だらけになったところで、やはり痛みは感じない。

 わたしが言うなら、彼女も同じ不満を持つのが道理で、わたしの言葉はレーザーよろしく跳ね返っては、無駄にわたしの胸を貫いた。

 言われるまでもないほど熟知しているじぶんの瑕疵が、外部を経由し、矛となって戻りくる。胸に留めているかぎり、戒めとしてわたしを守るクサリカタビラになろうそれは、外部を経由し、鏡に反射し、戻ってきた時点で鎖ガマだ。

 皮一枚を残してわたしの首が狩られつづける。

 一刀両断されないのは、わたしにその気がないからで、わたしはただ好いた相手の好かぬところを、羅列し、指摘し、是正したい。相手も相手で、そんなわたしの至らぬところを直し、すべてを受け容れたい。羅列し、指摘し、是正させんとするその心根からして不満に思え、ならば黙ればよいものを、それではせっかく恋に落ちた意味がない。

 痴話喧嘩そのものがわたしの求める一つの要素で、恋バナとくれば筆頭株主を地で張れる。

 わたしはなにも円満な恋がしたいのではなく、鏡の彼女と仲良くしたいわけでもない。

 ただただ恋に落ちていたい。

 恋とは不毛そのものだ。

 わたしが忌避し、いらぬものの烙印を捺しつづけてきたわけがそこに居座り、動かない。わざわざこんなもののために貴重な時間と資財を投資するなぞ、アホと呼ばずしてなんと呼ぼう。

 悩めば悩むほど、同窓の彼女たちとわたしとのあいだには、越えられぬ一線がナイアガラの滝よろしく、四方八方をつつみこむ。やがては滝のどん底で、分厚い濁流に押しつぶされる、そんな未来は回避したい。

 思案した挙句の、これは不毛だ。

 不毛の埠頭から旅立ちたくば、まずは不毛に浸かって、慣れねばならぬ。

 鏡のわたしに、わたしはことさらじぶんのダメなところをさらけ出し、それをしてだからあなたはダメなのだと、ダメだしをするわたしにダメが出される。ならばダメだしせねばいいのかと、いちどは黙ってみるものの、ダメなものを見て見ぬふりをする器のデカさがあるならば、そもそもこれほど悩んではいない。

 鏡をまえにすればするほどわたしはどんどんダメになっていく。

 よこにひょいとズレてみせれば無間地獄から抜けだせるかもと試したものの、鏡の彼女は鏡ではなく、動く足を動かして、みごとにわたしについてくる。

 さきに述べた結論だが、ここでもまたもや述べておこう。恋に落ちたさきは地獄だった。

 不毛を回避すべく不毛に浸かり、落ちた地獄から脱しようともがけばもがくほど地獄はわたしにまとわりつく。同窓の彼女たちはこんな地獄を楽しみ、求め、焦がれているのかととたんに泣いて崇めたくもなる。

 わたしの理想は、わたしの軌跡の延長線にあり、このままそのまま、わたしは成長すればよいものかと長年ずっと考えてきたが、それはやや、誤りであったのやもしれぬと、ここにきて素直に考え直す。周囲の雑多なあれやこれやは成長の糧でしかなかったはずが、わたしが思うよりも貴重で高貴な手本であったのかもしれぬ。

 その可能性はいかほどか。

 鏡のわたしにわたしは問うと、鏡のわたしは深く悩んだ。きみは私よりも聡明だが、私にあってきみにないものもむろんある。それはなんだとわたしが問うと、鏡のわたしは、歳月だと言って、わたしにその手をそっと伸ばす。頬がこそばゆく、あたたかい。

 鏡のなかの彼女は言う。一足先に生まれた者としての私見だが、と前置きしてから、

「きみが思うほどには私は完璧からはほどとおい。むしろ私にできてみなにできないことはない。きみの理想とするところは、ともすれば私からもっとも遠い存在だ」

 問いへの返答としては曲がっているが、わたしに合点を与えるには相応だった。

 わたしの理想は、わたしにある穴のすべてを塞ぐことであり、それら穴が開いた理由は、周囲に溢れるあれやこれやの雑多なこまごまそのもので、同窓の彼女たちの総じてはそれらこまごまに与されており、わたしの穴を塞ぐには、それらこまごまが不可欠だった。

 未来の巨大な穴をふさぐために、身近なちいさな穴にまぎれようと、わたしは恋に落ちてみたが、そのじつ、そこから分かったことは、穴がわたしに開いているのではなく、わたしが一つの穴だったという、認めがたい事実だった。

 わたしが欠けているのではなく、周囲に走る亀裂そのものがわたしだった。

 わたしはわたしを塞ぎたくて、周囲のあれやこれやにまぎれようとした――真実これが正しくあり、主体はわたしにないのだった。

 わたしが穴そのもので、だからわたしはわたしを塗り替えようと、不毛に思える恋に落ちてみた。

 だがこれは思えば正しくなく、すでにわたしは恋に落ちており、だからこうしてあれやこれやと難儀している。

 わたしは世界に恋い焦がれ、同窓の彼氏彼女たちに懸想している。みにくいアヒルの子は白鳥だったが、わたしはわたし一人きりでアヒルだった。奇しくも水面は眼下に満ちており、そこにはわたしの分身がいた。

 わたしはわたしを見つめることで、ことの真理に辿り着いた。

 わたしはすでに恋をしていた、わたし以外の、すべての不毛のこまごまに。

 認めたとたんに、わたしもまた雑多に溢れるこまごまにまぎれ、穴はそれにて塞がれる。

 恋とはなんとステキなものか。

 世界が一変するどころか、一転してキラキラまばゆく消え失せない。

 鏡を覗くとそこにわたしは映っておらず、いるはずの彼女もそこから姿を消している。穴として存在したわたしが埋もれたのだから、映らぬのがこの世の筋道だ。

 姿の映る水面をかたちづくる分子の無数は、もう一人の、わたしと、わたしと、たくさんのわたしたちであり、こまごました無数のわたしが、ステキな無数の恋をする。

 恋がしたくてたまらないわたしの想いの向かう先は錯綜し、わたしの恋するあのコの好いた彼は鏡に映ったわたしであり、わたしはあのコに恋するわたしに恋慕の念をそそいで、そそがれ、からみつく。

 あらゆる想いの向かうさきざき、すべてがすべて、おしなべて、あますことなくわたしだからで、じぶんでじぶんに恋する愚かな人は、ただただ不毛な恋をする。

 一方通行のそれは片想い、もっともステキな恋の名だ。 




【虫の調べ】


 死のうと思って手首を切った。

 手に加わった感触はどこか、幼いころにランドセルをナイフで切り刻んだ記憶をよみがえらせる。血が噴きだすかと身構えていたのに、なぜか手首にはぽっかりと穴が開くだけだ。

 とりたてて痛くもない。

 傷口をゆびで押し広げるようにすると、闇の奥に色とりどりのお花畑が目についた。甘い香りがそよかぜとなって生暖かく漏れている。ゆびを差しこむようにすると、どこまでも埋もれた。

 傷口の向こうに、見知らぬお花畑がひろがっている。空が見えないのは、角度的な問題だろうか。ちょうど、頭の高さから地面を見下ろしている具合で、私が移動しても、傷口から覗く景色は変わらない。腕を振っても、景色は絵画のようにはぴったりと傷口について回る。

 異次元や異世界を連想する。

 どうやら私の傷口は、どこかべつの空間と繋がってしまったようだ。死ねなかったことよりも、この傷口をどうすべきかに思考の大半を費やした。

 その日のうちに裁縫セットを取り出し、針と糸で傷口を縫いつけようとした。肌に針を突きたてるのはなぜか痛く、断念する。

 しばらく傷口を絆創膏で覆って過ごした。

 寝相がわるいのか、朝起きるたびにそれは剥がれている。新しい絆創膏に貼り替えながら私は、私の身体がどうにかなってしまった可能性を考える。

 数日経っても、私はこれまでどおりお腹が減り、物を食べ、そして排泄した。

 いっそ傷口を増やしてみてはどうか。考えるだけで行動には移さなかった。

 部屋を片付けるためにと取っていた有給休暇が終わり、私はまた元の生活に戻った。どうせ死ぬのだからと仕事を辞めずにいた。戦力でない私であっても、急にいなくなられたら数日くらいはアタフタするのではないかと期待していたのに、いざ職場に戻ってみると、休みをとる前よりも仕事は減っており、私がいないほうが会社は回るのだという事実をむざむざと見せつけられた心地がした。

 頭のなかの鉛が増すようだ。

 やはり死んでおけばよかったのだ。

 帰宅すると見慣れぬ虫が飛んでいた。蝶や蛾のように二枚の羽をパタパタとしながら、ときおり、鳥のようにまったく羽ばたかぬままで滑空する。

 見慣れぬ動きに、それが新種の虫であることは瞭然だった。捕まえ、コンビニの袋に入れた。なぜかそとに逃がす考えはなかった。

 寝ようと思い、明かりを消すと、部屋は仄かに明るいままだ。光源を探るまでもなく、コンビニの袋が提灯よろしく淡い光を放っている。私は袋の口をゆるめ、なかの虫を宙に放つ。虫はヒラヒラと、ときにスーっと光の筋をせわしなく描きつづける。

 きれいだな。

 私はひざを抱え、日が昇るまでそれを眺めた。

 その日から私は不眠症になった。夜はずっと暗闇のなかで、淡く発光する虫の軌跡を目で追った。なんだかすべてのモヤモヤから解放されるようだった。朝になると職場へと出かけ、そして家に戻り、虫を見つめる。暗がりに浮かぶ光の線は、曖昧になっていく私の意識と連動して、増えたり減ったりを繰りかえす。

 気づくと虫は二匹に増え、そして三匹に増えている。そういう生態なのかもしれないと気にも留めていなかったが、虫との同棲をはじめてからひと月後、初めて家のそとで虫を見た。

 それはヒラヒラと、ときにスーっと、独特な動きで、職場のフロアを舞っている。

 なんで。

 私は戸惑った。

 戸締りをし忘れたか?

 それとも元から外にもいる虫なのか?

 身体が震えている。私だけの世界が崩れ去るのにも似た恐怖があった。それはどこか怒りにも似ており、失恋の痛みにも似ていた。

 黄色い声があがり、駆けつけた男性社員により虫は呆気なくつぶされた。コピー用紙にくるまれ、ゴミ箱へと投げ込まれるのを、私は私を眺めるようにただ見届けた。

 その日から私は会社へ行くのをやめた。

 部屋にこもっているうちに、虫はその数を増していく。日に日に部屋は虫の楽園と化していく。夜は明かりをつけずとも、ひと際つよい明かりが部屋を満たし、その明かりがそとへ漏れるのすらもったいなく感じ、私は閉じきった部屋のなかで、光に埋もれた。

 大量の光の群れとなった虫を見ていると、目を開けているのか、閉じているのか、その境も曖昧になっていく。虫に羽音はなく、ただしずかなことにこのとき気づいた。

 虫たちは音もなく、私の手首に開いた傷口からわらわらと湧き出てくる。

 もっとおいで。

 私は手首の穴を拡げていく。

 死ぬために購入した包丁を使って。ペットボトルを分断するように、ぐるっと手首に切れ込みを入れていく。手首は、ぼとりと床に落ちる。蚊取り線香の煙に触れた蚊のようだ。血は出ない。

 大量の虫たちが溢れだしてくる。

 もっと、もっと。

 窓ガラスが虫たちに押され、キシキシと鳴っている。

 手首のなくなった腕に切っ先を突きたて、私は腕を縦に切り裂いていく。

 もっと、もっと。

 私の中には、美しいお花畑が広がっている。そこは初夏の日差しに晒されており、ときおり花々のうえを、帯状の影が走り抜ける。虫たちが群れとなって舞っている。影が光に打ち消され、その後、虫たちが押し寄せる。

 もっと、もっと。

 肩まで到達した切っ先を、鎖骨へと走らせ、胸へと向ける。首元から臍へとひと息に下ろすと、チャックを開いた具合に、お花畑の全貌が裡に広がる。

 股から、腿へ、それから足へ。

 逆の足も切り開き、残るは利き手と頭部だけとなる。

 いっそのこと私が向こうに行けたなら。

 望むあいだに、虫たちが私の裡へと消えていく。元の世界へとなだれこむ。

 おいてかないで。

 私は私の外皮を引っくり返し、靴下を裏返すみたいに裏返る。トイレットペーパーの芯を縦に割って裏返し、繋ぎ合わせるようにするのと同じく、私は私の身体を裏返す。

 切り口同士が繋がって、裏の世界が現れる。

 首と利き手がお花畑に浮いている。

 私の部屋に、私の身体のカタチに、お花畑が開いている。そういう穴が掘られたみたいに、お花畑へと通じる私の内部が畳のうえに浮いている。それを眺める私の首と、刃物を握る利き手だけが畳のうえに残される。

 部屋にはもう、虫は一匹も飛んではいない。

 みなあちらの世界に帰っていった。

 私が私の手で、私の身体を切り開き、そこに広がるお花畑へ帰してあげた。

 裏返った私の内部へと虫たちを連れ帰ったはずの私はこうして一人、身動きをとれずに、いずこよりやってくる喉の渇きと腹の虫のうごめく音を耳にしている。 




【偉大な魔女は夢を見る】


【ムキ】

 いやー、まいった。聞いてくれよ。いまな、そと出たらなんか世界が白いんだよ。世界中をハトが埋め尽くしてるみてぇでふわふわしてんだよ、歩きにくいったらねぇよな。

 触ってみたら冷たくてビビるし、やたら足とか滑ってよ。

 尻とかスゲーいてぇ。

 つーか、手とか服とかべちゃべちゃだし、水がどっかから漏れてんだよ。

 いや、漏らしてはねぇよ、ふざけんなって、うそじゃねぇし。

 手で掴んでもいつの間にか消えてっし、まじ魔法。そっちはだいじょうぶかよ、ケツとかぶってねぇか?

 あー?

 なんで怒んだよ、心配しただけだっつの、ざけんなばーか。

 あ?

 なに?

 ウキぃ?

 なんで急にサルの真似した?

 ちがう?

 ユキぃ?

 あー誰の耳が腐ってるだ、てめぇの舌が足りねぇだけだろ、呂律に油でも注しとけっての。

 あ、ばか、切んな。

 わるかったって。

 ジョークだって、ジョーク。

 で、なんだって。

 ユキ?

 これが?

 凍ってるだー?

 いや、それは分かってんだよ、クソさみーからな。

 ちがう?

 そうじゃないってどういうことだよ、わかるよーに言えや。

 ちっこい氷がそらから降ってきて積もるだぁ? はぁー? おまえな、からかうにしてももうちっとマシな嘘をだなぁ――っておい。

 あ、おい、切んな、切んなって、ばか、おいブタ!

 おう……すまん。

 ジョークだって、ジョーク。

 口が滑っただけ。

 あー、ごめんなさい、もう言わん、言わないんで、もうちっとだけヒントくれヒント。

 あぁーはいはい。

 ヒントをください、おねがいします。

 チッ。こんでいいだろ、はやく言え。

 ほー。

 はんはん。

 はあー、なるほどねー。

 雨が凍ると。

 なー。

 得心いった。

 それで触ると融けて、雨に戻るってか。

 はぁー。

 で、誰なんだ。そんなすげー魔法使うやつ、どこにいんだ。教えろ。今すぐぶっ飛ばす。ケツがいてーんだよ、何回転んだと思ってんだよ、村のガキどもにどんだけ笑われたと思ってんだよ、てめぇのハメたこれ、首のうぜーやつなきゃ今ごろここに人はいねぇぞ。

 何笑ってんだよ。

 あー?

 魔法じゃない?

 ふざけんな、てめぇが魔女つぶせっつったからこんな辺境まで……あぁ!?

 それとこれとはべつだぁ?

 じゃあ何なんだよこの雪ってやつは! こんなすげーの見たことねぇぞ。

 雨と同じ?

 どこがだよ、からかってんじゃねぇよ、さてはおめぇ、知らねぇな? 見たことねぇから口から出まかせばっか言いやがって。

 そうじゃないってなんだよ。

 いいかげん笑うのやめろ、いぶすぞ!!

 なにー? 山ぁ?

 山がどうしたってんだよ、そりゃ見えるがよ。

 いや白くはねぇよ、ふつうの山だ。あっちのほうがあったかそうだ。

 へん?

 なにがだよ、空にちけぇんだからあったかくて当然だろ、お日様ぽかぽかきもちぃなって知らねぇのかよ。

 山のほうが積もってんのがふつう?

 雪がかぁ?

 つっても、あっちのほうはそれこそおめぇんとこの夏庭みてぇだぞ。行けるもんなら今すぐ行きてぇ、こんなクソ村に用はねぇよ、さみぃんだよ。

 あん?

 元に戻せって、は?

 山をか?

 真っ白にしてこいって、おい、あ!

 切りやがった。

 チッ。

 ざっけんなよマジで。

 どうしろってんだよ、誰ぶっとばしゃいいんだよ、村の連中片っ端から食い殺すぞあのブタ。

 あー?

 なに見てんだよクソガキ。目ん玉ほじくり返されてぇか。

 なにぃ?

 魔女のいる場所を知ってるだぁ?

 おめぇなぁ、そういうことは最初に言え。

 で、どこにいんだよ、教えろよ。

 連れていく?

 おーおーなんだよおめぇ、気が利くじゃねぇか。いいだろう、おめぇをこの地の第一奴隷にしてやるよ。

 そういやおめぇ、知ってっか。この白いのな、雪つって、魔法じゃねぇんだと。で以って、あの山のほうがおかしいんだ。

 どうだ、見る目あんだろ。

 おうおう、おまえもなかなか見どころあんじゃねぇか、だがオレは強そうなんじぇねぇんだよ、じっさいメチャクチャ強ぇんだよ。当たり前のことだからな、わざわざ言う必要はねぇ。

 で、どこ行きゃいいんだ。

 あっち、っておいおい。そっちは逆じゃねぇか、ほー、氷の亀裂がねぇ。

 そんなに深けぇのか。

 魔女が空けたと、そんでほかの村と分断されてと、なるほど、なるほど。

 隠れ家にしては上出来だ。

 で、坊主。一つ訊きてぇんだが、いいか。

 なんでおめぇ――オレが魔女だと疑わねぇ。

 村への出入りができねぇ状態なんだろ。

 えぇおいガキ。

 返答次第じゃ、村ごとてめぇをいぶし殺すぞ。

(――メラメラと揺らめく蒸気の奥で子どもが無邪気に泣きじゃくる。弱い者いじめ反対。早とちり、恥ずかしい)


【雨季】

 さっさと出なさいよ、何回繋ぎ直させたら気が済むわけ、あり得ないんだけど。

 つーかさ、あんたに言われたとおりやったらターゲット死んだんだけど。情報吐かせるヒマなんかあったもんじゃないし、どうしてくれんの、言っとくけど、あたしのせいじゃないからね、言われたとおりにしただけなんだから。

 なに?

 説明って、だーかーらー、あんたからもらったコレ、なに?毒?わかんないけど小瓶に入ってるやつ打ったら痙攣して気づいたら死んでるし、どうすんの。

 なんで打ったって、だってこんなんほかにどうすんの、魔具ってわけじゃないんでしょ、呪詛とか書かれてないし、霊気もまとってないみたいだし。

 飲ます?

 飲ますって何?

 酒みたいにぐいっとやってって、コイツに言って飲んでもらえばよかったってこと? あんたさー、いや、もー呆れた。

 飲むわけないじゃんこんなん。どうやったら今から自分のことひどい目に遭わせますよーってやからの言うことほいさと聞いて、手渡された薬品口に含むっての、百歩譲って口に含んだってまず飲みこんだりしないから、まがりなりにもやつらの手下かなんかなんでしょ、プロ舐めんじゃないよったく。

 で、どうすんの。

 コイツかっさらってきたからやつら大騒ぎしてんだけど。

 なんでって、はー?

 生け捕りしろっつったのおまえじゃん。

 いやいや、無茶言ってんじゃないよ、殲滅すんのといっしょにすんな、あんたさー、考えてもごらんよ、ハチの巣駆逐すんのと、一匹だけピンポイントで生かしつつ殲滅すんの、どっちがたいへんだと思ってんの。報酬だって一人分しかもらってないし、なんであたしがそんな損な役回り――はぁ?

 情報なきゃ支払わないってちょっと待って、いったん落ち着こう。ふう。

 いいかなお嬢ちゃん、そいつぁ、聞き捨てならないよ。あんたはあたしに依頼した。あたしは言われたとおりの仕事をした。そうでしょ? そうだよね?

 情報が手に入らなかったのはあたしの落ち度じゃないし、よしんば配慮が行き届いてなかったとしても、じっさいこうしてやつらの手下を生け捕りにしたとこまではやったんだ、つべこべ言わずに払うもんは払ってもらうよ。

 だめだ、じゃないでしょ、ねー。

 あんまりお姉さんを怒らせないで。

 なんだったらこっちのやつら殲滅して、今からあんたんとこに行ってもいいんだよ。

 巣の駆除をした報酬、払えるの? 払えないよね?

 じゃー払えるようにあたしはあんたを使って、搾れるだけ搾り取っても、文句をいう筋合いはあんたにゃないよね? そうだよね? そうでしょ?

 あんたにある選択肢は三つ。

 今ここで報酬を支払うか、新たに依頼して二倍の報酬を支払うか、もしくは全財産ごと今後の人生を棒に振るか。

 よっく考えて。

 お姉さん、おまえがキッタネェ男汁で汚れた姿なんざ見たくないだよ。

 んー?

 なに、提案がある?

 いいよ言ってみて。

 お姉さんやさしいから聞いたげる。

 うんうん。

 うんうんうん。

 うん?

 ん?

 んん……っ!?

 待って、待って、ごめんなさい、すこし考えさせて、え、三秒?

 や、待って、だめだめ、わかった、わかった、やる、やります、やらせてください。

 はい。

 はい。

 承知しました、はいはい。

 すみません、はい、さっきのはええ、調子乗ってました。おっしゃるとおりです。

 はい。

 ごめんなさい。

 申しわけございません。

 え? 報酬ですか?

 いえいえ、そんなそんな、こちらの不手際ですので。

 そんなそんな、いえいえ、いただかなくとも。

 ええ、ええ、前金はすでにいただいてますから。

 いえいえ、そりゃー、えへへ。

 はい、はい。

 こっちのやつらですか? そりゃーお嬢さまのお邪魔になるってんなら殲滅してさしあげますよ、捕虜なんざ一匹でも二匹でもお申し付けくださったらいくらでもご用意してさしあげますので。

 一匹でいい?

 はい?

 ついでに近隣の街の掃除も、でございますか? あー、いえいえ文句はございませんですよ、はい。

 さいですか。

 あはは、サービスでやらせていただきます。

 そんな、そんな、勉強させてくださいよお嬢さま。

 え?

 言うな?

 はっ、申しわけございません、そうでございますよね、あたくしごときがなんて失礼なことを。

 おっしゃるとおりでございます、小娘はあたくしのほうでございますね、はい。

 はい。

 時間はそうですね、三日ほどいただければ完遂できるかと。

 あー、え?

 ……長い、ですか。

 そんなことはないと思うんですけど……いえ、できます。やらせてください。

 はい。

 はい。

 では明朝、手土産持参でお邪魔させてください。

 はい。

 ご容赦いただき感謝いたします。

 はい。

 はい。では失礼いたします……。

 ……はぁ。

 ったく、なんなのもう……。

 あー、聞いてたでしょ。わるいわね。そういうわけなんで、あんたらとの交渉は決裂だ。

 反故にする気かってはぁー? まだ契約すらしてないじゃん。

 金? いらないわよ。

 あ、うそ。ごめん。それは欲しい。

 だーかーらー。

 最初に言わせてね。

 ごちそうさま。

 んで以って――いただきます。


【向き】

 せんせー、せんせー。やーもう、やっと繋がりましたね。何されてたんですか、またぞろ僕のフェアリーキャンディでも、もちゅもちゅねぶってたんじゃないですか。

 いいえ、ちがわないです。音漏れてますからね、もちゅもちゅうるさいくらいですよ、さてはごまかす気がないな。

 用がないならこれでって、そんな言いぐさはないですよ、僕、せんせーのお申し付けどおりにこうして遠路はるばる密林にまで来てるんですから。

 なんでって、えー、せんせーがおっしゃったんじゃないですか、魔人を御せるくらいの魔具がほしいって。だから僕、ここまで足を運んだんですよ。古代遺跡ですよ、しかも永久A級隔離指定の!

 手に入ったのかって、えー、そんな言い方ってないですよ、もっと僕の身を案じてくださいよ、せんせーはちょっと師匠としての自覚が足りなさすぎます。このあいだだって単なる魔女だからだいじょうぶだなんて言って、僕に任せて帰っちゃうし。あのときも言いましたけど、冗談でなく死にそうだったんですからね。

 せんせーだって知ってますよね、僕もう転生術効かないんですからね、霊死限界まで死んじゃってるんですから。

 なんでって、せんせーのせいでしょーもう。なんだこのひと、なんてひとだ。

 いや、せんせーは人じゃないですけど、言わせてくださいよ。けっきょくあのときだって、ぜんぜん単なる魔女じゃなかったじゃないですか。ガブリエルっていったらせんせーの天敵じゃないですか。なに愛弟子に任せてるんですか、僕なんかが勝てるわけないじゃないですか。

 いえ、助かりましたけど。

 夢にも思いませんでしたし、まさかせんせーがヨルムンガンドを召喚していようとは。

 でもあれだって、向こうさんが共倒れしてくれたからよかったものを、一歩間違えれば僕のほうが――えぇ?

 眠いからあとでって、ちょっと、ダメですよ、緊急事態なんですって!

 なんです?

 聞こえないです、もっとおっきくしゃべってください。

 はあはあ。

 首飾りを持ち帰ったらご褒美をくださると?

 第二の心臓をって、えぇえ!??

 いいんですか、だって僕まだ雑用なのに。

 覚えた魔術だって物体の増幅強化くらいで。

 えぇぇーー!!! とっくに魔人レベル!?

 魔術はヘボいけどって大問題じゃないですか、じゃあ何が魔人クラスなんですか、や、頑丈さって、おい!

 そんなだっていっつも僕せんせーの下着洗ってばっかなのに!

 やりたそうにしてたからって、やりたいわけないでしょ、ばかじゃないですか、せんせーはばかなんじゃないですか。

 あんなの修行でもなんでもない?

 じゃあ僕はただせんせーの変態的趣味に付き合わされてただけってことですか、だいたい言いたかったんですよ、なんでせんせーは家事全般を魔術で済まさないんですか。下着なんかひょひょいのひょいで漂白してくださいよ、そもそも穿く意味あるんですか? 胸に帯巻いてますけど、あれとか無意味の骨頂というよりないと思うんですけど。や、なんです?

 今すぐ戻ってこい?

 いえ、ですからそうしたいのも山々なんですけど、首飾りを手に入れたはいいんですけど、なんかちょっと神獣がいたらしくて、ほら、聞こえます?

 これ、雷じゃないんですよ。

 そうなんですよ。

 展開してる術式からすると、たぶん古代種ですね、このままだと僕死んじゃうと思うんですけど、そうそう、だからせんせーに助けを求めようとこうしてご連絡を。

 知らん?

 知らんってなんですか、なんて冷たいことおっしゃるんですか、そんな手足が短いからって拗ねなくてもいいじゃないですか、どんなに身体が幼くたってあなた僕のせんせーでしょ、師匠でしょ、なんとかしてくださいよー。

 せんせーなら遠隔でも神獣のひとつやふたつ召喚できるんじゃないんですか。

 場所がわからない?

 またまたー。

 そんなこと言っちゃって、ほんとは知ってるくせにー。

 だって僕、どんな魔具を手に入れようとしてたかなんて言ってないのに、首飾りだって知ってたじゃないですか。ここが東洋の島国の一つだって知ってるんじゃないですか?

 どんな神獣かって?

 えっとー、なんか見た目はおっきなヘビですね。羽のないヨルムンガンドみたいな。

 でも空とか飛ぶし、火とか吐くし、雷起こすし、すさまじいですよ。

 や、なんです?

 だからもっとおっきな声でお願いしますよ、僕、今そいつの牙に掴まってんですから、なんとか堪えてますよ、もうすぐ死にますよ。

 や、なるほど首飾りをね――って、大きさ、大きさ! 無茶言わんでくださいよ、せんせーにドレスどころの話じゃないですよ、着けれるわけないじゃないですか。

 おまえならできる?

 や、そりゃ僕にはちょうどいいサイズでしょうけど、んー?

 そうじゃない?

 や、ひどい。

 解らんなら死ねってひどすぎます、せんせーのためにお気にの魔具消費したのに。初めての任務の報酬ですよ。遠距離特化の精霊の羽。

 蔵のなかにいっぱいある?

 そういうこっちゃないんですよ、せんせーにはロマンがないなぁ。

 や、切らないでくださいよ、助けてって言ってるでしょ、愛弟子が!

 いそがしい?

 弟子募集の手紙配るからって、おい!

 せんせーはせんせーでしょ、僕の師匠でしょ、なにちょっと見捨てようとしてんですか、せめて心臓寄越してからにしてくださいよ、ホントこれ死んだらシャレにならないですって。

 あ、切りやがった!

 うそうそ、やだ、繋がんない、ぜったい霊波数変えてるじゃん、うっわーひでー。

 ひっでーでやんの。

 どうしよ。これ首に着けたらいけんの? 無意味じゃん? 魔術使えなくなるだけじゃん? 防御力ゼロで即死じゃん?

 じゃーどうすりゃいいのさ、せめてもうすこしチミがちいさければなぁ、なんだこの無駄にデカい歯。ぺしぺし。

 もしくは、コレがもうすこし大きければ――ってそうか、そうじゃん、おっきくすればいいんじゃん!

 やー、せんせー、じつは聞いてるんでしょ、見守ってたりするんでしょ、やははー、答えがあるなら教えてよもー、ほんとせんせー、だいすき! 愛してます!

 でも今戻ったら幼体ばかにしたこと殺されそうなので、もうすこしばかし魔具集めの旅にでまーす。例の魔人復活させるの、もうしばしお待ちくださいね。お叱りは、どっさりのおみやげにて相殺を希望しますですよ。

 こちらも霊波数変えちゃいますので、これにて!

 やははー、神獣一匹ゲットだぜ! 


【無期】

 待ったかね。すまんな、わざわざドールを寄越させてまで。

 しかしいつも思うのだが、なぜこうも目に毒な型を使うのだね、きみはもっと控えめな体躯であろう。

 いや、失言だった。

 きみも忙しい身のうえだろう、単刀直入に訊く。西部のシンシュンシャン山村を知っておるかね。

 知らんか。では、南部のウリウリノウ里はどうだ。

 聞いたことはあるか。そうだろう、あすこは広く魔道石が採れる。屈強な労働力を年中欲しているため、国内外問わず、ならず者たちが集まる。ほかの都市に比べれば治安はわるいが、秩序は保たれておる。歩廊隊(ほろうたい)なる治安維持部隊が組まれているためだ。元となる組織は魔王軍のジェネラル級だと聞いておる。

 それがなんだ、か。

 たしかに。

 どうということはない情報だ、すでに魔王軍の残党は、階級に関係なく処刑されておるからな。今ある歩廊隊も、単なるマフィアの域はでんだろう。

 たださいきん、その歩廊隊が全滅したという報告が入ってな。それだけではない、大陸全土の至る箇所で、その地のバランサーがこぞって消息を絶っておる。現地を視察した者の報告によれば、大規模な戦闘の繰り広げられた痕跡があるそうだ。

 近代兵器ではない。

 魔術だと、断定しておる。

 さきに述べた西部のシンシュンシャン山村でも同様に大規模な「魔痕」が確認された。山が一つ消えたそうだ。

 山といえば去年のことだったか、遠方の島国で永久A級隔離指定の遺跡が荒らされた事件があったのを憶えておるかね。部外秘の情報だが、そのとき盗まれた魔具はビーナスの首飾りだったそうだ。

 うむ。

 世に八つしかない神具のうちの一つだ。

 ほかにもあるぞ、精霊指令都市のメチャゲンキデルでは、精霊軍司祭、ミテミ・テコレービが何者かに暗殺された。

 テコレービは知っておるな。

 かつておまえに銀の制約を科した司祭級聖人(せいと)のうちの一人だ。魔人クラスの魔女ですら手に負える相手ではない。にも拘らず、司祭級が死亡した案件はこの半年で十件に迫る勢いだ。そのほとんどが未だに死因を特定できていない。

 聖人だけではない。

 天使、精霊、魔女と、種族に共通点は見いだせておらぬ。

 むろんきみとの接点がある者は、テコレービ一人だけだ、あとの者たちはのきなみきみの素顔すら知らぬだろう。ただし、彼らがみな、魔王軍殲滅に手を貸した者たちだという点を除いては。

 分かっておる、きみに犯行は不可能だ。

 銀の制約があるかぎり、きみはその部屋から出ることができぬのだからな。かつてキマイラの魔力を封じたのと同じ枷だ。

 こうしてドールを介してそとの世界を闊歩できるが、それはきみの垢が下水に流れ出ているようなものだ、ドールを介して魔女を、ましてや司祭級の聖人を殺害するなど不可能にちかい。

 だが不可能ではない。

 わずかなりとも可能性が残されている以上、わしはそこに種が転がっていないかを確認せねばならなん。よしんば種から芽が萌えていたならば、この手で引っこ抜き、燃やすことも厭わんのだ。

 きみの口から聞いておきたい。

 いずれの案件にもきみはいっさい関わっておらんな。

 うむ。

 ならばよい。

 ……言うまでもなく、きみと魔王との繋がりを知る者は、この世にわし以外ではもう残っておらん。きみさえ何もせず、しずかに暮らしてくれさえいれば、誰もきみの存在を脅かす真似はせんだろう。しかし、いいかね、よく胸に刻んでおいてほしい。

 もしきみがあの魔王の――否、やめておこう。

 いずれ魔王はもうおらん。

 きみはただの、しがない魔女だ。

 偉大な、魔女だ。

 自由と引き換えに、きみにできぬことは何もないだろう。同時に、何を成したところで、きみにとっては夢まぼろしと何も変わらん。

 きみの世界とはその部屋であり、すべてはその部屋のそとで起きている。

 この世は偉大な魔女の見る白昼夢であり、偉大な魔女はただベッドのうえで船を漕ぐ。

 きみにだけは告げておこう。

 一連の不審死や失踪者の多発を憂慮され、天界から大天使さまが降臨される。並びに、精霊軍に、天界の使者が加わり、近々、大規模な魔術禁制法が発足されることとなる。

 魔術は当分のあいだ禁術となり、無断に使用した者には軽ければ無期の禁固刑、重ければ霊死限界を超えるまでの処刑が科されるだろう。

 むろん、きみも例外ではない。

 目下の懸案事項として、無登録の魔女や魔人どもからの反発が予想される。双方にすくなくない犠牲がでるだろう。

 きみにはつらい話かもしれないが、ここは我らに任せてほしい。

 ちなみに大天使ガブリエルさまはなぜだか今回の降臨には参加なされぬようだ。お忙しい身の上ゆえ、致し方ないとはいえ、お会いできぬのはざんねんしごくというよりない。

 敬えとまでは言わんが、きみも媚びの一つでも売ってみてはどうかね。尻尾を振ってみせれば、いずれは部屋のそとに出られるかもしぬぞ。自由とまではいかずとも、制約の範囲が城内くらいに広まるやもしれん。

 なにせガブリエルさまだけなのだからな。

 きみのその制約を外すことができるのは。

 緩めてもらえるよう、世辞の一つでも言えるようになっておくがよかろう。

 おっとそれから最後になるが、術式課の連中が追加の魔道書を送ったそうだ。霊波通信で過去とやりとりできるかもしれんとかなんとか意味蒙昧なことを抜かしておった。何やらいきり立っておったようなのでな、解析しだい、連絡してやってくれ。

 わしからは以上だが、きみからは何かあるかね。

 ほっほ、そう急いで消えることもあるまい。

 もうしばし久闊を叙そうではないか。

 以前きみが知りたがっていた魔王の墓場くらいならば、教えてやってもよいぞ。 


【無機】

 なんだい、おめかししてどうしたね。

 依頼?

 どれ、素体来歴はお持ちかい。

 ほー。

 ひゃっひゃ、おめさんにしちゃずいぶんとお高くとまった素体だね。

 ほれ、まずは座れ。そっちのメンテも目当てじゃろうて。

 ほー、またずいぶんといじくりまわしおってからに。

 ひゃっひゃ、なんだいこりゃ、【魔道金剛石】じゃないか。こんな貧相な素体になんてもん仕込むんだい。これだけで紛争が起きちまうよ。

 おめさんがどこの誰だかは未だにあたしゃ知らないが、よほどの魔力源泉の持ち主だねぇ、こりゃー、ひゃっひゃ。初代魔王とタメを張れるんじゃないかい。

 初代魔王はそりゃあすごいお方じゃった、なにせ神具をつくったお方じゃからな。

 値引きしてやるから贔屓にしておくれ。

 あたしゃ、おめさんみたいなバケモノを相手にするのが何よりの楽しみでね。余生短い年寄りの頼みだと思うて聞いておくれ。

 なんだい? さっきの素体かい?

 いつまでに用意できるかって、そうさね。すでに霊死した相手のようだから、ガワをつくる分にはそうはかからんね。

 ほー、よぉ見抜いとる。

 そうさね、元の生体性能まで出力をあげるにゃ、ちょいと厄介だわな。それこそおめさんのこの素体じゃねーがよ、魔力を溜めこんでおける魔具がねーと腕を上げ下げさせるだけで燃料切れだわな。

 おめさんの【コレ】がありゃ解決する隘路だて、どこで手に入れなすったか教えてくれんか。

 ほー、譲るから期限を早めろと。ええのかえ。【コレ】一つで国が買えるぞえ。

 まだある?

 予備がかえ?

 ひゃっひゃ、ひゃっひゃっひゃ。

 こんな愉快なことが、ひゃっひゃ、ふぇー、長生きはしてみるもんじゃな、こりゃ愉快だわい。

 ええよ、いつまでに仕上げりゃいいんだい。

 二十日?

 なにばかなこと抜かしてんだい、八日ありゃ充分さね、こんな愉快なもんつくらせてくれるんだ、ちんたらつくってなんていられんさね。

 【コレ】をかね、ほー、それはええ。

 いまある【コレ】を使わせてもらえるんなら、ますます暇は不要だて。

 なんだい、素体の材料はどうするか? いままでそんなこと気にせんかったじゃろ、そうさね、この素体レベルを編みこむにゃ、神獣の骨格か、或いは心の臓くらいは欲しいところじゃが、なぁにツテはある。

 ん?

 そりゃ構わんよ、この国の神獣じゃなかろうと、神獣は神獣じゃ。

 ほー、使こうてほしいツノがあると。それは楽しみじゃい。

 なに? もう持たせてある?

 どれ。ほぉ、こりゃたまげたの古代種かい……否、おめさんこりゃよもやとは思うが、『始祖種』じゃないかえ。

 そうじゃろう、そうじゃろう、おったまげた、よもや生きてるあいだにお目にかかれるとは、はー、おめさんいったい……ひゃっひゃ、やぶじゃったな、詮索はせんよ。この業界、深入りせんのが長生きのコツじゃ。

 にしても、ひゃっひゃ。

 大天使並の素体に、始祖種の頭角、極めつけは神具【魔道金剛石】とくりゃ、ひゃっひゃ、こりゃ歴史がひっくり返るぞい。

 なんだい、独占契約?

 そりゃこれだけ愉快なもんこさえさせてくれるってんならありがたい申し出じゃが。

 はて。戦?

 近いうちにかい、ほー、死者がでると。

 魔人クラスがかい?

 やつらがこぞって霊死限界を超えるってのかい、そりゃ戦というにはちょいとおだやかじゃないね。天変地異でも起きるってのかい?

 いや、断りゃしないよ、あたしゃお人形をつくれりゃそれでええさね、おめさんみたいな客人相手にお仕事できりゃ満足だて。

 またくる?

 しかしおめさん、どうやって帰るつもりだい、【コレ】は置いてってくれんだろ。

 また繋げばいいって、ありゃ。動かんくなりおった。

 どれどれ。

 はりゃー、ひゃっひゃっひゃ。こりゃ、ほえー、霊波同調してたとでも? 否、こりゃ生前転生術かい、魂の複製なんざ古代魔術ですら禁術扱いじゃろ、なんてもん使うんだい。

 ひゃっひゃ、ひゃっひゃっひゃ。

 こりゃうんと上乗せしてやらんとな、どら、まずは幻獣の心の臓でもつけてやるかいね。


【無二】

 うぃーっす、姐御ぉ、今いいっすかぁ? 例の場所まで来てみたんすけど何もねーんすけど。

 うぇー? 来ちゃマズかったっすか?

 やーでももう来ちゃったんで、とりま、探してみますわ。

 墓っすよね?

 なんかふっつーの森なんすけど、建物とかねーし、ただ遺体埋めただけなんじゃないっすか。埋めたっつーか捨てたっつーか、なんもねーっすもん。

 あ、ちゃうす、姐御の言うこと信じてないわけじゃないっす。たぶんあるんすよ、どっかに。

 でもあちきらの知るような墓ではねーんじゃねーっすかぁ?ってことを言いたかっただけっす。

 あ、すんません。

 ただでさえ突っ走ってんのに口ごたえとかどの口がほざくって感じすっよね、ホントすんません。言うてもですよ姐御、あんだけ盛大にご機嫌ほくほく語られたらあちきら従属なんざ、突っ走って当然っすよ、いったいいつ突っ走れってんですか、今しかねーじゃねーっすか、すこしくらい役に立たせてくだせーよってことをっすね、あちきらで相談しあって決めたんすよ。

 じゃんけんで勝ったやつが責任持って、突っ走ろうじゃねーのって。

 あー、そっすね。

 怒るっすよね、でもいいんすよ、それくらいは覚悟の上なんで。

 迷惑だって?そりゃーね。

 あちきら生きてるだけで他人の迷惑になりっぱなしな半端モンすよ。姐御に拾われてなきゃ今ごろ、どっかのゴロツキにでも獲っつかまって、霊死限界超えるまで、ただひたすらオモチャにされてたと思うっす。

 姐御はしらねーのかもしんねーけど、これでもね、あちきら感謝してんすよ。陰じゃ姐御の悪口言いまくってますけど。引きこもりマジありえねーとか、マジあちきらの定番ネタっすからね。黙ってじっとしといてくれりゃ満点なのに、しゃべった途端マジ厄災とか、屋敷の連中みんな言ってっし。

 なはは、姐御、泣くほど怒ってんすか、こえーこえー、これじゃとうぶん帰りたくもねーっす。

 合わす顔がねーっすよ。

 役に立ちてーんすよ。

 くっく。

 姐御が焦ってる声、初めて聞いちゃった。ほかの連中にも聞かせてやりてーなぁ。

 なぁ姐御、今なにしようとしてるか当ててやりましょうか。

 ドールをお探しじゃーねーですか。

 そっすよね。

 今すぐにでもここに飛んできて、あちきを叱ろうって魂胆っすね、見え見えっす。姐御の考えなんざ、あちきら、いくらでもお見通しなんすよ。

 あちきがひと仕事終えたら、ほかの連中があちきの分も詫び入れると思うんで、ドールもお返ししますし、まー、あちきに免じて半殺しくらいで勘弁してやってください。

 せっかく拾ってもらったこの命、せめて姐御のために使いてーんすわ。

 あ、なんかそろそろみたいっす。

 やー、なんか結界張ってあったっぽかったんで、術式融解かけたんすよ。ほら、あちき得意じゃないっすか。姐御がゆいいつ褒めてくれたやつっす。

 魔境とか言われてっすけど、こんくらいならまー、すこしは保つと思うっす。

 ししし、すんません、姐御のローブ借りてきちゃいました。

 あちきにぴったしって、ダメじゃないっすか、どんだけダボダボなんすか、部屋から出ねーからって見栄はってんじゃねーっすよ。

 まあ、いちどくらい姐御のお下がり着てみたかったんで、ちょうどいいっす。

 姐御……最期に一つだけいいっすか。

 このローブ、なんか臭うんすけど。

 ちゃんと洗ったほうがいいっすよ。

 なはは。

 あー、なんかヤベーの出てきたっぽいんで、やれるとこまでやってみるっす。もしあちきの骨でも髪でも何か一欠けらでも残ってたら、遠慮はいらねーっす。あちきのドール、つくってやってください。

 できれば姐御に使ってもらえたらうれしいっす。

 じゃ、姐御。

 お元気で。

 最期に声聞けてよかったっす。

 感謝してます。

 すんません。


【愚痴】

 あら、いらっしゃい。珍しいじゃない。どうしちゃったの浮かない顔して。

 そんな隅っこになんて座らずこっちいらっしゃいよ。どうせ誰も座らないもの。

 オレンジジュースでいいでしょ。

 え?

 きょうは酒って、あら、珍しい。

 べつに責めちゃないわ。でもそれ、ドールでしょ。酔えないから酒なんて無駄だってさんざん昔は言ってたじゃないの。いいけどね。

 はい、いまの季節はこれがいちばん。

 ん?

 なに見てんだって、ずいぶんな言い方ね、ご挨拶じゃない。懐かしいなーってね。次元の魔女もいまじゃしがない酒場のマスターでしょ。こんなところに魔王軍総帥が生き延びてるなんて誰も思いもしない。

 んー?

 いいのかって?

 なにが?

 あー、あっちの客はみんな使い魔だもの。さいきん魔道石が安値で流通はじめてて、それで。

 こんなナリでも魔術がまた使える。

 やっぱり安心するわ。

 そうだ、しってる? 市場を牛耳ってた組織が壊滅したんだって。一般の市場にも格安で出回りはじめてて。おかげでわたしみたいな「訳あり」でもこうして魔力を溜めておけるでしょ、ドールを仮宿しにしてる身としては本当に助かる。

 物好きがいたものよね、組織を壊滅しといて、肝心の中身をほったらかしにしてんだもの。

 なに?

 なんも言ってないじゃない、世のなかふしぎなことがあるもんだなーってお話よ。

 ねぇ、ほんとにどうしたの。いつもみたいに憎まれ口の一つでも垂らしたら?

 いいのよ、ここはそういう場だもの。

 弔い酒?

 あー、それはなんというか。

 そっかそっか。

 んー?

 同情でおごられたくない?

 おばかさん、これはマスターの分。

 そ、わたしの。

 きょうはとことん付き合ったげる。

 飲も、飲も。

 ん?

 なに?

 魔境にドールで?

 単独って意味でしょ、ムリじゃない? どうにかできるわけがないっていうか、立ち入っただけで、霊波が乱れて終わりでしょ。一般人に害が及ばないよう、相殺の術式くらいは展開されてるだろうし。わたしに言われるでもなく、あなたがいちばんそっちには詳しいでしょうに。

 そういえば、いつか訊こうと思ってたのよね。

 どうしてあのとき、わたしが霊核転移したって判ったの? 『心臓万開花』の施された肉体だよ、万が一にも霊死限界を超えることはないんだもの、よほどの臆病者でないかぎり、自分の霊核を避難される真似なんてするわけないじゃない。

 え?

 知ってただけ?

 わたしが臆病者だってことを?

 それだけ?

 冗談きついわ、だって未だにわたしの肉体、殺されつづけてんのよ、ほかの連中がその可能性に気づかないわけ――え?

 封殺処理中は外部から魔道解析できない?

 そうなの?

 あー、だからバレなかったのか、なんだ。てっきりあんたが根回しして庇ってくれてるものとばかり。

 ん?

 逆に訊きたい?

 なんでってなにが? どうして封殺処理の術式を知ってたかって?

 知らないわよ、だってあれ、天界で編みだされた術式でしょ? あのとき初めて見たし、魔力から霊波まで完全に凍結できるなんて思わないじゃない。

 なーんだ、じゃさっきの嘘なんだ。

 わたしが臆病者だってやつ。いい線いってたのに。

 そ。もしかしたらやられちゃうかもなーって思ってただけ。保険かけてただけ。だいたい、次元の魔女なんて呼ばれてたけど、しょうじき言えばただ死なないだけの頭でっかちなおばーちゃんじゃない? 見た目ばっかし若作りして、今じゃこんな若造のガワなんか着て。

 長生きした分だけ知識はあったけど、それも今じゃあんたに負けちゃうし。

 んー?

 頼みごと?

 いいよ、聞いたげる。なんでも言ってちょうだい。

 んー? 調教?

 わたしが?

 魔人を?

 冗談きついわよ、もう。

 ……本気?

 やだ。

 やだやだやだ! ぜったいイヤ!

 お断り!

 いやいやいや、引き受けるって言ってないわよね! やだって言った、わたし今やだって言った聞いてたでしょ。

 通報?

 べつにいいですけど? 誰がこんな若造のドールが次元の魔女だなんて信じます? 霊核移植だってそんな高等魔術、誰ができるってんですか。

 忘れたなんて言わせないわよ、拒絶反応がでた霊核、ドールに定着させてくれたの、あなたなんだから。わたしが捕まるならあなたも同罪。どう? 何か言うことある?

 ん? なに?

 ふうん……なんて?

 魔術禁制法?

 いつから?

 やめてよもう、うそでしょ。

 魔道登録? してるわけないじゃない、だってわたし、ドールだよ? 魔術禁制ってことは魔道石だって使っちゃダメってことでしょ、えー、じゃあどうすんの、わたし、調べられたら、えー……わかった、協力する。その代わり、分かってるわよね? あんた、わたしのこと助けたんだから最後まで面倒みなさいよ、分かってんの。

 はー?

 わくわくなんかしとらんわ!

 もう行く? はいはい、さっさと帰ってちょうだい、二度と来ないでいいのよ。

 お勘定? おごりよ、おごり、いいから消えて。

 なに? 名前? 魔人の? そんなの聞いたってしょうがないでしょ、たかが魔人ごとき――。

 ――ジョーカー!?

 逆鱗の魔術師、溶岩の錬成者、あのジョーカーだっての? なんてもん復活させてんの、あんたはもう、はぁ……。

 わかった、わかったわよ、好きにして。どうせソイツにもなんらかの枷でも強いてんでしょ。

 はいはい。じゃあね。

 二度と来ないで。

 ふう。行った行った。

 さいきんおとなしくしてたと思ったら、はぁ。むかしのこと思いだしちゃったじゃないの。嵐のようなコね、まったく。

 あ、もう。

 忘れ物してんじゃないわよ。

 んー? お代?

 生意気な真似して、いらないわよこんなもん。

 んー? なにこれ、うそでしょ、【魔道金剛石】って、なんてもん置いてってんのよ。

 あーもう、ホント嫌、こういうことすんだから、ひとの気も知らないで。

 どうすんのよ、神具なんて。

 はぁ。

 いまのうちに逃げる準備でもしとこうかしら。


【無為】

 やあ。そろそろくるころかと思っていたよ。

 きみと最後に会ってからどれだけの時間が経ったのかはそう、きみの言うように、分かりっこないし、分かりようもないが、それでも「もう二度と会うことはない」と去ったきみがこうしてふたたびぼくのまえに現れるだろうことは知っていたよ。

 なぜ?

 それはきみのほうがよく理解しているはずだ。きみはなぜここに足を運んだ? ぼくに会って何を得るつもりだい。

 だんまりか、きみらしくない。

 きみはぼくから情報を引きだしにきたのだろう、きみはぼくに訊きにきたのだ、そうだろ?

 この世にある総じての「知」をむさぼり尽くしているきみが、あろうことか、ぼくなんかの助言を必要としている。皮肉なものだ。きみにとっての自由とは、その莫大な「知」であり、同時にそれら「知」をその身に蓄えることができるのは、きみが物理的な自由をはく奪されているからだ。

 では、同様にして、物理的な自由を封じされているぼくにはどんな自由が等価交換されているのだろう。

 きみたちはぼくから霊核以外のあらゆる尊厳と自由と権利を奪ったと思いあがっているかもしれない。しかし、ぼくにとって自由とは、霊核のつむぐ波動であり、ゆらぎだ。

 きみが「知」を蓄積しているあいだ、ぼくは「無」を育んでいた。

 無にはこの世のすべてが納まっている。

 きみが考えること、きみが辿った過去から、想像する未来、あらゆる可能性が「無」には内包されている。世界ではないから、それら可能性がきみたちに何か影響を与えることはないのだけれどね。

 ただ、こうしてきみはぼくの「無」から何かを得ようとやってきた。もちろんその可能性だって「無」には存在していたし、現にぼくは知っていた。

 きみが何を知りたがっているのかも、きみから訊くまでもなく知っている。

 それでも礼儀としてきみはぼくに言葉を介して伝えるべきだ。

 言葉は呪詛だ。

 ぼくときみを結ぶ橋となり、縁となる。

 一方通行では橋はかからず、縁は結ばない。

 さあ、言ってごらん。

 きみはぼくから何を聞きたい。

 そう、魔王は生きているのか、だね。しかしきみは本当にそんなことを知りたいのかい。そうじゃないだろう、自分に嘘を吐くのはやめたまえ。きみが知りたいのは、魔王の生死ではない、どういう過去があるにせよ、なぜきみが生まれたのか、だ。そうだろう?

 きみは周囲の者たちからこう言い聞かされてきたはずだ。魔王が死んだから、永久魔力源泉が「隔世覚醒魔伝」したのだと。

 かつて世にある魔力の大本は魔王だった――魔王亡きあと、世界を土台から支えているのはきみの底なしの霊核だ。正確には、そこに寄生するある種の神獣――始祖種(しそしゅ)呪詛目(じゅそもく)の霊蟲(れいちゅう)が、世界を漂う霊素を分解し、魔力化する。

 見方を換えれば、魔力の正体とは、霊死限界を超え、崩壊した魔女や魔人、天使や聖人の霊核の残滓だということになる。

 きみはあらゆる生命の源と繋がり、その死を蓄積され、消費し、蟲が糸をつむぐように、魔力を延々と供給しつづける。そのために生かされているようなものだと気づいていながら、きみはその境遇を甘受している。

 なぜか。

 きみには子孫がつくれないからだ。

 子がなければ、きみ亡きあと、永久魔力源泉は誰にも引き継がれない。兄妹でもいればよかったものを、ざんねんながら先代はきみ以外の「予備」を造らなかったようだ。

 機嫌を損ねたかい?

 しかしぼくは間違ったことは言っていない。現に、きみはそのために「銀の制約」を受け入れ、世界のために鳥籠の中に仕舞われることを許容した。

 だが、きみのことだ、もうずいぶん前から気づいていたのではないかな。

 いずれ世界からは魔術が排除される。

 いずれきみが死にいくさだめにあるかぎり、生命がいずれ死に絶える宿命を背負わされているかぎり、魔力は世界から消え失せる。

 そうなる前に、世界はその様相を変えなければならない。

 魔力を必要としない世界へと、生まれ変わらねばならない。

 もっと言えば、魔力が必要な世界であるかぎり、魔王のような存在が絶対的に不可欠だった。永久魔力源泉が――隔世覚醒魔伝が――その血筋が――世界には欠かせない存在がゆえに、絶大な権力を保持していた。快く思わない勢力などいくらでもいただろう。だが彼ら自身、魔力の恩恵なくして、権威を発揮できない。

 ならばどうすべきか。

 考えた結果は、ご存じのとおり、歴史が証言している。

 きみがここにきた理由、そのきっかけを当ててやろう。魔術が法的に禁止され、或いは、そうなることが決定された。

 暗黒街の住人たちは反発するだろう、戦はもう起きているかい?

 そうそう、きみはきっと魔王の墓場にも足を踏み入れたはずだ。そこにあるはずのものがないことに目を瞠ったはずだ。

 きみの予定では、自分の代わりとなる器を――「憑代」を欲していたはずだ。きみの計画はそれなくしては成り立たない。まさしく中核をなす「器」だ。

 否、きみの中核だけを抜き取るために必要な「箱」と呼ぶべきかな。

 いずれにせよ、きみはこう考えた。

 隔世覚醒魔伝が起こせないのならば、強制的に覚醒魔伝させるほかないと。そのためには先代の骸が――素体来歴が必要だった。

 しかし、墓場には……。

 そう。きみは今、戸惑っている。

 なぜぼくがそんなことまで知っているのか。

 なぜ、知っていながら、平然としていられるのか。

 解らないかい?

 なら逆に訊こう。ぼくはなぜこうして生かされているのだろう。生かされながらに捕らえられているのだろう。処刑されない理由はなんだい? 生かしておく利は?

 そもそもの根っこを掘り返してみよう。

 ぼくはいったい何をして、こんな首だけで生かされつづけているのだろう。

 魔族ではないぼくが、なぜこんな目に。

 ぼくにはもう、きみに触れることも、声を聞くことも、その姿を目にすることすらできない。にも拘わらず、しゃべる機能だけは残されている。

 なぜだろう?

 この状態も、そう、慣れればそう苦ではない。ぼくにはきみの底なしの霊波が、魔力が、そのゆらぎが、何より色濃く感じられる。

 見るまでもない。

 聞くまでもない。

 きみの動揺から、考えから、そう――深い哀しみまでね。

 もったいないことをしたね。かわいいコだったのに。

 なんだい、もう行ってしまうのかい。

 きみはまだ、肝心なことを何も聞いてはいないじゃないか。

 いいのかい、ここを出たらきみはもう止まれない。ここに来ることもできなくなるだろう。最後の機会を活かさなくてもいいのかい。

 その手には乗らない?

 なんのことだろう。間違ってもぼくなんかを殺してくれたりはしないんだろ、そんな真心をきみに期待するほど愚かではないよ。

 ああ、行ってしまうのかい。

 そうそう、魔王の生死だっけ?

 きみはもう知っているはずだ。ぼくが後押しするまでもない。きみだってすでに、かつてぼくがしたことをその手で実践しているはずだ。

 次元の魔女は元気かい?

 あのコはぼくのなかでは最高にして最悪のデキソコナイだ。蝿に金を与えたようなものだ、まったく無駄なことをした。

 まだ聞こえているだろ、いいかい、きみはもう後戻りはできない、やりきるしかない、世界はもうきみを必要となどしていないが、たしかに世界はきみを利用した。そのツケを払わせるときがきたんだ、遠慮はいらない、きみの闇を、魔を、ぶちまけろ。

 ぼくは知っている、知っているからな、きみの闇の深さを、これからなす業の深さを。

 ……いずれ未来には「無」しかない。

 すべてはぼくに呑みこまれる。

【武器】

 お待たせいたしましたワタクシ、魔具総合相互ギルドのガングと申します。僭越ながらギルドの代表取締役を仰せつかっております。

 お話に伺ったところ、どうやら大口の契約を申しでていただいたようで、ありがとうございます。

 ええ、ええ。

 はい、精霊軍および魔道守衛隊への魔具の供給はワタクシどもが務めさせていただいております。どれくらいの量か、とそういう内部情報はいくらお客さまでもお話できない決まりごとになっております、ご寛恕願えるとさいわいです。

 具体的な数はどうでもいい? はて、どういう意味で――軍への納品数の五割!?

 大陸への供給ですよ、その半分の量を卸せとご所望であられますか?

 いえ、可能か可能でないかと申しあげれば、可能でございます。

 しかしながら、国を一巡期支えられるだけの膨大なお値段になってしまいますが――払える? 左様でございますか、いえ、では詳しいご契約内容のご確認をさせていただきたく存じます。

 その前にですか? なんでしょう?

 ご提案でございますか?

 いえ、時間はございます、何でもお申しつけいただいてけっこうです。

 魔道石ですか?

 ええ、いまぴったりの話題でございますね、現在、南部のシンシュンシャン山村と購買契約を結んでおりまして、市場に流れている品のおおむねはワタクシどもの商品でございます。

 ここだけの話、市場を独占していた業者が危ない橋を渡ったらしく、なんでも潰れたそうで。いまではこうして、正規のお値段にて、清く正しく、市民のみなみなさまに良質な魔道石を使っていただけております、ワタクシどもとしてもたいへんよろこばしい状況にあります。

 はい。無料で?

 はて、お話は解りますが、承知しかねるご提案でございます。

 代わりに神具を?

 御冗談を、仮に神具を戴けるとしても、さすがに対価として釣り合わ――こ、こ、これは【魔道金剛石】でございますか!? 予備ならいくらでもある?

 失礼ですが、もしや神獣「メドゥーサ」をお囲いになられて?

 ……得心致しました、なるほど。

 いえ、ワタクシも以前同じことを閃いていたもので。

 この仕事に就く前は魔道研究家の端くれでございました。いやはや、理論的に可能とはいえ、よもやあの「メデューサ」を飼いならせるとは。ましてや神具ですよ【魔道金剛石】を食べさせるなど――よしんば考えついたとして実行するなど、にわかには信じられません。

 いえ、ワタクシの感応など関係ございませんね、失礼いたしました。あまりの驚きに、少々取り乱してしまったようで。

 よろこんでお引き受けいたしましょう。【魔道金剛石】一つにつき百個、いえ、千個の魔道石の原石を無料で市場に卸すことをお約束いたします。

 簡易結界でございますか?

 ございますが、はて。

 コレはなんでございましょう。術式をコレに書き換える、でございますか?

 そんな、そんな、いくらなんでも軍へ卸すものに細工なんて――え、逆? お客さまの分の簡易結界をこの術式のものに書き換えればよろしいので?

 いえ、それくらいならば問題ございません。

 しかし、よろしいのですか? ワタクシども商品は、国家魔道魔術協会最高術師の「あの方」の術式を採用しておりますが。さいきん改善されたばかりの最新式なのですが――構わない?

 いえ、お客さまが望まれるのでしたら、そのように手配いたします。

 ちなみに簡易結界が破られたときの保険を無料で追加させていただいておりますが、いかがないさいましょう?

 精霊の羽?

 できないことはないのですが、なにぶん、この量です、手持ちがすくなく――ある? 持っている? 戴けるのでございますか?

 そんな、そんな、お客さまにお出しいただくなんて――代わりに寄越せ? 情報?

 はて、どのようなことをご所望でございますか?

 顧客に関する情報以外でならばなんでもお答えいたしましょう。

 霊波魔道局でございますか?

 内部に干渉できる者……お心当たりが一人ございます。ただなにぶん、人前に姿を現さない偏屈なやからでして、お客さまさえよければ、霊波通信をお奨めいたしますが、いかがなさいましょう?

【無地】

 初めまして、驚きました。

 この霊波数は特殊でして偶然に通信してしまう確率はあなたがデタラメに思い浮かべた数字がいまこのとき鳴いたニワトリの数と一万回連続で合致するのと同じくらい低い数値なのですが、あなたはどうやってウチの霊波数を知ったのですか十秒以内の返答を要求します。

 あの男が――ふんふん八割がた理解したがしかしながら名も知らぬどこの誰とも知らぬあなたの願いをきく道理はウチにはないと判断する、よって話はこれでおしまいにさせていただく。

 金?

 金などいらないあなたはウチのことをどうやら何も知らないようだそれは交渉として悪手でありウチに対する侮辱に値することを理解されたし。

 報酬?

 ウチに対価を選ぶ余地を与えるのは一割ほど見直したがだからといってあなたがそれを用意できる保証はどこにもなくまた仮に報酬をもらい受けることが可能だとしてもあなたの頼みを聞き入れる理由ができたことにはならない、よってこの話はこれでおしまい霊波数も代えさせてもらう以上、反論は受けつけない。

 負け惜しみ?

 ふんふんいよいよ訳の分からぬことを言いだしたあなたに対してウチが何かしらの温情をそそぐ道理は一抹もないのだが聞き捨てならないセリフだけにせめてウチのどこが負けていてどのように惜しんでいるのかを十秒以内の返答で述べてみろ。

 ふんふん。

 いいだろう、どこの馬の骨とも知らぬおまえにおいそれとおそれを抱くなど妄言はなはだしいが、あなたがいかに愚かでバカでうぬぼれた戯言を述べているのかをハッキリさせるべくウチはおまえの素性を十秒以内で洗ってみせよう迂闊に霊波通信でウチに接触したことを後悔させてやる。

 ふんふん。

 ふんふんふん。

 なるほどなるほど、これはなかなか。

 ふんふんふん。

 理解した。

 いいだろう十秒経過してなおあなたの素性はハッキリしなかったもうすこし子細に述べればあなたがどこにいてどのような術式展開を用いてウチに干渉しているのかも判然としなかった。

 いくばくかの興味が芽生えたがゆえにまずはあなたの依頼内容を拝聴しよう、その代わり報酬はあなたについての情報と規定させていただくことを了承ねがいたい、あなたがどこの誰でどのようにウチの霊波数に干渉しているのかを提供していただきたいのだが異存は認められない、仮に可能でない場合すなわちウチにあなたの情報を提供できない場合はすみやかに通信を終え金輪際二度とウチに干渉しないことを了承したものと見做すがいかがか。

 ふんふん。

 ウチの霊波防壁の安全性に疑問があるとなるほどなるほどもっともな理屈だたしかに安全でない相手に個人情報は漏らすべきではないがしかしあなたはウチの腕を見込んで依頼をしてきているのではないのかいまのところウチに言えることはあなたが超法規的処置に並ぶほどの規格外な方法ですなわち大陸に展開されている霊波数周期統合結界を度外視して通信可能な術を有していること、つまるところ魔道魔術協会および政府に深く内通している者でありかつ霊波魔道局には干渉する権限を持たない何者かであること――権限を持っているならばウチの存在を知った時点で霊波通信の防護壁を変更および強化するはずだ、加えて違法であると解りきっていながらウチに依頼をしてくるところを鑑みればあなたが魔道魔術協会および政府によい印象を抱いていないこと、並びに緊急を要しているつまり時間がなく手段を講じていられない状況にあることは察しているつもりだが、それでもほかに手段があるならばそちらを優先されるがよろしかろう、それでもウチは一向に構わないしむろん譲歩するつもりも毛頭ない。

 なるほど情報は提供するとしかし成功報酬にさせてほしいとなるほどなるほど。

 ウチにしてみれば依頼を受諾した時点でそれは完遂して然るべきもの、報酬がいつどの段階で支払われるかは息をさきに吸うのか吐くのかの違いのようなものでありどちらがさきでも構わない。

 いいだろう、依頼を述べられよ。

 ふんふん。

 ふんふんふん。

 十割理解したが……確認のためもういちど述べられよ。

 ふんふん。

 ふんふんふん。

 なるほどなるほど。

 たしかにすべての霊波通信は霊波魔道局によって管理され記録されている、それを改ざんすることは実質不可能だ、理由は二つありひとつは記録媒体が管理局の中枢にて厳重に保管されていること、ふたつ目は記録媒体がもう一つありそれが通信している当事者たち各自の霊核そのものにあるという点、すなわち管理局のほうは改ざんできるが霊核のほうへの改ざんは原理上不可能だという点にある。

 破棄するだけならばそうむつかしくはないだろう、大量殺戮を実行すれば事足りるがあなたの依頼はそうではなく飽くまで改ざんであり、破棄ではなく、またウチに大量殺戮を実行するだけの技量も動機もない。よってあなたの依頼は遂行不可能と判断する、お断りさせてもらう。

 ふんふん。

 よかろう言い分を聞こう、二十秒以内で返答ねがう。

 ふんふん。

 ふんふんふん。

 論理に仮定を挟まれるのは好まないがいいだろう、あなたの言うように近いうち霊波混線が引き起こるほどの大規模な戦が起きるとしよう、たしかにそのとき管理局は一時的に麻痺し、霊波の記録そのものが滞るだろう、しかし仮にそうなっても霊核のほうに通信履歴は残る、混線から復帰すれば管理局のほうで霊核の履歴を辿り、空白の時間を埋めるだろう。

 ふんふん。

 なるほどたしかにあなたの言うとおり、空白を埋める瞬間を見定め、そこに偽りの情報を流せば管理局はそのまま偽りの情報を正規の履歴として記録するがしかしそれには寸分の狂いもなくその空白の時間の起きる瞬間を予測しておかなくてはならず、同時に霊波混線に巻き込まれている霊核の位置情報から霊波数まで逐一把握しておかねばならないだろう、これはこちらの力量不足で含羞を禁じ得ないがそれだけの情報量をさばききるだけの処理能力があいにくとウチにはない。

 ふんふん。

 報酬を追加させてほしい?

 いいだろう言うだけ言ってみろ。

 ふんふん。

 ふんふんふん。

 十割理解した。王国魔道術師レベルのドールを千体用意するという話だが、たしかにその前提があればあなたの依頼を遂行するだけの下地は整われるがしかし先にも述べたが霊波混線の起きる日時を正確に予測できていなければいくら処理能力を強化しても意味がないと判断するものだが――予測はできると、なるほどなるほど、なかなか愉快な提案だ――あなたが戦禍の情勢を逐一把握できるということはあなたがそういった情報を入手できる立場にあるということの示唆でもあり、同時にそれがウチへの報酬の前払いにもなり得る。

 ふんふん気に入った。

 いいだろうあなたの依頼を引き受けるまずはドール千体を並列できる場所を用意してほしい可能であればそこに霊波遮断の術式展開を得手とする者を十人ほど寄越してほしいが――問題ないとそうくるかふんふん。

 なかなか愉快だ、ますますあなたへの興味が深まっていくのを感じるこんな感情は生まれて初めてだ、そうだそうしよう、一つ提案があるのだがいかがか。

 報酬を変えてほしい。

 あなたからの贈り物を用いてあなたの居場所を割り当てたならば逃げずにウチと会ってくれるだろうかむろん依頼を遂行してからのことになるが考えてみてはくれないだろうか。

 できるものならやってみろと、ふんふん。

 よい返事だ。

 では最後に一ついいだろうか。

 ――あなたの求める「改ざんしてほしい内容」を聞かせてほしい。

【内(うち)】

 お呼びだししてすみません、何せこの戦況では我々だけでの制圧は骨が折れます。

 現在、東部西部南部、北部以外の戦地の指揮は我々魔道守衛隊が担っております。

 司祭総帥でありますか? 北部にて精霊軍と合流し、短期的制圧戦略本部に出向いているそうです、お聞きでは?

 そうですか、総帥もおひとがわるい。

 ただなにぶん、北部の反対勢力は強大だと聞いております。大陸全土にて消息不明だった各地のバランサーがこぞって反対勢力に加勢しているそうで、北部にはその本拠地があるとの報告が。ただ北部に関しては過度の心配は不要でしょう。

 今回、精霊軍には天界からの援軍が、さらには大天使さままで加勢していただいているとの話ですから、いくら魔人クラスの術師たちでも数日保つかどうか。却って同情してしまいます。

 はっ。

 不適切な発言でした、なにとぞご容赦を。

 戦況ですか?

 南部西部においてはおおむね小康状態、軍事魔具の消費が著しく、その補完のため、東部である我らの戦力が一時的に低下しているのが現状です。第三結界を突破されたのが二時間前、第二結界を突破されるのも時間の問題です。

 ええ、そうです。

 総帥の指示です。

 何かあればあなたさまに助力を求めよと。

 いかがなさいますか。撤退ですか?

 は?

 全兵士を第二結界の内側まで下がらせろと?

 いえ、了解。早急に手配いたします。

 神獣を?

 召喚!?

 待ってください、僭越ながら申しあげます、突破されたとはいえ第三結界付近にも避難民たちの格納施設があります、イマ神獣を召喚されたら少なくない犠牲が――いえ、おっしゃるとおりですがしかし。

 いえ。

 はい。

 犠牲はすでに大勢出ています、しかしでは我々は何のためにこうして――いえ、誤解などしてはおりません。

 我々の使命は民を守ることであります。

 違うとはどういうことですか、おっしゃる意味が――……民を守ることではないと?

 はっ、復唱します。

 我々の使命はすべての民を守ることではなく、未曽有の危機からより多くの民を生かすことであり、全滅させないことであります。

 了解です……出すぎた意見でした、すみません。

 差しでがましいのですが、総帥に許可を仰がれなくともよろしいのですか?

 はい。

 たしかに全指揮権はあなたさまの招致が確認されしだい全権を譲渡するよう指示されております。

 はい。

 復唱します。

 全指揮権は国府最高魔道魔術師さまに譲渡されております。この戦地での最高司令官はあなたさまであります。

 役職での呼称、失礼いたしました、しかし以前、名で呼ぶなとの命令を受けましたので。

 全隊員への撤退命令はすでに発信済みであります。

 現状の戦力損失率はおよそ三割、内訳としては軍事魔具の消費――主として簡易結界の不足と、負傷した兵士への治癒術展開にて大量の予備魔力源を消費したことによる戦力の減退が報告されています。

 霊死限界を超えた兵士ですか?

 少々お待ちを。

 現状把握している数では、百には至っていないそうです。想定より、わるい結果ではありませんね。いえ、イマのはじぶんのいち感想でありました、撤回いたします。

 はっ。

 神獣の召喚を中止されるのでありますか?

 いえ、了解。

 多重結界ですか?

 第二結界のうえからさらに多重に術式結界を?

 しかし現在、術師は大陸全土に散っており、現在招集可能な術師では、とても広域に術式結界を展開しきれないかと――問題ない?

 しかし、予備魔力源にそれを維持するだけの魔力はもう――それすら問題ないと?

 少々お待ちを。

 ただいま前線からの報告が――第二結界内への全兵撤退作業完了を確認、作戦自体はいつでも実行可能のようです。

 サガッテイロ?

 は、はい。

 こ……これは――防壁結界、ではない? あり得ない、まさか【魔球】を多重に?これほど広域に?たったひとりで……!?

 はっ。

 ご、ご冗談を。

 あなたさまがやろうと思えば、この城下町は一瞬でじぶんの耳カスと見分けがつかなくなるであります。よそ見はご遠慮を、あなたさまだってそのときは我々共々、耳カスの一部であります。

 そもそも、それほど広域に魔球を展開できるのならば、敵対勢力など一網打尽ではないですか。

 犠牲?

 は、はい……たしかに申しあげました。じぶんは、民間人の犠牲はより少ないほうがよいと思っております――はっ。

 じぶんの信念を曲げたいとは思っておりません。

 感謝いたします。

 これですくなくとも犠牲は拡大せずに済みそうであります。

 魔球はあとどれくらい――精霊軍が戻ってくるまで?

 ということは――はっ、了解。

 復唱いたします。

 これから東部魔道守衛隊は一般守衛隊を残し、作戦を変更、全兵力を以ってほかの地区の助勢へと移行するであります。

 それで、その、あなたさまは?

 北部へ?

 精霊軍への加勢――そうですか、いえ、それは心強い。

 遺体の回収?

 いえ、当分後回しになるかと。

 はっ。

 残りの予備魔力源は、まずは負傷者の治癒に当てるよう指示をだしておきます。あなたさまは構わず、総帥のもとへ。

 あ、魔術師さま。

 いえ、あなたが来てくださってよかった。

 どうか、ご武運を。

【無視】

 探しても無駄だ、ヤツは前線だ。

 総帥だろ、お目当ての相手は。

 会釈くらい寄越したらどうだ、愛嬌のないやつめ。

 こんなところまでおぬしが出てくる謂れはないのだぞ、ああいや、おぬしの場合は覗き見の域をでないか。

 ワラワか?

 ワラワは高みの見物だ、こんな下等な争いに手を貸すほど安くはないのでな。

 なんだ、意外とはどういう意味だ。

 弱い者いじめ?

 かっか、言い得て妙だ、嫌いではないのだがの、もっとも弱い者いじめというのは、それを虐げることで得られる愉悦に値する価値が弱者側にあることが前提にたつ。ただ弱く脆いだけなら、それこそ泥遊びでもしていればいい。

 そういう意味で、この場には泥しかない。

 否、弱い者いじめというなれば、それこそ先方に肩入れをしたいくらいだ。

 すればいい?

 焚きつけるなよ小娘、貴様らの要望に応えわざわざ降りてきたワラワへの敬意を忘れるな。ワラワの尺度で言えば、まっさきにいじめたいのはおぬしなのだからな。

 まあいい。

 どの道、ガブリエルがいないことには、おぬしなど泥にも足りぬ。いつもの放浪癖がでたようでな、どこで何をしているのやら。

 ん?

 聞いておらんか?

 そうだった、密にしておけと指示したのだ、まあおぬしなら構わんだろ。

 それにしても妙だとは思わんか。

 先方の戦力もそうだが、なぜやつらは広域魔術を展開せんのだ。

 おぬしらは領地への被害を慮ってのことだろう、では先方はなぜ使わん。城を落とせばすくなくともこの地の覇権は獲ったも同然、ならば優先すべきは遠距離からの一撃必殺であろう。なぜわざわざ群れをぶつけ合う。これでは無駄に戦を長引かせるだけであろう。まるでそれこそを狙っているかのようだ。

 おぬし、どう思う?

 どうも思わんか、おぬしらしくはある。

 そうそう、ほかの戦地の情勢を訊いた。戦況は振るわんらしいが、思ったほどには被害が少ないようだ。我らが手を貸すまでもなかったか?

 ふん、言いよる。

 ただ気がかりなのは、霊死限界を超えた者たちが比較的少ない割に、戦況が覆らん点だ。おぬしはどう見る?

 相手陣営もそれだけ打撃を受けていないと?

 ほお。

 それにしては妙だの、ワラワの放った使者によれば、霊死限界を超えたと見られる兵士の多くは、階級に関係なく術師であったそうだ。おおよそ左官クラス以上での、現場の指揮系統はさぞかし混乱していることだろう。指揮官がこぞってやられているわけだからな。

 単純な数字だけ追っていては見逃しがちな損失だ。

 先方には優秀な策士がいるようだ。

 こちら陣営の階級を喝破し、核を狙い定めて攻めてきよる。

 おもしろそうなのでな、ほかの連中にはまだ言っとらん。この程度のことにも気づけぬ兵など、捨て駒にもならぬ、派手に散ればよかろう。そのほうがのちのちのためになる。

 まあ、それを知ってどうするかはおぬしが決めろ。

 そうそう、魔具が足りないらしくてな。

 組織のあたまでありながらヤツが前線に出ているのもそのためらしい。なぜだか先方が予想よりもはるかに多くの魔具を保有しているようでな、いまはほかの地から魔具を掻き集めさせている最中だ。

 どちらの魔具がさきに切れるか、見ものだの。

 ここでもし、先方が魔具の補給を継続して行えるだけの備蓄を有していたとすれば、いよいよこちら陣営も手段を選んではいられんくなるな。

 かっか。

 先方の狙いがもしそこにあるのだとすれば、いよいよおもしろくなってくるぞ。広域魔術展開には大量の魔力を消費するのだからな、失敗すれば獣をまえに裸で横たわるようなものだ。

 そうそう、忘れておった。

 もしこの場におぬしがやってきたならば、このように伝えろとヤツから頼まれておってな。おぬし、大量の魔具を保有しておるそうだの。とくに簡易結界か? それを我が軍へ寄越せ、と精霊軍司祭総帥さまはのたまわれておったぞ。

 かっか。

 おもしろいの。

 どうした? 会釈の一つでも寄越してみせろ。

 それともなにか?

 ワラワではなく、おぬしが付いてもいいのだぞ先方には。

 おぬしも知っておろう。ワラワはただ、弱い者いじめがしたいだけなのだ。

 燃えようが、燃えなかろうが、ゴミはゴミだ。

 いずれ勝敗に興味はない。

【無知】

 姉さまー! 姉さまー!

 はぁはぁ、やっと追いついた、歩くのはやいよもう。

 うるさい?

 あ、聞こえてたんだ、それなら待ってくれてもいいのに。

 なに?

 幼児?

 幼児とはひどい、これでも背とか伸びたんだよ、ほら!

 え? あ、用事か、そっか。

 ミカエルさまからお願いされたの、姉さまの持ってる魔具ちょうだい! あ、場所とか教えてくれたらちょちょーいって取ってこれるよ、どうする?

 かってに持ってけ?

 だーかーらー、その魔具はどこに……って、なはー!?

 これって空間転移術?

 はひゃー、一度にこれだけいっぱい、すごい。よくバーンってなんないね、さすが姉さま。ヨっ、下界イチ!

 いふぁい。いふぁいれす。

 ほっへを、ほっへをつへるのをやめふぇくらはい。

 イタター。

 あ、待ってよー。

 それはそうと、ガブリエルさん知らない? 下界に用があるとか言ってお出かけになられたんだけど、なかなかお戻りになられなくて。姉さまのところにやっほーってきたりしてない?

 しらん?

 そっかー。

 ま、あのひとのことだ、どっかで神獣とでもたわむれているのかなーぁ?

 じー。

 べつに見てないよ、ううん、何でもない。

 ところで姉さまはどこ行くの?

 帰る?

 えー、手伝わないの、みんななんかたいへんそうだよー? 姉さまの手にかかれば、すぱぱぱーんって片付いたりするんじゃないの、そんなお姿でも、魔力源さえあればお外でもすごいことできるんでしょ。ほら、あっちのほうに予備のやついっぱいだよ、使っちゃえばいいよ。

 わたし?

 わたしはだってこの肉体の余すことなくはミカエルさまに捧げると誓ってるもので、えっへん。

 ミカエルさま?

 あの方はいいの、こんなへちゃむくれのごちゃごちゃごときに手を貸すなんてそんな真似しなくていいに決まってる、それにもしミカエルさまがこんなところでその気になったら、うー、考えただけで後片付けがめんどーい! その点、姉さまならうまくやってくれそうじゃない? ぜひぜひご尽力のほどを、えへへ。

 質問?

 いいよ、なになに、うれしい、何でも訊いて、姉さまから興味持ってくれるなんて!

 どうやってきた?

 はいー?

 あ、下界にってことですか?

 なんだその質問、がっかりだー。

 そりゃゲートを通ってだよー、ゲート。

 あれ、てことは姉さま、降臨式に参加しなかったんじゃ……?

 そうだよね、そういうことになるよね?

 なるなる!

 うえー、姉さまの薄情ものー。

 どうせ姉さまのことだから誘われもしなかったんだ、そうでしょ、そうなんでしょ?

 じー。

 あ、図星の顔だ。えへへ。これだから引きこもりは。

 あ、こわいかお。

 だいじょうぶだよ、わたしはいつだって姉さまの唯一無二の友を自称してさしあげるので。お困りの際はなんなりとご相談くだされ。

 はいー?

 もしゲートが破壊されたら?

 そりゃー、ゲートは基本一本しか開けないし、いちど塞がっちゃったら、下界からじゃ開けられないので困ったことになっちゃうけど、そりゃあねー?

 ゲートの破壊って、国一つ破壊するくらいの魔力が不可欠だしまず以って心配は無用だってことくらい姉さまだって知ってるくせに。

 だいたいゲートは東部の聖地にあるわけで、万が一でもあそこの結界が破られることはないんじゃないのってわたしは思うよ。姉さまはそうは思わないの?

 なんで笑ってるの?

 え、笑ってるの?

 姉さまって笑うことできたの?

 もっかい、もっかいだけ見して、おねがい、姉さまー!

【縁(ふち)】

 どうすんですかい、お嬢。

 西部と南部はほぼ制圧されちまったって聞きやした、肝心の東部も結界が強化されたそうで、手も足も出ねぇそうじゃねぇですかい。ここもそう長くは保ちませんぜ。

 心配無用たって、魔具は不足していく一方なんですぜ、そろそろお嬢に補給してもらわんとどうにこうにも。

 ない?

 ないってそりゃねぇぜお嬢、俺らをそそのかしたんだ、せめて自腹切るくれぇのことはしてもらわんと。

 渡した?

 魔具を?

 やつらにですかい?

 いや、分かっておりやす、何かしらのお考えがあってのことだってのは言われんでも理解してやすよ、お嬢が俺らを裏切らねぇことくれぇは分かってるつもりなんですぜこれでも。短くねぇ付き合いだ、先代への御恩も忘れちゃねぇ。

 だが、それにしたってその仕打ちはねぇんじゃねぇですかい。

 戦場(いくさば)で踏ん張るなぁ俺らなんですぜ。

 援軍?

 そろそろ?

 何を訳の分からんことを、いまさら付け焼刃の尖兵なんぞクソの役にも立ちませんぜ。お嬢が先陣切ってくれんなら解らねぇでもねぇが、それはできねぇ相談だってんでしょう?

 だったらお嬢が一発――あい?

 俺ら以上?

 そりゃ俺ら以上の援軍なら文句はねぇですが、そんなのがいんなら端から寄こしてくだせぇ、こちとら部下に霊死限界超えさせてまで相手の大将首いくつもとらせてんだ、それこそお嬢、あんたの指示だろうがええ。

 なに?

 返す?

 なにがですかい。

 部下を?

 あんたいってぇ何の冗談を――あ、あ、ありゃなんですかいお嬢!

 なんでやつらがここに!

 しかもあいつらみんな俺らが倒した――な、なんだおめぇ、気安く名を呼ぶんじゃねぇ。

 あ?

 んだよ味方かよ。

 お嬢、なんですかいこいつら。

 おっちんだ敵兵になんぞに化けやがって。

 ちがう?

 じゃあお嬢、こいつらはいってぇ。

 おう、いっちまった。

 なあお嬢、あいつらはいってぇ。

 ドール?

 敵の大将のかい?

 しかし術者が足んねぇだろ。

 なにぃ?

 霊核転移?

 なんておひとだ、そりゃ禁術だろ。

 や、いまさらですがね。

 だからってなにも敵の肉体に。

 そりゃ肉体なんぞ残らねえ死に方するやつぁ珍しくねぇが。

 いや、文句はねぇですよ、こちとら端から玉砕覚悟だ。

 だがいいんですかい、お嬢は霊波やらなんやら覗かれてんじゃねぇですか、監視の目はどうしたんで。

 誤魔化したぁ?

 んなことできんですかい、また器用な真似覚えちゃってまぁ。

 ああやだやだ、敵にゃぁまわしたくないねぇ。

 肉体失うにゃ勘弁だが、霊死限界超えたときの保険があると思りゃあ、お嬢の配慮と受け取っておくのもわるかねぇ。

 ああいいですぜ、どんどんやってくれ。

 だがよ、お嬢。やっぱり魔具が足りねぇんじゃ、いずれ押し負けるのは避けらんねぇが、そこんとこはどうすんで。

 問題ない?

 細工?

 やつらの魔具にですかい?

 ちがう?

 あー、はいはい解りやしたぜ、お嬢。

 あんた端から俺らに魔具を供給する気なんざねかったんじゃ。

 やっぱりですかい。

 やつらもバカだねぇ、お嬢を舐めすぎだ。お嬢がボロをだしたってんならそりゃ、そのボロを見つけてほしいときに決まってんだ、そうじゃねぇですかいお嬢?

 無駄口叩くなって、そりゃねぇですぜ、すこしくらい休ませてくだせぇ。

 解ってやすよ、優勢になっても一線は越えねぇ、それがお嬢の引いた線だってんなら、乗ってやりやすよ、そんかし、最後はバチっと決めてくだせぇよ、少なからず、相手の犠牲を俺ら利用しようってんですから。

 ええ。

 俺らぁ、いつだって悪を背負ってやりやすよ、ゴミはゴミらしく、ほかのゴミどもとまとめてごみ溜めに落ちやしょう。そんかし、ゴミ溜めを失くそうとは思わんでくだせぇ。

 ゴミのねぇ世界なんぞ存在しねぇ。

 埃ひとつねぇ、きれいな世界はゴミがねぇんじゃねぇんですよ、その世界そのものがゴミになっちまってんですよ。

 お嬢は俺らをゴミだと言う。

 だがそんな俺らの居場所だけはなんとしてでも守ろうと立ちあがってくれてんだ、俺らぁ、俺らのためにあんたの魔具にでも人形にでもなりやすぜ。

 こき使ってくれよな、お嬢。

【籤(くじ)】

 姫、やつら動きましたよ。

 いよいよ後がないと考えたようです。

 前線ですか、見てきましたよ、姫から奪った魔具でした。

 紙ペラじみた簡易結界ですからね、何も持たないほうがまだ警戒できて長生きできます。

 向こうさんの戦力は今や半減。

 兵力の大半はいまごろ姫の指定した位置座標にて、途方に暮れているでしょう。

 ああ、はい。

 見ます? 姫の言ったとおりですよ、広域魔術展開ですね。

 やつら、土地ごと吹き飛ばす気だ。

 姫のほうは抜かりはないですか。

 いえ、疑ってはいませんが、姫のことです、今回ばかりは些細なミスも許されませんからね。パジャマのボタンを掛け違えるのとはちがうんですから、さすがに直してさしあげられませんよ。

 わっ、やめてくださいよ、それ大天使のドールですよね、小突かれただけでも腕がもげます。

 心配はしていません。

 この佳境さえ乗り越えれば、そのさきの勝敗がどちらに転ぼうと、姫に傷がつくわけではないので。

 姫のお考えでは、そのドールさえあれば持ち堪えられるとそう見ているんでしょうけど、しょうじきな話、協会最大戦力を投じての広域魔術展開を捌ききるだけの器があるとは思えません。

 なにしろ向こうには、あなたのそのドールと同等かそれ以上の大天使がついているという話ではないですか。

 話した?

 会われたんですか、そいつに!?

 あなたはまたそんな無茶を。

 足を運んだんですか?

 向こうの陣地にわざわざ?

 作戦に必要なことと言われましても、だったら事前に聞かせてくれてもよかったではありませんか。

 むつけてはいません。

 いえ、そりゃ聞かされていれば反対はしましたけど。

 うっ。

 それを言われると弱ってしまうのですが。

 ええはい。

 黙って「ネェさん」を行かせてしまった罪は忘れていません。

 じゃけんど、それだって姫がもっと、わーらのこと頼ってくれちょったら!

 あたまを撫でんといてください。

 姫、わーは今怒っとるんですよ。

 解ってないですよ、いっつも返事ばっかで姫は。

 知ってますよ、姫がいつだってわーらのこと考えとってくださっとるんは。それでももっとわーらのことを頼ってほしい、役立たずかもしれんけど、わーらは!

 ……はい。すみません、時間がないときだってのに。

 でもわーは不安なんですよ、また姫はわーらに内緒で何か企らんどるんじゃないかって。黙って済むことじゃないって、姫だって「ネェさん」のことで痛いくらい知ったでしょ、どうかあんな気持ちに二度とさせんといてください。わーらも、二度と姫にあんな顔なんてさせたくないんですって。

 ……脅すなって、べつに脅してはないですよ、当りまえのことを頼んどるだけで。

 あー、ちょっと。

 話はまだ終わっちょらんですよ。

 ぜったい成功させてくださいよ、また妙なことして、わーらを怒らせよったらタダじゃ済まさんですからね。

 ネェさんの墓参りだって、姫だけまだしてないんですから。

 うるさいじゃないですよ、こんなつまんないことさっさと終わらせて、あんな暗い城なんか売り飛ばして、もっと明るい、お花畑とか湖のきれいに見える丘とか、そういうとこに引っ越して、みんなで暮らしましょう。

 恥ずかしいじゃないですよ、何度でだって言ってやりますよ。

 聞いてますか、姫。

 これが終わったらもう二度と、わーら、ドールなんて整備しませんからね。姫はもう、姫としてそとを歩いて、姫として生きるんです。

 わーらは姫と見たい景色、行きたい場所、やりたいこと、食べてみたいもの、たっくさんあるんですから。

 忘れないでくださいよ。

 約束ですからね。

 ……あーあ、行っちゃった。

 解ってんのかなぁ、もう。

 無茶だけはせんといてくださいよ。

 ……ネェさん、どうか姫を守ってやってください。

【蛆(うじ)】

 ガブリエルちゃんよぉ、どういうつもりだよえぇ?

 広域魔術展開を聖地に転送しやがって、お陰で怒られちまうだろうがよオレさまがよぉ。

 オジキにこってり半殺しだよ、ゲートをミスミス破壊されおってとかなんつって。

 転送術じゃねぇよなぁありゃー。おめぇさん、ゲートを横に開いて道をつくりやがったな?

 異空間同士を繋ぐ、天界のとっておきだろう、聖地の結界だって突き抜けるわなぁ?

 なぁおい、なんか言えよ。

 これからおめぇとオレさまは殺しあおうってんだぜ、どの道おめぇにゃ逃げ場はねぇ、オレさまもこのままじゃオジキに殺されちまうからよ。ケッケ、いい御身分だなぁおい、こんな楽しいことしてくれちゃって、キスでもしてやりてぇ。

 前から一度聞いてみたかったんだ、おめぇはオスなのか? メスなのか? それとも両方ついてんのかよ、ケッケ。

 おめぇらがオレの親父――先代勇者を幽閉してからってぇもの、暇で暇でしょうがなくってよ。だってそうだろ? あの時代、オレの親父が――先代勇者が自分の欲望満たしたくってわざわざ各地で戦の種ぇ蒔き散らしては、その芽を自分で摘んで、己が猛りを治めてたってんだからよ。

 いいよなぁ、あの時代は。

 オレさまだってできりゃその時代に生まれたかったぜ、今じゃ表立って魔族をいたぶることもできやしねぇ。そういう意味じゃ今回の騒動はありがてぇ。ガブリエルちゃん、おめぇがそれを起こしてくれたってんなら感謝の雨あられにキスまみれをちょうだいしてやりてぇよ。

 どうしたよ、構えろよ。

 ケッケ。

 今ごろミカエルちゃんのほうは青筋立てて激怒してんぜ。こっちからじゃゲートは開けねぇ。正確にゃ、ゲートを天界と結べねえ。上から下にってな、一方通行なのは、それこそおめぇさんらがオレらと接点持ちたくねぇからだろ、ちげぇかい?

 聖地をあんだけ臆病に守らせてんのも腑に落ちねぇんだよなぁ、だってそうだろ、天界からならどこにだって降りてこれんじゃねぇのかよ。降りてこれねぇんだろ?

 これはオレさまのかってな憶測だがよ、おめぇさんら、向こうじゃけっこう問題児なんじゃねぇの? こっちで言うところのオレさまみてぇにな。

 ケッケ。

 天界でも無闇にゲートは開けねぇ。

 ましてや、下界へ向けてなんて禁じられてんじゃねぇの。

 ゆいいつ、許されてる場所、それが聖地とおソロの位置座標ってな具合だろ、ちげぇかよ。

 いいんだよ、実際がどうこうなんざ、食えたもんじゃねぇ。

 どうすんだ? 受け皿壊れちまったぞ、向こうにおめぇらみてぇな酔狂なやつがいんのかよ、下界にゲート開こうなんて変態がよ。

 いねぇからこっちくるたび、ゲートを毎度あんな厳重に守らせてんだ、結界で三重四重とくるんでんだ、ちげぇかよ。

 でも妙だよなぁ、だとするとガブリエルちゃん、あんただって向こうに帰れなくなるってことだ、帰れなくなっちゃったってことだ、あんたそれでいいのかよ、何がしてぇのかさっぱりだなぁ、おい。

 ずっとこっちにでもいたかったのかなぁ?

 それとも、どうあっても逃がしたくない相手でもいたのかなぁ?

 そうそう、ガブリエルちゃんは知らんのかもしれねぇなぁ。ミカエルちゃんも、オジキも、たぶん知らねぇままなんだろうよ、でもオレさまは知ってるぜ、さいきん先代勇者――オレの親父に会いに行ったって酔狂な変態がいたらしくてなぁ。そいつぁ、単なるドールのはずなんだが、なぜだか魔術除けの術式を難なく突破して、ドールのまんま、親父のやつとしゃべってやがった。

 なんでオレさまがそんなこと知ってっかって?

 野暮だぜ、ガブリエルちゃん。

 聞いてたからよ。

 オレさまも、そんとき、そこにいたのさ。

 偶然?

 ちがうね。

 オレさまぁ毎日のように遊びに行ってんのさ、きょうだって行ってきたぜ?

 親父の話は半端ねぇぜ、マジ最高だ、武勇伝ってのはああいうのを言うんだぜ、オジキに聞かせてやりてぇよ、なんでオレさまがやっちゃなんねぇんだよ、ほとほとムカついてくるほどに最高だ。

 だからかな。

 予想外の訪問者のことは、オレさまの胸にしまっておいた。なんかおもしろそうなことしてくれそうな気がしたからよ。

 親父のやつがオレにも話さなかったなにかしらを、おめぇらは共有してたみてぇだしな。

 まぁ、それがなんのかなんて興味はねぇが。

 いいんだよな、ガブリエルちゃん。

 おめぇの役目はここまでで、その「ガワ」はもういらねぇんだろ?

 だったらいっちょ本気でオレと手合せしようぜ。

 断るのもそりゃ自由だ。

 けどいいのか?

 オレさまは今からオジキにオレの知り得るすべてを聞かせたくってしょうがねぇんだ、オジキが知ったら怒るぜぇ?

 知ってんだろ?

 あのひとが親父の血筋――オレさま以外の一族郎党を皆殺しにしたって話はよ。

 ケッケ。

 いいね、いいね。

 その目だよ、その目。

 ホンモンのガブリエルちゃんじゃまずしねえその目に焼かれてみたいもんだねぇ。

 せいぜい香ばしく焼いてくれよ、こちとら親父から散々聞かされてきたんだからよ、かぁちゃんとの痴話喧嘩ってやつを。

 あん?

 ケッケ。

 そういやおめぇさんは知らねぇままなんだっけ? 親父のホラを信じやがって。

 魔王の墓場に遺体がなかった? ったりめぇだろ、下界にんなもん放置しておくわけねぇだろ、狡猾な天使どもがよ。

 魔王にゃちゃんと子がいたぜ。

 勇者とのあいだにできた、魔力の塊みてぇな子どもがな。

 もちろんオレさまはちげぇ。

 オラぁ、親父の残した子種の一つだ。

 本能に忠実な、見境のねぇ野郎だろあの首だけ男はよォ、オレみてぇのはそれこそごまんといるぜ。精霊軍の指揮官クラスなんざ、どいつもこいつもオレじみてやがる。親父がああなっちまったあとに産まれたからオジキも手をだしようがなかったんだろ、下手すりゃ大陸の若い娘がごっそり消えちまう。

 じっさいオレ以外でそれ以前の産まれは母子共々ギッタギタよ。

 まぁ、オレさまは特別だからよ。

 ケッケ。

 感じるか?

 ミカエルちゃんが吠えてるぜ。

 空気がビリビリ震えてやがる。

 時間がねぇ。

 はじめようぜ。

 がっかりさせてくれんなよ――姉貴ィ。

【無理】

 あ、おはよー。起きたぁ?

 今ね、パンケーキ焼いてて、中にプトォを入れてみたんだけど、美味しそうでしょう?

 あれ、ご機嫌わるいねー。わるい夢でも見たのー?

 マズイ?

 マズイってなにさ、まだ食べてないのにガブちゃんのパンケーキをわるく言うなんてふんだ! むつけちゃうからね、いいの? 嫌いになっちゃうんだからね、ごめんなさいして!

 クソってなにさ、ひどいひどい、ばかー!

 わ、わ、なに!

 やだやだ、こわい顔で身体掴まないで、ジタバタするなって、するもん、こわいもん、なにそれなにそれ、痛いのやだ、痛いのやー!

 きゃーーー!!

 ごほっごほっ。

 “あ―、ったまイッタイわぁ。

 やだなにこれ、なんでこんなデカイのよ部屋が。

 んー?

 あーアンタぁ! ヨルムンガンドなんて召喚して、下界がどうなってもいいっての!

 ちょっと、聞きなさいよ、てかなんでそんなデカくなってんの、巨人の研究でもはじめたわけ!?

 や、や、なんで掴むの、痛い、痛いってば! 離しなさいよ!

 やだなんなのこの身体、ぜんぜんちから入んないんだけど、てか魔力どうなってんのアンタなんかしたでしょ、元に戻しなさいよ!

 鏡なんてどうだっていいわよ、見ろってなに、痛い、痛い!

 わかったから、見ます、見ますってば。

 もう。乱暴なのは性格だけにしといてよ。

 んー?

 でっかい鏡。高そー。

 うへー、なんかいるー、ちんちくりんな妖精ぇ。

 なんなのそいつ?

 鏡の精かなんか?

 てかなんで映ってないの、アタシの顔どこ? ウッザ。さっきからこいつ、真似してくるんだけど、ジャマだよ、どきなさいよ。

 ん? ん?

 どういうこと?

 そいつがアタシ? 冗談キッツイわー。

 ……冗談よね? そうでしょ? アタシをからかってるだけなんでしょ? そうだと言って。

 ……待って、しゃべりかけないで。

 ヘコんでんだからさ。ちょっとは慰めなさいよ。

 パンケーキ?

 アンタねぇ、こんなときに食べると思う?

 あらけっこう美味しい。ってこれさっきアタシが焼いたやつじゃん! なにかってに食ってんの。

 あー、なんか段々思いだしてきた。

 アンタさぁ。ホント、えー、うっわ思いださなきゃよかった、そういうことするー? せめて霊核転移させるんだったらもうちょっとさーマシなさー。

 妖精って、はぁ。

 ムシケラじゃん。

 で?

 あるんでしょ? アタシのドール。

 本当、アンタとは色々こじらせちゃったけど、お互いそれなりに知らない仲じゃないわけじゃない? こっちもわるいとは思ってんのよ、ただアンタ、本当のこと知ったらぜったい黙ってないでしょ? 暴走しちゃうでしょ? どこまで知ってのかは知らないけど、どうせこうなっちゃうんでしょ、わかってたわよ。

 いいのよ、アンタがもっとおとなしくて引っ込み思案で、見た目そのままの深窓の佳人やってくれてたらアタシらだってこんな狭苦しいところに閉じ込めようとなんて思わなかったもの。

 責任転嫁?

 あのねぇ、たしかにアタシらはアンタらのことなんて小動物みたいに格下に思ってるし、じっさい格下なわけだけど、でも単なる下等生物だったらここまで執着しないでしょ。

 かわいいのよ。

 アタシらはアンタらがかわいいの。だから独り占めしたいし、できるだけかわいくあってほしい。可愛げがないやからには消えてもらいたいし、お気にの個体を苛めるようなやからには苦痛を以ってこらしめてやりたい。

 何もいじわるでしてるわけじゃないんだよ。

 うーん。そうね。ミカエルはどうかは分かんないけど、すくなくともアタシはそうだった。

 銀の制約だって、本来ならアンタの肉体ごと雁字搦めに封じるはずだったんだよ、でもそこまでする必要ないってアタシがわざわざ意義を唱えたの。代わりに面倒な管理者の役まで与えられて、得か損かで言うなら、損しかなかったわよ、そのせいでこんな目に遭って、恩を仇で返されたどころの話じゃないでしょ。

 うるさいわね、泣いてないってば。

 で?

 あるんでしょ、ドール。本体じゃないのは癪だけど、こんなムシケラでいるよかマシだもの、さっさと霊核転移してちょうだい。

 できない!?

 無理じゃないわよ、そんないじわる言いっこなしだよ、安心してよ、今回のことは誰にも言わないし、アタシだってこんな失態、ほかの連中に知られたくないもの。

 そういうことじゃない? 待って、やだ、聞きたくない。なんかすごく嫌な予感するんだけど。

 消された?

 ドールを?

 アタシのドールなの? 違うって言って。

 あーもう、信じらんない。悪夢だ。分かった、しょうがない。

 ともかくほかのでいいわ、なんでもいいから真っ当な、妖精以外のドールにまずは移して。

 無理?

 無理じゃないでしょ、ねぇ、おねがい、今までのことは謝るし、わるいと思ってる、ホントだよ? でもこんな仕打ちあまりにあんまりじゃない? アナタだってすこしは情があるからこうして霊核だけはとっておいてくれたんでしょ? 守ってくれたんだよね?

 そういうことではない?

 じゃあ何なの!

 どっちにしろ戻れないってなにが?

 どこに?

 ゲート?

 ゲートがなに?

 破壊した?

 誰が?

 アンタが?

 ん? ん?

 ちょっと待ってね、うまく飲み込めない。アンタがゲートを破壊したの? でもここは下界よね? つまりゲートはもう開かれない、ってそういうこと?

 でも向こうにはミカエルがいるし、いつかはあいつもこっちに来ると思うんだけど――いるの!? こっちに?

 もちろんあいつの弟子も――来てるわよねぇ……詰んでるじゃん!

 あー、もう、そういうこと?

 アンタさぁ。

 もうイヤ。

 で? 天界と下界を永遠に閉ざして、アンタどうしたいの。

 銀の制約もどうせアタシのドール使って解いてんでしょとっくに。

 じゃあもう自由じゃん。

 好きにすりゃいいじゃん。

 えー?

 永久魔力源泉?

 知らんし。

 アンタが死ぬまではそこにあんでしょ。霊界じゃどっち道、魔力なんて使わないし。アンタら下界の民が溢れた霊素を魔力に変換してくれるから、助かっちゃいるけど。

 そうね。

 魔力と霊素は等価交換。

 霊核が費えたら生命は途絶える。霊核は霊素に分解され、アンタの永久魔力源泉にて魔力に変換され、下界の民によって魔力は消費される。消費された魔力は、純粋な霊素核として結晶化する。広域の術式展開で、濾過したそれら霊素結晶を、集積し、アタシら天界の民は安定した生活を送れてる。

 アンタは知ってるだろうけど、天使なんざ、種族の名前でもなんでもない、言うなれば農家みたいなものでね。それなりの術式を扱えなきゃいけないから、身分は高いが、天界じゃ大多数の民が遊んで暮らしてるわけでしょ。

 働き者ってだけで、奴隷みたいなものだよ。階級は上ではあるけどさ。

 だからかな。アンタらみたいなのを可愛がりたくなるのも仕方がないのよ、すこしは同情してくれてもいいと思うんだけど。

 ゲート? それはないんじゃない?

 下界に降りずとも、濾過の術式展開は機能してるだろうし、霊素結晶が採れなくなったと気づいてからじゃなきゃまず向こうからゲートを開くなんてことはないと思う。言っても、さいきん魔力を介さずに、霊素からそのまま霊素結晶に変換可能な術式を開発したってミカエルが言ってたから、それが上層部に伝わっていれば、下界そのものが不要の烙印を捺されててもふしぎではないけど。

 アタシらを捜索に?

 ないない。さっきも言ったでしょ、奴隷みたいなものでね、アタシらなんかいなくなっても誰も気づきやしない。それを哀しいと思えないじぶんが哀しいわ。

 なにその布きれ。

 だから泣いてないって言ってんでしょ、優しくすんじゃないわよばか。

 ふふ。あーおかしい。

 身体がちっこくなって、非力になってからじゃなきゃ、まともに腹を割って話すこともできないんだから。

 で、どうすんの?

 終わりじゃないんでしょ?

 ゲート壊して、革命起こして、それで?

 ふうん、そう。

 永久魔力源泉をねぇ。

 ただアタシのドールがなきゃできないことなんでしょ。代替案は? あるの?

 でもしたくないんでしょ、なんでってそれくらい顔見たらわかるわよ、ダテにアンタの管理者やってないんだから。

 あー、ミカエルも問題ね。どうすんの? あのコ、アタシより魔力の扱いには長けてるわよ。それこそ、魔力を強制的に霊素に変換されたら、いくらアンタでも……ねぇ、なんかアンタ青くない?

 顔色のことじゃなくて。鏡見てみなさいよ。

 なにこれって、アタシが聞きたいわよ。ねぇ、なんか魔力計がガタガタ云ってんだけど。どうしちゃったの、ねぇ、なんかアンタ――魔力あがってない?

 マズイいんじゃないの、銀の制約とか解いちゃってんだよね。

 戦?

 霊素が急上昇って、なにその不吉な言葉。

 犠牲者は極力抑えたって、じゃあなんでそんなに霊素が――あ。

 呼んでるよ、子猫ちゃん。ミカエルが、アンタに用だって。

 どんだけ大声だしてんのあのコ、大地揺れてんじゃん。

 どうすんの?

 行くって、策は?

 ない?

 やめてよね、アンタが死んだら誰がアタシの肉体用意してくれんのよ、一生ムシケラなんてヤなんだけど。

 しょうがないなぁ、連れてってよ、いっしょに。相手がミカエルならなんとかなるかも。それに、アンタ、それどうにしかしなきゃ。魔力に焼かれて、消えちゃうよ。

 下手したら下界ごとじゃん。

 何ニヤニヤしてんの、気持ちわるいんだけど。

 いてくれてよかったって、恥ずかしいこと言うなって、アタシとアンタの仲じゃない。

 違う?

 ミカエルのこと?

 うっわ、あんなやつがタイプなの、いっぺん死んだほうがいいんじゃない。

【累(るい)】

 急げ、なんとしてでも死なせるな。ありったけの魔道石を持ってこい。

 ぜんぜん足りんぞ。

 ないならあるところを探せ、魔道総合相互ギルドには行ったか? 原石ごとかっぱらってこい。

 支払いなんぞあとで構わん、渋ったら脅してでも盗ってこい。

 何ボサっとしてんだ、おまえらも散れ。このままじゃ街、否、大陸ごとタダじゃ済まされんぞ。

 ジョーカー、うるさいぞ。おまえも手伝え。

 義理がないだぁ?

 我の山を消し飛ばしたこと、まだ許してはおらんからな。

 なに?

 広域魔術展開で魔力を消化?

 ほぉイイ案だ、大陸の半分を吹き飛ばしていいのならな。

 ああ。

 それは最終手段だ、イマはまだ粘るときだろう――代替案?

 まずはそれを捻くりだすためにも、時間稼ぎが先決だ、いいから魔道石を掻き集めてこい。

 なに? 魔道金剛石が?

 メデューサごと連れてくるって、待て待て、石にされたらたまったもんじゃない。おまえはそりゃ無事かもしれんが、ええい、黙っとれ。

 弟子、聞いとるか。

 霊波数はこれに合わせとけ、いいか、今から指示することを仲間内に伝播しろ。

 反発しとる場合か、おまえのお師匠がどうなっても知らんぞ。

 いいから聞け。

 本体が負傷した、瀕死だ、大天使の凶行を止めようとしたんだろ。魔力が溢れて止まらん状態だ。

 暴走? そうだ。

 霊素の過剰供給が要因だ、霊死限界を超えたやからが多すぎた。応急処置で今はなんとか保っとるが、すでに東部の予備魔力源はのきなみ満杯だ。よそのタンクを転送させとるが、揃ったところでどれだけ保つか分からん。おまえらはともかく、コイツのドールを大至急用意しろ。

 治癒?

 無理だ、永久魔力源泉の暴走だ、大方の術式は弾き飛ばされておしまいだ。さいあく、このままだと大陸が噴き飛ぶ。今はみな協力してくれてるが、その時が来ればどういう判断をとるか……解るだろ?

 師匠をみすみす死なせたくなけりゃ、なんとか今すぐドールをこさえて、ここに運べ。

 ダメだ、こやつの素体来歴のドールにかぎる。

 魔力暴走した霊核だぞ、生半可な器じゃ花瓶にマグマを突っこむようなものだ、起爆の意味合いしか生じない。時間は保って三時間、わるければあと一時間保つかどうかだ。

 おっとそうそう、おまえらの身内に次元の魔女がいたな。

 知らんとは言わせんぞ、ソイツを今スグここに寄越せ。霊核転移ができる術師が必要だ。

 ムリ?

 誰だおまえ、次元の?

 盗み聞きとは感心せんな、いいから来い。どこに逃げようと、このままだとみないっしょに昇天するぞ、いいのか。

 魔球に閉じ込めて?

 ばかもの、竜巻にシャボン玉で対抗してなんの意味がある、竜巻が雨雲つくるのとはわけが違う、おめぇにそんな魔力があんのかい。

 アン?

 溜めた魔力? 予備魔力源で?

 それこそ一時しのぎだ、永久魔力源泉からの供給が途絶えたら予備のほうもすぐに底を突く。そのあと、膨れるだけ膨れた魔力の塊をどう処理する、まずは魔力の大本を膨らませないことが先決だ、御託はいいからさっさと来い。

 ジョーカー、おまえもだ。

 念のため、勇者の首さらってこい。

 どうするって、そうさな。いざとなれば霊核同期してでも情報を得る。

 ドールが間に合わなかったら?

 そんときはそんときだ、このコを殺すほかなかろう。責任以ってこの手で息の根、止めてやる。

 どの道、大陸の半分は消し飛ぶだろうがな。

 せっかくこれほどの魔力が溜めてある、きれいに相殺させてみせようぞ。

 おっと、そうさな、手が空いてる術師に、広域転送の術式展開を準備させておけ。民間人含め、北部に一斉転送だ。

 あん? 指示は受けない?

 いいからやれ。

 何様のつもりだって、なんだジョーカー、おまえまだ気づいてなかったのか。

 我は魔法遣い――名を、キマイラ。

 初代魔王の、遣い魔だ。

 敬えよ、ジョーカー。

 我は、おぬしら魔人の始祖たるぞ。

【有為】

 おー、なんじゃキマイラか。よぅこの霊波数が判ったの。

 んー? 未来?

 なんじゃおぬし、イマ未来におるのか。だっは、なんのたわごとじゃ、昨日わっちを殺そうとしたのをもう忘れたか、なんじゃ、頭は傷つけんようにしたつもりなんじゃがの、気でも違ったか?

 術式解析してみろと?

 面倒なことを。

 まあよい、どうせ今はヒマじゃった。

 どれどれ。

 ふむふむ。ほぉ。

 古代魔術か。それも禁術ときたか。

 おー、なるほどなるほど。合点したぞ。わっちも知らぬ術式じゃな。この霊波はたしかにキマイラ、おぬしのようじゃがの、何やら得体の知れぬ霊波も紛れておるようじゃが、こやつはなんじゃ?

 よいよい、真偽がどうあれ、こうしてわっちの知らぬ術式を見せられた以上、話は聞こう。どうやらわっちの知るおぬしではないようじゃ。

 未来というのは本当か? 否、そんなことどうでもよいの、なに用じゃ。

 ほぉ。国が亡びると。

 時間がない?

 ならば言え。わっちにどうしてほしい。

 見くびるなよキマイラ。おぬしがこうしてわっちの助けを求めているのじゃ、国を束ねる王として見過ごすわけもあるまい。

 ここだけの話、わっちはおぬしを手元にほしいと思っておっての。そっちのおぬしがどうなっておるのかは定かではないが。いや待てよ。ということはそっちにはわっちはおらぬのか?

 隔世覚醒魔伝?

 なぜおぬしがそのことを。

 わっちの孫ぉ? 百二十代ほど先って、おいおいキマイラ、おぬしはまだ生きとるのか、難儀なことよの。

 魔力を失くしたー? たっは、間抜けなやつじゃな、なるほどのぅ、そのせいで霊核の劣化が極端に停滞したと。

 感心しとる場合じゃないと言われてものー、どの道そこにわっちはおらんのじゃろ。今のわっちは平和じゃからなぁ。ひょっとしておぬしの霊波に紛れておるこの霊波のぬしが件の孫か?

 難儀なやつじゃ。

 ほぅ。天界がのぅ。

 たっは、魔術を禁じたか。

 ちょうど今、天界とは交渉中でな、下界への干渉を極力するなと協定を結んでおるところじゃ。それでもダメなのか?

 どうでもいいとは聞き捨てならんな、わざわざそのためにわっちは向こうのキザなやからと契りを結ぶというに。

 何? 魔力の暴走?

 永久魔力源泉のか?

 それをはやく言わんか。

 霊核転移? ドールにか?

 いい案じゃな、なぜ実行せん。

 素体来歴が?

 本体に触れられぬ状況か。

 ならば先代の骸を利用しろ。

 ない? ないとはどういう意味じゃ。

 天界にある?

 ならばゲートをくぐって――それもないじゃと。

 壊したぁ? ゲートをか? わっちの孫がか?

 かぁ、大馬鹿ものじゃな。

 ほうほう、溢れた魔力を吸収中か。

 なるほど、その魔力を利用してこんな重層な術式展開を可能としとるのか。本当にこのままでは治まらんか?

 何? 大天使が死んだ? 下界でか?

 はぁー、そりゃやんごとないの。戦でもあったのか?

 ならば霊素は充分すぎるの、魔力暴走は当分止まらんじゃろ。ならば、そうじゃな。諦めろ。

 ああ喚くな。おぬしいったいいつまで生きれば気が済むのじゃ、わっちはもう死んでおるのじゃろ、おぬしも死ね。

 やー、すまん。そうじゃの。ほかの民がおるものな。私情を挟んでしもうた。

 んー。

 では、わっちがおぬしらのことを伝承として語り継いでみるか?

 無駄?

 そちらでは伝わっていないと?

 わっちがまだ何もしておらんからではないのか。

 そうではない?

 ほぉ。ではわっちが何をどうしようが無駄ということではないのか。

 それでも王か、とは何事じゃ。わっちは王じゃが、この世の王であって、おぬしがいるそこの王ではないからの。

 うーん。まぁ、わっちの孫――正確には百何十代先の孫か?が、面倒を起こしておるのならばその尻拭いくらいはしてやりたいが。もういちど訊くぞ。何が足りんのじゃ。何があれば事足りる。

 隔世覚醒魔伝に耐え得る器じゃな、あとは?

 魔力の暴走を止める術か。

 わっちの孫を生かして得はあるのか? そのまま魔力の暴走と共に消してしまうわけには――ほぉ、そんなに優秀か。

 たっは、たしかに詰めが甘そうではあるな。わっちに似たとは聞き捨てならんが、まぁいい。そやつをまずは助ければ、あとのことは打開できるんじゃな?

 よかろう。

 こっちのおぬしに少々てこづっておろそかになっておったが、ちょうどさっきじゃ、神具を七つこさえ終わっての。いい機会じゃ、もう一つだけこさえておいてやる。

 魔力の暴走はそれで止められるじゃろ。そうじゃのう、名前はわっちにあやかって、【ビーナスの首飾り】とでもしておこうか。

 なんじゃ、文句あるか。

 そいで、素体のほうは、そうじゃな。覚醒覚醒魔伝(同じ呪い)を受けた者として、わっちの素体来歴を組みこんだ霊獣でも創っておいてやるかの。ちょうど古代種の素体が手に入ってな、おぬし憶えておるか、わっちを殺そうとおぬしが召喚した物騒なやつじゃ。見た目、神獣と区別はつかんじゃろうが、おぬしなら判るじゃろ。術式解析してみろ、わっちの魔力を感じるはずじゃ。

 空間転移術はできるのだな? ならば安置場所は遠くて構わんな。あまり人のいるところだと、面倒じゃ。

 位置座標は――ん、なんじゃ?

 なに? もう持っとる?

 はて、わっちはまだ創っておらんのじゃが。おぬしらが持っておるのならば、そうな、わっちはいずれ創るということか。なんだか無性に創りたくなくなってきおったぞ。冗談じゃ。

 神具と霊獣が揃っておるなら、あとはおぬしらのがんばりしだい。

 ふぁあ。

 あー、眠い。

 ま、首尾よくやってけれ。


【無事】

 ママー! ママー! 起きでぇええええ! 朝だよぉぉおおおお!!!

 ママおはよう、朝だよぉ。

 きょうは? なにしてあそぶ?

 だめぇー、おねぼうさんはきんし。いっしょにネないよぉ、ネンネおしまい。おはなしぃ? またそれぇ? だってママ魔法つかえないもん、パパつかえるのに。きゃはは、きゃはは、くすぐったい、くす、きゃはは、ごめんなさーい!

 はぁはぁ。むかしはつかえたー?

 ふーん。うそだとおもって? うん。おもってる。きゃはは、もうやだ、くすぐるのだめ、きんし!

 おにんぎょうさまぁ? しってるよぉ、まえにパパと見たもん。

 ふうん。吸いとられちゃったの、ママの魔法? おにんぎょうさんに?

 パパ、魔法つかえるのもおにんぎょうさんのおかげなの?

 じゃあママえらいえらい。はい、あたま。いいこいいこ。

 んー、ママ、おなかすいたぁ。ケーキたべていい?

 だめじゃないよ、パパたべてた。

 きゃはは、パパー、にげてー、ママそっちいったよー。

 ***※※※***

 ママ、ただいま。

 うん、ありがと。

 卒業って言っても、やることそんなに変わんないし。ママドールのほうもひとまず取り戻したから。

 いいでしょもう、パパにこってりしぼられました。ママまで叱らないでよ。

 だってしょうがないじゃん、あれなきゃ生活できないんだよわたしたちみーんな。

 あー、そっち? ママドールってだって言いやすいし、べつに間違ってはないじゃん。

 はいはい、永久魔力源泉結晶って言えばいいんでしょ、長ったらしいよホント。

 パパ? パパはジョーカーさんに呼びだされてどっか行ったよ。また暇つぶしに付き合わされてるんじゃない?

 ちゃんと術式結界、展開してくれてるかなー、どっか破損したときに手伝わされるのやなんだけど。ママからも言っといてよ。

 てかそうだよー、キマイラさんにちゃんとジョーカーさんの面倒みるように言っといて。次元さんでもいいけど、あのひとちょっとジョーカーさんに甘いからなぁ。っていうか、そうそう。次元さんってママと同じで、霊核転移したんでしょ、パパが言うにはそれやったのママだって聞いたんだけど、ホント?

 うっそー、じゃあママって本っ当ぉにすごい魔女だったんだ。

 信じてないよ、だってパパ、ママのことになるとすぐ話盛るからさ。

 でも次元さんとかキマイラさんとか、ジョーカーさんですらママには頭があがらないようだし、こんな魔力オンチのひとになんでかなーとは思ってたんだよね。

 そりゃたしかにギークではあるけど、頭でっかちなだけじゃんママって。

 いやいや、尊敬はしてますよ。

 ただ、いまのママからは想像つかないなーって。

 任務? あー、あしたからだよ。

 きょうとか魔道守衛隊の総帥に会ってきたし。

 そうそう、そのひともママのこと知ってて、びっくりだよ。なんかむかし任務でいちどだけママのこと呼びだしたことあるんだって。いや、本人は助けを呼んだって言ってたけど、とにかくすごいベタ褒めっていうか、もはや崇拝してたよね、格下のわたしなんかにペコペコしちゃって、ママってどんだけタラしなのとか思っちゃったよ。

 そりゃ眉目麗しいとは思うけど、言ってもそれってドールでしょ? 老いないんだからそりゃあねぇ?

 あー、はいはい。内緒なんだよね。

 それはうそだね。パパ言ってたもん、むかしからママはドールでしかそとにでなかったって。あ、わたしが言ったってないしょね。パパのことも痛めつけないであげてほしい。でもなぁ。やっぱりわたし思うんだけど、ママドールってこのままじゃよくないと思う。

 たとえばさ、ママが亡くなったあとって、ママドール――永久魔力源泉結晶ってどうなるの?

 残る? ふうん。

 わたしに魔伝はしないわけでしょ? わたしときどき考えちゃうんだよね、ママのもうひとつの人格みたいのが、ママドールには閉じ込められてて、永遠の暗闇に彷徨いつづけてるんじゃないかって。

 そんなことはない? でもだってママ、むかしはよく生前転生術なんて禁術使ってたんでしょ? それだって、ドールが破棄されたら、そこに宿ったママの分身は消えちゃうわけで、それってママが死んでるのと同じなわけでしょ?

 そりゃここにいるママは無事だろうけどさぁ。

 わたしはほかの、複写されたママたちがかわいそうだなと思って。

 過ぎたことってそうだけど、だからね。

 ママドール――永久魔力源泉結晶にはまだそのもうひとりのママが閉じ込められちゃってるんじゃないのかなって不安なのって話。

 いつかは分かんないけど、どうにかしてあげたいなぁ、とは思ってて。

 せめて、【ビーナスの首飾り】を外してあげたいなって。

 だって魔力暴走したのって、わたしが生まれる前の話でしょ? 充分消費し尽くされたんじゃない?ってわたしなんかは思うわけなんだけど。

 そうだけどさぁ。錬成しちゃってんでしょ、【神具】を。

 分かってるよ。でもママだってもういちど魔術使いたいって思うでしょ。

 もういい? うっそでぇ。

 つよがってるだけだよ、わたしには分かる。

 そうじゃない? とっておきの魔法? もう使ったからいいって、なにそれ、わたし聞いてないよ。

 ないしょって、いいもん、パパに聞くから。

 ん、なに? あ、もう寝る?

 ごめんね、うるさくして。

 うんおやすみ。

 あ、あとこれ、ぜったい黙ってろって言われてたんだけど、言っとくね。

 わたしの教官、勇者だったよ。

 むかしママにボコボコにされたって笑ってた。許してもらえないことしたって言ってたよ。

 教官のおかげなの。ママドール奪還のとき、わたしが霊死限界超えずに済んだのって。むかしママたちのあいだに何があったのかは知らないけど、もう許してあげて。

 え? 怒ってない? 忘れてたって、ちょっとー。

 じゃあこんど連れてくるからね、ウチに。

 はいはい。楽しみにしてますよー。

 あ、そうだ。

 ママが魔法使えなくてよかったこと、一つだけある。おいしい手料理たくさん食べられること。ありがとね。

 こちらこそってなにそれ。

 おやすみ。

 はいはい、いい夢見ますよー。ママもね。

 え、やめてよ、ママ。

 わたし、ぜんぜん偉大な魔女なんかじゃないんだから。



   (END「偉大な魔女は夢を見る」)  




千物語【灰】おわり。

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